2013年11月号 目次
「ライカの帰還」騒動記 その1・プロローグ
カメラ雑誌の連載から生まれたコミック「ライカの帰還」は、後に新潮社、幻冬舎から単行本化され、台湾、香港を含めると5つの出版社から発行された。父の形見となったライカDⅢaはすっかり有名になり、この10月末から来年の3月まで半蔵門の日本カメラ博物館で行なわれる「The LEICA 〜ライカの100年〜」にコミックもろとも展示される。このレポートは「ライカの帰還」が誕生するまでのすったもんだ、そのものである。
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昭和49年から平成20年までの34年間、私は編集スタッフとしてオートバイ、カメラ、クルマの専門雑誌を発行する(株)モーターマガジン社に在籍していた。各業界を通じてナンバーワンの実売り部数を発行する出版社だったが、この会社の当時の社長である林さんの夢は、この会社からいつか一般誌を創刊することなのだと言う。しかし、そうすることのハードルの高さは、彼自身よくわかっていたようだ。
というのも、仮に自社の編集スタッフがすべての編集部署を経験し、知識やタイムリーな業界事情に精通していたとしても、それが一般誌で役に立つとは思えない。専門雑誌の編集者は、あるコンテンツに無条件でシンパシーを感じる読者が相手だが、一般誌ともなれば世の中のあらゆる事象と向き合うことになる。そうした場合、いわゆるコモンセンスという面で太刀打ちできるとは考えにくい。
そこで林社長が目を付けたのがコミック雑誌である。70年後半から80年代にかけてコミックは黄金期を迎え、大手の出版社は天文学的な売り上げを誇っていると聞く。これならば専門雑誌の編集スタッフのスキルでも、何とかなるんじゃなかろうか。一般誌を立ち上げるより手間も人数もかからずに済みそうだ。彼はそう考えたに違いない。後にわかることだが、これはとんでもない誤解である。
「当社でコミック雑誌を創刊する可能性をレポートせよ」林社長は、こともあろうに私に命令を下した。上司の編集長を飛び越して、だ。理由はと言えば、所属していたオートバイ雑誌で、私がバイクを扱った人気漫画の特集を担当したことによる、らしい。私は調査という名目で、まったく未知の世界そのものであるコミック業界の現場をウロつくことになってしまった。憂鬱である。
わからないことは山ほどあった。まずは作家さんはどうやって確保するのだろうか。ほしいと思う人気作家さんはたいてい連載を抱えているから、これが終了するまで待つことになる。1年2年は当たり前のことで、3年越しも珍しくないらしい。待っているのは他の出版社も同じで「次はウチに連載を」と、手ぐすねを引いている。実績ゼロの専門誌出版社が、実績山積みの大手出版社を相手にどう闘えるのだろう。
念願の作家さんを確保できたとしても、その作家さんがこちらの期待したものを描いてくれるとは限らない。作品は作家さんのものだとはいえ、とんでもないものを始めてしまったらどうするのだろう。よほど入念に事前の打ち合わせをするにしても、その進行に目を光らせているのがコミック編集者の仕事なのだろうか。そういうこともあるかも知れないが、何だか違うような気がする。わからない。
週刊のコミック雑誌を見ると掲載作品は20ほどある。その数だけ作家さんを擁しているわけだが、これらの作家さんは、好き勝手に自分の描きたいものを描いているのだろうか。どうもそうとは思えない。そこにはメインの読者層が読みたがる、何らかの共通するベクトルがあるのではないか。そのベクトルは、いったいどうやって見つけるのだろう。わからないことだらけだった。
やがて、その答えと思しきものが見えてくる。小学館のコミック雑誌編集者から聞き出したことで、それは「キーワードを見つけること」なのだと言う。たとえばサラリーマンを読者対象とした場合、大きく分ければ「仕事人間」と「家庭人間」の2つになる。前者は仕事を通じて自己実現したいと願う人たちであり、後者は仕事は生活のためと割り切り、己を支え、成立させるものは家族であり家庭である、とする人たちだ。
小学館の出版物で言うと前者はビッグコミック誌であり、後者はビッグコミックオリジナル誌になる。なるほどビッグコミックの「ゴルゴ13」「カムイ外伝」などの主人公は、自分の技術を磨き上げ、任務遂行に文字どおり命をかける。オリジナルの「釣りバカ日誌」「はぐれ雲」などでは作品中にそれぞれの家族が登場し、主人公は自分の生き方は仕事に左右されないというスタンスでいる。
キーワードは前者が「プロフェッショナル」で、後者は「ファミリー」。それぞれがターゲットとする読者層は、雑誌側でその志向に合わせてキチンと区分けしていたというわけだ。それぞれの読者は、自分の意図する生き方の理想を掲載された作品の中に見出し、カタルシスを味わうことができる。これならば同じ出版社から発行されたものでも、読者を食い合う怖れも少ない。専門誌とは考え方のスケールがまるで違うのだった。
さらに興味深いのは、コミック雑誌はそれでも単体として採算が取れないということだ。コミック雑誌の広告収入は乏しく、膨大な部数を支える紙代、印刷代をカバーするにはとても至らない。週刊誌なら40名、月刊誌でも20名規模を抱える編集スタッフの人件費と、高額な原稿料で収支は赤になるのが普通だという。専門誌は月刊誌でも7〜8名の時代だし、広告収益に頼り切るウチの会社には、とても馴染みそうにない。
それではコミック雑誌は、いったいどうやって採算をとっているのだろう。これは単行本の売り上げがすべてだという。小説の単行本なら数10万の部数でベストセラーと呼ばれるが、コミックはケタが違う。1冊あたりの単価が安いとはいえ、メガヒット作品は1巻で100万部を軽く超えるものが珍しくないのだ。しかもそれが何10巻も続くのだから、輪転機は札束を刷っているようなものになるという。う〜ん...である。
コミック編集者は誰でも、メガヒットを生み出すことが夢なのだという。それが生まれる確率はと訊ねてみると、100本手がけて2〜3本がそこそこのヒット。つまり2〜3%でしかないという。さらにメガヒットとなると「時代のニーズ」が生み出すものだから、作家さんにも編集者にも時代の流れを的確に読み取り、その先を予測する術と能力がないと生まれるものではない、らしい。
コミック編集者の素養とは、あらゆる分野に切り込んで行ける情熱と知識欲だという。仮に編集者が時代の流れを把握したつもりでも、それを作家さんとコミュニケートし、意気投合できるかどうかがカギになる。作家さんが「ともに作品を手掛ける相棒」と認めなければ、担当編集者にはなれないのだそうだ。これはダメだ。とても専門誌の編集者風情が入り込めるスキなどないではないか。
私は林社長に「当社でのコミック雑誌創刊は以上の理由から困難と言わざるを得ません」と正直にレポートした。返事はなしのつぶてだったが、社業の方は順風満帆のようで、それ以降コミックの話で呼び出されることはなかった。ホッとした私は、親しくなったコミック雑誌の編集者や作家さんと、その後もお付き合いさせてもらっていたのだが、これが後々えらいことの引き金になるとは思いもしなかった。
ジャワ舞踊作品のバージョン 1「ガン ビョン・パレアノム」
ここではジャワ舞踊といっても私がやっているスラカルタ(ソロ)様式に話を限定するのだが、同じ作品名なのに異なるバージョンが存在したり、作品名は違うのにほぼ似たような内容の作品が存在したりする。おそらく他の舞踊作品でも同じことが言えると思うが...。自分がまだ舞踊を学び始めた頃には、そのことがよく理解できなかった。「レパートリーは○曲あります」と言えたらいいのだが、何を以て1曲と言うんだろうと考えたら、よく分からなくなる...という感じだった。というわけで、今回は初心者には紛らわしい舞踊作品のバージョンを紹介する。まずは、たぶんスラカルタ様式の舞踊で一番ポピュラーで目にすることも多い、「ガンビョン・パレアノム」から。
ガンビョンという舞踊ジャンルだが、これには物語的な背景が何もなく、太鼓のリズム・パターンに合わせて踊る曲である。「ガンビョン・パレアノム」の伴奏曲は、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」という曲をメインで使うが、その前に「スメダン」という曲をくっつけて、独特のケバルという演出(速いテンポにのって、女性が身を装う身振りをする)を繰り返すのが決まりになっている。この演出が考案されたのは1950年、マンクヌガラン王宮においてである。ガンビョンは、そもそも民間では商業舞踊の人だけが踊るもので、一般子女は踊らなかったのだが、それを宮廷づきの踊り手に命じて宮廷舞踊風にアレンジしたのがこの作品だ。「パレアノム」は実はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家のオリジナルの舞踊であることが強調されている。王家の最初のバージョンは宮廷舞踊にふさわしく長いので(確か40〜50分かかる)、1970年代始めに同王家で15分程度の長さに短縮された(*)。
このマンクヌガラン短縮版「パレアノム」のケバルの演出を見て、その生き生きとした感じを気に入ったガリマンが、「パレアノム」をアレンジしたのは1972年(*)のことである。ガリマン版の特徴は、曲のメイン部は2ゴンガン(ゴンガン:曲の単位)の長さとし、その中に通常とは異なる順序でリズム・パターン(スカラン)を配置し、かつ、あまり使われないものや自分が新しく作ったスカランを入れた点にある。
ガンビョンというのは、太鼓の演奏するスカランに合わせて踊る舞踊で、即興的な要素もあるのだが、最初4つと最後に使うスカランは決まっているので、短時間の上演なら決まりきった踊りになってしまう。ガリマンは舞踊家だけでなく音楽家でもあり、民間では踊り手が必ずしも規則通りに上演していないことを知っていて、あえて変則的なアレンジを試みたのだという(**)。だから、最初の4つのスカランをI→II→III→IVと順に上演すべきところをIだけやって、II、III、IVは使っていない。そのため、ケバルという演出だけでも新感覚なのに、さらに斬新な雰囲気が生まれた。この定型から大きく外れたやり方は、当初は批判されたらしいのだが(**)、今では批判する人は誰もいない。
私の師のジョコ女史も、ガリマン版のあと1974年(*)にアレンジを手掛けている。ジョコ女史版の特徴は、3ゴンガンとガリマン版より長く、1ゴンガン目には定型のスカランをIから順に入れているものの、2ゴンガン目と3ゴンガン目はガリマン版をそのまま踏襲していること。芸術高校の教員だったジョコ女史は、教育的見地からガンビョンの定型を踏まえ、かつ沢山のスカランの踊り方を勉強できるようにと、こういうアレンジにしたらしい。
そのジョコ女史版の、入退場の曲だけを変えたのがPKJT・3ゴンガン版で、両者の太鼓パターンは全く同じである。ガリマンもジョコ女史も、「パレアノム」の上演ではマンクヌガラン王家版と同じ入退場の曲(上では書かなかったが)を使っている。ジョコ女史版のカセットは市販されていないが、PKJT・3ゴンガン版は市販されている。
PKJT・3ゴンガン版が生まれたきっかけは次の通り。ジョコ女史はPMSという舞踊団体でも指導していたことがあり、そこで自分版の「パレアノム」を教えていた。その団体に参加していた芸大教員のノラ女史がそれを覚えて持ち帰り、芸大で教えるようになったという。これは、ノラ女史本人が私に語ったことなので、間違いないだろう。PKJTは当時あった芸術プロジェクトの名前で、PKJTの成果は芸大のカリキュラムに導入されている。というわけで、私が芸大の舞踊科に留学して履修したガンビョンの授業で習ったのは、このPKJT・3ゴンガン版ことジョコ女史版であった。そして、一般的にPKJT版として知られているのは、1979年(*)にノラ女史がこのPKJT・3ゴンガン版の3ゴンガン目をカットして2ゴンガンにしたものである。3ゴンガンでは、結婚式やイベントなどで上演するには長すぎるというわけで短縮されたのだ。
さらには、ガリマンと並ぶ巨匠マリディも「パレアノム」を手掛けている。これも基本的にはジョコ女史版と同じだが、入退場の曲をPKJTとはまた別の曲に変え、かつ、1つだけスカランを別のものに差し替えている。マリディの場合は、ガリマンやジョコ女史が手掛けたのを見て、自分もやってみたかったというのが真相のようだ。マリディ版「パレアノム」は市販されているので、あるいはカセット会社から「マリディ先生も1つ『パレアノム』をお願いしますよ...(その方が売れるし...)」などと言われたのかもしれない。
一般的にスラカルタで行われる結婚式では、「パレアノム」といえばPKJT版(2ゴンガン)かガリマン版のどちらかで、太鼓奏者も踊り手に「どっちでやるの?」と聞くのが常だが、今ではPKJT版が圧倒的に多くなっている。芸大が教育のトップ機関としてあるため、その影響は大きいのだろう。しかし、ジョグジャカルタやジャカルタといったスラカルタ市外では、「パレアノム」と言えば今なおガリマン版で、ガリマン版のカセットも市販されている。ガリマンはジョグジャカルタの芸術高校や芸術大学でスラカルタ様式の舞踊を教えていたし、ジャカルタにもよく指導に呼ばれていたから、その影響が大きいのだろう。
こうやって、「ガンビョン・パレアノム」は1970年代に一気にブームとなって定着した。それまでガンビョンといえば、「ガンビョン・パンクル」が一般的だったのが、「パレアノム」に取って代わられた。たぶん、マンクヌガランで考案された特有のケバルとガリマンの斬新なスカランの組み合わせが、同時代の舞踊家たちを刺激し、かつインドネシアの1970年代という開発の時代の雰囲気にマッチして大衆に歓迎されたのだろう。さらに、音楽カセットという新しく登場したメディアがその普及に一役買ったのだろうと思われる。
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(*) 制作年はSri Rochana Widyastutieningrum著 "Sejarah Tari Gambyong"、Citra Etnika Surakarta社、2004年を参照。ちなみに著者は現在の芸大学長で、同書は彼女の修士論文を出版したもの。同書ではガリマン版が1972年にできたあと、1973年にマンクヌガランの短縮版が作られたように書かれている。また、ジョコ女史は、ガリマン版が1971年頃に作られ、自分の版は翌1972年頃に作って親族の結婚式で初演したと言っている。おそらく、結婚式などで初めて上演した年と、公式に学校や王家などの公式レパートリーに導入した年との間に多少のずれがあるのだろう。またマリディ版「パレアノム」については、同書には言及がない。
(**) ガリマンに師事した飯島かほるさんの談
菊水町の四角い家
壁は黒っぽい灰色、いまならチャコール・グレーと呼べそうな色だった。もちろん、そんな洒落たカタカナことばを少女はそのとき知るはずもなく、壁はコンクリのような、モルタルのような、触ると指先にざらっとした感触を残した。細長い板を横に何枚も重ねて貼る、見慣れた壁ではなかった。
その二階建ての洋館は、いつごろ、なんのために建てられたのか。壁面に等間隔にならぶ窓枠は、縦に細長く、上下2枚のガラス窓がおさまり、それぞれ四角い板ガラスが数枚はまっていた。
建物の入口はドアで(引き戸ではなく、ドアだ!)、開けるとトンネルのように仄暗い廊下がまっすぐ続き、左右にドアがいくつもならんでいた。廊下も部屋もすべて板敷き。部屋に入るには床より高い敷居をまたがねばならなかった。
屋根が思い出せないのだ。建物全体が真四角だったような気がする。雪の多い北海道に見られた、急勾配の、赤や緑のペンキを塗ったトタン屋根ではなかった。おぼろげな記憶のなかの建物がサイコロのように真四角だったとすれば、屋根に積もった雪はどう処理したのだろう。「町」へ格上げされたばかりの村のなかで、その建物は「引揚者の家」と呼ばれていた。
隣町から走ってきたバスが、木造二階建て小学校の正門前を、土埃をあげながら通りすぎて、菊水町のT字路で右折する直前、左手の青々と茂る樹木のなかにその建物は立っていた。この村を開拓するときの拠点だったのだろうか。最初の村役場だったのだろうか。近くには神社もあった。
小学校の広い敷地のはずれにあるその建物のなかに初めて入ったのは、1957年の春か初夏、洋物好きの父親が、隣町からヴァイオリンの弾ける写真屋さんを呼んできて、この建物のなかの空き部屋で、ヴァイオリン教室が開かれることになったときだ。いや、そうではない。それ以前にも、少女はそこに住んでいる同級生のところへ遊びにいったことがあった。驚いた。その同級生の家族はたった一部屋に住んでいたのだ。廊下の突き当たりにある炊事場は共同、もちろんトイレも共同だった。
少女の家はそこから2kmほど離れた、山二線の田畑のまんなかにあった。四畳半の板敷きの部屋に、六畳の畳敷き、それに台所、風呂、トイレのついた小さな家だ。お前はこの家の奥の六畳で生まれた、と何度も聞かされた狭い家は、しかし、とにもかくにも一軒の独立した家屋で、窓も冬の豪雪にそなえて二重だった。仏壇も神棚もないその家に小学生の2人の子供と両親が住み、別棟の小屋には山羊や鶏が飼われていた。だからその同級生の、赤ん坊も含めて5人、いや6人にもなる家族のための空間が、家具らしい家具もない、たった一つの真四角な洋間で、高い天井からぽつんと電球がぶらさがり、魚を焼くときは七輪を建物の外に出すと聞いて、少女はことばが出なかった。
その建物が「引揚者の家」だと知ったのは、建物に初めて足を踏み入れたその日だったかもしれない。夕飯どきに今日はどこへ行ったかおしゃべりしていて、耳にしたことばだったかもしれない。「引き揚げ」にまつわる大人たちから聞いたことば、マンシュウ、カラフト、チシマ、ハボマイ、シコタン、ホンド、ガイチ、ナイチ、ニホンが、少女の語彙のなかに脈略をもって、満州、樺太、千島、歯舞、色丹、本土、外地、内地、日本、として記憶されるようになったのは、それからずっとあとのことだった。
しもた屋之噺(142)
美恵さんから頂いたうつくしい鶯色の詩集と、ブルーノから借りた緋色のピアノの本をカバンにしのばせながら、毎日をせわしくやり過ごしています。路面電車に揺られつつ、この2冊をかわるがわる読みながら、時代に拮抗して生きた芸術家と迎合して生きた芸術家についておもいます。それから、かくいう自分はどうなのだろうともおもいます。
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10月某日
9月の新作初演のヴィデオをみてくれたパリの友人よりメール。「面白いと簡単に言ってしまうのが憚られるような強い音楽ですね。アフリカで女性兵士による拷問にあった男性は復帰がとても難しいということを、缶を叩く打楽器奏者を見ながら思い出さざるを得ませんでした」。彼はよく知られた音楽家だけれど、彼がアフリカから逃れてきた人々をふくめ、さまざまな人権運動に関わっていることは、あまり知られていない。
10月某日
朝、ヘンツェのリハーサルをしている最中に携帯電話が鳴った。練習中だったので放っていて、休憩になって見ると家人からだった。家に電話をすると、三善先生が亡くなったという。足だけが鉛のように重くなり、そのほかの身体中が、干乾びてカラカラと通り抜ける風に不気味な音をたてる。覚悟だけではどうにも歯止めのきかぬ思い。自分が最後まで一人のどうしようもなく出来の悪い弟子でしかないことへの忸怩たる思い。
10月某日
「三善先生は作曲家です。ですから当然のことながら、作品は生きています」。I先生よりお便りをいただき、すこし感情が戻ってきた。ちょうど家人も息子も数日留守にしていたので、独りで女々しく過ごせたのはせめてもの倖せだった。おかげで翌朝は随分すっきりと目覚めることができた。一番最後にお目にかかりたいとの願いが叶わなかったのは、先生のお加減のせいだけではなかった。先生に何をやっているのと尋ねられても、応えられなかった。
10月某日
どの作品も丁寧に仕上げるのは大変なわけだが、ヘンツェがこれほど厄介だとは思わなかった。作品中の情報量が多いほど面倒なのではなく、演奏者が実現可能な範囲を超えれば、全体的に収斂してゆき、結果的に把握もし易い。ヘンツェは、限界を超えない境界線上に鎮座ましましていて、もう少しやればこれは聴こえてくるのかしら、やはり聴こえないのかしら、という戸惑いを演奏者に強いるのである。
10月某日
ボローニャ駅前の喫茶店でアラッラに会う。彼曰く、ピアノの登場によって、それ以前の鍵盤音楽はすぐに廃れ、忘却の彼方へ葬り去られてしまったが、コンピュータとインターネットの登場による現在の革新的状況は、それに匹敵するのではないか。現在生まれつつある音楽は、明らかに現在までの音楽のあり方と、根本的に一線を画すという。理解できる気もするけれど、認めたくない思いが頭をもたげる。
ボローニャ大学のマデルナ資料館にいるバローニ氏が、ドナトーニから贈られた「ブルーノのための二重性」の草稿とメモを保管していると聞いて、CDの解説に写真を附すためにボローニャを訪ねることにした。ドナトーニは、作品が出来上がると草稿を破り捨てていたので、現存する草稿は、作曲当時バローニ宅に寓居したお礼替わりのこれだけだと聞いていたが、実際に足を運ぶとバローニ氏はメモを紛失してしまっていた。よほどドナトーニは詳かにしたくなかったらしい。
10月某日
ビエンナーレ本番直前Iが楽屋を訪れ、今年のビエンナーレは前年比で聴衆が85パーセント増だと誇らしげ。自分の出演以外は客席にいると、社会見学なのだろう。引率の先生二人に連れられた20人ほどの小学生の団体もいて、明らかに詰まらなそう。少しでも騒ぐと先生に怒られていて、気の毒。それでも、最後の豪快なカーター作品には盛んに拍手を送っていたそうだが。演奏会後、聖ステファノ広場裏の「工房通り亭」で、揚げた小蛸をつまんで、安い赤ワインをショットグラスで呷りつつ、出演者たちは「85パーセント増ねえ」と笑った。
10月某日
マーラー「アダージェット」ピアノ編曲終了。様々な編曲の一つに、カミーロ・トーニが施したものがあって、途中から思いもかけぬ展開になる。その昔カセルラが著した「ピアノ」という本があり、楽器の成立から、鍵盤音楽史、最後にバッハからリスト、ブゾーニに至るピアノの編作史つき。ズガンバーティとブゾーニの編曲スタイルなど、今から見ればどちらも古臭さに大差はないが、カセルラは譜例つきで紹介。「没後すぐに廃れたズガンバーティの前世紀的な編曲」などと、辛辣極まりない。月曜日の授業後、入替わりで同じ教室にて教鞭を取るフランチェスコと話していて、来年没後100年になるズガンバーティの交響曲第二番を蘇演すべく、楽譜を制作中と知る。カセルラは、フォン・ビューローのワーグナー編曲を譜例つきて賞賛していて、微妙な世相を薄く反映する1936年刊。
10月某日
マントヴァから来たレオナルドと、ヴェネチア広場のマルツェルラ亭で話し込む。学生時分ピアノでモスクワ音楽院に留学していたレオナルドは、チェンバロ科の生徒らが、バッハの平均律をムジェルリーニ校訂版で勉強していたのが印象に残ったという。ムジェルリーニはマルトゥッチに学んだピアノ教師で作曲家もよくし、門下からアゴスティのような優れたピアノ教師も輩出している。彼は革新的なピアノ技法を目指したため、ロンゴのような当時のナポリピアノ楽派から激しく非難された。今から100年ほど前、時のサンペテルスブルグ音楽院のルービンシュタインから招聘されたのが、他でもないナポリピアノ楽派創始者のチェージだったことを鑑みれば、当時イタリアで相対していたムジェルリーニの教本を現在も使っているのは、当時のイタリア式ピアノ教育法とは関係なさそうだ。
スターリン以後、イタリアとロシアはつい最近まで、共産党を介して政治的に緊密な関係を保ち続け、リヒテルなどソビエトの演奏家は常に歓迎されたが、現代音楽の分野では全く交流がなかった。スカラ座で初めてショスタコーヴィチの交響曲14番が演奏されたとき、ノーノを初め当時の共産党お抱えのイタリア人作曲家は、誰ひとりショスタコーヴィチを評価しなかったという。
10月某日
オルガンの新作リハーサルのため、ブスト・アルシーツィオのフランシス修道会の教会へおもむくと、受付口には「サンドウィッチ」と書いてある。前に並んでいたペルー人とおぼしき妙齢は、うつむき気味に紙袋を受け取り小さく礼をつぶやくと、すぐにどこかへ言ってしまった。続いて、「あなた方もサンドウィッチですか」と受付口の痩せた妙齢に尋ねられ、隣にいたアンドレアが「いいえ、オルガンのリハーサルの約束があって参りました」というのをききながら、少しだけ心が痛む気がしたのはなぜか。
10月某日
満員の特急車内。時速283キロで走っているとの表示。
子供のころから何度となく聴いた水牛楽団の中屋幸吉の「最後のノート」。
誰もいない、何の音もない、真っ暗の宇宙にうかんでいる。目の前に、こちらを凝視する自分の顔も、ぼんやり浮かんでいる。
オトメンと指を差されて(63)
たぶん彼と僕は似ていたのだと思う。
出会いは最悪だった。それはたいへん険悪な始まりで、売り言葉に買い言葉、およそ初対面の人間同士とは思えないものだった。
以来、互いに気に入らないといったふうに牽制し合い、それとなくなじり合っては、ふとしたきっかけで口喧嘩をするような案配だった。
そもそも、ふたりとも口が悪かった。言い方は、10ほど下の僕の方が皮肉で慇懃で、年上の彼の方がかなり直截。ただ何かを批判するとなれば正直で、どちらも真剣だった。
それに、好きなものや持つ知識が近かったのもあった。もちろん、同好の士が多い分野について重なっていたのは、複数合ったにしても、偶然と言えるほどのものですらないだろう。
ただ、お互い「詳しい人物がそういるとは思えない」自分たちの職能の歴史について、興味を持ち、深く調べていたというのは、何事にも代え難い共通点だった。
良からぬ仲であるうちに、知らず知らず、信頼のようなものを抱いていったのだろう。最終的に、ふたりはそれぞれの発言に常に共感のようなものを持つに至った。
それに、職業としてのデビューは、同期といってもいいだろう。僕が駆け出しであると同時に、彼も前途有望だった。ただ年の差からか、彼は僕以上に世に埋もれていた時間が長く、その分、少し斜に構えるところがあった。
しかし、それでも僕は、彼がこれからその分野の実作と批評について、傑出した技を見せてくれるものと期待していたし、またそれを信じていた。そしてお互いにその仕事を目にしつつ、様々言い合えるものと思っていた。
僕は、彼の死をその四十九日のあとに、人づてに知った。
結局彼は、公の仕事としては、ひとつしか世に残さなかった。
これから何をどうしたい、老後にはあれがしたい、と先のことは折々語っていたし、またささやかな詩集を編みたい、とも口にしていた。
もちろん、それは叶わぬこととなったし、僕は君と見ることも見せることもできなくなった。僕は彼以上に見せるべき人を知らないし、また彼ほどに読んでしっかりと理解できる人など、いるはずもない。
彼が無念であったどうかはわからない。ただ、彼は生きながらもいつも無念さをにじませる人ではあった。人にバカにされ、軽んじられることに、人一倍繊細だった。世を呪うところさえあったように思える。
そして今、僕は僕のためにだけに君の詩集をこしらえて、ただ自分を慰めることしかできない。
化け物屋敷
病室を見舞うと、父が周りのナースたちを一瞥したあと、談話室へ行こうと目配せをした。
まだ、夕方までに時間のある午後。談話室には誰もいない。点滴のパックがぶら下げられた背の高い器具を引きずりながらソファの脇に立った父は、まだ入院して三日目だと言うのに、すっかり手慣れた動きで、ソファの前に回り込んで、座ると言うよりは落ちるようにソファに身体を沈めた。
「調子はどうなの?」
私がそう聞くと父は、
「調子は悪いやろ。調子がよかったらこんなとこにはおらんやろ」
と、怒るでもなく笑うでもなく、当たり前のことを当たり前に説明するかのように話す。その醒めた表情は、昨日の夜、ナースを相手に騒ぎを起こした患者には見えない。
昨日の深夜というよりも今日の明け方、父は巡回に来たナースを相手に騒ぎを起こした。痛み止めの薬のせいで幻覚を見た父が、その幻覚についてナースに説明しようとしたらしい。しかし、ナースは聞く耳を持たなかった。
「あいつらは、僕を子ども扱いしとるんや」
と憤る父だが、多くの患者を相手にするナースにとっては、父も数多い患者のひとりに過ぎないということはよく理解できる。ただ、この病院のナースは、父でなくても思わず首をひねってしまうような言動を患者やその家族に投げかけたりしてしまう。それが病院の方針なのかナース個人の資質なのか、まだ入院して日が浅いので計れないところがある。
例えば、夜に病室を訪れると、あるナースが私に、
「今日は泊まっていかれますか」
と聞いて来たりする。
「いえ、泊まりません。というか、完全看護の病院ですよね」
と私が問いかけると、そうですか、と私の問いには答えずに立ち去ってしまったりする。そんなやり取りが日に幾度かあり、私自身はなんとなくではあるが、この病院に対して、不信感のようなものを抱きはじめていた。そこへ来て、昨日の夕方の主治医からの話だ。
話がある、というので主治医と一緒にナースステーションの脇にある小さな部屋へ出向いた。主治医はいかにも時間がない、というようにチラリと時計に目をやってから、「どうぞ」と私に着席を促した。まだ三十代の真ん中くらいだろうか。どうしても、この若造がと思ってしまう。
その若造が、ポケットからメモ用紙を取り出して、真ん中に画を描き始める。それが父の病気を説明するための画であることはすぐに理解できた。それにしても、下手な画を描くものだ。胃から大腸への流れを描いているのだが、どう見てもすき焼きの鍋の中で豆腐とシラタキが絡み合っているようにしか見えない。
主治医はその画を描くと、なんども話を行きつ戻りつさえながら、つまりは、余命半年だと思っていた病状だが、どうも今日明日もわからないほど切迫したものだった、ということを私に伝えたのだった。
「年齢が年齢なので、誤診とかなんとか言うつもりはありませんが、最初にわからなかったものなんでしょうか」
私がそう聞くと、主治医はメモ紙の端っこを折ったり伸ばしたりしながら、胃カメラを飲んで初めてわかるものなので、決して誤診ではない、という部分だけを強調した。
「放射線治療をするにしても、痛みを抑えてからでないと無理だと思われます。そのために、痛み止めをもう少し増やしてもいいかと思うのですが」
「その判断は素人の私にはできないので、お任せします」
私がそう言うと、主治医は深くうなずいて、では最善を尽くします、と返事をして立ち上がった。その時、私は父には放射線治療の道も残されていないのだと察したのだった。
いま目の前にいる父は、まだ今飲んでいる痛み止めさえ効けば、治療が始まると思っている。しかし、そのことはもう話さなくてもいいだろうと私は考えていた。後は父の体力次第だろうと私は妙に開き直った気持ちだった。
「なあ、言うとくけどな」
父は話し始めた。
「ここは化け物屋敷やぞ」
少し声を落としてそう言った父は、辺りを見回した。
「とにかく、ここはまともやない。夜中になると三つ目の女が現れる」
「三つ目の女?」
「そう。三つ目の女や」
父はソファから身を乗り出すと、なるべく私に身体を近づけて、声を落とした。
「夜中に病室のドアが開いて、髪の毛の長い女が入ってくるんや。そんでな、こっちをじっと見ながら笑うとるんや。じっと見られてたら目そらされへんがな。ちゃうか」
「そうやな」
「そうやろ。じっと見とるんやからな。目そらされへんがな。そやから、こっちもじっと見てるとな、おでこのところに、タテに切れ目が出来て、三つ目の目玉が出てくるんや」
「怖いなあ」
「怖いやろ。そやから、このことを看護婦に話ししたったんや。そやのに、はあ、そうですか、でしまいや。あいつら、僕を子ども扱いしとるんや」
「いやまあ、そういうわけやないやろけど」
「いや、そうに違いない。あ、それか...」
「それか、なんや」
「ほんまは、みんな知っとるんや。知っとるけど、病院の評判が悪なったら困ると思て、知らん顔してるんとちゃうか」
「そうかも知れへんなあ」
「よっしゃ、そしたら、お前な。お父ちゃんがいろいろ見といて記録しとくから、後で市の広報誌かなにかに投書してくれ」
その考えが、よほどの解決策に思えたのか、父はこれ以上ないというくらいに笑みを浮かべて、ナースステーションのほうをうかがうのであった。そして、ここまで話すと、父は急に無口になり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
普段から父とはほとんど会話のなかった私は、それが三つ目の女の話でも、少し嬉しかった。そして、こんなことでしか話せない父と私との関係をとても不思議に思ってしまうのであった。
父に何か声をかけたほうがいいのかもしれない。そう思って私は父のほうを見た。すると、父は私の背後をじっと凝視しているのであった。いったい何がいるというのか。私も自分の背後を振り返った。すると、父は人差し指を唇に当て、シーッと言う。
「来てるの?」
私がそう聞くと、父は満足そうな表情で、何度も小さくうなずく。
「大丈夫やって。僕が怒っておくから」
私はそう言うと、後ろを振り返ると、言った。
「親父がゆっくりできへんから、もう来んとってくれるか」
すると、父の視界から三つ目の女が姿を消したようだ。父は満足したようにしばらく三つ目の女が立っていた辺りをぼんやり見ていたが、やがて立ち上がった。私は慌てて父の脇に立つと、軽く父を支え病室へと付き添ったのだった。
後から来た母に、父の様子を伝えると、痛み止めを使い始めてすぐに幻覚が出たという。しかし、いくら痛みが治まっても、ナースに食ってかかるほどの幻覚が出るのでは本末転倒ではないか。そう思った私はナースステーションへ行き、父を担当してくれている年かさのナースに声をかけた。
「痛み止めが強すぎるということはないでしょうか」
私が聞くと、ナースは少し戸惑ったように答える。
「いえ、他のみなさんと同じ量なので、おひとりだけ強い幻覚が出るとは思えないんですけどねえ」
「でも、幻覚がかなり強いですよね」
私がそう言うと、ナースは小さくため息をつきながら続ける。
「あれは、痴呆が始まっているんじゃないかなあと思うんです」
「痴呆ですか?」
意外な言葉に私が少し大きな声で答えると、ナースはその声を抑えるかのように、今度は間を開けずに話し始める。
「ええ、お父様、もっと穏やかな方だったんじゃないかと思うんですよ。それが、昨日辺りから私たちにも食ってかかるようになって」
「なるほど...」
そう返事をしながらも私は、痴呆ではない、という核心があった。もともと父は穏やかな性格ではない。神経質で、何かあるとすぐに母に当たってしまう気の弱い人だった。そんな父を見るのが嫌で実家を出たのだから間違いはない。この看護婦は父の何も見てないのだと私は思った。もちろん、そこまで期待していたわけでもないのだが、痴呆のせいにする姿勢には、はっきりと怒りを感じた。それに痴呆による幻覚なら、もっと漠然とした部分があるのではないかと思う。あんなにハッキリと自分が見たものについて、切々と訴えているのは、ただ見てしまった幻覚をきちんと伝えようとしているだけだと私には思えたのだった。
その日からちょうど十日で父は逝った。途中で緩和ケアを主とする病院へ転院してから一週間目のことだった。この病院の主治医も、父の余命を一ヵ月から二ヵ月と見積もっていのだが、終わりは思いの外早かった。
結局、最後までうまく話せない親子だったが、仕事の合間にわずかな時間だが父と一緒の時間を持つことも出来た。死に目には会えなかったが、亡くなってすぐに駆けつけることは出来た。
もっと話せばよかったという気持ちはあるが心残りと言うほどでもない。
それよりも、最後に聞いてみたかったことがある。何度も聞こうとして、聞けなかったことがある。
「もう、三つ目の女は出てけえへんか」
そう素直に聞けばよかった。
108翠答──夕暮駅
夕暮駅で、
亡霊を待とう。 どうせ、
金で買ったことばだ、
使いたい。 松虫の息をしている、
9月9日。 犯罪と、
平安文学研究会。
40年まえの、
ちいさなノートがちんちろりん。
休らうかげにかげろう日記、
なんちゃって。 さよならね
(そして11月へ。)
あきがきた
ようやく涼しくなってきたと思ったら、もう11月だという。
気づかないうちに一年が過ぎ去ろうとしている。
先日、「手のひらを太陽に」やアンパンマンで有名なやなせたかしさんが亡くなられた。故人を惜しむ声の中で、噂雀たちは身寄りがないといわれる故人の遺産の行方に興味津々らしい。
著作権法では、遺言がない場合には、全く法定相続人がいなくなった著作権は消滅すると考えるのが妥当なのだそうだ。今後、誰がそれを証明するのかはわからないが、証明されれば、50年を待たずしてやなせ氏の著作の一部でも青空文庫に納められるのかもしれない。
そんなことを考えて、ふと、来年の正月に著作権の切れる作家は誰なのか?が気になった。「死せる作家の会」と題された一覧を見ると来年は野村胡堂と長谷川伸が対象になるらしい。今年に続いて時代劇の巨人たちの著作権が開放される。昔に比べると元気がないといわれる時代劇がこれで元気を取り戻せれば、それはそれで望ましいことなのではないか?と思う。ぜひ、銭形平次を下敷きにコミックやライトノベルを創作して、世界に日本の偉大なる先人たちの面白い物語を広めてもらいたいものだ。それができるからこそ、二次創作の価値というものがある。
最近、本屋に立ち寄ると面白いことに気づいた。
数年前までは大きなコーナーを占めていたコミックの書棚が年々小さくなっているが、その中でも女性向けのコミックが年齢層に関わらず縮小されている。この傾向は新刊だけかと思ったら、近所の新古書店(一般にはブックオフという)でも、女性向けコミックの棚が非常に小さくなっている。もしかすると、女性は無駄なものを買わないか、気に入って買ったものを捨てないからかとも思ったが、全体的な傾向らしいので女性の女性誌ばなれが進行しているらしい。
私の若かりし頃は、コミック、マーガレット、LaLa、りぼん、花とゆめと少女を対象にしたコミック誌が花盛りだったようにも感じる。その昔は、男性の漫画家が少女コミックを書いていたものだが、その頃の作家は引退したか、男性誌に移っている。その分、今は女性作家が男性誌と言われる雑誌で連載を持っているのだが。
読書の秋。
昔は漫画の本ばかり読んでいると、それは読書ではないと怒られたものだ。多くの先人たちがコミックの地位を向上させた現在、さて、コミックを読んでいる子供は親に昔のように怒られているのだろうか?
その前に、親たちが読んでいるか?
足りない活字の物語
台風が連れてきた雨がやんで、青い空が美しい。この時期は毎年何だか淋しい。夕方の西日の角度のせいなのか、今年ももうすぐ終わるという反省の念からなのか。無為に過ごしてきた日々への後悔を滲ませながら、ハロウィンの街を歩く。
友人の溝上幾久子さんが送ってくれた案内状を持って、「足りない活字のためのことば」展にでかける。この展覧会は、東日本大震災で被災した釜石市の印刷会社、藤澤印刷所の、廃棄されようとしていた活字を、瓦礫処理のボランティアに入った坂井聖美さんが掬い上げたところから始まる。
津波は印刷所の2階まで達し、そこにあった印刷機と紙はダメになった。部屋いっぱいに活字棚が設置されていた3階は、坂井さんがボランティアに訪れた時には、ほとんどの活字が床にばら撒かれた状態だったという。近年ほとんど使用されていなかったということもあり、配列を失った活字を拾い上げて実用できるように再生することは難しいと、廃棄する事が決まっていたのだった。しかし、金属の活字だけではなく、木や樹脂でできたスタンプや木箱などを見て、これらの活字は文化的に価値のあるものだと感じた坂井さんは、印刷所の了解を得て、持てるだけの活字を土嚢袋に詰めて運び出してきたのだった。
展覧会のために作られた「KAMAISHI LETTERPRESS PRESS」のインタビュー記事で、坂井さんは「古くていとおしいようなものが沢山ありました。」と語っている。展覧会ではこの活字たちにも会えるのだが、ひらがなたちは、まろやかで美しい。
坂井さんが釜石から持ってきた活字は、縁に運ばれて、銅版画家の溝上さんに託される。溝上さんも震災後、それまでにはない、さまざまな思いが自分のなかにうまれ、少部数でいいから、なるべく手作業で本をつくろうと手動の活版印刷機を手にいれていた。最初は釜石のレトロなイラストや屋号の活字でポストカードなどを作っていたが、「この量のひらがなの活字があって、もし、ことばがあれば、なにかできるのではないか」と思い至る。釜石の、足りない活字で印字できる詩をつくってもらう、使える文字が限られるという制約の中で詩や短歌をつくるという試みに、12人の作家たちが応えて今回の展覧会になった。釜石の活字で印刷された短歌や、詩に4人の版画作家の絵が添えられている。
静かな午後に、活字によってかたちを与えられた心をゆっくり眺める。
バラバラに床にこぼれてしまった活字は、こぼれてしまった心のようだ。そして、ひろいあげた人の手から手へ渡って、再生した活字は、再生した心のようにも思える。たとえ足りない数のままでも。
馬喰町の「ART+EAT」での展覧会は11月2日までということだが、坂井さん、溝上さんによる活字ユニット「KAMAISHI LETTERPRESS」は藤澤印刷所より譲り受けた活字をつかって、作品&ペーパープロダクトの制作、各地での展示企画をこれからも続けていくそうだ。私も会場で溝上さんがつくった「うみとそらを分け合うノート」を買った。これからの活動も楽しみにしている。
音の記憶
ひとつの音から匂い立つ化物は
記憶の衣装を纏い
月を塗りつぶし
舞台幕の色を変えてしまう
あの道の香りが心臓に燻る
微かな息は 去った夜に隠れ
寝台に捧げた歌は灰になる
写真論
5
詩にvouloir-direはない、と誰か哲学者がいっていた。詩は別に何もいいたいことがないのだ、詩それ自身以外には。詩がいいたいのはまさにその詩が詩としてあるそのことだけ、それで「マウイ島ラハイナの海岸で砂に埋もれたまま立ちつくす墓標のかたわらにぼくも佇みラナイ島越しに沈んでゆく夕陽を見ていたことがあった」と私が書くとき、それはまさにそういうことなのだ、背後はない、寓意も、教訓も。詩のdictionに要約はいらない。詩が実現した並びはそれ以上の置き換えを求めない、なぜなら詩人がその流動を止めたから。詩人がその獣を殺してしまったから。それは写真家がシャッターを押すのとおなじこと、スナップ(噛み付き)が世界の動脈を食い破り、「一瞬」の名のもとに複数の時を整列させたのだ。詩と同様に写真は要約できない。詩と同様に写真はあまりによく死んでいる。
6
「失敗した写真なんか、ない」(Ben,1956-2000)。そうだよ、何も映っていなくても写真は「存在する」だけで成功だ。その先にどんな判断や評価をもちこもうともちこむまいと、写真は人が生きる時間をたしかにarrestする、攪乱する。だからといって詩と写真が似ているといえるだろうか。私にとって詩はむしろ絵画に似ている。「アヴィニョンの娘たち」が視点の不自然な背反を含むように、ひとつの視点、時点からはけっして見えないものを描くように、詩も時間をわたり場所をさまよいつつみずからを書こうとする。それはパンクローヌをめざすパントープの作業。絵画の画面は時間の廃棄の反対だ。絵画は時間を表面として造形する。見る者には絵画において初めて経験する時間がある。写真はどうか。写真が構成する時間の奥行きは映された事物のさまざまな時間の奥行き、写真がめざすのは多数の集結によりひとつの絵画的な表面にいたること。
7
音楽について若い友人と話した、「音楽は時間の芸術だというよね。音楽の時間は要約できない、短縮しても延ばしても曲は台無しになる。一瞬ごとの音はそれをリアルタイムで耳にしているとき、まだ音楽ではない。ただ音が消えて次の音にその場を丸ごとゆずりその連なりが瞬間ごとにもやもやした回想として組み上げられたなら、消えた音の印象のことをわれわれは音楽と呼び、良いとか悪いとかすべてが無音の回想の中で言葉に語られる」。それからひとりになり詩のことを考えた。詩は紙の上の言葉として目に見えるものであっていい、だが見えなくてもおなじこと。心が言葉のつらなりを瞬時に回想し、思い出したそのときのもやもやした印象が心を動揺させる(そのとき言葉は姿を消している)。それから写真を考えた。目の前にあるとき写真は見たいだけ見ていられる、だが写真の感動だって本当は回想の中にあるのではないか。くりかえし回想される写真、目の前にない写真、思い出の中で、しだいにぼやけ薄れてゆく写真、忘れてゆく輪郭、色彩。薄れながらなお、人にいつまでも呼びかける、何かの痕跡、存在の名残。
オスプレイ見る
十月はじめ、仕事で浦添の方へ行き、用件すべて終わり駐車場へ向かう途中、見ましたよ、初めてオスプレイを。プロペラを上に向けて普天間飛行場へと向かっている。オスプレイ配備されて一年経ってやっと。一機だけど低空ではっきりと。かなりの迫力。
かなりぐうたら過ごしていたある日の深夜四時過ぎにふらっと外に出る。こんな時間はいつも行く店は開いていない。閑散としたゲート通りまで出ると天ぷら屋さんが開いていた。ちらっと入り何か食べられるものはあるか物色していると、フィリピンバーのおねぇさんとバンドマンらしきひとたちに天ぷら屋さんまでにエスコートされた酔い客二組。食べ物を調達してどこやらへ行った。こっちは小腹がすいたので買ったタコスお握りを天ぷら屋の前のベンチで食べる。隣は泥酔して眠っているおじさんひとり。ふらふら歩き、かえる。
ある日、仕事から戻るとガキが使っているパソコンの画面がハードディスクをチェックしている状態で延々と続いていて画面が変わらないみたい。聞くとずっとこの画面だという。ハードディスクが飛んだかな。パソコン本体のハードディスクのアクセスランプを見ても点灯していないし。OSのディスクを入れるとちゃんと認識する。ガキにはハードディスクだめだからディスク交換してリカバリが必要なことを伝える。バックアップは取っているか確認すると一切なしとのことではい残念。1テラバイトのハードディスクはおしゃかとなった。外付けの500ギガのハードディスクがあったのでそれと交換する。ガキにはハードディスクのマスターブートレコード部分が損傷した可能性が高いこと、パソコンが起動するための仕組みを説明しながらハードディスクの交換をさせる。BIOSとかブートディスクの順番とか一通り説明したけどちゃんと理解しているかはあやしい。ソフトの操作は覚えるのははやいが、どのような順番でパソコンが起動しているかわかっているのか。
十月は台風がたくさん来たおかげでやっとこちらも涼しくなる。よって十一月からネクタイ出勤になった。ネクタイするだけで涼しさなくなる。
製本かい摘みましては(93)
「茅葺きの壁」なるものがあるという。壁が茅葺きって、どういうことだ。骨格を組んだ建物の周りにヨシズやヨシの束を巻きつける海の家のようなものだろうか。でもそれでは「葺いて」ない。大きな茅葺き屋根が地面すれすれまで垂れ下がる竪穴式住居のようなもの? ならば最初からそういうだろう。現場は北上川河口近く。車を乗り継いで行くと、角刈りしたガリバーがむこうを向いて寝そべっていて、その頭だけが人の目にうつるかのごとき物体が現れた。笑う。奇妙。だがきれい。なでなでしたくなる。秋の陽射しを浴びたやわらかな陰影ゆえか。茅が垂直に整っていて、たしかに壁だった。
茅葺き屋根の施工・修復を手がける熊谷産業の倉庫である。社長の熊谷秋雄さんが、おそらく日本で初めて茅を葺いた壁で作った建物だ。オランダのキンデルダイク地区の水車は壁が茅葺きで、その技術を応用した茅葺き壁の近代建築がオランダにはいくつもあるそうである。それを見た熊谷さんは日本でもと思ったが、需要がなかったそうである。東日本大震災は北上川河口域にも甚大な被害をもたらした。熊谷さんのその後の新しいスタートのひとつは、やりたいと思いながらやらずにいた茅葺き壁を、失った自社の倉庫に試すことだった。壁に板を貼るルーバータイプや壁面緑化をとりいれた建物が増えている。茅葺きの壁というアイディアと、なにより建物としてのこの愛くるしい魅力は、多くの人を惹き付けることになるだろう。
改めて思うと、壁が茅葺きというのは格別奇抜な発想ではない。でもどうしたわけか茅葺きと聞けば屋根に限る印象を持っている。実家の近く、寒河江川をはさんだ対岸に茅葺き屋根がみごとな慈恩寺という寺がある。隣りに三重塔もあるので授業で何度もスケッチに行ったし、お祭りや初詣でにも行っていた。本堂の屋根の葺き替えは平成に入ってからもやっていたはず。熊谷さんに「慈恩寺という小さなお寺がありまして......」と話し始めたらもちろんご存じで、さらに、「『さらや』って知ってます?」。地元で人気の焼き鳥屋のことだ。さすがよく働きよく食べる方。余談だが「皿谷食堂」という人気のラーメン屋も市内にある。
実家の隣りも茅葺き屋根だった。二階の西側の窓から月山が見え、目を落とすとその家の縁側が丸見えだった。おばあちゃん(うらばあちゃん)がよくそこに腰掛けて編み物をしていた。うらばあちゃんが作るのはマフラー(首巻き)やベスト(チョッキ)で、デザインはどってことないが編み柄と編み目が抜群だった。いくつももらったし、編み方を教えてもらい、真似もした。近隣で唯一残る茅葺き屋根の家である。子どものころ一度だけ葺き替えしているのを見たことがある。近所の爺さん父さんたちが総出で屋根にのぼり、婆さん母さんたちは黒ゴマと黄粉をまぶしたおにぎりなどを作っていた。材料の茅(ススキだろう)がないからもうこれが最後と聞いたが、本当のところはどうだったのだろう。
茅葺きの壁を見た一週間後、新潟の角田山妙光寺に行った。巻駅から車で15分くらい、モダンな建物だ。左側に見える本堂の屋根に目玉状の窓がひとつ、こちらを見ている。回廊をくぐると全面板張りの中庭のようになっていて、右手にある客殿からも眺められるようになっている。客殿に入って驚いた。茅葺きの屋根をはずした古い建物が、周囲を土間として鉄骨で覆われた鞘堂として保存されていた。天井は白い木肌そのままに格子状に組まれており、角度によって立体的に浮き上がって見えてくる。美しい。
その数日前の製本ワークショップで作った小さなノートを思い出していた。太い麻糸を背綴じ紐としてかがり、表紙に豚革を貼り、麻糸をくっきり目立たせた小さなノートだ。簡単で古くからあるこの方法では綴じ紐が目立つしかなくて目立つのだが、時代がくだると、綴じ紐がないのに見た目だけまねた背バンド装幀が流行したのだった。茅葺きの壁と茅葺き屋根をはずした建物の関係と背綴じ紐がある製本とない製本の関係になんら共通するものはないが、重なったのだった。
掠れ書き34 演奏のための作曲
演奏の場、プログラムと演奏者を、楽器というよりは、思い浮かべなら、そこにまだない音楽を作る。作曲は演奏台本以上のものではなく、音楽は手のとどくところにある。そんなありかたが自然で、その場の音楽は、音楽とは何か、なぜ作るのか、のような普遍的な意味をもたないし、論理でも倫理でも美学でもない。一つの音を置く、次の音を置く、それを続けるだけ。音に順序があるか、重なって層を作るかのちがいはあるだろう。
音を重ねることはいままでにたくさんの試みがあった。和声・対位法から塊としてのノイズまで足し算で。それを演奏するのに多くの人間を必要とし、組織・構成・統制・管理の方向に発展して、経済問題に行き着く音楽がある。蓄積するレパートリーで、もう別な音楽はいらないが、時々はまだ余力があることをみせるために新作初演、であり終演をおこなうオーケストラがある。
室内楽は小さいグループの楽しみではなく、小さいオーケストラと似た組織をもち、レパートリーをもつか、その場限りの集りのために作られ忘れられる音楽を作りだしてきた。
音を順序に並べること、メロディーには、次の音との距離、音程と間の2次元の操作がある。小さなグループの間でなら、音を受け渡すこともある。そこに線の濃淡、音程や楽器のもつ色が自然にあれば、演奏空間のなかでの音の配置と変化が、会話のように音楽を続けていく。音の身体配列が物語を織る。こういうやりかたのほうが好ましい。
ひとりでピアノを弾いていても、左手と右手のちがい、それぞれの指のちがいがあり、和音は同時でなく、すこし崩して、それぞれの音の姿を見せる。くりかえされるリズムも毎回わずかにアクセントをずらして、別な波が生まれる。
音頭取りと全員の呼びかけと応答という古い合唱のかたちがある。リーダーはいらない。フレーズに応答はいらない。答えのない問だけでいい。断片が中断され、別な断片が介入する。中断された断片の続きは、逸れてちがう方向へ曲がる。
多くのものはいらない。意味や理解を押しつける音楽ではなく、問いの歩みに引き込む音楽。