イタリア総選挙の最中、国内がどんな様子だったかご存知でしょうか。さぞかし選挙色一色だったかと思いきや、投票所周辺に人が集まっている以外は、むしろ本当に選挙中かと訝しくなるくらい、表面上選挙色が消えました。これは、選挙中一切選挙に関連する報道が禁止されるからでしょうか。
乗ったタクシーのラジオから聴こえてきたのは、ウミウシが交尾のあとに性器を切断する話と、日本の公園のミケランジェロのダヴィデ像に下着を履かせるかどうかという話です。謂うまでもなく、ダヴィデ像の話ですぐに頭に思い浮かんだのは、アニタ・エグバーグの牛乳の看板に抗議する、ペッピーノ・ディ・フィリッポ扮するアントニオ博士、ボッカチオ’70でフェリーニが監督した、「聖アントニオの誘惑」を焼直し版、「アントニオ博士の誘惑」でした。
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2月某日12:20 市立音楽院教室
日曜朝の演奏会は実に心地よい。悠治さんの「花がたみ」と「アフロアジア風バッハ」を家人が弾く。「花がたみ」は、聴くと、すっきりした譜面との違いに戸惑うほど、表現が直裁で激しい。けれども音は決して激さない。それから、バッハのパルティータを抜き弾きしてから、「アフロアジア風」の断片と照し合せた。拍感をずらして、その揺らぎのほんの隙間から別の空間を広げる。悠治さんが送って下さった「世界音楽の本」のリズムの項を、フィレンツェから戻る車中で読みながら、何か見えた気がした。
「音の認識は1音でもできる だがリズムは音の属性ではない 音の出現から次の音の出現までの「間の領域」に向けられた注意からリズム認識が立ち上がる」。
実際音を出さないので、リズムと「間の領域」を認識するには、指揮を例にとると分かりやすい。一見、指揮者が強く打点を出すところで演奏者が強く演奏し、指揮者がレガートに振るところで演奏者がレガートになるようだが、実際は、音色や強弱など全て一拍前の打点と直後の「間の領域」で指示するので、実際鳴っている音と振っている音は必ずしも一致しない。やってみると「間の領域」がかくも深いことにおどろく。リズムはリズム構成に留まらず、時には音楽の香りまでもつかさどる。音楽が呼吸するためには、「間の領域」に空気が通るようにしておかなければならない。えら呼吸とか、皮膚呼吸みたいなものか。
2月某日20:20 自宅にて
最近若い世代が忘れられていた現代作品を再評価するようになった、と中央駅の行先案内掲示板を見上げながらアラッラがいう。我々より前の世代は、目の前で演奏を聴いて育ってきたが、我々の世代は音源も簡単には入手できず、自分で企画でもしない限り演奏に触れることもむつかしかった。本や楽譜でしか知り得ない名作も沢山あった。そんな、演奏も音源もなかった時代を過ぎて、インターネットで簡単に情報が手に入るようになり、若い世代は何ら先入観なく耳にして、興味も持つようになったという。
尤も、それは現代音楽に限った現象ではないだろう。クラシックの演奏家でもそうだろうし、他のジャンルでもきっと同じに違いない。ただ、ツールとして情報を求めてゆくと、情報は等列で並べられるようになるだろうし、質より量が必要になるかもしれない。個々の情報の時代性や柵から解放され、手軽で身近に、悪く言えば薄っぺらく、情報と対峙しなければならない。
東京のK先生と電話。「最近巷では、愉しみながら勉強という言葉が流行っているけれど、本来勉強とはそういうものでしょうか。わたくし、勉強はやはり辛いものだと思うんです。昔に比べ、イタリア語の教科書も溢れておりますけれど、日本語でそのまま言っても通じる程度の内容など、勉強しても仕方がないと思われませんか」。先生の言葉に恥入りつつ、時代の変遷を思う。
無料電話やスカイプ、格安航空運賃はもとより、衣料品、食料品など自ら享受している便利で安価な生活は、技術革新と安い労働力に負っている。300円出していたものを、100円で買える時代なら、そこにどれだけ安い労働力が使われ、どれほどプロセスが簡略化され、どれだけ余剰人員が切捨てられるのか。100円の商品を買うのは、その社会構造に加担する悪か、それとも生産に関わる全ての人へ還元するための社会構造への参加なのか。搾取は悪だと言い切れるほど、清廉潔白な生活を自らが営むわけもなく、では感謝の心を持てばよいかと言われれば、まるで畜産動物に感謝しながら嬉々として肉食に甘んじるようで、よほど自分の胸糞がわるい。豊かな生活、豊かな人生とは、何を意味するのか。一見無関係に見えるけれど、我々の関わる音楽もこうした社会構造と密接につながっている。
2月某日18:00自宅にて
朝レッスンに出かけると、部屋の電気も暖房も入らない。一帯が工事で停電だという。仕方なく学生と近くの喫茶店に出かけると、シャッターが下りたままになっていて「警察の管理下にあり休業」とぺらが貼ってある。
「お金が足りなくて」、と毎朝7時から夜の11時半まで、中国人の家族で日々まめまめしく営業していた。子供たちは息子と同じ市立小学校に通っていたので、心配になり別の中国人の喫茶店で様子を尋ねたが、何も知らない、話したこともないと、すげない返事が返ってきた。後で聞いたところでは、薬物中毒者が夜半、店にたむろしていたらしい。収入を考えると無下に追い出せなかったのだろう。
昭和12年頃の湯河原海岸のヴィデオをインターネットで見つけたので、父の誕生日にリンクを送った。街の風景はまるで違うけれど、海は今も変わらない。その頃、母は横浜の間門に住んでいたというので、当時の間門の写真も探した。こちらは現在からは想像もつかないもので、埋め立て前の間門の海水浴場は、人いきれが溢れかえる賑々しい写真が並んでいた。
海水浴といえば、息子の通うミラノの市立小学校で水泳の授業が始まった。日本の感覚では零下2度、3度の吹雪の日にわざわざ水泳の授業をさせたいとは思わないので不思議である。その上、学校中でインフルエンザが猛威を振るっていて、24人学級中9人や10人ほどしか登校できない日が1週間以上続いている。酷いときには3人しか出席者がいないクラスもあったそうだが、学校閉鎖にはならない。ちなみに月末の国政選挙の際は、学校は休校になり、投票所として使われる。
大雪の中、朝8時に家の壁を直すため、砥の粉ぬりの寡黙なエジプト人職人が来た。対照的にへらへらと笑うイタリア人の親方が連れてきたが、一通り指図を出して親方は帰ってしまった。壁を乾かすために、窓を開け放し黙々と仕事をしていて、午前中には仕事は終わり、帰るという。大雪なので心配になって聞くと、後で親方が迎えにくる、それまでメシを食べて親方が来るのを待つから大丈夫だというので送り出したが、暫くしてから気になって外を見ると、家の前のベンチで目をつぶって寝ているので慌てて家に呼び込んだ。「さむいです」、とたどたどしいイタリア語で話した。
2月某日20:20 ペスカーラより車中
早朝ローマのアウレリア通りからサンピエトロ駅まで歩くと、朝焼けがとても美しい。
朝7時の駅の喫茶店は、芋を洗うような混みようで、どこで食べてよいかもわからない程だが、みなそれなりに順番が回ってくるようになっている。ローマらしくて良いが、ミラノではこうは行かない。
ティブルティーナ駅から列車に乗ると、目の前を身なりのよい美しいジプシーの少女が、小さなコピーの紙切れを置いていく。物乞いだ。後でそれを引き取りに来て、続いて目つきのよくない彼女の母親と姉と思しき女性が彼女の後ろをついてゆく。車窓には朝焼けに映える緑の野原が広がっているが、このあたりの緑は北よりもずいぶん焼けた色にみえる。
ラクイラ駅から山を見上げると、雪をいただき、とても美しく、空気も澄み切っている。タクシーで中心街までのぼってゆくとき、道沿いのどの家にも大きな亀裂が走り、これが地震の爪痕なのは明らかだった。目にする建物の惨状にショックを受ける。再建されたばかりの真新しい建物で、バルビエーリに会う。
「よく見ていってくれ。4年も経って、一体何が行われてきたかということを。ラクイラの市民が、自分たちが忘れ去られてきたのかと訴えたくなる気持ちがわかるだろう」。
歴史的中心街には、立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、兵士が見張りに立ち、建造物は軒並み崩落している。
バルビエーリは悲しそうに言う。
「ラクイラに来た人は誰でもショックを受ける。もはや地震の話は街の人間も話したがらないが、いまでも無意識に彼らの口をついて出てくる言葉は、地震前は、と、地震後は、ばかりさ」。
気持ちが塞いで、明るさのない彼らを元気づけたいのは、大災害に見舞われたばかりの地震国に生まれたためか、その災害に対して自分が何もしていないことへの、罪滅ぼしの姿の単なる自己欺瞞か。
雪を頂くアペニンの山々は、アルプスとは全く違った魅力をもつ。グランサッソの麓を車で走り抜けると、まるで「砂の女」の掘立て小屋に取り残されたかの錯覚を覚え、ときに荒涼とした風景は、地獄の火山の火口の底を進むかのごとく迫力をもつ。見上げる山の縁は磨きあがられた刃のように薄く、尾根が厚く連なるアルプスと違い、すれすれのスリルすら覚える。
イングリット・バーグマンがイタリア語で演じたオネゲルとクローデルの「火刑台ジャンヌ・ダルク」は、ロッセッリーニがナポリのサンカルロ劇場のために演出したものだが、映画にも焼直されているのを、最近漸く知った。最後に鎖を壊して昇天する場面で、天から後光を差した聖人たちが揃って歌いながら彼女を迎えにくる。円状に彼女を取り囲み、ジャンヌはそのまま昇りつづけ、星になる。このステレオタイプのカトリックの宗教観には隔絶の感があるが、アペニンの谷底を走っていて、少しだけ彼らの気持ちが見える気がした。
(2月28日ミラノにて)