犬狼詩集

管啓次郎

  3

狩猟圧が高まっている雲の都会で
魂が狩られようとしている
その最大の防御は塩の人形を作ること
純白の、つまり光を散乱させる
無色透明の結晶の集積により
魂と経験のでこぼこを見かけ上ならした
平均律的な顔立ちの人形たちに踊らせること
あるいは雲の都会の運河を音もなくすべる
彼岸へとゆきつかない渡し舟に
季節はずれの茄子の牛を四、五頭並べて
走れよと声をかけてみるのもいいだろう
かれらは逃げない、私は追う
かれらはうずくまる、私は追う
牛たちが道草を食う対岸の土手に妖精の輪が生じて
目蓋のように閉じたり開いたり
魂はそれにつられて花のように眠る

  4

巨大な黒い犬とオレンジ色の犬にリヤカーを曵かせて
とぼとぼと世界を巡回する老人をよく見かけた
ユカリプテュスの並木に沿って歩きながら
いつもかたつむり以上に押し黙っていた
村人たちは彼のボロ着を笑い
町の人々は彼と犬たちの存在を無視した
何をして生きていたのか、あの老人は
ぼくは五歳、いつも馬蹄形の磁石をもち
砂鉄や古釘を吸いつけて遊んでいた
だれとも遊ばず、だれとも口をきかなかった
二頭の犬および老人とはよくすれちがったが
それ以上によく知り合うことはなかった
時々おじいさんが犬たちに
知らない言葉で話しかけていることがあった
犬たちはどちらも口をあけ主人を見上げ
何かうれしそうに尾を振っていた

しもた屋之噺(100)

杉山洋一

3月半ばにミラノへ戻り、まだ冷込みが厳しいのに驚きました。雪が降ったばかりで朝晩は零下2℃まで下がっていたかと思います。普段ならずっと春めいている頃ですけれども、今年は寒の緩みがとても遅く、初めての芝刈りをつい数日前に終えたところです。庭はそのまま向かいの中学校の校庭に面していて、その間を腰丈ほどの目の粗い形ばかりの柵が並んでいるだけで、普通に会話ができれば、校庭からボールも飛んできますし、息子など学校に上がる前まで、昼休みに校庭で遊んでいる妙齢を集めて踊りを披露しては、頬にキスを貰って喜んでいました。

毎日、食卓の向こうに体育の授業を眺めるのも馴れましたが、当初から気になっていたことがあって、何時も女の先生二人を連れてのんびり校庭を散歩している、一風変わった男の子がいたことです。2年前にその生徒も入替わって、去年から女の子が、同じように先生を二人連れて校庭を散歩しています。3人で校庭を歩いていることもあれば、体育の授業で他の生徒と一緒に校庭にでてきて、何となく一緒にいることもあります。近くを通りかかると、女の子はずっと一人で呟きつづけていて、自閉症か何かなのかなと思っていました。先生たちは彼女にさかんに話しかけていて、根気強いし、とても親切で優しいように見えました。毎日のことだから、大変だろうなと思いましたが、周りで、音楽では食べられないから学校の補助教員をしている友人が過去に何人かいましたから、なるほどこういうことなのか、と思ったりもしました。何より、イタリアでは精神障害児も同じ学校に通えるのは、当人にとっても、周りの子供にとってもお互い良いことに違いないと感心していたのです。

大阪でみさとちゃんのオペラの最後の公演が終わってミラノに戻ると、ペソンの新作の合唱曲の楽譜と一緒に日本から小包が届いていました。国立病院で神経内科で臨床研究している古くからの友人Hさんが、こんな本を送ってくれたのです。
『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(大熊一夫著 岩波書店刊)

特に興味を持ったことがなかったので、イタリアで精神病院が廃止されていたことすら知りませんでした。バールでお茶を飲んでも、ずっと呟きながらうろうろと徘徊する男性がいたり、スーパーに行けば、棚に品物を並べている女店員に、明るく纏わりつく男性がいたり、イタリアには妙な人種が多いなとは思っていましたが、それに対して疑問も抱かなかったのも不思議です。

最近はテレビも見なくなりましたが、少なくとも暫く前までは、国営放送が毎週生放送していた「誰かしりませんか?Chi l’ha visto」という番組があって、つまり人探しの番組です。司会者がファイルを紹介すると、視聴者がいつどこで見かけた、どういう状況だったか、現在どうしている、など直接電話やファクスでリアルタイムに放送局に連絡するのです。長く続く番組のようで、相当数の行方不明者が見つかっているようでした。ただ失踪状況を聞いていて、重度の欝病を患って、とか、精神障害がある、痴呆が進んで、などの理由が多いのに驚きました。

大熊さんの本を読んで思い出したのは、こんな他愛ない身の回りの毎日の出来事でしょうか。もっとも、イタリアで生活する人間が読んでも仕方がないわけで、ぜひ日本のみなさんにたくさん読んでもらい、意見を交わして欲しいと切望します。ただ、お前の意見はどうなのかと問われると、言葉に窮するのが正直なところです。それは、精神病院を廃止し、普通の生活のなかへ溶け込ませればよいという単純な図式では、結局解決しない気がするからです。

日本とイタリアの文化の違い、大きく言えば、ヨーロッパ人と日本人との生活の違いも、大いに関わってくるのではないでしょうか。ここ数ヶ月日本に長期滞在したこともあって、自分自身この問題をいつも心に留めていたところでした。海外に住み始めた当初なら、もっとイタリアの生活を踏まえて日本はこうあるべき、と断定的に考えられたかとも思いますが、15年以上イタリアにいると、イタリアはイタリアであって日本は日本、と無意識に分けて考えているのに気がつきます。

音楽でも同じで、イタリアやヨーロッパと日本で、音楽のあり方がもし違ったとしても、日本は全てヨーロッパ風にすべきかどうか。大体ヨーロッパと言っても、これだけ歴史や文化、言葉も違って、生活スタイルが違なるのに、日本はどれを取ってスタンダード化してゆけるというのか。そんなことを漠と考えていたところでした。ただ、皆が自分の信じることを誠実に続けてゆけば、後100年くらい経つと日本における西洋文化の日本文化化も、纏まってくるかと思っていますが、その頃にまだ日本だの、日本文化と呼ばれるものが存在するかどうかは分かりません。

現在のところ、日本で死刑制度が8割の支持を受けていたり、脳死判定基準やそれに纏わる臓器移植の基準など、日本とヨーロッパ、場合によってはアメリカも含め、同じ土俵では決められないことも沢山あると思います。捕鯨問題にしてもその良い例かも知れません。一つの物差しでこれだけ幅広い文化の差を測るのは、やはり無理があるのではないでしょうか。日本には日本の良い所があるのだし、ヨーロッパにはヨーロッパの長所もある。お互いの長所を繋いでゆけばよいではないか、という絵に描いた餅を、40歳になってまで食べようとは思わないのです。

お互いに迷惑をかけず、思いやること、相手を観察し慮ることは、日本人の最も誇れる優れた機知だと思うし、故に現在の日本の発展が成し遂げられたのは疑うところがありません。日本の通勤電車で携帯電話は鳴らず、電車も定刻通りに機能し、驚くほどの精度を持って生活が回っているのは、お互いが暮らしやすいよう、最大限の配慮に心を尽くして生活しているからだとおもいます。

満員電車で誤って妙齢の後ろなどに回ってしまい、迷惑をかけたと誤解を受けぬよう、片手をつり革にかけ、余った手で必死に大江健三郎を読んだりするのも、ささやかな回りへの配慮かも知れないし、駅には、車内で物を食べたり大音量で音楽を聴くといった迷惑行為をたしなめたり、リュックを前に抱えることを推奨する、啓蒙ポスターが目立ちます。電車への飛び込み自殺があると、他人の迷惑を顧みないで迷惑なとため息が漏れ、お急ぎの所ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません、と謝罪のアナウンスが入ります。ここまで頑なになってお互い暮らさなくてもと思うのは、多分普段東京に暮らしていないからだと思います。

イタリアでも、新幹線にあたるユーロスター辺りになると、他の乗客に迷惑になるので携帯電話の呼出し音を消すようアナウンスが入りますが、それでわざわざ音を消す人は、殆どいないかも知れません。消音するような配慮のある人は始めから消音してあるし、消音しないような人は、アナウンスがあっても消音しないように見えます。他人を認める、リスペクトする表現方法は、まず他人に介入しないこと、邪魔をしないこと、大なり小なりヨーロッパ人はそう思っていると思います。これは日本人の美学と或る意味正反対にすらなります。優しさがないわけでも思いやりがないわけではありませんし、寧ろ反対かも知れない。ただ自分はあくまでも自分であって、他人は他人として認識する、文化の違いのように感じています。

イタリアに関して言えば、件のスーパーで見かけた陽気な精神障害者が、纏わりついていた妙齢の胸に手を持って行ったので、流石に気になって様子を見ていましたら、彼女は態度は悠然としたもので、物怖じせずにやんわりやり過ごして、構わず話し相手をしつつ、仕事を続けているのに感嘆しました。そういう国民性の違いもあると思います。

死刑制度や脳死判定に際しては、日本人とヨーロッパ人の死生観、宗教観の違いは決定的です。恥じて腹を割る美学は、基本的に西欧には存在しなかったと思うし、神風特攻隊が生まれる土壌など、恐らく想像がつかないものだったでしょう。現にヨーロッパ各国で「カミカゼ」はそのまま特攻攻撃を意味する言葉となり、現在では中東情勢を伝えるニュースなどで、すっかり使用頻度の高い単語になってしまいました。

無宗教の日本人でもお墓に行ったら手を併せるのと同じように、無宗教のイタリア人でも教会に入れば十字を切ります。ですから、周りのイタリア人が死刑制度の話をしているのを聞くと、自分が他人の生命に手を下せるわけがないじゃないか、と何の疑念もなく当然のように話します。自分は他人の死に関係したくない、と突っぱねているようにすら聞こえます。それはやはり、無意識にせよ、どこかにキリスト教観が染付いているからでしょうし、他人への尊厳の表し方の違いかも知れません。日本では、刑の執行に於ける刑務官の精神的負担について盛んに話されていますが(これは至極当然だと思いますが)、ここで彼らが思う死刑執行に対する拒否反応は、それよりずっと前の段階なのです。もっと無意識なものだとも言えるし、現在の中東諸国を後進国だから野蛮、と一からげにしてしまういるような猥雑さも、ほんの少し混じっているかも知れない。家族関係にしてもイタリアとイギリスではまるで違うだろうし、安楽死が認められているオランダとイタリアでは、死生観も人間性もまるで違います。ヨーロッパでもこれだけ違うのですから、日本とヨーロッパで文化違うのは自然だと認めるべきかも知れません。

ただ思うのは、こちらで死刑制度が野蛮だと言っても、暫く前までは当然のように死刑を執行していたのだし、無数の戦争で無数の殺戮を繰り返して現在に至ると考えれば、この間まで存在していた精神病院も、時代の大きな流れに沿って変革してゆけるものかも知れません。日本であれ、どこであれ、精神障害をもつ人々が、少しでも暮らしやすい環境のなかに暮らせるようになることを願いますが、それには、もっとずっと大きな単位での意識変革が必要なのかもしれないし、逆に、そうした大きな意識変革のためにこそ、こうした小さな個々の変革の積み重ねが必要なのかもしれない。

ただ、そうして世界中が一つのスタンダードに纏められてゆくべきものかどうかすら、今の自分には分かりません。誰でも貧しい人を助けようと言いつつ、少しでも良いもので安いものがあれば買ってしまう。昔500円でしか買えなかったものが、今は100円で買えたりする。技術の進歩がそれを助けているとはいえ、恐らくその100円のために働かされているであろう、膨大な労働力や彼らの生活については考えません。日本国内かもしれないし、海外かも知れないけれど、そんなことに頭を悩ましていたら、到底暮らしてゆけません。安いものばかりではありません。高級品だって、イタリアのブランドメーカーが、国内外の中国人労働者に不眠不休で裁縫させ、そこまでなら殆ど何の価値すらない値段で取引されていたのが、ブランド名を縫付けた途端、高級「イタリアン・ファッション」に変貌してしまう。

そんな文化を何ら疑問を持たずに受け入れている我々が、気軽に弱者を助けると言える立場にあるのか、正直分からなくなってしまうのです。誰もが痛みを感じないで生きることの不可能性を、最近頓に感じます。弱者を助ければ、より強者が強くなる。もしかしたら格差ははやり縮まらないようにも思いますし、格差をなくそうとすればするほど、誤った戦争に戻ってしまうような危惧すら薄く覚えます。

さて、そろそろ布団から抜け出して、授業に出かけなければ。目の前では一時限目のサッカーの授業で子供たちが楽しそうに駆け回っています。そこでは意外に女の子が強かったりするのが見ていて面白いところです。                    

(3月27日ミラノにて)

い、石―― 翠の水晶66

藤井貞和

「氷晶石を水にいれると、見えなくなります」と、ものの本に、
書かれているので、私はおまえを水浴びへ連れて行く。 石は、
もうじき、わたしの視界から、見えなくなるのだ。 石よ、
ユング自伝には、「わたしが石の上にすわっているのか、
それとも、わたしはかれがすわっている石なのか」とある。

大盤石あり、その石に小さな穴がある。 成弁(=明恵)が、そのなかにはいり、
思うに、「出ようとしても出られない」。 義林房と、縁智房とが、この石の、
うえを通り過ぎる。 「おい、義林房よ、どうしたらこの石を出られるのか」と、わたし。
義林房は誦文(じゅもん)をおしえて、成弁に唱えさせる。 連歌みたいな誦文だ。
  いざなきの……

これを唱えていると、大きな氷晶石が日に溶け出して、
誦するにしたがい、すこしづつ消えて行く。 消えおわり、頭と顔とが、
ようやく出てくる。 出おわるとまた石が消えて腰のあたりに到る。
まだすこしのこる石を、なんとかして脱ぎ捨てると、
あとにのこるは私の抜け殻なのか、それともわたしなのか。

(明恵『夢記』と、河合隼雄『ユング心理学と仏教』岩波現代文庫2010(原本1995)とより。河合のエピローグには世界で著名になった「1000の風」が引用されている〈私の墓石の前に立って……〉。氷晶石〈cryolite〉はグリーンランド産が知られており、Na3AlF6というハロゲン化鉱物。私を探さないでください。)

丸にCの字を書きたくて

片岡義男

落書きのためのスペースは教科書の欄外余白だった。本文ごとに、つまりどのページにも、左右そして上下に、ここに落書きをしなさいと、僕を誘ってやまない余白があった。上下の余白は横長のスペース、そして左右のスペースは縦長であり、幅は狭いけれども縦につながり横に広がり、四方をぐるっと取り囲んでもいる余白は、まさに落書きのためのものだった。表紙と裏表紙のそれぞれ内側は、腕の見せどころの入魂のタブローのための、特別なスペースだった。

そして落書きのための時間は、授業中がもっとも好ましかった。それ以外の時間にどこへ落書きしようとも、なぜかあまり面白くなかった、という体感が記憶の底にかすかにある。授業中の生徒がなにをしているのか、教壇の先生からはよく見えた。前の席の女性の背中に隠れて、教科書の余白に落書きに余念がないという至福の時間に、「おい、カタオカ、なにしてるんだ」と、先生の声が終止符を打っていた。

教科書一冊全ページの余白に連続漫画を、授業中の時間を使って描き上げたのは、一九五三年のことだった。手塚治虫の漫画を古書店でかたっぱしから手にいれ、夢中で読んでいたことのなかから、僕の余白漫画は生まれてきた。手塚の何年か前、『不思議な国のプッチャー』という、最初のアプローチがあるのだが。教科書まるごと一冊の余白に描いた漫画は、その余白をすべて切り取り、一冊のノートに順番に貼りつけた。いまの僕の日常語で言うなら、本にまとめた、ということだ。縦のつながりと横のつながりが交互する、いま思えば斬新な表現形態の傑作だった。タイトルは『おい、カタオカ』とした。

第二巻も作った。タイトルは『こら、カタオカ』だった。第三巻は『なんだ、カタオカ』といい、これも完成させた。余白漫画の三部作だ。三冊のどのノートの表紙にも、タイトルと僕の名前に加えて、丸のなかにCの字の、マルシー、つまりコピーライトを、添えた。これを書き込むときには、晴れがましい気持ちになった。Cの字はコピーライトという英語の言葉の頭文字だと知っていたし、日本語では版権と言うのだ、ということも知っていただろう。

僕が作った三部作に刺激を受けて、僕よりはるかに漫画のうまい同級生が、年末近く、次の年のためにおそらく父親が用意しておいた日めくりカレンダーを使って、三百六十五ページの大作漫画を仕上げた。じつに面白い漫画だった。表紙には題名と彼の名、そしてマルシーとその年号が、これは誇らしげに太く大きな書体で、書き込まれていた。

中学の一年生にして、僕たちふたりはマルシーを持ったのだ。僕のマルシーに刺激されて、彼のマルシーが生まれた。マルシーは共有される。共有されることによって、新たな価値を生み出す。

基地より高校野球

仲宗根浩

一月から始まった、アパートのコンクリートでできた手すりというかフェンスの修理は屋上が終わり、うちの二階、いつも布団を干すところにイントレが組まれ、三階部分が始まった。型枠を作るための丸鋸、インパクトドリルの音。はつりの音。しばらくすると音は無くなる。また、いつの間にか始まる。一ヶ月くらいで終わるとのことだったはずだけど、雨が多かったせいかまだ終わらない。ひび割れたとこをちょこっと足で蹴ったら、コンクリートの欠片がすぐ落ちたので急いで元に戻した。三月になって布団が干せないのでベランダで風に晒すだけ。

三月のしょっぱな、起きてテレビをつけると、オリンピック閉会式をやっていた。オールド・スクールの自分では全然知らない、バンドやシンガーが歌っていた。あるバンドのギター・アンプ、メーカー名が、黒のガムーテープのようなもので隠されていた。そのアンプはどこから見てもマーシャルでしょう。音響メーカーとかスポンサーとの契約かなんかで隠すことになったんだろか。そういえば昔、NHKもピアノのメーカーのところ隠していたような。それでまあ、おもしろくないので、テレビを消して再び寝て、また起きてニュースを見ていたら閉会式の映像が流れていた。ニール・ヤング出てた。歌ったのは「Long may you run」ネットで動画を探すがない。あ〜〜〜〜〜。しょうがないのでこれまたネットでニール・ヤングの歌詞とギターのタブ譜があるサイトを見つけて、好きな「Hert Of Cold」をプリントアウトし、ひとりでニール・ヤングごっこをやる。ザ・バンドは自身のサイトで歌詞とコードを公開している。ジョニ・ミッチェルなんかは歌詞、コードのほかにいくつあるかわらない、ギターのチューニングとタブ譜までも公開している。日本のミュージシャン、サイトではこういうのはないよなあ。

ひなまつりに突然、メールソフトの送信だけができなくなる。Outlookめんどくさいぞ。あやしいぞ。なんなんだと怒りつつ、このソフトおばかが使うには機能がやたらありすぎる。でも前の仕事ではスケジュールとか、納期などは全部これで管理していたのだが、人間、二、三年使わない部分ができると退化するもんだ。一時的にWebのメールでしのぐか思案。休みだったのでいつものように、明るい時間から呑みはじる。ほかの事をぐだぐだやって、何気なく送信ボタンを押すと、ちゃんと送信できた。原因不明、昔よくあった、コンピュータの気まぐれ、新しいソフトを入れるとある程度の慣らしが必要なのか。その翌日、四月から小学校入学となる娘のお勉強机が来る。娘は去年、奥さんの実家で不要になった電子辞書の使い方を覚え、自ら勉強と称し、電子辞書にある医学百科から胃ガンの項目を紙に書き写すことに没頭している。やっていることは文字の模写。書き写したものの本人は読めないのでこっちが読まされる。面倒。机が来たおかげで部屋を広くするため物を捨てるための戦いが始まるというのに。

戦う前にまたまた、CD類が届く。マイルス・デイビスのプレスティッジ時代の14枚組、ウィルソン・ピケットのアトランティック時代の6枚組、ジェームス・ブラウンのコンプリートシングル集のVol.8、チャック・ベリーのチェスでのコンプリート集第三弾、ゴールドワックスのシングル集の完結Vol.3。やることはまず、中身の盤違いがないかチェック。輸入盤の場合よく、盤と実際に収録されている音が違うこと、ジャケットと中身が違うことが多いのでこれは必要。今はiTune経由でCDDBにアクセスして簡単に確認できるので便利になった。CDが増えることに文句を言われながらも作業。結果マイルスでジャケット入れ違いが一組あっただけ。

そんなこんなで年度末、アパートの契約更新、小学校の給食費等々の引き落とし手続きで、不動産屋さん、市役所、銀行に行く。帰るとニュースでは基地のこと。三月末がどうのこうの言っていたようだけど、どうせ何も変わりはしないのはわかっているので、とりあえず高校野球のテレビ観戦に集中する。そのあいだ人通りも少なくなり、静かになる。

メキシコ便り(31) ボリビア

金野広美

チリのサンチアゴから飛行機はイキーケを経由してボリビアのラパスに朝9時過ぎ到着。ラパスの空港は4200メートルと世界1高地にあるため、ここに着いた人は高山病で悩まされるということですが、私は以前来た時もなんともなく、おまけに今回は2200メートルのメキシコ・シティーに2年あまりも住んでいるのですからへっちゃらです。しかし、ここは急な坂が多く、すり鉢状になった街の上にいくほど貧しい人たちが住んでいます。そして底の部分には官公庁や市場など中心地がありバスや車が右往左往しながら行きかっています。道路はいつも車でいっぱいで、おまけにあちこちで団子状態になり動けなくなっています。そして坂のアップダウンは高地に強い私でさえとてもつらくて動くのがいやになります。ボリビアはほかに低地もあり、気候も温暖な場所もあるのに、なぜこんな動くとしんどくなるようなところに首都があるのかと不思議でした。それともみんな高地に慣れているので肺の構造が違っているのでしょうか。

ここではメキシコの学校で知り合い、友達になったふみさんが働いているので、私がメキシコにいる間に会っておこうとチリに行ったついでにボリビアにもやってきました。彼女の家に泊めてもらうことにし、その日はボリビアの有名なチャランゴ奏者のエルネスト・カブールが館長をしているという楽器博物館に行きました。この博物館のあるハエン通りはかわいいコロニアル建築が並び、ラパスのにぎやかで雑然とした街並みのなかでは少し雰囲気が違っていました。

博物館にはたくさんのケーニャやサンポーニャ、ボンボ、ギターなど、民族音楽のフォルクローレに使われる楽器をはじめとして、5方向にネックの伸びた円形のギターや両面にネックのあるバイオリンなど、演奏しているところを見てみたいと思うような珍しい楽器が展示されていました。ここボリビアはペルーと並びフォルクローレがとても盛んで多くのライブハウスがあります。しかし、私はいつも一人旅なので、夜遅いライブはほとんど行けません。でも今夜は一緒に行ってくれるふみさんがいるので、エンタメ好きの私にとってライブが聞ける絶好のチャンスです。

夜8時、タクシーに乗りライブハウスの近くまで行ったはずが、タクシーの運転手が間違えたのかまったく別のところで降ろされてしまいました。そこで歩いている人に道を尋ねるのですが、きくひと、きくひと全く違う答えが返ってきます。メキシコではいつも3人にきいて多数決で進むのですが、ここでは5人にきけば5通りの返事が返されどうにもなりません。あっちに歩き、こっちに進み、でも結局お目当てのライブハウスは見つけられず、別のところに行きました。それにしてもタクシーの運転手といい、道行く人といい、そのいいかげんさにはあきれ果ててしまいました。
行ったライブハウスは有名でわかりやすいところにあったのですが、観光客価格でとても高かったです。音楽のレベルは低くはなかったのですが、そんなに満足できるというものではなく、ちょっと残念でした。

次の日、ふみさんは仕事に行き、私は世界一高地にあるチチカカ湖に浮かぶイスラ・デ・ソル(太陽の島)に1泊の予定で出かけました。ここでの見ものは沈む夕陽と昇る朝陽です。ラパスからバスで約4時間、途中船に乗り換え10分、またバスで30分、コパカバーナという街に行き、ここからまた船で1時間半、やっと島に着きました。しかし、ここからが大変、ホテルは山の頂近く。ホテルまでひたすら山道を40分登らなければなりません。チチカカ湖が標高3800メートルでそこからまだ300メートル位の上り坂。心臓が爆発しそうでしたが、エクアドルで5000メートルの山にも登ったのだから行けないはずはないとがんばりました。

ホテルに着いたときはもうへとへとになりましたが、夕陽を見るには頂上まで登らなければならないので、荷物を置いて少し休むとまた歩きました。山のてっぺんまで行くとちょうど陽が沈みかけていました。白い雲や、ピンクに色づいた雲、空はオレンジ、黄色、薄い緑、青とグラデーションになり、自然の作り出す色彩の多様さには驚くばかり。そしてそれが刻々と変化していくさまは名状しがたい美しさでした。その美しさに心奪われてしまい、気がついたときはすっかり暗くなってしまっていました。急いで下方の薄明かりを頼りに山を降り始めると、大きなバケツをもった小さな子供がそばを通りました。名前はマリアちゃん7歳で、ホテルの近くで飼っている黒豚にえさをやりに行く途中でした。彼女には兄弟が7人いて豚の世話は彼女の仕事だそうです。

この島の頂上付近には今でもアイマラ語を話すインディヘナが1000人ほど暮らし、急な段々畑でジャガイモや豆などを作り暮らしています。生活は貧しく主食はジャガイモで肉を口にすることもなかなかないということでしたが、そういえば彼女が運んできた豚のえさもジャガイモでした。
ラパスでは安い肉が山のように積み上げられ売られているのに、彼女たちはそんな肉さえ口にできずにジャガイモや豆ばかり食べているのかと、ちょっと胸が痛くなりました。ちょうど持っていたキャンデーをあげるとマリアちゃんは「グラシアス(ありがとう)」とうれしそうに帰っていきました。

翌朝は日の出を見ようと暗いうちから早起きして待機。少しづつ太陽があがってくると湖がきらきらとまるでスパンコールのように輝きだしました。この光のじゅうたんも少しづつ場所と大きさを変えてきらめきます。こちらの方もとても美しく見ほれてしまいました。

チチカカ湖畔には紀元前6000年ごろから文化が興り、このイスラ・デ・ソルはインカ帝国発祥の場所だといわれています。神殿跡などの遺跡もあり、ホテルから20分だというので行ってみようと、歩き出しました。しかし行けども行けども何もなく、30分ほど歩くとはるかかなた島の下のほうにそれらしいものが見えてきました。でもこの道を下るということはまたあがらなければならないということ。帰りの船の時間には到底間に合わないので行くのはやめました。それにしても20分で行けるなんてどこからそんな数字が出てくるのか全く理解できません。ホテルのおばさんはひょっとすると昔、短距離走の選手で今でも早く走れるとか、いやいやそんなことはないと思います。ものすごく太っていましたから。

イスラ・デ・ソルからラパスに帰り今度はウユニ塩湖に行くため夜行バスに乗りました。ボリビアのバスはひどいと聞いていましたが本当でした。座席がとてもせまく、身動きがとれないのです。おまけに乗客が大きな毛布を持ってバスを待っていたので、これは相当寒いのだろうと防寒着をいろいろ用意したのですが、バスは暖房が効きすぎ暑いといったらありません。用意した防寒着が邪魔になりさらに座席をせまくしてしまいました。おまけに道路もでこぼこ道で揺れがきつく、なかなか眠れず13時間の苦しい移動になりました。

ウユニ塩湖は標高3760メートル、面積は約1万2000平方キロメートル、20億トンの塩でできた湖で、乾季には水が干上がりまるで雪原のように白一色の世界ができるというところです。朝8時に着き、次の日出発の2泊3日のツアーに申し込み、その日はウユニの町でゆっくりすることにしました。ウユニは塩湖への基点になるため観光客は多いですが、町そのものは特別に見るところもない静かなところです。その日はひまそうにしているおじさんとよもやま話などをしながらのんびり過ごしました。

次の日の朝、フランス、米国、ドイツの若者とカナダの若い女性2人と私という6人のツアーでジープに乗り出発しました。塩湖はとても大きく限りなくベージュに近い白の大平原が広がっていました。あまりの広さにここが湖だとはちょっと信じられないくらいでした。この白い世界は一見、非常に幻想的な大雪原を思わせますが、異なっているのはここには潤いが全くないということでした。「延々と続く乾ききった白い大地」、というのがウユニ塩湖に対する私の印象でした。しかしこの白い大地に太陽が落ちるとき、湖面はオレンジ色に変わり、それは美しかったです。
この塩の大地を突っ切り湖のほとりにあるホテルに着きました。しかしツアー会社から予約が入っていなかったようで、ガイドが一軒、一軒、空きを尋ねて回るのです。その中の一軒に空きがあり泊まれることになりましたが、どうにもいいかげんな話です。

おまけにこのツアーに申し込むとき1泊はドミトリーだけれど、1泊は個室だと聞いていたにもかかわらず2泊ともドミトリーだというのです。さらに男女一緒でツアーのメンバーで一部屋だといわれました。私は頭にきて個室がないなら男女別のドミトリーにするよう要求しましたが、ガイドは他の女性たちにこのままでいいかと聞くのです。すると彼女たちはこのままでいいというのです。えー、考えられないと私が彼女たちを説得していると、米国人のサブロンが欧米では男女一緒のドミトリーが普通だというのです。そんな常識はもちろん知らなかったけれど、みんながいいなら仕方ないとあきらめました。

ツアー2日目はウユニ塩湖からチリ国境に向かいオジャグエ火山や4つのラグーナ(小さな湖)をまわりました。各ラグーナはそれぞれ成分が異なるため赤や緑、黄、青などいろとりどりで、フラミンゴがたくさん生息していました。これらはみんな砂漠をジープで走らないと行くことができないのですが、何十台ものジープが連なるように走るものですからその砂ぼこりのひどいことといったらありません。マスクをしているにもかかわらず鼻の中は茶色くなっています。そして風も強く標高が高いためとても寒くて長く一箇所にとどまる気がしません。

体中砂だらけで早く帰って熱いシャワーをしたいと思っていたのですが、宿には水シャワーしかないといわれ、またまたびっくり。この寒さで水シャワー、とんでもない。汚いけれど風邪をひくよりはましだとシャワーはあきらめました。それにしてもいままでいろいろなツアーに参加しましたが、このツアーは一番悲惨なツアーになり、そのとどめがその夜のできごとでした。

私以外の若者たち5人は英語での会話もはずみ、すっかり仲良くなっていました。私は次の朝4時半に起きなくてはならないので9時にはベッドに入りました。すると夜中の1時ごろ5人が部屋に帰ってきてワーワー、キャーキャー大騒ぎです。どうやらマリファナを吸ってお酒を飲んできたようです。ベッドをひとつに寄せ、みんなでかたまってふとんをかぶり乱キチ騒ぎです。私はもちろん目を覚ましてしまい、静かにするよう注意しましたが騒ぎは収まらず、十分に眠れませんでした。翌朝、誰かひとことでも何か私に言うかと思いましたが、誰一人悪びれた様子もなく何の挨拶もありませんでした。男女一緒のドミトリーなどもう金輪際こりごりです。

もしウユニ塩湖にはバックパッカーが利用するようなこんな宿泊施設しかないのであれば、子供づれの家族やお年寄りでは到底無理です。そこでラパスに帰ってから調べてみました。するとラパスで申し込めば、値段は高くなりますが、小さなジープではなくもっと楽な車をチャーターして湖の周りにある民宿で泊まるという手もあるそうですが、現地でツアーを探すと私の参加したようなものしかないということでした。

ウユニ塩湖の中には塩でできたホテルがあり、見学のコースに入っていますが、ツアーとなるとこのホテルは使われません。その上ホテルと呼べるのはここだけであとは私が泊まったドミトリーと民宿だけだそうです。ウユニ塩湖という大観光地でこんな宿泊環境だというのはちょっと不思議です。おまけにラパス、ウユニ間の交通手段はあのひどいバスしかないと思いますし……。何も豪華ホテルが必要だとは思いませんが、ウユニに来たいと思っている人がだれでもきやすくなる環境をつくれないものかと思ってしまいました。

30年来の話

大野晋

とうとう、新しいカメラの予約注文を入れてしまった。しかも、値段が軽自動車や小型車が買えるくらいというとんでもないシロモノ。しかし、長年撮りたかった写真が撮れる可能性があるので、いそいそと支払いをするサンタンを始めている。

今を遡ること30年も前、当時、山の中の学校で、丸々1年中、フィールドワーク三昧をしていた。思い起こせば当時のフィールドワークの先生たちにはとんどもなくお世話になり、また多くの勉強をさせていただいた。

時代としては生態学に関する国際的なプロジェクトが終了し、世界中の学者が物質循環や植生遷移や食物連鎖という問題に一定の理解を得たと考えていた(ように見えた)時代であり、自然保護が声高に叫ばれつつあった時代であり、今ほど一般の人がエコ、エコ言わなかった時代だ。(ちなみにエコロジーは生態学という意味)

フィールドワーカーを志す若者として、自然の中で個々の植物を見ていると面白いことに気づいた。隔離分布をしている植物があり、ある場所にしか生えない植物がある。川岸の土砂崩れをした斜面を見るとカラマツが土砂の動きに応じて、実生から少し大きな木まで段階的に生えている。上高地の湿原で穴掘り(ボーリング)をする(これに類したことは数多くやったけど)と数メートルの堆積物から、焼岳の噴火による火山灰と川底の堆積物と高層湿原の泥炭とがきれいな層になって繰り返していたりする。で、結局のところ、植物は積極的に動かないと思われているけれど、そこにその植物があるということは偶然ではなく、必然であることを知った。

必然的にそこにあるのなら、そこにあるわけを知りたいと思った。地理学的に、生態学的に、歴史学的に、地質学的に、民俗学的に、そこにその植物があり、そこにその植物たちの群落が存在し、それらが集まって林や森や草原が形作られている。そこにあるわけを知ることで、なぜ、それらが形成されたかを知ることができるとともに、どうすればそれが作れるのかを知ることができると思った。
ということで、若輩者は探求する生活を選ぼうと思ったが、残念ながら様々な理由から断念し、その後、生活の中で戻るきっかけも失った。少しでも記録を残そうと思ったが、それまでのカメラでは自然は細かすぎて、一眼レフではフィルムでもデジタルでも残せそうになかった。大判が必要だと思ったが、大判カメラを担いで歩くには少なくても一人では難しいと、断念した。
30年を経て、新しいデジタルカメラという機材が得られそうになったことで、少なくとも、森や林や草原を記録できる可能性が生まれた。今はその可能性に面白さを感じている。
ただし、問題は時間がない。自由に歩き、記録するためには、今は時間が足りない。現状の課題は、動けるうちに、いかにして、動く時間が作れる職業に就けるかということに移りつつある。それはまた大きな問題である。人生にはなんとも問題の多いことか。

tea and empathy

くぼたのぞみ

まっている
あれからずっと
まっているんだ
糸くずになった記憶の家に
老いた蜘蛛のように棲みつく
地球の裏の
きみに出した手紙

くるはずのない返信が気になり
きょうも
がくがくと緯度線をくだり
とびかう花粉に
四季の踊り場でくしゃみして
指で経線ブラインドをこじあける

まっている
というのは
なにをまっているのか
わからなくなる
あらかじめ目的地の失われた
のろい汽車の旅のようなもので
くぼみもないのに
容赦なく風は曲がる

終着駅はあるのだろうか
熱砂と火薬のにおいで傷んだきみに
深い眠りはあるのだろうか

糸くずは藍色の空にはりついて
深海魚のように明滅し
眠りのなかであらそう声が
風をさえぎる洞の奥で
くぐもった音をたてる
だんだん縮んでいく幼いきみを
抱き寄せればいいのか
と語彙が腕立て伏せするうちに
奇妙な光放つ空席を
四月の風がさらっていくんだ

もう一杯お茶をのんだら
わたしもまた
ゆっくりと谷の底までおりていくから

製本かい摘みましては(58)

四釜裕子

あじろ綴じ並製本で仕上げた本の小口が、表紙より本文紙が1ミリほど飛び出て仕上がってきた。覚悟はしていたが1ミリもあるとちょっと目立つ。限られた予算と時間での制作であるからいたしかたなし、とはいえ印刷屋さんに改めて原因を教えてもらう。本文紙は輪転で、表紙は平台でと、印刷方法の混在がそれである。輪転で刷った本文紙はインキを乾燥させるために加熱され、そのことで紙自体が縮んでしまう。その状態でページを折り、表紙を貼り、化粧裁ち。その後、外気から湿度を得て紙は伸び、その分が表紙からはみ出してしまったというわけだ。

手元の『印刷と用紙 2000』(紙業タイムス社)を開いてみる。オフセット輪転印刷機の乾燥のためのオーブンの温度はおよそ200〜250℃、ここで紙の表面は100〜130℃になり、6%ほどあった水分は加熱後1秒で2%以下に落ちてしまう(コート紙での実験)。人間の皮膚に例えたらどれくらいのことになるのだろう。想像もつかないが、辛そうだ。この過酷な状況により生じるトラブルは大きくわけて3つ、水分の急激な蒸発で高圧となり紙の組織が破壊されること(ブリスター)、水分が減る過程でおこる「ひじわ」、そして、水分が減りすぎておこる折り割れや静電気である。解決の手だては乾燥温度をいかに抑えるか。この資料から10年経った現在は、この技術もだいぶ向上しているに違いない。

問題の本を手にとり、はみ出した1ミリ幅の本文紙を人差し指でなぞってみる。製本工場の最後の段階で化粧裁ちされたあのあとに、伸びたところが見えている。ふぅ、と吐く――それは紙の一息なのだ。

シンデレラの靴

さとうまき

ヨルダンに、イラクから治療に来ているガンの男の子、ムハンマッド君がいる。1歳半のときにガンになったのだが、イラクでは助かる見込みはまずないからというので、借金をしてヨルダンまでやってきたのだった。僕たちもいろいろと面倒を見てあげた。4年間の闘病生活を終えて、いよいよイラクに帰ろうというのだが、これまたお金がない。日本でカンパを集めて、なんとか彼らが出発する前にお金を届けてあげた。

2007年の終わりには、ヨルダンのアパートは家賃が高くて大変だというので、内職をやってもらうことにした。プレゼントに使う布製の袋を作ってもらおうというわけ。西村陽子さんが、指導にあたった。「針仕事なので、小さいムハンマドが触ったりして怪我しないか心配だった」と言っていたが、お母さんを始め、家族で作業を行ってきた。お父さんは、イラクでは学校の校長先生をしていたというが、ヨルダンでは仕事がなく、毎日ブラブラしている。それですっかり針仕事が気に入ったようで、刺繍した布切れを自慢げに見せてくれたりしたものだ。

ムハンマド君の最終的な検査も異常なく、ガンを克服。帰国の準備が始まったところで、事故がおきた。お父さんがほったらかしにしておいた針を、お母さんが踏んでしまったのだ。先っぽの7mmくらいが折れて足に刺さったままになっている。手術をして取り出そうとしたが、うまくいかない。お父さんは、喜んで携帯電話で動画を撮影していたが、あまりのえぐさに卒倒してしまう有様。二回の手術も結局、先っぽが見つからず、そのまま帰国することになった。

帰国の前日、西村さんが呼ばれていってみると、お母さんがうれしそうに、靴を見せてくれた。なんと7.5センチのヒールだ。「転んだらどうするの、運動靴で帰ったら」と西村さんが諭すと、「あなたは、こういう靴を履いたことがないの?」と逆に白い目で見られたという。確かに、西村さんがこういう靴をはいておしゃれしているのを見たことがない。問題は、怪我した方の足が腫れ上がって靴が入らないのをどうするかだ。西村さんは、靴を足で踏んだ状態で、ゴムで縛り、古靴下をかぶせることに。

不思議なことに、イラク人は、旅に出るときは、精一杯のおしゃれをするのだ。そんなこんなで夜が更けていき、結局鞄に荷物を詰め終わったのが朝の5時だという。お母さんはダウンしてソファで寝てしまい、子どもたちは、日の出を見て、「太陽が出てきたよ」とこれから旅に出るので興奮して大騒ぎ。7時になっても、お母さんはなかなか起きてこない。

なんやかんやいっても別れのシーンは感動的で、やはり涙もこぼれるものだ。朝の8時に、車が迎えに来ることになっていたので、僕も感動的なシーンを一目見ようと待機していたが、そんな時に限って、日本からの電話。あわてて、外に出ると、既に車が去っていった。

西村さんに様子をたずねると、「センチになっているような余裕はなかったですね。お母さんは、最後に日本語で「さよなら」といってましたけど。子ども達も泣いてませんでした。」
他のイラク人の家族も見送りに来ていたが、彼らがおいっていった品物を誰がもらうかでもめていた。

(アンマンにて)

オトメンと指を差されて(22)

大久保ゆう

頭のなかに、ちっちゃい人を作ると、ときどき役に立ちます。

そのちっちゃい人は、基本的に誰かの真似をします。誰でもいいのですが、たとえばあなたがプレゼントを渡したい人なんかがいた場合、その人の真似をしたちっちゃい人に、いろいろなものを試みにあげてみましょう。

すると喜んだり悲しんだり怒ったりするのですが、そのなかでいちばん嬉しがったものを、実際のその人にプレゼントしてみると、「えっ、どうしてわたしの欲しいものがわかったんですか?」などと言ったりします。

ちっちゃな人は、巻き戻しもできます。その人の何かの行動や発言がわからないとき、それをくるくると戻してみると、その人が物を考えた瞬間にたどり着きます。すると最初にあった意味のことがわかるようになります。

隠していることもわかります。あることがあって、それをごまかそうとしてしゃべったり動いたりしても、そのちっちゃい人を巻き戻せばやっぱり、ごまかそうとしたことそのものがつかめます。ただし、それを口に出したりすると、相手が隠そうとしていたことなので、自分の思い通りに行かなかったと怒ったり感情的になったりするでしょう。

それは、最初にあったものが悪いことでも、いいことでも、たいして変わりはありません。自分のなかをのぞかれたみたいな気分になっちゃいますからね。のぞいたのは、こっちのなかにいるちっちゃい人なのですが。

相手がしゃべっているときに、その真似をしたちっちゃい人が、先に言葉の最後まで言ってしまうことがあります。早いときは全体の4分の1しか進んでないのに、ちっちゃな人が先んじてしまいます。そのときは向こうがしゃべり終わるまでとっても暇で、ぼーっと待っていてもいいのですが、頑張ってそのあいだにいい返事を考えるか、もしくはその時間に別のことを考えて有効に活用してみてもいいでしょう。

けれども、ちっちゃい人がいると、相手に質問するのが手間だと思うようになります。実際に聞かなくても、ちっちゃな人に聞けば答えは返ってくるので、それで済んでしまうのです。わかるわからないというレベルのことならいいのですが、とりあえず何らかのやりとりをすることがコミュニケーションとして大事な場合は、我慢してわかっていてもやりましょう。

まあでも、相手の言ったことが自分以外のみんなにわからないときは、あえて本人に聞き直すよりも、ちっちゃい人からわかったことをみんなに伝えてもいいかもしれません。それも円滑な人付き合いのひとつかもしれませんし。それに、相手もあなただけには伝わった、と思ってくれますからね。

また、ちっちゃい人は未来を予測することがあります。限りなく起こりうることをちっちゃな人に投げて、とんでもないことが始まってしまった場合は、それがなるべく始まらないように取りはからわなければいけません。わかってしまったことを見逃すことはできませんからね。ちっちゃい人は、あなたを面倒ごとに引きずり込むこともあるのです。

ちっちゃい人を、いじめてはいけません。元はどうあれ、ちっちゃい人はあなたの頭のなかにいるので、あなたそのものでもあります。いじめると、自分が傷つきます。そもそもちっちゃな人に嫌いな人の真似をさせることは、嫌いな人とずっと付き合うことと同じなので、嫌な人の真似をさせた上でいじめるなんていうことは、実にやっかいです。

では、ちっちゃい人と遊ぶことは? 実際に遊びたいけど遊べない人の真似をさせた上で、そういうことをすると楽しいかもしれません。けれども、そのことは自分の頭のなかだけで、ひっそりとしておくのもマナーかもしれません。遊ぶ内容や性質によっては、なおのことそうでしょう。それに、楽しいことに引きずられて、ちっちゃい人は真似をすることをやめてしまうかもしれません。誰かと遊んでいるようで、本当は自分と遊んでいるだけだったりして。

ちっちゃな人に頼りすぎると、ちっちゃい人の真似がうまくなりすぎると、本当の人がつまらなくなることがあります。主に気持ちのレベルで。もちろん身体は別物なのでそのあたりはちっちゃい人が本当の人に勝てないところではあるのですが、気持ちが大事だという人には、きっとつらいことでしょう。相手の人がつねに変わり続けたり、成長し続けたり、謎の多すぎる人だったりすると、そういうことはないのですが。

ときどき。

自分のちっちゃい人と、相手のちっちゃな人がつながってしまうこともあります。それはそれで、たいへん不思議で、わりと面白いことなのかもしれません。知らないうちに勝手にちっちゃい人が生まれて、ひとりでにもうひとりのちっちゃな人とくっついてしまっていることもあるそうです。

でもでも、ちっちゃい人が優秀すぎると、なかなかそういうことも起こりにくくなるみたいですけどね。何ともむずかしい話ではあるようですよ。

ここではない、どこかで吹いている風

若松恵子

今月はインタビューはお休みです。かわりに片岡さんの作品の魅力について考えるその①を。

1980年代、出版されるたびに買って読んだ赤い表紙の角川文庫。ポップ・ミュージックのシングル盤みたいに、次々書店に並んだ片岡さんの小説の好きな場面をノートに抜き書きするということを最近まとめてしました。書き写したのは例えばこんな文章です。

奥の部屋に入り、窓を開いた。視界いっぱいに、雨の降る太平洋が見えた。
窓枠に腰を降ろし、柱に背をもたせかけた。窓の外は、非常階段につながる幅のせまい回廊のようなバルコニーだ。バルコニーには、地元の花火大会のうちわが落ちていた。うちわは、雨に濡れてコンクリートにはりついていた。
 すっかり味のしなくなった梅干しの種を舌のさきで転がしながら、彼女は海をながめた。海から、おだやかに風が吹いていた。雨の香りをいっぱいにはらんだその風は、シャワーのあとの全身に心地よかった。
(『幸せは白いTシャツ』1987年)  

あるいは、こんな一場面。

ガラスを降ろした窓から吹き込む風に、ワイキキの町の香りがあった。いていく雨の香りのなかに、排気ガスとみやげ物屋の香りが、まざっている。
 カラカウア・アヴェニューに面した、ワイキキ・ビジネス・プラザの前で、ジェニファーは車を降りた。
 車をおりようとするジェニファーに、
「ようけ働かん食えんがの」と、何の意味もなく、ぼくは言った。
「なんと言ったの?」
「知らない」
「ヒンズー語みたいね。ヒンズーにこっている人が、友だちにいるのよ」
「日本語だ」
「ふうん」
「おじいさんが、口ぐせのように言っていた。なんという意味だか、忘れてしまった」
「もういちど言ってみて」
「そう言われると、出てこない」ぼくは、笑った。
「あるとき、ふと、思い出すだけだ」
ジェニファーは、手を振って車を離れ、歩道を歩いていった。彼女の頭上、高いところで、椰子の葉が風に吹かれ、硬い音で鳴った。
(『白い波の荒野へ』1974年)   

いくつかの文章を並べてみると、そこに共通して見えてくることがあります。心魅かれた場面には、風が吹いていることが多い、ということです。読みながら、かつて、ある日、吹かれた風の思い出が、体感を伴ってよみがえります。主人公と同じような体験をしたから思い出すという事ではなくて、吹かれた場所はまるで違うけれど、風に吹かれた時の体の気持ちよさを蘇らせるものが、きっかけとなるものが、物語のどこかに隠されている気がします。

しかも、風景が詳細に描写されているから風を思い出すというわけではなくて、場面を説明する言葉の数は少なく、思い浮かぶ風景は抽象的な印象でさえあるという点が不思議です。これは、片岡さんの描く女性が「美人」としか書かれていないのに、読む人が持つイメージをその言葉に乗せて何となく了解していることと似ている気がします。

描かれている場面が抽象的であるのに、喚起されるイメージが体感を伴ってリアルであるということ、これが片岡さんの作品の魅力ではないかと感じています。抽象的であるからこそ、現実から足を離した心のなかの世界の事となり、体感をともなって物語を経験することができるのから、想像のなかで遊ぶという事が充分できることになるのだと思います。

そして、こういうことがなぜ成立するのかは追及したい謎でもあります。イメージを喚起させるにふさわしい、的確な言葉が配置されているからでしょうか。片岡さんが風に吹かれた経験を、何によって憶えているのかということに関係しているのかもしれません。

私に風を感じさせたのは、「椰子」という言葉によって空まで伸びた視線? 「硬い音」という言葉が想起させたもの? いずれにしても、一度も行ったことがない”心のなかのハワイ”で、気持ちよい風が吹いたということは事実なのです。

動くジオラマ ムラユ演劇

冨岡三智

3月に、マレーシアはクアラルンプールで行われた国際演劇研究学会(IFTR)のアジア演劇分会で発表してきた。発表はさておいて、そのときに見たムラユ演劇のことについて、今回は書いてみようと思う。ムラユというのはマレーシアからインドネシアのスマトラ周辺のマレー民族のことを言う。マレーシアの民族構成はざっとマレー系6割、中国系3割、インド系1割になっているのだが、このムラユ文化を中心に国をまとめている。学会はマレーシア言語委員会(DBP)が協力して、同委員会の建物で行われたのだが、学会の2日目に急きょ国立劇場での観劇に招待される。言語委員会は積極的に海外からの賓客を国立劇場に案内しているということだった。

国立劇場にはバルコニー席が3階まであるが、劇場の雰囲気はわりモダンな感じである。開幕前にアナウンスがあり、全員起立しての国歌斉唱があるので驚く。その間、舞台の緞帳一面に、マレーシア国旗がはためく映像が写される。さすが国立劇場!日本でも第2次大戦中の映画館はこういう雰囲気だったのだろうか。

このときの演目は、1960年に作られた映画「スリ・メルシン Sri Mersing」の物語を舞台化したもの。プログラムの解説を要約すると、こんなお話である。1900年、パハンに住むメラーという若者が、イルム(智識)を学びにプニュンガット島(リアウ諸島の1つ)に行っていたが、そこからパハンに帰る途中、父親に行くなと禁じられていたメルシン島に立ち寄り、父親が若い時に起こった出来事の真相を知る。30年前の1870年、父親は島の有力者の姦計にあい、スリ・メルシンという女性とも引き離されて島を出ていた。メラーはスリ・メルシンに会って、父の身の上に起こったことを知る。しかし、自身も父と似たような目にあい、島の女性と別れてその島を出る。そしてパハンに戻って再び自国でそのイルムを発展させようと考える。舞台では、1900年と1870年の出来事が交互に描かれる。

この話にはマレーシアの原点が描かれているのだと、一緒に行った言語委員会の人も言い、またプログラムでもそういうニュアンスで書かれている。もっとも、芝居の中で声高に叫ばれていたわけではない。マレーシアは自国こそムラユ(マレー)文化の本場ということを言いたがるのだが――国の名称がマレーシアだから仕方ないけれど――、でも、物語の舞台になっているリアウ諸島というのは、実はインドネシア領である…。以前、リアウに行ったときに、ここはムラユの本場論争でホットな地域なのだと聞いた。そのときは、リアウはジャワから遠いなあと他人事のように思っただけだったけれど、現実にマレーシアでリアウを舞台にした演劇を見ると、そこはムラユ文化の原点ではあっても、マレーシアの原点というわけじゃないだろう!とホットになる自分がいる。

閑話休題。

端的にこの舞台を形容すると、愛あり、涙あり、取っ組み合いあり、歌あり、の大衆芝居――ジャワで言えばクトプラ――を、予算をかけて大スペクタクルな舞台装置で上演したもの、という感じである。舞台はせりになっていて、大がかりな装置が何度も転換する。

くさい芝居にしょーもないダジャレと言うと否定的に聞こえるが、言葉が分からなくても面白さが伝わる。意外に面白かったし、飽きなかった。結婚式の音楽のシーンで、ビオラ奏者にいきなりスポットが当たって独演になったり(有名な演奏者らしい)、幕が閉まっている間に、舞台両脇にスポットが当たって、主人公のカップルが愛の歌を交わしあったり、コメディアンヌの歌があったり。舞台が終わったかと思ったあとで、スリ・メルシンによる嘆きの独唱がこれでもかとあり、最後は舞台がセリ下がっていったり。こういうシーンでは観客から拍手喝采が沸き起こる。

日本的な伝統芸術観が念頭にあると、こんな大衆芝居を最新設備の整った国立劇場でやるのかと、軽いショックを受けるだろう。学会のコーディネーターだったマレーシアの大学の先生は、あまりこの演劇を評価していなかった感じである。インテリとしてはあまり評価したくない類の演劇だろうな、と思う。一緒に観劇したマレーシア国立芸術大学の先生によると、この舞台はムラユ演劇といっても、わりと写実的な表現で、歌も少ないのだと言う。本当のムラユ劇だともっと歌が多く、ジャワのワヤン・オラン劇のように台詞に抑揚があり、ちょっと手を出すような仕草でも、踊るような様式的な身振りをするという。

で、私の独断と偏見に満ちた感想を述べてみると、アルースな(洗練された)ジャワ文化の目線で見ると、「やっぱりムラユの人はカッサール(粗野)である…。」そう言うと、ジャワ中華思想なんて糾弾されそうなのだが、仕方ない。演劇には、やっぱりその地域の人々の立ち姿だとか、物腰だとかが如実に出る。「スリ・メルシン」に登場する男性の多くは血気盛んな島の若者という設定だとはいえ、同じようなシチュエーションにおかれたジャワ人よりも体をそり気味に立っているし、目線は高いし、話し方もきついし、すぐにペッぺと唾を吐く。その荒っぽさが海の男らしくて、ムラユの魅力なのかもしれないけれど。

でも、そういう人々の基本的な身のこなしが見えるところが、こういう大衆芝居(と決めつけている)の醍醐味である。この芝居では、場面が船着き場だったり、スリ・メルシンの家だったり、人々が寄る屋台だったりする。そういう場面において、たとえば、人はボーっとしている時にどんな風に突っ立っているのか、知らない人と初めて会ったときにどう挨拶するのか、ひとしきり会話した後でどう言って別れるのか、屋台で腰かけるときにどう座り、物売りの女性にどうちょっかいを出すのか、といったようなことは、いくらムラユ演劇の本を読んだところで、また民族学の本を読んだところでも、分からない。実際に住んで観察してみないと分らないことなのだ。

ここで、いきなり話はマラッカ見物に飛ぶ。

この芝居を見た翌日に学会のマラッカ・ツアーがあり、博物館で、マラッカの歴史をジオラマで紹介しているのを見る。このときに、はたと、あのムラユ演劇は動くジオラマだったんだ!と思い至る。ジオラマというのは、単にあるシーンを人形で再現しているだけで、動かない。そこではマラッカ王家の始まりを、王の交渉?や結婚式、ほか色々なシーンで説明していた。けれど、前日に演劇を見ていたせいで、このジオラマの人形が再現しようとしている動きがなんとなく見えてくるような気がしたのだ。動かない、しかもあまり精巧な出来ではないジオラマを見るのはつまらないが、演劇ならば面白く見ることができる。動くジオラマだと思えば、ムラユの歴史を描いたムラユ演劇を国立劇場でやるのは理にかなっている。そんな風に思えてくる。そして、博物館のジオラマも、演劇で再現したほうが面白いだろうに…と思うのだが。

民族的なギター

笹久保伸

現在最も世界的にポピュラー「ギター」というのは いわゆるスペイン型のギターと言える
6弦からE‐A‐D‐G‐B‐E
この調弦は世界の音楽を征服している とは言わないまでも ヨーロッパ〜アジア〜アフリカ〜アメリカ〜南米〜中近東 どこの国でもこの調弦が用いられる

ギターが現在の形になったのは19世紀 ギター史の本を読むと スペインの製作家A, Torresが活躍した時代以降という事になっているから 意外と昔の話ではない それ以前はもう少し小型サイズのギターだった 俗にいう19世紀ギター さらにそれ以前はバロックギターやヴィウエラ、それらは複弦で 音色や弾き方、調弦も 今のギターとは異なる

19世紀にスペインで生まれたこのギターはどうしてこう世界中に広まり ここまであらゆる音楽の世界に普及したのか ロック、ジャズ、フォーク、カントリー、各国の民族音楽、演歌もサイケデリックもヘビメタもこのスペインの調弦で弾いているのを見ると 何というか、ちょっと何とも言えない

なぜ皆このスペインの調弦で演奏されるのか なぜここまで広まったのか 単に便利だからか?

しかし各分野のギター音楽を細かく見ていくと 少なからず「スペインの調弦」とは異なる調弦が用いられ その調弦で弾くとその音楽の持つ独特な世界観がよりよく表現されている事に気がつく

自分が弾いているペルー音楽もある意味スペイン調弦に征服されているが それと並行するかのように 独特な調弦が根強く存在している ペルーは300年間スペインの植民地であり、それまでの文化は破壊され、すべての風習はスペイン化された そんな中でも彼らは彼らの音楽を演奏してきた その調弦で演奏したとき 明らかにスペインの響きとは異なるニュアンスを感じる事ができる たとえばBaulinという調弦はペルーの南アンデス地域特有の調弦で インディヘナ音楽の響きがする とされている いや もしかしたらそれも聴き手の思い込みなのか 不思議な事

それは特別ペルーに限った事ではないと思う たとえばアフリカにも同じことがいえる 最近関心を持ち少し聴いているマダガスカル音楽や セネガル音楽、その他各地域の音楽にも共通な事が言える それらの地域にもスペイン型ギター&調弦は普遍的に普及している まるでキリスト教が世界中に広まったかのように しかし並行し独自の調弦も用いられている 特にソロで演奏する時に多く用いられるように思える それで弾くと これがまた独特な 民族的な響きに聴こえてくるから不思議 そういう視点から考えるとペルー音楽にも共通点が見つかる というかむしろ世界各地の民族音楽は共通している

「スペイン型」と言っても それすらも他国、他民族の影響を受けているわけだし ギターという楽器は どこの国の楽器 とは断定できないと思う ただ Antonio de Torresは現在の形のギターを作った とは言える 「スペイン型ギター」が現在クラシックギターと呼ばれているが(フラメンコは別として) なぜロマン派期に完成されたこの楽器が「クラシックギター」なのか いまいちよくわからない それにギター族(属)は どうみても 民族楽器であった

日本人はクラシックギター(西洋音楽)を弾く 西洋人のように弾こうと努力もし 学校でもそう教える それは客観的に見ると どういう事なのでしょう?

例えばセネガル人やコンゴ人のクラシックギタリストを見たことがない いるのだろうか? 少なくとも、 あまりいないと思う それは 客観的に見ると どういう事なのでしょう?

音楽は文化の一面だから そこから色々な事が見えてくる それが面白い

キーボードの演奏

高橋悠治

ピアノを弾くことは いままでの生活手段でもあった こどもの頃は きまりきった練習がいやで 新しい音をさがして 現代音楽を自己流に弾いていた 学校やオペラ歌手とのつきあいの後に また現代音楽のピアニストになったとき 最初に弾いたのはボ・ニルソン(1937-)「クヴァンティテーテン」(1957)だった ニルソンは1歳年上のスウェーデンの作曲家で その曲は3年前に書かれたばかりだった 1960年のことだから 50年前になる

それから武満徹や松平頼暁の曲を弾き 一柳慧と出会い 日本に来たケージとクセナキスに会い 作曲もまたはじめて 1963年には西ベルリンに行った ヨーロッパでも現代音楽のピアニストはすくなかった 同年のフレデリック・ジェフスキーがケージやシュトックハウゼンを弾いていた こちらはケージ クセナキス メシアン ブーレーズなどを弾いていた 1966年にアメリカに行ってからも 現代音楽が主で プログラムの一部に古い曲を入れていた

1972年に日本にもどってからしばらくは おなじようにしていたが だんだんクラシックが多くなり 新しい曲は弾かなくなった ひとびとは おなじ音楽をくりかえし聞くのが好きらしく それでさえヨーロッパ人の演奏の安上がりな代用品としてしか評価されない その裏側には ヨーロッパ人のオリエンタリズムに媚びる輸出向けジャポニカや オリンピックのように金メダルをもらった安全な国産品に群れる無意識の排外主義がある みんなが評価するものを自分も評価する というよりは みんなが好きだろうと推測されるものを自分も好きになるように努力する集団主義と権威主義が何世紀ものあいだに身についたのか 自分でも知らないうちにそういう気分になっているか どうせ何をやってもムダだと思うか どちらにしても ひととちがうことをやりにくい環境で それは変えられないだろう どのみち「みんなのため」はだれのためでもない 抽象的な権力に奉仕するだけだ 多数の独裁にまともに抵抗することよりは 選ばれなかった「少数」が 分散し 多彩な活動をつづける可能性に賭ける

こういう場所でハキム・ベイの言うTAZ(一時的自律領域)を点滅させるやりかた むかしクセナキスからまなんだことの一つは 条件をつけ返すことだった すべてを受け入れてはいけない できるところから部分的に変えていく もう一つは ひとつのやりかたを押し通せば壁にぶつかる 行き止まりの路を直進するよりは 一つ後退すれば そこにちがう曲がり角がある 後ろ向きに未来へすすむ これはベンヤミンの歴史の天使という言いかたもできるし 根底からやりなおす とまではいかなくても どこかにもどって再開すれば ちがう軌道に逸れていく オートポイエーシスが構造的ドリフトと呼ぶものもこれに近い

クセナキスの曲を演奏するなかでまなんだこともいくつかある 「ヘルマ」と「エオンタ」では 楽譜は音響空間の見取り図を比率と近似で表したものにすぎないこと 個々の音符やピッチではなく 全体の肌理と色彩が問題で それはいままでのハーモニーに替わる位相空間の運動であること メロディのように線的に継続するのではなく 色彩変化が複数の層をつくって同時進行していること 「エヴリアリ」と「シナファイ」では 連続するピッチをメロディとしてではなく ちがう層にあらわれる近接した色彩点とするために リズムをわずかに揺らして ずれと断層をつくること これはポリフォニーに替わる「メドゥーサの髪」

このようなピアノ奏法で たとえばバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてみれば チェンバロの和音や多声部の伝統的な崩しかたと似たような結果がでてくるが それは情感にもとづく名人芸とはかかわりがない 1930年以後の音符がすべてのようなデジタルなスタイルに慣れた耳には これはバッハの解体のように聞こえるかもしれないが コントロールをゆるめて うごきを解放し そこに何が起こるか見ようとするなかで 不安定で不均衡な運動が 知っているはずの音楽から知らない響きをとりだす 

keyは鍵 槍の刃かに由来するという説もある 溝をつける 切り裂く 開く 説明する という系列と 鍵をまわして閉める 一つにまとめる という系列にわかれる 調という音楽的な用法では 関係全体の性格をいう

楽器のkeyboardはkeyの並ぶ板 keyを押すことによって複数の音を操作する楽器音源に直接手を触れないかわり 操作は一様で安定している 音を大量に速くあつかえるが 操作法は限られている そうなると 一つの音の始まりから終わりまでの変化ではなく 音の関係の配分が演奏の技術になるが どちらの場合も 複雑で予想も設定もできない部分がある キーボード支配は 中心からの操作統制の代名詞だが焦点をずらして それを逆転させる可能性もある 

楽譜に書けるような粗雑な次元ではなく ある部分におこる運動の波紋がひろがるような 偶然の共鳴から拡散する撹乱が 停まらずにつづくように 最少限の介入をして 起こる変化についてゆく 変化を先取りすることもできないし そのプロセスを支配したり誘導することも完璧にはできない というより コントロールからこぼれた部分が 二度とくりかえせない発見になる 変化のプロセスが停まれば 音楽も終わる 終わった音楽は 作品となって閉じるかもしれない 書かれた音をくりかえし演奏しても 毎回なにかちがうことが起こっている あるいは 毎回発見がない反復は 習慣になる 変化はカオスのなかに解放される アナーキーは無秩序ではなく 自律と相互関係の網の一時的秩序 たえず打ち寄せては退く波

犬狼詩集

管啓次郎

   1

ただ待っていれば言葉はやってくるのだから
むしろ避けることだ、群衆的に到来する語句を
それは過去からの思慮のない石つぶて
創造に無用な軋みをもたらすだけ
われわれが手持ちの語彙で語る世界なんて
結局この世界に鳩の卵のように似てしまう
そうじゃない、近代語を捨てて
境界に安心する各国語を離れて
不自然きわまりない語法と用語を開発するべきなんだ
そうすれば知らなかった地帯が見えてくる
知らなかった色彩の悲哀がしだいにわかってくる
ありえなかった知識が生じる
「アリゾナには熱帯雨林がない」ことや
「アマゾナスは砂漠ではない」ことを学ぶ日がくる
それでもすべての雨林に必ず砂漠がひそみ
すべての砂漠に必ず雨林が横たわることもわかる

   2

卓上の噴水という思考がかつてあった
高地プロヴァンスの山間の村の夏のひとときが
私のテーブルにも影を落とした
愛らしい人魚が何度も
噴水に乗って空中に踊り出る
両腕を大きくひろげ頬笑みながらsplash!
また深い水へと戻ってゆくのだ
なぜすべての水は執拗に連続しているのか
これくらい連続性を保証してくれるものはない
Aquí sin donde(どこでもないここ)が
時間のないあの村の広場にまっすぐつながる
南海の深みにも
冷たい水の地図にも
すべてのおなじ分子をかきわけるようにして
彼女は果敢に泳いでゆくだろう
人魚、sirenita、水そのものである人魚

トイレット・ボウルにおける挫折

片岡義男

天窓の斜めのガラスに積もる雪
かなえられなかった夢のように
先にのばされた期待のように。
洗面台の三面鏡が
今朝も彼女に語ること
この胸の奥深く
いつのまに抱えたのか
夢の実現という主題。
挫折の大きさに正しく比例して
微笑の魅力は深まった。

野に暮れる

くぼたのぞみ

しろつめくさを
花輪にあんで
首にかけたら
山羊が食べた

あかつめくさの
蜜を吸うため
花をさがして
畦道いったら
日が暮れて

あれが幼年期
あれが少女時代

そんなこと
ひとり野に暮らす子は
知らない 知らない
都会のことば

ホワイトクローバーが
しろつめくさ
っていうのも
教科書で
あとから知った
ちしき

まっすぐに
なんでもいうのは
野暮だって
大人になって
ずいぶんしてから
身にしみた?

ゆきがとけたら
うすい
みどり野に出て
歩こうか
はるかな人と
野に暮れて

幸徳某……――翠の黒枠65

藤井貞和

いまの裁判は、
畜生道だと、
青木が言う。

近ごろ 一部で、
陪審制度論が、
起こってる。

高津暢は、
愛におぼれながら、
俺は畜生道だと。

つまらぬことを、
思い出したもんだと、
高津。

「逆徒」を弁護して、
何の益があったか。
いまの俺には、

誄詞〈るいし〉が似合いだ。

(『万朝報』は非戦論から主戦論へと、日本ロシア戦争のさなか、意見を変える。変えたあとは国家権力の犬となる。黒枠事件はちょうど幸徳裁判のとき。入営するパンの会のなかまの送別会に、黒枠をつけたのが高村光太郎。『万朝報』の記者がめっけて、「陛下の赤子〈せきし〉として入営する者に弔意とは非国民」と書くね。翌年2月のパンの会の案内状には、『万朝報』を指弾して、「遊楽」の権利を対置する。「芸術的たらしむるがまた吾人の主張の一分にこれ有り候(─そろ)」と。この案内状は12名の処刑直後に書かれたろう、と野田宇太郎は推測している。弁護士平出修の担当は崎久保誓一および高木顕明を弁護すること。ほか弁護人が17、8名、みな「国民」の囂々たる非難を受けながらであった。平出はその後、小説「未定稿」(明治44・5)を書き、「畜生道」(大正元・9)を書く。後者は主人公である弁護士高津暢が、裁判ののち廃人のようになり、年若い女性との愛におぼれて行く物語。)

オトメンと指を差されて(21)

大久保ゆう

姐御肌だ、なんて言われると内心複雑なところがあります。言いたいことはよくわかりまして、確かに相談事にもよく乗りますし、聞き役になることが多くて、最終的には相手の尻をはたいたり発破を掛けたり、そういうことになりがちなわけですが。

兄貴肌は有無を言わせず引っ張っていくような感じで、姐御肌は一回受け止めてから前に蹴り出して進ませる、という区別をすると、オトメンだからこそ後者の役割になるのかもしれません。そういう立場を引き受ける人が少なくなってきている、というのもありそうですね。

それはともかく、人の話を聞く生活のなかで、ふと気づいたことがありまして。

――「愚痴って大人しか言わないんだな」と。

新解さんに意味を尋ねてみると、「ぐち【愚痴】言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと。」と書かれているわけですが、おのれの無力さとか、現実の厳しさとか、理解し合えない人間関係とか、そういうことを漏らすのは、大人であることのひとつの証左なのかな、と思わないでもありません。

たとえば〈周囲の大人がかつて子どもであったことを忘れている有様を嘆く〉と言った愚痴は、まるで自分がまだ子どもであるかのように、子どもであることを忘れていないかのように擬装していますが、それが愚痴である時点で、その当人も〈大人〉ですよね、と考えてみたり。

じゃあ子どもはどういうことをしゃべるのか、という話にもなりますが、ちょっとだけ(精神)年齢が下がって思春期あたりになると、〈文句を言う〉という形になるような気がします。

不平・不満・いらいら・反抗・非難――それは〈どうしようもない〉という含みを持つ愚痴とはどこか違って、〈わからない〉という焦燥の方が強いのかもしれません。敵対的とでも言いましょうか。愚痴はエネルギーが内側へ蓄積してますが、この場合はむしろ外側へとんがって直線的に出ていて、鋭い。もちろんジグザクしているときもありますが。

ふたりで話しているときに人の口から出る言葉……というのは、精神年齢がものすごくありありと出るものかもしれません。ちなみに思春期も反抗期も来ていない幼児、と言ったらいいんでしょうか、幼児的感覚に基づいたとき、でもいいんですが、そういった方々(場合)は、〈自分が楽しかったこと〉をしゃべります。

今日あった面白い出来事、週末の感想、嬉しかったこと、今感じている幸せを、それはもう、ものすごい勢いで話し続けて、最終的には当人の息が切れてしまうくらいで。聞いたあとこちらがかけるのは、もちろん祝福の言葉。

成長してしまったあとは惚気話なんていうのもこのカテゴリに入ると思うのですが、小さな頃は学校での話とか、幼稚園でのエピソードとかになるでしょうか。見た目が大人になってからでも、たとえば職場や仕事のことでこの類の話ができる人は、純粋に感動してしまいます。そういう人こそ、子どもの心を持った人なんだろうな、と。

私個人はどうかと言うと、基本的には聞くだけで。肯きと笑顔と、時には聞き流しと、相手が言われたいと思っている言葉……あるいは相手の考えている(けど言えない)ことを鏡のように返してみたり。または客観的な論理の代わりをしてみてもいいかもしれません。

だいたい小学校高学年の頃からこんなだった、という自覚と記憶があります。言葉にしてもそのまま受けとるのではなくして、言った人の立場や考え方を考慮した上で、その外見と中身に分解して分析して、あらゆる方面からの検証とコメントを心のなかで繰り返しつつ、微笑みながら相づちを打って。

わかるから、あえて質問はと言われても困りますし、調子のいいときは相手が何かを言う前から何を言うかがわかることもありますから、反応が悪いなどと言われて(あるいは自分の感情や思考を盗まれたかのように感じられて)、自尊心や自我の強すぎる人からは嫌われがちではあるんですけどね。

ああ、でもだから、姐御肌なのかもしれません。「どうでもいいから俺についてこい」が兄貴肌で、「わかってるから前に進みなよ」が姐御肌、だとするのなら、ですけれど。相手の不安を吹き飛ばすものと、相手を安心させるもの、ってことでしょうか。

しかしまあ、兄貴・姐御と性別でカテゴリ分けするのは、ジェンダー論としては安易すぎるものですよね。後者を〈母性〉を呼んでしまうとさらに語弊が出てくるわけで。(そういうものは、男だって持っているわけですから、ね。冒頭の内心複雑の原因は、こういう点にあります。)

オトメンとしては、こういう固定化されたある種のジェンダーを攪乱し続ける存在でありたいものです。

しもた屋之噺(99)

杉山洋一

一昨日からにわかに寒さが緩んだと思うと、急に鼻がむずがゆくなってきました。この季節に日本にいるのも珍しく、花粉アレルギーも、はじめの1分くらいは懐かしささえ覚えるほどでした。今月は望月みさとちゃんのオペラの下稽古に連日通いつつ、朝晩机にむかう単身赴任生活でしたが、数日前に家人と息子が一時帰国して、いつもの慌しい日常生活に戻りました。

96歳になる祖母の様子が気にかかっていて、1月末に帰国早々、湯河原の叔父宅に顔を出しました。タクシーを降り、自転車がようやく通れるほど細い辻を一本はいると、子どものころから見慣れた庭と家があります。その昔、亡くなった祖父が庭を丁寧に手入れして、毎朝池の鯉に餌やりをしていたのが、叔父に替わった程度の印象で、子どもたちが隠れん坊をした居間の掘りごたつも当時のままですが、部屋の至るところに飾られた姪や甥の写真や絵、手紙などが、華やぎを添えます。

そんななかで、息子と同じ5歳の姪を連れて実家に寄っていた従弟と話をしつつ、祖母がデイサービスから戻るのを待っていました。週に3日通うデイサービスは、食事のみならず、温泉で気持ちよく入浴できるので、祖母の痴呆が今ほど進むから定期的に通っているものです。車が止まる音がして、叔母が、「ああ、おばあちゃんが帰ってきたわよ」と言って玄関にでてゆき暫くすると、前かがみで倒れそうになりながら、叔母と明るい介護の女性に支えられ、覚束ない足取りで祖母が家に戻ってきました。

「杉山さん、お孫さんが会いにきてくれたよ」
「うん」
「よかったねえ」
「うん」

イタリアに住んで、そう度々会うこともないながら、最近、祖母がどこか子どものようなあどけない表情を見せるのに気がついていましたが、半年ぶりに会うと祖母は、以前よりその印象がずっと強くなっていて、頷く姿も、傍らで眺める5歳の姪にそっくりに思われました。半年前はまだ徘徊していて、その上すぐに倒れるために、身体中青あざだらけだったのが、今や寝たきりの生活に於いて、怪我の心配は殆どなくなり、思いがけなくすっきりした顔を、こちらにもたげるのでした。暫くこちらをじっと眺めては、顔を子どものようにくしゃくしゃにして、「何が何だか、わかりません」。ユーモラスで可愛らしい声で、繰り返します。

半年前に会った時は、このイタリアから訪問客を、或いは分かっていたのかも知れません。が、今は最早、ほぼ乳白色の記憶に浮かびあがる浮島の中、すこぶる元気に暮らしているに過ぎません。ずっと面倒をみている叔父たちの苦労は察するに余りありますけれども、96年間の長きにわたり病気もせずにここまで来て、頭の自動フォーマットスイッチが入って、もうすぐそれも恙なく完成する姿を見ていて、何て幸せな人生だったろうかと感慨深く思います。

「曾おばあちゃんのおてつだいするの」
「こっち、こっち」
まめまめしく姪が祖母の世話を焼いているのを眺めていると、半年前までは、祖母の方が5歳の姪より口も達者だったかも知れませんが、この半年で明らかに二人の言語能力が描く曲線は、見事にクロスしているのが分かります。気の遠くなる昔より、人が連綿と重なり合い、繋がっているのを実感します。

小田原生まれの祖母が、「この度、横浜から嫁いでまいりました。右も左も判りませんので、どうぞ宜しくお願い申しとうございます」。
時代劇の残照なのか、何故ゆえこんなマドロッコシイ言葉を話すのか不明ですが、こんな按配でひょうひょうと話すさまは、愛嬌にあふれています。そうして、皆が他の部屋に下がって部屋に一人になると、祖母は一人で演説を始めるのです。何を話しているのかと別室で耳を澄ますと、途端にやめてしまう。こちらが諦めると、すぐに淀みない演説を再開します。まるでテレビリモコンの遠隔操作そのままで、不思議な光景でした。呆けは悲しいことですが、この96歳の祖母に関して言えば、自分でも意外なほど幸せな印象を持ちました。

この一ヶ月間の単身生活中のほぼ毎日、ミラノで暮らす息子に、イタリア語と日本語でメッセージを書いていました。この3月で5歳になる息子は平仮名、カタカナに馴れたところで、まあ勉強半分、家族のコミュニケーション半分といったところ。イタリア語はまだ読めなくて、家人が代読していました。不当な裁判で絞首刑になったケン・サロ=ウィワの話など書くこともあって、一体どのように読まれていたのか定かではありませんが、暫くしてイタリア語と日本語で返事が返ってくることもあって、これも母親による聞き書き。

パパ いいてんきですか。さむいですね。
それでもチョコレートくれましたか。
チョコレートをぼくにください。
あなたのぜんぶじゃないよ。
ぼくにもパパにもママにもちょっと
みんなでたべましょう。

特に新鮮だったのは、普段イタリア語でコミュニケーションを取っている息子と、ほぼ初めて、お互い日本語で意志を交換したことで、大体同じ内容をイタリア語と日本語で書いて寄越すのですが、そこには微妙ながら、彼にとっての日本人的社会観、イタリアの幼稚園で学んでいるイタリアの社会観が反映しているのです。

彼にとって現時点での日本語は、まず母親とのコミュニケーション手段のせいか、無意識に自己が強く出てくるのに対して、イタリア語では、より社会的な表現になってエゴが薄められて出てくるのは、恐らく彼が友達との付合いの上で、肌で覚えた表現方法なのでしょう。これでは日本人、イタリア人本来の志向と反対だとも思うのですが、何しろ社会生活の経験が5年未満ですから、今後どう変化するのは全くわかりません。

このところ毎日のようにオペラの稽古で顔を合わせている演出家の粟國さんも、幼少からローマで育って、お父様とはイタリア語、お母様とは日本語の環境で暮らしてきたそうです。それにも関わらず日本語が本当にお上手でびっくりしたのですが、二人だけで話していると何となくイタリア語になってしまうのです。自分が最初に仕事で使い始めた言葉で、仕事上で話すのはイタリア語が今でも一番気楽なこともあるでしょうし、彼の特にうつくしい空間の使い方において常に保たれている左右対称のバランス、情熱的かつ直截的表現ながら、直情的な下品さを極力排除する舞台作りが、イタリアで培われた彼の人生とは切離せないであろうことを、無意識にいつも感じるからでしょうか。

(2月26日 三軒茶屋にて)

メキシコ便り(29)チリ

金野広美

エクアドルからメキシコに帰り1週間、今度は再度、チリ、ボリビアと旅するために出発しました。夜11時5分の飛行機でサンチアゴ・デ・チリへ。翌朝8時すぎに着き、ホテルに直行。少し休んだあと、いまではビクトル・ハラ・スタジアムから国立競技場に異動になったルイスに会うためでかけました。当初私はビクトル・ハラはここ国立競技場で死んだものと思い込んでいたので、過去2回のサンチアゴ訪問時に2回も来ているので、慣れた道です。

ルイスは相変わらずのやさしい微笑みで迎えてくれました。1年3ヶ月ぶりの再会です。いろいろたまった話をいっぱいして、彼は国立競技場の中を案内してくれました。やはりここも1973年の軍事クーデターの時に3000人余りが閉じ込められた場所です。今は改装工事中でグランドの中までは入ることができませんでしたが、スタジアムの中には小さな部屋がたくさんあり、ここも刑務所代わりになったと説明してくれました。

通りかかるルイスの友人たちにもひとりひとり私を紹介してくれ、彼の上司の部屋では1時間余りも話しこんでしまいました。そして、チリではどこに行きたいかを尋ねてくれ、私がパブロ・ネルーダの家や、ワインのボデガ(ワイナリー)などに行きたいというとネットでいろいろ調べてくれました。そんなルイスが教えてくれたボデガに予約の電話をいれ翌朝でかけました。

チリワインは日本でも多く輸入されていて、フランスワインなら5000円はするところが1000円くらいで買えます。「この値段でこの味なら結構、結構」というわけでなかなかの人気ですが、その中でも有名なコンチャ・イ・トーロのボデガにいきました。

サンチアゴから27キロ、バスで約1時間かかりました。入り口で7ドルと15ドルの見学コースがあるといわれ、4種類のワインとそれにあったチーズが食べられるという15ドルのコースにしました。でも日本だとお酒の工場見学は試飲をさせてくれて、おまけにタダなのになーと思いながらもお金を払って中に入りました。

社主の大邸宅の庭やブドウ畑、樽によってそれぞれの温度管理がされている倉庫などを見学したあと、ソムリエのサロメさんがワインの味わい方を4種類のワインを飲み比べながら解説してくれました。グラスを傾けたり、回したりしながら色や香りをまず楽しんでから飲むというものですが、今までワインをそんな風に優雅に飲んだことはない私は、それなりにその作法と、チーズをはじめとする料理との相性の話はなかなか繊細な話でおもしろかったのですが、こちらのスーパーで700円位で売られているワインを少し飲むだけで15ドルはやっぱり高いと思ってしまいました。しかし、それにもかかわらずここは予約が必要なほど観光客がひきもきらないのです。

そのあとぶらぶら庭を散歩していると「そこから先へは立ち入り禁止です」と警備員に言われました。そこで彼と少し話をし、ここで飲んだワインや、観光客の多さ、見学費用の高さなどについての感想を言うと、彼は小声で「この会社はあまりに有名になってしまったので、密かに商標を別の会社に売っているのだよ」といいました。そして、「本当に安くておいしいのはね」といって別の会社の銘柄を教えてくれました。ここで働いているにもかかわらず、私のような外国人観光客にこんな話をするなんて、きっと会社は儲けているにもかかわらず、従業員には安い給料しか払っていないのだろうな、などと思いながら豪華な大邸宅と広大な庭のあるボデガをあとにしました。

次の日はイスラ・ネグラにある、詩人、パブロ・ネルーダの家に行きました。太平洋を望む高台にその家は建っていました。ここも観光客がいっぱいで予約がなければ入れないといわれました。しかし、「せっかく日本からはるばる来たのだから入らせて欲しい」と頼むと「他の人には内緒にしてね」と受付の女性が特別に入れてくれました。

海をこよなく愛したというネルーダの家はまるで船室のようにつくってあり、ドアもトイレもとても小さく、大きなネルーダはさぞかし窮屈に行き来したのではないかと思いました。友人だったアジェンデ大統領とお茶を飲んだという客間は、海と庭に面する2面が大きなガラスになっていてとても明るく、さぞかし話しがはずんだのではないかと思います。また、たくさんある部屋には彼の膨大な美術品のコレクションなどが所せましと並べられ、まるで彼の家は海に浮かぶ美術館のようでした。

1973年9月11日、ネルーダがガンで療養中にチリでは軍部によるクーデターが起きました。アジェンデ大統領が死んだあと、家に軍部が乱入、蔵書や調度品を破壊しました。そのため彼は急に容態が悪くなり病院に行く途中、軍部に車から引きずりだされ亡くなりました。アジェンデの連合政府に協力した彼もやはり、ビクトル・ハラと同じようにクーデターにより殺されたのだと私は思います。

次の日、パタゴニアの入り口にあたるプエルト・モンに行くため8時の夜行バスに乗りました。サンチャゴから1024キロ、約13時間かかります。朝9時に着きましたが、めちゃくちゃ寒くて、あわててて上着を2枚重ね着しました。バスのターミナル近くに宿をとりさっそくツアーを申し込みました。1日目は近くの湖や火山、牧場、川などを回り、2日目はチロエ島という島を巡るのです。しかし降り出した雨でオソルノ火山は全く見えず、美しいはずのジャンキウエ湖の水は暗く激しく波打ち、ひたすら寒くてゆっくり外で観光している気になれず、早くバスに戻りたいと思うばかりでした。

このようにさんざんな初日でしたが次の日はきれいに晴れ、チロエ島に行きました。ここはアレルセという木を薄く切り、赤や黄色、緑など、色とりどりに塗り魚の鱗のように外壁に貼り付けた家が多く、とてもかわいらしい街です。道路はカミーノ・アマリージョ(黄色の道)と呼ばれチャカイという黄色の花が道路の両側と草原一面に咲いています。そしてここは魚がとてもおいしいところで、昼食に食べたあふれるばかりの貝のスープ、蒸したメルルーサは絶品でした。でも味つけがうすく、これに醤油があればいうことなしだったのですが・・・・。

それにしても春だというのにこの寒さ。私はがまんできずに毛糸のマフラーを買ってしまいました。行く先々のみやげ物屋には観光客の気持ちを見透かしたようにいろいろな毛糸製品が売られています。他のツアーの人たちも次々カーディガンなどを買い込み、どんどん太っていきました。

次の日、どうしてもオソルノ火山が見たくて初日と同じツアーに申し込みましたが、約束の時間の15分前にバスターミナルに行ったにもかかわらず、すでにツアーバスは出発してしまっていました。旅行会社の担当者も困惑していろいろ運転手と連絡を取っていましたが、結局どうしようもなく、当初の10倍出せばタクシーで連れていくというのですが、そんなに出せるわけはなく、私一人で路線バスを使っていくことにしました。

この日は空も晴れ上がりオソルノ火山がきれいに見えました。頂上に雪をかぶったこの火山は富士山そっくりで、湖のかなたにこれを見たときは、まるで富士五湖から富士山をみているのではと錯覚したほどです。広い緑の草原には牛や馬が放牧され、桜や菊、藤の花が咲き乱れ、カエデの木や、まるで北山杉のような林まで現れては、なんだか日本を見ているみたいで、娘や息子、父や母はいまごろどうしているかなあ、などいつもはあまり思い出すこともない家族がちょっぴり懐かしくなりました。

日本へのノスタルジーを感じてしまったあくる日、サンチャゴとの中間あたりにあるテムコという町に移動しました。ここはチリの先住民マプーチェが多く住むところです。彼らが住んでいた先祖伝来の土地をチリ政府が材木会社に売ってしまい、今なお、政府と衝突が続いています。3ヶ月前にもデモ隊と警察が衝突し、32歳のマプーチェの男性が亡くなったということでした。

私のガイドブックにはテムコの情報は何もなかったのですが、行けば何とかなるだろうと行くことにしました。マプーチェの民芸品を売っていた店で、ここからバスで45分のインペリアルという街にマプーチェが多く住んでいるということを聞き、行ってみました。そして、ここで銀細工の小さな店を出している純粋のマプーチェのセフリーノ・チェウケコーイさん(52歳)にいろいろ話を聞くことができました。

マプーチェは現在チリとアルゼンチンにまたがって住んでいますが、チリには50万人が住み、主に農業で暮らしを立てています。そしていくつかの家族で共同体を形成しています。彼のコミュニティー、ソト・カルフケオは18家族が所属しそのリーダーには4人の妻がいるということでした。セフリーノさんに「うらやましい?」と聞くと無言で照れたように笑っていました。女性は平均8人の子供を産み、家事をし、子供を育て、美しい織物をつくります。それにしてもどこのインディヘナの女性も同じように重労働ですね。私など2人しか育てていないので、その苦労は想像がつきにくく、本当に頭が下がります。

セフリーノさんは若いころは出稼ぎで南米各地を点々として働いていたそうですが、6年前にこの店を出し、古くから伝わるマプーチェの銀細工の首飾りや指輪を作って生計を立てているそうです。なかなか美しかったので私も素敵なデザインの指輪を買いました。いまでは別れて暮らしているという彼の家族の話しなどをしてくれたあと、最後に彼が「いろいろ苦労はしたけれど、私はマプーチェとして生まれてよかったです」と静かに語った言葉がとても印象的でした。

次の日サンチャゴにもどり、ルイスとまた会いました。そして彼との「今度チリに来たときにはビクトル・ハラの『耕す者への祈り』を原語で歌う」という約束を果たすべく、彼の現在の勤務地である国立競技場の多くの人が閉じ込められていたという部屋の前で歌いました。彼はにこやかに、そして小声で一緒に歌ってくれました。そして、私がビクトル・ハラ・スタジアムでも歌いたいというと、自分は行けないけれど、話をとおしておいてあげると言ってくれ、明日スタジアムを訪ねるよう言いました。

次の日は土曜日で、ほとんど従業員はいなかったのですが、1年3ヶ月前、ルイスと一緒に私の日本語の「耕す者への祈り」を聞いていたというクラウディオがいて迎えてくれました。そして「話はルイスから聞いているので是非歌ってください」と言ってくれ、ハラの絵が掲げてあるスタジアムに案内してくれました。私はハラとここで亡くなった人たちに敬意を払うため、ゆっくりおじぎをしてから心をこめて歌いました。スタジアムの構造がよかったのか、私の声はとてもよく響きました。ここでもクラウディオが小さな声で一緒に歌ってくれました。そして歌い終わったあと、彼は少し涙ぐんでいるようでした。何度も何度もすばらしいといって、私の手をとり、そして抱擁してくれました。私も胸がつまってきて、知らず知らずのうちに涙がでてきてしまいました。

私がこの歌に出会ってから30年以上が過ぎましたが、今やっと原語で、そしてビクトル・ハラの死んだ場所で歌うことができました。思えば私はこの日を迎えるためにスペイン語という言葉に長年こだわり続け、この年になってからでもなんとかものにするまではと若者たちの背中を見ながらがんばれたのではないのだろうか、という気が今ではしています。ビクトル・ハラが亡くなって36年。しかし私の中ではハラはずっと伝説とともに生きつづけていました。そしてとうとう彼の最期の場所まで私を引き寄せたのです。私は「耕す者への祈り」をビクトル・ハラに捧げるため歌いました。

   沈黙の瞳によみがえれアンデス   すべての息吹きわきいずるふるさと
   ぶどうの房も輝く稲も       耕す我らの実りであれ
   立ち上がれこの大地に       命かけ身をおこせよ
   山も川もその手ににぎれ      耕す君の手に守るときは今
   嵐の中に咲く花のように      貧しさに生きるきょうだいよ
   いざその手に銃をとれ       種まく手に武器をとれ
   奪われてはならぬ我らの祖国    正義と平等の耕す者の国
   抱きあい進め 死を恐れず     耕す者よ 立ち上がれ アーメン アーメン

言の葉のはなし

大野晋

さて、本屋を歩いていて、最近面白い本を見つけた。「カタログ・チラシ キャッチコピー大百科」(ピエブックス)という本なのだが、キャッチコピーが延々と集められている本。たしか、以前にも広告批評かなんかの別冊か何かで同じような趣向の本を見た気もするが、これもなかなか面白い。面白いと思えば買ってしまうので、我が家にはおかしな本が興味のままに集まってしまう。この本もさっそくコレクションに加わってもらった。わたしって、なにものなんでしょうね?

ぱらぱらとキャッチコピーを見ながら思うのは、昨今話題の著作権で考えると非常にややこしい本であること。例えば、「少女よ、大志を抱け」というキャッチコピー(単純に裏表紙に書いてあって目に付いただけなのだが)は、これだけで著作物と言えるのでしょうか? まあ、この文だけでも、札幌農学校のクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」のパクリだというのははっきり分かる文であり、なんとなく、そこらじゅうで同じことを言う人間はたくさん居たようにも思うが、どうなんでしょうね。

要は著作物というのはわかっているようでいて、わかっていない難しいものということだろう。実は同じ様に悩んでいる著作物がもうひとつある。

没年から、来年、著作権保護期限切れになる著者を追っていて、ふと、今年は60年安保から50年も経っていることに気付いた。その騒乱の中で亡くなったある著者の本が当時のベストセラーになっている。私などはまだ生まれてもいない時代で、70年安保の最中、虎の門病院の小児病棟の病室から眼下を行進するデモ隊を見ながら、これからどうなるのだろうと不安になった記憶がある世代だから、イデオロギーも何も関係ないのだが、本を読みながら、若者らしい純粋な価値観や正義感があふれていて、時代の息吹を知る上で、面白いテキストだとは感じた。ただし、寄せ書きのような形態をとっているその本は、どうみても、複雑な著作権処理が必要そうで全体を通して電子テキストにすることは憚られるのだ。

で、結局、思ったのは、なんともこの世は著作権で考えるのはややこしいということだった。昨今、電子書籍が注目されているらしい。しかし、そもそも、あまりきちんとした契約書を結ぶことが少ない日本の出版慣習の中で紙の本から問題なく電子の本が作れるケースは少ないだろう。

なぜ、フェアユースなのか?なぜ、著作権保護は長すぎると困るのか?それはややこしい本が現れた時によくわかる難問題なのだ。ちなみに、うちの過去の共同著作物の分担執筆者2名の現住所がまだわかりません。現実の世界は、著者存命中からややこしいのです。

桜が終わったらイッペーが満開に

仲宗根浩

トゥシヌユルー(旧暦大晦日)に入った夜中、突然に九年間使っていた時代の遺物シェル型のiBookが動かなくなった。メール用としてメインで使用していたが、どのような手を尽くしても動かない。中身はどうしようもないので、Windowsのマシンのメールソフトの設定をし、ウィルス対策用のソフトをインストールする。

メールアドレスは携帯電話に登録してあるのでそれを登録すればいい。携帯電話に登録していないアドレスはおさらばとなる。これもしょうがない。デジタルは消えるとき、いつも突然なのでこちらのデータは潔く諦めたほうが楽だ。数年前まで仕事で毎日のように使っていたメールソフトを久しぶりに使うとぜんぜん使い方を忘れている。最近はメールアドレス変更の連絡はほとんどWebメール。それでもわたしゃはWANよりLAN、ワイヤレスよりワイヤード。三十年近く使っていたアイロンがついに壊れたため購入、テレビ関係も地デジとやらになってしまった。

同じタイミングでこういうCDが出ましたけど、というメールがあるところから来る。あなたが欲しがっていたものが入荷しましたけどどうしますか? こんなDVDはどうですか? こうなると物欲と懐の葛藤で悩みに悩みつつ、クリック、またクリック。大丈夫か? 今年は下のガキが小学校入学だぞ、上は受験だぞ、そんなの頭から消えている。ブラインド・レモン・ジェファソン、ブラインド・ブレイク、フレディ・キング、ゴールドワックスのシングル集、映像ではマイケル・ジャクソン、「キャデラック・レコード」、レス・ポールのドキュメンタリー。これらを堪能したあと、九十九年ぶりの地震とやらで早朝起こされた。でも隣接する市町村の震度は出るが沖縄市だけ出ない。ここは震度の測定はしていないのか。その翌日は一日中、津波警報のなか、あの世の方々のための正月(十六日祭)準備が行われる。少しの間の暖かい日がすぐ終わり、暑さに変わる。初の扇風機稼動。先月のさくらにかわり、近所のイッペーの並木は黄色い花が満開。

製本かい摘みましては(57)

四釜裕子

NHKの番組情報誌「ステラ」で資料を探していたら、製本工芸家・栃折久美子さんの記事が目に入った。1995年10月16日〜19日、深夜のラジオ番組「ラジオ深夜便」に出演し、翌月に予定されている「ルリユール20年 栃折久美子展」を前に自身の歩みを語ったものだ。ルリユール(製本工芸)を学んだベルギーから帰国した3年後の1975年に個展開催、ブックデザイナーの仕事をしながら、のちに一緒に工房を運営するアシスタントと自身のアトリエで研鑽を積み、80年にはルリユールを日本で習得できるように道具や材料を揃えた工房を都内のカルチャースクール内に持った。「ステラ」誌面にはご自身がルリユールした赤瀬川原平『オブジェを持った無産者』、竹西寛子『兵隊宿』、中原中也『山羊の歌』の写真が添えてある。

「深夜便」の放送を私は聞いていないが、それより少し前になにかの雑誌で「ルリユール」を知り、95年11月の栃折さんの個展にでかけるべく、会場に電話をかけたのだった。それが思わず長話になりルリユールを習ってみたいのですなどと言うと工房に見学にいらっしゃいと教えられ、その時たまたま電話をとったのが栃折さんであったことを後に知る。翌週、教えられた場所に出向くとそこは駅前の百貨店の上階の一室で、三方を道具や材料に囲まれた中でにぎやかに製本している人たちがいる。ここで習えばどんな本も思いのままに作れそうだ!という無邪気で幸せな予感を得て、早速翌月から通うことにする。帰りに下のフロアの書店に立ち寄り眺めていると、ちょっとはみ出た『モロッコ革の本』(栃折久美子著)に呼び止められ、運命だ、と思う。

時が経ち――どんな本でも思いのままに作れるような人になっていない私にとってその運命って何?なわけだけれど、その後ずっといつも机の近くに『モロッコ革の本』があるのだから、出会ったあの日は確かにウンメイの一日である。今日もまたページをめくる。冒頭は栃折さんが留学先のブリュッセルに向かうアエロ・フロート機内でうんざりしているシーン、その原因が札幌冬期オリンピック帰りの一行と乗り合わせたことにあったとは、何度も読んでいるのに忘れていた。それから38年後、21回目の冬期オリンピックが終ろうとしている今日なのである。

「ステラ」に戻る。栃折さんはこう言っている。「ルリユールは、ことばの入れ物。その中に想像の世界があります。決して難しいものではなく、だれにでも簡単に楽しむことができます」。本格的にやろうとすれば、ルリユールはとても簡単に楽しむことなどできない。だが楽しむことに”本格的”もそうでないもあるものか。「ことばの入れ物」に興味を覚えた者たちよ、妄想結構、無理でも結構、難しいかどうかを惑ってる間に想像を多いに楽しめ。栃折さんのそういう思いを、今も私は時折勝手にこの背に覚えるのだ。

イラク紀行(1)

さとうまき

イラク国内、シリア国境近くに出来たアルワリード難民キャンプに春の兆しが見えてきた。

かつて2000人近く居た難民が、移住先が決まりだし、キャンプを去っている。現在は1000人ほどになり、4月の終わりには、300人ほどになるという。

キャンプに入るには、イラクのビザがいる。ヨルダンでイラクのビザを申請した。担当の太っちょのおじさんに、「2時に取りに来てください」といわれた。事務所でくつろいでいると、「イラク大使館です」と女性から電話がかかってくる。いやな予感。
「確認させてください。ビザ申請は3名ですが、パスポートは、2人分しか提出していないのではないですか」
「はあ、意味がよくわからないですが」
「こちらには、2名分のパスポートが提出されています」
「いや、私は、3名分のパスポートを確かに提出しましたよ」
一瞬不安になりポケットをまさぐるが、ポケットにはパスポートはない。
「もしかして、パスポートをなくしたのですか?」
「い、いや、ただ確認をしただけです」といって女性は気まずそうに電話を切った。

パスポートがなくなったらどうしよう。日本に帰れなくなってしまう。日本大使館で再発行してくれるだろうが、私の飛行機はシリアから出発。シリアのビザは、どうするんだ! 不安に駆られているうちに2時になってしまった。とりあえず、大使館にいくと、太っちょのおじさんが、「いやー心配かけてすまなかったね。こういうことはよくあるんだよ。気にしない気にしない」と笑っている。よくあるって???

イラクは、サダム・政権崩壊後の2度目の国民議会選挙を控えている。確かに、復興の兆しも随分と見えてきたが、まだまだ侮れない。紆余曲折あって、結局、難民キャンプには私一人で行くことになった。2月24日から27日までキャンプに3泊して、今しがたシリアに戻ってきたのだ。さすがに、4日もキャンプに居ると、うんざり。特に、後半は雨に降られたので、閉じ込められた感じがした。難民たちは、長い人で5年間もこんな生活を強いられている。早くキャンプが閉鎖されることを願うばかりだ。詳しくは次回。(シリアにて)

片岡義男さんを歩く(3)

若松恵子

テディ片岡というペンネームのきっかけになった『ナイン・ストーリーズ』を柴田元幸訳で再読しました。参考に氏の編集する『モンキービジネスVol.3』を読んでいて、柴田氏と岡田利規氏の対談の中に印象に残る一説があったので引用してみます。

<岡田> 僕は小説というものはストーリーやテーマに還元しきれないものがいいと思っていて、『ナイン・ストーリーズ』って、まさにそれそのものだと思いました。しかも、それでいて、たとえばテーマとかストーリーというものに還元してしまっている小説に対しての当てこすりのようなものが、まったくないような、それがとても、爽やかだな、という感じがしました。
<柴田> 自分のやりかたを肯定するために何か別のやりかたを否定しているという感じがしない、ということですか?
<岡田> はい。たとえば、自分のやっていることなり考えてることなりが、マイナーなものであると思ったら、メジャーなものに対しての攻撃性を持ったりするのは自然なことだと思うし、そういうものも大事だとは思うんですが、『ナイン・ストーリーズ』にはそういうものが全然感じられなくて。

さらに2人は『ナイン・ストーリーズ』の魅力にふれて、「これは要するにどういう話かという事が要約しにくい」(岡田)「ストーリーに還元したらこぼれ落ちてしまうものがいっぱいあるんだけど、かといって何の必然性もなく出来事が並んでいるのでもなく、こういうふうに展開するしかない、と納得させられてしまう力がある」(柴田)「だからといって、小説の細部を何もかも覚えておくことなんかできないから、どんな小説かっていうことをすぐに忘れてしまう。でもすぐにまた読み返したくなるし、もったいなくて1日に2編を読む気が起きなかったりする」(岡田)と言っています。
これは私が片岡作品に感じている魅力と重なるところがあります。インタビューで、質問者の勝手な思い込がばっさりと切り捨てられてしまったなと感じる一瞬がありますが、そんな時でさえ感じる片岡さんの静かさ、やさしさがどこから来ているのか、その謎を解くヒントにもなるように思えます。適当に知った風なことは言わない、言葉を発する時のこの片岡さんの姿勢によって、答えは質問者の想定を超えて自由に深いところまで及んでいくのだとわかってきたところです。
今回も片岡さんのこの発言からインタビューが始まりました。

まず最初に書いておいてほしいのですが、言葉づかいをちゃんとしなければいけないと思い始めたのです。これはホームページに掲載されるのですよね、個人的な話ではなくて。乱暴な、ぞんざいな口調というのはよくないと。

――ホームページの原稿を直したいと思われましたか?

むしろ直すのだったらもっと高校の時に身についた変なしゃべり方にするとか。べらんめいではないのですけれど、不良というか、学校の成績が悪い子どもたちのしゃべり方みたいな。

――しゃべるのを聞くと、あ、不良なんだとわかる。

不良っぽいというか、不良じみているというか、日活アクション映画のチンピラみたいなしゃべり方。「太陽の季節」以降の一連の非行少年ものがあるでしょう。湘南のしゃべり方。結局、キィになるのは人称なのです。「オレ」とか「オマエ」とか「アイツ」とか。

――片岡さんは「僕」ですよね。

いや。本当は「オレ」なんじゃないかな、身に付いているのは。しょうがないから、オレの代役として「僕」です。子どもの頃は「僕」だったのですが、高校生になって「オレ」になってしまった。

――「オレ」を選んだのですね。

そう。「僕は知りません」という言い方が普通だとすると、「俺ぁしらねえよ」となる。

――これからは、その口調でお話になるということですか。

いや。丁寧に。うその方で。

――インタビューの録音テープを聞くと、片岡さんの話し言葉は非常に書き言葉に近いと感じますが。

難しい事というか、めんどうくさい事をしゃべる時は、そうした方が楽です。話し言葉はもどかしいでしょ。
今日は、60年代の頃のことについて、少しメモをしてきました。60年代の僕は、単なる労働力だったという話をした方がおもしろいなと思ったのです。要するに、労働力なのです。

――ええ。

戦後の教育システムというのは、日本をうめつくす会社に労働力を供給するシステムでしょ。もののみごとにその典型です。大学を出たばかりだから、最若年とは言わないまでも、一応若年労働者です。60年代は僕にとっては、若年労働者としての10年間。労働者というのは勤勉でなければいけないから片っぱしから依頼を引き受ける。ものすごく忙しくて、勤勉な限りにおいては優秀な労働者…。今だって同じですけれど。

――今は高等遊民のように見えますが。

とんでもない。冗談じゃないですよ。

――でも、楽しそうです。

労働者に徹すれば良いのですから。徹するとはどういうことかと言うと、その時自分にできることを片っぱしからやれば良いということです。やれることしか、できないわけですから。

――依頼されるということは、できると思われているのですものね。

そうです。労働力として見込んでくれたというか、拾ってくれたわけですから。仕事そのものは文章を書くことだから、何か特別なことかなと錯覚する人もいるかもしれないけれど。当人も錯覚するかもしれないけれど、全然そういうことではなくて、単なる労働力なのです。

――片岡さんには、お金にならない文芸同人誌時代とかないですものね。

それはどうしてかというと、形から入らないで済んだからです。文芸同人誌というと純文学という形から入らなければいけないでしょう。形があるということが、すごく不得手というか、嫌というか、逃げたくなるというか、反発するというか。そういうことはやらないのです。

――いまだにそうですよね。

どういうことが関係して形から入らずにすんだのかと考えてみると、大学まで行ったことが大きかったと思います。例えば中学卒業後すぐに世の中に出た場合、彼にとって一番かわいそうなのは、まわりの大人たちが枠を押し付けてくるということです。新卒で会社に入ったら枠だらけなのです。また、労働者として見込まれるためには人とのめぐりあいというか、接点がなければいけない。そういうめぐりあいのチャンスがあったというのも大学まで行ったということが大きかったと思います。枠にあてはまらないでいい自由が少しあり、依頼してくれる人との出会いがあれば、あとは勤勉に労働を提供すればいいわけです。そして僕にとっての勤勉さとは、同じことを二度と書かないという事でした。型にはまらなくていい、型をまもらなくていい労働力。

――勤勉さの考え方はおもしろいですね。それは、同じものを書いたら恥だというような思いですか。

いや、仕事として同じことは書けないのです。この話、この前と同じじゃないかと言われてしまう。

――1回出したら書き直せないともおっしゃっていましたね

書いてしまったらおしまいでしょう。反省もふまえて次はちゃんと書こうと思うのです。そして、食べ物の話をすると、労働者だから餃子ライスなのです。通説によると、大連から引き揚げてきた人が、日本で仕事をしなければならないから習い覚えた餃子で店を開いたということです。餃子を売るなら人がたくさんいる所がいい、戦後の日本なら経済復興だから物を作っている工場の近くならそこにたくさん労働者が来る、その人たちに餃子を売る。餃子ライスは典型的な労働者の食事なのです。餃子ライス、最高です。

――それで今でも写真によく撮るのですね。

僕にとっての60年代は20代の勤勉な労働者、餃子ライスの日々。青春小説です。

――そういう正しい青春は今はありません。

60年代は成立したけれど、60年代のおしまい頃はもうだめなのです。68年くらいかな、何かが決定的になったのです。オリンピック、戦後から始まったことが、68年くらいに決定的になったのでしょう。

――エッセイで、片岡さんが25歳の時に、それまで持っていた写真を全部捨ててしまったということと、生まれた目白の家を見に行かれたということを書かれていて、1965年に何かあったのですか。

いや、何もないです。どうなっているのかと思うじゃないですか。それだけです。暇だったのです。見に行ったらそのままありました。まだその頃は戦前と陸続きでした。今はもうないでしょうね。土地の権利関係が残っていれば路地とか私道とか残っているでしょうけれど。

「マンハント」の片岡さんが書かれていたコラム、ファンがたくさんいたと思います。この文体は発明したのですか。

いや。話し言葉の変形でしょう。さっき話したような不良少年の話し言葉の変形です。

――落語の影響を指摘している人がいましたが。

むしろ漫才かな。戦後のラジオの漫才。あれはおもしろかったです。漫才という枠はちゃんとあって、舞台と客という枠もちゃんとあって、よっぽどひどいことを言わない限り、あとは自由なのです。それがおもしろかったのかな。人が言葉を使う時の自由さかげん、自由さによって笑いが生まれたりすることが。形がないというのは非常に良いですね。自分に徹することができる。自分に徹しようという意識は全くないけれど、結果として自分に徹しているわけだから。使える言葉しか使えないから、書けば書くほど自分に徹することになる。だから、書けば書くほど無形の得をしている。原稿料をもらいながら修行になっている。

――片岡さんの書かれたものが「マンハント」の個性をつくったとも言えると思うのですが。

そんなことはないです。

――それは言い過ぎですか。小鷹信光さんが、片岡さんは最初からうまかったと回想されていました。

うまいかどうかは別にして、これを書けと言われれば最初から書けたのです。

――流れるように読めますね。

話し言葉ですよ。

――「現代有用語辞典」という連載コラムが好きです。他の書き手と比べて片岡さんがどれくらい異質なのかということまでは読みこめていないのですが。

書き手というのは、みんな異質なのです。その方向とか度合いがそれぞれ違っていて、編集者がどれを選ぶかによるわけでしょ。

――編集者に恵まれたという気持ちはありますか。

あります。形をおしつけない編集者でした。純文学の編集者にはめぐり会っていないから。おしつける人だと大変だと思う。けんかですよ。まあ張り倒すでしょうね、間違いなく。

――片岡さんが!!。張り倒した人がいるのですか。

ありますよ。色々と。

――「あなたは原稿を渡すがわの人になりなさい」と言ったのは「マンハント」の編集長だった中田雅久さんなのですか。

そうです。それは決してほめ言葉ではなくて、君は編集者はやめた方がよいという意味でしょう。

――片岡さんは「マンハント」について、あまり発言なさらないですが。

忘れちゃったのです。何を書いたか忘れています。

――「マンハント」はアメリカ版がまずあるのですよね。

「マンハント」はその日本語版と称して娯楽的な総合雑誌を作ったのです。ほとんどタイトルだけ借りて。そういうスタイルの草分けですね。

――雑誌「フリースタイル」に鏡明さんが「マンハントとその時代」という記事を連載されていて、アメリカ版の「マンハント」はサブカルチャーだったという話ですが。サブカルチャーということに対して何か感じていらっしゃったのですか。
(*後日確認したところ鏡氏は「フリースタイル」(vol.42006年)で「ポピュラー・カルチャー」とおっしゃっていました。サブカルチャーと読み違えたのは質問者の責任です)

サブカルチャーという言葉そのものが無かったのです。まあ若年労働者にふさわしい世界、餃子ライスにふさわしい。この時代が終わってしまうというのがおもしろいよね。時代が終わるということがあるのですね。

――時代の終わりをどういう風に感じたのですか。

要するに終わるのです。仕事はいっぱいあるのだけれど、ふと気づくと終わっているのです。そして次に始まった70年代はどういう時代だったかということにはあまり興味がないな。終わっていく時代に、自分なりに結着をつけなければならない。

――どうやって。

本を書いたのです。『僕はプレスリーが大好き』。あの本を出してくれた編集者がいたというのもすごいことですよね。

――今読んでもおもしろいです。

むしろ今だから理解できるのかもしれない。その時わかる人がいたかどうか。

――当時日本にないものだったからでしょうか。

すごく遠いものを書いているよね。不思議なことに。

――『僕はプレスリーが大好き』のあとがきが好きです。色々な参考文献があげられていて、アメリカのアンダーグラウンドマガジンとか、違う形の文化とかメディアを知っていて、そのうえで「マンハント」に書いていたということが大きかったのではないかと思うのですが。意識していらっしゃったのですか。

わからないです。知っていることは知っているわけだし、知っていることを知っていることとしてどれくらい自覚して、意識しているかというのはまた別の問題なのです。ほとんど意識していなくても文章の端々に出てくることについては、自覚していないからわからないです。ただ、新しい考え方というか、それまでになかったもの、別の視点、新鮮な視点というのが好きなんじゃないかな。

――英語のものを読んでいたというのは大きかったですか。

それはありますね。

――若年労働者は年をとっていきます。

そうですよ。僕自身は68年ごろになると完全に飽きているのです。依頼をこなすだけです。提案もしないし、ルーティンです。

――「マンハント」の時代について、片岡さんは一過性の、ある時代のできごととおっしゃるかなと思ったのですけれど、実際に「マンハント」に書かれたものを読んでみると一過性のものではないなと感じたのです。「決して一過性のものではないよ、テディ片岡は」と思いました。

言葉でできているわけだから。言葉を使うということは普遍的なことでしょう。言葉の使い方の問題なのです、おそらく。何をどう考えようと最終的には言葉で固定するわけだから。僕の言葉の使い方に一貫性があるということでしょうね。

――『ナイン・ストーリーズ』のテディは早熟な天才なのです。ぴったりです。

ではそういう話にしておきましょう。

(2010年2月19日)

芭蕉の切れ

高橋悠治

1694年(元禄七年)に大阪で亡くなった芭蕉がその年に詠んだ俳句が14句ある。それらをタイトルとして14章のオーケストラ曲『大阪1694年』を作曲するとき俳句にローマ字を付け、英訳してみた。

俳句の英訳はたくさんある。「古池や」の31人の英訳を集めたサイトまである。(http://www.bopsecrets.org/gateway/passages/basho-frog.htm)直訳ほど、詩がある。語順や構文のちがい、文化のちがいがあっても、意味や状況を説明し、解釈し、俳句論や禅にこだわれば、リズムもイメージも消える。

俳句は瞬間の光を書きとめるが、作品は創造の残り物。解釈し分析する俳句論から俳句はできない。時計を分解掃除してから組み立てるのとはちがう。声にして読めば浮かび上がるリズムとイメージの断片。声は律とは別なリズムで句を切る。たとえば、「キクのカにクらがりのぼるせっクカな」。イメージは統合されず、散乱する。たとえば、「此秋は何で年よる雲に鳥」。人生最後の秋、老いの実感、雲に消える鳥影、と解釈でつなげれば、俳句は消え、感傷が残る。「秋」は環境空間、「何」は答えのない質問、「年」は時間。「よる」は近く、「雲」は遠い。「鳥」は飛ぶ。ことばの絵ではなく、たばしる子音。瞬間に投げ出された韻が、句を乱切りにする。風景は見る人とかかわりなく過ぎてゆく。病んだ社会、病むからだから解放されて、「夢は枯野をかけ廻る」、からからと音たてて。

発句は連句の発端。連句は感性のちがいが視点を変えていく即興のあそび。あいさつのように相手があり、寄り合いの雑談のようにこだわりがない。振り返らず、あてもなく、ひたすら先へゆく。歌仙のようなルールは、座への入場切符。季語や月の座のような式目も、前の句に付けながら転じる遊びを複雑にする。そこに意味をもとめて弟子たちが練り上げた方法論や規範は、ひとが立ち去った後の部屋のように空虚。

「切れ」はことばの方法論ではなく、芭蕉の生きるプロセス。身分社会からはずれ、故郷なく、定職なく、座という一時的自律空間を主催する旅の人、ことばの教師。弟子たちは身分や職業から離れ、男も女もいる。社会から切れた空間、ことばにまつわる文化を連鎖のパラドックスで解体する時間。ことばの切れが、ひとびとをつなぐ。「秋の夜を打ち崩したる咄かな」。句会は陽気なにぎわい。

冬もおわりか、まだ少しつづくのか

仲宗根浩

正月、家での食べ物はほとんど実家からのお裾分け。中身汁、三枚肉、かまぼこ、田芋の田楽、昆布などなど沖縄の正月に欠かせないものばかり。量をたくさん作るから暫くは同じものを食べることになる。中身はいわゆるモツで年末のスーパーやお肉屋さんではバットにこれでもか、というくらいに盛られ、三枚肉もブロックで並べられ計り売りされる。内地のバラ肉と違いこちらのバラ肉は皮付きで食べるので屠殺された後、毛の処理のためバーナーで焼かれる。子供の頃、肉屋さんが安全剃刀を使い、皮の表面に残った毛をきれいに剃っている様子をよく眺めていた。何年か前の近所の市場、開店前に肉屋のおじさんが豚の半身をさばいているのをちょっと見たことがあった。半身から肩、背、ヒレ、もも、あばら、ばら、豚足と分けていく。肉の部位の言い方も方言でメー、ボージン、ウチナガニー、チビジリ、ソーキ、ハラガー、テビチやチマグーというふうにあるけど、いまよく目にしたり、聞いたりする呼び方はソーキやテビチ、うでのつけ根部分のグゥヤー、ハラガーの三枚肉、レバーのチムくらい。旧正月に仏壇にお供えをするのでまた同じようなも のを食べることになる。

日本列島が寒気に見舞われると、こちらも一応、寒くはなる。昼間二十度あったのがいきなり、十五度を切ったりすると、厚着になるがセーターは持っていない。外に出ると風が強いのでトレーナー重ね着する。そんななかでも基地から夜の街へと繰り出す人たちは半袖。仕事帰りの車のなか、こいつらどういう皮膚しているんだろう、眺めつつ家に戻ると、外から叫び声と走る足音が聞こえたきたので、窓を開ける。すぐ近くで、五、六人で一人を囲み、袋叩きにしていた。止めようと大きな声を出す若いおねえちゃん、その場から走って逃げるやつ。しばらく入り乱れ、すぐにだれもいなくなった。久しぶりに見る、あめりかあ同士の喧嘩。

寒さのおかげで長引いた風邪も治り、ここ数日、あったかくなったと思ったら近所の桜の木の花が開いているのに気付く。車でよく通る裏道沿いには、ブロック塀のより高く桜とブーゲンビリアが満開だった。

ゆきの記憶

くぼたのぞみ

こやみなく降る
ゆきが
人のけはいを消し
生き物のけはいを消し
ビル群にはさまれた
道のむこうは
地も空もない

濃淡を
ゆらゆらと照らしながら
奥まりに降りつもる
記憶の
ゆきを かき
埋め込まれることにあらがって
粉のような
ゆきを はねる

理不尽な
いま
から
脱出しようと
汗だくになって
きみのシャベルがすくうのは

太郎を眠らせたゆきではなく
次郎を眠らせたゆきでもなく

幾千の
ときのかけらと
ちりぢりになる命の軌跡

いまはまだ
不器用な手つきで
乾いたことばの薪を継ぎ
響きをもやし
おびただしい
サカジャウェアたちを
サラ・バートマンを
チリ・マシホを
エミリア・ウングワレーとそのなかまたちを
記憶
する 
ゆりかごを 揺らす