005 暗緑町(まち)

藤井貞和

暗緑を微分して、対数は高校二年の三学期に、
そこから積分に分けいる、うっとり。
地のおくに向かう数学。(友人は「数学者」で、
ぼくの「先生」で、)試験の前日に予習する。

夕陽が教室に満ちてくる、岩かげで眠たくなる、
草むらの函数の眠り、十七歳の春の暮れ。
まちのなまえは暗緑。 暗緑町へ旅立つ死装束のきみ。

友人の書いた詩は友人とともに旅立ち、
わたしはもらった原稿に最初の火を見つめる。
〈ゼロの発見〉という話題を交わしたよな、「さよなら」の、
したしたした と伝う水のように、
火のしたたりとどんな関係があるのか。

黒い悲鳴が走り、きみと訣れるこの夕べ、
天に偽りなきものをという校正紙が手元にのこる。
袂(たもと)を剥ぎとる袖モギさんはぼくですって、
けんかもしたよな、草原で、海底で、短歌形式で。

姿見ず橋に立つまぼろしは〈一かゼロか〉なんて、
姿ほのかに、遇おうと思うのかい。 霧のおもては過去へ消える、
それが共有する願いでしたね、われらの議論。

あなたを探す、暗緑町へこの橋をわたって、
もう一度言葉をかわそうよ、
袖モギさんがやってくる、(そいつに出逢ったら、)
そっと通してやれ、橋のうえ。 袖をモイで、
見えない姿のためにそっと置いてやれ、
きみの数式が暗緑の岩のむこうを回るところ。

(自分の高校二年生の冬、一ヶ月ほど病気でお休みしただけで、数学の授業についてゆけなくなりました。友人(ほとんど架空)がいろいろ助けてくれた。それとは無関係ですが、「冬の榾柮(ほだ)配りてあるく旅人にいつかは会わむ山陰(さんいん)に住み」(佐竹彌生)。鳥取の歌人の新刊『佐竹彌生全歌集』(砂子屋書房)から。)

200人中の一人(下)

イリナ・グリゴレ

新聞紙に包まれた大きな芍薬の花束を抱え、電車でいつもの世界へ戻った。あの静かな世界から離れたくなかった。まるでおもちゃのような小さな駅で、電車が来ないのを芍薬の花びらが散るまで待ち続ける選択肢もあった。そう思うと、生きるのが少し楽になる。そういえば、二日連続で人と朝ごはんを食べた。子供以外と食事をすることは苦しいと思っていたのに、場所を変えたらあっという間にそれができるようになった。200人の中の一人としかできないこと。いや、二人かもしれない。「美味しそうに食べるね」と言われ、ホッとして、素直にさらに食べる。美味しいのに、なぜか泣きたくなる。ボタンと芍薬の違いはいつもわからない。調べると「葉、香り、散り方に違いがあります」とある。やっぱり、散り方がとても大事だと感じる。白、薄いピンク、濃いピンクの芍薬。グラデーション。私の頬はこうなる時がある。完全に蕾のままのもの、花びらが見えてもまだ咲いていないもの、完全に開いたもの。香りはするが、新聞紙の匂いと混ざって、いい香りとは思えない。

今いるこの場所は、私の魂の図鑑に永遠に残る場所の一つになるだろう。200の場所の中の一つ。この場所について書きたいけれど、その静けさを胸に吸い込んで、しばらくは自分だけのものにしておきたい。駅にいた老人は「一年に一度しか帰れない、土地も家も使い物にならない」と、呪いのように誰かに向かって叫んでいた。何に使いたいのか。私の価値観とは違う。その人の声の響きを頭の中で止める。そんな話は聞きたくない。ここは私にとって大切な場所だから。滞在中、ずっと体調が悪く、まるで何か見えないものを浴びているような感覚だった。朝起きて気づいた。それは悪阻に似ていた。実ること。200人中の一人、200の場所の中の一つで。考えておこう。場所の力、土の力、映像の力、人の力、神の力、獅子の力、花の力は、言葉の力よりも大きい。「イタコより」という文字を見ても、わからなかった。

かつて京都で「言葉の力」が強いと叱られたことがあった。でも、京都から残ったものは、身体に大きな紫色のアザだけ。紫色の芍薬のようだった。200人中の一人は必ず暴力を振る。見分けるには? でも、わかっていた。ただ、その顔を見るのを待っていた。思った通り、恐ろしい顔だった。私は祖母と同じ、初対面から人を「見る」。200人中の一人。犬も同じことができる。朝ごはんをもう人と食べないと思っていたのに、同じお粥を頼む。それで身体を落ち着かせる。チャンスでもある。場所を変えて、数日後、数ヶ月後、数年後には、異性と朝ごはんを食べても暴力的でない人がいることを知る。トラウマから抜け出すチャンス。怖くない。歪んでいるのは私ではない。「なぜ君の父親はこうなったのか、わかる?」 わからない。歪んでいるのは私ではないから。

祖父母の庭にあった花とその場所を、安心措置マップのように頭の中で思い出す。この時期にはボタンがあった。スミレも。鈴蘭も。思い出の中のボタンは血のように赤く、血の匂いがする。スミレは近くの森から種が飛んできた大きなスミレ。パンジーと間違えられるほど大きい。いや、頭の中で私が勝手に大きくしているのかもしれない。スミレくらい大きくてもいいし、濃い紫はインクの色にしてもいい。今いる場所のタンポポは腰まで伸びている。鈴蘭だけは同じ大きさ、同じ白さでいい。森には野生のボタンもあった。毎年ボタン祭りがあるけれど、私は行ったことがない。だから、野生のボタンは幻のボタンのようだ。

お守りでいただいた銀の鈴は、歩くたびに音がする。巫女のような気分になる。コーヒー屋でいつもウィンナコーヒーを頼むのをやめようと決めた。神田で飲んだウィンナコーヒーは本格的で美味しかったけど、ここで飲むと洗濯物の味がする。この静かな場所からウィーンは遠い。それがいい。二度と会えない人がたくさんいる。それがいい。彼らの顔を記憶から消す。気配も。一番消しにくいのは手だけど、時間とともに芍薬の香りのように消えていく。今、一番会いたい友達が二人いる。200人中の二人。村に置いてきた二人。太陽のような笑顔の彼女と、ストーブを作るジプシーの孫の彼。思い出すと泣けてくる。二人の顔。大切な友達。彼女は看護師になったと聞いたけど、彼のことは何も知らない。きっと子供がたくさんいる、明るい父親になっているだろう。いつも笑わせた彼。あの時、気づかなくて、ごめん。あなたの恋に気づかず、ごめん。顔は覚えている。笑うときの真っ白な歯も。優しくしてくれてありがとう。忘れたい人がたくさんいる中、この二人だけは忘れないと決めて電車に乗った。

電車では眠れなかった。来たときと同じ、この世界に入ると出るために、儀式のように電車の席を決まったタイミングで二回回転させる。森を、川を完全に抜けて、二回目を回したとき、不思議なことが起きた。ある駅から隣に座った部活帰りの高校生カップルが、静かにスマホを見ながら恋の儀式を始めた。彼の手がスッと女の子のズボン、太ももの間に、何度も。目眩がした。最初は彼らはお祭りのような気分で仕方ないと思ったけど、だんだん気分が悪くなった。否定しないように窓を見ていたけれど、自分が透明なのかと思うほど、隣で事が進んでいた。電車には他にも人がたくさんいたのに、誰も気づかない。二人が可愛いとは思えなくなった。どこかで読んだことがある。起きることはすべて自分の内面の表れだと。本当だろうか。本当なら、高校生の自分に謝りたい。絶対に男の子に電車でこんなことをされたくないはず。自分のこの女の身体はもっと神秘的なものだと尊敬したい。花でも触れたくない。あの女の子はいつか、あの手の感触を忘れることがあるだろうか。あの時は嫌じゃなくても、いつか嫌になるだろう。「自分の身体をもっと大切にして」と伝えればよかった。彼の機嫌を取るために大事なところに触れるのを許さなくていい。この世では許せないことがたくさんある。彼女のスマホをいじる無表情の顔と彼の手が知らない間に私の思い出になった。

青森に着くと、シングルマザーの親友からメッセージが入っていた。「昨日、私の職場の隣の敷地で練炭自殺した人がいた。上手く死ねて羨ましいと思った」。息を吸って、芍薬を見る。いつもの世界に戻った気がしたけど、芍薬は水がなくても枯れず、元気だった。花がきれい。メールを返した。「そういうときもあるけど、死なないほうがマシ」。彼女が作る桃とサイダーの味を今年も味わいたい。彼女も私にとって200人中の一人。新青森と弘前の間の電車にはトンネルがない。岩木山だけが遠くに見える。芍薬は、漢方薬や薬酒として、筋肉痛、腹痛、冷え症、月経不順、生理痛、不妊症などの治療や症状緩和に用いられる生薬でもある。美しい女性の容姿を「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という。

先日見た夢では背が高い男性と東京を歩いていた。突然、彼は私の髪に触れ「何かついている」と言って取ろうとした。その瞬間、私の背中から黒い布の塊が落ちた。起きた瞬間に、何十年前から背負っていた重い何かから解放された。200人中の一人だけが呪いを解けることができる。

刺され考

新井卓

ちょっと大変なことになってるーーベルリンの隣人から、そう連絡があった。日本に一時帰国して二週間あまり、うっかり閉め忘れた浴室の換気窓から鳩たちが入り込み、わたしたちのアパートでパーティを開いていたらしい。部屋じゅう糞だらけ、棚のグラスは落とされて床には破片が散乱している、という。隣人は赤ん坊と二人暮らしの母親で、人が触れたものが気持ち悪いからバスも電車も乗らない、という極端な潔癖症の彼女が、できる限り掃除をしておいた、というので申し訳なくて頭が下がる思いだった。

そういえば春になってから毎日、玄関の外のドアマットに小枝が散乱していたのを階下のこどもの悪戯に違いない、と決めつけたのは、鳩の巣作りだったのかもしれない。鳩の巣は呆れるほど適当なつくりなのでそれと気づかなかったが、いま思えばそのあたりからわが家をマークしていたのかもしれない。

ドイツにいると、よほど南部の山あいにでも行かない限り自然に脅かされる「あの」感覚はなく、すっかり油断していたところにささやかな自然の侵入を許してしまった。いま久しぶりに川崎に帰り、近ごろめっきり見かけなくなった空き地の草叢や多摩川のほとり立つだけで、この列島の自然がいかに絶えず押し返していなければ押し負けてしまう強靭な存在であったか、はっきりと意識する。

「あの」感覚とはどんなものだろう、たぶん虫刺されに近い感じではないか、と考えてみる。虫刺されの感覚と症状はわたしたちの皮膚でおこる。皮膚は〈わたし〉と他者、外界を隔てる境界だがその境目はやわらかく、無数の感覚受容器が配置されている。境界は外界から個体を守る防壁であるとともに外界に向かってひらかれた唯一の窓だから、その窓からいろんなものが入り込んでくるのは防ぎようがない。

感染とか汚染が望まない訪問客としても、それらと交感するたびわたしたちの身体は変容する。出会いとわたしたちが話してきた言葉によって、わたしたちの身体が作りかえられるのと同じように。

いまこのテキストを、廿日市の清流のほとりで書いている。清冽な水に傾いた陽があたり美しいけれど、わたしの皮膚は過去何度かのブユの訪問を思い出してわずかに緊張している。このあるかないかの絶えない緊張は、確かにわたしの身体のありかたと確かめる。

刺されの遍歴について。十歳のころ、父に連れられて出かけた丹沢でマダニに噛まれたことーーその小さな虫はその頭を深々とわたしの皮膚に食い込ませ、無我夢中でわたしの血を求めていた。おどろいて引き剥がそうとすると頭から下がちぎれてしまい、後日医者に頭を取り除いてもらわなければならなかった。ヤマビルは見た目の衝撃力がすごいが、やはり無理に剥がそうとせず、慣れてしまえば大したことはない。山で何度かやられて生態を調べるうち、なんと孤独で忍耐強い生き物かと畏怖を覚えさえしたし、夏に出回る寒天でできた和菓子みたいな卵の写真にもちょっと感心した。

清らかな水辺にしか棲息しないブユは、どういうわけか少し神秘的であると思う。あの小さな虫が(ちなみに熟れた果物にわくコバエとは親類らしい)わたしの皮膚や免疫反応に及ぼす影響の極端さに毎度驚かされる。原発事故のあった年の夏、飯舘村でブヨに刺されたわたしの二の腕はラグビーボール大に膨れ上がり、痛痒さにしばらく眠りを妨げられた。目に見えない、と言われつづけた放射能汚染は感じることができないのに、こんなにちっぽけな虫に大騒ぎするわたしの皮膚/身体に驚かされたものだ。

オハイオのモーテルで南京虫にやられ、大小のハチはもちろん、インドサシバエとか、フィンランドの核廃棄物最終処分場の森で巨大な蚊の大群に襲われ頭全体をぼこぼこにされたことのあるわたしの刺されの遍歴はーーいろいろ思い出してちょっとむずむずしてきたーーわりあい豊かなほうだろうか。それにしても、こうして振り返ってみれば刺されの記憶はどれも鮮明で、その前後の旅やさまざまの記憶を強化してさえいることに気づく。

ベルリンに帰ったら、徹底的に部屋を掃除しなければいけない。鳥にアレルギーのあるわたしの身体はどう反応するのだろう。ドイツには森がない、とか、本当の自然がないなどと放言してきたわたしへの戒めとあきらめようか。

救われたのは幼いものではなく、

越川道夫

この3月22日に詩人である江代充さんが前立腺癌で亡くなり、ほんとうに何もできなくなってしまった。読まなければならない本があり、書かなければならない文があり、そのどれもができず、ひたすら江代さんが遺した文だけを、繰り返し、繰り返し読み、それでも食べるための仕事はなんとかこなしてはいたが、自分でもどうしたいのか分からぬまま怒りと悲しみの中で瞬く間に二ヶ月は過ぎていった。
 
思えばこの数年のコロナ禍下で、私はどれだけの人を失っただろうか。直接的にコロナの影響で失われた人はわずかだが、パンデミックと呼ばれる状況がはじまった当初から、ひとりまたひとりと失われていく。それは年長の人たちばかりではなく、年の近い人ともいれば、私よりもはるかに若い人もいた。指を折って数えていても、多い時にはひと月に数人ということになると折る指の方が追いつかず、大学の同期であった青山真治が亡くなった時に、ついに数えるのを放棄してしまった。もう半世紀も越えて生きているので、そのような年齢になったと言われれば、そうなのだろうけれど、いくらなんでもこれは理不尽ではないか。しかも、この感染症は人と人とを遠ざけたため、最後の別れさえも満足にすることができず、残された者たちで集まり悲しみを分かち合うこともできず、悲嘆はいつも行き場所を失い、宙吊りとなった。人によってさまざまだろうが、私の場合に限って言えば。この数年の経験で学んだことは、「死別とはその人との間に一度きりしかない」というあまりにも当たり前のことを痛感することであった。この間、私たちは死別に向き合うこともできず、その意味を嫌というほど学ぶことになったのではないか。もし、今なおその当たり前すぎる意味を蔑ろにするのであれば、あのコロナ禍下で何も学ばなかったのだとしか私には思えない。死とは、あまりにも具体的な事柄であって、またいつか、はない。私は自分が悲しみ過ぎたのではないかと思っている。人が失われることを悲しみ過ぎたのではないか。もっと他者に対して無関心であっても良いのかもしれない。悲しむべき時にちゃんと悲しまなければならないと思い、逆らうことなく悲しむことをしたのだが、その悲しみは失われた人の不在から汲み尽くせないほど溢れ続け、今もなお止まる気配はみえない。
 
今年は花の移り変わりが早いように思える。木香薔薇も、栴檀も、桐の花も咲き始めたと思うとすぐに盛りを迎え、あっという間に散ってしまった。思い過ごしだろうか。その日も、そろそろ捩花が咲いている頃ではないかと草むらを歩き回り、結局昼寝をしていた猫を驚かせただけで見つからなかった。道まで戻ってちょうど来たバスに乗り込むと、草むらから連れてきてしまったのか、手の甲にテントウムシの幼虫が這っている。せめて植物のある場所にその幼虫を放したいと思うが、かといってそのためにバスを降りるわけにもいかず、それを潰してしまわないように右手から左手へ、左の人差し指から右の親指へうつしながら、私の降りる終点まで連れていくことにする。幼虫は、時折立ち止まって、私の皮膚を吸うような仕草を見せるが、またふたつの手の上を歩き回っている。バスから降りて、随分遠くまで連れてきてしまったが、せめてもと駅のすぐ前にある車回しの低い植え込みの葉の上に、その幼いものを放した。そういえば幼虫が手の甲に現れたとき、私は心の中で怒りを反芻し、決して願ってはならないことを願っていたのだ。救われたのは幼いものではなく、私であったのかもしれない。

しもた屋之噺(281)

杉山洋一

目の前には乳白色の厚い曇り雲が立ち籠めていて、刈ったばかりの庭の芝は、朝に撒いたばかりの水のおかげで、すっかり青々としてみえます。
引っ越してきたばかりのクリスマスに、息子の誕生の記念にと近所のマウラからもらって植えた松の苗も、今や8メートルくらいの高さまで伸びていて、このところ無数の小さな松ボックリが枝の先を飾っています。毎朝庭に出るたび、松の天辺を仰ぎつつ、時の流れに思いを馳せているのです。

——

5月某日 ミラノ自宅
スカラ座でフィリデイ作「薔薇の名前」を見る。オペラも演出も演奏も素晴らしかった。フランチェスコの全ての要素が収斂された最高傑作ではないか。偶然ながら新教皇選挙とも重なったのは、聴衆がこのオペラに親近感を感じるよい切っ掛けとなった。そして作品としても、演出としても、広い客層を納得させることが出来る多くの条件を兼ね備えていた。特に第二部は、物語の展開も早く、誰もが思わず引きこまれてゆく。

ヴァチカンでの教皇選挙で、早々にfumataと呼ばれる白煙があがった。世界中にインターネットの張りめぐらされた現在におけるもっとも確実な緘口結舌の手段こそ、狼煙であった。

Annuntio vobis gaudium magnum;
habemus Papam: Eminentissimum ac Reverendissimum Dominum,
Dominum Robertum Franciscum
Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinalem Prevost
qui sibi nomen imposuit LEONEM XIV

あなたがたに、大いなる喜びをもって、とても嬉しい知らせをお伝えいたします。わたしたちは新しい教皇をお迎えします。 ロベルト・フランチェスコ・プレヴォスト枢機卿は、レオ14世と呼ばれることになります。
新しい教皇が話し始める前に、穏やかな表情で、じっと民衆を見つめていたのが印象的に残っている。

5月某日 ミラノ自宅
クラシックを学んだことのない映像音楽作曲科の学生に、和音が汚い、他の和音との整合性がとれないことを理解させようとするが、なかなか手強い。この和音は音が濁っていると思わないかと尋ねても、首を傾げるばかりで納得しない。
そのクラスにはLeonという女学生がいて、「14」というタイトルで曲を書いてきたものだから、伴奏にやってきたピアニスト、信心深いマリア・シルヴァーナは、14!なんて素敵な番号、嬉しくなるわとはしゃいでいる。女学生の彼女の苗字までレオンなので、まるでレオ14世そのものじゃない、あなたは本当に導かれているわ、と大喜びしている。

契約書のサインをするため、自転車を漕いでコルヴェットへ向かう。南米出身と思しき喫茶店のレジのおばさんが、汗だくになっている姿を見て、さっとティッシュを差し出してくれる。ラヴェンナ通りには、バラが咲き誇っていた。夜はティートの演奏会。ドビュッシー「夜想曲」はとても繊細で、特に「雲」はまるでヴィロードのような手触り。会場で見かけた、ティートの母親、マリアに、「山への別れ」をSZに預けるつもりと話すととても喜んでくれる。

5月某日 ミラノ自宅
国立音楽院に出かけ、ピアノのレバウデンゴと作曲のボニファッチョが企画したべリオの演奏会で、まず最初に、息子が他の3人と「リネア」を弾いた。その昔、初めて「リネア」のレコードを聴いたときの驚きを思い出す。ラベック姉妹がべリオを弾く、というのも意外だったが、一見単純にみえる曲の始まりは、特殊奏法や実験的な作品のべリオの印象を覆した。実際はべリオの軌跡は全て同時に進行していたのだけれど、情報の乏しかった当時、べリオですらそんな偏った理解しかできなかった、ともいえる。最初、ピエモンティが息子に「リネア」を譜読みするよう話したとき、「ヨーイチは何ていうかわからないけれど」と言っていたらしいが、あれはどういう意味だったのだろう。もっと、バルトークとかやらせると思っていたのか、何かにつけドナトーニと比較されるべリオを息子にやらせるなんて、とこちらが思うとでも考えたのか。

「リネア」の実演は何十年ぶりであったが、リアルタイムで、目の前に次第に顕れるさまざまなホログラムの姿を愉しむ感覚で、作品として実に見事に描かれていると思う。一つの素材が包み込んでいる様々な可能性を洗い出し、一切の無駄もなく顕在化させたもの。メッセージは実に明確で、作品は的確であった。
尤も、家で息子が「リネア」を練習しているところなど、後半のカデンツァのところ以外、殆ど耳にしたこともないのだが、一体いつ練習していたのか、まるで狐につままれた思いである。

5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で教えた後、午後3時過ぎガリバルディに自転車を置いて、ノヴァラに向かう。家人がアルドやフランチェスコとスメタナのトリオを弾いた。昨日はビエッラに近い、サルッソーラ村の教会で同じ三重奏を聴いたが、サルッソーラの深い教会の響きと、ノヴァラの乾いた会場の響きが違って面白い。スメタナはヴァイオリンを能く弾いただけでなく、早熟なピアニストでもあったそうだが、ピアノを中心に音楽を骨太に作ってゆく姿は、同時期、等しくハプスブルグ家支配に喘ぐ地域で国民を鼓舞する音楽を書いたヴェルディを少しだけ彷彿とさせた。尤も、ヴェルディは、オーケストラを中心にオペラというプロット上で音楽を紡いでゆく。「モルダウ」をはじめ、スメタナの音楽にしばしば見られる深い祖国愛は、ヴェルディとの近しさを感じる。尤も、構造的には寧ろヤナーチェクを彷彿とさせる部分もあって、家人が練習しているのを何んとなしに耳にしながら、大いに興味を掻き立てられた。
明確な箱というのか、モビール状のツリーで階層状に当て嵌められる動機群とその発展は、ロシア的なパネル構造とも少し違う気がする。絢爛豪華なロシアの響きとも一線を画していて、素朴な触感と、より直截な表現と、貫かれた民族的躍動感が優先されている。家人曰く、スメタナの三重奏の演奏には、以前のタンゴ演奏の経験が役立っているのだそうだ。

ノヴァラの演奏会の帰り、ミラの車で送ってもらいながら話していて、彼女の亡くなったご主人、フランコの母上は、高名なモッツァーティから薫陶を受け、将来を嘱望された、特に優れたピアニストだったと知る。ところが、フランコが生まれた際、視力が急激に低下し、それが原因でピアニストの夢を諦めたのだという。
ミラの実家はノヴァラの隣町ヴェルチェルリにあって、ペトラッシが音楽を書いた、デ・サンチェス監督の「にがい米」の舞台でもある。現在でも有数の水田地帯で、面白いほど蛙がよく採れるのだそうだ。だから、蛙料理は、伝統的なヴェルチェルリの郷土料理とされていて、しばしばヴェルチェルリ出身者を罵る言葉に「蛙喰い」というらしい。
家人曰く、演奏会の後3人でフライド蛙を食してきたそうだが、美味だったそうである。

5月某日 ミラノ自宅
息子曰く、「リネア」の練習がとても楽しかったらしい。もう一人のピアノは一回り上の中国人。イタリア人の打楽器二人のうち、一人は彼と同い年でもう一人は一回り年輩。一番年長のヴィブラフォン担当のマッテオ曰く、最近の若者は「自分はアルコールは駄目で」とか気弱なのかすかしているのか分からない、酒は吞めないと、とか言ったらしく、先日の演奏会前日も、リハーサル後、連立ってバーに繰り出したらしい。息子は殆ど下戸ながら勧められるままビールを呷り、帰宅後、気分が悪いとこぼしていた。その彼らと次に何をやろうか話していて、ドナトーニの「Cloches」が恰好良いのではないか、と話題に上ったらしい。ドナトーニってお父さんの先生でしょう、「Cloches」は難しいのかと尋ねられる。「そりゃむつかしいが、リネアが弾けたんだから出来ると思う」と答えながら、内心、深い感慨を覚えていた。時間は流転する。確かに、時は一見、一方向にしか進めないようだが、その無限に拓かれ解き放たれてゆく巻物状の時間に綴られる、われわれ自身こそが流転しているのだ。
ドナトーニは生前、自分が死んで5年後、どれだけの人が自分を覚えていてくれるのか。10年後どれだけの人が自分の作品を弾いてくれるのか。20年後はどうか、と話していたものだが、25年後、ヨーイチの息子がドナトーニの曲を弾こうかしらと友達と話す姿までは、ちょっと予想できなかったのではないか。

大木を切り倒して、目の前に深い年輪の刻まれた切り株が剥き出しになっている。ああ、こんな大切な樹の命を奪うなんて、なんて惨いことをするものか、と思って毎日見ていると、ふとその切り株の陰から、眩しい緑が芽吹いているのを見る。

5月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たシャンシャンに、自らのテリトリーの内側で音を聴かないように注意する。自らの領域の環の外で音楽をすること、小さく音楽を描かず、太い筆先でぐっと描いて広げてゆくことを伝えると、出てくる音も突然生命感溢れたものに変わる。

マッシモのレッスン。ずっと、どこかふわふわしているのが気になっていて、実体のないものを振っているのがわかる。目の前に箱があると思って、その箱を見つめながら振るように云う。その箱は透明かも知れないが、適度の硬度もある、とする。するとどうだろう。少しずつ、音が充実してくる。強音のみならず、弱音にも芯が通るようになって、音が豊かになってくる。その箱こそが、実は音楽だと明かす。音楽の箱と自分との距離は常に変わらず、かかる関係はほぼ静的なものと言ってよい。表面的に音楽かどれだけ燃え盛っていても、裡にある音楽は、ぽかんと空いた真空の空間のようなものであり、その中身は、目の前の箱にしまってあるのである。そして、その不動の箱から、信じられないほど、豊かな色彩が溢れ出すのを見出すのだ。そんな話をしながら、暫くその箱を眺めていると、実は、その箱は音楽そのものには違いないが、同時に彼自身の姿でもあることに気づく。

5月某日 ミラノ自宅
イタリア国内交通網はゼネストだと言うので無理だと思っていたが、どうやらミラノ地下鉄は動いていると知り、ゴッバの向こうのP宅を訪ねる。最後に伺ったのは2年前だったか。奧さん、二人の息子とともに、彼がつくったリゾットに沢山パルメザンチーズをかけて舌鼓を打ち、深い味わいの赤ワインを嘗めた。素朴だったけれど、とても美味であった。30年来、何度となく彼の手料理をご馳走になりながら、料理で人をもてなす、その意味がよく実感できるようになった。

駅から一本道を歩き、一本曲がった先にある彼の家を玄関を開けると、台所から薄く魚の臭いがする。料理が得意なPらしい、そういえば前回も同じだったと、思い出す。
どことなく玄関が広く感じられ、家も静まりかえっているように感じる。開け放たれたベランダから這入ってくる朝のそよ風の所為なのか、ちょっとした開放感すら感じて、ベランダの向こうに広がる、野原に目を向ける。
「お前に言っていなかったかもしれない。Aとは9月に正式に離婚してね。下の子供は彼女が国に連れて帰って、上の子はここに残って一緒に暮らしているんだ」。
少しだけ決然としていながら、さっぱりとした表情で、Pは一気にそう話してくれた。なぜ彼がこのところ話したいと繰返していたのか、漸く合点がゆく。
「お互いよい関係で別れることができてね。この夏も、前半は上の子は母親や弟と一緒に過ごして、後半はこちらが兄弟をつれてサルデーニャで過ごそうと思っているんだ」。

そんな言葉をどこか上の空で聞きながら、思わず、リゾットを囲んだ2年前の食卓を思い出していた。何がとは明確に言えないものの、どことなく気まずく、どうにも居た堪れない思いに駆られ、言葉を濁して食後すぐに家を後にしたことを。

5月某日 ミラノ自宅
朝から音楽院で映像作曲のクラスのレッスンを一通りやり、家人と二人、ガリバルディから近郊電車に乗ってロゴレード駅にでかける。老若男女、プロフェッショナルもアマチュアも、皆、街中でピアノを弾こう、ピアノを聴こうという趣旨の2011年に始まった「ピアノ・シティ」という音楽祭があって、5年後、国立音楽院が新校舎の竣工を予定しているロゴレード駅前、ジュリア地区の広場にピアノを運び、国立音楽院の学生たちも演奏を披露した。

雲一つない青空のもと、だだっ広い広場の中央に、日陰を作るだけの簡単な仮設テントを設え中型ピアノが置いてあって、パイプ椅子が50席ほどか。すぐ隣には、常設のピンポン台もあって、子供たちがピンポンに夢中になっている。
目の前には、いかにも芸術家らしい風格を漂わせていた背の高く恰幅のよい老紳士が立っていて、和やかに談笑している。その姿をよく見れば、サルヴァトーレ・アッカルドだった。なるほど、彼の娘も同じ演奏会に参加していたので、アッカルドもやってきたわけである。

演奏会の初めに、このあたりの地区の文化担当者が、こうした企画の素晴らしさを讃え、ピンポンを愉しむ若者の傍らで、こうして素晴らしい音楽に触れられる文化の豊かさについて話す。
まず最初に、息子がウェーバーのソナタを弾きだすと、どこからともなく、小学生中学年と思しき幼気な少女二人が現れ、息子のピアノに合せて優雅に踊り出した。なるほど、ウェーバーの音楽はまさに思わず踊りだしたくなる。音楽が華やかさを増してくると、彼女たちは優雅な佇まいでうつくしい側転を始めた。よく分からないのだが、ピアノ演奏の右奥では少年たちがピンポンに興じ、時々外したサーブの球を取りに息子のすぐそばに寄ってきて、その傍らでは少女二人が、伸びやかに舞っていて、時々並んで、じっとピアノ演奏に見入ったりもしている。その上側転をする度に、彼女たちのTシャツが捲りあがるので、色々コレクトネスの厳しい昨今、こちらは余計な不安に駆られたりもする。
息子曰く、ピンポンがちらちらと目に入って、到底集中できなかったらしい。少女たちの方はあまり気にならなかったらしく、とにかくピンポンの音が煩くて、とこぼしていた。ピンポン遊びとピアノ演奏の共存する、深く培われた文化空間の実現とは、当事者にとって決して安楽なものではないらしい。

そのまま、カドルナ地区にあるトリエンナーレに駆けつけ、カニーノの弾く「高雅で感傷的なワルツ」を聴く。弾きだした途端、その音の輝きに、思わず鳥肌が立つ。
派手な光度ではなく、寧ろ滋味溢れる、深い味わいの数えきれないほどの倍音の集積が、一つ一つの和音に光の錯乱を起させているようにみえる。彼が鍵盤を一音叩くたびに、液状の光の粒子が、鍵盤から噴きこぼれるが如く。
カニーノが弾くフランス音楽からは、普段嘗めるようにふんだんにかけられている、料理のソースを一切かけず、使われている食材の質を極限まで引き上げた感じに近い。
ケルビーニが啓いた、近代フランス音楽の原点が目の前で詳らかにされているような、そこはかとなく最高級の諧謔すら感じられるような、どこまでも品の良い矜持が、音の骨組みの底から浮き彫りになる。

「次は”亡き王女のためのパヴァーヌ”、ユン・ダンファン・デファンという、思わず舌がつっかえそうになる、謂い難い題名の曲」、と紹介すると、聴衆が一斉にどっと笑った。彼が昔弾いていた「ベルガマスク組曲」を思い出す。互いの音符を繋ぎとめる土台を露わにしつつ、本質を問いかけるような美しさ。

訥々と始まり、次第に饒舌になってゆく「道化師の朝の歌」を聴きながら思う。我々は普段「オーバード」を謳う道化師の姿しか目にしていなかった。実際は「道化自身の口をついて出てきた暁の感傷歌」だったに違いない。禍福あざなえる縄の如し。一人の舞台上の老演奏家は「道化師」の本質を、恰も自らが書き下したかのように、全てを白日の下にさらけだした。それは涙がこぼれそうになるような、美しさと厳しさが共存していた。

一通り予定されていたプログラムが終わっても、熱狂的な拍手は鳴り止まない。
「それではお耳汚しながら、もう一曲お付き合い願います」と噺家のような飄々とした口上を述べ、暗がりのなか、スポットを差す舞台上方の照明を指さしながら、
「では月の光なぞ」と言って、やおらドビュッシーを弾きだした。
音には質感も硬度も光度も、それだけでなく、温度や匂いまであって、紡ぎ出された音たちが、空中の一点に向かって収斂されてゆくのを具にみる。

小学校3年生か4年生ごろだったと記憶するが、母に連れられて永田町の都市センターホールでアッカルドとカニーノのデュオ・リサイタルを聴いた。特に印象に残っているのは、不思議な仕草で弾くピアニストで、子供心ながら、どことなく道化師の気配すら感じ取っていたのを思い出す。

5月某日 ミラノ自宅
電話の向こうで、卒寿を迎えた母が話す。「この歳まで生きて、またお米で苦労させられる時代が来るなんて」。太平洋戦争の後、漸くお米が食べられない不安から解放されたと思ったのに。この歳になって、今更あちこちのスーパーを廻ってお米を探さなければいけないなんて。今まで何のために頑張ってきたのかわからない。屈辱だ。

トランプ政権が、ハーバード大学の留学生を15%にすべきと圧力を掛けているという。それに輪をかけて驚いたのは、どこからか息子が仕入れてきた、日本の大学生の間でも同じように留学生を制限すべきとの声強し、との怪しげな情報である。その情報が正しいのか定かではないが、少なくとも、息子の耳に届く程度、若者の間ではあまねく共有されているらしい。トランプ大統領が弾圧の根拠は反ユダヤ主義の助長だそうだが、労働者階級からの高等教育への不信が基盤だともいう。
香港の複数の大学、日本でも東大や京大が、ハーバード大学在籍の学生の無条件での受け入れを表明したとの報道。優秀な学生の流出がもたらす影響は、確かにトランプ政権下に於いては、まだ実感されないかも知れない。

文化弾圧という単語そのものも、まるで時代錯誤の封建主義国家でしか存在し得ないと信じきっていた。ヒトラーが糾弾した「退廃芸術」や毛沢東もポルポトも、当時の低級な知識層が引き起こしたもの。ストラヴィンスキーもラフマニノフもシェーンベルクも、プロコフィエフやショスタコーヴィチの悲劇も、全て無知な過去の一ページで、繰返されただけ。文化遺産を冷遇したファシズム政権下、ミラノ国立音楽院の図書館から、可能な限りの楽譜資料を戦禍から逃すべく奔走したFederico Mompellioは、何というだろう。遥か昔の焚書坑儒と現在を繋ぐ糸など、どこを手繰っても見つからないと信じていた。第二次世界大戦下の日独伊に関わらず、文化の発展を閉ざす世界中で無数のプロパガンダが生産され、大戦後、厭世観は新しい世界観をもたらした、と信じていた。一定期間を経て、その新しい思想は、清廉潔白、完全なもの、と喧伝されながら、我々は社会の一端を担い、文化を培ってきた、のだと思う。
我々にとって悪の権化は、ヒトラーでありムッソリーニでありスターリンでありポルポトであり秦の宰相であり、それらは過去、低能な支配階級によって生み出された怪物だと信じられていた。我が国の政治を批判しながら、批判対象のその政治を生み出したのは我々自身だと忘れがちになる。アメリカでもロシアでもイスラエルでも、一定以上の権力をもつ人間を生み出したのは、我々と寸分たがわぬ市民自身に他ならない。本当の恐ろしさはそれにふと気づく時、巨大な津波に飲み込まれるように我々を襲う。

5月某日 ミラノ自宅
3年間教えてきて、どうしても身体の中から音楽を外に放出させられなかったサムエルの最後のレッスン。最後の最後で、大声で叫ばせたことを思いつく。
こちらに向かって、大声で叫べ、と話す。ところが、いくら頼んでもなかなか大声が出せない。教室の中だからせいぜい3メートルくらいしか距離はないが、1メートル半程度で立ち消えてしまう感じだ。とにかくこれで最後のレッスンになるので、こちらも引下がらず執拗に大声をあげさせてみて、5分以上ああでもない、こうでもないと押し問答を続けた挙句、漸く少し声がこちらまで届くようになってくる。最後の最後、渾身の叫び声を上げたところで、持ってきていたベートーヴェンを振らせてみると、初めて驚くほど音が充実していた。その音の違いに一番驚いたのは、サムエル自身であった。一見すれば振っている姿は何も変わっていないのだが、叫ぶ前は腕の先から何も気が発せられていないように見えたのが、その後で振ってみると、ほんの些細な動きですら、腕の先からじんわり何かが発散されているのがわかる。

380人に及ぶイギリス、アイルランドの作家が、イスラエルの虐殺を糾弾する声明発表との報道。就任したばかりのドイツ・メルツ首相は、「イスラエルの目的は最早理解し難い」との異例の発表。各国に並び、日本でもアメリカ留学のための面接が中止されたとの発表。

我々がこの地球上で生きる意味は、それぞれが小さな歯車の一つになって、社会を動かす原動力を生み出し、時を推し進めてゆくことだ。
サムエルの叫びではないが、各人の思いは、言語化し顕在化させなければ、誰にも伝えられない。以心伝心が理想であるけれども、言語とは、思考と思考を繋ぐ蜘蛛の糸であって、最後の手段に違いない。恐らく音楽も同じであって、各言語ほど具体性はないけれども、古来、意志の伝達は音によって実現されてきた。
今日、改めて思うのは、誰に忖度するのでもなく、言いたいことがあれば、言っておかなければいけない、という事だ。それは間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。間違っていると怖がって言葉を発することができなくなるより、間違っていることに気づいたなら、素直にその間違いを認めればよいとおもう。
全て細かく精査される現代にあって、かかる意識は、ともすれば生命に関わることなのかもしれないが、そのために、何も考えず思考を放棄する人生が、果たして本当に社会の歯車を回していることになるのか。死ぬ瞬間に何も後悔しないのだろうか。それは、自分の身体の裡で燻っている手触りのようなもの。
現在に於ける人工知能の可能性が、膨大なデータの集積なのであれば、我々はそのデータの扉をあけて、その向こう側の空間へ足を踏みいれる可能性が残されているのではないか。
人工知能の限界は、データはあくまでも数的処理されるべき対象物であり、それはガザの幼児の亡骸に、生年月日を書き入れる認識番号のようなもの。実際は各々の身体には名前があって、それぞれの人生が刻み込まれていることを忘れてはいけない。

スイス、ヴァレー州ブラッテンにて、氷河の溶解による大規模な土石流の発生。スイスの当局者は、研究者たちの助言により、様々な壊滅的なシナリオを想定して用意をしてきたつもりだが、実際の崩落はそれらすべての想定を遥かに超えていた、と話している。ここ数年続いている氷河の溶解は、急激な地球温暖化の結果と言われるが、現実を直視すれば、恐らくもはや臨界点を超えてしまっていることに気づく。イタリアのバイオント・ダムの悲劇を思い出しながら、インタビューを見る。

5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で授業をやり、一度、帰宅しシャワーを浴びて国立音楽院で息子の466を聴く。何かに見守られながら、ただひたむきに自らを表現している。ピアノ演奏の真骨頂は、聴き手の集中が強い牽引力で演奏者に収斂してゆくところだ。音楽は確かに聴衆に向かって発散していながら、ピアニストは常に楽器との真摯な対話を強いられる。ピアノは楽器として完成された存在だから、声楽であったり、常に楽器と肉体が触れているような、管楽器やヴァイオリン族とは全く違う関係が生まれた。しばしば、ピアノは小さなオーケストラ、と喩えられるが、それは単に広い音域で多くの音を同時に発音できるだけではなく、演奏者の表現手段が、自らの身体から離れた別の存在だという意味でも、確かにオーケストラに匹敵するのかもしれない。

言葉を発しようとするとき、喉元に閊える何かがある。表現しようとするとき、無意識にそれを諫める言葉が脳裏をかすめる。批判を懼れて、極端にふり幅を制限する思考。
それらから解放され、それぞれが自らの言葉を発し、認め合うことが対話が生まれる。ピアノとの対話も全く同じであって、対峙する相手は批判対象でも、敵でもなく、もちろん忖度の対象でもない。真実というものがあるとすれば、互いに騙りあうような上っ面の関係でそれは生まれ得ない。対話は、信頼の礎の上にこそ展開され得るもの。
音楽が本当に信じられたとき、音が紡がれる。楽器を信じることができたとき、初めて楽器が鳴りだす。オーケストラを信じることできたとき、初めてオーケストラの音がする。音符が纏う空間の広さ、深さを信じられたとき、初めて音を置くことが出来る。

 (5月31日 ミラノにて)

『アフリカ』を続けて(48)

下窪俊哉

 昨年7月に『アフリカ』前号(vol.36)を出してから、もうすぐ1年がたとうとしている。正確に言えば前号というより、現時点での最新号である。この連載を続けて読まれている方は、あれ? これからは年に3回くらいのペースで出してゆきたいという話ではなかったっけ? と思われるかもしれない。何を隠そう、私も、そう思っているひとりなのだ。
 言っていること(考えていること)と実際の行動は一致しない。いつもどこかズレている。だから面白い。しかもこの場合、大きくズレていると言わざるを得ない。『アフリカ』は自分だけの場ではないので、発表できると思う原稿が続々と集まってくれば、どんどん出してゆけるのだが、そういう状況では全くないということだ。1年前の私は、流れを見誤っていたかもしれない。あるいは流れそのものが変わったのだろう。

 その間、『アフリカ』が何の動きもなく静止していたのかというと、そうではなく、むしろその逆だと言える。
 編集人(私)は送られてきた原稿を読み、返信のメールや手紙を書くのに忙しかった。ただ、そのままで載せられる原稿が少なく、しばらく待っていた。待っているうちに1年たってしまったというわけである。
 中には、大幅に手を入れてもらって、あるいは度重なる書き直しの末、次号に間に合いそうな原稿もあるし、そのままお蔵入りしてしまいそうな原稿もある。
 ある人からは「これだけ見てもらって申し訳ないのだが、『アフリカ』がダメなら別の場所で発表してよいか?」という連絡あり、「それはご自由に、と思いますけど、自分で納得できない原稿を発表しちゃダメですよ」と返事しておいた。このやりとりから、自分は”発表する”ことをあまり重視していないのだな、ということに気づいたりもする。
 それにしても、『アフリカ』を19年やってきて、編集人がこれほど厳しくなっているのも珍しい。初めてと言ってよいかもしれない。いつの間にか、自分の読みが厳しめになってきているのだろうか。これまでにも書き慣れていない人の原稿を『アフリカ』はたくさん発表してきたはずなのに、ここまで原稿を落とすことはなかった。
 書き手に上手さを求めてはいないはずである。それは変わっていない。だから、もっと上手く書け、と思っているわけではない。ただしある程度は原稿を完成させてもらわなければ、『アフリカ』には載せられない。では、その”完成させる”とは、どういうことになろうか。自分でもちょっとわからなくなってきたので、ここで少し整理してみたい。
 しかし未完(成)の原稿でも、良いと思えば載せるはずだ。だから”完成”ということばで考えている限り、前に進めないかもしれない。別の言い方を探ってみよう。
 読んでいて、「これはどういうこと?」とか、「こう書いているのはなぜ?」とか、質問して聞いてみないとわからないことが多いのである。しかし、よくわからない内容のものでも、私なら載せそうだ。だからこう言ってみればどうだろう、もっともっと書いてほしいと感じる、と。冗長になりすぎているから、もっと削って(研ぎ澄ませて)みてはどうか、と伝えることもある。たぶん同じことで、書き込みが足りないからそうなるのである。手加減しないで書けるだけ書いて、じっくり推敲して削れるだけ削り、何が現れてくるかを探ってほしい、ということだ。でも、それが、なかなか出来ない。読んでいる私に見えてこない、聴こえてこない、感じられないのである。書こうとしていることを、書き手はわかっているのかもしれないが、読者には伝わらないだろう、と明確に言えるのだ。そして可能なら、書くつもりのなかった何かと出合うところまで、私は付き合いたいのである。
 じつは前号で小説を発表していた4人のうち、私を除く3人は今回、今のところ書いていない。つまりまだ読ませてもらっていないのだが、書かないというよりも書けないのかもしれないと思う人もいる。「なかなか覚悟がつかなくて」という連絡をもらったのだが、なるほど、書くのには覚悟が要るかもしれない。でもそういう人には、まあそう言わず短い雑記でもいいから気楽に書いてみてよ、と言いたくなる。

 SNSを見ていると、続々といろんな本を読破して、その報告をしているアカウントも目に入る。不思議なものだ。よくそんなに勢いよく本が読めるものだな、と。それが仕事であればわかるけれど、そういうわけでもないようで、私にはそんなふうに本を読むことが出来ない。ふと思ったのだが、書いている時と同じとは言わないまでも、それに近い力を使って読んでいるとしたら、遅くなるのは当然のことだ。
 速く読んで、どのように書かれているか、その細部が見えないのは、確かに仕方のないことだろう。しかし私は、そういうところをこそ読まないと、本を読んだ気がしない。
 ここまで書いてきてわかったのだが、細部に力が感じられて、じっくり読める、そんな文章が連なってギュッと詰まっていればいるほど、私にとっては良い原稿だということになりそうである。特に短篇、中篇くらいまでのエッセイや小説には、そういうことを自分は感じているようだ。そうやって思う存分書かれていさえすれば、多少破綻した部分があろうが、未完成であろうが、『アフリカ』には載せるだろう。

 先日、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読んでいたら、こんなことを言っていた。

「私はこう思って書いたから、それで分かるだろう」というけれどそうではなくて、「私はこう思って書いた。その書いた文章はこうだ。それを読んで読者がもう一回、私が感じたことをこの文章を読んで感じてくれるかどうか」というところまでいって、はじめて評価になる。ところが大抵の場合が、「私はこう思って、こう見て書いたのだから、それで分かるではないか」というふうに言う人が多いですね。批評というものはそれでは成り立たない。そこが大きな問題です。

 ここで言われていることは、私には当然のことなのだが、そうではない人が多いということだろうか。先日、私はある人に「文章というのはことばで成り立っているのであって、書き手の思いとか、気持ちとかで出来ているのではないんです」という話をしていた。しなければならなかった、と言いたいところだ。

 世界中を旅して本当にいろんな、多様な場所で演奏するサックス & メタルクラリネット奏者・仲野麻紀さんは俳句を嗜み、文章を書く人でもあって『旅する音楽』という本があり、この10年ほど愛読している。その中に、こんな記述がある。

 ひとりの人間の考えは行動することで真の思考となる。行動がなければ、それはいつまで経っても机上の論理。わたしはそういう論理だけの世界の中で、居心地が悪い。目の前にあることから、自分自身で実行(=翻訳)していこうと思った。やがてからだを張った言葉の翻訳(=実行)は小さな出来事となるだろう。

 文章の中にも”行動”がなければ、と私は思う。そのためには、感じなければならない。何を? 世界を、ということになろうか。書いて、読む中には空間が生まれる、ということを以前、私は書いたことがある。その空間を感じる。そうすると、その中で何か、動きを起こすことが出来るだろう。そこに私は、感覚表現の可能性を見てゆきたいと思っている。

アパート日記 2025年5月

吉良幸子

5/12 月
新居の契約に行った帰りに十条の商店街をぷらぷら。驚くほど商店街がいきいきしてて感動した。少し歩けば八百屋にあたり、魚屋、酒屋に味噌屋まで発見した。スーパーなんて行かずとも商店街で揃う感じ。おまけに銭湯まである。生きてる商店街の近くに越してこれるのは嬉しいなぁ。

5/15 木
市ヶ谷での打合せの後、そういえばここは靖国神社の目と鼻の先やと気付いて帰りに立ち寄る。初めて参拝した靖国神社は想像よりも巨大で、空気がしんっとしておった。資料館へも行ったけど、展示説明文が想像の100倍くらいの量でどの部屋でも活字の嵐が吹き荒れており、閉館時間まで全くもって時間が足らず途中で断念した。残念、また今度余裕を持って来よう。神社を後に九段下に着くと…もうここまで来たら愛しの古本街へ行くしかない!と神保町までひた歩く。神保町では気を確かに、お財布の紐をしっかり締めとかんとスカンピンにされる。引越し間近、本を増やしたらいかんで…と自分に言い聞かせながら行ったはずが、矢口書店にふらふらっと入ってしまい、結局4冊も抱きかかえてレジ前に立っておった。その中でも大好きな浪花千栄子さんの本が嬉しく、すぐ読むべく喫茶店へ。なんと贅沢な時間でしょう。そこそこに読んだ後、帰りに回り道して銭湯へ寄り、お湯であったまって家路につく。朝から晩までぎょうさん歩いた日やった。

5/17 土
絵描きの友、キューちゃんがあるイベントのインタビューコーナーに登壇するというので、それを見に行きがてらキューちゃんちへ遊びに行く。折しも今日は三社祭の中日で、吉原神社でも何やら祭があるらしい。祭目当てで行った訳やないねんけど、思いがけずお神輿をたくさん見れた。霧雨が降る中、カッパを着ながらお神輿を担ぐみなさんは勢いがあって楽しそうやった。

5/20 火
前いたアパートにまだ住んでる知人、ゆうさんが数日間旅行に行くとのことで猫たちのお世話をしつつ、一緒にお留守番。もう半年くらい会ってないメロとチャロは覚えてくれてるかしら?と部屋に入ると、玄関で寝てたメロがチラッと顔を上げ、あぁ、あんたかいな、久しぶりやねってな顔で迎え入れてくれた。チャロはいつも通り大歓迎してくれて、とにかく撫でてほしいんやわ!とゴロンゴロンと腹を見せてねっころがる。ふたりとも女の子で、足がすんごく小さくてかわいい。いつも家で見る、島育ちの強靭な脚力を持つソラちゃんとは大違い。ごはんもあげて、ひとしきり遊んでアパートを後にする。今日から何日間かメロ・チャロに会えると思うと嬉しい。

5/21 水
ふじみ野でマトリョーシカの絵付けをしてはるマミンカさんの教室へ今月もゆく。先月は赤鬼、今月は何を絵付けしようかしら?と散々考えて、一心太助にしよう!と下絵を描いた起き上がりこぼしを携え、埼玉に向かう。太助は江戸時代の魚屋で、頭につける髷も紙粘土で作って一緒に持っていった。マミンカさんが使ってはるアクリル絵具は発色が良くて乾きも早い。失敗しても上からしっかり色を乗せれば修正も簡単。今まで色んな絵具で試したらしく、ええ絵具に出会ってはるなぁと毎回感心する。私も粘土細工するとき、もうちょっとやり方を確立していきたい。

5/22 木
昼一でものすごい興奮気味のおかぁはんから電話が。何事や⁉︎と電話に出ると、なんと丹波篠山のスーパーのレジ横、雑誌コーナーに、公子さんの記事が載った暮しの手帖が並んでおったらしい。えぇ?発売日は明日やと聞いてんのに、なんでそんな田舎の、しかもスーパーに??とこっちまでびっくりした。実はその時には掲載紙がうちにまだ届いてなくて、つまり記事に載った私よりも先にうちのおかぁはんが読んだらしい。
ということで、アパートのふたりは今月号の暮しの手帖に載っとります。太呂さんに撮ってもらった公子さんとのツーショットは好評で、荷物だらけのアパートもとても素敵なおうち風に撮ってくれはりました。さすがです。アヒルの表紙が目印、ぜひ読んでね。

5/24 土
朝からどう転がっても頭が痛い。猛烈な頭痛で一日中おやすみの日になった。自分の荷物の多さを諦めて今回は早めに引越しの梱包をはじめ、色んな手続きや仕事のアレコレで気ぃ使てんやろか。天気も悪いし久しぶりにしんどかった。そんな時は決まってソラちゃんが添い寝してくれる。ありがたいこって、背中をくっつけて寝たらなんとなしにはよ治る気がする。

5/30 金
かれこれ1年以上仕事で携わってきた短編映画『とうちゃん』の公開初日。撮影は2021年の秋ということで上映まで3年も費やしたという、なんとも贅沢で監督のこだわりが詰まりに詰り切った作品。宣伝美術をするにあたって何度か映像を観せてもろてたけど、自分のパソコンでしか観たことないし大画面で観るのは初めて。劇場は小さいシアター、各々渡されたヘッドフォンで鑑賞するというところ。大きい画面とヘッドフォンでの臨場感ある音で没入感が高く、観に来てよかったなぁ~と途中にしみじみ思わせてくれる作品やった。上映後は舞台挨拶ということで、裏方の私まで登壇してひとこと感想など述べた。とりあえず1週間の上映やねんけど、たくさんの人に観てもらえたらいいなぁと心から願っておる。

5/31 土
まずい、気ぃついたら明日には6月が来ようとしておる。この前の水騒動でお世話になった、賑やかな引越し屋さんが来はるのが3日後、電気や水道など諸々の手続きに気を取られてたら、台所の荷物はまだたくさん棚の中に収まったまま。でも今月中には…ということをとにかく優先させて、明日の自分がきっと大いにがんばってくれるはずや、と今日の私はひとごと気分。冷たい水から逃げるように引越してきて4ヶ月、ようやくソラちゃんも慣れたとこやというのに。今年2回目の移動が目前に迫る。

夜の山へ登る(3)

植松眞人

 僕は放課後、小林先生のところへ行って、あんたのことを聞いてみたけど、小林先生も詳しいことは知らんと言うてた。ホンマに知らんのか、知らんふりをしているのか、それはわからんかったけど、なんとなくホンマに知らん気がした。小林先生がなんや困ったような怒ったような、それでいて寂しそうな顔をしてたからや。
 あんたとは、いつも一緒というわけではなかったし、毎日話すという感じでもなかったけど、僕はあんたのことを友だちやと思ってたから、急におらんようになったあんたのことを、小林先生と同じように、困ったような、怒ったような、寂しいような気持ちで思ってたんや。
 それが高校三年の秋。そのまま僕らは疎遠になった。そんなあんたから連絡をもらったのは、高校を卒業して十年後、いまから三年前のことやった。僕らは二十八歳になってて、もうすぐ三十になる手前やった。僕はまだ一人もんやったけど、あんたはもうあの時、美幸さんと結婚してて、もう純平君も生まれてた。
 会社で仕事をしてたら、代表番号から電話が回ってきた。名前を聞いても思い出せなくて、「どちら様ですか」と問いかけると、あんたは電話の向こうで「以前、お会いしたことがあるんです」なんて言うから、僕はほんまに気持ち悪くなって「ホンマに、どっかでお会いしたんですか」と聞くと、あんたは大笑いしながら、「お会いしました、三年A組の教室で」と答えたなあ。その一瞬で、あんたの顔を思い出したんや。
 僕らはその晩、仕事帰りに高校三年以来、十年ぶりに再会したんや。
 再会してみて最初に感じたのは、懐かしさよりも「どこか別人みたいやなあ」ということやった。高校時代、あんたはひょろっとしてて、目が鋭くて、まっすぐな声を出す人間やったけど、あの時のあんたは、声に丸みがあって、よう喋って、よう笑って、なんや穏やかやった。そらまあ、十年もたてば人は変わることもある。そんなことはわかってるんやけどなんや気色悪うてなあ。そやけど、あんたが注文したホットコーヒーをひと口飲んで、「なんや、薄いなあ。味せえへん」と呟いたときは、なんや、ちょっとだけ昔の顔がのぞいた気がした。
 あの時、文化祭の話も出たなあ。
「あんな脚本、よう通ったなあ」
 あんたはそう言うて笑ってた。そやけど、笑ったあと、急に真顔になって、
「ほんまはあの時は、死ぬほどしんどかった」
 あんた、そう言うたな。僕が「どういうこと?」と聞くと、あんたは「ぜんぶや」とだけ言うて、それ以上は何も話さんかった。そのとき僕は、ああ、この人はやっぱり、変わったようで変わってへんのかもしれんと思てたんや。(つづく)

豆腐が寝返りを打つまで

芦川和樹

風通しのいい目が、開
閉、開、閉(忙しい午後でも)
ぶつ切りだった

感情的なソフトクリームさんは
→バ、ラを一輪 胸の、それか襟の
ポケットだったり、ボタンホールだったり
に、かくし持つ
らいと
ライオンが
         る、灯
米を嚙む、ときに光   る
             波
並、木を      バ
じぐざぐ      ウ
歩くのは      ム
お得な情  状   クーヘン
、報を、  態を、    は
追うクー  保つため   舳
ピーの習         先
性だわ。         を

   平         揃
   日         え
   の質問に答える、オオロ
ラを捕らえる。犬科だとして。
ブルーベリーを目撃しながらそ
の嗅覚を胡蝶蘭にも向けて、昨
日のニュースを整理していく。
(はずだった)

どうでもいいような問題が、大きな顔して
胸の、だったか襟のだったか
薔薇をうばう
そしてカ、ーネーションが起立する


トランポリンをもく星に運ばなくては、い
けませんくもを予定に加えて、豆腐が寝が

(コピー用紙を食べて、)寝返りを、マッチが肘を擦(す)って燃えなければ〜燃やさなければ、小売りさんは頭巾をかぶり火を防ぐ。耳を製造するぶもんに吹き込む(窓から)ラベンダー、のカーテン。お揃いの布、そのカーテン。そのオオロラは、(そのオオロラは、)昨日の薔ラだわそしてカ、ー⋯‥・かくしたらいとの咆哮として、腰のあたりや、お腹のあたりが誕生する。「忘れ物ってないよ。」バケツをかぶって、不在のまま前進する鍬を持つ、くわ、を持つ、セメントを。街を角までいくふりして、豆腐が寝返ったのは、べつにいいんだという もく星に着いたらまた話しましょう(打つ)メルヘンな欠席として、メルヘンな出席として

日記

笠井瑞丈

土曜日朝9時半出発
久しぶりに金沢に行く
もちろんナギとモギとハギも連れて
最近モギの調子があまり良くない
高い寝所から落ちたせいなのか
足の調子が悪いから落ちたのか
どちらにせよほとんど歩かなくなった
いつも枕の上で寝てばかり
病院には連れて行ったが
骨折とかではなく
神経系を痛めてるだろうとの診断
そんな3羽を連れて
とりあえず高速で松本まで
松本から白馬を抜け糸魚川
そして途中最近知り合いになった
ユッキさんのヤマザショップに寄る
そこでユッキさんが採った山菜蕎麦を頂く
糸井川からはまた高速にのり金沢まで一直線
久しぶりの金沢は雨だ
到着してなおかさんの実家でまずは一杯
長時間の運転のせいか
気づけばバタンと眠りにつく

日曜日朝10時病院
やはりもう一度モギをつれて
金沢の動物病院で診てもらう
レントゲンを撮った
先生が言うには背骨の下あたりに
異常があるとの見解
人間でいう坐骨神経失調症との診断
そのせいで足があまり動かせないのだ
完治するかは分からないとの宣告を受ける
とりあえずやれる事はやるしかない
もらったビタミン剤とお薬を飲ませて
しばらく様子を見るしかない
絶対にまた良くなる
それだけを信じて

月曜日昼13時小松へ
今日はなおかさんが最近知り合った
陶芸家の工房とギャラリーを見せてもらう
ギャラリーでは知り合いの写真家の写真展が
工房の方ではとても素敵な
お皿の陶器を沢山見せてもらう
職人さんが手作業している所を見せてもらう
こんな細かな作業を一つ一つやってるんだ
とてもビックリするばかりの贅沢な時間
夜は金沢芸術村の舞台技術者講習を受ける
舞台作りの基本的な知識の勉強
この講習を受けない限り
金沢芸術村での公演が出来ないという
ここ独自のシステム

火曜朝9時半東京
今週金曜日に公演があるため
なおかさんを置いて一足先に帰京
ただ公演の翌日土曜日にはまた金沢に戻るけど
久しぶりに1人で運転して金沢から東京に
いつもはなおかさんと交代交代で帰るので
1人で完走するのはちょっとしんどい
道中山道を走りお猿さんに二度遭遇
山の中には山の住人がいるんだな
以前人生初の熊に遭遇したのもこの辺だった
車の運転をしながら色々な事を考える
勝沼ぶどう郷の天空の湯に入り休憩
露天風呂から見る甲府の景色が美しい
外の景色はこんなに美しいのに
内なる世界は廃墟のような景色
この廃墟の世界に光が灯る日を
疲れを取り後少しで東京だ

小松の写真展で写真家の蓮井さんの言葉
『人生は生まれた瞬間から欠落してゆく旅にでる』
本当にその通りだ
後二週間で新しい歳になる
きっと欠落してゆく旅はまだまた続く

むもーままめ(48)八畳一間の片思い、の巻

工藤あかね

 10代の頃、ヲタサーの姫的なポジションにいたことがある。簡単にいうとクラシックギターが少し人より弾けたせいで、ギター学習者によく声をかけられ、ちょっとちやほやされていたのだ。コンクールに出たある時には、観客だったさる旧官立大学の学生さんたちにゴクミちゃん(当時人気女優だった後藤久美子さんの愛称。F1レーサーのアレジに恋して渡仏し彼と事実婚。あの胆力はまことにあっぱれだ。)とあだ名をつけられ、可愛がってもらった。いろいろなものをもらったり、手紙のやりとりをしたこともあったっけ。またある時期には、数名の若いギター男子たちと親しくなり、お茶をしたり、出かけたりするようになった。彼らは音楽が大好きな紳士的な人たちで、飲食店ではいつも真っ先に私に席をすすめ、食べたいものや飲みたいものを尋ねてくれた。ちなみに私はあらゆる意味で世間知らずだったので、彼らを一度も怖いとは思わなかったし、実際彼らのせいで危険な目にあったこともない。

 そんなある時、ギター男子の一人が、今度自分の先生のところにみんなで行かないか、と声をかけてきた。先生に会うと言っても特にレッスンをしてもらうとかではなく、遊びに来ない?と。「人が自然に集まるような場所で、面白いから」と言われてもイメージできず最初は気が乗らなかったのだが、みんなが「行こうよ」というので最後には私も行く約束をした。そして当日、仲間の一人が車を出してくれて、ちょっと辺鄙な街にある例の音楽教室に向けて出発した。

 その音楽教室はなんの変哲もない一軒家で、防音も何もしていないようす。近所の人からはなぜか一目置かれているようだった。ギター男子の一人が、ベルも鳴らさず勝手知ったる様子で扉を開けた。後に続く私たちはそこの生徒でもないのについて行っていいのかな?と思いつつ部屋に入った。記憶ではおそらく八畳くらいの広さ。そこにアップライトピアノ、電子ピアノ、エレクトーン、隙間を縫うようにソファ、そしてギター用の椅子と足台と譜面台がびっちり入っていた。隙間の平面には譜面の山。ソファをすすめられて座る。目の前に生徒さんが入れ替わり立ち替わりやってきて、ピアノを弾いたりエレクトーンを弾いたりして、気が済むと帰っていく。こんな音楽教室を見たことがなかったので、呆気に取られた。
 
 ギター男子の師匠(音楽教室の経営者)がやってきたので挨拶をすると、お師匠さんはガバッと足を広げてギター用の椅子に座った、そしていきなりその辺の楽譜を譜面台に置くと、パッとどこかを適当にひらいてギターを弾き始める。だが楽器のメンテナンスはあまりきちんとしていないようで、低弦はさびていて、ぽそぽそとした響きしか出せていない。だが、弾いている表情はどことなく満足げで雰囲気もわるくなかった。少しして、今度はいかにも知的な女性が部屋に入ってきて、電子ピアノの前に座りヘッドフォンをはめると激しく何かを弾き始めた。そう、この音楽教室では、ギターもピアノ(アップライトと電子ピアノ)もエレクトーンも全て同時進行で練習するのがならいのようなのだ。ヘッドフォンを外した女性は、私たち来訪者がどんなジャンルでなんの楽器を弾くのか尋ねてきた。彼女は東京大学に合格したばかりで、その喜びも自信溢れる表情と口調の活気につながっていたのだろう。「東大は受かったんだけど、私立では立教だけ落ちたの。問題にちょっとクセがあったかな。」受験教科に直接関係ない科目も、趣味と気分転換で勉強したという。そんなあたりも東大生らしい考え方だな、と感心した。

 ちょうどアップライトピアノが空いた。そこへ階段を降りて部屋に入ってきたのは、ちょっと長髪でさえない顔色をした細身の青年だった。彼は来訪者たちの顔を挨拶もせずに虚無の目で見回し、少しだけうなづくようにしてうすい挨拶をした。変わった人だなと思った。この教室に連れてきてくれた男子が言う。「先生の息子さんのHさん。東大の理学部に通っているんだよ。ピアノはめちゃくちゃうまくて、とくにジャズがすごいよ」。虚無の目をした青年Hはアップライトの前にすわり、なんの準備運動もなく突然ショパン「ピアノソナタ第3番」の終楽章を弾き始めた。「ジャズがうまい」という言葉が聞こえていて、裏をかこうとしたなら結構気が強い人なのかもしれないと思った。タッチは正直ボコボコしていたのだが、猛スピードで、ちょっと恐ろしいような演奏だった。弾き終わると、私たち来訪者に2つ3つあたりさわりのない質問をし、最初よりは深めのうなづき方で挨拶をして、階段をあがり部屋に戻って行った。彼の気配がなくなってから私はぽつりと「ジャズじゃなかったですね。ジャズも聞いてみたかったな」とつぶやいたが、ギター男子たちは何も言わなかった。きっと私が、恋に落ちた目をしていたからだと思う。

 その後、ギター男子たちはそれぞれの地元に戻ったり、大学が忙しくなったりして、いつのまにか誰とも疎遠になってしまった。音楽教室に案内してくれた人も海外留学に旅立った。したがって私の心に強い印象を残した青年Hさんには、その後2度と会うことがなかった。よほど優秀な人だったと思うから海外で仕事をしているかもしれないし、専門性を活かした職業についているかもしれないし、ジャズピアニストをしているかもしれない。またあるいは才能のある人にありがちな気まぐれで、急に絵を描いて生活していたり、起業したりしているかもしれない。インターネットが普及してから名前で検索してみたこともあるが消息は不明で、今となっては正直、顔も思い出せない。ただし、父親である師匠の音楽教室はまだ存在しているようなので、そこを経営しているという線もありうるか。だが詮索はやめよう。たった一度、10分くらいしか会ったことがなくても、その後何十年も印象を残すことができる人がいるという、忘れられない記憶。

おいしそうな草

若松恵子

吉祥寺に移転したクレヨンハウスの地下には女性の本のコーナーがあって、青山の頃のようにはまだフロアの方針が固まっていないようなのだけれど時々覗いてみる。

5月のはじめに、蜂飼耳(はちかい みみ)のエッセイ集『おいしそうな草』(岩波書店)を見つけて、2014年に出た本なのにちっとも知らなかったとさっそく買ってきたのだった。『おいしそうな草』は、岩波書店の雑誌「図書」に連載した24編に、書き下ろし3編を加えて編んだものだ。連載時のタイトルは「ことばに映る日々」。「生きる日々のなかで、読む言葉、出会う言葉、思いがけず受け取ることになる言葉。詩や小説や随筆、さまざまな作品が落とす影に、はっとする瞬間。あっというまに過ぎていくあれこれを、書きとめ、見つめ、また書きとめる。そんなふうにして生まれてきた本だ。」と、蜂飼は、あとがきに書いている。ふと揺れ動いた心、その目には見えないものを言葉に定着して(映して)、形あるものとして差し出してくれるところに彼女の文章の魅力がある。しかもそれは、川原でみつけたすべすべした美しい石のように確かな手触りをもって、読む者の心の手のひらに乗せられる。

玉手箱を開けた浦島太郎は、その後どうなったのか。「満ち欠けのあいだに」では、様々なバリエーションを持つ浦島伝説について語ることと並行して、月食を眺める夜の時間が綴られる。
「芝」では、八木重吉の「草をむしる」という詩が紹介され、蜂飼が好きだというこの詩について、「座りこんで草をむしった記憶のすべてが束になり、この詩に吸い込まれていく。」と彼女は書く。八木重吉の詩に続いて語られるのは、子どもの頃によく遊んだ海岸の近くの公園の思い出だ。その公園には冬でも青々としていた芝があって、その上にもう走らない電車の車両があった。ある日子どもたちによってむしり取られた芝が車両の床いっぱいにぶちまけられるのを見る。「あたりいっぱいにふくらんでいく、あおあおとした香り。このまま走りだせばいいのに。けれど、もちろん電車は動かない。困ったように、じっとしている。」と彼女は書く。子どもの頃に見た忘れられない光景は、束になって彼女の文章に(言葉に)吸い込まれていく。

唐突に別の物語が語られ、でも彼女独特の脈絡でひとつの物語に編まれていくところ、そのイメージの重なりも彼女の文章の魅力のひとつだ。詩人である蜂飼耳の独壇場ともいえる。それを読む私の認識も深く耕される思いがする。

本の題名となった「おいしそうな草」は、言葉を持つ人間とはどういう存在なのかについて語っている。西脇順三郎の詩を引用しながら蜂飼はこう書く。「言葉が、人間とその他のものを区分して、限られた生を言葉の灯りで生きるようにと、うながす。沈黙の日、更地に似た日にも、やがて、草のように言葉は生えてくる。古代の人たちは人間を青人草とも表わした。草と人は近い。牛や馬、羊ならば思うだろう。おいしそうな草、と。生きものは、草を掻き分けて進む。生い茂るものたちのなかを歩いていく。」
いつまでもそばに置いておきたいと思う一章だ。

サザンカの家(五)

北村周一

バード・ストライク 前夜

白堊の闇にあかいあさひの差すところ メジロはうたいサザンカは舞い
赤からしろへはなばな咲かせとりを呼ぶ庭のかきねのあさ待つじかん
老いもわかきもコトリとなりてしばらくはこのそらひくく漂えるらし

うめの香匂うそらをあおげばメジロ来てともに見ているこうはく梅図
梅のかおりのたゆたうところわれよりもつねにさきゆく目白のふたつ
梅のめぐりに鳴きつつ飛ぶはメジロにて飛ぶを止めればたちまち梅花

口ぶえ鳴らしメジロは行くや 眼下にはみぎりひだりにサクラぜんせん
めじろ同士声を合わせて落ちてゆく いちにのさんで やまさくらばな
うすくれないの花もそぞろにあきあきて萌黄いろめく空の子メジロ

雄蕊雌蕊のはなふところを揺らしながら遊ぶメジロの隣りにもメジロ
しり取りあそびのつづきのように花々のミツを吸い吸い春告げにゆく
みなみのそらへ蜜をもとめてわたり来るメジロもいると春いちばんは

紅ツバキの木みごとなれどもおもおもし 目白はきらうものものしきは
にわの木の見映えよろしき医者の家 メジロらしげく寄り来たるらし
アカイアカイつばきの花もそこそこに目白は去くもそのかげにわれ

とりどりのはなからはなへ路地を来てメジロはすでにわが視野のそと
ジグザグにとぶを見ており路地の端 メジロは知るやその行くさきは
さきをいそぐと見せかけてメジロたちお茶をしており梅の木かげに

はなかげに花すいふたつふうわりと羽をやすめりどちらか身おも
どちらともなく目くばせ交わしふとも消ゆメジロのふたつ 春が来ている

花吸いとも呼ばるるとりの鳴き交わすこえはまぢかしわがかざかみに
チチよチチよとうち羽振り鳴くこえは(ははよ)聞こえますか めざめよとうたうその声

つばさ震わせチチと鳴くときそよぐかな きみどり美しきそのうらおもて
めじろの目より近いところに我があるを すがた消したりふり向きざまに

多角的なる目をもつとりの視野のさき すでに来ている絵を画くオトコ
メジロらのねぐらはいずこと垣根ごしに杳くみており西方のひと

とおのく刹那せつなにうたう恍惚はメジロのみ知る その世界観
花びらにみみかたむけてなにごとか告げんごとくもメジロ揺れおり

囀りは長兵衛忠兵衛長忠兵衛 メジロは啼くも オスのみに啼くも
ここは宙宇のきりぎしにして境川の土手に息衝く春告げどりは

「タントリポロ」再び、大阪能楽大連吟、十津川村の大踊り

冨岡三智

5月はあわただしく過ぎてしまい、疲れが抜けきれずダウンしてしまった。というわけで、今月は5月に参加した公演の手短な記録。

●5月10日(土)『初夏 ガムランの風』
スペース天(大阪府豊能郡)にて

ガムラン音楽団体、マルガサリの本拠地でのコンサート。無料。3月29日のマルガサリ公演「ふるえ ゆらぎ ただよう」(『水牛』2025年4月号でその様子について書いている)で演奏されたスボウォ氏の歌「タントリポロ」、「バニュミリ」が再演され、今回は1人で舞踊をつける。ジャワ宮廷舞踊で用いられる動きを用い、ブドヨ曲の時のように振付を展開させる流れを作ってみた。

スボウォ氏の曲は宗教的、瞑想的で、私が思い描くブドヨのような雰囲気に合う。この曲ならではの動きを見つけるのが今後の課題で、今回はまだ模索の途上。

●5月18日(日)大阪能楽大連吟
四天王寺・五智光院にて

大連吟というのはこのプロジェクトの造語。連吟は謡曲の特定部分を複数の人が声をそろえて謡うことだが、それを1万人の第九よろしく大人数でやろう(演目は『高砂』)というのが大連吟で、2008年に京都で始まった。大阪能楽大連吟は観世流の齊藤信輔氏と今村哲朗氏が2018年に開始した。対面のお稽古と音源をいただいての自主練習を重ね、プロの能楽師が創る本格的な舞台に参加できるというもの。私は初回、前回(ただし本番には体調を崩して出演できなかったが)に続いての参加。斎藤氏は2007年に私が企画した事業『能の表現と能を取り巻く文化』でインドネシア公演に行ってくださった方である。ちなみに公演に出演された小鼓の清水晧祐氏、大鼓の守家由訓氏もそう。そして太鼓の中田一葉氏はインドネシアに行ってくださった中田弘美氏の御子息。

今回になって初めて実感できたのが、謡は声というより息をコントロールするものなのだなあということ。カーレーサーの能楽師が、自分の体(車)に息を載せ、スピードを段階的に変えたり、直線を進んだかと思えばジグザグに切り替えたりしながら疾走していくような感じだ。

●5月28日(水)十津川村・大踊り
大阪・関西万博、Expoアリーナにて

5月27日~29日に万博で催された奈良県のPRイベントの一環として、2022年にユネスコ無形文化遺産に登録された十津川村の3地区の大踊りの公演(各地区15分)のうち、武蔵地区に参加。私もメンバーになっている中川眞氏が主宰する村外での十津川村の盆踊り練習会にも声がかかって、数人が参加したのだった。中川氏は十津川村で40年以上、盆踊りを始めとする民俗調査を続けており、現在は過疎化による後継者不足の対策として、村と都市からの共創に取り組んでいる。私は日本の伝統芸能を専攻していた大学生時代に中川氏の盆踊り調査に参加していて、その後も断続的に関わってきたのだった。実は、私がガムランを始めたきっかけもこの盆踊り調査がきっかけで、夏の調査が終わって中川氏が当時代表をしていたダルマブダヤに参加した。

私が初めて調査に参加した時には、大踊りは奈良県の無形文化財には指定されていたものの、国の指定はまだという状況だった。当時、調査で行っていた学生は、大踊りだけは一緒に踊ることはせず見ていた。それを万博の舞台で一緒に踊らせていただける日がこようとは、当時は思いもよらなかった。

仙台ネイティブのつぶやき(106)病気の記憶

西大立目祥子

それは明け方に突然きた。
寝入って1時間ほどたったろうか、目が覚めてしまい眠れない。目をじっと閉じたままでもいっこうに眠れない。体勢を変えても眠れない。あぁ、なんで。遅くに飲んだお煎茶がいけなかったか、ずいぶんと人に会って人当たりしたか…考えるほどに頭がさえざえとしてくる。右に寝返り、左に寝返り、うつぶせ、仰向け…そうこうするうちに、うわぁ何これ!?ぐるぐると体が回転しだした。灯りをつけると、天井がぐわんぐわんまわる。からだがどこかに持っていかれそうな感覚に何度か耐えるうち、猛烈な吐き気に襲われた。床を這っていきトイレで吐く。なんとか寝床に戻り横になると、前後左右がぐしゃぐしゃになり、つぶされるような怖さにじんわりと冷や汗が出る。突発的な吐き気がまたきて、ゴミ箱に吐いた。

翌日は丸一日静かに横になっていたが、よくなる気配がないので、かかりつけの内科に行った。「吐き気もめまいもひどい」と訴えると、なじみの医師に「どっちが先?ちゃんと時系列に沿って話して」と問いただされる。結局、脳神経外科にまわされ、MRIまで撮って、良性の発作性めまい症という診断がついた。手渡された解説には「安静にしてはいけません。吐き気がきても頭を動かしましょう」とある。耳石が三半規管に入り込んでめまいが引き起こされるらしく、耳石を早く外に出すのが症状改善のカギらしい。

友人知人に「めまいが…」と話すと、この発作性めまい症の経験者のなんと多いこと。「私もだよ」「ああ、耳石でしょ」「頭振って治すんだよ」と返される。中高年なら誰でもかかる風邪みたいなものなのかもしれない。

めまいは薬で治まったが、10日くらい、ふわふわするような、たよりないような、そして静まったもののからだの奥に吐き気が巣食っているような感じが抜けなかった。拠って立つところがふにゃふにゃしていているというのか、自分の輪郭がぼやけた感覚があって、目の前の風景も少し引いたところから眺めているよう。

あぁこの感じには覚えがあるとたぐりよせた記憶は、私の幼年期の持病「自家中毒症」。正式には「ケトン血性嘔吐症」といって、ストレスや疲れが極限までくると嘔吐を繰り返す病気だ。血中のブドウ糖が不足すると脂肪がエネルギー源になるが、そのときケトン体という嘔吐を引き起こす物質が生成されるらしい。やせ型で過敏で興奮しやすい子どもに多いといわれることもある。発作がおきると顔色が悪くなりぐったりしてきて、気づいた親が過剰に反応すると、それが子ども心にさらにつらい緊張になった。だから、調子が悪くてもなかなか言い出せず、ぎりぎりまで我慢して、しまいに吐く。小さかったころは、道端で、バスの中で、寝床で、突発的に吐いていた。親に背中をさすられながらかかえる洗面器の色模様まで鮮明に覚えているのだから、嘔吐はなじみの行為だった。

だから、発作に気づいた親に連れられて病院に行くときは、これで楽になるんだ、とどこか安堵感さえあった。小児科の診察室には白衣を恐がる泣き声、注射から逃れようとする叫び声がつきものだけれど、いつもだまって固いベッドに仰向けになり、看護婦さんに右腕を差し出した。肘を太いゴム管でしばられ手を握ると血管が浮き出て、そこに腕と同じくらい太いブドウ糖の注射を受ける。淡い緑色のガラスの注射器には黄色い液が充填されていて、注射針が刺さると自分の血液がいったん塵のように注射器に吸い込まれ、そこからまた液といっしょに体内に戻ってくる。少しずつ少しずつ液が少なくなっていくのを見ているうちに、吐き気はおさまり気分がよくなってまわりを眺める余裕が生まれる。南向きの部屋には陽射しがさんさんとあふれ、窓辺には流しがあり器具が並んでいて、水道の蛇口や注射器を消毒する四角い鍋のような器具が光を受けてきらきら輝いている。不思議な形の帽子を頭に乗せ、糊の効いた真っ白な服と白い靴で光の中を動きまわる看護婦さんたちの姿をいつもうっとりと夢でも見ているような気持ちで眺めた。

最初の発作は2歳か3歳のときだった。嘔吐が止まず近所の医院では手に負えないといわれ、駆け込んだのは宮城県庁裏の新津小児科。一目見て医師は「自家中毒症」といい、ブドウ糖の注射をしてくれた。まったく泣かない女児に、先生は「女傑だな」といったらしい。母から何度も聞かされた話なのだが、このときなのか、その後何度かお世話になったときなのか、親に抱かれ見上げたこの小児科のおぼろげな記憶が残っている。背の高い緑の樹木の向こうに見えた鉛色の空。ゴッホの描いた糸杉の上に広がっていたような不穏な印象の空が、いまも目の裏に貼りついている。

この新津小児科は医院はやめたものの、建物はビル街の中に昭和30年代のタイムカプセルのようにいまも残っている。敷地はヒマラヤシーダーにぐるりと囲まれ、窓枠が淡いエンジ色の出窓のある木造の診察室も見える。幼い私が見上げたのはこの建物と木だったのかと、通るたび記憶と風景をつなごうとする自分がいる。

「自家中毒症」は10歳になるころには、嘘のように治まった。からだができて筋肉量が増え自律神経が整って内臓が充実してくると、自然と消える症状のようだ。まだことばをしっかり習得しておらず、ことばで自分を表現できないから一身にストレスの直撃を受けてしまうのかもしれない。吐き気に襲われていたのは、ひとりで本を読み進められるようになる前のことだ。
治まったとはいえ、いまになっても頼りないからだで生きていた感覚が呼び戻されることを思えば、経験としては決して小さくない。どこか暗いところから遠く世界を眺め見ているようだった感覚が、内気な少女をつくったのかもしれないと思ったりもする。

ところで、最初のめまい症の発作は3月末だったのだが、5月中旬に再びそれはやってきた。2回とも長い緊張がゆるんだ2日後の明け方。もしや明け方というのは血中のブトウ糖が少なくなる時間帯だからだろうか。極度の緊張のあと、というのも「自家中毒症」に重なる。いったんは充実した身体機能が下降線をたどるようになり、幼いころの素地があらわれてきたのかもしれない。幼年期と老年期は重なるといわれるけれど、私のそれは吐き気でつながるのかも…。

立山が見える窓(2)

福島亮

 連休明け、ベランダのプランターに、ミニトマト、シシトウ、ピーマン、エゴマ、そしてミントを植えた。庭があるわけではないから、園芸用の土を購入した。多摩川の近くに住んでいたころも、やはり同じように土を購入し、植物を育てていた。そのとき最も困ったのは、不要になった土をどうするかということだった。植物を古い土から新しい土へ植え替える。その際、古い土はどうしたらよいのか。庭があれば、大地に返してやることもできるのだろうが、その庭がない以上、どうにか「処理」しなければならない。東京都のホームページを見てみたが、園芸用土の回収はおこなっておらず、回収業者に連絡をせよ、とある。そこで回収業者に連絡をしてみるのだが、プランターひとつ分で回収費用8000円というではないか。いくらなんでも無茶苦茶だ。そもそも8000円の内訳は何なのか。そして回収された土はどのように処理されるのか。まさか、まとめて山奥に持っていき、夜陰に紛れて……なんてことはないだろうね。山で生まれ育った私は、人目につきにくい土手などに、家電が捨ててある光景を何度も見てきたから、疑り深くなってしまう。結局、不要になった土は実家に持っていき、庭の片隅にまいた。今度もまた、同じ羽目になるのだろうか。土を買う、土を捨てる。そういう発想が、本当はどこかおかしいのかもしれない。本来、土はどこにでもあって、買ったり売ったりゴミとして捨てたりするものではないのだろう。

 そんなふうに、なんとも言えないモヤモヤした気持ちはあるものの、さすが栄養満点の市販の土である。プランターに植えた苗はすくすく成長し、花をつけはじめた。ミントにいたっては、ランナーをのばしてプランターの外に出ていこうとする元気の良さである。そこで、どんどん葉をむしって、ミントティーにする。耐熱ガラスのポットに10枚ほどの葉を入れて、熱湯を注ぐと、あっという間に湯が淡い緑色に染まる。

 清涼感のある熱い液体を口に含むと、パリで暮らしていた頃よく行ったクスクス屋の暗い店内の光景が甦ってくる。ふんわりと皿に乗せられたクスクスに、野菜と肉をクタクタになるまで煮込んだスープをかけ、最後に唐辛子とニンニクと塩で手作りしたアリッサをたっぷり添えたものを腹一杯になるまで楽しむ。こちらがもう食べられないという頃合いを見計らって、ミント入りのお茶(テ・ア・ラ・マント)が出てくる。赤褐色の、甘く、爽やかなそれを飲むと、口の中は爽やかになるし、不快感と紙一重だった満腹感がすっと快感へ変わるから不思議だ。ミントを口にする喜びを知った私は、週2回行われる市場で毎度ミントを買うようになり、飲んだり、葉をちぎってサラダに入れたりした。市場のミントはタダ同然に安かった。

 あの夜も、そんなふうにミントを楽しんだのだろうか、とふと思う。2019年10月某日、北駅近くのイベントスペースで、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴにサインをねだった日の夜だ。おそらく、その頃はまだメニルモンタンの部屋ではなく、ジュールダン大通りの学生寮に住んでいたから、毎日のようにミントを楽しむようになる前のはず。それでも、口の中の清涼感によって導き出された過去は、いくつかの層があいまいに縺れあっていて、複数の時間が同一平面に描かれた絵巻物のように、6年前のことと5年前のことが隣り合っている。

 グギのことが想起されたのは、きっと、5月最後の月曜日に、大学の講義で彼の人生と仕事について話すことになっていたからだと思う。それでも、彼が書いたものではなくて、その人の声や佇まいが思い出されたのは、職業的な目的意識とはまた別のもの、どこか小説じみた想起の糸の絡みあいのせいでもあるだろう。プレザンス・アフリケーヌ社主催のイベントに招かれたこのケニアの作家は、やはりその場に呼ばれていたナイジェリアの作家ウォレ・ショインカが、イベント終了後、ほとんど神技のような身軽さで、すっと姿をくらましてしまったのとは対照的に、ゆっくりとサイン用のテーブルに移動し、彼と言葉を交わしたいと願う人々と、やはりゆっくりと話しながら、自著のフランス語訳にシルバー軸のボールペンでサインをしてくれた。

 グギの人生について、そして彼が成し遂げた困難な仕事について、私のできる範囲で、拙く、たどたどしく学生たちに話した。旧宗主国の言語とそれ以外の言語との間のヒエラルキー、出版と言語、執筆と言語との関係……そんな複雑なことを、手際よく話すことは私にはとてもできないけれども、学生たちはよく耳を傾けてくれた。グギの訃報をニュースで知ったのは、その2日後のことだった。87歳だったという。ほんの一瞬、その佇まいに接しただけではあるけれども、何年か経っても、ふと思い出すことのある人だった。

全編盗作

篠原恒木

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。つまりは恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。「である調」と「ですます調」が混在しているが、完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

ところで木曽路はすべて山の中である。その山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。アタシの家も住みにくいよぉ。
そして国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。その汽車に目を取られていると、反対側の線路からやって来た山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。だが、こういう山のサナトリウム生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。

養生していた城崎温泉の宿にジュリエットと名乗る一人の女が訪ねて来て、こう言った。
「ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」
私は言った。
「君の形而上学セッションには付き合えない。それに、この部屋の酸素を無駄にしたくない。帰れよ」
「背が高いのね」
「僕のせいじゃない」
「お父様と縁を切り、家名をお捨てになって! もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし」

その女は30フィート離れたところからはなかなかの女に見えた。10フィート離れたところでは、30フィート離れて見るべき女だった。だから私はこう言ってやった。

「黙れ。不妊症。てめえみてえな低脳と、カンバセーションしてやるぼくじゃねえぞ。何が、お誓いだ。昨日今日覚えた言葉を得意気に振り廻すな! 今日からぼく、おまえのことを畜膿女と呼んでやるからな」
「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
「吁、ジュリエットさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。一月の十七日、ジュリエットさん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、僕は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!」

俺はジュリエットを足蹴にして、煙草に火を点けた。配管修理工のハンカチみたいな味がした。さよならをいうのは、少し死ぬことだ。それから、–––それから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失っていました。

そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。のみならず太い嘴の上に鼻目金をかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」という手真似をし、
「私はデーヴィッド・カパーフィールドではあらない。デーヴィッド・河童フィールドであるよ」
と言いました。それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持って歩いてきました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。僕の両側に並んでいる町は少しも銀座通りと違いありません。

僕は担架から飛び降り、一目散に逃げた。その時僕はかなり腹が減っていた。脂で黄がかった鮪の鮨が想像の眼に映ると、僕は「一つでもいいから食いたいものだ」と考えた。ちょうど屋台の鮨屋が見えたので、暖簾を潜り、言った。
「海苔巻はありませんか」
「ああ今日は出来ないよ」
肥った鮨屋の主は鮨を握りながら、なおジロジロと僕を小僧のように見ていた。
僕改メ小僧は少し思い切った調子で、こんな事は初めてじゃないというように、勢よく手を延ばし、三つほど並んでいる鮪の鮨の一つを摘んだ。
「一つ六銭だよ」と主がいった。
小僧改メ僕は落すように黙ってその鮨をまた台の上に置いた。
「一度持ったのを置いちゃあ、仕様がねえな」そういって主は握った鮨を置くと引きかえに、それを自分の手元へかえした。

しかし僕改メ小僧は開き直った。さあ、鮪を食わねば。無銭飲食上等である。手持ちは四銭しかないが、構うものか。
屋台には一人前の鮨桶に入った鮨「中」もあった。どうせなら鮪だけじゃなく、これを全部食べちゃえ。
「中」の内容は、カッパ巻き2、鉄火巻き2、エビ1、タマゴ1、イカ1、タコ1、ハマチ1、鮪の赤身1、中トロ1、イクラ1であった。
これらが一人前の鮨桶の中に、エビを中心に、きれいに並べられてある。
さあ、何からいくか。
誰しも少し迷うところである。
「いや、鮨なんてものはね。目についたのから手あたり次第、ガガーッて食べればいいの。ガガーッて」
という人もむろんいる。
そういう人は、この際あっちへ行ってなさいね。あっちへ行ってイカとイクラをいっぺんに口の中へ放り込んでガガーッて食べなさい。食べてゲホゲホとむせんでその辺に吐き出して大将におこられなさい。

しかし懐に四銭しかなかった小僧は鮨桶に手を伸ばすことなく、捨て台詞を吐いた。
「ぼく、こう見えて根がデオドラント志向に出来ているんだ。てめえみたいな小男の糞臭い手で握った鮨なんぞ食えるもんか」
小僧改メ僕は鮨屋の主にそう言い残して、暖簾の外へ出た。雨が降り始めていた。

雨はひどく静かに降っていた。新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音しかしなかった。クロード・ルルーシュの映画でよく降っている雨だ。ひさかたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ。六月一日。雨ふりて寒し。京橋の屋台鮨屋で鮪を食すのを我慢。腹痛あり。終日困臥す。

そして私はスカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ………どっどど どっどど どっどど どどうとばかりに北海道へ働きに出掛けました。
浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたナオミは家に置いていきました。彼女の歳はやっと数え歳の十五でしたから

蟹工船はどれもボロ船だった。
労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。
「おい、地獄さ行えぐんだで!」

デッキの手すりに寄りかかった自分には、もはや幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。人生は野菜スープなのです。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
我々はみんな年をとる。それは雨ふりと同じようにはっきりとしたことなのだ。
ナオミは今年二十三で私は六十五になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、七十以上に見られます。
そして下人の行方は誰も知らない。勇者は、ひどく赤面した。だから清の墓は小日向の養源寺にある。でも、お前ら、夢を諦めんな。

製本かい摘みましては(193)

四釜裕子

関東鉄道常総線・稲戸井駅(取手市)の近くで、ちょっとおなか空いたねーということで中村ストアーに入った。菓子を選んでいたら奥から大根を煮るいい匂いがする。午後にはお惣菜が並ぶのだろうか。店の入り口にサンルーム的な場所があって、その壁に奇妙なものを発見。「ばんぱくちゅうおう 万博中央」という駅名標が無造作に掛けてある。本物なのかな。お店の方に尋ねると、つくば万博(1985)のときに常磐線に作られた仮設臨時駅のもので、牛久駅と荒川沖駅の間にあったという。どうにも気になり後日その場所を訪ねてみたら、ひたち野うしく駅(牛久市)だった。万博中央駅は万博終了とともに予定通り廃止されたが駅前の宅地開発はみるみる進み、13年後に新たな名前で駅舎もリニューアルして開業した。駆けっこできそうなホーム(実際子どもが走っていた)や高い天井はその名残だろう。広々としたコンコースには二所ノ関部屋の大きな案内板があった。

稲戸井駅から、その日は小貝川の岡堰(取手市)に向かったのだった。小貝川が「く」の字に曲がるあたりで、ごく簡単にいうと、江戸時代に伊奈忠次(1550-1610)らにより新田開発・洪水防御・舟運のために鬼怒川と小貝川が分離され、鬼怒川が利根川につなげられ、小貝川も下流で利根川につなげられ、小貝川に設けられた複数の堰のうちの一つが岡堰ということになる。くの字の角の広いところに小さな島があり橋がかけてあるのだが、渇水期だったので川底を歩いていったらオオオナモミにひっつかれて大変なことになった。広場には歴代の岡堰の一部や関連の碑と間宮林蔵(1780-1844)の像がある。近くの農家に生まれた郷土の偉人は小貝川にゆかりが深い。『利根川荒川事典』(平成16  国書刊行会)から抜粋すると、〈先祖・間宮隼人は17世紀初め、徳川幕府の鬼怒・小貝両川流域開発に際し、関東郡代・伊奈忠治に請われ、小貝川ぞいの常陸国筑波郡上平柳村に入植した土木技術者〉とある。林蔵はその七代目、一人息子だった。

吉村昭は『新装版 間宮林蔵』(2011 講談社)にこう書いている。子どもの頃から堰の普請に興味があった林蔵は、〈毎年春の彼岸になると堰をとめて小貝川の水を貯え、土用あけの十日目に堰をひらいて、水を水田に放つのである。その例年くり返される堰とめと堰切りを村の者たちが手つだったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍に立って熱心に見守っていた〉。岡堰の広場の説明板には「間宮林蔵、幕府の役人に築造方法を教える」と書いてあったが、林蔵少年が13~15歳くらいの頃と考えるとちょっとそれは言い過ぎかなぁ。とにかくなにかと手伝い機転もきいた林蔵は、ある役人に目をかけられて江戸に出て地理調査を手伝うようになり、腕を上げ、下級役人の職を得て、やがて伊能忠敬(1745-1818)にも教えを乞うようになる。年齢がだいぶ違うけど忠敬をしのぐほどの健脚でもあったようだ。

さてこちらはぼちぼち歩く。ひっついたオオオナモミをちまちま取って、岡堰を渡り小貝川の左岸に出る。なかなかの強風の中、チュッパチャップスみたいに整えられた庭木をところどころに見ながら間宮林蔵記念館(つくばみらい市 旧伊奈町)を目指す。林蔵は1808年、松田伝十郎(1769-1842)とともに幕府の命を受けて樺太探検の旅に出た。このとき2人は樺太が陸続きでないことをほぼ確認したのだが、いまひとつ納得しかねた林蔵は改めての単独調査にまもなく旅立ち、そこではっきり確認できたと幕府に報告書を出している。記念館はその報告書に基づく資料を展示していて、探検時の道具や防寒具などもあったが、林蔵がのちに隠密となったために親族のもとに残された遺品は多くないそうだ。

報告書である『東韃地方紀行』(1810)や『北夷分界余話』(1810)に添えられた絵がとてもよかった。これらは林蔵の口述とスケッチを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録、模写したもので、風景や建物、人物、動物など対象は多岐にわたっている。細々した道具から街場の群像まで、また母乳をあげるお母さんとか鳥と遊ぶ子どもとか犬ぞりを操る男とかどれもみんな生き生きしていて、衣服も質感や柄や装飾がいちいち鮮やかで建物や舟の構造はどれも緻密でいかにも正確、とにかくどれも色合いがよくて美しい。林蔵は、のちに間宮海峡と呼ばれることになる海峡を渡ってアムール河を進み大陸に上陸しているが、そのときにデレンという町で清朝の役人から接待を受ける自身の姿も残している。

こうした丹念な記録への関心と技量は、林蔵が江戸に出るきっかけをくれた役人、村上島之允(1760ー1808 前出の村上貞助の養父)の影響によるところが大きいのだろう。『新装版 間宮林蔵』によると、あるとき林蔵がアイヌの生活に興味が出てきたと島之允に話すと、〈「よい物を見せよう。他人に見せるのは初めてのものだ」と言って立つと、部屋の隅におかれた箱の中から紙を綴じたものを持ってきて開いた〉。そこにはアイヌの人たちのさまざまな暮らしぶりが描かれており、細かな解説文も添えてあった。〈「測地のかたわら、こんなことをしている。私もようやく蝦夷人のことがわかりかけてきたので、一つ一つ書きとめている。これから、舟づくり、着物、弔い、宝器などを絵にえがき、それらの解説も書いてゆきたいと思っている」〉。林蔵は島之允のそうした作業にも共感し、手伝っていた。島之允による蝦夷地の記録は亡くなるまで続けられ、いくつかまとめられている。

『新装版 間宮林蔵』には、樺太探検の基点の1つとして「トンナイ(真岡)」という地名がたびたび出てくる。〈日本人の漁場の番屋や倉庫〉もあり、ここで〈舟を操るのに巧みなアイヌたちを雇う〉。林蔵が2度目の探検でトンナイを出たのは8月3日。夏、とは言わないかもしれないけれども、舟で北上して間もなく寒さで断念せざるをえなくなっているから、その厳しさはいかばかりかと思う。9月の中旬には雪も降り、かといって海面は凍結せずでトンナイまで陸路を戻るしかなく、10月24日、リョナイに荷物を置いて〈氷と雪のつらなる五十四里〉を歩き出す。到着は11月26日、トンナイの番屋で体を休めて正月29日に再出発、リョナイまではもちろん徒歩、そこからは舟で北上し、最北端のナニオーに着き、樺太が陸続きでないことを確実にしたのが5月の中旬だった。さらに大陸に向かい舟を出したのが6月26日。林蔵は死も覚悟して、これまでのメモをここで一旦整理していたようだ。

ところで「トンナイ(真岡)」は、真岡(現ホルムンスク)と考えていいのだろうか。北原白秋(1885-1942)が書いた真岡にある製紙工場見学記について、最後に触れておきたい。白秋が樺太を旅したのは1925(大正14)年で、ことさら陽気に書かれた『フレップ・トリップ』(2017 岩波文庫)の中にある「パルプ」がそれだ。〈樺太とはいっても八月の炎暑である〉、正真正銘の夏である。王子製紙は1933年に樺太工業を吸収合併しているから、白秋が訪ねたのは樺太工業(真岡工場は1919年操業)の活気ある時代。移動中、旺盛な原生林に圧倒される表現も随所で見られる。対して、樺太を旅した林芙美子(1903-1951)が、豊原までの列車の中から切り株だらけの野山を見て痛烈に批判したのは1935年だった。〈名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか〉(「樺太への旅」 『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』2022 中公文庫)。この間、わずか10年。ちなみに戦後、王子製紙真岡工場はソ連の製紙工場になったが、1990年代には操業停止。今はいくつかの建物だけが残るらしい。

話が逸れたが白秋の「パルプ」、おかしくてせつなくて生々しくて好きなのだ。パルプ文学、製紙文学なるジャンルがあるなら史上最高作品とたたえたい。抄紙工程のごく一部を引用します。パルプと水と熱の声が聞こえます。

〈あの固形体のパルプが、ねとねとの綿になり、乳になり、水に濾され、篩われてゆく次から次への現象のまた、如何に瞬時の変形と生成とを以て、私たちを驚かしたか。この化学の魔法は。
 あの鈍色の液状のパルプが、次の機械へ薄い薄い平坦面を以て流れて落ちると、次の機械では、それが何時のまにか薄紫の、それは明るい上品な桐の花色の液となって辷り、長い網の、また丸網の針金に濾されて水と繊維とに分たれ、残された繊維はまた編まれて、吸水函に入り、ここでいよいよ水分が除かれると、たちまちの間に、その次では既に既に幅広の紙らしく光沢めき固まって来て、次のまた強く熱したローラーの幾つかに巻きつき巻きつき、そのローラーを蔽うた毛布の上を通されるその幾廻転をもって、遂に最後の乾燥をおわると、はさはさ、さわさわと白い白い音と平面光とを立てながら、ここにすうすうすうと閃めき出して来る。すっとまた切られて同型同吋の長さとなって、一枚一枚と、大きな卓上に、寸分の謬りも無く、はらりはらりと辷り止まって、積り、積ってまたその層を高めてゆくのだ。
 何とまた、あの幅の広い広い、そうして薄手の薄手の白紙が、ローラーからローラーへ、一間の余の空間を辷って巻き附くその全く目にも留らぬ廻転と移動とを以てして、些の裂けも破けも、傷つきも飜りもしないことだ。何という叡智と沈着と敏捷と大胆と細心とを、秘めて、また、示していることだ。その神のごとき巧妙、霊性の作用は何から来る〉。

編み狂う(13)

斎藤真理子

 輪編みという編み方がある。
 輪編みとそうでない編み方(平編み)は違う。えら呼吸と肺呼吸ぐらい違うと思う。 どっちがえらでどっちが肺か、知らないけれども。
 平編みは、一段編んだらひっくり返して裏から編む。それをくり返す。そして「表・裏・表・裏」のリズムが人を極限まで乗せて、「あと一段、」「あと一段」と思わせ、いつまでも編みつづけたくなる魔法をかける。
 だが、編みはじめと編み終わりを結んで輪っかにしてしまえば、ずーっと表だけを見て編むことができる。これが輪編みで、輪針というものを使うか、棒針を四本ぐらい組み合わせればできる。
 編み物学校に通っていたとき、「首から編み出すセーター」というのを習った。まず首が通る太さの輪っかを作って、そこから編みはじめる。途中で編み目を増やして輪っかをだんだん広げ、脇のところまで進んだら全体を三つの筒に分ける。身ごろ(胴体)と、二つの袖だ。それぞれをそれぞれにぐるぐるぐるぐる編んでいき、三つをちょうどいいところまで編んで目を止める。
 面倒な製図がいらないし、綴じたりはいだりしなくていいので合理的だ。けれども、綴じたりはいだりしなくていい分、全部が一体になってるので編んでるとき重い。私は外に持ち出して編みたいので、これには困った。最後の袖を編んでいるときなど、アザラシ(それなりに、のたくる)をあやしながら編んでいるみたいで、肩がこるし、アザラシが嫌いになりそうになった。
 それよりも、「あと一段」の魔法が解けて、ひとりぼっちの荒野に取り残されるのが怖い。
「表・裏・表・裏」というリズムを奪われ、ひたすら表だけを見て編み進む。表裏のない世界は怖い。裏がないのは何て恐ろしいのか。
 表だけを編んでいると表情が消える。本を読みながら編むと本が味気なくなる。よそ見をする余力を奪われるみたいだった。
 輪編みには「編み始め」「編み終わり」がなく、区切りがない。平編みには二段ごとに初期化のチャンスがあり、小さくクールダウンできる。でも輪編みはそれがないので、気がつくと煙が出ていて何かが焼き切れている。
 区切りがないのでどこまでもぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
 目的に巻きとられ、あてどない気持ちでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
「ぐるぐるぐるぐるぐる」という円滑な気分ではなくて、最後に「ぐ」が残る。
 平編みなら二段1セットで完結する何かが、輪編みだとずっと持ち越しになる。その不安が端数の「ぐ」になって残りつづけるみたいで、だから私は輪編みで編むといつも以上に追い立てられている気分になる。
 たぶん、輪編みで編まれたものはすべて筒であり、管であり、自分も筒であり管だというところがいけないんだろう。人体は筒や管の集合体だ。そして、追い立てられて筒や管をずーーーっと編みつづけてくことは、奈落に通ずる。
 終わりのないトンネルを編み下げていく。
 編み掘る。
 編み埋もれる……。
 一度、輪編みでワンピースを作ってしまったことがある。アザラシでも怖かったのに何をやっているのか。あれはセイウチだったかもしれない。重い糸で獰猛性があり、編み進んでくると、手元で編み地を回すのも辛いほどになった。
 そしてどこで止めていいのかわからなかった。予定では膝丈ぐらいで止めるつもりだったがもっと長くなり、加速度がついた(表だけ見て編むのは確かに効率がいい)。自分の体、どこまでいくんだろう。怖くなってきて無理やりくるぶしぐらいの丈で止めたが、実際に着てみると糸の重みで伸びるので、足首まで来てしまう。大げさすぎる服になってしまい、一度も着ていない。糸代が相当にかかったのに。
 いつ止めていいかわからないというのは「今が楽しい」ということでもあるが、輪編みのストップできない感じは恐怖に近かった。糸があるかぎり編みつづけてしまいそうだった。糸は大量にあって私を圧迫した。ほぼ無限の時間にストップをかける決定権が自分にあるのは恐ろしい。
 願わくば時間はいつか終わってほしい、一人に与えられた時間はやがて終わってほしい、どこで時間を止めるか、そんな采配を私に任せないでほしい。私に力を与えないでください。そう思いながらぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。奈落だった。奈落は色とりどりでやわらかく、あたたかい、けれども針のかけらが混じっている。
 たぶん私が輪編みを苦手とするのは、編み込みをほとんどやらないからだろう。編み込みの好きな人なら、表だけを見て編むのは楽しくてとてもいいだろう。編み込みの靴下なんか特にいい。そして靴下なら、最後にキュッと引き絞って筒を筒でなくすることができる。
 それにしても、首から編み出すセーターを二、三枚編んであれはやばいと知っていたのに、どうしてワンピースまで輪で編みはじめたのか。知っている地獄を「これ知ってるから」という理由だけで選択してしまうことが人間にはある。
 そして輪編みと平編みのどっちがえら呼吸で肺呼吸なのかはまだわからない。わかっているのは、それが呼吸だということだ。編んでいるときは呼吸している。楽な呼吸か苦しい呼吸かは別として。

 
 

手を動かすための歩き

高橋悠治

こうして毎月書くためには、歩き回る時間が必要だ。足が進めば、頭もはたらく。
手が動くことも助けになるかもしれないが、歩くほどの頭の働きは作れないような気がする。今までは天気が悪かったから、歩いていなかった。今まで書いた文章を見ても、違った思いつきが浮かぶということもない。とすれば、しばらく前に考えた作曲のやり方、以前に書いたページを見返して思いつくことを書いてみることも、注釈以上のことではないかもしれない。

以前は、眼が覚める時、音楽の一節が浮かんでいることがあった。今考えると、それさえも、後から作られた記憶かもしれない。それが音の記憶なのか、楽譜の一節なのかもはっきりしない。記憶がある、と思ったから作られて浮かぶ作り物かもしれない。

そうではなくて、手の指を動かしてみると、それが音符のような感じがしてきた時、指の動きに楽譜の一節が張り付いているような気がするかもしれない。それらの音符を書き留めることには意味がないとしても、楽器の指の感覚が戻ってきた、と感じることはできる。

こうして音楽をする身体を作って待っていれば、響の思いつきが降りてくることもあるだろう。と書いてみて、書いたことを自分で信じる意味もないかもしれないが、楽譜から音とそれを作る身体という順序を逆にして、音を作る姿勢の準備から入るのは自然に見えるし、余裕かもしれない。

論理を追っても、他人の心はわからないかもしれないが、身振りを身体に写すのが伝承と言われ、その意味はさまざまに言われても、意味ではなく、伝承する身体の系列があることで、変化しながら続く、多くの身体の空間と動きが見える。

ここに書いていると、つい論じてしまい、やってないことを書いてしまう。毎月書くことがないと思いつつ、書いていると、後から読み返す気になれないものを書いているのではないかと思いながら、何かを書く、それがノートというものなのか。書いている文字の意味よりは、書いているという行為、その時間のなかに浮かぶ言葉や音の中に隠れているものを、どうやって引き出すか、これが課題と言えるだろうか。