アタック日記 2025年12月

渋谷慶一郎

2025.12.01 朝ヨガ90分。午後渋谷のBlocで髪をカット。その後、WIREDのアワードのパーティーへ。友達、知り合いだらけで速攻で酔っ払う。編集長の松島さん、担当の小谷さんにこんなに働いてるのに僕が受賞しないのはおかしいと文句を言ったら以前あげてますよ?と言われる。

2025.12.02 朝ヨガ90分。先月のアンドロイドオペラを観て感動したというJ-WAVEの渡邉さんから突然のメールをもらって、今日初対面。面白いことの画策を約束。その後、銀座のPOLAで妹島さんとやっているリニューアルのサウンドインスタレーションの音響調整を深夜まで。

2025.12.03 明日のブルーノートのライブのリハ。僕がピアノで菊池成孔さんがサックス、松下マサナオ君がドラム、初めましての山本連君がベース。前日一回だけのリハで明日本番という素晴らしさ。僕はオケ以外はほとんど楽譜を書かないので色々試行錯誤して懐かしい。なんとかなりそうで良かった。

2025.12.04 ブルーノートでライブ、2ステージ。昼頃入ってリハーサル。1ステージ目は探り合う緊張感、2ステージ目は爆発力という感じでガシガシ弾いてたらピアノの弦を切ってしまった。アンコールは菊地さんリードのアフロをワンコードで大いに盛り上がって良かった。ジェレミートーマスが来てくれて、楽屋ですごく褒められて嬉しかった。良いハコだ、来年もやりたいと思う。

2025.12.05 昨日の疲れか空白の1日。しかしヨガは朝90分。

2025.12.06 朝ヨガ90分。気鋭のグラフィックデザイナーの八木弊二郎君と打ち合わせ。若くて才能がある子は良い。夜、某クラブに呼ばれて行ったら元CIAという人を紹介される。

2025.12.07 朝ヨガ90分。POLA銀座で音響調整深夜まで。みんなで一風堂でラーメン。

2025.12.08 朝ヨガ90分。昼間はダラダラと仕事。夜は鮨よしいで吉井さん、Graphのれいかちゃんと鮨。後からimase君も合流。六本木のAramakiに流れて飲んでたら全員信じられないくらい酔っ払って無言の帰宅ならぬ無言の解散。

2025.12.09 朝ヨガ90分。午後、「角由紀子のヤバイ帝国」収録。Youtubeでトークは久しぶりだから新鮮。結構話し過ぎたかも。「これ放送したら印象かなり変わりますよね」とか言われてビビる。

2025.12.10 明日がPOLA銀座リニューアルオープンなので妹島さんはじめ会長、社長立ち会いのチェック。音楽は好きなことをと言われやすいのはなぜか?と毎回思う。夜はガランスで親友・石上純也と大学の頃から知ってるけど飲むのは初めての祐真朋樹さんと食事。祐真さんは全員の会計を済ませて颯爽と帰宅。ご馳走様でした。その後、石上と眠くて半目になりながら深夜3時くらいまで飲んで帰宅。

2025.12.11 昨日飲み過ぎで3時間睡眠くらいで銀座のPOLAヘ。今日がオープニングで朝9時入りでヘアメイクなどしてもらって記者会見、取材、撮影、パーティーと一気に駆け抜けて夜10時まで出ずっぱり。たくさん人も来てくれたし、みんな驚いてて好評で良かった良かった。

2025.12.12 午前11時からPOLA銀座で音響の修正。客が入った状態でやると全然違う。夕方歯医者でストレスで欠けた歯を直してもらってから夜はバッファローの牧さんと六本木でサントリーホールでやったアンドロイドオペラの慰労会。

2025.12.13 午前11時から大阪フィルの山口さんと代官山で来年の大阪フェスティバルホール公演の打ち合わせ。午後3時からヒルサイドプラザでシンポジウム。僕が司会で若手アーティストがお金について赤裸々に話すという珍しい内容になって面白かった。梅津君、ハンナ、布施君は頼もしい。終わった後、カレー屋で打ち上げ。

2025.12.14 朝ヨガ90分、久々に感じる。昼、眼科へ。夜は銀座のアルマーニで芦田多恵さんたちと会食。

2025.12.15 朝ヨガ90分。友人の水野さんとヒルサイドテラスのコントワール・オクシタンでランチ。近況報告などなど。戻ってCMの音楽を作ってから夜はSacaiの千登勢さん、直島の福武君、吉井さんと中目黒の鮨よしい。その後西麻布のcroへ。

2025.12.16 今日がCMの音楽の締切なのでヨガにも行かず朝から制作。ギリギリまでやったけど終わらず。夜はSMUKでIMAの太田さん、海老原さんと忘年会。オーナーのHideya君にも会う。

2025.12.17 朝7時からヨガ60分。来年、Abstract Musicを展示することになっている前橋国際芸術祭の下見で日帰り前橋へスタッフ4名と。朝からCMの音楽のミックスなどしてとりあえずメールで送信してから出発。新幹線に乗り遅れそうになる。現地でキュレーターの宮本さんに色々案内してもらい打ち合わせ。夜に帰宅。

2025.12.18 朝からCM音楽のミックスをやり直して完成。送信した後、午後はスタジオでMAに立ち会う。良い感じで完成した。年明けにオンエアされる。

2025.12.19 朝11時から来年のアンドロイドオペラ大阪の主催者3名が代官山に来て打ち合わせ。午後2時から年明けの朝日新聞の記事のための取材。Hayate君にヘアメイクしてもらってロケ撮影などしてからインタビュー。その後、ラジオ日経に移動して「ラジオ第二外国語」の収録。終わってから赤い部屋で博報堂の嶋さんと毎年やってる忘年会。異分野混合度が高まって総勢50名くらい来た。今年よく会った面白い人をランダムに誘うという会で、何人かから「こんな面白い忘年会はない」と言われる。

2025.12.20 夜、三軒茶屋のシャンラーリンで悠治さん、美恵さんと先月の悠治さんのピアノソロの打ち上げも兼ねた忘年会。次回の話も。楽しみ。

2025.12.21 朝ヨガ90分。朝ヨガ90分銀座に続いて青山に出来るPOLAの新しい店の音響調整を昼間から今井さん、鈴木君と。ここも内装は妹島さん。予想以上に音はうまく行ったと思う。

2025.12.22 朝ヨガ90分。夜、アンドロイドオペラのチームの忘年会を松濤のLaboで。今月は忘年会ばかりしてる気がするが、先月までの半年間くらいは忙しくて友達と食事も出来なかったから良いのだ。今日は格別に楽しかった。

2025.12.23 京都へ。非常に貴重な体験。いつかどこかで話そうと思う。

2025.12.24 さらに神秘的な体験をする。これは一段階越えたという感じ。

2025.12.25 一昨日、昨日の余波でクリスマスなど吹き飛んだ感じ。15時からヒルサイドクラブとミーティング。来年の話。終わった後、アートフロントの全容を見せてもらう。その後、重要な契約を某所で。

2025.12.26 朝ヨガ90分。午後、ラジオ日経で「ラジオ第二外国語」2本録り。バロウズとキースヘリングについて。終わった後、嶋さんとスタッフとワイン。その後、グランドハイアットで秘密の会食。年末は秘密が増えるものだ。

2025.12.27 オフ。

2025.12.28 朝ヨガ90分。Blockで髪をカット。久しぶりに高松聡に遭遇したら尋常じゃないくらいAIを深めていて興味深い。その後、セミトラの田中君と打ち合わせ。

2025.12.29 朝ヨガ90分。昼間はBLUEのピアノスコアを検証。これ、来年リリースできたらいいな。夜はモレスクで食事。

2025.12.30 朝ヨガ90分。夕方から虎ノ門のゴールドバーでインド人の富豪と初めましての会。その後、中目黒のイタリアンで食事。ここ、BGMがレゲエなことに空気が引っ張られてて残念だと思う。

2025.12.31 朝ヨガ110分、今年最後のヨガはきつかった。その後、調律師の大豆生田さんが来てスタジオのピアノを調律してもらう。彼とは高校生の時からの付き合いで色んな修羅場を乗り越えてきた。そしてこの水牛の日記を書く。前はXで書いてたけど、バラバラになってわかりにくいなと思っていたのでここに書かせてもらうことになって良かった。今年からどうぞよろしくお願い致します。

カードなんて

篠原恒木

新年なのでカードの話をしようと思う。カード松というくらいだかんね。

世の中にはいろんなカードがある。

まずはキャッシュカードとクレジットカードだ。もはやこの二つは欠かせない。

先日、カネを引き出さなければならなかったので、ATMに並んだ。おれの番がきたので、財布から速やかにカードを取り出し、挿入口にスライドさせた。
ところがカードは虚しく挿入口からすぐ吐き出されてしまった。画面を見ると、
「このカードではお引き取り出来ません」という文字が出て、男女の銀行員らしきイラストが「遺憾でございます」という表情を浮かべていた。
「カードに埃や汚れがついているのかな」
おれはカードの両面をズボンで拭いて、再度スライドさせた。ややあって、またカードはペロンと戻ってきた。画面には「困りましたね」という男女の銀行員が再登場している。困っているのはこっちである。
「先日まで何の問題もなく作動していたのに」
おれはカードの反りを点検して、大丈夫と判断し、向きも慎重に確認のうえ、一回目、二回目よりもはるかにソフトに、優しく、ゆっくりと三回目の挿入を試みた。
結果は同じだった。
背後を見ると「ハヤクシロヨナ」という表情を浮かべたヒトビトが、人一倍モタモタしているおれのほうを凝視している。協調性は欠けるが、公共心に満ち溢れているおれはATMの前を離れた。

表に出て、カードの裏面に記載されている電話番号にかけた。問い合わせ・相談センターのようなところの番号だろう。ところがこれが繋がらない。
「ただいま電話が大変混み合っています。そのままお待ちいただくか、一旦電話を切ってしばらくしてからお掛け直しください。なお、この電話はサーヴィス向上のため録音させていただいております」

全身が論理で出来ているおれは、いや、底意地の悪いおれはふたつのことを思った。
ひとつ。
「このままお待ちいただくか、しばらく経ってからお掛け直しください」と言うが、それ以外の選択肢があるのか。「携帯電話を右に一回、左に二回まわしていただくと、繋がりやすくなります」くらいのシャレを言えよ。
ふたつ。
「サーヴィス向上のためにこの電話は録音させていただきます」。よく言うよ。カスハラ対策だろうが。てめえらの魂胆はお見通しだ。

おれは江戸っ子だ。気が短い。ここは直談判しかない。最寄りの銀行を探して窓口に駆け込むのだ。銀行に歩を進めるあいだ、おれは思った。
「なぜこちらに落ち度がないのに、こちらのほうから落ち度のある奴らのアジトへ行かなければならないのだ。理不尽である」

銀行に着いた。おれは現在の窮状を訴えるべく、窓口に直行しようとしたが、入口に立っていた行員に阻まれた。
「順番にお呼びいたしますので、こちらの番号カードをお取りください」
ボタンを押したらカードはペロンと出てきた。おれは既視感を覚えたが、イライラしていたので、行員に訊いた。
「どのくらいの待ち時間ですか」
「それはなんとも」
全身が論理で出来ているおれは、いや、底意地の悪いおれは言った。
「大まかで結構です。時差があっても構いませんから具体的な時間をおっしゃってください。首都高の渋滞表示でもだいたいの所要時間が出るでしょう」
「はあ、それはなんとも申し上げかねます。いま窓口が対応しているお客様のご相談内容にもよりますので」

結局おれは四十分待った。窓口へ向かい、椅子に座って問題のカードを差し出した。おれの鼻息は荒かった。
「このカードをATMに何回入れても弾かれてしまうのです。問い合わせセンターに電話しても埒が明かないので直接こちらに来ました。いますぐカネを引き出さなければならないのです。いますぐなんとかしてください」
窓口の女性はカードを指差しながら言った。
「お客様、これはクレジットカードですので、ATMではお使いになれません。キャッシュカードを入れていただければ問題ないかと存じます」

カードで思い出した。
大昔のことだが、おれは女性ファッション月刊誌の編集長を勤めていた。その当時のある日に、おれの携帯電話が鳴った。珍しいことに有名人からの電話だった。ここ何年もやり取りをしていないヒトだったので、意外だった。
「シノハラさん? 大変なことになっちゃった」
相手の有名人の声は震えていた。
「久しぶりですね。どうしたの?」
「今週発売の週刊文春に写真と記事が載ってしまうんですよ」
「誰の?」
「私ですよ」
「おやおや」
「あれが載ると大変なことになるんです。助けてください」
「おれがどうやって助けるの?」
「シノハラさんなら、何かカードを持っているでしょう」
「え、つまりその記事を掲載中止にしたいわけですか? で、おれがそのカード、いわゆる切り札を持っていると?」
「なんとかならないですか」
「あのですね、第一におれは文藝春秋社の社長ではありません。第二に週刊文春の編集部に知り合いもいません。そして第三、これがいちばん厄介なのですが、週刊文春はあらゆる手を使っても記事を揉み消してくれることはありません。お役に立てずに申し訳ないのですが、おれは他社のしがないサラリーマンに過ぎないのですよ。買い被り過ぎです。そんなチカラ、おれにはありません」
「何か手はありませんか」
相手は、もはや半ベソをかいている。
「申し訳ありませんが、ないですねぇ」
「冷たいんですね……」

「いやいや、冷たいとか、そういうことじゃなくて……」
おそらく有名人はおれにかける前に、何十人もの知り合い、政界、財界、芸能界に電話をかけまくったのではないか。おれへの電話は七十八人目くらいなのだろうな、とフト思った。
「どうしても載せるわけにはいかないんですよ! あれが世に出て大勢の人に読まれると私は終わりです!」
相手は泣きじゃくり始めた。
「不甲斐ないおれでごめんなさいね。ところで、どんな記事が出るの?」
「読めばわかりますよ!」
絶叫を残して電話は切れた。

そもそもおれがそんなカードを持っているはずがないではないか。
現在のおれはビジネス・カード、つまり名刺すら持っていない。

先日、出席者六百人という大規模のパーティに呼ばれた。なんと着席式だという。もはや肩書きもないおれが出席するのは気が引けたが、義理があったのでヨボヨボと格式高いホテルの大宴会場へと向かった。

大宴会場に入る前には受付を済まさなければいけない。受付の長テーブルは繋ぎ合わせて計十五メートルもあっただろうか。十五メートルのうちのどこへ並べばいいのかクラクラしていると、顔見知りのスタッフのかたがいて、エスコートしていただいた結果、無事に受付に辿り着いた。
「やれやれ」と思いながら、招待状を受付の女性に渡すと、彼女が言った。
「お名刺を二枚、頂戴できませんでしょうか」
困った。来るんじゃなかった。お名刺などというご大層なカードなど、もうおれは持っていない。
全身が論理で出来ているおれは、いや、底意地の悪いおれは、ニコニコしながら大きな声で言った。
「今年の八月に雇用延長の契約も切れて、カイシャを追い出された身ですので、名刺を持っていないんですよ」
受付の女性の顔が曇った。大声で言ったので、ズラリと並んでいる受付の女性たち五、六人にも聞こえただろう。どうやら「名刺がない」などとホザくヒトはハナから招待していないようで、対処マニュアルがないようであった。受付女性たち五、六人が協議を始める気配がした。面倒なことになる、と思ったおれは、またしてもニコニコ顔のまま、大きな声で言った。
「あのお、名刺はありませんがマイナンバーカードはあります。それで勘弁していただけませんか」
受付の女性たちが全員大笑いしてくれた。バカウケである。ウケると嬉しい。カイシャを追い出されてイイこともあるなあ、とおれは思った。
つまりだ、カードなんてクソ喰らえである。

どうです。少しはクスッとしましたか。
笑うカードには福来たる、と言いますからね。

教育の名言(3)

増井淳

わしは本を読まん。人のはなしも聞かん。鵜からいろんなことを聞く。そういう生き方や。人間同士で生活しとると、だんだんだんだん心が縮んでってまう。うつ病とかなぁ。ほかの生き物はそんなことになっとれん。もともとな、学校や宗教があるのは人間だけやからな。ほかの生き物は学校も宗教もねえけどちゃんと健康に生きられる。ちゃんと子孫がつくれる。そういうふうになっとる。 山下純司
(金井真紀『はたらく動物と』から)

これは長良川の鵜匠(山下純司)のことばを金井真紀が聞き書きしたもの。
金井は酒場のママ見習いなどを経て文筆家・イラストレーターとして活躍。その一方、「移民・難民フェス」の実行委員としても活動している。和田靜香(音楽ライター)とともに相撲と生きる人びとを東へ西へと訪ね『世界のおすもうさん』(岩波書店)というユニークな本まで書いた「スー女(相撲女子)」でもある。和田はこの仕事に速攻で乗ってきて、それは「白鵬の立ち合い並みのスピード」だったとか。

  *

毎日、毎日、カヨとカヨが産んだ子どもたちに囲まれて、世話をして、追われるように、次の子どもたち(おそらく二頭だろう)を迎える。楽しいとか嬉しいでは言い表せない。はち切れそうな、パンパンに膨らんだ気持ち。こんな気持ち、これまで味わったことなかったよ、カヨはすごいね? と声をかけると、それがなにか? とばかりに目を細め、うとうとまどろむ。これからどうなるんだろう。不安も尽きない。けれどまどろむカヨの顔を見ていると、どうにかなるさとつき進む力がどんどん湧き上がってくるのだった。 内澤旬子
(内澤旬子『カヨと私』本の雑誌社)

『カヨと私』は動物文学の傑作である。
内澤旬子には『センセイの書斎』(幻戯書房)などの著書もあるが、現在は小豆島で「ヤギのカヨ」たちと一緒に自給自足的な暮らしを営んでいる。ヤギやネコを世話し、自宅などをDIYで修繕しながら、島での生活を楽しんでいる。その様子は『本の雑誌』連載の「弱虫DIY」にくわしい。過去には自宅で豚(!)を飼い、最終的にはその豚を自分で食べるという経験もしている(『飼い食い 三匹の豚とわたし』岩波書店、参照)。

  *

今日においても、いぜんとして人の心は、高度に社会的な動物の心と同じである。人の理性と合理的な道徳感の到達点がどれほど動物たちのそれをこえたにしても、なおそうである。私のイヌが私が彼らを愛する以上に私を愛してくれるという明らかな事実は否定しがたいものであり、つねにある恥ずかしさを私の心にかきたてる。ライオンかトラが私をおびやかすとすれば、アリ、ブリイ、ティトー、スタシ、そしてその他のすべてのイヌは、一瞬のためらいもみせず、私の命を救うために絶望的なたたかいに身を投ずることだろう。よしんばそれが、数秒の間だけのものであっても。ところで、私はそうするだろうか? コンラート・ローレンツ 小原秀雄訳 
(コンラート・ローレンツ 小原秀雄訳『人イヌにあう』至誠堂)

コンラート・ローレンツは動物行動学者。幼いころからするどい観察とゆたかな愛情を持ちながらさまざまな動物と暮らした。その結果、動物行動学という新しい学問の領域を切りひらいた。小原秀雄も動物学者。
イヌと暮らしたヒトならわかるだろうが、イヌが示す親密な態度はヒトが教えたものではない。生まれながらにして彼らにそなわった美徳である。しかも、その親密さはヒトの示す態度をこえるときもある。それはどこから来るものなのか。ヒトはイヌに追いつけるのか。

  *

僕の知っているあるイギリス人の学者が「君の馬車を星につないではいけない」という言葉が英語にはあるんだと教えてくれました。”Don’t hitch your wagon to the stars” といいます。もともとは、問題を安直に「なんとかイズム」ですぱっと切り取って、大上段にかまえて大言壮語する若手の研究者・論客(そういうやつっていますよね)をいさめて言われたことなのですが、人生そのものについても適応できる、含蓄のある素敵な言葉だと僕は思います。 村上春樹
(村上春樹『これだけは、村上さんに言っておこう』朝日新聞社)

『これだけは、村上さんに言っておこう』は、作家の村上春樹が開いていた「村上朝日堂ホームページ」に寄せられた読者との交換メールを新たに編集したもの。
英語には “Hitch your wagon to a star” ということわざがある(エマソンの『社会と孤独』に掲載)。これは「大きな理想を抱け」というような意味で、「青年よ大志をいだけ」とか似たようなことわざもたくさんある。
ところが、村上の引く”Don’t hitch your wagon to the stars” ということばは、浩瀚な『現代英語ことわざ辞典』(戸田豊編、リーベル出版)にも載っていない。
もしかして、”Don’t hitch your wagon to the stars” は村上の創作だろうか。それはともかく「素敵な言葉」であることは間違いない。

水牛的読書日記 2025年に読んだ旅の本ベスト8

アサノタカオ

 「私は旅や探検家が嫌いだ」というのは、レヴィ=ストロースが紀行文学の名著『悲しき熱帯』の冒頭に記した一文だ。近代旅行(ツーリズム)の原動力となる異国趣味が、「文明」の外部を侵略し破壊する植民地主義的な暴力の双子でもあることへの苦い認識。1930年代のフランスから南米ブラジルに渡り、先住民の土地で調査をはじめた人類学者による「ポスト・ツーリズム」宣言の後に、旅をしたり、あるいは旅について読んだり書いたりすることにどういう意味があるのか。『悲しき熱帯』を携えてブラジルを旅行して以来、ずっと気になっていた。今年、大学でトラベル・ライティングをテーマにした授業をすることになったので、あらためて考えてみようか……。年末年始にそんなことを思いながら、2025年に読んだ旅の本ベスト8(日本語で書かれたもの)を刊行月順にリストアップした。

1月 管啓次郎、小島敬太『サーミランドの宮沢賢治』(白水社)
4月 イリナ・グリゴレ『みえないもの』(柏書房)
4月 倉本知明『フォルモサ南方奇譚』(春秋社)
4月 古賀及子『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』(幻冬舎)
5月 森まゆみ『野に遺賢をさがして ニッポンとことこ歩き旅』(亜紀書房)
6月 植本一子『ここは安心安全な場所』
8月 鳥羽和久『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)
11月 伊東順子『わたしもナグネだから 韓国と世界のあいだで生きる人びと』(筑摩書房)

 『サーミランドの宮沢賢治』は、詩人と音楽家による共著の北極圏紀行。ふたりは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思いながら、歌いながら、先住民サーミ人の土地(サーミランド)を歩く。静かな声で語られる旅の記録を読んでいるだけで、行間から北の寒風を感じる。そして吹く風にはっきりとかたどられるのは、限りあるいのちの理(ことわり)だ。「どんな人生にも南があり北がある」と、詩人の管さんは誰かの発言を受け取って書いていた。なるほど、ぼくの人生にも南はあった。では、北は? ケンジとケイジロウとケイタの詩のことばとともに、北へ旅立つ日は来るだろうか。文に隠された「となかい」を探すのも、この本を読むときの狩人的な楽しみだ。

 愛らしい娘たちとの雪国暮らしの情景からはじまるこの本も、どちらかというと北の本だろう。『みえないもの』は、ルーマニア生まれで日本の東北に暮らす人類学者──「水牛」の読者であればみなさんご存知、イリナ・グリゴレさんのエッセイ集。旅することの中に住まうことを実践する日々の中で、著者は野生と人為、光と影、生と死が溶け合うことば以前の薄明を注意深く観察する。野うさぎのようにぴょんぴょん跳ねる飛躍の多い文体が、身体的で感覚的な理解のスピードを精密かつ繊細に伝えていることに驚嘆させられる。表題作「みえないもの」以降の文の流れのすごさ! 人類学と詩の交差する十字路から生み出された、オートエスノグラフィーの最高作の一つではないだろうか。

 『フォルモサ南方奇譚』。こちらは正真正銘、南の本。台湾文学の研究者・翻訳者である倉本知明さんが、移り住んだ南台湾を中古スクーターで駆けめぐり、大陸と島、外来者と先住民の文化が絡み合う地の過去の幻影を探る。歴史の中で周縁に追いやられた叛逆者たちの物語を、かれらの魂をいまによみがえらせるシャーマン的語り部のように再話する著者の文章がとりわけ熱い。南米のマジックリアリズム文学を代表する作家、ガルシア=マルケスのジャーナリスト時代の筆致を彷彿させる……。と思っていたら、1908年にブラジルへ最初の日本人移民を運んだ後、台湾と日本を結ぶ定期船となった「笠戸丸」の話が出てきた。忘れられた人類学者の話だった。

 エッセイストである古賀及子さんの『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』は、住んだり訪ねたりした土地と記憶を主題にした随筆集。巣鴨、下関、池袋、諏訪、高知、恐山……。海外留学体験を語る一編「ワシントン州タコマから四百キロ、迫る山なみをどうか毎秒見逃さないで」は、まるでジム・ジャームッシュの映画のようなロード・エッセイだ。きまじめだけどひとクセある登場人物たちが延々と無駄話をしているだけのシーンなのに泣けるほどかっこいい、あの感じ。

 『野に遺賢をさがして』というタイトルがすばらしい。「野(や)に遺賢(いけん)なし」という中国の故事に由来する言葉があり、賢者は中央に出て地方に残らないことを意味するそう。聞き書きの名手でもある作家の森まゆみさんは、それを「どっこい野に遺賢あり」と読み替え、北海道から九州まで過去と現在の賢者を尋ねる旅に出る。人に会い、話を聞き、ごはんを食べ、野にあそぶ著者の歩きっぷりが実にたのもしい。宮崎の森への旅をめぐる2編のエッセイがとくによかった。土地土地の知られざる遺賢の歴史は、その知恵の灯を守り続ける無私の人々の思いがあってこそいまに伝えられるのだと、この本は教えてくれる。

 写真家であり、『かなわない』など日記文学の話題書を世に送り出してきた植本一子さん。『ここは安心安全な場所』は、東北・遠野の山の中、馬と人が暮らす土地への旅をめぐるエッセイ集で、透き通った文章と写真に心が洗われた。馬のかたわらに畏れをもって佇み、地上にひとつの場所を見つけた著者。その真摯なことばをひとつひとつかみしめ、感無量の思いで本の最後のページを閉じる。野の景色の中でひとりの人間が変わりながら生きていくという事実に、ひたすら胸打たれた。

 紀行文学の好著『光る夏』の著者である鳥羽和久さんが「小さい頃から地理が好きだった」と書いている文を読んで、飛び上がるほどうれしかった。ぼくもまったく同じだから。今日も、編集の仕事で韓国南部の地名を調べて地図を眺めているうちに半島のリアス式海岸の複雑さに目を奪われ、いつか全羅南道の浦々を実際に歩いてこの地形をからだに刻みたいと夢想していたほどだ。インドネシアのジャワ島からはじまり、バリ、キューバ、スリランカ、世界各地の小さな場所を訪ねる旅のエッセイが連なる。最後に置かれた台湾への旅とあるおばあさんとの出会いをめぐる一編を読み終えた時、読者はタイトルに隠された大きな贈り物を受け取るだろう。

 伊東順子さん『わたしもナグネだから』は、吹きさらしの荒野のような世界史の最前線で人生の道を切り開き、歩き続けた韓国に縁のあるナグネ=旅人をめぐる聞き書き集。著者が出会った元NATOの軍医ドクター・チェらの流浪の物語には驚くしかないが、この本を読んで強く印象に残ったのは、旅する主人公を支えるかたわらの人たちの存在だった。そしてそうした人たちの声をも聞こうとする著者の姿勢だった(それは森まゆみさんの仕事にも通じる)。旅をひとりの英雄の物語ではなく、人々の物語として描こうとうするところに、本書の豊かな厚みがあると思う。韓国のチャイナタウンをめぐる章では、知らなかった多くのことを学んだ。植民地主義以降の歴史の、めまいがするほどの複雑さを。その渦中にある人間が負わなければならなかった痛みを、そして痛みとともになお生き続ける人間のたくましさを。

012 蕪村朔太郎記念館

藤井貞和

そんな記念館はありません。  そんな
詩のなかの記念館です。 霧のなかから
蕪村がぼんやりと、     すがたを
正面にあらわしましたよ。 というのは
書き物のなかでのはなし、  淀川の岸
毛馬村の水門に佇つと、 郷愁の里です

記念館にはいってみよう。 あぶないな
にんげんの声をした、 階段をあがると
にんぎょうの広間で、ぼくらは落下する
そんな男の子が、   「泣いてはだめ
男の子でしょ」と、一昔まえでしたから
泣き止みました。      誹諧の里
いまでは考えられない、 男の子の習性

ひと昔まえの女の子は、   とつぜん
走り出した。       にんげんの
記念館です。        正面から
けむりの岸があらわれ、  詩はすぐに
大波に飲まれて、     書けません
洗う貝がら、   くろかみのフナムシ
歌書のなかの女主人公です。 「うちら
たからづかを受けるんや」と、気焔です

大阪に来ました。      来ません
詩は来ましたか、       大阪に
来ません。    というのはうそです
書き物のなかで、  そうです来ました
書けなくなったあわれな詩人、  洗う
岸辺の道頓堀で、  いない詩人なのに
どうやって探るの?     それはね
うそを吐くこと。  そうそれなんです

大大阪(おおおおさか)を、 ながなが
ウロボロス、       伸びる鎌首
朔太郎が、    正面から出てくるよ            
河内の里の、         城東線
北上する霧、          春風
の行き逢う所、      馬堤ですね
ノスタルヂアと名づけました。 郷愁の
詩人がふたり、     記念館に眠る

(明治四十三年三月まで、本籍が河内の国でした。)

後ろ歩き

イリナ・グリゴレ

白いスカートを穿いて化粧をせずにホテルから駅までタクシーで行った。顔がスカートと同じ、白かった。酸素が足りないと思った。まるで昨日と今朝、起きてから違う惑星に移動したようだった。どこの惑星にいても異物になるのかと思いながら、破れたストキングを脱いで、もらった靴下をブーツに入れて、スカートで隠した。寒い、血の気がさらに引いて目立つ。白い、透明のような身体を混んでいる駅で動かして、ロボットの捜査をしているかのようにチケットの時間を変えた。先ほど起きたことを忘れる。ときめきながら。

昨日の夜は地球にアステロイドがぶつかったかのような光を見たあと、悲劇が起きた。もし、私がこのような映画の監督だったらここまで暴力的にするのかと一瞬考えた。しない。私ならもっと詩的に描く。でも駅でもう一度二人を合わせる。まさか、その通りになった。写真を撮っている、近づいている、一番刺激的なのはお土産の袋を持っていること、なんともなかったかのように。サイコパス、シリアルキラーなど、昔のアメリカのドラマではこんな感じだった。なんともなかったように何かをする。なにも感じないでしょうか。お土産の袋を持って日常に戻るだけ。冷静に向き合う。自分から近づく。まさか、さきほど殺しかけた生き物に面と向き合う勇気がどこからくる? 中世に殺された魔女と思われた女性たちもそういう目を見たでしょう。目が死んでなかったから矛盾が深まった。あの目が息を変えた幽霊でも見ているのか? 後ろ歩きしたい、最初から戻る、テープのように、後ろ歩きし、会えなかったことにしよう。

私の電車が先に来た。冷静に、顔を合わせずに乗った。手が震えながら信頼している人に連絡をし、すぐ返事がきた。それともただ、血まみれの身体をサメにみせかけた? こういうときに女性の司祭がいればいいのにといつも思う。電車の中でやっと涙が出た。隣に座っているサラリーマンが困った顔で雑誌を読んだ。でも目で励ましてくれた。気のせいなのか? こんな時、だれでもいいから励ましてくれる人がいれば救いに感じる。

壊れない。まただれか私を怖がらせようとしたけど壊れない。子どもの頃、放射能を大量に浴びたからか、違う生き物になった。牛とキノコと虫、犬と木、草、そして特にその年の菊と溶け合って強くなった。残念ながら私の首を……。言葉を言うまでもない。こだまが強いから。こんな時、言葉で返す。つまり、この身体から毒を抜く。キノコと山菜から毒の扱い方の知識を学んだ。では、人間はどうやって毒を抜く? まず、言葉を身体から出す。電話でもいい。声と電波で出せる。電車が止まった瞬間、電話をした。駅のすみっこに床に座って震えながら話した。向こうの声がいい声だった。鎮魂の術。麻酔なしの手術と似ている。一人でできない、必ずシャーマンのような人の助けが必要。

それから、どのぐらい経つ? パズルのようにすべてがつながった。同じことの繰り返し、同じような人、悪魔から暴力をうけた。夢では弟たちと出会って、自分の一度殺しかけたところへ戻ってももっと強くなるばかり。そして大事なコツを見つけた。それは後ろ歩きだった。むかし、ジプシーの友達が教えてくれた。黒猫や悪魔と出会った時に後ろ歩きをして唾を飛ばして、自分の家に誘ってないと伝える。舌で十字をする。これは魔法だった。人生の。

後ろ歩きは思ったより悪くない。空気が澄んで息しやすい。後ろ歩きをすると安心する。戦争も人を傷つけることもできない。武器と爆弾が後に落ちる。そしたら自分のところに落ちる。

最近、自分がなぜ自分の村に戻れないのかとよく考える。きっと、そこに答えがある。後ろ歩きができたらすぐ戻れるのに。2年前、母と娘と3人で電車に乗ってブカレストへ向かった。村の駅に降りなかった。電車の窓から森、湖、修道院を見てそのまま電車で過ぎた。そしてブカレストに降りたら駅に向かえに来るはずの弟がいなかったし、私たち以外誰も降りなかった。世界の終わりのような、砂漠にいるような感覚。無人駅の建物の横に200キロ以上の太っている男性がいた。砂漠の神様のような顔をして、お前らなんでここにいると言う顔で私の白いスカートのほうを見て、警備員のラジオステーションで宇宙人とコミュニケーションを取っているような様子だった。でも私たちに悪いことをしなかった。

彼の足についていたジャコウアザミを丁寧にとって、ハーブティーを作りたかったけどお茶のための火を起こさず、しばらくお話しした。「お母さん、村に帰ろう」と娘は誰もいない無人駅の建物で日本語で歌い始めた時に言った。後ろ歩きで電車のレールの上を歩いて村へ帰ろう。祖母が待っているから。

しもた屋之噺(288)

杉山洋一

冬らしい夕日は、まるで辺り一面を覆う摺りガラスを通して眺める焔のようです。
ちょうど摺りガラスが不安定なレンズの効果を生むのでしょう、遠景は心なしかめらめら蜃気楼のように揺らいでいて、寒さにかじかんでいます。その先には仄かに青味と赤味を含んだ濃い乳白色の厚い夜の帳が空いっぱいに広がっていて、この頭上をすべてすっぽり闇で覆って、すべてを飲み込んでしまうまで、もう間もなくです。

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12月某日 ミラノ自宅
3週間ぶりにミラノに戻ると、息子が随分色々な曲を練習している。ショパン「バラード4番」やらシューマン「ノヴェレッテン」、ハイドン「変イ長調ソナタ」、「クープランの墓」、ベートーヴェン「狩」、シャリーノ「アナモルフォジ」と一緒に、ドビュッシーの「白と黒」、「ヴァイオリンソナタ」まで稽古している。
それは良いのだが、昼食を食べに上がってくる度に古い日本のアニメが見たいと言い張り、勝手に「ハイジ」をつけるので困惑する。二十歳にもなる息子と二人、黙々と「ハイジ」を眺めて食事を摂るのは流石に苦痛で、3話ほどで罷めてもらった。息子曰く、「赤毛のアン」も「母をたずねて」も「ハイジ」も、当時の日本のアニメはどれも「理不尽」だと云う。「理不尽」の意味を正しく理解しているのか知らないが、子供の目線になれば「理不尽」というのもわかる。我々が客観的に俯瞰して「不条理」と一言で片づけてしまうところも、当事者にしてみれば、そんな達観した表現ではやりきれない。息子には当時のアニメ番組は展開が際立って遅く、台詞より「ウフフ」という含み笑いや哄笑に時間が割かれることに不平を洩らしていたが、なるほどタイム・マネージメント世代には辛かろう。
冬になり庭の樹がすっかり落葉して気が付くと、高みに二つばかり、誰が造ったのかずいぶん立派な鳥の巣が設えてあって、傍らには盃型をした慎み深い小さな蜂の巣らしきものも見受けられた。
もう何年も前から庭に棲みついているリスの家族は、相変わらず樹の洞と、その奥の太い雑木の折れた先端あたりをねぐらにして暮らしている。先日までは、母リスは母乳をねだる赤ん坊を腹に抱えたまま餌を催促に来ていたが、最近は子リスたちも成長し、餌は未だかいと率先してこちらの様子を伺いにやってくる。解せないのは父リスで、相変わらず所在が判然としない。繁殖期だけ母リスを訪問する塩梅だから、どことなく人間臭い。あまり詮索するのも野暮なので特に観察はしていない。

12月某日 ミラノ自宅
朝ポルタ・ジェノヴァ駅まで散歩をする。昨晩の23時42分発モルターラ行最終電車を最後に、155年の歴史をもつこの駅は旅客営業を廃止した。何でも昨日は、最終日を記念して蒸気機関車と古参の厳めしい電気機関車が牽引する特別列車が、ミラノ中央駅からポルタ・ジェノヴァ、モルターラまで運行されたそうで、家にいれば珍しい光景が見られたはずだが、昨日は朝から日がな一日学校だったし、最終日だけ人で溢れかえる様子を冷やかしに行くのも気が引けて、駅には足を向けなかった。
早朝訪れた駅の待合室には、ホームレスとおぼしきアフリカ系の若者ら三人が所在なさげに佇んでいた。ぼんやり携帯電話に目を落とすもの、軽く眠り込んでいるもの、それぞれ大きな荷物を傍らのベンチに置いていて、彼らは特に言葉を交わす様子もない。もう列車が着かないと理解しているのかも怪しげな奇妙な時間とともに、彼らの周り数メートル四方だけ切り取られて、昨日までと変わらない空気が流れているようだ。
ホームでは清掃員の男が一人で箒がけをしていて、昨日の記念式典の後片付けをしていたのだろう。こちらの姿を見つけると「電車はないよ、ホームに入らないで」と大声をあげた。信号機は未だ点灯したままで、「黄色線まで下がって列車をお待ちください」と、自動アナウンスまで定期的に流れていた。踏切で記念の線路の写真を撮る中年男性に気が付き、通りがかりの中年女性たちが「昨日が最後の列車だったのよね」と少し寂しそうに話していた。

ノヴァラで開かれている「l’italia dei primi italiani」の展覧会にでかけて、息子はアンジェロ・モルべッリが特に気に入ったそうだ。希求してやまなかった国家統一が漸く実現し、晴れてイタリア国民となったばかりの画家の描く、建国されたばかりの眩いイタリアの姿。
息子は、訪れた記念にヴェニスの風景画で知られるグリエルモ・チャルディ(1842-1917)の「潟湖(せきこ・ラグーナ)1882」の端書を買ってきた。コバルト色の海面に小さな帆掛け船一艘が浮かび、パイプをくわえた漁夫のあたりから、船上で魚でも焼いているのか、うっすら白く細い煙が伸びている。その白煙の先端は、ヴェニスらしいうつくしい曇り空に溶けていて、「潟湖」と湖に譬えらる姿そのままに、すっかり凪いだ水面には棚引く白雲が映りこんでいる。ヴェネチア生まれのチャルディが描く色斑点画(マッキアイオーリ)は、柔和なヴェネト訛りの伊語のような優しい響きに満ちていて、ジョルジョーネやティツィアーノから受け継いだ光の表現や、薫り高く立ち昇る輪郭をなぞってゆく。それはマリピエロのオーケストラ曲のようでもあるし、ヴィヴァルディやガブリエリのようなヴェネチア楽派の光と影を思い起こさせるだけでなく、マデルナのように、各素材の個性を際立たせながら、空間で素材を自在に遊ばせているようにもみえる。
ポルタ・ジェノヴァ駅は1870年開業だから、ちょうど「色斑点派」が隆盛を誇っていた頃にあたる。当時はここから今はなきセンピオーネ操車場、ファリーニ操車場を抜けて、その頃は共和国広場に建てられていた旧ミラノ中央駅まで鉄路が繋がっていたそうだ。息子が小学校を終えるころ、ポルタ・ジェノヴァ駅から自転車を2台列車に載せては、アレッサンドリアやアッビアーテグラッソ、ヴィジェーヴァノまでしばしば足を延ばして日帰り旅行を愉しんだことを思い出す。病後間もない息子の体力回復に必死になっていたのも懐かしい。

12月某日 ミラノ自宅
山本君からメールをとどいて、中村和枝さんが「Vuelo」を再演してくださるという。折角の機会だからと長年胸に閊えていた懸案を解決すべく楽譜を引っぱりだしてみたが、政治犯として獄死する直前、未だ見ぬ息子への思いを綴るエルナンデスの名詩に曲をつけたこと以外、どのようにして書いたのか、さっぱり解らなかった。尤も、喉に刺さっていた小骨の原因は、漫然とした繰り返しだったから、取り除いてさっぱりした。当時、息子が生まれてまだ2歳くらいだったから、幼稚園にも通っていなかっただろうし、息子を抱きかかえたりして作曲していたに違いない。喜びと不安がない交ぜになった瑞々しさ、初々しさと言い換えてもよいかもしれないが、少し羨ましくもある。この頃の息子と言えば、家人の弾く「展覧会の絵」に合わせて踊ってみたり、広場の階段を鍵盤にみたてて、颯爽とピアノの弾き真似をしてみたり、よく笑う子供だった。

12月某日 ミラノ自宅
ピアノのヤコポが、ガールフレンド手作りのクッキーを持参。「クリスマスだからね」。ジェノヴァからやってきたマッシモは、お歳暮にとシエナの伝統菓子パンフォルテをプレゼントしてくれた。パンフォルテは、一般的に日本人の口には合わない気がするのだが、きんつばを10倍くらい凝固させたものに、シナモンをはじめ香料とナッツ類をふんだんに練り込んだ、かなり癖が強く風味の濃い菓子で、92年、シエナで初めてドナトーニの教室を訪れた際に勧められた。「これを食べたらレッスンしてあげる」と、言われるがまま口に運んだものの、全く美味しいとは思えず困惑していると、クラス中の皆がどっと笑った。
指揮レッスンにやってきたイスラエル人のアリスから「日本でもクリスマスは祝うのですか、日本人の宗教って何ですか」と尋ねられた。「ユダヤ教は今はハヌカの最中で、サンバビラ広場のお祭りに参加してきたばかりなのですが、先日オーストラリアのボンダイビーチでテロ事件があったばかりで怖くて…」。無関係の第三者からすれば、何故わざわざサンバビラ広場なんてミラノの真ん中の人目のつく場所でハヌカを祝うのか理解が出来ないのだけれど、彼らからすれば、主張することそのものがアイデンティティに繋がっているのもわかる。「本当にあんなテロがあると怖くて」と繰返しているので、おずおずと「でもイスラム教の男性が勇敢にも犯人の銃を取上げたよね」と話しかけたが、聞こえなかったのか、聞こえないふりをしていたのか、相変わらず紅潮した顔で「世界中で反シオニズムが広がっている」と話し続けた。居合わせた他の学生たちも、どう反応したものか言葉に窮しているようであった。特にピアノのグレディスがどうも居心地悪そうにしていたから、後でそっと言葉をかけると、アルバニア人の彼女の父親はイスラム教徒で、母親はギリシャ正教徒だという。「尤も、どちらも教会やモスクには通っていないけれど」。
持参したみかんを休憩中に彼女たちと一緒に食べているとグレディスが、「子供の頃、お母さんがみかんの真ん中の白い果心を残して、きれいに皮を剥いてくれてね」と話しはじめた。「果心にオリーブ油を垂らして灯をつけてね、蠟燭にしてくれるの」と懐かしそうに話した。
半ば強引ながら、今日のレッスンで息子は1911年版のペトルーシュカを最初から最後まで通した。もう2回くらい通せば、見通しも良くなるだろう。そんなこと考えながら、のんびり自転車を漕いで自宅に帰宅中、バンデネーレを過ぎたあたりで、突然右の路地から勢いよく車が飛び出してきた。
必死にそれを避けたと思いきや、今度は2、3メートル先で年配の女性が横断歩道を渡っていて、観念して必死にブレーキをかけ倒れたところ、息子の顔が頭を過った後、ふわっと身体が浮いた気がした。
酷い転び方だったからしたたか躰を打った筈なのだが、膝を軽く打撲し左手も軽く痛んだものの掠り傷すらなく、気味が悪いほど無傷で、横断歩道の女性にぶつかることすらなかった。件の乗用車から若い男が駆け出してきて「すみませんでした、大丈夫ですか」と声をかけられたが、息子が家で待っていることばかりが気になり、とにかく家に辿り着きたい一心で「大丈夫です」と答えて自転車に跨った。そこで漸く、背後で車が渋滞していることに気が付き、ここが往来の激しい通りだったと思い出す。本当に何も起きなかったのは俄かには信じられない。あの、「ふわっと誰かに支えられるような不思議な感覚」は、子供の頃、交通事故に遭った際に一度、高校の頃、新島で溺れかかった時に一度体験している。根が楽天的で、良い厄落としが出来たと内心喜んですらいるのは、流石に不謹慎か。

12月某日 ミラノ自宅
「兎に角、何事も無く無事にこの歳を迎えられた事に私は感謝しかありません。貴方がこの歳になる迄、私が生きて来た事も信じ難いほどなのですから。せめて今日はおいしいものをたべてください」と母よりメールが届く。夕刻、中央駅前の事務所で久しぶりにCと話し込む。27年はドナトーニ生誕100年でしょう、と切出すと、「もちろん大切なのはわかるけどね」、「もっと大切なのは今生きている作曲家の作品でしょう」と言われる。確かに実際はその通りなのかもしれないけれど、「どちらも同じように心を砕いてゆくべきではないのか」と自らの裡の誰かが呟く。「そうでなければ、文化は途切れ途切れにしか伝えてゆくことができなくなってしまう」。
息子は今朝早くフィエーゾレまでルッケジーニのレッスンを受けに出かけ、帰りにフィレンツェでFusaro Antonioの羊毛の帽子を購い、「お誕生日おめでとう」とプレゼントしてくれた。円安は進行し、現在1ユーロ184円69銭をつけている。

12月某日 ミラノ自宅
今日は学校の授業のあと、カラブリア出身のガブリエレが、実家で採れたオリーブ油を二瓶携えて挨拶にやってきた。1年ぶりに会うガブリエレは血色も良く、表情も柔和になっていて嬉しい。パートナーのアレッシオも紹介してくれたが、とても温和で好感のもてる男性であった。彼と出会ってガブリエレの生活も落着いたのかもしれない。以前、付き合っていたパートナーは服飾関係で、モデルとしてそのままファッションショーに出てもおかしくない身なりと雰囲気であったが、当時ガブリエレの精神状態が良さそうに見えなかったので、気にかかっていた。早速夕食で、頂いたばかりのオリーブ油をたっぷり使って、オリーブ油の香りを消さないように気を付けながら、ほんの少しのニンニクとアンチョビー、トマトを合わせて軽いパスタを作ると、涙がこぼれそうになるほどの美味しさであった。
昨日は米軍がナイジェリアの「イスラム国」に向け、熾烈なミサイル攻撃を実施。本日は、目の前に迫ったゼレンスキー・トランプ会談に向け、ロシア軍がキーウに大規模攻撃を実施。首都キーウの3分の1が停電中との報道もある。そんな中、イタリアの新聞もフランスのラジオも来年度の日本政府、軍事防衛費の増額について報じている。総額9兆353億円で過去最高金額。前年度予算比で3,8%増。
日本政府、核軍縮担当幹部が「実は我が国も核武装すべきだと思っている」とした発言に対し、中国など周辺各国が強く反発している。果たして、核不拡散運動は単なる白日夢だったのだろうか。ヨーロッパでも、軍の再編成、徴兵制復活の兆しがあって、ドイツでは既に若者らが反発を強めているとも聞く。「こんな時世にあって、もし戦争に巻き込まれたら、お前はどうしたいか」と息子に尋ねたところ、「周りの皆が戦死して自分だけ生き残っていたとしたら、自分一人で生きていても仕方がないから、自分も戦争に行くよ」と言われて、衝撃すら覚える。
無論、彼は戦争の実感など皆無で、実際にその状況に身を置けば違う言葉を発するに違いないと信じてはいるが、親としては、どんな状況に置かれていても、彼には生きていてほしい。非国民で無責任な親と罵られようが、何とか人を殺めずに逃げ切ってほしいと切実に願っている。カルヴィーノが「アメリカの講義」で語っていた「軽さをもって逃れよ」。石像にさせられてしまうから、メドゥーサの顔に直接顔を向けてはいけない。盾に映ったメドゥーサの顔を垣間見るだけで充分なのだ。
アナさんが自宅から持ってきたシンビジウムが、ふっくらと見事なつぼみをたくさん蓄えていて、今朝あたりから、少しずつ綻んできて、絢爛である。蕾のところに蜜がふきだしていて、子供の頃、母がピアノの上に置いて育てていたシンビジウムの蜜をしばしば舐めては喜んでいたのを思い出す。

12月某日 ミラノ自宅
書いている音符に名前を書き入れると、突如として現実感に襲われ、なんだか恐ろしくなることがある。先月フェデーレのレッスンを通訳しながら、フェデーレが「和音や音そのものには意味はないでしょう。しかしそれらを記憶を通して組合せ、巧妙に文法を構築してゆけば、意味すら充分に表現できます」と話すのを聞き、「自分とイタリア人の音楽の根本的な差異はこれだ」と思う。イタリアで暮らし始めた当初、彼らに共通する音楽言語、音楽体系が理解できずに苦しんだのをよく覚えている。フェデーレがこのように話すのは尤もだが、自分にとっては、「某かの手続きを通して導き出された和音や音」の裡には、一種のアミニズムとして何かがすっと宿ってしまう気がしてならない。これがとても日本的な発想なのはよく承知しているし、イタリア人にいくら説明しても、恐らく正格には共有できない感覚であろうし、自分のアイデンティティ、存在の根幹に関わる部分であることも認識している。その上で、結局、違う感覚を持ったイタリア人のなかで暮らすことを選んだ…。
ところで、隣の部屋から聞こえてくるシャリーノに対して、燃え盛るオレンジ色をした巨大な夕焼けを見つめるような、鮮烈な郷愁を抑えられない。シャリーノの音楽の本質はハーモニクスでも特殊奏法でもなく、彼の独特な音楽への強烈な触感が我々の裡に駆り立てる何かではないのか。
ベネズエラ沿岸船舶係留施設を米軍急襲。ロシア大統領私邸をウクライナ攻撃との報道。真偽のほどはわからない。

(12月31日 ミラノにて)

山田太一の本棚

若松恵子

歯医者の待合室にあった雑誌『BRTUS(ブルータス)』の最新号は「あの人の本棚と本に出会う」という特集だった。

最初に紹介されていたのが、思いがけずに山田太一の本棚だった。自宅の地下にある、彼曰く「人生で1回だけ贅沢をした」ハンドル式で移動できる11列22面のステンレス製本棚。本はジャンル別に日本文学、外国文学、哲学、随筆、ノンフィクション、歴史と整理されていて、まるで図書館のようだ。

2023年11月に山田氏が亡くなった後、家族は蔵書を古書店に頼んで処分することを考えたという。しかし次女の佐江子さんが、処分の直前になって翻意した。「書庫に積まれた本を見たら悲しくなったんです。やっぱり父がいちばん愛したものだし、最後まで別れられなかった本たちなんです。その記録を残さないと手放すことはできないなって」と。また、彼女は山田氏の思い出をこうも語っている。「父は近所を散歩するのが日課でした。朝は早起きして犬と一緒に。その後午前9時から執筆を始め、一段落すると、隣駅まで散歩。ニコニコしながら坂を上がって帰ってくる姿を見ると、今日も買ってきたなって(笑)。出かけると必ず本を買って帰るんです。本が唯一の贅沢でしたから」。

きちんとジャンル別に本を整理して大切に取っておいた山田太一。どんな本を友人として手元に置いたのか、その記録を残しておきたいと思った次女。2人に対して、心から共感するな、と思った。

2025年は以前にもまして本を買った年だった。それは、みつけたら買って手元に置いておかなければ無くなっていってしまうと切実に感じたからかもしれない。『美しいひと 佐多稲子の昭和』佐久間文子著(2024年/芸術新聞社)を読んで、佐多稲子の著作を読みたいと探しても、以前あんなに見かけた新潮文庫の彼女の本が見つからない。『氷室冴子とその時代』嵯峨景子著(2023年/河出書房新社)を読んで、氷室の作品を探しても、あんなにあったコバルト文庫の彼女の作品が見つからないのだ。若い頃、街でよく見かけたのに。大量生産されたものだから、売れなくなってしまえば、ためらいもなく廃棄処分されてしまうのかもしれない。夏目漱石も森鷗外も文庫で探すのが難しくなってしまう時代がすぐそこまで迫っているように感じる。

みごとに生きた人の姿が本という形になって残っている。佐多稲子の評伝の隣に、佐多の著作を並べておきたい。氷室冴子がどんなにすばらしい作家だったのかを語る嵯峨の労作の隣に氷室の著作を並べておきたい。自分の本棚を持つという事はそういう事で、図書館で借りれば済むという問題ではない。自分だけのライブラリーは、自分が出会ってきた、自分を形成してきたものの軌跡だ。並べ替えたり、足したり、引いたり、積んでおいたりしながら自分を励ましているのだとも言える。今年、本についてそんなことを感じていたからこそ、山田太一の本棚により心を動かされたのかもしれない。

ブルータスに、横浜の放送ライブラリーで開催中の「山田太一・上映展示会~名もなき魂たちを見つめて~」(2025年12月12日~2026年2月11日)のお知らせが載っていたので、年末の気持ち良い快晴の日にでかけた。1960年代から2016年の最終作まで、山田が脚本を書いたテレビドラマの全作品が年表になっている。1977年「岸辺のアルバム」、1979年「沿線地図」、1980年「獅子の時代」、1981年「想い出づくり」、1983年「早春スケッチブック」「ふぞろいの林檎たち」。私が大人になっていく時代に伴走してくれたドラマたち。幼心に残っていたNHKの朝ドラ「藍より青く」も山田太一の脚本だったと知る。

この企画には、本棚を残そうと思った次女の長谷川佐江子さんと、テレビマンユニオンのプロデューサー会津直枝さんのユニット「山田太一のバトンを繋ぐ会」も協力している。書斎の写真、愛用品の展示のコーナーに、雑誌からの依頼を受けて山田太一が選んだ本のリストの直筆原稿があった。彼にとって、ある時代の回答だったかもしれないが、おすそ分けに記しておく。このリストを持って、また新しい旅が始まる。

【山田太一氏セレクト 青年期20】
1. 福田恆存「作家論」
2. 大岡昇平「不慮記」
3. 三島由紀夫「仮面の告白」
4. アンドレ・ジイド「日記」
5. ジャン・コクトー「阿片」
6. トーマス・マン「魔の山」
7. ノーマン・メイラー「裸者と死者」
8. ヘンリー・ミラー「南回帰線」
9. ジョン・アップダイク「走れウサギ」
10. ジョン・ファウルズ「コレクター」
11. ヘミングウエイ短編集
12. テネシー・ウイリアムズ「欲望という名の電車」
13. J・P・サルトル「自由への道」
14. アルベール・カミュ「手帖」
15. 小林秀雄全集 創元社版
16. 中村光夫「戦争まで」
17. 中原中也全集 創元社版
18. 深沢七郎「笛吹川」
19. 大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
20. 江藤淳「奴隷の思想を排す」

【山田太一セレクト 中年期20】
1. 谷崎潤一郎「細雪」
2. 永井荷風「断腸亭日常」
3. 泉鏡花「天守物語」
4. 徳田秋声「縮図」
5. 川端康成「山の音」
6. シェークスピア「マクベス」
7. チェホフ「手帖」
8. ニーチェ「偶像の黄昏」
9. ナボコフ「ロリータ」
10. カフカ「変身」
11. 吉本隆明「擬制の終焉」
12. 磯田光一「殉教の美学」
13. 小島信夫「文学論集」
14. 柄谷行人「意味という病」
15. 山崎正和「鴎外闘う家長」
16. 西尾幹二「ヨーロッパ像の転換」
17. 河合隼雄「宗教と科学の接点」
18. 金子光晴「マレー蘭印紀行」
19. アーウィン・ショー短編集
20. レイモンド・カーヴァー短編集

うたと家族と、るう(1)

植松眞人

  一・弦の切れたギターを弾いて

 いつものように小さなライブ会場を出る。終電に間に合わせようと小走りのスーツ姿の会社員や、帰るのを諦めて次の一軒を探している中年のカップルや、すでに酔い潰れてうずくまっている大学生が、会場の扉を囲むようにうつろな目をしている。彼らの間に、こちらをじっと見ている四、五人の若い女たちがいて、優作を見つけると半歩近寄ってくる。二人はいつもライブに来てくれる顔馴染みで、あとの三人は見たことがあるようなないような曖昧な顔だった。
 背負ったギターが扉に当たらないように用心しながら表に出ると、小走りの若い会社員がギターに軽くぶつかってきた。反射的に会社員の肩を掴んでしまったが、相手の「すみません」という声に、いえ、と小さく返して肩を掴んだことが何かの間違いであるかのように振る舞う。ギターケースのベルトを滑らせて胸の前で抱えるように体勢を立て直す。
「次のライブは夏までやらないの?」
 顔馴染みの女が、今晩これから一緒に飲みに行けるかどうかを確かめようと話しかけてくる。
「うん。そのつもり。いつもありがとう」
 優しい声で返事をしながら柔らかく拒絶する。自分のどこからこんな優しい声が出てくるんだろう、と優作は思う。小さなステージで歌っているときにも、時々思うのだが、こんな優しい声はオレの声じゃない。オレは優しい猫なで声を出して歌いながら、いつもギターの弦を切ってしまう。たまにキーボードでサポートしにきてくれる美代は、なんで切るの、と不思議そうに言う。
「ねえ、なんでギターの弦をいつも切っちゃうの」
 そう言われても切ろうと思って切っているわけじゃない。
「弾き方が悪いんじゃないかなあ」
 自分でも思ってもみなかったことを口にしてしまい驚いていると、美代が身体を折るように笑い出した。
「高校生の頃からギター弾いてるんでしょ。十年以上弾いてて弾き方が悪いってなに?」
 そう言いながら笑う美代を見て、優作は妙に納得してしまい、バンドなんて辞めてしまおうと思ったのだった。十年以上ギターを弾いてきて、まだギターの弾き方が悪いならそれは辞める理由になる。ギターを弾き始めた頃は、弦を切ってしまう自分を少し格好いいと思っていた。そして、そんなことを考えている自分を恥ずかしく思いながら歌っているから、知らず知らず猫なで声になるのだと本気で考えることさえあった。
 美代に改めて笑われると、ギターの弾き方だけじゃなく、これまでにやってきたことが全部間違っているような気がしてくるのだった。
 勇作は美代の細く白い指が好きだった。
「なあ、二人でバンド、辞めようよ」
 そう言うと、美代はしばらく考え込んだ。左手で右手を包むようにしながら首をかしげる美代の白くて長い指を優作はじっと見ている。まるで美代ではなく彼女の指が、優作に聞かれたことを考えているみたいだ。白い指が艶かしく動いている。
 美代が考え込んでいる間、優作は二人でバンドを辞めようという表現が間違っていたことを気にしていた。美代はあくまでバンドのサポートで、正式なメンバーではなかったからだ。正式メンバーは男ばかり三人。優作はギターとボーカル。あとはドラムとベースだけのシンプルなスリーピースバンドだった。優作が父親のCDラックから見つけたU2のアルバム『ヨシュア・ツリー』に聞き入ってしまい、エッジのようにギターを弾きたいと思ったのがギターを始めたきっかけだった。
 優作の父は、優作が高校に上がるのとほぼ同時に家を出てしまい、交通量の多い国道を隔てた隣の町で別の女と暮らしていた。そんな父が置いていったギターを優作が手に取った日から母親は優作とあまり口をきかなくなった。その当時、もう四十を過ぎていた母だが、優作と二人で歩いているとよく「お姉さんですか」と声をかけられるほど若く見られた。母は大げさに否定し、その日は一日機嫌が良かった。
 しかし、優作が父親のギターを手にした日から、母は優作と出歩かなくなり、優作も母と過ごす時間よりも父が使っていた部屋で過ごす時間のほうが長くなった。父の部屋で優作は、書棚に並んだ本を手にしたり、レコードプレイヤーにセットしてあった『ヨシュア・ツリー』を繰り返し聞いていた。
 父のギターを手に取る時間が増えるほど、顔もほとんど忘れかけていた父が優作の暮らしの中に入り込んだ。そして、父が入り込んできた分だけ母が優作との暮らしから身を引いているように感じられた。それが母にとって辛いことなのか、ごく自然なことなのかは優作にはわからなかった。
 優作はギターにのめり込み、来る日も来る日もギターのカッティングの練習をするようになった。左手でコードを抑え、できる限り鋭い音を出そうと右手を叩きつけるように演奏した。弦が指先に食い込み、血が滲むようになってもギターを弾かない日はなかった。上達は早かったと思う。しかし、優作にとっては一曲を覚えることよりも、自分のギターがエッジのように聞こえるかどうかが優先された。自分の耳が信じられなくなって、誰かの言葉が欲しくなった優作は、部屋で録音したデータを学校に持っていき音楽の担当教師に聞かせた。国立の音大でバイオリンを習っていたという女の教師は真剣に音を聴いた後で顔を上げた。
「とても格好いいわね。だけど、音楽ってやっぱりメロディラインと全体のアンサンブルだと思うの。だから、高橋君も最初はしっかりと音を響かせながらメロディを弾くところから始めたらどうかしら」
 そう話す教師の顔が困った顔をしていて、優作はもういたたまれなくなっていた。教師は『高校生のための初めてのギター』という大判で薄い本を音楽室の隅の楽譜がたくさん並べられた書棚から取り出して優しく微笑みながら優作に差し出した。その教師の指先も美代と同じくらいに白かった。
「カッティングが格好いいんだけどさ、優作のギターは。でも、カッティングのやり方がまずくて弦が切れるのかもね」
 ある日、美代の部屋でセックスをしたあと、そう言われて、優作はそうかもしれないと素直に思った。そして、自分はエッジに似たような音をギターに要求しながら、絶対にお前じゃ無理なんだよ、とギターから言われているような気がした。あれから半年経って、やっとメンバーにもバンドを辞めようと伝えられた。一緒にバンドを辞めようと頼んだ美代からは、ずっと答えを聞かないままだったが、それはもうどちらでもよかった。
「次のライブは夏までやらないの?」
 ライブ終わりの優作に声をかけてきた顔馴染みの女の子には、やらない、とだけ答えてその場を離れた。オレが音楽をやることはもうない。ライブ会場を後にして、いかがわしい風俗店が軒を連ねる商店街を歩きながら優作は思っていた。身体の前で抱えているギターケースの中で、切れた弦がブラブラと揺れていることを想像して、優作は笑った。(つづく)

2025年

笠井瑞丈

1月『透明迷宮』笠井叡×高橋悠治 制作
1月『night session live vol01』 企画 制作 出演
2月 『オイディプス王』東京公演 出演
3月『オイディプス王』大阪公演 出演
3月『night session live vol02』企画 制作 出演
3月『ダンス現在vol.37』板垣朝子ソロ 制作
4月 『ダンスの学校6期』 企画 制作
5月 『night session live vol03』企画 制作 出演
7月『night session live vol04』企画 制作 出演
7月『ダンス現在vol.38』山口夏絵ソロ 制作
8月 金沢金石 お化け屋敷 出演
8月 踊りのためのワークショップ金沢
8月『ダンス現在vol.39』上村なおかソロ 制作
9月 『night session live vol05』企画 制作 出演
9月 伊藤キム清里合宿 制作
10月 笠井叡ポーランド公演 スタッフ
10月『ダンス現在vol.40』小茂田莉乃ソロ 制作
11月 『night session live vol06』企画 制作 出演
11月 『三島由紀夫を踊る』澁澤龍彦邸
12月『東京パーレード』セッションハウス企画ダンスブリッジ 出演
12月 『三島由紀夫を踊る』天使館 企画 制作 出演

今年も色々な年でした
また来年もゆっくりゆっくりと
一歩一歩

どうぞ引き続きよろしくお願いします

むもーままめ(54)2025年ベストバイ、の巻

工藤あかね

 2025年があと3時間で終わろうとしている時にこの原稿を書いています。みなさん、どんな一年でしたか?そして2026年はどんな一年にしたいですか?

 突然ですが、2025年に買って良かったものベスト3をあげてみたいと思います。わたしのおすすめ商品が一体どこに需要があるのか、さっぱりわからないけれど…とりあえず行ってみます。

第3位 ルディ:Le Maioliche Hand wash Mediterranean Harb

 とてもゴージャスな香りのするハンドウォッシュです。これまで、ハンドソープは無香料を選びがちでした。特に料理をする前には絶対無香料!香りのついたものは考えていなかったのです。そんな時、小さな雑貨屋さんでこの商品に出会いました。

 最初はデザインにひとめぼれでした。陶器のように見えるボトルで、図柄も色合いも素敵。香りはついているけれど、一日のうちで手を洗うタイミングは数多くあるわけで、料理や食事前を除けば無香料にこだわらなくても良いのかな?と思い切って購入しました。そしてこれが大正解。洗練されたデザインなので、洗面台に置くとその一角が華やいで見えます。テクスチュアは滑らかなジェル状で、洗った後に手がカピカピになることもありません。つけた瞬間からハーブの香りが漂ってきて、使うたびに小さな幸せが手に入ります。ハンドウォッシュひとつでこんなに気分が良くなるのなら、もっと早く買えば良かった!!


第2位 パナソニック:電動角質リムーバー

 みなさん、足のかかとの角質ってどうされていますか?歩き方のクセなのか体質なのか、わたしはわりとすぐにかかとや足の親指の側面がガチガチになってしまいます。これまで軽石や、ヤスリと格闘したり、怪しい液体に足をしばらくつけておくと一週間後くらいに足の皮がぼろぼろ剥がれて赤ちゃんの足みたいになる商品を使ったりしてきました。ある日タレントの壇蜜さんが、かかとのガサガサに悩むパートナーの清野とおるさんの足に、小林製薬の「なめらかかと」を塗りこんでいると知り、その商品を買って試したこともあります。

 ところが!パナソニックの電動角質リムーバーは、これまでの長い闘いは一体何だったのかと思うほど、楽にかかとのお手入れができます。かかとのお手入れの革命です。もう、二の腕がムキムキになるほど力一杯かかとをこすらなくても良いのです。電池式ではなくコンセントに挿せば良い方式なので、電池切れを心配しなくてもOK。コンセントに繋いでスイッチオンしたら、商品のヘッドについた回転式のやすりを、そうっと削りたいところに当てれば、角質を除去できます。くれぐれも削り過ぎ注意!ヘッド部分は水洗い可能なので清潔に保てます。かかとを削った後は、クリームなどでお手入れをしたら完璧です。あ~あ、夏前にこの商品に出会えていたら、自信を持ってサンダルを履けたのに!


第1位 レコルト:自動調理ポット

 これまでに、コーンポタージュを自作したことはありますか?あったとしたら、どのくらいの手間暇がかかりましたか?じつは結構面倒ですよね?ところがレコルトの自動調理ポット/スープメーカーがあれば、簡単な仕込みをしてあとはスイッチオンするだけで、本格的な味わいのできたてスープが簡単に作れます。もうこれは本当に便利オブ便利、QOLをブチ上げてくれる調理家電です。
 
 レシピブックがついているので、最初はルールを学びながら作ってみると間違いないです。最初から自己流にしすぎると、味のバランスがくずれたり、ちゃんと調理できなかったりするおそれがあります。ポタージュ&ペーストモードでは海老のビスクとか、ヴィシソワーズとか、うっとりするほどなめらかなポタージュができます。じゃがいもでも、ブロッコリーでも、玉ねぎでも、固形のものが跡形もなくきれいに仕上がるので、まったく感動ものです。もしもこの商品の開発者にお会いしたら、深々と頭を下げてお礼を言ってしまいそう。ただしポタージュの具材はそれらが粉々になった時に混ざり合ってどんな色になるかを計算した方がよさそう。ナス、ブロッコリー、にんじんなど、固形ならきれいに共存できるのに、一緒にポタージュにしようとすると地獄みたいな色になったりするので、お野菜をあれもこれもと欲張らない方が良いです。その点、長ネギや玉ねぎはわりと他のお野菜の色を邪魔しないし、味も良くなるので上手に使ってみてください。

 この調理ポットはスープだけではなく、メインや冷たいドリンクも守備範囲です。スープ&おかゆモードでキーマカレーを仕込んでおけば、ご飯と合わせるだけで立派なランチが手軽に出来上がります。ジュース&クリーンモードでは、飲み物を作ったり、使用後に洗剤を入れて洗浄したりできます。豆乳モードは試したことはないけれど、豆から豆乳を作ることができるそうです。レコルトは一日に2回くらいペースで使い倒していますが、材料を放り込むだけで美味しく作れるので本当に助かっています。わたしは小松菜とバナナのスムージーを朝によく作って飲みます。昼にありあわせ野菜と牛乳でポタージュ、夜には別のお野菜でスープなんて日もあるくらい。外側は水で丸洗いできないので、ちょっと気をつけながら洗うということ以外は、いいことづくめです。

レーベルをたちあげる、たちあげてしまった 1

仲宗根浩

五月、十一時半に一恵先生宅に入り、まず掃除。楽器を前回と同じようにセットしたりしていると午後からみなさん集まってくる。今回は映像も撮影するのでカメラのセット。他いろいろとこまごました準備をし先生も揃い、リハをかねて録音一回目が始まった。柱が倒れたりしたので先生の希望に沿って十七絃の柱の並びを少し糸を緩めながら変える。録音二回目は問題なく終わる。少し休憩をした後、三回目の録音。この時わたしが録画用のカメラの録画ボタンをちゃんと押してないことがあとからわかるヘマをしたので全体の三分の二しか録画されていない。

全部のセッションが無事終わり、撤収後解散。翌日には沖縄に戻り三日間実家の引っ越し作業。録画した画像を送ったりしたあと、今回録音した音源と2017年杉並公会堂での沢井一恵による杉山洋一作品展の音源もありこれらを形に残せないか、杉山さんからメールをいただく。何回かやり取りし古い伝手を頼りにいろいろ話を聞いてみたが難しい現状が見えてくるばかり。ある日、そういえばと思いオーストラリア在住の内弟子だった小田村さつきがCDをオーストラリアで制作していてプレス枚数とプレス代を聞いたところ500枚プレスで2,000豪ドルだと返事が来た。その時のレートでだいたい二十万円。えっ、今時そんなに安いの、と思い国内のCDプレス業者を調べてみるとまああるある、格安業者なるものが。プラスチックケース、ジャケット印刷込みで二十万円、他に紙ジャケ、デジパック仕様色々と。で、CDの制作など未経験なのでどこかにお願いしようとCD制作も行っている市内の某レコーディングスタジオにお伺いしたら体よく断られたがプレス会社を教えてもらう。その会社のホームページを見ると、オンラインショップのみだが流通も行っている。だいたいの必要額を計算。このお金をどこから捻出するか、自由に使えるお金はあるのか。あった。年金、個人年金が。どうせ仕事してるし、今は余っているお金、良からぬものを買うよりこれを元にCD制作しようと思い立つ。

で、年が明けてレーベル起ち上げを杉山さんにメールする。それから2015年の「沢井一恵 箏 リサイタル」のCDと重複している曲が二曲あるので権利関係の確認から始めてこれは問題なし。マスタリングしてプレス会社に納品しなくてはいけないのでこれは櫻井さんにお願いして、デザインは昔CD屋時代の同僚でWEBデザイン、ジャケットデザインもやっているものに依頼する。CDのケースは輸送中割れるのが嫌なのでデジパック仕様、他使用する写真、ブックレット等のおおまかな事を考え、ここまでの二月の作業。

ジャワの駒踊り

冨岡三智

今年は60年に一度の丙午の年である。というわけで、今回は馬にちなむジャワの芸能を紹介してみよう。ジャワ島各地に平たい馬の作り物にまたがって踊る踊りがある。インドネシアのパフォーミングアーツ事典には、この芸能は駒踊りと呼んでも良いだろう。それらは、クダ・ルンピンkuda lumping、クダ・ケパンkuda kepang、ジャラン・ケパンjaran kepang、ジャティランjathilanなどと呼ばれる。クダやジャランは馬の意味。ケパンは編むという意味で、クダ・ケパンやジャラン・ケパンは竹ひごを編んで作った馬を指す。また、ジャティランはジャワ語の”jaranne jan tjil-thilan tenan”(不規則に踊る馬)を短縮してできた語らしい。不規則にということは、即興的な要素が強いということである。クダ・ルンピンやクダ・ケパンは西ジャワの呼び方で、ジャラン・ケパンはジャワ島中部、ジョグジャ、東ジャワの呼び方らしい。

この芸能は地方で盛んで、私が留学していたスラカルタではよそからくる大道芸のものしか見たことがない。彼らは他にガラスを食べたり、火を噴いたりするようなトランス系の芸能も同時にやっていた。それ以外には東ジャワ、ジョグジャカルタ、西ジャワで見たことがある。東ジャワではポノロゴで見た。レオッグ(巨大な獅子頭をかぶる芸能)と共に上演されていたが、レオッグにはつきもののようだ。私が見たジャティランは大勢の女性だけのグループだった。また、ジョグジャカルタのものは地方芸能フェスティバルのような場でいくつかのグループの公演を見たが、全部男性ばかりのグループだった。西ジャワで見たときは大勢の踊り手がトランス状態になるものだったが、西ジャワはなべてそうなのか、グループによるのかは私にはまだ分からない。

馬の作り物の装飾は地方や団体によっていろいろで、彩色が派手だったり、馬のたてがみとして本物の毛をつけているものも多い。騎馬武者を描いているので、女性の場合だと男装の麗人という感じのファッションになる。激しい音楽で騎馬武者同士の戦いを描いている。中には踊り手がトランス状態に入るものもある。

イチゴ白書

北村周一

女人のみの下宿屋に集いかき鳴らす
 ギターはさむしコタツ越しにて
手をふればわすれないでというように
 世田谷代田駅に昏れたり
ショーガ焼きはA定のみに通いしを
 経堂駅近“おのちゃん”恋し
小銭手に暮らしはじめし細山は
 読売ランド前駅遠し
百合ヶ丘に教会ひとつありまして
 そこの神父はころされたるらし

草カンムリに母と書き足すイチゴかな
 れんにゅうなめなめ母子よみがえり
(さじもて母が苺をつぶすそのたびに
 ひらく彼岸のはなのくれない)
勤めよりもどり来たれば旧道に
 父のかげあり夕べのみちは
旧道のまだまだ明るいゆうべには
 母が来ていつわれ待つらんや
ひさかたのヒカリにぬれるじてん車の
 あと追うように走り出すかげ
**
裏口は肉屋なるらし赤ちょうちんの
 名は『みいと』meet(meat)unmet
そういえば火の見櫓が目印の
 『雨多湖』で飲んだね父子三人きりで
そういえばむかし『雨多湖』の『みいと』でも
 飲んだね横におとうとも居て
***
そういえば夏のさかりの奥能登は
 キリコ大祭 われも担ぎき
星すずし火も灰皿もひとに借り 
 撓うキリコの若々しけれ
奥のとより吹きくる寒き音きこゆ 
 よあけの晩にすべらぬように
****
灯の中に火の子の眠るしずけさを
 告げんごとくにゆきふりはじむ
陽のあたる坂みちまでは遠けれど 
 そぞろに冬至の明けにけるかも
穴という穴に気を吐くうがいの日 
 白衣の女医ののど仏かな
ひったりとくっつきすぎると腐るらし
 笊のミカンはほのぼの甘し
笊の中の十三番目の早生ミカン
 ひとつ戴く罪びとのごと
*****
酒失なる記憶はなべて無にせんに
 のみ干す酒のコップ酒かな
一見穏やかにみえても核心は
 ベンチの上のウメボシの種

古屋日記 2025年12月

吉良幸子

12/1 月
今日の公子さんの夢。昨晩は未来永劫に金ピカになるペンキをライオンのたてがみに塗ってしまい、取れへんのにどうしよ!と焦ってたらしい。金ピカのライオンんの隣であたふたする公子さんかわいいやないのん。

12/5 金
今日は12日公演の稽古の日。黒テントの稽古場に集まって、当日「一眼國」を一席する兼太郎さんと役者陣を合わせて見てみる。夏の稽古からあんまし変わってない感じやけども、大丈夫やろか。本番まであと1週間。

12/6 土
最近公子さんが小豆からおしるこを作ってくれはった。ミッドナイト・キッチンで煮込んで、朝起きたらできておる。これがむっちゃおいしい!甘さが絶妙で、これ食べてたらチョコレートもケーキもいらんなぁ~なんて言いながら、お餅を入れてぺろっと食べた。

12/9 火
演芸場は今月後半にある、外部での特別公演の準備で休館日が多い。ということは出勤日が少ないっちゅうことやけども、そんなんお構いなしで来月のデザインが私のところに流れ込んでくるやないか!今日中に目処をつけとかんとどうにも間に合わん仕事で、夜遅くまで事務所に籠る…途中まで経理の人と話したりして楽しかったのやけど、その人もあがってしまいひとりぼっち。さすがにこれ以上続けても集中力が持たんと日付が変わる頃に引き上げる。家が近くてよかったんやけど、逆に残ってしまえるのも考えもんやなぁ。

12/10 水
友人の展示を見に吉祥寺へ。久しぶりに中央線の方に行くとやっぱり遠く感じる。電車に乗らん生活になってるし、久しぶりの着物で腰紐をきつくしすぎてちょっと乗り物酔いまでしてしもた。師走の吉祥寺は平日でも人がいっぱいで、賑やかなんにつられて商店街で小豆とお餅を買うた。また公子さんにおしるこお願いしようっと。

12/12 金
今日は10月から毎月やってる落語会の最後の本番!着いたら役者陣に太呂さんまで早々と到着してて、みんなで設営して準備した。差し入れに熊本から段ボールが届いてて、開けてみるとローズマリーと南天の実が敷き詰められた中に野性味あふれる大小のみかんがいっぱい!食べてみると市販のみかんよりうんと甘くておいしい。お客さんにも食べてもらうべく、木戸に置いてみなさんに配った。今日は私の知り合いもたくさんいらっしゃる日で、なんと演芸場の若女将まで来てくれはった!ありがたい!!本番終わって一安心、みなさん楽しかったと帰りがけにお声がけしてもらって嬉しかった。

12/13 土
昨日の今日で疲れてはいるんやけど、予定の関係で知人の展示へ。しかも今日は三鷹!!遠いっ!と思いきや、大きい駅もすっ飛ばす急行が運よく来て、意外にもすんなり着いた。今回は3人のグループ展で、絵柄がみんな優しく、出展者たちの調和がある展示やった。

12/19 金
今日は演芸場、外部特別公演の初日。一昨日に準備に行ってきたんやけど、慣れた場所やないしあっちへ走り、こっちへ走りとてんてこまい。そしてなんせ大きい施設は乾燥が酷くてかなわん。水分をたくさん手に、行きしなに神社で無事をお願いして現場に入る。お客さんを見ると、いつも演芸場で見知った顔を発見してちょっと安心した。こちらまでご来場ありがとございますと世話話できる人がおるのはなんか嬉しい。今日から3日間、バタバタとするやろけどとにかく前向きにがんばろ。

12/22 月
特別公演が終わってさすがにダウン。なんせ風邪引きがいっぱいやったし私ももろたんやろなぁ、喉がものっすご痛いし鼻かみすぎでおもろいくらい鼻の下真っ赤っか。今日は休みと決め込んでよくよく寝る。夕方、今日は冬至やんかいさ!と気づき、ゆず湯を求めて近所の銭湯へ行った。家の近くに2つ銭湯があんねんけど、まだいっぺんも行ったことなかった方へ行ってみる。受付に人懐っこいおっちゃんがいはって、今日はゆずいっぱいだよ!と言われた。入って見てみると、確かに想像の2倍くらいの大量のゆずがネットに入って泳いでおった。なんの変哲もない町の銭湯なんやけど、お湯が熱めで嬉しい!水風呂も水が柔らかいのか、足つけても刺さるような冷たさがなくて心地いい。湯冷めがなくて最高なとこ見つけたわ!と思いながら上がり、ドライヤーを使おうかと思ったら、20円10分の表記が…。10円2分の間違いやないのん、と思い、そばにいたおばあちゃんに聞くとほんまに10分らしい。こんな長いのん聞いたことないがなと笑った。帰りしな、コーヒー牛乳を1本買ったら、ヤクルト1本とゆずひとつをお土産につけてくれた。なんちゅうサービス精神旺盛な銭湯なんや…!

12/23 火
今日は久しぶりの通常公演。知ってる小屋に帰ってくるとなんとなく安心する。特別公演おつかれさま会しようと、一緒に働くお嬢と仕事終わりに飲みに行った。このお嬢、いや代表一家は結構酒が強い。やし、二軒目まで行って久しぶりにしこたま飲んで酔っ払って夜中に帰った。帰ってソラちゃんに絡むも迷惑そうな顔。公子さんに寝なさい!と言われ、死んだようにぐっすりと眠った。

12/25 木
今日はクリスマスではなくて千穐楽。西洋のおやすみ気分なんて全くないまま、年内最後の公演を見送った。お客さんたちには、良いお年を!と声をかけたけど、旅芸人たちにはもう来月の現場が見えてるからか、年内最後という感じもなく荷造りが進められた。そらそうか、あんだけの大・大荷物をまた別の場所に運ぶのは大抵のもんやないしな。

12/27 土
今日は我が誕生日!ということでお出かけするべくちょっくら上野東照宮へ、御狸さんがいはるということで狸顔が参拝してきた。参拝目的やったんやけど、建物の彫刻があんなにすごいと思わなんで、ゆっくりじっくり見さしてもろた。特に透塀の上下にいる、動植物の彫刻が生き生きとして見事で、屈んだり背伸びしたりしながら長時間鑑賞した。ええもん見してもろたわぁ…という余韻に浸りながら鳥居を出ると、茶屋がある。寒くて小腹もすいたしうどんでも食うか~と気軽な気持ちで入ると昔にタイムスリップしたような空間。日活の脇に出てそうな陽気なおじいがラーメンすすりながら喋りまくってて、その隣には蕎麦を待つ無口なおっちゃん。あいてる机の隣の人に、ここいいですか?と声をかけると、スキンヘッドに薄く色の入ったサングラス、右頬にでっかいサソリの彫もんがあるという人で、いいですよ~どうぞ~と話してみると意外に柔らかい。店員の下町育ちらしいさっぱりとしたおばちゃんは、おねえさんこんなとこ来て大丈夫?ごめんね~と終始謝ってはって、大丈夫です!と、私は私で、変な映画の世界に入ったみたいやなぁとワクワクしておった。たぬきうどん一杯500円、代金は品物と引き換えに。しめた、ここはまだ令和に追いつかれてない!喋り続けるおじいの話を聞きながら、隣ではサソリのおっちゃんがシナチクをつまみに酒飲んでて、私も相槌うちながらおうどんぺろりとたいらげた。
遊園地のアトラクションでも入ったような気持ちで、おもろかった~銭湯でも行って帰るか~と不忍池のほとりを歩いていると、したまちミュージアムを発見。ふらふらっと入ってまたもや昭和を満喫した。その足で燕湯へ。今日も日が高いし貸切状態!松屋あたりにはあんなにいっぱいの人が歩いてて、ここに来うへんの不思議やなぁと思いながらお湯につかった。家に帰ると公子さんも風呂帰りらしく、ポカポカのまま近所の蕎麦屋へ。最近、佐原の酒蔵、東薫の生酒がおいしくてふたりしてハマっておる。蕎麦と生酒とちょっとしたつまみで最高の誕生日やった。いつもやったらそこまで酔っ払わんのやけど、風呂上りなのもあり酒が回る。公子さんはぐっすりおやすみやけど、私は二階のさっぶい部屋に上がって今日したまちミュージアムで見た長屋の部屋を思い出す。…ここ数年、欲しいけど扱い切れるのかと迷ってた、私の部屋に足らんもの、それが火鉢。酔ったまま古道具屋のサイトを開き、思わず注文してしもた!あはは~やっちまった~!とか思いながら、年内に届いたら嬉しいなぁと呑気に眠りにつく。

12/28 日
公子さんが小学校の頃から知っている、アキさんがおうちでやってはるお料理教室に行く。ちょい遠いけど、幸いなことに乗り換えはそこまで多くない。行きしなにお手製のリリアンで編み物しながら、公子さんと大田区を目指して電車に揺られた。今日はタロットをしたり餃子を作る会。素敵なおうちに案内されて、まずはタロットで色々見てもろた。この方が滋賀出身らしく、久しぶりに聞く人の関西弁。やっぱり方言は人の距離をグッと近くするなぁと感じた。カードは概ね思ってた感じの内容で当たってるんやけど、気になるのがサソリのカードが2枚も出たこと。思わず昨日の茶店で会ったサソリおっちゃんのことを思い出した。なんかの啓示なのかしら…?
そんなことを話してる間に、他の人たちは餃子のタネをせっせと作ってくれてはって、私も包みのところから参加した。これがうまいこといかん~!でも不格好なのもアキさんがものすごい上手にきれいに焼いてくれはった。これがおいしいのなんのって!タネの味付けがうまくて、たれなしでも十分においしかった。

12/29 月
朝から火鉢が届いた!30センチくらいの手あぶり箱火鉢で、まだ何も入れてないとこに五徳を置いて灰たちの到着を待つ。ちゃぶだいの隣に置いてるだけで嬉しい。

12/30 火
今日は演芸場の大掃除。いつもの楽日ですら埃が結構出るし、心してマスク姿で向かう。煤払いに表の掃除と、普段できないところを念入りに。外で掃除してると、行き交う年末モードの人たちが、演芸場の方を見ながら綺麗ね~とか話してるのも聞こえて、俄然力が入る。椅子もひとつひとつ拭きながら、今年いったい何百人が座ったんやろなぁなんて考えたりした。みんなで手分けしてお昼過ぎに掃除はおしまい。最後に商店街へ来月のポスターを配りに回る。いかにも地元密着な仕事で楽しい。配った中にお好み屋さんがあるんやけど、久しぶりに行ったらもんじゃが食べたくなってお嬢と仕事終わりにちょっと寄った。相変わらずじゃりン子チエから出てきたみたいなお父さんとお母さんが焼いてくれるお好み焼きはうまい。
夜、家に帰ったら火鉢用の灰と炭団が届いておった。年末の忙しい時期、連日の配送に頭が下がる。公子さんに見てもらいながら、記念すべき第一号の炭団に火をつけて灰に入れると、じんわりとあったかい。部屋全体がぬくくなる訳じゃないけど、見てるだけで嬉しくなるかわいさ。寝るときどうするとか色々と公子さんに聞いて、びびって換気もしっかりしすぎ、冷たい風を家に入れまくりながら火鉢生活が始まった!

12/31 水
朝起きてすぐに灰の中に埋めてた炭団を起こすと、まだ火種が残っておった。長くついてるねんな~と感心する。昨日はお湯を沸かしてみたし、今日はお餅を焼いてみようと網の上にお餅を置いてじっと待つ。ちょっと目を離した隙にこげっとしたとこもあんねんけど、なんとなくトースターで焼くお餅よりおいしい!公子さんが作ってくれたおしるこにちゃぽんと入れて食べるのは至福の時間やった。
大晦日は王子、狐の行列の日。ひとりで行くのもなぁ…と考えていると、十条に住む友人から連絡が入った。旦那と行こうと思ってるけど、一緒にどう?とのことでふたつ返事で待ち合わせの約束をした。それまでに銭湯行くか!と、先に行ってきた公子さんと話してると、そんままの格好で行ってもいいよ、と…その格好っちゅうのが、おばあちゃんからもろた黄色に赤のチェックが入った派手なちゃんちゃんこで、こんな銭湯行きまっせって格好で家から出てもいいんですか!?と思わず聞いてしもた。でもまぁ、下町やしええや!と意を決して小脇に風呂桶抱えて下駄で銭湯へ。案の定、道端でおばちゃんに話しかけられた。銭湯の方はというと、みんな宵の口に来てしまったようで貸切状態!お湯の中で、3べんおでん屋の口上を言い終わるまでは湯から上がれん!と決め込んで、これから夜中出ていくのに備えていつもより長めにあったまった。
待ち合わせの時間に合わせて家を出ようとすると、先に着いたという友人から連絡があり、すんごい人、それも外国人ばっかし!とのこと。半信半疑で王子きつね村なるちょっとした露店が出てる場所に向かうと、王子稲荷の前からすんごい人だかり、それも90%くらい外国人!ええぇー…と、人混みが嫌いな私はクノイチの如く人の合間をすり抜けて待ち合わせ場所に行くと、大通りに更にすごい人だかり。北区のどこにこんな人がおったのか、いや、他からわざわざ来てるのか!?と不思議にさえ思った。友人と無事落ち合ってとりあえず串団子を買う。歩道の行列が見えるところで少し待ってたら年が明けた。と同時に行列が始まり、獅子舞を筆頭に後ろには狐の面や化粧をした行列が続く。大きい狐の顔の面を持ってたり、中には籠に乗った女の子まで、ゆっくりと厳かに鈴を鳴らしながら歩いてる姿を遠くからぼんやりと見ると、ほんまに人間に化けた狐がちょっとは混じってるかもなぁと思わせる感じがあった。大通りを行列が過ぎ、その間に近道して王子稲荷の方へ。行列してても初詣に行けるらしいとのことで境内に入る列に並ぶ。と、ちょうど獅子舞がやってきて、行列のみなさんと同じタイミングで境内に入り、旧年の感謝と新年のご挨拶をした。いつも演芸場の出勤の前に来てる時は掃除してるおっちゃんしかおらんのに、打って変わって見たことないくらいの人だかり。同じ場所とは思われへんなぁとその活気にびっくりした。火鉢をはじめたのもあって火伏せ凧をいただき、甘酒飲んで帰宅する。公子さんは村民だけでする小さい踊りやと思ってはったらしく、今晩の観光イベントみたいになってる話をすると驚いてはった。ソラちゃんは何のこっちゃの顔でメシの要求。年が明けてもうちはいつも通りや。

点線の災いで、開く門

芦川和樹

急速に冷えたから
ア、アルバータの型を抱えて
部屋をふたつ、蛇口をみっつ
階段を降りる
その先を右に、部屋をふたつ
浴槽
バスタブ。ぽたぽた水が落ちる蛇口を探す
ない
ないはずはない
もう一度浴槽、バスタブ。石鹸をふんで
ひっくり返る。あった、裏側の
浴槽
バスタブ。水が落ちている
落ちているところを
拾う。指先から、窓、から光がこぼれた
のを、見ていました。ゆびをふって、纏う
ここからここまで
線を引いて、ア、アルバータのかたち
かたちが溜まっていく

気管支を
建てた(その資格がある)
解決する問題を数えて(よっつ)報告する
画鋲を。コマにして回す(楽しいから)
そのあとで食べて、厄を(厄を)
凹みに
落とす(胃に)
とはいえ困った
困りました。プリンは固まっていくのに
靴が、乾かないのよ、困った
足が幽霊であればべつにいい
それならそれで
いいけど
生きているので
足があるのです
浴槽
バスタブ。を橇にしようか
そのまま壁とか突き破って怪我なく
人参など買いに、必要な光と栄養を。水を

」門を開けます。塩辛い歩み、凹みに落ちていく(ついでに落ちていく)いくつかの約束をここに置いて、いやでもこれはやっぱり持ってい(か)なくちゃからだ(型)が、まずい。ものもあって(そりゃああるよ夢見る資格があるのであるから)泥を払う、洗ってもいい。ベンチなど、凹みを快適とまではいかなくても、立て直すあいだここにいて(も)いいぜ休めるように、お湯もでるように、あたまをふって(チャイムが聞こえるー!)、火には注意してストーブを。必要な人参を、トマトを、石鹸を胸に。困難 困惑を滑らかに、棘の、針の、さいごのところでまるみを。を、門(門)

『アフリカ』を続けて(55)

下窪俊哉

 この年末年始は故郷で家族と過ごしている。私が鹿児島で年越しをするのは、じつに27年ぶりだ。夏にこの連載の(49)で家族のことを書いたが、その時は父に悪性の脳腫瘍(膠芽腫)が見つかって、10時間にわたる手術をした。手術の日は母と妹と、11歳の息子も一緒に病院で待っていたのだが、私は待合所のテーブルを借りて、戸田昌子さんの「耳の祝祭」(その後、『アフリカ』vol.37/2025年8月号に掲載することになる)の初稿を鉛筆片手に読み込んだ。その日のことはいつまでも忘れないだろう。
 その小説「耳の祝祭」の中で、ある人がこんなことを言っている。

「覚えておいて。人は、欠如を埋めるためにこそ、すごく大きな力を発揮する。だから傷は、その入り口かもしれないのよ。だから」

 摘出した腫瘍は父の左脳に見つかったもので、言語障害が出たことによって判明した。本人によると、いろんなものを思い浮かべることは出来るのだが、それをことばで言い表すことが出来ない。やがて文字を書くことも、読むことも難しくなった。ただし、今のところ、全く出来なくなったわけではないようだ。
 手術前には、盛んに「しごと」と言うので、何の仕事のことを言ってるのだろうと思っていたのだが、しばらくしてから「あ、手術のことを言っているんだ」と気づいた。「大手術」と言うと悲壮感が漂う(かもしれない)が、「大仕事」と言うとそうでもなかったりして? そう思って観察していると、看護師さんたちと接する父の顔は家族へ向けているそれとは違い、外向けの顔というか、仕事時にはきっとあんな雰囲気だったのだろうと思った。父は、私たち家族は昨年、大きな、大きな「しごと」をした。
 ところで、脳というのは不思議なものらしく、病気をしたのは脳で身体の他の部分は元気なのだから、と当初考えていた私は甘かった。父は術後、しばらくして足が弱り、歩くのが困難になってきていて、いまは脳腫瘍の治療よりその方に気がとられているかもしれない。生き延びているのが凄いことで、ことばが不自由になったのは仕方がないことだと思っているのだが、父はたまに、わからなくなった文字を教えてほしいと言ってくる。わからないものを教えてほしいと言われても、それが何かを察知出来なければ教えようがないのだが、あのー、あれよ、あれ、と言われて聞いていると何となく思いつくことばがあるので、幾つか挙げていると、それ! となる。私が書いて見せると、その文字を見ながら、書き写す。ことばというもの、文字というものも、やはり不思議なものだなあと感じる。よく考えると、よくわからなくなる。たぶん元々よくわからないものだからだろう。

 夏前には、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読み始めていた。神奈川近代文学館で開催された「大岡信展」に刺激を受けて、読んでみたいと思った。
 たとえば『アフリカ』最新号、vol.37では日沖直也さん、守安涼くん(と私)とのそれぞれの対話の中で、富士正晴、山田稔、乗代雄介といった作家たちの仕事や証言にも触れつつ「記録」という役割の大きさについて語られているが、「記」とはどんなことばだろう? 大岡さんが簡潔に説明してくれている。

 平安朝において、漢詩漢文時代が数十年あり、その時代に勅撰漢詩集がいくつか作られます。ただ、詩として面白いものではなかった。面白いものはというと、貴族が自分の個人生活を漢詩で書いた、つまり日記です。「記」というのはくだけた文章という意味です。

 この話の流れで大岡さんは、日本文学というのはパブリックなものよりも、プライベートな、小さな分野の方にユニークなものが育っていった、というふうなことを語っている。
 この話はうろ覚えなのだが、晩年の渡辺京二さんがインタビューの中で、中国の人の幸福論について語っているのを聞いた(読んだ)ことがあり、国の政治など大文字の歴史よりも、朝、起きて食べる粥の美味しさの方に人生の真の幸せがあるという。
 確かに、今、私自身も散文をたいへん個人的なもの・ことを表現するジャンルと捉えているし、詩も(つまり歌も)もある程度はそうだと思える。しかし、個人的であるのと同時に大文字の歴史を体現するような作品も世界には存在しているわけで、我が身を振り返って見た時に感じられる政治的な(側面の)弱さについても、いちおう確認しておきたい。
 つまり私はそこに大きな空白を見ている。いや、空白は見えないので、感じている、想像していると言った方がよいかもしれない。何の空白なのか。意味の空白だろうか。実際、書くことの意味を、私はどこまで感じられているだろうか。それを問うこと自体に、困難があると言ってみたい気持ちもある。

 夏前に出合って、読み始めた本がもう1冊あり、それは3月に亡くなった江代充さんの’97年の作品『黒球』だった。この「水牛のように」でも越川道夫さんが江代さんの死と、その後のことを書いていて、私は越川さんの導きによってその本を手にしたと言ってよいだろう。江代さんは詩人だが、この本を詩集と呼ぶことには少し抵抗がある。江代さんは「生活記録」をノートに長年つけていたそうで、越川さんの「テッポウユリのことなど」(「水牛のように」2025年9月号)によると、

江代さんは日日、「日記」と呼ばれるノート稿を書き、そのノート稿を、時を置いて何度も繰り返し「読み改める」ことによって、そこに何らかの「顕現」を見出そうとしていた。それを「詩」として書いた、と言えるかもしれない。

 とのこと。『黒球』という本は、過去の日々の記録を「読み改め」ながら時間を自在に行ったり来たり、進んだり遡ったりして、ひとりの人の中に蓄積された時間と空間が再び立ち現れるのを書き写している。そこに私は(再)編集を見るようでもあり、書き直し(生き直し)を見るようでもある。その書かれた中にある記録はどこか、もう書き手自らのものではなくなっているのかもしれない。

 2025年の私が出合った本として、もう1冊、紹介しておきたい。

 伊藤芳博さんのつくった’95年の詩集をいつか読んでみたい、という気持ちは長年、抱き続けてきた。『アフリカ』でお馴染みの詩人・犬飼愛生さんから最近、その人の名前を聞いたのをきっかけに連絡してみようと思い立ったのだが、今月、1月23日に犬飼さんと伊藤さんはNAgoya BOOK CENTERという書店でトーク・イベントを開くそうだ。
 実は伊藤さんは私の高校1年の時の国語の先生だった人で、なぜかずっと覚えていた。伊藤さんの住む岐阜と鹿児島は、薩摩藩による木曽の宝暦治水工事を記念した交流事業があるのだが、伊藤先生はその年に(だったと思う)鹿児島に来られ、私の進学した高校で数年間教えておられたのだった。
 伊藤先生が詩人であることは、おそらく皆が知っていたと思う。30代半ばの若い先生で、新婚で、お子さんはまだ生まれていなかったかもしれない。そういうプライベートなことも授業中に話す先生だったのだが、ある日、教室に自らの新詩集を携えて入ってきた。その新刊を紹介する話ぶりがあまりにも楽しそうだったので、印象深く覚えていたのだ。その本には2冊の詩集が同居していて、本を裏返し、ひっくり返したらもう1冊を読める。赤い糸だとかムカデがどうとかという長いタイトルだったことも覚えていた。
 思い切って連絡してみたところ、その詩集と、’21年に出された自撰の『伊藤芳博詩集』(砂子屋書房版現代詩人文庫18)を送ってくださった。その2冊を受け取った時の感激は、ちょっとこれまでに味わったことのないものだった。
 30年前の詩集『赤い糸で結ばれていたかもしれないムカデ(について考える二人)/どうしてもやってくる』は、高知市の「ふたば工房」というところから出ていて、奥付によると’95年1月15日発行。ということは、あれは年の初めの、冬の日だったのだろう。その装丁も、構成も、記憶していた通りで本当に懐かしい。その本が今、自分の手元にあるということを奇跡のように感じるのだが、そこに収録されている詩については、さすがに覚えていないだろうと思っていた。
 しかし、詩集を手に取り、本を開いて読んでみると、何ということだろう! 蘇ってきたのだった。
 当時、私はその詩集を借りて読んだわけではなくて、もちろん買ってもいなくて、プリントで配られた記憶もないし、どんな学校だったかを考え合わせてみても、その可能性はほぼない。ということは、教室で伊藤さん自身の声で朗読されるのを聞いたのだろう。私は30年前に、それを耳で受け取った。だから、ありありと思い出す詩がある一方で、全く思い出せない詩もある。朗読された詩だけを受け取ったのだとしたら、当然だ。
 蘇ってきた詩のひとつ「触りがいがないわよ」を今回、帰省して高校時代からの友人と会って飲んでいる時に見せたら、こんな色っぽいところのある詩を、あの高校の教室で朗読したというのがどんな様子だったのか、と不思議そうに言っていた。

 わたしの胸って触りがいがないわよ
 初めて触れたとき
 彼女は言った
 生きがいならあるさって
 僕はつぶやきながら
 やわらかい薄さを手に含んでいた
 けれど 生きがいってのも
 その時々で変わるもので
 ぺちゃんこになってしまった自分の胸に
 今は手を当てている
 触りがいがないよな
 自分の胸なんて

 16歳の私もきっと、内心ドキドキしながらその詩を聴いたに違いないが、今、30年後に読むと、心惹かれるフレーズは別のところにある。

 この道一筋という人間にあまり興味はない
 生きがいも信念も
 男も女も
 その訳(わけ)ってやつも
 その時々で変わる弱い人間だからだ

 私は自分の書いてきたものの原点を、故郷を離れて大阪へ行った’98年だと思っていたのだが、ここに来て、その3年前、高校の教室で出合い影響を受けた(かもしれない)詩人がいたということに気づいたところだ。

 さて、昨年の私がそれ以上に感動したのが、『伊藤芳博詩集』だった。もう1冊というのは、その本だ。目次を見ると、よくある自撰ベストのように、それまでの各詩集から何篇かを選び時系列に並べる、という編み方をしていない。既成の詩集というまとまりから詩を解き放ち、(「まえがき」によると)「改めて「新詩集」を編み直す、という奇策に出た」そうだ。
 ’85年の『努(ゆめ)屈することなかれ』から’20年の『いのち/こばと』まで、35年分の詩が詰まっているのだが、『いのち/こばと』までの約10年間、詩から離れていた時期もあったとのこと。しかし特別支援学校に勤務する日々から生まれた(らしい)詩を集めた『いのち/こばと』の詩篇を読むと、詩そのものから離れていたわけではないだろうという気もする。
 電車の中で見かけた(他人の恋人であっただろう)少女への語りかけに始まり、夫婦という男女の間に生まれた詩、家族を描いた詩、勤務先の学校で生まれた詩、先輩詩人でもあった亡き父との共作、さまざまなモノや生き物への関心、映画を見ることによって出てきた詩、パレスチナでの支援活動から生まれた詩、etc. こうやって35年をふり返って(再)編集された詩集を前に、何という振れ幅の広さ、懐の深さだろうと思って、すぐに通して読むことはしないでおいた。この中には、たくさんの誰かの存在があるようだ。時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり読もうと思う。そうしないと感じられないことがあるのは、確かだ。
 その詩集の最後に収録されている「あかり」は、こんなふうに始まる。

        あかり から
       か がとびたつ
      あり がさまよう
     か がもどってきて
          じぶんの
       ありかをさがす

立山が見える窓(6)

福島亮

 それまで必死に漕いでいた自転車のペダルが富山大橋のなかほどでふと軽くなり、アスファルトに注いでいた視線を、深く息を吐きながらあげると、眼前に、立山連峰の白い壁が見える。つい数日前、ある人から、刊行されたばかりの関健作さんの『マインド・エベレスト』(Type Slowly、2025年)という本を見せてもらったのだが、その時ふと、富山大橋から眺めた立山の厳しさを想起した。立山を見ていると、あれを歩いて越すことはとてもできないだろう、という諦めにも似た気持ちが湧いてくる。それは東京や群馬にいた頃には感じたことのない気持ちだった。

 関東平野に位置する生家の脇には吾妻川という川が流れている。草津の方から流れてくるその水は、かつては酸性が強く、魚の住めない死の川と呼ばれていたが、1965年、中之条町に品木ダムが完成し、川水に石灰を投入して中和する試みが開始すると、徐々に魚が住むようになった。私が生まれたのは、この中和事業開始からだいぶ経ってからのことなので、川で遊んでいると小魚をよく見かけたものだ。でも、十歳くらいの頃の私は、川の来歴やそこで捕まえることのできる小魚よりも、むしろそれが利根川の支流であるということの方が重要で、というのも川の流れに乗っていけば、そのまま東京まで行くことができると何かの本で読んだからだ。関東平野に暮らす人間にとって、山はあまり閉鎖的な印象を与えず、むしろ太い血管のように走る河川の開放感の方が強い。富山にも、神通川が流れていて、それは海に注いでいるのだが、しかしどうしたことか、そこに開放感はない。連峰が真っ白になってから、この閉塞感はより強まった気がするのだが、しかし、閉塞感というにはあまりに山並みが壮大で、それは閉塞感というよりも、圧倒されている感覚という方が正確だと思う。

 去年の4月からここでの生活が始まったので、まだ本格的な富山の冬は経験していない。11月のはじめ、うっかりベランダに出しっぱなしにしていたバオバブの葉が黄色くなっているのを見つけて、あわてて部屋に入れた。最初の頃は、枝についていたキマダラカメムシが部屋の中を歩いていることがあって、冬の間はできるだけ彼らを刺激せずに生活することになるだろう、と観念していたのだが、12月に入る頃にはバオバブの葉もすべて落ち、それと同時にカメムシもいなくなった。多摩川沿いに住んでいた頃から、バオバブにこの外来種の大型カメムシが寄ってくることが気になっていた。もともと東南アジアに生息する昆虫らしいが、温暖化の影響でここ最近では、本州でもよく見られるという。灰色がかった体に、薄黄色の小さな点が星座早見盤のように並ぶこの美しい昆虫をはじめて見たのは2年前のことだ。その時は、12月初旬に鉢を室内に入れると、春先まで、ときどき窓辺でこのやや大ぶりな昆虫を見かけることがあったのだが、富山ではどうもそうではないようだ。死んでしまったのか、それともどこか暖かいところで越冬しているのかわからないけれども、いずれにせよ、あの熱帯昆虫と再会するのはしばらく先になるだろう。バオバブの耐寒限度は5度だというから、春になって、彼らがまた芽を吹いてくれればの話ではあるのだが。

天道たち

新井卓

 例年になく日差しに恵まれた冬のベルリンで、暦はいつの間にか冬至を折り返し、これから日に日に太陽が戻ってくるのだ、と考えるだけで、根拠もなく万事良い方向に転じていくのだ、という気がしてくる。

 夏の終わりごろ「ふるさと」をテーマにした論集に散文を寄せる機会があったが、あのテキストを書いてから数ヶ月しか経っていないのに見ている景色がずいぶん変わった、と思う。水牛にもいつかポルトガル語の「サウダーデ」のことを書いた記憶があるが、結局のところ自由な移動がゆるされ、その経済的時間的余裕が与えられているうちは、きっと「ふるさと」のまぼろしの扉は開かないのだろう。

 ないと聴こえる音、ないと見える光があるように、ないと感じる振動がある。十二月八日に東北が揺れ、スマートフォンにインストールしたままになっている災害警報アプリに通知が届いたとき、めまいのような揺れを確かに感じた。不動のユーラシアプレートの中央に鎮座するこの国で、揺れない、ということがわたしの身体をいかに弛緩させてきたか。地震はおそろしいが、わたしたちが生きた地殻の上で生かされていることについて考える数少ない機会なのかもしれない。

 ベルリンでは日本から職を求めてやってきた人にときどき出会う。大企業の海外駐在員として来ている人が多いデュッセルドルフやフランクフルトなどと違って、ベルリンの彼/彼女らは地場の工場や飲食店で働き、ぜいたくではないが気兼ねのない生活を謳歌しているように見える。日本の人たちが移民や出稼ぎ労働者として海外に大量流出する時代が、もうすぐそこまできている。そのとき母国の不寛容さは海を越えて漂い出し、母国を旅立った人たちに対する不寛容として巡り戻ってくるのだろう。

 大晦日のきょう、ベルリンは朝から牡丹雪になった。眠くて仕方がないこどもを抱えて公園に連れ出し、橇遊びで半日を過ごす。家に帰り、ヤドリギと松の枝で(土地の痩せたベルリンは松の国、といっても過言ではないと思う)即席の門松を作っていると、こどもがトイレットペーパーをちぎってきて飾りつけている。カミサマがくるから、と言う彼に、そんなことを教えた覚えはないのだが、と首をひねりながら、やはりなにかが巡っているのだ、とへんに得心してしまうのだった。人の世の暗い景色に魅入ってはいけない──暖をもとめてアパートのそこら中に忍び込んだ天道虫を見つけるたび、助けようとしゃがみこんで手のひらを差し出すこどもの背中を見ながら、不意に思いついてしまったその言葉の意味について、考えている。

[お知らせ]
水牛で途中になってしまった「精霊馬たち」の最終章は「精霊馬としてのアート 盆とバスと原爆忌──アートバス〈爆心へ〉号、三四〇〇キロの旅」として『原爆文学研究』第23号に引き継いで書きました。刊行は2026年2月予定です。

ろうそくの炎、砧の音

笠間直穂子

 目が覚めて、目が覚めたことに気づき、横になった姿勢のまま、意識が次第にはっきりしてきて、数秒後には自分がいまどこにいるのかを把握する、それとほぼ同じ瞬間に、涙が顔をつたい、のどが引きつって、嗚咽がはじまる。体を起こすと、低い唸り声が絞り出され、吠えるような泣き方になっていく。出かけているあいだはなんとか押しとどめるのだが、そうでない場合は文字どおり一日中、号泣と嗚咽を繰り返しながら泣きつづけ、涙を流し息を詰まらせた状態で床に就く。翌朝には、また目覚めとともに涙がこぼれる。そういう時期があった。

 それがどのくらいつづいたのか、当時の手帳を見返せば手がかりが得られるかもしれないけれど、そのころにまつわる情報を目にすると具合が悪くなるので、確認できない。たしか、一週間を過ぎても泣きやまないので、二週目に入ったあたりで診察を受け、適応障害による抑鬱症状との診断をくだされて、薬を飲むようになり、とはいえ最初に出された薬はあまりに眠くなるため、連続して使うことはなく、まだしばらくのあいだは、つねに多少とも泣いていた。声帯が震えると、その刺激で涙が湧くので、ささやくような小声で話した。

 幼いころから涙もろいほうではあったけれど、この止まらない涙は、泣いてもまったく気持ちに変化が生じない点において、それまでに流してきた涙とは決定的に違っていた。

 それまで、わたしにとっての涙は、つらいこと、悔しいことが胸に溜まっていき、限界に達したときに、堰を切るように体外へあふれる、そういった性質のものだった。泣いているあいだは、苦しいけれど、同時に大量のエネルギーを勢いよく放出することによる一種の快もあり、泣き終わって疲れはてると、内にこもっていた苦悩が外へ押し出された結果、いくらか「すっきり」して、気持ちに区切りがつき、場合によっては、実はたいしたことではなかったと思えてきたり、次へ進もうという気になったりする。痛手が大きいときは、しばらく引きずるけれど、それでも何度か泣くうちに、苦痛は遠ざかっていく。そういうふうになることがわかっているから、なにか苦しいことが胸につかえているとき、それが充分に高まって涙に変わるのを待つ態勢になることもあった。

 ところが、今回は、どれほど長時間、激烈に泣いても、内面の状態がまるで変わらない。泣いた分、体が疲労するばかりで、苦痛は途切れも弱まりもせず、ただ単調に、べったりと、轟々とつづいていく。精神の正常な機能がほんとうに壊れたのだと実感した。

 いくら泣いても、意味はない。なんの安堵も解放感もやってはこない。この認識は、ひととおりの日常生活を送ることができる程度に回復したいまも、くさびのように胸に打ちこまれていて、繰り返し思い出されるし、実際に涙が出ても、それによって心がほぐれる感覚を得ることはない。涙がカタルシスをもたらしうる世界から、自分はこぼれ落ちたのだと、絶えず心のどこかで感じながら、寝起きしている。

     *

 泣くことが意味をなさなくなる地点を、この作家は知っている。ハン・ガンの小説を読んだとき、そう思った。詩人で翻訳家のMさんとメールを交わしていて、ちょうど出たばかりだった『別れを告げない』(斎藤真理子訳)を勧められたのが、なぜか強く印象に残り、読まなくては、という気になったのだ。こちらの不調について、Mさんには詳しく話していなかったけれど、あたかも処方してくれたかのようで、この時期にハン・ガンを読んだことが、わたしにはとても助けになった。

 彼女が描く人物たちの多くは、わたしとは比較にもならないほど、深々と傷を負っている。生活の基盤を根こそぎ奪われたり、近しいひとに暴力をふるわれたり、あるいは組織的な拷問や虐殺の標的となったりすることで、人間がもはや人間でいられなくなる極限状態に晒される。それは、息をしていても、生きているとは言えないような、生と死の境が溶け出してしまうような領域だ。

 『別れを告げない』の冒頭、語り手である作家、キョンハは、ここ四年のうちに家族も職場も住まいも失い、心身とも衰弱しきって、一人で暮らしている。四年間の自分の姿を、彼女は「殻から体を引き剝がして刃の上を前進するカタツムリ」になぞらえる。その体からは「血なのか粘液なのか涙なのかわからないものがとめどなく漏れ出す」。

 似たような液体は、小説の中盤で再度、現れる。大怪我をして入院している映像作家で木工職人の友人、インソンの頼みで、彼女の飼うインコの世話をしてやるため、雪に埋もれた済州島の中山間地にある彼女の実家にたどりつき、間に合わず死んでしまった小鳥を布につつんでいる最中、手の甲で目をこすったキョンハは「目から粘っこい汁のようなものが出ている」ことに気づく。来る途中にやぶで切った目の下の傷から出る血に混じった「酸っぱいようなねばつく涙」だ。「こんな苦痛を感じるほど愛したこともない」はずの鳥の死に、「なぜ涙が出るのか理解できない」。

 理由も終わりもなく、ただとめどなく血の涙を流す体が一方にあり、もう一方には、泣くよりも、じっとしたまま大量の汗をかいたり、耐えるために意識を飛ばしたり、魂が抜けたように呆然と過ごす体がある。作品の後半で、雪に閉ざされたインソンの家は、一本のろうそくの明かりに照らされた、生と死のちょうど中間に揺らめく幻の場所となって、そこに済州四・三事件で追われ殺された人びとの影が映し出されることになるのだが、これらの、泣くことの彼方を知ったひとたちの体感に、肌を寄せるようにして、わたしは読んだ。

 本作の緻密に編まれた言葉は、累々と積みあがる死者たちを召喚する一方で、それらの死者とともにいようとする者を、降りしきる雪と、闇のなかの小さな炎と、ふんわりした小鳥の羽でそっとつつむ。小山内園子が『回復する人間』をめぐって述べるとおり、「ハン・ガンの手つきは、読む側を悲嘆の側に置き去りにしない」。

 彼女の作品を読むことで、わたしは自分の精神の置かれた状態を作中人物たちと分かち合い、別のひとの体で体験し直すことができた。そうしながら、気づかないうちに、柔らかなものにそっとつつまれていた。

     *

 謡曲「砧(きぬた)」に、涙の描写があったのを思い出して、小学館の新編日本古典文学全集『謡曲集』を取り出す。ついでに、もう足腰が弱って仕舞の稽古へ行くこともない父に去年もらった、宝生重英『宝生流地拍子附正本』も出してみる。昭和九年発行の版だ。和装の表紙は、浮き出し模様の入った白い地に、金の箔押しで松の枝が描かれている。

 世阿弥の作である「砧」は、筑前・蘆屋のある男の述懐からはじまる。訴訟のため単身上京して三年になる彼は、家に残した妻を案じ、今年の暮れにはかならず戻るとの伝言を託して、侍女の夕霧を妻の元へ帰す。

 妻は夫の不在に耐えられず泣き暮らしていて、夕霧に苦痛を訴える。そこへ村人の打つ砧の音が聞こえてくる(砧は、木の台に置いた布地を木槌で叩いて柔らかくしたり光沢を出したりする道具)。妻は、かつて唐土の蘇武が異邦に留め置かれたとき、その妻が遠く離れた夫を思って高楼にのぼり砧を打ったところ、蘇武が夢でその音を聞いたという故事を思い出し、自分も同じことをして心を慰めようと、泣きながら砧を打つ。けれども、その後、約束した年末にも夫が帰らないと知ったとき、妻は狂乱して病み、亡くなる。

 悔いた夫が帰郷し、弔いのために人びとを集めて、妻の霊魂を招き寄せると、現れた妻の亡霊は、「邪淫の業深き」罪により、自分が砧を打ったときのように、いまは獄卒の笞に打たれていると語り、夫に恨みを述べるが、夫が法華経を読誦すると、その功力によって成仏する。

 全曲を通して、涙への言及がある。妻は登場するや、「袖にあまれる涙の雨の、晴れ間稀なる心かな」と言い、砧の段になると、夕霧との掛け合いで「涙片敷くさ筵に」、つまり、涙に濡れた片袖を床に敷き、と述べてから、夕霧と二人して砧に向かう。そして秋の夜、風の吹くなかで砧を打つ女の姿を、地謡はこのようにうたう。

「月の色風の景色、影に置く霜までも、心凄き折節に、悲しみの声虫の音、交りて落つる露涙、ほろほろはらはらはらと、いづれ砧の音やらん」

 現実には、渡辺保も指摘するとおり、風、声、虫、涙、砧の音は、区別がつかなくなるほど似てはいない。けれども、濃密な文彩によって次々と重ねられる「移りゆくもの」(月、風、音、水)の奔流が、涙とともに、砧を打つ音に合流するとき、その全体は「ほろほろはらはらはら」という、もはや風景とも感情ともつかず、具体的になにを示しているとも言いがたい、現実を超えたオノマトペとして夜空に響く。

 他方、亡霊となって地獄で責められる妻の様子を地謡が描くとき、涙は別の様相を見せる。

「因果の妄執の、思ひの涙、砧にかかれば、涙はかへつて、火炎となつて、胸の煙の、炎にむせべば、叫べど声が、出でばこそ。砧も音なく、松風も聞えず、呵責の声のみ、恐ろしや」

 かつて砧を打ったときに流した涙は、風や露と重ねられたが、ここではそうではない。涙は砧の上に落ちると火炎となって煙をあげ、その煙にむせんで声が出ない。砧の音も松風もなく、聞こえるのは獄卒が罪人を責める声だけ。季節も風景もない地獄で、涙は火と化して彼女を苛む。

 この曲は、筋らしい筋もなく、ただひたすら一人の人間のかかえる悲嘆に、詩的言語を尽くして迫るもので、人物の内面をつぶさに追う近代以降の小説に近い読み方を誘う。女の苦悩は、理屈の上では、夫に打ち捨てられて心情的にも性的にも満たされないために生じた、ということになるのだが、見聞きするもののすべてが涙に塗りこめられるかのような詞章を追っていると、彼女は、夫が戻りさえすれば元気になるというのではない、もっと根の深い憂鬱にとらわれているのではないか、という気がしてくる。どうしようもなくやりきれなくて、涙を止めることができず、とどめの一撃を受けたが最後、命まで手放してしまう彼女は、泣くことが慰めにならない地点を知った者の一人ではないのかと、思わずにいられない。

 けれども、法華経の力によって成仏した彼女について、地謡による結びの一文は、やや不思議とも思われる考察を加える。

「これも思へばかりそめに、打ちし砧の声のうち、開くる法(のり)の花心、菩提の種となりにけり、菩提の種となりにけり」

 思えば、彼女が砧を打ったとき、その音のうちに仏法の花、つまり法華の心が開いた、それが機縁となって成仏にいたったのだ、という。

 彼女が砧を打ったのは、妄執に駆られてのことで、信心のためではまったくない。だからこそ、地獄に送られ、自分が砧を打ったように獄卒の笞に打たれ、涙は火炎となって身を灼くのだ。夫への執心のあまり、真似事で打った砧の音が、どうして「菩提の種」になりうるのだろうか。

 わたしは能楽研究にも仏教思想にも疎い身だけれど、小説を読んできた視点から、この謡曲を読み返してみて、ふと、砧とは、妻にとって、表現手段だったのではないか、と思った。

 蘇武の故事を思い出したとき、彼女は泣くばかりでいることをやめて、先達に倣い、道具を手にし、技を用いて、布を叩き、音を出した。台に置いた布地に面と向かって、木槌を打つ女の姿は、楽器を奏でる者に近い。

 もちろん、苦しみを音として表現したからといって、その苦しみが弱まるわけではない。むしろ行為に移した分、痛みを強く感じる場合もあるだろう。だから彼女は恨みと悲しみを述べつづける。しかし同時に、芸の位相に託すことで、苦しみは、別のなにかへと開かれはじめる。

 秋景色と涙とが砧の音に交ざり合う「ほろほろはらはらはら」の響きこそは、表現というものが開くそのような契機、すなわち、涙が、涙の音楽へと変容する兆しを、名指したものではないだろうか。であれば、その響きは、たしかに、苦しむ者にとっての救いの機縁、「菩提の種」となるはずだ。

 あの泣きつづけた日々を言葉のかたちにしたくてこの文章を書きはじめた自分に、引きつけすぎた読解かもしれない、と一方では思いつつ、そのような読み方を受けとめる五百年以上前の作品が、ここにあることが懐かしい。淡い光に照らされる思いで、謡本を眺めていた。

一歩ずつ迷いながら

高橋悠治

即興と演奏と作曲、音楽する3種類の作業のうち、即興はその場でやってはいるが、何をしているのかわからないまま、記憶にも残らないで過ぎていく。相手を聞きながら、時を見計らって、自分の音をあしらっている。

ピアノ演奏は、頼まれた曲を弾くだけで、他人から見ると、やり方が毎回違うらしいが、自分ではわからないし、計画も方法もなく、その時指が感じた音を出している。作曲家だからといって、構成を考えたり、スタイルを決めたりしたくない。指遣いが決まれば、間合いと強弱はその時々で微妙に変化するし、初めて見る楽譜のように、新しい発見があるかのように、一歩ずつ進んでいくつもりになれる。

でも、一番興味があるのが、作曲で、これが一番やりたいが、だんだんできなくなっていくことでもある、と感じている。新しい響きや方法を求める時代は、1960年代で終わった。記譜法も精密になれば、演奏者の自由を縛るだけだから、新しい記号を使わないで、使う記号の数を少なく、曖昧な広がりを持たせようとしているが、なかなかうまくできない。

コラージュではなく、短い断片をそれぞれ変化させながら組み合わせて、いわゆる自律分散的に、不規則に変化した断片と断片の間のスレ合いが、ささやかで終わりのないズレを生み出すように。

先日初めて相手のいない即興をやってみた。と言っても、相手の代わりに使ったのは、20年前に書いた即興の素材をよく見えないままに、そのように見える形を相手に弾いてみることだった。

ここまでで使ったのは、あしらい、見計らい、ズレとスレ、断片化、揺らぎといった誤読寸前の試行だと言えるだろうか。何かがまだ足りないような気がする。