2012年4月号 目次

三月十一日、カッチンに行く仲宗根浩
たくましい都市住民さとうまき
抽象化とシステム大野晋
宵の地図璃葉
しもた屋之噺(123)杉山洋一
アジアのごはん(44) 旅行に醤油と納豆森下ヒバリ
ケンタック(その4)スラチャイ・ジャンティマトン
オトメンと指を差されて (46)大久保ゆう
歩行者、通ります。植松眞人
ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(1)冨岡三智
みどろの国から90――ベオグラードへ藤井貞和
製本かい摘みましては (78)四釜裕子
犬狼詩集管啓次郎
掠れ書き17高橋悠治

三月十一日、カッチンに行く

イレギュラー出勤のため、お雛様の土曜日休みになった。東村つつじ祭りに行く。高速の終点、許田インターでおりて国道58号から世冨慶(よふけ、読めるかいっ!この地名。地図のルビで初めて知る)から右折、329号線に入り東海岸に横断。大浦湾に出でさらに北上。母親が戦争のときこのあたりまで逃げて来た、とぽつりと言う。山の中を歩いていたら機銃掃射で一人おきに撃たれて倒れていった話はブラジルのおばさんから聞いた。

久しぶりのヤンバルは、こっちが住んでいるところと違い空気が気持ちいい。つつじは一分咲きだったが、高台から見えるのは辺野古のキャンプシュワブの建物、岬の先には長島、平島。きれいに見えた。帰りは慶佐次のマングローブ林に寄り、シオマネキを子供と見る。

マングースが素早く横断する道、途中にはねられ道の真ん中にほったらかされている死骸も車輪でつぶさないよう通り過ぎ、キャンプシュワブ前過ぎ、宜野座インターから高速で乗って、往復160キロ。おもっていたより道が整備されていたので時間がかからなかった。辺野古移設にともなう北部振興とかのおかげか、護岸工事、工事中のところもたくさんある中、移設反対の立て看もちらほら。

啓蟄の三月五日、最高気温二十七度。かんべんしてくれ〜とぐだぐだしていると「東歌篇ー異なる声 独吟千句」が届く。沖縄から「異なる声」にひとりで勝手に参加することにした。一時間ほどかけて読んでみる。

なるほど、植松眞人さんがブログで「漢字が読めなかったらどうしよう」というのがよくわかる。「うまご」という言葉を見つける。孫は沖縄の言葉と同じだ。発音は「んまぐゎ」と表記すれば近いか。

参加する、といっても家の中でランダムに音読しても、端から間抜けに見られかもしれない。新さくら丸では沖縄、奄美のことが歌われるているので、どうせなら歌われているところに行ってやれい、と仕事に行くまでの空いた時間でどこまで行けるか地名と歌の内容でここらへんならいいだろうというのを選んで以下の四つ。

  勝連の海のぐしくを〜
  コザの村〜
  黒人の兵〜
  ベトナムを〜

午後二時到着を目指し、カッチン(勝連)へと車を飛ばす。ちょうど二時ごろに勝連城向かいの駐車場へ車をとめる。自宅から片道だいたい12キロ。観光客他、島内から訪れた方々いるなか、勝連城址に入るとすぐ海が見えたのでここで音読。石垣を見ていたらてっぺんまで行ってみたくなる。けっこうな急勾配。一番高いところへ。この日は風が強く波の音は聞こえなかったが、うっすらと津堅島。左はヤンバル、右は具志川、中城湾、泡瀬、与那原まで見える。そこでも音読し次へ移動。

コザの村ときたら、昔の実家の斜め裏、幼いすけべな少年たちがよく覗き見していた宿の跡は今は駐車場。その少年たちは短命で今の生き残りは私を含めて二名。

次はゲート通り。白人、黒人も第二ゲートから出てこの通りを歩きそれぞれの盛り場へと行った。黒人は照屋、白人はセンター通り。

ベトナムの歌で出てくる「枯れ」、という言葉で勝手に枯葉剤を思い出し、去年、沖縄や台湾など他のところでも、枯葉剤を使用していたことが報道されたのでゲートに向かって音読し「ひとりで勝手に異なる声」終了。一時間半のほとんどは車の移動時間。一応、記録として携帯電話でそれぞれの現場を写真を撮影し、今回の関係者にお礼のメールを送る。


たくましい都市住民

先日福島で有機農業者らが企画したシンポジュームで明峯哲夫さんという方が話された。「逃げる場所はない。放射能と共存する覚悟が必要。それでも、種をまこうという人と、福島県産の農産物は、食べないという人に分かれたのは本質的な問題だ。頭の世界じゃない。感性の世界。汚れやリスクと共存していこうという能力は、土からうまれる。日ごろから土と付き合っていると、闘っていこうという根性が着く。都市の人間は、そういう根性がない。有機農業の運動は、たくましい農民を生み出したが、たくましい都市住民は生まなかった。既成の都市と農村の関係をそのままにして持続可能な社会は作れない。都市人間は、生活の中で土をいじれ。感性と肉体だ!」

イラクの難民キャンプに行くと、何もない土獏が地平線のかなたにまで広がっていて、そんな土の上に粗末なテントが建てられている。中東ではありきたりの風景なのだが、感性と肉体が研ぎ澄まされていくのを感じる事がある。難民は、すべてを放り出して、逃げてきた人びとだ。生きることの本質が視覚化されてもいる。僕は農業をやらないから、こういったキャンプで出会った人びとの汗と涙、そして砂漠の土は、都市生活者の僕を鍛え上げた。だから、なんだか、イラクと福島が僕の中で自然につながってしまった。


抽象化とシステム

最初は「きけんなものはきけん」と題して、今回は少し工学的な話にしようと考えていました。題名のお話が少し誤解されているようなので工学的なバックボーンを簡単に話をするはずでした。

この話はざくっとこんな感じです。

工学的に「きけん」を考えるとき、危険性のあるものはあくまでも危険なものとして捉えます。これは炎もそうですし、毒物、ラジオアイソトープなどもそうです。忘れてはいけないのは、高速に移動する物体もあくまで危険物です。しかも、人間が作るソフトウェアなんてもっとも危険な存在です。では、私たちは危険なままなものを使っているのでしょうか?YES。あくまでも、危険なものは危険です。

ところで、こうした危険物を問題を起こさせないように使うのが工学です。危険なものでも危険な状態にせずに安定した状態で使っている限りは危害を被りません。そこで、危害が及ぶような状況を作り出さずに安定的に運用すること:これが工学の目的で、このために最大限の努力を払います。

こうした中で、ラジオアイソトープは比較的安定化の容易な扱いのやさしい物質です。なにせ、そこらへんにゴロゴロとしているわけではないので検出は容易ですし、一番危険の大きい爆発的なエネルギーを発生させるためには特殊な条件が必要です。その他は問題を引き起こすための閾値が管理値よりも桁違いに大きいので問題も起き難いでしょう。ただし、管理のための基準と実際の危険状態の閾値とが混同されやすく、政治問題化するために、おかしなふうに厳密な管理が要求されることが問題ではあります。そうしたなかで、安全神話ができたのなら、それは設計者、運用技術者にとってはある意味、誉められはしても、それをネタに貶される事は普通はないんですけどね。その点、皆さん騒ぎませんが、どんどん巨大化していくソフトウェアの方が大きな問題だったりします。でも、まあ、政治問題化していますから、Y2K騒ぎと一緒で、マスコミがバラエティ化させて追い回すのでしょうね。当時苦労した身としては、当分、しんどいだろうなあと思います。

ここまで考えて、少し考えを改めました。だから、ここからは少し別の話になります。

「システム」に関する考察を昨年末から今年の年初にかけてまとめました。昨年の夏あたりからやっていると思い込んでいましたが、過去の水牛の文章を読んでいたら、なんと2010年から足掛け3年やっていました。もともと、バックボーンはソフトウェアの開発なのですが、構築するシステムを追いかけているうちに社会学にぶつかってしまいました。システム論は現在は社会学に分類される分野ですが、科学の再構成という意味では現代科学の基礎に位置する考え方だと思っています。

さて、このシステムですが、実はその基礎として、「抽象化」という仕組みを内在しています。

一見、ごちゃごちゃに見える社会ですが、それをひとつひとつの因果関係に紐解くことで仕組みが見えてきます。この因果関係を紐解くことが現代の科学(広義の)なわけで、そういった意味では、フィロソフィーという枠組みの中でナチュラルもソーシャルもそれぞれで原理を明らかにしていっているわけです。まあ、ごちゃごちゃの最たるもののひとつが「社会」なわけで、そうした意味ではシステム論が社会学の分野に属していても別におかしくはない。まあ、我々がフィロソフィーという大きな枠組みで考えられずに、「学」の狭い枠にハマっているから理解しにくいだけだと言えるかもしれません。

理系、文系なんて小さな枠に囚われずに、共通する概念を概観することによって見えてくる世界があるということでシステムをめぐる長い長い思考の旅はまだ終着駅を迎えそうにもありません。

そういえば、音楽も、多くのリズムや旋律が複雑に絡まってできあがっています。ホフスタッターの著作に「ゲーゲル・エッシャー・バッハ」という数学者、画家、音楽家を巡る思考の旅を描いた本がありました。以外に、システムと抽象化をめぐる旅も、同じように音楽や画にたどり着くのかもしれません。

たしか、優れたコンピュータ・アーキテクトには左利きが多くいます。そして、子供時代に珠算をやった経験を持つ者も多いですね。抽象化されたシステムを認識するためには、頭の中で空間を認識する力が強い必要がありますが、それには芸術をつかさどるといわれる右脳の活動が必要なように見えます。

案外と無意味に見えるような領域でも強く繋がっている可能性はありますね。そういえば、優れたフルート奏者に、工学系の人間が多くいるのは何か関係があるのでしょうか?


宵の地図

夕焼けは、ゆっくりと暗闇を引き寄せて、ひとつの世界に幕を下ろす
痩せ細った月はどこかへ身を隠してしまった

空想上の化物が今にも出てきそうな 黒に染まる森
蟲達の囁く声 見えない影の煙
静かな、長い夜 

聞こえない音に 耳を澄ます
大地は 不安定だ
奥底で、悲鳴をあげながら小刻みに震えている

旅人達は寂しさと恐怖を紛らわすために、詩を唄い
春の木々の匂いを吸い込みながら眠りについた

星は夢を見る旅人達を 東の空へ連れて行く

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しもた屋之噺(123)

今年の冬が特に厳しかったせいか、庭の樹がようやく瑞々しい新芽をふきはじめました。冬枯れの高枝のあちらこちらに繁る鳥の巣が、萌え立つ緑に少しずつ隠れてゆくのを毎朝見上げながら、心なしか鳥のさえずりの声も春めいて聞こえます。いつもの朝食パンに、親父に勧められたをマフィンを2個ばかり加えてもらいました。

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2月X日20:50 マチェラータ劇場の控室にて

朝からホテルの部屋で作曲。イェージからマチェラータまでの道は、女性的な優しさをもったなだらかな丘がどこまでも続く。レオパルディが謳った丘をこうして初めてみると、心に染み入るものがあるのは、丘をそめる赤紫の夕日のせいだけではないだろう。
マチェラータの劇場もうつくしい。マチェラータのあるマルケ州には、戦前には108もの劇場があったという。小さな街の一つ一つにまで劇場があるのはイタリアでもここだけだそうだ。すべてが大きな劇場なわけではなく、50席ほどの劇場まで美しく装飾されていて、平土間席やバルコニー席まで誂えられている。昔は平土間席を外して、街の舞踏会などにも使っていたそうだが、今は街の芝居やブラスバンドにも使っているだけだという。個人の屋敷のなかに拵えられた劇場もあるそうで、ぜひそんな小さな劇場めぐりをしてみたい。


2月X日0:40イェージのホテルにて

昨日のマチェラータの演奏会は忘れることができない。出番以外は客席で聴きたいとおもった。残席がなくて平土間席の壁に寄りかかって聴いた。劇場に着いたとき、入口階段をあがりきったところのフォワイエで、フリオ・エストラーダがコントラバスの一団とリハーサルをしていて、「チューリッヒで振ってくれた君のCanto Nascientoが今までの最高の演奏なんだ」と声をかけてくれる。彼らしい繊細な心遣いに痛み入りつつ、随分前に演奏した曲目まで覚えていてくれたことに感激した。元気なのかと声をかけると、優しそうなフリオの顔が少し歪んで、長年連れ添った妻を失くしたのがね、と噛み締めるように呟いた。

スコダニッビオの友人だったダニエレ・ロッカートが彼のコントラバスのための小品を、天を仰ぐように、一音ずつ愛しむように弾いた。ダニエレは空のステファノと舞台上で繋がろうとしているのか、少しでも雑音があると弾きかけた演奏をやめ、静寂を求めた。文字通り聴衆は固唾を呑んで聴き入り、弾き終わったダニエレは、コントラバスを労わるようにさすり、弾き終わったばかりの楽譜を高くに掲げ、聴衆の暖かい拍手はやむことなく続いていた。

演奏会後、奥さんのマレーザと少しだけ話す。彼女と会うのは本当に久しぶりだった。
「なにも言葉が見つからない」というと、「いいのよ」と力なく微笑んだ。「今日の演奏をステファノはとても楽しみにしていたの」とだけ言って、黙ってしばらく肩を抱き合った。
今朝はノーノの練習1日目。想像していた通りのむつかしさ。一度最初に通したときは、あまりに出鱈目のような曲に聞こえたのか、演奏者一同が爆笑したが、次第に曲のつくりが見えてくると、全員で喰らいつくように表情を附けてくれて、音に感情が芽生える。
劇的な瞬間。
練習が終わると舞台に初老の大柄な男が近づいてきて、誰かと思うと作曲のフェルナンド・シレオーニだった。92年にシエナで会って以来だったが、20年ぶりに彼の顔を見た瞬間に、フェルナンドがマチェラータ出まれだったことを思い出した。


2月X日13:40劇場近くのインド料理屋にて

ノーノの練習2日目終わる。
現代音楽に馴れていない人も多くて、落ちる人がなかなかなくならないけれど、「Canti」は魅力的な作品だとおもう。後半が4分の4拍子で書いてあれば、さぞ演奏も楽だろう。手書きのパート譜も読みにくい上に好い加減で、テンポ変化の指示を目印にしてキューを出しても、テンポの指示がないこと多し。
いやはや、この状況では、音程の調整などほぼ意味を成さないかと思いきや、少し聴きあうだけで音楽がずっと引締り、互いにすっと音楽のフレーズが頭に入る。駄目もとでも謂ってみるものだと痛感する。
この場末のインド料理屋はバングラディシュ人がやっているが、壁にはインド観光局の宣伝が貼ってある。


同日22:15レストランVincantoにて

フィレンツェのメディチ研究所でずっと長を務めていたFのお母さんから、「あなたの指揮している姿はジャンボローニャのマーキュリーそっくりだわ。特に、足の爪先がピンと撥ねるところなんかが」と、嬉しそうに何度もいわれる。どう贔屓目にみてもジャンボローニャとは天と地の違いだが、お世辞でも悪い気はしない。
夕方イェージの美術館にロレンツォ・ロットを見に行くと、「天文学と美術」というセミナーをやっていてずるずると見続ける。アラビア天文学とギリシャ天文学が、それぞれの宗教から離れてどのようにキリスト教文化に浸透していったかの顛末を話していて、「教会の龍のガーゴイルも、もとを正せば中国由来なわけです」と説明を受けて、一斉に頷くのを後ろから眺めているのはなかなか愉快。フェラーラ、スキファノイア宮殿のトゥーラとコッサによる「12ヶ月」の占星学は、ペルシャ由来だそうだ。


3月X日23:25イェージ第7天国にて

マルキジアーナとの最後の演奏会終了。苦労した割りに実によい仕上がりになったことに驚く。ノーノにある歌心は、演奏者から思わぬ可能性を弾き出す可能性を秘めていて、これが人々を魅了するのだろうと納得する。

朝、美術館にでかけると、ロレンツォ・ロットに魅入られて身動きすらできない。「裁判官の前の聖ルチア」のルチアの澄み切ったうつくしさと磨き上げられた焦点に言葉を失う。指揮をしていて、全くぶれることなく音楽と手が繋がっているときの感覚に似ている。聖ルチア以外には敢えてここまで焦点を合わせないため、巨大なキャンバスの中央のルチアの小さな目に、全ての動作が収斂されてゆく。動的なエネルギーの渦に沸き立つルチアの静謐なエネルギーから、彼女だけがまるで3次元絵画のように浮上って見える。押し付けがましい劇的な表現ではなく、純真さが溢れかえる表情に、魂が抜けるほどの感動をおぼえる。ロレンツォ・ロットは何度となく本で見たことはあったけれど、実は特に興味を覚えたことはなかった。


3月X日15:00自宅にて

ミラノに戻る折、イェージのタクシー運転手と話す。彼が40年前にタクシーを始めたとき、街には48台ものタクシーがいて、劇場前の広場にずらりと並ぶ様は圧巻だったが、誰もが自家用車を持つようになり、今はわずか4台しか残っていないそうだ。

帰りの列車で、レオパルディの最後の詩を何度も読み返す。が、作曲は遅々たる歩み。ペルゴレージが生まれた、イェージの街を歩きながら、いつもペルゴレージの「スターバト・マーテル」の一節「炎と火のなかで(Inflammatus et accensus)」を思い出していた。熾烈な歌詞に不釣合いなほどの明るい音楽が頭に鳴ると、無意識にイェージの蒼天を仰いでいる自分に気がついた。相手の心を穿つため、攻撃的である必要などどこにもない。ロットもペルゴレージも同じ。


3月X日16:20近所の喫茶店にて

漸く「夜」の作曲が終わる。冒頭の動機を説明するため、ナポリの桑の実売りの歌声を聞いてもらう。美しすぎて寂しいほどの呼び声。


3月X日20:00ミラノに戻る車中にて

ローマの平山先生のお宅をお借りして、太田さんとリハーサル。目の前の長椅子で平山先生が聴いていらして、最初は流石にすこし戸惑う。先生は先日行き付けの市場の八百屋で白菜と大根を買おうとして、中華料理屋の経営者に買い占められたそうだが、ミラノでは中国人だけで流通機構が出来上がっていて、こういうことは起らないので不思議な感じ。

不思議な空間で、まるで原宿あたりの雰囲気のよい昔からあるマンションの一室でリハーサルをしているような心地に襲われたのは、先生が淹れてくださったほうじ茶のせいだけではないだろう。「夜」は今まで書いたなかでは、とりわけ素材は限定的で、整理された作品になった。厭世的なレオパルディの言葉に敢えて無色透明の音をつけ、一縷の希望が差すところのみ音に色をつけた。

リハーサルの途中で、マリゼルラから涙声で電話がかかってきた。フランコの長男、ロベルトが心臓発作で急死したというが、にわかには信じられない。誰か友人がなくなると、残された電子メールや電子メールのアドレスが頭に浮ぶのはどうしてだろう。そこに電子メールを送れば、今でも彼に届くような錯覚に陥る。

ローマ、トラステーベレのアパートは各窓から電線が垂れていて、屋根のアンテナに通じていた。

(3月31日ミラノにて)


アジアのごはん(44) 旅行に醤油と納豆

しばらくタイとインドを旅してきたのだが、その出発のすぐ前に瀬戸内海の小豆島に一泊だけ行ったのである。小豆島というと、風光明媚でオリーブの木が至るところに生え、オリーブ園があり、オリーブオイルや化粧品、オリーブ飴にオリーブアイス、オリーブゆるキャラ人形までが売られている、オリーブで有名な島なのであるが、じつは醤油醸造所が二十軒もあり、醤油やもろみ、さらには醤油ソフトクリームに醤油プリン、醤油ドーナツまで作られている醤油の町でもあった。

せっかくなので、いつでも予約不要で工場見学が出来るというヤマロク醤油を訪ねることにした。石垣塀に囲まれた細い道をくねくねと通ってたどり着いたその醸造所は、こぢんまりとした古い農家のような佇まい。案内を請うと、気さくに蔵を見せてくれる。蔵の中に入ると空気は一変し、濃厚な菌の気配。古い大きな杉たるの外側も、壁も、柱もびっしりと白い菌叢に覆われている。ここの醸造所は百五十年の歴史を持っているという。この濃密な蔵の空気を吸っただけで、「ここの醤油、ぜったいおいしいで・・」と確信する。見学の後、ここで作っている何種類かの醤油を味見させてもらう。「う、うまい!」思わず何度もぺろぺろ。一度仕込んだ醤油を塩水代わりにもう一度大豆と麹を加えて仕込む「再仕込み醤油」がしみじみとおいしい。一緒に行った友人たちと醤油を買い込み、ヤマロク醤油を後にした。

その後、宿に向かう途中に、もう一軒醤油工場があったので、醤油の味見だけさせてもらった。「お味どうですか〜?」「あ・・(ちっともおいしくない)」そこもわりと有名な醸造所だったのだが、ヤマロク醤油の後では、ただしょっぱく感じるのみ。

翌日、帰りのフェリーに乗るため坂手港へ向かって車で走っていると、それまで通っていなかった道沿いに、次々と醤油の醸造所や醤油倉が現れた。うわ、こんなにあったのか。「この蔵の醤油、ぜんぶ味見してみたい〜!」と騒いでみるも、「もう時間ないからね〜」と通過。ああ、日本の旅はいそがしい・・。

そして、すぐにタイに行ったのだが、今回のタイ旅行に納豆をたくさん持っていったワタクシは、さっそく三日目にして納豆をかき混ぜ、「そうだ、マーシャのお土産にと思って持ってきたヤマロク醤油の小瓶があったやないの!」「え、せっかく持ってきたんやからあげたら?」「いや、この納豆にかけたら、めっちゃうまいと思うで」「そうやなあ」と、急遽お土産にあげるのをやめて封を切り、たらりと納豆にたらした。タイで売っている日本の醤油はあまりおいしくない。いや、はっきり言ってまずいです。とくにタイやマレーシアで生産している醤油は豆かすの臭さが鼻につく。なので、安い醤油を使うタイの日本料理屋の味は独特の豆かす臭さがある。

ヤマロク醤油で食べた納豆のおいしかったこと。はあ。その後、インドの旅からよれよれになってバンコクに帰り着き、バンコクの伊勢丹デパートのスーパーで買った日本製の納豆にヤマロク醤油をかけて食べたときには、泣きそうになりました。納豆添付のたれもなめてみたけど、味の素臭くて甘くて気持ち悪いので捨てた。
「おいしい醤油を持ってくると、いろいろおいしく食べられるねえ」「ほんまやなあ、なんでいままでそのことに気づかへんかったんやろ」これまでは海外旅行中に醤油がなくても平気だったからなのか。一度気づいてしまうと、もう戻れない。こんなおいしい醤油を知ってしまうと、もう戻れない。どうしてくれるヤマロクさん。

ちなみに、胃がもたれているとき、元気がないときに納豆を食べるとよくききます。かの発酵食品の権威である小泉武夫センセイは世界中を飛び回ってたいへんな量の食べ物を毎日胃に入れておられるが、その元気さと脅威の胃袋の秘訣は「納豆」にあるという。外国旅行にも必ず納豆を何十パックも持参し、長い旅には乾燥納豆を持っていくとか。ちょっと危ないかな〜と思うものを食べたときにも二パックぐらいずるずると食べるとだいじょうぶ、とか。

小泉センセイの「納豆の快楽」を読んで、そうか納豆を旅に持っていけばいいんだ、とはたと気がついての今回の納豆持参旅、日本食スーパーでさらに追加に買ってしょっちゅう食べるということをしていたが、なかなかいいものでした。インドにも持っていけばよかった。さすがに中級ホテルでも冷蔵庫がないのがふつうのインドには、ちょっと持っていく勇気がなかったのでした。移動も多いし。そうだ、次は乾燥納豆を持って行けばいいじゃないか。でも、あのぬるぬるがウレシイんだけどね。


ケンタック(その4)

荘司和子訳

二羽の小鳥たちも同様に女性たちの方へ向かって飛んで来た。まるで自然界のことばで挨拶しているように小さな翼をはばたかせている。呼びかけることばに代わって動作と声で。ふたりの女性たちも同様な反応をした。小鳥たちも人間もこころの奥に隠された生命のつながりがそうさせているかのように挨拶している。精一杯。

ふたつの掌が小鳥の頭、身体の羽毛をそっとやさしくなでている。小鳥たちは天から舞い降りてきた天女に手で触れられ、目を閉じてかすかに微笑んでいるかのようだ。彼女たちが小鳥を地面から抱き上げてそっと手を広げると、二羽は翼を羽ばたかせて飛び上がった。そして翼と身体を震わせて、おなじようにひらひら揺れている天女の手と戯れ始めた。

そして何が起こったのだかもわからないうちに二羽の小鳥はわたしの視野から飛び去り、あっという間に丘の斜面から谷の方へと消えてしまった。その方向には雑草や乾いた茨が密生した中を通る細い道があった。この道を二人の女性たちもそれぞれに小鳥を追って音もなくゆるやかに走って行った。

わたしは人生経験を経た中年の男。ひそかにここに入り込んできている。この男は実は農民ではない。自由気ままなアーティストで絵を描いたり、詩を書いたり、歌をつくっていろいろなことを物語る。農耕は得意ではなくて、食べていくのに必要な程度の小さな家庭菜園を作っているだけである。米は買ってくるし、唐辛子や塩、プララー[東北地方のナンプラー]などは持って歩く。

「ここを降りていくとあちらに谷川が流れています」と、彼はかなたの深い谷を指さした。
「魚も食料も豊富にあって食べていくのに不自由しませんよ。あなた、素手で魚をつかまえたことありますか? あの谷の渓流では素手で魚を捕まえる方法があるって、あなた信じますか? 何も道具がなくても捕って食べられます」

わたしは、はいともいいえとも答えずに頷いただけだ。見たところ彼はまだほかにもさまざまなことを語りたがっているかのようだった。けれどもわたしたちにはあまり時間がなかった。わたしが去る時間が近づいていたから。

やはり丘にそって細い道がうねうねと下っていく。誰が作ったのだか、何世代の人間が何年かかってどれだけたくさんの足が通って今ここに見ているような道になったのだか。陽が大分傾いてきたのでわたしはその道を降りて行った。あの女性たちと二羽の小鳥のほかにも、何かとても興味を引きそうなものがある気がして、降りて行かずにはいられなかったのだ。(続く)


オトメンと指を差されて (46)

わたくし、このたび大発見を致しました。

といっても、おそらくその発見によって恩恵を受けるのはわたくしひとりなのですが、それでも、いやそれだけに、主観的判断からこの発見に〈大〉を冠することができるというわけで。で、そいつは何かと申しますと――

「床についているとき、横向きになって、その上で背中にブーメラン形のクッションをぴっとり合わせると、気持ちいい」

ということなのであります! いやこれは、これはこれは、まったくの盲点でございました。ということは、いわゆるボディピローというもの、これを我々は重宝しておるのでございますが、なんと抱きしめるよりも背中にぴったり当てておく方が気持ちがよいということなのですよ!

なんと、いやはや。

確かにボディピローは抱くことでその者に安心感を与えるものでありますが、抱きしめすぎれば力が入るわけで、起きたとき微妙に肩が凝っておったり、腕が変な方に曲がってちょい痛かったりします。それがどうでしょう、背中に置けば無理な力など必要なく、そこはかとない落ち着きが得られるのですっ!

置くべき場所が、間違っていたと、いうわけなのです!

使い方を、ひとつに思い込んでいたという、このていたらく!

この素晴らしき創造によって、わたくしの最近は快眠も快眠、むろん毎日は致しませんが、ちょっと疲れているときのとっておきの技として繰り出されるに至りました。これが私以外の人間にも当てはまるかは保証致しかねますし存じ上げません。

人間が睡眠を快とし二度寝が気持ちいいのは神の思し召し、人をそのように造られたからにほかならぬ、という思想がございますが(学生時分に中東の方からその説を拝聴して感銘を受けたものです)、それはけっして言い訳などではなく、神がそうしたのならば人もそれに従い励むべきでして、何度も申しますようにわたくしその快を最大化するためには努力を惜しまないものでございます。

さて睡眠の際に重要なことと言えば、もちろん〈香り〉もそのひとつでございますよね! よね!(押しつけがましい)

眠りにつく際どのような香りがしているかは、リラックスにも直接関わってくる話ですから、何よりも気に掛けねばならぬ要素です。と言えば、おそらく人はアロマだとか何だとかをベッドのそばからどうこう、ということをお考えになられるかと思いますが――甘い! まだまだおぬし想像力がお足りになりませんぞ。

わたくしも一時はアロマキャンドルやアロマのお香であれやこれやしていたものですが、あるときふと気がついたのです。あれ? これって、確かに便利だけど、おのれの鼻からいささか離れてはいないか、と。

そして考えたのです、鼻に最も近きところ、それは――枕! いや枕カバー!――だとすれば、そもそもいい香りがしなければいけないのは、部屋の空気ではなく、枕、枕カバーそのものではないのか!

そうすれば、てくてく歩きながら、わたくしは思いを巡らせるわけで、枕カバーの香りにもっとも影響を与えるのはいかなるものか、じかに香水を振りかけるわけにもいかぬ、ではでは何だ......うむそうか、おのれのシャンプートリートメントであるか!

ということで、わたくしの髪を洗うものは、わたくし好みの香りがすることがいちばんの基準となりましてございます。

そして、さらにさらに、あえて香りを愉しむために思い切り顔を真っ正面から埋める頭を預けるところであるならば、枕カバーの感触もよいものでなくてはならない、ということで、となればやはり、まるでぬいぐるみのようにふかふかふわふわの、タオル地であるのがよいのでは、よいのでは、よいのではございませぬか!

そんなの面倒だとか、なかなかないとか、お高いとか、あるいは旅先ではどうするのかとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、答えは簡単、お手持ちのお好きなタオルをお巻きになれば、あるいは旅先にもふかふかのタオルを持ってゆけばよいのであって、それだけでほら! あなたの枕はすぐにふわふ〜わに変わるのですっ!

(※ですので、わたくしの例の持ち運び用小型マイ枕にはいつもタオルが一緒にありました!)

快眠ライフとは、お金なんかなくても、ほんの少しの知恵と手間でもたらせるもの、いつもいつも、わたくしそんなことを楽しみながら眠っているのでありました。


歩行者、通ります。

京都でも町屋が残る場所は数が少なくなった。特に、ここは町屋が何軒もつらなり、石畳の路地になっているので、映画やテレビドラマ、CMの撮影で引っ張りだこらしい。今回の映画の撮影でも許可が出るまでに時間がかかった。相手が渋っているわけではなく、依頼が多く、調整に時間がかかってしまうのだ。もちろん、引っ張りだこになると、相手の対応も横柄になる。実際、今回のやりとりも途中から「いやならいいんですよ」と、妙な具合に威圧され、やりにくいことこの上なかった。しかし、そんな鬱陶しさも今日の撮影が終わればきれいに忘れられる。

しかし、若手アイドルが男を追って通り過ぎるというだけのカットを撮るのにすでに三時間。これだけ時間がかかってしまっている理由はただ一つだ。カメラマンのサエキがこだわりにこだわっているからだ。サエキはこの道二十年のベテランで、画作りへのこだわりと、腰の低さで知られている。

そのこだわりが画面に本当に反映されるのか、シンイチにはわからなかった。大学の在学中から、撮影現場のバイトにかり出されるようになって二年。卒業してからもずるずるとバイトはしているが、映画とかテレビの現場を格別面白いと思うこともない。今回も、撮影中に車を止めてくれればいい、という約束で雇われたのだから、当たり前だ。撮影の良し悪しなんて一切わからない。

ただ、車が通れば「車、通りまーす」と声を張り上げ、スタッフに知らせる。本番中は車を止め、自転車を止め、歩行者を止めて、「早くしろよ」と怒鳴られながら「すみません、すぐですから」と頭を下げる。

シンイチは最初、車を止めることが難しそうだと感じていた。しかし、慣れてくると、意外に車を止めることは難しくない。それよりも、車を止めずに現場を通すことの方が難しいことに気がつくのだ。

車や人は「撮影中です。しばらくお待ちください」と合図すると百パーセントとまってくれる。それよりも、撮影の段取りをしているスタッフの脇を車や自転車、歩行者を通す方が、万一のケガなどを考えて緊張するのだ。
それでも、シンイチは大きな声を張り上げて、「車、通りまーす」「歩行者、通りまーす」と安全第一で迅速に動いた。

ところが、だ。カメラマンのサエキはどうやらシンイチが気に入らないらしい。何度も、シンイチの前にやってきては「ほら、ここにゴミが落ちているだろう。こういうのは、一番下っ端が気をつけて拾うんだ」とまくし立てる。シンイチはその度に「どこまで画面に映るのかもわからないのに、そうじなんか出来るか。お前が自分で見て、拾えば良いだろう」と心の中で反論する。もちろん、本人には言えないのだが、そうつぶやきつつ溜飲を下げるのである。

サエキはその後も、シンイチのやることに難癖を付けてくる。思うに、撮影がうまく進まない苛立ちをシンイチにぶつけていたのだろう。それでも、シンイチはなんとか我慢していたのだが、ひとつだけ我慢できないことがあった。それは、シンイチが歩行者を通す度に発していた「歩行者、通りまーす」という言葉をサエキが訂正してきたことだ。
「歩行者、通りまーす」

シンイチは、撮影隊に注意を促すためにそう声を張り上げた。歩行者もシンイチに一礼して通り過ぎていく。しかし、サエキにはそのかけ声が気に入らなかったようなのである。シンイチが、
「歩行者、通りまーす」
 と、声を出す度に、これ見よがしに大きな声で、サエキが言い直すのだ。
「歩行者、通られまーす」

最初は気がつかなかったのだが、シンイチが「歩行者、通りまーす」と言う度に、必ず「歩行者、通られまーす」と言い直す。確かに、車と違い、歩行者にはシンイチの声が直接届くことが多い。となると、「通ります」という言い方よりも「通られます」という言い方のほうが丁寧だ。丁寧な言い方でいらぬトラブルを避けるという配慮があるのだろう。それはわからなくもない。

しかし、それなら「歩行者の場合は、『通られます』のほうがいいよ」と教えてくれればいいじゃないか、とシンイチは思う。普段は周囲に「腰が低い」とか「やさしい人だ」とか言われているサエキの、細かすぎる嫌味な行動がシンイチには気に入らない。逆にサエキの言い方だけはしないぞ、と心に誓う始末なのであった。

「歩行者、通りまーす」とシンイチ。
「歩行者、通られまーす」とサエキ。

サエキは、段取りをしながらも必ずシンイチの「歩行者、通りまーす」を「歩行者、通られまーす」と訂正するのであった。

「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

正しいことをごり押しされているような気がして、シンイチは、サエキの声の後にあえてもう一度声を出した。

「歩行者、通りまーす」

それを聞いたサエキがまた声に出す。

「歩行者、通られまーす」
「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

歩行者がすでに通り過ぎているのに、しばらくの間、シンイチとサエキが互いをにらみつけながら「通ります」「通られます」と掛け合いを続ける結果となった。

その妙に緊張した空気はすぐに周囲のスタッフにも気付かれてしまった。監督がシンイチを呼びつけた。
「なにしてるんだよ。バイトがカメラマンに逆らってどうする」

そう言って、諭した。シンイチもそう言われると急に冷静になる。すみません、と謝ってまた持ち場に戻った。

撮影の準備が再開される。シンイチが、車や歩行者をスムーズに通すために、声をかけ始める。その様子をサエキはカメラの横で見ている。シンイチが監督に注意されていたのを見ていたためか、心なしか表情がほころんでいる。それがシンイチの気に入らない。

「歩行者、」
シンイチが大きな声で言うと、サエキがシンイチの方を見る。シンイチはシンイチで、サエキに目を向けたまま、唇の端に笑みを浮かべた。それを見て、サエキは眉間にしわを寄せる。そして、シンイチがそのまま、
「通られまーす」
 と大きな声で言った直後、今度はサエキが、
「歩行者、通られまーす」

そう言い直したのだった。いや、サエキは言い直したつもりだったのだが、シンイチが「通られます」と言ったために、ただ二人が同じ言葉を大きな声で言っただけのことになった。周囲のスタッフたちが二人のやり取りに笑った。出演していたタレントも笑い、監督も笑い、数少ない野次馬も笑い、サエキも照れて笑い、シンイチも笑った。


ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(1)

思えば、ジャワの芸術家の系譜をまとめたような資料は、現地でもない。昔は宮廷が芸術の中心だったが、宮廷芸術はみな王の作品とされたので、実際に制作に当たった人の名前が出てこないのだ。芸術家の個人名が出て来るようになったのは、1920年代末から宮廷の財政が逼迫して(世界恐慌で宗主国のオランダが経済的に逼迫したため)、宮廷お抱えの芸術家がそれだけでは食っていけなくなり、宮廷外で活躍し始めたからだろう。

インドネシア独立前後のジャワ舞踊ソロ(スラカルタ)様式の舞踊家、舞踊指導者を列挙した、たぶん唯一の本が、1997年にスマルジョがジャカルタのタマン・ミニから出版した「ブンガ・ランパイ・スニ・タリ・ソロ Bunga Rampai Seni Tari Solo」なのだが、これは著者の個人的な思い出話が多く、各人物のプロフィール全体については述べられておらず、あまり資料として参考にならない。

というわけで、今回からしばらく、現在ジャワ舞踊について調べたり実技を学んだりする上で重要な人物という基準で、ソロの有名な舞踊家、舞踊教師を紹介してみたい。

1.クスモケソウォ(KRT Kusumokesowo 1909-1972)

スラカルタ宮廷舞踊家。1938年には宮廷芸術の総責任者となる。1950年に設立されたインドネシア初の伝統芸術の学校である、コンセルバトリ・カラウィタン・インドネシア(後のSMKI、現SMKN8)の舞踊教師となり、舞踊教育法としてラントヨを考案。1961年からプランバナン寺院で始まった「ラーマーヤナ・バレエ」舞踊劇の総合振付を手掛ける。「ラーマーヤナ・バレエ」初演時にはまだアトモケソウォという名だったが、翌年に宮廷から新しい官位と名前クスモケソウォを下賜される。

1954年、舞踊作品「ルトノ・パムディヨ」を振り付ける。これは、後の芸大学長フマルダニが、新しい時代のジャワ舞踊として絶賛した。宮廷舞踊のスリンピやブドヨに似た作品を多く振り付けたが、それらは現存しない。振付作品のうち、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・スコルノ」(1960年頃の作)、「クキロ」の3曲はロカナンタ社から出ているカセットに収録されている(ACD-143番)。マリディが改作した子供の舞踊「マニプリ」も、元はクスモケソウォの作。

インドネシアの現代舞踊家のサルドノ・クスモや舞踊評論家サル・ムルギヤント、舞踊家のレトノ・マルティ女子やスリスティヨ・ティルトクスモなど、現在のインドネシア舞踊の著名な人々がクスモケソウォの門下から出ている。

2.ウィグニョ・ハンブクソ(RM Wignyohambekso)

という項目を挙げたものの、実はあまり詳しくこの人について知らない。日本に置いてきた資料にも詳しいデータはなかった気がする。

クスモケソウォが特にジャワ舞踊の基礎を方向づけた人だとすれば、ハンブクソはその創造性で多くの舞踊家に影響を与えた人だと言える。上に挙げたスマルジョも、またサルドノ(後述)も、ハンブクソはいろんな舞踊の振り(スカラン)を作り出す名人であったと言う。

この2人については、「水牛の本棚 NO.3」に収録されているサルドノの文章にも出て来るので、ぜひ一読を。サルドノは上の2人に師事している。瞑想を実践して自己を厳しく律し、舞踊の基礎を重視したクスモケソウォに対し、ハンブクソはお酒を飲むようなさばけた人で、新しい動きを生み出し...と対照的な人物だったようだ。しかし、この2人のことをよく知る人々から話を聞くと、2人はお互いに尊敬し合い、相談し合ったりもしていたという。たぶん、お互いが自分にないものを持っていたからだろう。


みどろの国から90――ベオグラードへ

ベオグラードの少女の言う、
「私の生まれてから、国ではもう、3回戦争があった。
戦争って、そんなにひどいものではないよ!
思われるより悪くない。 父が言うように、
人が死ぬのは、そんなに簡単なことではない。
怖がらないで!」(2001年)

「数日間、停電。 冷蔵庫のなかの食料は、ぜんぶ
腐ってしまった。 食事をあたためる、方法がなくて、
冷たい、いろいろを食べた。 高い、建物に住んでいる、老人は
降りられない!」

「私の住んでいる、15階まで、お皿を洗うための
水を10リットル、一人で運んでいった。」

「よかったのは、
この空爆のとき、季節が春だったことだ。
ボスニアの戦争のときは冬で、
経済封鎖でつらかった。
北風は壁を無視しているみたいで、
骨のなかへ直接、はいる。」(ディヴナ)

ディヴナは、古いセルビア語で、「素晴らしい、
神々しい」(形容詞)。 デュシャンDušanは「duša(魂)の
特徴を持つ」。 あの少女が、10年をへて、
男の子の出産です。(2012年1月29日〈夜9時5分〉)

おめでとう! デュシャンのために、
写真を見ながら、作品を書こう。 近く送ります。
今度こそ、平和が世界に訪れる日であるように、
デュシャンのために祈ろう。 去年も今年も、
日本では祈念と喪と、そして新しい誕生日のための、
10年に向かって、動き出せないでいるけれども。(3月3日)


(1999年6月、数十万人の難民が帰宅し、行方不明者の必死の捜査が続けられ、日本ではいま、2012年、帰るなき人々を日本国の大多数の人々が、切り捨てて忘れようとし、喪なきわれらの同胞は洋上に、石のしたに鬼哭している。〈3月15日、南相馬市を訪れ、桜井市長、若松丈太郎さん、総合病院長にお会いしたあと、「警戒区域」(避難地区、立ち入り禁止区域)の検問場所の手前まで、行って参りました。〉)


製本かい摘みましては (78)

八年ぶりに引越して、前回越したときとあまりに異なる二つのことに驚いた。自分たちの体力、それと、地震への備えの気持ち。いつでもとにかく壁には棚を積み重ねてきたから、このたびもまずは天井いっぱいまで並べ始めたが、どちらからともなく「これ、ないね」

作り足してきた棚は奥行きや幅がまちまちで、そのせいかいつごろどの場所のために作ったのかけっこう覚えているものだ。模様替えや引越しのたびに入れ替えたり組み直したりしてきたが、今回は高く積み上げることはやめ、あふれた本は近所の新古書店にまとめて売ることにした。段ボールを開いてはあらため、処分するものを別の段ボールに入れ直す。どんどん増える。面白いほど作業が進む。躊躇がない。私にとっての「捨て時」らしい。

経営者が決断する事業の「捨て時」とはいったいどんなものだろう。無知と無責任と無邪気を全開して、それを「思いとどまってください」と言いに名古屋にでかけた。昭和三十三年創業、和文欧文の厖大な数の母型をはじめ五十台の活字鋳造機やベントン彫刻機から印刷機まで揃う活字鋳造所だ。手動鋳造機も現役だが、事業縮小、もしくは廃業をお考えという。社長自身がすべての機械のメンテナンスと操作をこなせるので、この工場で地金から活字を作り組版して印刷するすべてを見ることが可能だ。今の日本でそんな場所がほかにあるのだろうか。

聞けばすべて独学という。ひとができることは自分もできるはず、と、次々に技術を体得したそうである。ある時期には凝って千五百種の家紋の活字を彫り上げた。見せていただいたが繊細で均整がとれていてスックとしてなんとも美しい。四隅には通し番号も振ってある。会社を経営しながらのことだから、休日や終業後の作業で八年かかったと社長は笑う。「社長込みで工場まるごと活版産業技術遺産!」ふざけて言ったが、言葉通りのようにも思う。遺すべきものを見分ける目と遺していく知恵が欲しい。


犬狼詩集

  53

夜の中からぼんやり犬の顔が浮かび出るんだ
吠え声が突然現実化する
獰猛な毛並みで何を守るのか
何を敵と思い何を信仰するのか
緑と赤のネオンサインが交替するとき
夜の親密さはエル・パソとシカゴをむすびつけ
感情と運命をきびしく判別する
ぼくは気にしない
犬1は小さな無尾犬、弱々しい抗議
犬2は痩せたブルテリア、そもそもあまりやる気がない
犬3は忠実な牧羊犬で死者の魂にも目を光らせる
さあ午前二時の太陽を探しにゆこう
道路を蹴ってかけてゆく羊たちの群れが
空っぽの都会では夜汽車のようにうるさい
ざわざわと路面から牧草が生えてくる
これもまた魔法昔話の起源


  54

詩は現実にとっての夜だから
詩は叫びにとっての無音だから
誰も知らないこの夜の風景をきみのために指さすことにしよう
月の光が湖のような効果をもって
10センチくらいの水深で世界をひたしている
ひとつの岩山から次の岩山へと
小舟を漕ぎ出してわたってゆけそうだ
この光景こそいわば世界に関するshorthandで
この圧倒的なしずけさに立つならばこの世の
あらゆるばかげた戦闘の背後にあるものも想像できる
ぼくらの都市の枯れ果てた根も理解できる
生きてゆくことのshorthand
跳ね出した野うさぎの気まぐれな進路を
三つのヴァージョンの音を欠いた動画で見せてくれ
しずかにふるえるゼラチンの風景群が
きみの深い思考をふるさとのように問いただす


掠れ書き17

ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』で、プラトンの『法律』の一節が引用されていた。「人間は、前に言ったように、神の遊び道具として作られ、一番良い部分はまさにそこだから、そのあるままに、男も女もみなこのうえなく美しくあそびながらすごすがよい、いま思っていることとは反対に。」(7巻803d)『法律』1巻644dでは人間は神々の操り人形で、内部の情動の紐が引くままに、わけもわからずぶつかったり離れたりする、とも書かれている。

クセナキスの論文集を訳しなおしている。1975年に『音楽・建築」として出したが、一語ずつ辞書を引きなおし、複文を解体し、長い修飾節を並べ替え、接続詞や代名詞のように外側から操作することば、形容詞や副詞のように判断しながら時をかせぐことばをできるだけ取り除いて、考えすすむプロセスを見ると、旧訳がまちがっていた箇所や、クセナキスと別れてから忘れていたことが浮かび上がって、なかなか作業がすすまない。

1月にマラン・マレの『膀胱結石手術図』を演奏してから、朗読と楽器の音楽に興味をもった。6月には辻まことの『すぎゆくアダモ』を朗読とピアノと原画の映写で上演する予定。その次はフランスの妖精物語『緑のヘビ』によるピアノ曲のために、17世紀末の原作と19世紀の英訳から、できるだけすくないことばを抜き出してテクストにする。朗読はあってもなくてもよいだろう。ラヴェル『マ・メール・ロワ』の第3曲にその一場面『パゴードの女王レドロネット」があるので思いついたが、原作は長く複雑なので、要約するのはとてもむずかしい。お決まりの幸せな結末まで行かないで、不幸のどん底で打ち切ることにする。

フローベルガーやマレのようなバロック描写音楽は、静止した瞬間の並列「活人画」(tableau vivant)で、フレーズごとに何かが起こる。サティの『星たちの息子』では何も起こらない。舞台の木が登場人物に共感してふるえたりしないように、音楽はドラマから距離をとって動かない。

Phewといっしょにベケットの『なんと言うか』をやってみた。クルターグの作曲があるが、それではなく、いくつかの響きやフレーズのスケッチを見ながら、即興でピアノを弾く。声も時々歌になったりする。どこへすすんでいくのか、どうなるかわからない。音をできるだけ削ろうと思うが、声が聞こえると反射的に弾いてしまうことがある。聞きながら次の響きを見つけるのは、ゆっくり慎重にすすめる声と楽器のあそび、小さな場所で、限られた聞き手の前でしかできないだろう。

モートン・フェルドマンが言っているように、フレーズをそのまま反復しないで、音を足したり引いたりし、ゆっくり変化していくことと、少しずつまとめて染めた糸を使う色斑(abrash)のある織物のように余韻のなかで次の響きに移ること、テリ・ジェニングスやモンポウのように、安定した響きに異質な音程を添えて、揺らぎをあたえ、対称性を破る。

スタジオイワトではじめた50人のためのコンサートシリーズは、作曲と演奏の実験室にしようと思う。店先の仕事場で職人がやっている作業のように、見通しよく、閉じていないが、じゃまもされない場がいい。