埋まらない隙間

西荻なな

トランプがアメリカ大統領に就任して10日あまり、アメリカ国内に住む友人からは、早くも憤りと叫びにも似た声が聞こえてきている。大統領選前後からチャットで頻繁に情報交換をしていて、現地の空気と自身の見解を伝えてくれる親友は、ボストンで精神科医をしている。アメリカリベラルを体現するアカデミックな土地柄、トランプ当選が決まった際には、あまりのショックに彼女のクリニックに来る患者さんは増えたというし、何よりLGBTの友人たちの生活が脅かされるようになるのでは、と当初から心配を募らせていた。彼女が善いと信じるアメリカのリベラルな価値観がなし崩しにされかねないことに、心底怒っていた。それは日本にいても共有するものだ。アメリカが全面的に好きでなくとも、人種もジェンダーも乗り越えて行ける価値観を体現してくれる国が倒れては、生きづらさが増していくばかりだ。日本で女性として生きていくことの難しさを10代から語り合う中だった彼女は、自由に呼吸できる場所を求めてアメリカへ移住した。その選択が間違っていなかったことは、彼女がどんどん解放されて、その才能と持ち前の明るさを開花させていく姿から感じ取っていた。トランプによる大統領令で中東地域出身の人たちのアメリカ入国、再入国が閉ざされる(その後、司法の働きによって最悪の事態は回避されたかに思えるが)と思われた一昨日の嘆きは、とりわけ深いようだった。シリアとスペインのハーフの友人はギリシャに一時的に仕事で行っているが、戻ってこれないかもしれない。もう一人のシリア系の友人には子どもが生まれたばかりだが、彼女の家族に会いに来るはずだった両親はアメリカに来られなさそうだ。でもそんな彼らはまだ幸福な方かもしれず、受け入れを期待していたシリア難民たちの生活はどうなるのだろう、というところまで話は及んだ。トランプの経済政策に期待する声も大きい一方で、家族や友人の輪が国境によって分断されかねない事態に(想像していたとはいえ)、気持ちは暗くならざるをえない。

一方で、ではトランプ大統領の誕生は間違っていたのか、といえば難しい。ヒラリーがよかったのかといえば答えに窮する。痛みを感じている人たちを受け止めるべき存在がなかったのだから、必然的にこうなったのだという思いもある。”リベラル”を説く人が今の経済システムの根本にメスを入れないことが、この時代にどう映るのか。その想像力を持っていたのか。本来のリベラルとは別の、資本主義にリベラルな価値が結託する形でのネオリベ的あり様がもたらした階級社会。マイケル・ムーアの映画作品が突撃していった先の超金融資本主義の恩恵に与れる人と、そうで無い人たちとの分断。国境を越えて日々自由に世界を飛び回る人たちと、飛行機になど乗ったことなど無いローカルな日常を送る人たち。日々の暮らしに困窮していては、生活はむしろ豊かになるためのものではなく、サバイブするもの、生き延びる目的そのものなのだ、という事実に、”Hillbilly Elegy:A memoir of a Famiy and Culture in Crisis”という昨年のアメリカのベストセラーを読んで気づかされた。著者はトランプ支持の厚かった、中西部のラストベルト(脱工業化が進んで錆びてしまった地域)で成長した31歳の青年。祖父母が生きた時代は産業に未来のある豊かな地であり、古き良きアメリカの家族と暮らしがそこにはあった。それが代を下り、父母の時代になり、様相は変わってゆく。しかし、その中で暮らしている人たちにとっては、そここそが”世界”。ドラッグと暴力と転々として定まらない暮らしに、心は砕けそうになるが、最後は祖母が拠り所になった。勉強できる環境を確保し、アメリカの良き”アファーマティブアクション”の助けを得て、アイビーリーグヘと進み、未来へと道をつなぐことができた。今は投資会社のCEOを務める身で、そこだけ見れば成功者だろう。でも筆致はきわめてニュートラルで、情に流されるでもなく、冷たくもない。今だから”Hillbilly”(白人労働者階級)とは何なのか、経済的に恵まれない忘れ去られた存在として生きる哀しさとは何なのか、記憶の中からすくい上げるように、淡々と個人史を紡いでいる。でもこの私小説にも似た読み物は、同じくラスト・ベルトで生きることがどのようなものなのか、その事実を余すところなく伝えていた。教育とは無縁で、ドラッグ漬け、家族の形も壊れかけている生活に身を置いていれば、リベラルな価値は届かないし、触れることがあってもいきおい”高級なもの”にならざるをえないし、等しくその恩恵が届かないのであれば、それはむしろ反感を買う対象になってしまう。社会政策から取り残され、”忘れられてしまった人々”(forgotten people)の支持を結果的にトランプが得てしまったことは、彼らがさらに置き去りにされるであろう未来を思うと二重の意味で不幸でしかないけれども、「America,First」「Bring Back America」という標語の繰り返しが、”忘れられた人たち”の心に確実に響いた事実は重い。その人たちにとっては、当面の生活が改善されるかもしれないという期待において、合理的な判断だったのだろうから。

友人の嘆きには心から共鳴するし、彼女の憤りの多くの部分は私の憤りでもある。とはいえ、彼女の生きるアメリカの良き価値観を体現するコミュニティの特異性を思うにつけ、分断の隙間を埋めることの難しさを思わずにはいられない。羨ましいという感情が羨ましい、を超えて、妬ましさに転じてしまった時、あるいは負の感情すら、何の感情の接点すら持てないほどに世界が離れてしまった時に、どう向き合っていったらいいのか。Facebook的な世界に現実が飲み込まれてしまったいま、アメリカと日本の距離も込みで、自分の課題として考えていきたい。

147 ひとりして

藤井貞和

「美化されて
長き喪の列に訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(岸上大作)

すべての美化は
はじき返されるしかないと
佐藤泰志はうたう
二十一歳

少女の愛にも斃れることのできる
優しい魂だけが
ほんとうに「革命」を行い得るのだと

樺美智子を
生きのこったにんげんの
身勝手な美化に置いてはならないと
いうけれど

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 

 
(思い立って「この世界の片隅に」〈アニメ映画〉を観に行き、帰って『帝国の慰安婦』無罪判決のニュースに接しました。二十一歳の佐藤が「私の読書ノート」を書いたのは一九七一年五月のことで、岸上全集に向けての感想です。詩で少女像にふれることはむずかしいですが、いつかふれたいと思います。)

アジアのごはん(83)マレーシア華人のカレーパン

森下ヒバリ

クアラルンプールから友人の車でイポーという町に向かうことになった。「途中のカムパーという町に巨大なカレーパンを食べさせる店があるんだけど」と友人が言う。「何それ、行く!」カレーパンは大好きである。「華人の店?」「うん、そう」中国系のレストランで、どんな巨大カレーパンが出て来るのか、とても楽しみだ。そこで昼食をとることにする。

KL(クアラルンプール)から2時間余り。ちょうど華人の正月、春節の只中なのでKL市内は空いていたが、高速道路は帰省する車で少し混み合っている。とはいっても日本のお盆やゴールデンウィークとは比べ物にならないが、まあ日本の方が異常だろう。

カムパーの游記酒楼という店に入ると、客はみんなその名物だという巨大カレーパンを食べているようす。さっそく注文すると、あっという間に出てきた。つややかに茶色く光るそのカレーパンは、ふつうのカレーパンの・・10倍以上の大きさである。でかいよ・・。揚げてあるのではなく、大きなオーブンで焼いてあるものだ。

持って来てくれたおばちゃんが、パンにサクサクとナイフを入れ、切り開いていく。ああ、かぶりつくわけじゃないのね。まず真ん中を一文字に切り、今度は横に5センチ間隔ぐらいで切り込みを入れて上部を切り広げると、ワックスペーパーに包まれた鶏肉のカレーが出てきた。

日本のカレーパンのように、水気を無くしたカレーでなく、汁けたっぷりのチキンカレーがどーんと豪快に仕込まれていた。チキンもぶつ切りにしてあるとはいえ、おそらく半身分はあるだろう。じゃがいもが数切れ。まわりのパンをちぎって、さっそくカレーをつけていただく。「うん、おいしい・・けどパンがすごく甘い・・」カレーはなかなかおいしいのだが、このパンの甘さが苦痛である。パンだけで食べれば、焼きたてのふわふわで甘い菓子パン。それなりにおいしい。で、これをチキンカレーにつけて一緒に食べるのは、ちょっと違和感がある。マレーシア華人はこの甘さがいいのか・・な。

中身のチキンカレーは、日本のとろみのあるカレーとも、インドカレーとも微妙に違う。インドカレーに近いとはいえ、何か中華ふうな気配がする。スパイス使いに、どこか中華好みが混じっているのだろう。中華の山椒の花椒や、豆板醤? はたまた中華のスパイスミックスの五香粉か?

「え〜っと、ご飯もらおうっか」「いいね」ということで、最後はカレーパンの中身の中華チキンカレーを白飯にかけてライスカレーにして食べる我ら日本人。パンは半分ぐらい残してしまった。カレーパンを3人で食べている間にも厨房からはどんどん焼き上がったカレーパンが運ばれていく。持ち帰りの客もどんどん来るし、店は大流行りだ。

マレーシアの華人の料理にはカレーを使ったものが何種類かあり、日常的によく食べられている。カリーミーというカレースープの汁麺。魚の頭のカレー煮込。いわゆるチキンやマトンのカレー。それらはマレーシアのインド系、マレー系の料理とよく似ている。似ているのだが、やはりどちらも微妙にスパイスが中華系、ダシが中華系なのである。

日本の家庭で愛されているカレーライスは、インド人からすれば「インド風スパイススープのあんかけご飯」とでもいうものだろう。ご存知の方も多いと思うが、小麦粉でとろみをつけたカレーはインドから伝わったのでなくイギリスから伝わったものだ。インドではカレーという料理はなく、スパイスを素材に合わせて調合を変えて味付けする。とろみも基本的につけない。イギリス人がインド料理の一部分を抜き出して万能スパイスミックスとして作ったものがいわゆるカレー粉だ。鶏肉などをそれで炒めて最後に水溶き小麦粉を加えて、とろみのついたソースに仕立てるのがイギリス風のカレーである。

そして、そのカレー粉が日本でまた独自に進化を遂げて、脂分ととろみの小麦粉を加えて固められ、ジャワカレーだの、ハウスのリンゴとはちみつ入りカレーだの、星の王子様だののカレールーになった。この固形カレールーを使って作る日本カレーは、野菜や肉を入れたスープにとろみをつけた状態のもので、かなりの水分量だ。

マレーシアには華人と呼ばれる中国人たちが人口の3割ぐらい住んでいる。華人には、ふたつの大きな系統があって、15世紀の明の時代に移住してきた福建出身者を中心とする貿易商人たちの末裔と19世紀初めのスズ鉱山の開発にイギリス人に集められた広東や客家出身者を中心とする肉体労働者たちの末裔である。

数でいえば圧倒的多数の鉱山労働者たちは、鉱山や貿易港の周辺などで華人の町を作り、集まって住んで自分たちの中華文化を守り続けて今に至っている。これから行こうとしているイポーもカレーパンを食べたカムパーもそういう華人の町である。かれらはタイなどの周辺国の華人に比べると、中国人としての文化を相当維持していて、本土の現代中国ではもう失われた古き良き中華文化を残している。マレーシアに生まれ育ったのに中国語しかしゃべれない華人も多い。毎日食べているのは出身地の中華料理である。インド料理やマレー料理は基本的に食べない。文化は辺境に行くほど古い形が残される、という説があるが、まさに共産革命以前の漢民族の中華文化は元の中国から遠く離れたこの地でひっそりと保守されている。

それでも、いつのまにかインドやマレーの料理が姿を変えてマレーシア華人の食卓に上がっている。それがカレー系の料理である。そしてそのカレーには五香粉などの中華スパイスがこっそり加わっている。日本人が、刺激的なカレーの料理をマイルドにしてあんかけご飯スタイルに工夫して受け入れたように、華人もカレーに中華料理のスパイスを加えて、インドやマレーの料理をわずかに受け入れて楽しんでいるのだった。保守的だけど、ちょっぴり革新。そうして辺境で文化は生き残っていくのかもしれない。

イポーの町に着いて、永成茶室というひなびた店でまったりとギネスを飲みながらそんなことをぼんやり思う。百年と五年経つというこの店には沢山の種類のビールと量り売りのウイスキーが置いてあり、地元の華人とインド系の酒飲みたちがひっきりなしにやってくる。華人の喫茶店である茶室にインド系のおっさんが来るというのも珍しい。真っ黒な肌のこわもてのおっさんが店の猫を膝に置いてウイスキーをゆっくり飲んでいる。目が合うとおっさんはニタリ、と笑った。

別腸日記(1)口切り

新井卓

よい酒は水のように流れて記憶の砂地に消え、いつまでも宿酔いのごとく思い出に居座るのは、悪い酒ばかりである。

自分が思いのほか飲めることに気づいたのは十八のときで、浪人生として鬱々と過ごした冬の日だった。当時アルチュール・ランボーや中原中也などの悪い詩人たちに傾倒していたわたしは、映画館から帰る途中の酒屋で一番安いパック酒を一升、どうにかして買ってきてベッドに忍ばせた。

本当は、火鉢にあたりつつ股座に一升瓶を挟み「人肌燗」という中也の真似をしてみたかったのだが、火鉢はなかったのでベッドの中で抱いて、本でも読みながら温めることにした。抱卵するペンギンの気分で待つこと数時間、深夜を待ってパック酒の口を切った。

コップに注ぐと、人肌にぬるんだ液体から人造アルコールのむっとする刺激が匂いたち、口に含むといつまでも纏いつくような甘さが舌に残った。ところが、一杯、二杯とアテもなくただ飲みすすめても、いつまでも一向に酔う気配がない。そうしているうちに一升、ついに飲みきってしまってから、そら恐ろしい心持ちになった。

その後も頻繁に料理用ワインや「ホワイトホース」などの低級な酒を買い込んでは試し飲み、ベッドの下にはさまざまな形の空瓶が蓄えられていった。ブコウスキーの『詩人と女たち』を読むときはカティ・サークを舐め(これは少々奮発しなければならなかった)、金子光晴の『ねむれ巴里』では赤ワインを空けて、光晴がいうように本当にウンコが黒くなるのかどうか、確かめた。

やがて酩酊とはどんな気分か理解するようにもなったが、その「境地」に至るまでに、かなりの分量のアルコールが必要ということも分かった。それは、わたしに四分の一流れる奄美の血のせいなのか、よくわからなかったが、とにかくそのように一人で通過儀礼を終えて以来、失敗の方が多い酒とのつきあいが始まった。

仙台ネイティブのつぶやき(21)餅はごちそう

西大立目祥子

年が明けて、早ひと月が過ぎた。
ところで、みなさん、お正月はお餅を食べましたか? いま、必ず食べるという人はどのくらいいるものだろう。都会に暮らす若い人たちは、お餅のことなど忘れて年越しをしているかもしれない。

餅といえば正月だけれど、ここ宮城は餅の王国といえるところで、お祝い事には餅、農作業の区切りがついたら餅…と年中、何かにつけて餅を搗いて食べてきた。いま、手元に「大崎栗原 餅の本」という薄い冊子があって、─「大崎・栗原」というのは宮城県北の米どころといわれる地域なのだけれど─そこに昭和30年10月の「各市町村別各月餅食回数」というNHKが行った調査が載っている。驚くなかれ、最も回数が多い町は年間70回。5日に1回は餅を食べているのだ。ざっと見ると、平均は年30回ぐらいだろうか。

餅を食べるといっても、前日に餅米を水に浸し、臼と杵を用意し、台所のかまどに火を起こし蒸籠を重ね、餅米を蒸して…とその手間は、いまとは格段に違っていたはずだ。あれこれの準備や段取りの面倒よりも、餅への情熱の方がはるかに勝っていたのだろう。

餅は最高のごっつぉう(ごちそう)! そして、朝から晩まで田畑の仕事に明け暮れる農家の人々にとっては、暮らしの大きな楽しみだった。神社の祭りに、年中行事を行う日に、冠婚葬祭に、農作業の節目に、そして客のもてなしや休み日には、決まって餅を搗いた。いや、餅があったからこそ、きびしい労働に耐えられたに違いない。

機械化前の時代、農作業は田植えも草取りも稲刈りも、頼りは馬と牛、そして人。大家族で家には若い働き手がたくさんいたし、大きな農家となると近隣から住み込みや通いで働き手を雇い入れないと仕事は立ち行かなかった。これといった娯楽もなく、そもそも休み日がそうないのだから、この作業が済んだら餅、この行事のときには餅、とつぎつぎやってくる餅の日は、たらふく食べて一息つける安息の時間だったと思われる。

仙台も変わらない。「昔はね、何でかんで餅!」 大津波で被害を受けながらも多くの家が戻った市内若林区三本塚でたずねたら、間髪入れずにそんな答えが返ってきた。毎月1日と15日の休み日には決まって搗いたという。今日は休みだ…と寝床でもぞもぞしていると、隣の家や向かいの家からぺったんぺったんと餅搗きの音が響いてきて、「ほら、隣り始まったぞ。早く起きて搗け、と起こされたよ」とここで生まれ育った小野吉信さんが苦笑いしながら教えてくれた。

搗きたての白餅は、女の人たちがつぎつぎとちぎってあんをまぶし、重箱に詰めて親戚のところに届けるものだったという。自転車で遠くまで行った、という話に、子どものころ、兼業農家だった母の実家で年末に家族が総出で、ときには親戚の手も借りて餅搗きをしていたのを思い出した。畳を上げ、土間に杵と臼を出して餅つきして、搗き上がると丸めて鏡餅をつくったり、薄い木の箱に餅をのして板餅つくる。庭先で湯気の上がる蒸籠から、蒸しあがったばかりの真っ白でふわふわのおこわを手のひらにのせてもらい、あちちといいながら口にふくませると何ともおいしかった。そして、何日か過ぎると、従兄弟が自転車で固くなりかけた板餅を届けにくるのだった。

福島県中通りにある山間の町では、端午の節句の柏餅は母方の祖父母の家に届けるものだったと、と聞いたことがある。畑に育てておく柏の木の葉っぱでくるむ小豆あんを詰めた餅はもちろん手づくりで、「母親に、ばあちゃんのとこに届けてこう(来い)といわれ重箱を渡されると、田んぼの中の道を歩いて行ったね」となつかしそうに話していたのは60代後半の男性。柏餅は、娘から実家の親への元気の便りだったのかもしれない。

分家した兄弟へ、娘の嫁ぎ先へ、餅は届けられた。餅のまわりには決まって人がいた。餅は一人で食べるものではないのだ。みんなで準備しあい、でき上がれば遠くの人にも振る舞い、シェアしていっしょに食べるもの。どこか特別な食べ物としての位置づけは、あの白い粘りに力が宿ることを教えているようだ。

三本塚では、親が亡くなって葬儀が終わると、兄弟が囲炉裏をはさんで向かいあい、搗いた餅を引っ張り合う儀式があったという。ちぎれないように兄弟仲良くという意味を込めたものだろうか。
福島では昭和の祝言の再現に立ち会った際、披露宴の席で何人かが竪杵で餅を搗き、搗き上がった餅を杵で高く掲げると、参列者が祝言袋をつぎつぎと餅に貼り付けていく儀式があって驚いた。こちらは餅の粘りがご利益を引き寄せてくれるという願いを表しているのだろうか。

いまは、もちろん仙台でも農山村でもひんぱんに餅を食べることは少なくなってきた。それは大勢で過ごす暮らし方が変わってきたからなのかもしれない。でも、何か地域で催しをやることになって地元のお母さんたちにお振る舞いの料理を、とお願いすると、彼女たちは決まってこういうのだ。「やっぱり、餅だっちゃ!」

葡萄の棚

大野晋

小さな頃、観光バスに乗って林間学校に向かうと決まって甲府盆地での休憩は高い位置に棚がつくられた葡萄園だった。大きな観光バスよりも高い位置にある葡萄をどのように取るのか不思議だったが、年中売っている葡萄やワインや甘い葡萄ジュースをみやげにするのが決まり事になっていた。

一昨年から葡萄酒に関する表示義務が変わって、より厳格にぶどうの産地を表示しなければいけなくなった。ただし、即時に対応するという話ではなく今年いっぱいはまだ移行期間となり、来年、2018年から施行となっている。なぜ準備期間が長いのかという問題については歴史を追うことでみてみたいと思う。

日本で葡萄酒が最初に作られた正確な時期は定かではない。古い時期に、山梨県などで今でも作られている甲州という品種が入ってきていることから葡萄自体の伝来は早いようだが、ふつうに水が飲める日本では低アルコールの発酵飲料が一般に飲食に用いられることはなかったようだ。というよりも、稲作文化の日本では米から作られる日本酒やどぶろくが一般的な飲み物となったのは想像に難くない。葡萄酒の製造が大きくとりあげられるようになったのは明治期で、外国人や外国船に対する販売を目的に、殖産産業として葡萄栽培と葡萄酒の製造が奨励された。このまま、順調に成長すれば、東洋唯一の生産地となり、莫大な利益が上げられたのだが、ことは順調に運ばない。世界的な葡萄の病害の蔓延で日本も例がいなく壊滅的な被害を受けた。このとき、欧州産の葡萄とは異なる品種であったために甲州種は被害を免れ、これが山梨県が今にまで至る葡萄産地となる遠因になる。

ちなみに、殖産政策で中国からも葡萄の苗木が持ち込まれており、これが長野県に残って善光寺葡萄と呼ばれて細々と栽培されていた。近年の研究では中国の竜眼という品種とDNAの同一性が指摘されており、信州の特産種として葡萄酒が作られて長野県内で売られている。

さて、一端は病害の蔓延で中断された葡萄酒の製造だったが、国産の洋酒として日本人の好みに合うように改良されて、甘味を増した酒が大阪の寿屋から発売されて大ヒットする。現在のサントリーの始まりは模倣洋酒の販売から始まった。ワインは甘いものという刷り込みもこのときから始まるのである。この甘みの強い模倣葡萄酒は爆発的に売れ、全国にこれを製造するための葡萄畑が作られた。このとき作られた葡萄畑の特徴は、病気の影響を受けない米国産の品種で、粒も房の大きさも大きいナイアガラやコンコードといった品種が多く植えられている。長野県などでこうした品種の栽培が多いのは甘味果実酒の原料として作られていた歴史的な背景がある。

この後、第二次世界大戦になると、葡萄酒の副産物が兵器製造に使われたため、全国で葡萄酒が増産されている。ところが、こうした副産物目当ての葡萄酒は味に無頓着であったことから戦後に急速に衰退する。葡萄の栽培適地である山形県で葡萄酒の製造が少なくなっていた原因はここにあると言われている。

戦後もしばらく続いた甘味果実酒であったが、東京オリンピックの頃から変化する。食生活の欧米化と海外からのワイン輸入の自由化で、甘味果実酒がワインの王座から陥落したのだ。この傾向をいち早く察知したのは、大都市から遠く、甘味果実酒向けの葡萄を多く栽培していた長野県の塩尻付近の農家で、大取引先であったメルシャン社との協議の中で、当時、地元のワイナリーが栽培に成功していたメルロー種の栽培だったと伝えられている。その後、20年ほどかかり、桔梗が原と呼ばれるこの地域のメルロー種を使用したワインが欧州のコンクールで受賞することで、一躍信州が欧州系葡萄の産地として脚光を浴びることになる。今では、メルシャンの桔梗が原メルローは1万円以上の売価で販売される高級ワインとして知られている。現在の長野県は加工用ブドウの栽培では全国二位。高級ワインの原料の供給元としてはぶっちぎりの供給量を誇るまでになっている。

さて、戦後に起きた変化として忘れられないのが、農地法である。これによって、大きな農地が分割され、法人が農地を所有できなくなったのだが、ワイナリーはこの制限によって、加工用の葡萄を農家や農協から購入しなくてはならなくなった。この栽培と醸造の分離が他の国にはない日本の事情であり、コスト高を招く原因であり、そしてもっとややこしい事態を招く原因になっている。

変更された葡萄酒=ワインの表示義務として、国産のぶどうを100%使用したワインを「日本ワイン」と呼べることになっている。これは、輸入ワインや輸入果汁を原料にして国内で製造されたワイン全てを国産ワインと呼ばれていることに対する日本農産物を使用した農産加工品の証である。また、地域名称を呼称として使用する場合には、その地域の葡萄を85%以上使うこと。複数の品種や産地の原料を使用する場合には、原料として多い順に並べるなどが求められている。

ところが、最近まで多くのワイナリーでは、自産地以外の葡萄の使用や海外ワインの混入などが多く行われてきた。これは、ワイナリーが原料の葡萄の栽培まで行わない日本ならではの傾向であるが、販売場所を栽培場所と勘違いを起こしがちな消費者からすると、産地偽装とも思える事態でもある。ただし、これが日本の普通の中小のワイナリーの実情であった。そして、葡萄は購入するものであるので、産地を気にせずに手っ取り早く入手できる品質のよい、高級品種の葡萄が製造者では問題であったのは当然で、解らないことでもない。

そこで、ぶどうの産地表示やワインの呼称に関するルールが発表されたために、時間がかかる騒動が生じたというのが現状なのだ。現在、呼称問題にかかるワイナリーでは、駆け込みで苗木を購入して葡萄の増産にかかっているという。このせいで、苗木が不足する事態になっているともいう。ただし、葡萄の木が植えてから実をきちんとつけるまでに数年。きちんと成熟したよい実を付けるのなら10年以上必要なことを考えるとあまりにも付け焼き刃な感じがしてならない。

本来、第六次産業化を目指す葡萄の加工産業に関する政策が矢継ぎ早に出された背景には、従事者の高齢化で年々荒廃していく日本の農地対策という側面があったはずで、醸造事業者の手を借りて、農地を葡萄畑に再生したいという思惑があったはずだ。なんとなく、今の騒動が的外れな印象を受けてならない。

そう言えば、小さな頃に立ち寄った葡萄屋さんは、よく考えるとあそこで生産しているわけはなかった。葡萄もワインもジュースも買い込んだものを、葡萄園よろしい店舗に呼び込んだ観光客に販売するための売店だったのだろう。そう考えると消費者とは実態を見ずにイメージだけで判断する生き物だ。葡萄畑の中で葡萄酒を売っていれば、それはそこで作った葡萄の製品なのだと思い込んでしまう。昔から行われていることとは言え、消費者の誤解を前提にした商売は今後、厳しく律せられていくのだろう。

地方の小都市の街中にメガソーラーが置かれている昨今、できれば、農地の中には光り輝くソーラーパネルよりも青々とした葡萄畑が広がっていて欲しいものだと思う。
2018年がそういう年の起点になるといいと思いながら、騒動を眺めたい。

そうそう。正月は休んでしまったので、本年初めとなります。
読まれた皆様には2017年がよい年になられますように!

しもた屋之噺(181)

杉山洋一

突然肉が食べられなくなって、10日は経っています。食べられなくはないのですが、食べても美味しくなく、食べたい欲求も生まれません。生まれて初めての体験で、不思議やら驚くやら。但し、魚はこちらでは高価なので、肉が食べられないと厄介です。

1月某日
細川さん「大鴉」譜割り。アランポーのテキストを読むとき、譜面をみながら英語のテキストを見るとよく解る不思議。無駄がなく、効果的に書かれている。フレーズの構造は微妙に不規則で、各楽器がそれぞれのフレーズ構造をもつ。

1月某日
三軒茶屋自宅にて両親と再会。すまし汁に大根のみ、大げさな程たくさん入れた、父方の田舎独特の雑煮を食べる。子供の頃はこれに湯河原の叔父さんが採ってきたハバノリを沢山ふりかけて食べた。
コーヒー豆が切れていて、渋谷のトップでブラジルとマンデリンを挽いてもらい、歩いて帰る。良く晴れた正月休みは国道を通る車もまばらで、246沿いにある池尻の稲荷神社と、中目黒の氷川神社に寄る。元旦でないので並ぶ人も少なく、巫女さんたちものんびり談笑。ふと40年ほど前、自分が子供だったころの風景を思い出す。

1月某日
朝起きてコーヒーを淹れ、卵を焼きヨーグルトをかき込み自転車で荻窪へ出かける。三善先生の仕事部屋のピアノの上には、自筆の桐朋用ピアノ初見課題が置いてある。その傍らに、ラヴェルノートの自筆原稿が重ねてあり、ベルクのピアノソナタを分析した書込みを見せていただく。ピアノの足元には、マルティーノのオーケストラ用五線紙の束。

先生の遺影の傍らには、掌にすっぽり入る可愛らしい地蔵さんが二つ並んでいて、由紀子さんが蒐集したという。先生が軽井沢で作った、小さな模型飛行機が置いてある。居間で宗左近さん作の碧い杯でお屠蘇を頂く。味醂からつくったお屠蘇は、旧めかしく不思議な香り。普段から呑みなれていないからかもしれない。塩茹での長野の海苔豆にとても合う。青梅街道も車が少なく、自転車を漕ぐには心地良い。

1月某日
セーターを買おうと渋谷のデパートへ出かけたが、値も張ればイタリアで買えそうなものばかりで早々に諦め、久しぶりに本屋に足を向ける。本屋をうろつけば、時間を忘れることすら忘れていた。中学高校の頃は、レコード屋で何時間も買えないジャケットばかり眺めて過ごした。好きな本も読まず、会いたい家族や友達に会わない生活とは、何だろう。
思い立ってデパ地下で父親が好きなショートケーキを土産に買い、町田へ出かける。丁度、母親が珍しく買ったアワビが煮付けてあって、納豆と豆腐、蜆の味噌汁を前に、この上ない倖せ。

1月某日
功子先生に久しぶりにお目にかかる。会議で「それが学生のためになるのなら」が三善先生の口癖だったという。現代音楽をやって良かったのは、自筆譜から作曲家の意図を汲み取る訓練になったこと。さまざまなアーティキュレーションの持つ意味を、作曲家とともに読み解くことが、古典における読譜の姿勢に大きく影響したという。
現代音楽をやることで、普通ヴァイオリンニストでは出会う機会のない、声明のお坊さんらと親しく交流するようになってことは、人生に大きな変化をもたらした。小学校6年生くらいの頃、功子先生と一柳慧さんが池袋のコミュ二ティカレッジで演奏して、弟子に作曲を志している男の子、と紹介して下さったそうだが、そのまま話が弾むことはなかったそうだ。

悠治さん、波多野さん、栃尾さんと味とめに集い、鰮鍋を囲みつつ初めてホッピーを嗜む。息子が「蝶々夫人」をやっている話から、悠治さんが若いころ、二期会でピアニストをやった最初の演目が「蝶々夫人」だった話し。マンボウの刺身と書いてあって、久しぶりに食べたくて注文したが、湯通しで締めてあって当然かと独りごちる。ホッピーの前は、氷を浮かべた黒糖焼酎。

1月某日
一柳慧さんがレセプションで現代性、社会性について話された。もうすぐ誕生する新しいアメリカの大統領の名前も挙がる。
一柳さんは常に時代の最先端の技術を作品に採用して来られたでしょう、と川島くんが話していて、成程と思う。一柳さんご自身がハイテクではなくローテク好きだと仰ってらした印象が強く、川島くんのように捉えたことがなかった。時代の最先端、というフレーズから、前に悠治さんから聞いた真木さんの言葉を思い出した。「前衛というバスは既に発車してしまっていて」というあの件だ。
真木さんが1936年、悠治さんは1938年生まれ。それより少し前、1929年生まれの湯浅先生、1930年生まれの武満さん、1931年生まれの松平さん、1933年生まれの一柳さんくらいまでを、真木さんは前衛バスの世代と感じていらしたのだろうか。

1月某日
家人が日本に戻っていて、息子と二人韓国料理屋へ出かける。頼むものはいつも決まって、息子の好物のチュユポックンと、豚肉のグリル。焼きニンニクやトウガラシ、キムチと一緒にレタスで巻いて食べる。ミラノに韓国料理屋は何軒かあるが、この行きつけの店だけ雰囲気が違うのは、調理する小母さんもウェイトレスの妙齢も中国の朝鮮族で、中国人が経営しているからだろう。他の韓国料理屋よりずっと気の置けない雰囲気で、常連客に中国人も多い。朝鮮族は北方だから、これは北朝鮮料理かと尋ねると、延吉料理よと笑われてしまった。

サンチュを頬張っていた息子が突然「戦時中の日本人は良かった」と言うので、思わず聞き返す。すると、「戦争中の日本人は、今より頑張っていた感じがする」、「戦争中、日本、ドイツとイタリアは仲間だったのでしょう」と当然のことのように話すので愕く。理由は「火垂るの墓を見て、戦争中の日本人は頑張っていると思った」とのこと。
韓国料理屋で、出抜けにこんな話をする息子も不思議だが、ともかくそこでは戦後日本人は前轍を踏まないよう努力してきたのだよ、と声を潜めて説明することしか出来なかった。自分も戦争を知らないが、傷痍軍人の姿は目に焼き付いていて戦争の恐怖へ繋がっている。息子に対して、何をどう伝えるのが正しいのか。

1月某日
昨日は朝学校でレッスンをしていると、隣で室内楽のレッスンをしていたマリアが真っ青な顔をして飛び込んできた。「中部で地震よ!今朝もあって、今しがたもう一つ大きな揺れが来て大変。どうしよう。わたしはローマに娘を一人で置いてきたの」。
あれからずっと、マリアは廊下の教員用コンピュータに齧りついて、細かい地震情報に見入っていた。
仕事をしながら、合衆国新大統領就任式の中継を見る。家人は「時代の変わり目だから」と階下で宿題をする息子を呼んだ。非現実的で不思議な心地だが、大統領を選んだのはアメリカ国民なのだと納得させる自分がいる。

1月某日
夕食の肉に当たったのか、酷い胸やけの後、夜半洗面所ですっかり吐く。その音に愕いた隣の犬が吠え立てるのに困ったが、あれから肉を見ると、同じ胸やけを感じるようになってしまった。人体はかくも繊細かしらと呆れつつ、毎日魚を食べる。
ニューヨークの小野さんが、「禁じられた煙」のリンクを貼って下さる。新大統領の人種差別発言と関りがあるかは知らない。この曲を書いたとき、人種差別は時代錯誤だとばかり思い込んでいたが、数年たって間違いだったことに気づいた。

1月某日
27日のホロコースト解放記念日を前にして、息子は中学校で「ライフ・イズ・ビューティフル」を見ている。今まで歴史で習ってきた様々な出来事は、彼の中でまだ順番すら整理されず混沌としていて、白紙に一つの横棒を書いて説明する。

真ん中あたりに0年と書く。キリストの生まれ年。キリスト教徒により、時間が一方方向に流れると規定された年。それまで時間は円を描く存在だったが、個人的にはこちらの方がずっと良い。0年にキリストがユダヤ人に磔刑に処されたと言うと、息子は異を唱える。「でもその後生き返るのだから、殺されたわけではない」。そうかも知れないとも思う。
「何故大戦中、ユダヤ人が沢山殺されたのか」という息子の質問に、「キリストをユダヤ人が殺したから」と応えるのは、さすがに単純化し過ぎで、我ながら情けなくなった。尤も、20年以上住んでも彼らの心の奥底は解らない。彼ら自身も理解しているとは思えない。
イタリアの高校生は、この時期しばしば学校ぐるみでアウシュビッツを訪問する。それに向けて、中学一年の頃からホロコーストについて学んでゆく。しばらく息子はアウシュビッツ収容所の写真を見ていたが、恐くなって手を止めた。日本とイタリアとドイツが同盟を組んでいたのはこの頃だと言うと、息子の顔は少しくぐもった。

1月某日
今井さんの「子供の情景」のため、どうしてもカルロ・ゼッキの校訂版を読みたくて、「音楽倉庫」にクルチ版を買いに走る。指使いやペダル、テンポ指示より寧ろ、各曲にゼッキが印象的なコメントを載せていて、それがどうしても読みたかった。
1961年にプリントされた古本。最初のページの右肩に赤ペンでサインが記されているが、崩れていて名前はわからない。Bruno Panella、のように見える。紙は大分日焼けしているけれど、手触りはとてもよい。昔らしい丁寧な造り。

「昔々、とてもどこか遠い国でのこと…。詩人は彼の幻想的な物語を語りはじめる。ほら、この言葉が幼い子供たちを幻想にいざなう。ほら、すっかりつぶらな瞳を見開いて」(知らない国々)。

「夜。すべてが口を噤んでいる。沈黙と漆黒の深みから、天上の声が立ち昇る。天使の声かしら。いや違う。それは詩人(この情景の目に見えぬ証言者)が、ほんの一時、思索と幻想と夢のまにまに佇み、思い出の、希望の、若かりし日の情熱の世界に迷い込んだのだ。
金の竪琴の上で、感動に突き動かされて、詩人は私たちにささやく。
どんな障壁や苦悩をも打ち砕きながら、私たちは高みを、天上の和音が鳴り響き、至高の精霊が君臨し、すべての懊悩が忘却の彼方へ消えゆく、高峻な絶頂を目指す歩みを、止めたことはなかったと」(トロイメライ)。

「まぶたは、疲れた瞳の上におりてくる。辺りのすべてが口を噤み、ざわめきは小さな部屋の入り口に消えてゆく。終夜灯は、青ざめた光を眠り込んだ小さな顔に投げかける。そこでは、単調な揺り籠の上げるきしみ以外、何も耳にはいらない」。(こどもは眠る)

「考え抜かれ尊い体験に満ちた言葉。
…子供たちよ、君たちの世界は全てが愛と詩だ!君たちは喜びの中にいるんだ。
君たちの年齢が与えてくれる喜びだけを、知っているのだからね…
これらの音符に、男の諦観が満ちているのを聴くようだ。レオパルディの「村の土曜日」の言葉のように。

お前は、愉しむがよかろう。
これは心地よい季節。これは甘美な時間なのだ。
他に何もいうことはない。
お前の集いが遅れたとしても、悪く思わないことだ」(詩人のお話)

誰でも知っている「村の土曜日」最後の4行だけが、とても小さく印刷されている。
土曜日は労苦から解放され、希望と喜びに満ちた最高の時間。それをお前は愉しめばよい。
待望の日曜日になれば、新しい辛苦の憂いに悩まされるのだから。レオパルディは青春を土曜日に喩えた。

インターネットでゼッキのインタビューを聴く。
「1941年の冬のことだった。アルベルト・クルチがこの部屋にやって来たんだ。
当時はエレベーターはなかったがね。それで僕にこう言った。
“失礼だがカルロ、お宅にオリーブ油は足りてるかね”。
“いいや全然だ。うちは油がなくて一週間何も料理していない”。
“そうか。じゃあ子供の情景をやってくれないか。ほら、これがオリーブ油だ”。
“そりゃ凄い!もちろん喜んで引受けるよ!”。
こうやって子供の情景が始まったんだ。

それから2週間後にアルベルトがまたやってきた。
“ああ、どんなにかクライスレリアーナについて知ることが出来たら最高なのになあ!300グラムの小麦粉でどうだい”。
“何と言ってよいか。感謝の至りだよ。僕もうちの女房も君に何とお礼を言ってよいのか解らない!”。
かくしてクライスレリアーナの仕事は無事に終わった。

それから2ヶ月経って、またアルベルトがやってきた。
“カルロ、多分お宅はハムなどなかなか手に入らないのではないかね”。
“ああそうなんだよ、大変なんだ”。僕がそう言うと、
“これはどうだ”と言って、アルベルトは持ってきたトランクを開けたんだ。そこには大きなハムが入っていて、こう言った。
“ダヴィッド同盟はどうかな?”。
“ああアルベルト、何て有難いことだ!”

そんなこんなで、ダヴィッド同盟、クライスレリアーナ、子供の情景、ソナタ、ピアノ協奏曲など、僕のシューマンの校訂版は、貧しかった戦争中の滋養の糧だったというわけさ」。

まるでレッスンのように、一つ一つフレーズごとに書き込まれたゼッキの注意書きを読みながら、「戦争中の日本人は頑張っていた」という息子の言葉を、思いかえす。

(1月30日ミラノにて)

グロッソラリー―ない ので ある―(28)

明智尚希

「1月1日:『まあ今すぐ買い変えなきゃならないってわけじゃないんだけどさ、こういうのって結構長く使うものだから、ついつい慎重になっちゃうんだよな。みんなが変えたからって俺もまねしたら、前のほうがよかったなんてことにもなりかねないしな。後悔先に立たずっていうだろ。でもまあここまで悩む必要があるのかどうかだな』」。

(´-ω-`) ナヤムナア

 天中殺で蒙を啓かれたヒゲの世の中、胡蝶の夢のごとくのごとく、創造とは逆境の中でこそ見出されるものじゃ。ドミノシステムが横行している今、友人で敵の痰と鼻汁が割を食い、運任せの暮らしを強いられている。江戸病に悩んでいる暇はない。我々はパワー指数を捨て、理論を背負ってものを見るのじゃ。世界性を獲得し、東を制服せよ。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

 Xは働いていない。一日中ベッドで横になっているか、旅を繰り返しているという風の噂。だがXに働かれてしまったら、存在価値が落ちるというものだ。なぜなら、どこかで必ず生きているということが貴重なのだから。働くことなど簡単だ。そんなことより、いかにして時間から逃れられるかが、Xにとっては最重要な課題なのである。

:::( ^^)T ::: 雨だ

 協調性がないと言われ続けておる。幼い頃から今の今まで。辞書的な意味じゃなく、協調性ってなんじゃ? 他人に媚びたり、おべっかを使ったり、ずるずるべったりの付き合いをしたりすることか? 非の打ちどころのない下衆の適格者なんぞ、ご免こうむる。協調性がないならないで良いが、逐一そんなことを言いに来られるのもご免じゃ。

なかよし♪( ´ー`)⊃⊂(´ー` )こよし♪

 「1月1日:『やっぱり買い換えたほうがいいかもな。みんなが持ってるってことはそれだけいいものなんだろうし。迷ったら買うなとか言う人もいるけど、今回ばかりは反対させてもらおうかな。迷ったから買う。なんか変だな。迷っても買う。まあどんな言い方でもいいんだけど、今は買うほうが八割、買わないほうが二割ってとこだな』」。

( ̄ヘ ̄)┌ ハヤクキメナサレ

 ほどほどの発熱は、日々に丸みをもたらしてくれる。不安の元とは、そもそも全方位に伸びた先鋭にして鋭敏な神経にある。熱によって麻痺すれば、常人並みに楽に呼吸できる上、物体からの言いがかりや数字・色に度肝を抜かれることも減少する。時間も常になく時宜を得る。ご多分に漏れず、発熱もまた病気であることに変わりはないが。

( ~ д ~ )ハ・・・ハ・・ ( ~ д ~ )・・・出ネェヤ

 「動く」とは、形を持つ無機物もしくは有機物が、現在接している地面からずれること、ないしは現在の底部が接している地面との角度がずれることである。また、特に二足歩行をする有機物に関する外的な状況が、継続してきたものと異なってくることや、最上部にある器官が司っているものが、継続してきたものと異なってくることでもある。

ε=ε=ε=(ノ^∇^)ノスタコラ

 「お前が先に言ってきたんだろう!」「言ってねえよ!」「言ったね」「言ってねえって」「言った言った」「だから言ってねえって言ってんだろ」「言っただろうが」「言ってねえよ」「言ったくせに何言ってんだよ」「だからおまえが言いだしたんだろうが」「俺じゃねえよ」「お前だよ」「言ってねえって」「言ったね言った」「だから言ってねえって」。

_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!

 悪夢の登場人物とは、実は我々のほうである。脳幹出血で亡くなった知人。永遠に目を開けることのない清澄な尊顔を前にして、そう思った。彼女はようやく悪夢から目覚めたのだ。彼女を失望させたものや幻滅させたものが、決して出入りの許されない扉の中へ入っていった。誰でもいい何でもいい、早くこの悪夢から目覚めさせてくれ。

(^オ^)(^ハ^)(^ヨ^)(^ウ^)(^ー^)

 「最後に校長先生から一言。神、そして人生の目的、これらについて私は何を知ろう。私の知るのは、世界があること。眼が視野の中にあるごとく、私は世界の中にある。世界の意味は世界の中にはない。生とは世界である。生の問題の解決は、その問題の解消にある。しかし生が問題をはらまなくなっても、なお生き続けることは可能だろうか」。

( ̄ー ̄?)…..??ありゃ??

 ギッフェン財を本懐成就のあてがい扶持として、計上の及ばないきぬぎぬの囲われ者に六月無礼をするんじゃ。雁行するTFTとシュレーディンガーの猫、それからボードレールの黒猫をゆめゆめうそぶくべからず。物見高いもろみの泡ではあるが、あやかしの首実検を太平楽にしゃれこんだら、今昔の感に堪えず、光の裏には影があったのじゃ。

\(^_^)/ばんざーい..(/_^)/なしよっ

 「1月1日:『そうだ。松子に聞いてみればいいんだ。なんで気づかなかったんだろう。なんか抜けてるんだよなあ俺は。こうやってずっと一人で考えても埒が明かないし、確かあいつはスマホを持っているはず。松子おばさん、知ってるだろ? 俺の妹だよ。会ったことあったっけ。ない。あそう。え。忘れた? まあそのうち会うだろう』」。

モイチド (0’∀^0) マツコデス

 まああれじゃな。なんちゅうか、人間は小さい。小さいから壮大なものを前にすると、自分でも仰天するような宗教感がじわじわ湧いてくる。歴史ある宗教の原始の信者たちは、何か壮大なものと近しくしていたのじゃろう。物体であったり考え方であったり、その辺はわからんが、当時にしては革命的な一件と生活が結びついていたんじゃろうな。

アーメン( -ω-)m †

 同じ案件にもかかわらず、一日のうちで刻々と考えが変わるのは自然なことである。ただし一過性であれ思考の結論として、絶対や真実などという突拍子もない表現は避けなければならない。どれだけ結論が最上のものと確信したとしても。絶対や真実は裏街道に隠れつつも安請け合いはしない。したがって大抵の結論は思い込みということなる。

(・ ・ * )。。oO(想像中)

 某国に対する意識調査。有効回答数八十余名(某全国紙夕刊)。

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

 表現者たるもの、自らの弱点を吐露しなければならない。駄目と弱点は異なる。前者は共感を呼ぼうとする下心のある喧伝にとどまるのに対し、後者は枝葉状に広がる思考回路を培養する内的な呟きである。良い目と耳は、そこかしこに点在する、自信という裏書きのない小声の表現を逃さない。この際どさ峻別できる人は本当にいるのだろうか。

m9っ( ̄ー ̄) ニヤリッ

 そうじゃなあ。わしは一人しかおらんが、いろんなわしがおる。今現在のわし、畏まったわし、脳髄が千々に乱れたわし、エッチなわし、これ大好き。もうお祭り状態。カーニバル&フェスティバル。万歳六唱。三日三晩徹夜。まさに天国。いやそうではなくてじゃな、わしがここで強調しておきたいのは、ここには書けないということじゃ。

イクー(;´Д`)♂

 「1月1日:『じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい』」。

… (((-‘д-)y-~ イライラ

 芸術家は、忘れ去られた不具者と同様に、社会において役割を持っていない。社会の規則や凡俗の慣習によって判断されることは不可能である上に、それらを受け入れたり拒絶したりすることで、褒めることもけなされることもない。芸術家は人生の幸運児ではない。しばしば命取りとなるような苦しい仕事を完遂しなければならないのである。

(w_-; ウゥ・・

製本かい摘みましては(126)

四釜裕子

「ハラペコ カーニバル!!」を合い言葉に幕が開く「せいほんげきじょう」という話をまとめた小さな冊子があります。葉書サイズで、柄入りでろう引きしたようなオレンジ色の紙がカバーです。観音に開くようになっていて、さしずめこれが最初の幕でしょう。開くと、ワニ君とニンジン君とカブ君が白い緞帳の前でお出迎えです。幕の下部はエプロンのフリル、あるいは菓子の下にひくレース模様の白い紙のよう。よく見ると、本という字や本を開いたシルエットが切り抜かれています。

ハラペコ カーニバル!! 掛け声とともに緞帳があがります(白い紙を上にめくる)。すると中綴じ冊子の真ん中のページがあらわれて、ワニ君は左側のページに立ち、左に向かって闊歩し始めます。追いかけていくと……、本の神様のもとに生まれた本の妖精が、製本職人のところへ魂を背負って旅立つというお話のはじまりです。

製本ワークショップの始まりにおこなう、「製本とは?」というような簡単な質問に答えながら、それを本文として、小さな冊子に仕上げるという課題に対する作品のひとつです。職人が、長い旅をしてきた妖精のつかれをいやすために「おやつもわすれません」というセリフも良かった。自分の中にあるものが、手の中からこんなふうに本のかたちとなって現われてくる経験は、きっと楽しいものだと思っています。

シンジャールを忘れない

さとうまき

1月13日、ナブラスの家族を訪ねた。ちょっと寄り道をしていて、ナブラスの家についたときは、日が暮れていた。
「昨年、同じ日にナブラスは亡くなったんですよ」母親が出迎えてくれた。
一年前、父親が電話をくれたのを覚えている。なくなる数日前に訪れたナブルスは、薄暗いコンクリートブロックを積んだ建てかけの家で、痛みに悶えていた。

シンジャールの村を追われたのは2014年の8月3日だ。突然、治安を担当していたペシュメルガといわれるクルド政府軍が撤退してしまった。ナブラスの家族たちはドホークにのがれ、建設途中の建物にとりあえず落ち着いたが、キャンプもまだなく、逃げてきた人たちは、ドホーク市内の学校や、同じように建てかけのビルなど、住めそうなところに寝泊まりしていた。逃げ遅れた人たちは連れ去られ、殺され、レイプされたという。

亡くなる前、ナブラスは、「シンジャールにもどって学校に行きたい」といっていたのを思い出す。
「ナブラスは、その日、割と調子よさそうでしたが、急に容態が悪化しました。とても冷静で、モニターを見ながら、『私は死んでいくのね』といっていました。」

お母さんは、ナブラスが元気だったころの写真をたくさん見せてくれた。ほとんどの写真は、逃げてきてから写したものだ。ともかく、逃げることを考えていたから、写真などもほとんど持ち出せなかったのだろう。

モスル解放作戦が進み、「イスラム国」の支配地域は、狭まっている。
「シンジャールにそろそろ戻るつもりなのですか」と聞くと、「シンジャールに戻る気はありません。私たちはここで暮らしていきます」という。

翌朝、クルド政府の職員らとシンジャールに行くことになった。夜明け前にホテルで待ち合わせる。検問所からは、ペシュメルガの兵士がエスコートしてくれるという。なんと兵士は2人とも女性であった。

まず、最初に我々が向かったのは、シャファディーンというシンジャール山のふもとの村だった。カースミシャーシというヤジディ教徒のリーダーに挨拶しに行くという。「イスラム国」が襲ってきた時、彼の部隊は、ひるむことなく、村を守った。ヤジディ教徒の中では伝説ヒーローである。

いかにも、親分といういでたちで、兵士たちは、敵が攻めて来たらいつでも応戦できる体制で配備されていた。検問で働くイラク警察官が3人ほど呼ばれ、何か口論していた。カースミシャーシの部隊は、ペシュメルガに参加している。クルドとアラブで内戦が始めってもおかしくないような緊張した雰囲気だった。なんでも、イラク警察に失礼な態度があったとのことで、叱られていたそうだ。今、シンジャールは、「イスラム国」はいなくなったものの、クルドのKDP、PUK、シリア系のYPG、トルコからPKKなどが入り、勢力争いの渦中にある。イラク中央政府は今一つプレゼンスを示せていないようだ。

その日は、カースミ・シャーシュの息のかかった地域を案内してもらうことになった。
検問を超えてシンジャールに入る。村の入り口のあたりには、人が戻り始めている。サッカー場もあり、そこは激しく壊されていた。町中の治安部隊本部の周辺にはちょっとした雑貨屋さんが開いていたが、町中を回ると、激しく破壊され、がれきだらけだった。シンジャールは、モスルやファルージャと違う。もっと小さな町。歴史の名から完全に忘れ去られるのだろうか。と思わせるくらいの破壊のされかたである。

2014年8月から、シンジャールから避難してきたヤジッド教徒の人たちと出会い、時にはレイプされた女の人の話を聞いた。時には、ナブラスのようにがんの子どもたちに寄り添った。シンジャールが忘れ去られないように、子ども達が描いてくれた絵を展示する。

2月10日―15日 ギャラリー日比谷にて 「イラク、シリアの子ども達へ、バレンタイン展」を開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2017/01/210215.php

春に

若松恵子

急に暖かな空気が日本上空にやってきて、春を感じさせる夕暮れ。5時近くになっても明るさが残るようになった空に、薄い三日月と一番星が美しく輝いている。信号待ちの自転車を止めて「ああ、きれいだな」と見上げる。春を想い出させる1日の終わりに、吹き始める風がまだまだ冷たくて、センチメンタルな気持ちになる。

風邪ひきの布団の中で沢木耕太郎の『春に散る』上・下巻(2017年1月 朝日新聞出版)をずっと読んでいた。2015年4月1日から2016年8月31日まで朝日新聞に連載されたものが、単行本になったのだ。連載中に読むことができなかったので、単行本の刊行を楽しみにしていた。

かつてボクシングの世界チャンピオンを目指し、挫折した後もアメリカでひとり懸命に生きて、人生の終盤をむかえた主人公が病を得て、40年振りに日本に帰ってくる。「死ぬ前にぜひやっておきたいこと」が明確にあるわけでもなく、「生まれ故郷の日本で死にたい」という思いがあるわけでもない。「帰ろう」と思えばすぐに引き払う事ができる、アメリカとのつながりもそんなさっぱりとしたものだった主人公が、ふと日本に帰ってきて過ごす、春から次の春までの1年間の物語だ。

人を求めていない主人公だが、普通に生活するなかで出会う人たち、かつて知り合いだった人たちに丁寧に向き合っていくうちに、次第につながりができてくる。そして「ただその場に止まりたくないという思いだけで、ここまで歩きつづけてきた」主人公が、「いま、自分は、遠ざかろうとしているこの場所に心を残している。」と感じる自分の居場所を得ていく。

ボクシングを教えることを通じてかつてのジムの仲間、若い世代との絆が結ばれていくストーリーは、沢木ファンにはうれしい展開だ。高倉健を主人公に考えていた映画の脚本のアイデアがこの小説のきっかけになっているというような話を沢木氏はラジオ番組でしていたけれど、孤高の主人公、広岡仁一は高倉健のイメージにも旅が多い沢木氏自身のイメージにも重ねて読むことができて、なかなか魅力的だ。沢木ファンとしては、広岡の姿を追っているだけでもいいという楽しみ方もあった。

沢木耕太郎のノンフィクションとフィクション、どちらが好きかと聞かれれば、断然ノンフィクションの方だ。彼のフィクションには、直球すぎると感じる部分が多い。例えば主人公の名前、「仁一」は、八犬伝のなかから出てくる8つの言葉から父親が「仁」が一番大事だと思ってつけた名前なのだというくだりがある。「仁が一番だから仁一」・・・・うーん。そのまんまだ。少しもスタイリッシュじゃない・・・。しかし、「仁」という言葉をあらためて調べてみると、「他人に対する親愛の情、優しさ」とある。さっきまで過ごしていた物語の時間の中で、広岡のあり方は、この「仁」の説明文のようだった。そして、「優しくしよう」と心がけるからではなく、他者に対する自然な振る舞い方としての優しさによって、思いがけずに人との関係が広がっていくという物語だったな、と思い返されるのだ。

読み終わったばかりの『春に散る』は、まだ丸ごとの物語の時間として、春の夕暮れの淋しさと共に思い返されてくる。広岡が帰ってきた春、行ってしまった春。両方を含んで今年の春がこれからやってくる。

『花粉革命』

笠井瑞丈

今年の5月に父 笠井叡が16年前に初演で踊った『花粉革命』という作品を踊る
この作品は父がもっとも再演をし 世界各国で踊った作品です

初演はシアタートラム
今回もシアタートラム

今回この作品をやるなら絶対シアタートラムという強い想いがありました

カラダはいつかは無くなる
生まれることは
死に向かうこと
そんなこと
あんなこと
ぼやっとですが
いままで考えなかったこと
そんなことを考えてみた

そうしたら




嗚呼 
これを踊らなければいけない
そう直感しました
これは3年前でも5年前でもダメで
そして3年後でも5年後でもダメで
今とりかからなきゃいけない事だと感じました

この作品を踊るというのはとても大きな挑戦であり
これは自分がやらきゃいけないことだと思いました

ダンサーは作品と出会う
作品はダンサーと出会う

いま日々稽古をしています
この作品を父が踊ってたときは即興を中心で踊っていました
父のカラダには再演を繰り返し踊りがカラダに侵色しています
この侵色した色を取り出し新しいカラダのキャンパスにのせる

振付
カラダを作る
カラダは踊る

再演
様式から形式

きっとまったく新しい『花粉革命』が生まれと思います。
5月です。どうぞ頭の片隅に入れて頂けたら幸いです。

ヒストリーとストーリー

冨岡三智

昨年の大河ドラマ「真田丸」では、時代考証を担当する研究者のドラマに関する発信がいつになく多かった。その中で最も驚いたのが、史料に基づく実証的な研究が進んだのが1990年代以降、特に豊臣政権樹立後から江戸時代に入るまでの期間に関する史料に即した研究が進んだのはここ5年ほどだということ。そんな最近のことだったとは思いもよらなかった。大河ドラマが始まったのは1963年だし、その原作になるような、史実を踏まえた司馬遼太郎らの歴史小説が書かれ始めたのもその前頃(だいたい1950年代後半)からだ。とすれば、今まで私たちが小説やテレビドラマ、映画で見てきた関ヶ原の戦いや大坂の陣などのエピソードなどは何だったのかといえば、実は江戸時代の講談や明治以降に作られたフィクションが多いのだという。

真田十勇士がフィクションだということは分かるけれど、合戦研究なども明治になって陸軍参謀本部が兵士の教科書として作り上げた部分が多く、実証的ではなかったのだそうだ。このことは研究者には当然の事実なのかもしれないが、私には驚きだった。このドラマでは、史実通りではないとクレームがきた描写が、実は最新の研究成果から分かった史実に基づく描写だった、という状況が時々起こっていた。ところが、時代考証者や脚本家自身の反論があればあったで、史実通りに描けば良いというものではないとか、皆が良く知っていることは史実でなくても入れるべきだと矛盾したことを言う人もいて、結局、人はヒストリーよりも自分の信じたいストーリーを好むのだなあと感じたことだった。

そんなところが気になってしまうのは、インドネシアでの出来事とつい比較してしまうからだ。インドネシアで以前、ある大学教授―ということは知識人―と話をしていた時に、その人がインド伝来の叙事詩である『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』を歴史(sejarah)として認識していて、そのことに私は大変面食らったことがある。私自身は、それらは歴史的な記憶が反映されているとしても物語(cerita)であり、実証的な歴史とは違うと当然のように思っていたからだ。その後、同様の経験をした日本人と会って、インドネシアではこれらは歴史として認識されているようだという話で盛り上がったことがある。

田中千鶴香氏によると、historyとstoryは元々は一つの語で分化したものらしく、現代英語でもhistoryに「時間にとらわれない自然現象の体系的記述」という意味があるのだそうだ。ということは、史実かどうかを問わず出来事のつながりを物語ることがヒストリーであるらしい。そうなると、インドの叙事詩もヒストリーだし、実証的でなかった今までの関ケ原合戦の語りなどもヒストリーだということになるのだろうか。上で、「人はヒストリーよりも自分の信じたいストーリーを好む」と書いたけれど、むしろ「人は自分の信じるヒストリーが否定されると怒る」ということだったのだろうか。

雪の下の隈笹

璃葉

日光の山へつづく道には雪が降りつもり、林の木々 -松や白かば、ハルニレなどの幹や枝には、飾りつけをされているかのように、雪がはりついている。林のむこうに連なる山の頭もすっかり白くなっていた。
今日も星を見にきた。
午後3時すぎの陽射しはあたたかく、風もほとんどない。
太陽の光が雪道に反射して、あたりがいつもより明るい気がする。
車をゆっくり走らせていると、林道のわきにサルがいた。こちらをじっと見つめたあと、すばやく木によじ登っていった。
赤色のおしりが、枝のすき間からちらりとみえた。

星を見るためのいつもの場所に到着すると、日は暮れはじめていて、東の空に光る金星がさらに際立っていた。
まわりの風景すべてが青白くなっていく。そよぐ風は静かで、頰に染み込んでいくように、つめたい。
とっぷりと日が落ちて、明るい惑星や恒星が輝くなか、林の奥へとのびる道の、両わきの雪肌から、ところどころ笹の葉が顔をだしていることに気づく。
そういえばこのあたり一帯は、隈笹の原っぱなのだ。春の夜に歩いたときは、月の光に照らされた笹の葉がさわさわと夜風にそよいでいた。
ぶ厚い雪をすこしだけかき分けると、若葉の青々とした色ではなく、黄味がかった葉が顔をだした。寒さで色素が抜け、白い縁取りが目立つ。隈笹、という名のとおり。
5月に飲んだ笹の葉茶のことも思いだした。あのときは白い隈取りがない若葉をいくつか摘んで、小型バーナーを使ってその場で煮出した。
山のなかで飲む「即席 笹の葉茶」はおいしかったが、焙じ茶をつくるときのような手順を踏んで煮たら、もっとおいしいのではないか。
雪から出してしまった葉を、手ぬぐいにくるんで持ち帰ることにした。

葉を洗って乾燥させたあと、ハサミで細かく切り、自称ほうろく鍋に入れて火にかけると、部屋中に芳ばしい香りがひろがる。
寒い部屋が、これだけであたたまったような気がした。茶葉店からただよう匂いそのままだ。
とろ火でしばらく煮ると、湯が透き通った淡い黄色になったので、一口飲む。おいしい。
まろやかな甘みがひろがり、そのあとはすこしの苦味と深みが残る。何となく春を思い出すのは、笹の葉で包んだ桜餅と味が似ているからかもしれない。
煎った残りの葉は、保存するための容器がみつからなかったので、ひとまずタジン鍋に保管した。
数日たって、ふと、ふたを開けてみた。心地よい香りがちゃんとのこっている。
つぎは、青い若葉を摘みにいってみよう。
そう思うと、雪どけの春を待つのもたのしい。

EPSON MFP image

緑色の壁

植松眞人

 仕事が辛かった。デスクワークなのに、まるで一日中走り回ったかのようにぐったりと疲れ切っていた。最寄り駅からバスのなくなった路線をバス停四つ分歩いて古びたマンションに着いた。中古で買ったマンションは最近になって若い人たちがたくさん入居してきて、住居用のマンションだったのにアクセサリー店を開いたり、革製品の工房を開いたりして、妙な具合になっていた。
 五階建てのマンションにはエレベーターがなかった。階段で四階まで上がり、自分の部屋の鍵を開ける。妻はもう寝ているだろう。妊娠がわかってから妻はやたらと眠るようになった。以前は宵っ張りだったのだが、いまでは夜の七時、八時にはベッドに入ってしまう。
 静かにドアを開け、物音を立てないように荷物を置くと玄関口に座り込んで靴の紐を解いた。そして、立ち上がり部屋の奥の方へと向き直ると、玄関からリビングへと続く短い廊下が緑色だった。
 今日家を出るときには、白い壁紙で覆われていた壁が少しくすんだ濃い緑色になっていた。朝顔の葉っぱのような緑だな、と私は思った。そして、じっと壁紙を見つめた。緑色の壁紙は無地ではなくよく見ると、やっぱり朝顔の葉っぱにある葉脈のような模様があった。プリントではなくちゃんと凹凸があり、指先で触ると本物の葉っぱのようで葉脈の部分は不規則に盛り上がっていて、まるで巨大な朝顔の葉っぱをそのまま壁紙として貼り付けたように思えるのだった。
 私はしばらく廊下に立ち尽くしたまま緑色になった壁を眺めたり、指先で触れたりしていた。なぜ、妻は私になんの相談もしないまま壁を緑色にしたのだろう。白い壁になにか不都合でもあったのだろうか。
 私はいろんな理由を数えてみたのだが、しっくりと腑に落ちる理由には出会えなかった。答えなど最初からないとわかっているのに、くるくると鉛筆を右手で回しながら答案に向かっているような気分だった。
 リビングと玄関を区切るドアは閉ざされていて、磨りガラスには薄らと橙色の常夜灯が映っていた。妻はもう寝ているのだろう。私はドアを開けた。常夜灯のオレンジ色の光に照らされたリビングの真ん中のタグの上で、妻は薄いタオルケットだけを足元にかけて眠っていた。
 リビングの壁は今朝見たままの白い壁紙に覆われていた。私はなんだかホッとして妻に「ベッドで寝ないと風邪を引くよ」と声をかけた。だいぶお腹が目立つようになってきた妻は、そのお腹を愛おしむように撫でながら目を開いた。横になっている妻の身体に私は背後から身体を寄り添わせて、妻の背中に頬をつけて妻のお腹に手を這わせた。「最近、よく動くのよ」と妻は言う。私は妻の着ていたタオル地の部屋着をたくし上げて、生身の腹に直接手を置いてみた。掌から妻の身体のぬくもりと鼓動のような振動が伝わってきたが、お腹の中の赤ん坊が動いているかどうかはわからなかった。「いまも動いてる?」と私が聞くと、妻は「ずっと動いてるわ」と答えた。私は用心深く手の腹をさっきよりもほんの少しだけ強く妻のお腹に押し当ててみる。すると、さっき玄関先の緑色の壁紙にあった葉脈のような凹凸が感じられた。妻のお腹を走っている血管なのだろうか。私はその凹凸に沿って、そっと指を這わせた。「くすぐったい」と妻は言って笑った。私はそこで妻が笑ったことがなんとなく妙な感じがして黙っていた。「どうしたの」と妻が聞いた。「どうして緑なの?」と私は質問で答えた。「だって、私、緑色が好きだもの」と妻は答えた。「君は緑色が好きだったのか」と私が言うと、妻は「馬鹿ね」と言った。
 妻は寝室へ行き、僕は緑色の廊下を通ってバスルームに行き、シャワーを浴びた。そういえば、バスルームにある洗面器やタオルや石けん入れも淡い緑色をしていた。そうか、妻は緑色が好きだったのか、と私はシャワーを浴びながら思ったのだが、本当にこのバスルームにある緑色のいろんな物が、昨日も緑色だったかどうか思い出せないのだった
 シャワーを終えて、寝間着に着替えると、私は再び緑の廊下を通り、リビングを通って、妻が寝ているベッドルームへと向かった。そして、その途中、私は立ち止まった。緑色の廊下とリビングを区切っているドアのあたりだった。
 よく見ると、廊下の緑色の壁紙はリビングのドアを少しはみ出して、リビングルームの側にも入り込んでいた。リビングの側から見ると、ちょうど白いドアを緑色のぎざぎざとした壁紙が縁取りしているようにも見えたし、少し見方を変えると、巨大な朝顔の葉っぱの真ん中に白いドアがはめ込まれているようにも見えた。
 「時間の問題だな」と私は思った。そして、しばらくその様子を眺めていたが、芯から身体を揺するような疲れに押されるようにベッドルームへ入った。妻の隣に半分開いていたスペースに身体を滑り込ませた。そしてまた背後から妻を抱くようにして、妻のお腹に掌を這わせてみた。さっきよりも葉脈のような凹凸がはっきりと感じられるような気がした。妻は小さくいびきをかいて寝ていた。(了)

狂狗集 2の巻

管啓次郎

あ 朝焼けに炎を借りて焚く命
い 椅子から転げて子犬がそのまま眠つてる
う 有為転変地球の果ての蒙古斑
え 永劫の愛を誓ひし映像家族
お 恐ろしい速さで雲が飛んでゆく

か 環状線が頭をきつく締めつける
き 近海漁業そぼ降る雨にも放射能
く クリスマスという名のさびしいマスゲーム
け 賢なるかなお笑い一筋ジャン=ポール
こ 交渉なんて食事のあとのだまし討ち

さ 坂の上塗られた空の同心円
し 詩歌悲歌挽歌さざんか道の声
す 酔狂もteetotalの副作用
せ 性格こそ忠犬そのもの鴨そのもの
そ そっくりこのままこの海をごくんと飲めるなら

た 大気圧形状記憶のステンシル
ち 誓いも新たにこれから畑を耕さう
つ 「つい出来心で」そうさすべてはhappenstance
て 定型詩にあこがれ「東」の窓を仰ぎ見る
と 遠くまで行かう陶酔もなく問ひもなく

な 泣き寝入りの子犬夢で吠えるよわんわんわん
に 新潟平野の湿原忍耐力のあいうえお
ぬ 縫い針で心を縫つて袋詰め
ね 猫にまでお礼をいひたい陽気です
の 濃霧を抜けると不意打ちだつた northern lights

は 歯が痛いので今日は帰らう春の海
ひ 「光あれ!」と叫んで懐中電灯ともす小学生
ふ 福引きと福笑いによる歴史観
へ 変形文法で視界の歪みを矯正する
ほ 本格的な狩猟に精霊の助けと持久力

ま マイスター・エックハルトにちなんだハムエッグ
み 眉間に皺寄せ口を歪めてそれでも「いいよ」といふ
む 無闇にガムを嚙むなよ歯がバキバキ折れるぞ
め メンソレータム目蓋に塗つて深夜の中央道
も もういちど白砂に潜れ白日夢

や 焼け野原世界の終末跳び越えろ
ゆ 夕方から生じる心の響きを録画せよ
よ 洋上の鳥緯度に抗う筋、骨、眼

ら 騾馬の反逆帝国解体奴隷の怒(ど)
り 倫理なく理解なく理由なく由来なし
る 留守番とバナナ一房不可分契約
れ 恋愛的連弾ダダとダダとのダダダダダ
ろ 楼閣が崩れてゆく老人は死んでゆくと朗唱せよ

わ 鰐の涙の真実うそとまことの弁証法

贋金つくりは何をする?

高橋悠治

まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進める(ジッド)

聞こえた音はその場で儚く褪せてゆく 一つの音から次の音へ瞬間ごとに移動する重心 バランスを取りながら全体が変化する 三つの音の作る三角形の間に引き合う力の線 前の音に押されて次の音が現れ 流れができる 漂う瞬間の行き交う波打つ時空

ケネス・スネルソン (1927-2016) が彫刻で試み バクミンスター・フラー (1895-1983) がテンセグリティーと名づけた空間の枠組にも似た 音楽のひとつの考えかた 離れた音が重みを感じさせず空間に漂いながら 中心がなく支え合っている 聞こえる音は結び目のその瞬間の位置 リズムや音程もその地点の間隔や距離をしめすだけ 音と音の間をつなぐ見えない糸が全体をうごかしていく 厚みも裏もなく翻る表面が かたちを変えていく

ここでは音もリズムもメロディーも 音楽として聞こえる部分は 煙や水 雲や炎のように 揺らぎ流れ過ぎていく影の 聞こえない枠組の痕跡 余韻にすぎない ザミャーチンの短編小説『洞窟』(1922) の最後 舞う粉雪の彼方 足音もたてず移動する巨大なマンモスのように 音はかたちのない運動の影だと言えば 以前は神秘主義と思われ 嘲笑されるだけだったが いまなら 音は身体化した運動の痕跡だと言うこともできる 

創るプロセスそのものが作品であり 書かれた音はいつもおなじだが二度と同じ演奏がなく くりかえすたびごとの即興でもあるような そんな音楽 あるいはどんな音楽からでも そういう音の空間を創りだすことができるか 1968年に終わった構成主義の時代 中心と目標をもった構造の魅力がなくなって以来 音楽や詩だけでなく 社会運動のなかにも多様性とプロセスをだいじにする動きがみえる 不安定な社会 ゆれうごく時代の表現なのか  

クセナキス『シナファイ[相互関係]』(1969)の演奏について 作曲者と話した時に 隣り合う音をメロディーではなく ちがう層への移動とみなすと メロディーのような線ではなく  エネルギーの瞬間的断層ができる 二本の指の間で具体的にどうすればよいかを実験してみた この断層は ほんのわずか隙間を空け 音の強さに微かで予測できない変化をつけると 量子跳躍の瞬間に生まれてたちまち消滅する光子のように 一瞬のきらめきが走る 連続した音の運動のみかけと ばらまかれた粒が飛び散るような不連続な時空が 同時に現れる それから数十年後の最近になって バロック音楽やシューベルトに一部このやりかたを使ってみる これはまったく非伝統的な演奏技法とは言い切れない チェンバロの技法には似たものがある でもそこには断層と跳躍の印象はない