去年の秋の手前味噌

斎藤晴彦

「ウーマン・イン・ブラック―黒衣の女」は、ロンドンはウェストエンドの一角にあるフォーチュンシアターで20年余り上演されつづけて現在に至っております。で、不肖私はこの作品の日本語ヴァージョン(川本曄子・訳)に15年前から出演しております。無論15年ぶっつづけで上演しているわけではありませんが、再演、再々演を繰り返し、私としてはずいぶんのステージ数になっていると思います。2008年も、7、8月に大阪のドラマシティーから始まり、福岡、広島、仙台、札幌、名古屋、新潟、渋谷のパルコ劇場でやりました。そして最後に思いがけず本家のフォーチュンシアターで5ステージではありますが上演が実現したのであります。驚きました。そして実に楽しかったと言うのが本音です。共演者の上川隆也さんが素晴らしい演技をしたこともあって、自画自賛ですが、実にやって良かったです。そこで、賞味期限もとっくに過ぎてしまい、味もにおいもなくなってしまった去年の秋のロンドンで味わった手前味噌のお話を恥ずかしながらいたしたいと思います。
9月4日(木)16時35分、ヒースロー空港着。機内眠れず。宿舎のウォルドーフ・ヒルトンへ。少し休んで近くにあるフォーチュンシアターへ。現在上演中の「ウーマン・イン・ブラック」を観る。こちらではこの作品、かなりの数の俳優たちが演じてきている。終って、ホテルのレストランで上川さんと食事。

9月5日(金)、案の定眠れず。時差ボケ開始。天気も曇り時々小雨時々薄陽。肌寒い。14時から一幕の稽古。演出のロビン・ハーフォード氏と再会。舞台はパルコ劇場よりも小さく、客席は三階席まであり、舞台に向けて急角度で迫っている。舞台上の小道具等は日本での時とほぼ同じ状態に設定され、スタッフも当然同じメンバー。舞台はかなりの斜角状態。多少の修正をしただけで一幕の稽古終了。対訳の文字の明るさも気にならず。終って、上川さんと彼のマネージャーの松岡さんと近くのシーフードレストランへ。生牡蠣旨し。

9月6日(土)時差ボケ最高潮。二幕の稽古、10時から12時半まで。上演中の「ウーマン・イン・ブラック」がマチネーのため。こんな体調不良の時って不思議と芝居はうまくいくもの。終って、演出助手の三砂氏と「Brief Encounter」という芝居を観に行く。映画で有名な「逢い引き」である。劇場は映画館。スクリーンの映像と舞台の芝居を巧みに融合させ、出演者が生演奏と唄で悲恋物語を盛り上げる。ラフマニノフのピアノ協奏曲が強烈な印象を残した名品であった。夜食は「ウーマン」の関係者たち多勢でレバノン料理。これ、ちょっと苦手。

9月7日(日)今日は休みの日。天気相変わらずすっきりせず。ホテルのレストランで朝食。フルーツ多い。コーヒー旨し。フライド・エッグとハム旨し。コヴェントガーデン界隈を歩く。広場で胡弓聞こえる。中国人と思われる男、プッチーニのアリアを弾いている。妙な感じ。

9月8日(月)14時から舞台稽古。順調。はじめて楽屋に入る。小さな個室だけど、なんか雰囲気がある。なにしろこの劇場は19世紀のはじめに出来た劇場。なんかワクワクしてくる空間だ。舞台稽古が終って、件のシーフード店で演出のロビン氏、上川さんと食事。ロビン氏は常に上機嫌。その笑顔が救いだ。

9月9日(火)初日。16時から一幕一場、二場などの抜き稽古をやり、たっぷり休息をして、20時の開演の時が来る。大いに楽しもうと思っていた気持ちがどこかに消えてしまい、ただならぬ緊張感に攻めたてられてしまっている。観客の明るい笑い声、話し声が舞台袖にガンガン聞こえてくる。時々日本語も。そして、始まっちゃった。三階席が急角度で舞台に迫ってくる客席はかなり息苦しい。そして、スリリング。それと目のやり場にとまどう。三階席の前っ面あたりを見るのが一番安定感がある。兎に角、汗びっしょりで終る。あたたかい拍手が救いだった。終って、関係者、観客の方々と客席でパーティー。「ウーマン」の初演の時に私の役、オールド・キップスを演じた俳優に会う。むかしの芝居仲間の伊川東吾氏に会う。彼はロンドンで俳優を生業にしている。二次会は、日本人経営の店に行く。パルコのプロデューサーの祖父江さんも時差ボケとたたかいながらずっと一緒。午前3時頃まで騒ぐ。

9月10日(水)昼頃まで横たわっていた。昨夜の酒盛りで時差ボケ徐々になくなりつつある。その代り二日酔。ホテルのレストランでフレンチオニオンスープ、ラムのミディアム焼。パン少々、アップルタルト、アイスクリーム。二日酔ふっ飛ぶ。コヴェントガーデンの先の方のスーパーでサンドウィッチとフルーツ盛り合わせを買う。上演前に食べるのだ。「イヴニング・スタンダード」という新聞に昨夜の劇評が出た。三つ星の評価。初日の劇評が次の日に出るなんて、なんか、我々はかっこいい所で芝居をやってるんだなあ、なんて思うと嬉しくなってきてしまった。おかげで今夜の芝居は時々科白をトチる。日本語だから多分わからなかっただろう。終って、ロビン氏がこっちでの「ウーマン」の出演者たちを我々に紹介するパーティーをやってくれた。彼らは日本人の俳優が自分たちと同じ芝居をやっていることに興味津々であった。いろいろ話が出来たけど、通訳なしで話が出来たらと思うと、ホント、日本語だけしか喋れないことの自己嫌悪が湧いてきてしまった。今夜は友人の椎名たか子さんが日本からわざわざ観に来てくれてびっくり。本当は知り合いのアーノルド・ウェスカー夫妻に会うのが主目的だったのだけれど、でも嬉しかった。

9月11日(木)朝のうち降っていた雨も午後にはあがっている。でも相変わらず雲いっぱいの空。寒くなってきている。ホテルのロビーで端整な身なりの老人がピアノを弾いている。スタンダード・ジャズ。うまくない。気が付くと、ピアノの脇の小さなテーブルにティーポットが置かれていて、曲の合間にゆっくりと紅茶を飲んでいる。この時のピアノ弾きの老人は、まるで映画のワンカットだ。ホテル近くを散歩。今夜もいい観客。対訳があるからかも知れないが、観客の反応が実にきめ細かい。この芝居をすでに観ている観客が多いのかも知れない。今夜は上川さんのファンが大勢日本から観に来ていて、終ってから記念写真。私は関係がないのに一緒に写真におさまる。今夜は伊川氏、椎名さんも一緒に関係者たちと、現在、ウェストエンドでやっている芝居の出演者やスタッフたちが集うサロンへ行く。「センチュリー」という名の所で、ゆったりした部屋の中では人々が飲んだりお喋りしたりしている。我々も5回だけの舞台だけどちゃんと登録されていたのだ。パルコのプロデューサーの大竹氏も一緒。こういうのは日本ではちょっとない。

9月12日(金)20年前に「レ・ミゼラブル」で子役のコゼットをやった黒田はるかさんが観に来る。彼女はロンドンの演劇学校で学び女優をやっているとのこと。記憶にない。その時の舞台写真を見せてもらったけど、私の20年前の顔は記憶にあるけど彼女の20年前となると無理。楽屋で不思議な思い出話をして別れる。今夜はロンドンの稲門会、それに大竹氏の母校の立教会の方々30人程が観に来てくれて飲み会。音楽の音量凄まじくあまり話出来ず。

9月13日(土)千穐楽。三階まで満席。昨日までは三階には空席があったけど、今夜は違った雰囲気が劇場に充満している。かなりスリリングな観客と舞台になった。カーテンコールは毎晩素晴らしかったけど、今夜は観客が立ち上がって拍手してくれた。月並だけど、やれてよかったと本心思った。上川さんと舞台で握手した。彼も、やったねって顔をしていた。ま、たまには自画自賛もいいか。袖にひっこんで関係者たちと喜び合った。殊に感動したのはフォーチュンシアターの劇場付のスタッフの方々が喜んでいる顔を見た時だ。やる前は、日本人の「ウーマン」はどんな代物か興味津々だったと思う。でも、結局は、芝居が好きな者どうしだということに帰結するのだ。また多くの友達が出来た。楽屋口の責任者の若者に「来年も来い」と言われた時、うまいお世辞を言う若者だと感じ入ったね。彼は楽屋口の小さな部屋にいて、関係者が来る度にドアを開閉する係なのだ。彼には楽屋入りの時と出るときしか会わない。ま、こんな経験はもうないと思うし、良かった良かった、だ。打ち上げは大勢で大騒ぎ。大酒盛りとなった。この打ち上げだけは日本だろうとこの倫敦だろうとまったく同じだ。

むかしの声

仲宗根浩

子供がお年玉で買ったニンテンドーのDSi。インターネット接続ができるという。うちには無線LANの環境はないが、窓際だとワイファイ経由でネットにつながる。子供は無償のソフトをダウンロードする。近所のどなたかの無防備な環境からネット接続できる。甘いセキュリティ。これだからワイヤレスはいやだ。ワイヤード派のわたしは15メートルのケーブルを引きずりながら家のどこからでもネット接続をしている。

アレサ・フランクリンが出る、というのでアメリカ大統領就任式を見る。ああ、声出てない、年齢か、それとも寒さか。昨年、勝利宣言のときサム・クックの歌詞の引用のようなその筋のファンの話題になるものはなかった。それを期待するほうもへんだけど。その後のクラシック演奏、楽器編成がメシアンの「夜の終わりのための四重奏曲」と同じだった。テレビではゲバラの映画のCMが頻繁に流れる。報道番組だったか忘れたがゲバラの特集でビートルズの「レボリューション」が流れた。イントロのギターリフはエルモア・ジェイムスの三連符。エルモア・ジェイムス伝記本もまだ読み終わっていないうちに、ハウリン・ウルフの伝記本が届く。ネットでイギリスのギタリスト、デイヴィー・グレアムが昨年、亡くなったのを知る。10年前、次々とCD化される過去のアルバム。3枚購入したところでやめた。ジョン・レンボーン、バート・ヤンシュ、ジミー・ペイジ、ポール・サイモンから彼を知った。

久しぶりに図書館へ行くと去年、地元の新聞でも話題になっていた「沖縄映画論」という本があったので借りる。子供の頃、すぐ近所に映画の撮影が来たので見学に行ったことがある。車の中で寝ている俳優を見た。巻末にある映像作品リストを見るとその俳優が出演している映画は1976年の東映作品「沖縄やくざ戦争」。撮影が前年だったしてもその頃は沖縄にいない。記憶違いか。以前、従兄から1966年の「網走番外地 南国対決」については懐かしい沖縄の風景が見られる、と教えられていた。本の内容はお決まりの意味不明な言説が並んだ文章ばかりで、「読み解く」という知的なことに一切の興味がないことがわかった。

沖縄の古典芸能を鑑賞しようと思い、あれこれさがす。沖縄には今年で五周年になる国立劇場があるが、新聞で県立芸術大学音楽学部琉球芸能専攻学内演奏会、というのを見つける。入場無料で会場は学内の奏楽堂。400ちかく入る立派なホールだった。十数年ぶりに所作台が置かれた舞台を見た。間近で見ると踊りに使われる小道具、曲によって変わる地謡の編成など初めて見るものばかりだった。会が終わり外に出ると、暗い中、朱色の首里城が浮かんでいた。

ここ数日、旧正月前に亡くなったブラジルのおばさんの三十数年前に送られたきた、肉声が録音されたカセットテープ、約400分をコンピュータに取り込み、ヒスノイズを取り除いたり、音量を持ち上げたりする作業をずっとやっている。残された音源はすべて方言で、今では使われなくなった言葉が声として残っている。

アジアのごはん(27)ほうろう・マイラブ

森下ヒバリ

どういうわけか、ほうろうが好きである。旅の放浪も好きだが、ここでは鋳鉄にガラスの釉薬をかけた鍋やうつわのホウロウ、琺瑯の話である。先日も近所の北野天満宮で25日の天神さんの縁日をやっており、友達に誘われておだんごでも食べに行こうと出かけたところ、なぜか帰りには大きな古いほうろうの鍋をふたつも抱えて歩いていた。北野の天神さんは骨董市で有名である。ココア色をした大きい鍋は新品のまま忘れられていたデッドストックらしく、OSAKA JAPAN ENAMELという古いラベルがついていた。輸出用だったのだろうか。さびも出ているし、何に使うのかといわれても困るのだが、あまりの色と形の愛らしさについ手に入れてしまった。薄っぺらいが、まあ、染物にでも使えるかも。 

日本でも昔はほうろう製品をよく使っていたようだが、戦後はすっかり廃れていたようである。子供の頃の記憶にもあまりほうろう製品はない。小学校のトイレの汚物入れの白い三角箱、保健室の消毒用たらい・・。あまりほうろうが愛しくなるような記憶ではないなあ。実家の台所にあったのは赤いふちの白いボウル。これは好きだった。

しかし、アジアに旅するようになると、そこらじゅうでほうろうに出会うことになった。市場でおいしそうな惣菜を盛ってある花柄の洗面器タイプの大きなボウル、お盆。屋台のお皿は白いほうろう、屋台で調理スペースにいくつも置いてある調味料入れの青いほうろうの壷、ふるい中国式旅社の部屋においてある華麗な花柄のタン壷に洗面器。水差し、カップ。そういえば、アジアのほうろう製品は赤い花柄が多い。詩人金子光晴の「洗面器」に出てくるマレーシアの遊女がおしっこをする洗面器も、必ずやこの赤い花柄のほうろうの洗面器であったはずである。

この花柄ほうろうを作っているのは、中国とタイ、ベトナムである。ほうろうはアジアの旅でおいしい食のイメージと繋がっている。そして、何に使ってもいいという自由さとも。

アジアのほうろうは、あまり頑丈でもなくぺらぺらで、鍋にもあまり使わない。うつわとしての存在が大きい。一方で西洋のほうろうは鋳鉄にしっかりと釉薬をかけた頑丈なものが多い。その代表がフランスのル・クルーゼという鍋だろう。ル・クルーゼは、数年前に一つ買って使っていたのだが、最近さらにもうひとつ買ってしまったほど気に入っている。ル・クルーゼは、はっきりって、重い。ものすごく、重い。いろいろな料理がおいしくできるという話はたくさん聞いていた。ほしくてたまらなかったのだが、実物を持ってみて、力持ちとはいいかねるわたしの腕には無理、と一度はあきらめた。しかし、近所の店で売っているのを見て、鍋を両手で持ち上げてみた。

「・・あと10年ぐらいなら持てるかな。いや、あと5年でもいいやん」今、ここで買わなければ一生この鍋を使うことはないだろう。いくら重いといってもヨーロッパではふつうに使われているのだし、気をつけて持ち運びすればなんとかなる。なによりその姿、佇まいにもうメロメロである。これをうちのコンロの上に置いて、眺めたい、料理したい! ル・クルーゼがほうろうでなかったら我が家にやってくることはなかったに違いない。

こうして、七割ぐらいは見た目で選ばれたル・クルーゼちゃんはわたしの台所にやってきた。彼女は大変重いので、棚に仕舞うよりもコンロの上に置かれっぱなしになり、そのまま使われることが多くなり、それまで台所で女王の座にいた圧力鍋をあっというまに棚の奥に追いやってしまった。

初めてその鍋で作ったのは、オリーブオイルをたっぷり入れてじゃがいもと鶏肉を蒸し焼きにする料理。にんにくは皮付きのまま粒で何個も入れる。庭のローズマリーを一枝。塩を振る。弱火で20分。あまりのおいしさに、ル・クルーゼが重いことなど、まったく気にならなくなった。
しかしオリーブオイルをたっぷり使う料理はおいしいのだが、やっぱり食べ続けていれば太ってくる。これはまずい。西洋料理ばかりでなく、和食はどうかな? その前にカレーを作ってみた。え、うまいじゃないの。野菜のうまみがとてもよく出ている。じゃあ、根菜の煮物はどうよ? うわ、おいしい〜。鶏肉もごぼうもにんじんも蓮根もサトイモも、野菜自身の持つうまみがダシと一体になり、何日も煮込まれたような味になっている。ル・クルーゼはフランス生まれだが、日本の料理も大得意だったのである。

最初の鍋は水色でふつうの円筒形だが、新しいル・クルーゼさんはクリーム色で鍋の側面がボウルのように曲線になっている。口が広いので鍋料理にも使える。鳥の手羽元があったのでさっそく炊いてみた。これが、もう絶品。少しだけ大根を入れて炊いたが、手羽元よりもとろとろの大根のほうがもっとおいしい。次からは主役は大根で、手羽元は脇役に転落。しかも、翌日ちょっと残ったダシがあんまりおいしそうだったので、これにネギとあげを加えて卵でとじ、(親はダシだけの)親子どんぶりにしてみたところ、もう言葉に出来ないほどのおいしさ。それ以来、我が家では大根と手羽元の煮込みの翌日は必ず親子どんぶりという不文律が出来た。
インドの北東部の紅茶の町ダージリンで食べた、チベットのスープ麺トゥクパを思い出して、麺は抜きの野菜スープをこの鍋で作ってみた。ダージリンにはチベット人がたくさん住んでいて、中国のチベット侵攻ののちに難民として逃げてきた人も多い。町にはチベット食堂がたくさん並んでいた。

ヒンドゥー、イスラム社会のカレー三昧に疲れ果てていたわたしは市場の近くの小さな店で極上のトゥクパとモモに出会った。仏教徒のベジタリアン料理しかないその店のメニューはチベット餃子のモモと、米麺か小麦粉麺のスープ麺、小麦粉麺の炒めた物の三つ。とにかくカレー味でないものが食べたかった。野菜を山盛り食べたかった。

出てきたのは、野菜のうまみたっぷりのベジ・モモと、カリフラワー・玉ねぎ・大根・ニンジンがたっぷりと、とろけるように煮込まれたスープに米麺が入ったトゥクパ。塩味もほんのりとしかついていない。自分で塩味をつけ、トウガラシ味噌を加える。やさしいやさしい、でも思わずため息が出るような野菜のスープ。ああ、こういう料理が食べたかったんだ、と思わず泣きそうになった。

カリフラワーは小さめに刻む。大根もにんじんもたまねぎも1〜1.5センチ角ぐらいに刻む。水と塩を少しを加えてたっぷりの野菜をル・クルーゼでゆっくり煮る。じゃがいもやかぼちゃをいれてもいい。ル・クルーゼならチキンスープの素は入れなくてもおいしい。塩と荒挽き黒コショウ、隠し味にナムプラー少々、レモンなどのかんきつを絞ってもいい。好みで月桂樹の葉、イタリアンパセリ、パクチーなどを入れても。カリフラワーと大根とたまねぎは必ず入れてください。スープというより野菜のおじやに近い。

やさしく淡い味の向こうに、朝日に染まるヒマラヤ、カンチェンジェンガが見える・・、かもしれないダージリンスープ、いかがですか。

インドネシアの芸大の入試事情

冨岡三智

頃は2月、日本では受験のシーズンというわけで、今月は私が留学していたインドネシアの国立芸大スラカルタ(通称ソロ)校の入試事情について書いてみたい。ここでいう入試はもちろん、外国人ではなく現地の人たちが受験する入試のことである。実は、私は2度の留学を終えた半年後(2003年)に舞踊教育の比較調査に関わって、インドネシアの部を担当させてもらったのだった。それまで友達や先生にどんな入試なのか聞いていたけれど、実際に試験前の会議や試験当日の様子を目にしてみると、いろいろと考えさせられることが多かった。詳しいことは報告書に書いて提出したのだが、パソコンが壊れたドサクサにまぎれて消えてしまったので、ここでは記憶に頼りながら書いてみよう。

インドネシアでは8〜9月初め頃に大学が始まるので(断食月のズレに合わせて毎年入学日が変わっていた)、入試は毎年8月早々にやっていたと思う。確か午前中は筆記試験、午後から身体検査、体力測定、実技試験があった。試験前の会議で確認していた学生の採用方針は、定員なし、ともかく何らかの見どころがあれば皆入学させるというものだ。このことは留学時代から先生に聞いて知ってはいたが、実技試験を見て、ほんとうにどんな「見どころ」でも良いのだなあと驚く。

入試要項には、自分が踊りたい曲のカセット、サンプール(ジャワ舞踊で必ず腰に巻く布)、舞踊小物などを持参するようにとある。実技試験は1人ずつで、中に入るとまずは面接である。それまでの舞踊歴やら、志望動機やら、家庭環境やらを聞かれる。その後、では何かやってみてくださいと言われて何かをする。これは別にジャワ舞踊である必要はない。町の舞踊教室ではいろんな地域の舞踊を教えているから、西ジャワのジャイポンガンなどを踊る子もいる。

東ジャワから来た受験生で、東ジャワの伝統的な民間芸能レオッグ(巨大な獅子面をつけて踊る)に出てくる、アクロバティックな踊りを披露する男子がいた。これはまあ言えば大道芸で、芸大で教えるようなアカデミックな舞踊ではない。彼は小さい頃からこの芸能に携わっているようで、体もよく利いていた。それで先生たちも楽しんで、次々にリクエストしてはいろんな技をやらせていた。実技試験は1人ずつのはずだが、3人まとめて試験された男子たちもいた。彼らはみなソロの国立芸術高校出身なので、まとめてやらせることにしたという。彼らの場合は試験官のほうが曲を指示して踊らせ、さらにサブタンなど基本的なジャワ舞踊の型もやらせて見る。芸術高校出身者には求めるレベルも高く、とりわけ基礎がきちんとできているかどうかを厳しくチェックする。またある女の子は、試験官(+観察者の私)を前に、おしゃべりあり、歌あり、踊りあり、笑いありの楽しいショーをやって見せた。この娘なら芸大に入らなくても、これで食っていけそうな出来栄えだ。こういう実技でも良いのか、と軽くショックを受ける。

逆に全然何もできない人も来る。日本人にとっては不思議なことだが、芸大に入ってから舞踊なりガムラン音楽なりを初めて習うという学生が、実は毎年数人いる。では、なぜ芸大を受験したのかという問いに多かった答えが、「イヌルちゃんみたいになりたいから」というもの。イヌルちゃんというのはダンドゥット音楽の歌手で、腰をセクシーにくねらせて踊りながら歌うスタイルで大人気だ。しかしダンドゥットは庶民層に人気のある流行音楽で、芸大のようなアカデミックな機関では決して教えない種類のものである。こういう勘違いは田舎出身の人に多い。それでも試験官は何らかの実技試験をする。たとえば、試験官がジャワ舞踊の簡単な型をやって見せて真似させる。音楽科なら、簡単な音楽のフレーズを聞かせてから演奏させる。まだ何もできない人には、ともかく真似してついてこれるかどうかを見るのだ。中には、舞踊の真似も恥ずかしがってしない人がいた。試験官が、それでは替わりに何かできることはないか、歌はどうかと聞くと、歌も苦手だという。彼女はイスラム式にスカーフを被っていたので、コーランの朗誦はできるかと聞かれて、それでやっとコーランの朗誦を始めたのだった。

こんな、内容もレベルも多種多様な試験方法を取るのは、将来どんな才能が花開くか現時点では未知数だからということだった。それに芸術機関の使命やカリキュラムが昔とは異なってきたこともある。昔の芸術機関が最重要で養成していたのは、既存の伝統舞踊の演目を踊りこなせる舞踊家および舞踊教師だった。しかし現在はコンテンポラリ舞踊が盛んで、振付のアイデアがますます重視される時代になっている。だから、ジャワ舞踊がうまく踊れなくても、その他の能力が振付に役立つかも知れないと考えられるようになったのだ。やりたい者にはとりあえずやらせてみるという方法には、私は最初に留学したときには大変驚いたものだが、今から思えば芸術という将来の果実が予測できない分野の教育法としては良くできた制度(何もしない制度だとも言える)ではないかと思っている。

いろいろと

大野晋

さて、先日、ケージに、一柳、コリリアーノと聴く機会があった。さすがに聴きやすい曲を選択したらしく、居心地のよいコンサートだったが、曲を聴きながら、昔、初めて現代音楽を聴き始めた学生時代を思い出した。
高校の音楽ではさすがにロマン派止まりで、学校教育で聴く現代音楽はブリテンだけとなんとも偏った傾向だなどと考えながらも、ストラヴィンスキーを最初に聞いたときの衝撃やベルク、シェーンベルグ、ブーレーズに、ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフと今や古典となろうとしている曲を始めて聴いたときのなんとも言えない不安感を思い出して、ケージをのほほんと聴いている自分に驚いていたりする。音の感覚を解放して、きれいな和音だなあ、などと聴いているのだから慣れとはなんとも怖ろしいものである。

と、言いながら、モーツアルトを聴きながら、キーボードを打つ自分もいるわけで、なんなんでしょうね?である。ちなみに、最近のお気に入りは、スメタナの「我が祖国」のダブルピアノ版のCDだったりする。

さて次のもうひとつの話題は本の人相書きについて。

手配書:古い雑誌
大きさはたぶんA5サイズ付近。戦中なので紙質は悪いはず。表紙には右から横に「につぽん」の文字。
発行:名古屋新聞社出版部、編集:興亜日本社
昭和16年7月号〜昭和17年1月号
大坂圭吉(もしくは大阪圭吉):弓太郎捕物帖の掲載号
S16.7:屋形船異変
S16.8:夏芝居四谷怪談
S16.9:五人の手古舞娘
S16.10:千社札奇聞
S16.11:花盗人
S16.12:丸を書く女
S17.1:ちくてん奇談

と何年も前から手配をあちらこちらにかけているがなかなか見つからない。これは著作権保護期間50年の悪い見本だろう。死後50年もたてば、著作はどこにも見当たらなくなるかもしれない。それを考えると、もっとパブリックにして著作を読んでもらうことを良しとすべきなのかもしれませんね?

さてさて、こちらの本は、そろそろ、「開運、なんでも鑑定団」ででも募集してみようかな?

しもた屋之噺(86)

杉山洋一

昨日、聳え立つ山の頂きで乳白色の深い霧に包まれたサンマリノの街から、車で一気にリミニまで降りると、気圧で思わず耳がツンとつまりました。

元旦明けの2日から、雪景色のブレッシャでエマヌエレ・カザーレ作品の録音のため、スタジオにこもっていました。その翌日から、再び大雪に見舞われ、ミラノですら70センチは積もったでしょうか。きめ細かく美しい、ふわりとした雪で、思わず家人が庭に小さな雪だるまをつくりました。頭に小さなバケツをかぶせ、目に黒オリーブ、鼻にニンジンをあしらった、それなりに愛らしいものでしたが、夜半、オレンジ色の街灯が一面の白い雪を照らし、ぼんやりと薄ぼらけた風景に空ろに浮上る姿は、やはりどこか頼りなげでした。もっとも夜が明けて、あちこちで子供たちが声をあげて雪合戦に興じる姿は、日本もイタリアも一緒です。子供のころ、自分も手がかじかんだのを思い出しました。

なかなか溶けない雪だるまを眺めつつ、9月末に仕上げるはずだった新曲を漸く送り、翌日にはコントルシャンの演奏会のためジュネーブ行のチザルピーノ特急に乗っていました。毎日、スイス・ロマンドのアンセルメ・ホールで練習をしながら、時間ができると、演奏家たちの溜り場になっている、辻ひとつ先のポルトガル人の喫茶店で、オムレツやらケーキに舌鼓をうちました。ベルリンに住んでいるノルウェー人のメゾ、トーラは、少しでも時間が空くと控室で余念なく勉強に精を出していて、演奏会とFMの録音を兼ねたアンセルメ・ホールの本番は、それは素晴らしいものでした。

朝7時40分、夜も明けぬジュネーブ駅を列車が出て、まもなく車窓一杯にひろがるレマン湖に映る朝日に見入り、イタリアン・アルプスのどことなく繊細な雪景色に目を奪われ、イタリアに戻り、やがて姿をあらわす、マッジョーレ湖の幽玄な島々に美しさに思わず溜め息がもれました。特に旅が好きでもないのですが、仕事にでかけるときは、いつも決まって楽譜に齧りついているので、帰途は周りの風景に驚くことばかりです。

洗濯を兼ね、雪があちこち残るミラノで2日ほど慌しく譜読みをし、ルツェルン劇場でのみさとちゃんの新作オペラに駆けつけました。ミラノからコモを通り、ルガーノ湖のほとりを暫く走り、イタリア語圏・スイスにベッリンゾーナで別れを告げ、アルプスはゴッタルド峠の荒々しいほど男性的な風景に息をのみます。雪も1メートル以上は積もっていたでしょう。そそり立つ山々と対照的に、点々と続く街は、雪に沈んでいるようにみえます。

車窓の風景が、暗く重く圧し掛かるように感じられるようになると、周りの人々もつられて無口になり、雪ばかりの風景を思いつめたように見つめていましたが、やがてルツェルン湖が見えてくると、お伽噺にでてくるような愛らしい家が点在するなか、丘に羊や牛が群れる、文字通り牧歌的な風景に心がなごみました。

みさとちゃんのオペラは、時間が深く進行してゆく1幕と、作曲者の時間感覚、皮膚感覚が直截に聴衆に伝わるような、畳みかける2幕とも、まるで時間の経つのも感じられないほどに面白くて、見に来て本当によかったと感激しました。彼女らしい書法と、さらさら流れるように書き綴ったような書法、それを引立たせるよう所々に忍ばせた仕掛けのバランスにも脱帽しました。

翌朝、もと来た道をミラノまで戻り、サンマリノまで下り、先昨日、サンマリノの山の頂き近くにあるタイタン劇場で、オーケストラ選抜メンバーとアウシュヴィッツ解放記念の演奏会をしたところ、一ヶ月前のクリスマスコンサートにも駆けつけて下さった二人の執政(大統領にあたる)が来賓としていらしていて、何とまめまめしいのだろうと驚きました。

朝の練習が終わり、フルートのクリスティーナとクラリネットのマルコなどと連立って、「リーノ屋」で特製の手打ちガルガネッリを食べながら、ひょんな事から、イタリア人のクリスティーナが、サンマリノのコンヴァトの職を今年限りで失うのだと打ち明けられました。彼女の教え子が去年見事にディプロマを取り、早速来年からサンマリノで教職につくことを望んでいるのですが、サンマリノの法律によると、どんな教師であれ、サンマリノ人がそのポストを望めさえすれば、外人である限り、自らの職を無条件で譲らなければなりません。

自ら教えた生徒に、教師が職を追われる。良い教師であればあるほど、外人であれば、自分に不都合な優秀な生徒を世に送り出すことになるのさ。サンマリノ人の同僚たちは、自虐的に声を潜めて話してくれました。せめてクリスティーナが、サンマリノの男と結婚してくれれればなあ、彼らは、冗談とも本気ともつかぬ笑いを浮かべつつ、残念そうに繰返しました。コンヴァトの校長はクリスティーナの友人だし、あれだけ親しければ、きっと助けてくれるでしょう、と思わず口にすると、皆、揃って頭を横にふりました。こればかりは、彼にもどうにもならない。法律なんだよ。昔から長く続く伝統なのさ。彼女がここを去ったとて、僕ら以外誰も心を痛めやしない。

30年前に初めてコンヴァトを開いたときは、イタリアから錚々たる教師陣を集めてきたのだけれど、数年経つうち、彼らは揃って若くてろくでもないサンマリノ人の同僚に根こそぎ挿げ替えられてしまったというわけだ。演奏会の夜、サンマリノの街は深い霧に沈み込んでいて、下界とは隔絶の感がありました。まるで宙に浮かぶ島のようです。

戦時中、短い間ながらサンマリノにもファシスト政権が誕生したことがあり、タイタン劇場は実は当時の残滓でした。全体に小さいながらも、確かにファシズム建築らしい厳(いかめ)しいつくりで、正面玄関の装飾は、紛れもなくファッショ(束棹)そのものでした。
演奏会が終わり、関係者も引払ったがらんどうの劇場で、管理人の男性が乾いた笑い声をあげました。よりによって、ここで、アウシュヴィッツ解放記念の演奏会とはなあ。

翌日、ミラノにもどると意外なほど肌寒く、思わずコートの襟を立てました。

(1月31日ミラノにて)

メキシコ便り(17)

金野広美

メキシコのお酒といえばテキーラ、いろいろな飲み方がある中で、カクテルのテキーラ・サンライズはあまりにも有名です。私もテキーラが大好きでよく友人と飲むのですが、私の飲み方は彼がやっているやり方で、小さな細長いグラスにテキーラを入れ、そのグラスを持った手の親指の付け根あたりに塩をのせます。そしてもう片方の手でリモンといわれる、こちらのレモンで小さなすだちのようなものをかじりつつ、塩をなめながら飲むのです。テキーラの高いアルコール度による強い刺激をこの辛さとすっぱさがほどよく緩和してくれ、まろっとしたさわやかさに変えてくれるのです。

人によってはレフレスコとよばれる、コーラや炭酸飲料、ジュースを混ぜたり、水割りにしたりと本当に人それぞれで楽しんでいます。店で飲むとサングリアと呼ばれるトマトジュースがついて出てきたりもします。値段はピンきりで高いものは数万ペソ(数十万円)もするそうですが、だいたい平均すると500ペソ(5000円)くらいから安いものだと50ペソ(500円)くらいでしょうか。私はもちろん安いものしか飲めませんが・・・・。

このテキーラの産地、グアダラハラに行ってきました。グアダラハラはメキシコ第2の都市でハリスコ州の州都です。メキシコシティーからバスで北に約7時間。夜中にメキシコシティーを発ち、着いたのが朝7時ごろ、街はもう動きだしていました。宿に荷物を置きコーヒーをゆっくり飲み、さあ行動開始です。

私がここでどうしても見たかったのがハリスコ州庁舎にあるオロスコ作の「立ち上がる僧侶イダルゴ」の壁画と、もちろんテキーラの生産工場でした。まず、街の中心のソカロに向かい、すぐそばにある州庁舎に行きました。メキシコ独立の英雄であるイダルゴ神父がここで宗主国スペインに対して独立闘争を開始したのです。壁画を探しながら中央階段を昇っていくと突然眼前にイダルゴ神父が現れました。階段を覆うように天井まで描かれた壁画の中で大きな大きなイダルゴ神父が私に手を差し伸べていました。「さあともに戦いましょう」とうながしているような、その真摯な表情には本当に圧倒されました。イダルゴ神父が1810年9月、ここで行ったスペイン打倒のための「ドローレスの叫び」がメキシコの独立への第一歩でした。しかし、彼は1811年7月にチワワでその志半ばにしてスペインに捕らえられ、政庁舎で銃殺刑にされます。そして、首は晒されました。私はしばらく階段に座り込んで、苦難のイダルゴ神父と、多くの血が流されたメキシコ独立の歴史に思いをはせました。

次の日の朝、バスで北西に約50キロ、その名もテキーラ村にあるテキーラ生産工場のホセ・クエルボ(スペイン語でカラスの意味)社に向かいました。途中は行けども行けどもアガベ(竜舌蘭、テキーラの原料)の畑。アガベはアロエの葉を幅4倍、長さ4倍くらい大きくしたような肉厚の葉が地中から直接、放射線状に出ていると想像してください。全体の大きさは直径約1メートルから1.5メートルくらいです。植えられてからだいたい、6年から8年で収穫され、葉と根を特別の鎌で切り取り、茎を大きなボールのようにします。私もアガベ畑で切り取りを体験させてもらいました。本当によく切れる鎌で、ちょうどホタテ貝の貝殻のような形なのですが、たいした力をいれなくてもスパスパと切れてしまい5人のツアー客だけで不十分ではありますが、ひとつのボールができました。畑から工場に着くと玄関には5、6メートルはあるかと思われる、大きな恐竜のようなカラスの彫刻があり、本物のカラスが2羽、鳥かごに入って迎えてくれました。この会社の創業者がホセ・クエルボさんなのですが、よほどカラスを愛していたのでしょうね、その巨大さにはちょっとびっくりしてしまいました。

この工場は1795年に創業した、世界でも売り上げナンバーワンの会社なのですが、その長い200年あまりに及ぶ歴史のビデオを見せてもらったあと、さっそく工場内を見学させてもらいました。一歩中に入ると大きなボールになったアガベがたくさんころがっています。このボールはパイナップルによく似ているのでピーニャ(スペイン語でパイナップルの意味)と呼ばれます。これをいくつかに区切られた部屋のようなところで蒸します。するととても甘いにおいがしてきます。この段階で絞って飲むとアガベジュースが楽しめます。そして、ピーニャを1週間ほど置いたのち絞り、この絞り汁を発酵させて、蒸留し、テキーラの出来上がりです。工場では蒸しあげられたピーニャがコーヒー色をして次から次へと小さな出口からごろんごろんと出てきます。周囲には甘いにおいが充満しています。

できたてのテキーラが試飲できるというので、もちろん飲んでみましたが、塩もリモンもない中でキュッといくとさすが、ちょっと強すぎてくらっときてしまいました。それでも同じツアーで一緒になったマリアはテキーラが大好きだそうで、何度も試飲して、お昼を食べに入ったレストランでも、また何杯もマルガリータを頼み、私にも勧めてくれます。マルガリータはホワイトキャラソー(オレンジ風味のリキュール)やレモン、ライムジュースとテキーラを混ぜたものですが、その名前のかわいらしさとあいまってとても人気のあるカクテルでとってもおいしいのです。マリアはとにかくよく飲み、よく食べ、よくしゃべり、その勢いで、お勘定も全部払ってくれました。ラッキー、ラッキー、テッキーラ、自分も相手も幸せにしてしまうテキーラだーい好きです。

生きるための歌〜聖歌となった聖杯

三橋圭介

シコ・ブアルキ(Chico Buarque de Hollanda)に関する連載をはじめるにあたって、どうしてかれに関心をもったかを最初に書いておきたい。ひとつの歌との出会いだった。

2年ほど前、大学でアメリカのジャズの展開と黒人差別の係わりを歴史的に取りあげていた。黒人音楽でもジャズとおなじく奴隷として黒人たちの音楽に源をもつブラジルのサンバ(国民音楽となった)はまったく異なる。とくにリズムの音楽サンバとの比較は興味をそそられた。そこからショーロ、マルシャ、サンバからボサノヴァをふくむ近年のブラジル・ポピュラー音楽(Música Popular Brasileira [MPB])や文化などを勉強しはじめた。

日本語、英語、ブラジル・ポルトガル語など、手に入るさまざまな著作や楽譜集、CD、DVDなどを集めた。そこに「PHONO73」というCD+DVDがあった。これはボサノヴァの「恐るべき子どもたち」(カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなど)がはじめた前衛的な「トロピカリア」という芸術運動(1968‐69)の数年後の1973年、当時のブラジル・ポピュラー音楽の中心を担う若者たちが一堂に会したコンサートを抜粋、収録している。もちろん、トロピカリアの中心人物カエターノ、ジル、ガル・コスタが登場する。そのほかにナラ・レオン、ジョルジュ・ベン(現ベンジョール)、カエターノの妹ベターニア、エリス・レジーナ、MPB-4、トッキーニョ&ヴィニシウスなど、そうそうたるミュージシャンが登場する。そのなかにシコ・ブアルキがいた。

コンサート(DVD)では、当時のさまざまなMPB音楽を見ることができる。そのなかでとく興味を引いたのがシコとジルがうたう「Cálice(聖杯)」(詩:シコ、曲:ジル)だった。2人はギター弾き語りでうたいはじめる。ジルに対してシコはどこか投げやりで、刺々しく、精神的にいら立っている。ジルはうたいながら、シコを気にして横を向いたりもしている。しかも歌の途中でマイクが入っていないと怒りだし、止めてしまう(映像の音源には、なぜかうたっていないにもかかわらずシコのうたがかぶさっている)。そのときのシコの表情、しぐさ、斜めな感じ、さらに中途半端に終わった歌がどうしても気になった。そしてこの曲を収録しているCD(「Chico Buarque」1978)を探した(後にCDと同じ音源によるヴィデオ・クリップを収録したDVDを見つけた)。

録音でシコはミルトン・ナシメントと歌っているが、ライヴと比べると、シコの歌声はけっして激しいものではない。逆に、祈るような語りかける声でナシメントと歌を交換しながら、ことばをまっすぐに突き刺していく。しかししだいに2人の声は叫びへと変わり、ドラム連打のあと、ユニゾンする声とコーラスの呼びかけとともにクライマックスを迎える。荒涼としたその声の風景は、ヴィデオ・クリップでは途中に市民が闘争する写真が挿入され、その意味するところを補足してくれる(映像の真正面を見据えたシコのブルーの視線が私を貫く)。ブラジル・ポルトガルの詩はわからなかったが、そのいわんとするものは十二分に伝わってきた。

あとで知ったが、シコが怒って歌を止めてしまったのは、警察がかれのマイクの音を消したからだった。ジルのマイクは消されていないことからも、それが詩を書いたシコに向けられたものであることがわかる。当時、軍事政権(1964-1985年)だったブラジルでは、歌詞の内容がきびしく検閲されていた。政府を批判する歌詞は、変更を余儀なくされるか、発売されたとしてもすぐに発売禁止となった。1967年頃、シコは政府を批判する歌をうたいはじめた。翌年の1968年に逮捕され、1年ほど家族と幼少期を過ごしたイタリア、ローマに自主亡命の道を選ぶ。「Cálice」での妨害は、帰国後も要注意人物だったことを証明するものであり、映像はそのドキュメントでもある。

「Cálice(聖杯)」

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

どうやってこの苦い飲み物を飲むのか
痛みに耐え、苦労を我慢するのか
口は閉じても心は開いている
だれも町の沈黙を聞くことができない
聖女の息子であっても、それにどんな価値があるのか
他人の息子であったほうがましだ
まだくさり具合のましな他の事実
あまりに多くの嘘とあまりにひどい暴力

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

無口になりながら目覚めるのはなんと難しいことか

私は夜の沈黙に絶望している
引き裂くような叫び声をあげたい
それが他者に聞こえる唯一の方法だ
あまりの静けさに気が遠くなる
呆然としながらも注意深くしている
どんな瞬間にも観客席から
沼の怪物が現われるのをみられるように

父よ、この杯を私から遠ざけてください。
血に染まったワインを

(ベアトリス訳)

これは「Cálice」の詩の半分までを訳したものだが、読むといかに反政権的な内容であるかが分かるだろう。タイトルの「聖杯」は同時に「試練」を意味し、ポルトガル語のおなじ読み「カリシィ」(Cale-se)には「黙らせる」という意味もある。聖杯は沈黙を余儀なくする試練であり、軍事政権下の不自由や苦悩をコーラスの声を重ねながら呼びかけている。カトリック教徒だったシコにとって「Cálice」は黙ってはいられない皮肉に満ちた「試練」だった。

1966年「A banda」の空前のヒットによりブラジル人の心をつかんだシコは、ノエル・ホーザの再来ともいえるマルシャやサンバを書き、その姿勢をトロピカリアの人、カエターノに批判されたこともある。しかし5枚目のアルバム「CONSTRUCÇÁO」(1971)で一変する。デビュー当時の愛称「青い目の貴公子」というアイドル化された自己を拒絶するように髭をたくわえ(ジャケット写真のシコは攻撃的な、覚めた視線でこちらを睨んでいる。ライヴのシコもおなじ髭と視線がある)、一人の生活者、表現者として現実をみつめる歌を自らたぐりよせた。そのどんより重苦しい空気や世相をあぶりだすことばの刃はこの「Cálice」へとダイレクトに結ばれている。

「芸術は自由のなかにあってこそ発展するものだ」。シコは書いた。しかしこうもいえる。自由のなかで伸び伸びと歌を書くより、軍事政権下の検閲をかいくぐるように比喩や象徴などを使って黙した声を荒げ、訴える、そこに芸術家としての真実の声があぶりだされる。だからこそ単なる歌詞ではなく、詩でなければならなかった。「Cálice」はシコ・ブアルキにとって「生きるための歌」だった。歌はライヴのあと禁じられ、10月には再び逮捕される(74年から75年、シコの作る曲はすべて禁止された)。「聖杯」はプロテスト・ソングとして独裁政治と戦う「聖歌」となった。

ひそやかな歌

高橋悠治

「うたのイワト」で 『高橋悠治ソングブック』からいくつかの歌をうたってもらって思ったこと

ヨーロッパやアメリカにいた頃は じぶんのことばでないことばで あてさきもなく 歌は作れなかった それ以前にはアルトーの詩を 以後にはブレヒトや毛沢東の詩を歌にしようと試みたこともあったが メロディーは作れても それに楽器をつけることができないでいるうちに 原稿がどこかへ行ってしまった 歌はメロディーであるより まずことばをきくやりかたなのかもしれない

歌は詩のよみかたのひとつなのか
歌になることばをさがして詩をよむのか
ことばのひびきと くりかえされるひびきの間隔のリズムで
詩をよんでいく
語りの波が ささやき となえ 
光がさしこむ瞬間に 歌が地上すれすれに浮かんで消える
歌はそれをうたう人の声といっしょになっている
 死んだだれかを思いださせるよ と
 老人は部屋に羊を飼った
そんな一節が頭のなかで鳴っている
(長谷川四郎詩集にはなかった)
 声にはせずにうたってた
 忘れぬために 花のうた
(これは佐藤信と林光だった)

卵の殻がついたままのひな鳥のように
ことばの錘りが離れず 歌になりきれない語りの
ひびきのいろどりと不安定が
ことばを書きつけるひとの心を映して
こどもであることをまだしらないこども
こどもを国にとられた母
名前をなくしたからっぽのすがた
忘れられた病気の子ども
 うたは問いかけ
 うたいながら すぎてゆく
(水牛の歌)
いる場所も行きどころもない魂が まださまよっている

あけましておめでとうございます

三橋圭介

あけましておめでとうございます。

今月、水牛に書こうと思っていたジョアン・ジルベルトの来日が中止になってしまった。11月がだめになり、12月もだめになり。ボサノヴァ誕生50周年の最後を飾るはずの公演はすっぽかされて、終わり。個人的にはブラジル文化にはまだまだ飽き足りていない。トロピカリアのなかでは、唯一いまだ前衛のトン・ゼーが一番おもしろい。最近でたボサノヴァを彼らしく斜めに読み換えたアルバムは、その鬼才ぶりが発揮されておもしろい。ボサノヴァ誕生50周年はトン・ゼーの斬新なボサで締めくくられたことになりめでたしめでたし。もうボサは横において、来月からずっと関心を持ち続けてきたのはシコ・ブアルキを紹介していこうと思う。カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなどは日本に何度もきていて有名だが(トン・ゼーはきていない)、同じ世代でもシコはあまり日本で知られていない。来月から翻訳を中心に彼の人生などをここで紹介していこうと思っている。お楽しみに…。

ジャワのスス(牛乳)屋の話

冨岡三智

今年は丑年ということで、今月はジャワの牛にちなんだ話、というか牛乳の話をしよう。

観光ガイドブックの類には載っていないが、ジャワの都市・ソロの名物として有名なのものに「スス屋=ワルン・スス」がある。ワルンは屋台、ススは牛乳のことで、牛乳を中心とした軽飲食を提供する屋台のことである。ソロでは、牛乳は朝ではなく夜の飲み物で、ワルン・ススが開店するのも日没後である。ワルン・ススがソロに多いのは、乳牛の盛んなボヨラリ県が郊外にあって、毎日新鮮な牛乳が調達できるかららしい。朝に搾った牛乳がソロに届くのが昼ごろ、それから煮沸をして屋台に出せるようになるのが夕方以降なので、牛乳は夜の飲み物というわけなのだ。

私のお隣さん一家はスス屋を経営していたのだが、スラバヤの人からスス屋を開業したいと相談を受けたことがあるという。スラバヤにはスス屋がないので当たるかもと思われたらしい。だが牛乳は温度管理も難しく、毎日調達しないといけないから、スス屋の経営はソロ以外の都市では難しいだろう、と我が隣人はアドバイスしたそうだ。隣人によれば、スス屋というのはどうも他都市にはないようだという。確かに、少なくともジャカルタの下町には全然なかった。

ここでふと、守屋毅著「喫茶の文明史」の一節を思い出す。イギリスの砂糖入りミルクティーの成立は、大航海時代のイギリスをとりまく世界構造を反映している。植民地からもたらされる砂糖だけでなく、都市生活者にいたみやすいミルクを恒常的に供給するには、それなりの流通メカニズムの成立が必要で、それがヨーロッパでできあがるのが1600年代だというのだ。ソロのスス屋が成立するのも、郊外との流通パイプがあるからこそなのだが、日本のように安価な殺菌牛乳が大量流通しているわけでないから、スス屋という形態は全国どこでも成立するには至らない。

スス屋は夜に開店する。しかもジャワは、飲酒も女性の夜の一人歩きもないイスラム文化圏だ。ということは、スス屋にたむろするのは男性連れが多いということになる。もっとも屋台や立地によっては男女のカップルが多い所もある。ジャワでは男の人同士が夜、牛乳をいっぱいひっかけながら長話するという話をすると、たいていの日本人男性は仰天する。日本ではお酒を飲まないと男同士で話もできないようだが、ジャワでは牛乳だけで十分話が弾むのだ。

それでは、スス屋にどんなメニューがあるのか。飲み物としてはスス、コピ・スス(コーヒー牛乳)、スス・チョクラット(ココア牛乳)、スス・ジャヘ(生姜入り牛乳)や、STMJ(牛乳+卵+蜂蜜+ジャムー漢方)といった滋養強壮に良さそうなメニューが定番だ。またメニューにはないが、生卵を呑む男性客も時々いる。どうやら精力増強のためのようだ。それ以外には普通の屋台同様、ファンタ類やソーダ・グンビラ(炭酸ソーダ+練乳+グリーンサンド=ノンアルコール飲料)が置かれている。意外なのは、お茶の産地なのに、ジャワにはミルク・ティーという飲み方がないことだ。このことは留学中には全然気づかなかった。

軽食としては、ナシ・ゴレン(焼飯)やナシ・バンデン(魚つきご飯)といったご飯もの(1人前ずつバナナの葉で包んである)に、ビーフン、揚げ物、豆腐の煮付けや鶉卵、焼き鳥、ゼリーなど。そしてロティ・バカール(トースト)を忘れてはいけない。パンにバターを塗ってトーストし、チョコ・スプレーを振りかけ、8等分程度に包丁目を入れて出される。ちなみに、パンにチョコ・スプレーをかけて食べるのは、オランダの影響なのだそうだ。どのメニューも基本的に量は少なく、ちまちまといろいろと食べる楽しみがある。また焼き飯やおかずなどは、頼むと炒め直してくれる。これらのメニューだが、ご飯ものや多少のおかずはスス屋が自分で用意しても、お惣菜類やデザート類に関しては、ルート・セールスで個人が売りにくるのを置いていることも多い。特にたくさんの種類を並べて流行っているスス屋ほどそうである。

ここ数年の間に、シー・ジャックというお洒落な名前のスス屋が、ソロに何軒もできた。他の屋台に比べて、客は圧倒的に若者が多い。どの店でも屋台のテント柄が同じで、真っ赤なプラスチックのお皿を使い、メニューも共通している。お店の人に聞いたわけではなく又聞きだが、シー・ジャック各店は親戚中で経営していて、お惣菜も一族が一手に作って、全部の店に卸しているらしい。この店は私より後世代の留学生に教えてもらったのだが、チェーン展開で屋台を経営する話は今までに聞いたことがなかった。私が知らなかっただけかも知れないが、少なくとも、こんな風に若者向けにお洒落に展開するスス屋はなかった気がする。

留学時代は、スス屋によくお世話になった。スス屋は夜の11時、12時頃まで開いているから、夜にガムランの練習が終わった後に留学生同士で立ち寄って小腹を満たしつつ、いろいろと情報交換をするのだ。日本の喫茶店のような店はソロにはほとんどないから、スス屋が恰好の社交場になる。

これだけありふれたスス屋なのだが、牛乳を家庭で飲む習慣はあまりない気がする。ちょうどお寿司が外食のものであるように、牛乳を飲むのは家の外だけのことのようなのだ。私自身、親しい人の家を訪問したり泊まったりした時に、牛乳を出された経験が全然ない。また私はお隣りのスス屋からよく煮沸して余った牛乳をもらうので、お客があると出していたのだが、意外にも牛乳を飲めない人が多かった。日本のように、健康に良いからと子供に牛乳に飲ませる風でもない。牛乳はあくまでも、大人の社交の飲み物という気がする。

旅行けば

大野晋

浪曲だと、「旅行けば」とくれば「駿河の国に、茶の香り」と来ますが、年の瀬も迫ってその駿河の国に泊まっている。今日も富士山が遠くに見えてなかなかに景色がいい。気温も隣の相模の国と比べてもやはり高く感じ、農協の売店に出ている野菜なども寒さに弱いものもまだ出てきていることから暖かいのは事実のようだ。

茶摘の季節にはまだまだ早すぎるのだけれど、なんとなく、のんびりとした気分になる。

「旅行けば」とのんびりとした雰囲気で過ごしたくなる気持ちがわかる年末年始である。

オトメンと指を差されて(7)

大久保ゆう

水牛読者のみなさま、あけましておめでとうございます。旧年はどうもお見苦しいところをお見せしてお恥ずかしいばかりです。(よくよく考えてみれば今までの記事は私のプライヴェートをさらけ出していたわけでなんとはしたないというかそれを他人様に読まれているということに思い当たってものすごく恥ずかしくてなおかつそれを地の文で書いていたなんて赤面も赤面なので今後はお行儀よくオトメン的反応は括弧のなかに入れることにします。)本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今年も駆け出し翻訳家としてお菓子を食べつつ研究もしつつ頑張っていこうと思うのですが、そういえばオトメンである私が女の子のなりたい職業の上位に入る翻訳家になっているというのも、ある意味象徴的なことかもしれません。
でも……私は普通の翻訳家じゃなくて、ひと味違うオトメン翻訳家ですよ?
というわけで、新年改めまして、第七回目にしてようやく自己紹介などをしてみたいと思います。しかし翻訳家が翻訳のことを語るときには比喩を用いねばならないという古来からの伝統があるので、私もそれに倣ってひたすら自分のことをわかりにくく人様から見たらシュールに見えるくらいを目指して書いてゆくことにします。

 1.私は魔法使い
なのです。しかも普通ならハリポタみたいに魔法学校(というか魔法使い養成所)に行ったり、あるいはたまたまその魔法に詳しかったがために一種類だけ使えたり、そういうのが多いのですが、私はひたすら我流で修行しまくっていたらいつの間にか魔法使いになっていたという感じです。しかも、

 2.私は魔法学者

なのです。自分だけで頑張っていたので、(好きが高じて)ひたすら昔の魔法使いのことを調べたり、魔法理論とかを考えたり勉強したりしなくちゃならなくて、そんなこんなで魔法学者にもなってしまいました。不思議なことにこの国の魔法学校では魔法の訓練はしますが、理論のお勉強はしないし、そもそも理論の研究をしているところがまったくないので、この国にいる魔法学者の数少ないひとりになってしまいました。そんなわけで

 3.白魔法も黒魔法も赤魔法も青魔法も何でも使える

のです。普通なら、訓練で一種類もしくは数種類の魔法を身につける(というよりは身体にたたき込む!)のですが、私はいかんせん理論からやってしまったので、基本的に呪文の解読書さえ手に入れば、どんな流派・系統の魔法だって使えます。もちろん若干の練習が必要だし、いきなり大魔法は無理ですが、小魔法や中魔法くらいだったら大丈夫です。魔法を使う本質みたいなのさえわかっていれば、何でもできるわけなんですね。初見でも『あのときの王子くん』レベルの効果は出せますし、去年はデンマーク系の小魔法を使うお仕事も致しました。もちろん、普段から色んな魔法の練習は常にしているんですけどね。

 4.日本の魔法学は遅れている

ので、数少ない魔法学者としては、古い魔法哲学の文献や、もしくは新しい魔法理論書とか魔法史書などを訳したいと考えていたり、あるいは自分で書きたいと思っていたりするのですが……。なぜか訓練書ばかりでるんですよね。訓練も大事は大事なのですが、真面目に魔法を使うだけだと、どうしても迫力とか格好良さとか相手のこととか、その場その場にあった魔法のアレンジができなくなっちゃうんですよね。もちろん経験やセンスがあればそのあたりはできるようになるのですが、その経験をあらかじめ補うのが理論であったりするので(センスは別です)。それに、そもそも魔法は何なのかっていう本質がわからないまま使うことになっちゃいます。たぶん、それを飛ばしてしまってるがための時間的無駄は、結構あるような気がします。

 5.私はまだ10年程度

しか魔法使いの道に入っていませんが(むしろもう10年?)、個人的にはやっぱり子どものための魔法とか、なぞなぞの魔法とか、大人向けのせつない魔法とか、そういうのがしっくりくるみたいです。魔導書の孫引きでもいいから、いつか色んな系統の子ども向け魔法集みたいなのをやりたいなあ、なんて風に思います。アルメニア子ども向け魔法集とか。ちょこちょこ本は買いためてるんですけどね。アルメニア魔法はいつか原典からもやってみたいです。世界の秘密的な意味で。

 6.でも誤解があって

魔法が使えると言うと、「じゃあ呪文が暗唱できるんですね〜」などと言われるのですが、魔法を使うのと呪文を暗唱するのはまったく別のことです。たとえ暗唱できても魔法を発生させて効果を生むことができない人もいるし、魔法が使えても暗唱できない人もいます。そもそも魔法を使うときに暗唱は必ずしもできなくていいんですよね。魔導書を横に置いて黙唱にせよ何にせよ唱えて使えればいいわけですから。それは一般的な誤解なのですが、時折、魔法のことを知ってるよ、みたいな感じで別の誤解をされる方が結構おられます。その、効果の大きさとか格好良さっていうのは確かに大事なんですが、魔法そのものが使えるかどうかという能力とは本質的には関係がないんですよ。「魔法ってやっぱり効果が大事だよね〜」とおっしゃりたいのはわかります。いちばん最後に見えるものですから。でもそれはけして魔法の本質じゃありません。……でも魔法哲学が普及していないから、仕方がないことではあるのですが。

……という感じで書いてみました(うーん、野球にたとえた方が良かったかな)。いや、本当に小さい頃は何と言いますか、(本物の)魔法使いになりたかったので、ある意味、その夢が叶っていることになります。こんな方向で叶うなんて思ってもみませんでしたけどね!(泣き笑い)

けれども魔法使いにもたくさんの問題があって、上記のようにその本質が知られていないこともありますが、現代においてその最たるものは「儲からない」ことでしょう! 比喩からしてもお金が結びつかないのがありありとわかるのですが、魔法使いの慎ましやかな生活はまた来月にでも。

しもた屋之噺(85)

杉山洋一

3日ほど前、クリスマス・コンサートを終えてサンマリノから戻り、家人が日本に10日ほど戻っていて、息子と二人、静かにクリスマス休暇を過ごしています。先ほどまで庭先の木が見えないほど濃い霧が立ち込めていたかと思えば、今は暴風が物凄い轟音を立てて吹き荒れています。まだ朝の4時過ぎ、辺りは真っ暗で静まり返っています。

サンマリノの演奏会は、前半が4歳から8歳くらいのこどもたち90人と、現代風にアレンジされたこどものうた、後半はジョン・ウィリアムス映画音楽という軽いプログラムで、とても楽しく、心に残る演奏会になりました。この演奏会はサンマリノでは20年以上続いている伝統ある行事で、2名の執政(Capitani Reggentiと呼ばれてイタリアで言う大統領に相当。日本の総理大臣とは少し印象が違います)が揃って列席し、ですから国歌斉唱もあり、テレビの中継も入り、最後は決まってラデツキー行進曲がアンコールで、花吹雪が舞う、という段取りです。当初はウィーンのニューイヤーコンサートよろしくシュトラウスばかりを取上げていたそうですが、近年いろいろとプログラムに変化を持たせ、何度も聴衆からリクエストされていた映画音楽を初めて取上げたとか。

初めて「サンマリノ共和国国歌」をやったわけですが、渡された楽譜には歌詞がなく、どこでフレーズが切れるのかも分かりません。一度こどもたちの合唱の練習を覗いた折、息継ぎの場所などチェックしたので問題はなかったのですが、合唱団との顔合わせのときは、初めてで緊張していて、声もよく出ていないようでしたので、ぺらぺらの楽譜をあちらに見せながら、「一つ頼みがあるんだけどね、貰った国歌の楽譜、何と言葉が書いてないのよ。悪いんだけどさ、ぼくに教えてくれるつもりで、一つよろしく頼むよ」というと、途端に声が出るようになりました。可愛らしいものです。
ちなみに、ピアノを弾いていた合唱団指揮者の奥さんに、もちろん彼女もサンマリノ人でしたが、ちょっと言葉を教えてよ、と休憩中に話しましたら、「ええと、肝要な…誉れ高き…あれれ、どうだったかしら?」という按配で、なかなか美しい旋律はともかく、歌詞は余り浸透しているようには見受けられませんでした。子供たち、あっぱれ!

子供たちのうたは、ボローニャのフランシスコ修道会がつくった合唱団「金貨(ゼッキーノ・ドーロ)」のために1967年に作曲されたPopoff(ポポフ)、La lucciola nel taschino(ポケットに一匹のホタル)、La minicoda(ミニしっぽ)などの童謡が、クリスマス唱歌に雑じって編曲されていて、これが実に味わい深く、素敵なのです。
「黒猫のタンゴ」など、「みんなのうた」を通して日本や世界各国に紹介された「金貨」合唱団のレパートリーは多いです(「黒猫のタンゴ」の「原曲の原曲」は「モダンタイムス」でチャップリンの歌う「ティティナ」)が、この3曲は日本では未紹介のようなので、何方か上手に訳をつけて「みんなのうた」に持ちかければ、とお節介が頭をもたげるほどでした。ちなみに「ポポフ」は、「カリンカ」風にイタリア人が書いた、40年以上経った今も歌い継がれる名曲で、イタリアでは誰でも知っている童謡とのこと。
ボローニャの子供たちにとって、「金貨」合唱団はやはり憧れだそうで、入団試験もとても難しいと聞きました。今や「金貨」合唱団がテレビに登場するのが、クリスマスの風物詩になっているほどです。

「内気なぼくは猫や犬なんて飼えないけど、ポケットに一匹、大切なホタルを入れているんだ」と、寂しげに短調で始まる「ポケットに一匹のホタル」など、小さい子供たちは感情移入して、泣きそうな顔で歌い始めるのです。その後、ホタルが自分を照らし出してくれて長調に転ずるところで、顔の表情が活き活きと漲り、いきおいオーケストラの音色もがらりと変化しました。
練習のとき、誤まって「じゃ次は『レ・ルッチョレ(蛍)』ね」と言うと、小さな女の子に「違うわよ、『ラ・ルッチョラ(一匹の蛍)』よ」と、いみじくも直されてしまいました。ポケットにたった一匹ホタルがほんのり明かりを放つのと、沢山のホタルが賑々しく明滅するのでは、意味が全く違いますから。

ジョン・ウィリアムスは、E.T以外、スターウォーズ、スーパーマン、ハリーポッター、ジュラシック・パーク、インディージョーンズなど、個人的に映画には馴染みがありませんでしたが、特に、アレンジャーや弟子の筆が加えられていない、ウィリアムスオリジナルのスーパーマンとジュラシック・パークのスコアは、明らかに他の作品と格段の差があり、並々ならぬ才能を実感させられました。

これらオリジナルのスコアには相当難しいパッセージも散見されるのですが、これらを捨て置かず地道に練習してゆくと、思ってもみなかった効果が現れたりするのです。明らかにスタジオ録音を念頭に書かれた、ラッパ4本に対しフルート2本というアンバランスなオーケストレーションで、結局は金管が咆哮するのだから、このパッセージを丁寧に演奏する必然性があるかと疑いたくなりますが、早いパッセージのぴたりと焦点があうと、別の模様がさっと浮き上がってくるのです。こうなるとオーケストラの方が面白がって、互いにどんどん聴きあい、寸時を惜しんで個人練習を積んでくれて本番は見事な演奏になりました。

或る日練習の合間の食事休憩のとき、控室で着替えて廊下に出ると、隣の部屋にフルートのクリスティーナやオーボエのロレンツォ、インペクのローモロなどオーケストラの6、7人が集まっていて、一斉に手招きするので何かと思うと、何とそれぞれ美味の食事を持ち寄って立食パーティーをしているのです。ほらこれを食べなさいよ、これも食べて、味見してみて、と大変な騒ぎで、乾燥ラードのような珍味にまでありつけました。前菜のサラミから主菜を経てデザートのフルーツや自家製のケーキまで、全て揃っているのには驚かされます。流石は美食家の多いエミリア・ロマーニャ地方だけのことはあります。

ホルンのジョヴァンニが作ってきた自家製のワインまであって、何度も勧められたものの、練習の前には流石に呑めない、呑んだら寝てしまうと言い、一杯だけ紙コップに注いでもらって控室に持帰りました。その日無事練習も終わり、控室で残っていたワインを呷ると、強烈な酸味で目が覚めました。先ほど、なかなかワインのボトルが空かなかった理由もこれでわかりました。
とはいえ、お陰でとても心温まる、素敵な誕生日になった、と残っていた手焼きクッキーを齧り、教会に掛かるクリスマスのネオンを眺めつつ、深夜のホテルに戻りました。

(12月25日 ミラノにて)

メキシコ便り(16)

金野広美

踏んだりけったりの経験をしたチワワからバスで南に12時間、中央高原北西部にあるサカテカスに着きました。ここは16世紀にメキシコ随一の銀鉱として栄えたところで、当時の貴族が富みをつぎ込んだ壮麗なバロック建築がそのまま残っているところです。古い石畳の道や小さな噴水のある広場がいたるところにあり、バロック建築のチュリゲラ様式と呼ばれる緻密な装飾がほどこされたカテドラルやサント・ドミンゴ教会がそびえたっています。サカテカスの街並みを一望できるというゴーファーの丘にテレフェリコと呼ばれるロ-プーウェイで登ってみました。ここでは色とりどりの花が咲き乱れ、どこからともなくかすかにいいにおいがただよってきます。さわやかな風にふかれながら展望台から眺めるサカテカスは、赤みがかった建物の色のせいか、かわいらしい箱庭のようで平和そのもののように眼下にひろがっていました。

このあたりで採れる砂岩は赤みがかった色をしていて、その石でつくられた建物は全体に濃い桃色をしているため、ピンクシティという愛称もあるほどです。この丘はいまでこそサカテカスのビュースポットになっている場所ですが、1914年、連邦政府軍とパンチョ・ビージャ率いる革命軍によって激闘が繰り広げられ、革命軍の勝利によりメキシコに新しい時代が到来する契機になった場所でもあります。この時の戦闘の様子などを当時の武器や写真などで知ることができるサカテカス占拠博物館を訪れ、多くの生々しい戦いの記録を見ました。まだあどけない顔をした若い娘が肩から銃弾のぎっしり詰まったベルトをかけ、銃を持って少し緊張しつつ、わずかに微笑んでいるかのような表情の写真がとても印象的でした。きっと彼女はとても怖かったでしょうが、誇りを持って戦いに参加したのではないかと思わせる一枚でした。

博物館を出たあと下りは別のルートで帰ろうと、客待ちをしていたタクシーに乗りました。タクシーだと15分40ペソ(約400円)の距離なのですが、陽気におしゃべりしていた運転手が、なんと途中で知り合いの女性を見つけて助手席に乗せました。そしてなにやら彼女と楽しそうに話し出したのです。私はちょっとびっくりしてしまい、「相乗りは料金頭割りやでー」と大阪のおばちゃんになろうかと思いましたが、200円くらいのことなので、まあいいかと、ここは我慢して寛大な日本人でいましたが、日本ではちょっと考えられないことですよね。

ここサカテカスには個人のコレクションとは思えないくらい中身の充実しているといわれる2つの博物館があります。ひとつはペドロ・コロネル博物館で、ここサカテカス出身の画家ペドロ・コロネルの収集品を展示してあります。エジプトのミイラ、中国清王朝の青磁器、ギリシャの彫像、インドの神像、アフリカの木彫品、ピカソ、シャガール、ミロ、ゴヤ、歌麿の浮世絵と、その数も種類も半端ではありません。ミロなど「UBUの子供たち」という一連の作品をはじめとして約60点、浮世絵も歌麿呂や豊国など約40点ありました。そしてここの出身の画家ピラネシが描いた宮殿やカテドラルは、まるで巨大な設計図のようで、緻密な細い線を多用し建築物の美しさを表現していました。日ごろメキシコ人の大雑把な仕事ぶりをみている私にはこんな几帳面なメキシコ人もいるのかと驚きでした。だって私のアパートの床板など寸法を間違えているのか、きっちりはまっていなくてすきまだらけなんですよ。ほんと、これで売り物になっているのがなんとも不思議です。

次に仮面博物館とみんなが呼んでいるラファエル・コロネル博物館に行きました。メキシコの伝統的な宗教儀式や祭りのダンスに使われる鹿、ジャガー、牛などの動物、老人や子供、スペインのコンキスタドール(征服者)、またこれ以上気持ち悪くできないといった角を持った悪魔の仮面など、さまざまな仮面が約3500点展示してあります。日本でも能面や鬼面など多くの仮面がありますが、ここの仮面たちの派手ばでしさにくらべれば、日本のものはとても簡素で美しいと思いました。1メートルはある大きな悪魔の仮面など、恐ろしくしようと蛇や狼などをいろいろとつけすぎて、かえって滑稽になってしまい、日本の夜叉面の方がよほど恐ろしいのではないかと思われました。

仮面は簡単に変身できる手軽な小道具で、とても興味深かったのですが、なにせ3500個もあるのですから行けども行けども仮面ばかり、お客は私ひとり、歩いているうちにジャガーや大きな牛、おぞましい悪魔が突然動き出し、襲いかかるのではないかという気がしてきて、だんだん怖くなって早足になり、最後は小走りで展示室を出てしまいました。

外に出ると薄暗い博物館とはうってかわって澄み切った青空がひろがり、通りから甘いにおいが漂ってきました。そのにおいのする方に近寄ってみると、大きなカモテ(さつまいも)を直径1.5メートルはある巨大な鍋で炊いて売っていました。砂糖をふんだんに入れ、グアジャバという小さな果物と一緒にぐつぐつ煮込んだ芋菓子のようなものなのですが、これが安くて本当においしいのです。日本だと「石焼きいもー」となるところでしょうが、だいたい日本の石焼きいもの倍はある大きさのカモテで10ペソ(約100円)です。なべの中は大きいものから小さいものまでさまざまなカモテがありましたが、どれでもみんな10ペソだというので、もちろん一番大きなものを選び、くたくたになったグアジャバもいっぱい入れてもらいました。これを歩きながら食べていると、さっきの怖かった仮面のこともすっかり忘れて、幸せいっぱいお腹いっぱいになりました。

製本、かい摘みましては(46)

四釜裕子

10月、鯖江の助田小芳さんから、句集『よみづと』の案内が届く。戦前から夫・茂蔵さんと謄写版印刷業を営むかたわら、茂蔵さんの孔版画と小芳さんの句や随筆などをまとめた本を私家版として刊行してきたかただ。案内の冒頭に、茂蔵さんが2カ月の患いののち2008年4月に亡くなったとある。春に予定していた刊行が、半年遅れた。できる限りの準備を尽くして逝った父にかわって、あとの印刷、製本、案内、頒布その全てを息子の篤郎さんが引き継いだ。

帙入り保護箱付きと貼り箱入りが用意され、迷わず帙入りを注文する。まもなく届いた『よみづと』は、小芳さんが平成15年から19年にかけて詠んだ句が茂蔵さんの筆文字で刷られており、ほかに12篇の随筆と花の孔版画3葉が添えてある。紙はすべて越前和紙、大きさはB5変形(8寸9分×4寸5分)、黄色の糸と黄色の角布で5つ目の和綴じにくっきり仕上げられ、厚さ18ミリながら表紙に入れられた折れ線と黄味やわらかな越前和紙によりページは至極しなやかに開く。

表紙の花は、2007年夏に助田家の庭によく茂り、あたりを黄金色に照らしたというオオマツヨイグサである。実際の黄の色は淡く銀の輝きを感じさせ、昼夜、時間によって表情を変える。茂蔵さんが描いた花の絵を篤郎さんが孔版画製版し、オオマツヨイグサは10回、なかに綴じられたハギは8回、ハゲイトウは10回、それぞれ刷りを重ねて1枚ずつ仕上げている。ガリ版でいったいどうやってこんな風合いを出すのだろう!と見入りながら、「ガリ版」のことをほとんどなにも知らないくせにそんなふうに感じることが可笑しくなる。句は1ページに2つ。四季の草花やできごとがいとおしさとユーモアを傍らに詠み継がれていて、小芳さんと同年代の身近なひと、そしてまもなく自分に重なる。ひとり詠んだ誰かの句を、かまびすしさと解釈に疎くひとり繰り返し読む時間がぐるぐる過ぎた。

2007年春、このご家族にお会いした。NHK「ラジオ深夜便」で放送された助田夫妻のインタビュー(聞き手は西橋正泰アナウンサー)を「ラジオ深夜便こころの時代 第4号」(NHKサービスセンター)に再録するため、写真家の大沼ショージさんと訪ねたのだった。助蔵さんが勤めていた木綿問屋で仲間と作っていた同人誌主催の詩の展覧会でお二人が出会ったこと、戦時中は小芳さんが謄写版の道具一式を疎開させたこと、子どもたちに作った絵本のこと、二人で歩いたお遍路、そののちに謄写版で私家本を作りはじめたこと、ある一年間は毎日一つ地の花を二人で探し水彩で描いたこと……。米粒をじぃと見つめていると「小さい」という観念がなくなって、それでその中に字を書くことができるようになります、誰だってできますよ。人の真似して美しいと言っているあいだは美しさは見えていません、そういうことに気づいたらなにもかもが美しく見えて、自然にいりびたるようになったんです。そんな話をたくさん聞いた。

句集『よみづと』。著者・助田小芳、発行者・助田茂蔵、印刷製本・助田篤郎。最初はあまりに大切で恐る恐るめくっていたが、ぐるぐる時が過ぎたころには背を机にべったりと置き、何度も開ききっていた。美しく仕上げようとして作られたものは破壊を嫌うが、美しく仕上がってしまったものは破壊を怖れないのだと、つくづく思う。助田さん一家が送り出してきた本は、砂時計を落ちる一粒ずつの砂を思わせる。心身に得た恵みのありがとうを絵と言葉にして、手渡し読んでもらうためのカタチをひとつずつ仕上げる。小さないくつもの砂時計の細い首をいつもまっすぐに落ち、こうしてたくさんのひとの肚に宿を移してきたことだろう。「よみづと」とは、「黄泉苞」であり、「詠み苞」でもある。

水――翠の羨道 51

藤井貞和

途で疲れて本道を離れ、一樹の翠のもとに
仏(ほとけ)は憩う。 阿難に言うには、
阿難よ、願わくはわが身のために衣を地に布け。
吾、疲れたり。 しばし憩わん。 休みたい。

阿難の言う、世尊よ、うけたまわりました。
四つにたたんである衣をひろげると、そのうえに
仏は座して、また阿難よ、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 飲みたいのだ。

阿難の答える、世尊よ、いま五百輌の車が、流れを
過(よ)ぎりました。 水はしばらく濁ったままで、
澄み切らないのです。 大河がほど遠からぬさきに
あって、水清く、涼しく、いましばらくの我慢を。

仏がふたたび言うには、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。
阿難尊者に告げてみたび言うには、願わくは
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。

(阿難はどうしたかって? そんなに飲みたい飲みたい言われるのだから、轍で乱れ濁った水とて、水は水、飲まして進ぜようとした。『仏陀の福音』〈鈴木大拙、明35〉によれば、流れは澄みに澄んで、一点の塵もなかった。これではつまらないね。汚れた水でもよいから飲ませようとした、阿難の瞬間の心がそれではわかりにくい。ジナ教によると、命(jiva)について、「善悪などの業分子侵入の多少の程度によって、現実の命の本質を水の流れるのにたとえる」と。濁水が一時澄みたる時を止業、その濁分を他へ移したる時を滅業、両者の中間を混業、業が力を揮い初めたる時を起業、命が命そのものの状態に復帰したる時を円満位と言うと(「入諦義経」第二品の解説、『耆那教聖典』世界聖典全集七、大9、154ぺ)。著者鈴木重信は満十三年にわたる病魔とのたたかいのすえに、この一冊を遺して三十一歳にて遷化する。それももの凄い執念。)

Tomorrow is another day.

仲宗根浩

ある日、家での音楽の聴き方を変えよう、と考えパソコンに取り込んだCDの音源を消すことにした。20GB以上あった音源ファイルは盤があるものを削除し2GBに減る。これからは盤を取り出し、CDプレイヤーに入れる、という作業を再びすることになる。家の中での音楽の垂れ流しはこれでなくなる。

ある日、夕ご飯の餃子、餡を皮に包むよう命じられる。冷蔵庫からかわを取り出す。わんたんのかわと書かれている。すこしいやな予感。袋を開け取り出すとほら〜、形が正方形じゃないか〜。しょうがないので餡をのせ対角線で折、包む。出来上がった三角形はどうみても生八つ橋。

ある日、水谷隆子が亡くなった、というメールが来た。メールの日付は昨日だった。不幸があるとメールのやり取りが多くなる。りゅうちゃんと初めて会ったのは澤井先生のレッスン場だった。りゅうちゃんは見学に来ていた。こちらはレッスンを受ける側だった。レッスンは時間が押して一番最後のわたしが終わる頃は終電も無くなり、最後まで見学していたりゅうちゃんは入門前にしてレッスン場に泊めさせられ、その日は飲み会へと突入した。真面目なりゅうちゃんは内弟子となり、内弟子卒業後はアルバイトをしながら演奏活動を続ける。一度、りゅうちゃんから代役を頼まれた。彼女が参加していた、コントラバスと複数の箏で即興をするグループ。場所は今はなくなった法政大学の学生会館ホールだった。りゅうちゃんの代役などつとまるはずがなく、下合わせからなんかおさまりきれてない、自分の居所を見つけられないまま本番まで終わったしまった。そのあと、こっちはいつの間にか箏の世界からコースアウトし東京を離れる。東京から離れる数日前、その頃住んでいたアパートまで会いに来てくれた。うちの奥さんとはNHK邦楽技能者育成会で同期だったし、子供の顔が見たかったのかもしれない。それが会って話をした最後になった。それ以後はEメールだけのやり取りになった。彼女が東京で最初のリサイタルをするとき、舞台スタッフのこと、音響のことなどの相談を受けた。その時が一番やりとりしたかもしれない。そのうち文化庁の在外派遣研修員として彼女は渡米した。新しい音楽をつくる楽しみに満ちたメールが来た。こちらの内容は仕事の愚痴とおふざけと馬鹿話だけ。東京のいろんな人の近況報告も全部りゅうちゃん経由のメールで知った。派遣研修後もアメリカで暮らし、結婚したこと、癌が見つかって手術する、という報告メールが来た。治療の副作用で丸坊主になったこと、トルコブルーのカツラを付けた写真も送ってきた。こちらからは禿げ仲間が増えてうれしい、と返信した。詳しく書かれた治療の様子、副作用のこと、苦しさなんて当人でないとわからない。いつも通りふざけるしかできなかった。季節ごと、新年を迎えるごとに連絡は取り合っていたがだんだんとその数は減っていき二年半ほど途絶えた。でも活動はホームページやブログを見て知っていた。その後、沖縄にいるりゅうちゃんの知り合いの近況を伝えたり、育成会の同期会に関しての連絡を頼まれたりと、年に数回のやりとりが再開した。去年、久しぶりに東京を訪れたときは入れ違いでりゅうちゃんは、IIIZ+という自らのグループの公演のため東京に来た。今年四月にはここからは東京よりも近い台湾まで来ていたので沖縄経由すればよかったのに、と書くと「台湾ー沖縄経由、思いもしなかったよ。次回はそうしよう。」と返事がきた。りゅうちゃんは上手に癌と付き合って世界中を飛び回りつづけているからそのうち会えるだろう、思っていた。だけどTomorrow is another day.と、タイトルがついてブログは十月十日を最後に更新されないまま、二ヶ月後にりゅうちゃんはみんなにバイバイしていった。澤井先生宅にての、りゅうちゃんを偲ぶ会の案内メールが来たが欠席の返事を出す。

ある日、十九年使った掃除機がついにこわれた。これで結婚以来使っていた家電製品はすべて代替わりとなった。奥さんは掃除機の下見に行く。店の人に明日のセールから六万四千八百円の製品ですが今日までであれば四万七千円でいいです、と言われ内金を払いもどってきた。価格ドットコムで値段を調べる。損はしてない。最近の掃除機、収納の形態が四種類もある。「トランスフォーマー」みたいだ、と子供と遊ぶ。

ある日、十年前に購入したパソコンをメーカーに回収してもらう手続きをする。リサイクルマークが無い頃のものなので有料になる。支払いを済ませしばらくすると、発送のため伝票が送られてきたので箱に詰め郵便局へ持っていく。Apple Power Book 2400/240。いいマシンだった。80MBのメモリー、2GBのハードディスク。今ではビデオカードには80MBでは足りず、2GBはメモリーの標準。

ある日、新聞についてくる年末年始のテレビ番組表を見ながら演芸番組をチェックする。生の落語も七、八年前に立川談志独演会を近くのホールで見て以来、ご無沙汰している。この番組表を実家から貰っているのだが、これを見ていると日曜日にある「みんなのケイバ」が「みんなのゲイバー」に見えていつもドキっとする。最後のゲイバーは高校の同窓会の二次会、場所は新宿。だれが手配したか知らないが、店に入ると貸し切り状態。男子校だったので店の中は男だけだった。

おおむねいつも通りのひと月は過ぎる。

冬のなかで2009年

高橋悠治

『透明迷宮』からはじまり『冬の旅』で 2008年も終わった
『花筺』『なびかひ』『しぬび』は追悼の音楽
柴田南雄の『歌仙一巻「狂句こがらしの」』(1979)の演奏
如月小春によるシアターピース『トロイメラ』作曲と上演
結城座の『破れ傘長庵』の音楽担当で発見したこといくつか
沈黙に点在する いくつかの即興

先の見えない森の小道を 自由への歩みに変える ささやかなこころみ
刻まれる文字をつかうなら カフカやベケットのように
手のうごきにみちびかれて 未知の空間をひらくこともできるだろう
音はその場で消えるもの ひとりのものではなく
にんげんのあいだにあるもの
きっかけをよみ 舵を切る
連句の付けと転じは シュールレアリスムの「妙なる死体」とはちがって
型の自在な運用を必要とした
この場合の型はかたちではない
連句の月の座 花の座も
義太夫の七つユリや ウレヒ三重も
ホメーロス以来の叙事詩的定型句の反復のように「見えるもの」ではなく
場の遠景に佇む見えない力と言おうか
潜在する知識として いったん個人の内部に沈み
空間をきっかけとした表現として 異なるかたちでよみがえる
音楽は「あいだ」のものだから
地図のない道 全体のない部分
座をつなぎ 場をつくるもの
即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている

1960年代には草月アートセンターがあった
そこを通じてクセナキスにもケージにも出会った
1980年代には 世界はひろく散らばって それでも
遠く離れてはいても 友人たちがいることを知っていた
いまは みんないなくなっていく

音楽は ここにはない
ヘテロフォニーの曼荼羅も 人力コンピュータも
知的退廃にしか見えないが
どこかに 知らないだれかが
まだきいたことのない音楽をつくっているだろう

もう旅はしない
世界の向こう側に行かなくても
内側へおりてゆく井戸がある
時間はさかさにまわりはじめる
未知の過去に未来はある
背後にはひらいた窓がある
そこから出てゆくまで
もうしばらくはここにいる

ハニーンのすてきな微笑み

さとうまき

「難民ってカッコイイ」? とてもきわどいキャッチコピーがUNHCRから回ってきた。難民ってかわいそう、難民支援って大変そう。そんなイメージを覆そうという意図だという。

「難民って、難民支援ってカッコイイ」
そんなこと言われたってやっぱり戸惑う。現場で難民と接していると、「カッコイイ」という表現は似つかないし、ふざけんなよと言いたい気持ちもある。案の定、ミクシィとかでは炎上しているそうだ。

イラク戦争で難民になり、隣国ヨルダンで難民生活を送るハニーンは、11歳。卵巣がんを患っている。父は、難民なので、ヨルダンでの就労は禁止されている。ヨルダンの医療保険制度も難民には適用されないから、治療費が払えず、病院にもいけないまま、がんは進行していた。スマイル子どもクリニックの加藤ユカリ先生が、彼女を救いたいと言い出した。

「いくらかかるか知ってますか?」
「20%しか助からないということは、まず死ぬでしょう」
「その金があったら他にも助かる子どもがいる。」
「でも出会ってしまったからには、この命を助けたい」葛藤が続く。
「100人いたら20人は助かるんだ。そこにかけてみよう」

ハニーンは、絵を描くのが大好き。絵描きになりたいという。しかし、集中して描く事ができない。がんが大きくなって膀胱を圧迫し、一時間に何度もトイレに行く。弱りきった彼女にはトイレの扉も重たすぎて自分では開けられないのだ。私は今年の一月、タキに連れられて、病院にお見舞いに行った。病院には支払われるはずの治療費が滞り、病院側は、身代わりにタキのパスポートを取り上げてしまった。

「私は、日本に帰れなくなってしまいましたよ」と冗談を言っていたが、弱っていくハニーンを見るのはつらい仕事だ。
「募金キャンペーンに使う絵を描いてほしいな」とお願いすると、とってもうれしそうな顔をした。抗がん剤のせいか髪の毛は抜け落ち、鉛筆を握る手先の皮膚はぼろぼろになっていた。それでも、力強く線をつなげていく。「私、生きているわよ」と主張していた。出来上がった絵を見せて、「気に入った?」と微笑む。私たちは、大満足だった。
数日して、ハニーンは、息を引き取った。あの時彼女は、壮絶な痛みや苦しみに耐えていたのだった。それでも、絵を描くことで、役に立ちたいという気持ちが、あんなにすてきな微笑みを産んだのだ。

彼女が死んだとき、タキは、しばらく、ふさぎこんでいた。そうなるのは最初からわかっていた。後日、「あの時は、アラビア語なんか勉強するんじゃなかった。彼女や家族の苦しむ言葉なんか聴きたくなかったのです」といっていた。
タキの仕事はイラクにくすりを送り出さなくてはいけない。それをまっている子どもたちがたくさんいるからだ。僕たちは悲しいからと言って立ち止まってはいけないのだ。ハニーンがそんなこと許してくれないだろう。だから、今年の「限りなき義理の愛大作戦」のチョコレートのパッケージにはハニーンの書いてくれた絵を使った。

ぼろぼろになってチョコを売り、支援を続ける僕たちにやっぱりカッコイイという言葉は似合わない。

12月よりチョコ募金「限りなき義理の愛大作戦が始まります。
詳しくはこちらhttp://www.jim-net.net/09campaign/09campaign001.html

センター通り

仲宗根浩

すこし涼しくなったとおもったら、いきなり数日の真夏がきて、こんどは肌寒くなったりしている。寝る時は毛布をかけるようになっているから、確実に冬にむかっていることはたしかみたい。最近、子供が見ているディズニーのテレビ・アニメの舞台が無国籍映画みたいな沖縄になっている。はなす言葉の語尾になんでも「〜さあ。」をつければ沖縄風になるのか、とテレビにツッコミつつ、だらだらと十一月が過ぎた。

十一月五日、朝からニュースはアメリカ大統領の選挙中継あれこれ解説を入れながらやっている。このあれこれがうるさいし、その国の生放送を見たほうがおもしろいだろうと、チャンネルをAFN(昔でいうFEN)に合わせる。全編英語、CMなし、英語があまりにも不得手なわたしがわかるのは画面に出てくる得票率の数字だけ。本来このテレビ放送はよそでは基地内のケーブルネットでしか見られないらしいが近所の基地は電波で出力しているためものごころついたときから、テレビを6チャンネルに合わせればが見られる。この日、放送していたのはアメリカのabcの中継だったか。夕方から東京発信のニュースもこればかり。次期大統領が黒人のため人種偏見について取材したものがあった。家の前に人形を吊るしている映像を見て、去年読んだ「私のように黒い夜」という本にあった写真を思いだした。

子供の頃、ここでも白人と黒人がたむろする場所というのは違った。住んでいたセンター通りと言われたところは白人が遊ぶ場所だった。家の斜め後ろには米兵とお姉さんがよく出入する個室がいくつも並んだ建物(昼は塀によじのぼりよく中を覗いていた)、学校に行く途中バーの入口横には裸体にニシキヘビを手に持ち、いろいろなポーズをつけるブロンドのお姉さんの写真が隠されることなく貼られている。表通りを歩く黒人は滅多にいなかった。歩くときは表通りと平行に、ぎりぎり車が一台通るくらいの裏道を歩いていた。その裏道は昼の子供の遊び場でもあった。狭い中で野球をやっていると、真ん中からピンクと紫色に分かれた派手な服を来た、調子のいい酔っぱらった黒人が手を取りバットの構え方を教えてくれた。夜は表通りのネオンの明るさとは逆でとても暗くこわかったので、表の明るいネオンの下、家が通りで商売をやっている近所の友達とただ走り回ったり(たまに子供には大金の25セント硬貨を目が合っただけでくれる米兵もいた)、酔っぱらいばかり通る中、真面目にキリストの教えを説く人が配るちらしを何枚も意味もなく貰ったりした。九歳までいたところにずっと住んでいれば普通に昔の記憶としていつの間にか消えたかもしれないが、いきなり畑の真ん中に建つ家に引っ越してしまったので、小学校三年生までとそれ以降との落差がありすぎた。あの頃、いっしょに遊んだ者たちは引っ越したり、死んだりして顔を合わせることはない。わたしが家の二階から下を通るアメリカさんめがけ、小便を頭の上に命中させたことを記憶している者もほとんどいない。

性の行き来

冨岡三智

ある中学校の合唱コンクールでのこと。その学校では、各クラスとも合唱以外にちょっとしたパフォーマンスを行うのだが、3年生のクラスでは男女生徒が制服を取り替えてパフォーマンスした。私自身が中高生の頃には、こんなこと、発想もしなかったなと思う。彼らによると、今までの先輩たちもやってきたことだそうだ。ともあれこの男女が入れ替わるという発想には、制服がユニセックスなデザインだということも影響しているに違いない。上半身は男女とも同じポロシャツにブレザーだから、ズボンとスカートを穿き替えるだけで簡単に男女入れ替えができてしまう。

  ***

私は今までジャワ舞踊の手法でいくつか女性舞踊作品を作ったことがある。いずれも部分的に男性舞踊(優形)の振付を取り入れて、そこだけ男性になることを表現してみたかったのだが、このはめ込みは頭で考えるより案外難しかった。ジャワ舞踊では男女でカイン(腰布)の巻く向きが異なる。男性は左前に、女性は右前に着付けるのである。だから合わせが逆になると裾捌きも変わるだけでなく、心理的な男女の壁も越えないといけない。

たとえば着物を着る場合、左右の前合わせを間違える人はいるまい。(と思っていたら、テレビの生放送では時に、着物の前合わせを間違えた人が出ることがあるらしい。もはやそういうことは日本人の常識ではない時代のようだ。)日本では合わせで生者と死者を表現する。生きている限り男女を問わず右前、死んだら左前である。だから生者と死者の壁は大きいけれど、男女の壁はそれほど高くないことになる。だから女性が女性の着物を着て、時に女性振り、時に男性振りをして性を行き来する表現をすることは、ジャワ舞踊ほど難しくない気がするのだ。

歌舞伎では早代わりがあって、男女を問わずに変化できるというのも、そもそも着物が基本的に男女同デザインで右前ということによるのではないかと私は思っている。これがもし、早代わりで生者と死者を何度か交互で表現するとしたら、何度か着替えているうちに、わけが分からなくなって前合わせを間違えてしまうかもしれない。

  ***

中学生が男女取替えの表現をしたくなるというのは、男女差をはっきり区別させる文化が薄らいできたからということもあるだろう。私の学生時代には、女子学生はセーラー服、男子学生は詰襟の学ランというのが学生服の定番で、そのうえ当時の男子学生の頭は丸坊主だった。丸坊主の男子学生がセーラー服を着ようなどと思いつきもしなかったのも、それが気味悪く感じられるほど、男女差の壁が高かったからだといえる。

そしてこんな文化はバブルの時代で終わった気がする。私が社会人になったのはバブル全盛時代で、男性といえば肩幅の広いジャケットを着て、みな逆三角形の力強い体型を演出していたし、女性といえば、ワンレン・ボディコンのスーツでめりはりのある体型とかとセクシーさを演出していた。

そんな前向きな時代が終わり、経済が悪化して閉塞感が強くなって以来、服装に男女差の表現が少なくなってきた気がする。しかし着物文化を考えてみると、日本はもともと男女差の垣根の低い文化だったとも言えるのだ。バブル時代の男女のイメージというのは、明らかに西洋モデルだった。中学生が男女取替えを面白がるというのも、ある意味で伝統的な現象なのかも知れない。

オトメンと指を差されて(6)

大久保ゆう

「その人、××のときに○○するでしょ。」
と私が言うと、依頼人は、
「えっ、どうしてわかるんですか!?」

なんていうのはシャーロック・ホームズの世界にしかありえないと思いきや実は私にとってはよくある光景だったりするところの大久保ゆうですみなさまこんにちは。

いやしかしそもそもそんな会話の成立する状況がよくわからんというお言葉もあるかと思いますが冗談というかほとんどあきらめ半分に自分のことを「諮問探偵《コンサルティング・ディテクティヴ》」と呼びたくなるくらい男女問わず私の所には揉め事が持ち込まれます。

ほらテレビとかで探偵の行くところ行くところ事件が起こったり出くわしたりするじゃないですか、普通はああいうのは「そんなことありえないよ」と思うところなのですが大小様々な事件に(部外者としてあるいは探偵として)巻き込まれる私にとっては世の架空の探偵の皆々様は同情の対象なのですどうもご愁傷様だぜ。

事件の遭遇率がこんなに高いのはなぜかと考えてみるにそれはオトメンであることと深い関係があるのではないかと思っているのですですです! この十年さんざん巻き込まれまくって今さらですけどけど! さらに原因がわかったからといって避けられるわけでもないんですけどねねねね! もうそのへんは自他共に認めるところだからいいんですぅーだ!(キャラ崩壊)

さて。

まずはオトメンは女の子とも仲がいいということ。もちろん同性とも仲がいいのでちょうど「つなぐ」役割になりやすいというか緩衝地帯みたいなものになりやすいです。そうなるとまあ男女関係のもつれなどが起こった場合かなりの確率で頼りにされるのだと思います――ほとんどの場合、バカな男が原因だったりするんですけどね! まったく! 前回の欲求不満が……もごもご――これは推測しやすいしわかりやすい理由ですオトメン1。

ふたつにはオトメンは割と組織や集まりの要所にいることが多いということ。何というか最初の定義を思い出しながら考えてほしいのですがオトメンは実務能力的にも頼りにされることが多いです。とはいえ立ち位置的にはリーダーではなく人と時と場合によっては副長だったり一匹狼だったり遊撃隊長だったり狙撃手だったり軍師だったりするわけですが物事のピンチの際というのはえてしてそういう立場の方が小回りがきくしそういう人だからこそ話が持ち込まれる次第なのですがオトメン2。

という点に加えて個人的な要素として事態をさらに悪化させているのは私は「推理ができる」人であるからなのですね……ええと何言ってるんだとかお思いでしょう別に寝ぼけているわけでも自慢しているわけでも自惚れているわけでもありませんいやただ職業的に「推理」とほぼ同義のことができるというだけなのですというかもったいぶらなくてもただ「翻訳」ができるだけなんですけどねオトメン3この語尾もうやめてもいいかな。

テクストが相手だと翻訳(あるいはそれに際する読解)になるのですがそれが生身の人間相手になると「推理」っぽくなるわけです。他の言葉で言い換えると「精神分析」だったり「プロファイリング」だったり「演繹推理」だったりあるいは思考のトレースだったり出来事のシミュレートだったり細かいことは別にしてデータさえあれば職業的にわかる部分があるのです。

などと言うと格好良く見えたりうらやましがられたりするのかもしれませんが、

……ええと

…………言っておきますが

………………推理が当たるのは尋常じゃなく怖いですよ?

いや別にくだらないことで当たるのはいいんです。「あなた、トイレのトイレットペーパーの端を折る人でしょう?」とか「目薬挿すとき目をつむる人でしょう?」とか「消しゴムの削りカスをついつい集めちゃう人でしょう?」とか。別にそんなの言いませんが。

じゅうぶんなデータさえあればある一定の状況下においてある人がどんな行動をするかそれくらいは翻訳家としてわかるのですが……そうして導き出された某人の行動と結果がとんでもないことだったら……とんでもなく恐ろしいことだったら……背筋を凍らせるほかないわけなんです。ぞくぞくぞくっ(凍る音)、ぶるぶるぶる(震える音)、ぶんぶんぶん(信じたくなくて首を振る音)。

私だってまずそれが妄想なのではないかといったん冷静になりますよ。でも当たるから怖いんです、事件を片づけたあとで裏を取ったら合ってたりするから困るんです、推理して嬉しいとか楽しいとかそういうのは本の世界だけの話ですよ! 安全だから楽しめるというのはジェットコースターとかと同じなのかもしれませんが巻き込まれている身としては「心臓が止まるわ!」と言いたくなります。(ところでジェットコースターは面白いですよねいつも大爆笑しながら乗ってます安全安全うん私の日常に比べればめくるめくファンタジーエンターテインメントイリュージョンですよあはははは。)

で、とんでもないことが起こるのをわかってて放置しておけないからいくら関わり合いになりたくなくてもそういうときには飛び込まざるを得ません。そうして事件が解決して日常に戻って依頼人もいなくなってしまったあとのあの虚無感虚脱感と言ったら、もう耐えられ、な、い!(悪い意味で)

しかしまあシャーロック・ホームズ氏はそういう事件を楽しんでいるわけですが自分の気持ちを裏返したときホームズが事件のない毎日を「つまらん」と言うのはわからないわけでもないのですというかそういう自分の日常があるからホームズの翻訳にリアリティが保てたりするわけなのですが(そしてそれを素直に喜べず苦笑いする自分がいる)。

そういえばよくよく考えれば翻訳家というのもかなりオトメンらしい職業ですよねと思いつつこのへんで紙幅が尽きてきたので続きは次回。

メキシコ便り(15)

金野広美

異文化だと開き直るタラウマラの男に心底、腹立ちを感じながら、異文化を超えたところにあるだろう男女の良好な関係性についてスペイン語で言えないもどかしさを抱えながら、クリール近郊を訪ねました。ここには高さ30メートルのクサラレ滝や、レコウアタという銅渓谷の一角に温泉が湧き出しているところや、周りを大きな岩や松林に囲まれたアラレコ湖など、多くの景勝地があります。でもクサラレ滝は正直言ってイグアスの滝を見たあとなので、しょぼかったです。しかし、アラレコ湖は静かでとても美しい景観の中にありました。ボートを漕ぎ出し、隅々までゆっくり見て回りました。湖岸にはタラウマラの家があり、馬が草をのんびりと食んでいました。

そしてこの湖の近くに彼らが住む洞窟があるというので行ってみました。洞窟は確かに人が住んでいた形跡があり、岩が火を使った跡なのでしょうか、黒こげになっていましたが、中ではみやげ物が並べられ、女の子がチップを入れてくださいとばかり、かごを持って入り口に立っていました。ギエスカと名乗ったその子に「カマ(ベッド)はどこにあるの?」と聞いてみました。するとあそこと指さしたのは、洞窟の前にある木造の家でした。洞窟はタラウマラが現在も住んでいるというふれ込みで観光客を集めていますが、彼らは実際は別の家に住み、住居跡の管理をしているという感じでした。だって中には鶏がいっぱいいて、ごみだかなんだかよくわからないビニール袋がたくさん置いてあるばかりで、とても人が住んでいるとは考えにくい環境だったのです。

なんだかがっかりしてしまいしたが、気を取り直して、次にレコウアタの温泉に行きました。温泉は谷底にあるので、大きな道路からは1時間半歩かねばならず、下りとはいえ汗びっしょりになりました。湯の温度はちょっとぬるめでしたが、毎日シャワーばかりの身にはやはり、いい湯だなーとなります。それに渓谷がとても美しく、深い緑をながめながら、また、鳥の声を聴きながらの温泉はやはりほっこりして肩の凝りがすっかりとれました。しかし、「行きはよいよい帰りは怖い」ではありませんが、1時間半下ったということは、帰りはまた1時間半登らなければならないことになります。これは大変、せっかく温泉で流した汗がまた吹き出て、汗だくになります。でも悪運の強い私です。自家用車でここまで来ていたメキシコ人の夫婦に上まで乗せてもらえることになり、「行きはよいよい帰りもよいよい」になりました。

次の日、銅渓谷に行こうと朝10時半のバスに乗りましたが、私の悪運もここで終わり、最悪の日になりました。バスに乗って10分もしないうちに道路をパトカーが通せんぼしています。どうしたのかと聞くと世界自転車競技会があり道路を使っているそうで、通れないから戻れというのです。仕方がないのでバスは戻り、料金を払い戻してもらい、汽車で行こうと駅に行くと、こちらも人身事故にはなっていないが、脱線事故が起こり不通だというのです。えー、みんな困っていると一人の男が近づいてきて、150ペソ(1500円)出したら銅渓谷まで連れて行くというのです。政府が出した特別の許可証を持っているとかで、客を募っています。普通にバスに乗っても往復100ペソ(1000円)なのでまあいいかと乗りました。するとやはり同じ場所で通せんぼです。でも運転手が警官となにやら話していたかと思ったらパトカーが道をあけたのです。戻ってきた運転手に私が「たくさんお金が必要だったんじゃないの?」というと図星をさされたのか苦笑していました。すんなり通れた道路は自転車など1台も見ることがありませんでした。私がそのことをいうと、運転手は「これがメキシコだよ」と小さく答えました。

地下鉄が30分も来ない時、荒い運転で急ブレーキをかけられ、倒れそうになった時、道路の大きな穴ぼこがいつまでもそのままだったり、役所であちらこちらと窓口をはしごさせられる時、メキシコ人は時に自嘲的に、時に軽く笑いながら、そして時にあきらめきった表情で「メキシコだからね」といいます。私はこの言葉に、あまりにも多すぎる不条理に対して自分自身を納得させるメキシコ人の、ちょっぴり悲しい生活の知恵を感じてしまいます。

1時間あまりで着いた銅渓谷はとても雄大な景色が広がり、そのスケールの大きさに息をのみました。展望台近くで民芸品の店を開いているフィラが「断崖の頂上に家が見えるだろう」と双眼鏡を貸してくれました。見えました。見えました。小さな白い家が。そこからここまでは徒歩で3日かかるそうですが、フィラの店に置くための民芸品を運んでくるそうです。高さ1300メートルはあるという、その家のある切り立った絶壁にたてば、足がすくんで動けなくなりそうで、本当にすごいところに住んでいるなとつくづく感心してしまいました。

運転手が1時間後に来いといった場所に行っても、彼はまだ来ていません。遅れること30分、自分をガイドだといっていたのでこれからどこかに案内でもしてくれるのかと思いきや、昼ごはんを食べに行くというのです。仕方がないのでつきあいましたが、露天のおばちゃんやそこの娘さんをひやかしながら1時間半、そのあとどうするのといえば帰るというのです。えー、帰りは6時になるというから、ホテルを予約したのに、今帰るのだったら夕方のバスに間にあうじゃないのとばかり、運転手をせかして帰りましたが、なんと15分ほど走るとまた大きな車が道路を通せんぼしています。谷底に落ちたトレーラーを引き上げているのです。オー・マイ・ゴッド、これで完全に時間には間にあいません。私の悪運も尽きた本当にさんざんな一日でした。

蜜から灰へ――翠の羨道50

藤井貞和

コレージュ・ド・フランスでは、フランク先生が庭を指さしながら、
「30分も待っていれば、レヴィ=ストロースがここいらに出てくるんですがね。」

コレージュ・ド・フランスを出たところで、フランク先生が一角を指さして、
「ここでロラン・バルトがはねられたのですよ、くるまに。」


忘れてはならない、黒がA、Eが白、Iが赤、Uが翠、Oが青。
「赤のあとになぜ翠が来るかって?」「翠のあとに青!」 

100歳の赤い火、『みる きく よむ』にはそんな話題があったみたい。
「Uは「iu=y」(フランス語の音韻)だから? それともウ(母音字)?」

(ランボーは言う、「錬金術が碩学の秀でた額にきざむ、皺のやすらぎ」と。レヴィ=ストロース『みる きく よむ』〈1993、みすず書房 2005〉より。11月28日、100歳の日に。ちなみに推測するなら、「みる」が黒、「きく」が白、「よむ」が赤。)

製本、かい摘みましては(45)

四釜裕子

南青山のブックストア&カフェ「Rainy Day」で、「あなたの好きな文庫本を革装します」という案内をみる。見本は二種類。ひとつは、切りっぱなしの革でくるんで見返しも加えず背のところだけはり合わせたもの。もうひとつは、角背上製本そのものだが、折り返しや溝にあたる部分の革が薄く漉いてある以外は下ごしらえや装飾に手をかけず、これまたワイルドかつシンプルに仕上げたもの。このカフェで革のワークショップを担当している原田さんの手によるもので、いわゆる”革製本”は習ったことがないと聞く。鞄や靴、ほかの革製品同様に、使い込むことでやってくる心地よさへの期待が宿る。

革で本を装丁してみたいと私が最初に思ったのは、そんな期待ではなかったか。その後”ルリユール”を習うも半ばでくじけ、一番の原因は革漉きだった。そもそもパッセ・カルトンの工程は数多くて多岐にわたり、ひとりで全てをやろうとすればたいていどこかで苦手が出る。私の場合はそれが革漉きで、表紙用の革の緻密な採寸や手術用のメスまで駆使する日々にうんざりしてしまった。のらりくらりやりすごすも、紙より布、布より革が製本作業に親しい素材であることだけはわかって、美しく仕上げるこつを習うのは楽しかった。だがアリガタイことに技量及ばず、結果、身が心を助けてくれた、と今は思っている。

おかげで、”とらわれの革装本ドグマ”とは別のサイクルにある革の本にこうして会えた。所有や保存、ましてや”作品”としてのものではないし、これを見本として習うものでもないだろう。こういう位置に寝そべる”製本”に、私は添いたい。

しもた屋之噺(84)

杉山洋一

昨日の夜明け頃からミラノは久しぶりの本格的な雪になり、午後初めまで勢いよく降り続いたお陰で6、7センチは積もったでしょうか。3時半、止んだ雪景色のなか息子を幼稚園に迎えに行くと、道すがら、小中学生が我先に雪球を作っては、歓声を上げて投げ合って、雪でしんとした街の風景を、子供たちが賑々しくしています。

夜半や夜明けに仕事をしつつ、夏の終わりまで姦しいほどだった鳥のさえずりが懐かしくなります。鳥がどこかへ渡ってゆくからなのか、冬は単にさえずらないのか知りませんが、ごく稀に、深い夜のとばりの向こうから、キキと鋭い声が聞こえると、その美しさにはっとします。

鳥の声で思い出しましたが、ここ暫くドビュッシーの「牧神の午後」を読んでいて、9月末に、ジュネーブ室内管と今井信子さんと一緒に武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を演奏したときのことを、しばしば思い返しています。

「牧神」は、来年ミラノのポメリッジ・州立オーケストラと演奏するのですが、新年早々サンマリノのオーケストラ選抜メンバーと、アウシュヴィッツ解放記念の演奏会でも、シェーンベルクの室内編成版を演奏します。「牧神」は速度表示が曖昧でさまざまな演奏スタイルがあるのを、ご存知の方も多いとおもいます。速度表示に特に変化が記されてないところで速くしたり、「動いてゆきながら」と書いてあるところでわざわざ遅くしてみたり、「冒頭の速度で」の指定に至っては基本のタクトゥス(拍感)すら不明瞭です。

特に原典版至上主義ではありませんし、ルバートに異議はありませんが、ただ、それが根拠もなく因襲的なだけなら、「牧神」のように構造が一見流動的な場合、さらりと演奏したいと思う方なので、楽譜を開いて暫く自分なりの切掛けを探していて、武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を思い出したのでした。

タクトゥスに関して、武満さんがどこまで意識して書いていらしたかは分かりませんが、この作品のTempo I=4分音符「46」とTempo II=4分音符「32」に関して敢えて言うのなら、Tempo Iの2倍、Tempo IIの3倍である、大凡「94」前後のタクトゥスを、武満さんは常に意識されていたことに気がつきます。つまり曲全体を通して、ルバートを除いて、実際のところ速度が変化しないわけです。それに気がついてから、曲の流れが明快に感じられ、作品に支配的な3連符の意味が明確になりました。

個人的なアプローチに過ぎませんが、近しい試みは、「牧神」にも当てはめることが出来ると思いますし、そう読み進めてゆくと、曲の多くの素材やフレーズまでもが、実に律儀に3対2のプロポーションを保っていることに気がつきます。ドビュッシー自身による2台ピアノ版に残るアーティキュレーションや速度記号から、恐らく彼が当初抱いていた、恐らく今よりもすっきりした体裁の印象を、垣間見ることが出来るでしょう。もっとも、それらの指示を敢えて書き換えて、現在の版が残っていることを忘れては本末転倒になってしまいますが。

ただ、音楽は解釈を説明するためにあるわけではありませんし、作曲者自身の作品に対する印象すら、実のところ非常に流動的なものだと思います。ですから、正しい演奏解釈など、存在し得ないでしょうし、それよりは素晴らしい音楽を素晴らしい音楽として如何に伝えることが出来るかに、最大限腐心すべきだと思います。同時に、作曲家が伝えようとしたことを再現したいと願うのは、演奏家としてのせめてもの良心とでも言うもので、そこから楽譜を旅するロマンが始まるわけです。

最初に今井信子さんと楽屋で打合せした際、まず仰ったことは、「武満さんは、この作品を、楽譜から受ける印象より、ずっと骨太な演奏を願っていた」ということで、少なからずショックを受けました。「だから、書いてある通りに演奏すると、彼が思っていた音楽にならないのよ」。

伝達ゲームではありませんが、どうしても時間とともに変化してゆくものはあって然るべきだと思いますけれども、この作品は今井さんのために書かれていて、彼女が武満さんと一緒にお仕事されるなかで、身体のなかに染みこんでいった呼吸が確かにあり、それがとても深い表現力と説得力になって迫ってきて、文字通り何十倍も演奏を引き立てて下さいました。やはり、作曲者自身の息吹が吹きかけられていると、演奏の鮮やかさがまるで違うのは確かかも知れません。

こういうとき、伴奏しているオーケストラも指揮者も聴き手も、みな一つになって感動を共有できることに、改めて感激し、そこに武満さんの凄さを見ました。決して大きくない今井さんの身体が、途轍もなく大きく感じられたのは、言うまでもありません。

その演奏と、自分が苦労して勉強した楽譜との距離が、どれだけ近くて、どれだけ遠いのか、正直いって全く分かりません。これから先もきっと分からないと思いますが、でも、分かりたいと思う気持ちこそが、音楽を続ける糧になっているのでしょうし、これはこれで良いのかも知れない。

さて、こう赤裸々に告白してしまえば、後はドビュッシーともがっぷり組むことが出来る気もします。5年後には全く反対のことを書いているかも知れないけれど、それもまた良し。素晴らしい演奏家や作曲家との出会いは、掛値なく、深く心に刻み込まれてゆきます。

(11月29日ミラノにて)

歓喜の歌

大野晋

今年も歳末がやってきた。
私のところにも何枚かの第九のお誘いが来て、いやおうにも師走モードになっていく。元来、あまり、第九には縁がなかったが、ここ数年は演奏会に行くようになった。ベートーヴェンの書いた、独唱と合唱付のこのオーケストラ曲はアジアの端っこのこの多少、落ち込みやすい国の人々にはなにか、心に触れるものがあるようだ。

第九で思い出したが、つい最近私が学生時代に聞いたことのあるホグウッドのベートーヴェンの交響曲全集を入手して、聴く機会があった。あのときは、古楽器の響きになにかおかしいものを感じたものだが、最近はピリオド奏法や古い形態のティンパニーでの演奏が多いせいか、なんとなく、今っぽく聴こえていたのが変な感じがした。そう、もう30年も昔の話なのだ。

フロイデ!《友よ》とベートーヴェンは呼びかける。友よ、このような音楽ではなく、もっと歓喜に満ちた生への賛歌を奏でようではないか!

そう言えば、この間、まだ数年、命を永らえることができたという人の話を聞いた。そのときはあまり感じいることもなかったが、こうして年の瀬を実感すると、命をつなぐこと自体への感謝の念が沸いてくる。たとえ私でも、また、来年の今日を迎えられるかどうかは不確定なのだ。

いいことも、悪いことも、暗くなるようなニュースも多かった1年だったが、この1年を無事に送れて、そしてまた新しい歳を迎えることができそうな今を祝おうじゃないか。生命への賛歌として聴けば、第九をこの落ち込みやすい人々が好むというのも納得できない話じゃない。

友よ! 今日を生き、明日を迎えられそうないま、歓喜の歌を歌おうではないか!

針(はる)――翠の石室49

藤井貞和

峠に針が、
つきささっている。

紐を縫いかけの、
行路死人が針をつきさしている。

はるも(=持)し、はるもし、
声の迷う峠に、
骨の針をだれかがひろう。

針よ、ゆびの血で、
うたをそこに書いてください。

(むがし、弘法さまが近江の国に行ったど。峠にかかったら、一人の年寄りが斧ば研いでだど。「爺さま、何すったどごや」「ん、針にするべて」「斧研いで何年すて針なるや」「はて、何年だべな。ほでもなんねても言わんねべ」。ほんで弘法さま、はっと悟ったど。したらば「わしは峠の神だ。それで悟りが開けたべ」て、居ねぐなったど──『語りの廻廊』〈野村敬子著〉より。「くさまくら─旅のまる寝の紐絶えば、あが手とつけろ。これの針〈はる〉持し」〈『万葉集』20、4420歌〉より)

菊酒、カーウガミ

仲宗根浩

ここ最近、鼻の中がかさかさする。乾燥してきた。これで秋だ。秋になった。秋になったからといってもTシャツでないと暑い。クーラーを使わず、扇風機だけで過ごせるのが私的に定義するここでの秋だ。晴れの日、日差しは強く、少し日向にいたら日焼けする。でも風は涼しくなっている。

所用で糸満まで行く。片道三十数キロ。行き先は市役所、通り過ぎることしかなかったので滅多に使わないカーナビを設定する。糸満市内に入ると市役所の示す標識とカーナビが案内する方向が真逆になっている。うちの中古車のナビは2001年版、ナビ上では道無きところ走るのはよくあること。標識のとおりに行くと立派な新しい市役所に着く。用事を済ませたあとに最近多い、大きな野菜の直売所に行く。こういうところにも観光客がいる。ドラゴンフルーツが空港の三分の一の値段で売っていればそれは来るはな。隣りに魚の直売所もできている。ここら辺はどんどん埋め立てられ近くにアウトレットモールや新しいショッピングセンターがあり、昔の市街地は他のところと同じようなシャッター通りと化している。

何年ぶりかで九月九日、ウガミ(拝み)に行った。
旧暦の九月九日(十月七日)は仏壇やヒヌカン(火の神)に菊酒をお供える。それと集落で共同で使っている井戸や川を拝む、カーウガミの日でもある。戦前に親の世代が水汲みに行った川は基地の中にある。九月十一日の事件以前はゲート前に車で集まり、手続きが済むと基地の中にある拝所に行っていた。基地に入ることも手続きが難しくなったのでその拝所は基地の外に移され、碑が建てられ、今ではそこに集まるようになった。隣にはアシビナー(遊び庭)の碑もある。それぞれの碑に線香を供え、手を合わせる。菊の葉が浮かぶ泡盛の杯をまわす。天気が怪しくなったので片付け、昼頃には解散した。こういう行事もいつまで続くのだろうか。当時、その場所の記憶がある人は何人くらいいるのだろうか。代がかわり、参加するひとも少なくなり、当時の記憶がある人も少なくなる。