ジョージアとかグルジアとか紀行その1 世界最古のワイン国

足立真穂

「世界でいちばんワインを飲むのはどこの国だと思う?」
「え? フランス?」
「違う違う。アメリカ。じゃあ、いちばん古くから作っているのは?」
「エジプト、とか?」
「違う違う。グルジア!」
グルジア、ってどこだっけ? 旧ソ連、コーカサス、栃ノ心(とちのしん)。あ、黒海も。ってことは黒海沿岸の国なのかな。

「グルジアって、国名を最近ジョージアに変えたんだけど、世界でいちばん古くからワインを作ってるんだって」。

へえ、そうなのか。聞けば紀元前8000年までさかのぼるそうな。その時代の土器からぶどうの種が見つかっているのだ。少なくとも紀元前6000年に作っていたのは確実のようだ。古代エジプトでワインが作られたのは紀元前4000年末期なので、ジョージア(グルジア)は相当に古いということになる。

ちなみに、ジョージアは古くから作っているだけで、世界でいちばんワインを消費しているわけではない。消費国で言えば、1位アメリカ、2位フランス、3位イタリア、以下ドイツ、中国と続く。日本はやっと16位で顔を出す程度だ(the wine institute,2015)。一方で、一人当たりの消費量でいえば、1位はアンドラ公国(スペインとフランスの間)でワインボトル約76本分(日本は年間一人当たり4本)、2位はバチカン市国、3位はクロアチア、……でアメリカは55位で一人当たり1本。国別だと順位はある程度人口に比例するといえそうで、やはりヨーロッパを中心にしっかり飲んでいる人は飲んでいるということか(数字は「デイリーテレグラフ」2017年2月17日記事より)。

そうして意識をし始めると、大してワインに詳しくもないのにジョージアワインが気になり始める。そしてそのうちに、ジョージアという国の名前がどこにでもチラついてくる。調べてみれば、古い文明がドシドシ交錯していたであろう「コーカサス」にあり、国境を接する国は、トルコ、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国、タゲスタン共和国、チェチェン共和国、ロシア連邦、など。「コーカサス」は黒海とカスピ海の間の、コーカサス山脈を囲んだ一帯をさすそうだ。フライトを調べてみると日本からの直行便はなし。外務省のサイトを見ると在留邦人数は45人。少なっ!

マップラバーなので、コーカサスの地図を見ているだけで盛り上がってくる。オリンピック(2014年)のあったソチは黒海沿いに南下すればジョージアまですぐだ。このあたりは、モスクワなどからもリゾート客がやってくるらしい。

ここでデータをインプットしておこう。たとえば日本と比較すると、国の全体像を把握しやすい。最新と思われるデータを拾うと、1991年のソビエト連邦崩壊で独立したジョージア、その面積は日本の約5分の1で、人口は390万人(2017年、国連人口基金)だ。その多くがキリスト教(ジョージア正教)を信仰している。首都はトビリシで一人あたりのGDPは4086米ドル(世界113位。日本は38449米ドルで25位。2017年、IMF)だ。失業率は11.8%(2016年)と、決して低いとはいえない状況だし、産業は鉱業、農業といったところで、隣のアゼルバイジャンなどと違って石油は出ないこともあり、お金を潤沢に持っているとは言いがたいような。

2015年と最近になって、「グルジア」から「ジョージア」へと日本での呼称を変えた背景には、ジョージアの親欧路線に対してのロシアの牽制、2008年のアブハジアや南オセチアといった土地をめぐってのロシアによるジョージア侵攻、それに伴う経済制裁があるのだろう。国名を「グルジア」とロシア語読みするのを嫌う人が増えたから、と私は旅先で聞いた。当時は、一説によるとロシア軍は首都トビリシまで迫ろうという勢いだったそうだ。そんなことからたった10年しか経っていないとは。

内戦のことは、北西部のスヴァネティに旅する道中の車中から、その前線となった街の一つを見ることができた。ソ連時代の共産主義的モニュメントが街の中心広場を覆い、ソ連時代に建てられた建物の空き家が目立ったのは気のせいだったのか。

さて、2013年には「クヴェヴリ・ワイン」という伝統的なワインの製法が、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。和食やフレンチ料理が登録された、あれだ。なにしろ、地中に埋めた素焼きの壺にぶどうジュースを注ぎ込み、そこで発酵させてワインをつくるのだという。この土地への好奇心は決定的になるというもの。

「ジョージアは、ワインと相撲、これに尽きる!」
こう喝破したのは、その1年半後に出かけたジョージアを案内してくれたニアさんだった。彼女は、ジョージア西部で「クヴェヴリ・ワイン」を手ずから夫婦で作っているワインメーカーだ。おそらく日本人サービスを多少含むにしても、ワインを作る前はトビリシで教師をしていたという彼女の説明は簡潔だ。

もともとジョージアでは、モンゴルと同じでレスリングが盛んで全国大会も開かれるほど、スタイルは違うにしてもレスリング自体が人気競技なのだ。だから、あの「ヘアスタイル」や「巻いているもの」には驚いたそうだが、黒海や栃の心の活躍が我がことのように嬉しいのだという。

ワインは、といえば、これは話が長くなる。ニアさんのところで見たぶどう畑、製作現場、ワインの味を次回は紹介していこう。(つづく)

帰ってきた安田純平

さとうまき

安田純平が帰ってきた。

彼とは、信濃毎日新聞に勤務していた2002年に知り合った。イラク戦争が始まろうとしていた時。その後、「会社からイラク行きの許可が下りない。フリーランスでイラクに行きます」と連絡をもらった。イラク戦争がはじまったとき、ヨルダン国境からなかなかイラクに入国できなくて苦労している姿を見かけた。大手メディアは、イラクのビザを取っていたが、会社が危険だからといって許可をださない。

現場の記者はイライラしていた。大手メディアは、フリーランスと契約して前線からの記事を出そうとしていた。しかし、フリーランスだとイラク大使館がなかなかビザを出さなかった。僕はといえば、人道支援ということでビザを出してもらったが、やっぱり戦争がはじまると、なんでも自分でやらなきゃいけない。寝袋とか、発電機とか使ったこともないし、そういうサバイバル系は苦手だったので躊躇していたけど、大手メディアが声をかけてきた。「ビザ持ってますよね?(イラク)いかれたら一分●●円で衛星電話でレポートしてください」とか言ってくる。

結局安田さんたちは、サダム政権が、もう崩壊しちゃうと判断したイラク大使館が、お金を出せば、ビザを出すとバーゲンセールしてしまったために、無事にビザをゲットしてイラクへ入っていった。

大手メディアは、そのころまだもたもたしていて、僕らと一緒にご飯食べて酒を飲んでいた。「日本のNGOがイラクに入れば、(それを取材するといえば)さすがに本社の方から許可がでるので、行かれるときはぜひ、ご一緒させてください」という。しかし、数日後にはサダム政権が崩壊し、各社とも、一斉にバグダッドを目指して僕は置いてけぼりを食ってしまった。まあ、そういう風にメディアは苦労して、ホットな情報を伝えてきた。

2012年7月、僕はダマスカスにいて、彼はアレッポにいた。同じ国なのに見ているものは全く違った。シリアにどう向き合えばいいのか。アサド政権に惨殺される子どもたちを目の当たりにした彼。でも、アサドを倒したところで、平和が来るとは思えなかった。ダマスカスはアサド政権のおかげで治安が保たれていた。「ダマスカスは、予想に反して普通に人々が暮らしている」というのを、電話で話したのを思い出した。

2015年、シリアの取材がだめなら、イラクに来たいというので、アルビル事務所の地下室を自由に使っていいよっていったら、「ありがたい」という返事が来た。アルビル事務所の地下室といえば、泣く子も黙る地下室として、仲間内では有名である。

夏は50℃近くまで気温が上がるが、地下に降りるとひんやりしている。しかし、みんな近寄りたがらない理由はたまにゴキブリがでるからだ。僕は、それでもくそ暑い日は地下室で仕事をする。自分の部屋にしてもよかったが、ゴキブリ男みたいに言われるのは少し抵抗があった(大体日本人はゴキブリに騒ぎすぎる)。そしてその後連絡がなくどうしているのかなと連絡を取ろうと思ったら、菅官房長官が、安田さんがシリアで拘束されたと発表したのだった。あれから3年以上がたち、安田さんのために開けておいた地下室はゴキブリの巣窟になった。

前々から不思議なことにゴキブリが地化室で死んでいく。餌もないのに台所ではなく地下室で死んでいく。気温も快適なのになぜ死んでいくんだ?最初は一匹死んだだけでも、大騒ぎして処理していたが、次第に放置しておくようになり、気がつくと50匹くらいのゴキブリがカサカサにないって死んでいた。その家も結局10月頭に引き払った。

そして帰国すると、いきなり、新聞社が、安田さんが解放されたことに関するコメントを求めてきた。「よかった! うれしい!」それしか思い当たらない。しかし、案の定、「退避勧告を無視して危険なところに行くなんていかがなものか」という話をメディアが真剣に議論している。いやー、それを言うなら、ジャーナリズムはいらないっていう話をジャーナリストたちがしているわけで、危機的なものを感じてしまった。

今から14年前の自己責任論は、自衛隊の撤退を武装勢力が人質解放の条件にしたから日本政府も必死になって、自己責任論を流布した。しかし今回は違う。政府も、助かってよかったと。問題は、意地悪な市民だ。ありもしないことまでネットで拡散して楽しんでいる。そして、メディアも視聴率が上がるからそういうネタを報道している。新聞も最近はインターネットで読めるようになり、各記事のアクセス数が簡単に出るから、やっぱりそういうありもしないようなゴシップを平気で垂れ流す。

有名なジャーナリストがかつて言った。
「戦争の最大の犠牲者は「真実」である。」
真実なんてどっちでもいい。アクセス数がすべてだ。これがネット社会の恐ろしさだ。

秋の日の片岡義男三昧

若松恵子

片岡義男の新刊『あとがき』(2018年10月/晶文社)は、その書名の通り、彼の書いた「あとがき」ばかりを集めた本だ。発売を心待ちにしていた。多くの片岡ファンも同じ気持ちだと思うが、新刊を手に取るとまず「あとがき」を読む。新刊のあとがきに、彼の最新の声を聞けるような気がするからだ。

今回の本には、1971年の『ぼくはプレスリーが大好き』から2018年の『珈琲が呼ぶ』まで、発行年代順に137の「あとがき」が並ぶ。一度は読んだことがある「あとがき」。今も色あせてはいない。これだけ続けて読んでも飽きないのは、ひとつひとつの「あとがき」が著者自身による最良の作品解説になっているからだ。こんな風に簡潔に、明晰に作品を語ることなんてできないなと思う。

『波乗りの島』(1979年/角川書店)のあとがきのなかに、自分が描く世界について触れたこんな言葉がある。「小説を書くときにどうしてもぼくがこだわるのは、湿りのごくすくない、しかも広い空間のなかに、人の気持が解き放たれるか、あるいはそのような可能性の大きい世界に、舞台を設定したい、ということだ。(中略)陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」この言葉を読むことで『白い波の荒野へ』のラストシーン、主人公が祖父の口癖として、その意味もわからずに覚えていた言葉「ようけ働かんと食えんがの」とつぶやく場面がなぜ心に残るのか、その不思議な味わいの意味がわかったような気がした。

作品が生まれたきっかけや作品を書いた季節についての記述も度々登場して、それも「あとがき」の魅力のひとつだ。「太平洋を越える飛行機のなかで原稿を書き続けたことを僕はいまでも覚えている」なんていう記述には、作家の姿が垣間見えて本当にワクワクしてしまう。『ぼくはプレスリーが大好き』が改題されて『音楽風景』となり、さらに『エルヴィスから始まった』という題名でちくま文庫になった時のあとがきには、この作品を書き始める直前、エルヴィスの足跡を訪ねたアメリカの旅のことが語られている。このあとがきは今回の本で初めて読むことができた。本編には出てこない、片岡自身の物語として心に残る。

『スターダスト・ハイウエイ』(1978年/角川文庫)のあとがきには、雑誌に書いた短いエッセイが引用されている。夏の間、牧場の納屋の外に置いたベッドで眠る老夫婦の話だ。
「夜、月が高くのぼるころ、林のずっと遠くから、月光の中を夜の風に乗り、林の樹々のてっぺんをかすめ、コヨーテの鳴き声が、老人夫婦の耳に届く。(中略)ならんでベッドに腰をおろし、夜の林に姿を見せる魔女やゴブリンたちを、ふたりは飽かずながめる。夜の主役たちのじゃまをしないよう、ふたりはそっとむこうの林を指さしては、小さな声で語りあう。」たぶん生涯経験することがないであろう夏の夜の風に、想像のなかで吹かれる。こんなに印象的な「あとがき」を、かつて私は読んだのだろうか。本棚から角川文庫の『スターダスト・ハイウエイ』を探しだして、ページをめくると、確かにその物語は「あとがき」のなかに引用されていた。私の文庫本は、1980年1月発行の第4版だ。

収録されている「あとがき」は、赤い背表紙の角川文庫の1980年代が46と一番多い。書店に並ぶたびに購入して次々に読んだ時代だ。残念ながら解説のみであとがきが無い文庫もいくつかあるが、今回、この時代のあとがきを読んで作品を読み返したくなった。順番に本棚から抜き出してきて読み返していくと、あっという間に時間がたってしまう。あとがきと作品とを行ったり来たりしながら、秋のよく晴れた休日は、片岡義男三昧の一日となる。

多可乃母里

時里二郎

6
里の者は
この子の祖父は
生きているのやら
死んでいるのやらと言うが
この子の祖父の消息は
わたくしが よく知っている
ほかでもない わたくしこそは
この子の祖父なのだから
この子の祖父であるわたくしが
わたくしを作って
わたくしのなかに入ったのだから

7
ようよう
ここまで来た
ここまでが
わたくしの来歴
身を捨てて
このかたい木に変じたわたくしの来歴
里を捨てて
森の奥に分け入り
森に弾かれた者の来歴
その折りに 弾かれまいと
しがみついていた木もろともに
飛ばされたところが
たかのもり
多可乃母里と記された
ことのはの土地

まだこの子に会うまでの日月を
指に折ることすらできないころにまで
さかのぼり
さかのぼる
ことのはのとち
たかのもり
多可乃母里
・・・・

アジアのごはん(95)腸内細菌にゴハン!

森下ヒバリ

9月号にビルマのシャン州の納豆の話を書いたが、シャン州の旅から帰ってくると、妙に体調がいい。そういえば、前回のシャン州の旅のあともそうだった。ヤンゴンで過ごした後は湿気とカビ菌にやられて寝込むほどなのに、この違いはいったいなんなんだろう。シャン州は田舎で空気がいい、人も少なくてのんびり、市場が楽しくてゴハンも美味しくて毎日が楽しいから? う~ん。

シャン州のニャウンシュエから、タイに戻る途中に寄った、マンダレーのビアーステーションで生ビールを頼み、つまみに付いてくる炒り豆をぽりぽり齧りながら考えてみた。
「この炒り豆、うまい!小さいけどひよこ豆かな?」「あ、お兄さん、ビールもう一杯。それと、この豆もおかわり!」

シャン州の食事はやたらと豆製品が多い。ビルマ料理も豆をよく使うが、もっともっと使う。納豆を料理によく使うし、出しにも使う。そして、各種ゆで豆やもやし豆を青菜と炒めたり、カレーに入れたり、豆のスープ、ひよこ豆の粉から作る豆腐、それを薄く切って乾燥させたものを油で揚げるおつまみ‥。米麺のシャン・ヌードルにもコクを出すために仕上げにひよこ豆の粉をふりかけるし、さらに茹でえんどう豆の天ぷらがトッピングされることもある。

市場に行くと、生の豆はもとより、茹でた豆も売っているし、炒り豆のコーナーもある。ニャウンシュエのミンガラーバ市場の炒り豆コーナーは何種類もの炒り豆を売る店が平日で3~4軒、五日市の時は10軒ぐらい出ている。豆好きの相方はもう、はしゃいで一度に何種類もの炒り豆やフライビーンズを買うので、シャン州にいる間は常に部屋に豆があり、毎日外食でも豆を食べ、部屋でのおやつにも豆を食べ、の毎日であった。

しかも、この豆がまたおいしい。前回の旅の時に、市場で「炒り大豆かあ‥」と何気なく味見してみたら、えっとのけぞった。うまいじゃいの、これ。日本で料理するときにはわりと豆を料理に使うほうだ。しかし、大豆をそのまま、という食べ方は好きではないので、炒り豆を食べることもなかった。味付けなしの、ただカリッと炒っただけの大豆やひよこ豆や、名前の知らない豆がこんなにうまいとは。

シャン州に行くと元気になるのは、やっぱり豆をたくさん食べるからかな、と思い至ったところでハヤカワ・ノンフィクション文庫の「腸科学」(ジャスティン&エリカ・ソネンバーグ)の中で語られていた、「腸内細菌に食事を与える」というくだりを思い出した。日本に戻ってから読み返してみると、やはり豆類は腸内細菌の食事である食物繊維が豊富である。(ただし、この本の中では、食物繊維という定義が国によって違ったり、測定方法がまちまちであったりすることから、「腸内細菌が食べる炭水化物microbiota accessible carbohydrates」略してMACマックと呼んでいる。)

近年、腸内細菌の役割と重要性が科学的にもかなり分かってきて、腸内細菌叢を豊かに保つことが健康維持に重要であることは、周知されつつある。では、腸内細菌叢をよい状態にするにはどうしたらいいのか。

たいがいの人はヨーグルトを食べるとか、味噌や納豆などの発酵食品をつとめて食べるのがいい、と答えるだろう。または、ビオフェルミンを飲むとかプロバイオテクス(有用菌)のサプリメントを飲むとか。

これも間違ってはいない。しかし、これは腸内にいる常在菌ではなく、通過していく有用菌と呼ばれる微生物を摂取する方法だ。有用菌は腸内常在菌ではないが、これまた大腸の中で重要な働きをするので、これらを食べることは大切である。また環境から抗菌剤などの菌を殺すものをなくす、むやみに抗生物質を飲まないということも重要である。

そして、もうひとつ大切なのが、腸内細菌が食べる食物、つまり腸内細菌のゴハンを食べることなのだった。腸内常在菌のゴハンとは、人が食べて小腸で吸収されなかった、出来なかった炭水化物(MAC)、(ここではややこしいので日本式に食物繊維と呼ぼう)である。食物繊維とは植物に含まれる難消化性の炭水化物のこと。水溶性食物繊維と不溶性食物繊維とに二分され、水溶性はペクチン、グルコマンナン、アルギン酸などで、不溶性はセルロース、へミセルロース、リグニンなどが含まれる。

腸内細菌は、人が食べた植物性の炭水化物(糖類)のうち、小腸で吸収されなかった(できない)多糖類の炭水化物である食物繊維を大腸で食べる。ちなみに人は胃と小腸で食べ物の消化・吸収をおこない、腸内細菌は大腸に住んで自分たちの食べられる食事が回って来るのをじっと待っているのだ。

この腸内細菌の存在は、ヒトにとってなくてはならぬもので、人類発生以来、共存してきた大切なパートナー。大切なペットと考えてもいい。エサをやらなくちゃ、弱って死んでしまうよ。毎日喜びと健康を与えてくれる、愛おしいペット。ペットが死んでしまったらこちらも弱って病気になり、死んでしまうぐらいの深い結びつきだ。ペットに興味のない人は、大切な恋人、妻や夫でも子供と考えてもいい。

とにかく、自分が食べなければ可愛い腸内細菌くんたちのところに食事が行かないのだから、小腸で吸収する栄養以外にも、ちゃんと腸内細菌用の食べ物を食べてやらなければならないのである。

腸内細菌たちの食事をとるのをむずかしくない。とにかく毎日、植物性の食べ物をたくさん食べればいい。食物繊維は植物に含まれる。食物繊維の中でも水溶性のものが多いものをなるべく選んで食べるのがいい。菜の花や春菊などの青菜、にんじん、たまねぎ、ごぼう、ブロッコリーなどの野菜、にんにく、らっきょう、ゆりねなどの塊茎、いんげん豆、えんどう豆、大豆、ひよこ豆などの豆類、こんぶ、かんてん、ワカメなどの海藻類、りんごやバナナ、プルーン、きんかん、アボカドなどの果物、さつまいもやきくいもなどのイモ類。穀類にもライ麦やオートミールには多い。オクラや納豆、モロヘイヤ、山芋などねばねばした食品にも多い。ゴマやシソ科のエゴマにも多い。同じシソ科のチアシードは群を抜いて多い。

ところが豆類でも、大豆は豆腐に加工されるとぐっと減ってしまう。穀類も精白するとなくなってしまう。にんじんやりんごも濾してしまうジュースでは含まれない。レタスにも少ないので、ファストフード類の食事だけだと、お腹はいっぱいになっても、腸内細菌たちは飢えたままだ。

どうしても、充実した野菜の取れない食事の時には、水溶性食物繊維をとても豊富に含むチアシードを大匙一杯追加する手もある。チアシードは、2~3日分を水に戻して冷蔵庫にしまっておいて、ヨーグルトに混ぜたり、サラダに混ぜたり、そのまま食べちゃってもいい。もちろん、毎日食べるのもお奨めである。

最近のわが家のおやつとビールのアテは、もっぱら炒り豆や殻つきピーナツ、クルミやアーモンドなどのナッツ類だ。おやつが食べたくなったらテーブルの上に置いた炒り豆をちょっとつまんではぽりぽり。甘いものを食べる回数も減った‥。

気をつけたいのは、なるべく無農薬のものを選ぶこと。最近、おそろしい除草剤の使い方が日本でも大規模農業を中心に広がっているからだ。モンサントが開発した除草剤ラウンドアップは名前を変えて三井化学が安く販売しているが、これを収穫まぢかの大豆や小麦に直接かけるのである。雑草を駆除するのではなく、作物本体を立ち枯れさせて収穫を容易にするためだという‥。外国産の大豆や小麦のポストハーベストも真っ青のこの除草剤使用農法、ここ数年でかなり広がってきた様子。

いまのところ、大豆と小麦ぐらいのようなので、少なくとも大豆製品と小麦製品は無農薬のものを選びましょう。いくら食物繊維を食べても、毒を食べた上に腸内細菌まで除草されては、どうしようもないからね。

別腸日記(21)菌食考─その2:ブナハリタケ/Mycoleptodonoides aitchisonii

新井卓

山に登ること、キノコを採ること──この二つを両立させることは、むずかしい。山頂を目指す登山は、災害や事故の危険が少なく、また風光明媚なルートをたよりに計画される。ところがキノコをさがす道行きに、道はない。登山客に踏みならされた、往来の忙しい登山道でキノコを見つけたなら、それはとても幸運な出会いである。もし、かご一杯の収穫を夢見て山に向かうなら、道をそれて広葉樹の斜面へ、あるいは冷たい沢が走る谷間へ、藪を分けて進んでいかなければならない。

一昨年は、遠野早池峰ではキノコの不作が嘆かれた年だった。今年はどうもハァ、だめだね──土地の人のため息を背に、薬師岳に分け入った。いつもの南斜面をいくら歩いても、たしかにキノコたちの気配がしない。なんだか空気みたいなショウゲンジや、すねたようなイグチを細々と拾ってもう帰ろうか、と涸れ沢を下ろうとしたとき、不意に場違いな芳香が鼻をついた。どこかで嗅いだことのある何か──小学校の脇の駄菓子屋で売られていた真っ赤なチューインガムか、洗濯の柔軟剤のような、ケミカルな、甘ったるい匂い。目の前に、ふた抱えもありそうな巨大なブナの倒木が横たわっていた。回り込んでみると、果たして幹の片面に、ビッシリと純白のキノコが群生していた。

ブナハリタケ、のハリタケは「針茸」であり手のひらを伏せたような5センチほどの傘の下に、無数の針状の突起を生やしたキノコである。むしり取ろうとしても意外に強固で樹皮もろともに剥がれてしまい、これでは翌年の再発生によくないから、ナイフできれいに切り落とす。あっという間に背中のかごが一杯になり、それでも四分の一も採りきれていない。籠に両手を伏せて、体重をのせる──山の露をいっぱいに含んだゴム質のキノコから水が染みだし、編み目を伝った。

背中から強烈な甘いが身体を包み、ついに少し気分が悪くなってきた。しかしこの強烈な芳香も、煮炊きすればいかにも美味しそうな香りに変化するから不思議である。
ブナハリタケは、II型糖尿病への効果や発がんの抑制などの薬効が見つかってから、近年注目されているらしい。糖尿境界型の父にあげようか、とぼんやり考えながら、日のすっかり落ちかかった谷間を帰路についた。

眠るブナ林

璃葉

ブナの木の葉はすっかり落ちていた。いつもより寒い日だった。
桜紅葉が散り、すこし物悲しい景色になった近所の道を歩きながら、いつだったか、秋の終わりに歩いたブナ林のことを思い出した。
紅葉を見たくて遠足気分でブナ林に来たものの、一足遅かったのだ。葉っぱがすっかりなくなった木々が連なり、梢が風に揺れてうごめいていた。
林のむこうにはぼんやりとした太陽の光芒があったが、雲が薄くかかっていて暖かさは届かない。不思議な匂いが漂っていた。冷たく澄んだ匂い。
リュックから魔法瓶を取り出す。蓋を開けるとモワモワと赤ワインの香りが立ち昇った。
ホットワインは、古くなった赤ワインの活用法として友人から教えてもらった。温めた赤ワインに、切ったレモン、オレンジ、シナモンを入れるだけ。
冬の散歩のお供に良いのよ、ということばを聞いてから、寒さの到来を心待ちにしていた。
立ち止まって一口、二口飲む。芯がジンと温まり、皮膚の表面の冷たさがさらに際立つ。
霧が薄布のように広がり、虫の音もなく、風もよわく、カラスもおとなしい。ブナの木々は静かに、心地よく眠っているようだった。

芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

冨岡三智

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)

蒼吉のこと。

植松眞人

 京都の大学へ通いたい、と息子の蒼吉が言い出したのは高校生活もあと半年あまりとなってからのことだった。
 井筒はさほど驚きもせず、ただそうなった場合の算段を素早くして、そうか、とうなずいて息子を送り出す気持ちを一息に整えた。しかし、母親である恵美はとても驚いて、京都、とつぶやいたきり黙り込んだのだった。
 結局、恵美がもともと希望していた国公立大学であったことと、学費の算段もなんとかできると踏んだところで、蒼吉は希望通りの大学を受験することになった。
 晴れて入学が許可されて、蒼吉は三月の終わりに意気揚々と東京から京都へと旅立った。
 みなが「寂しいでしょう」と恵美に声をかけるのだが、井筒はどうして母である恵美にばかり声がかかり、父である自分に声がかからないのか不思議に思うのだった。しかし、実際に蒼吉の不在が堪えていたのは恵美だった。
 蒼吉が楽しみにしていたテレビ番組が夕食時に始まったりすると、じっと画面に見入って黙ってしまい、「蒼吉がよく見ていた番組だな」と井筒が声をかけると、「さあ」とわざとらしく会話をそらしたりした。
 五月の連休が目前に迫った頃になって、恵美はしだいに蒼吉のことを普通に話題にするようになった。蒼吉がいないことに恵美も慣れてきたのかと思い、「本当は君も蒼吉がいないことが寂しくて仕方がないんだろう」と井筒は軽口を叩いたりするようになった。そのたびに、恵美が「そんなことありませんよ」と強がって見せたりするのも、新しい家族の過ごし方のようで微笑ましく思えるのだった。
 しかし、蒼吉がスマホで「連休には戻らない」というメッセージを送ってきた日の夜、井筒はそうとは知らずに、すっかり気持ちを許して蒼吉の不在を話題にした。つい、料理を多く作ってしまった恵美に、「蒼吉の分まで作ってしまったんだね」と言った瞬間に、食卓へ今まさに置こうとしていた大皿のお煮物料理を恵美は放り出すようにしたのだった。大皿は割れることはなかったが、ドンッと大きな音を立てた。自分でもその音に驚いたのか、しばらく無言で立ち尽くしていたのだが、やがて食卓の隅に置かれた台ふきんで飛び散った煮物の汁を拭き、恵美は食卓に座った。そして、一言も発しないまま黙々と白米と煮物を交互に食べ続け、やがて滂沱たる涙を流し始めた。
 井筒はその姿に驚き、いったいどれだけ蒼吉が恋しいのかと思ったが、もしかしたらほんの少しでも感じている寂しさを知られたことの悔しさからくる涙なのかもしれないと思い直すのだった。しかし、だからとって井筒自身、平静を装って食事をすることが出来ず、やはり少し怒った様子でうまい具合に煮込まれた大根を箸で刺して口に運び、それほど美味くはないという顔をしてみせるのだった。(了)

理性の不安★36

北村周一

臘月や牡蠣と漢字で書いてみる
 r 付く月鍋にしようか
汗掻き掻きねむる幼子われにして
 理性の不安はとき遡る
しろじろき月を背後に子猫たち
 銀杏樹の枝に一、二の三匹
しぶしぶに画廊の主は新酒開け
 博多訛りの毒舌の冴え
声重たし傘を忘れて盗み聞き
 事務イス軋む音に洩れつつ
葉脈にまみずしみこむ宵の口
 海水われのやみふかみかも
梅雨の入り稲荷大祭月は見ず
 アイリッシュバーに浴衣子踊り
つぶやきに自己宣伝のきらいあり
 今は死語かもウナヘンタノム
逃げろとて花に嵐のお別れも
 傘も差さずに走るさんがつ
かんがえて赤子抱きゆく余寒かな
 悠治さんから悠の字貰い
十字架を肩に背負いしひとの傷
 生きて負う苦に順序のありや
雪の日の盲導犬の目に泪
 ゆめは枯野を行きつ戻りつ
海抜は千メートルにあと少し
 気圧低いとこころが弾む
薔薇族の愛にムチ打つ納屋の中
 思春期に触れる昭和文学
月の座に月の句のある一頁
 燈籠好きの父が来ている
柚子味噌をこさえし祖母は能登の人
 隣家の庭に柚子の実たわわ
正調のちゃっきり節はでにあらず
 きゃあるが鳴くんて雨ずうらあよ
半島の先の先までのサクラ花
 さまざまありて菜の花畑

* 擬密句三十六歌仙冬の篇。秋の終わりに。

オイリュトミー

笠井瑞丈

言葉と踊り
音楽と踊り

未だ未知の世界を
そんな迷宮世界に

迷いこむ

カラダの捉え方は
無限の数だけある

頭が理解する事
体が理解する事
心が理解する事

頭を体に繋ぎ
体を心に繋ぐ

言葉と音楽

言葉が体を作り
音楽が骨を作る

空間と時間

言葉が空間を作り
音楽が時間を作る

カラダは
徹底的に自己的な物

コトバも
徹底的に自己的な物

髪の毛一本も自分であり
コトバ一つが自分である

誰にも渡さない
誰にも渡せない

イメージが動きを作り
動きがフォルムを作る

骨の笛で曲線を描く
骨の筆で直線を描く

神々の眼を
動物の眼と

死者の世界を
海底の世界と

置き換える

石の上にも三年
三年目です

オイリュトミー

製本かい摘みましては(141)

四釜裕子

「マルセル・デュシャンと日本美術」展(国立博物館平成館)は、第1部「デュシャン 人と作品」に続く第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」が、とってつけたような、それでいて説教くさくて興ざめした。あとをひいてしまって、売店に中尾拓哉さんの『マルセル・デュシャンとチェス』が置いてあったのにちらっと見て離れてしまった。もやもやしたままエスカレーターを下ると一階ラウンジ前に便器。デュシャンが「泉」を作った1917年にTOTOの前身である東洋陶器社が創立したそうで、1914年に作られた国産初の「陶製腰掛式水洗便器」の復元品が展示してあったのだ。2015年にTOTOミュージアムが開館するにあたって作られたとのこと。壁には、『これが、日本の陶製水洗便器の源「泉」』。笑える。興ざめから我にかえって、『マルセル・デュシャンとチェス』をもっと立ち読みすべきだったと反省する。その夜、ネット本屋で注文しそうになるが、ガツガツ探して買う本ではないし、きっとどこかの本屋で会える気がして、やめる。

ネットで買いたくない本というのはある。鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』もそうだった。鈴木さんのツイッターで料理話などをおもしろく読んでいて、『サカナとヤクザ』なる本が出るというので楽しみにしていた。刊行日、帰り道で本屋に寄った。3軒目、上野アトレの明正堂書店で平積みに遭遇。探すでもなくとはいかなかったけれどわりとさりげなく買えた。地下鉄に乗り本を開くと中から魚柄の栞、氏原忠夫さんの絵による明正堂書店オリジナル栞のうちのひとつだ。今はこの柄だけなのかどうなのか、わからないけれども、『サカナとヤクザ』を買った客には魚柄を入れてくれたに違いないと思い込み、良い気分にひたる。帰宅して本棚を見る。ここ数年はネット買いが増えたとはいえ、ほとんどがいつかどこかの本屋でだいたい一冊ずつ買ってきたのだから、ずいぶんたくさんの本屋さんから手渡してもらってきたものだ。

すぐ欲しい本はネットで買うし、正直に言うと、経費で落とせるものでもより安い値のものを選ぶことが増えている。注文をして確認がきて、配送されて封を開いて。納品書は梱包材といっしょに捨ててしまう。やりとりはシンプルで立ち止まるすきもなく、相手が本屋であることを意識させない。これが互いに望んだ理想形なのだろうか。ところがあるとき、納品書に目がとまった。B5サイズの紙がちょっと厚手で、印字がかすれていたからだ。そのくせ裏面はくろぐろと印刷してあり、「納品書のウラ書き」と白抜きしてある。加古里子さんの『宇宙』(1978 福音館書店)と、林定次さんの『宙の名前』(2010 角川書店)が紹介されている。上田市のバリューブックス発行、第3号、テーマは「宙」だ。楽しいじゃない。よく見ると、紙のひとかどが微妙に直角がとれていない。断裁で失敗したのかどうなのか。いや待てよ、おもて面の印字のかすれも作戦なのかも。考えすぎか。とにかくこの納品書は捨てずにとっておかれているし、客は店の名前を覚え、その客は今またここでその本屋を思い出している。

平出隆さんの『私のティーアガルテン行』も本屋で買った。中に、中学高校の下校時に通った本屋、金榮堂の思い出がある。〈書店の中で、子供は世界の広さにうろたえている〉。買うとなると、〈勘定場で必ずしばし見とれる光景があった〉。〈本に紙の衣裳を着せる。そんな手捌きを、毎度黙って眺めた。子供にはその瞬間だけが、店員さんとの会話であるような気がしたものだ〉。こんな明確な記憶は私にはないし、カバーをかけるのを見るのは好きだけれどカバー付きのまま読むのは好きではないので普段かけてもらうことはない。それでも、わかるわかると思うし、懐かしいと思える。

ティーアガルテンとはドイツ語で、動物園と猟場の意味があるそうだ。〈主なき猟犬なのか、獲物として終るただの生命体なのか分からぬ「私」という動物(ティーア)〉である平出さんが分け入ってきた幾多の迷路の入口にある、恩師や家族、数学、写真、野球、受験、歌……。バットとグローブを担いだ白いユニフォーム姿の少年はカメラに背を向けていて、以来迷路に踏込み続け、迷路であるから出口を目指さない。未知への踏込みは、〈いまここという時空〉への逆らいだと言う。版を組み、翻して刷って綴じる本づくりは新しい迷路を組み立てるに等しく、〈通俗の歴史がこしらえてきた地上に立ちどまること〉に逆らい、それが〈ままごとのようであればあるほど、世界はくっきりと姿をあらわして立ちはだかる〉。〈五十年後のいまでも、まったく同じ幼さをもって、いや、より精巧な幼さをもって、印刷や造本に向かおうとしている自分に気づいているところである。あまりのことに、これは、動物たちが、自然の環境の中で繰り返してきた生存形態の設計力を追いかけているのではないか、と考えるほどだ〉。〈一個の動物として本をつくることができないか、とさえ考えている〉。

『私のティーアガルテン行』の造本は平出さんによる。透明のフィルムが表紙カバー替わりにかけてある。このまま電車の中で片手立ち読みすることはできない。美しい造本だけれども、邪魔だな、とも思う。『私のティーアガルテン行』という迷路へ踏込む者がまず体験する、いまここという時空への逆らいのひとつなのだろう。

しもた屋之噺(202)

杉山洋一

すっかり秋めき朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。今年は肌寒くなるのが本当に遅かったのです。ここ二日ほどずっしりと濃い鼠色の雲の下、久しぶりに降り始めた雨は強まるばかりで留まる気配すらなかったものの、先程漸く雨が上がったかと思うと突然黄金色の秋らしい夕日が辺りをさっと美しく染め上げるのに言葉を失いました。
緑色のまま残っている葉、黄色く色が褪せかけた葉、赤く染まった葉が、それぞれにさざめいては光を際立たせ、独特の遠近感を生み出していて、音楽との親和性を思います。親和性というより、恐らく音楽がどこから生まれてきたのか、無意識に実感しているのかもしれません。目の前の空は既に色を失い夜の帳に覆われかけています。

10月某日 ミラノ自宅
何度となく「この楽譜だけは絶対に解読できない」と匙を投げそうになったが、最後になると何かが閃くというのか、心の眼でこの楽譜が読めるようになる不思議。
自筆譜で読むと音現象の解析からではなく、まず作曲家の存在そのものと対峙しなければならないので、恐る恐る楽譜に向かう、ということが出来なくなる。すみれさんとご一緒した時の「カシオペア」の楽譜がそうだった。実は浄書されたスコアもあったことが演奏会直前になってわかったが、ずっと自筆譜で勉強していて、本番もそのまま自筆譜で振った。
筆跡を辿れば、どこの部分から書き進めたかもある程度理解出来るようになるので、思考とまでは言わないが、巨視的な作曲者の視点や意図を繋いゆくことも出来る。
クセナキスの筆跡は到底見易いとは言い難いが、アシスタントが見やすく浄書しているところからは、作曲者本人の筆跡のような迸る情熱は感じられないので、寧ろ物足りない。
ただ、文字通り目を皿のようにしても、どうしても読めない音は幾つかあって、正しいのか分からないままパート譜を参考にしたが、当初休符だと信じて疑わなかった棒が、読返してみると音部記号と気が付いたりする。普段から見えない目が、極端に困憊したのは確かだ。

10月某日 ミラノ自宅
家人の恩師を悼むピアノ小品を書き、追悼アルバムに収録してもらう。暫く前に飛行機で取ったスケッチは見当たらなかった。恩師の名前をよびかけながら、どこに向かってよびかけているのか考える。どこにでもごく身近に気配を感じる気もするし、とても遠くに漂っているような気もする。彼をよぶ声だけが、いつまでもこだましている。

10月某日 ミラノ行車中
クセナキス「クラーネルグ」オーケストラ練習。パート譜もスコアも、所々申し訳程度に分数が書いてあるばかりで、練習番号も小節番号も記載されていない。他の指揮者らも困ったと思しく、パート譜に残されている手書きの練習番号を使おうかと思うと、別のパート譜には別の練習番号が書込まれていて、結局新しく必要最小限のキューサインを決めて、皆で書込む。曲中ずっと二拍子で変拍子のないこのような曲は演奏者が混乱しやすく、その上テープやダンスとの同期もあるので、本番で何が起きても対処できるよう、極力プロセスを単純化する。
それぞれの楽器の発音を整理し、記号に目が馴れるまで暫く繰返す。50年前は、今ほど記譜法も統一されていなかったので、現在の感覚では瞬間的に対応出来ない。伝統や文化は、それぞれ繋がりを持たない個が関わり合い、ある種の混沌を経て収斂に至る。そしてそれがまた一つの個として認識されるようになると、また別の個と交わり、別の収斂を迎える。その繰返しは今も続く。

10月某日 ミラノ行車中
望月京ちゃんが、本当に音楽は分り易くなければいけないのか、と疑問を呈しているのを読む。言葉で説明できるのなら、わざわざ音にする必要があるのか。もう一歩踏み込んだ言い方が許されるのなら、分かり易い言葉で説明するため、簡略化して、大多数に理解されるべく努力する、ポピュリズム一辺倒も怖い。解せない言葉で話すのではなく、分かり易い言葉で、迎合もせず簡略化もせずに自分の意思を伝える。易しそうな言葉の余白に、思索の奥行が垣間見られるように。

10月某日 ボローニャ
良く晴れた朝、ボローニャを母と連立って歩く。劇場すぐ裏のアパートを借りたので、サンヴィターリ通りをゆけばすぐに斜塔広場に出る。斜塔からサンペトローニオまで母の足に併せて歩いても5分とかからない。早朝のサンペトローニオはがらんとしていて、我々以外にこの巨大な教会には一人で熱心に祈る妙齢がいるだけだった。西洋音楽史上、サンペトローニオがどれだけ大切な役割を果たしたかを母に話していると、突然祭壇上のオルガンが美しい響きを放った。
教会つきのオルガニストが早朝練習に来たようだ。サンペトローニオ付きのオルガニストだけあって素晴らしい演奏にしばし聞き惚れる。この教会は特に巨大に造られていて残響も驚くほど長い。だからサンペトローニオ付きの作曲家たちは、この長い残響を活かした作品を書いた。目の前のオルガニストの弾くトッカータ様式の細かい音群は、長い影法師を引き摺りながらまるでリゲティ風のクラスターのように聴こえる。尤も、リゲティ風に聴く方が間違いであって、リゲティが幼い頃から耳にしていた、このような音の混濁を、意識化し体系化したと考える方が自然かもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
クセナキスのオーケストラ曲を振るのは、考えてみれば初めてだった。
楽譜から消失しかかっている音符を一つ一つ丹念に拾ってゆくと、思いもかけぬ旋法的な音が並ぶ。クセナキスの音楽は質量が一番大切な要素に見えるけれども、今回の作品は明らかに旋法が形作っていた。旋法の質感を重層化させることにより、全体の質量を表現していた。それも現在の洗練されたコンピュータに比べて、信じられないほど目の粗いやり方で。「音楽と建築」で「ふるいの理論」や旋法についてずいぶん丁寧に説明していたのは、この部分に相当するのかしら、と勝手に想像していた。
クラーネルグのオーケストラ演奏箇所は弱音が殆どなく最強音ばかりが続くのだが、どれだけ熾烈なのかは実際演奏してみなければ実感できなかった。練習時に本番と同じ音量で弾いてもらうのは、マイクテストの時くらいで、後は体力を温存するため、極力楽に弾いてもらっていた。これがオペラであれば、最強音であれ歌手の声が通るよう中抜けさせつつオーケストラも弾くところだが、クセナキスはバレエで歌手もいなければオーケストラと絡むのは最強音のテープであって、本番中少しでもオーケストラが気を抜くと音楽が急に色褪せてしまう。人間が本当に必死に音を出すと音に独特の輝きが加わるのだ。音量でなく音の光度のようなもの。
当初はオーケストラも一度弾き通すだけで困憊していたのが、回を重ねるたびにクセナキスの面白さに引込まれ、同時にスタミナも付いて来たのか、最後の公演では最後の一音まで気迫が上昇し続けて瞠目した。

10月某日 ミラノ自宅
悠治さんより新作の楽譜がとどく。ご自分で指揮をされるからか、指揮者に対する気遣いとか心配りとかでなく、自分が聴きたい音を、フィルターを通さず透徹に綴った譜面に感激する。もっと多層的で奏者に任せる記譜をされるのかと勝手に想像していたら、ずっと求心的で、全員で空間の同じ部分に耳を澄ますようなアプローチで書かれていて、虚をつかれて幸せな気分になる。皆をあわせるための指揮ではなく、まるで皆の方から指揮にまとわりついてくるようにも見える。どんな演奏になるのか、楽しみで仕方がない。

10月某日 ミラノ自宅
ここ数日かけて、伊左治君から頼まれたブソッティの「イタリアへの五つの断章」の解説を書いていた。かかった時間の殆どは、歌詞を楽譜から書き出し原典を調べ訳出するための時間。当初、詩の訳出までは無理かと思ったが、旧友が八村義夫さんの為に頑張っていて、今後五曲の完全演奏を日本で耳にする機会もそうなかろうと思うとやはり無下には出来なかった。その昔、ブソッティ本人は歌詞なんて訳さなくて良いと笑っていたが、やはり詩の意味や深さを理解できると、作品の印象は全く違ったものになる。特に第一曲「丘たちはまだ耳を澄ましている」で使われている詩は、見事なものばかりだ。

Entro dei ponti tuoi multicolori
L’Arno presago quietamente arena
E in riflessi tranquilli frange appena
Archi severi tra sfiorir di fiori
Azzurro l’arco dell’intercolonno
trema rigato tra i palazzi eccelsi:
Candide righe nell’azzurro: persi
Voli: su bianca gioventù in colonne.
Dino Campana – Firenze

色とりどりのお前の橋に足をむけると
まるで全て見通しているかのごとく、アルノ川の流れは突然落ち着き払い
謐な水の反映のなかに、かすかに映し出す
色を失いゆく花の合間からのびる、厳めしい橋たち
柱と柱にわたされた青い橋が
たちならぶ荘厳な宮殿のまにまに、水面の縞を残し震えていて
青にうつる縞は穢れを知らず、消えてゆく
空の鳥たち。柱のなかの、純白の青春に
ディーノ・カンパーナ – フィレンツェ

カンパーナの「フィレンツェ」は、この古都を形容するに当たり、必ずと言ってよい程引用される代表的な詩で、「色とりどりのお前の橋」は、モザイクのように様々な小さな商店が軒を連ね彩を添えるポンテ・ヴェッキオのこと。そして、その下をたゆたうアルノ川に映る街の風景を詠う。ブソッティがどれほど生れ育ったフィレンツェを愛していたのかよく分かり、訳しながら少し切ない思いにかられる。

Tacciono i boschi e i fiumi,
e’l mar senza onda giace,
ne le spelonche i venti han tregua e pace,
e ne la notte bruna
alto silenzio fa la bianca luna;
e noi tegnamo ascose
le dolcezze morose.
Amor non parli o spiri,
sien muti i baci e muti i miei sospiri.
Tasso

森も川も口を閉ざし
海は波も立てずに、横たわっていて
深く昏い洞窟も、吹きすさぶ風も、
薄ら明かりの夜すらも戦いをやめ、安らかに
どこまでも続く沈黙は、真っ白な月をもたらしていて
僕たちは、ひっそりと
愛の喜びを分かち合っている
愛するお前、声をたてず 息も立てないでおくれ
言葉も要らぬ口づけと、言葉も要らぬ僕の溜息だけで
タッソ

このマドリガルがいつ書かれたものか正確には分からないけれど、タッソの作品でもよく知られた詩の一つ。タッソは同性愛者ではないが、ブソッティがこの歌詞を歌わせる箇所は、耽美的でまるで同性愛的な美しい旋律で縁取られていて、そのままラーラ・レクイエムにも転用していた。改めてタッソの表現力の幅広さと、説得力の強さにおどろく。

Per entro i colli rintronano i corni
Terror del cavriol, mentre in cadenza
Di Lecco il malleo domator del bronzo
Tuona dagli antri ardenti; stupefatto
Perde le reti il pescatore, ed ode:
Tal diffuso dell’arpa erra il concento
Per la nostra convalle; e mentre posa
La sonatrice, ancora odono i colli.
Foscolo

続く丘に雷の角笛が鳴り響き
急転直下、レッコからやってきた
銅鎚の遣い手が地を叩き
燃え盛る口から稲妻が飛落ちる。愕き
思わず漁師は網を手放し、耳を澄ます
打広げられた竪琴の音が、こだましている
大きく開かれた谷のまにまに。楽女が
楽器を置いて憩うとき、続く丘たちは耳を澄ましている。
フォスコロ
 
これもイタリア近代文学で良く知られた名作の一つ。この断片は長編詩の一部に過ぎないが、男性的に切立つ谷に挟まれたレッコ湖の辺りをよく知っているからか、読みながらこの数行の描写に感激して鳥肌が立った。言葉が五感全てを刺激して、湖の匂いまで漂ってくる。

10月某日 ミラノ自宅
楽譜に書かれた音を発音するには、ピアノなら鍵盤を押せばよく、声楽なら歌えばよく、指揮者なら棒を振り下ろせばよい筈であるが、実際はそう単純ではない。
夏に或るインタビューでも話したのだけれど、演奏する行為は楽譜をただ機械的に再現するのではなく、朗読をして読み聞かせするのだと思うと少し分かり易い。
文字をそのまま読み下してゆけば、一応文章にはなるだろうが、何の説得力も持たないだろう。それ以前に、単語の意味を考えずに文字をただ機械的に発音してゆくと、恐らく文章としても成立しないと思われる。
恣意的であれ、と言う積りは毛頭ないが、文法や単語を理解した上で、その文章の言わんとしている対象を念頭に文章を読み下さなければ、説得力のある朗読は成立しない。
楽譜も恐らく同じではなかろうか。楽譜に書かれていることを、書かれているという受動的な理由だけで演奏していては、絶対的な説得力に到達できないのではないか。
それが正しいか正しくないかは別として演奏者なりに文章を咀嚼し、自分なりの言葉で意味を表現し、伝えようとする能動的なアプローチこそ、少なくとも説得力を持つための出発点になり得るのではないか
音符を弾いて音符がそのまま見える演奏では、文章を読んで文字ばかり見える、意味の成立しない文章と同じではないか。
レッスンに来た生徒に、訓練として詩を読むよう薦める。詩を客観的、分析的に読むのではなく、恰もその光景に自らの身を置き、詩人が驚きや感動を持ってその光景を詩に綴る心地を出来る限り実感しながら詩を読んでみて欲しいと伝える。
書かれた文字の意味を理解するのではなく、文字の意味が読み手に露にするその光景に自らを置いてみる。そしてそこに自らが同化出来るまでじっと詩を眺める。実際は詩でなくとも構わないのだろうが、楽譜に近い感覚で読めるのは、どうも詩のような気がする。
棒をどう振れば聴き手が感動するというものではないだろうし、技術が高くても、それで感動する音楽が生まれるわけではないだろう。心から感動して生まれた音は、それだけでやはり他者の感動を呼覚ます気がする。

10月某日 ミラノ自宅
耳の訓練の授業を受持ってもう随分時間が経つ。今年から国の方針で音響技師科が大学課程に組込まれて、音響技師科の新入生16人の授業も受持つことになるのを聞いたのは、学校の授業の始まる10日前程。蓋を開けてみると、前期のクラスだけで器楽科の教室は22人、作曲と指揮の教室が3人、映画音楽作曲の教室は16人、その上、音響技師の教室が16人。
ドイツのトーンマイスターとは随分格が違って、イタリアで音響技師と言うと、今までは基本的にスタジオで実践しながら手に職をつけて仕事を始めるような立場だった。
最初の授業は、彼らの今までの音楽体験などを自由に話してもらう。16人中、楽譜が全く読めない学生が1人、ト音記号は何とか読めるが、ヘ音記号は全く読めないという学生が3人もいる。尤も、彼らに必要な耳の訓練をすればよいわけだから、楽譜が読めればよいわけでもないだろう。
音を聴く、という作業を視覚化するため、黒板に、五線など無視して極端に大きな全音符を三つ縦に並べてかく。適当に三つの音の和音を弾くから、こちらが言う音を眺めながら聴いてみて、と練習を始める。すると、当初三つの音が絡み合って聴こえていたのが、少しずつ頭の中でほぐれて見えてくるのがこちらから眺めていてもわかる。
音は、聴こえると思えば聴こえるし、聴こえないと思えば聴こえない、不思議な存在だが、まず頭の中で音を聞かず、音の存在を目の前で見えるようにする。音が見えれば、必ずそれが聴こえるようになる。下手に音楽の訓練をしていない彼らは、特にその反応が早かった。皆自分の耳が嘘のように聴こえる、と興奮している。音を聴くために、楽譜がどうしても読める必要などない。

10月28日 ミラノにて

168わざうたさん さようなら

藤井貞和

1、すぐ窓の下を通ってゆく幼児の、何とも幼い声で歌う、

からす、なぜなくの
からすのかってでしょ

という歌、「七つの子」の替え歌が聞こえてきて、「ええっ、それって、
ずいぶんまえに流行った歌なのに」。 ドリフターズの志村けんさんの、
一九八〇年代初頭の替え歌で、いまでも歌い継がれているのだ。
当時の志村にしても、近所で聞いた小学生の歌だったと称して、
十年に一度やってくる、わざうたの一つではないかと思える。

2、一九九〇年には、「おどるポンポコリン」(さくらももこ作詞)について、
あれは湾岸戦争(一九九一)を予言するわざうただったと、
当時、ある大学の紀要に研究論文を発表した人がいた(久冨木原玲さんだ)。

いつだって わすれない
エジソンは えらいひと
そんなの常識 タッタタラリラ

3、周東美材さんの『童謡の近代』(岩波現代全書)の書評会があり、
コメンテーターを私は引き受けたのに、ついに当日までに、
本ができてこないという、とんでもない集まりで、しかたがないから私は、
童謡の本だから、わざうたぐらいは話題に出てくるだろうと、
予言ならぬ予想をつけてハンドアウトを作った。 わざうたのことを、
古代中国でも『日本書紀』でも〈童謡〉と書く。

4、ちなみに周東さんのめずらしい「美材」という名は、
平安時代の文人、小野美材(おののよしき)から付けられたというので、
小野美材のほうならば、まあまあ私なりにコメントできるのにと、
軽い愚痴が残った。

5、で、「おどるポンポコリン」の歌詞のなかに、
湾岸戦争が隠されているかどうか。 つまり わざうたとは何か、
ということだが、歌詞のなかに秘密が隠されているのだろうか。
じつを言うと久冨木原さんが「この歌はわざうただ」と言ったとたんに、
「おどるポンポコリン」がわざうたになる。

6、北原白秋が幼児の歌を集めて、詩の原初性をそこに見いだしたとする論旨には、
大いに共感する。 三歳の子の、

オブダウモ            (お葡萄も)
オヤアスミ グッドナイ      (お寝あすみ グッドナイ)

には、〈葡萄への未練がありそうで、かわゆいと微笑させる〉と、
白秋の言にあるという。 「ルッソオの懺悔録に、〈焼肉さん さようなら〉という、
幼年時代の一齣があって泣かせますが、異巧同曲とでも申しますか」と、
白秋が子供の自然状態をルソーに思い合わせたとする指摘は言い当てているな。

さくらももこさん 哀悼します。

(わざうたがこの世から、いなくなって十年、二十年。どこに消えたのだろう、ポンポコリンはさいごのわざうたでしたね。〈宣伝〉『非戦へ――物語平和論』を長崎のちいさな編集室・水平線から出します。水平線を応援してね。)

だれ、どこ(12)小杉武久(1938年3月24日-2018年10月12日)

高橋悠治

時間はゆっくりとすぎる 音の釣り 音楽のピクニック
時の痩せ馬をせきたてていた世紀の前衛が 向きを変え 時間をかけて
ささやかな音を立てるものたちに聞き入る時が来たのか
ちいさなカードに書いた一つの動詞に 時間をかけて
歩きつづける 上着を脱ぐ 袋に入って 裂け目から手を出す
ピアノに触らず音を出す できるだけおそくSOUTHと言ってみる
south 南へ 時も停まる真昼を指して 
タージマハールへの旅も
まず地球の反対側 ストックホルムからバスで10ヶ月かけて回りこむ
またある時は ヒマラヤに飛んでいった魂を追って 逆方向のアメリカへ旅立つ
道の途中の出会い 時間をかけて
ひろいあつめたちいさなものたち
ちいさなテーブルいっぱいに
ゴム風船から空気を押し出す 焼き鳥の竹串をはじく ビンのフタのコマ回し
紐で吊るした発振器を扇風機で揺らす 自転車を乗りまわす 箒で天井を掃く
砂に埋まった時計 塩が 砂糖が時を刻む
用から解き放たれた日用品の休日
無用の用に 反職人の職人芸

遠く思われたタージマハールへの旅も
たどりついたら終わる
どこにもたどりつかない道があるかな
行先から解き放たれた道の休日
道が道をたのしむ 未知の道すじ
曲がりくねって先が見えない 小径
羊を追って角を曲がれば未知の風景 ますます分かれる枝路
いつかは羊も忘れ 
旅が旅する行商人 停まりながらすすむ
小杉さん また同じことをして
草木は萌え 花開き やがて萎れていくだろう
同じことも同じにならない そこにあるものも
いつか見えなくなり

死神から手紙が来た おまえはもうおしまいだ
ハーメルンの笛吹のようには連れていかない ベッドの脇で待ってもいない
姿を見せず遠くから この電子メールの時代に おそい郵便が届く
気がつくと その手紙さえ見当たらない この状態であと10年生きることが
どうしたらできるだろう
じっと見ていると すこしずつ換わる 時間の風合い
風 波 森