2009年7月号 目次

春と秋のあわいにくぼたのぞみ
製本、かい摘みましては(52)四釜裕子
オトメンと指を差されて(13)大久保ゆう
ぶらり 夏更紗
しもた屋之噺(91)杉山洋一
薦(こも)よノート(または野良犬ノート)――翠の石筍57藤井貞和
ううむ。。。大野晋
玉川+ジュリアードの交歓コンサート三橋圭介
HMPのインドネシア公演冨岡三智
メキシコ便り(22)フチタン金野広美
ダム貯水率、もう少しで八十パーセント仲宗根浩
愛と海とパレスチナさとうまき
アジアのごは ん(30)ダージリン紅茶と水 その2森下ヒバリ
『小杉武久 二つのコンサート』高橋悠治

春と秋のあわいに

サマータイムの
赤道をまんなかにして
ぱっきり上下に分かれて
生きている この時間
こっちは春を
あっちは秋を

テキストに忠実か
(テキストを読む自分に?
作者に誠実か
(テキスト裏の声を読み取ることに?
選びきれないそんな問いは
遠く連なる共││震、鳴、感への道を
あらかじめ
閉ざすことになりはしないか
机の上のコスモポリスと
ブログの裾のエラスムス
地球儀のおもてに
首ひとつぽこりと伸ばして
この時間
耳を澄ませていたいな

届かない手紙の小瓶
ざらりと汚れて解けない氷
問いのまま抱きしめながら
ことばの 
ぬかる道を歩いていく

こちらは
春の埃にふいに咳き込み
あちらは
秋の雨に心うつむく
丸いテーブルと 
遠くて平らなマウンテンと
青い、青いピンネシリと


製本、かい摘みましては(52)

「製本」にひかれる全てのひとに、読んで欲しい詩集がある。高橋昭八郎さんの『ペー/ジ論』(思潮社 2009.5)だ。表紙に刷られたV字型の柄に、きっと馴染みがあるだろう。製本前の刷り本の背にみられる背標をモチーフにしたもので、56折り分が記されてある。背標とは丁合のミスをなくすために折りの背に階段状に印があらわれるよう考えられたしくみで、オンデマンド印刷などをのぞく商業印刷本にはみなこれがついている。愛用されるシステムは単純で美しい。愛されるように、気に入られるように、そういう思惑がないからだろう。本というモノが背負う美しさをまとったこの詩集を手に、まずは背標の柄よろしく指でV字をつくり、本よありがとう!永久に!と叫ぶのだ。

本文紙は208ページで13折り、そして前後に4ページずつのやや白い遊び紙がつく。表紙も白、そこに紺で背標柄が刷られ、タイトルと名前が空押しされている。表紙全体に透明の表紙カバーがつき、「過剰な文学的〈意味〉によって遮断されてしまっていた詩の可能性が、ここに新たに浮かび上がってくる」としめた詩人・奥成達による帯文が黒でビシッと刷られている。表紙を開けば、背標柄による誘導もあるのだろう、51ある作品それぞれが、大きな紙、そしてもっとずっと大きなところに生まれていて、それがパタパタと折り畳まれて今この手の中に届けられたと感じる。限りない広さとは、全ての本が持つべき力だ。

2004年7月29日〜8月12日に、高橋昭八郎さんの個展「反記述による詩」が東京で開かれた。うだるように暑かったが、幸せな夏だった。この展のために「ページにみる余白 本のかたちがうむ白のイベント」と題して昭八郎作品への感想を寄せていたので、読んでみてください。
http://www.mars.dti.ne.jp/~4-kama/sho8ro/s.html


オトメンと指を差されて(13)

それは春のこと。どこの大学でも健康診断が行われます。私の大学でもありました。といってもごくごく簡単なものなのですが、やっぱり身長体重も測定されるわけです。

「××kgです」
......耳の錯覚でしょうか、今年の体重測定では、私が今まで聞いたことのない数字が告げられています。いやいやいや、これは何かの間違いです。落ち着いて検査表に書かれた数字を見てみるのです。

「!」

(翻訳:え? あれ? ちょちょちょ、ちょっと待った。これっておかしくない? ええと、私がこの身長になっていちばん痩せていたときの体重が△△kgだから、ああああ、それと20kgくらい差があるんだけど、あるんですけどおおお!)

これは、見なかったことに......はできないので、ひとしきり落ち込みましょう。そして考えましょう。どうしてこうなったのかを。

(......そういえば、去年は翻訳に専念して屋内に引きこもりっきりだったなあ......それで自転車をほとんど漕げなかったなあ......しかも外に出かけたらいつもスイーツを食べていたなあ......何かおかしいと思っていたんだよ、こないだ春物を出してみたら、タイトなジーンズが入らなくてさ、てか特にウエストがさ、昔っからその細さを人に自慢してたくらいのウエストがさ......)

云々。危機です。ゆゆしき事態です。ありえません、こんなのありえません!(大事なことなので二回言いました。)太りました。しかもこの体重は私が生きてきた二十数年のあいだでもっとも大きい数字です......最初の一桁が見たことのない数字になっています......うわああああああああ! あああ! ぐにゃあ! にゃあにゃあ! いあいあ!

......取り乱して申し訳ありません。ええと、こんなわけであまりにも落ち込んだため、たぶん大学入試に落ちたときよりも凹んだため、自分を強制的なダイエットモードへ追い込むことに致しました。......というお話です、今回は。

まあ、原因は簡単です。

  1.食べ過ぎている
  2.運動をしていない

以上。

1の「食べ過ぎている」件については、別にお菓子が悪いわけじゃなくて、スイーツが悪いわけじゃなくて(大事なことなので二回言いました)、おそらく料理が楽しすぎて作り過ぎちゃうことが問題なのですよね。昼も夜もどーんとボリュームたっぷりに。レコーディングダイエットじゃないですけど、考えてみると、たいして活動をしないにもかかわらず夜のボリュームが多すぎるんです。(ちなみに朝は元々あんまり食べられない人なので、食べやすく加工した炭水化物で済ませます。)

2については、いや、運動できなかったのは色々とプライヴェートにまつわる理由もあったのですが、言われてみれば確かなんですよね。私の仕事場は山の中腹にあるので、普通なら自転車で降りてのぼるだけでかなりの運動になります。ふともものサイズがきれいに保てるくらいには。なのに漕がなかった......約一年の間あんまり漕がなかったんです。

私も大人になりました。もう普段の生活をしていたら自動的に健康と美容と体型が維持される時代は終わったのです! ここは、オトメンとして腹をくくって、たゆまぬ努力を積まなければならないのでしょう!

というわけで、ダイエットなどはしたことがないのですが今回これを始めました。どっちかというと「冷やし中華始めました」的なノリで、初夏に始まって秋には満足な結果を残して終わるくらいな一シーズンで片づくような感じにはしてみたく候。

ですが、私は世の人々が嵌ってきたダイエットにありがちなミスには陥りません! シンプルイズベスト、対策は簡単です。

  1.食べ過ぎない
  2.運動をする

どうですか! 完璧でしょう! 真っ正面から殴り込みですよ! オトメンは逃げないこと、これ大事!

まずは栄養に気を遣いつつも、食べ過ぎの夜を何とかして、量としては朝と同程度、もしくは間食が入ったときなんかはまあ抜いてしまったりするのです。そんでもって図書館へ行くときも自動車とかバスを使わず、往復10kmほどの距離を自転車で。冬は寒くて正直やってられないけど、今の季節なら大丈夫のはず! むしろ夏に入って汗だくだく! 京都を動き回るときもバスじゃなくてどこでも自転車! 駐車場少ないけど何とか探して自転車!(でもスイーツは食べるよ! むしろスイーツ食べに行くまでが運動だから! 遠くの店へ、より遠くの店へ!)

そうは言ってもすぐ終わるだろうというおおよその予想を裏切って続いているわけですが、ただいま1ヶ月経過時点では、3kg減少。目標は夏の終わりまでに10kg減らすことです。いや、いちばん痩せていたときはさすがにやばかったという自覚はありますので。

進捗状況についてはときどきこの場を借りてご報告致します。「オトメン27歳はじめてのダイエット」、はじまりはじまり。


ぶらり 夏

ここのところ、私の顔の半分は、仕事をさぼっている。それも、もともとさぼり気味だった左側が、更にさぼっている。食事も噛まない、喋るときもなるべく動かない、力まない。

それというのも、左のほっぺたの内側に口内炎ができてしまったから。しかも、その口内炎、水風船のような形で、ぷらぷらぶら下がっているときた。口内炎といえば、富士山形かクレーター形ばかりと思っていたが、そうでもないみたい。こんな形の口内炎は初めてなので、つい舌先でぷらんぷらんといじってしまう。迫力ない形の口内炎で、飼い主である私の気分もどうもへにょっと情けなくなる。

情けなくなると、以前情けない気分を味わったときの思い出が走馬灯のように浮かんでくる。それで浮かび上がってきたひとつが、数年前の夏のはじめ、周りの流れにのって就職活動をしようと試みた時のこと。

就活といえば、企業の説明会に行ってみたり、大学の卒業生らしき人を頼って会社の話を聞いてみたり。それから、履歴書を送り、筆記試験や面接を数回経て内定。こういう流れのものだと思っていた、ところがどっこい。当時おもしろそうじゃんと思っていた、ブライダルの某社に服飾関係の某社や某社、それぞれの説明会に行く為には、なんと別々の「就活サイト」に登録しなくてはならないという! めんどうだなぁと思いながらも、これも一つのステップかと登録をした。説明会のお知らせを受け取るため、住所ももちろん登録。志望業種なども登録するのだが、それがとても大きなくくりで(例えば、服飾は流通業か製造業、ブライダルはサービス業か接客業だった)、ちょっと首をひねった。

3日後。アパートの玄関を開けた私は、ギョッとした。なんと床一面の郵便物! それまで、月数通の郵便物と光熱費の請求書しか投函されたことのなかった部屋に、である。しかも拾い上げると、保険に金融、不動産、果ては様々なメーカーまで。自分の志望する企業でもなければ、自分の興味ある領域でもない。最初だからかと思いきや、何の返事もしていないのに郵便物は続く。ほぼ週1ペースでお便りしてくる企業もある。毎日、帰宅して最初にすることが、自分の名前と住所を切り刻んで捨てる作業になった。そうして、ついに自分宛の郵便物を土足で踏みつけて自室に帰った日......でぇええい! 気持ち悪い! と、すべての就活サイトを止めたのだった。

土足で自分宛の郵便物の山を踏みつけ、情けない気分になったあの日。それにくらべて、水風船型のぷらぷら揺れる口内炎の痛みに情けない気分になる、今日の私。

情けない、けれども、何かこっけいだし、あの日よりも気持ち悪くなく生きているんじゃあないかい? なんて、ついつい大口開けてビールを飲み......いてぇええ〜! 沁みるよう! と、頬をおさえて悶えるのだった。

そんな、情けない夏の始まりに捧げたい、稔典さんの一句。

   遠巻きに胃を病む人ら夏の河馬


しもた屋之噺(91)

昨晩、桐朋学園オーケストラとの演奏会が無事におわり、ミラノに戻るところです。梅雨の盛りに一ヶ月間東京にいたら、どんなに鬱々とした陽気かと思っていましたら、意外なくらい雨は少なく、今日のように朝から低い雲からひたひたと梅雨らしい雨が滴っていると、安心するくらいです。

ある朝、外を見ると雨が降っていて、玄関の靴置きから黒い折りたたみ傘を取り、そのまま何日か特に気も掛けず使っていたのですが、仕事帰りにふと握り棒に色褪せたほんの小さな紙切れがセロテープで貼り付けてあり、何やら名前が書いてあります。よく見れば、この6月13日に20回忌をむかえた、父方の祖父の名前ではありませんか。先日、もう95歳のお祖母さんに会いに湯河原に出向いて、定吉さんの20回忌にも代わりに線香を上げて欲しいと電話したばかりでした。誰もこの傘の所以は知りませんし、ましてや何故うちの靴箱にあるのか想像もつきませんが、お祖父さんが亡くなったときも、虫の知らせなのか、朝5時前、突然目が覚め誰に言われるでもなく、ただ何となしに一人で病室へ足を向けると、ちょうど臨終だったのを思い出します。

20年という時間を考えれば、昨日一緒に演奏した学生さんで、その頃に生まれた人もいた筈です。20年で昨日のような立派ができるようになる。当たり前じゃないかと笑われそうですが、自分は20年前もしっかり生きていて、20年経ってようやっと演奏会をご一緒できる程度になったことを鑑みれば、素直に驚いてしまいます。

昨日の本番前、楽屋裏に指揮の高関先生がいらしていて、顔から火が出る思いでご挨拶したのですが、昨日の打楽器セクションには高関先生のお嬢さんも参加していて、昨晩は特に大活躍だったのです。高関先生も今日芸大オケの本番なのに、わざわざ聴きにきて下さったことに感激しましたし、親とは誰もきっとそういうものだな、と妙な納得もしました。

ほぼ20年前、正確には22年前ですから高校終わりか大学1年だったと思います。サントリーの作曲家委嘱シリーズで、ノーノが来日したとき、興奮しながら演奏会に出かけたのを昨日のように思い出します。実のところ、ノーノの新作よりもむしろ生まれて初めてシャリーノのオーケストラ作品を演奏会で聴けることに上気していました。小遣いをはたいて楽譜ばかり買い集めつつ、ハーモニックスのみびっしり書き込まれた楽譜から、どんな思いがけない響きが飛び出すのか、想像するだけで胸が躍らせていました。あの晩、「夜の寓話」を指揮なさっていたのが、高関先生でした。あまりに感動して、演奏会の数日後、桐朋の学生ホールで高関先生をお見かけした折、思わず少しお話させて頂いたのも、懐かしく思い出します。そうした体験が積み重なり、自分がイタリアに住むことへと繋がってゆくのですから、一期一会と呼ぶと大袈裟ですが、一体誰に対して、何が役立つとも知れないのだから、一つ一つの出会いや時間は、せめても大切にして生きなければと、ウッドブロックをたたく高関さんの真剣な顔を見ながら、内心独りごちていました。

1ヶ月近く若い演奏家の皆さんと付き合っていつも感心していたのは、彼らの年齢で自分は理解出来なかったことを、しっかりと理解し、実現にむけて努力してゆくひた向きさと誠実さでした。今この歳になって初めて、当時先生方から言われていた意味に気づかされるばかりで、一体当時何を考えていたのだろう、と呆れることが日常茶飯事です。言葉にしてしまえば簡単なことのようですが、全員で鳴らす不協和音の渦のなか、ここにG majorを聴こう、ここにA majorを聴いてみようと言われても、当時の自分では絶対耳を開くことすら出来なかったと思うし、ヨーロッパにゆき、それが出来るようになるまで一体何年かかったのか数えたくもありませんが、でも昨日の彼らは、無意識かもしれないけれど、当時の自分よりずっと耳が解放されていて、羨ましいほどでした。だからでしょう、本番の演奏は余裕をもって驚くほどのびのびと、作曲家側の視点に立てば、驚くほど正確に、ひとつの作品さえ取りこぼしもなく弾ききった姿は見事でした。たとえプロフェッショナルだとしても、それは凄いことではないでしょうか。本番中は指揮者は何もする必要がなかったからか、演奏会後の疲労感はまるでなかったのにも驚きました。

こうして日本で、それも若いひとたちと長く接する体験は初めてでしたけれども、終わってみて結局とても彼らに励まされた気がします。自分にとっての励みでもあるし、自分の子供が知ることになる、これからの日本を思うとき、何かとても頼もしいものを感じることができたのは、幸せでした。これから20年経ち、自分が何を思い何を考えるのか、不安でもあるけれど、でも愉しみにもなってきました。

さて、これからすぐにミラノに戻り、今度はイタリアの若者相手にレッスンをし、締め切りを2ヶ月過ぎた新作を仕上げ、滞ったまま積み上げられている8月以降の譜読みに勤しみ、8月半ばに東京にもどるとき、果たしてどんな顔色になっているか、考えないように致します。わざわざ自分の顔を見る必要もないですしょうし。

6月30日 東京・三軒茶屋にて


薦(こも)よノート(または野良犬ノート)――翠の石筍57

薦よ 巫女(みこ)持ち、       (籠のひげ毛を与え、美しい籠と母乳と)
副詞もよ 壬生(みぶ)菜、串刺し、  (女よ、久しい思いのひげ毛を与え、美しい夫君を持ち)
糯(もち)の粉を 蟹にまぶし、    (此の岳に、菜摘みするおまえは)
夏の野良犬、情けもなく、       (家を告げないで、名も告げないで、更紗の羽根に──)
そらの上 遠のく庭、         (虚しく見るみなとは、山のあったところが)
押し鍋の手は割れ 底に敷き、     (戸を押し流され、私の許しこそ折れてめちゃくちゃ)
割れても割れても 増せ、       (師はよい名まえを、倍にして手にし)
こそばゆい蚤 虱を、         (私の許しは背も歯もぼろぼろになって──)
もっと増やせ へのこも尾も      (野良犬め! ふぐりも尾もだらりと下げて)


(万葉集巻一の巻頭歌から。──吉本隆明さんの講演を聴いてたら、「西行のうたが好きなんだ」と繰り返して、「定家も啄木もよいけれど、西行の中世詩は、詩歌は、古典詩という定型は......」とたぐりながら、ついに氏は「和歌」と言わなかった。短歌や長歌その他をひっくるめた「和歌」と呼ぶ言い回しを氏は拒絶したのだ。思えば西郷信綱さんもそうだった。初心は「和歌」をやめてみるところにあったと思い出す。かっこのなかは別解。)


ううむ。。。

話題としては先月のできごとだったのだけれど、未だ、私の中で整理が付いていない。
ある土曜日の午後、地元の音楽堂で長くローカルオケの音楽監督をされていた老指揮者のコンサートが開かれた。このところ、体調が優れないという話が流れており、今回の引退もその体調が原因なのだが、とりあえず、開かれるという事で楽しみに聴きに出かけた。

ようやく、数分遅れで始まったあたりからおかしな兆候はあったのだが、初めの曲が終わった時点で指揮者が指揮台から崩れ落ちるような体勢になった。とっさに駆けつけた楽団員に抱えられながら、台を降りた。しかし、コンサートは続けられたので、問題は小さなものなのだろうと考えながら聴き続けていた。

そして、そのときが来た。
最後の曲の演奏中に指揮者の左手がおかしな感じに大きく、斜め後ろに伸びてきた。なにがおきたのだろうと注視していると、マエストロの様子がおかしい。指揮台の上に設えた椅子から今にも崩れ落ちそうな様子で、とりあえず、落ちるぎりぎりのところで留まっている。どうやら、踏ん張っていた足の力が入らないようで、どんどん、ずり落ちていってしまう。それを後ろに伸ばした左手で指揮台の手すりを握り締め、ぎりぎりのところで止まっていた。

すでにオーケストラに対する注意は途切れているので、オケは自主的にコンマスを中心に走っていたが、その凄まじい表現と今にも崩れ落ちそうなマエストロの様子が重なり、土曜日の午後は壮絶な様相を呈してきた。どどどど、という擬音が聞こえてきそうな演奏は、なんとか、終末を迎えたが、無事ではなく、その場でマエストロは崩れ落ちてしまい。袖で椅子に腰掛けたまま、カーテンコールには一度も出て来ずじまいであった。

そのときの、助けを呼ぶように伸びた左手の様子が、未だに私の中で未消化になっている。どんなに素晴らしい仕事をした人にも、やがては終末が訪れる。それをどのような形で迎えるのか? 考えないとなあ。。。

あと、4年で吉川英治の著作権が切れるなあ。。。と考えながら、自分の年齢をふと考える。ああ、もうそんな時間が経ったんだ。著作権保護期限の50年はそれなりに読者の年齢も高くする。ごく稀な著者を除くと、多くの著者は忘れ去られるのに十分な時間だろう。ううむ。自分の著作権は書物でなくなった段階で公開してしまおうと心に決めるここ最近。

しかし、脳裡にはまだあの左手が残っているのだが。(未消化)


玉川+ジュリアードの交歓コンサート

6月9日、玉川大学講堂で行われた玉川大学芸術学部とニュー・ジュリアード・アンサンブルの「交歓コンサート」が多くの学生、一般客に恵まれ、無事終了した。ニュー・ジュリアード・アンサンブルは、その名の通り、ジュリアード音楽院の学生によるアンサンブルで、ジョエル・サックスの指導のもと、アンサンブル・モデルンなどをモデルとして選抜学生による現代音楽アンサンブル。今回はサックスを含む15人ほどが来日し、その演奏を披露した。

交歓コンサートは、ニュー・ジュリアード・アンサンブルの初来日(6月4日、サントリーホール)に合わせ、玉川大学芸術学部とのコラボレーションによるワークショップとコンサートとして行われた。プログラムは以下の通り。

●ワークショップ:土居克行《For S》室内オーケストラのための一つの素描(玉川大学委嘱・世界初演)、河野亮介《5つの楽器のために》(玉川大学4年生、初演)、テリー・ライリー《In C》
●コンサート:ヘンリー・カウエル《オスティナート・ピアニッシモ》、エリオット・シャープの《ポインツ・アンド・フィールズ》、土居克行《For S》、河野亮介《5つの楽器のために》、テリー・ライリーの《In C》

玉川大学芸術学部の委嘱による土居克行元教授の《For S》は、玉川とジュリアードの合同演奏で行われた。ワークショップで初顔合わせ、初音合わせだったが、演奏は特に問題はない。ここでは作曲者が曲の構造(音名象徴や特徴的な部分など)を丁寧に解説しながら、部分的に永曽重光の指揮で実際に音を出し、本番に向けて演奏を仕上げていく。つづく河野作品はジュリアードのみの演奏で、作曲者の作曲上の微調整に基づいて音楽的な変化をサックスが解説していく。最後のライリー《In C》は事前に合わせることができない玉川とニュー・ジュリアードの演奏面を考慮し、玉川から提案した作品。大オーケストラ並のスケールの演奏で、サックスの音楽的な解説を交えながら、玉川、ジュリアードの学生は戸惑いながらも、作品が求めている意図を実際の鳴り響きから理解しようとする姿が見受けられた。こうしたワークショップの音楽作りがコンサートでプラスに作用したことは言うまでもない。

コンサートの最初を飾るカウエル《オスティナート・ピアニッシモ》は、サックスがカウエルの専門家であることから玉川からジュリアードへお贈り物としてプログラミングされた。ストリング・ピアノ、茶わん、さまざまな打楽器の繊細な音色が異国情緒ある香りを運ぶ。つづいてニュー・ジュリアードによるエリオット・シャープの《ポインツ・アンド・フィールズ》。世界初演から数日の再演。点が領域を作り、線をなしたりしてさまざまに変化を繰り返し、最後に一つに収束していく。前半の最後が世界初演となった土居作品、《For S》。Sとはスチューデントの頭文字で、作曲者らしい厳しい構造美を見せながら、しかもメロディアスな分かりやすさも備えている。音がリズムに織りなされながら、無駄なく空間と時間に大きな起伏を作りだしていた。特にトランペットの扱いが秀逸だった。

後半の河野作品は曲名通り、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスの5つの楽器のための作品。無調による音程操作に基づいている。全体のバランス感、音を選ぶ説得力、持続などに課題はあるが、ニュー・ジュリアードの細やかな表情が、作品に豊かな彩りを添えていた。そして最後の《In C》は、全曲を通して演奏するのははじめてだったこともあるが、当初の予定を越えて、約1時間のリアリゼーションとなった。演奏しながら、音楽する楽しみさ発見するように、音のパターンが複雑な音のネットワークを作りながら通り過ぎていく。最後はニュー・ジュリアードの弦の学生だけになり、何人かがなかなか曲を終わらせない。それは確信犯的で、やりすぎだった。表現者としての目立ちたがり屋の暴走は、大人顔負けの演奏をするかれらがやはり学生であることを改めて思い起こさせた。


HMPのインドネシア公演

6月21日から1週間、HMPシアター・カンパニーを率いてインドネシアのソロに公演に行ってきた。今回はその公演について報告したい。

HMPは1999年に近畿大学の学生たちがハムレット・マシーンを上演するために結成した団体で、昨年からカンパニー制になっている。実は、私もHMPの2005年の公演「cage」(大阪現代演劇祭出品)に出演していて、そのときからHMPには注目していた。ちなみにこの「cage」が元になって、今回インドネシアに持って行った「traveler」が作られている。

今回の公演については、当初はインドネシアの3都市巡回公演にしたいと思っていた。それが予算の都合や私の都合で日程が短縮となり、渡航メンバーの数も減ったので、それならばいっそソロ(=スラカルタ)市だけの公演にして、その代わり現地の役者や音楽家とのコラボレーションに挑戦してみてはどうかと、私の方からけしかけたのだった。

ソロの人たちとであれば、私もコラボレーションの成果に予想がつく。おそらく近代以前の人間はこうだったのではないかなと思うのだが、ソロの人達は、その場の空気にとても適応していく。言葉を介する以前に、体感で伝わっていく感じなのだ。この感じをHMPの人に経験してもらいたいなあと思ったのだった。さらに、自分たちの描いた世界に向かって、舞台を作りこんでいくHMPの人たちが、コラボレーションによって生じる予想外の事態にどう反応するのか見たいなあ、という気持ちもあったりした。

インドネシア側で準備してくれる団体、マタヤ(ちなみに私が昨年島根に招聘したところ)に私がお願いしたのは、1つはプンドポで上演したいということだった。プンドポは屋根と柱と床だけからなる空間で、観客は三方から舞台を見る。プンドポは本来は舞台というより、さまざまな行事を行うホール空間である。会場候補は二転三転して、ドゥスン・マナハンという所に決定。私はまだ見たことがなかったが、マタヤは最近ここを借りて、何度か公演やワークショップなどをやっているらしい。さる実業家の邸宅にあるプンドポで(実際にここに住んでいる)、見るからにお金持ちの家らしい、立派な浮彫が印象的な建物だ。ただ柱が空間のわりにちょっと太すぎて、公演が見にくかったのは残念だったが。

共演してもらったのはムハマディア大学(=UMS)の学生たちが作るテアートル・アヤット・インドネシアの人たち5人と、芸大の舞踊科振付専攻の学生2人。テアートルの人たちの判断で、舞踊をやっている人たちにも声をかけたらしい。この劇団を選んだのはマタヤである。テアートル・アヤットの代表で演出のダニ君の話によれば、同じ大学の他の劇団がハムレット・マシーンをかつて上演したことがあり、インドネシアでも少しずつ知られてきているので、今回勉強できるのが楽しみだとのこと。本当にその言葉通り、2時から夜9時、10時まで続く練習に熱心に取り組んでくれた。

コラボレーションのやり方としては、作品のうち、この場面をインドネシアの人達にやってもらおうという場面を決めておき、一応やることは決まっているけれど、彼らの出来を見つつ、動きに関しては適度に任せて作りあげたという感じ。私の目から見ると、結果的に、任せる分量が絶妙に良かった気がする。これ以上多くなると、公演も入れて3日間のプロセスでは収拾がつかなくなっただろうし、HMPテイストが薄まったかも知れない。

音楽に関しては、私のブドヨ公演で音楽を担当してもらったダニス氏にお願いする。彼は伝統音楽も現代音楽もどちらもできる人なのだ。私もマタヤも、彼でなければ!ということで意見が一致。ただ問題は、彼がサルドノ・クスモ氏の公演でニューヨークに行っていて、帰国するのが6月17日か18日頃になること。しかしメールがあるおかげで、まだニューヨークにいる彼と連絡が取れて、OKが取れる。つくづく世の中は便利になったものだ。

HMPがCDで現代音楽や効果音(雨の音や飛行機の音など)を用意しているので、彼にはガムラン楽器などを使って指定した箇所に音楽を入れてもらう。結果、ルバーブ(胡弓)やグンデル(ビブラホーン)、歌の他、フィリピンの竹楽器などいろいろ用意してくれた。ガムランをお願いしたのは、HMPの人たちにガムランの音を聞いてもらいたかったから。観光客としてジャワに来て、ガムラン音楽を聞く機会はこの先あるかもしれないけれど、生のガムランの音にのって動く経験は貴重なものになると思ったのだ。HMP出演者の話によると、公演中、彼はじっと出演者の動きを見据えていて、その視線がとても鋭かったのだそうだ。

彼の音楽は、日本人にもインドネシア人にもものすごく好評だった。私も、想像した以上にダニス氏の間合いを測る勘の良さに驚く。彼がインドネシア人の演劇作品で音楽を担当していたら、ここまで気付かなかったかもしれない。私の日本人の友人も、私のインドネシア人の舞踊の師も「インドネシア人がこの日本の現代演劇と組んで、どこまでやれるのか見てやろうと思ったけれど、その能力の高さにあらためて驚いた」と感想をもらしたのだけれど、コラボレーションというのは、どこまでやれるのか、ということが試されるので面白い。

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さてここで作品に目を向けてみよう。作品の簡単なシノプシスと場面構成を紹介する。

「traveler(旅行者)」とは「見る側」と「見られる側」の境界線上に存在するもの。フランツ・カフカの短編小説『流刑地にて』を題材にしたフィジカルシアター。1人の旅行者を軸として、空間と時間の境界線を行き来する物語である。セリフが入っている箇所は12シーン中3シーンのみで、旅行者の物語の殆どが俳優の身体によって語られる。

  1 足跡 tapak kaki
  2 駅  stasiun
  3 バス bus
  4 街(1日目) kota (hari pertama)
  5 ホテル hotel
  6 街(2日目)kota (hari kedua)
  7 乳母車 kreta bayi
  8 狐の嫁入り(虎の出産) hujan panas/pernikahan rubah (macan dilahirkan)
  9 いま、ここ Saat ini, di sini
  10 赤い家 penjara
  11 壁 tembok
  12 コーラス koor

ここで、準備や制作過程、あるいは公演本番で、私が面白く思った点を書いてみる。

2の駅のシーンでは、ホームで新聞を読んでいる人々を描いている。ただこれは、やっぱりとても日本的な気がする。インドネシアでも駅はあるけれど、ホームで新聞を読む人というのはいない(少なくとも私の経験では)。HMPの人たちはこのシーンのために日本から新聞を持ってきていたのだが、公演当日にジャワポス紙に練習風景の記事が掲載されたこともあって、公演当日は急きょジャワポス紙を広げていた。すると、ビデオ記録を撮る私の横でカメラを構えていた各新聞記者たちが一斉に「お〜、ラダール・ソロ(掲載面の名前)だ」と声を上げたので笑ってしまう。なんて目ざとい! しかし、新聞には反応しても、彼らはきっと、このシーンが駅のシーンだとは気づかなかっただろう...。

4と6の街のシーンでは、主人公をとりまいて、似たような状況が展開する。簡単に言ってしまうと、物売りと物を買う人、金持ちと乞食が出てきて、やりとりをしている内にお財布が入れ替わってしまう、それを主人公が目撃するというシーン。これらのシーンはセリフが全然なくて、パントマイムで状況が描かれるのだが、4は日本人チームで、6はインドネシア人チームで行う。これで面白いと思ったのが、インドネシア人チームの方が、登場人物のお金に対する執着がものすごく見えたこと。それは、インドネシア人の方が、演技がリアルにオーバーになる傾向があり、日本の方がより自分たちの型を持って演技した、というだけにとどまらない気がする。お金のことをあからさまに言わないくせに執着するジャワ人気質が、演技に収まりきれずにあふれ出たという感じ。

ホテルのシーンは、インドネシア人の女の子3人によるセリフのシーン。まず日本人チームが日本語でこのシーンをやってみせ、テンポ感を伝え、その後セリフをインドネシア語にしてやってもらう。彼らがどんな風に言葉を選ぶのかも知りたいと思って、あえて事前には先方にセリフを伝えていなかった。(私の怠慢も1/2くらいあるけど)簡単な会話なので、私がまずインドネシア語にしてみて、それをより自然な言い廻しに彼女たちにしてもらう。興味深かったのは、彼女たちがテアートル・アヤットの演出家であるダニ君に、わりと意見を求めていたこと。やはり演劇的な言い廻しがあるのだなと気づく。

「7 乳母車」のシーンで使う乳母車を、現地で用意してほしいと頼まれたのが、今回一番あわてたことだった。私はインドネシアで乳母車を押している人を見たことがない。マタヤは子供関係の団体に連絡して、乳母車を手配したらしいが、やはりメールでは乳母車という概念は通じなくて、電話で確認するはめになった。ジャワでは普通はカイン(ジャワ更紗)を抱っこ帯にして、赤ちゃんを抱えている。庶民は自分で抱っこするし、金持ちなら赤ちゃん付きのお手伝いさんが抱っこする。乳母車を使う階層というのはどの辺なのだろう。

「8 狐の嫁入り」は、日本人には言うまでもないと思うけれど、日が射しているのに雨が降っている状況のこと。それをインドネシア語では味気なくウジャン・パナス(熱い雨)と呼ぶけれど、こういうときにインドネシア人(?、またはジャワ人)は虎が仔供を生んでいると考えるのだそうだ。こういうときには普通ではないことが起きる、と考える点では日本と共通している。舞台では狐の面をつけ、花嫁・花婿の着物を着た2人と、それを先導する、リンを持った人が登場したけれど、全体としてまがまがしい感じがうまく伝わったかどうか、私にはよくわからない。

「9 いま、ここ」というのが、日イネ出演者が全部登場して、祭りみたいなシーンを繰り広げるところ。練習ではまずこのシーンから作っていったのだけれど、たぶんインドネシア人観客にとってはこのシーンが一番安心して見られるというか、一番見慣れた感があるだろうなと思う。逆に日本側の出演者にとっては、インドネシア人側の反応が予想外で面白かっただろうと思う。

本当は他にも説明したいことが多いが、とりあえずはこんなところだろうか。自分が出演するのと違って、第三者として作品づくりに関わってみると、双方の反応に新鮮な点がある。HMPはこう反応するだろう、という読みはある程度持っていたけれど、それでも思った以上に柔軟に対応していた。今後も交流を続けられたらと思っているが、少なくとも双方が、それぞれにこの経験を生かしてくれたら、コーディネートした方としてとても嬉しい。

●公演データ
 日時:2009年6月24日20:00〜
 場所:Dusun Manahan
 作品:「traveler」(2005年初演)
 出演:HMP Theater Company, Teatre Ayat Indonesia、Danis Sugiyanto(音楽)
 日本側コーディネート:冨岡三智
 インドネシア側コーディネート:Mataya art & heritage


メキシコ便り(22)フチタン

先日、インディヘナ(先住民)についての授業でメキシコに女系社会が存在し、ムシェと呼ばれる女性として生きる男性が多く暮らす町があるというフィルムを見ました。それはオアハカ州にあるフチタンという人口9万人の町です。またここではすばらしいウイピルという刺繍の民族衣装が作られているので、別の伝統工芸の授業でもこのフチタンが取り上げられました。フチタンでは男性が夜明けの4時ごろから朝7時ごろまで魚を取り、それを加工して女性たちが市場で売る。女性が経済と家族の中心に座り、働いているのは女性ばかりで、男性はお小遣いをもらって、魚を取った後は一日中ぶらぶら過ごしているというのが、その授業での先生の説明でした。しかし、私はムシェの話はともかく、男性が3時間ほどしか働かないという話も、女系社会の存在とフチタンの経済を担う女性を賛美しているそのフイルムも全面的には信じられませんでした。なぜってここフチタンはインディヘナのサポテコが多く暮らすところです。概してインディヘナの世界には男尊女卑的な考えが根強くありますし、それにメキシコはなんといっても伝統的にマッチョ(男らしさを賛美する考え方)の国です。

しかし、もしそのフィルムが伝えていることが本当なら、とても興味深いことなので、この目で確かめるべくフチタンにセマナ・サンタの休みを利用して行ってみることにしました。

4月3日、金曜日の夜行バスに乗りメキシコ・シティーから南に12時間。朝8時にバスは小さなターミナルに着きました。荷物を置くとさっそく町の中心にある女性が多く働くという市場に行ってみました。市場はおびただしい数の店舗が、まるで迷路のように広がっていました。魚、肉、野菜、果物、花、民族衣装と、あらゆるものがここで揃うのではないかという多彩さでした。私はおなかがすいていたので、塩で焼いた大きなかつお一切れを買って食べました。きっと朝、取れたものなのでしょう、脂がのってやわらかくて本当においしかったです。縦10センチ横20センチくらいの大きさで15ペソ(120円)安いです。

ここフチタンは日中はとても暑いのですが夜になるとさわやかな風が吹き、とても気持ちよくなります。私も夜風に誘われるようにホテルの近くの小さな教会に行ってみました。すると明日のパレードの用意をするために40人あまりの人たちが集まっていました。男性たちが1メートルくらいの椰子の葉っぱを裂いて上から三分の1くらいのところに15センチほどの椰子の茎をくくりつけ十字架を作っています。女性たちはコーヒーや軽食を用意して長いすでおしゃべりしています。300本作らないといけないとかで、男性たちは子供にも手伝わせて頑張っています。

横で見ていた私にもコーヒーが運ばれてきました。「見ているだけなのにどうもすみません」とありがたくいただきながら、ここで夫婦で歯医者をしているというポルフィリオさん、リリアナさんに女系社会の有無と、私の持っている疑問を投げかけました。すると彼らは女系社会については「昔はどうか知らないけれど、今はもうないと思うよ。それに男はあまり働かないなんてことはないよ。男も女も協力して暮らしているよ。現にうちもそうだし、どっちかが力を持っているとかいうことはないですよ。」と顔を見あわせながら答えてくれました。「やっぱり、男が3時間しか働かないなんてことはないんだ。それに女性ばかりが働いているということでもないし、女性が男性より力をもっているということでもないのか」と、いろいろ考えていると、彼が「明日は朝7時に集まり、パレードをするのであなたもいらっしゃい」と言ってくれたので早起きすることにしました。

次の朝、音楽隊を先頭に手に手に昨晩作った椰子の十字架を持って信者たちが町中を練り歩きます。子供は白の長い服に紫のマントをはおりポニーに乗って行進します。この日はセマナ・サンタにおける最初の日曜日(ドミンゴ・デ・ラモス)でキリストがイスラエルに入場する様子を表しています。このあとセマナ・サンタの行事はキリストの死と復活を再現しながら次の日曜日(ドミンゴ・デ・パスクア)まで続きます。

1時間ほどパレードしたあと教会でミサがあり、そのあと教会の裏手に移動し、みんなに大きな魚のフライと野菜、フリホーレス(豆をぐつぐつに煮たもので、甘くないあんこのペーストみたいなもの)、芋や果物の甘煮がのったお皿が配られました。私にもビールと一緒に渡してくれました。なんだか部外者なのに申し訳ないと思いながらおいしくいただきました。おまけにお皿はここの特産の、土でできた伝統食器なのですが、記念にもって帰るようにいわれ、さらに感動してしまいました。ベラクルスから親戚が暮らすフチタンに休暇で来たというディエゴさんといろいろ話しながら食べ、このあと彼にパンテオン(墓地)に行ってごらんといわれ、行ってみました。

パンテオン一帯はまるでお祭りのように露天が並び、小さく仕切られた各墓地はいっぱいの花で飾られ、その前で家族が飲んだり食べたりしています。墓石の前では楽団がにぎやかな音楽を奏でています。きっと死者が音楽好きだったのでしょうね。きれいな刺繍の民族衣装を着たおばあさんが二人、お墓の前に座っていたので写真を撮らせてもらおうと話しかけると、缶ビールとイグアナの入ったタマーレス(とうもろこしの粉を練って中に肉などを入れ、とうもろこしの皮に包んで蒸したもの)を差し出してくれました。イグアナはここではポピュラーな食べ物で、私はもちろん初めてでしたが、やわらかい鶏肉のようで、なかなかおいしかったです。これもありがたくいただきながらここでも女系社会について聞いてみました。夫が早くなくなったので7人の子供を女手ひとつで育てたというアイーダさんに「女系社会は残っていますか」と聞くと、「そうだね。男はみんなアメリカ合衆国に出稼ぎに行くからね。残るのは女ばかりだから」という答え。「うーん?ちょっと違うなー」と思いながらもお礼をいって別れました。

このほかにもそれまでにいろいろな人に聞いてみました。観光事務所のネレイダさんは「女系社会は伝説でしかないです。ここでは男も女もともに働きお互いがお金を平等に出し合っています。どちらかが主導権をもっているということはありません」と共同性を強調します。そして図書館の受付にいたジョランダさんはフチタンに関する本をいろいろ見せてくれながら「女性が権力をもっているということはないですね、男も女も役割分担をきっちりして両方とも働いていますよ。いまでは女系で続いているという家族もそんなにはいないと思いますよ。」と言います。うーん授業で見たフィルムは古かったのかしら、などと思いながら、男性にも聞いてみようと、市庁舎に行き、フチタン知事の秘書・ビルへリオさんにも聞きました。すると彼は「残っていますよ。現に僕の家がそうです。女性は強いですからね。」とほかの秘書の女性たちと笑いあいながらいいます。

このいいかたはなんだか冗談半分のような気がするし、多くの人に聞けば聞くほどわからなくなりそうなので、もうこのあたりでやめることにしました。ただ彼らの話しを総合すると女系家族も少しは残り、女性が働いている率は高く、経済力のある女性も多いので、ここフチタンでは女性が力を持っているといわれるのかもしれないな、また、先住民が多くてもここでは結構、男女の協同性が成立しているのかな、などと、いままでに聞いた話をいろいろ考えながらパンテオンを歩いていると、にぎやかなランチェーラが聞こえてきました。その音楽につられてコンサート会場に入りました。するとまたしても「ビール飲む?」と女性が聞いてきます。うなずくとビール瓶が渡されました。2本飲んだあと、いくらなんでもこれは商売だろうと「いくらですか」ときいても「いいよ、これはあっちの男性の一箱分の中からだからお金はいらない」といわれます。結局その男性にお礼をいって会場を出たのですが、今日は朝からいっぱいビールを飲んだにもかかわらず、すべておごりでした。本当になんて気前がよくて親切な人ばかりの町なのだろうと感心してしまいました。

そういえばここでは私が外国人であるということを忘れさせてしまう心地よさがあります。誰も私を特別視しないのです。むこうからやってきて質問攻めにすることもありませんし、じろじろ好奇の目で見られることもありません。もちろんメキシコ・シティーでよく経験する「チナ(中国人?)」と声をかけてくることもまったくありません。その視線が自然なのです。でもこちらから声をかけるととても親切に対応してくれますし、目があうと必ず笑いかけてくれます。きっとこのような、人に対するなにげなさがムシェの人たちが住みやすいと感じるゆえんなのでしょうね。結局私の女系社会に対する疑問ははっきりとは解明されませんでしたが、フチタンがとても居心地のいい町だということだけははっきりわかりました。


ダム貯水率、もう少しで八十パーセント

交換した眼鏡、なかなか慣れない。目玉が顔と違う方向ばかり向いてよそ見ばかりしていると、途端に見えなくなる。縁がない眼鏡、レンズに直接つけられたつるにつながる直接レンズに付けられた部品が視界に入りとても気になる。そういうことも雨がいきなりふりはじめたり、少し晴れたり梅雨らしくなったころにはだんだんと慣れはじめる。文字の読み方のこつもおぼえたきた。

住んでいるアパートの補修工事が三日間。十二年、同じところに住んでいると部屋のあちこちガタがくる。きれいだったフローリーングは湿気のためベランダ側から二枚、その頂に足をのせるとほどよい刺激をくれるくらい、山のように盛り上がり、食卓がある床は高級な絨毯のように柔らかくふかふかになり、畳の部屋の天井はゆるやかに波打ち、数年前シロアリに食われた玄関の壁はもろくも崩れる。古い建物だから湿気は多い。数年前、五月の連休に四、五日留守にしたあともどったら、家中カビだらけ。革製品はこまめに手入れ、なるべく湿気のない保管場所を選ばないとすぐカビに浸食。それ以来、五月から九月までは一家総出で家をあけることはしない。
補修工事中は本棚から本を全部、ベランダに敷いたブルーシートの上にだし、本棚を動かす。奥に寝ていたもう読まない本は片付けるときには本棚に戻さず、古本屋行き。壁の板は剥がされ、むき出しのブロックをさらけだし、九センチ幅の床板は一センチカットされ、それぞれシロアリよけの薬をまかれ新しい板、幅を短くされた板がはめられる。工事が終わると再び激しい雨が降り始めたかとおもうと、お先に梅雨をあけさせていただきます、となったとたん日差しが肌に突き刺さる毎日。クーラーも一台しか掃除が済んでないため去年の防音工事で新しく取り付けられたロスナイと扇風機ですこしだけ涼しくする。

眼鏡も慣れはじめた頃、今度は仕事で携帯電話を持つはめに。近所の携帯電話ショップでカタログを仕入れ、料金プラン、機種を見ていると頭の中は意味のわからない用語でいっぱいになる。以前からなにか怪しい、と思っていた携帯電話への疑念がますます深まるばかり。これならパソコンのほうがまだわかりやすい。購入してもプライベートでは使うまい、番号は親兄弟にも教えまい、と決意だけはしてみて、ここぞとばかり夏を主張する入道雲をうらめしく眺めながら電話屋さんへと行く準備をする。


愛と海とパレスチナ

3月、シリア国境を越え、イラクに入った。
そこには、パレスチナ難民キャンプがある。アメリカ兵が、キャンデーを持ち歩き、子どもたちの人気者になっていた。6月30日を期限にアメリカ兵は都市部から撤収する。ニュースは、バグダッドでは、イラクの人々が占領が終わったと喜びの声を上げていると伝えている。この砂漠の難民キャンプから米兵がいなくなるのはいつなのだろうか? たとえ、米兵がいなくなっても、占領は続く。住民は永遠の被占領者であるパレスチナ人たちだから。

遠い祖先がハイファ出身という難民キャンプの少女は、また詩を書いた。 


  愛と海   悲しい鳥

愛は海のようなもの

みんながそれを好きで
みんながそれを求め
みんながそれを歌い
みんながそれについて語らう。
でも本当は誰も知らないの。
そこにとびこんだことのある人以外は

みんながそれを歌い
みんながそれを語らい
みんながそれを求める
でも本当はだれも知らないの
それを理解した人以外は


私は、この詩にパレスチナを付け足してみる。

...でも、本当は、誰も知らないの
それを体現したもの以外は


アジアのごは ん(30)ダージリン紅茶と水 その2

紅茶をおいしく飲むために、水についていろいろ研究してみた。タイのバンコクであれこれミネラルウォーターやボトルドウォーターを買い込んで飲み比べてみたように、日本でもいろいろな水で紅茶を入れて飲んで見たのである。

日本で市販されている水は、すべてミネラルの含有量、硬度、phが明記されている。これはいい。なんせ、タイで市販されていたものには、皆無、といっていいほどデータが表記されていなかった。だから、硬度が200mgとか300mgの高いものなら、ああこれは硬水、とさすがに味で分かりはするが、正確なところは憶測でしかなかったのだ。ちなみに硬度というのは、水の中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量から計られる。含有量が多いと硬水で、少ないと軟水である。

バンコクでダージリン紅茶を入れて、最低の味だったフランスのエビアンは、日本で調べたら硬度304mg、ph7.2、しかもミネラルの中でもカルシウム含有量が突出して多い鉱泉水、ということが分かった。なるほど。同じフランスの水でも日本で最近人気のボルヴィックは、硬度60、ph7.0の軟水である。これで紅茶を入れると、だいたいおいしく入る。飲んでも日本の水と同じようにすっきりまろやか。

日本の水は、基本的に軟水である。軟水はミネラルの含有量が少ない、クセのない水だ。硬度120mg以下のものを軟水と呼ぶが、飲んでおいしいのは20mg以上のものだろう。紅茶もいろいろ試したが、硬度20mgの水では味のバランスが悪くなることもある。硬度100mg以上になるとこれまたバランスが悪くなる。紅茶によっても多少違ってくるのだが、ダージリン紅茶をストレートで味わうなら、硬度20mg〜100mgの水でなくてはならず、硬度40mg〜60mgがベストではないかと思う。phも7ぐらいの中性がいい。ダージリン紅茶の持つ香り・渋み・苦味・甘み、そしてコクがバランスよく抽出される。

で、日本の水道水の硬度であるが、じつは40mg〜60mgの硬度の地域がほとんど。例外は沖縄本島の一部(硬度が高い)、名古屋、広島(低い20mg)、そして山がちな地域(低い)など。水道水をちゃんと浄化して塩素や毒素を取り除けば、かなり理想的な紅茶用の水になるのである。

もちろん、水道水も地域によってずいぶん質が違う。近年は浄水場を出るときの水道水の質はかなり向上しているのだが、各家庭の水道管が錆びていたり、鉛管のままだったりすると蛇口から出る水の質はかなりひどいことになっている。もとの原水の質がよければ塩素の量も少ないので、蛇口から出る水をそのまま飲んで、おいしいという地域に住んでいる人がうらやましい。

飲んでおいしいけれど、紅茶にあまり向かないのが、いわゆる鉱泉水である。さきのエビアンもそうだが、タイのオーラーもそうであった。鉱泉水は体にはいいが、硬度が高く紅茶には向かない。日本の水は軟水がほとんどで、硬水は飲みなれていないためか、市販されているミネラルウォーターも断然軟水が多い。タイで売られているのは輸入品もすべて硬水であった。ヨーロッパなどでも軟水を探すのはむずかしいかもしれないが、フランスのボルヴィック、ドイツのクリスタルガイザー、カナダのウィスラーなどは軟水なので、憶えておくといいかも。

じゃあ、硬度の高い水しか手に入らない場合はいったいどうしたらいいのか? これこそ、ヨーロッパやインド平地の人々の切実な問題でもあろう。では、ヨーロッパでは紅茶はどのようにして飲まれているのか? インドでは? 

答えはミルクをたっぷり入れる、スパイスやフレーバーをつける、である。ストロングタイプのセイロンティーやアッサムティーにミルクをたっぷり加えれば、まろやかになり、硬水で入れてもけっこうおいしく飲める。欧米人の好むアールグレーやラプサンスーチョン、ジャスミンなど日本人からすれば、なんでこんな強烈な香りをわざわざつけるのか、というフレーバー紅茶も、硬水で入れればバランスがよくなるように作られているのである。

今では、お茶の中でもとくに紅茶党なわたしだが、以前は紅茶の入れ方はむずかしいと思っていたし、ミルクを添えて飲むという飲み方に面倒くささも感じていた。それほど紅茶がおいしいと思ったこともなかったのである。

あるとき日本の水俣で作られたオーガニック紅茶に出会って、紅茶に対する偏見がすーっとなくなった。水俣の紅茶は、イギリスの会社の製品と違って、まろやかでやさしい味であった。ミルクを入れるよりも、ストレートで番茶のように飲むのがおいしい。番茶のように、二煎目もおいしい。ストレートで飲むと、紅茶の味がよく分かる。繊細で、豊かな、あきのこない味。毎日飲みたい味。

紅茶というのは、ミルクや砂糖を入れて、優雅なカップで、ケーキと楽しむだけのものではなくて、本来は番茶のようにごくごくと飲むものじゃないの? だいたい、毎日ケーキは食べないし、ミルクも飲まないしなあ。気候風土、そして水の質の違う日本でヨーロッパのような飲み方にこだわる必要はないやん、と水俣の紅茶を飲みながら気がついた。ヨーロッパの紅茶会社の紅茶がきついと感じていたのは、ミルクを入れるのが前提であるためのブレンドだったからか。

以来、旅先ではミルクたっぷりのあま〜いチャイも飲むが、日常の紅茶はストレートで楽しむようになった。というか、わが家では朝のコーヒー以外は、食後も午後のお茶ももっぱらストレートの紅茶になっている。

ストレートで味わっておいしいのはもちろん、なんといってもダージリン紅茶である。このダージリン紅茶をストレートでじっくり味わえるのは、軟水のおかげなわけだが、世界で軟水の地域はそう多くない。ああ、ありがたや。

紅茶を入れるのが、なんとなくむずかしいと感じるのは、紅茶はその茶葉によって適量や蒸らす時間などが微妙に異なるからだと思う。同じように入れているつもりでも、うまく入らない・・、という人におすすめしたいのが、コーヒーサーバー用の耐熱ガラス製のポットを使って入れる方法。共用すると香りが移るので、紅茶専用にしてください。

ガラスポットを使うと、紅茶の状態がよくわかり、水色も確認できる。ダージリン紅茶を熱湯に入れると、茶葉は沈まずに浮いたままで、やがてお湯はきれいな茶色になってくる。葉っぱがひとつ、ふたつ沈み始めたら、もうかなり濃い。沈まないうちに味見してみて、好みの味のときの色や葉っぱのようす、時間を覚えるのである。お湯の量がこれくらいだと、茶葉の量はこれくらい、というのも覚えられる。

ダージリン紅茶は沈まないが、アッサムやセイロン紅茶の葉っぱは、沈んで上がって、沈んでといわゆるジャンピングをする。これを眺めるのも楽しい。ジャンピングが収まったら、飲み頃である。

この耐熱ガラスのポットは、最近は直火不可と表示してあるけど、品質は以前と同じなので自己責任で直火可。持ち手が火にかからないのを選ぶこと。ポットの底が濡れた状態で火にかけないこと。これでお湯を沸かして火からおろし、そこに茶葉を投入するのが、一番いい。やかんでお湯を沸かして、このポットに茶葉を入れてお湯をそそいでもいいけれど、とにかく熱いお湯が大切。でも、ぐらぐら沸いているところに茶葉を直接入れてはいけない。濃く入りすぎたら、お湯を足せばいいし、ミルクティーにしてもいい。蒸らし時間が短かったら、もう少し待てばいい。ダージリン紅茶は、二煎目もおいしい。質がよければ三煎目もそれなりに飲める。

紅茶に限らず、お茶をおいしく入れるためには、茶葉を観察して、調整することが必要なのだ。茶葉はそれぞれ違うので、封を切った茶葉を出したら、まず基本の方法で入れてみて試してみる。お茶の気持ちになってみる。
香しき紅茶を飲むときだけでなく、茶葉を取り出したとき、お茶に熱湯を注ぐとき、お茶が愛おしく思えるようになれば、あなたもりっぱなティーラバー。


『小杉武久 二つのコンサート』

6月は大阪国立国際美術館で小杉のコンサートがあった 二日にわたって1964年から2009年の新作初演まで12の作品が演奏された 小杉の作品がこんなにまとめて演奏されるのはほとんどないことで その場にいて 演奏にも参加できたのは 何年ぶりか かれの周りにいて それぞれユニークなしごとをしている若いアーティストたちや 企画構成を助けるスタッフの存在は 東京にいては望めないことだろう

上着を6分間かけて脱ぐという日常のなにげない行為を極限までひきのばしてみる 1964年の『Anima 7』 それをする方も見るほうも ふだん気にもせず通りすぎている行為が 目的に向かって一直線にすすんでいるのではなく ためらい はずれ やりなおし 行きすぎてもどる 複雑な試行錯誤の不安定な束であることを知る 

その後のライブエレクトロニクスの作品も 単純な回路の組み合わせと相互作用に ちいさな日常のオブジェやわずかなアクションの干渉から 予想からはみだす変調と 即興的で不安定な結果を生むような設定がされている なにげない見かけ ささやかな行為 しかしこの不安定な波乗りを続けるには 集中と没入の快感 それでいて限界を見きわめ すばやく身を引くリズム感覚がはたらいていなければできないことだろう

発振器 ピッチシフター フィードバック/ディレイ コンタクトマイク 光センサー マルチチャンネル音移動 扇風機 光センサーを入れる紙袋 紙箱 小石 貝殻 釣り竿 コンタクトマイクを取り付けた竹串を見ていると そこに隠れている動物が 棒でつつかれて 声を出したり 転げ回ったり 向こうからもちょっかいを出してくる そんな遊びを思い出す

だれもがディジタル音源とコンピュータ操作で 響きの粒子の意外の粗さと均質な音感にすっかり慣れてしまっているいま 鉱石ラジオの手作りの感触を残した技と 手綱捌きで 踏み外す寸前の綱渡りをたのしむ余裕が まだここにある

ふだんピアノがちょっと弾けるからといって 音楽業界のなかで使い捨てに終わるのではないか と思わないでもない毎日 たまにはこういうことでもなければ どうなってしまうのか それでも これは小杉の道であり それとどこかで出会いながら また別な方向に分かれていく もう一本の道に踏み出せることが いったいあるのだろうか と疑いながら