バベットの料理と道元の料理(晩年通信その1)

室謙二

 私はいつも料理の本と、食べ物の本を読んできた。
 ティーンエージャーのころから料理が好きだったし、食べるのも、もちろん好きであった。三十年以上前に、友人の奥さんが「夫は食べ物に興味がないの。というより味の違いが分からないのよ。料理をする気力が失せるわ」と言っていて、そういう人もいるのかと驚いた。
 食べ物の本で、あれがおいしい、あれがおいしくない、とあげつらうのものには興味がない。妻に料理を作らせてイロイロと言っているのは、もっと気にいらない。自分でつくらなくてはだめだよ、というのが私のスタンスである。

 生まれて初めておぼえた料理は、タマゴ料理であった。中学生になったばかりころ、十三歳年上の兄が教えてくれた。
 フライパンを熱してオイルを落として、タマゴをひとつ割りいれた。「ケンジ、これで目玉焼きができる。もっとも火を強くしてこんがりとするか、黄身をどれだけ固くするか、適当なところで裏返すとか。あるいは水を落として蒸し焼きにするとか、またはこうやって」とお箸で黄身のところをクルクルとこわして、「こういうのもありだな」と言った。「もっとお箸を白身の外の方までクルクルしたら、ほら炒りタマゴになるだろ。同じ炒りタマゴだって、どれだけ火を通すか、どれだけかき回すかで、味がちがうのだよ」と教えてくれた。
 そのとおり、同じフライパンに同じオイルにタマゴひとつとお箸で、いろんなタマゴ料理ができて、そしていずれも、それぞれ味が違うのである。中学生の私はこのとに驚いた。それいらい私は食べるだけではなくて、料理人である。

 私の料理は早いしおいしい

 結婚いらい、料理は主に私の仕事である。妻が言うには「ケンジは料理が早いでしょ。それにおいしい。第一、料理が好きだから」と言って、たまにしか料理をしなかった。
 だから私は、食べ物の本と料理の本がすきなのである。それは私の友人みたいなものだ。そして「バベットの晩餐」(ちくま文庫)は、私の最も好きな本のひとつである。またその映画もある。重点の置きかたが違う。私は映画のほうが好きかもしれない。

 バベットは、パリの有名料理店の有名なシェフであった。父親と夫は一八七一年のパリ・コミューンで立ち上がり、反革命派にバリケードで撃ち殺された。家族を殺され、高級レストランのお客であったパペットの料理を愛した人たちはコミューン派に殺されで、パペットは人の紹介で、本ではノルウェーの田舎、映画ではデンマークになっている、の厳格なプロテスタント派の村に逃げてきた。家族もいないしシェフでもなく、彼女の有名な料理を食べる客もいない。そして過疎の村の、すでになくなった司祭の娘二人につかえて、単純な田舎料理と日々の生活で十四年がたった。
 そしてある日、パリから、バベットが買っていた宝くじがあたったという知らせが届く。そのお金を全部使って、厳格で禁欲的なプロテスタント一派の村人のために料理をするのがこの物語である。

 おいしいと感じることは罪である

 「目の前に置かれたものは何でも感謝して召し上がれ。神さまのおつくりになったものを頂いて、謙虚な気持ちで食べるのです。罪深い喜びなんぞは味わったりせずに」というM.F.K.フィッシャー夫人の追憶の言葉を、本間千枝子は「アメリカの食卓」(文春文庫)で引用している。また一九世紀末イギリスのウォルター・スコットの父親が、自分の子供が「何とおいしいスープ!そうですねお父様、ほんとうにおいしい!」と言ったことが気に入らず、おいしくもなかったスープにコップ一杯の水をつぎ込んだ。という話も引用している。おいしいと思うことは、感覚に溺れることは、厳格なプロテスタントには罪だったのである。「バベットの晩餐」にでてくるプロテスタントは、そのような人々であった。しかしバベットは村の伝統にのっとって、シンプルだが、味わいのある料理をつくりつづける。
 そして村のプロテスタント一派を始めた司祭の誕生百年記念がやってくる。そのときに作るバベットが作る特別料理、パリのレストランと同じ晩餐を、老人たちはおいしく感じないように食べようとする。おいしいと感じるのは、感覚に溺れるのは、罪なのだから。

 料理の本でもう一つ好きなものは、道元の「典座教訓(てんぞきょうくん)」(講談社学術文庫)で、道元は一二〇〇年から四年間の中国留学で、僧院の典座(料理担当僧侶)の役割を知る。もともと、ブッダも弟子たちも、料理は作らなかった。托鉢で人々から食べ物をもらって、飢えをしのいだのである。二十年以上まえに、ラオスのルアンプラバンに行ったことがある。夜明け前から人びとは起きて料理をする。そのうち僧侶たちが列をなして現れる。人びとは料理したものを持ち、家のまえの通りで待っている。
 私もまたそこであった中年の男性と話をして、次の日の夜明け前からいっしょに料理をした。その食べ物を持って人びとの列に加わって、僧たちを待っていた。
 ルアンプラバンであった十四歳の学生僧は、ぼくはいつもお腹がすいていると言っていた。私が、もし人びとが僧たちに食べ物をくれなかったらどうするか?と聞いたら、「私たちは死ぬだろう」と言っていた。料理をするオプションは、そのとき十四歳の青年僧にはなかった。インド仏教である。しかし仏教が中国にやってきて、僧院の中で仏教と料理が結びつく。そして典座があらわれた。

 料理は禅の修行

 道元は二十三歳であった。中国に着いたがまだ船の中にいるときに、阿育王寺(あしょうかおうじ)の典座が、日本からの椎茸を買いに来た。道元はその典座を自室に招き、お茶を飲んで話をする。今日は二十数キロ離れた僧院に帰らずに、ここに泊まっていかないかと道元はすすめる。「阿育王山のような大寺には、何人もの典座がいるでしょう。あなたが料理しなくても困らないはずです」という道元に、典座は「これは老年になってはじめて得た典座の職である、修行である。他人に任せることはできない」と言う。
 道元は、修行は座禅をして公案の意味を知ることだと思っているのだが、典座は大笑いして、「外国の好人、いまだ弁道を了得せず、いまだ文字を知得せず」と言うのであった。「仏教修行というものを理解していない」、「文字の意味がわかっていない」と言われて、若い道元は、典座が重要な修行らしいと知ったのだった。

 「典座経典」には仏教とはなにか、典座の意味、役割、典座の仕事、コメの洗い方から食材の切り方、食器類の整理の仕方などが書かれている。僧院というコミュニティのために、おいしくて修行をたすける料理をすること。ここでは料理が仏教である。それを道元は学んだのである。道元は別の著作(赴粥飯法(ふしゅくはんぽう))で維摩経を引用して、食と法(教え)は等であると言っている。
 もっとも「典座教訓」は読みにくい。その中の仏教についての記述などは、道元の他の著作と同じように難しい。「典座経典」の料理と教えを知りたいなら、水上勉の「土を喰う日々」のほうがいいね。水上勉が「典座経典」を引用しながら、軽井沢で畑を耕し料理をする生活が描かれている。オリジナルを読むより、ずっとわかりやすい。私は「土を喰う日々」を台所に持ち込み、読みながら料理したので、この本には、食べ物の跡がアチラコチラについている。

 コミュニティと宇宙の中の料理

 典座は僧院というコミュニティの中の料理人だが、道元が典座であったことはない。もっとも十代になってすぐに寺に入ったので、料理の準備と料理と洗い物とか食器をしまうとかはしただろう。その経験が「典座教訓」のなかに読み取れる。仏教という宗教と、料理と僧院の思想的な問題だけではなく、そこには細かく台所の手続きがかかれている。
 でもこんなに道元に細く指示されたら、このとおりやるのは面倒くさいだろうなと思う。私は「典座教訓」を読みながら、料理はいい加減にやる。
 バベットにもどれば、司祭の誕生百年記念のディナーを、彼女は本格的におこなう。村人たちはその過程を見て、パリ有名料理店の料理を食べることを恐れてしまう。感覚に溺れてしまうのは罪だからね。それで食事の前に、料理の味を感じないようにしようと誓うのだった。
 ところがバベットの作った料理を食べ始めると、誓いを忘れてしまう。テーブルの村人たちはおいしさを味わい、いがみ合っていた村人たちは愛を思い出し、和気あいあいとなっていく。典座のバベットは台所で料理を次々に送り出し、宝くじの賞金で買った高価なワインも、テーブルに送っていく。

 食事が終わると村人たちは外に出て、夜空の星の下で輪になって踊るのであった。というのは映画の「バベットの晩餐」(1987年)の終わりかただが、小説の方ではバベットがパリ・コミューンでバリケードの上に立ち、男たちに弾を込めて銃を渡す。血の海のなかに足を浸して歩いていく。バリケード派は彼女の家族であって、そのバリケード派が撃ったのは、バベットのレストランの金持ちのお客であったという回想になる。
 私は映画の終わりのほうが好きだな。バベットの晩餐に満足した村人たちが外に出て、夜空の星の下で輪になって踊る。その中心に井戸がある。そうやって大地の水から、天の星までがつながる。ともに味わいのあるものを食べることは、人びとを結びつけ、コミュニティを作る。愛を思い出し、ともに歩んできた歴史を思いだして、神が身近にいることを感じる。
 この井戸と夜空の星と、満足した村人たちの踊りのシーンには、宇宙の中の宗教と料理とコミュニティと愛が統合されている。

(映画「バベットの晩餐」は、1987年アカデミー外国映画賞を受賞。)

編み狂う

斎藤真理子

多くの人が、糸と針があれば編み物ができると思っている。しかし私は、それが間違いだとよく知っている。ほんとうのことを言うなら、「時間」と「私」があれば編み物はできる。それがわかるまでに40年近くかかった。これは、進化の結果である。

私も人類の一員なので多少の人格があるのだが、その中に「編み人格」というような部分があり、40年にわたって進化をとげたのはこの部分だ。外から見てもわからないが、この人格が目的に応じて体をマイナーチェンジさせ、今や、相当に変てこな哺乳類みたいな形になっている。全体像を描くことは困難だが、つきつめれば管のような形状だ。そして、糸と針はすでに身体に取り込まれ、身体の一部になっている。足は使わないので退化し、逆に目は激しく使うので、品の悪いコマーシャルで有名になったメガネ型ルーペで武装している。脳のひだには、編み目記号しか刻まれていない。この人格が、条件さえそろえば座り込んで編み物をする。はた目には「編み物をしている」としか見えないが、「編み人格」の私に言わせれば、これは、「時間」と「私」が稀に見る幸福な共同作業をやっているところ、なのである。

多くの人が編み物を、どこか優しい、「癒やし」になるような作業と考えている。しかし私は、それもまた間違いだと知っている。編み物に限らず手芸に夢中になったことのある人なら気づいているだろうが、手芸には、とても暴力的な一面がある。なぜならそれは、ばりばりと音を立てて時間を喰い尽くすからだ。特に編み物は、あと一段、あと一段と思っているうちに五、六時間が飛び去り、顔を上げたら夜が明けている。「あと一段」と思っているだけなのに、十時間ほどがまるごと消えることさえあるのだから、ちょっと魔法じみている。

この、時間を――世界をと言ってもいいがとにかくそれを、一段ずつに区切って効率よく収奪していく魔法は本当に獰猛きわまりないが、「編み人格」が発達すると、自ら喜んでその軍門に下っていくようになる。

昔のイングランドの羊飼いは、竹馬に乗って羊を追いながら靴下を編んでいたというし、ディケンズの『二都物語』には、フランス革命後の裁判所でずーっと編み物をしながら裁判を傍聴し、貴族を罵る婦人たちが出てくる。とにかく編み物は、持ち歩いて、どこででもできるのがいい。いつでも中断して、いつでも再開できる。5秒あれば5目ぐらい編むことができる。5秒でほかに何ができますか。場所もしかりで、きちんとした水平面なんかなくてもいい。私はカフェで編むことがいちばん多いが、要するに椅子が一個あればこと足りるし、椅子もなければ床にあぐらをかけばいい、その気になれば肩にかけたバッグから糸を引き出して立ったまま編むことだってできる。ミシンや機織り機では、それは無理だ。結果として、

編み物に適した時間――事情が許すならいつでも。

編み物に適した場所――事情が許すならどこでも。

ということになる。スマホと変わらない。スマホと違うのは、「あと一段」の魔法があることだけ。ちなみに、翻訳をやっていて脳が「あと一行」という感じになることは、稀にはあるが、出る脳内麻薬の量が比較にならないほど少ない。脳内麻薬の種類が違うのかな。

ともあれ、ペルシャ絨毯とか、ベルギーのレースとか、世界じゅうの糸を使った伝統工芸は、「あと一段」の魔法によって人間を(多くは、女性を)追い立て、搾取して作られてきたものだと思う。坂口安吾の家にいたお手伝いさんが、奥さんの三千代さんの代わりにアンゴラの糸で一晩でセーターを編んでしまったとかいうが、この人も編み人格が進化していたのだろう。

そして私は、40年かけて「あと一段」の魔法を知り抜いたので、仕事が本当に忙しくなったときは編み物に関するもの一切をカゴに入れて、見えないところに隠してしまう。編み物の暴力性によって自分がどんなに活気づいてしまうか、アドレナリンの沼が出現するか、よくわかっているからだ。

私だって進化を遂げる前は、こんなではなかった。編み物をはじめたころ――実はそんなジュラ紀のことはよく思い出せないのだが、ジュラ紀の私は小学校に通っており、かぎ針編みというものを母親に習ってマフラーを編んだ。また、白亜紀には中学校に通っており、こんどは棒針編みというものを母親に習ってベストを編んだ。この程度のことは、中生代(昭和30〜40年代)の女子小・中学生なら多くが経験したことである。でもジュラ紀や白亜紀だから、人間ですらなかったことは言うまでもない。だから何のために編み物をするのかがわかってはいなかった。

そのつぎはいきなり弥生時代ぐらいに飛ぶ。その間に人間になった二十五歳ぐらいの私はある日、良い黄色のセーターが欲しいと思った。だが、ほんとうに気に入る色の商品なんてものは、探したってなかなかないし、万一あったらべらぼうに高い。ところが、良い黄色の毛糸なら、毛糸屋に行けばそれなりにあった。あれを買って編めばいいじゃないかと思ったのだ。そうすれば、自分の気に入ったものが、安く作れる。弥生人としては良いアイディアだった。

そこで毛糸屋に行ったが、店を出るときに私が持っていたのはしかし、ボルドー系とピンク系の色がミックスになったモヘアの糸で、予定とは何の関係もない糸だった。毛糸屋という問題解決型テーマパークではしばしば、こういうことが起きる。私はその後も何十回となく同じことをくり返し、押入れ一間分の毛糸をためこんでは捨てたり、ヤフオクで売ったりしたが、そのような無駄なことをしたのも、やはり、編み物の目的がわかっていなかったからである。

たぶん理解してもらえないので、その後の私の進化の過程については省略するが、今、私は、何か衣類が欲しいから、必要だから編むということはまず、ない。編んだものが何になるかにはそれほどの執着はない(だってもう腐るほどあるから)。糸は、一宮の問屋から取り寄せたシルク糸が一生編めるほどあり、針も必要なものは全部揃っている。編み方もほぼ一種類、多くて三種類程度に限定している。できたものが着られないのはしゃくなので、おおむねセーターかカーディガンになるようにはするが、何より、編んでいるその瞬間がいいから編み物をしているのであって、過去も未来も関係ないのである。「今しかないから、今のためにすべてを動員する」というのは、依存症の基本だろう。

以前私はずいぶんタバコを吸っていたのだが、仕事に取りかかる前に「あと一本、あと一本」とだらだら吸いつづけるのと、「あと一段編んだら」と思って寝そびれるのは似ている。

一本のタバコに火をつけるとき、「とにもかくにも火をつけてしまった以上、この一本が燃え尽きるまではどうしようもないじゃないか」という居直りのような気持ちが生まれる。少なくともここでタバコ一本分の時間は私のものになったのだという、なけなしの充実感がある。編み物で、一段の最初の目を編みはじめたときの気持ちもこれと同じだ。編み出してしまったのだからこの段が終わるまでは編むしかなく、それを延々とくり返すほどに頭が真っ白になって手だけが動く。そうやって私は一時間を、一晩を編み倒す。あと一段、あと一段、世界にはいったい「あと一段」がどれくらいあるのだろうか。くらくらする。どんなに編んでもまだまだ「あと一段」が尽きることはないのだと思うと、さらに多幸感でめまいがする。棒針はもう手と一体化しているし、糸はほとんど、私が蚕になって吐いている。時間というタンパク質を食べて私が吐いているのだ。時間は尋常ではない濃さになって私に押し寄せ、私の中を通過して、編み目へどんどん落とし込まれていく。そして時間がばりばりと音を立てて食われた代わり、何センチか伸びた編み物が手元に残る。

何でこんなに編み物に夢中になってしまうのか。もとより根元的な悲しみのもとは、時間はなぜ私と相談もせずにかくもすばやく去るのであるかという一点なのだから、時間と折り合いがついた(と錯覚した)瞬間が多幸感に溢れるのは、わかりきっている。編み物は何のためにするかといえば、ひとえにこの、時間がかたまりになってわが味方についてくれたと思える一瞬のためだけだ。

だが「編み人格」の私は、その瞬間を長続きさせようとするあまり、さらに奇妙な行動を重ねることになる。それは、「理想的な編みかけ」をなるべく多く準備するという、「癒やし」とも「ていねいな暮らし」とも折り合いのつかない、合理性を欠く行動であった。(つづく)

177あなたは悲しみを知るひとですから

藤井貞和

「詩――大和言葉でいえば『うた』。『うた』の語源は『拍合(うちあ)ふ』

→『うたふ』。そういうことじゃいけなかったの? きみは、そうだよね、

折口説を否定する、『訴(うつた)ふ』説を。 でも、『うち・つたふ』では

いけなかったの? きみは何でも否定しすぎるよ。」と、その同級生は、

いなくなる寸前に、わたしへのいくつかのメモと、ことばとをのこして。

また「きみは悲しみを知るひとですから、いいえ、終ったのですよ、

悲しみの衣は、うっちゃるのです。」と、咳き込むように、「後生を吸い取る、

みこになるのです、ぼくは。」とも言いのこして。 「あなたは悲しみを

知るひとですから。」と繰り返して、あれから遠いね、五十年が経つもの。

「ぼくたちは恋愛の不能者であり、生まれながらにして失恋している。」

とも言い換えて、『反復』を読む権利をぼくらは持っている、とも付け加えて、

とりかえしのつかないおれの「人生(い)くる」はと、かれは「人生」のことを

ひといくると何度か呼ぶ、そのあと「みこ」になったのだと思う。

(最近、まったく別の新刊書のなかに「あなたは悲しみを知るひとですから」という一句を見いだして思い出した。「ことばの混乱って、だいじだよな、五十年を遡れるんだもの。」と私はいま、かれに答えたい。)

歩けないきみが

管啓次郎

歩けないきみが歩くことを決意して
まず心で歩き出す
話せないきみが話すことを決意して
まず心で声を出す
きみの筋肉はすべて麻痺し
呼吸も人工呼吸器に頼るしかない
食べることがむずかしいので
胃に直接、流動食を流し込む
それで生きてゆく
溌剌と生きている
まばたきはする
笑顔は作れない
歯を嚙むわずかな力を使って
コンピュータに文字をしめさせる
でも心はいつもフル回転
生きることの意味を問いながら
日々の暮らしを戦いながら
奪われた者たちに無言で呼びかけるのだ
生きることを権利として試みようと
歩けないきみの体が魔法のじゅうたんに乗って
議会へと飛んでゆく
話せないきみの声が鳥の群れとなって
声なき人々に戦いを呼びかける
社会が強いるあらゆる障壁を
乗り越える意志がまたたく
きみの道はまるで流星の道
しずかな銀色の細くてたしかな線が
荒れはてた首都に別の風景を作り出す
大きくカーヴした時間の先に
別の未来を作り出す
歩けないきみが歩き出すとき
話せないきみが声をあげるとき
世界が変わる

【ダブ・ポエトリーとしてハミングバード制作のトラックに載せ、2019年7月27日、カフェ・ラバンデリアにて初演。】
 

ヒマラヤ

璃葉

とあるきっかけで、5月中旬に大田区池上本門寺旧参道にオープンした“SANDO BY WEMON PROJECTS(さんど・ばい・ゑもん・ぷろじぇくつ)”というスペースで手伝いをしている。一人の建築家とアーティストユニットによってつくられたこの空間は、コーヒーショップ、喫茶、ふらりと立ち寄って一杯飲むためのパブとして使える、ゆるい時間が流れる風通しのよい場所だ。イベントの企画や独自のメニューを作る傍ら、カウンターの中でコーヒーやラテを温め、ときにはウイスキーのソーダ割りをつくりながら、来てくれた人たちや働いているみんなと話す。店のつくりもメニューの内容も、どこか未完成のような雰囲気が漂っているのは、最初から型にはめず決めつけず、日々変化しながら植物のようにニョロニョロ根を張って、徐々につくられていく空間だからなのだと、勝手に解釈している。

お店の営業が終わったあと、みんなで近所を徘徊し、ご飯を食べるときがある。池上は静かな街だけれど、とにかく個性的ですばらしいお店がひっそりと隠れている。そしてついに、毎日通いたいぐらい最高のお店を見つけてしまった(現に3日連続で通った)。ネパール薬膳家庭料理屋「ヒマラヤ」だ。

その小さな空間に初めて足を踏み入れたとき、日本とは思えないただならぬ空気と漢方みたいなスパイスの香りに、とんでもないところ(もちろんとても良い意味で)に来てしまったと感じたのを今でも覚えている。

お店を仕切っているヘマさんはネパールの山間部出身。元気いっぱいで、いつもツヤツヤの笑顔で出迎えてくれるのがうれしい。彼女しか作ることのできないオリジナルレシピにはたくさんの野菜と、厳選したネパールの蜂蜜や塩、ギー、貴重なスパイスがふんだんに使われている。油はほとんど使用していないらしく、とくに数十種類のスパイスとたっぷりの野菜を煮込んだカレーの味はしっかり濃いのに、とても優しい。この味をなんと表現したらいいのかわからないぐらい、何層もの深みがある。

食べ終わるころには身体のなかにある車輪が鮮やかな色になってまわりはじめ、中心から末端にかけて、芯からあたたまっていく。

地方からこの味を求めてやってくるお客さんがたくさんいるそうだが、それを手軽に食べられるこの状況は、陳腐な言い方だけれど、もはや運命としか言いようがない。一緒に食べているみんなの顔もすっかり幸福感に包まれて、とろけそうになっていた。池上との縁は深くなりそうだ。


犠牲祭(イドゥル・アドハ)

冨岡三智

犠牲祭(イドゥル・アドハ)は世界中の人々がメッカを巡礼する大巡礼の最終日を祝う行事で、イスラム教徒にとっては断食明けの大祭(イドゥル・フィトリ)と同じく重要な祭日だ。インドネシアでは祝日で、各町内会ごとに集まって供出されたヤギやウシなどの生贄を自分たちで殺し、皆で肉を分け合い、調理して食べる。今年の犠牲祭は8月11日で、その後には独立記念日(8月17日)も控えているから、今年のインドネシアの8月はとても賑やかになりそうだ。

さて、私が初めて留学した1996年の犠牲祭は4月28日だった。イスラムの祭日はイスラム暦(1年354日)に従うので、西暦で言えば毎年約11日ずつ早くなる。つまり、この23年の間に4月、3月、2月…12月、11月…とどんどん前倒しになって、今年は8月になったというわけなのだ。留学当時の日記が見つかったので、今回は1996年4月28日の犠牲祭の思い出について書いてみる。

私は4月13日には一軒家に引っ越していたが、犠牲祭の日はそれまで住んでいた宿のあるRT(町内)に見に行った。宿の従業員が、このRTは全戸がイスラム教徒だから犠牲祭はにぎやかだよ〜、おいでよ〜と誘ってくれたのだ。一方、新しく入居した家のRTの住人はほとんどキリスト教徒だったようで、特に町内では何もやらなかった。

朝9時から始めるというので行く。この町内は1つのガン(小路)を挟んだエリアである。このガンから大通りに出る手前にある排水溝の大きな蓋(コンクリート製)が開けられ、ホースが引かれていた。ここで屠殺するようだ。そして、小路にはヤギが10頭近く、牛も1頭つながれている。これらは住人らが供出したもの。持てる者は分に応じて持たざる者に施しをするのがイスラムの教えなのだ。だから、犠牲祭の数日前になると、急に街にヤギを売る人・買う人が現れる。ヤギ相場も値上がりするようで、お金に余裕がある人は少し前からヤギを仕入れておいて、犠牲祭直前に高値で売るようだ。私の日記には生後4〜5年の小さ目のヤギが11万ルピアというメモが残っている。ちなみに、当時のレートは1ルピア=約20円。私の宿滞在費半月分の値段なので、庶民にはそれなりに大きな金額である。

さて、ヤギから屠殺が始まるが、肉屋ではなく地域の住民が手がけていることに驚く。ずっとお祈りを唱えている小さい子供たち(小学生低学年までくらい)に囲まれて、大人の男性がヤギの頸動脈を切り、血を排水溝に直接流す。子供たちと違って、私は怖くてその瞬間をどうしても正視することができなかった。その現場が見えない所につながれているヤギも自分の命運を察知し、順番が回ってきても抵抗してなかなか動こうとしない。屠殺されたヤギは木の枠にぶら下げられて解体が始まり、皮が剥がされ、肉や内臓が取られて骨だけがきれいに残る。皆とても手慣れていて、作業がてきぱきと進む。

解体の力仕事は男性がやる一方、内臓や肉のブロックを小さくしたり調理したりするのは女性。私も1頭分だけヤギの腸を伸ばすのを手伝うことにした。とはいえ3人がかりである。大きなざるに腸の塊が1頭分載せられてくる。塊に手を当ててみるとまだ温かい。さっきまで生きていた証。不思議に怖いとは感じず、命をいただく愛おしさを感じる。1人目がそのくねくね曲がった腸チューブをつまんで塊からはがし、しごく。2人目と3人目はそのしごかれたチューブを受け取ってさらにしごき、腸内の内容物を押し出してきれいにする。肛門に近い辺りでは内容物は全部コロコロした糞に変化してぎっしり詰まっている。1頭だけ…と気楽に考えていたが、腸がものすごく長いことに気づき、嫌気がさしてきた。いま調べたところ、ヤギの腸の長さは体長の25倍あるらしい。ヤギの体長は1〜1.5mだから、腸の長さは約25〜35mとなる。うろ覚えだが、2時間くらいひたすら腸をのばしていた気がする。

ヤギやウシの赤身や内臓は持ち帰り用に秤で測って分配される。それ以外にその場でヤギ肉の煮込みが調理され、皆で食べた。全部の解体と下ごしらえ、調理が終わって食事にありつけたのは2時過ぎだったと思う。暑さと周囲に充満する肉の匂いと空腹で頭がぼーっとしていたことを思い出す。こういう経験は1度で十分だというのが正直な感想だが、それでも経験できてよかった。命をいただいて食べることの重さを、私は腸の重さとして実感することができた…。

灰いろの水のはじまり(その5)

北村周一

ここで、気をつけなければならないことがあります。

こういってしまっては、元も子もないのですが、所謂グレイと呼ばれているはいいろには、灰色と、灰いろの、ふたつの種類があるのです。

いままで扱ってきたグレイは、むろん後者の灰いろのほうです。

それに対して、前者のほうの灰色は、白に黒(または黒に白)を混ぜ合わせてつくった、極めて純度の高い、文字通りのはいいろであります。

白と黒との二色によって得られるグレイのヴァリエーション(グレイ・スケール)は、ほかのどんな色とも相性がよく、その組み合わせによる混合(配合)技法は、滑らかで安定した色彩を表現できる可能性を広げたといわれています。

市販のプリンタを例にとってかんがえてみましょう。

黒のインクと、ほかの有彩色たとえば青系、赤系、黄色系三色のインクを備えた機種があるとします。このような機種の場合には、グレイをつくるのに都合全四色を混ぜ合わせることになります。

そのために、グレイの色合いが一定せず、結果的に青味がまさったり、赤味が増してしまう傾向が避けられませんでした。

つまり、安定した色彩のグラデーションを得ることができないということになります。

とはいっても、いまどきのデジタル印刷の場合には、当然のことながら、ドット(点)とドット(点)との重なり(離れ)具合によって、全体の色の階調を整えているのですから、今回のワークショップのように、絵具を溶かしながら混ぜ合わせるといった、いわば古色蒼然としたえがき方は、もとより計算外のことでしょう。

それでも不安定なグレイという色は、デジタルにとっては扱いにくるしむ色のひとつということになるようです。

さらにいえば、白のインクがはじめから用意されているわけではありませんから、必然的に白の色は用紙の白色系をベースにするしかありません。

グレイ・スケールからは若干話が逸れますが、筆を手に和紙に墨をつかって描く(書く)伝統的な技法も、白(和紙)と黒(墨)による灰色の展開といえなくもないかなと思っています。

もっとも、和紙を含めた墨の濃淡は、やや有機的な艶やかさを秘めているために、一口に灰色とはいいがたく、鼠色のほうがふさわしいかもしれませんが。

さて、白と黒との混合によるはいいろ、さらにそのヴァリエーションを、灰色と呼び、ほかのさまざまな色彩による混色を灰いろと呼ぶことにした経緯は、以上のとおりなのですが、パレット灰いろ作戦との関連がらみにかんがえ直してみると、はいいろを、灰色と灰いろの二色に厳密に分けることは、それほど有効な手段ではないかのように思えてきます。

実践では、黒はともかく、白は重要な役割を担っていましたし、もし純正のグレイがあれば、利用した人もいたかもしれません。

とはいえ、パレット灰いろ作戦は、思わぬビッグなプレゼントを落としてくれました。

前回からのくり返しになりますが、・・・

しかしながら、テーブルの上に目を移すと、各人一個ずつあてがわれていた筆洗用の透明のプラスチックカップの中の水が、なんと灰いろになっているではありませんか。

微妙にそれぞれ色合いが異なっているといっても、総じて灰いろに間違いありません。

参加者12名、十二色の灰いろが、目の前のテーブルの上に並んでいたのでした・・・。

それぞれの、えがき終わったばかりのキャンバス上の灰いろ絵具と、卓上の筆洗用の透明なプラスチックカップの中の灰いろの水とは、決して同じではないにしても、少なくとも作者は同一といわねばなりません。

テーブルの上には、むらさきがかった灰いろもあれば、きらきらとピンクめいた灰いろもあり、まったく同じような灰いろは一つとしてありませんでしたから。(つづく)

帰国記(2019年)

福島亮

6月末から7月いっぱいまで日本に一時帰国した。一時帰国なのだから、意識としては「帰る」という動詞がしっくりくるのだが、困ったことに、その一時帰国が終わって留学先のパリに「戻った」時も、やはり意識としては「帰る」という動詞がしっくりきてしまった。要は帰る場所が二つあるということなのか。実際、羽田空港に降り立ち、スーツ姿の人混みやピカピカと光る電光看板の重なりにぼくはどうしようもなく「帰ってきた」感覚を覚えた。新宿駅東口、新宿通りを通って紀伊国屋書店に行き、そのまま真っ直ぐ進んで明治通りとの交差点に出るあたりの都市の風景(それは風景なのか?)は、どういうわけか懐かしかった。いや、待てよ、そんな東京への懐かしさも、結局はよそ者の心情が形を変えて姿を現したものかもしれない。というのもぼくは群馬県出身で18歳で東京に出たから、「帰る」のは東京ではなく群馬のはず。でも、群馬に帰ってもあまり懐かしいとは思わない。むしろ実家に帰るという行為はぼくの場合、近親者の病気や死の記憶と結びついていてあまり心地いいものではない。今でも高崎線に乗って籠原を過ぎたあたり、深谷、岡部、本庄と続く駅の名前を車内アナウンスで聞くと胸がザワザワする。東京へ、東京へ、だが、いつの頃からか口にしていたその土地から離れ、今度はパリに舞い「戻って」きてみると、どういうわけだか、空港から住まいまで運んでくれるB線の汚れた車両がやけに親しいものに思えたりもする(まだ10ヶ月程度しか住んでいないのに)。ここでもまた、所詮はよそ者が抱く郷愁にすぎないのか。そんな自問を繰り返しつつ、この二重の帰国の際に感じた変な気持ちを記しておこうと思う。

日本に帰国してしばらくしてから原因不明の高熱が出た。伝染病か? はたまた久しぶりに食べた刺身がいけなったのか? よくわからないが、日本を出る時に健康保険を抜いていたぼくは医者にかかるのも気が引けて、原因もわからないまま滞在先の連れ合いの家で寝てすごすことになった。悲しいことに、この高熱こそ今回の帰国の思い出である。

ヴァンサン・ランベールの死を伝えるニュースが飛び込んできたのはそんな時だった。日本ではあまり大きく報道されていないようだけれど、フランスでの生活が開始してからずっとぼくが関心を持っていたのは彼についてのニュースだった。特に5月、6月は彼をめぐる「裁判」のことでもちきりだった。2008年に不慮の事故で「植物状態」になった彼の延命治療を巡って彼の両親と彼の配偶者が対立するという未聞の裁判をフランスのメディアは連日のように取り上げていた。一時は治療継続を望む両親の側の「勝利」とも思われたが、日本の最高裁にあたる破棄院は延命治療の停止を認め、7月2日、彼への水分・栄養の供給が停止された。そして11日、彼は逝った。42歳だった。一人の人間の生命が、裁判で争われ、しかも当事者のランベールは法廷で言葉を発することもできず、無言のまま合法的な死を受け入れるしかなかったのである。水分と栄養を断たれた人間の肉体が残された脂肪を燃やし、燃え尽き、その生命活動が停止した後にゆっくりと体温が失われていくありさまは想像するだけでも苦しい。熱と軽い頭痛を感じながらベッドで寝ていると、ふと、幾万の合法的な死を受け入れざるを得なかった者たちの絶叫が遠くの方でしたような気がした。それは熱がもたらしたまぼろしだったのか。

熱が引いた。それからは人と会ったり、お酒を飲んだりして過ごした。今年は変な夏だ。いつまでも梅雨が明けず、肌寒いような日もあった。18日が過ぎ、19日頃から暑くなり始め、夏だと勇んでクーラーをつけたのがいけなかったのだと今は思う。20日の夜、またしても高熱が出た。翌日は昼間から人と会う予定があったから、どうにか市販薬で熱を抑えた。が、結果として22日の夜から扁桃腺が腫れ始め、23日にはほとんど声が出なくなった。困った。病院に行けば良いものを、それをせずに、大根や生姜やレモンを蜂蜜に漬け込んで飲んだのだが、こと既に遅し、一緒に暮らしている連れ合いにも風邪をうつしてしまい、残り少ない日本滞在は二人して喉の痛みと闘いながら過ごす羽目になった。こうして一時滞在は最終日を迎えた。

日本からフランスへ帰る飛行機がふわりと宙に浮く。見送りにきてくれた連れ合いは今頃帰りの電車の中だろう。ふと、遠くの方で無数の絶叫がこだましたような気がした。幾人もの人たちが今この瞬間に死んでいるなか、空の高みへ、高みへと昇っていく飛行機に無数の生者たちが乗っているのが不思議に思えた。誰の詩だったか、飛行機に乗る無数の足を幻視した詩があったような気がする。その詩をぼくは暗唱できるわけではないのだが、空の高みを無数の足の群れが滑ってゆくイメージだけは鮮明に覚えている。記憶の中にイメージだけを残して忘れられた詩人、彼が見たものは本当に生きている人間たちの足だったのか。あるいは空の高みへと消えていかねばならなかった者たちの足だったのではないか。

パリに着いたのは明け方だった。日本で報道されていた熱波はどこに行ってしまったのだろう。明け方のパリの街は涼しく、どこかひんやりとしていた。住まいに着くと、顔なじみの掃除人のおばさんが歓声をあげて出迎えてくれた。どこにでも自分はいていいのだ。そして、どこにでも今は帰ることができる。それはいつまでも隠れん坊をして遊んでいる子どもの歓喜と不安に近い心境かもしれない。いちぬけたをすれば帰れる。でも、もう隠れ家に帰ることはできない。あるいは、見つかりたくない、しかし、このままずっと見つからなかったらどうしよう。声を発しようか、鬼さんこちら。もしかしたらみんな帰ってしまったかもしれないから。そんな不安と喜びが入り混じった変な気持ちを抱きながら、夏だというのになぜか涼しい部屋でぼくはこの帰国記を書いている。

人間の尊厳(上)

イリナ・グリゴレ

八歳の時、団地の長い暗い回廊が私の舞台になっていた。雨が降るたびに屋根から壁に流れる黒い液体やカビの匂いは、引っ越したばかりの時から気持ち悪かった。それは草のようなものが生える感触だった。あの団地では生きているものはカビしかなかった。暗かったからあの回廊を通ると目が刺される気がした。そこで私は、ある日突然バレエの練習をはじめた。バレエといっても、裸電気の下の無茶な踊りに過ぎないが、私にとってそれは団地で暮らした日々の中で一番気が晴れる時間だった。

社会主義が解体して、テレビが自由(本当の意味での自由かどうかまだ分からないが)になった。海外の番組もはじめてみた。しかし、テレビと言えば、私の覚えている最初のイメージは、やはりチャウシェスクが殺された映像だった。あのシーンは全国民がテレビで見たはずだ。世界もそれを見ただろうが、私たちはまだ外の世界からとても遠いところにいた。

毎年クリスマスごろになると、いまだにチャウシェスク夫婦の裁判と射殺シーンが流される。そのたびに、一連の動きが映画のように細かくカットされる感覚に変わる。何回も見ているうちに、次第に映画のように見えるようになるのだ。チャウシェスクの声とエレナ夫人の言葉は全部覚えてしまうし、仕草やまなざし、拳銃の音やリズムなどが、すべて自分の身体に染み付いていく。彼らは最後の最後まで、何十年にもわたるパフォーマンスを止めなかったのだ。

日本で突然出遭った人と世間話をした時、私がルーマニア出身と知ったら「貴方の国も最高のパフォーマンスを世界に見せたね」と言われた。そのシーンのことだとすぐ分かった。世界は見たかっただろう、こういうものを。遠い昔、ここはデュオニュソスの地だった。世界にパフォーマンスを見せないわけにはいかない。でも、その後すぐに観客は立ち去り、ステージは空っぽになった。流された血がリアル過ぎだった、と感想を漏らした。チャウシェスクを打倒したあの革命の時、若者らは自分の命が奪われても、ステージに立って、己の役を演じ切った。

社会学者のゴフマンが言ったとおり、日常はパフォーマンスであり、世界は大きな結婚式だ――この場合は葬式か。私は、たまたまそのような場所に生まれた子供だった。

はじめて、テレビでバレエを観た時のことを覚えている。こういう類のパフォーマンスの日常を生きていた時、フランスのアルテというチャンネルがケーブルで繋がった。白い、軽いバレリーナの身体は、私に特別な印象を与えた。こんな軽い身体をもっている人がいるなんて。踊りの演目はぜんぜん分からなかったが、バレリーナの身体だけ興味深かった。それはとびぬけて白く、自由な人たちはこんなに軽い身体をもつのかと思い始めた。

バレエをテレビで見たあと、団地の回廊で真似し始めた。父の母は昔、布を作る工場でずっと働いていたから、家にはきれいな白い布の端切れがいっぱいあった。だれも使わないキラキラした布。私は自分の身体に巻いて衣装を作る。バレリーナというより古代ローマの貴族の奴隷みたいになったけど、その衣装でずっと何時間も暗い回廊で踊っていた。暗がりのなか、私の巻いた白い布が光っていたと勝手に思った。そして、新しい夢が見えた。そうだ、私はバレリーナになるのだ。だが、現実はいくら白い布を巻いても、私の身体が暗みの中に浮かぶだけだった。

その年のうちにその夢は完全に潰された。いま考えてみれば、環境が違いすぎたのだ。社会的な格差もあったが、私の身体はもっと深いところで何か非常に重い物に引っ張られたようだった。街中の団地に引っ越しても、家族そろって他所から引っ越して来た、ただの田舎者だった。悪い意味ではなく、ただ、町の暮らしに身体が慣れるまで何年もかかるのだから仕方ないのだ。団地特有の狭くて薄暗い空間に自分の身体が絞られるような感覚、息が出来ない感覚が毎日のように感じられた。

団地があったのは社会主義の名残を残した小さな工場だらけの町なので、大学に上がるまでオペラやバレエの上演がある劇場や映画館に出かけたことが全然なかった。今にしてみれば、あれは宗教とアート、尊厳を奪ったら、その人間に何が残るのかという、一種の社会実験だったのかとさえ思う。

母と父は経済的な余裕がなかった。二人とも生きるのに必死だった。母は朝から肉と牛乳の行列に並び、父は工場の仕事にすべてのエネルギーを使い果たすような毎日だった。ある意味、私たちは日常生活そのものをパフォーマンスとして生きていた。父は毎晩遅く工場から帰ってきて、顔は真っ赤でアルーコルの匂いがした。そしていつも何か叫んでいた。私と同じく彼にも潰された夢がたくさんあったのだ。

家族では毎晩、壮大な劇が演じられた。物が割られ、服が破られ、壁に酒瓶が投げ付けられる。それが朝まで続く。

父が働いていた工場は、街で最大のものの一つだった。一回その仕事場を見に行った時、チャップリンの『モダン・タイムス』を想起させる不気味な雰囲気があって、正直とても怖かった。人間が機械を支配しているのか、それとも機械が人間を支配しているのかわからない。それはとても微妙な関係が生まれているような空間で、身体に染み込んでくる。オーウェルの『1984』の雰囲気がよく当てはまる。

私が言いたいのは、そのような工場が本当に存在していたということだ。そして、そこで働かされていたのは、私の父みたいな肉体を持っている生の人間だったのだ。工場は子供の目線から見ると、人間と機械が混ざった、豚の内臓のような無茶苦茶な空間に映った。解体した豚を一度みるといい。内臓と血の塊の中からまだ温かい、死んだばかりの生き物の湯気が立ち上る。

私にとって、工場の機械も生物の器官として理解できたが、やはり豚が生き物なのに対して、あの中の鉄塊が恐ろしいものの内臓としか見えなかった。父は仕事服を着て、自慢の顔でその化け物のような機械を紹介する。父はプロパガンダ映画に出ている若手エンジニアの像そのものだ。工員の顔を観るのはとても好きだった。そこで働いていた人たちは父と同じ、田舎出身だった。辛かっただろう。川と森の代わりに機械を見守る毎日。社会主義国家に生まれ、完全に計画経済の子だったため、工場は彼らの身体を支配し続けた。父は良く頑張ったと思う。私はそのようにはなりたくなかったから、私の身体があらゆるものにたいして抵抗しつづけた。言葉を完全に失うまで。

毎晩、父が暴れるたびに、私の身体は動かなくなった。ひとたび傷つけられると、身体がまったく反応しなくなる。金縛りのような状態が何時間も続いた。マグリットの絵に出てくる空に浮かぶ大きな石のように。不思議に意識があるけれど身体が動かせない。つらかったというより、今にしてみればある類の踊りにしかすぎなかった。傷つけられた身体で懸命に自然を探そうとしていた。

(「図書」2016年11月号)

別腸日記 (29)竹林から遠く離れて(後編)

新井卓

人類学者・木村大治さんから聞いた、バカ・ピグミーの暮らしについて。バカの村ではよく、独り言が聞こえるという。それも、隣近所はおろか村全体に響き渡る大声で。ある日、木村さんが風邪で寝込んでいると表から「日本人が寝ている!寝てるよ!」というような独り言が、壁の向こうから大音声で届いたという。「ボンガンド」と呼ばれるその「独り言」は、ほとんどが愚痴とかうわさのような取るに足らない内容で、ときにトーキング・ドラムで行われ近隣の村まで届くというから、迷惑というか、うるさいことこの上ないと思う。村人たちは時々届く独り言を聞き流しているのか、実は聞いているのか、とくに気にしない風だという(ちなみにトーキング・ドラムの場合は時々、葬式や大事な集会の情報を伝えることもあり、そのときは村人全員が立ち止まって注意を払うらしい※)。

木村さんのお話を聞いて少し経ったころ、ふとラジオからバカの音楽が流れ、はっとして耳を澄ませた。それは水面をリズミカルに叩いて演奏するウォーター・ドラムの音源で、バカたちが川で洗濯しているところを環境音と一緒に録音したものだった。次いでバカの歌が流れ、密林の小鳥、虫たちの声が彼/彼女たちの声がシンクロしているような、していないような、ヒトとその他の生きもの、物質との奇妙な混淆がそこにあった。

あなたとわたしの境界はどこにあるのだろうか──「わたし」は必ずしも一人の個人におさまらず、他人やムラ、その外側に広がるヒトならぬ存在に浸透しており、その果てははっきりと峻別できず、ただやわらかいグラデーションだけがあるのではないか。身体のことをやらなくては、そう思うときいつもバカたちのことを考えるのは、ままならない自分の身体や家族、他者たちとの関わりについて、そこに何か別のとらえ方が示されているかもしれない、そう感じるからだ。

いまこの原稿を、友だちを訪ねてどういうわけか流れ着いた、ドイツ・オーストリア国境の保養地で書いている。山間に点々とする湖はどれも美しく、こちらの人々は老若男女みな裸になって、夏の陽に温んだ水に半身を沈めたり、沖あいまで泳いでゆく。わたしもそれに倣って裸で泳ぎはじめる、が、それは〈わたしの〉裸ではなくヨーロッパ文明に帰属する、一個人の裸体にすぎない。だからわたしは、裸ではない。バカ・ピグミーから、竹林からも遠く離れて──手許にジャンベかスティール・ドラムがあればいいのに、と思う。だれかに聞かせるためでなく、ただ盛大な独りごとのために。

※木村大治「どのように〈共に在る〉のか……双対図式から見た「共在感覚」,『談』(81), たばこ総合研究センター, 2009。

マギさんゴマちゃん

笠井瑞丈

7月はいろいろなことがあった

うちにチャボがやってきた
正確に言うとやって来たのではなく
7月の『ダンスがみたい21』の作品に出てもらうため
自分で探して沼津の養鶏場の方に譲ってもらったのですが

雨の中 車を高速走らせ
沼津までチャボを貰いに行く
譲ってくれた大村さん 
とても親切な方だった
たくさんいるチャボの中
一目惚れした一番小さい
真っ白のチャボと
碁石チャボを譲ってもらう

家では在宅している時は基本放し飼いで
一緒に生活している

辺り構わず糞をするので
その都度拾って床を拭く
それ以外は共に生活してしていて
何も支障はない

夜お酒を飲みながら
ギターを弾いていると
ピョンと肩のうえに飛んでくる
そしてずっと肩の上で一休み

そしてしばらくすると
そこから一番高いところの
テレビの上へと飛んでいく

ここが一番のお気に入りの場所
気づくとそこで目を閉じて寝る

最初はケージに布をかけてあげて
暗くしてその中で寝かせていたけど

最近はテレビの上で一晩中寝かせている
朝起きたらチャボも起きてテレビから飛び降り
新しい一日が共にはじまる

この子たちが来た事で
全く新しい生活が始まった

チャボは人懐こい動物である
マギさんとゴマちゃん

誰も読んじゃいない。

植松眞人

 『映画とは何か』
   昇華芸術大学映像学科三年 千原達明

 映画とはベース面に塗られたエマルジョンに明滅する光と影を焼き付け、多くの(または少数の)観客に向けて投影する映像体験である。
 と、定義できたのはエジソンがキネトスコープを開発した一八八九年からついこの間まで。百年以上脈々と続いてきた「フィルム」による映画の歴史はすでに(ほぼ)絶たれている。
 いま現在、映画と言えば、本来三十コマであったビデオの機構を擬似的に二十四コマに置き換えて撮影されるフィルムルックのビデオ作品を指す。
 そんな大きな変革期を迎えた時期に映画制作を志す者として、「映画とは何か」というテーマでレポートを記述するのはとても困難なことだと思われる。しかし、私は自分が心惹かれる映画作品の内容を改めて分析するところからこの壮大なテーマに挑んでみようと考えている。
 これまで通算すると三百本程度の映画を観た。様々な角度から検討すると、どの映画がいちばん心惹かれた映画なのか、ということを決めることはできない。しかし、たった一度しか観ていないのに、私の心の奥底に、ずっと留まっているワンシーンを有する作品があり、私はこの作品を紐解くところから、「映画とは何か」ということを考えようと思う。
 私が………

 とここまで、上原先生の授業・映像研究の前期最終課題『映画とは何か』を書き始めてみた。しかし、『映画とは何か』という壮大で尊大なテーマを掲げるくらいのレポート改題である。どうせ、誰も読んじゃいない。最初の書き出しの段落と、最後の段落辺りを適当に書いておけば、後は上原君が規定の枚数を書いてあるかどうか、途中でラクガキをしたり、悪口を書いたり、改行改行でズルをしていないか、ということを確かめるくらいだ。あとは学生一人一人の顔と名前さえ一致しないインチキ非常勤講師が出席と日頃の贔屓目でAからCまでの成績を振り分ける。そして、出席が足りない学生はD判定を下して、単位を渡さない。だから、このレポートの『原稿用紙五枚以上』という規定は、「とりあえず、そこそこの枚数を書きやがれ」という適当な気持ちでの規定に違いない。
 どうせ誰も読んじゃいない。そう思いながら書かれる文章というものは、いったい何をモチベーションに書かれるべきなのだろう。誰も見ていなくても、丁寧に書くことが、きっと自分自身の未来に繋がるんだよ、という説教臭い話を信じながら、教会で祈るような気持ちで書けばいいのか。それとも、誰かに呪いを掛けるような、これから先も生きていけるかどうか分からないのに人生相談に答えているかのように書けばいいのか。
 ただ、とても小さなことだと思うし、逆に自分の不甲斐なさを露呈するようではあるが、「誰も読んじゃいないだろう」という気持ちで、読み手である非常勤講師の裏をかくようなこの行為は、少し緊張感があって面白い。久しぶりに、ほんの少しだけれど、「ああ、書いている」という気持ちになっているし、これがもしバレて単位を落としたとしても、それはそれで構わないという程度に興に乗っている。
 どちらにしても、俺はこの非常勤講師の授業がそれほど好きではない。自分の語りやすい映画作品を選び、適当に分析し、適当に学生を脅してみたりする。「この作品のこの場面に心が震えないようでは、映画など撮れないよ」などと言い、自分はいかに繊細で物わかりがいいのかを俺たちに売り込もうとする。あんたのそういうところが、俺は苦手だ。黙って優れた映画作品を見せてくれてばそれでいい。しかも、それはハリウッドのヒット作じゃなくていいんだ。あんた以外の確かな映画人や映画評論家の基準で名画だと判定された映画を見せてくれればそれでいい。
 あ、でも、一度だけ、あんたが見せてくれた映画に心震えた瞬間があった。あれは何だったんだろう。タイトルを思い出すことができないよ。と、ここまで脱線してきたけれど、ここらで改行を二回ほどくり返してレポートを締めくくらないと。
 つまり、私自身が「映画」だと確信をもって言える映画作品に共通しているのは、主人公や登場人物に対して、過度に感情移入ができない、という点である。
 それが何を意味しているのか、と考えるにつれて浮かび上がってくるのは、映画は私自身の感情に沿っていれば良い、と言うのではなく、私の気持ちとは別の感情をもった人がいると気付かせてくれることであり、同時に私自身がスクリーンの中にいると気付かせてくれることなのかもしれない。
 映画とは何か、というテーマの答えを乱暴に導くと、私には「私」という言葉しかない。それが正解であるとは思えない。しかし、間違っているとも思えない。そして、この答えが映画と何かという問いかけから遠く離れた場所にポツンとあるような気がしてしまう。
二千十九年九月三十日

映像学科三年 千原達明
単位認定 合格
レポート評価 A

シリアの戦争に勝つのは誰?

さとうまき

シリア人が革命を起こすなんて思ってもいなかった。僕が働いていたのは、シリアの工業省だった。そこにいた若者は、全くやる気がなかった。

1994年といえば、1991年の湾岸戦争で、イラクのサダムフセインが嫌いなハーフェズ・アサドは多国籍軍に参加した。そのおかげでシリアは、アメリカから少し評価してもらって、経済も上向き加減だった。

若者たちは、公務員を辞めてもっと儲かる仕事を探し始めていた。例えば、アハマドくん。年は20歳くらいだと思う。職場に来ては、居眠りして時間になると帰っていく。

「俺は、毎晩ホテルで歌っているんだ」

公務員は、どこの国でも生活は保障されるがそれ以上ではない。

アハマッドは、アフリカ人のように色が黒かった。ホテルで歌っているなんて、カサブランカのワンシーンを僕は思い浮かべた。彼は、ゴラン高原に住んでいたが、戦争で逃げてきて貧しい暮らしをしていた。結婚するためにお金が必要らしい。でもよく聞くと、毎晩ホテルで鼻歌を歌いながら皿洗いしているとのことだった。

アハマッドが結婚する前に「お願いがあるんだ」と頼み込んできた。なんだい?と聞くと、「君の家に遊びに行っていいかなあ」という。

「もちろんだとも」

というと、実は、ビールを飲ませてほしいというのだ。イスラム教徒は、節目節目で立派なムスリムになっていく。結婚はそのステップらしい。結婚する前にビールとやらを飲んでみたいとのことだった。

バース党の独裁政権で、常に監視され、自由がない。だから彼らは政治なんかまったく関心がない。選挙はお祭り。アサド大統領が99.00パーセントで信任される。小数点以下だけが毎回変わる数字。それ以外の選択肢がないと人間は何も考えない。

パンと自由と世界の世直しのために、アハマッドが戦うなんて考えられなかった。僕が接していたのは、ほとんどが公務員だったし、近所の人たちも、政治には無関心だった。でもそれは確かに一部分でしかなかったのだろう。その当時からクルド人は、PKKを支持し、ダマスカスにもアジトを作っていた。当時はシリアはトルコと緊張関係にあったので、アサド政権はPKKの政治活動は容認していたのだ。

先日「ラジオ・コバニ」という映画をみた。実は2回目なのだけど、試写会で見た時は、疲れていたので不覚にも居眠りをしてしまったのだ。コバニは、クルド人が多く住む町で、2014年にイスラム国に占領された。その時、僕が暮らしていたイラクのアルビルにも難民がやってきたので、毛布を持っていったり粉ミルクを配ったりの支援をしていた。ただ、話を聞くだけではコバニがどうなっているかはよくわからなかった。ドローンで撮影されたコバニの町は瓦礫の廃墟と化していた。それはまるで、遺跡のように美しくもあった。戦闘機がやってきて空爆する。前線のクルドの兵士YPG(PKKのシリア版)が、米軍の空爆を助けに地上からイスラム国を追い詰めていく。

YPGの兵士が散髪しているシーン。「子どもたちは洗脳され自爆要員として使われる。残酷な戦争だった。ISの兵士たちは顔を覆って隠していた。顔がわかるのは、武器を奪うために、死体の近くまで行ったとき。そこで初めて子どもだと気が付くんだ。そんな時は、ひどく心が痛んだ。今も頭から離れない。でも戦場では戦うしかない。殺さないと後で仲間がやられるからね。時々殺した子どもたちが夢に出てくる。子どもを殺したと知ると苦しかったが殺さなければ自分が死んでいた。」

僕は、イラクでISと戦っていたクルド人の兵士(ペシュメルガ)とは何人かと話したし、知り合いが兵士だったりした。彼らは得意げに、殺したIS の兵士の死体を見せてくれた。

一方2000人のペシュメルガが戦いで命を落としている。アメリカはイラク戦争で4000人の米兵が命を落とし、帰還兵はPTSDを発症したり、自殺したりして社会問題になっているのに、クルドは、皆、平然と暮らしていたので、むしろ映画のように語る兵士はまっとうに感じた。

もう忘れ去られようとしているシリアだが、イドリブでの攻撃は激しくなっている。シリア政府はイスラム過激派の拠点を空爆している。しかし、数日前のニュースでは、シリア政府軍の空爆で倒壊した建物の下敷きになった5歳の少女が生後7か月の妹のシャツをつかんで助けようとしている映像がSNSで流れてきた。女の子はその後死亡した。赤ちゃんも集中治療室で手当てを受けている。母親は死亡した。

戦争に勝者はいない。アハマドも40代後半になっている。彼も子どもたちも20歳くらいだから徴兵に取られているかもしれないし、反体制派として戦っているかもしれない。たまらなく、アハマッドに会いたくなった。

しもた屋之噺(211)

杉山洋一

ボローニャはマッジョーレ広場から程近い宿でこれを書き始めました。今までマッジョーレ広場で、国営放送局のインタビューを受けていました。隣のフランス人観光客の家族が騒いだり、物乞いが「空腹!お恵みを」と書いた段ボールを持って近づいてくるので、その度に録りなおしになったりして、格闘一時間半。明るい夏のボローニャの広場の夕刻は、人々の笑顔が印象的です。
….

7月某日 ミラノ自宅
寝不足と暑気が重なり、体調を崩した。吐き気が止まらず、手首辺りから先が麻痺している。椅子に坐っていられなくて、思わず床に倒れこむ。顔が真っ赤だが一体どうしたの、と母が驚く。
地下鉄サンタゴスティーノ駅のキオスク店主が、客と話し込んでいる。こんな仕事、本当に何の愉しみもない。月給6000ユーロ貰っても辞めたいと言う。

7月某日 ミラノにて
12世紀サレルノ医学校で編纂された養生訓をテキストにした西川さんから頼まれた新曲を送付する。12世紀だというのに、過労死への警句がまず最初に書いてある。ストレスという単語はまだなかったかもしれないが、あまり今と変わらない。
ウナギやクルミがいけないのは、消化に時間がかかるからだろう、との見解を読む。イタリア人が風呂好きなのは、古代ローマ時代から連綿と続く文化。医学が体系化されてゆくのは、この養生訓が書かれたこのサレルノ医学校で、世界の叡智が結びついてからのことだ。
ヨーロッパ全土をなめつくしたペストの大流行の前に書かれているが、この後すぐに訪れるペスト流行とは少し違った意味で、「死」との距離は非常に近い。彼らにとって、生命とは今よりずっとシンプルなものだった。生きるか、さもなくば死ぬ。

 サレルノ養生訓
「12世紀、世界で最初の医学校が、南イタリア、ナポリの少し南にあるサレルノに生まれた。当時サレルノを含む南イタリアは、ビザンチン、アラビア、ラテン文化が混ざり合う文化の宝庫で、才能豊かなシチリア王フェデリコ2世のもと、アラビア人、ユダヤ人など世界各地から叡智が集った。サレルノには、各地の医者が諍いなくそれぞれの知識をあわせ、近代医学の体系を整えようとしていた。このサレルノ医学校を認可し、医者の資格をこの医学校を修了した者に与えると決めたのも、フェデリコ2世だった。当時の医者たちがうつくしい詩の形で書き残した養生訓集から抜だしたものに、フェデリコ2世時代シチリアの賛歌、Congaudentes jubilemus 冒頭の旋律を使って作曲を試みた。西川さんからVox humanaのためにと新作をお願いされ、まず頭に浮かんだのは、ラテン語のテキストを使うこと、望月さんのオペラで演奏者としてVox humanaの皆さんとご一緒した経験から、一人一人の卓越した技術と個性を際立たせることを思いつき、そしてささやかながら、さまざまな異文化のより豊かで平和な共存が実現するよう、願いをこめた」。
息子はCongaudentes jubilemusによる主題が気に入って、厭きずにずっとピアノで弾いている。

Regimen sanitatis salernitanum
サレルノ式養生訓

 1

Triste cor, ira frequens, bene si non sit, labor ingens,
Vitam consumunt haec tria fine brevi.
Haec namque ad mortis cogunt te currere metas.
Spiritus exultans facit ut tua floreat aetas :
Vitam declinas tibi, sint si prandia lauta.
Si fluxum pateris, haec ni caveas, morieris :
Concubitum, nimium potum, cum frigore motum.
Esca, labor, potus, somunus, mediocria cuncta:
Peccat si quis in his, patitur natura molestis.
Surgere mane cito, spaciatum pergere sero,
Haec hominem faciunt sanum, hilaremque relinquunt.

かなしみ、くりかえす怒りは、よくありません。度を過ぎた仕事も。
この3つは、生命をたちまち燃えつくします。
死と出会いのを早めるだけ。
愉快なこころは、あなたの齢に花をさかせますが、
豪華な食事は、あなたから、瞬く間に一日を過ぎさります。
熱があがり、血のめぐりがわるく、性生活も控えず、
酒をのんで、動きまわっていると、死にます。
食事、仕事、酒、眠り、どれもほどほどがよいでしょう。
このどれか欠ければ、おのずと不愉快が増します。
朝早くおきて、夜散歩にでかけると
人を健康にし、快活にします。

 2

Vitam prolungat , sed non medicina perennat;
Custodit vitam qui custodit sanitatem.
Sed prior est sanitas quam sit curatio morbi ;
Ars primitus surgat in causam, quo magis vigeatis.
Qui vult longinquum viam perducere in aevum,
Mature fiat moribus ante senex;
Senex mature, si velis esse dici.

薬は命をのばしますが、永遠にのばせるわけではありません。
命を守る人は、健康を守る人のこと。
病気を治すより、まず健康であることが大切です。
この芸術は、健康であるほど、あなたの役に立つでしょう。
老いらくまで長生きしたいなら、
生活習慣を成熟させることです、老人になるまえに。
すぐに老けますよ、あなたが望めばね。

 3

Lumina mane manus surgens frigida lavet unda.
Hac, illac modicum pergat, modicum sua membra  
Extendat, crines pectat, dentes fricet;  ista
Confortant cerebrum, confortant caetera membra.
Lote, cale, sta, pranse vel i, frigesce minute.

朝ベッドから起きたら、つめたい水で目と手を洗いましょう。
しばらく歩いてから、四肢もすこしのばしてください。
髪をとかして、歯をみがきましょう。すると、
頭がすっきりして、身体のあちらこちらに元気が湧いてきます。
風呂で身体をあたため食事をとり、少し休むか散歩をして、ゆっくりほてりを冷ましましょう。

 4

Sit brevis, aut nullus somnus tibi meridianus.
Febris, pigrities, capitis dolor, atque catarrhus
Quatuor haec somno veniumt mala meridiano.
 tibi proveniunt ex somno meridiano.

昼寝はほんの少し、いや、とらなくてもよいでしょう。
発熱やなまけ癖、頭痛やカタル。
これが昼寝の四悪です。
午後の眠りのあと、あなたに訪れます。

 4

Post pisces nux sit; post carnes caseus adsit.
Unica nux prodest, nocet altera, tertia mors est
Post pisces nux sit, post carnes adsit.

魚のあとのクルミはよいでしょう。肉のあとにはチーズ。
クルミ一個はよいのですが、もう一個食べると身体にわるく、三個たべれば死にます。
三つのうち、一つだけなら身体にとてもよい。

 5

Vocibus anguillae nimis obsunt, si comedantur;
Qui physicam non ignorant hoc testificantur.
Caseus, anguilla mortis cibus ille vel illa,
Si tu saepe bibas et rebibendo libas,
Non nocet anguilla vino si mergitur illa.

ウナギを食べて、声がおかしくなるのは
道理を理解する人なら、証言してくれるはずです。
チーズとウナギを一緒にたべれば、死にます。
しばしばワインを口にし、またのんで、ちびちび舐めていれば
ウナギは差し障りありません。ワインと一緒にたべるのならね。

 6

Cur moriatur homo cui salvia crescit in horto?
Contra vim mortis non est medicamen in hortis.
Salvia confortat nervos, manuumque tremorem
Tollit, et eius ope febris acuta fugit.
Salvia salvatrix, naturae consolatrix !
Salvia dat sanum caput et facit hoc Adrianum.

なぜ人が死ぬと、庭でサルヴィアが育つのでしょう。
人の命に対する薬は、庭にはありません。
サルヴィアは神経をやわらげ、手から震えをとり、
高熱もサルヴィアのおかげで消えてしまいます。
ああ、生れながらにして心やさしき、救世主サルヴィアよ、
サルヴィアは頭を健康に、聡明なハドリアヌス帝のようにしてくれます。

 7

Coena brevis, vel coena levis fit raro molesta,
Magna nocet: medicina docet, res est manifesta.
Numquam diversa tibi fercula neque vina
In eadem mensa, nisi compulsus, capienda:
Si sis complulsus tolle quod est levius.
Si sumis vina simul et lac sit tibi lepra.
O puer, ante dabis tibi aquam post prandia dabis
Omunibus assuetam jubeo servare diaetam.
Ex magna coena stomacho fit maxima poena.
Ut sis nocte levis, sit tibi coena brevis.
Si fore vis sanus, sit tibi parca manus :
Pone gulae metas ut sit tibi longior aetas;
Ut medicus fatur parcus de morte levatur.

手短にすます食事、軽い食事が、身体に悪いことはまずありません。
食べすぎは身体にさわります。医学でもそういいますし、明白です。
無理強いされないなら、あなたをそそのかす豪華な料理や数々のワインは断ること。
無理強いされるなら、そのなかで一番軽いものを選んでください。
牛乳とワインを一緒にのむと、湿疹がでます。
ああ少年よ。食事の前後に、水をのむことです。
この養生訓をみんなにつたえましょう。
ぜいたくな夕食は、胃をたいへん痛めます。
心地よく夜を過ごすため、夕食は軽くしてください。
長生きするため、食道楽はやめましょう。
医者のいうとおり、慎ましさが死を遠ざるのです。

これを書き出しながら、何か記憶の奥底で反響するものがある。悠治さんの「エピクロスのおしえ」だ。書き出すまで、サレルノのさまざまな民謡を繰返し聴き、私設動物園でキリンを飼っていたフェデリコ2世のまわりの音楽を繰返し聴いた。
ラテン語の詩は、響きもとてもうつくしい。友人が、ラテン語は、イタリア語のように回りくどくなく、単刀直入に言い切るのが気持ちよいと言っていた。ラテン語に通じているわけでもないが、少し気持ちはわかる。

7月某日 ミラノ自宅
藤木大地さんと福田進一さんのための新曲を送付する。
没後500年のダヴィンチが残した「鳥の飛行について」手稿の一部をテキストにし、リラ・ダ・ブラッチョの名手で、優れた歌手だったダヴィンチの残した「音判じ物Rebus musicali」から断片を一つ使って作曲した。「音判じ物」は、楽譜の音名を辿ると、テキストが浮かび上がる謎かけ。「レラソミファレミレ」と音符が書かれ、”Amore la sol mi fa remirare”「あの愛はわたしを振り返らせるばかり」と読むもの。ウィンザー手稿に収録されている。歌いまわしは、ヴィンチ村のあるトスカーナ地方で盛んな民謡、Stornelliを参考にした。

Il Volo degli Uccelli    Leonardo Da Vinci
Fig. 19
Quelle penne che son più remote dal loro fermamento, quelle saran più piegabile. Addunque, le cime delle penne dell’alie senpre saran più alte che li lor nascimenti, onde potren regionevolmente dire che senpre le ossa dell’alie saran più basse nell’abassare dell’alie che nessuna parte dell’alia; e nell’alzare, esse ossa d’alie saran più alte che nessuna parte di tale alia. Perché senpre la parte più grave si fa guida del moto.
付け根から離れるほど、羽はより曲げやすくなるようだ。翼の羽の先端は、翼が付け根より高い位置にあるから、翼の骨は翼をさげれば他の部分より低くなり、翼をあげれば、翼の他の部分よりも高くなる。なぜなら、より重たい部分が運動を先導するから。

Fig.27
Quando l’ucello si vorrà voltare alla destra o sinistra parte, nel battere dell’alie, allora esso batterà più bassa l’alia onde esso si vorà voltare, e così l’ucello si  torcerà il moto dirieto all’inpeto dell’alia che più si mosse.
鳥が右や左に曲がるとき、曲がりたい方の翼をより低く羽ばたかせ、向きを変える。このようにして、翼をより羽ばたいて推進力を得るより、翼の後ろの風の勢いをねじる。

Fig.28
Quando l’ucello, col suo battimento d’alie, si vole innalzare, esso alza li omeri, e batte le punte dell’alie in verso di sè, e viene a condensare l’aria, che infralle punte dell’alie e ‘l petto dell’ucello s’interpone, la tensione della quale si leva in alto l’ucello.
鳥が翼を羽ばたかせ上昇するとき、肩を上げ翼の先を自らの身体へ向け羽ばたかせる。すると翼先と鳥の胸の間の空気が圧縮され、鳥を上へ押し上げる力が生じる。

Il nibbio e li altri uccelli, che battan poco le alie, quando vanno cercando il corso del vento, e quando il vento regnia in alto, allora essi fieno veduti in grande altura, e se regnia basso, essi stanno bassi.
風の気流を探すあいだ、トビやその他の鳥は、あまり翼を羽ばたかない。風が高い位置を支配するとき、鳥はとても高い位置を飛ぶだろうし、低い位置を風が支配するとき、鳥は低く飛んでいる。

Quando il vento non regnia nell’aria, allora il nibbio batte più volte l’alie nel suo volare, in modo tale, che esso si leva in alto e acquista inpeto, colo quale in peto, esso poi declinando alquanto, va lungo spazio sanza battere alie; e quando è calato esso di novo fa il simile, e così segue successivamente; e questo calare, sanza battere alie, li scusa un modo di riposarsi per l’aria, dopo la fatica del predetto battimento d’alie.
風が凪いでいると、トビは、より多く羽ばたいて高くまで上昇し、しっかり推進力をたくわえたところで、その勢いを使って翼を動かさずに長い距離をかけて降下する。そうして降りきったところで、ふたたび同じ手順を繰返すのだ。羽ばたきを使わない降下により、疲れた身体をやすめることができる。

Tutti li uccelli che volano a scosse di levano in alto col lor battimento d’alie, e quando calano, si vengano a riposarsi, perché nel lor calare non battano le alie.
翼を羽ばたかせて急上昇する鳥が、降下で身体を休められるのは、降下で翼を羽ばたかないから。

Fig.29
Senpre il discenso del obbliquo delli uccelli, essendo fatto incontro al vento, sarà fatto sotto vento, e ‘l suo moto refresso sarà fatto sopra vento.
向い風で鳥が降下するとき、鳥は風の下にもぐりこみ、上昇するなら、風の上に身を置くだろう。

Ma se tal moto incidente sarà fatto a levante, traendo vento tramontano, allora l’alia tramontana starà sotto vento, e nel moto refresso farà il simile, onde, al fine d’esso refresso, l’ucello si troverà colla fronte a tramontana.
しかし北風に乗って東へ下降するときは、北向きの翼を風の下に入れる。上昇も同じだが、額は北へ向ける。

Ed è di tanto vilipendio la bugia, che s’ella dicessi be’ gran cose di dio, ella to’ di grazia a sua deità; ed è di tanta eccellenzia la verità, che s’ella laudassi cose minime, elle si fanno nobili.
たとえ神の偉大な逸話であっても、偽りは実に卑しむべきであり、虚偽は神性からも歓びを奪い去る。真実こそが何物をも超越した存在であり、些細な事実であれ、高潔な誉れが与えられる。

Sanza dubbio, tal proporzione è dalla verità alla bugia, quale da la luce alle tenebre; ed è essa verità in sè di tanta eccellenzia, che ancora ch’ella s’astenda sopra umili e basse materie, sanza conparazione ell’eccede le incerteze e bugie estese sopra li magni e altissimi discorsi; perché la mente nostra, ancora ch’ ell’abbia la bugia pel quinto elemento, non resta però che la verità delle cose non sia di somo notri mento, delli intelletti fini, ma non di vagabundi ingegni.
疑うべくもなく、真実と虚偽は光と闇の相違に等しい。どれほど慎ましく貧弱な物質であれ、真実がそこに介在するとき、不確実性やどんな高邁な説法を振りかけられた偽りをも、真実は掛け値なしに超越する。たとえ偽りが人の思考の一部を成していても、物事の真実こそが、洗練された思考、驚くべき知性の偉大な滋養であることは変わらない。

 Ma tu che vivi di sogni, ti piace più le ragion soffistiche e barerie de’ palari nelle cose grandi e incerte, che delle certe.
でも夢に生きるお前なら、確実で当然で我々の理解を逸脱しない事実より、むしろ大袈裟で不確実な事実に怪しげな推論を立て、言葉巧みに貶める方が、よほど好きではないのかね。

1505 marzo-aprile Firenze

実際の写本は、これらの言葉の傍らに、鳥の動きのスケッチが書かれている。ダヴィンチの言葉は、イタリア語が未だ現在のような形になる前の姿を現していて、響きも独特な味わいだが、詩ではない散文調で、当初音に載せるのにずいぶん苦労した。

7月某日 ミラノ自宅
ボローニャで作曲コンクール審査。1位と2位はイタリア人、3位は中国人だった。4位と併せて特別賞を得たのは、ブラジル人だった。中国、韓国、日本の他、イランやトルコから複数、ブルキナファソからも一人の応募があった。
審査の途中でソルビアティとドナトーニの話になる。In Caudaの初演時、ドナトーニは純白なシャツを着ていた。演奏会直前、喫茶店でカンパリをこぼして、胸のあたりに大きな赤いシミを作って、ニヤリと笑ったと言う。「彼はわざとやったんだ、自分が呼ばれるときに、あの服でスカラ座の舞台に上がりたかったのさ」。理由は分からないが、妙に説得力のある逸話ではある。

7月某日 ミラノ自宅
ミラノ滞在中の母とわが息子が「わらび餅」を作った。美味。
母曰く、戦時中お八つと言えば、笹の葉に包んだ梅干をちゅうちゅうと吸うばかりだったそうだが、そんな話を息子はどう聞いているのか不思議に思う。
スキエッパーティ宅での息子のレッスンを見学。特にチェルニー練習曲がどんどん音楽的に、立体的になってゆくのに瞠目。和声的なアプローチも、こういう時こそ役に立つと知る。タッチについても、他の曲よりずっと細かく教えてゆく。レッスンにベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」も持って行ったので、サリエリ、ベートーヴェン、チェルニーと師弟が揃った。こうして聴くと、意外なほど明確に親和性、関係性が浮き彫りになる。言葉ではなく、自らの指でピアノ史の重要な一ページを読んでいるのは、聴いていてとても羨ましい。

 7月某日 ミラノ自宅
吉澤さんから8月15日演奏会のリハーサル録音が届く。ダヴィンチがミラノに滞在していた時期のミラノ・スフォルツァ家の音楽家たちの作品5曲を、賢順らが初めて西洋音楽に接したときを想像しながら、邦楽四重奏で書き直した。届いた録音は、失礼を承知で演奏があまりに上手過ぎると正直に感想を書く。あくまでも西洋文化も、西洋音楽も見たことも聞いたこともない人間が、自分の知っている言葉を使って、それらしいものをやろうとする。おそらく縄文弥生の時代から、日本人の典型的な姿であったであろう、外来文化への尊敬と真摯な姿勢の原点をそこに見る。現在はコミュニケーション技術が過度に発達して、結果が先に見えてしまっているから、こうすればよい、という方法論ばかりが論じられる。良しも悪きも日本的な精神論は、結果へ到達しようとするその過程を補填してきたわけだから、その部分が抜け落ちてしまうと、これから我々の文化はどうなってゆくのかと不安にもなる。
ともあれ、送っていただいた録音の演奏は素晴らしいので、すっかり気に入って何度も聴き入ってしまった。傍らで息子もすっかり聴き入って、珍しく神妙な顔をして「感動した」と呟き、「何だか中国の民族音楽みたいだ」と言葉を継いだのには、内心妙に感心したものだ。
ルネッサンス音楽と邦楽は想像通り、実に親和性があった。もっと邦楽でルネッサンス作品が演奏されるとよいと思う。恐らくそれは、邦楽の古典の先入観を払拭し、自らの演奏スタイルを見つける助けになるはずだと信じている。

7月某日 三軒茶屋自宅
ヴォクスマーナリハーサルより帰宅。一言、自らが書いた音の目指している方向を示すだけで充分だった。西川さんも歌手のみなさんも、皆揃って音の感受性が豊かで、表現の幅が深く広い。だから練習はとても楽しい。聴いているこちらも、鄙びた田舎ののど自慢大会に参加している気分になる。ちょうど土用のウナギの日に「ウナギを食べると死にますよ」と歌うのは愉快な経験であった。

7月某日 ボローニャ・ホテル
朝早くにミラノをでて、ボローニャにて8月2日作曲コンクール演奏会リハーサル。オーケストラとは、10月のクセナキス以来。再会を喜ぶ。
ホテルでヒジャブの妙齢とエレベーターで乗り合わせた。彼女は同行の年配のイタリア人婦人と英語で話していて、彼女たちと同じ階でエレベータを降り、歩き出したとき、かちゃかちゃと不思議な音がして、無意識にその音の方に目をやると、義足がアディダスを履いていた。
 

7月31日 ボローニャ・ホテルにて

変化するちいさなはたらき

高橋悠治

いつも夏のあいだ 秋の準備をする コンサートもあまりなく 暇な時間に見えるだろうが この暑いなかで 自分でしごとの締切を作って 作曲し ピアノの練習をする ゆっくりしかできないのは 暑さのせいかもしれない それに 音楽を何十年もやってきて いままでにやらなかったことを見つける 知らなかったことをためすのがむつかしくなってきているのだろう

やらなかったことは たくさんあるようだが できることは限られている そのなかで 逆に いままでやったことを振りかえり そこからほんの半歩だけ遠ざかる どこへ行くかは考えない

それぞれのしごとに具体的な条件がある 作曲のばあいなら 使う楽器 それを弾く人 
演奏時間 発表の場 たとえばコンサートのプログラム 他の曲のあいだで それらのどれともちがう位置 niche その楽器のために作曲した自分のいままでの曲 知っている限りでの他人の曲から どのように距離をとるかで できることが ある程度見えてくる瞬間がある その時を逃さずにはじめないと また霧がたちこめて 見えていたイメージは バラバラの断片になって忘れられてしまう イマージそのものではなく それらをつなぎとめている見えない糸が切れないように 見えている部分を配置しておくことができれば その日のしごとを終えてもいいだろう

しごとの速い作曲家がいる ダリウス・ミヨーは 委嘱された日に書き上げてしまい さすがに すぐ渡すことはせず 期日まで 抽斗に鍵をかけておいたと言われる ヒンデミットもクルシェネックもしごとは速かった こういう職人芸は必要ではないとは言わない そういう人たちがいなければ 音楽業界は困るだろう 委嘱した側から言えば 期待された作品ができてくるのはよいことだ 期待以上の音楽は 望まれてもいないし 時にはそれがプログラムの中心になっては困る場合さえある もちろん 期待以下では話にならないし 期日までに楽譜をわたしてくれなければ 練習日程や演奏の質にかかわる

でも 職人芸はそれ以上のなにか 思いがけない発見を誘うことはむつかしい ほとんど自動的に手がうごき 意外性まで計算されていて 演奏も安全な軌道の上を走っていく さて どうするか

思いついたときは 新鮮に思えるが 発見のよろこびは しごとをすすめるうち だんだん薄れていく 速いしごとが手慣れた表現におちつきそうになる前に中断して 他のことをする あるいは何もしないで ぼーっとしている ゆっくりしごとをすすめれば いつか脇道に逸れていく 中断して次の日にそこにもどると 飽きそうになった手作業に まだちがう間道が見えるかもしれない 夏の暑さも そう思えば しごとにちょうどよい季節とも言える