004 菅(すげ)詩篇――「水(み)ぐま」

藤井貞和

京王稲田堤(いなだづつみ)駅と、
南武線の稲田堤駅とのあいだを、
ふと道にまよって、菅(すげ)の原、
沼地の奥です。

こすげの白いさきを濡らして、
あなたは京都の沼に去り、
わたしは奈良の「水(み)ぐま」を引き上げると。

み吉野の水ぐまの菅を、
〔み吉野の水隈(ぐま)の菅を〕
編まなくに苅りのみ苅りて、
〔編みもしないのに刈るだけ刈って〕
乱りてむとや
〔乱れるままにしておいてよいの?〕
折口が傑作とする巻十一、
二八三七歌です。

水ぐまって何だろうね、
自嘲の歌だと折口は言う。
いとしい人を手によう入れないで、
いま多摩地の水場に嵌るわたし。

 

(何回目かのまんようしゅうの通読は、まだ本文にかかずらわって、いつ終わるのかな。
み吉野〔之〕ノ水(=み)ぐまが菅(=すゲ)を〔不〕編まなくに、苅り〔耳〕ノミ苅りて〔而〕〔将〕乱り(て)むトや〔也〕
万葉びとの用字をそのまま生かして現代に持ってくる最初の試みだ。だれもやってないね。〔之〕とか〔不〕とかの漢文の助字はかなに変え、上代音(カタカナ表記)を現代語に合わせるまでが許容範囲だろうよ。
み吉野の水(=み)ぐまが菅(=すげ)を編まなくに、苅りのみ苅りて乱りてむとや
かれらの苦心の表記が伝わるでしょう。全部で四五一六首、一通り終わって自分だけが利用している。「三吉野之 水具麻我菅乎 不編尓 苅耳苅而 将乱跡也」(原文)だと、さすがに読める人は現代にめったにいないだろうから、家持(やかもち)さん許して。)

立山が見える窓(1)

福島亮

 窓の向こうの立山は、まだ白い。それでも春は初夏へと着実に移ろいつつあって、我が家の近くでは、チューリップの花弁が散り、ふっくらとした子房が露出している。神通川の土手に植えられたソメイヨシノもすっかり葉桜だ。富山市の駅近くは、おそらく空襲のせいだと思うのだが、古い建物がほとんどなく、街のつくりが幾何学的にできている。とりわけ、神通川に対して垂直にのびる大通りには、欅や花水木といった植物の名前が付けられており、じっさい街路樹として当該の植物が植えられている。だからいちいち地図で通りの名前を確認する必要はないし、おおよその位置関係さえ掴めていれば、目的地まで比較的簡単に行くことができる。それら道標となってくれる植物たちも、柔らかそうな若葉を纏い、日光をほのかに反射して、淡い光に包まれているように見える。それまで室内で保護し、冬の間は水をやらず、干からびていたバオバブも、よく見ると小さな芽を出している。芽を出すための水をどこに隠し持っていたのだろう。

 こんなふうに新天地にも春が訪れているのだが、じつは4月の後半は、せっかく馴染んできた街から離れて、週末は都内にいた。ボリビアの映画制作グループ「ウカマウ集団」の連続上映企画「ウカマウ集団60年の全軌跡」に立ち会うためである。監督ホルヘ・サンヒネス(Jorge Sanjinés, 1936−)の最初期の作品「革命 Revolución」(1962年)から、今回日本初上映となる最新の作品「30年後——ふたりのボリビア兵 Los Viejos Soldados」(2022年)まで、全14作品が新宿のK’sシネマで上映される。この上映を始点として、以降、神奈川、北海道、長野、愛知、大阪……と巡回上映されるというから目が離せない。

 初日は4月26日土曜日の10時30分からで、「革命」と「ウカマウ Así es」(1966年)が上映された。「革命」は白黒の映像と音楽、そして音だけで構成された10分ほどの短編である。小さな劇場にはまだ幸いなことにしっかりとした暗闇があって、その暗闇のなかでスクリーンに浮かび上がる白黒のイメージたち、とりわけ最後に映し出される子どもたちの表情、その目の力、その頬の赤み——きっと、燃えるように赤いはずだ——、その唇の乾燥などが生々しく見えた。続いて上映された「ウカマウ」も、やはり白黒なのだが、今度は台詞がある。ティティカカ湖の島——太陽の島——で暮らすインディオの夫婦と彼らを支配するメスティーソとの言語的差異が印象的だ。その違いはまた、作品中で奏でられる音楽にも表れていて、というかそれこそがこの作品の重要な仕掛けであって、ケーナの音や弦楽器を弓でこする音、そして打楽器の乾燥した音が、本作の最後に用意されたドラマをじわじわと準備しているのである。

 初日の午後に上映された「女性ゲリラ、フアナの闘い——ボリビア独立秘史——Guerrillera de la Patria Grande, Juana Azurduy」(2016年)と「30年後——ふたりのボリビア兵」は、午前中に上映された最初期の作品とコントラストをなすように配置された最新の2作品である。暗闇のなかから浮かび上がる白黒の豊かな世界に浸った目には、これら2作品の鮮やかな色彩はむしろ物足りなさを感じさせもするのだが、「女性ゲリラ、フアナの闘い」は台詞によって、「30年後」は音楽によって、別様の豊かな世界へとその場にいる者を引きずり込む。1932年から1935年にかけてボリビアと隣国パラグアイのあいだで起こった戦争に従軍していた白人兵士ギレェルモと、新婚のお祝いのさなかに拉致され、強制徴用されたインディオのセバスティアンとの間に生まれた友情を描く映画の最後、ふたりがすれ違いそうになる瞬間に鳴るチェロのゆらめくような音は、午前中に観た「ウカマウ」における死者を悼んで老人が奏でるヴァイオリンとの、時を隔てた連続性を感じさせる。

 このような映画を観られるということ、そしてなによりも、「ウカマウ集団」と太田昌国らシネマテーク・インディアスとのあいだに築かれた関係性を目撃できることを嬉しく思う。

 今週末もまた、「ウカマウ集団」にとっぷりと浸ろうと思う。

水牛的読書日記 2024年4月

アサノタカオ

4月某日 キム・ジニョン『朝のピアノ 或る美学者の『愛と生の日記』』(小笠原藤子訳、CEメディアハウス)を読む。著者は、韓国でドイツ・フランクフルト学派の批判理論(アドルノ、ベンヤミン)を研究する哲学者・美学者で、フランスの思想家ロラン・バルト『喪の日記』の韓国語訳者。本書は、そんな人が病の宣告を受け、命を終える3日前までメモ帳に遺した随筆的な断章集だ。闘病の渦中で、「新たな生」を願う痛切な自己省察のことばが深く身に沁みる。

小さな、美しい本。昨夜、SNSでふと刊行情報を見かけて、いてもたってもいられない気持ちになり、書店に駆け込んで本を買ったのだった。よい本に出会った。明日からの旅の道中でもう一度読み直そう。

4月某日 花曇りの京都へ。東九条の京都市地域・多文化交流ネットワークサロンで、久保田テツさん監督『ここのこえ~藤やんと西やん』の初上映会が開催され、上映後のトークにBooks×Coffee Sol.店主で東九条マダン実行委員のやんそるさんとともに出演し、コメントをした。

『ここのこえ』は、大阪・西成で野宿生活をしていた「藤やん」と、「西やん」こと看護師で臨床哲学者の西川勝さんとの対話を記録した映像作品。藤やんは生活保護を受給し、衣食住に困ることはなくなったが、その矢先に余命3か月を宣告される。「なんで、もう死にそうな自分が幸せなのか、わからん。なんでや」と問う藤やんのベッドサイドで、西川さんが哲学者として応答する。静かな、真剣勝負の時間。時に「そうやなあ……」と「西やん」の言葉を呑み込むように納得し、時に「そうかなあ……」と身をかわすように視線をそらす藤やんの一瞬一瞬の表情。そこに、「ひとり」を生き抜き、「ひとり」を考え抜いた人間の顔が迫り出してくる——久保田さんの映像に目を瞠り、深い感銘を受けた。そしてやんそるさんが西成と東九条の地域社会、在日コリアンと韓国・光州事件の歴史をつなげて語るこの作品についてのコメントは、胸を打つものだった。

上映後に関係者の案内で、桜を眺めながら高瀬川沿いを散策し、京都市立芸術大学の地域交流施設「崇仁テラス」を見学した。その後、鴨葱書店を訪問し、『ことばの足跡』(あかしゆか・大森皓太・韓千帆・椋本湧也、ユトリト)を購入。4人の著者による、「あいうえお」以下50音順の単語を題にしたエッセイを集めた本。「台所」という作品がよかった。

翌日、三重・津のひびうた文化協会で「ともにいるための作文講座」の講師をつとめるため、近鉄の特急電車で夜の京都駅を出発。

4月某日 日本のカウンターカルチャーをテーマにするドキュメンタリー映画『inochi』を監督として製作中の写真家・映像作家、宮脇慎太郎。彼の誘いで、新宿の路上で行われるラストシーンの撮影に立ち会うことになった。

伝説的なヒッピーコミューン「部族」の元メンバーで、諏訪之瀬島に暮らした詩人・長沢哲夫さん(ナーガ)の立ち姿に、ムービーカメラを向ける。と、高層ビルの隙間から夕陽がさしこみ、詩集のページを開く詩人の顔をやわらかな黄金色に染め上げたのだった。

4月某日 今春から大学での編集論のほかに、専門学校で留学生にアカデミック・ライティングを教えることになった。ミャンマー、ネパール、ベトナム、韓国、中国、モンゴルなどアジアを中心に世界各地からやってきた意欲的な学生とのたのしい会話に刺激を受けている。

4月某日 東京は雨。大学で編集論の授業を終えた後、閉店前の機械書房へ。「随筆復興」を掲げる文芸誌『随風』(書肆imasu)を購入。同誌の寄稿者でもある店主・岸波龍さんから、かとうひろみさんの小説「陰膳とスパゲッティ」を推薦してもらった。掲載誌『るるるるん』vol.5も入手。

4月某日 夜、世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)。

4月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第6章。今回は差別の歴史と構造について、人々の生きる年月について。じっくり読み続けることでようやく見えてくる人間の真実がある。

4月某日 昨年に引き続き、東京・神保町の韓国書籍専門店チェッコリで「書評クラブ」を主宰することになり、第1回を開催。これからメンバーは各自、韓国文学の小説から「推し本」を選び、レビュー執筆に取り組む。そして作品を集めたZINEを制作し、11月に開催されるK-BOOKフェスティバルや全国の書店で販売することを目指す。楽しみだ。

4月某日 韓国の作家ファン・ボルムの読書エッセイ集、『毎日読みます』(牧野美加訳、集英社)を読む。ベストセラーから硬派な人文書まで、紹介される書物をめぐる話はどれも興味深いものだった。何よりも、「こんなふうに本について語れたら……」と憧れを感じさせる軽やかな文体に、魅了されたのだった。犬吠徒歩さんの絵で飾られた装丁もよい。

愛する本について語り、愛する人びとについて語る作家の親密な声の余韻に浸りながら、もっと本を読みたいと思ったし、読んだ本について誰かと語り合いたい、と思った。

4月某日 夜明けに目覚めたので、早朝の海辺を散歩し、曇り空の下で貝殻や小石を拾ったりした。

散歩の後、今日は1日集中して読書をしようと決心し、文化人類学者イリナ・グリゴレさんの『みえないもの』(柏書房)を読む。これまで、人類学と文学が交差する領域の本をあれこれ探して読み継いできたが、この作品は出色の一冊だと思う。ことばによって、ことばの外側にふれるような文章を読みたいとつねに願ってきたのだが、まさにこれがそれだと直感した。

「知らないだけで終わらない、光を追うのだと知らされる」。表題作「みえないもの」の最後に置かれた目の覚めるような一文に導かれて、前半の色鮮やかな生命の世界から後半の「彼女」の物語に入り、息をのんだ。読む目が凍りついた。

どこで「私」が終わり、どこで「彼女」がはじまるのか。どこで事実が終わり、どこで夢がはじまるのか。どこで人間が終わり、どこで虫がはじまるのか。自他が相互に溶け合うほの暗い文の世界で、悲しみ、痛み、感情や感覚のヴェールを歯ぎしりしながら一枚一枚めくり、〈彼女たち〉の記憶の奥へと恐る恐る進む。そして最後にページを閉じた瞬間、きわめて重要な沈黙の教訓が自分の元に来訪したように感じて、いまもからだの芯が震えている。それが何だったのか、この本を何度も読み返しつつ人生の中で考えてみたい。

4月某日 東京は雨。大学で授業を終えた後、機械書房へ。江藤健太郎さんの新刊小説集『すべてのことばが起こりますように』(プレコ書房)の即売会が開催されていたので本を購入し、店主の岸波さんの紹介で作家の江藤さんのお話を聞くこともできてよかった。帰路の電車内で読み始めたのだが、冒頭の一編「隕石日和」から独特の小説世界に引き込まれる。

4月某日 関西を旅するハーポ部長から編著『本のコミューン』(文借社)が届いた。東京・下北沢にあったブックカフェ気流舎の活動記録集。以前、お店で開催された今福龍太&上野俊哉両先生の対談、「メキシコの真木悠介」も掲載されていて、これにはぼくも参加したのだった。本とともに、詩人のミシマショウジさんらのZINE『詩の民主花』(黒パン文庫)も添えられていた。

午後は、東京・吉祥寺へ。快晴、初夏の暑さを感じて上着を脱いだ。移動中の電車で、宮内勝典さんのエッセイ集『海亀通信』(岩波書店)を読む。

話の話 第26話:備えすぎて憂いなし

戸田昌子

わたしはまた、京都に来ている。昨年は、たぶん、6回から7回、京都に来た。回数が正確でないのは手帳に行動記録を書き留める習慣がないからだし、万が一そうしていたとしても、手帳が見つかるとは限らないし、たとえ見つかったとしても、このわたしが手帳を開くとも思えないので、わたしの記憶は決して正確な記録と折り合うことがない。そしてなにはともあれ、わたしは京都に来ている。しかも今回は、帰りの新幹線までちゃんと予約してあるのだ。けれどいま、新幹線予約アプリを開いて確認すると、わたしはどうやら、「また」、こだまを予約してしまっているらしい。ゴールデンウィークだからと言って、今回は用意周到にも、1ヶ月前に行きも帰りも予約したというのに、わたしはなぜ、また、間違えてしまったのだろうか。それは一体、のぞみでしょうか? いいえこだまで……。

ちょうど東京が暖かくなり始めたところだったから、用意周到にも、服はノースリーブまで用意してあった。しかし出発の朝の東京の冷え込みは激しく、こんなふうなら京都はもっと寒いだろうと考え、出発直前にタイツを2枚ほどスーツケースに押し込んだら、案の定の寒さで、すでに防寒着は足りない。しかもわたしが滞在している「下鴨ロンド」は古民家で、まだ改築が終わっていないので、窓ガラスが割れているところもあれば、壁がひび割れているところもあり、さらには天井が抜けているところさえあるため、ほぼほぼ「トポロジー的には外」なのだ。下鴨ロンドはわたしが2年余り前からシェアメイトをしているシェアハウス的な施設で、運用が始まって3年目に突入している。その間、シェアメイトたちは自身でキッチンの床板を張り替えたり、庭の大きな切り株を呑気に引っこ抜いたりしている。そんな調子なので、改築にはあと数年はかかるだろう。そう鷹揚に構えながらわたしは湯たんぽをベッドに仕込み、寒い寒いと言いながら最初の晩は眠りについた。そして翌朝、凍えながら目覚め、ふとカーテンを開けると、窓がしっかりと開いている。なるほど、寒いわけである。

備えあれば憂いなし、という言葉がある。娘が幼稚園に通い始めたばかりの頃だから、3歳くらいだっただろうか。用意周到で失敗をしたくない性格の娘は、トイレトレーニングで失敗すれば、幼稚園に通いたがらなくなってしまう恐れがあった。幼稚園からの指示で、毎朝、予備のパンツを1、2枚持たせて送り出すのだけれど、その数が間に合わずに幼稚園の共有のパンツを借りて帰ってくることが何度かあった。失敗を好まない娘はどうやら、そのことに忸怩たる思いを持っていたと見え、あるとき、「幼稚園のパンツをはきたくない」とわたしに訴えたことがある。それは気づかなかった、悪いことをしたなぁと思い、その翌日、パンツを8枚、小さなリュックに押し込んだわたしは、「どんなに失敗しても大丈夫、間に合うよ」と娘に伝えて送り出した。あとで先生が話してくれたことには、その朝、娘は先生に会うなり「きょうはパンツ、はちまい、ありますから、だいじょうぶ!」と誇らしげに伝え、結局、その日は一度もトイレの失敗はしなかったのだという。それ以来、幼稚園でのトイレの失敗は劇的に減ったのであった。用意周到であることの大切さを学んだ出来事である。

失敗をしないように準備をすることも大切だが、失敗をした場合に、いかにそれを回収するかも大事である。わたしは小学生のころ、鍵っ子だった。6人兄弟だから、全員が鍵っ子でもおかしくないところなのだけど、実はわたしだけが鍵っ子であった。どういうことかと言うと、両親が共働きの家庭だったので、本来ならわたしも学童クラブに入るべきところを、なぜか母は断固として「まあちゃんは学童クラブなんて好きじゃないから申し込まない」と決めつけたのである。「まあちゃんは、家でひとりで本を読んでいたいんでしょう」というのが母の主張で、わたしのほうはと言えばそれほど強い意志もないまま、なるほど母がそう言うのならそうなのだろう、と素直に納得し、ひとり鍵っ子になった(他の子は全員学童へ通っていた)。だから誰よりも早くに帰宅すると、ランドセルの小さなポッケに入っている鍵をひっぱり出して、自分で鍵を開けて家に入るのだけれど、使ったその鍵を、なぜかわたしはしばしば元に戻さなかった。その理由は明らかでないが、帰宅するとランドセルを玄関に放り出し、そのまま玄関で本を読んでいたという、うっすらとした記憶はあるので、そんな調子で鍵をそこらへんに放り出してしまっていたようである。だから鍵がランドセルへ戻らなかったその翌日は、帰宅しても鍵がない、ということが起きる。そんな日は仕方なく、誰か他の子が帰ってくるのを玄関にしゃがみこんで待つことになるのだが、そんなときはもちろん、読みかけの本が役に立つ。そういったことがしばしばあったので、用意周到なわたしは、ランドセルに読み差しの本を入れておく癖がついた。鍵を元に戻す癖はつかなかった。

しかし、帰ってくる他のきょうだいを待てばいいとは言っても、彼らの学童が終わるのは5時ごろで、わたしが帰宅するのはせいぜい3時過ぎなのだから、寒い冬などはかなり辛いものがある。自宅は4車線ある国道に面した三階建ての鉄筋コンクリートのビルだから、裏口もないし、1階は階段に続く玄関スペース以外は店舗貸ししていて、家に入り込むことはできない。そんな隙間は、あるはずもない。いや、ないわけではない。玄関の脇、地上160センチくらいの高さに、明かり取り程度の小窓がある。その窓は隣接するビルに面する壁側についていて、ビルとビルとの隙間は、およそ60センチである。しかしそんな窓から入れるわけがない。いや、入れるわけが……と考えた挙句、ものは試しだと、その隙間に体を差し入れてみた。小学生の子どもの体なので、意外にスイッと入れる。しかし問題は、自分の背丈よりも高い場所にある窓によじ登って侵入できるかどうかである。手を伸ばせば、窓に手は届く。鍵は……開いている。そこで体をよじらせ、ビルの壁と壁との間にうまく突っ張らせながら登ってみる。小さな子どもの体なので、意外にも登れてしまう。慎重に上半身を窓から差し込み、どうにかうまく下半身もすべり込ませる。無事に侵入成功。玄関の鍵を開け、扉の外に置いておいたランドセルを回収して、何事もなかったかのように自宅に帰還したわたしは、やはり本を読み耽り、鍵を探そうとはしないのであった。この玄関窓の鍵についてはわたしはその後「用意周到にも」閉めずに放置する習慣がついた。そんなわけでわたしはその後、たびたび家宅侵入を繰り返すことになる。

関係のない話だが、フランス人はレタスを振る、という話がある。この話がどこにあるのかというと、わたしの妄想のなかにある。どう考えても、フランスに長年在住している姉か妹のどちらかに聞いた話なのだけれど、いまふたりに尋ねても、そんな話をしたという記憶がないと言うので、この話はもう完全にわたしの妄想の中だけに存在する話である。説明すると、まず、サラダスピナーと呼ばれる、まるで洗濯機のように洗った野菜の水を切るための道具がこの世には存在している、というところから話は始まる。もしあなたが水っぽいべちゃべちゃしたサラダを食べたくないなら、洗ってちぎったレタスをこの道具の中に入れ、紐を引いたりつまみをぐるぐる回したりして、水を切るべきである。基本的にプラスチック製のこの道具は比較的近代のものなので、それ以前の人たちはどうしていたか。また、こんな道具がなかった時代の人はどうしていたか、というのがこの話のキモである。ちなみにフランスの集合住宅はキッチンが窓際にあることが多いので、昔の人はレタスを洗うと、ちぎったりせずに丸ごとそのまま窓のところへ持って行き、逆さにして、ぶんぶん振っていたのだと言う。たとえばのんびりした日曜の朝などに、そうやってレタスを窓で振っていると、お向かいのキッチンの窓でも、お隣のキッチンの窓でも、同じようにレタスを振っている人の姿がちらほらと見られる。するとフランス人のことだから、レタスを振りながらおしゃべりを始めてしまうので、延々とレタスは振られ続けることになり、いつまでたっても朝ごはんが始まらない、という極めてフランス的な朝の風景についての話なのだが、このような風景は、用意周到に準備されたサラダスピナーの出現によって消えていったのだ、と言う。しかしこの話をしてくれたのが誰なのか、事実なのかどうかは今ではすでに明らかではない。ちなみにレタスはフランス語では「れちゅ(laitue)」である。フランス人はもうレタスを振らない。もう森へなんか行かない。

昔、「ゲルパーティ」という遊びがあった。あるとき、大学の部室でやることがないままダラダラとしていたときに、先輩の一人が「ゲルパーティをやろう」と言い出した。なんのことかときょとんとしていると、「おまえはゲルパーティをやったことがないのか」と言われ、なんだかよくわからないままに「買い出しをするぞ」と言う先輩についてコンビニへ行くことになった。とにかくゲル状のものをひとり3、4個買うように指示され、ゼリーやプリン、ヨーグルト、しまいには豆腐までもが買われていく。皆で部室へ戻ってくると、じゃんけんで順番を決めてルーレットを回す(用意周到にも、部室にはルーレットが用意されていたのだった)。そしてルーレットの出た目の数だけ、ゲル状の食べ物を選んで食す。ここでいきなり「6」などの数字を引いてしまえば地獄である。1周目でもう脱落者が出ることになる。最初は回避したとしても、2周目、3周目と回ってくれば腹は膨れるし、酒などの回し飲みなどと違って酔うこともないから、盛り下がることこの上ないゲームである。参加者はだんだん白目を向いてくる。最後まで残った人間の勝ち、というルールだったが、勝ったとしても、全然嬉しくないゲームであった。あのパーティがあの部室で、現在でも今でも行われているのかどうかは、寡聞にしてわたしは知らない。

しかしやはり、備えすぎてしまうものの代表は、旅先で読む本の分量ではないだろうか。旅先では、昼は仕事や観光のために忙殺され、夜になれば当然のように酒を飲んでしまうため、本を読む時間などほとんどない。そう考えれば、お供の本は1、2冊で十分なはずなのに、なぜわれわれは最低でも4、5冊、しかも分厚い単行書さえカバンに入れてしまうのか。旅先でカバンの重たさに耐えかねて郵便局で荷物を自宅に送る手配をするたびに、用意周到さもたいがいにしたほうがいいのでは、と自省する日々である。

そういえば、映画「新幹線大爆破」のリメイク版がNetflixで配信されていて、なかなか評判がいいらしい。ちなみにオリジナルの1975年版で爆発物が仕掛けられた新幹線は、「ひかり109号」であったが、今回は東北新幹線「はやぶさ」が舞台なのだそうだ。のぞみでしょうか、いいえひかりで……いやいや、今回は、こだまで帰ります。

夜の山へ登る(2)

植松眞人

 ほら、うちの学校は昔から演劇が強かったやろ。県の演劇祭にも出て、賞をもらったりしてたらしい。中学の演劇部って、わりと適当なとこが多いから、演劇祭に出ても目立つらしいわ。だいたい秋になると、演劇部が決勝に進んだいうて、野球部とかサッカー部みたいに、クラスから何人か代表で応援に行かされてたやろ。大きなバスに乗せられて。なんでも、演劇部ができたときの顧問がゴリゴリの左の人やったらしいな。その先生がよう言うてたらしい。
「芝居っちゅうのは、みんなが手を取り合った新しい目標に向かうための運動なんや」
 なんでも、その初代の演劇部の顧問の先生はもともと役者をやってた人で、東京の演劇界にも知り合いがおったらしい。そやから、たまに関西で公演があったら、知り合いの有名な役者を学校に呼ぶんやて。いまとちごて、中学生いうたらまだまだ子どもや。東京から役者が来るいうたら、知らん役者でもみんな大騒ぎやったらしいわ。そんなんやから、毎年、新入生がぎょうさん入るし、賞も獲るしな。僕らのころは、まだその頃の名残があったんちゃうかなあ。
 おまけに、僕らの頃の演劇部の顧問が黒部先生や。そうそう、あのええカッコしいの黒部や。その黒部が文化祭で劇をやるいうたら、演劇部の芝居でもないのに全部チェックしてたらしいんや。そやからあの時も、ほんまは予行演習で黒部と教頭が劇の脚本とか中身とか、合唱のクラスの選曲とかをチェックしてたらしい。うちの担任やった小林先生はチェックされたら、「なんやこれは、ちゃんとした劇をせえ」と怒られると判断したんやろな。「うちのクラスは、まだ見せられる段階やないんです。けど、中身はこぶとり爺さんです」言うて誤魔化したらしいわ。絶対、あとで学年主任と教頭に怒られたと思うけど、小林先生、どっちも大嫌いやったからな。
 僕、一回聞いたことあるねん、小林先生に。「先生、黒部のこと嫌いでしょ」
 そしたら、小林先生はニヤッと笑いよった。
「おかしいやろ」
「なにがですか」
「日本の西洋の演劇はだいたい左翼が始めたんやで。チェーホフとかな。ああいう、ロシアの演劇が共産運動と一緒に流行ったわけや。ということは、黒部先生も左翼の端くれなわけよ。そやのに、劇をチェックするって、検閲やんけ。僕はそういうのがめちゃくちゃ嫌いやねん。演劇祭で賞を獲ったかどうかしらんけど、ちょっと目立ったら、教頭と一緒に検閲する側におるって、戦時中のアホな軍人と一緒やないか。あかん。絶対ゆるさん」
 言うてるうちに、小林先生、本気で腹が立ってきたみたいでな。だんだん顔が赤なって。まあ、そんな小林先生の心づかいで、僕らの芝居は無事に文化祭で上演されたというわけや。
 けど、うちのクラスの劇はえらいウケてたなあ。生徒にも保護者にも。まあ、ウケるわな。あんなアホみたいな芝居、僕もいまだかつて見たことないもん。クラスのほとんど全員が舞台に立って、好き勝手に昆布みたいに揺れてるだけやで。
 みんな、あんたのおかげで、面白い体験ができたいうて喜んでたけど、ホンマはあんたは賑やかなことが嫌いなだけやった。文化祭の帰り道で一緒になったとき、あんた言うてたなあ。
「妙に盛り上がって、しんどかったな」
 そう言うて、なんや知らんけど、えらい寂しそうな顔したなあ。僕はあんたのあの顔が忘れられへんのや。自分で盛り上げといて、盛り上がったクラスに溶け込むわけでもなく、仲間はずれにされたみたいな顔してた。そうか、あんたはあの頃から、まわりとうまいこと折り合いを付けられへんかったんやなあ。
「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」
 あんたがそう言うたのは、そろそろ僕の家に着くかなと思ったところやった。六甲山か夙川の海と言われてもなんのことかわからへん。僕はしばらくあんたを見てた。あんたも、しばらく黙って僕を見てた。僕がなんと答えたらええのかわからんといると、あんたはまた寂しそうな顔して笑った。
「ほな、また明日な」
 あんたはそう言うと僕の家の前を通り過ぎた。文化祭のその日は日曜日やったから、次の日は代休で休みやった。そして、その翌日の火曜日、僕が学校へ行くと、あんたはおらんかった。小林先生から、吉村君は転校しました、いうて短い報告があっただけで、あんたの話は終わった。クラスの男子が何人か集まってあんたの話をしたけど、どこに転校したのか誰も知らんかった。(続く)

アロエ座

芦川和樹

灯、灯ここまで
来ましたね」がま口がいいました
ま王になって、待っていました
あけがた(明け方)は
とっくによみおわってしまって
ほらそこに、たたんであるでしょう
きんようびにはその状態でしたよ」
かさ、がひつようだったので
――小料理屋にて
あの日はスープをいただきました
ですから、帰りはさじ(匙)をさしました
天候
は、さまざまです」アロエが風向きを‥
                 し
                 へ
問がうまれて
襟から、エスケープしていく
ユーカリがそれを手伝う
肩が凝る
はしごがあれば
らくだし
探偵たちを、あざむけるのに
――ちょっと先を見すえる
いすと(椅子と)
いすをほどいた糸
家具だったものがもういちど
うまれなおすときの
学問
フェルトの国

灯、灯とうとう!
ここまで来ましたね」ま王、菜種油を飲む
うがいして、手を洗うアロエ
(手を洗って、うがいするアロエ)
ハンカチをください
――タオル、タオルケット
がま口の喉をなつだという
夏季だという、花器だという
ながいときがながれました

」向かいあって、無機質だといいました。どちらかがいいました、ここにはふたつの生体があり、難しいことを考えたり、できるだけ考えなかったりすることで、たまにほほほと笑います‥

プチプチ

篠原恒木

おれはプチプチが欲しかった。

プチプチ。

これで通じますかね。どう考えても俗称だよね。

おれは段ボール箱に品物を入れて宅配便で発送しようとしていた。あいにく大きな段ボール箱が自宅になかったので、宅配便の営業所まで出掛け、無事に購入できた。だが、送りたかった品物はいわゆる「ワレモノ」だったので、箱の隙間に入れる「アレ」が必要だった。

そうです、「アレ」とはプチプチのことです。あのプチプチも必ず宅配便の営業所で買えると思っていたのだが、プチプチは正式には何という名前なのだろう、とおれは営業所の受付で逡巡してしまった。気が付くと口をついて出てきた単語はやはり、

「プチプチ」

だった。オノマトペと言えば聞こえはいいが、六十四歳のジジイが言う言葉としては間抜け以外の何物でもない。
「プチプチ、ありますか? あの、隙間に詰めるプチプチ」
受付の女性は言った。
「緩衝材、置いていないんですよ」
そうか、緩衝材か。言われてみれば確かにそうだ。目から鱗だ。立派な一般名詞ではないか。断じてプチプチではない。不明を恥じた。我が語彙力の欠如を嘆いた。でも通じた。通じりゃいいんだよ。よかったよ。
「そうですか。どこへ行けば売っていますかね」
「ホーム・センターなら確実ですね」
しかし最寄りのホーム・センターは歩いて行くのには遠すぎる。おれは質問を変えた。
「ドン・キホーテで売っていますかね?」
「ああ、売っていると思いますよ」
よかった。ドン・キホーテなら宅配便の営業所からすぐのところにある。おれは早速ドン・キホーテへと足を運んだが、緩衝材の売り場が見あたらない。店員の女性に訊いた。
「緩衝材はどこにありますか?」
「カンショーザイ?」
通じない。おれは質問を変えた。
「プチプチはどこにありますか」
「ああ、プチプチですね。こちらになります」
親切な店員はそう言って、おれをプチプチ売り場まで案内してくれた。何のことはない、一般名詞の「緩衝材」より、俗称の「プチプチ」のほうが人口に膾炙しているではないか。

のちに調べたところ、「プチプチ」の名前は正式には「ポリエチレン気泡緩衝材」と言うらしい。しかしですね、売り場で
「ポリエチレン気泡緩衝材はどこに置いてありますか」
と訊く客がどのくらい存在するのだろうか。やっぱりプチプチだよなぁ。

昔はあのポリエチレンに包まれた気泡をひとつひとつ、丹念につぶしていましたよね。つぶすたびにプチプチとしか形容できない音がしましたよね。つぶしていくのに飽きると、雑巾を絞るようにねじりましたよね。するとプチプチではなく「ブチブチブチブチブチッ」と派手な音がしましたよね。あの一連の行為の何が楽しかったのだろうといまでは思うが、それはともかく、あれは「ポリエチレン気泡緩衝材」ではなく、断乎として、恥じることなく「プチプチ」と呼びたいとおれは思う。

そうだ、こうなったら、プチプチに見倣って、あらゆるものをオノマトペにしてしまおう。
「すみません、ネバネバ売り場はどこですか」
と、店員に訊くと、納豆のコーナーに案内してくれるかもしれない。そこでおれは言う。
「違う違う。ネバネバはこれじゃない」
おれが欲しかったのは、めかぶだ。
「プルプルをください」
ゼリーを持ってきてくれたが、残念、おれが食べたかったのはわらび餅だ。
「ホクホクはどこに置いてありますか」
店員はジャガイモ売り場へと案内してくれる。惜しい。おれはサツマイモが欲しかった。
「カリカリが欲しいんですけど」
かりんとうを出してくれたが、おれの目当ては芋けんぴだった。
「スパスパをください」
「どれになさいます?」
ずらりと並んだ煙草の棚を指さして、店員は言った。そうなるよな。
「ぞろぞろをください」
とお願いすると、草鞋を出してくれた。店員は落語好きのようだ。
「じゃあ、つるつるはありますか」
そう訊くと、着ているものを脱いで縄を拵えてくれたが、落語はもういい。おれが欲しいのは蕎麦だよ。ついでにもうひとつ。
「だくだくはありますか」
「だくだくと血が出たつもり」
しつこいな。落語はもういいと言っているのに。欲しいのは牛丼のつゆだくだよ。

ううむ、こうやって考えていくと、やはりプチプチという俗称は最強なのだということがよくわかる。ほかのものは通じるようで通じないもんね。ワンワン、ニャンニャンと肩を並べるレベルだよ。すごいな、プチプチ。

だが、さらに調べると「プチプチ」という名称は、川上産業株式会社の登録商標だというから驚くではないか。俗称などではなかったのだ。ああ、知らなんだ。ちなみにプチプチは川上産業が日本独自で初めて製造・販売を始め、いまでは同業界の六十%のシェアを維持しているという。すごいな、川上産業。会社の名前も知らなかったけど。

ということは、そう、「プチプチ」は「セロテープ」「バンドエイド」「サランラップ」「エレクトーン」と同じ仲間なのだ。これからは口の利き方に気を付けよう。だって、川上産業以外のポリエチレン気泡緩衝材に対しては「プチプチ」と呼称してはいけないのだからね。まあ、「いけない」とはいえ、罰せられたり、第三者委員会が立ち上げられたり、コンプライアンス懲罰委員会に呼び出されたり、家宅捜査を受けたり、謝罪会見に追い込まれたりするわけではないのだが、社会人としてそこんとこはちゃんとしなければならないと、おれは思うわけですよ。
したがって、ワレモノなどを梱包するとき、気軽に、
「あ、そこのプチプチ取って」
などと言ってはいけない。ちゃんとメーカーを調べて、川上産業以外のものだったら、
「あ、そこのポリエチレン気泡緩衝材を取って」
と、言いましょうね。めんどくさいけど。

最後にクイズだ。次のなかから商標登録されていないものを選べ。
・ウォシュレット
・シーチキン
・美少女
・テトラポッド
・体育会系
・ボランティア
・万歩計
・リストラ

正解者の中から厳正な抽選によって、重量1トンのテトラポッドを1個、プチプチにくるんで発送させていただきます。当選者は商品の発送をもって代えさせていただきます。商品の発送料は当選者負担となります。

家に帰る気分

若松恵子

4月29日に横浜のサムズアップというライブハウスで仲井戸麗市のソロライブを見た。横浜駅西口にある、ムービルという映画館が入っているビルの3階。案内板には「アメリカンバー」と書かれているライブハウスで、店内にはニール・ヤングの肖像が飾られていたりする。ハンバーガーもフレンチフライもおいしいサムズアップ、120人も入れば満員のアットホームな場所だけれど、来日した渋いミュージシャンがライブをする場所としても有名だ。今回は、サムズアップの27周年をお祝いするライブとして企画された。

仲井戸は、演奏の合間に「サムズアップにちなんだ選曲をしてきた」と言っていたけれど、演奏された20曲はカラフルで、何となく選んだみたいに語っていたけれど、あとから思い出してみると、サムズアップに心寄せて考え抜かれたものだったなあと思った。ギター1本と歌と時々入れるリズムボックスだけで、バンドサウンドに引けを取らない世界をつくっていく。仲井戸麗市のなかに流れ込んでいる様々な経験が織り込まれて、昔の歌も決して懐メロにならない、そんなところに魅力を感じる。

忌野清志郎の危篤の知らせを聞き、病院に駆けつけたのはサムズアップのライブのすぐ後だった、そんなことを今朝想い出した、と、ぽつんと語ってジョン・レノンの「オー・マイ・ラブ」がインストルメンタルで演奏された。そのあとの「夏に続く午後」と、ボブ・ディランのカバー「アイ・ウォント・ユー」は、私にとってのその夜のハイライトだった。

若い頃のディランみたいにギターの前にマイクを置いて、かき鳴らしながら歌った「アイ・ウォント・ユー」は、仲井戸の日本語訳詞で歌われた。うんざりするような日常のあれこれを数え上げ、そこに「きみがほしい」というひと言を突然挟み込んでくるディランの歌。仲井戸麗市は「きみがほしい」を「会いたいぜ」と歌った。

君がいつも そばに 居た時には
決して 気が付かなかった事
そんな悔やむ事が 今 君をこんなに恋しくさせる
Ⅰ Want You Ⅰ Want You Ⅰ Want You 会いたいぜ
Honey I Want You

替え歌というわけではなくて、ディランの曲から受け取ったものが仲井戸の歌に変換される。偉大なロックの名曲を受け継いで、そのうたの器にのせて、ある日の揺れた心が歌われている。仲井戸麗市のカバーの魅力はそんなところにあるのだ。会いたいのは、もちろん清志郎のことだろうが、清志郎の事だけでもないはずだ。

アンコール前に歌われた「フィール・ライク・ゴーイング・ホーム」もまたカバー曲だ。仲井戸麗市のライブに通い始めた頃によく演奏されていた曲で、思い出深い。「家に帰る気分さ」と歌う時の「家」は、単に我が家の事だけではなくて、「初心」というか「原点」というか、ロックに出会ったあの頃という意味合いもあるのではないかと、聴いていてふと思った。74歳にして今もみずみずしい仲井戸麗市の音楽を聴く幸せ。生身の人間にしかできないパフォーマンスを聴くことのできる喜びを感じる夜だった。

『アフリカ』を続けて(47)

下窪俊哉

 3月末、11歳になった息子とふたりで桐生へ遊びに行った。群馬県桐生市、どんなところか、じつはまだ詳しく知っているわけではないのだが、行けば、親しく思っている人たちが待っていてくれる。

 事の発端は、毎週火曜の夜にやっているFM桐生の番組「The Village Voice」で、数年前から聴いている、いわゆるコミュニティFMである。私がテキストを投稿したらすぐに読まれるので、近くで聴いていた息子が「自分も投稿したい!」と言い出し、なぜか「なぞなぞを出したい」となった。それ以来、毎週聴いてなぞなぞを投稿しなければならなくなり、私は火曜の夜に出かけられなくなり、外で仕事が出来なくなってしまった(それなら、と火曜を個人的な定休日と定めた)。
「ビレッジ・ボイス」は、桐生駅から徒歩数分の場所にあるJazz & Blues Bar Villageのオーナーでジャズ・シンガーの宮原美絵さんが中心となって、画家でピアニストの唐澤龍彦さん、ベーシストのキムラコウヘイさんが3人でやっている。以前、『るるるるん』という小説を書く3人組がつくっている本の座談会に私が出た際に、挿絵を描いていた唐澤さんとまず知り合った。それからどうやって親しくなったのかは、よく覚えていないのだが、私はその手の音楽を長年愛聴しているので、話が合ったのだろう。それ以上になぞなぞがウケたのかもしれない。ジャズの番組で、どうしてなぞなぞ? と考えてはいけない。意味はとくにない。もちろん小学生のこどもが出すというのでなければならない。

 桐生行きの一番の目的は、Villageで晩ご飯を食べる、ということだったが、「The Village Voice」の常連リスナーの人たちに連絡していたら、ふやふや堂のサイトウナオミさんから「その夜は「ロジウラジオ」をやっているので、よかったら出ませんか?」と誘われた。
 ふやふや堂は桐生市本町の旧早政織物工場の中にある本屋で、『アフリカ』をはじめアフリカキカクの本を少し置いてくださっている。そのお店にも行ってみたかったのだが、「ちょっと時間あるので、桐生をご案内しますよ」とのこと。予想できなかったほどの手厚いおもてなしである。
 そのサイトウさんが毎週金曜の夜、FM桐生でやっている番組が「ロジウラジオ」で、下窪さんが出るなら、と番組と縁の深い『GO ON』編集人の牧田幸恵さんが聞き役として一緒に出てくれることになった。

『GO ON』は牧田さんのやっている個人的な雑誌で、2020年12月に月刊のウェブ・マガジンとして始まり、並行してフリーペーパーを出していたが、2022年にフリーペーパーを止めて有料の『轟音紙版』になった。2024年12月にウエブ・マガジンの方を止めてからは”紙”のみの活動になり、『轟音紙版』をリニューアルした雑誌『GO ON』とフリーペーパー『GO ON 号外』を出している。
 私は2022年の晩夏に初めて群馬に行くことがあり、『轟音紙版』第1号を手にした際、20年前の自分が考えた企画を思い出した。
『アフリカ』の前に『寄港』という同人雑誌をやっていた話は、これまでにも何度か書いたが、じつは『寄港』の前に構想していた小冊子もあって、それは雑記を中心としたものだった。20代の私は、詩や小説を書こうとする人の多い環境にいたので、そういう作品とまでは言えないような日々の記録や、その時々の考え事などを複数人で書き留めておくような媒体がつくりたかった。『アフリカ』を始める頃にもその想いは継続させていて、その証拠に、実現しなかったその雑誌の名前をつけようとしていた。この連載の(2)に出てくる「ある漢字二文字の名前」である(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』ではさらに具体的に言及している)。
『轟音紙版』を初めて手にした時、ああ、20年前の自分はこれをやりたかった! と思った。でもその当時、雑記を熱心に書こうと乗ってくる人はいなかった。若かったせいだろうか。確かに、人生経験を積んだ方が書けることは多いような気もする。でも私は若い頃の自分が書いて、未発表になっている雑記原稿をたくさん抱えていて、そこから教わることも多いのだ。
 そんな話をたぶん『るるるるん』の人たちにしたのだろう。「下窪さんが『GO ON』を褒めていた」と牧田さんは聞いたらしい。
『轟音紙版』第1号の最初に載っているのは、牧田さん自身による「雑煮的雑記」である。2本の映画、『イージー・ライダー』と『ビーチ・バム』を観て「自由」について考えたり、ぶつぶつ言っているような内容で、現代美術家・三島喜美代さんの「ただおもしろいから」つくっているということばに感動した話で終わる。めくっていくと、レコード屋通いの話、日常的に写真を撮ることについての話、風景の話、UFO談義などをいろんな人が書いていて、すごく読み応えがあるかと言われると、そうでもないが、サラッとした手軽な読み物かと言われると、もっと未完成のゴツゴツしたものを感じる。
 牧田さんはたぶん、書いてほしい人に声をかけて、好きなように書いてもらっているのだろう。読むと、通りすがりの人たちの会話に聞き耳をたてているような感じもある。その声を集めて、本という器に落として、デザインしている。

 昨年は『GO ON』とは別に『あれ』vol.2という”不定期刊行雑誌”もつくっている。雑誌といっても、A3の少し厚めの紙の両面にプリントして八つ折りしたもので、特集は「『あれ』創刊号(昭和47年正月25日発行)」。どういうことかというと、約50年前に沙原歩さんという方がつくったガリ版刷りの『あれ』の復刻版である。牧田さんは、こんなふうに説明している。

 発行した本人から『あれ』の話を聞き、手渡しされた私は「おもしろいですね」と適当な感想だけを残して放っておくわけにはいかないのである。それは、発見してしまった者の使命とでもいえるだろう。

 復刻された創刊号の巻頭言(だろうか)「『あれ』について」によると、沙原さんは芥川龍之介の会話を研究する話(?)を読んで、自分も「会話なるものを持って」みようと思ったという。そしていま(当時)最も使われていることばは何か「研究」してみたところ、それは「あれ」であったそうだ。創刊号には会話を書いた沙原さんの創作も載っている。次号に向けて一緒につくる「人材」を募ってもいて、張り切ってつくっている様子が伝わってくる。雑誌をつくるのは愉しい! しかし(事情は知らないが)『あれ』は1号だけの雑誌になってしまったようだ。50年ほど後に2代目の編集人(牧田さん)が現れるまでは。
 読んでいると、じわじわと来る何かがある。それを放っておけなくなる牧田さんを想像して、私は他人事のようには思えないのである。

 さて、桐生では「ロジウラジオ」で本をつくる話などして、放送後はVillageに場所を移して集まってくれた人たちとご飯を食べながらいろんな話をした。牧田さんは「自分ひとりで本がつくれなくても、雑誌なら出来ると思った」と言っていた。また、書き手には「読者を意識しないでください」というふうなことを言っているとも話してくれた。私は、書く時は読者に媚びないで、教え諭したりもしないで、と考えているのだが、そのことに通じる、と思った。「自由に書く」とはどういうことだろうか。私は人から言われるほどには自分を自由な人だと思っていないし、『アフリカ』も自由な媒体だとは思っていないのである。でも「自由」には、興味がある。牧田さんとはいつか、そんな話をじっくりしてみたい。と、この文章を書きながら考えているところだ。

スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・ロボン』

冨岡三智

4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアでは、私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校を中心に、いろんなダンスイベントが展開される。ちなみに、この芸大でのイベントは2007年に始まり、私もその初回に出演した。当時の状況について2015年5月号『水牛』で書いているので、関心のある方はそちらも併せて読んでもらえると幸いである。

さて、今年の4月29日、スラカルタ王家は「王宮芸術フェスティバル(Karaton Art Festival 2025)」と銘打って独自に公演をライブ配信した。男女の舞踊が1曲ずつで、女性舞踊は「スリンピ・ロボン」完全版が上演された。スリンピは女性4人によって舞われる曲の形式である。私もこの作品の完全版を2021年に日本で上演しているので、今回はこの作品について語ってみたい。なお、今回のスラカルタ王家の配信公演も私の2021年公演の映像も、以下のリンクから見ることができる。

・スラカルタ王家公演 https://www.youtube.com/live/voU4992v3C8
・私の公演      https://www.youtube.com/watch?v=eGp-HCEy7_M&t=2177s

「スリンピ・ロボン」の楽曲編成は(1)グンディン形式の「ロボン」~(2)「パレアノム」~(3)ラドラン形式の「コンドマニュロ」で、3曲つなげて演奏される。完全版で上演すると入退場を別にして約40分で、スラカルタ王家に伝わるスリンピ曲の中では短く易しい曲に分類される。この作品はパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった1845年に創らせたものである。当初、楽曲はペロッグ音階ヌム調だったが、即位時に現在のようにスレンドロ音階マニュロ調に改められた。なお、スラカルタ王家の配信でこの舞踊曲の制作年は1774年だと解説されていたが、これは半ば間違いである。この曲はジャワ暦1774年、すなわち西暦1845年に創られた。

上にスラカルタ王家の完全版と私の公演での完全版(私の師匠の名を取ってジョコ女史版とする)の両方のリンクを挙げたが、実は同じ完全版でありながら少し違う部分もある。スラカルタ王家で指導するムルティア王女も私の師匠(故人)も主として教わった人は同じダルソ女史だが、他にもそれぞれ習っている人があり、また宮廷舞踊は細かな改訂や解釈を積み重ねて練り上げられてきたので、これらの改訂の過程で違う段階の振付が残っているのだと思っている。この「スリンピ・ロボン」は私が留学して1年目に王家の定期練習でよくやっていた曲で、私もとても好きでジョコ女史の個人レッスンではリクエストして2曲目に習った曲だ。どちらの振付にも思い入れがあり、貴重な振付だから、どちらの振付も残ってほしいなと思う。

で、一番大きな差異が1曲目のグンディン形式の部分である。スリンピ舞踊では必ずララスという手を曲げたり伸ばしたりする振付になるのだが、その回数が違う。王家版では右~右~左~右と4回繰り返す一方、ジョコ女史版では右~右~左~右~右~左~右の7回で、また左のララスをする時のフォーメーションも両者で異なる。右、左と書いたが、これは伸ばしたり曲げたりする手がどちらかを示している。

他のスリンピ曲でもララスの振付に関しては王家版のような進行の曲がほとんどだが、ジョコ女史版の「スリンピ・ロボン」のやり方は「スリンピ・ラグドゥンプル」と同じである。実は後者もまたパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった時――しかも同じジャワ暦1774年――に創られ、王の即位に際して舞踊形式や音楽の調が改められた曲である。というわけで、ジョコ女史版の振付にも納得する。

次の違いは2曲目の「パレアノム」部分の振付。王家版ではゴレッ・イワッと呼ばれる振付だが、ジョコ女史版ではウンバッ・ウンバッと呼ばれる振付である。前者は1曲目から2曲目への移行部(テンポがどんどん速くなる)で使われる定番の振りで、スリンピ4曲で使われているが、実は後者も定番と言って良く、3曲――「スリンピ・ロボン」と「スリンピ・グロンドンプリン」という弓を持って踊る2曲の他、「スリンピ・ルディラマドゥ」――で使われている。ただ「スリンピ・グロンドンプリン」は、少なくとも私が現地で学んでいた期間はスラカルタ王家では行われていなかった。

その後2曲目で様々動きが展開し、1度目の戦い(弓合戦)が行われた後、音楽は3曲目に突入する。弓合戦で負けた方が座り、勝った方が負けた人の方を向いて行う最初の振りが異なっていて、ジョコ女史版ではウクル・カルノ、王家版では何と呼んでいるかは知らないが(名前がないことも多い)、「スリンピ・スカルセ」にも出てくるものに似ている。

2回弓合戦があった後(勝ち負けが交代する)、今度はピストルによる戦いがある。多くのスリンピでは戦いの場面の中心はピストル戦だが、この曲や上でも述べた「スリンピ・グロンドンプリン」(手に弓を持つ)、「スリンピ・アングリルムンドゥン」(手に弓を持たない)では弓合戦がメインで、2回の弓合戦を経て手短にピストル戦を1回だけ行う。ちなみに、スラカルタ王家ではピストルは持たずに踊るので(昔は持つこともあったらしいが)、一般の人は言われない限りピストル戦を描いているとは分からないだろう。ジョコ女史版では座った人が立つ時にすぐにピストルを抜くが、王家版ではピストルを抜く所作は省略されていて、別の動き――しかし踊り手が立つときの定番の動き――を行う。スリンピの振付としては、両方の動きがあるのが望ましいが、歌がちょうど良いところで終わるために動きを減らす必要があり、それで両方のバージョンが生まれたと思う。論理的にあくまでもピストルを抜くべきだと考えるか、立つ所作が優美な方を優先するかは、指導者や踊り手の解釈や美意識によるだろう。

というわけで、4月29日の配信を私は楽しく嬉しく見た。何より、スラカルタ王家の宮廷舞踊の完全版振付の美しさを愛する私は、こんなふうに短縮せずに上演される機会が増えてほしいと願っている。

しもた屋之噺(280)

杉山洋一

フランチェスコ法王の最後のインタビューは、「結婚とは何か」だったそうです。ベルゴーリオ曰く、「結婚とはタンゴのようなもの。それも何時までも続く、なかなか手ごわい(un tango che non si scherza!)タンゴ」とのこと。

4月某日 ミラノ自宅
ロベルト・カッペルロのマスタークラス見学。息子はモーツァルト466を弾き、カッペルロは暗譜で伴奏しながら注文をつける。ベートーヴェンが書いたカデンツァなのだから、音色もルバートもフレージングもベートーヴェンらしく変えて、協奏曲冒頭のモティーフが出てくるところは、冒頭の様式を踏襲しつつ、時間をたっぷり使って弾くこと。1楽章で初めてピアノが登場するところは、ピアノはオーケストラと一体化していること。
トランプ大統領、全世界に対し一律10%の追加関税を発動。

4月某日 ミラノ自宅
朝、家人と連立って市立音楽院に出かけたところ、シモネッタ荘玄関の石造りの柱廊のところで、一人の学生が可愛らしいポルタティフ・オルガンを調律している。素朴でどこか不器用な5度の響きが、柱廊をわたる春の微風にのって運ばれてゆくのを眺めながら、子供のころ、手で鞴を操作しながら音をだすポルタティフ・オルガンと手回しハーディ・ガーディに憧れていた。三つ子の魂なんとかと言うが、この二つの楽器を目の前にすると、サンティアゴ・デ・コンポステラのレリーフ写真にときめいた小学生の頃と何も変わっていないのを実感する。
市立音楽院の映画音楽作曲クラス、自作指揮1年目の試験。「子供の情景」より10曲と「ミクロコスモス4・5巻」より7曲、20分以上も振らなければならないから大変である。ところが試験を始めてみると学生たちが驚くほど音楽的に振るので、むしろクラシックの指揮専攻の学生への自分の教え方が余程悪いのではないかしら、と訝しくすらおもうほどだ。
夜は家人と連立ってヴェルディ・ホールに出かけて、カッペルロ・マスターコース試演会を愉しんだ。地下鉄サンバビラ駅を降り、国立音楽院に向かおうとすると、少なくとも100人ほどはいるであろう親パレスチナ・デモ行進が道を占拠していて、警察機動隊を先頭に、横断幕を広げながら、ゆっくりと歩みを進めていた。ついさきほども学校から帰宅途中、ロレンテッジョ地区が結成したらしいアラブ系市民15人ほどのデモ隊、そのうち4、5人は小、中学生と思しき子供であったが、ささやかなパレスチナ保護を求めるデモ行進を見たばかりだった。
試演会では息子はカッペルロの伴奏でモーツァルト466を弾いた。カッペルロが、自分なら1楽章再現部1小節前のフォルテを敢えて弱音のスタッカートに変更して、弦楽器の再現部へ繋げてみたいと言ったのを踏襲していたが、なかなか面白い解釈である。カデンツァも今までよりずっと時間をかけてたっぷり弾いていて、音像が立体的で奥行きが増した分、情感も豊かに聴こえる。
この2年ほどの間に、息子と音楽の関係は大きく変化した。成人した息子に口出しする積りはさらさらないが、各々自らに与えられた人生をどう生きるのか、こればかりは誰にも分からない、恐らく当人すら想像もつかない、つくづく不思議なものだと実感する。

4月某日 ミラノ自宅
「ルカ」にパンを買いにゆき朝食にしてから、冬の間ずっと庭の垣根を塞いでいた、嵐のときに折れた立派な幹とそれに絡みつく無数の蔓草を片付ける。太い部分は軽く3、40キロはあるはずで、動かすだけでも一苦労であった。数メートルの丸太は拙宅のへろへろの鋸では到底切り分けることも叶わないので、土壁の脇に寄せるのが精々だ。
夜は Magazzino Musica で市立音楽院の教師30人程が集まり、今後の学校運営に関する会合が開かれる。2030年でミラノ市は学校運営への参画から外れるが、このまま運営全てをミラノ市に任せておくと、文化を軽視する政府の傾向と相俟って学校を閉鎖しかねない、その前に学校内部から対外的に働きかけをすべき、と署名に参加。グロバリゼーションへの反動なのだろうけれど、日本、イタリアのみならず、こうした社会傾向は著しい。

4月某日 ミラノ自宅
ギターのための「間奏曲」浄書、出来たところまで藤元さんに確認してもらう。沢井さん揮毫の「待春賦」の書を仲宗根さんから見せていただく。深く染入る響きのようでもあり、茶目っ気を帯びた沢井さんの明るい声色のようでもあり、春を待ちわびる芹のようでもあり、餌台のクルミににじり寄る大小色とりどりの飄々とした鳥たちのようでもあり、慈しみと温かみ、そして遊び心にも溢れていて、深く感動する。
ほんのささやかな息子の二十歳祝いのため、家人と二人 Griffa に出かけた。このところ家人と街を歩いていると、ミラノの街並みはやっぱり美しい、いい街ねえ、と繰返している。

4月某日 ミラノ自宅
朝、サン・ルイージ教会にピアノ搬入。息子は、責任をもつような仕事は絶対嫌だ、弾き振りなんて自分には到底できないと文句をいいつつ、466を練習している。
午後、リッタ宮で開催中のミラノ・サローネ博覧会に家人の友人をたずねると、林太郎君が通訳として働いていた。今年でもう26歳になるそうだ。世界各国からサローネを訪れる見学者と、出品した日本人関係者との通訳が主な仕事で、見学者の大多数はイタリア国外から訪れるので、結局使う言葉というと、英語と日本語がほとんどだという。彼の専門は都市計画が専門だが、お父さんはインテリア・デザイナーでもあり、ここでの通訳も楽しいそうだ。これからどうするのか尋ねると、昔よりイタリアの治安は悪くなったし、どこか別の場所で働きたい気もするが、まだわかりません、と微笑んだ。彼がまだ幼い頃、拙宅でお父さんの仕事が終わるのを待っていることがしばしばあったのを思い出し、「あの庭が好きでした」とはにかんでいた。

4月某日 ミラノ自宅
ジュゼッペが主宰しているアマチュアオーケストラの慈善演奏会で、息子がモーツァルト466を弾き振りするので、コルソ・ローディ脇のサン・ルイージ教会へでかける。前半は、ジュゼッペの振るヴェルディ「ジョヴァンナ・ダルコ」前奏曲と、息子のモーツァルト、後半はジュゼッペがベートーヴェン交響曲第5番にアンコールはモリコーネの「ニューシネマパラダイス」。100年前ほどに建てられた、明るく広々としたサン・ルイージ教会はミラノ南部のコルヴェット地区の手前にある。ここから先の地域は最近までミラノのブロンクスと呼ばれるほど治安が悪く、文化活動も揮わなかったため、ジュゼッペは通っているサン・ルイージ教会のドン・グイード神父と一緒に、この地域の市民、特に若者に向けて、地元に根付いた音楽啓蒙活動を始めたらしい。聴衆は老若男女あわせて200人は下らないだろう。ほとんどがこの地域に住んでいるのか、雰囲気としてはミサに来るような普段着の気軽さと温かさがあって、とてもよい。ベビーカーを押している若いカップルもいれば、幼稚園児くらいの子供もベンチから身を乗り出してオーケストラを眺めていたし、年配の夫婦もかなり見かけた。
尤も、教会全体がとても広いので200人程度では、クーポラ下の祭壇から聖堂半ばまで固まって座っている感じにみえる。ドン・グイードは普段のミサよりずっと人が集まった、と喜んでいたそうだ。
朝から学校で試験だったので、息子には恐らく演奏会には間に合わないだろうと伝えてあったから、リハーサル途中でオーケストラの配置をどうするか、とジュゼッペと息子から何度も電話がかかってきた。こちらは試験中だったので困惑したが、今となっては愉快な思い出である。
息子もジュゼッペもオーケストラも、堂々と見事な演奏を披露して、深い感銘を受けた。息子があんな真剣な顔をして音楽をするのを初めて見て愕いたし、不思議でもあった。家人は、息子が466を振り出したとき思わず感動して涙が込み上げてきたそうだ。親ともなれば、世界中どこでも似たようなものだろう。我々が聴きに来るとは思っていなかった息子は、こちらが演奏後に顔を出すとびっくりしていた。
アジア系の聴衆が殆どいなかったからか、聴いていた年配者何人かから、あんたはあの子の父親かい、すごいねえ、ますます頑張るように伝えて等と声を掛けられ、小学校の運動会を眺める父親の気分である。

4月某日 南馬込
朝10時に羽田着。家人のアドヴァイスで蒲田まで京急を使い、そこからタクシーで馬込に向かう。シャワーを浴びてから西大井に向かい、14時からの、鎌倉・源氏山公園の古民家、ディロン演奏会に顔を出す。鎌倉を訪れるのは、高校の頃に作曲の先輩方と山へ登って遭難しかけた時以来だが、当時とはまるで様相が違って、まるでフィレンツェやヴェネツィアを思わせる観光客の人いきれであった。
何しろ道が狭く車の往来すら儘ならないところに、観光客が行列を成しているのだから大変である。イタリアの観光地であれば路地はせめてずっと広い。鎌倉ですらこうなのだから、京都の騒ぎなど想像に難くない。銭洗弁天に向かう住宅地あたりで、車はいよいよ全く動かなくなり、14時には間に合わない。
峠の館と名付けられた古民家の外観は、所謂雰囲気のある洋館という出で立ちながら、中に足を踏みいれると、堂々とした梁がわたされている、立派な旧家の佇まいが広がる。畳敷きの広間には、巨大な猪一頭を描いた見事な屏風がたてかけられ、ディロンはその猪を目の前にしてソロを弾いた。
ここで胡坐をかきながら聴くバッハの組曲は、コンサートホールと違う、不思議なありがたみがあった。外ではウグイスが盛んに啼いていて、目を向ければ、未だ春の花が樹々を賑わせている。コンサートホールの演奏なら、演奏そのものに集中するのかもしれないし、教会で聴けば、思わず聖堂の威風に惧れを成して、人間としての自分の領分をわきまえつつ、神と我々を繋ぐバイパスとして音楽を聴くのかもしれない。ここで聴くとそのどちらとも違って、ごく普通に人としてバッハを眺めている気分とでも言おうか、ウグイスと対話するチェロを眺めているのが心地よかった。
後半は地下の会場に場を移して、家人とディロンでシューマンなどを弾き、ここではチェロとピアノの丁々発止を愉しむ。20数年前、彼らが初めて一緒に演奏した頃のことを思い出す。皆若かったし、互いにエネルギーをぶつけて生み出す面白みを愉しんでいたのだろう。今日のような丁々発止とはいえ会話の滋味を味わう感じは、音楽の裡へと聴き手をいざなう。
夜は東銀座でカレーを食べながら悠治さん、美恵さん、小野さん、吉田さんと座談会。悠治さんたちも小野さんも鎌倉と所縁が深い。
悠治さんの本を読み、楽譜を勉強して想像していたものと、実際にそれを音にして見えて来るもの、というはなし。
これだけ情報が溢れている社会において録音をCDとして残す意味は、今日生きている作曲者本人のためというより寧ろ、何十年後かに彼の作品を知ろうとする誰かのため。
音源と資料がセットになっているCDという形態は、何十年か経って情報を遡るときに、恐らく役立つに違いない。音声ファイルだけが残っていても、これだけ情報が氾濫している中で、信用し得る関連資料を見つけるのも容易ではないだろう。問題はCDも劣化が激しいということと、何十年、何百年か経って、CD を再生させるハードが存在しているかどうか。
第二次世界大戦後、日生劇場、草月ホール、西武グループ、サントリーと文化を支えてきた掛け替えのない人々がいて、これから半世紀後、果たして我々のことを知りたいとおもう人々がいるのだろうか。
0歳の頃から「味とめ」で美恵さんや悠治さん、浜野さんなどに抱いてもらっていた息子も20歳になった。悠治さんのことは、いつも蛸を食べていた「蛸のオジサン」として理解している。味とめの女将さんが亡くなったと美恵さんから聞く。

4月某日 南馬込
打合せの後、昼過ぎ九段下でディロンと落ち合い「葉椀」にて昼食を摂る。彼が一人でふらりと入ってすっかり気に入り毎日通った店だという。カウンター席にて、カツオたたき定食、彼はマグロ丼に舌鼓。美味。玄米なのも凄くいいでしょう、とディロンが喜んでいる。そこからほど近い青海珈琲でコーヒーを立ち飲みして、二人で写真を撮りシャリーノに送った。持ち帰り用のコーヒーのカップやストローがプラスティックなのを見て、ヨーロッパがエコロジー・アレルギーが過ぎるのかな、ロンドンでもどこでも、プラスティックのストローなんてすっかり見なくなったから、何だか新鮮だ、とのこと。日本て、なんだか不思議な国だよね、と言われる。
夕刻、佐々木さんと美紀さんと、代官山のイタリア料理店に集い、岡部さんのワインを持ち込んで献杯。
最近、思考がパンクしてしまって、何だかまっさらに物を見たくなってアリストテレスの「形而上学」を読んでいるという話から、佐々木さんと暫くギリシャばなし。イタリアに住んでいて、やっぱり「腐っても鯛」的なところがイタリアにはある気がする、結局「すべての道はローマに通ず」の共通認識をイタリア人を含むヨーロッパ人は甘受している、という話。
アリストテレスを読みながら、どこか頭が喜ぶのを実感するのは、真理を求める素朴な姿勢に共感できるから。知らないから知りたい、そんな単純な思考を、我々は軽視し過ぎているのかもしれない。既に我々は知っている、その過信が我々の思考を、深く刻み込む真理に向けた渇望の意識から、浅く広く茫洋としたジャンキーへ変えてしまった。実は何も知らないのに、知っている積りになっている自分に気づくことは、精神衛生上とても良い。それはつまるところ、知識でも常識でもなく、ただ真実を知りたいという、無意識に天を仰ぐような畏怖にも近い態度なのだろう。
岡部さんの膨大なるワインセーラーから美紀さんが持っていらしたのは、間違えていなければNicolelloの40年もので、しっかりと深い味がした。豚に何某とか猫になんたら、殆ど酒が呑めない人間には全て美味しい。
以前、美紀さんと岡部さんがミラノにいらした時、すらっとした美紀さんの姿がちょうど観音菩薩そっくりに見えた。岡部さんは本当に幸せそうだったのを、テーブルに並ぶ4つのワイングラスを眺めながら思い出す。

4月某日 南馬込
安江佐和子さんの企画演奏会1日目。伊左治君の「diorama」の演奏に参加しながら、大学時代「冬の劇場」を一緒にやっていた頃を思い出す。中川俊郎さんの作品で、水を垂らすパフォーマンスをしていたのが強い印象を残したので、今回のパートが作られたらしい。伊左治作品は、黄金色というのか、黄昏ているわけではないが、美しい映像が映し出されるような作品であった。

diorama
それでも私は、この震える海を渡ろう
新美 桂子

太陽を背に
父なる川を隔て
寄りあう母音の群れ
向こう岸の親密

姿かたちを変え
海原に流れ込む
耳なじみのない言葉
無口な花嫁

寄せては返す
白波にさらわれ
打ち上げられた星々
潮だまりの鼓動

雨足遠のき
別れの予感を胸に
俄かに飛び去る冬鳥
籠のなかの寒空

最果ての夢に
置き去りの雪景色
指針を狂わす出会い
降り積もる歳月

旅路を先まわり
光を回収する奇術師
虹の麓に散った影
葉っぱのふくよかな匂い

朝霧が手招く
混沌のはざまに
雲がくれする眼差し
出迎える大木

Diorama  / Nonostante tutto, attraverso questo mare tremante
Keiko Niimi

Le spalle rivolte al sole,
qua e là le due rive del fiume paterno,
un branco di vocali ammassate
nell’intimità della battigia sull’altra sponda.

Parole ignote
mutano figura
e sfociano nel mare
come spose mute,

viavai di onde bianche
catturano le stelle
e le trascinano a riva
sopra i solchi delle pozze di marea.

Mentre la pioggia si allontana,
nel presentimento di una separazione,
un uccello invernale si congeda
e il cielo rabbrividisce in un cesto.

Abbandonato nel sogno dell’estremità della terra,
in un paesaggio truccato dalla neve,
un incontro paralizza la bussola
e il tempo si coagula.

Anticipando il cammino
un mago recupera le luci,
ombre di un arcobaleno sparse ai piedi delle montagne,
odore carnoso delle foglie.

Tra la confusione
la nebbia mattutina fa un richiamo di invito,
uno sguardo celato.
E un grande albero lo abbraccia.
(traduzione : Maria Silvana Pavan, Yoichi Sugiyama)

久しぶりに内藤明美さんに再会する。全くお変わりなくお元気そうでとても嬉しい。すみれさんが演奏する八村義夫「dolcissima mia vita」。色々な思考が脳裏を錯綜し、駆け巡る。八村さんの選択する音の美しさであったり、金属打楽器だけが並ぶ不思議さについても思う。
カルロ・ジュズアルドのマドリガルの手触りは、どちらかと言えば、より肉感的で皮質打楽器に近いとも思う。それを敢えて金属打楽器に限定して見えてくるものは、八村さんのジュズアルドへの憧憬やロマンチシズムかも知れないが、不貞を働いた妻と情夫、赤子までの殺人を冒したジュズアルドと従者が携えていた剣の刃の輝きのようでもある。純粋に音だけを辿れば「星辰譜」の頃から「dolcissima」まで八村さんが望む音は一貫していた。すみれさん曰く、八村さんは「dolcissima」を「濡れズロ」のように演奏するように望んでいたそうだ。ジュズアルドのマドリガルと濡れたズロースは、なるほど八村さんの裡で正格に繋がっていた。

4月某日 馬込
漸く二日目の演奏で、伊左治作品のパフォーマンスが少しだけうまく出来た。敢えて立ち上がらずに、椅子に座ったまま、水をいれたペットボトルを掲げる按配で水を垂らすと、うつくしい音がした。安江さんの演奏会は、会場初めての大入りだったとか。湯浅先生「相即相入」は名演。二人の演奏家の息が合い、音と音の間に新しい空間が生まれてくると、まるで見たことのない有機的な風景が目の前に顕れる。これを玲奈さんに聴いていただけたのは、個人的にとても嬉しかった。眞木さんの「14パーカッションズ」は、眞木さん自身をご存じで、声明であったり和太鼓であったり、眞木さんが展開された活動をつぶさに知るすみれさんだからこそ出せる音があった。甲乙どういうことではなく、ただ自分が知っている石井眞木さんの人間に、直に通じる何かをそこから掬いあげることが出来たのは、倖せなことだった。
演奏会後、綱島に垣ケ原さんを訪ね、一緒に美枝さんの墓参をする。大倉山の法華寺の参道脇一面に蕗が生えていて、垣ケ原さんが採りに来ないといけないな、と呟いていた。住職さんと予め話がしてあるらしい。お墓を覆うよう大きな桜の樹が並んでいて、散った桜の花をたわしなどで落とす。墓石には、既に垣ケ原さんの戒名も彫られていた。桜が咲き乱れるころは、それは見事な光景に違いない。
ご自宅では、庭で採れた蕗の煮つけに下鼓を打ってから、お寿司の出前まで頂いてしまった。蕗を煮ると毎回違う味付けになってしまってねえ、と照れていらしたが、とても美味しかった。同じようにお寿司もずいぶんよい味なので覚えていたのだが、大倉山の美景寿司という知る人ぞ知る名店の寿司であった。垣ケ原さんご自身も、湯河原の祖父に似た面影があるのだが、垣ケ原さんと弟さんが話している抑揚が、まるで湯河原の実家のそれと一緒なのはどういうことか。
夜半、池上の湯浅邸にて、「軌跡」のスケッチを見る。鉛筆書きの雲のような挿絵があって、その隣にdreamと綴られている。日本を発つ前にここを訪ねられて本当に良かった。今まで自分が不思議に思っていた湯浅作品に思うギャップが見事に払拭された。グラフで描かれる音楽は結果に過ぎず、湯浅先生が追及していたのは、より人間愛的な信念、信条のようなものであったし、最後まで人間を愛し、信じようとしていらしたのを実感する。雲に添えられたdreamは、湯浅先生が信じようとした音楽の姿だったのかもしれない。
玲奈さんは、最後に湯浅先生が舞台にあがったとき、笑っていたのが嬉しかったという。彼女は後ろから車椅子を押していたから見えなかったけれど、後で写真を見ると「父が満面の笑顔で笑っていたんですよ」。

4月某日 ミラノ自宅
ローマ空港に着いたとき、機内でフランチェスコ法王の逝去を知る。
沢井さんの録音のマスターが届いた。久しぶりに「鵠」を聴き、沢井さんから生まれる音が、まるでシャーマンの響きのようで、激しく魂が揺すぶられるのを感じる。「鵠」を書いて10年以上が経ち、なぜ自分が「手弱女」や「真澄鏡」などを書きたくなったのか、改めて実感できた気がする。当時は、ただ自分の気の向くまま書いたつもりになっていた。
90歳になったばかりの町田の母曰く、最近パルメザンチーズをよく食べるようになってから、足腰年齢が80歳から75歳になり、内臓年齢は74歳から70歳になったらしい。理由は定かではないが、心当たりは、せいぜいパルメザンチーズか、欠かさず飲むようになった養命酒くらいしかないという。不思議なこともあるものだ。

4月某日 ミラノ自宅
朝10時からのフランチェスコ法王の葬儀ミサ中継を見る。雲一つない澄み切った青空。サンピエトロからテーヴェレ川まで埋め尽くされた人いきれ。サンピエトロの広場は、その人いきれに関わらず、沈黙が支配している。
イタリア国営放送は、葬儀ミサが始まる前、ヴァチカンの礼拝堂でベルゴーリオの柩と対面するトランプの姿を伝えながら、
「どことなく、トランプの表情は緊張しているというか、当惑しているようにみえます」。
ヴァチカンで膝を突き合わせるトランプとゼレンスキーの写真を示しながら、イタリア国営放送のコメンテーターが話す。
「この写真をみると、どこかトランプの方がむしろ前のめりというか、積極的にすら見えますね。前回の会談から何か心変わりでもあったのでしょうか。遥か昔から現在に伝わる歴史的な転換点、特に大事な節目、ここぞという出来事は、いつもヴァチカンのこの宮殿から発せられてきました」。イタリア人が普段は隠しているプライドは、こういうところで顔を覗かせる。Covid直前の日本を訪れ、東日本大震災の被災者と会い、広島、長崎で被爆者と交流しながら核廃絶を訴えた教皇のお別れに、できることなら日本の首相も参列してほしかった。
毎月の給金も受取らず清貧を良しとした法王の甥は、葬儀に出席するためのブエノスアイレスからローマまでのフライトチケットを払うお金すらなかったが、それを知ったアルゼンチンの旅行代理店が、彼にチケットを贈ったという。
レ枢機卿の説教で、法王が「壁ではなく橋をかけようとしたこと」、「アメリカとメキシコ国境でミサをしたこと」、「難民に対して常に心を痛めていたこと」、近年の戦争などについて触れる度、群衆から大きな拍手が起こった。その度にレ枢機卿の声は少しずつ熱を帯びてゆく。
「フランチェスコ法王が就任後まず最初に訪れた地が、何千人という移民が海の藻屑と消えた、シチリアとアフリカの間のランペドゥーザ島であったのは、象徴的だったと言えますまいか」。群衆より大きな拍手。
「恐ろしく非人道的で、数えきれない死者をもたらした、ここ数年の猛り狂う沢山の戦禍を前に、フランチェスコ法王は絶えず平和を掲げ、人々に道理を取戻すよう呼びかけていました。落ち着いて対話にのぞみ、解決を導くよう声をあげました。なぜなら、戦争は、ただ人の死をもたらし、家を、病院を、学校を破壊するものだからです。戦争は、常により悲惨で劣悪な世界をもたらすからです」。群衆から割れんばかりの拍手。トランプ大統領の姿がクローズアップ。
ミサ終盤、Pace(安らぎを)と参列者が握手を交わす際、トランプとマクロンの姿がクローズアップされた。100年前、どのようにして大戦へ向かっていったのか。後年になれば、政治家ばかりがクローズアップされるけれど、その政治家を選んでいる、さもなければ、その政治家に甘んじているのは、他ならず我々一般市民であることを知る。我々が最上と信じて疑わなかった民主主義は、結局100年前と同じ道を辿っていること。どちらかに揺られれば、揺り戻しが来るということ。

隣の部屋で、久しぶりに息子がウェーバーのソナタを練習している。こうも変わるのかと思うほど、まるで各旋律の音色が違って聞こえるのは、自分で実際にオーケストラを振ったからかもしれない。ホルンらしい旋律にはホルンのブレス、クラリネットらしい旋律にはクラリネットのブレスを感じる。伴奏する弦楽器群の手触りや厚みが、掌の裡に息づいて聴こえるのは親の買い被りには違いなかろうが、以前の息子のウェーバーには感じられなかった彩りと瑞々しさに思わず耳を欹(そばだ)てている。

(4月30日 ミラノにて)

アパート日記 2025年4月

吉良幸子

4/1 火
4月になったというのに肌寒い。雨で空が灰色やしずっと暗い。ソラちゃんは一日中べったりとひっつきっぱなし。寝る時は、入れてくださいまし、と手でちょいちょいと合図が来る。布団の中に入ったとて、むっちゃあつなってすぐ出てきはるんやけど、いっぺんは入りたいらしい。

4/4 金
遠出する時はよっぽど気をつけへんとソラちゃんがそわそわし出す。お前、どっか行くんやろってな顔で準備する私の足元をうろうろ…。出かける前にソラちゃんを入れてベランダの戸も閉めてね、とあれだけ公子さんに言われたにも関わらず、私が出る前にはおでかけしとるツートン猫。しゃぁないしそのまま家出たら、近くの小道でぷらぷら歩くアイツの後ろ姿が!家へ回収してから行こかと構えたところ、人んちに入って見えへんようになってしもた。どうせすぐ帰るやろ!と駅へ急ぐ。
今日は元・出稼ぎ先のお馴染みさんが東京見物と題して千住を案内してくれる日。一緒に働いてた埼玉の母、キョーコさんと3人で遠足へゆく。昨日までの雨が打って変わって晴天で気持ちええ。北千住は千代田線の直通運転のおかげでこちらから行っても意外と近い。地下鉄に揺られながら、そういえばソラちゃんは家へ帰ったか…と確認すると、元の家の方へ遊びに行っとる。もー!車も多いし心配やん!!公子さんの分析によると、私の遠出=元の家の方へ行くってな事で、迎えに…或いは先回りして行くらしい。かわいいねんけど、もう行きなんし!
さて一方遠足はというと、割烹料理屋でおつかれ会して、千住をぐるぐると歩く。引っ越し予定地に近いし色々見れて良かった。その後、チンチン電車に乗って王子まで。駅の近くにあんな綺麗な桜見物の場があるとは。ちょうど満開で、月並みやけどきれいやなぁしか感想が出えへん。みんなお花見してはって、わになって手拍子で合唱してるおっちゃんらまでおった。見てるだけでも楽しい。私は皆さんには黙ってお昼にいただいた酒がちょっとだけぐるぐるしとる。直射日光の元、1万歩以上歩いたから回ったらしい。家に着いたら先に帰宅してたソラちゃんに熱烈に歓迎され、そのまま一緒に朝までばったりと寝た。

4/6 日
家で仕事しつつ、息抜きがてらお昼過ぎに砧図書館へ向かう。行きしなの商店街に呉服屋さんがあって、最近ワゴンに下駄が置いてある。ちょっとだけ…と見てたらすかさず店員さんが店の中まで案内してくれはって、気ぃついたら下駄一足買うてるやないか!そんなつもり全くないから自分でもむっちゃびっくりしつつも、旦那さんが鼻緒をすげてくれるとの事で嬉しい。鼻緒を調節してもらう間、お茶までいただいて何じゃかんじゃ話してたら、鼻緒のすげ替えだけでも来てええらしい。ラッキー!いつも東品川まで行ってたからこんな近くでやってもらえるのんほんまにありがたい。古着物ばっかし着とるからほんまの呉服屋さんって緊張すんねんけど、もっとはよ入ってみたらよかったなぁ。

4/10 木
公子さんと電車に揺られて松戸へ、新居を探すべく内見へ行く。それと別におもろそうなイベントスペースがあって、そこも一緒に見せてもらう予定。この前北千住まで行ったとこやし、まぁ近いやろうと高を括っていたら、北千住からもうひと区間どっこいしょと遠いイメージ。おや、ちょっと想像と違うぞ…と思いながら先にイベントスペースを見せてもらう。大正時代に建てられた平屋で、落語会するのんはむっちゃ良さそう。その後に本日お目当ての新居の物件を見せてもらう。住宅地にある一軒家で、改装しても何してもええよ!という太っ腹な物件。すごくええ物件なんやけど…何かが悪いのでは決してなく、でも何となくここに住むイメージがあんましでけへん。ご縁がないってことなんかなぁ。

4/13 日
元・出稼ぎ先に私が働き始めたその当時、店長してはった方が門前仲町で呑めるパン屋さんしてはって、退職のご報告がてらごはん食べに行く。繁盛店で行きづらいと思ってたけども、やっぱり今日も超満員。でも外でならどうぞ~ということで外のテーブルで色んなパンが乗ったプレートをいただく。久しぶりに元・店長の味を食べられた感じでどれもこれもおいしかった。一緒に行ったのはみんな出稼ぎ先で知り合った絵描きに造形作家で、色々と楽しい話が聞けた。引っ越したらまた来ますというてお店を後にする。ええ物件見つかるとええなぁ、最近そればっかし念じとる。

4/16 水
埼玉で知り合ったマトリョーシカ作家の方が絵付け教室するということで、わざわざふじみ野まで。2年前に建ったばっかしの建物は、公共の施設とは思われへんくらい洒落てて綺麗で、そこにいっちゃん驚いた。マトリョーシカとは言いつつ、好きなの描いてええよとのことで虎のパンツを履いた赤鬼に絵付けした。絵付けって無心になれるから楽しい。

4/19 土
絵描きの友、キューちゃんのマーケット出店の日。お手伝いの約束してるし準備で朝っぱらから上野へ向かう。ほとんどの出店者は屋内やけど、キューちゃんは屋外出店で直射日光がものっそ暑い。久しぶりにこんな日に当たった気がする。夕方にイラストレーターの系さんと岩口さんも合流、思いがけず色々話せておもろかった。明日も出店、かんかん照りになりませんように。

4/20 日
今日は曇ってて外におってもちょうどええお天気。昨日のお日さん光線が効いたのか結構疲れておる。でも今日の方がお客さんええ感じに来はってほんまによかった。夕方に終わり、どうせならちょっと散歩してから電車に乗るか、と上野から湯島へ、途中であんみつを買って地下鉄へ乗り込む。ちょっと遅い公子さんの誕生日祝いやね。いよいよ80になりはったんやって!全然そうも見えへんわ。

4/24 木
キューちゃんと長谷川町子美術館へ。企画展は町子さんの弥次喜多。現存する原画が全て展示されてて圧倒される情報量。キューちゃんは私が思ってた以上に町子さんが好きやったみたいで隅から隅まで楽しんでおった。私は何回か来てるのに、毎度、やっぱしうまいなァ~と感動する。他のお客さんは作品量に負けてサァーと観ていきはるけど、私らはそういう訳にもいかず、目を皿にして作品群をひとつひとつたどり、帰る頃にはへとへとになった。ええ刺激をもらった感じ。

4/25 金
一昨日くらいに急に決まった内見へ、場所は北区。ネットで色々と松戸方面で家を探してたんやけどなんやピンと来る物件がない。公子さんが発見した東十条の物件は、外観はごっつい古いねんけど一軒家で立地もええ。これは…とすぐに連絡して内見が決まったのであった。実際に見ると確かに外壁はすんごい色しとる。でもそれを忘れて中へ入ると、リノベーションしてあって素敵な和室がたくさん。前住んでた水漏れ物件を思うと天と地の違い。即決して申し込みする。今住んでる物件と打って変わり、むちゃくちゃ親切な不動産屋さんでほんまのほんまにありがたかった。審査諸々通りますように。
申し込みを済ませてそのまま三軒茶屋へ。真打昇進以来会うてなかった伝輔さんに今秋の公演でお世話になる。その打合せというか、お久しぶりですの飲み会やった。途中から美恵さんと悠治さんも参加して楽しい会になった。美恵さんからは履かんようになった下駄をもろたんやけど、なんと4足も!お返しは私が作ったスズメのブローチ1羽て!えらい違いですんまへん!

4/28 月
埼玉の職場に行ってた時、道でナンパされてお友だちになった御婦人、おタカさんのおうちへ遊びにいく。なんだかんだ年末くらいから会うてなかったから元気なお顔が見れてよかった。おタカさんはいっぱい食べさしてくれるというのを見越して朝飯を抜いて向かう。案の定、山盛りのお昼からおやつ、そして早めの晩ごはんまでいただいた。今日はお腹がはちきれんかったので作戦成功。おタカさんとお話しするのは毎回色んな話を聞けて楽しい。

4/30 水
今日はお世話になってるよしえさんと祥二さんのところへ、秋の落語と講談の公演のお知らせをしにゆく。初めてお会いした時に車椅子乗ってはったよしえさんが、今はおうちであちらこちらと歩いてはるところを見ると、元気になりはったんやなぁと嬉しくなる。北区の物件の審査が通った話をすると、お二人ともすんごい喜んでくれはった。ちゅーことで、来月はまた引越し準備が始まるで!

サザンカの家(四)

北村周一

そらひくく飛ぶとりあれはメジロにて眼に追いたればこうはく梅図
昇りつつメジロは知るやはろばろとみぎりひだりにサクラぜんせん

くれないの花もそぞろにあきらめてメジロははやもわが視野のそと
とりどりのはなからはなへ路地を来て去りゆくみれば目白なりけり

めじろふたつさきを急ぐと見せかけてつばさやすめりツバキの枝に
紅ツバキの木みごとなれども苦しそう 目白はきらうおもおもしきは

花すいとも呼ばるる鳥のこえは優し めぜめよと聞こえくるらしその声
うち羽振りこえなき声に鳴くとりのこえは近しもわがかざかみに

はなかげに花すいふたつふうわりと揺れいたるなりどちらか身おも
どちらともなく交わす目くばせ番いかな メジロすばやし春が来ている

めじろの目よりちかいところに我があるを すがた消したりふり向きざまに
多角的視野もつとりの眼下にはすでに来ている絵を描くおとこ

メジロらのねぐらはいずこと垣根ごしにとおくみており西方のひと

遁げる刹那
せつなにうたう
恍惚は
メジロのみ知る
その世界観

うらにわの見映えよろしき医者の家 メジロはしげく寄り来たるらし
みるともなく庭のさざんか眺めおればめじろ来ておりそのはなかげに

さえずりは長兵衛忠兵衛長忠兵衛繍眼児いじらしオスのみに啼く
宙宇へのきりぎしにして天竜の土手に囀る春つげ鳥は

やがてはのそりのそりとも水牛はくる リュウキュウメジロはその背なに舞う
老いもわかきもメジロとなりて降りつつ頭上はるけしそのかげにわれ

5月

笠井瑞丈

こんなこと
初めてです
今気づきました
そして起きました
5月3日深夜二時
寝ていたところ
ふっと作文用紙が
夢に出てきた

慌てて起きる
何かを忘れている

あああ

やっちまった

締切が
締切が
もう
とっくに
過ぎている

パスはしたくない
パスはしたくない

ずっと4月の後半からそろそろ
書かないとと思っていたのに
この水牛通信だけは
自分に課している修行なのに

まだ覚めぬ頭から
絞り出すように
夜中にタイプするも
全く何も出てこない

何も生まれてこない
何も生まれてこない
何も生まれてこない
何も生まれてこない

あああ
連続安打が途絶えてしまう
これは野球で言えばバント

次の打席に繋ぎます

遅い5月

高橋悠治

やっと日差しが暖かく、外へ出る気分になってきたが、行きたいところも思いつかないでいる。コンピュータの前に座っているだけで、気がつくと日が暮れていく。足が遅くなったのか、眼が悪くなったのか、歩きながら何かを見ようとすると、立ち止まってしまう。

昔グレン・グールドがしていたように、シャツの袖ボタンを外して風を通すことができる季節になった。やはり眼のせいで、ピアノも最低限の練習が要るようになったが、まだその習慣は身につかない。

考えるのではなく、感じることを途切れないように続けられるものだろうか。

コロナ以来、人と会わないでいるのが普通になった、となると、それこそ政治の企みということになるだろうか、と言ってもはじまらない。毎日のように出歩いて、人と顔を合わせ、わずかなことばを交わすので充分としなければ。

ことばが浮かんでくる、とすれば、イメージも音も浮かんでくるかもしれない。フレーズや響きを書き留める。そのページを見ながら、眼にとまる音から思いつく変化形を書き継ぐ。

この数年間、すこしずつ 作曲を続けてきた。ヴィオラのための「スミレ」と、クラリネットとピアノを加えた「移動」(2021)から、世阿弥が息子の死を悲しむ「夢跡一紙」(2023)。シューベルトが母の一周忌に書いた詩による「時」、万葉集の女性歌人による「白鳥の」、ファゴットのための「連」(2024)、バリトンサックスのための「ゆら」(2025)。

音のコラージュを作ろうとしたことがあったが、できなかった。だが、そこにあるものを、そのままではなく、それに似たものに変えれば、少しやりやすくなるような気がする。