2012年3月号 目次
アニヴァーサリー・ブルースは歌えない
アニヴァーサリーは傷つける
身体を無感覚にする
気持ちをしたたか殴りつける
とエドウィージが歌うブルース
大災害から何周年
というのは とりわけ
とエドウィージが歌うブルース
大地震がハイチを襲った
2010年1月12日
東日本を襲った
2011年3月11日
さらわれたものたち
声をなくすものたち
立ち尽くすものたち
瓦礫のしたに
極寒の氷雪の重みに
暑熱の濁り水に
レイプの暴力に
耐えたものたち
耐えられなかったものたち
近くへ駆けつけるものたち
遠くで思いをはせるものたち
思いはせれば
すこしずつ
あらわになっていく
おのれの醜悪さに
顔をそむけるものたち
そむけずに正視しようとするものたち
問題は11日ではなく12日からだと
正視して動く あたらしいものたち
ひとの砂嵐のなかを 嘆きを胸にたたんで
ひとり ひとり 前へ進もうとするものたち
目を開くと そこにいる
あたらしいものたち
ろうそくの炎の揺れに
持続する動き
持続させることばに
震える
その ものたちに
ひとりの
そのもの たちにも
もうすぐ春がくる
花咲き 鳥歌う春がくる
でも──思うのだ やっぱり
流すばかりのこの土地で
アニヴァーサリー・ブルースは歌えない
54の消せない火種があるかぎり
アニヴァーサリー・ブルースは歌えない
まだ 歌えない
歌えない よね
まだ
オトメンと指を差されて(45)
ただいま湖畔のカフェにてこれを書いております。そうなんです、湖のほとりの喫茶店にてものしておるのであります(とりたてて意味のない繰り返しアピール)。
窓の外では遊覧船が停泊し、強い風とともに雪が降っており、そしてわたくしのご友人の方々はみな忙しくなったりあるいは遠方へと散り散り(そこへ来ておのれは地元へ帰り)、ひとりお茶をしながらぼんやりしているところで、そういえばそういえばこの原稿を書かねば、と思い出して今に至るわけですが、たとえばそんなことをしていなければ何をしていたかというと、やはり翻訳なのでしょう。
そもそもどなたかとお茶をしても、基本的にはわたくし、相手のお話を聞くばかりでほとんど自分からしゃべらないものですから、カフェで翻訳をするとしても、それも同じく相手のお話を聞くということであって、そこには相手が生きているか死んでいるかといった違いしかございません。
いやむしろわたくしの場合、死んでいるお方との方が積極的に活発に、対話なるものを致している場合があり、そう考えてから思い起こしてみるに、生きている人とお話するときでさえ、その基本には死んでいるお人とおしゃべりをする技術が元にあるわけでして、言うなればそれは〈おうかがいの技〉みたいなものなのですが、生きている人を死んでいる人のごとく扱うという一見失礼なものでありながら、説明すればその人のしゃべる言葉の意味はご本人が口にした瞬間のその方の頭にしかないのだからわたくしの耳に言葉が届く頃にはそれはすでに死んでしまっているのだという至極まっとうな背景があり、ゆえにそれをわたくしの頭のなかで蘇生するということであるのです。
しかしながら世知辛いことに昨今は、死んだ人との対話よりも生きている人とのおしゃべりを大事にするという風潮がございまして。いわゆるコミュニカシオンであります、こいつがわたくし大の苦手でして、どうしようもないのでございますが、そうしてみるとわたくしは今の今までひとりとして生きた人としゃべったことがないのではないかという疑念も起こってきてしまうわけで。もちろんこれは比喩にすぎないわけですが、そういう見方をしてしまえば、わたくしにはこれまでただひとりも生きた友人や仲間や先生や恋人などがいなかったという想定すら成り立ちえて、そうすると我ながら非常に哀れな生き物としてもはや憐憫を禁じ得ません(いっそのこと禁じてしまってもいいかもしれません)。
つまりわたくしの友人・恋人・先生はずっと翻訳なる〈死んだ者との対話〉であったわけで、その奇妙さは某サッカー少年の〈ボールは友だち〉に追随してしまうかもしれないのですが、それでもなおわたくしにとって〈死んだもの〉とは常に愛おしくもつらく忘れがたいものとして、生きている者よりも上にあるのでしょう。
死んだ人のことを考えるということは、自らを開くということでもあり、無防備にならざるをえず、したがって保身とは無縁のところにあります。傷つき続けることを運命づけられるわけでありますが、むろん生き延びるということとは真逆の行為で、生き物としては拙劣としたものでありますから、普通に考えれば、始終やるわけにも参りますまい。
ただ、こうも思うのです。
一年のなかで一日だけでも、あるいは一分、一秒だけでも、そういった死んだ人とのおしゃべりができない人、なさらない人――そんな御仁がいるとしましたら。
やはりそういう方を信用することは、わたくしには致しかねます。
考えるのすすめ
品質管理を専門にされていた東大の飯塚教授が定年退官される。研究者としては非常に脂がのりきる面白い年齢なのがもったいないのだが、先日、その退官を記念した会に参加してきた。ざっくばらんな会なので、いろいろな話ができて面白かったのだが、その中で、世の中で抽象化して考えられる人間とできない人間がいるらしいという話になった。私などは抽象化してしかわからない人間なので、ふむふむとは聞いていたが、抽象化技術が先天的なものだと言ってしまうとプログラマとしては、できない人間が切り捨てられてしまうので、「いやいや、最初はできなくてもある程度ならトレーニングでなんとかなるでしょう」と意見を述べておいた。まあ、それでも、絶対に向かない人というのはいるのだが。
そんな話をしながら、ここのところずっと考えてきたシステムについて考えてみた。システムは基本的には人間の形づくるありとあらゆる人工物の総称だと考えるとよい。社会学の一派では、一種の図式ができるとそれでできあがりみたいなシステム思考という分野があるのだが、これは図式が問題というよりも対象をいかに抽象化して考えられるかといった問題なのだと理解している。いわゆる飯塚教授式には先天的な才能なのだが、そういってしまうと終わってしまうので、ここではみんなができるものとして話を進めたい。
最近、おかしいと思ったもののひとつに、某国営放送局の放送料の契約というのがある。先日、家の呼び鈴が鳴るのででてみると、いきなり、「家の中を見せてください」とおかしなことを言ってくる。基本的に話の順番が違うので、誰かと問うと国営放送だという。衛星放送が見えるはずなので契約を変えて欲しいという。変えてもいいのだがまるで見ないのと、その前に訪問の応答がおかしいので、これはいわゆるなんとか詐欺の類ではないかと思い、けんもほろろにあしらってしまった。後で調べると、ずいぶんと契約変更に関するトラブルが多いらしい。
まあ、自分の名前と訪問理由を述べずに、いきなり家の中に入れろというとんでもない営業は置いとくとしても、基本的に衛星放送というもの、営業というものが理解できていないことに驚いた。営業は会社の顔であるはずで、それは顧客の直接の接点であるゆえに大切なのだ。私はまだ新入社員の頃、会社の外に出たら、会社の看板を背負っていると思って恥ずかしくない行動をしろと教え込まれたものだ。もし、契約だけとれればいいと思っているのなら、やがて、組織の存在意味を問われることになりかねないと思う。本来なら、営業活動に触れた人たち(訪問先や訪問で契約した先、もしくは新規に契約した受信契約者)にアンケートをとって営業品質の確保を図るべきだろう。これは、契約増強という問題について、単純にチャネル強化したからに違いなく、契約窓口というシステムを総合的にみられなかったからに違いない。そもそも、衛星放送というものについても一度意味を見つめなおすべきなのだと思う。当初は離島や山間部などにおける難視聴対策と意味があり、実験放送ということで高画質の放送を唯一行っていたので、一般契約者については高画質視聴のプレミアサービスとして考えればよかったかもしれないが、現在は地上波がデジタル化した関係で地上波でも高画質のテレビ放送を受信できるようになっているのだ。この状態で、プレミアサービスと言われて納得するユーザも少ないだろう。
ひとつ、システムを考え直してみてはどうだろうか? 衛星放送は実は海外で日本の放送が見られる手段だったりもする。実は海外では、放送契約なしで衛星放送が受信できる。そういうユーザがいる前提で、日本の基本的な放送手段として衛星放送を一番に据えて、むしろオプションのプレミアサービスとして地上波放送を考えたらどうだろうか?この方がむしろ切り替えに際して、スカッと行ったような気がするのだが?
まあ、とりあえず、きちんとしたシステム思考でものごとを考え直してみることを進めたい。そこには新しい世界が広がっているかもしれない。
しもた屋之噺(122)
いま、中部イタリア、アンコーナから30キロほどのところにあるイェージのホテルで書いています。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世、ペルゴレージとスポンティー二が生まれた小さな街で、ホテルのすぐ右脇の40段ほどの階段を昇り左に折れると、高い丘の上には共和国広場があって、そこにペルゴレージ・スポンティー二劇場が建っています。昨日はじめて訪れましたが、小さいけれども、実にうつくしい劇場でした。ホテルの窓から外をながめると、道路脇には雪が所々残っていて、10日前には1メートル近い大雪で街中が麻痺状態だったと聞きました。
* * *
2月X日04:00 ミラノ自宅
昨晩からの粉雪が少しずつ降り続いている。庭のローズマリーに純白の雪が積もるさまはうつくしい。イタリアは寒気が凄まじく、今日は氷点下5度だったが明日は氷点下12度まで下がるそうだ。
ラヴェル和声分析終える。意外に苦労したのが、旋法をどう捉えるかヴィジョンが明確でなかったから。旋法に基本的に機能はないが、機能和声に旋法を取り込んで、機能をぼやかせていることを踏まえて、落とし処を自分なりに見つけなければならない。ラヴェルの音楽に開放感はなく、禁欲的で箱に寸分違わずきっちりと収まっている美しさ。自虐的ですらある快感。モランジュが書いた本だったか、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ冒頭、単旋律ピアノパートのむつかしさについて書かれている一節を思い出した。
2月X日09:00 自宅
息子を小学校へ送って帰ってきた。目の前は相変わらず雪景色一色で氷点下が続いている。昨晩は家人の練習のため、息子をこちらの寝室で寝かしつけていると、壁側では寝たくないので場所を替わってほしいという。壁に映る影が怖いのだそうだ。自分も幼い頃は子ども用たんすに書かれていた絵柄と、今も両親が使っているたんすの木目が人の顔にみえて仕方なかった。影は死んだら出来なくなるんだから、ある方がいいじゃないかと息子に話すと、椅子もピアノも机も生きていないのに、どうして陰があるのか尋ねられるが、暫く考えてから、彼は分ったというように手を打ち、「椅子もピアノも机も存在しているからか」と声を弾ませた。
最近彼は学校の宗教の授業で習った、神さまが太陽をつくった話に心を躍らせている。
2月X日17:00 Jesiへの車中
車窓から眺める限り、ボローニャからリミニ辺りまでかなりの雪が残っていたけれども、アンコーナに近づくにつれ雪は消えた。
ノーノを読んでいると、昔やった「プロメテオ」に出てくる、シューマン「マンフレッド」引用に似たフレーズが散見される。「Canti」冒頭には、「ブーレーズの人間性に」と手書きで献呈が記されているが、当時は彼らはどんな協力関係にあったのだろう。
ノーノの音楽には「挑み続けるフレーズ」があって、何度否定されても果敢に挑んでゆく。彼が意図していたか不明だが、そんな風に読めなくもない。後年の作品にも通じる、フレーズなしに単音だけで音楽を描いてゆく手法は、少し暗めの色使いと太い筆で、大胆に描いてゆく抽象画のようでもあるし、木を太いノミで荒削りしてゆく彫刻に見えたりもする。旋律と伴奏というヒエラルキーを破壊した共産主義的な発想ともいえなくはないが、恣意的すぎる解釈だろう。
同日20:00 Jesi レストランにて
イェージはアンコーナより少し内陸に入るので、雪も大分残っていて寒いのだが、街はカーニバルで浮き足立っている。ミラノよりも地方都市のほうが、カーニバルは大切な行事に見える。イェージが「Jesi」と「J」で表記されるのは、古代ローマ時代に「Aesi」と呼ばれていたから。ラテン語からイタリア語へ変化するなかで、「AE」は「JE」になった。
最初のリハーサルをしたアンコーナの劇場は、歴史的中心街の脇、港のすぐ目の前にあった。どっしりしているのに、一見すると劇場に見えなかったのは、ひしめくような街並みの中に建っているからか。昼食は劇場裏のレオパルディ通りでみつけたカフェテリアで、バカラの煮つけ。やはりこの辺りの魚は美味だった。
自分の思っていること、感じていることを、丁寧に相手に伝える作業の大切さを、指揮をするたびに思う。分ってくれるに違いないという思い込みは傲慢であって、頭から否定しなければいけない。
2月X日09:25 ホテルにて
ペルゴレージ劇場までホテルから歩いて5分ほど。小さな馬蹄形劇場で、天上や壁面はとても美しい。
久しぶりにチェロのフランチェスコに会う。リゲティの協奏曲を軽く合わせて、エマニュエル・バッハの協奏曲のリハーサルが始まると、実におもしろい。ルバートを随所に挿入しつつ、シャープな音感で大胆に踏み込む、今まで聞いたどの演奏とも違う解釈。ピリオド奏法的な雰囲気も皆無ではないが、古楽と感じはなく、カデンツァはハーモニクスを多用するほど。
彼が好きなロックのようなアグレッシブさと、極限の繊細さを瞬間的に掛け合わせつつ、出来るだけ決めないで合わせたい。寧ろ合わなくてもいい、ずれてもいいから、自発的な音を出してほしいと言われて戸惑っていたオーケストラも、少しずつ楽しみ始めている。彼はいつもやっているカルテットの丁々発止を求めていて面白すぎるほどだが、リハーサル時間が足りない。
近くの食堂「第7天国」でフランチェスコと遅い夕食。
「今まで自分はとても充実した人生を生きてきて、思い残すことは何もない。何もできず植物人間になってまで生き続けたいとは全く思わない」。
スコダニッビオが1年ほど前、落着いた様子でフランチェスコにそう言ったそうだ。メキシコについて間もなく彼がこの世を去ったのは、単なる偶然とは言い切れないかもしれない。「クープランの墓」は、ラヴェルが戦死した友人らに捧げた曲集だけれども、一体なぜスコダニッビオは「クープラン」を選んだのだろう。明日の演奏会には、未亡人もマチェラータから駆けつけてくれる。
同日17:30 イェージの劇場控室
古く煤けた感じの細いへろへろの廊下の一番奥が、おそらくいつも指揮者のために使っていると思しき年季の入った控室で、目の前に石畳の共和国広場がみえる。広場では子どもたちがサッカーをしたり、老人が一列に並んで話している。誰かが廊下でタイスの瞑想曲を弾いている。
このプログラムの最後の練習が終わる。オーケストラは殊の外協力的で、もう1回、もう1回とオーケストラの方からパッセージ練習をこれだけ積極的に頼まれた記憶はない。如何せん練習時間は限定されていて、どうしても先にいかないと、ご免ねと言うたびに、髭を蓄えた厳つい初老のヴィオラのトップが、それは悲しそうな顔をする。ところで、イタリアのオーケストラのコンサートマスターは、概して似たような印象があって、爽やかでスポーティーな出で立ちをしている。洒落た皮のスニーカーを履きこなし、スタイリッシュなジャージを羽織って颯爽と現われるコンサートマスターを5、6人は知っているが、概して家庭の匂いがしないのは、地元でなく外から雇われてやってきているからだろう。
練習が終わって、劇場下の食堂「いかれ猫」で、フランチェスコと彼のお母さんと食事。彼女がここに来たのは、フランチェスコの本番もさることながら、フリードリヒ2世の出生地をどうしても見たかったから、と興奮さめやらぬ様子。
「あんな均整のとれた文化人は後にも先にも彼だけだわ」。
フランチェスコと同じ、裏返るような抑揚が心地よい。
2月X 日10:30 ホテルにて
いま、こうして書いていると、ホテルのどこかから、フランチェスコがエマニュエル・バッハを練習している音が聞こえる。
朝、イェージの街を散策する。劇場脇から伸びる古い石畳がペルゴレージ通りで、コスタンツェが公衆の面前でフリードリヒ2世を産み落とした広場に繋がっている。広場には土曜の朝市が立っていて、イスラム教に寛容で、ローマ教皇から追い出されることになったフリードリヒ2世らしく、イタリア語とアラビア語で出生についての説明が彫り込まれていた。
2月X日 08:15 ホテルにて
昨日の演奏会は思いのほか聴衆が多くて驚く。フランチェスコのエマニュエル・バッハは、とても心に響いた。特に2楽章は触れると崩れそうなほど繊細で、3楽章で快活さを取戻すため、楽章間でいつもより間を取らなければならなかった。
ラヴェルの美しさが引合いに出されるとき、しばしば「精巧な時計のよう」と喩えられる。その通りだけれども、ラヴェルはそこに思いもかけぬあどけなさが同居していて、魅力が増す気がする。昨日の「クープラン」はオーボエが冴えていて、彼を聞きたくて皆が耳をそばだてて弾いた。フォルテでこっそり一小節ファゴットが増やされたり、ピアノでラッパが1小節増やされるオーケストレーションで、音を塗りたくるのは逆効果に違いない。一緒くたに食材を入れて最後にミキサーにかけてスープにしてしまうのは、さすがに勿体ない。
演奏会後、楽屋に記者の婦人が訪ねてきた。
「ラヴェルのこの作品はエキゾティックな感じがしますが、あなたは親近感を感じますか」。
今日は来週から練習の始まるノーノを読み返し、レオパルディの最後の詩による作曲のつづき。明日はスコダニッビオが招いてくれた演奏会を振るため、40キロほど離れたマチェラータの劇場へ出掛ける。レオパルディは、マチェラータ県のレカナーティに生まれ、このマルケの丘や緑を眺めて育った。
日曜朝の礼拝なのだろう。街中の教会の鐘が、一斉に鳴り出した。
閏年の閏月
一月に新と旧の二回の正月が終わったあとの二月はあの世の正月、旧の十六日。今年はお線香あげるところは、母親は三箇所、こちらはひとつ。ちょうど仕事も休みだったので、ふたりで車でまわる。そういえば今年は閏年で旧暦では三月が二回ある閏月。
最近は夜な夜な季節はずれのコーレーグースーの出来具合を見ている。しこんだ島とうがらしが去年は台風のため手に入らず、一月にスーパーの野菜売り場に出ていたもの見つけ即買う。コーレーグースー、漢字で書くと高麗薬、という説。季節はずれの島とうがらしはぷくっとしたふくらみはあまりないが、愛飲している菊の露三十度の三合瓶にへたを取り、水洗いしたあと水気をかるくとばし、瓶にぶち込む。三ヶ月くらいすると沖縄そば用の香辛料ができる。できたものを買うと150gで五百円以上するが、これだと六百円くらいで収まる。でもこれ、泡盛のアルコール分はそのままなので辛味欲しさに大量に沖縄そばに入れたあと、車を運転すると酒気帯びで引っかかる可能性高い。とうがらしの赤味が消えるまでは、減った分泡盛を足してやればいい。
去年、いつも五、六通来ていたスパムメール、エロもの、偽ブランドもの、金儲けものが十二月にぴたりと来なくなると、電話で光回線にしませんかの勧誘がいろんな業者から入る。ドメインサーバーがあるとか、あることないことを言うと相手は専門用語に弱いためか引き下がってくれたが一月に入っても勧誘電話。もうネタが尽き、工事費無料、値段も安く、大家さんとの交渉もやってくれるということなので手続きすることにした。手続きしたものの約束した日に電話は来ない、こちらが頼みもしない契約が入っているし、いざ工事となると前日になり、午後の予定を朝一番に変更してほしいとか色々あり工事完了し、電話回線までの設定は完了となった。こんなんで大丈夫か? 旧電電公社とおもいながらネットの設定、IP電話の設定となると説明書通りにいかない。仕方なくサポートセンターのお姉さんのご指導のおかげですべて問題なく使える状態になった。ADSL8Mで基地局も近いから全然問題なかったけど、速度計測サイトで20Mbpsの数値が出るとダウンロードの時間が速い。速いがちょっと時間が経つとこの速度にも慣れてきてじれったくなるのがコンピューターの世界。そうするとまたSPAMメールが来るようになる。ついでに携帯電話のメールにも。これは何かの策略か?
今日、テレビでは雪の東京。こちらではTシャツ姿で見ている。だんだんとあの蒸し蒸しした長い長い夏が日に日に近づいているかとおもうと滅入る。
目的なしの連想的歩行 (3)
前に表現クラブがやがやと港大尋とのコラボCDを制作しました。「がやがやのうた」(水牛レーベル)です。あれから随分立ちますが、少しの中断の後、ずっとメンバーとしてみんなと月に1度くらい遊んでいました。最近、新しい友だちもできました(けんちゃんと接着兄弟の一人やましん)。みんなで芝居をつくったり、歌を作ったり踊ったり、絵を書いたり、いろいろです。障害をもつ人だけでなく、ダンサー山田珠美(たまちゃん)、作曲家の鶴見幸代(つるみん)や飯田宏さん、即興からめ〜る団などいろいろな人たちが出入り自由な広場としてあります。
そんながやがやですが、がやがやとはなんだろうかと最近考える機会がありました。簡単にいうなら、小島希里(きり)という人間性そのものだと気が付きました。きりさんはいつだってがやがやあわてふためき、てんやわんやです。でもいろんなものを拾い上げてくれる人です。メンバーのなんでもないことばや動作を、「それおもしろいね」と拾い上げて別のものと結びつけます。人は人を呼ぶのでしょう。ダンサーのたまちゃんも同じタイプの人です。からめ〜る団も名前の通り何にでも絡め〜る人たちなのです。ガラクタみたいな動きやことばをいくつも拾い上げて、身体に移したり、音に移したり...。変なものが二つ三つと飛び跳ねて結びついて出来上がったものは、やっぱり変なものですが、なんだかおもしろい。その中心には必ずきりさんがいるのです。妙に形を整えて辻褄を合わせたものではなく、不定形なへんてこはおもしろい。これは「不変の真理」、ではありません。でも、へんてこならではの整合性があるのです。それがきっときりさんなのでしょうね。そう思うのです。
実はきり=がやがやのライヴがあります。たまちゃん、飯田さん、からめ〜る団、私(がやがやメンバーによるへんてこバンド不毛地帯:ぱつ、あさみ、やましん、みけ)も参加します。つるみんは不明ですが、不毛地帯作曲・つるみん編曲・作詞のゆる〜い新曲もやります。しかし全体の内容はよくわかりません。芝居、ダンス、音楽によるへんてこな何かとしかいえません。通常、3つが合わさるとオペラと呼ばれます。作品の複数形がオペラですから、いろいろな作品が合わさっているという意味でオペラでしょうか...。ただ観ていただいた後で「あれはいったい何だったの?」といわれても答えようがありません。全体はぐにゅぐにゅ流動的です。筋書きはありますが、「きちんと決めなくてもね」と総監督のきりさん。だから決まった時間にはじまり、終わるとも明言できません(約1時間です)。きっとがやがやするはずです。なにせへんてこなのですから。ライヴは3月4日、3時から光が丘区民センター六階和室、入場料300円。おこしやす。
伝統ファッションの潮流
私がガムランを始め、初めてインドネシアに来てから早や20数年...。その間だけでもジャワの伝統衣装ファッションはずいぶん変わったなあと思う。というわけで、今回はそれをちょっと振り返ってみたい。私のことなので、ジャワの伝統衣装と言っても特にソロの町の様式である。
●バティック(ジャワ更紗、腰に巻く)
バティックというのはろうけつ染めのことで、木綿生地のものが正式。そのバティックの端に襞をプリーツのように畳んで着るのが本格的な着方。けれど、こういう正式の着方は、王宮や伝統芸術関係者以外では少なくなってきているようだ。まず、ろうけつ染めのバティックではなく、バティック柄だがシルク(風)の軽くてしわにならない生地の布を巻く人が増えた。この方が楽だからだろう。さらに、布を単に巻いて着るより、スカートに加工する人が増えた。今から20数年前でも、ダナルハディ(大手バティックメーカー)にはバティック生地で作ったスカートが置いてあることもあったが、実際に履いている人はほとんど見たことがない。どうも、外人が買うことを想定していたような気がする。それが、最近ではスカートに加工されたものをよく目にする。また、ジャカルタの踊り手たちの話では、ジャカルタで結婚式に出席するのに、伝統衣装を正式に着ることはもうほとんどないとのこと。バティック・スカートにクバヤ風ブラウス、髪はアップというのが、すでに伝統的装いらしい。1月に乗ったクルーズ船の出演者紹介の日、みな伝統衣装にしようということになったのだが、バティックの襞を折って着ていたのは私のみ。他は皆、スカートに仕立てていた。外人の私が一番オーソドックスな(時代遅れの?)衣装だった...。
●クバヤ(ブラウス、上着)
いわゆるカルティニと呼ばれる、襟を折り返して突き合わせる衣装が一番クラシックで、ソロやジョグジャでも王宮関係者が着るのは皆このデザイン。このカルティニスタイルの襟元を少し開けて胸当てをつけたデザイン――年配のプシンデン(ガムラン女性歌手)がよく着ている――のは、1950年代頃に出てきたスタイルらしい。しかし、これももはやクラシックなデザインと言えるだろう。現在は、スンダ風に襟を折り返さないデザインが、一般的には圧倒的に流行っている。特にスケスケのレース素材で、刺繍やらスパンコールやらを散りばめ、インナーのビスチェ(インドネシアではコルセットと言う)と一体でコーディネートして(だからビスチェも一緒に仕立てる)、デコルテ部分や背中を強調したデザインが多い。ほとんど洋風のイブニングドレスと変わらない感覚だ。特に大都会ではオーソドックスなクバヤを見ることは少ない。以前、ジャカルタの若い人に私が持っているカルティニのクバヤを見せたところ、「お祖母さんがこういうのを着てました...」と言われて、がっくりしたことがある。
そうそう、クバヤにはレース生地を使うことが圧倒的に多いのだが、レースだと下着が透けて見える。それで、ジャワでは黒のビスチェ(現地ではコルセットという)を下に着るのだが、1990年代後半でも、おばちゃんたちのクバヤの下に、ビスチェでなくブラジャーが透けて見えることはよくあった。それが、ブラジャーが見えないよう、レース生地のクバヤの胴の部分に裏地をつけたり、あるいは、ビスチェを隠すために別布(サテンとか)でキャミソールを作ってクバヤの下に着るようになったのは、いつ頃からだろう。よく見かけるようになったのは2000年代になってからだった気がする。
私が1996年まで所属していた日本のガムラングループでは、スタゲンという帯(半巾帯と同じ巾)を胸まで巻きあげて、その上からクバヤを着ていたのだが、1996年に留学してみたら、こういう着方はジャワでは見なかった。皆、ビスチェを着ていたのだ。踊り手がドドッ(ブドヨの衣装)とかクムベン(ガンビョンの衣装)とかの布を巻きつけて着るときは、スタゲンを2本使って胸まで巻きあげるが、一般的には、スタゲンは胸の下まで巻いて終わりである。
というわけで、クバヤの下着史を整理すると次のような感じだろうか。最初はブラジャーの上にクバヤを着ていた(スタゲンは胸の下まで)のが、下着のブラジャーが透けるのは恥ずかしいという意識が生まれてきて、それよりは胸から腰まで覆う黒ビスチェの方が良いとなった。しかし、ビスチェも下着だという認識が生まれてきて、それが直接見えないように胴に裏地を当てたり、キャミソールを仕立てたりするようになった。ところが今の若い人のファッションでは、ビスチェはアウターと同じで、レースの生地とコーディネートして着るもの。だから同系色だけでなく、わざとコントラストのある色で仕立てたりすることもある。
●髪型
伝統的な髪型は年々巨大化し、遠くから見ると大顔に見える。これはプシンデンの影響だ。現在のワヤン(影絵)上映では、ずらりと並んだプシンデンがスクリーンの方を向かず、観客の方を向いて座る。しかもテレビに映ることも多いから、おそらくお互いのライバル心がエスカレートした結果、より目立つようにと髪型が大きくなってきたと推測されるのだ。もっとも、プシンデン以外にも昔から、お金持ちで社会的地位の高い女性の髪型は大きく派手であることが多い。
巨大化の背景には、左右の鬢(びん)を作る土台が大きくなったことがある。本当に伝統的な――蘭印時代の写真なんかで見るような――髪型では、いくつかの髷をブロッキングして、びんつけ油を髪に塗って梳かしているだけなので、鬢は小さく自然である。また、逆毛を立てて鬢を作ることもまだあるが、ソロの芸大や王宮ではこれはやらなくなっている。逆毛を立てずに、スバル(意味不明)とかチョントン(コーン:円錐という意味)という台を耳から頭頂部にかけて左右に付けて、そこに髪をなでつけていく。ただし、2003年にジャカルタの踊り手の人たちと踊ったとき、彼らはこのチョントンの存在を知らなかった。ジャカルタのジャワ舞踊界では今でも逆毛派で、チョントンは伝統的でないと、抵抗があるみたいだ。
このチョントン、登場したのは1990年代初めだと思う。1992年頃からジャワに留学していた友達が教えてくれたのだ。それはまだ小指の先くらいの大きさの毛タボだった。1996年に私が留学してすぐに買ったチョントンは、もうアイスクリームのコーンくらいの大きさになっていて、コーンの内側は空洞だった。その2年後くらいに買い足したら、また一段とサイズが大きくなっていて、私の頭からはみ出るくらいになっていたので、自分で小さく作り直していた。ただし、この頃まではチョントンは左右で1セットだったのだが、その後、いつしか、コーンを2つつなげた形のもの(左右の端がラッパのように開いている)が出てきた。たぶん2000年代半ば頃のような気がするが、踊り手はさすがにこのデザインはまだ使っていなかった気がする(今は知らない...)。プシンデンが使っていたのではないだろうか。これも、最初は小さかったのに、最近留学していた人達が持っているチョントン(ともはや言えない形状だが)は、腕でも通るのではないかと思うくらいの大きな円筒形をしている。これを頭頂部にそのまま載せて、その上に自分の髪の毛をなでつけるから、額から上の頭部がやたらと大きくなってしまう...。
だいたい、チョントンを使っていても、以前は、頭頂部は盛り上げないものだったのだ。王宮の王女さまの写真なんかを見ると分かりやすいが、頭頂部は平らである。未婚の王女さまやガンビョンの踊り手は櫛を頭頂部に水平に挿すが、それも平らだから可能なことで、昨今の隆起した頭頂部に櫛を指すと、断崖に櫛を刺しこんでいるみたいに見える。
さらに鬢が大きくなると、後ろの髷(まげ)も必然的に大きくなる。というわけで、いま一番小さいサイズだという髷を見せてもらっても、私の頭を多い包むほどの大きさになって、試着してみると非常に重い...。髷が大きくなったからだろう、髷に指すかんざしがまた巨大で派手なデザインになってきていて、20年くらい前に見たようなシンプルで小さなかんざしが欲しくても、もう売っていない。一体この髪型の巨大化はどこまで進むんだろうか...。
●
というわけで、昨今の伝統衣装は、洋風化、ド派手化に拍車がかかっている。ソロの町の伝統関係者の間ではまだまだオーソドックスなスタイルも見られるものの、それは都会の感覚では、もはや「おばあちゃんの時代」の装束に見えるらしい...。
Francisco Pulgar Vidal追悼文/想い出
彼はペルーの作曲家だった Pulgar Vidalの一家は社会的に有名な人が多いのでペルー人なら誰でも知っているくらい有名な一族だ この一族は政治家〜作家〜詩人〜音楽家まで かなり幅広い
彼を直接知ったのは故・Edgar Valcarcelからの紹介で EdgarとFrancisco(通称Paco)と一緒に食事をした (もしくはEdgarの愛人の家で会ったのが最初だったか)
EdgarとPacoは古い友人で、いつも会って酒を飲んでいた レストランでPacoは一番安いコーラを注文するのだが、ポケットからラムを出してコーラに入れて飲んでいた アレキーパ料理の店に行った時は、服の内ポケットからワインの瓶を出して 酒を持ってレストランで食事していた (これがまた、店に気まずかった) 病気で大変な時も「ロン(ラム)が飲みたい」と言っていた
彼らの会話は時に知的で時にくだらないジョークを言い合って悪ふざけをしていた 彼らの昔話し(Edgarが国立音楽院の院長だった時に、仲良くなった生徒に適当に卒業証書やディプロマをあげてしまい問題になり、学校を追放された話や、ペルー友人の作曲家Armando Guevara Ochoaの家の玄関の隙間から譜面がパラパラとこぼれ落ちて来る話や、ルイジ・ノーノと会ったときの話など)をコミカルに聞かせてくれた
70歳を過ぎてもあれだけのボヘミオで、ルーズで、いつも飲んだくれて、まるで子供がふざけているかのように・・・ あんな人はいない もし70歳まで生きれるなら ああなりたい
いつも家に一緒にいるからこの人が奥さんだ と思っていた人が 愛人だったと言うのはEdgarとも共通していて ペルー的でいい 彼のミサに行った人の話では ミサでは法律上の奥さんが喋っていたらしいが、その人には会った事がない Edgarの時も同じだ
Edgarは現代音楽祭で表彰されたとたんに死んでしまった
Pacoは表彰されて1年で死んでしまった
Pacoは若い頃 前衛的な作品を書いていたが わりとすぐに調性音楽に戻ったようだ 若い頃の作品についてはよく知らない ギター曲も1曲だけ書いてもらったので それがある ペルーの音楽祭でその曲を初演したが その時彼は脳卒中で倒れていて聴きに来る事ができなかった でも本番前には彼の家に行って 打ち合わせやリハーサルをした 彼はベットで寝ながら聴いてくれて、アドバイスしてくれた そして たまに本当に寝ていた
コンサートでの演奏後にはDVDを持って彼の家に行き、一緒に見た だいぶ回復したから、一安心かな、と思っていたのだが それが2010年の事だ
PacoとEdgarと会話をしたい あんな大人になりたい
ケンタック(その3)
荘司和子訳
わたしから6メートルくらい先に小鳥がいるのが目に入った。グレイがかったベージュというか何かそのような色調で色鮮やかな点々がある小さな鳥だ。わたしが話している相手の背後に見える。翼が小さいため絶え間なく羽ばたいている。つたかずらの薮や乾いた枝の上の空中の一ケ所に留まっていてどこへも行かないのだ。まるでそこに留まっているために羽ばたいているように。
わたしの知る限りではふつう鳥にはたくさんの種類や種がある。天空を我がもの顔で高くそしてはるか遠くまで飛ぶことができるものもいる。かれらは大きくて強靭な翼と、鷲とか神話上のガルーダのような爪を持っている。この神話上の鳥は鳥類の王で偉大ということだが、小さくふくらんだこの鳥は翼に幅がなく、爪も生きていくために枝や草に停まることができる程度だ。姿かたちは愛らしいが、高く遠くまで飛べる鳥ではなくて、低いところで餌をさがすしかない。
「これはこの辺りにずっと前からいるんだ」と彼は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「ここの人たちに慣れていてね、わたしらもこの鳥を可愛がっている。いじめたことはないね」
彼はわたしが訊こうとしていることを察したかのごとくはなしてくれた。ほら、やっぱりだ、まだ同じところで羽ばたいているのが見える。まるで自分はここにいるぞ、と誇っているかのように。それから程なくしてもう一羽が飛んできて仲間になった。二羽は飛びながら次第に近づいている。。
わたしの視線はこの二羽の鳥に集中していたとはいえ、若い女性が二人こちらに向かってやってくるのにも気付いていた。丘のはずれの古ぼけた小屋から歩いてくるようだ。ゆったりと煙がたなびいている。白黒というか、グレイがまざったというか、そんな色調に見える。枝や木の葉か何かが日の光に当たって白く光っているのかもしれない。
若い女性は親しげに微笑みながらわたしの隣に腰をおろした。かすかにいい香りがしてきて、わたしは彼らが気に入った。何も話してはいないけれど、気持ち的に相反するようなところはなかった。想像するところ都会から来た人だろう。騒々しい煩雑な社会を避けて、田舎に隠れ住んでいるとか。自由な生活を求めてとか。愁いをおびた瞳がさまざまなことを語っている。彼らはシンプルで派手なところがない。化粧もしていない。痩せぎすできゃしゃな人形のようで、きつい労働などしたことがないように見える。
(続く)
ねえ、私に話しかけないで。
いまどき、こんなアパートがあるのか。訪ねてくる知り合いが口裏を合わせたかのようにそう言うのが面白い。確かに、柴多が住んでいるアパートは普通ではない。築五十年は越えている料亭をそのままアパートに仕立てている。引き戸の玄関があり、廊下がまっすぐに続いていて、その両側に部屋がある。一階に四室、二階に八室。部屋はどれも六畳一間で、全部の部屋に床の間があり、窓は丸く、凝った飾りのある障子がはめてある。料亭だった頃のまま、看板だけをアパートに掛け替えたようだ。そのせいで、便所も台所も共同なのだがやたらと広い。ただ、全体的な印象はアパートというより下宿や寮に近い。
とはいうものの、さすがに大学に入学したばかりの学生でさえ、ワンルームマンションで一人暮らしを謳歌している時代に、このアパートで暮らそうという物好きはあまりいない。五年前に柴多がここに住みだした時には若いのがやってきたと、わざわざ二階のいちばん奥の部屋まで、当時住んでいた住人たちが代わる代わる様子を見に来た。それもすぐに落ち着いて、声高に騒ぐでもなく、誰かが部屋に上がり込んでくるわけでもなく、時々すれ違う住人たちとはそれとなく挨拶する程度で、みんながそれなりに気を遣いながら静かに生きている。
柴多は今年三十になる。五年前、ここに来たときには勤めた会社を辞めたばかりで、次の仕事も決まっていなかった。とにかく家賃の安い部屋を、と不動産屋に頼み込んでここを紹介してもらったのだった。最初の二年、生活はかなり困窮を極めた。仕事もなかなか決まらず、付き合っていた女とも別れた。場当たり的なバイトをしながら食いつなぎ、柴多はなんとか暮らしていた。
その頃から考えると、明日の食い扶持に思いを巡らすことのない今の暮らしは夢のようだ。夢も希望もなかった、なんて陳腐な言葉は使いたくないが、夢とか希望とかいう言葉が目の前をちらつくときほど、その言葉から遠のいているのだということは毎日感じていた。そんな柴多の暮らし向きが変化してきたのは三年前だった。
いま勤めている小さな貿易会社の社長と偶然知り合って仕事を得たのが三年前。おかげで柴多の暮らしはすっかり安定した。仕事で収入が安定しただけではなく、何かといいことが続く。長い間患っていた父親の病気が完治とはいかないまでも、少しずつ良くなった。妹の結婚が決まった。同じ時期に柴多自身にも恋人ができた。拾ってくれた貿易会社の社長からも信頼され役職を任されるようになった。
それもこれも、と柴多は思う。毎日のように部屋にやってくる猫のおかげだと。もちろん、最初からそんなふうに思っていたわけではない。ただ、そう思わざるを得ないほど、柴多の運気と猫の登場のタイミングが合致しているのだった。
社長と知り合った日、柴多は駅前の居酒屋で皿洗いのバイトをしていた。休憩時間に店の裏手の路地で煙草を吸っていたのだが、そこにその猫はいた。柴多が煙草を吸う様子をじっと見ながら、腰を落ち着け、毛繕いをしていたのだった。その場所では何匹かの猫を見ていたのだが、新顔だった。それまで見たことのない猫だったのだが、向こうの方がこっちを品定めするかのような雰囲気を醸し出していた。柴多は小憎たらしい気持ちになり、猫に煙草の煙を吹きかける真似をした。すると、猫は笑ったのである。いや、本当のところはわからないのだが、柴多にはそう見えたのである。その余裕のある笑いは柴多を嫌な気にさせるものではなかった。むしろ、なんとかなるから安心しろと言われているような気持ちにさせた。
不思議な猫だなあ。と思った瞬間に、裏通りに迷い込んできた男に道を聞かれ、「そこで働いている者ですが」と名乗り、入り口まで案内しただけなのだが、なぜか気に入られた。それが今の会社の社長だ。どこが気に入られたのかわからないまま、翌日には入社が決まっていた。
バイト先の居酒屋をやめる話も、社長の席に注文を聞きに行った店長との間で勝手に決まっていた。席から戻った店長が「お座敷のお客さま!お通し四つ!生ビール三つ!ウーロンハイ一つ!」と大きな声で厨房に発注した後、柴田に向かって小さな声で言った。
「バイトの柴多くん、お一つお持ち帰り!」
これで円満に退職と転職が決まったのだ。
貿易会社といっても、見ただけでは何に使うのかも分からないような部品を、毎日アジアのどこかの国へ輸出し、同じように何に使うのか分からないような部品を同じようにアジアの国から輸入している会社だった。何から何までが地味で、仕事の流れの中の、どこにもとがった部分がなく、その穏やかさが柴多にとっては好ましく、毎日が落ち着いた空気に包まれいていた。安心して仕事に取り組めるようになると、ただ寝泊まりするだけの場所だった自分の部屋も、なんとなく暮らす場所として見えはじめてきて、一日に一度は窓を開け、時には簡単な料理を作ってみたりもした。
ある日曜日に部屋でぼんやりしていると、隣の住人が田舎から送ってきた里芋をお裾分けしてくれた。柴多はその里芋をさっそく煮物にした。出来合いのだし汁で煮込んだだけなのだが、いい香りがアパート中に立ちこめた。隣人にも少しお返しして、自分の部屋で味見をする。うまい、と小さく声に出した時に、窓の向こうで猫がこちらを見ていることに気付いた。あの日、居酒屋の裏手で柴多を見て笑った猫だった。猫はアパートの隣の家の屋根の上から、柴多の部屋を見下ろしていた。目があった途端にスタスタと屋根の上を歩いて、身軽に柴多の部屋の窓に向かって跳んだ。里芋をくわえたまま柴多が見ていると、猫は部屋の中に入り込み、里芋の皿の匂いをかいで、そのまま小さな床の間に座った。
そして、猫は三年間、ずっと柴多の部屋に居着いたのだった。ときどき、ふらりと何処かへ行き、またふらりと戻ってきた。二三日いないことがあるかと思うと、何日も床の間で寝ているということもあった。猫は床の間をねぐらに決め込んだのだった。
柴多は柴多で、この猫がなぜ自分のところへやってきたのか最初の数日こそ不思議に思っていたのだが、やがて慣れてしまい、そんなことも考えなくなった。柴多が何かを食べていれば、近づいてきて食べている何かを少しだけ分け与えた。どんな食べ物でも猫は、とりあえずひとくちは食べた。そのあたりは礼儀をわきまえた猫だ、と柴多は思った。食わず嫌いということをしない。もちろん、ひとくち食べて、露骨に顔をしかめることはあった。また、もうひとくちとねだることもあった。しかし、柴多と猫との関係はその程度のもので、互いにそれほど干渉することなく、距離を置いて暮らしてきた。
しかし、猫が来てからの三年間で確実に柴多の暮らしは変化した。最初の出会いはいまの仕事に結びつき、猫が床の間に座ってからは父親の持病が快方に向かった。そういえば、あの時にも猫はにやりと笑ったのだった。
携帯電話に妹からの電話があり、父親の容態が思わしくないと連絡が入った。しばらく妹と話し込んで、実家の様子などを詳しく聞き出していた。そうしながら、何気なく床の間を見ると、猫がこっちを見て笑ったのだ。にやりと訳知り顔で。その笑い方は路地裏で初めてあったときと同じものだった。そう気付いたとき、もしかしたらこの猫の笑いは、何かを自分に伝えているのかも知れないと柴多は考えた。今の仕事に就いたことを考えると、いいことを伝える笑いなのかもしれない。いや、もしかするといいことも悪いことも、どちらもあって、今回もいいことだとは限らないのかもしれない。猫の笑い顔を見てしまったことで、柴多は不安になった。もしかしたら、父親が亡くなるかもしれないとさえ考えた。
結果は翌日に妹から知らされた。柴多の父親は翌日に退院したのだった。心配された数値がことごとく夕べのうちに標準の値になり、父親はベッドに座れるようになり、自分で立ち上がるようになり、翌日には自分で歩いて帰ったというのだ。電話で妹からそんな話を聞きながら、床の間を見ると、猫はふらりと立ち上がり、窓から隣の屋根へと飛び移っていくのだった。
数日が経った。猫が戻ってきたとき、柴多は思いきって、いつもより猫との距離を詰めてみた。いつもは一メートル以上は近づかない距離感なのだが、ごろりと寝転がりながらその間合いを半分程度に詰めてみた。すると、猫は怪訝な顔をする。しかし、露骨にそんな顔を向けるのではなく、窓のほうを見ながらすべての神経は柴多に向けられているという感じだった。
「きみはあれか。なにか、わかってるのか?」
柴多は猫にたずねてみた。
「いや」
と猫が答えた。
そうか、やはり偶然なのか、と柴多は思った。それはそうだ。猫が笑う度に何かが起こるとしたら、その猫は予言者か、見事な占い師か、下手をすると神様かということになる。なるほど、そうではないのか。単なる偶然なのか。柴多はこれまでの出来事が偶然なのだということに気を取られ、なぜか安堵していて、猫が「いや」と答えたことに愕然としたのは、それから数日してからのことだった。
数日後の朝。柴多がいつものように会社に出かけるために、身なりを整えていた。時計代わりにつけているテレビの情報番組が終わりに近づいて、今日の占いのコーナーが始まった。このコーナーが終わったタイミングで部屋を出れば、ちょうどいい時間に会社に到着する。
占いコーナーは星座によるもので、なぜか毎回ランクが決められている。占いなんて信じない柴多だが、いいことを言われても悪いことを言われても気になることには違いない。上着を羽織りながら、目の端でぼんやりと画面を見ている。今日の柴多の星座はちょうど真ん中ぐらい。占いによると、どうやら異性の友人ができるらしい。そして、その異性の友人が生涯付き合いの続く運命の人になる可能性があるらしい。
「そんなに簡単に運命の人に出会えるもんじゃないって」
柴多がテレビの画面に向かって思わずつぶやくと、「いやあ、どうかな」と相づちが返ってきた。テレビの中からの声ではない。部屋の中には柴多しかいない。反射的に床の間を見る。猫が寝そべりながらこっちを見ていて、とっさに視線を外す。柴多はしばらく猫をじっと見ているが、猫は動かない。柴多は猫を見つめながら、さっきの声を思い出そうとした。その時、数日前の声を思い出したのだ。あの時、猫は「いや」と返事をしたのだ。ということは今の相づちもきっとこの猫の声に違いない。しかし、不思議なことに柴多は猫が話したということよりも、数日前の猫の返事に今頃気付いたことの方に驚いていた。おそらく、猫が話すことには違和感がなかったのだ。どんな生き物にだって、それなりにちゃんと感情はあるのだろう。柴多にもそれくらいの人道主義的なヒューマニズムはあり、すべての世界にそれを当てはめてみるくらいのユーモアだって持ち合わせていた。
もちろん、予想通り柴多はその日の内に取引先の事務員をしている若くてかわいい女性と、ハンカチを落としましたよ的な展開でお茶を飲み、話が弾み、次の休日に一緒に映画を見に行くことが決まった。
それからも、何かの節目に猫は話した。ただの相づちのこともあれば、それなりに文章を話すこともあった。しかし、いつもそれは見事な不意打ちで、柴多が身構えている時には決して話さなかった。列車の窓からいつも気になる造りの家があるのに、いつもその家が通り過ぎてから「あ、見ておけば良かった」と思う、あの感じだ。半年に一度のこともあれば、二日連続で話すこともあった。いずれにしても、柴多がうかっとしてる時にしか、猫は話さないのだ。
初めてあった日から猫は何度話しただろうかと柴多は思い返していた。五回か。いや、もう少し多かったと思う。それでも十回には達していないはずだ。その数少ない猫の声が確実に柴多の人生の重要なポイントになんらかの影響を与えている。「結婚したら駅前の新しいマンションを買って、そこに住みましょうよ」という彼女の言葉にどうしようか迷っているときに、「それもいいね」と決断をうながしたのも猫の声だった。
柴多は悩んでいた。来月からその新しいマンションに柴多が先に移り住み、三ヵ月後の結婚に備えておくことになったのだ。そこに、この猫を連れて行くかどうか。彼女は猫と顔を合わせたことがない。何度かこの部屋に彼女を連れてきたことはあるのだが、そのたびに猫はいなかった。気を利かせているのか、それとも女が嫌いなのか。決して、彼女がいる間は部屋に戻ることもなかった。
かわいらしい猫ではない。野良猫そのものの顔をしているし、そこが柴多は気に入っているのだが、絶対に懐こうとはしない。エサだってどこかで勝手に食べてきている様子で食べ物をねだったこともない。そんな猫を彼女が好きなることはないだろうと、柴多は思った。
そう思いながら、改めて猫を眺めていると、珍しく猫は柴多をじっと見つめている。そして、おそらく出会ってからの三年間で初めてだと思うのだが、自分の方から柴多に近づいてきたのだ。
柴多は何気ない表情で言ってみる。
「今日は何か話してくれるのかな」
猫は小さく鼻で笑う。鼻で笑われたことに柴多は同じように笑ってしまうのだが、猫は動揺することもなく、柴多の真正面ですっと座る。
「ねえ、私に話しかけないで」
猫は確かにそう言ったのだ。しかも、それは今まで聞いてきた猫の声とは違う声だった。
「私はこの部屋のこの床の間が好きだっただけで、あなたのことは何とも思っていないのよ。だからね。あなたがここを出ていっても、私はここにいるし、次にやってくる人とだって、それなりにやっていくんだから」
猫に言われて返す言葉がなかった。唯一疑問として頭に浮かんだことを聞いてみた。
「ということは、きみは僕が引っ越してくる前からこの部屋に居着いていたってこと?」
「そう」
「じゃ、居酒屋の裏口で初めてあったのは偶然?」
「あなたが危ないヤツかどうか、どんな仕事をしているのか。そのくらいは調べるものなのよ。野良猫は疑り深いの」
「ところで、きみは女の子なの?」
柴多が聞くと、猫はくるりときびすを返して床の間に戻っていく。そして、再び床の間に座ると、小さくニャンと鳴く。
「そんなこともわからないで、気安く話しかけるんじゃないわよ」
猫はそういうと、だんまりを決め込んだ。柴多は彼女と暮らす駅前のマンションのことを思った。
暗緑所から89--廃炉(はいろ)
「歓声や春夜を破る無事の声」(若木ふじを)
「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」(照井翠)
「満点の星凍りても生きており」(森村誠一)
「遠雷や大音響の貨物船」(清水昶)
「生きて疲れて遺伝子狂ひゆく万緑」(関悦史)
書き写しつつ轟音のふるさとで眠る廃炉
(「本気かよ」と高良勉さん〈『KANA』20号、2011/12〉「本気か」〉。吉本ばななさんのツイッターが、〈父は廃炉対策を込めて、引き返せない科学技術を言おうとしたのに〉と弁護している。週刊誌が「意訳」する吉本隆明さんのインタビュー記事なのだと。和合さんの「廃炉詩稿」を聴く。私は電子新聞でそれを聴きながら、福島県人の「反原発」から「廃原発」へという提案を聴き取る。原発難民というのも福島から生まれた悲しい語である。「放射能って、言わないんです。線量とだけ言うの」と福島の人が教えてくれた。放射能をくちに出して言う人が少数者にさせられ、大きなタブーとなりつつある、いがみあいがはじまっていると、あるサイトのニュースにちらりと見える。2月になって、心ない記事が新聞に踊る(切り抜きを見せて貰う)。四歳児の作に、「さわ先生カニに変身あいに来た」せとひろし〈東松島市〉。)
森の防波堤
大震災からもうすぐ1年。震災からの日々を振り返る番組も増えてきたある日、希望の光を感じるニュースを見た。「森の防波堤プロジェクト」。植物生態学者の宮脇昭氏が進めているプロジェクトだ。その土地に最も合った主木を中心にいくつかの木を植えて多層群落の森をつくり、その森によって大津波や台風、季節風などから市民のいのちと暮らしを守ろうという取り組みだ。
現在、私たちが暮らしのなかで触れる自然は、ほとんど人間の手が掛ったものだという。今では土地本来の森は0.06%しか残っていない。私たちの身近にあるのは、人間が手を入れて、二次林や人工的で単一樹種の画一樹林にしてしまった森だというのだ。杉ばかりを植林した結果、花粉症の問題が起こってしまったという話を私も聞いたことがある。
砂浜に植えられた松林は風光明媚な眺めではあるが、針葉樹である松は根が浅く、津波を受けてすぐに根こそぎ倒れてしまったという。波にもまれながら流された松は、人に襲いかかる凶器となってしまった。いっぽう、その土地にあった照葉樹林であるタブノキは深く根を張っていて、津波によっても倒れずに、そばにあった神社を守ったという。阪神・淡路大震災においても、同様に鎮守の森が火災から社を守ったということだった。
人間の都合で勝手に変えてしまう前の、その土地本来の森の姿を知るには、鎮守の森を見てみればよいと宮脇氏は言う。様々な自然災害から生き残ってきた鎮守の森に、その土地にあった木を植えて神様を守ろうとした昔の人の知恵が見える。神様が森を守ったのではなく、森が神様を守ってきたというのだ。
しかも、森づくりには、震災のガレキを活用していくという。海岸線沿いにガレキを活用した高い盛土を築き、その上に深く根を張るタブノキやカシ類からなる多様な森をつくって緑の防潮堤にしていこうという計画だ。根を深く張った森は津波のエネルギーを減殺すると共に、盛土斜面を崩壊から守る。もともと住宅や家財道具であり、人々の深い想いがこもっているガレキを莫大な費用と労力を使って焼却するのではなく、森の防潮堤の貴重な材料として活用するのだという。
すでに昨年の4月末には提案されていたこのプロジェクトを遅ればせながら知って、うれしかった。困難にあってもそれを乗り越えていこうとする人間の姿に、希望を見る思いがした。今度はもっと巨大な波に備えようと、コンクリートの防潮堤を高く高く築こうとするような閉塞感に満ちた知恵ではなく、そんな切り捨てて(切断していく)いく知恵ではなくて、出会ったものを(震災やガレキさえも)活かして、前に進もうとする知恵。春が近づいて明るさを増す日の光のような希望に満ちた知恵だ。こういう人間の知恵は、もう"魔法"だな、と思った。
中東のお酒事情
毎年2月には、日本の医療関係者とイラク医師らが、イラクのアルビルに集まり会議をする。この一年は、震災の影響でイラク支援が滞ったことも事実で、引き続き12年度も資金集めなど厳しい状況が続きそうだ。日本の医療チームの働きに期待したいところだが、みんな、ボランティアで関わってくれているので、モチベーションを維持するのが大変だ。
そこで、「酒」。わが日本チームはのんべぃが多いので、酒の調達は必須だ。アルビルのアンカワという地域はキリスト教徒が多く住んでいるので、酒が買えるし、バーもある。最終日に残った医者と看護師をつれて、接待することになった。(といっても、割勘)しかし、今まで滞在していたスタッフや知り合いの日本人もいなくなって、僕もあまりアルビルには詳しくないので、彼らをどこに連れて行っていいものやらわからない。
タクシーでアンカワにいくも、電気事情があまりよくなく、街が暗くて、どっちの方向に行けば酒場があるのかわからない。小さなスーパーがあったので、客に「この辺に飲めるレストランはないですかね」と聞くと、「5分待ったら、車で送ってあげる」という。それはありがたいので甘えることにした。彼らは、お酒を買うと、スーパーの隣の屋台で、何か注文している。スパムのような肉を角切りにして、油でいためだした。そして、煮たソラマメをさらにくわえた。この地域の定番のおつまみのようだ。うまそうだなあと見ていたら、屋台の親父は、僕らには、ソラマメだけをプラのトレイによそってくれた。僕たちは、ソラマメを持って、車に乗せてもらって、レストラン街で降ろしてもらった。
通りに面したところに生簀があり、鯉のような魚が泳いでいる。隣では、その魚を開いて炭火で焼いている。これがイラク料理で有名なマズグーフである。レバノンレストランと書いた看板が立っていた。狭い階段を上がっていくと、ピンクの薄暗い照明。アラブ(クルド?)のむさくるしい親父たちが酒を飲んでいる。そんな中で、きれいなお姉さんが2人うろうろしているが、ホステスというわけでもなく、客と二言三言はなすと、トイレの前の部屋で、坐って客を待っているようだった。多分売春婦なんだろう。
僕たちは、なんとなくぼったくられるのではないかとびくびくしながら、ビールを頼み、魚を頼んだ。魚はキロ売りで、2キロからじゃないと売ってくれないという。まあ、あまったら、ホテルに持って帰ろうと思い、思い切って注文したが、ウェイターは、なんだかんだといって、「今日は魚はない」という。じゃあ、一体何があるの? と聞くのだが、食べるものは何もないというのだ。
「レバノンレストランじゃないの?」「あれは、看板だけだ」
まあ、ありがちな話。周りを見ると、ザクロの実をみんなつまんでいるので同じものを頼んだ。屋台でもらったソラマメとザクロの実に塩をかけてつまむ。夜が更けていった。ビールを一人3本はのんだけど、全部で3000円行かなかったから、予想に反して、健全なお店だった。
一足先に帰国した看護師からは、「怪しいバーに行けてよかったです。また行きたいですねー」とメールをいただいた。また来てくれる? ということで、接待は大成功だった。
さて、その後、僕はヨルダンに移動した。震災から一年、3月9日から始まる展示に出品する写真をヨルダンで印刷しようとしたが、なかなかテーマが絞りきれず、写真を選ぶのに苦労した。イラク戦争後と震災後の福島で生きる人びとのポートレートが中心だが、それらが、違和感なく混ざり合うところで、未来が見えてくるようなものを作りたいと思った。そんなんで、悶々として、酒でも飲んでいないとやりきれない。
ホテルから、歩いて5分のところに、酒の専門店がある。ヨルダンはキリスト教徒の数がぐっと減るがそれでも酒が買えるお店がある。以前は、スーパーマーケットでもお酒を売っていたが、最近ヨルダンは、外国人といえば、湾岸からのイスラム教徒の金持ちが遊びにくるので、彼らの目に付く所には、お酒を置かなくなってしまった。
専門店は、あやしく、お店の親父は、ひるまから酒臭い。こちらでは、大豆を二周り大きくしたような豆を茹でたものに塩をかけて、つまみにしている。ロング缶は、3.5JD、日本円で400円、イラクでは、100円くらいだったので随分高い。こちらでは17%の消費税がかかるというのもある。
2日後、アルコールが切れたので、同じ店にビールを買いに行くと、今度は、2.5JD(280円くらい)だという。「このあいだと違うじゃないか、ぼったくりだ!」とせめると、親父は、気まずそうに、「今日はディスカウントしてやってるんだよ」といった。
旅途中
画用紙の中で、ぐるぐると旅をしている
大陸から大陸、島から島、森から海、街から村へ
空は濃紺の時もあれば、黄色にも橙にもなる
虫は酔っぱらったように飛んでいる
雲は笹舟のように急いで流れていってしまう
過去に見た景色、未知の景色が
ごちゃごちゃと混ざって出来た、自分だけの景色
帰り道は分からない
道筋も決まってない
その奥は何も見えない、見えるはずもないが。
それでも飛び出して、影の中を手探りで散歩する
犬狼詩集
51
パスクア(復活の島)とスペイン語は呼んだ
ラパ・ヌイ(大きなラパ)とぼくらは呼ぶ(ラパは別の島の名)
だがいつからここにいるのか、私たちの社会は
伝説が語るのはこの土地のひどい惨劇
すべての樹木を失った後、闘争と食人をくりかえし
島民は焦燥し脅えた目付きで互いの顔色をうかがった
けれどもそれから幾度か太陽が替わり
人々の体格も顔つきもずいぶん変わったように思える
遺伝的にいって自分が何者なのか、ぼくは知らない
言語学的にいって自分の言葉がどの語群に属するのか知らない
ただこの光が明るくみたす土地に生き
ここで公明正大に死んでゆくことを願うのみ
馬が殖えている、かれらも外来種だ
この島に暮らすわれわれのすべては外来種だ
跳躍と静止、夜と昼の連続的交替に
太陽が青く染まる瞬間と未知の故郷を思うだけ
52
展望はダイアモンドヘッドの頂上にはじまる
まだあまり人が来ない三十年前のこと
シャンタルとそこに上がって太平洋を見わたした
ザトウクジラが噴く潮を目撃したかったからだ
そのころ彼女の名の由来をそれ以上気にすることはなかったが
やがてShandelというのがイディッシュ語で「美しい」
だということを何かの本で知って
シャンタルとシャンデルの関係を考えるようになった
展望は名前を介して遠い平野にひろがる
(ポーランドの緑の草原にバイソンが群れている
動物たちが野生であるとは人が手をふれえないということ
その移動、食事、生殖、生死に、人は関与してはいけない)
いまふたたびぼくはダイアモンドヘッドの頂上に立って
自分が生涯の食事と生殖のほとんどを終えたことを感じる
シャンタル、シャンデル、名前だけを残して野生に帰った彼女
きみの生涯をここで遠く展望しよう、別れを告げるため
だれ、どこ6
●林光(つづき)
1973年9月11日に起こったチリのクーデター以後のプロテスト・ソングの流れのなかで、ジェフスキーの『不屈の民変奏曲』(1975)を演奏していた時、林光はそのたびにつきあって、演奏に1時間かかる変奏曲の前に、そのテーマとなったチリの作曲家セルヒオ・オルテガが作った『不屈の民』(原題:団結した人民は打ち負かされることはない)と、変奏のなかで引用されるブレヒト=アイスラーの「連帯の歌』、イタリア・パルチザンの歌『赤旗』(Bandiera rossa)を歌い、司会もしてくれた。1978年にはじまった水牛楽団の活動は、1976年のタイのクーデターの後、日本に届けられたタイのカラワン楽団(キャラバン)の歌を日本語にして歌うところからはじまったが、そこでも林光はポーランドの「連帯」運動の歌(禁じられた歌といわれる)を歌ったり、コンサートの司会をして数年間つきあってくれた。
林光の歌は、ソルフェージュの模範のような、聞いていると音符が浮かんでくるような歌いかただった。革命歌をうたうと、柴田南雄が批評文に書いたように、音程正しく、「民衆的」エネルギーとは縁遠い抽象的でエリート的に感じられたかもしれない。だが、「民衆」のイメージも時代ごとに作られるから、土俗性を強調するのは、1970年代の特徴だったかもしれない、と書きながら、松永伍一の子守唄論や、訳されはじめたキム・ジハの風刺詩を思い出す。
林光の歌、自分ではソングと言ういいかたを好んでいたが、「たたかいのなかに 嵐のなかに 若者の魂は鍛えられる」からはじまって、「忘れまい6・15 若者の血の上に雨は降る」、「やりてえことをやりてえな、てんでかっこよく死にてえな」など、時々頭のなかで聞こえてくるあの歌声は、1950年代から60年にかけての歌だったから、その時の「民衆」というよりは「人民」のイメージはまったくちがっていた。若々しく、折り目正しく、「かっこよい」ことをめざして、急ぎ足ですぎていく。だが、軽やかな歌も、時代をすり抜けては行かれない。1956年のフルシチョフ秘密報告から、1964年中ソ論争、1965年ゲバラのキューバ出国、そして1968年ベトナム・テト攻勢、パリの5月、プラハへの軍事介入の8月まで、崩壊する秩序と、それでもまだ理念や方向を捨てきれない運動のなかで、両側から批判されていた年月が、『死滅への出発』(1965)という本に集められた文章から、おぼろげに見えてくる。
ゆれうごく社会と歴史のなかで、音楽をつづける根拠はどこにあるのか。よく言われるように内部に、あるいは外部に、根拠をもとめる必要があるのだろうか。はじまりもなく、起源もなく、終りもなく、目標もなく、すでにうごいていて、うごきつづける音楽の場にいつか入り込んでいるのに気づく。
1974年から76年までの『季刊トランソニック』では、音楽の環境とのかかわりに目を向けていた。そのなかで柴田南雄は啓蒙主義的セリエリズムから、社寺芸能に目を向けて、合唱のための「シアターピース」を作りはじめた。林光はオペラシアター「こんにゃく座」探訪記を書いたのがきっかけで、その座付き作曲家・芸術監督になり、ずっと望んでいた「非国立」歌芝居であるオペラの作曲家になって、1960年以来のさまざまな実験の時期が終わったようだ。作曲家の一時的グループだった「トランソニック」は、1950年代の時代標識であった民族主義/セリエリズムか、60年代のミニマリズムに収斂されない、それぞれの生きかたを見つける前の休息と観察の日々だったのだろうか。
「こんにゃく座」のオペラは、いくつか見に行った。林光と会う機会はすくなくなった。自分の音楽の場をもって、創りつづける人は、安定した音の身振りをみせるようになる。武満もそうだった。「対位法を勉強して、次からはちがう音楽を書く」と言っていた日は来なかった。サティのように、じっさいに対位法をまなんだ後で、若い時のように新鮮な音はもう書けないと嘆くよりはよかったのか。安定は危ない。休息と環境の観察は、身を退いて創りつづけるためにはいいが、観察は活動の残像だから、見えたことは拠り所にはならないだろう。見えない隙間を手探りしながら、思いがけない道がひらけたと思う瞬間が来る。だが、そこでうごきは止まる。「おそらく鍵はある、住む家は準備が整っている、でも鍵が回らない、<天使の扉>はまったくひらかない、半分もあかない、それは準備がほんとうにできているからなのだろう。」(エルンスト・ブロッホ)
遠い朝、声にならない声。「一ばんさむい 冬の夜/一ばんひどい 雪のとき/声にはせずにうたってた/忘れぬために 花のうた」(佐藤信 1967年)