目の前には乳白色の厚い曇り雲が立ち籠めていて、刈ったばかりの庭の芝は、朝に撒いたばかりの水のおかげで、すっかり青々としてみえます。
引っ越してきたばかりのクリスマスに、息子の誕生の記念にと近所のマウラからもらって植えた松の苗も、今や8メートルくらいの高さまで伸びていて、このところ無数の小さな松ボックリが枝の先を飾っています。毎朝庭に出るたび、松の天辺を仰ぎつつ、時の流れに思いを馳せているのです。
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5月某日 ミラノ自宅
スカラ座でフィリデイ作「薔薇の名前」を見る。オペラも演出も演奏も素晴らしかった。フランチェスコの全ての要素が収斂された最高傑作ではないか。偶然ながら新教皇選挙とも重なったのは、聴衆がこのオペラに親近感を感じるよい切っ掛けとなった。そして作品としても、演出としても、広い客層を納得させることが出来る多くの条件を兼ね備えていた。特に第二部は、物語の展開も早く、誰もが思わず引きこまれてゆく。
ヴァチカンでの教皇選挙で、早々にfumataと呼ばれる白煙があがった。世界中にインターネットの張りめぐらされた現在におけるもっとも確実な緘口結舌の手段こそ、狼煙であった。
Annuntio vobis gaudium magnum;
habemus Papam: Eminentissimum ac Reverendissimum Dominum,
Dominum Robertum Franciscum
Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinalem Prevost
qui sibi nomen imposuit LEONEM XIV
あなたがたに、大いなる喜びをもって、とても嬉しい知らせをお伝えいたします。わたしたちは新しい教皇をお迎えします。 ロベルト・フランチェスコ・プレヴォスト枢機卿は、レオ14世と呼ばれることになります。
新しい教皇が話し始める前に、穏やかな表情で、じっと民衆を見つめていたのが印象的に残っている。
5月某日 ミラノ自宅
クラシックを学んだことのない映像音楽作曲科の学生に、和音が汚い、他の和音との整合性がとれないことを理解させようとするが、なかなか手強い。この和音は音が濁っていると思わないかと尋ねても、首を傾げるばかりで納得しない。
そのクラスにはLeonという女学生がいて、「14」というタイトルで曲を書いてきたものだから、伴奏にやってきたピアニスト、信心深いマリア・シルヴァーナは、14!なんて素敵な番号、嬉しくなるわとはしゃいでいる。女学生の彼女の苗字までレオンなので、まるでレオ14世そのものじゃない、あなたは本当に導かれているわ、と大喜びしている。
契約書のサインをするため、自転車を漕いでコルヴェットへ向かう。南米出身と思しき喫茶店のレジのおばさんが、汗だくになっている姿を見て、さっとティッシュを差し出してくれる。ラヴェンナ通りには、バラが咲き誇っていた。夜はティートの演奏会。ドビュッシー「夜想曲」はとても繊細で、特に「雲」はまるでヴィロードのような手触り。会場で見かけた、ティートの母親、マリアに、「山への別れ」をSZに預けるつもりと話すととても喜んでくれる。
5月某日 ミラノ自宅
国立音楽院に出かけ、ピアノのレバウデンゴと作曲のボニファッチョが企画したべリオの演奏会で、まず最初に、息子が他の3人と「リネア」を弾いた。その昔、初めて「リネア」のレコードを聴いたときの驚きを思い出す。ラベック姉妹がべリオを弾く、というのも意外だったが、一見単純にみえる曲の始まりは、特殊奏法や実験的な作品のべリオの印象を覆した。実際はべリオの軌跡は全て同時に進行していたのだけれど、情報の乏しかった当時、べリオですらそんな偏った理解しかできなかった、ともいえる。最初、ピエモンティが息子に「リネア」を譜読みするよう話したとき、「ヨーイチは何ていうかわからないけれど」と言っていたらしいが、あれはどういう意味だったのだろう。もっと、バルトークとかやらせると思っていたのか、何かにつけドナトーニと比較されるべリオを息子にやらせるなんて、とこちらが思うとでも考えたのか。
「リネア」の実演は何十年ぶりであったが、リアルタイムで、目の前に次第に顕れるさまざまなホログラムの姿を愉しむ感覚で、作品として実に見事に描かれていると思う。一つの素材が包み込んでいる様々な可能性を洗い出し、一切の無駄もなく顕在化させたもの。メッセージは実に明確で、作品は的確であった。
尤も、家で息子が「リネア」を練習しているところなど、後半のカデンツァのところ以外、殆ど耳にしたこともないのだが、一体いつ練習していたのか、まるで狐につままれた思いである。
5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で教えた後、午後3時過ぎガリバルディに自転車を置いて、ノヴァラに向かう。家人がアルドやフランチェスコとスメタナのトリオを弾いた。昨日はビエッラに近い、サルッソーラ村の教会で同じ三重奏を聴いたが、サルッソーラの深い教会の響きと、ノヴァラの乾いた会場の響きが違って面白い。スメタナはヴァイオリンを能く弾いただけでなく、早熟なピアニストでもあったそうだが、ピアノを中心に音楽を骨太に作ってゆく姿は、同時期、等しくハプスブルグ家支配に喘ぐ地域で国民を鼓舞する音楽を書いたヴェルディを少しだけ彷彿とさせた。尤も、ヴェルディは、オーケストラを中心にオペラというプロット上で音楽を紡いでゆく。「モルダウ」をはじめ、スメタナの音楽にしばしば見られる深い祖国愛は、ヴェルディとの近しさを感じる。尤も、構造的には寧ろヤナーチェクを彷彿とさせる部分もあって、家人が練習しているのを何んとなしに耳にしながら、大いに興味を掻き立てられた。
明確な箱というのか、モビール状のツリーで階層状に当て嵌められる動機群とその発展は、ロシア的なパネル構造とも少し違う気がする。絢爛豪華なロシアの響きとも一線を画していて、素朴な触感と、より直截な表現と、貫かれた民族的躍動感が優先されている。家人曰く、スメタナの三重奏の演奏には、以前のタンゴ演奏の経験が役立っているのだそうだ。
ノヴァラの演奏会の帰り、ミラの車で送ってもらいながら話していて、彼女の亡くなったご主人、フランコの母上は、高名なモッツァーティから薫陶を受け、将来を嘱望された、特に優れたピアニストだったと知る。ところが、フランコが生まれた際、視力が急激に低下し、それが原因でピアニストの夢を諦めたのだという。
ミラの実家はノヴァラの隣町ヴェルチェルリにあって、ペトラッシが音楽を書いた、デ・サンチェス監督の「にがい米」の舞台でもある。現在でも有数の水田地帯で、面白いほど蛙がよく採れるのだそうだ。だから、蛙料理は、伝統的なヴェルチェルリの郷土料理とされていて、しばしばヴェルチェルリ出身者を罵る言葉に「蛙喰い」というらしい。
家人曰く、演奏会の後3人でフライド蛙を食してきたそうだが、美味だったそうである。
5月某日 ミラノ自宅
息子曰く、「リネア」の練習がとても楽しかったらしい。もう一人のピアノは一回り上の中国人。イタリア人の打楽器二人のうち、一人は彼と同い年でもう一人は一回り年輩。一番年長のヴィブラフォン担当のマッテオ曰く、最近の若者は「自分はアルコールは駄目で」とか気弱なのかすかしているのか分からない、酒は吞めないと、とか言ったらしく、先日の演奏会前日も、リハーサル後、連立ってバーに繰り出したらしい。息子は殆ど下戸ながら勧められるままビールを呷り、帰宅後、気分が悪いとこぼしていた。その彼らと次に何をやろうか話していて、ドナトーニの「Cloches」が恰好良いのではないか、と話題に上ったらしい。ドナトーニってお父さんの先生でしょう、「Cloches」は難しいのかと尋ねられる。「そりゃむつかしいが、リネアが弾けたんだから出来ると思う」と答えながら、内心、深い感慨を覚えていた。時間は流転する。確かに、時は一見、一方向にしか進めないようだが、その無限に拓かれ解き放たれてゆく巻物状の時間に綴られる、われわれ自身こそが流転しているのだ。
ドナトーニは生前、自分が死んで5年後、どれだけの人が自分を覚えていてくれるのか。10年後どれだけの人が自分の作品を弾いてくれるのか。20年後はどうか、と話していたものだが、25年後、ヨーイチの息子がドナトーニの曲を弾こうかしらと友達と話す姿までは、ちょっと予想できなかったのではないか。
大木を切り倒して、目の前に深い年輪の刻まれた切り株が剥き出しになっている。ああ、こんな大切な樹の命を奪うなんて、なんて惨いことをするものか、と思って毎日見ていると、ふとその切り株の陰から、眩しい緑が芽吹いているのを見る。
5月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たシャンシャンに、自らのテリトリーの内側で音を聴かないように注意する。自らの領域の環の外で音楽をすること、小さく音楽を描かず、太い筆先でぐっと描いて広げてゆくことを伝えると、出てくる音も突然生命感溢れたものに変わる。
マッシモのレッスン。ずっと、どこかふわふわしているのが気になっていて、実体のないものを振っているのがわかる。目の前に箱があると思って、その箱を見つめながら振るように云う。その箱は透明かも知れないが、適度の硬度もある、とする。するとどうだろう。少しずつ、音が充実してくる。強音のみならず、弱音にも芯が通るようになって、音が豊かになってくる。その箱こそが、実は音楽だと明かす。音楽の箱と自分との距離は常に変わらず、かかる関係はほぼ静的なものと言ってよい。表面的に音楽かどれだけ燃え盛っていても、裡にある音楽は、ぽかんと空いた真空の空間のようなものであり、その中身は、目の前の箱にしまってあるのである。そして、その不動の箱から、信じられないほど、豊かな色彩が溢れ出すのを見出すのだ。そんな話をしながら、暫くその箱を眺めていると、実は、その箱は音楽そのものには違いないが、同時に彼自身の姿でもあることに気づく。
5月某日 ミラノ自宅
イタリア国内交通網はゼネストだと言うので無理だと思っていたが、どうやらミラノ地下鉄は動いていると知り、ゴッバの向こうのP宅を訪ねる。最後に伺ったのは2年前だったか。奧さん、二人の息子とともに、彼がつくったリゾットに沢山パルメザンチーズをかけて舌鼓を打ち、深い味わいの赤ワインを嘗めた。素朴だったけれど、とても美味であった。30年来、何度となく彼の手料理をご馳走になりながら、料理で人をもてなす、その意味がよく実感できるようになった。
駅から一本道を歩き、一本曲がった先にある彼の家を玄関を開けると、台所から薄く魚の臭いがする。料理が得意なPらしい、そういえば前回も同じだったと、思い出す。
どことなく玄関が広く感じられ、家も静まりかえっているように感じる。開け放たれたベランダから這入ってくる朝のそよ風の所為なのか、ちょっとした開放感すら感じて、ベランダの向こうに広がる、野原に目を向ける。
「お前に言っていなかったかもしれない。Aとは9月に正式に離婚してね。下の子供は彼女が国に連れて帰って、上の子はここに残って一緒に暮らしているんだ」。
少しだけ決然としていながら、さっぱりとした表情で、Pは一気にそう話してくれた。なぜ彼がこのところ話したいと繰返していたのか、漸く合点がゆく。
「お互いよい関係で別れることができてね。この夏も、前半は上の子は母親や弟と一緒に過ごして、後半はこちらが兄弟をつれてサルデーニャで過ごそうと思っているんだ」。
そんな言葉をどこか上の空で聞きながら、思わず、リゾットを囲んだ2年前の食卓を思い出していた。何がとは明確に言えないものの、どことなく気まずく、どうにも居た堪れない思いに駆られ、言葉を濁して食後すぐに家を後にしたことを。
5月某日 ミラノ自宅
朝から音楽院で映像作曲のクラスのレッスンを一通りやり、家人と二人、ガリバルディから近郊電車に乗ってロゴレード駅にでかける。老若男女、プロフェッショナルもアマチュアも、皆、街中でピアノを弾こう、ピアノを聴こうという趣旨の2011年に始まった「ピアノ・シティ」という音楽祭があって、5年後、国立音楽院が新校舎の竣工を予定しているロゴレード駅前、ジュリア地区の広場にピアノを運び、国立音楽院の学生たちも演奏を披露した。
雲一つない青空のもと、だだっ広い広場の中央に、日陰を作るだけの簡単な仮設テントを設え中型ピアノが置いてあって、パイプ椅子が50席ほどか。すぐ隣には、常設のピンポン台もあって、子供たちがピンポンに夢中になっている。
目の前には、いかにも芸術家らしい風格を漂わせていた背の高く恰幅のよい老紳士が立っていて、和やかに談笑している。その姿をよく見れば、サルヴァトーレ・アッカルドだった。なるほど、彼の娘も同じ演奏会に参加していたので、アッカルドもやってきたわけである。
演奏会の初めに、このあたりの地区の文化担当者が、こうした企画の素晴らしさを讃え、ピンポンを愉しむ若者の傍らで、こうして素晴らしい音楽に触れられる文化の豊かさについて話す。
まず最初に、息子がウェーバーのソナタを弾きだすと、どこからともなく、小学生中学年と思しき幼気な少女二人が現れ、息子のピアノに合せて優雅に踊り出した。なるほど、ウェーバーの音楽はまさに思わず踊りだしたくなる。音楽が華やかさを増してくると、彼女たちは優雅な佇まいでうつくしい側転を始めた。よく分からないのだが、ピアノ演奏の右奥では少年たちがピンポンに興じ、時々外したサーブの球を取りに息子のすぐそばに寄ってきて、その傍らでは少女二人が、伸びやかに舞っていて、時々並んで、じっとピアノ演奏に見入ったりもしている。その上側転をする度に、彼女たちのTシャツが捲りあがるので、色々コレクトネスの厳しい昨今、こちらは余計な不安に駆られたりもする。
息子曰く、ピンポンがちらちらと目に入って、到底集中できなかったらしい。少女たちの方はあまり気にならなかったらしく、とにかくピンポンの音が煩くて、とこぼしていた。ピンポン遊びとピアノ演奏の共存する、深く培われた文化空間の実現とは、当事者にとって決して安楽なものではないらしい。
そのまま、カドルナ地区にあるトリエンナーレに駆けつけ、カニーノの弾く「高雅で感傷的なワルツ」を聴く。弾きだした途端、その音の輝きに、思わず鳥肌が立つ。
派手な光度ではなく、寧ろ滋味溢れる、深い味わいの数えきれないほどの倍音の集積が、一つ一つの和音に光の錯乱を起させているようにみえる。彼が鍵盤を一音叩くたびに、液状の光の粒子が、鍵盤から噴きこぼれるが如く。
カニーノが弾くフランス音楽からは、普段嘗めるようにふんだんにかけられている、料理のソースを一切かけず、使われている食材の質を極限まで引き上げた感じに近い。
ケルビーニが啓いた、近代フランス音楽の原点が目の前で詳らかにされているような、そこはかとなく最高級の諧謔すら感じられるような、どこまでも品の良い矜持が、音の骨組みの底から浮き彫りになる。
「次は”亡き王女のためのパヴァーヌ”、ユン・ダンファン・デファンという、思わず舌がつっかえそうになる、謂い難い題名の曲」、と紹介すると、聴衆が一斉にどっと笑った。彼が昔弾いていた「ベルガマスク組曲」を思い出す。互いの音符を繋ぎとめる土台を露わにしつつ、本質を問いかけるような美しさ。
訥々と始まり、次第に饒舌になってゆく「道化師の朝の歌」を聴きながら思う。我々は普段「オーバード」を謳う道化師の姿しか目にしていなかった。実際は「道化自身の口をついて出てきた暁の感傷歌」だったに違いない。禍福あざなえる縄の如し。一人の舞台上の老演奏家は「道化師」の本質を、恰も自らが書き下したかのように、全てを白日の下にさらけだした。それは涙がこぼれそうになるような、美しさと厳しさが共存していた。
一通り予定されていたプログラムが終わっても、熱狂的な拍手は鳴り止まない。
「それではお耳汚しながら、もう一曲お付き合い願います」と噺家のような飄々とした口上を述べ、暗がりのなか、スポットを差す舞台上方の照明を指さしながら、
「では月の光なぞ」と言って、やおらドビュッシーを弾きだした。
音には質感も硬度も光度も、それだけでなく、温度や匂いまであって、紡ぎ出された音たちが、空中の一点に向かって収斂されてゆくのを具にみる。
小学校3年生か4年生ごろだったと記憶するが、母に連れられて永田町の都市センターホールでアッカルドとカニーノのデュオ・リサイタルを聴いた。特に印象に残っているのは、不思議な仕草で弾くピアニストで、子供心ながら、どことなく道化師の気配すら感じ取っていたのを思い出す。
5月某日 ミラノ自宅
電話の向こうで、卒寿を迎えた母が話す。「この歳まで生きて、またお米で苦労させられる時代が来るなんて」。太平洋戦争の後、漸くお米が食べられない不安から解放されたと思ったのに。この歳になって、今更あちこちのスーパーを廻ってお米を探さなければいけないなんて。今まで何のために頑張ってきたのかわからない。屈辱だ。
トランプ政権が、ハーバード大学の留学生を15%にすべきと圧力を掛けているという。それに輪をかけて驚いたのは、どこからか息子が仕入れてきた、日本の大学生の間でも同じように留学生を制限すべきとの声強し、との怪しげな情報である。その情報が正しいのか定かではないが、少なくとも、息子の耳に届く程度、若者の間ではあまねく共有されているらしい。トランプ大統領が弾圧の根拠は反ユダヤ主義の助長だそうだが、労働者階級からの高等教育への不信が基盤だともいう。
香港の複数の大学、日本でも東大や京大が、ハーバード大学在籍の学生の無条件での受け入れを表明したとの報道。優秀な学生の流出がもたらす影響は、確かにトランプ政権下に於いては、まだ実感されないかも知れない。
文化弾圧という単語そのものも、まるで時代錯誤の封建主義国家でしか存在し得ないと信じきっていた。ヒトラーが糾弾した「退廃芸術」や毛沢東もポルポトも、当時の低級な知識層が引き起こしたもの。ストラヴィンスキーもラフマニノフもシェーンベルクも、プロコフィエフやショスタコーヴィチの悲劇も、全て無知な過去の一ページで、繰返されただけ。文化遺産を冷遇したファシズム政権下、ミラノ国立音楽院の図書館から、可能な限りの楽譜資料を戦禍から逃すべく奔走したFederico Mompellioは、何というだろう。遥か昔の焚書坑儒と現在を繋ぐ糸など、どこを手繰っても見つからないと信じていた。第二次世界大戦下の日独伊に関わらず、文化の発展を閉ざす世界中で無数のプロパガンダが生産され、大戦後、厭世観は新しい世界観をもたらした、と信じていた。一定期間を経て、その新しい思想は、清廉潔白、完全なもの、と喧伝されながら、我々は社会の一端を担い、文化を培ってきた、のだと思う。
我々にとって悪の権化は、ヒトラーでありムッソリーニでありスターリンでありポルポトであり秦の宰相であり、それらは過去、低能な支配階級によって生み出された怪物だと信じられていた。我が国の政治を批判しながら、批判対象のその政治を生み出したのは我々自身だと忘れがちになる。アメリカでもロシアでもイスラエルでも、一定以上の権力をもつ人間を生み出したのは、我々と寸分たがわぬ市民自身に他ならない。本当の恐ろしさはそれにふと気づく時、巨大な津波に飲み込まれるように我々を襲う。
5月某日 ミラノ自宅
3年間教えてきて、どうしても身体の中から音楽を外に放出させられなかったサムエルの最後のレッスン。最後の最後で、大声で叫ばせたことを思いつく。
こちらに向かって、大声で叫べ、と話す。ところが、いくら頼んでもなかなか大声が出せない。教室の中だからせいぜい3メートルくらいしか距離はないが、1メートル半程度で立ち消えてしまう感じだ。とにかくこれで最後のレッスンになるので、こちらも引下がらず執拗に大声をあげさせてみて、5分以上ああでもない、こうでもないと押し問答を続けた挙句、漸く少し声がこちらまで届くようになってくる。最後の最後、渾身の叫び声を上げたところで、持ってきていたベートーヴェンを振らせてみると、初めて驚くほど音が充実していた。その音の違いに一番驚いたのは、サムエル自身であった。一見すれば振っている姿は何も変わっていないのだが、叫ぶ前は腕の先から何も気が発せられていないように見えたのが、その後で振ってみると、ほんの些細な動きですら、腕の先からじんわり何かが発散されているのがわかる。
380人に及ぶイギリス、アイルランドの作家が、イスラエルの虐殺を糾弾する声明発表との報道。就任したばかりのドイツ・メルツ首相は、「イスラエルの目的は最早理解し難い」との異例の発表。各国に並び、日本でもアメリカ留学のための面接が中止されたとの発表。
我々がこの地球上で生きる意味は、それぞれが小さな歯車の一つになって、社会を動かす原動力を生み出し、時を推し進めてゆくことだ。
サムエルの叫びではないが、各人の思いは、言語化し顕在化させなければ、誰にも伝えられない。以心伝心が理想であるけれども、言語とは、思考と思考を繋ぐ蜘蛛の糸であって、最後の手段に違いない。恐らく音楽も同じであって、各言語ほど具体性はないけれども、古来、意志の伝達は音によって実現されてきた。
今日、改めて思うのは、誰に忖度するのでもなく、言いたいことがあれば、言っておかなければいけない、という事だ。それは間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。間違っていると怖がって言葉を発することができなくなるより、間違っていることに気づいたなら、素直にその間違いを認めればよいとおもう。
全て細かく精査される現代にあって、かかる意識は、ともすれば生命に関わることなのかもしれないが、そのために、何も考えず思考を放棄する人生が、果たして本当に社会の歯車を回していることになるのか。死ぬ瞬間に何も後悔しないのだろうか。それは、自分の身体の裡で燻っている手触りのようなもの。
現在に於ける人工知能の可能性が、膨大なデータの集積なのであれば、我々はそのデータの扉をあけて、その向こう側の空間へ足を踏みいれる可能性が残されているのではないか。
人工知能の限界は、データはあくまでも数的処理されるべき対象物であり、それはガザの幼児の亡骸に、生年月日を書き入れる認識番号のようなもの。実際は各々の身体には名前があって、それぞれの人生が刻み込まれていることを忘れてはいけない。
スイス、ヴァレー州ブラッテンにて、氷河の溶解による大規模な土石流の発生。スイスの当局者は、研究者たちの助言により、様々な壊滅的なシナリオを想定して用意をしてきたつもりだが、実際の崩落はそれらすべての想定を遥かに超えていた、と話している。ここ数年続いている氷河の溶解は、急激な地球温暖化の結果と言われるが、現実を直視すれば、恐らくもはや臨界点を超えてしまっていることに気づく。イタリアのバイオント・ダムの悲劇を思い出しながら、インタビューを見る。
5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で授業をやり、一度、帰宅しシャワーを浴びて国立音楽院で息子の466を聴く。何かに見守られながら、ただひたむきに自らを表現している。ピアノ演奏の真骨頂は、聴き手の集中が強い牽引力で演奏者に収斂してゆくところだ。音楽は確かに聴衆に向かって発散していながら、ピアニストは常に楽器との真摯な対話を強いられる。ピアノは楽器として完成された存在だから、声楽であったり、常に楽器と肉体が触れているような、管楽器やヴァイオリン族とは全く違う関係が生まれた。しばしば、ピアノは小さなオーケストラ、と喩えられるが、それは単に広い音域で多くの音を同時に発音できるだけではなく、演奏者の表現手段が、自らの身体から離れた別の存在だという意味でも、確かにオーケストラに匹敵するのかもしれない。
言葉を発しようとするとき、喉元に閊える何かがある。表現しようとするとき、無意識にそれを諫める言葉が脳裏をかすめる。批判を懼れて、極端にふり幅を制限する思考。
それらから解放され、それぞれが自らの言葉を発し、認め合うことが対話が生まれる。ピアノとの対話も全く同じであって、対峙する相手は批判対象でも、敵でもなく、もちろん忖度の対象でもない。真実というものがあるとすれば、互いに騙りあうような上っ面の関係でそれは生まれ得ない。対話は、信頼の礎の上にこそ展開され得るもの。
音楽が本当に信じられたとき、音が紡がれる。楽器を信じることができたとき、初めて楽器が鳴りだす。オーケストラを信じることできたとき、初めてオーケストラの音がする。音符が纏う空間の広さ、深さを信じられたとき、初めて音を置くことが出来る。
(5月31日 ミラノにて)