冬もおわりか、まだ少しつづくのか

仲宗根浩

正月、家での食べ物はほとんど実家からのお裾分け。中身汁、三枚肉、かまぼこ、田芋の田楽、昆布などなど沖縄の正月に欠かせないものばかり。量をたくさん作るから暫くは同じものを食べることになる。中身はいわゆるモツで年末のスーパーやお肉屋さんではバットにこれでもか、というくらいに盛られ、三枚肉もブロックで並べられ計り売りされる。内地のバラ肉と違いこちらのバラ肉は皮付きで食べるので屠殺された後、毛の処理のためバーナーで焼かれる。子供の頃、肉屋さんが安全剃刀を使い、皮の表面に残った毛をきれいに剃っている様子をよく眺めていた。何年か前の近所の市場、開店前に肉屋のおじさんが豚の半身をさばいているのをちょっと見たことがあった。半身から肩、背、ヒレ、もも、あばら、ばら、豚足と分けていく。肉の部位の言い方も方言でメー、ボージン、ウチナガニー、チビジリ、ソーキ、ハラガー、テビチやチマグーというふうにあるけど、いまよく目にしたり、聞いたりする呼び方はソーキやテビチ、うでのつけ根部分のグゥヤー、ハラガーの三枚肉、レバーのチムくらい。旧正月に仏壇にお供えをするのでまた同じようなも のを食べることになる。

日本列島が寒気に見舞われると、こちらも一応、寒くはなる。昼間二十度あったのがいきなり、十五度を切ったりすると、厚着になるがセーターは持っていない。外に出ると風が強いのでトレーナー重ね着する。そんななかでも基地から夜の街へと繰り出す人たちは半袖。仕事帰りの車のなか、こいつらどういう皮膚しているんだろう、眺めつつ家に戻ると、外から叫び声と走る足音が聞こえたきたので、窓を開ける。すぐ近くで、五、六人で一人を囲み、袋叩きにしていた。止めようと大きな声を出す若いおねえちゃん、その場から走って逃げるやつ。しばらく入り乱れ、すぐにだれもいなくなった。久しぶりに見る、あめりかあ同士の喧嘩。

寒さのおかげで長引いた風邪も治り、ここ数日、あったかくなったと思ったら近所の桜の木の花が開いているのに気付く。車でよく通る裏道沿いには、ブロック塀のより高く桜とブーゲンビリアが満開だった。

ゆきの記憶

くぼたのぞみ

こやみなく降る
ゆきが
人のけはいを消し
生き物のけはいを消し
ビル群にはさまれた
道のむこうは
地も空もない

濃淡を
ゆらゆらと照らしながら
奥まりに降りつもる
記憶の
ゆきを かき
埋め込まれることにあらがって
粉のような
ゆきを はねる

理不尽な
いま
から
脱出しようと
汗だくになって
きみのシャベルがすくうのは

太郎を眠らせたゆきではなく
次郎を眠らせたゆきでもなく

幾千の
ときのかけらと
ちりぢりになる命の軌跡

いまはまだ
不器用な手つきで
乾いたことばの薪を継ぎ
響きをもやし
おびただしい
サカジャウェアたちを
サラ・バートマンを
チリ・マシホを
エミリア・ウングワレーとそのなかまたちを
記憶
する 
ゆりかごを 揺らす

片岡義男さんを歩く(2)

若松恵子

「ここに来る途中、考えていたのです。1960年の今日、1月18日は何をしていたかな、と。推測するには、大学はもう始まっていたでしょう」という片岡さんの先導でスタートした。

――学校には毎日行っていたのですか。

一応家を出ます。雨の日以外は。オーバーコートを着ていたはずです。今より寒かった。寒さの質が違っていたような気がします。今寒いところに行っても、何だろう、あの頃の寒さとは違うと感じます。あの寒さがなくなってしまったのは残念だな。

――どんなコートを着ていたのですか。

映画のなかで赤木圭一郎が着ていたようなオーバー。まったく同じ時代だから。見ると懐かしいのです。着た時の感じ、着て歩いた時の感じを体が覚えている。

――鞄は持っていたのですか。

何も持っていません。手ぶらです。

――その頃からなのですね。

その頃から手ぶらです(笑)。色々持つのが嫌いなのです。靴は何を履いていたかな。おそらく革でしょう。くるぶしまである。浅い靴だと安心して歩けない、闊歩できないから。

――大学まではどんな経路で行かれたのですか。

主として小田急線の「世田谷代田」の駅から、急行に乗り換えることなどせずにそのまま各駅停車で「新宿」まで。新宿から山手線で「高田馬場」。駅から大学まではほとんど歩いていました。歩いて楽しい街だったのです。古本屋がいっぱいあったし、書店もあったし、映画館もあった。大学に着く前に日が暮れてしまう。履修している授業は全部午後からだから。

――『海を呼びもどす』(光文社 1989年)は大学が舞台の長編小説でした。

背景はほぼ全部あった通りです。いつもウエストにベルトを締めている女の子がいたな。色々と違うベルトを締めていることにふと気づいたりするわけです。彼女は服を着る時に、最終的に必ずベルトを締めるわけでしょう。それを取ってみたいと思ったのを思い出します。1月18日……、試験の前ぐらいだったかな。

――授業を受けるために学校に行ったのですか。

いや、それはないでしょう。靴は黒、ズボンも黒。

――大学生がTシャツとかジーンズなどをまだ着ていない時代ですよね。

夏の写真を見ると、全員白いYシャツの腕まくりです。僕もおそらくブルーのシャツなどを着ていました。襟だけ白いブルーとか、薄いピンクのとか。

――珍しいですね。

既成品が合わないので、Yシャツだけは作ってもらっていました。あとネクタイ。あの頃流行った黒いニットのタイ。

――今はほとんどネクタイなさらないでしょう。なぜ。

わからないです。あとはウールのシャツ、ツイードのジャケット。

――そして鞄も持たずに出かけていく。

何の苦労も無い、坊やに見られたことが多かった。そういう人が高田馬場で電車を降りて、早稲田通りを歩いていく。駅の左側、午後の陽があたっている方の道。ポケットのなかにはお金と、たぶん家の鍵とバンダナくらい。バンダナはハンカチより面積が広くて良いのです。

――お金はそのままポケットにバラバラと。

ええ。お金払う時に全部ポケットから出して。しわくちゃのお札を出して嫌がられた事がありました。今よりお札が切れていたり、汚れていたりということが多かったな。

――まだ働いていないから、お小遣いをもらっていたのですか。

おそらくそうでしょう。ただ学費は父親から借りて、三年くらいで返しました。父親は英語ですから嘘がつけないわけです。いい加減にごまかすということができない。英語にはそういう機能があるのです。使っている日本語にインチキな部分が入り込むと英語の頭で分かってしまう。そうすると日本語が使えなくなるというか、できるだけインチキな日本語は使いたくないというブレーキになるのです。ごまかせない、居直れなくなる。

――お父さんとの会話は英語だったのですね。

ええ。
手ぶらっていいですよ。自由だから。途中で何持っても良いわけだから。でも物は買わないし、買ったとしても本くらいかな。学校に行くまでに本屋に寄ると30分くらいはすぐ経ってしまう。本の背中を見ているだけでおもしろいわけです。何か目的があるわけではなくて、探している本があるわけでもなくて、そういう状態っていちばんいいのかもしれない。受身の極みのようでいて、実は能動的。何でも目に入るものをいったんは受けとめるわけですから。学生をやっていることとよく調和している。新刊書店と古書店とは時間の使いかたがまるっきり違う。置いている本が違うわけだから。つらいのは専門書の古書店。法律関係の古書店に入って眺めていると、どの本も自分と何の関係もない。法学部の学生なのに何の関係もないということを感じながらしょんぼりするのも悪くなかったです。そんな時間の中で知ったのが「マンハント」でした。小鷹信光さんの書いたものを立ち読みしたのです。新しい号が出るのを楽しみにしていた記憶があります。

――「マンハント」のような雑誌は他にはなかったのですか。

そうです。それまでの時代と違っている、次の時代の雑誌の走りでした。立ち読みで知って、毎回楽しみにする記事ができて、その記事を書いた当人と会って、その雑誌に書くようになる。つながりというか、必然というか。そこに掬い上げられるというか、網の目にひっかかるというか。

――ひっかかって良かったですね。

良かったです。本当にそう思います。すごい片すみにいたということも有利に作用したと思います。片すみというか、自分にあっている場所というか。1961年の2月のはじめ頃に、高田馬場の駅にいちばん近い本屋で小鷹さんの連載記事を初めて読んだのです。

――そして61年の夏には神保町の洋書の古本屋で出会って、暮れには翻訳したい作品のリスト「マンハント秘帖」を二人で作るのですね。リストをタイプで打ったのが片岡さん。

タイプライターを買いに行きました。米軍の放出品を府中まで。通称「関東村」と言ったかな。机やキャビネットも買いました。軍用のタイプライターは頑丈で酷使できるから。アンダーウッド。インクリボンがなくて苦労した記憶があります。タイプライターの修理会社がお茶ノ水にあって、そこに行ったんだ。タイプライターの修理会社、時代ですよね。

――タイピストがいた時代。

タイピストプールというのがあって、タイピストがずらっと並んでいるのです。朝9時すぎるといっせいにタイプを打ち始める。タイプライターの修理会社……。今はパソコンを捨てる会社でしょ。半世紀でそれだけの違いが出てくる。「マンハント」は久保書店というところから出ていました。中野の哲学堂あたりにあって、2、3回行ったことがあります。

――小さな出版社を好むところは一貫していますね。

好みというか、片すみで知り合うわけですから、相手も小さいのです。

――「マンハント」のどこに魅かれたのですか。

何となく斬新な感じがしました。表紙の感じとか。新刊雑誌は、書店の表に吊るしてあったのです。手に取るでしょ。

――小鷹さんのことは古本屋で出会う前から「マンハン」の記事でご存知だったのですね。小鷹さんは片岡さんのことを知っていらしたのですか。

古本屋のおじいさんから聞いていたようでした。何回も買っていると色々聞かれるでしょう。早稲田の学生ということで、後輩が良く買いにくるよという話を小鷹さんにしたようです。

――お互いに買うものの傾向が似ていて興味を持つということですか。

重なる部分はありましたが、似てはいません。買いかたもまるっきり違います。彼は、あるジャンルをできるだけ集める。集めて構築するタイプ。僕は持っていなければ買う。読むことが目的ではないのです。買って家に持って帰って積んでおく。瀬戸内から東京に帰ってきてからペーパーバックを買い始めたのですが、家の周辺にある古本屋のどこに行ってもペーパーバックが置いてあった。今思えば不思議でも何でもないのです。ワシントンハイツなのです。

――代々木にあった占領軍の宿舎ですね。

そこから出たペーパーバックが下北沢や渋谷で売られていたのです。アメリカのものは本来日本とは関係ないでしょう。それが片すみに置かれている違和感。違和感に加わりたくて、買って家に持って帰るとその違和感が僕のものになるでしょう。子どもの頃からある、父親が捨てないで取っておいたペーパーバックの山にそれが加わるのです。加えるために買っていたのかもしれない。どんどん増えていくのです。片っ端から読んでいくのではなくて、不思議な読み方をしていた。最初のページに宣伝文句が色々と書いてあるでしょう、そこだけを読むとか。積み上げてある背表紙を眺めて、タイトルで西部劇だとわかるからそれを抜き出して読んでみるとか。

――読むものが似ているから意気投合するということではなかったのですね。

買っていた場所が同じだったということです。東京で最後の露店の古本屋、しかも洋書の。

――61年に小鷹さんに出会って、それからは「マンハント」に記事を書く忙しい時代になりますね。小鷹さんに出会う前の1960年のお話をもう少し聞かせてください。

まず先ほど話したように大学に行くまでの道のりです。そして大学に着くと喫茶店。喫茶店に行けば誰かがいるのですから。学校の近くの路地の両側は軒並みマージャン屋で、そこを歩くと二階のマージャン屋からパイを混ぜる音がザーッと降ってくる。そういう時代です。人がいっぱい歩いていて、喫茶店があって、どこか行くと必ず誰かがいて、そこで話して。

――話をしない、人見知りの人ではなかったのですか。

そんなことはないですよ。くだらないことを、ベラベラと。道行く人をつかまえて。60年安保がありましたよね。よく知らないで、喫茶店で学生活動家と喧嘩になったことがありました。

――通りでデモが行われている時代だったでしょう。

あんまり知らないから、君はどこで何をやっていたんだということになる。時代をみんなと共有するような大きなニュースを知らないということが僕の片すみ性の象徴ですよね。もちろんそんな自覚は当時なかったけれど。

――教室とか図書館には行かなかったのですか。

行かなかったな。静かにボーッとしていたいときは喫茶店ではなくて図書館ということはあったかもしれないけれど。演劇博物館は静かで夏涼しくて良かった。ベンチで昼寝していて怒られました。

――片岡さんは街の人なのですね。

巷の人でしょうね。大学に入ってから小鷹さんに会うまでというのは、高田馬場の駅から大学までの、また、神保町の道すじに集約できます。そこに日々があった。いや下北沢もあるな。

――その頃の下北沢は。

バーの時代です。バーがいっぱいあった。

――近所の年上の美しい女性たちも。

まだみんな居ました。結婚しないのです。時代の走りですね。

――女優のように美しくて。

主演女優のように。

――『坊やはこうして作家になる』(水魚書房 2000年)に電車のなかで主演女優に出会う話がありましたね。

ええ。原節子です。

――下北沢のバーには行っていたのですか。

行っていました。あれも不思議な時代だな。バーがいっぱいあって、どこに行ってもホステスがいて、カンカンに化粧をしていっちょうらを着込んで。

――最初に入ったバーは?

覚えていません。高田馬場にもいっぱいあったな。学割があって、バーテンがちゃんと入ってきた客を見て判断して、学生ですと言わなくても学割にしてくれた。

――何て良い時代でしょう。

良い時代でしょう。今は証明書を出せとか、ヘタをすると殺されてしまう。生きて帰れない(笑)。バーテンがしっかり見ていて、騒いだりしたら叩き出される。だからむしろ秩序がちゃんとある世界なのです。バーテンはしっかりした人が多かったな。チンピラ上がりのような人がちゃんと見るのです。人のことを。

――そういう仕事をしてみたいと思ったことはなかったのですか。

ないですね。大変です。酒を揃えなければならないし、酒の種類も覚えなければならない。

――バーで何を飲んでいたのですか。

お酒を飲みに行っていたわけではないけれど、ハイボールでしょうね、きっと。ちゃんと作るとおいしいのです。結局60年代は何にも属さずに、学生だけど大学にも属さずに、どんな束縛も受けないでいた時代。そして、そういうことが可能になる場所は片すみしかないわけです。

――片すみを選んだわけですか。

選んだわけではない。それほど自覚があったわけではないのです。結果としてそうならざるを得ないということです。

――居場所を探して街を歩いているわけでもないのですね。

そういうわけではないのです。困っているわけでもないし、悩んでいるわけでもない。何かないかと探しているわけではないし、まさにモラトリアムですね。

――義務と責任を負わずに自分の裁量で全てできるという点では今と同じですよね。

そうです。

――うらやましいです。なら、あなたもやりなさいと言われそうですけれど。

僕がそうだぜ、ということではなくて、いちばん良いのは自由と孤独なのです。世間ではその二つを早く失うのが良い生きかたとなっているようですけれど。できるだけ早く自由を失って、できるだけ早く孤独を消しなさいと言われる。

――孤独はあまり良いイメージになっていませんね。

残念です。孤独こそ良いものなのに。孤独だったら自由なのだから。片すみ性についても同じような誤解があると思います。

――バーでは何をしていたのですか。

わからないです。階段をあがって行って、扉をあけるというのがおもしろかったのかもしれない。ひとりで全く知らないバーに入ったとしても、当時は最年少の客だから適当にあしらってくれるのです。許容してくれる。中年の男性客に比べたら有利なのです。

――今、それに代わる場所はありますか。

ないでしょう。全くないです。残念だな。70年代の中頃にスナックに変わってしまったのでしょう。

――小鷹さんとバーで会って話すということは?

ありません。彼はお酒を飲みませんから。
60年代、小鷹さんに会うまでの日々は、一本の道筋で説明ができてしまう。自宅から早稲田、早稲田から神保町、そして下北沢。片すみにいて、片すみの雑誌に出会って、その雑誌に自分も書くようになる。

――そして「マンハント」の忙しい日々が始まるのですね。次回は1964年くらいまでのお話を聞かせてください。

(2010年1月18日)

だいちゃんの手

三橋圭介

だいちゃんといるとき、いつも手をつないでいる。少しぬめっとした感触でぼくの手をやわらくつつんでいる。ときどきかれはぼくにはなしかける。そのことばはぼくのあたまのまわりを、呪文のようにぐるぐるまわる。それでも「うんうん」ときいている。さいごに「そうだね」というと、うれしそうにうなずいてくれる。ぼくからはなしかけると、かれはきちんとわかっている。80パーセントくらいは。

このあいだいっしょに料理をした。ぼくたちの配属はサラダ係り。みんなのぶんをふくめて、やく15人。まずレタスを水であらい、「こまかくちぎってね」と。だいちゃんはちぎる。いっしょうけんめいちぎる。大きさをきちんとそろえてちぎる。おわって「トマトをきる?」ときいた。ぼくのもっている包丁をゆっくり指さし、それから自分を指さした。ぼくはまっ赤なおおきなトマトをひとつ手わたす。かれの両手がうけとった。手にあふれんばかりのトマト、たいせつな宝物のようにそっとつつみこんだ。しばらくその手に見惚れた。

だいちゃんの手はやさしいな。「ねえねえ」と肩をポンポンするだいちゃんの手、絵をかくだいちゃんの手、手をつなぐだいちゃんの手、レタスをちぎるだいちゃんの手、トマトをもつだいちゃんの手。ことばはわからなくても、だいちゃんのそばにいるだけで世界はすこしだけやさしい気もちでみたされる。世界にふれるだいちゃんの手はいつも微笑んでいる。

なんば歩き

冨岡三智

なんば、またはなんば歩きという言葉は、現在ではずいぶんポピュラーになったと思う。私がこの言葉を知ったのは2003年、2度目の留学から帰国して、ふと買った甲野善紀の本を読んでからなのだが、それよりずっと以前からも、武智鉄二なんかがなんばについていろいろと語っている。なんばとは、右足を前に出すときに右半身が、左足を出すときには左半身がついていく歩き方で、その結果、右足と右手が、左足と左足が同時に出ることになる。昔の日本人はこういう歩き方をしていたのだが、明治以降の学校教育の中で、西洋式で軍隊的な歩き方が指導されるようになると、このような伝統的な身体遣いが失われてきたとされる。

私がなんばという語に反応したのは、私自身が歩き方を矯正されたときのことが記憶に蘇ってきたからでもある。小学校1年生のとき、運動会を目前に控えて学年で入場行進の練習をしていたとき、教頭先生が、○○市(私が住んでいる市)の子らは田舎者で歩き方も知らん、右手と右足が一緒に出よる、と言ったのだった。そのあと、足とは逆の手を振り出すようにずいぶんと練習させられたことを覚えている。確かにこの時点では、私を含めた子供たちにとって、右手左足が同時に出る歩き方というのは、まだ普通の歩き方ではなかった。だから、この歩き方は、学校で練習をさせられた結果身についたものだとはっきり言える。その教頭は隣市から来ていて、何かというと、○○市の子らは…と下に見た言い方をする人だった。子供心にもその隣市のほうが都会のように思っていたので(いま思うと、全然そんなことはない!)、ああ、右手右足が出る歩き方は恥ずかしいんだ、という価値観とともに歩き方が刷り込まれてしまい、その後長らくその是非を疑うこともなかった。

また、着物を着たときにはそんな風に歩いていないということにも、甲野さんの本を読むまでは無自覚だった。考えてみたら、着物を着てお茶席を歩くときには手は振らず、太もものに手を添えるような形で、したがって右足が出たら右半身が出るようにちゃんと歩いていたのだが。

ジャワ舞踊でも、右足が出たら右半身が出るように歩く。ジャワ舞踊にはラントヨという基本練習がある。4拍で一歩進むという歩き方に合わせて、手の動きのバリエーションと、動きのつなぎ方の練習をする。けれど、ラントヨの基本は、手の動きなどの部分にあるのではなくて、歩く練習にあると私は思っている。このラントヨでは、右足を前に出すときに、右手を振り出したり、両手を振り出したりする。だからやっぱりなんば歩きになっている。ジャワ舞踊を通じてラントヨの歩き方で歩くシーンというのはほとんどないから、ラントヨは舞踊の実践稽古ではなくて、半身ごとに動くという身体遣いを練習させるものなのだ。男性舞踊の戦いのシーンでの身体捌きを見ると、なんばの身体遣いが、よりよく分かる。自分の右足が前に出れば、右半身も前に出て、その結果剣を持つ右手が伸びて、相手の右側の虚空を突くことになる。

  * * *

実は一昨年(2008年度)1年間、中学校の先生をやっていた。秋の運動会のシーズンとなり、全校生徒による入場行進の練習があった日のこと。体育の先生が、一、二、一、二、腕を振れ、腿を高く上げろ、右手・左足、左手・右足…と号令をかけていく。私も生徒の横を一緒に歩いたのだが、手を振って歩くことをいつの間にかしなくなっていた私には、腕を振って歩くことがひどく大変で、おまけに手を振ると、右手右足、左手左足が同時に出る歩き方になってしまう。生徒の手前、右手左足の歩き方に変えようと必死にはなるのだが、普段やっていないことだから、頭では分かっていても、全然体がついてこない。生徒の方は単にだらだらと歩いているだけで、ちゃんと習慣化した、右手左足の出る歩き方になっている。私の方が逆に、先生、ちゃんと歩けてないよと生徒に言われるしまつだった。ジャワ行きを経て、私の歩き方は先祖返りとまではいかないが、学校に上がる以前の段階に返ったらしい。

自分自身がこういう経験をしてきたので、あらためて学校教育の威力と怖さをつくづくと感じてしまう。小学校1年で矯正され、かつ強制された歩き方は、その後の人生の中で当たり前のものとなってしまい、無意識化されてしまう。けれど、私自身がその呪縛から解けてみて分かったように、歩き方というのは文化であって、文化ごとにいろんな歩き方があり、また目的によっても歩き方は変わる。日本では長らく武術だとか伝統舞踊だとかが作り出す身体が等閑視され、学校教育だけが是とされてきた。いざ自分が先生をやってみると、お上が是とするものを強制することに非常なストレスを感じてしまう(先生は向かない?)。明治になって、学校教育でこういう歩き方を教えられた人達は、私よりもっと強いストレスを感じなかったんだろうか。

親不知

さとうまき

イラクへの出張を前に、歯が痛み出した。実は、随分前から、右下の親不知が痛い。レントゲンを見れば、真横に生えているのだ。左下も同じようになっていて、20年くらい前に抜いてしまった。そのときが大変だった。骨の中に真横に埋まっている歯を三つに砕いて、引っ張り出したのだ。一週間は、物が食えなかった。それだけではない。一年後にまた同じところが痛み出し、骨を削らなくてはならなかった。そんな思いがあるので、ほったらかしにしておいた。

主治医の先生は、どうも抜きたいらしいが、ずーっとまったをかけて来たのだ。しかし、ますます痛み出してきたのでやむなく歯医者にいった。イラクで痛くなったらと思うとぞーっとするからだ。

イスラム教徒にとって、歯は白くなくてはいけない。なんでも、預言者ムハンマッドは、歯磨きをよくし、歯を清潔にすることが、神に帰依することであると考えていたとか。彼の時代の歯磨きはというと、ミスワクという木の根っこである。これをかめばブラシのようにほぐれてくる。それでゴシゴシと磨く。ミスワクの樹液には殺菌作用もあるそうだ。今でも、イスラム教徒は、このミスワクという根っこを使ってゴシゴシやっているので、歯が真っ白だ。というわけで、歯を磨くことは、虫歯予防だけでなく、信心深いことを表している。白い歯はまさに、イスラム教徒の紳士のたしなみでもある。

僕は、前歯が差し歯になっているので、あまり白くない。アラブ諸国へ行くと注意されることがよくある。この間は、モスクの前で、注意された。そして怪しげな親父が、歯のサンプルを取り出し、「今すぐ真っ白いのに取り替えますよ」というのだ。モスクにおまいりに来る敬虔なイスラム教徒を捕まえては、入れ歯を勧めている。歯が白くなるのはいいが、抜いたりするのはいやなので、丁寧にお断りした。

そんなことを思い出しながら、歯医者にいった。とりあえず、右上の親知らずが、下に埋もれた親不知をかみ合わせているために炎症を起こしているので、まず、上を一本抜くことになった。痛い、ペンチで引っ張られているのだろうが、めりめりという音がする。走馬灯のように、映像がよぎる。子どもの頃、前歯が永久歯に生え変わるときに、歯医者で抜いてもらったこと。あの駅前の歯医者はいつも混んでいた。アアーあの歯医者のにおい……。抜いた歯を屋根に向かって投げたら、強い歯が生えてくるという言い伝え。飼っていた愛猫の歯を抜いてやったこと。猫も、歯が生え変わるのだ。

そして、イラクでは、拷問するときに、麻酔もなしに、歯を抜いたりするのだろう……いや、サダムのイラクより、アメリカの拷問のほうが強烈だ。アブグレーブをみよ。そういう脈絡のない映像が次から次にと脳裏をよぎり、気がつくと、歯はなんとか無事に抜かれていた。

メキシコ便り(29)エクアドル

金野広美

ニセ札をつかまされたまま入ったエクアドルの首都キトは、中央アンデスの4000メートルから6000メートル級の山々に囲まれ、標高は2850メートルあります。

キトからバスで2時間のオタバロというインディヘナが多く住む町で、大規模な市が開かれているというので行ってみました。ここでアルパカのセーターを買おうとしたときにニセ札をつかまされたということがわかったのです。そのニセ札はだれでもすぐ見分けがつくほどの稚拙なつくりだったのですが、日ごろドル紙幣など使わない私には気がつくはずもありません。うーん、エクアドルに来てまでババ抜きをするはめになるとは思いませんでしたが、何度か試してだめだったら記念にもって帰ることにしました。

エクアドルを有名にしているのは北半球と南半球を分ける赤道がここにあり、エクアドルという国名は実はスペイン語で赤道のことなのです。キトから北に約22キロ離れたサン・アントニオ村に赤道を示す赤い線がひいてあるので行ってみました。ここは今では大きな公園になり、たくさんのレストランやおみやげ屋さんがあります。公園中央には大きな記念碑が建ちその前に赤い線がありました。多くの観光客がこの線をまたいで記念撮影をしています。

しかし、ガイドブックには書いてありませんが、この赤い線は本当は違うのです。実はここから250メートルほど離れたムセオ・ソァール・インティ・ニアンという小さな民俗博物館の中に本当の赤道は存在しているのです。何年か前に計り直したときにこの事実が判明したのですが、すでに大きな公園や記念碑を造ってしまった後なので、公にはされなかったようです。なのでこのことを知らない人も多いのですが、口コミで広がり知っている人は知っているということになってしまったのです。記念碑の守衛さんに「本当の赤道のあるムセオはどこ?」と聞くと「あなたも知ってるの」という顔ですぐ教えてくれました。いったん公園を出てぐるりと回りこんだ場所にその小さな博物館はありました。

ここには口コミで知ったたくさんの人が来ていました。そしてオープンスペースになっている博物館のなかほどに赤い線がひいてあり、その上でガイドがいろいろな実験をやってくれました。そのひとつは、台所の流しのタンクに水と木の葉をいれ、赤道の真上と北側、南側と3箇所で水の落ちる様子を観察するのですが、北側でやると木の葉は水とともに左回りで落ちていき、南側だと右回りで落ちていき、真上だとどちらにも回転しないでまっすぐ落ちていきました。

赤道とは地球の北極と南極の間の自転軸と垂直になる点を結んだ線のことで緯度0度、全周は約4万75キロメートルになります。赤道上は年間を通じて日射量が最も大きいため、付近では上昇気流が生まれこれが熱帯低気圧、すなわち台風やハリケーンになるということですが、ここまで顕著に木の葉が左右に回り、赤道の真上ではまったく回転しなかったのには正直びっくりしました。私はいま、ひょっとしてすごい場所に立っているのではないかという気がして少なからず興奮してしまいした。

次の日はキト生まれでメキシコの壁画運動にも参加していたというオスワルド・グアヤサミンのアトリエに行きました。フィデル・カストロ、パブロ・ネルーダ、メルセデス・ソーサなどの肖像画をはじめとして、インディヘナや労働者、キトの街並みなどいろいろなテーマで多くの作品が展示されていました。そんな中でも民衆の苦しみ、怒りなどを鋭く、力強いタッチで描いた作品が印象的で、特に「手」だけを描いた13枚の連作はそれだけで民衆のすべての生活、思いなどを物語っているようで心に残りました。彼の黒を基調とした鋭い線は非常に鋭角的で、一見冷徹とも見えるそのタッチはかえって対象物に対する冷静な観察眼を感じさせ、私にはとても興味深かったです。

次の朝、ホテルでの清算に例のババを使ってみました。20ドル紙幣3枚の真ん中に挟み込んだのです。ドキドキしながらなにげなく手渡しました。ヤッター、成功です。こうしてババはみんなに嫌われながらエクアドル中を旅してまわるのでしょうね。

このあと、キトのバスターミナルから4時間、高山列車に乗るためにリオバンバに行きました。ここは6310メートルあるチンボラソ山やカリワイラソ山(5020メートル)に囲まれた2750メートルの標高の場所で、エクアドルの中央にあり心臓部部分にあたる都市です。アンデス山脈を列車の屋根に乗って汽車で走れるというので人気が高く、私も乗ってみようと来たわけですが、8ヶ月前に日本の若者が屋根に乗っていて、トンネルで頭を下げずにそのまま激突し亡くなったそうで、それ以来屋根には乗れなくなっているということでした。しかし、よく考えると危険きまわりない話ですよね。いくら見晴らしがいいといっても犠牲者がでるまでそのままで走っていたことの方が不思議なくらいです。以前は地元の人も利用していたその鉄道も今では完全に観光客だけになり形も汽車というよりは、バスが線路の上を走っているような変な感じになっていました。

ちょうど次の日出るという汽車を予約し、その日は6310メートルのチンボラソ山の途中まで登れるというので行ってみることにしました。リオバンバからバスで約1時間、アレナルという場所で降ろしてもらい、そこからジープで第1避難所まで行きます。ここがちょうど4800メートル、そしてそのあと5000メートルの第2避難所まで徒歩で登るというものでした。リオバンバの街から見ていたチンボラソ山は頂上に雪をいただいたとても美しい山でしたが、実際来てみると緑の木など一本もない石ころだらけの乾いた山でした。ジープで送ってくれた運転手はくれぐれもゆっくり登るようにと注意をして帰っていきました。4800メートル、富士山より1000メートルも高いところにいるのだと思うとちょっと感動しましたが、そこからが大変でした。運転手に言われるまでもなく、ゆっくりでないと、歩けたものではありませんし、一歩づつ深呼吸をしながらでないと前には進めません。おまけに細かいじゃりが多くて油断するとすぐ滑ります。注意深くひとあし、ひとあし、大地を踏みしめるようにして歩きました。そしてとうとう着きました、5000メートル地点です。わずか200メートルの登山でしたが、地上5000メートルの空気の薄さだけはしっかり体験できました。

山の頂上は雲がかかり、はっきりとは見えませんでしたが、雪の白さだけは目に焼きつきました。それにしても5000メートルのところにいても息苦しくもないし、頭も痛くならないのは、きっと2200メートルという高さのメキシコで暮らしているからでしょうね。今では高山病とはまったく無縁の身体になりました。

次の日の朝、8時のバスでアラウシに行き、そこから高山列車に乗り込みました。何回かのスイッチバックを繰り返しながらその汽車?バス?は山肌を縫うように走るのですが、他の観光客は谷底を見ながらそのスリルを楽しんでいるようでしたが、コロンビアで本当に恐ろしい山道を5時間あまりもバスで移動した私にとって、レールの上を走るバスは安全そのものでちっともスリルなど感じませんでした。そのためこの「悪魔の鼻」という恐ろしげな名前のついた場所を見に行くという高山列車の旅は、私にとっては真新しい感動とはなりませんでした。

12時半に汽車はアラウシにもどり、そのまま1時のバスでガラパゴス諸島への基点となるグアヤキルに行きました。約3000メートルある高度差をバスは下っていきます。途中のプルミラという村のあたりは、山が段々畑ではなくパッチワークのようになっています。見ている段にはきれいですが、ここで働く人たちにとって斜面での労働は本当にきついだろうと思いました。

バスは夕方5時半にグアヤキルに着いたため、その日はガラパゴスへのツアーも探せなかったので、セビッチェ(魚介類のレモン和え)を食べてホテルでゆっくりしました。ここはマングローブガニをはじめとして、魚介類がとても豊富で安く食べられるのです。

次の日、旅行会社でツアーを探しましたが、ほとんどいっぱいで空きがなく、あきらめかけたのですが、なんとかいろいろ探してくれて4泊5日、1373ドルのツアーが見つかりました。それにしても高い。さらに島に入るために10ドル、国立公園の入園料として100ドルかかります。しかし、大型船だとこれより100ドルは高く、おまけに4ヶ月前からいっぱいだということで、より安い小型船が見つかっただけましと考えて泣く泣く申し込みました。

ガラパゴス諸島はチャールズ・ダーウィンの生物進化論の展開のきっかけとなった島としてあまりに有名ですが、大小133の島があり4島に人が住んでいるだけであとはすべて無人島、「動植物の楽園」と呼ばれています。ここにしかいない動植物が多く生息し、間近でそれらが見られるということで、世界中からの観光客がひきもきらないのです。毎日450人が入島するそうで、一番多いのが米国人で年間5万人、次にドイツ、イギリスと続くそうです。私もその中のひとりなのですが、こんなにわんさか押しかけて本当に自然は守られているのだろうかと少し心配になってきました。

こんなことを考えながら旅行会社を出たあと、セミナリオ公園に行きました。ここは別名イグアナ公園といわれ、多くの陸イグアナが放し飼いにされています。いますいます、たくさんのイグアナがのそりのそりと歩いています。そして、木々の上にもイグアナがいっぱい、じーと前を見ています。大人もイグアナも極自然にくつろいでいるようでしたが、子供はやんちゃです。イグアナの尻尾をもってぶらさげ、ふりまわそうとしています。やっぱり子供って残酷ですね。

次の日の朝8時グアヤキルの空港からガラパゴスのバルトラ島の空港へ、ここからバスとフェリーを乗り継いでプエルト・アヨラ港に行きクルーズ船に乗り込みました。同じ船のメンバーはガイドのルイスとクルーが7人、客はカナダ人2人、ドイツ人1人、米国人の若者3人と一組のカップル、スイス人のカップルと私の合計11人。簡単なレクチャーや自己紹介のあとノース・セイモア島に行きました。

ガイドのルイスに先導され島に上陸するとアシカ、陸イグアナ、海イグアナ、グンカンドリ、アオアシカツオドリなどがいっぱいいます。2匹のアシカの子供が砂にまみれ、たわむれている姿は本当に愛らしいです。アシカは特に人なつっこく人間に近づいてきます。グンカンドリは求愛するとき口の下にある赤いフクロを大きくふくらませます。真っ青な足をしたアオアシカツオドリは孕んでいるときは足の色が白っぽく変化します。海イグアナはみんな海の方をじっと見て動きません。しかし、これは彼らの体温が低いため、海ではなく太陽の方を見ているのだそうです、などなど興味深いルイスの説明を聞きながら島中を歩きました。もちろん触れてはいけませんが、すぐ手の届くところに珍しい動植物の数々。それもまったく人間を怖がらずに暮らしています。何回かのシュノーケリングでは大きなゾウガメやアシカと一緒に泳ぎました。小さなペンギンが一生懸命泳いでいるのも目にしました。そして潮を吹く大きな鯨にも遭遇しました。

ソンブレロ島ではお産をしたばかりのアシカの親子がいました。お母さんのおなかのあたりには血がべっとり。すぐ横には生まれたての赤ちゃんが懸命におっぱいを探しています。そして少し離れたところに一匹の赤ちゃんアシカがポツンといました。お母さんはいったいどこにいるのだろうと心配になり、あたりを見ましたがそれらしいアシカはいなくて、いまだに気にかかっています。

ラビダ島ではひからびた鳥の死骸が落ちていました。そしてたぶんアシカでしょう白骨がたくさんころがっていました。以前のように人間による乱獲はなくなりガラパゴスの動植物は保護の対象で、1964年に開設されたダーウィン研究所により調査や絶滅に瀕した動物の繁殖などがおこなわれていますが、自然の摂理のなかでの生存の厳しさは変わらないし、また人間が変えることはできないでしょう。そういう意味でガラパゴスはあくまでも自然体で存在しているのだと感じました。

古い音楽

大野晋

このところ、ずっとショルティ、シカゴのベートーヴェン交響曲全集ばかり聴いている。実は年末、2回も第九を聴いてしまったのだが、ひとつは最近はやりの先鋭的なピリオド奏法の演奏会で、しかもモダン楽器で大編成でやられたものだから、ずっと頭がギイギイいっていた。たまに聴くのなら面白いが、あまりにもピリオドに拘り過ぎるのもどうかと思った。だからという訳でもないが、長期にわたって注文入荷待ち状態だった冒頭のCDが届いたものだから、昔の演奏にほっとしている。流行っていても、皆がそればかりになる必要はないだろうに。

最近、著名演奏家の古い演奏を収めたCDが多く発売される傾向だそうだ。これは、ブームというよりも、新しい録音をする予算がないため、著名な演奏家の定番曲を出すことで固定客への販売を期待しようということらしい。しかし、なんとも保守的な面白みのない話だと思う。おかげで、特にオーケストラ曲の録音はやりにくいらしい。

どうやら、経済は全て同じで、投資しないことが全ての閉塞感の原因のように思えるようになった。みなさん、呼び水を打ちましょう。

今年も面白そうなことを探したいと思っております。

美遊――翠の虫籠

藤井貞和

紙一枚、だれの置き土産だろう。
水路を行く火が終わる、
国はうす翠の矢を古墳のしたに。
軍国の形容詞は若い花を挿して、
辞書からしずかに消える、
物語を光らせる字句の入り綾。

(「うそかたまって一つの美遊〈=比喩〉となれり」〈『置土産』〉。西日はさっきから美しく遊んでるし、堰は流れなくなっても詰まった笹と美しく遊んでる。時間の遅さだって美しく遊んだ結果だ。意味に遊ぶな、いつかは暁ける。)

音楽作品を委嘱すること など

笹久保伸

作曲家に音楽作品を委嘱する理由の一番の目的はリサイタルで弾くため
とか CDに入れるため
というのが一般的には多い
自分のリサイタルで弾くために新作を数人の作曲家に頼んでいて この数日で
2曲ができあがった

高橋悠治さんは過去にギターソロ作品を2つ書かれている
メタテーシスⅡと ダウランド還る
(しばられた手の祈りはギターにもなっているがオリジナルはピアノ)
この2作品に限って言えば、調弦が大変特殊で 弾くのはもちろん
譜を読むのも大変難しいし暗譜は無理
4度の積み重ねという独特なギター調弦によって音群が動いていく メタテーシスⅡ(音位転換)
言葉で音楽を説明することはできないので 曲を知りたいなら聴くか弾くしかない
聴けば なるほどこういう事か、とわかる(かもしれないし そうでないかもしれない)
この曲の指示にある「ヴィブラート禁止」はとても面白い
ギターという楽器特有のロマン臭もこれでだいぶ消える

ダウランド還るは朗読つきの曲
メタテーシスⅡにも言えることかもしれないが ギタリストにはこういう曲は書けない
かと言ってピアニスト的な曲でもない
これはダウランドのリュートの手の型も使われているが
だからと言って こういう曲は他にない

一方 2009年の年末?2010年の年明けに書かれた
重ね書き‐Rastros
これは これまでのギター作品とは少し違う(と思う)
まず 普通の調弦で弾ける
音もだいぶ少なくなった
タイトル通り 少しずつ重ね書きされた作品で
書いた線をなぞり それが 少しずつずれていく 
気がつくと 別の風景になっている
というような音楽(でしょうか)

これは弾き方(手)だけを家で覚えて(練習して)
あとは演奏する場のニュアンスで 弾き方をかえる
という事にしたい と思っています
「これは」というか もうこれからはどの曲もそうする

カルロ・ドメニコーニというイタリア人のギタリスト、作曲家にも
リサイタルで弾くように何か書いてくれないか と連絡してみたら
一曲本当に書いてくれた
共通の知人が突然亡くなり、その彼の追憶に捧げられた
しかし 内容はペルーアンデス音楽の手の型を使って書かれている

あと数人に新作を頼んでいるが
どういう曲ができるかわかりません
委嘱をするって どういう事なのだろう と考えています

しもた屋之噺(98)

杉山洋一

妙に偏った印象をのこす一月が過ぎようとしています。月初めに東京にもどり、中旬をイタリアですごし、今週初めに東京に戻ってきました。今は望月みさとちゃんのオペラの手伝いをしつつ、三軒茶屋で単身赴任生活といったところ。

ところで、田園都市線で練習にでかけようとすると、毎日のように遅延情報がでています。大方が人身事故で、きのうもあちこちで3件ほどあったでしょうか。歌い手さんからも、電車がとまって練習に間に合わないかもと連絡がありました。今日も池袋まで電車に乗ろうとすると、人身事故により、と電光掲示板にながれていて、暗い気持ちになりました。

当たり前のように遅延するイタリア国鉄、特に南からの長距離列車は、旧型車両の故障やら、線路の凍結をはじめ、単に駆け込み客を収容する小さな親切がつもり積もって、ミラノに着くころに3、40分の遅れになっていたりします。イタリアに暮らして15年、人身事故の遅延というアナウンスは、少なくとも自分では聞いたことはありません。宗教観、死生観の差といわれればそれまでですが、どうしてこれほどの人が、電車に飛び込まなければいけないのだろう、そんなことを考えつつ、東京で毎日練習に通っています。

わたしたち日本人は、生に対する執着心がそれほど薄いのでしょうか。昔からの風習をはじめ、現行の死刑制度にまで話を広げるつもりはありませんが、外国暮らしが長いせいか、百歩譲って、人に多少の迷惑をかけてもいいから、せっかく貰った命なのだから、とにかく頑張って生き抜いたらいいのに、そんなことを思ってしまいます。日本に住んでいたら、この気持ちも変わってしまうのでしょうか。

中旬にイタリアに戻り、中部イタリアのペスカーラに一週間近く滞在して、音楽院の卒業試験の招聘試験官をしていました。2年ぶりに会った院長のブルーノは、もう80歳代半ば。数日、インフルエンザで床に伏せていた所為か、目の周りはぽっかりと窪み、青白い顔に窪みの奥の充血した眼が力なく際立ち、驚くほど顔の肉がこそげ落ちていて、一緒に審査ができるのか不安にかられました。それでも試験が始まれば、音楽という別の血が巡りだすのか、顔色が瞬く間に変わってゆくのには驚きました。

そんな彼から毎日のように、学校裏のステーキハウスに昼食に誘われ、家庭の話から、学校の話、政治の話から、音楽の話と、それはたくさん話してくれました。生きることの強さと素晴しさを痛感し、感動がひたひたと押し寄せてきます。

自分がミケランジェリに習ったとき、ほとんど口では何も説明してくれず、ただ黙って弾いてみせてくれた。確かに弾いているのだけれど、全然指が動いていないんだ。説明してくれないから、どうして音がでるのかすら分からない。一ヶ月近く、熱にうなされたように、必死に先生の真似をしながらパッセージをさらったものさ。でも、自分が弾くとどうしても指が動いてしまう。もう諦めかけていた頃、ふと分かったんだ。鍵盤のなかで弾くということをね。で、ミケランジェリに見せたときの心地といったら、天にも昇るようだったよ。鍵盤のなかのアクションだって今世紀に進歩した技術だろう。マンゾーニはもうピアノは進歩しない楽器だなんて抜かしたけれどピアノはまだまだ進歩するのさ。ペダル一つ取ったってそうだろう。興味も尽きないから勉強も絶やさない。このところ、今さらっているのは、エリオット・カーターと、彼の師とでも呼べるアイヴスさ。本当に素晴しい作品ばかりで、驚くことがたくさんある。85歳の巨匠の口からそう聞くと、感慨をおぼえます。

ミラノの慌しい生活に慣れていると、どうしてペスカーラでは毎日昼休みに2時間も取るのか訝しく感じた程ですが、音楽院長からしてこの調子ですから、察して知るべきでしょう。
ホテルやオーケストラとの練習の合間に、大江健三郎の「水死」を読み、父と息子とは何だろうとずっと考えながら、週末朝一番の飛行機でミラノに戻り、学校に直行しました。授業の後、もう日がとっぷり暮れてから、ドナトーニが昔住んでいた、ランブラーテのアパートを10年ぶりに訪ねました。

ランブラーテ駅に降り立ち、すっかり変わってしまった駅前のロータリーを背に、パチーニ通りをピオーラへむかって歩いてゆきます。こんなに遠かったかと訝しがりながら暫くゆくと、懐かしい交差点があって、右手奥にはくすんだ感じの古い喫茶店が見えてきました。日曜の早朝、フランコがブレッシャに教えにゆくのに同乗するべく、7時きっかりに玄関を出てくるのに間に合うよう、寒いときによく暖をとらせて貰ったのが懐かしく、それを眺めながら左に折れると、その昔フランコが好んで通った南の人らしい、いつも黒い服に身を包んだ豊満なナポリ人のオバちゃんの食堂があって(ああお前かい、マエストロのところの!といつも親しみをこめて呼んでくれました)、その隣には古めかしいブティックが昔のままありました。

アパート下で、「ドナトーニ」と書いてある呼び鈴を押し「ヨウイチだ」というと、懐かしい声が「3階だよ」と返ってきました。入口のガラス戸を開くと、目の前に10年前と同じ、ガラス張りの管理人の部屋がみえました。夜で人気はなかったけれど、その昔ここで管理人と話し込み、「最近じゃマエストロを訪ねる客もめっきり減って、お前と家族と出版社の人くらいになっちまった。寝たきりだし訪ねてきた事すら分からないかもしれないから」、と聞いて、胸を締め付けられたのを思い出しました。薄暗い廊下に不釣合いな、煌々と明るい赤壁の小さなエレベーターで3階に着くと、15年前に初めてここを訪れたときと同じように、大きな体格で笑顔を湛えた顔が待っていてくれました。

15年前ここでフランコに会ったときも、初め言葉がでませんでしたが、彼が亡くなって10年、久しぶりにここに戻って長男のロベルトに会っても、同じように言葉がでてきませんでした。ロベルトに最後に会ったのは、霊安室を出て入れ替わりに彼が次男のレナートと母のスージーと入ってきた時ですから、10年近く前のことになります。

ほら、これだよ。手には、ドナトーニが唯一保管していた1953年作曲の弦楽のための交響曲のスコアが携えられていました。どこからも入手の方法がなく、レナートに頼んで、死後片付けたままだった段ボール箱を丹念に調べて貰って漸く探し出した楽譜を、ミラノに住むロベルトに手渡してもらったのです。

ちょっと見せてもらうだけでいい。この時間ではもうコピーも出来ないだろう。明日東京に発ってしまうから、こんな大切なものを持って帰りたくないと言うと、何を言っているんだ、お前が持っているなら、ここに置いてあるのと同じこと。持ってゆきなよ。少し恥ずかしそうにそう言いました。

アイルランド人貴族だったスージーの影響で、その昔ミラノでアイリッシュパブなどを営んでいて、ビリヤードが得意なレナートが、スマートでスタイリッシュなのに比べると、ロベルトは丁度フランコと同じ背格好で、服装もスタイリッシュとは言えないところも父親似で、何時もはにかんだ表情で微笑んでいます。声色はスージーに似てなくもなく、フランコのヴェローナ訛りも交じっているのは、兄弟二人ともそっくりです。

この辺もすっかり変わってしまった。角の喫茶店、覚えているだろう。あそこも今じゃ中国人がやっている。階下の旨かった食堂、あそこも全部入れ替わって今や中国人ピザ屋さ。昔のよき面影はどんどん消えてゆく。

昔と同じ玄関扉には、黒地に金で書かれた無愛想な「フランコ・ドナトーニ」の表札がそのまま残っていました。その昔、玄関にはフランコにそっくりな母親の写真が飾ってあり、何百という帽子が犇いていた暗い廊下は、今や明るいパステルカラーに塗替えられ、昔フランコの仕事部屋だった玄関脇の長細い部屋、潔癖症なほど整頓され常に薄暗かった仕事部屋(鉛筆や定規まで決まった場所にきちんと並べてあった)は、明るい蛍光灯の下、がやがやと雑然と家具が並び、手前には女児の靴が見えて、傍らの丸腰掛に黒ウサギがちょこんと座っていました。

彼女はね、まだ外で仕事なんだ。彼女の連れてきた女の子にね、いま肉を買いに行って貰っているところさ。

あの昔のストイックなまでに抑圧された芸術家の部屋からは想像も出来ない、生活感あふれる庶民的な匂いに包まれていて、フランコもきっと喜んでいるに違いないと思いました。フランコとロベルトは、大江健三郎の本ではないけれど、決して解り合える関係ではありませんでした。フランコは暴力的なほど強靭な存在で、とりわけ繊細なロベルトはそれに押しつぶされて育てられてきました。だから、フランコに輪をかけて内向的なロベルトは、サンスクリットに熱中しインドで学び、アデルフィ社で難解な本の出版に携わるようになりました。でも最後まで、父との距離は縮まなかった気がします。

何か不思議な気分だな。あの家がこんな風になるなんて。でも、やっぱり昔のこの家の匂いがする。時にはさ、フランコがその辺をひょろひょろ歩くのが、見えたりするんじゃないのかい。

それはないな。でも見えたら、やっぱり嬉しいだろうな。

(1月29日 三軒茶屋にて)

オトメンと指を差されて(20)

大久保ゆう

いろんなボランティアを経験してきました。といっても遠出するようなものはあんまりなくて、ほとんどが生活圏内にとどまるのですが、それでもごく普通の人よりはやっているような気が致します。

ボランティアの集まりというのは不思議なもので、たいていが〈行為〉の部分でつながっています。何をするのか、という具体的な〈こと〉の部分で、同じことをしようと思っているから集まる、という感じでしょうか。

けれども人が集まる限りはもめたりもするわけで。それが避けられないわけで。特に〈気持ち〉の部分ですれ違ったりしてしまうと、何らかの形でずれが表面化してしまいます。ごくささいなきっかけひとつで。

しかしそれでも、ほとんどのボランティアは〈いったい何に対して奉仕するのか〉という対象がはっきりしているので、そこに集約することによって、物事は沈静化したりします。これまで”Trouble is My Business”とつぶやきたくなるほどに、たくさんのもめごとに巻き込まれてきましたが、落としどころとしてはいつもそんな感じだったという印象があります。

そうしてみると、たとえば青空文庫でのもめごとっていうのは、ちょっとだけ性質が違うような気がしてなりません。だってまずそもそも、ボランティアなのに〈いったい何に対して奉仕するのか〉があんまり明確じゃないのです。たとえば人なのか本なのか社会なのか文化なのか。もっと言えば電子の本なのか紙の本なのか。

もちろん行為としてはぼんやりと共通しているわけです。紙の本から電子テクストを作ってインターネット上に放流する、という一点は。でも奉仕対象は曖昧で、だからこそさまざまな動機を持った人が集まってくることができたと言えるわけですが、その曖昧さゆえに軋轢もまた生まれてきます。

表面的にはいろんなことがあるけれども、深層的にはいつだって〈何に奉仕するのか〉で食い違ってきたように、私の目からは見えました。でもほとんどの場合、青空文庫でのボランティアに熱くなる人というのは、自分の思う奉仕対象に対して何らかの情熱を持っている人なのだと思います。自分がボランティアする動機にそういうものがまずあるわけで、意見の相違が表面化したとき、それが自分のボランティア精神の根本とつながっているものだから、自分を曲げようにも折れようにも変えようにも、そんなことは無理だ、というふうになってしまって。

だから妥協も和解もありえようがないし、表面化してしまえば最後、あとは埋まらない溝を延々と掘り続けるしかありません。

ここで話は変わるのですが、いろいろなボランティアをやってきたなかで、青空文庫というのは個人的にちょっと気楽で楽しいものでもありました。どこか趣味の範疇に収まりきるというか、何と言いましょうか。最初の頃は、感覚としてそういうものであったかもしれません。自発的にやりはじめた最初のボランティアでもありますし。

けれども以後に関わった他のボランティアがわりあい切実なものであることが多くて、比喩的に表現してもよければ、少なくとも+1が絶大な力を持つ世界でした。もう始まりの時点が0でしかなくて、たとえどんなものであろうとも、ないよりはある方が格段にまし、というようなところです。

そこでは奉仕対象がはっきりしているとともに、もめてる暇なんかない、というような状況でもありました。そんなことをしているくらいなら、さっさと+1を増やそうよ、で全員がうなずきあえるような場所だったと言えるかもしれません。

そういうところを経てきたあとで、あらためて自分のボランティアと向き合ってみると、その向こうにはどうしても〈始まりが0である人〉という存在が透けて見えてきます。そうならざるをえないというか、私の奉仕対象は圧倒的にそういう人であり続けるでしょう。

まず+1することが何よりも大事で、その上で自分の+1が奉仕対象に対して最も効果的になることを考える、というのが行動原理になるわけで、それ以外のことはどうでもよくなってしまって。

もめごとの外側に立つと、いったい何と何が対立しているのか、という本質的なことが見えてくることがあります。でも個人的には、もはやそれさえもどうでもいいと思えてしまって。ただ心に浮かぶのは、こんなことばかり。

――ボランティアの作業が停滞している、人的リソースが低下している、+1が消えていく、非効果的なものになってしまう――

0が見えたあとは、もめごとの世界がとても遠く高いもののように思えます。ハイチ地震のことも、本当に、そうなんだろうな、と。

小倉朗のこと

高橋悠治

今年は小倉朗没後20年で、10月18日に室内楽コンサートがある。

1948年頃だったか、團伊玖磨にハーモニーの基礎を習っていたとき、鎌倉由比ガ浜の貸間で、レッスンの日にも、先生はしごとで不在ということがよくあった。鍵もなく、だれもいない部屋に入って待ちながら、かってに押入をあけて積み重ねられた楽譜をながめていると、ドアがあいて、麦わら帽子の日焼けした人が顔を出し、おや、こどもがいるな、と言ったのが、小倉朗との初対面だった。

数年後、小倉朗の『舞踊組曲』オーケストラ版初演の夜、その頃の習慣で、作曲家たちが日比谷でのコンサートの帰りに新橋の「鮒忠」の二階で飲みながら、聞いたばかりの仲間の新作を論じ合い、小倉朗は自分のスコアを筒のように丸めてテーブルを叩いていた。帰りの電車は鎌倉までいっしょだった。年譜によると、それは1954年の1月だった。柴田南雄に習っていた時だと思うが、まだ15歳の少年がなぜそんなところにいたのだろう。

さらに数年後、浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の小倉朗に出会って、作曲を習うことに決めた。ところが、かれはその頃海釣りに熱中していたので、まず習ったのは自転車の乗りかた、その後は夜の海岸に出て、魚はほとんど釣れず、帰り道の魚屋で魚を買って、かれの家で日本酒を飲む、そんな日々のなかで、ベートーヴェンのスコアをピアノで弾くことを習い、オペラ『寝太』や、民謡によるオーケストラ曲、合唱曲などの書いたばかりのスコアを見せてもらい、現代音楽批判を聞かされ、作曲ができなくなってしまった。

その『寝太』の初演のために練習ピアノを弾いたのがきっかけで二期会に雇われて数年間オペラの練習や歌や合唱の伴奏をして生活し、また偶然から現代音楽のピアニストになったので、後から考えれば、こうして逸れていった軌道は、作曲の生徒として順調に進むよりはまなぶことも多かった、その結果かれの音楽からも離れてしまったにしても。

小倉朗は1960年前後に、わらべ唄による合唱曲集をいくつか書いている。呼びかける言葉のリズムと抑揚が自然に唄に変わる時うまれる単純なメロディーを重ねたり、ずらしたり、また音程をひろげたりせばめたりして色調を変化させているが、一つの響きのなかで停まっては、ページをめくるように別な響きに切り替わる。区切られた色の平面を組み合わせた音楽の創りかたは、小倉朗が追求していたはずの古典的な構成への意志とはちがう、もっと直感的な、瞬間と色彩へのこだわりに見える。かれが批判していたストラヴィンスキーの『春の祭典』や『パラード』のサティのキュビズムに近い。後年のオーケストラ曲のなかにあるような長い旋律線は、じつは限定された音と音程の多様な変容で紡がれ、持続する低音につなぎとめられている。リズムにのってうごくかたちを映してゆれる音楽の表面と、それを織り上げる古典的な技法は、その底に半透明な層になってひろがる響きの持続に包まれている。ドミナントは音楽家の心だ、と小倉朗は言った。だが、かれの音楽のドミナントは、古典的なドミナント、解決に向かって音楽をうごかす劇的な物語をもったドミナントというよりは、それぞれの場面を彩る中心的色調としてのドミナントのようにきこえる。

1937年の『ピアノ・ソナチネ』では、ほぼ同時代のフランス新古典主義の音楽に近い感覚的な音楽だった。その後ドイツ古典の模写をしてオグラームスとからかわれた時代の作品はほとんど破棄されているから、知ることもできないが、1953年に書かれた『舞踊組曲』は、バルトークに触発されたと言われている。それもアメリカに亡命した1940年代のバルトークの最後の時期で、戦時の空白による時差を考えれば、ほぼ同時代の音楽と言ってもいい。反前衛どころか反時代のポーズをとっていた小倉朗は、やはり時代とともに歩んだのではないだろうか。時代のせいで遅い再出発ではあった。それに作品の数は多くはない。細部までみがかれ、削られて、簡潔にしあげる、それは職人芸とも言えるが、わらべ唄のようにあそびへの没入が表面に現れてくるまで洗練するプロセスでもあったのだろうか。

その頃作曲家たちは貧乏だった。小倉朗の年譜には、生活に困窮する、ますます困窮する、というような記述が数年ごとに見られる。根っからの都会人で繊細なひとだったが、べらんめえにふるまっていた。書けない、というのが口癖で、いかにも説得力のある口調でそれを言うので、弟子までがそういう気分になるほどだったが、古典的な意味での「主題」、詩の最初の一行のように、核になる音のうごきを見つけると、しごとは集中して速かった。本人は構成技法の修行の成果と思っていたのだろうが、むしろ直感と瞬発力、ほとんど体力の問題とさえ言いたくなる。そういう創造の時が、『舞踊組曲』から70年代の終わりまでつづいた。1980年の『チェロ協奏曲』以後は、健康も衰えて、音楽を作曲するかわりに、絵をかくのに熱中し、個展をひらいたほどだったが、もう作曲はしなかった。絵はたのしみだったが、音楽にはあまりに真剣だったのかもしれないし、それよりもかれの音楽は身体と深いところでつながっていたのだろう。

20年がすぎて、小倉朗の音楽にまた出会うとき、時間に洗われて、いままで見えなかったなにかが見えてくるだろうか。それは加藤周一がかれの音楽に見たような「形になった感情」かもしれないし、形や技法が消えた後の持続する響きかもしれない。生は苦しく、死もまた苦しい。音楽は、水面に射し込む光だったのか。記憶のなかの時間は年代記のような線ではなく、順序もない点が集まり、また散っていく。