人嫌い

越川道夫

映画監督などという商売をしていて言うのもなんだが、人間があまり好きだとは言えない。もちろん自分も人間の端くれではあるので、自分のことも含めて。子供はまだしも、大人の姿を目の中になるべくなら入れたくない。だから、朝起きて、顔を洗っても、鏡で自分の顔を見ない。もう見ないことが習慣になっているので、わざと避けるのでなく、そもそも見ない。一度も自分の姿を見ない日もあれば、例えば出先のガラスに写る姿を見て初めて、ハハァ、今日オレハコノヨウナ姿ヲシテイルノカ、と思う日もある。毎日自宅を出て、二駅ほど離れたところにある仕事場に歩いていく。コンクリートで固められた川とも言えないような東京の川沿いを歩いていくのだが、その時、もなるべく人間の姿が目に入らないように歩いている。要するに空を見上げているか、それとも下を、地面を見ているか。地面を見ていれば、そこには植物が生えている。道端に、コンクリートやアスファルトの割れ目に。そこし前まで、ナズナが繁茂していたところに、カラスノエンドウが覆い繁って、それもすぐに実をつけて終わるだろう。オオイヌノフグリは、まだ咲いている。虎杖が立ち上がったと思うまもなく、雨のたびにぐんぐんと背を伸ばして、サツキやツツジの生垣を突き抜けている。晩春である。
村田了阿という人の書いた「花鳥日記」を識ったのは、若い頃に偶然読んだ石川淳の短編小説の中だったと思う。「雅歌」だったか。了阿は江戸後期の俳人であり博学多識とあるが、詳しくは知らない。「雅歌」の主人公は、「花鳥日記」のその肉筆の原本を渇望し、その原本が手に入るとしたならば、「ふだんほしくてたまらない金銭も入らず、しゃれた服装もいらず、酒とたばこは…これはちょっとつらいが、ウソをついて、絶対にいらないということにして、まして婦女子ごときもの、櫻子1からnまで全部ひっくるめて、西の海にさらりとして、何もかもなげうって、ただこればかりの、うすっぺらな花鳥日記一冊ととりかえる。」と言う。その「花鳥日記」は、『近世文藝叢書 日記十一』で活字では読むことができるのだが、本文二段組みでわずか4ページほどの日記である。
 
◯正月
四日、朝報春鳥鳴く、
六日、朝またしきりに鳴く、
二十二日、晝過より春雨長のどかに降りて、雪も消えあたたかになりければ、廿四日の朝、比叡のふもと山王下の御寺の竹園にて鶯しきりに鳴く、
 
といった具合であり、「一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、木、蟲などの消息がきはめて清潔にうつされている他には、このみぢかい日記の中には他の何もない。感想とか詠嘆とか、歌とか句とか、よごれっぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたというふようすで、立ちすがた。みごとである。」と石川淳は書いている。
原本が欲しいとは思わないが、わたしもまた『近世文藝叢書 日記十一』のわずか4ページの「花鳥日記」を事あるごとに読み返している。読み返して、「花や鳥が、自然みづからが」書いた文というものを夢想して、ひとり震える。あの大きな地震の後で、わたしは、もう動物や虫、植物か子供のことしか描くものはない、人間のましてや大人のことなど描くことはできない、と真剣に考えていた。それは今もさほど変わっていない。人の色恋沙汰を描きながら、どこかあの路地に溜まる野良猫たちの恋のことを、自分は書いている気がしてならない。
 
それでも買い物をしなければならず、駅前のスーパーに立ち寄る。疫病が流行し、いくつかの店は自治体の要請でシャッターを下ろしている。国家は金勘定はしても、町で暮らすわたしたちと向き合っているとはとても思えない。人の心が次第に荒んでいくのを感じるが、この国の権力を持ったものたちはもともと人の心の荒んだ部分を弄び、心の荒みを糧にして権力の座に居座り続けているように見える。道端で子供に当たった当たらないで親子と犬を連れた初老の男が口論している。思いもかけないような怒号が町中に響き渡る。自分の思ったように進めない自転車の男が、目の前歩く人に罵声を浴びせる。
買い物を終えて、また川の方へ降りると、ギシギシが赤い小さな花をつけている。群れて咲いていたセイヨウタンポポが、全て綿毛を散らしていいる。芽生え、立ち上がり、花をこぼれるまで咲かせて、実をつけ、そして枯れる。白鷺がコンクリートの川底から小さなナマズを捕らえ、食べていた。
 

仙台ネイティブのつぶやき(53)とりとめなく春が過ぎ

西大立目祥子

 世界中が疫病に巻き込まれるなんて。9年前に東日本大震災が起きたとき、おびただしい人が亡くなって、家も町も流されて、もうここまで深刻な災害を体験することは生きている間にはないだろうと思っていたのに。世界中から恐ろしい死者の数が日々伝えられてくる。
 いまもまだ毎日、地元紙の河北新報の1面には、東日本大震災の死者数が掲載されている。「宮城9543人(1217人)、岩手4675人(1112人)、福島1614人(196人)」という具合に。かっこの中は行方不明者だ。
 あのときの体験があるので、何万という人が亡くなったときに一体どういうことが起きるか、少し想像はできる。地元で火葬できない人たちは、山をこえて新潟や山形に運ばれていった。新聞には連日たくさんの死亡広告が載り、そこに見覚えのある名前をみつけることもあった。親しい人を失った人たちは、いま、お別れもできずに悲嘆にくれているだろう。

 仙台は3月のお彼岸くらいまではまだどこか呑気で集まって打ち合わせをしたりしていたのだが、4月に入り繁華街のパブがクラスターになったことがわかると、さすがに緊迫してきた。会議は全部中止になって書面で決済とか、延ばした日程をまた先延ばしにするとか、美術館も図書館も閉館になるとかで外出はめっきり減った。時間はあるはずなのに、なんというのか所在がない。ニュースを眺め、やりかけの仕事やってみるものの進まず、桜を眺めても心踊らず、集中力が全然出ない。

 それなのに、いろんなことが起きた。認知症の母がベッドから落ちてお尻の骨にヒビが入り、介護認定を見直したり部屋の中あちこちに手すりをつけたりでバタバタする。そうこうするうち猫の食欲が落ちてきてまったく食べなくなった。カゴに押し込み病院に連れて行くと、先生が一目見るなり「これはまずい」というではないか。血液検査をしたりレントゲンを撮ったり右往左往する。さらに「今晩預かってもいい」とまでいわれ動揺した。いい猫なのだ。私はこの猫といっしょに母の介護をしていると思っているので、なでるたび「長生きしてよ」と耳元でささやいてきた。戦友が奪われるのは困る。絶対に困る。
 
 幸い、母は回復して痛みを訴えることはなくなり、歩行も以前と同じまではいかないけれど、そろそろと歩けるようになった。つくづく食べてる人は強いと感じる。入れ歯なし91歳の母は、夕食は私と同じ量を食べる。グラタンもミートソースのパスタも食べる。そして、猫も回復した。皿に入れておいたごはんが空になっているのを見つけたときのよろこび。ああ、今日は食べてくれたと感じると、一瞬じぶんの中にも感応するように元気のスピリットがわき起こる。今日食べる力があれば、明日は生きられる。昨日今日食べたものが、翌週の血肉になるというのをリアルに感じる日々だ。

 ほっとしたのもつかの間、頭痛と吐き気で今度はじぶんが起きられなくなった。理由はわかっている。前々日の晩、集中力が出なくてあげられない原稿を無理して徹夜してやっつけたからだ。3年前に手術をして以来、それまでの頑健さはどこへやら、頑張り過ぎると決まってへたって吐いたり下痢したりする。でも深刻なことには至らなくてならなくて、お腹を休めて眠るとすぐ回復する。
 目にした新聞記事に福岡伸一さんがこう書いていた。「病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ」。からだはいったんリセットされて、新たな動的平衡をつくりあげるためにゆらゆら揺れながらいい状態を見つけようとしているんだろうか。いや、これがもう新たな動的平衡なのか。とすれば、まだ頭がついていってない。先行するからだに合わせて、つい頑張っちゃうクセの硬直した頭も揺らさないとだめなんだなあ。

 コロナ後の社会も、新たな動的平衡を求めて揺れることになるのだろう。人と人のかかわり方は変わるだろうか。3日前、初めてズームで打ち合わせのテストを試みた。確かに数人で集まって顔を見ながら話ができるのだから、集まり方を変えるかもしれないけれど、これが「場」になるのかどうか私にはまだわからない。

 ときどき車を走らせる宮城と秋田と山形の県境、鬼首という山間地に暮らす知人が山菜のコゴミを送ってくれた。すり鉢でゴマをすり、アーモンドやクルミを刻み入れてさらにすり、お醤油をちょっとたらしてナッツ和えにしたらおいしかった。春の味だ。ひと畝に何種類もの野菜を育て、こまめに料理をして暮らす知人は、春は決まって近くの禿岳(かむろだけ)に山菜採りに出かけて野性味あふれる味を楽しむ。都市がウィルスに翻弄されていても、山里の春はいつもどおりなのだろう。
 麓に広大な草原が広がり急峻な山道を持つ禿岳を、山登りする人たちは「アルプスのような山」と絶賛する。谷筋には雪が残り、尾根が黄緑色に染まっていく山を、ああ見たい、と思う。でもじぶんが感染源になる恐れがないとはいえないからこの春は無理だなぁと舌打ちしつつあきらめている。ニュースを見ていてもつくづく感染症はすべてが密な都市の病なんだと感じる。

 連休は庭でがまんしよう。でも目を凝らせば、シラネアオイ、イカリ草、二輪草、エビネ、一人静…と、さながら山にいるようにあちこちに山野草が小さな花を咲かせている。父が何年もかけて植え込んだ。絵ばかり描いていた高校の頃、祖父に幽玄な薄紫のシラネアオイを描いてくれといわれ、ものすごく閉口したことがあった。どこが魅力なのかちっともわからなかったから。30歳を迎えた頃だったろうか、楚々とした独特の白い花を咲かせる一人静を愛でる父に「おまえ、可愛いと思わないのか」と真顔で問われ、返答に窮したこともあった。その歳になってもわからなかったのです。いまはわかる。静かで可憐で目を凝らさないと存在を見出せないような花たち。しゃがみこんで向き合えば、その呼吸、命の明滅が胸に響いてくるよう。地べたに目を凝らして、5月。

すべては変わっていく(晩年通信 その10)

室謙二

 晩年通信の原稿が書けそうもない。コロナで鬱なのかもしれない。それで手紙を書くことにしました。
 原稿は、ひとつの作品でしょ。公の要素を持つ。手紙は個人的な通信で、今回はそれでいこう。
 原稿として書こうと思ったのは、鎌倉時代の仏教の天才たちが生きていたら、いまのコロナ騒ぎについて何と言うのだろうか、ということです。それで法然(1133 – 1212)を取りだして、日蓮(1222 – 1282)も、道元(1200 – 1253)も一遍(1239 – 1289)も取り出してきて読んでみた。すぐに気がつくのは、あの時代はいまのコロナと比べもにならないぐらいタイヘンな、ひどい時代だったこと。鴨長明(1155ー1216)の方丈記(1212)には、そのひどさが書かれている。
 まず大火事(1177)があって、京都の三分の一が焼けてしまう。つぎに京都の中心で旋風(1180)が吹いて、街を破壊した。「家の内の資材、数を尽くして空にあり(中略)、もの言ふ声も聞こえず、かの、地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ぼゆる」という次第であった。次に都が移る福原遷都(1180)があり、養和の飢饉(1181)が起こる。
 飢饉の次は地震(1185)が起こる。
 それだけではなく、一二七四年には外国から元が攻めてくる。
 養和の飢饉にについては、特に詳しく方丈記は書いている。
 京都の街の道端で、多くの人が倒れて、餓死している。臭いに満ちている。
 親子・夫婦などでは、「その思いまさりて深きも者、必ず、先立ちて死ぬ」とある。食べ物を、子供なり夫に渡して自分は食べないので、先に餓死してしまう。「さまざまの御祈り始まりて、なべてはならぬ法ども行はるれど」、まったく効果なし。「この世の地獄とでも言うべき」と書いている。

 あの時代の公家の日記などあつめて編集した、百錬抄(十三世紀末に成立)という記録がある。それによれば、嬰児が道路に捨てられ、死骸に満ちている。「夜、強盗、所々放火」、「京中狼藉多」ともある。別の養和二年記には、「天下飢餓す。清水寺の橋の下、二十余ばかりある童、小童をを食う。又、犬たおれるを、又、犬食う」と書かれている。ひどいものだ。(いずれも、講談社学術文庫「方丈記」の解説より。)
 つまりコロナ騒ぎどころの話ではないのである。
 そういう時代に鎌倉仏教の天才たちは生きて、修行して、人々に仏教を教えた。たとえば法然は、四三歳のとき(1175)国家仏教の比叡山を下りて、京都で民衆の仏教である浄土宗を始めるのだが、そこでは前に書いたように大火事(1177)があり、旋風(1180)が吹いて街を破壊、養和の飢饉(1181)、大地震(1185)が起こる。その中で上からの目線ではなくて、地べたからの目線で、民衆の目線で南無阿弥陀仏と浄土を教えた。ナムアミダブツには、そういう悲劇を救う音声が込められている。加藤周一は、「一五〇〇年以上の日本仏教思想史のなかから、もしただ一人の思想家を挙げるとすれば、まず法然を挙げる必要があろう。(「十三世紀の思想」)と書いている。
 
 法然の死んだ年に書かれた「方丈記」に戻れば、鴨長明はその最後の方で突然に(私には突然に、唐突にと思われるのだが)、「それ三界は、こころ一つなり」(我らが生き死にを繰り返す世界は、こころ一つで決まる)と言っている。法然も鴨長明も、南無阿弥陀仏であり西方浄土なのだが、法然にはそこに確信があり、鴨長明には確信はない。「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と書いて、「はたまた、妄信の至りて狂ぜるか」とある。
 そして「その時、心、さらに答ふる事なし。ただ、傍に、舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」(迷った心が高じて、わが修行を狂わせているのか?そう自分にたずねても、心はこたえようとしたない。そこでやっとのこと舌根を動かして、南無阿弥陀仏と念仏を二、三度となえて、終りにしてしまった)
 私たちの多くは、南無阿弥陀仏も西方浄土も「信じて」はいない。南無阿弥陀仏と心の底から唱えることも、「浄土の存在」を認めることもしない。だから法然の確信より、鴨長明の「舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」の方に共感する。
 
 一九六〇年代の終わりに、サンフランシスコ禅センターを始めた鈴木俊隆老師は、一九六八年にカリフォルニアのタサハラ山中で修行中の一人に、「仏教は一言でいえば何なのか?」と聞かれた。白人修行僧たちは、そのあまりにまっすぐな質問にザワザワして、そして笑った人もいたらしい。鈴木老師はあわてずに、”Everytihng changes”と言ってから、「次の質問は?」と、付け加えたらしい。
 仏教を一言で言った、「すべては変わっていく」という言葉と、それ三界はこころ一つなり、は近い言葉のように思える。法然の問答集を読むと、そこには確信はあるが、人々に対応した揺れ動く教えがあるがあり、身動きできない確定した教えはない。Everytihng changesと、それ三界はこころ一つなり、はともに揺れ動く教えである。
 手紙のつもりで書こうと思ったけど、なんだか「作品」みたいになったかな。

追記1 一遍聖絵と踊り念仏のことを書くつもりだったが、そこまで行かなかった。一遍なら、コロナについてなんと言うか?ただ南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うだろうが。

追記2 一遍のことを読み直したのは、柳宗悦「南無阿弥陀仏」を本棚に見つけたから。一遍のことを書いている。これは父親の本で、あちこちに英語の書き込みがある。この本の柳の文体は、美しい口語文体ですね。

追伸3 法然は面白い。だけど私は道元の学生で、南無阿弥陀仏とは唱えないで、座禅をする。道元は南無阿弥陀仏の合唱を、田んぼのカエルがガーガー鳴くようでうるさい、とからかっている。

追伸4 コロナに引きずられて、真面目すぎる文章になった。次回はもっと愉快なものを書くぞ。

シーグラス

イリナ・グリゴレ

ある日、家の前に植えた小さな梅の木の花が満開になっていた。わずかな梅の香りが二階の窓から家に入ってきて、繊細な空間を生み出した。梅の木はあまりにもちいさくて、木と言いえないぐらいミクロな世界の矢印のようにしか見えなかった。これでも夏になると20個の梅が実る。私はその小さな梅を梅干しにする。

梅はすごくデリケートだといつも思う。梅を干すというのはすごく手間がかかる。カビだらけならないように、天気のいい日だけ外に出す。梅を干す時期には私もすごく天気や湿度に敏感になって、梅が生まれ変わるまでの時間を儀礼的な繰り返しの動作で見守る。

春の晴れた日、毎日のように子供たちを車に乗せる動作は、日差しの差し方に関係するのかもしれないが、スローモーションのように感じる。梅の香りのせいでもある。この香りは私の脳に0.2秒で届くらしい。車のドアで小さな梅の木を倒しそうになった。

梅の木を近くで見るとミツバチが花の近くに飛んでいる。そうしてこのミツバチのバイブレーションだけが聞こえてくる、リピートで。頭の中で場所と時間が変わる。子供の時がフラッシュバックで蘇る。私は祖父母の家にいる。毎年、春になると祖父と村から町に出かけ、市場でチューリップとヒャシンスのブーケを売った。この手伝いは私のお気にいりだった。家の前の庭と葡萄畑の中には何百本もの鮮やかな色のチューリップと、ピンクと青色のヒャシンスがあった。この花をブーケにする動作をいまも思い出す。

春の夕焼けの時、家族全員で集まってたくさんの花束を作る。ヒャシンスの肉々しい感触がいまでも手に残っている。香りは光のスピードで家に広がる。ブーケを作りながら祖父は幼い頃、修道院の近くに住んでいた時のことを話したり、教会でお手伝いしていた時、若かった頃の馬と森の話をしたり、時間はあっという間にすぎた。いまでも祖父母の声をもう一度聞きたい。特別な機械で録音したい。その声の内面まで、魂の奥まで録音したい。祖父は機械を作ることが好きだった。不思議な自転車を作っていたことを覚えている。森から薪を運ぶ自転車だった。

あのときは、祖父母の声を残すことを考えていなかったが、今はできれば特別な装置で再生したい。最近気づいたのだが、私は人の声に非常に敏感だ。娘が色に敏感なのと同じく、私は音それ自体ではなく、人の声に敏感だと分かった。心臓の音と同じ。声は人によって全然違うので、声というのは各人に限る音になる。その声は私の身体に響くので、人によって私の身体に毎回違う反応が起こることに気づいた。

話の内容より、私は声に夢中になるときがある。トランス状態のような現象で、不思議にその時は様々なイメージの連続が起きる。例えば、今、こうして書いているときに祖父の声を頭で再生すると、スクリーンショットの連続のようなものが出てくる。ものすごいスピードで。この間見た夢の中では、祖父母のもう一つの庭でスズランの花を見ていた。夜中に私は暗みの中でスズランの白い花を見ていた。あの庭にはスズランがたくさんあったのに、夢の中ではスズランが減っていた。葉っぱをよけて白い花を一生懸命探していた。

そういえば、あの庭には土で作った小さな小屋があって、そこで祖父は昼寝をしたとき不思議な夢を見たと言った。祖父の夢の中では、地獄の入り口で行列を作る男たちがいた。彼らは制服を着て、おでこに数字が書かれていた。祖父もその一人だったが、誰かが祖父を行列から引っ張っていき、おでこに書いてあった数字をさして「まだ、あなたの番ではない」と言ったという。この夢はとても怖かったと祖父は言った。子供の私にはこの夢の雰囲気は骨まで伝わった。当時、ロマの女の子の友達が、私たちを狙う悪魔がいると教えてくれた。世界の終わりのことも子供たちで毎日のように話して想像をふくらませて、その日のための準備をしていた。家から隠してもってきたカーペットなどでテントを作って避難の準備もしていた。畑からトマト、ピーマン、キュウリを取ってきて待っていた。結局、持って来たものを食べて夕方には家に帰ったが、繰り返し何日もこの行動を行って、世界の終わりを待っていた。

カルロス・レイガダス監督の映画『闇のあとの光』にあるように、突然、家に赤い悪魔が歩いてくるシーンは印象深い。村の子供たちはみんな知っていた。私もある日、夕方に畑から一人で家に入ったら鏡にあの姿が映った。赤くなかったけど、今でも身体が震えるぐらい恐ろしかった。

前の日に見た夢の中では、どこかで見たことのある若い金髪の男の子が何もない道で新聞を売っていた。素敵な笑顔で私に近づいて「ジュースください」と可愛い声で言った。この男の子に会うのは初めてではない気がした。この声は知っていると思ったが、思い出せない。誰の声だったのか。子供のときの祖父の声だったのか。父は私たち家族を守る聖人、ルーシのジョンだったのではないかと言った。そのあと、私は地下室(ルーマニアではワインと自家製の瓶詰などを保存するため農家に必ず地下室がある)のようなところに入って、スイカと葡萄が並んだテーブルからおいしそうなスイカと葡萄を選んだ。

梅の木のその日に戻ると、なぜ祖父母の家を思い出したのか分かった。祖父母の家と庭が生まれ変わったからだ。あそこで今はハチミツが採れる。ミツバチを飼い始めて、あの庭と近くの森と畑から蜜が運ばれて甘いハチミツができる。こうやって見ると、場所の命の反復力はすごい。遠く離れた今も、私は自分が育った家、村、庭の蜜、あの場所を食べている。繰り返し私の身体の一部になっている。世界の肉がミツバチのおかげで、私の肉になっている。

今はジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。イントロダクションにこう書いてあった。「反復することは何らかのやり方で振舞うことである。しかし、何かユニークな特別な何かに置き換えられない関係の中で繰り返される。」また「そして、そのような外的行動としての反復は、それはそれでまた、秘めやかなバイブレーション、すなわちその反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」。

この「内的でより深い反復」に注目したい。誰もいない公園で娘たちと遊んでいるときに、アザミの若いツルツルの葉っぱに水玉が溜まっていてキラキラしていた。娘は繰り返し水玉を指でつぶして喜んだ。この「外的な行動」は彼女とそれを見ている私に、桜が咲いている誰もいない公園という場所に繊細なバイブレーションを与え、内的な反復が生まれた。彼女の水玉を「初めてを見る」、「触る」体験、その瞬間は永遠に反復される。

私は、自分のふるまいによって、内的に、幼い時に暮らした家、背景、そのとき出会った人々の暮らしを永遠に繰り返し再現しようとしている。

この晴れた日は私の誕生日だった。保育園からの帰り道、カーラジオからプッチーニの「ある晴れた日に」が流れてきた。初めて聞くわけではないのに、はじめて聞いた気がした。ソプラノの声は非常に苦労した声のように感じて、美しかった。

後日、子供たちと日本海に行き、たくさんのシーグラスをひたすら夢中で拾った。石ころの間に小さな、ユニークな、青い、緑、ピンクのガラスのかけらを見つけて喜びを感じた。私たちの命もこの小さなシーグラスのように繰り返し現れるだろう。

ルーマニアのハチドリそっくりな蛾 花の蜜を食べている

天球のなかで

璃葉

世界のうごきによって、気づけば前の生活に戻ることができなくなっていた。とにかく今はひとり部屋にこもって、ひたすら鉛筆で落書きをし続けている。この奇妙な暮らしのなかで、とにかく自分を安心させてくれるのは身のまわりの物と、電話越しに聞く友人の声。
机の下にゴミのように転がっていたメモを見て、改めてそう思った。なぜこれを書いたのかは忘れた。でもこの単語を見るとなんだかとてもときめくのだった。

本 裏紙 ノート ペン 鉛筆 PC 女友達との電話
コーヒー タバコ ビール おいしいウイスキー 

部屋に閉じこもって何日経ったか。鬱々するどころか、最近はご飯もどんどん美味しく感じられる。
散歩がてら食料を買いにいくのも。
時間を忘れて本を読みふけるのも。
夕暮れの星と月をみる楽しさも、どんどん研ぎ澄まされていく。
体内のどこかで、仄かに光が灯ってくれている。

NASAの運営する「Astronomy Picture of the Day」というwebサイトには、毎日何かしらの天体写真や動画がアップされる。ある日更新されていたのは、世界各地の星の動きを定点カメラで、早回しで見せる動画だった。ピピピと輝く無数の星が、山脈や光る街の後ろで一定の方向にぐんぐんと上がって沈んでいくのを、何度も繰り返し再生しては凝視する。このような動画は腐るほど見てきたはずなのに、目が離せなかった。
現実の空の動きはあまりにも緩やかで星も見えにくく、自分が立っている場所がじつはまわっていることも、そこにある空が無限の宇宙の窓であることも忘れてしまっている。そういえば私は、元素が集まったとてつもなく不安定な球体に、奇跡的に生きている。

アジアのごはん(102)おから三昧

森下ヒバリ

さて、緊急事態宣言下、外出自粛生活もひと月にならんとする今日この頃、皆さまいかがおすごしでしょうか。ワタクシは3月にインドからタイに移動してからは、バンコクでもSTAY HOME状態だったので、3月末に日本に戻ってからと合わせてほぼ2か月STAY HOME状態が続いております。

う〜ん、飽きてきた・・。

しかし、ウイルス感染が蔓延しては困るので、なんとかやり過ごさなくてはならない。まあ、いつも日本ではけっこう引きこもりなので、家にいるのは構わないのだが、問題は同居人だ。うちの同居人はミュージシャンで、3月末からライブがほぼ中止になり、ずっと家にいる。いままではだいたい金土日月はライブで不在だったので、これは厳しい。食事作りがヒバリの担当のため、毎日毎日2回(うちは朝食は食べない)食事を作るのである。(一人の時は適当)

え、ワタシ以前から毎日3食作っていますが?・・という方にはスイマセン。とにかく料理の回数が普段の2倍になったのである。そこで、作り置き副菜おかずをまとめて多めに作っておくようにしてみた。切干大根と糸こんにゃくの煮物とか高野豆腐の煮物とか、たけのこの煮物とかだ。3〜4日は副菜を一品作らなくて済む。

そして今日はちょっと暑かったので、さっぱりとしたおからの酢の物を作ってみた。

おからはふつうに炊いてもおいしいけれど、目先を変えて酢の物もいいのですよ。これは京都のおばんざいのひとつだろう。いいおからを使えば、炒る必要もなく、とても簡単だ。

材料は何でもいいが、今ならきゅうりの薄切り、新玉ネギの薄切り、あればきくらげ、にんじんも。薬味にシソやみょうが、ショウガを加えるとさらにいい。ワカメもおいしい。野菜は塩で揉んでおいて、そこにおからを加える。米酢かりんご酢、しょうゆ、塩などで味をつけて和える。ちょっとだけみりんを入れても。

出来上がりのイメージは、おからの炊いたものよりは具材が多く、ほんの少し水っぽいぐらい。べちゃべちゃしてはいけない。しっとり、です。茶色くなると見た目が悪いので、出来るだけ薄口しょうゆか白醤油を。そして、これにしめ鯖の薄切りやアジの酢じめなどを混ぜ込むとごちそうになる。かまぼこやカニかまでもいける。野菜や海草だけの精進でもおいしい。ちょっと冷やしてどうぞ。

おからは基本火が通った状態で市販されているので、酢の物の場合は炒る必要なしで、火を使わずさっと作れる。あ、さっき出雲から届いたたけのこ、薄切りにしていれてみようっと。豆のピクルスや茹で枝豆も合う。

おからは食物繊維のかたまりである。免疫力をあげるには食物繊維をたくさん食べて、腸内細菌を元気にすることが重要だ。発酵食品も重要だが、もっと大事なのが、腸内細菌のエサである食物繊維なのである。「腸内細菌がよろこぶエサをあげる」ことを食事作りの時に忘れてはいけない。毎日ささっとおいしい食物繊維たっぷりのおかずを作って、ウイルスに負けない体を作りましょう。薬は治してくれないよ。

新しい生活

笠井瑞丈

緊急事態宣言
家を出ることのない生活
毎日をチャボのマギちゃんゴマちゃん
なおかさんとの四人の生活
ほとんどあまり人と会わず
たまに行うzoomミーティング

チャボのマギちゃんゴマちゃん
うちにきてもう少しで一年
今はもう完璧に家族の一員

ゲージは置いてはあるものの
ほぼ放し飼いで
いつも部屋を歩き回っている

最初うちに来た時は怖くて
ゲージから出てこれなかったのに
今となっては我が物顔で部屋を徘徊している
ちょっとでもゲージに閉じ込めようものなら
「出せ!出せ!出せ!出せ!!!!!」と
言わんばかりに叫び続ける

テレビの裏の隙間が
今は彼女たちの寝床

夜になるとぴょんとそこに登って
朝になるとぴょんとそこから降りる

降りると必ず枕元でおまんじゅうみたいな形になって
顔をカラダの中にねじ込んで残りの睡眠を続ける

一日おきに卵を産む
一日おきに体の中で
殻を作り
卵を作る

卵を産む時もテレビの隙間に登り
じっとそこで生まれる瞬間を待つ

その瞬間を眺める

生命の力を感じる瞬間
モノを生み出す力瞬間

神聖な時間

ちょっとした事にすぐ怯え
すぐ慌てて逃げだすチャボ

臆病なのに強く生きている姿が
けなげでとても可愛らしく思う

チャボにありがとうと言う

そんな変わらない毎日をチャボと過ごす
世の中はコロナ問題で日々変化している

いまはチャボさんと過ごす平凡な時間がとても愛おしく思う

早く収まる事祈るばかり

編み狂う(7)

斎藤真理子

私が編み物を何のためにしているかというと。
一応、着られるものを編んではいるが、それが目的ではない。この「編み狂う」を書きはじめたとき、「編んでいるその瞬間がいいから編み物をしている」と書いた。それも本当だが、それが目的かというとまた違う。

目的というものはたいがい単線ではなく、複線だし、もっといえば四車線道路みたいなもので、上り下りが同時に動くから、上りと下りで打ち消しあって結果がどうなっているのかよくわからない。要は、「何のために何をやっているのか」がわからず、忙しくしているうちに何十年も経つ。そういうことがよくある。

子供のころ、縄文土器が好きだった。
博物館に行くと飾ってあるやつではなく、そのへんの田んぼに転がっている破片に夢中になった。わが家の近所には昔、人がいっぱい住んでいたらしく、場所を狙い定めて行けば土器片はわりと容易に拾えた。

それらは、「自分は別にここにいたいわけでもないが、いたくないわけでもなく、この四、五千年はここにいるだけだが、お前が拾いたいなら拾え、嬉しくもないが悲しくもない」という風情で、平気で私に拾われていた。縒った植物の繊維や貝殻の縁、竹の断面などで模様をつけた厚手の焼き物の破片で、宝ということばをあてがうのもためらわれるほど、とくべつであったね。平たい菓子の箱に並べてずいぶん大事にしていたが、今は一かけも残っていない。縄文のゴミ捨て場から私を経由して、いつの間にか昭和のゴミ箱に行ったのだろうが。

その延長で大学は考古学科に入った。ところが、いくらでも土器に触れるようになったら、別に嬉しくもないのだった。しばらく発掘の手伝いにも行っていたがやめてしまい、ただの、だらだらした学生になった。

1990年代になって、廃墟マニアと分類されるような人たちが登場し、彼らが作った写真集が出はじめたとき、自分はこっちだったとようやく気づいた。そういえば縄文土器だけではなく、江戸時代の墓も、朽ち果てそうなお堂も、廃工場跡も好きだった。いちばん好きだったのは筑豊の炭鉱のホッパー跡だし。

そもそも、考古学が気になりだしたいちばんの大元を思い出してみたら、子供のときに読んだ、トロイアを発掘したシュリーマンの伝記だった。しかも私が気に入ったのは、シュリーマンがやった発掘調査や研究ではなく、冒頭に書かれた、きわめて情緒的なトロイア戦争の描写であった。負けたトロイアの都に火が放たれ、誰か(たぶん、アイネイアスという人)が父親をおぶい、幼い息子の手を引いて燃えさかる門をくぐるや否や、門はその背後で轟音を立てて崩れ落ちる……焼け跡と化したトロイア……長い歳月を経てそこには塵が積もり、土に埋もれ、忘れられ、何も知らない牧童が風に吹かれて笛を吹いている……みたいな(そういう挿画が入っていたと思う)。

私は自分が、モノそれ自体に語らせるという、学問の手法としての考古学に惹かれたと勘違いしていた。蒐集癖もあったので、それが縄文土器に結びついたのかとも思っていた。だが、総合してみるとただの「プチ諸行無常」好きだったことが、判明した。

要は、つわものでも、たわけものでも、何ものでもいいのだが、「これ、夢の跡なんじゃないの」と思われるものを見つけるとうっとりするという、それだけなのである。

今は旅行に行けないので、ウォーキングの途中にこっそり廃屋を見ているが、それで十分だ。
近所の空き家で十分なのに大学の考古学科まで行ったのは、相当に無駄と思えるが、「自分は何のために何をやっているのか」がわからなかったのだから仕方がない。

では翻って、廃屋を見て満足するのはいったい、何のために何をやってることになるのだろうか。

最近、それはイメージトレーニングだということがわかってきた。滅びるレッスンの一環である。滅びる途中のものを見て、それが消えたときのことをイメージし、「消えても大丈夫」→「私がいなくなっても(地球が)あるから大丈夫」と連想を広げていくトレーニング。どうも、イメトレの方が無駄にスケールが大きすぎ、実技に役に立たない気がするが、これもまたしょうがない。

そして、さらに話を戻すと、編み物も同じだ。
韓国語には「時間を過ごす」というときに使う지내다(チネダ)という動詞と、「時間を送る」というときに使う보내다(ポネダ)という動詞がある。この使い分けは日本語とよく似ている。例えば日本語で「いかがお過ごしでしたか」とは言うけれど、「いかがお送りでしたか」とは言わない。「チネダ」と「ポネダ」の使い分けもこれとほとんど同じなので、ちょっと驚いてしまう。

だが、「ポネダ」の方には、日本語の「送る」とは違うニュアンスがある。この言葉は日本語の「送る」と同様、荷物や手紙、視線や賞賛を「送る」ときにも使われるが、人間を目的語として使うと、人をどこかへ送り出す・派遣する・結婚させたり海外留学に行かせる、またはもっと遠くに行かせる(=死に別れる)を意味する場合もある。字面でいえば「遣(や)る」というニュアンスに近いかもしれない。

そして編み物は、時間を「ポネダ」する行為なのである。
これもまた1回目に書いたことだが、「時間はなぜ私と相談もせずにかくもすばやく去るのであるか」というのが、私の憤慨のもとなので、それが積もり積もってくると、時間が去るのをただ見ているのが嫌になり、逆ギレして、いっそ自分も加担した方がましだと思いはじめる。

時間の背中に両手を当て、力をこめて、ぐいぐい押す。
「ああもう、そんなことならばいっそ、早く行って仕舞へ」
みたいになる。編み物はそこに油を注ぐ行為。
限られた自分だけの時間を、自分の裁量(自分の編み針)で、前のめりに押す。

この情緒は確かに「プチ諸行無常」の一部ではあるが、百人一首でいえば「花よりほかに知る人もなし」とか、「あはれ今年の秋もいぬめり」的な寂しさ・はかなさでなく、「はげしかれとは祈らぬものを」とか、「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」とか、「むべ山風を嵐といふらむ」的な、やかましく、逆上しがちな、無駄な動きの多い情緒だと思う。

そのようにして、加速度をつけて編み狂っていると、次第に
「盛大に行けばよい。私のことは考えなくてよい。すまぬなどと思うな、行くがよい!」
みたいな、大仰な身振りになってきて、さらに力が入る……編み針が早くなる。

放っておいても過ぎ去るはずの時間に、わざわざ体当たりして、「ポネダ」する。
うららかに流れる時に、何もかも飲み込んでくださるという悠久の時にむかってわざわざ突撃して、「ポネダ」するんですよ、編み針という槍をふりかざして……ばかではないのか……しかし、そうやって貴重なはずの時間をがんがん蕩尽することは、自分の意思で時間を制御しているという歪んだ自負に通じ、「私は時間を惜しんではいない、滅びることを意に介していませんよ」というジェスチャーに通じ、脳内麻薬がどんどん分泌される。イメトレが現実を凌駕する。

本来、すきま時間に畑のすきまでハーブを栽培するようなことが、いつのまにか焼畑農業になっている。

こういうときの編み物はたいへん暴力的なのだ。そして、暴力が通過した後は、編みあがったものも、編んだ私もどうせ滅びるので、どうでもよく、縄文土器の破片なみに畑に転がっている感じ、つまり私の編み物の目的は畑に転がって無になることらしい。ついでに言うと私が好んで編む編み地は、ぼこぼこしていて、立体感があり、縄文土器のテクスチャーに何となく似ています。

韓国映画を観ていると、暴力的に編み物をする女性がときどき出てくる。例の『パラサイト』の冒頭でも、母親がかぎ針でコースターみたいなものを編んでいた(内職かもしれない)。情緒もへったくれもない編み方で、親近感が湧いた。あの人も多分、家族を含む他人によって規定された時間の枠内で生きてきて、編み針で操作している時間だけが、自分のものといえる時間なのかもしれないと思った。

非常事態宣言の夜

植松眞人

 オリンピックイヤーを迎え、安倍晋三は華々しく有終の美を飾るはずだった。しかし、二〇二〇年は前年からの不穏な未知のウイルスの世界的な蔓延によってオリンピックどころではなくなってしまった。

ロックダウンはしない。
外出、通勤の自粛を国民にお願いする。
効果があると言われ始めているアビガンという薬を早急に用意する。
PCR検査を二万件にまで増やす。
各家庭に何度でも洗って使用できる布製のマスクを二枚ずつ配布する。

 テレビの前で身構えながら、じっと安倍晋三の言葉を聞いていた美樹は「布製のマスクを二枚ずつ」というところでスッと力が抜けていくのを感じた。結局、この国難もこの首相にとってはスタンドプレイのネタでしかないのだということがよくわかったからだ。
 ここしばらく、中国武漢から始まった未知のウイルスが静かに広がっているという状況を知っておこうとテレビのニュースを見る時間が増えた。そんな中で、手洗いとマスクが最も有効だと聞かされながら、どこへ行ってもマスクが手に入れられない苛立ちを感じていた。しかも、それを甲高い声で叫ぶようにアピールする安倍晋三は、自らマスクなどしていない。そのことに強い違和感を抱いていたのである。
 しかし、数日前から急に安倍晋三がマスクをするようになり、美樹の違和感はさらに高まった。それて、いまテレビの中の安倍晋三が「布製のマスクを各家庭に二枚ずつ配る」という声を聞いて、ふいに「あれが配られるのか」と息が詰まってしまったのである。
 一国のトップのあごまで覆うことができないような無様なマスクを私たちに配ろうと言うのか。そして、一度決めたら勇気ある撤退など考えもしない安倍晋三はどんなことがあろうと、いかにもこの小さそうな、そして、洗えばすぐに縮んでしまいそうなマスクを送ってくるのだろう。
 生活が苦しい中で実施された消費税の増税や、勤めていた小さな会社の社長を苦しめる税務署の対応や、どう考えても弱い者いじめにしか見えない法改正など、これまでにも何度もこの国やこの国のトップを恨んだり嫉んだりしたことはあった。
 でも、と美樹は思うのだった。安倍晋三の顔も覆えないほど小さなマスクをこの国は私たちに配ろうというのだ、と。しかも、家族の人数分ではなく、何人家族であろうとたった二枚だけを。
 美樹はテレビを消し、玄関脇に届いていた宅配の小さい箱を手にしてテレビの前に戻ってきた。東京で一人暮らしをする娘を心配して、母が送ってきたものだった。電話では聞いていたが、箱の中身は何枚かの布とゴム紐が入っていて、その他に電話では聞いていなかったレトルトのご飯とカレーが入っていた。
 布とゴム紐はジプロックに入れられていて、開けるとほんのりアルコール消毒の臭いがした。ジプロックの中にはメモが入っていて、そこにはマスクを手作りする方法が書かれていた。美樹はさっそく母が送ってくれた布を手に取り、マスクを作る準備を始めた。自分の裁縫道具も用意して、まず布を一枚、自分の口元に当ててみた。安倍晋三のマスクよりも一回り大きなマスクになるように、母が裁断してくれていた。美樹はその布を二枚重ねにして、まずは上下を縫い合わせようと考えた。上を縫ったあと、今度は下の方の布をほんの少し折り込んでサイズを調整する。その時、美樹は一度折り込んだ布を改めて広げてみた。そして、さっきよりも大きく折り込んで、自分の口元へと当ててみたのだった。
 美樹の口元の布は少し小さく、美樹のあごが丸見えになっていた。ちょうど、安倍晋三がしていた小さな布製のマスクくらいに。同時に美樹は思ったのだ。もしかしたら、安倍晋三よりも大きなマスクをしてはいけないのではないかと。安倍晋三のマスクよりも大きなマスクをする国民など、いてはいけないのではないか。美樹はふいにそう思い手が止まってしまった。
 もちろん、東京都知事だって安倍晋三よりも大きなマスクをしているのだから、作ったところで罰せられることはないだろうが、そんなことよりも、作ろうだなんてことは思ってはいけないのだと美樹は思ったのだった。その時、美樹が思い浮かべていたのは、安倍晋三の顔ではなく、大学入学のために上京し、バイト先で知り合い、すぐに付き合い出した隆史のことだった。
 二人はとても仲が良かった。周囲の誰もが美樹は隆史と結婚するものだと思っていた。美樹自身もそう思っていたのだが、付き合い始めて七年ほど、働き始めて三年ほどしたある日、二人の気持ちは離れた。大きなきっかけがあったわけではない。その日、ひどい風邪を引いていた美樹は、マスクをしていた。マスクをしたまま隆史の心ない言葉を聞き、美樹は美樹で心にもない言葉を返して、二人の関係は終わった。
 美樹は母が送ってきた布を口元に当てたまま、身体の中から力が抜けていくのを感じた。力が抜けていくのを感じながら、美樹は安倍晋三のマスクよりも一回り小さなマスクを縫い始めた。縫い始めた瞬間、美樹は何もかも忘れて、マスクを繕うことに集中した。ものの数分でマスクは出来上がった。
 美樹はしばらく出来上がったマスクを手にしたままじっとしていたのだが、やがて和ばさみを手にすると、糸を切り、マスクをほどき始めた。そして、最初に母が採寸していた通りのサイズで、マスクを縫い直し始めた。(了)

シリアのコロナ事情

さとうまき

なぜシリアは新型コロナウィルス感染者が少ないのだろう。

新型コロナウィルスの感染が広がっている。日本でも4月6日に緊急事態宣言が出され、なかなか外出ができない状況だ。わが国際協力チームBEKOがシリア支援の活動を本格的に開始したところでイベントも中止。窮地に立たされている。

当のシリア国内はどうかというと、今のところコロナの感染者が43人しか出ていない。激しい内戦を続けてきて、病院も破壊され、医者も国外へ逃げてしまった。しかも戦闘はまだ続いている。こんな状況で、感染症が抑えられるのか不思議だ。

そこで、まず考えられるのが、
1)アサド政権はコロナの患者数を隠蔽している?
反体制系サイトのサウト・アースィマは3月28日、シリア軍の兵士40人が新型コロナウィルスに感染し、ダマスカス郊外の国立病院に搬送・隔離されていると伝えた。また、シリア人権監視団は29日、信頼できる複数の医療筋の情報として、新型コロナウィルスへの感染を疑われて隔離されている患者の数が260人以上に達していると発表した。
ただ、このシリア人権監視団も、安田純平氏が解放された際に、「カタールが身代金を払った」と不確かな情報を平気で発表する傾向がある団体なので、当てにならないのだが。イラクもシリア政府を非難している。イラクのカルバラー県のナズィーフ・ハッタービー知事はビデオ声明を出し、「カルバラー県は、11人の新型コロナウィルス感染者を確認している…。そのほとんどがシリアからの帰国者だ」と発表したうえで、「シリア政府と医療当局が正確な情報を与えてくれていない」と非難した。(イラクは、2,003人が感染して死亡者数92人)

2)きちんと検査ができていない。
先に述べたように内戦で医療崩壊してしまっているから検査がきちんとできるとは思えない。つまりちゃんと検査すればもっと感染者は増える。(これは日本と同じか?)

3)人の出入りが少ない。
シリアに行き来する人の数が圧倒的に少ない。日本の外務省は2012年から退避勧告を出し続けていた。

4)結構対策が早かった。
日本が非常事態宣言が出たのが4月6日。シリアは、3月22日に初めて新型コロナウィルス感染者がでると3月25日からロックダウンを宣言。功を奏しているのかもしれない。

分断されたシリア、コロナ対策で一つになれるのか? 今のシリアは、アサド政権が支配する地域と、北東シリア(クルド自治区)、そして北西部のイドリブ県(トルコが支援)に分かれている。イドリブでは今年1月からロシアの支援を受けたシリア政府軍と、トルコの支援を受けた反体制派が激しい戦闘を繰り広げ52万人ほどが国内避難民になっている。3月6日にはロシアとトルコで停戦合意が結ばれた。現在は、落ち着いており、トルコ政府系のサイトでは、18万5000人の民間人が帰還したと発表。アジアプレスの玉本英子さんは、イドリブ在住で市民記者としてアラブメディアに現地の状況を伝えてきたアル・アスマール氏のコメントを掲載している。
「各国で新型コロナ問題に関心が注がれるタイミングを利用して、アサド政権が非道な攻撃をするかもしれません。私たちは、新型コロナに加え、いつ空爆や砲撃の犠牲になるかわからない不安な毎日を送っているのです。この現実も知ってください」

イドリブの人たちの憎しみは強い。イドリブでは、反体制派のホワイトヘルメットが「国民対応チーム」を作り、トルコのガジアンテップ市にあるWHOの監督のもと、さまざまな感染防止にあたっているという。しかし、反体制派でも、イスラーム主義者を掲げるシャーム解放機構(アル・カーエダ系)は、ラマダーン月にモスクでの礼拝をおこなっており、密集を避けよという指導も届かない。トルコも、感染者が12万人に達し、シリア人の患者を受け入れる余裕はないようだ。

アレッポのアハマッドさんは、赤新月社で働いている。かつて日本語を勉強したことがあり、流ちょうに話す。
「難民が家に帰り、協力して家や都市を再建したいです。再び美しくなったシリアの景色を、日本をはじめ外国人観光客と楽しみことができる日が待ち遠しいです。」という。

ある日、赤新月社を頼って、小児がんの患者2人の家族が訪ねてきた。貧しくて病院に通うお金がないという。特にコロナ危機で交通費が値上がりしているというのだ。また、本来は治療費はかからないのに病院に薬がないと、自腹を切らなければいけない。この2人の子どもをとりあえず支援してほしいと持ち掛けられた。

がんの子どもたちは免疫力が弱く、感染症にやられやすい。がんの子どもを治療する病院は限られていて、政府とか反体制派とか言っている場合ではない。みんなで助け合わないと命が危ない。彼らに協力しようとクラウドファンディングを立ち上げた矢先に日本の方が大変なことになり、マスクはないわ、トイレットペーパーまでなくなるわで、ピリピリした空気が流れる中、シリアを支援しようとはなかなか大きな声で言えなかったが、チームの大学生4人組が奮闘してくれている。若い力に背中を押される。
https://readyfor.jp/projects/teambeko-japansyria

僕たちの世代は、本当にコロナのせいで明日食っていけるかわからない。僕も含めてだが、最近仕事を失った連中が多いのだ。コンサートが流れたり、イベントもできず、あとどれくらい生きていけるんだろう、みたいに考えて過ごしている。夫に先立たれ一人暮らしをしている同級生がいて、ちょっと心配になって電話してみた。すると、けらけら笑いだす。どうしたのって聞くと、「コロナで株が動くのよ! ここで儲けなきゃ。私は勝負が大好きなの!」という。なんとポジティブなんだろう。「で、その儲かったお金はどうするの?」「贅沢することで自分は輝けるのよ。信じるものはお金よ。」貧困がつらいというよりも、このギャップがとてもつらくなってきた。

ラマダーン月は、昼間は空腹に耐え、貧しい人のことを考える、そしてコーランを読み、善であろうとする。もしかしたら、コロナは、私たちにとってのラマダーンなのかもしれない。でも経典がないから、変な方向に走っていく人もいる。コロナが去った後は何が残るんだろうなあ。

コロナ アモックにならないように…

冨岡三智

先月、非常勤講師先の大学の3/31時点での状況を書いたけれど、4/7緊急事態宣言が発令されることになったので、4/3頃にすでに状況は一変した。4月2週目から対面授業を開講するとしていた大学も急遽オンライン授業に変更し、けっきょく本日4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった。仕事上の課題はあるにしても、実はわりと落ち着いている。家にこもるのが好きで仕事も一応あるからだが、物理的危害が加えられそうな不安はまだない…という理由が大きい。

最初のインドネシア留学時に、通貨危機(1997年)をきっかけにルピアが下落し、逆に物価が高騰して生活物資が不足し、暴動からスハルト大統領退陣(1998年5月)に至る直前までの状況を経験したから、あの当時の状況よりはマシである。研究者の調査報告を読んでいると、当時の買い溜めパニックは相対的に富裕層の高級スーパーにおける買い溜めが引き金となって伝統市場などに波及していったようだ。当時、特に不足が叫ばれていた代表格が食用油と砂糖だった。これは揚げ物が多い食事にたっぷり砂糖を入れたお茶を飲む南国ならではの状況だったろう。教会やモスク、王宮などが油や砂糖を買い付けて配給していたことを覚えている。

当時私がよく買い物していたマタハリ・デパートでは値札が頻繁に差し替えられ、そのうち値上がりに追いつかなくなって手書きになり、私が帰国する直前(5月上旬)に値札が一斉に棚から消えた。つまり時価になったのだ。そして、売り場の棚の所々にバーコードリーダーが置かれ、自分で値段を読み取るようになっていた。(余談だが、当時のマタハリには最新の富士通のPOSレジが導入され、バーコードリーダーで値札を読み取るようになっていた。)この、値札が消えた時の衝撃が忘れられない。同日午後に友人がマタハリに行った時には、すでに閉まっていたらしい。そして、私の帰国後にマタハリは放火されてしまった。

現在の日本でもマスクなどの高額販売や転売が問題になっているが、貧富の差が激しかったインドネシアでは物価上昇を狙って売り惜しみをしていると思われる店や、政府と癒着する富裕層への怨嗟が増していった。マタハリの実情は知らないが、大手のショッピングセンターや日本車などのショールームなどがそのために焼き討ちの対象になり、富裕層と目される華人に矛先が向かった。私たち日本人留学生の顔も、インドネシア人から見れば華人と区別がつき難いから狙われるかもしれない…という恐怖を、あの頃は本当に感じていた。自分の借りている家に「ここは日本人の家です」とペンキで書いた方がいいかもしれないと、留学生同士でしたくらいだ。今、自粛しない店への嫌がらせが一部で起きている。インドネシアには圧倒的な貧富の差と30年に渡るスハルト強権政治に対する反動があり、現在の日本ではあそこまでアモックにはなるまいと信じている。アモックamokはインドネシア語(マレー語)から英語に取り入れられた単語の1つだ。理性を失って荒れ狂った様を言う。1998年の暴動~政変の間によく使われた。最近、ふと当時のことを思い出す…。

窗のない夢

北村周一

ひき籠るほかなく画家のいちにちは
 暮れるにはやくすでにほろ酔い
みんざいの代替えにしてひとりのむ
 ボトル・キープは自宅を出でず
睡眠力高めむとして寝静まる
 家具のごとくに夜をたのしむ
夜ねむるまえの大事な所作のひとつ
 けっして後ろをふり向かぬこと
切歯にて噛みちぎりたる眠剤の
 片割れがいまのみどに落ちぬ
とり敢えずデパスその一 目覚めたら
 のむ約束のまくらの友よ
追伸2 ソラナックスにしておこう
 深い眠りは枕許より
おもうよりふかいところに根を下ろし
 きょうの不眠は午後のコーヒー
ゆめさめて何思うなき夜ながら
 不眠因子はわれをゆるさず
不眠因子みつけえぬまま夜の深けを
 布の織目に笑まう人面
ねむったままいってしまえば夢心地 
 ずれた布団が少し重たい
細き灯りかべに向ければ夜の淵を
 音なくすすむ秒針その他
ひとり事のごとく一本の道ありて
 見つめるために見つめいるなり
窗のない夢をとけだす雨音の
 増しゆくそれは雨滴(泣きたい)
微睡みからさめつつあらむ夜のあけを
 夢の数だけまもる沈黙

186 連呼・2

藤井貞和

以前に私は書きました。

「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ほんとうのことが起きる

以前にそう書いたあと、ほんとうのことは起きましたか。

「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ほんとうのことが起きる

以前にそう書いたあと、ほんとうのことは起きましたか。

ほんとうのことが起きますように(1974年)
ほんとうのことが起きますように(1986年)
ほんとうのことが起きますように(1991年)
ほんとうのことが起きますように(2001年)

2020年、連呼してはいけないと思います。

(「物語」が必要な時はほかにない。進退きわまる時に「物語」が来る。ぼくらは、わたしたちは、試されているよ。どうする?)

しもた屋之噺(220)

杉山洋一

すっかり目の前の木々は立派な新緑に覆われ、通り抜ける風が葉を撫ぜるたびに、さらさらと心地良い音を立てながら、枝を揺らします。学校には六月半ばまでには一度日本に帰りたいと伝え、遠隔授業の試験日程について考慮をお願いしたところです。東京で一定期間隔離されて、万事首尾よく進んでも家族の顔を見るのは7月の声を聞いてからになるのでしょう。
本日、日本の知事会が非常事態宣言の延長を政府に求める決定、とラジオで話すのを耳にしながら、家族を帰国させたのは正しかったのか、自問自答を繰り返しています。

  —

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの死亡者数837人。新感染者数2107人。死亡者総数は12428人。ロンバルディア州は六日間続いて新感染者数が減り、集中治療室の患者数も減少。東京では感染者78人で7人が亡くなったと言う。
愚息と家人は知己を頼って富山に滞在。世田谷の中学では息子を一時的に通わせられず、富山で便宜を図っていただき、一時的に通学が許可された。深謝。学校から借りた息子の詰襟姿の写真が送られてきた。国際郵便が止まると聞き、信じ難い思い。

4月某日 ミラノ自宅
ナポリでは、道路に面した最上階のベランダから道路にまで届く長い紐の先に籠をつけ、自分たちの食べる昼食のパスタの余りや、食料品や淹れたコーヒーなど詰めて、下まで垂らす。
「できる人は入れて。できない人は取って」と書いてある。
道行く人も、買い物のついでに、通りがかりにパスタの袋や卵を籠に入れ、そのまま家に戻ってゆく。宗教施設の炊き出しなども全て閉鎖され、ホームレスなどは、そこから出来立てのパスタを取り出してゆく。「互助籠Panaro Solidale」。同じものはミラノにもあって、「吊籠Ceste Sospese」と呼ばれている。

4月某日 ミラノ自宅
留学生Aさんより連絡あり。体調は一進一退とのこと。イタリアの学校再開は4月13日に延期決定。目の前に見えていた出口がどんどん遠のいてゆく。富山滞在中の息子は、同級の友人に励まされていると聞いた。
今日のイタリアの死亡者数は760人に上るが、感染者数ではスペインがイタリアを超えたという報道。ベルギーでは既に1143人も亡くなっており、ロシアも601人が命を落としている。ドイツですら1日145人も亡くなる現状に何を思えばよいか。

4月某日 ミラノ自宅
庭を訪れる鳥は例年より多く、心なしか呼び交わす啼き声が輝きを帯びているのは、普段雑踏に塗れて聞いていないからか、我々が避けられているのか。当初イタリア政府が予定していた封鎖期限は越えたが、未だピークは迎えていないという。ミラノ市公共交通機関は、ソウルやシンガポール、武漢の関係者が、どのように通常営業に戻してゆくのか指示を仰いでいる。New Start。イタリア初のワクチン動物実終了との報道。

4月某日 ミラノ自宅
在日米国大使館が日本滞在中の米国市民に帰国要請。
感染学者曰く、血清学的検査で自己免疫がウィルスに勝るのか調べているそうだ。今後イタリアでは仕事の復帰にあたり、抗体の有無が重要かも知れないと書いてある。不思議なものだ。これからは、仕事の必須条件が感染になるのだろうか。医師の犠牲者は80人になってしまった。看護師も併せて25人も亡くなっている。今日一日で死亡者は681人に上る。ウクライナより医師団到着。

4月某日 ミラノ自宅
波を思う。高校生の頃一度海で溺れかけたとき、浜からも遠く高い波に飲みこまれ、引きずり込まれる錯覚に陥った。あの瞬間どうしたのだったか。一度思い切り水中に潜って、自分が位置を確認した覚えもするし、このまま離岸流に運ばれて溺れるのかと、少し気が遠くなった気もする。記憶など、主観で後から幾らでも造作できるのだろう。あの時の感覚と、途轍もなく広い大海原と、目線ぎりぎりの水面の奥に広がっていた、沸き立つ絶望的な光景を思い起こす。

コロナは既にアメリカを舐めるようになぎ倒しゆき、これから日本がどうなるのか怖い。バチカンでフランチェスコ法王が棕櫚の主日のミサを無人で行う姿がテレビに映し出される。
ロンバルディアでは外出時マスク着用が義務化され、シチリアから本土への渡航は48時間前までにオンラインで予約が必須となった。航空会社のBさんと電話。取るものも取り敢えず、着の身着のまま不安そうに空港に到着する家族の姿に、これは戦争だと思ったという。敵不在で、家もインフラも破壊されぬまま、人だけがそこから抜け落ちてゆく戦争。

4月某日 ミラノ自宅
3月19日来初めて死亡者数が525人まで減り、集中治療室の患者数も減少した。下り坂が始まり、政府は第二期の具体的な検討に入った。
近所のトリヴルツィオ養老院で高齢者70人死亡。一たび老人ホームで集団感染が始まると、病院に連れてゆくことも、ホーム内での隔離もされず、治療も受けられないまま死んでいった。もみ消されているとの報道。基礎疾患も末期だったりと、肺炎に罹らずとも先は長くなかった高齢者ばかりだったかもしれないけれど。そこまで記者は云って、言葉に詰まった。一方、入院しながら、快復が見込まれずにモルヒネで安楽死しなければならない高齢者の話も聞く。

4月某日 ミラノ自宅
ここ数日Aさんの具合が良くないと連絡がくる。怖くてニュースは一切見ていなかったという。英国首相が集中治療室に運び込まれた。ニューヨーク・ハートアイランドの公園に無縁墓地を掘られていて、40基の柩が埋められた。フランスの今日一日の死亡者数は833人で、イタリアの636人を大きく超えた。どうなっているのか。イタリアの医師の犠牲者は89人にまで増えてしまった。言葉が見つからない。
マンカと電話で話す。定期健診で久しぶりにミラノを訪れ、どんな悲しい街に見えるかと想像していると、実際は思いの外美しく素敵な街並みに、寧ろ当惑したという。こんなに美しい街だったかと思わず独り言ちたそうだ。

東京の状況は悪化し、明日には非常事態宣言発令と聞いた。一日一回町田の実家に短い電話するのは、万一にも入院となれば、そのまま話す機会を失う覚悟はあるから。生徒に送るヴィデオを、生存確認と題して町田にも送っている。普通なら笑い飛ばすところが、今回ばかりは仕方がない。息子の富山通学は楽しいと聞き安堵する。

4月某日 ミラノ自宅
米国で一日の死亡者数が1150人に上った。イタリアのテレビは「今イタリアは堪える時」と繰返し「家にいましょう」と締めくくる。天気予報も「今日は一日晴れに恵まれますが、家にいましょう」と連呼する。2月を家族3人ミラノで落着いて過ごせて良かった。天の恵みと思うことにする。現在まで医師の死亡者数は94人。ミラノの小売食料品店再開。日本では非常事態宣言発令。

4月某日 ミラノ自宅
富山の中学も二週間の休校。全世界の死亡者数は8万人を超えた。
頭の中の音をどう書けばよいか、どう書くのがよいかを考える。揃わずに演奏者それぞれの顔が見えるオーケストラを目指す、実践的記譜とは何か。パヴィアでは抗体による治療が本格化。現在のところ良好な結果が出ている。

4月某日 ミラノ自宅
ヴァイオリンパートを初めから書直そうとすると、下書きに使う五線紙が足りない。通販で購入すべきかと思うが、書きなぐるための五線紙を、配達員の健康を危険に晒してまで買うべきものか悩む。使えないページは消しゴムで鉛筆を消して、改めて使う。
日伊間の航空便は、311の時でも関西空港便は残ったが、現在は皆無だ。例えばロンドン経由で日本に向かおうと思っても、第一ロンドン・ミラノ便が運航していない。東京、いと遠し。
息子の通うノヴァラの国立音楽院より、試験はヴィデオ審査になったとの連絡あり。我々の学校よりも決定が早く感心。全て劇的に変化してゆく早さに戸惑いを覚える。

4月某日 ミラノ自宅
春の風物詩、綿帽子が飛び始めた。風と共に、目の前には真っ白い綿帽子で一面埋め尽くされる幻想的風景が広がる。今年はこれを息子にも家人にも見せられない。現在この自宅待機下に於いて、インターネットもスカイプもyoutubeもとても助かるが、かかる時代でなければ、恐らくここまで急激なコロナの拡散もなかった。
イタリアでは542人、イギリスで938人、アメリカでは1939人が一日で死亡し、トランプ大統領は世界保健機構を批難。EUは欧州内の移動制限を5月15日まで延長。イタリアではシュノーケルと3Dプリンターで作った応急酸素マスク使用開始。抗体ライセンスは未だ作る段階にないという。

4月某日 ミラノ自宅
目の前の雑草だらけの庭と、その向うに広がる無人の中学校校庭。毎朝甲高い鳥の声が俄かに聞こえるようになり、世界の街角を闊歩する野生動物のニュースや、減少した各地の大気汚染、澄んだヴェネチア運河を泳ぐ魚を思う。
将来の地球について、核戦争で到底人間は外を歩けないような、汚染されたディストピアの姿を漠然と想像していた。併し案外、100年後の地球はちょうど現在のように街を歩く人影は疎らで、野生動物が自由に往来し、辺りは静謐に包まれ、誰も互いに接触ない世界が支配しているのかもしれない。
世界で今起きている事象は、将来まで歴史に残るに違いない。この後も人間が歴史を学び続けてゆくならば、我々の生きるこの激動の時代から、恐らく彼らは何かを学ぶことになるのだろう。
医療関係者の死亡者104人。シチリアはイタリア本土との往来を一時遮断。分断はヨーロッパ各国のみならず、国内各所にまで広がる。富山の病院でも院内感染発表。

4月某日 ミラノ自宅
ラジオニュースで小池都知事の要請を聞きながら、2月フォンターナ・ロンバルディア州知事が市民に自宅待機要請した記者会見を思い出す。
最初の会見の頃は我々も余り実感がなかったが、暫くして中国から派遣された検疫官が記者会見に登場し、「ミラノの様子を拝見したが、こんなに人が出歩ていては全く無意味だ。人が多すぎる」と余りに辛辣に批判した時は愕いた。早速その翌日だったか、翌々日からレストランも喫茶店も全て閉鎖され、気が付けば現在に至る。
微笑みも全くない、不愛想で権威的な中国人の検疫官の姿と、それに従わなければ進路すら見いだせない我々の姿に、言葉に出来ない虚しさと、将来への漠然たる不安を覚えた。ボルツァーノとボローニャの劇場から、寂しそうな便り。

4月某日 ミラノ自宅
医師でも政治家でも事業家でもなく、社会に何ら貢献できないので、せめて感情を排し目の前の事実を音に残すくらいしか出来ない。音に感情を込めると、音と自分との間に壁が邪魔するので、音が見えなくなる。感情を排すのは西欧的発想なのか、日本の例えば弓道の無心などと全く相反するのか、自分では分かりかねる。

Aさんよりメッセージが届いた。
「今日は悪化しました。 一進一退とはこの事ですね。精神的に辛いです。今日は無心で寝ます」。
「申し訳ない」とか「迷惑かけてはいけない」という日本的発想は、イタリアでは一先ず忘れるよう伝える。

毎日世界の死亡者数が目まぐるしく増えてゆく。世界の死亡者が7万人を超えたと聞いたばかりなのに、それは直ぐに8万人となり、9万人となり、現在9万5千人と報道で言っている。
この奇妙な静けさの中、25年前、住み始めたばかりのミラノを思い出す。忘れるのは思いの外早いが、それはそれで良いのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
東京都で189人の新感染者が確認された。日本人は既に免疫を持つとの仮説を、心から願うばかり。ジョンソン首相集中治療室より戻る。ここ数日イタリアの新感染者数は増加。
ヨーロッパ各国から余裕が失われ、助け合いは困難になった。往来の途絶えたメッシーナ海峡を鯨が泳ぎ、ランペデゥーサ島に辿り着いたアフリカ難民からもコロナの感染者が確認されたという。サヴォナでは老人二人が孤独に堪えられず自殺し、無人のバチカンでフランチェスコ法王が思いつめた表情でVia
Curcisの祈りを捧げている。
コロナウィルスが展開する構造が解明されたとのニュースと同時に、イタリアの本日の死亡者数570人と発表され、世界の総死亡者数は10万人に近づく。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭名物「鳩ケーキ」を買うべきか少し悩んでから、一人では食べきれないので止した。
医師の犠牲者が109人、看護師28人まで増加している。アメリカでは一日に2108人が亡くなったと聞くが、東京の感染者数は197人に踏み留まり、日本の死亡者数は指数関数的には増えていない。どうかこのまま乗り越えてほしい。ミラからメッセージが届く。明日がフランコの命日で「天の火」を聴いているそうだ。

昼食時にスーパーに行けば空いているかと思ったが、入口の外には既に3人ほど、それぞれ間隔を開けて並んでいた。口と鼻は必ずマスクで覆い、中の客が一人外に出る毎に一人だけスーパーに入るよう、但し書きが貼ってある。
「お困りのお年寄り、気分の落込んでいる方やお手伝いボランティアなどの相談窓口はこちらまで」と店内放送が繰返している。
日伊間の航空便再開延期が決定。状況を鑑みれば当然だが、改めて暗澹たる心地。
家人と話す。当初は外に出る度に、何故ここにいるのかと涙がこぼれたのだという。

4月某日 ミラノ自宅
意を決して、今年初めて庭の芝刈りをする。土壁の隣を電車が、運河の対岸を路面電車が走る。何も走っていなければ、それなりに現実感も伴うが、一見日常の風景に見えて、実際は乗ってはいけない電車と路面電車であって、とても超現実的な光景である。バスも路面電車も、有事だからか、広告料が払われないのか全ての広告も外し、乗客も疎らで、まるで幽霊路面電車、幽霊バスの如く走る。

芝を借り始めるとすぐ、目の前の2階に住むウェンディがベランダに出てきて、挨拶を交わす。「久しぶりねえ、元気なの?」誰であれ、3月初めからひたすら一人家に閉じ籠っているのは、精神的にも決して容易ではない。
暫くして隣のアリーチェが通りかかった。自宅で面倒を見ていたお母さんの加減が悪化し病院に入院したという。容態は予断を許さないが現在病院は訪問禁止で、見舞いもままならない。パリで暮らす弟は、イタリアに帰国不可能だという。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭。昨晩はフランチェスコ法王が無人のヴァチカンで復活祭の祈りを捧げ、マッタレルラ大統領は、国民に向かって、今年の復活祭は「孤独の復活祭」だと表現した。法王の思いつめた表情は、衝撃的ですらあった。

朝四時突然目が覚めて便所に立ち、手を洗う折ふと顔を上げると目が真っ赤に充血している。新型ウィルスの初期症状は結膜炎と読んだばかりで、すっかり狼狽する。両親にはそう簡単には会えないと覚悟はしてきたが、家人と息子にも会えないかと思うと、流石に途方に暮れた。
熱はないので、心を落ち着け布団に入っても、芝刈りで汗が目に入って手で拭ったのがいけなかったのか、スーパーの後ろの体調の悪そうな婦人か、パックの茸を直接手で触ったからか、とつまらないことばかりが頭に浮かんでは消え、まんじりともせず夜が明けた。
取り急ぎ何かあった時のためCovid専用の直通電話番号を確認し、とにかく新作を最後まで書かなければと焦る。頭の中にある音も言葉も、書き出されなければ何の意味も成さないし、何も伝わらない。

文章を書き始める時、最後が既に見えていても、その間の膨大な情報の渦に惧れをなしたり、躊躇ったりするのに似ている。三善先生やドナトーニの顔が過り、とにかく書かなければ罰があたると思う。そこまで考えて漸く少し頭が落ち着いたのか、2時間ほど熟睡した。
朝起きて携帯電話を確認すると、夜半目が覚めた一分後の4時1分、奇妙なことに母からからメールが届いていた。「大木の葉っぱはちょうどよい加減の色。目が休まります」とだけ書いてある。確かに充血は引いていて、漸く愁眉を開く。おそらく芝刈りの汗で軽い結膜炎を起こしていたのだろう。
昼過ぎ町田に電話をすると、珍しく少し緊張した声色の父が開口一番「お母さんがお前に何かあったのではないかと物凄く心配している」というので、却ってこちらが吃驚する。

世界中の人々がそれぞれにこんな思いに駆られ、それぞれの絶望が空の上で絡み合っているかと思うと、胸が押しつぶされる。Aさんの心地を垣間見る。

4月某日 ミラノ自宅
庭で水まきをしていると、ツグミの雛が寄ってくる。昔三和土で死んでいたツグミを土壁の脇に埋めると、不思議なことに、翌春からそのすぐ上手に毎年ツグミが巣を作るようになった。鳥でも何か思うところはあるのだろうか。家人より富山のチューリップ畑の写真が送られて来た。

人それぞれ、自らの寿命は予め決められて生まれてくるのかもしれないし、そう思えば残された者の心が軽くなるかもしれないが、自分はその与えられた時間内にどれだけのことをしているのか、しばしば、もどかしい思いに駆られる。

ミラノのトリブルツィオ養老院では、結局高齢者110人の死亡が確認され、別の介護老人福祉施設では数日間に70人死亡と発表。死亡原因について警察が調査を開始。ホスピス末期の患者が多く、新型肺炎に罹らなくとも10日から数週間で亡くなっていたかもしれないが、感染報告の義務を怠り…と記事は続き、現在併せて12の介護老人福祉施設が警察の調査対象と結ばれている。EUのフォンデアライエン委員長は、年末までは高齢者を隔離すべきと発表した。

瞬く間にアメリカが死亡者数でイタリアを超えたのにも衝撃を受けたが、現在までイタリアでは既に105人の神父が他界している。そのうち25人はベルガモの教区を預かっていた。ジョゼッペ・バルデッリ神父は、人工呼吸器は若い人へ譲りたいと人工呼吸器装着を頑なに拒否して亡くなり、自己犠牲の精神に賞賛が集まっている。ただ、言葉にならぬわだかまりが、身体の奥に澱のように残っている。自己犠牲で完結させては駄目だ、身体の芯で反響する声がする。

4月某日 ミラノ自宅
初めて聴く息子のエオリアンハープの動画が送られてきた。技術的なことは分からないが、ひたひたとした音楽に感銘を受ける。幼少から親の音楽を聴いていると、無意識に音の趣味もどこか少しは近づくこともあるのだろうか。

ベルリンから一時的に東京に戻ったMさんより、「ミラノのAさんはお元気ですか、ちょっと嫌な夢を見たので気になって」とメールをもらう。実はここ数日Aさんと連絡が取れず、心配していたところで、嫌な予感がした。今日漸く連絡がとれたが、案の定熱がぶり返して臥せていたという。カニーノさんとロッコよりメール。皆元気なのを確認して安堵する。
WHOはCovidはインフルエンザの十倍の致死率と発表し、保険省のロカッテルリは学校再開は9月との個人的見解を記者会見で述べた。一体これからどうなってゆくのか。諦観とはよく言ったものだと思う。

4月某日 ミラノ自宅
不思議なもので、同じ作業を繰り返しても素材毎に全く違う顔が生まれる。西洋のオーケストラは一つのハーモニーを皆で奏でるため発展してきた。支え合い色を混ぜ合い、共に旋律を歌うもの。それら全てを逆説的に作曲する。
オーケストラを鳴らす方法はそれなりに理解している積りだが、それが鳴らないのであれば、それが現実なのかもしれない。当初、世界にこれだけの諍いが断続的に続いていると理解していなかった。我々自身が互いに響きを打消し、共鳴を止めている。オーケストラは鳴らすための集団であるべきかどうか、正直よくわからない。

ミラノの感染者増。救急車のサイレンが耳にこびりついて離れない。
602人死亡、死亡者総数21067人。新感染者数減少。2972人。日本の国内死亡者数19人。一日で東京都の感染者数は161人に達した。日本の死亡者数が上昇しないことを心から願う。アメリカの死亡者総数は2万5千人を超え、スペインでも1万8千人という。世界ではほぼ12万人が亡くなっている。信じられない。

4月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領WHO拠出金一時停止発表。国際通貨基金が、本年度イタリアの国民総生産はマイナス9.1パーセント、世界経済成長率はマイナス3パーセント、イタリアの失業率12.7パーセント見込みと発表。IMFイタリア代表はドイツがユーロ債発行に反対していると名指しで批難し、ヨーロッパ連合の結束は音を立て崩れてゆく。トリブルツィオ養老院の死亡者数は143人と訂正された。

どのような名目の下であれ戦争には反対だし、どれほど罵られても息子は戦争に絶対に送らない積りで生きてきた。伝染病は戦争ではないが、余りにも易々と簡単に自分も家族も世界の波に飲まれる無力感には、近いものがあるかもしれない。殉教や殉死という言葉が、自分の周りにこれほど身近に息づいているとは、想像もしなかった。このCovidで世界中でどれだけの医療関係者や宗教関係者が命を落としているのか。
憲法改正に積極的な国民ならば、どれだけ有事に迅速な対応ができるか期待していたが、少し肩透かしを食らった気がしている。政治批判には興味はない。能動的であれ受動的であれ、選挙権があり或る程度公正な選挙が保証された国家であれば、責は常に国民にある。

4月某日 ミラノ自宅
日本が全国に非常事態宣言発令。

ベルガモのジョヴァンニ23世病院の、カプチン会修道僧ピエルジャコモ・ボッフェルリのインタビュー。初めて新型肺炎の患者が彼らに会うと、「まず最初はちょっとびっくりするのです。長い入院生活の間、医者でも看護師以外の誰にも会っていませんから。それから、マスクと看護服の間の合間から、わたしたちが修道士だとわかると、喜んでくださるんです。それで、少しほっと表情が和らぎます。我々がいることで、神さまが傍においで下さるのを感じて、よきサマリア人のように、彼らの辛苦の傍に神さまがいらっしゃるのを理解してくれるのです。状況が許せば、この試練を癒す病者の塗油を授けてよいか尋ねます。
しばしば、私たちは深い痛悔を勧めます。そして罪への赦しの祈りを捧げます。この非常事態が過ぎたら、司祭の下にゆき懺悔するようにいいます。その日が早くくることを祈っています。
毎日、われわれのうち誰か一人、霊安室で亡骸に祈りと臨終の祝福を授けています。もし、彼らの家族が亡骸に寄り添い涙を流せなくとも、しばしばそこには医師や看護師たちの姿をみます。彼らが悲しみに打ちひしがれている姿を、何度も見ているのです。彼ら自身が、パンデミックに斃れた人たちを死の淵まで見届けたのですから。しばしば看護室長から呼ばれて、看護師たちと共に聖母の祈りや主の祈りを捧げています」。

別のカプチン僧アクイリーノのインタビュー。
「誰か思って電話に出ると、ある女性でした。彼女は病院にご主人を連れてきて、それきり会うことも叶わず、ご主人は亡くなりました。最後に顔をみることも、キスも叶わなかったのです。電話して下さいませんか、と彼女はわたしに頼みました。ですから、わたしは霊安室に出向き、柩の前で彼女に電話をしてこう言いました。今ご主人の前にいます。もう柩は閉められてしまっていますが、祈っています。祝福しています、と。そう言って二人とも電話で泣き崩れてしまいました」。

未だ実験段階だが、イタリア国内で抗体検査が開始された。数カ月前の日記でさえ無性に懐かしく、愛おしい。心なしかうまく話が出来ない気がするのは、誰にも会わず、話もしていないからか。

4月某日 ミラノ自宅
知ってしまう畏れを思う。インターネット初期、父が電子写植からDTP印刷に移行するのを躊躇っていた後ろ姿とも重なる。良いものは残ると信じつつ、安価で容易に用が足せる方法に次第に慣れてゆき、早晩DTPそのものの質が向上して、気が付くと立場は逆転している。
この人数で十分ではないか、この程度で十分使えるではないか、と無意識に納得させる思考の怖さを思う。そして反対に、物事を忘れ去る速度や、人間の社会活動が停止した途端、地球が自浄を始める早さについて思いを巡らせ、我々自身が害と自覚する恐ろしさについて思う。そして、未だ音楽をする意味と、自らの無力について考える。

こういう時代が訪れるとは思っていたが、こんなに早く、突然訪れるとは想像もしていなかった。これから先、息子や生徒たちに何を伝え、何を正しいと教えればよいのか。我々が信じてきた正論は、果たして正しかったのか。
息子や若い人たちに申し訳ないと思うのは、我々が慢心を折り重ね築いてきた世界が、彼らのささやかな夢を奪ってゆくからだ。自分が生きている間は、前時代的であれ何とか生き永らえると信じてきたが、今後は自分すらどうなるか分からない。すっかり喪心して、今書いているソ連邦の音列を、幾たびか書き間違えた。

イタリアが実験的に発表した、感染者との接触を避けるための携帯ソフトstop
covidを無意識にインストールしようとして、我に返る。昨日まで我々が社会構造を維持できていたのは、ぎりぎりで互いに薄く噛み合っていた偶然に過ぎず、構造と呼ぶには余りに脆弱な砂上の楼閣ではなかったか。東京でも一日の感染者数確認が200人を超えた。相変わらず、どうも口がうまく回らない気がする。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの私立学校の3分の1は、今後資金不足で立行かなくなる可能性がある。既に世界では15万人が亡くなり、ベルギーが現在、特に酷い状況下にあるという。

Aさんよりメッセージが届く。
二ヶ月ぶりに普通の呼吸をしてる感じがします。
気管に蓋が付いたようで、開いてる時は良好なのですが、閉まると微妙になります。治りに時間がかかるのですね。自然治癒するものなのかちょっと心配ですが、6月まで飛行機は出ないことだし、人生の休憩期間と思って。なんというか人生観変わりますね。人は結局孤独だし、死は結構身近なものなんですね。楽しく、人生歩みたいです。

4月某日 ミラノ自宅
自分が忘れるから書く。日記も日本語を忘れないために書き始めた。家人曰く、人が死ぬたびに曲を書いているらしい。大学時分、急逝した級友をしのんで曲を書き始めて以来、確かにそうかも知れない。忘れ易いのを自覚しているからだ。誕生に際して曲を書いたのは、息子が生れた時くらいではないか。尤も、あのテキストも獄中のエルナンデスが死の直前に書き残した悲痛なものだが。

子供の頃から父の写植機をいじるのが大好きで、大学時代は、父と二人で一緒に夜なべをして演奏会のチラシの版下を作った。彼も仕事で忙殺されていた筈だが、二人で会社に泊まり込み夜明けまでかけて、数えきれないほど作った。
こうした小さな出来事も全て忘れてゆくから、書留めておきたくて作曲する。別に美しい旋律が浮かぶわけでも、人を驚かせるような野望を抱くわけでも、理念を啓蒙するためでもなく、逆説的に言えば、作曲も日記も忘れるために書く。全てを覚えてゆくためには、途轍もないエネルギーが必要だからだ。忘れることは素晴らしい。

ベルガモの教会に保管されていた夥しい数の柩が、初めて全て搬出され、無人で寂寥とした教会の写真。ミラノ・ニグアルダ病院の集中治療室の一つから初めて患者全員退室して、無人のベッドに医療関係者が歓声を上げる写真。
ボルツァーノ近郊のオルティゼイOrtiseiで実験的に行われている抗体検査で、49パーセントの市民が陽性と読んだ。流石に素人でもこれは高すぎると思うので、自分は罹ったと訝しむ市民ばかりが、こぞって検査を受けているのだろうか。

4月某日 ミラノ自宅
今日のように肌寒さが戻ってくると、気のせいか、普段よりコロナが気にかかる。
2月末、息子がミラノの街でマスクをしても大丈夫か、東洋人と罵られないかと心配していたのが懐かしい。今やマスクなどすっかり品薄で、薬局の店先で皆が並んで買っている。あの頃に戻りたい気がするが、無理なのは承知している。常にあの頃は良かったと顧みながら、我々は進化してきた。

ミラノ大霊園(Cimitero Maggiore di Milano)の87区画(campo 87)に、コロナウィルスで命を落とした、身寄りがない亡骸のため無縁墓地が作られた。
イタリアと一口に言っても、現在はロンバルディアと他州とは随分差があるようだ。ここからどこにも出られないので、現状は分からないが、少なくとも随分状況は明るいに違いない。ドイツで人間に対するワクチンテスト許可とのニュース。
昼過ぎ、救急車が静かにマンションの前に停まった。防護服の救急隊に続いて、若い女性が救急車に乗り込む後姿を見送りながら、気が滅入る。

4月某日 ミラノ自宅
米国の死亡者総数は52000人を超えた。イタリアでは未だ一日に415人も亡くなっているが、感染者数は六日間連続して減少している。キアラより連絡あり。スカラの給料は3月までしか払われていないこと、おそらく劇場再開は12月の新シーズンからということ、癌治療で病院に行かなければならないが、感染が怖くて行きたくないことなどを聞く。

今まで我々は本当に恵まれていたのだろう。息子には、これからきっと状況は悪くなると言い続けてきたけれど、これほどあっけなく状況が変わるとは思ってもみなかった。

4月某日 ミラノ自宅
コンテ首相が「第二期fase 2」と呼ばれる封鎖開放計画を発表。夜の闇の中、運河の向こうのアパートから「Cela faremo! Cela faremo! 負けないぞ!やってやるぞ!」と叫ぶ男の声と、どこからか大きな花火の音がこだましている。澄み切った夜空に、細く鋭い月光の眼光が輝く。

プーリアやジェノヴァでは、亡くなった医療関係者の名前を、新しい道路に冠そうとしている。現在まで150人を超える医師が命を落とし、そのうち、政府からのCovidの招集に応じた医師も多かったはずだ。忘れてはいけない名前は、どこかに刻んでおかなければならない。ヴェローナ記念墓地の記念碑や、ヴェローナ郊外のつつましい遊具のならぶ公園に冠されたドナトーニの名前を思い出す。物凄く長い一つのフレーズが、少し終わりかけてきている気もする。

境界線上にいるのかも知れない。感染者が責められていた昨日と、非感染者が差別される明日との境界線。感染者のみが働く、昨日までの常識が100パーセント覆る境界線。
基準の変換点。歴史上イデオロギーの急激な変換点は幾たびもあった。我々の世代は平和だったからナイーフなままこの歳になり、少し当惑しているのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
100年前、1918年から1920年まで、世界を覆ったスペイン風邪は5億人の命を奪った。アポリネールはパリで、クリムトやシーレはウィーンで斃れた。プラハでは、結核から治りかけていたカフカの肺を容赦なく襲い、死まで追いつめていった。

ラフマニノフはアメリカに着いて間もなくインフルエンザで床に臥したし、プッチーニ三部作には、第一次世界大戦で疲弊した世界のみならず、スペイン風邪に斃れた姉の死が影を落とす。
伝染病に罹りブダペストで臥せていたバルトークが、病床で「めくるめく感覚が目を襲い、時には突然眼底を刺すような痛みに苦しみ、眼底で小蟻が引掻く我慢できない痒みに苛まれ」なければ、「中国の不思議な役人」の強烈な音響は生まれなかったし、ブラジル滞在中のミヨーが、眼前で斃れる伝染病の悲劇と対峙しなければ、「フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのソナタ」終楽章の、深く、そして感情を喪失した無機質の、葬送行進曲を書くことはなかった。

母の死への悲しみのみならず、世界に吹き荒れる伝染病の嵐こそが、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の陰鬱な響きの根底に滾々と流れる、不穏なエネルギーではなかったか。
ラヴェルに「ラ・ヴァルス」の作曲を掛けたディアギレフとロシアバレエ団は、あの荒廃した世界にあって、後世に残る傑作を数多く世に送り出せたのは何故だろう。ディアギレフは病的に感染症を恐れていたはずなのに。

1918年9月ロンドンでディアギレフが「クレオパトラ」を再演したとき、レオニード・マシーンも、感染への恐怖に怯えながら、ほぼ全裸で舞台に立たなければならなかった。
「自分が死ぬシーンの後、凍える舞台上で、染入る寒さに耐えながら、何分間も横たわっていなければなりませんでした。…その後は何も覚えていません。翌日、いつも劇場前に立っていた、ひと際体格のよい警官が、インフルエンザで亡くなっていたのを知ったのです」。

当時スペイン風邪で延期になった公演記録は、実際は沢山あったのかも知れないが、手元の資料では「兵士の物語」程度しか目に留まらなかった。当時は伝染病を管理する衛生意識が著しく低かったか、大戦や革命で、塗炭を舐めていた芸術家は、生きることに必死だったのか。

ボルシェヴェキから逃れたばかりで無一文のストラヴィンスキーが、スイスで小編成の楽劇「兵士の物語」ツアーを計画したのは、紛れもなく生活のためだった。
プロダクションメンバーがスペイン風邪に罹らなければ、「兵士の物語」は、現在とまた違った扱いを受けていたかも知れない。後日スペイン風邪で床に臥せたストラヴィンスキーが、糊口を凌ぐため「火の鳥」を身軽な組曲として改作したのも、作品をより広める上で役立ったかもしれない。

毎日のように生徒から届く「兵士」のヴィデオを眺めながら、そんなことを思う。2か月会わないうち互いに髪も伸び、かと思えば大雑把に自分で刈り上げる生徒もいて、時間の経過を実感する。

4月某日 ミラノ自宅
新型肺炎陽性の現在の患者数101551人。死亡者27967人。快復者75945人。一日の死亡者数は285人。東京のYさんより、イタリアの病院に送る寄付金が集まったとの知らせを頂戴する。日本も大変な時期な筈なのに本当に有難く、深謝あるのみ。

第一次世界大戦と伝染病を当時の音楽家はどうやり過ごしたのか。レスピーギ、カセルラ、トスカニーニの自伝や書簡集に戦況に関する記述は散見されるが、伝染病で将来を悲観する様子も、オーケストラや演奏会が閉鎖された様子もないのは何故だろう。単に伝染病に関する文章を割愛しているのか、現在のように、パンデミックを恐怖の対象として量的に捉える情報を共有していなかったのか。

当時のカセルラは、第一次世界大戦下で忌避されていた敵国音楽、ドイツ音楽が戻ってきたことを喜んでいる。オーストリアがイタリアに降伏した翌日、ヴィッラ・ジュスティ休戦協定が発効した日、カセルラはこう書いた。
「1918年11月4日。ローマの道に溢れる人々はまるで気でも違ったようだった。遂に惨い禍難は過ぎ去ったのだ。ヴィットリオヴェネトの勝鬨の声で終わったのだ。正午頃、ウンベルト王通りのリコルディ社へ、ベートーヴェン32のソナタ最後の手稿を届けるため家を出ると(1915年から続けてきた壮大な校訂作業は、大戦の終結と共に完成した)、沸き立つ歓喜が街の隅々まで支配していた。夜になって路地には久しぶりに街灯が戻ったが、3年間もの気の遠くなる長い時間を経て眩しく輝いていて、まるで初めて目にするものに見えた」。
「1919年1月26日。二年もの不在を経て、漸くベートーヴェンがアウグステオ音楽堂に戻ってきた。エグモント序曲を指揮したヴィットリオ・グイの功績だ。この音楽の帰還が、どれほど力強く、筆舌に尽くせない感動を与えたか、今や想像もできないに違いない。悲しむべき精神的過失が、長い間我々からこの音楽を奪い取っていた」。

この記述から半年ほど前、1918年の春から夏にかけて、同じくローマにあったレスピーギは、スペイン風邪に罹って、2か月近く床に臥していた。
「”1918年 6月11日 ローマ クラウゼッティ殿
御返事大変遅くなりましたこと、どうかご容赦願います。何かは判然と致しませんが、ローマで猛威を振るう炎症にやられて、何日も続いた熱のあと、漸く今日、初めて布団から起き上がった次第です。今日は何とかやり過ごしている感じです。ふらつき鈍重で、まるで酔っ払いです…(中略)…貴方の「小人のバラード」原稿を受取りました。誠に愛くるしく、この詩だけで音楽に溢れています。何とか早く仕事に復帰したいものです。この仕事を、ひときわ情熱をもって手掛けたいと思うのです。なぜなら、この詩は、とても音楽的な言葉を発しているからです。これ以上はもう続けられません。哀れなこの頭はもう何も考えられません。目が回ります。目が回ります”。

後日「スペイン風邪」と呼ばれるようになったレスピーギはあのインフルエンザに罹った、最初の一人であった。その症状は一見軽そうに見え、ほんの数日、熱が続き、それから起き上がろうとすると、何週間もの間、嫌な感覚が纏わりつき、全く力が入らなくなってしまうのであった。
彼が病床に臥している間、わたしは午後になると、出かけていって暫く彼の話し相手になっていたが、数日後にはわたしも床に臥してしまった。一週間後、漸く起き上がってみると、レスピーギより酷い、極度の衰弱に身体が曳きづられる思いであった。それは一ケ月以上も続いた」。

このようにエルサ・レスピーギは回想している。当時エルサはサンタチェチリアでレスピーギに作曲を習っていて、彼らはこの後間もなく婚約した。カセルラの日に同じ、大戦終結の日のレスピーギの手紙はこう始まる。

「親愛なるアゴスティーニ 昨日からローマは歓喜に溢れています。誰もが道で大騒ぎして、大変な筈のスペイン熱のことなど、皆すっかり忘れてしまったかのようです。一ケ月前は一日で600人も死んでしまいましたが、今は随分落ち着きました。昨日は75人だけです。もう酷いニュースは沢山です!…」

2か月ほど前、3月末に日本で弾くつもりで、家人がリストの編曲したロッシーニのナポリ風タランテラを練習していた。レスピーギがスペイン風邪の闘病後、最初に仕上げた大作は、この「ナポリ風タランテラ」を含む、ロッシーニのピアノ曲のオーケストラ編作「魔法屋 la boutique fantastique」だった。タランテラといえば、家人の恩師が眠るターラントを起源とする、発汗効果で解毒させる、激しい毒消し踊りだったのを思い出した。

(4月30日ミラノにて)

夜店の明かり

高橋悠治

せまい通りを明るく照らしていた街灯が消えていたのか しぼられていて 店ごとにちがう灯りが照らしている 稲垣足穂の『星を売る店』 だれもいない中学校の図書室で読んだ ガラス瓶のなかの金平糖 色とりどりの星

戸島美喜夫が亡くなって2ヶ月になろうとしている はじめて会ったのはいつだったか 1960年代のグループ「音楽」だったのか 次には 鶴見良行のバナナの本による『絵とき唄とき・バナナ食民地』を水牛楽団で演奏し そのとき水上勉の戯曲『冬の棺』のために書いた音楽にもとづいたピアノ曲『冬のロンド』を弾いた それが1980年名古屋だったから その前から会っていたはずだが

その後 水牛楽団がタイに行ったときもいっしょだった あれはいつだったのか 内灘にもいっしょに行ったような気がする それからは名古屋に演奏で行くたびに会っていたし 家に泊めてもらっていた 東アジアの民謡のメロディーや そのスタイルの劇中歌から作られたピアノ曲を何度も弾き CD にもした

ことばの抑揚からメロディーが生まれるなら その音のうごきやリズムの なにげなく通りすぎてゆく足どりの わずかなためらいや陰りに 震えている気配を感じるか たとえ感じても そこで足をとめず かすかに向きを変えたり 息を継いで 続けるだけで その後の色が一瞬濃くなるような

戸島美喜夫が妻の音楽帳に書いた『鳥のうた」 カタルーニャのクリスマスの歌 といっても だれでも知っているあのメロディーよりは それを縁取る装飾 音のあそびの慎ましさとおちつき 「薄氷を踏むような」というたとえ 何かを加える「編曲」ではなく 「そこに影を落とす」ありかた と言っていいのだろうか

最後に会ったのは昨年9月 名古屋で山田うんのダンスのためにサティを弾いたとき 2回来てくれた いつもと変わった様子はなかったが

璃葉が書いていた ・・・父はいよいよ容態が悪くなる前日まで、本当にたのしんで生きていたからだ。起き上がれず横になったままでも、せん妄が激しくなっても、首を少し起こして、たばことコーヒー、夜はビールとワインを飲んでいた。とてもうれしそうに。・・・(『水牛のように』2020年3月号)