「ねえ、もう少し、僕のことを好きになった理由を教えてくれないかな」
僕は思いきって小湊さんに聞いてみた。だって、なんだかこんなふうに同じ空間にいて、同じ時間を共有しているのに、僕はなんだかひとりぼっちのような置いてけぼりを食っているようなそんな気持ちだったから。
「私が斉藤くんのことを好きだった期間は本当に短いの。でも、かなり好きだったのよ」
小湊さんは言った。
「例えば、教室の中でみんなが動きはじめる瞬間ってあるじゃない。授業が終わって、一斉に立ち上がるとか、そういう時。マスゲームのように同じタイミングで、同じ方向を向くとか、そういうんじゃないの。一応区切りはあって、でも、動き方は人それぞれってときがあるじゃない。私はそういう瞬間が好きなのよ。そういう瞬間を眺めていたいの。だから、教室の後ろの方の席が好きだし、みんなが出て行ってしまったあとの教室から、一人で出て行ったりするのが好きなの。こんな話をすると、私がいろんなものを達観しているような、妙に収まったものの見方をしているように思えるかも知れないけど、そうでもないのよ。私はどちらかと言えば、気が弱いし、知らない人とはあまりうまく話せない。だから、きちんと人を見ていたいし、状況を把握しておきたいのかも知れない。まあ、そうやっていても、なんだかうまく行かないことばかりだし、同じクラスの女の子のことだってなにひとつ分かってはいないんだけどね。それでも、少し安心するの。なんだか教室にいるのに、一人だけぬるいお風呂に入っているような、そんな気分になっちゃうのよ。膝小僧を抱えてね。唇のギリギリのところまでお湯に浸かってね。そこへあなたなのよ。いつもいちばん最後まで動き出さないでしょ、斉藤くん。みんなが教室から出て行ってから教科書を片付けて、冬ならコートを着て、ゆっくりマフラーを巻いて。なのに、私のようにみんなの様子を見ているわけじゃない。ただ、自分のペースが遅いだけ。そんなゆっくりしたサイトウさんを教室のいちばん後ろから見ていると、なんだかものすごく幸せな気持ちになったのよ」
小湊さんはそこまで話すと、僕の方を見てにっこり笑った。
「でもね、先週、好きじゃなくなったのよ」と小湊さんが言って、僕はほっとした。小湊さんの話を聞きながら、小湊さんのような女の子に好かれるのはちょっと大変なことかも知れないと感じていたからだ。
「どうして好きじゃなくなったの」
「好きじゃなくなったって言われて嬉しそうね」
「嬉しくはないよ。ほっとしたけれど」
「やっぱり面白いね、斉藤くんは」
「面白いと好きとの境目はどのあたりにあるんだろう」
「ほんとね。でも、そういうことを言っちゃうところが面白いのよ」
そう言って、小湊さんは僕を見た。
「私が斉藤くんを好きじゃなくなった理由はね。というか、嫌いになったわけじゃないのよ。好きじゃなくなった、というのもちょっと違うわね。大好きじゃなくなった、という感じかな」
そこは僕にとって大きな問題ではなかった。
「先週、授業が全部終わって、教室を出て行くとき、斉藤くん、私のほうを振り返ったでしょ」
「覚えてないよ」
「振り返ったのよ。あの時、なんだか悲しくなっちゃったの」
「どういうこと?」
「なんだろう。振り返るタイミングじゃなかったんだよ。きっと、私にとって」
「じゃまくさいな」
僕が笑うと、小湊さんも笑った。
「じゃまくさいね。でも、人は勝手に思い込む生き物だもねの」
小湊さんが僕のことを好きではなくなった理由は、正直よく分からなかったけれど、でも、僕が振り向いたタイミングが、小湊さんのタイミングじゃなかったという話は、なんだか僕の腑に落ちた。どんな物事にも最適なタイミングというものがあって、みんなそのタイミングを求めて右往左往している気がする。だけど、なにをやっても最適なタイミングでなにかができる、ということは滅多になくて僕たちはそのことに一喜一憂したり、誰かのことを勝手に、素敵だと思ったり、いまいちだなと思ったりしている気がする。そんなふうに思いながら見ていると、小湊さんは本当に抜群のタイミングで、バスのシートに身体を預けて目を閉じた。
僕のタイミングで目を閉じた小湊さんを眺めた。小湊さんは割りに細くて、色が白いのでいままで気付かなかったのだけれど、唇や耳たぶが厚くてとても柔らかそうだった。でも、温かそうには見えなくて、それがじゃまくさい小湊さんには似合っている気がした。
(つづく)
2015年1月号の目次
- 製本かい摘みましては(105) ……… 四釜裕子
- フェスの雑踏のなかで ……… 若松恵子
- 青空の大人たち(6) ……… 大久保ゆう
- そこに咲くということ ……… 大野晋
- しもた屋之噺(156) ……… 杉山洋一
製本かい摘みましては(105)
四釜裕子スエーデンの製本家、モニカ・ラングェ(Monica Langwe)さんのウェブサイトから『バチカン図書館のリンプ製本(Limp bindings from the Vatican Library)』を注文する。バチカン図書館とそのコンサベーション業務やリンプ製本の説明のあと、同館が所蔵する本の中から接着剤をほとんど使わずに綴じられた11冊が紹介されている。書影と概要、さらに綴じかたや構造を簡単なイラストで説明してある。この本自体は天地約235ミリ左右約170ミリ、機械糸綴じした5折りの本文の背をボンドで固めて製本テープを貼り、厚手の表紙カバー(両面印刷)をぐるりと巻くだけのシンプルなつくりだ。本文を丹念に読みそうにない日本からの注文者への心遣いか、構造の図解が始まるページに金色のマーカーがはさんであった。はい、そのとおり。そこをいちばんに見たかった。同じ著者にエストニアのタリン市立図書館のコレクションからまとめた『タリン文書館のリンプ製本』もある。いずれも東京製本倶楽部の会報誌No.69で岡本幸治さんが紹介していたものだ。
ここでいうリンプ製本とは麻糸や革を支持体としてかがった本文を羊皮紙などの柔らかい素材でくるむ中世以来の製本法のこと。よく開くし簡単にかがれて簡単に元に戻せる。あとでかがり直すのも容易だ。この本で紹介されているものの多くは16世紀に書かれており、繰り返しめくられてきたことを示すように長い時間の空気を含んで本文はふわふわだ。表紙は汚れていたりやぶけていたり。その修復の過程で、モニカさんは構造を知ることができたということだろう。構造やかがり方をあらわすイラストはそれぞれ特徴的なところだけを取り上げている。作り方の説明ではないから1、2、3……の順番も長さ重さの表記もない。かがり糸や支持体にした革や紐の始末はおおらかにみえる。ほんとうのところは知らないが素材の選び方もかがり方も思いついてやってみたというような愉快すら感じられる。またほとんどは、表紙を大きくして本をくるむようにしたり、小口側にリボンをつけて結ぶなどしてある。リボンで結ぶのはどうも「本のかたち」として好きではなかったが、こうして改めて見ていると、本文に刻んだ言葉が飛ばぬよう、逃げてゆかぬよう、盗られぬよう、その思いが、言葉を綴じ込むかたちとしての「本」を生んだように思えてきた。
バチカン図書館は所蔵する手書き文献約8万2千冊(約4千万ページ)のデジタル化を進めている。NTTデータがまず請け負って、デジタルアーカイブサービス「AMLAD」で作業の済んだものを10月から公開している。冊子のものは表紙や中面のみならず、背、小口、天、地の記録がある。破損したもの、たとえばはずれてしまった花布や破れた表紙の革、表紙の背が完全にはずれていればはずれたなりに、ことごとく美しく記録されているのがすばらしい。麻紐のけばだちや革のすれまで目の前にあらわれる。同館には、1929年に日本に渡ったイタリア出身の神父・マレガさんが集めた日本の史料もあるそうだ。その中のものかどうかはわからないが、長崎・口之津の信者42名による連判状(1613年)もあった。口之津歴史民俗資料館にはこの連判状が隠されていたマリア観音像といっしょに連判状のコピーが展示されている。もとは巻物であったろう。マーブル紙を貼った厚表紙に折り畳んではさまれ、天、地、小口をリボンで結んである。背幅はわずかだ。3つのリボンを解いて400年前の42人の筆文字にあう。3つのリボンを結び直して書庫におさめる。モニターの前でエアーりぼん結びを繰り返す2014年師走、東京、10℃、晴れ。
島便り(9)
平野公子小豆島の特産品はオリーブと醤油と佃煮と素麺なのだが、中でも一番のオリーブはいまや島だけでなく香川県、九州まで産地が拡張してきている。なれば量において、いずれ他所にかなわい時代がやってくるのは明らかだ。
と、こんな心配を私が何故しなくちゃならないんか、まぁおせっかいな性分であることは重々承知なのだが、島へ来てから農作物や果樹、魚介関連、山のものを含めて、気にかかってしょうがない。「もったいない」と「こうすればいいのに」がまだまだたくさんあるからなのだ、イヤありすぎなのだ。
当然のことだが、島の未来の産業のあり方を模索している方々は町役場をはじめとして、オリーブ業界、島の食品会社、自営農家とたくさんおられる。食品関連の会長たちで運営する食材会議という集まりもある。既にいろんな提案も実践もあるようだ。が、それをひとつずつお聞きする機会を得て、ますます「こうすればいいのに」感が湧いて来て困った。もともと島におられる方たちには気がつかない島の食べ物の味の良さというのかしらね、ソコに的がなかなかいっていないのだ。中量生産(そもそも大量ではない)を目指すからなのか、それともわたしの思い込みがシロウトだからなのか。はてさて。
例えば苺。
島の品種は「女峰」一種で、小粒ながらしっかり酸味甘みともに濃い味、懐かしい味。しっかり赤く育ってから島内と香川で販売されている。日本全国でも1パーセントしか生産されていない品種だ。東京では、ただ甘く柔らかく値の高いイチゴしか出回っていなかったため、イチゴをあまり食べていなかった私メ苺の美味しさに目覚めた。
先日、イチゴ農家さんの作業を見学させていただいたのだが、イチゴ一粒ずつの生育を自分の目で見ながら育てている。が、ひとりの棟育の量は広く多い。水やり温度調整湿度などはまとめてコンピューターで管理されている。夜間もしっかり管理されいるとか。農家の若者はコンピューター作業小屋でときには好きなギターを爆音で奏でているようだ。つまり、ひとりが育てることの量はかなり多いのだ。だのに休耕棟が多い。なり手がいないから、、、。もったいない。小豆島産苺を島をあげて名産として活路の開拓をすれば、苺農家はもっと増えるのではないだろうか。
例えば山椒。
庭にいい実をつける山椒の樹がある。山椒は葉から青い実から紅葉した赤い実から枯れた実まで、多様に使い道のある香辛料の樹だ。島の山椒は優秀な実をつけることがわかった。土と気候のなせる技だろうか。なぜ島で山椒畑をつくらないのだろう? 植生を調査して、いくらでも空いている山間部や休耕地に育成できるのではないか。粉にして、粒のまま、乾燥葉を売り出す事は可能なのではないだろうか、と今年の春に山椒の実を漬けた醤油と酢と塩を毎日使いながら思う。それぞれ山椒の味と香りがほんのり移り、美味なのだ。
例えば魚。
島に来る時から魚が思う存分食べられるとウキウキしていた。これは幻想であった。海のそばだから魚はいる。が、正直美味しくないのだ。その理由がわからない。これには落胆を通り越してグチというものをほとんど言う習性のない私メが誰彼となくグチっている。どうして、どうしてなの、と。暮れも押し迫ったある日、某運輸会社の社長さんから電話あり、「魚の美味しいところへご案内いたしますよ」。年明けに行ってみます。もしそこで美味しいと思ったら、普段手にはいらないのは何故かのカラクリがわかるかもしれない。
例えば、、、は限りなくあるのでここでやめときます。
122アカバナー(7)きょうりゅうは、びねつ
藤井貞和ははは、昔話紀になると、
さんようちゅうがひろえる。
物語紀には、
きょうりゅうがおおあばれ。
びねつでねている、
ぼくのきょうのいちにち。
あしたはない、
じーじは言う。 「おれらは、
ぼうそうろうじん。」
たいようは赤い花、
まわりをつめたいみずが囲む。
あって、なくて、
またあって、しずむ、
おもたい動作環境。
わらっちゃうね、
おれら、なんて、神さまの言う、
せりふではない。
ゆうがたになって、
びねつはぼくを、
デストピアにみちびく。
デストピアですよ、
「つゆ」と言ってみた。
出なくなったこえで、
つゆを呼ぶ。 生まれる日の、
きょうりゅうは卵を割る。
生まれる物語が、
まっ赤なゆうひに溶けて、
まだ赤い。 火口みたいだ。
ぼうそうする?
ぼうそうするあした?
それでも、草葉は、
ぼくをつつむ。 棄てられる、
と思う。 吹く風速で、
打つちからのてつがくが、
ぼくにさだまる(定量化する)。
ぼくはすうがくを、
からだにしみわたらせる。
あしたの自爆を、
やめさせたい、それだけ。
赤花、見ているぼくの、
ない言語が ないすきまで、
卵から出てくる時だから、
咲きなさい。 いつか、
どこかで、と言わず、
なにもせず、おおあばれもせぬ。……
(「新年を声おしまずに寿ぎぬ」貞。)
フェスの雑踏のなかで
若松恵子年の瀬、12月30日に音楽フェスにでかけた。
COUNTDOUN JAPAN 14/15。12月28日から31日までの4日間、幕張メッセを会場に、5つのステージに185組のアーティストが出演する年越しのお祭りだ。
雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』に登場する若手のロックバンドが多く出演するフェスだから、観客の大半は自分の子どもたちの世代で、仲間に混ざるのは少し気恥ずかしけれど、仲井戸麗市と佐野元春の音楽を聴きに出かけたのだった。若い頃に、心躍らせて聴いた2人のロッカーは、2014年の今もとびきりのロックスピリット溢れる演奏を聴かせてくれて、うれしかった。
エレキギター1本で登場した仲井戸麗市は、出演者の中で最年長だとステージで苦笑していたけれど、歪ませたぶっとい音でエレキを聴きまくって、ギター1本あれば充分ロックできることをやってみせてくれた。佐野元春が若いメンバーのCOYOTE BANDと演奏したデビュー曲「アンジェリーナ」は瑞々しかった。踊り出さずにはいられない、弾ける演奏だった。
フェスは居心地良くしつらえてあった。屋台のご飯はメニューも豊富で、クロークや仮眠を取ることのできるリクライニングチェアーまで用意してあった。若者たちのニーズに合わせて、どんどん改良され、客も増えているのだろう。一方社会は、ますますおかしく、若者に厳しいものになってきてはいないか。仲井戸麗市や佐野元春の演奏がより尖がって、シンプルに強いものになっているのは、このことと無関係ではないはずだ。
フェスの雑踏のなかで思う。
満たされない、寂しい気持ちを抱えてフェスにやってきている”ひとりぼっちのあいつ”はいないだろうかと。
仲井戸麗市は、爆音でニールヤングの”Hey Hey, My My (Into the Black)”をカバーしていた。
「Rock and Roll Can Never die」を「ロックンロールはここにある」と唄っていた。
大丈夫、ロックがある。
自分をへこまそうと侵食してくるものに、負けないというスピリット。
“ひとりぼっちのあいつ”にも届いただろうか。
青空の大人たち(6)
大久保ゆう何を隠そう自分は夢託され体質である。こんなに夢を託されて(あるいはこんなやつに夢を託して)いいものかと謙遜ではなく真面目に思ったりするものの、事実としては託される側の子どもたちの総数が減っているので託され率が上がるのは当然とも思えるし、また年長者の話を聴く青年もまた少なくなっているのだから聴きたがりがことさらに託されそうな夢を引き寄せているという側面もあるだろう。
事情の分からない方には本当に分からない話で恐縮だが夢を託すといっても託され方も様々ある。もちろん面と向かってというのがもっとも素朴であり、年長の知り合いは恩師、または先駆者といった人物からうやうやしく夢を拝領するのがいちばん多い状況であるだろう。ふたりで語り合う(あるいはこちらは話を拝聴する)うちに、ふいに「実は」という形で持ち出され、そのあとそれとなく「もう自分にはできないが誰かにやってほしいものだ」と口に出され、むろん〈誰か〉とは目の前にいる人物が想定されているわけだが、ここで答え方にも色々あり、「私がやってみせますよ」と見得を切ってもいいし、「大丈夫ですよ、安心してください」とそこはかとない同意をちらりと見せてもよく、または聴くという態度のみが継承に当たることさえある。
あるいは「きみは○○になれる/ができる」型の託され方もある。つまり激励してみせるふりのなかに、自分のできなかったことが投影されているということだ。「こんなことができるのでないか」という言い方そのもののなかにどこかで「自分はできなかったが」という回顧もあり、そうした想像のなかにこそ個人の夢があるという案配だ。これもまた本人と対面して言われることもあるが、ある程度ひとに見える形で活動している場合まったく知らない人物から本人のあずかり知らないところで託されていることもあったりするがそのあたりは自分の名前で検索してみるとわかる。
夢は探すよりも託される方が楽しい。ほんの少ししか生きていない少年や青年の頭で考えつく夢、あるいは狭い視野のなかに映る夢というのは、どうやらやはりたかが知れていたようなのだが、かたや人生の先輩の持っていた夢というのは、自分の何倍もの時間をかけて追いかけてきたにもかかわらずついに達し得なかったものであって実に解きがたく解き甲斐もある難問である。
そもそもはおそらく祖父の「学をつける」というもので、それについては自分が大学に通った時点である程度達していたらしく、それなりに満足させたようだ。「ものを書くひとになる」という夢も自分が持ったものではなかったがとりあえず現在なれてはいるらしい。「絵本を手がける」にしてもそうだがその相手が生きている場合は勝手に他人が叶えてしまうのであるからもはや人の夢を横取りして食べて自分のものにしてしまう貘のようだ。
そんな貘にもやはり消化しきれないものはもちろんあるのであって、ひとつ「きみは直木賞が獲れる」という発言にはもしや職業をお間違えではないですかわたくしは翻訳をする人ですよと言いたくもなりかけたがむろんそういうわけでもなく今後オリジナル作品を書いてそうなるという予言なのだから無茶ぶりにもほどがあるし今から田中小実昌を目指せというのも果たして。
富田さんから言われた「打倒ベルヌ条約」もいったい何から手を付けたものやらわからず、それなら政治家になるべきか思想家になれというのかとあれこれ考えてみるものの詮無く、まずはいくばくかの発言力を手に入れるところから始まるのだろうと思いはするものの、国際条約の打破というからにはそれこそいわゆる〈グローバル人材〉なるものになるしかないのだろう。
とはいえ身には余ってもまずもって託した当の本人に解けなかったものであるから、こちらは当たって砕けるのが当たり前で気は楽に構えてもよいのだろう。あろうことか本人は実に気安くほいほいと託されればまずもってありがたく受け取るのだから始末が悪い。
しかしながらそれでも断ることだってあるわけで、むろんお世辞の類を真に受けることはないし、具体性に欠けるひどく曖昧な夢も困る。何よりも怨念に満ちたものはやはり拒む。漠としすぎた夢はもはや呪いと同等で、妄執を人に押しつける手合いもお呼びではない。
事実、面と向かってご辞退申し上げたこともあり、あるときには「世界革命」などまっぴらご免であると言った。「革命してほしい」という依頼はなるほどご立派だがその裏は青年を自分の駒のようにしか思っていないと相手の底も知れたので、その場で縁を切ってしまった。実際の託された内容は〈革命〉と呼べるほどのものでもないのだがここではその詳細は伏せる。
人ひとりの両肩は見るまでもなく大変幅の狭いものであっていくらあれこれありがたく頂戴するといっても余分なものまでは背負えず、ましてや誰しもが自分の夢でいっぱいいっぱいのこのご時世では、誰かが人から託されたものをさらに託される、すなわち又託されのような奇特なことをする御仁がいようはずもなく。きっと肩の荷は重くなるばかりだが気さえ重くならなければどうということもないと思っておくことにする。結果無理でもさらに次へとしっかり申し送りをすればいいことなのだ。こうして夢の引き継ぎが何代にわたってもなされていくことはまさに伝統である。
そんな自分に何かひとつ危惧することがあるとすれば夢託され詐欺や夢託されビジネスといったものが出ては来ないかということで、託されるふりをしてお金を得る輩もそのうち出てくるかもしれない。それでも託した気持ちになって安らかに死ねるのならばいいが子どもが少ないばかりに焦って託す相手をひとつ間違ったり見誤ったりすると安息どころか追い詰められ自死する羽目になるやもしれず昨今にもそうした有能な大人たちの悲劇を我々は見てしまっている。
ほかならぬ自分もまたそうした誤りたる相手なのかもしれないということは常に疑ってかかっておいた方がよく、相手を安心させるだけ安心させておいて裏切るということだけは何とかして避けたいものであり、何ならそのためになら適切な人に夢を再配分する夢託し屋になってもいいくらいだ。しかし託されたがらない人の多い世にあっては、その実行はおそらく夢を達成すること以上に厄介かもしれず、結局自分で何とかしてしまった方が早いというのが落ちというのもたいへん遺憾ながらまずまずありそうな話である。
グロッソラリー ―ない ので ある―(4)
明智尚希 1月1日:次郎おじさんの話をする。母親の兄に当たる人だ。遊びに行くとおじさんはいつも一升
瓶を抱えて日本酒をちびちび飲んでは、同じことを何度も何度も聞いてきた。「学校はどうだ」「学校は楽しいか」「学校は楽しいのか」。面倒ではあったが、
無視するのは気の毒だったので、いちいち「楽しいです」と嘘をつく僕なのであった。
万物の創造主とやらが赤ん坊を無知の頭脳に生まれつかせたのは、判断力の一つでも具わっていようもんなら、誕生を片っ端から拒否されたからじゃろう。
みーちゃんもはーちゃんも、下の口で死の反対になる状況に置かれることに真っ向から抵抗した。ところが今はどうじゃ。肉棒とアワビの相性は悪くないときて
いる。晩飯が決まった。
ミニカーでパトロールする際は、あらゆる遠慮をしなければならない。ミニカーでパトロールすることその
ものを。これはアルチンボルトとナイチンゲール似が、フーリエ級数から導きだした洞察なんじゃ。石が4つあるからといって、必ずしもナッシュ均衡が得られ
ないのと同じ理屈。わしの立派なところは、このからくりを論破した点にある。
ミケランジェロが死んだ年にガリレオが生まれ、ガリレオが死んだ年にニュートンが生まれた。セルバンテ
スとシェイクスピアは同じ年に死んだ。人類史に名を刻んだ偉人は、何かしら因縁を持っているものだ。自らの因縁探しに出かけるか、因縁ができるまで生き残
るか。こういう因縁先行型が最も因縁から見放されているのは知ってはいるが。
子供の頃、初めて自転車に乗る練習をした時、お父さんは同僚OLと行為中に落雷を受けて、近世へタイムスリップ。脱不況の先にある新しい国の姿、「つば
め返し」や「松葉くずし」、天然アワビの酒蒸しなど耳馴じみのある体位を一緒に見ようと言った。五十代からの出逢いには、漫画やマニアコレクションの買い
取り販売と性の相性が必要。
おみこし、はっさく、大の字、おっとっと、噴飯ものの言葉は多いのう。ひょっとこ、きゅうり、ふんどし、わんぱく、まったり、どんぐり、まだまだある
ぞ。やっこさん、ハゲ散らかす、ウインナー、たっぷり、くるぶし、そろそろやめてやってもいいが、やはり自動的に続く。やっほー、どっきり、おたま、よい
しょ、こっぱずかしい。
もしこの胸の内にある情念、不快感、苦痛、言語化以前の概念をそのまま第三者に譲渡したら、まもなく気が狂うだろう。更にアルコール中毒、窃盗症、不安
神経症、鬱病、自律神経失調症までも一切合財プレゼントしたら、たどる道は一つしかない。いや、人間はしぶとい。死の街道にありながらも、根のない快楽を
醸成して天寿を全うする。
1月1日:次郎おじさんはしらふの時にはいろんな楽しい話をしてくれた。今でも印象に残っているのは釣りに行った時の話である。「三郎おじさんいるだ
ろ。隻眼の。あ、隻眼じゃないか。俺の弟だ。会ったことあった? いや、ダジャレじゃないよ。ダジャレを言うのは誰じゃ。もう最悪だなこれ。だいたいダ
ジャレにもなってないしな――」。
苦手な人と何度も会うってのは、自転車でスーパーに行って、カゴを持って野菜売り場を見て回り、セロリに目を留めてカゴの中に入れ、その他あれこれ買い
物をして自転車で帰宅し、毎日どんな味をつけて食べても脳が好ましからぬ信号を送ってくる、つまり嫌いなものを食べるのに似ておるな。ザイオンス効果の片
鱗もない。
前略。震えるほどエロティック。棚卸しをしたり魚釣りに行ったり忙しい昨今、みなさんいかがお過ごしでしょうか。わしはといえば、ニュートリノをびし
びし感じつつ赤いちゃんちゃんこで踊りまくっているような気でいる。仏頂面での無礼講もほどほどにな。準備体操で大けがをするみたく、盛んに喘いでいる。
カバの尻尾かってんだ。草々。
誕生という名の試練・闘争。幸福を問わないことが幸福ならば、生まれ出る前が幸福ということになる。だが実感なきものを幸福呼ばわりしても、人の世では
得心できない。各人の人生とやらは、人間の生殺しというメニューでしかない。神なる人または神なる神は、生殺しができあがった時に、ちゃんと論功行賞を
行ってくれるのか疑問である。
わしだって一発ギャグの一つぐらいは、今この瞬間にも楽に言える。こう見えても笑いを誘うものには頻繁に接してきておるし、かてて加えてその歴史は世の
人々よりは幾分かもしくはそれ以上長く数十年は下ることはなく、常人が一生涯のうちに経験するその5倍、いや、少なくとも6倍は笑いを身近なものとして星
霜を重ねてきた。
現世離脱したような人がいる。図らずも絶望のトンネルを図らずも抜けてしまったに違いない。勇気や根性などいらない。我慢したわけでもない。味気ない人
生行路の中で、自らを支えあるいは構築してきたものを、何ものかに対抗する武器として使い果たしたのだろう。もう否定などない。日々の通過儀礼を素通りさ
せるだけの余生。
【まあないわなランキング】
第1位:カレーの香りのシャンプー
第2位:白ブタ産牛肉
第3位:アラビア語の視力検査
第4位:交代で入った瞬間にレッドカード
第5位:硫黄島第八中学へ転校
あいつがどれほどわしを嫌っているか知っとるが、わしがどれだけあいつを嫌っているかわしは知らない。カムフラージュかカモフラージュかわからず泣い
た。迷彩服姿で。四つん這いで。公園の茂みで。水鉄砲を持って。戦国武将のつもりで。尻の肉引き締め政策のもとで。ルサンチマンみなぎるコアラを借りてき
て。借りてきて早く!
本当のことは絶対に言ってはいけない。しまった。言ってしまった。
世の中は名前というクソまみれで閉口する。ランドセルで家を建て続けている鷹匠でさえ、世田谷代田のコンビニでタップダンスを披露する。透明、無題、名
無しの権兵衛、タブラ・ラサは裏切りの張本人じゃ。どうか頼む。未発見の深海魚や悲しき熱帯に生息する植物を、ぶっちぎりのひとりぼっちにしておいてくれ
よ。このわしだけのために。
そこに咲くということ
大野晋新年明けましておめでとうございます。
昨年は最後の最後に、学生時代にお世話になった先生というよりも師匠である植物学者を亡くしました。残念な思いとともに、仲の良かった奥様のすぐ後を、長い闘病生活の末でしたから、ご苦労様でしたという気持ちもあります。
学生時代からの夢の話を少しお付き合いください。
例えば、山の中にある花が咲いていたとします。多くあるセイヨウタンポポやオオバコではなく、ここは珍しいタデスミレが咲いていたとします。そう、季節はちょうど6月。タデスミレの咲く信州は5月に春を迎えますから、多くのスミレたちは5月の初旬から中旬には咲いてしまうのですが、このスミレは少し開花が遅いのです。
タデスミレは少し変わった姿をしています。普通のスミレはそれほど背が高くありませんが、このタデスミレは30センチ以上になります。そして、細長い葉はまるでタデのようです。タデスミレの咲くこの山には、5月にはヤマシャクヤクが咲いたり、近所にはハシリドコロが咲いたりします。(どちらも見たことがあるので確実ですよ)そして、このスミレは、この人里にも近い山の一角にしか、存在しません。そうです。世界中でここだけしか咲かないのです。世界中で、ここだけです。
最近では、ニホンジカの食害の被害が伝えられます。まあ、スミレを好きで食べる動物は聞いたことはありませんが、全国で増えすぎてしまったシカの食害の話は最近は良く聴きます。
さて、ここに咲くタデスミレはなぜ、ここに咲いているのでしょうか?
いや、なぜ、ここだけに咲いているのでしょうか?
植物がそこに存在して開花しているということのためには多くの背景が存在します。まず、現在の生育環境はどうでしょうか? 気温は? 降水量は? 日照は十分でしょうか? カタクリなどは暗い林の中が好きですが、暗すぎると咲きません。春先はある程度、明るい必要があります。タデスミレはどうなんでしょうね。
土壌はどうでしょうか? 酸性だったりアルカリ性だったりする必要はあるのでしょうか? もしくはそういった環境は好ましくないのでしょうか? 植物の中にはある種の微生物といっしょではないと生きていけないものもあります。そういったことはないのでしょうか? そして、そこにあるということは、遠い過去にここにどうしてかやって来る必要があります。そして、現在に至るまで、ここにずっと生育してきたという事実があるので
す。
多くの背景があって、そこに一輪の花が咲いている。そう考えると、なぜ、そこにその植物があるのかが気になってきます。学生時代、ずっとそういう話に興味がありました。なぜなのか? 疑問は尽きません。そして、その疑問の先にもうひとつの疑問があるのです。
じゃ、タデスミレの咲く森はどのように作ればいいのでしょうね。自然科学の現在や過去に対する研究の先には、未来の応用科学や工学へとつながっているのです。
スカテン祭り
冨岡三智今年のムハマド生誕祭は1月3日に巡ってくる。ジャワ島のスラカルタ王家とジョグジャカルタ王家という2大ジャワ王家に加え、チレボンのカノマン王家では、ムハマド生誕祭までの1週間、ガムラン・スカティと呼ばれる特別なガムランのセットが昼夜上演され、その間は市(パサール)が立って大勢の人々で賑わう。この、スカティ演奏を中核とするお祭りのことをスカテンと呼ぶ。ただし、チレボンではムハマドが生まれたムルッド月にちなんでムルダンと言う。チレボンではカスプハン王家にもガムラン・スカティと呼ばれるものがあるが、それはこのムルッド月ではなくて、犠牲祭(と断食明け大祭?)の時にしか鳴らさないらしい。
スカテンは、イスラム聖人たちが布教のために、巨大な―つまり大音量の―ガムランを造ってモスク境内で演奏し、人々を集めたことに由来する。スラカルタとジョグジャカルタの王家のガムラン・スカティは通常の倍くらいほどの大きさがあり、男の人でないと振り下ろせないほど大きなバチでガンガン叩く。ところが、カノマン王家のガムランは小ぢんまりとして、可憐な音を出すので驚いてしまった。もともとチレボン地域のガムラン楽器は前の2王家の楽器より小ぶりだが、これでは大音量で人をモスクに集めるどころか、人々の喧噪で楽器の音が聞こえないくらいだ。おまけにガムラン舞台の前後左右にまでびっしり市が立て込み、徒歩でしか進めないほど通路は狭く迷路のようで、ガムラン舞台にたどり着くのも大変だ。まるで市場の片隅で演奏しているような感じである。
スラカルタやジョグジャの場合、モスク境内に一般用品の物売りはいない。ここでゴザの上で売られているのは、スカテンにつきもののビンロウジュ(ガムランの第一打に合せて噛むと寿命が延びると言われる)に卵、供物用ご飯のナシ・ウドゥッグ。卵はジョグジャカルタでは赤く着色した卵(endhog abang)、スラカルタでは鹹蛋というアヒルの塩漬け卵(tigan kamal)を売っている。チレボンではどうだったか忘れたが、どうやら卵は生誕を象徴するものらしい。余談だがキリスト教では復活祭(イースター)で卵を用意するが、あれも意味するところは同じなのだろう。他に境内では伝統的な鞭や貯金箱も売られている。鞭は子供の躾用だろうか、貯金箱は子供に倹約を教えるためだろうか。ともあれ、モスクの外でバイクを預けて入った境内はガムラン・スカティの音で満たされ、若い人だけでなく、長寿を願いに来た老人や、子供の成長を願う家族連れでにぎわっている。若い母親の中には、幼児を抱いてスカテンの舞台に上がり、ブドゥッグ(イスラム用大太鼓)に子供の頭をつけさせてもらう人もいる。賢くなるようにと願ってのことらしい。その様子を見ると、獅子舞で幼児が獅子に頭をかぶってもらうのと同じだなと思う。ブドゥッグ奏者によれば、ジャワでは穢れのない幼児はブドゥッグに、世俗にまみれた老人はガムランの大ゴングに触れて祈るのだという。これは、ガムランに表象される土着文化よりもイスラムの方が優位であることをイスラム聖人が示すために考え出した話のような気がする。
ガムランを堪能したらパサールの方へ。王宮広場(アルンアルン)にはテントが並び、パグララン・ホール(かつては王が家臣と対面した所)はブースで仕切られる。ガムラン・スカティを聞いたり、門前に展開する屋台を巡ったりする分には無料だが、この中に入るのは有料である。見世物小屋(イルカのショーとかバイクのショー)に、移動遊園地(観覧車や乗り物類など)に舞台コーナー。ブースでは食品から衣装品から台所用品から家具まで売っている。各州の物産展、化粧品や健康食品のPR、パラノルマル(霊能力者)の相談コーナーなんかもある。地方百貨店のイベント会場というような雰囲気だろうか。
こんな風に、ジャワの2大王家ではスカテンの儀礼空間とパサールのイベント空間は整然と分かれている。それに比べるとチレボンのムルダンは聖俗ごっちゃの市場という感じだ。あの迷路のようなパサールのどこにモスクがあったのか、結局分からなかった。チレボンの方がよりイスラム化した地域なのだが、より宗教儀礼的に見えるのはスラカルタやジョグジャカルタのスカテンだなあと感じる。これは、儀礼形式を整える力や権威がジャワの2大王家の方があるからかなあと想像している。
今年も終わりまして
仲宗根浩やっと、寒くなる。風が強いため、気温より体感温度は低い。風はたてつけの悪い窓をゆらす。セーターやマフラーで武装するひともいるが、沖縄にもどって毛糸ものはすべて処分した。そこまでやらなくても過ごせる。ただ暖房が一切ない家の中でも外と同じくらいの厚着になり、布団にもぐる時間も長くなる。
外で転び流血。一月にも同じようなことがあった。今度は記憶がある。触ると血の感触とにおい。家に帰り、鏡を見ると左側のまゆの上が少し傷がある。掌は傷口を触ったため血がついていたので洗い流し、傷口も水で洗い、絆創膏をつけて寝る。朝起きるとと誰もいない。奥さんは学校の用事で出かけている。また寝ると昼過ぎ、奥さんが帰ってくる。絆創膏を見て事情を説明すると冷たい視線が突き刺さる。夜間外出は控える。
選挙の日、子供の小学校では学習発表会、昔でいう学芸会が体育館で行われる。こちらの行事が先に決まっていたので投票会場は小学校の入口ホールになっている。間違えていつものように体育館に投票のために来る人もちらほらいる。会の合間投票してくる。夜、仕事場の休憩中テレビをつけていると、八時にすぐ当確が出た。仕事が終わるまでには全部の結果が出る。選挙をしかけた方がすべての選挙区で負ける。ところが深夜になると比例というやつで復活というものがあり沖縄は立候補したすべての人が議員先生になる。選挙する意味があるんだろうか。みんな当選するといえば平和といや平和だが、選んだほうがばかを見る不思議な仕組である。
去年の十二月に亡くなっ青山純というドラマーを特集する番組が民法のBSで放映という情報を友人が教えてくれ、その仲間内で青山純が参加した音源を集めることに火が点き、各自普段はあまり聴かない歌手やミュージシャンの音源を図書館やセコハンでしこしこと集めている。日本屈指のドラマーであったのでアイドルからアンダーグラウンドなものまで。曲ごと、詳細なクレジットがないものは特徴のあるスネアとキックの音、手癖でどの曲に参加しているか探すという、ご苦労なことをやっている。しかしこうなると自分の耳で手に負えないものも出てくる。そんなことをしていたら大晦日。明日から仕事。
瓶詰め作業
璃葉過去の時間を手繰り寄せている、
過去を結晶にして瓶に詰めている。
土も葉も花の芽も、むかしは全て近い距離にあった。
物理的に近いのではなく、小さな身体(瞳・耳・骨)と共鳴し、
繋がっていた。
成長するにつれ、それらとの共鳴部分は薄れてゆき、
張り巡らされた天蚕糸のような無色透明な線はひとつひとつ切れ、
気づけば完全に分離していた。
あるときから、糸をもう一度紡ぎ直す作業をしている。
瓶に詰めた過去を さまよう星が照らす花の影に蒔くことも 作業のひとつ。
しもた屋之噺(156)
杉山洋一年末を日本で過ごすのは久しぶりだと、昨晩三軒茶屋の駅前を歩いて気がつきました。正月飾りの出店を目にしたのは何年ぶりでしょうか。とても懐かしく童心にかえって心を躍らせました。改めて考えてみれば、正月飾りの売店に子供が興奮する理由は特にないのかもしれませんが、正月はやはり特別な行事だったのでしょう。普段から日本にいれば、今もきっと同じように身近に感じられるに違いなく、すこし残念な気がしました。
ともかく、飾り海老やしめ縄、簡単な松飾りすら子供には立派で豪勢に思えましたし、正月前には、近所で集り餅つきをしたり、週末には日がな一日庭の落ち葉かきをし、それを貰ってきた一斗缶やドラム缶で燃やして、夕方には残り火と灰で焼き芋を作るのがとても贅沢だと思っていましたし、何より美味でした。落ち葉かきの記憶というと、焼き芋用に縁側に用意されたサツマイモのざるに繋がるところを見ると、子供ながら労働対価としての焼き芋に特に興味があったと認めざるを得ません。ともかくそんな風に大人が年始を迎えるにあたり、いそいそと準備をするのが新鮮だったのでしょう。息子にこの時節感を植えつけてやれぬことに後ろめたさを覚えながら、「門松は冥土の旅の」と独りごちつつ軒をつらねる出店を通り過ぎました。
……
12月某日 ミラノ自宅
先日キリスト教大の授業に出かける直前、家人よりこのメッセージを読んで欲しいと電話がかかった。見れば息子のクラスの仲良し、ディエゴの母親ダニエラの訃報ではないか。ダニエラは、つい一週間前に帝王切開で元気な男の子、ガブリエレを生んだばかりだ。にわかには信じ難く、思わずシモーナに電話をすると、彼女は経緯をよく知っていた。先週末、一度退院したダニエラは自宅で猛烈な頭痛を訴え、そのまま脳溢血で倒れ、搬送先の病院で亡くなっていた。
残されたのは、報道カメラマンの夫エルメスと、ディエゴと彼の2歳上のダニエレ、そして生まれたばかりのガブリエレ。エルメスは、ルワンダの虐殺や、有罪となり老人ホームで社会奉仕活動に従事するベルルスコーニのルポルタージュを手がけているが、当座は仕事を休んで子育てに専念せざるを得ないといっていた。イタリアでは、子供が一人での登下校は法律で禁止されていて、親なり誰か学校に届けてある代理人が登下校を付添わなければならない。だから、毎日エルメスにも学校の前で会う。
11月には一級上のフィリピン人のレオナルドの母親も同じような症状で亡くなっていて、彼らはあろうことか母子家庭で、その上レオナルドは実の父親の顔すら知らず、ミラノで生まれたので、フィリピン語も話せず、親戚もわからないという、文字通りの天涯孤独になってしまった。今は一時的に友人宅に身を寄せ、そこから学校に通っているが、例えば養子縁組も一朝一夕にできるものではないので、彼の今後はわからない。
学校中がこの二つの悲劇に衝撃を受け、多くの母親や子供たちが精神的な不安を口にするようになり、精神科医のカウンセリングも始まり、周りが彼らをどうサポートするか、教師や父兄が夜集ってミーティングも始まった。こんな時でもディエゴは、いつもニコニコと微笑を絶やさない。葬式でもそうだった。その姿に周りの大人たちは、心が裂けそうになっている。担任のヴァレンティーナも夜のミーティングで精神科医を前に涙を流しながら話した。
「辛かったら、無理をして笑うのではなく一緒に泣いていい、先生はそう仰いますが、それでは20人以上の子供を預かる私はどうしたらよいのでしょう。ディエゴは学校は友達がいるから楽しい、といいます。微笑みも絶やさない。でも、これからもうすぐクリスマスです。サンタクロースに何を頼むのときいたら、ディエゴはゲーム、って言うんです。本当に一番頼みたいものは口に出さないのです。よく判っているんです。クリスマスなんて本当に辛すぎます。わたしはどうしたらいいんですか」
周りの父兄も皆さめざめと泣いていた。精神科医も言葉を失い黙ってしまった。そして自転車の鍵を失くして、真夜中遅く担いで家まで帰った。
12月某日 ミラノ自宅
杜甫のテキストを、無心で書き写す。初め五回くらいはただ意味を追うだけだが、それでも続けると突然風景が脳裏に鮮やかにへばりつくようになり、その後は文字と文字の隙間の空気の匂いが鼻をくすぐるようになる。
演奏者がそれぞれの音楽を歌いつくして欲しいとおもい、スコアなしアンサンブルの楽譜を書く。
それぞれが本当に独立した音組織を発展させるために、使う音組織を規定し、和音の響きから音符の緩い規定を引き出すのではなく、自由な対位法に近い発想で横に音をならべてゆく。本来の対位法と根本的に違うことは、横に並べるにあたり、別の声部に対してどの反応をするかではなく、横に並べる音程のみに規定を絞り込む。これは例えばブロードウィン写本の一部の作品や、或る時期のドナトーニの楽譜にも影響を受けた。正確に言えば、彼らのプロセスを逆に転写し、全く別の空間に各楽器を放り込んだ塩梅に近い。
ある一定の音組織の規定を予めつくり、その中を自由にそれぞれの演奏者が動き回ることは、誰でも普通に使ってきた手段だが、割った竹の節のように区切りごとに構造は分断され、どうしてもこの節目が際立ち収斂してしまい、各人が突き抜けた独立性を保つのをむつかしくする。
自分が指揮をしていなかったら、全く違うところを目指したに違いない。普段自分が演奏者に対し、全員同じアーティキュレーションを要求し、同じイントネーションや、同じリズムを要求し、縦を揃えることの功罪を、よく理解しているはずだと信じている。各人の音楽性を引き出す上において、個を殺すことの必要性をよく理解しているからだ。無論、それは悪いことばかりではなく、最終的に集団として個とは全く別次元の大きな表現の実現が可能になる。
ただ、今自分として興味をもっているのは、演奏者がそれぞれ自分で自らの表現するフレージングをつくり、縦を合わせる集中力とは別のところで、互いの音楽の交わりを聴きあいながら紡ぐことによって、それぞれの奏者のよさを引き出せす可能性。
12月某日 ミラノ自宅
総選挙の投票率最低とのニュースに続き、香港の民主選挙を巡るデモについてラジオで話している。今回はどこからも投票ができなかった。東京での期日前投票には公示が遅すぎて、ミラノでの在外投票の手続きには、期間が短すぎた。香港のデモに参加している人たちは、香港の全人口のどの程度の割合の、どんな立場の人たちかと考えを巡らせる。
民主選挙が出来なくなると知れば、日本人も選挙に敏感になるのだろうか。それともその頃にはもっと感覚が麻痺していて、殆ど誰も興味を持たなくなっているのだろうか。尤も、支持政党の比率が相似を成すはずであれば、投票率がたとえ上がっても、特に選挙結果の大勢には影響はないはずで、その前提に則って現在粛々とマツリゴトが執り行われている。
指揮のレッスンをしていて、必ず話すことがある。もちろん、自分の経験上実感していることに他ならない。
君が伝えたいことが伝えられないストレスを感じるのは当然だということ。もし君が伝えたいことがたくさんあって、指揮棒をもつ右手がそれを上手に演奏者に伝えられないからといって、(殆どの場合は無意識のうちにだが)何でも闇雲に、顔の表情や、目配せや、足踏みや、身体をゆらしてみたり、歌ってみたりして、何とか意図を伝えようとしてしまうのは間違っている。辛くても君が伝えたい事は、全て右手に収斂するような回路をつくるべきであって、それは繰返し訓練すれば誰にでも出来るようになる。
音楽におけるコミュニケーションは、実はとても込み入っている。他者にその込み入ったインフォメーションを右手から伝えるためには、コミュニケーションのプロセスが、間接的であることを受け入れる必要がある。そのためには、感情や論理の言語化の訓練がまず必要であって、具体的に伝えたいことを他者に理解できる言語に変換する煩瑣な手続きを、面倒がらずに真摯に噛み砕いて説明する鍛錬が求められる。
文章の終わりに(汗)とか(涙)とかと書くことで、細やかな感情表現を放擲してしまうとか、果ては文章の替わりに、大げさな顔のイラストを送ることで、大体の感情表現のコミュニケーションが瞬間的に実現できてしまう、と過信するのは実はとても危険なことではないか。
少なくとも指揮という煩瑣な作業は、それら一つ一つの情報を噛み砕いて頭のなかで言語化し、それを右手に情報をおくって、指揮という全く別の言語体系、未知の外国語を通して、君の意思を伝えることに他ならない。それが面倒だと思っても、他者に君の音楽を伝えるためには、それだけの多くのプロセスを君がまず受け入れなければならない。すぐに伝わらないからと言って、ひねてみたり、こんな感じで、とかインスタントな表現で済ますのではなく、他者にわかるように、わかる手段で、わかるほど噛み砕いて伝える厄介を、それだけの信念と執念と丹念をもって、頑張って培ってほしいとおもう。
12月某日 ミラノ自宅
三浦さんより、ミュージック・フローム・ジャパンの新曲のための解説文をたのまれる。
・・・杜甫二首
「春望」は、757年、杜甫46歳のときに、安禄山の反乱によって荒廃しきった長安の姿をうらめしくうたったもの。
「対雪」は、その前年、756年の冬、安禄山軍によって長安に軟禁中の杜甫が、自らを幽閉されて「この世の何たることよ、咄咄怪事」と空に書き続けた晋の殷浩になぞらえて、戦乱の世の愁いをつづったもの。
昨年2014年わたしたちは、クリミアでつい昨日まで同じ国民だったもの同志がいがみ合うのを目の当たりにし、パレスチナとイスラエルの果てしなき戦いに言葉をうしない、イラク、シリア、アフガニスタンなどの市民戦争で、インターネットで私刑を中継するおぞましいテロリストの雄叫びに誰もが目をうたがった。
海のもくずと消えゆく高校生たちを、なす術もなくテレビでながめ、パキスタンで132人の罪なき小学生が銃弾に斃れたニュースにふるえた。ナイジェリアでは、276人もの女子学生が誘拐され、市民は虐殺された。
今感じている思いは、どうしても今、どこかに刻み込んでおかなければ、記憶が薄らぎそうで怖い。当事者ではなく、傍観者でしかいられない無常観を湛える杜甫のテキストは、自分の心と符合する。二首を杜甫がよんだ長安の都、現在の陝西省民謡「泪蛋蛋」の旋律に基づき、ニ首つづいて演奏される・・・
……
陝西省、特に陝北の音楽に惹かれ、くりかえし民謡をきく。恋の焦がれは切々と、悲しみは泣きじゃくりながら、四度を重ねた似たような節回しにのせて歌う。時たま挿入されるはっとする変化音の艶かしさに、インドや遥か西方文化の片鱗を見る。
女たちは嗩吶そっくりの声色で、喉をつめ粘りと張りをくわえてうたう。男たちが裏声を巧みに操りながら、驚くほど広音域を縦横無尽にうたうのは、遥か彼方まで声を届けたかったのかもしれない。ちょうど木曽節がもう一つ二つ上の声のポジションまで上り詰めたかのように見える。
悩んだ末に、杜甫二首のテキストに「泪蛋蛋」を選んだが、当初は有名な「赶牲灵」つまり「趕牲霊」を使うつもりだった。自分の作曲が終わってから、インターネットで採譜された「赶牲灵」の数字譜を読むと、採譜者により、リズムや節回しが随分違う。こんな数字譜を見つける術を知らなかったので、「泪蛋蛋」も「赶牲灵」も自分で採譜してみたが、さわりの音の趣味など、それぞれ随分違うようにおもう。
こうして食卓で陝北民歌を聴いている間、階下では家人はポゼをさらい、その隣の部屋で息子が「くるみ割り人形」の合唱の音取りをしている。
12月某日 三軒茶屋自宅
成田に向う機中、初めて三善先生の「波つみ」の楽譜を開く。これからほんの数日のうちに読めるようになるのだろうか。まだ清書が終わっていないというのに。絶望と戦いながら無心でひたすら読む。先生の高い筆圧の音符を、几帳面に縦が揃った音符や数字をとにかく読みながら、頭のどこかで「海」の「波の遊戯」のスコアのページを同時に捲っている自分に気づく。表面上の音楽は全く違うのだが、どこかで薄く記憶を呼び覚ます声がきこえた気がした。
「波つみ」の楽譜を読みながら、先日ミラノの映像音楽作曲科の学生たちに、先生の赤毛のアンの主題歌を聴かせたときの喜びようを思い出していた。その日は珍しく欠席が多く、何時ものようにシャランを歌わせようとしたら心細そうにしているので、「実はこのシャランは、ぼくの恩師がフランス留学中和声を習った大教授なんだ」と話してみた。「恩師もこのシャランにはずいぶん影響を受けたからね。いつも歌っているから、君たちもシャランの和音の癖はわかるだろう。たとえば君たちならこれは知っているんじゃないか」
そう言ってインターネットから「赤毛のアン」のオープニングを探してかけるやると、学生たちは興奮して何度も何度も繰返し聴きたがり、「ああこのサワリの和音が似ている」とか、「この部分のバスがこんなに凝っている」とか口々に話し始めて止まらない。そうして改めて歌ったシャランは、最初とは打って変って活き活きとした喜びに満ちた声だったから、シャランで引っ張り出された三善先生は、ちょっと苦笑いされているかもしれない。
尤も彼らの「赤毛のアン」の最初の反応は、「何てゴージャスなオーケストレーション!」という感激の声で、何しろイタリア語版の主題歌は単にシンセサイザー伴奏の、三善先生のものとは比較にならないほどシンプルなものだった。「波つみ」の楽譜を開きながら、「何てゴージャスなオーケストレーション」というため息まじりの学生たちの声が甦ってきて、不謹慎とは知りつつ、くすりと笑ってしまった。
12月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんのところで「タワヤメ」をきく。かそけく響く五絃琴の調べ。流罪に処された夫の衣を、一針ずつ縫いこみながら、かさかさと乾いた音を立てる衣擦れの音。部屋をわたる風。ひたひたと思いを縫いこむ新妻の姿が、少しゆらめいて見えるのは、もえたつかげろうのように、静かに想いが立ち昇るからか。
風が吹く理由(9)なくなる日まで
長谷部千彩「お正月なんて大嫌い、なくなればいいのに」と彼女は言った。
一瞬呆気にとられるも、私もすぐさま言葉を返した。
「私も!なければいいと思う!」
週末のビストロは満席だ。テーブルにはキャンドル。雑居ビルの中の小さなヨーロッパ。若い女性向けの店はどこも内装が似ている。彼女と私は、なかなか運ばれてこない料理を待っている。
彼女は年末ミラノに行くという。ひとり旅。
「いいなあ、私もどこか行こうかなあ」
頬杖をつきながら、ため息をつく。もちろん私も行くならひとり旅。
「ひとりが好き」と彼女が言う。
「ひとり、いいよね」と私が続ける。
仲間がいた、と私は心の中で、ほくそ笑んだ。ひとりが好きな仲間たち。それからふと、彼女のお母様が他界されていることを思い出す。
「お正月なんて大嫌い、なくなればいいのに」
「正月だからと言って帰るところもないし」
東京生まれ東京育ちの彼は言う。
「何が嫌かって、ほんの何日か休むだけのために、前倒しにして仕事を片づけなきゃいけないっていうのが嫌なんですよ」
それは私も同感だ。12月中に片づける必要のない仕事まで年内に終わらせようとするのは何故なのか。今年のうちに、という合言葉。よいお年をというご挨拶。
「で、今年のうちにとか言って、結局、終わらないんですよね」
「終わらないね」
窓の向こうに見える大きなクリスマスツリーの前で、カップルが写真を撮りあっている。あのクリスマスツリーに吊るされているのは、毎年同じオーナメント。枝の先に煌めく無数の赤いしずく。さすがに見飽きた。
「お正月、いらない!」と彼女も言った。
「忘年会とか無駄なパーティとか多くて嫌!」
「普段通りがいいよ、普段通りが」
矢継ぎ早に繰り出される彼女の言葉の尻馬に乗って、私も言葉を重ねる。
「休みっていっても、私たち、こぼれた仕事やっているしね」
そう、休暇の気分が味わえるのは、通勤から解放される会社勤めの人たち。フリーランスで働いていると、やり残した仕事が休暇中の宿題になってしまったり、年明けに控えた打ち合わせの準備をしていたり。完全に仕事から離れるのは難しい。
子どもの頃は、年が変わることが特別なことに感じられた。
大晦日の夜は本当に一年が終わるように感じ、元旦の朝は本当に一年が始まったように感じた。
家族はみんな家にいた。店はどこもシャッターをおろしていた。街は静まり返っていた。
それがいまでは大晦日の夜もコンビニエンスストアは通常営業を続け、デパートでは二日から初売りが始まる。休むひとより働く人が多い、いまどきの正月、昔のようにおせちを食べながら三が日を過ごす人がいったいどれほどいるのだろう。少なくともここ東京では。
私は呟く。
「お正月なんてなくてもいいという人が、私のまわりだけでもこんなにいるんだもの、いつかお正月はなくなるかもね」
「なくなるかな」
「可能性はある」
大人の師走の夜は更けゆく。
「だって、所詮暦なんてひとが作ったものだし」
「それはそうだ」
「ひとが作ったものに絶対なんてないわよ」
「確かに」
私の言葉に彼は笑った。彼女も笑った。みんな笑った。笑い声とともに吐き出される白い息が、冬の空に溶けていく。
「なくなればいいね」
「みんなでそう願えばきっとなくなる」
「そうだね」
「うん」
ならば、いつかお正月がなくなる日まで、どうぞよろしくお願いします―。私は心の中でぺこりと頭を下げた。いつかお正月がなくなる日まで。
ひつじ年
さとうまき2014年は、「イスラム国」に翻弄された一年だった。2014年の6月からイラクでも、「イスラム国」の支配地域から避難してきた人たちの支援を続けている。彼らが冬を越せるように、避難所に毛布と給湯器を配ることになった。200枚の毛布を配るのに100家族を選んだ。小高い丘の上にコンクリートブロックを積んだだけの作りかけの民家に住み着いている避難民を訪ねる。彼らは、8月に逃げてきたヤジッド教徒たちで、民族浄化の危機に遭遇している。一家族に2枚の毛布を配るのだが、皆必死になってもらおうと集まってくる。逃げるのもそうだし、逃げた先での生活は命がけだ。
羊が30頭丘に上ってきて、私たちの周りをうろうろしている。きくと、この羊たちも一緒にイスラム国から避難してきたらしい。恰幅のよいお母さんが赤ちゃんを抱っこしながら話してくれる。
「イスラム国が侵攻してきたのでシンジャール山に羊をつれて逃げました」
その時は、70頭いた羊も、山を越えて一旦シリアの国境を越えてからイラクに戻ってきたときは30頭に減っていた。逃げ遅れた羊飼いは、羊と一緒にイスラム国に連れ去られたという。
「羊と一緒に国境を越えて逃げてきたのですね?」
「はい。この羊たちは、家族同然ですから」
「あ、でも、食べちゃうんですよね?」
当たり前でしょと言わんばかりにおばちゃんは豪快に笑い飛ばした。生きていくことのむずかしさとしたたかさを知り尽くした難民たち。
2015年.ともかく、ひつじ年がやってきた。平和な年になりますように。
飛石、露地
高橋悠治そのドアは他のドアでなく そのネコはほかのどのネコでもなく
飛石の列はどこかで曲がる 曲がらないなら せめて 踏石の大小のリズム
おなじようなリズムも すこしずつずれて おなじ顔も 見るたびにちがうように
毎日おなじ時間におなじ道を通っても いつもちがうものが見える
毎日ちがう時間にちがう道を通って おなじものが見えたらどうしよう
流れの襞をときほぐし 隠れた模様が見え
見なおすと そこに一つの部屋が
部屋に入ると 見えなかった出口が
次々に部屋を通りぬけ
どこまで行っても 外に出ないけれど
家の脇を通る細い露地 風や雨にさらされ
瞬間は 寄り集まり切れ目ない一つの動き
時間はまだ見えないかな
動きといっしょに息が出て 息継ぎするとき 動きが区切れ
動きはふるえ すこし曲り 大きく小さく 遅く速く
はじまりはかっきり重く ゆれつつはこび 端まで来たら
力も息もかるく消え
部屋を横切るとき 歩数は数えていないか いるか
踏む足も 動く身体の線も 感じているか いないか
瞬間 ひと息ついて もう一つの瞬間
時間が この瞬間とあの瞬間を 行ったり来たり
順序はあっても 方向はないと思いたい
連句が時をめぐり
付けと転じは続いて どこへ行く
旅は終わってまだなにか
わからない
瞬間が色とりどりに散り
時間が模様を包み ひろがる
*
切れぎれで、全体の計画なしに、即興で一つの瞬間から次の瞬間へ跳びうつる。瞬間は時計で測る短さでなく、時間でさえなく、フレーズ、句、ヒトフシと感じてもいい、一部屋と見てもいい。まとまり。単語や要素のように、基本的で、変わらず、最初から材料になるためにそろえられて、建物の土台になるものではなく、古い日本旅館の部屋のように、次の間の空間の形が変わり、眼が距離に応じて焦点の深さを調節するように、いつも新しい環境に対応できる。
「歌仙は三十六歩。一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり」、と芭蕉が言った。連句は後ろから読んでもやはり付けと転じがはたらいている。名古屋で巻いた「冬の日」に付けた柴田南雄の曲がある。それを逆転したものに付けた『狂句逆転』も音楽の連句にはちがいないだろう。行き帰りでは風景はおなじにはならない。
生態ネットワークに飛石と回廊というたとえがある。草木が群になっている場所が飛石で、それが途切れないように次の飛石に続く道が回廊で、多様性と交流が保証されるので強い。
建物の回廊には屋根を葺く。茶庭の屋根がない細い脇道は露地。気候は予測できない偶然の重なり、確率や統計は後付けで、10%の雨の予報でも、雨が降っている時は100%。地震や噴火もいつか。
その場の即興はうまくいかないかもしれない。楽譜があって、ただ弾いても、音符は音にならない。いままでにある音楽を分析して、たくさんの理論がある。理論から音楽を作れない。演奏も作曲も、いままで出会ったことのない偶然の状況をどうしたらいいのか、その場その時で答はちがう、と言うより、答はない、と感じている。その場限りのあそび。うまくいくのも事故とおなじ。アクシデントの語源は落ちてくること。
音楽も一歩ごとに薄氷。