2015年9月号 目次
Red River Valley
起きなさい、目を覚まして
心があの洞窟を思い出す前に
いま起きれば、ぼくの部屋を起点とする
風の旅にきみも乗ることができるよ
風は空気の切れ目を上手に使って
しじみくらいの大きさの小さな蝶をひらひら飛ばす
起きてごらん、水のように疲れた太陽が
葉叢ごしに三日月型の光をたくさん投げかけている
こんな時間は緑色の海流の中を
ゆったりと泳ぐ海亀のように貴重だ
それなのに sleepy head きみの心が
あの洞窟に引き寄せられているのがわかる
きみの瞼のぴくぴくする動きでわかるんだ
きみは掌をかざすようにして
あの水しぶきと光を避けているつもりだね
あの心細い洞窟の
むこうの端に見える光の点をめざして
あのときぼくらは水音の中を歩いた
あのころ世界は途方に暮れていた
あるところから先は全身にふりかかる
水しぶきを避けることができない
玄武岩の洞窟の天井から水のカーテンが落下して
洞窟の床がごつごつした川になる
すさまじい水音が心をおびやかす
降りしきる雨だ、空もないのに
流れる川だ、光もないのに
岩の壁に身を寄せながら
暗い川のほとりを歩いていった。
すると水音も気持ちもガムランのように高まって
心が蒸発するほど熱くなる
しぶきが飛んで人の頬も髪も濡れる
やがて水の皮膜のむこうに
小さく乾いた光の土地が見える
激しい岩に乱反射する小さな、でも何という眩しさ
でも今ここはまだ水の邦で
水音に音声をすっかり掻き消されながら
魂と心がざわざわと会話する
それを身体を代表して目が見ている
存在を代表して心が聴いている
どんなさびしい群衆がここで暮らすのだろう
体験したことのない造形に
すべての行方をまかせながら。
炎のように冷たい水が踝を濡らして
膝にも太腿にも水しぶきがかかり
ただ小さな光の点をめざして歩いてゆくのだ
轟音の中を
どんな通過儀礼を経ても
どんな加持祈祷を準備しても
すべての実効性と実定法が失われる
そんな場所だった
きみがそこに何を見たのかはわからないけれど
きみの心はそこをなつかしがっている
きみの呼吸が速くなり
両脚がゆっくりと水を掻くような動作をすることでもわかる
帰っていくの?
どうしても?
それが世界に対する意地悪な否定だとしても?
起きなさい、目を覚まして
この紫色の空と鳥のように紅い花の配色をごらん
いまそれを見て記憶しなければ
次の千年もガラス玉のように生きるしかなくなる
空から火山灰が降るのを待望しつつ
生の意味を見失いつつ
ほら、犬たちが吠えた、起床の呼びかけだよ
夢に濡れた足を乾かして
まどろみから出ていく時間だ。
起きなさい、でもきみは起きないので
眠ったままのきみを無理やり立ち上がらせて
ぼくの部屋を起点とする風に一緒に乗ろうと思ったけれど
もう遅い、あの洞窟に引き戻されてしまった。
わかったよ、では歩いていこう
あのときとまったくおなじように
洞窟がはじまる
ここから先は足場も水の中
地中の川を歩いていかなくてはならない
おまけにきみは眠っているので
手を引きつつ四つの足下を確認しなくてはならないんだ
水音はいよいよ激しい
いったい何がそんなに大きな音を
水の分子が岩の分子にぶつかったところで
そんなに大きな音が出るものだろうか
水分子の塊がものすごい量なので
それが落下して岩面にぶつかるとき
水分子の塊と同量の空気がその場所を逃げ出してゆく
その際に空気があげる悲鳴なのか。
それにともない場所の霊たちが
脱出できない自分の悔しさを表そうとするのか。
きみの眠りが解けない分
ぼくは驚くほど覚醒している
足をとられないように細心の注意を払いつつ
何かにすがるように岸壁に右手をふれながら
左手できみの手を引きながら
暗い洞窟を歩いていく
その端の小さな光の点がだんだん大きくなって
出口近くの水のカーテン越しに
外の風景がうかがえる場所まで来た
いつか見た、あの水の皮膜だ
その先はすぐ外の世界
切れ目なく降り注ぐ水のカーテンを前に
覚悟を決めなくてはならない
さあ、走ろうか、きみとぼくは
目を覚ましてよ
でもきみは曖昧に頷くだけ
ぼくはきみを引く手に力をこめ
右手を額にかざして水を避けられるようにして
ともかく走り出す
光にむかって
外にむかって
走るといってもそれは極端なスローモーション
一瞬ごとに水の刃がぼくらを面的に切断するようだ
痛い、痛い、冷たい、冷たい、
でも外がぐんぐん迫って
水のむこうの映像が現実になる
抜けた!
もう大丈夫
速度をゆるめてずぶぬれの体のまま
ふらふらと洞窟の出口に到達した。
息が切れてどうしようもないが
なんという安心感、爽快感
そしてごらん、これが光の世界だ
洞窟の出口は崖の中ほどのテラスにあって
そこからは岩山の地帯を見わたすことができる
こんな景観は見たことがなかった
険しい岩の頂がいくつか
その合間の平地は濃い緑の森に覆われ
そこに細いけれど強烈な輝きのある川が流れている
ぼくらをスライスしようとしたさっきのあの水も
この川に流れこんでいることは明らかだ
人の気配はまったくない
ついにここまでやってきたのかと思うと
心から充実感がこみあげてくる
わかったよ、ここにやってくるために
いつかの旅をつづけるために
きみはずっと眠っていたんだね
風が吹いてきてTシャツとジーンズから気化熱を奪うので
たぶん気温はかなり高いが寒いほどだ
ケーン、ケーンと啼くのは雉子のような鳥だろうか
アイオーンと遠吠えで呼び交すのは山犬だろうか
それ以外には物音のしない
しずかで美しい邦だ
空の低いところで燕が群舞する
空の高いところで猛禽が滑空する
ぼくらの目の前にはしじみのような
小さな蝶がひらひらと舞っている
なんだ、ぼくの部屋を起点とする風に乗ったとしても
行き着く先はおなじこの場所だったんだ、とぼくは悟る
それで誰もうらむ気もなく、うらやむ気もなくなった
ただこの場所でこの光この風を楽しんでいる
これからどうするかは考えることもできない
おなじ地点にいるのにさっきより標高が上がった気がする
目に見える土地の範囲はいよいよ広がって
ここはもう成層圏かもしれない
ぼくは歌をうたった
Red River Valley
赤い川ではないけれど、この谷間のために
険しい岩山に囲まれた、この土地のために
すると眠っていたきみがいつしか声を合わせて
眠ったままおなじ歌をうたいはじめるのだ
おはよう、やっと目が覚めた?
ここは新しい土地、もっとも古い風景だ
デモにいく。
安保法案に僕は反対している。だから、8月30日は国会前に行ってみた。小雨が降る中、12万人が国会議事堂前に集まった。警察は3万人だという。
僕は、仲間からはぐれ、一人「非戦」を掲げていた。そこいら辺から太鼓のリズムが聞こえ、コールが途切れない。僕は結構シュプレッヒコールというのが苦手だったりする。なんか、スポーツ選手が試合前に国家を歌うがそんなバラバラ感を感じてしまう。そういうバラバラなリズムについていけない自分がいたりする。
SEALDs の奥田君とこないだ鎌倉で一緒だった。沖縄から来た彫刻家の金城実さんと3人で同じ部屋に泊まる羽目になった。金城さんはもう77歳の爺さんだが、いつも酒臭い。講演会でも始まる前から少し飲んでいる。この爺さん、元気すぎる。奥田君からも、なんだか生気を吸い取ってしまうような怪物だ。しかし、その代わりに何かを置いていってくれる。ポケットから小銭を出してきて、「これで一杯やれや」みたいな。
生気を吸い取られながらも、そのちっぽけな一杯でなんとなく元気になっていく。
雨は時折激しく振った。
雨にぬれることが、心地よい。
若者たちのリズムは、ずれずにつづく。
毎日のようにデモに行く若者たちのリズム。
「民主主義って何だ?」「これだ!」
SEALDs に刺激され てOLDs とかもできて巣鴨にじいさん、ばあさんが集まっているらしい。ちょっと僕はまだ OLDs に入れてもらえないが、戦争反対を叫びながらデモ死するのもはじけていてクールだと思う。
今回は国会前のメインステージのスピーチは、あちこちから聞こえてくる太鼓の音でかき消されほとんど来こえなかった。
「民主主義って何だ?」「これだ!」というコールだけが耳に残っていた。
仙台ネイティブのつぶやき(5)我が心のカラクワ
豪快で、ユーモアがあり、賢くて、結束が強い。海の民ってこういう人たちのことをいうんだ。そう教えられたのは27年前、宮城県唐桑町でのことだ。唐桑は、ぎざぎざしたリアス式海岸に縁取られた宮城県の最北東端の小さな半島である。
1988年、建築家の石山修武さんが、小鯖(こさば)という浜にある古いカツオ節工場を竹の櫓と大漁旗でおおい劇場をつくってお祭りをやろうと、図面を引っ下げてやってきて、準備が始まった。劇場を造作するのは唐桑の若い衆で、ひょんなことから私もこの祭りを手伝うことになった。
見るもの、聞くこと、出会う人...すべてが初めてのことばかり。それまでの私の小さな世界は完全にぶっ飛んだ。中でも、準備を手伝いに毎日浜に姿を見せる漁師さんたちの潮風に吹かれ続けてきたような風貌とその話には、心が踊った。みんなマグロ船に乗り込み世界の7つの海を股にかけてきた人たちだ。確か当時、唐桑町の人口は8500人ぐらい、そこに1300人もの遠洋船の乗組員がいた。
ある人は「パプアニューギニアの小さな島で酋長をしていた」と話し、鳥の羽根をいっぱいつけた南の島の衣装を着込んだ写真まで見せてくれた。何でもマグロ船に乗って寄港したとき、酋長の娘さんの病気を直してやったら名誉酋長になったのだそうだ。ある人は「もと飼っていたオウムはスペイン語しか話せなかった」といい、またある人は「唐桑でいちばん高い早馬山では、漁船員がこっそり放したアルマジロが増えに増えて困って、山にアルマジロを釣りに行くのだ」といってカラカラと笑った。「南米に7人の子がいる」と噂される人もいた。もちろん、そこには漁師のホラ話が混じる。真偽のほどはわからないけれど、ホラ話には日常の風景を一気に飛び越えるような爽快感がある。ホラ話が披露されると、煮詰まっていく日々の暮らしに、一瞬、気持ちのいい風が吹き渡るのだ。祭りは「唐桑臨海劇場」という名で5年続いた。
津波"ということばを、しかも体験に裏打ちされた津波の怖さを教えられたのも唐桑でだった。そのころは、まだ浜に昭和8年3月に起きた三陸大津波を体験した大正生まれの人たちが健在だったのだ。「前の日に降り積もった雪を洗いながら電柱を超す波が浜に押し寄せてきた」「家も納屋も津波で持っていかれて、残ったのはタンス一つだった」「桑の木に着物が引掛かって命拾いした人がいた」「波がずっと沖合まで引いていって、すりばち状の海底に、魚が飛び跳ねてるのが見えた」...。浜の古老たちは、口々にその怖さを訴えた。中には明治29年に浜を襲った明治三陸大津波の被害を伝え聞く人もいた。
波が高く上がり浜を襲う。その恐ろしさを繰り返し聞かされても、何ともイメージはできなかった。でも、大津波が壊滅的な被害をもたらすものであり、特に三陸のように海岸深く切り立つV字型の岩場では波の勢いが何倍にもなることは、理解できた。「津波の怖さだけは、伝えなくてはわがんね」という人もいた。話を聞いてから唐桑を歩くと、あちこちの浜に、見上げるような大きな石碑が立っているのに気づいた。坂の途中や屋敷裏の山への登り口に。そこには、子どもでもわかるように簡略な一文が刻んである。「地震が来たら、津波の用心」。昭和8年の大津波のあとに、立てられたものだ。圧倒するような石の大きさに人々の思いがこもる。
その後、祭りの準備に奔走した若い衆は「まちづくりカンパニー」という会社を起こし、魚の配達を始め、地域資源を紹介する冊子づくりを行ない、町が進める山林の開発計画の反対運動まで展開した。つきあいは続いて、私はこの会社になけなしのお金を出資するはめになり、さらに仙台での魚の宅配まで手伝うことになった。若い衆は、「俺たち金がねえからっさ、悪いねえ」といいながら特段悪いとは思っているふうではなかったけれど、でも仙台にくるときは、カツオだの1メートルもあるようなカジキマグロだのを土産に持ってきてくれた。食べるために、私は出刃包丁を手に入れ、下ろし方を覚え、ガスレンジでカツオのたたきをつくるようになった。
そうやってつきあいは続き、広がり、何人ものいい友人を持つようになって、若い衆はみんな中高年になって、あの日がきた。2011年3月11日。激しく揺さぶられ、雪が降り出し、電気は止まり、携帯はつながらない。夜中ずっと続いた余震の中、ラジオをつけて「大津波」というアナウンスを聞いたとき、20年間眠っていた古老たちの津波の話がよみがえった。あの恐ろしい津波が仙台平野にまで上がったというのは衝撃だった。唐桑は?小さな入江や深い谷を持つ浜は?
ひと月半が過ぎ、ようやくガソリンが安定的に手に入るようになって、私はぼこぼこの東北自動車道を走り、みんなに会いにいった。
小鯖をはじめとして、浜はすべて壊滅し家々はがれきと化していた。いや、正確には、がれきが散乱する浜と、すべて流され空っぽになったような浜といろいろだった。その空っぽになった浜に、あの昭和8年の石碑が意地を見せるかのように倒れず立っている。浜の人は、その石のわきを駆け上がって命を拾ったのだ。
家を丸ごと流された友人もいたが、みんな無事だった。そしてもう働いていた。避難所を運営する地域のリーダーとして、物資を手渡すお世話役として。中には遺体の確認に奔走する友人もいた。そして、憔悴した表情を見せながらも、それでも笑っている。互いにツッコミを入れながらホラ話を繰り出しながら笑っている。いや、いま思えば、あれは笑おうとしていたのだろうか。どうしようもない目の前の風景に、違う風を吹かせるために。
何という人たち! 浜は強いなあ。私は逆に励まされたような気持ちで帰ってきた。
いま、浜では防潮堤の建設が進められようとしている。高さは約9メートル。もう海はまったく見えなくなる。これによって住民の命と財産を守るというのが、宮城県の主張だ。住宅や店舗が集積する街場でも小さな浜であっても、同じように巨大なコンクリートの壁がつくられていくのだ。たとえば唐桑の鮪立(しびたち)という浜の場合、人々の反対によって、ようやく県は高さを1メートル下げたのだが、建設計画自体は見直されない。防潮堤については、あちこちの浜でもめにもめ、ついには賛成派と反対派の対立で浜の人々が分断されるようなことまで起こっている。結局のところは、復興を進めるために反対派が譲歩し、建設をのむかたちで、計画は遂行されようとしているのだ。
この夏、一年ぶりで唐桑にいった。あちこちの浜に赤い三角のフラッグをつけたロープが張り巡らされている。あれは何? と聞いたら「あの高さまで防潮堤が立つの」と教えられた。もう海は見えない。いや、波の気配を感じることさえできないかもしれない。
海の民は、海を見ずに生活できるんだろうか?海の色、満ち引き、潮の匂い...庭先のように海を見てきた人たちのこれからが、気がかりだ。
130 玉纏(たまま)きの巻1 遺す言葉
言葉があればよい、とそう思ったかもしれない。
もし言葉がありさえするならば。
石は小さくなる、言葉の石。
のこるということ。 だれかがいなくなる。
置いてあるの? たぶん、祈っていたのは半分の真実で、
ぼくは殺意をえらぶ? 自分への。 ぼくら?
湖が光るのも、化石の試掘も、
峠でだんだんうすくなる葉脈のなかみも血。
退(の)くかげよ。 言ったとたんに、
どうしていなくなる? ぼくらの祭器。
祈ったあとの、欠けらはこなごなで、
それもたぶん複個の声のあとで、
書き言葉が遺る。 失血の数時間、そこが墓です。
きみの双つか三つの言葉。 湖よさよなら。
きっと遺される、きみの祈りの石。
(「のこる」と「のく」とは同語源だと辞書に書いてあったので。一人と独りとはおなじ語(それはだれでも分かる)。で、ひとり退き、またひとり退き、たった独り遺されても、ぼくは、わたしはどうする? そう思うひとりひとり、ひとりひとり。ちなみに無関係ながら、『万葉集』や『源氏物語』に出てくる〈夢〉は「夢魔」です。当時、「ゆめみちゃう」〈あこがれる〉みたいな用法はありませんでした。残像はすべて証しであり、たったひとりの体験なのです。行路に浮遊する亡霊のたぐい、恋する証し。)
家族という記号
この夏は体調を崩しました。結局、この話は1か月遅れになりました。
「高杉さん家のおべんとう」というコミックが最終巻をむかえた。評判を知りたくて検索してみると、その独特の絵柄から入り込めないというコメントを見つけた。私自身は特に問題なく読めているがそうでもない人もいるらしい。という話は、実は私自身もそういう絵柄の作品をいくつも知っているのでわかる話ではある。
手塚治虫はコミックを記号と称した。記号とは、読者が作家の描いたキャラクターを通して、ある価値観を通した色眼鏡で物語を見ているという事だろう。だから、同じキャラクターを使っていても、異なる物語をそこに語ることができる。しかし、ヒロインはヒロイン、悪役は悪役の記号を見ることで芝居を感じることができるという趣向だ。だから、決して悪役がヒロインを演じることはない。
ここまで考えて、ウンベルト・エーコの記号論を思い出した。私たちは何かを見るとき、記憶や経験からある色眼鏡でものを見ることになる。私たちは記号でモノをみているのだ。
「高杉さん家」に話に戻すと、これは基本的にギャグ漫画の枠で語られるのだけれど、基本的に「家族とは何か?」を読者に問いかける。主人公は父母と妹を交通事故で一度に亡くしていた。そして、いっしょの家に住んでいた年の若い叔母さん(実は彼女は養子で血のつながりはない)に高校卒業まで育てられる。ところが、大学進学が決まった日、彼のもとを唯一の肉親であった叔母が何も残さずに去っていく。
孤独のまま大学でODをしていた彼のもとに、ある日、突然、弁護士が現れ、ひとりの中学生の女の子を連れてくる。失踪していた叔母が交通事故で亡くなり、シングルマザーだった彼女の遺志で、中学生の女の子の保護者に彼が指名されたというのだ。こんな冒頭から始まる作品は、それぞれ、肉親を亡くした面識のないふたりが家族として暮らし始める姿を描く。そのひとつの家族の象徴がお弁当という形をとっている。
ふたりを取り巻くキャラクターたちのいっしょに暮らさない肉親、全員の母が異なる家族(二男は血のつながりもない)などの家族の問題を抱えている。社会学という主人公の専門分野を絡めながら、家族とはなにか? を読者に問いかけた作品は、読者の持つ「家族」という記号に疑問を投げかける。一応の終演を迎えた作品の最後で、家族という実態の多様さを語りたかったのではないか? という思いが残った。人間は様々、同じ人はいない。たまには記号自体を疑ってみるのもいいだろう。
ソロのスリンピ、ジョグジャのスリンピ
先月末に京都府宮津市(8/28)と大阪市立大学(8/30)で開催されたジョグジャカルタ王宮舞踊団の公演に私もゴング演奏者として参加した、ということで今回はそのお話。
まずは公演の概要から。公演内容は両方とも①宮廷舞踊「スリンピ・チャトゥル・マンゴロトモSrimpi Catur Manggalatama」、②仮面舞踊劇「スカルタジ・クンバル」、③創作舞踊「曼荼羅・盆踊り」で同じだが、宮津公演では京都府・インドネシア共和国ジョグジャカルタ(以下ジョグジャと略)特別区友好提携30周年記念事業ということで、ジョグジャ王家当主(スルタン)にして知事でもあるハメンクブオノX世の挨拶があった。来日したのはジョグジャ王宮舞踊の系譜をひくプジョクスマン舞踊団一行20余名で、舞踊監督は同舞踊団を主宰するシティ・スティア女史。うち演奏者は音楽監督スマリョノ氏以下6名で、関西のガムラン団体マルガサリのメンバーを中心とする日本人計11名も演奏に参加した。一行は8/26に来日し、その日から2日間京都市内で合同練習をしたのちに公演に臨んだ。ちなみに練習と宮津公演で使用したガムラン楽器は、20周年の時にジョグジャ特別区から京都府に送られたもの。
演目の①スリンピは女性4人による舞踊で、王宮舞踊の大家、故・サスミントディプロ(通称ロモ・サス)が1957年に振り付けた作品を再創造した、とプログラムにある。スティア女史―ロモ・サスの妻―に確認したところ、1957年の振付を踏襲しているが、今回の上演用に多少アレンジした部分があるので再創造という表現になっているということだった。このスリンピはスルタンの娘(王女)4人によって踊られた。今になって気づいたのだが、楽譜には曲名が「スリンピ・ラヌモンゴロSrimpi Ranumanggala」とある。たぶん王女4人が踊るということを強調するため(チャトゥルは4という意味)、一般人が踊るときの題名と変えたのだろう。
②仮面舞踊劇の振付と音楽は今回の音楽監督を務めるスマリョノ氏によるもので、11名の踊り手が出演した。舞踊劇の題材は、ジャワが発祥で東南アジア各地に伝播したパンジ物語で、パンジ王子と異国のクロノ王がスカルタジ姫を巡って争うというお話。その過程でパンジ王子をだますためにニセのスカルタジ姫(本当は怪物)が出てきたり、本物のスカルタジ姫が影絵人形遣いに変身したりするシーンがあるために、今回の題名は「スカルタジ・クンバル(2人のスカルタジ)」となっているのだろう。③創作はジョグジャ出身で日本在住の舞踊家、ウィヤンタリ佐久間氏の振付によるもので、彼女はジャワで曼荼羅の舞踊の振付や音楽を作りこんできた一方、最後に盆踊りも組み込んだシーンでは、日本人出演者も巻き込んで即興性の強いものになっている。私も浴衣に着替えて盆踊りを踊った。
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さて、前置きはこれくらいにして、今回初めてジョグジャ様式のスリンピを演奏してみて、私が今までやってきたソロ(=スラカルタ)様式のスリンピとの違いが興味深かった。スリンピはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の舞踊に遡るので、どちらの様式も本元は同じはずだが、現在では違う種類の舞踊だと言えるくらいに違っている。ソロのスリンピと違って、ジョグジャのスリンピでは、戦いのシーンでチブロン太鼓を使う。今回のスリンピは1957年作の新しいものだが、スティア女史曰く、ジョグジャ様式の古典の定型通りに作ってある作品で、ジョグジャでは古い作品でも戦いのシーンではチブロン太鼓を使うという。これは、ソロ様式を勉強した者には衝撃的な内容だ。というのも、チブロン太鼓は民間で発達した楽器で、ソロ王家のスリンピ(やブドヨ)では使わないからである。結論を先に言うと、ジョグジャのスリンピの振付コンセプトは、ソロ様式のウィレン・プティラン舞踊(以下、ウィレンと略)によく似ている。ウィレン・プティランとはマハーバーラタなどの物語に題材を取った、男性2人(または4人)による戦いの舞踊のことで、「カルノ・タンディン」などが代表的な演目である。
ウィレンに似ている点は、まず、戦いのシーンへ移行する時にチブロン太鼓に替わり、最初にアヤ・アヤアンという曲で武器を取り出し、スレペッグという曲で戦いのシーンを描くこと。この2曲はワヤン(影絵)でもよく使われる。戦いのシーンの伴奏は、基本的に太鼓は踊り手の動きに合せるが、要所要所のつなぎの動きでは、踊り手は太鼓に合わせる。ソロのウィレンの場合、そのつなぎ目にくる太鼓の手のフレーズは ・・db ・dtb ・tbd(最後のdで、スウアンという銅鑼を鳴らす)なのだが、今回のジョグジャのスリンピでも、ほぼ同じフレーズだった。次に動きについてだが、ジョグジャのスリンピで2人ずつ組になって左右に行ったり来たり追いかけ合ったりするところ、さらに戦いの勝敗が決まった時点で曲はスレペッグからクタワンなどの形式の曲に変わり、静かなシルップ(鎮火の意)という演出になるところが、ソロのウィレンに同じである。どちらも場面の転換が曲の転換で分かりやすく示される。
一方、ソロのスリンピでは戦いのシーンに移る時に曲が変わることはない。むしろ、1回目の発砲・発射の瞬間に曲が変わる(例:ラドラン形式からクタワン形式へ)ことが多い。しかし、その後も使用する太鼓は変わらず、かつ歌も続いているので、曲が変わったと気付く人は少ないだろう。また、戦いの場面についても、ソロのスリンピではピストルを抜いて弾を込め、構えて発砲するという一連の所作が描かれる(中には弓合戦を描いたものもある)が、2人で追いかけあうような描写はない。テンポや音量が次第に上がっていき、緊張感がピークに達したところで発砲・発射があり、そこで音量が落ちてシルップになるという進行である。場面の転換は曲の変化よりも音量やテンポの変化で表現され、2人が戦っている情景の描写ではなく、戦いの緊張感を描写しようとしていると言える。ソロのスリンピのシルップの場面では、負けた方の2人が座って勝った方が負けた方の周囲を巡るという演出をする。これはジョグジャのスリンピやソロのウィレンにも共通するが、これらの場合、勝利者が勝利を喜ぶような場面にも見えがちだ。しかし、ソロのスリンピではこの時に勝った2人が複雑な軌跡を描いて舞台いっぱいに廻ることが多く、舞台全面に広がる内面の世界の旅を描くことに主眼があるように見える。
最後に入退場について。ジョグジャのスリンピの入退場は華やかだ。踊り手はまずラゴン(ソロのパテタンのようなもの)と共に舞台脇に整列する。そして、ガンガン叩くガムラン楽器とトランペットとスネアドラムの曲(ラドラン形式)にのって、舞台脇から中央までまるで軍隊のように進む。もちろん足を高く上げるわけではないが、踊り手は両腋を卵1個分くらい開け、両腕をまっすぐ伸ばし、胸を張って歩く。ここでは、入退場もまた1つの見せ場になっているが、ソロのウィレンでも(また舞踊劇一般でも)入退場は登場人物のキャラクターを紹介する見せ場なのだ。それに対してソロのスリンピでは、踊り手は男性斉唱つきのパテタンで入場する。パテタンは雅楽の音取のようなもので、柔らかい音色の楽器のみで演奏される。男声が加わるから通常のパテタンよりはしっかりした感じに聴こえるが、踊り手の腕は体側に沿って自然なポーズであり、入退場を舞踊の一部として見せるように構成されていない。そのため、観客の目にはいつの間にか踊り手が出てきた...という感じに見える。
ジョグジャの女性宮廷舞踊はマスキュリンだと言われるのも、ソロで言えば男性宮廷舞踊のジャンルであるウィレンと振付構成が似ていることもあるのかなという気がする。
グロッソラリー ―ない ので ある―(11)
1月1日:「ケータイなあ。ああどうしようかなあ。結構悩むねこれ。俺が優柔不断なだけか。ははは。そこまで笑うことはないだろ。まあ確かに優柔不断ではある。これは認めるとして、さあどうするか。変えるべきか変えざるべきか。あ。なんかこんなのあったよな。何だっけ? 小学生にわかるはずないか。まあいいや。ははは――」。
(・x・ノ)ノ⌒ポイッ......デキナイ
五感を意図的に動員して生きていると、エピファニーの沼に沈み込んでいく。感覚レベルにおける異種格闘技である。複数のものがぶつかり合い対立していても、そうしたこと自体で関係が生まれる。こうなると無関係と思われる物に思いをはせてみても徒労に終わる。アメーバのようにくっついて顕現顕現と物申す。プラスαの苦難そのもの。
(*´[]`)=3 はぁぁぁ
しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人......。
クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"
鬱になると動けなくなる。心の深遠から不断の苦悶がせり上がってきて懊悩、呻吟する。目も開けていられない。まぶたを起こすのもひと仕事だからだ。見ていようがいまいが、皮膚の外はどんでもない世界に変貌する。丸まって動けず呼吸だけしている。そういう生き物になる。悩める人の友、死ですらこの時ばかりは死んでいる。
┌┤´д`├┐ダル~
\(○^ω^○)/
1月1日:「あやっぱりどうしようかなあ。今のままでもいいっちゃいいんだけど、みんな持ってるしなあ。俺も持ってたほうがいいのかなあ。どうしたもんかなあ。スマホに変えたとしても、すぐに新しいのが出るしなあ。買ったはいいけど、使うの結局メールと電話だけだったりしそうだもんなあ。いやー難問難問。まいったねこれは――」。
(σ´.ω.`)...。oо○ウーン・・・
面白い人間には、ひと癖ある者が多い。その一人、Mはドイツ人の兄がおり、小さからぬ山を所有し株で儲けていた。もちろんすべて嘘である。こちらも嘘で応酬するものだから、そのうちお互いに話のつじつまが合わなくなり、苦笑する。数十年ぶりに偶然会ったのだが、Mは名前を変えMであることを必死に否定した。やはり面白い人間だ。
(;≧∇≦) =3 ホッ
こんなようなぶんしょなどよむよもっとおもしろことがよのなにあるはずだ。でもこまでよみすめたあなたはただそれけだのりゆうでたぶんえらい。うっとうしとおもったひとはただちほんをとじたらいい。あらたしいふりすびーになるかもしれなしちょっとしふみだいにもなるだろから。まあそういひとはほんなかんよまないものだろけれど。
y(^ヮ^)y
1月1日:「まあ今すぐ買い変えなきゃならないってわけじゃないんだけどさ、こういうのって結構長く使うものだから、ついつい慎重になっちゃうんだよな。みんなが変えたからって俺もまねしたら、前のほうがよかったなんてことにもなりかねないしな。後悔先に立たずっていうだろ。でもまあここまで悩む必要があるのかどうかだな――」。
ドウスルカ ( ̄へ ̄|||) ウーム
病気や避けられぬ事情で青春を奪われた人間は、根強い悔恨と屈折に起因する恨みのかたまりだ。いや、恨みどころではない。熱い熱い殺人的激情が人間化したものである。だが、この世界内存在は、外貌からは判断がつかない。激烈な感情の対局に温厚で誠実な側面を持ち合わせているからだ。振り子の理論。生真面目さを全否定されたら......。
ー ̄)ニヤッ
人が、いる 街が、ある――世界の終わりを感じた。
ゞ(´Д`q汗)+・.
誰もが人間喜劇における類人猿ならぬ演人類。各々の役割は確定している。毎時いくつかに分類されたシットコムに参加している。使用される言語内容に大差はなく、時には即興のセリフが飛び出す。言語内容だけではない。動きもまた台本通り。奇妙なコメディの参加者が社会人と呼ばれ、我流を通す者は芸術家もしくは人でなしと呼ばれる。
(・-・*)ヌフフ
玄関の馬鹿が、
よりによって月曜日の朝だ。
玄関のドアを開けたら馬鹿がいた。馬鹿がじっとこっちを見ていて、ドアを開け放った瞬間に目と目が合った。
ドアが開いて、何事かと思いながら状況を察知して、人がいるのか、どんな奴だ、と探り探り目が合ったわけではない。ドアを開けた瞬間に目と目が合ったのだ。ドアを開ける遙か前から馬鹿がこちらの目を見つめていた。そんな確信があった。そして、その確信が畏れへと繋がる。
馬鹿は未だじっとこちらを見つめている。少しよだれを流して、意味不明な言葉を発しているのだが、その馬鹿は日本人だった。もしくは、日本語を話す地域で生まれ育った馬鹿だった。馬鹿の口から流れ出る声は日本語だった。日本語としての意味はわからないのだが、日本語の文法を入れ替え、日本語の単語をばらばらに置いて、いくつかの音を足して引いたあげく意味不明になっていることだけがわかる。
この馬鹿は恐ろしい。馬鹿だということが恐ろしいのではない。さっきの話だ。この馬鹿が玄関のドアを開ける遙か前から、こちらの位置をしっかりと把握し、正確に目を見つめていたのはなぜなのだろう。こちらが知らない間に、こちらの目の位置をちゃんと知っていて、そこを見つめることができたのはなぜなのだろう。
馬鹿だからこその能力なのか、それとも誰かに操られているのか。どちらにしても、空恐ろしい。
けれども、もっと恐ろしいのは、相手が馬鹿ゆえに、聞いたところで答えられないということだ。
製本かい摘みましては(112)
8月はじめの暑い暑い日だった。用事が済んでとにかく涼みたくて喫茶店を探していた。そういえば間もなくオープンするという製本カフェはこのあたりではなかったか。ダメもとで行ってみた。不忍通りとへび道をつなぐ小径のなかほど、「Coffee & Bindery Gigi」の看板が出ている。そして "プレ・オープン" の文字。ラッキー。クーラー、クーラー。昼前のはずだが1階のカウンターはすでににぎわっている。「よかったら2階へどうぞ」。腰掛けているひとたちの後ろを通って天守閣行きのような急な階段をのぼる。正面に窓、大きなテーブル。窓からは眼下に小径、通りをはさんで並ぶ家々は間近だ。部屋の反対側にはペンキや工具が山積みしてあり、作りかけの棚や台がそのままになっている。今日も閉店後、作業が続くのだろう。クラウドファンディングによる資金調達もしているので、そのためのプレ・オープンでもあるようだ。このあと「機械」を入れて製本工房にするという。アイスコーヒーを注文。
「製本」と聞いて、カッターや目打ちやボンドや糸を使う製本ばかりをイメージしていた。個人で持つには金銭的にも場所的にも負担が大きいシザイユやプレス機、かがり台などの「道具」が揃えられると思っていた。ところが「機械」を入れるという。このスペースに並べられる製本のための機械って?! オーナーの澤村祐介さんに聞いてみた。するとそれはデュプロ社などの小さな断裁機や綴じ機などで、セルフで操作して中綴じや無線綴じの本を作れるようにするという。もちろんそればかりでなく、ワークショップのかたちでハードカバー製本などもやっていきたい、と。なるほど! お店の名前に「製本」ではなく「bindery」を入れたのは、紙を綴じて本にすることをきっかけに人と人とがいろいろに綴じ合える場所でありたいという願いだろう。なにしろ、機械がやるなら断裁も綴じもほんの一瞬なんだから。
灼熱の小径に出て建物を振り返る。さっき見下ろしていた窓を見上げただけで汗が出た。渋谷ののんべい横丁にあったNON(今もかたちを変えてあるかも)を思い出した。オンライン古書店メトロノーム・ブックスの江口宏志さんが2000年頃に友人と始めた古本バーで、店は狭く階段は急、2階の書棚や店のあちこちに江口さんセレクトの古本が並んでいた。当時のオンライン古書店の中で品揃えも言葉や写真も見せ方もだんとつ目立っていたメトロノーム・ブックスはその時点でおおいに世間に出ていたわけだけれど、薄汚い横丁に開店したときはなにかこう、こっそりしかしずいぶん眩しく "世間" にあらわれた感じがしたものだ。あのときと同じ、始まりのいい匂いがすると思った。
70年代の風に吹かれて
「70'sバイブレーション!YOKOHAMA」というイベントが8月1日(土)から9月13日(日)まで、横浜の赤レンガ倉庫で開催されている。「70年代のニッポンの音楽とポップカルチャーが甦る」というタイトルで、ロックコンサートのポスターやチケット、レコードジャケットやミュージシャンの写真が展示されている。はっぴいえんどの「風街ろまん」が発表された1971年からYMOがワールドツアーを成功させる1980年まで。音楽を軸に振り返る70年代だ。企画に合わせて特別編集された「SWITCH」に今回の展示の一部が再録されている。ヒッピームーブメント、サイケデリックブーム、野外ロックフェスティバル、自分で歌をつくり歌う人たち、ライブハウス...。今も続く、あるスピリットの源流を訪ねる旅だ。
同誌に掲載されているインタビューで、佐野元春は「60年代は日本の少年期であり、それに続く70年代はまだ人々がイノセントな気持ちを抱えていて、青年に成長していく時期だったと言えるかもしれない。」と語っている。若者の時代、私も70年代に対してそんなイメージを抱く。戦争が終わって、アメリカやヨーロッパの文化がたくさん入ってきて、その影響を受けながら成長した子どもたちが青年になって自分でも、物真似でない、オリジナルの作品をつくり始めた時代、そんな印象だ。私自身、物心ついてから多感な10代を過ごした10年間という事もあり、少し贔屓目で時代を見ているのかもしれないが。
展示期間中のイベントに片岡義男さんが登場するので、夏休みの入口の日曜日に、横浜まで出かけた。
「アナログ盤を通して三人の証言者が70年代のカルチャーをひも解いていく」というコンセプトで第1回はピーター・バラカン&濱口祐自による「音楽の収穫時期」、第2回は佐野元春&室矢憲治による「新しい夜明け」そして第3回に片岡義男&左藤秀明&南佳孝による「ラジオのように」が開催された。港を行く船が大きな窓越しに見える赤レンガ倉庫1号館のホールで、片岡さんが選んだレコードを聴きながらゲストとのトークを聴いた。
デジタル再生での1曲目はフィービー・スノウの「サンフランシスコ・ベイブルース」。リリースは1965年ですよね、とつっこまれながらも、70年代のうちだと返していた片岡さん。デジタル再生だと針とレコード盤が接触する事が無いから、音の出発点がわからずに突然音が空中に漂い始める、その感じが良いと言っていた。会場に流れる、フィービー・スノウの洗練された深いブルース。片岡さんは、「この1曲とこれが流れていた当時の日本とのものすごい落差」とぽつんと言った。録音していないので確かめようがないけれど、多分そう言ったのだ。
夏の帳面
呑み屋、カフェ、古本屋、画材屋。他は思い出せないが、
ずいぶん前から色んな場所を転々として、1日中働いていた。
思うところあって、そうゆう働き方をやめたのは、つい最近のことだ。
いまでも、過去の職場には必要があって訪ねることがある。
そしてそのまま飲み会になってしまうことがある度に、
楽しい人たちは周りにたくさんいると実感する。
突然働くことをやめると、たくさんある時間にうっとりして1日が過ぎてしまう。
全ての動作がゆるやかになり、何かをじっくり考える余白ができる。
ノートに創作の記録(という名のひとりごと)を綴る。
読んだ本のなかから、少し気になったものもたまに書き留めておく。
国の風向きや、何かの拍子でどこに飛んでしまうかわからない現在、
ひとたび風が吹けば知らない間に方向を変えられている。
変化に気付かないまま、自ら砂漠に入っていく。当たり前のように。
その水、葉、土がどこへ流れてゆくか考えるゆとりもなく、ある一部分だけを見る生活。
怒りの後ろには恐怖がある
恐怖の奥には、
悲しみを帯びた海が広がっている
(ある冊子からのメモ)
島便り(15)
昭和45年建立壺井栄文学碑は坂手向かいが丘にある。坂手の海が一望できる広い敷地には花や樹木の多い気持ちのよい場所だ。碑文は生前壺井栄が好んで色紙に書いたというもの。
桃栗三年
柿八年
柚子の大馬鹿十八年
碑文としては、最初いささか面食らったのだが、栄の文章にたくさん触れ、島の柚子をいただき、前方180度に広がる海に接する日々が日常になったいまは、柚子の大馬鹿十八年 がなんとなくすっと無理なく身体にはいってくる。
島の柚子はとても酸味と香りが強く、緑の実は固い。東京のスーパーなどで買っていた柚子とはかけ離れていたものだった。柚子の樹は9年でやっと花が咲き、そのあとまたまた9年かかって実がなるそうだ。知らなかった。ほんと大馬鹿だ。
私の家の回り自生に近い樹々は柚子ほどではないが、それに準じる大馬鹿もいそうだ。長い時間がかかって実をつける山椒の樹は、実をつける、つけないの樹に別れる。実がついている樹でもよくよく味わうと、味が一様でない。辛みのほどよい味、紅葉しても使える樹は少ない。となりの畑のオリーブの樹々も一本ずつ実の色や大きさや育成速度がちがう、匂いまで違う気がしてきた。花も実もある樹は存外少ないということなのか。
壺井栄は1899年(明治32年)8月5日香川県小豆郡坂手村に醤油樽職人の岩井藤吉の五女として生まれ、なんと11人兄弟です。当時醤油屋は醤油を醗酵させる樽を作る職人を抱えていたようです。栄えの小さな頃はたくさんの職人を抱える樽の親方であった父親でしたが、働いていた醤油屋がつぶれ、そこから一家に貧乏な暮しが押し寄せてきたようです。
栄の小学校から十代にかけての生活や労働は小説に姿を替えてでてきますが、どれを読んでもまず家族へのとくに祖母、父母への信頼というか愛情の強さには清々しさを覚える。なかでも私が注目したのは祖母との関係です。祖母が暮らす隠居小屋で栄はいつも一緒に寝たようです。祖母の昔語りを聞きながら、世間の事も祖母の一生も祖母を通しておはなしとして栄の耳に心の奥深くに積もっていったのではないかと想像します。栄のあの語るような物語運びはここから生まれていたのだと言ってもいいかと思います。
小豆島に来てから、私がまず気がついたのはこの島は木、鉄、石、作物をあつかうにしろ、なんと腕のいい職人が残っている島なのか、ということでした。サラリーマンではありません。芸術家はひとりもいないかもです。が、どの分野でも、老いた職人がいます。栄の祖父は船大工でした、若くして海にのまれてなくなりましたが、その息子つまり栄の父親は樽職人として生計をたてます。いまの時代、さすがに木の船も樽も職人はいないのですが、どうもその気質が脈々と残されているのです。
しもた屋之噺(164)
今月初め、もう日本の小学校には行かない、大きくなったらイタリア国籍を取る、日本人なんて嫌いと言っていた愚息に催促され、西友の文房具売り場で、明日から2週間ほど通う日本の小学校の備品を購ってきました。今彼は傍らで嬉々として名前を書いていて、安堵しつつほんの少し胸が痛むのは何故だろう、と自問しています。
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8月某日 三軒茶屋自宅
時差ぼけで仕事らしい仕事をしていない。レスピランの新作のための音列12楽器分漸く仕上がる。ほぼ1ヶ月の遅延。
8月某日 三軒茶屋自宅
沢井さん宅に伺い、復元七絃琴のため「マソカガミ」練習。文字通り音一つずつ、どの絃の音が良いか決め、且つどのように爪弾くか、人差し指で弾くか、中指で弾くか、親指で弾くか、音と音とのつなぎを、どう作るか、余韻を残すにはどの指でどう奏すか、気の遠くなるような作業を根気よく付き合っていただく。これは正倉院の七絃琴を木戸さんが復元したものだが、形は中国の古琴、グーチンに似ているが、大きさは一回り以上小さく、絃も中国のように金属ではないので、余韻も少なく、ずっと素朴で味わい深い音がする。
本来古琴のレパートリーも、これに近い音で奏されていたに違いない。戦前までは、中国でも金属の絃は使われていなかった。沢井さんが奏でる「マソカガミ」は、自分の想像通りの音がして、愕く。
8月某日 三軒茶屋自宅
清澄白河から両国までタクシーに乗ると、初老の運転手が見事な江戸弁で感激し、「今でもこんな風に話せる人がいるのですね」、と思わず興奮して話しかける。「しゃくえん、しゃくえんと息子にからかわれるのです」、と照れながら、彼もまんざらではない。
「門天ホール」で指揮のワークショップ。「ドゥンバートン・オークス」の少し厄介なパッセージを、メトロノームに合わせて、適宜口三味線で歌わせてみるのは、振っていると見えなくなる音の実体を正確に把握させるため。何となく振って合わないときは、ほぼ間違いなく指揮が正確に刻んでいない。自らの無数の失敗から痛感している。
ストラヴィンスキは振れればよいが、シューマンはどこから手をつけてよいかわからない。シューベルトが平行調3度領域から拡大してサブドミナント領域へ敷衍してゆくのに比べ、シューマンはII度調やナポリ調領域と平行調が薄紙一枚の背中合わせで、原調復帰の瞬間は唐突であったり、そもそもどれが原調かすら見失う。原調もしくは原調の平行調へ抜けるべくナポリ調で停留するさまは、ベルリオーズを思い起こす。それを理解せず、ただ旋律を追うと、演奏は近視眼的に終わる危険を孕む。天才の辿った道程であるから、凡人はそれを先ず巨視的に把握しなければ、全体の整合性を成立させられない。
一ヶ月ほど咳が止まらず、その上、最近は咳のたびに咽か肺かが、ひゅうひゅう云うようになり、家人に催促されて医者にゆくと、マイコプラズマ肺炎と診断をうける。
8月某日 三軒茶屋自宅
東京現音計画演奏会、帰路。今日の演奏会での音や身振りについて反芻する。ラテン的な快楽主義から遠く離れた禁欲的な音楽。聴いている間は全くわからないが、後から染み出てくるように、興味が芽生える。神田さんが仮面をつけ、第三の手を使って演奏する作品。背景も黒だったので、最後に突然手の数が増して、神田さんが千手観音になったらどうしようとどきどきしながら見ていたが、手の数は3本以上には増えなかった。稲森くんの新作を聞いて、去年演奏した彼の作品で一点よくわからなかった、素材の反復性について発見があった。去年の作品は短いものだったが、あれがあの三倍か四倍くらいの長さを持つと、彼本来の別の側面が浮き上がった気がする。
8月某日 三軒茶屋自宅
レスピランのための「東京のカノン」。バッハの精神性に触れるためには、形而上学的、観念的に音符に接することはできない。音符と音価のみを通して何かに触れたい。同じように、以前「シチリアのカノン」や「マントヴァのカノン」を、整列し折り重なる綾のように書いたが、今回は、無数の星屑がブラックホールの一点に向かって、まるで巨視的にみれば速度すら感じられないように吸い込まれるカノンにしたい。収斂点のみがみえていて、よく見ればそれも正確には一点ではない方が面白い。それぞれの放射線は、本来はほんのかすかにずれているのみだが、それをずっと手前から観察すると、別次元に属す。
縦をあわせる音楽を書くのをしばらく罷めたい。皆がやっているのだから、わざわざ自分がそれをやらなくてもよいと思う。指揮している反動には違いないが、指揮者に演奏家があわせるのではなく、演奏家に指揮者があわせる音楽があってもよい。本来、指揮者は演奏家のよい部分を引き出すためにあったはずだが、何時しか演奏者を規定する役割を担うようになった。
ところで、現代作品で急に情景が変わると妙にがっかりするのはなぜか。単に常套手段だからか、その前の情景を楽しみ足りなかったからなのか解らない。ただ作曲者が素材の持つ強さへの不信を顕にして変化を選択する場合、しばしば詰まらない結果に終わる。アルド・クレメンティの音楽はミニマルではなく、ただ素材をイタリア的な解釈であしらった結果もたらされる。そこには素材へのほぼ宗教心に近い、服従と絶対的信頼が成立しているので、曲として矛盾は感じない。
8月某日 三軒茶屋自宅
世田谷通りのとんかつ屋で息子と話す。日本の小学校へ行きたくないと云う。年に二ヶ月くらいしか通わないから部外者として扱われるのに耐えられないし、授業で何をやっているのかもわからない、掃除の仕方もわからないし、教えてと欲しいと云うとそんなことも知らないのかと笑われるのだそうだ。おまけに仲良しの友達は別のクラスになってしまった。
自分も彼と同じで兄弟がいなくて、こんな風に世界を斜に眺めていたから、彼の気持ちは解るのだが、逆から見れば至極当然の日常ではないか。彼を部外者として扱わず、掃除の仕方がわからなくても一々真剣に教えてくれる友達ばかりだったら、少し気持ち悪くはないか。
尤も、これは彼の意見を全て鵜呑みにした場合であって、親としては話し半分で聞いているのだが、取り敢えず彼の前では、そうだね、大変だなあ、と相槌を打つ。
果ては、イタリアにいる友達はイタリア人であろうとなかろうとこれほど排他的ではない、と切々と訴え、大人になったら日本国籍は捨てるつもりだ、と主張する。
では何故今まで五年間喜んで学校へ行っていたのかと尋ねると、給食が美味しくて勉強が楽しいからだというので、恐らく来月までには全て忘れて給食目当てに学校に通っているだろうと確信した。
8月某日 三軒茶屋自宅
湯浅先生85歳を祝うバースデーコンサートがどうしても聴きたくて、ぎりぎりまで家で仕事をして、自転車で渋谷へ走る。
24歳の時に書かれた子供のバレエ団のための「サーカスヴァリエーション」は、フランス風の軽妙洒脱な音楽の中にお好きだったコープランド、バーンスタイン、プロコフィエフが見え隠れする。先生はフランス風でしょうと笑っていらしたが、実に豊かな音楽だった。
湯浅先生が「おかあさんといっしょ」のために作曲された童謡、「美しいこどものうた」より9曲をきく。ピアノパートもていねいに書いています、と仰っていらしたけれど、その通りどの曲も実に丹精に作りこんであって、平松英子さんの日本語のうつくしさと相俟って、最後の「じゃあね」で鳥肌が立った。小学校の低学年のための「歌うためのうた」、中高学年のための「きくための歌」、そして中学生くらいのための、「感じる、考える、共感するためのうた」があるというはなし。
8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台の音楽祭備忘録。
湯浅先生の作曲クラスのレッスンにきた大学院生。実に器用によく書けている曲を一通り聴かせてから、作曲していて虚しいと訴える。自分が何のために作曲をしているのか、よくわからないという。書く技術は優秀だから、先生や学校の望むように書けてしまう虚しさを覚えるのだろう。そこに疑問をもてるのだから、多分彼は自分で道を切り拓けると信じる。彼は他の学生たちに、技術は作曲ではない、という大切なテーマに触れるきっかけを作ってくれた。
リハーサルが終わり湯浅クラスの作曲のレッスンに顔を出すと、実に闊達な音楽を書く女の子がレッスンを受けている。明るい色調の音の絡みが、現代人のコミュニケーション問題と繋がっているようなのだが、聞いただけではそれが解らないとの意見。「素材」そのものに、観念性や恣意性を見出すのは日本人らしい。では逆に、素材に一定の人格を認めてみてはどうだろう。つまり自分には従属しない存在として受け容れること。音楽と自らの微妙な距離感について話す。
海外の音楽祭で勉強してきた若い作曲家。音楽はとても豊かだが、一見海外で師事した作曲家の影響を予感させる。元来の彼が持つ音楽が、その師事した作曲家の語法に偶然とても近かったのだと云う。確かにその通りだったけれど、その音響に誰か既に作曲家の登録商標がついてしまっている場合、素直に諦めて、他の方法で自らを表現する方がよいと諭す。周りに影響を受けた作家の語法から抜けられないまま自らの音楽も表現できずにいる作家を沢山知っているのでつい云ってしまう。
自作指揮のレッスンをした五人の作曲家。指揮を簡略化し、内容を複雑にする安直な参加は皆無で、指揮もむつかしく演奏もむつかしい、むつかしさを演奏者と共有したいという慮りが随所に見られる。
木下くんは去年と比べて、すっかりスマートな指揮になった。それなのに一見スマートに見えないのは風体のせいか。彼は頭に浮かんだ音の流れをそのまま楽譜に書くことに躊躇があって、書かれる音は思考のフィルターを通したものでありたいのだろう。佐々木さんも、自分の思っている音と、出てくる音を客観的に受け入れることが、初めはとても辛かったと話したが、最終的にはとても純度の高い演奏を実現した。竹藤くんは、自分が書いた音が本来持っている志向を自覚しながら、最初敢えてそれに甘えずに演奏を試みていた。自分の中にある音楽と、書かれた音符を区別しようと思ったのかも知れないけれど、実際は彼が感じていた音楽を、書かれた音符を通して表現した方が、音楽はずっと豊かになった。我々は音楽に対して無意味に禁欲的である必要はないのだろう。
増田くんは、菌類への偏愛を音に表したと云っていたが、結局それはとてもうまく表現されていた。今回の経験を通して、それをもっと単純な書法で書き換えられるようになれば、彼の音楽のパレットはずっと色彩豊かなものになるはずだ。大内くんは去年に比べて、自分の裡の音をずっと客観視できるようになっていた。彼の音楽を無理に既成のリズムに当てはめるのは勿体ない。これから様々な発展の可能性がある。
どの演奏会のどの演奏も素晴らしかったのだけれど、湯浅先生の内触覚的宇宙を弾いたチェロの山澤くんとピアノの中山さんの演奏は、どうしても忘れられない。心底、湯浅先生はメロディーメーカーだとつくづく思った。旋律をとても深い、長い息で繋げる。そしてフレーズは、思いがけない表現の異化を通して、当初とは違う人格の表現へと昇華する。ともすればチェロとピアノの音を聞いていることすら、忘れてしまいそうになる。
田中くんが書いてくれた新作は、彼が素材を客観視できる能力の高さを、羨ましく思うほどだった。絶妙なバランスで、常に歪でありながら、均整の取れた音楽を構築していて、それを不安定で限定された素材を通して表現していて、何より理にかなっていた。この曲は誰にとっても厭だと思う要素がないから、誰からも受け容れられるだろうね、と先ず彼に話した。
チューバの橋本くんと家人が「天の火」を演奏してくれた。実に心に沁みる演奏だったが、各々が先ず楽譜から音楽を読み取り、互いにそれを提示し、互いの音を理解し、そこで初めて反応し、音楽が初めてふわりと目の前に現れたときは驚いた。マッチを擦って、リンの焔がぼうっと現れるような感覚に感銘を覚える。
8月某日 三軒茶屋自宅
芥川のリハーサルから学ぶことが多かった。若い豊かな才能が、オーケストラという媒体にどれだけ期待を寄せているかを知り、身が引き締まる思いがするし、歴年芥川作曲賞に関わっている新日本フィルが、どれだけ彼らに深い理解をもって真摯に演奏しているか、作曲家にどれだけ力を貸しているか、目の当たりして、自らの浅はかさを痛感するのも屡だった。演奏会後の公開討論を控え室で聞く。山根さんの意見が特に興味深い。同じビジョンを異化しつつ共有している。もしこれが性差と呼ぶのだとしたら、女性は同じ世界を生きながら男性とは全く違った世界を見ているに違いない。皮膚感覚の音楽性。山根さんの書く音で例えばカスティリオーニの質感を思い出すことがあったけれど、たぶん彼女はまったく別の世界であの音を感じているのだろう。山本くんは同世代だし、感じ方も話の組み立てかたも良くわかる。池辺先生は楽譜が初めからそのまま音になってみえているのがわかる。
8月某日 三軒茶屋自宅
自分がレッスンしているヴィデオを生徒に送るために見直していて、執拗に繰り返させるのを見ていて我ながら辟易する。確かにエミリオはもっとずっと厳しかったが、これほど繰り返させもしなかった。ただ、自分が当初全くわからなかったトラウマが残っているから、解るまで何度でも繰返しさせる結果になる。ただ、それではなかなか先に進まないから、木を見て森を見ずとなるのではないか。どちらが良いのかわからない。
(8月31日 三軒茶屋にて)
長い道のり
和解を終えて
本日、「小泉よねの補償に関する合意書」に署名をいたしました。合意書3条においてこの補償が「よねの土地・家屋等の財産権のみならず、空港建設がなかった場合によねが生涯にわたって三里塚の地において農民として送ったであろう生活に配慮し、その生活を補償するとの考えに基づいたものであることを確認する」と記載されています。よねさんの生活権補償が明確に認められました。代執行から43年、緊急裁決取消訴訟を提訴してから35年、長い道のりでした。それで晴れ晴れとした心境かと言えば、違います。一言で言いますと、とても複雑な心境です。理由は二つあります。
一つ目は、本日合意したこの補償は、43年間も放置され続けたが故に、もたらされたものだからです。千葉県収用委員会が遅滞なく補償裁決をしていれば、起こり得なかったことです。
二つ目は、現地では今でも、市東さんの農地の問題、熱田派の建造物撤去の問題等で、強権的な手法がとられています。よねさんの問題では謝罪を重ねていますが、空港建設を進める側の体質が根本的に変わったわけではない、使い分けがなされている。そういう状況下での和解だからです。
しかし、私達は、和解を決めました。それは、長い年月をかけて争ってきた訴訟の延長線上にあり、その到達点だからです。こちらが、こういう問題があると投げかけ、それに対し、相手がそれに向き合い何とかしたいという態度を示した場合、断る訳にはいきません。政治的な取り引きを介在させず、小泉よね問題を解決させる、そのことに真摯に向き合ってきた結果だからです。問題は一つずつ解決するしかない、現実的な対処法も必要だと判断しました。評価する点は評価し、批判する点は批判する。何もかも一緒くたにすると、担当した人々の努力が報われません。
願わくば、今日の和解を踏まえて、現地での対応を考え直していただきたい。そして二度と、公共事業においてよねさんに襲いかかったような強権発動の手段を用いず、住民との話し合いに徹してほしいと思います。沖縄の辺野古においても、そうです。国の下に国民が従うのではなく、主権在民が基本です。
私達は、この問題の直接交渉を進めるにあたって、当初から考えていたことがあります。それは相手が非を認め、生活権補償が認められれば、それは受けとり、何らかの形で社会に還元するということでした。それが複雑な心境の中にあって唯一の救いです。
今日、そのことが実現し、この席に「よねさんからの寄金」を受けていただくことになった方々が、多忙な中、足を運んでくださり、一緒に会見にのぞんでいただけるとは、私達は、想像もしていませんでした。日々の活動が大変な中、時間をさいていただいて、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。でも、こうして「よねさんからの寄金」を生かしていただける方々にお会いできて、そのことは、よねさんもきっと喜んでくれるのではないかと思います。
よねさんの魂は、東峰の墓地に宿っています。土葬のよねさん、もうその形はすっかり無いのではないかと、人は言います。しかし、よねさんはそこに生きている、今日という日を生んだのは、まさによねさんだからです。
私達は今後とも、よねさんの魂とともに、東峰の地に生き続けます。最後に、35年間という長い期間において、小泉よね問題に取り組んでいただいた前田裕司弁護士、大谷恭子弁護士、そして今回の交渉から新たに加わっていただいた木本茂樹弁護士にたいして厚く御礼を申し上げたいと思います。また、2001年の最高裁での和解に関わっていただいてから、一貫して、小泉よね問題の解決のために尽力して下さった行方正幸(成田空港株式会社地域共生部)氏に感謝申し上げたいと思います。
2015年5月21日
小泉英政
「よねさんからの寄金」送り届け先リスト
* 辺野古ヘリ基地反対協議会
* 辺野古寄金
* 被災地障がい者支援センターふくしま
* 未来の福島こども寄金
* 一般社団法人 ふくしま市民発電
* 難民支援協会
* 原子力資料情報室
* 社団法人 ラジオアクセスフォーラム
* 「三里塚に生きる」制作委員会
* (検討中)1件
付記
補償額については、空港会社との間で、お互いに公表しないことにしています。
補償額の約8割が、「よねさんからの寄金」として使用されます。各団体にいくらの寄金がよせられたかは、公表されません。
残り2割は、弁護士料、よねさんの碑建立費用、その他経費となります。
以上
断片から種子へ
要素から全体を構成する あるいは全体を分析して構成要素にたどりつく このやりかたでは 全体は閉じている 範囲が限られ 細部までコントロールされた一つの構成は 予測をこえないし 発見の悦びがない
ひらかれた全体を異質な断片の組合せで構成するやりかたもある 1960年代にヨーロッパで「管理された偶然」と言っていた音楽のスタイル その時代には 図形楽譜のさまざまなくふうもあった でも 組み合わされた全体が 紙の上に見えているなら どんな順序で断片をひろいあげても 全体の枠の外には出られないだろう
「断片」はこわれた全体の一部を指すことばだから 創造のプロセスが停まらないようにしたければ 「断片」をつぎあわせるのは いいやりかたではないかもしれない 異質なものが出会うコラージュには衝撃力がある 絵なら 画面の上で自由に視線をさまよわせることができるが 音楽ではそうはいかない
音の流れには方向がある それまでのできごとの残した記憶は消えない できごとの時間順序を変えると 結果はおなじではない 後に起こったことが近く感じられて 先に起こったことの効果に影響する 音楽では コラージュは 絵のような効果はもちにくい
すぎてゆく時間のなかを通りすぎる音は 響きの痕跡が記憶のなかで一つの瞬間と感じられる それをメロディーといってもよいだろう メロディーが完結することはない 音は呼吸で区切られるが その長さはさまざま 余韻でもあり 予感でもある 瞬間のなかの音は この区切りのなかで 作り変えることもできるが 音楽は立ち止まらない 練習するときは どこかで立ち止まって ちがうやりかたをためすが いつまでもこだわっていると 決まった手順のくりかえしになってしまう 作曲するときも 細部へのこだわりと先へすすむ流れとの両方を考えて作業をつづける そのバランスをとるのがむつかしい
ウィリアム・ブレイクの「虎」をきっかけにピアノ曲を書く 日本語に訳してみると 詩はこわれる リズムや響きは別のものに置き換わり ことばの意味もずれていく それでも音楽をはじめるきっかけにはなる その音楽は いったんはじまると ブレイクからも虎からもどんどん遠くなる
虎 ウィリアム・ブレイク
虎 虎 らんらんと
夜の森に燃える
なにが 不滅の手と眼で
おそるべきつりあいをかたどったか?
はてしない深み はるかな高みに
眼は炎と燃えたか?
はばたく翼はなに?
炎をつかむのはだれ?
力と技がどのように
撚り合わせたか
心臓が脈打つと
なんとすごい手 すごい足
金槌は何 鎖は何
頭脳をきたえたかまどは
鉄床は何 きつくつかんで
死ぬほどしめつける
星たちが光の槍を投げ
空を涙でぬらすとき
結果にほほえむのはだれ?
子羊の造り主か?
虎 虎 らんらんと
夜の森に燃える
不滅の手と眼が
あのおそるべきつりあいをかたどるとは
ゆったりと呼吸でき うごきまわれる空間があれば 先の読めない流れのなかでひらけた空間に いままで見えなかったものが現れ 見えていたものは隠れる メロディーが自然に移りかわり ただすぎていくばかりだった時間のなかにも めぐりながら変化する季節の風景が浮かぶ 作曲や作品の演奏だけでなく 即興でも ありきたりのパターンのくりかえしや組み換えだけでなく 流れのなかに移ろうかたちが見え隠れするのが感じられるかもしれない 音楽家はもともと音楽の三つのやりかた 即興と作曲と演奏のあいだを行き来するあそびができる人たちだった
種子を風がばらまくと そのうちに隠れていた花があらわれる 待つ時間は 何も起こらなくても たいくつはしない 音楽を運んでいくのは 音だけではない 沈黙もたえずうごいている
時間順序のなかで 不ぞろいでそれぞれの顔を持った瞬間をどうやって折り合いをつけるのか