みぞれ、雪。

仲宗根浩

月末、今年初めて車のガソリン、満タンにする。いつも入れるスタンドは車検をそのスタンドでやると車検割で1年間ガソリンがリッター7円引きになる。で、リッター税抜き九十円。ちょいと前の軽油の値段じゃないかと、ここまで安くなっているとは。

お正月は暖かい。元日は実家に行き、揃ってお仏壇に新年のごあいさつ。お正月の料理はだんだんと沖縄らしさがなくなってきている。昔からあったのは田芋の田楽くらいだろうか。子供のころ、お年賀の挨拶に父親と親戚まわりをすると子供が口に合う甘いものといえばこれしかなかった。

暖か暑い日が過ぎたあとで、いきなりの寒気とかで四、五日寒くなる。最高気温が十五度でも寒いと感じるが今年は十度前後の気温でみぞれが降り、本島で観測史上初めての雪となった。本土が寒くなると、こっちも寒くなる。部屋のなかの温度計が示す気温はシンプルに夏は三十度、冬は二十度と決まっていた。まあ、すごい寒気とやらであまり正確とはいえない温度計が示すの十八度。翌日は十六度。外は強風に雨。うっ、寒い。この寒さで沖縄から熊本へ引越して初めて迎えた冬のこと思い出した。学校の運動場で遊んでいたら初めて雪を見た。風が強く雪は横に降っていた。雪は降り積もるものだと思いこんでいたが、横なぐりで積もらない雪だった。初めて体験する本土の冬に手はあかぎれで毎日軟膏をぬり、霜柱を踏み潰しながら学校へ行った。

この寒気のなかエアコンの暖房すらつけないで、着込んで布団にくるまるだけで過ごす。みぞれが降り、本島では初めて観測上の雪となる。みぞれが雪と観測されるのを始めて知る。

仙台ネイティブのつぶやき(10)今日も雪かき

西大立目祥子

「今日も」と書くほど、仙台は雪深いところではない。雪かきは、ひと冬に5、6回といったところだろうか。たいてい12月の中旬を過ぎると積雪があって、これはそう積もることなくとけてしまう。そして年が開けて1月中旬から2月にかけて何度か、数日間とけずに道路わきに残るような雪が降り、ときに大雪になる。やがて南の春の便りが入る3月になってから、最後の一撃がくる。この雪はけっこう積もる。東日本大震災のときがそうだった。大地震のあと絶え間なく続く余震に追い打ちをかけるように、雪はこんこんと降り積もった。

 この冬は温かくて、水仙が固い土の中から緑色の芽をするすると伸ばし始めていたけれど、1月中旬に入ったら、やっぱり約束を果たすように雪はまちを真っ白に染めにきた。それから、週にいっぺんのペースで3回、律儀にも決まって週末か週のはじめに降っている。

 雪が降り始めるのはたいてい夜で、静かな気配をまとってそれはやってくる。車の音が遠のき、しんしんと冷え込んできたなと思ってカーテンを開けると…。もうそこは別世界だ。見慣れた庭や道や街は雪の下に眠り、白くてやわらかな世界が広がっている。屋根も車も木々も、丸みをおびてふわふわ。その上、明るくて、降り積もってしまうと雪は暖かい。忘れていた自分の中の子どもがむくっと動き出して、何だか愉快な気分になる。朝、誰もまだ踏んでいない雪の上に最初の足跡をつけて歩くのは、何だか楽しいものだ。

 夜、降り積もった雪の上を歩いていると、時間と空間を飛びこえてしまうような感覚に包まれる。別の時代のどこか見知らぬ街を歩いているような不思議な感じ。それはこの街に生きた出会ったことのない人と私をつなげるものにもなる。明治時代に生きただれか、江戸時代に暮らしただれかも雪の降り積もるこの道を歩いたろう…そんな想像が生まれてくるのだ。

 そうしたら、つい3、4日前、仙台在住の作家、佐伯一麦さんも、地元紙の河北新報夕刊に連載しているエッセイ「月を見あげて」で、島崎藤村の随想「雪の障子」を引きながら、雪の静けさや白さなど、その魅力をあげる藤村に深い共感を示しておられる。そして、またこんなことを書いている。
「それにしても、天気の記述というものは、月の満ち欠けとともに、たとえ自分が生まれる前のことであっても、死者とともに分かち持つ眼、といったものを感じさせないだろうか」(「河北新報夕刊」2016年1月26日)

 だれかとつながっているという感覚は、この”死者とともに分かち持つ眼”ということであるだろう。町並みや暮らし方はどんなに激しく変わっても、天気は普遍なのだ。日差しや雲の流れや降り積もる雪は。

 山形の豪雪地帯に暮らす友人は「雪が降るとほっとする」と話す。晩秋、日が短くなるにつれ、あっちの野菜畑、こっちのリンゴ畑とやらなければならない仕事に気が急く毎日が続いたあと、雪がすべてをおおい隠してしまう本格的な冬の日がやってくる。分厚い雪は、もはや人の手の及ばない自然の力を見せつける一方で、細々とした仕事を忘れさせ長い休息をもたらしてくれるのだ。

 宮城の山間地に暮らす友人は、「11月の晴れたり時雨たりが続くときがいちばんいやだね。でも、雪が積もれば、もうあきらめがつく」という。圧倒的な雪の前に、降れば雪かき、積もれば雪下ろしという長い冬がいよいよ始まるからだ。最初の積雪は、その覚悟を強いる。

 つくづく雪国の人は偉いなあ、と思う。雪の前に、屈するのでもなく、挑むのでもなく、淡々と受け入れて仕事をこなすのだ。朝は6時から家の前の雪かきをして車を出し、勤務先に着けばまた雪かき。仕事をするのはそれからだ。1日中、降り積もるときは、何度も雪かきをし、ひと冬に数回は屋根の雪下ろしもしなければならない。でなければ、生活も命も危うい。足跡をつけて歩く楽しさなんて、笑い飛ばされるだろう。

 1月29日の朝は、起きたら真っ白だった。朝8時過ぎに車で出かける用事があって、15分ほどエンジンをふかしながら、車の雪を払った。屋根の上、フロントガラス、ボンネット…サイドミラーが凍りついて開かない。お風呂場から残り湯をバケツで運び、ざばっとかける。こういうことを友人たちは毎日やっているのだ。

 隣りのご主人が、雪かきスコップでラッセルするように細い路地の雪をどけて進んでくる。すこぶる手際がよい。敷地と道路の段差の雪もスコップの跡目がつくようにきっちりと取り除いた。その姿を見ながら、雪国の出身なんだろうな、へっぴり腰の仙台人とは違うもの、と思ったりした。あいさつを交わし、雪かきのお礼を伝える。こういうふだん顔を合わすことのないご近所同士のあいさつも雪の効用である。

 友人たちはミシミシと雪の重みできしむ屋根の音を聞きながら、そろそろ屋根に登るかと思っているころだろうか。

 さて、私はあと何回の雪かき。 

ひとつの身体

璃葉

漢方医院のとびらを開けると、細長い通路の奥から生薬の香りが漂ってきた。蛍光灯で照らされた病院とは明らかに雰囲気が違う。どうやら、珍しくクリニック内で調剤をしているようだ。通路からそれぞれの部屋に入るかたちになっていて、一番手前が受付、その奥が診療所、そして一番奥に処方箋を受け渡す場所。きっと煎じ器もあるだろう。受付で待っているひととき、雨で冷えて強張ったわたしの身体は、白熱灯の光と薬草の土臭い香りで充分にほぐされた。

去年の秋のこと。原因不明の虫刺されに市販の薬を塗って放っておいたら、見事に悪化した。ひどく悪くなってしまったのは右足首の内側で、三陰交というツボの部分。中心の刺しあとが赤紫色に腫れて、まわりに黒ずみが広がる。皮膚の奥で、なにかが蠢いている感覚が気持ち悪くて、寝ているうちに掻きむしっていたらしく、その箇所は、見ていられないほどにただれてしまった。少し引っ掻けば、あっさりとめくれてしまう脆さだ。その弱さは、もはや皮膚ではなく、和紙や障子紙を思い起こす。市販の薬や病院の皮膚科で処方された抗生物質は効くどころか、顔や脇の下に蕁麻疹がでてしまい、逆効果となった。困った末にたまたま一駅先に漢方専門のクリニックがあることを知り、冷たい雨が降るなか、片足を引きずるようにして歩いたことを思い出す。

「これね、あなたね、まず、虫の毒を抜かないとだめです。皮膚の奥で悪さしてますから。もちろんそれだけが問題じゃないんだけどね。まず、針で刺して血を出します。そのあとに毒が出てきます」
先生にそう言われて、表情が凍った。そんなわたしを見て笑いながら
「大丈夫、ちくっとするだけだから!」
子供をあやしているみたいだ。次の瞬間、消毒した太い注射針で足首の腫れた部分を数カ所ぶすぶすと刺されて、その容赦の無さにびっくりする。しかし、つつかれた感覚だけで、痛みはあまりなかった。痛みさえも感じない皮膚になっていた。
刺して作った出口から、血が玉になって吹き出してくる。滞っている何かが、突然動き出した気がした。燃えるように熱い。ガーゼに垂れていく血液の鮮やかさは、染料のようだ。すべては色で出来ていることを実感する。次第に、血の赤が無色透明に変化する。これが「虫の毒」だ。皮膚を押して、毒を出し切ったあと、薬を塗布しながら、先生は言う。
「毒が入ったまま生活していたという以外に、見た感じ、あなたは冷え性で乾燥肌なので、治りが遅い。けれど、身体を温める意識をすれば体質は変わる。時間はかかるけれど、身体は臓器から皮膚までぜんぶ繋がっているから、血の巡りを良くすれば治りも早まります」
血が循環していることに意識を向けること。いつの間にか身体を分離させて考えてしまうのは、痛みや怪我が目に視えるからだ。視えない部分にどれだけ意識を持っていくことができるだろう。身体のなかを潤して、循環をよくさせること。でないと枯れてしまう。身体はまるで樹木のようだ。

処方箋を受け取るために、廊下の奥に案内される。思ったよりも通路はもっと奥に繋がっていて、ほらあなのようだった。調剤用の薬草が入った、たくさんの引き出しが取り付けられている木製の棚が見える。

看護師の女性がまっすぐこちらを見て、にこり、と微笑んでくれる。エネルギーに満ち溢れているひとだと、一目みただけでわかった。処方箋の説明を丁寧にしてくれ、おだいじに、と言われる。

早朝、漢方を白湯に溶かして飲む時間は至福のひとときだった。土の味が暖かい。今年に入っても皮膚はまだ疼くが、ゆっくりと再生している。草花が成長するように、季節が移り変わるように、皮膚の上で時が流れているのを感じている。

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岬のさきの

時里二郎

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
ゆめのなかで

舟ではわたれぬ島だから
夜に竿さし ゆめをこいで
ゆめのさきへ

ゆめのさきにも 岬があって
帽子の小島が見えている
いちどわたったことがあると
思い出した
ゆめのなかで

ゆめではわたれぬ島だから
うつつの舟を借りてゆく
舟にはひとり先客がいて
忘れた帽子を取りに行く
わたしは何しにゆくのだろう

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
波に流され 見えなくなって
母の形見の夏帽子

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
母にないしょと耳うちをして
わたしに似てる女の子

岬のさきの帽子の小島
波にゆられて夏帽子
あれは白い波の端(は)と
ひとりごちてながめやる

牡蠣殻(かきがら)白い岬の道は
きりもなく続いて
あとひとまたぎに
夢の切り岸

  -『名井島の雛歌』から

2016年の遠藤ミチロウ

若松恵子

遠藤ミチロウ監督の映画「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」を新宿のK’s cinemaに見に行った。1月23日の公開日から、最終上映後にミチロウとゲストのミニ対談が企画されていて、私が見に行った日も漫画家の上條淳士をゲストに迎え、雪が心配される夜だったけれど、多くの観客を集めていた。

この映画は、遠藤ミチロウの「うたいながら旅をする生活」を記録したロード・ドキュメント・ムービーだ。2010年11月に還暦を迎え、ギター1本で各地を回る還暦ツアーや、彼を有名にしたパンクバンド「スターリン」の復活ライブの模様を記録するために企画された。しかし、2011年3月11日に震災が起きて、福島出身の彼の旅は、そのことに大きく影響される。予想外の事だったが、福島支援のライブや、彼の故郷、母と再度向き合う日々が記録されることになった。

この部分が無かったとしても、充分この映画は魅力をもっていると思った。演出された、自分を受け渡した顔ばかりが登場するテレビにうんざりしていたので、こんなに意志のある、それでいながら、やわらかいミチロウの顔を見ているだけでも儲けものだと思ったからだ。しかし、震災のことがなければ、福島や母が登場することはなかったと思うし、故郷や母が登場することで、より遠藤ミチロウという人を理解することができたとも言える。

福島や、母への向き合い方が自然で、正直なのがいい。原発事故後の故郷の状況についても、これまでと同じようにミチロウは怒る。故郷だから特別という事ではない。地元の人たちを苦しめている「不正」について彼は怒る。自然に対してではなく、人が引き起こした災害について彼は直観的に怒る。母親に対するスタンスも、震災が起きたからといって特別に変わるという事はない。彼は、映画の中で、「母親は苦手だ」と語っているが、震災で母親を心配には思うが、苦手だと思う気持ちは変わらない。

パンクバンド「スターリン」の時代に、その過激なパフォーマンスが週刊誌に書かれ、近所の人から「遠藤さんちのミチロウちゃんは気が狂った」と言われ、「週刊誌と僕とどっちを信じるの?」と母に聞いたら「週刊誌」と答えたというエピソードが語られる。どんな子どもにとっても、母親と分かり合うことはやはり難しい。どんなに心配してくれても、ミチロウは、はぐれた子どもなのだ。母親にとってはミチロウの現在も相変わらず「気が狂ってしまった」のと同様の暮らしぶりに思えるのだろう。

2011年8月15日に「プロジェクトFUKUSHIMA!」としてスタジアムで行われた「スターリン246」のライブ映像は、この映画のハイライトだ。スターリンをやるミチロウが、晴れやかな良い顔をしていてうれしい。スタンドの観客席(なんか檻に閉じ込められているように見えるのだが)にむかって走っていく姿もかっこいい。

スターリンが現役の頃は、日本がバブルに向かう時代で、景気の良い日本に、貧しいロンドンパンクのスピリットをお手本にした音楽が受け入れられない感じがしていたが、最近はスターリンの歌がタイムリーになっているように感じる。上映後のトークでミチロウはそう言っていた。福島でぶちまけられるスターリンの音楽を聴いていると、私もそう感じる。ミチロウのうたが、今、必要なのだと感じる。

2014年に膠原病をわずらって、映画の公開も今年になってしまったが、2016年のミチロウはひとまず元気なようだ。2月28日〜3月6日は目黒のライブハウス「APIA40」でゲストを迎えた連続ライブ「ミチロウ祭り〜死霊の盆踊り〜」も予定されている。
新宿のK’s cinemaの上映は2月10日までの予定だ。

製本かい摘みましては(117)

四釜裕子

縦横の道をどれだけ歩いたところでそれが決まって週末となれば、息づく町もこちらが会えるのは吸ったところか吐いたところかどちらかだ。近所に廃業を決めた紙器所があると聞いて向かうと、いつもシャッターが降りて静かな一角だった。細い道をはさんで徐々に敷地を増やしたのだろうか、二階建ての建物数軒に渡って社屋が連なっている。関係者じゃなかったらあえてこの道を選んで通るひとはいないだろう。名前だけ聞いていた約束のひとを受付にたずねると、南側全面の窓を背に長電話をしていた社長さんだった。あいさつもほどほどに「もう、ほとんど処分しちゃってね」と言いながら、これまで手がけてきた化粧品や文房具、食品などのパッケージを見せてくださった。がらんとした事務所は日射しがまぶしい。ブラインドはあげたままだ。

窓から見下ろすと道向かいの建物の入り口が大きく開いていて、「廃棄」の札が貼られた籠をめがけてひとが出入りしている。そちらに案内いただくと、奥に平版の自動打ち抜き機があった。抜き型に紙を押しつけ、切り抜き線や折り曲げ線をつける機械だ。気配はアマゾンのワニのよう。見たことはないけれど。この機械には「オートン」という愛称があって、実はそれは国産メーカーがもつ商標だ。改めて調べてみると、段ボール箱などの製造メーカー・タナベインターナショナル(1947年創業)と紙箱などを作る機械メーカー・菅野製作所(1946年創業)を2014年に吸収合併した日本紙工機械グループが所有していた。もともとお菓子を作る機械のメーカーだった菅野製作所が菓子箱製造機械も作るようになって、自動製函機「サックマシン」や日本初自動打ち抜き機「オートン」を生んだらしい。オートン機は現在もヴァージョン・アップを続けており、最新型は四角く覆い囲ったトーフ型である。この日見たのはゴムのベルトやチェーンがむき出し、小さな円形のハンドルは目が回るほどたくさんついていて、機械の途中には大きな鏡(紙を挿入する位置から作業の進捗を見られるようにしたんだろう)が、そしてほうぼうにガムテープで白い紙(どれもわけありなんだろう)が貼ってあり、昭和の香りを放っていた。この時代の機械を見ると、社会全体で試作品を作り続けてきたように感じる。「もはや鉄くず。でも十分、稼がせてもらった」。

オートンの反対側に小さな階段がある。上は事務所だろうか。スリッパが2つ。「見ますか? そのままでどうぞ」。土足のまま4人で2階にあがる。椅子に腰掛けて作業をしていた女性と目が合い、「おじゃまします」に「スリッパにはきかえて!」が重なった。「いい、いい」。社長が言う。ここにもまた大きな機械、サックマシンだ。打ち抜き機で入れた折り線にそって折り曲げたり、貼り作業もこなす機械だ。こちらも昭和の香りいっぱいで、ゴムバンドの水色やボタンやチューブの赤色は、もはやかわいいとしか言いようがなかった。結束のための機械や大きなホッチキス留め機械、作業のための椅子や踏み台、机などが散在している。どれもこれもやわらかな木で丈夫に手作りされている。奥に並ぶスチールロッカーを見る限り、ずいぶん多くの人がここを職場としたようだ。さっきの女性が仕事を終えて下に降りた。椅子には手編みの座布団がかけてある。

事務所のある建物の1階には、手前から、断裁機、スジ入れ機、打ち抜き機2台が並んでいた。いずれも昭和40年前後の、職人ひとりが向き合って操作する鉄のかたまりのような機械である。打ち抜き機は、切り取り線や折り曲げ線などをつけるための木型を固定して紙を1枚ずつはさんでプレスする。ビク抜き機という別名のほうがよく使われていて、これはイギリスのビクトリア社という機械メーカーの名称からきているそうだ。この作業自体を「ビク抜き」とも言う。壁面にはビク抜き用の型が、右から左へ、小さいものから順にたてかけてある。直近まで注文のあったものだろう。ビク抜きの職人さんが戻ってきた。「彼はね、優秀でね、次の仕事がすぐ決まったんだ。貴重ですよ。若いからね」。社長が言う。四十代だろうか。ここにある機械はすべて、この場所ごと同業他社に引き継がれる。

もう一度事務所に戻るとお客さんがいた。「だいぶ片付いたね」。長いつきあいの紙屋さんだという。くもりガラスで囲われた応接室兼休憩室のドアが開くと、さっき向かいの2階にいた女性が大学いもを小皿に分けていた。三時の休憩だ。「こんにちわ」と、また客。対応した別の女性が「社長、町会費だって」。「もうね、来月で廃業するんですよ。払わなきゃ、だめ? そうか。これで最後だ。お世話になりました」。私たちも礼を言って外に出た。オートンとサックマシンのあった建物の隣は倉庫か駐車場として使っていたのだろうか、真っ暗な中にものすごい数のビク抜き用の型がある。本来、それぞれが発注者のものである。のらりくらりと歩いていたら角のクリーニング屋で自転車に乗った社長さんに追い抜かれた。通りの向こうに銀行がある。

しもた屋之噺(169)

杉山洋一

毎年1月終わり、イタリア各地でアウシュヴィッツ解放記念日の追悼行事が行われますが、ミラノ中央駅の右壁を500メートルほど進み、ホームの端が丁度終って、無数のポイントが絡み合う下あたり、旧貨物駅入口のあるフェルランテ・アポルティ通り3番地は、ミラノの式典の中心です。

1943年から44年にかけ、コモ、ヴァレーゼ、ミラノのサン・ヴィットーレの監獄に収容された北イタリアのユダヤ人はムッソリーニに反発する政治囚らとともに、一定数集まったところで、人目につかない未明のうちに、この貨物駅21番ホームから家畜用の有蓋貨車に載せられ、イタリア各地の強制収容所や、アウシュヴィッツなどへ運ばれてゆきました。

アウシュヴィッツから生還したイタリアのユダヤ人はわずか20数名で、ミラノを発ち収容所のあるポーランドのオシフェンチムまでは7日間かかりました。極寒の中家畜用の貨車で人間が運ばれる姿をじっと見つめる農民たちは、自分たちを眺めながら何を思っているのだろうと生還者の一人は語っています。こうした場所が戦時中のまま残っているのは、ヨーロッパでもとても貴重なのだそうです。この時期イタリア各地の高校生や大学生の多くが、自らがユダヤ人であるかどうかに関わらず、アウシュヴィッツ行きの特別列車Treno di Memoria (記憶の列車)というツアーに参加するといいます。道中語り部らの話をきき、収容所を訪問することで、戦時中の悲劇を追体験するのです。

ここまでは納得できますが、20数年イタリアに暮らし、常に薄く感じられるユダヤ人への羨望と差別をどう理解すれば良いか、1月末が巡ってくるたび消化不良の思いが頭をもたげるのです。

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 1月某日 ミラノ自宅
ミラノの大気汚染が酷く、新年0時前にぺタルドという爆竹を使うと罰金というお触れ。10歳になる息子は、爆竹という日本語は知らないので、「かんしゃく玉」と呼ぶ。赤塚不二夫の古い漫画で覚えたそうだ。尤も、ぺタルドは導火線がついていて、正確には「かんしゃく玉」ではない。

 1月某日 ミラノ自宅
2年前に書いた「悲しみにくれる女のように」を、低音デュオのため、歌詞再構成する。バンショワの歌曲、イスラエル国歌「ハティクヴァ(希望)」、パレスチナの旧国歌「マウティ二―(わが祖国)」の歌詞を、作曲当初の下書きに沿い、それぞれあるべき場所へ戻してゆく。旋律に言葉がつくと、意味がかえってくる。改めて、自分はなぜ言葉を剥ごうとしたのか考える。

元来、サグバッドとルネッサンス・フルートのための作品であったから、言葉が介在しないのは当然ではあったが、何か無意識に介在していた気がする。現在のラテン文字アルファベットも、フィニキア文字として誕生した当初は、絵文字に近かった。ヒエログリフや漢字のように、表意文字として生まれ、語彙の増大に応じて表音文字に変化するのは、自然な流れだという。

西洋音楽の音符はグラフで、数字譜も邦楽のたて譜も、音響現象を再現する表に近く、謂わば初めから純粋に表音文字を目指した記号だったが、音符に言葉がついた時点で、当初意味をもたなかった記号が、表意記号に変化する。ラテン文字が26の表音文字を置換えた音響組合せに過ぎず、音となった瞬間そこに意味が立昇るというのなら、文字を簡素な数字に読み替えても、本質的に変化を来たさないのではないか。

そこから「アフリカからの最後のインタビュー」を書き、見えない、聞こえない言葉の発する意味から音楽を成立させようとした。音響現象を再現する表音音符を放棄し、演奏される音が無から発生させる記号の意味を、傍観者として観察するに徹した。それだけ強い言葉であったし、そこに自分が介入するのは無意味で、寧ろ無責任だと思った。

それに比べ「悲しみにくれる」は、自らの恣意的な感情に突き動かされて書いた。ユダヤ人もパレスチナ人も、言葉が通さなければ案外見えてくるものはないか。余りに楽観的な発想で彼らにうまく説明出来る自信もないが、正直に書かなければいけないと思ったし、演奏されるたびにそこには何らかの相関的な意味が立ち昇るように思う。そのまっさらにされた音の上に言葉が戻ってきた。音に意味と歴史と時間が宿り、人の声がそれを生々しいほどに顕わにする。自分が無意識に封をしかけていたものに気づく。恐らく全く違った意味が姿を顕すに違いないが、それをじっと見守りたい。

 1月某日 ミラノ自宅
息子と二人で朝食を摂りながら、NHKラジオニュースで北朝鮮の地下核実験を知る。原子爆弾の話になり、息子はインターネットで探してきた「きのこ雲の下で何が起きていたか」を食入るように見る。水素爆弾はこの一千倍の威力と聞いて仰天している。夜怖くて一人で寝られない。

ブーレーズ永眠。中央駅前老舗の和食レストランで、フィレンツェから着いたチェロのFと昼食。「我先にブーレーズと写りこんだスナップ写真を載せるか、挑戦的にブーレーズを貶して、辺り構わず論戦を交わすか」。フェイスブックがなくても、人生失うものは余りないという。

 1月某日 ミラノ自宅
自分の思う音を鳴らすのと、書いてある音を鳴らすのは、傍目には同じようだが、実際は全く違う作業のはずだ。近代音楽の場合、隠れている機能和声がうっすら見えてくるだけでも、目に映る風景は全く違うものとなる。

近代和声が機能和声領域の拡張を主眼として発展してきたのであれば、単純化して機能和声の柱と梁の姿に戻すのは間違っているかもしれないし、機能感や調性感を見出すのは矛盾かも知れない。分からなければ演奏できないのは非生産的だが、読めば読むほど無知に気付くのだから仕方がない。単なるソルフェージュ能力の不足だと訝しく、愉快に思う。

 1月某日 ミラノ自宅
大石くんの「禁じられた煙」初演にあたり、岡村さんの質問に答える。

「Q: 音楽と社会性について思っていらっしゃることを簡単に教えてください。

A: 僕にとって音楽をかく行為は、日記のようなものです。自分にとって忘れられない出来事、忘れられない感情を、書き残しておきたいのです。情報が人間の処理能力を超えて氾濫するようになって、白黒明確なわかりやすい意見が望まれています。しかし乍ら、本来人間の感情はそこまで単純化できるものでしょうか。

自分にとって音を書くという行為は、かかる不明瞭な領域にある自分の姿を、できるだけ恣意的にならぬよう心掛けつつ、音符に置き換える作業です。それが演奏家という他者によって読取られて音になったとき、改めて自分を見つめ直します。ですから、当初気がつかなかった一面を、思いがけず見出すこともあります。

ですから、作曲は自分と一体ではありません。作曲という作業に、自らを顧みる機会を託しているのです。同じように自分の曲を通し、演奏する人や耳にした人が、何かを考えたり感じる切欠になれたら、とても嬉しく思います。他者への共感を求めているのではなく、それぞれが、それぞれの思いを、音という媒体を通して感じられた素晴らしいと思います。

日本でもヨーロッパでも、難民や移民がたびたび話題に上ります。自分も21年もミラノに暮らす移民ですから、10歳の息子は移民の息子で、妻は移民の妻、ということになります。日本に住み続けていたら、作品に社会を反映させようとは思わなかったかもしれません」。

「自分は移民」と書いて、自分自身に衝撃を受ける。全く認識がなかった。言葉にしてみて初めて、気づくこともある。
(ミラノ 1月29日)

グロッソラリー ―ない ので ある―(16)

明智尚希

 1月1日:「相手のこともそうだけど、その前に自分がまずちゃんとしてなきゃならない。要求ばかり突きつけて、こちらは自堕落なんて話にならないもんな。なにより自分自身が納得できない。女性を意識してきちんとするんじゃなくて、常日頃から実践できているというのが理想だな。その点、俺は意外にもそこそこ自信があるんだよ――」。

(´- `)フッ(´ー `)フフッ(´ー+`)キラッ

 名状しがたい不全感に取りつかれる。親切、配慮、平和、夢など、様々な耳障りのいい高級じみた単語が、一斉に地に落ちて倒れる。完全な不全感とは、裏を返せば高揚のない万能感と言えようか。冷静沈着、沈思黙考を貫き続けている神様との結節点が生まれる。似た者同士ということで、片時でもいい、地位を交代してくれないものか。

( ゚д゚ ) アゼン

流行感冒の一つ。主な症状は政府が1987年に導入を決定した。目標達成を確実にするのが狙いで、医療費などの情報を行うとされている。ノルマはなく、9年間で156人が就職するなどして「卒業」したが、会議室や記者会見席が設けられている。マスコミが作ったとされ、定義はなく、気は遣っていない。20年度までに黒字化。

_(・_.)/ ズルッ!

 目的を思考の到達点と設定した場合、目的的な解釈を余儀なくさせられるかもしれない。ここで問題が発生する。目的的な考え方を理論の中枢に据えないメタファーとしたら、目的的的となってしまう。同じ思考経路で話を進めていくと目的的的的となり、ついには目的的的的的となる時もそう遠くはない。もう当初の目的などどうでもよい。

(`_ゝ´)アッソ

 1月1日:「自分で言うのもなんだけど、いつ誰か来てもいいように部屋はきちんと片づいていて、文学全集や文庫本のきっちり加減はすごいぞ。そんなに広くない部屋だけど、2千冊を書棚や自分で作った棚のなかにきっちり入れてる。それから映画のDVDや音楽CDも、本と同じようにきれいに収まっている。ちょっとした自慢だな――」。

ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!

 ベッドの中、深夜に真っ暗な部屋の中で、昔のあれやこれやを思い出す。大抵は、幼い頃から今日にいたるまでの、陋劣で、卑屈で、妬み深く、恨みがましく、猜疑心の強い、自分たちである。意識という名の発掘者がこんなものを掘り返すくらいなら、昼間の世界で責め苦にでも合っているほうがましだ。操れるナルコレプシーはどこにある。

アタヽ(´Д`ヽミノ´Д`)ノフタ

 一つだけいいことを教えてやろう。実はな、みんな大嘘つきなんだ。

( ー ー ゛ )

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 稀にみる才能と作品がありながら不遇をかこつ人よ、成功者を妬まずに、そのまま制作を続けるがよい。時流に乗った幸運児にはなれないが、いずれ乱世の奸雄になる日が来る。不遇の階段を最後まで昇り切ったところには、不遇者だけが感知できる光景がある。人気作品のヒュレーの乏しさ、精神性の低い俗臭、屹立するおのが影なき影が。

( ̄  ̄)………( ̄∇ ̄)ニヤッ

「俺、今から無理やり難しそうなことを言ってみるわ。アクロスティックな体操選手が形而上学的な思考により、サイバネスティックの領域と不可分で幾何学的な哲学を、マインドセットとして累進課税方式にシフトした上で、アートディレクターのディレッタントを尊重するスキゾフレニアに、抽象表現主義の立場を取ることに決定した」

ノ ヽ“┼┐!φ(・c_,・。)

 遠からぬ知人が亡くなって涙に暮れているくらいなら、どうして生きている間にもっと良くしてやらなかったのか、相手になってやらなかったのか。泣いている人を見ると、故人より死そのものが持つ悲しみ、その場特有の空気に、自らが酔って涙しているようにしか見えない。第二の生を始めた故人は言うだろう。「いったい誰が死んだんだ?」。

(U人U)・・・・・

 1月1日:「こうやって見てもわかるだろ。俺の趣味や嗜好が。しかも下世話なものばかりじゃない。教養として見聞きしておくべき最低限度のものプラスアルファの作品を並べてる。もちろん並べてるだけじゃないぞ。どこかにいる誰かさんみたくタイトルしか知らないなんて笑いものだしな。まあ一通りは見たし読んだよ。これも自慢――」。

( ̄∠  ̄ ) ドヤッ!

 最近の高等教育はいったいどうなっとるんじゃ。大学を出ても英語で日常会話すらできないっていうじゃないか。近所の若造をつかまえて、英語で何か言ってみろって話しかけてみたところ「アイウォンチュー」だってよ。そんなもん、小学生でも知ってるってのまったく。え。ちょっと待てよ。アイウォンチュー……わし!? わしなのか?

ギョッ!Σ(・oノ)ノ

 目覚めると代助は蝿になっていた。表に出たはいいがディーダラスは役立たずで、ただ大笑いするのみ。泣いているとラスコーリニコフがナイフを持って突進してきた。刺されたのはとっさに現れた大道寺信輔。代助はトリストラムとゴドーを待つことにした。しかしやってきたのはサンチョ・パンサ。逃げるために結局は電車に乗るしかなかった。

O(≧∇≦)O イエイ!!

 ガムを噛むと頭の働きが良くなると聞く。確かにそんな気がするのだが、実際に口にしてみると、頭の働きがどうのというより、いわれなき焦燥感から懸命にガムを噛む。するとまた焦燥感が増大して更に速いテンポで噛む。この悪循環である。そうとわかってはいてもやっぱり口にしてしまう。ガムは中毒性が高いのだろうか。

(´・ω・`)ショボーン

アジアのごはん(74)米とぎ汁還元水

森下ヒバリ

1週間前からバンコクに来ている。いつものアパートを月極めで借りて住んでいるのだが、ここには台所がない。アパートメントに台所がないのはタイではふつうである。台所がなくても外食文化がたいへん発達しているタイなので、食事に困る事はない‥ないのだが、ワタシはお米を研ぎたくてうずうずしている。しかしそれは、「あ〜、お米を研いで、ご飯を炊きたい!」のではなくて、ヒバリは「お米を研いだ、とぎ汁がほしい〜!」のである。

とぎ汁? そう、あの白く濁ったお米のとぎ汁。日本の自宅では、3年ぐらい前からお米の一番めのとぎ汁の濃い白いものに、白砂糖大匙1を加えて数日置いて作る、米乳酸菌液を毎日仕込んでいる。これは豆乳ヨーグルトの種にするほか、毎朝の(あ、朝ぶろ派です)お風呂にだいたい500ミリリットルを注ぎ込んで乳酸菌入浴剤にする。この乳酸菌液入りのお風呂が気持ちいい。のだが、話はこの最初の濃いとぎ汁のことではない。2回目、3回目の薄まってきたとぎ汁のことである。

「残りのとぎ汁も栄養分とかありそうだな〜、でも飲んでもおいしくはないし、そのまま植木にやるのはよくないし‥」と思いつつ流しに捨てる日々。岡山の田舎の家では台所の流しの端に2リットル紙パックの上を切った入れ物にとぎ汁が入れてあって、よくごぼうなどが突っ込んであった。アク出しにいい、と母親は言うが、臭いよこの液。そう、とぎ汁は放置しておくと臭くなる。とぎ汁の活用法として、掃除に使うとかアク取りに使うとかは聞くが、こんな匂いがするのを使うのはちょっと‥。

以前、中国雲南省・シーサンパンナの景洪に旅した時に、おいしいセルフの食堂で白い液体が鍋に入れて置いてあって、みんな自由に飲んでいた。何だろう?おいしそうに見えたので、ヒバリも一杯。味も何もついていないそれは、お米のとぎ汁だった。特においしくもなんともなかった。なぜみんな競って飲むの? 中国のほか、韓国でもお米のとぎ汁をスープの出しに使ったりする。ふむふむ。

去年フェイスブックを始め、「TGG(豆乳グルグル)ヨーグルト同好会」というのを見つけて参加してみた。そこで知ったのが「3(み)とぎ水」である。なんとお米のとぎ汁は、一日置くことによって、どういうわけか酸化還元値がものすごく高まり、いわゆる還元水になるというのだ。

「酸化還元水」というのは、つまり酸化(老化、サビ、劣化)を元に戻す力である還元力を持った水ということである。いわゆる水素水などもその一種。これには電子のやり取りが絡んでくるのだが、まあその化学は苦手なので説明は省かせていただくが、これまでほかしていたお米のとぎ汁が、一日置くだけで、汚れ落としに使えたり、野菜や魚を数分浸けておくだけでピチピチぷりぷりに復活したり、肌に塗るとしっとり、飲むと身体の老廃物をだして体を活性化してくれる、すごい水になってしまうというのである。

ほんまかいな‥。さっそくお米を洗って、作ってみましょう。まずは2合のお米をさっと洗って水を流す。そして1回目の米とぎ。この濃いとぎ汁は、ペットボトルにとって砂糖と合わせて米乳酸菌にするために仕込む。さて、2回目。このとぎ汁もガラスの入れ物に取っておこう。そして、3回目。だいぶ濁りが薄まってきたが、この薄さ加減がいいらしい。ガラスの水差しに取る。だいたい1リットル分ある。そして翌日・・2回目のとぎ汁は少しどろんとしていて、少し匂いがある。ので、これは植木にあげよう。そして3回目のとぎ汁を、野菜や魚の下ごしらえに使ってみると、いい感じ。いわしはぷりぷりに、野菜はしゃきーん。すごいぞ、還元水。

飲んでみた。あれ、なんとなくおいしい、ような気がする。いやな感じはまったくない。身体にしみじみくる感じ。あの、とぎたてのとぎ汁とはあきらかに違う水だ。なかなかいける。これすごく体にいいんじゃないか。ただ、2日置くとちょっと匂いがするが。

酸化還元力というのはORPメーターというものがあり、数値として測れるので、それを入手してうちのお米のとぎ汁還元水の数値を測ってみることにした。プラスの数値が高いほど酸化力が高く、低いほど還元力が高い。ちなみにもっとも酸化力の高い酸素は+850mv、もっとも還元力の高い水素は−420mvである。だいたい+200以下から還元力があリ、体に良いとされる。

うちの水道水は+330mv。水道水の全国平均は+500mvというから優秀ではある。浄水器の水は−256〜-76mv。うちの浄水器は簡易型の水素水浄水器なので、ちゃんと仕事しているね。さて、お米のとぎ汁を1日置いたものは? なんと−400mv! 日によって数値はもっと悪くなることもあるが、だいたい3回目のとぎ汁を置いたものはすべからくマイナスで、強い還元力を持っていた。高いレトルトパウチ入りの水素水や、水素水発生装置を買わなくても、そういう水素水に勝る還元力をもつ水が簡単に手に入るのである。しかも、これまで流しに捨てていたお米のとぎ汁から!

基本的にマイナスの数値を出すものはアルカリ性であることが多いので、このお米とぎ汁還元水は一気に大量に飲まないで、コップに半分ぐらいをゆっくり飲むのがいいだろう。食後すぐはさける。胃酸過多の人にはぐいぐい飲んでもらってもOK。

しばらく飲んでいるうちに、すっかり体になじんできた。はっきりいって高い水素水浄水器の水より還元力は高いし、体に自然な感じがする。でも見た目がほんのり白く濁っているので、こんなもん飲めるかっと思う人もいるだろうなあ。でもとても体によいので、思い切って試してみてください。

とぎ汁還元水は2日ぐらい置くと還元値は下がって来るし、匂いもしてくる。なので、保存は基本的にしないで2日で使い切る。残れば掃除や植木にあげる。お出かけの為に前日からペットボトルに詰めておいた還元水に少しレモン汁を少し垂らして外出してみたら、匂いもせず、まるでさわやかスポーツドリンクのようにおいしかった。後日、豆乳ヨーグルトの提唱者飯山一郎さんのブログを見ていたら、玄米乳酸菌液を作る時によく臭みが出ることがあるが、その臭い匂いは枯草菌の仕業でかんきつ類の皮などを入れると防げるとのこと。とぎ汁還元水の匂いも同じなので枯草菌だろう。

残ったとぎ汁還元水をうすめて植木にあげていたら、植木がすっかり元気になった。いや、ちょっと茂りすぎかもしれない‥。いや〜すごいパワーだな、と感心していたら、ひと月ぶりに行ったいつもの美容院で「あれ、なんか髪の毛がいつもより多いですね‥。うん、10年前ぐらいの感じ」たしかにいつもより、頭がぼさっとなるのが早いな、と思って美容院に早めに行ったのだが、10年前のレベルとは。もともと髪の毛は多くて固くて太い質だったが、さすがに年と共に「人並みになってきました」と最近は言われていたのである。

そこで思い出したのが、3年ほど前に高性能水素水製造機を導入した友達から初めて水素水をもらって飲んでいたときのことである。この水を飲んでいると、髪の毛が以上に早く伸びることに気が付いた。いつもはひと月半〜ふた月に一度行く髪のカットであるが髪が伸びて伸びてどうしようもない。半月に一度美容院に行く予算はないので、友人の還元力の強力な水を飲むのをやめたら伸びる速度は元に戻った、ということがあったのだ。

還元水で髪がふさふさになった、などという体験談があるのかな、とネットで調べてみると、ありました。しかも白髪が黒くなったという話。しかも、水素水は飲むよりも肌や髪に直接つける方が効くとか。(水素水と、とぎ汁還元水の違いだが、これは還元力の元がすべて水素分子なのか複合成分なのかの違い)とぎ汁還元水をスプレーに入れて髪の毛と肌にスプレーすると、とてもいい効果が出そうだ。

肌につけると、しっとりして気持ちいい。もう化粧水は要らない。ああ、とぎ汁還元水だけでお風呂を満たしたら、どんなに気持ちがいいお風呂になるだろうか。お風呂を満たすだけの大量のお米をとぐことができないのが残念である‥。それにしても、冷や飯パワーにとぎ汁パワー、お米はほんとうにエライ! くれぐれも食べ過ぎには注意だけどね。

☆「豆乳グルグルTGGヨーグルト」(栗生隆子著 永岡書店 1000円)に白米の発酵液としてとぎ汁還元水のことがちょっと載っているので興味のある方は見てみてください。ただし、とぎ汁還元水には乳酸菌はほとんどいなくて、乳酸菌発酵液ではないです。
☆お米のとぎ汁還元水の作り方:お米(白米〜分搗き米)をさっと洗って、3回目のとぎ汁(薄く濁ったもの)をガラスなどの容器に入れて一日(冬は二日)置く。2日を目安に使い切る。そうじ、野菜や魚の下ごしらえ、スープのダシ、煮物の水に適宜加える、肌に付ける、髪の毛に付ける、飲むなど還元水として利用できる。飲みにくい場合はレモン汁を少し加える。
米とぎ汁乳酸菌液作りはちょっと‥と思った人もこれなら作れるでしょう。ガラスの器は洗いやすい形のものを選んでください。こまめに洗わないと匂いが出るよ。もう、お米のとぎ汁は捨てられません!

外国人に通じない日本語

冨岡三智

以前から日本で働くインドネシア人に日本語を教えていて思うこと。会話集の日本語の文法もわりと理解して意味も取れているのに、彼らが「日本人が何が言いたいのかよく分からない」と訴える言い方がいくつかある。その筆頭が、「質問があるんですが…」、「質問があるんですけど…」のような言いきらない言い方。「が」や「けど」は「しかし」っていう意味ですよね?と聞かれるので、この場合は「しかし」の意味ではなくて、単に文をつないでいるだけのことが多いとアドバイスするも、文を切らないという感覚が分かりづらいようだ。それに、突然に「〜が…」と言われると、否定的なことを言われたと思ってぎくっとするらしく、けれどその後は「…」となって何も言ってくれないので、「しかし、何なんだ?」と思うらしい。「質問があるんですが…」の…には、(いま質問してもいいですか?)という言葉が隠されているのだと説明しても、そこが理解できないという。確かに、質問があるのなら最初から「いま、質問してもいいですか?」とだけ言えば良いのである。「が…」、「けど…」と言うから通じないのだ。

しかも、朝礼などで、「〜〜で、〜〜で、〜〜だけど、〜〜で、〜〜が…」と話が切れないで延々続くと、余計に混乱するみたいである。これも、短い文に区切って、「〜〜です。〜〜です。〜〜です。〜〜です。」と言えば通じるのに。ただ、テレビを見ていても、日本人の話し方はほとんどこのパターンだ。文章がいちいち切れると冷たいというか余韻がない感じで話しにくい、聞きにくいと感じられるのだろう。私自身もそういう話し方をしていると思うけれど、なるべく外国人には文章を区切って話すように心がけている。

さらに外国人がよく訴えるのが、日本人の話の結論が分からないということ。もっとも、インドネシア人だって結論のない話し方をする人は沢山いる。しかし、同国人同士で話をする場合、とりあえず単語の意味は分かるので、文章全体で意図が分からないという状況をあまり自覚しない。けれど、日本人に結論のない話をされると、外国人は自分の語学力が足りないために相手の意図が分からないと思ってしまうのだ。

否定疑問文や二重否定、反語表現も分かりにくいようだ。「行きたくない?」とか、「行きたくなくもない」とか、「どうすればいいのよ?(どうもしようがないでしょ)」とか。こういう婉曲的な表現は外国語にもあるけれど、外国語で言われると分かりづらくなるというのは事実だ。私も英語で否定疑問文を使われると、?となる。

というわけで、結局相手に伝わりやすい日本語というのは、1つ1つ短く文を切って、意図が明確な文章を、婉曲的な言い回しをせずストレートに言うに尽きる。外国人が多く日本に在住する状況では、ペラペラ外国語が話せる日本人を生み出すより、こういうわかりやすい日本語を話せるような日本人を育てる方が先決のような気がする。

父の正座

植松眞人

 小学校の一年生だったか二年生だったか。私は父と一緒に蝉採りに出かけた。油蝉が激しく鳴いていたのだから、まだ夏の始めから盛りにかけてのころだったろうと思う。
 あの頃、父は京阪神間を走る私鉄の駅員をしていて、勤務時間が不定期だった。その日も朝方に帰ってきて、
「夏休みやからって、いつまで寝てるんや」
 と母に叱られながら起き出した私をかばうように、
「夏休みくらい、ゆっくり寝させたれよ」
 と父は笑いながら言うのであった。
 共働きだった母は、父のそんな言葉にあきれたようにため息をつきながら玄関から出て行く。出て行く間際に、
「みずやに昨日もろたおはぎがあるから」
 と言った。
 母が出て行くと、父はさっそくみずやを開けておはぎを取り出した。自転車で十分ほどのところにある母方の祖母からもらったものだった。
「えらい形がひしゃげてるなあ」
 父は面白そうに笑うと、青海苔のおはぎに食いついた。
 形がひしゃげているのは、昨日私が祖母の家からの帰り道に自転車でひっくり返り、前のかごに入れていたおはぎが田んぼ道に飛び出してしまったからだった。幸い、祖母がいつも頼りない私からおはぎを守ろうとして、瀬戸物ではなくプラスチックの入れ物におはぎを入れ、それをさらにタオルで二重に巻いてビニール袋に入れるという厳重な包み方をしてくれていたおかげで、おはぎが外に放り出されることはなかった。そのかわり、容器の中で思いっきりひしゃげてしまったのだった。
 父は半分食べた青海苔のおはぎを私の方に差し出して、食べろと言う顔をする。私は青海苔よりもきな粉のおはぎが好きだったので、
「きな粉とって」
 と寝ぼけた声をあげた。
「お前はきな粉が好きなんか。お母ちゃん似たんかなあ」
 と父は言いながら、私にきな粉のおはぎを素手でつかみあげて渡してくれる。
「おばあちゃんのきな粉はご飯が真ん中で外側があんこやから、好きやねん」
 私がそう言うと、父は笑いながら
「お父ちゃんは、青海苔やな」
 と言いながら半分残っていた青海苔のおはぎを口に放り込んだ。
「蝉採り行くか」
 父がそう切り出したのは、私がきな粉のおはぎをちょうど食べ終わる頃合いだった。普段なら朝方夜勤から帰ってきた父はそのまま寝てしまうのだが、その日はなぜかそんなことを言い出したのだった。
 もちろん、私としては願ってもない。私は父と二人で蝉採りに出かけることになった。

 いくら考えても思い出せないのは、なぜそのときに弟がいなかったのか、ということだ。私より一学年下の年子の弟は当時私が行くところにはいつでもどこにでも付いてきていたので、このときだけいなかったのは、私が起き出すのを待てずに先に遊びに出かけたのか。とにかく、そのときには弟がいなかったのだった。そして、自分一人だけが父と蝉採りに行くということが嬉しかったという記憶がある。
 父と蝉採りに行くと、いつもよりたくさんの蝉が穫れるのがうれしかった。子供だけだと低いところにいる蝉しかとれないこともあるのだが、それよりも父は釣り竿を改造した蝉採り用の網を持っていて、これは子どもたちだけのときには使ってはいけないことになっていたのだった。
 釣り竿を改造した蝉採り網は柄のところが伸縮自在の釣り竿で、持ち運ぶときには八十センチほど、伸ばせば二メートルほどの長さになった。
 それだけでも、十分に長いのだが、父は高揚している私に向かって
「もう一つ武器があるんや」
 と言って笑った。
 父はテレビの裏側に立てかけてあった竹を取り出した。これは一メートルほどの長さで、見事にまっすぐな竹だった。まだ、表面が青く、切り口が斜めにきれいに切られていて、恐ろしく切れる鉈かなにかで伐採されたように見えた。
「これ、どないしたん」
 私が聞くと、父は少しもったい付けたように
「ええやろ。お父ちゃんが働いてる駅の裏手に竹林があってな。そこから伐ってきたんや」
「そんなん、勝手に伐ってええのん」
 私がそう聞くと、父は一瞬驚いたような表情をして、
「ええねん、ええねん」
 と答えたのだが、父はそう言いながらも少し慌てているようにも見えた。しかし、そんなことは私はどうでもよく、普段二メートルくらいの網が今日は三メートルになる、ということで居ても立ってもいられないくらいに興奮していた。
 父は、着ていた電鉄会社のワイシャツとズボンを脱ぐと、ランニングシャツにステテコという姿になって、そのまま雪駄を引っかけると表に飛び出した。私も夕べから脱ぎっぱなしにしていた半ズボンを履くと父に続いた。
 父は釣り竿を改造した網を持ち、私はその後ろから竹をもってついて行く。近所の庭のある家からはすでに油蝉のけたたましい鳴き声が聞こえていた。
 当時、私の家の近所の道路はまだ舗装されていないところも多く、砂利道をビーチサンダルで歩くのは、足の裏が痛くて嫌いだった。しかし、その日に限っては手にした竹をまるで兵隊の鉄砲のように肩に担いで、いつもよりも膝を高くあげて歩いた。足の裏が痛いなんて思わなかった。
 ランニングにステテコ姿の父が前を歩く。その後ろを竹を担って私がついて行く。目的地は家からほんの五分のところにある神社だった。こんもりと生い茂った小さな林のような境内をもつ神社は近所の子どもたちのたまり場になっていた。石柱を並べたような外壁があり、その向こうで顔見知りの子どもたちの声がしていた。
 私はもう一刻も早く父の持っている釣り竿を改造した蝉採り用の網と、私が担いでいる継ぎ足し用の武器を友だちに見せたくて見せたくて仕方がなくなっていたのだが、そこは子どもだ。子どもというのは、突然妙なことを考えてしまい、自分の考えがわき道にそれてしまうことに気がつかないものだ。自分が大人になってから思うのだけれど、それを律して、そのとき考えなければならないことを考え続けることができるということが大人の証のような気がしてならないのだ。
 そう考えるといまの私も十分に子どもじみているのだが、当時の私はまさに子どもの中の子どもで、いったん妙なことを考え始めるとそこから逃れることができないほどだった。
 そのとき、私の頭の中に浮かんだのは、自分が肩に担っている竹の節はくり抜いてあるのかどうか、ということだった。
 少し前に小学校の担任の先生が、竹には節がある、ということをしきりに話していたことを思い出したのだ。
「竹には節があって、ししおどしなどはそれを利用しているのです」
 とテレビドラマでしか見たことのないししおどしの絵まで黒板に描いて先生は説明してくれるのだった。
 それなら、この竹にも節があるはずだ。節があるかないかは、この竹の切り口から向こうをのぞいてみればいい。そう思った私は父の後を追いながら、斜めに伐られた竹の切り口をのぞき込んだ。立ち止まってのぞけばいいようなものだが、立ち止まっていては父に置いて行かれる。そして、なによりも少しでも早く蝉採りをはじめたいという気持ちが勝っていて立ち止まることなど考えもしなかったのである。
 まだ身長が一メートルを越したばかりのころの私が一メートルほどある真っ青な竹の伐り口をのぞき込むためには、まるで長い望遠鏡を見るような格好になった。しかし、長い竹は上下にしなってうまく節が見えないのだった。必死になってのぞき込むうちに腕が疲れてきて、竹の先端が地面に付いた。地面に付くことで重さはましになるのだけれど、砂利道をブルドーザーのように竹で押しながら歩いている案配なので、上下にしなりはしないのだが、今度は前後にごつごつと動き出した。それはそうだ。砂利道に敷かれた石の中にはときおり大きなものがあり、そこに突っかかると竹がぐっと目の前に近づいてくる。それをさらに力で押しながら前へ前へと進んでいく。そして、進みながら竹の節をのぞき込む。
 そのとき、また大きめの石に竹が突っかかった。それをまた力で押そうとしたのだが押せなかった。竹は砂利ではなく地面そのものに刺さったように微動だにせず、反対側の鋭い伐り口のほうが、のぞき込んでいた私に突き刺さった。
 痛みよりも驚きに声を上げる私を父が振り返る。父の驚きは私の比ではない。振り返るとまだ幼い我が子が自分が持ち帰った竹を顔面に突き刺して血を流している。しかも、血の出所は右目のあたりだ。
 父は私に駆け寄り、目元に刺さっていた竹を抜き、私を抱え上げると近くの医者へと走った。
 そこから先のことはなにも覚えてない。幸い、竹は直接目には刺さらず、目と鼻の間のわずかな部分に刺さり、目にも鼻にも支障のないただの裂傷となった。しかし、盛大に血が出たことで、父は動転してしまったらしい。
「おまえの目を見えんようにしてしもたと思て、すまんすまん言うて謝りながら医者に走ったんや」
 と、それから何年もしてから父が話していたことがある。
 医者に到着したことも、治療してもらっている最中のことも私はなにも覚えていないのだが、父によると私はずっと泣き続け病院を出るころには泣き疲れたのかそのまま寝てしまったのだそうだ。
 私はあの時、家に帰ってから布団に寝かされていたのだと思う。私と弟の部屋ではなく、家族がテレビを見ていた居間で、私と弟が使っていた物よりも少し大きく少しふかふかな布団に寝かされていた。痛み止めか化膿止めの薬を飲まされていた私は、そこでぐっすりと寝ていたのだが、夜遅くになってから目を覚ましたのだった。
 父と母がいて、その向こうにテレビがあった。テレビはスイッチが入っていて、ドラマか何かが放送されていた。そんな時間にテレビを見せてもらったことがないので、私は父と母越しに見え隠れするテレビを薄目を開けながら、見ていた。目を覚ましたことがわかると、昼間の怪我のことで叱られてしまう。そう思った私は寝たふりをしながらTVを見ていたのである。そうこうしているうちにまた薬が効いてきたのだろう。私は再び目を閉じて眠ってしまった。
 それが私が子どもの頃の夏の思い出なのだが、しかし、最近になってあのとき、父はテレビの前で正座していたのだということに思い当たった。確かに、背中を丸め小さくなって正座をしている父を母が言い咎めていた。私はその二人の間からテレビを見ていたのだ。そして、テレビを見ることに必死で、父と母がその時、何をしていたのか思いがいたらなかったのだ。父は私に怪我をさせたことで、母の前で正座をして謝っていたのだろう。
 法事などの改まった席でも、いつもあぐらをかいていた父だったので、私が父の正座する姿を見たのは、あの夜の曖昧な記憶の中だけの出来事になった。

本を巡るいくつかのこと

大野晋

最近、本に関して考えたことをいくつか。

書籍不況と言われる中で、推理小説だけは売れ行きがましなようで、最近の書店の店頭は猫も杓子もミステリーばかりが目立つようになっている。その中でも、若者用のジュブナイル分野の売れ行きが良さそうで、殺人がごろごろ起きるようなミステリーよりも日常的なネタを扱ったミステリーが多くでているように見受けられる。そんなことを考えながら、さらに周りを見回してみると、コミックの分野で面白いことを考えた。

年末の特集番組で、人気コミック(というかアニメでもあるが)の作者が紹介したことで一気に市場在庫が消えうせた新川直司の「四月は君の嘘」が日常のミステリーにあたるのではないか? と思い当たった。内容は仕掛けのために書けないが、一度通して結末まで読むと二度目の登場人物たちの立ち振る舞いに違う面が見えるという趣向のこのコミックは分野として、ミステリーに分類してもいいような気がしている。実に興味深いコミックだと思う。

年末も押し迫って、植物図鑑である平凡社の「日本の野生植物」が30年ぶりに改訂された。今回の改訂では、従来、草本編、木本編と2分割の上で、エングラーの植物分類に従って、双子葉植物、単子葉植物と分けて、前者を合弁花、離弁花の2分した構造をしていたものを、全部をひとつにまとめて、葉緑体の遺伝子情報に基づいたAPGⅢ分類による分類に改められた。

植物の分類情報を利用する立場の場合、基づく情報はなるべく新しく公にされたものの方がよいため、早速、全5巻揃えると、十数万円する図鑑の第一巻を入手した。
今回の改訂では、実は入手前に気になっていることがあった。前回の分冊では、木本編と草本編という分類学上の分類というよりも形態上の分類によって分かれていたうえで、植物の外見上の違いによって巻が分かれていたために、実務上の利便性はとても優れていた。これが1冊1万円以上する高価な図鑑にも関わらず、一般に受け入れられた理由であったようにも思うが、今回は外見上の形態分類ではなく、遺伝子情報を重視したために、外見から探す巻を特定することができなくなるような事態が予想されたからだ。

第1巻を入手した印象は、事前の不安は現実になったように思われた。これまでのエングラーともクロンキストとも違う配列は、植物の外見によってどこに並んでいるのか予想がつきにくく、図鑑としてその点について配慮されているようにも思えなかった。

図鑑というものは、基本的に植物目録ではない。日本の図鑑であれば、日本に生えている植物をそれがなにであるのかが的確に特定できるインデックスでなければならない。第1巻だけを見た限りでは、とても特定に対する配慮がされているようには見えず、特に今回大幅にアクセサビリティの低下している科レベルへのアクセスはお世辞にも考慮されているとは言えないものだった。本来なら、図鑑として最初に提示すべきポイントがなかったことが残念だった。

図鑑の宣伝文句も、改訂のポイントとして、APGⅢの採用が東京国立科学博物館の標本庫が採用しているという権威づけとしか思えないものだったり、また、別冊として提供されるとされた総索引も実際には改訂前であれば必要のないものだったのに、今回の改訂で分割されていた形態による分類を無理矢理に一体化させたことにより発生した問題の対応で必要になっただけだったりと腑に落ちないもやもやが強く残った。図鑑は植物分類の成果を収めたものであるのとともに、利用者であるその分類を使うユーザへの利便を図るべきもののはずだと思う。その点が、この図鑑の改訂には足りないように今のところ感じる。

まあ、まだ、アマゾンで予約の受け付けも始まらない第5巻で全ての心配と不満が払しょくされるのかもしれないので、それまでは待ってみようと思う。

最近、書店が減っている。少なくとも、不満の少ない書店が減っているように感じる。最近の書店での問題点についてはまた次の機会にしましょう。

135 和泉式部さん、中也さん

藤井貞和

謂はば芸術とは、山を出でて「樵夫〈きこり〉山を見ず」の、その樵夫にして、暗き道にぞ、而も山のこと(「こと」中也傍点)を語れば、たどりこし、何かと面白く語れることにて、いまひとたびの、「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが、逢ふことにより、謂はば生活である。

(好評につき、いまひとたび。怒っていいよ、中也さん。怒りでばくはつしそうなことばかり。開聞岳くん、開門しよう。東尋坊さん、襲来です。いえいえ、和泉式部さん。)

冬の響き

高橋悠治

2015年4月から波多野睦美と『冬の旅』の練習をはじめ、9ヶ月後に神戸と東京で3回公演。これほど時間をかけた練習ははじめて。以前岡村喬生と数回公演したこともあり、斎藤晴彦の『日本語でうたう冬の旅』では、山元清多を中心に斎藤晴彦・高橋悠治・田川律・平野甲賀の5人で訳詞を作って、数年公演したこともあった。こんどはヴィルヘルム・ミュラーの詩とフランツ・シューベルトの音楽についてあらためていろいろ考えた。練習の合間には、Ian Bostridge: Schubert’s Winter Journey: Anatomy of an Obsession (2015) をすこしずつ読んだ。詩の日本語訳もした。そのままうたえる訳詞ではなく、詩の各行に字幕のように対応する日本語で、翻訳調の人称代名詞をできるだけ削り、名詞止めや言いさし、ドイツ語の規則的な韻律のかわりに、不規則な半韻をつかう。対訳pdfはここ

歌手であり、歴史家でもあるボストリッジの本からは、当時の政治と文化についての知識をまなんだ。『冬の旅』は多くの歌手にとってのライフワークであり、録音もホッターやフィッシャー・ディスカウなど、いくらでもある。こんどはそういう名演奏は参考にしなかった。作曲家・演奏家として、シューベルトやミュラーと直接に政治的・文化的・音楽技術的対話をしようと思っていた。

ミュラーは、バイロンのようにギリシャの独立運動に参加したくてローマまで行ったが、デッサウに帰らなければならなかった。シューベルトはウィーン周辺から離れられず、抑圧的な体制の、検閲と警察の監視の下で生きた。詩と音楽の抵抗は、正面からのマッチョでヒロイックなアジテーションではなく、ひろくひらいた空間を指さすちいさな身振りでじゅうぶんできる。理論や思想ではなく、演奏のときの、詩や音楽のリズムと身体表現への共感が、啓蒙主義やロマン主義の時代をこえて、いまも息づいている。

ミュラーの『冬の旅』からハイネの『ドイツ冬物語』へ受け継がれた政治詩の流れ。民謡のように簡潔で奥行きのある表現と古典的な韻は、ブレヒトの詩の方法でもあった。第20曲『道しるべ』の「これから行くのは/だれも帰ってこない道」は『ハムレット』第3幕『だれも知らない国から/旅人はだれも帰ってこない」を思わせる。22『勇気』の「神がいないなら/われらが神だ」はニーチェを思わせるが、うつろなアイロニーにすぎない。失恋した男が旅に出るという最初の設定から、人格も性別も消え、家も故郷も捨て、涙も凍り、悦びも悲しみも、夢も希望も幻、休む場所はなく、死と墓も通り過ぎ、闇夜のハーディ・ガーディ、乞食の楽器にみちびかれて、どこかへ消えていく、だれでもないものの、沈黙に向かう貧しいことばは、ほとんどサミュエル・ベケットだ、と言いたくなる。

ハムレットが俳優たちに指図する。「ふるまいをことばに合わせ、ことばをふるまいに合わせ」、やりすぎず、自然の慎みをまもれ。シューベルトがミュラーのことばに音楽をつけたやりかたにも、おなじことが言える。楽器の前奏がその場面を描き出す。風も寒さも、雪の華も、イヌやカラスやニワトリ、風見の旗のきしりまでそこにある。と言っても、いわゆる描写ではない。声は楽器のつくる空間のなかで、声の美しさを聞かせる「歌」ではなく、ことばの抑揚と音色で彩られた旋律の輪郭をなぞりながら「語る」。登場人物を「演じる」ではなく、だれでもない声が壁の向こうで語ることばが喉のフィルターを通して増幅される。と言うと、「表象」のように思われるし、音やことばが向こう側にあり、表現する身体がこちら側にあるような図式が浮かんでくる。演奏の場を離れて、ことばをつかうと、その場で生まれるなにかは消えてしまう。とりあえず、声と楽器をあわせて、現実から生まれ、現実に作用する楽器と声の空間、と言っておこうか。

シューベルトをロマン派として解釈すれば、長いレガートの旋律線、うねり高まる響の嵐、全体構成から分配される部分の劇的対照、過剰な感情表現、演奏技術の誇示、こういう演奏は多いだろう。1950年以後の音列的構成主義から見た「前衛としてのシューベルト」像もある。音高・音価・強弱記号の組合せに解体した響きの精密な設計。記号的理解につきものの速めのテンポと均等なリズムによるディジタルな略画。こういう演奏も、じっさいにあるだろう。

シューベルトを「ウィーン古典派」や「初期ロマン派」ではなく、過渡期の不安定な歴史的な身体と感じるのはむつかしい。演奏は定型を崩しながら、即興でもなく、シューベルトの受け継いだ演奏伝統を考慮しながら その場で対応していく部分がある。第1曲の第1小節の4つの8分音符が均等な歩みになれば、演奏はもう失敗していると感じる。バロック的な不均等な拍を参照しながら、耳が納得する響きを作ろうと試みる。1拍目が少し長くすると、長短短格ダクテュロスに近づく。これはゆるんでいく、空間にひらかれた律、足早にすすむか、おそい場合は21『宿屋』や『死と乙女』での死のリズムにもなる。こうして旅人は歩みはじめた。前半は次の曲が前の曲のパターンを変奏しながら、12曲まで歩み続ける。後半は前半の曲のどれかに対応している。前半はゆっくり谷底へ降りていき、12『ひとりきり』で行き止まりになる。後半は屈折しながらさまよい、24『ハーディ・ガーディ弾き』で空中に消え失せる。

そのほか『冬の旅』の練習をきっかけに見つけた、ピアノで使える技術には、弱い音のさまざまな翳り、腕の重みで強い音をつくるかわりに、胸を引き上げて腕が車輪のようにうごく空間を作り、和音の微かな崩しで内声部に注意を向ける、アクセントを遅らせて呼吸の間を作る、長い線ではなく、ずらした音の層の重なりや滲みとしてのメロディー、音をことばとみなすバロック的な短いフレーズ、たえず伸縮する拍(テンポ)の揺れがある。逆に、身体技法があれば、中心音や和声、ポリフォニーやヘテロフォニーといった既成の技術はいらない。乱流と孔のある空間で音楽が作れる。ハーディ・ガーディの「貧しいものの音楽」が、ベケットのことばにも似た途絶えがちの響きをつむぐ細い流れになって、余韻をたなびかせる。