犬狼詩集

管啓次郎

  13

雨の滴はそれぞれに空を引き連れて降りてくる
その落下は人間的にはずいぶん速く見えるが
じつはものすごくゆっくりなんだ
落下しながらも蒸発してゆく
落下しながらも物語を発している
滴とともに降りてくるのは空の内容で
そこには祖霊たちも二千年前の発話も
サヴォナローラの嘆きも含まれている
うまく踊ることのできないカチーナが
覚えようとしてたどる雲のステップも
未完のまま地上に届けられる
子供のころ、ぼくらは舌を突き出したまま
シャツを濡らしながらずっと明るい雨の滴を飲んでいた
それがぼくらの最初の学習で
歴史は初めそうやってぼくらに訪れた
雨の滴が最初の教科書だった

  14

断崖を愛する心には二つの方向があった
それを聳えるものと見るかそれとも奈落と見るか
いずれにせよそこは重力の劇場
透明な翅が悲哀としていくつも舞っている
断崖の上にひろがる砂地は風と芝の領域
断崖の下にあるのは絶望とはまなす
盲目の老王でなくてもそこでは必ず転ぶだろう
だが眠りと死の類似性を語ることで
自分が失ったものに囚われたくはない
生にむかって閉ざされた瞼と
死にむかって開かれた瞼の
花びらのような相似
燃える海風が吹きつける午後の
息を吸い込むこともできないこの断崖の途中で
私はずっとつぶやいている
Tenho medo… tenho medo…

気づいたらそこは池袋だった

大野晋

今年の夏はとにかく暑い! 朝までは赤坂のサントリーホールに出かけなければと思っていたのだが、ふと夕方会社から外に出た途端にぽっと消え去り、気が付けば池袋にいた。しかも、料理屋で注文をした後に気づき、場所の違いに愕然とする。とにもかくにも、急いで食事を終え、赤坂へとタクシーに飛び乗った。近い将来、こんな話は忘却のかなたに消え去るのかもしれないが、暑かった夏の一事件として記録しておきたいと思う。

プログラムはサントリーホールが企画した現代音楽もののコンサート。「しもた屋」の杉山さんが都響を指揮をする。実は私は現代音楽っぽい曲も嫌いではない。これは、絵画でも同じで、抽象画や抽象的な表現をした写真も結構楽しんでしまうのが常だ。この夜のプログラムも非常に楽しく、杉山さんのちょっと指揮台の上で足をクロス気味にお立ちになり、ダンスをするような足運びを面白く拝見させていただいた。

しかし、現代音楽となると聴衆が少ないのが難点で、この日も非常に観客席はストレスの少ない状況。要は、客と客との間隔が開いた空席の目立つ状況だった。まあ、このような感じになるのは、もちろん、指揮者のせいでも、演奏者のせいでも、作曲者のせいでもなく、聴衆がなかなか現代音楽になじまないせいなのだが、そろそろこのような形式の曲も半世紀以上経つのだから、慣れてもいいのではないか? と思うがなかなかにハードルは高いらしい。

実はこのような話は特定のコンサートだけの問題ではなく、普通のオーケストラの定期公演でも同じようなことが生じており、文化庁からの支援はこういった演奏機会の少ない現代曲を取り上げると受けられるが、逆にこういった作品を頻繁に取り上げると観客が入らずに入場料収入は減収になるといった具合で、ただでさえ厳しいオーケストラの台所を悩ませることになっているらしい。
 ところで、現代音楽になじむにはどうすればいいだろうか? ま。あまり難しいことを考えずに、じっくりと、何回も聴いて慣れることだろうと思っている。なので、コンサート機会が少ないということは、客の耳になじむ機会がないという二重苦を抱え込んでいることになる。ならば、耳になじむように無料や安価なコンサートで取り上げればいいのかもしれないけれど、そうすると某音楽著作権団体が演奏料をよこせと、演奏機会を増やすのと反対の圧力をかけるだろうから、この世界はやりにくい。でも、本当に耳になじむと、結構、楽しいのですよ。

ところで、現代音楽はとにかく新しい音楽のような印象があるかもしれないですが、古典派やロマン派とは違う音の動き方はどこか、チャント(グレゴリオ聖歌)に通じる部分や日本の雅楽などの伝統の民族音楽に通じるものがあると思っているので、それほど、難しいものでもないと思う。むしろ、津軽三味線や地方の太鼓の方がより現代音楽的なように思えてならない。

そういえば、先週末、参加した(というか、仕掛け人でもありましたが)セミナーで、講演者の方が視点の転換や問題の再認識にはどのようなトレーニングが必要なのか、といった話をしていましたが、音の循環や変奏などが複雑に入り組む音楽を聴いたり演奏したりすることはひとつのトレーニング手法だろうと思っている。こんなことを考えながら、今、危機を迎えているオーケストラ運営に、文化として、人間社会としての存在意義を見出したりもしている。

とかく、文字や知識、暗記といった左脳ばかりが取り上げられる現代社会だが、その実、芸術などの右脳の活用が大切だし、そのためには情操教育、音楽や絵画といった活動も不可欠なのだろう。それで思い出したが、優秀なプログラマや数学者にはなぜか、左利きが多く、珠算経験者も少なくない。右脳の発達が柔軟なモデリングを行うことにプラスに働いているのだと私は推察している。

もし、あなたやあなたの子供を優秀な設計者や計画者に育てたかったら、塾にばかり通わせずに、ピアノや珠算、習字などに通わせた方がいいだろう。しかもざまざまな音楽を聴かせ、絵画になじませることをお勧めしたい。少なくても音楽や絵画といった芸術は人生を豊かにすることだけは確かだ。

そういえば、芸術の秋が来る。

しもた屋之噺(105)

杉山洋一

今朝、時差ぼけで朝早く目が覚めたので、久しぶりにエスプレッソマシーンで淹れた濃いコーヒーと一緒にクッキーを齧りながら、コンピュータの前に坐りました。

一ヶ月ぶりにミラノへ戻ると、夕暮れはすっかり秋の気配に包まれており、拙宅の庭は無残に荒果てています。こう書くと、ペンペン草が生えているような、雰囲気がある朽ちるさまを思い描かれそうですが、実際のところは、自分より少し背が低いだけ、1メートル半はあろうかという、青青として立派な雑草に覆われた生命感溢れる茂みが広がっていて、畏れをなすというのか、手をこまねくばかりです。尤も、このさまを見る限り一月間、雨は充分に降っていたようですから、からからに乾いて辛い思いをさせたのではないと救われた心地もします。原稿を書き送ったら、まず隆々と繫茂する雑草を引き抜いてから、練習に出掛けなければならないでしょう。

今回三軒茶屋にいた時は、目の前の小学校の校庭で、今時分から朝のラジオ体操が始まります。夜になると夏祭りや盆踊り大会なども催されるので休み中でも賑々しく、近所から和やかに親子が集う様子からは、日本滞在中に聞いた幼児虐待、不明高齢者や孤独死など、地域のコミュニケーション不足による問題など嘘のようで、現在の日本社会の表と裏を垣間見る気がしました。

今回暫く息子を伊豆熱川の義父母に預けていて、暫く熱川の隣町の山の上にある保育園にも通い、皆と一緒に伊豆稲取のお祭りに参加してから東京に戻りました。毎日捕ってくるカブトムシやクワガタに餌をやり、海の上で打上げられる立派な花火大会を眺め、朝夕保育園への途すがら出会う野生の鹿や猿に驚いたりしながら、少しの間に逞しく頼もしくなったのには驚いたし、義父母や周りの人たちにすっかり頼ってしまいましたが、彼が夏休みらしい充実した時間を過ごせたのは、何より嬉しいことです。

お祭りのとき出かけた伊豆稲取漁港で、湯河原で網元をしていた祖父や、夏になるとバケツ一杯の磯蟹がとれた、その昔の船着場を思い出しました。眼前に茫々と広がる相模湾も、湯河原と稲取は多少離れていて表情も違うけれども、祖父が眠る湯河原の山の上から見える濃い蒼色で、同じ匂いがしました。

子守ついでに家人について静岡に出掛けた折には、畳張りの昔ながらの旅館に泊まり、小学校の遠足で訪れた東照宮のロープウェイに乗り、新設された猛獣館にシロクマを訪ねた日本平の動物園を日がな一日カキ氷片手にのんびり周ったのは、イタリアでは動物虐待問題で動物園が厳しく制限されているからでもあります。息子が三軒茶屋に戻ると、一時的に通う桜新町のインターの幼稚園との送迎を家人と分担しつつ、空いた時間は目の前の演奏会の譜読みで精一杯で、作曲まで手が回らないまま、果たしてミラノに戻ってきてしまい、今後どうやりくりすればよいのか途方に暮れています。

演奏会のリハーサルが始まった途端知った、古くからの友人の逮捕に、はからずも涙が溢れました。自分でもどうして泣くのか分からなかったし、知ったところで相手も当惑するだけに違いありませんが、リハーサルや演奏会の曲間、控室の灯りを暗くして一人考えていたのは、友人が今頃どうしているだろうかということでした。

演奏会の翌日、ミラノに戻る前日のこと、既に結婚して久しい家人と互いの家族が集まり、代々木八幡でささやかな結婚式を挙げてきました。無宗教なので当初挙式など考えたこともありませんでしたが、5年経ったら何かする約束は前からしてあったので良い機会はないかと考えていて、3歳の頃から通った篠崎先生の家の隣にある八幡さまを思い出したのです。境内のお寺には最初にヴァイオリンを習った篠崎先生のお母さまのお墓もあり、レッスンの前後境内で遊んだりさらったりした親しみのある場所という一方的な理由でしたが、イタリアで友人が近所の教会で挙げる式を思わせる素朴で温かいものになりました。

煩いほどの蝉しぐれのなか、杯を酌み交わしている間も近所の参拝客が目の前でかしわ手を打ってお参りしていたり、興味深そうに上がり込んで覗きこんでいたりと東京にいるのを忘れてしまう長閑さで、家人の艶やかな和服姿や息子の凛々しい羽織袴とも相まって、珍しく家族揃って落着いた時間が過ごせたのは貴重な機会だったと思います。

と、詰まらない雑感をつらつら書いているうち夜もすっかり明けてしまいました。目の前の酷い庭を片付けないことには練習にも出掛けられませんし、明るくなって気がつくと、暑気にやられたのか目の前に哀れな椋鳥が斃れていて、穴を掘って埋めてやろうと思います。もう一杯エスプレッソコーヒーを淹れたら、煩い蚊を覚悟して庭に下りることにいたします。

(8月29日ミラノにて)

オトメンと指を差されて(27)

大久保ゆう

オトメンと夏はきっと相性が悪いのです。そりゃあ個人的に苦手だというのもあるのかもしれませんが、それにしたってできることが少なすぎやしませんか。ねえ、ねえ、ねえ!

女の子なら浴衣だ水着だときゃっきゃできることはあるのでしょうが、正直のところ男の水着なんてどうしようもないものでしかないし(短パンかブリーフかサーフパンツ云々)、男+浴衣のイメージなんていまだに温泉から上がってきたばかりのおっさんから離れられず、じゃあ甚平を見てみるとオトメンというよりはどっちというとヤンキー方面へとデザインがシフトしていくという次第で。

夏にできること? 夏にできること? 夏にできることといったらいったいなんだー! サーフィンもキャンプもオトメンじゃないよなあ……凝った料理を作るにしても夏のキッチンは灼熱地獄、ファッションにしても服が重ねられたり組み合わせたりできるからこそ元々少ないというか乏しいというかそういう男物の側面を補えるというのに、薄着って遊ぶの難しいんだよお……

とまあ、夏のオトメンがいったい何たるものなのかいまだ見つけられずにいた私なのですが、先日(いやひょっとすると数年前から)、もしかすると盆踊ることなのかもしれないという訳のわからない糸口をとうとうつかむに至ったのです!

何時間も同じ仕草でエンドレスに踊り続ける! そしてトランス状態つまりボンダンサーズ・ハイ、これこそオトm……ごめんなさいやっぱり無理でした。

昆虫採集・潮干狩り・花火大会、いろんなイベントを思い出して結びつけようとしてみるものの、どうもしっくりこなくて。どうやってもオトメンがメイン張るようなものでもありません。私自身もイベントやお出かけは嫌いでないのでよく参加するんですが、つながらないというのはいったいどういうことなのかと。そんなとき、ある人がこんなことを私に言いました。

「毎度、保護者お疲れ様」

――はっ! そうだったのか! オトメンは同年代や年下の人間と一緒にいると、なぜか母性を発揮してグループをゆるやかにまとめたり遠くから見守ったりしがち。だだをこねる友人たちをなだめたり迷わないよう引率したりそれだけで疲れてしまって自分の楽しむ余裕がなくなったり。

夏がバケーションの季節である以上、夏のオトメンが常に保護者であり続けるのは避けられないことだったのです!! やむなし! 夏休みなんて休みじゃなかったんだ! そうなんだ! わあい!

で、私はもうバテバテ。へろへろりん。秋が来るのはまだなのかな。まさしくオトメンの季節なのに。小さい秋はどこなのでしょうか。

小さな翼

若松恵子

ギターを鳴らし、唄うというスタイルのミュージシャンに心魅かれている。近くでコンサートがあれば聴きに行きたいと思うのは、三宅伸治、石田長生、そして仲井戸麗市。注意深く情報を追いかけていなければ見落としてしまうような宣伝力だけれど、3人ともとても勤勉に唄う仕事を続けている。ロックというイメージとはむしろ正反対のコツコツと、という仕事振りだ。

この夏に偶然、3人の演奏を聴く夜が続けてあった。「30歳以上は信じるな」なんていうことはもう言われない時代だけれど、そんな合言葉を知っている世代が、年を重ねてもなお子どもみたいにやわらかな心で唄っている。かつて、仲井戸麗市は「大人の意志で子どもを生きてる」と唄ったけれど、「大人になりたくない」と駄々をこねるのではなくて、大人として勤勉に暮らしながらもなお、「昔憎んだ30歳以上」になってしまわない姿には、年を重ねることも悪くないなと励まされる。

仲井戸麗市などは、還暦を迎える年齢だというのに、ますます初々しい。いつまでも、どうしても何かに慣れることができないという姿だ。どうしても慣れることができないものとの摩擦、どうしても手離したくないものへの思い、そこから彼の唄が生まれてきているようにも思う。年をとるたびに平気で慣れていってしまう、平気で手離していってしまうという事が、信用ならない大人(30歳以上)になるという事であるようだ。そういえば3人ともキャリアを重ねているというのに、まだステージに立つことに慣れていないような振る舞い方をする。そんなところも共通した魅力なのだけれど。

8月最後の日曜日、山中湖で行われた野外フェスで、仲井戸麗市は親友忌野清志郎にささげる演奏をした。本人はそんなコメントを一切しなかったけれど、熱心なファンにはみんな、その思いは伝わっていたのだった。

持ち時間の最後に演奏されたのは、ジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」。ロックが好きな人には、曲名を言っただけであのサウンドがよみがえる名曲だ。どこまでもどこまでも伸びていくギターのメロディー。「空から降りてきて僕を救ってくれ」というマジカルな歌詞。心をどこか遠くまで連れて行ってくれる、あの曲自体に小さな翼がはえていたのだと今になって思う。仲井戸麗市が手離さないものは、「Little Wing」を聴いて共振する心なのかもしれない。この曲を「いいね」と言い合った親友への共感も含めて……。

大事な友を失ってから2回目の夏。「Little Wing」に重ねて彼がつけた歌詞を聴いていると哀しみは決して消えることがないのだと感じる。いつまでたっても慣れることなんてできない哀しみがはっきりと見える。

忘れられた君

笹久保伸

忘れられた君の影は
忘れられた君の帽子の中にあった
忘れられた君の傘は
忘れられた君のズボンの中にあった
忘れられた君の夜明けは
忘れられた君の靴下の中にあった
忘れられた君の情熱は
忘れられた君のパンツの中にあった
忘れられた君の友人は
忘れられた君の響きの中にあった
忘れられた君の兄弟達は
忘れられた君の夕方の中にあった
忘れられた君の朝日は
忘れられた君の孤独の中にあった
忘れられた君の夜は
忘れられた君の骨の中にあった
忘れられた君の血は
忘れられた君の身体の中にあった

掠れ書き(4)

高橋悠治

7皮膚の内側と外側の関係。内側と外側を同時に感じながらうごいていく。入口と出口をもつ一本の管。外側と内側を結ぶ狭い空間。身体を裏返すと世界全体が皮膚の内側に包まれる。内側も外部のように感じ、自分の外側にいるかのように、背中から見る、あるいは上から見下ろしている感覚が、うごくひとの内と外のバランスのとりかたかもしれない。カフカのように世界の側に立つ、世阿弥の言う「離見の見」も、そのように醒めた感覚だろうか。

断食すると身体は敏感になる。だが、内部の貯えを使いながら生きるのには限界があり、一度は鋭くなった感覚は、やがて萎縮し衰弱する。洗練と退廃は紙一重。完全なシステムや方法があると思うのは錯覚で、それらはその時の障害をのりこえるための梯子や舟のように、使い終わったらそこに残して、先にすすむための手段。残すとしたら、隠されたシステムや秘法ではなく、だれの手にもなじむ程度にはみがかれている道具がいい。

高い音は早く消え、低い音はゆっくり消える。それは自然のように思えるが、ほんとうにそうだろうか。1960年に弾いたボ・ニルソンのピアノ曲「クヴァンティテーテン(量)」は、それをテンポに置き換えて、高い音ほど楽譜上の長さより短くするという、歪んだよみかたを演奏者に強いるものだった。シュトックハウゼンの「ツァイトマーセ(時間測定)」の方法を使ったもの。自然と思える感じを誇張すれば、安定感が強調される結果になる。

楽器の音に含まれる倍音をとりだして、もう一つの音として組み合わせれば、色彩的ではあるが、どこか平面化した音の空間になるような気がする。スクリャービンの神秘和音といわれる響き、ロスラヴェッツの合成和音といわれる響き。スペクトル樂派はどうだろう。伝統楽器の一音の多彩な音色(ねいろ)のかわりに、均等化された近代楽器の音を重ねて、音程関係の緊張度のちがいで多様性を創りだそうとする音楽は、和音の厚塗りで重くなる。音を重ねて複雑になればなるほど音楽は身動きできない狭い空間に入っていく。金魚鉢のなかの金魚のようにひらひらと浮き沈みはするけれど。

和声が複雑になり、転調が折り重なって、中心音が定まらない無調になり、そこにあらわれるすべての音を、バランスよく配分しようとする傾向は、12音や音列技法にたどりつく。配分の図式は安定指向と言えるだろう。和音が低音から組み上げられていく、その安定感が、めまぐるしく変わる表面の下で、見え隠れしながら、凧糸のように秩序に繋ぎ止めている。不協和音も対位法も、ドローンやビザンティンのイソクラティマ技法、カトリックのオルガヌムの昔から、神や王に奉仕する音楽のありかたそのままに、上に根をもつ逆さの樹の、地を掃く小枝となっている。

漂う水草や、呼吸根のからみあった複雑で隙間だらけの表面をつくるマングローブは、これとはちがって、中心をもたず、流れのままに散らばっていく。

ミドゥリ(芽)咲く――翠ぬ宝70

藤井貞和

フージー・サド

    平和について考えました

  書こうとして、なぜ消える、
  わたしの詩、昭和33年の初夏。
  思い出そうとして、消える、
  あなたの声――今日もあしたも。
  詩集から、文字が消える、
  とりのかげのように。
  鉱物採集は失敗したみたい、
  それでも帰って来ました、はやぶさ。
  マングローブの林で、
  こんやだけ咲く、サガリバナ。
  古語で「かなしい」と口ずさむと、
  悲しくなります、中学生。

(教育実習の先生〈男性〉が、聞き取れない発音で口ごもりながら、熱心に組み立てていた授業を、中学生の私は、何度も何度もぶちこわした。二週間がたって、実習期間のさいごの日、先生はみなに別れのあいさつをして、広島での被爆が、片頬から半面にかけて大きなケロイドをのこしていること、そのために発音がうまくできなかったことを詫び、それから私のほうをむいて、「フジイくん、好きだよ」と、一言。なぜその先生は実習のはじまる最初に体験を言わなかったのだろう。実習期間のさなかに、どうして言ってくれなかったのか。)

オトメンと指を差されて(26)

大久保ゆう

撮影一日目。晴れのち曇り時々雨。集合場所はときめき坂のてっぺん、時間になってもモデルとカメラマンはやってこない。いつものことなのであわてずコンビニで涼む。30分ほどして揃う。モデルの方はコーディネイトに手間取り、カメラマンの方はさっき連絡取れたばっかりだったので、どちらもやむをえない。

まずは近くの大型書店へ行って、本を物色。あれやこれやと表紙を見ながら一談義。お目当ての本はなかった。児童書コーナーでは休日のため読み聞かせが行われていて、我々のような動機不純の者が近づけない仕様になっていた。また、樹皮ハンドブックが高い評価を得る。ここで一冊購入されたが、結局撮影では使われなかった。

相当な時間を書店で費やしてのち、ようやく岸辺へ。散歩や読書をしている人がそれなりにいる。夏の日照時間が長いとはいえ、ぐずぐずしているとすぐ夕方になりかねない。身につけるアクセサリと手に持つ本を決め、早速岩場での撮影に。ちなみに通り過ぎる人は案外誰も気にしていない。

ところが予定していた写真を撮りきらぬうちに雨降り。通り雨だとは思うものの一時待避。せっかくなのでそのあいだに対策を練り、建物を使う方向にシフトする。ここでカメラマンが趣味の写真を撮り始め、本がフレームアウトしてしまう。いい出来なのが結構あるのだが、企画から逸れるので涙をのんで不採用。

雨が終わり薄く雲が残るなか、空の下での活動再開。ここで何を思ったかモデルに変なポーズや構図に挑戦させ始める。「本を読んでいる最中に何だか気になって眼鏡を拭く」というシチュエーションは我ながら訳がわからない。むろんのこと周囲の同意も得られなかった。夕方が来る前に無事必要な絵を作り終える。

そのあと書店へ寄ったときに気になっていたデパートのカピバラさん展へと全員で出向く。癒される。あるいは非実用的なグッズを買え買えと押し付け合う。そして地元商店街に出ていた夜店でビールを飲み軽い打ち上げ。うちの街にゴスロリ浴衣を着て歩いている人がいるなんて信じられない、ちょっと友だちになりませんか。

撮影二日目。晴れ時々曇り。遠い場所での夏祭り。当該祭の経験者がモデル一名だったため、そもそもの祭難易度の高さに戸惑う。ちなみに祭難易度というのは、歩きやすさ・食べやすさ・買いやすさ・見やすさといった指標からなる値であり、低い方が快適である。最近私が作った。大型の祭りはたいてい高めだが、今回は予想以上。

あまりの難しさにとりあえず祭りが盛り上がっているあいだに撮影を行うのは困難だと判断し、各自楽しむことに。モデルははしゃぎ、カメラマンはお気に入りの絵を探し、私は午前中に別件の用事があって疲れ果てていたためしゃがみ込んでうとうと。申し訳ないが頃合いのよいときに起こしてくれ。

メインの催し物が終わり、人出が少なくなり始めたあたりから撮影を開始。あまり時間もなく、それぞれイメージが沸かず勝手もわからなかったので、その場での試行錯誤を繰り返す。モデルへの無茶振りを我々は反省するべきかもしれない。よく耐えてくれました、心より感謝申し上げます。ごめんなさい。

警察の人に軽く何をしているのかと聞かれる。細かい説明をし始めるとキリがないので、美大生風な雰囲気を醸しだし、「作品を作っているんですよ」などと答える。いずれにしてもみなさん警備の方でいっぱいいっぱいなので、むしろ終始和やかな感じで会話が終わる。

そのあと駅前へ移動し、完全に勢いで金魚釣りを行う。その日使用した本の表紙が金魚だったからで、撮影中ことあるごとに「金魚があれば金魚があれば」とつぶやいていたからなのだが、祭りが終わっても屋台がまだあり、偶然その行為が可能な状態に行き当たったのである。しかし後日聞くところによると、すくい上げた金魚たちはその翌日急逝されたらしい。衷心よりお悔やみ申し上げる。

今度こそ打ち上げ。またもビールを頂く。前回同じ場所・同じ面子で飲み会を開いた折りには、その店の揃えるスイーツ×酒のコラボした飲料に挑戦し打ち倒されていったものだが、二の轍は踏まない。スイーツカクテルの恐ろしさを我々は身をもってすでに知っている。甘いものは甘いものだけで食べようよ、という結論。

というわけで、そんなこんなの成果はhttp://www.alz.jp/hon-girls.htmlまで。3ヶ月引っ張り続けた「本ガール」の始まりです。どうぞよろしくお願い致します。

オペラらしからぬオペラたちと地方のオケについて考えた

大野晋

金曜の夜、「影の反オペラ」に出かける。体調はすこぶる悪い。会場でダウンするのではないか? と心配だったがなんとか、最後までいることができた。前半は高橋さんのいつものパターン。ぼそぼそ、っと解説があって、ぽろぽろっとピアノが鳴る。今日は歌が付いているからいつもよりも華やかだ。

後半は一転して、アングラ劇団のオペラの雰囲気のする歌唱劇の様相。そもそも、あまりおどろおどろしいストーリーは得意ではなく、本も巻末を読んで安心してから本文を読み進める派の私にはとてもコワーいお話。まあ、初夏の一日には最適なんだろうけれど、やはり怖かった。

翌日はいろいろと用事を済ました後で、サントリーホールに。「売られた花嫁」のコンサート形式のオペラ鑑賞。こちらも純粋なオペラではないのだけれど、本場の歌手陣が歌い上げるさながら歌謡ショーの様相。これもまた、面白い。日本など、さほど、オペラを嗜もうという輩が多くないのだから、このような舞台装置をかけない形式のオペラ上演がむしろ合っているのかもしれないなどと思った。

さて、翌週は県立音楽堂で地元のオーケストラのコンサート。演奏はとてもよかったのだが、会場で行われていた署名活動(すぐに問題というよりも活動支援を減らさないでという事前活動)を見ながら、少し考えてしまう。

私の住んでいる横浜は少し変わっていて、とてもへそ曲がりのお国柄。東京と一緒にされるのを極度に嫌い、独自色をとても大事にする。そんな文化的な背景を考えると、オケの方にも問題は浮かんでくる。あなたたちの独自色ってなんですか? という問題。8つもオーケストラのある東京と同じプログラムで、似たようなレパートリーを披露していたらそれこそ、自分たちの居場所は確保できそうにない。これが、東京から離れた地域のオケなら、同じプログラムでも東京に出かけないで済むというメリットを感じてもらえるのだろうけれども、隣にいては有難味はまったくない。これって、自分たちで自らの首を絞めているパターンなのではないかいな? 署名活動の前に、自分探しの方が大切かも知れない。

大阪でのテアトル・ガラシ公演

冨岡三智

7月1日にインドネシアの劇団テアトル・ガラシが大阪で「南☆十字路」を公演した。私はその主催をしたので、少し前のことになるけれど、その顛末を記しておきたい。

「Je.ja.l.an/南☆十字路」公演
 日時:2010年7月1日(木)15:30/19:30開演
 会場:アトリエ・エスペース(大阪市)
 演出・振付:ユディ・アフマッド・タジュディン
 出演:テアトル・ガラシ
 主催:ジャワ舞踊の会、エイチエムピー・シアターカンパニー
 共催:アトリエ・エスペース
 協力:(NPO)大阪現代舞台芸術協会、
 助成:(財)大阪国際交流センター
 ※ むりやり堺筋線演劇祭参加

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テアトル・ガラシの来日の主目的は、静岡県舞台芸術センター(SPAC)が主催する「SHIZUOKA春の芸術祭2010」での公演である。けれど、関西でも公演したいということで、SPACの了承を得て、今年になってから友人を介して連絡をしてきた。この仲介してくれた友人というのが、この公演でもスタッフ出演していた横須賀さんである。以後、テアトル・ガラシ、SPAC、横須賀さんとの間で連絡をとりながら進めることになる。

テアトル・ガラシはジャワ島中部の古都、ジョグジャカルタに拠点を置いている。1993年に、ガジャ・マダ大学社会政治学部の学生が中心となって設立したが、今では様々なアーチストたちが関わっている。ダンス、武術などの伝統に学んだ身体表現、現代的でさまざまなイメージを喚起する舞台美術、日常生活の観察などを融合させる取り組みで設立以来注目されてきた。また、2001年にはNGO化し、若手演劇人に対するワークショップの開催や出版を通じて、インドネシア演劇界の芸術レベルの向上に積極的に取り組んんでいる。近年は国際的にも活動の場を広げていて、日本にも今回が4度目の来日となるのだが、関西公演は今回が初めてである。

私も留学中に2度ほど公演を見たことがあるが、伝統的な身体表現で育っていて存在感が確かだという以外にも、舞台道具が、たとえばブリキのバケツ一つとっても、絶妙の形と絶妙の配置でしっかり舞台に存在している劇団で、ずっと心に残っていた。

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公演内容は、インドネシアの大都市における生活を描いた、ダンスと演劇が融合したパフォーマンスである。近代的なものと伝統的なもの、コスモポリタンと田舎者、エリートと一般大衆、マジョリティとマイノリティの間で繰り広げられる、争いと駆け引きに満ちた生活や幾つもの物語を、ユーモアを交えながら描いた作品である。音響は録音を使用せず、すべて生演奏で、スタッフや音楽家も含めて計17名が来日+助っ人の横須賀さんである。「Je.ja.l.an」はインドネシアで2008年の初演以来計4回公演しており、今回の大阪で6回目の公演になる。

さてさて、今回の来日公演のタイトルは「Je.ja.l.an」。邦題は「南☆十字路」で、これはSPACの命名による。原題は、都市の裏通りというニュアンスを込めた造語だという。この邦題だと劇団四季のミュージカル「南十字星」と混同されて、第二次大戦中の話だと間違えられないだろうかと危惧したのだが、まあそういう心配はなかったようだ。
Je.ja.l.anというのは造語だと聞いていたのだが、jejalanという既存の語にピリオドを入れて造語っぽくしたらしい。演出のユディは、jejalanをジャワ語だと言っていたが、インドネシア語の辞書にもjejalの項目で出ていた(anは接尾語)。jejalというのは混雑したという意味で、jejalanで人だかりという意味になる、とある。ユディによるとjejalanにはインドネシア語のjalanの意味もあり(あまり使わない言い方らしいが)、混雑した通りというニュアンスを出したかったのだという。このことは、アフタートークが時間切れで終了した後に受けた個人的な質問の中で判明。このことを他の多くの人にも知ってもらいたかったなあと思ったので、ここに記しておく。

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大阪公演の会場は、空でも8m×12.5mの元倉庫、アトリエ・エスペースに決まる。壁にはりつくように、両側にベンチ席を設け、その真中の空間で上演してもらうことに決定。この公演のもともとの演出では、敢えてこんな風に観客席を作らないようにしているのだが、会場が狭いだけにそれは無理と判断。本来の演出では、開場して観客が中に入ると、物売りに扮するスタッフから飲み物を手渡されたりして、適当に左右に振り分けられて座っていくうちに、鼓笛隊が入ってきて、いきなりそこに都市の裏通りが出現し、観客は道路の両脇にいる人間に仕立てられて、いつの間にか劇が始まる、という風になっている。

ちなみに静岡公演では、静岡芸術劇場内カフェ「シンデレラ」にて上演された。このカフェを使って公演するのは同劇場オープン以来初めてらしい。このカフェは劇場の2階にあってガラス張りで、ゆるやかにC型にカーブする細長い空間になっている。実は静岡公演も見に行ったのだが、天井が高いことや、入口の方から奥の方まですっと見通せるわけでないところが、路上空間の広がりを感じさせて良かったように思う。

大阪ではもっと箱庭のような空間だから、どうなるのだろうかと心配だったのだが、同時多発的にいろんな光景が繰り広げられ、それが全部目に入ってしまうせいか、意外に広く感じられた。それは、十坪の更地よりも、家具がつまった十坪の家の中のほうが広く感じるということと同じなのかもしれない。

今回の公演では、天井高も問題だった。90m×2mのトタンが劇中のいろんなシーンで使われるのだが、これを筒型にして頭にすっぽり被った男が歩いてくるという場面がある。通りという、我々の目線の高さで展開する舞台空間の中で、このシーンは縦への線が強調される。静岡公演では天井が高かったから、私には、通りを見降ろすようにそびえる高層ビルの存在―それはトタンを被る男のように顔がなくて、無機的な―が感じられた。アトリエ・エスペースの天井高は3mだから、2mのトタンを被って立って歩くことはできない。どうするのだろうかと思っていたら、お尻を床ににじりつけながら、バトミントンのラケットを両手に持ってはずみをつけながら、這い出て来るという演出になっていた。立って歩いている姿もシュールだと思ったが、このほうが恐い。トタンの先端は天井に届かんばかりだ。高層ビルの存在をはるか上空に感じることはできなかったが、むしろ地上に這いつくばるほどまでに押さえつけられたという圧迫感が伝わってくる。ユディにしてみれば苦し紛れの代替案だったのかもしれないが、この演出は成功だったように思う。

会場については、もう1つ書いておかねばならない。この公演では、音楽家が舞台袖にいて、舞台の進行を見ながらナマ演奏する。けれど今回はスペースが狭いので、2階にキーボードを並べ、モニターで1階の舞台の進行を見ながら演奏することになった。ちなみに、この音楽は伝統音楽ではなくて、普通のバンド音楽である。それで、鼓笛隊などの役で舞台に登場しなければいけないときは、下に降りていくのである。この2階は宿泊兼楽屋スペースになっていて、私たちも実はここに泊まり込んでいた。せっかく全編ナマ演奏なのに、演奏している姿が見えなくて可哀想だと、終りの挨拶で紹介したのだが、やっぱりナマだとは思われていなかったようで、え〜という驚きの声が上がっていた。日本では演劇をナマ演奏で上演するというのは想定外のことなのかもしれない。

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もっとも印象的だったのは、スラマットのシーンと、最後の方で女二人が戦うシーンだろう。

前者は、路上でテンペ揚げなどを売る貧しい青年スラマットが自殺するという詩が語られる中、スラマットに扮する役者が無言で演じるシーンである。このシーンだけ字幕が使われる。暗い舞台でスポットライトを浴びたスラマットは、その光に押しつぶされそうに抑制された動きをする。このシーンを見ると、私はジャワ舞踊を見ているような気になる。宮廷舞踊にも通じる静けさがあるのだ。そして、こんな雰囲気を醸し出すシーンは、演劇であれ、コンテンポラリ・ダンスであれ、ジャワでは稀なことではない。ともかく、その身体の動きと同じくらいの重みを持って、詩の言葉が語られる。テアトル・ガラシの公演は、演劇というよりダンスに近いと言えるのだが、それだけにこのシーンの言葉の重さが際立っている。

それから女二人が戦うシーン。ちょうど舞踊の戦いのシーンのように、様式的な動きで構成されている。この女二人のうちの一人は客演で、ワンギさんというインドラマユ(西ジャワ)出身の人である。実は、彼女はこの地域を代表する仮面舞踊の名手であり、父親は影絵のダラン(人形遣い)である。この戦いのシーンの前には歌うシーンもあるのだが、彼女の表現には鳥肌が立つような凄みがある。テアトル・ガラシのメンバーのそれぞれにも伝統的な身体表現が素養としてあることが感じられるのだが、彼女を見ていると、生まれてからずっと伝統の中で育ってきた人は違うということが嫌が上にも痛感されるのだ。彼女が歌う伝統詩はインドラマユのもので、言語も違うため、演出のユディ自身も意味は知らなかったらしい(笑)が、どうしても彼女の歌を入れたかったのだという。こういう伝統舞踊の人が、コンテンポラリ演劇(ジャワの伝統演劇とは全く異なる形式なのだから、コンテンポラリと言ってよいだろう)にも起用されるところに、インドネシアのパフォーミング・アーツ全体の力強さがあるのだと思う。

蛇足だが、今回の公演ではPRで苦労した。それは日本ではジャンルの住み分けがうるさいからなのだ。演劇愛好者やインドネシア愛好者以外にも、コンテンポラリ・ダンス関係者には非常にためになる公演だと思ったのだが、日本のコンテンポラリ・ダンス情報を掲載する掲示板への書き込みは削除されてしまった。テアトル・ガラシはダンス・シアターと名乗ることも多いのだが、シアターとつくと駄目なようである。かつて、私はここの関係者に、伝統とかコンテンポラリとかのレッテルがはっきりしないのは駄目だと言われた経験がある。またインドネシア芸術の情報を掲載しているところからも、最初は伝統芸術ではないからという理由で掲載を断られた。伝統楽器を使用する現代ものであれば良いのだが…という返事だった。最終的には、ワンギさんのような伝統芸術家が出演しているということで掲載が認められたのだが。インドネシアの伝統芸術が好きな人には、こういう現代演劇の中にも潜む伝統芸術の根っこに気づいてもらいたいと思うのだが、それがなかなか難しい。インドネシアに留学した経験のある人には、インドネシアの伝統芸術も現代芸術も楽しめる人が多いのに、日本でインドネシアの伝統芸術に親しむ人はファナティックになってしまうのだろうか。

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最後に、大阪での皆の生活ぶりを紹介。6月27日(日)に静岡公演を終えた彼らは、翌28日(月)夕方に貸し切りバスで大阪入り。上で書いたように、私たちは節約のため劇場の宿泊施設に住み込み、夜は徒歩10分くらいの所にある銭湯に毎日通った。アトリエ・エスペースは京阪電車の線路沿いにあって、周囲は静かなアパートや住宅地である。けれど大手スーパーやホームセンターが表通りにはあり、またコンビニも徒歩圏内に数圏あって、意外にも、みな時間が空くと散歩に出てしまう。また、お湯につかる習慣のないジャワ人は銭湯に抵抗があるのではないかとも思ったが、それも杞憂で、私よりよっぽど長風呂をする。彼らは静岡ではSPAC内の出演者用宿泊施設に泊まっていて、写真を見せてもらうと、うらやましいくらい充実した施設なので、こんな所に泊まっていたら、大阪での生活はさぞつらい思いをするかもしれないと思ったが、全然環境が違ったせいか、かえってその違いを楽しめたみたいだ。でも、一番ポイントが高かったのは、アトリエ・エスペースでは喫煙し放題という点だったかも…。

犬狼詩集

管啓次郎

  11

目だけでは対応できない
どんなに微細な差異を見抜いても
インクのように漂う霧雨が生むこの不分明に
目はまどわされる
耳だけでは対応できない
海上をわたる小鳥の声を数キロ先から聴き取り
野火がはぜる音をよく感知する耳も
無音には沈黙にはどうにも応えようがない
手だけでは対応できない
牙に裂かれた肉の傷をみごとに縫合する夏の手も
歳月を閉ざす氷のむこうで乱舞する魚の
群れには触れることさえできない
声だけでは対応できない
軽はずみな心が子馬のように跳ね回るとき
歓声もかけ声も叫び声もなす術がない
私とはただ無において統合された目、耳、手、声

  12

満月の論理に一般と特定の区別はない
眺める人の心に浮かぶ月影の紋様
ネットワークは幾何学的に発生し
ときどき氷のように光が凝固する
たくさんの団子をすすきとともに供えてみた
ハクビシンの親子が物欲しげに見るのを
ウクライナ人の老女がけらけら笑いながら見ている
秋のこの時期こそ祭礼の夜
循環する時間が声のように聞こえてくる
楽しいね、楽しかったね、楽しいね
もう来ないね、また来るさ、また来るよ
荒城に登りて楼閣を燃やし
それを松明として以て絶対的な持続を照明するのみ
輝けよ縞の尾
きらめけよ妖しい鼻
満月の無垢が砕け散りたくさんの団子となる

油絵のマチエール

さとうまき

まだ、7月で、バレンタインデーには程遠いが、今年もそろそろチョコのデザインを作らなければいけない。毎年、苦労するところだ。わあ、この絵、面白いなあと思っても、描いた子どものこととか良くわからないと使えない。「描いた子どものことを教えてください」という問い合わせが殺到するからだ。去年のサブリーンの絵は素敵だった。しかし、サブリーンはもういない。「死んでしまいました」という話は、確かに涙を誘う。感動的である。でもイラクの癌と闘う子ども達にとっては、「自分も死んでしまうんだ」というネガティブなメッセージにしかならないのではないか。

絵を描いてくれた子ども達が死んでいくのは本当に辛いので、今回は、「絵を描いてくれた子ども達はみんな元気で頑張っています」というストーリーにしたい。

5月、イラクのアルビルに行ったときに、白血病患者の一人、6歳の女の子アーシアちゃんの家を訪問させてもらった。彼女はクルド人で、もともとキルクークという場所にすんでいた。ここは油田があるために、現在、クルド自治区にするのか、イラク中央政府の管轄にするのかもめている場所だ。サダム政権の時に、町の人口の大半をアラブ人にしようという理由で、クルド人が追い出された。お父さんの話によると、脅されたりしたわけではなく、きちんとお金をもらって立ち退いたという。クルド人にしては、珍しくサダム・フセインのことを悪く言わなかった。彼は魚屋をやっている。といっても貧しくて、店を持てるわけではなく、リヤカーに魚を並べて、路上で販売するのだ。最近は、三輪バイクを手に入れた。背の低い、この親父を僕はとても気に入っていて、「魚屋のおっさん」と呼んでいた。

アーシアちゃんがどれくらい絵を描けるのか楽しみで、僕は絵の具を買って持って行った。お兄さんのウサマ君と一緒に大喜びで絵を描きだしたが、筆を洗おうとしても、絵の具が固まってしまう。よく見ると僕が買ったのは、油絵の具だった。まさか、こんなところで油絵の具を売っているとは想像もしなかった。油絵の具がなかなか乾かず、風が吹いて、紙が飛ばされ、絵の具が絨毯につく。それを踏むアーシア。大変なことになってしまった。

二人が描いた絵は、ひまわりや、カタツムリ、そして僕がリクエストしたのが、魚の絵。それらが、油絵の具を使ったためにとっても力強いタッチになったのである。

7月、アルビルでバグダッドやバスラから癌を克服した子ども達を呼んで、泊り込みのワークショップを行った。今度は、油絵の具のかわりにアクリル絵の具を日本から買ってもって行った。どんなマチエールが出来るか楽しみである。一番参加して欲しかったのが、アーシアちゃんだった。しかし、前の日から鼻血が止まらなくなり、とても、絵の描ける状態じゃなくなった。そして、僕が帰国してまもなく、脳出血でなくなったと聞いた。

ワークショップに参加してくれた子ども達の絵を使ってチョコレートのパッケージのデザインをし終えたが、何か物足りないのだ。ワークショップはとてもよかった。でも集まった絵は、アーシアのような力図よい何かがたりない。昨年のサブリーンの絵にあるような、何かが抜けている。

「絵を描いた子ども達は、元気で頑張っています」というストーリーは崩れた。アーシアの絵しかない。アーシアは死んだけど、絵は生きている。そして、お兄さんのウサマの絵も使った。パソコンでデザインする。画用紙に乾く前についた汚れた油絵の具をパソコンで消していきながら、僕は改めて、命の重みを感じた。

来年のチョコもすごい。

鯛焼きがあれば良いのではなくて

若松恵子

片岡義男さんの2年ぶりの短編小説集が出版された。『階段を駆け上がる』。
七夕の日に手に入れて、仕事の行き帰りの電車の中で少しずつ、7つの物語を楽しんで読んだ。どの物語も素直なおもしろさで、久しぶりに届いた小説集が、変にひねった所のない、明るい魅力(陽が正面からあたっているような)に満ちている事をうれしく思った。

今回の短編集には7つの物語が編まれている。どの物語も登場人物は少ない。1組の男女の会話で話は進行するといってもいいくらいだ。複雑な人間模様や、奇異な事件があるわけでもない。しかし、どの物語も最初と最後では主人公たちがほんの少し変化している。そしてその変化が、これから何かが始まっていくような予感を連れてきて物語が閉じられる。何かが始まっていくような予感。読後に残る気持ち気持ちの良さは、ここから来ているのかもしれない。読む人の心のなかにも、これからへの予感がひろがっていく。

主人公の「変わらなさ」という魅力も、もう一方にある。最初の作品「階段を駆け上がった」の百合子さんは、10年にわたって魅力的な後ろ姿だ。最後の作品「割れて砕けて裂けて散る」のエリンはすさまじい雨嵐に叩かれてもへっちゃらに彼女自身だ。変わらなさというのは、今のあり方が正解のあり方だからなのか。

主人公たちは、どのようにも変わっていきそうな自由さと、こうでしかありえないという確信さの両方を持っていて魅力的だ。しかも主人公は若い。「夏の終わりとハイボール」の主人公は37歳ではあるけれど、これは若者の物語だと感じる。なぜだろうと思って読み返してみた。鍵は主人公たちの身体性にあるように思った。主人公たちの反応する身体がしなやかでみずみずしいのだ。社会のなかで、様々なことにしなやかなに身体ひとつで対処している主人公の自由さと揺るぎなさ。ここからかっこよさが生まれてきているように思う。

身につけているものや言葉使いが現在ただ今のものだから若者なのではなくて、身体の在り方が若い人なのだ。若者の風俗を描かなくても、若者を書き続けることができる、片岡さんの小説の魅力をこんなところにも私は感じる。そしてこれから何かが始まっていく、何物にも限定されていない若い人たちの物語は魅力的だ。

まちがってはいけない。鯛焼きがあれば良いのではなくて、鯛焼きひとつ胸にかばってへっちゃらで歩く伸びやかな身体が必要だ。

シュルレアリスムと即興音楽

笹久保伸

音楽における即興演奏の起源は古い
古いと言うか 人類最初の音楽は即興的に行われた と言われている

現在、世界各地の民族音楽では個々の音楽の中でその音楽観に基づいた即興が行われている しかしそれらはある種の「即興」であることには違いないが、その即興と言うのは各音楽の持つ特有なパターン(形、旋法、リズムなど)に支配ないし制御、コントロールされている それらは俗にイディオム(言語)と言われ、例えばジャズの即興をするならば、その共通言語を話せる必要がある、でなければ他者との会話は難しくなる

一方、フリーインプロヴィゼーション(決め事なしで演奏する即興)は文学的シュルレアリスムの観点から見ると「自動記述」と似ているのではないか (音楽の場合、記述は記録(録音)として)弾く内容をあらかじめ用意せずに、かなりのスピードでどんどん弾いていく それをずっと続けると一種の錯乱(トランス)状態までになる こうなるともはや自分が演奏しているのか 何者かに自分の身体で演奏させられているのかわからなくなる 巫女やシャーマニズムの世界でもそういうのは存在し 常に音ないし言葉を用いる

音楽の「作曲」と言う作業の中でシュルレアリスムを考えて、固定された作品を作るとすれば、せいぜいコラージュくらいしかできない
一方、自動記述的なやり方での自動演奏であればシュルレアリスム的と言える音楽にわりと近づいている(と言えるかもしれない)

しかし だからと言ってどうって事ではない シュルレアリスム文学の場合はブルトンやピカビア、ツァラ、他が行った試みないし活動が面白かったので後にそれらが伝説化された

即興は「即興行為」そのものに意味があると言うよりは「誰が即興をするか」によって意味が生まれるような気がする

ひと月の間があいて

仲宗根浩

一回お休みしてしまいました。ここ数日雨が降り、ちょっと暑さが和らぐので、クーラー稼動が少し減るかと思ったがそうはいかず、洗濯ものが乾かないので相変わらずクーラーはフル稼働。ご苦労さんです。設定温度はいつも三十度だけど、電気代怖い。

六月からは、テレビからぱったりとおきなわのことは消えてしまい、穏やかな日々。軍からは、夜十二時以降は基地内のおうちに戻りなさい、というお達しが出て、十一時半過ぎにゲート戻る若いやつら。理由は飲酒運転がらみの事故が多いからとか新聞に書いてあったが、今では原則十二時のあいまいさか、週末は十一時頃から繰り出す集団が見える。

梅雨が明けたのは六月の十九日だった。日差しはシャツの織目、その隙間から肌に刺さる。当分この日差しとのつきあっていかないといけない。雲の入道感具合が増す。六月二十三日の慰霊の日、こどもは学校が休みのため、でかい運動公園公園まで車で行く。自転車で遊ばせる。遊具施設には、地元の子もアメリカンの子も普通に遊んでいる。曇が調度いい。

普通に休んだあと、普通に仕事をしていたある日、仕事場で、両手の中指と薬指、付け根と第二関節の間に丸い針突(ハジチ)を施したオバアを目撃。普通に見たのは二十年ぶりくらいだろうか。針突は昔、女性が指や手の甲に施した入墨でいろいろな文様がある。うちの祖母にも小さなものがあった。貧乏だったから小さなものしかできなかったのだろう。とするとあのオバアは明治のときにすでにある程度の年齢だったということになる。うちの母親に話したら大正生まれの人はしていない、と言っていた。針突のことを職場の昭和の終わりに生まれた女子に話すと「なんですか? それ、こわい」と言われた。もうとうの昔になくなった風習。言葉も絶滅危惧言語になっているので知らなくてもしょうがないか。こっちも、復帰前、小学校の頃は沖縄口(ウチナーグチ)を使わないようにしましょう、と学校で教育を受けた世代だ。

実家から、姉の旦那が釣上げた、シビマグロの半身をいただく。刺身でも食べられるというので、刺身用に中骨にそって半分に切り、皮を剥ぐ。切れない包丁、苦戦。残った中骨、皮には赤身がついている。これらをきれいに削ぎ取り、皮を細かく切り、削いだ赤身と皮をたたいてボールにいれ、冷蔵庫にあった青じそのぽん酢、わさび、料理酒を適当にいれて混ぜると奇跡的にいい味になった。酒のつまみ用に作ったが上のガキにほとんど食われる。残り半分の身は四等分に切って奥さんがソテーにした。翌日はマグロのあらをもらう。頭と中骨。頭は煮て、うちではだれも食べない目玉やその他おいしい部分をひとりで、頭の原形が無くなるまで食べつくす。身が少しついた中骨、尾ひれは鍋に放り込み、冷蔵庫にあった、スーパーの惣菜におまけについている醤油やたれ、しょうが、にんにくチップス、自分が飲んでいる酒を適当に入れ、煮る。沖縄そばのスープになるか、中華の生めんでマグロラーメンにするか思案。マグロの風味が強いので、一晩寝かせてネギ油を入れ結局マグロだしのラーメンとなった。食べる直前までわからないいい加減な料理。

六月末になりいきなり母親が初入院、七月一日に初手術。久々の病院への行き来。入院、手術のための署名、捺印の多いこと。手術は簡単に終わり、退院の日は母親の国民学校の同級生の葬式と知人の訃報。その日はアメリカの独立記念日。今年は嘉手納基地の開放はない。花火の音が聞こえる。基地内の独立記念日の花火なのか。数日経つと小さい頃からお世話になった方の訃報で、葬式、初七日。母親がまだ本調子ではないのでその分もこちらが代わりに行く。七月から八月のカレンダーは七日ごとの印が三つ入る。

その合い間、健康診断のため毎年恒例、胃カメラを口から入れられる。年々、喉への麻酔は楽になってるが、注射される安定剤か鎮静剤か何かは全然酒飲みには効かない。喉から食道、胃に何かが入っていくのがよくわかる。

この時期の夜、職場の外に出るとエイサーを練習する太鼓の音が遠くから聞こえてくる。猛暑はないが、最高気温は三十二度、最低気温二十七度か八度、という日がどれくらい続くのか。

製本かい摘みましては(62)

四釜裕子

ある図書館主催の製本講座の一つで、フランス装をやることになった。無地の紙を糸で綴じて、その判型の横二倍強の大きさの紙の四方を折って表紙として被せるが、基本は基本として、折形デザイン研究所の『折る、贈る』や立川直樹さんと森永博志さんの『続シャングリラの予言』、國峰照子さんの詩集『4×4=16 月の故買屋』などのように従来の折り方とは別の方法でデザインを楽しんだり、背を貼るか貼らないか、折り曲げた表紙に本文紙を差し込むか差し込まないか、それぞれやってもらおうという趣向だ。会の案内をするにあたって、困ったことがおきた。「フランス装」という言い方のことだ。どうも以前からこの「フランス」の使い方がしっくりこなくて、あまり口にしたくなかったのだ。

いわゆる「フランス装」の一番の特徴は表紙となる紙の折り方にある。説明すれば、大きめの紙の四つ角をまず斜めに折り、背に当たる部分に切れ込みを入れ、紙の四方を折り曲げて中身に被せる。和綴じの表紙がけにも同じ方法があるが、こちらは折り返しが10ミリ程度で短く、また中身と部分的に貼り合わせるので表に見えない。「フランス装」は一冊ずつ手作業で仕上げていたが、これを機械化したのが1998年にスタートした「新潮クレスト・ブックス」シリーズだ。同社はこの製本について「従来は手作業のため高コストだった仮フランス装の機械化を、独自に開発してもら」ったと説明している。折り曲げた表紙紙は全て接着してあり、中身とは背の部分のみ貼り合わせてある。クレスト・ブックスの装丁は私も好きで、カバーをはずして棚に入れてある。はずしたカバーは、逆向きに本文に被せてある。結構いるんじゃないか、こういうふうにしている人。

さて「フランス装」だ。この呼称を知ったときは、仕上げの断裁をせずに仮綴じしたままのフランスの本のほとんどがこのような表紙なのだと思った。だがまもなく、そういうものもあるがそうでないもののほうが多く、フランスに限ることでもないことがわかって、「フランスの本みたいな装丁」「フランスっぽい装丁」を日本でそう呼ぶようになったと思うようになった。それにしても、「フランス装」というと表紙の紙の折り方がキビシク限定されており、その一方で糊の入れ方だとか中身との合体の仕方だとかには無頓着であることもわかった。はたして正しい「フランス装」があるとは思えないが、クレスト・ブックスがわざわざ「仮」をつけて「仮フランス装」としたのは、折り返しを接着したあたりが「正フランス装」に反するとの見解だろうか。推測だけれど、納得はいく。

「製本之輯」(『書窓第十一巻第二號』アオイ書房 1941 上田徳三郎・口述、武井武雄・図解)を復刻したHONCOレアブックス3『製本』の洋本の部には、〈近頃は、仮綴などと言って、厚手の紙一枚を背に貼りつけ、周囲を折り込んで表紙とした軽装本が多くなった。折り込みの一例を図に示したが、これは別にきまった様式があるわけではない〉として、いわゆる「フランス装」の表紙の紙の折り方が示されている。「軽装本」という響きがいい。そこでこのたびの製本講座のタイトルに、「軽装本」はどうでしょう、と言ってみた。「いやー、形状がまったく想像できません」たしかに。「一枚の大きな紙を折って表紙にするから『紙折り表紙本』とか『折り紙表紙本』ってのはどう?」「いやー、折り紙を表紙にする豆本みたい」なるほど。「フランス装という言葉はやっぱり入れたほうがいいんじゃないでしょうか」「じゃあ……『フランス装的な製本』とか『フランス装みたいな製本』?」「長過ぎますよ〜」

思えば、「和綴じ」というのも曖昧な表現だ。製本に特に興味がなかったら、和綴じと言えば四つ目綴じ、バリエーションとして麻の葉綴じや亀甲綴じが思いつくくらいだろう。「和綴じ」の一種である胡蝶綴じされた本などは、和紙を使った洋装本と思うのではないか。それに、「和綴じ」と言っても日本独自の綴じ方ではない。そりゃそうでしょう、と思うでしょうが、ひととおり「和綴じ」を体験した人に唐突に中国の古い本を差し出してみてください。「中国でも和綴じをしていたんだ!」という反応がきっとあるから。「和綴じ」も「フランス装」も、あるくくりをイメージしやすい言葉として口にされてきたのであって、学問的な定義づけを必要とする呼称ではないだろう。ならば言い訳みたいに「フランス装的な」なんて言うのは、かっこ悪いのでやめようと今は思っている。

上述の上田徳三郎さんは製本の職人さんだから、作る上でのお手軽指向による軽装本ことフランス装には言葉厳しい。『書窓』の編集人でもあった恩地孝四郎(1891-1955)は「書籍の風俗」に、そこのところを戒めつつ、その軽やかさに美を極めてみたいと書いた。もしかして、と思って青空文庫を探したら、あった。ごく一部を以下に引用する。全文は青空文庫で。〈この仮装略装本を非常に愛着して、この方式の上にいい本を作りたいといつも願っているが、前述のような事情で失望しがちである。だがこの形式は将来十分発展性のあるものと考える。愛書家も徒に華装ばかりを尊重したがらずに、こうした所に平明直截な美を打ち立てることに留意してほしい〉

しもた屋之噺(104)

杉山洋一

7月28日。ボローニャから送られてきた昨年の演奏会録音(http://www.magazzini-sonori.it/esplora/exitime/omaggio_franco_donatoni.aspx)に耳を傾けつつ、260年前の今日、65歳で亡くなったバッハを想います。未完の「フーガの技法」のオーケストラ編作を、やはり未完のまま残してドナトーニが斃れたのは2000年8月17日。この夏を彷彿とさせる炎暑がミラノを襲った10年前のことです。

最初は手をこまねくばかりだったドナトーニの奇妙な編作は、時を経て聴き返すと、思いがけない感銘を与えてくれました。ヴェネチアのガブリエリを想起させるうず高く積まれた金管の歪な集積、拍節感を砕く弦楽器のクラスターのくさび。丹念に紡ぎこまれた木管の綾に静かに沈むバッハの面影。ドナトーニが愛した楽器群、チェンバロにピアノ、ハープに鍵盤打楽器から浮上がるフーガは、青々と繁る木々の葉のまにまに、明るい木洩れ日が渉ってゆくようです。

ずっと書き続けていれば、頭で書いていたこともいつしか手癖となって、何も考えずに書けるようになると話していたから、何十年もバッハの対位法を教えていたドナトーニが、一つずつバッハのフーガをなぞるとき、そこには自動書記的に無数の音の揺らぎが生じたのかも知れないし、あるいは確信犯的なアプローチも存在したかもしれませんが、殆ど無感情、無条件に客体として音と向き合う強靭で透徹な感性は、ドナトーニの音楽そのものでした。

和声や対位法の課題を解くように無意識に音を並べながら、作曲家の身体は次第に降霊術師のように、刳りぬかれた樹木さながらの「もぬけの殻」となり、ついには透明に耀く刃金となって、目に見える何も信じぬ絶対的不信と、鳴らされた音のみを享受するロッシーニ的快楽観との矛盾が、せめぎ合いつつ音楽のバランスを器用に裡側から支えているのかもしれません。

彼のように、感情を込めずして感情を表出させることの難しさに何時も不甲斐ない心地に苛まれます。つい感情にほだされて表現が脆弱になり、結果的に表面的で無意味な刹那が剥き出しになります。それすら甘受し自らを虚へと駆り立ててゆく勇気があれば見えてくるものもあるのかもしれませんが、今は感情が感情に打ち消されてゆくのを恨めしく眺めるばかりです。

演奏に関わるようになって暫く経つと、「こうしたらどうなるか」未知数を掛けながら作曲する場合と、かかる疑問を呈さず直接定着してゆく場合と、作曲の傾向が大きく二つに分けられることに気が付きます。同じ作曲家で作品や時期によって傾向は変化するでしょうし、前衛的、保守的とも割り切れません。無論、作品の価値とは無関係だと思います。ドナトーニは、不確定性や否定的自動書記による作曲から所謂ドナトーニ語法へたどり着くまで、常に未知数を追いかけ作曲していた印象があります。ヨーロッパの前衛音楽やベリオへの憧憬の念もあったでしょうし、時代背景に強迫的に背中を押されていたのかもしれません。

そうして無言で書き続けた末、長いトンネルを抜けたドナトーニに残ったものは耳や頭脳でもなく、チュシャ猫のような一本の鉛筆が握られた手癖に過ぎなかったのかも知れません。作曲中何を考えているのか尋ねると、「できるだけ間違えないよう音符を書くこと」と答えてくれたことが忘れられません。和声や対位法の課題と同じで、奇をてらうでもなく、自らを排して丁寧に音を並べてゆく。音は一切観念的な意味は持たないアルファベットで、そこでは恣意的な感情を消すほどに、却って明確になる輪郭があるのは、愛していた禅の思想にも通じるところがあります。

ドナトーニ/バッハ「フーガの技法」の前半をミラノで世界初演した折、傍らに居たルチアーナは「当時フランコは耳が遠くてよく聴こえないようだった」と話してくれましたが、ドナトーニ自身は亡くなる直前までバッハへの畏敬の言葉を度々口にしては、最後まで書き上げられなかったことを悔やんでいました。

ベネチア・ビエンナーレのドナトーニ追悼演奏会のため、ヴェニスとドナトーニに所縁の深い民謡「La Biondina in gondoleta」を使い作曲しながら、同じく新作を寄せるゴルリやマニャネンシ、アラッラのことを考えます。それぞれ違う場所で異なる人生を歩みながら、こうした機会に思い出したように再会する。遠心分離機にかけられたように散り散りになっても、絡め取られる同じ糸が身体からのっぺりした影法師のように伸びているのかも知れません。共有する原体験に端を発する感情を胸に、彼らの作品を演奏する歓びを嚙みしめつつ。

(7月28日三軒茶屋にて)

掠れ書き(3)

高橋悠治

ディドロは完成された絵画よりスケッチのなかに、反省に足を取られない、自由な思いと熱を感じた。スタイルや形式をととのえる以前に、うごきだす心と、そのうごきを拡大して外に投影する身体の尖端の軌跡。というよりは、ものに感じてうごく身体が、心というはたらきだとするならば、心は実体のないうごきの影にすぎない。身体のうごきは、心という記録印画紙上の霧箱写真から推定する放射曲線。その曲りは、三次元空間のなかである角度から見た方程式では解けない。ひとつの空間のなかでいくつかの線が交錯するというよりは、それぞれの空間、それぞれの場が自律してうごきながらも、決して交わることがない、これがコミュニケーションといわれるものだろう。すれちがうバスのなかで、知っている顔を一瞬見たように思う、それとおなじで、一瞬の理解の錯覚のなかで、つきあいの広場がある。それもまた、もっと大きな都市の一部にすぎないから、出会いは方向や展望をえらぶ自由のなかに浮かんでいる。

エピクロス派のクリナメン。ミシェル・ビュトールははじめてナイアガラの滝を見たとき、このことばは思い出したと言った。落ちてくる水が水にぶつかり、はじきはじかれ飛び散りながら、激しい音を立てる。落ちていく粒子がわずかに曲り、ぶつかりはじきあって飛び散り、さまざまなかたちをもった世界を創る。生きている世界には純粋なものはない。人間もひとりひとり不純な混ざり物の一時的で偶然の結びつきとして生きてうごいている。そこにはわかりにくさ、予測できない行動がついてまわる。古代ギリシャ人にとって、死とはこの偶然の結合体が解体して、個々の原子に還る場面だった。それで終わりではない。原子の運動は停まることなくつづいていく。

エピクロス派にとって世界は一つではない。原子の結びつきは同時にたくさんの宇宙(multiverse)を創る。普遍主義(universalism)の思い上がり、自然支配の欲望はここにはない。それは戦乱の時代だった。時代は変わっても、平和が来ることはないが、閉ざされた庭で世界をやり過ごすのとはちがう知恵もいくらかは生まれたようだ、希望の断片を痕跡のなかにみつけながら。

人間は風であり、影にすぎない(ソフォクレス 断片13)。 影は無にひとしく、風はさまようもの、だが影も風もとらえがたい。さまようもの、無にひとしいものだからこそ、自由なのかもしれない。世界は実験室。自由は、ためらわず行動に踏み出していく。未知の発見はまさに、知らないところから、判断の誤りから、失敗からひらかれる。

わからないというわかりかた。道得也未(道元)。転換(あるいはメタフォア)の可能性。知る限界を超えて彼方へ飛び翔るのではない。メタフォアはこちら側にひきおろす。歴史のよみなおし、喜劇としての、パロディーとしての、本歌取り、コラージュ、神秘や権威を批判する歩み。

すでに起こったことを状況や文脈から切り離して固定し、一般化し、抽象化し、一つの原理で閉じられた構成を作る。それは内部から外部に向う表現であり、experssの文字通り、外へ向って圧力を加え、意味を伝え、支配しようとする。これが制度のゲームだとすると、それを受け取る側にはimpressed内側へ押し込まれる理解と感動の美学しか残らない。それが音楽の権力。それと一体となった社会制度、本質論の哲学のなかで、音楽は非日常のもの、無用の用となって現状維持に奉仕する。

現状維持は押しつけられた眼に見える部分だけでなく、内面化されて作用している影の力でもある。全体を一度に変えようとする革命理論ではなく、疑いや細部の逸脱からはじまる複雑な身体ゲームが、偶発的に心理的な拘束を崩していく。それは圧力ではなく、力がぬけていくような不安定なプロセスとなってあらわれる。例外のない規則はない、というよりは、規則は例外を排除することでなりたつのだから、例外を作りながら、別な規則にすりかえるのではなく、境界のあいまいな領域のかさなりを、力のはたらかない空白を不均等に生み出す速度、ここで意識はまた飛白にもどってくる。

美(ちゅ)ら、二――翠ぬ宝69

藤井貞和

ふじーさだかず

沖縄戦の、
継続を望んだ男が、
5月4日以後になると、
沖縄への関心をうしない、
本土決戦準備へと、向かう。
側近を九十九里浜などへ派遣して、
調べさせるも、不十分であると知り、
6月22日、ついに和平工作へと、指示する。
   (林博史『沖縄戦が問うもの』214ページ)
その日、沖縄の壊滅。 ヤマトの人と、もうあまり話すことがなくなった、と、
高良勉さんのメールから、声がする。 ヤマトの人たちは沖縄を三回殺した、と
声が力なく遠ざかる。

〔前回のコメントを、すみません、以下のコメントに取り替えます。〕(昨夜は「水牛」のサイトへ連載の原稿を入れるために、数年まえ、二〇〇五年四月のアップを取り出し、どうしようかと思案した。六十八回の連載で初めて「再録」を今回はやってみようと思いついた。この〈琉歌〉は私一箇にはいまの時にいちばん相応しいという気がみずからする。「抗議の 三千日」は、二〇〇五年四月に出した際に、「三百日」と適当にやってしまい、やんわり注意してくれた人がいて、今回は訂正できた。「三千日」というのも適当ながら、琉歌としての語呂もあって、正確に何日とすべきか、むろん毎日、ここは変える必要がある。「の」は沖縄語で「ぬ」と聞こえるので「海人ぬ」「八八八六ぬ」などと書き、「抗議の」は「の」にしてある。海の死は人類の死である。けれども、二十八日(五月/二〇一〇年)、深夜になって、力強い報道がはいってきた。嘉陽のオジー(八十七歳)の言う、いつか「四度目の日米合意」があるさー。名護市での市民集会で、最も湧いた場面がある。嘉陽宗義氏が訴えたときだと言う。「もし鳩山首相から莫大なお金と感謝状とが来ても、辺野古の海に捨ててください。将来、必ず、子や孫からありがとうと言われる日がきます」。嘉陽氏にとって、今回の日米合意(三度目)は気にも留めないという。鳩山氏は、徳之島、桟橋方式などのダミーを空砲のように打ち上げながら、三度目の日米合意(県内移転)へと帰ってきた。これもダミーだろうと私には見られる。ダミーはだれかが言い出すと、ある程度は現実化する危険があるにしろ、辺野古の海へ桟橋を張り出してヘリポートなり滑空路なりを作る案について、米軍が「それではテロ攻撃の危険に対して守れない」と言い出す始末で、沖縄へ新たな危険を呼ぶ案なのだと図らずも明かされてしまう。おなじく深夜になり、福島瑞穂氏(社会民主党党首)が、「私は沖縄を裏切れない」。喜納昌吉氏の新刊『沖縄の自己決定権』(未来社、二〇一〇・五)の表紙に、「この本で世界が変わる」。一ヶ月まえ、四月二十五日には、沖縄県民が意見を一つにまとめた英知を見ることとなった。県外国外への普天間基地移転を求める県民大会が九万人余で開催されたという。「ヤマトからは来ないでね、沖縄の人たちだけでやるから」と、ヤマト(県外のことを沖縄からは「ヤマト」と言う)の人たちは釘をさされ、各地で沖縄県民大会を支援する集会が同日に取り持たれたはずである。沖縄の、じつにさまざまに意見がある、それが一つにまとまることの意義は、ちょっと類例のないぐらいだ。すじを通してゆけば〈自己決定権〉にたどりつくと見る人々も、「県外国外への基地移転」で統一させることとなった。考えてみると、「国外」よりも「県外」のほうが過激なのだ。ヤマトの一人一人へ、あなたたちはどう考えるの? と投げるボールが「県外」には籠もる。「国外」では何も考えないヤマト人を増やす。それから一か月、見ていると、ヤマトは冷たくて、無関心を装い、沖縄に対しての、ほんとうに差別感がある。ふつうは出てこない、差別感情が、ヤマトにはあるんだ、沖縄への、と気づくときがある。何をいまさら、と私に向かって言わないでほしい。この一か月、ヤマト人が、ちらちら覗かせる底意にふれて、その場では平然と、ときには口汚く、私には帰宅して何度か泣きたい感情的な気分に襲われる。何もできないんだな、これが。ヤマトのなかには、沖縄のなかで言われてきたことがほんとうなんだ。沖縄研究をすこしは、長年やってきたつもりのおまえが、わかっていない。何としても政権離脱をしないように、というのが私の意見だ。たかが対米交渉で、ヤマトが割れることぐらいみっともないことはない、沖縄、そして徳之島の人びとを見習うなら。五十年という安保体制。困難をきわめるぐらい、みんなで許し合えるのでなければ。……でも、福島さんの顔がこんやは輝いてる、かぐや姫みたい。「沖縄を裏切れない」って。罷免を受けいれてよいと私は思った。政権離脱もやむをえないと、いま許すきもちになった。さいごまで連立の道をさぐり(小異を捨てて、何とか可能性をひらく、というのがこれまでの沖縄のがまんだったのだから)、「四度目の日米合意」(嘉陽氏がちゃんと見ている)へと、希望をつないでゆくことがいまだいじだろう。でも、どうしても政権離脱以外に道がないなら、それなりに福島氏の自己決定権であり、尊重しよう。五月二十九日、朝)

オトメンと指を差されて(25)

大久保ゆう

好きな相手には振り向いてもらえなくて(うまくいかなくて)、その代わりと言ってはなんだけれども、自分になついてくれる子やいつも顔を合わせたりする子に対してはついつい優しくしてしまう――なんて言うと、恋愛の話なんかに見えちゃうかもしれませんが、私にとっての紙とデジタルの本との関係はおおよそのところこういう感じだったり。

最近、紙との関係が悪くなってしまうような出来事がもろもろありまして、遠からず私は紙に絶望してしまうのではないかと我ながら心配になってしまうのですが、しかし個人の関係というものはえてして世の中にはたいした影響を持ち得ないものでありますから、私と本の間柄なんていうのはどうでもいいことのひとつで、また気になる人がいたとしても、無料の翻訳はありがたいからそれなりにデジタルとよろしくやっててくれ、というのが大方のところでしょう。

ここで愚痴を書いても仕方なく(むしろ書いてから消しました)、何か楽しいことでもしゃべりたいのですが、それならば美しい本といちゃいちゃ(あるいはきゃっきゃうふふ)するようなのが精神衛生上よろしいような気も致しますので、せっかくなので前回に引き続き〈本ガール〉の話でもしようかなと思い至ったりするわけなのです。

先月の発言はまことに思いつきで見切り発車過ぎるものがあり、何ら受け入れ体制もできておらずたいへん申し訳なかったのですが、それなりに反響もあったということでぼちぼちと本腰で準備を始めておりまして、近いうちにちゃんとしたサイトなりメアドなり窓口なりコンテンツなりを用意しようと考えておりますので、興味おありの方は今後の展開を注視していただけると幸いです。

少なくともシーズンごとに1度ずつやっていければと愚考しておるわけなのですが、本格的に始めるとなると、やはり対外的に趣意書なるものをばばんと掲げた方がわかりやすいですし、これまでの経緯をご存じない方にもよろしいのではないかと感じる次第でございますから、ここで3つほど〈本ガール〉企画の意義などを立てておきたいと思うのです。

1.本をかわいいもの/美しいものとしてめでる・楽しむ。
 これがまず基本です。本の表紙とかデザインとかをかわいいものとして扱いたい、そのひとつのあり方として本そのものを組み込んだ〈本ガール・ファッション〉を提案してみる、ということなのです。ただ外からながめるのだけではなくして、自分に関連づけて楽しむということでもあるのでしょうが、むろんのこと本は本だけで成立するわけでなく、読者との関係のあいだにあるわけで。その多様性の選択肢としてファッションはどうでしょうかと。かわいい本の表紙からそれに合ったコーディネートへ、あるいはコーディネートに合わせたおしゃれな本を選んでみるなどなど。そういえば私は昔から本を読むより、本をモノそのものとして愛でる方が好きだったなあというか、ということを思い出しつつ。

2.一種の表紙批評・デザイン批評のエンターテイメントを試みる。
 書評というと本の内容について触れたものでちまたにありふれておるわけですが、本の表紙やデザインの批評というものはそれに比べると少ないものであります。そして存在してもえてしてそれはどこか専門的なもので、一般的に人が読んで楽しむものではありません。しかしそれをファッションという文脈に置いてみることによって、表紙やデザインに別の視点から光を当てて楽しげに考えてみようというわけです。(さらに書評だと本のデザインでなく内容に触れているので書影の引用要件を満たさず原則は許可が必要なわけですが、本ガールファッションをデザインへのひとつの批評とすれば、書影を写真のなかに引用することは可能になるということでもあります。)

3.あえて本の”モノ”としての側面・性質を売り込む。
 近頃は電子書籍元年などと言われて、遅かれ速かれどんどんとそちらの方へ本が移行したり同時発売されたりするのでしょうが、その中身が同じでもなお紙の本を売るとするならば、いったい何が紙の本のメリットなのかと問わずにはいられないでしょう。そこで私はやはり〈外身/外見〉だと言いたいし、言えると思うのです。電子書籍ではファッションとともにコーディネートしにくいけど、紙の本ならばそれができるのですよ、というかやりましょう!ということを声を大にして。そこでは厳然たる本の〈モノ〉としての側面がクローズアップされざるを得ませんし、もうひとつの紙のあり方というものが考え得るのではないかと感じる次第なのです。(むろんこれまで歴史上、紙の本は幾度となく飾りやアクセサリーとしても扱われてきたわけですから当たり前と言えば当たり前なのですが。)

……というわけで、前回のちょこっとした表現をまじめにまとめ直してみました。むろんやるからには本文化の活性化やら売上の増加やら何やらを目指したいところでありますので、使わせていただく本の出版社さまや著者さまにおかれましては寛大な心をもって見守っていただけると幸いです。(積極的にご協力いただけるのならばさらに嬉しいです。水牛執筆陣さまの御本を対象にしても、どうか怒らないでくださいね。)

こういうことをつらつらと考えるとつけ、自分は近江商人の息子なのだなと思わずにはいられません。いわゆる三方よしといいましょうか、本とその送り手と受け手にとってそして社会にとってよろこばしいものになればいいなと思っております。実は他にも子どもに本をどう届けるかとかあるいはもろもろたくさんアイデアはあるのですが、それはまた何か機会がありましたら。

というわけで、ちゃんと支度できましたらまたみなさまにご連絡申し上げます。まずは今夏(あるいは今秋)の本ガールから。楽しみにしてお待ちください。

電子書籍はiPadの夢を見たか

大野晋

二ヶ月ぶりです。このところ、時間が経つのがおかしくて(もしくは私の感覚がおかしくて)、とうとう先月は気が付いたときには6月になっていました。いや、驚いたこと。さて、日本でもiPadが発売になりましたね。私は店頭に並んで買うことはしなかったのですが、購入した人間のものを触ってみてよかったので、すぐに入手できそうなので注文して手に入れてしまいました。うちには、このようにして購入した電子書籍端末のなれの果てがうずたかく積み重なっていますが、いまのところ、iPadはその中の最善。やはり、最善の選択は一番新しいものなのかもしれません。早速、電子ブックアプリケーションのiBookとi文庫HDを入手して、青空文庫読書端末化しています。

実際に使ってみるといろいろと気になることはあるものの、読書端末としては大きな文字とともに秀逸なインタフェースのように思います。ようやくここまで来ましたね。特に、論文や国際規格などを持ち歩いたり、参照したり、読んだりといった機会が多い私にとって、情報端末としての利用価値が高いように思っています。現在、学会の論文やジャーナルは出版費、運送費、学会運営費の圧縮のために、軒並み電子化されてきていますから、そうした意味ではこういった端末がノートや冊子の代わりに教育機関や研究機関で使われるようになる素地はあるように思っています。むしろ、ディスプレイを立てないと使えないPCの方がそうした用途には不向きだったように思います。

一方、雑誌や新聞など、一時的な情報を提供する媒体もこうした端末向きの「情報」のように思いますね。新聞紙がなくなると古紙回収の仕事がなくなったり、箪笥の引き出しなどに新聞紙を敷くこともできなくなったりするので寂しい気もしますが、情報だけを得ることを考えると月額500円くらいでこうした端末への配信サービスに切り替えるといいように思います。ただし、販売店網の対応も含めていろいろと問題があるのか、実際のマスコミの動きが遅いように思います。(Web版に舵を切った日経あたりがもっと頑張って欲しいものです)
まあ、同様に書籍や雑誌の出版界も、一気にこうした端末になだれ込めば、書籍取次ぎや書店の反発にあうために二の足を踏んでいるような気もします。はてさて、いつになれば、適正な分野のコンテンツが電子書籍として提供されるようになるのか、なかなか見えません。

結局のところ、青空文庫が唯一、最大規模の電子書籍コンテンツの提供母体だったりするのはこの10数年なかなか変わらないわけで、今のところ、日本の電子書籍端末の雌雄は青空文庫をいかにして取り込んだか、であったりするわけです。それとともに、なかなか、日本の出版界そのものが変わらない現状があるわけで、いくら著作権論議をしたところで、実際の書店店頭の大きさは変わりませんから、人気のある新刊はそこに置かれ、あまり売れない書籍は結局、返品、絶版という流れは変わりようがありません。むしろ、書店自体が減ってきていますから、競争自体は激化しているのかもしれません。そして、売り場にない書籍の著作権も、それは経済的な価値は無に等しいわけですから、突然の映画化でもない限り、二度と読者に届く機会もなくなると言えるでしょう。まあ、そもそも、関係者の目にも触れない著作物が二次利用される機会もないわけで、返品された時点でそういう意味では経済物として書籍は一生を終えてしまうと言えるのかもしれません。著作権の経済価値は思いの外、短いものです。

これは、おそらく、青空文庫やアマゾンの電子的な本棚やショーケースでも同じことで、タイトルがたくさん並んでしまえば、多くのインディーズコンテンツはアクセスされる機会がほとんどなくなる可能性は高いですから、そこに経済的な論理が働く限り、電子書籍の価値も有限だと言えるかも知れません。残りは青空文庫のようなところの奥深くに潜伏して、好事家の目に触れる機会を待つしかないでしょう。まあ、それでも古書店の店頭で見つかるのを待つよりはずっと機会は多そうです。

そう言えば、今年の年頭に伊藤永之介の作品を公開しましたが、同作品が掲載されている書籍の市場価格がどーんと上がってしまいました。(底本に選んだ時、言いかえれば著作権がまだ有効だったときは古書市場で今の4分の1程度の価格で購入できました)そういう意味では、市場は著作権の有無ではなく、需給に敏感です。(全作品を電子化したら下がるかな?)

ということで、電子書籍の世界ではリアル書籍の世界よりも、書籍というコンテンツに関してはプロモーションが大切になるということなのでしょう。コンテンツの著作権を過剰に主張して露出機会を減らすよりも、無償と有償をうまく使い分けて、ファンを維持しながら増やす努力が必要なのだと思います。

故郷に文学館を建てて欲しいと懇願した現役作家がいたというニュースがありましたが、自分の文章を読んでもらえない文学館でいくら紹介してもらっても本が買えなければ読んでもらえません。それよりも、過去の代表作を青空文庫で公開して、読んでもらった方がよほど目に触れる機会が増えるように思います。あとは、実力の世界ですから、面白ければファンが増えますね。フェアユースの落とし所って、そんなところにあるようにも思えます。

さて、皆さんはこの文章をなにを使って読んでいるのでしょう?

クロスオーバーラップ

冨岡三智

先月号でも少し書きましたが、5月末にマニラで上演したコラボレーション・パフォーマンスについて書きとめておきたいと思います。

作品タイトルは「crossoverlap」。クロスオーバーとオーバーラップを1つにした造語です。作曲:田口雅英、バイオリン:Criselda Peren(マニラからのゲスト)、パーカッション:伏木香織、舞踊:岩澤孝子(タイ舞踊)&冨岡三智(ジャワ舞踊)。アジア、西洋、伝統、現代…といったものが、私たちの身体を通して、思いがけない方向へとクロスオーバーし、波紋のような感じでオーバーラップして出てくることをテーマに作品が作られています。

作り方としては、まず作曲ありきなのですが、彼が時間枠を作ったという感じ。その中でパーカッションとバイオリンと2人の舞踊が、それぞれのサイクルでパターンを繰り返す、けれどそのときどきでパターンの順序が変わっていったりする、という感じです。パーカッションと舞踊の人には、声を出す部分もあり、舞踊の2人には途中でそれぞれがクマナ(ジャワ宮廷舞踊で使う、バナナ形の打楽器)を叩くパターンもあります。パーカッションとバイオリンのパートについては、作曲家がそのパターンを作りましたが、舞踊の動きの選択に関しては、踊り手に任せられ、それぞれの伝統舞踊ベースの動きをしました。

  ●

作品全体についてではなくて、私が自分のパートで気づいたことを書きます。

私にはA、B、Cパターンのそれぞれがだいたい2分半から3分半というところなのですが、この時間サイクルが難しかった。ジャワの伝統音楽ガムランだと、西洋音楽ほどテンポが厳密ではないとはいえ、この形式でこの速度指示だとだいたい何分かかるというのが読めます。宮廷舞踊の楽曲で長い部分だと1周期が2分くらいなので、2分というのは1つのスカラン(一まとまりの動き)か、1分のスカラン2つ分の長さなのです。つまり、カウントしていなくてもだいたい2分の長さが取れるのです。またパーカッションは30秒ごと、1分ごとに時を刻んでくれるのですが、2分、つまり30秒の4倍を超えて、その5倍とか7倍の長さを感じるのは、意外に難しい…。ガムラン音楽が4の倍数ごとに刻むのは生理に叶っている気がします。

それからクマナの楽器を叩きながら声を出すことが難しかった、というよりもそれに抵抗がありました。作曲家からはクマナを叩く間隔について指示があったのですが、自分で声を出すと、記憶とか理性がふっ飛んでしまうのですね。自宅で時計を見ながら小さい声で練習していたときにはできていましたが、いざ大きな声を出したら、時間の長さが分からなくなりました。時を刻む音が耳に聞こえているはずなのですが、それでも分からなくなるのです。それには、動きと、クマナを叩くのと、声を出す間(ま)をつかないようにしてほしいというリクエストが作曲家からあったせいかも知れません。普通、ガムラン音楽を伴奏に歌ったり踊ったりしていると、節目を刻むゴング類の楽器が鳴るたび、「ああ今はここまできたのね」と、まるで信号を確認するように時間軸を感じることができるのですが…。

他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。けれど、メロディ・パートの踊り手と枠を作る側とで体内基本速度があまりにもずれると、1つの枠に入れ込んでしまうのがちょっと難しくなる…。

このパフォーマンスを見た猿の研究者の人が、時間枠がずれていく感じがしたと言ってくれました。クロスオーバーし、オーバーラップしていったのは、西洋とか伝統とか現代とかという以前に、それぞれのパフォーマーの体内時間だったのではないかなという気がします。でも、作曲家が意図したようには、ずれていかなかった気もしますが…。

  ●

タイ舞踊の人と初めて一緒に踊ってみて感じたのが、タイ舞踊は木の上で跳んでいる鳥、ジャワ舞踊は地を這うナーガ(大蛇)という感じだなということ。彼女の方ばかり見て踊っていたわけではないのですが、いつも空に向かってピョンピョン飛び跳ねているような気配がありました。タイ舞踊が描くキンナリという伝説の鳥(日本に入ってくると迦陵頻伽)というのは、たぶんこんな跳び方をするに違いない、羽ばたいて飛翔はしないだろう、という感じです。私はというと、「地獄の釜の蓋をあけたみたい…」だったそうな。蛇はキンナリの方に向かっていこうとするのですが、追いついた頃にはキンナリは目の前にいないのです。私に言わせれば、鳥の逃げ足の方が早いのですが、蛇のほうがトロすぎて協調性に欠けていたそうです。そのトロさが、地獄に引きずり込んでいく感じに見えるらしい。

  ●

というわけで、今回も主観と言い訳だらけの文章になっています。

これを書いている今、インドネシアの古都・ジョグジャカルタを拠点に活動する劇団テアトル・ガラシの公演準備をしています。私の活動名「ジャワ舞踊の会」の主催で、大阪公演をすることになりました。7月1日が公演なので、来月号で公演の顛末を書きたいと思います。最後に予告だけしておきます。

2010年7月1日(木)15:30-/19:30- アトリエ・エスペース(大阪市)
テアトル・ガラシ「南☆十字路」(原題”Je.ja.l.an”)公演。
伝統と現代、都市と裏通り、勝ち組と負け組など、東南アジアの都会を舞台にした葛藤・衝突・矛盾がテーマ。ダンスをベースにした身体表現と、様々なイメージを喚起する舞台装置による実験的現代演劇。
詳しくは「ジャワ舞踊の会」をご覧ください。

犬狼詩集

管啓次郎

  9

ダイアンがカナリア諸島の話をしてくれた
彼女はポーランド生まれのユダヤ人
カナリアとベネスエラ(小ヴェネツィア)のあいだにはつねに
大洋を越えた人の往還があるせいで
広場から放射状に展開する町の構成は
どうも旧世界的ではないのだそうだ
その布陣は土地の人々の村にはじまり
教会がそれを踏襲し空間を制御しているの
なつかしさの名において語られる (nostos, nosotros, nuestra nostalgia)
初夏の午後五時の光が広場に射すとき
時間は驚くほどよく静止し
驚くほどよく新鮮だ
そこに遠い土地の知識をもって
風を撹拌するように燕がすらりと飛ぶ
しずかな広場には椰子の木々が植わり
私の瞼では南の雨が踊る

  10

「視線は梢をめざし指先は花をめざす
私たちの回心は寺院の回廊をめぐる」
愛らしいほど無愛想なロバにまたがり
山のごつごつした稜線を行きながら
文字に書き留められることのない思考を試すのが
その夏までの日課だった
人の生涯は短い、よろこびも悲しみも短い
大陸が卵の殻のように割れまたひとつになり
地軸が傾き磁極が反転する時間は想像がつかないけれど
それでもときどき降るように
別の時間がやってくることがある
みるみるうちに子猫が大きく育ち
みるみるうちに雲が空をわたる
海流の温度が刻々と変わり星座と鳥が落下する
私はロバの背中から手をふり
まだ受胎されないきみに挨拶する

アルビルでワールドカップ

さとうまき

ワールドカップで、日本が決勝リーグに進むことになった。おかげで、僕はイラクで、日本を応援することに。異国の人々の反応はどのようなものだろう。

北イラクのアルビル国際空港に到着すると、現場の加藤さんが出迎えてくれた。
「どうです。盛り上がりは?」
「それがすごくて、僕は見てないのですが、クルドの友達からたくさんおめでとうの電話がかかってきてすごい盛り上げってますよ」

日本とは異なり、それほどいろんなスポーツを楽しむわけではなく、サッカーの盛り上がりは格別なのだ。そんな様子を見ようと、早速アンカワという場所にあるカフェに行くことにした。この一角は、キリスト教徒が多く住んでいる町で、イラク復興の盛り上がりとともに、外国人にも住みやすいところで、彼らを目当てにした怪しげなバーなどもあるらしい。

こちらの新聞には、外国人の労働者を25%以内に抑えて、クルド人の雇用を増やすという行政措置がとられようとしているらしく、インド人や、中国人が活発にビジネスをしており、中華料理屋にいくと、若い中国人のお嬢さんだけでなく、エチオピアからも女の子が働きに来ているのだ。イラクといえば、日本では、危ない国と思われているが、世界はたくましく生きている。

さて、カフェは、「ワールドカップ放映中」と看板が出ているにもかかわらず、ほとんど人がいなかった。日本とパラグアイというどちらも遠い国の試合とあってか関心がないのだろう。あるいは、皆、家でTVを見ているのだろうか?

昔は、ワールドカップの試合は、TVはただで見られたのだが、ここ中東では、放映権の問題で、お金を払わないと見られない。ヨルダンでも100ドルほど払わなくてはいけないから、貧しい人たちの関心はどんどん薄れていく。タクシードライバーに聞いても、「サッカーねぇ、仕事があるからなあ」とあまりのってこないのだ。

時間があって金のない人たちは、カフェやパブリックスペースに見に来るので、それなりに盛り上がっている。しかし、イラクはまだ国が安定しないから何でもあり。地方に乱立したTV局が勝手に映像を流しているらしい。だから、みんな家族でゲームを楽しんでいるのだろう。

日本とパラグアイの試合は白熱し、両者一歩も譲らず、延長に入ってもゴールが決まらず、PK合戦にもつれ込んだ。パラグアイ、日本と一本ずつきめ固唾を呑んで見守っている瞬間、映像が落ちた!

え! 実は、今回このような事が良くあるらしく、放映しているアルジャジーラによると、誰かが妨害しているというのだ。確かに、いいところで切れてしまうと民衆の不満が爆発し、その矛先が政府に向けられると、政権崩壊もありうるわけだ。

サッカーの力は、我々の想像を超えている。「神のみぞ知る」世界なのかもしれないな。映像が復活したとき、日本は、敗れた。加藤さんの電話もならなかった。さびしい夏が始まった。

インタビューの「あとがき」

若松恵子

片岡義男さんをインタビューした喫茶店をひとりで再訪する。
誰もいない席を前に、5回に渡ってお話を聞いた時間について考える。

今回のインタビューは、1960年から1990年までの30年間を、片岡さんの話をたよりに振り返ってみたいという思いがきっかけだった。片岡さんなら、その時代を一番よく知っているような気がしたからだ。片岡さんが語るエピソードと共に、その時代を記憶しなおしてみたかったのだと思う。

5回のインタビューを通して、その願いはかなえなれたのか? 残念ながら、失敗に終わってしまったと言わざるを得ない。
インタビューでたびたび、片岡さんは「わからない」と答えた。
「ほとんど意識していなくても文章の端々に出てくることについては、自覚していないからわからないのです。」この言葉が決定的だった。あの時代はこういう時代だったと、あとから意味づけて単純に語るような事は決してなかった。まして、「貴重な証言」など全くなかった。それが当然なのだと思う。そもそも「時代」など人から切り離されてどこかに浮かんでいるものではない。

片岡さんは現在、岩波の「図書」にエッセイを連載している。そこで、作家としてスタートした頃のことを振り返っている。片岡さんの生き方を成り立たせることを可能にした時代について考えをめぐらせているようだ。時代の事について聞きたいのか、片岡さんのことについて聞きたいのか、インタビューではどっちつかずのままにたどり着けなかった場所に、片岡さんの思考が伸びている。

夜のギター話し

笹久保伸

ある夜 終電で家へ帰る 時刻00:15
駅を降りるとギターの音が聞こえる
家は逆なので普段はそちらの方向へ帰らないが その日は自転車を別のところへとめたので 音のする方へ歩み寄る
「お?君は・・・」
知っている男だ 少しだけ
何してるの? 何でここで弾いてるの?

「俺、今ブルーなんです、実は最近生活に困っていて、明日このギターを売りに行きます、だから 今ここで弾きおさめしていたんです」

そうか ギター売るのか
「そう 一人暮らしするんで 色々必要なんです」
大変なんだね

ついでにちょっと弾いてみる 
ぽろろん ぽろろん がががががー

ここで見回りの警察が登場
「ちょっと君たち何してるの? へ?、ギター弾くんだ、ちょっとアルハンブラの想い出を弾いみてよ」
仕方ねーなー
てぃーらーたーらーたー、てぃーらーたーたーりーたー(音楽)
「い〜ね〜、クラシックギターはいいよねー。俺もギター弾くんだ 結構いい値段のマーチン持ってる。でも忙しいし 家庭があるからもうあまり弾けないんだよ、でも弾きたいんだよな。」

別に家庭があってもギターなんて弾けますよ それが趣味ってもんでしょおまわりさん

「そうかー そうだな、またやろうかな。じゃあもう遅いから 家に帰りなさい、あまり夜中にここにいてもらうとよくないからさ」
それを言うために アルハンブラの想い出を弾かせた おまわりさん

まだ初々しい夏至の夜に

くぼたのぞみ

百日紅の
花房散り敷く
しっとり湿った土のうえを
それが道というなら
道を
きみは歩く
ほの暗い
十九の夏の夜に向かって

どこへ誘われるのか
知らぬままに
知りたいと思わない
慢心の一瞬を嫌悪しながら
ひりつく舌で
在ることの
苦味を
かすかに確かめながら

それからというもの
憧憬の砂塵へはげしく突っ込み
未練の岩をまたいで
太古から枯れない涙の湖を見渡し
屍の大河をながめて
球体のファンタジーに
☆をちりばめ
飴色の知の光を追いかけ
こまやかな人間の移ろいは避けて通り
それでいて
ひとりよがりの
喜悦の滝に打たれることはない

かくして
まるはだかの
十九の夏の夜に向かって
湿った土の
それが道というなら
道を たどる
百日紅の花房とじて
いまも十九と変わらない
きみがいる
まだ 初々しい
夏至の夜に

製本かい摘みましては(61)

四釜裕子

(前回より続く)
東京製本倶楽部のお誘いで姫路に皮革工場を訪ねた日、午後になって雨脚が強くなった。昼ご飯を食べた店の前は一方通行、広い通りまで駆け足してタクシーをひろう。分乗して新敏製革所へ。姫路に伝わる白鞣しについて、社長の新田眞大さんに話を聞くのだ。川沿いの道をどんどん行くと3階建てくらいの無骨な建物が見えてきた。看板はないけれど、中をのぞくと午前中に(株)山陽で見たドラムが静かに回っている。がらんとしたその奥には天井から白い革が数枚ぶらさがっている。右手には真新しいドラムがあって、突起など中の構造がよく見える。なるほど、こんなふうになっていたのか。この突起の形も試行錯誤があるのだろうな……など勝手に見ているが人の姿がない。こんにちわーこんにちわー。いずこからか新田さんが現れて、さあどうぞと階上にお招きいただく。外観からは想像しがたいウッディな小部屋、白鞣し革で作った鞄やブーツや、革をキャンバスにしたアート作品が並んでいる。奥は工房だろうか。

新田さんは製革業を営むいっぽうで、失われつつあった従来の白鞣しを保存研究するために、2000年に地元の元職人さんたちと「姫路白鞣し保存会」を立ち上げた。今はその技術を自らに獲得することに集中していて、工場はお一人で守っているそうなのだ。保存会を作るきっかけになったのは、同年5月にドイツから自治省に届いた手紙。100年前にドイツの製革専門家が姫路の白鞣しの技術を調査した記録を読んだというロイトリンゲン皮革研究所鞣し技術学校のモーグ校長からのもので、「環境保護からみて先例のないこの白鞣しの技術を保存するべきだ」とあったという。白鞣しは印伝などと同じ油鞣しで、用いるのは塩と菜種油のみ。手紙が届いたころすでに姫路市内でこの技術を持つ人は一人しかおらず、工程が分業されていたこともあって散り散りになっていた情報を保存会がなんとか集めて再現し、2年後には革の展示会に出展するなどして保存研究につとめている。

「白鞣し」なんて知らなかった。姫路のお土産品の白地に小花が描かれた財布が思い浮かぶくらいで、地の白について考えたことがない。聞かれれば、白く染めてるんじゃない?と答えただろう。そうではない。この方法でなめすと白くなるのだという。「漂白の技術ということですか?」「違う違う、革が白いんです」「……」。この日午前中に見たクロムとタンニンの鞣しはそれぞれ溶剤の色に染まっていたから、それが何もないとすれば皮そのものの色があらわれるというのはわかる。でもそれが白なのか。せいぜい肌色とかベージュとか、そんなような色ではないのか。実際の白鞣し革はとろりとした白さがあって、乳白色といっていいだろう。新田さんに「ミルクの匂いがするでしょう」と言われればそんな気もする。野球のボールに使われていたこともあり、「白球」とはこの革の白さに由来するらしい。竹刀に使われている白い革もこれ。自分の手の甲の皮を見る。色が白いね、と言われるけれど、白ではない。この皮も、白鞣しすれば白くなるのか――。

ビデオで製法を見せていただく。まず、原皮の周囲に紐を通して川の水に漬け、毛根に発生する酵素で脱毛をうながす。漬ける日数は気候によって4〜12日、短くては毛が抜けないし、長くては皮が腐ってしまう。ほどよく見計らって河原にあげて天日で乾かし、かまぼこ状の道具の上に広げて毛を抜く。皮の裏の脂と毛根をかきとって塩をもみこむ。そのあと、乾かしたり濡らしたり菜種油を塗りこんだり、膝やかかとや手やヘラで伸ばすことを繰り返し、原皮からおよそ3カ月でやっと仕上がる。牛1頭分の皮を鞣すのに用いるのは菜種油がグラス1杯、塩は両手いっぱい程度。塩や菜種油を中央に置いて皮で包み込むしぐさはパイ生地にバターを練りこむようでもある。皮が徐々に白みを帯びてゆくのは確かに漂白ではなく、毛穴を押し広げてはそこにひそむあらゆる雑味を抜いてゆくことなのかなと思う。ビデオが終わる。外は雨。昼よりもさらに激しくなっている。新田さんが言う。「晴れた日のほうが白鞣しの革はより白い」。そして、革を手にとりちょっとくすんだ部分を両手でもむ。「もめば白くなります」。ほんとうなのだ。

この日の午前中、タンニン鞣しが30〜40日もかかると聞いて驚いた。でも皮の鞣しをはじめて見たのに、いきなり「30〜40日もかかる!」と驚くのはおかしな話だ。その前にたまたま見たクロム鞣しと比べたら時間はかかっているということで、そしてそれが値段に反映するのを想像できたというだけのことだろう。午後にビデオで見た白鞣しの工程では、かかとや膝や両手をぐっと突き出し全身の力を込めて皮を伸ばす作業が1日8時間、それがおよそ50回繰り返されると説明があった。数字としての時間の長さもさることながら、牛1頭の皮を革にしていく人1人ずつの体力とその動きに圧倒されてしまった。なにもこんなに白くなるまで丹念に鞣さなくてもいいのではないか、ほどよく柔らかくなったところでやめたっていいのではないか、そう思わせる強烈な迫力に満ちていたのだ。

この方法は越前や出雲経由で大陸から4〜5世紀ころに姫路に伝わり、日照時間が長くて温暖で風通しもよく、きれいな水に恵まれた高木地区(新田さんの工場のあるところ)に定着したようだ。地域を流れる市川という川がことに適していて、同じ姫路の龍野地区を流れる川では発酵が進みすぎて向かない(こちらでは醤油が有名)という。市川の河原は40年くらい前まで草1本なかったそうだ。農業のかたわら製革業に携わる人たちが作業をする場所として、常に掃除をしていたからだ。明治4年にドイツから製革の技術者が和歌山に招かれて植物タンニン伝習所が作られたのが日本におけるタンニン鞣しの始まりで、姫路はその下請けとして製革業に携わる人が増えたという。白鞣しも戦後は化学薬品を用いるようになったそうである。新田さんは従来の白鞣しの手法を再現したうえで、川の水を場内にひいたりドラムを用いるなど現代にみあった改良を重ねている。またもともと白鞣しは牛皮であったが、鹿皮もやられているようだ。「技術はまだまだ」と、自分に厳しい。最後に新田さんが鞣した牛革を見せていただく。重たい。なにしろまるまる牛1頭分だ。なかほどに小さな汚れがある。「なんだと思う? 血ですよ、僕の」。執拗に繰り返される強烈な手もみの痕。白鞣しとは格闘技なのであった。(この項おわり)

しもた屋之噺(103)

杉山洋一

数日前に夏休みで日本に戻った家人や5歳の息子と、普段なら晩御飯を食べ終わるのが午後8時前。外は夕暮れにすらならなくて、階下で家人が子供を風呂に入れたりしていると、食卓のベンチに寝転んで思わず空を見上げます。抜けるような深い青空に、薄い綿菓子のような雲が幾筋か棚引いていて、目を凝らしつつどこまで地球なのだろうと考えます。重力がなくなれば、あの深い空に真っ逆さまに落ちてゆくのかと思うと、こちらが雲の上にいる錯覚を覚えて、空が深く碧い海にも見えてきます。

今月はずっと家で仕事をしていましたから、子供が風呂から上がって寝る前に、ベッドで一緒に物語を読むのが常でした。日本語の絵本は沢山ありますが、イタリア語のレパートリーは少なくて、決まって三匹の子豚かヘンゼルとグレーテルをせがまれました。ヘンゼルとグレーテルの父親が森に子供を捨てる下りは読んでいて気分が悪くなるのですが、それでも飽きずにどうしても、とせがむのです。

庭で芝刈りをしていると、その息子に何気なく、どうしてせっかく咲いた花を刈ってしまうのかと聞かれ、答えに窮すこともありました。確かに芝の雑草を抜いていると、無心で懸命に生える雑草が哀れに思えることがあります。先生の方針なのか、息子の通う幼稚園では絵を良く書いていて、朝起きるとそのまま机に向かって一人でせっせとペンを走らせていて、親よりよほど創作意欲が旺盛なのです。花をたくさん書くようになったと思っていると、春先から、庭の芝生や大木を描くようになりました。

息子が一足先に日本に帰ってしまったので、彼がこの一年創作した絵やイヴェントの写真を幼稚園から受け取ってきました。家に着いて中を覗くと、今年一年の作品を集めたバインダーの表紙は、自分で切り絵とペン書きを組合わせて作った庭の大木で、今も目の前に見えていますが、毎朝目を覚ますとまっさきに目に飛び込んでくるこの木が、幼い息子にはどんな風に映っているのだろうかと思います。

バインダーをめくると、ヘンゼルとグレーテルの話が出てきて、自らお菓子の家と兄妹二人の絵を描いていました。ヘンゼルとグレーテルばかりをせがんだのは、こんな伏線があったからで、どうして読みたいのかと聞いても、ただ面白いからとそっけなく答えていたのは、学校のことを説明するのが面倒だったのか、イタリア語が厄介だったのかわかりませんが、もっと読んでやれば良かったと省みたりします。

自分が五歳の頃、父とどう接していたのだろう。電車で漢字の書きっこをしていたのは覚えているけれど、こんな風に父親にも本を読んで貰っていたのだろうか。だとしたら、覚えていないのは少し悔しい気がします。父にはよく肩車してもらったけれど自分が息子に肩車をしてやった途端持病の眩暈が出て寝込んでしまったし、公園で一緒にシーソーをしただけで目が回ってしまうありさまですから、今も矍鑠としている父と比べるのにも無理があるのですが、その昔、父がいつも徹夜で働いているのを、子どもながら感心しつつ不思議にも思っていました。自分があんな風に働いたら倒れるのは確かなので、改めてそこまでして家族を養ってくれたことに感謝の念を新たにします。

アメリカから戻ったばかりの瀬尾さんと加藤くんからメールが届き、書き送ったばかりの4手の新作をこの短い時間で立派に仕上げて初演してきてくださったとのこと。仕事の遅い自分に愛想が尽きることもしばしばですが、にも関わらずこうして声をかけてくれる人がいるのだから、やはり頑張らなければと励まされる思いです。

この原稿を美恵さんに送ったら、来週から練習の始まる貰ったばかりのカザーレのチョムスキーによるトーク・オペラを読み始め、8月以降の譜読みと平行して日本に戻るまでにビエンナーレや松原先生、大井くんの新作に目処をつけることは、或いは出来ないかも知れないけれど、やれるところまでやらなければいけない。子供が色砂で書いた太陽のような明るいひまわりの絵を机に飾って、シャワーを浴びてこようと思います。

親子はこれから益々離れてゆくでしょう。あれから35年後、思いも及ばなかったミラノと東京という距離で暮らしているとしたら、35年経って自分が生きていたら、果たして息子とどれだけの距離があるのでしょう。この朝焼けでどこまでも透明な空を見上げながら、そんなことを思います。

(6月30日ミラノにて)