森から

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

高い山から小川が降る
蛇行しながら木々の縁を
通って行く
餌を求めて森の獣たちは
大も小も足跡を残す
雨よ、おまえは空のかなたから降ってきて
この土を湿らす
高い山、見渡す限り緑また緑
風がはためいてやってくる
その視界は夢を告げる
陽の光は絆の暖かさの湯気
命は永久につながっていく
それがこの地球

山の森から大都会へとずっと延びていく
力のみなぎる流れとなって
何百万というこころと関わっていく
ビルと道路には人があふれている
毎秒人が生まれ人が死ぬ
そしてたくさんの物語が生まれる
その道には人びとの吐息がある
たくさんの感情がある
ゆううつ、空虚、鎮痛
天国はいつ果てるともなく変貌しつづける
大地の値打ちは 山林を創る
わたしたちを創る 街を創る
高い山から小川が降る
蛇行しながら木々の縁を
通って街へと流れていく

製本かい摘みましては(94)

四釜裕子

小さなテーブルで小龍包とおいしいラーメンセットを食べながら、さっき買った文庫本を読んでいた。通路をすり抜ける店員さんに気づくのが遅れて右肘を胸に寄せた瞬間に、左手から本が床にすべり落ちた。あわてて拾うと、最初の数ページの端っこがしっとり濡れている。どんぶりをかすめたようだ。紙ナプキンを数枚はさんで上から押してスープの進出をいくらかでもくいとめようとしたものの、表紙カバーもまもなく波打ってきてしまう。スープを吸った紙の束はラーメン屋のテーブルの下に置かれた雑誌のにおいがする。ラーメン屋でなら気にせず読むが、間抜けに落としたこの状況ではただただ臭くて読む気にならない。とっとと食べて帰ることにした。その夜、すまないがこの本には寒空の下で過ごしてもらう。次の日の通勤電車の中で開くと、まだまだラーメン屋の雑誌のにおい。扉ページなんかスープの脂が半分くらいまでしみ込んで、光沢を放ち羊皮紙みたいだ。時間が経てばいつか臭いは抜けるのだろうか。以降、晴れた日はベランダの椅子の上で過ごしてもらっているのだが。

しかし、本がすべるって、どいうことだ。それほどあの時あわてたとは思えないし、それほど手の動きがおぼつかなくなっていたり指が乾いていたとは思えない。臭いの抜けないくだんの文庫本を左手に持って、ラーメンを食べながら読む体勢をとってみる。指を開いて親指と小指を手前に出す五点支え法でペラペラ……。なにかこう、違和感がある。ページがまとめてめくれたり、カバーと中身がずれてきたり。本文紙に比べて表紙カバーの張りが強過ぎるんじゃないか。たぶんあの時も、中身がカバーよりわずかに先に飛び出すかたちですべり落ちたように思われる。それに、表紙カバーってこんなにつるつるしていたかな。過剰なつるつるがカバー紙のしなやかさを封じ込めて、結果、中身の紙とのしなり具合の違いを大きくして、本を片手で持って読むには扱いくくさせているんじゃないか。

ちなみにこの本はPHP文庫。あの日いっしょに買った新刊のちくま文庫と新刊の新潮文庫と比べても、表紙カバーのつるつる度は高い。ラーメンを食べながら片手で読んでいたらすべって落ちてスープで濡れたことを版元に責めるつもりはないけれど、なにもこんなにつるつるにしなくてもいいんじゃないか、いやいや、これくらいつるつるでなくてはダメなんだという理由があったら是非とも教えていただきたい。やっぱり本は、帯もカバーもすっかりはずしてから読むのがいい。たいていいつもそうしているのに、帯もカバーもかけたまま、しかもしおりと広告もはさんだまま、いきなり片手で読み始めたことがこのたびの悲劇の最大かつ唯一の原因なのだろう。カバーは本の衣装ではなく包装紙だ。読む時は包みを開けて、読み終えたらまた包む。それがいいと思っている。

しもた屋之噺(144)

杉山洋一

今月は特に日本のニュースで、内政、外政ともに思うことが多かった気がします。でも、結局はもっと多くの国民が投票する必要があると思います。誰にも投票したくないから投票しない、という理由も分からないではないけれど、それでも敢えて誰かを自らが選ぶのも少なからず意味がある、と自らを省みて思っています。

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 12月某日 市立音楽院にて 
授業が終わると、学生たちが今歌ったばかりの旋律を嬉しそうに口ずさみながら教室をでてゆく。いつもこの授業の終わりに、シャランの和声課題のシャラン自身の模範解答を生徒たちに歌わせているが、学生のうちの何人かは、曲が気に入ったのでコピーをくださいと頼みにくる。
「シャランが、フォーレやデュパルクの歌曲をピアノで弾き、和声の『サワリ』の部分に来ると彼は指を上げて生徒たちを振り返る、そうすると生徒たちはみな恍惚の表情を浮かべてうなずく」
三善先生が書かれていた言葉を、毎週授業のたびに思い出す。先生はあまりシャランをお好きではなかったはずだけれど、シャランの課題を宿題に出された。余りにも和声ができなくて、「良質の解答をたくさん聴くのが一番よい」と、模範解答を自分でピアノでひくのを奨めてくださったが当時全くピアノは弾けなかったので、当然弾けたためしはなかった。そんなことを思い出しながら、ミラノの学生たちが、名前すらきいたことのない、シャランの和声課題を嬉々として歌う姿を、じっと眺めている。

 12月某日 
随分前に松本で撮った一枚の写真。オルガンの保田さんの演奏会の後で、イサジ君や新実先生と一緒に打上げ会をやった折の一枚で、すぐ傍らに微笑をたたえた上野晃さんも写っている。その上野さんが亡くなられたことを家人から知る。学生の頃から自分たちの演奏会にどれだけ通って下さったかわからない。どんな小さな演奏会でも足を運んでくださり、何某か好い所を見出しては誌上に発表していただいた。演奏会から数ヶ月遅れで上野先生が何を書いてくださったか知りたくて、音楽雑誌の発売日に本屋にかけつけた。このところ、訃報に接するたび「地獄八景亡者戯」が見たくなる。昔からの日本人の死生観が、笑いの裏側のどこかにそっと息づいているからか。

  12月某日 自宅にて
結果ありきの昨今、効率よく無駄のない勉強法が重宝される。必要最小限の知識を、最初からずばり核心をついて教わる。周辺から自分の興味にまかせて、のらりくらりと遠回りに学んでゆくのは、恐らく時代の潮流に乗っていないし、出世の妨げにもなるかもしれない。ただ、自分の興味の対象すら知らないまま勉強を終えたとすれば、自分自身とあらためて対峙させられるかもしれない。
それぞれの関連性には拘泥せず、好きなものを好きなようにメモしておき、後で読み返すと、互いに無関係だった事象間に、有機的な関わりが浮き上がる不思議を思う。一期一会というけれど、同じように人生を俯瞰してみれば、無数の点どうし何某かの有機的な関わりが生まれるのではないか。

 12月某日 サンマルコ教会にて
アルフォンソがジョルジョ・ガスリーニのピアノ曲のCDを出したので、プレゼンテーションに出かける。ガスリーニはジャズの大家で、映画音楽でもしられるが、ミラノ音楽院でカスティリオーニやベリオと同期だったとは知らなかった。カスティリオーニはピアノが上手だった話や、ベリオと交響曲の連弾をいつまでもやっていた話など、快活な老人の話は尽きない。
「自分にとってジャズは手段でしかなく」フォーレが好きだという。「イタリアはオペラばかりで、フォーレのような素晴らしい歌曲の伝統がなかった。だから自分は歌曲を書きたい」という。何の先入観も持たずにでかけた積もりだったが、彼に言われると虚を突かれた思いで会場を後にした。

 12月某日 自宅にて
この人を疎く思う人が世の中に存在するのかと思える人に今まで何人か出会ったが、ブルーノ・カニーノもその一人だ。先日久しぶりにお会いして本当に穏やかで心地よい時間を過ごしたが、あれは天性の才分としかよべない。つい最近彼の家に泥棒が入り、地下の金庫に少し残してあった日本円と宝飾品が盗まれた話を聞いたときですら、不謹慎にも微笑んでしまった。
カニーノがヴェニスのビエンナーレの音楽監督だったころ、忘れられたイタリアの近代作品の蘇演したが、特にそのなかでもエミリオが演奏したマリオ・ピラーティの「オーケストラのための協奏曲」が印象に残った。
来年家人がプロメテオSQとピラーティの五重奏を演奏しようかという話になり、行きがかり上、ピラーティの遺族とここ数日頻繁にメールのやり取りをしている。プロメテオのチェロのディロンも気立てのよさはカニーノに似ている。誰でも彼と仕事がしたくなるような絶妙な人格で素晴らしい音楽家だが、実際一緒に演奏してみると、人格と音楽は直結しているのを実感する。

 12月某日 自宅にて
大井くんのためのウェーベルン編作了。先日家人のためにアダージェットを編作したときと反対に、今回のパッサカリアは原曲の音符を忠実になぞるだけで充分。実演を聴くのと楽譜を読むのとで同じ作品から違う印象をうけることがある。作曲家が期待して書いた声部が、実演では殆ど聴き取れなかったり、その反対も当然あるが、それらの素材を全てひっくるめて、編曲とは自分で気がつかなかった曲に対する解釈を客体化させる面白みがある。ウェーベルンの点描的な音の原風景が、あれほど密度が濃く、激した音の羅列だったことに、改めて感慨を覚える。

 12月某日 自宅にて
昨日は息子の小学校でクリスマス会。体育館でひとしきり子供たちの歌をきいてから、各々教室に帰って親と子供どちらもクリスマスケーキとアルコール、ジュースなどで乾杯。小一時間でお開きになり、先生とお別れの挨拶をしたあと、ペルー人のクラスメート、フェルナンドがペルーに戻るので明日から学校には来ないと言っている、と息子が唐突にいう。驚いて本当かと先生に訪ねると、子供が3人もいてここでは到底養えないから、と寂しそうに頷いた。なぜお別れ会が出来なかったのか、事情は分からないが、フェルナンドと一緒に写真を撮り肩をおとして両親についてゆく彼の後姿をしばらく目で追った。
今日、学校の帰り道、息子と仲良しのグリエルモは、信号のところで空を仰ぐと、手を大きく振りかざしながら「フェルナンド、さようなら」といつまでも叫んでいた。

(12月30日ミラノにて)

産みたて卵につみはない

くぼたのぞみ

「鶏のえさ箱がどうしていつも落ちているのか、これでわかった!」母はそういって、真っ白な表面にまだざらりとした感触が残る温かい卵を受け取った。

 まるく、すり鉢状になった藁の上には、いつも一個か二個の卵がのっていた。それを採ってくるのが面白くて、たいくつ紛れに、ふと思いつくといつも、鶏小屋の窓から入り込んだ。本当の入口は小屋の横にある、蝶番のついた大きな板戸だ。
 その板戸を開けて鶏小屋まで行くには、山羊のいる場所を通らなければならない。屋外の草っ原とちがって、チェーンでつながれていない大きな山羊が、壁の近くの寝わらのなかに細い目をしてうずくまっている。その隣を歩いていくことになる。おまけに、山羊が逃げ出さないよう、板戸は開けたらすぐに閉めて、しっかりかんぬきをかけるのだ。もたもたしていると、起きあがってきた山羊に、どけろどけろ、といわんばかりに鼻面で背中を押される。山羊が外へ出てしまうかもしれない。そうなると手に負えない。しかられる、当然。
 
 だから山羊が小屋にいるときは、その「本当の入口」は避けて、もっぱら鶏小屋の小さな窓から入った。窓の下部は子供の胸下ほどある。窓を押し開け、ゴムの短靴をはいた片足を思いっきりあげて窓枠にかける。横の窓枠につかまって、よじのぼる。鶏小屋の床は外とほぼおなじ高さだが、入るときは手ぶらだから飛び降りればいい。
 窓を閉めて、ざわつく鶏たちのあいだを縫って奥へ進み、棚に寝わらが敷かれたすり鉢状の「巣」へ近づく。鶏が座っていないときは簡単だ。藁の上にほっこり浮かんだ卵をそのままいただく。鶏が座っているときでも両手で抱きあげると、その下に真っ白な温かい卵が見つかる。
 卵が二個あるときは一個をポケットに入れ、残りの一個を片手にもつ。それからが問題だ。手が半分ふさがった状態で外へ出なければならない。そこで窓の下側に引っ掛けてある、横長の餌箱に片足をのせて、あいている片手で窓枠につかまり、えいっとのぼる。あとは外の地面に飛び降りればいい。このとき必ずといっていいほど、ゴム短で踏んづけた餌箱が、背後でカタリと落ちる。
 というわけで卵集めのあとはいつも餌箱が落ちてしまうのだが、もちろん、そんなことまで母親に報告はしない。あるとき現場をおさえられた。それでばれた。

 痛い思いもした。いつものように窓から侵入して「巣」まで近づくと、鶏が藁の上にしっかり陣取っている。持ちあげると、これから卵を産むところだった。鶏をそのまま降ろして、下側から手で探るようにして卵のはしをつかみ、鶏のお尻からスポッと抜いた。卵は正真正銘の産みたてだ。次の瞬間、手の甲にツンと痛みが走った。鶏がくちばしで突いたのだ。鶏は赤いとさかを立て、目を剥いて、ご機嫌ななめ。無理もない。

 でもそれで卵集めのシゴトが終わりになることはなかった。卵採りは五歳の子供が存在を主張できる数少ないチャンスだった。一歳違いの兄はぴかぴかのランドセルを背負ってガッコウへ行ってしまい、話す相手がいない。遊ぶ相手もいない。幼稚園も保育園もない村の、隣家まで数十メートルもある家に暮らす子供にとって、日々は大きな時間の塊でふさがるばかり。テレビもない。電話もない。くる日もくる日も、ひとり遊びに飽きて、まだ終らない時間がつづく。

 田んぼのなかで泥をはねかしながらプラウを牽く脚の太い馬、植えられた稲株のまわりのぬるい水のなかを尻尾をふって泳ぎまわる黒いオタマジャクシ、ゴム短の靴裏で何匹も踏みつぶしたちいさなアオガエル(カエルさん、ごめんなさい)、もっこり脂っぽい毛のマントを着た羊、ちゃんと鼠を捕りぶっかけ飯を食べる三毛猫、おやつ代わりの四合びんの乳を出してくれる山羊、水路のへりからざるですくったドジョウを金網ごしに投げあたえると羽根を散らして争奪戦をくりひろげる鶏、煙突と屋根のすきまに巣をつくる雀、黄金色の稲の穂先に止まる矢車トンボ、勢いつけて草むらに踏み込むと四方八方に飛び交うバッタ、ホバリングしてアカツメクサの蜜を吸う蜂、こんもり盛りあがった小さなつぶつぶの土の小山を棒で掘り返すとおもしろいほど右往左往する蟻、釣り餌にするため排水溝わきの湿った土を掘り返すと出るわ出るわ大小のイトミミズ。

 生命をもって動くものたちのあいだに、遊び相手のいない人間の子供がひとり、陽も高く、観察時間だけはたっぷりとあった。

父のいたずら

植松眞人

 六月、母の誕生日がやってくるのを待っていたかのように父が亡くなった。八十一歳だった。そして、いろんなことがあった年をさらに印象づけようとするかのように、十二月になってすぐ母方の叔母が亡くなった。まだ六十八歳だった。父の死、住まいのごたごた、友人の困難など、矢継ぎ早にやってくるあれやこれやに身体を持って行かれそうになっていたので、叔母の死がとても日常的な出来事のようだった。
 葬儀は叔母の家からすぐ近くの地域の集会所で行われた。父の時とは宗派の違うお寺の僧侶が、ずいぶんと丁寧にお経を読んでくれた。それがとても嬉しくて、叔母の死が日常的な出来事から少しだけ特別な出来事になった気がした。
 読経が終わると葬儀屋が棺に花を入れるようにと指示をする。父の時と同じ葬儀屋だった。見慣れた顔がいたので、会釈しながら、続きますねと言うと、向こうも会釈しながら、続かんほうがええんですけどね、といかにも葬儀屋らしい困ったような笑顔を返してくる。
 葬儀屋のスタッフが祭壇に飾ってあった白い花を手際よく切り集めて、かごの中に入れていく。それを別のスタッフが参列者に配り、顔にかからないようにとか全体にバランスよく入れてくださいとかアドバイスをしてくれる。参列者がそれほど多くはなかったので、一度だけではなく、一人に何度か順番が回ってきた。みんなで花を棺に入れて、棺と叔母の亡骸のすき間をいっぱいの花で埋めてあげる。
 そろそろ棺の蓋を閉めようかと、葬儀屋のスタッフが動き始めたときに、母が棺の中に手を突っ込みながらなにやら言い始めた。隣にいた妻と顔を見合わせながら様子を見ていたのだが、母が棺から離れない。どうやら、花を入れるときに数珠を一緒に入れてしまったらしい。数珠がない数珠がないと言いながら、棺の中に入れられた花をかき回している。母の姉があわてて、他にも数珠はあるやろ、もうええがなと制するのだが、母は、あるのは安いほうで、棺桶に入れてしもたんは高いほうの数珠なんやと騒いでいる。葬儀屋が、私の横に立って、よくあるんです女性の参列の方はよく数珠を入れてしまわれるんですと苦笑する。そして、母のそばに行き、故人様が三途の川を渡れるように数珠を持たせてあげたと思っていただいて…、と取りなすのだが、それでも母は数珠を探し続けた。必死になってというのではなく、数珠をなくしたことに慌てているといった風情で。
 すると、私の妻がすたすたと母の隣に立ち、少しかがむと母の耳元で何かを囁いた。母はこれまでの慌てっぷりが嘘のように、すっと棺から離れ、私たちのそばに戻ってきたのだった。葬儀屋はここぞとばかりに棺の蓋を閉め、私たちを焼き場に向かうマイクロバスへと案内した。
 焼き場に向けて、バスに揺られている時に、私は妻に、母になんと言ったのかと訪ねた。妻は小さな声で笑いながら、お父さんが怒ってるよって言うてあげてんと答える。
「お母ちゃんの数珠がなくなったのはお父ちゃんのいたずらや。お父ちゃん、お母ちゃんの数珠をいたずらで棺桶に入れはったんや、そやけどいつまでも数珠探して慌ててるお母さん見て今度は癇癪おこしはってな、いつまで探しとるんじゃ! みんなが迷惑してるやろ! 言うてなあ」
「えっ、親父、来てんの」
「来てるよ」
 妻はニコニコと笑っている。
「そうか、来てるのか。それにしても、相変わらず身勝手なおっさんやなあ」
「けど、お母ちゃん、そう言うたらシュンってなりはったやろ。ええ夫婦や」
「それで、どこにおったんや親父は」
「せわしない人で、ずっといろんな人の周りをうろうろしてはった」
「それで、いまも集会所におるんか」
 私がそう聞くと、妻はマイクロバスの前の方を指さす。
「いちばん前の空いてる席に座ってはる。あそこで嬉しそうに笑ろてはるわ」
 私は驚いて一番前の席を見る。確かにその席だけが空いている。
「ほんまに見えるのか」
「どうやろ。でも、いてはると思えるのよ」
 妻が楽しそうに言う。
 焼き場は周囲に常緑樹が多く植えられているので、父を送ったときとまるで同じに見えた。青々と茂った木々の中に立っていると、父を送ってからの時間がなかったかのような錯覚に陥ってしまう。
 釜の中に棺を入れ、再び集会所に戻り仕出し屋から届けられた料理を食べると、ああ食べ過ぎたとげっぷをしながら叔母の骨を拾うためにもう一度焼き場へ行く。葬儀屋のスタッフがさっきとは別の部屋へ私たちを誘導する。しばらく待っていると、大きな扉が開き、焼かれた叔母が運び込まれる。骨らしきものと灰とが一緒に棺よりも一回り大きな箱の中に並んでいる。
 焼き場の係の人が、恭しく頭を下げると長い箸を持って流ちょうに骨の説明を始める。
「みなさま、本日は改めてのお悔やみ申し上げます。さて、それではただいまより、故人様のお骨を拾って参ります」
 ここで係の人はおもむろに長い箸を両手で掲げると、再び持ち直して、骨の上にあるすすのようなものを払いのける。
「たいへん綺麗に焼けておりますね。お骨もちゃんと残っておられるようです。まずは、大切なのど仏を見て参ります。ああ、ありました。綺麗にのど仏がありました。ご存じだと思いますが、のどの部分にあるお骨でございますね。これが仏様のように見えるということで、のど仏と言われております。いかがでしょうか」
 係の人は長い箸の先でのど仏をつまむと、目の高さ辺りに持ち上げて、焼き場に集まった人々に見せてくれる。係の人の滑舌がとても良く、声も通るので、葬儀と言うよりも何かのレクチャーを受けているような気分になってくる。みんなも口々に、綺麗に焼けているとか、白いなあとか、感想を言い合っている。
 係の人は、そののど仏を別の場所にわかるようにどけると、今度は頭から順番にお骨の説明をはじめる。
「これが頭蓋骨、上あご、下あご。歯は入れ歯だったのでしょうかね。あまり残っていらっしゃらないですね」
 そこまで説明すると、叔母の夫である母の弟が、半分ほど自分の歯やったはずですわ、と叫ぶ。それを聞いて、叔母の妹が、いや義兄さん知らんかったかもしれんけどお姉さん総入れ歯にしはったんよ一昨年くらいに、と大きな声で応える。
「そうですか。そうですね。はい。歯は残っていないようですね。これが肩胛骨、あばら骨、手の指の骨も綺麗に残ってますね。腰骨があって、太いのが大骸骨、ほら、これが足の指、親指ですねえ、中指ですねえ」
 途中からその空間が、陽気な乾いた空気に包まれていく。
「では、ご親族の方から順番にお骨を拾って、骨壺の中に入れてさしあげてください。足の方の骨から順番にお願いします」
 そう言われて、順番にみんなが骨を拾っていく。これも人数が少なく、私にも二度順番が回ってきた。一度目は腰骨の辺りの小さな骨を入れ、二度目には肩胛骨辺りの小さな骨を見つけて骨壺に入れた。そして、私の二度目の順番が終わった頃、母の姉が母の名前を呼んだ。
「あったわ。数珠があったわ」
 母が姉の元に駆け寄る。
「どこにぃな」
「ほれ、あそこやがな」
「見えへんがな」
「きれいに、数珠の玉が残ってるわ」
「どこや。見えへんがな」
「ほれ、あそこに」
 私は少し離れた場所から、まだたくさん残っている叔母の骨を間をのぞき込み、数珠の玉がほんとうに焼け残っているのかどうか目をこらしてみたのだが、どれが骨なのかどれが焼け残った数珠なのかよくわからなかった。(了)

アジアのごはん(60)ミラクル植物マルム(モリンガ)

森下ヒバリ

この夏に、タイで「視神経腫瘍」だと診断された。たしかに、春から目の調子が大変悪く、加齢による影響をはるかに超えて近くも遠くも視力が落ちていた。本を読んでいるとすぐに目が痛む。目の表面の痛みも、目の奥の痛みもあり、目の運動に目玉をぐるぐる回そうとしても重くてうまく回らない。何か病気だなとは思っていたが、こんな聞いたこともないような病気とは思わなかった。

で、その視神経腫瘍とは何なのか。調べてみると視神経を包んでいる鞘にできる腫瘍で、つまりはできものである。だが、場所が悪い。大きくなると視神経を圧迫して、視力低下、視野狭窄、ひどくなれば眼球が飛び出したり、視力を失ったりすることもあるという。悪性腫瘍ではなく、つまりがんではないので、転移はしない。

西洋医学での治療法は、外科手術による切除。ただし、繊細な場所なので術後はほぼ視野欠損が起こり、失明する場合も多い。え、それ手術する意味あるの。放射線治療も試みられ始めているが、症例が少ないのでまだ手探りの段階。え、それは実験台になれという意味ですか。

迷わずタイの薬草で治療することにして、バンコクの友人に、合う薬草をLET(オーリングテスト)でチェックしてもらう。「これはどうだろ。お、これはいいね。45日間でいいよ」と示された薬草は、タイ語で「マルム」(学名はワサビノキ属「モリンガ」)という木の、葉っぱを粉末にしたものである。マルムはタイでは、ごくふつうに生えているマメ科の高木で、葉っぱや若いさや豆を食べる。薬草というより食用の利用が多い。以前よく行っていたサメット島のアオキウビーチにこの木がたくさん生えていて、木からぶら下がっている若い緑色のさや豆をよく見かけたものだ。ドラムスティックという別名があるように、豆は細長い。直径は1.5〜2センチで長さは30センチぐらい。市場で売られている姿はあまり見ない。買うよりも庭先で取って食べる、もらって食べるというたぐいの野菜だろう。なので、一般的な料理屋にはメニューにのっていない。

その豆が食べられると知ったとき、どうしても食べてみたくて、タイ人の友達のスリンの家でマルムのゲーンソム(辛くて酸っぱいシチュー)を作ってもらったことがあった。煮込まれたさや豆はとろんとしてなかなかおいしい。豆は皮を剥いてさやごとぶつ切りにして煮込む。筋が残っていて、歯でしごくようにして食べる。

スリンの夫のソムサクが「ちょっと食べにくいね」と言うと「ソムサクのお母さんは子供に甘いから、食べやすいように筋をみんな取ってからゲーンソムにしてたんでしょ。でも、筋は深く食い込んでいるから、取ったら食べられる実が減っちゃうし、この筋にひっついている果肉がおいしんだから」とスリンにやり込められていた。

豆も葉っぱも大変栄養価が高く、タンパク質、亜鉛、鉄分、カルシウム、カリウム、ビタミンA・E・K・Cを豊富に含む。さらにポリフェノールもギャバも豊富なミラクル植物なのであった。成長も早いらしいので、庭があればぜひ植えたいところだが、日本では沖縄以外はむずかしそうだ。5℃以下では枯れてしまう。

これまでは野菜としか考えていなかったマルムだが、これから薬草としてお世話になるのだな。よろしく頼むよ、マルムちゃん。というわけで、薬草としてのマルムを調べてみると、栄養価同様、すばらしい薬効を持つ植物であることがわかった。

マルム(モリンガ)はインドの伝統医療アーユルヴェーダで何千年も前から腫瘍治療に重用されてきた薬草であり、東アフリカ、アラビア地域でも紀元前の時代から利用されていた。日本では「西洋ワサビノ木」と訳される。原産は北インド・パキスタン。

薬効はというと、民間薬としての評価だが、まずは強力な毒出し効果。腸の働きを高め、免疫力が上がる。抗腫瘍、抗がん効果。抗菌作用があり感染症にも有効。血糖値・血圧を安定させる。アレルギー体質の改善や自律神経の安定効果。冷えやむくみが解消されたり、更年期障害にいいという話もあるが、全体の免疫力が上がって体が活性化するためではないかと思われる。このほか肝機能を高める、リュウマチ・関節炎にもいい、とすごい薬効だ。お乳の出が良くなる一方、堕胎剤として使われることもあるので、妊婦は飲んではいけない。ビタミンKが多いので摂取制限のある人も注意すること。

わたしの「視神経腫瘍」には45日間、朝晩葉っぱの粉末2カプセルずつ飲めばいいとのこと。「え〜と、飲んでいる間は、薬の効果を高めるために、甘いものや肉類を食べないようにするといいよ」「え、菜食?」「う〜ん、セシウムの入っていない魚や発酵している卵は食べてもいい」

この助言はカンジタ菌の予防のためということだったが、その後キャンベル博士の「チャイナスタディ(邦訳は『葬られた第二のマクガバン報告』)」を読んで、動物性タンパク質ががんの主要な原因だ!と確信したので、9月に日本に戻って薬草治療に入るに当たり、乳製品と肉食をやめることにした。

視神経腫瘍はがんではないが、身体の異物であることに変りはないので、がんに有効な食生活にも有効だろう。そして放射能が降り続ける日本でがんを予防するためにも、いいんじゃないか、と。やはり失明、視野狭窄などという事態は出来うる限り避けたい。わたしは平静を装いつつ、内心ちょっと動揺しながら「視神経腫瘍」をなくすための養生生活を始めたのである。

養生の食生活の話は次回にすることにして、マルム(モリンガ)治療の経過を書こう。まあ、葉っぱの粉末のカプセルを毎日朝と晩2カプセルずつ飲むだけなので、何の苦労もない。飲んだ後、ちょっと胃が重い感じもするが、まあ問題なし。飲んですぐは取り立てて何の変化も感じられなかった。

2週間ほどたったある日、目を動かすときの重い感じが、半減しているのに気が付いた。むむ、これは効いている‥。45日が経過して、さらに目が軽くなったのを感じる。治ったのかもしれない。とにかく、かなり腫瘍は小さくなっているにちがいないぞ。目の奥の重い感じがない。少しカプセルが残っていたので、もう1週間ほど飲み続ける。

50日ほど飲んで、もらった薬がなくなったので、終了。目が軽い。本を長時間読んでも、あまり疲れない。やった!

1か月ほどるんるんと過ごしていたが、10日ほど前にライブで神戸三宮の町へ出かけたところ、目が痛くてたまらなくなった。鏡を見ると目がかなり赤い。神戸は京都よりもpm2.5が日常的にかなり高く、空気はどんよりかすんでいる。「かなり強烈に目に来たなあ‥」と思っていたら、その日からまた目が疲れやすくなってきた。

わたしはpm2.5の感受性が強く、まず目に来る。ぜんそくのように胸が苦しくなることも多い。この視神経腫瘍になったのもpm2.5(放射能入り)のせいではないかと疑っている。まだpm2.5が世間に認知されるかなり以前から、(黄砂はなんとか認知されていた頃)黄砂が飛んでくると、気分が重い、頭が重い、胸が苦しい、目が痛いという全身不調になるのだが、黄砂が観測されていない日でも同じような症状が起こることに気がついた。山の方を見ると白くかすんでいる。わたしは目に見えない黄砂と呼んでいたが、それがpm2.5だったのである。

強力なpm2.5のショックでまた腫瘍が活動開始したのかもしれない。マルムをもう少し飲んだほうがいいような気がする。今度は、日本でも入手可能なモリンガ製品をネットで探して、一番品質がよさそうなノニインターナショナルのセブ島産モリンガの粉末を買ってみた。粉末を細かくしてこれまでのものより3倍吸収率が高い、というエクセレント製品にしてみる。いままでカプセルで飲んでいたので、みどり色の粉末をお湯に溶かして飲むというのは初めての飲み方だ。う〜ん、もろに青汁の味。まあ、飲めないことはないな。それに、みどり色の粉末をかきまわして飲んでいると、モリンガの葉っぱを飲んでいる、というリアリティがあっていい。

朝方、猛烈におしっこにいきたくなって目が覚めた。あれ、昨日寝る前に水やお酒を沢山飲んだりしていないのに‥あ、エクセレント・モリンガのせいか。毒出し効果が高いものは、おしっこがよく出るようになるのであった。もちろんおっきい方もすこぶる快調だ。これはかなり効きそう‥。

夢での対話

冨岡三智

亡くなった人が夢に出てくるのは、今までだいたいお盆やお彼岸頃、あるいは何かの前ぶれだったのだが、昨年の冬至に続けて父と妹の夢を見た。父の夢を見るのは初めてで、妹の夢も5年ぶりくらいだが、冬至に亡き人の夢を見るのは初めてだ。冬至は陰極極まって陽に転じる日で、一陽来復とも言う。これらの夢は私に陽に転じよというメッセージなのかも知れない。

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父は昨年1月に亡くなったのだが、余り長患いもせず、また父の仲の良かった友達(悪ガキ3人組)も前後して亡くなったので、あの世で楽しくやって、私の夢にはきっと出てこないだろうと思っていた。夢の中で、私は父の蔵書を処分しようと家の表でまとめている。町内会の人が、近所で付け火が続いているから気をつけてと言いに来る。すると急に父が現れて、危ないから早くごみ処分場に運んだらどうや、と言う。父は鼠男と母に言われるくらい物をためこむ人だったのに、夢では正反対の性格なのが可笑しい。父が一足先に陽に転じたのかもしれない。

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妹は15年前に私が最初の留学から帰国後に亡くなっているが、ときどき夢に出てくる。長くなるけど全部紹介しておきたい。妹は8月に亡くなり、次の春のお彼岸に出てきたのが初めてだ。夢の中で、私は以前住んでいた家で母の鏡台に向かっている。幼い妹と私はよくこの鏡台の前で遊んだものだ。鏡に妹が映って、私は「帰ってきてくれたんやね」と声をかける。妹は無表情で無言。

14年前、初盆かその後のお彼岸頃に見た夢。妹は顔も全身も包帯でミイラみたいにぐるぐる巻きになって目だけが出ている状態で、病院の窓から外を無言で眺めている。私は妹を救い出そうと、そこに向かっているところで映像が切れる。

13年前、私は河合隼雄の『明恵 夢を生きる』1冊を手荷物に入れてインドネシアに再留学する。妹のことでいろいろと後悔することがあって、私は毎晩毎晩この本を読み返した。石化していたものが生きた姿に還るというテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたことだと言う。私もミイラの活性化に向き合わなくてはならないのだろう。そして、ミイラを救い出そうとしている私は、逆に、救いを求めていたのかもしれない。

11、2年前の夢。開店前のイタリアン・レストランで、妹が店内の掃除をしている。太陽光が入る明るい店内に、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロス、中央に白いローマ風彫刻。奥から出てきた店のオーナーの顔は…、私のジャワ舞踊の師匠だ!オーナーと妹は楽しく会話しているが、私の存在には気づかない。急にオーナーは私の肩にスーッと指を滑らせ、「ホコリ払っとけよ」と指摘する。妹は「はい」と明るく返事して、私にハタキをかける。どうやら私はこの白い彫刻で、道理で2人とも私に気づいてくれないわけだ。妹が夢で声を出したのはこの時が初めてだ。笑顔だったことといい、未知の人ではなく私のよく知っている人と話していることといい、夢がカラ―だったことといい、私の中の妹が活性化してきている。もっともこの夢では私の方が石像になっていて、妹と対話できるのはもうちょっと先になりそうだ…。

10年前、留学を終えて帰国する(2月)直前の夢。私は大阪のツインビルにいる。その中は巨大な吹き抜けホールになっていて、地上からエスカレーターがはるか高くまで伸びている。それに乗ろうとする人の列が渦巻状に続いてホールを埋め尽くし、その末端に私もいる。ふと見上げると、エスカレーターに妹が乗り、笑顔で手を振りながら私に「先に行くね」というジェスチャーを送っている。妹は幸せに、ぶじ昇天したのだと私は感じた。私の順番はまだ当分来ない。私が行くまで待っていてねと手を振りつつ、妹はもう夢でこの世には現れないだろうなと思う。

帰国して私は大学院に入った。その夏にインドネシアに行き、お盆頃に見た夢。院生室のドアを開けた私は、中に妹が座って他の学生と談笑しているのを見つけて驚く。思わず名前を呼ぶと、妹はにっこり笑いつつ、無言で自分の胸元の名札を指差す。と、そこには違う名字が書かれていた。別の家に生まれ変わってきたのかもしれない。新たな家族と一緒なら、今度こそ妹は私の夢に現れてこないだろう…。

7年前の夢。私と妹は白いポロシャツを着て、新緑の山をダムを目指してサイクリングしていた。途中で自転車から降りて休憩していると、妹がだしぬけに「みっちゃん(妹は私のことをそう呼んでいた)、プロジェクトしようよ」と言う。妹が私に語りかけてきたのはこれが最初だが、私の背中を押してくれたのかも知れない。実はその夢を見た前後にAPIFellowship採用の内定通知が来ていた。プロジェクトとはAPIのことだったのかもしれない。その年の夏から1年、私は再度インドネシアに滞在する。

5年前、APIの事業も終わり、レポートも書き終えた。プロジェクトでは何だかんだあり、ふと気づけば、妹が亡くなってもう10年も経っていた。そんな頃に見た夢。私は、妹がまだ生きていて遠くの病院にいることを知る。待ってて!私が迎えに行くから!と私は慌てふためいて、車を運転する。けれど、病院に至る道は車幅よりも狭く、道路の端はペンペン草だらけの土手。さらには目の前に丸木を渡した橋が現れ、この橋も車幅より狭い。それでも私は必死で運転するのに、どうしても目的地に近づけない。病院の窓のそばには、この時も包帯で全身ぐるぐる巻になった妹が立っていて、眼下の病院の入口を眺めている…。14年前の夢に逆戻りした感があるが、それよりも状況がひどくて私は相当行き詰まっていたみたいだ。

たぶんその頃の、別の夢。妹は女優で、私は監督。時代劇で、ある民家で妹が病気あるいは死に瀕して1人で布団に寝ている場面を撮っている。私はいきなり天井の汚れが気になって撮影を中断、アシスタントか誰かに掃除を命じる。彼は、妹が寝ている布団の横に高い三脚を置いて上り、天井を拭きはじめる。その布団に寝たままスタンバイしている妹の上に、時々天井からホコリが落ちてくる。私と妹は全然しゃべらない。妹も布団を深くかぶっているので、姿が見えない。

以来、ずっと妹の夢を見ないままに時が過ぎた。5年前に生じた行き詰まりは、不良債権のように塩漬けになったまま、進展がなかったということだろうか。それが、先日の冬至の父の夢の後に妹の夢を見た、しかも2日続けて。初日の夢では、父が亡くなって私と妹が残されていると(現実には妹が先に逝っているのに。それに母がどうなったかも不明)、可哀想で可愛いい妹のために親戚知人がこぞって学校での仕事(事務職?)を斡旋しにやってくるという話。一方、皆からしっかり者と思われている私は全然構ってもらえず、むくれている。これは、小さい頃の私と妹の様子そのまんまで、夢から覚めた後も、大人気ない自分にがっくりくる。2日目の夢では、妹は私に「やっぱり、リンゴのお菓子の店を出したい」と言ってくる。妹はケーキを焼くのが得意だった。前日の夢の続きかどうかは不明。そのセリフの前後の文脈も不明。夢の中で妹が私に話しかけてくれるのは、「プロジェクトしようよ」以来2度目である。私は、誰かを助けてリンゴのお菓子の店(に象徴される何か)をやりなさいと言われている気がする。それで一陽来復に繋げなさいということなんだろうか。

音の記憶

大野晋

この原稿をテレビの第九の放送を聴きながら書いている。日本の師走に恒例のベートーヴェンの交響曲第九を聴くという(もしくは第九を演奏するという)風習は日本だけのものらしい。一説によると、オーケストラのボーナス稼ぎという話もあるし、派手やかに大編成のオーケストラに合唱を交えて終える演奏形態がなんとなく景気良かったとか。おそらく、マーラーの流行る前にできた風習だから、ベートーヴェンなんだろうけれども、マーラー以後ならおそらくマーラーの第八番が選ばれたのかもしれない。ただし、今の大ホールならいいが、昔の日比谷や紅葉坂のような小規模なホールだったら観客も入らずに大赤字だったろうから、風習として根付かなかったかもしれない。その前に、演奏者全員がホールにはいれたかどうかすらも怪しいし、両方のホールにはパイプオルガンもないときている。どう考えても、年末に千人の交響曲は根付かなかっただろう。

2013年はベルディとワグナーの生誕200年だったと放送で言っているが、私にはそれほど昨年は二人の音楽を聴いたという記憶はない。それよりも、都響がエリアフ・インバルとマーラーチクルスを昨年から始めた関係で、ずっとマーラーを聴いていたような気がしている。これほど、集中してマーラーを聴くことは今までなかったので、ようやく、マーラーの音楽が違和感なく聴けるようになってきた感じがする。そういえば、大学時代の仲間が学生オーケストラにトロンボーンで参加していて、よくマーラーを私の部屋や自分の部屋で聴いていたものだ。当時はあまり面白さがわからなかったが、今なら彼ともっと違う感想が交わせるような気がする。

面白いもので、音楽は知れば知るほどに面白く聴くことができるらしい。マーラーは得意でなかった私は、なぜか、学生時代からプロコフィエフは平気だった。ショスタコーヴィチは今一つだった(ただし、すべての交響曲をきちんと通しで聴いている)けれども、プロコフィエフはメロディアのレコードで、たくさん集めている。そういえば、洋盤レコード店も随分と少なくなった。ま、今はレコードではないのだろうけれども。

子供時代はエレキギターの音が苦手だった。それがいつ頃からか平気になった。

最初の強烈な音の記憶は、テレビの「ジャングル大帝」というアニメ番組の冒頭の音楽なのだろう。それが、富田勲の作曲だと知ったのは後年のことである。広大なジャングルの夜明けを暗示するトランペットの咆哮に、どきどきとしたものだ。

まあ、そう考えると、音楽は味覚とよく似ているのかもしれない。小さな頃は、苦いものや辛いものは苦手だけれど、年を経るにしたがってだんだんと感覚が変わり、平気になりうまいと思えるようになる。最初飲んだビールは苦いが、大人になって飲んだ暑い日のビールはとてつもなくおいしい。

とは言え、味わう機会がなければ、知ることもできない。なにか、ファンだけが一部の音楽を聴くような現代の風潮を考えると、もっと幅広い音楽を聴く機会があってよいように思う。

もうすぐ除夜の鐘が鳴る。
ここは横浜に外れの山の中だけれど、耳を澄ませば、港に停泊する船が年明けとともに発する汽笛を遠くに聴くこともできる。
ひとりひとりが音の記憶を持つためにも、静寂と機会はもっともっとあっても良いように思う年の瀬である。

小石の星の夢 覚書

璃葉

見知らぬ女性が丸椅子から立ち上がり、黒い布を広げ、何かをばらまいている。
金平糖をぶちまけたみたいに、赤と青の粒がざあざあ散らばる。

最近、頻繁にこの夢を見る。
夢と夢の繋ぎに見る時もあれば、破片のように、違う夢にくっついているときもあって、なかなかしつこい。
女性がばらまいているのは小さな石だった。
青い石は温度が高く、赤い石は極めて冷たいのだ、と、女性は手の動きを止めずに教えてくれた。
日によってわけのわからない言葉で話しかけてきたり、私の姉と並んで酒を飲み、無視される時もあったが、石の温度の説明だけは欠かせないようだった。
小石は星のように煌々と輝きだした。触ってみると、道端に落ちている石ころの感触で、その平凡さに少しがっかりする。
温度の違いも解らなくて、尚更がっかりする。
小石を一直線に並べてみたり、サソリの模様をつくって遊んだ。
女は私の横で、酒を飲みながら唄って踊り狂っている。後ろには山脈が浮き出てきた。

列車と風の音で目を覚ますと、まだ夜明け前。
部屋は黒に覆われたまま、石は無く。

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新しい年に希望の話を

若松恵子

新しい年なので、希望の話をしようと思う。

年の瀬に、1通のたよりが届いた。浦和商業高校定時制の3年間を追った映画「月明かりの下で」に登場していた平野先生からだった。

「月明かりの下で」は、定時制高校の、あるクラスの入学から卒業までの3年間を追いかけたドキュメンタリーだ。春、入学式の会場に入場してくる彼らの姿はあどけなく、まだ弱々しく、だいじょうぶかなと少し心配になる。さまざまな事情で夜間高校に通ってくる彼らが自分を立て直し、友達をつくり、しっかりと大人になって卒業していく姿と、彼らにとってかけがえのない場所である夜間高校が統廃合でなくなってしまう事が淡々と描かれていた。文化祭、太鼓クラブ、通学できなくなってしまうクラスメイト・・・・。

赤点で卒業できないかもしれない生徒たちにむかって、「とにかく、テストをがんばって、卒業しろ」と言って、泣いてしまった平野先生の姿が印象的だった。卒業することが大事なのかどうなのか、答えなど誰にもわからない。でも、卒業してみなければ、次に進めないということもある。「卒業できなかったこと」につまずかないために、そんなささやかな理由のためだけなのかもしれないけれど。人生のあらゆる場面で、明確な理由などわからないままに乗り越えなければならない問題はたくさんあって、とにかく歩いてみるしかなくて、何とか歩き始めた若者たちの姿と、それを見守る大人たちの姿に、私は胸を打たれたのだった。

浦和商業高校定時制が無くなってからも太鼓クラブは継続し、太鼓集団「響(ひびき)」となって沖縄までの旅公演を行う事になったお知らせが届いたりしていたが、今回のおたよりでは、「響」のメンバーがスタッフとなって、たくさんの人の居場所となるカフェを開いたといううれしいお知らせが載っていた。

ひとりでも多くの人が、このカフェでお茶を飲んでひと休みできるように、「保留珈琲」というしくみを取り入れると書いてあった。少し余裕がある時に1杯のコーヒーに対して2杯分の代金を払い、誰かのための1杯分にするというしくみだそうだ。発祥はイタリアということだ。平野先生は学校を退職し、この仕事に取り組み始めたということだ。平野先生の決心。夜間高校が廃校になってしまうことに、胸が塞がれるやりきれなさを感じていたが、カフェが誕生するお知らせを聞いて、希望を感じた。

ノートに書きつけておいた山田ズーニーの文章を想い出す。
「ほぼ日刊イトイ新聞」というホームページのなかの、「おとなの小論文教室」2012年1回目のコラムの中にみつけた言葉だ。

人生で、多くを失い、多くを手放し、
現実にやられ、受け入れ、明らめていった果てに、
「それでもこれだけは」
と湧き上がってくるもの、
それが「望み」だ。

望みは、
捨てても 捨てても、失わないもの、
手放しても 手放しても、自分のものである。
たいていは、じぶんが気づかず、
ずっとがんばってきたところにある。

望みを自覚したとき、
人や社会のほうからも、
「やあ、それはいいね」と光が射すような瞬間がある。
そこに希望がある。

「ひびきカフェ」の案内を見た時、「やあ、それはいいね」という光が、まさに私の心のなかにも射したのだった。私も、「これだけは手放したくないもの」をしっかり持ちながら、自分の仕事に取り組みたいなと思っている。

※HIBI Café(ひびきカフェ) 埼玉県桶川市南2-4-13 2014年4月オープン

「ライカの帰還」騒動記(その3)

船山理

昭和64年。すっかりクルマ業界にも慣れ、数年前にホリデーオート誌で副編集長になっていた私は、月に1度開かれる管理職会議で思わぬ展開に遭遇する。そのときの会議のテーマは、今後の新事業の展開についてだったのだけれど、林社長はいきなり「コミックの専門セクションをつくる」と切り出したのだ。え? である。この騒動記の最初に書いたように、ボクは過去に林社長の命を受けて「コミック編集部設立の可能性」についてレポートを提出し、ムリですよと言った経緯がある。何で今ごろ蒸し返すかな。

林社長は「ということで、コミックに詳しい船山クンに是非とも検討を願いたいと思うのだが」と、ボクに向かって言う。当然のことながら、一同の目がボクに集中する。あちゃちゃ。そういう話だったら、何で事前に話しといてくれないかなぁ。いきなり検討しろと言われても、メチャクチャ困る…。それでも何も言わないわけには行かないので、ちょびっとイヤ味を交えて、ボクなりの意見を述べさせてもらった。

「ホリデーオート誌は、皆さんのご協力も得て実売り部数は安定を保っております。が、予断は許さない状況に変わりありません。かつて10数年前…ですか、社長からウチの会社でコミック雑誌の設立は可能か? というリサーチを仰せつかり、様ざまな観点と諸事情から、次期尚早であると報告させていただきました」ここで、一同、そんなことがあったの? という目をボクと林社長に交互に向けた。そうなんだよ〜、聞いて下さいよ。

「正直申し上げて、あのときと現在の状況は、まったく変わるところはないように思えます」ここで林社長の眉毛が片っぽ、ピクンと上がった。「…ですが、検討せよというお話ならば、ひとつだけ可能性として、こういうカタチならあり得るのでは? という意見を述べさせていただきます。先年、ホリデーオート誌で『I CAN C!』という全12話のコミックを掲載し、まずまずの評価を得ることができたと思っています。このように当社で発行している出版物に、その雑誌に見合ったコミックを製作し、供給するという専門の部署をつくることです」

「これならコミック雑誌を新たに立ち上げる際の膨大なコスト、そして人員も大幅に削減できます。もちろん掲載する雑誌の編集部の同意を得ることが必要ですが、専門誌に掲載する以上、他のコミック誌では読めないオリジナルな作品が期待できること、また母体があることで読者の反応が読みやすいこと、それにより単行本化への判断が下しやすいといったメリットがあると考えます」前から考えていたわけじゃないけど、やるとしたらこんな方法しかないよ、と言ったまでだけれど、会議室はシ〜ンと静まり返ってしまった。

ややあって、林社長がポンと沈黙を破った。「皆んなはどう思ったかな? 私はいいんじゃないかと思う。そのカタチで来年の春に行けるかどうか、さっそく役員会議にかけてみよう」来年の春だぁ? 言い忘れたけど、この会議はその年の年末に近い。その後、役員会議とやらではトントン拍子に話が進んだらしく、しばらくしてボクは役員室に呼び出された。主旨は以下のとおりだ。来年、4月1日をもってコミック編集部を設立する。その際に編集長を務めること。ボクの後任を含めて人事に意見があるなら聞いておく。あとは会社に一任すること。ひぇ〜、である。

「と、いうわけなんだけどさぁ…」困ったときの相談相手は、小学館のいつもの友人だ。図らずもコミックという自分のフィールドにやってくることになったボクに、彼は鷹揚に言う。「だ〜いじょぶ。わかんないことはオレに訊け。ぐふふっ」ぐふふ、じゃないよ。でもヨソの会社のことなのに、親身になって話を聞いてくれるのは、すごく有難いし頼もしかった。「で、とりあえず、会ってほしいヤツがいるぞ」彼は、いきなり作家さんを紹介してくれると言うのだ。

てっきり小学館系の人なのだと思っていたけれど、紹介してもらうことになったのは、何と彼のライバル会社の講談社系だと言う。しかも小石クンというその作家さんは、講談社ではかなりハードルの高い「ちばてつや大賞」を受賞した新人だというではないか。え? なんでそんな人が? 講談社は何してるの? 事情を訊いてみると、けっこうフクザツだ。小石クンを大賞に押したのは、講談社のある雑誌の編集長なのだけれど、社内の派閥抗争に敗れて失脚し、現場を離れてしまったという。

その後、新体制となった編集部では、失脚した前編集長が選んだ新人を使おうというムーブメントが消え失せてしまい、普通ならば前途洋洋だったはずの小石クンを、宙に浮かせてしまったというのだ。作家さんが「描きたい」というパッションはナマモノだから、それが薄まらないうちに活動してもらわないと、実にもったいない。そこに小学館の友人が救いの手を差し伸べたというわけだ。ところがタイミングが悪すぎた。

当然ながら小学館でも新人賞受賞作家はいる。その受賞者にしたところで、すぐに連載ページが用意されるわけではない。人気雑誌は人気作家で埋め尽くされているのだから、新人作家が割って入るには、既存作品の連載が終了するといったチャンスがないと、うまく滑り込めないのだ。せっかく救いの手を差し伸べたものの、小石クンに待ってましたとページを与えられる雑誌は、小学館にもなかった。

そこで小学館の友人は、小石クンに「専門誌だけどさー、きっと自分の描きたいものが描けるよ。ウチに空きができるまで、悪いけどそこでやっててくんない?」と言った(らしい)。まー、いいんだけどね。こっちにしたって、講談社の新人賞作家に描いてもらえるチャンスなんて、クスリにしたくたってあるわけがないのだから。

紹介してもらった小石クンは、人なつっこい爽やか系の人で、絵柄を拝見させてもらった後、彼の好みも加えて「バイクもの」を月刊オートバイ誌に描いてもらうことになった。さっそくプロットを考えてもらい、それが出来上がったところで打ち合わせしてシェイクダウン。これをオートバイ編集部にプレゼンし、編集部の意向も反映させながら細部に修正を加えて行くというわけだ。もちろん編集会議にはボクもオブザーバーとして出席させてもらい、現在の月刊オートバイの読者傾向、ブームなどをこちらも学習する。うん、何となく仕事らしくなってきたぞ。

さて、しずしずと動き出したコミック編集部だけれど、会社は編集部員としてひとりだけ回してくれた。ところが回されたのは、どこの編集部でもダメを出されたという、いわくつきの男だったので、まったくアテにならない。スタッフは事実上ボクひとりである。だからと言って、編集部として機能するには連載1本だけではカッコがつかない。せめてあと1つ2つは連載を立ち上げないと、社内で存在を認めてもらえない。ちょっと焦る。

次のターゲットは、月刊カメラマン誌だ。ここの編集部には1年だけ在籍したことはあるけれど「カメラもの」のコミックは、ちょっと想像がつかなかった。「バイクもの」と違って、あまり前例がなかったこともある。あれやこれやと考えているうち、ふと親父のことを思い出した。親父は朝日新聞社で定年まで出版写真部長を務めた報道カメラマンだ。太平洋戦争では海軍で学徒出陣し、父親から大学の入学祝にもらったライカを首にかけたまま、沈没する空母から脱出したというエピソードを、子供のころ聞いたことがある。

これってコミックになるのでは? 退職後はブラブラしているはずの親父を訪ねて実家に出向き、ざっくばらんにお伺いを立ててみることにした。コミックは新聞連載の『クリちゃん』と『サザエさん』くらいしか知らない親父だったけれど「うん、お前が原作やるならいいぞ」と言ってくれたので、さっそく取材にかかる。親子と言っても、自分の仕事のことは語りたがらなかった親父だけれど、戦後、朝日新聞社に入社してからのエピソードには、ホントかよ? と思うようなものがいっぱい聞けた。

これは行ける! 直観的にそう思えたこともあり、3〜4話分をいっきに書き上げて、冒頭にシノプシス(粗筋)を加えたものを小学館の友人に見てもらうことにした。彼の第一声は「こんな話、どこで拾ってきたんだ?」であり、いつになく厳しい目でボクを見る。いや、これウチの親父の実体験なのよ、と言うと、しばし目をむいている。そして「誰の絵を想定して書いた?」と訊くので、石川サブロウさんだよと、正直に言った。石川さんは小学館の作家ではない。集英社「少年ジャンプ」の新人作家さんである。

石川さんは『北の土龍』という画学生が主人公のコミックを描いていて、この作品はボクのお気に入りだった。さすがに他誌の新人作家の連絡先までは知らないだろうと思ったけれど、彼は手帳をパラパラとめくり、紙切れに電話番号を記すと「すぐにアポを取れ。頑張れよ」と言ってくれた。彼も「これは行ける」と思ってくれたに違いない。ボクはその紙切れを丁寧に名刺の間に挟んで、小学館の本社を後にした。歯車が音を立てて回りだした気がしたのだけれど、世の中、そううまく話は進まないことは、後日、身を持って知ることになる。

オーネット・コールマン、ハーモロディックな夢(1)

三橋圭介

オーネット・コールマンが、自身の音楽理論ハーモロディックについてはじめて触れたのは、1972年に発表したアルバム「アメリカの空」のレコード解説だった。だが、この理論は1950年代初頭、すでに頭のなかにあった。かれによれば最初のハーモロディックは、「ジャズ来るべきもの」(1959)のなかの「ロンリー・ウーマン」(1954年作曲)だと述べている。当時は理論としてではなく、おそらく内的なロジックであり、漠然とした何かだったのだろう。ただ、そこには従来のジャズを超えるコードの多重化、変則的なテーマの小節数、タイミング、音色、ピッチ、空間に対する逸脱があった。

ハーモロディックとはharmony・motion・melody(ic)から取られた造語であり、コールマンはそれを一冊の本にまとめようとした。しかしうまくいかなかった。その後、何人かがかれと関わり、細切れになった断片を寄せ集め、理論として構築しようと試みた。しかしあまりにも多岐にわたるため、未完に終わった。

1972年以降、ハーモロディックは一部の人たちのなかで議論の的となり、さまざまな解明が試みられている。コールマン本人の言葉を中心に、双子と呼ばれた初期の仲間ドン・チェリー、そしてブラッド・ウルマーなど側近へのインタビュー、また学者、評論家などの研究など、さまざまなことばがハーモロディックを巡っている。しかし、この理論を不明確にしているのは、本人のあいまいな発言にある。

「ハーモロディックのソロ、あるいはアンサンブルをきくとき、メロディに耳を澄まし、1つのアイデアからさまざまな方向にメロディが変化していくのをきき取らなければならない」。また「人それぞれのロジックに基づく肉体的・精神的な行いが音の表現に、ひとりないしはグループによるユニゾンの感覚をもたらすこと」。さらに「ハーモロディックとは、モデュレーション(主調の転調)なしに、きき手の原理・原則をもたらすことを意図した音楽です」。より具体的なのは、フリー・ジャズ系のベーシスト、ペーター・ニクラス・ウィルソンの書いた「オーネット・コールマン 人生と音楽」だろう。かれはコールマン自身の書いた譜例なども用いながら、ハーモロディックを解説している。

たとえば、4つのパートあるとするなら、まずヴァイオリン記号のド・レ・ラ・シをテノール記号、バス記号、アルト記号のそれぞれで読み、水平のメロディ、垂直のハーモニーを作るというもの。さらにハーモロディック・モデュレーションによるユニゾンの多用によって多層化され、複雑な響きを作りだす原動力となる。このやり方は即興のないクラシカルな室内楽やオーケストラ作品、「フォームズ・アンド・サウンズ」「スペース・フライト」「アメリカの空」などで主に実践されている。

これらの作品は大雑把に無調に聞こえるが、シェーンベルクのような調性の限界を越えようとして生まれた無調性ではない。根底にはコード的なダイアトニクな感性が常に働いている。4パートの曲なら1小節のなかでAの楽器がCのコードに基づく旋律(主要メロディの細胞に基づく)、別のB、C、D楽器にはそれぞれ別のコードに基づく旋律(主要メロディの細胞に基づく)が割り振られ、それらが多層化され、結果として無調性にきこえる。現代音楽の世界でたとえるなら、アイヴスのポリトナリティ(多調性)と同じ効果だ。こうしたハーモロディックの動機的な展開とモデュレーションは、パントーナル(汎調性)を前提としたポリトーナルによって、各パートのメロディ、動き、ハーモニーの等価性を保証している。

ただしジャズの即興に基づくトリオやカルテットでこうした技術を実践しているわけではない。「ロンリー・ウーマン」はテーマのくり返しが終わり、コールマンのソロの部分、チェリーがカウンター・メロディ(ベース・ラインのユニゾン)を演奏するが、ここでコードの重複が起こっている。その距離はDm/Gm・E♭m/Gm#5・Em/Gm6(チェリー/コールマン)となる。また、基調はDだが、コールマンはハーモニック・マイナー・スケールやメロディック・マイナー・スケール、そしてDmのペンタトニック・スケール(♭5)なども使用している。これらが微妙にズレた音程、リズムの入りなどを含めて、コールマンを当時のジャズと大きく隔てていたもので、衝撃として受け取られた。

この「衝撃」はコールマンの感性だったのか、それとも戦略だったのか?おそらく、「内的なロジック」という感性を戦略に転化させたのだろう。というのもコールマンは、長い間アルト・サックス(E♭)が移調楽器であることを知らずに演奏していた。1960年のガンサー・シュラーのラジオ・インタビュー(BBC)で認めている(ここではまだハーモロディックという言葉はでてこない)。つまり正しいと思って弾いている音は、実際に出ている音とは違っていた。結果としてそうしたズレに慣れ親しみ、感性として鍛え、後に、戦略としてのハーモロディック理論へと導いたといっていいだろう。先に述べた音部記号の読み替えが、読み違いから生まれたということは容易に想像できるし、この発見はビ・バップ以降のジャズを乗り越える原動力であり、可能性ともなった。(つづく)

110あおみどり、オールー――新年

藤井貞和

あおみどり    疲れ
おばー  その舟の叫び
せんねんの松  枯れて
亀が歌する   こころ
みどりばは    灰に
鶴や どこに舞いおさめ
ゆくえ    しらすな
しらすなや  ながてを
しゅんかに しずむ歌者
うちすてられて さんし
んの火器 こえのなぎさ

(「おすれいぷって、おぼえちゃって、ははは、のーにいんぷっとしたらば、わらっちゃうよな」。「おすぷれいでしょ。おすのぷれい。おぷすれい、なんていうひともいたさあ。ははは、おぼえらんない」。「ひょうてきの、むらさきの、ちょうじょうに、つるがまいかたをつとめる。かめがうたすれば、オールーの松、さかるうれしゃ」。新年、ことしもよろしくおねがいします。)

オトメンと指を差されて(65)

大久保ゆう

あけましておめでとうございます。大久保ゆうです。旧年中はどうもありがとうございました。今年もよろしくお願い申し上げます。

  ……

うーん。……何かが、足りない。とりあえず書いてみたものの、なんだかこう、芸がないと言いましょうかね。水牛での新年のご挨拶は、これで6度目となるのですが、上記の文にはオトメン感もまったくございませんし、これまでの積み重ねが全然見られないじゃないですか。

いやいやそのその、わたくしが思うに、これはきっと、決め口上なり名乗り口上なり、そういう類のものがないからなんじゃないかと思ったり致すわけですよ。長く続くものには定番の文句があるってことで、そろそろいっそここでこしらえてみてもいいんではないかと。

さて青空文庫をひもといてみると、往年のヒーローは、このように名乗り出ているわけで。
「おらア言い飽きた科白だが、お前ッちにゃア初耳だろう。姓は丹下、名は左膳……」
おおお、ずば抜けてかっこいい。そうそう、こういうのですよ。ほかにも、三上於菟吉の雪之丞変化を開いてみれば、
「わからぬか、この顔が――かくいうこそ、雪太郎が後身、女形雪之丞――見えぬ目を更にみひらき、この顔を見るがよい」
こちらは人気の役者だからこそできる言い切り、ほれぼれしちゃいますねえ。

とはいえ、こういう決め台詞というものは、えてして原作では1回しか出てこず、映像化や何やらで取り上げられて繰り返されて、やがて定着するというのは、半沢直樹やケンシロウに例を待つまでもなく常なることで。

そういえば、半七って決め台詞ありましたっけ。作ったシリーズもあったけど浸透しなかった感が。黄門様の「この紋所が目に入らぬか」とか金さんの「この桜吹雪見忘れたとは言わせねえ」に近い台詞って、原作だと推理のあとの「さあ、ありがたい和尚様がこれほどの長い引導を渡してやったのだから、もういい加減に往生しろ。」かなあ。もっとつづめると、「これが和尚様の長い引導だ、いい加減に往生しろ」くらいになるんでしょうか。うーん外連味不足。

それだったら、法水麟太郎あたりを持ち出してですね、「謎を以って謎を制すのです、さあ閉幕《カーテン・フォール》だ」とか言わせておいた方がいいような。あるいは中里介山の机龍之介に「神も仏もないこの世、一人斬ったとて知れたこと」と毎回呟かせるとか。

ともあれ、自分に作ってみるとしたらどうなるか。昨年の年始にはオトメンいろはがるたなるものを用意しましたけれど、ああいう感じで作ればいいのかな。

――甘味の神様こんにちは 菓子好きかしづくことわりを 此度も奏したてまつる
――ゆるゆるオトメン 今年もよしなに。

うん、何だか原点回帰っぽい。あれ? 最近そういうお話をとんとしていなかったような。しよう! 今年は甘いものの話をもっとしよう! 初心! 抱負! 頑張ります!

掠れ書き36

高橋悠治

音楽は何かを主張するのには向かないようだ。音はことばのようにそのものが意味をもつよりは、使われる場や慣習から意味を帯びることがある。聞くとイメージが浮かぶような音楽なら、ある目的のために使うこともできるだろう。雰囲気をつくったり、リズムを整えるための音楽がある。そうではなくて、偶然に窓を開けると見えるできごとのように、どこからか聞こえてくる音楽、どこにもないそれをすこしずつ形にしていく作業。

音がもうそこにある。その音が次の音を呼び入れる。何だかわからないまま、その動きが自然で、よけいな意図なしにすすんでいるあいだはいい。その動きがいつか停まる。そこで止めて、音楽から離れる。断片以上ではない。でも無理強いはよそう。

中断の後でそこにもどって再開できることもある。それでも、途切れたところには小さな溝が残る、呼吸のように。

中断した個所にもどれず、ちがう断片がはじまってしまうかもしれない。そんな作業を重ねて、後には断片の堆積が残る。断片は何かの一部だから断片と言えるのか。断片があれば、それを含む全体があるのだろうか。それとも断片の集まりそのものが、何もつけたさなくても、全体と呼ばれるのだろうか。

断片が、かつて存在した全体の一部と仮定すれば、復元する努力が、過去の回想を再構成する。そこでは断片それぞれの輝きや暗さが均されて、不器用に繋ぎ合わされた壊れやすい模造品にならないか。

断片が断片のままでいられるような、隙間だらけの、音楽で言えば、意味のない沈黙で区切られた、未完成な感じが残るほうが、それぞれの断片の響きの余韻が表現のように思えるかもしれない。

ここしばらく拍のない音楽を書いていた。全音符を長い音、あるいは句点とし、4分音符を短い音、あるいは動線とし、16分音符を早い音、あるいは抑揚とする。これは17世紀フランスではダングルベールやジャケ・ドラ・ゲールの書きかたに近い。崩された和音と即興的な線を区別する。ルイ・クープランは全音符だけの白い楽譜で、生前出版されなかったから自分だけのメモだとも言われる。これらは名人芸の即興的なスタイルと言えるだろう。ケージの晩年ナンバー・ピースにはいろいろな書法があるが、全音符だけで書かれ、時間枠の幅のなかで、たまたま同時になった音の響きが和声とされる。ここでは時間のない空間に散らばる星のような音楽になる。

3種類の音符で書くかわりに、すべてを全音符で書いてみようか。書かれているのは音の高さと順序、それに弧線が各音の終わりを示すか、数個の音のグループを束ねる。崩された和音や偶然の同期ではなく、音が集まって停滞する場所と流れている区域で作られる音楽。構成や予定調和(harmonia)からではなく、聞き取られた想像の響きと流れにしたがいながら、それを紙に書くという間接性、あるいは遅延装置を通して実現する場合には、名人芸のような慣習を排除するほうがいいだろう。「こどもの無償の遊び」と形容されるような、あるいは凍った水面を歩くような、探りながらの一歩、先が見えない曲がった道がある。

と言っても、思うような楽譜はなかなかできない。コンピュータの楽譜制作ソフトは19世紀音楽の慣習に合わせて作られている。プログラムされてないことをさせると混乱するらしい。ソフトをだましながら書いていく。しかし定着しようとした瞬間に崩れて慣習にもどってしまうこともある。作業はもっと遅くなる。

思い通りにいかなければ発見があるというのは後付の理由だろうが、思い通りに進む作業を続けるうちに、理論で組み立てたように予想可能なプロセスに陥っているのではないか、と気がかりになる。

自分の手や喉を使って、どこからか聞こえてくる音についていくだけなら、たどたどしい途切れがちの即興にしか聞こえないかもしれないが、その中間に書きとめる作業をはさむと、速記のように速くできたとしても、やはりずれや遅れだけでなく、気づかない誤認や誤記があるだろう。それでも書くためには規則やスタイルがある。書いていくと、それらもいつの間にか踏み越えられ、あとで見なおすと、あいまいな書きかたや、説明できない個所がそのままになっている。

音の高さと順序が書かれていても、音の終わりは弧線だけではあいまいだし、グルーピングを示す弧線とおなじ記号だからまちがいやすい。ましな書きかたがあるかもしれないが、はっきり書かないでその場で決めたほうがいいこともある。

次の音までの時間は、演奏の場でその時にしか決められない。リズムや拍に乗ってどんどん進むのではなく、ロバのように立ち止まりがちの音を次の音へひきずっていく呼吸が、流れの緩急となるのだろう。それと同時に強弱もそこで決まる。

リズム・パターンや拍ではなく、進む力と抵抗が、綱引きのように緊張と遊びをくりかえし、やがて対称性が破れる。