くそにまみれた友情

さとうまき

今年一月からオープンした、JIM-NETの小児がん支援ハウス。日本政府が、少しお金を出してくれることになった。小児がんというと、受益者が少ないわりにお金がかかるので通常は支援対象にはならない。しかし、劣化ウラン弾だけではなく、戦争による環境破壊で多くの子どもたちががんにかかっている可能性は高いし、イラクはいまだに、治安が良くならず、石油の収益を医療に回すことすらうまくいっていない。

だからこそ、日本政府には、イラク戦争を支持した責任を果たしてほしい。苦しんでいるがんの子どもたちを見殺しにしてほしくないと思っていたからハウスを作ることは大きく一歩前進したと思う。

ハウスは、まず遠方からの意患者さんの家族の泊まる場所だ。病室は、がん病棟にもかかわらず3〜5人の相部屋になっている。お母さんたちが子どもに添い寝するから、お父さんは夜は外に出ていく。ホテルを借りるお金などないから、ロビーに寝たり、夏は病院の庭に寝ているのだ。

これを何とかしてあげたい。

しかし、警察が反対をしてきた。
「がん患者を泊めるのか? がんはうつる病気だろう。民家の中にそんな施設は作れない」
「いやいや、がんはうつる病気ではないし、患者は病院にいてとまるのはその家族です」
「家族というのは、アラブ人もいるのか? モスルから来た連中は、イスラム国と関係していたらどうするんだ」

結局警察は許可を出してくれず、家は事務所と患者家族らがリラックスできる場所として借りて、宿泊は近くのモーテル2部屋を年間契約で借りることにした。

イスラム国から解放されたモスルの人たちは、難民キャンプにはいかず、そのまま住み続けている人が多い。家は壊されていなくても病院が破壊されたり薬がなかったりで、クルド自治区にある病院に来なくてはいけない。しかし、イスラム国に関係しているかもしれないというので、検問でチェックされ、許可を得るのに時間がかかる。病院にたどり着いたらすでに夕方になっており、出直すと、又許可の取り直しでいつまでたっても診察してもらえないということにもなってしまうから、ホテルがあると非常にありがたい。彼らの多くは本当に貧しくお金もほとんど持っていないので、その辺で一夜を過ごすしかない。JIM-NETが借りたモーテルは、そんなんで、あっという間に利用者が増えた。役に立っているなと思うとうれしくなった。

日本に帰ったらしばらくして、担当の斉藤君からメールが来る。
「大変です。患者家族のホテルの使い方が悪く、ホテルのオーナーが苦情を言ってきました」
「え?」
「トイレの使い方が悪いそうです。あまりにも汚いから掃除できないといっています」
「ホテルで働いている掃除のおい兄さんはそのために給料もらっているんだから、それくらいやってもらわないと」

斉藤君がホテルのオーナーと交渉するも、トイレはくそだらけになっており、結局JIM-NETのスタッフ全員で掃除することになったという。
「うむ。ここは日本とは違い、トイレ掃除は身分の低い人がするものとなっている。スタッフに掃除させると彼らは、耐えられなくなってやめてしまうのではないか?」と心配になった。

しかし、わがスタッフたちは、クルド人、シリア難民、ヤジッド教徒らがおり、医者からドライバーまでみんなが力を合わせて、くその処理をしたという。

アラブ人のトイレは、日本式の金隠しをとったタイプと、洋式の座るタイプがある。どうも、モスルから来た人たちは西洋式のトイレを使ったことがなくどこにくそをしていいかもわからなかたらしい。

なんだか、彼らがくそまみれで仕事をしている姿を想像すると、ジーンと熱いものがこみ上げてきた。くそまみれの友情こそが、民族や宗派を超えて平和を作るのに違いない。イラクの平和はすぐそこに来ている。

ワイルドフラワーが春風に揺れる

くぼたのぞみ

「われわれ」ということばを信じなかった。無条件に「われわれ」と口にする人と話をしたくなかった。男とも、女とも。母とも、兄とも。

 われわれ。

 だれそれ? 

 勝手に含めないでよ。そういいたかった。きみ、と、わたし、は違うかもしれないでしょ。考え方だって、感じ方だって、違うかもしれない。どうして気づかないの? その鈍さがきらいだった。ずっと。だれかが「われわれ」とか「わたしたち」といって近寄ってくると、トイレに立って席に戻らなかった。

 きみはきみで、わたしはわたし。無理に「われわれ」にならなくていいのに。いつも「われわれ」でなくていいのに。それがわかる人となら話ができた。それがわかる人とならいっしょに暮らせた。ふと気がつくと、あたりにはだれもいなくなって、小さな人たちも旅立って、たったひとりのわたしが、たったひとりのきみの肩に手をおき、たったひとりのきみが、たったひとりのわたしに声をかける。野原で風に吹かれている。

 ワイルドフラワーが群生する。
 曙光をあびてぐんぐん育つ。
 風に吹かれて揺れる。

 よい景色だ。

狂狗集 3の巻

管啓次郎

あ あこんかぐあアリストテレスの未知の山
い 異郷なりレモングラスで蚊を避けよ
う 嘘つきの心を拝み倒すよ洗い熊
え 絵心が白紙を燃やす稲妻描く
お 王国の地図にまぎれて隠れん坊
か カルタで城を作つたよすぐ倒れたよ
き 気温が下がった霊魂眼鏡で対抗だ
く 苦海に浄土あり客家(はつか)に放山チキンの正餐
け 警戒せよひたすら論破せよそのむなしさを知れよ
こ 航海術海に流れる星拾ひ
さ 再起せよ世界はきみを待つてゐるかも
し 師走越えれば正月なんて暦の幻影
す 西瓜糖甘美な心のノスタルギーヤ
せ 正解はハバロフスクの焚き火です
そ 騒擾の裏に沈黙音の反動
た 黄昏は目撃不可の道(たお)の光
ち 地球というが見たことがあるのか球なのか
つ 追跡癖がトラブルを生むからそこで待て
て 天上への添乗員を募集します
と トンガは「南」南の南を見に行くか
な 茄子色に夕なずむ世に犬一匹
に 西の森のそのまたむかうに帰つてゆけ
ぬ ヌクアロファ浜辺の豚と潮干狩り
ね ねはんを期待するのか修行もしてない癖に
の 農学校のビーグルが兎をかわいがるんだつて
は 葉隠れとはコロボックルの忍術か
ひ 氷見を見よ氷山群が流れてる
ふ 不死を誓つて細胞を金属に置き換える
へ 変換ミスだよ私の顔はこんなぢやない
ほ 侯孝賢と中山北路ですれちがう
ま 鉞をかつぐのはいいが振り下ろすのはいやだよ
み 未開の心をなだめ四種の果実をとつてきた
む 夢窓国師よきみの窓から何見える
め 「明解な妄想」頭の上のバルーンなり
も モナリザの後頭部は禿げてゐるらしい
や 焼芋のうまさを忘れてたしみじみ旨いな
ゆ “You have a cut,” 場面が場面を呼んでゆく
よ 「妖怪人間」そのコンセプトに脱帽です
ら らつこの毛皮がボディ無きまま踊つてゐる
り 李朝の宮殿にリーボックを履いて行つた
る “Ruthless!” と彼女がいつてゲームオーバー
れ 恋愛の秘密は結晶への興味
ろ ロックンロールに心を託してロールオーバー
わ 山葵ありてわびさびなしこの冬山裸

148 日本史

藤井貞和

あかつきの物語が終わってエ 倭人伝は草へ帰るウ
さびしさのオ 表情ゆたかに歴史の筺で息絶える古代史イ
さきをゆく水軍のあとの白波イ 偽書の集成される内海(ないかい)もんじょオ
群書るいじゅうがびしょぬれで歴民博へたどりつくウ ない城壁にイ
のろしの火を塗るウ 学芸員の手腕がもっとも問われるところオ
調べがついたらア 吟遊の人々よオ 館長室で酒を飲めエ 近代史のオ
背後に延びるかげの植民地を史料から史料へ移せエ
国冬さんと呼ぶ声がするウ 十三世紀ぐらいのひとでエ(津守氏)
住吉の神がみなとを守るウ あくとう(悪党)は濫妨をこととするかア
お国が冬になるかア 漢字で書かれる速報やア
感じで十分に伝わる中世史になるとオ わたしはふぶいてエ
はたらいたりイ 吹きつけたりイ 「国家としてのオ
日本の別の空間」と古層は言うウ 市民運動の成熟をオ
そういう文学や文化からのオ 踏み込みでエ 丸山真男ではないがア
見えてくる地平がさらにあるのではないかア!
歴史家はふたたびとって返せエ 狼藉と朝鮮人少年とオ
少女像とのためにイ 氷解する現代史イ 吉田茂政権からの六十年ン
占領態勢イ ドッジラインからの脱却ウ わたしなりのオ
わたしたちなりの経過してきた時代から鑑みてエ
共感できる見解かなと思える一方でエ 戦後史よオ
歴史はどんな時代にも生産されつづけたのでありイ
アートの試み映画演劇イ 小田さん(実)の「何でも見てやろ」オオ
身を躍らせていた仮面よオ それらのオ
積極面(芸能史)をどう評価してゆくかア 歴史の最難関ン

(われらあくとう、あくとれす、なんちゃって。釜山の少女像について、韓国ではたくさん書かれているので〈と思います〉、われらあくとう、あくとれすも、何十年ぶりか、街頭へ出てラップ〈乱舞〉です。朝鮮人少年は石川淳『焼跡のイエス』より。)

そろりそろり

吉田純子

新橋で飲むのが好きだ。おとなりの銀座とはちょっと違い、世の中の流れや人の顔色をうかがう必要のない、ゆるやかな時間が流れている。

なかでも、烏森神社の参道に並ぶお店は格別にいい。人懐こいイラン人の店員が迎えてくれるビストロ。5人ほどしか入りそうにない、カウンターのみのしっぽり居酒屋。狭い入り口からは想像もつかないほど、ソファがゆったりとしつらえられた昔ながらのバー。

いずれも少し割高だが、清潔で、背伸びした大人の時間が過ごせる。「最近、焦ってない?」「頑張り方、間違えてるんじゃないの?」などと、ちょっと立ち止まり、酒のグラスを媒介に、いまの自分と対話することができる。

その一角にある「菊姫」という店が、昨年5月に亡くなった音楽家の冨田勲さんは好きだった。飲むならここ、と完全に決めていた。

名前のとおり、石川県の銘酒「菊姫」しか置いていない。純米吟醸、ひやおろし、山廃純米。ありとあらゆる種類の「菊姫」を飲み比べることができる。お酒と一緒に運ばれてくるのが、やはり石川、大野川の汲み水。濃い緑色の瓶に入れ、氷を張った木桶とともに運ばれてくる。この水の、五臓六腑への浸透性は驚くほど高い。お酒と一緒にくいくいと飲み干せる。酒を翌日に残さない。同郷の名サポーターとでも呼ぶべきか。

ここの名物のひとつが「にごり」である。冨田さんと行く時は、誰でもまずそれをいただく「しきたり」があった。理由はないが、何となく定着していた「しきたり」である。にごりだから当然だが、白い糟が下に沈殿し、上は澄み切って透明になっている。冨田さんと飲むときは、とにかく瓶を揺らさないように気を付けて、「そろりそろり」を合言葉に、その上澄みだけをまず、静かにいただく。「ああ、おいしい」。シンセサイザーをいじっているときとはまた別の、子供のようなあどけない表情になった。

しかし、当然のことではあるが、飲み続けると、沈殿した糟がゆっくりと混じってくる。底のあたりになってくると真っ白で、さすがに舌がざらざらしてくる。「そろりそろり」の上澄みに、ゆっくりと糟が混じり、味が刻々と変わってゆく。この贅沢な時間の流れを、冨田さんはとても大切に味わっていた。

ある時、レコード会社の冨田さんの担当プロデューサーと2人だけで、「菊姫」のカウンターに座ったことがあった。「とりあえず、にごり」と頼んだら、いつもの女将が寄ってきた。てきぱきと接客をしつつ、よく笑い、人肌感のある気配りができる。新橋の女将はこうでなくちゃいけない。冨田さんもお気に入りだった女将である。

「あれねえ、ほんとのにごりの飲み方じゃないのよ。上澄みは確かに美味しいかもしれないけど、その下のどろどろのところを飲まされるあなたたちがいつも気の毒で。にごりってのは本来、よく振って飲むものなの。でもね、センセイが『そろりそろり』って言うもんだから。あなたたちも大変よね」
いかにも「鬼の居ぬ間に」という感じのヒソヒソ口調に、厨房の料理人までが噴き出した。
「じゃあ、きょうは振っちゃいますか!」。我々は盛大に瓶を振り回し、罪悪感までも振り払い、女将がいうところの「本来のにごり」を存分に堪能した。むろん、瓶の最後の一滴まで。

でも、その後も冨田さんが同席するときは、やっぱり我々は厳粛に「そろりそろり」をやった。ざらざらした残り糟まで、できるかぎり飲み(舐め)干した。冨田さんの「そろりそろり」の時間を守ることは、私たちにとって、とても大切で幸福なミッションだった。「振るほうが正しいのに」などと、ヤボなことを言う人はこの店には誰ひとりいなかった。

お酒を誰かと飲んでいて楽しいのは、その人だけの時間の流れ、そしてその人と自分との「違い」が見えてくるときだ。仕事や家庭では、そういうものが何らかの関係のひずみになったりするものだが、良き酒飲みこそは、そうした違いをいとおしみ、酒の肴にする。誰かの時間を大切にすることは、自分の時間をも丁寧に愛すること。良き酒飲みと過ごす時だけは、ゆっくりと倦んでゆく酒場の空気が桃源郷に感じられる。

いまは、「にごり」はとことん振ってから飲んでいる。冨田さんも、肩をすくめながら許してくれているだろうと思う。

別腸日記(2)ボグランドの水(前編)

新井卓

最近、絵描きの藤井健司君と飲んでいた夜のことだった。その日かれは昼から同窓会でしこたま飲んできたらしく、もう目が完全に据わっている。そろそろ勘定して終電に飛び乗ろうか、という時刻、不意に「あんたに言いたいことがある」と切り出すので仕方なくもう一杯、アイラ・ウイスキーを注文した。何のことかと思えば、「そう言ってもあんた、けっこう酔っ払うで」と不興にも咎めるようなことを言い出すのは、どうやら、先月ここで「いくらでも飲める」というようなことを書いたのが気にくわないらしい。あれは18かそこらだった頃の話であり、少々飲み疲れた不惑間近の今、そんな皮肉を言われては困る。

とはいえ藤井君の言うとおり、いままで日本酒ばかり飲んできたのがここ数年、なんだか体に堪えるようになってきてしまった。そこで近ごろは蒸留酒を、とくに茶色い酒ばかり飲んでいる。ちなみに藤井君はウィスキー狂いで、最近は会ってもモルトの話しかしない。バーでは吃驚するような値段の稀少シングル・モルトを「お値打ち」とか言ってまっしぐらに注文し、ニタニタしながらグラスを傾ける雄姿には開いた口が塞がらないが、その傍らで色々と教えてもらうのは、まあ結構楽しい。

たいへん面倒くさそうなウィスキーの世界に足を踏み入れたのは、二年前の夏、展覧会に呼ばれてスコットランドに旅した時のことだった。エディンバラに滞在中「ザ・スコッチ・ウイスキー・エクスペリエンス」という博物館で蒸留方法についてレクチャーを受け、まわりの人たちからストレートの嗜みや加水の方法などを教わった(パブで隣り合ったモルト・オタクのアメリカ人紳士には、氷でもいれてみろ、ぶっ殺してやるぞ、と恫喝された)。天気のいい昼下がり、見晴らしの良いカルデラ(火山性の丘)に登って友だちがくれたミニボトルを試飲したりするうち、気づけばすっかりスコッチの虜になってしまっていた。

日本酒やワインで酔いつぶれると、心に去来するのは片付いていない数々の不義理や、音信不通の昔の女の人についてなど──要するにネクラな悔恨ばかりである。一方、口中で刻々と移ろうウィスキーの芳香に刺激されてフラッシュバックする記憶の断片は、鮮明で透きとおっており、より映像的といえるのかもしれない。

エディンバラでひととおりの仕事を終えたあと、友人の写真家ジェレミー・サットン・ヒバートとの対談の催しのため、グラスゴーを訪れた。かつての一大工業都市には大雑把な雰囲気が漂っており、アーティストたちの威勢もよく、川崎育ちのわたしには、京都的スノッブさを感じるエディンバラよりもずっと水があった。

当地では、打ち合わせなどで顔が合えばいつでも、理由をつけてみんなでパブに直行する。ビールを1パイント、ゆっくりやって、グラスの空いただれかがスコッチを頼みにいく。すると、いよいよきたか、とちょっと場の空気がピリッと引き締まるのだが、特に形而上学的になるわけではなく、お下品なジョークにいっそうのキレが加わる、というくらいの話である。

そうこうするうちにジェレミーとの対談も無事に終わり、せっかくここまで着たのだから、と、一人、西へ車を走らせた。はるか昔、何者かが立て、8000年をこえていまだ立ちつづけるメガリス(巨石記念物)が多数現存するというマル島を、どうしても訪れてみたかったからだ。

未明に出発してアーガイル・アンド・ビュート行政区の町、オーバンへ。そこからマル島東端の港町、クレイグヌアまでフェリーで1時間弱。さらに北の街トバモリーまで、車で30分ほどの道のりを、寄り道しながら2時間かけて走る。島内では、車ですれ違うとお互い手を上げて挨拶するしきたりのようだ。中には窓から親指を突き出して(サムズ・アップして)くるドライバーもいて、余所者の心を明るくしてくれる。

海岸の際を伸びる道は濃霧でしっとりと濡れており、角のとれた礫質の浜辺でウミネコが静かに羽をやすめていた。時折視界にひらける圧倒的な断崖や荒涼とした丘陵地帯、毛長牛の群が、永遠に周回しつづける太古からの時間に意識をつれ去る。窓を開けて走り抜ければ、島全体に名状しがたい蜂蜜のような香気が満ちていた──。

グロッソラリー―ない ので ある―(29)

明智尚希

「1月1日:『やれやれ。松子も当てにならないな。ほんとやれやれだ。人の資質は判断力で決まるなんていうけど、俺は完全に駄目人間だな。わはは。駄目でいいよ駄目で。全然構わないよ。駄目の何が悪いんだってんだよ。誰だって欠点の一つや二つはあるだろうに。なんで判断力だけでその人全体を全否定するんだ。わけわからねえよ』」。

(`ε´) ぶーぶー

 汝自身を知れという格言がある。自身の諸相とは日常生活の随所ではち合わせる。繰り返しの日々にあって、この自覚的な認識の線から漏れる相もある。自身を知るとは、漏れた相へ頻々と目配せして魂の配慮をしろということなのだろう。が、自身を知った上での言動を求められるのが現代である。格言を刻んだ哲学者は、やはり古代に収まる。

エートォ (・o・) エートォ ?

 「ごめんちょっとだけ言わせてほしい。食欲があるから性欲があるのか。性欲があるから食欲があるのか。食欲がなくても性欲はあるのか。性欲がなくても食欲はあるのか。食物があるから静寂があるのか。静寂があるから食物があるのか。植物があるから聖女がいるのか。聖女がいるから植物があるのか。ああんもう、どうかなっちゃってるわ」。

(´◉◞౪◟◉) (╬ಠ益ಠ)

 人間の特質上、日々が幸福の連続だったなら、幸福にうんざりするか幸福を失うことへの不安で一杯になるかのいずれかだろう。前者なら、かりそめの恵まれない生活に身を落とし、疲れて帰ってコップ一杯の水で不運でないことを知る機会を得られるが、後者だと、立ち直るのも困難な恵まれない生活、ことに精神生活を送ることになる。

((((_ _|||)) ))ドヨーン

 げらえもてらえも 菜ちゃせりぱっぱ
運じゅあしがら どのおとめんこ
ずいしゃあこらた 四どくばいさ
ぐらいい火らりい づまごくれんよ
どんで見かそれ うーたらごんさ

〈( ^.^)ノヽ(^。^)ノあっそれそれ

 失敗は成功の元というが、あまりにも失敗に失敗を重ねると、失敗に対する認識に狂いが生じ、失敗という言葉が不似合いになり、失敗している状態が普通もしくは常態となる。それだけではない。いつも通り失敗街道を安心して進んでいる最中、突如として成功に出くわすと、これはもう恐怖以外の何ものでもない。この成功が原因で失敗する。

ビクッ! ウソーン !!Σ(;゚ω゚ノ)ノ

 「1月1日:『あとカネな。彼女作るのでも、若い頃でも二十代半ばはまだいい。後半になってくると年収はどれくらいだの貯金はいくらだのと聞いてくる。俺と付き合うのかカネと付き合うのかわかりゃしない。俺みたいな安月給の貯金なしは、そこでアウト。良家のお嬢様ぶった女に限って、というかだからこそ、カネへの執着はすごい』」。

カネ щ(▽‐▽щ) カネ

 巧みに巧んだ内弁慶の外地蔵が、荒物屋のパノラマと平仄が合うので八方突破して、ここより入る者、一切の望みを捨てよ、を突き抜けた。ぶっちがいに出来したあまのじゃくは、角をなまらせて後事を託し、大所高所の憂国論を展開した。白玉楼中の人は三味線かもしれず、幸福な社会を作るには、分かち合いでなくパイを拡大すればいい。

‥( ̄し_ ̄;)‥ぇ?

 苦痛から逃れたいのなら、とことんまで苦痛を味わうことだ。苦杯があれば自らすすんであおり、苦難があれば喜んで飛び込んでいく。人間は飽きっぽい。人間は何にでも順応する。長い間この苦行と付き合っていれば、苦痛の威力は減退するだろう。もっとも、精神・神経が磨滅し、もはや人間と称せない状態になっているかもしれないが。

皿≦)。゜。ううううぅぅぅ

 わしにも敵はいる。二三人、七八人、いや全員じゃ全員。この国の国民全員。いや世界中じゃ世界中。み〜んな敵。敵は知恵を絞って嫌がらせを仕掛けてくる。その嫌がらせの対象が、わしの弱点ということじゃ。こちとら弱点を突かれて崩れまいと、自己存在に密着する。効果はあらたかじゃ。こうして弱点と敵を懐柔しとけばよかったんじゃ。

( ^ー^)⌒ノθスリッパアターック!

 「1月1日:『でも本物の良家のお嬢様ってカネカネ言わないぞ。世田谷世田谷言わないぞ。俺の知る限りでは、本物は、そんなものには全く興味なさそうな穏やかな表情をしていて、なおかつ無口なんだ。話題を振ってはじめて小さい声で喋りだす。しかも微笑を浮かべている。本人の口から聞かずとも良家のお嬢様ってわかるんだよな』」。

ポッ(。-_-。)。。oO

 決まった時間に駅へ行き、決まった車両に乗り、決まった場所に立つ。決まった人が下車し、決まった人が乗ってくる。確定しすぎた現実は胡乱なものである。Aが確固たるものであるほど、逆にあるBを連想するのが人間の哀しい性。胡乱なものの同類項として夢や希望がある。だがそれらは輪をかけて胡乱なものとしか言いようがない。

イイ夢ミテネ─゚+。d(`ゝc_・´)゚+。─ッ♪

 何事もじっくり待つのが肝要。ただし待つのを待ってはならない。

待ッテルョ_〆(*´∀`*◎))o

 アートか猥褻かという議論は百年以上前からあり、野菜、おかず、ご飯と食べる順番を変えていくが、契約成立後は訂正できない。有名人になるととかくねだられがちな日本列島の太平洋側では、SNSが民主主義を後退させ石造りの町へと変化し、艶熟の極みに達した大人の女の魅力と女性の美を感じさせるコンプレックスを抱いている。

(。・ρ・)o―⊂ZZZ⊃ フランク食べる?

 受益者負担に任せて、一人だけ前貼り一枚で逆噴射。オートポイエーシスに割り込んで最後通牒ゲームをした結果ミーメーシスに死す。青方偏移しながら、エスニックジョークを飛ばしに飛ばす。とばっちりの白夜行をしたわけではござらん。ブロック時空で遊んだだけ。守破離、徳目、無慮幾万。手元不如意につき右手で思わず自らを慰めた。

わかりま━─━((乂(д― )三( ―д)乂) )━─━糸泉

 同じ人に何度も欠点や弱点を指摘されても落ち込むことはない。悪口ばかり言う人たちほど、センシティブでもろいプライドの持ち主はいないからである。口撃して悦に入るが、口撃されると心棒が容易に折れてしまう。そのくせ執念深さでは右に出る者はなく、心棒を修繕しながら、過去の口撃に倍する復讐を実行するタイミングを測っている。

バチバチ…( ・_・)–*–(・_・ )バチバチ…

 「1月1日:『おまえもいずれは彼女を作るんだろうけど、似非お嬢様には気をつけろよ。昔なぽろっと貧乏だからと言ってしまった女がいて、大慌てで『貧乏症だから』と必死に訂正してた。もういいじゃん貧乏で。実際そんなにカネ持ってなかったから、まあおごらされるわ。飲めもしないのにワインバーとか行って全部こっち持ちだ』」。

フザケンナコノヤロウ (#゚Д゚)┌┛)´Д`).:∵

 出会いは別れの始まり。特にスクランブル交差点では、出会った瞬間に別れが連続的に来る。一期一会。出会いなど大切にしていられない。まちまちの服装をしそれぞれの方角へ向かう人間。その多さ。人間の大量生産という気持ち悪い事実に、逃げ出したくなる。だが逃げ出したところで、多少趣を異にする人間地獄に行き当たるだけである。

(☝ ՞ਊ ՞)☝✌( ՞ਊ ՞)✌

 「酒臭いぞ」「そうか?」「飲んだだろ」「飲んでない」「いや、飲んだろって」「だから飲んでないって」「じゃあなんで酒臭いんだよ」「昔飲んだにおいだろ」「昔って午前中だろ」「午前中は飲んでない」「飲んだ」「飲んでない」「飲んだって」「飲んでないって」「正直に言えよ」「正直に言ってる」「飲んだと言えばそれで終わるのに」「飲んだ」。

(_ _,)/~~▽パタパタ マイッタ

 逆境の中にいることが順境になっている人は恐ろしい。長い苦痛や困難は人格を歪め、価値観を転倒させる。喜怒哀楽の感情の全てがフラットになり、そのまま他人に適用される。何気なく人を傷つけても、また命を奪っても事前と同じ心理でいる。どんな講釈や説教も通じない。こうしたサイコパスを見ると、地獄はあるのかもしれないと思う。

(・△・) ムヒョウジョウ

 絶対知が得られないのを残念に思いつつ、わしゃ自己の格率に乗ってここまで来た。何度も途中下車して不毛な限界状況と対峙し、非力と猜疑心を強くしたもんじゃ。その度に格率を軌道修正し、最後にはあってもなくても同じ内容になった。赤子と老人は似ているというが、まさにそうじゃな。絶対無知。風呂を沸かす時間も、もう忘れたわい。

(。・~・。)バブー

とどいたらきえるもの

長縄亮

チベットの旗タルチョには
風の馬ルンタが描かれている
ルンタが風にきえるとき
祈りはかなうという

Yoko Onoの Wish Treeに 君が書いた祈り
それは
〜平和の祈りがいつかなくなりますように〜 

「平和の祈りがとどいたとき
平和の祈りは消えるから」

とどいたらきえるもの ゆき
とどいたらきえるもの きり
とどいたらきえるもの にじ
とどいたらきえるもの ひかり

ぼくらの生きているいまは
誰かの祈りがとどいたいま
祈ってくれたひとは
もう世界にいないけど

「ぼくの祈りがとどくとき
誰も泣かない 泣かせない」

とどいたらきえるもの うた
とどいたらきえるもの ほし
とどいたらきえるもの なまえ
とどいたらきえるもの いのり

温故知新?

大野晋

最近、自分も古い方に分類されるようになってきたなと感じることが増えてきた。古いことよりも新しいことに興味を感じるのが若さだとすると、それが新しさを作り出す厳選なのだろう。しかし、それだけでいいのかとも思う。

上辺の新しさは、実は誰かが通った道なのかもしれない。誰かの失敗の経験があるとすると、無理にその道を通って失敗する必要もない。歴史は古い事象を知るとともに、そこから今や未来に経験を生かすための学習だろう。ならば、そこから十分な経験を得なければならない。物事を表層の現象にとらわれて、その真相を見なければ決して歴史から学ぶことはできない。人間の教育の中で一番大切なのは歴史の年号ではなくて、事象を抽象化させて、そこから共通項を取り出す練習なのではないか?などとこの頃考えている。

新しいは未来を紡ぐ源泉になる。しかして、過去の柵を引きずる歴史の経験をふまえない方法は新しい未来を開くきっかけにはならないのではないか。そう考えると、本当の新しさの難しさが見えてくる。

設計図

植松眞人

 新幹線の東京駅のホームを駆け下り、人混みの中を抜けてから中央線のホームへと駆け上がる。ちょうど発車間際の車両に乗り込んで、ほどよい混み具合に少し奥へと押されていく。扉の前から横一列に並んでいる人たちの前へ。その真ん中当たりに男は座っていた。年の頃なら六十を越したあたりか。最高級とは言えないまでも、そこそこ値段の張るようなスーツを着て、背筋を伸ばして座っている。膝の上には大きなプラスチック製のデザインバッグが、少し膝からはみ出して置かれている。
 発車を告げる妙な電子音のメロディが鳴り響くと、列車が走り出し、ほぼ同時に男がデザインバッグを膝の上に立てて、中に入っていた紙の束を取り出す。A3サイズほどの大きめの紙の束には細かな線や文字がびっしりと書き込まれていて、一見するとグレーの紙を取り出したのかと思うくらいだった。
 そこには設計図が描かれているのだった。素人目にはそれほど意匠を凝らした建物の図面には見えず、どちらかというと近所の田畑が急に整地されて建てられる単身者向けの賃貸マンションのように見えた。長細い敷地に長細い建物が建てられ、真ん中に廊下があり、左右に数部屋ずつ配置されている。
 男はパラパラと図面をめくり、そんな設計図が十数枚ほど束になって簡単な製本が施されていることがわかる。男は膝の上にデザインバッグを置き、その上に設計図を置いた。胸のポケットから取り出したペンは太い軸で、その中に何色かの色鉛筆の芯が仕込まれているようだった。男は赤色の芯を選択すると、さっとく設計図に書き込みを始めた。
 まっすぐに引かれた線を少し斜めに修正してみたり、途中に小さな文字で何か書き込んでみたり。赤い線を入れた上に、さらにもう少し角度を変えた赤い線を描き加えてみたり、男は一枚の設計図の向こう側にもう一つ別の世界があるのではないかと思わせるほどに線を描き加えることで奥行きを作り出していく。いや、その建築の素人から見て奥行きに見えるものは、男の思慮の深さを示しているのかもしれないし、もしかしたら、この設計図の混乱や混沌を示しているものなのかもしれない。どちらにしても、男の目の前の設計図はどれもそのままでは形にすることができない、ということをどこかの誰かに思い知らせるために、徹底的に赤入れされている。もしくは、男が自分で作り上げた図面を再構築している真っ最中なのかもしれない。
 男は中央線が東京駅から新宿を過ぎるあたりまでの間に、目の前にあった図面のほとんどを真っ赤にしていくのだった。そして、中野駅を過ぎたあたりで、男は小さいけれど長いため息をついて、最後の一枚を開いた。それは、さっきまでの図面とそれほど大きく違うようには見えない、ごく普通の賃貸マンションのそれのように見えた。しかし、男はさっきまでと違い、その図面にはすぐに赤入れをせず、しばらくじっと図面を眺めているのだった。何を見ているのかはよくわからない。線を追っているふうでもなく、なんとなく図面全体をぼんやりと眺めている。
 私は男の前のつり革にぶらさがりながら、ずっと男と設計図とのやりとりを見ている。そして、ここへ来て立ち止まってしまったかのような男をじっと見つめている。まもなく、列車は吉祥寺を出て三鷹へと向かう。私の降りる駅も近づいている。
 電車がクンッとしゃくり上げて走り出した瞬間に、男の手が動きペン先が最後の図面全体を右上から左下に大きく斜めに線を入れた、ように見えた。しかし、実際には男の手は動いただけで赤を入れることはなかった。もし、本当にペンが図面に接していたなら、あれは赤入れではなく、きっと図面全体に対する駄目出しの斜線だったのではないかと、私は思った。また動かなくなった男を見ながら、私も目が離せなくなっている。右へ左へ、前へ後ろへと揺れ続ける列車の中で、私と男の揺れはシンクロして、二人の間に揺れはなかった。揺れのないクリアな視界の中で、私は男を見つめ続け、男は図面を見つめ続けていた。
 やがて、男は最後の図面に小さな書き込みをいくつかして、図面の束を閉じ、デザインバッグの中にしまい込んだ。
 列車は次の駅へと滑り込んだが、それが私自身の降りる駅なのかわからず、私はホームの駅名を必死で探し続けた。(了)

ジョン・ライドンの恋人

若松恵子

家人が読みかけている『ジョン・ライドン新自伝』(2016年5月 シンコ―ミュージック)が部屋に転がっていたので、ふと手に取って、ところどころ読んでみるとなかなかおもしろい。

ジョン・ライドンはパンク・ロッカー。セックス・ピストルズ、PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)のボーカリストとして世界中の若者に絶大な影響を与えた人だ。80年代はじめの彼は、不揃いに切った短い髪をくしゃっとさせて、アルチュール・ランボーみたいでかっこいい。まずこの風貌に参ってしまったのだと、グラビアページの彼を懐かしく眺める。

年齢相応に体格が良くなってしまった現在の彼も、やはり、ただ者ではない面構えで魅力的だ。若返り美容なんて絶対しないだろうなと思わせるところが良いし、いい年してツンツン立てた髪を緑と赤の2色に染めて堂々としているところはもっといい。そんな彼の写真を見ると、年をとっていく事なんてへっちゃらに思えて、励まされる。

風貌だけでなく、現在も彼は彼の音楽を奏でていて、2011年の夏と2013年の春の来日公演を見に行ったけれど、過去の栄光なんかにちっともしがみつかない円熟したロックを聴かせてくれて圧倒された。ジョン・ライドンは現在進行形で気になる人なのだ。

本の冒頭、献辞に「本書を正直さに捧げる」とある。世の中が強いてくるいろんな思い込みをはねのけて、自分に正直でいるのがパンクだ。ジョン・ライドンが「正直でいること」を何よりも大切にし、貫いていることが、自伝のなかのいろんなエピソードでわかる。人々が押し付けてくるイメージ、時には商売に利用されそうになる自分のイメージから自由になろうとする闘いの歴史が彼の自伝だ。「正直でいる」ためには、自分自身の心も注意深く眺めなければならない、ごまかしてはいけない。

ジョンはノーラというパートナーを見つけているのだけれど、彼女との事を書いた短いコラム「HUGS AND KISSES, BABY!(「ギュッとしてチュッだぜ、ベイビー」と訳されている)の部分がおもしろい。有名になったとたん、女の子が自分を見る眼が「うげえ、ナニあの隅っこにいる変なヤツ」から「あーら、ちょっとアナタ素敵じゃない!」に変わって、有名人と付き合いたい女の子が押し寄せてくる。でも、そんな刹那的な経験をいくら重ねても不毛だ、自分が本当に探し求めてたのはちゃんとした恋愛関係だということが、ノーラとの関係を築くなかでわかったと言う。

ちゃんとした恋愛がもたらす幸せというものについて、ジョンはこんな風に書く。「自分のありのままの姿を、欠点も何もかも含めて丸ごと受け止めてくれて、いかなる理由においても、自分に対して自分を恥じる気持ちにさせない、そんな相手だ。正しいパートナーであれば、自分に対する疑念を消し去る方法を教えてくれるんだよ」と。

ノーラとジョンの写真も何点か掲載されているが、2人とも素敵だ。好きな人を好きと言って堂々としている。女の子の人気を取ろうとパートナーの存在を隠したりしない、楽屋にひっこんでろとも言わない。そういえば、最近読んだ『すべてはALRIGHT』というRCサクセションの1985年の写真集に、仲井戸麗市のパートナーへのラブレターが載っていたのけれど、同じことを感じた。
本物のロッカーが教えてくれる恋愛は実に参考になる。

しもた屋之噺(182)

杉山洋一

仕事で家人が数日間日本に戻り、ミラノに一人残った息子は、この数日メルセデスの家で過ごしています。今週の劇場の仕事を終えて週末の休日を使ってミラノに戻る列車に乗り込むと、目の前にちょうど息子と同じ年頃、中学生と思しき少年と、母親が座りました。
「ヤコポ、宿題をしないと」、少し厳しい口調で母親が急かし、コンピュータを開くや否や「ほらメールが来ているわ。宿題は283ページ何某、早くなさい。地理でしょ、地理」。
そう言うと、かばんから地理の教科書を出しました。ヤコポ少年は最初厭がっていましたが、目の前で教科書まで開かれると、仕方なく宿題をやり始めました。
15分ほど経ち、ヤコポ少年が教科書に突っ伏し気持ちよさそうに寝込んでいると、コンピュータで仕事をしていた母親は、やおらヤコポ少年を起こして声を掛けました。
「さあ答えて。アメリカ合衆国独立は何年。アメリカは何人が作ったの」「1865年は何があったの」「どうして南北戦争が起きたの」。
「ええとリンカーンが最初の大統領で南北を統一…」。
「でも何故南北を統一したの。経済的理由かしら、それとも政治的理由から」。
「奴隷制の廃止でしょう」。
「それなら先ず何故奴隷制が必要だったのか言ってくれないと困るわ。南部は綿業が盛んだったでしょう。綿業は奴隷の力があってこそ実現できたのよ」。
「お母さん、もう厭だよ」。
「あらまだヤコポ、国語が残っているでしょ、頑張りなさい、ほら」。
「あら、ヤコポ、ここの自習問題もやってないじゃないの。いい加減にしたら駄目じゃない」。
「お母さん、何度言ったら分かるの。ここは自分で勉強したんだよ。どうして信じてくれないの」。
ヤコポ少年は突然大粒の涙を流して泣き出しました。
「ヤコポ何を泣いているのよ。お母さんは何も言っていないじゃないの」。
後ろの席から、歴史の復習をしている小学生の声も聞こえてきます。
「ええとネロ帝は37年生まれ68年に亡くなって、ええと芸術が好きで黄金宮殿を作って、それから大火災の後のローマを再建して、セネカが家庭教師で云々」。週末のイタリアの列車内はなかなか賑やかです。
ネロと言えば、権力欲の強い母アグリッピーナに犯され、終いは憎しみの末にアグリッピーナに刺客を差向け暗殺したのではなかったかしらん。昔から母は強し、などと不謹慎なことを考えていました。
この数日、ちょうど息子の歴史の試験のため復習を手伝っていて、大変な試験勉強を他の親はどうこなしているのか疑問に思っていたところでした。ですから、目の前の二人の様子は何とも微笑ましく、まるで他人事とは思えぬ心地で眺めているのです。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカの立稽古の指示は、実に細かい。モダンダンスの振付けを一から学べる素晴らしい機会。動きに合わせて、シャとかシュというような擬音を口三味線でつけている。あれは何だったかとずっと考えていて、カンフー映画の効果音だと思い出した。練習が終わって、あの動きはどこから想を得ているのかと尋ねると、果たして東洋の武術だった。彼自身は武術をちゃんと習ったことはないという。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場 
早朝軽い朝食を摂り、川べりを40分程歩く。橋の下では、10歳くらいの少年二人がナイフを柵に刺して遊んでいて、少し怖い。ミラノではこうした光景は見たことがない。劇場のトイレにも、女性の暴力追放とポスターが貼ってある。実際に住んでみれば色々その土地の問題はあるのだろう。
散歩がてら劇場からほど近い橋からずっと川沿いに歩いて、アパートへ戻る途中、右手に鉄条網の張り巡らされた、一際背の高い壁がそびえている。その壁のちょうど真ん中にある、ガラス張りの監視塔で、看守がサンドウィッチを頬張っているのが見え、その奥に顔を覗かせている薄汚れた鉄格子の端々に、シャンプーのボトルなど立てかけてある。

細川さんがアラン・ポーの物語に能を見出したのは、実に自然で、ルカは細川さんの音楽は切れ目がなく、一つの大きな息だという。50分近い一つの大きな息に、どれだけ細かく遠近感を作り上げてゆくかが、演奏者としての挑戦でもある。同じことを二人で思っているが、お互いどこまで迎合せずに相手に拮抗できるかで、最終的な舞台の仕上がりが変わってくると思っている。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
アラン・ポーを読んで、アンブローズ・ビアスを先ず思い出したのは何故だろう。時代もスタイルも境遇も違うはずだが、無意識にどこかビアスのように「大鴉」を読もうとしている気がする。個人的にビアスは乾ききって枯渇した恐怖の印象があって、それは日本語で読んでいないからかもしれない。「大鴉」も邦訳で読むと、印象が違って、正直よく分からなかった。自分にとって彼らの描く恐怖は現代のホラーとも怪奇譚とも違うもの。空気が乾くほどに、身体に染み込んだ恐怖はひりひりと肌を焼く印象がある。それを芥川のように生々しい恐怖に捉え、細川さんの音楽を重ねると、言葉と音楽の間にある空間の何かが、有機的に反応しないのだった。それは恐らくルカの演出の方向性とも関わっているのだろう。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
相変らず肉を全く受け付けないので、ボルツァーノで何を食べればよいか、実はとても心配していた。劇場前の「サフラン」という怪しげなピザ屋が、それを払拭してくれた。「サフラン」に足を踏み込むと、アラビア語を話す男たちばかりで、最初はこちらを物珍しそうに眺めていた。ピザの影などどこにもない。カウンター横のショーケースに、大きなトレイが6つくらい並び、そのうち二つはいつもご飯が入っていて、一つは白米、もう一つはどことなく赤みを帯びたピラフ風ヒヨコ豆ご飯。後は、ラムなどの肉料理のトレイと、煮込んだ豆や野菜のトレイが幾つか並ぶ。

平皿にピラフ風ご飯をよそって貰い、周りに肉以外のさまざまな豆料理、野菜などをかけてもらう。日によっては、ジャガイモを揚げたオヤキが乗っかっていた。それに自分の好みで青唐辛子の辛いソースをかけたり、ヨーグルトをかけて食べる。実に美味な上、少なくとも肉を食べない限り胃がもたれたことはない。お茶を頂戴というと、砂糖をふんだんに入れた温かいジャスミン茶が出てきて、料理にとても合う。

聞けばこれはアフガニスタン料理だった。コック服を着こんだアフガニスタン人の主人が作っていて、何でもボルツァーノには30人くらいアフガニスタン人がいるそうだ。この数が多いのか少ないのか、よくわからない。アフガニスタン料理は、イラン料理やタジキスタン料理とほぼ一緒で言葉も通じる。何しろ我々は同じペルシャ人だから。ペルシャ人、という部分を殊更に誇らしげに語った。ところで、国の方はどうなのかと尋ねると、駄目だねと困ったように手を挙げた。イランに移住しコックをして暮らしていたが、イランでは子供たちが学校に通う資格を与えられなかった。だからボルツァーノにやってきたんだ。ここでは子供たちは学校に通っている。イタリアの教育システムは素晴らしいよ、と話してくれた。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカは細川さんからの二つのキーワードを軸に演出をつけてゆく。「大鴉」の内容と能舞台の相似。主人公の男性が託されたメゾソプラノのシャーマン性。能の幽玄な世界は、現代のホラー映画として表現はできない。メゾソプラノが詩を語る、本来別人格である主人公が、第三者である彼女の身体を借りている。その透明な客観性こそ、細川さんの音楽の魅力を浮き立たせる大前提だと思う。全てを、べったりと塗りたくるような演奏では、どこか凛とした、張り詰めた空気の緊張と恐怖は表現できない。全て独白のみによって成立する音楽には、細かな遠近感の設定が不可欠だが、それらを壊さずどこまで長いフレーズを作れるか、結局のところ音楽稽古はそれに尽きる。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
昼休み、ルカと二人「サフラン」で話し込む。ちょうど二人ともいるので、思い立ちブソッティに電話をする。先日家人が会いに行った時は、ずっと口を噤んでいたというので二人とも心配していた。ロッコに呼ばれて電話口に出てきたブソッティの声が明るくて、思わず涙腺が緩んだ。
メゾソプラノのアビーとは「大鴉」の韻をどう踏んでゆくか、あれこれと考えている。普通に韻を強調すると、実につまらない。大きな弧を描くフレーズの方向性の中で、同じ調子が続くことをていねいに避ける。水の上をはねてゆく石のように、それぞれの点から水紋が広がると、方向性が与えられ遠近感が生まれる。言葉が吸い込まれてゆく空間は、無限に広がる闇。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
歯に詰め物をされ、とても厭だという夢にうなされた翌朝、ミラノの家人から歯の詰め物が取れたとメールが届く。
朝、トレントの音楽高校生劇場訪問。演出家と指揮者と対話する会とのこと。ルカは日本文化の特徴について話、能について話す。いかに日本文化が西洋文化から遠い存在かと殊更に強調しても始まらないので、能舞台と古代ギリシャ劇の関わりについて話す。今でこそ東洋も西洋も時間は一方通行で進むけれど、キリストが生まれるまでは、西洋も東洋も、時間の推移に対して今よりずっと繊細だったに違いない。
アパート前の道を20メートルほど進んだ角の金物屋。ナイフや斧が並ぶショーウインドウに、カウベルと角笛が鎮座している。今まで観光客用と思い込み気にも留めなかったが、店内を見るとずらりとカウベルが並んでいる。形は3種類ほどだが、ごく小さなものから大きなものまで一揃い20個は下らない。もしかすると牛飼いは、放牧牛を全てカウベルで聴き分けられるのか。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
林原さんから頼まれていたヴァイオリン小品を送る。彼女はチベットの子供に教育支援をしていて、日本にいるチベット人の友達も聴きに来るので、チベット音楽を主題として、最後は元気よく終わること。それから政治的アピール絶対禁止。
こういうリクエストを受けて曲を書くのは初めてだが、本当に古くからの友人なので、面白がって引受け、道孚県の旋律を使うことに決める。タウは中国チベットの境にあって、華麗な家造りの伝統が守られている土地。その昔はタウを「道塢」と書き、チベット語で馬を意味したと読み、題名は素直に「馬」とする。リズムを西洋式に定着するだけで、音楽が途端につまらなくなり、途中何度か続けるのをやめてしまった。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
「大鴉」に関しては、音楽と演出は有機的に関わりあうので、音楽稽古と立稽古を分けずに、同時に練習を進める。原文の解釈について喧々諤々さんざん話し合った後、演出はルカが本能的に頭に浮かんだ動きを付け、音楽は前後の関係を鑑みて、繋がるように論理的に組立ててゆく。ルカは内容を説明するようには演出したくないと言うのを聞いて、羨ましく思う。自分には本能的に決めてゆく自信はないが、かと言って、詩と無関係な音も作れない。尤も、方向性さえ決めてあれば、後はそれを本番で崩すかだけに集中できる。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
折角、景色のよいアルプスの麓にいるからと、早朝川沿いを歩いている。どうしたことか、チロル帽と伝統衣装に身をまとった若い男女3人、まだ全く人気のない路地を、笑い声とともに走ってゆく。誰もいない路地に彼らの姿だけを認めると、まるで時代がすげ替わったよう。ここに来たばかりの頃、整わない身なりで裸足の男性が、目抜き通りに仁王立ちしているのに驚いた。行き交う人々は全く気にも留めないのも、不思議だった。
たとえ比較的暖かい土地とは言え、真冬にここで裸足で歩く男性に会うと、さすがに衝撃を覚えたが、彼はあれから何度も街ですれ違っているので、恐らく誰もが慣れているに違いない。丁度時期的にカーニバルに差し掛かるところで、顔を白塗りにしたジプシー女性が、アルルカンの衣装で寂しそうに風船細工を売り歩く。

川沿いの道を歩くと、四方の山々は乳白色の靄に包まれ、まるで見えない。鳥の囀りと、川のせせらぎだけが聴こえる。山の方へ歩いてゆくと、規模は小さいが立派な屋敷が散在している。屋敷というより、ちょっとした城に見えるものすらある。
しきりに息子が歴史の試験が大変だとこぼすので、西暦400年から900年くらい、フランク王のメロヴィング朝とロンゴバルド王国あたりから、カール大帝、カロリング帝国の凋落辺りまでの勉強を手伝ったが、こうした屋敷は、もしかしたらカロリング帝国終焉期から乱立した貴族が建てたのかしら、などと想像すると面白い。

前にトリノの貴族の屋敷に遊びに行った時のこと、小さな丘向こうの別の貴族とは今も本当に仲が悪く、ずっと悪口を言っている姿は、まるで冗談のようだったのを思い出す。理由も奮っていて、「先祖代々仲が悪いから」だと言っていた。
詳しく知らないが、もしカロリング朝で生まれた貴族層が今に続いているのなら、彼らの先祖はカロリング朝フランク王の友人だか親戚ということか。日本の貴族のように倭国の豪族が起源と言われると、天皇家に近い印象もあるが、イタリアの貴族のようにそれより500年近く後のカール大帝のお友達と考えると、今の政治家と大して変わり映えもせず、よほど世俗的で愉快な気がする。

川に沿って歩いていると、突然黒々とした鴉六羽がバサバサと大きな羽音をさせて飛んできて、目の前の枝に留まった。何か貰えると思ったのか、こちらをじっと見つめている。そのうち一羽は諦めて飛び去ったが、何故かまた戻ってきた。5分程互いに立尽していたが、時間もないので散歩を続ける。

橋を渡り少しゆくと、目の前に小さなロープウェイの駅がある。普段ロープウェイに別段興味はないが、駅の下に立つと、切立った崖の向こうには何があるか、俄然興味が頭をもたげた。早朝で周りに人影はなかったが、始発の丁度5分前に臙脂色の駅舎に電気が灯った。古ぼけた小型ロープウェイで、聖ジェネージオに向う時はまず崖を一気に昇りつめ、そこから山伝いに這うようにして進み、10分程で山上の小さな街に辿り着く。

乗客一人車掌一人だったので、勢い四方山話に花が咲く。ボルツァーノにある飛行場を、市民投票で廃止したこと。誰も使わないし、大気汚染の原因だと言う。思わずミラノで出会ったタクシー運転手が、ボルツァーノ市民を酷い言葉で罵っていたのを思い出す。ボルツァーノは自治県なので、市民の税金は国に納めずに県に納めるのだと言う。その上、国から特別助成金を貰っているのだから、当然経済は潤沢になる、というのが、タクシー運転手の言い分だった。

聖ジェネージオは標高1087メートル。ボルツァーノは標高262メートルだから随分高くまで昇った。ボルツァーノの街からは想像すら出来なかった見事な眺望が広がり、山一つ越えれば別世界になる山の魅力を思い出した。眼前の山々の尾根が朝日に真っ赤に染まると、流石に言葉を失うばかりだ。尾根と言っても、この辺りは南チロルの土柱と呼ばれる、尖った柱状の奇観が続いていて、尾根という言葉のなだらかな印象からは乖離している。雪が野原のそこかしこに残っていて、ボルツァーノに比べずっと寒い。伊独語二カ国語が標準語として認められているボルツァーノでも、街で見かける表示は、全て伊語そして独語の順番だったのが、聖ジェネージオでは、独語、伊語の順番に入れ替わっていた。後で読んだが、3000人の住民のうち97パーセントが独語話者だと言う。

 2月某日 ミラノ自宅
週一日の休日を使って自宅に戻る。息子からのリクエストで毎回ボルツァーノからはジャムを二瓶持参。余りに美味なので、二瓶買っても、数日で底をついてしまう。先週は息子のために理科科学の本を、今週は歴史関連の本を買ってミラノに届けた。
「大鴉」でのオーケストラとの練習風景を思い出す。一見易しそうだけれど、こういう楽譜を納得ゆく音に仕上げるのは、決して簡単ではない。西村先生の練習もそうだったが、自分が欲しい音、楽譜が欲している音が出るまで諦めてはいけない。一度音の質感、フレーズの方向性、音の温度、空気の密度、明度、楽器の彩度、沈黙の質感、そんなものが見え始めれば、後はオーケストラ自身が一気に仕上げてくれる。その瞬間まで、自分と目の前の作品とそして何よりも目の前の音楽家を信じ続ける。
すると、見事に音楽が一気に変わる瞬間が訪れる。
強烈な皮膚感覚を伴う体験だから一度目にすると忘れられないし、演奏者の眼の光がまるで変わるのが不思議で、輝いてくる。

(2月27日ミラノにて)

7年

笠井瑞丈

7年
ぶりの新作
僕が所属してるM-laboratory公演
『Moratorium end』
終わりました
いつも考える
主催の三浦さんの作品作りは小説的感覚
僕は自分で作品を作るときは映画的感覚
たくさんの違いがある
それがまた面白い
三ヶ月稽古してきました
振りを覚えるという感覚よりも
セリフという言葉の動きを
カラダに覚えさせるという感覚
これは僕にとっては全く新しい感覚
7年
カラダの周期も
7年
たぶん僕の今持つカラダはもう7年前のカラダではない
でもきっと普遍的なこともあるはず
そんなことをカラダの記憶に残していけたら
いろいろなことを失い
いろいろなことを得た
そんな
7年
また新しいことに向かっていこう
そして僕にとって一年で
一番辛いシーズンが始まる
花粉シーズンスタートです
くしゃみが連発
次は『花粉革命』です
よろしくお願いします。

「私の憲法」をもつこと

小泉英政

三里塚で小泉よねさん、通称、大木よねさんの養子に夫婦二人でなって、有機農業を始めた頃、鶴見俊輔さんが、ぼくのことを書いてくれて、その中にこういう言葉がありました。
「農業そのものの中には非暴力の精神の根をおろす場所があるように思う」(『鶴見俊輔集8私の地平線の上に』筑摩書房)
その言葉を見て、なるほどと思いながら、当時はそんなに気にとめませんでした。

その言葉を強く意識するようになったのは、1997年から始めた循環農場からです。外国からの輸入穀物に頼らない有機農業、牛糞や鶏糞を使わない、ビニールやポリフィルムを使わない、タネも自家採種をめざす、たどり着いたのは、里山で落ち葉を集め、米ぬかを発酵させて肥料を作るなどの方法でした。そのような取り組みをぼくは、非暴力農業とも呼びました。

ベトナム反戦運動でも、成田の空港反対運動でも、個人的にはずっと、ぼくは非暴力を貫きました。でも、激しい反対運動の中で、非暴力という言葉を発しないでいました。その後、二つの反対同盟と距離を置くようになり、更に、循環型の非暴力農業を始めて、再び、非暴力の意味を問うようになりました。

どうして自分は非暴力という方法を選んだのか? たどり着いたのが、日本国憲法でした。ぼくは、1948年生まれの戦後世代です。それ以前の暗黒の時代を知れば知るほど、憲法の素晴らしさを歓喜をともなって感じた世代です。戦争を放棄して、平和外交で争いを防いで行く、なんて勇気ある決断だろうと思いました。ぼくにとって憲法は、非暴力の精神のみなもとだったのだと気付きました。

その憲法、そのものが危機にひんしている。安保法制の強行採決、自民党の憲法草案、不安材料ばかりです。それにどう向き合うか。なかなか答えが出ませんでした。そんな中、もう一度、非暴力について考えました。非暴力は、権力を強いる者への抵抗の手段です。反対と言う言葉が枕につきます。でも、非暴力を農業にまで拡げて考えると、非暴力は肯定とか、創造とかの概念と近寄ります。そこで、これだ!と思いました。

憲法の危機に、憲法肯定で向き合おう! 憲法いいね! 変える必要ないね!

憲法いいねの会、出発時は、憲法肯定デモってどうだろうの会と言ってました。まだ生まれて、10ヶ月ほどで、よちよち歩き状態です。循環農場の会員の有志の方々、野菜を売ってくれるエコロジーショップの有志の方々、ぼくの知人の方々、まだ小さなグループです。昨年、6月に、この会場半分のスペースで「憲法このままでいいね!」と集いを行いました。参加者は約50名ほどでした。ガイアの女性たちが頑張ってくれました。

今日は2回目の集まりになります。倍のスペースに100名来ていただけるよう、知恵をしぼって、企画を立てました。(実際はどうだろう?)

1回目の集いの後に、参議院選挙があって、改憲勢力が3分の2を獲得し、その後、国会で憲法審査会が開かれています。自民党の憲法審査会部門では、緊急事態条項の検討に入ったと報道されています。沖縄では高江で、オスプレーの訓練を行うヘリパッドの工事が強行され、辺野古の海でも埋め立ての工事が着手されました。

アメリカではトランプ政権が発足し、世界的にも、「自国主義」の動きが活発化しています。緊張を緩和し、融和を目指すのではなく、自分たちの利益の為には、相手をののしる醜い政治手法が幅を利かせています。憎しみの連鎖、脅威の連鎖、軍備の増強、際限がありません。おたがいが、たがいを脅威だとして、自国の国民に危機感を煽りながら、互いの軍備増強に役立てている様にも見えます。

そんな時、「憲法いいね!」の声を上げるのは、時代の空気を読めないかのように受け取られるかも知れません。「許さないぞ!」との強い抗議の声を上げるべきだと言われそうです。その抗議の声を否定する気持ちは、全くありません。しかし、憲法いいねの会は、敢えて、足元から出発しようと考えています。

国民の反応はどうどうでしょう。安倍政権を支持する人は、50%を越えています。人々は憲法についても多くを語りません。自由に発言することをためらい、萎縮しています。自民党の憲法草案にハッキリと示されているように、改憲を主張する人達は、国民の自由や権利より国を第一に重んじようと考えています。憲法が変わると法律も変わります。戦前に逆行しかねません。

成田の駅頭で、この間、3回チラシを蒔きました。受け取ってくれる人は、10人から20人に一人ほど、みんな足ばやに通り過ぎて行きます。特に高校生は受け取りません。そういう状態、土に例えれば、ガチガチに堅く固まった状態に見えます。或いは、砂漠の様な印象を受けます。そういう大地に、いわば半分しおれかかった憲法を生き生きと蘇らせるのは、たやすい事ではありません。「憲法いいね!を耕す」とはそういう作業を智恵と力を寄せあってやってみようとの呼びかけです。

堅い大地を豊かにすることは、一朝一夕では成し得ません。肯定という考え、対話という方法、非暴力という形、丁寧な作業、芯の強いこころざしが必要です。それでは具体的にどうするのか。まず、それぞれが「私の憲法」をもつことだと思います。

この言葉は、『朝日新聞』1998年2月2日〜5日まで4回連続して掲載された鶴見俊輔さんの談話、鶴見俊輔の世界(3)私の憲法 国民投票を恐れないで(2月4日号)で見つけました。鶴見さんは当時53歳でした。その中で次のように語っています。

「私の憲法」をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい。書いたらだめですよ。知識人の欺瞞性はそこから発するんだ。いろんな「私の憲法」に支えられるような憲法になれば、欺瞞性やはりぼては薄くなる。

欺瞞性やはりぼてとは何なのか? 鶴見さんはこう言います。

戦前も議会や裁判所があり、法律もあったのに、軍国主義に利用されて戦争を推進した。それが戦後になって「自分は民主主義者だ」とか「戦争に反対していた」などと言い始めたが、そういえるのは獄中にいたわずか数人だけだ。それ以外の人がいくら護憲と叫んでも、はりぼてなんだ。

「私の憲法」をもつこと、個人の信念に支えられた「私の憲法」、それを、それぞれもちませんか。時流に流されない、時の政権に操作されない「私の憲法」、とても大事だと思います。

野菜の箱に入れている会員向けのチラシに、「憲法肯定デモってどうだろう」と「憲法肯定を紡ぐ」という文章を書きましたが、それは、結果的には、期せずして、自分の憲法を探ろうとした作業だったと言えます。1度目の集まりを持ってから、この先この会をどう継続していくのか迷いました。一度、肯定デモを行って見ようかとも思いました。しかし、ほんの少数の人数になりそうだし、そのデモのスタイルも、従来のものに新しさを加えるような発想は出て来なくて、さてどうしょうと言う時に、この言葉に出会い、救われました。ひとりひとりが、それぞれ、自分が生きて来た過程を振り返って、自分の足元をまさぐって、「私の憲法」をもつこと、それが大事だと思います。

ぼくは、東京でこの憲法いいねの会の準備と並行して、地元、成田では、成田平和映画祭実行委員会に参加してまして、丁度1週間前に沖縄のドキュメンタリー映画『標的の村』の自主上映会を、成田の市民運動の人たちや有志の人達と力を合わせ、開催しました。そして、予想を上回る300人の観客を集めることができました。

映画は、とても衝撃的で、ゲストでお呼びした三上智恵監督の話もとても具体的で、高江にしても辺野古にしても、負担の軽減どころか、米軍基地の強化を狙ったもので、そのことによって、沖縄はまた戦争に巻き込まれる事になると話されてました。
アメリカ軍は、日本を守ってくれないんですよ。どうして日本のためにアメリカの若い兵士が血を流さなければならないのですか。アメリカ軍は自国の利益の為に、日本に駐留しているんです。映画、監督の話共々とても感動的で、上映会を企画してとても良かったと思いました。

観客のアンケート回収率60%、そのうち感想を書いてくれた人77%、その人たちとどうつながっていかれるか、きちんと考えなければと思っています。知人にチケットを勧める時、久しぶりの人には、時間があれば、「私」を語りました。最近、肯定と言う考えに至ったこと、その姿勢で、再び、世の中と関わろうとしている事などを話しました。それは、共感を得たと感じています。

成田と東京と、二つの市民運動に関わる事によって、一つの運動のタコツボにはまらずに、双方から刺激を受けていると言うことも感じています。

「私の憲法」をもち、それを軸にして、周りの人たちに「私」を語る。憲法を語る。その連鎖反応として、平和を考えるグループが生まれる。出入り自由なゆるやかな集まりです。そういうグループがあちこちに育つことを望みます。名乗りを上げなくていいんです。それぞれをつなげるのは信頼です。信頼を維持し合うのは難しいことです。自分を率直に出すことが大切だと思います。

次に目指すもの、まだ個人的な意見ですが、「憲法いいね!をひろげる集い」をやりたいと思っています。

友人からメールで、電車の中吊りにこんな広告があったと知らされました。
渋谷陽一責任編集「SIGHT」70年間戦争しなかった日本にYESと言いたい

調べてみると、渋谷陽一さんは音楽評論家、ロッキング・オン・ジャパンの編集・発行人とある。東京に出た時に手に入れ、早速読んで見ました。
「僕はこのSIGHTで、今の日本に必要なのは肯定的なメッセージであると何度も書いてきた。YESというメッセージがないと人は前に進めないと書いてきた」
「今、僕たちが行うべきは、この戦後70年の平和主義を思想化することだ」

多くは披露できませんが、まだ手に入ると思いますので、是非読んでみて下さい。共感できるところが沢山あると思います。渋谷さんに手紙を出しました。そのうちお会いしたいと。

今日も沢山の方々の参加をいただきました。そのうち、皆さんの御協力を得て、憲法肯定の動き、憲法いいね!憲法YES!、変える必要ないね!の動きを世の中伝える大きな集会を開きたいと考えています。
音楽やアートや詩を交え!今日もこの後、歌と詩の朗読があります。楽しみです。

鶴見俊輔さんから学ぶこと

僕にとって鶴見さんは、最も信頼を寄せていた人、一緒にすわり込んだ時から47年の年月の節々で、励まされ、前に進む言葉を示してくれた大事な人です。最初に会ったのは、1967年、すわり込みの現場です。ぼくが19歳、鶴見さんは45歳でした。最後に会ったのは、2011年、原発事故のあと京都のご自宅に、かって、共にすわり込んだ仲間たちとお見舞いを兼ねてお邪魔しました。ぼくが62歳、鶴見さんは88歳になられていました。思い出されることは多々ありますが、どれをとっても穏やかな時間が流れています。

鶴見さんとのエピソードはいろいろあるのですが、今日はその時間がありません。そのうち、今日とは逆に、黒川さんにぼくが呼ばれて、鶴見さんとすわり込みの運動について、話さなければならない時が用意されるようなので、その時にします。

憲法いいね! を耕すことを、先ほど土を耕すことに例えました。我が家、循環農場では、野菜を育てるのに、落ち葉の堆肥と米ぬかの発酵肥料を使っています。落ち葉堆肥はじっくり土を豊かにする働きがあります。発酵肥料は、直ぐその作物に効きます。鶴見さんは、落ち葉堆肥だと思います。堆肥も材料によって色々です。例えば、稲わらの堆肥は土の中で短期間に分解されます。一方、落ち葉の堆肥は分解がゆっくりで時間をかけて、土の状態を改良します。鶴見さんの言葉は噛み応えがあります。地味豊か、滋養に富んでいます。

鶴見さんは2015年7月20日に亡くなりました。93歳でした。鶴見さんに学ぶこと、それはとても、一言、二言では語れません。鶴見さんの本は沢山出ています。今日もSUREの本が販売されています。是非、読んで頂きたいと思います。ぼくが思うには、鶴見さんは、非暴力直接行動に生きた人だと思います。その原点は、鶴見さんの戦争体験にあります。

引用するのは、「『不逞老人』鶴見俊輔」(ききて 黒川創、河出書房新社)からですが、その中で鶴見さんはこう述べています。

「海軍のドイツ語通訳になって、ドイツの基地があったジャワにいたときに、違法に捕虜にしていた中立国ポルトガル領ゴア出身の民間人を殺せという指令が、私のすぐ隣の軍属に下った」
「もしも、あのとき、自分が捕虜たちの通訳をつとめて、しかも、その相手を射殺することまで命令されたら、自分はどうしたか。それはずっと私自身の問題になって、戦争が終わってからも自分の問題として続きました」

そのことについて、他の本(『身ぶりとしての抵抗』鶴見俊輔コレクション2)でこう述べています。

「第二次世界大戦での日本の立場が正しい思ったことはなく、日本が負ける以外の終末を考えることはできなかったが、同時に、戦争反対のための何らの行動もおこすことはしなかった」
なぜか?
「しようと思うのだが、指一本上がらなかった」
「この前の戦争当時のようなひどい時代になると、もう一度、ああいうふうに、体がすくんでしまうのではないかという恐怖感をぬぐいさることはできない」
どうしてか?
「そういう行動の起動力となる精神のバネが欠けていた」
「それは、知識の構造に欠けたところがあるためでなく、肉体の反射の問題だ。思想という言葉を知識だけでなく、感覚と行動とをもつつむ大きな区画としてとらえるならば、それは思想の問題だ」と述べています。

また、非暴力直接行動についてこう述べている。「私としてはこうしないと、自分の同一性が失われると思うからこういう行動をとる」と。

鶴見さんは1960年、日米安保条約の強行採決に抗議して、東京工業大学助教授を辞職しました。その後、同志社大学の教授になるのですが、1970年、大学紛争で教授会が構内に機動隊を導入したことに抗議して辞職します。その少し前、1965年、ベ平連結成、翌年、アメリカ軍のハノイハイフォン爆撃に抗議して、アメリカ大使館前にすわり込み、1967年にはアメリカ軍の空母、イントレピット号からの脱走兵を受け入れ、脱走兵援助組織、ジャテックを作るなど精力的に活動しました。

まさに、知識と感覚と行動をもって、戦争に対して指一本あげられなかった体験と向き合いながら、自分の同一性を保とうとした人生だったと思います。今、憲法の危機を前にして、焦らず、丁寧に、人々と交わり、憲法十二条に書いてあるように、自由と権利を守るために不断の努力をしょうとする時、鶴見さんの残した言葉と行いは、とても貴重なものだと考えています。

今日は、鶴見さんととても親しい関係で、一緒に仕事に取り組まれた黒川創さんをお招きしました。黒川さんの話、楽しみです。

こんなところでぼくの話は終わりです。
ありがとうございました。

静かな日

璃葉

あるところから、廃棄物処理にだされる前の、スチール製の業務用棚をもらった。
棚は組み立て式のものだ。4本の支柱をたてて、ボルトで締め、棚板をはめていく。かんたんな作業のはずなのだが、いざ、これを力のない素人ひとりで組み立てようとするのは、何度か挑戦してむりだと悟った。支柱の高さはおよそ2mで、まあまあ重い。本棚としてつかうには、充分な大きさだ。
棚を置くために家具を動かしたり、ついでに使わないものを分けたりなんかしていたら、すぐに、泥棒に荒らされたような自室ができあがった。動かして行き場のない家具、棚の部品、工具類、くずれた本の山、キャンバス、紙類、楽器、ホコリ、その他、、。やけに煩さを感じた。誰もいない、わたしひとりだけなのに、この雑然とした部屋になんだか責められている気がした。要するに、疲れたのだった。
外から鳥のさえずりがきこえる。散歩にでよう。すべてを放って。

身動きがとれなくなったつらさから、無意識に中谷宇吉郎の文庫本を一冊持って部屋から飛び出すと、外の清々しい空気が流れこんできた。川沿いの遊歩道を、いつもよりゆっくり歩くことにした。曇り空をながめながら、晴れていたらもっと気持ちいいのに、とおもう。桜の木の枝には、たくさんのつぼみが育っていて、その真下にあるベンチに腰をおろした。まわりには、めずらしく誰も歩いていない。
中谷宇吉郎は、雪の結晶の研究をしていた学者だ。本を読むと、さまざまな極寒の地に出かけていたことがわかる。アラスカのページを読みかえしてふと空を見上げると、いくつもの層がかさなった雲間から陽の光が漏れて、川向こうの木々を照らしていた。去年の9月に滞在したフェアバンクスの曇り空と、すこしだけ似ている気がした。もちろん空気はもっと乾燥していて、森の匂いが立ち込めていて、この場所より何百倍も雄大なのだが。
しばらくぼんやりしてから、またうろうろとアテもなく歩きまわって、あのうるさくも愛着のある部屋にもどることにした。雲はいつのまにか流れ、薄水色の空がひろがっていた。
静かな一日がおわる。

音がそこにある

高橋悠治

1月には「風ぐるま」でテレビの録画をし その後ナレーションの録音もした 作曲した曲と それにつながる過去の音楽を集めたプログラム シューベルトの歌曲とシューベルトの詩に作曲してみた曲 アイヴァー・ガーニーが作曲した曲とガーニーの詩に作曲した曲のように 時代も場所も離れているが 抑圧的な政治や戦争のなかで 細い糸で外につながるような 微かな風を感じられるような 弱く遠い響き合い マラン・マレの『膀胱結石手術図』のような バロックの曲を バリトンサックスやピアノのように 当時は存在しなかった楽器で演奏するとき 楽器もちがう響きを立てる

2月はピアノ・リサイタル「めぐる季節と散らし書き 子どもの音楽」 そのために作曲した『散らし書き』は和歌を書き写した色紙の筆跡を音の線でなぞる もとの色紙は 仮名の連綿体と分かち書きを ことばの切れ目と一致させない書きかたで ことばの途中で改行している 字は撓って入り 手が浮いて消えるか 筆を軽く当てて 次の字に降りる それをなぞる音は 墨の濃淡や線の幅は筆の速度によるとみなして 濃く太い線は長い音 細い線は早い音の動き 曲線は音程の揺れ 音の始まりは 前の響きを拾い 終わりは音程を外す その線を右手と左手に振り分け ちがう音域に移し もうひとつの線をあしらうか 絡めるか 背景に鹿の声の線を入れる 二つの線がかさならないように 楽譜の見かけと演奏でずらす と言っても 安定した位置に停まっているのではなく いつも動いている感じがするように

音の線は横で 響きは縦のイメージだが あらゆる方向に散る音を 見えない糸でつなぎとめて網をつくり その網が形を変えながら動くと感じるなら 斜め方向がすべての場合を含み 横や縦を特別なものとはしない それぞれの音がかってに動きながら 瞬間の星座を作っては崩す おなじ音の並びにもちがう結びつきをかさねて 多次元図形が現れるようにも感じる 近くの音たちと見えない糸でつなぎとめられて その位置にある音を 網のかたちを変えても 網を破らないで どこまで動かせるか

書かれた筆跡をなぞり 音として納得がいくまで細かく直す 作業には時間がかかる それでも筆跡の曲りからは もとのことばは浮かんでこない 続け字を書くような音の曲りを作る手の舞からはじめて 斜めにずれていく網が見えるような音の並びを残して消えていく