掠れ書き(2)

高橋悠治

音楽が通りすぎた痕跡を紙の上で見通せるように、構造に還元し、それを生み出す方法を推測し、理論やシステムにまとめる。こんな分析には足りないものがある。

聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりながら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのような経験からはじめて、そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりなおす。このプロセスは即興でもあり、作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、その道筋をつけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘うのはむつかしい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は一つの見かたにはちがいないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性をスペクタクルで惑わしたり、反復パターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になってしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起こる。それは個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もともと隠れていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれている、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様のほころび、あるいはラドクリフ=ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。

楽譜は、何世紀もかけて洗練されてきた表記法だから、図形楽譜のような発明はなかなか共有されなかったし、すべてを最初から定義しなおす試みはわずらわしく、演奏者の自発的なうごきをさまたげる。だが、それらの記号の集まりは、5線記譜法の場合は18世紀的な合理主義を背景にしているし、日本の伝統的記譜法のようなものは、流派の排他的な符牒だったりする。精密に書こうとすれば、思わぬところで過去の音楽の構造に囚われるだろう。まったく新しい発明もできないし、そのまま受け入れることもできず、部分的につけたすのも有効でないならば、逆に、記号の有機的関連を断ち切り、粗いが繊細に使える表記法をくふうしてみる。粗さは要素の数がすくなく、まばらだが記号の適用範囲が一定でなく、領域があいまいで、配置によってちがって見えるような状態、繊細さは思うままにうごくのではなく、うごいている波の合間に現れる足掛りを伝って、落ちないように渡っていく、細く、いまにも切れそうな蜘蛛の糸、夢にあらわれる小径のように、どことなく見覚えがあるが、ここには二度ともどれない予感を手放さずに、一歩ごとに辿る足元から崩れていく、一歩ごとに前の一歩を忘れていく石庭の風景。見られているのを意識しながら回しつづけるネズミ車。

梅雨にはいると

仲宗根浩

五月の連休最後の日、法事で実家に帰っていた奥さんと娘を空港へ迎えに行く。
ふたりを迎え、空港から家にむかう。

空港からの道は58号線に合流する。左側に那覇軍港が見える。返還が決まった軍港のゲートはいつも開いている。ここはどのように変わるのだろう。十年くらいたったらなにかできているかもしれないしそのままかもしれない。

58号線、那覇を過ぎて浦添。左側のフェンスはキャンプ・キンザー。
ここも返還が決まっている。返還後は開発されるらしい。基地があるために残されていた海岸線は開発によってくずされる。

さらに進むと、宜野湾の伊佐交差点を右折する。
坂をあがると右側には北谷の海が見える。海はやがてキャンプ瑞慶覧のハウジングに視界を遮られ、今は誰も住んでいないフェンスの中の家々。少し奥のほうでは高いクレーンがいくつもたっていて何か新しい建物をつくっている。

普天間神宮を過ぎ、キャンプ瑞慶覧のPXも過ぎて、屋宜原のA&Wも過ぎる。
ライカムの交差点。右側は泡瀬ゴルフ場。返還が決まっているがなんだかんだで少し遅れるらしい。このゴルフ場のクラブ・ハウスはIDカードを持たない地元の人でも入ることができた。ドル紙幣さえあればアメリカン・サイズのチーズ・バーガーを食べられた。もう使われていないゴルフ場は草がかなり伸びている。
この交差点、過ぎるとすぐ沖縄市に入る。
プラザハウス、山里三叉路過ぎそのまま進むとゴヤ十字路。
左に行くと嘉手納飛行場の第二ゲート。ここからはもう家までは歩きの圏内。

連休明けて、六日に梅雨入り。雨が続いたあとの少し晴れた日、入道雲が出た。長い夏が始まる。だんだんと夏の暑さがこたえるようになったけど、まだクーラーのお世話にはなっていない。

テレビでは「抑止力」ということばが毎日のように、いろんなひとがいろんな立ち位置でいっているがぼんくらの頭では理解できない。理解しようとも思わない。

騒音対策。普通に建てた家の窓をアルミサッシにしたくらいで音が軽減できるわけじゃない。音は屋根を、壁を振動して入ってくる。戦闘機、ヘリコプター、輸送機。出す音は全部違う周波数。

ここではないほかのところの事に思える。錯覚、結局は他人事。

美(ちゅ)ら――翠ぬ宝68

藤井貞和

美ら 辺野古(へのこ)岬(みさち)
ならん いくさ基地
海人(うみんちゅ)ぬ 心(くくる)
舟(ふに)を守(まぶ)ら

八八八六(るく)ぬ
琉歌 湧(わ)ちぬぶい
海ぬ 守り神(かん)
ざん(儒艮)よ 遊(あす)ば

海人ぬ 旗や
抗議の 三千日
波ぬ 巻(ま)ち踊(うどぅ)い
命(ぬち)どぅ 宝

(上は「緑の虱(6)」〈琉歌の巻2005/4〉の再録です。、〈2010年5月〉28日、嘉陽のオジー(87)の言う、いつか「4度目の日米合意」があると。深夜になり、福島瑞穂、「沖縄を裏切れない」。喜納昌吉、『沖縄の自己決定権』(未来社)に、「この本で世界が変わる」。――〈4月〉25日、沖縄県民が意見を一つにまとめた英知。それから一ヶ月、じっと見ているのですが、ヤマトは冷たくて、冷酷で、沖縄に対して、ほんとうに差別感があるのですね。ふつうは出てこない、差別感情が、ヤマトにはあるんだ、沖縄への。信じられないけれど、この一ヶ月、ヤマト人が、ちらちら覗かせる底知れない悪意にふれて、その場では平然と(ときには口汚く)、私は帰宅して何度か泣きたく。悲しいね。何もできないんだな、これが。ヤマトのなかには、そう(沖縄のなかで)言われて来たことはほんとうなんだ。何としても政権離脱をしないように、というのが私の意見です。たかが対米交渉でヤマトが割れることぐらいみっともないことはない(沖縄、そして徳之島を見習うと)。50年という安保体制。困難をきわめるぐらい、みんなで許し合えるのでなければ。……でも、福島氏の顔がこんやは輝いてる、「沖縄を裏切れない」って。罷免を受けいれてよいと思います。政権離脱もやむをえないと、いま許すきもちになりました。さいごまで連立の道をさぐり(小異を捨てて、何とか可能性をひらく、というのがこれまでの沖縄のがまんでしたから)、「4度目の日米合意」(嘉陽さんがちゃんと見ている)へと希望をつないでゆくことがいまだいじでしょう。でも、どうしても政権離脱以外に道がないなら、それなりに福島氏の自己決定権であり、尊重しましょう。5月29日朝)

核廃絶

さとうまき

5月、NYに行くことになった。核非拡散条約の見直し検討会議NPTが開催される。昨年オバマ大統領が、「アメリカは、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として行動する道義的責任がる」とし、「核兵器の無い世界の平和と安全保障を追及するという米国の約束を表明する」と宣言した。

アメリカの大統領がいうのだから、核兵器が本当になくなるかもしれないし、5年に一度のNPTの会議でも、核兵器廃絶に拍車がかかるのではないかと期待する。日本からも多くの被爆者の方々が、高齢化したこともあり「これで最後だ」とNYで核廃絶を訴えるために渡米したのだ。私も、歴史的な瞬間に立ち会いたいとNYへ出かけることにした。

直行便は席が無く、ミネアポリスで乗り継ぐことになったが、出鼻をくじかれた。僕のパスポートには、シリア、イラク、ヨルダンなどのアラブ諸国のスタンプがたくさん押してある。「なんですか、これは。こちらへきてください」僕は、別室に連れていかれ、4時間くらい尋問され(というよりは、待ち時間がほとんどだったが)なんとか無事に入国はさせてもらったものの、乗り継ぎ便を逃してしまった。同盟国のはずなのに、ひどい扱いである。

それでもNYにたどり着くと、NGOの主催のワークショップなどに参加したのだが、国連の事務総長の講演も聞きにいった。場所が良くわからず、案内の人に片っ端から聞いてまわっていると、なぜか一番前の席に案内してくれた。隣には、広島からやってきた森瀧春子さん。彼女は、核兵器廃絶とともに劣化ウランの廃絶運動も積極的にされている。
「バンギムンさんに要請書をわたさなければ」という。
「アポとっているんですか」
「いや、忙しくて、時間が無かったのです。」
そりゃ無理でしょう。何とかしてあげたいのだが、僕は、事務総長には会ったことも無いのである。

実際、SPらしき人が何人か、客席の前に陣取って監視している。立ち上がって写真を撮ろうとしただけで、注意されるのだ。これでは、近づくのも難しい。現在の事務総長は、なんとなく存在感が無いような印象を持っていたが、スピーチそのものは素晴らしかった。要請書をわたすのなら、降壇する瞬間が狙い目。SPの目をごまかすのには、僕がSPになればいいのだ。

「森瀧さん。今ですよ」僕は、彼女に耳打ちすると、たちあがって、彼女をエスコートした。「さあ、こちらです」
その瞬間、道が開けた。SPは、森瀧さんのことをSPにエスコートされた要人だと思ったのだろう。100メートルの直線をだれもさえぎらず、降壇する事務総長に真っ直ぐとつながったのだ。森瀧さんが事務総長に書類を渡し終えたころ、要人たちが握手を求めて殺到した。作戦は見事成功!

5月2日には、核廃絶を求める大規模なデモがあり、日本人もたくさん詰め掛けて、盛り上げた。それに参加したけど、翌日の新聞には、なにも出ていない。さびしい限りである。

先日、NPTの再検討会議は、最終合意文書を発表した。「中東地域の非核化に関する決議」の実施に関して、国際会議を2012年に開くことを盛り込み、イスラエルによびかけた。案の定イスラエルは、参加しないといっている。核兵器の廃絶、まだまだ道は遠い。

アジアのごはん(34)山椒マイラブ

森下ヒバリ

五月は、緑がきれいだ。
山や野の緑だけでなく、食卓にのぼる緑もうつくしい。ワラビ、こごみ、山ぶきなどの山菜。やわらかなリーフレタス、ぷくぷくふとったスナップえんどう、はじけそうな実えんどう。タケノコに添える山椒の葉。

今年の山椒の実もそろそろだろうか。山ぶきはもう八百屋の店先に出た。山ぶきを見ると、きゃらぶきを炊きたくなる。きゃらぶきというのは、山ぶきの佃煮である。山ぶきは普通の栽培種のふきより細いふきで、五月の始め頃から店先に並び始める。京都ではたいがい、実山椒を一緒に炊き込む。山ぶきと実山椒は出会いもので、絶妙の味のコンビである。わが家ではこのふたつはけっしてはずすことの出来ない組み合わせだ。さらにちりめんじゃこを参加させると、完璧。

しかし、山椒の実が出るまで大人しく待っていると、いつのまにか山ぶきの姿が消えていたりすることもあるので、うかうかできない。山椒の実が店頭に並ぶのが五月末から六月前半のほんのいっときのせいである。ふたつが同時に店頭に並ぶ保証はないので、山ぶきを見つけたらすかさず買う。そして、まだ山椒の実が出ていない場合は、去年の山椒の実をつかって、きゃらぶきを作ることになる。

かつてタイミングを逸し、きゃらぶきのない六月を過ごしたわたしは、山椒の実を保存することを考え、生のまま冷凍してみた。冷凍するとかなり長い間風味が持つ。これで、好きなときに実山椒が使えるぞ。冷凍保存が一番の策かと思えたが、去年、友人が別の保存方法を教えてくれた。生の山椒の実を、みりんに漬け込むというのである。
「ええ、みりんに〜? 生のままで?」「うん、どうせ、みりんもいっしょに使うでしょ」
たしかに。山椒の実を使う料理は、わが家の場合、きゃらぶき、タイのあら煮、いわし煮、鳥きも煮…。はい、たしかにどれもみりん使います。あまり期待せずに小瓶に半分ほど山椒を入れ、みりんを注いで冷蔵庫の奥に置いておいた。

五月のタイは、すさまじかった。
元首相のタクシンを支持する人たちの連合UDDが3月半ばからバンコクに集まって、バンコク一の繁華街を占拠していたのだが、ついに政府が軍隊を使って強制排除を行った。そのときに、UDDの幹部は解散・撤退を表明するも、納得のいかない過激派、そしてそれに乗じた暴れ者たちが街に火をつけ、略奪を繰り返し、銃を乱射したのである。

UDDのシンボルカラーは赤だったので、タイではUDDのことを、ただ「スア・デーン(赤シャツ)」と呼んでいる。3月半ばに初めて大規模な赤シャツ集会が催されたときは、わたしもまだバンコクにいた。赤シャツ集会に参加すると、地方では一日200バーツ、バンコクでは500バーツの手当てが支給された。スポンサー(タクシン派)からのお金の切れ目が集会の切れ目だろうと、タカをくくっていたが、なかなか終わらない。

バンコクでいつも泊まる宿の近所の顔見知りのおじさんが、「赤シャツ集会に行ったか? 楽しいぞ!」とまるでレジャーに行くように誘ってきたのにはまいった。集会に行って、叫んだり、騒いだりしてすっきりしたうえにお金がもらえるのだから、楽しいのか。

しかし、バンコク一の繁華街にデモ隊を移動させ、その周辺を占拠したあたりから、UDDはどんどん武闘派や強硬派に牛耳られ、暴力的集団になっていく。ちなみに占拠したラチャプラソン交差点周辺というのは、東京で言えば渋谷と新宿を足したような場所であり、京都で言えば四条河原町の交差点である。

日本や欧米では、タクシン元首相が選挙で選ばれた正当な首相であるとか、そのタクシンを支持するグループの赤シャツ派は、つまり民主主義を要求しており、非民主的な政府に反対している農民や貧困層を中心とした民衆であると思われていることが多い。しかし、タクシンはやり方のうまいフィリピンのマルコスである。民主的な方法で選ばれた首相であったというのも幻想。金で買った票である。だいたいタイの地方の選挙は金で動いており、資金力のある人間が政治家になる仕組み。

タクシンは汚職を裁判所でさばかれ、有罪になり資産もある程度没収されたのだが、海外に隠し持っている資産や、妻や家族名義の資産は没収されなかったので、相当の資産がタクシンの元に残っているはずだ。この莫大な資産は、まっとうに携帯電話事業などで築いたわけではなく、国家元首の地位を最大限に利用して儲けたものである。法律をねじ曲げ、利権を独占し、賄賂を集めて築いた。

いくら、目先のバラまき政策がうまいといっても、国家を利用して私腹を肥やす男に、なぜタイでこれだけの支持が集まるのだろうか? ただ、金で雇われて集会に来るだけでは、いくら集会でタクシンを理想化し、現政権の悪口を言い募って洗脳しても無理があろうというものだ。

タクシンを支持する人は「金を儲けて何が悪い」「金儲けがうまいのは偉い、すばらしい」と思っているので、有罪になっても、彼の何が悪いのか理解できないのではないか。考えてみると、タイという国の成り立ちからして、集落の有力者が集まって、小さな連合を作り、その連合が集まって国家に近い邦を作り、それが……というものなのだが、この有力者というのは常に金持ちである。金が有れば戦力ももてるし、田んぼを耕す人を雇える。タイが国家らしくなった頃、王とは国一番の金持ちであり、外国との貿易を牛耳る商人であった。この延長で、現在の王家があるのだから、タイ人の一般的なメンタリティとしては、当然、金持ち=偉い人、ということになる。

日本では成金とか成り上がり、というと軽蔑や卑下をともなうが、タイにおいて成金とは、一代で財を築いたすばらしく有能な人物、という肯定的評価だ。もちろんタイの経済界を牛耳る中国系の考え方でもある。つまり、(法律を犯しても)大金持ちになりさえすれば、そのひとは偉大なのだ。となると現政権のアピシット首相などはいくらオクスフォード大学の修士でも、名門貴族で医師一族の出身でも、スーパー大金持ちではないのでダメなのかも。

それにしても、今回の騒乱で多くの死者も負傷者も出た。街の被害は甚大である。ぎりぎりの局面で、妥協した政府の出した和解案を一度は受け入れたUDDが土壇場で拒否したためである。そのときパリで買い物三昧の生活を楽しんでいたタクシンが、UDDの幹部にノーと言ったからだ。ノーといえば、死傷者が出ることは分かっていた。だが、強硬手段に出ればむしろ批判は政府に集まるので、タクシンにとっては好都合だった。

なぜ、ここまでしてタクシンは返り咲きたいのであろうか。もちろん、犯罪をなかったことにして、またタイの権力を握りたいから。そして権力を利用してもっともっとお金を儲けたいからである。タクシンが儲けているお金が、じつはじぶんたち国民の下から集められているということに、UDDに集まった人々は気づくことがあるのだろうか。

細く刻んだ昆布でダシを取り、そのまま3センチぐらいに刻んだ山ぶき入れて煮る。よく料理の本には下茹でして水にさらしてアクを抜けと書いてあるのだが、そんなことはしない。今の時代に八百屋で売っている山ぶきにアクはあんまりないので、下茹ではしないほうがおいしいと思う。手間もかからないしね。きのこ、ちりめんじゃこを加え、醤油、みりんで味つけして、コトコト煮る。
そして、みりんに漬けておいた山椒の実を加える。山椒の実の入ったビンを冷蔵庫から取り出してふたをあけると、ふわあっと予期せぬ香りが立った。うわ、なんだこの優雅な香りは! まるで、バラのようなうっとりする匂い。みりんのほかに何も入れてないのに、なぜバラのような香りがするのだろう。

そういえば、バラにはゲラニオールという香味成分があるが、山椒の実にもゲラニオールが含まれている。香りは、さまざまな香味成分の組み合わせで、わずかな成分の違いがまったく違う香りを作る。生の山椒の実からバラの香りはしないし、想像したこともなかった。みりんに漬かっている間に、何が起こったのだろう。う〜ん、ミラクル。

出来上がったきゃらぶきは、口に入れると、うっとりとする香りがかすかに喉を通り抜ける、絶妙の味。山椒のみりん漬け、素晴らしいぞ!

しかし、その後二回目に作ったきゃらぶきは、山椒のみりん漬けを気前よくたくさん入れすぎ、見事にバラの香りがぷんぷん。香水みたいで食べにくいったらない。ああ、過ぎたるは及ばざるが如し・・。

終りのない欲望にとりつかれたタクシン。喉の奥を通りすぎる微かな香りにうっとりするようなシアワセは、けっして感じないのだろうな。

最後のメキシコ便り(33)

金野広美

長い間みなさんに読んでいただきましたメキシコ便りもこれが最後、私は今帰国の途につきアトランタでの16時間の待ち時間に最後のメキシコ便りを書いています。

メキシコに来た時には全くいなかった友人も今ではたくさんでき、一人ひとりとの別れの挨拶はとてもつらいものでした。いつも大学のキャンパスで会話の練習にと時間をとっておしゃべりをしてくれた、インディヘナ・アートのクラスの友人アドリアーナ、トイレでさいふを拾ったことから友だちになり家族ぐるみのつきあいをしたバネッサ、「今度はいつくるの」といつも聞いてくれ、メキシコ料理の作り方を教えてくれたデルフィーナ、「メキシコの歴史と政治」のクラスで知り合ったラウラはメキシコの現状や問題点について、常にわかりやすく説明してくれました。また私のクラスに教育実習に来て親しくなったタニアは毎回進級のためのオーラルテスト(みんなの前で5分間話すもの)の下書きを添削してくれました。全過程を無事に終了できたのも彼女のお陰だと思っています。また、日本語とスペイン語をお互いに教えあい両国の文化について語り合ったエマ。サルサ教室で知り合いよく一緒にディスコに行ったロサルバとアロンドラ姉妹。私のアパートでトラブルが起こった時、助けてくれた、となりのマリオ。そして若いミゲルは私にメキシコの負の部分も知って欲しいと貧しい人々が住む地域に彼のお母さんとともに案内してくれました。

彼のお母さんは通りで物売りをする母親のために寄付を募り、保育所を建設し運営しています。ミゲルは保育所で子供を預からないと子供が通りに放り出され、いつしかドラッグに手を染めてしまうといいます。彼はその保育所でギターを教えたり、そこで開かれるさまざまな勉強会に積極的に参加したりしながら、保育所運動の必要性をいつも熱っぽく語りました。若い彼が一生懸命に少しでも社会をよくするためにと活動している姿は、とてもすがすがしく頼もしいものでした。そんなミゲルがある日、メキシコ・シティー近郊のトルーカにあるプレイスパニコ(スペイン人がメキシコにやってくる前の時代)から続いているテマスカルと呼ばれるサウナ風呂につれていってくれました。

大きなセメントで作られた直系5メートル位の円形のサウナで、中央で炭が燃やされます。約50人位の人が中に入り壁に沿って座ります。家族連れもいて7ヶ月位の赤ん坊もいます。そしてなにやら巫女のような人のお祈りのあと中は真っ暗になり、笛や太鼓の激しい音が鳴り出しました。すると赤ん坊が激しく泣き出しました。それは当然です。真っ暗な上に赤ん坊にとっては恐ろしげな音楽なのですから。そして20分たつと明るくなり、音楽も止み、赤ん坊も泣き止みました。他の人たちは汗だくになり外で水をかぶったりしています。

20分サウナ、10分休憩を4回繰り返すのだそうです。私は赤ん坊のお母さんは外に出てきっとそのまま帰ってこないだろうと思っていましたが、彼女はまた赤ん坊を連れて中に入ってきました。そして再び真っ暗と激しい音楽、赤ん坊の泣き叫ぶ声、私はリラックスするどころか、たまらなくなって耳をふさぎました。

20分が過ぎ私はミゲルに「なぜあのお母さんは子供があそこまで泣き叫んでいるのに平気なの? そして他の人たちはなぜ誰も注意しないの?」と聞きました。するとミゲルは「あの家族はこの辺りに住むインディヘナだけど彼らとは文化が違うのだよ」といって、自分は熱すぎて4回も入れないからと出て行ってしまいました。私はその答えに納得できないままサウナに残りましたが、またもや始まる激しい泣き声。思い余って次の休みに赤ん坊の母親に「あなたの赤ちゃんはこんなに怖がっているのに、どうして泣かせたまま放っておくの」と聞きました。すると彼女は「ずっと抱いているけど泣き止まないのよ。子供は泣くものだから」と平然というのです。私はその答えにびっくりしてミゲルにいうと彼は「さっきも言ったように彼女たちはずっとそう考えて生きてきているんだし、イスラムの人たちが豚肉を食べないのと同じで文化が違うのだから」といいます。

しかし、私はこれは文化の違いの問題ではないと思うのです。それは彼女に子供の気持ちを考えるという思考方法がないからで、これは教育の問題だと思うのです。確かにそれぞれのインディヘナたちの持つ文化、習慣を重んじるというのは大切なことですし、文明の名のもとに進める近代化がすべて良いとも思いません。しかし、こればかりは違うと思います。子供にとって幼いころの恐怖体験は、きっと心に傷を残すし、そんな子供の心理を学ぶという教育が彼女たちには必要だと思うのです。

このできごとにも見られるように、メキシコには教育の欠如、不備による多くの問題があります。平気でゴミを道端に捨てる人、最後まで責任を持って仕事をしない人、駐車場と化している道路でこずかい稼ぎをする警官、いつまでたってもなくならない政治家の腐敗、保身と蓄財しか考えていない労働組合の幹部などなど、いいだしたらきりがありません。

親が子にしっかりと人間としてのエチケットやマナー、責任感について教えられない家庭教育。また、学校の施設が足りないため午前と午後の2交代制で十分な勉学の時間がとれない学校教育。こんな中では人間としての豊かな感性を磨き、人としてどう生きるべきかを学ぶための時間などは当然削られてしまいます。そして、ただ同然の国立大学(ちなみに私の通っていた大学はメキシコ人なら年2ペソ、約16円です)は、あまりにも狭き門で、私立は高すぎるという大学教育の現状、メキシコではわずかの秀才かお金もちでない限り大学まではなかなか進学できません。

これらのことをみるにつけ、トータルな人間教育がここでは十分できていないのだという気がしてくるのです。国の根幹をつくるのは教育だといわれますが、そういう意味ではメキシコはかなりお粗末な状況にあると思います。

この話を友人のラウラにすると、彼女は「メキシコは生まれて200年の若い国なので、まだまだ発展途上にあり国としての成熟が遅れているのよ」といいます。「え? 200年? メキシコには紀元前からの歴史や文化があるじゃない」というと彼女は「それらは文化遺産としては残っているけれど、スペイン人がメキシコを征服した時、私たちの歴史を証明するものはすべて焼き尽くされ、我々の歴史としてはスペインから独立した後の200年しかないのよ」というのです。うーん、なるほどそういう見方もあるのかと妙に納得させられてしまいましたが、そういえばミゲルも「この国が変わるにはあと3世代100年はかかる。スペインに征服されていた期間と同じ300年はかかる」といっていましたが、私は彼に「メキシコ人はなにごとにもゆっくりだからあと100年じゃ無理よ」なんて茶化したりしましたが、それにつけても300年に及んだスペインの征服。この征服がメキシコに及ぼした大きすぎる影響について別の友人のエマとこんな話になりました。

ある日、私が常日頃感じていたメキシコ人についての疑問をエマにぶつけた時のことです。その疑問というのはメキシコ人はとても我慢強いというか、なかなかお上に対して抗議行動をおこさないのです。いつまでも放って置かれている道路の大きな穴や、出っぱった杭、これらをを直すように役所に文句をいう人はいません。4日も5日も断水が続いても、水が出るまでだまって黙々と水運びをします。けた外れに荒っぽい地下鉄やバスの運転にも何も言わず耐えています。のろのろした役所の仕事ぶりにも長い列をつくってひたすら待ちつづけます。

私はエマに「いったいどうしてメキシコ人は我慢するの? なぜ抗議しないの?」と聞きました。するとエマは「抗議をしても無駄、何も変わらないとあきらめているのと、それにも増して権力にたてつくのが怖いという気持ちがあるのよ。そしてこの恐怖心は300年に及んだスペイン征服時にメキシコ人にすりこまれたものなのよ」というのです。そして「あまりに長い期間だったのでいまでもお上は恐ろしいという気持ちがなかなか消えないのよね」と続けました。うーん、そういえばメキシコ人はよく思い通りにならない時に、ニモド(仕方ないね)といいます。いつもこの言葉を使ってあきらめてしまい、あまりものごとを深く追究しようとはしません。そしてフィエスタで飲んで、しゃべって、踊って忘れてしまいます。

しかし、私は今はもうスペインの征服者は居ないし、おまけに現代に生きる人たちが、まだその恐怖を覚えているというのはどうにも納得できません。彼らがあまり抗議行動をしないのは恐怖心の記憶というより、私には別の理由があるような気がするのです。それはメキシコは1810年にスペインから独立しましたが、依然として、うっとおしい他国による征服状況は続いているのではないかと思うのです。というのはスペインは去ったけれど、代わりに米国が今、メキシコ経済を牛耳るという形で領主国のようになっているような気がするのです。大きなスーパーマーケットやホテル、レストランチェーンをはじめとしてたくさんの米国資本がメキシコに入り、利潤は米国に持っていかれます。そしてまた、危険を覚悟の上で多くの人が国境を越え、米国に出稼ぎしています。家政婦をしたり、工事現場で働いたりする彼らがメキシコに送金してくるドルはいまやメキシコ経済の大きな支えになっているのです。米国がくしゃみをするとメキシコは風邪をひく、といわれるほどメキシコの経済は米国によりかかっているのが現状です。スペイン人による破壊、略奪、暴力という征服のやり方とは変わりましたが、経済生活における相変わらずの他国による圧迫感と閉塞感があきらめの感情を呼び起こし、それがなかなかプロテストできない原因のひとつになっているのではないかと思うのです。

しかし、このラテンアメリカに共通する図式は今ブラジル、チリ、アルゼンチン、ベネズエラ、ボリビアなどの動きとあいまって少しずつ変化が現れてきています。困難さはともなうでしょうが、いつの日かメキシコがスペイン300年の呪縛と米国のくびきから解き放たれ、名実ともに明るい「太陽の国」になって欲しいと切に願います。

思えば2年5ヶ月前、メキシコに着いた時、言葉のできない異国で一人でやっていけるのだろうかという不安感と、しかし、来てしまったのだという開き直りが交錯する中での武者ぶるいにも似た感覚ではじまったメキシコ生活でした。

右も左もわからないまま行った大学はあまりに広すぎて入り口を探すだけで何時間もかかったり、構内バスに乗ったはいいけれど同じところを何度も巡回して地下鉄の駅にたどり着けなかったりと、散々な目にあいながらも私の学生生活は始まりました。先生のいうことはさっぱりわからず回りは欧米から来た若者ばかり。みんなよくしゃべり、理解できているように見えて何度も落ち込みました。彼らの何倍もやらなくてはついていけないと悲壮な気持ちになりましたが、逆にいうと何倍かやればついていけるのだと思い直し必死で勉強しました。毎日12時間はやったでしょうか。私は今60歳、世に言う還暦です。友人たちは記憶力がなくなってきた。集中力が落ちてきたと嘆いていますが、私は自分でもびっくりするほど記憶力が増し、若いころより数倍も集中して勉強できるようになりました。メキシコに来るまでは能力低下を年のせいにする傾向がありましたが、今では若いころに流行した根性論ではなく本当に「やればできる」と思えるようになりました。やりたいことに対する深い思いとそれをやれる環境をどうつくれるかで、いくら年をとっていても「やればできる」のだと思えるようになりました。もちろん強靭な身体に産んでくれた両親に感謝しつつ、この自信でこれからはあまりいいわけをしない人生を歩んでいきたいと思っています。

時にはメキシコ大好き、時にはメキシコ大嫌いとさまざまな思いが交錯したメキシコ生活でしたが、メキシコは私に学ぶことの喜びと大きな自信、そしてすばらしい友人たちを与えてくれました。私にとっては人生の中でもっとも充実した2年5ヶ月だったと思います。めまぐるしくいろいろなことがありましたが、今ではメキシコだーーーーーーい好きです。

マニラより

冨岡三智

5月27日からAPIフェローシップ(日本財団)の10周年記念式典で、フィリピンはマニラに来ていて、いま、ホテルのチェックアウト直前にこの原稿を書いています。昨日30日に、フェロー・アーチストによる作品展があって、日本人フェロー4人でコラボレーション・パフォーマンス作品を上演させてもらったので、その紹介だけをここで少ししておきます。このイベントの詳しい内容は来月にまた書けると思います。

作品タイトルは「クロスオーバーラップ」。クロスオーバーとオーバーラップという単語を1つにした造語です。作曲は田口雅英、パーカッションが伏木香織、舞踊がタイ舞踊がベースの岩澤孝子、ジャワ舞踊がベースの私、そしてフェローではなく現地からのゲストプレーヤーとしてCriselda Peren、若くて愛らしい女性です。アジア、伝統、西洋、コンテンポラリ…といったものが、私たちの身体を通して、思いがけない方向へとクロスオーバーし、波紋のような感じでオーバーラップして出てくることをテーマに作品が作られています。

会場は、この10周年記念式典も行われたアテネオ大学の構内にあるアート・ギャラリーの中です。この会場には他のフェローの写真や映像作品も展示されています。そこで、インスタレーション的な作品として、通りすがりに見てもらうような感じとして36分余りのこの作品を作ったのですが、ばらばらに到着するバス(この日は展示会場があちこちに分散していて、フェローはバスでそれぞれの会場を巡ることになっていました)が一度に到着してしまい、さらにアカデミックなフェローたちには、作品は最初から最後までじっと息をひそめて見るもの、という気持ちも強かったのでしょう、結局最初から最後まで大勢の人たちに囲まれて、じっと動物園の動物を真剣に見るような感じで見られてしまいました。それもありなのですが、じっと見ているのはつらかっただろうな、と、ちらっと脳裏を横切りました。

というわけで、そろそろチェックアウトタイムなので行きます。

作品作りの前にいろいろと事務的なレベルで様々なすったもんだがあり、上演できるのかどうかが危ぶまれた上に、リハーサルをしていた会場では、ライトの位置を調整しようとして照明レール自体が外れてしまったり(本番中にライトがレールごと落ちてこなくてよかった…)という、フィリピン人のアバウトな準備ぶりにいらいらしていたので、ともかく実施できて良かった、無事終わって良かった…という安堵感にいま浸っています。

作曲のメモ

笹久保伸

楽譜には音符を書かず
奏者の演奏(パフォーマンス)を助けるための○○○を書く(もしくは準備する)
奏者はその○○○に助けられながら 自分で作品を作りあげてゆく
作品は奏者によって その内容が変化してゆく
しかし 即興ではない
作者は「作曲」という作業の中で 奏者の手助けをし
奏者は演奏という作業の中で 作者の手助けをする
作者は奏者を作品内へと導く
奏者も作者を作品内へと導く

作者の意思を(石を)奏者が表現するとか そういう事はしない
また個人的感情を(しかも知らない人の感情を)一度紙に書かれた記号をまた音に出し 他人に押しつけるというのは あまり

また奏者は作者のために演奏している という精神もあまり

作者と奏者の距離感を一度考えてみる
どうしても作品やその演奏―演奏会などの活動は「共同作業」の中で成立する  

○○○とは何でしょう(三文字でなくても良い)
この場合は「指示」というのはだめ 指示は上から落ちてくるし
大体一方通行になって ある一定の形がきまってしまう
「テーマ」ってのは普通すぎる
「合言葉」とか「ひみつ」 くらいがいいか

しかし料理の本を見ながら料理しても 本から味はわからないし
本のようにはならない
もし本に書いてある通りに作ったとしても
「本の写真にある料理の味になったか」 を確かめる事は
著者と読者の関係性ではなかなか難しい
著者が死んでいたら会えないわけだし
料理なら一度覚えて自分で勝手に作ったほうが都合がいい
即興性がある

しもた屋之噺(102)

杉山洋一

ミラノのスカラ座劇場のほの暗い控室は、フィーロドランマーティチ通りに面した2階にあって、深紅の猫足の長椅子に身体を横たえ目を閉じていると、ちょうど通用口の真上辺りだからか、外から聞こえてくる演奏者の話し声が耳に心地よく、薄い眠りを誘います。あまり広くない控室には、年代物の大きな仕事机と猫足椅子、そしてこのモケット張りの旧い長椅子に、スタンウェイのアップライトピアノが置かれていて、通りに面し大きな半月の明かり窓が開けられています。よく磨きこまれた洗面台の鏡には、スカラ座の印章が彫りこまれていました。

今月はしばらくスカラ座アカデミーの現代アンサンブルと仕事をしていて、昨日スカラ座での本番が終わったところです。リドット・トスカニーニと呼ばれる小ホールのちょうど真中に、品がいいとはいえない黄金のトスカニーニの像がプッチーニと相対して鎮座していて、その傍らのボックス席に潜り込み、次の舞台の大道具が組み立てられる様子を眺めつつ出番を待っているとそれは面白くて、子供のように心を躍らせ見入ってしまいました。

昼過ぎのリハーサルが終り、劇場の食堂で音楽部長のダニエレと食事をとっていると、同じく昼休みになったところなのか、周りは練習着ののバレエダンサーに埋め尽くされて、バレエが大好きな息子が頭を過ぎり、しばらくぼんやり彼らを眺めていました。

「バレエが美しいことは確かに認めるけれど、彼らのストイックな人生は人間らしさとは程遠いものだから」。
傍らでダニエレが呟きました。
「自分の子供にはやらせたいとは思わないな。週末も正月もお盆もクリスマスもなにもない。他の連中が休んでいる間も、毎日劇場に来ては稽古をする。しなければ身体が駄目になってしまうからね。その上、スカラに来るようなダンサーは、みな子供のころから競争のストレスに晒されているのだし。いずれにしても、音楽家とは比べ物にならない大変な職業さ」。

今月練習に通っていたスカラ座アカデミーは、スカラ座からほんの少し下ったヴェッキア・ミラノと呼ばれる旧市街の一角、サンタ・マルタ通りにあって、何番教室、何某教室といかめしい古い看板が架けられているので、昔は何か別の学舎だったに違いありません。

廊下を進むとあちこちの教室の扉が開け放してあり、さまざまな授業風景が垣間見られるのも愉快な経験でした。毎朝ずっとマネキンの頭部と真剣に向合っているカツラのクラスから、ライブ録音専門技師のクラス、化粧台の前で白塗りされるメーキャップ・クラス、衣装を作るクラス、とヴァラエティに富んでいます。当然、オペラアリアのレッスンも聴こえてきますし、バレエや児童合唱のクラスもあるそうですから、どこかに大道具や小道具クラスもあるのでしょう。練習風景を撮りに来る写真科学生もいれば、本番も録音技師クラスの実施授業として、見事に録音されていました。

オペラという総合舞台芸術を学ぶアカデミーに、何故現代音楽アンサンブルがあるのか不思議に思いましたが、微塵も無駄には使われていない印象を受けました。スカラ座という晴舞台が与えられれば、演奏学生も奮起するでしょうし、文化省の学校改革、教育カリキュラムに縛られた国立音楽院では対応しきれない、現実のニーズに則した学校体系が実現できるのでしょう。

ちょうど去年の春、大凡同じ世代の音大オーケストラと東京でご一緒したのを思い出しつつ、また違う土壌で音楽を学ぶ若者と演奏会を共有できたのは刺激的で、自らの未熟さを改めて痛感する上でも、実に有意義な時間でした。

その昔は、研鑽を積み重ねて自分の表現に到達できるものと信じて疑わなかったものですが、或るときから、教えられて学ぶことと、自分が自ら表現したいこと、つまり自分の意志で思考することは、平行に伸び続ける一対の鉄路のようなものではないかと考えるようになりました。教えられて学んだことだけでも脱輪してしまうし、自分の表現だけ追及しても脱輪してしまうので、二本のレールに渡された車輪のバランスをとりつつ、学んだことから自分の表現を見出そうとする推進力、表現したいことを実現する技術を磨くために学ぼうとする推進力、この二つの力によって前に進むことが出来るのではないか、とそんな気がしています。

先日1年半ほど前から一緒に勉強しているMより、チューリッヒ音大マスター入試が、及第点で通過したものの席が空かず次点に終わってしまった、この間の自らの成長は実感できるけれども不安に感じることも増えてきていて、今さらながら自分の個性は何なのか考えてしまうというメールを受け取り、2本のレールの話を思い出したところです。

旧市立のエミリオの指揮クラスが閉められ、放出された生徒のため寺小屋を始めて2年が過ぎましたが、耳の基礎訓練のクラスのため旧市立には今年も細々と通いました。2年前にエミリオを解雇した学長は5月をもって解雇されました。
「とにかく今はお前が何らかの形で名前を残していることが大切だ。この状況下では今すぐにどうにもしようがないが、きっと将来機会が見つかるかもしれない。それまでとにかく粘ってくれないか」。
疲弊した学校再建を任されたアンドレアからメールが届きました。

Mと同じように不安にかられながら昔エミリオの下で学んでいた頃と、状況は大差ないのかも知れません。頼るものなど皆無で、果たして道が正しいかすら判然としないまま、乳白色に煙る深い朝霧のなか、風に揺れるへろへろの高い吊橋を、小刻みに震えつつ、今も毎日渡り続けているのですから。

(5月31日ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

   7

目に見えない情感を語るのが抒情なら
そのための最適の速度をどうやって調整しようか
南方の沙漠から窓辺にやってくる蜂鳥が
空中で静止したり急に方向転換したりするのを見た
ブーゲンヴィリアが炎のように成長する
だが史実はそれ自体としては現在に及ばない
緯度と体感温度の戦いではつねに緯度が敗北する
経度は経典の正統性に非関与に留まる
映像はかつて事実に密着したというが
ペルナンブコの正午の海岸におけるポルトガルの
ユダヤ人とオランダのユダヤ人の口論については
何の情景も覚えてくれなかった
精霊のフィルムは未だに露出を知らない
修道女は私的なカタコンベでの抱擁を拒絶した
名前を知らない十七世紀の果実が道端に落ちて
甘く腐った匂いをいまも漂わせている

   8

鳩が海から帰ってくる
この砂浜の太古からの経験に
枯れた流木が散乱する荒れたさびしさを
小さな足取りで点検するために
灰色の空と鉛色の波のあいだで
光として点滅しつつ
この世界に打ち込まれた懐疑を探している
彼女、荒涼の天使は、そんな懐疑に責任をもつからだ
別の鳩が山から帰ってくる
渓谷を分割する気流の分かれ目をついて
遡上する魚たちの試みを励ますように
生殖の塩のイオン交換を調査したらしい
(群れはこれから梯子により登山する)
広葉樹と針葉樹が陽光をめぐって戦う
その入り組んだ緑を羽根裏に映しながら
彼女はあらゆる懐疑の彼方にふわりと着地する

Proteze ou baba

くぼたのぞみ

その海できみはなにを見たの 
偶然にも 迂回して立ち寄ることになった ちいさな島
泊まったのは 屋根が藁葺き 壁もポーチの四角い柱も 
真っ白に塗られて ちいさな高窓をくった 瀟酒なコテージ

インド洋の真珠 モーリシャスのホテルの
レセプションカウンターには 流行ではないのだ たぶん
男はかくあるべし といった風情で髭をたくわえた 
黄色いシャツ姿の男が2人いて 人差し指を
鼻の下にあてがった1人が なにやら
考え込むようにして 相方の作業をじっと見ている

浜辺では コバルトブルーとはこういう色
と主張する海と すばらしく晴れ渡った空に抱かれて
ひろった記憶のなかの砂は 黒い土の砂ではなく
ふぞろいの白いビーズのような 珊瑚や貝殻の細かな砕片 
波に洗われ エッジはすべて失われ 手のひらを切ることもなく
しゃらしゃらと ひたすら しゃらしゃらとこぼれ落ちた

Proteze ou baba──そう書かれた 2ルピーの記念切手が 
出さずに終わった火炎樹の絵はがきに いまも3枚貼られたままだ
クレオール語の意味も いまならわかる 
赤ちゃんを守ろう 結核 百日咳 ジフテリア 破傷風 ポリオ 麻疹

そこできみはなにを見たの ざくざくと金貨の入った鞄のように
天からふってきた旅が観=光でなかったはずはないよね

製本かい摘みましては(60)

四釜裕子

東京製本倶楽部のお誘いで姫路に皮革工場を訪ねる。姫路は革の出荷額が全国の半分(成牛革は約7割)を占めるそうだ。10時前の姫路駅に集合、天守閣の修復がはじまった姫路城を遠くに見て、タクシーで(株)山陽さんへ。運転手さんに社名を告げると、「山陽は日本一の革工場、住所言われなくてもわかるよ」。道すがら地元のうわさ話に笑いまもなく到着、会議室でひととおり説明を受ける。創業1911年、敷地3万坪。生後半年〜2年の中牛皮と2年以上の生牛皮を月にそれぞれおよそ5000枚と2000枚出荷しているそうだ。今日はこちらでクロム鞣しとタンニン鞣しの工程を見せていただく。

事務所を出て原皮の貯蔵庫へ。ドアを開けるとひやりとした湿気と臭い。白っぽい中に肌色や灰色をした皮が、血や汚れをつけたまま、たたまれてコンテナに積み上げられている。主に北米から、塩漬けされた状態で輸入しているそうだ。あたりまえだけど革の元は皮。貯蔵庫を出て隣の棟へ。窓の外に水色の革の端切れの山が見える。大量注文を受けた色なのだろうか――。場内は広い。大きい。左に大きな牛乳瓶が昼寝したような機械、奥には水車のような丸いものが並んでいる。床は水で濡れている。圧倒される。事務所でいただいた工程図を手元で確認しておく。(1)準備(脱毛)して、(2)鞣し(皮に耐熱性と防腐性を付与)て、(3)仕上げ(乾燥、塗装)。

まず、原皮の汚れや血を取り除く。同時に、水分を補ってもとの生皮の状態に戻して、皮の内側についている肉片や脂肪を取り除くために裏打機に1枚ずつ(大きな皮は背筋に沿って半分に分けておく)入れていく。水分を含んだ皮はいかにも重そうだ。少し高いところに機械があるのは、取り除いたものを落としやすくするためだろうか。次に、皮を石灰に漬けてアルカリにして膨張させて、毛や脂肪、表皮を除く。皮自体を柔らかくもする。それから分割機に入れて皮の表面(銀面)と裏面(床面)を分ける。床皮は皮革としても使われるが、おもに食用・工業用・医療用のコラーゲン製品となる。

もう一度皮を石灰に漬けて柔らかくする。そのあと、アルカリになった皮を酸性溶液に浸して中和させる。いろいろな工程において、先に見たドラムが使われている。ドラムは木製で、大きさは大中あったが直径3メートル、高さ3メートルくらいの円柱が横になって備えてあって、水車のように回転する。この中に溶剤と皮を入れて回すと、内側にある突起に皮がひっかかっては落ち、ひっかかっては落ちする。穏やかに回るのでうるさくはない。近くに溶剤が、柱に沿って置かれた棚には道具が、きれいに並んでいる。場内をブーンと1人乗りの荷台が過ぎる。床はあいかわらず濡れている。どれだけ水が大切なことだろう。こちらではずっと、井戸水を使っているそうだ。

いよいよ鞣し。まずはクロム。皮に鞣し剤が浸透しやすいように先に酸性の液に浸してからクロム塩の溶液につける。これもドラムで行われている。ちょうど仕上がったものが、ドラムに開いた四角い口からのぞいて見えた。青い。そうか、クロム鞣しは一旦必ずこの色になるのだとようやく気づく。どうりで水色の皮ばかりが積み上げられているわけだ。ドラムから皮を引き出すのも、ドラムの中を洗浄するのも、たいへんそう。資料には「鞣し工程で皮から革になる」とあるので、ここから「革」と書くことにする。このあと革は1枚ずつ、男性2人が呼吸を合わせて水絞り機にかけていく。これまたいかにも重そうだ。絞られた革は薄い水色になり、きれいに重ねられている。触れてみる。しっとりと、少し温かい。

革はタイヤ付きの担架のようなものに載せて、シェービングマシーンに運ばれる。厚みを一定にするのだ。先に見た水色の革の端切れの山は、ここにあった。このあと、用途に合わせてもう一度鞣したり染色や加脂が行われ、セッティングマシンで水分を取りながら伸ばしては、熱風などで乾燥させる。再び水分を与えてもみほぐす。そして、網板に形を整えて張って乾かす。革の周囲にあるひっかけたような穴は、この時につく。見上げると、黒い革が1枚ずつフックに吊り下げられて、ゆっくりと奥のほうに流れて行く。これも乾燥の一手段。そういえばここのところ洋服屋はシャツでもジーンズでもこんなふうに1つのフックにひっかけて並べるところが増えたな、と、思った。

奥に水槽が並んでいる。タンニン鞣しのためのもの。濃度の異なる3つの液に順番に浸すのだそうで、仕上がりまでに30〜40日もかかる。様子をうかがいながらじっと待つ――先に見たクロム鞣しとは、化学的な違いもさることながらあまりにわかりやすい物理的な違い。タンニンは南アフリカ産のミモザ。クロムの青に対してこちらは茶色、このあと漂白してから加脂、伸ばしなどの工程に進む。クロムとタンニンを組み合わせて鞣したり、タンニン鞣しもドラムを使うところがあるようだ。

網板に張って乾かした革は、このあと銀をむいたり塗装したり、艶出しや型押しなどの表面加工がほどこされる。このあたりには、タイヤがついた、高さ120センチくらいの大小の馬鞍型のものが随所にある。色とりどりの革が、これにかけて運ばれていて、きれいでかわいい。艶出し機械の横には、へら状の道具が並んでいる。目の粗さがいろいろあって、これで革の表面をなでるようだ。機械化される前はすべてこうした道具で行われていたわけで、今でもちょっとした加減をみるのに使っているのだろう。革はこのあと、計量して検査のうえ出荷となる。

ここまで2時間。工程を目で追うのが精一杯だった。水分を与えては絞り、与えては絞りの繰り返し。気候をかんがみ、皮の様子をみながら、傷つけることなく、長所を活かし、短所を補い、鍛え、柔らかく、強く、美しく……。何かに似ている。スポーツだ。「皮」という運動能力の高い人を、工場の人がトレーナーとなり、「革」という選手に育てているのだ。名残惜しいが、(株)山陽のみなさまにお礼を言って後にする。昼ご飯を食べ、午後は白鞣し保存会へ。(この項続く)

オトメンと指を差されて(24)

大久保ゆう

立場上、よく学会やら勉強会やらに出向くことがあるのですが、その際の服装について少々思うところがあります。教員になれば背広やカッターシャツのみで出てもいいのでしょうが、当方はまだ大学院生ですし、フォーマルすぎる装いにはどこかしら違和感があって、かといってカジュアルすぎる服では学問の場にはあまりそぐいません。そこで、たいていは自分(紳士服屋の息子)の思うフォーマルとカジュアルのあいだくらいの服装をして行くのですが、たまたまそのあたりの格好で後輩たちの前に出ることがありまして、するとこんな反応をされました。

「おおお、執事! それは執事というやつですね!」

えっ、執事? これが? ……確かに、今は英文学の研究もしているので、そう呼ばれることはやぶさかでありませんが……私自身の思う執事のイメージとはかなりかけ離れていたので、その発言は寝耳に水で。

服の組み合わせとしては、ごくごく簡単です。黒・ダーク系のシンプルなジャケットに、高めの襟をもった柄もののカッターシャツ、細身のネクタイに、下はそこそこタイトな同色系のデザインパンツ――と、ここまでだと下手をすればホスト風にも見えなくもないのですが、違うところはさらにベストを合わせているところです。たぶん、このベストが〈執事〉と言われるゆえんなんだと思うのですが、まさか執事と呼ばれるとは思っておらず……。

しかし、今の世の仲(とりわけサブカルチャー文脈)では〈執事〉キャラが女性に大人気であり、「お帰りなさいませ、お嬢さま」と女性客を迎える〈執事喫茶〉なるものもあるとあっては、ホストと執事のイメージは紙一重なのかもしれません。(今年の春は寒く、時折手袋をはめていたのも原因のひとつかも。)

そう考えれば、世の20代後半から30代前半の男性に対して、あえて〈執事風ファッション〉を押していく方向性も考えられます。いわゆるオトメンファッションのひとつとして。オトメンのあり方として〈少女マンガから出てきたような〉というイメージがあるとするなら、今流行っている〈執事〉を取り入れないでどうするか! というふうに煽っていってもよいでしょう。
そう――紳士らしく、執事らしく、カジュアルなジャケットの下にもフォーマルなベストを着るのです!

というような、まことに勝手なファッションを流行させようとする主張を、仲間うちで戯れに試みることがあります。よくあります。勢いで盛り上げて実行してみることさえあります。ついこのあいだも、そのようなことを致しました。

パン焼き日誌-「今日の早川さん」3巻発売記念、コスプレ早川さん

私たちは〈本ガール〉というものを流行らせたく思っています。いや、そもそもは本文中にも〈早川ガール〉というように、早川書房のSFを好むような女子を『今日の早川さん』という本好きあるあるマンガにあやかって確立させたかったのですが、その後あれこれ話しあった結果、あまりにも対象層が狭すぎるだろうということで、大きく〈本好き女子〉というものにしてみました。

たとえば、本の表紙やカラーリングに合わせた地味めの服装をして、雰囲気のある書店でグラビアを撮ってみるとか。これは本屋のアイドル、というような方向性かな。または〈森ガール〉の向こうを張って、森にいそうというよりも、薄暗い埃だらけの書庫にいそうな女の子とか。OPACなんかには頼りません、カード検索一筋です、みたいな。あるいはクトゥルフ神話が大好きな〈クトゥル風ファッション〉でもいいですよ。服から触手のようなものがたくさん生えているんです、いあいあ。

それはさておき、新潮クレストブックスによく似合うファッション、ないし岩波文庫にぴったりのコーディネイト、とか考えるだけで楽しいですよね。実際、今回モデルをしてくれた友人を見る限り、とても面白そうでした。ハヤカワSF文庫の〈青背〉を基調として、全身を淡いブルーの系統でまとめて、髪型とメガネをマンガの登場人物に合わせたりなんかして。

どこで本を読むにせよ、読書の際の雰囲気は大事にしたいですし、できればその持っている本や場所に合致した服装をしたいものです。裸の本だけじゃなくて、ブックカヴァーやメガネも含めてアレンジしてしまってもいいかもしれません。そういうものを総合して空間が美しく見えれば素晴らしいですし、そうすれば結果として写真に残すに値するものとなったりなんかしたりして。

世間では電子書籍元年とか言われ、どんどん本が電子化されて形を失っていくのかもしれませんが、その逆をいって、あえて〈書籍のモノ性〉を押し出してみるのもいいのでは、と。(その方向性で行くとiPadもファッションツールのひとつとして、全身をサイバー風にしてみるとかもいいのでは、と。)

せっかく装丁なりブックカヴァーなりがあるひとつのデザインになっているんですから、それに合わせたファッションにしてみたっていいでしょう? 大好きな本に、自分の全身を染めてみるってことで。新しい文学少女の誕生かも。

世の本好き女性の方々、いかがでしょうか。これ、やってみません?

私たちはそんな本ガールのモデルを募集中であります。半分冗談ですが半分本気でもあったりして。というか今回モデルをしてくれた我が悪友が本ガールファッション仲間を欲しているというか私が広告塔を仰せつかわされているというか何と言いますか行きがかり上。私としてはそれから最終的に一冊の写真集なんかができちゃうことをただただ妄想しておる次第でございます。 

片岡義男さんを歩く(5)

若松恵子
片岡さんの写真に対して、どう受け取ったら良いかわからないという思いを抱いてきた。
小説で描こうとした一瞬、その大切な瞬間が、まさにぴったりの形を与えられて1枚の写真となっている、片岡さんの小説と写真にそんな一致を期待していたからかもしれない。しかし、片岡さんの写真は、そういうものではなかった。こちらの勝手なイメージを託すことも、何かそこに意味を読み取ることもできない、現実の風景に見えた。
今回『東京を撮る』と『名残りの東京』の写真を見ながらインタビューをして、写真を(風景を)見るとはどういうことか、その一端に触れることができたように思う。写真に切り取られた塀と生垣の緑と路地の色が、初めて見えてくる瞬間があった。
『なぜ写真集が好きか』(太田出版 1995年)のあとがきで、「撮影された写真は、被写体に対する客観的な態度というものの、高度な見本のひとつだ。」と片岡さんは言っている。そして「客観的に見たいという願望の内部には、世界や事物、そして人を、より正しく、より深く、結果としてより良く理解したいという願望が存在している。」と。その反対の態度「浅い主観で写真を撮ること、そして浅い主観をとおして写真を見ること」についても言及していて考えさせれられる。違ったものに見える片岡さんの小説と写真。その根底で、対象に向き合う態度(視線)は共通しているのではないかと思う。片岡さんの写真を見ることが、小説の読み方を深化させるような気がする。

――最新の短編集を出す左右社から写真集も出版されますね。楽しみです。写真集の題名はもう決まったのですか。

『ここは東京』です。いいでしょう。ありそうでない題名。3冊つくるといいかな。『ここは東京』『ここも東京』『ここが東京』(笑)

――その「は」と「も」と「が」の違いは?

何もないです。ただ3冊つくりたい、と。写真は撮れば撮るほど増えていくわけですから、撮らなければ増えないのだけれど。

――今、撮りたい気持ちなのですか。

ええ。よーく見ながら歩いているとあるのです、被写体が。写真集のあとがきの文章としては、エッセイと評論の中間のような文章ではなくて、ライブ感がある撮影の延長のような文章がいいかなと思っています。写真を撮っているのと同じ感じで。

――今回の写真集のために撮影した場所はだいたい同じなのですか。

神田が多いです。神田と神保町と新橋と下北沢。あまり遠へは出歩いていないのです。

――新橋のおもしろさとは。

もう少し前の、サラリーマンの時代の新橋がおもしろかった。10年くらい前。持ちつ持たれつという感じで支えあっていたサラリーマンの、会社の外の世界。昼飯と夜の酒の街。今は荒んでいるというか、サラリーマンの世界も底が抜けたでしょう。神田はまだおもしろいです。物をつくる人たちの街だから。神田は仕事場と住居が同じだったりするので、古い感じが壊れていない。

――その街の、どんな風景を撮っているのですか。

これが難しい。

――『東京を撮る』(アーツアンドクラフツ社 2000年7月)ではかなり神田を撮影していますね。この写真集では、写真の横に短い言葉が添えられています。

写真の横に言葉がないほうが良いよね。撮って終わっているのだから。

――言葉もなかなか味わい深いです。さすがにうまい、と。

写真がじょうずだと言っていただきたい(笑)。写真は、撮影して、特に印刷されてしまうと写真の出来ばえだけが問題なのです。写真の出来ばえと言うか、写真が何をどう写し取っているか、その問題だけだと思うのです。だから誰が撮ったかという問題は、できるだけ消えてしまった方が良い。

――そのように言うカメラマンはあまりいないと思います。

いないでしょうね。これが残念です。あくまでも撮った人の名前が付いてくる。どんどん名前が大きくなってきてしまって、そのことに満足する。写真ってそんなものではないのです。出来ばえだけが問題でしょう。いい景色がまだあるでしょう。(『東京を撮る』のページをめくりながら)この建物ももうない。撮影した風景の半分以上が今はない。すごいよね。

――これを撮ろうと思ってから、この構図にするまで時間はかかるのですか。

かからないです。この辺だろうと思ってファインダーを覗くと、ドンピシャリです。
これいいよね。こういう風景をみつけるとうれしい。(『東京を撮る』p55の民家が並ぶ小さな路地の写真を見ながら)

――うれしいのですね。

うれしいでしょう。ものすごくよくできている風景。これを作れと言われても作れないでしょう。これもすごい。(p81の玄関先の鉢植えの並ぶ写真)こういうのがなくなってきているよね。人々がこういうことをやらなくなってきた。これもいいでしょう。(p93を指して)

――ちょうちんがお好きなのですか。

その構図が。あり方がおもしろいでしょう。東京そのもの。どこにもない風景。ボストンにもベイルートにもバングラディシュにもない。

――この東京の風景のどこに魅かれるのですか。

風景の出来ばえたるや…。写真に撮ることによって、一段とよくなる。そう思いませんか。僕が撮ったからではなくて、写真に撮られたことで良くなる。

――確かに、こうやって写真に切り取られることで、つくづく見るようになりますね。街を歩いていてもよく見るようになると思います。

ぜひそうなってほしい。ちょうちんは、このように見上げていただきたい(笑)。

――切り取られているということが重要ですか。

もちろんそうです。僕は切り取るのが好きなのでしょう。つまり、街を歩きながら、見つけごっこを楽しんでいるのです。どんなものが見つかるか、そして見つけたら今度は切り取ることを楽しんでいる。写真になったら写真になった時の出来ばえというか、写真になった風景を楽しんでいる。

――見つける物の傾向は変わっていったりするのですか。

変わらないです。幅は広いでしょうけれど。しかし被写体は『東京を撮る』の頃の方が今よりずっと良いはずです。

――『東京を撮る』は、10年前ですね。

10年経つとわかります、はっきりと。この窓枠などは、いつ取り払われてもおかしくないでしょう。なくなったらそれきりです。全く同じように作って、20年くらい放置しなければこうならないわけだから。被写体が出来てくるまでには時間がかかるのです。だから時間のなかを歩いているというか、時間を見て切り取っているというか。一番表面に見えている形から時間がむこうに延びている。その時間を仮に止めるという楽しみもあります。

――「写真で何かを訴えているのですか」などと質問されると困ってしまうでしょうね。

社会的な意味はないのです。写真的な意味はたくさんあるけれど。

――そこがよくわかりません。

分からないと言って、怒ったりする人がいます。なぜわざわざこんな写真を見なければならないのか、どこにでもある風景ではないかと。

――カメラを構えていない時もこう見ているのですか。

見ているでしょうね。ああいい景色だな。こういうふうに切り取るといいだろうなと思いながら見ています。

――前回のインタビューのなかで、小説と写真は共通だと言っていらしたでしょう。

いや、共通ではないでしょう。

――共通のものに見えないのは、私に写真を見る目がないからだと思っていたのです。

共通したところはほとんどないでしょう。同じ人がやっていることではあるけれど。言葉だけで、こうは描けないでしょう。(『名残りの東京』東京キララ社 2009年 の1枚を指して。)この景色を言葉で描くのは難しい。これを書こうと思ったら心象で描くのかな。

――写真の順番はどのように決めるのですか。

まず見開きの組み合わせを考えます。

――見開きに並んだ作品を楽しめるというのは、本のよさですね。

そうです。結局こういう本は、見たい人は買って好きように楽しめばいい。それしかないでしょうね。楽しめる人だったらいろんな風に楽しめる、楽しめない人だったら全然楽しめない。

――突き放されたように感じるかもしれませんね。懐かしい景色の蒐集だと勘違いされるかもしれません。

蒐集と言うなら、芸術作品の蒐集です。道端にある芸術品。歩いていればいくらでもあるのです。美術館で見たら、モダンアートでしょう。

――その意見に賛成する人は少ないと思います。

残念ですね(笑)。

――ぱっと見て、片岡さんと同じように「いい」と思えなければだめでしょうか。

そうですね。

――どういう意味があるのですか、などと聞いてしまった段階でだめですね。

おしまいですね。

――この風景を作った人と、片岡さんの感性が似ているということなのですか。

技術が進歩しているから、今はこうは作らないということはあるでしょうね。戸袋なんて今はないわけだから。いったん消えてしまうとおしまいなのです。その後にできてくる物がおもしろいかというと、全然おもしろくない。
あそこ良いですね。(喫茶店の窓から見える一角を指して)4時30分。今の光、ちょうどいいな。こういうことはよくあります。ああ、いいなと思って時計を見る。ある日、4時半にこの喫茶店に来ると僕があそこで写真を撮っている。いずれ写真集のなかにその風景が固定され、この喫茶店でその写真集を見て、「どこだと思う」と質問してもわからない。

――写真集のあとがきに取り掛かる前に、撮影に連れて行ってください。

『名残りの東京』のタンメンをもう一度登場させましょうか。子どもの頃からある店なのです。ショーウインドウの同じ位置にあるから、全く同じに撮れるでしょう。今から見に行きましょう。

(2010年5月6日)

掠れ書き(1)

高橋悠治

掠れ書きは飛白体。飛び散る余白。

音楽は現場のもの。すぎさるもの。即興といってもいい。しかし即興は自己主張ではない。内側にある自己を取り出して押し付けるのとは逆に、世界のなか、歴史のなかで、自分の置かれた位置から逸れて、うごきだすために、自分の外側にあって、問いかけ、対話するもの。カフカのように、自分の側でなく、世界の側に立つ人間には、帰る場所がない。

即興する身体を他人のように見ること。危険な水路で舵を切るように身体をあやつって、かすかな風のうごきに沿って、見えない道を辿ること。過ぎてゆく時間を読みなおして、未来へと後退すること。

身体をテクストとして読みなおし、テクストを身体として組み直すことの両方によって、その場限りの消費でもなく、テクストの死化粧でもない、生きた劇場が生まれるだろうか。

1950年代以来の音楽が通ってきた道の意味はすでに失われた。ブーレーズもシュトックハウゼンも自らをシステム化し制度化してきた。ケージやクセナキスもいまや楽譜や音響だけが分析され、説明されている。どこにもなかった新しい音をもとめた冒険も、技術化され、プログラミングされ、だれにでも売りつけられるソフトウェアになってしまったが、さまざまに曲がりくねった探求のプロセスはかえって見えにくくなった。分析や説明からはなにも生まれない。

クセナキスの例をとれば、1950年代の『メタスタシス』や『ピソプラクタ』のように、いままでの拍節や半音の合理主義的な枠組みから解放された音の運動は新鮮でもあり、そしてギリシャの岩山や荒れる海、政治的暴力の記録でもあった。確率計算や群論は、自由なうごきを創りだすためのてがかりにすぎなかった。だが、方法が理論化され精緻になるとともに、音響組織そのものが一つの暴力に変っていく。技術としてとらえれば、それに挑戦する演奏家もいるし、複雑な音楽語法を制御する作曲家も現れる。だが、それは音符と方法への隷属で、音の解放ではないし、それを通じての音楽家の自己変革でもない。技術は上がり、創造性は下がる。

正弦波の組合せによる初期のセリエル的な電子音楽を、有限を積み重ねて無限に達しようとするピュタゴラス主義だと非難したクセナキスの音階理論も、アリストクセノスの不均等で変動する単位による音階論を、均等な単位に固定してしまったし、リズムの細分化や微分音による複雑な楽譜は、かえって演奏者を束縛するものでしかない。その結果、作曲家の見かけの優位とその背後にある音楽の社会的制度は変ることがない。西洋近代の数の呪いがいまだはたらいているかのようだ。

クセナキスの音楽を救うのは、理論や方法ではなく、かれの音響の暴力性ではないだろうか。夕霧のように翳り、昆虫のように軋り、地震のように震動する音の複雑な絡まり、またギリシャ悲劇の、心理や情感のかげりのない無情な声、それらは偽りの平和が覆うことのできない、この世界の現実でありつづける。

いまになって、19世紀以来の構成されシステム化された音楽がやっと終わり、自由な個人と組織の多様性にもとづく演奏が復権してきた。作られた音楽史とは逆に、流動する世界では、まず聴き手が変化する。現場にいる演奏者が新しい聴き手に応えて、ちがう音楽のつくりかたを考える。それとしてほとんど意識されないかもしれないが、それは演奏者の身体をつくりなおすところからはじまる変化の兆し、散乱する予感のきらめきとして現れる。取り残されているのは、かたまってしまった思想と制度によりかかっている、公認された演奏家や作曲家たち、その権威にぶらさがっている選ばれた若者たち。スポーツのように技術をきそい、あるいは個性的な装いだけを考えている若い音楽家は、その先に何かがあると思っているのだろうか。

平和――翠の水晶67

藤井貞和

     ドームのしたには、原爆部落
       (と言いました)がひろがり、
          石川孝子(女教師)は、
     教え子のゆくえをひとりひとり、
                尋ねて回る。
ある子どもは粗末な墓碑の下に眠る。
                   特撮は、
     爆風に蹴散らかされる敗都を、
       スクリーンに映じる。
 小学生たちが、みんなで泣きながら、
          手をつなぎ、
      映画館から出てくると、
なぜかきょうは平成22年4月25日です。

(新藤兼人さんはいまも言いつづけているそうです。この映画をみたら、だれもが原爆を持つまい、作るまいと、心に誓うはずだ、と。1952年〈昭和27〉、小学生たちは新作の「原爆の子」を見に、連れられて行ったのです。乙羽信子の女先生が、数年ぶりに広島を訪れます。岩吉爺さん(滝沢修)の手から孫の男の子を彼女は奪い取って、島へ連れ帰ります。というように、小学生たちには見えました。映画館を出て、私たちは誓います、「原爆ゆるすまじ」と、ね。「ほんとうに平和だったとき。もうぜったいに戦争はないんだと、蒼空が沁みてならなかったとき。そう、昭和20年代の、前半だったかな」と、井上ひさしさん〈哀悼します、井上さんほんとうにたいへんでした、お休みください〉。きょうは平成22年4月25日。ろうそくの火を両手に、人文字を作りにいま私は来ています。「NO BASE OKINAWA」、東京 明治公園から。)

しもた屋之噺(101)

杉山洋一

どこか重心がずれたまま、落ち着きのなかった一ヶ月が過ぎようとしています。今年は冬が途轍もなく長く、4月も終わりかけたここ数日、漸く庭の木々に新芽が吹き、左手の古い土壁を、中学校の校庭の方から家の屋根に向け、蒼々と繁る蔦が少しずつ近づいてきました。
東京滞在中の2月末、親しかった指揮のジョルジョ・ベルナスコーニが急逝したとの知らせを受け、ブソッティ演出の「月に憑かれたピエロ」で彼の代役を務め、ジョルジョの死を悼みました。

また、ジョルジョが関わっていたミラノ・スカラ座アカデミーでも、彼の振るはずだったロシア・プログラムを来月演奏することになり、暮らしぶりを見兼ねて「機会が出来たらお前にもぜひ仕事を回したい」と言ってくれた彼の言葉ばかりが思い出され複雑な心地です。何度となくルガーノ湖畔の別荘に家人とともに招いてくれて、大好きな日本や、カスティリオーニやロミテッリなど諸々の好きな作家について話は尽きなかったのですが、この数年お互いすれ違いで、落着いて会って話す機会もありませんでした。

毎日使うGoogleメールに残っている、最後のメッセージ。
「お前が毎日忙しく仕事をしているのはよく知っていて、とても嬉しく思っている。近いうちに会えると良いのだけれど、こちらも目まぐるしい日々にすっかり翻弄されて、友人たちとの付き合いが疎かになってしまっていて申し訳ないかぎりだ」。
半永久的に残り続けるメールは、インターネットのサーバーの中に、まるで別の時間が流れている錯覚すら起こさせます。手紙のように紙が日焼けてゆくわけもなく、まるで昨日届いたかのように、電子化され何時までも残ってゆくのは、不思議な気分です。ジョルジョの訃報のみならず、この東京滞在中は、ご両親を不慮の事故で失くされた親しい友人を日本酒片手に訪ねたり、一緒に仕事をしていた仲間が実はお母様を失くしたばかりだったのを知ったりと、身体の奥の疼痛がへばりついたまま離れませんでした。

「月に憑かれた」の大道具および小道具、衣装、照明、投影するフィルムなど、スカラ座のアカデミーとの共同企画だったこともあり、サンタ・マルタ通りにあるアカデミーで練習をしていると、当時リコルディの販促でロミテッリの連れ合いだったルイザがアカデミーの学長になっていて、こちらの練習しているのを見つけると、親しげに顔を出してくれました。
「2月にサロネンがスカラに来たとき、みんなでここにヨーイチがいないのは残念だと話していたのよ」。
今年十回忌を迎えるドナトーニの遺作「ESA」は、やはりドナトーニに学び後年も親しく交流していた指揮のサロネンが、当時音楽監督だったロサンジェルス・フィルのために委嘱した作品で、身体が不自由だったドナトーニのため、作曲を手伝った経緯があります。10年前、ヴェローナ記念墓地の一画にあるコンクリート壁にあつらわれた、無味乾燥としたドナトーニの墓を眺めながら、あと10年経ったら骨を拾って、もっと美しいお墓に移したいとマリゼルラが話していたのを思い出しました。どんなにテクノロジーが進んでも、我々の肉体は風化してゆく。そう思うと、少しだけほっとするのは気のせいでしょうか。

一昨日まで、ドナトーニが作曲した弦楽のための二つの作品「ASAR(1964)」と「SOLO(1969)」を、フェデーレやソルビアティの作品とともにミラノでヴィデオ収録していて、わざわざパリからヴァイオリンの千々岩くんが駆けつけてくれました。10人強の小さな弦楽合奏を数日間するために、パリやベルリン、ニュールンベルク、ローザンヌやイタリア各地からミラノに集い、収録が終わってすぐ元通り散り散りになりましたが、逆に言えば、こういう方が集中できて、案外充実した時間が過ごせるのかもしれません。殆ど演奏されたことのない、このドナトーニの2作品を、何某か形として残したいと常々思っていたので、本当に良い機会に恵まれたと思いますが、何より演奏してみて、特に「SOLO」の素晴らしさには驚きました。

この2作品の楽譜を開くのは二年ほど前に違う演奏者と蘇演して以来でしたが、ブソッティの「サドによる受難劇」の図形楽譜「SOLO」に基づき作曲されたドナトーニの「SOLO」は、その2年前にシェーンベルク作品23のピアノ曲第2楽章8小節目の初め3拍に基づき作曲された、「Etwas ruhiger im Ausdruck(ひそやかに)(1967)」と同書法ながら性格としては対極の、バロック的優美さと明るさをもった名曲です。

メトロノーム記号の替わりに「全弓を使って美しい音でできるだけ早く」、そして充分にヴィブラートをかけた音が指示されていて、四分音符と二分音符ばかりの楽譜から、1969年当時並んで演奏されたであろうヴィヴァルディやコレルリなどの旧き良きバロック演奏スタイルが薄く浮び上がります。
楽譜の最後に記された日時はミラノ1969年4月30日。今から41年前の明日。自分が生まれるほぼ半年前、未だ母親の胎内で過ごしていた頃の日付。日焼けし草臥れて、大きく罰点で何箇所もカットされた乱暴な書き込みばかりのパート譜。

それから30年ほど作曲を続け、それから10年かけて自分の身体が自然へと戻ってゆき、棺桶から骨を拾われるばかりになって再び作品が演奏されてみて、さて彼もどんな心地だろうかと思うのです。作品の演奏時間は楽譜には13分と記されてしますが、実際に演奏してみると到底この長さには収まりませんでした。当時は相当早く演奏したか、パート譜に残されていたカットを施した上での演奏時間かも知れません。何れにせよ、当時の作曲者の意図とは随分違った演奏なのだろうけれど、彼は書き終わってしまえばまるで自作に頓着しませんでしたから、今更どちらでも良いかも知れませんし、こんなことに思いを巡らせるのも、まるで中原の「骨」のようで、自分が日本人なのを再認識しているだけかも知れない。

1964年に作曲された「ASAR」は、10枚の図形楽譜と7枚に亙って連綿と綴られたタイプ打ちの説明書きのみ。10枚の図形楽譜にはそれぞれ21の断片が書き込まれていて、10人の奏者がそれぞれ任意に選んだ観客を観察しながら演奏します。

Asar
10弦楽器のための

演奏に際しての説明
演奏者は図のように三角形に並べられる。
前方にヴァイオリン4、2列目にヴィオラ3、チェロ2、後ろにコントラバス1

演奏は指揮なしで行う。10枚のパート譜それぞれを10人の演奏家がそれぞれ演奏する。(中略)演奏は着席し終わるやいなや開始され各パート譜の21モデルは観客のあらゆる動きにより読み進められる。演奏者は常に平土間席の観客に注意を払わねばならぬ。そして一人、もしくは複数の人間を注視し、あらゆる身体の動きをそこから見出すべく集中する。自らの視点を自由に動かすことは、一定の時間一人もしくは複数の人間を余りに無益に注視した後のみ許される。(中略)ほんの些細な動きであろうとも、注意深く観察されなければならない。例えば:人そのもの移動、もしくは上半身のみ、もしくは腕だけ、足だけ、手の動き、頭の移動、顔の筋肉の動き(しかめ面、微笑み、チックなど)目の動き、瞬き(この場合は弱音器を付けなければならない)。演奏者は先ず最初の動きを確認したら、最初のモデルを可能な限り早く演奏すること。以下、演奏を続けるにあたっては同じ。(後略)

演奏者たちが代わる代わる、巨大なパート譜の端から必死に観客を眺めるかと思えば、今度は楽譜に隠れて一心不乱に演奏するという姿は、愉快でもあるし独特の演劇的な効果も上げますが、穿った見方をすれば、躁鬱に悩んでいたドナトーニが、当時はいつも人の顔色を伺っていた姿を映し込んでいるようにも見えます。
そして実際鳴らしてみると、音響的にも「SOLO」に近しいものになるのが不思議で、図形楽譜といえども、作曲家の意思が充分に反映されていることが分かります。1964年当時、ドナトーニは巨大な紙に自らの姿を隠しつつ、時に端から頭を覗かせては息を潜めて外側の世界を注視し、そしてまたじっと自分の殻に篭って音を綴っていたのかも知れません。そんな暗さと後ろめたさを引き摺る独特のストイックさがこの頃のドナトーニを包み込んでいて、それがまた彼の音楽の魅力に繋がっている気がするのです。

4月29日ミラノにて

作曲家って

笹久保伸

作曲家ってどんなことでしょう

後生の歴史に名が残る作曲家もたくさんいるが その何倍、何十倍、何百倍もの 世に知られずに過ぎていった作曲家がいる 中には一人くらい 天才的な人もいただろうが

最近亡くなった、知り合いの作曲家Edgar Valcarcel(ペルー)は生前「自分が死んだら 楽譜は家族に捨てられる、もし息子が残したとしても その子供(孫)が 保管する保証はない、楽譜は売れないから、捨てるしかない」とよく言っていた まあ、確かにそれは そうだと思う

現に もう捨てられている有名作曲家の作品もある 人によっては 後に誰かが注目し、探し、捨てられたと思っていても 後で 楽譜の複写が発見されたりする事もある だが それは幸運で 全体の0.1%くらいだろうか

そう考えると、作曲家を志し、勉強し、生涯それだけに生き しかし 自分の死と同時に 楽譜も捨てられる 評価も賛同も批判も受けず 過ぎていく それは どういう事なのだろう

一方 多くの人々に知られれば それでいいのか と言えば どうなのだろうか?

Edgar Valcarcelで言えば 彼はいつも お金を持っていなかったし リマの国立音楽院の院長もしていたが 年金は月2万円で いつも 文句を言っていた しかし 彼を見ていると いつも楽しそうだった 幸せだったと思う

それが作曲家なのかも しれない と思ったが Edgarが「親が病気の時にも 金がなくて病院に連れて行けず……」と言っていた時は 何とも言えず 作曲家って大変だね……と答えた

演奏者にしてみれば 新しい(最近できたというだけの意味で)作品を弾くというのは面白くて 新しい作品の作者というのは大体生きているから その気になれば 作曲家とコミュニケーションを取ったり共同作業をしたりできる それは 音楽を演奏する際の魅力的な動機の一つだと思う 舞台上に立ち一人で楽器を演奏していても 音楽演奏は自分と他との共同作業

例えばショパン(今健在でない人なら誰でもいいが)にちょっと質問があっても 電話するわけにはいかない だいたい書かれた楽譜の音符を弾くしかない こうなってくると 演奏者は準備の過程で共同作業感はほとんど感じず あたかも一人で考え 一人で黙々と練習し 一人で演奏する 最後には 作品を勝手に崇拝?する そんな感覚になってくる まあ だから楽譜とコミュニケーションして 一応共同作業 というような事にしているのか

過去に書かれたものは 作者がここにいないと 紙に書かれた通りに弾く以外に方法はないかのように人は思うらしい 書かれた通り弾かなくてはいけない と言い切る事もできないし 勝手に弾いていいか と言えば そうとも言い切れない つまり 作者はもうこの世にいないから 仕方ない わからない もうあとは弾き手の判断

絵画なら 絵が残る 誰もその作品に あとで絵の具を塗ったりはしない

音楽は 芝居に近いか 内容(台詞)が同じでも演出家や役者によって だいぶ伝わる印象が変わる それは うまい へた の話しではなくて

平面から立体化し 浮かび上がり 動きだす 動き出したら 台詞にそって勝手に動き出す

音楽も 作曲家が作ったものから 個々一人歩きしても いいのではないか

「あるアイデアの土台」の提供が作曲家の役割 演奏者への動機の提供 まあ 作曲家の役割とか言って、それを言い出せばきりがなくなるくらい たくさんの役割を持つ

作曲家が表現したかった事 それを奏者が忠実に表現する という思想の基に演奏される音楽 これは どうなのだろう

書かれた文章を読み間違えないように気をつけながら復唱する=間違えずに読む練習
書かれた文章を 筆者の語り口で、またはそれを想像し語ってみる=筆者の心境を探る
書かれた文章を歌ってみる=自分のために またはその他のために
書かれた文章を会話のように語ってみる=誰かが答えてくれるかもしれない

作者が気づかなかった事を 読者や視聴者が発見する事もよくある

言葉は 書かれる前に生まれ 書かなくても 語られる

音も 書かれる前に生まれ 書かれなくても すでに音はでている

またEdgar Valcarcelの話しに戻るが 彼は言っていた「世の中に作曲家であると名のる人がこうもたくさんいると、むしろ自分が作曲家であると名のる事が恥ずかしくなってくる」

これは どう取るべきか 世の中に 素晴らしい作曲家がたくさんいるから 自分が作曲家となのるのが恥ずかしいのか それとも つまらない作曲家がたくさんいるから 自分が作曲家と名のるのが恥ずかしいのか

今から考えれば 彼に聞いてみたかったとちょっと思う Edgar Valcarcelの死は残念だ

長年連れ添った奥さんとはやっと離婚が決まり 家も無事に売却し これでやっと長年交流(世間的には別の言い方も使われるが)を続けた彼女と暮らそうとしていた その矢先の事だった 新しい生活が始まる事をとても喜んでいた 彼のあの顔が忘れられない 人生色々だ しかし まあ これは 作曲家に限った話しではないが

彼はヒナステラの助手をしたり アメリカに渡りコロンビア大学他で学んだり ペルーに戻れば 国立音楽院の院長になるも 仲良くなった生徒には勝手にディプロマをあげてしまい それが問題になり、反対する生徒が裁判を起こし 裁判に負け 院長クビになったり 国立交響楽団の指揮もしていたのに ケンカして 自分の作品を永久に演奏させない手続きをしたり 何かと スキャンダラスな人生を送ったEdgar Valcarcel 彼はプーノ県出身、アイマラ文化圏の人間で 自分のルーツについても「自分にはアイマラの血が流れている」それが原点だと言い 前衛的な作品をたくさん残した

コンピューター音楽を作っていたのに パソコンは扱えず メールも打てず 楽譜も最後まで手書きだった 家に行けば 黒い木の ぼろぼろのテーブルと調律されていない2台のピアノがあり 「弾いてよ」というと「嫌だよ」と言っていた 大昔の作曲家って もしかして こんなだったのかな と想像していた

ペルー音楽の ある分野の 一つの時代が終わろうとしているような そんな気がする

作曲家って そういう感じか

ギター遊び

仲宗根浩

まだ、ガ〜〜〜〜、ダッダッダッやらの音が響いている。いつ終わる補修工事。いつ布団がまともに干せる、と思いつつものんべんだらりとテレビを見ていたら、化粧品のCMで聞き覚えのあるメロディの歌が流れた。ネットで調べるとすぐに曲名がわかった。「What A Friend We Have In Jesus (邦題:賛美歌312番「いつくしみ深き」)」、歌っているのはUA。旋律はライ・クーダーがアルバムでやっているバハマのジョセフ・スペンスの曲と同じ。ジョセフ・スペンスは1920年代にメディスン・ショーの一行とアメリカ南部を旅していた、と昔のライ・クーダーのインタビューにあるからそのころに覚えてバハマでもずっと歌い続けたんだろうか。それが1965年にフィールドワークで採録され、ギター・スタイルはライ・クーダーに影響をあたえ、日本では高田渡の音楽にも影響が見られる。ジョセフ・スペンスのギターのチューニングはドロップDでキーはDなので似たようなフレーズがどの曲でも聴こえてくる。

先月の笹久保さんのギターのチューニングの文章がとてもおもしろかった。ほんと、なんでEADGBEといういわゆるレギュラー・チューニングというものがこんなに勢力を増したのだろう。次の弦との音程は四弦まで完全四度なのに五弦で長三度、それからまた完全四度となっている。ためしに全部完全四度、EADGCFにしてみて、六弦からドレミファと一弦まで弾いてみる。弾きづらっ。そりゃ慣れていないから。それ以外にも指の動きが二弦から一弦はポジションが下がる。音は上がるのに指は後ろにあと戻り、というのが気持ち悪い。それを無くすために、六弦と一弦を2オクターブ違いのEにして、同じフレットに収まりよくしたいがため、途中で長三度にしたのだろうか。四弦に二弦をたしてそうなったのだろうか。遊びついでに、次は六弦を一音下げてDADGBE、ドロップDにしてみる。そうすると、五弦、六弦の単音弾きでそれらしい、ブルースのなんちゃってリフができる。一音下がった六弦は張力が弱くなっているのでチョーキングをグイっと入れるとなお効果的。六弦から四弦までのDADはお三味線だと二上がり。次は五弦を一音下げて本調子にするとDGDGBE。今度は五弦から三弦で二上がりができここでおいしいフレーズを作る。ついでに一弦を四弦のオクターブ上のDに合わせるとオープンGでストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」のチューニング、ふるくはデトロイトのジョン・リー・フッカーがよく使ったチューニングになる。これでワン・コードでブギ、なんちゃってジョン・リー・フッカー、もっと古いと、デルタ・ブルースの父チャーリー・パットン、もしくはサン・ハウスごっこができる。ここまで古くなると親指で六弦をバッツンバッツン弾くので、まわりの方々の迷惑になる。家族に邪険に扱われるので家に誰もいなときにやってみる。

サン・ハウスは再発見され映像も残されている。初めて見たとき、その手のでかさとバッツンバッツン連発にびっくりした。今じゃネットで「Son House」で検索するとすぐ見ることができる。見るべし。ここらへんまでは主にアメリカのものでイギリス、ブリティッシュ・フォークになるとデイヴィー・グレアムのDADGADというチューニングがある。このチューニングはバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーンを経てジミー・ペイジもよく使うチューニング。アフリカを調べると、マリのアリ・ファルカ・トゥーレがまたちょっと違うチューニングをしてるし、ハワイのスラック・キー・ギターになると弾く人でそれぞれ異なるチューニングがあるので手に負えない。これはスティール弦だからできたのであって、ナイロン弦のギターであればゆるくて弦がベロンベロンで音にならないと思う。六弦がふつうにBまで下がったりする。

こうぐだぐだと遊んだ原因はエリック・クラプトンがクリームの時代にカヴァーしたスキップ・ジェイムスの「I’M SO GLAD」を通常の調弦でやっているのをスキップ・ジェイムスと同じようにオープンDmにしたらその時代に連れっていってくれる感覚、錯覚がしたから。今のロックは、異なる響きとニュアンスを得たいときその調弦で演奏するようになったのか。

で、いろいろ遊んでみて結局自分は一番はったりがきく、DADF#ADのオープンDに落ち着き、堅気の仕事にもどる。

片岡義男さんを歩く(4)

若松恵子

片岡さんへのインタビューの日に、初めて雨が降った。お話を聞く喫茶店、2階の窓際の席から雨の降る通りが見える。質問について考える間の沈黙。「謎はとけたでしょう」と片岡さんは笑うけれど、後から片岡さんが書かれたものを読むと、こちらの受け取ったよりはるか遠く、片岡さんの思考が延びていたことに気づく。新しい短編集が届いて、あとがきのページを開くのが、とても楽しみだ。

――短編集の出版がもうすぐですね。私は新刊を手にすると「あとがき」を最初に読んだりします。片岡さんの「あとがき」がいつも楽しみです。ジェリー・ガルシアをインタビューした翻訳本『自分の生き方をさがしている人のために』(草思社/1976年刊)の翻訳者あとがきを切り取って本を処分してしまって、後から本文も読みたくなって買いなおしたことがあります。

では、今日は「あとがき」の話をしましょう。最新の短編集のあとがきに何を書けば良いかについて。

――ファンにとっては「あとがき」は特別楽しみなのです。
最近早川文庫の『花模様が怖い』に収録された「狙撃者がいる」について、岸本佐知子さん、山崎まどかさんが書評を書かれていました。今の小説は、あの作品のような分かりやすさはないように感じますが。

いや、同じです。何かをやるわけだから、主人公が。今日はその話になりそうですね。長編であろうと短編であろうと、主人公が何かを体験する話でしょ。だから10歳くらいの子どもから主人公になれるのです。10歳の少年を主人公にした短編小説はたくさんありそうです。

――『少女時代』も好きです。

あの作品は典型的でしょう。少女たちが何かをやるわけですから。主人公は10歳からあとなら、何歳でも良いのです。100歳でも、幽霊でも。幽霊が何かやるなら。

――幽霊小説! でも「狙撃者がいる」の場合、アイデアがスカッと出ているように思えます。

やっていることが単純ですからね。撃つだけだから。当てればいいわけだから、射的屋で楽しんでいるようなものです。

――でも、当てることができるというのは凄いことです。

『少女時代』の少女たちも、何かをやるわけです。何かをやるとはどういうことなのか、そのことについて考えるとおもしろいかもしれませんね。

――少女たちはいなくなったり、死んでしまったりします。

死ぬというのは、何かをするということの究極みたいな感じもします。本当は究極ではないのかもしれないけれど、文芸的にはそうです。

――変化の最たるかたちのようにも思えますね。

ええ。変化の究極みたいなかたち。でも、あまりにも文芸的だから好きではないですけれど。

――今の作品の方が良い?

主人公たちは生き延びるために何かをしているわけだから。何もしない主人公っているのかな。いないでしょうね。

――でも、片岡さんの主人公は特に波瀾万丈な生き方をしているようには見えません。その人の変化がわかりにくいように感じます。また、そこが魅力なのですが。

以前はそうですね。主人公は暇な人です。オートバイに乗っているだけの人とか。

――そこがおもしろいと感じました。取り立ててストーリーがあるというわけではなくて。

ええ。生き延びようとしている人たちというのは、社会的なのです。端的に。

――片岡さんに、健康的な社会性というものを感じます。社会とは違う生き方をしているけれど社会性があるというか……。

社会性と簡単に言うけれど難しい。給料を貰っていればそれでいいというわけではないでしょう。今回の短編の主人公というのは、かろうじて食っているというか、クリエイティブなことで生活を支えているというか。「食っていく」というものの言い方がありますよね。もう少しやわらかい言い方だと「生活を支える」という言い方。その問題で主人公をつくるとおもしろいかもしれない。

――ええ。

主人公って、ある時あらわれて、その時には彼らなりの一定の生活をもっているわけです。どういう風に生活を支えているのか、そこが決まらないと主人公が決まらない。稼ぐということだけが主題ではなくて、主人公として何をしているのかということで問題になる。

――どういうふうに片岡さんのなかから主人公が立ちあがってくるのですか。

僕のなかから出てくるのでしょうね。みんな僕が書くわけだから。一番楽なのは、働かなくてもいい人です。おじいさんが大変な資産を残してくれて、お父さんがしっかり管理してそれを受け継いだというような人。そういう人は、純粋に知らない街を歩けるわけです。純粋に酒場に入れるし、純粋に酒場の女性と口をきくこともできる。そして純粋に話が始まるのではないかな。だめでしょうか。何かをやることによって、社会のなかに、どこかに引っかかっているわけだから、バイアスがかかるし、そこからの視点になるわけです。フルタイムで働いている人というのは難しい。たまに書くことはできますが。たとえば仕事と仕事の間の1年間とか、ずっとしてきた仕事と次の仕事の間の空白期間とか。何にもしばられていないか、それに近い状態の主人公が良い。

――「図書」(岩波書店)の連載「散歩して迷子になる」の4月号で、「働くとは、なけなしの自分であっても、その自分が全方向に向けてまんべんなく発揮されることをとおして、全能力がこてんぱんにこき使われることだった」と書かれていて印象深かったのですが、自分の全身をフルに使って社会と関わることができる場所にいる人なのですね、片岡さんの主人公は。

極端に言えばね。そのストーリーの限りにおいては辛うじて。危なっかしい面はあるけれど。どうやって稼ぐかというのはおもしろい話ですね。それにプラスして何かが重なっていく。

――『動物のお医者さん』という漫画があって、その漫画の影響で獣医学部が人気になるということがありました。ある仕事が魅力的に書かれているとその職に就く人も増えるということがあるでしょうね。

獣医という存在もおもしろい。犬と猫だけでライフワークになり得るでしょうね。何かをできないといけないのです、主人公って。できればできるほど魅力的になるのかな、主人公として。あるいは、主人公の魅力はある一定の範囲内にとどまるけれど、話がどんどんおもしろくなっていく、そういうことがあるのかもしれないね。

――話はいつまででも続くのです。

続くでしょうね。この世に動物がいる限り……。きっと波乗りもそうですね。この世に波がある限りひとつとして同じ波はないわけだから。その波をめぐって、その前後の状況があるから話になるわけです。でも書く方も大変です。書く方もほとんど獣医でなければならないのだから。

――漫画家のまわりには、リサーチャーがいる場合もあるようですよ。

僕としては、ひとりで苦労する以外にないですね。主人公をめぐって。主人公の彼にとっても毎日があるのだから、夜になるとどこかに帰って、どこかで寝て、朝はどこかで目覚めて何か食べなければならない……ということを考えておかないとストーリー自体がつまらなくなる気もするな。面倒ですね、主人公って。自分より面倒です。自分そっくりに書くといけないのかな。自分そっくりでも主人公として成り立つならいいけれど。

――読む人は、主人公のことを片岡さんだと思っていたりします。

それは読む人の勝手ですから。書いてしまったら、読む人の自由です。今は書く段階のことについて話しているのです。簡単に言うと社会的な存在なのです。社会のなかにいて、どこかに引っかかって仕事をしたり、友だちがいたり、両親というものがいて、育った歴史があって、そこまできちんと考えておかないと、後で整合しない部分が出てくる。その時々うまく辻褄をあわせたようになるのでは嫌だなと思うのです。

――そういうことは、直感的にやっているのですか。

だいたいは、直感的にやっています。でもメモを書いたりしますよ、時々。

――そんな風に水面下で色々と考えているから、使っている言葉は少ないけれどイメージがはっきり出てくるのですね。

水面下はないとだめでしょうね、もちろん。でも、水面下ゼロというのもいいな。本当に表面だけの。

――どうやって書くのですか。

時間的に短い話なら書けるかもしれません。今日、明日の話。でも、時間が出てきてしまうかな。時間が出てきてしまうとだめです。過去が一切出てこない主人公というのはあり得るかな。ある部分楽だけれど、ある部分めんどうくさいだろうな。要するに、過去でしょう、その人って。今この瞬間って置物みたいなものでしょう。そういうことを「あとがき」で書いてもいいでしょうか。主人公とは何か。

――今回の短編集はそういうことを書いているようには思えませんが。(既に作品を読んでいる八巻さんの発言)

そうですね。僕自身もそう感じます。では、何を書いているのでしょう。短編集の作品を最初から順番に思い浮かべてみると……決して生活を支える話ではないですね。

――でも、つながっているのではないですか。

つながっていますね。例えば、最後の作品などは、ラストシーンが成立するためには、主人公があのような生活をしていないと成り立たない。

――それが主人公の社会性ということですか。

きっとそうですね。あの最後の場面に向かって、彼女のことが色々つくってあるわけです。

――書き始める時に、最後のシーンは頭のなかにあるのですか。

あの作品についてはなかったと思います。ごく普通にあり得ることを順番に書いていったのです。
「あとがき」に書くべきことが見えてきました。書きたいというか、一番大事な一瞬、あるいは一場面があるのです。それを実現させてくれる主人公を考える。主人公はどんな生活をしているかを考え、その生活のある場面から書き始める。これさえわかってしまえば、誰でも書けますね。

――そういう場面はどこから出てくるのですか。

わからない。

――何かを伝えている場面なのでしょうけれど。

いや。何も伝えていないでしょう。託したものは何もないし、何かの象徴でもない。
例えば最後に彼女だけが振り返るラストシーン。映画としてあの場面を見るとしたら、振り返るととても良い、振り返るのだったら、カメラをまっすぐ見る視線が良いと思う。でもその視線に意味はないのです。レンズの位置に視線があると良いということ。どこか、斜めに視線がずれていたらおかしいと思う、きっとそういうことなのでしょうね。表紙の絵についてもそう。ストーリーに出てくるものが、テーブルの上に色々と載っている絵になる予定なのですけれど、物の配置がとても大事です。僕はめんどうくさい人です。ほとんどのものが気に入らないのだから。

――小説論ですね。

書きたいことがたくさんあるわけではないのです。ある瞬間を書きたい、そこにもっていくために、いろいろ考える。

――その瞬間をとっておきたいのですか。

いや。書きたいだけです。書けるかどうかということです。

――読んでいる方も、その瞬間が手に入るだけで良いと思って読んでいます。書きたい瞬間がなくなったりはしないのですか。

瞬間だから、いくらでもあります。考えれば、おそらく。

――どこかで経験したことなのでしょうか。

わからない。もっとあやふやなものを書いたらおもしろいかな。ほんとうに一瞬で消えてしまうようなこと。いずれにしても、彼女だけが振り返る、それを書ければ良いのです。写真についてもそれで説明できるかもしれませんね。次は、写真集についての話にしましょう。

(2010年4月20日)

製本かい摘みましては(59)

四釜裕子

Uさんに20年間続けた番組の資料を借りた。雑誌のいくつかが猫のひっかき傷でやられている。Uさんの匂いのするものをこうする癖のある猫だったらしい。文藝春秋のある号は裏表紙から数ページが等高線を描くように破られている。なにかで濡れたのだろうか。臭いはない。間にティッシュペーパー、というか、ちり紙が数枚はさんである。水分を吸わせたのか。もうこれは捨てていいかな、でも念のためと中を開くと押し花。ワレモコウ? これがなにか「事件」の証拠品ならばテレビ的にはじゃじゃじゃじゃーんだが、Uさんに聞くと「押し花の趣味なんてないない。なんだろうね」。

ジェラルディン・ブルックスの『古書の来歴』(武田ランダムハウスジャパン)は、サラエボで見つかった貴重な古書を修復するために、留め金の跡、羊皮紙の間にはさまれていた蝶の羽根の破片やワインの染み、塩、毛などから当初の装幀を探るもので、その過程がおのずとボスニアの歴史をたどることになる。ワインの染みがついたのは1609年、わずかの血が混じっていたこと、塩の結晶は1492年、スペインの浜辺で波をかぶってできたこと……。一流の古書鑑定家は全てを鑑み、すなわち〈汚れも含めて、あらゆる点でほんものそっくりの複製本〉を作ることが可能になる。そして2002年、オーストラリア人である古書鑑定家はモートン湾のイチジクの種を落す、ほんものの証しに。

川村二郎さんの『孤高 国語学者大野晋の生涯』(東京書籍)に、大野さんが父親について語る言葉がある。〈おやじが昔の大学にあったような書写だけをする「写学生」の仕事にめぐり合っていたら、きっと幸せな一生を送れたと思うな〉。砂糖問屋を継いだ父親だったが商売はうまくいかず南画や書にひたるばかりで、子供の目には疎ましく手を上げたこともあったらしい。昭和25年、研究のために『仮名遺書』を模写しなければならないと父親に話すと「私がやりましょうか」。和紙を朝顔やザクロの花の汁で染めて原本に似た紙をつくることから始めたという。〈父親にそんなことができるとは考えたこともなかったから、目を疑った。見事なできばえに言葉がなかった。それからは模写は全部父親に頼んだ〉。雑誌であれ稀覯書であれ、ホンモノであれ複製であれ、紙の束である本一冊ずつが持つ寿命を思う。

時差と時間

冨岡三智

3月にクアラルンプールに行ったときの話を再び。

マレーシアの時間は日本より1時間遅れに設定されている。けれど、マレーシアとほぼ同じ経度帯に分布しているインドネシアのジャワ島やスマトラ島は、日本との時差が2時間遅れのゾーンになっている。だから、ジャワ島では、1年を通して午前6時頃に日の出、午後6時頃に日没なのに、クアラルンプールでは午前7時過ぎでもまだ暗くて、午後7時半でもまだ明るい、ということになってしまう。

こんな風に時差を決めたのには、政治的な配慮もあるみたいなのだが、ここでは、まあ真相はどうでも良い。それより、時差の設定がずれると、感覚がちょっと狂うものだとあらためて感じる。驚いたのが、国立劇場の開演が午後9時だったこと。マレーシアではこれが普通らしい。インドネシアでは、夜の公演は午後8時に開演する。

聞いてみると、マレーシアでは午後9時開演にしないと、イスラムの人たちが日没後のお祈りと食事を済ませて家を出てこれないから、ということだった。イスラムでは、日の出や日没の時間を基準に、お祈りの時間帯が決められている。確かに、午後7時過ぎまで外が明るければ、お祈りの時間は7時半頃になる。インドネシアではちょうど6時半頃に皆お祈りするから、夜8時に開演できるのだ。

こう書くとマレーシアの人達は宵っ張りに見えるけれど、日の出が遅い分、やっぱり朝も遅い。私が出席した会議は朝10時から始まり、午後1時から昼食だった。本来の時差、つまりインドネシアと同じ時間に直すと、朝9時から会議開始、午後12時から昼食をとっていることになる。でも、インドネシアでは、会議は朝8時から始まるものだった。これだけ見ると、インドネシア人は勤勉に見える。

金曜日にマレーシアの国立芸術大学を訪問したとき、金曜は昼11時半過ぎからイスラムの一斉礼拝があるから、早く行かねばと思って焦ったのだが、それはインドネシアの話。マレーシアでは、この礼拝は午後1時頃からしか始まらないのだった。

けれど、これは「何時から礼拝が始まる」と考えるから、ややこしくなるのだ。日の出/日没後、何時間以内にお祈り、と考えれば、インドネシアの人もマレーシアの人も、それにアラブの人たちも、1日を同じようなお祈りのリズムで刻んで生活していることになる。

それだったら、マレーシアでの挨拶はどうなるのだろう。インドネシアではだいたい朝9時頃になると「こんにちはselamat siang」という挨拶になり、午後2時過ぎになると、もう「こんにちはselamat sore(soreは夕方の意味)」となり、午後6時で日没頃になると「こんばんはselamat malam」となる。マレーシアでは午前10:00頃から「こんにちは」なのだろうけれど、会議が10時始まりという国ならまだ「おはよう」かな、午後6時頃ならまだ「こんにちは(sore)」かな、と想像してみたりする。

時差の設定がずれると、なんだか生活時間帯がえらくずれているような気になってしまう。朝早くから会議するインドネシア人が勤勉な田舎者に見える一方で、夜遅くまで演劇を見ているマレーシア人が宵っ張りの都会人みたいに見えてくる。両国の仲が悪いのは、案外、こんなところにも理由があるかもしれない。

いつかどこかで

大野晋

ときどき、いつかどこかで見たような光景に行き当たることがある。まあ、大抵の場合には以前来たことがあったりするのだけれど、場合によっては来たことはないけれど夢の中で見たとか、似たような状況になったことがあったとか、そういうことが原因のようだ。昔から夢想ぎみのところがあったから、ときどき、体験したのは現実だったのか、夢の中だったのか、わからなくなることもある。まあ、そんな状況が長く続くと、そのうち、あの世に召されるのかもしれない。

先日、二度寝したときに見た夢はふるっていて、全てうまくいかないと、「ああ、これは夢なんだから適当にできたことにしてしまえ!」なんて、結構いい加減に対応していた。夢の中で、これが夢だと思っているのだから、まあ、ややこしい夢だったことはこの上なかった。

さて、ずっと購読していたコミックが完結してしまったので、何か新しいものでもと、ずっと避けていた(あまりにもファン過ぎて雑誌を定期購読しそうだったから)浦上直樹氏の「ビリー・ザ・バット」の単行本が新しい3巻が出たのをいいことに大人買いして読み出したときも「どこかで見た感じ」を感じた。浦上直樹氏はどちらかというとアクションのある作品に特徴があり、昨年も「20世紀少年」や「MONSTER」などで注目を集めた人気作家である。ところで、ビリー・ザ・バットの中でキリストが出てくるくだりを読んでいて、似たようなシチュエーションのキリストをどこかで読んだなあ、と、ふと、光瀬龍(+萩尾望都)の「百億の昼と千億の夜」を思い出していた。

世界の混乱、騒乱のもとが、ひとつの神という絶対なモノを信じることに由来する排他主義にあるのだとすると、一神教を説いたキリスト自身は果たして善だったのか? 悪だったのか? 神学者ではないので安易に答えを求めるものではないのだが、ものの善悪といった問題を取り扱おうとするとどうしても、信じることは正しいのか、と同じようなシチュエーションにたどり着くのかもしれない。苦しいときの神頼みで、どんな神仏にもすがるときはすがり、忘れるときは忘れる典型的な日本人のおかげで、どうみても不信心な、果てしなく無信教に近い多神教主義者なのだが、果てしない信じるものに基づく争いを見るにつけ、ときには相手の神様も信じてみるべきだと思った。

そういえば、どこぞでも、果てしない論争が続いているが、論理で説得できない者は根底から信じてしまっている人の信条なので、そこは論争で解決しようとせずに、一度、相手の立場になってみるという思考訓練をしてみてはどうかと思っている。まあ、まず、その前に、仲直りをして、仲良く腹を割りながら酒を飲むというのもいいと思うんですけどね。飲みニケーションは非常に有効な融和手段ではあります。先人の知恵ですね。

ルサカの闇

くぼたのぞみ

飛行機から降りて2時間まった 空港内のコンクリ壁に囲まれて
荷物のうえに腰をおろしていた あたりに夕闇の気配がしのびより
そこここの売り場やカウンターに 橙色のライトが点いたが 
迎えの車はこない そしていきなり 男たちがあらわれた 
たくましく 鋭い目をした 4人の黒い男たち

強く記憶に残っているのは 車の後部座席に 押し込められるように
座った窓の 外の闇─闇─闇 ルサカの闇だ 車はいちめん
墨色のなかをゆっくり走る 目をこらすと 地平線のところどころに 
低い樹影 遠くにぽつぽつと灯りが見える 
ライトは点けない 

唐突に 山二線の なめらかな土の道が 浮かんできた 
未舗装のじゃり道ばかりの 旧植民地北海道の8月 村の盆踊りの帰り道だ
月はなく 隣を歩いている 1歳ちがいの兄の浴衣も見えず
うつむくと 自分の下駄の緒さえ見えない なのに
数歩先の水たまりが 鈍い灰色の鏡面のように ぼんやり浮かんでいる 
この先なにがあるかわからないという 一瞬の不安 それでも 
包まれているという感覚 濃密な一体感 ふしぎな豊穣さ 

やがて車は闇に車体を愛撫されるようにしてホテルに着いた

オトメンと指を差されて(23)

大久保ゆう

実に与太話で恐縮なのですが、花粉症ならぬホラー症というものがあると思うのですよ。花粉症というと、よくコップのなかの水があふれることにも喩えられますが、生まれてから吸った花粉がどんどん自分の身体のなかのコップにたまっていって、それがついにあふれてしまうと、くしゅんずるずると花粉症になってしまう、なんていう話がありますよね。それと同じように、ホラー分というものも摂取しすぎるとあふれてしまうのでは、と思ったりなんかしたり。

ただ、あふれたときに起こるのがくしゃみや鼻水なんかではなく、「笑い」であるところがホラー症の恐ろしいところなのです。何を言ってるんだと思われることでしょうが、私は小さな頃からホラーやら怖い話やらをたいへん好んでおりまして、幼稚園や小学校や中学校といった少年期に、それこそ浴びるように、いやお菓子みたいな感覚でホラーを食べて、日々怖がって(楽しんで)おりました。

しかし!

ある日のこと、というより、ある日を境に(残念ながら特定の日を思い出すことはできません)、私は人を怖がらせようとするコンテンツや遊具なんかに接すると、爆笑してしまうようになってしまったのです! 何と言うことでしょう! 一種のホラーアレルギーというわけですね!

そうなってしまうと、たとえ怖い映画を見ても、それこそ画面上が真っ赤だったり手足が大変なことになったりしていても、あるいは足がぶらんぶらんとしてぐるぐると何回転もするジェットコースターに乗ったりなんかしても、もうお腹をかかえて笑うしかなくて。あっはっは、あっひゃっひゃ。空と地面が逆になってる、あははははっ、みたいな。

笑うことでかなりのストレスの解消にはなっているんでしょうが、私が欲しいのはそんなんではなくて、戦慄するほどの恐ろしさだったりするんですけどね。もうダメなのです、何をやっても怖さよりも笑いの方が先に出てきてしまって。お化け屋敷なんかでもそうです。女の子と一緒に入ったりして、隣で「きゃーこわい」とか言って女の子がありきたりに震えたりなんかしても、私はそのそばで吹き出しそうになるのを必死でこらえているわけです。何と言いますか、怖がっている人そのものもおかしいですし、何とかして怖がらせようとして待ちかまえているお化けスタッフも面白いですし、そのあいだに挟まれて歩いている自分自身ももう馬鹿馬鹿しくて(お仕事されている方への他意などはございませんので、念のため)。

かと言って驚かないわけではないんですけどね。いきなり出てこられたらびっくりしますし、でも驚くことと怖がることは違うじゃないですか。それに、お化け屋敷の場合でも私より連れの方がひどいなんてことがないわけでもなく、かなり剛胆というか物怖じのしない人もいるわけで、入るなりずんずん進んでいって、お化けさんが出てきてもぴくりともせず、そのままお化けさんをにらみつけて挙げ句の果てにはお触りしちゃう女の子もいたりしたんですけどね、そのときは私も追いかけつつお化けさんにひとりひとり「うちの彼女がすいません」などと謝ったりして、怖いとか面白いとかいうより、変な汗が出まくったわけなんですが。

閑話休題。で、そもそもなんでそんなふうになってしまったのかと考えてみると、どうやらホラーというエンタテイメントを、客観的に受け止めてしまうようになっちゃったからではないか、と思ったりもしてみます。あまりに見過ぎた(読み過ぎた、参加し過ぎた)ために、それが作り物だっていう感覚がしみついちゃったのではないかと。少なくとも映画でもテレビでも、モノとしての画面がそこにあるわけですし、本でも読む自分とのあいだにやっぱり隔たりがあるわけで、お化け屋敷でも遊園地という特別な場所があって、他にも、たとえば肝試しにしても基本的には効果みたいなもので、グループ内の雰囲気や場所の意味に頼り過ぎているところがあって、心霊写真にしてもアナログカメラというメディアに依存しすぎなところがないわけでもなく。

ともかくこっちの気持ちなりなんなりに左右されることが大きすぎて、こっちが冷静になってしまうともう楽しめなくなっちゃうわけで。じゃあ落ち着かなければいいじゃないか、という話にもなりますが、摂取しすぎるとこっちの都合に関係なく自動的にそうなってしまうんでしょうね、きっと。いろんなものが透けて見えてしまって。だから高校生になる頃には、例の「リング」とかが流行っていたわけですが(呪いのビデオ!)、あれのどこか怖いのかまったくわからなくなってました。

でもそんな逆行に負けてなるものか、と私が最終手段として取り出したのが、いわゆる「悪夢」なのです。どんなにホラーが作り物であろうと、夢というのは自分の意識や感覚と直結しているわけですから、めちゃくちゃ生々しいわけで。それがどんな荒唐無稽なものでも、たとえば新撰組が池田屋に巣くう長州ゾンビどもを斬りまくる、という頭の悪い設定でも、自分の目の前にゾンビがいてこっちに襲いかかってくる、という身体感覚が夢だとびっくりするほど鮮明で、ぞくぞくっとしてしまいます。ああ、なんて素晴らしい! 私のかわいいかわいい戦慄ちゃん!

これが自分の自由にできるといいんですが、本の内容を夢に持ち込むとかそういう高度な技は使えないので(できる人はできるらしいですね)、ほとんど偶然と運に頼るしかありません。たとえ怖い本を読みながら寝ても、まずは入眠時催眠で勝手に本の続きを妄想しだして、そのあとの頁を捏造するだけですから、夢のなかでは私がただ頁をめくっているだけで、けしてその中身が再生されるわけではなく。

ともかく、こうして私はホラーを悪夢によって自給自足することになり、ほとんどホラーコンテンツを外部から摂取することがなくなってしまったのですが、夢さえも「これは夢だ」と客観的に見るようになってしまったらどうしよう、と危惧しないでもありません。そうしたら私はどこか現実の危険な場所へ行ってしまうのでしょうか。でもリアルに自分も含め誰かの命が脅かされている、そんな場所に行ったとしたら、私はきっと倫理や正義などの方が先に立って、かえって恐怖など感じないでしょうから、いくらなんでもそんな悪趣味なことはしないと思います。

やはり、フィクションとホラーのバランスなのでしょうね、どこまでも作り物ではあってほしいけれど、できるだけそれがバレないようなものであってほしい、という娯楽のあり方というんでしょうか。それすらもどうしようもなくなったとき、どちらかというと私は、宇宙的な不可解とか、そういう方面へ行ってしまうような気がしています。宇宙の誕生とか、宇宙の果てとか考えるだけで恐ろしい。人知の及ばないところへ思いを馳せる、理解できない謎に対する恐怖、というような。

そういう意味では、悪夢から目覚めたとき、落ち着いて枕をじっくりと見つめてみると、まつげが大量についていたりなんかして謎です。恐怖ですらあります。あれって、なんであんなにたくさんあるんでしょうね。もしかすると私だけかもしれませんが。私のまつげって長いですし。それにしてもあんなにたくさん取れたら、私のまつげはなくなってしまうんではないかと思うのですが、鏡を見るとそうでもないあたりが怖すぎます。もしかすると、眠っているあいだに謎の宇宙生物が私の枕にまつげをこっそりとばらまいているのかもしれません。おのれ、まつげ星人め!

ほら、怖くないですか?(何かというより、私自身が。)

穴の中で

さとうまき

ピースボートに乗ることになった。船の中で、イラクやら、平和やらの講義をするのだ。僕は、忙しかったので、横浜からシンガポールまでの10日間だったが、100日かけて世界を一周する。

乗ってみて驚いたのは、850名のうち450名が60歳以上だ。僕は、若い人たちが、世界を旅行してもりあがるのがピースボートと思っていたが、ぜんぜん違った。しかし、僕の仕事は、20代が大半の30名の学生に朝、講義をする。夕方と夜は、一般向に講演というわけで、結構忙しかった。講演を熱心に聴いてくれたのは、やはり団塊の世代だった。
寄港地は、中国とベトナム。

ベトナムでは、農家に連れて行ってもらった。ベトコンをかくまっていたという秘密の穴があるという。仏壇の脇に確かに小さな穴があって、地下の通路とつながっている。かなり小さいのだが、中にはいってみたくなった。やはり、ベトコンの気持ちは、はいってみないとわからぬ。
かなり小さい穴で、中は、土管になっている。もちろんなかは真っ暗。船の中での運動不足がたたったのか、体が途中でひかかりそうに。歩腹前進でないと進めない! 米軍が穴を見つけたら手投げ弾を投げ込んで爆破する。こんなところで、生き埋めになってしまうのはいやだなあと実感した。

イラク戦争でも似たようなことがあった。サダムフセインが、アメリカ軍から逃げて、最後につかまったのは穴の中だ。ベトナムは35年以上前の戦争なのに、今のイラクの対テロ戦争と全く闘い方が良く似ている。イラクで民家をしらみつぶしに、テロリストを捜索する米兵。そして、一般市民が虐殺されていく歴史。そんなことを思いながらようやく光が見えてきた。今年は、ベトナム解放35周年。

メキシコ便り(32)ブラジル

金野広美

いよいよ私の中南米ひとり旅も今回のブラジルで最後になりました。

日本からは地球の真裏にあたり、最も遠い国ブラジル。2014年のサッカーワールドカップや2016年のオリンピックの開催が決まり、経済発展も著しいといわれているブラジルですが、実際はどうなのか、興味津々でかけることにしました。

ブラジルまでは日本からだと24時間から30時間くらいはかかりますが、メキシコからだと9時間ほどです。夜遅い飛行機に乗り、サンパウロに着いたのは昼の1時半。友人の山下さんが迎えに来てくれ、ここでは彼の家に泊めてもらいます。

ブラジルには1908年、笠戸丸で791人が初めて移民したのを皮切りに、25万人の日本人がブラジルに渡りました。特にサンパウロのリベルダージには大きな日本人街があり、コミュニティーを形成しています。そこでリベルダージにある移民博物館に行ってみました。ここで三重県の教育委員会の人を案内している男性がいたので一緒に話しを聞かせてもらいました。

彼は10歳のときに両親に連れられブラジルに来たそうで、その経験談はとてもショッキングなものでした。ジャングルを切りひらき畑を作ったそうですが、とにかく食べ物がなく、なんでも食べられるものはすべて食べたそうで、スズヘビという毒蛇をたくさん捕まえてそれを干してだしをとったという話、豚のラードの塊の中に肉をいれ冷蔵庫がわりにして保存したという話、食料にする魚を川で取り干していると、そこにハエが卵を産みつけそれがかえり、そのさなぎを湯で洗ったという話、シュッパンサという虫が家の柱に卵を産みつけ、大量発生したシュッパンサにかまれ、シャーカ病という心臓が肥大する病気にかかり死んだ人の話、密林に住むアナコンダに子供がのみ込まれた話など、あまりに具体的で壮絶な話の数々は想像を絶するものばかりで、その苦労は私などにはかり知ることはできませんでした。また、密林を切りひらくのではなく大きなコーヒー農園で労働者として働いた人は、当初は5年契約でしたが、生活物資はみんなコーヒー農園の売店で買わなければならず、これがまた高く、貯蓄するどころか借金の方が増え、5年が6年、7年と伸び逃げ出した人も多くいたそうです。このように苦労に苦労を重ねながらがんばってきた日系人は、いまではブラジル全土に150万人となり中産階級を形成しています。

その日は日曜だったのでとなりのホールでは太鼓フェスティバルが開かれていました。ブラジル人の若者と日系人の若者が一緒に笛や太鼓でソーラン節を演奏する姿は100年以上かけて日系人がブラジルでふんばり続け、今ではすっかりブラジル社会に溶け込んでいるという証しなのでしょうね。しかし、今や3世、4世の時代になり、日本人の顔をしていても日本語がほとんど話せない人たちも増えてきています。日本の伝統文化をしっかり守りながらも日本が少しづつ遠くなってきているという現実もあるようです。

次の日はサンパウロから飛行機で1時間半のカンポ・グランジに行き、ここからバスで5時間のボニートに行きました。ここには透明度の高い川がありシュノーケリングをしながら魚と一緒に川を流れていくことができます。その中のリオ・デ・プラタ(プラタ川)に行きました。聞いていたとおり本当にきれいな川で水面の上からでも魚がはっきり見えます。この川だけに生息するというピラパタンガや金色で尾に黒いラインのあるドラードなどたくさんの魚が悠々と泳いでいます。水深1メートルの浅いところもありますが、決して立ったり歩いたりしてはいけません。ひたすら手だけを使いゆっくり浮きながら泳ぐのです。こんな風に泳いでいると、まるで私も魚になったような気がします。約3時間でしたが初の魚体験、おもしろかったです。

ここではこのほか「青の洞窟」と呼ばれる真っ青な水をたたえた地底湖のある洞窟に行ったり、ミモーゾ川ぞいにある滝公園の6つの滝つぼで泳いだり、魚がいっぱいの川がそのままプールになっている公園でのんびりしたりと、ゆっくりとボニートを満喫しました。

そしてまたサンパウロにもどり、今度はバスで6時間のリオ・デ・ジャネイロに行きました。ここは1960年にブラジリアに首都が遷都されるまで約200年にわたり首都だったところです。コパカバーナやイパネマ海岸をはじめとして長い海岸線を持ち豊かな土地から産出される農作物や金、ダイヤモンドなどの積み出し港として栄えました。

ミーハー観光客としてはここにくればまずはコルコバードの丘に登り、大きなキリスト像を見なければなりません。朝一番の登山電車に乗り行きましたが、深い霧で何も見えません。うーん残念。でもここが一人旅のいいところ、誰も先をせかす人はいません。霧が晴れるまで待つことにしました。何にも見えない丘の上でうろうろしていると1時間もすると霧が晴れてきました。すると見えてきました、リオのシンボルとなっている高さ30メートル、幅28メートルのキリスト像が、今までは空撮している写真しか見ていなかったのですが、そばで見るとやはり大きい。見られればオーケー、これで満足して丘を降りました。

そしてそのあとバスと地下鉄を乗り継いで、世界最大といわれているマラカナンスタジアムに行きました。11万5000人収容できるというその大きさにはびっくり。通路には壁一面にロナウジーニョやロナウド、カカら人気者たちの大きな写真がいっぱいです。またスタジアムだけではなくロッカールーム、トレーニング室、ジャグジールームなども見学できました。しかしその設備は案外簡素なのでちょっと拍子抜けしました。それにしてもこのスタジアムで満員のお客が入った試合の様子を想像するだけで、なんだかわくわくしてくるようなきれいで立派なスタジアムでした。

そして、ここからの帰り道、またもやひったくりに遭遇してしまったのです。地下鉄に続く大きな陸橋を歩いていました。そばには掃除のおじさん、前には女性と黒人の男性が2人歩いていました。するとその黒人の一人が急に振り向き、私に近寄りかばんをひったくろうとしたのです。中にはパスポートをはじめ大事なものがすべて入っています。ぜったいに盗られては困ります。私は「だめー、ぎゃあぁぁぁーー」と大声で叫びました。するとその男はなにも盗らずに私から離れていきました。助かったー。ブラジルは危ないと聞いていましたが本当に危ないです。日中の人がいるところでも襲ってくるのですから。きっと私の「気ぃつけてるでオーラ」が弱くなっていたのだと大いに反省した次第です。

次の日はカーニバルが開かれるというメイン会場に行ってみました。毎年2月に開催されるリオのカーニバルですが、もう会場づくりが始まり、そばの小さなみやげ物を売っているスペースでは衣装が展示してありました。これ以上派手にはできないというほど超ド派手な衣装で、1年のかせぎをこれにつぎ込むというのですから、相当高いのでしょうね。このあと近代美術館に行きカルロス・ベルガラの作品展を見ました。カーニバルがスコールで中断し、道には大きな水溜りができ、その水溜りに写ったなんともいえない表情の踊り手を写した写真がとても面白かったです。

そのあとはコパカバーナで泳ごうと往復の地下鉄代だけ持ってでかけました。ここは世界有数の大リゾート地です。大きなホテルが林立し、たくさんの人が海岸にいましたが、残念ながら波が高すぎて遊泳禁止です。せめて足だけでもつけようと海岸を歩いていると大きな波がきてすっかり濡れてしまいました。トホホー、なんとも中途半端な感じで引き上げなければなりませんでした。

次の日早くサルバドールに飛行機で移動しました。サルバドールは1763年リオ・デ・ジャネイロに首都が遷都されるまで約200年あまりブラジルの首都だったところで、人口300万人の80パーセントを黒人が占めます。そのため独自のアフロ・ブラジリアン文化が花開きました。

ダンスと格闘技をミックスしたようなカポエイラはもともと武器を持たない奴隷が素手による攻撃、自己防衛として発達したもので、ビリンバウという弓のような楽器に合わせて太極拳のようなスローな動きで踊ります。道を歩いているとこのカポエイラを広場でやっていました。踊りとビリンバウをじっと熱心に見ていると、そこでビリンバウを弾いていた男性が近寄ってきて弾き方を教えてくれました。大きな椰子の実のからを共鳴箱に1弦だけを弓のように張ってあります。竹の弓と弦の間に左手をいれ、そこにこぶし大の石を持ち、弦につけたり離したりしながら音程をつけるのです。彼が弾くといい音がしますが、私がやると簡単な楽器なのに、難しくてうまくいきませんでした。

彼にお礼を言って通りを歩いていると、今度は小さなみやげ物屋からギターの音が聞こえてきました。その音にひかれて中に入るといろいろな楽器を売っていました。ガンサという20センチくらいの木筒の中に豆が入った楽器は前後にシャカタカ、シャカタカと振り、マピートという笛はピッピポッポ、ピーピポと吹くと教えてくれます。私は面白くてやってみました。それぞれで鳴らすとうまくリズムを刻めるのですが、一緒にやれといわれると、とたんにガタガタになってしまいました。おじさんは「練習、練習、日本に帰ってからがんばれ」と言いました。それにしてもここの人たちは音楽が好きなのでしょうね、通りでサンバのリズムでタンバリンを叩いて踊っている人がいますし、夜になると大音量の音楽をかけ、テーブルを道に出しみんなで体を揺らしながらビールを飲んでいます。なんだかとても楽しそうです。本当はもっとここでゆっくりしたかったのですが、先を急がなくてはならず、次のマナウスに行きました。

マナウスは世界一の流域面積を持つアマゾン河が流れるジャングルの真ん中にある大都市です。飛行機が1時間遅れおまけに荷物が30分かかってもでてこず、予定から1時間半以上遅れて出口に出ました。すると迎えにきているはずの旅行社の人がいません。彼女の携帯に何度も電話してもつながりません。ジャングルツアーや今夜のホテルの手配も頼んでいたので困り果てました。でもどうしようもないので、自分で適当に手配しようかと思いながら再度電話すると今度はつながりました。

なんと空港には彼女の夫が迎えに来ていましたが2時間待っても私が出てこないので帰ったというのです。えー考えられない。飛行機が到着する予定の時間より40分も早く来て2時間も待ったとはなんという言い草。普通は飛行機の到着の遅れなどを調べるでしょうと、その責任感のなさにびっくりしてしまいました。それでも20分後には彼が空港に着くというので仕方なく待ちホテルまで行きましたが、どっと疲れました。

その日は19世紀後半、アマゾンがゴム景気に沸き、ありあまる財を手にしたヨーロッパからの移住者が建てたというイタリア・ルネッサンス様式のオペラハウス、アマゾナス劇場に行きました。見学料金は10レアル(日本円で約550円)です。何人か集まってガイドについてでないと入れません。でもそのガイドはポルトガル語か英語だというのです。スペイン語はないかと聞くとないといわれ、私はどちらで聞いてもわからないと、入るのを躊躇していると、入り口にいた女性が「今夜8時からここで無料のコンサートがあるので、それにきたらタダで見られるよ」とそっと教えてくれました。ラッキー、コンサートの内容まではわかりませんでしたが、そんなことはかまいません。とにかく8時に来ることにし、そのまま帰りました。

8時少し前に劇場に行き中に入りました。劇場内は2階から5階までバルコニー席になり大理石の階段、屋根いっぱいに描かれた芸術をテーマにした絵などとてもきれいで、豪華な調度品が置かれ、まさにヨーロッパそのものの雰囲気でした。オーケストラピットにはアマゾナスフィルハーモニーが入り、その日の演目はブラジルの作曲家、ビラ・ロボスの曲で踊るコンテンポラリーダンスでした。舞台中央に長方形の額縁のある舞台をもうひとつ作り、ここでは影絵のような動き、手前の舞台では踊り手がその影絵に呼応しながら体を動かすという、とてもおもしろいダンスでした。ここではこのような無料コンサートがしょっちゅうあるそうで、うらやましい限りです。タダで劇場とダンスを見られて倍、幸せな気分になり劇場のすぐそばにあるホテルに帰りました。

次の日、ジャングルロッジから迎えがきて車と船と徒歩で移動しました。ロッジはバンガローになっていて、クーラーがあり、熱いシャワーがいつでも出ます。虫が部屋に入ってこないように、窓は網戸になっています。あまりの快適さにまるでリゾートホテルに滞在しているようで、ジャングルにいるのだという実感が全くなくこれでいいのかな、とちょっと疑問を感じましたが、やはり私が疑問を感じたことは正しかったのです。これではよくなかったのです。というのは次の日の朝、こんなことがありました。

ガイドに連れられジャングルトレッキングをしていたとき道で小さな蛇がとぐろを巻いてたのでひょいとまたいだのです。同じツアーの米国人のおじさんはその蛇の写真を撮っていました。先を歩いていたガイドに蛇の話しをすると、彼はびっくりして引き返しその蛇を捕まえました。なんとそれは猛毒をもったコブラだったのです。首をガイドにつかまれたコブラは鋭い牙を見せて私を見ているようでした。もし私がまたいだ時かまれていたら、死んでいたかもしれません。ジャングルに対する無知とノーテンキさがあんな軽率な行動をとらせたのです。快適なロッジに泊まり、用意万端整えられたコースに乗って動いていると警戒心がマヒし、ジャングルを知らず知らずのうちに甘くみていたのだと思います。やはり「ジャングルはなめたらあかん」のです。

午後からは別のガイドのアルテミオに連れられピラニア釣りにでかけました。その途中一匹の蜂にさされてしまいました。ヒリヒリと痛くて腫れ上がってきます。するとアルテミオが近くの木の幹を2種類切り取り傷口にあてろといいました。それをあてていると不思議なことに痛みも腫れもすっかり消えてしまいました。すごい知識です。

ジャングルは猛毒を持った動物や虫などが多く生息していますが、一方で薬の宝庫でもあるのです。彼はアマゾンの民、コカマ族の出身でここから船で6日かかるペルーとの国境近くのタバチンバで生まれたということですが、「ジャングルはあなたたちにとって何?」と聞くと「神様たちの母」だと答えました。彼らにとってジャングルはかけがえのない大切なものなのです。そんなジャングルに何の畏怖の念もなく物見遊山でやってきたことをちょっと反省しました。

彼につれられて行ったピラニアの釣り場では牛肉をえさに釣ってみましたが、難しくてなかなかひっかかりません。アルテミオや釣り場の若者は次々釣り上げますが、私はえさをとられてばかりです。でもどうしてもピラニアを食べてみたかったので一生懸命です。2時間ばかりがんばりましたがどうしても釣れず、釣り場の若者が釣り上げた大きなピラニアを持たせてもらい、いかにも私が釣り上げたような笑顔をして写真だけ撮らせてもらいました。そしてそれをロッジでスープにしてもらい食べました。淡白な白身魚でなかなかおいしかったです。

次の日は船でマナウスから下流に10キロの2河川合流点に行きました。ここはネグロ川とソリモインス川が合流してアマゾン河となり大西洋に流れ込むのですが、2つの川の水が混ざらずに境界線をもって乾季で17キロ、雨季で70キロにわたり流れているのです。その原因は両者の比重と流速が異なるためですが、ネグロ川は黒く、ソリモインス川は茶色をしています。この場所では決して混ざりあうことはないけれど、いつか混ざりひとつのアマゾンという大河となるこの2つの川を見ながら、世界各地で絶えない紛争を思い、人間たちもこうなればいいのになあ、などとぼんやり考えてしまいました。

このあとマナウスに戻り記念にピラニアの剥製の置き物とキーホルダーを買って最後の訪問地ブラジリアに向かいました。しかし、タム航空がまたまた1時間半遅れて、着いたのは夜の8時20分、到着が遅くなるためサルバドールから予約を入れておいたホテルに9時に行きましたが部屋がありません。きっと着くのが遅かったので先に来た客を泊めてしまったのでしょう。よくあることです。空き部屋を探し、2軒は満室でしたが3軒目には泊まれました。やれやれです。

ブラジリアは1955年、当時のクビチェック大統領がブラジル中央高原の荒野に新首都を建設すると宣言、区画整理された機能的な都市づくりをやり1960年にリオ・デ・ジャネイロから遷都されました。
そんな興味深い街を歩きました。道路は広く立体交差やロータリーが多く、また信号も少ないので車はスムーズに流れています。美術館や図書館の建物も非常にシンプルで、かつひとつひとつが現代アートのモニュメントのようです。各省庁のビルは緑で統一され、窓のブラインドが少しづつグラデーションになっています。そして窓を開けた部屋と閉めた部屋ではモザイク模様になりとてもきれいです。国会議事堂も斬新なデザインで、すくっと立った28階建ての細い2つのビルと、白いお椀をふせた形の屋根の上院と、受け皿のような屋根の下院とがあります。その姿は青い空にくっきりと映えとても美しかったです。

ここはいつでも見学できるというので入ってみました。すると実際に国会が開かれ、質疑応答をしていました。緑と黄色のブラジルカラーのアクセントのある木の壁、さざなみのようなやわらかい光を放つようデザインされた天井、議場の周りにはスタジアムのように傾斜して椅子がとりつけられ、いつでも、だれでも会議の様子を見ることができるようになっています。中央の議場は明るく周りの観客席は薄暗くしてあり、まるで劇場で芝居をみているような、ちょっとわくわくする空間でした。
ここでひとりのブラジル人の女性と友達になりました。彼女の名前はイベッチ、家具のデザイナーをしているそうで、スペイン語が少しわかる彼女とポルトガル語を少し話す私とで何とか会話が成立しました。

ブラジリアはホテルはホテルゾーン、銀行は銀行ゾーン、官公庁は官公庁ゾーン、住宅は住宅ゾーンと機能第一に考えられているためホテルゾーンにはスーパーマーケットが一軒もありません。いつもスーパーで野菜や果物を買い、食事代を安くあげている私にとってはとても不便です。おみやげにブラジルコーヒーを買いたいのですがどこにいけばいいのか全くわからなかった私を彼女は自分の住宅ゾーンにあるスーパーに連れて行ってくれました。

ブラジルは今すごい勢いでレアルが上がり、ドルが下降しています。対日本円でも1レアル55円と上昇しているので、物価が高く日々泣いていたのですが、ここはとても安くてびっくりです。彼女に教えてもらったおいしいコーヒーは250グラムで2.65レアル、150円ほどです。ここで安いパンや果物も買うことができました。この住宅ゾーンの物価は特に安く押さえてあるのではないか、という気がするほど他の都市より安かったです。
ブラジリアの都市づくりは確かに機能的で合理的でかつ美しいと思います。道路も広く信号が少ないので車はスムーズに流れます。しかし逆にいうと通行人にとって信号の少ないのは不便です。
またホテルゾーンや官公庁ゾーンにはレストランはありますがスーパーはありません。ここで働く人たちの昼ごはんはどうするのだろうと思っていたら、やはりありました。官公庁の近くの公園のまわりにはたくさんの食べ物を売る露天が。そしてバスターミナルのまわりには小さなファストフードの店やジューススタンドが。最初はずいぶん整然とした芸術的で上品な町だと思っていましたが、やはりここも多くの庶民が生活している場所でした。

多種多様な民族が生活する商業都市サンパウロ、200年間ブラジルの首都として繁栄し、今なお国際観光都市としても賑わいを見せるリオ・デ・ジャネイロ、音楽好きの人々が暮らすサルバドール、広大なジャングルが残るアマゾンにあるマナウス、そして機能的な近代都市ブラジリアと5つの特徴ある都市を見て歩きました。それぞれの都市は違う国だといってもいいほどの全く異なる顔を持っていました。

しかし、その中で共通しているのは、人々は明るくとても親切だったことです。言葉のわからない私にも一生懸命いろいろ説明してくれますし、男性は必ず重い荷物を持ってくれます。地下鉄やバスでは席を譲ってくれます。それでいて興味半分で声をかけてくることはありません。ひったくりにあったりして怖い目にもあいましたが、ブラジルで暮らすのもいいかなーなんて思わせるほど私にとっては波長のあう国でした。

しかし、その一方で、この国の問題点も少しかいま見えました。実際はどうかわかりませんが、ブラジルは今すごい勢いで経済発展しているといわれていますが、その原動力になっている国民の購買力が盛んな原因は、健全な経済状態にあるのではなく、どのような品物でも月賦払いができるため、借金が増えているのだという意識がなくものを買いまくっているためだという指摘もあるのです。
そしてブラジル人の労働意欲の低さです。ここブラジルはいつも手の届くところに果物がたわわに実るような豊かな大地があり、川や海に行けば魚が取れます。たいした衣服もいらない熱帯気候、もしくは温暖な気候です。そのためブラジル人はそうあくせく働かなくてもいいんじゃないのと思っています。できればなるべく働きたくないと思っています。そして大のお祭り好き。祭りのためならどんな犠牲もいとわず一生懸命ですが、労働意欲という点では日本人とは比べ物にならないくらい低いと思います。

ブラジルには広大な国土があり、土地は豊かな農作物を生み出し、石油も出る。鉱物資源も豊富、川や海にはおいしい魚が住み、観光資源もいっぱいと、発展していける要素は十分です。ブラジル人がほんのちょっとだけやる気を出せば、ブラジルは底知れない可能性を秘めた、とんでもない国だと思います。でもやっぱり無理かなー。

犬狼詩集

管啓次郎

   5

海岸段丘の上で強い海風にさらされる
一本の樹木をプラテーロと見に行った
行ってみると樹木は老人だった
帰ることのできない老人なのだ
居住を合法化できないまま事実としてそこにいる
その事実において自然を肯定している方でした
「私はかつて種子として鳥の体内に宿りここに来た」
(それで「種子島」の語源すらわかった気がする)
伝えることのできない彼の言葉は
耳の長い私のプラテーロが翻訳してくれた
樹木は支配をめざさない植民者で
繁栄をめざさないひとりきりの群衆
ぼくは強い風に飛ばされそうになりながら
樹木の肌をそっと舐めてみた
樹木の肯定がざらざらと
風を摩し、宇宙を磨き、舌を傷つける

   6

草の反乱を鎮圧するために
牛百頭の群れが導入された
かれらはゆっくりと草をすり潰す
牛の胃の内容物と詩の内容物が
等価であると考えるなら
莫大なバクテリアが生産するアミノ酸に牛の巨体が育てられるように
詩によって育てられたのは何か
地質学的な時間は生物の尺度を超えるが
生命のはかなさには成長というはなやぎがある
詩にできるのはその予感をことほぐこと
燃焼という事実に感情的色彩を与えること
それからふたたび草そのものに帰り
その細胞壁の成長をじっと見つめるといい
草たちがミリ単位で上方に伸びてゆき
何も気にせず道端に寝そべる牛たちを
力強く、そっと天に近づける

クセナキ スの演奏から

高橋悠治

(これは近刊予定の Performing Xenakis, Pendragon Press, 2010 に書いた文章から思いついたこと)

逆年代順に言うと  Kyania(1990) を指揮したのが1992年だった 極端におそいテンポで密集した音の壁の向こう側にある光の予感 ピッチもリズムもない色をオーケストラの楽器で表現するパラドックス 絡み合った線や響きが空間を埋めて 空間も時間もない持続をつくろうとする エレクトロニクスやコンピュータではどうしても均質になってしまうが 異質な生の楽器音を重ねていくと 息づくような音の密林が生まれる しかもその響きはそれを聴くためにではなく その隙間からわずかに漏れてくる彼方の光(それが濃い青の領域というタイトルの示唆するものなのか ギリシャ語の kyanos はヒッタイト語源らしい ラピスラズリも意味するようだ)を感じるために置かれたハードルだという感じ カフカの「城」で 電話からきこえる城のなかのざわめきのように そこにあるのはわかっていても 辿り着くことはできない場所を 間接に描き出すためのメカニズム

おなじコンサートで演奏したマセダの Distemperament は調律された楽器をつかって 音律から逃れるための音のスクリーンだった アジア熱帯の密林の音 あるいはちがう村でそれぞれに調律されたガムランが風に運ばれて空で出会うような音楽 マセダはヨーロッパやアメリカでまなんだピアニストだったが フィリピンに帰ってルソン島の山腹に天から降りて来るような棚田を見たときに それまでのヨーロッパ音楽とこの風景とのちがいに目覚めて音楽学者になった オーケストラもそれぞれの楽器が ちがうタイミングと装飾で一つのフレーズを受け渡しながら織り上げる布のようだった

1970年代に演奏していたクセナキスのピアノとオーケストラのための Synaphai (1969) ピアノソロの Evryali (1973) には メドゥーサの髪にたとえられる一つの図形 枝分かれし成長していく木の見えない生命力の不気味さがある メロディーを一本の曲線としてではなく 断層の連結(これが synaphai の意味)とみなす 連続する音をわずかに切り タッチを変えて 線の一部ではなく 同時に織り合わせたたくさんの面の切り口として透視するならば 荒れた海を鎮める魔力(everyali の語義)に近づく

それ以前の Herma (1961) と Eonta (1964) では 密度を変えながら進行する二つ以上の面の出会いが 全域にばらまかれた音のあいだから一瞬見えるかたちを追っていく 疲れて手をうごかせなくなっても 意識的なコントロールを離れてまだつづく手の運動が 二種類の尺度(5連音と6連音)の網にかかった音を 耳が想像する音のかたちに仕立てては崩していく記譜のためのリズムの二重の格子がかたちを歪めるとしても 確率分布によって配置された音自体も すでに一つのシミュラークルなのだから その再現や 細部の精確さではなく 耳はそこにない彼方のものを聴いている

こうして書いていると それも一つの感じかたにすぎないと思えてくる クセナキスの作品を解釈するのか それともクセナキスを通して見たと思ったものを書いているのか

エレクトロニクスやコンピュータの不器用さと生真面目な能力にあきたらず 人間の集団である大オーケストラにもどると 今度はその心理学や組織につまずくし 権力や娯楽の社会的な機能に組み込まれ それら全部が経済に還元されてしまうようにも思える

一本の旋律が 情緒を運ぶ舟にならず 織り込まれた地層透視に展開できるなら 大オーケストラ機構を使わなくても 一人からはじまって増殖する音楽の感染力 わずかな音の多面性を考えてみようか

モロッコの旅のあとで

柴田純子

長いことマグレブ、つまりモロッコを含む北アフリカに行きたいと思っていた。グラナダで写真がたくさん入った案内書を買ったのは1997年、10回目のスペイン旅行の途中だった。アンダルシアを訪れるたびに、この地に残されたイスラム文化の本家本元を見たいという思いは強くなる一方だった。

私は3人の年子が全員高校生になった年にスペイン語を習い始め、1984年に『中世聖母奇跡物語の言語学的分析』と題した論文を提出して上智の大学院博士前期課程を終えたが、その後も作曲家だった夫のテクスト係りをつとめる傍ら『聖母マリアのカンティガ集』を読み続けてきた。賢王とたたえられたスペインのアルフォンソ10世(1221-1284)が編纂したこの書物には400篇を越す歌謡がおさめられており、そのうち40篇は聖母をたたえる賛歌、残りは聖母が行った奇跡を述べる物語歌である。

『カンティガ集』がとりあげている霊験あらたかな聖母の聖所は、スペインはもとより、フランス、イタリアから聖地エルサレムに至る中世キリスト教世界全般にわたっている。それらの聖母、正確にいえば聖母子像の中で私がもっとも心をひかれるのは、アンダルシアのカディス対岸の小さな港町、プエルト・デ・サンタマリアにある「港の聖母」である。 

アンダルシア西部のレコンキスタ(国土回復)をなしとげた後、北アフリカに十字軍遠征を企てたアルフォンソ10世は、根拠地としてこの小さい港町を選んだ。そして騎士修道会を設立するために、アフリカのイスラム軍団が築いた川沿いの城(現在はサン・マルコス城と呼ばれている)に、ゴシック初期の作と思われる美しい聖母子像を安置して「スペインの聖母」と名づけた。しかし、この王の政治的・軍事的な意図はほとんど実現することがない。このときも既存の騎士修道会が、新しい騎士修道会のために王が集めた財を食い荒らし、計画は竜頭蛇尾に終わった。

『カンティガ集』には「港の聖母」の奇跡物語が28話ある。イスラム支配下でアルカナーテと呼ばれていた町が「聖母マリアの港」という名に変わったいきさつ(№328)、城の改修に必要な木材が不足すると聖母が上流の橋を流してくれたこと(№356)、30人の男たちが聖堂のために深い穴を掘っていると塔が崩れ落ちたが、聖母が守ったので誰も怪我ひとつしなかったこと(№364)などなど。

「港の聖母」の写真を撮るために、私はこの町に4回行った。現在も聖所として機能しているモンセラートやビジャルカサール・デ・シルガなどと異なり、「港の聖母」は礼拝の対象になっていない。毎週土曜日の昼間2時間だけ城の門が開き、広間の奥に安置された「港の聖母」に会うことができる。広間の入口は鉄格子で閉ざされているので像に近づくことはできない。最初に行ったとき持っていた小型カメラの80ミリ望遠では、豆粒ほどの写真しか撮れなかった。

この町とカディスを結ぶフェリーに乗って、カンティガ№368の病める女が癒されたカディスの旧カテドラルをさがしに行ったこともある。港町では、さまざまな顔色や顔かたちの人に出会う。波止場には車座になってワインを飲みながら歌っているジプシーらしいグループがいるし、バスの切符を買うお金をくれと女の人にせがまれたこともあった。

柴田の《宇宙について》(1979)のテクストを準備したとき「世界の多様性」を基礎概念としたが、それがどのようなものか実際にわかっていたとはいえない。この世にさまざまな人種があり、多様な生活があることを実感できたのはこのアンダルシアの港町でだった。そして今度マグレブの地を歩いて、私たちが知らないさまざまな生き方があること、また、私たちが「文明化」するためにいかに多くのものを捨ててきたかを今更のように気づかされた。

たとえば街道を歩いているひとびと。私たちはほかの町に移動するためにバスに乗っている。大勢の男たちがジャラバの裾をひるがえして街道を歩いている。子供を背負い荷物を持った女たちもいる。時おり車が通るし、道ばたでバスを待っているらしい群を見かけることもあるが、歩いている人の多さは圧倒的だ。

半世紀まえには日本でも、どこへ行くのも歩いたものだ。長野県岡谷市に疎開していた65年前には「国民学校」の授業は午前中だけで、午後は草刈り、開墾、木曳きなどの作業だった。私たち5年生は塩尻峠を越えて午前中いっぱい歩き、山奥の炭焼き小屋に炭を運びに行ったことがある。帰りは3人交替で4貫俵(15キロ)をくくりつけた背負子の重さに汗を流しながら山道を歩き、日が暮れかかるころ学校にたどりついた。車社会のいま、人は健康のために、あるいはレクリエーションとして歩く。街道を歩くモロッコの人たちは、かつては歩くことが生活の一部だったことを私に思いおこさせた。

しかし文明化も悪いことばかりではない。どの町にもメディナの迷路の中にCDを売る店があった。古都マラケシュの広大なフナ広場の一隅にあったCD屋では、ここの音楽のCDを買いたいというと、即座に「ベルベル人の音楽」と「モロッコのウード」を筆頭に5枚のCDが目の前に並べられた。アル・アンダルスの音楽はあるかと聞くと、「ありますとも」といってアドゥナン・セフィアンという歌手のCDを出してきた。伴奏はサレのオーケストラである。

サレは河をへだててモロッコの首都ラバトと向かい合う港町で、アルフォンソ10世は1260年に船隊を組織してここを攻めようとした。前に読んだ伝記では、船隊は上陸せずに引き返したことになっていたが、グラナダで買った案内書には、略奪された町を何日かのちに、アブ・ユスフ・ヤクブ・ベン・アブドゥ・エルアークが取り戻したと書いてある。

カバーの写真には嬉しいことに、フェズで現地ガイドのフワッドさんが店の言い値の半値に値切ってくれて買った擦弦楽器のレバーブがある。撥弦楽器のウード、打楽器のダルブーカも一緒に写っている。CD「モロッコのアル・アンダルス音楽」には7曲はいっているが、曲名がアラビア語だけなので、フワッドさんが暇なときに訳してもらおうと思ったが機会がなく、最後の二日になった。

マラケシュから帰りの飛行機に乗るカサブランカまではバスでなく3時間の列車の旅で、定員6人のコンパートメントの相客は中学生の男の子とそのお母さんだった。モロッコがフランスの植民地だったのは半世紀たらずだったと聞いていたが、学校で習う第一外国語はフランス語、英語は第二外国語だそうで、少年は話が通じるには十分な英語を話したし、お母さんはフランス語の新聞を読んでいた。思いついて、「アル・アンダルスの音楽」の曲名を英語に訳してもらえないかと頼んでみると、少年は「いいよ」といった。

英語の単語がわからないとお母さんに聞いて題名を英語で書いてくれたが、私がアラビア文字をなんとか読めるのに気づくと、書くのはどうなのと聞く。むかしほんの初歩を習っただけだけれど自分の名前くらいはなんとか、と答えると書いてみてという。メモ用紙に名前を書いてみせるとカーフ(Kにあたる)だけがちょっと違うね、といって直してくれた。それから自分の名前をAliと書いたので、その下に片仮名の「アリ」を並べて見せたら、何回も練習していた。

彼は学校の1週間の休みをお母さんと南の保養地アガディールで過ごし、マラケシュを見てカサブランカの少し北の町に帰るところだった。ミシュランの地図をひろげると、モハメディアという海沿いの町をさして、「ここだ、ぼくの町はここだ」と大喜びだった。はるかな地平線に陽が沈んだとき、sunsetとsunriseにあたるアラビア語を教えてもらったし、たいへん有益な3時間だった。

モロッコの最後の日に、カサブランカのハッサン2世モスクを見た。メッカ、メディナに次いで世界第3位の大きさを持つこのモスクは、海岸に打ち込んだ無数のコンクリート柱の上に建てられている。潮が満ちると建物の基部を波が洗う。内部はアラベスクの饗宴だ。25000人がモスクの中で、80000人が外で礼拝できるそうだ。この壮麗な大建造物が、全額寄付で、しかも6年しかかからずに1993年に完成したと聞いたときには、驚きのあまり言葉が出なかった。私は、何の本か忘れたが、ヨーロッパのロマネスクからゴシックへの移行のことを述べた1節を思い出した。「全ヨーロッパはあたかも古い衣を脱ぎ捨て、新しい白い衣をまとったようだった。」様式の変化は、時代の力によってひきおこされる。もしかするとイスラム圏は、中世のキリスト教世界に押し寄せたのと似通った潮流にさらされているのではないだろうか。

家に帰ってまず、「アル・アンダルスの音楽」を聴いたが、やや期待はずれだった。以前から持っていた二三のCDと大差ない。アル・アンダルスとはイスラム支配時代のアンダルシアの呼び名である。1492年にカトリック両王がグラナダの市門の鍵を受け取ってイベリア半島をキリスト教側に取りもどしたとき、アンダルシア地方には8世紀にわたるイスラムの歴史があった。イベリア半島を追われた人々はアンダルシアで慣れ親しんだ音楽を北アフリカに伝えた。いまアル・アンダルスの音楽と呼ばれているのは一種の伝統芸能のように感じられる。

一方、「ベルベル人の音楽」と「モロッコのウード」はすばらしい。前者は生気に溢れた歌だし、後者は名人芸の極致だ。私は毎日、駱駝の腸のガット絃を2本張ったレバーブをひざに乗せ、サハラ砂漠の北端からペットボトルに入れて持ってきた赤褐色の砂や、化石らしいものがはまっている石ころを眺めながらこの2枚を聞いている。