別腸日記(4)悪魔の舌

新井卓

その男はガンダルヴァの家系で、サーランギー奏者なのだと名乗った。わたしが日本から忍ばせてきた安物のラムは、空になりつつあった。戸外は群青色に染まり、雨期に珍しい透きとおった空が薄暮時を告げていた。

目の前で愛おしそうに少しずつ酒をなめるその男は、わたしよりも一つか二つ上の二十歳くらいだったのだが、もう名前は忘れてしまった。何か難しい妊婦の病気で手術が必要、と男が言っていたその妻は、大きなお腹で乳飲み子を片手に抱え、暗がりで平然と鶏を調理していた。その身体の一体どこに異変があるのか、決して口をきかず食卓に同席しない女の横顔からは、伺い知ることはできない。

カトマンドゥのタメル地区で突然声をかけられ、およそ屈託のない笑顔にすっかり警戒心を砕かれて、男とはすでに2週間ほども行動を共にしていた。その間、時折「妻は母乳が出ない虚弱体質なので」と訴えられては、缶詰の粉ミルクやこまごまとした日用品を男に贈っていた。状況はうすうすと察知してはいたが、結局わたしは、男にすっかり魅了されていたのだ、と今は思う。

ネパールのサーランギーは、通常四弦からなる竹製の擦弦楽器である。あり合わせの針金やナイロンで作られた弦はおよそ粗末な代物だったが、男が弾き歌い始めると、とたんに耳の後ろが切なくなるような、瑞々しい音楽が四方の空間を支配してしまうのだった。

男はあれこれと無心はするが悪びれたところはなく、交わした約束は必ず守った。わたしたちはすぐに、手をつないで歩くようになり──この国では男同士でも親しい仲ならそうする──観光客が決して足を踏み入れない場所へ連れ立っていく仲になった。

ある日、彼の郷里という山奥に出かけていって、仲間にマダラ(両面太鼓)の手ほどきを受けた。「口で真似できないうちは太鼓は叩けない」と笑われながらも、演奏に加えてもらったのを覚えている。ろうそくの火を囲んで永遠に続くかと思われるセッションは、わたしの知らない、あるいは、これから決して知ることもない人間たちの世界の入り口の様に思え、わたしはいつまでもそこに留まっていたかった。

その夜、ガンダルヴァたちに言葉巧みに進められて、なけなしの金で、調弦方法も知らないサーランギーを買って街へ帰った。

食卓の鶏は、養鶏場に行きその場で捌いてもらった新鮮なものだった。スパイスで煮込んだ肉塊は、わたしの皿だけによそわれた。少しでも残しては、となるべくきれいに骨までしゃぶって皿の脇に置いた。すると男はそれを端からつまみ上げ、バリバリと噛み砕いて丹念に髄を啜るので、内心ぎょっとさせられ、また自分に染みついた無意識の贅沢さを教えられたようで居心地が悪かった。女は何も口にせず、時々こちらを無表情に見やりながら、赤ん坊に乳をやっている。

やがて甘ったるいラムを一瓶飲み干してしまった男は、よろよろと立ち上がり、宿まで送ろう、と言った。女はもう寝台に行ってしまったとかで、食事の礼もできずに、わたしたちはスラムを後にした。

あたりは闇に沈み、人通りのない郊外を野犬の群が駆け巡る時刻にさしかかっていた。

帰りの道すがら、男はまた金の無心を始めた。妻の手術には30万円ほど必要であり、それがなければ彼女は死んでしまうかもしれない、と数日前を同じことを繰りかえす。「こちらは学生バックパッカーでそんな金はどこにもない」といくら説明しても、男はなかなか引き下がらない。やがて、酔いが手伝ってか、現金がないならクレジットがあるだろう、それがだめなら本国から送金してもらえばよい、としつこく食い下がってきた。男の眼は充血して、いやな顔つきになっていた。ようやく大きな通りに出たので、人力車(リクシャー)を捕まえて無理矢理に男を押し込め、家に送り返した。不意に、それまで押し込めていた疑念が暗い感情となって沸き起こって来、宿に帰ってからも遅くまでベッドを転々とした。

カトマンドゥは、もう引き上げ時なのかもしれなかった。翌朝、わたしは逃げるようにバスに乗り湖の街ポカラへ出立した。それから一、二週間も経っただろうか、ふたたびカトマンドゥの安宿に戻ってくると、男は表でわたしを待ち構えていた。

男はあの無邪気な笑顔で「急にいなくなってどうしたんだ、誘拐でもされたかと心配したよ」と言い、親しげにわたしの肩を叩いた。わたしは男を無視して、宿の戸に手をかけた。「いったいどうしたんだ! 何で無視する」そう追いすがる彼に向かって、「お前は誰だ、お前なんか知るか!」咄嗟にそう叫んでから、自分の内にそれほどの憎悪が潜んでいたことに目のくらむような動揺を覚えながら、わたしは部屋へ逃げ帰った。

その夜、〈悪魔の舌〉という旅行客がたむろするパブに足を運んだ。その店は国産のククリ・ラムを使った、「ロングランド」アイスティーとかいう名前のカクテルを出していた。バックパッカーたちの間でガソリンが混ぜられている、と噂される得体の知れない飲み物で、それを吐くまで何杯も飲み干した。

わたしは怒っていたのだろうか?──とすればそれは、関係を台無しにしてしまった男の不実さについて、ではなく、結局のところ、与え/与えられる対等な供与関係をしてしか友情を信ずることのできない、わたし自身の冷たさに対して、だったのだろう。わたしが男を拒絶したその瞬間、彼の眼にありありと浮かんだ驚愕の色は、彼らからすれば豊かすぎる暮らしを享受する日本人に幾ばくかの金品を無心すること(カースト最下層のガンダルヴァたちは、何世代にもわたってそのように生きてきたのだろう)、そして、歳近いわたしたちの間に芽生えた友情らしきものとの間には、実のところ何の関わりもなかった、ということを端的に表していたのかも知れなかった。

その後、彼にはもう会うこともなかった。生まれて初めての異国への旅は、もう終わりに近づいていた。

ラムは、大航海時代ヨーロッパ列強によるカリブ海の植民地化とともに生み出されたという。今でも、ラムを口に含むたび、男の驚いて見開かれた眼と(もう顔を思い出すこともできない)、貧しく、それでいて輝かしく奔放なガンダルヴァたちの世界が記憶の奥でひらめき、かすかな痛みとなって、舌をひりつかせるのだ。

しもた屋之(184)

杉山洋一

国の決まりで、4月15日に決まってアパートのセントラルヒーティングが止まるのですが、今年は何故かその後2日ほど暖房が通っていて床も温かったのですが、それも切れた途端、急に冷え込んで、最高気温12度くらいで底冷えさえするようになりました。
その上ここ数日大雨続きで、ミラノ中の道路に泥水に覆われています。それでも雨が止む度、啄木鳥が戻ってきては、庭の樹を穿つ鈍いトレモロが断続的に響き、耳を癒してくれるのです。

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4月某日 三軒茶屋自宅
お手玉を落とす行為一つにしても、そこにあまり意味を考えず、淡々とただ落とすというのも、やってみると難しい。床に落ちたお手玉が音を発する前に、加速し落下する視覚的な運動も加わる。
発音に続いて余韻が残るのと反対の効果。テープやオープンリールを反転させて再生するあの感じ。単に拍手して貰おうと思っても、音楽家がやると音楽的になるけれど、寧ろそれは何故かと自問してみると、それまで「音」を包む不可視だった幕が、急に色を帯びて見えてくる。
今朝は、最近書いたヴァイオリンのチベットの主題による小品を林原さんが聴かせてくれる。林原さんはチベット語を勉強していて、チベット人の友達が演奏会に沢山来るとは聴いていたが、亡命チベット人だとは知らなかった。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さん演奏会、会場リハーサル。猿のように会場を徘徊しつつ、新作の動線を決めるのに2時間かかる。長いリハーサルの一日が終わり、ふと新聞を見ると、トランプ大統領シリア攻撃、とある。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さんの演奏会に出かける前に、会場近くのオムライス店で昼食を摂る。入口で、肉の入っていないオムライスはあるか妙齢に尋ねると、一度厨房に相談に行き、オムライスのご飯には初めから肉が混ぜてあるので、それを普通の白いご飯にしても構わなければ、と言うので、喜んで好意に甘える。席に着くと、先ほどの妙齢が戻ってきて、申し訳なさそうに肉の食べられない理由を教えて欲しいと言う。ベジタリアンなのかビガンか、さもなければアレルギーや宗教上の理由で問題があってはいけない、と言うので、いたく感心する。それらと関りはないので問題なく美味しいオムライスを頂いた。特に美味しく感じたのは、妙齢とコックの機転のお陰に違いない。

安江さん演奏会。悠治さんの曲は、会場で聴くと、原曲がより明確に聴こえてきた。一度安江さんのスタジオで聴かせて頂いた時の印象とも随分違った。安江さんから意見を求められたので、悠治さん風に演奏しなくても良いけれど、普通はルバートをフレーズ単位で崩すのを、悠治さんだったら8分音符の中を64分音符単位でグルーブをかけて、音を紡いでゆく感じか、と口から出まかせを言った。

増本先生の曲は、楽譜を初めて読んだ時に、こんな風に音が置ければいいと思ったが、その通りの響きがした。増本先生の曲は、音の背景に、晴れた空の、一昔前の日本の風景が見えるような気がする。騒音にまみれ、アスファルトで固められた今の日本が失った、もう少し鄙びた、空気の澄んだ街並みが見える。

「ツリーネーション」は、当時はこれ程楽観的な曲を書いていたのかと驚く。「放射能汚染が」「甲状腺がんが」「ミサイルが飛んできたら」「空母何某が」という記事が、毎朝の新聞に載るとも思ってもみなかった頃のことだ。ヨーロッパにはヨーロッパの大きな問題があるが、日本もすっかりきな臭い世相になってしまった。

「壁」は、前日にアメリカがシリアを爆撃したので、否が応でも黒いお手玉を落としては繰返し拍手する姿は、自分が想像していた以上に厭なものだった。本来は壁の向こうで手を叩くはずの音が、具体的な爆撃音のように聴こえてしまう。その度に、メタルシートが大きく撓み反射する。

ピアノ曲は、聴いていて当時の自分が羨ましくなる。自分の息子を見ていて、お前はいいね、羨ましいと嫉ましく思うのに少し似ている。それより加藤くんの音がとても温かく、心に沁みとおる。星谷君を知っていて弾いているに違いないと思い込んでいたが、直接は殆ど会ったことがなかったそうだ。

夜に両親に電話をすると、二人とも「壁」にとても圧倒されたらしく、とても興奮して感想を聴かせてくれる。それだけでも、書いて良かったと思う。演奏会として喜ばれたのなら、曲よりも寧ろ、聴き手は安江さんと加藤君の熱演に引きこまれたのだろう。自作を続いて聴くのは、どうも居心地が悪くて困った。

4月某日 三軒茶屋自宅
行きつけのトップ駅前店に行くためには、渋谷のスクランブル交差点か、井の頭線ホームに繋がる空中通路を通る。スクランブル交差点では、外国人の観光客が交差点を背景に記念撮影をしていて、空中通路からは、交差点を行き交う人いきれを眺める外国人観光客が窓際に並んで、口々にcool! amazing!と黄色い声をあげている。

交差点の前に立つと、巨大なスクリーンが3枚ほど目の前のビルに掲げられていて、それぞれに大音量で番組を流している。誰もが聴いているようで、聴いていない。見ているが理解していない。理解するために流す情報であれば、一つのスクリーンで、それぞれの情報を順番に流せば良いのだから、当初から伝えることが一義的な目的ではないのだろう。コンピュータの検索機能に頼るようになったので、たとえ生活全てを氾濫する情報で覆いつくされても構わないのかも知れない。

ルクレツィオを読んで痛感したのは、「何を知る」のは、それまで存在していた何かを失うということ。文明が進化する程に、事象を即物的、表面的、分析的に観察するようになり、常に懐疑的な視点を伴っていることに気づく。あの時代に於いて、ルクレツィオ自身が、限りなく、即物的、分析的、懐疑的だった。

4月某日 ミラノ某日
暫く家人が日本に戻っているので、息子と二人で朝食を摂る。最近の彼のお気に入りは、シナモンを交ぜたフレンチトーストもどきで、フレンチトーストと生焼きオムレツの中間のような代物。これにシチリア産の蜂蜜をたっぷり掛けて喰べる。
毎朝つけている、ABCのラジオニュースで、北朝鮮やらドナルド・トランプやらの名前が出ていたからか、フレンチトーストもどきを頬張る息子が、隣で呟いた。
「アメリカも北朝鮮に自由の女神像を贈ればいいのに。フランスがアメリカの独立と自由の象徴に、自由の女神像を贈ったように」。

4月某日 ミラノ自宅
先日演奏会の後悠治さんと話していて、「教わる」のは、教わった瞬間に既に誰かの真似ではないか、という話になる。そうかも知れない。それでも教えているのは、多分自分がまだ教えることで教わることが無数にあるからではないか。

大学卒業試験を控えるSがレッスンに来て、最近オーケストラの前に立っても、何の情熱も感じないと嘆く。どんな内容で音楽を作ってゆくだろうと黙って眺めていると、書いてある強弱やアーティキュレーションのことしか注文を付けない。楽譜にこう書いてあるのでこうやれと繰返すのは、レパートリーを振るのであれば奢りかも知れない、少なくとも自分はなるべく避けるよう努力している、と話す。予め書いてある記号の意味を咀嚼して、記号の向こうにある音楽の流れを理解した上で、自分が欲しい音像を出来るだけ明確に演奏者に示してゆくのは、容易ではない。フォルテと一言で言っても、大音量のイメージは無尽蔵にある。

Mはベートヴェンの第一交響曲の一楽章を、40歳代の男がよく晴れた昼下がり美しい山間の野原を歩いている姿に譬えた。提示部第2主題でナボコフ宜しく少女に出会い翻弄された挙句、最終的に男は振られて、傷心で展開部に入ると言う。

A曰く、同じ交響曲の最終楽章冒頭は、ナポレオン時代、戦闘から戻ってきた初老の「やる気のある」兵士たちが、足を引きずり困憊しながら街へ戻ってきた場面から始まる。アレグロに入るところで、彼らの後ろから走ってきた若い兵士たちが、老兵らをなぎ倒し、街めざして駈抜けてゆくシーンで、もちろん目指すは街で待っている娘達。展開部は、山あいに陽が暮れ始めて、遠くに見える街の明かりが点り始める場面。

娘たちは、玄関の扉を開けて待っているけれど、夜が訪れれば閉められてしまう。若い兵士たちは必死で街をめざして駈け抜ける。「やる気のある」老兵たちもそれなりに必死に追いかける。最後のファンファーレで、捨て置かれた老兵たちに反し、娘と抱擁を交わす若者たちの勝鬨の声。「やる気のある」老兵に差し掛かりつつある自分としては納得ゆかないが、こうして映像を頭に描いて指揮するだけで、音符を振っている詰まらなさが途端に消え去って、音が活き活きとしてくる不思議。常にフリッチャイがリハーサルを付けるモルダウのヴィデオが念頭にある。

M曰く、自信がなくてオーケストラに何を求めてよいか分からないと言う。とにかく、楽譜を振るのは止めるべきだと話す。譜面の紙は1ミリにも満たない薄ぺらいもので、その向こうに広がる無限の世界に足を踏み入れるための扉でしかない。彼がナボコフ風ベートーヴェン第一交響曲を演奏すると、確かに第2主題はコケティッシュな少女に聴こえたではないか。

作りたい料理を考えながら、指揮台に上がる。作りたい料理は予め考えておくけれど、作る素材は目の前のオーケストラの音の中から見つけ出して、その場で料理しなければならない。バジルがなければパセリで応用し、ニンニクがなければ、玉葱で下味を付け、アクセントが足りなければ別の香辛料をどこかから探してくればよいではないか。出来た料理をオーケストラに見せても、美味しい料理などは作れない。

水泳の例をあげる。泳ぐためにどの角度で手で水を切ればよいか計算式を覚えても、泳げるようにはならない。そればかりか、身体が固くなれば、沈んで溺れるだけだろう。泳ぐ喜びを何よりもまず味わいながら、毎回喜びを覚えつつ、この喜びはどこからやってくるのか分析するのは悪くない。

オーケストラと一緒にいられる時間への喜びはないのか、あれ程オーケストラを指揮してみたいと言っていたじゃないか。時間は戻らない。オーケストラと触れ合える時間がどれだけ貴重なことか。同じ曲を何度やっても永遠に同じ演奏には巡り合えない。

子供が出来て、時間が経つのがどれだけ早いか、そしてその一瞬一瞬がどれだけ掛け替えないものか実感するようになった。それに気が付くときは、深いノスタルジーで過去を振り返る時だけだ。それは君も子供が出来て実感できるのではないかと尋ねると、大きく頷いた。

君は自然が好きだと言うが、自然だってもう二度と同じ自然に巡り合うことはない。四季は確かに巡るけれど二度と同じ日が戻って来ない。だったら今日、この時間を精一杯生きなかったら、音楽を精一杯慈しまなければ、後で後悔するに違いない。
そう話してふと彼を見ると、Mは眼鏡を外して目を拭っていた。

4月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、頭の中から音を一切なくしたい、と思っている。音がなければ、音が見えてくるに違いない。去年は、すみれさんのため「白鷺鷥」を理想の音で書いて、今年は反対に「壁」を生理的に厭な音楽として書いた。実際「壁」は、触感として凄く厭なものだった。

元来、作品は作曲家の精神状態など表さないと言張って来たが、この歳になって、その信念が揺るぎつつあるのを自覚している。

昨秋パルマのフェステイヴァルで、アルフォンソとセレーネが演奏した「天の火」のヴィデオが送られて来た。素晴らしい演奏なのだが、余りに胸が締め付けられるようで、聴き続けるのが辛かった。正直にそうアルフォンソに伝えると、「あの時は二人で演奏しながら、何かが降りて来た気がしたんだ」、と少し困惑した声で答えた。
「きっとフランコが訪ねて来たのだろう」。
「天の火」は、癌で逝った我々の友人、フランコのために書いたものだった。今、こうして書いている目の前に、フランコの形見分けで頂いた古い日本のお盆が飾ってある。

古代、音は神と繋がるための手段で、我々の把握をはるかに超越した存在だった。多分それは、音そのものへの畏怖ではなく、音が響くわたる空間に、まるで別の次元へ広がる裂け目が開くのを鋭敏に感じていたのかも知れない。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めた20数年前は、ミラノの喫茶店で音楽はかかっていなかった。今では音のない喫茶店を探す方が余程むつかしくなった。譜読みをのんびりしようと思っても、あまり煩い音の洪水のなかで出来るものとそうでないものがある。
ガレリアの出版社に楽譜を取りに出かける前、少し時間があったので、ドゥオーモ地下の喫茶店でハイドン「悲しみ」の楽譜を開く。場末ではあるが、この界隈で音楽を流さない数少ない喫茶店の一つで、昼食なども美味で気に入っている。1楽章から楽譜を眺めてゆき、2楽章で言葉を失い、まるで自分の意識が混濁する。楽譜の上で、余りにも美しい音が、淡々と紡がれてゆく。朦朧としながら、強く石畳を叩く雨の音のなかで、コルソ通りのツェルボーニ社まで歩く。約束の楽譜を受け取ったのだが、夢見心地で出口をそのまま通り過ぎ、声をかけられて我に返った。

音が美しいから心を打たれているのではない。音符の向こう側に流れ続ける、空気のようなもの。その小さな割れ目からじんわりと滲みだす、感情の透明な液体。それは涙なのか、汗なのかわからないが、温かいのはわかる。

昔、政府の奨学金が突然打切られてから数年は、本当に貧乏だった。しばしば銀行から通知を受取るたび、開けるのが怖かった。それは決まって、口座の残高がマイナスになったので、何某か預けないと口座を閉める、という脅迫じみた催促状だった。色々音楽とは無関係の仕事をしながら、ここで何をやっているのかと情けなくて仕方がなかった。スコアなど買うお金は到底なかったから、なけなしの日銭で買ったポケットスコアはそれこそ宝物で、いつも持ち歩いては眺めた。
観光客がタックスフリーで買い物をしている傍らで、シューマンの楽譜を開いて目を皿のようにして読んでいる通訳兼ガイドなど、とても感じが悪かったに違いない。半年で解雇され、益々生活は苦しくなった。苦しいというより、もう暮らしてゆくのは不可能ではないかと思った。

ただ一つ。そうしながら、子供のころ事故に遭ってから身体の中を巡っていた、言葉にできない厭な液体が、少しずつ蒸発してゆく気がして妙に気持ち良かった。邪気を払うというのか、流行り言葉でデトックスというのか。自分のうちで自らが最も嫌っている何かが、どんどん蒸発し、流れ出してゆく気がした。すると身体の芯で、子供のころからずっと雁字搦めに封印されていた何かが少しずつ見えて来た。それは伽藍洞の、透明な筒のようなもので、それを感じるだけで、不思議なことに自分が生きていられることに言葉もなく感動した。

落ちるところまで落ちて、溶けるものは溶けきって、何か身体の中で、子供のころからずっと見たいと思っていて、すっかり見えなくなっていたものに、再会した喜びだった。

(4月30日 ミラノにて)

三日月と野草

璃葉

自宅の窓から見える桜並木が満開の花を咲かせているときの花見客のどんちゃん騒ぎから一変、花が散ったあとは見物人もいなくなり、まるで安心したかのように一斉に新緑の葉たちが生い茂った。辺りは緑だらけだ。

風でさわさわ揺れる葉、暖かい日差しを受けている植物をのんびり眺める。満開の桜をみることよりも好きかもしれない。

散歩をしていると、子供のころから見慣れている野草をどんどん見つける。一度覚えた草の名前はいつまでも忘れないから、不思議なものだ。

すこし遠出をして、野草を探しにいくことにした。山の近くの公園の川べりはまだ肌寒く、雨上がりの夕暮れの空はいつも以上に澄んでいた。三日月が浮かんでいる。

雨で湿った柔らかい土の上には青々とした草花が川向こうまで広がっていて、空の青を草が吸い取ったように濃厚な色をしている。都心にも生えているごくふつうの草花だが、生きている場所がちがうだけで、表情はまったくちがう。

雨露に濡れた葉をさわっているだけで手がシモヤケのようになってしまった。
目に留まった草と花をすこしだけ採集し、持ち帰って植物図鑑と照らしあわせてみた。

スミレ カラスノエンドウ ヤエムグラ ハルジオン アブラナ ホトケノザ ミコシギク

キク科やスミレ科の野草だけでも、似ていても名前がちがうものがいくつもある。

花弁のならび、実のつくりや葉のかたちから、これでもないあれでもないと絞っていき、やっとその名前たどり着いたときは、とてもうれしい。きっとわたしは、野草の名前と由来に惹かれている。和名でも英名でも知らない土地のことばでも、名前を知れば距離はとつぜん近くなる。

5月もはじまったので、山の麓へ鉱石を探しに行くついでに、野草探しもしてみようかと考える。標高の高いところの植物はまた表情がちがっていて、おもしろい気がする。

さつき 二〇一七年五月 第一回

植松眞人

「五月に生まれたから、さつきという名前なのね」とずっと言われ続けて育ってきたのに、私は五月生まれではない。そのことで意外な顔をされたり、感心されたり、ちょっと笑われたりする。
コピーライターをしていた父とグラフィックデザイナーをしていた母が六月に生まれた私にさつきという名前を付けたのは、ちょっとした遊び心だった。あなたが生まれることを心待ちにしていたくせに名前のことをすっかり忘れていたの、という母は、私が生まれた日に祖母に「ところで初孫の名前は」と聞かれて驚いたそうだ。
父と母は自分たちの粗忽さを大笑いして、ああでもない、こうでもないと私の名前を考えたのだった。その時、改めて私をまじまじと見つめた父が「ついさっき生まれたばかりなのに、髪の毛がふさふさしてるなあ」とつぶやいたのだった。母はそんな父に「そう、さっき生まれたようなものなのにねえ」ところころと笑って返したそうだ。それからしばらく、私のふさふさした髪を見ながら二人は笑い続けて、またうっかり名前を考えていたということを忘れそうになったというのだから本当に懲りない人たちだと思う。母の「そうそう、名前名前」という声を合図に、また二人は私の名前を考え始めた。
しばらくすると父が「さっきちゃん」と私に呼びかけたそうだ。「さっき生まれたばかりのさっきちゃん」と楽しそうに笑ったのだという。母が言うには、父がそう言った途端に私はキャッキャと笑ったらしい。本当だろうか。わからない。わからないけれど、母はどうでも良いところでしか嘘を吐かない人なので、きっとこの話は嘘ではない気がする。だって、自分の子どもの名付けというなかなか大切な場面での話だから。
父は私が笑ったことで、「さっき」という言葉に引っかかりを覚えたのだろう。コピーライターの職業病である「言葉転がし」を始めたそうだ。言葉転がしとは、気になった言葉を頭のなかでコロコロと転がして、さらにいい言葉を作り出したり、キャッチコピーらしくする病気だ。
さっき、さっき、とつぶやいていた父はふいに「サッキー」とかつての英国女性首相のように音引きで叫んでみたり、「さっきん」と無理矢理ニックネームのようにしてみたりしていた。そして、近くにあったチラシの裏に鉛筆で、さっき、さっき、と何回か書いてみた。しばらく、「さ」と「つ」と「き」という文字を何度も書いてみて、順番を変えてみて、あれやこれやと試している間に父は静かになった。静かになって、じっと文字を眺めていた。そして、指で文字を一文字ずつ押さえながら「さ・つ・き」と声にした。声にしたあと、ごろりと横になり、天井を見ながら、「さつきかあ…」と言ったのだそうだ。さつきさつき、と言いながら父はまた起き上がり、母に笑いかけた。
「ねえ、五月のことをさつきって言うよね」
父がそういうと、母は笑い返した。
「残念でした。今週から六月に入りました。この子の誕生日は六月一日よ」
とあきれ顔で答えたのだった。
「そうか。五月もさっきまでか。いいじゃない。さっきまで五月だったんだから。五月生まれだから、さつきなんじゃなくて、ついさ
っき生まれたから、さつき。ついさっき生まれた気がするのに、すくすく育ってくれるように。そして、ついさっき生まれたかのように、愛らしいままで育ってくれますように、って意味でさ」
と、父は「さつき」という名前についてのプレゼンテーションを始めた。まるで職業病だ。
「それにさ。五月に生まれたから、さつきなんですよねって、絶対に言われるでしょ。そしたらさ、実は父と母がさっき生まれたばかりだからって、さつきって名付けたんです、なんて世間話ができるじゃない」
父のその言葉が、人見知りで苦労した母にはえらく突き刺さり、さつきという名前候補が浮上してからわずか十分ほどで、私の名前はなんの迷いもなく決められたのだった。
二〇〇二年六月に生まれてから十五年が過ぎた。父と母が笑いながら私の名前を決めてくれてから、十五回目の春がやってきた。(つづく)

見えないもの

長縄亮

「見えない」とは
神様をいうための
ことばだった
一番はじめから そしていまでも

ぼくたちは
いつでも神様を
目で追っている
目に見えない神様を
目で追っている

ぼくたち
目の見えないものたちは
手で捜している
目に映らない神様を
手で追っている
手に当たるまで

ぼくたち
からだのないものは
かみさまを
いのちでさがしている
時の中を
さいごの時まで
たぐっていく

めにうつらない
てにはふれないかみさまに
いのちがあたるとき
ぼくたちはうまれる

グロッソラリー―ない ので ある―(31)

明智尚希

「1月1日:『自分で言うのもなんだけど、いつ誰か来てもいいように部屋はきちんと片づいていて、文学全集や文庫本のきっちり加減はすごいぞ。そんなに広くない部屋だけど、二千冊を書棚や自分で作った棚のなかにきっちり入れてる。それから映画のDVDや音楽CDも、本と同じようにきれいに収まっている。ちょっとした自慢だな』」。

( ̄ー+ ̄)どや

 書店に行くのはあまり好きではない。ずらりと陳列された書物群の全てを、一刻も早く読み尽して知識の上乗せを図りたいと思う反面、どの一冊を読んでも内容が悪辣な異物となり脳が拒絶反応を示して、優れたエクリチュールも単なる無駄な一物なのではとも思う。いずれにしろ月並みでない恐怖心を煽りに煽る。アチラコチラ命ガケである。

ぅあ───(((;’Д’ )))───!!!!

 健吾は健吾ではなく正人だった。正人は正人ではなく順子だった。順子は順子ではなく健吾だった。誰ともなしに言う「この関係も一時間おきにずれちゃんだよな」。「そうなんだよねー」。そして一時間が経過した。健吾は正人でなく順子、正人は順子ではなく健吾、順子は健吾ではなく正人となった。三人は手を振ってから、帰路についた。

(゚Д゚≡゚Д゚) エッナニナニ?

 さすがにわしも年齢を感じるな。忘れっぽい、覚えられない、語彙力の減少、心肺機能の低下など。わしから取り除いたら骨抜きになるものばかりじゃ。でもまだ一つある。思い出じゃ。若々しい歯並みをして青春を――ではなく、苦境に次ぐ苦境じゃ。物心ついてから今日まで、わしの栄養分たりえてる。美しくない思い出も力になるんじゃよ。

エートォ ?c(゚.゚*)

 「1月1日:『こうやって見てもわかるだろ。俺の趣味や嗜好が。しかも下世話なものばかりじゃない。教養として見聞きしておくべき最低限度のものプラスアルファの作品を並べてる。もちろん並べてるだけじゃないぞ。どこかにいる誰かさんみたくタイトルしか知らないなんて笑いものだしな。まあ一通りは見たし読んだよ。これも自慢』」。

( +・`ー・´) スゴイダロ

 小料理屋の女将をはじめ少なくない人が、人生において幸運と不運は等分だと言う。目下のところ、不運のほうが圧倒的に優勢だ。前説を信じるなら、今後の人生、幸運だらけとなる。だが正直、どうでもよい。自分の人生にさほど興味がないというのはさておき、幸運と不運の区別がつかないからだ。そんなことより今晩こそは眠らせてくれ。

∩(^∇^)∩ バンザーイ♪

 「生きていれば必ずいいことがある」「それ以上に嫌なことがある」「周りの人に迷惑をかけるだろ」「死んだあとのことは知らねえ」「両親が悲しむだろ」「両親は死んだ」「友達や知人が悲しむだろ」「そんなものはいねえ」「君は必要とされて生まれてきたんだ」「不必要だから死ぬんじゃねえか」「死んじゃ駄目だ」「生きてるのはもっと駄目だ」

wヘ√レv─(:D)╋━━ 死亡中

 早く眠りたいと毎日思う。いっそ目覚めなくてもいいくらいだ。不眠を克服したいというのとはわけが違う。一日をさっさと消化したいのだ。一日を大切に生きろという。現実は逆だから生まれた警句なのだろうが、抽象に過ぎて意味をなしていない。起きている間は、苦痛と不毛で埋め尽くされる。早く眠ったところでさして変わりはないが。

(〃∪_ゝ∪〃)。oO(悪夢) …

 落ち着きの悪いおのれの生は、電信柱に激突し電光閃々たるていたらく。そのままアウラとなってくれれば格好がつくが、こっちが勃てばあっちはかっさかさでまさにアポリア。マトリョーシカとタマネギの関係性をストックホルム症候群とした場合、ゴイザギがことごとにへそを曲げる。それで待つほうと待たせるほうではどちらがつらいかね。

(-__- ))) ソウデスナァ……

 頻繁に送られてくる文面や思わせぶりな写真から、想像に想像を膨らませて、いざ本人とご対面すると、相互にげんなりする。各自の内部にしかない彩られた虚像を外部に持ち込んでしまうと、現実の冷徹さを知ることになる。生活上、虚像や青写真は不可欠である。地下の暗室でネガを見ているほうが、前向きな息吹きを与えてくれるのだから。

///orz/// ガッカリ……

 「1月1日:『おすすめの映画は、一九九一年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは』」。

ヾ(@^(∞)^@)ノわはは

 各人はそれぞれ受け取るものが違う。感覚の話だ。色、形、音、におい。それらの最大公約数が現実と呼ばれる。最大公約数や現実から漏れた要素が個性と呼ばれる。個性は生来の賜り物だ。よって個性は育成される代物でも伸ばされる対象でもない。勝手に育ち勝手に伸びていく。途上で多くの邪魔が入る。困難を突破するのもまた個性である。

/(。Д。)ヽコセイ?

 天来の頭痛持ちである。痛む箇所は額の裏、前頭葉と決まっている。薬を服用しても治まらない場合、寝たきりになる。少しでも腕なり何なりを動かそうものなら、血流の関係で爆発的な痛みが生じる。ものを考えられないこの状態が休息というなら、地獄もかくあらんと思う。思考と休息。いずれも真の休息ではない点も、また頭痛の種である。

ズキンズキン(_` ゞ) 頭痛い

 「1月1日:『本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか』」。

(〃⌒∇⌒)ゞえへへっ♪

 セザンヌはデッサンがろくにできなかった。彼が円筒形、球形、円錐形に頼ったのは正解だった。あと二三年生きていたら、抽象の領域に足を踏み入れていただろう。後期印象派と印象派は自然主義から弁証法的に生まれた。絵画の歴史で最もわかりやすい時期である。デッサンの残存がある。ろくにできないという悲劇は、大発見の温床である。

デキナイ ((>ε<。 )(。 >з<)) デキナイ

 俺は世界四位のドル箱スターだぜぃ

(ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・・ォ・・・・

 日常生活において、言葉が次々と口をついて出てくるのは、気分を害している時である。憤怒、中傷、悪口、侮辱、これらを主な構成要素として、相手もしくは第三者に対して吐き出される。自我が混乱し壊れそうな状態にありながらも立っていられるのは、我執や自己愛のおかげである。構成要素の裏の内容は、本人の内実に見事に該当する。 ガーガー ヾ(*`Д´*)ノ”彡☆ グチグチ  意外かもしれないが、わしはいろんな企業を見てきた。実にいろんな経営者がいるもんじゃ。現場介入主義者、放任主義者、理論主義者、精神主義者、体育会系主義者など。是非はなんとも言い難いが、経営者というのは押し並べて経験でしかものを言わんのう。新規案件に手を出さないからこそ、今があるというのももっともで不思議な話じゃ。 , (⌒‐⌒), えっへん  鼻が詰まっている人は大変である。鼻をかんでも必ずしも鼻水が出てくるとは限らないからだ。かんでもかんでも出てこない場合は、口で息をしないといけない。息が臭いとまさに弱り目に祟り目。かむのとは逆に吸ってみると、一瞬だけ動くか全部吸い上げられるかのいずれかである。後者の場合、晴れ晴れとした表情で飲み下す者もいる。 (>O<) ズーズーズー ( -.-) ゴックン

一列横隊、一列縦隊

冨岡三智

お昼に時代劇『大江戸捜査網』の再放送をやっている。放送開始は1970年。隠密同心と呼ばれる数人組が秘密捜査の末に敵を確定すると、「隠密同心 心得の条 …(中略)死して屍、拾う者なし、死して屍、拾う者なし」の名ナレーションにのって横一列になって大門から出発するのだが、この場面にくると、刑事ドラマの『Gメン’75』を思い出してしまう。

学校で友達とGメン歩きをやって叱られた記憶があるが、幼稚園や学校に上がると通学や遠足で2列縦隊で歩くことを教えられる。道いっぱいに広がって歩くのは他人や車の通行の邪魔になるし、危険でもある。それだけに、大人が横一列に歩くという演出にクレームはこなかったのだろうか…と少し気になる。それはともかく、横長のテレビ画面では横一列に俳優が並ぶと迫力のある構図になるとか、前後に並ぶと序列が表現されてしまうけれど、横一列だと同じチーム仲間だということが表現しやすい、などという演出意図があったのだろうと思う。

横一列という歩き方は、街道の道幅が今よりも狭かった昔には実際なかっただろう。『大江戸捜査網』は時代劇だが、制作しているのは『Gメン’75』と同時代の人たちだ。時代物で横一列になるということで思い出すのは、歌舞伎の『白波五人男』である。ただし、あれは細長い花道を縦一列になって歩いて登場したのちに、「回れ右!」という感じでバッと客席の方に全員が向く結果、一列横隊になるのであって、基本的に一列縦隊である。

横一列に人物が並ぶという構図は伝統絵画ではよくあるけれど、体や顔は横を向いている。つまり、一列横隊になっている。エジプトの壁画やジャワなどのワヤン(=影絵)がそうだし、西洋のルネサンス以前の肖像画も真横を向いている。こういう肖像画をプロフィールと呼ぶように、横向きにはその人「らしさ」が表現しやすいと古くから人は思ってきたようだ。遠近法がない時代、身体という立体を表現するには、横向きの方が都合が良かったのだろうと想像する。それだけに、観客に正対するのは、より現在的な感じを持つ表現だという気がする。

ここで話は急にジャワ宮廷舞踊に飛ぶ。本来の宮廷舞踊というのは4人や9人の群舞で踊るが、一列縦隊になって入退場するのが基本である。しかし、私の留学していた芸術大学では、入退場の時間を短縮するなどのため、2人ずつ並んで4人が入場したり、9人が最初からフォーメーションを組んで(3列になる部分もある)入場したりすることが多かった。私はこれが大嫌いで、自分が公演する時には絶対にやらなかった。複数人が横に並んで入場する様は、私の目には軍隊の入場のようにも現在風にも見え、せっかくの伝統舞踊のオーラが消えてしまうように見えるのだ。

ちなみに、ジャワ舞踊では横一列に並ぶフォーメーションを「ジェジェル・ワヤン jejer wayang」と呼ぶ。ジェジェルというのは横列のことである。そして、縦一列になるフォーメーションを「ウルッ・カチャン urut kacang 」と呼ぶ。これは豌豆などの豆(カチャン)がさやの中で一列に並んでいる(ウルッ)という意味。私の師匠はこの2つを区別したが、区別しない人もいる。私は一粒の豆になったつもりで並びたい…。

振付を踊る

笠井瑞丈

踊りを踊る

身体の造形
記憶の造形

血液の中に流れる
何万年前の記憶
カラダの隅々まで
血液は運んでくれる

脳の記憶
から
血の記憶

振付が生まれる瞬間
動きが生まれる瞬間

動く事より
止まるコト

摩擦エネルギー

空間と時間
それを捉える

九ヶ月の時間を
血液に擦り込む

本日は革命前夜
血は水よりも濃い

花粉革命
何万年さきまで
粉々になるまで

振付を踊る事
踊りを踊る事

振付を踊る事

そういう事

狂狗集 5の巻

管啓次郎

あ 朝ぼらけ嘘つき世界のSUNRISE
い 犬と走らういつもの街路のパルクール
う 雲海の下に讃岐うどんの音響
え えんどう豆を遠投すどこにも届かない
お オランダの折り紙大船団のヘゲモニー
か 観測せよ青空にひそむ青い霊
き キはこの土地の原音漢字以前の定冠詞
く くすぶる野火にイグアナのローストを嗅ぎつけた
け 健康を語るなら毎日十万歩歩きなさい
こ 交錯する運命ひとつの掌(て)には刻めない
さ 去りがたし地球されど金星に磁力あり
し 試行錯誤で牧場の柵を壊すろば
す 西瓜色のシャツだねお洒落な夏が来る
せ 正解は弥生三月に埋めてきた
そ 想像力は心の裏面の銀の箔
た 体幹を鍛へよ自転速度についていけ
ち 痴愚神礼賛調理師魂見せてくれ
つ つまりは焦燥つま先立つのは不推奨
て 天牛と書いて何と読むその名を誰がつけた
と 豆板醤(たうばんぢやん)心の低めのストレート
な 涙と山査子(さんざし)味わひ深い知行合一
に 肉を食ふなら地獄に行くのを覚悟せよ
ぬ ヌクアロファ豚と浅瀬を散歩する
ね ネメシスに出会つたの災難だつたね
の 濃厚な牛乳だここでは泳げない
は 春を春と呼べば別の情緒が生まれる
ひ 氷見(ひみ)を見よ氷を見るの?火を見るの?
ふ 船が光る水平線で光つてゐる
へ 変な光だ音だビビビとやつてくる
ほ 崩壊間近な国家もう家の役目を果たさない
ま まつかうくぢらが首相の尻を打ちすえる
み 「未生」と書いて生の神秘にふるへます
む 無芸大食牧羊犬にも出番あり
め めきめきと腕から枝葉が生へてくる
も 盲目のウード弾きが福島を訪ねてくれた
や やかんひとつ今日もただ湯を沸かすのみ
ゆ 夕焼けの朱で虹を大蛇を飼いならす
よ 幼虫の変声期を待つて幾千年
ら 羅生門に暮らして土砂降りをしのがうか
り 倫理なし論理なし理性なし知性なし
る 流亡に生きる民の気概に打たれてゐる
れ 裂帛の気に小数点打ち以下同文
ろ 老獪なる老女朗々たる老狼
わ ワイカトで子羊抱いて月見かな

チャック・ベリーの記憶

仲宗根浩

去年、電源すら入らなくなったカーステレオを換えてから六十年代から七十年代のロック、ポップス、リズム&ブルースで自分が持っている音源ばかり車の中で聴いている。フェイセズのチャック・ベリーの「メンフィス」のカヴァー曲が入っているアルバム「馬の耳に念仏」を聴いた翌日の早朝、ラジオでチャック・ベリーの訃報。その後ラジオでは追悼をいろいろやっていた。映画評論家の町山智弘が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で電話越しに主人公が演奏する「ジョニー・B・グッド」をチャック・ベリーに聞かせる、というくだりを映画として「やっちゃいけないこと」、と話していた。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが制作した映画「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」でチャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャードが白人のラジオのディスク・ジョッキー、アラン・フリードの悪口を言う場面があった。曲をラジオでかけてもらうリベートとして作曲者のひとりとしてクレジットされ著作権収入を得る。ロックを聴き始めた頃、家にビートルズの編集盤のジャケットの中にビートルズの盤ではなく何故かチャック・ベリーのベスト盤が入っていた。LP盤のソングライターのクレジットにアラン・フリードの名前が入っていたのを覚えている。チェスのプロデューサーでソングライター、ベーシストのウィリー・ディクソンの曲もレッド・ツェッペリンがカヴァーした際、クレジットは無かった。こういうのが黒人の音楽を白人が盗んだ、と言われた要因のひとつになったのだろう。

キース・リチャードが「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」を制作するきっかけは六人目ストーンズ、イアン・スチュアートがチャック・ベリーのバンドのピアニスト、ジョニー・ジョンソンはまだプレイしている、と言われたのがきっかけだったか、キース・リチャーズのインタヴュー記事で読んだ記憶がある。イアン・スチュアートのピアノを初めて聴いたのはレッド・ツェッペリンのアルバムに入っていた「Boogie With Stu」というお遊びのような曲だがピアノは見事。

チャック・ベリーはバンドを持たずツアーに出て地元のバンドをバックに歌う。映画では地元バンドとしてバックをつとめたブルース・スプリングスティーンがうれしそうに話すシーンがとても無邪気だった。バンマスのキース・リチャーズがギターのリフに関して執拗にチャック・ベリーからダメだしをされる。ほとんどいじめに近かった。本番ではチャック・ベリーの気まぐれにはキチンと首を横に振る、キース・リチャードは楽曲をきちんと演奏し記録することに徹していた。

チャック・ベリーの音楽はカヴァー曲で知り、オリジナルにたどり着く。最初に聴いた「ジョニー・B・グッド」はジミ・ヘンドリックスであり一番にガツンときた「ロール・オヴァー・ベートーヴェン」はビートルズよりマウンテンのライヴ盤だった。

夜空に銃声、絶望のイラクでシリア難民と共に

さとうまき

イラクのサッカー熱は尋常ではない。4月23日、バルセロナとレアルマドリードの試合が行われるというので、シリア難民のスタッフのリームが、家に呼んでくれて一緒にTVを見ようという。斉藤くんもアーデル君も一緒に見に行った。

リームは、クルド系シリア難民で、2013年にシリアからイラク北部に一家で避難してきた。まだ、20代前半だが、結婚して、最初は主婦業もぎこちなかったが、最近は貫禄が出てきた。旦那の兄弟や親戚なども集まってご飯を食べてからTV観戦だ。よく知らない近所のシリア難民も集まり15人くらいになった。
リームたちは、ロナウドのいるレアルを応援。旦那の兄弟はメッシのいるバルセロナを応援という風にほぼ2分された。

点が入るごとに大騒ぎで、あまりサッカーを見ない斉藤くんは、彼らの反応に驚き、楽しんでいた。リームの旦那の兄弟は、趣味でサッカーチームを作っているらしく、トロフィーも3つくらい飾ってある。

最後に、メッシがロスタイムで逆転すると、もう大騒ぎ。飛び跳ねて、抱き合い、そしてトロフィーをつかむと、床に思いっきりぶつけて壊してしまった。
「やめなさい!」リームが怒鳴っている。何とも恐ろしい光景だ。壊されたトロフィーのかけらが誰かにあたると、そこから大ゲンカになるんだろうなと考えるとぞっとする。

外に出てみると、あちこちから銃声が聞こえ、まるで戦争がはじまったかのようだった。翌日のニュースでは、流れ弾にあたり9人がけがをしたという。

イラクやシリアは、戦争が長引き夢も希望もなく、元気がないと思われているが、たかがサッカー、されどサッカーで、他国の国内リーグにこれだけのエネルギーを注いでいるのだ。このことは喜ぶべきことかどうかはちょっと複雑だった。

数日後、銃を撃った人たちが数名逮捕されたというニュースが流れてきた。
きちんと逮捕したというのにも少々おどろきだ。新しい秩序ができるのだろうか?

150 無季

藤井貞和

流れついた海岸の句集、
どこで生まれたの?
あかちゃん俳句。
投げ出された海岸で、
ほんだわらを食べ、
はすのはかしぱんに会い、
ふなむしのゲーム。
あかちゃんの句集が、
だんだん メッセージ詩の、
様相を呈し、
子規と虚子とのあいだで、
ふたつのはしら、
かべになる かなしいね。
墓のうえにぼおっと立ちゃす、
「おわぁあ」と鳴きゃす、
もう、いの、
海へ帰りたい。
のちのほとけに、
はな まいらせて、
句集をのこして、
さよなら、
ぼくらを二度殺したのはだれ?

(「瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ」〈高柳克弘〉。無季の句であるために、それを逸脱だとするある俳句の団体から排除されたそうです。この水牛の詩「無季」とは無関係です。高柳さんの句には「災害の地にて」とあるそうです。)

魚の主(ぬし)

高橋悠治

しごとをはじめたばかりの時は 人に知られなければやっていかれないが 続けているうちに したことが次にすることの助けにはなるが 妨げにもなると思うようになる しごとを続けるために いまや無名で ふつうでいるほうが 望ましくなる

エピクロスの「隠れて生きよ」は 粒子の偶然の運動(クリナメン)から生まれる予測できない変化を知って 友情の庭をまもること 老子の「不敢爲天下先(あえて人の先に出ない)」は 人知れず技能をみがきながら 技術にたよらないこと 数少ないともだちは 近くにいないかもしれない ひととちがう考えをもつなら 耕された土地にかってに生えてくる雑草のようにひっそりとすごして ひたすら考え続けるのが イブン・バッジャーの勧め

ハンナ・アレントの『暗い時代の人びと』のなかのブレヒト論 そこに出てくる詩 Der Herr der Fische を見つけて とりあえず日本語にしてみる 

魚の主(ぬし)


来る時は決まらない
月とはちがう しょせん行くのはおなじだが
もてなしはかんたんな食事
でたりる


いる時は一晩中
みんなにまじって
何ももとめず くれるものは多い
だれも知らないが だれとも近い


行くのに慣れても
来るとはおどろき
それでもまた来る 月のように
いつもきげんよく


座ってしゃべる ひとのこと
出かけた時の 女たちのふるまい 
網の値段や 魚の水揚げ
とりわけ税金逃れのやりかたを


ひとの名前は
覚えきれないのに
しごとのことなら
なんでも知っていた


ひとのことなら話しているが
そっちはどうなんだ と聞けば
あたりを見わたし またたきして
別に何も と言いよどむ

7
こんなやりとりで
つきあいは続く
よばれずに来たが
分をわきまえて食べていた

8
ある日だれかがたずねるだろう
ここに来たのは どんなわけ
するとあわてて席を立つ 
空気が変わったと悟り

9
お役に立たなくて すみません
と外へ出る 暇を出された使用人
かすかな影もかけらも
籐椅子の隙間ほども残さずに

10
それでもそこに別なだれか
もっとゆかいなやつがいてもいい
そいつがしゃべっているあいだ
こちらはだまってすごせるならば