2010年10月号 目次
僕が猫を飼うまでの道のり
わが家にはアメリカンショートヘアのオス猫がいる。名前はマロン。由緒正しき血統書付きで、血統書に書いてある名前は、ルネ・マルソー・マロン。マロンという名は、うちの娘、当時11歳が付けたものなので、血統書上で彼の父母から受け継いでいる名前はルネ・マルソーである。フランス人か?
と、名前はなかなかに大仰なわが家のマロン君だが、もともと僕は猫が好きではない。というか、家の中に人間以外のほ乳類がいる、とどうも落ち着かない。爪や牙をもった動物がいると、「いつ痛い目にあうのか」と心配になってしまう。つまり......。つまり? そう、つまりは犬や猫が恐いのだ。だから、ずっと犬も猫も飼わずに生きてきたのである。
ところが、子どもというのはなぜか犬や猫が大好きなのだ。理由なんてなんにもなく、ただただ毛むくじゃらのものが大好きなのだ。案の定、小学校に上がった頃から、娘は「犬が飼いたい」「ネコが飼いたい」と言い出した。そのつど、「いかん、犬は散歩が大変だ」「だめだ、猫は家の中が毛だらけになる」と決して「恐い」とは言わずに回避してきたのであった。
しかし、4年前の春。この時の娘の「猫飼いたい病」はかなりの重傷で、食事の量も減ってしまうほどのものであった。そこまでか?それほどまでなのか?と思いながらも、「じゃあ、飼っていい」とは言えない。だって、恐いんだから。だけども、それほど言われて平然としていられるほど、気丈な僕でもない。娘に嫌われたらどうするの? という別の不安も頭をもたげてくる。
ということで、とある猫のブリーダーのお宅にお邪魔して、ひとまず仔猫を見るだけ見てみよう、ということになった。行ってみた。全身茶色の毛で覆われたアメリカンショートヘアの男の子がいた。見た瞬間に娘が「栗色だからマロン!」と名前を付けた。僕は恐いからじっとしている。もちろん、恐いとは言わずに。すると、猫というのはじっとしている人が好きなのである。ソファで緊張しながら座っている僕の腹の上にマロンがよたよたと登ってきて、ニャア、と鳴くのだ。僕の目をじっと見ながら、ニャア、と鳴くのだ。どうする? どうするよ? と僕が僕を問い詰める。どうするつもりだよ。ニャアって言われてるよ、つぶらな瞳で!
だけども、僕はえらかった。即決しない。一時の気の迷いで動物を飼うということがあってはならない。今すぐにでも連れて帰りたいとごねる娘をなだめすかして、ひとまず退散。途中、用事があったので銀座に立ち寄り、たまたま近くにあったベトナム料理の店で夕食をとることになった。
食事中、ずっとネコを飼うかどうかの家族会議が開催されていた。猫を飼うことでどんなに生活が楽しくなるか。猫を飼うことでどんなに邪魔くさい用事が増えるか。猫の人生を預かるということがどんなに重いことか。だけど、どうして仔猫はあんなにもかわいいのか。様々なことが話し合われたが、結局結論は出なかった。娘は頭を垂れ、息子は鼻をたれ、僕は仔猫の可愛さを認めながらも、恐さ故にいまだブーたれていた。犬、猫に対する怖さと、子どもたちが喜ぶ顔を天秤にかけると、天秤がぐらぐらと揺れている。
どうしようかと、ほとほと困りながら、ベトナム料理を食べ終わり、会計をする。ベトナム料理はすこぶるうまかった。また来るかもしれない、と僕は会計を担当してくれたスタッフに、「この店の名前、ベトナムの言葉で僕には読めないんだけど、なんて読むんですか?」と聞いてみた。すると、そのスタッフは答えた。「ベトナムの家、という意味のベトナムの言葉なんですが、読み方は『ニャー・ベトナム』と言うんです」。え?なんですって?「ニャー・ベトナムです」。そうですか。ニャーですか。ニャアですね。そうです。ニャーです。
かくして、猫のマロンがわが家へ来ることが銀座のベトナム料理店のレジの前で決定したのである。
子守歌の神謡――翠ぬ宝72
サダリ・フジイック
イフムケ・カムイ・ユカラ
私のかわいい赤ちゃん!
何がお前に魅入ったというのか
横座に行き 手をつき よもや私は
ぐっすりと眠ろうと思わぬ 二人して
いまはミイラ化する屍より
ふたたび起きあがるのはユカラ
鬼の母と週刊誌は語る
(手がうごいてメモを取りながら、朝起きて出所のわからなくなることがある。前回に書いた「世相」と、明らかにモチーフの連続がある。私の作品ではないはず。9月8〜13日、エストニア国タリンで、「日本文学から立ち上げる批評理論」会議と、ラウリ・キツニックがエストニア語訳『あかちゃんの復しゅう』を前日までに完成させて、それの朗読会と。これも赤ちゃんつながり――)
水牛ポロネーズ
1984年高校生3年生だった私たちは体育の時間、創作体操でショパンの『軍隊ポロネーズ』の曲に倒立前転や開脚後転、静止ポーズなどを組みあわせてひとりずつ発表しなければなりませんでした。体育館からは数ヶ月にわたりポロネーズがながれつづけ「水牛」というあだ名の体育教諭はサイトのロゴとおなじ色の口紅をしっかりひいて容姿はその名をうかがわせ、きゅるきゅるとカセットテープを何度も巻き戻していました。「軍隊ポロネーズ」がきこえると体操と紅い水牛をおもいだします。
教室で、国立大学のお兄さんとおつきあいのあるお友だちのひとりは「水牛通信」をちらりとみせながら、数年あとで知った「ペダンティック」ということばの感じをもってきどり、私は「Olive」(マガジンハウス刊)をかかえ悠治さんや榛名さんについてあれこれときいていました。
ひと学期に2、3回予告なく行われる登校時の校門検査では、水牛(先生)が生活指導係としての任務を全うしていました。かばんからはみでる「流行通信」やサイズの大きくなった「Olive」、LPレコードなど授業に関係のないものはいったん没収されました。が「水牛通信」は教科書のあいだにおさまっていたとおもわれます。
ショパンと水牛...悠治さん...まわしよみの『長電話』は卒業式までにまわってこなかった、そんな年でした。
先生は着任から退職までその名でよばれたそうです。
しもた屋之噺 (106)
秋空はどうしてこうも変わりやすいのでしょう。つい先ほどまで青空がさしていたかと思うと、突然稲妻が光って、1時間もしないうちに文字通りの集中豪雨でミラノの幹線道路がすっかり冠水して交通が麻痺することが、立て続けに何度かあって、一度は半地下の寝室もすっかり水浸しになったほどです。
ドナトーニの長男ロベルトとコーヒーをはさんで、その昔フランコが蒐集していた数多くの帽子の話になりました。
「あの帽子ね。365個、ちょうど1年の日数の同じだけあったんだ」。
体型や骨格など、フランコにとても似ているロベルトは、いつもどこかはにかんだ微笑を湛えていて、話し方など、アイルランド貴族の娘だったスージーを思わせるところがあります。言葉と言葉の合間に、形容しがたい不思議な甲高い長母音を挟み語調を整えるのが特徴で、そうでなければ、言葉がつまってしまうか、どもってしまいそうな印象をあたえます。アトピーのようなアレルギーなのか、顔の半分ほどがすっかり赤くなっているのが痛々しく見えました。
「365個の帽子は、実はどれもフランコのための同じサイズでね。一つとして被れるものがなかったのさ。365個の帽子があれば、365もの別の人格になりすますことができる。フランコは多重人格に憬れていたから」
「ペッソアの詩を愛読していたものね」。
「自分をさらけだすのが恥ずかしかったんだろう。あの大量の帽子は、フランコが大事に集めたものだから捨てるのも忍びなくて、当初は次男のレナートの納屋にしまっていたのだけれど、彼がミラノからトスカーナに引越すとき、そこも引き払ってしまったものだから、結局暫くうちの地下に段ボール詰めにされてしまっておいた」。
長くフランコが暮らしたランブラーテのアパートに住んでいるロベルトが、こうして目の前の食卓でコーヒーをすすっていると、思わずフランコの姿と重なります。飾り気もなく、いつもきちんと整頓された10年前までの食卓と違って、今は色身も増してすっかり雑然として、彼女の娘と3人で暮らすロベルトの部屋は、アイルランド人のスージーの部屋を思い出させます。
「ある大雨に降られた翌日、地下に降りると、なにやら太いホースが階段の下まで伸びていて、何かと思ったのだけれど。よく聞いてみると、雨に降られて、地下には1メートル以上水が溜まって、ポンプで汲み上げていたというわけなのさ。帽子も黴にまみれてね。結局棄てるしかなかった」。
フランコもスージーも外国語は決して得意ではなかったというのに、ロベルトは中学を出るころには、英語やフランス語はもちろんのこと、アラビア語やイディッシュ語の本を原語で読めるようになっていました。
「当時はね、たとえ母親が外国人でも、バイリンガル教育が悪だと信じられていたから、家でもスージーは下手なイタリア語しか話さなかった。夏にはアイルランドに出掛けたりしていたけれど、特に教えてもらったこともなかったし、結局自分で本で覚えたのさ。とにかく本が好きでね、原語で読んでみたいとおもうようになって、自然に外国語も読めるようになった。話すのは苦手だけれど」。
相槌を打ちながら、無意識にフランコやスージーがいつも本を読んでいた姿を思い出していました。
「アラビア文学やらユダヤ文学やら妙なものに凝っている息子をみて、ベネチア・ビエンナーレに有名な民族音楽学者の友達が来るからとフランコが紹介してくれて。彼からサンスクリットを勉強したらどうかと勧められたのがサンスクリット文学との馴れ初めさ。
サンスクリット語は、コンピュータ言語に似ていてね。インド人が飛びぬけて数学的思考に長けているのと無関係じゃないだろう。スクリプトを覚えるとコンピュータにのめりこむ、あの感覚に近かったんじゃないかな。なにより、サンスクリット文学が面白くてね。
リグ・ヴェーダに全く異本が存在せず、何千年も完全な形で口伝されてきたなんて、想像を絶する事実じゃないか。意味を伝える言語ではなく、規則を伝える人工的な"超(メタ)"言語でこそ可能だった奇跡なんだ」。
生業まで極めたサンスクリット語への情熱を口にして、初めて彼が饒舌なのを知りましたが、ロベルトからサンスクリットの厳格な韻律の話を聞きながら、その昔フランコがバッハの対位法について、同じランブラーテのアパートの部屋で、情熱的に話していたのを思い出しました。
* * *
東京からミラノに戻ってドナトーニを悼むビエンナーレの新作を仕上げ、11月に初演する尾形亀之助によるマドリガルを書き溜めています。日本語をテキストに使うのは高校生の習作以来で、当初は無理だとほぼ諦めていましたが、先方からの要望もあって書き始めてみると、思いのほか愉しく書き進められています。日本語で曲を書くという先入観に、必要以上に囚われていたのかもしれませんし、その昔、これでは日本の声楽曲の伝統に沿っていないと言われたことが引っ掛っていたのかもしれません。
傷口に塩を刷りこむような作業ですから、自作を譜読みするのは本当に苦痛で、12月に東京で再演する合唱曲も、漸く粗読みを始めたところです。ただ、声楽曲を書きつつ、過去の声楽作品を読返すことで見えてくるものも当然あって、この数年で吹切れたものがあることもわかります。15年ほど巡った挙句初めの場所に戻ってきたような、もしくは当初と似て非なる場所に辿り着いたような感慨を覚えるのです。
再演する合唱曲を読んでいると、当時深い闇の奥に捨置きかけていた何かを、力ずくで取り戻そうともがく、歪んだ純粋と言うのか、全うな不純と呼ぶべきものか、単なる不細工なのか、かかる恥部を受容しないことには先に進めなくて、思わず溜息を漏らさずにはいられませんでした。
めっきり日没も早くなり、今こうして庭から夜空を見上げると、紅葉し始めた樹の向こうに広がる闇も、じんわり深みが増した気がします。今週末からカザーレのオペラのため暫く滞在するレッジョ・エミリアから戻る頃には、或いは濃い乳白色のミラノの朝霧も立ち昇っているかも知れません。
犬狼詩集
15
川がしだいに急流になっていた、季節が変わるほどだった
私たちが知らないうちにここはもう岩の世界
やまめやさくらますが住んでいる
川を逆のぼることは時間を遡上することだときみはいったが
変だな、きみには、死者には
もう時間など用がないじゃないか
いまではきみは水の女、冷たくほとばしるこの形を欠いた
水流以外にきみが肌の表現をもたなくなるとは
卑劣なスキャンダルだ
個人的な幸福という観念をきみは何よりも嫌った
ぼくはそれ以外に山林や幽谷の
価値をほんとうには知らない
倒木に住む虫たちの生におけるparadigmaticな選択
虫たちの生命とおなじだけはかないのが人の生
さあ、やりなおそう、この強い水に足を濡らして
よろこびこそ生命における最大の批評なのだから
16
ほんとうに暗い夜は見たことがない
必ず光があるものだ、何かが発光する
星々と獣の目、電線と蛾の鱗翅
落葉の輪郭と泥の上の足跡
獣の尾と人の指先とばらまかれた琥珀の粒
こんな光の群れにみちびかれるままに
夜をひとりあるいはふたりで横切ってゆこう
探すのは夜の勇気
「勇気とはいやなものだ、あまり立派な感情ではない
それはいくらかの怒りと虚栄心と
大いなる強情さと俗悪なスポーツ的快感の混合物」
とサン=テグジュペリが語っていた
でも許してくれアントワン、勇気がいかに愚行に近くても
きみが見たパタゴニアの夜空は私には窺い知れないよ
ただここで地上の小さな雷雲を踏みながら
届かない明け方の勇気への旅を試みるだけ
夏と秋がこんがらがって
暑くなったり、涼しくなったりで鼻水が止まらない。仕事場はクーラーがギンギンに効いたところから外へと出たり、入ったり。すると寒さ暑さが体の中で入り乱れる。二つめの台風が過ぎた頃から、夜中近く車を走らせてもクーラーを入れずに窓全開にすればしのげるが、日が出ているうちはクーラーないと無理。アイドリング・ストップなんてもってのほか。夕方の西日は容赦ない。西側の水道管から出る水は相変わらずお湯。週間の天気予報見れば、最高気温三十度、最低気温二十五度が並ぶだけ。風が少し涼しくなったので八月、よりは少しはましだが、家の中では上半身裸族。休みの日に夕方から泡盛を飲んでいりゃ、鼻水も出てくる。蒸留酒は体を冷やす酒らしい。毎晩、ロックで島酒ではなおさら冷えるはあたりまえ。仕事場でもらったバンシルー(グァバ)、齧ると熟したピンクの実、皮の苦味、実の酸味、歯の間に挟まる種。今どきの子供はこんな面倒くさい果物は食べようとしない。
久しぶりの何も予定がない二連休に聴かずにたまっていたCDをパソコンに入れる。一時期、ちゃんとプレイヤーで聴こうと思っていたけど、段々とそれも面倒くさくなり、ハードディスクの容量も充分にあるのでどんどんパソコンにで聴くのに後戻りした。アレサ・フランクリンとキング・カーティスのフィルモア・ウェストでのライヴの完全盤が日本盤として再発されたので(四、五年前に限定で発売されて即完売)これを入れて聴く。三日間のセット・リストを曲ごとに並べ、日ごとに少しづつ変わる同じ曲をチェックしようと思ったが、気合が入った時にあらためて、と断念し、一月に亡くなったテディ・ペンターグラス(ドリフターズ世代であればヒゲダンスの音楽でそのリフは刷り込まれている)のフィラデルフィア時代のソロ・アルバムがリマスタリング、紙ジャケで出たのをはじめ、フィラデルフィアものがどんどん出るので、ペンターグラス以後出たCDを取り込み、次には10ccの片割れ、ゴドレイ&クレームの紙ジャケ。そしたら、ヴァン・ダイク・パークスの三年前に出た紙ジャケもあった。そんなこんなしていたら二日間の休みは酒と音楽と惰眠で終わる。配信音源主流の中で盤が売れないのをいいことに紙ジャケ、限定、最新リマスタリング、という三つでおやじ連中を狙い撃ちするレーベルばかりで、それにほいほい乗っかる、受験生をかかえた世帯主。国勢調査は記入済み。
そろそろと分類のことなど
とにかく、うちにあるCDの全貌が把握できなくなってから随分と経つ。並べて置くことができないので、仕方なく、積み重ねたがいいがそれでもタワーがいくつもできて、しようがないので奥の方から箱に入れてしまい込んだ。しまい込んだはいいが、今度はどこに入ったか分からない。そんな箱がいくつもできると、終にはどこに何があるのか分からないお手上げの状態になる。実は本も似たような状態なのだが、これはまた別の機会に。
そこで、この状況を打開すべく、そして、わが寝床を確保すべく、いろいろと画策しているのだが、おかげでこの夏は特別に暑く、特別に何もできないことになってしまった。この状況はまだしばらく続きそうなのだが、できれば数ヶ月先には解消できればいいと淡い希望を抱いている。
しまい込んだ箱を開けることを考えると、その中身を分類することを考える必要がある。クラシックにとどまらず、雑多な音源が詰まっているので、それをどのように広げるかは一大問題だ。そこで、音楽の分類について考えてみた。
音楽を分類するとき、どのように考えるべきなのか? クラシック、ポップス、ジャズなどとジャンル別に分けるだけで十分だろうか?たとえば、バーンスタインのウェストサイド・ストーリーはどの分野に分けるべきなのか? スタジオ録音とサントラを同じ分類でいいのか? ガーシュインは? 若きティルソン・トーマスが指揮をしたサラ・ボーンのライブ録音はジャズなのだろうか? それともクラシックなのか? ピアノのスワニーはジャズに分類するとして、では、ラプソディ・イン・ブルーはどう分類しようか? そんなことを考えていると、実はカテゴリー分けなんて実にいい加減なものであることに思い当たる。さてさて、どうして分類してくれようか?
音楽の提供形態なんていうのはどうだろうか? コンサート、劇(映画)音楽、録音(CD)などというのはどうだろう? でも、私のCDの有効な分類方法ではなさそうな気がするけど。
演奏スタイルというのは? ソロ、少人数、多人数なんていう分類も面白い。なるほど、これに音楽のスタイルを組み合わせると面白い分類ができそうだ。
たとえば、ショパンのピアノのソロコンサートは、「コンサート+ピアノ・ソロ+クラシカル」。スターウォーズの映画の音楽は、「映画音楽+多人数(オーケストラ)+クラシカル」といった具合である。ただし、ハリウッドボールでの、メータ指揮のコンサート形式の演奏会は「コンサート+多人数(オーケストラ)+クラシカル」になるのか? ロイヤルフィルの演奏したクイーンのオーケストラ編曲集などは「CD+多人数(オーケストラ)+ロック」?
実は、こんな話を考えるきっかけになったのは、毎度、名曲コンサートになってしまう弱小プロオーケストラのプログラムについて考えていたこともひとつある。「コンサート+多人数(オーケストラ)」なら、後ろのジャンルはどうとでもできるだろう。たとえゲームに付随してできた音楽でもオーケストラ編成に編曲され、コンサート形式に整えられているのなら、別段、定期演奏会にかかってもおかしくない。むしろ、聞く機会の少なくなった名曲よりも、頻繁に聞く機会のあるゲームやドラマ、映画の音楽の方が若者たちには訴求できるのではないだろうか?
ま。なんとなく、狭い殻に閉じ篭っている感じをならなかったのだ。ベルリオーズの幻想とエクソシストのチューブラーベルズが一緒にプログラムに並んでも、伊福部のゴジラと春の祭典が一緒に並んでも、いいんじゃないかな?
というようなことを考えていると、意外と我々の考える音楽ジャンルなんていい加減なものに思えてきた。いい加減なら、CDもこのままでいいか。。。いや、いかん! いかん! すでに重複チェックもできなくなって同じCDが何枚もある状態なのだから、なんとか、脱却せねば。
さて、皆さんのCDはどんな感じで並んでいますか? ちなみに、うちのiPodはぎっしりといっぱいに、これもまた雑然と詰まっています。あれ? いずこも変わらず?
心のスクリーンにうつす映画
「ミステリ・マガジン」(早川書房)の10月号から、片岡義男さんの連載小説「さらば、俺たちの拳銃」がスタートした。
「1960年代東京を舞台に、ニューフェイスの俳優コンビの活躍を描く。本文中には実在の映画、音楽、人物、場所そして架空のそれらが夢とも現実ともつかず立ち現れる。今後、主人公たちは、映画と現実、双方の事件に巻き込まれ、入れ子構造で謎が展開していく」。スタートに当っての、この紹介文を読んで、とてもうれしい気持ちになった。
2009年12月から2010年5月まで、5回にわたって片岡さんに1960年代についての話を聞き、この「水牛のように」に掲載していただいた。60年代に青年だった片岡さんが語るエピソードと共に、その時代を記憶しなおしてみたいというのがインタビューをお願いした動機だった。片岡さんの60年代を散歩してみたいと「片岡義男さんを歩く」というタイトルにしたのだった。"片岡さんこそ1960年代を語るにふさわしい"という思い込みを持って始めたインタビューだったけれど、つかみきれないまま終わってしまった。
「さらば、俺たちの拳銃」という小説によって1960年代が描かれ、しかもヨシオという人物も登場することを知って、うれしさはさらに深まった。片岡さんはやはり、小説によって描くことを選んだのだ。しかも実在の映画、音楽、人物、場所なども織り交ぜながら、「映画という虚構」と現実が入れ子構造になる予定という。「そうでなくっちゃ!片岡さん」と思った。
時代を懐かしく振りかえることや、まして意味づけることなどには一切の興味を持たない片岡さんだったが、「具体的な細かい話を順番に追っていくとおもしろいかもしれないね、日めくりのように」と始めたインタビューで、「ここに来る途中、考えていたのです。1960年の今日、1月18日は何をしていたかな、と」というわくわくするような言葉で始まった回があった。そして、1960年の1月、片岡さんは大学に行ったのだった。映画のなかで赤木圭一郎が着ていたようなオーバーを着て。
「さらば、俺たちの拳銃」の第2回、赤木圭一郎をイメージした主人公ケニーは、銀座の街をずっと歩いている。かろうじて思い浮かべることができる赤木圭一郎の面影を主人公に重ねて読み進んでいく。私が歩いてみたかった片岡さんの60年代が、言葉によって、心のスクリーンに映し出されていく。
観月の夕べ
今年もジャワ舞踊の公演を、だんじり祭りで有名な岸和田の岸城(きしき)神社で行った。今年の中秋の名月は9月22日だが、満月は23日ということで、23日の公演となる。今回も私の独断と偏見に満ちた感想をメモしておきたい。
第2回ジャワ舞踊&影絵奉納公演「観月の夕べ」
日時■ 2010年9月23日(木・祝)
場所■ 大阪府岸和田市 岸城神社(雨天の場合は社殿)
内容■
ワヤン(影絵):ハナジョス、西田有里
ジャワ舞踊ジョグジャカルタ様式:佐久間ウィヤンタリ、佐久間新、ジャワ舞踊リンタン・シシッ
ジャワ舞踊スラカルタ様式:冨岡三智
主催■ 岸城神社、ジャワ舞踊の会
共催■ 特定非営利活動法人 ラヂオきしわだ
後援■ 在大阪インドネシア共和国総領事館、岸和田市教育委員会、岸和田文化事業協会
昨年は落語の物語の中でジャワ舞踊が展開するという構成にして、新しい物語を作ってもらったのだが、今年はハナジョスが新しく構成した影絵「スマントリとスコスロノ」に、舞踊を挟み込むという構成にしてみた。当初は影絵は影絵、舞踊は舞踊で別に上演しようと考えていたのだが、ハナジョスの提案でそういうことになる。もっともこの物語に合うような既存のジャワ伝統舞踊はないので、場面の雰囲気に合いそうな舞踊を当てはめることにする。舞踊は佐久間さん夫妻と2人の舞踊教室の方々、それに私。
公演は神社の境内ですることになっていた。社殿への階段の上がり口に影絵のスクリーンを立てて、社殿の奥に向かって影絵を上演し、舞踊は社殿前の庭、影絵スクリーンの前で上演し、観客には舞踊の場を取り囲んで半円形に座ってもらおうと思っていた。しかし、9月23日といえば、前日までの猛暑日が嘘のように大雨となった日で、大阪南部には竜巻注意報まで出ていた。結局、断念して社殿内で上演する。
社殿内では野外のように配置するのは不可能なので、踊り手は拝殿の檀上で踊り、影絵はその下、石畳の上に設置した。この際に、ダラン(人形遣い兼語り)や伴奏する音楽家が観客側にくるようにセッティングしたのだが、「影絵と言うのに、なんで影の側から見ないの?という声があった。言われてみればそうなのだが、ジャワで長く生活した者には、これはちょっとした盲点である。ジャワでは影絵は本来、祖先の霊に対して上演するもので、祖先霊たちは影の方から、人間は人形の側から見る。ジャワではそれが当たり前なので、影絵を上演するときに、スクリーンを壁にくっつけてしまって、はなから影など出来ない、ということも少なくない。
今回は影の裏あたりに少し空間が空いてたので、ゴロゴロという、物語が脱線して途中休憩のようになる場面で、一部の観客がこちら側に座りに来ていた。私も「裏から見るときれいですよ」と言われて裏に見に行って、確かにきれい...と感心した。影絵人形の精巧な透かし彫りが、影絵の側からだととてもきれいに見える。実のところ、私自身もジャワで影の側から見ることはほとんどなかったのだが、やっぱり影の側を見せてもきれいだなあ、静謐な感じがするなあと改めて教えられた。けれど、これは日本で、しかも神社の中で見たからそう思っただけなのかもしれない。そういえば、今日は満月というだけではなく、お彼岸の日だし...。人形遣いや演奏者がいる側にいると、ジャワでは演者同士の下世話な掛け合いがいやでも目に入ってくるので、こんなしみじみとした感じにはなりにくいなあ。
その影絵の上演は、ダラン(人形遣い兼語り)のローフィットさんと、彼とユニットを組む佐々木さん、プラス西田さんという、なんともミニマルな編成である。本当にそれで手が足りるのか?と思ったが、みな八面六臂の活躍で複数の楽器を担当していて、意外に人数の少なさを感じさせなかった。ジャワ留学していた頃は、ガムラン音楽や舞踊はともかく、ワヤンだけは日本でできまいと思っていたが、こんなやり方もあったのだなあと感心する。
ジャワではワヤンは一晩上演するが、今回はワヤン部分だけで1時間、舞踊をはめ込んで2時間半の上演である。ゴロゴロではローフィットさんは日本語を交えたものの、あとはずっとジャワ語の語りである。しかも、このスマントリとスコスロノは軽いノリのお話ではないので、正直どこまで楽しんでもらえたのか不安だったのだが、それなりにジャワの雰囲気は味わってもらえたようである。
さて、佐久間さん夫妻の舞踊は「ブクサン・スリカンディ・ビスモ」。女性の舞踊スリカンディが、敵方の高潔の士、ビスモを倒すマハーバーラタの一シーンを描いている。このシーンはワヤンオラン舞踊劇では人気がある演目なのだが、スラカルタではウィレン(2人による闘いの舞踊)形式にアレンジされたものがない気がする。師匠からも、そういう演目があったと聞いたことがない。ビスモなしの、スリカンディの単独舞踊として振付けられた作品(ルトノ・パムディヨ)はあるのだけれど...。私が今まで見たワヤン・オランではビスモというと小太りのおじさんが演じていることが多かったので、細身のビスモというのがなんだか新鮮だ。やっぱり細い人の方が高潔の士に見えるなあ。
で、私は自分の作った作品「妙寂アスモロドノ・エリンエリン」を生演奏で上演した。これはスコスロノが亡くなるシーンに当てたのだが、もともとこれは亡くなった人を忍ぶ曲として留学中に作ったもの。マルトパングラウィットというジャワを代表する作曲家の曲なのだが、この曲を聞いたとたん、この舞踊のテーマが思い浮かんだのだった。後から聞けば、マルトパングラウィットもまた、誰か亡くなった人のためにその曲を作ったらしい。私は全然そのことを知らなかったのだが、ジャワで上演したときに、何人もの人がそう教えてくれた。そういう曲趣だし、またこれは他の舞踊曲と違って、もともとフル編成ではなくガドン(室内楽的小編成)の曲を想定して振付けたので、3人ガムランでも演奏できて効果もあるだろうと思って、生演奏にする。私が踊っているときに、ナンマイダブ・ナンマイダブ...とお祈りしていたおばあさんがいたよと言ってくれた人がいたが、本当だろうか...。
というわけで、今年の観月の夕べも無事終わり、ほっとしている。この公演を境に一気に秋になりましたね...。
製本かい摘みましては(63)
1605年にストラスブールで世界最古の新聞「レラツィオン」を創刊したヨハン・カルロスというひとは、製本職人をしながらその副業として新聞を作ったそうである(2010.9.17 朝日新聞)。最初は手書きだったがまもなく活版で刷るようになり、週に一度の郵便配達に合わせて木曜日に刊行する。そのアイデアを誰かに横取りされては困ると、市の参事会に請願した日付入りの文書が見つかったというのだ。請願はもちろん却下。これまで最古の新聞創刊年は1609年とされてきた定説をくつがえす史料が見つかりました、というのが記事のメインだが、その人が製本職人であったこと、そしてその副業ではじめましたというのがよほど気になる。ただしそれ以上の情報はないようで、人物像は謎のまま。
日本に洋式製本がもたらされたのは、A.パターソンの来日による明治6(1873)年とされている。だがそれ以前に、日本人の職人が行ったと思われる洋装本があるらしい(岡本幸治「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年、pp.24-42)。図書館の依頼で『独々涅烏斯草木譜』を修復した岡本さんの緻密な分析によるもので、布の裏打ちの仕方や角の折り方、刷毛の塗り跡を見つけては、和装本の高い技術を持つ人によるものではないかと推理が進むようすがすばらしい。さかのぼって、日本に冊子本がもたらされたのは9世紀初め、中国から空海が持ち帰った『三十帖冊子』が最初である。昨年夏、京都府教育委員会がその修復を発表したが、これでまた推理が重なり、新たな事実が示されるのだろう。このことについて書物学の小川靖彦さんは、"正式な形態"とされていた巻子本から"ノート的"な冊子本へ装丁法が移行するころの、貴重な資料が得られるだろうとブログ「万葉集と古代の巻物」に書いている。中国にはもっと古くから冊子本があったのだが、書写・製作年代がはっきりしている最古の冊子本が『三十帖冊子』だからという。
小川靖彦さんの『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書)には「書物」としての『万葉集』の見方も描かれていて、ブログと合わせて興味深い。原本を失った『万葉集』のどの写本・刊本もまたそれぞれ一部の「書物」であることを、古写本のそれぞれの特徴を解説しながら明らかにしてくれる。そして小川さんが推理した原本はおよそ想像を絶するものだ。これを朗々と読み上げるとは超絶スペシャル劇場のいかんばかりか! 『万葉集』の古写本の多くは、料紙1枚づつを二つ折りして折り目の外側を糊付けして重ね合わせる「粘葉装(でっちょうそう)」だそうである。ほかに、尼崎本は料紙を数枚重ねて二つ折りしたものを幾折か糸で綴じる「綴葉装(てっちょうそう)」、西本願寺本は表紙の右端に綴じ穴を空けて糸で結ぶ「大和綴(結び綴じともいう)」と、綴じだけ見てもいろいろある。文字の使い方や組み方、紙の種類や装飾、墨の濃淡に筆の運び方など、かたちを変えながら中身をつないできた『万葉集』の1200年を思うと、このあとの1200年がさほど気の遠いものでなくなる。
今春から刊行がはじまった林望さんの『謹訳源氏物語』は、表紙まわりの装丁も林さんがなさっている。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です。〉と記してあって、そのことがまた話題になっている。ぱっと見たところ、通常の機械による糸綴じだし、背がむき出しなのは『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁)など前例があるし、なにより、「コデックス装」というのはネーミングなんだろなと思ってもどうにもピンとこない。でもこの装丁で注目すべきは実はそんな文言ではありません。背丁がないのだ。丁合とるのが、あるいは検品が、さぞや手間ではなかろうか。そのための作業の工夫が、現場にはあるんでないかな。
オトメンと指を差されて(28)
私にとっては、スイーツとメルヘンは近しいものです。
甘いモノみたいに、突然食べたくなったりします。〈足りない足りない今私のなかで××分が足りてない〉という強烈な意識というか欲求に襲われて、我慢できなくなってしまうわけで。といっても、読むだけではどっちかというと食べるよりながめるだけ。どれを食べよっかな、と物色しているだけ(あるいは味見しているだけ)なのです。訳すことでメルヘンを深く味わうという感じかな?
といっても、わざわざ童話でも民話でも説話でもフェアリーテイルでもなく〈メルヘン〉と呼んでいるのは、先に挙げたどれとも自分の想定しているものと一致しないから、でもあるのです。子どもだけのものでなく、昔からだけのものでもなく、妖精に限らず。何かこう、まず短くて、それでいて別の世界の何かを伝えてくれるもの、でしょうか。
Maere=伝えてくれるもの、chen=ささやかな、という言葉の組み合わせが、いちばん自分のなかでしっくり来ています。だからというか、この言葉があるから当たり前でもあるのですが、ドイツのメルヘンは絶品ですよね。代表的なもので行くと、グリムやエンデなんかがありますが。
それに、私のなかではカフカだってメルヘンだし、アメリカのラヴクラフトの作品だってメルヘンです。あとはSFのアジモフにもメルヘンがあると思いますし、そうそう、この定義で行くと半七捕物帳もメルヘンですね。もちろん絵本は最高のメルヘンですよ!
それに美味しそうな作家があれば、書かれた言語が何であろうと、どうでもいいのです。前にも書きましたが、どんな言葉でも訳そうと思えば頑張って訳せるのです、私は魔法学者ですから。実際大した障害ではありません。(ただ食べるのにはかなりの時間がかかるので、それまでに色々と慎重なプロセスがあったりします。)
また、作品や作家だけじゃなくて、言語を単位として〈食べたい〉って思うこともあります。それは個別のお菓子やパティシエじゃなくて、ぼんやりとチョコが食べたいシュークリームが食べたい、なんていうのがあるような感じと似ているでしょうか。
ふと、「スウェーデン語が訳したい!」とか「インドネシア語が、インドネシア語が!」とか「ギヴ・ミー・アルメニア!」とか、そういう気持ちになることがあるんですよね。何というかさほどの脈絡もなく、突如として。そうすると辞書とテキストを探して、とりあえず味見してみて、考えてみます。
しかし辞書はたいてい手にはいるのですが、テキストの方がなかなか難しいんです。マイナーな言語であればあるほど、今の世のなかでも作品の原典を手に入れるのは面倒になります。少なくとも国内ではほとんど無理ですし、インターネットで海外発送を取り扱ってくれる現地の書店を探さないといけません。ときには国内の代理店を通して発注したり、個人輸入のスキルがどんどん上がっていく一方ですが、場合によってはあまりのハードルの高さに、別の言語でまとめられた本で我慢することもしばしば。それでも今はかなりいい叢書もあるので、楽しむ分にはいいんですが。
でも、こういうとき役に立つのが古書取引の国際的ポータルサイト。どの国の書店とも同じシステムや形式でやりとりできるし、支払もだいたい共通していて、場合によっては新品で買うよりも安くて。洋古書の探索に特化した業者もありますし、そこを経由して手に入れることもあります。いずれにしても労力を使うことは間違いないけれど、かなり手間が省けます。
こういうときに感じるのは、世界は依然として流通・通信において障害があるっていうことです。言葉とか文化とかの差よりも、物理的なアクセスに問題ありで。だからアクセスが解放されるとか、自由になるとか、どんなものであれそのひとつひとつが、ものすごく大きな意味をもっていて。アクセスさえどうにかなれば、あとは本人たちの努力次第ですから。でも「努力次第」のところに持っていくまでは、かなり大変で。
とはいえ、女性がスイーツに対してかけるエネルギーが途方もないように、私も美味しいメルヘンを食べるためには、何だってしますよ? それが秋ともなれば、食欲と読書欲が重なり合って――それはもう、ね。
アジアのごは ん(35)タイの薬草ガオクルア
いきなり来ました、更年期。
いや、正確には数年前からいろいろ兆しはあった。タイの暑さに弱くなり、熱中症になりやすくなった。頭がのぼせる。穴三つ開けていた耳のピアスがかゆくなり、はずした。二十年来寝るときもずっとはめていた何本もの太い銀の腕輪もかゆくなり、細い一本を残してはずした。ときどきくらっとめまいがする。なんだか怒りっぽい。しかし、若い頃から、のぼせやすい、めまいがしやすい、気が短い、生理不順などなど、もともと更年期のような女であったので、なかなか気がつかなかったのだ。
今年に入って、妙に同居人に腹が立つようになった。ささいなことが許せない。もう別れようかと真剣に考えた。怒りが収まらない。どんどんどんどん怒りがわき起こる。怒りは怒りを呼び、ヒステリー状態になる。ぐるぐる、ぐるぐる、怒りのスパイラルである。去年からずっと仕事が忙しかったので、そのストレスのせいだと思っていたのだが、仕事が一段落しても、こころがざりざりとしている。仲の良い友だちにも何か不満がつのる。気持ちが殺伐としたまま戻らない。
五月のある朝、ふとんのなかで半分目覚め、半分眠った半睡状態のとき、はたと気がついた。半睡状態というのは、わたしにとって、気持ちのいい至福のときであり、いろいろなイマジネーションが浮かんでは消える創造的な時間でもある。というのに、理由もなく腹が立っているではないか。怒りがふつふつ沸いてくる。誰も彼もが許せない、もう、世界が許せない。なぜ、こんなに怒りが沸いてくるのか? これはさすがにおかしいぞ。ヒバリは気が短いとはいえ、こんなヒステリー女ではなかったはずだ。あ、も、もしかしてこれが、更年期、更年期障害の症状かも!
いろいろ更年期障害について調べてみると、なるほど、今の状態はぴったりだ。年上の友人たちが更年期の症状として一番にあげていた「ホットフラッシュ」という、いきなり体中が熱くなる、というのは起こらなかったが、こころのざりざり感もヒステリーも暑いとのぼせやすいのも、肌が過敏になったのも、めまいがひどくなったのも更年期障害だったのか。閉経が近づき女性ホルモンが減ることに、脳がついていかず体や感情にトラブルが出るというのである。
五つ上の友達に電話で聞いてみた。「更年期障害? あ〜ホットフラッシュが出たよ」「それで、どうしたの」「ウン、三日で終わった」だめだこりゃ。ネットで調べてみると、更年期障害に漢方や大豆イソフラボンがいいという。タイの薬草ガオクルアもいいという。生活に支障をきたすほどの人は病院でホルモン治療を受けるといいらしい。
「ガオクルア?」そういえば、去年、なにか暑さに弱くのぼせやすくなったということをタイ在住の薬草にくわしい友人に相談したら、「ガオクルア」を勧められ、カプセルをひと箱入手していたのだった。のぼせにはあまり効果がなかったようなので、ちょっと飲んで忘れていた。さっそく棚の中を探して、一錠飲んでみる。しばらくすると、あれほど胸に巣食っていたわけの分からない怒りがするすると消えていくではないか。え、こんなんでいいんですか!? 箱をよく見ると、一日一錠、食後と書いてある。食後だから一日三錠だな、と勝手に解釈してガオクルアをしばらく飲んでみた。ヒステリーは起きない。こころもざらざらしない。めまいやのぼせは少し起きたが、こころはいたって穏やかである。素晴らしいぞ、ガオクルア。
「ガオクルア」とはいったい何なのか。ガオクルア(学名プラエリア・ミリフィカ)はタイの山間部に生えるマメ科の葛の一種の植物である。根に出来る芋を食べたり、精製して薬用にする。タイ北部の山岳民族の間では更年期障害や女性の健康を保つ薬として長年愛用されてきたという。タイではカプセル状になったものが自然食品店などでサプリメントとして売られている。植物性エストロゲン、女性ホルモンに近い働きをする成分を含むため、更年期障害に効くのだが日本ではむしろ「胸が大きくなる薬」として有名かもしれない。植物性の女性ホルモン、自然の薬、副作用なしなどというキャッチフレーズで豊胸クリームやカプセルでけっこう高価に売られている。
そういえば、なんだか胸が・・。女性ならお分かりだろうが、生理前の胸が張る感じである。これを大きくなると言っていいのかどうか、疑問だが、まあハリがあるのはいいことだ。しかし、胸が張るというのは、それだけ女性ホルモンに似た成分が働いているということでもある。やっぱり一日三錠は飲み過ぎかもしれないなあ。ヒステリーが不安でつい多めに飲んでしまったが、冷静に解説を読めば一日一錠だ。
手持ちのカプセルも尽きるので、タイの薬草に詳しい友人のマーシャに頼み込んで、質のよいガオクルアを送ってもらうことにした。一日一錠でヒステリーにはほぼ充分なようだった。マーシャは快医学の徒でもあり、この夏タイに行ったときに、何種類かある質のよいガオクルアのカプセルを、どれが体に合うか、どれぐらい飲んでもいいかOリングテストでチェックしてくれた。これが一番体に合うな、と思っていたメーカーのものがやはりよく、一日二錠までOKとのこと。メーカーによって成分の含有量も違うので、やはりきついな、と思っていたメーカーのものは一錠の量が多かったらしく、一日一錠までといわれた。ちなみにどちらも解説書には一日一錠、食後に飲めとかいてある。
ついでに他の薬草サプリもチェックしてもらう。じつはタイは薬草天国。漢方や日本の薬草事情に勝るとも劣らぬ、薬草の豊富さである。カプセルになっていてサプリメントとして自然食品店で手軽に入手できるのも便利だ。
以前、タイの友人のポチャナにもらって気に入っていたランジェート、これは免疫強化効果があり、解毒作用、二日酔い、アレルギー症状の緩和に効果があるという。これも体に合っている。ちょっとしんどいときや、飲みすぎのときによく飲む。先日ポチャナのうちで日本から遊びに来ていた内山さんが勧めてくれたボーラペット(イボツヅラフジ)のサプリ。そのままは苦いらしい。排毒作用があり、血液の流れをスムーズにし、解熱効果があるという。「健康維持にすごくいいから!」と力強く勧められたが、マーシャのOリングテストではヒバリにはまったく不要な薬であった。ちなみに一緒にテストした同居人にも不要。内山さん、ごめん。
ガオクルアを飲んで、更年期障害の症状がすべて緩和するわけではないが、一番困った感情面のトラブルにはすこぶる効くので、ほんとうに助かった。あのまま、放置していたら家庭崩壊、友人関係まで崩壊の危機であったろう。それにしても、あの心がざらざらする感じ、ふつふつと沸いてくる怒りの感情は、思春期の少女の頃の感情とよく似ている。自分でも持て余したほど荒れ狂ったあの頃。あれは女性ホルモンが出始めで、不安定なせいだったのか。女性ホルモンに翻弄される人生。ああ、女ってやつは・・。
村へ帰る
おもいっきり
足裏で土を蹴って
出てきた村には
学校帰りに給食のパンを持っていくと
妹をおぶって流しに立つ
小柄なナカバヤシさんがいて
家の奥の薄くらやみには
いないお母さんの気配と
夜、日雇い仕事からもどってきて
ナカバヤシさんのつくった夕飯を食べる
日焼けしたお父さんの影があって
学校から帰ることのできる
少女たちは
冗談いいながら
うつむきかげんに家に向かう
──わたしはアマラ*を知っている
ふりむきもせずに
出てきた村には
目をつりあげて嫌みをいい
少女の自転車のタイヤに釘を刺した
ちんちくりんのイナガワくんもいて
いまもときおり
ささやぶの陰に隠れて
仕返しのチャンスを狙っている
このやろう
と思った少女が教室で
ひょいと片足だして
机と机のあいだを
乱暴に走りまわる
イナガワくんを転ばせたからだ
──わたしはアマラを知っている
春と秋の農繁期には
学校が午前授業になる
ちいさな村には
遊び疲れたゆうぐれどきに
泥のついた野菜を古新聞にくるんで
勝手口にあらわれる
りっちゃんちのおばさんもいて
白い肌に青あざつくり
手ぬぐいで目尻を押さえながら
元看護婦の母に
ちいさな声で
とぎれとぎれに話すのを
息をこらして聞いていたんだ
──わたしはアマラを知っているのよ
だから村へ帰る
少女が生まれた村へ帰る
アマラたちの村へ帰る
そろりそろり
いや きょうび
飛んで帰ろうか
それも
ありかな ありかな
*チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著『半分のぼった黄色い太陽』の登場人物
バスラへの5星
インターネットを見ていたら、バスラで外科関係の国際学会が開かれるという。僕は、医者ではないのだが、少し興味があったので、問い合わせてみた。一番気になったのは、治安である。3月の総選挙以降いまだ、新しい政府が決まらず、その間の混乱でテロが増えているという。「ガードをつけますので、大丈夫です」との返事。招待してくれるという。
バスラはやはり昨年学会で、数日滞在したが、こういう機会でないとなかなか入れない。支援している子ども達に会うのももちろん楽しみなのだが、今回泊まるホテルがシェラトンホテルという5星のホテル。サダム政権時代にも、バグダッドとバスラにあった。バグダッドのほうは、アメリカ侵攻後も米軍が占拠して、外国人が何とか安全に泊まれるホテルとして機能しているが、バスラのほうは空爆されて、その後略奪にも会い、僕が2003年に訪れたときは、まるこげで廃墟と化していた。最近、ようやく再開したという。現地のニュースで取り上げられていたようで、楽しみだ。イラクもいよいよ外国人が、自由に行き来する日も近いんだろうなと希望にあふれたニュースでもある。
さて、ヨルダンのアンマンでは、2005年から活動を続けてきたJIM-NETの事務所を閉鎖することになり、後片付けでしばらく滞在することになったのだが、インターネットの契約も切れてしまったので、メールをするにもインターネットカフェにいちいちいかねばならずネット難民化してしまった。ヨルダンのインターネットカフェは名ばかりで、薄汚い部屋にパソコンが並んでいる。パソコン教室のような感じだ。最近は、おしゃれなカフェでもワイヤレスが使えるようになったが、こちらはコーヒー一杯450円もする。日本にいると常にオンラインでやり取りして最近はツイッターとかもはやっているから、そういう生活に慣れていると、ネットカフェを渡り歩くのは不便だし、ヨルダンは、昼間は渋滞がひどい。タクシーもなかなか拾えず、日差しが強いので、外でタクシーをまっていると干からびてしまうのだ。イラクに行けば、5星ホテルで、優雅にバスラからつぶやける。
しかし、問題はビザだった。前もってイラクのビザをとっておかないと、ヨルダンからの飛行機にすら乗せてもらえない。担当者に電話しても、「明日には何とかします」の繰り返しで、とうとう、予約しておいた飛行機は、明日の早朝発だ。担当者とも電話が通じなくなってしまった。「さては、プレッシャーでとんずらしたか」で、バスラ行きは中止に。
夜中に、バスラのイブラヒムから電話。「担当者は、携帯を事務所におきわすれたそうで、今さっき連絡がはいった。飛行場でまっているから来てくれだって」そんなこといわれても。「僕は行かないよ」ということで電話をきった。しかし、翌朝、バスラ大学の学長自ら電話をかけてきて、「ビザは大丈夫だ。翌日のフライトで来てほしい」というのだ。日本人が会議に参加するとはくが付くのだろうか? そこまで言われたら行こうという気になり、また、ネットカフェに何回か行って、ようやくビザのレターもダウンロードする事が出来た。
さて、予定より2日遅れで無事にバスラに到着。飛行場がまったりしている。米軍が撤退したからだろうか? パスポートコントロールで待っていると、BGMが流れていることに気づく。よく聞いてみるとなんとなく、日本の演歌のような。。。
さて、シェラトンホテルに到着。セキュリティは、民間の警備会社を雇っている。入り口で厳しいチェック。といいながらも、荷物の検査は、目視。実は、まだ完全に客室の工事が終わっていない。ボーイが部屋に案内してくれるが、カード式の鍵を知らないみたいで、ドアを明けられない。部屋はもちろん新しくてきれいだが、トイレには、だれかの糞が流していない!!
さらに、悪いことに、インターネットの回線がまだ来ていないという。「明日には来ます」とフロント。また、明日か?? ホテルの外のネットカフェにでも行ったらそれこそ、人質になりそう。
「バスラで優雅につぶやく」はずだったのに。というわけで、イブラヒムに町のインターネットカフェからこの原稿をおくってもらうことにする。うまくいくかどうか。
バスラから愛をこめて
掠れ書き(5)
音楽はなぜか心をかきみだす。音のうごきは音を追って、ふたたび起こり、音のなかに消えてゆく。どうしてこの無償の、それ自身の軌道の上でそれ自身を追いかけるにすぎない音の戯れ、響きつづけることしか望んでいない音の世界にこちらを向かせようとか、ある意味をもたせ、ある情報を入れこみ、あるいは抽き出し、ある目的のためにそれを使うことができるのだろう。象徴や指標として使われる音のかたちは、文化や時代によってさまざまだったし、社会がもたせた機能が、ことばのように明確に伝わるわけではない。その社会のなかでも、音楽は社会的機能に収まらないあいまいなところがあり、それだからちがう時代やちがう地域でも受け入れられる場合もあり、それがすべて誤解であるとも言えず、音の美しさというものが、音響学的あるいは美学的、哲学的に定義できるような超越的な価値をもつようにもあつかわれてきたが、そのような論議はすでにある音楽についてのものであれば、決定的な根拠をもたないままに、論議が論議をよび、研究の上に研究の研究があるような、音楽学の歴史ができただけだった。
物理学が実験によって証明できるようには、音楽から生まれた音楽論は、そこからふたたび音楽を創る力をもたない。音楽家が音楽をするときに感じていることと、その結果が論じられるときのことば、たとえば楽譜を書きはじめ、書きつづけたときに作曲家をうごかしていた見えない力、神秘的なものを想定しているのではなく、この音の次にこの音を書いていくという決断と選択の連続がどのようにはたらいたかということは、音楽理論や、実際的な条件や制限だけでは語れない、なにか別な作用で、後からの分析ではない、音とそれを音符として書く人間の連携作業のような側面があり、それはできあがった楽譜の分析からは追体験できないのではないか、それを書いた人間でさえ、それを説明することができない、意識にのぼらなかった部分があるのではないか。そうしてみると、作曲という行為は、作曲家だけのものではなく、よびさまされた音の運動との恊働作業と言ったほうがいいのではないか。
おなじことが演奏にも言えるかもしれない。楽譜になった作品の演奏は、演奏者と楽器、その出会いから起こる音の運動、楽譜を書いた過去の作曲家とその時の音、さらにまさにいま、そこにいて演奏をきいているひとたちの存在、それらすべてを含む音楽空間のなかで進行している。
音の自律的な運動はイメージあるいはたとえにすぎない。音がうごいてメロディーになり、メロディーが次々に音を生んでいくということは結果からさかのぼるイメージで、人間の身体運動が自分の声帯を含む楽器から音を引き出すという状況での、技術に還元できない部分をイメージの連続性で覆っているとも言えるだろう。個の身体が音に共感するのは、歴史的な身体と身体の共振、文化的空間のなかでの情感による間接的な撹乱とも言えるし、音をどのように受け取るかは、受け取る側の自律的な認知行為で、ある音に対して一定の行為を誘導する保証も根拠もない。さらに音は全体的な振動現象で、それがはじまり、一つのまとまりをつくるまでが、聞く行為の対象になり、一つ一つの音や、主題や動機と呼ばれる作曲理論上の構成要素が一対一の対応をつくることはありえない。
18世紀から20世紀にいたる近代音楽史は、オーストリア・ドイツ的な構成的音楽観に囚われていた。その上での進歩主義が崩壊したのは、せいぜい1968年の社会的撹乱をうけて、価値の多様性が再登場した後のことではないだろうか。ミニマリズムは、破片となった構成的統一を最少限すくいあげようとする西洋音楽のあがきとも言える側面をもっていたと同時に、アフリカやアジアの音楽文化の継承してきた身体性を見直すきっかけともなったとも考えられる。経済主義・商業主義に汚染された他文化の私有と知的財産化が問題であるにしても、コロニアリズム的オリエンタリズムとはちがう、ネオコロニアリズム的グローバリゼーションの時代が来た。
身体の復権にともなって、即興性、身振りの引用と転用、コラージュとパロディー、知的論理や認知主義にかわって、内在行動や情感の優位と、分節された構成ではなく、輪郭の循環性による、差異の戯れのなかに姿をあらわす組織の特異性が、すこしずつ音楽のなかに認められるようになった。ゆるやかに変化するもの、軽やかさ、多彩な音色、微妙にゆれうごくリズム、微かな音に耳をすます能力、これらが、まだアカデミックな垢となって新しい音楽の表面に付着している前世紀の技術主義的・構成主義的遺物のなかから、まだほとんど意識されない兆しとなって芽生えているようだ。