141 悲し

藤井貞和

人性(にんしょう)ここに至る、心神衰え、
無惨(むぞう)よ、いまきみを抱く涙すうこう。
うしなうわれら、何に愛(かな)しと言おう。
ことばよ、空しく走(か)け去って応えはない。(律詩)

(はくらくてんよ、きみならどううたうか。げんだいに遺されたわれらは、われらであることを遂げえない。きょう、『詩選』を贈られて心豊かでありたいのに、ざんにんなじけんに向き合わねばならないと。ちていにこえを知るひとのかずもまたなくなる。)

しもた屋之噺(175)

杉山洋一

余りに慌ただしく一ヵ月が過ぎて、久しぶりに戻った東京は思いの外涼しい日でしたが、数日して梅雨が明け、いつもの夏らしさが戻ってきました。一カ月の日記を読み返すと、本当に血腥い事件が続きました。ルーアンの教会テロ報道の傍らに、戦争ゲームの宣伝が眩しく点滅していて、いかに興奮が味わえるか謳っている。もしかして、我々の感覚はどこか末端から麻痺しているのかもしれない、ふとそう思いました。

  —

 7月某日 ミラノ自宅
朝起きると、庭の三和土で息絶えていた小鳥を埋めた穴の上に、兄弟なのか同じ小鳥が群れている。偶然か。
隣の部屋で愚息がカセルラの「11の子供のための小品」をさらっているのが聞こえる。1曲目が「子供と魔法」の冒頭に酷似していると繰返していて、初めは笑って聞き流していたが、聴き返す程に、なるほど好く似ている。
彼には最近Aちゃんというガールフレンドが出来て、メッセージのやり取りに勤しんでいる。親に見られないよう電話に暗証番号を設定しようとして壊れて、泣いている。庭に出ると、どこから飛んできたのか紙飛行機が落ちていて、「Aちゃん、僕の電話こわれちゃった」と書いてある。

 7月某日 ミラノ自宅
愚息が壊した携帯電話を携えパドヴァ通りへ向かう。この界隈は少し秋葉原に似て、中国人やアラブ人らの電化製品修理店が軒を並べる。想像通り修理は不可能と言われ、落胆しつつ、帰りしな隣のモンツァ通り54番地市営市場の食堂で昼食を摂る。ミラノの市営市場は何箇所かあって、どこも似たような巨大なプレハブの建物で、ちょっと味気ない。要は、元来の市場の上にトタン屋根をつけて、周りもプレハブで囲った塩梅だ。日本の何某青果市場の開放感はなく、小さい店が犇めく。本来賑々しいはずだが、土曜で市が休みだったせいで閑散としている。

食堂の屋号「La Taberna Dei Terroni」を敢えて訳せば「南方野人亭」。「野人亭」はその一角、4、5区画分ほど買い上げ、市場の通路にテーブルを並べて食べさせる。魚介類のシャラテルリを食べ、主菜替りにプーリアのチーズ、ブルラータを頂くと、なかなか美味であった。
偶然「野人亭」の斜向かいに住むパオロ曰く、商売の仕方がマフィアのようでお気に召さないようだが、ミラノのどこも中国人経営者にすげ替わる昨今、まだイタリア人が買占める方が良くはないか。中国人を別段悪く思いもしないけれど、近所の喫茶店もタバコ屋もピザ屋も洗濯屋も洋服の仕立て直しも美容院もサッカーチームも、中国人に買い取られてしまうと、やはり少し寂しい。20年前のような街角に立つ妙齢の姿がめっきり減った代りに、夜になると50メートル毎に「中華式按摩中心」というネオンが点滅する。

 7月某日 ボローニャ行列車中
ラヴェンナに息子たちの演奏会を聴きに来た。合唱団の子供たちと一緒に早めの夕食。食卓を共にしたエンマの父親ジョゼッペより、こんこんと血液型ダイエットの説明を受ける。それによると我らO型は殆ど何も食べられないらしい。因みに息子の血液型は未だに知らない。イタリアでは輸血のたびに血液検査をするそうなので、特に知る必要にも迫られない。ジョゼッペ曰く、ダイエットを数年来実行していて、頗る快適に暮らしているらしいので、大変結構なことだ。日本人も血液型占い大好きだろうと言われ、返答に困る。

ムーティが「君が代」の前奏を振り始めると、雄々しく勇壮な響きに驚く。合唱が入ると、発声と発音に依るのか、イタリアオペラを切り出したような響きが沸き上がる。あれを聴くと、我々の声色は朗詠風。朗詠文化で西洋音楽をやるのも興味深い、と内心北叟笑む。北叟と言えば塞翁ヶ馬。朗詠文化でもまた面白いアプローチは生れるかも知れない。

演奏会後に話していて「君が代」の後で歌ったイタリア国歌斉唱で、エンマは泪がこぼれたという。息子曰く「君が代」は歌詞がむつかしく、なかなか覚えられなかったそうだ。稽古の後に迎えにゆくと、子供たちが口々に「君が代」を歌いながら歩いていて、それが薄暗いミラノ旧市街の、細い石畳の露地に甲高く響き渡るのは、何とも不思議な光景だった。
ムーティが振る期待通り「メフィストフェレス」は圧巻だった。最初の音とり練習から子供たちも「メフィストフェレス」に興奮していたが、めくるめく音の渦中、児童合唱が鮮明に浮き上がる様にも鳥肌が立つ。これほど素晴らしい作曲家でありながら、ボイトは何故筆を折ったのか、理解できない。
指揮者は凄かった! 上手かった! 怖かった! というのが子供たちの感想。

 7月某日 ミラノ自宅
一人で日本へ発つ愚息を空港へ送りに行き、そのまま合唱団の制服を劇場に返却して帰宅。ダッカやイラクでテロが相次いだので、空港や劇場は警備が特に物々しく、息子を連れて歩きながら恐怖を覚える。とんでもない時代になった。
夜更け、イタリア国営放送文化ラジオでアルフォンソと一緒に電話インタビュー。23時半くらいにローマ局から電話が掛かり、5分程でインタビューが始まる。打合せなしの生放送インタビューは何度やっても厭なものだが、15分ほどで無事終了後、アルフォンソよりうまくいったねと電話。ガスリーニが死の直前「そろそろジャズから離れて作曲に没頭したい」と語った逸話は心に染みた。その直後階段から落ちて怪我するなど想像もしなかったろうし、まさかそれが死に繋がることになろうとは、想像もしていなかったろう。一期一会。

 7月某日 ミラノ自宅
O作品譜割り終了。使われている素材は特殊だが、最後に冒頭と全く同じ再現部がある。今回は前半のは演奏できないが、一度全曲を通して聞いてみたいと思う。気が付くと伊語で独りごちていて、音楽を考えるとき際の思考は日本語ではないらしい。
ダラスで警官に発砲。血を血で洗うとはこのこと。イスラムの宗教対立にしても、人種問題にしても、ISのテロにしても、全て悪化の一途を辿る。こんな時に音楽なんて何の役にも立たず、虚しい。
庭に水を撒く。15分毎にタイマーをかけ、散水器の位置を変える。家に入ろうとして、線路の向こうを見ると、二匹の蛍が戯れながら光っている。神秘的な輝き。音も光も匂いも何もかも、その昔はずっと幽玄な存在だったに違いない。それぞれの音はそれぞれの世界を内包し、各々の世界は別の世界と繋がっていたに違いない。一つの音に、聴き手は無限の世界を感じ取ったに違いない。

 7月某日 ミラノ自宅
税理士に送る電子請求書のデータを用意するためコンピュータのクラウドを開くと、息子のクラウドが開いたままになっていて、いきなり中の音楽が鳴り出して愕く。それが荒井由実の「飛行機雲」だったので2度愕く。
サンタゴスティーノ駅前の喫茶店で、パリからやってきた北爪くんと会う。ご両親の愉快な四方山話に花が咲き、時間を忘れて話し込む。息子の目からは親はそう見えるのだろう。あと10年もすると、息子は我々について何の話をしているのだろう。後で今堀君がやって来たが、学校で会う時の装いとはまるで別人で、外出時のお洒落は華やいでいた。

 7月某日 ミラノ自宅
アリアンナがハイドンの「告別」をレッスンに持って来る。悠治さんから頂いた「ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む」を思い出しながら、「疾風怒涛Sturm und Drang」について話す。「告別」のような、奇想天外な発想を把握するにあたり、無意識に既成概念に捕われる自分の思考の凡庸さに多少の落胆を覚えつつ、かかる思考があってこそ、作品の豊かさが漸く理解できる、有益なる平板さも存在するだろうと自らを慰める。

ハイドンの小節構造は複雑、寧ろ自由なので、彼女が先に和声分析をしてフレーズを捉えようとすると、音を出した途端に道に迷ってしまう。予め一定の小節構造を自分なりに決めた上で和声分析をすれば、一つの拠り所にはなるだろうし、たとえ当初設定した小節構造が和声分析の結果、納得いかなくなって直したとしても、その部分にこそ面白みが詰まっていることが多い。特に2楽章などそれが顕著だろう。メヌエットの字余りのフレーズは、時間が永遠に止まったように見える。

夜、自転車で中華を食べに出かけると、家の前で小学生くらいのジプシーの少年3人組が、交通標識に繋がれた自転車を盗ろうとしていた。目が合うと笑いながら逃げていった。楽しくて仕方がないという風情で鍵を外そうとしているのが印象的だった。ここ数日酷い夕立が続いていたので、今日の星空はミラノとは思えない満天の星に、澄み切った空気。

買い物ついでに角の中国人喫茶店に顔を出す。そこの息子は今度小学5年生だが、秋から中国に戻り小学1年生に編入されると云う。「だって中国語が出来ないと困るでしょう。中国語の勉強のためよ。1年生に戻るのを嫌がっているかって? とんでもない、大喜びでこちらが恥ずかしくなっちゃう。困ったものよ」。ミラノの中国人学校では、本場の勉強は学べないという。「中国の勉強は厳しいからね」。

トルコのクーデター失敗で300人弱の死者、ニースの花火大会にトラックが乱入し、80人強の死者との報道。何故、子供たちは嬉々として自転車を盗もうとするのだろう、そう思いながら帰宅すると、隣のバプテスト教会から、大声で罵られながら彼らが追い出されてきたところだった。少年たちの顔は、相変わらず何とも言えぬ、だらしない笑いを湛えていた。

 7月某日 ミラノ自宅
朝、前に通ってきていた啄木鳥が戻ってきた。前と同じ樹を穿つ、乾き少しくすんだ音が庭に響く。どのように同じ場所に戻れるのか暫く考えた後、空から眺める我々の景色を思い浮かべる。
松平敬さんから、低音デュオが演奏した「かなしみにくれる」のヴィデオが届き、何も考えず無心で聴き通す。これを2年前に書いた頃、確かにガザ侵攻に心を痛めていたけれど、あの時よりずっと世界の状況は悪くなった。今この作品を聴くと、どれ程楽観的でロマンティックかと唖然とする。当時テロリズムの危惧は現在よりずっと限定的だった。誰もが世界を良くしなければと話していたが、音楽で社会に訴えられるものなど存在しないのだろうか、気分が塞ぐ。松平さんと橋本さんの演奏で、空間に浮き漂う、有機的沈黙の計り知れない重さ。例え作品には価値はなくても、生れる音に宿るものは多分何かきっとある。

 7月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの空港へ向かいながら、タクシーの運転手と話し込む。初めタクシーに乗り込んだ時に、英語放送のラジオがかかっていたのでおやと思ったが、彼は数年前まで製薬会社の役員だったが、不況で会社が潰れタクシーの運転手を始めたという。50歳近くに会社から放り出されるとどこにも再就職など出来る筈もなく、タクシーを使う側だったのが、ハンドルを握る立場へと逆転してしまって、とこぼす。誰かに話したかったのだろうか。降りようとすると、私のつまらない話を聞いて下さってどうも有難うございます、と繰り返した。

東京に着いた日の夜、安江さんのリサイタルに出かける。「ツリーネーション」で、今の自分とは全く違う作曲の意志に少し戸惑う。同じように社会参加を意識していても、ずっと肯定的で動的だった。演奏は素晴らしく、最後のオルゴールも微風が立ち昇る錯覚を覚える。演奏のお陰で音楽がすっかり骨太になった。とてもあの頃の時間が遠く感じられる。今自分が書こうとしているのは、夜の風景。外に発散される音ではなく、裡に打ち響く音。自らを知るために響く打音。

 7月某日 三軒茶屋自宅
白河に出向く。最初に葉の木平の大規模地滑りが起きた場所跡に、今年の3・11に祈念公園が作られた。一緒に同行してくれたSさんは、知人がここで命を落としていて、震災後今まで一度も訪れることが出来ないまま、この場所を避けていた、と声を潜めて話した。それから訪れた、端正に並ぶ仮設住宅も、確かどこかのニュースで見た。結局この目で見なければ、何も実際のところ理解していない。

南湖を前にして、松平定信が影響を受けた、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を思う。「洞庭湖の遥か西に楚江の流れをみとめ、南の水が尽きるあたりに目を転じれば雲一つなく」と始まる澄み切った描写は、「明るい水鏡が、彩りから君山を描き出す」と結ばれる。初めてこの句を読んだ時の感動と驚きに、思いもかけぬところで再会した。

自分が育った相模原で起きた事件をラジオで聞き、耳を疑う。その後の報道で容疑者が「身障者」という言葉を使うようになり、虚を突かれた思いに駆られたのは、自分だけだろうか。

(7月30日 三軒茶屋自宅にて)

つむ

時里二郎

どこの山寺の 
ナツツバキの花の
帰り道か 
地に落ちた その浮きたつ白も
とおい記憶のうすやみにまぎれて

誰かの弔いだったかもしれない
寝覚めの幼い僧が はなしてしまったひものさきに
結わえられていたはずのことども

あるいは こんなはなしだったかもしれない
幼い僧の名を つむ と言った
人形だが ことばを話す
亡くなった幼児を忘れがたく
親はそのしあわせをほとけにゆだねて
幼い僧の人形に 黄なる僧衣を染めて仕立て 
その山寺にあずけたのである
三年は会うことが許されず
年季あけにと
山門を敲くと そんな幼僧はしらぬという
夢でもごらんになったかと

つむ つむよ と境内をさまよううち
見上げるばかりのナツツバキに 白い花の群れ咲いて
ふと まばゆいひかりの花を見つけたと思うや
足裏に はふっとした感触が 
感覚されない痛みの芯を突いた

見れば ナツツバキの躙られた花
親は つむなるらんと あたりの土ごと掬って てのひらにのせる
つむ つむよと ほおにすりつけて 泣きかなしめども
土によごれて潰れた白い花の応えるはずもなく
掬いとった土ごとの花を懐紙に包んで 
山寺を辞す

帰り道 述懐するに
山寺につむをあずけたときから
ほとけにつむのしあわせをゆだねたのではなかったかと
むしろ じんかいの世にあるものに触るるは つむのしあわせに障る
それが踏みにじったナツツバキの花であったと
うち萎れて 家にもどり 
懐紙のつむを供養しようと ふところを探れど 
懐紙はうすいままに 潰れた花も土も消えている
こはいかにと つぶさに見れば
ましろい紙片に ナツツバキの蕊(しべ)の粉(こ)の名残か
わずかに 黄なる沁みのうつりてあり

  名井島の小さなお話から

機関車のことなど

大野晋

朝早い電車で1時間ばかり車窓を眺めていると思わぬことに気づくことがある。

小さなとき、住んでいた祖母の家は貨物線の近くだった。定期的にがたごとと貨物列車が通るのを眺めて育った。ときには、お召列車が通ることもあったが、ほとんどの場合には長い貨物列車が通り過ぎた。門前の小僧は毎日列車を見ながら、機関車や貨物車の種類を覚えていった。

機関車の種類は、動力の形式と力を線路に伝える動輪の個数と番号であらわされる。動輪の数は、Aならひとつ、Bなら2つ、Cなら3つという感じで対応している。そして、その前に、電気機関車ならE、ディーゼル機関車ならDの記号が付く。ちなみに、蒸気機関車は記号が付かずにいきなり動輪の数で始まっている。たとえば、D51なら動輪が4つの蒸気機関車。C62なら動輪が3つの蒸気機関車、といった具合で、動輪の少ないものほど速度が重視される旅客用、動輪が多いものは設置面積の多く、より重いものを引っ張る貨物用といった感じで用途が分かれている。

ところで、なぜ、こんな話を思い出したかというと、新川崎に止まった電車の車窓を見ていたら、EHXXXという名前の機関車を見かけたのだ。Eは電気機関車、Hということは動輪が8つ(左右合わせると16個)ということで、車輪だらけの機関車ということになる。実際にはあろうことか、2両が連結された機関車で合わせて8つの動輪がついているという事なのだが、まず、最初から2両連結の機関車が日本にあるという認識がなくてびっくりした。まあ、最近、鉄屋としてはご無沙汰していたということでしょうね。

ということで、近年の不勉強を恥じて、少し鉄分を補充しようかと思う今日この頃です。

アジアのごはん(79)旅先豆乳ヨーグルト

森下ヒバリ

旅先でもおいしい豆乳ヨーグルトを食べたい‥。そう思ってバンコクに来る度にアパートで豆乳ヨーグルトを試し続けてきたが、なかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗である。やっと固まっても、ああ、おいしい!という域に達しない。

バンコクで手に入る豆乳では、卯の花というバンコクの日本人が作っているものがおいしい。が、かなり濃いので飲むにはいいが、ヨーグルトづくりにはちょっと向かない。これで作ると出来上がったものはほとんど豆腐である。いや、これはこれで醤油をかけて食べられるからいいか‥。現地ブランドではOHAYOという看護婦さんの絵のついたものが無調整で品質が良い。これは砂糖入りとなしと2種ある。

肝心のヨーグルトの種であるが、旅先では基本自炊はほとんどしないから、日本で作っている米のとぎ汁から作る乳酸菌発酵液はないし、作ってもいられない。なので、玄米を直接入れて作る方式を試してみたが、臭くなりすぎてどうしようもない。玄米を水につけてつくるリジュベラック水でも試してみたが、常夏の国ゆえか、すぐに臭くなってしまう。白米でやってもだめ。

しかたがないので、豆乳に牛乳ヨーグルトの品質のいいものを混ぜて作っていた。これが一番安定してヨーグルトが出来て、味がましだった。しかし、やはり動物性乳酸菌(動物性食品を好んで繁殖するタイプの乳酸菌をこう呼ぶ)で作ると、ベースが豆乳でもなんか乳臭い。はあ〜、おいしい!と唸りながら食べるぐらいのレベルのさっぱり系豆乳ヨーグルトが作りたいよう。

しかし、ついに旅先で簡単に、しかもおいしく豆乳ヨーグルトを作る方法を見つけた。果物をヨーグルトの種として使うのだ。正確には果物の果肉や皮、種などに住んでいる乳酸菌に働いてもらうということである。日本で、アボカドの種、みかんやゆずの皮を豆乳に入れておくと豆乳ヨーグルトが作れることは知っていたが、米とぎ汁乳酸菌で安定して美味しいヨーグルトが作れるので、お試し程度に数回作ってみただけであった。しかし、米とぎ汁乳酸菌がない旅先でこそ、この方法がいけるじゃないか。問題は南国フルーツでもうまくいくかどうかだ。

さっそく、いつも食べているカットフルーツの店で買った、マンゴーとドラゴンフルーツの切り身をそれぞれ豆乳に投入。半日後、見事に固まった。どちらもちゃんとヨーグルトになっている。すばらしいぞ、南国フルーツ! マンゴーの熟れた切り身を入れた方はなぜかゼリーのようにぷるんぷるん。味はドラゴンフルーツの方が酸味がありおいしい。

これは楽しい。フルーツによって味がかなり違ってくるのだ。フルーツについている乳酸菌の種類に違いがあるということだろう。面白いのでいろいろ試してみた。

アボカドの種‥洗わずに入れる。なかなかコクのあるまったりとしたおいしいのができる。固まるまで他のフルーツより少し時間がかかるが。ただし、タイでは輸入品のアボカドは日本よりも高い。1個250〜300円もする。今回は雨季のチェンマイ産の安くて大きなアボカドが出回っていて、それで作ってみた。チェンマイ産は果肉があまり脂こくなくフレッシュな感じでおいしい。
熟したパパイヤ‥ん〜、一応ヨーグルトにはなるが、そっけない味。
バナナ‥え、なんでこんなにまずいの。バナナの果肉が時間とともに臭くなるせいかもしれない。これは食べられない。生のバナナをヨーグルトに混ぜてシェイクするバナナ・ラッシーはとてもおいしいのに、この味の落差はけっこうショック。バナナは出来上がったヨーグルトに混ぜて食べよう。
デーツ‥ナツメヤシの実を干したものである。これはなかなかコクがあっておいしい。ドライフルーツなので、移動の多い時にも携帯できて便利。ヨーグルトが出来たあとの実も柔らかくなっておいしい。干しアンズなどもおいしそう。
パイナップル‥酵素が多いから固まらないかも、と心配したがするっとヨーグルトになった。パイナップルの酸味と香りが生きておいしいのができた。

果物種のヨーグルトはあまり種継できない。出来上がったヨーグルトを少量取ってヨーグルトを作るのは、せいぜい2〜3回が限度。でも、いくらでも種は新しく作れるので、あえて種継にこだわることもない。

日本でも米とぎ汁から乳酸菌液を作って豆乳ヨーグルトを作る、という工程が面倒であるとか、培養に自信がないとかいう人には大変おすすめの方法である。南国フルーツでなくてもまったくかまわない。果物の皮でもいいので、まずは無調整の豆乳を用意して、お試しあれ。まずは少なめの豆乳でやってみると早くヨーグルトが出来る。コップや適当な容器に100〜200mlの豆乳を入れて、さっき食べた果物の残りの切れ端や皮を(皮の場合はなるべく無農薬のものが望ましい)1〜2切れ入れて軽く蓋をして、今の季節なら部屋に置いて半日〜、寝るまでに固まらなかったら冷蔵庫に入れる、と出来上がり。少しとろっとしたあたりで冷蔵庫に入れて冷やすといい感じに出来上がる。感じがつかめたら量を増やせばいい。

夏は、うっかり長い間室温に置いておくとすぐ過発酵してしまうので要注意だ。分離してしまっても、かき混ぜて食べれるが、ちょっと酸っぱくなりすぎかも。分離したホエイで次のヨーグルトを簡単に仕込める。半日も時々様子を見てはいられない、という人は時間はかかるが最初から冷蔵庫に入れてつくればいい。2日ぐらいでヨーグルトになります。

無調整の豆乳で作る場合、日本では乳酸菌の餌として白砂糖を小さじ一杯加えるとよく発酵してくれるが、南国でフルーツで作る時は特にいらないようだ。もちろん、加えてもいいけど。

簡単に作れるフルーツ種豆乳ヨーグルトで免疫力を上げてくださいませ。今日は昼にパイナップル2切れで仕込んだ豆乳ヨーグルト、さっきとろりと固まっていたので冷蔵庫にしまった。明日が楽しみ‥。

製本かい摘みましては(121)

四釜裕子

東京製本倶楽部研究会で行ったカロリング製本(Carolingian Binding )ワークショップで配られた資料の一部が、修復家の飯島正行さんによって倶楽部の会報73号(2016年7月発行)に掲載されている。カロリング製本とは、ごく大雑把に特徴を言うと表紙に用いた木の板に穴をあけて支持体を通して綴じる製本法で、8世紀に現れると9〜10世紀に最盛期を迎え、12世紀には使われなくなっていたそうだ。西欧で初めて製本に支持体を用いた事例という。

スイスのザンクト・ガレン修道院図書館所蔵の1200年以前のカロリング写本435冊のうちの110冊を検証した J. A. Szirmai さんの著書などを参照しながら、写真や図版も添えてある。図解が美しくわかりやすいので、正確ではなくても似たような綴じは自分でもできると口走りそうになるが、少なくとも、板に斜めに穴をあけるという作業がなければのこと(これが肝心なんだけど)。それさえなければ……と感じるのはルリユールを習っていたときに革漉きさえなければ……と感じていた愚かな日々を思い起こさせる。

板の厚さは7〜15ミリ、その側面から、ひら面に向かって複数穴をあけると言うのだ。私には驚きだけれど、そのためのコツや道具が記されていないのはつまりそういうことだろう。板は柾目で用いられるので湿気による変形は少ないが、上からの力に弱く割れやすい。したがって穴の位置は板が割れにくいように、またその数を減らす工夫がなされてきた。材はザンクト・ガレン本はほとんどがオーク(ナラ)。イタリアでは、ポプラやのちにブナが用いられたようだ。

さらに驚いたのは小口の断裁法だ。ナイフやカンナ、ノミなども用いられたが67冊がドローナイフで行われていたと推測されている。とっさに丸太の皮をむくものが頭に浮かんだが、小口断裁用に刃や持ち手を改良して使っていたのだろう。〈鉄で保護されたプレスに本を挟み、ドローナイフを斜めに引くことによって行われる。プレス自体は引く力に耐えられるように壁のフックに掛けられている。小口を数ミリ切るだけでも相当な力が必要とされた〉。根拠となったのは板の側面の痕跡で、その写真もあった。板の上に貼られていた革がはがれたのかはがしたのか。むきだしになった板の側面に動きのある刃物の跡が確かにある。1200年以前の誰かの仕事だ。

机の上の文庫本を片手で持ってぺらぺらしながら、本のかたちの一途を思う。そのための人と道具と機械の分業が固定しないことが好ましく思える。

7月31日

璃葉

風がつよい
昇りはじめた月も
雲にかくされた 

状況の変化は常で 雲や風のように
吹かれて流されては いつのまにか違う場所に佇んでいる
思いがけないところに流されてしまっても 永遠に変わらないということはない

流れに沿って歩き、泳いでいく 溶けていく そしてまた違う風に乗る 方角は変えられる
過去の景色から これからふむであろう 別の土地
どこへ向かおうか 考える 
遠くはなれた土地 土と石 石の温度

1608-riha.jpg

ジャワの立ち居振る舞い

冨岡三智

時代劇などを見ていると、床に座る社会での立ち居振る舞いというのが気になる。というわけで、今回はジャワの伝統舞踊に見られる立ち居振る舞いについて。ここに書くのは、中部ジャワ(なお、文化的にはジャワ島の中部)、特にスラカルタ(ソロ)の王宮文化を背景に発展した振る舞いなので、同じジャワでも他地域では異なるかもしれない。伝統的な立ち居振る舞いは衣装と密接な関係があるので、最初に伝統衣装の着付について書いておく。ジャワの伝統衣装は男女とも下半身に一枚布のカイン(腰布)を巻くスタイルである。丈は踝(くるぶし)まである。男性は着物のように前身頃が二重になり、かつ下前にタックを取るので、大きく足を開いて座ることができる。一方、女性の方は布を一周半ぴったりと巻き付けるので、太腿をやや拘束された状態になり、普通の歩幅以上に足を開くことができない。

舞踊では、男女とも正座としての胡坐(シロsila)と立膝(ジェンケンjengkeng)の2種類の座り方がある。胡坐の場合、男性は大きく足を開いて両足を交叉させず(重ねず)に座る。女性は着付がタイトなので、膝は肩幅にしか開くことができない。そのため、ふくらはぎで脚が交叉するような脚の組み方をする。この胡坐が正座であり、宮廷で家臣が控えて座っている時はこのように座る。立膝については舞踊以外の場面でも使うのかどうか分からない。少なくとも私は見たことがない。男女を問わず宮廷舞踊では、入場してくるとまず胡坐に座り、合掌してから立膝に座り直す。そして、舞踊が終わる時は立った姿勢から立膝に座り、合掌した後に胡坐座りをしてから、退場のために立ち上がる。

●座る、立つ

ここから後は女性舞踊についてだけ述べる。立った姿勢から胡坐に座る場合、一般的には足を少し前後させて立ち、そのまま腰を下ろして蹲踞のような姿勢(ただし膝は閉じている)をいったん取り、それから手をついて足を交叉させてから床に腰を下ろす。けれど、私が自分の師匠(ジョコ女史)から習った座り方は違っていて、直立している時に足を先に交叉させ(足の位置は近い)、そのまま腰を下ろして床に座る。逆に胡坐から立つ場合、私の師匠はこの胡坐のまま両足首を引き付け(したがって、膝が上がる)、体重を少し体の前に移動させてお尻を浮かせ、そのまま立ち上がる。実は、ジャワで私の師匠のようなやり方で座ったり立ったりする人を今までに見たことがない。私が知る戦後(1950年〜)生まれ以降の人たちは知らないようで、戦前(以前)にあった座り方なのかもしれないと感じている。ただ、ジャワでは見たことがないこの座り方だが、実は日本の時代劇――少なくとも大河ドラマ――では見るのである。ただし、男性だけだが(女性は胡坐座りをしないから)。現在放送中の『真田丸』でも、武士たちはまさに私の師匠のようにひょいと立ったり座ったりするので、それを見るととても懐かしく感じる…。

次に胡坐から立膝に座る場合。立膝座りの場合、立てるのは左膝で、右足は日本の正座のように折る。胡坐の状態から両足首を足の付け根に引き付け、その状態で体重をぐっと前に移動させて両膝を床につける。そして膝に体重を載せた後、交叉していた足をほどいて蹲踞のような姿勢(膝を閉じる)になり、立膝の姿勢になる。足裏が完全に床にくっついているのに、この立てた左膝頭の位置がとても低くて、右膝頭に近い人がいるが、それは足首が非常に柔らかい人だ。立膝から立ち上がる場合は、左足にそのまま重心をかけて立ち上がる。逆に立った姿勢から立膝に座る場合も、右足を少し後ろにひいて、そのまま腰を下ろして立膝の姿勢になる。

●歩く

王宮で王の前で踊る時は、踊り手は奥から登場する時は歩いて出てくるが、上演空間(儀礼空間)に上がる時から腰を落とし、ラク・ドドッ(laku dodok、座り歩きという意味)という歩き方で王の前に進み出る。男女問わず、この歩き方をする。これは王の前にずかずか立って歩いていくことが失礼であるからで、踊り手に限らず、他の宮廷儀礼でも儀礼空間では家臣たちはこのように歩く。この歩き方は日本の各種武術に見られる膝行と基本的に同じである。男性の場合は膝行のように大きく足を開くことができるが、上半身はもっと前傾して頭を下げ、王と視線が合わないようにする。女性の場合は膝が開かない着付なので、まるでうさぎ跳びのような姿勢で、小さい歩幅で前傾しながら前に進む。

歩き方はいわゆるナンバで、日本の伝統芸能や武術と同じである。現在の我々の日常的な歩き方では、腕を振り、体をひねりながら前進する。つまり、右足が前に出る時には左手が前に出ており、左足が前に出る時には右手が前に出る。しかし、ナンバでは腕を振らずに歩き、右足が前に出る時には右手が、左足が前に出る時には左手が前に出る。一般的にそういう説明がされるけれど、つまりは半身ずつ体をつかう歩き方だ。右足を出す時には右半身がついていき、左足を前に出す時には左半身がついていく歩き方である。

グロッソラリー ―ない ので ある―(22)

明智尚希

「1月1日:『酒の飲み方なんか知らないし、知っててもその通りにはしないようなやつらだったから、もう何でもあり。日本酒のチェイサーにビールとか、ジンをウオッカで割ったりとか、酒であれば何でも良かったんだろうな。そんなはちゃめちゃな飲み方していながら、これうめえよなんて言ってるんだよ。その彼は今アルコール中毒』」。

( ^^)/▽☆▽\(^^ ) カンパーイ!

 「ランニングコスト」とは、ある物質を円滑に押し進めるために新しく取り入れた、建物・機器などの備えつけの動きと制度・組織・体系・系統を、円滑なままでいられる状態にすることを第一義主義的に考え、そのものの持つ機能を生かして用いられるようなくてはならないとの理由を伴っている、欠くべからざる兌換貨幣のことである。

カンガエチュウ (;-_-)o”

 弱い者をとことんたたく。まずい料理をまずいと表明する。ブサイクをブサイクとはっきり告げる。小さい子を片手で払いのける。下手くそを下手くそと真剣に教える。やなものはやだときっぱり撥ねつける。ウサギの耳を豪快に引っ張る。駄目なもんは駄目だと痛切に述べる。誰でもこういう腐った心を少しは持ってるじゃろ。違うかい。え?

(^▼ェ▼メ^) オラオラ

 立ち直れないくらいの境遇に陥ったら、悲惨な出来事の数々を思い起こすのが良い処方である。戦禍に巻き込まれ、人間の苦しんだ形を留めたままの黒こげの遺体。数百人を満載しながらも着陸に失敗し、いらぬ粗大ゴミとなった旅客機。突発的に街中で発生する無差別殺人など。不謹慎などという道徳を、無言で却下できる数少ない事例である。

フカイタメイキ(;д;)=3=3=3=3

「1月1日:『アル中って周りが想像以上に極端みたいだな。一日何も食べずにアルコールばっかり口にしてるんだって。そいつの場合はウオッカ。朝起きてウオッカ、家を出しなにウオッカ、会社に入る前にウオッカ、机の上にミネラルウォーターのボトルに入れたウオッカ、仕事中もウオッカ、昼休みにもウオッカ、戻ったらウオッカ』」

ヨッパライヽ( ̄_ ̄*)()(* ̄o ̄)/

いない孫を想う。太郎は太っている。ブタも肥えている。ブタは食べられてしまう。最後に残しておいたイチゴも食べられてしまう。イチゴは赤い。酔ったおやじも赤い。おやじは独特のにおいを発する。くさやも独特のにおいを発する。くさやは平べったい。画用紙も平べったい。画用紙は真っ白だ。だから太郎は色白だ。そうじゃった。

(^m^ )クスッ

食事はまずく炭酸水がうまい。複数の電線の組み交わす辺りが美しい。エロDVDのあらゆる工夫に舌を巻く。3つの時計が同じ時刻を示している必然に驚く。街ゆく人々の偏差値のばらつきに笑う。平和による世界侵略に首をかしげる。古典の内容の正しさに深くうなずく。年中行事の薄っぺらさにあきれる。傍観する自分は畳で眠っている。

おやすみ〜♪(。・ω・。)ノ~~フリフリ

 坂ろうしでんし 恩ぱるの
 ずっし今ささ たれ溝そ
 運かさんかり いよぞその
 曲げれんれんの しで良ろし

└(-ω-┌))))) (((((┐-ω-)┘

 禁止されているなら手を出したくなるのが人情である。反戦についてのくだくだしい語りを聞く人の大半は戦争を知らない。ある報道によると、島の領有権をめぐって武力行使を辞さないのが30パーセントで、更にその中の80パーセントが、有事の際には兵役につくと回答した。武力衝突ほど万人の興味を駆り立てる話題はそうはない。

(*`◇)<毒毒毒毒ブオォォオ*_*;)

「1月1日:『家に帰っても当然ウオッカ。最後のほうはもうウオッカの味なんてしなかったらしいぞ。むしろ水道水が甘く感じたって言ってたな。あれだけ度数が高い酒なのに、いくら飲んでもほろ酔い程度にしかならなかったらしい。それである日、自分の知らない間に大量の薬をウオッカで流し込んでて、自殺をしようとしたんだって』」。

▼▼”⌒☆o(_ _o)ドテッ

 母なる恥丘。愛は恥丘を巣食う。うん、間違ってはいない。メリーゴーラウンドに乗ってるクソばばあを警察が包囲していのを尻目に、ハゲおやじの集会の真ん中でセクシーポーズをとる。自由に浮動するインテリゲンチアたちは激怒したあと、半人半獣神バーンになった。群集心理。ネズミーランドでキャットファイトを開催するのはいつだ。

きーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ”彡☆

 実はもう死んでおるんじゃ。生きながらの死。社会的な死。衆人環死。おえっ。すまんすまん。すまんが仏なんじゃよ。くだらんことをほざく前にも、じっくりたっぷりミニマルに死んでおけ。セクスシヨウ・ドールが大切。その代わり三輪車並みの覚悟が必要。ドラえもんがいたらもちろんいい。セクシーショットがあればなおのことよし。

♪d(´▽`)b♪オールオッケィ♪

 絶え間なく逆境にある人には、恐れるものなど何もない。身の回りの怪事件ですら、さもありなん、なくもがな、そしてむべなるかな、と内側に取り込んで沈静化させてしまうか、取るに値しないとして看過する。この手の人間が仮に順境にあった場合、順境を巧みに変態させて逆境とする。苦しみまみれの人生は、案外と楽なのかもしれない。

(;〇□〇)ハァハァ……..

 99%の努力と1%のひらめき、努力か。エジソンの言葉はね、重要度の比率ではなくて、かかった時間の割合なんでおじゃるよ。だから正確には比率が真逆のアホリズムとなる。鵜呑みにしたものは、鵜にならって吐き出さなきゃならなんわな。逆や異化は必需なんじゃよ。あの微笑ましいスタンザの受け手、家が放火されたっつうオチ。

(*´Д`)ノ ソーデスネ

「1月1日:『あんなに温厚なやつでも自殺を図るなんて、ひっそり希死念慮でも抱いてたのかもな。幸い一命は取り留めて、今はAAとか通いながら生きているわけだけど、血を吐いて三日三晩部屋で倒れていたそうだよ。その時のことがきっかけで断酒を決めたらしいけど、これがまた中毒中と同じくらい大変だと言ってたよ。笑いながら』」。

il||li_○/ ̄|_il||li ダダダダ〜ン♪

【広告募集中】

░▒▓█▇▅▂∩( ◉◞౪◟◉ )∩▂▅▇█▓▒▒

「ふざけるのもいい加減にしなさい」「ふざけてなんかないよ」「馬鹿おっしゃい!」「馬鹿なんか言ってないよ」「そういうことじゃないのよ」「でもふざけてなんかないよ」
「ふざけてるじゃないいつも」「ふざけてふざけているなら真面目になるんだよ」「真面目に真面目なら真面目じゃないの」「あーはいはい。そうきましたか。ふざけんなよ」

(ー公ー) フザケルナヨ……

 物故して逝去して昇天してから、草葉の陰に隠れて鬼籍に入って仏さんになる。カオスの縁で釣った4月の魚を持って、アンナ・カレーリナのところへ行こうとしたが、そんな人いなかった。3丁目には。しょうがないから百塔の街へ行って、焼き鈍し法でしっかり焦げ目をつけてから、ゼノンの4つのパラドクスを考えたから、俺に俺をくれ!

?(゚_。)?(。_゚)?

 いいかな。浦島太郎が竜宮城から戻って玉手箱を開けたら老人になった話をするぞ。

キャハキャハ!!(^Q^)/゙

 毎日を生きていくには、刺激が必要だ。喜び、驚き、痛み、不愉快など。琴線に触れる刺激を体感した時、意識はルーティンからリセットされて、次の現実に新たな気持ちで臨める。しかし人間は飽きっぽい。複数回のリセットを、つまり刺激の連結を必要とする。待っていても来てはくれない。刺激の素材探しが刺激になるのが最も望ましい。

∈(´_________________`)∋ ビローン アキター

そして、歌が残る

若松恵子

昨年の7月に急逝したギタリスト、石田長生(石やん)を追悼するコンサートが、彼の誕生日の7月25日に東京の下北沢で行われた。コンサートを仕切ったのは石やんの盟友であるChar.。ライブが「石田長生展」と名付けられたように、ゆかりの深いミュージシャンが集まって、最高の演奏で、石やんが残した楽曲たちを讃えるコンサートになった。

集まったのは、上田正樹、金子マリ、三宅伸治、山崎まさよし、Mac清水、松永希、本夛マキ、はせがわかおり、古田たかし、澤田浩史。上田正樹が「聴いてるか?石田」と何度も言っていたけれど、石田長生に聴いてもらいたい、みんなそう願いながら演奏したはずだ。客席のファンも、その気持ちを分かち合って心からコンサートを楽しんだ。集まったひとり一人の心のなかにある石やんの面影が、会場を温かく照らしているような夜だった。

良かったね、石やん。

8月10日には、Char監修による2枚組のベストアルバム「The Best of Ishiyan」
がCharの個人レーベルZICCAから発売される。未発表のライブ音源も収録されるとの事だからとても楽しみだ。

仙台ネイティブのつぶやき(16)峡谷に下りる

西大立目祥子

 トラックの荷台で右に左に揺すぶられながら、山道を10分ほど走ったろうか。唐突にエンジンが切られ、降ろされた。まわりに数台の車が停まっているのを見ると、ここから徒歩で現地に向かうらしい。まわりは夏山のむせかえるような緑、緑、緑。樹々の勢いが増している。

「じゃ、ここから下るよ、ついてきて」という高橋一幸さんのひと言に驚いた。えっ、ここ? のぞき込むと、下は崖だ。かなり急峻な斜面で、とても下りられるとは思えない。一幸さんは少しも躊躇せずに下り始めた。「危ないから、必ず木につかまって。あとはロープがあるから、それたよりに」 見ると70〜80センチきざみぐらいで結び目をつくったトラロープが下がっている。

 足場を確かめながらゆっくりゆっくり下りていくと、みるみる気温が下がって、ひんやり湿った空気に包まれた。峡谷の底では6、7人の男性が、手に手にスコップや鍬をたずさえ、黙々と川床の土砂や石を撤去する作業を始めていた。

 ここは宮城県北西部の鳴子温泉鬼首。ブナやナラなどの広葉樹林におおわれた山間地で、もうひと山越えると秋田だ。以前にもこの地で暮らしてきた古老、高橋敏幸さんのことを紹介したけれど、私は機会があると共同作業などを見に、鬼首の中でも北西に位置するこの地を訪れてきた。ちなみに一幸さんは敏幸さんの息子さんである。

 この沢は仙北沢とよばれ、源流は秋田県側。とうとうと流れる清らかな水は、戦後、山林を切り開いてつくられた1キロほど下にある大森平の米づくりに使われている。沢の水を堰き止め、その脇から約800メールほどの隧道を大森平までうがって水を流しているのだ。大森平の7軒の家の20町歩ほどの田んぼの米づくりは、この水に頼っている。

 堰き止めた川の底に石や土が堆積すれば、大森平へと流れる水は減少する。だから1年に一度、7軒の家の男たちが峡谷に下りて共同作業を行う。見るとみんな胴長を身につけ、工具を振るって川床の石や土を払い、ひと抱えもふた抱えもあるような巨大な石は、「せいのっ」と掛け声をかけて堰の下へと落とし込んでいる。あらためて、ともに働かなければ維持できなかった山の暮らしを教えられる。

 20メートルほど先には、高さ7、8メートルの砂防ダムが築かれ水は白いしぶきを上げて滝のように落ちてくる。流れの急なこうした上流部では、こうやって途中堰き止めないと、ひとたび大雨になったときに一気に水かさが増して峡谷の斜面に大きな被害が及ぶらしい。いつの間にか私も水に誘われて、スコップを手に石の撤去に加わっていた。

 それにしても、この大きな石はまわりの斜面から転がり落ち、あるいは上流から流されてきたものなんだろうか。それが流されるうちに砕かれ、川床を埋め尽くすのだろうか。なんとダイナミックな川の営みだろう。この圧倒的な力に一人ではとても抗しきれない。何人かが共同で集中して作業をしなければ、人の営みなど簡単に押し流されてしまいそうだ。

 作業に加わって2時間ほど。誰もが暗黙のうちに作業の持ち分を定め、黙々と集中するうちに川のようすはみるみる変わってきた。石が撤去され川床の凹凸がなくなるにつれ、水の流れはすべらかになり、流れは速くなっていく。人の力の何とすごいことか。

 ときどき、「いたぞ!」と声が上がる。イワナだ。あっちにもこっちにもイワナは棲息していて、逃げ場所を失って逃げまわる。小さなものは放してやるが、大きく育ったのは今日の作業のごほうびだ。

 やがて泥の撤去は、隧道の中へと及んだ。身をかがめないと進めないほどの高さで、巾は90センチくらいあるだろうか。体積した泥でずぶずぶと沈み込む足もとに注意しながら入り込み、小さな灯りで中を照らして息をのんだ。固い花崗岩の壁面にノミの跡が鋭く残り、それが奥までずっと続いている。これがずっと800メートル連続しているのだろうか。

 話には聞いていた。岩盤の工事を請け負った業者が匙を投げ、ダイナマイトの使用もあきらめ、開拓民の中の3軒の農家がタガネで掘り進んだのだと。何としても米づくりをという執念の作業だったろう。両側から掘り進み、最後の一打ちで岩に穴があき水が通ったときのよろこびを、作業にあたった一人、大場新喜さんが書き残している。

 60年が過ぎ、開拓の12軒の農家は7軒となり、いまは休耕田も増えてきた。それでも米づくりは続けられている。山間地の中に別世界のように広がる田畑に立つと、食べ物に事欠くような生活を続けながら、決して途中逃げ出さなかった農家の結束と思いの強さに圧倒されてしまいそうだ。

 12時。集会所でおかあさんたちが用意してくれた豚汁とお弁当にありついた。おいしい。汗をビールでぬぐった男たちは、午後の作業に備え、食べ終えると早々と昼寝態勢。ぐうぐうと眠り始める。

 作業日を決め、段取りを決め、昼ごはんの手配をし、工具を整え、毎夏、峡谷に下りる。ここで暮らしていくために繰り返されてきた、大切な営み。集会所の壁には「開拓者の記録 新しいむら誕生の記録」という長い扁額が掲げられてあった。

砂漠のスーパーマンをもう一度

さとうまき

アザッドのいとこのファーデル一家は、10年前にデンマークに難民としてやってきた。パスポートを持たずに海をわたり、不法に入国した後に難民申請するというのとは違い、デンマーク政府が、難民キャンプに出向き面接をし、合法的に移住させるという制度である。10年ぶりの再会だ。
沙漠のスーパーマン

父親は、10年間、これっぽちのデンマーク語を覚えようとはせず、クルド服を着続けて、つい先日亡くなった。母親も、デンマーク語は、ほとんど話せない。夫を失い寂しそうだった。

長男のファイドーンは、結婚していた。散髪屋で働いている。結構太って、そして頭もかなり禿げていたので、気が付かなかった。弟のカマルは、刑務所に入れられていた。デンマーク人とけんかをして、殴ったのかどうかは実際わからないが、一度出所して、また、そいつに暴言を吐いたとかで、また刑務所に戻されたそうだ。

一番下のアーデルは、21歳になって、まだ、大学生だが、ムエタイのチャンピオンに2回なっていた。トロフィーとチャンピオンベルトが飾ってある。これはいい話だと飛びつく僕。
「すごいじゃない?」
「ああ、でも、もうボクシングはやらない」
「どうして?」
「お金にならないからさ」
ちょっとがっかりしている僕にファーデルが言う。
「今は、親父が死んで、こいつは落ち込んでいるけど、きっとまたボクシングをやってくれるよ」

姉のシーシャは、10年経ってもまだきれいだったし、アーデルと喧嘩ばかりしていた妹のスェイバは、今回会えなかったが、きっときれいなお姉さんになっているのだろう。

ファーデルは、29歳は、立派な若者に成長していた。数年前は、市議に立候補もした。マイノリティの権利を訴えている政党のメンバーらしい。デンマーク人の彼女もできた。もう、すっかり立派なデンマーク人になっていた。デンマークは税金も高く、給与の半分は持っていかれるから、マイノリティであろうが、納税者としての権利意識は高く、政治にも参加する。ファーデルの主な仕事は、市役所で難民や移民へ仕事を紹介している。日本と比べてみれば、非常に成熟した他民族の町という感じだ。

デンマークに10年以上暮らす日本人にも話を聞いてみた。夫がデンマーク人の彼女は、
「給料は高くても、税金で半分とか取られるので手取りはたいしたことないです。そのかわり、医療や学校、老人ホームなど無料のものも多いです。で、最近は学校や幼稚園などの教育関係から、医療など人間にかかわるセクションの経費削減がすさまじいです。その一因は難民、移民にかかる経費が膨らんでいるからです。デンマーク人の福祉崩壊する危険を心配する人が多く、そのうえ、難民への費用ばかりがかさんでいくことに不満を感じる人が多いです」とのこと。

ファーデルたちの仕事は、右傾化するデンマーク社会の中で、新たに移住してきた難民たちの面倒を見ながら、彼らが、じきに立派な市民として、デンマーク社会に貢献することを説明し、理解してもらうという重要な任務を担っているのだ。

アラブ音楽つながり

西荻なな

最近、アラブ音楽なるものを聴き始めてみた。

アラブ音楽との最初の出会いは、3ヶ月くらい前に遡る。アラブ文化史の研究者(中町信孝さん)による『「アラブの春」と音楽』(DO BOOKS)という本を読んだ友人が、熱烈にプッシュ。本の中で紹介されているアラブのポップミュージックをあれこれyou tubeで聴かせてくれたのだ。アラブの音楽というと、悠久の、砂漠の広大さを思わせる、たゆたうような旋律、くらいのなんとなくのイメージしかない。歌なしの伝統音楽のイメージですらあやふやなのだから、歌詞ののったポップスとなるとますますわからない。

ところが、友人は熱弁を奮う。その旋律に郷愁を誘われるの! しかも歌が生まれる背景にストーリーがあるとか。「”アラブの春”のバックには、若者たちがみんな一緒に口ずさめるアラビアのポップスがあったんだって。Hip-hopもあるけど、他にも懐かしい感じの音楽があっていいんだよね」。

エジプト方言で歌われるポップスは略して”エジポップ”というらしく、友人は特にこのジャンルが推しだという。中には政治的プロテストを刻みつけるような、荒々しい曲調のhip-hop曲もあれば、合間にキング牧師はじめ、各国の政治指導者たちの演説シーンをコラージュして埋め込んだ作りのものある。でも例えば、革命中のタリハール広場で生まれたというシュプレヒコールが歌になったロック曲「自由の声」は、優しい昔懐かしのメロディ。動画に登場する若者たちの姿も笑顔だ。

Twitter越しに、アルジャジーラの中継で”アラブの春”の熱狂を見ていた5年前が思い出され、現地ではこんな優しい歌が口ずさまれていたのか、と70年代風の旋律とのギャップに私も興味を惹かれていた。

日常に紛れて、その後すっかり忘れていたアラブ音楽が記憶によみがえったのは、ヨルダンのアンマンから1年の留学を経て帰国したばかりという、また別の友人の友人に出会った時だった。アンマンと聞いて、「私の親友がアンマンにちょうど仕事で行ったばかり、向こう2年間は滞在するそうで」と初めて会ったその人に切り出したところ、「アンマンにいる日本人なら大抵わかります。お名前は?」と言われる。彼女の名前を伝えると、なんと日本に帰国する2日前にその人と会ったばかりだという。あら、不思議なご縁で、と見知らぬ中東世界でつながった二人の姿を思い浮かべていたら、エジポップにはまっていた友人とアラブ音楽のことも同時に思い出されてきた。

思えば彼女には、この前日に会ったばかり。さらに、私の失恋の落ち込みを心配した彼女は、私を励まそうとLineに「1日1男子」というグループを立ち上げていた。その日に会った男性の写真をLineにアップせよ、というなかなかハードルの高いミッションが掲げられており、私は日々それをこなさなければならなかった。毎日新しい男性に会うようにね、そうしているうちに失恋など忘れるでしょう、という友人の優しさに満ちた企みとも言えるのだが、私は “男子”の写真を送るために、ある程度目の前の男性と距離を縮めなければならない(急に写真を撮れるものではない)。その後、程なく挫折することになるこの試みも、この日はまだ始まったばかりだった。

そこで私はアンマン帰りのこの男性に、アラブ音楽の話題も振ってみたのだ。すると、アラブの美空ひばりと称される歌手の話から、アラブポップスの現在まで、話はとどまるところ知らず。アラビア語を学ぶならばかつてはシリアが良かったが、今となってはヨルダンが最も治安が良いこと、エジプト、モロッコ辺りと比べて、ヨルダンの言葉はローカライズされていない標準語に当たることなど、アラブの見取り図をつかめる話もたくさん聞くことができた。さすが、アンマン帰り。タイミング逃さず「アラブ音楽、とりわけエジポップ好きの彼女にもあなたのことを紹介したい」と、彼の写真を1枚撮らせてもらったのだ。

アラブとアラブ音楽の話題でつながった私たち3人は、昨日、とあるライブハウスで開催されたアラブ音楽会に出かけてきた。そこでは、アラブ全域で開催されるアラブアイドルのオーディション番組、「アラブアイドル」に日本人として初めて出場したという、日本と中東の架け橋になろうとする女の子が伝統的アラブ音楽を歌い上げていた。どこか日本の演歌を思わせる調べ。聞けば、演歌も歌うのだという。彼女のアラブ音楽との出会いの話も興味深かったので、また次の機会に。

春と修羅 modified

管啓次郎

宮澤賢治原作(1924年)+管啓次郎修辞(2016年)

心はもう灰色の鋼鉄以外には
色彩も素材も考えることができない
そこからアケビという植物の蔓が
はるかな情報の雲にまで伸びてゆく
Roncesが湾曲し、混乱し
植物は枯れて湿地帯で眠り泥炭となる
どこまで行っても、どちらを見ても
極端な混乱がわれわれの世界を彩っている
(きみは正午にオーケストラを聞いたって?
幻聴だよ、ただ陽光がウイスキーの色をして
神の精液のごとくふんだんに降り注ぐのみ)
怒りは無用だ
それは苦い、青汁のように苦い
潰れた昆虫の幼虫のように苦い
水のように溜まった光の底の四月
私は天にむかって唾を吐いたり
ランボーのように毒づいたり
歯ぎしりしたりしながら
激しく往来を繰り返すのだ、誰もいないのに
おれは人間でもなく畜生でもない
(それなのに風景が涙のレンズにぼやけ、ゆれて)
氷のような雲が砕氷船に砕かれて
もともとよくない視力が涙でぼやけて
乾燥した高原のような明瞭な視界を持ち得ぬまま
空を走るrailroadばかりが海をぐんぐんわたってゆく
ハリストス教会で見たステンドグラスの
いみじくも着色装飾絵画のごとき風が
右にも左にも
うしろにも前にも吹きすさぶ
何というさびしさ
そんなあやふやな風景の中で
確固として春を主張するのはやつらだ
ZYPRESSEN!
まるでドイツの尋常一年生のように
勢いよく、侵略的大胆さをもって
列を作っている
樹影濃く、光に敵対して
くろぐろ、くろぐろ
馬の脚のような規則性をもって
視界を遮るのだ
そのすきまから、天山の雪をいただく
稜線がじみじみしく光っているのが見える
(大気に波動を見るのはおれの狂気
白い光を析出するのはどんなプリズムか)
われわれのロゴス喪失もきわまったね
理性なく
理屈なく
理由なく
雲がものすごい勢いでちぎられ
空の端から端まで
紙飛行機のような速度で飛んで行くじゃないか
残酷さを欠いた明晰な四月
この光の水底を
歯ぎしりしつつ体を熱くして
ただ無目的に歩く
おれは名状しがたい非人間でしかない
(レアメタルよりも貴重な鉱物を思わせる
雲が流れている
声ばかり聞こえるのは春の鳥
より限定的に「この春」の鳥はどこだ)
太陽が傷ましいほど青くはかない
おれが歩く存在の道は
この林に不思議な音楽を響かせている
巨大な暗い凹面のような空のボウルから
まるでこれらのくろぐろとした木々の
群落が伸びてくるようだ
反転した天地
驚くべき自然の成長性だ
悲しいほどの枝々の繁茂
なぜこんなにすべての風景が二重化されるのか
これも何かの通信なのか
おれはただ眼が悪いのかな、それとも見えなくて
いいものが見えているのかな
打ちひしがれた森の梢から
閃光のように、ほら、からすが飛んだ
どんなメッセージを誰のために担うのか
わたりがらすの神話を
二重化するために飛ぶのか
(空気が層をなしているのがわかる
すみわたってきた
檜が空を突き刺すように
森閑とした気持ちで立っている)
この森からうかがうとき
外の草地は黄金に輝いている
まるでティンブクトゥの黄金都市のようだ
ただ建築をすべて欠いているだけ
その黄金をゆらゆらとわたって
こちらにむかってやってくるものがいる
何気ないふうで人間のかたちをしている
人間であることに疑いをもったことがない
そんな自覚的なかたちをしている
ギリシャ人のように白い法衣をまとっているが
彼女は農婦
大地母神のようなどっしりとした腰をして
解読できない視線でおれを見ている
慈愛ですか
軽蔑ですか
恐怖ですか
親しみですか
ほんとうに私が見えるんですか
あなた方の実直なアグリ文化の世界に
私の存在平面はあるのでしょうか
疑問だ
なぜならおれは生産とか消費とか
呼吸とか会話とか飲食からも脱落して
もうこの世にどうついていけるかわからないのだ
だからどこを歩いても気圏が海に見える
光の海底をさまよっている
眼を開けていられないくらいだ
この塩の痛みに
この光の棘に
この感情を何と呼ぶべきか
「きみがゆく野原はすべて歌の庭」
だがどこにも歌の庭が見つからない
(かなしみとは悲嘆とちがう
それは独特な傷ましさ
フィドルで表現できる音でもないし
青という色彩で描けるものでもない
だがこの海底のような深さの印象
そしておびただしく与えられる光の
古代以来の堆積)
まだ歩いている…
おれの頭上で
ZYPRESSENが無音でゆれている
永遠に直線の飛行を試みるからすが
青空に切片を描き出す
それも残像だ
幾何学者のからすの
ユートピアの空だ
(ロゴス喪失がまたやってきた
alingualとあの台湾育ちのアメリカ人がいっていた
そんな状態よりもずっとひどい
だって真理という定義できないものを
言語により捉えようとしている
だが真理とは生命でありそれはまた光でもあるといった
ねぼけた神学談義が何かを教えてくれたことがあっただろうか
あまりに人間臭い
おれはむしろ獣になっていい
ヌタ場と呼ばれる地面で泥を体にこすりつける
果敢な猪のように
土を涙でぬらし
涙を土でこね
つぶつぶしたことばが降り注ぐ土地を
どこか遠い場所に求めてゆくのか
だがそのとき涙という具体物の
痕跡はどうなる)

深呼吸してみようか空を見上げて
また冷たい空気に肺が縮まる気がする
(おれは肉体を空に散逸させることの
代償としてこのような呼吸を経験しているのか
見送ってきた死者たちの体を
かつて構成していた分子はどこまで散らばっていったのか)
この混在の森で
銀杏の梢がまたアンテナのように光った
ZYPRESSENがいよいよ黒く沈黙する
突然
雲が稲妻のような火となって
暗い春の森に降り注ぐのだ
(春雷よ道をしめせ)

羽の感触の独白

植松眞人

 朝起きたときに、いやな夢の感触を覚えてること、ないか?
 つい何日か前のことや。朝起きた瞬間はいつも通りの朝やったんや。けどな、だんだんと「いや、違う」という気がしてきた。いつもと同じような朝やけど、なんかいつもと違うことが寝てるあいだにあったはずや。そんな気がしてきたんや。
 夢みたんやろって思うよな。俺もそう思たよ。なんか、覚えてないけど、すごいいやな夢を見たんやろなあって思ってた。けどな、妙にリアルな感触があったんや。何の感触かって? 羽や。そう、鳥に生えてるあの羽や。
 朝起きて、しばらくしたらだんだんと「あ、夕べ確かに俺の背中には羽が生えてたぞ」って思えてきたんや。最初は、「いや、そんなアホな」という気持ちと半々やったんやけどな。時間が経つにつれて「確かに生えてた」という気持ちになってきた。
 嫁さんにも背中を見てもろたんや。アホちゃうか言われながら。そしたら、「赤いニキビ跡みたいなもんはあるけど、それだけや」言われてな。
 けど、確実に羽が生えてたんや、という感触だけがある。ただ、それが自分が飛べるほど大きな羽が生えてたんか、赤い羽根募金の羽くらいのやつが生えてたんかが定かやない。完成型の羽なんか、生えかけの未熟な羽なんかもわからへん。ただただ、羽が生えてたという感触だけが背中に確かにあるんや。
 お前、俺がまた妙な作り話をしてると思てるやろ。いつも、適当なこと言うてるけどな。今日は違う。今日は本気で話してるから、お前も本気で聞いてくれ。
 お前が信じようと信じまいと、大前提として、俺の背中に羽が生えてたということや。そしたらやで、その羽はなにしに生えてん、ということになるよな。
 夢のなかでもええんやけど、たとえば空を飛ぶために生えたんかもしれん。
 お前、空を飛ぶ夢を見たことがあるか? あるやろ。どの辺飛んでる? いや、空を飛ぶ夢を見る時って、どの辺を飛んでる? ものすごい空の高いところか、そこそこ低空飛行か。そうか、雲をかき分けて飛んでるのか。前に週刊誌に書いてあったんやけど、空の高いところを飛ぶ人は自由にあこがれる人やねんて。低いとこを飛ぶ人も自由にはあこがれてるらしいねんけど、自信がないというか、不安があるというか…。まあ、俺は小心者やけどもな。それはほっといてくれ。
 それでも、俺にはだんだんとわかってきたんや。俺の背中に生えてた羽がどんな羽やったか、ということが。きっと、その羽はそれほど大きなもんとは違う。上からシャツを着たらなんとか隠せるくらいの大きさや。そやから、たぶん、飛ぶことはでけへんかったと思う。ただ、それを動かしたりは出来たと思うんや。なんで、そう思うかって? だって、自分の背中に生えてたって感触があるんやで。それをじっくりと思い返してたら細かいとこが見えてくるよ。
 ただなあ、思い返せば思い返すほど、それがあんまりええことではない気がするんや。そうやろ。背中に羽が生えるって、気持ち悪いやないか。世の中に背中に羽の生えてるもんがどこにおる? おったとしたら天使やろ。俺は天使が実在するとしたら、世の中でいちばん猥雑な存在やと思うわ。人間でもない神様でもない。間に立って、行ったり来たりしてるねんで。あんな猥雑な中途半端な存在はない。
 俺はそんな猥雑な存在に一歩近づいたんかと不安になってしもたんや。
 けどな、今日の朝、そんなことを考えながら、ここに出勤するために家を出たときにちょっと考えが変わった。
 家を出たところに小さな公園があるんや。その公園の前を駅に続く道があってな。道と公園は低いフェンスで仕切られてる。フェンスは俺の腰くらいの高さしかないんかな。そしたらな、そのフェンスにカラスがとまってたんや。そのカラスを見た時に俺は思た。俺の背中にほんまに羽が生えてたとしたら、その羽は白かったんやろか、カラスのように黒かったんやろかってな。
 そう思いながらカラスを見たんや。見ながら、子どものころ、よう聞いたいやな話を思い出した。ほら、よう聞いたやろ。カラスが三回鳴くのを聞いたら死んでしまう、いうやつや。
 なんか急に怖なってきてな。俺、そのカラスが鳴いたらどうしよう。三回鳴いたらえらいことや。そんなことを考えてたわけや。
 さっきまで普通に歩けてたのに、俺は怖じ気付いてしもて、カラスの脇をぎくしゃくしながら歩いてた。そしたらカラスの奴、鳴くわけでもなく、俺を無視するわけでもなく、じっとフェンスの上に立ってるんや。そんで、じっと小首傾げてるんや。
 俺、それ見てたら、そうか、それでええんやと思えてきてな。背中に羽が生えてもええわ、と思えたんや。妙なことが起きても、なんでやろ、と心配する必要はないんやと思えたんや。小首傾げて生きてたら大丈夫やって。そう思たら、あの寝起きのいやな感じがなくなってしもたんや。
 後輩のお前捕まえて、朝から妙な話聞かせて悪かった。まあ、後輩やねんからこのくらい我慢してくれ。こっちは、お前が黙ってこの話を聞いてくれたおかげで、すっきりしたわ。今日の晩、一杯おごるわ。おう、ほんまや。俺が嘘ついたことあるか。ほな、今日も一日、仕事に専念しよか。
 え? 背中の感覚か? あるよ。確かに背中に羽が生えてたっていう感覚は消えてへん。たぶんやけど、この感覚は薄なることはあっても、一生消えへんと思う。一回味わった感覚は、いやな感覚もええ感覚も、どっちもどんなことがあっても消えへんねん。たぶんな。
(了)

吹き寄せ控え三

高橋悠治

記号や指示がすくない楽譜を書こうとして辿りついたのは 長い音を2分音符で 短い音を8分音符で 速い音が必要なら16分音符を使い 音を切るときはコンマを書く 音や休みの長さは自由 いままでの記号の使いかたを変えるほうが 新しい記号を発明するより読みやすい

説明はいらない 演奏家はことばによる指示はどうせ読まない 書いてあっても 現場でおなじことを質問される かえって説明がないほうが あれこれのイメージが浮かぶかもしれない

強弱やテンポは書かない 数えるのも計ることもいらない 20世紀後半の音楽には高低・長短・強弱の対立がおおかったが 劇的な身振りはどれも似たものになってしまう 複雑にしても単純にしても もう聞くまえに飽きている

メートル法やデカルト空間は区切り計り分類し分析する 最小の原子に達するとそれを形成要素とし 向きを変えて 積み上げはじめる 構造がつくられ 構成がある 管理する手があり 表現する意志がある 根を張った木はうごけない 枝がそよぐだけ

二つの薄膜のあいだの距離 デュシャンがinframince 極薄と言ったもの 支えがなく吊られた曲線がただよう indefinite reunion は あてにならない再会と訳す すがりつく持続低音を振りきって 対位法もヘテロフォニーも息苦しい 重ね書きと見せ消ち 一行になった二行と 消し残った上に別なかたち

音はたちまちうつろい褪せるから あちこちをさがして 次の音を見つける 考えると何も見つからない 規則も確率ランダム関数も それぞれの顔がある 興味や不安をそそるのは 知らないもの ためしてみたいうごき

楽譜の一段の空間に音の線を書きこむ なかほどからはじめて 右端まで行ったら どこか途中へもどって 空いているところに書く 平安古筆回遊式の消息文 線の始まりと終わりは雁行させ それぞれの音の入りも和音にならないように崩す 17世紀フランスのstyle brisé つま弾き 崩し それぞれの地層が見える崖のような 瞬間の和音の残像が音階や旋法に回収されないように 対斜をつくり 軌道を踏み外す 次の音へ蟻継ぎ ホケット 音のつながりを予想外のところで断ち切って 休みを入れ そのあとおなじ音で継ぐ 消えかかる線が どこからともなく帰ってくる 古浄瑠璃に例がある

音をつなげるには一本指をすべらせるように 距離が大きくなるにつれて 隙間が大きくなり 呼吸する自然のリズムが生まれる うねる長い線は感情を押しつけてくる バロックの折れ曲がる鋭い線と余白の組み合わせ

線の振れ幅とにじみに濃い色を感じ 細い線の気ままなうごきが 振りとばされて遠く消えていく 散らし書きの中心には余白がある 大きな余白があれば 音は散らばり ちいさな余白がいくつもできる

ながめは目を遠くに向けて 何も見ず何も思わない状態 きくとはすこしちがう 見えないものを見る 外と内がわかれていない 見ていないと見えるもの きいていないときこえるもの

走り書き 手をあそばせる ふるまいを裏切る 書きさし 本をとりあげ 目にとまることば ちがうイメージが生まれたら 本から離れる 本は本から離れるきっかけ 消えないで残る「かたち」にならない痕跡