編み狂う(3)

斎藤真理子

編むときは必ず読んでいる。 

というか、読まずには編まない。

何らかの本を読むことと編み物を同時にやる。それが私の「編み狂い」のスタンダードな形だ。

編むのと読むのを同時にやるのは私にとってはきわめて普通のことなのだが、人には「えーどうやってんの」とけげんな顔をされる。別にたいしたことではない。まずテーブルに本を開いて固定する。本をよくよく開いてテーブルに置いてから、本の端を携帯とかペンケースなどで固定する。それを前にして座り、「編む」と「読む」を同時にやっていくんだよと丁寧に説明するのだが、「だーかーらー、どうやって、それを、やるの!」と詰問されることがある。困る。だが、いざ聞かれると自分でもよくわからない。

なので、実際にやってみて、目がどんな動きをしているか注意してみた。その結果、1目編むのと同時に目がちらっと動き、半行〜1行ぐらいの文章を脳が吸収していくみたいだった。目は絶えず、本と編み目との間を、非常に軽い動きでささささ、さささと行き来している。でもいちいち顔の角度を変えたりするわけではないので、すべての動きは非常に小さい。

編み方は3種類に限定しているので、ほとんど意識することなくすいすいと編める。本の方も、何十回となく読んだ小説などが中心なので、双方ともに親近感のあるものをまさぐっている感じ。だから並行できるのだと思う。

この状態は、「読みながら編む」というのとも違うし、「編みながら読んでる」ともいえない。中とって、「よぁむ」とでも称すると、気分的にはぴったりする。そして、この「よぁんで」いる状態はたいへん幸せである。私は自分の語彙の中に幸せという言葉がないが、瞬間的な状態として、「よぁんで」いるときはたましいが喜んでいる状態といっていい。たましいがあればだけど。

編むには本が要る。その関係は、ごはんと「ごはんの友」みたいな感じだ。海苔の佃煮とかふりかけとか、梅干しとか。編み物がごはんなら本は「ごはんの友」で、だから、それがなかったらわざわざ白いごはんだけ食べなくてもいいやーと、そういう感じになる。

そのため、「理想の編みかけ」を持って出かけたのに本を忘れたときは編まないし、極端なことを言うと、持っていく本が決まらないから編み物自体をやめることもある。

自分がいつからこんなことをやっているのかよく思い出せないのだが、どうしてこうなるのかというと、たぶん、編み物だけやってると脳が余ってしまうからじゃないかと思う。

先回、編み物には「マニュアルモード」で編めるところと「オートモード」で編むところがあると説明したけれど、私がゆったりと編み狂うのはオートモードでがんがん編んでいるときだ。そういうとき、編み物自体をずっと見ている必要はないし、また何も考える必要はないのである。

そうすると、編み物だけをやっているのでは脳にかなりの面積の「あき」ができるみたいなのだ。私のイメージでは、そのまま編み狂っていたらあいたところが空焚きになりそうだ。煮汁がなくなり……鍋底がカラカラになり……煙が上がる……そんなイメージ。そこへ本を投入すると、水気が回ってちょうどいい。

実は、本を投入してもまだ脳が余ることがある。そこで映画のDVDも動員している。よぁみながら、T映のやくざ映画などを、よく見る。いや、ほとんど見てはいないのだけど同伴してもらう。音は聞こえていて、ストーリーは把握している。私は編みながらどっちの物語にも程よく浸っている。

その結果、私が手にも心にも優しい絹糸を一心に編んでいるとき、本の中では「叔母ちゃんは、そこはあんじょう云うてはるけど、結局あたしが雪子ちゃんを引き留めると見て、あたしを説き付けに来てはるねんわ。そやよってに、気の毒やけど、あたしの立場も考えて貰はんと、………」(谷崎潤一郎『細雪』)というようなことが論じられ、一方モニターの中では「オヤジさん言うといたるがの、あんた初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでになるのに誰が血流しとるの。神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!」というようなことが、言われ、私は非常に満足して編みつづけている。でもまあ、存在感としては圧倒的に本>映画だ。

編み物をするときにどんな本がいいかについてはとても気難しい好みがあって、書ききれないので次回にするが、間違いなくいえるのは『細雪』は最高だということだ。大きなドラマが起きず、しかし家庭内の小さなドラマが断続的に続き、女の人たちが衣食住のさまざまなことをしょっちゅう話しあっている。

食と服飾に関する具体的な記述があることは必須条件で、『細雪』でいえば「悦子の好きな蝦の巻揚げ、鳩の卵のスープ、幸子の好きな鶩の皮を焼いたのを味噌や葱と一緒に餅の皮に包んで食べる料理、等々を盛った錫の食器を囲みながら」とか、そういった箇所を舌なめずりして吸収しながら編んでいく。こういう細部が伴う物語は、本当に編み物と合う、編み物を駆り立てる。女の人が束になって出てきて、「もっと編んじゃえ、もっと編んじゃえ」とリヤカーのお尻を押すのですね。おかげでどんどん坂が登れて、さらに編み狂える。

そのため私は文庫版の『細雪』を使い倒して何度も買い換えている(強く開くので、本が痛む)。でも逆に、編まずにこの本を読むかと言うと、今さら……という気がするのも事実だ。

どうしてなんだろう。なんとなくわかってきたのは、さっき書いた「空焚き」とは、編みながらどんどん考えが暴走してろくでもないことばかり考える状態をさしているんじゃないか。だからそうならないように、編み狂っているときは、たえず他人様の物語で適度に薄めるというか、イメージで言うと、他人様の物語の上を滑るようにして時間とわたりあっていくぐらいがちょうどいいらしいのだ。そのためもったいないことに、『細雪』を私は、薄め液にしてしまったらしい。取り返しがつかない。

だが、他にも取り返しがつかない本がいろいろあって、次回はそのことを書こうと思う。よぁむための本については、「これは編める」「絶対編めない」という明確な峻別が可能なのである。

ちなみに、読むと編むを同時にやるのは私だけではないらしい。有名なところでは橋本治さんが、編み物は本を読みながらすると書いていらした。私の推測では、橋本さんは私みたいに何度も読み返したものなどじゃなく、新刊をバンバン読み倒しながら複雑な編み込みのニットを編まれたんじゃないかと思う。脳の生産性が比べ物にもならないという気がする。

製本かい摘みましては(149)

四釜裕子

藤原定家写本の「更級日記」とほぼ同じものを、河本洋一さんによる「書物の歴史:トークと実作」1回目の午後に作った。作業時間など考慮して、実際は10折のところ6折(5紙)として、紙は、実際より厚手だそうだが判型(天地約164ミリ×左右約145ミリ)に合わせて手切りしてくださったものと、定家によるタイトル文字をプリントゴッコで再現した表紙をご用意いただいて、遠藤諦之輔さんの『古文書修復六十年 和装本の修補と造本』(汲古書院 1987)を参考にしながら2色の糸での大和綴じだった。この「大和綴じ」という名称については、やっぱりいわゆる和本の呼び名はいまだ曖昧なんだそうだ。正確な名称というか、誰かに伝えるときにどう言えばいいのかずっと私もよく分からないでいたので、せめて自分の中ではノドを糊で貼ったものを粘葉装(でっちょうそう)、折丁を作り糸で綴じたものを列帖装、表からズブッと穴を開けて糸や紐で綴じるのを平綴じ、大和綴じは粘葉装以外の総称のような感じで区別してきた。今回は「大和綴じ」に「(別名 胡蝶装)」と記されてあったので、(列帖装のほうだ)と自分なりに理解した次第。胡蝶装は、列帖装で最後に糸を蝶々のように結んだ場合と考えている。

栃折久美子さんの「パピヨンかがり」は洋式製本と和本の綴じの似たところ、良いところを組み合わせて考案された方法だ。これを最初に習った頃は、日本の古い本はすべて四つ目綴じだと思っていたし、それを和綴じと呼ぶと思っていたし、四つ目綴じは日本のものと思っていたので驚いた。そもそもよく知りもしないのに驚くところがおもしろい。パピヨンかがりのモデルにもなった「大和綴じ(別名 胡蝶装)」については平安時代から用いられた日本オリジナルだと思ってきたけれど、改めて栃折さんの『美しい書物』(みすず書房)の「パピヨン」を読むと、〈「やまととじ」(この名称については、さまざまな異論があり、定説がない)というかがり方があって、こちらのほうは日本人の考案によるものだといわれている。平安朝の末期から和書の製本に用いられていたらしい〉。「いわれている」、「らしい」とあって、私は当時この文章で初めて知ったはずなのに、いつしか自分の頭の中で断定していたことになる。パピヨンかがりについては、〈洋式製本の原型であるルリユールの技術と、「やまととじ」の原理とを組み合わせ、十分に丈夫で比較的手間のかからない手製本のやり方が考えられないものかと、かなり前から試作品をつくったりしていたが、ようやく納得のいくものができるようになった〉(1979.12)。表現がどこまでも端的だ。

この「大和綴じ(別名 胡蝶装)」、綴じ方が違うかもしれないけれど敦煌写本にいくつかあると、河本さんからうかがった。むかわで見つかった「むかわ竜」が今秋「カムイサウルス」になったように、これから実物が見つかったり調査が進んで「大和綴じ」にもなにかいい呼び名が与えられるかもしれない。「大和綴じ」に「綴葉装」や「列帖装」という呼び名を当てたのは1930年代のことだったともうかがった。河本さんは私見として、「装丁の名称を増やしたくない。折り目を糸綴じ(中綴じ?)した大和綴じとか、平(ひら)で紐で綴じた大和綴じとしてはどうか」とおっしゃっていた。別々なものには別々の呼び名があったほうが便利だし、字面でそれがどんなものか想像できるのはとてもいい。そうでないと、教える側にとっても習う側にとってもそれぞれ不便なのはよく分かる。今、たったこれだけ書く中でも不便であった。でも、いつまでたっても決まった名称がないとか、名前はまだないとかいうのも悪くない。

河本さんが資料として用意くださった中に、A4サイズ一枚にまとめられた「紙・冊子・印刷から紐解く書物の歴史」があった。地中海世界と中国文明を左右に分けた年表で、紙と冊子と印刷についてそれぞれ色分けされている。パッと見て、地中海世界側がいかに「冊子」が先行、つまりパピルスや羊皮紙を折ることの工夫が進み、中国文明側は「紙」が先行して、いかにそれを折らずにつなぐことへの工夫が進んだかが分かる。往来があってもなぜそれが長らく交じり合わなかったのか、この一覧を見ながらお話を聞いていると、8世紀になって中国で木版印刷が始まって、版木の大きさが折りのきっかけになったのかなぁと思えてくる。806年に空海が持ち帰った『三十帖冊子』も見たくなる。実物が残っているんだものなぁ、すごい。河本さんの「書物の歴史:トークと実作」は次回に続く。次は「紙・冊子・印刷から紐解く書物の歴史」年表の左側、地中海・ヨーロッパの綴じのお話とコプト綴じの体験だ。

巻き物から冊子へという話を聞きながら、白石かずこさんが朗読する姿を思い出していた。その日に読む詩が巻き紙に手書きされていて、白石さんはステージにあがるとそれを巻き広げながらふわっとぐわぁっと読んでいくのだった。一枚の紙の表側にひと続きにしたためられた詩を全身でまるでひと息に読んでいく姿には圧倒されたし、読み終えた後にステージに伸び散らかった巻紙は脱皮後の白蛇のようだった。物理的にそう見えたのだけれど実際、そういうものだったのかもしれない、魂を抜かれて。いわゆるパフォーマンスとしてやっているのでは絶対にないのである。

白石かずこさんを巻き物詩人と呼ぶならば、前回も記した高橋昭八郎さんは頁詩人だ。さまざまなスタイルの作品があるわけだけど、頁をめくりそのたびに現れる見開きの連続を体験する期待において、昭八郎さんの作品はいつまでたってもいつでも必ず新しい。『ポエムアニメーション5 あ・いの国』という作品は、冊子に発表されたものではなく立体で函入りの本の形態にまとめられるが、中に帯状に刷ったものが8枚含まれる。しかしこれが丹念に折ってあって、さらに2枚ずつがこれまた丹念に組み合わされていて、いったん開いて無頓着にばらばらにすると元に戻すのはかなり難しい。まさに、ザ・頁詩人だけれど、巻き物詩人としての昭八郎さんの姿が実は、城戸朱理さん企画監修の「Edge」シリーズに記録され、今も公開されている。2004年、ワタリウム美術館のオンサンデーズで開かれた「高橋昭八郎 翼ある詩」のオープニングにおける観客ぐるぐる巻き。こちらから、ぜひ。

Edge 高橋昭八郎展 翼ある詩

しもた屋之噺(213)

杉山洋一

ルガーノの街を訪れるのは本当に久しぶりのことでした。駅の辺りはすっかり綺麗に様変わりしていましたが、街の人の表情は相変わらず穏やかで、とても親切だったことに癒される思いがしました。ルガーノの放送響とリハーサルをして、駅の喫茶店で楽譜を広げて仕事をする傍らで、ダニエレと呼ばれるウェイターが、一人で実に手際よく采配を奮う姿に感心していると、追加のエスプレッソのお金を受取ってくれませんでした。「あなたは実に感じが良い人だ。差し支えなければ、このエスプレッソはご馳走させてくれませんか」。初対面の初老から、それも何を話したわけでもない喫茶店のウェイターから思いもかけずそんな事を言われるのは、長いイタリア生活でも初めてで、感激しながらミラノへ帰途につきました。今日はこれからコモのオルモ宮にベリオ編曲のバッハを演奏しに出かけてきます。気持ちの良い秋晴れにかこつけて、折り畳みの自転車で出かけて、コモ駅から会場まで湖畔をのんびり走ってくることにします。


9月某日 三軒茶屋自宅
朝起きてバッハの未完のフーガを弾く。左手は先月自転車で転げてから全く動かず、薬指には激痛が走るが、憑かれたようで止められない。バッハは苦手だ。現代作品やどんな音の込み合った後期ロマン派より比較を超えて複雑で、そこには叡智が詰まっているようでもあり、その範疇を突き抜け漆黒の宇宙にまで及んでいると感じることがある。よろめきながら弾いていても、思わず涙が零れる。人の心を動かすために書いた筈のない音符に、何故我々の心の襞一枚一枚をなぞるような力が生まれるのか。
「フーガ」の作法が理由ではない。バッハが学んだというカベソンのティエンㇳも大好きだが、ずっと人間的な響きがする。

9月某日 三軒茶屋自宅
表参道で吉田さんと話す。作曲コンクールの演奏に関わるとき、そこに演奏者の解釈やスタイルが介在するかどうか、という話。どの作品であれ自分が演奏すれば、自ずと自らの姿勢が反映するだろうし、音楽は作品と演奏者の相乗効果によって生まれる。演奏によって作品が大きく変化するのは、寧ろ当然だろう。
太陽のようだった野坂さんが鬼籍に入られた瞬間から、彼女の姿は歴史となり後世に残されてゆく。友人だった野坂さんの存在が、ひょいと敷居の向こうへ足を踏み入れた瞬間に、彼女の存在が百八十度変化する。ジャーナリストの性ね、彼女は少し寂しそうに笑った。

9月某日 三軒茶屋自宅
野坂さんの葬儀ミサでお目にかかれなかったので、夕方少しだけ沢井さんの顔を見に自転車を走らせる。稽古場の中国風の円卓には、数年前の九州のツアーの折に取られたお二人のスナップ写真と、颯爽と筝に向かう野坂さんの姿が表紙に冠された雑誌が置いてある。
葬儀ミサに日本で参加するのは初めてで、伊語で聴きなれた文言を日本語で耳にするのは、不思議な心地がした。同じカトリックで国によって少しずつ意味合いも違う、ヨーロッパのカトリックと日本のカトリックの意味も勿論違うのよ、と大原さんが話してくださったのを思い出す。確かに日本の葬儀ミサは、より優しく柔らかい印象を持った。
説教が終わりに近づくと、ふと我に返り溢れるように悲しみが込み上げてきて、どうしようもない。

9月某日 三軒茶屋自宅
安江さんと加藤くんが演奏してくれた小さな新作を聴き、感慨に耽る。作曲家として作品に手を施さず、素材が素のまま提示されるのだが、演奏者の感情移入がそこに深い意味を与えてくれた。オラショがOgloriosa dominaに、ひきずる錫杖が中世のカリヨンが奏でるDies iraeに変化する。演奏者はそこに歴史的コンテクストを無意識に掬いとり、演奏に反映されてゆく。とすれば、我々がrequiemを演奏し、聴くときも、それに近い化学反応の連鎖が起きる。
同じ旋律が喜劇オペラのアリアで歌われるのと、レクイエムに転用されるとしても、歌詞は挿げ替えられるにせよ、楽譜から受ける我々演奏者、聴取者の感覚(イタリア語ではpartecipazione、その状況に能動的に参加する、と表現する)は、大きく影響を受ける。

9月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんの「般若波羅蜜多」のテープ録音。波多野さんはサンスクリットで歌っているから、般若心経の経文としては理解されないが、特に経文の終わり「即説呪日、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦」の下りは、歌詞も短く耳で追いやすいので、日がな一日お経に浸りながら録音し、集中力と体力が困憊してきた演奏者のあいだに、得もいわれぬ有難いような不思議な雰囲気が漂う。
この作品は、半世紀前サイケデリックなアメリカで自然に生まれた産物にも思えるし、そうだとすれば、当時のアメリカ人がこれをどう演奏したのかとても興味が湧いた。初演者たちは当時同じレジデンスに滞在する仲間で、この難解な作品を必要なだけ練習が出来たと聞いて納得した。悠治さん曰く、アンサンブルの真ん中に位置する歌とハープ以外、初演者は全員男性だったので、この二人を少し前に出すのは視覚的にもとても効果的だったとのこと。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻った翌朝、ダヴィデの0歳の娘の訃報と葬式の知らせを受け、慌ててバッジョの教会に自転車で駆け付けた。教会前の花屋でティートと会い、二人で一緒に白百合の花束を作ってもらい、本当に小さな柩の傍らに手向けた。
クーポラに描かれた子羊の巨大なモザイク画を背に、神父は「亡き子をしのぶ歌」の歌詞を引用して説教した。ダヴィデは娘から皆への感謝の手紙を読み、ダヴィデの弟は、「何故彼女が、何故今、何故この運命に巡り合わねばならないのか、答えが見つからない」と慟哭した。神父は、神の神秘は時に我々の理解のずっと先にある、と応えた。野坂さんのように、長い時間をかけ築いた人生の深さが悲しみにつながることもあれば、キアラのように、その可能性を毟り取られた悲しみもある。人を失う悲しみは、本来誰でも等しく同じだけ持っている。神父の説教を聴いていて、やはり自分には近づけない、理解できないと思うのと同時に、ふと、死ぬ前までに一度は真面目に信仰を持ちたい心地になったことに、自分でも新鮮な愕きをおぼえた。思わず息子の顔が脳裏に浮かび、麻痺から快復して元気で居られる幸福を噛みしめる。

9月某日 ミラノ自宅
ベリオのバッハ未完のフーガ編曲。途方もない高密度に封じ込まれていた音符を、真空状態のオーケストラの空間に放つ。数箇所原典と違う音が選ばれているのは何故だろう。シャイーの録音を聴くと、ベリオの音符通りに弾いていて、恐らくそれは正しい姿勢だろうと思うが、シャイーがそうなら、バッハの原点通りでも演奏してもよい気がして、結局音を直して弾くことにする。元来臍が曲がってい提出、素晴らしい作品を聴いて感動すれば、少しでも自分はそこから外れなければいけないと思い、素晴らしい演奏を聴けば、少しでもそれと違う方法を試さなければいけない強迫観念に駆られる。偉業は既に為されているのだから、自分がそれを真似するのは無駄だとも思い、無意味と感じるのも、尊大に過ぎる気もするが、それを自分が超えられないと理解しているのだから仕方がないのではないか。それでも影響を受けるものは無意識に受けているはずだから、その程度に留めておいて差し支えはないだろう。

9月某日 ミラノ自宅
階下で家人がメタテーシスを練習している。放射される音は、予め規定されているのか改めて偏った音で縒られた響きがして、錯乱しているようでもあり、中心の渦を遠くに望みながら、どこか巡り巡っているように聴こえることもある。
日がな一日カセルラをひたすら読む。譜読みは相変わらず極端に遅い。その上、振ればオーケストラが合わせて弾いてくれる訓練を受けて来なかったので、自分が何某か理解したと認識できるまで、本当にともかく振ることすら出来ないから、実に始末が悪い。カセルラで言えば、細かく音を読めば読むほど、複雑に音を聴きすぎて音楽にならない。彼が調性感、和声機能感の設定に関して実に保守的で、堅固な下部構造の上に、拡大し、それぞれ別の色を持たせた素材を展開したのは、彼がこよなく愛したマーラーの手法を踏襲している。結局は、少年時代から長年培ってきたワーグナーやマーラーの音楽の上に自身の音楽を展開したのだ。フォーレのクラスでラヴェルと一緒に学んだフランス的な和声に耳を傾け過ぎていた。たかがそれだけに気が付くのため、これだけ苦労し時間がかかるわけだから、自らの能力に絶望に目を向けないようにして、そこに何かが見えてくることを信じて、ただひたすら楽譜を開く。

9月29日 ミラノにて

仙台ネイティブのつぶやき(48 )猫をかかえて走る

西大立目祥子

 この20年ほど“猫まみれ”といっていいような生活を送ってきた。そもそもは家に迷い込んできたメスの野良の面倒をみたのがきっかけなのだけれど、そのうち一人暮らしになった母も猫を飼うようになり、そこにも野良の子猫が居着いたりして、一気に猫が身辺に増えていった。これまで世話をした猫の数は、20匹は下らない。いつか「私の上を通り過ぎて行った猫たち」とか…そんなタイトルで一匹一匹の思い出を書いてみたい。同じ猫族とはいっても、性格やふるまいはびっくりするほど違い、その生涯もそれぞれに完結していると感じさせられてきたから。

 生きものである以上、病気もすればケガもする。若くして大病するのもいれば、長患いに苦しむのもいる。もとは出入り自由にしていたので、大ケガをしてやっとの思いで帰ってくるのもいた。
 そのたびに、動物病院のお世話になってきた。近所の病院、ちょっと離れたところ、救急病院までいろいろ。動物のお医者さんもまたさまざまだ。ふだん私たちが「どこかいい歯医者さん知らない?」と聞いて行ってみるとそうでもないと感じることがあるように、病院選びは飼い主との相性が決め手だ。相性をもっと具体的にいえば、ことばを持たない犬や猫をどうとらえ病気にどう対応するか、それは動物との距離感をどのあたりに求めるかということになるだろうか。

 たとえば、私は猫にとって病院に行くことはストレス以外の何物でもないと考えているので、見立ても診察も早く病状を簡潔に説明してくれる先生が一番と思っているのだけれど、そんな信頼を寄せる先生のことを知人が「あの先生の診察は早く過ぎて、ゆっくり話をしてくれない」と評したことがあった。一方で、私は、長患いの猫を連れていくたび「この子も頑張っていますよ」という先生に、気づかいに違いないと知りながら、欲しいのはドクターとしての見地であって頑張っているのは私だってわかってますよと、いつも胸の中でぶつぶついっていた。こうしたやさしいひとことに救われる飼い主もいるだろう。何事もそうだけれど、じぶんとウマの合う人を見つけるのは難しい。

 動物病院に通い出したころは、人の治療とどこも違わない扱いにびっくりすることばかりだった。まず、診察台はスタンド式のアイロン台みたいな格好なのだけれど、猫を乗せるとすぐに体重がデジタル表示される。鼻水とか熱でウィルス性の病気が疑われるときは、私たちがインフルエンザの判定のとき使うのとまるで同じキットで陽性か陰性かが判断される。内蔵の病気があやしいとなればすぐに前足の毛を剃って採血され、10数分待つうちに結果が出て「肝臓と膵臓の数値が正常範囲の2倍です。今日から注射に3日は通ってください。飲み薬は5日分出しますね」という具合。目の前の猫よりデータを注視するってどうなのかしら…と疑問を感じたものだ。

 最初の診察のとき、私に問診を重ねながら触診を基本に観察する先生はやはり信頼がおける。あるとき、急に食欲が落ち込んだ1匹をある病院に持ち込んだことがあった。先生は診察台に猫を乗せ、ぎゅっと背中をつかむと「ずいぶん脱水しているね」という。肉の戻りが遅ければ脱水の証なのだ。さらにおなかの柔らかいところをあちこち押しながら「どこも腫れたり固くなったりしていないなあ」といい肛門に体温計を差し込んで平熱であることを確かめる。そうこうするうち「動きが鈍いわけではない」という私の一言にピンときたのか、「もしかすると…」と口を大きく開けさせた。口内が真っ赤に腫れ上がっていた。診断は口内炎。ひどい炎症でごはんが食べられなかったのだ。
 いま私自身が年に一度、検査のために通う総合病院では、医師は私の体を触診することなく画像と血液検査の結果を見るだけだから、動物病院の方が本来の診察が残っているといえるかもしれない。

 20年の猫歴なので、容体が急変してもそうおたおたすることはなくなったけれど、初心者のころは迷ったり、これでいいのかと自問したりの連続だった。ある日、後ろ足を痛めて帰ってきたのがいた。痛めた足は縮めたままで、横になるのにもつらそうに鳴く。病院でレントゲンをとると、大腿骨がきれいに折れていた。「骨を継ぐ外科手術は9万円です」と先生はいとも簡単にいう。ほおっておいてもいずれくっつくというので、迷ったあげく「今月は車検もあって…」などとつい本音を口に出して連れ帰った。すると足は1週間もしないうちに治ってしまった。犬と猫をくらべると、同程度のケガなら猫の方がはるかに治癒力が高いらしい。

 糖尿病の猫に数年の間、インスリンの注射を打っていたこともある。最初は1日1回の注射だったのだけれど、どうも効果が上がらず、先生に「1日2回、頑張れますか?」とたずねられ「はい」と返事をした。注射の回数を増やすと、猫は持ち直した。何もわからない猫にこんなことしていいのか、これはもしかすると私の満足なのではないのかと迷いながら、病院に薬と注射針を受け取りに通った。猫は糖尿病ならではのものすごい食欲をみせながら、しまいにはやせほそり亡くなった。

 猫は家族か、と問われれば、私にはそこまではいい切れない。でも一つ屋根の下に暮らす生きもの同士として、互いにその存在を認め合っているという実感は強くある。猫も私と同じように、じぶんの意思を持ち、じぶんの思うように行動し、おなかがすけば食事を欲し、風を感じ空を眺めているから。
 だから、そんな存在が弱り命の危険がある、となれば反射的に病院に車を走らせてしまう。そして病院とは、病気を治すところであり先生もスタッフも治すために最善を尽くす人たちなのだ。連れて行けば、ただちに治療が始まる。「延命治療はしません、もういいです」と断らない限り、そして病院に行くのをやめるという決断をしない限り、治療は続く。これは、じぶんと家族のこれからに押し寄せてくる病気や治療の予行演習かもしれない。弱っていく親しい存在を、受け入れるのには強い意思がいる。

 いま一番の信頼を寄せるK先生とは、余計な検査と延命治療はしない、と約束している。そうであっても、今晩もし誰かが急に呼吸がおかしくなったりしたら、私は外が土砂降りでも猫をかかえて走るだろう。

インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由

冨岡三智

いま日本でラグビーワールドカップが開催されている。私はスポーツには全然関心がないのだが、熱気ある報道を見ていたら、昔インドネシアで観戦した浦和レッズの試合のことが思い出されてきた。というわけで、今回はその思い出話。

その試合はAFCチャンピオンリーグの浦和レッズ×ペルシク・ケディリ戦(インドネシア語の発音としてはプルシッ・クディリの方が近い)で、2007年5月9日(水)午後3時半からインドネシアのソロ市にあるマナハン競技場で行われた。当時、私は調査のためにソロ市に住んでいた(3度目の長期滞在)が、普段はテレビも新聞も見ていないこともあって、浦和レッズがインドネシアに来ることは全然知らなかった。

その試合前日の朝6時頃、突然の訪問者がある。ちなみに、朝6時というのはインドネシアでは他人に電話しても失礼ではない時間帯である。が…訪問者は見知らない青年で、近所の人が私の家まで案内してきた。その青年が言うことには、ある方の使いで、ここに日本人が住んでいると聞いて来ました、そのある方が日本のサッカーチームがソロに来るのを知って、垂れ幕を作って歓迎したいと言っています、垂れ幕を日本語で作りたいので、次の言葉を日本語に翻訳して紙に書いてもらえませんか?…そう言って、彼はインドネシア語のメッセージを差し出した。彼は本当にただの使いのようで、ある方というのは一体誰なのか、日本のチームがなぜ来るのか、どこで私のことを知ったのか、という私の疑問はちっとも晴れない。時代劇で、悪役が呼び出しの手紙を通りすがりの子供に預けたりするシーンがあるが、まさしくああいう使いである。それでも、見も知らぬインドネシア人の日本に対する好意には応えたいと思い、彼のメモを「サッカー天国 インドネシアに ようこそ」と訳して、パソコンでできるだけ大きなフォントで打って印刷してあげた。

その日の夕方、私はたまたま日本人駐在員の人から、その人が住んでいるホテル(ソロで一番グレードの高いホテルの1つ)に浦和レッズの一行がチェックインするらしいという情報を得た。その歓迎のガムラン演奏の練習がロビーであったと言う。朝の件はそのことだったかと合点してそのホテルに行ってみると、選手には会えなかったが、一行に同行する日本の旅行代理店と航空会社の担当者の人と話をすることができた。ここでやっと試合の詳細が分かったので、次の日、私は日本人留学生2人を誘って観戦することにする。

海外にいると多少は愛国的にもなる。日本にいればあえて見に行こうとは思わなくても、海外で住んでいる町にあの浦和レッズが来るなら見てみたい。しかもチケット代は2万ルピアである。新聞によると、これがVIPチケットの値段だった。当時のレートは1円=約70ルピア、日本円にして約285円で、日本で浦和レッズの試合を見ることを思えば安い…という計算も働いた。(普段は現地の金銭感覚で生活しているのだが)。

試合当日、私と友人は日本人サポーター専用だというA12ゲートから入った。この日本人席にはザッと数えて200人以上の日本人がいたので、びっくりである。ソロ在住の日本人は駐在員と留学生を合わせても20人くらいしかいないのだから。日本から駆け付けたサポーターの他、ジャカルタの日本人会(ジャカルタに駐在している日本人とその家族)の人たちも多かったらしい。ちなみに、地元ソロの日本人会に正式に連絡が来なかったのが腹立たしい。

それはさておき、向かいのペルシク・ケディリ側のスタンドに目をやると、インドネシア国旗やカラフルなインドネシア人サポーターの旗?が並ぶ中に、あの日本語垂れ幕も掲げられている!白地に黒字のシンプルな幕だが、1日で垂れ幕を準備してくれたのだ!選手や他の日本人サポーターはあの垂れ幕に気づいてくれただろうか…?結局、注文者が誰だったのか分からずじまいだが、こんな小さな、人知れない好意が寄せられていたのだということを知ってもらえたら嬉しい。

この当時の記事がないかネット検索してみたところ、試合に出場していた鈴木啓太選手が「印象的だったのが、ペルシク・ケディリとのアウェー戦。そんなに大きな都市ではなかったし、スタジアムも小さかったんですけれど、スタンドはけっこうお客さんで埋まっていて、すごい熱気でしたね。インドネシアではサッカーが根付いていることを実感しました」と語っている記事があって(注)、我がことのように嬉しくなる。

余談:鈴木氏が小さかったと言うマナハン・スタジアムだが、当時はインドネシア3大競技場の1つ(他はジャカルタとプカンバル)と言われていた。スハルト大統領を迎えて、1998年2月―退陣の約3か月前―にオープンしたという代物だ。この試合は当初、ペルシク・ケディリの本拠地である東ジャワ州クディリ市のスタジアムで開催される予定だったが、グラウンドの状態が国際大会には良くないとされ、中部ジャワ州ソロ市のスタジアムに変更されたといういきさつがある。

注)https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201801230007-spnavi

版画のように

北村周一

さみしいね、同じことばがあなたから版画のように波打ち際を

友はサクわれにはサクラチルという文のとどきし曇り日のこと

剪定を終えたばかりの木々のあのフォルム好きだな人工的で

上下左右の二本の線のこちら側にぼくはいるので逢えませんよね

あみ棚のフェンスもようが隣人の動画がめんに映えてうつくし

水溜りにあゆみ止まりしわが子らへおおらかに声をかけゆく保母さん

澱みなきひかり湛えし園庭の溜りのみずの静かなことも

葉枯れせし遮光カーテンまなび舎の屋根まで伸びて糸瓜となりぬ

ねむたそうなシグナルぬるきボールペン夜が明けたらドクダミを抜く

胸のべに触るるばかりに伸びいたる花のコスモス盛りは過ぎつ

童謡のうたのかずだけ白秋がいるようなあきのふかまり〈恋文〉を読む

足るを知れと言われて少しかんがえてコップをきょうはさかずきにする

町田駅連絡通路に躓いて泳ぐ左右の自分の手足

谷崎は鉄道病と名付けしがパニック障害病む時は病む

此れの世の未来おぞましひとつふたつ撥ねてみたっていいじゃないばか

ロシナンテ

植松眞人

 必死になって巨人を追い詰めたと思ったら、それが風車だった。その旅路はおそらくドン・キホーテにとってとても楽しいものであったに違いない。なにしろ、騎士として大きな成果を上げるという夢があっただろうし、なによりも腹心であるサンチョ・パンサとロバのロシナンテが一緒だ。
 そんなロシナンテが実際にいたとしたら、こんな風貌だったのではないか、と思える男がいた。私が二十歳のときに出会ったA君だ。のんびりとして人なつっこい風貌は、時に親しみやすく感じられ、また時には少々どんくさく思ってしまうこともあった。しかし、私はA君が好きだった。最初に会った時から、ああ、ロシナンテだ、と思ったのだが、もちろん、最初からそんなことを相手に伝えるほど私はデリカシーのない男ではない。おそらく、半年一年ほど経った頃だと思うのだが、私は恐る恐る、「A君って、ロシナンテみたいだよね」と言ってみた。すると、本人は、「どういうことですか」と聞くので、私はその親しみやすさなどをあげ、決して君はロバに似ているわけではない、と説明した。けれど、実際にはA君はやっぱりロバにも似ていて、これがあだ名として定着してしまうと困る、と言う気持ちにもなっていたのだった。

 しかし、実際のところ、ロシナンテの存在そのものを私たちの周囲が知らなかったのか、A君をロシナンテと呼ぶ人はいなかった。私自身もそんなふうに呼ぶ子とはなく、年に何回か、本人の前でロバの身体にA君の似顔絵をくっつけてみたり、他の人に紹介するときに「僕はロシナンテに似てると思うんだけど」と言う程度だった。
 それが三十年前の話。実は僕とA君はそれほど親しくもならず、でも、同じ監督の作品のスタッフとして参加したこともあり、表面的に親しげにA君のことを後輩として接していた。
 一緒に撮影の現場に入ったときなどに、ときどき話をすると、A君は僕が驚いてしまうほどの映画好きだった。とにかく本数を見ている。エンタテインメント作品からいわゆるアート作品まで、あらゆる作品を彼は見ていたのだった。そして、それぞれの映画に対して自分自身の見解を持っているのだが、その見解一つ一つの薄っぺらさが気になりあまり深い話はしなかったような記憶がある。僕はどちらかというと、A君を心のどこかで軽く見ていたような気がする。
 そんなA君と僕は五年ほど前に再会するまで二十年ほど顔を合わせることがなかった。僕が仕事の都合で東京にいたこともあり、また、もともと深い友だちでもなかったので、会う必要も会わなければと言う願望もないまま、月日は流れたのだった。久しぶりに会ったとき、A君は初めて会ったときと、何にも変わりがなかった。相変わらず人とのコミュニケーションが妙なテンションだし、相変わらず映画の表面的な話ばっかりだし、少し話すとすっかり退屈してしまうような男だった。ただ、人としては中年の域に達していて、その分、顔色はくすみ皺は深くなり、一言で言えば退屈そうで、もう一言付け加えれば幸せそうには見えなかった。
 それでも、僕たちはまた毎日のように顔を付き合わせるような環境で過ごすことになった。一緒に組んで何かをするわけではないのだけれど、同じ空間で同じ人たちを相手にレクチャーのようなことをしなければならず、彼はその空間では僕の先輩となった。
 それほど深い人間関係がなかったとは言え、古くから自分を知っている相手と時間を過ごすということは、私にとってはそれほど楽しいことではなかった。特に人に何かをレクチャーするということを長い時間生業にしている人が私は苦手だった。お金をもらって何かを教える、という仕事には二通りあって、教える個人が請われて始まる仕事と、教えるという環境の中で、決められたことを教えるという仕事がある。そして、全社ではない場合は、ほとんど教える個人を少しずつ歪めてしまうことになる、ということを知っているからだ。教えているうちに、人は尊大になり不遜になり、自分自身を見失ってしまう。人が生まれ成人するほどの時間を経て、再び顔を合わせたA君のことを僕はその典型的な例だと思って眺めていた。
 だからだろうか。僕もすっかり大人になっていたのにも関わらず、彼のことを「ロシナンテ」に似ていると思っていたことを思い出した。そして、様子を見ながら、必ず相手が僕のことを何かに例えて揶揄したときや、同じ現場に後からきたということを理由にしてものを言おうとしたときに、「いやいや、A先生はロシナンテだから、親しみやすくて学生さんにも人気なんですよ」などと言ってみたりしたのだ。
 A君はそのたびに「なんすか、それは」と言いながら笑い、すぐに続けて私に軽口を叩いた。ちなみに、再会してからの私はA君のことをA先生と呼ぶようにしていた。最初の出会いが後輩であっても、年齢がほぼ同じで、いまの環境ではA君のほうが先輩であるという微妙な状況では、A君などと呼ばないほうがいい、と私は考えたのだった。
 おそらく、そんな気遣いが必要な空気はお互いにあったのだろう。時には仕事の相談をしながら、時には愚痴を聞きながら、それなりにうまくやってきたと私は思っていた。今日の昼間では……。

「僕は傷ついてるんですよ」
 そうA君が怒気を含んだ声で僕に話しかけたのは、その日の仕事を終えた夕方の帰り際だった。何の話かわらからずに、私が聞き返すと、A君はさっきよりも大きな声で、
「僕は傷ついてるって言ってるんです」
 と声を荒げた。その場にいた職員や他の講座の先生たちが振り返るほどの声だった。その声だけで、A君が腹を立てていることはわかった。わかたけれど、内容はわからない。それよりも、私は自分の後輩であるA君が私に腹を立てているということに驚き、反射的に防御と反撃の気持ちを心の内に持ってしまったのだった。
「傷ついたって、なんの話?」
 あえて、後輩に話すような口調で私は聞いてみる。
「あなたは、ロバだのロシナンテだの。僕のことを人に言ってるじゃないですか」
 そんなことか、と私は思った。そんなことを悪口だと思って、この男は腹を立てているのか。しかも、もう何十年も前から言っていることを。
「そんなことか」
 と私は声にしてしまう。すると、A君はさらに声を荒げる。
「そんなことかってなんですか。僕はずっとあなたのそういう言動で傷ついてきたんです。似顔絵描いたり、生徒の前で言ったり」
「君だって、一緒に笑ってたじゃないか。それに、嫌なら嫌ってもう何十年も前に言えばいいじゃない」
「言えないでしょう。言えば言い合いになるし」
 こんな小学生みたいな会話をした覚えがない、と私は思ったのだが、そんなことはなかった。そう言えば、同じようにこの教える場所にやってきたとき、ほぼ同い年の講師から、「後から来たくせに」と言われたことがあった。ルールを破ったことに対して、怒り狂った同僚から吐かれた言葉だった。あの時にも、小学生か、と思った覚えがある。また、こんなことに巻き込まれるのか、と私は呆然としてしまう。いくら、いい歳をしたおじさん相手だとしても、相手が傷ついたと言う以上、謝るしかない。
「それは悪かった。あやまるよ」
 私がそう言うと、A君は、
「謝ってないじゃないですか」
 とこれまた子どものようなことを言う。
「すみませんでした。ごめんなさい」
 私はそう言って頭を下げた。A君はだっまっている。
「黙るのはおかしいよ。謝れと言ったんなら、これで終わりにするか、納得してないか、はっきり言葉にしたらどうだい」
 私が言うと、A君は今度ははっきりと気に入らない表情になる。
「そんなことを言われる覚えはありません」
「覚えがなくても、そういう流れになってるんだから、大人ならハッキリするしかないよ」
 そこまで話してから、私はだんだんと腹が立ってきた。
「それにさ、謝っているけど、やっぱりおかしいよ。大の大人が傷ついたの、傷つかないのって。なんだか、大上段にクソつまらない自分の気持ちを振りかざしているけど、お前だって、人の傷つくことを言ったりしてるわけでしょ」
 私が言うとA君はなんだか半笑いで言う。
「僕はあなたを傷つけたことなんてありません」
「ふざけるな。君はこっちの経済状況も知らずに、『社長なんだから領収証さえ切ったら、経費でなんでも落とせるじゃないですか、生徒たちにご飯でも何でもおごってやってください』みたいなことを言い続けてきたよね。お前は、うちの会社が金の工面をしながらギリギリでやってきたことなんて知りもしないくせに、よくそんなことが言えたな」
「その話と容姿の話は違います」
「ガキの喧嘩みたいに、僕の方が傷つきました、みたいなくだらないことをいうな」
 私がそういうと、A君は黙りこくった。そして、もういいですよ、と言う。本当にもういいと私も思う。
「百歩譲って、君が僕の会社のことなんて知らないというならそれでいい。でも、『あなたを傷つけたことなんてない』とは言わせない。もしかしたら、君がロシナンテと呼ばれる数十倍、数百倍、傷つけるようなことを僕じゃなくてもいろんな人に言ってるかもしれない。もちろん、僕だって同じだと思う。ロシナンテという言う言葉が、それほど君を傷つけていたとは思わなかったし、いままでのやり取りのなかで君の態度を見ていると、本当にそこまで傷ついていたとは今も思えないけれどね。でも、謝るよ。そして、君には謝ってもらわなくてもいいよ。謝っては見たけれど、君が傷ついてることも含めて、正直、どうでもいいと思うから。それに傷ついてもいい相手だしね、君は」
 私がそこまで言うと、ロシナンテは、悔しさの滲んだ顔で、何か言いたそうだった。けれど、私は知っている。ロシナンテは何も言わない。(了)

ボクシング

笠井瑞丈

20代前半の時
ひと時ボクシングに
夢中になっていた時期があった

毎日ジムに通い
毎日同じメニューを繰り返す

ジムの会長は小林弘会長
元世界チャンピオンで
6度防衛した名チャンピオンだ

玄人好みのチャンピオン
あまり知られていないが

カウンターの名手で
『あしたのジョー』の
モデルになったボクサーだ

午後3時に必ず会長が奥さんと
車でジムにやってくる
僕はいつも少し早くジムに着き
ジムの前で会長が来るのを待つ
3時になったら誰よりも早く
一番に練習するのが好きだった
夜に行くと混んでいるのと
汗とワセリンの匂いそして
ムンムンとしたジム内が苦手だったから

夜はこれから世界を目指す
プロ選手も多いため
4っつしかないサンドバックも空いてなかったっり
怒声が飛び交い
ジム内の空気も
全く昼間とは違う感じになる

僕は別に世界を目指すとか
プロになろうとも思ってもいなかったので
昼間のまだ人も少ない時間に
サンドバックを叩いて帰るというのが丁度良かった

そんな中
昼間の時間に練習に来る
数少ないプロボクサーが一人いた
ほんと無口で挨拶しても頷くだけ
毎日毎日黙々と練習をする

会長は彼には特別厳しかった
もちろん一般練習生ではなく
プロ選手なので
当たり前といえば
当たり前でなのですが

毎日しごきに近い練習を
顔色変えず耐えている姿に
僕は何か憧れみたいなものを感じていた

これがプロボクサーなんだ

根性気合いそのような事で
精神の向上を図る時代であり
拳闘という匂いが残っていた最後の時代だったと思う

(次月に続く)

夏のダマスカスで怪しいものを仕入れて大金持ちになるという夢

さとうまき

今回は、ダマスカスの旧市街の中に宿をとった。旧市街はローマ時代に作られた遺跡もあり、中世には、13世紀から14世紀にかけて、十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐために、城壁で固められたそうだ。東門から石畳の狭い路地に入っていく。迷路のように入り組んだ狭い道に教会やら、モスクやらが混在している。

ダマスカスといえば夏でも日陰に入ればひんやりとしているし、朝晩はジャスミンの香りのそよ風が心地よい筈だった。ところが、今年の夏は暑くて、汗がたらたら出るし、湿気も感じる。夜になってもそれほど温度が下がらない。幸いにもホテルはキリスト教地区だったから、手軽にビールが飲めたので救われた。

今回のミッションは、赤ベコづくりを子どもたちに教えること。昨年僕がプレゼントにもっていった赤ベコを、シリアのアリさんというアーティストが子どもたちと一緒に樹脂で作ったのだ。いや、やっぱり紙の張り子のじゃないと。ということで教えるはずが、アリさんは研究して石膏の型を作って、張り子を自分で作ってしまったからすごい。彼がひとりで張り子のベコを50個以上作ってくれた。子どもたちが石膏の型に紙を張るところから体験して、あらかじめ作っておいた張り子に色を塗る。3日間で3か所、100人ほどの子どもたちと一緒に赤ベコを作ったのだった。

今回のテーマは、1)いろいろなところからダマスカスに避難している子どもたち。2)革命の都といわれたホムスに戻ってきた子供たち。3)小児がんの治療に来ている子供たちを対象にし、「みんなで平和のハーモニーを奏でましょう」というわけだ。この言葉は、子供たちが書いてくれたメッセージから選んだ。

例えばダマスカスの子どもたちが通う小学校から400メートルいくと、大通りを境に東側は空爆と迫撃砲で町がごっそりとがれきになっている。破壊される前に避難してきた子供たちが通っているそうだ。ホムスでは、レバノンに避難していたが数か月前に戻ってきたという子供もいた。お父さんは、レバノンでは仕事がなかったが、こちらに戻ってきてまた公務員の仕事に就くことができたと嬉しそうに話していた。

ともかく子どもたちは、大喜びでベコづくりに励んでいた。日本人が来てなんだか変なことをやっているのが面白かったのかもしれないし、赤ベコTシャツをみんなできてその一体感が楽しかったのかもしれない。

バスに乗って連れてこられた子供たちが手を振って帰っていく。ミッションは完了した、と報告しておこう。

シリアの内戦をテーマにした映画を何本か見たが、殆どは、民主化を訴えるデモから始まり、拷問を受けている映像や、破壊されたがれきの中から生き埋めにされた子どもたちが土埃というよりはコンクリートの粉で真っ白になり、血が混ざっているという残虐な映像、そして銃を撃ちまくる兵士たち。多くの人はそんなイメージをいまだに抱いていると思う。

ところが、行ってみて戦争のにおいはほとんどしなかった。前線から離れれば普通に人々は暮らしていた。避難していた人々も戻り始めている。国外に逃れた難民も62万人以上が戻ってきた。国内で避難していた人は130万人がもどっているという。でも全体からすれば10%から20%程度でしかないのだが。

去年は、政府が制圧し、仕掛け爆弾などの除去がおわると、もと居た住民たちが様子を見に来る場面にでくわした。でもとても人が住めるような状態ではないとわかればもはや誰も近づこうとしないから戦争の傷跡すら見えにくいものになってしまっている。

で、もう一つのミッションは、シリアの怪しげなものを仕入れて、商売して大儲けをするという計画だ。ダマスカスはお土産になりそうな寄木細工のモザイクの箱や、刺繍製品とか、いろいろ有名なものがある。スークに出かけて行って調査しながらいろいろ買ってみた。

そして、今回お目当てなのは、ナチュラルオイルで作ったシャンプー。中東によくあるのが、ハーブや、バラの花の乾燥したものやら、訳の分からない木の根っこだったり、サルノコシカケのようなものとかが、漢方のように売っているお店がある。サメの乾燥したものや、フグの乾燥したものまで天井からぶら下がっていて、一体何に使うのか怪しげなのだ。

アラブ女性は意外とシャンプーやトリートメントも、ナチュラルなものを気にしている。白髪染めもヘナを使ったり。そこで、売れそうなシャンプーも何本か買ってみた。ところが、暑すぎたせいか、いくらで買ったのか思いだせないのだ。ビジネスマンになるのはなかなか容易ではないな。

ダマスカス旧市街をあるけば、魔法のランプや空飛ぶ絨毯に巡り合えそうな気もする。どうせ怪しいものなら今度はそういうものを探しに行こうと思う。そのほうが、楽に暮らせて行けそうだ。

ウッドストックから遠く離れて

若松恵子

BS世界のドキュメンタリーで「ウッドストック~伝説の音楽フェス全記録」が、全編・後編の2日にわたって放送された。ウッドストックから50周年の今年、2019年にアメリカで制作されたドキュメンタリーだ。ウッドストックのエッセンスを紹介する良い番組だった。

フェス開催の経緯、4人の若いプロデューサー、会場を貸した農場主、フェスを支えたホッグファームというコミューン、ステージの裏方の人たちが主人公だ。そして何より集まってきた人々、観客の表情がみんな満ち足りていて、おだやかで、魅力的で、引き込まれてしまった。おおぜいの人たちが会場に集まってくる風景に、観客としてウッドストックを体験した人たちの回想がかぶさる。

「自分と同じように感じている仲間を探していたんです」

「自分たちが目指してきたのは、こういう自由なんだと思いました」

「40万人集まって何の暴力もいざこざも起きなければ、ここでの愛を社会に持ち帰って世界を変えられると思いました」

最初にフェスが計画されたウッドストックでは、ヒッピーたちの暴動を恐れて周辺住民が反対し、開催できなくなってしまったという。

ウッドストックフェスティバルに会場を提供した農場主のマックス・ヤスガー氏が観客に向かって話をさせてくれと言い、舞台でスピーチする場面が出てくる。

「この町だけでなく、全世界にむけて君たちは大事なことを証明したのです。50万人が集まって音楽を聴いて3日間楽しく過ごせたということ。それを成し遂げた君たちに神の祝福あれ」と彼は語りかける。

そして運営者の回想が続く

「彼は怒ったりせず私たちを認めてくれました。農場はめちゃくちゃになったでしょう。でも保守的な農場主があんなふうに感じるのなら、それはすごいことです」と。

音楽を聴こうという単純な動機で集まってきた若い世代を受け入れてくれた大人もまた存在していたのだということがわかる。大人も大人らしかったなと思った。食料を分け合う、毛布を広げて身を寄せ合って雨をよける、ホッグファームが引き受けてくれた警備はユニークなもので、「こうしなさい」ではなく「こうしてくれませんか」というお願い隊だったという。

「何もないところにきちんと機能する街ができたようでした」という回想が印象的だった。

4日目の朝、最後の出演者であるジミ・ヘンドリックス演奏のアメリカ国家が会場に響き渡る。ロケット弾やミサイルが炸裂する音を再現したギター。「世界で最も平和的なこの集まりを彼はベトナムと結びつけたのです」という運営者の回想が続く。

音楽を聴いた人たちが自分の街に帰って、できたことは小さなことだったかもしれないけれど、人間はウッドストックのように平和に集い、暴動を起こさずに分かち合うことができるのだと思えることは希望があると感じた。

リコーダー

璃葉

この街を選んだ理由はとくにない。6年前、不動産屋のお兄さんに紹介されたアパートは車も入れない小道の奥にあった。玄関には夾竹桃やよくわからない植物がもっさりと茂っていて、辺りの薄暗く陰気臭い雰囲気に少し警戒したけれど、裏手にある共用のベランダにまわったとき、目の前に広がる桜の木々を見て、即座にこのアパートに住むことを決めたのだった。肌寒いあの日、桜の葉がゆるやかな風に乗ってさらさらと散り、夕陽で黄金色に輝いていたのを今でも覚えている。

そして現在、私はこの部屋を出ようとしている。夏は大音量の蝉の声、秋は鈴虫、冬は枯葉の滑る乾いた音、そして春には怖いぐらいに乱れ咲く桜。それらとお別れすると思うと、素直に寂しい。案外自分はここをかなり気に入っていたのだと今更ながら気づく。それなのに、もうここにいてはだめだと感じていて、はやく移動しなければ、と焦っている。行き先も決まっていないのに、この感覚はどこからきているのだろう。

引越しを決めてからは、掃除をしながら今後必要なものとそうでないものを仕分けている。が、とにかく自分が所有しているものの多さに呆れかえっている。これは必要なもの、要らないもの、燃やしたいものと判断しながら、同時に自分にとって本当に大事なものはあるのだろうかと、もはや投げやりに近い妄想をしはじめ、気づいたら一日が過ぎようとしていた。

分子の集合体である物質に記憶やそのほかの何かが入り込み、それがただの素材ではなく、いつのまにか取り替えのきかないものになる。自分にとって何となくそうゆうものはある気がしている。でも、これだと言い切れるものはない。一体まわりの人は何を大事にしているのか。そもそも、そうゆうものがあるのか?と妙に気になりはじめた。

友人である中野さんに大事なものは何かと聞くと、“リコーダー”と答えが返ってきた。彼女とは4、5年ほどの付き合いになる。本作りの仕事で知り合い、いつの間にか飲み友達になった(毎回ついつい夜遅くまで飲みすぎてしまう)。プライベートではギターで弾き語りをし、春になると全国をまわっている彼女がティンホイッスルを吹くことも知っていたけれど、リコーダーの件については初耳だった。

1DKの眺めのよい中野家で赤ワインを飲みながら、彼女のつくったトマト煮込みやポテトサラダ、イチジクをつついていたときのことだ。どんなリコーダーなの?と聞いたとき、私は脳内に1本の笛みたいな物体をもわもわと浮かべていた。ところが彼女はそのことばを聞いたとたん、部屋の各所から次々とケースを取り出してくる。押入れの引き出しやその奥から、本棚の隅から。その動きのすばやさに吃驚する。クライネソプラニーノ、ソプラニーノ、ソプラノ、アルト、テナー、バス、そのほかティンホイッスルや知らない楽器もちらりと見える。リコーダーのケースがコンパクトだからか、まるで部屋中に武器を仕込んでいるような所有の仕方にげらげらと笑ってしまった。笛だけで20本はあるに違いない。

それぞれのケースを開けてもらうと、木製のつやつやしたリコーダーが分解されて入っている。美しい。中野さんはリコーダーを一つ一つ組み立てながら、小学校のころ、リコーダー部に入っていたときの話をしてくれる。教室の隅っこでこっそりリコーダーを吹く子だったらしい。こっそり吹いている感じがなんとなくどころか、すごく想像できる。

全て自分で揃えたものなのかと尋ねると、自分で買ったものと贈りものがあるそうだ。好きと言うと各方面から集まってくるのはよくわかる。私もそれには心当たりがある。ウイスキーだ。自分の大事なものとして挙げるのは違う気がするけれど。

組み立てたリコーダーをひとつずつ吹いていく酔っ払いの中野さんを眺めながら、赤ワインを美味しく飲む。0時をまわり、わたしはすっかり終電を逃していた。

蛇苺

イリナ・グリゴレ

手術後しばらく杖の支えで歩いた。そのときまで当たり前のようにできていたことができなくなった。病院の外の世界が覚えていた雰囲気と違って、暗かった。杖を置いたら少し歩けるのにまだ身体に自信がなかった。傷があまりに大きかったのだ。リハビリにバスで通うほかは、六畳の部屋にしばらく引きこもった。

今にしてみれば、それは自分の身体と向き合う充実した時間だった。杖がカタツムリのアンテナのように自分と世界の間にあって、それで世界を感じた。ただただ、ゆっくりと歩く辛さと喜びを感じて生きた。こんなに集中して歩いたことは今までなかった。筋肉が落ちてバランスが崩れて世界観が変わる。ただの数ヵ月間の時間が、昔話のように、深い森から出たら何年もたっていた。時間の感覚も、杖のような長い棒のような何かの塊になった。ゆっくり、ゆっくりと体があの自分の延長になった杖にだけに集中し、それ以上ものが考えられない。

ある日、宇宙探査機はやぶさの打ち上げの話を聞きに本郷まで出かけた。身体がこんな風になると、不思議に人間と宇宙の話が興味深くなる。杖でよちよち歩いて、本郷キャンパスが暗い中、いつか夢に出た雰囲気を思い出させた。

宇宙の話を聞いたからか、命は動きだと気付かされた。引きこもってばかりしてはいられない。旅に出ることにした。香港の空港に着いたのは夜九時ごろ。大学院の友達二人と学会に行くことになっていた。空港からタクシーに乗って街へ向かった。タクシーの運転手は若い男性で、車があまりに古くぼろぼろで、私たちの荷物をトランクに入れたらしまらなくなって、紐で縛ってすごいスピードで道を走り出した。テレビゲームのように運転していた。ニルヴァーナの曲が流れた車内や外から窓に映っていた高速ビルの夜景をみて目眩がした。カート・コバーンの声はなん年ぶりだろう。高校のころ、誕生日にIQテストの本と一緒にニルヴァーナのカセットテープを先輩からもらった。当時もほとんど部屋に引きこもって図書館の本を読みまくる生活だった。不思議なプレゼントだと思ったが、そのカセットテープを毎日繰り返し聴いていた。アルバムは、ニューヨークで録音されたMTVのアンプラグドバージョンだった。とくに”The Man Who Sold the World”と”Plateau”という曲が気に入った。プラトーという言葉が好きだった。

あのころ、わたしはとにかく遠いところへ逃げたかった。知らない地、知らない世界、知らないところの島のような地に行きたかった。コバーンの声はニューヨークで録音されていたが、私が聴いていた時もう彼はすでに死んでいた。

高校時代の私はなんであんなに寂しかったのだろうと思いながら、タクシーはものすごいスピードで走り、タクシーのミラーに映っていた高速道路はどこかのインスタレーションのような作品っぽい映像にみえた。暗いなか彼の集中している横顔が狼にみえた。そのぐらい私の杖で歩く日常のスピードとそのタクシーのスピードが違っていた。いつか前にシカゴにいたときもそうだったが、空港からのタクシーの運転手と、はじめて遠くに見えたその都会の夜景が一致していた。違う世へ導く案内役を務めるのはいつもタクシーの運転手だな。現代という時代では、タクシー運転手がステュクスの川を渡す役になっているのだろうか。

香港ではずっと目眩がしていた気がする。ショッピングモール、屋台、お店、ホテルのイメージが混乱する。新聞の朝刊をみたら、ポスト社会主義のルーマニアの写真集が紹介されていた。黒い布で頭を巻いて薪ストーブの近くに座っているおばあさんの白黒写真をみて懐かしくなった。あのおばあさんの目がなにか私に訴えていた。そのおばあさんとどこかで遇ったような気もした。その写真のことを考えながら駅前で売っていた焼き芋をどうしても食べたくて買って食べたが、パサパサしていておいしくなかった。どこへ行っても、食べものの味で落ちつきたい私。

香港に何日いたのか覚えてないが、杖で歩きながらその資本主義というイメージを理解しようとしていた。資本主義の人間が完璧な身体でいられることを求められるという感じもした。杖で歩いている若い白人の女性の私が違和感を与えた様子だった。ジロジロとみられた。

そのとき、なぜかベルイマンの『野いちご』という映画を思い出した。私も長い旅に出る死に近づいている人の感覚だった。建物の下にたくさんの人が歩いていて、その中に私がゆっくり、違うスピードで歩く。なぜか、人と建物の間のノイズがずっとその夢の感じを築いていた。ずっと暗かった。焼き芋の屋台の人以外、現地の人と会う機会はほとんどなかった。

へバスで移動したとき、信号で止まった車の中にいる人がはじめて近くから見えた。その男性は、鼻をかんでそのティシュを見てからそのまま外に捨てた。高速道路とビルの間からお月様が一瞬だけ見えた。そのとき友達が私の考えていることを言葉にしたかのように「よかった。自然がここにもあるね」と言った。なんだか、月が見えたことで、まだ地球にいるという安心感が戻ってきた。

もう一つ大事なエピソードが起きた。学会の遠足で、下町の暗い高架の下に占い師のようなおばあさんたちがまだいる、と案内された。そこで不思議な儀礼が行われるらしいから、若手人類学者の卵が見るべきところと言っていいだろう。意外と大勢の客が運勢を知るために来ていて、あたりは混んでいた。グループの中に占ってもらいたい人がおらず、私としては自分の身体で経験しないと気がすまないから、試しに占ってもらった。

占い師は、あなたの病気の原因がわかる、と言った。杖のせいか私が病人にしか見えなかったのだろう。それから占いのおばあさんは、歌うような不思議な抑揚の言葉で語ったが、私は向こうの店で売っている不思議な食べ物をぼんやりと眺めて見ていて、何も感じなかった。通訳した人はかなりの怖がり屋で、複雑な表情をしながら、あなたの病気の原因はすごく寂しいおばあちゃんの幽霊だそうです、と英語で言った。詳しく知りたいならもっとお金がかかると言われたのでそこでやめた。占い師の話に寂しいおばあさんの幽霊が出たのは、私がその朝に新聞でみたイメージのせいかもしれなかった。香港の旅はここで終わった。

香港から帰ってきても自由ではなかったが、リハビリで小さな代田川の近くを歩いた。すると、季節が一瞬で入れ替わっていた。やはり違う世界に入っていたに違いない。

そのあとすぐまた旅に出てルーマニアの実家に行った。杖をついて。そうしたら父もちょうど病院にいて大きな手術を受けていた。父の体にできた大きな立派な傷を、私の手術跡と見比べた。その瞬間、父の今まで許せなかったもろもろのことを許している自分に気付いた。次の日から、もう杖で歩くのをやめることができた。ゆらゆらしながらも自分の身体が解放された。人はなぜ互いに傷つける生き物なのだろう、と自問しながら。

すぐ日本に帰らなければならなかったので、生まれ育った家には一時間ぐらいしかいられなかったが、庭に入った瞬間驚いた。それはまた新しい世界への入り口だった。家の周りのすべての庭に美しい白い花が咲いていた。黒い土の上に、たくさんの白いすみれだった。あの家になん年もくらしたのに、白いすみれが咲くことはなかった。家も近くの森の一部だと感じた。

日本に戻って、リハビリを終えてからも、しばらくあの細い川の近くを歩き続けた。そうすると、香港の占い師にいわれたおばあさんの幽霊が、しばらく前に亡くなった父方の祖母のことだと分かった。彼女は若くして夫を亡くしたためか、一人息子である私の父が結婚して彼女のもとを離れたことが許せなかったようだ。

亡くなった人間をみたのも彼女が初めてだった。彼女を看護して最期をみとったのは私だったから。きっと寂しかっただろう。亡くなった瞬間、私のほうをみて、何か呼びかけようとしていたが、部屋に集まった黒い服に身を包んだ村の婦人たちは、私が彼女に近づくのを止めた。私が近くいると、魂がうまく体を出ていかないから、と村人たちは言った。あの日の村の女たちは、まるで死霊にしか見えなかった。彼女の孫である私も、もう一人の母方の祖母に育てられたから、最後まで彼女にあまり甘えることもなかった。彼女にはこれも寂しかっただろうか。

死がいよいよ近くなると、村の婦人はみな黒い服を着て病人の部屋と庭に集まり、臨終の時を待つというしきたりがある。きっと彼女にはそれがよかった、あまりにも一人での人生が寂しかったのだろう。そんなことを思いながら、代田川のほとりを杖なしでゆっくりと歩いた。

あのとき、踊りをみに行く前の夜のこと、祖母の庭に光る木の夢を見た。その木には蛍のような生き物がびっしりと取り付いて、それがうごめくたびに、木の全体が光って動いた。そして、その翌日、私が踊りを見ていると、暗い中に浮かぶ身体が小さな電球をぶら下げてうごめくように踊っていた。まるで、夢に見た動く光の木のように。全部が繋がっていると思った。

川のほとりを歩きながら、またベルイマンの『野いちご』を思い出した。主人公の息子は新しい人間をこの世に生み出すことに反対していた。そういう傷というのもある。なぜか香港で聞いた寂しい幽霊のことが心に浮かんだ。きっとあの幽霊となった寂しい祖母は、ほんとうは私自身のことだったのだ。そう思いながら川べりに実っている蛇苺に気が付いた。とても綺麗に見えた。どうしても味見したくなった。蛇が食べる苺とはどんな味がするのだろう。その赤い色がものすごくはっきり見えた。思わず一つ実を口に運んだ。あまくなかった。

(「図書」2017年9月号)

179 純水

藤井貞和

小サナ火ガ坂ノアタリデ泣イテイル。 アレハ妹ダ、

ト友人ハ 言ッタ。 電話ノムコウデ、

友人ハ ソウ言ッテ、ヒトシキリ泣イタ。

ドウシテ明ルク、ソノアタリガ見エテイタノダロウ。

小サナ火ガ、ト思イナガラ眠ル夢ニ、

友人ノ妹ガワタシニモ見エタ。 死ンダヒトヲ夢ニ見ルノハ、

ヒサシクナイコトダッタ、ト思イナガラ、

ワタシハ書イタ、ワタシノ問題。 「純(ひと)」トイウ題ノ詩。

水ハ 異界。

(純は妹の名前。万葉歌では「ひと」と詠む。なぜひとは詩を書くのでしょう。ただ、自分のなかでバランスを取りたかったから、と思います。)

浄土を見る(晩年通信その3)

室謙二

 記憶が悪くなって確かではないのだが、二十年以上前のことだと思う。

 浄土を見たいと思った。

 そんなものは、あるのかな?

 とりあえず、あるということにした。

 そこには明るい光があり、風が吹き、大きな木が育ち、鳥が歌い、水が流れ、無限のいのちのアミダ(阿弥陀)がいる。浄土を見たいと思ったのは、心理学者ユングの「観無量寿経」の解説を読んだからであった。

 もっとも、いろんな浄土があるらしい。華厳経(けごんきょう)には蓮華蔵世界という浄土がある。大日如来は密厳浄土(みつごんじょうど)にいるし、釈迦如来は霊山浄土(りょうぜんじょうど)、山の頂上で法華経を説いた。

 観世音菩薩の浄土は補陀落(ふだらく)浄土とある。しかしもっとも知られているのがアミダのいるの西方極楽浄土で、観無量寿経によれば、私たちは瞑想でアミダ浄土を体験することができる。

 それで観無量寿経にしたがって瞑想をして、浄土を見ようと思った。まずは観無量寿経の瞑想マニュアルの部分を、なんどもなんども読んだ。いくつもの日本語訳を読み比べて、原文の中国語にも目を通した。

 西方に沈む太陽を見るのである。それは目に焼き付いて、目をつぶっても太陽の形と光は残っている。次に水を見てその中に入っていく。

 私はバークレー・ヨットハーバーはずれの岩に座って、観無量寿経のとおりやってみようとしていた。沈んでいく夕日を見て、夕日が沈んだあとその太陽を想像する。頭のなかではっきりと見えるようにする。それから水を想像する。そしてその水の中に入っていって、大地を発見する。それが浄土である。

 そこにはさまざまな楽器があり、八種の風が吹き楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我を説いている。そして中心には仏がいる。私たちが仏を思い描くとき、その心がそのまま仏である(是心作仏、是心是仏)、と観無量寿経は言う。そう言われてもなあ、私たちが仏を思い描く心がすなわち仏である、などとすぐには思えないよ。

 観無量寿経に書かれたとおりに、想像することは練習すればできる。しかしそれは観無量寿経というテキストを片手にそう思っているにしか過ぎない。何日もバークレー・ヨットハーバーの半島の岩に座って落ちていく夕日を見ていたが、観無量寿経のテキストのように想像はできても、手にしたテキストと関係なく、浄土が忽然と私の前に現れるわけではなかった。

 敦煌へ

 あとになって私は、法然の三昧発得記(さんまいほっとくき)を読んだ。そこでは法然が、念仏を唱え続けることによって、観無量寿経に書かれているような浄土を体験している。三七日間、毎日七万回の念仏(なむあみだぶつ)をとなえるのである。七万回というと、一日四時間は、眠ったり他のことで唱えないとして、だいたい一秒間に一回、一日二〇時間、三七日間、ナムアミダブツと唱え続けたのである。試しに、集中して一時間でもそれをやってみれば分かるが、毎日二十時間、三七日間やってみる気力はない。これは大変な修行である。

 そうしながら、観無量寿経の水想観(太陽が沈んだあと水をみる)、地想観(水の下にある大地をみる)、宝樹観(大地の大木を見る)、宝池観(そこには池がある)、宝殿観(アミダの宝殿を見る)を行う。

 観無量寿経には、まず書かれたとおりやって、これからさきは自分でやりなさい、自由に浄土を経験しなさいと何回も書いてある。だけど何日か夕日を見たところで、観無量寿経テキストのような浄土は想像できても、法然のようには浄土は浮かび上がってこない。

 法然は「建仁元年二月八日の後夜に、鳥のこえをきく、またことのおとをきく、ふえのおとらをきく、そののち日にした号て、自在にこれを聞く」と言っている。いろんな色も見えてくる。そんな風に、自在に浄土を体験することは無理だった。

 ところで浄土に言って何をするのか?

 浄土に行けば、欲望も悩みも様々な不都合も、一切がなくなるということではない。私たちは浄土で誰に邪魔されることなく瞑想ができて、修行(プラクティス)ができる。それは悟りに至るプロセスである。悟って浄土に至るのではなく、浄土での修行で悟りに至るのである。親鸞は、「アミダ浄土は、遠く離れたところではない」と言っている。さてテキスト片手で浄土は「体験」できたが、実際の浄土にどうやって行けるのかは分からない。それで敦煌に行ってみようと思った。

 敦煌の岩壁の掘られた横穴には、そこで修行をした僧たちが描いた浄土の絵がたくさんある。十数年前の六〇歳の還暦記念に、妻のNancyをさそってカリフォルニアから出かけていった。

 冬であったので、ゴビ砂漠(デザート)の外れにある敦煌は寒かった。ロス育ちで寒さに弱い妻は震え上がり、敦煌の街で服を何着も買って、着ぶくれであった。しかし一つの横穴にで出会った大仏に感激して、突然に床に臥して参拝したのには驚いた。何度も参拝する。私たち以外に誰もいなかった。大仏の顔は、外からの光で輝いていた。

 ともかく寒かった。

オノマトペからザーウミへ

高橋悠治

1972年に小杉武久に委嘱した Piano-Wave-Mix は どんな演奏をしたか忘れてしまった ピアノを弾いている写真があり そばに座っているのが小杉だろうか だれかわからない 楽譜(というか 演奏指示書) も長いこと行方不明になっていた 2009年にそのかわりに ver.2として書かれた新しい曲は 電子ピアノで既成の曲を弾き それを電子的に変調する 同時に声は Wave Code として 演奏者が選んだ 26種類のオノマトペを変化させる

今年の夏 初版の楽譜がおもいがけなく見つかった Wave Code は a からzまでのアルファベット26文字ではじまるオノマトペで Piano Code はピアノの88音を26の枠内に 重複しないように0音から13音までの音の音名と音域にランダムに配分し それらを単音・和音・フレーズのどれかのかたちに変えて弾く  Piano Code はどうやって枠内に音を分配したのかわからないが 音数の多い枠は 無調的な響きではなく それぞれにちがう色があるようだった 演奏がどのくらい 小杉の思い描いていたような空間や時間になっていたのか わからない

昨年亡くなった小杉を追悼するコンサートが9月にEgg Farm であった そこで Piano-Wave-Mix の初版を再演し for Kosugi というピアノ曲を作って弾いた Wave Code のオノマトペをピアノの上の手のうごきに変え 時々は小杉の「54音の点在」を思い出しながら 小さな音があちこちで鳴るような瞬間を入れた

オノマトペには それぞれの手ざわりがある 意味や論理では決められないが 子音や母音のちがいから 明るさやひらき うごきかたが感じられる エレーナ・パンチェワの日本語のオノマトペについての研究論文「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」(千葉大学、2006) や 隈研吾の「オノマトペ建築」(2015)もある 

ひとつの状態をオノマトペで声にする身体はそこにとどまらず 印象のなかから外へ出る いくつかのオノマトペをゆききしながら 逸れていき 名のない空間がひろがってくれば そこで自由にうごきまわれるだろうか

フレーブニコフの「ザンゲジ」のなかのザーウミ(意味を超えたことば)をとりだして 鳥のことば 神々のことばだけでなく 星のことばも作曲してみようと計画していて 日本語のオノマトペとはまたちがう音の空間 別な歌の調べがあるのかもしれない

プロセスの音楽を作り演奏するのは それ自体が先の見えないプロセスで それとともに変化する身体になっていくだろう