別な世界はまだ可能か

高橋悠治

ディジタル化された論理 
            知らずに身についた電子的思考
非中枢メディア 電子ネットワークに
来たるべき社会の兆しが見えるのか

       あまりに楽観的な

  ハードウェアもソフトウェアも アリストテレス以来の二進法論理
すべての要素は列挙範囲のなか 定義済の操作でうごく
            論理がさき 運動があと
     そこから漏れたこと はずれた位置 定義されなかった作用が
                  あらわれたらどうなる

中心がなく すべての要素が平等に 構造を担えるはず
   それなのに
頻度の偏り 順位 中心と周辺 権力の集中は     なぜ

全要素間相互アクセスが可能なら
    無用な接触が多く 
       うごきをさまたげ エネルギーはうしなわれる
すべての要素が見透かされるパノプティコン
       外から監視されていても 内では自由選択のつもり
              閉じた部分で自由運動は加速する
            生産のための生産 消費から浪費へ
         必要なく拡大し 自己破産する
コンピュータの夢は      資本主義に囲い込まれた仮想空間の自由

部分運動は線的に発展し 時間は連続で
         現在の延長が未来になると思われる時期もある
   限界の向こう側にある      偶然 事件 カタストロフィー
ルクレティウスのクリナメンは 理由もなく
        アリストテレス的論理の外側から顕れる
     わずかな偏りが 平行に墜ちる粒子の雨をかき乱し
          衝突 反発 回避
    多様な現象がそこで生まれ
現象の相互作用から 別な世界が一瞬にして創られ
       可能性は 権力をやりすごす

  不規則に瞬く 流れ
    折り畳まれ また ひろがる雲の織地
希薄な羽 霧の次元

       ディジタルは粗い網
   なめらかなアナログに変換して 感じられるものとなる
           アナログもまだ粗い 振動する表面にすぎない
 
身体は それぞれに振動する感覚の集まる場
  意識よりさきに 運動があり
    運動が感覚を創りだす
   色 香 味 響 温度の交換
空間と時間が生まれては消える
 世界の顕われ
        徴

場は樹ではない
    枝を束ねる見えない根は どこにもない
  地下茎でもない
     中心がないように見える薮も
       竹の花が咲くとき 全体が枯れる
    ロジスティックも   カオスも
        複雑の単純なモデル

おりかさなり ずれる振動のなかに
   横断する共鳴が明滅する   稲妻に照らされた幻

一つのものが分かれて 複雑に発展するのではなく
   反対に 中心のない 原理もない
      多くの複雑なことがまず起こり 
     それぞれが息づき うごきまわれる隙間をもとめて
            たえずかたちを変えていく
  ひとつになることもなく
             離れることもなく
接触を避けながら接近している
    エピクロスの庭 ブッダのサンガ 鴨長明の方丈

      多様なうごきのなかから
    領域の調整のとりきめ
空間と時間の枠が見えてくる
   予期しないできごとがあれば 変更される仮の規則
 後から来る論理を定着させない
         抵抗のすくない方へ
      まがりくねった道を通ってすすむ
        曲線の跡        曲面の影

手と息でさぐる初期値は 繊細な響を立ち上げる
   喩えることばは 半ば閉じた隠れ里 半ば開く不思議の窓
      加速する文明の時間と 散逸する空間のかわりに
     速度を緩やかにむすぶ 空白の際

問いかけは ゆっくりと歩む
   こたえをあせることはない
  問うことが 生きること
      選ぶものはいない
          徴      は     空の彼方

(2007年11月30日執筆) SITE ZERO/ZEROSITE No.2 (2008)に掲載

ねんてんさんと、うふふふふ

更紗

  三月の甘納豆のうふふふふ

この句をご存知の方は、どれくらいいるのでしょう。私がこの句に出会ったのは、たぶん、中学2年生の1学期。国語の教科書に、俳人・坪内稔典さんの文章と俳句が載っていました。稔典さんの代表作である甘納豆の句は、1月から12月まであり「甘納豆 十二句」といいます。俳句と短歌の区別がついていたかどうかもあやしい頃です、’古典’だと思い込んでいた俳句で、しかも教科書から「うふふふふ」って……!! 

3月以外の句も、何の難しさもありません(もちろん、難しく解釈しようとすれば色々あるのでしょうけれど)。ポップかつキャッチーで、記憶にある「その月のある日」にぴたりとくる。ちなみに、私が最も好きなのは12月。

  十二月どうするどうする甘納豆

数日後、スーパーで母に甘納豆をねだったのはいうまでもありません(笑)。

授業が次の単元に進んでも、私の稔典熱は冷めることをつゆほども知らず、ついには市立図書館で『現代俳句文庫―1 坪内稔典句集』を見つけ、迷わず手に取ったのです。前出の「甘納豆 十二句」はもちろん全て載っています。

その句集で、私はあれから10年以上たった今まで、一字一句忘れることのできない句(覚えていようなんて思わなくても、忘れられない)に遭遇しました。
いいですか、いきますよ?
49ページ、「この十年の春嵐 二十句」より……

  陰毛も春もヤマキの花かつお

刹那、思い浮かんだ映像は、くるくると地面で渦巻く桜吹雪と、手のひらの中でふるえる花かつお、そして、お風呂の中でゆらゆらする、体中で一番不思議な毛・陰毛――! 
くるくる、ふわふわ、たった17字が巻き起こす春風が、全身をさらっていく。

たった10年前じゃないのと、笑うなかれ! 当時住んでいたアパートの住所だって忘れてしまったけれど、稔典さんの「陰毛も春もヤマキの花かつお」は忘れられない。舞台でセリフがとんだって、この句は出てきたに違いない。世間が陰毛をワカメに例えようと、私は一生「いいや、ヤマキの花かつお」と、心の中でとなえるでしょう。ちなみに、この映像に合わせて私の脳内で流れたBGMは、ショパンの「子犬のワルツ」でした。

考えるな、感じろ! とはよく言ったもの。心も体もノーガードの自然体で、17字の世界にとびこむ……この楽しさを問答無用に教えてくれたのが、稔典さんの俳句でした。それ以降、稔典さん(の著書)に導かれ、漱石や子規の俳句にも、どぼーんと飛び込みました。自然体で、ぽろっと口からこぼれて生まれたような俳句の世界。その自然体の17字を生み出すための、さまざまなバックステージを読み解くのも興味深いだろうとは思うのですが、私はもっぱら「どぼーん!」派です。

それでは最後に、今月にぴったりの句を紹介します。河馬のシリーズも、とってもいいですよ。

  桜散るあなたも河馬になりなさい

皆様、よいお花見を。

学校と伝統

冨岡三智

この3月末までのほぼ1年間、私は中学校の常勤講師をしていた。学校の仕事は、今までは非常勤講師かごく短期間の常勤講師(代用教員)しか経験がないので、こんなにどっぷりと学校の空気に浸ったのは、自分が高校を卒業して以来かも知れない。

今回学校に入ってみて、学校は「伝統」を生み出す装置なのだなと、あらためて感じる。私はジャワ舞踊の継承や発展変容、創造などをテーマに研究もしている。伝統とは、一般的には、遠い昔から受け継がれてきたものだと思われているけれど、ホブズボウム編の「創られた伝統」では、伝統の多くは近代になってから人工的に創出されたものが多いと述べられている。簡単に言えば、その伝統を創出した主体が近代国家だとホブズボウムらは言っているのだが、学校は近代になってから作り出された制度なのだ。

学校行事では、農耕の年中行事よろしく、年々歳々同じことが繰り返される。入学式、遠足、中間テスト、球技大会、期末テスト、夏休み、体育大会、社会見学、中間テスト、合唱コンクール、期末テスト、冬休み、百人一首大会、期末テスト、入試、卒業式、春休み…と毎月のように行事が襲ってきて、その行事に振り回され、こなしている間に1年が巡ってしまう。

もちろん年々歳々同じことを繰り返すのは、たとえば私が最初に就職した流通業界でも同じだ。そこでは、お中元、夏のバーゲン、お歳暮、…と、やはりいろんなイベントが襲ってくる。けれど学校行事が農耕行事や流通業の年中行事と異なるのは、その行事の担い手が(教員は別として)短いサイクルで入れ替わること、そして目的(売上アップなど)のために行事を行っているのではなくて、行事を繰り返すこと自体に意義を見出していることだ。中学校では、1年生は新米として初めてその学校の行事を体験し、2年目になると新1年生に見本を見せる側になり、3年目には、もう思い出にすべく最後の行事を頑張る。3年で生徒が総入れ替えするだけに、前年度のやり方を引き継がせようという意識も強く働くから、「○○校の伝統」という言葉を教員たちは何度も口にする。

このことは、自分が中高生の時にはあまり気づかなかった。「伝統」をやらせる側になって気づいたことだ。インドネシアに長くいたのも「伝統」という語に過敏に反応する理由かもしれない。インドネシアという国は第2次大戦後に独立した新しい国で、国民文化の創生ということが独立後の大きなテーマだった。だから伝統舞踊と呼ばれるものが、意外に新しい歴史しか持っていないことや、伝統という語が示すスパンが日本人よりもはるかに短いことを知って驚くことがしばしばあった。日本の義務教育の現場で使われている「伝統」という語の響きや意味は、インドネシアで聞く「伝統」という語のそれに似ているという気がする。

卒業写真

さとうまき

イラク戦争から6年が経った。僕にとってはまるで昨日のことのように思えるのだが、当時、小学校に入学したこどもたちは、卒業式を迎える年齢になった。6年前戦争があったことなど、忘れてしまっている人も多いのもうなずける。僕はというと、未だにイラクにかかわっている。ふと鏡を見てみると白髪が増えている。浦島太郎の話を思い出す。子どものころは太郎が急におじいさんになるという話の展開が理解できなかった。いじめられている亀を助けたのに、最後はなんで太郎が泣かなければいけないんだと。親や、先生にはもっともらしい解説をしてもらったのだが、しっくりこないままこの年になると、おお!と。最近急に白髪になった人は、玉手箱を開けたのだなと。

僕はカメラを持って、シリアから国境を越えてイラクに入ることにした。いい加減、このような人生からは卒業したいと思う。

イラク戦争が少し落ち着いた2003年の夏、僕は、バグダッドのバラディアートという場所にある学校を訪ねた。ここは、1948年イスラエル建国時に、ハイファから難民として逃げてきたパレスチナ人が暮らしていた。イラクは、パレスチナ難民をゲストとして向かえ丁重に扱っていたけれど、サッダーム政権が崩壊した2003年4月9日以降は、家を提供していた大家に追い出されたり、新しく出来つつあったイラク政府からも冷たくあしらわれていた。

「ブッシュは、パレスチナ人が嫌いなんだ」と老年のパレスチナ難民がつぶやいていたのを思い出す。家を整理していると、そのとき、学校で子どもたちが描いてくれた絵が出てきた。将来の夢などが描いてある。そして、「美しい国パレスチナに帰りたい」と。あの子どもたちに会いたくなった。当時のビデオを探し出してみた。学校の校庭にテントが張られていて、家を追いやられた人たちが住んでいる。でも子どもたちは元気に振る舞い、歌って踊っていた。

宗派対立のあおりを受けて、パレスチナ人はイラクから出て行けみたいな風潮が強くなってきた。そして、2006年、バグダッドの宗派間の対立がさらに激しくなると、パレスチナ人は、ヨルダンやシリアを目指した。しかし、国境は閉ざされ、砂漠で一夜を明かすことになる。3年が経ち、いつしか、そこは、難民キャンプになっていた。もしかしたら、6年前にあった小学生たちが、いるかもしれない。

今回は、無理をお願いして、難民キャンプに泊まることにした。3月16日、この日は、1988年、化学兵器がイラク北部のハラブジャというところで使用された日。2003年、ブッシュ大統領は、高々と宣言した。「サダムが15年前、ハラブジャで毒ガス兵器を使い数千人をころした。彼の犯罪が世界に広がるのを許すわけには行かない」として、サダムに最後通達を与えた日。

 僕は、複雑な思いで、シリアの国境で、イラク警察が迎えに来てくれるのを待っていた。パトカーは、ピックアップとよばれ、後ろに荷台がついている。カラシュニコフを持った警官が銃を構えてわれわれを警護してくれる。警察はちょっとガラが悪く、サイレンを鳴らし、「どけ、どけ、馬鹿ヤロー、この犬野郎。」と拡声器を使って、イラクへ向かうトラックの車列を通り過ぎる。
イラクの入国は、アメリカ軍の海兵隊が、網膜の情報を記録して、手の甲に、マジックでアルファベットを記していく。今日はHだった。ここのキャンプには1600人ほどの住民がいる。雑貨屋や、お菓子屋,散髪屋など一通りそろっている。テントを回って、パレスチナ人の迫害の話を聞く。誘拐されて、ドリルで足に穴を開けられた。身体の数箇所は切り刻まれた跡が残る。目の前で別の人質がのどをかっきられて殺された。スンナ派の聖職者だった。

キャンプの夜はとても厳しい。冷え込みと犬のとおぼえ。夜は、まったく電気がない。僕は外に出て、ちょっとしたお菓子を買いに行こうとしたが、9時には、真っ暗になっていて、犬が狂ったようにほえまくる。そんなキャンプにも朝がやってくる。バグダッドに向かう高速道路を横切ると、難民たちが通う学校がある。軽トラックの荷台に詰め込まれた子どもたちが運ばれてくる。学校は、もともとあった学校が廃校になっていたのだが、難民が詰め掛けたので、再び学校として使われるようになったのだ。

6年前に出会った女の子がいた。今は、怖がって学校にはこないという。そこで、再びキャンプに戻って、彼女が6年前に書いた絵を見せてテントを探し当てた。メルバットという少女は、15歳になっていた。バグダッドで、マハディ軍というシーア派武装勢力の若者に結婚を迫られた。ばかげた話だ。シーア派の宗教指導者たちが、宗派間の異なる結婚を禁止したというのに。断るとしつこく追い回された。銃で威嚇された。彼女は、3冊のノートを見せてくれた。ぎっしりと詩が書かれている。悲しい鳥というのは彼女のペンネームだという。

  「わたしが残念に思うこと」 悲しい鳥 (訳:加藤丈典)

  わたしが残念に思うこと それはこのような時代
  わたしが残念に思うこと それはこのような呪われた生活
  わたしに残念に思うこと それは希望とは裏腹に進んで行く人生
  わたしが残念に思うこと それはこれまでに失ったたくさんのもの
  わたしが残念に思うこと それはこれまでに見つけられなかったたくさんのもの
  わたしが残念に思うこと それは私が生きることなく消えていってしまった人生

恥じらいながら、「悲しい鳥」は詩を読んでくれた。
「砂漠」「風」「砂嵐」「テント」「太陽」、、、
何もない難民キャンプのなかで、言葉だけが研ぎ澄まされていく。

卒業記念に「詩集をつくりたいね」僕は、カメラをかまえると卒業写真のシャッターを切った。アンマンに戻り、6年前、バグダッドで写した写真をコンピューターから拾い出してみた。みんなでとった集合写真。なんとなくメルバットらしい少女が写っていた。僕は、彼女の顔を赤鉛筆で丸く囲った。こんな6年後を彼女は予測していたのだろうか。

アオリスト―― 翠の石室54

藤井貞和

足の冷たい、宇宙のひとが立つ。
泛いているのは鳥のすがた。
時間(とき)は終わる、
朱鷺(とき)も終える。
萍(うきくさ)を、青墓のひとがうたう。

ここにいられるうちに、ここに、
ただよっている。 はたしてそうか、
萍の種(しゅ)を救うために。 はたして、
水田はいつまであるか

(『種の起源』150年。時間にしろ、150年ぐらいかもしれないのだから。「池の萍となりねかし」と、1000年つづくうたを見逃すべきではない〈西郷信綱氏の『梁塵秘抄』に見える〉。古代ギリシャ語や諸言語に、アオリストという時制がある。アオリストは限定できないときをあらわすから、普通なら「過去」ということになるのが、「限定できない」という限りで、現在でもあれば、未来でもよいので、原始日本語はアオリストかもしれないと『言語学大辞典』にある。一千年まえに飛び立つ鳥が、いま羽ばたきをしていたってよかろうと思うと、われわれはアオリストにいるのかもしれない。)

オトメンと指を差されて(10)

大久保ゆう

そうそう、草食系男子に慕われる件です。

おさらいをしておくと、草食系男子というのは「表裏がなく内省的で繊細、争いや活動に消極的で、和を尊び、自分の趣味や世界を大事にする」男の子のことなんですが、あらためて振り返ってみると、私はそういう年下の男の子に慕われることが多いような気がします。定義的にも実際にもそういう子ってあまり人と群れないはずなんですよね。

確かに普段づきあいも普通に少ないような気もするんですが、それなのにそのちょっと出てきた稀な機会なんかでは、私についてきたりなんかして。ああ、これは慕われるというよりも「なつかれる」に近いのかもしれません。

考えてみるに、オトメンと草食系男子はちょっと趣味みたいなのが似ていることがあって。そういう点で「自分のことをわかってくれる」人と草食系男子から思われる上に、オトメンはそういう消極的な人間が相手だと(義務感もあって)かなりリードしたり引っ張ったりするので、そのあたりが原因なんじゃないかと。
つまりオトメンは草食系男子にとって兄貴的立場に当たるのだと。そのへんは他のオトメン連中を見ていても、たいていそんな感じだと思います。

そもそも草食系男子の人見知り率はとんでもなく高いんですよね。繊細だから、なかなか人に話しかけられないというか、関係を築けないというか。その代わりオトメンは社会的関係については割と普通というか、今までの男の子っぽいというか。

同年代か年下の人間だと初対面から積極的に話していって、一度会った人はもう友だちで、それからいくら間が空いても対応にさほど変化がないし。毎日会ってようが一年に一度会おうが違いがないとか思ってる人が多いです。

相手が年上だとかなり空気を読んでいこうとするかも。礼儀を重んじるというか、あまり出しゃばらないというか。それでいて、信頼されている相手だとか、認められている場だとかだと、かなり前へ出たり、はっちゃけたりする。基本的に相手の話をちゃんと聞くので、年上にも気に入られることが多いのかもしれません。

……と考えたところで、ふと気づいたのですが。私の知っているオトメン連中(もちろん私も含めて)って、みんな少年時代に武道だったりスポーツだったりをやっているな、と。空手だったり剣道だったりアメフトだったり。どれも礼儀とか上下関係に厳しそうなやつですね。

そんでもって草食系男子はだいたい文系で、部活動も文化系。それってどっちかというと趣味の延長みたいなものですよね。(というと語弊があるのかもしれませんが。)

そうするとあれなんでしょうか、つまりはオトメンも草食系男子も元々の根っこはあんまり変わらなくて、今風の、当世風の男の子なんだけれども、成長過程での経験の差がその後のあれに関係しているんでしょうか。

武道とかスポーツとかをやっていると、公共の場とか、上下関係とか、自分の役割とか、はたまた「試合」みたいなものを強く意識するようになりますよね。(そうだそうだ、よくよく考えれば目上の人との関係で「挨拶は自分から、話は相手から切り出されるのを待ち、よく聞く(そんでもってあまり質問しない)」って武道の師匠弟子関係そのものじゃないですか。)

思春期に自分の世界にどっぷりとつかるか、それとも武道やスポーツの世界に出て行ってるのか、そういう違いなんでしょうね、きっと。なるほど。いろいろと腑に落ちました。今では昔みたいに少年はみんなスポーツやる、みたいな感じじゃないですものね。中学高校でも文化系の部活は増えてきてますし、帰宅部もOKですからね。

とりあえず個人の性格的差異は別にして、今の男の子はファッションにも興味があるし、甘い物も好きだけれども、そういう子は何の部活をやってたかで、草食系男子になるかオトメンになるか変わってくる、というのが私の結論ということにしておきます。

あれ、だんだん男づきあいの話から離れちゃってますね。そうでした、他にもいますよ、いわゆる「昆虫系男子」と言われる人とか、「理系男子」と呼ばれる人が。

昆虫系男子というのは、草食系男子が「恋に消極的」と言われるところへの比較として出てきた言葉で、「恋には積極的」なのに、いろいろな理由があって「無視(むし)」ばっかりされるから「昆虫系」なんだそうです。うん、いますいます、そういうやつ。

そういう男とオトメンの関係はどうかと言うと、昆虫系男子から見て割とオトメンはおしゃれなので、こいつなら恋がわかるんじゃないかと思われて相談されるんですよね。草食系の人たちは消極的だけど、それにひきかえオトメンは社交的だし、お前だったらモテるんだろうからその秘訣を教えてくれ、みたいな。

でも、オトメンは恋愛の話は大好きなんだけど、そもそもが武道の人・スポーツの人だから、どこか無骨なところがあって恋愛にはかえって朴念仁。だから相談したところでアドバイスも的はずれで何ら参考になりゃしないっていう、まあ、そういうどうしようもないところに行きがち。てゆうかそもそも恋愛でモテることと、うまく行くことは別物だろうということを気づいた方がいいんだと思います。

理系男子は……ちょっと草食系男子に近いところがあります。いや、ほとんど同じか。でも、普通の草食系男子は、その趣味がいわゆる「文化」的なところへ行きがちで、音楽とかアジアンカルチャーとか、アートとかそういうのです。だから草食系男子ファッション、なんていうものがあるとしたら、私は割と容易に想像がつきます。ああ、だいたいああいうのね、という。

けれども理系男子の場合は、確かに草食系と同じで自分の世界を大事にするんですが、そういう「物」としてわかりやすいカルチャーに趣味が行くんじゃなくて、「数学」とか「物理」とか「生物」とか、そういう方向に飛んでいくんですよね。だから草食系とは違って身だしなみに気を遣わなかったりとかするんですが、これってたぶんどういう対象に興味があるかの違いになるんでしょうね。

いや、わかりやすい「レッテル」の話になってるんですが、まだもうちょっと続きます。いや、もしかすると続かないかもしれません(苦笑)。

アホウドリ

くぼたのぞみ

アホウドリを首にまいて
北へかえろう
吸いあげて肥大する
メトロポリス
の罪科を首にまきつけ
苦い土の新世界へかえろう
いや
地をはうように生きてきたので
おもえば
空を飛んだことは
はて?
大学の塔にのぼったことは
はて?

地をはうのだから
そのまま海底をゆくのだな
アホウドリのように飛べはしない
島にもなかなか
たどりつけない

いや、たどりつくもつかないも
人はそのまま
ひとつの島
この世に浮かんで沈む島
わたす舟
わたる舟
に渡し守、カロンはのっているかい

幾重にめぐる水流と
赤い実のなる泥炭の地をぬけ
疾駆する蝦夷鹿の──ピンネシリ
との逢瀬はやはり
しょっぱい川の
波にゆられて

しもた屋之噺(88)

杉山洋一

今朝まで長雨が降り続き、緩んだ寒さが少し足を引きずったようにも見えます。現在、朝3時を回ったところ。小雨のなか、鳥たちが少しずつさえずりはじめました。イタリア語にも「さえずる」という言葉はありますが、より柔らかく、「鳥が歌う」と形容する方が多いかもしれません。何と美しい抑揚だろうと、思わず手を止めて聴き入ってしまいます。東京から届いたブソッティの録音を手にリコルディに出掛け、カスティリオーニの「冬・ふ・ゆ」と、バッハ/ドナトーニの「フーガの技法」の大きなスコア2冊を受取ってきました。

実は数ヶ月前から、前にカスティリオーニを演奏した際にスコアとパート譜が違っていて驚いた、どういうことか調べて欲しい、と長らく現場監督を務めるマルコに相談してありました。今では職人気質の出版社の雰囲気はすっかり影を潜めてしまいましたが、14年前に初めて知り合った頃、マルコはリコルディの抱える、何十人という写譜職人を一手にまとめていて、信頼される棟梁という印象を受けました。音楽学畑出身なので、「森は若々しく生命に満ちている」など、読み難い上、演奏も容易でないノーノ作品の校訂版を、リシャールと協力して実現させた立役者でもあります。

当時の現場を知る唯一の人物だからと「冬・ふ・ゆ」の話をしたわけですが、流石の彼ですら、そんな話は聞いたことがないねと首をひねりました。卓上のコンピュータからカスティリオーニのファイルを開くと、案の定、初稿のスコアのみ保存されていました。良いことを教えてもらった、きっとどこかに眠っている筈だから、探し出して連絡する、と約束してから数ヶ月経って、見つかった! と興奮ぎみにメールを貰ったのはつい最近のことです。

その昔リコルディは、販売譜のセクションとオーケストラ・パート譜などレンタル譜のセクションが、全く別に機能していました。それぞれ、出版された表紙の色も違えば、紙もインクも違いました。レンタル譜セクションは、青焼きの、雰囲気はあるけれども、読みにくい印刷譜だったのをよく覚えています。

経緯は不明ですが、その昔カスティリオーニは写譜職人がつめていたレンタル譜のセクションのオフィスに、直接自筆の改訂版を届けて、パート譜を用意させたようです。そうして現在に至るまで、レンタル譜セクションに、改訂版のパート譜が残って現在に至るのですが、自筆の改訂譜が作られたことすら、販売譜セクションには報告されてなかったようです。そのため、改訂版スコアは何十年間も行方知れずで、お節介な日本人が注文をつけなければ、何十年も眠ったままだったかも知れません。

つい最近の作品ですらこの按配ですから、古典作品など言わずもがな。原典版と一口に言っても、作曲者が書き直せば、どれも原典に違いないのですし、当時は今のように簡単にコピーすら出来なかったのですから正しさを問うのも見当外れかも知れません。音楽はかくも確実であって、不確実です。作曲家とて、いつも確固たるものがあって書いているわけでもなく、今日和食が食べたいと思っても、明日は中華を注文しているかも知れないのですし。

そうして受取った、真新しい楽譜の表紙には1978年改訂版と明記してあり、驚くべきことに作曲者は冒頭から曲尾まで、実にていねいに書き直していました。それだけ思い入れと自信があった証拠でしょう。可愛らしい中世の挿絵が挟み込まれていたのもご愛嬌です。見つけてあげてよかった、と思わず独りごちました。これを機に、今後流通するのは全て「改訂版」でしょうから、遠い将来、演奏不可能だった初版を、どこかの物好きが懐かしむかも知れません。

病気で倒れたドナトーニのため新作を補完してくれ、と電話してきたのもマルコでした。思えば来年でドナトーニ没後10年になります。当時ドナトーニは末期の糖尿病で発作を繰り返し、しまいに手も思うように使えなくなって、口述筆記を試したり、シベリウスのソフトを習ったり、書きやすいよう巨大な五線紙を用意させたり、試行錯誤を繰り返していました。そして、試みが失敗するごとに、ドナトーニはいよいよ欝が酷くなり、子供のように周りを困らせていました。補完した最後の2作も、契約履行のため浄書譜の全頁に作者が認めのサインをする筈でしたが、それも出来ず代行しました。あの時も傍らにマルコがいて、じっとサインの終わるのを待っていました。

当時ドナトーニが自作品とともに、気にかけていた仕事があって、それが、バッハの「フーガの技法」の大オーケストラのための篇作でした。バッハの作品も未完ですが、現在残っている作品のうち、未完のフーガを含む最後の3作を、ドナトーニも未完のままやり残しました。オリジナルの「フーガの技法」に、絡みつくような対位法の細い糸が張り巡らされ、2声のカノンは、2声のクラスターの動きに拡大されたりしています。当時ドナトーニは、「フーガの技法」だけは完成させなければ。バッハは実に偉大で、読むたびに感銘をうける。真の天才だ、と繰り返していました。

特にイタリアの作家にとって、大バッハが特別な存在なのは疑いのないところです。音楽学校の和声や対位法の教材は、フーガに至るまですべてバッハであって、コンセルヴァトーリオで10年近く続けなければいけない作曲の授業は、バッハを分析することから始まり、バッハをスタイルでフーガを書くことで完結させられるのですから。

長年各地で作曲の教師をしていたドナトーニにとって、バッハとは子供の頃から刷り込まれてきた、皮膚感覚に近いものだったに違いありません。ここでもバッハの対位法は、まるでドナトーニのモティーフのように、自在に、しかし厳格に、増幅され、襞状に重ねあわされ、ふるえ、絵画に翳を挿すように、遠近感をだしているようにも見えます。

ドナトーニが長く住んでいた、ランブラーテの、薄暗く、整頓の行き届いた縦長の小さな仕事部屋を思い出します。その窓際に、古臭い木製の仕事机が置いてあり、いつも几帳面に、五線紙から鉛筆、数種類の定規が、一寸違わず置かれていました。仕事机の右隅に、いつでも仕事が続けられるよう置かれていた、フーガの技法の原稿が今も目に浮かびます。

ボローニャのアラッラから、次回は是非、市立劇場オケでドナトーニの「フーガの技法」をやりたい、と電話をもらったのは2週間前でした。この「フーガの技法」は、実は全曲を通して演奏されたことがありません。92年にミラノで前半7曲、当時の出来上がったところまで演奏された後は、3年ほど前にトリノのRAIで後半7曲が演奏されたのみだそうです。ですから、どういうものか知るために楽譜を取寄せたのですけれども、大オーケストラのための作品ながら、各フーガがオーケストラのセクションの演奏で、一箇所たりとも総奏がないのです。最初のフーガは金管のみ、次のフーガは木管のみ、続くフーガは弦楽器による演奏で、打楽器、ハープ、チェンバロのフーガへ続きます。このコンビネーションがほぼ1時間、延々と続くのみです。

初日をあけたばかりの「どろぼうかささぎ」も、賃金交渉ストライキのため、5公演レプリカをキャンセルしたほど、色々大変な時期のボローニャ市立劇場です。1時間中、一曲も総奏がないとなると、今後は全オーケストラにソリスト追加料金を支払わなければならず、予算的に全曲演奏は難しそうです。

せめて半分は「フーガの技法」を演奏したいのだけれど、いいかなあ。残り半分は、ドナトーニがマデルナにささげた、「Duo per Bruno」を入れたいと思うんだ。あの、真ん中でフランコが発作を起こし、前半と後半が別の曲になってしまった名曲さ。ちょうどいいじゃないか。「フーガの技法」は、フランコの最も客観的な音の世界をあらわすとすれば、「Duo per Bruno」は、フランコの強烈な表現力、恐ろしいほどの感情表現を具現する代名詞だからね。彼の二面性をよく顕したプログラムになると思うのさ。長年ドナトーニの弟子だったアラッラにとって、没後10年という機会は、途轍もなく意味深いものに違いありません。電話の向こうの声はとても情熱的で、感動していました。

音楽は、鳴ったその瞬間に消えてしまい、目にも見えぬ儚いものですが、触れたものの体内に残ってゆく、何かがあります。鳴った瞬間に理解されなかった、知覚されなかった何かが、時を経て見えてくることもあって、そんなとき、現在まで連綿と、そして有機的につながってきた、人の鎖の尊さに、改めて驚かされたりするのです。

(3月31日ミラノにて)

メキシコ便り(19)アウグスティン・ララ

金野広美

ラテンアメリカはリズムの宝庫だといわれていますが、メキシコはそんななかでも音楽の多彩さにおいては群を抜いています。まずはマリアッチ(これは本来はメキシコ太平洋岸にあるハリスコ州で生まれたローカル音楽の楽団編成のことで、音楽ジャンルのことではないのですが、あのにぎやかな大衆音楽ランチェーラを多く演奏することで、マリアッチとランチェーラは同じだと思っている人は案外多いのです。厳密にいうと、このようにちょっと違うのですが、実際はメキシコ音楽というとマリアッチと定着してしまっています)。このマリアッチで演奏する軽快で伝統的なメキシコの演歌ランチェーラ、ダンス音楽のサルサ、クンビア、ダンソン、革命の中から生まれ歌い継がれているコリード、メキシコ北部で生まれ、国境地帯での麻薬密売や不法越境問題を多くとりあげるノルーテーニョ、低音部をブラスバンドの移動楽器スーザーフォンが担当するお祭り音楽のバンダ、ノルテーニョから発生したポップス音楽グルペーラ、ロマンチックな大衆音楽ボレロ、このほか各地のインディヘナ(先住民)の伝統音楽など、数えきれないほどの音楽がメキシコにはあふれています。

そんななかでもボレロは1948年に結成された男性3人組のトリオ・ロス・パンチョスが、センチメンタルなボレロを洗練されたコーラスで歌い、トリオ黄金時代を築きました。そしてボレロは日本をはじめ、世界に広がりました。彼らは何度も来日し、いまではラテンのスタンダードになっている「ベサメ・ムーチョ」や「ソラメンテ・ウナ・ベス」「キエンセラ」などを大流行させました。

そんなボレロは1886年キューバのサンチャゴ・デ・クーバで生まれました。ここで仕立て屋を営みながら歌手としても活躍していたホセ・サンチェスがスペイン舞踊のボレロをもとに作曲し、「トゥリステッサ(悲しみ)」と題して発表したのがアメリカ最初のボレロです。そしてそれがメキシコのユカタン半島に伝わり、メキシコ・シティーにやってきました。ここでボレロ・メヒカーナとしてさまざまに変化しながら定着し、現在に至っています。そしてこのボレロの作曲家でもっとも有名なのがメキシコ大衆音楽の先駆者アウグスティン・ララです。ララは1900年、メキシコ湾岸の港町ベラクルスから南に約90キロのトラコタルパンで生まれました。ここに彼の生家と博物館があるというので行ってみることにしました。

まずは、メキシコ・シティーからバスで5時間のベラクルスまで行き、バスを乗り換えて2時間。トラコタルパンに着きました。ここはババロア川の中洲にある小さな町で、淡い色調のピンクや緑、黄色、空色のコロニアル建築がかわいらしく並んでいます。そしてそこでは、さわやかな川風が吹き抜ける静かなたたずまいの中を、ゆったりとした時が流れていました。ララ博物館は町の中心部の小さな入り口のある建物の2階にありました。

ララは小さいころからピアノを習い、10代の前半には娼館でピアノを弾いたりしながら多くの女性と浮名を流しました。若いころ、そのなかのひとりの女性に割れたびんで顔を殴られ大怪我をしましたが、それでも懲りずに10回もの結婚、離婚を繰り返した恋多き男性でした。博物館にはその華麗な女性遍歴を示す多くの写真が、壁一面に飾られていました。彼の使っていたという家具やピアノも置いてあり、博物館の人に「弾いてもいいですよ」といわれ、一瞬びっくりしましたが、ちょっとだけ触らせてもらうことにしました。鍵盤はすっかり色が変わり古びていましたが、音はしっかり出ました。幼少のララが懸命にこのピアノに向かって練習していたんだなあ、などと思いめぐらせながら「ベサメ・ムーチョ」の一節を弾かせてもらいました。

彼は作詞も作曲も、また自ら歌いもし、「ソラメンテ・ウナ・ベス」「ノーチェ・デ・ロンダ」など、73歳で亡くなるまで、生涯500曲あまりの作品を残しましたが、その中で私が最も好きな曲が「グラナダ」です。今ではスペインのホセ・カレーラスなどクラシックの歌手もレパートリーにしている世界的に有名な彼の代表作です。この曲はスペイン南部アンダルシア地方の都市グラナダの街の魅力と、混血の女性の美しさを躍動感あふれるメロディーで表現したものですが、彼はそれまでスペインには行ったことがなく、イマジネーションだけでこの曲を作ったということです。

ララの作品はそのほとんどが酒と女性をテーマにしたロマンチックな曲が多いのですが、この「グラナダ」だけは少しおもむきが違っています。グラナダは13世紀から15世紀までアラブのグラナダ王国として栄えたにもかかわらず、スペインのレコンキスタ(失地回復運動)で滅ぼされました。スペイン人はアラブのメスキータ(寺院)を破壊し、教会をその上に造りました。そして一方、メキシコにおいてはスペイン人のコンキスタドール(征服者)がアステカの神殿をことごとく破壊し、その上に多くの教会を建てました。

私はこの「グラナダ」にはララのスペインに対する複雑な心境が投影されているのではないかと思っています。ここでいう複雑な心境というのは、ほとんどのメキシコ人が持っている思いなのですが、彼らはスペインが大嫌いでスペインが大好きです。スペインに征服され、多くの祖先が虐殺されたからスペインが憎い。しかし、今では自分たちの中にはスペイン人の血が滔々と流れているという動かしがたい現実がある。スペインはメキシコ人にとっては憎むべき征服者の国であると同時に、自分たちの愛すべき故郷でもあるわけです。ララの代表作ともいえる「グラナダ」には彼のスペインに対する愛と憧れと憎しみが、メキシコと同じ歴史を持つグラナダへの共感という形で表わされているのではないかと思うのです。

製本、かい摘みましては(49)

四釜裕子

いつかここに書いたかな。オリガミ・ブック(正式呼称は知らない)といって、切れ目を入れない1枚の紙を折って形作る、本文5ページ+表紙の小さい本がある。折る紙の表裏の色違いを本文部分と表紙に使い分けられるので、いわゆる「折り紙」に向いている。特に海外の若い人たちが、折る手順と折りあがったものにイラストレーションや言葉を書き込んだものを「オリガミ・ブック」としてユーチューブで公開しているのをよく見る。このムービーを見ただけでは折り方がわかりにくいというのが「折りごころ」をくすぐり、またちょっとした加減で仕上がりのチリや背の具合が変わるので、私も何度か挑戦したことだ。折り紙上手の人に教えたら、「これ、倍のページが作れると思う」。まもなく彼女は本文が11ページあるオリガミ・ブックを持ってきて、「よみ通り、あるひとくくりの折り作業を繰り返したらできた」と言う。折りあがった本を天地側から見ると、真ん中のページを頂上に小口は山型になり、ノドのところはパイ生地を2つ折りしたような重なりが美しい。彼女が選んだ紙の効果も大きいけれど、歪みやたわみはさながら「古本」のようである。このみごとな「古本」折り紙、いつかみなさまにもお目にかけましょう。

さて製本には、もれなく折りの作業がついてくる。手製本でも機械製本でも、工程の中で誰かが折りの作業を担う。紙を手で折るときは、裁縫箱についていたヘラが重宝する。布に型紙をあててそのラインを記すときに使う白いプラスチック製のあのヘラだ。紙の折り目を上からなでて、U字型の折り目をV字型にきっちり折りきるという感じで使う。あまり力を入れると紙が光ってしまうから加減が必要だが、スキッとして気持ちのよい作業になる。栃折久美子ルリユール工房で製本を習っていたころ、自分専用のヘラを作ったことがある。水道橋の製本工房リーブルで、おしどりミルクケーキのようにカットされた水牛の骨を買い、やすりで使いやすい形に削って亜麻仁油に一週間ほどつけておく。あめ色の、なんだかいかにも「道具」然としたものを手にしてうれしかった。実際は、プロでもないかぎり市販のヘラで十分だ。でもこうした道具をあつらえることはくすぐったいような喜びがあるし、またそれを実際に作ってみることで、想像もつかなかったほうぼうへの興味が広がる。あの工房では、カリキュラム以外の愉しみもたくさんもらった。

機械製本の折り作業はもちろん機械がやるわけだが、面付けして刷り上がった印刷物が一瞬にして折り畳まれるスピードにまず圧倒される。そばで見ていただけではわからないその仕組みを知ると、またさらにおもしろい。正栄機械製作所の「オリスター」という折り機の商品説明から、ちょっと抜粋してみよう。

・8ページナイフ下に左右の羽がつけられ、直角巻・外折が
 ”簡単なセット”と”省スペース”で可能
・標準4枚羽だが6枚・8枚羽型が別註でき経本折巻折に有効
・ハイスピードでカンノン折ができる装置の取付可能

なんのことやら。でも機械の折りの仕組みはシンプル。速度をもって流れて(機械に入って)きた紙を追突によって向きを変えることで「折り」とする。折り山には、空気が抜けてよく折れるように穴も開ける。この追突を上下左右に繰り返すことで、大きな紙が判型ほどに折り畳まれて出てくるわけだ。使用する紙の大きさと判型によって面付けや折り方は変わるし、紙により量により機械の設定はそれぞれ違う。細かな設定やメンテナンスは、機械のオペレーターがそれぞれ担う。今後折り機の見学をすることがあるならば、稼動する前の準備段階こそがお勧めだ。

折り紙でも製本でも折り機械でも、こうして「折り」を考えることは大きな紙を思い描くことである。なんて広くのびやかな世界と思う。

いつもの・ 遅いの・きちっとしたの・そして考えたこと

大野晋

今年のコンサートはチェコの重鎮エリシュカの「わが祖国」から始まった。NHK交響楽団を指揮した休日午後のコンサートは、聴き慣れたボヘミアの音がNHKホールを満たした。あまりのも聴き慣れた音だったので、つい流してしまうところだったがそのオーケストラがチェコフィルではなく、日本のNHK交響楽団だったことに驚きと感嘆を覚えた。後の放送で、演奏会に際していつもにも増して厳しい練習だったとのコメントが付いていたが、あまりにもすっと、ボヘミアの音がしたことに驚いた。普通であることはなかなかに難しいらしい。

今年は行く人来る人ではないが、初演奏会の人もいれば、退任公演の人もいた。神奈川のプロオケである神奈川フィルの音楽監督を務めたシュナイトが退任した。昨年来、崩した体調が本調子に戻らないらしい。川崎のミューザで開かれた演奏会は多くのファンが集まり、盛大に開かれた。その演奏は一言で言うと、非常に遅かった。特にブラームスの交響曲1番は頭の中のテンポよりも数歩遅い展開で、ぎくしゃくした印象はゆがめない。非常に調子の良かったときには遅いテンポながらもしっかりした演奏を残した老指揮者だっただけに非常に残念な思いがした。このときも、そして、その後の音楽監督としてのシュナイトの最後の定期演奏会のよれよれの演奏を聴きながら、演奏の受身の姿勢が気になった。

老指揮者と言えば指揮界でも長老の部類に入るスクロバチェスキの演奏会に行った。シュナイトの演奏を聴いた後だっただけに、同じ老指揮者でもその違いがはっきりとして、非常に奇妙な印象を受けた。作曲家でもある指揮者は非常にメリハリのあるしっかりとした演奏であおるところはしっかりとオーケストラをあおって、いくつものプログラムをこなしていった。

そして、きょう、横浜でインバルの指揮で東京都交響楽団を聴いた。

東京はオーケストラが多い。特に御三家と言われるオーケストラを筆頭に、集客力の大きい楽団がうじゃうじゃしている。そんな中、神奈川のオーケストラが生き延びるには、果たしてどうするべきなのだろうか?と、神奈川フィルの定期演奏会よりもいっぱいになった会場で考えてしまった。

きちんと横浜、神奈川の地に根を下ろし、固定客を作りながら独自の活動をすべきなのだろうが、オーケストラが自らの音・演奏を持っていないような印象がすることに不安を感じる。オーケストラも演奏家である。そこには指揮者によらない自分自身の音があった方がいい。いくつかの地方オケの元気な様子を耳にしながら、そんなことを思った。今シーズンから音楽監督が若手にバトンタッチされることを機会に、ぜひ、新しいオーケストラの音や演奏を作っていって欲しいと思う。

アジアのごはん(28)ダージリン紅茶と水

森下ヒバリ

「ああ、おいしい〜」
思わず声が出た。タイとインドの旅から日本の我が家に戻り、まずはお茶を一杯と、インドのダージリン紅茶を入れて飲んだのである。
「これ、タイでも飲んでたやつ? おいしいね〜」
今回も旅の友のワイさんも言う。
ちなみにこの紅茶は、ダージリンの市場のラディカ&サンという店で買ったTHURBO農園のオータムナル(秋摘み)。香りはあまりないが、味はとてもいい。渋み苦味はほどよくしっかり。
「やっぱり、タイの水で入れたのとは全然味が違う・・」

我が家の水は琵琶湖が水源の京都市の水道水であるが、一応性能のよい浄水器ゼンケン・スリマーを導入してあるので、塩素臭くもカビ臭くもない。同じ紅茶をタイのチェンマイでもバンコクでも飲んでいたが、いやいや、三倍増しのおいしさである。紅茶の味がすーっと舌に口に入り込んでくる。タイで飲んだときの、もどかしい感じの味、ぼんやりとした味、とは大違い。タイと日本で、お茶の味がずいぶん変わるというのは、以前から気付いていた。タイのバンコクでウーロン茶を試飲して、まあこんなものかと買って帰ったお茶が、日本で飲めば香り高くおいしいのである。それはタイの水の質が悪いせいだと思っていた。

去年ダージリンに行って以来、大の紅茶党になった。旅先の宿でも自分でお湯を沸かして紅茶を入れて飲むことが多くなり、旅先での水による味の違いが気になり始めた。なんせ、まずいのである。インドのコルカタ(旧カルカッタ)の水で入れた紅茶も、タイのバンコクの水で入れた紅茶も。同じ葉っぱを、同じ携帯湯沸しで同じカップで沸かして入れるのだから、違うのは現地調達の水だけである。

ダージリンで泊まっていたホテルはデケリンという眺めの良い気持ちのいい宿だ。坂の町のダージリンのクラブサイドにあり、ビルの入り口から三階が受付で、私たちの部屋はさらに三階上の最上階ペントハウスである。エレベーターはない。一階から数えたら、部屋まで106段あった。朝、目が覚めると、窓から朝日に染まる桃色のカンチェンジェンガが見える、こともある。見えた日は、一日幸せな気分。今回ヒマラヤの姿を拝めたのは二日だけだった。山が姿を現さなくても、眺めは抜群にいい。

部屋の洗面所の水で顔を洗ったり歯を磨いたりしてみると、水道の水はずいぶんいい感じだ。飲むとおいしそうである。それまで、飲み水は外でボトルウォーターを買って来ていたが、部屋にも水のポットは置いてある。スタッフにポットを持って水をもらいに行って見ると、水道の水を沸かしている水だという。飲み水にはやはり一度沸かして使うというが、飲んでみると、すっとしたおいしい水であった。ダージリンは標高2000メートル余りの尾根に広がる町だが、水源は13キロ離れたヒマラヤの山並みのビューポイントとして名高いタイガーヒルにある湖とのこと。さっそく水道水を沸かした水で紅茶を入れてみると、ペットボトル入りの水で入れたものよりずっとおいしく入った。高地の湖の水なので、硬水ではないのかも。

コルカタでもバンコクでも、もちろん水道水をそのまま沸かして飲んだりはしない。このふたつの町の水道水は、沸かしてもとても飲む気になれない。水道水は、ホテルやビルでは一度貯水タンクにためられて各家や部屋に配水されるが、その貯水タンクの中の管理状態は想像するのも恐ろしい。

コルカタの水道水が水道管から供給されたてのときはもっとましだろうとは思うのだが、泊まっていたホテルの部屋から出る水は、歯磨きで口をゆすごうとしたとたんに、げぼげぼと体が拒否して吐いてしまったほどである。強烈なナフタリン臭。おそらくビルで独自に衛生管理に気を使って貯水タンクに薬を大量に投入してくれているに違いない。これを飲んでいたら、細菌で死ぬ前に消毒薬で死ぬな。コルカタで飲んでみたボトル入りの水はどれもけっこう渋い味がした。かなりアルカリ度も高い硬水のようだ。おいしいとはいえない。

バンコクの水道水はコルカタほどひどくはないが、やや増し、といった程度である。歯磨きで口をゆすいでも一応だいじょうぶだし、多少口に入ってもおなかを壊したりはしない。でもひどくまずいので、飲み水はやはり買ってくることになる。タイの市販の水には、天然の地下水や冷泉のそのままの水のナチュラル・ミネラルウォーターと、水源は同じようでも殺菌したり調整したミネラルウォーター、そして水道水や地下水を浄水、殺菌して一応安全な水にしたドリンキングウォーターというのがある。

旅行者は多少高くても毎日ペットボトル入りの水を買えばいいが、住人はどうしているのかというと、大きな18リットル入りの水のボトルを配達してくれるシステムを利用するか、アパートや街角に最近増えてきた1リットル1バーツの水の販売機に入れ物を持っていって買うのである。どちらもペットボトル入りの水よりはかなり割安である。水道水を沸かして飲んでいる人もたぶん多いだろう。

タイでお茶を飲むときにもっとおいしく入る水はないかと思い、いろいろな水で紅茶を入れて味見をしてみた。まず、バンコク在住の快医学の徒マーシャ(男)ご推奨のナチュラル・ミネラルウォーター「AURAオーラー」。水はおいしい。少し渋みがあり、いかにも冷泉水という感じ。ミネラル分の多い硬水である。タイ北部のメーリムの産。マーシャによるとこの水がタイではいちばん身体にいいらしい。「オーラー」「ナチュレ」以外のボトルウォーターには殺菌剤が残留しているという。しかし、残念ながら紅茶はあまりおいしく入らない。香りも立たない。味もぼんやりだ。渋みだけが少し出る。

やはり、硬水は紅茶の成分がうまく出ないのか。もっと硬度の高いアルプスの水「エビアン」でも試してみた。水はおいしい。クセもあまりなくさわやかな味だ。ちなみに輸入品なのでオーラーの五倍の値段。しかし、紅茶を入れると白いアクは出るし、水色は濁った感じになるし、紅茶の味もあまり出ない。やわらかい、へなちょこな味である。かすかな酸味も感じる。ぜんぜんおいしくない。つまり、まったく紅茶に向いていない水であった。そのまま飲めばよかった・・。

タイの水は基本的に硬水なので、ミネラルウォーターよりも水道水を浄化しただけの水販売機の水のほうが意外に紅茶がおいしく入ったりして・・と試してみたが、自動販売機の水はいろいろミネラルウォーターを飲み比べてから飲むと、大変まずいうえに、紅茶もかなりまずく入る。どろ〜んとした舌触りになり、ぼんやりとした味。だいたい、ちゃんと浄水できているのか疑問を感じる味だ。今まで、タイにいる時はペットボトルのゴミを出さないように、なるべくこれを飲料水にしていたのだが、不安を感じてきた。自動販売機水はもうやめようっと。

いろいろな水を試したが、けっきょくタイでいちばん紅茶がおいしく入ったのは、チェンマイで飲んだガラス瓶入りのドリンキングウォーター「ナムシン」であった。バンコクではガラス瓶入りはなく、プラスチックボトルの「ナムシン」で試したが、いまひとつ。チェンマイの「ナムシン」は、おそらくチェンマイ近郊の取水地の水でつくったものであろう。こちらは香りも立ったし、けっこうおいしい味が出た。

ダージリン水道水やチェンマイの「ナムシン」が、まあまあおいしく入ったとはいえ、日本に戻って日本の水で入れてみると、これが同じ紅茶かと思うほど、おいしく入る。日本の水は基本的に軟水だ。日本の水道水には蛇口から出る水の塩素濃度が0.1ppm以上という法律があり、現実にはもっと高い濃度の塩素が殺菌のために含まれている。塩素は身体に有害な上に、食べ物の味を悪くする。きちんとした浄水器を取り付けるか、塩素を飛ばす工夫をした水をつかわなければ、いくら日本の水でもおいしくは入らない。さてさて、ダージリンで手に入れた極上の香りの紅茶の封をそろそろ開けようかな・・。

(3)歌謡音楽祭と「A Banda」〜階級を超えた歌

三橋圭介

1960年代半ばのブラジルのポピュラー音楽(MPB)は、50年代のボサノヴァ・ブームが終息に向かい、同時に新しい音楽の波が押し寄せた時期にあたる。そのなかでテレビ・メディアが大きな役割を果たした。エリス・レジーナが司会を務めた「O fino da bossa(ボサの真実)」(ボサ・ノヴァの番組ではない。シコも1965年に参加。)やロベルト・カルロス司会の「ジェーヴェン・グアルダ」などが代表的なものだが、テレビ局は音楽番組の人気に乗じて、さらに視聴者参加型の音楽番組を企画した。それが歌謡音楽祭と呼ばれる番組で、各テレビ局がこぞっておなじような音楽祭を企画し、歌手や歌を世に送り出していった。

歌謡音楽祭のはじまりは1960年にTVヘコールの主催にはじまるが、それが本格化するのは5年後の65年TVエセシオールの音楽祭からで、66年にTVリオ、67年にTVグローボなどがこぞってブラジルの文化としての音楽を取り上げ、歌謡音楽祭は大きな注目と影響力をもっていく。どの音楽祭も形態はほとんど同じで、作曲・歌唱部門にエントリーしたアーティストたち(アマチュア、プロを含む)が観客を前に予選を勝ち抜き、最終選考で作品の質・歌唱力によって順位がつけられる。もちろんテレビでも放送される。ここからボサ・ノヴァ以降のブラジルのポピュラー音楽を担うアーティストが世に出ていったといっていい。そこにはシコ・ブアルキはもちろん、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ミルトン・ナシメント、オス・ムスタンチス(リタ・リー)、トン・ゼー、ジョイスなど、現在のブラジル音楽界の大御所ともいえる人たちがいる。

シコ・ブアルキが歌謡音楽祭に参加したのは、65年のTVエセシオール主催の第1回音楽祭。リオやサンパウロなど3会場でエントリーし、そこで勝ち残った13曲がファイナルで競い、第1位から第5位までが決定された。作詞・作曲・歌でエントリーした人の名前を挙げるなら、フランシス・ハイミ、バーデン・パウエル、ヴィニシウス・モラエス、ゼ・ケチ、ロナルド・ボスコリ、ウィルソン・シモナール、エドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、ロベルト・メネスカルなど、そうそうたる人たちで、シコは作曲家として「Sonho de Um Carnaval」をエントリーし、歌は友人のジェラルド・ヴァンドレがうたった。サンパウロでの第1ラウンドに登場し、4曲の入選曲のなかに入り、最終選考が4月6日リオで行われた。

「12人の競争相手がいた。ぼくはリオに来て、祖母の家に滞在した。ぼくの歌には問題があった。というのもアレンジは音が低く、ヴァンドレに都合が悪かった。オーケストラは彼の声を包み隠し、うたっている声をきくことができなかった。それは惨たんたるものだった」。第1位になったのはエドゥ・ロボとヴィニシウスの作詞・作曲でエリス・レジーナのうたった「Arrastão」。第2位はバーデン・パウエルとヴィニシウスの曲だった。

少し横道にそれるが、前回書いたようにシコはこの時期「ボサ・ノヴァの奴隷」から抜けだそうとしていた。「Tem Mais Samba」からはじまるシコの発展は、後にかれが語ったように、バーデン・パウエルとヴィニシウスの共作、エドゥ・ロボ、ジョルジュ・ベンが大きな影響を与えた。「Sonho de Um Carnaval」で、シコはまだ自分の音楽をつかみ取ってはいなかった。前回書いたように「Pedro pedreiro(石工のペドロ)」でそのきっかけをつかんだ。ボサ・ノヴァでも古いサンバでもない何か、それをつかむきっかけとなったのはジョルジュ・ベンの影響からだった。ベンは63年にボサ・ノヴァとは異なるアプローチでデビューし、パーカッシブな独自のギター奏法でポスト・ボサ・ノヴァの代表格となった。「Pedro pedreiro」はそのパーカシッヴな伴奏、歌い方など、ベンの影響が感じられるが、そのあと「Olê Olá」が続き、シコは自分の発見した音楽の道を発展させていく。そうしたなかで歌謡音楽祭への出場は、成功を手にするための大きな手段だった。シコは翌年1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭にエントリーする。

音楽祭には作曲家としてカエターノ・ヴェローゾ、ジルバルト・ジルがエントリーしたが、開催される前、シコはこの二人とトルクアット・ネト(トロピカリアの詩人)に曲をきいてもらっている。エントリーする曲を迷っていたシコは「Morena dos Olhos D’Agua」と未完の「A Banda」の2曲をきかせる。ジルとトルクアットは後者を押した。別の日にきいたカエターノだけは前者を好んだ(カエターノの「A Banda」への評価に関しては、次回「シコとカエターノ」で予定)。結局、「A Banda」でエントリーする。そしてそれがかれの人生を大きく変えることとなる。

歌をうたったのはナラ・レオン。シコとの出会いは、ナラがコパカバーナのボサ・ノヴァの聖地とされるマンションに招待したことにはじまる。そこでシコの歌をきき、彼女が次にレコーディングする3曲(「Olê Olá」「Madalena Foi pro Mar」「Pedro pedreiro」)を選んだ。そうした関わりからシコは音楽祭の参加をナラに打診した。彼女は一人でうたうことを希望したが、音楽祭のディレクターはデビューしたてのシコを売り出そうとしていたのか、まずシコがギターの弾き語りで全曲うたい、そのあとバンドが入ってナラが再び全曲をうたうという方法をとった(エントリー上では作詞・作曲になっている)。

この第2回目となる音楽祭は60年の第1回から大幅に規模を拡大し、3回3日に渡る37曲で予選が行われ、第1ラウンドにはカエターノ(作詞・作曲)、第2ラウンドにはシコ、ジル(作詞・作曲)、第3ラウンドにはエドゥ・ロボとルイ・グエッラ(作詞・作曲)などもいた。これらの人を含め、10月10日、12曲でファイナルを迎えた。第1位を獲得したのはシコとナラの「A Banda(楽隊)」とジェラルド・ヴァンドレとテオ・ヂ・バーホスの「Disparada」だった(第5位はジルとエリス・レジーナの歌による「Ensaino geral」)。

音楽祭でシコとナラがうたう「A Banda」の映像を見ることができる(http://www.youtube.com/watch?v=HEqkkSE3V2E)。当時の曲の人気と熱気が伝わってくるもので、タキシードと蝶ネクタイ姿のシコがまずギター弾き語りでうたい、その後でバンドをバックにナラがうたう。シコがうたいはじめると会場の聴衆が手拍子でうたいはじめ、バンドの演奏では総立ちで会場全体の大合唱となっていく。

音楽祭の2週間後、ナラが曲をレコーディングし、一週間で莫大な売り上げを記録した。レコード評には「『A Banda』はすばらしい。なぜならそれがブラジルだからだ。それはブラジルの人々の集団的無意識なのだ」とある。「MPB―A HISTÓRIA UM SÉCULO(MPBの100年史)」を書いたR.C.アルヴィンは、その著書のなかで書いている。「『A Band』はブラジル・ポピュラー音楽の歴史のなかで先例のない現象だった。ブラジル・ポップ・チャートでその年の最後まで残り続け、安っぽいバーから文学アカデミーにいたるまで、あらゆる社会階級でこの曲が話題になった」。

こんなエピソードもある。シコはミナスジェライスに招待されたとき、飛行機を降りると10のバンドが曲を演奏して到着を祝った。また、大統領のセレモニーでも曲が使われている。大スターとなったシコはまだ22歳、サンタクルス大学の建築学科に在籍していた。曲は楽隊の行進を見ているときに心に浮かんだものであり、伝統的なマルシャによって書かれている。

  「A Banda (楽隊)」

  でも魔法は解け
  甘い夢も終わった
  楽隊が通り過ぎたあとで
  すべては元にもどった
  それぞれはそれぞれの場所に
  愛の歌をうたいながら行く
  楽隊が通り過ぎた後で

          (荒井めぐみ訳) 

この曲は、1966年の記念すべきシコの最初のLP「CHICO BUARQUE DE HOLLANDA」の第1曲目を飾ることになる。陽気な旋律やリズムがふとした瞬間に影を引いていく。それこそが日本語で「郷愁」と訳される、サウダーヂというブラジル人独自の感覚なのだろう。詩の内容はシコ自身の個人的な感情を歌にしたものだが、庶民の希望をうたった「Pedro pedreiro」もそうだが、一般民衆からインテリ層まで幅広い対話を可能にするものだった。エリートの家庭に生まれたが、「集団的無意識」を揺さぶるブラジルの人たちの階級を超えたシコへの賛美は、それがゆえに、ほかの誰よりも政府の検閲という厚い壁が立ちはだかることとなる。

夜にやもりが本格的に啼きはじめる前

仲宗根浩

演奏会の手伝いにいった。沢井箏曲院三十周年記念コンサート、沖縄での公演。前日、空港へお迎えに行き、そのままリハ会場へ。糸締め道具、木槌、膝ゴム、各色そろった場見り用のビニールテープ、木槌は持参。十七絃の雲角が輸送のためずれていたので、手ぬぐいを当て、木槌で叩き元の位置になおす。当日リハーサルで使う椅子の高さ、立奏台を置く位置を決め、ビニールテープで場見って行く。楽器をセットし楽器のがたつきを膝ゴムで止め、転換、次々と曲は進められリハは終わる。本番になり、こちらもスーツに着替え、ポケットの中には膝ゴムしこたま入れ、演奏会は進行する。袖で三絃を使う曲を見ていると、十二年前の忠夫先生が亡くなったという電話を受けた日の午前中のながれを思い出し、思い出したことに自分で驚いていた。やがて曲は終わり、次の曲の準備にはいる。会は休憩をはさみ、何ごともなく進む。

昔と舞台袖で立奏台を組むこと、楽屋で楽器を出し、それぞれの楽器に柱をたてることは変わらないけれど、草履を出し、着物を襦袢と重ねていっしょにかけ、襟止めが着物にちゃんと付いているか確かめ、袴をひろげ、その上に帯を置き、演奏会が終われば着物をたたみ、しまう仕事が無くなった。

演奏会が終わり、懇親会に出る。比可流先生は中座し、最終便で帰京。タクシーを拾う通りまで送る。三絃を持っていると「大丈夫だよ、持つから」、「いいよ、ひかるちゃん」と昔の呼び方で返してしまう。

しばらくして、一恵先生を宿まで送る。送りながら近況を話しながら昔の仲間の話しをしながら。宿の玄関で挨拶し別れる。宿に行く途中、アイスクリーム屋さんがあったので家へのお土産に二種類、1パイントづつテイクアウトする。そういえばさっき、いっしょに前を通ったのに、そのとき寄ればよかった。しくじったな。先生、今度はアイスクリーム忘れないようにしますから。

寄りあい

高橋悠治

西欧民主主義の起源とされている古代アテネでは、奴隷や女はもちろん広場での討論に参加することはできなかった。そこでは武器を持った男たちがことばをもち、そのなかでもいちばん暴力的な人間が指導者になり、全員がそれにしたがうのが「民主主義」だった。demos + kratia は文字通りデマゴーグの暴力で、民主主義と暴君政治はおなじことだった。いまアメリカが武力で世界にひろめようとしている民主主義もそれと変わらない。プラトンのような知識人はいつも民衆の自由な討議と自己決定には反対だった。世界がいまこのようである理由やその歴史を理解すると、現実はあるべくしてこうなっていることを知らない人間がそれを変えようとする、そんな試みは無知から生まれるもので、それが可能だと思うのは理性的でない、ということになる。知識人は、知識のないひとびとを軽蔑しながら、うごいていく現実は見ないために、ためこんだ知識を盾にする。かれらは権力にすりよったり、自己保身だけを考えている。アナキスト人類学者David Graeberはそう書いている。

ひとびとが自分たちの問題を対等な立場で話し合い、合意にいたる参加型の民主主義はMarshall Sahlinsが研究したポリネシアにも、Graeber自身の調査したマダガスカルの村にもあった。鶴見良行の東南アジア村落民主主義も、宮本常一が『忘れられた日本人』に書いている村の長老たちの寄り合いもそうだ。ロシア革命当時のソヴィエト(会議)やローザ・ルクセンブルグの評議会もそのような理想からはじまったかもしれないが、代議制は権力の母胎となって、会議は指導部の翼賛機関になった。議会制民主主義も、選挙の時だけは、できもしないし、やる気のない約束をし、選ばれれば権力争いと利権しかない職業政治家をつくるだけなのに、なぜひとびとは裏切られるために投票し続けるのか。

イギリス出身のマルクス主義哲学者John Hollowayは、メキシコのサパティスタ蜂起のあと、反権力ではなく非権力のまま日常の抵抗を続けながら世界を変える、という「Change the world without taking power」を書いた。革命で権力をとれば、反権力がこんどは権力に変質していった、それが20世紀の社会主義の教訓だった。こういう社会主義体制でなければ、資本主義体制内での反対党のささやかな利権のために、ひとびとの苦しみをなだめながら、革命を延期し続ける社会民主主義しかなかった20世紀に、1968年は一つの裂け目をつくったはずだった。

だがその後、1970年代からはじまる金融資本主義のゆっくりした崩壊のなかで、抑圧された反体制エネルギーはちりぢりになり、分裂し孤立して消えていった。指導ではなく、合意にもとづく民主主義は、フェミニズムや他の周辺の運動のなかで生き残っていて、1994年のサパティスタ蜂起でやっと表に出てきた。1999年のシアトルから2001年のジェノヴァへの反グローバリズム抗議行動の後、それはアフガニスタンとイラクの戦争のなかで、また見えにくくなっている。

民主主義はいつも、ここではない場所に見える蜃気楼のように見える。たとえその場で体験したとしても、記憶のなかの追体験しか残らない、幻想ではなかったか、それを永続的なものとする保証はどこにもなく、意識的に言語化し制度化することは、どこかそれを裏切るものではないかと疑ってしまう。それはしょせん前近代の伝統社会にさかのぼるか、辺境や周辺の小さなグループでだけ実現可能なやりかたで、グローバル都市や現代文明のなかでは、その規模から言っても全体会議など不可能だし、やはり代議制にゆずるよりないと言うのだろうか。日常の抵抗は、社会の表面に顕われると力を失う陰のはたらきで、はっきり定義もできないような非自覚的な次元にとどまるべき性質のエネルギーなのか。

寄りあいについて書いた宮本常一の文章を読むと、長老たちや女たちは、ふだんはお互いにかなりの距離に散らばって住んでいること、家長や村の公的な立場から引退した自由な身分であること、何時間も、時には何日もかけて、ある問題を話し合うというより、あらゆる生活の話題を雑談のようにつづけていて、主張をぶつけて討論するよりは、そのことについて思い出す例や知識を交換しているようで、それにしても、知っていることのほんの一部しか言わない配慮をしているらしい、論理をつきつめていくことや、結論を出すことは歓迎されず、合議を形成するというのではなく、自然に合意がはかられるまで待つ、その感覚が消えないうちに、共有する、そういう手続きのほうがだいじで、決定された事項は、いわば共生感覚を掛けておく釘のようなものに見えてくる。

だが、その記述自体も、忘れられたことがら、失われた生活を、外側から推測しているだけで、内側にいて体験する感じとはちがうものだろう。その感じをことばにしてみれば、ゆるやかな時間、ひろびろとした空間、自分のちょっとしたうごきをとおして現れてくるひとびとの、沈黙の思い、といったものかもしれない。

ゆきみち

くぼたのぞみ

ゆきみちを
歩いてかえる
ちいさな家まで
ゆきふみしめて
靴のうらでふまれたゆきが
きゅきゅっと固まり
赤いゴム長 
パリンと割れる

ゆきみちを
歩いてかえる
ちいさな家には
山羊小屋もあって
小暗いすみで
生まれたばかりの
子山羊も眠る

大人たちの顔にまだ
ときおり笑みが浮かんだころは
ポプラの枝がかたかた笑い
重たい雪を抱く蝦夷松も
ひそかな燠を埋めていたよね

ゆきみちを
歩いてかえる
ピンネシリの山のむこうに
オーロラ色の陽が沈むまえに
いそいでかえる
切れかかるミトンの紐に
かじかむ指で
キーボードたたいて
走ってかえる
荒れくるう
暗い記憶のトンネル抜けて
消えかかる
ちいさな家へ

(2)シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった

三橋圭介

ブラジルを代表する社会人類学者セルジオ・ブアルキ・ジ・オランダは、「ブラジルの根源(ブラジル人とは何か)(Raíze do Brasil)」(1936)の著者で、民族学者ジルベルト・フレイレや作曲家ヴィラ=ロボスなどとともに、ピシンジーニャ、ドゥンガなどのショーロやサンバ作・演奏家などと交流をもち、サンバがブラジルの国民音楽となっていく過程で重要な役割を果たした。そのかれと音楽を愛し、ピアノも演奏した妻マリア・アメリアの第4子として1944年6月19日、リオ・デジャネイロのサン・セバスチャン病院でフラシスコ(シコ)・ブアルキ・ジ・オランダは生まれた。

2歳でリオ・デジャネイロからサンパウロに引っ越し、8歳までそこに暮らした。シコはサッカーに熱中する普通の少年だった。カトリックの小学校にかよい、8歳のとき、父のローマ大学赴任とともに、家族でイタリアに移る。ローマに旅立つまえ、サッカー好きの少年シコは、祖母に宛てた手紙で将来「ラジオ・シンガーになる」と書いた。ローマでは学校でイタリア語と英語を学び、2年後の1954年にサンパウロに戻るとき、先生はこのように別れの言葉を述べたという。「あなたが成長したら、私はきっとF・B・オランダの書いた物語か小説を探すことになるでしょう」(実際、かれは後にいくつかの物語や小説を書き、名誉ある賞も受賞している)。サンパウロではカトリックの学校サンタ・クルス中学に通い、このときのリオ生まれということから「カリオカ」というニックネームを与えられる。

少年時代のカリオカは読書家で、大学入学まえにトルストイ、カフカなどを読み、とくにギアマランレス・ローザがお気に入りだった。しかし問題児でもあった。車を盗んだこともあるが、「不適切な行動」にたいしてメスがふるわれたのは別のこと。

14歳のとき歴史の教師の勧めで、独裁政権を支持する超国家主義の教会に入会する。教会に足しげく通い、ボランティア活動などを行う。しかし子どもらしさを失い、大好きなサッカーさえ止めてしまう。その狂信ぶりを心配した両親は、母の出身地のミナス・ジェライスの全寮制の学校に強制入学させる。当時の記録によると、母は次のように息子カリオカの様子について分析している。「簡単に影響され、秩序を乱し、目立ちたがる。現状では、協調性に欠け、年齢や状況にふさわしいものに関心をしめさない」。しかし、サンパウロに戻ったカリオカはサッカーや音楽好きの子どもに舞い戻った。

最初に音楽をきいたのはみんながバーバと呼んだ乳母ベネディッタ・モッタのラジオだった。それは家族が10周年を記念してプレゼントしたもので、そこからサンバやマルシャ、ボレロなどたくさんの音楽が流れてきた。なかでも「サンバやカーニヴァルの音楽が好きだった」。そのほかイズマエル・シルヴィアのサンバやカーニヴァルの歌、ポール・アンカやエルヴィス・プレスリー、ジャック・ブレルの歌を好んだ。その後「リトル・リチャード、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、またジャズではマイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソン、ミンガス、コルトレーンなどもきいた」。

「かれの音楽的なインスピレーションはどこからきたのか?」という問いに母アメリアは「生活の音から」と答えている。この時期、ラジオやレコードを含めメディアの発達と共に音楽が流行し、自宅には父の友人の外交官で詩人のヴィニシウス・モラエスがよく遊びにきていた。かれは子どもたちに物語や自作の詩や歌をきかせてくれた。そんな空気のなか、カリオカは多感な少年時代を過ごした。そしてボサノヴァがあらわれたとき、それはモダンなブラジル音楽として「自分の手の届く何か」だった。

1959年、15歳のときレコードでジョアン・ジルベルトの歌をきき、かれのようにうたったり、ギターを弾きたいと思うようになる。後年述べている。「カエターノ、ジル、エドに会ったら、みんな最初に『Chega de saudade』(1959)をきいたときのことをいう。ぼくの世代はジョアン自身よりジョアンのことを理解した世代だった」。ギターを手にしたときジョアンが先生だった。最初のギター(bossa velha)は姉のミウーシャから取りあげた。「(最初、)たぶん自分でコードを作りはじめていた。というのもジョアン・ジルベルトのギターを再現することができなかったからだ。ジョアンの演奏をきいた通りにやろうとしていた。でもまったく違って響いたが、無意識に作曲家になろうとしていた」。

高校時代、16歳のときに歌をつくりはじめた。そのとき「ギターよりも詩のほうがひどかった」。そのなかの「最悪の1曲、『Anjinho de papel』」は、「ジョアン風の歌にカトリック学校の影響をプラスしたようなもの」だった。最初に人前でうたったのはサンタ・クルス高校で、ギターを弾き、自作の歌をうたった。最初のころ自分の歌しかうたわなかったのは、うたうことができなかったからだ。サンパウロではパーティでみんながギターを弾きボサノヴァをうたっていた。かれは「ギターについて何にも知らないことを思い知らされた」。

当時、音楽で生活することなど想像すらしなかったし、そもそも、母アメリアは子どもが音楽家になることに賛成ではなかった。大学に行かなければならなかった。ヴィニシウスと同じく外交官なるか、それとも作家になるか、しかしどちらのコースも選ばなかった。医者でも技術者でもビジネスマンでもない。消去法により建築を選んだ。シコはニーマイヤーのモダニズム建築(ブラジリアの都市計画)に熱中し、建築家にあこがれた。それゆえ1963年サンパウロ大学(FAU)建築科都市計画学部に入学。しかし大学のカリキュラムより音楽に熱中した。

大学生活は学生センターで友人たちとギターを弾き、歌をうたった。グループの名は「samba」とアルコール臭い息を意味する「bafo」を合わせた「Sambafo(サンバフォ)」。翌年の1964年にクーデターが起こり、学生センターが閉鎖され、大学に行くのを止めてしまう(実際には1967年2月に退学)。実際、クーデターの前からかれは社会科学かジャーナリズムのクラスのある大学に編入しようと考えていた。「建築家になるなんて信じていなかった。ばくぜんとジャーナリストなりたいという考えがあったのは、書くことがすきだったからだ」(1973年の演劇「Calabar」のポスターの裏面に、緻密な想像の都市の地図を描いている)。しかし音楽への情熱がまさった。

その後すぐ、9歳の夢の通りラジオ・シンガーとなった。ラジオ・アメリカの新しい才能を発掘するプログラムで、このときジョアンを真似てうたった。しかしジュカ・シャヴィを真似ていると勘違いされた。後にこういっている。「ジョアン・ジルベルトのように演奏できるのは、ジョアン・ジルベルトだけだ」。1964年10月にはテレビにも登場した。シコは「Marcha para um dia de sol」をうたった。最初にレコーディングされたシコの曲で、歌はM・コスタだった。

12月にはミュージカル「Blanço do Orfeu」のために「Tem mais samba」(「Chico Buarque de Hollanda」)を作曲。しかしこのころはまだ公衆の前でうたうことを避けていた。1965年のTVエセシオール主催の第1回歌謡音楽祭に「Sonho de um carnaval」(作詞・作曲)で参加したときは、ジェラルド・ヴァンドレがうたった(この歌は第5位までに入賞していない)。5月3日にはサンパウロのパラマウント劇場のショーに出演。ナラ・レオン、エドゥ・ロボ、タンパ・トリオがメインのコンサートで、シコは第1部にトッキーニョ、ボッサ・ジャズ・トリオなどと出演する。

その年には、サンパウロの小さなレーベルRGEと契約し、シングル盤として「Pedro pedreiro」と「Sonho de um carnaval」をはじめて自らの声で録音する(このEP盤のジャケットの右上にはBOSSA NOVAと書かれている)。「『Pedro pedreiro』を書いたとき、ボサノヴァの真似でなく、ほんとうに自分のものを書いた気がした。そこから何かがはじまった」。シコは別のインタヴューで次のようにいう。「盲目的にボサノヴァを熱狂した。その後、最初に影響を受けたサンバを再び取り上げた」。「Pedro pedreiro」はボサノヴァの影響から脱し、ボサノヴァの和声やリズムとブラジルのマルシャやショーロなどの伝統を総合することに成功したことを意味している。そしてこの年、TVヘコールの人気番組「O fino da bossa(ボサの真実)」(いわゆるボサノヴァの番組ではない)の参加者の1人としても登場した。

「シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった」と、かれはいった。こうして、1965年、姉のミウーシャとジョアン・ジルベルトが結婚したこの年、カリオカは作詞・作曲・シンガー、シコ・ブアルキへと大きく変貌を遂げようとしていた。「何かがはじまろう」としていた。

意見ヌワカランナトーシガ

仲宗根浩

なんだあ、この暑さは。部屋の中は二十六度。先月の中頃、寒くて思わず小さなファンヒーターのスイッチを入れる日もあったのに二月になったらこれだ。たまらず出しっ放しの扇風機の羽、埃を落としスイッチを入れる。はあ涼しい。天気もよくない中、湿った空気は洗濯物も乾かしてくれない、いまは梅雨か。

先月から続いている、おばさんの音声ファイル編集、バックアップの作業、ついでにもうやり取りがなくなったメールアドレスの整理と、しばらくパソコンいじりが続いていたころ、子供のカラーボックスの修理依頼がくる。久しぶりに曲尺を出し、カラーボックスの中板の寸法をはかり、材料のシナ合板に鉛筆で線を入れる。むかし、働いていたところではよく営繕仕事があったので余った三六(三尺×六尺)の合板は車に入るよう職場にある道具を使い、自分で切り、もらったものがまだまだある。電動丸鋸があればなあ、とおもいながらノコギリでギコギコやり、カラーボックスを分解(これは電動ドリルがあるのですぐ済む)し切ったものをあててみて、細かいところはヤスリをかけ収まるよう大雑把に仕上げる。作業が終わり道具箱の中を整理していたらキャスターが四個出てきた。お、これでギターアンプ、ベースアンプ兼用の簡単な台車ができる、と考えをめぐらしながらアンプの横幅、奥行きの寸法を測り曲尺で適当な大きさ材料に鉛筆で線をひく。うーん、長めに切るところがある。電動丸鋸欲しい。径の小さいのでいいんだけどなあ。でもめったに使わないものなんてお許しが出るはずがない。少し涼しくなったらまたギコギコやって、やすりとドリルでちゃちゃっと片付けてしまおう。

こんな二月、わたしの大好きなギタリストが逮捕される。するとレコード会社はかつて在籍していたバンド及びソロアルバムの出荷停止、大手のネット販売店も「一時的に在庫切れですが、商品が入荷次第配送します。」という表示を出す。音楽の作品自体にもペナルティを科すような対応にどうしようもない違和感を感じながら、何気なく見ていたテレビの沖縄芝居の字幕付き放映。「アサバン」という単語を「朝飯」、「シマァー」という単語を「島(離島)」という意味で字幕が出る。方言で話すことも達者でなければ、人様に語ることができる知識もないけれど「アサバン」はお昼ご飯を、やり取りの流れから発せられた台詞に含まれる「シマァー」という単語が村落を意味することぐらいはわかる。お金払って見ている番組、そこらへんはちゃんとしようよ、おもいながら二年後の七月二十四日までには我が家からテレビ受像機というものは無くしてやる、と意を決する。

とびっきりくさい靴を履いて歩こう

さとうまき

昨年の12月14日、ブッシュ大統領(当時)がイラクを訪問、マリキ首相と一緒に記者会見しているときだった。ムンタザル・ザイディという記者が、靴をブッシュ大統領に投げつけたのである。「イラク人からの別れのキスだ。イヌめ」と叫んで最初の靴を投げ、続いて「これは夫を失った女性や孤児、イラクで命を失ったすべての人たちのためだ」と片方の靴も投げつけた。TVで見ていると、靴は見事ブッシュ大統領の顔をめがけて、真っ直ぐ飛んでいった。ブッシュ大統領も、見事に見切って最小限の動きで靴をかわしている。これが、顔に命中して流血でもしようものなら、ザイディ氏はそのまま射殺されたかもしれないが、すべてが、絶妙のタイミングだった。すでに、アメリカの選挙では、国民はオバマを選び、長かったブッシュ政権に別れを告げていた。

さて、この事件の反応はというと、一部報道では、「ジャーナリストとしては、はずかしむべき行為だ」ともっともらしいコメントを出すイラク人のインタビューが流れていたが、9割以上が、「よくやった!」という反応だったと思う。イラクでは、アメリカが始めた戦争で、10万人以上の一般市民が殺され、親を失った子どもたちは590万人にも達するという。

2003年、アメリカの空爆で足を汚したムスタファ君当時8歳の男の子がいた。今では14歳になっている。どう思う?ときいてみた。
「彼がやったことは、ブッシュが私のおじさんを殺し、私を傷つけ多くのイラクの子どもたちを殺したことへの復讐になりました。僕には、何も出来ないから、彼がしてくれたことに感謝します。ただ、あまりにも世界中で多くの人を殺してきたアメリカの大統領です。靴を投げられただけじゃ、償えないですけど。ホワイトハウスを去る前にこのような事件が起こり、世界がよくなればいいなと思います。」

この復讐という言葉で思い出した話があった。911で息子を失った、セクザーさんがイラク攻撃をするという話を聞いて、「爆弾に自分の息子の名前を書いてほしい」とお願いするのだ。国防省は、「ジェイソン・セクザーさん、私たちはあなたを忘れない」と書いた爆弾をイラクに落としたという。その話を聞いて、お父さんは、「うれしかったです。復讐になりました」とインタビューに答えている。しかし、その後、ブッシュ大統領自身も、イラクは911とは何の関係もなかったことを認めた。2003年2月、国連でイラクが911と関係があるという証拠を説明したパウエル国務長官(当時)にいたっては、うその情報に操作されてしまった自分を恥じ、「一生の不覚」とまで言っているのだ。このおとうさんは、それでも、「自分のしたことを過ちだとは思わない」と開き直り、「アメリカはテロとの戦いを続けるべきだ」といい続けるのである。第一相手が違うのだから、復讐になっていない。

たまらないのは、イラクに落とされた爆弾で怪我をした人々。当然、アメリカに復讐を思う。「テロとの戦い」とは、まさに、このような茶番で、2001年から続けている。ムスタファ君は、未だに足がうまく動かない。ムスタファ君の気持ちを代弁するジャーナリズムはあったのか? 時には、靴を投げるというのもありだと思う。とびっきりくっさい靴がいい。

2009年1月、アメリカはオバマ新大統領が就任。ブッシュ大統領はホワイトハウスを後にすると、駆けつけた市民から「ヘイ、ヘイ、ヘイ、グッドバイ」と唱和する声が、空へ向かって響き渡った。スポーツで勝利チームのファンが敗者に浴びせかけるからかいの歌だという。思えば、ブッシュ大統領は、8年前の就任式のパレードで卵を投げつけられたのが始まりだった。さびしくホワイトハウスをさり新しい時代がやってきた。

3月20日、イラク戦争からまもなく6年目を迎える。私は3月13日には日本を出発し、イラクの子どもたちの成長を振り返りながら、現場からイラク戦争を考え直そうと思います。ブログでレポートしていきます。http://kuroyon.exblog.jp/ よろしく。

メキシコ便り(18)

金野広美

メキシコには毎年10月にカナダから約4000キロの道のりを、1ヶ月あまりかけて越冬するためにやってくるモナルカ蝶の自然保護区があります。毎年1億数千羽はやってくるといわれているその場所はメキシコ・シティーから車で約3時間、ミチュアカンにあるアンガンゲオの森です。メキシコにいる間に一度は見た方がいいといわれて、クラスメート8人で行こうということになりました。同じクラスの米国人のミシェルの友人がやっているという旅行会社で1月31日のツアーを申し込みました。すると前日になり人数がオーバーしているためだめだといわれ、それなら次の週にと延期し、お金も彼女に渡しました。これで大丈夫だと安心していたら、またしても前日に、今度も人数オーバーでだめになったといわれました。どういうこっちゃと、わけがわからないまま、また次の週もあるといわれましたが、みんな頭にきて、それならレンタカーを借りて運転手を探して自分たちで行こうということになり、すぐに動きだしました。

結局10人乗りの車を米国人のブライアンが借り、当初行く予定のなかったオランダ人のバスティアンが道を知っているというのでむりやり運転手の交代要員に頼んで翌朝8時に出発することになりました。しかし、当日約束の場所に行っても待てどくらせど車が来ません。そして延々と待つこと2時間、やってきたのはブライアンが運転する5人乗りの小さな車一台。「ええーどないなってんのん?」と聞くと、前夜ブライアンが予約した10人乗りの車が、翌朝レンタカー会社に8時までに戻ってこず、待っていたらしいのですが、いつまでも待つわけにはいかないので、同じ料金で小さな車2台になったというのです。「ほんまにここはメキシコやなー」とみんなあきれ果てながら2台に分乗しました。それにしても交代要員にとバスティアンに来てもらっておいてよかった。もし頼んでなかったら行けなくなるところでした。

先週同じ場所に行った友人が交通渋滞で7時間かかったといっていたので、ひょっとしたら、今から行っても保護区は閉まってしまって見られないのではないかと、みんな心配しましたが、とにかく行ってみようと10時を過ぎていましたが出発しました。すると本当に運がよくて、まったく渋滞がなく1時過ぎには森の入り口に着きました。

たくさんの観光客がうろうろする中で、子供たちが竹の杖を5ペソ(50円)で売っていました。杖を売っているということは、これが必要になるほどの山道だということ? うーん、一瞬買うかどうか迷いましたが、ここは見栄をはって我慢することにしました。でもインド人のアンドレアと韓国人のテナはすぐに買い求めました。沿道には食堂や土産ものを売る店がずらりと並んでいます。食堂ではマリアッチを演奏する楽団がにぎやかに歌っています。土産ものが気になりながらも私たちは保護区に急ぎました。そして入り口で35ペソ(350円)を払い、頂上めざして歩き出しました。そして山道を30分ほど登ると少しずつ蝶が飛んでいるのが見えてきました。みんな期待に胸ふくらませながら、しんどい山道をがんばって登りました。

道は乾燥していてすべりやすく、やっぱり杖を買えばよかったかなーと少し後悔しながらも40分ほどたつと、小さな水の流れがあり、いるわ、いるわ何百羽もの蝶が水を飲んでいます。みんな一斉に流れに近づきシャッターをきりました。蝶たちは人が近づいてもまったく動揺することなく悠々と水を飲んでいます。そしてそれからもっと上に20分も登ると、視界が開けて大きな広場になっている場所に着きました。そこではおびただしい数の蝶が空高く飛びまわり、もみの木の枝という枝にたわわにぶら下がっています。蝶の色のオレンジと黒が混ざり合って、まるですべての木が枯れ葉になって、ゆさゆさと揺れているようです。蝶の重みで折れる枝もあるそうで、とにかく一面蝶だらけです。私はこんなに大量の蝶を見たのは初めてだったので口をついてでてくるのは、ただただ「すごい」という言葉だけ、ほかにはこの光景を形容する言葉が見つかりません。普通は蝶々というとかわいいとか、きれいとかという感想になるのですが、ここまでたくさんいるとそんな言葉はどこかに飛んでしまい、密集する小さな命の凄みすら感じてしまいました。クラスのみんなもただ口をあんぐりあけて空を仰いでいます。空中を埋め尽くした蝶の乱舞に、言葉もなく立ちつくしているようでした。

モナルカ蝶は学名をオオカバマダラといい、日本でも見られるアゲハチョウの一種です。8月にカナダとアメリカの国境地帯のロッキー山脈を飛び立ち、強風時は羽をたたんでV字にして直風を避け、弱風時は羽を広げて風に乗りながらやってくるそうです。ここミチュアカンにはモナルカ蝶の大好物の唐綿(とうわた)があるため、はるばる渡ってくるのです。モナルカ蝶はここで冬を過ごしたあと春になると繁殖し、その命を終えます。そして生まれた2代目が3月にカナダへと飛び立ちます。カナダで3代目、4代目と繁殖を続け、5代目がまたメキシコに旅立つというのです。まったく誰も知らない道を4000キロも旅して、必ず同じ場所で冬を過ごすのです。この行程を大昔から寸分たがわず続けているというのですから、もう不思議としかいいようがないですよね。それにつけても、何とけなげできちょうめんなモナルカ蝶なんでしょう。ほんと感動ものです。なのにそれに比べて私たちの朝のドタバタ騒ぎはいったい何?。メキシコ人よおねがいだから、もうちょっとモナルカ蝶を見習ってよ、と言いたくなった1日でした。

オトメンと指を差されて(9)

大久保ゆう

最近はメディアで触れられることも多くなった我らがオトメン。しかしまだまだ出たてなのでその呼び方も様々です。草食系男子だとか、お嬢マンだとか。……特に後者のネーミングはどうにかならないでしょうか。いささかセンスに欠けるんじゃないかと……。

草食と呼ばれてもピンと来ないし(表面的なところだけじゃない?)、お嬢マンって特撮モノの雑魚怪人みたいで変だし(てゆうかお嬢様の何たるかを何にもわかってない! 乙女とお嬢様は別の生き物なのです!)、やっぱりオトメンがいちばんしっくると思うんですけどね、当事者としましては。こうしてメディアに書かれ始めると、何だか違うなと思うのが中にいる人間の常ですよね。「この人は(若者のことを)わかってない」みたいな感覚が出てくるもので。

先日新聞に載った草食系男子の記事では、「女の子と飲んで終電がなくなると、ラブホテルに行って寝るけど、別にセックスはしない」みたいなことが書かれていたわけですが、当事者から見ると「この記事10歳か20歳くらい上の人がテキトーに書いたんじゃない?」という疑問が湧いてきます。

まず「終電なくなる→泊まるとこない→安いからラブホテルで代用」という思考自体が古いんですよね。今の若者だったら、友だちとオール(一晩越えること)するならカラオケかマンガ喫茶だと思います。わざわざ妙な空気になる場所へふたりで行くくらいならね。ちなみに今のマンガ喫茶にはちゃんと個室があって、仮眠もできるようになってるので。シャワーもあったりしますよね。仮眠だけならこっちでじゅうぶん。

もちろん女の子の友だちとふたりでオールしても何もしませんよ(襲うとかおかしいでしょ)。それは外でも自宅でも同じで。そこは当たってます。そもそも恋人以外の人に欲情するってことがよくわかりません。獣じゃないんだから、ちゃんと恋愛しましょうよ。

あと草食系男子で首をひねるのは、ラクダとかヤギみたいな、その「おとなしい」「ひ弱」っていうイメージ。まだそういう旧態依然なステロタイプのままなの?とか思います。もしかするとそういう人も本当にいて、私が草食系男子じゃなくてオトメンなだけ、という線引きもできるのでしょうが、とりあえず個人的なオトメンの定義からは外れます。

だって、オトメンはいつも心のなかで「燃えている」のですから!

というのは初回にも少し触れましたが、オトメンはオンオフのスイッチが極端というか、ものすごくメリハリがあります。仕事やスポーツではバリバリ、趣味ではゆるゆる。パブリックなところでは熱血で、プライヴェートなところではまったり。そこはもうぴっしりと分けます。

オトメンが女性陣に頼りにされるのは、その「実は熱血」「実はハードボイルド」みたいなところもあると思います。普段は女友だちと同じような感覚でつきあえるんだけど、いざというときにはちゃんと男の子的な役割で頼ることもできる、みたいな。草食系男子だとそういうところがなさそうです。

仕事なり会議なり学級会なり何なりで、誰も動かずしんとしてるときに、だんっと机を叩いて「何やってんだお前ら」みたいな感じで動き出すのは、実はオトメンですよね。あるいは円滑に動いているように見えるプロジェクトの裏でめちゃくちゃ暗躍(?)というか目立たずに支えているのはオトメンだったり。意外と「オレがやる!」というタイプが多いような。

大事なところで怒ったり泣いたり熱くなったり。それを実際に表に出すこともあれば、心のなかだけでやってることもあります。

基本的に、私と同年代の人のキーワードというか行動原理というか、常に「やりたいことをやる」「自分は自分、他人は他人」みたいなところがあるように思います。そういうことが強く意識されていて、それだけに色んなひずみができたり、問題が起こったり。

もちろん誰が考えてもわかることですが、世の中には「やらなくちゃならないこと」があって、「自分」と「他人」が完全に孤立した状態で社会が成り立つわけなくて。(当たり前じゃないですか! でもその当たり前のことをわかってない人が多すぎるんですよ!)

私の出会ってきたオトメン仲間っていうのは、そういう「誰もやらないけど、やらなくちゃいけないこと」をあえてやってる人っていうのが多かった気がします。それこそ怒ったり泣いたり熱くなったりしながら。ものすごく大変であるわけですが。

プライヴェートがゆるかったり自己愛的だったりするっていうのは、もしかするとその反動かもしれないし、そっち側が結果として草食系男子に似ているっていうことならあるのかもしれません。

というわけで!

ここでオトメンと草食系男子のあいだに大きな線を引きます。

・草食系男子【そうしょく・けい・だんし】
 表裏がなく、内省的で繊細。争いや活動に消極的で、和を尊び、自分の趣味や世界を大事にする。

・オトメン【おとめん】
 裏表があり、対外的には活動的で積極的で社交的で時に破壊的。ただし自分の領域に入ると極端に自己愛的でまめまめしい。

……あれ? こんなのでいいのかな? でもどっちも「男らしさ」なんていうものに疲れているのは一緒のような気もします。そういえば、草食の反対は肉食ですが、それ以外にも「昆虫系男子」なるものが生息しているようですよ。色々あるんですね。

ああ、そう考えると男友だちにそれぞれ当てはまる人がいるなあ……ということで、オトメンの男付き合いに関してはまた次回にでも。

製本、かい摘みましては(48)

四釜裕子

「仕事は面白いものである。嬉しいものである。又愛すべきものである。金縁の美しいものが出来上がる時職人は最も大切に取り扱う。………金箔が付いていて一方は表紙を付けるために糊がついている。金を汚さない為汚れた糊のついた手を頭の毛で拭う。朝は綺麗に梳って来たものを仕事に懸命になると髪の毛も着物も、手拭いの代用とするほど熱中する」。これは『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(本山美彦/ビジネス社/2006)という本のあとがきに引用された、賀川はる子さんの自叙伝『女中奉公と女工生活』(大正12)の一部だ。ここではさらに、「製本工が又その書物の製作に対して、熟練の技量を自覚する時に之にも誇りがあるものである」との言葉を引いて、誇りを持って個々に仕事をすることが集合体としての社会の品格になると書いている。

賀川はる子(ハル)は横須賀生まれ(1888-1982)、伯父・村岡平吉(1859-1922)が経営する福音印刷合資会社を縁に賀川豊彦(1888-1960)と出会い結ばれ、ともに社会運動家として活動する。福音印刷とは、上海で印刷技術を学んだ平吉が横浜に戻って聖書などを主に手がけていたようだ。大阪市総合博物館の資料によると創業は1898年、マニラ、シンガポール、タイ、広東、台湾、満州、モンゴル、アメリカなど50カ国の活字を揃えていたという。冒頭の引用に戻ると、十代のハルには仕事はきつかったに違いなく、天金された聖書の表紙張りなどの作業を、憧れや喜びや誇りの言葉にとどめることが大切だったのではないかと思う。

編集者の植田実(1935-)さんが書いた(「ときの忘れもの」ウェブサイト/植田実のエッセイ/2006.10)文京区小石川柳町の製本屋でバイトしていたころの話を読み返す。その路地を歩くだけで、丁合や表紙張りや箔押しなど分業された本づくりの過程を全て眺めることができたこと、また、その後植田さんは編集者としてたくさんの本をつくってきたにもかかわらず、「もの」としての本づくりに一要員として関われたことをどれだけ喜びとしていたか、そして、工場で仕上げた本に発行日として印刷されているその日付が、まさにその喜びの日々のまぎれもない記録であることを、「唯一の忘れ形見である」と記すのだ。47年ぶりに植田さんはその地を訪ねる。「あの頃の私はそこに通うというより、日々その小さな営みに引き寄せられていったのである」

製本屋で働いていたといえば、マイケル・ファラデー(1791-1867)も知られている。橋本毅彦さんの近刊『描かれた技術 科学のかたち』には、イギリスの王立研究所でのハンフリー・デーヴィの講演に感銘を受けたファラデーが、幸運にも実験助手となり、一年半の大陸旅行への同行ののち1833年に研究所の教授となり、60年のクリスマス講演「ロウソクの科学」につながったことが簡単に記されている。デーヴィの助手になるためにファラデーは、講演をまとめたノートを製本し、それを手に申し出たと、後藤幹裕さんが出していたメルマガで読んだことがある。

「日本語は亡びるのか?」を特集した「ユリイカ」(09.01)で長谷川一さんが書いた「イッツ・ア・スモールトーク・ワールド 『綴じられる』という運動へ」の中にも、印象的な一文がある。「綴じを裁ち落とせば、書物は幾葉ものカードに解体されてしまう」。逆の発想は常にあったが、ページをカードとは! そして、本(書物)とカードを「書き言葉」と「おしゃべり」の場ととらえ、その関係についてこう記す。「排他的な実体としてみるのではなく、『綴じられること』をめぐるひとつの運動の二つの様相としてとらえてゆくことはできないか」。

製本は、憧れと喜びと希望と誇りの営みなのだ。

とろーん

大野晋

趣味は何かと言われたらなんと答えるだろうか?
クラシックです。(いえ、聴くだけですけど)いやいや、それでは狭すぎますね。
音楽です。今度は広すぎるかな? それでも、クラシックに拘らず、ジャズにポップス、シャンソンにタンゴ、ボサノバに演歌にえとせとらと、なんでも聴くので広すぎると言うことはないのだけれど、ジャズのCDだけは手を出さないように心しています。(クラシックだけでもCDがあふれているのに、これでジャズを集め始めたら寝る場所が消滅してしまうので)
映画です。そういえば、最近、見てないですね。絶対的に映画を見る2時間という時間が不足しています。
ゲームです。うむむ。ちょっと前にはゲーム評論ができるくらいにたくさんあったのですが、最近のゲームについていけなくなってしまって、リタイアしました。(どうしても、ゲームを「どう処理しているのかな?」とか、シナリオを分析しながら見てしまうんですね。完全な職業病です)
散歩です。いや、絶対に運動不足です。
植物観察です。うーん。これは趣味じゃないかも? かといって、職業でもないんですけど。

興味のあるものは他にもあって、それをやるには時間がありません。最近では、むしろ、何か一つの趣味を仕事にすべきだったなあと後悔することしきりの日々。。。

そういえば、写真という趣味もあって、これも他の例に漏れず、しこたまカメラだの、レンズだのがたまっています。ときどきカメラ屋の店頭から処分になっている安いレンズを拾ってきては、レンズのふちから中を覗き込んで、とろーん!としています。なぜか、レンズから見た世界が好きなんですね。なので、同じ画角(なんミリという奴です)のレンズがたくさんあります。とろーんとしていたり、しゃっきりしていたり、レンズによってクセがあって、なかなかに道楽の世界が深い。

いやいや、道具集めだけじゃなく、ちゃんと使ってますよ。(たぶん)

あと100年くらい、時間が欲しい!

などと言っていたらひょんなことから、写真が一枚展覧会に飾られることになってしまいました。
場所は。。。ないしょ、にしておきましょう。

では。失礼。

しもた屋之噺(87)

杉山洋一

10年前の98年11月、シチリアはカターニアとメッシーナに出掛けたときの日記。
「一人でぼうっとメッシーナから対岸のカラーブリアを眺めていると、堰を切ったように昔が思い出されて、視界がくぐもって見えた。祖父が網元だったので、子供の頃、沖に出てはきす鱚や鯒を釣り、たらふく食べた。あの海がここまで繋がっているのだなと思う」。

10年ぶりのシチリアは、それは寒くて驚きました。カターニアの空港は底冷えし、椰子の木は寒々しく風にゆれています。初めに訪れたメッシーナは周りが暗くなるほどの土砂降りで、雨宿りしようと入ったメッシーナ中央駅に流れるアナウンスも、「天候不順のためパレルモからの列車は予想不可能の遅延」、という耳を疑うものでした。タクシーに乗りたくとも、駅前に並ぶ6台のタクシーはどれも客引きつきの怪しげな白タクで、結局、路面電車に飛び乗り、ホテル近くで降りたところまでは良かったのですが、誰に道を聞いても、あちらへ行けこちらへ行け、この辺りではない云々と散々振り回された挙句、文字通りのドブネズミとなり、おかげでしつこい風邪に悩まされることになりました。なにしろシチリアはイタリアの南の端で、普段とても暖かいため暖房設備が整っていないのです。ですから、前日パレルモで積雪したほどの強い寒波に見舞われると、ミラノより余程身体が凍えてしまいます。

でも、メッシーナへ向かう車中、タオルミーナ前後だったか、長いトンネルを抜けた瞬間、眼前一杯にカラブリアが広がったときには、言葉を失いました。不思議なもので、思わず「ああ、イタリアだ」と心の中で叫んでいました。茫とした海の向こうにせりあがるカラブリアの姿は、山の頂に美しい白い雪も降りかけられて、それは美しいものでした。

今はフランスに住んでいるピアノのトゥーラの叔父さんがメッシーナ郊外に住んでいて、10時半過ぎ演奏会が終わると、メッシーナで夜半に開いているレストランもないからと自宅へ遅い夕食に招いてくれて、まるで10年来の友人のようにもてなしてくれたのには感激しました。料理からワインに至るまで、全て彼の自家製で、それは美味でした。たかだか一粒オリーブを食べて鳥肌が立ったのは、後にも先にもこれが一度きりの経験です。2時過ぎに漸く食後のもいだばかりの瑞々しいオレンジをいただき、メッシーナへ戻りました。

シチリアで朝食にジェラートを挟んだパンを食べるのは知っていましたが、せいぜい暑い季節の床しき愉しみ程度に想像していたのです。ところが翌朝、寒空の下、老いも若きもメッシーナ風かき氷に嬉々として巨大なパンを浸しているのを見て仰天しました。あなたもお上がんなさいと随分勧められましたが、あの寒さでは食べられたものではありませんでした。

翌日の演奏会はカターニアのビスカリ宮殿の豪奢な大広間で、気がつくと暖炉に火が入っていました。訥々としたジェルヴァゾーニ作品を演奏しているときなど、パチパチと静謐に薪のはじける音が沈黙に忍び込み、独特の余韻を醸し出します。ゲーテも訪れたフリーメーソンの秘密集会場、儀式会場だったビスカリ宮殿の大広間は、目まぐるしい程のロココ装飾に一面覆われています。言われるがまま祭壇の左右に据えられた石柱を見れば、なるほど確かに逆さまに誂えてあって、フリーメーソンに纏わる魔笛や39番などのモーツァルト、特に変ホ調の神秘的な響きが染み通ってくるようです。

翌日ミラノに戻って間もなく、ライヒやタン・ドゥーン、フェルドマンなどの練習のためボローニャと往復することになりましたが、今やミラノ・ボローニャが1時間足らずで移動できるようになったことに改めて驚き、ボローニャがミラノより余程寒いのも意外でした。気がつけばボローニャの演奏家たちと会うのも実に1年ぶりで、時間の早さに舌を巻きます。当初はボローニャ大学で開いていた演奏会が、いつの間にかコムナーレ劇場のフォワイエになり、何も知らぬまま演奏会に出掛けてみれば、今回はコムナーレ劇場の舞台で演奏会を開いていて、厳しい世情の折、こうして堅実に発展している友人たちに心から感嘆します。

今回初めて演奏する作曲家ばかりでしたが、それぞれにとても違って演奏は新鮮でした。ライヒなど中学生の頃よく聴きましたが、実際演奏してみると、独特の感動が演奏者全員の裡に、静かに沸きあがってくるのです。没我して音に溶け込むと自然に立ち昇る空気があって、聴衆も心を動かされるのでしょうか。驚くほど長い間、拍手は止みませんでした。

ミラノに戻って、幼稚園の門前、子供たちが無邪気にカーニバルの紙吹雪をかけ合う姿に思わず頬が緩みました。

(2月27日 ミラノにて)

n次元の……――翠の石室53

藤井貞和

カゼの犬、カゼ引きの犬、
風のいぬ、ユキの犬

雪のいぬ、
カゼも、ユキも、ポチも、コロも

降ってこい、天より
降りたくない、帰りたい

アメのポチ、アラレのコロ
砂あらし、mine(鉱山、私の、地雷)

My my my mine? (私の 
私の 私の 何?)

(「絵画は鏡の向うのn次元の明証となるだろう」〈瀧口修造〉。古書店の目録から、ページ1枚欠、と断り書きのある画集を購入した。欠けているページを、古書店はどうして確かめられたのか、どうしても分からなくて、夕方を過ぎるまで、いつになく熱心に画集を見てしまった。欠けた1ページが見つからない。欠けているのだから、それでも探してしまう。「6の目の骰子を振りながら、その実は7の目をもとめているのではなかろうか?」〈同〉。あの1ページは、いたずら好きの古書店主が私へ仕掛けた7の目? 探した画集は{骰子の7の目}シリーズの一冊。)

方法からの離脱

高橋悠治

クセナキスの音楽に惹かれてピアノ曲を委嘱したら、『ヘルマ』の楽譜が送られてきた。確率論と集合論を勉強するように言われ、確率論からはじめ、電子音楽『フォノジェーヌ』もクセナキスとはちがう、自分で考えた確率論的方法で作曲した。その後ヨーロッパでは数理論理学の本をよんだ。ウィトゲンシュタインの『論理哲学要綱』では、論理学からはずれて存在のふしぎに向かっていく後半が好きだったし、ブローウェルの直感論理学やクワインに興味を持った。排中律の否定と、この黒犬やあの白犬がいるばかりで「イヌ」というものは名前にすぎないという唯名論に共感していた。

でも、その頃の作曲では、確率論や古典論理を応用するコンピュータ使用に向かっていた。確率論的には、細部の不確定は全体の構図を変えることがない。論理的には、体験は信条を変えないということになるだろう。文章を書くと、ことばのリズムを切りつめていくと、ひとつひとつちがう現象からつくられる予測不可能な空間ではなく、抽象化した表現、定義やアフォリズムのように見えてくる。

目的があれば、そのための方法がある。使われた後も、方法だけが残るならば、それがいずれはさまたげになる。いっぽうで、体験をかさねると、全体の網はすこしずつゆるんでいき、それとは知らずに別なものになっていく。言語ゲームや家族的類似は、そういうゆるやかなつながりへ向かう傾向を指しているのかもしれない。そこでは日常の時間のはたらきがたいせつになる。休まずにつづけるのではなく、中断しながら、すこしずつすすめる。ちがうものがはいりこんだり、逸れていってもかまわない。流れは低いところをみつけながら、自然に海へ向かう。空間の枠だけでなく、時間もゆるやかなものになる。

うごかそうとするのではなく、遠くからのささやきにうごかされて、すぎてゆく。

時代は変わる?

さとうまき

昨年、12月27日、イスラエルがガザを空爆した。3週間の攻撃で、1300人のパレスチナ人が死んでしまった。私がパレスチナに住んでいたとき、3年間の死者が3000人弱だったことを考えると、いかに今回のイスラエルの攻撃が激しいのかが想像できる。JVCのスタッフがガザ入りして写真をHPに掲載している。
http://www.ngo-jvc.net/

もやもやしながら年が明けてしまった。
1月10日、ガザ攻撃に反対する集会があるというので、出かけていった。東京タワーの近くの教会は人であふれているのに驚いた。多くの日本人も、こういった虐殺にはもう我慢できないと言った様子。直前に行われたピースウォークには1500人が参加したと言うからすごい。
ちょうど、前の日に長崎でラジオ番組の収録があって、塚田恵子の「この人、この歌、ああ人生」という番組。いきなり、一曲選んでくれといわれた。なんとなく演歌っぽい。僕は、せっかくなので、アラブの音楽を紹介したいと思ったのだが、プロデューサーが、「局にCDがない」という。最初から出演がわかっていたら用意してきたのだが。とくにお勧めは、RimaKhcheich(リーマ・カチェイチ)。ちょうど、バレンタインのチョコレートの話もすることになっていたので、マイ・ファニーバレンタインのアラビア語バージョンを紹介したかったのだ。リーマはレバノン人。HPで視聴が出来る。
http://www.rimakhcheich.com/

しばらく、時間をもらって、考えていたのだが、これと言う曲が出てこず、
「やっぱり、月並みだけど、ジョンレノンのイマジンですかね」
ガザの騒動があって、今まで封印していた私の中の「パレスチナ」がよみがえってきた。というのも、2002年に僕は、イスラエルから入国拒否をされてからというもの、パレスチナのことを思うのはやめていたのだ。「パレスチナ人の人道支援を行う」=「テロリストを助けようとするあなたはつまりテロリストです」というわけだ。

  想像してみよう、国なんてないと 
  そんな難しいことじゃない
  殺すことも誰かに殺されることもない
  宗教もない世界のことを
  想像してみよう、僕らみんなが
  平和な人生を送っている姿を

イスラエルとパレスチナは国を巡り、殺し合い、大義のために死んでいく。当時、僕はパレスチナの子どもたちと一緒に、皮肉に満ちてこの歌を歌った。大人たちは、「ハマスにしれたら」と心配していたが、曲を聴かせると、パレスチナの大人たちもコンサートをやろうと盛り上がった。まだ、紛争が激しくなる前の2000年の夏のことだった。その後は、子どもたちが描いていた理想の平和は、むなしくも爆弾で壊されて言った。

子どもたちもそうなのだが、私自身が、どこかで夢や希望に蓋をしてしまっていた。ラジオのインタビューを受けながら、この歌を聞いて、希望の光が見えてくる。夢を失ったら、もっとひどいことが起こる。そう思うと、なんだか、元気になってきた。

さて、毎年、好評の限りなき義理の愛大作戦のほうはと言うと、募金してくださった方に差し上げるために作った70000個のチョコレートがほぼ品切れになりそうな勢い。こんな不景気にも、イラクの子どものために募金してくだる方がたくさんいる。オバマじゃないけど、YesWecan!

東京の日比谷で、2月13日から18日まで、イラクの子どもたちの絵画展を行います。会場にはチョコレートを500個用意しました。ぜひ、絵を見に来てください。
詳細はこちら http://kuroyon.exblog.jp/

べリンガーの時間――翠の石室52

藤井貞和

東洋図書の学習図鑑シリーズを、
読み耽った人は多かったろう。
八木健三さんの『地学学習図鑑』には、
べリンガーの人工化石のことが出てくる。

ベリンガーは若者たちが泥岩で造って、
山に撒いておいた「化石」を採集して、
本に著した。 『化石図譜』だ。
最後に自分の名前が古代文字で書かれた石をみつけて、
いたずらであることに気づき、
今までの自説をすっかり変えなければならなかったが、
時すでに遅かったという。

八木さんの本には、
──「時はすでに遅かったのである」とだけある。
時がすでに遅いとどうなるの?
少年時からの私の疑問だ。

最近見つけた、昭和十八年に台湾で出版された、
早坂一郎さんの『随筆地質学』には、
ベリンガーのその化石図譜から、
見返しや「化石」が載せられていて、
〈時すでに遅く〉のあとのことも書いてある。
──「時既に遅く、
彼の図譜はあまねく学界に流布した後であった」と。

このたび矢島道子著『化石の記憶』が出て、
ベリンガーの「嘘石」、人工化石事件の真相が詳しく書かれている。

……

──『鉱物学習図鑑』、
──『両棲爬虫学習図鑑』、
──『動物学習図鑑(獣類篇)』、
──『進化学習図鑑』は、同シリーズの神戸(かんべ)伊三郎著。
神戸さんは生涯に七十冊出した、文字通り博物学の見本みたいな人。
少年時、奈良市内にいた私は、神戸さんの家を訪れて、
採集した石を見せた。 神戸さんは病床で仰向いて寝ており、
手だけが動くのである。 かれの掌に私は石を乗せる。
のろのろと手が動いて、顔のうえに持ってゆき、
じっと見てから、「黄鉄鉱!」。
また掌に石を乗せると、のろのろ手が動き、じっと見て、「蛍石!」。

(『図書』1月号に「嘘石・博物学」として出したのを、やはり詩集版みたいに改稿しておきたい。)

オトメンと指を差されて(7)

大久保ゆう

あんまりお金はないのです。

大学院修士課程に在籍していた頃の収入は奨学金という名の借金が月8万、風呂トイレ空調なしで賃料月2万の一間に住み、残りで学費やら生活費やらを何とかしていたのです。博士課程に進んでからは収入が翻訳業の月10万となり、増加分で風呂トイレ空調のついた部屋へと移り、1年休学することにしてただいま学費と研究費を貯めている最中です。

そんなわけなので日々節約であり、もちろん毎日まめまめしく自炊をしているのです。お米をとぎ野菜を切って、安く上げるために自動的にベジタリアンな生活です。買い物にも細心の注意を払うのです。新聞を購読するだけの余裕がないので折り込み広告は手に入りません。しかし近所にある3軒のスーパーには、それぞれ品揃えに特色があり、ものの安くなる曜日やタイミングに法則性があるのです。それを頭にたたき込んだ上で、人から譲り受けた自転車に乗りつつ効率の高い買い物をするのです。忘れずにポイントカードも貯めます。1日の食費は朝昼夜合わせて500円までです。お菓子は1日50円までです。お酒は1週間で300円までです。(けれどもなかなか月10000円の壁を崩せずに苦心しています。)

お弁当も作るのです。今流行の弁当男子です。もともと朝起きてから頭がしゃきっとするまで時間がかかる方なので、朝早く起きてお弁当を作っているとだんだんと目が冴えてくるのです。中身は昨晩の夕食の残り物に、半額セールのときに買った冷凍食品を一品付けたり、サラダを添えたりするだけです。楽ちんです(1食200円超えません)。作る料理は季節によってかなりの偏りがあります。なぜなら野菜は安くなる旬のものしか買わない(買えない)からです。野菜高騰良くないです。旬なのに安くならないと悲しくなります。

自転車に限らず部屋のなかはもらいものだらけです。冷蔵庫に電子レンジといった電化製品に始まり、仕事机1台と棚が10個、少し前には食器棚までいただきました。そのほかの必要なものもまずは安く買い集めるところから始まるのです。翻訳家的なもので行くと辞書などがそうです。古本屋さんや古本市で目を皿のようにして探します。するとだいたいの辞書は500円以内で購入できるのです。何語の辞書でもそうです。「オックスフォードカラー英和大辞典」8巻セットでも頑張れば500円で手に入るのです。「ランダムハウス英和大辞典」でも200円です。

本は図書館を利用します。図書館がなければ生きていけなかったと思います。それでも年間通して借りる冊数は250冊程度です。常時借りている図書館では10冊で3週間。行って返しては借り、行って返しては借りを繰り返すのです。プラスたまに使う図書館があって、そのもろもろと計算するとだいたいその数になります。青空文庫は合計に数えていません。映画も実家でNHKBSとWOWOWを延々と録画してもらいます。そのビデオを下宿に持ち帰って、ノートパソコンにつながったビデオデッキから視聴するのです。

服も高いものはなかなか買えません。なので安く買った(あるいはバーゲンに参加した)上でどうすればいい感じになるかを工夫して考えるのです。組み合わせの闘いです。基本的にはワンポイント良いものをつけると、全体が良いように見えます。男の子の場合、意外と靴とか大事です。あとはドレスコードを微妙にずらすことも大切です。それから最終的にはオーラです。気合いで頑張るのです。ファッションにおいて思いこみがいちばんの核なのかもしれません。

節約は研究においても同じです。国内のことを研究するときは図書館で何とかなりますが、いかんせん分野がマイナーなため、国外のことをやるとなるとさすがに洋書を購入することとなるのです。しかし専門書なのでペーパーバックでも1冊4000円くらいします。今は円高とはいえ、いつも円高であるわけではないのです。そこで独自編み出したのが中国ルートでの購入なのです。実は私の専攻の「翻訳研究」は中国でかなり盛んで、そのため洋書のリプリントがかの国で出回っているのです。そのリプリントを輸入業者経由で注文すると、紙や製本の質は落ちるものの1冊500〜1000円ほどで手に入ります。注文に正確な書誌データが要りますがインターネットの時代なので問題ありません。

パソコンも中古なのです。持ち運び用のB5ノートパソコンは2万円です。机の上に据え置かれているA4のノートパソコンはDVDドライヴつきのものを4万円で3年ほど前に購入しました。ソフトもフリーソフトだらけです。さすがにATOK(&一太郎)とウイルス対策ソフトは買いましたが、それ以外のものはフリーソフトです。映画の字幕をつけるときも動画を編集するときも、PDFを作るときも自分のサイトを更新するときも、みんなそうです。翻訳の原稿を書くときもB5モバイルで作業するときはフリーソフトのお世話になります。この原稿もフリーソフトで書かれています。

で。

節約してばっかでは気が詰まるので、たまに出かけるのです! 行き先は北山のマールブランシュ(ケーキ)だったり一乗寺の中谷(和スイーツ)だったり四条河原町にあるゴディバのカフェ(チョコ)だったり! 2日分の食費に相当する甘いものをここぞとばかりにいただくのです!

はむりはむはむ(食べる音)。
ふわああええあえあうううう(至福)。
涙が出るほど美味しい(感動)。

(注:すべて心のなかの声です。)

そして今日も私は甘いものの奴隷。その日のために日々節約にいそしむのです。……って、こんなゆるゆるだけがオトメンじゃありませんよ! 誤解してはいけません、むしろオトメンの心は常に燃え上がっているのです。というわけで次回はそんな話題です

(追伸:最後に「それでも私は質の高い翻訳と研究を目指すのです!」とか言えば格好良かったのにね、私。でもそれはお金があろうとなかろうと当たり前のことだと思うので省略。)

製本、かい摘みましては(47)

四釜裕子

雨が続きます。1月30日18時ころの東京の気圧は1016.8hPa、気温は11.5℃、湿度が62%で、この日いちにちの日照時間は0、降水量は26.0mmでした。日中は「あっそうだ!」とかなんとかひとりごち、乾ききった室内から用もないのに小雨降る中に飛び出してさぼるによい気候、しかし夏は寒くて冬は暑いってどういうことか――古いビルの空調には困ったものですが、文句言ったり息抜きするのもまんざらではないのです。以前、水なし印刷工場を見学したら、工場内はすべて温度湿度が管理され、匂いも音も埃もなく明るくきれいで驚きました。有害な廃液が出ないので環境にいい印刷方法だとことさらにフューチャーされていたころで、職場環境にも配慮したクリーンな会社ですと誇り高く説明を受けいいなあと思いましたが、あまりの快適さに息苦しさも覚えました。

九鬼周造さんの「製本屋」という詩(『文藝論』1941 岩波書店)には、パリの製本屋が描かれています。曇りの日は糊の乾きが悪いので、親方が弟子に注意をうながす場面ではじまります。

 「頁を調べたか、表紙をうまく貼れ
  糊の乾きが悪いな、今日は曇天」
  小僧を振り向く親仁の着た半纏
  ダルトア街、製本屋の主人は彼れ

  背革の金字がぼんやり浮く黄昏
  出来上つたのはモリエール、ラフォンテン
  コントの政治体系、リトレの辞典
  終日はたらいて外へ出るのも稀れ

  百貨店へ通つてる十九の娘
 「お父さん」と呼ぶと仕事の手を休め
  につこり笑ひながら食卓に坐る

  気さくなおかみを亡くしたのはこの夏
  永久に帰る筈のないものを待つ
  巴里の夜、聖心寺の鐘が鳴る

一行を十八音節で揃えて脚韻をふんだこの一篇を、鈴木漠さんは九鬼自身による押韻詩の作例として「ほほえましいソネット」とどこかで紹介していましたが、abba、abba、ccd、eedを眺むるよりまず、紙や革、金箔、糊、刷毛などの製本道具に囲まれた作業場や大切に用意された食卓や寝室のようすが、グレーのなかから金、赤、白などの色といっしょに一日のそしてもっともっと長い時間をまとって浮かび上がってきます。豊かでも華やかでもないけれど、人が丁寧に暮らすことの好ましさを深く感じるのです。

製本屋とは、どんな道具で作業をしているのでしょう。スペインの製本家、ジュゼップ・カンブラスさんが2003年にまとめた『西洋製本図鑑』の日本語版(雄松堂出版 2008.12 6,600円)で、それをかいま見ることができます。スペイン、フランス、英、ドイツ、イタリア語版がすでに出ており、製本や本の修復にも詳しい市川恵里さんが翻訳、製本家・書籍修復家の岡本幸治さんが監修しています。大判(305×235mm 160ページ)でオールカラー、西洋の製本の歴史と道具や材料、作業工程などが多くの写真と的確な解説・吟味された翻訳で紹介されています。ビジュアルで見せるかノウハウの説明かに偏らず、また、過去のものとしてあるいは芸術作品にも偏らず。写真にうつる使い古された道具とジュゼップさんの序文を読んで、それで九鬼周造の「製本屋」を思い出したことでした。

……製本とは、手書きもしくは印刷された文書を綴じて、日々の使用に耐えるように表紙をつけて保護することである。……
……製本を教えて20年、プロの製本家として35年間活動する中で、愛書家や生徒たちからよせられた数々の意見や質問、悩みから本書は生まれた。……(「序文」抜粋)