003 うんと古書 独孤遺書

藤井貞和

小学一年生の『こくご』に、
うんとこしょ
どっこいしょ
民話の「おおきなかぶ」です。
みんなで力をあわせ、
ねずみさんもいっしょに、
大きなかぶをひっこ抜きました。

藤井さんは大きくなりまして、
民話の向こうを張り、
物語学者になりました。
うんとこしょ
じゃないですね、「うんと古書」
書庫は古文の、
変体がなであふれています。

最晩年にさしかかり。藤井さんは、
つまを亡くし、
物語研究会のなかまもつぎつぎに亡くなり、
国語学会からは相手にされず、
孤立を深めます。

遺書を書くことになり、
くちに浮かぶ戯れ唄です。
あら「独孤遺書」
うんと古書
うんとこしょ
どっこいしょ

 

(季刊『未来』誌の中塚鞠子「言葉でことばにコトバを言葉は――大岡信『思考することば』考」が新鮮だ。『思考することば』は、知らない人もいるかもしれないが、野沢啓が大岡の著述から14編の論考を、「Ⅰ ことばの力」と「Ⅱ 「てにをは」の詩学」との二章に分けて、これもじつに手にとりたくなる一冊だ。『未来』には野沢の「大岡信とことばの詩学5(完)」も掲載されており、まもなく単行本になるのだろう。日本語の詩や詩論をめぐる劃期がやって来るのだという予感がする。同誌にはモダニズム詩を探求する季村敏夫の一文や、上村忠男の連載も光り、季村は『現代詩手帖』のモダニズム詩の特集で巻頭に高木彬との対談に臨むなど、現代詩の何かがいま復活しつつあるかのようだ。〈ことばの力〉とあり〈「てにをは」の詩学〉とあるように、日本語学の新展開だと気づくのに時間はかからない。「てにをは」は『万葉集』に始まり、藤原定家につながる古文の詩学。国語学会はいまの日本語学会。詩が学界を引っ張るような歴史がまた動き出したってもかまわないだろう、とは藤井さんの我田引水。ははは)

夜の山へ登る(1)

植松眞人

 あんたが死んでしもたことを責める気にはならへんのや。あんたがいつも言うてたことが間違いやとも思わへんし、どっちかいうたら、あんたのほうが正しいと思うことが多かった。世の中生きていくためには、みんなそれぞれに我慢してるんやで、と僕はあんたに言うてたけど、ほんまは僕かて我慢のきかへんイラチや。自分ではよう我慢でけへんことも、あんたの話になると他人事やから、わかったような口をきいて、大人のふりをしてた。
 あんたが美幸さんや純平くん、知美ちゃんの待ってる家に帰ってけえへんようになったと聞いた時、僕は六甲山に登ったんやとピンと来た。死にに行ったというよりも、どうでもようなったんやろなあと思たんや。もちろん、美幸さんたちの前では、そんなことは素振りも見せんように、一緒に心配そうな顔をしてみせた。なんとなく、あんたがふらふらっと、おらへんなるような気がしてたんやろな。年が明けて、松の内が明けたばっかりやいうのに、あんたが海に向かうはずがない。あんたは寒がりやからな。あんたの自慢の大きなスクーターに乗って六甲山に行って、山の中で火でも焚きながら時間を過ごして、帰りたなったら帰る。帰る気がなくなったら、そのままおらへんようになる。なんとのうやけど、僕にはあんたのそんな姿が見えるような気がした。
 賑やかなことが嫌いやったな、あんたは。覚えてるか、中学生の文化祭。クラスで劇をやるいうて、みんなダラダラと準備を進めてた。そしたら、あんたが急に教壇のとこに立って言うたんや。
「やるんやったらやる。嫌やったらやめようや」
 急に大きな声で言うから、教室の中がしんと静まり返った。で、しばらくしたら、守山が言い返したんや。
「なにええかっこしてんねん」
 守山は小狡いやつやった。家が金持ちでなあ。遊びに行ったら、みんなに飯おごったりするから、腰巾着みたいなやつがいっぱい引っ付いてた。そいつらが、守山の味方して、そうやそうや、と騒ぎよった。そしたら、あんた、教壇から降りて、まっすぐ守山のとこへ走って行った。
「オレはな、こんな子どもじみた劇が吐くほど嫌いなんじゃ。こんな子どもだましのことせなアカンのなら、ちゃっちゃとやって終わらせよう、言うとんねん」
「なんのことやねん」
 守山はあんたの勢いに怖じけずいている感じやったな。
「みんなでわいわい、しょうもないことしてるのが嫌や言うとんねん」
 あんたが重ねて言うと、守山は顔を赤くして机を大きな音させて叩きよった。
「どのクラスもなんかせなアカン言われてるんやから、しゃあないやないか」
 守山がそうどなると、あんたは、守山の肩をぽんぽんと軽く叩いたなあ。
「可哀想やなあ。そらそうや、みんなやってるし、やらな先生に怒られるし、やらなしゃあないなあ」
 そう言うと、あんたはもう一回、教壇に戻ったんや。
「こんな子どもだましのしょうもない劇、本気で楽しいと思ってるやつはおらん。おるんやったら、手上げてみ」
 誰も手なんかあげへん。
「おらんのやったら、さっさと終わらせよ。終わらせて早う帰ったほうがええ」
 そしたら、いままで黙ってた女子がざわざわし始めた。
「けど、背景とか作らんとアカンのちゃうの」
 可愛い声で言うたのは、委員長やってた亀井さんやった。
「背景なんかいらん。いま、演劇の世界で流行ってるのは、素のままの舞台で、役者も私服で役柄を演じる芝居や」
「ほんまか」
「ほんまや。いまどき、吉本新喜劇みたいなもん流行らん。コンテンポラリー演劇や。スマホで検索してみ」
 あんたが言うと、クラス中がざわざわし始めて、先生に見つからんようにスマホを持って来てたやつらが一斉に検索し始めた。
「コンテンポラリー演劇…。ほんまや。新喜劇みたいな背景のない写真もいっぱいあるわ」
「こっちは、出演者が全員、黒いレオタード着てるわ」
「オレは、昨日、NHKの教育番組で、コンテンポラリー演劇いうのを見たんや。あれなら、すぐできる。準備はいらん」
 そこからは、クラスのみんながあんたの言う通りになって、背景なし、セリフなし、ただただ、制服を着た男女が舞台でフラフラしてるいうだけの劇を十五分ほど続けたんやったなあ。けど、あれは担任が小林先生やからなんとかなったんやで。小林先生はええ加減に見えるけど、以外に反体制でな。学校の言うことなんか聞くな、いうのが口癖やった。そういうたら、あんたは小林先生と仲良かったなあ。廊下ですれ違うたびに、なんやしらんけど、こそこそなんか言うては笑てたなあ。僕はそんなあんたが羨ましかった。先生と笑い合うなんて、僕にはなかったからな。
 あんた知ってるか。あの時、予行演習に僕らのクラスだけ出えへんかったやろ。あれは小林先生の機転やったんやで。(続く)

アパート日記 2025年3月

吉良幸子

3/1 土
せっかく昨日楽しかったのに、また家のことでムカムカすることが。言うてもしゃーない、笑い飛ばして解決しよう!また部屋探しやで~。それにしても、今夜だけはまだプリプリと怒る…消化するにも時間がいるねん。

3/2 日
昨夜何を怒ってたかというと、こんだけ水漏れで被害を被ったにもかかわらず、つまりは大家が金も出したくないしとっとと出てってほしいとごねやがった。立ち退き予定物件に1年住んでええという話が打って変わり、秋までに出ないと立退料を3分の1にしまっせと。そういう事ならこっちもさっさと出てくわ!と家探し。千葉に住むさくらさんがおもろい不動産屋を見つけてきてくれはった。なにやら新しい流れが始まる予感。

3/6 木
銀座の職場で体調不良が続き久々に出勤。実は私もあんまし体調良くないねんけどなぁ。今年の風邪はタチが悪い。酷い咳が残る。出勤するとソラちゃんは私を探しに駅の方へ向かうらしい。公子さんから、またおらんねんけど…と連絡がくる。でもしばらくすると帰ってきて私の部屋の前でギャン鳴きしとったらしい。公子さんの部屋の方は開けて待っとるのに、ヤァねぇ。

3/15 土
明日は初のマルシェ出店。紙粘土で作った人形を出すべく日々制作してきたんやけど、途中で熊手作りが始まり、気づけばそっちがメインになった。ちぃちゃい色んな縁起物のついた熊手は自分で言うのもなんやけどかわいい。和物のブローチも少し作った。明日は売れますように。

3/16 日
川越でマルシェの日やのにあいにくの冷たい雨。私は本来むっちゃ晴れ女やねんけどなぁ、出店者の中に猛烈な雨女でもおるんやろか。川越を観光するのにむっちゃええとこでの開催やのに、寒いわ水捌けも悪いわで人も全然通らへんかった。それでも、事前に声を掛けてた知り合いがたくさん来てくれはって結構繁盛したから嬉しい。

3/21 金
うちのおかぁはんと同い年の同僚のお母さんが入院されたという事で、大急ぎで赤ミミズクと赤べこを作った。この95歳の母上にはこの前のマルシェに出した熊手につけるフサをいっぱい作ってもらったりしていつもお世話になっておる。「入院」なんて単語聞くとびっくりするがな。お見舞いにも行かれへんし、健康を守る赤い縁起物を側に置いてもらうべく仕事もそっちのけで作った。思いの外ええ出来で、娘である同僚に渡したら喜んでくれはって嬉しい。はよ元気になりますように。
今日は1ヶ月半ぶりくらいに落語会。ご贔屓の扇辰師匠のとこの前座さん、辰ぢろが二ツ目昇進で「扇兆」さんにならはってそのお祝いの会。前座は基本的にまくらを振らんから落語しか聴いた事ない。二ツ目になった扇兆さんが噺に入る前にアレコレ楽しそうに話してるの見ると、実はよう喋るねんな~!とびっくり。静岡出身らしくのんびりしてて、朗々とした感じ。サービス精神旺盛で千社札やポストカードくれたり、こんな色々くれる方見た事ないで!お客さんも静岡からわざわざ来てはる方が全体の3分の1くらい。ええお客さんが既についてる。これから真打まで長い道のりやけど、応援したくなる人柄で、私もこれからちょくちょく彼の出る落語会へ行こうと思う。

3/24 月
隔月に一回出る漫画雑誌『ねこぱんち』の発売日!さくらさんの漫画の第二話が載っておるのでコンビニへ走った。今回もさくらさんの漫画に出てくる猫はソラちゃんそっくり、というか美形のソラちゃんにしか見えへん。感想と応援メッセージを書いて葉書を送ろうと思う。
そういえばソラちゃんは最近になって完全に「引っ越した」ということを理解したらしく、もう前の家に向かうことはなくなった。家ん中か庭で寝てることが多い。うんちは外でしてきて必ずハイになって帰ってくる。そん時は5才みたいな顔で家ん中を走り回るけど、とにかく遠くへは行かん事にしたらしい。ほんまに賢い猫やわ。

3/29 土
実は出稼ぎ先を今月で退職する。引越しもするし、環境を一新しようというワケ。デザインの仕事もありがたい事に今月は結構きてて、本業をもうちょいちゃんと営業していかねばという事でもある。年明けに退職の願い出をして、今日が出勤最終日。全く実感がない。でも最終日という事で、たくさんのお馴染みさんがみなさんわざわざ来てくれはった。ほんまにありがたいこって。私がカウンターの中にいて、お客さんがカウンターに座って、ああだこうだ話しながら仕事するのは楽しかった。今日も、着物もらって!と、足元悪い中持ってきてくださった方もいらっしゃった。銀座で2年、埼玉へ移動して1年やけど、こんなたくさんの方々とお知り合いになったんやなぁと、嬉しいやら、あんまし会えへんようになるし淋しいやら。
明日も埼玉のお客さん主催のマルシェに出る。正直に言うと忙しすぎて全く準備が整ってへん。今日はとっとと帰って準備せねばなんやけど、みんなとなんじゃかんじゃ話して、出勤最後の後始末までしてたら店を出たのが20時。家に着いたのが22時でそっから朝までマルシェ出店の準備をする。あかん、完全にいっぱいいっぱいや…。

3/30 日
昨日の今日で埼玉は鶴瀬へ。着物で来てね!と言われてたから、お客さんからいただいた着物に帯で向かう。朝から眠い。まぶたが重い。徹夜して臨むもんじゃないし、ほんま申し訳ない。今日は物販そこそこにワークショップしてほしいとの要望で、来月から使えるカレンダー作りの準備をしてきた。寒さが戻るという予報やったけど、汗ばむほどお天気に恵まれて桜が綺麗やった。マルシェにはいっぱいの人で、私のブースにも知り合いがたくさん来てくらはった。

3/31 月
なんとかイベント尽くしの3月を乗り切った。1ヶ月の疲れを溜め込んで、いくら寝ても泥のように体が重い。でも今月最終日やし出稼ぎ先へご挨拶に行く。どうせ家を出るなら画家の友、キューちゃんとも会って4月のイベント出店の打ち合わせをしよかとお昼に新橋は喫茶フジへ。ニュー新橋ビルは数年前から建て壊しとかなんとかいうてまだ不思議とあるから嬉しい。フジがなくなると困る。
席について開口一番、こんな疲れたキラちゃんはじめて!とびっくりしてるキューちゃんの顔見て苦笑い。でも、そらそや、花粉症で目も赤いしボロボロ。甘いもん食べて友と話すとちょっと回復。その足で職場へ行って退職の挨拶をする。正確には自分のいた飲食部は休みやし、画材店の方々へご挨拶をしに行った。上京してすぐに公子さんと一緒に来て、今となっては同僚となった店長さんに接客してもらったのを思い出す。まさかここで働くなんて思ってもなかったなぁ~と感慨深い。色々あったけど、今後の付き合いにも繋がるええご縁をたくさんもらえた職場やったと思う。
画材店を後にして金春湯へ行くとちゃんと営業中。銭湯へもロクに行けへんかったからあっつい湯で疲れを全部流す。今日はまた急に寒さが帰ってきたからありがたいお湯やった。銭湯を出てぽかぽかで歩いてたら落語家の兼太郎さんから電話があって久しぶりに話す。これからの話などなど、ひとつの時代が終わって新しく始まる感じ。来月からまたぼつぼつがんばろやないか。

ネクタイを忌む

篠原恒木

ネクタイほど無意味なものはない。

真綿色したシクラメンほど清しいものはないが、間抜け色したネクタイほど貧しいものはない。あ、色はどうでもいい。黒だろうが、赤だろうが、レジメンタルだろうが、どうでもいい。なんなのだ、あの端切れは。あれを首からぶら下げているとフォーマルなのか。ぶら下げていないと失礼なのか。馬鹿を言ってはいけない。ネクタイをぶら下げた無礼な奴などゴマンといるではないか。

真夏にワイシャツとネクタイ、スーツというヒトを見かけることがあるが、心から同情してしまう。あの忍耐力はどこで培ったものだろう。尊敬の念すら覚えてしまう。アンタはエライ。

ネクタイを締めるということは、ワイシャツを着なければならない。おれはもうワイシャツですら苦痛だ。ボタンが多い。面倒ではないか。袖までボタンがついている。なかには片袖だけで三個、ないしは四個もついている。あれはデザイナーの嫌がらせではないか。やっとすべてのボタンを装着すると、さてネクタイだ。

ところが、これがなかなか上手い具合に締まらない。結び目が不格好になる。何度もやり直す。最近のワイシャツはワイド・スプレッドの衿が多いので、細いネクタイだと上手に結び目を作ってもVゾーンの左右に「紐」の部分が見えてしまう。太めのネクタイを選んで、ある程度結び目も大きく拵えなくてはならない。厄介ではないか。面倒くせえです。
垂れたネクタイが短かったり長かったりする。あの長さの調整もオトコの技量が問われるのだ。短いと裏の細いほうの先端が突き出て見えてしまう。これは論外だ。ダサい。イカンと思ってやり直す。今度は股のあたりまで長くなってしまった。これではドナルド・トランプ氏のようではないか。またやり直す。

トランプ氏の赤いネクタイはいつも長く垂れさがっている。あのヒト、背も高いでしょ。どう結んだらあんなに長くなるのだ。ものすごく長いネクタイを特注しているとおれはニラんでいるのだが、お付きのスタイリストだっているだろうに、あの長さを是とする了見が知れない。ついでに言うと、高価なスーツにネクタイを締めてベースボール・キャップを被るのは、いくら選挙キャンペーン中でもやめていただきたい。スーツに野球帽というコーディネートは破壊力がありすぎる。あの組み合わせが似合うニンゲンはこの世にいない。

話が逸れた。年に一、二回しかネクタイを締めないし、普段はシャツも着ないおれだが、先日、母の七回忌があって、仕方なくブラック・スーツに白いワイシャツ、黒いネクタイという格好をしなければならなかった。

疲れた。着るのも疲れたし、谷中の寺までクルマを運転するのも疲れた。首元が苦しい。ジャケットも窮屈、おまけに滅多に履かない革靴だ。靴を脱いで読経を聞いているときも疲れを強く感じた。再び革靴を履き、塔婆を持って墓まで移動するのも大儀であった。法要が終わると、どこへも寄らずにすぐ帰宅したが、疲れ果てていた。わずか二時間半ほどの着用時間だったが、ネクタイをほどいたときの解放感といったらなかった。

ネクタイを締める目的は、ほどいたときの快感を得るためである。

そう思いましたね。おれが身近なヒトビトに死んでほしくないのは、葬式にネクタイを締めて出掛けなければならないからである。みんな長生きしてね。

ネクタイが汚れているヒトがいる。食事中に何かが飛び散って、それを放置しているものと推察されるが、あれはいただけない。その日のランチで汚してしまったのならお気の毒とも思うが、「ある一定の時間を経て現在に至る」という汚れ具合のネクタイを目にすることがある。カレーうどんの一滴、ボロネーゼの一滴、せいろ蕎麦のつゆの一滴、サラダにかけたオリーブ・オイルの一滴、それらのシミが混在しているネクタイを平気な顔で締めているヒトもいる。それでいいのか。いや、いくない。みすぼらしい。あれではノータイのほうがマシなのではないのか。

だが「スーツにワイシャツでノータイ」がサマになっているヒトをおれは知らない。普通のワイシャツにビジネス・スーツであれをやると、見るも無残だ。だからおれはワイシャツを着ない。スーツも着ない。どうしても着なければならないときはネクタイを締めて、絶対に緩めない。スーツのジャケットも脱がないよ。そういう日は年に一、二回しかないが、帰宅すると寝込んでしまう。疲労の度合いが違うのだ。

おれがネクタイを締めなければならないケースは葬式、そうでなければ「エラいヒトビトが集まる会合」だ。エラいヒトビトは大抵ネクタイをしている。肝心のおれはエラくもなんともないのに、なぜネクタイを締めなければならないのだ。ドレス・コードというやつなのだろうが、きわめて理不尽だと思う。
だからそういう会合は欠席のハガキを出すことにしている。おれなどがいなくたって何の問題もないしね。なので、印刷された「欠席」のところにマルをして、その右の余白に「ネクタイを締めなければならないので」と書き添え、下には「させていただきます」と書き添えることにしている。面倒なのは、おれのハガキを受け取った担当のヒトから、電話がかかってくることがあることだ。
「どうか平服でお越しください」
声が慌てている。すまない。おれのことなど忘れて、幸せに暮らしてください。

思い出した。十年ほど前にネクタイを五十本以上捨てたことがあった。同時にワイシャツもスーツも大量に処分したっけ。
ということは、おれもスーツとワイシャツを着て、ネクタイを締めていた日々があったのだ。バブル期のことかもしれない。もう忘れた。これほどネクタイを忌み嫌っているおれにもそういう時代があったのだ。なんだよ、つまりは思想、信条がブレブレではないか。どこでいつ転向したのだろう。原因は精神的なものだったのか、ネクタイ的なものだったのか。今ではネクタイは三、四本しかない。いいんだ。

「数年ぶりに新しいネクタイを買おうか。滅多に締めないけど」
と思い、店頭で気に入ったネクタイの値札を見たら五万七千二百円だったので、「オガーヂャーン」と叫びながら最寄りの交番へ駆け込んだ。端切れだよ。高いよ。買えないよ。買ったらオガーヂャーンに折檻されるよ。あ、オガーヂャーンは六年前に亡くなったんだ。

ジジイの一人旅

さとうまき

暑い時に中東に行くのはよした方がいい。ともかく暑いとしんどいし、ポケットのついた上着を着るのも暑苦しくて、結果財布を落としてしまう。去年はイスタンブールで酷い目にあった。

ジジイになると目も見えなくなってるので本当に最近はものをおき忘れる。それだけではない。地名とかも忘れてしまって、行きたい場所もスラスラ言えなくなってしまう。もうそろそろ一人旅も最後になるかもしれぬ。今のうちに行っておかなければならない国は?と言われたら、新しい国を冒険するか、懐かしい思い出に浸る旅に出るかだが、僕はもう新しいことは面倒であるから後者を選ぶことにした。そこで、23年前に追放されたイスラエルに行くことにしたのだ。

ヨルダンまでのチケットを買い陸路でイスラエルに入国。万が一入国拒否されても、シリアかイラクへ行けばいい。気持ちの整理が必要だったので、ヨルダンのホテルで一泊することにした。ダウンタウンの薄汚い安ホテルを最近はよく使うようになった。かつて僕が局長をしていた支援団体の理事会で「あなたが安い薄汚いホテルに泊まるので、職員が迷惑しているそうだ。かわいそうに、局長以上のホテルには泊まれないから友達の家に泊めてもらっているというではないか」と理事会で糾弾されたことがあった。

僕としたら、節約すればその分支援に回せるというポリシーなのに、わかってもらえなかった。その時よりもさらに汚いホテルに最近は泊まっているが、このバックパッカーのような旅が結構楽しいい。特にアンマンのダウンタウンはアラビアのローレンスが活躍した当時の歴史が刻まれている。お土産屋や市場が混雑していてぶらぶら歩くと楽しい。しかし薄汚い。

今回ラマダン中に到着したのでレストランが閉まっている。うとうとしているうちに日は沈み、気がつくと歩道に机が並べられて満席。うろうろしているとあちこちから声がかかり結局つまみ食いだけで満たされてしまった。これがまたうまいのです。みんな幸せそうです。ガザで虐殺がおこなわれているなんて信じ難い夜であった。

むもーままめ(47)桜の樹の下には…の巻

工藤あかね

 春といえばポカポカ陽気に桜…桜の季節といえば入学式に入社式…というのは古い感覚かもしれない。こどもの頃、4月上旬はたしかに満開の桜の季節だったように記憶しているのだが、最近では桜祭りを4月ではなく3月中から始める自治体もある。時々夏日が混じるとはいえ、まだ3月。桜は咲きはじめていても、日によっては冬の装備でも寒い。個人的には冷え切った地面に敷いたビニールシートの上で、キンキンに冷えたビールなんて飲む人の気が知れない。それにしてもなぜ桜の時期は、ずれてしまったのだろう。毎年開花はまだかまだか、とみんなに待望されるあまり、急いで花を咲かせようとがんばりすぎているのだろうか。そうなると人気者の桜も気の毒なものである。

 さて令和7年3月末日の今日も、冷たい風ふきすさぶ真冬の寒さだ。花は見たいけれど人混みがいやなので、穴場だと目当てにしていた枝垂れ桜を見に行ったら、花びらの8割が落ちてまるだしになって垂れ下がる木の枝が、寒さに震えていた。枝垂れ桜はソメイヨシノより少し季節が前倒しとわかってはいても、自分は満開の時期を見なかったという事実が、何か取り返しのつかない損をしてしまったかのように感じた。だが、生まれたてのうす緑色の葉がぴょんぴょん突き出て、赤いがくだけになった桜のどこがわるいのだろうか。落ちた桜の花びらは雨に濡れ、土にじっとりと張り付いている。だがよく見ると屏風絵にしてもおかしくないような図だった。枝から離れて地上に下り、土に還ろうとする花びらだって美しいものなのだ。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている、と梶井基次郎は書いた。桜の、あのただごとではない美しさは、命と背中合わせの何かが養分になっているという感覚、これはなんとなくわかる。桜の連想は同期の桜、戦没者にもつながるわけだが、そうすると千鳥ヶ淵も、上野の山も、桜を口実に仲間と集まって、酔っ払って騒ぐ場所にするのは不謹慎ではないかと思ってしまう。だが、来年もまた集うことができるかわからない人と、また会おうと力強くも不確かな約束を交わす、という一里塚にするのなら大いにあり得るかな。あのような場所で集うなら、そのくらいの覚悟を一ミリくらいは持っていたい。
 
 「同期の桜」…なぜか出だしだけは歌える。「海ゆかば」も一節だけなら耳に覚えがある。「軍艦マーチ」…は長らくパチンコ屋さんの音楽だと思っていた。(昭和の時分には、パチンコ店から大音量の「軍艦マーチ」が聞こえてくるのが常だった)。だがあのマーチに合わせて歩くのは子供心にいやでいやでいやでいやで仕方がなかった。道を歩いているうちにどこからともなく聞こえてくるドゥーッダ ダッダ ダダダダ ダーッドゥダドゥダーのリズムに足を出すタイミングがそろってしまうと泣きわめいた。かんしゃくを起こしながら、わざとテンポをずらそうとして歩くのだが、親に「気短かをおこさないの!ちゃんと歩きなさい」と叱られるのでどこに怒りをぶつけて良いのか分からず、余計に腹がたった。子供だったので、なぜ「軍艦マーチ」のテンポに足がそろうと嫌な気持ちがするのかを親に説明できなかったのだ。まあ、じゅうぶん大人になった今でも、なぜ嫌なのかは説明はできないし、今だってマーチのようなものが聞こえてきたら足が地を踏むテンポを合わせないように心がけている。
 
 最近では「軍艦マーチ」を街中で聞くことはなくなった。けれどもマーチ状の音楽は巷にあふれているので、油断は禁物なのである。「ミッキーマウスマーチ」、「史上最大の作戦 Longest Day」、「星条旗よ永遠なれ」etc…ちなみに水前寺清子が歌う「365歩のマーチ」は遭遇頻度が減ったが、「となりのトトロ」の「さんぽ」にはまだまだ不意打ちをくらうことがある。

サザンカの家(三)

北村周一

路地うらゆみえつかくれつとぶとりはメジロと見ればはや視野のそと
ゆくりなく来ては去りゆくメジロらの自在なるこころおもうつかの間

花花のかすかなる声ききいたるごときしぐさにメジロ来ており
なにごとか告げんごとくもちか寄りてメジロ可憐(いじら)し花もよろこぶ

闇ふかき落ち葉のもとにかそかなるもののかげありわが眼をさそう
落ち葉かげくらく澱めるひとところねむりたりおりつばさもつ目は
ふき溜まり木の葉の蔭に黄みどりのまろみがひとつめざめを知らず

かぜ降りて枯葉もみじのしたかげにみどりあやしく羽顫えおり
枯れおちば纏えるごともつつまれて吹きたまりおり鳥のかたちに
吹きたまるかぜの澱みにとりのかげしずけくあればわが見たりけり

かそかなるとりのかたちにもののかげ澱みつつありかぜの溜まりに
打ちつけに小暗きまどのそのもとにいのち落とせしつばさ黄みどり

ねむる野鳥(とり)の半眼の目になみだ溢れしずくもて知るそのたまゆらは
そののちにホワイト・アイと知りしことも 骸ひとつを土に埋めつつ

あとりえの出口入り口ガラスなればなにおもいしか鳥飛んでくる
ガラス扉にうすらのこれるキジバトの絵すがたあわれその翳を拭く

ガラス扉に静止画となる恥(や)さしさは つばさ乱れてわれをうしなう
むくろひとつ葬りたれば鳴くとりの ちかくて杳いキジバトのこえ
≪Peace≫の鳩のごときうつし絵ガラス扉にみるは切なし灰いろにして

眼差しはときに光(かげ)さえ見うしなう 物質と夢とのあわいに揺られ
ひとのこころかるくあしらう野の鳥のうごきに似せてあゆみだす翳

よき声のために捕らえし野のとりの かごの中より友呼ぶこえは
白咲けばぴんく綻びまたも赤 寒色系は見ずやさざんくわ
庭のサザンカ咲いたとてメジロ来ずミツバチもスズメも消えてさびしい秋だ

地のうえに落とせしツバサ拾わんに記憶をもとにもどすこころみ
どこへでも飛べるおもいに指のさき伸ばし置くなり羽根の生ゆるまで

新まりし
秋もほろほろ
冬は来て
春を待てずに
夏の烈しさ

行き止まり数多置かれし路地のうら大洪水の予感満たしめ
えんえんとつづくおうたのさざんかのかきねのかきねの曲がり角何処

ばっさりと大ハナミズキ取り払われてここより先はよそさまのお宅
さざんかのかきね見事に刈り揃えられわっさわっさと進む歩兵ら

根元から伐ればほのかに香り立ち花色おもいだせずにごめんさざんか
自分ではどこへも行かないサザンカのかきねはのこりハナミズキゆきぬ

白雪姫

芦川和樹

梅うめ、ここはうめのえだ、先
さあその視線を歩いていくとあ
れは、桃の、そう桃の
さっき買ったレモンのマーマレードを
クロワッサン焼いてうすく焦げ、た
となりに塗った、いまは腹のなかである
揺籃よう、らーん、なにか始まるんだと
して、もし、かして、日々だわ
胃腸がぎゅゅゅんと返答しますが
凧を、たこを、揚げようといった
            途端に
(狭い)        狭い
(それゆえおうごんの) 退屈な
(いし、こいし)    じじつ
(白い犬)       シュルツ
(耳栓はふくまれる?) 文房具らを
(素早く、よく)    身につけて
            マー、
(シュワッチ)     マー、
            もう返答しない

キャラメリーゼのために、でも返答しない
袖が水を飲む
暗やみを、てらす、いし、白い犬
をつれて来ればよかった
口笛を、いざとなったら、ひ
ひゅう、ひゅゅ
       ゅ
        う!
おいでマーマレードを/クロワッサン丈夫
なからだ、生放送で追いかける
この先に、桜の巣ができあがる
ピーター・ラビットとすれちがう瞬間に
メモを手渡す(それゆえ手渡される)
そこに書かれた可能性を見つめるじっと
逆さにすると、逆さ虹だわ
とかいう日々だった
らーん
溶けた雪が目を洗う、ったあとの快晴

あれはギッフェリだった、耳を塞ぎます?
「人参に目がないんです、うれしいです」

瀬田貞二の児童百科事典

若松恵子

津野海太郎著『小さなメディアの必要』(1981年/晶文社)のなかの「こども百科のつくりかた」という1章が昔からずっと心に残っている。津野自身が「子どもをおもな読者とする百科事典をつくりたい」と夢想し、夜ひとりでこのまぼろしの子ども百科の字数計算などをしていると、花田清輝の幽霊がやってきて、傍らに座るのを感じるというエピソードが印象的だ。花田清輝の幽霊が傍らに座るとは「自分のしごとの本質的な部分を死んだ人間と共有する」ことであり、「(死んだ者の)はたされなかった計画のつづきとして自分のしごとを考える」ということだ。そういう仕事のありようについて、このエッセイで初めて知り、花田清輝もきっと身を乗り出して関心をしめしただろうという「子ども百科」という書物の存在が心に残った。

石井桃子の評伝を読んでいて、戦後まもない頃に「児童百科事典」を作った人として瀬田貞二の事を知った。『ホビットの冒険』や『ナルニア国ものがたり』の翻訳者として名前を知ってはいたが、瀬田が最初に打ち込んだ仕事が、平凡社の『児童百科事典』の編集であった。

瀬田貞二についてもっと知りたいと思い、『子どもの本のよあけー瀬田貞二伝』荒木田隆子著(2017年/福音館書店)に出会った。荒木田隆子は、瀬田晩年の担当編集者であり、本にまとめる途上で急逝した瀬田の仕事を引きついで『落穂ひろいー日本の子どもの文化をめぐる人びと』(上・下)を本にした編集者だ。瀬田が残した原稿を編集し、『絵本論ー瀬田貞二子どもの本評論集』と『児童文学論―瀬田貞二子どもの本評論集』(上・下)をつくっている。

『子どもの本のよあけー瀬田貞二伝』は、東京子ども図書館主催の講座「瀬田貞二氏の仕事」で荒木田氏が話した内容を本にしたものだ。「その語り口は、丁寧で慎重、正確で潤いがあり、聞き手に語り掛けるというよりは、むしろ自分に問いかける、といった性質のものでした。それは、荒木田さんの編集の姿勢にとてもよく似ていました。」と、巻末の解説で斎藤惇夫氏(荒木田氏と同じ福音館書店の編集者であり児童文学者でもある)が書いているが、瀬田の著作からの引用、瀬田貞二の仕事を理解していた人たちの言葉を丁寧に引用しながら彼の仕事とその魅力を描き出している。このような評伝のありかたもあるのだなと思った。

第1章は『児童百科事典』の時代として、平凡社「児童百科事典」を編集し頃の話だ。1949年、33歳の瀬田貞二。その仕事に至る、俳句に打ち込んでいた頃の事、夜間中学の教師をしていた頃のことも紹介されている。夜間中学の生徒たちと一緒に映る、復員服を着て無精ひげの瀬田の優しい笑顔の写真が紹介されている。今は古書店で探さなければ現物を読むことができない平凡社の『児童百科事典』の「まえがき」が引用されていて、今読むことができる。

「児童百科事典は、やさしい話から知識へ、身じかな事がらから深い道理へ、応用から原理へ、読むことから考えることへのかけ橋でなければならない。しかし、若い年齢を考えて、わざわざ、“児童のために”書くことは、いずれにせよ明白なあやまりである。児童は、可能性である。事がらの正しさと、高さとは、あつかいかたによって、児童に全的にうけとれるであろう。要は、それを興味あるすじだてによって、明瞭単純なことばで書かれることであり、それは、どんなおとなにとっても通じる真実である。そこで、この事典は、学問の正確さと、視野の広さを保つこと、問題をいきいきと、まざまざと表すこと、しかも、中心を直接ついて簡明であること、を、あくまでもめざした。」

この宣言は、知性というものの理想の形を語っているように思う。また、「若い人たちが偶然めくったページに読みふけってしまうほどの、おもしろい百科事典があったら、また、いやいや勉強のために引いた項目から、すぐさまはげしい好奇心をそそられ、志をよびさまされるほどの、たのしい百科事典であったら」と、そんな望みを持って『児童百科事典』はつくられたとも語られている。説明の文章も掲載する図版も妥協することなく練りに練られた仕事だった。

瀬田貞二はなぜ、『児童百科事典』の仕事にそんなにも打ち込んだのか。「新しい制度の新しい教科書が、てひどくアメリカの干渉になった、制約の多い程度の低い内容になりそうな形勢を、私は見た。(中略)学力の低下は必至だが、民間から子どもの百科事典のすばらしいものを出して、そいつをくいとめることができないだろうか、そう私は思ってプランを立てた。」と後のインタビューで瀬田貞二は語っている。そんな志をもって作られた百科事典だったのだ。

津野海太郎の「子ども百科のつくりかた」を読み返してみると、平凡社の『児童百科事典』が登場していた。刊行開始の1951年に津野氏は中学校に入学し、親を口説いて百科事典を購読してもらう事に成功したという。この平凡社版『児童百科事典』に今でも愛着を持っていると津野氏は書いている。彼が夢想する「こども百科」は、戦後瀬田たちがやりとげた仕事を、現代に置きかえてやろうとする仕事なのではないかと思った。

「みかけの情報量の増大にも関わらず、子どもたちは知るべきことを知る機会をあたえられていない。学校教育があたえる知識は、いまある高度産業社会を維持する必要のうちに封じ込められてしまった。その他の知識は、それらを緊密に組織する基盤を欠いたままバラバラに放置される。現行の子ども百科はこうした状態を固定化する役にしかたっていない。したがって、それはもはや百科事典ですらないのだと私は思う。社会のしくみが揺れ動いて、知識を組みかえる必要が生じる。その必要をみたすのが百科事典である。ディドロやヴォルテールをもちだすまでもなく、戦後まもないころの子ども百科がそのことを私におしえてくれた。バラバラの知識を再編集し、そこに一定の中心と輪郭をあたえる。百科事典の世界はユートピアの性格をおびている。だからこそ私はそこであそぶことができた。あそんでいるだけで、この世界の組織原理を感じ取ることができた。」と書いている。全くその通り。今ある社会を維持する必要のために閉じ込められている知識に対抗する知識を、大人の役割として子どもたちに手渡していけるだろうか、という事なのだ。

年度末に

仲宗根浩

三月になると地元の新聞では沖縄戦の記事が多くなる。そんな中「沖縄県の離島から住民避難・受け入れに関わる取組」というのが発表されてた。「訓練上の想定であり、特定の有事を想定したものではない。」との但し書きがあるがまあ特定のあそこの有事であろう。一日二万人の輸送力で六日で十二万人避難が可能とあり、その間本島は屋内避難。マジっすか!六日間屋内すか。屋内で耐え忍ぶのですか。どこかの村長さんが言った「差し違える覚悟を」は持たなくて屋内でいいんですよね。で、六日間屋内でじーっとしているんですね。その間は電気や水道は有事なのでもちろんないっすね。食料含めあらかじめ自分らで備えてじーっとしてればいいんですね。避難先にはWi-Fi提供の検討とありますが本島はどうなるんでしょう。有事なのでそこまでは無理ですよね、本島は。屋内にいなくちゃいけないので。「一戦交える覚悟」も必要ないですよね。

年度末の職場で、「仲宗根さん、水が出ないです」と。二階の水まわり、トイレを確認すると出ない。トイレに使用禁止の張り紙を出すよう指示して、上長に報告すると加圧ポンプじゃないか、と言われる。あの地下深いとこにあるやつか。深いとこに降りる。四、五メートルあろうか、階段などない。コンクリートむき出しの垂直の壁に鉄筋がコの字に下のほうまで打ち込まれ、怖い。年齢を重ねると微妙に高いのが怖い。ゆっくり降りてポンプが動いていないのを確認する。電源が落ちている。地下から地上に上がりブレーカーを探す。見つけたブレーカーは漏電で落ちている。ブレーカーを上げるとポンプが動きだし、水は出始めたが時間がたつとブレーカーが落ちる。ブレーカーを上げる、落ちるをしばらく繰り返す。ポンプは切り替えスイッチがありどちらにしても落ちては上げを繰り返す。上長が到着、別の切り替えスイッチがありそれで片方だけ動くようにしたらブレーカーは落ちなくなった。営業終了時間までもちこたえ、あとは明日にとなった。二週間前の点検で異常があるのを知らされたらしいけれど放置されたまま。年度末に職場で有事と戦う。もうあの地下は降りたくない。あの高さ、むき出しのコンクリートの壁と床は怖い。

習慣

笠井瑞丈

今年も気づけばもう4月
毎年年初に目標とかを
掲げるタイプではないのですが
今年は密かに習慣化という事を
自分の中のテーマに置きました
物事を習慣化できることが目標
人生を一番豊かにしてくれること
習慣の連なりが人生の集合体なのだ
でもこの習慣化というものは厄介なもので
簡単にできるものとそうでないものに分かれる
なかなかこれを実践することが難しい
生活の中で習慣化されているものは
沢山あると思いますが
例えば歯を磨くとか
朝コーヒー飲むとか
朝起きたら顔を洗う
などなど沢山あると思いますが
これはやはり生活と直結してることであり
習慣というより無意識レベルでやっている
だから意識しないとできない事を
無意識レベルでやれるようになる
それが出来て初めて習慣化になるのだと思う
今年初めに僕の中で習慣化しようと思った事
毎日少しでもいいので読書をする事
毎日少しでもいいのでピアノを弾くこと
毎日少しでもいいので映像を撮ること
毎日少しでもいいのでパソコンのスキルアップ
掲げることは簡単なのになかなか継続できない
今まで人生の中で何かやり切った事が一つでもあるかと考えてみる
実はあまりやり切った事がない気がして仕方ない
どうしても自分の中の怠け心の悪魔が密かに囁くのです
そんな努力は全く実らないから辞めてしまえ
そしていつもその囁きに負けてしまうのです
やはり人間は元来怠け者であるように作らられているのだと思う
寒い冬はなかなか暖かい布団から出ていけないように
子供の頃は母が学校に行きなさいと布団を剥ぎ取ってくれたものだ
だからイヤイヤでも起きることができた
常に何かしら自分を監視してくれる者が必要なのだ
会社に属していたら上司がいるように
その上司がいるからイヤイヤでも仕事をする
でも日常の生活においては監視してくれるものがいない
監視してるのは自分が自分を見ているだけ
だからいかに自分をストイックの環境に置けるかが勝負なのだ
この水牛通信もかれこれ十年以上書いてる
時に書き忘れて月末にめちゃくちゃ苦しんで書く時もある
でもこれも水牛の編集長の八巻さんと言う存在がいるから
僕はこれを書き続けていけるのだと思っている
ちゃんと締め切りがあり
ちゃんとルールがあるのだ

昨日母と近所の公園に夜桜を見に行った
ライトアップされた桜を喜んで眺めてた
ふともうあとは死を待つだけと母は笑って言った
まだまだ車椅子を押していけば何処にでも行ける

もう4月だ人生なんてきっと短い
とにかく出来ることを悔いなくやろう

仙台ネイティブのつぶやき(105)大回顧展とお葬式

西大立目祥子

先月書いたとおり、叔母の展覧会「私が愛した野草園─高橋都作品展」が3月20日に始まった。企画運営は、私と従兄弟のカズとその妻、ヒロコさんの3人。3人そろってわからないことだらけだったが、50点ほどの作品をどう並べるか、旧知の早坂貞彦先生に相談しながら何とか設営までこぎつけた。先生にいわれたとおり10分の1縮尺で壁面構成を考えてはいたが、やはり最後は現場判断になった。「黒い作品が2つ並ぶのよくないな」とか「最後のテーマのところの作品群の数が足りないから、あの壁から2点こっちに持ってきて」とか。先生のつぶやきと指示を聞きながら、そうか、つまりこれは壁面の編集なんだと思い至った。

脚立に乗って絵を吊るしたり掛けたりしている設営の最中に年配の女性が一人、あのぉと遠慮がちに入ってきた。「これ都先生の作品展ですよね、拝見していいですか」。叔母は宮城県古川女子高の家庭科教員を35年勤めており、学校では生徒からも同僚からも「都先生」と呼ばれていた。女性は絵を眺めるなり「都先生…」とつぶやき目頭を押さえた。手を休めて応対したこちらも一瞬しゅんとなる。亡くなったのを知らずにいて作品展のことを知り、はやる気持ちで会期を間違えやってきたらしい。「友人誘ってまたきます」と女性は帰っていった。

夕方まで奮闘して、あらかたの絵と手織りのタペストリーを掛け終えたところで、今度は展示室と隣り合うカフェのスタッフが3人、見させてもらえますかとやってきた。「高橋のおばあちゃんは、なんだか疲れてきたなぁと思っていると、現れて元気をくれるんです」「私は、高橋のおばあちゃんからいただいた草木染めのハンカチ大事にしてますよ」。この植物園の中で叔母は「高橋のおばあちゃん」で通っていたことを知った。誰もが親しみを持ってつきあってくれていたことも。

私にとってはどこまでも「都おばちゃん」であり続けたわけだが、現役時代の呼び名に加え、晩年はもう一つの名前で生きていたなんて、いかにもあれやこれや動き回っていた叔母らしい。正真正銘のおばあちゃんとして親しまれ、温かく迎えてもらいながらみんなに話しかけ、家族にも友人にも見せない顔で過ごしていたのだろうか。

展示したのは額装した絵が50点くらい、スケッチブックが20冊近く、手織りのタペストリーが20点ほど、手織りの布で仕立てたジャケットやベストが7、8着、そのほか90歳近くから始めた俳句コーナーまでつくった。絵は水彩画がほとんどだが、写実的なスケッチから抽象画、心象画風、フォークアート風…あまりに作風が異なるので、同じ人が制作したと思わないのだろう。「なぜ製作者の名前を出さないんですか」と聞いてくる人がいた。

来場者には芳名帳に名前を書いてもらい「高橋都とのご関係は?」とたずねてみる。「古女の教え子です」というグループがいたかと思うと、友人に誘われてやってきて「わ、びっくり!都先生が担任でした!」と話す人もいる。ゆかりの人たちはもちろん熱心に時間をかけて見てくださるのだが、中には野草園の散策が目的で訪れ偶然目にして入ってくる人もいる。そういう人たちがさ—っと流し見かと思うと決してそうではない。ゆっくりと見て、文章もていねいに読んで「画材は何ですか?」と聞いてきたり、プロフィール紹介のところに「15歳で仙台空襲を体験」と書いたあるのに反応してか、「私は8歳で仙台空襲だったの、東一番丁に家があってね」と話しかけてくる人もいた。年配の人は、高齢で絵を始め晩年を通し描き続けたことに自分を重ね見ているようだ。最後には「いいものを見れました。本当にありがとう」「元気をもらいました」「力をもらいました」と、ひと言残して帰られる。中には涙ぐんでいる人もいた。

早坂先生に伝えると、「泣ける絵なんて、そうあるもんじゃないぞ」という。確かにそうだ。アートの力といったらいいのか、不思議さというのか、私は絵の持つエネルギーに打たれた思いがしていた。まったくの素人、おばあさんになってから楽しみで描いた絵が、こんなにも人の気持ちを動かすなんて。エネルギーを与えるなんて。

叔母が額装を依頼していた画材屋さんのご夫婦がやってきて、「都さんの絵はね…」と話し始める。「自分が感じるまま、描きたいものを集中力を持ってまっすぐ表現するんですよね。そこがすばらしい。中にはね賞を取りたいから、先生にいわれるままに描くなんていう人もいるわけで…」。確かに、うまく描こうとか、評価されたいとか、そういうものが叔母の絵には一切ない。ピュア、思いのまま…それが人の気持ちに訴えかけるのだろう。

加えて、人をそそのかすところもあるようだ。「自分も絵描いてみようかと思います」とひと言受付に残して帰った人がいた。何を隠そう、私自身、小さいスケッチブックを持ってスケッチに行こうか、と思い始めている。さすが、都先生、生徒を誘導するのがうまい。

古川女子高の卒業生はもちろん、お世話になったデイサービスの人や、入所していた施設のスタッフの人までが絵を見にやってきた。こうなると、最初で最後の大回顧展であり、同時にお葬式なのかなとも思えてくる。叔母の全貌がつまびらかにされ、つきあいのあった人たちがつぎつぎ集まってきては思い出話を披露してくださるのだもの。

展示は作品内容に合わせ「木」「山」花」「日の出」「地球さん」「布と糸」というテーマを立て、叔母が発するようなことばをたぐりよせ短い文章を書いてみた。来場者が絵をながめながらぱっと読める平明なもの。

「木/いつからそこに立っているの?/いつからそこにいるの?/動かず突っ立っているのに/枝先はいつも空へ空へ近づいていこうとしてる/夏は緑の葉をいっぱいにつけて木陰をつくり/秋ははらはら葉を落として、やわらかな陽射しをくれる/幹のこぶは、つらかったとの我慢のあと?/根は見えないところで/砂利も石も太古の土も握りしめて深く大きく太る/頑として動かないぞ、という意思を秘めて/おねがい/私が消えたあとも、そこにいて」

「日の出/もうずいぶん生きてきたの/からだも気持ちもくたびれているの/でもね、朝の光が部屋の中に満ちるとき/気持ちの隅っこまで照らすように、陽射しは入り込む/ああ、今日一日生きられそう/ほら、山も暗い夜をくぐり抜けて/青い空に染め抜かれ、緑色になってきた/食べて、話して、描いて/私の一日/私の自由」

こんな作業をしているうち、私の中には叔母が小さくなって棲みついたような気さえする。「私が愛した野草園─高橋都作品展」は仙台市野草園野草館で4月4日まで(9:00〜16:45・最終日は15:00まで)。仙台のみなさま、あと4日ですよ、ぜひご覧ください。

立山が見える窓(0)

福島亮

 うっすらと結露のできた硝子窓の向こうに、真白の立山連峰の朧げな姿が見える。あの雪がすべて溶けるまでどれくらいの時間が必要なのだろうか、あの山肌に本当に新緑が萌えるのだろうか、この景色をこれからどれだけ眺めるのか。

 思えば、上毛三山に囲まれた土地を18歳の時に出てから、ひとつの住所に4年以上留まったことがない。本小屋と名付けた部屋を引き払う時、管理人からどうしてこんなに早く出て行くのか?と訝しがられた。たった2年の使用期間では、フローリングマットにつけてしまったデスクの跡以外これといって生活の痕跡のようなものがなく、いやよく見れば本棚の跡もうっすらと残っているのだが、結局根付く前にふらふらと流れ出てしまう奇妙な浮草のように見えたのかもしれない。ただ水面を漂うあの小さな植物は、からだの大きさの割に太い根を水中に下ろして養分を吸い、冬のあいだは肉厚の休眠芽となって水底でじっとしているというから、ふらふらしていても、というか、ふらふらしているその只中に安定していると言えそうだが、私の場合はそうではなく、その時その時の運に任せて移動している。

 富山に移って最初の日の朝、霙が降った。前夜からびしゃびしゃと降り続いていた雨が冷えたのだ。まだ引っ越し荷物が届いておらず、生活のぬくもりが欠けた部屋はどこまでも寒々としていた。昼頃、霙は雪になり、その雪のなかを引っ越し業者の若い作業員たちがやってきて、約80箱の段ボールに詰めた書物と、わずかな生活の品、それから小型の暖房器具を部屋に運び込んでくれた。通電したばかりのコンセントに赤外線ヒーターのプラグを差し込むと、徐々に部屋から寒さが引いてゆき、窓硝子が曇りはじめる。微かな結露の向こうに、立山連峰の影が見えた。

 新居の家財道具を揃えるために、家のすぐ近くを流れる川沿いを歩いてホームセンターに行く。この川は、神通川。中学生の頃習った公害の知識がふと蘇る。水流は早く、水面にはいくつものうねるような筋ができている。山と川。生家からは赤城山と子持山が見え、その麓を吾妻川と利根川が流れていた。本小屋から少し歩けば、多摩川の汀へ辿り着き、遠くにゆったりと丘陵が広がっていた。そして新たな住まいもまた、そこからの視界は遠く聳える峰にぶつかり、家から少し行けば川のせせらぎが聞こえてくる。この川を渡って、これから私は生活をする。

 これからしばらく、窓から立山を眺めながら、文章を綴ろうと思う。

マルガサリ公演「ふるえ ゆらぎ ただよう」

冨岡三智

先月末に大阪を拠点とするガムラン団体:マルガサリの公演に出演した…というわけでその備忘録。

マルガサリ ガムラン公演
「ふるえ ゆらぎ ただよう」
日時:2025年3月29日、14:00~
会場:クリエイティブセンター大阪

マルガサリはこの公演のためにインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校で教鞭を取るヨハネス・スボウォ氏を招聘した。プログラムには書いていないが、氏は芸術一家の生まれで、兄弟たちも皆著名なダランや音楽家としてスラカルタで活躍していた。私もスラカルタに留学していた時代から氏の活動には接していたので、今回もマルガサリからのオファーがある前からこの公演のことについて聞いていた。というわけで、今回この公演に参画できたのはとても嬉しい。

会場は名村造船所大阪工場の跡地である。公演第1部のサウンド&パフォーマンスは氏とマルガサリの共作で、旧総合事務所棟4階にある旧製図室で行われた。天井は低いが、20m×60mのだだっ広い空間である。その60mの中央を貫くように空間が空けられる。これは川なのだとスボウォ氏は言う。この川の突き当り奥1/3のスペースがメインの上演空間でガムラン楽器が広げられ、ジョグジャカルタの美術家ティアン・プトラ・マハルディカ氏が描いたタペストリーで囲まれる。それは龍がガムラン楽器を弾いている絵だ。真ん中1/3の空間には観客用の椅子が「川」の両岸に置かれ、また、クノン(壺形ドラ)などがここに1つ、あそこに1つとまばらに置かれている。そして、反対側の奥1/3には何も置かれていない。彼方の空間という感じ。この観客空間と彼方の空間の間にもタペストリーが垂らされ、結界を作っている。

第2部ではベトナムのゴングを1つずつ手にした行列が、葬礼曲や水牛供犠曲を奏でながら製図室から外階段を通って第3部の場所へと下りていく。ベトナム・ゴングをめぐる音の文化を研究する柳沢英輔氏とマルガサリが構成した。ゴングの音がずっと下へ降りていくと、いったんそこで休憩のアナウンスがあり、観客も地上へ移動する。

第3部は船渠(ドック)の水上及びその両岸が舞台。黒川岳氏が造形したいくつかの水上ステージ(筏のような形のもの、たらい舟のような形のものなど…)に楽器を載せ、両岸にもガムラン楽器がいくつか置かれる。それぞれ鳴らしていた音が水上を流れ、次第に伝統曲のメロディになったり即興音楽になったりする。そして、一番大きなフロートに載ったスボウォ氏がそれに呼応して踊り、さらに両岸に分かれて立つ私とタイ舞踊の踊り手も入って互いに反応し合うように踊る。こんな風に、造船所の跡地を巡るサイトスペシフィックな公演としてデザインされていた。

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第1部は、彼方の空間から奥の上演空間に向かって、川を一直線に下ってくるように出演者が進んでくるところから始まる。行列の先頭に供物を持った人が、次に舞扇を手にした踊り手たちが、さらに演奏者が続く。舞台奥中央には大ゴング(ガムランセットのゴングとは別にある)が吊られ、そのゴングに吸い寄せられるようにして歩みを進めた。それは龍が川を下ってくるように見えたかもしれない。

舞台空間に至ると演奏者たちは供物を中心に円になって座り、踊り手はその後ろに一列に並んで座った。ここで口上として、マルガサリが活動拠点の1つとする木津川~蛇吉川にある龍神の伝説、このドックとをつなぐ水の道のイメージが語られ、続いて祈りの歌が唱和された。グレゴリオ聖歌のようにも聞こえるこの歌はスボウォ氏も実践するジャワ神秘主義の信仰の歌で、古い時代にこの世にもたらされたものという。当然エンターテインメント用の歌ではないが、今回の公演のために許されたとのことだ。この歌は人がいかに生き、いかに死ぬかについての教えであり、この歌の調べにのって踊り手は座りながら扇を手にゆっくりと舞う。日本の舞扇/扇子には自他の結界、彼此の結界を作る儀礼的な役割があり、何かしら日本的なスピリットをここに込めたいというスボウォ氏の意向に叶っていたと思う。

歌の唱和が終わると、踊り手たちは意味のない言葉を発しながら三々五々、舞台奥に吊るされたゴングのさらに奥に引っ込む。ここは、いわば丸見えの楽屋である。その後、舞台空間ではガムランと声と音の激しい即興が始まり、エネルギーが渦巻き、タケオが四股を踏む。先の歌で何かがタケオに降りてきたのかもしれない。このエネルギーの渦が静まり、演奏者がバラバラに窓際に立ったり、体操したり、声を発したりして日常の時間が流れ始める。外の通りを走る車の音が耳に入るようになる。

ドアがバンとなって静かになると、スボウォ氏は吊ってあるゴングの方に行き、さざ波のような音を響かせる。それに惹かれるように踊り手は舞台の方へ、彼方の方に向かって空間いっぱいに拡散してゆく。しかし、潮が引くようにまたガムランの舞台へと押し戻され、再び背後から押されるような音とともに「川」の中を彼方の空間へと流れていって、ベトナムのゴングへとつながっていく。

音/音楽の説明があやふやで申し訳ないが、どの場面でも様々な音や声が周囲の音と入り混じって身体にすーっと浸透してくるような気がしていた。人間が出す音・声なのに、なんだか森の中で動物が沢山いるような光景を想像していた。

踊り手の動きは全体を通じてすべて即興で(もちろんスボウォ氏による指示構成はある)、皆の背景・素養はバラバラなのだが、少なくとも動いている私には不協和音のようなものが感じられなかった。皆で踊っているのにまるで1人でもあるかのような静けさと、全体への没入感があった。事前のワークショップでやったのは、ゆっくり動くこと、内から何かが沸き起こってきたらそれに従って動くこと、他者や周囲の音に反応することくらいなのだが、そこにスボウォ氏が介在することが決定的に重要だったように思う。

第3部、ドックでは本当の水が目の前にあった。第1部でイメージの中を流れていた川がここに行きついた感があった。リハーサルの時は風が強すぎて、また水上のガムランと岸のガムランの距離が離れすぎてしまって音がかき消されてしまったが、本番では対岸や水上から聞こえてくる音の響きがきれいで、音がキラキラしていた。スボウォ氏のエネルギーが筏の上で炸裂していて、氏が水に落ちやしないかと少しハラハラした。他の踊り手もそう感じていたようで、終了後にそのことを尋ねた人がいたのだが、中からあふれてくるものがあったから怖くはなかったと言っていた。けれど、本当は泳げないから、怖いはずだよねとも笑っていたが…。

自分の視点から見た公演の概要なので、このエッセイを読んでも全体像はつかみにくいだろうと思うけれど、得難い音体験、空間体験をしたなと思っている。

水牛的読書日記 2025年3月

アサノタカオ

3月某日 快晴の午後、神奈川・横浜の本屋 象の旅で文芸評論家・エッセイストの宮崎智之さんのトークイベント「『随筆復興宣言』をめぐって」が開催され、ぼくが聞き手を務めた。満員御礼。日本文学の随筆の歴史から、近年の文学フリマやnoteなどでのインディ・エッセイシーンの盛り上がりまで、宮崎さんの「エッセイ論」にたっぷり学ぶ充実の時間になった。

「随筆復興宣言」の話題からは少し外れるが、「趣味は人間観察」と言う宮崎智之さんがかねて注目する「駅のホームで抱き合い、海藻のように揺れているカップル」のことなどおもしろい話もいろいろ聞けて大満足。トークの最後、宮崎さんのエッセイ集『増補 平熱のまま、この世界に熱狂したい』(ちくま文庫)を読んで感じた「ポエジー」について伝えることもできてよかった。同書の表題作「平熱のまま、この世界に熱狂したい」は、昨年読んだもののなかで最も感銘を受けた美しい文章のひとつだ(特に「なぎ」の話)。

「ここから新しいシーンが立ち上がります」。イベント中、宮崎智之さんが3月末創刊予定、随筆・エッセイをテーマにした文芸誌『随風』(書肆imasu)を熱っぽく紹介。巻頭随筆を寄稿しているとのことで、大いに期待したい。

象の旅では、選書フェア「随筆復興宣言」も開催中だった。監修者の宮崎智之さんの他、早乙女ぐりこさん、オルタナ旧市街さん、友田とんさん、小林えみさんの各氏、そして不肖アサノがエッセイ作家としておすすめ本を紹介。フェアコーナーから、宮崎さんが推薦する今井楓『九階のオバケとラジオと文学』(よはく舎)を購入した。会場に著者の今井さんがいらっしゃったので、きらきらの金色のマーカーでサインをもらう。トーク終了後、数名の参加者と、エッセイや書くことについて語り合うことができてうれしかった。

3月某日 埼玉・川越方面に所用があり、鎌倉からの往復の電車内で今井楓『九階のオバケとラジオと文学』を読む。タイトルも水色の装丁もかっこいい。そして文章が想像以上にすばらしかった。

放送局の仕事と東京での暮らし、親しい人との対話、そして日本語や英語の本の読書(ウルフ、谷崎、ソロー……)。著者は記憶の風景をさすらい、息せき切るように意識の流れを綴る。「言葉」への独特の関心がそれらをつらぬく一本の糸になっている。とりわけ、「消えない夜に、遮断機は降りない」という一編には心を奪われた。

夕方、帰路の途中でジュンク堂書店池袋本店に立ち寄り、海外文学のコーナーを駆け足でチェックした。

3月某日 ファン・ジョンウン『誰でもない』(河出文庫)、パク・ミンギュ『ピンポン』(白水Uブックス)、パク・ソルメ『影犬は時間の約束を破らない』(河出書房新社)が一気に届く。いずれも韓国文学、斎藤真理子さんの翻訳だ。

3月某日 昼過ぎ、東京の梅屋敷ブックフェスタへ。小規模の出版社と書店が一堂に会し本を販売するイベントで、本屋の葉々社と仙六カフェが共催している。朝から冷たい雨が降る中にもかかわらず、お客さんの足が途絶えない。葉々社の小谷輝之さんが会場に集う人たちに声をかけて回り、なごやかな空気が流れていた。編集者・文筆家の仲俣暁生さんの姿もあった(ちょうど、仲俣さんの出版論エッセイ集『本の町は、アマゾンより強い』(破船房)を読んでいたところ)。

会場では、徳島で本屋まるとしかくを営むうちだみくさんと会えてよかった。サウダージ・ブックスの本を販売してもらっていることもあり、近い将来訪ねたいと考えている。まるとしかくの他、つまずく本屋ホォル、瀾書店などのブースで本たちをじっくり眺め、買い物をした。山元伸子『ある日 3』(ヒロイヨミ社)、井上奈那『母親になりたくなった私の育児日記』、木耳『トレーニング』(シリーズ人間1、新世界)、『あわい』Vol.2、そして笹井譚さんの詩のカード。

出版社の春秋社のブースでは、以前から気になっていたアジア文芸ライブラリーの1冊、チベットの作家ツェリン・ヤンキーの小説『花と夢』(星泉訳)を購入し、編集を担当した荒木駿さんからこのシリーズに関していろいろ興味深い話を聞かせてもらった。そして本の雑誌社のブースでは、先行発売の『本の雑誌』2025年4月号を。目当ては特集「令和のエッセイビッグバン!」だったのだが、目次に津野海太郎さんの連載「久保覚という人 その1」を見つけて、アッ!と声が出る。

帰りの電車で『ある日 3』から読み始め(ブックデザイナー山元伸子さんのすばらしい日記エッセイ!)、ページからふと目をあげると車窓の外はすっかり雪景色だった。

3月某日 朝、部屋の窓を開けて外を見ると、昨晩の雪が嘘のようなおだやかな陽気。ならば出かけようかと、本屋 象の旅へ。今月2回目の訪問だ。店主の加茂和弘さんに、宮崎智之さん監修の選書フェア「随筆復興宣言」の様子をうかがい、売れ行き好調のタイトルを教えてもらった。最近の読者はこういう本を求めるのか、と独立系書店でのエッセイの人気ぶりを確認する。

象の旅の近くにある喫茶店で、浅井音楽『しゅうまつのやわらかな』(KADOKAWA)を読む。臨床心理士である浅井さんのエッセイ集。詩の引用が随所に入り、風通しの良い文章が流れていく。「静けさをおそれないこと」は胸に染み入るよい話だった。続くフェルナンド・ペソアの話はクスッと笑える。まさかペソアの詩が「煮物」に化けるとは!

3月某日 文月悠光詩集『大人をお休みする日』(角川春樹事務所)、鈴木召平作品集『昭和史幻燈』(古小烏舎)が届く。鈴木氏は1928年朝鮮半島釜山生まれで戦後は福岡で活動した詩人、2023年にお亡くなりになった。

3月某日 今日は本を読む日と決めて、近所のくまざわ書店大船店に行って本を買い、喫茶店にこもって読む。選んだ一冊は、福尾匠『ひとごと クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社)。最近、エッセイについてあれこれ考えているので手にとってみたのだが、大変刺戟的な内容だった。「まえがき」に記された「エッセイ/クリティック、あるいは内面なきプライバシー」をめぐるいくつかの問いに目を見開かされ、現代美術などを論じる個々の批評的エッセイの作品も読み応えがあった。

「クリティカル・エッセイ(ズ)」という用語は、むかし読んだロラン・バルトの本(『エッセ・クリティック(批評をめぐる試み)』)で知った。帰宅して、石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書)も読んだ。

3月某日 東京駅発中央線の列車が奥多摩に入り、車窓からの眺めが街の風景から山のそれに変わるといつも気持ちが落ち着く。山梨県立大学のワークショップ「関係学へのお誘い」に取材をかねて参加するため甲府へ。子どもの頃、富士吉田に住む祖父の甲府行きについていったことが何度もあり、なつかしさを感じる土地だ。

朝から大学ではじまるワークショップの主旨は、「他者理解をテーマに取り上げ、私たちが普段縛られがちな一定の理解や物の見方について幅を広げる」というものだった。講師はダンサー・振付家の砂連尾理さん、臨床哲学者の西川勝さん、一般社団法人torindo代表の豊平豪さん、認知科学者の藤波努さん、映像作家の久保田テツさん。主催は同大学特任准教授の山﨑スコウ竜二さん。

まずは、砂連尾さんによるワークショップでからだを動かすところから。5メートルを5分かけてゆっくり歩く。赤いちり紙を、手を使わないで隣の人に受け渡す。その後、砂連尾さんたちが各地の高齢者施設でお年寄りやスタッフ、地域住民と続けるダンスワークショップ「とつとつダンス」をひとつの事例にして、それぞれの講師がケアとダンス、言語と身体、見えるものと見えないもの、人間とロボットなどのテーマをめぐって発表を行なった。

看護学部や人間福祉学部の学生が比較的多く参加していたようで、特に西川勝さんが精神科病棟や高齢者施設での看護・ケア経験について語ることばに何度もうなずき、熱心にノートを取る姿が印象に残った。ワークショップ終了後、夕方から雨がザザーッと降ってきた。傘をさして繁華街を少し歩き、古めかしいコーヒーショップなどをのぞく。

翌朝、甲府駅前の商業ビルに入るくまざわ書店に立ち寄ると、文庫本コーナーの前で杖をつく西川勝さんの姿があった。静岡経由で大阪に向かうとのことで、ぼくも東京経由の旅程を変更して静岡まで同行することに。西川さんは疲れた様子も見せず、車内でエネルギッシュに語り続けた。恩師である鷲田清一さん、植島啓司さんと出会った若い日々のこと、自身の哲学エッセイの新しい文体を模索するために沢木耕太郎『人の砂漠』を読み返し、ニュージャーナリズムの方法に学んでいること。

3月某日 届いたばかりの『韓国・朝鮮の心を読む』(クオン)の見本とともに江ノ島の海辺を散歩した。風がやや強い。この本は日韓の執筆者122名によるブックガイドで、ずっしりとした重みを感じる。野間秀樹先生・白永瑞先生が編者を務める「知・美・心」3部作の完結編だ。ぼくは「李良枝と「ことばの杖」」と題したエッセイを寄稿した。相模湾の前でぱらぱらとページをめくって、本に潮風を通す。

3月某日 夜、世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『少年が来る』(井手俊作訳、クオン)。

3月某日 3月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第5章。水俣の自然について、公害の苦しみについて、沈黙について、怒りについて。読む人それぞれが暮らしの中で抱える思いが、おのずと声になってあらわれる時間に立ち会い、静かな感動を味わった。先人の書物を読むことで、自分のことばが開かれる場所がここにある。そう、これを実現したかったのだ。

3月某日 ひびうたではおよそ1年かけて作文講座も行なっており、第2期受講生の原稿添削をすべて終えた(いずれも小説だった)。あとは各自が原稿を吟味し、作品を完成させるのを待ちたい。もうひとつ、チェッコリ翻訳スクールの作文講座での課題文(こちらは架空の訳者あとがき)の添削もほぼ終えた。人生の中でいまここでしか書けない文章の誕生を目撃すること。その緊張と幸福を噛み締めている。

ここ数日、沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫)と管啓次郎『コロンブスの犬』(河出文庫)を読み続けている。ぼく自身、若い頃に大いに影響を受けた80年代のはじめとおわりに出た旅の本(ルポルタージュ/トラヴェローグ)で、何度読み返したかわからない。これらの本のどこに憧れを感じたのか、あらためて考えている。

『アフリカ』を続けて(46)

下窪俊哉

 先月(3月)は大阪〜岡山への旅に始まり、月末にはこの数年不思議なご縁のある桐生へも旅した。『アフリカ』を始めて、続けていなければ、おそらく出会えなかった人たちとの時間の数々が、どれも印象深いものだった。そのうち、とくに心に残った対話にかんしては、後から思い出してノートに書き出しておいた。ほんとうに聞きたい、話したい、と感じる時、私の耳は録音機能つきになるらしい。その後しばらくはいつでも再生可能になるので、時間を見つけて聞き直して、書き写すことが出来るのである。その一部は『アフリカ』次号に載せられるかもしれない。
 その間、じつはずっと体調を崩してもいた。熱は1日で下がったが、その後に咳と痰が出始めて延々と続き、左耳は聞こえづらくなるし、口内炎が出来て歯茎が腫れたりして、何だか体もだるいので暇があれば横になっていた。それで、「水牛」に書く原稿のために近隣の文学館へ足を運ぶ予定が、叶わなかった。見せてもらおうと思っていたのは、『青銅時代』という同人雑誌の最初の10冊で、1957年6月創刊、発行所は当時、東京の大森にあった小川国夫の自宅だ。

 私は1998年の春に故郷・鹿児島を出て、南河内の大学に入った。大阪芸術大学文芸学科というところで、小川国夫は1990年にそこの教授になっているが、少し前から特別講義などをしに通っていたようである。守安涼くんは小川国夫に会いたくてそこを受験したそうだが、私は知らなかった。興味をもったのは、講談社文芸文庫で復刊された『アポロンの島』が大学の書店にたくさん積まれていたからだ。最初に読んだ時にどう感じたのか、細かいことはもう思い出せないが、よくわからないけれど、いいな、と思った。「よくわからないけれど」というのが大事で、くり返しくり返し読むことが出来たのは、そのせいもあるだろう。
 巻末に「自分の作品について」という自作解説が付いている。『アポロンの島』は小川国夫の最初の本で、『青銅時代』創刊の年の秋に、「青銅時代社」から出版されている。つまり自主制作、私家版である(全く売れなかったとか)。「自分の作品について」は私家版『アポロンの島』のいわばあとがきとして書かれたものだ。その文中に「青銅時代」の名が一度も出てきていないのは意外な気もするけれど、金子博、丹羽正という『青銅時代』創刊同人のことばが出てくるし、創刊号にゲストで詩を寄せた飯島耕一のコメントも記されている。仲間と共にやっている、という感じは濃厚で、それも自分は、いいな、と思っていたのではないか。
 文芸学科では『河南文學』という分厚い雑誌を年1冊発行していた。売ってはいない。欲しい人は合同研究室に連絡するか直接行けば無料で貰える雑誌で、いろんなところに寄贈していた。紀要というのは研究論文集だから、その創作版と呼んだ方がしっくりくる。私が入学した頃には8号まで出ていたのだろうか。創刊号(1991年)の目次を見ると、鈴木六林男、眉村卓、山田幸平、山田兼士、葉山郁生、武谷なおみといった”教員”の原稿と、学生たちの作品がごちゃまぜになって載っている。近藤史恵の名前があるが、学生時代の歌集である(卒業制作だろうか)。小川国夫はシュペルヴィエルの詩の翻訳を寄せているが、これは若い頃に訳して大事にしていたもので、書き下ろしではない。最後に載っている「文学的青春 – 編集後記に代えて」が、その頃に書かれたものということになる。その見開き2ページのエッセイが20歳前後の私はとても気になって、くり返し読んでいた。この文章は随筆集『昼行灯ノート』に収録されたが、ここではあえて『河南文學』のファースト・バージョンから引いてみよう。まずは冒頭。

 今から五年ほど前、私は、ある出版社の勧めもあって、連合赤軍事件をモデルにした小説を書こうと思い立ったことがある。私の住む静岡県の大井川流域と、この事件に関わる人物と舞台がかなり深い結びつきがあったことが、その出版社が私にペンを執ることを勧めた理由だったし、私も取材については見通しがあった。
 しかし私の主な拠り所は別のところに、つまり、同人雑誌活動の思い出にあった。それはまだなまなましく、すぐ近くにわだかまっていた。

 連合赤軍事件と『青銅時代』がどのようにつながるのかというと、同人雑誌内で「議論に次ぐ議論」の末に「憎み合い呪い合う閉塞状況に陥ってしまっていた」からで、その実体験から発想してゆけば事件の「悪魔に魅入られたような心理的葛藤に迫ることができるのではないか」と考えたという。
 実際に書かれはしなかった。今回あらためて読み返してみて、まあ本当に書く気はなかったかな、という気もする。どうしても離れられないのは同人雑誌活動の思い出であって、連合赤軍事件ではない。ただし、小川が小説を『青銅時代』ではなく『南北』『審美』『中央公論』『群像』『文學界』などに発表するようになってゆく頃と同時代なのだろう。そう思って調べてみたら、島尾敏雄が朝日新聞の「一冊の本」で『アポロンの島』を紹介して「彼のものを読むといつも、小説を書く仕事の方に、たのしみをもっておしやられている自分に気がつく」と書いて、世間に知られるようになったのが1965年である。連合赤軍事件は1971年頃だから、5年ほど後だ。ニュースを見ながら、『青銅時代』を思い出さずにいられなかったというようなことはあったかもしれない。
 互いに力になり合おうと思って始めたことなのに、憎み合うことになったのはなぜだろう。「悪霊のように働いたのは、各人の無意識の層に深く喰いこんでいた不安、コンプレックスだったに違いない」という。なのに彼らは「もうやめよう」とか「出直そう」と思うこともなく、続けるのである。その状況を小川は「煉獄」と呼んで、「「地獄」と言いたいほどだが、地獄には希望がない、というのが定義だそうだから」と説明している。その頃を回想して「文学観の名に値する観念を抱くことができたのであろう」とも書いている。また少し引用してみよう。

 夢中で文学を考えた人は誰でも、各人さまざまに実践したにもかかわらず(中には情熱の廃墟へ行きつくような場合があるにもかかわらず)、その誰もが、自分の実践したものが文学だと信じるし、そう信じることは正当なのだ。要は、概念的な文学観はあり得ない、体験によってそれぞれの文学観が創られる、というまっとうな趣旨となる。

 何やら壮絶そうで、近寄りたくないような気がしないでもない。『青銅時代』を構想した創刊者は、じつは小川自身ではなく盟友の丹羽正だったと聞いている。その丹羽は「失明のうき目に遭った」し、小川は(同人雑誌とは関係ない理由もあって)ウイスキーを呷って血を吐いて入院したりした。後には「自殺者が一人、それから自殺かもしれない曖昧な死に方をした者が一人」出た。若い頃の私はそんな話に憧れたのだろうか。
 大事なのは、その不幸な状況から脱したいと願うこと、そんな話に希望を抱いたのかもしれない。脱したいと願わざるを得ない状況があるとも言えるのだが。その「脱出の願い」を「癒えたい気持」と小川は呼んでいる。癒やしということばは、今こそ頻繁に耳にするが、当時はそうではなかったのではないか。「癒えたい気持ほど根源的な希望はない」と書いている。

 不幸から脱出すること、癒えることを理想とした文学者は、自分に固有なこの軌道にひっそりと乗っている(あるいは乗ろうとしている)星のようなものだ。しかしこの星のかたわらには、軌道に乗ることをうけがわず、破滅を急ぐ星もある。その時その星は一きわ光を増すので、私は逃げて行く蛍を掌に収めようとするかのように、空しく手を伸ばしたものだ。そして闇を掴んで悲嘆にくれた悪夢に似た思い出は、もう二十二年も前のことなのに、まだ身近にある。

 1991年の22年前というのは、『青銅時代』に何があった年なのだろう。調べてみたが、わからなかった。ともあれ、久しぶりに再読して、ああ、20数年しかたっていなかったのか、と思った。私は最晩年の小川国夫と付き合って、いつまでも青年のような人だと感じていた。生意気を言うと、自分と感覚の近い人がいるとも感じていた(亡くなった後に聞いたところによると、小川先生も私について似たようなことを言っていたようだ)。だからそのままでゆくと『アフリカ』も『青銅時代』のようになったかも? いや、『アフリカ』の前に数年やった同人雑誌『寄港』を続けたら、そうなっていたかもしれない。『寄港』創刊号が私の編集した最初の雑誌だったが、小川先生からは「いい仕事をしたね」と言われたのを覚えている。突然、「仕事」と言われたのが印象的だった。確かに『寄港』は「煉獄」のようになる可能性を秘めていたと思える。ところが私は、何はさておき生活のために働かなければならなかった。暮らしの必然が私を「煉獄」から逃れさせて、『アフリカ』を生んだというふうにも思えてくる。
 小川国夫が亡くなったのは2008年4月8日、最後に話したのは電話で、その2ヶ月ほど前だった。『アフリカ』を送ると、「相変わらずやってるね」と嬉しそうに言われるのだった。私はザッと50歳下である。お別れに行った際、焼津の海岸まで足を延ばして歩いている時に、「いよいよこれからだな」と思った。その直後の『アフリカ』2008年7月号には、「沈黙のざわめき – 小川国夫という旅」という長い追悼文を書いた。”小川国夫と私”といった内容ではない。そんなのは書いてもいいが発表するものではないと思っていた。小川国夫という人と文学を私はどう受け取ったか。思い切りぶつかって書いておきたかった。

カバを見、向こうから見られたりしないこと

新井卓

──そのとき私は、他の人々との関係だけに注意を払う価値体系は不完全であり、それゆえ善をなす力に欠けることに気づいた。私たちは生命への畏敬の念によってのみ、私たちの手の届く範囲にいる人々だけでなく全ての生命に対し、精神的かつ慈悲深い関係を築くことができる。そうすることによってのみ、私たちは他の存在を傷つけることを避け、他の存在が私たちを必要とするとき、自分たちの能力の範囲内でいつでも救いの手を差しのべることができるのだ。〈生命への畏敬〉の哲学は、世界をありのままに受け止めることから生まれる。そして世界とは、栄光のうちにあるおぞましいもの、意味の充溢のうちにある無意味、歓喜のうちにある悲痛を意味する。いかに見ようとも、世界は多くの人にとって謎のままである。

SCHWEITZER, A (1971). Albert Schweitzer: Reverence for Life – The Inspiring Words of a Great Humanitarian With a Forword by Norman Cousins. Hallmark Cards, Inc., Kansas City. pp.25-26.

ベルリンの春は、まず耳と眼に届く。ある薄明、仄暗い樹間からクロウタドリのはっとするようなさえずりが響きわたり、冬枯れた下生えにクロッカスの鮮やかすぎる紫が混じってくる(彼岸花はもちろん、アマリリスやギンリョウソウや、地中から直接咲き出す花はどこか死者たちの世界につながっている、そう思うのはわたしだけだろうか?)。アンズやサクラはまだ底冷えのする三月半ば、冬からの目覚めを急かすように花盛りを迎える。それから本当に風と水が温み、きつく張りつめた身体の節々が緩むのは、もう少し先のことだ。

それから……いま、いったい何を書こうというのか。このひと月の間に、いったいどれほどの憎悪がヒトの世に振り撒かれたか──先月来、わが家の二重窓で越冬したテントウムシたちのこととか、ベルリンに越して真っ先に手に入れた(お金もないのに)中古のピアノのことを書こう、と思っていたのにすっかり意欲を失くしてしまった。マーシャル諸島の人々が放射能汚染を「ポイズン」と呼ぶように、わたしたちがいま傷つきやすい心と身体で呼吸しているのは、明確な意図をもって地球に注がれた毒そのものだ。一時停戦を喜び郷里に帰っていった友人たちから、絶叫とも嗚咽ともつかないメッセージが、血なまぐさい電子のざわめきに混じり届いてくる。燃え上がる街々と山野のイメージ、直視するのも耐え難い程のうつろな顔と顔。それら脈絡のない暴力と、暴力のイメージの群れが喧伝するメッセージはあまりにも明白だが、その声に聞き入り立ち止まってしまわないよう、二歳半のこどもの耳と眼にすがって必死に歩きつづけようとする。そのような抵抗の仕方が許されるのかどうか、きっと許されないに違いないが、きょうは試みに、こどもと一緒に見、向こうから見られることはなかった、カバの話をしてみようと思う。

誕生日に一人の時間がほしい、と連れが南ドイツの山あいに旅した週末、とびきりの晴天に誘われ、こどもを連れて動物園に出かけた。ベルリン動物園は世界最多の動物を飼育する、ドイツで一番古い動物園だ。囲われた動物たちを見るときどうしても感じてしまう後ろめたさが消えることはないが、ベルリン動物園は広々とした空間で動物たちがのんびりと過ごしていて、建築や植栽にもそれぞれの種の生態にあわせたさまざまな工夫が見てとれる。わたしのお気に入りは「霊長類の家」にいるボノボだが(ボノボほぼヒト、というかある意味でわたしたちより洗練されているので、視線を注ぎ、向こうからも注がれることに格別の気まずさがある)、その日はいつもと逆の順路を歩くことにした。

ゾウからヤギ山、サイを見てまわり、大きなガラス・ドームが目に入った。なぜか今まで見落としていた「カバの入江」というコーナーで、カバたちが屋外とドーム内を水中のトンネルを潜って行き来できるよう設計された大きな施設だった。そこで、わたしたちはカバを見た──あたりまえ、といえばもちろんそうなのだが、その出会いは少なくともわたしにとって、相当に衝撃的だった。

ドイツの初春はまだ寒いのか、カバたちはドーム内のどこか見えないところで休んでいるらしかった。ガラス越しに燦々と陽が注ぐ、人(カバ)気のない屋内に腰を下ろし、こどもを膝に抱えてぼんやりしていると、ややあって水辺に一頭のコビトカバが泳ぎ着いた。カバは飛沫ひとつ立てず上品に上陸すると、泳ぎ着いたそのままの滑らかさでゆっくりと数歩歩き、陽だまりに身体を横たえて眼を瞑って「すう」と息を吐いた。一分の遅延も跳躍も余剰もない絶対的な滑らかさ──こどもとわたしはただ一部始終を見つめていたが、カバはわたしたちと全く無関係に、全宇宙的に完結していた。

それからスマトラ虎やパンダやアンテロープを見、大興奮の末に眠りに落ちたこどもを抱えてバスに揺られる道すがら、あのコビトカバと、医師、神学者、哲学者、音楽家のアルベルト・シュヴァイツァーのことを考えていた。

シュヴァイツァーのことをはじめて知ったのは高校の「倫理」の授業で、「生命への畏敬」というフレーズやノーベル平和賞受賞後のスピーチが紹介されたはずだ。そのとき、シュヴァイツァーがアフリカで突然カバの群れに襲われ、その生命を脅かされる衝撃的な体験から「生命への畏敬」という哲学を導いたのだ、と教わったことを、いまでもはっきりと覚えている。ところが、大学で生物学を経由して生命倫理を勉強したいと思い原典にあたったとき、そのエピソードが出鱈目で、実際はまったく衝撃的ではない(ように聞こえる)カバとの出会いだったことがわかり、当時すっかり落胆したものだった。

──三日目の日没時、イゲンジャ村の近くで、私たちは広い川の真ん中に浮かぶ島に沿って移動していた。左手の砂洲では、四頭のカバの親子が私たちと同じ方向に向かってとぼとぼと歩いていた。その時、重くのしかかる疲労と落胆の中で、「生命への畏敬」という言葉が閃光のように私を撃った。(前掲書、p25) 

いま、カバの親子とシュヴァイツァーとの出会いを、十数秒の映像(フッテージ)として思い描く。シュヴァイツァーを乗せたボートが、川面を滑るように移動してゆく。左手の砂洲を歩くカバの親子の後ろ姿をカメラが捉え、やがて追いつき、追い越すボートの動きにしたがって、カメラはカバたちを軸にパンしつづける。カメラのアングルはカバたちを見つめる、シュヴァイツァーの視線と一致している。カバたちは滑らかに歩きつづけ、やがて小さくなり見えなくなる。決して交わることのないふたつの世界。

倫理の先生が興奮気味に話してくれた、生存をかけたカバたちとの対峙が本当だったとしたら、カバとシュヴァイツァーはきっと視線を交換し両者の世界は激しく衝突したことだろう。しかし、他者の苦しみを生き闘いに疲労困憊した医師の世界と、滑らかに完結したカバたちの世界をわかつ無限の距離にこそ、言い換えればヒトなき完結した世界の窃視にこそ、「生命への畏敬」への気づきが隠されていたのではないか。わたしたちなどいなくても世界はありつづけるのだ、と手放すことは、自棄とか冷笑ではなく解放である。あの日わたしたちが見、決して向こうから見返されることのなかったコビトカバとの滑らかな出会いのあとで、どうしても、そう思えてならない。

話の話 第25話:嘘のような

戸田昌子

ふと、メモ帳を開いたら、「ハーシェルのシャボン玉」と書いてある。一体なんのことだろう、自分が書いたメモなのに忘れている。ハーシェルといえば、われわれ写真関係者にとっては写真術黎明期の立役者であって、青写真を発明したり、定着液「ハイポ」を発明したジョン・ハーシェル卿のことだと決まっているのだが、あらためて調べてみると、これはジョンの父ウィリアム(ヴィルヘルム)のことのようだ。ふたりは親子ともに科学者で、父ウィリアムは天王星を発見した天文学者として知られるが、もともとは音楽家であったらしい。ドイツ生まれでイギリスへ渡り、その功績によってサーの称号まで得た人物。

シャボン玉というのは、ウィリアムが発見したカシオペヤ座のNGC7635のことで、その名をシャボン玉星雲と呼ぶ。わたしのメモは息子のジョンとウィリアムを混同しないよう調べていたときの残りだったようだ。けれど、カシオペヤ座には空気がないから、もちろんシャボン玉はつくれない。

ほんの小さな出来事に愛は傷ついて
君は部屋をとびだした
真冬の空の下に
編みかけていた手袋と洗いかけの洗濯物
シャボンの泡がゆれていた
君の香りがゆれてた

シャボンと言えばやはりこの、チューリップ「サボテンの花」ではないだろうか。この歌詞のなかで洗濯をしていたのはおそらく「君」で、彼女をあわてて追いかけて路上に飛び出し、あてどなくさすらってから(きっとひとりで)戻ってきた「僕」が、いつの間にか動きを止めていた洗濯槽にふわふわと浮いていたシャボンの泡を見つけた、という情景のようだ。あるいは1975年という発表年を考えれば、シャボンの泡が浮いていたのは、たらいと洗濯板の上だという可能性だってある。なにしろ時は「同棲時代」なのである。上村一夫の漫画「同棲時代」が『漫画アクション』に掲載されはじめたのは1972年のことだというから、「サボテンの花」のふたりはきっと恋人同士だけど婚姻関係の手前だと見られるので、同居を匂わせる情景として「洗濯」というワードが登場したのだと見られる。加えて「シャボンの泡」は、ふたりの関係がはかなく終わることを予感させる記号でもあるだろう。同棲関係の醸し出す爛れた色気(同じシャボンの匂い……)と、仄めかされる関係の儚さ(シャボンの泡のように壊れやすい……)、というふたつの意味が込められているのがこの「シャボンの泡」なのである。

高校生のときに、この歌にあわせて踊ったことがある。鴻上尚史の戯曲「天使は瞳を閉じて」(第三舞台)を演劇部で上演したときのこと。この舞台には挿入歌として「サボテンの花」が登場するのだけれど、ストーリーとはなんら関係なしに、この曲がかかったとたん、全員がいきなり踊り出す、という演出があった。

わたしはこのとき、「天使」という役をやっていた。この役はナレーター的な立ち位置で、天使の姿は人間には見えないから、天使が人間に話しかけても、一生懸命、励ましても、誰にも気づかれない。だからストーリーとは関係なく、みんなと一緒に踊れる「サボテンの花」の場面だけは特別で、好きだった。

ちなみに、「天使は瞳を閉じて」という作品には、ひとつ、嘘が出てくる。マスターがケイに向かって、「あれは嘘だった」と告白する場面。いつかケイが失恋に泣いていたとき、マスターがケイに向かって「傷つけば傷つくほど人は優しくなれる」と言った言葉が「嘘だった」とマスターは言い出す。なぜなら、傷つくほど底意地が悪くなる奴だっているのだから。そうやって謝るマスターのこの嘘は、いわゆる「優しい嘘」だったと言えようか。確かに、傷ついて優しくなる人間と、底意地が悪くなる人間とでは、どちらかといえば僅かに後者の割合が大きいようだ。

そういえば、本日4月1日はエイプリルフールである。東京は濡れそぼる雨がいつ雪に変わってもおかしくないといった、まるで嘘のような天候。「だいたい今日は嘘をつかないといけないっていうのに、人に会う予定がないんですよ」と鳩尾がこぼす。「鳥がいるじゃないですか。鳥に嘘をつけばいい」とわたしが言うと、「なに言っているんですか、動物を騙しちゃぁいけません」と鳩尾はまなじりを吊り上げる。それなら人間なら騙してもいいんかい。そうでなくても鳩尾は「うちは宮家なんで」などと、人間にはさらりと嘘をつくのである。それを非難しても「そんなの信じるなんて誰も思わないじゃないですか」とうそぶく鳩尾は、動物にはとても優しいのに、人間にはわりと冷たい。「だいたい鳩尾は動物に優しすぎるよ! もしあなたがヤモリに向ける優しい眼差しの半分でもわたしに向けてくれたら……!」とわたしもついつい愚痴が出てしまう。「向けてるじゃないですか!」「いや、視線の尖り方が全然違う!」と、不毛な言い争いが始まる。

ちなみにうちの動物たちは四六時中、口からでまかせを言っている。「オレは東大を出た!」といつも威張り腐っているクマは、ボチ夫に「それって東大の校門を出ただけじゃないんですか」と突っ込まれたりしても動じない。そもそも東京大学は近隣住民には寛容なので、門を出たり入ったりするだけなら、入試期間を除けば基本的には自由である。それに東大には門がたくさんあるので、門の種類も選び放題である。赤門から入って正門を出るなんて普通だし(東大の正門は赤門じゃないことにはご注意)、バスユーザーなら車両に乗ったまま竜岡門から入ることだって可能だし、弥生門から出れば千代田線にはアクセスがいいし、達人ともなれば鉄門を使ったりする者もあるわけである。わたしがよく「東大なんて誰でも入れる」と言い放つ所以がそこにはある。それは、決して、嘘ではない。

そもそもクマはホラばかり吹いている。「オレさぁ、Googleの内定けっちゃってさぁ」などと、思いつきを適当に吹いているクマ。他にも「オレはウィンブルドンのセンターコートに立った男だよ?」などと言っているのだが、ボール拾いの少年たちだって、掃除夫のお兄ちゃんだって、ウィンブルドンのセンターコートには立っていると思う。一方でヒツジのミントは、自分は有能な執事(シツジ)であると主張して譲らない。しかし家の主人に取り入っては私腹を肥そうとするその態度は、執事というよりは側羊人と言うべきで、そろそろ「ヒツジ沢吉保」と改名してはどうだろうか。

世界には嘘みたいな言葉というのがいろいろあるのだが、最近知ったのは「女房にめっぽう甘い」を意味する「uxorious」という言葉。これは「ユークソーリアス」というように発音するそうで、ユグゾリアス、というようには濁らないのが珍しい。「妻にあまりにも多くの愛を示す」とか、「奥さんにベタ惚れで頭が上がらない」といった意味のようだが、語源をたどれば「妻」を意味するラテン語の「uxor」が元にあって、16世紀から17世紀にかけて、英語にuxoriousという言葉が登場したのだという。どちらかと言えばこれは「尻に敷かれる」というニュアンスのある言葉だそうだが、これらのことはすべてChatGPTが教えてくれたことなので、嘘かほんとかわからない。

クマの彼女のローズちゃんが叫んでいる。「好きなものですか?長いものです!だって巻かれたいから!」

嘘と言えば、だいたい、夢では嘘みたいなことばかりが起こる。小学生のころわたしはシャーロック・ホームズにどハマりしていたのだが、そのころ、ホームズが人喰い人種にさらわれて、ワトソンが助けに行く、という夢をみたことがある。普段は活躍しないワトソンが馬車を走らせている場面は切迫感があってなかなかかっこよかった、と今でも鮮明に覚えている。もうひとつ、この頃の夢で印象的だったのは、黒い覆面にマントを着た男が、悪夢からの目覚め方を教えてくれる、というものであった。

その夢の舞台はわたしの実家の印刷屋であった。印刷屋の1階は土間になっていて、そこには壁一面の文選棚と大小の印刷機が林立し、文選箱が山積みになっていた。2階へと続く階段は木製で、滑り落ちても子どもなら怪我もしないくらいの可愛らしいものだったので、だから喧嘩のときにはついつい妹を突き落とした、というわけではないのだが、よく子どもたちが滑り落ちて、つるつるになっていた。そのとき夢の中で、土間の玄関に来客があった。それは3人の男性で、階段をそっと降りて覗きに行ったのだが、話しかけられるのを恐れて戻ろうとしたとき、階段の上のところに覆面の男が立っていた。どうしよう、と立ち止まったそのとき、男が「怖いか」と言うのである。わたしは今も昔も問いには正直に答える人間なので、「怖い」と素直に答えると、男はうなづいて「これは夢だ」と言う。「これからもし怖い夢を見たら、」と男は続ける。「まばたきを3回しなさい。そうすれば目覚める」。

わたしはそこで、半信半疑で、3回まばたきをして、夢から目覚めた。嘘のような、本当の夢の話。

目、と言えば、人間の目というのは、いい加減で繊細な構造をしている。ハーシェルのシャボン玉のことを調べていたとき、「そらし目」という目の使い方について書かれたものを見つけた。視点が合っているところの周辺を使って観測する、という目の使い方の技術が「そらし目」で、うっすらした星雲などを観測するのに向いているのだとか。なぜなら人間の目は暗いところでは周辺視視力がいいために、むしろ直視すると見えないのだ、というのが根拠のようだが、これも本当か嘘か、いまいちわからないような話でもあり、その確実性については諸説あるようだ。

わたし「実はこのそらし目、わたしもふだん肉料理や魚料理をするときによく使ってるよ!」
B氏「それはむしろ見えないようにするために直視してないから、普通の「直視しない」ですね」
わたし「……」

みなさん、4月1日だからといって、「原稿は今日中にあがります」などという罪深い嘘をつくのはやめましょう。

しもた屋之噺(279)

杉山洋一

そう長くないうちに、この家を引越そうと決めたからだけでもないのですが、最近、庭のリスがクルミをねだりにやって来るとき、手渡しするようになりました。今まで一定の距離をとって付き合っていたので、3匹棲んでいることこそ分かっていましたが、どれもほぼ同じように見えていたリスですが、手からやるようになると、顔も性格もそこそこ違いがわかるようになってきたのが面白いところです。

3月某日 三軒茶屋自宅
家人は三善先生の「こんなときに」を練習している。彼女は昨日、梅の咲き乱れる亀戸天神すぐ傍の「ライティングハウス」で、オーボエの古部さんと演奏会をひらいた。互いに顔色を窺うような演奏は、聴きながら困憊してしまうけれども、家人と古部さんは引き立て合いながら一切忖度もなくて、実に心地良い。「丁々発止」という言葉は正にこういう時のためにある。
ゼレンスキー・トランプ会談は、記者たちの面前で激しい口論となり大失敗に終わった。これが敢えて仕組まれた寸劇でないのなら、実に憂慮すべき泥濘に我々は明らかに足をとられつつある。最早何が正しいと言える状況ではなく、以前の常識や世界の均衡といった概念が、音を立てて崩れ去ろうとしている。今後、一体ヨーロッパはどうなってしまうのだろうか。今日の会談もそうだったが、「武士は喰わねど」ではないが概してウクライナ人は誇り高く、体面も大切にしているように思う。それに比べれば、14世紀からヨーロッパの列強から支配され続けてきたイタリアは、何かと言えば「まあ腐っても鯛ですしね」と自らを卑下するような、捻くれたプライドで強かに生き抜いてきた。今や世界のどんな僻地であっても皆がスパゲッティを食べ、音楽用語が未だにイタリア語なのは何故なのか、彼らはよくわかっている。ゼレンスキーがイタリア人だったら、トランプやバンスに揶揄されても、下手に出たり煽てたりして、ちゃっかり援助を手に入れられたのかもしれない。ともかく今回の会談については、早晩、日本の現代社会の教科書ですら掲載されるようになるに違いない。
昨年、或るイタリア人文化関係者と話したとき、現在のイタリアに特に大切なのは、現代芸術文化の育成と海外への普及だという。何百年経ってもイタリアは、自らの文化をダヴィンチやカラヴァッジョで体現するのに甘んじている、と手厳しい。

3月某日 三軒茶屋自宅
東フィル本番。ドレス・リハーサルで角田さん指揮の演奏を聴く。とても丁寧に独奏者に寄り添っていらして、学ぶところが沢山ある。これから自分が振る楽譜にも目を通さないといけなくて、落ち着いて耳を傾けられないのがもどかしい。角田さんは、実に感じのよい紳士で、現代作品も好きなんです、と微笑んでいらした。何でも昨日のリハーサルも聴いていらしたそうだ。終演後馬込に出向くと、五反田辺りで激しい雪。五反田駅ビルの和菓子屋で赤飯を購い夕飯とする。

3月某日 羽田空港
母の90歳の誕生日。ちょうど日本にいることが出来たので、町田の小田急デパート地下で好物のタカノのケーキを購い、名前も書き入れてもらう。「9」と「0」のロウソクも足してもらったところ、状況を察したのか、店員の物腰も途端に柔らかくなった気がする。確かに、90歳の母と誕生日ケーキを囲む姿は、誰にとっても心温まる風景に違いない。
あり合わせの食材、キャベツ、じゃが芋とアンチョビーで作ったパスタを食べてから、40年ぶりに母が弾くピアノを聴かせてもらった。バッハ「平均律1番フーガ」とシューベルト「即興曲2番」。特に、何十年も弾いていなかった上に、腱も痛めているにもかかわらず、むつかしいフーガを器用に弾く姿にびっくりしてしまった。自分の親とは言え、失礼ながら、まさかあんなに弾けるとは思いもかけなかったし、帰宅した父も、「お母さん、よく弾くでしょう」と自慢げである。お陰で40年ぶりに聴く母のピアノの感慨に耽る時間もなく、ただもうびっくりしてしまった。
父にカレイと牡蠣を揚げて貰って早めの夕食にして、3人揃って誕生日ケーキに舌鼓を打った。母はロウソクの火を、まるで仏壇の線香のように手で消したので、それは息で吹き消すものだ、と大笑いした。タカノのイチゴ・ショートケーキは甘すぎず、良質の果物と相俟ってたいへん美味であった。90歳になるというのは、一体どんなものなのだろうか。夜は家人と三軒茶屋の掃除をしてから、10時過ぎに羽田空港に着いた。

3月某日 ミラノ自宅
急に寒が緩み、道行く人の顔も少しほころんでみえる。サンドロ宅で、一日レッスン。ミラノにいる、ロシア式メソード、いわゆる、ムージン指揮メソードを教えるイタリア人に3年習ったモレーノのレッスン2回目。ベートーヴェン2番。ムージンの指揮法は全く違うメソードなので、指揮のテクニックには触れずに、不安定だったテンポを、メトロノームで丁寧に音楽をほぐしてゆくと、自分でも少しずつテンポが可視化できるようになってくる。テンポを支える支柱のようなものが自分で見えるようになると、音も見えてくるものである。指揮というのは、音を振るよりも、意識してその支柱を空間に建ててゆく感じに近い。そうすると、その支柱が磁石のようになって、演奏者の音が自然と吸い付いてくるのである。その感覚がわかれば、本人も面白いのだろう。最初は、ずいぶん不貞腐れて文句ばかり垂れていたが、途中から率先してメトロノームをつけて練習し出したので一同笑い転げてしまった。
ロシアンメソードがどのようなものか以前から興味はあったので、つぶさに観察することができて有難かったが、最後まで、強弱の指示の仕方がよくわからなかったので、直接彼に尋ねると、左手で指示するのだという。ストラスブールの劇場で働いているアンナリサは、ハイドンの「驚愕」を持ってきた。人間の機智を知り尽くした作曲家が書いた最高の愉悦に、何よりまず耳がよろこぶ。音楽はすっかり攻めているのにも関わらず、どこまでも朗らかで、健康的である。目新しさを誇示するでもなく、気品に溢れる遊び心に下卑た表現は一切なく、必要最小限の素材が、無理に使いまわされるでもなく、適材適所、ああ聴きたいとな思う箇所によい塩梅に挿入されていて、倖せな感じ。

3月某日 ミラノ自宅
聴覚訓練の期末試験で、アンドレアと話す。アスペルガーのPが授業の進行を妨げて困る、という話。病院からのアスペルガーの診断書は学校に提出してあるそうだが、あんなに怒りっぽければ卒業しても仕事も出来ないだろう。きっと親の手に余るからうちの学校に入れたに違いない。どういうつもりなんだかわからないが、親も無責任だ、と手厳しい。
そのPは、こちらの授業にも参加していて、自分は指揮がやりたいので、お知り合いになれて光栄です、と最初から恭しかった。絶対音感はそこそこあるので、聴覚訓練の授業ではいつも自信満々で参加しているのだが、その過信が仇になり、しばしば間違えてしまう。確かに、その度に気分を害しているようなので、どう扱うべきか少し気にかかってはいた。
先日の授業中、別の生徒に、あまりあちこちを視点を動かさずに音を聴く練習をしてみることを勧めると、休憩時間にPがやってきて、実は自分は多動症で軽い自閉症も入っているから一点を見続けることが出来ないのですが、自分が指揮を習うのは無理でしょうか、と、他の生徒に聴こえないように声を落して相談された。指揮と言えば、演奏者と感情のコミュニケーションを取ることが最も大切な部分だろうが、それを果たして教えることができるか。一瞬言葉に窮したが、ともかく各人演奏者との関係の作り方は違うから、君の場合も君に見合った方法を一緒に見つけよう、と答える。

3月某日 ミラノ自宅
フェデーレ宅を訪れ、今秋予定している訪日に関するインタビューをする。彼が俳句に魅了された理由は5・7・5のシンメトリー構造の美しさだという。そして、フラクタル状にこの構造の内部に同じ5・7・5を入れ子にしてゆく。自然とテキストとの有機的な関係も魅力の一つだという。
日本の好きなところは、他者へのリスペクトがあるところ。若い作曲家たちへのメッセージとして、他者に聴かせるための音楽の意識をもつことを挙げていた。
ポマーリコとは、ミラノ音楽院時代、ディオニージの作曲クラスで一緒だったのか尋ねると、学年がずれていたから、音楽院では一緒ではなかったが、その後、ポマーリコとリッツィと一緒にトリオを組んでいたからだ、と笑った。フェデーレはピアノを担当し、ポマーリコはファゴット、リッツィはフルートを吹いていた。チェルニーにとんでもなく難しい曲があってね、あれは凄く大変だった、と懐かしそうに話してくれた。
完成したばかりのピアノ協奏曲2番の楽譜を見せてくれて、長7度と完全5度の音程で作ったこの楽章なんだが、自分で改めて弾いてみて、その美しさに思わず感動してしまう、と言って、居間に置かれたタッローネのピアノの前に坐って、音程だけで即興をして見せてくれる。
イスラエルによるガザ大規模爆撃で500人死亡。アメリカがウクライナから連れ去られた子供らの情報を消去との報道。

3月某日 ミラノ自宅
30年以上前になるが、伊左治君たちと毎年「冬の劇場」を開いていた同仁キリスト教会で、J-Trad ensemble Mahorobaが「炯然独脱」を演奏してくれたので、代わりに両親が聴いてきた。Mahorobaの演奏が鮮烈だったことを大喜びしていたが、同じくらい、30年ぶりに訪れた同仁教会の佇まいや、すっかり風景が変わった、東大病院あたりの様子を嬉しそうに話してくれた。安江さんにJeux IVの楽譜送付。結局、飛行機でとったスケッチをそのまま生かして、作為的なことは一切なしに作曲。最後まで作曲の手を躊躇わせ、逡巡させていたのは、毎日目にし、耳にする世情との乖離であった。ギターの藤元さんが、その昔笹久保さんのために書いた「間奏曲」を再演してくださるというので、メールでのやりとりが続いている。間奏曲IIは長すぎると思ったので、大幅にカットすることにした。何度か練習の録音を送ってくださる藤元さんの音楽は、研ぎ澄まされている。当時作曲にあたり、瑞々しい霊感を吹き込んでくれた笹久保さんの音楽の素晴らしさにも、感動を新たにしている。

3月某日 ミラノ自宅
息子二十歳の誕生日。昨晩0時の時報を聴いて、夫婦揃ってさっそく息子をお祝い。
朝から学校で授業をしていると、息子からのメッセージで立て続けに何度か着信ベルがなる。「ルカ」で予約しておいた彼の誕生日ケーキを受け取りにいったが、予め代金を払ってあるのか知りたいという。何度も、代金は払ってあるから、受け取って来るだけで良いと説明してあったのだが、いざ店に行くと不安に駆られるのだろうか。
夕食には息子の好物を並べた、と言っても極端な粗食である。ごくシンプルなトマトとフレッシュ・バジルのパスタと、庭のローズマリーで香りをつけた牛肉のステーキとサラダ。こちらは、ステーキの代わりにモッツァレルラ・チーズを喰べる。彼は本来何も入っていないトマトソースのパスタが好きなのだが、精をつけさせたい親として、いつも何某か食材を加え「XXXトマトソース風味」にしてしまうのが、息子には甚だ心外なのである。母の誕生日ケーキで奮っていた「90」の蝋燭が気に入ったのか、息子は自分でスーパーに出かけて「2」と「0」のロウソクを買ってきて、ルカの特製誕生日ケーキに飾った。母の時と違うのは、母は、タカノのケーキの味そのものに興味津々であったが、息子は先ず、その誕生日ケーキと一緒に、自分でポーズをとって写真を撮らせることが先決で、なかなか気に入った写真が撮れなくて何度もやり直しさせられた。何しろ、昔使っていた古いデジタルカメラを気に入っていて、この古びた画像が気に入っているので、それを使って撮るのだといって譲らない。こちらからすると、家人の携帯電話で撮って、何ならその画質を落とせばよいだけではないか、とも思うが、よくわからない。

3月某日 ミラノ自宅
先週、今週と日本からの来客2組。先週ミラノを訪れていたAさんは、フィレンツェに観光に出かけ、イタリア人の友人と連立って歩いていたところ、追いかけっこをしていた二人組の若い男にぶつかられたらしい。翌日気がつくと、見事にパスポートだけが抜き取られていたという。あわてて一緒にカラビニエリを訪れ盗難届を用意して、領事館で緊急用パスポートを用意していただき難を逃れた。何よりすられたのがパスポートだけだったことと、身体にあまり後遺症が残らなかったのが不幸中の幸いであった。
今日は別の友人一家がミラノを訪れてくれて、日本領事館からほど近い、家人お気に入りの老舗レストランで昼食をご一緒した。ご夫婦はオッソブーコとミラノ風カツレツ、我々夫婦は葱のパスタと玉葱のスープ。来月過ぎれば気温も高くなって、オッソブーコも玉葱のスープも旬から外れてしまうところであった。

3月某日 ミラノ自宅
息子がロベルト・カッペルロのオーディションから帰ってきた。国立音楽院のマスターコースのオーディションだったのだが、他の参加者はピアノの独奏曲を用意していたところ、彼だけモーツァルトの協奏曲466を持って行ったらしい。特に伴奏者も用意していなかったが、その場でカッペルロがオーケストラパートを弾いてくれるというので、これはすごい機会だと息子が慌てて録音したものを、持って帰ってきて聴かせてくれたのである。
カッペルロはオーケストラパートをすべて諳んじていたから、息子が持参したリダクション譜は開かなかった。前奏も省略せず全部弾いていて、それが何とも典雅な響きを織りなす。多少古めかしいスタイルとでもいえばよいか、遅めのテンポながら音色はどこまでも明るく輝きを帯び、オーケストラのようにそれぞれのパートがまるで違う響きを紡ぐ。そうやって弾きながら、隣で弾いている息子に向かって「もっと左手」などと楽しそうに声を掛けていて、確かにカッペルロは低音楽器の音を適当に増やして弾いていたから、モーツァルトであっても少し重厚な響きが好きなのだろう。1楽章を全部弾き、2楽章の繰り返しに入る前まで弾いて、「後は覚えていないからここまで」と止められていた。2楽章冒頭はカッペルロが隣でテンポを振ってくれたのだが、それが何時もよりずっと遅いテンポだったので、最初はどうしようかと思った、と息子は笑っていた。一風変わったオーディションである。
カッペルロ自身が録音している466は、ピアノソロの部分では自由にテンポを揺らして即興的に聴かせつつ、オーケストラが入ってくるところでは、引き締まったテンポで推進してゆく、そのバランスが絶妙であった。家人も「本当にイタリアにはあちこちに巨匠がいるから、歩けば巨匠にぶつかる」と感嘆している。息子は昨日、ちょうどジュセッペのオーケストラと466弾き振りのリハーサルを始めたところであった。

3月某日 ミラノ自宅
新美圭子のテキスト「それでも私は、この震える海を渡ろう」伊訳完了。伊左治君からこの詩をうけとり、まず日本語を読んだ印象と感覚だけでざっとイタリア語に直したものを、暫く放っておいた。単純に時間がなかったからだが、少し時間を置いて寝かせたかったのもある。日本語の詩を伊訳するのは初めての経験で、思いの外むつかしかった。日本語は、少し空間にあそびをもたせながら単語を並列してゆくだけで、単語どうしの隙間から見えてくるものがある。それぞれの単語の関係性を殊更に限定させることもない。単語に性別も単数、複数の違いもないから、寧ろ読み手がそれをどう意味づけてゆきたいのか、面白みもある。敢えて主語と動詞を書かずに、述語節のみを並置することで見えてくる風景もある。それを眺めているのは、自分なのかもしれないし、他者なのかもしれない。つまり、そのように書かれているテキストを敢えてイタリア語に訳す行為は、自らの解釈を公表することに他ならない。日本語で読むとき、少し茫とした光景がむしろ心地良かったところを、イタリア語にすれば否が応にも鮮明になる。それどころか、テキストが内包していたドラマツルギーが、全て剥き出しにされて、実に分かりやすくなってしまって不安になる。本来のテキストでは、こんな風に限定的に読む必要はなかったからだ。
マリア・シルヴァーナに相談して、最初に書き出したイタリア語テキストを読んでもらったところ、何がどこに繋がっているのかわからないというので、敢えて、原文に書かれていない動詞を全てカッコつきで書き足し、且つ、文章の本意であろう内容を別途説明しつつ、改めて最初の原文を読返してもらう。
そうして幾つか整理してゆくうちに、最初の粗訳で焦点が定まっていなかった光景が、くっきり浮かび上がってくるのはとても心地良く、何かがすとんと落ちる感じがする。
その爽快感はまるで、何となく楽譜を読んで弾くのと、作品を理解して演奏するときの違いにも似ていて、結局自分が日本語をしっかり理解していなかっただけかと呆れつつ、昔、吉本ばななの「キッチン」と「N.P.」を先ずイタリア語で読んでから、後に原文で読んで、まるで印象が違ったことを思い出す。
昨年ウンガレッティの短編詩を邦訳して、イタリアでウンガレッティの詩が俳句に相当すると言われる意味はわかったが、俳句を読む感覚とは随分違うのは何故だろうと自問していた。一見、ウンガレッティのシンタックスは似ているようでいて、単語相互の関係性の鮮明度がまるで違ったわけである。https://shorturl.at/CBsui https://shorturl.at/vFl0A

3月某日 ミラノ自宅
「ヴェルディの家」にでかけ、本当に久しぶりに千代崎さんの歌声を聴く。突き抜けるような声の力なのか、懐かしさからか、聴いていて背骨がぞくぞくする。尾骶骨で感じる「オテロ」であった。長らくこちらの劇場で活躍されていたから、と言ってしまうと簡単だが、声が本当に遠くまでよく通る。文字通り「飛ぶ声」というのか。「ヴェルディの家」に住む、リタイヤした音楽家たちより、万雷の拍手。彼は日本に戻ってどれくらい経つのだろう。ミラノに住み始めたころ、とてもお世話になった方の一人である。

3月某日 ミラノ自宅
ミャンマー地震による死亡者が2000人を超えた。一部報道によれば、1万人以上に達する可能性も既に報道されていて、確度すらわからないものを既に報道機関が公表するのもどうかとおもう。
ミャンマー地震に続き、深夜のトンガをマグニチュード7,1の地震が襲い、一時は津波警報が発令された。自然災害を前に、我々は立ち尽くすのみ。
我々には思考能力や感情があって、そうした人間同士の機智を駆使して、現在まで複雑な社会構造を構築してきたはずであるが、一体どの時点で、我々には思考能力や感情を身につけたのだろうか。類人猿が力を合わせて獲物を狩る必要に迫られ、社会生活が生まれたと習った気がする。こうした小さな社会を構築する以前に、我々の祖先は既に感情や感性を宿していたに違いない。
我々は、動物にも感情の起伏もあり、愛情表現もあるのを知っている。魚でも簡単に懐くのを知っていて、特に知能の高い種類が存在するのも知っている。それは鳥もあまり変わらない。草木はどうだろう。感情がある、と言う人もいる。町田の両親は長年月下美人を育てているが、音すらたてつつ、ぐっと頭をもたげていきなり花を開かせるときの月下美人は、どうにも感情があるようにしかみえない、という。人工知能にも心が宿る、という人もいるが、確かに人工知能とチャットしていると、ていねいに編み込まれた思考回路がさまざまに結びついて、いつか独自の人格を獲得するような気もしなくもない。
これらすべては、我々が知能のピラミッドの頂点にいることが前提であり、我々の知識、知能こそが、森羅万象を分析し計測し得るスタンダードだとアプリオリに理解している。その結果、全ての我々の手に余るような現象、それは地球温暖化や原子力の他にもおそらく何某か存在しているに違いないが、我々の知能が作り出せることを知ってしまった。
宇宙についても、現在の能力では我々自身はどうにも到達できない遠隔地の情報を、我々自身が享受できるようになった。
そこでふと、立ち止まって考えてみて空恐ろしくなる。我々は、無から有は生まれないのを知っている。ならば、我々の知性も感情もどこからやってきたのか。
もちろん、進化の過程で感情が生まれた、という、我々にとって至極都合のよい定説を信じている分には問題はないかもしれないが、こうして我々に問題がある事象が降りかかるのは、結局我々の知能の限界、分析能力の限界を大きく超える存在を意識せざるを得ないのではないか。
半世紀以上も生きてきた良い大人が、今更何を馬鹿げた戯言を書いているのか、と笑い飛ばしたくなる気もするが、我々が知能で理解できる範囲というのは、所詮その程度なのである。この歳になって、怪しげな宗教論か、終末論か、さもなくば、極めて原始的なアミニズム回帰なのか、と、我ながら呆れかえりながら、今更ながら気づいたのである。この頭で理解できること、想像できることなど、せいぜいその程度までが限界であることを。その先に何があるのか、ないのか、我々は一体何のプラットフォームの上で日々生かされているのか。自分の想像を遥かに超えた視座からは、文字通り自分の知能を遥かに超えているから、何もわからないのである。
単細胞生物ならば分裂しながら生き続けられるのに、なぜ我々は性などを分けて、生殖活動をしてきたのか。単細胞生物には、知能はないのか。そもそも、知能とは何なのか。
全て我々のもつ知能や知識で測ることもできて、観察が可能であり、我々が想像可能な常識の範囲で理屈づけする上でしか、物事を咀嚼できない。それも全て後付け、英語で言うところのverification やらauthentificationとかいう一方方向の観念だ。本当に、我々が何かを理解しているというのであれば、知能を無から生み出すことができるはずではないか。根本的にすっぽり何かが抜け落ちているのは明らかだ。それが何かはわからないが、驕り高ぶった我々の知性では恐らく理解が許されないものに違いない。
人が諍いをやめられないのも、何らかの形で我々自身のDNAを後世に残そうとする本能が働いているからに違いないが、それがどこからやってくるのか明快に答えてくれる科学者でも存在すれば、地球は全く違った形での共存が可能になるのかもしれない。
Covidの頃から、我々の生活を蝕んできた何か。それを今日まで曳きずりながら歩いてきた我々の頭脳は、最早考えることを放擲している。

(3月31日 ミラノにて)

転じる

高橋悠治

全体から細部に降りていくのでは、最初の思いつきを越えるのがむずかしい。書いているあいだに思いがけない発見がなければ、作業はおもしろくない労働をこなしているだけになる気がする。音楽のような、他人には時間を使う意味がないようなことにかかわっていると、時には自分でも何のためかわからなくなる。

目的があれば方法が見つかるかもしれない。でも目標がわかっていれば、そのための方法を見つけるのには技術と経験がいるかもしれないが、それらはある程度意識しないでも身に着いてくる。そうでなければ、職業としてやってはいけないが、それだけではおもしろくない。

予期しなかった不完全、そこで思いつく方向転換、思いつかなくても、手がすべったりするのを意識的にしてみるようなこと、そんな試みを重ねて、そこで残る曲線。

昔あった連歌という遊び、感覚で始まり、経験が重なり、整理されて規則になっていく前に、続くかどうかを、感じで判断する段階で、留めておく。

線の突きと返しの、中断を強調して、不規則なリズムをつくる。ひとくさりを見直し、変化した連鎖を継ぎ足して、鎖の次の輪をつくる。見渡す範囲を毎度広げながら、限られた領域、たとえば楽器の音域や、音の長短の限度内で、同じ組み合わせを避けながら、どこまで続けられるか。

同じフレーズが出て来そうになったら、そのどこかを少し変えてみる。すると、その先はもう同じにはいかない。線になっている音の順序を変えると、行先はそこから変わる。

音の位置を点と感じるのではなく、動いている線が同じ位置で止まっている時間と感じるのでなければ、同時にある音の集まりの響きや、それが短い時間のなかに崩れてできる余韻の変化ではなく、短い折線の重なりと感じられるように、時間のズレやブレを使うこと、線の途中が途切れて、かすれたような、飛白と呼ばれた効果に近い中断、こちらは突きと返しとはちがって、消えかかる息。

ことばのように意味に頼れない音符を使い、楽器の音域や、息や弦の長さ、手や指のうごぎによる、あいまいな広がりの空間のなかで、同じ組み合わせが二度と起こらない、変化の時空を見守っているとき、そこで起こることに介入しないで観察し記録する結果から、見過ごしている隙間にある何かに、後で、あるいは他人のように気づけば、それが発見になり、曲がった道ができていくだろう。