しもた屋之噺(219)

杉山洋一

伊語で深い沈黙を表す形容詞に、tombaleつまり「墓地のような」静寂という言葉がありますが、半世紀近く生きてきて、今ほどこの言葉を反芻したことはありません。確かに電車も路面電車もバスも普通に走っているけれど、驚くほど無人です。特に妙に明るい電灯ばかり目立つ夜の電車は、薄気味悪く感じるほどです。今見られるのは、アパートの住民が家の前でのみ許されている犬の散歩をしている姿でしょうか。庭の木の枝は、めいっぱいに新芽を蓄え、すぐにでも思い切り葉を広げようとしています。息子が生まれた記念に植えた杉も、6メートルの高さに成長しました。うまい具合に大木の木陰から少しずれて、自ら伸びやすい場所をしっかり確保しているように見えます。本来なら、そろそろ庭の芝生を刈る準備をするところですが、今年に限っては、薄桃色や黄色に咲き乱れる野草を、もう暫く愛でることにいたします。

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3月某日 ミラノ自宅
死亡者数41人。ロンバルディア州学校閉鎖より一週間。医師、看護師の大学卒業を三月に繰上げ、同時に現場登用決定。イタリアの致死率が中国より高いのは、高齢者数が多いためとの報道。
ロンバルディア南部のコドーニョが危険地域に指定される以前、北部ベルガモから或る歌手がコドーニョの演奏会に出かけ、感染を知らずに帰宅してしまった。間もなく、歌手が関係するベルガモの音楽院で急激に感染が広がり、現在も教師一人が重体のまま集中治療室から出て来られないと聞いた。演奏会など滅多になかろう片田舎のコドーニョに、この時期に限って演奏会が企画されていたなど、何故不幸は重なるのだろう。

3月某日 ミラノ自宅
一昨日は52人死亡で149人回復。昨日は79人死亡で160人回復。学校より遠隔授業の準備するよう連絡あり。イヤートレーニングの授業は、学校の授業と同じ内容で毎週ヴィデオを撮り、それに沿って各々が自習する形にし、指揮のレッスンは、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」などを、メトロノームに合わせて口三味線で歌いながら指揮して、ヴィデオを送ってもらう。ピアニスト相手に振っていると、気が付かないソルフェージュの甘さも明快になると思う。

早朝散歩に出かけ、ナポリ広場で物乞いの老女に2ユーロ渡すと、とても嬉しそうな満面の笑顔で礼を云われる。何年も彼女の前を通り過ぎてきたが、いつもとても暗い顔で、言葉すら話せると思っていなかった。
トルストイ通り角にある、中国人経営のよろず屋のシャッターに「2月26日より当局の指示により休業します。近所の皆さんに協力します。再開は当局の指示に従います」とメッセージが貼ってある。
その先の中国人経営の喫茶店のシャッターには「3月8日までコロナウィルス予防のため休業します。私たちは元気です」とメッセージが書かれていた。メルセデスは、新しい患者数が昨日少し減少したので、これが続けば抑え込みに成功したことになる、と話していた。

3月某日 ミラノ自宅
早朝は曇り。昨日の物乞いの老女は、遠くから目ざとくこちらを見つけると、満面の笑顔で大手を振って挨拶してくる。実に陽気な老女だった。今日は手持ちがなく、50セント硬貨2枚のみ渡す。昨日のマッタレルラ大統領の演説の終わり、「我々はイタリアを信じることができるはずですし、そしてまた、イタリアを信じてあげなければいけないのです」という言葉に、思わず涙が込み上げてきたのは何故だろう。

驚くなかれ、昨夕の発表では死亡者148人。学校のマルチェッロより、休校中の学生との繋がりを保つためヴィデオはとても有効だから、是非続けてとの連絡。普段教室で学生の顔を見ながら話しているものを、相手もなく話し続けるのは苦痛だが、この際仕方がない。ユーチューバーには到底なれない。ミラノと東京を結ぶアリタリア便は今日から運航休止。愚息や家人はクラスメートや友人らとヴィデオ通話で気を紛らわせたり、情報を交換している。

「自画像」の作曲は心地良いものではない。戦争、紛争地域の国歌は、軍歌のように「国威発揚」の意図も多分に含まれ、「自画像」に於いては多数の国民の死を体現する。トルコとシリアの戦況が活発になり、逃れた難民がギリシャから発砲されている。
テレビでは、世界各地でイタリア人が差別を受けているニュースの後、最初にコロナウィルスが認められたコドーニョには、ミュンヘンより来訪の中国人が疫禍をもたらしたと言っている。

ルカより家人に連絡があり、来週、無観客で演奏会を収録したいので、何か弾いてくれとのこと。皆この状況で何ができるか、必死に考えている。家人はバッハ=ブラームスの左手のシャコンヌを弾くことにした。息子が外に出たくないと愚図るのは、劇場に行きしな、コロナウィルス患者を集中治療しているバッジョのイタリア軍人病院の傍らを通るのが怖いからだ。それでも、自分がすぐ弾けるレパートリーからプーランクを選び、渋々さらい始めた。

毎日家にいるせいか、ここ暫く頻繁に台所に立っている。今朝は朝一番にスーパーに出かけて、当分暮らせるよう食料品を買い込んだ。未だ目が黒い美味しそうな鯛二尾を5ユーロで買い、昼食はアクア・パッツァで煮込み、茸で簡単にパスタも作る。美味。普段魚嫌いの息子も喜んで食べていて嬉しい。気軽に買い物に出かけられず、精の付くものを食べさせていなかったので、少々安心する。

3月某日 ノヴァラ ホテル
日本政府がロンバルディア州に対する渡航制限を引き上げた途端、日本から派遣された教員の引揚げが決まり、息子の通う日本人学校は、休校中ながら翌日終業となった。

終業式もなく、息子と家人が通信簿と学校に残した荷物を受取りに出かける間、簡単に昼食を用意し、帰宅後直ぐに食事にする。昨夜家人が作った炊込みご飯の残りを雑炊にし、嵩増しに餅を入れたのが、思いの外息子に好評だった。
食後急いで荷物をまとめ、タクシーでロット広場へ向かい、地下鉄に乗り換え見本市会場駅へ向かう。

最初にやってきた列車に乗り込み、ポットに詰めた温かい紅茶で喉を温めながら、ロンバルディア州を超えノヴァラを目指す。今日の午後、封鎖地域をロンバルディア州全体に広げるか閣議にかけられると夕べ新聞で読み、まさかそんな決定はなかろうと思いつつ、家人が月末の日本の仕事に間に合うよう出発できないと困るからと、州境を超え様子を見ることにした。

家に籠るため買い込んだ食料品を、大きなリュックに詰め込めるだけ詰め、家人と息子を友人宅に預け、こちらは小さな安宿を取る。行交う車も減り空気も澄んでいたのか、車窓の向こうに雪を頂く美しいアルプスが連綿と続いていて、それは見事であった。ノヴァラの手前で、ティチーノ川の鉄橋を越えピエモンテ州に入った途端、それまで緊張していた家人と息子は、無人の車内で思わず歓声を上げた。

夜、友人宅にて、持ち込んだ葱とズッキーニとツナでパスタを作る。閉まりかけていた宿の傍らの肉屋でノヴァラの赤ワインを購い、道すがらパンとケーキも買い足し、夕方ミラノから着いた友人二人も合流して、ワインで乾杯する。二週間、ミラノでひたすら息をこらして暮らしていて、漸く危険のないノヴァラにきた喜びを実感しながら食事を始めると、ワインが進む。アルコールは、困憊している時しか飲まない。

3月某日 ノヴァラ駅よりミラノ行車内
始発のミラノ行は何事もなかったかのように駅に佇む。ロンバルディア州他11都市封鎖が決まった途端、テレビでは中央駅やガリバルディ駅に雪崩込み、夜行列車でミラノから逃げる人々の姿を映し出していた。それと反対にミラノに向かう自分は、不思議な心地だ。ともかく家族をミラノから安全に連れ出したので、安心した。

列車が走り出す。これで暫く彼らとも会えないかも知れないが、その分仕事に専心したい。ティチーノ川を越えてロンバルディア州に戻ると、その実感がいよいよ重く圧し掛かる。
封鎖は一ケ月、4月3日迄の予定だが、その後の進展によっては、六か月継続する可能性があると新聞に書いてある。作曲して学校の課題など作っていれば何とかやり過ごせるだろう。
有事だから仕方ないが、暫く会えないのなら、その積りで家族に言葉をかけたかった。挨拶もろくに出来なかったし、息子など既にベッドで寝込んでいたから、頑張れとも言ってやれなかった。彼らが病気に罹らず、今日までやり過ごせたことで満足とする。

3月某日 ミラノ自宅
離陸直前、ローマの空港から家人が電話をかけてきたようだが、眠っていて気が付かなかった。
昨夜、葱のパスタを食べ終わる頃になって、封鎖決定の素案がどこからかメディアにもたらされた。久しぶりのアルコールで軽く酔った頭には、最初は悪い冗談としか思えなかったが、テレビをつけると、確かに記者が現在素案を閣議で取りまとめている最中だと繰返していた。

息子のように、ロンバルディアからノヴァラの国立音楽院に通う学生も多い。昨夜は素案がニュースで取り上げられた途端、もうノヴァラのみなさんと暫く会えないわね、残念ね、元気でね、というメッセージが、厄介になった友人宅の学生にも届いた。
日付が変わっても閣議の結果が出ないので、もしこのニュースが本当なら、近日中に皆でノヴァラから日本に戻ろうと話して、一旦宿に戻る。

日本に仕事のある家人と、ここ暫く学校もない息子はともかく、作曲も学校も全て放棄して日本に帰ってよいのか、もし日本に戻るとその後イタリアに直ぐに入国できるか。すっかり酔いの冷めた頭で考えると、自分は残らざるを得ないと気が付く。ミラノには、コロナウィルスで闘病中の留学生も一人いて、万が一の事を思えば、気軽に帰国はできない。夜半その旨家人に伝えると、始発に乗ればきっとまだミラノに戻れるわよ、と返事が届く。朝の5時過ぎノヴァラ駅に着くと、思いの外普通であった。労働者風のアフリカ人ばかり屯していて、列車も普通に動いた。

夜中に友人宅で用意してもらった紅茶で身体を温めながら、昨日と同じく見本市会場駅からロット駅まで地下鉄に乗り、少し怯えた心地で朝の7時に家に着いた。すると間髪開けずに、昨日遅れてノヴァラに着いた友人から、素案と違ってノヴァラも封鎖された、と慌しく連絡が届く。

昨夜の夜行列車騒ぎで今後がすこぶる不安になり、家人には封鎖のないトリノまで早急に出るよう伝え、連絡をくれた友人には先に駅へ駆けつけ、列車の運行状況を調べてもらった。彼らは7時54分のトリノ行の列車に飛び乗り、そのまま同日トリノ発の便で、ローマから東京へ戻った。

テレビをつけると、南イタリアでは、北から逃げてきた旅客を追返すやら隔離やらと、醜い騒ぎになっている。面会を禁止した刑務所で暴動。「Fuga Sud(南部への逃避)」音楽用語が躍っている。「Viaggio nel ghetto Lombardia, spacca l’Italia ゲットー状態のロンバルディアからの移動で、イタリア真っ二つ」。人々の顔から笑いが消えた。

「1メートル以内に人に近づかない。くしゃみと咳はティッシュを使い、手洗い励行。目、鼻、口はみだりに触らず、握手とキスはしないこと」とテレビは繰り返す。ジョヴィノッティがウードを携え登場するコマーシャル。「実は昔これを買ったんだけど、ずっと使ってなかったんだよね。折角のこの機会に、家で練習しているんだ。こんな日々が長く続かないといいけれど、皆も家に居よう。今は学校がなくたって、休暇じゃないんだ。ウィルス止めなきゃ」。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は97人死亡。早朝散歩をして行きつけパン屋に寄ると、「これからはカウンターではなく席でコーヒーを飲んでくれ」と云われる。他人と1メートル以内に近づいてはいけない条例には、カウンターでの食事を禁止する項目が入っている。月末、息子が語学研修に出かけるはずだったマルタもイタリアとの国境を閉ざしてしまった。日本でもイタリアからの帰国者は肩身の狭い思いをしていると聞いて、家人や息子が頭に浮かぶ。
学校の指揮クラスでピアノの伴奏をしているマリアが、歌を作ったから聴いて頂戴と送ってきた。

こわい伝染病のせいで わたしたちの街は
まるで病院みたい
夢かしら 頭おかしく なっちゃったかしら
第一線でわたしたちを守ってくれる お医者さんたち
これが新しい現実
わたしたちの毎日の かけがえのない一番の英雄

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも  今はがまん
顔をおおうマスクと 大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

ウィルス研究で
どうかわたしたちを助けて 病気を治して
わたしたちは ここにいるの
頑張ってるの うんと想像力 働かせているの

暮らしも大変だけど
少しは 頭も働かせないと だめよね
どうにかなるわよ
家に閉じ込められたって
いろんなこと できるわよ

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの

わたしから 1メートル離れていて
あなたのこと 大好きだけど
あなたからも 1メートル
そう そこにいて
今は こうしないと だめよね

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも
今はやめて
顔をおおうマスクと
大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの
https://youtu.be/C47Qbzx_15A

出席簿確認のため、久しぶりに学校に出かける。全く人気がなく、受付も無人だ。事務所のアンナが開けてくれて、がらんとした校内では、学院長のアンドレアと、アンナしか見かけなかった。「なんだか変でしょう。授業のない夏休みの雰囲気とも全然違うのよ。やっぱり」とアンナが寂しそうに呟く。本日の死亡者数は168人。夜、寝つきが悪い。欠伸のせいか、気が付くと涙がこぼれている。

3月某日 ミラノ自宅
今日の死亡者は196人。併せると827人にもなる。少しずつ数字に頭が麻痺してきている。感染者数10590人、快復したのは1045人。学校の授業のヴィデオを作るのに一日かかる。イタリア政府は必需品以外の店や喫茶店の休業を決め、WHOはパンデミックと発表。

フェデーレから便りが届く。
「こちらペスカーラ。(周りのイタリア人のように)家で隔離生活を営んでいるけれど、みんな元気。この恐ろしい体験が一刻も早く終わることを願うばかりだ。どうやら何箇月もかかかりそうだけど。自分みたいに、普段から家に居ずっぱりの人間さえも、人生滅茶苦茶だ。それだけが問題じゃないだろう。何しろ将来が見通せなくなってしまった。これが本当にやり切れない。ともかく皆で頑張ろう。一緒に乗りかかった舟なのだから。
何とか踏み止まって、跳ね返してやろうじゃないか。我々がこの危機から抜け出せたら、新しい人生を始めよう。願わくば上っ面でない、もっと成熟した展望を掲げて」。

3月某日 ミラノ自宅
人気を嫌い、朝5時半に24時間スーパーに出かけると、意外にもちゃんと開店していた。店内には同じ考えと思しき主婦が、カート一杯に買物している。一度家に戻っても未だ人気はなく、ナポリ広場まで歩きに出かけると、いつも開店していた喫茶店は軒並みシャッターを下ろしたままになっている。「当局の条例に基づき休業」などと貼ってあり、異様な光景。

現在までの死亡者は併せて1016人。快復したのは1258人。感染者数12839人。リナーテ空港は閉鎖され、今後は救急医療用の航空機発着のみ認可とのこと。ジャンベッリーニ通りの時計屋のシャッターには「Chiuso per vincere il nemico 敵を倒すべく休業」とメッセージが貼られている。

この数週間、風呂場の体重計周辺に棲みついていたトカゲを、漸く捕えて庭へ逃がす。体重を測るたびに、トカゲが一緒になって数字のところへ顔を出すのが可笑しかった。

3月某日 ミラノ自宅
これからは、朝のパンを買いに出るときも「自己宣誓証」と身分証明書を携帯して、警察に求められた際、必ず提示しなければならない。

コッリエーレ誌上で、ミラノ古謡「O mia bela Madunina わたしの聖母さま」を窓から吹くトランペット奏者が喝采、とある。名前を見ると、ずっと昔、学校の学生オーケストラで吹いていたラファエレだった。とても素敵な演奏で、吹き終わった途端、近所から一斉に「Viva Milano ミラノ万歳」と歓声が上がる。何だか自分のことのように嬉しく、誇らしい。救急車のサイレンばかり耳につく毎日のなか、こうした瞬間はかけがえがない。

ジョンソン首相が今後集団免疫を目指すと発表。大切な家族を大勢失うことになると発言、物議を醸している。日本ではイタリアからの帰国者による二次感染が批難されている。自宅待機中の家人から体調に変化なしと聞き安堵する。

日本よりお見舞いメール。「何故この程度のことでこれだけ大騒ぎしているのでしょう」。今日一日で175人死亡。併せて1441人死亡。快復した患者1966人。感染者総数21157人。

3月某日 ミラノ自宅
朝6時に近所の24時間営業スーパーマーケットに出かけると、営業時間が7時から夜半2時に変更になっていた。仕方がないのでシエナ広場のスーパーマーケットへ出かけるが、既に入口に行列が続いていて、そのまま帰宅した。昨日の死亡者は368人。延べ1809人死亡。総感染者数20603人。快復した患者は今日一日で369人。

夜9時、家を消灯した住民たちが、一斉にバルコニーから電灯を光らせ、歓声をあげる。そんな行為に意味があるか不思議だったが、実際目の当たりにして心底感動したのは何故だろう。
ここ数日、SNSで時間を決め、このように一斉に国歌を歌って医療関係者への謝意を表したり、互いの結束を確認し、士気を保とうとしている。自分もその一端を共有している。
フランチェスコ法王が、閑散としたローマの街を歩き、祈りを捧げた。日本ではイタリアの医療崩壊が話題を呼んでいて、日本人旅行者が自身のイタリアの救急病院体験など紹介している。パリ封鎖。アメリカ、ドイツ交通封鎖開始。

3月某日 ミラノ自宅
早朝出向いて失敗したので、夜11時過ぎにスーパーマーケットへ出掛ける。人に会うのが怖い。現在感染者数は23073人。快復した患者は2749人。今日の死亡者は349人で総死亡者数2158人。患者も死亡者も本来人間であって数字ではなかった。ロンバルディア州だけでも、死亡者数は212人にのぼる。今日より三善先生の形見の五線譜を使い始める。万感の思い。

3月某日 ミラノ自宅
一日の感染者数2989人、一日の死亡者数345人、総死亡者数26062人、一日の快復患者数192人、総快復患者数2941人。ベルガモで人工呼吸器が不足。ガレーラ・ロンバルディア保険担当評議員が、風邪の症状があれば、家に留まるよう市民に強く要請。ヨーロッパ交通封鎖決定。

ヴァレーゼ近郊クアッソ・アル・モンテのニコロ・カゾーニ神父が、ミラノ大司教の要請を守らず秘密裡にミサ強行。理由は「世界の終焉が始まったと見られ」、「司教らはキリストの教えを退け、国家法を優先し」、「聖カルロは裸足で聖釘と聖遺物ともに、ペストに覆われた街を歩まれた。そして我々は風邪ごときに慄いている」から。
聖カルロの逸話は、1576年ミラノを襲ったペスト禍の折、ミラノ大司教カルロ・ボッロメオが執行した悔悛の行列のこと。時代錯誤だが、従来、宗教はかかる疫禍、凶禍のときこそ、人々の心の拠り所であった。

では何の為の作曲かと自問する。これは作曲とは言えないかもしれないが。三善先生と悠治さんから共通して社会に対しての意識に影響を受け、ドナトーニから音に感情を込めないことを学んだ。オーケストラと仕事を続けてきたから、楽器としてではなく、一人の人間として彼らそれぞれの顔が思い浮かぶ。国歌は従来あまり好きではなかった。軍歌に至っては、旋律の裏に数えきれない命がぶら下がっているようで、幼少より慄いていた。

3月某日 ミラノ自宅
昨日は475人死亡。併せて2978人死亡。併せて35713人感染。1084人快復。朝からヴィデオを2つ録画し生徒に送り、彼らから送られてきたヴィデオを何度も見返して助言を送る。普通に学校で授業やレッスンをするより、ずっと時間も手もかかり、熱心な生徒は夜中の12時にヴィデオを送ってきたりする。今日の発表では、一日で415人死亡し、4480人が新たに感染した。統制を図るべく陸軍の投入が検討されている。

マリアに電話をすると、先週彼女の友人がサッコ病院で亡くなり、日曜まで茫然自失の毎日だったと云う。62歳の男性で持病があった。
「重篤患者が、孤独のなか愛する人に看取られず逝くだけでも悲劇だけれど、お葬式もあげてもらえず、遺体を満足に土に帰してあげることすらままならないなんて、本当に地獄だわ。わたしは決して未来を悲観しているのではないけれど、真実は嘘偽りなく伝えなければいけないと思うの」。

ミラノからミュンヘンに疎開中だった留学生も、ベルリン滞在中のMちゃんも日本に帰国した。毎日四通以上の通知が、日本外務省とミラノ領事館から届く。今日は遂に日本より全世界に対する渡航注意通知が届く。状況は刻一刻と変化している。

ミラノの留学生の容態が悪くなりかけた折、伝染病は素人には手助けが難しいと実感した。出かけて様子をみることも出来ない。第一、自らの外出すら困難を伴う状態である。
代りに病院に電話しようにも、具体的症状を明確に伝えられない。病床が限られていて、軽症であれば自宅療養を求められるが、重篤化した時に救急を呼ぶにせよ、呼吸困難で電話など出来るのか。ホットラインは電話が多すぎて繋がり難いとも聞く。

ここ数日、年末年始に墓参を済ませたこと、年始を両親と家族と過ごせたこと、別れる前、存分に家族へ食事を振舞っておいたことに、安堵を覚えている。

3月某日 ミラノ自宅
一日の死者627人。現在まで併せて4032人死亡。感染者数は37860人にのぼる。
夜、ジャコモとマルコから送られてきたヴィデオを見て、注意事項など書いていると、遠くから教会の鐘が聴こえる。最初は何も感じなかったが、時計を見て、改めて鐘の音を聴いて鳥肌が立つ。
弔鐘に違いない。
最近妙な時間に鐘が聴こえるものだ、頻繁に鐘が鳴るものだと不思議に思っていた。

今日からミラノに陸軍が投入されたらしいが、外に出ていないので分からない。
70体もの亡骸を近隣州の斎場で荼毘に附すため、棺を積んだ陸軍のトラックの行列が、夜半のベルガモの街を静かに進む。イタリア国内の死亡者数は中国の発表数を超えた。

3月某日 ミラノ自宅
天気良好。昼前運河の向こうのアパート群で、バルコニーから人々が口々に叫ぶ。
「家に戻りなさい。家に戻ってよ。家にいなきゃ駄目なんだから。しっかり全部見えているのよ。通報するぞ。あんたたち人間じゃない。お医者さんを助けたいと思わないの」
老若男女、女の子の大声も交じる。誰かが運河沿いの遊歩道でジョギングでもしていたのか、怒号が渦巻く。誰もがこの状況に必死に堪えているのをひしひしと感じる。

母から桜の写真が送られてきた。不思議な静けさが辺りを覆っている。
今日一日で793人死亡。併せて4825人が死亡。感染者数は42481人。
「一日でこれほど死亡者数が増えたのは初めて」。どうなってしまうのか。

3月某日 ミラノ自宅
日曜正午、街中の教会の鐘が一斉に鳴り響く。25年住んで初めて聞く、荘厳で、途轍もなく哀しい、何時までも終わることなく、さざ波のように続く弔鐘だった。

夜半、メルセデスが送ってきた、ユヴァル・ノア・ハラリがFinancial Timesに寄稿したThe World after Coronavirus https://www.ft.com/content/19d90308-6858-11ea-a3c9-1fe6fedcca75 を読んで、眠れなくなる。薄く予感しているもの、無意識に目を背けているものを、目の前に突き付けられた思い。

ベルガモのマンカ宅近所の病院でも、毎日10人は亡くなっているという。危険地域で郵便も停止している。つい先日も近所のスーパーマーケットでレジ打ちをしていた47歳の女性が突然発症し、そのまま緊急入院後3日で帰らぬ人となった。
イタリアに向け中国が発送したマスクと人工呼吸器など救援物資を、チェコ税関が不法に押収、チェコ国内の病院に既に配布済みとのニュース。各々の余裕がなくなってくると、普段気が付かない綻びが一気に噴き出す。

3月某日 ミラノ自宅
治療にあたる医師の死亡者が20人になった。1日の死亡者数651人。快復した患者数952人。

朝8時、ソデリーニ通りのスーパーマーケットに出かけると、既に無言で並ぶ先客15人ほど。寒くて堪らないので、ロレンテッジョ通りの肉の直売店でオリーブ油と卵を購い、ジャンベッリーノ通りのパン屋で牛乳やパスタ、パン、ヨーグルトなどを買う。

生徒が参考にできそうな録音がないか探していて、311翌年に演奏したモーツァルトのレクイエムの録音を聴く。合唱団に福島と関わりのある方が多かったせいか、胸に迫る演奏だったが、この状況で聴くと胸が潰されそうになる。

ミラノ留学中のAさんより電話。肺の息苦しさが戻って来たという。見舞いに行かれないが、担当教師と電話連絡を取り、緊張しながら今後に備える。

「酒盛りを彩る満開の桜の傍らを、一人自転車で駆抜ける気分と来たら、暫く前に流行った映画の一場面を追体験するようだわ」。
息子にせがまれ何度も見たのでよく覚えている。隕石落下を予め知る主人公が、壊滅を回避しようと、落下直前、住民の移動に躍起になる場面だ。家人と息子は揃って生粋の劇場型。

3月某日 ミラノ自宅
愚息15歳の誕生日。電話で話すとミラノを発った時より幾分しっかりしている。一年前、彼の誕生日を家でささやかに祝った写真が出てきた。息子と一緒に写る二人の友人も既に帰国した。「また、ミラノでお会いできる日が来ることを願っています」とその一人からメールが届く。確かに、暫くはそういうことも出来ないかとぼんやり思う。
自宅待機が解け、家人と息子は松山の海に出かけた。

昨日はロンバルディアにとって、初めて可能性が垣間見られた日となった。一日の死亡者数は602人。併せて6077人だが、新感染者数が減少傾向にあると言う。「真っ暗なトンネルのずっと先に、微かに出口が垣間見られた」とガレーラ評議員が語る。キューバとロシアより派遣された医師団到着。

このコロナ禍に於いて痛感するのは、情報の氾濫の中で、それらの情報を自らがどのように判断し、分析する必要性であり、今までになく能動的な紐解きが必要と言うこと。「自己責任」という無責任な単語だけは、どうか禁止してほしいと切望する。

ベルガモの葬儀社の話。「救急車に乗る時は至って元気で普通に話が出来たのに、そのまま病院で重篤化して逝ってしまっても、伝染病だから家族は看取ることすらできない。外出も禁じられていて、病院にも入れないから、棺にすら近づけず、亡骸は孤独の中そのまま荼毘にふされてしまう。斎場に向かう霊柩車だけでも、せめて家族の住むアパート前を通って、最後の別れを惜しませて欲しいと懇願される。本当に辛い」。

拡声器を手にした呼吸器科の女医が、病院の廊下から喉を嗄らして、大声で語りかける。
「みなさん、どれだけ聞こえるか分からないけれど。聞こえますか? イタリア中の国民がみなさんを応援していますよ。国民みんながあなた方を応援していますよ。みんながあなた方の事を祈っていますよ。思っていますよ。頑張ってください」。そうして、イタリア国歌を皆で歌う姿に号泣する。
おそらく辺りは呼吸器に酸素を送る白色騒音に満たされていたに違いない。言葉は少しでも出来た方がよい。相手の心を知るため、単語は一つでも多く、知っておいた方がよい。

3月某日 ミラノ自宅
本日は743人死亡。3612人感染者増。東京滞在中のローマの薬剤師が、何故アヴィガンをイタリアで使用しないのかとインターネットに投稿すると、瞬く間にイタリア国中に広まり、市民保護局までその話題を取り上げるほどになった。お前はどう思うかとヴィデオが回ってきて、こちらは素人で何もわからないと答えたばかりだった。東京都知事が首都封鎖の可能性を示唆。現在までコロナ禍の采配を振るってきた市民保護局長アンジェロ・ボレッリ発熱。後日陰性が確認された。

3月某日 ミラノ自宅
本日683人死亡。全体で7503人死亡。現在まで細々と続いていた国境を、完全封鎖する素案が提出。Aさんより昼前に電話あり。やはり呼吸がおかしく救急車を呼ぶと言う。Aさんの両親は何も知らないので怖くもなったが、駆付けた救急隊員の判断の下、未だ自宅療養を続けることとなった。

パリのエミリオより電話あり。演奏活動だけで暮らしていると、流石にこの状況は厳しいと言う。長男のロレンツォはパプア・ニューギニアの赤十字で働きだしたが、コロナ禍でパリに戻るべきか悩んでいるそうだ。

外に歩きに出られないので、意を決して縄跳びを始める。持病の眩暈で当初20回程度しか跳べなかったが、繰返すうち一日500回程はこなせるようになった。

3月某日ミラノ自宅
昨日の死者は712人。併せて8165人死亡。スペインで400人を超す死者、フランスで365人死亡。アメリカが世界一の感染者数となる。これだけ目まぐるしく状況が変化すれば、イタリアに来たばかりで言葉や状況に慣れない人は、どれだけ不安なことか。毎日届く外務省や領事館からのメールがどれだけ助けになっているか分からない。25年イタリアに住んで、イラク戦争もここで体験したが、これほど生々しく有事に巻き込まれたことはなかった。日本のYさんの団体からイタリアに何か支援をしたいので、窓口になって欲しいとお便りを頂戴する。

3月某日 ミラノ自宅
美恵さんが先月「来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているでしょうか」と書いていらしたが、現在まで、こんな風にならなければよい、と想像した通りに世界は進んで来ていて、我乍ら信じ難い。本日の死亡者数969人、快復した患者数589人と聞いて言葉を失う。ここまで来ると、落胆して医療関係者の士気が落ちないか心配になる。彼ら医療関係者は、文字通りの英雄だ。街中に貼られる、慈しんでイタリアを胸に抱く看護師のポスターを、一生忘れることはないだろう。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は夜半2時3時にも途切れることなく救急車のサイレンが聞こえていた。今朝起きると午前中何度となく頭上を軍のヘリコプターが往復していたが、患者を搬送していたのだろうか。

家人とメッセージのやりとり。
「あなた感動的っていってたじゃない。
感動的って?
ミラノにいると、生きてる感じがして感動的と言ってました。
ここにいれば、そうなると思います。人間、生きるか死ぬかしかないのですから」。

本日の死亡者は889人。死亡者は併せて10023人。コロナ禍に斃れた患者はイタリアだけで一万人を超える。快復した患者数は1434人増えて12384人。集中治療室で3856人が病気と闘っている。4月3日に予定されていた休校中の学校再開は繰越しになった。
日本より派遣されているミラノ日本人学校の先生方は、即時帰国要請を出した政府に対し、ここに残る生徒を思って、ミラノに残れるよう粘り強く交渉して下さった。
家人は、担任の渡邊先生を「二十四の瞳」の大石先生に譬えて感激している。気持ちは充分通じるが、少し勘違いしている気もしないでもない。中山先生や丸田先生初め、病後で難しい時期の息子を、みなさんが本当に一丸となり支えて下さり、深謝に余りある。

3月某日 ミラノ自宅
昨日のイタリアの死亡者756人。併せて10779人死亡。医療関係者の死亡者数は現在まで63人にのぼる。この週末だけで13人亡くなった。イタリアで5種類のワクチンの実験が始まる。ベルガモから170基の柩が荼毘にふされるため、州外に運び出された。アルバニアより救援医療関係者到着。今日の死亡者は812人。今日の新感染者数は1648人で、ここ暫く減少傾向なのはよい兆候だそうだ。現在までの総感染者数は101739人で10万人を超えた。これが完治した患者、死亡した患者、闘病中の患者を併せた数字となる。
東京でも死亡者数4人。その一人は志村けんさん。数字はデータではない。各人が生きてきた時間が、累々とうずたかく積もるさまに他ならない。

3月某日 ミラノ自宅
この危機を越えた先に、我々は何を見るのだろう。我々には何が見えているのだろう。どこを見ているのだろう。やがて特効薬が開発され、ワクチンを世界中の人が受けられるようになったとき、今からほんの2か月前の世界に、果たして戻れるのか。周りを見渡せば、今までと同じ家族や友人たちの顔を、等しく見られるのだろうか。それとも、まるで違う光景に言葉を失うことになるのか。

50年生きてきて、何度か、音楽を罷めようと思ったことがある。交通事故で楽器が弾けなくなったとき、子供心にも無理だと諦めかけた。それから成人するまで、岐路に何度か遭遇したが、イタリア政府給費を突然止められ、文字通り無一文で困窮し、路頭に迷った時は、さすがにもう音楽と関わることもなかろうと覚悟を決めた。でもあの時に、音楽の意味を初めて実感できた気がする。
その後何時しか、図らずも慢心を起こしていたのではなかったか。コロナ禍が過ぎ再び顔をあげられるその時、あの頃の自分のように、改めて心から音楽に共感できることを切に願う。

マリアが、自宅のチェンバロとZoomを使って、トリエステの家族や友人のためホームコンサートを開いた。一曲目は、ヘンデルの「Lascia che pianga 涙溢れるまま」だった。

Lascia ch’io pianga
mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte
de’ miei martiri sol per pietà.

涙溢れるまま
わたしの不運に思い馳せ
この嘆息は自由を求む
ああ慟哭よ 絶て
この懊悩を絡める絆

(3月31日ミラノにて)

コロナに閉じ込められてしまった(晩年通信 その9)

室謙二

 私たち老人は、コロナに閉じ込められてしまった。
 家から出られないのである。外出禁止令が発せられた。不必要な外出は、切符をきられるらしい。釣りの仲間に聞いたら、小さな湖にでかけて、友人とかたまって釣りをしていた人間が、四百ドルの罰金を払わされたとのこと。
 どこにも立ち寄らないなら、人が集まっているとこに行かないなら、出会う人と二メートル以上はなれているなら、外に出ても、散歩してもいいらしい。しかし「人が集まっているところに近づかないなら」と言っても、そんなものはもうない。
 人の集まる場所、この辺のカフェとかレストランは、すべて州政府の命令で閉鎖されてしまった。人の集まるところではコロナが広がる。でもスーパーとか食料品店は開いている。私たちは、人がいてキケンだからそこにも行きません。オンラインで注文したり、電話で注文したりする。クルマで店の前まで行けば、店の人が、食品の入ったダンボール箱をトランクに運び入れてくれる。そういう段取りをした。
 私たち七四歳と七七歳のカップルで、ふだんはあまり老人だとは思わない。でも老人はコロナにやられないように、家から出ないでじっとしていろ。とテレビもインターネットも脅しをかけてくる。老人はコロナ・ヴィールスに取りつかれると、重症化する可能性があるからね。死ぬかもしれない。
 ロシアに住んでいる息子は、私のことを老人扱いしたり健康を心配したりはしない。でも今回は、心配しているらしい。近所の若い人も、必要であれば私たちが食料品の買いだしに行きますから、とこれもやさしいのである。戦時下の隣組です。
 そうかワレワレは老人なんだ。コロナに狙われているんだね。

 もともとコロナのことを、水牛通信で書くつもりはなかった。「イシ、道元に会う」というのを、書くはずであった。本棚には、一年に一回とか数年に一回、かならず手にとって読む本がある。イシもそうだし、道元の本もそうである。たとえば道元の「典座(てんぞ)教訓」と、イシに関するIshi the Last Yahi – A Documentary Hisoryかな。「典座教訓」には、僧院の料理人の心構えと料理の実際、それに仏教について書いてある。Ishi the Last Yahi はイシが発見されたころのメディアの反応と、イシを囲む人々のドキュメンタリーである。道元は天才だが、イシも天才だと思う。バークレー・キャンパスのクローバー人類学博物館に、イシの作った日常品(カゴその他)が展示してある。素晴らしく美しい。それを見た瞬間、イシは特別な人なんだなと思った。特別の人だったから、それを助けた人々(バークレーのクローバー教授とかウォーターマン)は、すっかりイシの魅力にのみ込まれてしまった。イシには、自分の部族と家族を全部殺してしまったた白人に対して寛容の精神がある。
 ところがコロナの大騒ぎで、まっすぐに座禅に向かう道元どころではないし、部族が全部殺されて生き残ったイシについて、白人に対する許しと仏教があるように思うが、それらを書く気分にはなれない。
 テレビとインターネットで、いまのコロナはどうなっているかを見ていた。時間ごとにいろいろと新しいことが起こっている。アメリカ中が、カリフォルニア中が一つのことに向かっている。ひとつの内容をひとつの方法(テレビ)で繰り返し見せている。方法と内容が一つで、一つの方向に向かうことは、ファシズムのような気がするなあ。トランプも進歩的メディアも、少し時差があるのだが、同じことを言っている。だからどうだと言うの?事実なんだからしょうがない。それで私たちは、インターネットもテレビもやめた。洗脳されそうだから。しかし外出もできない。

 まず音楽を聞くことに決める。キース・ジャレットのピアノ・トリオなんかいい。「マッカーサーと天皇のどちらが偉い?」(岩波書店 2011)を書いていたとき、これを繰り返して聞いていた。ときどきはモーツアルトのピアノ協奏曲。これなんか高校時代から聞いているから、オーケストラとかピアノといっしょに旋律を歌うことができる。グローバー・ワシントンの軽くスイングするテナーも、この時代にはいい。親父に教わった。親父は学生に教わったそうだ。
 アコースティック・ギターも弾く。でも下手なんだ。このごろはエレクトリック・ギターで、ごく最近エレクトリック・ベースを手に入れた。音が大きいので、妻がいないときだけ。
 もう一つは、コロナ騒ぎ最中の仕事部屋の片付け。すでにたくさんのものを捨てた。ここに住んで長いけど、いつか使うから取っておこうとか、懐かしいから大事にしまっておいたものも、どんどん捨てた。GoodWillにも持っていったが、本当にずいぶんと捨てた。息子の海太郎が、私の死んだあとに残ったガラクタを整理するのはかわいそうだからね。だいたい私の未来が、どれだけあるか分からないでしょ。過去の思い出なんか、持っている必要はなし。忘れてしまってかまわない。
 食べ物にかんしてはあまり楽しくない。私は毎日あるいは数日おきの食料品の買い出しが好きで、スーパーでどさっと買い込み、いくつもの紙袋をクルマに積み込むのは好きではない。いつも散歩で行く近くの小さな食料品店Yasai(ヤサイ)も閉まってしまった。でもさっきYasaiに電話をしたら、Textで買い物リストを送ったら準備しておいてくれて、店の前までクルマで行けば、ダンボール箱をトランクに運び入れてくれるそうだ。三十年のカスタマーで、いつもお金を払いながらナンダカンダと話す、顔と名前を知られているKenjiだから特別なのかと思ったら、残念ながら誰にでもそうしているとのこと。
 あとはすでに買い込んだ冷凍食品、自分で冷凍した食品、缶詰とお米もたくさんあるからダイジョウブ。そのうえ週に三日間はディナーを配達してくれる会社と契約しているしね。老人としてコロナに閉じ込められても、たべものはある。買い出しにいかなくても、何週間かは生き延びられるよ。

 でも釣りに行きたい。フライフィッシングのキャスティング(ロッドでフライを投げること)が好きなのは、まず後ろに投げて、それから前に投げるから。後ろにちゃんと投げないと、前に投げられない。これがいい。
 いまはシングルハンド(片手で投げる)ではなくて、ダブルハンドをやっている。ダブルハンドは力を入れてはだめで、両手を梃子(てこ)のように使って、かる〜く投げるのがプロですよ。でも妻いわく、釣り場にいったら、友人に会う機会があるでしょ。コロナが飛んでいます。ダメです、家でじっとしていなさい。と言う。
 彼女が特に注意深いのは、一年半前にガンの手術をして、放射線治療も化学療法もして(これはいまも続いている)、体が十分に回復していないから。ここにコロナがとりついたら大変、私がコロナになっても一緒に暮らしているのだから、彼女にうつる可能性が高い。だから結婚三五年、いまは対コロナで団結してます。
 音楽に戻れば、音楽のいいところは、今だということだね。過去でもない、未来でもない。二百五十年ほどまえのモーツアルトが、いまの瞬間を作り出してくれる。その瞬間に入って時間の経過を音で経験すれば、コロナなんかなんともない。お酒の好きな人は、お酒もいいかもしれない。マリワナの好きな人は、マリワナもいいのかな、日本だと大犯罪みたいだけど。カリフォルニアだったら、たいしたことはない。もっとも私は、マリワナもお酒もだめです。偏頭痛がおこる可能性があるから。あれは嫌なものだ。
 毎日、二回は座禅をすること。それにせっせと音楽を聞くこと。座禅は宗教とは関係ない。音楽は毎日の作業で芸術とは関係ない。この二つで、コロナに対している。(二〇二〇年三月二三日)

追記1(三月二四日}
CNNニュースの健康ページに、「結婚生活がコロナから生き延びられるかな?」というのがあった。夫婦で、コロナヴィールスについての考え方が違うかもしれない。コロナにどう対応するか、日常の生き方がそれぞれ違う。それに外出禁止令なので、夫婦がいっしょに家にいないといけない。これは結婚の試練です。

追記2(三月二四日}
LAタイムスによれば、LAのガン・ストアーは、全部閉じることを命令されたらしい。昨日のニュースに、ガン・ストアーの前に人が並んで待っている写真があった。今のうちにガンを買って防衛したほうがいい。ということらしい。今日、LAのガン・ストアーは全部営業停止。

追記3(三月二五日}
コロナ用のマスクに色んなものがある。私の息子の一人は緊急治療室の医者で、マスクは医者個人で用意する。それで頭から顔全体から首までおおう、大きなプラステックのマスクを買って送った。個人で自分を守らないといけない。SF映画みたいなマスクを見て、患者は驚くだろうなあ。

追記4(三月二七日)
金持ちは、ニューヨークを脱出した。ゴーストタウンと化したサンフランシスコ。
https://www.facebook.com/watch/?v=213086639906108

追記5(三月二八日)
パリからのメールによれば、パリの金持ちも脱出したらしい。

追記6(三月二九日)
https://vimeo.com/399733860?ref=em-v-share
このビデオはコロナについて教えてくれる。外では人に二メートル以内に近づかない。帰ってきたら、手を消毒剤と石けんで洗う。顔を手で触らない。目、ハナ、口からヴィールスが体にはいるから。空気伝染の可能性は極めて少ない。街でのマスクは役に立たない。ただしマスクをしていれば手で顔をさわれないから、そういう意味ではいい。

追記7(三月三一日)
握手もせずハグもせず。その代わりに、腕をたたんで肘を突き出し、お互いに肘で突きあう。これがこの数週間の新しい挨拶です。ペンス副大統領も、ヒラリーもやっています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ma9T91pbz_Q&feature=youtu.be

カラダを持つ前のカラダ

笠井瑞丈

DUOの會

4ヶ月稽古していた作品

今回の作品は私と川口隆夫さんとのデュオを笠井叡が振り付ける作品

笠井叡のカラダの半分には、大野一雄氏によって作られた身体性が厳然として存在している

川口さんが大野先生を踊り
私が笠井叡を踊る

過去に笠井叡と大野一雄が踊った三作品
新作一作品を私と川口さんで踊る

1.儀儀 
1963年朝日講堂

私は悪徳の限りを尽くしました
骨の中の住人は火事にあって骨の中から追い出された

この二つの言葉からイメージを膨らます

戦争での体験
死体を焼く炎

記憶にはないカラダの記憶を探る
当時の時代のカラダの匂いを探る

カラダを持つ前のカラダを探る

2.丘の麓
1972年青年座

過去現在を行き来して踊る

私のなかにあなたのカラダが
あなたのなかに私のカラダが

カラダを持つ前のカラダと出会う

3.病める舞姫
2002年スパイラルホール

上星川の稽古場
流れる音楽と共に踊り出す
初めて見た大野先生のリハ

あの時間に立ち会えた事は
かけがえのない体験でした

カラダを持つ前のカラダと踊る

4.笠井叡の大野一雄

レクイエム
大野慶人さんに捧ぐ踊り

初日と二日目が終わり
三日目と四日目は中止となる

私が踊りを始めて
公演が中止になるのは
初めての経験です

今の世の中の状況を考えれば
仕方ないことではありますが

やはり四日間踊りたかったというのが本音

早くこの状況が収まる事を祈るばかりです

コロナこの頃

冨岡三智

コロナ収束には時間がかかりそうだ。1年以上かかるかもしれない。実は、2月末から3月半ばまでインドネシアに渡航しようと、1月下旬に予約を入れていたのだが、2月半ばに取りやめた。行くのは問題ないとしても帰国する頃の状況が不透明、日本に入国できなかったり2週間隔離されたりするかも…という旅行社のアドバイスに従ったのだ。3月2日から日本では小中高の臨時休校が始まったけれど、3月末には収束しているだろうと感じていたのに、結局それどころではなくなってしまった。人の出入国だけでなくて郵便まで制限されてきている。この分だと8~9月にインドネシアに行くのも無理そうか…。今年は行ってやりたいことがあって、時間もとれたのになあと残念だ。

そして非常勤講師で行っている大学の授業だが、4校のうち1校が2週間遅れで開講、1校が1か月遅れで開講、1校が通常開講だけれど1か月間は対面授業禁止(オンライン対応)、1校が通常通り開校である。通常通りというのに驚いたので大学に確認したところ、必須授業が多いので換気等に注意してやるとのこと。5月になる頃にはとりあえずの収束は見えてくるのだろうか。

長い手足と平べったい胸のこと(6)

植松眞人

 トイレの窓から見える空の青さに、私は時間を忘れた。最初はぼんやりと、でも、知らないうちにわたしは空の青に入り込み何も見えなくなって青い世界にいた。青い世界はお風呂に似ていた。パパやママに内緒で深夜に入る静かなお風呂に似ていた。みんなが寝静まったあと、一人でお風呂を沸かして、そっと忍び込むように湯船に入って過ごす時間に似ていた。
 湯船の中は青くはないけれど、空の青さと同じくらいに底なしだった。湯船の底に座っているのに、どこまでも沈み込んでいってしまいそうな心地よさと怖さがあった。誰かがわたしの足を掴んで引っ張れば、そのままわたしはこの世界からいなくなって、誰にも知られずに行方不明になってしまう。それを望んでいるような、怖れているような気分で、わたしはいつもじっと息を殺しながら湯船に身を潜めていた。
 空の青さもそれに似て、こんなににぎやかなはずの学校のなかで静まりかえった空間をわたしにくれる。わたしは真っ青な空に浮かんでただ一人ぼんやりと漂っているような気分になる。アキちゃんやセイシロウはどうしているんだろう。そう考えてはみたけれど、もうそれだってどうでもいいことのように思えてしまって、わたしはただ心地よく空を感じているだけだった。
 ふいに風が吹いた。そして、わたしの身体は青い空の真ん中で揺れた。身体が揺れるとさっきまで感じていなかったわたし自身の身体の重みが感じられて、わたしはバランスを崩した。一度崩れたバランスはもう絶対に元には戻らないと言うことをわたしは知っていた。右に左にへと微かに身体は振り子のように揺れ、その揺れは次第に大きくなり、空の青は少しずつ白っぽくなり、学校中のみんなの笑い声やバカ騒ぎする声がフェードインしてきて、わたしは一気におちた。わたしは自分の長い手足を大きく振って何かに捕まろうとしたけれど、空には何もなかった。そして、わたしの平べったい胸は、風に抗うこともなくまっすぐにわたしはおちた。死んでしまうとは思わなかったけれど、アキちゃんにもセイシロウにもごめんなさいと繰り返した。不思議とパパとママのことは思い出さなかった。いや、正確にはパパとママのことは思い出さないなあ、という形で思い出したのだけれど、それでも順番はアキちゃんやセイシロウの後だったし、それもすぐにわたし自身の平べったい胸が結局は大きくならなかったなあという思いに掻き消された。
 セイシロウが手を握っていた相手がわたしだったら、わたしは嬉しそうな顔をしながらセイシロウの手を握り返していたのだろうか。誰の手も握ったことがないのだから、セイシロウ以外でもいい。誰が男の子から電車の中であんなにエッチでいやらしい手の握り方をされたらわたしは嬉しいのだろうか。たぶん、嬉しいのだと思う。わたしは身長ばかり伸びてしまったけれど、本当は平べったい胸と同じくらいに精神年齢の低い子どもなのだと自分で知っている。知っているから、アキちゃんがセイシロウと彼女が手を握っている様子をみて、すっかり興奮しているのを見逃さなかった。あの時、わたしはセイシロウよりアキちゃんの方が気持ち悪かった。セイシロウは目の前の気持ちよさに酔っていたけれど、アキちゃんは気持ちよさそうなヤツを見て気持ちよくなってしまい、それが恥ずかしいからとセイシロウに当たり散らしていただけだと思う。
 結局、わたしはこの平べったい胸が大好きで大嫌いなんだと思う。身長に見合う大きな胸が欲しいとずっと思っていたのだけれど、それは人としてのバランスが取れるということで、わたし自身が大人になるということなのかもしれない。大人になりたい。大人になんかなりたくない。
「子どもか……」
 とつぶやいた時には、空の青は元通り、トイレの窓から見える小さな四角に切り取られていた。洋式トイレの便座に座ったまま、そこにアキちゃんもセイシロウもいないことがとても哀しかった。普段誰もやってこない南校舎の四階の隅っこにあるトイレにわたしがいるということをあの二人が知らないということがとても寂しかった。その寂しさを映した空が青からオレンジに変わった。日が暮れて、高校生たちの話し声や部活のかけ声や自転車のブレーキの音が入り交じって窓から入り込んでわたしを包んだ。息ができないほどの寂しさにわたしは身動きもできずにいた。わたしの長い手足と身長は中学生だった頃のサイズに戻っていた。まわりに子たちを見て、毎日、あんなふうに大きくなれるんだろうかと悩んでいた頃のようにわたしは小さくなった。その小ささと平べったい胸はバランスが取れていて、わたしはちゃんと子どもになった。子どもになった私は安心してトイレの便座に座り直して、帰り道に家の近くのコンビニでどんなお菓子を買おうとかと、財布のなかの小銭を確かめ始めた。(了)

イラク戦争から17年とコロナ危機

さとうまき

イラク戦争当時、相沢恭行君は、人間の盾でイラクに入っていたのだ。もともと彼はミュージシャンだということを僕は知らなかった。

2003年3月。イラク戦争が始まる直前、僕は、本当ならイラクにいるはずだったのだが、帯状疱疹になってしまい2月の半ばにいったん日本に帰国して1か月ほど日本で様子を見ていた。僕は、そんな状況でもうまく立ち回っていてイラクのビザを取得できたのだが、日本大使館がイラクから撤退してしまい、アメリカの攻撃は避けられなくなってきたのが明らかだった。それで隣国のヨルダンに行って待機していた。

新聞記者やTV関係者がヨルダンに結集していて、毎日それは「お祭り騒ぎ」みたいになっていた。くそみたいなフリーランスもいて、「ボランティアしますから一緒に連れて行ってください」と寄ってくる。大手のTVも、「衛星電話渡しますので、イラクに入ったら一分○○円で契約しましょう」といってくるから面白かった。

僕の仕事は、人道支援だったので、決してそういうお金に目がくらむことはなかったので、彼らがいくら提示したかも覚えていない。いや、その金額を聞いたら目がくらむから、最初から聞こうともしなかったのだろう。NGOでもくそみたいに金を日本政府からもらってた人もいた。ある看護婦は一か月100万円で雇われていた。まあ、そういう金には程遠かったが、メディア関係者は情報交換だといって毎日のように、うまいものを食わせてくれたのでそれくらいの恩恵はあった。

その時、相沢君らは、人間の盾としてイラクに入っていた。サダム政権が崩壊して、すでに人間の盾は必要なくなったので彼らはヨルダンに出てきた。某通信社が、面白い日本人がその中にいるというので、一緒にすしを食うことになり、始めて相沢君に会ったのだ。その翌日僕は、入れ替わりにイラクへ入っていったのを思い出す。

あれから、17年がたっていた。僕は、昨年、「この仕事を潔くやめなさい。」という天の声が聞こえてきて、イラクからは引退することにした。相沢君は数年前から、ミュージシャンに戻って、イラクの歌をアラビア語と日本語で歌たりしてかかわり続けていて、イラク戦争開戦の日にメモリアルイベントをやろうと誘ってくれたのだ。しかし、新型コロナウィルスで、イベントは中止せざるを得なくなった。

幸いにも、会場は、荻窪のThe ancient world というオリエント・ワインを扱うお店の地下室だったので、撮りためた写真を展示してもらうことにした。今回30枚ほどの写真を展示しているが、かなりフォトショップで加工した。2003年の写真なんて、本当にカメラもぼろくて、画素数が荒すぎたりしてクソみたいな写真。それでも、加工してみると面白い。

なによりも、写真に写っている子どもが、もう立派な大人になって、昨年から始まったイラクの汚職追放と、民主化を求めたデモに参加している。例えば、ムスタファは当時8歳で、米軍の空爆で足を怪我した。隣にいたおじさんは即死だった。その彼がデモに参加している写真を自撮りして送ってくれる。17年前、ギプスをしている写真を僕がとってやったのを大事にしていて、送ってきた。そして、デモに参加した友人が怪我をしてギプスをしている写真を送ってくる。「17年前と同じだよ」イラクはいまだにギプスが必要な国なのだ。

しかし、SNS が普及して、すごい時代になっている。コロナで世界中が閉鎖されてしまっても、砂漠の難民キャンプからデンマークに移住したアザット青年は、「マスクがないんだけど、送ってくれない?」って時差も気にせずに連絡してくる。Facebook のおかげで写真に写っている奴らの消息がつかめるのがすごい。

昨日は、モスルの男の子がいきなりビデオ通話してきた。「だれ?」「僕だよ」「うーん、第一どこにいるの?」「モスルだよ」一年間にモスルの小児がん病院のクリスマスパーティに行ったときにたまたま参加していた子供だった。外出ができず暇らしい。イラクから離れた僕にとっては、彼らが連絡してくれるのがとてもうれしい。そういえば、昨年の天の声は、「潔くやめるのがかっこいいぞ」と言ってきたが、イラクにかかわった17年間の写真を改めて焼いてみて、戦場はいつだって泥臭いわけで、潔いとか、かっこいいとかそういうのとは程遠く、写真の中の彼らの成長を見続けていきたいと思うのだ。

コロナが世界規模で大変なことになってきた。経済の打撃は大きくて、貧富の差はどんどん開いていくだろうな。相沢君はミュージシャンだから、ライブのキャンセルが続いていて大変そうだ。それでもぶれずに歌い続けるところがすごい。僕も人のことは言えず、そろそろ仕事を探しに、面接に行ってきたが、マスクかけたままでいいといわれたが、面接官との距離が遠く彼らもマスクかけてもごもごしゃべるから声がはっきり聴きとれないし、換気のためか窓が開けっぱなしで寒い。なんかすっかりやる気がうせてしまった。いやいや、やる気になってもらわないと困るんだけど(これは天の声)

さて、3月31日までの展覧会は、一週間くらい延長することにした。
展覧会に来てくださいとは誘えないが、ワインを買いに来るついでに覗いてほしい。特にアッシリアワインはおすすめ 。


 詳しくはこちら
 http://ancient-w.com/
 展覧会の様子はこちらで配信しています。
 https://youtu.be/9uKnB5ovWTQ

『或る国のこよみ』をよんで・・・(下)

北村周一

世界は無限にふくざつな色に包まれてゐる・・・と、
片山廣子(広子)は、『或る国のこよみ』というエッセイの中で、
ケルトの古いこよみに触れて書いている。
十二ある月のそれぞれに、興味深いことばを当て嵌めながら、日本の古歌もいくつか紹介している。
そのことばの連なりに触発されて、十二の月を短歌にしてみようと思い立った。
けれども、一月から六月まで作ったところで息切れがしたので、
一年を前半と後半とに分けることにした。
そんなわけで、今回は七月から十二月までのこころみとなる。
もう一度、このエッセイの冒頭の部分を引用したい。

一月  霊はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と緑の衣を着る
五月  世界の青春
六月  壮厳
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
  
  *

わたり来よ 霊を呼ぶ声絶えずしてふたつ世界をむすぶ七月

いろどりは多彩なるべし夏の花 におい妖しくひらく八月

色褪めてこその黄と赤もみじ葉の散るものこるも絵となる九月

濡れのこる枯れ葉おちばに足取られふとも溜息落とす十月

冬枯れの木々の切実 老いてなお手と手をつなぎ合う十一月

眠りとはいのりの一部ながき夜を夢にしずめて 聖十二月

  *

或る国のこよみ(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/001346/files/49137_33187.html

骨の部屋

璃葉

墓の香炉をずらすと、穴から墓の半地下、納骨室がみえる。石にかこまれた小さな骨の部屋だ。骨袋を両手でそっと持ち、なかに入れる。その空間に入れた両手首より先が、ひんやり冷たくなった。洞窟や鍾乳洞を歩いたときのことを思い出す。雰囲気は違えども、石から放たれる冷気は嫌ではない。

納骨室の中に10年ほど前におさめた母の骨は、まだちゃんと残っていた。袋が劣化したのか、かけらが少し散らばっている。火葬の骨はどうやら本当に土に還らないらしい。白く、丈夫なままだ。一見、流木や石にもみえる。

母の骨の上に積み重ねるように、父の骨が入った骨袋をおく。そのうちどちらの骨なのかもわからなくなって、混ざっていくのだろう。粉末にして岐阜の山奥にばらまきたい衝動に駆られながらも、両手を室から引っ込める。春先の生暖かい空気が手のひらにもどってきた。ふたたび入り口を香炉でふさぐ。骨の部屋はまた、夜よりも深い暗闇になる。

もっとゆっくり、もっと遅く(帰国記その2)

福島亮

パリを発ったのが3月7日、あの頃はまだ外出も自由にできたし、どこか呑気な空気があった。その前日、ひと月ほどパリを離れるのだからその前に、と思い、シャイヨー国立劇場で名和晃平とダミアン・ジャレによるパフォーマンスを見たが、劇場が暗くなるとみんな一斉に咳払いをし、それがおかしくて笑いが巻き起こった。隣国で病が猖獗を極めていたとしても、それはどこか遠い国の話で、わずかの不安はあっても、冗談めいた笑いがその不安をかき消してくれる、そんな雰囲気がまだあったのである。日本についたのが8日の夜、羽田空港は人影が少なかった。10日ほど前に、参加予定だった学会が中止になったという連絡を受けていた。それでも、他に二つの研究集会に参加する予定だったし、この機会に手続きを終えねばならぬものもあったから、日本に帰ることに揺らぎはなかった。人影まばらな空港を歩きつつ、過密に詰め込んでいた予定に一つ穴が空いたことで、時間にゆとりができたとさえ思っていのだから、思えば相当呑気なものだ。その穴がじわりじわりと広がって、カレンダーが白紙になるとはその頃思ってもみなかった。

結論からいうと、帰れなくなった。どこに? パリに。正確には、僕はフランスの滞在許可証を持っているから、EUに入ることはできるらしい。が、そもそも飛行機がないのである。航空会社に電話をしてみると、相当の減便を行なっているから、まず飛ばないだろう、とのことであった。僕とほとんど入れ違いで、パリでは外出規制がしかれ、EUは封鎖された。幸いなことに、僕自身は、日本についてから二週間以上経つがまだ熱や咳は出ていない。僕の身に起こったことで困ったことといえば、1日に何度も手を洗い、アルコール消毒をするから、掌が少し荒れていることくらいである。それでも、パリに帰れなくなったことは僕の心に不安としてこびりついていて、何とも変な感じなのである。実は帰国したというよりも、生活の場を(一時的に)失ったという方が心持ちとしてはしっくりときていて、日本に帰ってきたのに、帰るべき場所に帰れなくなってしまった、というストレスを感じているのだ。連れ合いにしても、僕が予定日を超えて居候しようというのだから大変である。一部屋しかないアパートに大の大人が二人。たまったものじゃないと思っているに違いなく、些細なことで僕は叱られるようになり、ことあるごとにいつ出て行くのか、実家に帰ってはどうか、トイレの上蓋は閉めろとあれほど言ったのに、と言われるようになった。いや、些細なことという文言は、撤回しておこう。連れ合いにしたら決して些細なことではないのだから。そもそも、9月から留学用の奨学金が給付されるまで、僕は完全な無収入なのだから、連れ合いにしてもとんだお荷物を抱え込んだと思っているに相違ない。そういうわけで、僕も連れ合いも先行きの不透明な状況の中、あまり現実的なことは考えないようにし、水とレモンと蜂蜜があれば楽しめる愛玉子なんぞを作って、風呂上がりに杓子ですくって二人で食うのである。

帰宅するなりその日使っていたマスクを中性洗剤で洗い、スーパーの棚にわずかに残っていた乾麺で夕食を作ろうと、鍋に湯を沸かす。湯が沸くまで、ふととりとめのないことを思って暇を弄ぶ。—衛生の歴史とは過剰さの歴史だったのではないか。注射器などはその良い例だろうが、いまみんなが困っているマスクもそうだろう。徹底的に安く生産され、気軽に買うことができ、いつでも捨てられる使い捨てマスク。いや、本当は捨てなくてはならない使い捨てマスク。使い捨てを運命付けられたこの一枚数円の—いっときはその何十倍もの値がつけられた—不織布は、どこか過剰な存在なのではないか。捨てられるために生産されるものすべてにそういうことができる。プラスチックスプーンしかり、弁当のパックしかり、個包装のビニル袋しかり。そういう使い捨てのものたちが「クリーンな」生活を支えており、そういう使い捨てのものたちが明日の世界を汚している。マスクを洗いながら、もしかしたら、この使い捨てという生産と消費の構造にどこか無理があったのではないか、とふと思う。増産してくれれば、当面はありがたいけれども、それで済む話ではないのかもしれない。まあ、WHOはどう言うかしらないけれども、個人的な肌感覚としては、マスクは予防のために必要なのであって、だからマスクをどれだけ消費しようと、それは過剰ではないはず、とも思う。むしろ、過剰なのは現在の流通システムに対する需要の方である、という冷静な見方もできよう。これら過剰をめぐる独り言は、生産と流通と消費を一つの生態系としてみることを意味するのかもしれない。なに、素朴な、しかもとりとめのない思いつきである。そこに個人的なエピソードを付け加えておくなら、何年か前、家族が病気になった時は、マスクは決して手放せないものだった。抵抗力の落ちた人間にとって、マスクは生存のための必需品だったのである。少なくとも、医学的効果があるかどうかは分からないが、あの頃マスクが手元にあることはどうしても必要なことだった。—そろそろ乾麺を鍋に投入する時分だ。

—そういえば、「生存」という言葉にも、どこか過剰なおもむきがある。日本語の生存にあたるフランス語はsurvivireだが、surという接頭辞の意味を考えるべく、おもむろに辞書を引けば、死の後に依然として生きた状態であること、とある。死の後に、つまり、死してなお、記憶の中にありありと生きていること、という意味。あるいはまた、周囲の者たちが殲滅された状態で、それでも自分だけは生きている、生き残っている、ということか。誰もが受け入れねばならなかったはずの死、その一線を超えでて、どうにか生きていること。つまり、通常なら終わらなければならない生が延長されること。だとしたら、その越え出た生は、死に呑みこまれなかった余りの部分、過剰な生なのか。そういう解釈を支えるかのように、survivreという語には、わけもなく生き続けていること、という残酷な意味もあるらしい。

survivreという単語の意味を調べようともう少しだけ辞書を読んでいくと、「何かよりもずっと遅く生きること」とも書いてある。正しくは、何かよりももっと遅くまで生きること、である。しかしまた、その遅さを時間的な遅さというよりも速度としての遅さとして誤解することはできないか。誰もが死なねばならないという状況で、誰よりも遅くまで生きること、最後の最後まで生き残ること、という意味ではなく、むしろ、誰もが死なねばならない状況で、ゆっくりと生きること、文字通り遅く生きること、そんなふうにsurvivreを曲げて解釈してみることはできないものか。遅さ。それも過剰な遅さ。このろくに収入もない、世間からはモラトリアムと蔑視される生き方でも、実はそういう遅さを失っていると感じることがある。何やら忙しい。あっという間の時間。もしかしたら、この帰国期間は、そういう時間を再考するための試練なのではなかろうか。もっとゆっくり、もっと遅く。—そんなことを考えていると、投入した麺が柔らかくなりすぎている。まずは食わねば。話はその後。

そういうわけで、何やらずっと食っている。食って食って食いまくっている。連れ合いからは、その過剰な腹をどうにかしたらどうか、と言われ続けている。

185 錫の歌

藤井貞和

Tin. きみは源流へ、暗灰白色の自然錫を、
 Tin. 探しにゆく。  イリドスミンのともだちで、
  Tin. 金の隣、白金のうしろ、自然錫。
 Tin. 錫石、鋼玉とともに産する。  きらり、
Tin. きみの山師がうたう、錫。  きらりと、
 Tin. 三十年、探し続けたおまえ。
  Tin. 坑内に山師のかばねはうたう、「ここだよ、
 Tin. 自然は錫を隠す。  そこにしかない、
Tin. New South Walesの源流で。  ここだよ」。
 Tin. 産業革命にも、打ち壊しにも、
  Tin. 生き延びて、ここだよ。  答える、
 Tin. 錫。  母岩が教える錫の歌、聞こえ、
Tin. 貧金属のかばね、β錫。  泣くよ、
 Tin. あかつちのなか、浮く錫のいろ。 
  Tin. 峠の鉱山。  波動が山師を打ち据える。
 Tin. 病名からも生き伸び、黒い谷には、
Tin. もうだれも吸い寄せられない。  危険な、
 Tin. 空笑を、せせらぎに聴く。
  Tin. 林道を逸れて過つ稜線の暗部に、
 Tin. 山師は斃れたな。  腐った僧衣や、
Tin. 錫杖の起源だ、この物語は。
 Tin. 民俗学者よ、語れ。  聖なる盃にひそむ蛇は、
  Tin. 冬を越えて衰弱する。   ほそながい紐になり、
 Tin. きみの杖に棲むという物語。 鈴は、
Tin. 錫じゃなかったのかい。  ヒースの荒地に、
 Tin. 鉱毒を垂らした神話の牛の群れ。 
  Tin. 白亜の壁に歌湧く。  そらに北欧の雲、
 Tin. 極地の微光、凍土の泥炭、ペスト。
Tin. それが歴史じゃなかったのか、と問う。
 Tin. 三月の見えない敵に太陽を。
  Tin. 詩の文法に終りを。  地球はわずかな生存とたたかう、
 Tin. 植物のあとから。 
Tin. 錫は歩む、動物の死滅を履歴する。 
 Tin. 石油を噴き上げる盆地のはんぶん。
  Tin. 魔法数をかぞえる、いまは苦しい、
 Tin. 地底の椀に盛ろう。  僧衣をしぼって、
Tin. 血とパン、イリドスミンの少し、
 Tin. 金の枝の結晶をもぎとるちから。
  Tin. 絞め木にのこる中世の伝説を、
 Tin. 染みこませた赤いアスファルト。
Tin. 溶かし込む数珠。  錫のつばさの、
 Tin. 切片で玉にする数珠の、いまは苦しいな。
  Tin. 山師のうめきが地下で終る。
 Tin. よし、聴く終りに耳を澄ませば、
Tin. あれ、鈴の歌。  聞こえるか
 Tin.

(自然錫はあるのだと輓近鉱物辞典〈木下亀城〉が言う。)

引きこもりを強制される日々

高橋悠治

コロナウィルスのグローバル化とともに 権力をもつ政治家のウソや情報隠蔽 ウィルス検査のサボタージュ 行政末端のごうまんな態度が目立ってくる ジャーナリストで映像作家の アンドレ・ヴルチェックが 飛行機を乗り継ぎながら 香港からバンコク ソウル アムステルダム パラマリボ(スリナム) ベレン(ブラジル)を経由して8日間かけてチリのサンチャゴに着くまでの記録を読み その後でスロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの『コロナウィルスはキル・ビル風の資本主義攻撃でコミュニズムの再発明につながるかもしれない』を読む タランティーノの映画『キル・ビル2』に出てくる必殺技 五点掌爆心拳は 指先で相手の体の5つのツボに当てると 相手は5歩歩いて心臓破裂で死ぬという武術の手だが 民族国家を超えて 世界の連帯と協力にもとづく もう一つの社会が生まれる兆しはまだ見えない 

それどころか 都市閉鎖から国境閉鎖 選挙の延期と権力支配の拡大と延長 アメリカのイランに対する経済制裁の強化と 中国・キューバ・ロシアのイタリーに向けた医療支援の妨害 とりあえずの医薬品となるマラリア治療薬やインターフェロンの無視と使用禁止 というニュースさえ 日本のメディアでは報道されない 御用メディアと 最近では御用学者の声しか聞こえない 冷戦が終わって30年だが じっさいは世界は二つに割れていた 片側にアメリカと EU イスラエル 日本とサウジアラビアがあり 中国とイラン ロシアは反対側にある 経済の崩壊は見えてきたようだ 今の政治体制を支えている経済が崩壊すれば 政治がそれを救うのは 自分の髪を引っぱり上げて溺れまいとするのにも似ている 

13世紀のペストはヨーロッパ中世を終わらせた 1980年代からの格差社会はどうなるだろう 『デカメロン』や『方丈記』のように ひきこもって物語しながら いったい何年待つのだろうか 場のないところで音楽を続けるのはもっとむつかしいかもしれない