しもた屋之噺(224)

杉山洋一

息子と連れ立ってフランクフルトへ向かう機中です。羽田空港の国際ターミナルに着いて、運行便の電光掲示板の9割以上が「運航中止」と書かれているのは思いの外衝撃的な光景で、普通の日々からは程遠いのを実感させられます。
店舗もレストランも軒並み休業していて、空港内は閑散としています。係員の女性曰く、以前は喫茶店など文字通り全て店を閉じていて、当時のトランジット客は文字通り路頭に迷い大変な経験をしていたそうです。
羽田からの機内は意外に乗客が多く、6月末にミラノから乗った便とは随分様相が違います。尤も、この便に決定するまで、2度も別便がキャンセルになりましたから、その振替え客で混んでいるのかもしれません。世界にはりめぐらされた動脈は、すっかり干乾びきっているのです。

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝明薬通りの祠を通りしな、改めてまじまじと眺めると、像の右上に赤字で貞享二年と彫りこんであるのに気がつく。1685年だから大バッハの生まれた年に、ここに石像を建てていた。百年前程度の石像と思いこんでいたが、急に崇高に見えてくる。以前近所で植木に水を撒いていたおばあさんに、石像について尋ねると、よく知らないようだった。お稲荷さんかねと笑っていたが、お稲荷さんには見えなかった。

東京の新感染者数472人。昨日は463人。どうなるのか。広島のライブハウスや、尼崎の劇団で集団感染。
夜半一柳先生よりお電話を頂戴し、26日の演奏会開催について意見を聞かれる。
毎日のように主催者やマネージメント、オーケストラと話し合いを重ね、可能な限り万全な感染症対策を準備しているが、今後感染爆発や医療崩壊が起きて、政府から公式に自粛要請があれば万事休すでしょうとお答えする。
個人的には、是が非でも開催ありきではない、とはっきりお伝えした。感染爆発に慄きながら数ケ月を過ごせば、誰でもそう考えるようになるはずだ。

8月某日 三軒茶屋自宅 
朝5時半、何時ものように世田谷観音にでかけると、僧侶の家族と思しき小学生ほどの兄妹が、題目を唱えながら梵鐘をついていた。
低く尾をひく鐘の音を聴きながら境内を後にすると、梵鐘の下を走る道路に、一人じっと目を閉じ、手を併せて立ち尽くす老人の姿。

オルフィカの各パートは演奏がむつかしい。少し速度を落としてもよいか悠治さんにたずねる。
「クセナキスの曲の演奏からもわかるかもしれないが、演奏不可能だからテンポを落とすというのは まちがった考え方だと思う
古典ギリシャ語を習うときにすぐ出てくるのは プラトンが「ソクラテスの弁明」に書いたことばです
「試練のない生は生きるに値しない」 能力を超えた難しさに直面して 不可能とわかりながら試みることで 書かれた音を忠実に再現するのではない 演奏の創造性が生まれる
これは クセナキスの書いてくれた曲の演奏だけではなく ケージの曲 あるいはフェルドマンでも それぞれに 物理的不可能を文字通り(つまり新即物主義的)ではなく 楽譜の示唆によって創造的に 意識を超えて行為しながら 身体的疲労を通して生まれる覚醒 演奏者たちをそこへ誘うためには 指揮者(あるいは調整者)は「音楽的に」表現しようとせず 冷静にハードルを提示する役割に徹する これはシェーンベルクやクセナキスや(おそらく)ノーノを指揮したシェルヘンの方法でした シェルヘンが言っていたのは プロイセン的精密さ(近代主義)は世界にひろまったが それとはちがうなにかがあること それを若い時シェーンベルクの指揮で『ピエロ・リュネール』のヴィオラを弾いていたころ学んだのかもしれない 18世紀の啓蒙主義的知でもなく 19世紀的・ロマン主義的自己超越とは似ているように見えても まったくちがう古代的智 クセナキスは「無神論的苦行」と言っていましたが それはオルフィズムの あるいは禅の あるいは老子の「無為」 に近い身体の使いかたとも言えるのだろうか」

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝世田谷観音に出かけると、僧侶は未だ読経中で、開いたままの本堂の格子から観音像を眺める。町田の両親から、昨日もいで糠につけたばかりのキュウリ2本が届く。この異様な暑気に糠漬けはよい。スカイプで久しぶりに母の顔を見たが、思いの外元気そうで安心する。

「仰ることの意味は、頭ではよく理解できる気がします。「6つの要素」をリハーサルした経験からもそう思いますし、実際「オルフィカ」には「6つの要素」のようなパッセージが出てきます。
まだ身体に入っていないので判りませんが、そのメタ感覚に近いものを、大集団と共有するプロセスについて考えています。
案ずるより産むがやすしかもしれませんし、楽観はいけないかもしれません。策を巡らせてばかりいれば、本質からずれてきそうです。尤も、これは毎度のことで、今回は特に編成も大きく、個々が複雑なので余計そう思うのでしょう。勉強をしていくうちどこかで吹切れて、これでやろうと思うものが、自ずから生まれてくると信じています。
クセナキス作品に比べ、悠治さんの作品はより演奏が難しいと思います。やはり悠治さんが演奏に係わっていらっしゃるからでしょう。クセナキスは音と身体の生理が隔絶しているので、精神的に扱いやすい部分がありますが、悠治さんの作品は、身体的運動と音楽が、より具体的にせめぎあう気がします」。

8月某日 三軒茶屋自宅
午後から読響の藤原さんと、オーケストラ配置打ち合わせ。その前に本條さんと悠治さんと「鳥も」リハーサル。悠治さんもお元気そうだ。近所に住んでいてやり取りもしているのに、今回会うのはこれが初めて、と笑う。
本條さんの唄に、相聞歌のより女性らしい心情をひたひたと感じたのは気のせいか。毎回お会いする毎に、本條さんの唄の息が長くなっていると思う。フレーズのような稜線ではなく、凛とした佇まいの絹糸が、本條さんの処まで伸びていて、そのずっと先のところで、彼は糸を繰り続けているようにも、撚りをかけているようにも見える。

8月某日 三軒茶屋自宅
モーリシャスでタンカー座礁。ランバンサリのリハーサルに内幸町まで自転車で出かけたのはよいが、溜池を折れた辺りで通行止めになっていて、迂回路を行くうち道に迷う。
店員に道を尋ねようとコンビニエンスストアに駆け込むと、無人操業になっていて愕く。これが未来のコンビニエンスストアの姿なのか。未だ実験段階だとばかり思っていた。感染症対策にも少子化にも好都合なのだろうが、在留外国人のアルバイト先減少と、航空会社の客室乗務員の副業許可のニュースを読んだばかりで、どこか納得がゆかない。オーケストラも閉鎖されてしまうのではないか、とふと恐ろしくなる。将来は無人オーケストラか。今回の感染症で、ピアノコンクールのヴィデオ審査が広がったが、家人曰く、今後コンクール審査は、参加者はデジタライズされたピアノを弾き情報として記録して、審査員は在宅のまま、家にその情報を読み取れるピアノを用意して、デジタルピアノが演奏する参加者の演奏を審査するようになるという。

閑話休題。ガムランを振るのは甚だ不自然ではあるが、響きは楽しいし、子供の頃から憧れていた。本番中の会場での舞台転換を最小限に抑えるため、ガムランは置きっぱなしになるので、金属楽器の反響を調べる。座布団を中に敷いて吸音すると、ほぼ反響が抑えられた。
最近めっきり見かけなくなった右翼の街宣車が、「宇宙戦艦ヤマト」を高らかとかけて、内幸町のあたりを走り回っていた。

8月某日 三軒茶屋自宅
明薬通りの石像は、庚申尊の青面金剛だとわかる。どういうわけか石像には滋養強壮剤が供えてあった。青面金剛の憤怒の相は、最早すっかり滑らかに削られていて、角ばった顎あたり以外は判然としない。朝、世田谷観音に出かけ、特攻観音に手を併せた瞬間、梵鐘が鳴った。
山根作品は、一見単純な繰返しに見える和音を、一つずつ書き出して読み返すだけでも、随分印象が変わる。不安定で思いがけない内声の動きは、ていねいに一音ずつ読まなければ手触りまで行きつけない。落着いた動きのようだが、思いの外すばやい動きの、凸凹のある表面が浮かび上がる。
予約していたミラノ行きフライトキャンセル。

8月某日  三軒茶屋自宅
イタリア新感染者数574人。死亡者数3人。ICUには1人のみ。信じられない。結局生活習慣の違いはあまり関係なかったのだろうか。
楽譜というのは面白くて、作曲者側から眺めるのと、演奏者側から眺めるのとでは、まるで違ったものになる。作曲者にとってごく単純な事象であっても、演奏者は、記号を読み込み咀嚼し、思索を巡らせても到達しえない、複雑で奇怪な存在になったりする。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝、慌ただしく大きな段ボール数箱が宅急便で届き、夜、富山より家人と息子が三軒茶屋帰宅。半年ぶりに会ってそれぞれ感慨は覚えているのだろうが、ごく自然に三人の生活に戻る。息子に背が伸びたか尋ねられたが、背丈より寧ろ、雰囲気が大人びたように感じる。背が伸びた分以前より痩せて見えるが、中学生の頃は、こちらも随分痩せていると笑われたから、自分も似たようなものだったのだろう。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝から森作品リハーサル。関係者一同、感染症予防に最大限の配慮。演奏者の使用する椅子や譜面台に、それぞれ名前が振られていて、共有はしない。演奏者がそれぞれ自分の名前の書かれた椅子や譜面台をとって、定位置にセットする。机なども気が付けばすぐにアルコールで消毒して、換気にも充分気を配りながらのリハーサル。
皆で演奏できる喜びを、それぞれ噛みしめながら音を紡いでゆく。独奏をつとめる山根君と上野君が、とても深く咀嚼し自らの音楽としてあって感嘆する。作曲者と独奏者二人は、素晴らしい共同作業を実現していた。音を鳴らすだけの次元よりずっと深い部分で、互いに音という言葉を交わしている。迸る瑞々しい才気。

三軒茶屋自宅
権代作品リハーサル。先日から録音した通し稽古を聴いていただき、権代さんから助言をもらっていた。
作曲者から直接アドヴァイスをいただける倖せ。主旋律と信じていたものが装飾句で、装飾と信じていたものが主旋律だったりして、自らの読譜力の低さを恨めしく思う。実際、権代さんの助言通りに演奏すると、まるで違った風景が浮き上がる。それまで断片的な情報の並置だったものが、突如として有機的な相関関係を浮彫りにし、作品全体に一貫した意味をもたらす。
今日は権代さんがリハーサルにいらして、久しぶりにお目にかかる。大学時分、留学中だった権代さんから、海外に出るよう強く勧められて現在に至る。表参道の喫茶店で、彼と話さなければ、留学はしなかったかもしれない。日本でずっと過ごしていたら、全く違った人生だったに違いない。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
ここ数日、メトロノームをかけながら、日がな一日繰返し「オルフィカ」を練習している。最初は指定の速度の倍の遅さですら、音が全く目に入ってこなかった。繰返しさらいつつ少しずつ速度を上げてきて、漸くほぼ指定の速度でも目がついてくるようになった。今まで4つぶりで頭の中の音を鳴らしてきたが、今日から思い切って、悠治さんの希望通り、2つぶりで練習を始めた。
安達元彦さん制作のパート譜には、4分音符120と指定されているが、悠治さんは2分音符60だと言っていた。現存するオリジナル総譜には、速度も拍子も書かれていない。初演当時に使われたパート譜には、今も演奏者の猥雑ないたずら書きがそのまま残る。

子供の頃よく聴いたレコード録音は、今回全く聴いていない。聴いても分からないし、第一、録音と実際聞こえる音がまるで違うのは経験上分かっている。そうして少しずつ見えてきた音風景は、驚くほど雄弁で、振る度に感激していた。
録音は素晴らしい産物だが、実演とは根本的に違う意味を持つ。録音は写真と同じく、ある瞬間を永遠化するものであり、実演は瞬間毎に新しく創造する作業だ。どちらも等しく意義深いが、ベクトルはまるで違う。

8月某日 三軒茶屋自宅
ドミューンにて放送イヴェント。話すのは苦手なので、このようなイヴェントは本当に困る。しかしながら、楽屋で悠治さんと話し込み、長い間の懸案だった「たまをぎ」再演の目処がついたのは素直に嬉しい。「たまをぎ」合唱部分は明治学院大学に残されていたが、オーケストラ部分は何年探しても出て来なかった。だから、今回は悠治さんのご協力をえて、録音から再構成版をつくることにした。1月24日まで時間がない。
初演は、方陣を組んだ100人ほどの合唱が走り回る、縦横無尽なシアターピースだったが、現在の状況で実現不可能だ。今回は合唱も楽器も小編成の演奏会形式でやり、楽譜をしっかりと用意しておき、将来もとのような形での演奏が可能になったら、あらためて実現を目論みたい。本当に間に合うのか。
ドミューン楽屋で、一柳先生と悠治さんと3人になったとき、一体お二人が何を話すのか興味津々だった。先日悠治さんが弾いたばかりの「告別」について、どこの箇所がむつかしいよね、などと、盛んにベートヴェン談義が愉しそうに話題にのぼっていて、感銘を覚える。

8月某日 三軒茶屋自宅
「アフリカからの最後のインタビュー」演奏終了。「黒人の命は大事」運動の盛上りのなか、この作品をサントリーで演奏すると、また別の意味を持つことになった。
息子も息子の友人の中瀬君もペンライト演奏で参加。今朝、シェル石油が日本撤退のニュースを新聞で知る。サロウィワは何を思うだろう。
久しぶりに「東京現音計画」の皆さんと再会し、演奏にも接してみて、あらためて素晴らしいバンドだと思う。初演より格段と演奏の強度が増していて、何より演奏から音が伝わって来ないのが良い。音ではなく、もっと堅固な何かが我々の喉元に突き付けられる。信念のようでもあり、メッセージのようでもあり、それは実は情熱なのかもしれない。
サントリーの天井にうつろう、ペンライトの茫洋とした光が印象に残っている。

8月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ」リハーサル。悠治さんリクエストメモ。
強音は身体をゆるめ、楽器の一番良く鳴る音にまかせて出すこと。むしろ弱音の方がよほど演奏がむつかしい。
5連音符、6連音符で書いてあるのは、確率で決めたもの。正確な計算ではない。だから、演奏するとなお不正確になる。あまり拘らなくてよいですね。

音の始まり。その前には音がなく、ピアニッシモであっても、そこから音が始まる。そして余韻を残さずに音を止めることで、各人にあてがわれた別々のパートの各音が、ばらばらになる。
音の終わりは閉じてほしい。管楽器なら、息を残さないこと。弦楽器なら弦の上で弓を止める。どこでそれをやるかは、各自自分が一番いいと思われる部分で音を出してほしい。
それぞれ別だから指揮者を頼ることもできない。 

指揮は、2拍子を何回かやれば、だんだんだらしなくなってくるので、テンポを動かしてほしい。予測つかないみたいになりたい。ああこのテンポだと思ってやっているとそうならない、という風にやってほしい。結局、指揮者がいるが、いろんな音が勝手にでてくる風になりたい。

グリッサンドは最初の音を確定してから動き出すのではなく、最初から動き出す。弦楽器であれば、上がる場合は左手をアッチェレランドしていけば均等に聞こえるし、降りる場合、早く降りてゆっくりおわると均等になる。

揺れる音は、毎回揺れかたを変える。だんだん、死んだようになってくるから、テンポや幅を変えてほしい。自分のアイデアで変えてください。全体の音が聞こえていて、自分からは誰とも違う響きがでていることを意識する。
できなくてもいいんです。整然といくより、できなくて、いろいろなことがでてくることがいいんです。

始まりと終わりなんですけど、楽譜とあんまり関係ないことなんですが、はじまりかたは、はじまるときに、全く何もない空間から、突然と出てくるような感じがほしい。ちょっと一瞬静まったときに、どこからともなく出てくるような、不思議な感じがほしい。
一番最後なんですけど、ちょっと緩めてください。揺れながらふうっと消える。

 8月某日 三軒茶屋自宅
読響との演奏会終了。「鳥も」では指揮せず、銅拍子と鏧子など小道具を演奏し、曲名を言うだけなのに、特に銅拍子は本当にむつかしい。さわりを残さなければいけないと言われても、なかなかうまくいかない。無心になってやるものなのだそうだ。鏧子も、チーンとならせば良いのかと思っていたが、高い倍音を消すように、緩く向こう側に少し撫でるように叩かなければならない。われながら、煩悩の塊だと妙に実感する。

本番、本当に無心になって初めて銅拍子がとても美しく響き、さわりがいつまでも消えなかった。余りに無心になっていて、次に「島」というはずの題名を「鳥」と言い間違えてしまった。もう一生銅拍子は叩きたくない、と思っている。仏具はそれに見合った人格者が触らなければいけない。尤も、演奏は本條君が実に見事に歌い上げてくださったし、オーケストラも彼に美しく沿ってくれたから、全く文句をつけるところではない。自分自身の煩悩に嫌気がさしただけである。

読響とのリハーサルは、リハーサル前の準備段階から、感動させられることばかりだったし、学生時代の仲間に会えたのも本当にうれしかった。たとえば山根さんの作品で、コンサートマスターの長原さんが、第一ヴァイオリン後方で第3パートを先導して下さっていて、オーケストラの細やかな心配りと采配に密かに感動していた。第1パートの小森谷さんと合わせて、実に見事な演奏だった。
オルフィカの冒頭、悠治さんの希望の何もないところから顕れる音を体現して下さったのは、小森谷さんだ。本当にオルフィカなど、自分では何もしていないが、オーケストラの一人一人が、それぞれの音をとても濃密に演奏して下さった。読響の音の印象は、濃密な音と音楽の深さだった。
マスクで苦しそうにしていると、藤原さんがアイスキャンディーの「ガリガリ君」を差し入れて下さったり、悠治さんの難題に四苦八苦していると「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ」なんてオーケストラのM君から声をかけられたり、不思議なくらい人間臭いお付き合いがあってこその渾身の演奏だったのかもしれない。指揮者など、実際のところ本当に何もやっていない。深謝。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルは午後からなので、思い立って、朝湯河原まで墓参に出かける。子供の頃から数えきれないほど通ったからか、小田原を過ぎたあたりから、強烈な郷愁に襲われるのは、相模湾の匂いと海の色のせいだろうか。
英潮院の墓地へ昇りながら、振り返ると、深い色を湛えた海が眼下に広がる。何度ここを訪れても、子供のころから変わらない感動に襲われる。ただ、目に飛び込んできた祖父母の墓石に、これだけ激しく心を動かされたのは初めてだった。来てよかったと思う。

「自画像」リハーサル。鈴木さんが振ると、音楽が溌溂としてくる。
最初に通すと、書いた金管セクションが、想像通り世界を飲み込んでしまって、人生最大の失敗作かもしれないとも思う。成功など目指していないから、失敗にもならないが、もっと普通にオーケストラ曲を書けば良かったのではないか、との疑問が頭をもたげかける。

「アフリカからの最後のインタビュー」を、コロンビア大で聴かせたとき、何故こんなに明るい作品なのか、とアフリカ系の作曲科教授ジョージ・ルイスから投げかけられた素朴な問いが、未だにずっと脳裏に残っている。Black lives matterが全世界的に広がりを見せる、ずっと前の話だ。
もちろん、明るい内容で書いたわけではなく、当該地域の讃美歌をそのまま使ったので一見明るい音の素材になっただけだが、彼の指摘以来、どこか音楽的に成立させるために素材を利用してきたような、後ろめたさを引きずってきた気がする。
特に題材が特殊であれば、音楽的に書くほどに表面的な音楽になる危惧を覚えていた。

オーケストラは、やはり基本的に後期ロマン派までの作品を演奏するために形作られた社会体系だ思う。オーケストレーションは、オーケストラを一つの楽器にみたて、さまざまな響きを作り出すために作曲者がつくるものであり、オーケストラ一人一人の顔は浮かばない。それでいいとも言えるし、自分が同じことをしなくてもよい気もする。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝5時半。澄み切った明け方の空に、くっきりと輪郭を浮かび上がらせる、湧き立つ積乱雲。夜半したたか雨が叩きつけたのか、道はまだ濡れている。
川島君の作品を、漸く最初から最後まで見学できた。素晴らしい!お互い多分高校生くらいから知っていて、彼の印象は当時から今まで全く変わらない。自分には到底真似できない情熱とカリスマがあって、一方的にとても尊敬してきた。確固とした技術と叡智があるから、彼の音楽はどんなに破綻していても純粋に愉しめる。自分が瞬間ごとに忘れてゆく気質だからか、彼のように、知識や経験がすべて蓄積されて、ますます極めてゆく姿に、素直に感銘を受けている。

一柳先生の新作は、闊達で瑞々しい。音楽は縮こまらず、のびやかで、甘くだれたりすることもない。それはご自身の人間性とまるで瓜二つで、いつも自由で本当に不思議な方だ。前に二重協奏曲を演奏したときも、一柳さんと彼のピアノ協奏曲を演奏した時も心底そう思った。どうやったら、あのように尖った、新鮮な感覚を持ち続けられるのだろう。カーターがお好きであったり、悠治さんと音楽の趣味が一致するのだから、もちろん頭では理解しているつもりだけれど。

リハーサル後、鈴木さんと少し話す。互いの子供の話とか、反抗期についてとか。高校のとき、彼は東ティモール問題について論文を書いたという。別の機会に学校でインドネシア大使館を訪れた際、東ティモール問題について大使館員に疑問を投げかけたというからおどろいた。
大使館の方は、学生からの質問に備えて、反駁するために膨大な資料を机に堆く用意して待っていた。鈴木さんはデンハーグの国際裁判所にも親しい友人がいる。

8月某日 三軒茶屋自宅
「自画像」リハーサル。学校でオーケストラについて習うとき、やってはいけないと習うことばかりを集めて書くと、こんな風になるだろうと思う。
こうやったら聴こえない、とか、こうやったら効果がない、ということばかりを集めてやる。聴こえるように、効果があるように書く意味とはなにか。オーケストラは重ねれば聴こえるようになる。背景を消せば、明瞭になる。リズムをそろえれば、一体感が生まれる。
世界中に埋もれ聴こえない声は、聴かなければよいかも知れない。わざわざ賑々しい席で、普通であれば目を背けたくなる現実に、わざわざ目を向ける必要もないかもしれない。
これは作曲とは言えない、とは書き始めた当初から思っていた。最初から最後まで、ストップが極端に限られた古いオルガンのように、音量の強弱も、曲線を描くフレーズも皆無のまま、20分間近くただひたすらドミナントペダルの上に、事象ばかりを連綿と紡ぎ、そこには弛緩も呼吸も存在しない。そんなものは音楽ではない。無情に時間だけが刻まれてゆき、2020年にそれが止まるのみ。

では、音楽を書けばよいのか。自分が無事に日本に戻れるかどうかすらわからず、毎日何百人という人が亡くなり、アパートに防護服姿の看護師たちが救急車で駆け付ける日々のなか、今書いておかなければいけないと思ったことは、書かなければ一生後悔しただろう。今後、書く機会も、書く時間もないと思っていたし、今もそれは変わらない。
オーケストラは、本来皆で一つのハーモニーを紡ぐための社会体系だった。理想論と笑われようが、世界も、本来は皆で一つのハーモニーを紡ぐものであってほしかったが、実際はこの50年間だけ顧みても、一時たりとも世界が平和になった瞬間はなかった。
最初に各国の国歌を書き取り、大きな表に並べてみた時、見えてきた音に思わず鳥肌が立った。あまりに惨く響いて、これを書くべきかどうか、ひと月ほど悩んだが、毎日信じられないほどの人が世界で死んでいく毎日のなか、やはり書かなければ後悔すると思うに至った。
そのとき、聞こえてきた音そのままの音が、目の前で鳴っている。

せっかくオーケストラを使うのなら、もっと希望があって、演奏者も聴き手も心地良く、満足感の得られるものを書くべきだろう。オーケストラを書く力がない、ともいえるし、西洋的なオーケストラを書く行為を放棄しているともいえる。演奏者には聞こえない無力感を与え、希望の象徴であるはずの国歌は、無残に戦禍に塗れて、まるで亡骸にこびりついているようだ。

8月某日 三軒茶屋自宅
自画像演奏会終了。 鈴木さんと東京フィル、文字通り渾身の演奏に聴き入る。自分の作品として聴き入るというより、走馬灯のように駆け抜ける50年の恐ろしさに、そして、鬼気迫る演奏者の姿に、ただ圧倒された。
演奏者は、互いに聴きあって一つの音楽を紡ぐのではない。セクションごとにまるで、それぞれが国となったかのように見える瞬間もあった。演奏者自身もそう感じていたのではないか。
良い作品とは到底思えないし、成功したとも思えないが、少なくとも当初頭に浮かんだ音そのままが、演奏者一人一人の燃え盛る情熱に駆り立てられて浮かび上がり、曲尾のオーケストラがユニゾンで合奏する部分は、本当にベルガモの谷のまにまにいつまでも木霊する弔礼ラッパのように響いて、ますますやりきれない心地に襲われた。
こんなに達成感や満足感のない新作も生まれて初めての経験なので、どう捉えてよいのかわからなくて戸惑っている。ただ、必要だったという思いだけが、いつまでも反芻している。
付き合わされる演奏者や聴衆に甚だ申し訳ない気もするが、世界をとりまく現在の特別な世情を鑑みれば、ある程度は理解してくれるかもしれない。

この状況で実現された音楽祭は、関係者全員の努力の賜物以外の何物でもない。その努力に力を与えてくれたのは、関係者と聴衆の「希望」ではなかったか。3月4月くらいは、無事に日本に帰れるかどうか分からなかったし、曲が最後まで書き上げられるか分からなかったし、演奏されることなど想像もしていなかったし、自分がそれを聴くことができると期待すらしていなかった。
万が一のことがあっても、家族に作曲料が入って生活の足しになれば、と思ったのと、そんな状況なら、書かなければ後で後悔することをやっておこうと思った。それ以上でもそれ以下でもない。

 舞台裏で、笑顔で気軽に挨拶してくださる方がいて、知合いの評論の方かと思いきや、マスクを外すと、思いがけず鈴木雅明さんで大変恐縮した。マスクは、顔の情報を半減させてしまう。
演奏会後、久しぶりに悠治さん、美恵さんと喫茶店でしばらく四方山話。悠治さんの波多野さんとノマドのために書いている新作。原発に関する藤井さんの回文。
2度や7度のようなぶつかる音は今まで散々使い古されている、ともいえるが、それらを異様に排除しようとするのもどうなのか。日本の文化とスペクトルとの融和性か、それとも穢れを排除する風土故か。

8月某日 ミラノ自宅
フランクフルトの空港は、6月に東京に戻った時よりずっと賑わっているようにも見えた。
機内のアナウンスでは、「このような状況にも関わらずご利用いただきまして、まことに有難うございます」「Covid 感染症対策のためXXXは閉鎖されております」という言葉が長々と続く。
フランクフルトの手荷物検査で、タブレットをリュックから出すのを忘れて止められた以外は、滞りなくミラノまで辿り着いた。ミラノへの機中に、渡航歴に関する書類を提出させられ、体温検査をやっている以外、目新しい検査もなく家に着き、拍子抜けするほどだった。

久しぶりの家は、我々が帰ってくるのを待っていたように見え、半年ぶりの帰宅に思わず息子は興奮して歓声を上げた。機中、二人掛けの座席に息子と隣り合って座っていたが、すっかり身体も大きくなった息子が、窮屈そうに身体を曲げ、小さい頃のようにこちらに肩を預けて寝込む姿に、以前彼と訪れた旅行を思い出していた。
(8月31日ミラノにて)

190 徳(というような詩題)

藤井貞和

孔子、あいするわれわれの論客に、
わきを通り過ぎゆく隠士が、
屍体の歌を投げつける。
「鳳(おおとり)さん、鳳よ、
おまえの徳はどうしてだめになったの?
過ぎ去ったことを言うのは、よしな。
これからどうするか、考えてみな。
おやめ、おやめ、政(まつりごと)に手を出すのは。
あぶない、あぶない、天(あま)の橋だ」。
歌いながら暮れる天下に、
佇ちつくした魯の人もまた屍体となるか。


〔田を鋤いていた桀溺に、子路が尋ねる、「渡し場はどこでしょうか」。「あんたはだれかね」と桀溺。「仲由という者です」「ああ、魯の孔丘のご一家かな。およし、およし、ひたひたと洪水が押し寄せるように、天下は一面にこんなになってしまった。あんたは人を避ける先生につくより、世を避ける先生についてみたらどうかね」。子路はもどって、われわれの論客に報告する。孔子は言う、「おれが鳥獣のなかまに、なれるわけ、ないだろ。にんげんのなかまからはずれて、だれといっしょに暮らすのだ」と。桀溺は隠士の仮の名、「溺」には排泄物という意味があるんだって。『論語』微子篇より。〕

移ろい、たどり着く

璃葉

蒸し暑い雨の季節から猛暑の季節へ移り変わり、それもまた終わろうとしている。
昼間の蝉の声は夜になると嘘のように静まり、代わりに鈴虫やこおろぎが鳴いていて、部屋に響いてくる音がやさしい。涼しくなった夜に遊歩道を歩けば、漂うように吹く風はもはや秋の匂いだった。こうして少しずつ暑さが収まっていって、次の季節がちらりと顔を見せるときの空気が好きだ。相変わらずの引きこもり生活なので貴重なものとして、マスクをはずし、その空気を存分に吸い込む。

昼時のがらんとした電車を乗り継いで、ちがう街へと向かう。最近は一車両のどこかの窓が必ず開いていて嬉しい。外からの風が冷房の風とちょうどよく混ざり合って、通り抜けていく。

久しぶりに遊びに行った友人の家で、何をするでもなく、噂話や美味しい飲み屋、酒のことで会話が弾んだ。
言葉遊びになったり、あまりの適当さによって、あさっての方向に会話が進んだり、コーヒーやお茶を飲んだり、彼女が仕事でPCに向かっているうちに自分はソファでうたた寝しては、目が覚めた瞬間また話しはじめたり。

綻んだ時間のなか、とてつもなく軽くてどうでもいい話から流れ流れて、ZINEを一緒につくろうか、という話になった。
どんな内容にしようか、こんな体裁はどうか、と次々浮かぶ案を、話しながら、時にはげらげら笑いながら遊び半分にノートに書き留める。彼女は文章、私は絵を担当することになった。デザインはもう一人のともだちがよろこんで協力してくれるという。

話に夢中になっているうちに、明澄な空が少しずつ陰って、紫がかった夕空は夜へ移っていった。
追うように青暗くなっていく部屋の中で、遊びの創作についていつまででも話していられる気がした。たどって、着地するところを想像しながら。

仙台ネイティブのつぶやき(56)カブ菜の長い旅

西大立目祥子

 宮城県県北、秋田と山形の県境の集落、鬼首(おにこうべ)地区に、この集落だけでしか栽培していない「鬼首菜」という菜っ葉があることは、2019年1月号に「峠を越えてきた青菜」として書いた。
 この野菜は夏に種蒔きをし、冬越しさせて、翌年の初夏に刈り取って種を取る。昨年の6月には、私も腰高ほどに伸びた草の刈り取りに行った。その種を蒔き、育て、採種して、いま畑には新たな季節がめぐってきている。お盆過ぎに種蒔きした畑には、小さな緑色の双葉が芽吹いているはずだ
 この間、新たな出会いがあっていろいろ教えられることが多かった。

 一番の収穫は昨年11月に、山形大学農学部の江頭宏昌先生が学生さんを伴って、鬼首菜の畑を見に来てくださったこと。先生は、他県にくらべると群を抜いて在来作物の多い山形県で「山形在来作物研究会」の会長をなさっている。農家とレストランをつないで食べてもらう機会を増やしたり、在来作物に関心を持つ人たちのネットワークをつくったり、15年以上にわたってさまざまな活動を行ってこられた。「在来作物」という名称がこれだけ一般的になったのも先生の功績が大きいと思う。

 長年、鬼首菜をつくり続けてきた高橋一幸さんの畑を見てもらう。11月末の畑には大きく育った鬼首菜が葉を広げていた。高橋さんが、抜いてみましょうか、と手をかけ引き抜くと、大人のげんこつより一回りほど大きな白いカブがあらわれた。もう一つ、といって抜くとそちらは紫色がかったほっそりしたカブである。
 不思議なことに、鬼首菜には紫色と緑色の葉が入り混じる。緑色のはカブが白く、紫色のはカブがピンクがかっている。もしや、他の何かと交雑したからではないだろうか、と前から気になっていた。江頭先生に恐る恐るたずねると、答えは明快だった。

「1つの品種に多様性があるのが在来作物なんです。集団内に多様性があるから、元気でいられる。紫色の株、緑色の株、どちらかに統一すると近交弱勢が起きて、特に鬼首菜のようなアブラナ科の作物は弱ってしまうんですよ」。
 近交弱勢とは、遺伝子の近いもの同士が交配して環境適応力のない個体が増えていくことをいう。バラバラな色の葉を広げながら、鬼首菜は厳寒の冬も、日照りの夏も乗り越えてきたということなのか。野生種に近い作物にとって、多様性は種が生き延びていくために必要不可欠なものなのだろう。
 この話は、そのまま私たちの社会のあり方にも当てはまりそうだなぁと感じながら聞いた。さまざまな考え、さまざまな人種‥そうした均質的でない社会の方が、同質的な社会よりずっと変化への対応力に優れ、暮らしやすいだろうから。
 秋が深まっていくと、葉の緑色は、赤紫、緑と紫がまじったような茶色、深い緑色、白味がかった緑色‥と、描くとしたら絵の具の選択に困るほどの豊かな色彩に染まっていく。そんな色味あふれる畑に立つと、なぜか気持ちが安らいでくるから不思議だ。

 寒くなると鬼首菜は色味だけではなく、辛味も増していく。この喉の奥から鼻に抜けるような辛味が漬物に重宝されて、栽培する人たちが絶えなかったのかもしれない。
何人かを訪ねて、鬼首菜の話を聞き歩いた。
 毎年欠かさず栽培し種取りを続けてきた高橋五十子さんは、今年90歳。「嫁にきた頃はおつかいに行かされる先々で、手にいっぱい漬物盛られて、もうここらあたりが辛くなってねえ」と胸元をさすりながら笑っている。
 「母も家族分の漬物用に栽培してましたよ」というのだから、100年以上にわたってこの地で守られてきたのは間違いない。

 つまり戦前まではかなりの家が栽培していたと思われのだけれど、これが戦後生まれになると違った様相を呈してくる。栽培したことがないという人たちが増えてくるのだ。ある人は、「鬼首に電気が通ったのは昭和34年。冷蔵庫が入ってきて、冬に備えて大きな樽に漬物を漬ける必要がなくなったからじゃないか」と分析する。
 とはいえ、そこは一様ではなく、戦後生まれの人でもいまなお、栽培を続ける人たちがいるのも確かなのだ。ある家は栽培し、ある家は栽培しなくなる。この差はどこから生まれるのだろう。

 話を聞いて気づかされたのは、栽培を担っていたのが女性たちだということである。
家族の食事を切り回す主婦が、その必要から畑の片隅に鬼首菜の種を蒔き、収穫し、漬物に加工し、種取りも行ってきたのだ。栽培と調理が一体となった営為。そこには効率だとか栽培技術だとか、今日、農業に求められるものは入り込んではこない。
 自分が食べたいから、家族に食べさせたいから、冬場の食をつなぐために、少しの手間をかけ、種を蒔き続けたのだろう。高橋五十子さんに、どうして栽培を続けてきたんですか?とたずねると、「食べたいから」「うまいから」と答えが返ってきた。
 「大樽に漬けて、春先にね、樽の底に残った漬物をどぶろくと煮ると、これもまたおいしいんだよ」と話してくれたのは高橋やえのさんだ。孫が漬物を食べてくれないとぼやきながらも、早々と春には旦那さんと作付け場所の相談をしていた。今年も8月の終わりには、2人とも無事、種蒔きをすませたはずだ。

 一株ごとに育ち具合も、葉の色もカブの大きさもてんでバラバラ…在来野菜は、かえって優れた農家にとまどいを与えるものらしい。種苗会社の売り出す種から育つ作物は、うまく育てれば育てるほど均一化する。たとえば「60日型の大根」の種を蒔けば、60日で大根が収穫できるほどに栽培種は規格化されていて、同じ丈に背を伸ばし、同じ色の葉を広げ、ほぼ同じ大きさの実がなって、命は一代で尽きていく。
 そうした種に慣れていると、在来作物の鬼首菜は一体どこが成長のピークかもわからないらしい。きちんと整った均質化した姿を、知らず知らずのうちに求めているからなのだろう。
 それに対して、長く栽培してきた人はこういい切るのだ。「難しいものではないですと。種を蒔けば育つんだから」と。このことばには、100年以上にも渡って続けられてきた、人と在来作物のかかわりあいの基本があるような気がする。

 江頭先生におもしろいことばを一つ教わった。「野良生え」。山道などを歩くと道ばたに種がこぼれて育ったカブ菜を見ることがあり、それをこう呼ぶのだそうだ。野良猫みたいに、人の手から離れたところでたくましく命をつなぐ作物の姿が見えるようだ。
 先生によれば、鬼首菜は間違いなく「カブ菜」であるらしい。葉の部分にばかり注目していた私にとって、これは目からウロコだった。カブ菜は地中海で生まれ、ユーラシア大陸を人の移動とともに旅して日本に渡ってきた。改良がなされ、日本でたくさんの品種が生まれ、鬼首菜は山形から入って、この山間地にある集落に定着したものと思われる。その長い長い旅を思うと、やはり細々とではあっても、種を絶やしてはならないという思いが深くなる。

アジアのごはん(104)京の味「にしんなす」

森下ヒバリ

35℃を超える日がこうも続くと、さすがに参ってくる。暑すぎて散歩にも行けない。困ったもんだな〜と思っていたら高知の友人が畑の野菜を送って来てくれた。ピーマン、ししとう、ゴーヤ、かぼちゃ、つるむらさきの花、そしてなす。

8月初旬に、久しぶりに仕事で北海道にでかけた相方が、おみやげに鰊の甘煮を買って来た。旅行キャンペーンでもらったクーポンが余ったので札幌駅で買ったらしい。
「お、小樽のにしん・・?」ラベルを見るとアメリカ産・・なるほどアラスカ産のにしんを北海道で加工したものである。

京都人はにしんを甘辛く煮つけたものが大好きで、スーパーでもふつうにパック入りのにしんの甘煮(こちらも、アメリカ産で富山加工)を売っており、便利なのだが、たいがい死ぬほど甘い味付けである。京都人の相方は「そお?」とまんざらでない様子だが。なんせ、相方の育った家の煮物は、お菓子かと思うぐらい甘い。甘いおかずの苦手なヒバリは一口も食べられません。

京都のおばんざい(惣菜)屋の煮物もかなり甘いのが多いので、惣菜は気安く買えないのがかなしい。コロナ禍で家で作って食べることがほとんどになり、少しは手抜きもしたいというのに。出し巻は甘くないのにねえ。

小樽の・・じゃなかった北海道加工アラスカ産にしんの甘煮は、味を見てみると京都で売っている甘煮よりはずっと甘さ控えめではあった。よしよし、と水に昆布を入れて出しを取り醤油で味付けしてなすと一緒に煮直すとおいしく食べられた。ちなみに京都のスーパーで売っているパック入りのものは薄めて煮直しても甘すぎて困る。

送られてきたつやつやした紫色のなすを見ていると、また「にしんなす」を食べたくなってきた。夕方になって少し暑さが和らいだころに、少し遠いスーパーマーケットに買い物に行く。そのスーパーには常時ソフトにしんが置いてあるのだ。アメリカ産のものしかないが、まあいいだろう。

日本では、江戸時代は富山湾や秋田で、明治末から昭和20年代ごろまでは小樽から稚内までの北海道沿岸で大量のにしんが獲れていた。当時の小樽にはにしん網元の「鰊御殿」と呼ばれる豪邸が立ち並んだという。しかし、海水温の上昇と乱獲により、にしんの水揚げは激減し、漁場はもっと北のカムチャッカ半島やアラスカ沿岸に移って行ったのである。日本ではロシア産やアメリカ・アラスカ産が輸入されて製品化されることになる。ああ、さんまもこの道を歩むのだろうか。

にしんは脂が多く痛みやすいので、干物にして流通されることが多かった。天日でからからになるまで干したものを身欠きにしんといい、これは戻すのに2日はかかり、さらに三時間ぐらいは炊かないとやわらかくならない。最近は生干し程度の水分量のものが、ソフトにしんとして売られていて、戻す手間がなくすぐ煮えるので、大変便利。

海の遠い京都では、古くから北前船で運ばれてきた身欠きにしんを使って甘辛く炊いたにしんが食べられてきた。京都の有名な名物料理に「にしんそば」というものがあるが、おそらく修学旅行生が食べてがっかりする京都の味ナンバーワンではないかと思われる。

そばの上ににしんの甘煮がど〜んと乗った、にしんそばをヒバリも京都の学生時代に食べてみたことがある。「う〜ん・・」なぜ、やたらに甘い煮魚をそばにのせて食べなくてはならないのか。理解できず、その後食べることはなかったが、これはまあ、ある程度大人にならないと分からない味なのか・・も。いや、やっぱり甘すぎただけか。

それ以来、にしんの煮物とは距離を置いていたのであるが、ふたたび京都に暮らすようになって、にしんとなすを炊き合わせた「にしんなす」を京都人の相方が食べたいという。仕方なく作ってみると、意外においしいではないか。いまではヒバリもすっかりお気に入りである。自分で作ると好みの甘さ、しょっぱさに出来るのがいい。そして、にしんは、そばに乗せるよりもなすと炊き合わせるのが一番おいしいと思う。

京都のおばんざい「にしんなす」は、ソフトにしんを使えば簡単に作れる。ソフトにしんは食べやすい大きさに切り、熱湯を回しかけておく。昆布でだしを取り、醤油とみりんでやや濃いめに味付けしただし汁ににしんとなすを入れて10〜15分煮る。なすは半分に切って斜めに包丁で細かく切り込みを入れて、さらにもう半分に切っておくと味がよくしみて見た目も美しい。生姜の薄切り、山椒のみりん漬や醤油漬けなどを好みで入れるとよい。うちは両方入れます。

一晩冷蔵庫で寝かせると味がしみておいしい。微かなにしん独特のくさみと、なすの香りが合わさって、なんともいえない鄙びた味わい。お酒のつまみにもご飯のお供にもいい。・・なんだか夏の終わりの匂いがする。

北ヨーロッパでは、大西洋や北極海に住むアトランティック・へリングというにしんをよく食べる。もっぱら酢漬けにしたり、スモークにしたり、塩漬けで軽く発酵させたりして食べるという。こちらも酒のつまみに大変よろしそうである。

生のにしんが手に入る北海道などでは切り込み、といって切り身に塩をして麹で漬けるものなどがあるようだが、まだ食べたことはない。にしんの世界は思ったより広そうだ。そろそろ「にしんなす」以外のにしん料理も試してみようかな。

京都のど真ん中で生まれ育った相方に、「にしんなす」以外のにしん料理って京都で何かある? と尋ねたらしばらく考えて、「にしんなすしか食べたことない・・」とのお答え。伝統というか、保守というか、頑なというか・・まあ、おいしいからいいケドね。

社会主義に奪われた暮らし

イリナ・グリゴレ

私が育てられた村は森のすぐそばだった。家の庭から見る森は遠くにいる強大な生き物のようで安心を与えてくれた。森は誰でも入るところではなかった。森をよく知っている人しか入っていけない。それはジプシーたちであった。彼らは森の恵みについてよく知っていて、いつも祖父母の家に新鮮なキノコを届けに来ていた。ハーブも。でも子供の私たちは、森に入ったら帰ってこられないよ、と教えられていた。森の入り口まで遊びにきても、それ以上絶対に奥には入らない。森の入り口を知っていても出口は限られた人しか知らないのだ。そのぐらい神聖で、尊敬すべき場所だった。
 
祖父母の墓は森の入り口にある。村の墓場は森の入り口に近い。森は「あの世」のイメージなのだ。そして祖父は森を良く知っていた。亡くなる前、何年間も自分で組み立てた自転車を引っ張って、森に入って枯れた枝を拾い、薪にしていた。祖父母の暮らしはロストワードのように感じるが、今で言いえばエコな生活が祖父母のリアリティだったのだ。家のタオルとカーペット、寝巻きも自然の素材で作る。自分で食べるものも自分で作る。自分の家で育てた麦とトウモロコシ、野菜、家畜、ワイン、果物酒も作っていた。秋から冬に向けての準備はすごかった。ピクルスや冬に備えたトマトソース、豆類などのストックが地下室に大事にしまってあった。漬けておいたキャベツでクリスマスにはロールキャベツを作った。簡単ではないが、祖父母の作る姿をみていたから私もやろうと思えば彼女が作っていた料理は不思議となんでもできる。

祖父母を感じたいときには、パンやピクルス、ぶどうの葉っぱに包んだひき肉など、子供の時に食べていたものを作り始める。自分の身体は祖母と同じ動きをすることによって同じようなものを作れる。レシピというより、彼女の身体の動きを覚えているのだ。それは彼女を蘇らせる方法だと分かった。子供の頃に見た動きを繰り返すだけで、亡くなった彼女が生きていると感じる。そして、子供の時と同じ感覚が続く気がする。人間の身体の動きと行いは、昔はすべて儀礼の所作のように型を持っていたのだ。

娘を寝かしつける時、私の子供の時の話をした。娘はすごい話がいいと言うから、祖母とまだアスファルト舗装されてない村の道路にごろごろしていた乾いた牛と馬のうんちを拾ってきて、土でできた小屋の壁を直したと話すとびっくりした。この暮らしは懐かしい。牛と馬を身近なところで見ることができるし、果物と野菜は庭からとってその場で食べる。すべては新鮮でプラスチック製品はほとんどない時代だった。乾いた牛と馬のうんちを素手で集めることも違和感はなかった。お日様で乾いていたから、匂いもしなかった。糞は黄色い土と水を混ぜると、家を建てるセメントと同じぐらい強い材料になる。

時空間がおかしくなる時もある。例えば、祖父母の子供の時の思い出が私の思い出になっていることもある。祖父は若かった時、畑に使う馬車の馬を森に連れていき、草を食べさせたという話を良く聞かせてくれたが、私のなかでは私が森のなかに馬を連れていくイメージとしてそれがはっきりが見え、びっくりするほどリアルなのだ。森のなかにはたくさんの馬の群れが見える。馬は二頭しかいなかったのに。母に聞くと、村人たちは馬を森に連れていく習慣があった。それは新鮮な森の下草を食べさせるためだ。だから、森のあたりには馬がたくさんいたのだ。若い男性の仕事だったから週に何回も森で寝泊まりする。身体も馬と同じように、森の一部になるのだ。

馬は機械がなかった時代には大事な労働力だった。畑仕事は簡単なことではない。だが、私の小さかったころには、祖父はもう馬を持っていなかった。社会主義になった時、土地と馬が国にとられたからで、その代わりに祖父は労働者として、マッチ工場で働かされることとなった。朝早く他の村人とともに電車で街まで出て、午後になると電車で帰ってくる。工場で働いていた祖父がどんな作業をしていたのか教えてくれなかったが、親指の半分が工作機械に切り落とされてしまったことを、いつも私は気にしていた。工場と機械は、子供の私にとって祖父の指と身体を奪った悪いイメージの場所だった。

馬も土地も国のものになり、若い時の暮らしは社会主義にとられたが、祖父の心と自由はとられなかった。民謡に合わせて突然踊り出す祖父。そんないつもニコニコしていた優しい祖父が亡くなったのは、お正月のすぐあと。私が日本に来た年、1月4日の朝方だった。前の日に病院で会って話をたくさんした。元気だったが気管支炎のような症状があった。私はもっと勉強したいから日本へ留学するかもしれないと話すと彼はこういった。「あなたが勉強のために進むべき道はもう決まっているよ」。次の日に亡くなった。あまりにも突然すぎた。会いにいった前の日には写真も撮っていた。祖父は翌日死ぬ人間の顔はしていなかったが、頭の上に白い煙のような光のようなものが写っていた。なにがあっても最後まで明るい心の持ち主だったが、結局のところ、検査してみると心臓がダメージを受けていたようだった。

お葬式の時、冷たい手を触った。親指の半分がない彼の手はいまでも恋しい。家族のために家をゼロから立てた手だ。自然の中で生きて、町の病院で亡くなったが、自分で選んだ森の近くの墓で骨を休ませている。帰るたびにあの森で出会える。

私は今『惑星ソラリス』にいると感じる。祖父母が今は失われていた生活をしていたのは遠い地球だ。あの場所はドイツの大手スーパーに植民地化され、現在は昔からの習慣と文化を守る人などほとんどいないが、偶然、あの場で「私」と言う遺伝子の組み合わせができた。私はあの暮らしをすべて覚えている。見たから。カメラで記録したかった。あの暮らしは私が大人になるまでの短い間になくなってしまった。幸いなことに森はまだある。でも、いつまであるのかわからない。小さくなった気がする。枯れ枝を拾う人もういまはいないだろう。今は遠くに離れて思うことはたくさんあるが土地も家も、指の半分を取られても実際に誰にもとられないものがある。それは細胞に削られた生き方の傾向と自由さ。それで、いつも祖父はいつも微笑みながら森に入って薪を抱えて帰ってきた。大自然から学んだことだった。

プラムの季節がやってきた

福島亮

8月はじめの暑さはひどかったが、今はもうすっかり秋だ。マロニエの葉が茶色くなりはじめたら秋が来るよと教えてくれたのは、去年の夏家に呼んでくれたグザビエだった。今年は8月16日から2日間、コレーズ県にあるトラヴァサックという村に遊びにいった。廃屋を何年もかけて一人で修理し、すべて手作業で住める家にしたというジョルジュの家は、二階の客間が中東の真っ赤な布でさながら赤テントのようにしつらえられており、本人によるとそのテント構造のおかげで夜は快適な温度になるのだそうだが、はたして、赤テント効果かどうかはいざ知らず、ぐっすり寝ることができ、朝は近所の雄鶏の元気な鳴き声によって気持ちよく目覚めることができた。8月はじめ、20ユーロもしたわりに2パターンしか風速を調整できず、しかも使ううちに軋むような音をたてはじめた小型扇風機で寝ていたあのパリの寝室を思えば、こんな幸せなことはない。あっという間に終わったフランスの田舎滞在から戻ってみれば、どうだ、マロニエの葉が茶色く変わり、トゲトゲのついた実が鈴なりである。そして、なんと明け方は肌寒いくらいなのである。秋がきた。秋がきた。

フランスの秋。その素晴らしさを知ったのは、2年前、留学のためにやってきた時だった。持ってきた荷物の整理がひと段落した頃には8月の終わりになっていたのだが、その頃になると市場でもスーパーでも至るところにプラムが並ぶのである。真っ赤なもの、緑色のもの、黄色いもの、わけても一度食べてすっかりとりこになってしまったのが、山吹色に輝くミラベルという小粒のプラムである。大きさは直径2センチほど。水でさっと洗い、皮もむかずに口に放り込むと、その蜜のような深い甘さにびっくりした。ミラベル。なんて美しい響きの名前だろう。それは夏の終わりを告げ、秋のよろこびを教えてくれる果物である。今年もさっそくミラベルが売られはじめた。近所の市場では1キロ3ユーロほどで売っている。一人で買って食べるには200グラムもあれば十分だから、70円ほど払えばこの素敵な果物を心ゆくまで楽しめるのである。それにしても市場には様々なプラムが並んでいる。試しに、ミラベルの隣にあった黒いラグビーボール状のものも買った。こちらは生のプルーンである。

昔からプラムが好きだったが、子どもの頃親しんでいたのは、プラムよりも、むしろボタンキョウだった。ボタンキョウはスモモの一種らしいのだが、プラムよりも実がしまっていて、緑色の皮に朱色がさしている。熟すと紅玉のように真っ赤になるものもあった気がする。夏になるといつも、近所の人や親類がビニル袋いっぱいのボタンキョウを分けてくれた。もらったボタンキョウのうち、いくつかは仏壇に供え、線香のにおいがまだ鼻腔に残っているうちに、水で洗ったボタンキョウを大皿に山盛りにして、腹いっぱいになるまで食べたものである。群馬の田舎から東京に出てからはそのボタンキョウとも縁遠くなってしまった。とはいえ、プラムとの付き合いは切れていなかった。大学一年生の時、夏休みの数週間、北軽井沢の農園で住み込みのアルバイトをしたことがある。生で食べられるとうもろこしや野生種のブルーベリーなどに加え、そこでは何種類ものプラムを作っていた。その農園で初めて、ソルダムという大粒の真っ赤なプラムがあることを知った。朝、果樹園にいくと朝露に濡れたソルダムがゴロゴロ落ちている。木になったまま完熟し、自然に落ちたのである。落ちた衝撃でパックリ割れた実には、親指くらいの大きさのオオスズメバチがとまり、汁を吸っている。うまく草の上に落下した無傷の実を探し、かじりつく。薄い皮がはじけ、真っ赤な果実は口の中でとろけ、唇から溢れる。あの美味しさはなんともいえない。実が柔らかいソルダムは未熟な状態で収穫し、出荷するのだそうだ。出荷途中に追熟し、食べ頃になるという仕掛けである。だが、木になったまま完熟するのとそうでないのとではまったく美味しさが違うのだ。そういえば、あの軽井沢の農園にもプルーンの木はあった。でも収穫するには時期が早すぎて、食べることができなかった。ドライフルーツのプルーンしか知らなかった僕に、農園のおばさんは、生のプルーンはちゅるんとしていておいしいよ、と教えてくれた。ちゅるん? どんな舌触りなのだろう。沼袋の下宿に戻ると、八百屋やスーパーで生のプルーンを求めたが、ちゅるん、とはしていなかった。やはり追熟だからなのか。それとも食べるのが早かったのか。

あれからもう随分と時間がたってしまった。今、目の前にはミラベル、そして件のプルーンがある。ミラベルを口に放り込む。もちろん美味い。それからプルーン。ちゅるん、と薄皮から果肉が飛び出し、口の中でやわらかい果肉とかたい種が自然にほぐれる。農園のおばさんの「ちゅるん」である。それから心ゆくまで、ミラベルとプルーンを交互に楽しんだ。そして、ある計画に思いをはせる。せっかくプラムの季節になったのだ、今年はちょっとプラムで遊んでみよう。今度市場にいったら2キロほどミラベルを買い、ジャムや果実酒にする。このミラベルを塩漬けにして干せば、偽梅干しができるらしい。それも面白い。やってみよう。あれだけの甘さだ。きっと蜂蜜漬けの梅干しみたいに甘しょっぱくて素敵な保存食ができるに違いない。こんな計画だ。

この原稿を書きながら、次の市場の日が楽しみで仕方ない。そうそう、思い返せば、フランスにやってくる前、とある先生に「パリに行ったらダイエットに励むつもりです」とメールしたところ、「秋は美味しいものがたくさんあるので、絶対に無理でしょうね」と返事がきた。「絶対に」という学者らしからぬ断言が印象的だった。さて、実際のところどうなのか。それについては、これまでの文章をお読みくださった方々にはいうまでもないことだろう。

病むときは病む

北村周一

文豪谷崎潤一郎が、パニック障害に苦しんでいたことは、比較的よく知られた事実かと思われる。
ネットを検索すると、何人かの精神科医が、谷崎の書いた小説に触れながら、この神経不安の一症例について言及している。
谷崎は、20代の若いころからすでにパニック症を患っていたらしく、初期の短編には、みずからの体験がそっくりそのままに描かれてもいる。
たとえば、1912年(大正元年)出版の「悪魔」、つづいて1913年(大正2年)に新聞に掲載された、その名も「恐怖」。(谷崎は1886年の生まれ)
いずれも短い小説ではあるけれど、内容が内容だけに、真に迫るものがある。
青空文庫の助けを借りて、ちょっとだけ紹介したいと思う。

・・・汽車へ乗り込むや否や、ピーと汽笛が鳴って車輪ががたん、がたんと動き出すか出さないうちに、私の体中に瀰漫して居る血管の脈搏は、さながら強烈なアルコールの刺戟を受けた時の如く、一挙に脳天へ向って奔騰し始め、冷汗がだくだくと肌に湧いて、手足が悪寒に襲われたように顫えて来る。若し其の時に何等か応急の手あてを施さなければ、血が、体中の総ての血が、悉く頸から上の狭い堅い圓い部分―――脳髄へ充満して来て、無理に息を吹き込んだ風船玉のように、いつ何時頭蓋骨が破裂しないとも限らない。そうなっても、汽車は一向平気で、素晴らしい活力を以て、鉄路の上を真ッしぐらに走って行く。・・・(「恐怖」より/青空文庫)

ふうっ、何度読んでも息苦しくなるような、じつに恐ろしい光景である。
とはいっても、このやまいの経験のない人にとっては、汽車や電車のいったいどこがそんなに怖いのかと、ふしぎに思うことだろう。
乗り物に乗ることは、本来楽しいことのはずなのだから。
厚労省の見解では、一生の間にパニック症を発する割合は、100人に1人か2人くらいといわれている。
治癒する人もいれば、10年以上のお付き合いの人もいる。
谷崎は、中年になってからは、発症しなかったらしい。

谷崎は鉄道病と名付けしがパニック障害病むときは病む

愛の不時着

若松恵子

Netflixのオリジナル韓国ドラマ「愛の不時着」がとてもおもしろかった。1話90分、全16話。「冬のソナタ」以来、夢中になって観た韓国ドラマとなった。

ソン・イェジン演じる韓国の女性がパラグライダーの事故で北朝鮮に不時着してしまい、そこでヒョンビン演じる北朝鮮の男性と出会い恋に落ちる。恋に落ちるなんてことが成立するのだろうかという両国間の現実を考えると、2人の恋はファンタジーそのものだ。

前半が北朝鮮、後半は韓国を舞台にドラマは進む。韓国が描いた北朝鮮ではあるけれど、素朴な人情が失われていない、人間の手による暮らしが営まれている国として好意的に描かれている。両国の歴史に疎いからのんきに見ていられたという面もあるかもしれないけれど、いいメロドラマだった。「愛する人のために命を懸けることができるか」なんて青臭いことを久しぶりに思ったりもした、

これから見る人のために詳しいストーリーは書かないけれど、ハラハラドキドキする要素もあって、毎回見ごたえのある連続ドラマだった。主人公2人を取り巻く多様な登場人物もいて、それぞれにもファンができただろうなと思った。

韓国ドラマはラブシーンもキスシーンまでで過激な描写をしない。このことによってプラトニックラブ度が増して、ドラマはますます現実離れしていく。要するに現実逃避しておとぎ話の世界に浸っていた16話だったのだけれど、興ざめさせないストーリーと映像はさすがだと思った。

要約してしまえば、「たったひとりの大切な人と出会うことができた2人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という王道の物語なのだけれど、コロナで出かけられない夏休みには飛び切りのエンターテインメントだった。

Mac Air & Water

管啓次郎

灰色の夏の夕方
仕事机に向かったまま
ついウトウトとまどろみかけていた
(窓の外には泥の海)
すると風が出て
灰色の空が重く下りてきて
雨になった
すずしくていいけれど
少し雨が吹きこんでくる
雨粒が逃げてくる
これではコンピュータが濡れてしまう
眠りはつづく
(小さくはないフェリーボートに乗って
ホテイアオイがびっしりと浮かぶ
小さくはない川を遡上している気分)
キーボードに水しぶきが飛ぶ
でも動くのが面倒だ
そばで仕事をしている若い同僚を見ると
ラップトップが濡れるのをぜんぜん気にしていない
不審に思って、濡れても平気なの、と訊くと
「だってこれ、Mac Air & Waterだから」
と彼女はいうのだ
え、そんなのあるのか、というと
「知らないんですか」と笑われた
デジタル・リテラシーもなく商品知識もない
そうしたことが不要な世紀に生まれ育ったので
あきらめて席を立ち
窓を閉めて
降っているのかいないのかも定かでない
庭に出てみることにした
出がけに紙コップに
コーヒーを注いで行った
仕事が進まないわけを考えつつ
コーヒーを飲みながら歩く
庭には25メートルプールがあり
その向こうには白いテーブルと椅子がある
社長がひとりプールにいて
大きな鰐型の空気マットを浮かべ
そこに寝そべっている
(アーネムランドでもないのに)
紙コップをテーブルに置くと社長が
「今日は気温と湿度の配分がすばらしい」
という。そして「仕事の進行はどう」と訊いてくる
何かが邪魔しています、と答えると
「そうじゃなかった一日があったかしら」
といわれた。別に皮肉ではないのだ
社長はまだ十九歳で
皮肉をいうような年齢ではない
ただこっちが集中できないだけだ
同僚は閉じたラップトップを小脇に抱え
やはり庭に出てくると
いきなりそれをプール越しに投げてよこした
すると投げられたそれがクルクルと
フリズビーのように平らに回転しながら
揚力を受けてふわりと浮かび
こっちに届くまでには円形になっている
ぼくはうわっと声を出して
反射的にそれを受け止めてから
これはすごい!と感嘆の声をあげた
こんな円盤になるなんて
「遠心力よ」と社長が寝そべったままいう
(競技用ビキニを着て
トライアスリートらしい体脂肪の
少ない体型をしている)
銀色のラップトップが銀色の円盤になって
手に持つと重みを感じるけれど
投げて遊ぶにはちょうどいい
ぼくと同僚はしばらく遊んで
宇宙の誰かと交信した気分になってから
また室内に戻った
浮世絵の雨が斜めに降りはじめている
彼女が自分の机にラップトップを置くと
円盤がいつのまにかほどけて
また長方形のコンピュータに戻っている
メタモルフォーシス
形状記憶のトリック
水はまったく平気らしい
キーボードに雨がかかるどころか
手をすべらせてプールに落としても
へっちゃらなんだって
これ、買うよ、欲しい
名前がいいよね、Mac Air & Water か
すると部屋にいたアルバイトの子が
「そういうと思った」というので照れ笑い
地水火風にすぐに引っかかる
ぼくの心を見抜いているのだ
高いのかな、と誰にともなくいうと
別の同僚が「3万円くらいでしょう」というので
またびっくりした
それなら3台くらい買って
二人でジャグリングのように遊ぶのもいい
プールのこっちとむこうで
3枚の円盤を投げ合って
そのつど心は宙に浮かび
運動と静止の統合を味わうだろう
(そうしているうちに時間は過ぎて
プールにはホテイアオイが増殖し
それにまぎれて鰐が目だけ出している
といったことにもなりそう)
不思議な、おもしろい構図だ
長方形の野生だ
次に必要な機能があるとしたら
飛行中の円盤がドローンのように
空中から見えるものを記録してくれるといいな
ただし映像を撮影するのではないんだ
見えている物を円盤が解析し
言葉で描写してくれる
それはそのままぼくの仕事を肩代わりしてくれる
ぼくは苦労もせずに
この世の灰色の表面を書き取る
「おお季節、おお城」
ただしこの城館はホテイアオイの城館で
陽光と水を媒介し酸素を発生させるのだ
水から上がった社長はビキニ姿のまま
書類を点検したり
Siriにスペイン語で天気予報を聞いたりしている
不思議な時代になった
前世紀には予想もできなかったかたちで
計算機が生活や心に入りこんできた
映像画像と文字を同時に
処理できるのが強みだ
心がイメージと言葉でできているなら
両者を束ねて持ち運ぶ「背負子」のような
役目を果たせる機械だ
それだけ心に食いこむ
心のスイスチーズに
穴を開けて住みつく
空気と水に対応できるなら
次は火だ
燃えさかる炎の中を
円盤よ、超えてゆけ
次は土だ
埋められた土の中から
円盤よ、芽吹け
ハワイ島の溶岩平原でも
メコン川のデルタ地帯でも
それを心の故郷として
やがて育つ樹木にも
銀色の円盤がたくさんなって
じゅうぶん熟せば鈴のような
音を立てながら
空へと昇ってゆくだろう
いつも二つか三つの月をもつ
回想の空を支配するために
ブーンと唸り音を出して飛んでゆく
月の未来と交信するために
この円盤は鏡のようでもある
上面が空を
下面が水を映して
それでときどき姿が見えなくなる
このことは比喩ではない
そういうものとして空中に浮かぶことがある

製本かい摘みましては(156)

四釜裕子

買い物袋を持ち歩くようになるとデパ地下がこうも殺風景になるのかと驚いている。政府としてはとにかくオリンピック前にレジ袋の有料化を始めといて「やってます感」を出したかっただけだろうに、ほめてもらいたい相手を失い、陳列棚と通路をアクリル板などで仕切らざるを得なくもなり、現場では「これください」とお願いするとお店の人が隙間から差し出してくれ、こちらはカバンの中からモソモソ買い物袋を取り出して狭いところに広げ、買ったものを放り込むまでジィと待たれて居心地が悪い。「お入れしましょうか」と声をかけてくれる人もいるけれどたぶんそういうことではなくて、これではもはやセルフレジのほうが互いにありがたいのではないかという感じがする。

自宅からスーパーへはカゴぴったりサイズの買い物袋を肩にかけて行きレジで直接詰めてもらうから快適だけれど、買い物の多くはなにかのついでなので持ち歩く薄い袋では不便が多い。コンビニではたびたびビールと何かを買って困っている。一緒の袋に入れたら座りが悪いし水滴で濡れる。小さい袋をいくつか持つとかアンコ代わりに手ぬぐいを持つこともあるが習慣にならない。
ふとよぎったのは、かっば橋商店街のキッチンワールドTDIの長いレジ台だ。いつも新聞紙がきっちり積んであって、清算するとこれでひとまずくるまれる。あの状態で手渡してもらえれば、買い物袋にいろいろ入れても座りはいいだろう。コンビニもレジにいつも新聞紙を積んどいて、「ビールだけ包んでいただける? 2本ずつまとめてでかまわなくってよ」とかなんとか言うのはどうだろう。あり得ないか、そんなの。

斎藤耕一監督の『約束』に紙で包んだ商品のやりとりで印象深いシーンがある。岸恵子に最初で最後の差し入れをしようと開店前の洋品店に飛び込んだショーケンが、下着とかマフラーとか当時圧倒的人気だったらしい「タートル」とかを手当たり次第に買う。しめて5340円、胸元から取り出した100枚はあろうかという札束から1枚を抜いて支払いを済ませると、店主は赤系のぺらぺらの紙で全部まとめて包んで渡したのだった。胸に抱えるショーケン。振り返ると、入ってきた男に体当たりされて包みも金も取られてしまう。
1972年、場所は名古屋の郊外か。当時どれくらいの商店がこうして紙に包んで客に物を渡していたのか知らないけれど、これが持ち手付きの袋であれば、さっと胸に抱える仕草にはならなかったかもしれないし、体当たりされて破けた包装紙のシャカシャカした音はこちらの耳に残らなかっただろう。当たってきた男は三國連太郎。警察だ。床に落ちた包みを拾い上げ、店主に返すのにほこりを払った。パシャパシャッという軽薄な音がこれまた耳に残る。店主から受け取ったと思われる5340円をポケットに入れて表に出ると、仏壇屋が並ぶ通りでショーケンが派手に駄々をこねるのであった。

ひと突きであっさり破れたこの包みはキャラメル包みだったと思う。2、3箇所留めてある透明のセロハンテープが光っていた。こんなに破れやすいのは困りものだが、破れにくいのも困る。
おとというちに届いた古本はやっかいだった。文庫本1冊なのに、カッターで切れ込みを入れた古ダンボールで直方体に仕立ててあり、角という角が布テープで補強してある。どういう具合なのかこれがまったくはがれにくくて、やっとむくと薄い茶紙で包まれた本が出てきて、こちらは縦1本横2本のOPPテープで留めてあるがぴったり過ぎてカッターの刃が入りにくくて、ようやっとむくとOPP袋越しに本が見えたが、これまたサイズに合わせて折った辺が長いセロハンテープでべた留めしてあるのだ。
はぎ取った梱包材にイライラをたっぷり含ませて丸めて捨てた。ようやっと本をめくると、今度は早々に書き込みがあらわれた。しかも赤ボールペン。「書き込みなく良好」って何。ちょっとめくっただけで目に入るでしょうに。この送り主は梱包マニアとでも考えるしかない。

好ましい梱包ももちろんある。最近だと8月中旬、巻き段ボールに包まれて届いた函入りハードカバー1冊は気分がよかった。本の天地プラス10センチ程度の幅でひと巻きしてクラフトテープで留め、天地にはみ出た5センチづつくらいの両端は内側に三角に折り込まれてまとめてクラフトテープでおさえてある。そのテープの両端は真ん中に切れ込みが入れてあり、クロスするようにして貼ってあるのもいい。天か地を開封するだけでOPP袋入りの本が出てきた。こちらは封入口に接着剤が付いたタイプで、サイズに合わせて折ったところには小さく切ったセロハンテープが2箇所で留めてある。開封、かんた~ん! ごみも少ない。送る側の自己満足で梱包を張り切るのはやめていただきたい。

かといって「こころを包む」みたいなことを聞かされるのも困る。ただ、物を包むにはその物をなでることになるので、最後になでた送り手の名残りみたいなものを次になでる受け手が感じることができたなら、そこにはなにか良い匂いがしているのだろう。
ラジオで子どもたちの質問に答えていた小菅正夫さんの口調が今頭を巡っている。「動物園でゾウが死んた。そのあとゾウはどうなるの」という質問だった。小菅さんは、「動物園で死んだ動物はまず、測れるところをとにかく全部測るんだよ」と言った。鼻の長さも尻尾の長さも、足の太さも耳の大きさも……といろいろ言って、それから体の中も見せてもらうんだ、そしてやっぱり胃も腸も、なにもかも測れるところは全部、とにかく全部測るんだ、と言った。部位を言い、全部、全部と繰り返す小菅さんの言葉を、質問した少年がどう聞いたのかはわからないけれど、こちらはぐっときてしまったのだった。
今それを思い出したのは、「測る」というのは「なでる」ということだと合点がいったからだと思う。

ジャワ暦大晦日の宝物巡回

冨岡三智

今年のジャワ・イスラム暦正月は8月20日だった。インドネシアでは西暦、ジャワ・イスラム暦(ヒジュラ暦)、サカ暦(バリ・ヒンドゥー暦)、中華暦正月の4正月が祝日になっており、西暦以外の正月は毎年日が変わる。ジャワでは王宮の伝統行事や冠婚葬祭の日取りなどはジャワ暦で行われるので、西暦正月よりもジャワ暦正月の方が文化的には重要である。ジャワ暦正月については、2003年6月号の『水牛』に寄稿した「スラカルタの年中行事」で触れたことがある。ちなみに2003年は3月4日がジャワ暦正月だった。ジャワ・イスラム暦の1年の長さは西暦より約11日短いので、毎年どんどん早くなるのである。今回は大晦日の夜に行われるジャワ王家の宝物巡回=キラブ・プソコについて。もっとも、ジャワでもこのコロナ禍ゆえ、今年の宝物巡回は行われない。

  ●

スラカルタ王家では、ジャワ暦で正月になる深夜0時から宝物の市内巡回を行う。これは古い時代から続いてきた伝統儀礼のように見えるが、実はスハルト大統領がパク・ブウォノXII世に民族の安寧と統一のためにティラカタンを行うよう依頼したことから始まった。それは1971年あるいは1973年のことで、つまりは「創られた伝統」である。

ジャワ語のティラカタンとは、正月などの大きな儀礼の前夜に人々が集まって寝ずに夜を過ごすことを言う。日本でもかつて大晦日には寝ずに歳神様の来訪を待ったが、それと似ている。そして、寝ずに過ごすために宝物巡回を行うというアイデアが出て始まった行事なのだ。とはいえ、両者は本来別ものである。ジャワ王家の宝物巡回は、そもそも疫病や飢饉が流行した非常時にしか行われなかった(それも非常に稀だったという研究がある)。宝物の霊力によって町を清めるために行われたが、スロ月と関係もなければ、定期的な行事でもなかった。しかし、国の安寧を祈るというのはかつてのジャワの王にとっては政治行為そのものであるため、祝賀行事としての王の即位記念儀礼よりも重要な儀礼だと私に語る王族もいた。

大晦日の夜、スラカルタ王宮の塀の中では巡回に参加する人々が伝統衣装で参集する。夜中の0時に普段は閉じられている王宮正面の門が開けられ、キヤイ・スラメット(白い水牛の名、これも宝物)を先頭に、槍などの宝物を担いだ王族たち、宮廷家臣団、依願して巡回に加わる一般団体(農村から出てきた人たち)の長い長い行列が出ていく。

行列は王宮の正門からまずは北へ向かう。王宮北広場を経て、グラダッグ(中央郵便局のある所)から東へ、電話局を通りパサール・クリウォンの交差点から南下し、ガディンからフェテラン通りを西に進んだ後北上して、スラマット・リヤディ通りに出(確かパサール・ポンに出る)、そこから東へ進み、再びグラダッグから王宮北広場を通って王宮に戻る。行列が王宮に戻ってくるのは朝4時か5時頃だが、それは先頭を歩く水牛のスピード次第だ。王族や高官は履物を履いて良いが、一般の人々は素足で歩く。私も一度、2001年頃に王宮の踊り子たちと一緒に参加したことがある。おそらく踊り子だから許されたのだろうが、私たちは裸足ではなくサンダルを履いた。それでも歩き通すのは大変だった。

この宝物巡回の間、王は王宮内で国の安寧を祈って瞑想する。一方、宝物に従って歩く人々にとってもそれは瞑想の実践であり、私語は許されない。その行列を見るために沿道にはびっしりと人々が集まっている。観光客も多い。これらの人々も夜通し起きてティラカタンをし、キャイ・スラメットに餌を差し出してご利益を得るのだ。

  ●

スラカルタ王家の巡回に先立ち、夜8時頃から分家のマンクヌガラン王家でも宝物巡回がある。こちらでは宝物は同王家の外壁を1周だけ巡るので、ゆっくり歩いても1時間くらいで済んだような気がする。宮廷家臣らは引き続き外壁を7周する。

実はスハルトはジャワ王家だけでなくジャカルタのタマン・ミニ(文化テーマパーク)でも同時に宝物巡回(を模したパレード)を始め、現在まで続いている。コロナ禍の今年はタマン・ミニからオンライン中継されたので見てみた。各宗教の指導者による祈りと舞踊と宝物(を模した物)の巡回が1時間くらいにまとめられている。規模は縮小されているが、内容的には例年通りだという。例年は室内で祈りをしたあと建物の外に出てパレードをするようだが、今年はすべて室内で撮影されている。

夏の終わり

笠井瑞丈

夏休み

祖母の持っていた別荘
毎年よく母と兄弟三人
遊びに行った

茅野の駅を降り
バスで山を登っていく

バス停から眺める山頂
新しい世界を想像する

草の匂
水の流
空の色

車も無かったので
どこにいくのもバスと徒歩

釣り堀に行ったり
プールに行ったり

遠くまでよく歩いて遊びに行った
滅多に飲むことのない缶ジュース

行きはいいが
帰りはつらい

長い坂道を歩いて帰る

遊び疲れた重たい体を一歩一歩運ぶ
追い越していく車を眺め
頭の中で玄関のドアを想像する

あと少し
あと少し

坂をすこし上がった所にあるホテルの温泉
ホテルのロービにあったインベダーゲーム

毎日夢中で遊ぶ

温泉からの帰り道
夜空がいつも綺麗

星は無限の輝きを放つ
宇宙の玄関を開く

ベランダから眺める街の光
光の先に何があるのか想像する

自分はなにであり
自分はどうなるか

近くのスーパーの隣にあった喫茶店
顔と同じくらい大きなかき氷を食べる

写りが悪いテレビのアンテナをいじくる
奇跡的にNHKがたまに映ることがあった
よく高校野球を見た

空が曇りはじめる
テレビが映らなくなる

想像する

いつまでこんな時間は続き
いつになったら時間は終る

夏は沢山の想像を与えてくれた

あの時
開いた玄関から

今の自分を
そして
今の世界を

想像していただろうか

時間はゆっくり進み
世界は変化していく

そんな

夏の終わり

袋小路のタクシー

植松眞人

 まだ町の用水路のほとんどに蓋などされていなかった頃。時々、子どもがそこに落ちて怪我をしたり、水かさによっては死んでしまったりすることもあった。
 自分が子どもの頃は、水があるというだけでそこは遊び場だった。ただ用水路を飛び越えているだけで楽しかったし、水面をアメンボが滑ったり、水の中を小さな魚が泳いだり、水の底をザリガニが歩いたりすると奇声を上げて飛び込んだ。
 当時、僕の家は大通りから細い路地を入った奥の方にあった。両脇に十軒ほどの家を通り過ぎた部分はまるでフラスコのように、円形になっている袋小路だった。僕の家はその袋小路の部分にあって、近所には子どもがたくさんいて、遊び相手には困らなかった。
 夏の暑い日で、まだどの家にもクーラーがあるという時代ではなかったので、大人たちも子どもたちも休日を家の中で過ごせず、表に出ていた。軒先に椅子を置いて涼んでいる人もいれば、玄関先にある水道から水を出し、その蛇口を掌で押さえて辺り一面にまき散らしている人もいた。薄らと虹が出て、その下を僕たち子どもは走り回った。どこまでが汗でどこまでが水道の水なのかわからなかった。
 そこに車のエンジン音が響いた。この路地に入ってくる車は近所のおじさんが乗っているオート三輪しかなかった。他は、配達人のバイクくらいだ。それ以外の車が入ってきたのは僕が知る限り初めてだった。見ると、それは黒塗りのタクシーだった。
 タクシーは左右の家々にミラーをこすらないように細心の注意を払いながら路地を入ってきた。ドアを開けて乗り降り出来るほどのゆっくりしたスピードだった。僕たちはその様子をじっと見守った。子どもが家から出たり入ったりしながら五人ほどいた。大人も同じくらいだろうか。十人ほどの視線を浴びながらタクシーは袋小路までやってきた。さらに細くなる道を見て、運転手は途方に暮れた表情を浮かべた。
 隣のおばさんが
「通り抜けはできひんで」
と運転手に声をかけた。
 運転手は
「そうですね」
 と力なく答えた。
「ここ、グルッと回れますか?」
 運転手は難しいだろうなという顔のまま聞いた。おばさんはちょっと口元に笑みを浮かべて、
「行っていけんことはないけどなあ。うちのお父ちゃんが生きてはったころ、大きなクラウンで、ここ一周まわりはったで」
 それを聞いた運転手は、にっちもさっちもいかないので、とりあえず車を前進させた。その場にいた大人も子どももタクシーのために場所を空けた。置かれていた椅子は家の中に運ばれ、ひっくり返っていた自転車は家と家の間のすき間に突っ込まれた。
 タクシーの運転手は僕たちにペコペコと頭を下げて、すんません、すんません、と言いながら、ゆっくりと車を走らせた。車体の長い車なので円周の短いカーブを曲がるのには四苦八苦していた。それでも、ゆっくりとだけれどなんとか車は袋小路の一番先、入口から一番遠い部分にまで進んだ。問題はここからだった。袋小路を曲がりきったところに用水路があり、それが僕たちの生活道路に食い込むようにほんの少しだけ道幅を狭めている箇所があるのだった。
 このまま行くと脱輪してしまう、と思ったのか運転手が車を降りてきた。近所のおじさんおばさんがみんな出てきて、一緒になって車のタイヤと用水路の位置関係を眺めた。
「これは落ちるな」
 そのあたりでいちばん賢いと言われているおじさんが言った。おじさんはステテコ姿に上半身裸だった。
「もう、バックで来たとおりに帰れ」
 そう怒鳴ったのはずっと黙って様子を見ていたじいさんだった。じいさんはさっきまでなんともなかったのに、ここへ来て急に怒りだしていた。
「いや、タイヤが半分引っかかってたらいける。大丈夫や、そのまま抜けれるやろ」
 そう言ったのは怒っているじいさんの息子で、町内会の会長をやっているおじさんだった。
 運転手はそこそこベテランのように見える白髪の男で、穏やかそうな作りの顔を少し不安げにして、大人たちの意見を聞いていた。そして、最後は自分で決断をした様子で、車の中に乗り込んだ。
 タクシーは一旦、後ろに下がり、少しハンドルを切るとゆっくりと前に来た。
「おちる!」
 子どもたちは笑いながらそうはやし立てたが、運転手はアクセルを緩めず、ゆっくりとしたスピードのまま微妙にハンドルを切った。タイヤは用水路ギリギリになり、さらに前に進むことで、タイヤの下半分には道路はなく、あと少しハンドルを逆に切ってしまうと脱輪しそうだった。子どもたちはこのスリル満点の状況に大興奮だった。
「もうちょっと右に切った方がええんとちゃうか?
 誰かが言ったのだが運転手はその声を聞かずにそのまま車を進めた。タイヤがきしんで本当に脱輪しそうになった。運転手はブレーキを踏み、ギアを入れ直してほんの少しバックした。
「いうこと聞かんからや」
 誰かが怒鳴った。
 運転手がこの場所の空気に飲まれてしまわないように必死で平静を保とうとしているのが子どもの僕にもわかった。
 運転手は窓を全開にして顔を窓から突き出して周囲の状況を確認した。時にはドアを開け、地面すれすれにまで身体を出して後ろのタイヤの位置を確認した。八月の終わり、夕方までまだ時間がある。暑さはピークに達していた。運転手の顔からは汗がしたたり、白いシャツは肌に貼り付いていた。じりじりと照りつける太陽の光と、黒塗りのタクシーから発せられる反射光の暑さで僕たちの袋小路はさっきまでよりも明らかに暑くなっていた。タクシーは触ると火傷しそうだったし、それよりも大人たちのタクシー運転手を見る目は刺々しく、それがより僕たちを暑くして、大人たちをイライラとさせているようだった。
 運転手は苦心しながら何度も何度も一進一退を繰り返した。そして、少しずつ苦境を脱するための努力を重ねていた。もう、彼は誰の声も聞いていなかったし、視線も気にしなくなっていたような気がする。たぶん、僕がその時に思っていた「もうすぐ、もうすぐ」という言葉を頭の中で繰り返していたのだと思う。
 すでに子どもたちの何人かはこのタクシー騒動に飽きて、その場から離れようとしていた。大人たちも引くに引けない気持ちでタクシーをにらみつけてはいるけれど、もうさっきまでの熱はなくなっているように僕には感じられた。
 あと、何度か切り返せばきっとこの袋小路から抜け出せる。みんながそう思っていた時に、どこかのおばさんの声が響いた。
「そんな運転が下手なら入ってくんな!」
 その声はなんとなく落ち着いていた袋小路という鍋の中のものを鍋底から大きくかき混ぜた。運転手が声に驚いて強くブレーキを踏んだ。スピードなんて出ていないのに、小さくはっきりとキュッという音がした。運転手は開いている窓から顔を出した。
「こんな汚い場所、入って来たくて来てるんとちゃうわ!」
 さっきまでの落ち着いた温厚そうな顔とは違う歪んだ顔で運転手は叫んだ。
 男たちが反射的に立ち上がった。女たちは自分のそばにいる子どもを、よその子か自分の子かに関わらず肩を掴んでタクシーから引き離した。それを合図にするかのように、男たちがタクシーとの間合いを詰めた。運転手は失態に気づき、慌てた拍子にブレーキから足を離した。タクシーが大きく前に進もうとして用水路に脱輪した。窓から乗り出していた運転手は用水路側に落ちそうになって、窓枠で鼻を打ち、鼻から鮮血を流した。(了)

万華鏡物語(5)二〇二〇年、八月の手触り

長谷部千彩

 この半年、バカみたいに本を買っていた。本当に手当たり次第。数えてみたら七十冊を超えていた。そのすべてをネットショップで買った。でも、読み終えたのは、ほんの数冊。自由になる時間があまり取れなかった。
 新型コロナウィルスの感染が広がり、外出自粛が呼びかけられ、仕事を減らしたひとたちが大勢いるのに、私の仕事の量は変わらなかった。いや、正しくは、いつもより多かった。幸いなことに。

 一息ついたのは七月の終わり。気がつくと、机の脇には床から膝の高さまで積み上げられた本の柱が何本も立っていた。
 私は一冊ずつ、トレーシングペーパーで本にカバーをかけた。グラシン紙は滑りが良すぎるので、カバーにはトレーシングペーパーを使っている。カバーのかけ方は、昔、私のオフィスで働いていた女の子から教わった。私のもとに来る前、彼女は書店に勤めていたのだ。

 数時間後には、白い霜を巻いたような本の小山ができた。私はその小山を改めて眺め、これが私のコロナ禍の形なのだと思った。
 都心に住んでいると、徒歩五分圏内にいくつもコンビニエンスストアがあり、必要最低限のものは手に入る。食材宅配サーヴィスを利用しているので、食料品が底をつく心配もない。打ち合わせのほとんどがオンラインに切り替わり、テレワークという言葉が一斉に使われるようになったけれども、もともとひとりでPCに向かう仕事をする私にとって、その変化は、日常がほんの少し傾いた程度のものだった。

 運動不足解消のため、時々、近所を当て処もなくぶらぶらと歩いた。
 時々、トレーニングアプリを使って部屋でストレッチをした。
 時々、マンションの屋上で小学生の姪と縄跳びをした。
 規則正しく響くコンクリートを叩く縄の音。私たちの頭上を飛行機が何機も通り過ぎていった。羽田空港新ルートの運用が一月末から始まり、閑静だった住宅街はひっきりなしの轟音に悩まされるようになった。そのことのほうが、新型コロナウィルスよりも、私には身近な問題だった(この問題はこの先も続く)。

 感染の広がりや経済への影響は、いつか回り回って私の生活をいまよりも大きく変えるだろう。覚悟はしている。でも、まだ大丈夫。まだ平気。私はそれほど困っていない。そう捉えて黙々と働いた。
 けれど、息抜きにカフェでお茶を飲むことがなくなった。映画館も美術館も足を運ぶのが憚られた。この仕事が終わったら、美味しいものを食べに行こう。この仕事が終わったら、友達に会いに行こう。この仕事が終わったら、トランクを持って旅に出よう。そう、素敵な靴を履いて。そう、素敵な服を着て。
 その楽しみをひとつひとつ消していったら、「この仕事が終わったら、ゆっくり本を読もう」が残った。満たされないささやかな欲望を、私は本を買うことに置き換えて、半年間、積み上げていたのだ。
 私のフラストレーションは、浪費を伴ってはいたけれど、その形は四角くコンパクト、そして整然としていた。そのことを知り、私は小さくクスッと笑った。

 透ける背表紙の文字を目で辿る。どれから読もうか。全部読み切れるといいけれど。注ぎ足したコーヒーを口に含み、一冊を手に取り、ページをめくる。これが私のコロナ禍の手触り。
 八月は休暇を取ろう、と心に誓った。どこかで蝉が鳴いている。
東京の夏は長い。窓の外に広がる空を、飛行機が低く飛んでいく。

愛しさを抱えて

越川道夫

いつも何冊もの本を抱えて移動している。鞄の中はいつも5冊ぐらいの本が詰め詰めに押しこんであって、なぜそんなに本を持って歩くのか、全部読みもしないのに、と人から言われることもしばしばである。そのたびに、まあ、いいんですよ、これが今の僕の頭の中なのです、と答えるのだが、指摘される通り移動中目を通すのはその中の一冊がいいところである。
移動中ばかりではない。トイレの中も、風呂に入る時も本を抱えている。寝る時も鞄の中に入っていた本をごっそりと、ひどい時には手に抱えきれず顎で支えながら移動することになる。そんな姿を見た母から「本との分離不安」と笑われたこともある。子供の頃からずっとそうなのである。映画を生業にしているくせに映画を見ない日は多い。しかし本を読まない日はない。仕事場に読みかけの本を忘れてきた日は、早くその本にしたいと、自分の頭の中から何か大切なものが欠落してしまったような落ち着かない不安定さを抱えてしまうのだ。母の言う通り「分離不安」なのかもしれない。
そのくせ、言葉は滑り落ちていく。いくら読んでも言葉は自分の内に定着することなく、読んだ端から滑り落ち何も残らないような気がしている。いや、知らず知らずの内にどこかに沈殿し、残っているはずだとも思う。思うが、それは実感できた試しがない。読んでいる最中はもちろん楽しいのだが、「本」の「言葉」は決して自分のものになることはなく、その「言葉」は目の前に閉じられた「本」の中にしかない。
 
「言葉は、自分の外にあって、私の体は「言葉」ではできてはいない」。
ずっとそう思ってきた。「私」と「言葉」は透明に繋がってはいない。むしろ、仲が悪いくらいなのものだ、と。自分で書いたものであろうが、誰かが書いたものであろうが、「言葉」はいつも私にとって「他者」なのだ。「書く」ことも「読む」ことも私にとっての「他者」に会いにいくことであるのかもしれない。しかし、「見る」ことは…。
 
私の眼はポンコツで、今でさえどんなに眼鏡で矯正しても、もはやピントが合うことはない。放っておけばやがては見えなくなるだろう。手術をすれば見えるようにはなるのだから、さっさっと手術でもなんでもすればいいのだ。しかし、手術をした眼は、おそらく今までの眼とは異なる「眼」なのであって、何かが(何かは分からない)変わってしまうのではないか。それをどこかで恐れている。私は、ある「愛しさ」で世界を「見る」。見て、そして「愛しさ」で体を震わせている。そこで感じる「愛しさ」を「新しい眼」でも私は感じることができるだろうか?
 
白い百合の季節は、咲くまでに気を持たせた挙句、一旦花が開くとあっという間に過ぎてしまった。河原に繁茂する葛の花は、昨年よりも一週間遅れて咲き始めた。
 
私は「愛しさ」を抱えて、毎日それを見にいくのだ。
陽が沈む前にと葛の花が咲く河原へと急ぐ足が躍る。

父と子

さとうまき

東京は連日35℃を超えて、それでもコロナ対策としてマスクをつけて職業訓練校に通っている。WEBデザインが金になるのかどうかわからないが、人力車を引いていた若者は、観光客が来なくなって転職せざるを得なくなったそうだ。なぜか看護師もいる。どうして看護師をやめるのか僕にはわからないのだけど。SE業界でくたびれ果てて、耳がほとんど聞こえないが、それでも仕事に着かないといけないというおじさんもいる。そして、僕が加わりこのクラスの劣等生グループである。他は、バリバリ稼ぐ意欲にあふれている若者だ。皆、マスクをつけて、距離を取りながら、恐る恐る授業を受ける。

授業が始まるのが夕方の4時。10時近くに家に帰ると、部屋は散らかり放題で、気が付くとビールの缶やらペットボトルが部屋に散乱している。

3か月一緒に暮らしたムスコをお盆に北海道に送り返して2週間がたった。ムスコが、コロナが原因でふさぎ込んでしまって、部屋から一歩も出なくなってしまった。生きる希望すら失っているというので、別れた妻から頼まれて東京で一緒に暮らすことになった。

年に数回しか会わないからどういう風に接していいかわらず、僕も学校があるので、預けられる施設を探してみたが、息子は、「僕は、人に会うのは嫌だ」とかたくなに拒否し、3か月間、外には一歩も出ずに部屋にこもってゲームばかりしていた。ともかく生活が乱れてしまった。

私が帰ってくるとごはんを一緒に食べる。私はビールを飲み、息子は三ツ矢サイダーだ。サイダーを飲み切ると新しいサイダーを代わりに冷蔵庫に入れる。私のためにビールも冷やしてくれる。三ツ矢サイダーを箱で買うと50-60円/本と安いのだ。しかしムスコは、一口だけ飲んで、また次のサイダーを開ける。机の上には、空き缶だらけだが、半分くらいしか飲んでない。
「最後まで飲めよ。もったいないだろう!うちは貧乏なんだからさあ!」としかると「ごめん」と素直に謝り、一生懸命飲もうとするが、ゲップが出てくるしそうだ。鼻をかむと、そこいら中にティッシュが散乱している。
「お父さんの遺伝子を引き継いだんだ!」確かに!

ムスコは体育が苦手だ。ちょっと歩いただけで疲れたといい機嫌が悪くなり、めんどくさいので、出かけるときは車だった。ちょっとでも運動させたいなと思っていたが、なついてくると、やたら殴りかかってくるようになった。結構向こうは本気でグーで殴ってくる。スパーリングは一時間に及ぶこともあり、こいつこんなに体力あったっけ?と驚くぐらいだった。

僕は料理は苦手だ。それでも、頑張って作った。いろいろ作っても、うまいものとジャンク・フードしか食べてくれない。食べ残しを見ると少し悲しい。結局、息子の残したものばかリ喰っていると5kg増えた。息子は時たま僕が作るうまいものと、外食とジャンクフードで、3か月で12㎏増えた。

イラクの話もした。
「モスルという町は、イスラム国に占領されたんだ。オマル君は、君と同じ年だ。いろいろ悲惨な殺しを目のまえで見て、ショックを受けて調子が悪くなって、そのうちがんになってしまった。神経に腫瘍ができて手術で取り去ったのだけど下半身が動かなくなってしまったんだ。それでも、オマル君はいつもニコニコして挨拶してくれるんだ。お父さんのイラクでの最後の仕事がオマル君の面倒を見ることだったんだ。何か欲しいものがある?って聞いたら、ゲームをしたいという。彼はもう寝たきりだから、ゲーム機を買ってあげることは、決して贅沢じゃないよ。でも、病院にはたくさんの子どもが入院しているから彼だけ特別っていうわけにはいかない。お父さんは、君には、PS4もスイッチだって買ってあげたじゃないか?じゃあオマル君には買ってあげないのかい?って。だから、こっそりゲーム機を買ってあげたんだ。」

その時、僕は思った。オマルは、ムスコと同じ年。生きてほしい。オマル君のような子どもたちが生きるために、僕は世の中に不条理をまき散らすインチキな連中と戦ってきたんだと。
「でも、一か月後に彼は亡くなったんだ。お父さんの最後の仕事だったよ。」
息子は、その話を聞いてから、「僕はゲームを作るんだ。世界中の子どもたちが楽しめるゲーム作るんだ」といって張り切っている。

息子が去った部屋の片づけをしていて、オマル君の最後の日のことを思い出した。普段明るいオマル君も、痛みに耐えきれず苦しそうな表情を見せていた。やせ細っていくオマル君の手を握って、「頑張るんだ!」って励ました。

翌朝、病院に行くとベッドはきれいに片付けてありもう何も残っていなかった。
「朝方、なくなりましたよ」看護師さんが教えてくれた。覚悟はしていたけど、空になったベッドは、ベッド以外の何物でもなく、これから入院する患者を待っているだけなのだ。昨日までのことは嘘だったようにぬくもりすらも残っていない。ぽっかりと穴の開いた気持ちだ。結局オマル君は、僕に「頑張れ!」って言ってくれたんだ。オマル君が亡くなってから、実際、僕は頑張っていないから。オマル君が息子に乗り移ってメッセージを伝えに来てくれたのかもしれない。いやいや、ムスコにとってオヤジがだらしないと困るから、それはムスコの切なる願いでもあるのだろう。

いずれにせよコロナに負けている場合じゃないな。

真夏日の労働

高橋悠治

毎年夏は秋のシーズンのために作曲していた 今年はそれに加えて コロナ感染予防のマスクやシールドで 肺も脳も酸素がじゅうぶんとは言いきれない

コンサートも観客なしのネット配信や 関係者ばかりの閉じた空間 客席を一つおきに空けた赤字公演を続けながら なんとか支えあって いつまで行くのだろう これからは オーケストラやオペラのように集団による集団のための見世物ではなく 空間にちらばった場所がそれぞれに変化していく生活があり 変化が顕れ 風が起こると 通り過ぎた場所が見えてくる 方向だけがあり 消えないうちに ちがう方向からまた近づかないと 場所は褪せていく

サントリー・ホールで8月の終わりにフェスティバルがあり 昔の曲が2曲再演された 「オルフィカ」は80人のオーケストラを ちがう楽器の組み合わせで8つのグループにわけ 6つをステージの奥・中・前の左右に置き 残りを2階の左右に分ける 1969年に作曲してから50年以上経って コロナ後のオーケストラの空間にも聞こえる

1960年代は 反体制運動があった 近代とともにはじまった革命運動は 結局新しい権力を作ったが 普通教育の反面 平等は徴兵制度を作り 産業革命は工場労働を必要とする 福祉国家の実現は生活全体の監視をともなう 反体制運動の挫折の後に新自由主義が生まれ いまはそれが世界のあちこちで アメリカに従わない国家が制裁され 傭兵から戦争をしかけられる 理想をもとめれば原理主義になる 

三味線弾き語りと合奏のための『鳥も使いか』は1993年に作った 弾き語りの所々で 物語に必要な道具や情景が 合奏の曲になって聞こえる 指揮者はそのタイトルを告げ 合図の楽器を打って曲を停める 合奏する楽器は 左右に振り分け 太鼓は舞台裏から聞こえる この思いつきのもとになった九州の琵琶と合奏の「妙音十二楽」は 奏楽する僧侶の数が集まらず 昨年で800年の伝統が絶えた と後で読んだ

西洋近代のオーケストラは オスマン帝国の軍楽隊にまなんで 宮廷の娯楽やオペラの合間に演奏するようになり 100人以上の集団になったが 国歌と行進曲から離れるのはむつかしいようだ ディジタルの時代には 人数は必要ないだろう 歌ったり楽器を奏でたり踊る身体のたのしみは かんたんにはなくならないだろうし 電子音と映像で済ますのでは なめらかすぎて 手応えがない

練習を見ているうちに思いついた 強い音は 強い力では生まれない 力は音を押しつぶしてしまう 逆に 身体の力を抜いて 楽器がよく響く状態を作ってあげるのがよいようだ 弱い音は 注意を集めて 消えていく音が耐える前に介入して 火を掻き立てる そこに楽器を弾く人の個性が映る それは 楽器のあいだに距離をあけた空間で聞こえてくる 楽器を弾く人は 周りの音を聞きながら 自分の楽器の音を添えて 響く空間の色を変える そのわずかな変化が聞こえれば 次の音の出しかたが決まる それを 合奏するたのしみと言ってもよいだろうか

指揮者が音楽を作るのではなく そこにいて見ているだけで すべてがひとりでに立上り 動いていく 動かす中心ではなく 動きがそこに集まってくる それでも 傘の軸のような中心ではある

一つの中心の周りにさまざまなものを配置するかわりに 中心がなく すべてが周辺であるような状態(メキシコの社会運動家グスターボ・エステーバの『世界を周辺化する」)と何が起こるだろう

2人から20人ほどのグループなら それができるかもしれない 『鳥も使いか』の合奏は そのなかで似たやりかたをいくつか試している ただし 全体は一枚の紙の上に書かれている 小さな合奏 邦楽の三曲のかたちを借りた『瞬庵』(2001)は それに近かった

全体のない部分の集まり 多様な組み合わせ 質のちがいが浮き出ないように混ぜ合わせて おだやかに弱く持続する作用をする 漢方薬にも似ている