239 金で買った言葉よ

藤井貞和

言うなかれ どんな野蛮も
予言のまえに
ひれふしてあれ
こがね色の言葉を与えよ
どうせ
金で買った言葉である
使わなきゃ損 只じゃねえ
 
受講生に
小売りの小売り
詩がよい子向けに
なっちゃお仕舞いよ
軽石みてえな
軽い詩はもうたくさんよ
金の使いどころ
 
坊っちゃんが
こんな奴ラは
沢庵石をつけて
海ン底へ沈めちまう方が
日本のためだア
というものだから
重い石を買おうよ
 
言葉よ
きのうは語る
ない火灯し
げつめいに踊る骨
経蔵をひらき
墨を擦って
字にうずくまれ

 
(文法というのは無意識界を明るみに引き出すようなことだから、どこか不快な、嫌われる要素を避けられない。無意識界は明るみに引き出しても、「ああそうですか」で終わる。また無意識界へ帰ってゆくから、無償であることはまちがいない。それに対して言葉一般は意味を持って売り買いできるというようなこと。忘れて。)
 

水牛的読書日誌 2024年10月(斎藤真理子、李良枝、ハン・ガン)

アサノタカオ

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』(編集グループSURE)を読了。朝鮮語翻訳者の斎藤さんが、作家の黒川創さんら編集グループSUREに集う人々と語り合い、多彩な資料を示しながら日本の韓国文学の翻訳史を整理して紹介している。韓日の文化の橋渡しに尽力した歴代の在日翻訳者たちに光をあてる、すばらしく充実した内容だった。語り下ろしの本ということもあり、読みやすい。

1990年代、地方の大学生だったぼくは図書館や古書店の棚をさまよいながら、韓国文学の翻訳を読み始めた。新刊書店で韓国文学の本を見かけることはほぼなかったと思う。何がきっかけかは忘れたが、当時から見ればひと昔前の「抵抗文学称揚の時代」(『在日コリアン翻訳者の群像』)に出版された本をこつこつと集め出し、さらにひと昔前の「北朝鮮文学優勢の時代」に出版された本を遠望していた。そして2000年代に入ってなお、「抵抗文学称揚の時代」を象徴する金芝河詩集(姜舜訳)を片手に奇妙な熱弁を振るう自分に対し、韓国からの留学生の友人は「アサノくんさ、いまの韓国の人は金芝河を読まないよ。ほかにもいい詩人や小説家がたくさんいるんだから」と冷ややかな言葉を浴びせるのだった。そうなのか、と目が覚めた。

ならば、現代の韓国文学をもっと読みたい。でも韓国語ができないし……。そんなもどかしい気持ちを抱えていたぼくが頼みの綱としたのが、在日の文学者・翻訳者の安宇植(1932〜2010)だった。当時の安宇植は、申京淑など同時代作家の作品の翻訳に取り組み、評論の執筆から新聞・雑誌への寄稿までをこなし、現在の斎藤さんと同じように、韓国文学の紹介で八面六臂の活躍を見せていた。

『在日コリアン翻訳者の群像』を読んで、文学者としての安宇植の歩みを知ることができてよかった。1950年代後半の在日朝鮮人の詩誌『プルシ(火種)』のメンバーだったことから、安宇植が詩人だった可能性を斎藤さんは示唆している。おもに在日二世の文学青年たちが集い、朝鮮語詩を発表していた。『プルシ』の3号は日本語版で翻訳詩から構成され、朝鮮文学のみならずロシアや欧米の海外文学(レールモントフ、アラゴン、ラングストン・ヒューズ……)を紹介し、近代朝鮮文学を代表する尹東柱や金素月の詩の英訳も掲載するなど意欲的な企画に取り組んでいるものの、この号を発行後に休刊。多言語が呼びかわす誌面に、若き在日青年たちののびやかな〈世界文学〉への思いを見る斎藤さんは、「胸が躍ります」と語っている。その言葉を読んで、ぼくの胸も躍った。

10月某日 早逝した在日コリアン2世の作家・李良枝の文学碑を訪ねるため、彼女が生まれ育った山梨へ。2022年、没後30年に出版された李良枝のエッセイ集『ことばの杖』(新泉社)の編集を担当したことがきっかけで、妹の李栄さんとの交流が続いている。富士吉田の新倉山浅間公園に文学碑が建立されたことを栄さんから聞いていて、一度見に行きたいと思っていたのだ。ちょうど、李良枝に関するエッセイを書き上げたところだった。

富士吉田にはぼくの母方の親戚がいて、マレーシア在住の従姉妹が一時帰国しているという。コロナ禍もあり、親戚とはしばらく会っていなかった。ならば久しぶりにみなで集まって墓参りもしようと、妻と娘と一緒に出かけることにした。

初日は、富士山麓の湖のほとりの森のなか、従姉妹の営む一棟貸しの宿に滞在。翌日、墓参りを済ませたあと、従姉妹の父親である叔父のIさんに新倉山を案内してもらった。山の中腹には、富士山を一望できる撮影スポットがあり、外国人観光客の長蛇の列ができている。文学碑はその脇にひっそりと立っていた。
 
御影石の碑には、『ことばの杖』にも収録された随筆「富士山」から引用された文章が刻まれていた。「すべてが美しかった。それだけでなく、山脈を見て、美しいと感じ、呟いている自分も、やはり素直で平静だった」

在日1世の両親の不和ゆえの幼少期の暗い記憶とともにあり、「日本的なものの具現者」として憎んできた富士山。その風景を李良枝が受け入れるには、長く複雑な心の道を歩かなければならなかった。「韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を愛している」と作家は続ける。たどりついた個としての「素直で平静」なまなざしの深さにあらためて打たれた。

ぼくの祖父は富士吉田で学校の教師をしながら民俗学や郷土史の研究をしていて李良枝の父と交流があり、親戚には少女時代の彼女に日本舞踊を教えた師匠もいる。叔父のIさんは、やはり早逝した李良枝のふたりの兄と親しく、お互いの家を行き来するほどの仲だったので、亡き友をめぐる思い出話を懐かしそうに語ってくれた。

10月某日 韓国の作家ハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞した。韓国の作家で初、アジアの女性で初のノーベル文学賞受賞ということで、飛び上がるほどうれしい。ここ数年、ハン・ガンさんの作品を愛読してきたので、日本語の世界に届けてくれた翻訳者と出版関係者への深い感謝の気持ちが込みあげてきた。

ノーベル文学賞の発表前、非常勤講師を務める大学の編集論の授業で「今年は誰が受賞するか」をテーマに話したのだった。過去十年の受賞者の傾向を分析しつつ、アジアから受賞者が出る可能性があることを指摘し、有力候補と報道されていた中国の作家・残雪氏の名前を挙げておいた。

授業を終えて校内の控室に残り、日本時間の午後8時から始まるスウェーデン・アカデミー選考委員会の発表式を、オンライン配信で視聴。どきどきしながら耳をすませていると、「韓国の作家、ハン・ガン」という英語のアナウンスを聞いて驚いた。いつか受賞するとは思っていたが、まだ早いと考えていたのだ。歴代の受賞者のうち、50代前半の作家はそれほど多くない。選考委員は「ハン・ガン氏の力強い詩的な散文は歴史的なトラウマに向き合い、人間の生のはかなさをあらわにしている」と評価していた。

ハン・ガンさんは詩人としてデビューしているのだが、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)の日本語版の編集をぼくは担当している。世界的に見て、声にならないものに声を与える仕事にもっとも真摯に取り組む作家のひとりであることは疑いない。そんな彼女の文学を紹介する仕事に間接的でも関われたことは、光栄で誇らしい。

ところでハン・ガンさんの文学を日本で普及する道を開いたひとりが、出版社クオンの代表・金承福さんだ。今から13年前、「新しい韓国の文学」シリーズの第1弾として小説『菜食主義者』(きむ ふな訳)を刊行。その後も作家の代表作となる小説やエッセイの翻訳を出版し、「セレクション韓・詩」の創刊時には、満を持して『引き出しに夕方をしまっておいた』をリリースした。

金承福さんは、「『韓・詩』のシリーズはハン・ガンさんの詩集からはじめたい」と打ち合わせ時に明言していた。そして「欲を言えば、日本の読者にとって韓国の詩への入り口になるような本にしたい」とも。この本には訳者のきむ ふなさんと斎藤真理子さんの対談「回復の過程に導く詩の言葉」を収録しているのだが、これは金承福さんの熱意を受けて企画したのだった。訳者ふたりのお話のおかげで、作家の詩や小説のみならず、韓国文学の歴史を理解するための絶好のガイドと言える内容になったと思う。

10月某日 昨年、奈良県立図書情報館で「韓国文学との出会い」と題してトークを行った。企画してくださったIさんが亡くなったことを知る。ご冥福をお祈りします。

トークでは、安宇植の韓国文学の翻訳に大きな影響を受け、読者として恩義を感じていることを中心に話したのだった。安宇植はハン・ガンさんの父で作家の韓勝源氏の小説『塔』を共訳している。これは角川書店が韓国の作家に未発表の書き下ろしを依頼して1989年に出版した本で、今から考えるとすごい話だ。

奈良県立図書情報館でのぼくの出番の前に登壇したのが、斉藤典貴さんだった。晶文社の「韓国文学のオクリモノ」という名シリーズを世に送り出した編集者で、2017年に創刊されたこのシリーズから受けた衝撃については、『「知らない」からはじまる——10代の娘に聞く韓国文学のこと』(サウダージ・ブックス)という本のなかで書いた。付け加えるならこのシリーズは、実力ある女性の韓国文学翻訳者たちの存在を、ひとつの「チーム」として世に知らしめたことにも大きな意義があったのではないか。翻訳者として関わったのは斎藤真理子さん、古川綾子さん、すんみさんの3人。

現在も勢いを増し続ける韓国文学の翻訳出版に欠かせないこうした女性翻訳者たちの多くは、大学研究者ではない非アカデミックという点において歴代の在日翻訳者たちとも共通する立場にあり、ぼくはそこに何か大切な精神史の流れがあると感じている(安宇植は桜美林大学の教授を務めていたが、それでも在野的な精神をもつ存在だったと思う)。

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』には「アサノタカオさんという編集者の方が、神奈川近代文学館に行った時に、「プルシ」を見つけて、黄寅秀さんの部分だけコピーして送ってくれた」とある。

編集者であるぼくには、秋のリスがほほ袋に食べきれないほどドングリを詰め込むように、図書館で少しでも気になる資料を見つけたら片っ端からコピーをとって持ち帰る習性がある。その習性が役立ったわけだが、補足すると、在日の英文学者・翻訳者の黄寅秀が『プルシ』に寄稿していたという情報は、文学研究者の宋恵媛さんの大著『「在日朝鮮人文学史」のために——声なき声のポリフォニー』(岩波書店)を読んで知り、そもそも宋恵媛さんの本の重要性は斎藤さんに教えてもらったような気がする。なのでこの資料の存在は、自分が「見つけた」というより、届くべき人の元におのずと届いたということだろう。

宋恵媛さんは今年2024年、望月優大さんとの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)で講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。宋恵媛さんの仕事に関しては、2005年刊行の『金石範作品集Ⅱ』(平凡社)の解題で在日作家・金石範氏の文学における「女性への眼差し」について忖度抜きの鋭い問題提起をしているのを読んで以来、注目してきたのだった。

10月某日 自宅で編集の仕事をしながら、SNSの音声配信で作家の深沢潮さんのお話を聴く(以前、小説『緑と赤』(小学館)を読んでとてもよかった)。深沢さんはノーベル文学賞の話題から、ハン・ガンさんと李良枝には「身体性を大事にしている表現者」という点で通じるところがあると語っていて、大きくうなずいた。言葉と身体の関係性をめぐるハン・ガンさんの小説『ギリシャ語の時間』の文章と李良枝の芥川賞受賞作「由熙」の文章を並べると、個々の作品の文脈を超えて強く響き合うものがある。

 「血が流れていない血管の内部のように、またはもう作動していないエレベーターの通路のように、彼女の唇の内部はがらんとあいている。依然として乾ききったままの頬を、彼女は手の甲でこする。
 涙が流れたところに地図を書いておけたなら。
 言葉が流れ出てきた道を針で突き、血で印をつけておけたなら。」
  ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)

 「由熙の二種類の文字が、細かな針となって目を刺し、眼球の奥までその鋭い針先がくいこんでくるようだった。
 次が続かなかった。
 아の余韻だけが喉に絡みつき、아に続く音が出てこなかった。
 音を探し、音を声にしようとしている自分の喉が、うごめく針の束につかれて燃え上がっていた。」
  李良枝「由熙」『李良枝セレクション』(温又柔編・解説、白水社)

10月某日 東京の文化センターアリランで開催される「アリラン・ブックトークVol.12」で、李良枝『ことばの杖』が紹介されるという。ゲストは李栄さんなので参加したかったが、仕事の出張と重なり会場には行けなかった。後日アーカイブ動画で視聴しよう。

月1回のペースで参加している海外文学のオンライン読書会。来月の課題図書がハン・ガンさん『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)に決まった。1948年の済州島4・3虐殺事件をひとつの背景にした長編小説だ。2008年に家族とともに旅した済州島の風景を思い返しつつ、再読している。

話の話 第20話:只者ではない

戸田昌子

只者ではないが、どこかツッコミどころのある人、というのがいる。大学の事務補佐をやっていたニーモト君という人がそういう人で、あまりに賢くて有能なので、仕事を個人的に手伝ってもらったことが何度かある。このニーモト君の有能さはたとえばこんな感じだ。出校時、わたしは授業の配布資料を人数分コピーしてもらうため、朝、家を出るまでに事務室へ送るようにしていた。事務補佐の仕事は、そのデータをプリントアウトして200~300部の配布用コピーを作ることなのだが、このニーモト君は頼んでもいないのに、資料の内容の校正をしてくれるのである。個人名の正誤や図版のナンバリングに至るまで、丁寧にチェックしてくれる。そして「この箇所、間違っているので直しておきますね」と通勤中のわたしにメールをよこす。わたしがOKを出すと、大学に到着したときには、修正原稿とコピーが定位置のテーブルの上にきれいに並んでいる。

しかし、ニーモト君の凄さはそれだけではない。頼んでいないのも関わらず、授業で使えそうな書籍や雑誌などの資料まで用意してくれるのである。ニーモト君がわたしの配布資料のデータを目にするのはたいてい当日の朝、授業開始前3時間ごろだから、資料を探し出す時間などほとんどないはずなのに、研究室の本棚や大学図書館などのアクセス可能な場所から資料をぽいぽいと抜き出して揃えてくれるのである(念の為だが、頼んではいない)。そしてときに、ニーモト君の所蔵資料が含まれていることもある。どうやら通勤前にわたしのメールをチェックできた時には、関連資料を自宅から持参してくれているようなのだ。

もちろんこんな仕事は事務補佐の仕事には含まれない。言ってみれば個人秘書の仕事である。ニーモト君は写真をやっている人だから、どうやら個人的な興味があってわたしの資料を揃えてくれていたようだった。そんなこともあって、ニーモト君にはときどき日給を払って我が家までアシスタントに来てもらっていた。わたしの監修本の作品リストのチェックとか、フィルムや資料のスキャニングとか、だいたいわたしが苦手な算数が含まれる仕事のときにはニーモト君に仕事をお願いする。図版の数を読み合わせながら確認していく作業のとき、「1個どうしても足りないねぇ、数が合わないわ」とわたしが言ったら「さっき戸田さん16のあと18って言ってましたよ」「……あら」なんてことは、よくある。

わが娘が「おそ松さん」にハマっていた頃。ある日、我が家にやってきたニーモト君は缶バッチの入った大きなビニールの包みを抱えていた。「これ、娘さんにどうぞ」。袋を開けると、軽く100個以上の「おそ松さん」の缶バッチが入っている。「え、これ」「差し上げます」「ええ!」と驚いたのだが、聞くと、大学でたまに行われる不要物の交換会で、無料で手に入れたものだという。「娘さんが好きだって言われていたから、もらってきたんです」「うわあ、ありがとう!」と受け取ったけれど、わたしは娘が「おそ松さん」が好きだ、という話しをニーモト君にしたのかどうかすら、覚えていない。きっとしたのだろう。この、只者ではない気の回りようには、時々、怖くなる。

このニーモト君は出身が広島なので、当然のように「広島カープ」の熱烈な支持者である。週に一度の出校時、いつもさまざまなデザインのカープTシャツを着てくるのだが、どれもとてもいいデザインで素敵である。カープファンでなくとも着てみたいと思うようなものばかりだ。そのうえニーモト君はわたしの前で、一度たりとて同じシャツを着ない。わたしの出校日は水曜日なので、どうやら同じ曜日に同じシャツを着ることがないように配慮しているようだった。すごい神経の回しようである。そんなニーモト君がある日、我が家に来たとき、カープではないうさぎのキャラクターのシャツを着ていた。意外さにちょっと興奮したわたしが、「わ!今日はかわいいね!ミッフィー?」と自信満々に言ったらば「マイメロです!」と、なんとなく怒った感じの低い声で返されてしまった。あ、すみません。

先日、イサキを買って帰ったら、娘が「誰よその女」とボケてくれました。わたしの方はと言えば、「あー、スズキ君の彼女?」と答えておきました。毎回逃さずいいボケをしてくれる娘。決して只者ではない。

むかし、大学新聞の友人や後輩たちと、「益子へ行こうぜ!」となって、5、6人で車に分乗して益子まで行ったことがある。益子と言えばもちろん陶芸の益子焼である。陶芸センターで手びねりの陶芸体験ができるというので、皆で手びねりをしながら、わいわいおしゃべりをしていた。いつも何かとネタにされやすいタイプのわたしは、「戸田さんならこうするでしょう」「なにを言っているんですか、戸田さんともあろう人が」などと、会話のなかでしょっちゅう槍玉に上がる。すると、それをしばらく黙って聞いていた、陶芸体験コーナーの担当の女性が、重々しく一言「……その戸田さんというのは、曲者なんですか?」とわれわれに尋ねた。いやそれはわたしです。いや、違う、それはわたしではない。などとうろたえたわたしの前で、友人たちは「曲者っていうか、まあ只者ではないよなー!」などとウケて、笑い転げていた。

あるとき、鳩尾と京都の蚤の市をうろうろしていたら、根来椀を売っているおばさんがいた。朱色のこれにしようか、それともこの黒っぽいのにしようか、などとわたしが悩んでいたら、わたしの後ろにいたそのおばさんが外国人のお客さん相手に「ウェアアーユーカムフロム(あんたどっからきてはるの)」と尋ねているのが耳に入った。女性のお客さんは「アイムフロムイタリー(イタリアから来ました)!」などと答えている。おばさんは「ああ、そうなの、イタリアからカムフロム。サンキュウ!」と威勢よく返答している。この「サンキュウ」は明らかに「おおきに」のイントネーションである。それを聞いていたわたしと鳩尾は笑いを噛み殺すのに必死である。言語学的な誤謬など、ものともしない商人のこのコミュニケーション能力。決して、只者ではない。

「どんなお金も大きく見えちゃう、ハズキルーペ。それで、つい借金しちゃう」と、背中の後ろで娘がひとりごとを言っている。いや、つい借金なんて、してませんよ?

そういえば、ラブレターなどというものはついぞもらったことがないのだが、これがラブレターだったら素敵だなぁ、と思うようなEメールをもらったことがある。決して告白ではないのだけれど、もしそうだったとしたら、只者ではないセンスである。それは下記のようであった。

Tonight, I took a walk on the street. Suddenly it started raining.

In the beginning,
/ / / /

Next,
/ / / / / / / / / / / /

And then,
// // /
// // //
// // /// // //
///// /// /// ///
/// /// //// /// ///

In the end,
////////////////////
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どうやら彼は、最後はひたすら、スラッシュのざあざあ降りの雨に打たれて帰ったようであった。

このメールをくれた少年は当時19歳だったのだけれど、ニューヨークで何度か会って、ダイアン・アーバスの写真展をホイットニー美術館に見に行った記憶がある。わたしはそのときひたすら、生まれたばかりの可愛い姪っ子に夢中で、写真を見せてはその話をしていたらしい。その子はそもそも、ユースホステルの中庭で話しかけてきた子で、今思えばナンパみたいなものだったような気もする。カリフォルニアに住んでいた韓国人の子で、親元を離れてニューヨークの大学を見学しに来ていたのだった。その後、わたしがニューヨークに落ち着き、彼もニューヨークに住むようになり、たまに会っていたのだけれど、ある日、髪を短く切ったわたしの顔をみて、ひどく残念がったことがあった。なんだか落胆させたんだな、と思い、その後は一度も会わなかった。

その10年後、彼がいきなりメールを寄越したのである。ぼくブライアン、覚えてる?と言うので、覚えてるよ、あなたこんなメールくれたよね。そう言って上記のメールを添付すると、「うわ、こんなメール書いたんだね。なんだかぼくってナイスガイみたいだ!」とびっくりして喜んでいた。わたし子どもが生まれたよ、とわたしが話すと、「きみの子どもはきっとすごく美しいんだろうな。あのね、知ってる?ぼくは君の髪型が、とにかくとっても好きだったんだよ。切ってしまってほんとうに残念だった」。うん、知ってます。でも結局、そこは「髪型が」なんだなぁ、あくまでも、と思いつつ、突っ込まずじまいで終わった。その後、彼のメールアドレスもこのメール自体も、パソコンの切り替えですっかりなくなってしまった。

娘がわたしにつけつけと文句を言っている。

娘「わたしのほうがパパよりもママのことを愛している!」
わたし「でも、パパはママと結婚してくれたよ!」
娘「それって、新手のものすごい長いタイプの結婚詐欺なんじゃないの?」

ああ、なるほど、そういう考え方もある。わたしは騙されているのだろうか。確かにそう考えると、家父長制度における結婚などというのは、女にとっては詐欺みたいなものだ。「婚姻」をして家に縛り付けることで、家政婦、乳母、そして介護要員として無償労働させられるわけだから、などと、考え始めてしまう。すると隣の部屋でパソコンに向かって黙って仕事をしていたはずの夫が口を挟む。

「やつはとんでもないものを盗んでいきました、あなたの人生です!」

ああ、それはあなたの大好きな「ルパン三世 カリオストロの城」ですね。この引き出しの多さ、見事な自虐。実に、只者ではない。

『アフリカ』を続けて(41)

下窪俊哉

 先月、SNSで増井淳さんから鶴見俊輔に「『ヴァイキング』の源流」という文章があると教えてもらったので、図書館で探して読んだ。講演の文字起こしが元になっていて、副題に「『三人』のこと」とある。この「『アフリカ』を続けて」は初回に『VIKING』の話を置いてあり、増井さんはそれを読んでくださったようだった。
『三人』というのは『VIKING』よりもっと前、富士正晴、桑原静雄、野間宏の三人によって1932年に創刊された同人雑誌で、命名は彼らの師匠である詩人・竹内勝太郎だったらしい。それから井口浩が入って四人になっても、その後何人に増えても『三人』は『三人』のままだった。終刊は1942年(大東亜戦争開戦の翌年)の28号で、富士正晴記念館の冊子で読める日沖直也「富士正晴 人と文学」によると「同人誌統合の内務省指示が出されたのに対し、統合は意味がないからと富士がほとんど独断でふみ切った」。
 竹内勝太郎は『三人』創刊の3年後、黒部渓谷で足を滑らせて遭難し、40歳で亡くなった。彼の作品が残っているのは、富士さんが師匠の原稿、日記、手紙などを遺族から譲り受け、遺す仕事を殆ど人生をかけて行ったからだ。そのへんのことをじっくり書いていたら長くなるので今回はやめておくけれど、私は編集者としての富士正晴にずっと興味を抱き続けている。
 鶴見さんは「『ヴァイキング』の源流」の中で、こう言っている。

師匠そのものは、全然有名ではない。無欲な人で、それはもうはっきりしている。無欲な努力家。この世の中に、無欲な努力家がいるっていうことが光源になって、青年をひきよせている。無欲な努力をまのあたりに見ることは、そりゃあ大変なことですよ。人間みんな欲ばりで、欲の皮つっぱらかして生きてんのさ、ハハハッて、そこでもうすわってしまう。これもひとつの悟りをひらいたことになるんだろうけどね、なーに、かくしてるだけさおんなじだ、なんていう、それも楽でいいけどね。そうではない人間がいるっていうかんじね。そこが光源になっている。

 ここで「無欲な人」と言っているのは、何の欲も持たない人がいると言っているのではない。彼はさまざまなことを経て、考え抜いた末に、ある意味ではやむを得ず、そういう生き方を取ったのだと私は思う。富士さんは竹内の死後、『三人』で企画した追悼号で「竹内勝太郎譜」を編むために日記を読み、「彼の苦渋に満ちた一生を知って驚嘆し、ますます、竹内を出版することを自分の責任と感ずるようになった」と書いている(「同人雑誌四十年」より)。鶴見さんは「文化に対する権勢欲から自由なところをつくろうということを、初めから動機としてもっていたから、逆にこれは、それを体現した一人の人間が死んだあとも七年、その生前からかぞえて合計十年続いた」と言う。
 権勢欲、つまり文芸やら何やらの業界(文壇、論壇などと言えばよいか)を強く意識して、そのような雑誌をやる人たちもいるのである。というより、何をやるにしても、その権勢欲から自由である人の方が珍しいのかもしれない。

 私にもそういう欲があるのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。しかし(いまの、あるいは今後の私にではなく)『アフリカ』と、それを出しているアフリカキカクにはないと断言できそうだ。これまでもくり返し書いてきた通り、『アフリカ』は権勢どころか身近にあった文芸の取り巻きにすら「背を向けて」始めた雑誌だったのだから。
 2008年4月、小川国夫さんが亡くなって告別式の前夜祭に参列した際に、山田兼士さんと話していたときに誰かが『アフリカ』の名を出して、「えっ、それは何? 下窪くんがつくってるの?」と驚いたような顔で言われたのを覚えている。私の学生時代にはボードレールや福永武彦を楽しそうに教えてくれたその山田先生が『びーぐる』という詩誌を始めたのはいつだったか、と思って調べたら、その年の秋だったようだ。私はそんな身近にいた人にすら、届けていなかった。
 ある歌の文句によると、自由とは、何も失うものがない、ということだそうだ。当時の私は、そんな状況にあり、というよりそんな状況に自分を一度追いやって、『アフリカ』はそれを体現したということになるんだろう。もちろんそこまで考えた末のことではなく、やむを得ず、そうなったということなのだが。

 さて、私がどうしてこんなことを毎月くどくどと書いているのかというと、『アフリカ』という雑誌がどうしてこんなに続いているのだろう、という、その謎を探ってみたいからだ。他人事のように言うと、興味があるのである。
 いつまでも続けて、自由であることなんて、可能だろうか。鶴見さんの言う「光源」がどんなものであるか、ということが重要なのではないか。

 いま『アフリカ』は”大きな再出発”の号からその先へ進もうとしているが、しかし、というか、やはり、というか、思ったようにはゆきそうにない。年3冊のペースでやってゆこうなどと言っていたのも、数ヶ月たてば、様子が変わっている。私はそのことをダメだとは思っていない。予定は、いつでも未定なのだ。いつでも止めていいと思っているし、続けてもいい。未来は、わからない。というより、ここまで予想のつかなかった未来へ来てみて、いまさら予定変更も何もない。

 〆切があると書ける(つくれる)という話は、今も昔もよく聞く。〆切があるから書けるのはなぜかというと、現実的な計画が立つからだろうか。見方によっては〆切に遅れたことすら、書き手の背中を押す。”大きな再出発”となったらしい『アフリカ』最新号も、故・向谷陽子さんの家族が展覧会を企画して、それに合わせるかたちで出来た。しかし、私はよくわかっているつもりだが、その後には何ということもない「その後」が続くのである。私は本を、雑誌をつくることをお祭りにしたくない。イベントにしたくない。と、ずっと考えている。ワークショップ(工房)ということばのイメージを好きなのも、そこに流れている時間が日常のもので、続いていると感じられるからだ。そうあってほしいと夢みているのだ。今の時代は日常を夢みることがとても困難になっていると感じる。夢は、じつはとても近いところに転がっていて、私たちを待っているのかもしれない。

しもた屋之噺(273)

杉山洋一

日本は暖かいと聞いていたものの、東京に降り立ってみて思いの外肌寒いのに驚きます。この辺りの街路樹の葉も心なしか色づき始めているようにも感じます。山のあたりなら、もうすっかり燃え立つ紅葉に染まっている頃に違いありません。今月は、数年かけて準備してきた「ローエングリン」の公演があったので、備忘録をかねて、日記を転記してみます。

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10月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの合間、楽屋の明かりを消し、並べたソファーに寝転がって目を閉じると、隣の楽屋から熱心に稽古する橋本さんの声が聞こえてきて、喉を殊更に酷使する作品だから疲れないかしらと心配になった。そのとき、外からカモメの鳴声が聞こえてきて、ふと甦ってくる光景があった。

数年前、パレルモのマッシモ劇場で、イタリアの名優、エンニオ・ファンタスティキーニと「盗まれた言葉」という朗読劇をやった時のこと。ファルコーネとボルセッリーノがマフィアに爆殺された時のさまざまな証言を、ファンタスティキーニはある時は淡々と朗読し、またある時は涙を流しながら演じた。

本番前、となりの部屋の小さな縦型ピアノで、ファンタスティキーニは器用に素朴なラグタイムを弾いていて、そして海辺だから、やはり海鳥が啼いていた。そういえば、シャリーノはパレルモの生まれだった、などと思いを巡らせているうち、眠り込む。素晴らしい舞台だったが、翌年ファンタスティキーニが死んでしまい、到底他の俳優で再演したい、という気持ちにはなれないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。あの時だ、本当に言葉のもつ途方もない力に圧倒されたのは。テレビや映画で見ているファンタスティキーニではなく、舞台上から放たれる信じられないようなエネルギーに、満場の観客もオーケストラも、もちろん指揮者も、酔いしれたものだった。

今日から大ホールに場所を移して、橋本さんとオーケストラ、音楽稽古とそれに続く演出稽古をこなす。音楽稽古の最初一時間ほどかけて、先日と同じように三階から音響のバランスを聴きながら、菊地さんときめ細かい調整をしたのだが、指揮台の矢野君が、舞台の橋本さんと、ピットの成田君率いるオーケストラに手際よく采配をふるう姿に、深く感動していた。家人のところにピアノを習いに来ていたから、彼が高校生だった頃から知っているけれど、本当に立派な音楽家になった。

続いて、自分がピットに入って演奏をリハーサルを始めると、橋本さんが喉で鳴らす音と、舞台の床が軋む音が似ていて一瞬当惑する。喉音は口を噤んだまま出すから、彼女の口元を見ていても分からない。

一場について橋本さんは、17歳で時間が止まったままのエルザと現実の40歳のエルザを、どう合わせてゆこうか考えていると話していて、どちらとも限定せずたゆたって欲しいと伝える。限定的にならず、具体的にならず、説明もしない。観念化せずに、声の色彩だけを変化させてゆくことで、音の様々な可能性が広がる。この数日だけでも橋本さんは声のパレットが物凄く豊かになっていて、その成長ぶりに誰もが目を見張っている。会場の空間と対話しているようにも、遊んでいるようにもみえる。

フルートが吹き上げるジェット・ホイッスルと、橋本さんの声の音域がちょうど一緒で、同時に鳴らすと、フルートの音が全く聴こえなくなる。

夜、本目さんと市村さんに「青葉」に連れて行ってもらい、台湾薬膳料理に舌鼓。美味。

10月某日 三軒茶屋自宅
息子が実技試験で満点を取ったとの連絡あり。何より、本当に気持ちよく演奏出来たらしいから、本人もそれは嬉しいだろう。この夏草津でカニーノさんと過ごした時間の深さを、先月彼が弦楽オーケストラを振る姿からも感じていたが、自分がやりたい音楽の姿勢を見つけつつあるのかも知れない。この先、音楽を続けるかどうかとは関係なく、人生をどう生きたいのか、そのきっかけを見つけてくれたなら、親としてこれ以上の喜びはない。

稽古の後に橋本さんと話す。「四場が好きすぎて、思わず感動しそうになっちゃって。ああ、いけないと気を取り直したりして」。

あまりの感激に、つい自分の裡に埋没しそうになるのだと言う。自身の奥底深く沈みこんでしまうと、その思いは客席に届かなくなるかも知れないが、オーケストラと彼女が互いにしっかり繋がり、共感しあっている限りにおいて、舞台上の社会性が消失することはないだろう。

「せっかく声で色々出来るようになってきたのに、もうすぐ終わりだなんて、とても残念で寂しいです」と仰っていらしたが、四場最後に橋本さんが発する声は、とても素朴でありながら途方もなく感動的で、演奏者誰もが聴き惚れている。橋本さんは、オーケストラの楽器音に触発されて、さまざまな声が湧いてくるようになった、と話していらしたが、それと同時に、オーケストラや合唱も、橋本さんの声に反応して、魔法のように音色が変化した。

「殆ど光って、かすかに」と嚙みしめるように呟いた後、「殆ど光ってかすかに、あああそこに…、そこに」、と眩しさの中心に吸い込まれそうになりながら、でも決然と発する声を聞くたび、いつも鳥肌が立つ。あの場面で今日の成田君たちが紡ぎだした弦楽器の音は、きらきらと耀いていた。初めは遠くからかそけく指の間を滑り落ちるような光が輝く砂のようでありながら、呆気にとられて見つめる我々は目の前の燦然たる光源が吞み込んでゆく。

闇に向かって語る、「静かすぎる」という彼女の沈黙の深さに、誰もが圧倒されている。「エルザ?」と呼びかけられ答える弦楽器の音が、いつも少しずつ違う音がしていて、舞台上のエルザとオーケストラは、あたかも目の前で同じ映像を眺めているようである。

リハーサル後、真野さんと中野さんと矢野君と連立って、天王町「タヴェルナ・クアトロ」にて演劇話。確か四月終わり、大学入学後すぐに企画した校内演奏会で、新垣君と成沢君と三人でピアノを叩いたり擦ったりする傍らで桐朋演劇科の女優3人に30分間喘いでもらって、満員の会場でブソッティ「Per Tre」を演奏した話など。気分を悪くした女学生数名発生。シチリア風鯛の姿蒸しが大層美味であった。

10月某日 三軒茶屋自宅
橋本さんは、ご自身とシャリーノの世界を音の宇宙を介してつなごうとしている。彼女自身が翼を身に纏ったおおとりとなって、空に翔けだす姿を見るよう。

オーケストラと舞台上の彼女をつなぐ糸は、本番を通して寸時も途切れも弛みもなくぴんと張ったまま、心地良い緊張で我々を支えていたが、同時に橋本さんは何かを突き抜けすっかり自由な表現にまで到達していて、深い感銘を受ける。

「瓦礫のある風景」は、一音も聴き洩らすまいとする聴き手の張りつめた耳が、我々演奏者の感覚をより鋭敏に、鮮烈にすらしてゆく。シャリーノが、「自分の音楽は日本の伝統文化と相通じる感覚があって、それが日本の演奏家や聴き手と良い相互作用をもたらしてくれたら嬉しい」と話していたのを思い出した。

橋本さんより、関係者全員に「初日祝」と書かれたお弁当が振舞われた。すだちとみょうがで漬けた鯖の塩焼き、カニクリームコロッケなど、どれも本当に美味しい。

夜、録音をシャリーノに送った。

演奏会後、矢野君ご夫妻と県民ホール裏Pozziで夕食。遅ればせながら、ささやかなお二人の結婚祝でもある。お二人と一緒に食事するのは、Covidが起きてノヴァラで皆と食事して以来ではなかったか。イタリアに留学してきたばかりの頃、ちょこんと二人並んで聴覚訓練の授業を受けていた頃を思い出し、感慨に耽る。

10月某日 三軒茶屋自宅
緊張のせいか朝早くに目が覚めてしまい、早速シャリーノからのメッセージを確認する。
「ローエングリン、最初から最後まで全部聴きました。今まで聴いてきたものとはまるでちがう。これ自身の姿が在るべきしっかりした形を持っていて、それは驚異的でもあり、目から鱗が落ちるようだった。自分が想像していたものを遥かに超える日本語が持つ力に、心の底から魅了されてしまった。今はヴェニスのホテルに滞在中で携帯電話で聴いただけだから、落ち着いてちゃんと聴きたいところだけれど。ちょっと確認したかったのは、鉄板を震わせる音が携帯電話で聴くと消えているように聞こえるんだよね。これはおそらく携帯電話のせいかな。君の演奏解釈(例えば声、これはびっくりするくらい自分にとっては美しい)には惹きこまれたし、魅了されたよ。3場のクラリネットなんだが、より遅いトリルで演奏できれば、思いもかけなかった声とクラリネットの交り具合や、音楽の連続性も生まれるかも知れないから試してみて…。なんて拍手喝采なんだ! ともかく携帯電話なんかではなく、早くちゃんと聴きたい。本当に心を奪われる演奏で、自分が書いたオペラを再発見した思いだ。女優は実に素晴らしい。そして、演奏者全員、誰もが本当に素晴らしい。本当に満たされたよ。いつもより長くかかっている演奏時間も、オペラをより大きな次元へ紡ぎ直してくれている。おやすみなさい。深く感謝しています。いつまでも」。

本番前のサウンド・チェックの始まりに、演奏者にシャリーノの言葉と感謝を伝えた。橋本さんの表情も少し和らいで、発する言葉には確信が漲っていたのも当然だろう。出番まで楽屋で眠り込んでいたので、舞台に出る直前大平さんに「寝癖がついてますよ」と声をかけられ、直してもらう。実際、橋本さんは二日目の公演で、一日目を遥かに超える表現の幅を実現していた。初めて彼女とリハーサルをした時から、彼女が我々の想像を凌駕する地点へ到達する直感はあったけれど、その予想以上に大きく化けて見事に成し遂げられたと思う。

四場、成田君初めオーケストラの音が、聴いたこともないほど、信じられないほど、美しく切なく、切々と心に沁みた。後で聞くと、橋本さんはあの瞬間、あのビロードのような音に思わず泣きそうになり、「ああ、ここで感情移入してはいけない、最後までやりきらなきゃ」、と気を取り直したと言っていた。あの音は成田君、百留君、東条さん、笹沼君が、そっと弾きだすところだけれど、彼らも涙がこぼれそうだったと話していたから、舞台上の橋本さんとピットのオーケストラは本当に繋がっていたのだろう。

終演後、矢代若葉さんと話しているとき、橋本さんに、ぜひ「火刑台上のジャンヌダルク」を演じてほしい、そう伝えてほしいと熱心にお願いされた。全く同じことを暫く前から思っていたのだが、よもや演奏会直後に、初めてお目にかかる矢代若葉さんの口から聞くとは思わなかった。恥ずかしながら、秋雄先生こそが「火刑台」日本語翻訳を手掛けていらしたのも若葉さんに伺うまで知らなかった。「神の娘ジャンヌ、さあ行くのよ」「ああわたし、遂にこの鎖を断ち切りました!」、と燃え盛る炎の上で絶叫するジャンヌを、橋本さんが演じたらさぞ素晴らしいだろうと、多くの人が彼女の舞台を見て思ったに違いない。

それだけ、彼女の発した声には人の心と魂が宿っていた。エルザが完全に現実の世界に別れを告げるとき、彼女の声は音のなかに溶解してゆく。彼女が誰に向かってその別れを告げているのか上手く書けないが、音から染み出す気体状の何かと、彼女の言葉、息が混じり合い、ホログラムのようにそこに姿が浮かび上がるのを見た。それは確かに烈火から立ち昇るジャンヌの宗教的法悦にも、どこか通じるものがあったのかも知れない。

10月某日 三軒茶屋自宅
北千住の芸大校舎で、長谷川将山さんの「望潮」を聴く。一度通して聴かせていただいた所、素晴らしい演奏で特に注文をつけたい箇所もなかったので、敢えて特に決めた通りにやらず、即興的に演奏してもらう。すると突然、能の「融」の舞台が目の前に現れる錯覚を覚えるではないか。シテとワキの立ち振る舞いだけでなく、囃子方の表情まで見えるようである。書いてある音符が見えるような演奏より、むしろその音を吹いている長谷川さんの音楽が聴きたいのだから、音符が見えなければ見えない程よいと伝える。予めフレーズを決めずに演奏すると、音楽が断片化するどころか、瞬間ごとに耳を研ぎ澄ませて次の音を聴こうとしているから、音楽がより鮮明になるようだ。音が置かれる空間がより三次元的広がりを持って感じられて、遠近感を伴って事象を浮かび上がらせる。尺八とは素晴らしい楽器だとおもう。

吉田純子さんは、先日のローエングリンで、演者と指揮者を「居合のよう」と形容していらしたが、尺八のように深い空間性をもっている楽器では、「居合」を一人で表現するように感じられる瞬間すらあった。一柳慧さん三回忌。

10月某日 ミラノ自宅
「火刑台上のジャンヌダルク」というと、ガヴァッツェーニがナポリのサンカルロ劇場を指揮し、イングリッド・バーグマンがジャンヌを演じた名演が記憶に残る。あの”Giovanna d’arco al rogo”という Fonit Cetraのレコードを買ったのは大学に入ってからだったか。当時イタリア語は殆ど分からなかったが、原語のフランス語の響きに慣れた耳には、ヴェルディとオネゲルが合わさったようで最初は慣れなかった。ただ暫く聴いているうち、イングリッド・バーグマンの素晴らしさに惹きこまれて、いつしかすっかり虜になった。随分後になって、バーグマンが流暢なイタリア語で答えているRAIのインタビューの存在を知った。

バーグマンはスウェーデンの小学校でジャンヌ・ダルクの物語を知った時から、ジャンヌにすっかり魅了されていて、その後演劇を学んでいた間も、その後アメリカに渡ってからも、周りに「自分はジャンヌ・ダルクがやりたい」と熱心に訴えつづけた。しかし当時は、あんな悲しい話は今は流行らない、結末だって悲しすぎると断れ続けながらも、7年後、ジャンヌ・ダルクを演ずる俳優役としてブロードウェイでマクスウェル・アンダーソンの戯曲「ロレーンのジョーン」に主演すると、これが大成功した。それを期に一気にジャンヌ・ダルクが流行り出したので、直ぐにヴィクター・フレミングが映画化したという。オネゲル「火刑台上」は録音を聴いたことがあって、その時から曲は好きだったが、ジャンヌ・ダルク公演1年前、バーグマンの夫ロッセリーニがナポリでオペラ演出の仕事をしていた折、サンカルロの劇場支配人から、何かここでやらないかと提案を受けた。「やらないかって、一体何をです。わたしは歌えませんし、と答えましたら、『火刑台上のジャンヌダルクです』って言われましてね…」。

10月某日 ミラノ自宅
拙宅から徒歩10分ほどのところにある、フラッティーニ広場に地下鉄が通った。もう長い間工事が続いていて、予定を4年だか5年遅くなりつつ完成。この地下鉄が出来るころには、きっと我々はミラノに住んでいないね、などと家族で話していたが、相変わらず同じ場所に暮らしていて、まるで以前からあったかのように、ごく当たり前に日常に溶け込んでゆき、息子は、この地下鉄新線で国立音楽院まで簡単に出かけられるようになったと喜んでいる。
国鉄サンクリストーフォロの鄙びた駅舎だけは残っているが、その地下は見違えるようにモダンな地下鉄駅がどこまでも広がっていて妙な感じだが、何より、地下道で用水路の対岸に出られるようになったのは画期的だ。開通式を開いたばかりで、駅ではバンド演奏などの催しが開かれていて、近所の住人と思しき老若男女が連立って、嬉しそうに駅の方へ歩いてゆくさまは、何だかフェリーニ映画のワンシーンのようだ。

ところで、家人が走ろうとするとき、不思議なことに何故か身体を左右に振り、どてどてと少しアヒルにも似た仕草になるのは昔から知っていた。家人自身そう言っていたし、長い間よほど彼女は不器用なのだろうと思っていた。子供の頃から、運動会でも決まって足が遅かったと聞いていたせいかも知れない。
つい数か月前のこと、家人が股関節を痛めてミラノでレントゲンを撮ったことで、股関節の丸い軟骨の先を安定させる、円盤状の関節唇が生まれつき少々欠けていて、可動域に制限があることが分かった。だから、あんな不思議な走り方になっていたのである。それを知って以来、彼女が凄い形相で走る姿を思い起こすたび、何とも切なく愛おしく感じられるようになった。サンクリストーフォロ駅に向かって楽しそうに歩く、慎ましいアラブ人家族の微笑ましい姿を見ながら、ふとそんなことを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
朝、シャリーノよりメッセージ。
S:「春の雨、まだいるの?」こんなタイトル、アイデア、お前はどう思うかい。
Y: 五月末か六月初めの日本の梅雨を思い出すかな。すごく詩的だし、親近感も覚えるね。
S:「春雨や…」で、はじまる俳句を思い出すな。
Y: すごい記憶力だね。芭蕉も「春雨や」ではじまる句を残している。
「春雨や 蜂の巣つたう 屋根の漏り」「春雨や 蓑吹きかえす 川柳」。どれも美しいよね。
S: サラサラというこの雨音が近づいてくると、耳の内側で血液がめぐるジーという音をもたらすのさ。

10月某日 ミラノ自宅
ノヴァラで息子の演奏を聴く。バッハのハ短調トッカータ、ウェーバーのソナタ2番、それにマルトゥッチが編曲したイドメネオ曲中のガヴォットと「アレグロ・バルバロ」。暫く日本にいて、彼のピアノを聴いていなかったせいか、彼がこんな風に弾けるとは想像もしていなかったから愕いた、というのが率直な感想。10月最初の指揮のレッスンに、モーツァルトの「リンツ」を持ってきた時も、音の質感は以前より充実したと思ったし、音を豊かに歌うことに対して、てらいがなくなった気がしていた。それに関しては、先月ロッポロで弦楽オーケストラと数日過ごしたのが良かったのかもしれないが、しかしノヴァラで聴いた息子のバッハは、明らかにカニーノの響きに少しでも近づきたいと、自らの音に対してひたむきに耳を傾ける姿そのものだった。確かに彼の裡で何かが変わりつつあるのかもしれないし、むしろ自分が欲しているものが、少しずつ見えてきているような印象も受ける。尤も、夏前ごろから彼は定期的にヤクルトを飲むようになったから、案外それが功を奏しているのかもしれないが。

ヤヒア・シンワル殺害。死亡時の映像をSNSで世界中に公開。敵将の首を殊更自慢したいのは、古今東西変わらない。

10月某日 ミラノ自宅
シャリーノが来月日本へゆくので、ここ暫く彼から携帯電話のショートメッセージが届く頻度が高い。朝4時くらいに届くメッセージには、これから仕事を始めるところだ、と書いてあり、6時くらいに届くメッセージには、最初の休憩を取っているところだ、とある。今朝は、朝8時くらいに電話がかかって来て、こちらがちょうど口にタラーリを頬張っているところで、我ながらお菓子を頬張るサザエさんのような声だと笑ってしまった。昨日彼に書き送った来月の東京でのイヴェント紹介文の添削に、わざわざ電話をくれたのである。

「ラテン語起源」と書いたのを、「後期ラテン語起源」に直し、要らない定冠詞を一つ削り、apprendimento(理解) と書くべきところを、慌ててapprensioneと書いたのを直してくれた。apprensione は古イタリア語では理解を意味することもあったが、現在ではほぼ「懊悩」の意味でしか用いられない。しかし、我ながらなぜapprensioneなんて書いたのだろう。

「率直に言うけれど、この文章にはびっくりしたよ。勿論いい意味でね。お前はこれからもっとイタリア語で文章を書くべきだ。こればかりは強く勧めたいね。謙遜なんかしなくていい。今回ばかりは素直に年長者の言葉に耳を傾けなさい。少し頑張って言葉を選んだでしょう。そこが素晴らしいんだよ。そうやってほんの少し背伸びしながら、文章は育ってゆく」。

まさかそんな事を言われるとは夢にも想像もしていなかったので、面映ゆいことこの上なかったが、思えば、イタリア語は普段、学校や仕事の伝達事項程度にしか使っていない。これだけ美しく豊かな言語なのだから、実に勿体ない気もする。

シャリーノ「一通の手紙と六つの唄」の歌詞は、それぞれ原文に則ってシャリーノがイタリア語で書き直している。例えば一曲目の「手紙」は、主人公が三人称の「女」として綴られている和泉式部日記の一節を、和泉式部自身の言葉「わたし」として書き下していて、和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ訳 と記してある。シャリーノが読み解いた日本語を、あらためて日本語に訳そうとしているわけだが、それは和泉式部の言葉であって、そうではなく、確かにシャリーノの言葉にも感じられる。ただ、我々が信じている和泉式部像こそが正しいかどうかも分からないし、案外、実際にはシャリーノが和泉式部日記の裡に自らを滑り込ませて書いた文章の方が、本来の和泉式部に近いことだってあるかもしれない。

今回、「ローエングリン」を普段演奏されないような巨大な会場で演奏し、細部をつぶさに検証することで詳らかになった沢山のことがある。シャリーノの音楽をこう弾くべき、という先入観そのものを、先ず自分自身が拭い去る必要があると思ったし、その先に見えてくる、全く新しい世界観に目を向けるべきだとも思う。

演技という視点から音楽を見つめることで、本来の音楽の本質に気づく切掛けにもなった。俳優がオペラで演技するのと、歌手がオペラで演技するのを比較すれば、俳優には未だこれから様々な可能性が残されているともいえる。

逆に言えば、「一通の手紙…」を、薬師寺さんという歌手と演奏するにあたり、何を大切にすべきかをも教えてくれるだろう。吉田さんがいみじくも「居合」と表現した、極端に研ぎ澄まされた静と動の世界、それを一歩離れて俯瞰すれば、能などに通じる精神性かもしれない。自分が日本人だからか、そうした視点で初めからシャリーノの音楽を読み下すと、軽薄になりそうな気がして抵抗があった。しかし、今回の「ローエングリン」の体験を通して、自分が日本人だ、という先入観こそ、驕りに繋がりかねないとも知った。
和泉式部の「一通の手紙…」を夢幻能の世界観を通してみつめれば、そこには一体どんな世界が広がるのだろう。

イスラエル政府、ガザの国連パレスチナ難民救済事業の活動停止命令。二日前の爆撃で少なくとも60人死亡との報道が、今日は少なくとも93人、と訂正されていた。

北朝鮮軍兵士一万人をクルスク州に派兵。ウクライナ本土に投入されたとの報道も、既にウクライナ軍と戦火を交えたとの報道もある。現在まで首の皮一枚で繋がっていた東アジアの均衡はどうなるのか。

(10月31日三軒茶屋自宅)

前向きなマシュマロ

芦川和樹

マシュマロが、冷凍庫でバクになるまでだいたい2、3年。そのあいだは、矢を刺しておいて、わかるように(これがなんだったか忘れちゃう)。霧を吸うチョコレート。矢というか矢印を、刺すここだよ〜の記し(そうだった、そうだった)。柱が背もたれ、あるいは背骨をかねる。肋骨。上で、じょうで、前を向け。ナッツ。発泡スチロールの家具が、キュルキュルいう。毎日、軽いからいいけど。……矢は、チョコレートに到達し、そこに旗を、つまり矢印を刺しました。紅茶の(紅茶しかむりです)湯気を吸うバク

帽子を冷たいじごくに落としてしまった
バクは、早朝。ツナを
調理するかたわら、釣り竿で
帽子を、ニットになった帽子を救う
まだ早い朝だ、ニワトリが
生まれていなかったから
じごくからツナを、食べに、来ました
帽子にしがみついたマシュマロがいう
冷凍庫
キュルキュルいう家具(箪笥とか)
体勢を低く保ちながらじりじりと
前進するホクロ
途中でクリーニング屋に寄っていい、いい
冬を掴んだ手は、いつまで釣りをしていた
の、していたの。さっき
矢がぎらぎら光る。メッセージをじゅ、
受話、受信しました。ポケベル
蟹が集荷に来ました
この冬をお願いします
風邪をひかないようにニット帽を被せます
(蟹か、冬か、どっちかに被せました)
オーツを忘れたソイの寝返りが
沈む、ものを沈めちゃうように
安全な気がしているだけ、冷凍とは
それほど完全ではないですよ、冷凍とは
次のバクがでてきた
闘牛
うそ、紙相撲で決着だ!
(前進するホクロと後退するホクロら)
そういうのランダムです、柔らかい
ランダムら。マシュマロのことさ
バクがいう
次のバクがいう
(キュルキュルいうベッドとか箪笥とか)
家具から湯気がでそうで、でてきた(ら)
そしたら
紅茶が住むかも肋 肋 肋
       骨 骨 骨
           を吸う前向きな

仙台ネイティブのつぶやき(100)昭和の始末

西大立目祥子

このところ、友人に会うと、決まって親の荷物の整理の話になる。私たち世代の親はほぼ昭和一桁で、年齢でいうと90歳代。父親が他界し、残った母親が施設に入ったとか、ついに両親が逝ったとか…。残された荷物、家の後始末がずっしりと肩にかかってきているのだ。私の母も施設で暮らすようになりそろそろ2年。家には猫2匹が暮らすが空家化しているので、体力があるうちにと重い腰を上げた。やるぜ、断捨離、と覚悟して座敷に足を踏み入れ、押入れの戸を開け放つ。と、そこには想像を超える昭和の堆積物が地層を形成するように積み上がっているのだった。

なつかしい駱駝色のウール毛布の上には、鮮やかな色のアクリル毛布が重なり、さらにずっしりと重いマイヤー毛布が何箱も折り重なる。その上の棚には、綿のシーツに麻のシーツにタオルシーツ、バスタオルにタオルケットにフェイスタオルのセット。その隙間には座布団カバーと銀行の名入のタオルがぎゅうぎゅう。全部箱入り新品。なのに、開けてみるとポツポツと茶色のシミができていたりして、とても新品とはいい難い。

大人4人がかりでも動かせないようなどデカい食器棚の上段には5枚組の小鉢、銘々皿、菓子皿が奥深く入り込む。ほんとに「たち吉」は罪深い。日本中の食器棚をこうやって席巻してきたんだろうか。下段には、これまた5枚組の刺身用皿とか20年くらい使っていない大皿とか、片手では持ち上げるのが大変な陶板がずっしり重なっている。お盆や菓子鉢といった木製品、漆器のたぐいもある。裏をひっくり返すと、幼なじみの弟の名前と入学祝の文字。遠い親戚の結婚祝に、どこの誰かわからない子どもの誕生祝…。関係の遠い近いにかかわらず、こうやってめでたいことをお祝いすればありがとうがモノで返ってくる暮らしがあったのだ。
これでも東日本大震災のときは、ガラス戸が開き上から降るように食器が飛び出て段ボール数箱分の食器を捨てたのだった。あのときは昭和一桁生まれの叔母が「ずいぶんと割れて、でもほっとしたの」とつぶやいていたっけ。割れたものは躊躇なく捨てられる。そう長くはない老い先を思い見通しのよくなった棚を見て安堵していたのだろう。

おしゃれだった母は洋服も多い。こっそり隠れてずいぶん処分はしてきたのだが、タンスの奥から化石のように出てくるバブル期の服は異様だ。肩周りを何倍も大きく見せるパッドに、光り輝く金色の大きなボタンの列。こういう服を60代の主婦がまぁ素敵!と買い求め、着込んでいそいそ出かけていたんだろうか。あきれるを通り越して笑ってしまう。まぁ、袖を通さずにしまわれたものも多いのだが。

堆積物に押しつぶされそうになりながら思う。昭和ってなんという時代だったんだろう、戦後の経済成長期の正体とは。この時代を支え生きてきた人たちは、あらかたこの世を去っているというのに、モノはぎっしり動かずここに積まれている。生涯をかけても使い切れないほどのモノを買い込み、贈り合い、それが豊かで幸せな生活だったのだ。

10月下旬にNHKの映像の世紀「バブル ふたりのカリスマ経営者」を見た。破格値量販の中内功と文化を売る堤清二を追う番組だったが、中内の自信に満ちた表情と言葉の間に挿入される安売り合戦の映像では、スーパーになだれを打って走り込む女性たちの姿が映し出される。左手に何枚もの服を抱え持ちながら、右手を人垣の間にむんずと伸ばしてさらに1枚を引っ張る人、人、人。その髪型、衣服、表情を見ながら、これまるでうちのおっかさんじゃん、とめまいのような感覚を覚える。笑い飛ばすことは、できない。私自身、高度経済成長期の子どもで、その恩恵を受けて育ったわけだから。みなさま、まだこの世にいらっしゃるでしょうか?お家には、そうやって買い求めたモノが奥深く眠っているのでしょうか?子どもさんが始末をしていらっしゃるのでしょうか?ぶつぶつと胸の内でつぶやいていた。

折しも、叔母が亡くなり、従兄弟のカズと妻のヒロコさんが、叔母の家の荷物整理に着手した。欲しいものがあったらもらってほしいと連絡が来て、行くと部屋いっぱいに晩年まで使っていたものが広げられている。コンテナに詰め込まれた画材に、山積みのスケッチブック、出窓にズラリ並んだ本…。92歳まで元気で絵を描き、読書をし、手紙を書いた叔母は、つまり死ぬ間際までモノを必要とした。自分自身で荷物の整理をしていた人だったが、それでも楽しみを持って生きていく以上は、生活必需品以上のモノを抱え込むことになるのだ、と教えられる。いったい人にとってモノってなんだろう。大切なモノを少しだけ持って暮らしていくのは理想だが、やりたいことがあり、あちらこちらに興味があったら、それは土台無理な話だ。
 
「物置から俺が小学生のとき遊んでいたメンコが段ボール一箱出てきた」とカズが笑っている。なかなか捨てられないのも、また昭和一桁なのだった。そういえば、「押入れの奥から灰が入ったままの火鉢が出てきて絶句した」と話す友だちもいた。本の始末も大変だ。祖父と父、2代続けて学者だった別の友人は、庭に立てた書庫の床から天井までぎっしり詰まった専門書の処分にえらく苦労していた。この友人は、東京と仙台を往復しながら、夫の祖母の家、夫の両親のマンション、自分が暮らした家の3軒の荷物の整理と売却までをやり遂げているのだが、その経験をふまえため息混じりにこういうのだ。「最後に残るのが着物と座卓。どこも引き取ってくれない。津軽塗の座卓だって、捨てるしかないんだよ」母の家にほとんど着物はないが、重たく大きな座卓がある。最後はこいつと格闘か、とその分厚い天板を見やる毎日だ。

まだ使える食器を新聞に包んで、ごめんといいながらそっと捨てる。洗濯をした服をきれいにたたんで仙台市のリサイクルプラザに運ぶ。モノの片付けに追われるうちに、新しい服を買おうとか、新しい家具を買おうとか、そんな気持ちは消え失せた。内需拡大とか、国内消費が上向けばとかいう人たちがいるけれど、多くの人が時間とお金と労力をかけモノの処分に悪戦苦闘している現実をご存じか?もうモノはいらない、昭和のあの人たちのようにやみくもには買わない、と考える人は間違いなく増えているはずだ。

叔母の荷物の整理をどこか楽しみながら進めているヒロコさんが「なんかもう遺品で暮らすのがいいんじゃない?」という。「うん、私もそう思う」とこたえる。このところ、母の服は趣味が合いそうな友人に回している。そうすると叔母の家からは、明治生まれの祖母が着て、叔母が受け継いだカーディガンが回ってくる。シルバーグレイでアンゴラの混じったウールのニットは軽くて暖かい。「これじゃ、いつまでたっても片付かないよ」と互いに笑いながらも、お金を介さずに親しい人たちとこうやってちょっと古ぼけたものを都合し合ってぐだぐだ暮らしていけたらいいな、と思う。

階段を昇り降る

植松眞人

 笠原亮介は小さな商社を定年退職したあと、昼間はずっと一人で過ごすようになった。長男と長女はどちらも家を出て、それぞれに家庭を持っている。妻は定年退職のないフラワーアレンジメントの講師をやっていて、週に三日は教えに行き、残りの日々は友人と買い物をしたり、カラオケで歌ったりしている。
 笠原にも友人がいないわけではなかったが、元いた商社からさらに小さな会社に天下って仕事をしていたり、地方に移住したり、息子夫婦と一緒に住んで孫の世話に忙しいという者ばかりだった。
 もともと会社で知り合い、景気がいいときに一緒にドンパチやった仲なので、今頃あっても昔話をするだけで、あまり面白い結末にはならないのだった。
 家人が朝から出かけてしまうと、昼飯を食う気持ちもなく、妻から頼まれた掃除洗濯など忘れたふりをして、ただ四人掛けのダイニングテーブルに向かって、座っているだけの時間を過ごしている。知らぬ間に陽が傾き始めて、赤い光が正面の窓から顔を刺している。コーヒー豆があったはずだと探してみたが、日が経ちすぎているのか、袋の口を開いても香りがまったくしない。それでも、少しはコーヒーの味がするだろうと、小さな豆挽きで豆を挽く。豆を挽いている間は集中して何も考えずに済んだのだが、挽き終わると、挽く前以上に部屋の中がしんと静まり返ったように思えた。湯を沸かしゆっくりと落とした酸味のきついコーヒーを飲むと余計に一人であることが意識されて、コーヒーを飲みながら知らぬ間に涙を流していた。
 この家の中には自分以外誰もいない。四人掛けのテーブルに一人で座っている。コーヒーは不味く、そのカップは赤い陽に照らされている。なんという心細さだろう。笠原は小さく息を吐いた。その息が最期の息のような気がして、慌てて息を吸う。吸ったり吐いたりを繰り返していると、息苦しくなった。
 笠原は長く深く細く息を吐いてみた。最初に、スッという音がして、喉の内側の上のほうが刺激され、渇いた咳が二つでる。咳は一つでいいものを二つ出たことで、いつか息することもおぼつかなくなるのかと思うと、また涙が流れた。
 たまらなくなって、二階への階段を昇ってみた。思いのほか辛く、また咳が出そうになる。上まで昇って回れ右をすると、同じようなゆっくりとした速度で、今度は階段を降りた。昇りほど辛くはなく、降り切る直前の三段ほどは少し体が揺れて、階段降りを楽しんでいるかのような気持ちになる。不思議だなと、もう一度階段を昇る。昇ったら降りる。降りたら昇る。不思議に心細さが薄れ、奇妙に楽しい気持ちがした。ゆっくりと昇って、さっきよりも、勢いをつけて階段を降りる。楽しい。心細さが消えて楽しさを感じる。しかし、昇るときにはほんの少し哀しみのようなものが戻る。戻った哀しさを降りることで弾き飛ばす。哀しい、楽しい、哀しい、楽しい。そうこうしているうちに足がからんで、笠原は階段を踏み外した。自分が階段を昇っているのか降りているのか、もうわからなかった。

吾輩は苦手である 4

増井淳

 吾輩は眠るのが苦手である。
 1年を振り返ると、「ああ、今年も眠れない日が多かった」と思う。
 だいたい1月下旬から5月下旬くらいまでは、花粉症で眠れない。この時期は、目がかゆい・くしゃみがでる・鼻水がでるの三重苦で、夜中に起きない日はほとんどない。眠ったと思うと猛烈な目のかゆみで目が覚める。目薬をさしてまた横になるが、今度は鼻がつまって目が覚める。鼻を何度かかんで横になると、次は何度もくしゃみが出て目が覚める。これを繰り返しているうちに朝がきてしまう。
 花粉を防ぐためにマスクをしたまま眠ることもあるが、しばらくすると息苦しくなって目が覚めてしまう。新型コロナが流行する前から、マスクは手放せない状態だった。
 「花粉症に効く」というものは、すぐに試してきた。べにふうき茶、甜茶、ルイボスティー、ヨーグルトなどなど。どれも「効いた」と感じたことはない。
 病院で薬をもらって飲むこともあるが、なんとく身体がだるくなるし、一時的に症状が出ないだけで効果は長続きしない。
 夜中にくしゃみをした瞬間にギックリ腰になったこともあった。その時は、朝まで同じ姿勢のまま動けず、眠れないだけでなく、同じ姿勢のままじっとしていなければならず、はなはだ苦しかった。

 6月になると花粉症もおさまり、ようやく少し眠れるようになる。
 安心したのもつかの間、すぐに暑い季節が始まる。
 暑いのはきらいではないが、汗が出るほど暑いと眠れない。タオルで汗を拭いたり、パジャマを着替えたりしているうちに空が白んでくる。我慢ができずにクーラーをつけることもあるが、吾輩はクーラーが苦手である。クーラーの風が身体に当たると、それが気になってなかなか眠れない。さらに長時間クーラーをつけていると咳が出て目が覚めてしまう。

 暑さがおさまったら、秋の花粉症が始まる。春より症状は軽いが、やはり眠れない。
 そして、次は寒さが襲ってくる。
 吾輩は寒いのも苦手である。
 寒くなれば布団や毛布を何枚かかけて眠る。するとその重みでなかなか眠れない。しかし、枚数を減らすと、今度は寒くて眠れない。
 暖房をつけて眠ると、空気が乾燥して咳が出て目が覚めてしまう。

 かようにほとんど一年中、眠れない日が多い。
 よって昼食をとったあとは、だいたい眠くなる。椅子に座っているだけで、ついウトウトしてしまう。その勢いで布団に横になると2時間くらい眠ってしまうのだが、そうすると、夜になっても眠くならないのだ。

 今年は秋の花粉症がひどい。夏に暑かったせいだろうか、鼻水が止まらない。しかし、そろそろ寒くなってきたし、花粉もおさまる時期だ。今夜は安らかに眠れるだろうか。
 

2005年の公演「幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~」を振り返る

冨岡三智

先月、2005年の公演記録映像(VHS)をデータ化してもらってやっと見ることができた。VHSデッキはとっくの昔に壊れていて、ずっと見直すことができなかった。というわけで今月はその公演の話。当時はまだブログもやっていなかったので、この公演のことを書くのは今回が初めてである。

公演:「幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~」
日付: 2005年11月20日
場所: 橋本市教育文化会館大ホール(和歌山県)
主催: 橋本サロンコンサート実行委員会
後援: 橋本市教育委員会、橋本市公民館連絡協議会

プログラム
1. 森の中: スボカストウォ~アヤッ・アヤッアン~スレパガン~サンパッ
2. 間狂言: 森の妖精・太郎冠者と次郎冠者が海へ出かけてみると…
3. 南海の女王: 女性舞踊「陰陽ON-YO」(紀の国バージョン)
休憩
4. ワークショップ
5. 人の歩む道: 男性舞踊「スリ・パモソ」

出演
ジャワ舞踊:冨岡三智
ガムラン演奏:ダルマ・ブダヤ
狂言:清水菜美、清水美樹

「幻視 in ~」のタイトルをつけた公演は1998年が初めてで、この時が2回目だった。2021年の「幻視 in 堺~能舞台に舞うジャワの夢~」でも間狂言の場面を入れたけれど、この公演では地元の狂言の会で学ぶ2人の姉妹が太郎冠者・次郎冠者になってこの場面を務めてくれた。主催の人たちが橋本狂言を楽しむ会にも関わっていたので、せっかくならそこで学んでいる子たちと共演したいと思って相談したところ、やってみたいというお子さんが現れた。当時、2人はまだ小学生6年生と4年生だったが、私が全体の構成を伝えてセリフを考えてもらったら、なんと、初練習の日に2人は完璧な台本を2つも作ってきた。すごいお子さんだなあと感心したことを覚えている。そして、狂言の会の方の指導協力も得て、あくまでも狂言らしい言い回しと動きで芝居をしてくれた。

プログラムの1つ目の曲の組合せ(4曲メドレー)は、「バンバンガン・チャキル」という舞踊(やその元となるワヤン=影絵芝居)で使われる。見目麗しい武将が森にやってきて瞑想しているところにチャキル(羅刹)が登場し、武将の邪魔をしようとして戦いになるという話で、この音楽を聞くと眼前に森が広がる…というわけなのだ。

この公演では、羅刹ではなくて妖精の太郎冠者が弓を持って登場する。お腹を空かせて森に狩りに出かけてきたのだった。そこに次郎冠者が登場し、海の中の宮殿でごちそうを見つけたと言う。違う部屋には髪の長い女の人もいたと言う。太郎冠者はごちそうもさりながらその女の人が気になって、2人が連れ立って南海に向かう。

その女の人=南海の女王の場面として踊ったのが「陰陽ON-YO」で、これは私が2002年に振り付けた作品(Dedek Wahyudi作曲)を基に、前半の曲を変えてこの公演用にアレンジしたもの。もともと後半部は宮廷舞踊の曲の特徴を踏まえて作ってもらっているので、女王の場面とした。

その後休憩を挟んでジャワ舞踊を体験してもらうワークショップ。これは主催者からのリクエスト。そして最後に男性優形の舞踊「スリ・パモソ」。この曲は宮廷舞踊家クスモケソウォが1969年頃に振り付けた作品で、インドネシアで2003年2月に復曲上演された。私もその公演や復曲に至る過程に立ち会っていたので、『水牛』2003年4月号と2020年11月号ではこの作品について書いている。そんなわけでこの時がこの作品の日本初演である。「人の歩む道」と形容したのは、ジャワ宮廷舞踊はつまるところそれを大きなテーマにしているから。
 
見直してみると、当時から自分がテーマだと感じることやそのキーワードがあまり変わっていなくて、その成長のなさにがっくりくる。が、原点に立ち戻ったような気にもなる。19年も前の映像なので、自分の姿がどこか他人のようにも思えて、頑張れ~と声をかけてやりたくなる…。

あなたが踊れば世界も変わる

笠井瑞丈

昔の事を思い返す
ドイツから帰国した
小学校四年生のとき

金曜ロードショー放映日
日曜洋画劇場の放映日
テレビの前に椅子を並べて
自分だけの映画館を作った

お客さんはいつも決まって
僕と祖母の笠井君子さん

君子さんから100円をもらい
自動販売機でジュースを買う
部屋を暗くして二人で見た

自分だけの空間
自分だけの時間

思い返せばいつもそれに
付き合ってくれていた

新聞でその日に放映される
映画タイトルをチェックして
自分の好きなものがやる時は
本当にその日を楽しみにしていたものだ

日曜洋画劇場は淀川長治の最後のセリフ

映画って本当にいいもんですね

サヨナラ
サヨナラ
サヨナラ

それを聞くのがすごい好きだった

その後ビデオデッキが出てきて
ビデオレンタル屋というものができ
より見たい映画が見れるようになった

映画館で見るのを見逃してしまった映画
半年くらい経つとレンタル屋さんに並ぶ
話題で人気だった作品は
常に全て貸出中の札が付き
自転車を漕いで数カ所の
レンタル屋さんをハシゴして周る
たまたま借りることができた時
その喜びはたまらなかった
ワクワクしながらビデオを
袋に入れ家の帰ったものだ

今はHuluやネットフリックス等で見たい
映画はいつでも手軽に見れる時代になった

場所を選ばず
電車の中
布団の中
車の中
公園
いつでもどこでも見れる時代だ

今は全てのもがものすごいスピードで変化していき
新しいものが生まれたと思ったらまた違うものが生まれ
映画なんかもあまり心に残るものが少なくなっている

消費と生産の繰り返し

あの時代は良かったと言う言い方はしたくない
今は今の時代でいいものがたくさんある

明るい未来を作るのにはどうすればいいのか
そんな事をボヤッと考えてみる

先週は友達の舞台を見にいってきた
とても元気がもらえるいい作品だった
タイトルが「あなたが踊れば世界も踊る」
本当にとてもいいタイトルだと思った
ただ僕はチラシをもらった時
なぜか勘違いしていてずっと
「あなたが踊れば世界も変わる」
思っていた

きっと

誰かが踊れば
世界も踊る
世界も
変わ


そんな
世界

セイタカアワダチソウを見つめて

北村周一

~花言葉唯我独尊嫌われて背高秋の麒麟草かな

天竜(浜松市)に越してきてまもなく一年が経とうとしています。
ことしはことのほか暑くて、ミカンも栗も大豆もトマトも不作だと地元の人たちが嘆いています。
そのかわり、ウサギやらシカやらイノシシやクマまでもが近くまでやって来て往生しているとのことでした。
しかしそんな暑さにもめげず、われらがセイタカアワダチソウはぐんぐんと勢力を伸ばし、天竜川の土手に限らずあちらこちらの空き地に居場所を見つけ、10月の半ばごろからは黄色の花を満開にして、まるで栄華を誇っているかのように咲き乱れているのでありました。
背の高いものは2メートルを優に超えています。
あまりに美しい光景にしばし見惚れてしまうほどです。
このセイタカアワダチソウを題材にしてかつて作品を発表したことがありました。
だいぶ前の話ですが、そのときに書いた文章をここに再掲したく思います。

~セイタカの草草は闇にしずめ置きすすき野原に午後の日のどか

   *
赤は赤らしく、黄色はこがねにかがやきを増して、ことしの紅葉は目を見張るばかりに美しい。葉陰にも色が滲み出るかのような秋の景色のなか、セイタカアワダチソウの満開の花々が黄金色の房々を日の光りに遊ばせている。ここ利根川の河川敷でも、そしてわが境川(東京都町田市と神奈川県相模原市の県境を流れる)の川原でも。
今秋、C・A・M・P「場所・群馬」展(前橋芸術会館)に出品の機会を得、かねてより気になっていたセイタカアワダチソウを素材にして作品をつくることになった。タイトルは、「イエロー・メッセージ」、セイタカアワダチソウをアメリカ型様式のひとつのモデルとして捉えてみようとする試みである。 
北アメリカ原産の帰化植物であるセイタカアワダチソウは、第二次世界大戦後日本各地に広まったといわれている。だが、そのすがた、その生命力の強さゆえか、あるいは花粉症の原因としても疑われたためか、この植物によい印象をもつ人は少ない。さらに根や地下茎から、他の植物の種子発芽を抑える物質を分泌して繁殖していることもあり、9・11以降なおさらイメージが悪い。そこで、この悪名高きセイタカアワダチソウの生態を調べてみることにした。
以下は、岡山理科大学波田研のHPからの抜粋である。
   ***
もともとは鑑賞用に導入されたとの説もあるが、急速に広まったのは第二次大戦後のこと。蜜源植物として優秀なので養蜂業者が積極的に種子を散布したとの話もある。
和名の由来は、同じ属のアキノキリンソウの別名アワダチソウより草丈が高いことによる。多年生草本、地下部からアレロパシー 物質(ポリアセチレン化合物など)を分泌し種子発芽を抑制する。そのため新たな植物の侵入は困難になり、地下茎で繁殖するセイタカアワダチソウの天下となる。
ただしこのような能力は、セイタカアワダチソウに限ったものではなく、ヨモギやヒメジョオン属の植物も同様な能力をもつことが知られている。ススキなどのイネ科植物の発芽を抑制するという。セイタカアワダチソウやヨモギが繁茂すると当面これらの植物が覇権を握ることになるが、その時点でススキが侵入しているならば、やがてゆっくりとではあるが、ススキが広がって上層を覆い光を遮りススキ草原へと遷移することになろう。
実はセイタカアワダチソウは、蜜源植物でもあることからわかるように花粉をミツバチなどの昆虫によって媒介させる植物であり、花粉を風に乗せてばらまく植物(風媒花)ではない。つまり花粉アレルギーの元凶ではなかったのだ。ならば、このセイタカアワダチソウへの対応があらためられてもよいのであるが、いったん広がった風評はなかなかあらためられない。
旺盛な成長力を利用し、法面の緑化などへの利用も検討されたが、イメージが悪いので実施には移されていない。しかしながら、現実の法面では表土の流出防止には貢献しているともいえる。茎はなかなか丈夫であり、ニュー萩という名前で袖垣などに加工されたりする。
場所や環境が異なれば、この花への印象も全く異なるようで、風光明媚な観光地で調査をしていると「この美しい花の名前を教えてください。」などと聞かれることもあり、苦笑してしまう。以上。
   ***
各地の湖沼で日本原産の川魚を駆逐しているブラックバス、ブルーギルなどに比べれば、同じ帰化種ながらセイタカアワダチソウはむしろ有益な植物だといえる。土のあるところなら、それこそどこでも一様に見られる分、損をしているのかもしれない。
11月半ばすぎ、わが四駆ジムニーの車窓から見えるセイタカアワダチソウの草々は、綿毛を溜めて光りかがやいていた。米国生まれのコーラやハンバーガーにかわるシンボルとして見ることはできるとしても、帰化種として根付いたセイタカアワダチソウのすがたは、ダムやテトラポットなどの人工物が風景の一部として視野に入ってくるのと同様に、いまや日本の風景として馴染んでいるともいえよう。少なくとも国土荒廃のメタファとして扱う素材ではないようだ。
(2001年11月)

付記Ⅰ 
セイタカアワダチソウ;学名 Solidago altissima Linn  
           英名 Tall goldenrod                                        
           綱名 双子葉植物綱合弁花亜綱
              キク科アキノキリンソウ属
付記Ⅱ 
イエローといえば、思い出すことごとがある。いささか古い内容だけれど、いまもなお引っかかっている(点滅している)ので、書きとめてみたい。

ヘルペスの信号
コンセプトあるいは決意表明にかえて

朝日新聞、1987年12月11日付夕刊によれば(やや古い記事で恐縮ですが)、あのヘルペス・ウイルスが悪さをせずに“休眠”しているあいだ、一個だけ(健気にも)働きつづける遺伝子があり、この遺伝子が他の遺伝子の活動を抑え眠らせているのではないかという仮説が発表されました。
つまり、「オフ」スイッチに相当する遺伝子が、ストレスやホルモンの変化などが引き金となって急激に増殖するウイルスを、眠らせつづける(役目を担っている)というわけです。
ちなみに単純ヘルペス(唇のまわりに小さな水泡をつくる)ウイルスⅠ型は、米国人の約2/3に感染しているそうです。
願わくは、「ヘルペスの信号」が活発に働きつづけるよう、見守っていただきたいと思います。

以上は1989年4月の、ヘルペスの“青”信号展におけるコメント
以下は1991年9月の、ヘルペスの“黄”信号展におけるコメント 

「オフ」スイッチは働きつづけているか?
残念ながらその活動は鈍ってきたようです。
黄色の信号が点ってしまいました。
ご存知のように、スイッチが働いていれば、他の約80個の遺伝子は休眠したままです。感染しても発病せずにすむわけです。
詳しく知るということが元気を与えてくれる好例でしょう。
もしかしたら他のいろいろなウイルスも、同じようなスイッチをもっているかもしれません。
ところで、ヘルペスと呼ばれる病気には3種類があり、いわゆる帯状疱疹、それに単純ヘルペスⅠ型とⅡ型とに分かれます。
Ⅱ型はたいへん恐い病気ですが、Ⅰ型は風邪みたいなものです。
けれどもウイルスが体内を素通りしてしまう人と、どういうわけか残ってしまう人がいて、何度も再発の憂き目にあうのです。
(もうおわかりのことと思いますが)、「ヘルペスの信号」展においては、ヘルペスではなく“信号”に意味があります。
なお、今回の4人によるグループ展について少し説明しますと、活動の場が近かったこと、年齢が同じ位(1951、52、53年生れ)加えて身長も同じ位、この程度の理由に依拠した発表となります。
たぶん黄色のオフ信号は、これからもながくながく点滅しつづけることになるでしょう。

追記
イエローの点滅は、往々にして危機管理能力の有無、あるいは評価をも想起させる。この先に極めて危険な領域があり、それをいち早く察知した者が回避させたとする。のちに、この先に「それ」があったのだと周囲の者に語ってみたとしよう。すでに平穏な状態にあれば、コトはなかったこととして認知されるだろう。病は病として、あやまちはあやまちとして「かたち」にならないと、人は納得しないのかもしれない。(2002年2月8日)

~伸びすぎてプールサイドに枯らしゆく草の背高見るかげもなし

   *
黄色という色は、光りの具合によっては黄金色に見えることがあります。
自家用車に黄色を選ぶ人は、スピードマニアといわれたりします。
一方安全を考えて、マイカーは黄色と決めているオーナーもそれなりにいます。
黄色はかように目立つ色彩でもあり、また注意喚起を促す色でもあります。
交差点の信号が、青から赤に変わるとき、しばらく黄色が灯ります(歩行者用の信号は青の点滅)。ある意味、緊張を強いられる瞬間でもあります。
前に進むか、停止するかの判断を迫られるからです。(基本は止まれ)

~三日月も星のひとつと見上げたれば青の点滅われを急かしむ

ところでこの時期、地球上にはどのくらいの量のセイタカアワダチソウが満開をむかえているでしょうか?
遠くから見たら、黄色の帯または黄色の斑点が群れを成して、なにごとか物語るように目に入ってくるかもしれません。

歳を取って

篠原恒木

「歳を取ってよかったなと思うことはある?」
そう八巻美恵さんに訊かれたことがある。しばらく考えたが、おれの答えは
「ないと思うなぁ」
という曖昧なものであった。

歳を取ると、体のあちこちが不調を訴える。それが少なからず不愉快だ。不愉快だから肉体だけではなく、精神的にも影響してくる。歳を取ってよかったな、とはとても思えない。
よし、頭のてっぺんから我が不調ぶりを書いていこうか。

まず、禿げた。これ、立派な不調ですよ、あーた。五十を過ぎた頃にこめかみ部分から後退していき、現在では頭頂部もきわめて心もとない状態になっている。仕方がないので禿げ隠しにこの二十年ほどは坊主頭にしている。三日に一回、自分でバリカンをあてる。不精するとわずかに伸びる髪はほとんど白髪だ。これが禿げてさえいなければふさふさのグレイ・ヘアだったのに、もはや叶わぬ夢だ。

若い時には経験しなかった偏頭痛も起きるようになった。おそらくこれは重度の肩凝りから来るものだと勝手に解釈しているが、当然にして気分はよくない。

視力が壊滅的に落ちた。近くのものも遠くのものも見えない。仕方なく遠近両用の眼鏡をかけているが、数か月単位で老眼が進んでいく。眼鏡の度数がすぐ合わなくなる。その都度作り直していたが、あまりにも不経済なのである時点からレンズ交換をやめた。なので、眼鏡をかけても世界が歪んで見えている。おれはこの世の中自体がそもそも歪んでいるのだと思うことにした。

鼻は十年ほど前から重度の花粉症になってしまった。春だけではなく秋にも鼻水が垂れる。涙が垂れる。正常といえる季節は真夏しかない。歳を取ると体のあちこちからいろんなものが垂れてくるのだ。鼻や目からだけではない。外耳炎で耳垂れもしばしばだ。意図せずヨダレが顎をつたうこともある。情けないことに我が竿は一年中垂れっぱなしだ。文句のひとつも垂れたくなる。

歯もいけない。半分は入れ歯だ。二か月に一回歯科医へ行き、クリーニングをしてもらうが、このままだと早晩総入れ歯になるだろう。食事をするたびに食べかすが部分入れ歯の隙間に詰まり、ストレスを感じる。硬いものも食べづらくなった。裂きイカ、堅揚げおかき、ハード系のパンなどを敬遠するようになってしまった。ツマはインプラントにしたが、臆病者のおれにとってあれは無理ですな。

ツマで思い出したが、夫婦揃って耳が遠くなってきている。先日もこういう会話があった。
「石破になったな」
「やだ、虫歯になったの? 痛い?」
「い・し・ば」
「ああ、総裁選ね。小泉孝太郎、ダメだったね」
「し・ん・じ・ろ・う」
会話の後半は耳のせいではない。大脳皮質の問題だ。

おれは眠れない。不眠症なのだ。この十年ほど睡眠薬と精神安定剤を服用してからベッドに入っている。
「睡眠薬など飲んだら往復ビンタでも受けないかぎり起きられないのではないか」
と、最初のうちは思っていたが、この頃は四時間ほど経つと目が覚めてしまう。二度寝はできない。それがとても不快だ。

顔部分はこれでおしまい。お次は首から下だが、これは臍の上までは今のところ異常なしだ。肩凝りは諦めているが、あとの五臓六腑はきわめて健康だと思う。寿ぎですよ。

いけないのは臍の下からだ。
尾籠な噺で恐縮だが、おれは七、八年前から前立腺肥大症を患っている。一か月に一回、泌尿器科に通院しているが、どんどん薬が増えている。今では前立腺肥大対策だけで六種類の薬を毎晩寝る前に飲まなければならなくなった。

「竿が大きい」と言われるのは自尊心をくすぐる。優越感にも浸れる。だが、「前立腺が大きい」と言われると、懐疑心を抱くようになる。残尿感にも浸れてしまう。前立腺が大きくなるとがんになるリスクがあるという。怖い。腫瘍マーカーを定期的に測っているが、いつも基準値の上限ギリギリでセーフだ。気分が悪い。

頻尿になると小便、いや、不便だ。映画を観るときはとにかく水分を摂らずに、上映前に必ずトイレへ行ってから席に座る。それでも一時間半を経過するとモジモジしてくることがよくある。ゆえにおれは映画館では通路ぎわの席しか座らない。

尿意も突然訪れる。普通はじわりじわりと忍び寄ってくるのだろうが、おれの場合は何の前触れもなくドーンとクライマックスがやってくる。そこですぐトイレに行かないと大変なことになるのだ。オノレの尿意のクライマックスのせいで、映画のクライマックスを何度見逃したことか。不愉快だよ。

小用を足すときも「勢い」がない。悲しいかな、我が小便は一本の白糸の如く緩徐に落下、そののちに力なく滴下していく。喩えはよろしくないけれど、大坊勝次さんが珈琲を淹れるときにネルドリップへきわめて丁寧に、ゆっくりとお湯を細~く垂らしていたでしょう。あんな感じ。だからおれの場合は「小用」とはいえ、時間がかかる。辛いですよ。

もう少し下半身へいくと、左膝の一部が骨壊死を起こしてしまっている。これは最近のことだ。原因は不明。運動で無理をしたせいだろうとおれは思っている。
急性時は激しい痛みに襲われ、まともに歩くこともできなかった。杖を購入して、いまでもそれを頼りにして歩いている。これは外科手術かと身構えたが、医師は現在のところ温存治療を選択している。つまりは二種類の痛み止めを一日三回服用し、湿布を貼るだけの「様子見」だ。壊死した箇所は元には戻らないという。だよねぇ、「壊れて死んだ」ものが治るわけがない。するとおれは死ぬまで鎮痛剤を飲みながら、薬のおかげで一時的に和らぐ痛みと付き合っていかなければならないのだろうか。それはあまり愉快とは言えないなぁ。

今は膝の周りが腫れている。先日の受診時に「水が溜まっているからだ」と言われたので、注射で抜いてくれとお願いした。ブスリと刺された太い針のあまりの痛さに悶絶したが、水は一滴も抜けなかった。炎症部分が針の行く手を塞いでいるらしい。本当かな。下手なだけじゃないの?

おまけに整形外科の先生が処方してくれたロキソニンの湿布を二か月間貼っていたら、患部が酷くかぶれてしまった。痒いのを通り越して痛い。真っ赤になった膝の皮膚は、変色してどす黒くなってしまった。湿布を貼るどころではない。慌てて市販薬のクリームを塗ったが良化しないので、皮膚科へ駆け込んだ。医師はおれに言った。
「かぶれに効く軟膏を処方しますが、また湿布を貼ると確実にかぶれてしまいますよ」
困ったな、どうすりゃいいのさ。膝の痛みを我慢したほうがいいのか、かぶれを無視したほうがいいのか。

かくして今のおれが通っている病院は、歯科、心療内科、泌尿器科、整形外科、皮膚科だ。オオタニサンもびっくりの五冠王だよ。まあどれも命を取られる病気ではないから呑気なものだと思うことにしている。いちいち嘆くとバチが当たる。

やっぱり「歳を取ってよかったなと思うこと」なんてひとつもないよな、とおれはあらためて思った。だけど、それを言っちゃあおしまいよ。そこでおれは考えた。

歳を取ると、大抵のことは忘れてしまう。これは案外いいことではないのか。悲しかったことも辛かったことも、いつの間にか忘却の彼方だ。おれの場合は楽しかったこと、ヒトから受けた愛情、恩情も忘れてしまう。これはよくないな、薄情だなと思うのだが仕方ない。あんなに好きだった女性のこともすっかり忘れている。昔、上司から酷い言葉で罵られたことも、ディテールは驚くほどに忘れている。身内や親しい人たちが亡くなってこぼした涙も忘れている。消えてしまいたいほど恥ずかしい思いをしたことも忘れている。これは歳を取ったおかげだと思う。経験したすべてのことを仔細に覚えていたらたまらない。膝の痛みも突然の尿意も今は不愉快だが、そのうちになんとなく折り合いをつけて、その状態が平常運転になっていくのだろう。

「シノハラさんにはあのとき本当にお世話になりました」
と言われても、
「おれ、そんなことしたっけ?」
と思い出せないことだってよくある。でも、その逆のほうが多いのだろうなぁ。
「シノハラの野郎、あいつだけは許せねぇ」
そう恨んでいるヒトビトだってたくさんいるよね。いいんだ、こちとら忘れてしまっているんだから。

「このご恩は一生忘れません」
なんてことを逐一覚えていたら、それはそれでかなりキツイ人生になると思うけどなぁ。

おれは八巻さんにメールした。
件名は「歳を取ってよかったこと、ありました」だ。

アパート日記 10月

吉良幸子

10/4 金
10月に入り、出稼ぎで着る単衣をやっとしまう。そろそろ同じ着物に飽きてきてたからちょうどええ。朝家出るのが早朝過ぎて最近は真っ暗。薄ら寒いから道行を羽織って行く。ようやく秋になってきた。

10/6 日
神田紅純さんの会へ公子さんと向かう。両国ってちゃんこ鍋屋さんいっぱいでおもろい。今回はお相撲さんの卵みたいな方が歩いてなくて残念。紅純さんの講談は北斎の噺がおもろかった。素晴らしく汚い!という北斎の部屋、見てみたいもんやわ。

10/8 火
出稼ぎの後に末廣亭の真打披露興行、今日は伝輔さんトリの日。早めに行って時間つぶしに世界堂でぶらぶら。出稼ぎの帰りやし着物やったんやけど、外国の方に綺麗ね、と声をかけられた。センキューと返したら、どこで買ったの?と聞かれ、久しぶりの英語にあわあわした。もはやカタコトの英語でこれはもらったものなんやけど、近くにリサイクル着物の店あるでと伝えたら喜んではった。世界堂から目と鼻の先やし行ってみてくれてたらええなぁ。
今日の寄席で甲賀さんの文字の幟が上がったら太呂さんが写真撮ってくれる予定やった。けど雨で幟は一本も上がらず残念。中に入っていつもの桟敷席へ。途中から伝輔さんの御贔屓、くみまるさんも合流した。朝からばたばたで朝ご飯のお弁当が食べられず、中入りでお弁当を頬張る。何も食べてへんかったしうまい!公子さんが、腐ってない!?って心配してはったけど、腹も強いし大丈夫やった。終わってから外出たら伝輔さんが出てきてはって、今日はみんなバラバラに座ってはりましたね!と。口上の時喋られへんから客席よう見るねんて。各々好きなとこに座ってたから、あっちにもこっちにもおるって感じやったやろなァ。

10/15 火
経堂で第一回しらかめ寄席。神田紅純さんが出演で、しらかめのおかみさんが絵を描くし、この前両国で聴いた北斎の噺をやってくださった。お店が小さいから10人くらいしか入らんのやけど、講談の後に最高においしいつまみとお蕎麦も出てきて、お客さんも紅純さんと話せるし、みんな楽しそうで幸せな夜やった。

10/17 木
出かけようと駅へ向かう途中、うちから一本駅寄りの道沿いにあるお宅からソラちゃんが徐に出てきた。思わずソラちゃん!と呼んだけど、おや、その名前で呼ぶのは誰ですか?ってなすまし顔で振り返ったっきり、とっとこと歩いていってしまった。別宅猫め!知らん顔しよって!!と帰ってから公子さんに報告。その後、うちへ帰ってきたソラちゃんは猫撫で声で甘えん坊、会いたかった~って感じ。ほんまに別人やで。体の匂いを嗅いだら金木犀の香りが。そういえばその別宅、金木犀がきれいに咲いてるわ。

10/20 日
お引っ越しした祥二さんとよしえさんちへお呼ばれして行く。駅からもそんなに遠くないし、素敵なおうちやった。この前お会いした時は車椅子やったよしえさんが、歩いて迎えに出てくださってびっくり。白髪のボブがよくお似合いでかわいい。いつも服やらアクセサリーやら色々いただくのやけど、今回もなんじゃかんじゃたくさんくださった。自分も少しもらって、後は周りの似合う人に渡していこうと思う。帰りは直帰や!と言うておったのやけど、おふたりとも元気やって嬉しいしやっぱり一杯飲もか!!と焼き鳥屋へ行く。酒もおいしいしアタリやった。ほろ酔いで公子さんと帰る。杉並はええなぁ、駅前に面白さが残っておって。

10/22 火
友達と田中一村の展示へ。ほんまはモネに行こう!と言うてたんやけど、あまりに人が並んでて断念。一村も結構な人の入りやったけど、人の波をぬってゆっくり観た。膨大な習作と作品群と、途中で感動して泣きそうになった。一村の絵には見る人を圧倒する説得力がある。一緒に行った友達は絵描きやし、二人とも大いに感化されて美術館を出た。お昼食べて世界堂へ。絵描く人と行く世界堂はひとりで行くよりもおもろい。ああ、あんな絵、描きたいなぁ!

10/24 木
中野で蒲田育さんの展示、『寄席へようこそ』へ行ってみる。育さんは末廣亭でお茶子さんしてるだけあって芸人の所作の絵がむっちゃうまい。寄席の楽しさが伝わる、生き生きしたええ絵たちやった。その後、駅前で待ち合わせて公子さんとまことさんと一緒に兼太郎さんの会へ。落語はええねんけどなぁ、まくらが長ーくて集中が切れる!

10/26 土
故郷の味、丹波の枝豆が届く。今年は例年にない不作の年で、全然取れんしできも悪いから東京の知り合いにも配られへん。いつもおかあはんが買いに行く大きい農園でも売る程ないと言われたらしく、友人に無理言うて分けてもらってそれを送ってもらった。確かにサヤがやけに分厚くて例年に比べて食べにくい。色も悪いしほとんど黒豆になってる感じ。そんなんでも、年に一回の国の味。もりもりとありがたくおいしくいただく。

10/31 木
ソラちゃんの最近のお気に入りは私の膝の上で寝ることらしく、帰ってきたら、膝貸せ!何寝てんねや!ってな感じでにゃあにゃあと呼ばれる。おまけに寝る時間も伸びて小一時間は膝の上。腰は痛なるしやることなくて私は暇。ノミ取りしてみてもぐっすり。かわいいしむっちゃあったかいねんけどね、家の中で他に寝るとこ作ってほしいわ。そんなこと言いながら酒呑んでたら眠たくなってひとねむり。日記が書けてなくて仮眠のつもりやってんやけど、ソラちゃんが外からにゃおにゃおと帰ってきた。半分寝たままソラちゃんを家に入れると、おれ、布団入ってみようと思うねん…と入ってきた!深夜に膝貸すよりええわ!と歓迎する。ほしたら意外にもぐっすり寝てしもた、普段からこれにしてや!
そうこうしていると明日の朝ごはんのお弁当を作るのに公子さんがミッドナイトキッチンで起きてきはった。公子さんが台所に立ってると、椅子の上で監督するのがソラちゃんの趣味。眠たそうに行かなくちゃ…と台所へ。その間にしめしめと私も起きて残りの日記を書いてたら、椅子に座ってる私を発見したらしい。座ってんやったら膝貸してや、とまた膝上で寝だした。公子さんは知ーらない!とベッドへ。日記はもうほとんど書き終わってんねんけどなぁ…。

昭和のプロレスに学ぶ国際協力

さとうまき

僕は、某大学で3年前に、生徒からゼミをやってほしいと言われ、「地域を巻き込んだ国際協力とボランティアの実践」というタイトルでプロジェクト・ゼミなるものを頼まれた。生徒が自らアイデアを出し、募金で集めたお金をその時に話題になっている紛争地への支援として送り届ける。去年はガザ戦争がはじまり、パレスチナの支援を行おうということになり、新聞も取材してくれるという。さっそく僕は、学部の責任者に話を通しておこうと思った。

「確かに現在、イスラエルによるガザ攻撃が人道上の危機を招いており、世界から非難を浴びております。ただ、今回先に攻撃を仕掛け、1000名以上の無辜の市民を殺害、レイプ、拉致したのはハマスであり、今も人質解放の署名・歎願運動は続いております。
こうした問題の政治性、複雑性に鑑み、本学が本問題で特定の政治的立場に立っているが如き誤解を与えることは避けたい思いがあり、取材に際し、大学のゼミ(正規の教育カリキュラム)としてのガザ支援というニュアンスには慎重にご対応頂ければ幸甚に存じます」
「もちろんですとも。人道支援は中立でなければいけない。生徒たちも援助の中立性ということを学ぶいい機会になるでしょう」

毎日新聞が記事にしてくれたので、掲載紙を責任者に見せた。
「先生のご尽力が実られましたね。おめでとうございます。昭和のプロレスのように単純にイスラエルを悪役としている毎日新聞の報道振りの浅薄さは、ちょっと残念ですが。」
丁寧にお褒めの言葉をいただく。「昭和のプロレス」とはよく言ったものだ。ちなみに毎日新聞に掲載された記事は次のようであった。
 
「イスラエル軍によるイスラム組織ハマスの激しい掃討作戦で多大な犠牲を強いられているパレスチナ自治区ガザ地区の民間人を支援しようと、○○大学の学生たちが年賀はがきを作成し販売している。」
 
僕には、これだけの記事からは、イスラエルが悪役のようには読み取れなかったが。
それはそれとして、プロレスは、確かに、善玉と悪役という役柄に分けて単純化するからわかりやすい。最近Netfrixで話題になっている「極悪女王」。昭和の女子プロレスラー、ダンプ松本の半生を描いている。竹刀を振り回し、フォークで美人レスラーであろうが、相手の額をぐしゃぐしゃに突き刺し、大流血に追いやる。「日本で最も殺したい人間」と言われるまでの極悪レスラーになりあがった。それでも素顔のダンプ松本は、貧しい家庭に育ち、父親の家庭内暴力で苦労する母を楽にさせたいと思いやる優しい女の子だった。太っていて、落ちこぼれていたから先輩たちから理不尽ないじめに遭った。善玉として相対した長与千種も同じようにいじめられていて、「今に見ていろ」という根性で励ましあった。実はこの2人は、強い友情で結ばれていた。極悪レスラーは実はいい人だった。役者の演技も素晴らしく感動的なドラマに仕上がっている。

日本の戦後はプロレスから始まった。アメリカに負けた日本。力道山がアメリカのレスラーを倒していく姿に日本中が狂喜した。1953年にTV中継がはじまると、新橋駅の街頭テレビには、2万人が押し寄せて力道山を応援したらしい。僕が子どものころは、日米が仲良く世界の悪を懲らしめる的なストーリーに代わっていった。つまりアメリカで行われているプロレスのストーリーがそっくりそのまま日本に入ってくる。アラビアの怪人として登場したザ・シークは、悪役中の悪役だった。シリア砂漠出身のアラブ人でイスラム教徒の野蛮人という設定で凶器で相手を血まみれにして、挙句火を放って相手レスラーをやけどさせる。イスラム教のお祈りも不気味な呪文として焼き付き、子どもの僕はとても怖かった。悪党のアブドラ・ザ・ブッチャーをも凶器でずたずたに切りさいてしまうのだから。最近調べてみてわかったことだが、なんとシークは、レバノン系アメリカ人。しかもキリスト教徒だったのだ。

似たような名前でアイアン・シークという選手がいた。実はこの選手は、イラン出身だ。イランではレスリングが国技になっている。アイアン・シークはパーレビ国王のボディーガードをしていた。しかし、国王は、暴君としても有名であり、逆らうものは殺された。レスラーの先輩タクティは、ある大会で優勝し、国王から「欲しいものを言いなさい」と労をねぎらわれた。「何も要りません。その代わり、舗装された道路や、病院や学校を作っていただきたい」と国民の生活がよくなるようにお願いしたという。その一言が国王の逆鱗に触れ、その後タクティは謎の死を遂げる。タクティの死をきっかけに、イランでは「国王に死を」というプラカードを掲げたデモが発生した。

アイアン・シークは、次は自分も殺されると思い1970年にアメリカに亡命した。全米体育協会の大会ではグレコローマンで優勝。オリンピックは72年のミュンヘン、76年のモントリオールの2大会でアメリカ代表チームのコーチを務めた。それでは食っていけない。プロに転向し、イラン人というアイデンティティを利用した悪役への道を模索する。

1979年イランで革命がおこると、パーレビ国王はアメリカに亡命するが、イランの学生たちは、アメリカに国王の引き渡しを要求し、米国大使館を占拠して米国人を人質に取ってしまった。アメリカ人のイランへの憎悪は、日増しに高くなり、アイアン・シークにとっては、大きなチャンスが訪れた。イランの国旗をまとい、リングに上がると、米国人の憎悪を独り占めし、試合に勝ちチャンピオンに君臨した。観客は、アメリカン・ヒーローが現れイラン人をやっつけてくれるお決まりのパターンを求める。その役はハルク・ホーガンだった。愛国心でいっぱいのアメリカ人は大喜びだ。アイアン・シークは、リング外では、星条旗のついたキャップをかぶり、Tシャツを着ていた。アマレスではアメリカ代表だったこともあり、彼もまた愛国心にあふれていた。

アメリカのプロレスは、国際情勢が反映される。湾岸戦争では、元海兵隊の鬼軍曹がどういうわけか、サダム・フセインに心頭してイラク国旗をもって戦うという悪役レスラーが登場。ここでもハルク・ホーガンが血まみれになりながら、最後は鬼軍曹をフォールして、イラク国旗をびりびりに引き裂くというパフォーマンスを演じていた。
 
こうやって見てみると、国際政治もプロレスも変らない気がする。湾岸戦争では、クウェートに侵攻したイラクは、アメリカの攻撃を恐れて、外国人を人質に取り、軍施設の前線に連れ去った。今回のハマスのように。日本の外務省は、なすすべもなかったが、そんな中、イラクへ乗り込み、フセイン政権と交渉して人質解放にこぎつけたのは、昭和のプロレスで数々の悪役レスラーと戦ったアントニオ猪木だった。「外交というのは、心と心が触れ合う。外交という字のごとく外と交わる。交わらずにどうして外交ができるのか」猪木は国会で外務省に反省を促した。
 
「昭和のプロレスはいいですよ」と僕は、大学の責任者に返信しようと思ったがやめておいた。その後、残念ながら、カリキュラムが変わるとのことでゼミは終了になり、昭和のプロレスに学ぶ国際協力を語る場所はなくなってしまった。

製本かい摘みましては(190)

四釜裕子

〈漫然とページをめくるのではなく、読者が本に介入して、読書の身体性を取り戻したかったのだ〉

共和国代表の下平尾直さんが、アンカットで初版1000部を刊行した『第三風景宣言』(ジル・クレマン著、笠間直穂子訳 共和国 2024)について「共和国急使」の56号(2024.8.20)に書いた言葉だ。その前後をもう少し引用させていただきます。

〈文字どおりのアンカットだが、不良品ではなくこれがデフォルトだ。(中略)「第三風景」という思想を本の形で残そうとしたら、こうなった。(中略)
著者のいう「第三風景」とは、人間が放棄した土地や未開発の土地、あるいは原生地などを指すそうだ。(中略)「権力も、権力への服従も表わさない空間」「非生産性を政治の高みへ推しあげる」といった一節なんて、小社の憲法にしたいよな〉

「第三風景宣言」の命名の参照元はシエースの『第三身分とはなにか』(1789)とのことで、翻訳した笠間直穂子さんはあとがきに、ジル・クレマンは『第三身分とはなにか』同様に薄手の政治的小冊子(「パンフレ」とルビ)として『第三風景宣言』を2004年に刊行していること、またこのたびの日本語版については、〈共和国の下平尾直氏は、本書の意義を汲みとって、パンフレとしての性格を活かした本づくりを考え、デザイナーの宗利淳一氏およびモリモト印刷の方々とともに形にしてくださった〉と書いておられる。

重版以降は通常の造本・体裁になるというので、刊行前に予約したのだった。間違いなく三方断ち前の状態でうちにも届いた。四六変形判の縦長の並製で、天(本の上側)に1ミリくらいのチリ、地(本の下側)はぴったり、小口(本の手前側)は逆チリ1ミリという感じ。表紙の天と小口側に裁ち落とし指示風にデザインされたラインがあり、これに沿って断裁すれば地の袋だけが残るのかな……など思い後ろ髪ひかれつつ、まずは地の袋にカッターを入れて切っていく。ペーパーナイフを気取ることはないだろう。折り山には機械で折る際の空気抜き穴が10ミリ間隔くらいであいているので、切り口はやや規則的にざらざらになる。これをしてペーパーナイフで切ったようないい味が出ているとも言えるし、単にキタナイと思う人もいるかもしれない。

印刷する本の中身は、基本的に片面8ページ分を両面に面付けして大きな紙に刷る。それを半分、また半分、さらに半分に折ると1ページ分サイズの束になり、そのかたまりを「1折り」という。『第三風景宣言』はこれがまず10セット、すなわち10折りと、同様にして片面4ページ分を両面に刷った紙を、半分、さらに半分に折った1折りを重ねた全168ページとなっている。小口側は4枚のペラのあとに袋状のページが2つという組み合わせの繰り返しで、袋状になったところを開いていくのだが、この折り山に空気抜き用の穴はない。カッターの刃を新しいものに替え、ここは丁寧に切ることにした。全部切ると、表紙からはみ出る4枚とほぼぴったりの4枚が交互にあらわれる。規則性があるのでこれまたラフないい味が出ていると言えるが、読むのにややめくりにくいのが難だ。何度も読む人ほどちょっとイラッとするかもしれない。でもこの凸凹のせいだとまもなく気づいて、カッターで切りそろえる人がいるかもしれない。これもみな〈読書の身体性〉、大いに賛成。

一度とおして読んだけれども「第三風景」という概念をつかめていない。でも、何か目的があって出かけるとき、自宅や駅や駐車場からその目的地までの間にも延々と在るすべての風景なんかも、そのときの自分にとっての”第三風景”と呼んでみてもいいだろうと思った。例えば佐倉市のDIC川村記念美術館に行くときはいつも佐倉駅からバスに乗ってしまうが、それでいつも建物の周囲をないがしろにしてきた。あるとき千葉モノレールの千城台北駅から歩けそうじゃない?ということで行ってみたらば、住宅地、うねる道、道祖神、美しい谷津田や折々の開発の残骸を抜け、行きつ戻りつしながらようやっとたどりついたのだった。帰って空撮地図を見て、確かにあの場所に作られた庭園、そこにつながる道路をバスでただ往復していたことが実感できた。便利は点を線でつなぐし、目的は放棄と引き換えだ。〈多様性の避難場所〉という言い方にも勝手に合点してしまった。

「アンカット本」ということでいうと、間奈美子さんの『ビブリオ・アンテナ6 ピンクの肋』(未生響著 空中線書局 2002  限定500部)のことを記しておきたい。16ページの中綴じで、塩ビ板製のペーパーナイフが付いた美しい小冊子だ。〈幼日は一片のピンクの肋を嵌めた語の體で蒼穹のメルヒェンを異想する〉。空中線書局は今年で30年、その記念展が秋には午睡書架で(終了)、来年2月には恵文社一乗寺店アンフェールで予定されている。アンカット本でもう1つ、書肆山田の「草子」シリーズは16ページを折ったままで刊行していた。手元にあるのはその「8」で、谷川俊太郎さんの『質問集』(1978)だ。それを包むカバーというか袋に刷られた刊行案内には、1)瀧口修造、2)天沢退二郎、3)吉岡実、4)飯島耕一、5)三好豊一郎、6)岩成達也+風倉匠、7)高橋睦郎、8)谷川俊太郎、その後の予定として、佐々木幹郎、吉増剛造、澁澤孝輔、大岡信のお名前があった。このシリーズの全貌を知らないのだが、のちに特装本に仕立てるような方もいたのだろうか。

No such people exist(そんな連中はいない)

新井卓

 ※前回、10月号からの続きです

 「No such people exist(そんな連中はいない)」はチェチェン共和国の首長ラムザン・カディロフの、あるインタビューにおける言葉だ。「そんな人たち」、はチェチェニアの同性愛者のことで、そんな人たちがもし存在するならば「血を浄化」するため彼/彼女らを「連れていく」べき、と続ける。
 ドイツに拠点を移すことを決めた2022年、ベルリンでロシアに関する作品を──ロシアのウクライナ侵攻によりヨーロッパから阻害され、同時に母国ロシアからも阻害されることで、二重に追放された人々にまつわる作品を──作ろうとしていた。クィアなら意図的に前線に送り込まれる、というロシアの徴兵を逃れてベルリンに移り住んだ人々と連絡をとり、当事者コミュニティとの仲介を買ってでてくれる協力者にも恵まれた。しかしいざベルリンに到着してみると、そこはパレスチナ問題の泥沼に変わっていた──というより何十年も放置されていた泥沼がさらに深く、大きく、日常の景色を呑み込みつつあった。ベルリンの南ノイケルンで、それは決して誇張ではない。イスラエルによる大規模なガザ攻撃が始まってすぐ、ノイケルンでは激しい抗議活動が行われ、逮捕者が続出し、クーフィーヤ(アラビア半島社会で身につけるスカーフ状の装身具)をまとう女性が襲撃された。

 ドイツでイスラエルとシオニズム運動を批判し、パレスチナを擁護することは重大な政治的タブーだ。ベルリンでは一時親パレスチナ・デモが禁止されたが、のちに憲法違反であることが指摘され撤回された。それでも、親パレスチナ・デモは違法、というイメージはベルリン市民に強固に刷り込まれ、この問題に関心がないか避けようとする人ほど、そのイメージを手放そうとしない。そのずっと後に知り合ったパレスチナ難民から、ドイツで滞在許可が欲しければ、「わたしはパレスチナ人です」という質問欄にチェックを入れなければならず、チェックを入れればその人は「国籍なし(ステイトレス)」として処理されると聞かされた。ドイツという国では、パレスチナという国家も、パレスチナ人という人々も、はじめから存在しない。

 一年間という在外派遣期間中、大量死と芸術とジェンダー、というぼんやりとしたテーマを設定し、第一次大戦の女性芸術家の活動の調査から始めて現代のコロナ禍やロシアウクライナ戦争へ、ゆっくり手を伸ばしていくつもりだった。しかし、パレスチナのもうひとつのグラウンド・ゼロと化したベルリンで、自分がなにをすべきか本気で迷った。「すべきこと」などないのが表現の営み、とわかってはいても表現以前に、目の前の現実に応答しなければ生きていけそうにない、とまで思いつめていた。一歳のこどもと密に過ごすはじめての時間が、そして移民として過ごすはじめての暮らしが、わたしの身体と心の皮膚をひどく傷つきやすく、侵されやすいものにしたのかもしれない。

 長い冬のあいだ、息を殺すようにしてパレスチナとレヴァント(西洋から見た「中東」とはもう言わない・書かないことにしたので、代わりにこの言葉を使う)の歴史を学び、パレスチナ詩人たちの朗読会に出かけ、数々のドキュメンタリーを観た。アパートから15分くらいのところにSonnealee /ゾンネアレー、通称アラブ通り、という街区があって、強面のアラブ男たちがたむろするカフェやシーシャショップに入る勇気もないまま、雑貨屋や菓子屋をうろうろと見て回った。要するに、わたしはパレスチナはおろか、レヴァントともイスラーム文化とも何の縁もゆかりもない、というだけなのだが、それでも、どきどきしながらクーフィーヤを巻いて徘徊するアジア人に、「ビバ、パレスチナ!」とか、「よう兄弟!」などと声をかけてくれる人もあった。

 思い返せば、いままで取り組んできた仕事に関して、自分が出来事の当事者だったことは一度としてなかった。わたしはいつでもよそ者で、第三者だったが、今度ほど心細さを感じる仕事はなかった。表現者としてパレスチナのことをしよう、と思った瞬間、何を作るかは決まっていたが、肝心の一歩が踏み出せない。季節は巡り2024年の春になってようやく意を決し、パレスチナ会議(Palästina Kongress)の主催者に、これこれこういう作品を作りたいので協力者を紹介してほしい、と連絡した。

 パレスチナ会議はパレスチナの歴史を紐とき、パレスチナ問題に関する学術研究やアートの実践を紹介しながら連帯を呼びかける、三日間にわたるシンポジウムとワークショップで構成されていた──はずだった。わたしが連絡した時点ですでにチケットは完売していて、当日券も千人待ち、と主催者から伝えられたのを、食い下がってプレスパスを発行してもらい報道陣として入れてもらえることになった。会議初日、小さな会場で記者発表が行われた。駅を降り通りを会場に向かって歩いていくと、100メートルにわたって警察車両が並び、会場前ではシオニスト団体と政治家が街宣車を出してイスラエル国旗をかざし、抗議活動を行っていた。今思えばこの段階ですでに十分なきな臭さが漂っていたのだが、翌日、別の会場で始まったシンポジウムではベルリンにおける現実の厳しさをいやというほど突きつけられることになった。
 
 (つづく)

連なる

高橋悠治

子どもの頃読んだフランツ・リストの伝記に、夜明けにピアノの鍵盤に手を置いて、眠っている人を起こさないようにそっと鳴らす場面があった。両手の指を鍵盤に触れ、少しずつ位置を変えて鳴らす、片手の軌跡の地図に、他の音の線を重ねる、これが演奏の、また作曲のイメージにもなる。朝目覚めた時、暗い部屋の眼の前にそんなイメージと共に音が聞こえるような幻を見ることもあった。

年とともに、そんな朝も少なくなった。こうして身体から音楽が抜けていくのかもしれない。それでも、楽器を前にしていると、イメージもなく、指が動くこともある。腕のどこかに溜まっている記憶か、それとも筋肉の微かな揺らぎが作り出す響きを、耳が確かめながら音にするとともに、音の線が変化していくイメージを編んでいく。

小松英雄の「連節構文」から思いついたことだが、あらかじめ構成を考えることなく、フレーズを継ぎ足していく。一つのフレーズで使っていなかった音に触れながら、進んでいくと、曲がりくねった音の道が残る。全体の構成がないだけでなく、どこで始まり、どこで終わってもいいような音から音への歩み。

道々拾っていく音は、楽器の音域の範囲で、碁盤に石を置いて埋めていく手を想像しながら、残るかたちよりも、離れていく手の動きの方を見ながら、置いた音の跡を吹き消していくのが、即興で、演奏で、作曲であるかもしれない、と感じることもできる。

日本の昔に連歌とか連句があったのも、「一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり(三冊子)」と言われたように、止まらない時、変化する世界を生きる、一つの行き方だったかもしれない。