いつだって月は欠けている。

植松眞人

二十八歳の彼女は自分の影を見ていた。小さな影だなと思った。いままでに男と別れても悲しいと思ったことはないし、どうせ次の恋に落ちるのだと思うと新しい服を買いに行くときのようなワクワクとした気持ちになった。さっきまでの恋もいままでと同じように、すぐに思い出に変わるし、別れた後も友だちとして一緒に遊びに行けるようになる。実際、来月みんなでキャンプに行くことになっていて、最後はその予定を確認し合って店を出た。その時に、自分たちが別れたという報告をすればいい、という話もした。ようは気持ちを恋愛から友だちへシフトすればいいだけだ。フェイスブックの「交際ステータス」の項目にある「交際」を解除して、そのまま友だちとしてやりとりする。そんなものだと思ってきたし、そうしてきた。

それなのに、別れ話をして、手を振って男と別れて山手線に乗り、たったいま池袋駅のホームにたくさんの人と一緒にはき出された途端に、自分がとても弱い人間だと言われている気がした。それはとても嫌な感覚だった。その嫌な感覚をあぶり出すように強い陽ざしに照らされて、ホームの上にできた自分の小さな影を見ていると、いままでに経験したことのないほど激しい悲しさに包まれた。

しばらくの間、彼女はホームの真ん中で立ちすくんだ。行き交う人たちの肩にぶつかり、影が揺れた。影は揺れるばかりで、それ以上小さくもならず大きくもならなかった。

ひときわ強く、サラリーマン風の男が彼女の肩にぶつかった。その瞬間にあげた彼女の顔は大粒の涙をぽろぽろと流れ、化粧が剥がれとても醜かった。

でも、そんな醜い顔を見る人さえいなかった。彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、気を取り直してフェイスブックページにアクセスした。半年付き合った男との交際ステータスを変更しようとしたのだが、すでに男からアクセスをブロックされていた。彼女は思わず吹き出しながら、「早すぎっ」と声に出すと、友だち申請の項目を開いた。そして、友だち申請を保留にしていた何人かの男のうち、仕事先の一つ年下の男の子に申請許可を出した。

もの書き(4)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

そう、それだ。そこから初めの一行、初めの一語が無垢の白い紙の上にタイプライターから打ち込まれたのだった。それまでにこの手の小説を読んだことはあっても書いたことなどないぼくたちにとって、最初のシーンをなんとか絞り出すのも至難の業というものだった。

「おだやかな陽の光が彼女の寝室に差し込んでいる。淡い緑色のカーテンが微風に当たってわずかに動く。まるで今現在の想いにも似て……」

「ロマンチックだなあ」とジュンは長ったらしい文を読んで言った。
実際のはなし、わたしは自分の部屋を表現することから始めたのだった。その部屋の自分を彼女に置き換えてみただけだった。。。
その紙の一番下までずっとタイプを打ちつづけたが、まだ何も起きていなかったばかりか、起こりそうな気配すらなかった。ぼくたちは自分たちの考え方による良質な白表紙本というものを達成すべく相当時間をかけて話し合いながら書いたのだった。

誰でもが想像がつくようなありきたりの筋については、これ以上説明する必要もないだろう。が、はなしはそこでは終わらないで、けっこうな1本になった。 それで誰かに読んでもらって、人前に出せるものかどうか批評してもらいたいと思った。

買ってくれる人や出版社がどう思うかそれが知りたかった。というのもぼくたちはそれがどういう人たちか、どこへ行けばいいか、いくらくらいになるのか、それすらわからなかったのだ。

プラスートがいたのでいい仲介者になってくれた。ぼくたちの書いたものを黙って受け取ると、開いて読んでみもしなかった。そう、読んでみる必要など実際ないわけだ。彼はぼくたちの希望を抱え込んで出かけて行ってそれっきりその日もその次の日も戻らなかった。プラスートは以前も書いたように友だちが多くて、いったん出かけると何日も帰宅しないのだ。いずれにせよぼくたちの希望はプラスートひとりに託されたのだった。

それから終に3日目、プラスートは酒の匂いをふんぷんとさせて帰ってきた。酩酊状態とまではいっていなかった。酒の肴を2-3包み手に提げてきてくれたので、下宿は大賑わいになった。ところが、悪い知らせを受けてぼくたちは押し黙ってしまった。
「きみらの小説は通らなかった」と、言うや顔を叩いて口をつぐんだ。
「通らなかったって、どうしてだい」

(つづく)

蒸留酒のはなし

大野晋

今年はなかなか暖かくならなくてやきもきしたが、初春にうれしいニュースが飛び込んだ。イギリスのウイスキー専門誌主催の今年のベストウイスキー(WWA2013)がロンドンで発表され、多くの国とウイスキーの本国を抑えて、全6部門中2部門を日本のウイスキーが受賞したのだ。今年の受賞ウイスキーはこれ。

・ワールド・ベスト・ブレンデッドウイスキー
 響 21年(日本 サントリー)
・ワールド・ベスト・ブレンデッドモルト
 マルス モルテージ 3プラス25  28年(日本 本坊酒造)

とは言え、例年、サントリーとニッカの大手二社のウイスキーが常連になっていたのだが、今年は本坊酒造のご当地ウイスキーマルスウイスキーが受賞したのが驚きだった。折しも昨年、19年ぶりにウイスキーの蒸留を再開したばかりだったから朗報だった。実は、本坊酒造のウイスキーのルーツは日本のウイスキーのパイオニアである竹鶴氏(サントリーのウイスキー醸造を立ち上げ、ニッカの創始者)を英国にウイスキーの勉強をしに送り出した当時の上司である岩井氏が直々に蒸溜器を設計、立ち上げている。面白いことにこのウイスキーは複数醸造所のウイスキーをブレンドしたことになっているが、実際にはマルスウイスキーの蒸溜器とともに、最初の醸造地であった鹿児島で作られたり、次の移転先の山梨のマルスワインのワイナリーで作られた3年以上のウイスキーを現在の信州駒ケ根の蒸溜所で25年(以上)寝かせたものという樽が複数の土地をブレンドした形になっている。すでに、鹿児島時代の樽はもう残っていないと聞くので、そうした意味でも貴重なウイスキーである。ただし、世の中のウイスキー好きは早く、すでに市場在庫が尽きてしまっている。噂によると4月中旬に新しく出荷されると聞くので、どうしても飲みたければ、取扱いのある酒店に予約を入れてみるといい。ちなみに、昨年まではニッカの竹鶴シリーズがこのカテゴリーの常連だった。

もうひとつ、面白い話を聞いた。ワイン醸造の研究所を持つ某大学の話だ。その大学では研究のためにワインを醸造するのだが、国税局の醸造所の免許を持っていない。このため、できあがったワインは販売できずにため込むことになる。ところで、ある程度ため込むと置き場所に困るらしい。古いワインにプレミアがつくのは一部の高級ワインだけだから、一般的なワインは古くなれば処分に困る。そこで、ワインを蒸留してブランデーを作ることで場所の問題に解答を出そうとしたらしい。ある程度のワインができた段階で、今ではブランデーを蒸留しているとのこと。さて、ブランデーは蒸溜してもすぐに飲めるものではない。やはり、ウイスキーと同じように樽に詰めて熟成することになる。蒸留酒は樽で熟成している最中、樽が呼吸しているため、やがて、雑味の原因となるようなアルコール分が抜けることで内容量が減っていく。これをむかしの人は「天使の取り分」と呼んだのだそうな。ところで、某大学で熟成されているブランデーはときどき接客などで使われるそうなのだが、それ以外にも減ることがあるらしい。
「羽のない天使が飲んじゃうからね」
そう言って、その客人は帰っていきましたとさ。

犬狼詩集

管啓次郎

  115

海と空の対話は成立しない
共通の言葉をかれらはもたない
海は沈黙を知らないし
空は沈黙以外の語をぜんぜん知らない
つぶやき、泣き、吠えるのが海
何ひとつ答えず周期的な点滅をくりかえすのが空
だがまるでそれを補うかのように
海にはものしずかな魚たちがいて
空にはいつもやかましい鳥たちがいる
魚と鳥はとてもよく似ていて
翼か鰭をはためかせ
飛ぶように泳いだり
泳ぐように飛んだりする
そして知ってるかい、魚と鳥の世界をむすぶのが誰かを
水の中を飛ぶ鳥だ、空にむかって立ち上がる魚だ
二つの圏を自由にゆききする使者、それはペンギン

  116

ありえない共和国だ、その岬は
灯台をめざして歩いてゆくと
黒い牛たちにすっかり囲まれてしまった
風が強く風は希望を吹き飛ばす
カモメにはとても耐えられない強さ、やむことのない風だ
その轟音を楽しむように牛たちは黙っている
維摩経のような知識をけっして口にしない
鋭い歯をもつ植物が土地を支配する
そこに島の小型の馬たちが群れをなしてかけてくるのだ
灰色が一気に明るむのは
かれらの運動が(摩擦が)空気を発光させるため
それから忘れがたい光景を見た
小さな馬たちと黒い牛たちが
ひとつの群れをなして岬の草原を駆け出したのだ
運動量が高まる、発光が激しくなる
いつのまにか岬の全体が光の土地になる

  117

ぼくの村の小学校では山羊を飼っていた
昼間は校庭のすみの芝生につなぎ
夜は塩を煮る釜のある小屋で寝かせた
山羊はいつも横に切れた瞳で世界を別のかたちで見ていた
ぼくらにとっての垂直があいつにとっての水平なら
舞うように身をひるがえす燕をあいつはどう見るんだろう
山羊はまるで賢明な老人のように見えたけれど
実は何も知らないのだということをぼくは知っていた
ある日、すっかり人生に疲れた郵便局員が
鞄を芝生におろし制服を脱いで
寝転がり空を見上げているうちに眠りこんだことがあった
ぼくらはハラハラし(正直にいって)ドキドキした
文字を知らない山羊は音もなく鞄に近づき
こぼれ落ちる手紙をむしゃむしゃと食べはじめたのだ
すべての通信は山羊のおいしいおやつでした
用事も感情も歯ごたえあるセルロースの塊

101 緑珠のかげで――ブローチに捧ぐ

藤井貞和

だれもいない会場で、
ぼくは試験を受けました。

好きな引用を、
いっぱい引用して。

解答用紙に、
泥の空を投げ捨てて。

試験場から出ると、
だれもいません。

灰の柱に映るのは、
ぼくのかげばかり。

白玉が藻掻きながら。
ぼくの解答です、

(前回「真珠貝の湾」と附けたらパール・ハーバーかと抗議を受けました。草稿は「真珠貝」だったので戻して。和歌の浦です。)

しもた屋之噺(135)

杉山洋一

復活祭休暇で人通りがまばらになった週末、数日来間断なくいささか強い地雨がおさまり、水平線の奥に夕焼けの赤みがさしこんでいます。もう夏時間に戻ろうというのに、片付けたストーブを食卓の傍らにひっぱりだしてきたところで、日本語が達者になって帰って来た息子は、盛んに「スーホの白い馬」の筋書きを説明してくれます。偶然胡弓の録音を聴いていると、走ってきて「これは馬頭琴なの」と尋ねてきたり、担任の先生が馬頭琴とホーミーの録音を教室で聴かせて下さっていたのにも驚きましたが、何より、彼の級友が既にホーミーの実演に接していたのには仰天しました。こちらなど音楽を生業にしていても、実際馬頭琴とホーミーの演奏に接することができたのは、漸く昨年のシベリアの音楽祭が最初の機会でしたから。

  —

3月某日
ブルーノ・カニーノより初めてメールがとどく。電話番号が書きつけてあり、電子メールが得意ではないのだろう。娘のセレーナからもメールが届く。父は、いつでも楽譜を読んでいるんだけれど、そうしていないと「人生に飽きてしまうのよ」。早朝パンを買いに出かける。道路の犬の糞も仕方がないと諦め、遠くの信号を見つめながら歩いてみると、思いがけない風景の違いにおどろく。
法王の選出など全く興味がなかったが、BBCのラジオをつけて夕食の準備をしていると、「白煙が焚かれました」と興奮したアナウンスが入り、思わずイタリア国営放送のテレビをつけた。ヨハネ・パウロ2世が逝去したとき、街中の教会から、低く長い弔鐘が鳴り続いたのも、ほぼ同じ時期だった。Fがスイスから持ち帰ったチョコレートの兎を解体しながら、身体に染みこむ鐘の音に耳をかたむけた。鐘ひとつで、これだけ表情を顕せることに、新鮮なおどろきをおぼえた。白煙がたちのぼる煙突の奥で賑々しく打ち鳴らされるバチカンの鐘は、確かによろこびに溢れているように聴こえた。「みなさん、こんばんは」に始まる新法王の言葉に、生まれて初めて鳥肌がたつような感激をおぼえたのは、なぜだろう。週末、レッスンに件のパラグアイ人がやってきたので、「芽出たいじゃないか。おまけに君と同じイエズス会だし出身だし」と謂うと、「これで益々アルゼンチンの株が上がる一方で」と肩をすくませた。午後のレッスンまで待ちくたびれたのか、気がつくと彼は家に帰ってしまっていた。

3月某日
いつも買いに行く近所のアラブ人肉屋で、帰りしな、アラビア語について尋ねた。「ここには各国のアラブ人が来るようだけれど、国によってどのアラビア語は殆ど同じなの」。素人の素朴な質問だが、いつもは寡黙なチュニジア人店主は途端に饒舌になった。
「植民地化が始まる前は、みんな一つのアラビア語を話していたんだ。今は滅茶苦茶になって互いにいがみ合うようになってしまった。西サハラなんて、同じアラブ人通しが殺めあっている。植民地支配するというのなら、インフラを整備し、近代化してそのまま続けていれば良かったのさ。人道主義がどうたらとかいい加減な大義名分をつけて、今度は勝手に独立させる。その結果、どこもかしこも大混乱を来しているだろう。コンゴはその象徴さ。独立させたからといって、裏からオイシイところを全て吸い上げるのは、旧宗主国なんだ。表面上は人道的にふるまっているけどね。例えばイタリアにやってきた俺が、チュニジアの悪口をここで言ったらどうなるか知っているかい。イタリア国内では、人権やら人道が何たらと法律が厳しいから、何も手出しできないのでそのまま強制送還さ。そうして、かの地に足を踏み入れた途端、人権もへったくれもなく手足を切落とされてしまうんだぜ」。
傍らでは、黙々と巨大な包丁で枝肉を骨から叩き割っていた。俎板にあたる骨の響きに思わず背筋がさむくなる。ちなみに、ここの肉は実に美味である。

3月某日
リコルディから連絡があり、グリゼイの子どものオーケストラのための3作品の楽譜が届く。これを果たしてラクイラの学生たちと演奏できるだろうか。演奏を予め準備したものを演奏会場に届ける演奏スタイルと違うかたちで彼らと触れ合いたい。3.11を前にして、改めてそう思う。ラクイラ地震の頂点は、2009年4月6日未明のこと。毎年4月6日午前3時32分、ラクイラ中心部の広場で慰霊式が営まれる。亡くなった全員の名前が若者らによって読み上げられ、提灯を手にした葬送行列が倒壊した夜半の街をめぐる。
「難民を助ける会」から311を前にして、秋に演奏した被災者を助けるチャリティー演奏会の録音が届いた。音楽をやるとき、いつも自分の存在は抜け殻のようであって欲しいと願っている。自分の存在が、演奏者が放射するエネルギーの抵抗になりたくない。少しでもひずみのない伝導率の高い音楽がつくりあげられるのなら、それ以上のことはない。

3月某日
ガリバルディ駅始発の朝1番の特急に乗り込んだのは、漸く出発時刻の1分前。そのままトリノへ出掛ける。エンツォは、書き上げたばかり自著の前書きを全部読み上げてくれる。シェーンベルクとストラヴィンスキーとの出会いが主題。上流階級出身の早熟で数多くの名声に恵まれたストラヴィンスキーと、靴屋の息子に生まれ生活に追われてずっと教職につき、晦渋な作品は大衆的な名声から程遠かったシェーンベルクは、互いにハリウッドの徒歩で往来可能な距離に住んでいたが、結局共通の友人の死に際して、霊安室で顔を合わせたことしかなかった。1910年代にベルリンで彼らが言葉を交わしてから長い月日が流れていた。エンツォは、近くて遠い作曲家二人の作曲家の果たし得なかった交流を、アドルノの色眼鏡なしで伝えたいという。

その午後、連れられるがまま出かけた先は、現ロエロ候のモンティチェルロ・ディ・アルバ城で、ロエロ候アイモーネが、泥だらけの仕事着のまま出迎えてくれる。さほど年齢も違わない若くハツラツとした領主だ。城には戦時中使われた秘密の通路などもあり、大広間にはロエロ一族の肖像画がひしめく。図書室に飾られていた旧いフランスの子供向け絵本が印象に残る。大判でハードカヴァー。挿絵は全て丁寧に書き込まれた水彩画で、実にうつくしい。ジャンヌ・ダルク物語などに雑じって、「フランスの歴史」があった。ケルト人やフランク王国などの古代から始まって、一番新しい史実はナポレオンの絶頂期で終わっている。
こうした貴族に雇われて、作曲家たちが生活していた時代を思う。朝から晩まで城に住み込みで毎日暮らし、消費するため朝から晩まで音楽を用意していたなら、ルーティンに陥るほうが当然にも見える。外界と遮断された幽閉生活というのも、いかがなものか。

3月某日
七重さんに頼まれた箏二重奏の準備。悠治さんからテトラコルドの説明を受け、学校の休み時間にはシャイエなども読んでみる。大体、最初から最終的に欲しい音は決まっていて、そのまま書けば良いところを、そうすることに、殆ど罪悪感に近いものが沸いてきて、わざわざそうなるよう思索を巡らせる。そして、最終的に現われる音は、最初の意図にほぼ沿ったものとなる。他の誰もそうなのか知らないが、せめてもプロセスが反対であればよほど生産的でスリリングだろう。どういうものが出来るか分からないが、一定の決まりごとを見出すと思いもかけない見事な結果が浮き上がる、というもの。何という手間。これが「よりどころ」なのか。

既存の伝統を違った視点で捉え透かしてみる。悠治さんからのアドヴァイスは含蓄が深い。伝統音楽の文字通りの初心者として、「六段」をテキストの一つの軸として選んだ。
真偽のほどは専門家に任せるとして、「六段」と「クレド」や「ディファレンシアス」との関連性も、別の指標か軸になりそうだと気づき、そこでしばらく考えが澱んでいた。
大好きな琉球箏の「六段菅攪」の響きを思い出していて、悠治さんから教わった「テトラコルド」の移旋、モジュールをその都度入れ替えてゆく「メタボール」が、別の指標となりそうだとわかった。楽器が音を限定するのなら、音が楽器を亘ってゆけばよい。「クレド」のネウマ譜にも大雑把な情報しか載っていないわけで、それらを組合わせ、別の風景が眺められるに違いない。
こう書くと、そこに至る随分操作は過分に「浪漫」を滴らせているものの、出来上がる音像は最初から見えているので、最後に拍子抜けするのは当の本人なわけである。それを「浪漫」と書けばそれらしい気もするが。

3月某日
生徒のラファエッレから畏まったメールがとどいた。彼はナポリの南、サレルノ出身の作曲家で、トロンボーン吹き。強い南訛りの上に敬称をLeiではなくVoiで話す。南イタリアでは旧い敬称Voiを今でも使うとはきいていたが、若者までそうだとは思わなかった。基本的に生徒には親称で話させているが、南部出身者やラテンアメリカの留学生は一概に恭しい。「杉山さんお元気ですか」を「杉山様ご機嫌いかがでございますか」と呼ばれるようでむず痒いが、南では場合によっては実親にすらこの敬称で話すそうだから、仕方ないかもしれない。
彼が小説を書いていることを初めて聞いた時は耳を疑った。普通の恋愛小説などを書いているらしく、文筆業の繁忙期には音楽活動を一時中断するという。

「Voi」というと、エットレ・スコラの「特別な一日」で、ソフィア・ローレンがマストロヤンニに「貴方と来たら、今朝からLei、Lei。Leiが禁止されているのはご存知のはず。本来ならVoiで話さなければならないのに」と激昂する場面がある。有名なラブシーンだからよく覚えているが、高校の頃初めてこの映画を見たとき、このニュアンスは全く分からなかった。この映画でマストロヤンニが作る目玉焼きが美味しそうだった。
マストロヤンニとソフィア・ローレンと言うと、「昨日・今日・明日」で子供を作り続けて公営住宅に居座るナポリの肝っ玉母さんの話を思い出す。現在ミラノでは家賃を踏み倒したアラブ人の家庭が、同じように子供を作り続けて市営住宅に居座るという。ソーシャルワーカーが家族を訪ねて退去を迫ると、子供をベランダから吊り下げて脅迫するそうだが、眉唾ものだろう。

一ヶ月東京の小学校で過ごした息子が日本から戻ってきた。敬称といえば、日本は今では学校でも教師が生徒を「さん」付けで呼ぶ。「ちゃん」と「君」の使用も、男女差別助長につながるため「さん」で統一されたとか。彼がクラスで級友の作文を読んだとき、名前に「さん」付けをしなかったのを、友達に咎められたそうだが、折に触れ現代日本語の実地アップデートしておかなければ親でも教えられない。生きた言葉を実感する瞬間でもある。

(3月31日ミラノにて)

オトメンと指を差されて(57)

大久保ゆう

   キスをちょうだい 1どでいいから
   それから20 さらにもっと100
   その100に1000をかさねて
   ついには100まんかいのくちづけを

というのは、17世紀英国のロバート・へリックという人の書いた詩を部分的に自由訳してみたものです。わたくしが学生のときに、オックスフォード大学出版局でこの人の全詩集テクストの校訂新版が準備されていると聞いてから、出るのはいつだいつだと待ち望んでから早幾年、わたくしはもう大学生ではなくなり、先日ようやく今年秋予定との告知が出たのですが、それは大学出版局・学術出版の常としてアナウンス通りに刊行されるとは思わないながらも、目処がついたらしいだけでもほっと致します。

わたくしの場合、詩についてはもはや下手の横好きに過ぎず、おのれの魂のなかにどうやら詩想も霊感もないらしく詩神にも好かれていないと気づいてからは、ただ憧れから何とか詩情を捉えて訳すだけなのですが、どうにもわたくしがやると、リズムと語呂と長さばかり重視してしまって、色々と台無しにしてしまっている感が否めません。

ケイト・グリーナウェイの『マリゴールド・ガーデン』は、スタイルとしてうまくはまったからいいものの、同じ作者の前作『まどのました』でもちゃんとできるかは自信ないですし。

   まどのましたは わたしのおにわ
   いいにおいの おはなが そだつ
   なしのきには コマドリのおうち
   わたしのいちばんすきなとりさん

うーん、たぶん既訳の方がいいですね。いかんせんどれも似たようなものになりがちですので、そろそろ違う訳し方を習得したいものです。

他にも苦手と言えば、言葉遊びの詩もいまいちうまく行かなくて。たとえばキャロリン・ウェルズという人が詩を書いて、オリヴァ・ヘレフォードという方が絵を描いた『みちものずかん』という本があるのですが――

    サケブトリ

   サケブトリは とりのおじさま
   よあけに こえを ひびかせながら
   さっそうと いえぢを たどるのさ
   らりららっと くりかえし さえずって
   はかせのじいさまの はなしでは
   ひるもよるも さけんで サケブトリ

こういうダジャレみたいな詩(正しくは動物の出てくる慣用句をあえて誤解した詩)が、架空の生き物(未知物)を題材にいくつもありまして、さらに絵が添えてあるものですから、ダジャレと絵と日本語訳を同時に成立させるのがどうにもこうにも難しいのです。たいへん苦しい。

そしてこういうことをしているとすぐに甘い物が欲しくなるので、わたくしの場合、詩はダイエットとの対義語なのかもしれません。詩神がいない代わりにドーピングでもしなければならないということなのでしょうか。スウィーツを食べなければスイートな詩に訳せない、お菓子の甘さを言葉の甘美さに身体のなかで変換せねばならぬとわけなんですかね。いかがしたものか、いやはや。

製本かい摘みましては(88)

四釜裕子

打ち合わせ先が決まると彼女はパソコンで路線検索画面を開く。より早く、より乗り換え回数が少なく、乗り換えの際の歩く時間もより短い路線を選んで、それが示された画面と乗り換え駅及び下車駅の構内図、そして目的地の地図をプリントする。乗車時間ぎりぎりまでデスクワークをしてせんべいなどかじり、足早に駅に向かう。降りる駅の改札に近い車両を選んで乗って、プリントした内容を車中で確かめる。電車を降りたらプリントに示されたとおりに早足で移動する。常にきちんと調べて動いているから、電車が遅れて遅刻する場合は「電車が遅れておりまして」と丁寧に先方に告げる。方向音痴なのに地図が嫌い、早足が嫌いなのに寄り道が好き、電車が遅れておりましてなんてことを電話したくない私は、一緒の打ち合わせでも彼女とはいつも現地集合にしている。

昨日も現地集合だった。早々に出た私は喫茶店で珈琲を飲み、商店街を歩いて抜けたら空き地があった。一面、紫。近づくと、ホトケノザだった。その先の黄色い花は何だろう。垣根にからみついて咲いている。草花は、名前を知るよりもまずうつくしいとかおもしろいとかを感じていたい。これはほんとうだけれど、それを言い訳にして名前をおぼえることをちっともせずにきてしまった。道ばたで見つけた花のうつくしさに声が出てしまうとき、その名前を呼べたらもっと楽しい。実際はわからないことが多いからこの日もまた「おっ、黄色い花!」となでて集合場所に戻った。数分後、彼女が「すいませーん」とやってきた。時間に遅れたわけではない。打ち合わせを済ませ、帰りの電車の中で黄色い花の話をし始めると、彼女がスマホで花の名前を調べ始め(やめて。名前を知りたいわけじゃない)たが、見つからなかった。

帰ってネットで探して花の名前の見当をつけ、小学館の『園芸植物大事典』を開いた。1990年に完結した全6巻を本巻2冊と別巻1冊にしたコンパクト版で、装丁は勝井三雄さんと麻生隆一さん、本文レイアウトは坂野豊さんだ。たったひとつの花の名前を探すために棚から出したことはすぐに忘れて、細かな文字を追うでもなく、色もかたちもどうしてこんなにさまざまに分かれたものかと、分厚いページを前に後ろにめくっては広い広い植物界に入り込む。夏にはどの木陰で休もう。寒くなったらどの国に飛ぼう。どの葉を揺らそう。どの花に目を奪われよう。鳥や昆虫気取りの時間は過ぎて、探しものは見つからない。黄色い花をつけた植物の、特徴をつかんでいなかったからだ。いつか似た季節にあの黄色い花を見かけたら、昨日のことが思い出されるだろう。今度は花びらのつきかたを、注意して見ることだ。名前で呼びかけられるようになるかな。

アジアのごはん(53)ナムプリックを作る

森下ヒバリ

タイで、わたしは悩んでいた。日本でのおいしい食生活のために買って帰る愛用食材の一つ、トウガラシの荒潰しペーストのナムプリックが、なかなか近所で売っていないのである。今回も宿はバンコク東郊外のウドムスックにあるコンドミニアムの一室。ウドムスックの市場のカレーペースト屋さんでやっと一か所売っているのを見つけたが、味の素てんこ盛りでげろげろなお味。

「はあ〜、プラトゥーナムの市場までナムプリック買いに行かなあかんかなあ」ため息をついていると「え、ちょっと遠いんちゃう?」と連れ。「あそこの店のは味の素が入ってなくて、おいしいからね。でも、遅くても朝の8時前に行かないと店が閉まるし」「そこまでせんでええのんちゃう?」日本に帰っておいしくないナムプリックを使うのも嫌だし、それを使った料理を食べて「なんかおいしくないね」などと平気で言うのもこの連れであるので、思い切って早起きして行くか‥。あの店が昼までやってくれさえしたら、こんなに悩まないのにな。

プラトゥーナムの市場は高架鉄道BTSもより駅からかなり歩くので、ウドムスックから一時間は見ておかねばならない。すると、7時前に出発か。すると、BTSに乗ったりするから起きてそのまま出かけるわけにはいかず、シャワーを浴びて身支度を整えて行かねばならないから、6時半起床、いやそれじゃ遅すぎる。え〜、すると6時過ぎに起きなきゃならないの〜! 例えば京都から朝早く阪急電車に乗って梅田のオシャレな繁華街を通って、そこからさらに通天閣に行くようなルートなので、顔を洗わないで行くわけにはいかず、しかも寝起きのぼ〜っとした頭で移動しなくてはならないのが、気が重い。

毎朝、早朝通勤している皆さんには申し訳ないが、とにかく、早起きは子供のころから大変苦手なのである。(小・中学校は仕方なく遅刻ギリギリに登校したが、高校は遅刻多数、大学では一講目の授業を出席日数不足で落としまくり危うく留年しそうになり、東京で就職した時は会社に歩いて通えるところにアパートを借りた。そこを辞めた後は出社時間が11時の新聞社を選び、その後はフリーランス、と起床時間はわたしの人生において、たいへん重要なファクターなのである)プラトゥーナムに住んでいるときは、徒歩5分だったから、顔も洗わず出かけてもマイペンライだったので、8時前に何とか起きてぼ〜っとしたまま買いに行けばよかった。

「一緒に行ってくれる?」「ええ!?」連れはわたしよりもさらに起きる時間が遅いたちなので、まったくあてにならない。もんもんとして、実行を先延ばしにするうちに、日本に帰る日が目前である。

帰国する前に、友達のポチャナとジュの家に遊びに行った。彼らの家の近くには、サンティアソークという仏教の厳しい戒律で有名な宗派の本拠地があり、その周辺の路地は自然食品やサプリ、タイ薬草などを売る店が幾つも集まっている。本当においしいフルーツシャーベットを売る店もある。そこでも探してみたが、おかずとしてのいろいろなナムプリックはあっても、トウガラシ荒潰しのナムプリックは見つからなかった。

ポチャナの家では、料理の上手なジュがニガウリの豆腐卵炒めや豆腐ときのこ焼きなど作ってくれる。あ〜、おいしい。こちらもそうめんを茹でて食べてもらう。台所には、ボール(直径20センチ)が置いてあってオレンジ色のトウガラシの荒みじんとニンニクのみじん切りが半分づつ入っていた。半端な量ではない。「あれ、ジュはナムプリックも手作りしてるの?」「これはあとで、ポチャナが起きてきたらエビと炒めて料理するの」この大量のトウガラシとニンニクでええ!?「へええ‥」ちなみにポチャナは完全な夜型人間で、起床時間はなんと夕方である。いくら早起きが苦手といっても、朝の9時半とか10時まで寝させてもらえれば問題ないヒバリなど可愛いものでしょう。

しばらくすると、台所から猛烈な匂いが漂ってきた。ジュがエビを炒めているのであるが、なんせボール一杯のトウガラシとニンニクと一緒である。居間にいた全員と猫までが咳き込む。中国醤油で味付け、水を切ったゆで麺に茹で青菜を添えたものにどっさり載せて召し上がれ、と出てきた。

「お、おいしい。でも‥辛いよ‥」今回のタイ滞在で文句なく一番辛い料理である。ジュによれば、中国料理をアレンジしたオリジナルだそうだ。油を少なめに、ニンニクは多めにトウガラシはオレンジ色の甘みもある種類のみを使うのがポイント。あまり辛くはなくシシトウに近いトウガラシのはずだが、さすがに大量に入っているので十二分に辛い。ポチャナのお目覚め用の料理だったりして。

荒潰しナムプリックはいろいろなところで探したがけっきょく見つかっていない。そろそろ、日本で使うための食材も買いにいかねばならない。とびきり辛いプリック・キーヌーというトウガラシを買って帰り、刻んでナムプラーに漬けるのである。そのとき、ジュのあのエビチリ料理が目に浮かんだ。あのボール一杯のトウガラシとニンニク。そうだ、自分で作れば、変な添加物の入っていないナムプリックができるではないか。しかも、このナムプリックは、生トウガラシ、塩、ニンニクを荒潰ししただけ(のはず)。日本の家にはバーミックスもどき(ハンディブレンダー)を最近導入したので、何とかできる! 悩みはするすると晴れた。

というわけで、ナムプリック用にプリック・チーファーと呼ばれる、長さ5〜6センチの赤い生トウガラシと小粒のタイのニンニクを買い込んで、早起きすることなく無事日本に帰ってきたヒバリであった。ではさっそく、作ってみましょう。

材料:生のプリック・チーファー200グラム、小粒ニンニク一掴み、塩小さじ1〜2または塩麹大さじ1
トウガラシはさっと洗って、ヘタを取りざっと刻む。トウガラシとニンニク、塩または塩麹を一緒に合わせてブレンダーで潰す。

目安はトウガラシの皮が5〜4ミリ四方ぐらいになればいい。もう少し細かくても。タイの小粒ニンニクは皮を剥かなくてもよく、ニンニクの量は好みで加減する。10片ぐらいで十分かも。塩はおいしい海の塩、または塩麹もコクが出ていい。ガラスの壜などに入れ、冷蔵庫で保存する。熟れてきてだんだん味に深みが出てくるが、もちろん作ってすぐに使っていい。パサパサした感じならもう少し潰し、塩と水少々を加える。

出来上がったナムプリックは、炒めものに入れる、パスタソースに加える、ラーメンの薬味、冷奴にのせる、などいろいろ使ってみてね。一皿の料理に小さじ一杯ぐらいが目安かな。ニンニクが入っているので、炒めものの場合は、油をゆっくり熱してナムプリックを最初に入れ、焦げないようにさっと火を通してからほかの素材を入れるといい。焦がしてはいけません。冷蔵庫で何か月も持つ。

これで、日本にいても、フレッシュな生トウガラシが毎日ある(のに近い)食生活ができます。

ジャワの二方位、四方位(2)ソロの四方位に見る南海

冨岡三智

先月、ジャワの二方位、四方位について書いたけれど、ジョグジャ(=ジョグジャカルタ)市では、北のムラピ山はごく近くに眺めることができ、その火山灰の被害にも遭‎うくらい近い。また南の海まで市の中心部から15kmくらいしかなく、ムラピ山噴火で噴出した岩が、川を流れて南海岸まで到達するというから、ジョグジャカルタの南北二方位観は生活の中で実感される。けれど、ソロ市(=スラカルタ)では、西のムラピ山も線路(東西に走っている)沿から、はるか遠くに望める程度だし、東のラウ山も見えない(と思う)し、南の海に行くには60km離れたジョグジャの町にまず入らないといけない。北のクレンドワホノの森もスマラン市(ジャワ島北海岸沿いの都市)の手前の方にあるらしいのだが、ワヤン影絵劇に出てくるけど実在しない森だという説明を聞いたことがあるくらいだから、ソロの人々にとって身近な存在ではない。つまり、ソロの四方位観というのはかなり観念的だ。その証拠に、私はソロの王宮以外の人々が四方位観について語るのを聞いたことがないし、観光パンフレットのようなものにも載っていない。

この四方位観について知ったときに私が感じたのが、なんだか閉塞的な世界観だなあということ。南にインド洋が開けていると言う人がいるかもしれないが、ジャワ島の南海岸沿いは波が高く、大きな貿易港(ジャカルタ、スマラン、スラバヤ)はすべてジャワ島北海岸にある。道路が発達しているのも、北海岸側なのだ。南海岸沿いには漁港もあるけれど、悪く言えば北海岸に比べ不毛な土地だと言える。そして、クレンドワホノの森が四方位の北に置かれているということは、その向こうに広がる北海岸には王国の手が届いていないことになる。つまり、オランダ植民地政策によって王家が港市貿易の富から遠ざけられ、内陸部に封じ込まれたという世界観が、この四方位観から読み取れてしまう。

ジャワ島の南海にはジャワの王家(の祖のマタラム王家)を守護する女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいるとされるが、彼女の伝説は、ジョグジャの南にあるパラントゥリティス海岸だけにとどまらない。ソロ王家のハディウィジョヨが著した『ブドヨ・クタワン』には、ジャワ島南海岸各地の女神伝説を紹介して、これらはすべてラトゥ・キドゥルのことだと言っているし、それだけでなく、彼女は淡水にも出没する。ソロ郊外にあるタワンマングという滝ではラトゥ・キドゥルが水浴びしたとされるし、ウォノギリ県にあるカヤンガン(巨石が川岸にごろごろしている所)でも、瞑想していたジャワ王家の始祖セノパティとラトゥ・キドゥルがで出会ったという伝説がある。これらの地域に共通するのは険しい岩場であること。こういう場所では、おそらく多くの人が水難事故に遭い、水の女神に引き寄せられたという言説が生まれたに違いない。

ラトゥ・キドゥルという女神像は、ジャワ各地に見られるそういう水の女神像をいろいろと取り込んで、マタラム王家によって造形されたのだろうと、私は思っている。そう思うのは、彼女が古代のジャワ・ヒンズーに由来する女神ではなく、マタラム王国が興った16世紀以降になって初めて登場するからなのだ。当時の東南アジアは港市国家による交易の時代で、マタラム王国も最盛期には北海岸沿いの港市を勢力下において、内陸部の肥沃な農業地帯の生産物を輸出していた。このような時代、内陸平野と北海岸をつなぐ水運は非常に重要だったはずだから、各地の水神信仰を王国の支配下に組み入れ、王国の祭神にしようとしたとしても不思議ではない。とはいえ、もしマタラム王国が北海岸沿いを手中にし続けていたら、マタラムの守護神は北海岸に棲むことになっていただろうという気がする(ラトゥ・キドゥルは南の神という意味なので、女神の名前も変わっていただろう)。女神が南海に棲むという設定になったのは、オランダが文句を言わない海はそこしかなかったから、ではないだろうか…。

硝子

璃葉

いまも膜を張る空が、透明なものとなって静かに響き、薄い硝子につたわっていく
雨のなかに溶け込んだ見えない色は何度も、止めどなくその目を照らした

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悪魔の囁き

仲宗根浩

我が家にある愛でるだけのボックスセットのCDの数々。やっと聴くことができたアトランティックのリズム&ブルース十枚組セットを堪能できる時間ができ、よく行く飲み屋、うちより全然まとものはオーディオがあるところでマイルスのボックスを聴く会などをやっていたら、音楽雑誌の記事にコロンビアのボックスセット、タジ・マハールの十五枚組、デューク・エリントン十枚組、ベッシー・スミス十枚組、P-VINEから出たエルモア・ジェィムスの3枚組が2セット発売の文字が目に入る。物欲の塊むくむくと起き出しネットでつい注文してしまう。到着した輸入盤は盤は中身に違いがないかチェックするためパソコンにCDをセットし確認。今回のセットは大丈夫。輸入盤のボックスセットはジャケと中身が違うのがたまにあるのでそこらへんはまず確認しないといけない。CD屋にいたころ、二十五枚のロット全部プリントされたCDと全然違う音源だった、ということもあったので。しかし、これもちゃんと聴くことができるのかはいつの日か。しばらくは英語で書かれた解説を理解できないまま暇なときに眺めるしかない。

春分の日の前に、知り合いの携帯電話ショップの店長をやっている者からメールが来る。うちの子供名義の携帯を学割で三年間基本料金無料にできると。これだと携帯電話にかかる金がしばらくは減らせる。そのあとに、「旦那さん、今ならタブレットの端末料金無料で毎月七百八十円、無線LAN接続のみプランがありますぜぃ」的な文章。去年の十月、データ通信のみの携帯端末を入手してテザリングで無線LAN環境がある。ワイヤード派だったが実は隠れワイヤレスになっていた自分。休みの日都合をつけてショップに行き説明を聴くと三年間はタブレット端末、ガラケー、データ通信端末、子供名義の携帯の計四台を所有していても今より安くなることが判明。即契約。これでひとりで端末三台所有することになった。

まあタブレットの操作方法もスマホと違うし、これで少しは少ない脳味噌も活性化するだろう。しっかし新しいインターフェイスを一から覚えるのは時間がかかる。ついつい囁きにのってしまったことを呪う。

現在、ネット環境に接続できる端末はガキのゲーム機三台、PC三台、携帯端末四台となった。これはこれでバックアップなど考えると面倒くさい。

イラク戦争から10年

さとうまき

3月20日で、イラク戦争開戦から10年がたった。
そこで、「イラク戦争なんだったの語録」をまとめてみよう。

パウエル国務長官
「イラクはウサマ・ビンラディンとアルカイダの幹部の仲間で協力者であるアブ・ムサブ・アルザルカウィのネットワークをかくまっている」
(2003年2月5日、国連での報告)
しかし、ザルカウィは、サダム政権とは何ら関係なく、政権崩壊後にイラク国内に潜伏し反米テロ活動を開始した。2006年に米軍の攻撃で死亡
した。のちにパウエルは、「私の生涯の汚点であり、報告内容はひどいものだった」と反省。

ブッシュ大統領
「米国、友好国、同盟国の国民は、大量破壊兵器で脅かす無法者の政権のおもうままにはならない。その脅威には全軍で立ち向かう」(2003年
3月20日。開戦直後の演説)
「多くが誤りだったのは事実だ。大統領として開戦の決断に責任がある」(2005年12月14日、ワシントンDCで、大量破壊兵器が見つから
なかったことに対し)
「吐き気がするほどの嫌悪感を覚えた」(大量破壊兵器が見つからなかったという報告を聞いたとき-2010年刊行の自伝『決断の時』)

結局、アメリカは、4422人の兵士を失い、31926人の兵士が負傷した。かけた戦費は、600億ドル。

一方イギリス。
ブレア首相
「イラクが大量破壊兵器を45分で実戦配備できる」(2002年9月にイギリス政府が出した大量破壊兵器の脅威に関する文書に寄せた序文で)
イギリスは、チルコット検証委員会が立ち上がり、ブレア氏を喚問。
「フセイン元大統領=悪いやつ、放っておいたらとんでもないことをしでかす奴。だから処理するべきだと思った」
179名のイギリス兵が戦士したことに関しては、
「後悔はしていない。責任は感じるが、謝罪のつもりはない」
2011年1月29日、チルコット委員会に再び喚問されると
「もちろん後悔している。深く心の底から」と反省。
2013年イラク戦争から10年でBBCのインタビューでは、
テロや宗派間抗争の続発を挙げ、「望んだ状態からはほど遠い」、「もしサダム(フセイン大統領)を排除せず、イラクが『アラブの春』を迎えた
なら、アサド(政権下の)シリアより、20倍はひどかっただろう」とイラク攻撃を正当化したそうだ。

さて、最後に日本。
小泉総理
「米国がどういう理由で行動するのか見ないとわからない。それを見て考える。その場の雰囲気だ」(3月13日の段階で、のんきなことを言って
いた)
「武力攻撃なしで、大量破壊兵器を廃棄することが不可能な状況では、米国の行動を支持することは国益にかなう」(2003年3月20日、国会
にて)
「フセイン大統領が見つかっていないから、大統領は存在しなかったといえますか? 言えないでしょう。大量破壊兵器も私はいずれ見つかると思
う」(2003年6月11日の国会答弁)
しかし、よく考えると何を言っているのかよくわからない答弁だ。

そして10年後。小泉元総理は、表には出てこない。

今年の3月20日の朝日新聞には、福田元総理、(当時の小泉政権では官房長官)のインタビューがのっていた。「日本は結構うまくやった」。結
局イラク戦争の支持は、世界の平和や、イラクの民主化には、まったく関心のない日本が、米国に追随することで国益を守ろうというだけの話。イ
ラク戦争では、12万人以上のイラク人が命を失い、500万人近い人が家を失った。そんなことはどちらでもよくて、日米関係がよくなったかど
うかだけが、日本人の関心。「うまくやった」か。なんとも悲しい。

掠れ書き27

高橋悠治

ピアノや作曲について書いているうちに説明になってしまう。ちがう書きかたがあると思ってはじめても、説明の誘惑はいつもある。

飛白あるいは飛帛は刷毛で書かれ、糸髪のように細い線のあいだに空白があり、速く飛び散る勢いのある書のスタイルだった。織物の場合はまず糸を束ねて括ってから染めると、織った後でも染まらない白が残る。それだけでなく、色は白い部分にもいくらかはみ出している。

ディドロがrapidissimiと呼んだデッサンは、抑制されていない自然の勢いがあり、手をかけて細部をみがいていくタブローは鈍く静まっている。

記述はおもな特徴を描き留め、説明には意味や解釈が入りこむ。記述は知らないものに対して、説明は知っているものについて。

説明し尽くすことはできないから、説明されなかった部分については問いにひらかれているが、知っている側から知らない側への方向が逆転することはないだろう。

記述は白い紙との対話とも言える。言いさしも、書きなおしも当然のこと。

まず座って考えるのではなく、身体を動かしている時に掠めてすぎることばがある。書き留めれば動かなくなるが、それを読むとき、また動き出す。論理をたどって書き続けて、最初のことばから組み立てられた全体や、そこまでの連続したプロセスはおもしろくない。

まず風が立つ。柿の葉が庭に散り、風に吹かれてあちこちと鳥の跳びあるくようにころがっていく。ある状態が続いている時の地図ではなく、変化の瞬間に立ち入って書き留める。外から見えない内部の小さな動きが対称性を破ろうとしている瞬間の。

散らし書き。バランスに収まらない。一つの中心をもたない。始まりも終わりもないトルソ。

書きなおして決定版を作るよりは、何回か断続して現れる同じものがさりげなく変わっていくというかたち。ちがう順序や選択肢を他人にまかせるような不確定性ではなく。