2011年8月号 目次

マイタイおじさんスラチャイ・ジャンティマトン
くりさんが沖縄に来た。仲宗根浩
オトメンと指を差されて (38)大久保ゆう
犬狼詩集管啓次郎
入道雲の思い出大野晋
さわやかな夏。心に刻ん で。若松恵子
製本かい摘みましては(71)四釜裕子
陽の光が降る夏でさえくぼたのぞみ
しもた屋之噺(115)杉山洋一
放射能におかされた福島さとうまき
かくむごき――翠ぬ宝82藤井貞和
夜 スプウン笹久保伸
夏の燈璃葉
ルービックキューブ植松眞人
掠れ書き15(刺ある響き)高橋悠治

マイタイおじさん

荘司和子訳

マイタイおじさんは
選挙に行きたい
お望みの人 お気に入りを
投票したいのさ
その人は何番だい?
あの人は何番だい?
そいつはどのくらいいいのかね?
どこがどう悪いのかね?

マイタイおじさんは
まあるい黒ぶちめがねかけて
でも民主主義が大のお気に入り
国会は議員先生でいっぱいさ
袖摺りあうくらいの混雑だ
議員さん 議員さん
先生のファンたちはあこがれる
議員さん お偉いさん
議員さんを糞で汚すんじゃないぞ
議員さん 議員さん
10万バーツ100万バーツの誘惑
かぶりついてしまったらどうなるかって?
かぶりついてしまったらどうなるかって?
眼がつぶれるか口がきけなくなるか
アホにでもおなりなさい

マイタイおじさんの
家はなんでも屋
おかみさんの名はマイガーム
息子の名はマイディー
何十年も商品売ってきた
何十年も商品売ってきた
それでも心も身体も売ったことなんてないぞ
だから金持ちにはなれないさ
バナナに卵 ガピにプララー
ナンプラーと唐辛子、売ってきたよ
デパートなんかは
近くもないし遠くもないのさ


水牛のみなさま、ごぶさたいたしました。すっかりさぼっていたスラチャイの作品集作りに復帰しました。今月の歌は90年代のアルバムに入っている、東北のおじさんと選挙の歌。7月はじめにタイでは総選挙があり、facebookのスラチャイのファンたちはこの「マイタイおじさん」をとりあげていました。

「マイタイおじさん」というタイトルのアルバムをみつけて久しぶりに聞いてみました。田舎の人たちにとって、選挙のあり方は今もこの歌のころと変わりがないでしょう。金銭や饗応(ささやかな)で票のとりまとめが行われることが多いということです。

カラワンは2年前黄シャツの集会で歌っていたそうです。今回の選挙で多数を制したのは赤シャツの支持するタクシン元首相の政党でした。タクシン派は権力階層ではなくて、地方の農民や都市の庶民が支持層ということですが、「マイタイおじさん」の支持者? スラチャイはそうではないようです。ばらまきで人気のタクシンが農民の本当の味方ではないと、いうことでしょう。

この歌、愚直でくそまじめな庶民、自分の父や母へのスラチャイのまなざしがつたわってきます。

荘司和子 


くりさんが沖縄に来た。

七月、相変わらず暑い。最高気温は32度か33度。猛暑日というのはないけれど暑いものは暑い。なんなんだこの湿気。家の中も32度。そんな暑さの中、自分用のパソコンが壊れた。起動しなくなった。OS以前に起動しないBIOS。ハードディスクでは無さそう。ハードディスクは取り出し、バックアップ用の外付けケースのハードディスクと入れ替えるとちゃんと認識される。データはなんとか復旧できそう、と軽く考えていたら、アクセス拒否ばかり。知り合いのプログラマーにアクセス拒否の解除方法を教えてもらい、無事データ移行完了。ふ〜。

六月末にメールが来た。沖縄旅行に来るとくりさんから。くりさんは私が大学でちょいとおもしろそうだな、と入った筝曲研究会というサークルの講師兼OB。この人に筝の手ほどきを受けた。そのとき初めて、人から楽器の弾き方を教えてもらった。中学生の頃からギターを弾き始め、たまたま家にピアノがあったので白鍵だけ弾いたり、黒鍵だけ弾いたり、ギターのコードをピアノで弾いて遊んでいただけの輩にはそれは新鮮なものだった。でもくりさんはこちらが先生と呼ぶのを嫌がった。だからずっとくりさんと呼んでいる。今回の沖縄旅行は奥さんの還暦祝いで、仕事が一切絡まない旅とのこと。珍しい。こちらが学生の頃、くりさんは師匠の沢井先生の近所に住んでいた。くりさん宅に何度もお邪魔して酒を飲み、麻雀をし(麻雀の手ほどきもくりさんに教わった。博打の才能が無かったので弱かったけど)、いろいろ遊んでくれた。真面目に音楽の話をしたり、他愛のないことで喧嘩したりといろいろ迷惑をかけたけど、今思えばあれ以上の濃厚な付き合いをした人はいない。沢井先生からは何度も破門になった、というくりさんだったけど、こちらがくりさんの家に入り浸っていたので沢井先生の引越しの手伝いや、年末の忘年会にはお筝屋さんの矢野さんの、「あいつらも呼べ!」の一声で私を含めた筝曲研究会の野郎共は召集され、9時間に及ぶ酒とカラオケの渦に巻き込まれたりした。

今回の沖縄はたまたま、こちらの休みと合ったのでどこで合流するか、ということになり宮古島から来るメンツもありこっちは飛行機の時間を知らされていたのでバスとモノレールを乗り継ぎ那覇空港で合流した。合うのは十四年ぶり。向こうは白髪だったりこっち頭髪が無かったりと見た目の違いはあるものの、話せばすぐ昔の調子になる。空港からはくりさんが手配したレンタカーの運転手に徹し、普天間飛行場、嘉手納飛行場、昼酒ポイントを案内、車中では昔と変わらない馬鹿な話。宿の那覇まで送り届け本格的な宴会に突入。こっちは那覇には疎いのであらかじめリサーチしたところを案内、しこたま痛飲。翌日は水族館に行く、というのでその帰りに家の前まで来てくれ、車に同乗し再び那覇まで。自宅近くに、こちらの日常では顔を合わせない方々が実際にいる、という不思議感を抱きつつ十年くらい前に行ったきりの栄町市場を案内し痛飲。今回来た還暦付近の皆さん、一日中痛飲上等の方々ばかり。七月初め、こんな台風のような方々が来たと思ったら、八月の初めには本物の大きな台風九号が近づいている。


オトメンと指を差されて (38)

 わたしは忘れ物がひどいのですが、別に物忘れがひどいというわけではなく、なぜかよくわからないのですが、家を出るときなどにうっかりしてしまうらしく、とはいえむろんのこと普段から支度がずさんなどということはなく、むしろ念入りといっていいほどで、ちゃんとメモなりを用意して不備がないかどうか確かめるほどであるのに、それでも忘れ物をしてしまうという残念な結果に至るにあたって、ほとほと自分のアレさ加減にあきれてしまうのですが、そのあたりのエピソードを思い出してみるに、以前わたしの鞄は重いというお話をしましたが、それは幼い頃から変わっておらず、たとえば小学生のときもランドセルはぱんぱんで、つまり必要なものをひとつひとつ精査して入れていったあげくそうなるものなのだけれども、ある日その入念に準備したランドセルそのものを忘れるという事件が起こった際には、あまりの忘れ物にさすがにわたし自身も頭のなかが?でいっぱいになったのでありますが、一緒に登校していた友人になぜそのような大事なことを学校に着くまで言ってくれなかったのだと問いますと、「そんな忘れ物をするなど思いもしないからわからない、というかおまえがそんなことをするとも思えないし、そもそもあまりに自然に歩いているからランドセルを背負ってないなんてことがわかるわけがない」といった趣旨の返事がかえってきまして、まあ本人はランドセルを背負ってると思いこんで歩いてそのまま目的地に辿り着いているのですからその通りだとも感じながら(そもそも自分で気付けという話でもありますが)、しかしこういうことは程度の差はあれよくあることで、宿題にしてもそもそもやることを忘れるということはなく、しっかりやったにもかかわわらず家に置いてきてしまうという類のことが多く、おそらくそれは宿題をやった満足感から自分のなかでその問題は終わったことになってしまい、それで翌日すっかり頭からそのことがなくなってしまうのだろうと考えたところで、それ以後ずっと変わらず続くことであるのでどうしようもないわけなのですが、それにしてもまた小学生のとき、わたしは休みの日に登校してしまったことがあるのですが、しかしそこに至るまでに朝起きてごはんを食べて着替えて支度をしてランドセルを背負って出かけるという手順があるわけですから、家の者のだれかがわたしを止めてもよかったのではないかと思いつつ、あとから聞いてみるとやはり誰も違和感を抱かなかったらしく、やはり普段の行いから「いやいやそんなまさかそんな間違いなんてしまいだろう」と思われているところがあり、確かに休みの日に登校するなどというのはランドセルを忘れるのと同様、マンガか何かのなかのギャグにしか思われないわけですから、祝日で休みであるはずの家族にもむしろ「まじめなあいつがわざわざ準備をして出かけるからには今日は授業以外の何かがあるに違いない」と思わせるものがあったようで、そのあたりはわたしの人となりのなせるわざともいえるわけですが、ある種のまじめさがあだとなるという事態はそれこそ日常から無数にあり、一例を挙げると、外でご飯を食べる際、割り箸がでてきて、箸置きがないということもよくあるわけですが、そういうときにはできれば自分で箸置きを作りたくなるのがわたしであり、袋付きの割り箸であればその袋をはずしてそこから紙を折り折りするわけなのですが、そちらに夢中になっていると、わきに立てかけておいた割り箸にひじなど腕の一部分などを当ててしまい、そもそもの箸を床に落としてしまうという、もはや元も子もないというか、何のために箸置きを作っていたのかという無情感にとらわれずにはいられないわけですが、このような頑張ったあげくにどうこうということは仕事でもよくあり、たとえば人の名前の取り違えとか単語のスペルミスは誰しもやることではありますが、わたしはとりわけひどいので、できるだけしっかり調べてからチェックしてから書こうとするのだけれども、そして調べてメモをして、それを見てああこうなのだ間違わないようにしようと意識して入力したりなどしているにもかかわらず、最終的にやっぱり間違っているという、こうなっては自分にはいかんともしがたいのではないかと思ったりもするのですが、言い訳にはならないものであり、それはまたわたしの迷子っぷりにも同様に当てはまることではあるのですが、それについても、みなさんもうご想像がおつきのことと思われますが、どこか初めての場所に行くときは、しっかりと地図を用意し、なおかつ早めにつくように余裕を見て自宅を出る訳なのに、どういうわけか地図を見ながらにして道に迷い、そのたっぷりある時間をそれ以上に使ってしまい、結局は遅刻するという、この点については青空文庫のみなさまもよくご存じであると申しますかこちらからは平謝りをするしかないのでありますが、再び今となってはもうこれは一生変わらないものなのであろうとあきらめつつも、それでも何とか未然に防ぎたいという、複雑な感情を持ち合わせているわたしに対して、あるときある人が言うには、「おまえは丁寧なおっちょこちょいである」とのことで、けだし至言であると思うのです。まる。


犬狼詩集

  37

ある土地にゆき適当な樹木を探し
その葉をちぎり一枚を四つに折りたたんで
チョークのように使って白い壁に絵を描く
彼が描くのは山並みだ
新緑の大きな山がそこに生まれる
力強い緑がそれ自身として成長し
人の住めない「空」を少しずつ埋めてゆく
あの絶えまなく変化する空と山のぎざぎざの境界を
彼は指を黒いほどの緑に染めながら壁面に再現する
この山に隠れている鳥たちよ、騒げ
この山を放浪する獣たちよ、吠えよ
山の輪郭を見ているうちにぼくは心が育ってくるのを感じる
山は脱出を図っている、この平面から
いつかひゅんと飛び出すだろう
狼に育てられた兄弟のような
親しみを空に感じているせいで


  38

あるとき六本木からバスに乗って
広大な墓地を抜けて走っていった
バスのマッチ箱のような屋根の上だけに
雨がザーザーと降っている
これはなんというおもしろい現象だろう
窓の外で稲妻がビカビカと光り
雷鳴はあまりに激しくてこれでは耳が裂ける
強い風に飛ばされてゆく木の枝や野犬や乳母車が見えるのだ
ところがこの極小的な天候がカーテンの
ようにかかっている、そのむこうでは
濃い青空と単調な都会がどこまでも続き
その心の弱さと地盤の脆弱さに私たちは驚いている
雨よ降れ
水位が上がる
ぼくを乗せたバスはいつのまにか
事実的にbarchettaとなっている


入道雲の思い出

とにかく私は多読家の少年だったように記憶している。しかも、子供用の物語に飽き足らず、多くの大人用の文庫本を小学校5、6年の頃には読み漁っていた。その私の最初のお気に入りは、当時、学校の図書室には必ずあったポプラ社のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズや江戸川乱歩、モーリス・ルブランのルパンなどの全集だった。その流れからやがて、少年用の全集に飽き足らず、創元推理文庫や角川文庫、新潮文庫などの推理小説へと続いていった。もうひとつのお気に入りは佐藤さとるの児童文学やエーリヒ・ケストナーの少年文学で、大人の本を読みながら童話を読むようなちょっと変った(多感な?)少年だったように本人は思っている。これが高じて、現在では何種類ものケストナーの本(しかもおそらく同じ文庫本が版や表紙違いで何冊も)を持っていたり、佐藤さとるの全集(ケストナーもだが)があったりする。これらの本はようやくこの夏、うずたかく積み重ねられたところから解放してやれそうな雰囲気になってきた。

さて、佐藤さとるの大好きな物語というか情景描写に、「井戸のある谷間」という作品がある。小山を抜けて開けた谷間で出会う若い男女の話なのだが、この情景描写がたまらなく好きなのだ。作者もよほどお気に入りらしく、このモチーフは有名な「だれも知らない小さな国」にも使われているし、もうひとつ「てのひら島はどこにある」という作品にも昇華している。とにかく、この情景を思い浮かべると、夏の暑い日の入道雲の情景が浮かんでくる。

青空文庫も10000冊ということでいろいろな動きがあるようだ。登録されている作品リストを見直してみるとさまざまな思いが浮かんでくる。後半は、いち工作員として何を思ってなにをしでかそうとしたか、少し記録に残しておこうと思う。

ネット上の青空文庫に気付いたのは1997年だったか、1998年だったかは定かではない。ブログなどというものもない頃、インターネットがブームになったがコンテンツについてはどうにも情けないような状態だった。子供の作文に毛が生えたような文章(ま。他人《ヒト》のことは言えないけれど)があちらこちらに書き散らかされている状況で、お世辞にも出版の向こうを張るような状況ではなかったと記憶している。当時、コンピュータベンダの中で働いていた私は今後のインターネットを方向づける「何か」を探そうとしてネットの中を捜し歩いていた。そこで見つけたのが、凝ったツールを使った電子ブックの置いてあるサイトであった。これが青空文庫との最初の出会いである。
最初の頃は、文書の提供サイトとして、利用者の視点で見ていたが、やがて、著作権切れのテキストが集まり始めたことで、時代の突破口として期待するようになった。当時も、今も、出版は毎年不況で、多くの本が読めなくなっていたが、それは著作権の悪い方の作用で、要は出版の事情で著者の「読んで欲しい。」という意思はいくらでも抑圧することができるのだ。元来、アナーキスト気質なのか、著作権保護期間が切れたテキストを解放するという作業に意義を見出した私はちょぼちょぼと工作員として活動を始めた。それが1999年のことだった。

公開リストから、当時を思い出すと、コンピュータソフトウェアの2000年対応で非常に忙しかったはずなのだが、入力にも、校正にも顔を出しているテンションの高さに自分でも驚いてしまう。とりあえず、出版社の既得権益防衛のための圧力に対抗できるように、数を揃えるために注力していたように記憶している。そのくらい、当時の青空文庫は怪しく、またとても危うかった。
当時の入力作品探しにはいくつかの思考パターンがあった。最初は翻訳物を探すことにした。当時、有名な文学作品は結構な頻度で手が上がっていたが、原著者と翻訳者の著作権が関与する翻訳物は敷居の高いようだった。そこで、佐々木・ポーの入力に着手した。

次に着手したのが伊藤左千夫だった。「野菊の墓」で知られる作家だが、「野菊の墓」以外はあまり知られておらず、入力もされていなかったので開始した。まだまだ、大物作品が入力中のままだが、「野菊の墓」以外はあまり読まれることも少ないようだ。
この後、入力した横光利一は出版の事情を反映したような作家だった。田中英光、伊藤永之介など一時代を築いた作家が書店の店頭から姿を消し、新たな読者を得られない状態になっていた。そんな作家を拾っていった。

同じ頃、文学作品ばかりだったので、童話、童謡の入力にも着手する。最初は新美南吉から始まり、それこそ「手袋を買いに」を入れたのもこの頃。その後、新美南吉は一括して入力してくださる方ができたので、私は撤退した。同じ頃、本家の青空文庫では半七捕物帖や大菩薩峠が人気だったが、他のチャンバラへの飛び火を狙って、右門捕物帖など時代劇に手を出している。(林不忘なんて面白いでしょ?)
以後、チャンバラの入力依頼は続き、現在もいくつか作業中のままだが、その背景には純文学よりも読まれる割に扱いがぞんざいで、低い地位に甘んじて、そのまま消えていきかねない勢いの大衆文学を何冊でも残しておこうという趣旨があった。同じように同時期、推理小説の入力も開始し、その中で、佐左木俊郎の発掘といった動きにつながった。とにかく、忘れ去られた作家の中には非常に面白い作品も多い。作品が残る残らないは、きっと商業的な成功、不成功だけなのかもしれない。そういえば、豊田三郎の娘である森村薫は一時期文庫版の全集ができるほど人気になったが、晩年はほとんどの著作が絶版になっていたものなあ。

ミレニアムの2000年は、海野十三の公開にこぎつけた。海野はSFの父と呼ばれるが、それだけでなく、念頭にその年に著作権が切れた参加の著作が読めるようになるというイベント性も合わせ持たせたような、なかったような。その後、現在に至るまで、正月はその年、著作権が切れた著者の作品が登録公開されるといったことが青空文庫では定例になっている。

全国の文学館の紹介文を書いていた時には唖然とした。そこには、文学館という施設に紹介されている小説が実際には読めないという現実があった。本を紹介する施設があって、そこに本の姿だけが飾られている現実を忘れてはならないだろう。不思議な縁で、有島武郎の「星座」の入力に立ち会った。

思い起こせば、既存の出版社からの無言の圧力《プレッシャー》に打ち勝とうと、とりあえずの100冊、とにかく1000冊と登録数を増やす努力をしてきた。その数が5000冊、10000冊と伸び、そこに青空文庫があるのが当たり前のようになった今、私自身の気分としてはのんびりと溜め込んだ手持ちの入力中をかたすことに専念したいようにも思う。

とはいえ、物語倶楽部のosawaさんとの青空文庫へのテキストの収容するという約束は果せていないし、国内で消え行く小学校の校歌の収容という作業もやりたいと思う自分もいる。そして、多くの仕掛中の山が一覧で私を睨んでいる。

そして、なによりも熱いらしい私の血が、10年条項にかかって戦前とっとと著作権が切れてしまっている海外作品の登録という野望にもそろそろ挑戦したい気分にさせられる。

ま、そんな感じなので、青空文庫の皆さん、もう少しお付き合いをお願いします。

最後に。電子書籍端末の実験をしたいと思うと、容易に入手できるテキストが青空文庫以外にはないという現状も、この十数年、なかなか変らない。


さわやかな夏。心に刻ん で。

夢を見た。
どこかの草原で、風が吹き抜けるなか、誰かが「サーカス団が今到着したところだ」と教えてくれている。耳元に話しかけている男の横顔。風にあおられる髪。気温が下がったここ何日かの涼しさを、気持ちよくも、淋しくも感じていたせいなのか、風通り過ぎる草原の気持ち良さと淋しさが目覚めたあとにもそのまま残っていて、短い夢に心がつかまってしまった朝だった。サーカスが来たと教えてくれていたのは、たぶん忌野清志郎で、それは、昨夜眠れないままに彼のインタビューをまとめて何本か読んだことの影響だろうとすぐ推測がつく。しかし、風に吹かれ続けていたせいか、心の温度が下がってしまって、淋しくてしかたがない。夢は、起きている時間に触れた様々な断片が折り重なってできあがっている。清志郎がバスを仕立てて地方のライブハウスをまわったというツアー。どこかからやってくるサーカス団。日常を変えて、そしてまた行ってしまう人たち。

どうしてもぬぐえない淋しい気持ちの根底には、原田芳雄への思いが流れている。阪本順治が監督する映画を、新作を心待ちにし、そして期待を裏切られない感動を持って見続けてきた。最新作「大鹿村騒動記」は、原田を主演に映画を撮るという約束を守るためにつくられたものだという記事を読んだ。今となっては、彼の最後の主演作になってしまったのだが、映画のラストシーンはさりげない。「やれやれ、これからも旅はまだ続くよ」という風にも受け取れるし、「これでよかったのかな」という、かすかなためらいのような、照れのようにも受け取れる。「決まった!」というラストシーンは、野暮というものなのだろうけれど、"落ち"を求める人たちにとっては、拍子抜けするのではないかと少しよけいな心配をしてしまう。しかし、これが阪本監督作品の魅力でしょうとも思うし、これが人生でしょうとも思うラストだ。

映画の完成を見届けて、ファンに挨拶をして去った原田芳雄の姿には、心を打たれた。彼は無頼派と呼ばれているけれど、実際に映画を見る人たち=作品を楽しむ人たちしか頼りにしなかったという意味で、本物の無頼派だったのだなと思った。そんな生き方のために、手放したものもきっとあったはずだ。「大鹿村騒動記」の主題歌には、忌野清志郎の「太陽のあたる場所」が使われている。どうしてこの曲が選ばれたのか、選曲に原田芳雄の意見が反映されていたのか、聞いてみたい気もする。歌の中に、「この運命に甘いキスを送ろう」という一節があって心に残る。

「さわやかな夏。心に刻んで。」これは、阪本順治の原田芳雄への弔辞のなかにあった言葉だ。参列していた記者が書き起こした阪本の弔辞を読んで、不謹慎ではあるが、いいなと思った。大きな喪失感のなか、夏は美しく、爽やかでさえある。そのことを忘れないで置くというのだ。2011年の7月。私も気持ちのいい淋しさとともに、原田芳雄のことを心にとめておこう。

サーカス団は日常を変えて、どこかにむけて去ってしまった。


製本かい摘みましては(71)

"電子書籍元年"の次の年こと今年の東京国際ブックフェアのワンツースリーは、ワン=創業125年の河出書房新社が名著復活プロジェクト「KAWADEルネサンス宣言」のために高く組んだ本棚。ツー=日本雑誌協会が展示した「石巻日日新聞」と隣の幸福の科学出版ブースで流れる「私は火星人」ビデオとのギャップ。スリー=渋谷文泉閣の「クータ・バインディング」。今回はそのスリーのこと。

渋谷文泉閣のブースにはクータ・バインディングによる手帳やノートが色とりどりに並んでいた。クータ・バインディングとはひとことで言えば開きの良い並製本。背に空洞がある。「クータ」とはホローバック上製本の背の部分に貼ってある筒状の紙のことで、これにより背表紙と本体の間にすきまができて本の開きが良くなるのだが、それを並製本に応用したのがクータ・バインディングである。同社最高技術顧問の渋谷一男さんにうかがうと、開発のきっかけは「ページをおさえなくても読める本が欲しい」という手の不自由な友人の言葉だったそうである。そのころ特に製本業に求められていたのは「丈夫」であること。背の接着の強度を高める工夫が結果的に友人の不自由をうんでいた。どうするか。手作業時代を振り返り、クータの利用を考えたそうである。量産のための機械開発に2年。晒クラフト紙などを両端から折って筒状にして本の天地寸法にカット、それから表紙の裏側に貼る工程を、1台平均3000枚/時こなす機械を完成させた。

接着剤にも苦心した。よく開いたとしてもすぐにページが抜けてしまうようではもちろんいけない。何かないかと米国へ。事情を話すと自動車の内装材などを貼る接着剤を勧められる。柔軟性と強度を併せ持ち熱にも強い。それがPUR (Poly Urethane Reactive 反応性ポリウレタン接着剤)だったそうである。こちらは15年ほど前から通常の並製本にも広く用いられるようになった。こうして同社は平成19年〜20年には日本・韓国・台湾でクータ・バインディングの特許を取得、現在は導入を希望する同業他社にコンサルティングや技術移転を積極的に行う。ところでコストは? 通常の並製本よりはもちろん高いが糸かがりより安いという。強度は糸かがりに匹敵しますよ、というのはほんとうで、実物を強引に開いてみているがページがはずれることはなさそうだ。かといってちょうど今恒例の市販手帳を作っていてコストは少しでも抑えたいけれど手帳には採用しにくい。通常の並製本から変えるにはコストが、糸かがりから変えるには強度への不安がネックになるが、三者が歩み寄っていずれスタンダードになりそうな気もしないでもない。

ブックフェアでいただいた資料には「クータは背幅より左右に4.5mmずつ広く、PURの塗布は0.3mm前後」といった経験の成果が細かく記されている。手製本で糸かがりしてクータを付けたり既製の並製本をハードカバーに仕立て直すときの参考になるが、細かなことを言えばここに示されたのはPURを0.3mm前後均等に塗布することが前提だ。美篶堂さんが小売りしているねばりけのある製本用ボンドや市販の木工用ボンドではどれくらいがベストになるだろう。2003年の東京製本倶楽部展(目黒区美術館)では、製本家の岡本幸治さんがさまざまな方法で角背本の背の開き具合を見せてくれていた。背を接着したものしないもの、背幅同寸あるいは幅広のクータを貼ったものなどがあり、幅広のクータを貼ったものが最も開きやすかったのを覚えているが寸法のことは覚えていない。NPO書物の歴史と保存修復に関する研究会では2009年に「表紙カバーと本体との一体化」として表紙カバーをクータを用いて本体に貼り付ける実験をしていて、やはり背幅より広い幅のクータを貼ることで開きは良くなると報告している。ところで「クータ」というのは関東の製本職人が「空袋(くうたい)」と呼んでいたものが変化したものらしい。スペルはわからないがフランス語か英語だとしばらく思っていた。物は人の手から生まれ、手の名残りは物に継がれる。


陽の光が降る夏でさえ

ていねいに暮らすことが
あらがうことになるなんて
辞書のすみっこで身をまるめ
長い眠りについていたことばの核に
必死で水を遣り よみがえらせる
そんな時代がくるなんて

兵士になり 銃を空に向けて撃ち
女の子が生まれたら
のぞみ
と名づけようと結婚前から決めていた
人の子を宿したあなたは
人災の粉があたりに降ると
とっさに身を引き締めて
翼の下に子どもを囲い込んだ
かあさん
それでも あなたの力がおよばない
大波が
この世には たんと あって
それは なりゆき
それは 運命
と受け入れるしかないことも
たんと たんと あったね

村には相談相手さえなく
あらがう力を外へ向け
つながる手段をもたないまま
あなたは ひたすら 
直感で 次代にそれを託したけれど
託されたものは いまなすすべもなく
あなたの口からこぼれた
ことばだけが 
力も意味も剥ぎ取られ
ぽたり ぽたり

落ちて溜まったことばは
遠い記憶の井戸のなかで
醗酵し
ノスタルジアと憤怒のアマルガムとなって
あるときは覚醒の 
あるときは脱力の 
あるときは澄明の
響きをかもしだす

かあさん
こんなに明るい陽の光が降る夏でさえ
なすすべもなく
ということも あるんだね
希望という
名において
あきらめはしない、けれど
そう
のぞみという
名において
あきらめはしない、けれど


しもた屋之噺(115)

暫く前から一緒に指揮を勉強しているクロアチア人のイングリッドは、いつの間にかイタリアでは、ある程度知られた音楽学者になっていて、特に近現代音楽が専門ということで、時々相談を持ちかけられたりします。専門はフランスのスペクトル楽派だそうで、音楽学も今やそこまで分業化が進んでいるのかと妙に感心しておりました。

イタリアで伝統的に音楽学が強いのは、パヴィア大学とボローニャ大学の音楽学部だといわれます。音楽学そのものはもちろん国立音楽院でも学べますが、特にパヴィア大学の音楽学部はクレモナ分校の中にあって、イタリアでもっとも古い歴史的な音楽学部として知られているせいか、各地から学生が集まります。イングリッドはその昔このパヴィア大学で音楽学を学び、現在はザグレブの大学の講師職を兼任しながら、クレモナにも講師として残っている秀才ですが、彼女曰く、楽譜と演奏間の問題が現在の音楽学における究極の命題だといいます。

現在まで音楽学は、特に過去の音楽の演奏を助けるため、さまざまな資料を紐解き、原典版を作り、演奏に役立つ情報を出来るだけ多くの演奏者に与えられるよう、出版譜に書き添えたりしているのはご存知の通りです。

まだそれらがし尽くされているとは言わないけれども、ある程度の成果をもたらした今日、最後に残されている課題とは、現代音楽演奏における、音楽学の必要性。情報収集と、矛盾して聴こえますが、作曲者の介在なく演奏が可能になるような楽譜の出版と、その演奏法への助言などに対する音楽学の重要性、それはひいては、現代音楽に於ける演奏家の役割への提言にもつながる位置づけ、だというのです。

現代作品演奏者とはシェルヒェンが言ったように、作品を出来る限り主観を介在させず、書かれた音を忠実に演奏することなのか、作品は演奏者の音楽として表現する役割を担っているのか、煎じ詰めればそういうことになるかも知れません。また、マーラーやリヒャルト・シュトラウス、ストラヴィンスキー、ブーレーズやベリオのように作曲者が指揮をすることは、良いか悪いか。個人的には作曲と指揮は全く別の作業なので、比較出来ないのは当然だというと、それについて学生を交えてラウンドテーブルをしたいので、どうしても大学に来て貰えないか、思っている通りに言えばよいから、とずいぶん頼み込まれて、久しぶりにクレモナに出掛けました。

クレモナまで、ミラノからマントヴァ行の電車にのって1時間と少しかかります。すぐ傍らには気の弱そうな女の子が座っていて本を読んでいて、彼女もクレモナで降りてゆくのを、なんとなしに目で追っていました。

少なくとも30分は、シュトックハウゼンの「グルッペン」の練習から本番までのプロセスについて話してくれと頼まれていて、みな原稿をしっかり用意してきているが、見せたほうが良いかと脅かされたものですから、前日あわてて原稿を書きました。いわゆる大学教師らしい言葉使いは最初から諦め、普通の話し言葉で通すことにして、電車で、原稿の手順や確認して読み返したりしているうち1時間などすぐに経ってしまいました。

パヴィア大学のクレモナ分校は、駅から10分ほどガリバルディ通りを歩いた所にある、すっかり日焼けた背の高い建物でした。中に一歩足を踏みいれると、それは不思議な美しい寂れ方をしていて、それは外からは想像できない雰囲気だったので驚きました。雑草が無造作に生え、どこか退廃的な魅力すら漂わせるこじんまりとした中庭が広がっていて、左に上がっていく入口の階段には、若者たちがたむろして談笑していました。シエナのキジアーナ音楽院の入口を少し思い出しましたが、あんなに身奇麗ではなくて、ぺんぺん草があちらこちらに生えている古風な学び舎の風情です。

建物の内装はと言えば、階段のところから壁一面見事なフレスコ画が覆っていて、とても豪奢な印象です。ただ最近修復した様子はなく、絵の色味が少しくすんで、所々崩れかけていて全体に暗い感じを与えます。ラウンドテーブルが行われた講堂は、木造の壁が優美に装飾されていて、流石に歴史ある音楽学部だと感心しましたが、尤もこんな話題では学生も来なかろうと高を括っていましたら、時間前にはすっかり入りきれないほどの人が集まり、みな興味深そうに、目を輝かせてこちらを見入っていて、正直消え入りそうになりました。

一日前にクレモナに着き、前日には「主のない槌」についてコンフェレンスをした音楽学者パスカル・デクルペも程なくして講堂に入ってきて、挨拶を交わすとすぐに打ち解けました。殊の外明るく感じのよい音楽学者で、難解なシュトックハウゼンの研究家という趣は皆無でしたが、実際にグルッペンの分析をはじめると、少しでも多く一つでも多く、自分の知っていること全てを学生たちに伝えたい、そんな情熱が迸るような内容で、学生も思わず引き込まれていました。

大体、互いの挨拶もそこそこに、彼が最初に話してくれたのは、グルッペン初版の音符の違いと元来どこに音符がなかったかということで、それを最初から最後まで全部説明してくれたのです。実に変わった初対面の挨拶でした。

同じように学生を相手に、幾つか別々の録音を比較しながら、演奏がどう違うかをこと細かに聴かせてくれるのです。
「ほら、ここはサイクルの最後の部分の弦楽器なのに、この録音はその前のサイクルとは違う弾き方をしているだろう。これじゃあサイクルが意味を成さない。駄目な演奏なんだ。え?分らない?じゃあもう一度聴かせてあげよう。今度はどう?」
という具合です。
「ところがこれは初演の演奏でね。実はシュトックハウゼンも参加している。なのにこの部分、よく楽譜を見ながら聴いてみて。ここ。もうぐちゃぐちゃでしょう」。
情熱というのは作曲家すらも超越していました。

学生相手に話し始めたときには、
「今日はまず、ちょっとした冗談から始めよう。これはブーレーズがルツェルンで演奏したときのリハーサル風景です。よく見てください。3人の指揮者が、まったく同じスタイルで振っています。みなブーレーズのコピーなんですよ。ロボットみたいで愉快ですね、あっはっは」。

最初からこんな按配で、さすがにフランス人は冗談がきついと一同呆気にとられてしまいましたが、あの難解なシュトックハウゼンの楽譜を、ここまで楽しそうに愉快に話しつづけられる情熱に、感動すら覚えました。なぜなら、若い学生たちも彼の情熱に釣られて一緒に愉しんでいるからです。学生といっても、別に現代音楽を専攻しているわけではなく、クラシックや古典、大衆音楽の専門もいます。彼らを相手にこれだけグルッペンについて話せるのは、イングリッドの人選に感謝すべきだと思いました。

サントリーでグルッペンを演奏したときのパンフレットに、パスカルがグルッペンの説明を細かく書いてくれましたから読まれた方も多いかと思います。とにかく2時から5時の予定のラウンドテーブルは、質疑応答も盛り上がり、学生たちもここぞとばかりに矢継ぎ早に質問を投げてくれて、それでも19時過ぎまで続けましたが、流石に学校が閉まるということで、結局何の纏まりもないまま終了しました。
それじゃあ、この辺でお開きにしましょう、とあっけらかんと閉会を宣言するあたりが、やはりイタリアらしいところかも知れません。どういう結論を導くか、というより、どう結論に至る論議を繰り返すかが大切で、それを愉しんでいるようにさえ見えます。

最後に記号学が専門の教授が、現在まで我々は特に古楽から古典の演奏の可能性を広げるために見識を広げてきたが、これからは現代作品の演奏にも力を貸してゆこうと意見を述べ、少し話合いに深みを与えてくれました。現在、戦後の大作曲家と活動を共にした演奏家たちは、世代交代の時期に来ています。今まで作曲家たちとの共同作業の様子を明かしたがらなかった演奏家たちに阻まれていた部分を、これからは音楽学の助けと研究をもって、詳細なガイドを出版譜につけるようになっていくに違いない、だからこれからは、出版社と音楽学者、演奏家は、より緊密な関係を互いに築くべきだという考えです。

宴もたけなわでしたが、突然用務員のおばさんに閉館を宣言され、皆バタバタと部屋を出ることになりました。仕方なくミラノ行きの電車を待ちながらパスカルと近くの喫茶店に入ると、やはりグルッペンの話を続けるではありませんか。彼は指揮者たちがオーケストラやサウンド・ディレクターに送ってきたビーティングリストに特に興味があって「そうした実践的な視点から、また新しい解釈、研究の方向性が開けるかもしれない」。
嬉しそうに目を輝かして話す姿は、まるで少年のようです。

まだクレモナに一泊するパスカルと別れて駅に向かうと、予定のミラノ行電車は40分遅れで到着し、漸くやってきたかと思えばそれも途中で止まってしまい、ミラノに着くころには、結局1時間以上遅れていました。やれやれ長い帰途だったとため息をつきながら電車の扉のところへ下りてゆくと、行きに傍らに座っていた妙齢が列車の階段の反対側から丁度降りてきたところでした。ふと目が合うと、おずおずと、
「今日はとても楽しくて、すばらしい講義でした。本当にありがとうございます」。
微笑みを湛えて話してくれました。
「わざわざクレモナまで来てくれたんだ。それはどうも有難う。もう随分遅いから気をつけて帰ってね」。
そう言うと、ミラノ中央駅の一番端、言われなければ気がつかない短いホームに滑り込んだ電車の扉が、がたがたと大袈裟な音をたてて開きました。

(7月29日三軒茶屋にて)


放射能におかされた福島

イラクのイブラヒムから、貸していたガイガーカウンターをかえしてもらった。DHLで送ってくれといったのに、イブラヒムが怖がって送ってくれない。それで、僕がイラクまでとりに行くことになったのだ。

日本に帰国し、これをもって、僕は、福島に向かうことにした。あてがあるわけでもなく、ともかく行ってみようというわけ。今回から宮崎から車を飛ばし小玉君が手伝いに来てくれた。うちの事務所の女子にも気にいられ、「動物」と呼ばれる間柄に。本当に人懐っこい。誰にでも話しかけるのだ。しかも、英語とか中国語とか、アラビア語とかで話しかけるから怪しくてしょうがない。東京にいるときは、我が家に泊まっている。隣の家の子どもに、あの調子で朝から話しかけている。向いのおっさんにもなにやら話しかけている。普段余り近所づきあいもないのだが、彼のおかげで和やかな感じはある。しかし、変な言葉で話しかけるのは止めて欲しい。多分、外国人がすんでいるよと近所中に噂になっているに違いない。

高速道路を走ると、郡山、二本松あたりでガイガーカウンターの値が上昇する。東京だと、15CPMが、一気に60まで上がるのでびびってしまう。さらに、南相馬に向かう途中の飯館村では、300をこえてしまった。で、二人ともあわてふためき、車を降りて、地面にガイガーカウンターを置いてみるとなんと、600を越えてしまった。シーベルとに換算すると6μシーベルト! なんかとんでもない世界に飛び込んでしまったという感じだ。

イラクとかクウェートで放射能を測ったりすると、必ずといっていいほど、警察がやってきて連れて行かれるだろう。数字が上がるたびに何か悪いことをしているような気がしてきた。なんだろう。この罪悪感は! ガイガーカウンターはまるで我々の罪の重さを数字としてはじき出しているかのようだ。

その後、南相馬に入ると、今度は数字がどんどん下がってくる。40CPM(4μシーベルト)ほどになるとようやく僕らも安心してきた。するとその時、後ろからパトカーがやってきて停まるようにといっている。
「なんなんですか? 僕たちは怪しいもんじゃないですよ」と小玉君が噛み付く。
「いや、おまわりさん、確かに怪しいという風に考えたくなる気持ちはわかります。こいつ怪しいですよね。こんなに車に、着替えやら、布団やら詰め込んで。でも、実は、僕たちは、何も悪いことしてないんですよ」と僕が説明する。
「免許証を見せてください」
「確かに、放射能を測りましたが、やっぱり、自分達のこと考えたら放射能は、測って安全かどうか確かめないと。何も悪いことしてないですよね?」
「宮崎ナンバーですよね」
「僕は東京ですが、確かに、こいつは、宮崎からきた変なやつですけど、いいやつなんですよ。ボランティアやってきたんで、こんなに荷物積んでいるんです」
「最近、多いんですよ、他県から入ってくる泥棒が」とおまわりさんが説明してくれた。
「だから、僕らは泥棒じゃないですよ。怪しいかも知れませんが」
おまわりさんは、一通り調べ終わると、
「ご協力ありがとうございました」といって免許証をかえしてくれた。

その後、僕は、週刊誌に、最近窃盗団が被災地に入り込み、「動物愛護団体を騙って警戒地域をうろうろしている外国人がいる」との記事を見た。
「小玉君、お願いだから、変な外国語で人に話しかけるのは止めよう!」


かくむごき――翠ぬ宝82

かみはなにもの とどかない
声もまた神怒り おりく
ち やなぎた やちまたに
かばね なないろ

ばぐだっど ゆくばしょう
おくのほそみちをゆくたり
ばーん 少年兵を
こんじきどうに見うしない

あるかいだ 虹のなないろ
を爆破せず
やみふす妻に
つげざらん 弘彦

りんごくに せまるいくさ
うしら 斃れ
やさい よごれて
われらおしいただくおんじきに

なんだたれ
ほのおのしょくたく
うごなわれる たまし
いのゆくえはなきか


(「かくむごき戦〈いくさ〉を許し しらじらと 天にまします 神は何者」岡野弘彦。けさの菅総理宛メール〈脱原発を、引き返し不可能な所にまで、持ってゆくこと。そこを着地点に、市民運動家、菅直人氏は定めていると睨む。支持率が下がろうと脱原発が見えてくるまで、辞めるな。一割になろうと、少数であることの大切さがあるはず。私の友人であるシカゴ大学教授(女性)が、湾岸戦争勃発時、「絶対多数が賛成でも、今、一割のアメリカ人が戦争に反対していることが大切なのだ」と、言っていた。脱原発が見えてくるまで続投すること〉藤井貞和。かわいそうに、支持率一割にまでさがることを予期してのメールです。)


夜 スプウン

  夜

明日の


消えそう
夜の朝日が
差し込む
夜の夕暮れに
夕日が落ちる朝の
夕食
灰色の皿に乗った
キャベツの隣に座っている
君の頭の中の大きな夢は
誰かの足踏みのゆりかごで
深く眠る
一人の母による
夜の子どもたち

(2010)

  スプウン

そして
スプウンは
置かれた
テイブルには
3つの三角形の箱

憂鬱な朝の
パンプキン・スウプ
白い部屋を透明に過ぎるスプウン
再びテイブルに差し込む 
朝の夕陽
その片隅を
スプウンを持った雑巾らが君を歩いている

(2010)


夏の燈

薄紫色の夕闇の中へ自転車をこいでいく。

目的地への近道のため、近所では割と大きめな公園を横切ろうと緩やかな坂を下っていくと、いつもとは比べものにならない人の多さ。橙色のちょうちんがいくつもぶら下がっている櫓を見て、「あ、夏や」とこころの中で呟く自分がいた。

梅雨が早めに終わり、夏本番だとニュースでは聞いたりしていたが、この一ヶ月の中で胃炎を患い、体調は最悪、自分の部屋で寝るか、読書をするかバイト先の暗いバーの中に引きこもっているか、何の色気もない熱風が立ち籠める四角いビルの間を歩くかで、行動範囲はやたら狭くただただ上昇していく気温と、下降して行く自分に嫌気がさすだけだった。

公園の木や遊具に浴衣姿で楽しそうに登る子供達や、がちゃがちゃと並ぶ屋台、ボロいスピーカーから流れる祭り囃子、暖かく賑やかな空気。

公園を横切る数秒、暗かった自分の目や耳に、懐かしくも新しい色と響きが入り込んでくる。夏を実感する一瞬の風景だった。

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ルービックキューブ

 そういうのが得意な人だと思ってた。

 ひとつの面だけが赤い色に揃ったルービックキュービックを冗談めかして見せる僕に、彼女はそう言った。僕がいつもルービックキューブを持ち歩いているわけではない。たまたま立ち寄ったカフェの窓際に、使い込んだルービックキューブが置いてあっただけだ。
 彼女が化粧室へ行き、戻ってきて、頼んでいたハーブティーが来て、頃合いを見計らってカップに注ぐ。その間に、僕は赤い面をせっせと一つに集めてみたのだった。もともと、こういうパズルは苦手なので、他の面のことを考えていては、一面だって完成しない。そんなルービックキューブを横目で見ながら、彼女が僕に投げた言葉は、すんなりと僕の中に入り込んできて、そして、腑には落ちずに小骨のように引っかかった。
 最初、彼女の言葉の棘のようなものに気付かなかった僕は、とても気持ちのいい風が吹くカフェの片隅で、ふいに小さな不快に気付いて、シャツの中にじっとりと汗をかいた。

 彼女がハーブティーを飲んでいる間に、僕はもう一度ルービックキューブを手に取った。そして、ガチャガチャとキューブを回して、赤い面を崩しながら、何気ない口調で彼女に聞いてみた。
「ルービックキューブが得意な人とか、そういう人に憧れるわけ?」
 彼女は僕を真っ直ぐに見つめる。
「どういうこと?」
「さっき、言ったじゃない。そういうのが得意な人だと思ってたって。ちょっとがっかりした口調で」
 そう言うと彼女は微笑んだ。
「がっかりなんてしてないわよ」
「ほんとに?」
 そう問い返すと、彼女は少し考えた。
「そうね、がっかりしたかもしれないわ」
「やっぱりね」
 僕は今度は青い面を揃えようと、ルービックキューブを回している。彼女はそんな様子を眺めている。
「うそよ。がっかりなんてしてない。ただ、本当にあなたが、そういうの得意な人だと思ってたのよ」
 もう一度、そう言われて、僕の中から棘のようなものがすっと無くなるのを感じた。
「今ね、すごい楽になったよ」
「どういうこと?」
 彼女が僕に聞く。
「そういうのが得意な人だと思っていた、って言われて、さっき僕はとても悲しくなったんだよ」
 彼女が僕を見ている。
「だって、君が僕のことを知らなかったってことがわかったんだから。だから、僕は一瞬にして深く傷ついた」
「わかるわ」
 彼女はすまなそうに言う。
「だけど、ゆっくり理解した」
「何を?」
「ああそうか、君は僕を理解していなかったんだなあってこと」
「私があなたを理解してないのに、楽になったの?」
「そうなんだ。なぜだろう」
「なぜ?」
「わからない。わからないけど、それでいいやって」
「私はどうすればいい?」
「どうもしなくていいよ」
 そう言うと、彼女はとても嬉しそうな表情になった。
「このままでいいの?」
「そうだよ」
「わかったわ。でも、なぜなんだろう」
 彼女は僕に聞く。僕は彼女の目をじっと見ながら答える。
「どうせ、わかり合えないんだから、無理することないってことだよ」
 僕がそう言うと、少しだけ微笑みをたたえていた彼女の瞳からそれが消えた。そして、静謐とでもいうような深く濃い瞳になって僕を見つめた。見つめられた僕はルービックキューブの動きを止めた。
 二人の間の空気が硬くなり、やがて、少しずつ柔らかくなり、彼女の瞳が光を取り戻してくる。そして、にっこりと笑うと、彼女は言った。
「そうね、どうせわかり合えないんだから、無理することないのよね」
 僕は手の中のルービックキューブを見た。さっき、青い面だけは揃えたと思っていたのに、そこに小さな赤い四角が一つだけ混じっていた。


掠れ書き15(刺ある響き)

アルチュセールの出会いの唯物論からエピクロスを思い出し、クリナメンから明滅するオドラーデックにたどりつき、カフカのノートやヴィトゲンシュタインの綴じてないページの束、マトゥラーナの循環するオートポイエーシス、と、むかし一度は触れた飛び石に、別な回路でもう一度出会う。

棒ではじき出された磨かれた金属球が釘にぶつかりながら、逸れて思いがけない囲いに転げ込むコリント・ゲームは、子どものころにはあった。わずかな盤の傾きが、最初の一撃だけで見捨てられた球のうごきを惰性で決めていくとしても、釘に触れるか触れないか、ほんのわずかなちがいで、球の行末を思うままに決められる技術もなく、軌道を予測することには意味もなく、パチンコとは、新幹線と牛車ほどもちがう。天地不仁とはこのことか。

巡礼は離れて、遠く逝き、遠く離れればまた還る。還りは往きとおなじ道は通らない。また往くときも前とおなじ道は行かない。これは全体から見下ろす確率論ではなく、一回の試みはいつも偶然。天気予報では30%でも、いま降っている雨は、100%の雨。どんなにまちがったり失敗しても、歴史は確率ではなく、過去はたしかにそこにあった。でも、いまは日常の闇があるばかり、他には何もない。

使う音がすくなくなれば、メロディーは無限に伸びてゆく。まばらで、微かで、おぼろげで、形がない音楽は尽きない。それでも、どこかにとげがある。

ジョン・グレイの政治哲学から老子に曲がり、西脇順三郎の草を摘みながら歩く詩と、サパティスタの問いかけながら歩く政治運動と、池をめぐる風景の変化、反遠近法、みんなむかし一度は思ったことでも、時を隔てて思い出すときにはちがっている。一つのものでなく、あるいは、一つのことからはじまるとしても、一は純粋の一ではなく、すべての色を含んだ一。二は対立する二ではなく、連続する線の両端、温度計の水銀柱の範囲、三は3つのものではなく、組み合わせ{1,2,3,12,13,23,123}の七でもなく、三角形は囲まれた平面のすべての点を含む。

夜明け近く、暗い空間に光の粒子が漂いはじめると、閉じていた眼がふと開く。バス通りの騒音と混じって、神経の高周波の持続音が聞こえる。身体はまだうごかず、考えだけがしばらく彷徨っている。そんな時に、むかしの記憶や読んだ本の一節が結びついて、ゆっくり回りだす。

行列を組んで高みにのぼり、領土を見下ろしていたむかしの天皇が、反対側からやってきた神の行列とにらみあい、先に名乗りを上げた神は負けて追い払われた神話、神の怨念を祭る山。雄同士の小競り合いと、縄張りを見まわり、マーキングを残し、高いところに上って雄叫びをあげる習性は、人間になっても変わらない。バリ島の司祭たちは、頭上に天以外をいただいてはならないので、橋やトンネルの下をくぐるわけにはいかない。回り道して山にのぼり、道なき道を反対側へと進む。山登りして、尾根を縦走し、降りる道で崖から転げ落ちるのは、背を向けた谷の女神の引力か。

構造主義の20世紀は、作曲家が全体を計画し、要素を配分しながら、地図の上で、それらの組み合わせやうごきを監視していた。目的地も出発点もなく、軌道がずれていく水の循環、谷の音楽は、弱く、柔らかい響きは、耳に残る。