玉川+ジュリアードの交歓コンサート

三橋圭介

6月9日、玉川大学講堂で行われた玉川大学芸術学部とニュー・ジュリアード・アンサンブルの「交歓コンサート」が多くの学生、一般客に恵まれ、無事終了した。ニュー・ジュリアード・アンサンブルは、その名の通り、ジュリアード音楽院の学生によるアンサンブルで、ジョエル・サックスの指導のもと、アンサンブル・モデルンなどをモデルとして選抜学生による現代音楽アンサンブル。今回はサックスを含む15人ほどが来日し、その演奏を披露した。

交歓コンサートは、ニュー・ジュリアード・アンサンブルの初来日(6月4日、サントリーホール)に合わせ、玉川大学芸術学部とのコラボレーションによるワークショップとコンサートとして行われた。プログラムは以下の通り。

●ワークショップ:土居克行《For S》室内オーケストラのための一つの素描(玉川大学委嘱・世界初演)、河野亮介《5つの楽器のために》(玉川大学4年生、初演)、テリー・ライリー《In C》
●コンサート:ヘンリー・カウエル《オスティナート・ピアニッシモ》、エリオット・シャープの《ポインツ・アンド・フィールズ》、土居克行《For S》、河野亮介《5つの楽器のために》、テリー・ライリーの《In C》

玉川大学芸術学部の委嘱による土居克行元教授の《For S》は、玉川とジュリアードの合同演奏で行われた。ワークショップで初顔合わせ、初音合わせだったが、演奏は特に問題はない。ここでは作曲者が曲の構造(音名象徴や特徴的な部分など)を丁寧に解説しながら、部分的に永曽重光の指揮で実際に音を出し、本番に向けて演奏を仕上げていく。つづく河野作品はジュリアードのみの演奏で、作曲者の作曲上の微調整に基づいて音楽的な変化をサックスが解説していく。最後のライリー《In C》は事前に合わせることができない玉川とニュー・ジュリアードの演奏面を考慮し、玉川から提案した作品。大オーケストラ並のスケールの演奏で、サックスの音楽的な解説を交えながら、玉川、ジュリアードの学生は戸惑いながらも、作品が求めている意図を実際の鳴り響きから理解しようとする姿が見受けられた。こうしたワークショップの音楽作りがコンサートでプラスに作用したことは言うまでもない。

コンサートの最初を飾るカウエル《オスティナート・ピアニッシモ》は、サックスがカウエルの専門家であることから玉川からジュリアードへお贈り物としてプログラミングされた。ストリング・ピアノ、茶わん、さまざまな打楽器の繊細な音色が異国情緒ある香りを運ぶ。つづいてニュー・ジュリアードによるエリオット・シャープの《ポインツ・アンド・フィールズ》。世界初演から数日の再演。点が領域を作り、線をなしたりしてさまざまに変化を繰り返し、最後に一つに収束していく。前半の最後が世界初演となった土居作品、《For S》。Sとはスチューデントの頭文字で、作曲者らしい厳しい構造美を見せながら、しかもメロディアスな分かりやすさも備えている。音がリズムに織りなされながら、無駄なく空間と時間に大きな起伏を作りだしていた。特にトランペットの扱いが秀逸だった。

後半の河野作品は曲名通り、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスの5つの楽器のための作品。無調による音程操作に基づいている。全体のバランス感、音を選ぶ説得力、持続などに課題はあるが、ニュー・ジュリアードの細やかな表情が、作品に豊かな彩りを添えていた。そして最後の《In C》は、全曲を通して演奏するのははじめてだったこともあるが、当初の予定を越えて、約1時間のリアリゼーションとなった。演奏しながら、音楽する楽しみさ発見するように、音のパターンが複雑な音のネットワークを作りながら通り過ぎていく。最後はニュー・ジュリアードの弦の学生だけになり、何人かがなかなか曲を終わらせない。それは確信犯的で、やりすぎだった。表現者としての目立ちたがり屋の暴走は、大人顔負けの演奏をするかれらがやはり学生であることを改めて思い起こさせた。

HMPのインドネシア公演

冨岡三智

6月21日から1週間、HMPシアター・カンパニーを率いてインドネシアのソロに公演に行ってきた。今回はその公演について報告したい。

HMPは1999年に近畿大学の学生たちがハムレット・マシーンを上演するために結成した団体で、昨年からカンパニー制になっている。実は、私もHMPの2005年の公演「cage」(大阪現代演劇祭出品)に出演していて、そのときからHMPには注目していた。ちなみにこの「cage」が元になって、今回インドネシアに持って行った「traveler」が作られている。

今回の公演については、当初はインドネシアの3都市巡回公演にしたいと思っていた。それが予算の都合や私の都合で日程が短縮となり、渡航メンバーの数も減ったので、それならばいっそソロ(=スラカルタ)市だけの公演にして、その代わり現地の役者や音楽家とのコラボレーションに挑戦してみてはどうかと、私の方からけしかけたのだった。

ソロの人たちとであれば、私もコラボレーションの成果に予想がつく。おそらく近代以前の人間はこうだったのではないかなと思うのだが、ソロの人達は、その場の空気にとても適応していく。言葉を介する以前に、体感で伝わっていく感じなのだ。この感じをHMPの人に経験してもらいたいなあと思ったのだった。さらに、自分たちの描いた世界に向かって、舞台を作りこんでいくHMPの人たちが、コラボレーションによって生じる予想外の事態にどう反応するのか見たいなあ、という気持ちもあったりした。

インドネシア側で準備してくれる団体、マタヤ(ちなみに私が昨年島根に招聘したところ)に私がお願いしたのは、1つはプンドポで上演したいということだった。プンドポは屋根と柱と床だけからなる空間で、観客は三方から舞台を見る。プンドポは本来は舞台というより、さまざまな行事を行うホール空間である。会場候補は二転三転して、ドゥスン・マナハンという所に決定。私はまだ見たことがなかったが、マタヤは最近ここを借りて、何度か公演やワークショップなどをやっているらしい。さる実業家の邸宅にあるプンドポで(実際にここに住んでいる)、見るからにお金持ちの家らしい、立派な浮彫が印象的な建物だ。ただ柱が空間のわりにちょっと太すぎて、公演が見にくかったのは残念だったが。

共演してもらったのはムハマディア大学(=UMS)の学生たちが作るテアートル・アヤット・インドネシアの人たち5人と、芸大の舞踊科振付専攻の学生2人。テアートルの人たちの判断で、舞踊をやっている人たちにも声をかけたらしい。この劇団を選んだのはマタヤである。テアートル・アヤットの代表で演出のダニ君の話によれば、同じ大学の他の劇団がハムレット・マシーンをかつて上演したことがあり、インドネシアでも少しずつ知られてきているので、今回勉強できるのが楽しみだとのこと。本当にその言葉通り、2時から夜9時、10時まで続く練習に熱心に取り組んでくれた。

コラボレーションのやり方としては、作品のうち、この場面をインドネシアの人達にやってもらおうという場面を決めておき、一応やることは決まっているけれど、彼らの出来を見つつ、動きに関しては適度に任せて作りあげたという感じ。私の目から見ると、結果的に、任せる分量が絶妙に良かった気がする。これ以上多くなると、公演も入れて3日間のプロセスでは収拾がつかなくなっただろうし、HMPテイストが薄まったかも知れない。

音楽に関しては、私のブドヨ公演で音楽を担当してもらったダニス氏にお願いする。彼は伝統音楽も現代音楽もどちらもできる人なのだ。私もマタヤも、彼でなければ!ということで意見が一致。ただ問題は、彼がサルドノ・クスモ氏の公演でニューヨークに行っていて、帰国するのが6月17日か18日頃になること。しかしメールがあるおかげで、まだニューヨークにいる彼と連絡が取れて、OKが取れる。つくづく世の中は便利になったものだ。

HMPがCDで現代音楽や効果音(雨の音や飛行機の音など)を用意しているので、彼にはガムラン楽器などを使って指定した箇所に音楽を入れてもらう。結果、ルバーブ(胡弓)やグンデル(ビブラホーン)、歌の他、フィリピンの竹楽器などいろいろ用意してくれた。ガムランをお願いしたのは、HMPの人たちにガムランの音を聞いてもらいたかったから。観光客としてジャワに来て、ガムラン音楽を聞く機会はこの先あるかもしれないけれど、生のガムランの音にのって動く経験は貴重なものになると思ったのだ。HMP出演者の話によると、公演中、彼はじっと出演者の動きを見据えていて、その視線がとても鋭かったのだそうだ。

彼の音楽は、日本人にもインドネシア人にもものすごく好評だった。私も、想像した以上にダニス氏の間合いを測る勘の良さに驚く。彼がインドネシア人の演劇作品で音楽を担当していたら、ここまで気付かなかったかもしれない。私の日本人の友人も、私のインドネシア人の舞踊の師も「インドネシア人がこの日本の現代演劇と組んで、どこまでやれるのか見てやろうと思ったけれど、その能力の高さにあらためて驚いた」と感想をもらしたのだけれど、コラボレーションというのは、どこまでやれるのか、ということが試されるので面白い。

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さてここで作品に目を向けてみよう。作品の簡単なシノプシスと場面構成を紹介する。

「traveler(旅行者)」とは「見る側」と「見られる側」の境界線上に存在するもの。フランツ・カフカの短編小説『流刑地にて』を題材にしたフィジカルシアター。1人の旅行者を軸として、空間と時間の境界線を行き来する物語である。セリフが入っている箇所は12シーン中3シーンのみで、旅行者の物語の殆どが俳優の身体によって語られる。

  1 足跡 tapak kaki
  2 駅  stasiun
  3 バス bus
  4 街(1日目) kota (hari pertama)
  5 ホテル hotel
  6 街(2日目)kota (hari kedua)
  7 乳母車 kreta bayi
  8 狐の嫁入り(虎の出産) hujan panas/pernikahan rubah (macan dilahirkan)
  9 いま、ここ Saat ini, di sini
  10 赤い家 penjara
  11 壁 tembok
  12 コーラス koor

ここで、準備や制作過程、あるいは公演本番で、私が面白く思った点を書いてみる。

2の駅のシーンでは、ホームで新聞を読んでいる人々を描いている。ただこれは、やっぱりとても日本的な気がする。インドネシアでも駅はあるけれど、ホームで新聞を読む人というのはいない(少なくとも私の経験では)。HMPの人たちはこのシーンのために日本から新聞を持ってきていたのだが、公演当日にジャワポス紙に練習風景の記事が掲載されたこともあって、公演当日は急きょジャワポス紙を広げていた。すると、ビデオ記録を撮る私の横でカメラを構えていた各新聞記者たちが一斉に「お〜、ラダール・ソロ(掲載面の名前)だ」と声を上げたので笑ってしまう。なんて目ざとい! しかし、新聞には反応しても、彼らはきっと、このシーンが駅のシーンだとは気づかなかっただろう…。

4と6の街のシーンでは、主人公をとりまいて、似たような状況が展開する。簡単に言ってしまうと、物売りと物を買う人、金持ちと乞食が出てきて、やりとりをしている内にお財布が入れ替わってしまう、それを主人公が目撃するというシーン。これらのシーンはセリフが全然なくて、パントマイムで状況が描かれるのだが、4は日本人チームで、6はインドネシア人チームで行う。これで面白いと思ったのが、インドネシア人チームの方が、登場人物のお金に対する執着がものすごく見えたこと。それは、インドネシア人の方が、演技がリアルにオーバーになる傾向があり、日本の方がより自分たちの型を持って演技した、というだけにとどまらない気がする。お金のことをあからさまに言わないくせに執着するジャワ人気質が、演技に収まりきれずにあふれ出たという感じ。

ホテルのシーンは、インドネシア人の女の子3人によるセリフのシーン。まず日本人チームが日本語でこのシーンをやってみせ、テンポ感を伝え、その後セリフをインドネシア語にしてやってもらう。彼らがどんな風に言葉を選ぶのかも知りたいと思って、あえて事前には先方にセリフを伝えていなかった。(私の怠慢も1/2くらいあるけど)簡単な会話なので、私がまずインドネシア語にしてみて、それをより自然な言い廻しに彼女たちにしてもらう。興味深かったのは、彼女たちがテアートル・アヤットの演出家であるダニ君に、わりと意見を求めていたこと。やはり演劇的な言い廻しがあるのだなと気づく。

「7 乳母車」のシーンで使う乳母車を、現地で用意してほしいと頼まれたのが、今回一番あわてたことだった。私はインドネシアで乳母車を押している人を見たことがない。マタヤは子供関係の団体に連絡して、乳母車を手配したらしいが、やはりメールでは乳母車という概念は通じなくて、電話で確認するはめになった。ジャワでは普通はカイン(ジャワ更紗)を抱っこ帯にして、赤ちゃんを抱えている。庶民は自分で抱っこするし、金持ちなら赤ちゃん付きのお手伝いさんが抱っこする。乳母車を使う階層というのはどの辺なのだろう。

「8 狐の嫁入り」は、日本人には言うまでもないと思うけれど、日が射しているのに雨が降っている状況のこと。それをインドネシア語では味気なくウジャン・パナス(熱い雨)と呼ぶけれど、こういうときにインドネシア人(?、またはジャワ人)は虎が仔供を生んでいると考えるのだそうだ。こういうときには普通ではないことが起きる、と考える点では日本と共通している。舞台では狐の面をつけ、花嫁・花婿の着物を着た2人と、それを先導する、リンを持った人が登場したけれど、全体としてまがまがしい感じがうまく伝わったかどうか、私にはよくわからない。

「9 いま、ここ」というのが、日イネ出演者が全部登場して、祭りみたいなシーンを繰り広げるところ。練習ではまずこのシーンから作っていったのだけれど、たぶんインドネシア人観客にとってはこのシーンが一番安心して見られるというか、一番見慣れた感があるだろうなと思う。逆に日本側の出演者にとっては、インドネシア人側の反応が予想外で面白かっただろうと思う。

本当は他にも説明したいことが多いが、とりあえずはこんなところだろうか。自分が出演するのと違って、第三者として作品づくりに関わってみると、双方の反応に新鮮な点がある。HMPはこう反応するだろう、という読みはある程度持っていたけれど、それでも思った以上に柔軟に対応していた。今後も交流を続けられたらと思っているが、少なくとも双方が、それぞれにこの経験を生かしてくれたら、コーディネートした方としてとても嬉しい。

●公演データ
 日時:2009年6月24日20:00〜
 場所:Dusun Manahan
 作品:「traveler」(2005年初演)
 出演:HMP Theater Company, Teatre Ayat Indonesia、Danis Sugiyanto(音楽)
 日本側コーディネート:冨岡三智
 インドネシア側コーディネート:Mataya art & heritage

メキシコ便り(22)フチタン

金野広美

先日、インディヘナ(先住民)についての授業でメキシコに女系社会が存在し、ムシェと呼ばれる女性として生きる男性が多く暮らす町があるというフィルムを見ました。それはオアハカ州にあるフチタンという人口9万人の町です。またここではすばらしいウイピルという刺繍の民族衣装が作られているので、別の伝統工芸の授業でもこのフチタンが取り上げられました。フチタンでは男性が夜明けの4時ごろから朝7時ごろまで魚を取り、それを加工して女性たちが市場で売る。女性が経済と家族の中心に座り、働いているのは女性ばかりで、男性はお小遣いをもらって、魚を取った後は一日中ぶらぶら過ごしているというのが、その授業での先生の説明でした。しかし、私はムシェの話はともかく、男性が3時間ほどしか働かないという話も、女系社会の存在とフチタンの経済を担う女性を賛美しているそのフイルムも全面的には信じられませんでした。なぜってここフチタンはインディヘナのサポテコが多く暮らすところです。概してインディヘナの世界には男尊女卑的な考えが根強くありますし、それにメキシコはなんといっても伝統的にマッチョ(男らしさを賛美する考え方)の国です。

しかし、もしそのフィルムが伝えていることが本当なら、とても興味深いことなので、この目で確かめるべくフチタンにセマナ・サンタの休みを利用して行ってみることにしました。

4月3日、金曜日の夜行バスに乗りメキシコ・シティーから南に12時間。朝8時にバスは小さなターミナルに着きました。荷物を置くとさっそく町の中心にある女性が多く働くという市場に行ってみました。市場はおびただしい数の店舗が、まるで迷路のように広がっていました。魚、肉、野菜、果物、花、民族衣装と、あらゆるものがここで揃うのではないかという多彩さでした。私はおなかがすいていたので、塩で焼いた大きなかつお一切れを買って食べました。きっと朝、取れたものなのでしょう、脂がのってやわらかくて本当においしかったです。縦10センチ横20センチくらいの大きさで15ペソ(120円)安いです。

ここフチタンは日中はとても暑いのですが夜になるとさわやかな風が吹き、とても気持ちよくなります。私も夜風に誘われるようにホテルの近くの小さな教会に行ってみました。すると明日のパレードの用意をするために40人あまりの人たちが集まっていました。男性たちが1メートルくらいの椰子の葉っぱを裂いて上から三分の1くらいのところに15センチほどの椰子の茎をくくりつけ十字架を作っています。女性たちはコーヒーや軽食を用意して長いすでおしゃべりしています。300本作らないといけないとかで、男性たちは子供にも手伝わせて頑張っています。

横で見ていた私にもコーヒーが運ばれてきました。「見ているだけなのにどうもすみません」とありがたくいただきながら、ここで夫婦で歯医者をしているというポルフィリオさん、リリアナさんに女系社会の有無と、私の持っている疑問を投げかけました。すると彼らは女系社会については「昔はどうか知らないけれど、今はもうないと思うよ。それに男はあまり働かないなんてことはないよ。男も女も協力して暮らしているよ。現にうちもそうだし、どっちかが力を持っているとかいうことはないですよ。」と顔を見あわせながら答えてくれました。「やっぱり、男が3時間しか働かないなんてことはないんだ。それに女性ばかりが働いているということでもないし、女性が男性より力をもっているということでもないのか」と、いろいろ考えていると、彼が「明日は朝7時に集まり、パレードをするのであなたもいらっしゃい」と言ってくれたので早起きすることにしました。

次の朝、音楽隊を先頭に手に手に昨晩作った椰子の十字架を持って信者たちが町中を練り歩きます。子供は白の長い服に紫のマントをはおりポニーに乗って行進します。この日はセマナ・サンタにおける最初の日曜日(ドミンゴ・デ・ラモス)でキリストがイスラエルに入場する様子を表しています。このあとセマナ・サンタの行事はキリストの死と復活を再現しながら次の日曜日(ドミンゴ・デ・パスクア)まで続きます。

1時間ほどパレードしたあと教会でミサがあり、そのあと教会の裏手に移動し、みんなに大きな魚のフライと野菜、フリホーレス(豆をぐつぐつに煮たもので、甘くないあんこのペーストみたいなもの)、芋や果物の甘煮がのったお皿が配られました。私にもビールと一緒に渡してくれました。なんだか部外者なのに申し訳ないと思いながらおいしくいただきました。おまけにお皿はここの特産の、土でできた伝統食器なのですが、記念にもって帰るようにいわれ、さらに感動してしまいました。ベラクルスから親戚が暮らすフチタンに休暇で来たというディエゴさんといろいろ話しながら食べ、このあと彼にパンテオン(墓地)に行ってごらんといわれ、行ってみました。

パンテオン一帯はまるでお祭りのように露天が並び、小さく仕切られた各墓地はいっぱいの花で飾られ、その前で家族が飲んだり食べたりしています。墓石の前では楽団がにぎやかな音楽を奏でています。きっと死者が音楽好きだったのでしょうね。きれいな刺繍の民族衣装を着たおばあさんが二人、お墓の前に座っていたので写真を撮らせてもらおうと話しかけると、缶ビールとイグアナの入ったタマーレス(とうもろこしの粉を練って中に肉などを入れ、とうもろこしの皮に包んで蒸したもの)を差し出してくれました。イグアナはここではポピュラーな食べ物で、私はもちろん初めてでしたが、やわらかい鶏肉のようで、なかなかおいしかったです。これもありがたくいただきながらここでも女系社会について聞いてみました。夫が早くなくなったので7人の子供を女手ひとつで育てたというアイーダさんに「女系社会は残っていますか」と聞くと、「そうだね。男はみんなアメリカ合衆国に出稼ぎに行くからね。残るのは女ばかりだから」という答え。「うーん?ちょっと違うなー」と思いながらもお礼をいって別れました。

このほかにもそれまでにいろいろな人に聞いてみました。観光事務所のネレイダさんは「女系社会は伝説でしかないです。ここでは男も女もともに働きお互いがお金を平等に出し合っています。どちらかが主導権をもっているということはありません」と共同性を強調します。そして図書館の受付にいたジョランダさんはフチタンに関する本をいろいろ見せてくれながら「女性が権力をもっているということはないですね、男も女も役割分担をきっちりして両方とも働いていますよ。いまでは女系で続いているという家族もそんなにはいないと思いますよ。」と言います。うーん授業で見たフィルムは古かったのかしら、などと思いながら、男性にも聞いてみようと、市庁舎に行き、フチタン知事の秘書・ビルへリオさんにも聞きました。すると彼は「残っていますよ。現に僕の家がそうです。女性は強いですからね。」とほかの秘書の女性たちと笑いあいながらいいます。

このいいかたはなんだか冗談半分のような気がするし、多くの人に聞けば聞くほどわからなくなりそうなので、もうこのあたりでやめることにしました。ただ彼らの話しを総合すると女系家族も少しは残り、女性が働いている率は高く、経済力のある女性も多いので、ここフチタンでは女性が力を持っているといわれるのかもしれないな、また、先住民が多くてもここでは結構、男女の協同性が成立しているのかな、などと、いままでに聞いた話をいろいろ考えながらパンテオンを歩いていると、にぎやかなランチェーラが聞こえてきました。その音楽につられてコンサート会場に入りました。するとまたしても「ビール飲む?」と女性が聞いてきます。うなずくとビール瓶が渡されました。2本飲んだあと、いくらなんでもこれは商売だろうと「いくらですか」ときいても「いいよ、これはあっちの男性の一箱分の中からだからお金はいらない」といわれます。結局その男性にお礼をいって会場を出たのですが、今日は朝からいっぱいビールを飲んだにもかかわらず、すべておごりでした。本当になんて気前がよくて親切な人ばかりの町なのだろうと感心してしまいました。

そういえばここでは私が外国人であるということを忘れさせてしまう心地よさがあります。誰も私を特別視しないのです。むこうからやってきて質問攻めにすることもありませんし、じろじろ好奇の目で見られることもありません。もちろんメキシコ・シティーでよく経験する「チナ(中国人?)」と声をかけてくることもまったくありません。その視線が自然なのです。でもこちらから声をかけるととても親切に対応してくれますし、目があうと必ず笑いかけてくれます。きっとこのような、人に対するなにげなさがムシェの人たちが住みやすいと感じるゆえんなのでしょうね。結局私の女系社会に対する疑問ははっきりとは解明されませんでしたが、フチタンがとても居心地のいい町だということだけははっきりわかりました。

ダム貯水率、もう少しで八十パーセント

仲宗根浩

交換した眼鏡、なかなか慣れない。目玉が顔と違う方向ばかり向いてよそ見ばかりしていると、途端に見えなくなる。縁がない眼鏡、レンズに直接つけられたつるにつながる直接レンズに付けられた部品が視界に入りとても気になる。そういうことも雨がいきなりふりはじめたり、少し晴れたり梅雨らしくなったころにはだんだんと慣れはじめる。文字の読み方のこつもおぼえたきた。

住んでいるアパートの補修工事が三日間。十二年、同じところに住んでいると部屋のあちこちガタがくる。きれいだったフローリーングは湿気のためベランダ側から二枚、その頂に足をのせるとほどよい刺激をくれるくらい、山のように盛り上がり、食卓がある床は高級な絨毯のように柔らかくふかふかになり、畳の部屋の天井はゆるやかに波打ち、数年前シロアリに食われた玄関の壁はもろくも崩れる。古い建物だから湿気は多い。数年前、五月の連休に四、五日留守にしたあともどったら、家中カビだらけ。革製品はこまめに手入れ、なるべく湿気のない保管場所を選ばないとすぐカビに浸食。それ以来、五月から九月までは一家総出で家をあけることはしない。
補修工事中は本棚から本を全部、ベランダに敷いたブルーシートの上にだし、本棚を動かす。奥に寝ていたもう読まない本は片付けるときには本棚に戻さず、古本屋行き。壁の板は剥がされ、むき出しのブロックをさらけだし、九センチ幅の床板は一センチカットされ、それぞれシロアリよけの薬をまかれ新しい板、幅を短くされた板がはめられる。工事が終わると再び激しい雨が降り始めたかとおもうと、お先に梅雨をあけさせていただきます、となったとたん日差しが肌に突き刺さる毎日。クーラーも一台しか掃除が済んでないため去年の防音工事で新しく取り付けられたロスナイと扇風機ですこしだけ涼しくする。

眼鏡も慣れはじめた頃、今度は仕事で携帯電話を持つはめに。近所の携帯電話ショップでカタログを仕入れ、料金プラン、機種を見ていると頭の中は意味のわからない用語でいっぱいになる。以前からなにか怪しい、と思っていた携帯電話への疑念がますます深まるばかり。これならパソコンのほうがまだわかりやすい。購入してもプライベートでは使うまい、番号は親兄弟にも教えまい、と決意だけはしてみて、ここぞとばかり夏を主張する入道雲をうらめしく眺めながら電話屋さんへと行く準備をする。

愛と海とパレスチナ

さとうまき

3月、シリア国境を越え、イラクに入った。
そこには、パレスチナ難民キャンプがある。アメリカ兵が、キャンデーを持ち歩き、子どもたちの人気者になっていた。6月30日を期限にアメリカ兵は都市部から撤収する。ニュースは、バグダッドでは、イラクの人々が占領が終わったと喜びの声を上げていると伝えている。この砂漠の難民キャンプから米兵がいなくなるのはいつなのだろうか? たとえ、米兵がいなくなっても、占領は続く。住民は永遠の被占領者であるパレスチナ人たちだから。

遠い祖先がハイファ出身という難民キャンプの少女は、また詩を書いた。 

  愛と海   悲しい鳥

愛は海のようなもの

みんながそれを好きで
みんながそれを求め
みんながそれを歌い
みんながそれについて語らう。
でも本当は誰も知らないの。
そこにとびこんだことのある人以外は

みんながそれを歌い
みんながそれを語らい
みんながそれを求める
でも本当はだれも知らないの
それを理解した人以外は

私は、この詩にパレスチナを付け足してみる。

…でも、本当は、誰も知らないの
それを体現したもの以外は

アジアのごは ん(30)ダージリン紅茶と水 その2

森下ヒバリ

紅茶をおいしく飲むために、水についていろいろ研究してみた。タイのバンコクであれこれミネラルウォーターやボトルドウォーターを買い込んで飲み比べてみたように、日本でもいろいろな水で紅茶を入れて飲んで見たのである。

日本で市販されている水は、すべてミネラルの含有量、硬度、phが明記されている。これはいい。なんせ、タイで市販されていたものには、皆無、といっていいほどデータが表記されていなかった。だから、硬度が200mgとか300mgの高いものなら、ああこれは硬水、とさすがに味で分かりはするが、正確なところは憶測でしかなかったのだ。ちなみに硬度というのは、水の中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量から計られる。含有量が多いと硬水で、少ないと軟水である。

バンコクでダージリン紅茶を入れて、最低の味だったフランスのエビアンは、日本で調べたら硬度304mg、ph7.2、しかもミネラルの中でもカルシウム含有量が突出して多い鉱泉水、ということが分かった。なるほど。同じフランスの水でも日本で最近人気のボルヴィックは、硬度60、ph7.0の軟水である。これで紅茶を入れると、だいたいおいしく入る。飲んでも日本の水と同じようにすっきりまろやか。

日本の水は、基本的に軟水である。軟水はミネラルの含有量が少ない、クセのない水だ。硬度120mg以下のものを軟水と呼ぶが、飲んでおいしいのは20mg以上のものだろう。紅茶もいろいろ試したが、硬度20mgの水では味のバランスが悪くなることもある。硬度100mg以上になるとこれまたバランスが悪くなる。紅茶によっても多少違ってくるのだが、ダージリン紅茶をストレートで味わうなら、硬度20mg〜100mgの水でなくてはならず、硬度40mg〜60mgがベストではないかと思う。phも7ぐらいの中性がいい。ダージリン紅茶の持つ香り・渋み・苦味・甘み、そしてコクがバランスよく抽出される。

で、日本の水道水の硬度であるが、じつは40mg〜60mgの硬度の地域がほとんど。例外は沖縄本島の一部(硬度が高い)、名古屋、広島(低い20mg)、そして山がちな地域(低い)など。水道水をちゃんと浄化して塩素や毒素を取り除けば、かなり理想的な紅茶用の水になるのである。

もちろん、水道水も地域によってずいぶん質が違う。近年は浄水場を出るときの水道水の質はかなり向上しているのだが、各家庭の水道管が錆びていたり、鉛管のままだったりすると蛇口から出る水の質はかなりひどいことになっている。もとの原水の質がよければ塩素の量も少ないので、蛇口から出る水をそのまま飲んで、おいしいという地域に住んでいる人がうらやましい。

飲んでおいしいけれど、紅茶にあまり向かないのが、いわゆる鉱泉水である。さきのエビアンもそうだが、タイのオーラーもそうであった。鉱泉水は体にはいいが、硬度が高く紅茶には向かない。日本の水は軟水がほとんどで、硬水は飲みなれていないためか、市販されているミネラルウォーターも断然軟水が多い。タイで売られているのは輸入品もすべて硬水であった。ヨーロッパなどでも軟水を探すのはむずかしいかもしれないが、フランスのボルヴィック、ドイツのクリスタルガイザー、カナダのウィスラーなどは軟水なので、憶えておくといいかも。

じゃあ、硬度の高い水しか手に入らない場合はいったいどうしたらいいのか? これこそ、ヨーロッパやインド平地の人々の切実な問題でもあろう。では、ヨーロッパでは紅茶はどのようにして飲まれているのか? インドでは? 

答えはミルクをたっぷり入れる、スパイスやフレーバーをつける、である。ストロングタイプのセイロンティーやアッサムティーにミルクをたっぷり加えれば、まろやかになり、硬水で入れてもけっこうおいしく飲める。欧米人の好むアールグレーやラプサンスーチョン、ジャスミンなど日本人からすれば、なんでこんな強烈な香りをわざわざつけるのか、というフレーバー紅茶も、硬水で入れればバランスがよくなるように作られているのである。

今では、お茶の中でもとくに紅茶党なわたしだが、以前は紅茶の入れ方はむずかしいと思っていたし、ミルクを添えて飲むという飲み方に面倒くささも感じていた。それほど紅茶がおいしいと思ったこともなかったのである。

あるとき日本の水俣で作られたオーガニック紅茶に出会って、紅茶に対する偏見がすーっとなくなった。水俣の紅茶は、イギリスの会社の製品と違って、まろやかでやさしい味であった。ミルクを入れるよりも、ストレートで番茶のように飲むのがおいしい。番茶のように、二煎目もおいしい。ストレートで飲むと、紅茶の味がよく分かる。繊細で、豊かな、あきのこない味。毎日飲みたい味。

紅茶というのは、ミルクや砂糖を入れて、優雅なカップで、ケーキと楽しむだけのものではなくて、本来は番茶のようにごくごくと飲むものじゃないの? だいたい、毎日ケーキは食べないし、ミルクも飲まないしなあ。気候風土、そして水の質の違う日本でヨーロッパのような飲み方にこだわる必要はないやん、と水俣の紅茶を飲みながら気がついた。ヨーロッパの紅茶会社の紅茶がきついと感じていたのは、ミルクを入れるのが前提であるためのブレンドだったからか。

以来、旅先ではミルクたっぷりのあま〜いチャイも飲むが、日常の紅茶はストレートで楽しむようになった。というか、わが家では朝のコーヒー以外は、食後も午後のお茶ももっぱらストレートの紅茶になっている。

ストレートで味わっておいしいのはもちろん、なんといってもダージリン紅茶である。このダージリン紅茶をストレートでじっくり味わえるのは、軟水のおかげなわけだが、世界で軟水の地域はそう多くない。ああ、ありがたや。

紅茶を入れるのが、なんとなくむずかしいと感じるのは、紅茶はその茶葉によって適量や蒸らす時間などが微妙に異なるからだと思う。同じように入れているつもりでも、うまく入らない・・、という人におすすめしたいのが、コーヒーサーバー用の耐熱ガラス製のポットを使って入れる方法。共用すると香りが移るので、紅茶専用にしてください。

ガラスポットを使うと、紅茶の状態がよくわかり、水色も確認できる。ダージリン紅茶を熱湯に入れると、茶葉は沈まずに浮いたままで、やがてお湯はきれいな茶色になってくる。葉っぱがひとつ、ふたつ沈み始めたら、もうかなり濃い。沈まないうちに味見してみて、好みの味のときの色や葉っぱのようす、時間を覚えるのである。お湯の量がこれくらいだと、茶葉の量はこれくらい、というのも覚えられる。

ダージリン紅茶は沈まないが、アッサムやセイロン紅茶の葉っぱは、沈んで上がって、沈んでといわゆるジャンピングをする。これを眺めるのも楽しい。ジャンピングが収まったら、飲み頃である。

この耐熱ガラスのポットは、最近は直火不可と表示してあるけど、品質は以前と同じなので自己責任で直火可。持ち手が火にかからないのを選ぶこと。ポットの底が濡れた状態で火にかけないこと。これでお湯を沸かして火からおろし、そこに茶葉を投入するのが、一番いい。やかんでお湯を沸かして、このポットに茶葉を入れてお湯をそそいでもいいけれど、とにかく熱いお湯が大切。でも、ぐらぐら沸いているところに茶葉を直接入れてはいけない。濃く入りすぎたら、お湯を足せばいいし、ミルクティーにしてもいい。蒸らし時間が短かったら、もう少し待てばいい。ダージリン紅茶は、二煎目もおいしい。質がよければ三煎目もそれなりに飲める。

紅茶に限らず、お茶をおいしく入れるためには、茶葉を観察して、調整することが必要なのだ。茶葉はそれぞれ違うので、封を切った茶葉を出したら、まず基本の方法で入れてみて試してみる。お茶の気持ちになってみる。
香しき紅茶を飲むときだけでなく、茶葉を取り出したとき、お茶に熱湯を注ぐとき、お茶が愛おしく思えるようになれば、あなたもりっぱなティーラバー。

『小杉武久 二つのコンサート』

高橋悠治

6月は大阪国立国際美術館で小杉のコンサートがあった 二日にわたって1964年から2009年の新作初演まで12の作品が演奏された 小杉の作品がこんなにまとめて演奏されるのはほとんどないことで その場にいて 演奏にも参加できたのは 何年ぶりか かれの周りにいて それぞれユニークなしごとをしている若いアーティストたちや 企画構成を助けるスタッフの存在は 東京にいては望めないことだろう

上着を6分間かけて脱ぐという日常のなにげない行為を極限までひきのばしてみる 1964年の『Anima 7』 それをする方も見るほうも ふだん気にもせず通りすぎている行為が 目的に向かって一直線にすすんでいるのではなく ためらい はずれ やりなおし 行きすぎてもどる 複雑な試行錯誤の不安定な束であることを知る 

その後のライブエレクトロニクスの作品も 単純な回路の組み合わせと相互作用に ちいさな日常のオブジェやわずかなアクションの干渉から 予想からはみだす変調と 即興的で不安定な結果を生むような設定がされている なにげない見かけ ささやかな行為 しかしこの不安定な波乗りを続けるには 集中と没入の快感 それでいて限界を見きわめ すばやく身を引くリズム感覚がはたらいていなければできないことだろう

発振器 ピッチシフター フィードバック/ディレイ コンタクトマイク 光センサー マルチチャンネル音移動 扇風機 光センサーを入れる紙袋 紙箱 小石 貝殻 釣り竿 コンタクトマイクを取り付けた竹串を見ていると そこに隠れている動物が 棒でつつかれて 声を出したり 転げ回ったり 向こうからもちょっかいを出してくる そんな遊びを思い出す

だれもがディジタル音源とコンピュータ操作で 響きの粒子の意外の粗さと均質な音感にすっかり慣れてしまっているいま 鉱石ラジオの手作りの感触を残した技と 手綱捌きで 踏み外す寸前の綱渡りをたのしむ余裕が まだここにある

ふだんピアノがちょっと弾けるからといって 音楽業界のなかで使い捨てに終わるのではないか と思わないでもない毎日 たまにはこういうことでもなければ どうなってしまうのか それでも これは小杉の道であり それとどこかで出会いながら また別な方向に分かれていく もう一本の道に踏み出せることが いったいあるのだろうか と疑いながら

しもた屋之噺(90)

杉山洋一

1年前のある冬の朝、庭のタイルの上に凍えて息絶えていた黒い鳥を、庭の端に穴を掘って、そっと埋めたことがあります。先月、ミラノを訪れていた母から、蔦の絡むレンガの壁づたいの、ほら、あそこの繫みに可愛らしい黒い鳥の巣がある、と指差され、春の到来で忙しく行きかう番いの鳥をながめて過ごしていましたが、あるとき気がつくと、昨年、円らな目を見開いて、すっかり堅くなっていた小さな黒い鳥を埋めたのは、まぎれもなく、その巣の真下でした。

今や、その巣から、羽根も生えそろわない幼鳥たちが、連れ立って庭の芝へ降り立っては、頼りなく整列しながら何か啄ばんでいるのか、ただそぞろ歩きをしているのか。いずれにせよ、愛くるしい光景に思わず頬がゆるみます。単なる偶然かも知れないけれど、万が一にも偶然だけではなかったかも知れない。ドヴォルザークの「野鳩」をふと思い出しましたが、庭でチュルリン、チュルリンと呼び交わしあうオレンジ色の嘴の黒い小鳥は、ずっと無邪気なものです。

4歳になった息子が、この処、すっかり絵を描くことに夢中で、寝てもさめても絵を描いていることもあって、来週日本に戻る前にと、子供と家人と連れ立って、ドゥオーモ脇の王宮美術館でやっている「モネと日本」展と「イタリア未来派」展にでかけてきました。

自分が勉強しているドビュッシーのイメージを具体的につかみたくて、直にモネを見たかったのですが、まるで自分が読んでいるスコアのように感じられるのにはびっくりしました。叩きつけるような強い筆致から、小刻みに震えるオーケストラから立ち昇る和音、イメージ、色。近視眼的というより、むしろ、題材から視点を離し、俯瞰するように描く風景は、北斎や広重の影響を指摘されても、あらためて納得できる気もしましたし、香気とでも呼べばよいのか、湧き上がるような光の奥で、おそらく本人以外見えず、聴こえない領域で、実にしっかりと、そして生き生きと作品が息づいていることに圧倒されます。

二人を印象派で括る先入観は、殆ど意味を成さないでしょうし、本人たちも喜ばないとは思います。ただ、イタリアに住んで、イタリア的な触感で音や絵画と暮らしていると、音響や光によって、「超2次元的」に題材を扱う姿勢は、文字通りフランス文化以外の何ものでもないとおもいます。「超2次元」というのは、一見2次元の平面的、静的な捉え方をしているようで、その実、内部でとても激しいドラマが沸きあがっている、とでも説明すればいいのでしょうか。さもなくば、表面がその香気でコーティングされているとでも言えばよいのか。

イタリアは、絵画、音楽、料理、すべて、フランスの洗練された表面の香気からほど遠い文化であって、情念は情念のまま表現し、題材、素材をそのまま生かし、直情的なほどに表現します。そんな国に住んで、直情的に日々を過ごしていると、余計、モネやドビュッシーに圧倒されるのでしょう。同じオペラであっても、バレエもふんだんに取り入れた豪華絢爛なグランドオペラと、ヴェルディのオペラを比べてみれば、明らかです。

驚くほど美味で、はっとする彩りのソースを掛けられたフランス料理と、ただ肉を叩き、塩と胡椒をふって焼いただけのイタリア料理。どちらにもそれぞれロマンとドラマがあるのは言うまでもありません。ただ、驚くほど違うわけです。和音ひとつをとってみても、機能和声の輪郭を崩し、ぼかし、和音を積みかさねて旋法に溶かし込んでしまったフランス印象派の時代に(カセルラは例外としても)、レスピーギやブゾーニは、バッハやフレスコバルディの古典をどこからか発掘してきては、ダンヌンツィオのように士気昂揚すべく大仰な衣を着せ(一切和音には手を加えず!)、まるでミラノ中央駅のように無骨で巨大な、オクターブばかりのピアノ作品へ編曲していたのですから。

細密にわたりびっしり、しかし静的に書き込まれた無数の光、素っ気ないほど突き放した色気のない速度表示、偏執狂的に固執した対比率と、几帳面なほど正確な数字。ドビュッシーの楽譜は、そのまま、絵画のようにすら見えます。額縁にきちんと収められて書かれた絵画は、ひとたび音が鳴り出すと、めくるめく瞬間が、うず高くそそり立ったかとおもいきや、洪水のよろしく一気に外へ溢れ出てゆきます。

モネのあのなんとも言えない空の色。水の色。薄く澄んだ紫、くすんだ水色やくぐもった桃色。フランス料理のソースを思わせる美しく香る中間色は、フランス印象派の影響をつよく受けたはずの、イタリア未来派の画家たちでさえ、一切見られません。光線そのものがイタリアとフランスでは少し違うのかもしれない。そんなことすら頭を過ぎるほどです。

尤も、愚息が興奮していたのは、モネ展よりむしろその後に出かけたイタリア未来派展の方で、とりわけバッラが1916年に製作したディアギレフのバレー「花火」のための「発光する舞台装置」のところで、ストラヴィンスキの音とバッラの組合せにすっかり夢中になり、どれだけ長い時間釘付けになっていたことか。あそこで息子は踊りだしたかったに違いありませんが、流石に恥ずかしかったのか、座ってじっと舞台を眺めてくれて、こちらも安堵しました。

モネと未来派を立て続けに訪ね、フランスとイタリアの文化の相違を如実に実感したのも愉快な経験で、どんなキッチュを企んだとて、所詮イタリアはミケランジェリやダヴィンチを生んだとんでもない国であり、ルネッサンスが花咲いた国であり、それを否定すれば否定するほど、そこが浮上って見えてしまう、と妙な感心をしました。アナーキーだった筈の未来派が、結局ルーチョ・フォンターナを生み出すまでに至り、その後のイタリアを決定づけたのですから、振り返れば、実に偉大な20世紀の文化運動だったことに気がつきますし、あれだけ充実した未来派の展覧会を実現させた企画者の心意気に、揺ぎ無い誇りが感じられます。

さて、来週から久しぶりの東京です。桐朋のみなさんとどれだけ楽しく過ごせるか、今からとても愉しみにしています!もちろん、味とめの納豆ピザを忘れる筈はありませんから、どうぞご心配ありませんように。

(5月18日 ミラノにて)

メキシコ便り(21)新型インフルエンザ、その後

金野広美

4月の末、メキシコから始まった新型インフルエンザの世界大流行でしたが、ここメキシコではあのことはまるでうそだったかのように、すっかり沈静化して、日常生活がもどっています。いまではマスク姿もほとんどなく、食べ物を売る店の人も申し訳程度のあごマスクです。私も5月の中旬くらいまでは、日本から友人が心配して送ってくれたマスクをしていましたが、今ではなんだか「私はインフルエンザにかかっています」と宣伝しているみたいで肩身がせまく、そのうちバッグに入れて外出することも忘れるようになってしまいました。

メキシコで4月23日、最初に発表された死者数68人も時間がたつにつれて減り、また増えと情報は錯綜しましたが、この数字はメキシコの検体能力が当初はなく、はっきりと新型インフルエンザとわからなかった人もすべて含まれてしまっていたためでした。持病をかかえていた人も多く、その中の半数近くは超肥満の人だった、とかいわれています。メキシコにはとても太っている人がたくさんいます。100キロ越しているのはざらで、日本の肥満とはスケールが違います。食事は脂っこいものを大量に食べ、大好きなおやつはコーラとポテトチップスです。これで太らないはずはなく、ゆさゆさと巨体を揺らしながら歩いています。それでいてテレビは、やせ薬やダイエットマシンのCM花盛りなんですよ。なんともせつないことです。

衝撃が世界中をかけめぐってから、私の学校では5月はじめには日本人が大半いなくなりました。私はもちろん帰国しなかったのですが、メキシコから世界へと感染が広がるなか、今では帰国しなかった私の判断は正しかった、と友人や家族からお褒め?の言葉をもらいました。
私は帰国をみんなから勧められたとき、3つの理由をあげ、帰国しない旨を伝えました。この事件がはじめてメキシコで起こり、日本人の友人たちが、次々帰国するといってきたとき、「帰るところがある人はええわなー。どこにも逃げるところがないメキシコ人はどないしたらええんやー」と密かに心の中で思ったのが1番の理由でした。そして2番目はこの事件はメキシコから始まったのだから、そのあと世界に広がっていくでしょうが、1番初めに収束するのもメキシコからだと思いました。そして今、まさにその通りになりました。3番目は日本に帰ったら機内検査で4、5時間拘束されるということでしたし、おまけに最初の感染を疑われた女性に対する人権蹂躙とも思われる対応ぶりを知って、帰りたくないと強く感じたことなどでした。

足早に帰国した友人たちは、帰ったことを後悔している人も多くいます。ある女子学生は帰国に関して学校側は彼女の判断に任すといってくれたにもかかわらず、彼女のお母さんが1日に5回も泣きながら、少しでも早く帰るようにと電話をしてきました。彼女はこのまま勉強を続けたかったにもかかわらず、お母さんを説得しきれず、泣く泣く帰国していきました。そして日本に帰ったら今度は復帰した日本の大学が休校になり、ふんだりけったりの目にあったのでした。

そして別の友人ですが、彼女とは帰国の前日会いました。やはり彼女も帰国したくなかったにもかかわらず、お母さんに懇願され帰ることになりました。帰国してから10日間はホテルに泊まるよういわれたのですが、日本円がないので、お母さんが空港までもってきてくれることになりました。そのときお母さんは「マスクをして封筒に入れたお金を、おはしで渡すから」といわれたそうです。彼女はすごいショックをうけ、すっかり落ち込んで泣きそうになっていました。それはそうですよね。まだ感染しているとわかったわけではないのに、実の娘をバイキン扱いするのですから、彼女が落ち込むのは当たり前です。私は彼女に「お母さんをここまでおかしくさせているのは日本の報道やろうから、決してお母さんを恨んだらあかんで、ほとぼりがさめたら、きっと元のお母さんに戻らはると思うで」と声をかけることしかできませんでした。

私は日本の新型インフルエンザに関する報道はネットでしか見ることができませんでしたが、彼女たちの家族の反応ぶりをみると、その過剰ぶりが十分想像できました。日本にいる家族がここまでヒステリックになり、冷静さを失くしてしまうような報道内容だったのではないかと思います。この間のメキシコの実態とはかけ離れた報道といい、こんなときだからこそ、最も必要であるべきはずの冷静さを失わせてしまうような報道といい、私は今、ノーテンキすぎるメキシコにいながら日本を思い危機感をつのらせています。それは、もし、これから対応の仕方いかんによっては戦争につながってしまいそうなことが起こった時、相当ヤバイことになるのではないかという気がしてしまうからです。

緑鉛鉱理論――翠の石筍56

藤井貞和

亜鉛鉱の、閃きを、
左右に通す、
巻いた管のかたちの、
ぼくの疲れを、
蒼鉛のえんぴつで、
けずり落とす翠。
このときを、
越えられるならと、
つくえをならべた、
ぼくの誘惑で、
さらに滞る書き物の未来。
緑鉛鉱理論を、
眼の未開に置いてきた過去は語る、
お休み、すこしね、
ねずみがキスするぼくの頬、
翠。

(「ぼく」という代名詞で書いて見ました。「わたし」に置き換えると、べつの作品になるのがおもしろい。「わたしの疲れ」「わたしの誘惑」「ねずみがキスするわたしの頬」。代名詞言語理論の一部。緑鉛鉱はPyromorphite。)

街の記憶

大野晋

街の中のなにげない風景にもさまざまなものが写り込む。多くの写真作家がその写り込む何かを求めて、街の中のさまざまな様子を写真に写し撮ろうと街を歩く。

新宿のペンタックスフォーラムへ片岡義男「撮る人の東京」というタイトルの写真展に出かける。東京写真月間というイベントの一環らしいが会場に飾られた街の断片が東京という街の一面を映し出していて、撮影者の視点を感じて面白い。渋谷や新宿と言った常に新しく生まれ変わる町がある一方で、東京には時代に取り残された街角が街の記憶のように残っている。

写真展を一通り見て、会場のあるセンタービルの地下から地上に出ると、高層ビルと夕闇の空の今の東京が迫ってきた。目の錯覚を起こしそうな歪んだ新しいビルのある風景を見ていると、東京の別の面が見えてくる。

さて、写真展と写真展と同時に出版された写真集を見ていて、ふと、あることに気が付いた。写真展を見るとその最後に提示されたカレーライスが食べたくなってくる。もっと困ったことに、写真集を見ていると要所要所に配置された写真からオムライスがしきりと食べたくなる。もしかすると、深層心理に働きかけるサブミナル効果があるのかもしれないと思ってしまった。残念というか、新宿にはそこのオムライスが食べたくなるような店を知らなかったのが幸いだったのだが。

ちなみに、何度か書いた夜の街の記憶をナイトハイク・イン・マツモトと題して仮展示中です。東京の昼間の景色と地方都市の夜の風景。何かしら近いものがあるように感じられてならない。
PENTAXアルバム:ナイトハイク・イン・マツモト

間奏曲:シコとカエターノ

三橋圭介

シコ・ブアルキとカエターノ・ヴェローゾ、80年代には「シコとカエターノ」というテレビ番組で共演し、現在では互いの音楽、芸術活動を認め合っている仲間だ。しかしブラジル・ポピュラー音楽の巨匠ともいえるこの二人には過去に因縁めいた話がある。

カエターノは「トロピカリア」の中心人物としてアメリカやイギリスのロックをブラジルにもたらしたが、ボサ・ノヴァを通して新しいサンバを生み出したシコにとって「トロピカリア」は即座に批判すべき対象ではなかったにせよ、二人にはある時期たしかに溝があった。

前回取りあげた1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭のエントリー前に、シコはライバルでもあるジルやカエターノに2曲きいてもらい、どちらの曲がいいか判断をあおいでいる。ジルは未完の「A Banda」を選び、カエターノは「Morena dos Olhos D’Agua」を選んだ(カエターノは後にこの曲を歌っている)。結局、「A Banda」で優勝し、シコは若くして大スターにのし上がっていく。

その次の音楽祭はカエターノの年だった。ロックバンドを引き連れた「Alegria Alegria」で第4位となるが(シコが「Roda Vida」で第3位)、大ヒットし、一躍時の人となる。「新境地を切り開く若者のリーダー」など新聞社がこぞって褒め称えた。レコードは10万枚を売り上げ、時のアイドルとして、その人気はビートルズ・マニアを彷彿とさせるほどだった。

シコの「A Banda」は老若男女問わず万人に認められた。一方、カエターノは若者の人気者となった。この違いをカエターノは後に分析している。「彼は『Alegria Alegria』がリリースされる前の年、悲しい道をバンドが通り過ぎていくノスタルジックな、オールド・ファッションの『A Banda』で音楽祭に優勝した〜コカコーラを含む20世紀の生活を扱い(歌詞参照)、ロックバンドでやった『Alegria Alegria』は、シコの歌とは対極を示している」。「『A Banda』は、確実にシコのマイナーな作品だが、彼にとって扉を開くのに役に立った〜だが、その歌は彼にできる作曲の洗練というものをほとんど反映していない」。

    Alegria Alegria(アレグリア・アレグリア)

風に向かって歩く
ハンカチなしで 書類もなしで
もはや12月の太陽の光の中を
僕は行く
太陽は罪を配分する
広大な寺院 ゲリラ戦 美しいカルディナーレたちの中を
僕は行く
大統領の顔、恋人たちの激しいキス、歯、足、旗、
爆弾とブリジット・バルドーの間を
新聞スタンドの光は、喜びと退屈で僕をいっぱいにする。
だれがこんなにに多くのニュースを読むというのか
僕は行く
写真と名声を横切って
いろんな色の目 空っぽの愛でいっぱいの胸を通過して
僕は行く
どうしていけないの? 何がだめなの?
彼女は結婚のことを考える
僕は一度も学校へ行っていない
ハンカチなしで 書類もなしで 僕は行く
僕はコカコーラを飲む
彼女は結婚のことを考える
ある歌が僕を慰める
僕は行く
写真と名前を横切って
本をもたず 銃ももたず
空腹もなく 電話もなく
ブラジルの中心を僕は行く
彼女には決してわかるまい テレビで僕が歌うと考えたことを
太陽はあまりに美しい
僕は行く ハンカチなしで 書類もなしで
ボケットにも、手にも決してもたない
生きながら後を追っていきたい、ねえ君、
僕は行く どうしてそれがだめなの? 
(ベアトリス訳)

これがカエターノのだいたいの意見だが、まだ続きがある。カエターノにとっての「Alegria Alegria」もシコの「A Banda」と同じ役割しかなかった。つまり扉を開くこと。「『Alegria Alegria』が音楽祭のなかでマルシャであったという事実、それはアンチ・バンダ(反『A Banda』)であり、もう一つの名前のバンダ(ロック・バンド)でもあった」。歌詞の内容の類似を含め、共にオールド・ファッションであると述べている。「Alegria Alegria」は「A Banda」の「一種のパロディ」だった。

カエターノがこの話を切り出すきっかけは、当時、二人の間にライバル関係が問いただされていたことから始まっている。同じ時期に二人のスターが生まれ、一方は伝統を更新し、もう一方はロックという形をとる。しかしそうではない。どちらも同じものの言い換えにすぎない。ただ、メディアはそのようには見なかった。

ある時、カエターノがシコについてどう思うかをきかれたとき、新聞には次のように掲載された。「シコは緑色の目をもつ若く美しい男でしかない」。当然、その前後を削除して批判的な部分を切り抜いた。この前には「僕は大きな髪の若者で、シコは緑色の目をもつ若く美しい男」とあった。掲載された記事についてカエターノはシコに説明をしなかったし、あまり心配もしていなかった」。しかし、これがきっかけとなり、特にシコの支援者から批判を浴びることになる。

カエターノの支援者よりもシコの支援者ほうが圧倒的な大多数だった。1968年6月6日、シコが前年まで所属していたサンパウロ大学建築学部都市計画学科の学生によって企画されたトロピカリスタたちへのバッシングは、そうした意味合いがあったと思われるし、トロピカリアの論争がシコとカエターノの関わりからその規模を増したということもできるかもしれない。

サカジャウェアたち

くぼたのぞみ

文字をしらない
はなさんは
学校をしらない
はなさんは
誕生日をしらない
はなさんは
生まれは新潟
米どころ──でも
父も母もしらない
はなさんは
オレゴンのサカジャウェアさながら
やさぐれ者の手に渡り
流れながれた開拓地では
おさないころから朝起き
煮炊きをおぼえ──さらに
たんと知らされたろうか
ひとつのことを

地中ふかく人の手がのび
黒い燃える石を掘るため
「まっくら」の世界に
あつまってきた男や女の群れのなかで
黒煙くゆる
赤平の、歌志内の、文殊の
ずらりとならぶ長屋また長屋で
その目に写っていても──たぶん

見えなかったか
ピンネシリは
はなさんに
見えてはいけなかったか
熊笹のかげの
サカジャウェア
たち

製本、かい摘みましては(51)

四釜裕子

東京製本倶楽部の「紙の技、本の技」(2009.4/29-5/6 目黒区美術館)展で、2日午後にアトリエ・ド・クレの岡本幸治さんが中世西欧の製本法を実演くださった。様式は大きく分けて3つ、カロリング、ロマネスク、ゴシック製本、いずれも穴をあけた木の板を表紙とするが、綴じの支持体をどう板に通すかが違う。羊皮紙に書写したものを折りたたんでいた時代だから、最低限厚い板でしっかりおさえる必要があった。そして本は横に置いていたので「ちり」はなく、ヘリンボーンのように編み上げられた「はなぎれ」の外側には引き出すときに指でおさえやすいように大きな革がつけてある。

3種類の見本が並べられ、人だかりの中で幸治さんが手を動かしている。用意された表紙用の板は5ミリ厚くらいだったろうか。はがきとして使用できる素材もさまざまな板が市販されており、幸治さんはそれを活用しているという。材料は特別なものではないし針の運びもシンプルだ。すぐにもやってみたいと思うが、あの板の厚みの「面」にむかって斜めに小さな穴をあけるなんていうのは絶対にできそうにない。でも、やってみたい。「穴のあいた板を売ってもらえないでしょうか。」安易な私の質問に幸治さんは絶句した。ごもっとも。そんなつもりはないはずである。お恥ずかしい――でも思う、穴のあいた板があったなら。

アトリエ・アルドの市田文子さんは「歴史的製本講座」としてリンクステッチによるコプト製本や中世の製本などを行うワークショップも行っており、ウェブサイトからその内容の一部を見ることができる。インキュナブラの展示や図録に製本法の解説を読みつつ、製本の研究と試作も重ねてこられた幸治さんや市田さんのような製本家の活動を知る機会を与えられている現代は、なんてうれしくありがたいことだろう。時代に揃う材料で、求められる本のかたちのために工夫を凝らしたよりよいものが、その時代を象徴する製本法となってきたのだ。今を象徴する製本の技術といえばPUR接着剤無線綴じになるだろう。機械製本の話であったが、接着剤の改良で手製本でも丈夫にできる。美篶堂のワークショップで作った無線綴じのノートなどは時間が経ってもやわらかによく開く。無線綴じ!とむやみに嫌うことではない。製本というひとつの大きな森の中でのできごとなのだ。

梅雨だけど雨が降りません

仲宗根浩

先月、ノート型のパソコンのハードディスクを貧相な40GBから120GBに交換。もう一台のパソコンもOSの入れ換えなどしていたらバックアップの住所録のデータが飛ぶ。まあ、今年来た年賀状と今までのメール見てまた入力すればいい。たいした数でもないし。いま、テラバイトのハードディスクが一万円を切る価格になっている。でもそんなにあっても使いやしない。

五月は七年ぶりにチケットを買い、二日間、山下達郎のコンサートに行く。七年前、小学校一年生で連れていったガキはもう中学二年生になった。どうしても行きたい、という。ついに部活を早退しやがった。いい根性してる。今回は見事なロックンロール・ショーだった。二日目、一曲おまけで演奏曲が増えたことをあとで知ると悔しがっていた。二日目は離れ小島に合宿に行っていたから当然行けない。「ロックンロールはパッションさえ失なわければ懐メロになりません。」こんな言葉を聴いたコンサートから家に戻ると四十年前に作った曲を懐メロにしなかった稀代のロックンローラーが死んだニュースがテレビで流れた。最初に聴いたのは「僕の好きな先生」。小学生の頃、兄のパシリで「新譜ジャーナル」「ヤング・ギター」をよく買いに行かされた。三人組はその編成からフォーク
にカテゴライズされていた。だから「ステップ」を歌う姿がテレビに出たときはびっくりした。こんなになっちゃったんだ。しばらくするとどこの学校の文化祭でも「雨上がりの夜空に」をコピーするバンドが異様に増えた。数日間はテレビの決まりきった映像、コメントに辟易する。

「愛し合っているかい」
オーティス・レディングが映画「モンタレー・ポップ・フェスティバル」で”I’ve Been Loving You Too Long”を歌う前に観客に語りかける。DVDの字幕では「みんな、愛し合っているよね。」と訳されていた。

ラフィー・タフィーの映像を見たミーハーはギターとベースのアンプ、真空管は手が出せないので同じ”ORANGE”の小さな練習用のものにした。

梅雨に入ったが雨は二日くらい降っただろうか。涼しく、すごしやすい天気が続いている。クーラーはいまだ稼働せず。めずらしく奥さんがカーペンターズのCDが欲しい、という。最近出たベスト盤だった。新しくリマスタリングされ初めて高音質と言われているSHMーCDというのを買った。十数年前、四、五枚購入したものと全然違う。デジタルの世界はおそろしい。格段によくなったのはドラムの音、逆に多重コーラスは分離が良すぎて厚みが無くなっている。”Close To You”のコーラスがわたしはとても好きで10CCのあの変態ループコーラス大活躍の”I’m Not In Love”と同じくらい好きなんだけど、う〜ん。でもなんで日本盤はミュージシャン、エンジニアのクレジットはちゃんと掲載しないんだろ。

ひとりの午後、やっと落ち着いてチャック・ベリーのCDを大音響で聴く、といっても自分にとっては大音響ではないが、他家族三名にとってはうるさいらしいから、ひとりのときにしかある程度の音は出せない。真っ昼間、聴いていると、どうせ今日は車に乗る用事もない。呑みはじめる。しばらくするとつまみが欲しくなる。実家からもらった島らっきょをいくつか取り出し、土をはらい、水洗いし、根を手でちぎり薄皮をむき、塩で軽く揉む。削り節を加える。他に何かないか冷蔵庫をのぞくと容器に入った豆腐四分の一丁。容器にたまった水分を全部捨て、塩で揉んだらっきょを豆腐が入った容器に入れ、スプーンで豆腐をつぶしながららっきょと混ぜる。少しのごま油と醤油を加える。わりとうまい。すこし幸せな気分になる。ごま油はえらい。

新しい眼鏡ができた。遠近両用。文庫本の活字が見える。CDジャケットのクレジットも見える。でも、目を動かすとぼやける。ちゃんと遠くを見るようにするためにはしっかり正面を向いて見ないといけない。活字を読むときは少し顎をあげてと。乱視も強くなっているみたいなのでそれも矯正してもらった。慣れるまで時間がかかりそう。

田んぼプロジェクト

冨岡三智

アジア5カ国が1つの大きな包括的なテーマの下に、それぞれの国で行っているプロジェクトというのがあって、私も参加している。参加者の構成は、大きく分けて学者、芸術家、活動家(NPO関係者やジャーナリスト)といったところ。日本サイトで開催されるのは今年の9月で、その一環として「田んぼプロジェクト」がある。要は、日本サイトからのメッセージを込めて、アジア各国からの参加者全員で稲刈りをするのだ。通常の国際会議のように、サイト訪問だけで終わりにするのではなくて、テーマとサイトと参加者を結びつける仕掛けとして、この「田んぼプロジェクト」は位置づけられている。

けれど、フィナーレで稲刈りをしようと思うと、春から田起こしして、田植えして、草取りして…という段取りをしておかないといけない。当然それは日本サイトの、田んぼに関してはど素人のワーキングメンバーの双肩にかかっている。しかも、それをなるべく手作業で、無農薬でやろうという。田舎者の私としては、「田んぼプロジェクト」という発想自体に対して、都会人の幻想みたいなものを感じ取っていたのも事実なのだけれど、田んぼをすること自体に対しては、素直に魅力や郷愁を感じていた。

メンバーがローテーションでサイトに行くから、私がサイト(滋賀)に行ったのは、4月29日〜5月1日の田起こしと、その後の草取りに日帰りで2回である。先月「水牛」に寄稿できなかったのは、このインターネットや携帯電話が通じない地域に田起こしに行っていたからなのだ。(そもそも、そんな所に行くまでに書きあげられなかったのだけれど)

私がごく幼い頃は、まだ手で田植えをしていた。すぐに田植え機に取って替わられたが、私の世代が農作業の機械化への変化を知っている最後の世代になるのだろう。四角い木枠に桟を何列か張ったもの(ちょうど紙を貼っていない障子のようなもの)を泥の田に置いて、稲を順に並べて植えていく。そして木枠内に全部植えたら、後ずさりして、その木枠をバッタンと手前に反して、また植えていく。こうやっていくと、稲が縦横まっすぐに植わる。それが子供心にやってみたくて、隣家の農家のおじさんに頼んで、少しだけやらせてもらったことを覚えている。

今回のプロジェクトでは、ローテーションの都合で、ハイライトの田植えには参加しなかったが、手植え用の木枠の修理をした。その形が私の記憶にあるような四角い枠ではなくて、6面体の形をしていて驚く。この6面体の側面に等間隔に桟が渡してあって、それをコロコロと手前に転がしながら、植えていくらしい。同じ田植えでも地域によってやり方に違いがあるものだと、初めて気がついた。

その2週間後に今度は草取りに行って、田車(たぐるま)なるものを見て、また驚く。等間隔に植えた稲の間をゴロゴロと押して歩き、まあいえば伸びてきた草を引っこ抜く道具である。こんな道具は見たことがない。そう思ってよくよく考えていたのだが、それは、私が小さいときにはすでに農薬を使っていたからだろう。田植え直後はおたまじゃくしを取って遊んでいたのに、ある年、田んぼのおたまじゃくしが集団で死んでいる光景を見て、子供心にショックを受けたことを覚えている。あれは農薬を撒いたからに違いなかった。だから田車なんかいらなかったのだ。

田んぼを見ていると、そんな昔のことが思い出されてくる。ここ滋賀では私はよそ者なのに、水田風景を見ていると、まるでここが自分の故郷のような、原体験を取り戻しているような気がしてくる。それはジャワの水田風景を見ているときにも感じたことだ。自分自身、本当は農業に何の貢献ができるわけでもないのに。

田んぼに入ると、泥に足をとられて動くのが大変だ。なかなか足が引っこ抜けないのは、耕し足りず、酸素が十分に廻っていない状態だと教えてもらう。いわば真空パック状態になるのだ。そんな中、いちおう舞踊家の端くれとして、全身を使って疲労が偏らずに動いてみよう、腰をゆわさないようにしてみよう、というチャレンジをしていた。鍬や田車を使うのはほとんど初めての経験だとしても、全身の筋肉を使えば、あまり疲労は偏らないはずなのだ。そう意識したせいか、腰や腰はあまり疲れなかったが、今まで意識したことのない部位の筋肉が疲れてしまい、なんとなく全身に疲労が残った。

ジャワに限らず他の地域でも、宮廷舞踊というものは、王族にしろお抱え舞踊家にしろ、まあ農作業などしたこともないような人、箸より重い物は持ったことのないような人が踊る。そういう人たちが自分の舞踊表現を深めようと思ったら、ふつうは瞑想するとか夜中に水垢離するとかといった修行をする。けれどそういう修行は、日常生活であまり動かない人が必要とするだけじゃないか、という気が最近している。ほんとうはこんな田んぼ作業の中にでも、体を意識化するヒントがいっぱいあるのだ。

瞑想するとか田んぼをするとかという方法論が問題なのではなくて、いかに動きを意識化するか、ということが問題なのだ。けれど、年々歳々同じ農作業の繰り返し、毎週草取りに追われる生活だったとしたら、やはり動きを意識化するというのは難しいかもしれない。その代わり、効率よい動きが無意識化されるのだろうけれど。だが、そうなってしまったら、舞踊としては成立しにくいのかもしれない。そんな風に考えるのも、やはり一種の都会人の幻想なのかも知れないと思いつつ、田んぼプロジェクトを楽しんでいる。

オトメンと指を差されて(12)

大久保ゆう

男の子の夢というと、ある種、荒唐無稽なところがなきにしもあらずなのですが、オトメンはどちらかというと普通の男の子よりも現実的な人たちですので、その夢は壮大でありながらどこか実現可能性を残しているようなものになりがちです(たぶん)。

たとえば私の夢で行くと、いわゆる旅人系なのですが(わかりやすい!)、「世界じゅうのいろんな国を歩いて、そこで見つけた本を持ち帰って翻訳する」というやつです。

翻訳家の使命というと色々の人が様々にしゃべっていたりするのですが、私としては「つながっていないところをつなげる」というのが翻訳者の役割だと思っております。世界じゅうにはまだまだつながっていないところがたくさんあり、そして翻訳されたがっている未発見の本が無数にあると思うのです。もちろん翻訳というのは、何かを解釈し、理解し、それを自分の身体でもう一度語り直すという行為であるわけですが、translationと言葉の語義通り、単純にどこかからどこかへ運んでくる行為だって翻訳の一部で。

そこで自分の足で世界じゅうを歩き回って、そういう本を見つけては、日本語に翻訳できればこれほどいいことはないなあ、と考えています。それにこれまでの経験上(あるいは理論上)、何語でも頑張れば翻訳できないことはないとわかってきたので、言葉に関する障壁はさほどないですし。

そうすると、その夢を実現するために必要なのは……とすぐ思いをめぐらすのですが、

1.旅費を確保すること
まず世界じゅうを旅するのでお金はいるでしょう。いくらバックパッカー風の旅をするにしても、先立つものは要ります。もうバブルの時代でもないのでそんな酔狂なことに出資してくれるところもないでしょうから、一年に数カ国くらい回れるくらい収入に余裕ができてきたらすぐにでも始められるかも。

 2.その本の出版に力を貸してくれそうな人と仲良くなること
少なくともその翻訳書はビジネスとして出版されるはずなので、私本人にも目利きとしての力だったり相手を説得する能力だったりも必要なのですが、そもそも本として出してくれるところがないとダメですよね。出発する前にそういうことに興味を持ってくれそうな人が知り合いに多ければ多いほど実現へ近づくかも。

 3.あるいは翻訳家として有名になること
これは「つなげる出口」という意味で大事で、誰々の訳す本だったらよくわからないけど読んでみよう、と思ってくれる読者がいてくれることはけして悪いことではないのだと思います。村上春樹さんや柴田元幸さんの翻訳史における重要性っていうのは、単に能力や質の問題だけではなく、そういうところにもあるわけですし。

 4.そのほかにも
もちろんそれだけの日程的余裕を確保するためには、会社勤めの人間では無理。フリーランスでなければしんどいだろうし、なおかつフリーランスの翻訳家として活動するためには……

……などと冷静に考えつつ、今の自分までレールを引っ張って、そこへたどり着くまでのステップを明確なヴィジョンとしてあらかじめ描いてしまいます。さらにそこに困難なところがあれば、常に現実的に遂行可能な程度までに修正する、と。

でも、夢だといいつつもそれが全部自分の欲望から出たものかというとそれもまた違って、ほら、「楽しい世界」とか「平和な世界」とか、世界がそういうものであればいいなとはいつも思っていて、そのために自分ができること(やって面白そうなこと)を考えたときに、そのいちばん大きなところへ向かいたいな、とは思うんです。

なので、青空文庫で作品を入力・校正するときも、クリエイティブコモンズライセンスで翻訳するときも、こういうものがここにあればもっと楽しかったり平和になったりするんじゃないか、というところがそれなりに念頭にあります。それでなおかつ自分も楽しかったらいいよね、みたいな。それでその規模がだんだんと大きくなるような努力は常にしておく、と。

だからこの『水牛(通信)』の始まりの始まり方がとても大好きなんです! と宣言して無理矢理オチをつけてみるなどする(でも嘘じゃないですよ)。

5年ぶりのバスラ

さとうまき

5月3日、日本を出発した。久しぶりにイラクのバスラにいけることになったのだ。「第一回バスラ国際がん学会」に招待されたのだ。とは言うものの、バスラの治安は決してよくなったわけではない。「危ないから今は来ちゃいけない」とローカルスタッフのイブラヒムは警告を発してくれていたが、ドクターたちは、「大丈夫だ。護衛をつけて迎えにいく」という。「でもなあ、人質になって、身代金を請求されたらどうしよう」なかなか判断がつかなかったのだが、ともかくイラクの保健省が招待してくれるというのだ。

5年ぶりにバスラに行くのだからどうしても気分が高まる。あれもしよう、これもしようとリストがあっという間に埋まっていく。とは言うもの、できるだけ目立たないようにと服装などにも気をつかった。そこで、黒いシャツに金糸の唐草模様のはいった赤いネクタイに、スーツといういでたち。「それ、派手じゃないですか?」と同行した日本人から言われるが、実際、学会会場には、同じようなカッコウをしている、イラク人がたくさんいたのには、皆、驚いていたようだ。

我々は、クウェートに前泊して陸路で、バスラ入りした。クウェートとイラクの国境は閉ざされているとの前情報だった。確かに、一般人がこの国境を越えることはないのだが、物資を取引するトラックが列をなして、その運転手のほとんどが、バングラディシュやらインド人やらで、独特の雰囲気をかもし出している。ここはカシミール高原か?

5月、例年ならすでに、太陽の日差しに串刺しにされ、干からびてしまうような季節であるのだが、今年は、実に心地よい。それにしても国境の活気はなんだろう。路上には、市が立っているのか、あるいはごみが捨ててあるのか、区別ができない。汚さはといったら5年前とまったく同じ。

私たちは、イブラヒムが借りてきたBMWに乗り込み、前をパトカー、後ろは病院の車が護衛してくれる。車は猛スピードで、駆け出したが、パトカーは飛ばしすぎて、私たちの視界から一気に消えてしまった。これで、護衛になっているのか。止まって待ていたパトカーになんとか追いつくと、警官が「わりぃ、わりぃ」と申し訳なさそうに、わびた。イラク軍のチェックポイントがいくつもあり、装甲車が配備されている。4日間の滞在中、車を降りて外を歩くことは一切許されなかったので、写した写真は、装甲車ばかり。まさに、戦時下だ。

がん病院を少しだけ訪問することができた。イブラヒムが、サブリーンという目のがんの女の子を連れてきてくれた。とても、面白い絵を描く少女だが、病院に来るお金もないので、奨学金として毎月150ドルを支給している。助かる見込みは薄いといわれ続けたが、何とか4年間闘病生活を続けている。先日はイランへつれて行き放射線治療を受けさせた。4年間、写真やビデオでしか彼女の様子を知ることができなかったが、目の前に立っていた彼女をみると、ジーンときた。生きていることの素晴らしさだ。私は、しばらく言葉を失った。

翌日、学会で、子どもたちが歌うという。残念ながらサブリーンは、まだ体調が万全ではなかったので、会場には姿を見せなかった。大体、イラクの子どもは、音痴が多い。というのも音楽の授業らしきものがあまりないのだと思う。鼻歌程度。わざと1/4音を使ったりするので余計音痴に聞こえるのかもしれない。それで、イブラヒムが、子どもたちに毎日歌を教えているというので、へーと思ったのだ。イブラヒムこそが、音痴なのだ。どうやって教えているのだろう。10人ほどの現在がんが治ったと思われる子どもたちが、会場に現れた。ステージは5時間後だというのに、ロビーで何度も練習をしているのだ。ちゃんと音楽の先生が派遣されていたのである。

    希望のかけら

  この場所から、私たちは言います。
  皆様、ありがとう。
  今日、私たちの希望が、戻ってきました。
  そして、求めていたものが、実現したのです。
  愛と薬で
  治ったのです。
  忍耐と信念で
  私たちは、勝利者として、がんをうちまかしました。

  希望の窓を、私たちは開けたのです。
  未来への足がかりを、私たちは、始めたのです。

  私たちは、歌うのです。最良の希望のために
             新しい世界のために
             幸せな日々のために

  もう、落ち込んだりいらいらしません
  人生の信念の無駄はないのです。
  私たちは希望でいっぱいで、幸せでいっぱい。
  そのことを皆さんに伝えたいのです!

なんとも、子どもたちのステージは、力がいっぱいあふれていたのだ。歌もうまかったし、さぞかし大変な練習だったんだろう。その一方で、助からなかった子どもたちがたくさんいるし、この小さな子どもたちも、いつか再発するかも知れない。でも、よくがんばったなあと。
 
セキュリティのこともあり、五つ星のホテルを期待したが、5年前に泊まったぼろホテルで、5年間もぼろホテルのままだったようだ。バルコニーの扉は壊れて鍵はかからず、砂塵が入ってくる。これで、テロリストが入ってきたらどうするんだ。停電がしょっちゅう。自家発電に切り替わったりすると冷房が効かない。最初、冷房が壊れているのだとおもって、フロントに直しに来るようにお願いした。「わかった、わかった」といっても、まったく直しにこないから、とうとう私も切れて怒鳴ってしまったのだ。「そう、どならないでくれよ。これがイラクなんだから。一時間後に直しに行きますから」。たしかに、これがイラクなんだ。「怒鳴ってもうしわけなかったなあ」と謝ったが、結局、直しには来なかった。これもイラクだ。

私は、学会が終わったら、しばらくバスラを見学しようと、計画を練っていたが、セキュリティを担当しているアメリカのNGOに囚われの身として仲間と一緒の車に乗せられると、今度は軍の装甲車が4台も護衛がつき、完璧に!護られて飛行場まで連れて行かれた。4日間は、まったく自由がなく、息苦しかったし、あれもこれもできなかった。5年前に比べたら、インフラもまったくよくなっていないし、自由もない。これがイラクの日常だ。こんな町には住みたくないという町。それが、バスラだった。それでも、気持ちは高ぶっている。子どもたちが、希望に向けて歩き出したという歌が耳について離れない。

耳の慎ましさ

高橋悠治

子どもの頃ピアノの練習がいやで戸棚の楽譜をみつけてかってに弾いていた曲バルトーク シェーンベルク プロコフィエフ それよりは読んだ本の数行の記述や引用されていた楽譜の断片だが楽譜そのものは手に入らず録音もない想像するしかない音楽の作曲家たちニコライ・ロースラヴェッツ アルトゥール・ルリエ ヨーゼフ・マティアス・ハウアー ベルナルト・ファン・ディーレン その頃はブゾーニ ヴァレーズ ケージもそうだったがまただれかの押入のなかで見つけた楽譜レオ・オルンステイン フェデリーコ・モンポウこんな名前で編み上げた空想の20世紀音楽地図に帰ろうとしながら昨年から今年にかけてフォンテックで録音したブゾーニのソナティネ モンポウの「沈黙の音楽」バルトークの初期の小品コジマ録音から出した石田秀実 戸島美喜夫のピアノ曲集を作りながら考えていたのは1910年代ヨーロッパ音楽の論理は現実とあわなくなって想像力をしばるだけの規則は崩れていったその時は社会が限度を超えて拡大し繁栄そのものが衝突と戦争という自己破壊に向かっていた時期そういう危機の予感と現実化の不安のなかで抑制されていた想像力がはたらきはじめ不安定な足場が逸脱を加速したにはちがいないがそれはまだ過剰に向かっての逸脱にすぎなかったもっと多くもっと速くもっと強くという欲望の増幅にまみれて自分で創りだした混乱に埋もれてゆくかそれがいやならいままでの論理の徹底化をはかる傾向からは自由でなかった

資本主義の世界秩序がふたたびゆるんでいるいまかいま見る音楽の多様性と言っても多様式や折衷ではなく相対主義でもなく異質なものそれぞれのかってなうごきのなかで必要に応じて一時的に関係をつくり協同作業をする統一する理論も方法もなくそのときその場で使えるやりかたでつくる音の出逢いというよりは消える響きについてゆく行く先は見えないここでない場所いまでない時薄闇と薄明かり石田秀実が『気のコスモロジー』(2004)で書いている山水画のなかの曲がりくねった杣道や井上充夫『日本建築の空間』(1971)で回遊式庭園や数寄屋風書院造りについて読み音は音の記憶にすぎないゆえにここにいない人びとを忘れないために音楽がありまたいっしょになにかをすることができる場の空間ここにはまだない社会の夢のためにも音楽はあることを思い出しながら木立に隠された建物が見え隠れするまばらにあちこちを向いてすぎてゆくすこしずつ変わる色合い木漏れ日の道を辿る足の裏でたしかめつつ答えの見つからないまま足の裏で問いかける空間は時間に翻訳され全体は消えて前後のちがいだけが残り直前の位置のちがいだけに付けながら打ち越しに観音開きになることなく転じつづけて残す屈折する動線それ以上の規則のない連句そのままくりかえされることもなくまったく変わることもなくそれでもいったん変わったら二度ともどることはない流れどこからともなく現れどこにも辿り着かずに消えてゆく砂漠の川

全体の展望がある音楽は構成を決めるまでに時間がかかるがその後は途中で考えを変える余裕をあたえず一気に作りあげるのに対して響きについてゆく音楽は入口が決まればそこから回廊のように蔓草のように時間をかけて伸びてゆきなにかに出会うとそれを避けて周囲を回転しながらそのものになじんでゆくすこしつづけては作業を休んでしばらく時間を置いてからもどったときには響きの感触が変わってそこまで持ち続けて来た記憶の惰性が失われ冷めた状態になっているそこから再開すると彩りはむらになり予測とはちがう方向にずれてゆく逸脱と言っても近代のあるいは啓蒙主義のもっていた論理の徹底化や対立や競合の強調によって過剰増幅加速に向かうのではなくわずかなものたちがあいまいに漂う空洞の空白のゆるやかな時間の内側できこえる音そのものではなくその周囲の沈黙ですらなくそこにはないがその彼方に微かな感触を残している不安定な短い波の一瞬の断面実現しなかった可能性の幻は視角によってさまざまに映るにしても協同作業のなかで一歩ごとにそこから眼を離さずにいることがどうしたらできるのだろうとは言え直接見つめることはできないそれは見るものを石に変えるゴルゴンのたとえのように鏡像としてとらえるかいやそれさえできない残像か周辺視のなかにしかない虚像として感じられるもの論理や方法ではなく関数や方程式でもなく分布や密度のように特徴があるものでもない異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配ベンヤミンの歴史の天使は過去の断片をひろいあげる楽園から吹きつける進歩の風は止んでいるもがれた翼はもう拡げられることもなく閉じることもできない谷間に

メキシコ便り(20)豚インフルエンザ

金野広美

今、豚インフルエンザのニュースが世界中を飛び交っています。私は一番死者の多く出ているメキシコ・シティーの中心部セントロに住んでいます。今では朝起きたらネットでニュースをチェックすることから1日が始まります。どんどん深刻さを増すニュースを見たあと町に出ると、そのあまりの乖離にとまどってしまいます。町はいつもと変わらず、たくさんの露天が出て大音量の音楽が流れています。マスクをかけている人も2割くらいであごの下にかけている人も多いです。メキシコは日中は30度を越すことも多いのでずっと口をふさいでいるのはちょっとつらいものがあります。それにしてもこのマスク、青色の紙でできていてとてもちゃっちいのです。こんなもので予防効果があるのかなと疑いたくなるような代物です。地下鉄の駅で配布しているというので行ってみましたが、誰もいません。仕方なく薬屋を3軒をまわりましたが、すべて売り切れでした。でも私のアパートの門番さんがどこからか、たくさんもらってきてくれてやっとゲットできました。

豚インフルエンザがはじめてメキシコで公表されたのは4月23日の夜11時、テレビを通じて緊急発表され、68人の死者、1004人の感染の疑いのある人がいるということでした。しかし、この死者の数字もいまでは豚インフルエンザだと確認されたものではなく、疑わしい人も混ざった数字で、いまでは本当は20人だった、いや、7人だったなど情報は二転三転しています。

緊急発表の次の日の24日から学校や大学が休校になり映画館も閉館、コンサート、集会などもすべて中止となりました。サッカーの試合も観客を入れずに行われました。私の通う大学も、今は一応5月の6日まで休みということですが、一方では無期限だという報道もあり、どっちなのかはよくわかりません。そして今では少しずつ死者や感染者の数も増え続け、世界に感染が広がっています。メキシコ政府は薬も十分あるし、パニックに陥らないようにとよびかけ、感染予防を勧めています。うがい、手洗い、マスク着用、そしてキスをしないこと、とあります。これはいかにもメキシコでしょう。

しかし、町をみている限りにおいては感染予防は徹底されているとはいいがたい状態です。マスクをしている人の割合の低さをみても危機感があまり感じられません。メキシコ人の持つ楽天性なのかもしれませんがノーテンキなひとが多いという気がします。
テレビもやっと世界保健機関の警戒レベルがフェーズ4にひきあげられたころから特別番組を放送するようになりました。しかし、そんなに長い時間ではありません。日本では連日すべてのワイドショーが豚インフルエンザの話題を取り上げ、マスクのつけ方まで伝授していると聞き、「それはあまりにやりすぎでしょう」とちょっとあきれてしまいましたが、逆にメキシコはあまりに情報提供が遅すぎますし、情報が各省庁で違っていたりと、全面的に信用できるものではないのが困ったところで、国民は「政府は何か隠しているのではないか」という疑いを持っています。

フェーズ4になった段階で私の友人で、公費で留学している人たち、特に官公庁から派遣されてきた人たちはすぐに帰国しなければならなくなり、別れの挨拶もそこそこに飛行機に乗りました。また、こちらの日本企業に勤めている人たちの家族も飛行機の便が取れしだい、次々帰国しました。私の友人も子供をつれて帰りましたが、彼女が「このまま帰ってもバイキン扱いだからね」とさびしそうに言った言葉が忘れられません。そういえばメキシコからの初めての帰国便のアエロメヒコが成田に着いたときも、ものものしい警戒態勢だったそうですね。

私の家族や友人もまるでメキシコはバイキンだらけになっていると思っているかのように心配して、何度も何度も連絡をしてきます。それはやはり日本の報道があまりに大げさすぎて、メキシコの現実とはかけ離れているからでしょう。家族を安心させるためにメキシコの現状や日本大使館の対応などを説明しながら不安感を払拭するのに苦心惨憺です。これから事態はどのようになっていくかはまったくわかりませんが、家からでられない日が相当続くことでしょうから、静かに勉強することにしました。そして学校が始まるときには辞書なしで新聞が読めるようになっていれればいいなー、なんて思っている私です。

しもた屋之噺(89)

杉山洋一

先週まで半袖のポロシャツ一枚で出歩いていたと思いきや、ここ数日、鬱々とした雨が降り続き、ずいぶん冷え込んでいます。

いつのことだったか、熱海の岸壁に腰掛けている、半纏を着た30過ぎの少し憂い帯びたうつくしい女性の、とても古い白黒写真を見ました。足元には、確か3歳くらいの男の子と女の子2人が立っていました。彼女は戦前、茅ヶ崎の米問屋にうまれ、同じ街の若い宮大工と結婚して女の子を授かり、無事に産声を聞いたのもつかのま、ほんの10日ほどで、身体の弱かった宮大工はこの世を去ってしまいます。生まれたばかりの乳飲み子を抱え、どれだけ途方にくれたことか想像に難くありません。宮大工の家は、この子を育てるため、死んだ夫の実弟との再婚をすすめましたが、彼女は頑なに拒みました。しかし、結局どうしようもなかったのか、生まれたばかりの女の子を、松田の名士にあずけます。

それから暫く女性の消息は途絶え、次にわかっているのは、満州にわたり再婚し、そこでやはり女の子を授かったこと。そしてその夫とも死別したこと。やがて本土にもどり、満州でうまれた女の子を連れて、横須賀の自転車屋と再婚したこと。夫にも連れ子がいたけれど、結局この夫との間にも子供がうまれ、最後までみんな仲良く暮らしたこと。最後はリューマチで寝たきりだったこと。

松田の名士にあずけられた最初の女の子は、成人し、結婚するときになって初めて、自分の戸籍が名士の家にないことを知ります。それまで、名士の家ではこの子を自らの娘として育て、学校などすべて、本人にわからぬよう取り計らっていたからです。そして、宮大工の家に何度も出向いては、こんなにしっかり可愛がっている、どうかうちの子にさせてほしいと頼み込みましたが、女の子に特別の愛着をもっていた、宮大工の母は、頑として首を縦にふりませんでした。

結婚にあたり、一体自分が何者か、結婚しても恥じない家柄の出かと不安になったこの女性は、母の実妹を探し出します。そこで、自分の母親は米問屋でしっかりした家の出身だったと知りますが、今彼女は再婚して幸せに暮らしているから、これ以上詮索しないでくれ、とあしらわれます。

それから暫くして、リューマチで寝たきりだった写真の女性は、最初の娘が私に会いにきた、会いに来た、とうわ言を繰返しつつ、息を引き取りました。妹から連絡を受けていたのかも知れないし、虫の知らせだったのかもしれません。あずけた子供を返してほしくて、何度も松田に足を運んでいたのも、ずっと後になってわかりました。宮大工だった亡父の実弟を訪ねると、籍をどうしても外さないと最後までがんばっていた亡父の母がつい先日亡くなったばかりで、お前を気にかけて止まない日はなかった、一目でも見られたらどんなにか喜んだだろうに、と号泣しました。

それから何十年も経ち、ひょんなことから、どういうわけか母方の先祖が広島に持っていた土地が国に売却され、突然、配当金の通知が届きます。そこにあった家族構成のリストから、自分に腹違いの兄弟がいることがわかり、満州で生まれた腹違いの妹を横須賀に訪ねます。育てられないからと、首尾よく松田の名士に自分をあずけ、さっさと再婚してそれぞれ子供をつくり、なんと自分本位で奔放な母だったのか。彼女はずっとそう思いながら暮らしていました。

ところが、実際に妹に会って話を聴くと、母親は、およそ奔放という言葉からかけ離れた物静かな女性で、死ぬまで最初にあずけた娘を抱くことを思い続け、自分の冒した過ちを苛みつつ、生きるために再婚し、家庭を築かずには生き抜けなかった時代の、か弱く、不運な女性の姿が浮かび上がり衝撃を受けます。強か、というには余りに辛い運命の糸が、最後にぷつりと音をたてて切れました。

一ヶ月にわたりミラノを訪れていた母と息子と連立って、マッジョーレ湖に浮かぶ、真珠のようなボッロメーオの島々を訪れたとき。まだ朝のすみ通るような瑞々しい光のなかで、まるで猫のような啼き声とともに羽をひろげる、数えきれない孔雀のうつくしさ。黄金色に輝くオウム。咲き乱れる大きな木蓮の花と、美しく刈り込まれた庭園の凛とした佇まい。ウナギの寝床どころか、ドジョウの寝床よろしい、か細くへろへろの小道と、そこに寝そべってこちらを胡散臭そうに眺める猫たち。

(4月30日ミラノにて)

赤いさいふ

くぼたのぞみ

赤いさいふがみつからない
はなさんがくれた
赤い革の
ちいさながまぐち
はじめて持ったさいふというもの
がみつからない
急斜面にはりついた
文殊の家で
裏山にのぼれば
線路のむこうにぼた山が迫り
みずは
滑車にむすんだ桶でくみあげ
ゆかしたに
猫の親子がすむ家で

とめごろうじいちゃんが
みつけてきた
どこにあった?
どこでみつけた?

大さわぎして
笑っておしまい
武人たるもの
と正座したじいちゃんの
膝のうえで
はんべそかいて
笑っておしまい

いまでもふいに夢にみるのは
みつからない
あしたのあたしと
はなさんの
とき

製本、かい摘みましては(50)

四釜裕子

「本をめぐるアート」を収集している「うらわ美術館」の収蔵作品の中で最も小さいのは、天地40mm×左右61mm、厚さ4mmの塩見充枝子「顔のための消える音楽」(2002)だそうである。作りは、口もとだけの写真41枚をホッチキス留めしたパラパラ漫画のようなもの。元々は、塩見充枝子の「顔のための消える音楽 微笑む→微笑を消す」というスコアをもとにオノ・ヨーコを撮影したジョージ・マチューナスのアイデアで、印刷までされていたものを2002年に”本”のかたちにしたらしい。

40mm×61mm×4mmといえば名刺よりも、さっき指に貼ったカットバンより小さい。豆本の大きさの定義についてくわしくは知らないが、コレクターだった市島春城(1860-1944)によると縦2寸(約60mm)以下を豆本とし、自らの収集は縦3寸5分(約106mm)×幅2寸5分(76mm)、およそ葉書の半分A7版(100mm×70mm)を基準としたらしいから、時代が時代なら「顔のための消える音楽」も対象にはなったはずだがどうだろう。

ミニチュア・ブックの歴史をまとめた『Miniature Books ―― 4,000 years of tiny treasures』(Anne C. Bromer/Julian I.Edison 2007 Abram)には日本の豆本についてもちょっとだけ触れてある。稀覯本を扱う書店経営者と豆本コレクターの共著で、215ページ全4色、彩飾写本、工芸的な本、宗教、暦、子どもの本、極小本、プロパガンダや趣味の本、オブジェやアート作品としての本など広範囲にわたり、260点以上の写真が美しく、添えられた指がなければミニチュアとしての大きさを感じさせない。

小さい本は眺めるほどに美しいしかわいらしいと思うのだが、私自身は作る気になれない。細かい作業が苦手だからというのが第一。だから製本のワークショップで「豆本を作ってみたい」と言われるとちょっと困る。そんなときに資料として出すために手元に置いてあるのが『Miniature Books』で、やおら開いて驚嘆を聞いたのち、「本の作りは小さくても大きくても同じだから、まずは文庫本くらいの大きさで作って構造を把握しましょう」などしたり顔で言うのだ。でも、ほんとなんですよ。

初めて”豆本の世界”をのぞき見たのは青山の「リリパット」だったろうか。”製本”の延長ではなくて、本のかたちをした小さくてかわいらしいものを愛でるという感じだったと思う。とにかく小さいから、材料も手間もさほどかけなくても試してみたいことはなんでもかんでもできそうな、根拠はないが無限に広がる夢や予感で胸がときめきまくったものだ。思いつく材料を買い集めて作り始めたが、ページが開くしくみなど考えもつかないからホッチキスで留めたりボンドで貼ったり。結果、装飾だけ異様に凝ったただの”塊”ができてがっかりしたが、同じような経験をお持ちのかたは結構いるんじゃないだろうか。

まんぼうだって、空を飛ぶ

更紗

私の前世は「マンボウ」だということにしています。占い師に言われたわけでも、前世の記憶があるわけでもないけど。思い込みと願望で、そう言って回っているわけです。

はじめて生きているマンボウを見たのは、まだ新しくなる前の江ノ島水族館。大きな水槽の内側にビニールが貼ってあり、その中を2匹のマンボウが漂っていました。とても「泳ぐ」とは表現できない、その動き。一応、自分の目指す方向は決められるようですが、急な方向転換は出来ません。そこで、ガラスに激突して怪我をすることがないよう、ビニールで緩衝帯を作ってあるのです。エプソン・アクア・ミュージアムで出会ったマンボウは、江ノ島のマンボウよりも泳ぎが下手に見えました。真横になって漂ったり、上を向いたり。

なんで海の中にいるのに、そんな泳ぎにくい体に進化しちゃったかなぁ? 最初は、そんな不器用さに共感を覚えました。進みだしたら急には曲がれない頑固さも、共通点かもしれない。それなのに、海の中を楽しんでいそうな、気持ち良さそうな漂いっぷり。時には、海面に横になって浮いて、ひなたぼっこ(?)をしたりするらしい。進化を重ねて行きついたのがあの姿かたちと泳ぎ方なのだから、防御とか攻撃とかを超越している。よく言えば、悠然とわが道行く平和主義。

ちなみに、マンボウを前世だと決めるずーっと前に思い入れしていたのは、カメ。周りの女の子たちが、クマちゃんやウサちゃんのぬいぐるみを抱いていた頃、私はカメのぬいぐるみを抱え、カメのぬいぐるみにまたがっていたのです。

唯一、海鮮系でなかったのは、「みきわん」という子犬。これ、実在の子犬ではなく、私が心の中に飼っていた子犬なのです。みきわんはかなりリアルに存在していました。アガサ・クリスティが心の中に作っていた「学校」みたいな感じ。自分がみきわんを演じることもあれば、私がみきわんと遊ぶこともありました。みきわんはちゃんと躾されていたけれど、子犬らしく我儘も言いました。

大人になってから考えると、このみきわんやカメへの思い入れは、なかなかに便利なものだったなぁと思うのです。例えば、自分の欲望が叶えられない時、それをみきわんのものとして「みきわん、今はダメなんだよ」と納得させる側にまわることが出来る(まぁ、子供のころは、それがみきわんの欲望であると信じて疑わなかったわけですが。だってみきわんは居たから)。小学校入学当初は運動能力も低かったので、それはなんとなく、カメに慰められていました。

同じように、大人になってからビビッときた「マンボウ前世説」も、適度に諦めたり力を抜いたり、集団の中で自分らしく在ることに役だっているなぁと思うわけです。「まぁ、前世はマンボウだし。」と、こう思えば、気づかなかった壁にぶつかっても、なんとなく漂っていける。

この感じは、先月紹介した俳人・坪内稔典さんの河馬の句に通じるところがあるかもしれません。稔典さんは、河馬は世界を見る「仕掛け」のひとつであると、著書の中で述べています。世界と自分の間に、ちょっとワンクッション。世界を面白く見る仕掛け。私は、自分をちょっと楽にするもの、という感覚もあるのではないかと、思っているのですがね。自分を許す、というか。

稔典さんは他に、柿や犀にも、思い入れしているようです。マンボウはないのかな? と思ったら、ありました。

 マンボウの浮く沖見えて母死んだ

世界と自分の間に置く生き物の条件としては、以下4点が挙げられると思う。
・ カンペキではなくて
・ かっこよくなくて
・ ちょっとヌケている雰囲気を漂わせていて
・ でも、がっしりしている感じ

と、こんな調子でマンボウマンボウと言っていると、マンボウ情報が色々集まってくる。先日、母から教えてもらったナショナルジオグラフィックのサイトに載っていた「マンボウのプロフィール」を見て、私はびっくりした。なんと、マンボウ、飛ぶんだそうです。海面から3メートルも。マンボウだって、飛ぶときゃ飛ぶんだぜ! と、背中を押された気持ちがして、ますますマンボウが好きになった新緑の季節。マンボウに、5月病の心配はなさそうです。

人工衛星が飛んでいる下でザ・フーの映画を見る

仲宗根浩

子供のころ、人工衛星タンメーとみんなから呼ばれていたタンメー(おじいさん)の家に父親に連れられて正月のお年賀やお盆に毎年行っていた。人工衛星タンメーは三線をよく弾き、自作の人工衛星の歌をよく歌っていたから人工衛星タンメーと呼ばれるようになった、と聞いた。その歌はどんな歌だったのか、時代から考えるとスプートニクから始まる開発競争の頃の歌だったのかはわからない。タンメー愛用の三線は父親が形見として貰い今は兄が持っている。人工衛星タンメーはうちのおじいさんのいとこになる。こちらでは親戚の範囲が広いので、戻って十二年になるがいまだにどのような関係か把握できていないところが多い。飛翔体騒ぎで人工衛星、人工衛星とテレビがうるさかったので、人工衛星タンメーのことを思いだした。そういえば今年最初に出た葬式が人工衛星タンメーの家に嫁いだおばさんの葬式だった。

去年公開されたザ・フーの映画「アメイジング・ジャーニー」のDVD、チャック・ベリーのチェス時代のコンプリート集の第二弾「You Never Can Tell 1960-1966」が届いた。フーのほうはデラックス・エディション!四枚組!映画本編より先に三十年もお蔵入りになっていた1977年のライヴ・アット・ギルバーンをまず見る。キース・ムーンのドラムはよたよただ。タムをまわしてもスティックはヘッドにヒットしていない。それでも叩き続ける。「ババ・オライリー」でシンセサイザーのシーケンス・フレーズが流れる。キース・ムーンのスティックはビートを確かめるようにタムタムの上をヘッドに触れることなく無音でまわり続ける。ここからグッときた。涙が出そうになった。このライヴの翌年キース・ムーンはあっけなく死んでしまう。ザ・フーを初めて見たのは中学生のとき。その頃夏休みや冬休みになると名画座ではビートルズの三本立てやウッド・ストック、バングラデッシュ・コンサートの二本立てとかをかけていた。レコードでしか聴いたことがない洋楽をスクリーンで実際に演奏をしている姿を見ることができるのはこういう映画かNHKで放送していたヤング・ミュージック・ショー、あとたまにあるフィルム・コンサートくらい。こっちが興味があるのはライヴ映像だからビートルズの映画は「レット・イット・ビー」の屋上ライヴ(この映像も近々完全な形で出るようなはなしもあるけど、このライヴをおもしろくしているのはビリー・プレストンの参加の賜物だろう)しかおもしろくない。パッケージ化され、時間もかっちりと決められアドリブ、アンコールさえ許されない契約にがんじがらめにされたビートルズの前期のライヴは全然おもしろくなかった。いつの間にかビートルズのレコード、CD類は一枚もなくなってしまった。で、四枚目は1969年のロンドン・コロシアムでのライヴ。「トミー」の全曲ライヴ映像。映像は粗い。でもかっこ良すぎ。数日経って映画本編を見たら、これがまた抑制のきいたいい内容だった。これでまた泣きそうになる。

チャック・ベリーの「You Never Can Tell 1960-1966」は相変わらず、HIP-O Select の丁寧な仕事。レコーディングの年月日、参加メンバーの詳細なクレジット。スタイルはより多様になり洗練されている。詩人としてのチャック・ベリー、表に出ない作曲者としてのジョニー・ジョンソンの関係を教えてくれたのがキース・リチャードが制作した映画「ヘイル・ヘイル・ロックンロール」だった。HIP -O Select からはジェイムス・ブラウンのシングル・コンプリート集も出ている。今、このレーベルのこの二人のコンプリート集でR&B、R&Rの基礎の基礎を勉強中。

メソポタミアの失われた鞄

さとうまき

飛行機にのると鞄が間違って他のところへ行くことはよくある。バスラからアルビルに向かう飛行機に積まれたイブラヒムの荷物が紛失してしまった。間違えて、シリアのダマスカスに行ってしまったという。ところが、その後、ダマスカスの飛行場で鞄が紛失してしまったというのだ。一体どうなっているのだ。

イラク人は、結構おしゃれで、イブラヒムは「毎日同じ服を着てなければならない」とぶつぶつ文句を言っている。ホテルのクリーニングを頼んでいた。スーツやズボンにしわがあると耐えられないようだ。しかし、朝になってもまだクリーニングができていない。朝から今日は会議なのに。

イブラヒムの代わりに鞄を取り返すために、ダマスカスへ向かうことにした。中には金目のものは入っていなかったが、イブラヒムが買った薬のリストと領収書が入っていたのだ。これは、イラクの小児がんの病院のために前払いで買った薬で、領収書を提出して、初めて基金からお金が戻ってくるので、私たちにとってはとても大切なのだ。「メソポタミアの鞄作戦」だ。

やはり、こういう国では、服装が大切だ。小汚い格好をしていると舐められてしまう。そこで、早速、僕たちはスーツを着てダマスカスに乗り込むことにしたのだが、若い加藤君は、ぼろぼろの服しか持っていない。唯一のスラックスはしわくちゃだ。ダマスカスに到着して、早速クリーニング屋を探した。無理をお願いして、2時間後に仕立ててくれることになった。

よく朝、早速、イラク航空の事務所に行き事の成り行きを聞いた。何でも、荷物を送り返そうとしたところ、シリアのセキュリティが、荷物を預かることになり、そしたらその後鞄をなくしたというのである。わたしたちは、ダマスカス国際空港セキュリティの責任者に話を聞くために飛行場まで駆けつけたが、散々待たされた挙句、偉い人にはあってもらえず。結局、イラク航空にその後の補償をお願いすることにした。こうもなめられたものかと腹立たしい。

荷物が間違って、他の場所に行ってしまうことはよくあるのだが、完全に出てこないというのも解せない。しかも、イブラヒムの鞄の中には金目のものなど一切入っていなかったのだ。いろいろ憶測してみる。まず、イブラヒムの鞄であるが、彼は、鍵をかけていなかった。飛行場の中で、闇の組織が暗躍しており、何か重要なものを、イブラヒムの鞄にそっと忍び込ませて、シリアまで運んだのではないか? それを、シリアのセキュリティが発見したのか? ちょうど、新聞には、アサド大統領が、アメリカ軍のイラクからの撤兵に関し、協力しても良いようなことをいったとか言うニュース。オバマ大統領の誕生で、シリアとアメリカとの関係が一気に改善するのだろうか? 一体誰が、何をイブラヒムの鞄にいれたのだ?

映画の世界では、無くなった荷物を見つけ出すのは、そんなに難しくは無い。そこで映画の主人公たちが、どのような行動をとるのか考えてみた。まず、実際にセキュリティで荷物をなくした人物をわたしたちは知っているとしたら、映画の主人公は、そういつが家をでたところを車に連れ込み、ちょっと脅すだろう。それで、ことの成り行きの7割はわかる。

もし、背後にアメリカも関係しているとしたら、CIAのコンピューターに忍び込んで、情報を盗み出す。考えてみると、僕らには、彼らを脅してはかせる腕力も無いし、CIAのコンピューターに忍び込むようなハッキングの能力も無い。現実は、映画のようには行かないなと納得した私は、ダマスカス博物館に行って、メソポタミアに関する展示を見入っていたのである。5000年も前の楔形文字を見ていると、なんとも悠久な気分になったのだ。

日本に帰国して、関係者に「実は、かくかくしかじかで、領収書は国際的な問題に鑑み紛失いたしたでそうろう」と伝えると、だれも相手にしてくれない。「ともかく、薬をちゃんと買ったことを証明しなさい!」といわれ、未だに宿題が終わらないのだ。

オトメンと指を差されて(11)

大久保ゆう

……天才と出会いたかったんですよね。

えっと、いきなり何の話かと思われるでしょうが、近ごろ友人たちが結婚したり結婚間近だったりして、その一方で私はそういったものとは縁遠いところにいるのですが、そんななかで自省しながらふと気づいたんです。いわゆる「白馬の王子さま」が云々というシンデレラコンプレックスではないのですが、天才との出会いを欲していた自分をあらためて自覚したというか、ずっと天才のパートナー(右腕?)になって、世界(もちろん観念的なものですが)と一緒に戦うことを夢想していたといいますか。

いえその、年上の天才は知ってるんです。幸いなことにそういう方々の近くにいられたおかげで今の自分があるわけで、感謝してもしきれないわけですが、ここで言いたいのはあくまでも同年代の天才で、そういった人と愛情もしくは友情関係を介してパートナーになりかたかった、ということです。振り返るにおそらく中学を卒業したあたりからそう思っていたのではないかと推測できます。

ただ天才に出会いたいといっても、そのパートナーとたりえるにはその資格が必要なわけで(と当時の私は考えていて)、天才に見合う能力やら実力やらを手に入れようとこの十数年努力してきたつもりです。むろん、出会えるための努力もしました。様々なところへ行きましたし、またその都度、個人としてやるべきことはやってきました。心がうちふるえ、感涙にむせび泣くような、そんな天才と出会えることを信じて。

でも出会えませんでした。天才なんてどこにもいなかったのです。

現在籍中の某旧帝大には、どこかしらにそういう人間がいるのだと思っていました。けれども蓋を開けてみれば、現実はそういう想定と真逆でした。自分の身を、自分の命を捧げ、一生お仕えできるようなカリスマは、どこにもいないのです。大学院になるとよりいっそう期待薄で。失望と幻滅、と言えるほど大したものでもありませんが、一抹の寂寥感みたいなものはあります。

そうそう、「副長コンプレックス」とでも名付ければいいでしょうか。

新撰組の副長であるところの土方歳三でもイメージしながら。実際、自分のかかわった物事でうまく行くのはだいたいそういう立場にあったときがほとんどですから、能力的特性としてはそっちの方にあるのだと思います。そもそも翻訳っていうのもそういう作業ですしね。いかに天才に寄り添えるか、その天才を引き立てられるかがひとつの課題なのですから。

紙の上で天才には出会えても、リアルな世界では天才に出会えない――いえ、そうやすやすと天才が転がっていてもおかしいのですが――それも違うな、おそらく、リアルな世界で天才に出会えないから、その欲求不満を翻訳にぶつけているのかもしれません。過去の天才は常に居場所を補足されているから、いつでも出会うことができるし、そのパートナーになることもできます。ただしその天才とともに生きることはできない、その点が大きな短所です。

これまで運悪く私のパートナーになってしまった人たちにとっては、そういう私のコンプレックスはずいぶん重荷であったのではないかと思います。非常に申し訳ないことをしてしまったな、と今となっては感じているのですが、取り返しのつかないことなのでしょうね。

それこそ逆シンデレラコンプレックスとでも言いましょうか、私が天才不在に対する不満から(あるいは天才のパートナーになるための試練だと思い込んで)厄介事に首をつっこんで片をつけてしまったあと、なぜか白馬の王子さまと誤認識されたりすることもありましたが、まあそれはひどい王子さまだったでしょう。プリンセスに対して、その資格を持っていることを強く求めてしまうのですから。本人は出していないつもりなのでしょうが、天才に出会えない欲求不満から無意識に相手へそういう態度を取ってしまっていたのかもしれません。

そもそも、私は誰かを守るとか、あるいは誰かに支えられるとか、そういう柄じゃないのです。守ってほしいなんて言われたら足手まといだと感じてしまうでしょうし、たとえ自分が崩れそうでも自分の身体くらい自分で支えられます。だから自分の隣に誰かがいるとしたら、それは戦友以外にありえない、そうとすら思うくらいです。

そう考えてみると、そりゃ結婚できないわな、と我ながら爆笑してしまうのですが、芸術的な側面からすれば真剣な話にもなりうるわけで。ずっと上手な翻訳をし続けようと思ったら、この欲求不満は解消されないまま持ち越された方がいいのかもしれない、とか何とか。

そんでもって最終的に余生はどこぞの屋敷の執事になって天才を育てる、みたいな。……冗談ですよ、冗談!

新しいツーリズムについて

大野晋

今年も札幌に行ってきた。おもな目的はキタラでエリシュカを聴くこと。この分では毎年、札幌に来ることになるかも知れない。
少し早くついたので、すすきのから約十分の距離を路面電車に乗ってごとごとと行くことにした。ぐるっと市内の北東部をまわるコースを路面電車に乗って街を広く高い窓から眺めるとなかなかに興味深い。観光資源として、路面電車はもっと見直されるべきだと思う。できれば、もっと観光資源のあるところをまわってくれると定期観光バスよりも面白い存在になりそうだ。

キタラのコンサートは期待通りのでき。帰り道、地元のファンらしい人たちが「今日は良かったね」と言っていたのが少し引っかかったが、このレベルのコンサートを札幌でも聴けることがうらやましい。

翌日は野幌の森林公園に出かけたが、市内にこのような公園があることはうらやましい。ただし、公共交通手段がプアなのは何とかして欲しいが、まあ、その程度しか訪れる人がいないからこれだけの自然が守られるのかもしれないと思うと少し複雑な気分である。

さて、日を置いて、いま、信州に来ている。宿はいつもの定宿。ここは駐車場が無料で完備しているのがうれしい。高速道路の通行料が下がっても利用者自体は増えなかったそうな。まあ、燃料や宿泊料など、そのほかの費用もかかるから、通行料だけでは変わらないのだろうが、ふと、こんなことを考えた。

ツアーばかりの観光ではどこに行ったのかわからない。自分で動いて、自分で見つけて、自分で考えるから旅の魅力があるわけで、そういった意味で旅の魅力がここ数年失われてきてはいなかったか? 個人を受け入れる仕掛け、個人が旅をする仕掛け、旅の最中に発見を手助けする仕掛け、そんなものが抜けて、ツアーに依存したマスの施設ばかりが増えたような気がしてならない。その延長で、たとえば、以前は多かった松本市内を闊歩するニッカボッカの登山客が壊滅してしまっている現状を考えると、旅の余裕そのものが失われてしまっているような気がしてならない。

松本に来て、天候を見て、だめならその辺をハイキングして、また次回。私の若かった頃にはまだまだそういった余裕のある登山客が多かった。そういう意味で、見つける旅。考える旅をぜひ、ネオ・ツーリズムとして提案したい。時間をかける旅だからこそ、高速道路の通行料の値下げが効いてくるような気がするのだが。。。

アジアのごはん(29)ダージリン紅茶と甘いもの

森下ヒバリ

近頃、なんだか歯がしみる。
理由はわかっている。甘いもの好きの友人がふたり続けて家に遊びに来たからだ。わたしも甘いものは嫌いではないが、ふだんはあまり食べない。そして、甘すぎるものは苦手でもある。よろこぶと思って、始めに来た友人とおいしい草もち屋まで遠出をしてたくさん買い込んできた。いつもはもらっても食べずに横流しするおみやげのクッキーの缶を開けた。
「ダージリンで買ってきた紅茶、入れてあげるからね」本当は、ダージリン紅茶はお菓子などといっしょに食べずに、ストレートでしみじみ味わってほしいところだが、まあいっか。味はしっかりしているが、あんまり華やかな香りのないのにしとこう。
「う〜ん、このお茶おいしいですねえ! いや、この草もち、うまい〜」などと相好を崩されているのをみると、じぶんもついつい、ダージリン紅茶で草もちをぱくぱく。

友人たちが去り、残された甘いものや彼らが持参したおみやげの甘いものの山を前に、ちょっと気持ちが悪くなってきた。当分、甘いものは、もういい〜。ちなみにどちらの友人も中年男性である。(オトメンではありません)日本では少数派で、しかも何か世間的に肩身の狭い、男の甘党たちである。しかし、日本では少数派かもしれないが、一歩世界に出れば、甘党男は肩で風切って歩いているばかりか、甘党男の天下といってもいいぐらいだ。

インド・ダージリンの宿の近くにヒマラヤン・クリオスという名の骨董屋がある。店の主人はクィムおじさんといい、去年も今年もここであれこれ店をひっくり返しては買い物をしたので、すっかり仲良くなった。甘い煮出しミルクティーのチャイを出前してもらってご馳走になりながら、いろいろな話をしているうちに、一緒に昼ごはんを食べに行こうということになった。「何が好きかね? 肉、魚、野菜?」「何でも食べるけど、野菜が好きだよ。おじさんはベジタリアンですか?」「いや、肉も食べるけど、野菜が好きだよ」おじさんは、子どものころ親に連れられて、カシミールからダージリンにやって来た、カシ人である。カシはイスラムのはずだが、店にはあまりイスラム教の雰囲気は漂っていない。

ダージリンには、ネパールから移住してきたゴルカ、シェルパ、チベッタン、山岳先住民のレプチャ、ベンガル系のインド人、商売人のカシミール人が住み、通りにはインド各地からの観光客、外国人観光客が歩いている、なかなか国際的な町である。チベット仏教、イスラム、ヒンディー、キリスト教の人々がともに暮らしているわけだが、住み分けはあるものの、境界線はけっこうあいまいだ。

食のタブーが各宗教にはあるが、その垣根のないのがベジタリアン料理である。この町にはベジタリアンの食堂がとても多く、専門店でなくても必ずベジタリアンのメニューも置いてある。というか、豚肉や牛肉を食べられる店は、かなり少ない。ベジ・レストランでなくても、肉料理は菜食主義の人以外なら食べられるチキンか羊・ヤギしかないところが多い。手軽なベジ・チベッタン食堂ならどんな宗教の人でも入れる。

「ベジ・モモは好きかい?」クィムおじさんの言葉に、旅の友のワイさんが目を輝かした。ワイさんは無類のギョウザ好きなのである。町にたくさんあるチベッタン食堂には必ずチベット・ギョウザのモモがあり、モモ専門店もある。何軒も食べ歩いてはいるのだが、その数は多く、味の奥は深い。モモはチベッタンだけでなく、ネパール系民族のゴルカの料理でもあり、ゴルカ人のカレー食堂にモモがあることもある。クィムおじさんが連れて行ってくれたのは、市場の近くの坂道を少し横に入ったところにある小さなベジ・モモ専門店。ゴルカ系の店のようだ。狭い店内はぎゅうぎゅうである。ひっついて座っても15人が限度。すぐに人が席を立ち、待たずに座れた。

「うまい!このスープもおいしい〜」今まで食べたモモの中で一番ではないか。さすが、地元民はおいしい店をよく知っている。玉ねぎとキャベツとニンジンの詰まった野菜の蒸しギョウザが、なんでこんなにおいしいのかなあ。モモには野菜スープがついてくるが、ここのはビーツ入りで赤い。すぐさま、モモをおかわり。スープも注いでくれる。小さなステンレスの皿に8個のった蒸しベジ・モモのスープつきが10ルピー。赤いトウガラシのソースをつけて食べる。

店を出るときには外に何人も並んでいた。わたしたちが、おいしいおいしいとすごく喜んでいるので、クィムおじさんも嬉しそうだ。「じゃあ、お茶を飲みに行こう」と市場に歩いていく。市場の一角に、炒り豆屋とお菓子とチャイを飲ませる店が並んでいる短い通りがある。そのうちの一つに入る。店は大きくはないが、やはりここもかなり満員で、席を替わってもらってやっと3人で座った。入り口のショーケースにはとてつもなく甘そうなスウィーツが並んでいる。「ここのお菓子はおいしいからね、ごちそうするよ」さっきモモの店でもご馳走してくれたのだが、クィムおじさんはなかなか気前がいい。それともおじさんの店でのヒバリの買い物が気前よかったのか・・?

「あ〜、一番甘くないヤツを」「うん?」クィムおじさんは一瞬、困ったような顔になった。インドのお菓子は甘い。はっきりいってものすごく甘い。よく行くタイのお菓子も甘いものが多く、なかでもフォイトーンという錦糸玉子のようなお菓子がもっとも激甘である。しかしインドではフォイトーンの甘さはごくごくふつうクラスである。

少年がガラスのコップにやかんからチャイを注いでくれた。もちろん、すでに大量の砂糖入り。店によっては後から砂糖をコップに入れるところもあるので、そういう店では砂糖なしとか、少な目とか注文も出来るが、ここはすでに入っている。
「甘いなあ・・でもおいしい。コルカタよりチャイもうまいね」
「うん。これぐらいなら、だいじょうぶ」ワイさんは、お菓子は日常ほとんど食べないが、飲み物が甘いのはけっこう平気なようだ。コルカタで毎日飲んでいたチャイより紅茶の味がくっきりでうまい。甘さも、なんとか許容範囲だ。

市場の紅茶葉屋さんで見ていたら、一番売れているのは煮出しミルクティー用のCTC加工の安い茶葉だった。CTCとはCrush(砕く)Tear(切断)Curl(丸める)の略で、紅茶のエキスが浸出しやすいように葉っぱを砕いて、刻んで、小さく丸めたものである。ダージリンの住人の多くもこの煮出しミルクティーを飲んでいるのだ。

「ほら、おいしいよ〜」クィムおじさんが注文したスウィーツが、運ばれてきた。何じゃこりゃ。卵ほどの大きさの球状のそれは、表面がまっ黒で、シロップがかかって光っている。いや、今までシロップに浸されていたのが、まわりに垂れているだけか。しまった、ふたりでひとつにすればよかった。スプーンを入れると、じゅわっとシロップが溢れた。どうやら発酵させない牛乳のチーズ、パニールのお菓子らしい。表面はカラメルかな。ふと顔を上げると、店中の客が何気なくわたしを見ていた。こちらも何気に観察すると、やはりここのお菓子は人気らしく、たくさんの客が菓子の皿とチャイを前においている。

「甘いっ・・」こ、これが、一番甘くないヤツ? 一口目で頭の中が真っ白になった。にこにこしているおじさんの手前、もっと食べなくちゃ、と二口目。なにか、意識がぶわ〜とどこかに飛んで行きそうである。無理だ、今生で経験した中でもっとも甘いお菓子という名誉をこれに捧げるぞ・・などと煩悶しながらやっと三口目、四口目を呑み込み、これ以上は死ぬかもと、スプーンを置いた。はあはあ、と荒い息をしながら気を取り直してまわりを見ると、クィムおじさんもワイさんさえもぺろりと平らげているではないか。おじさんは、あれっと言う顔でお菓子が半分残った皿を見ているので、気をそらすために、あわててこのお菓子の名を尋ねる。ニーム、というのがこのクロ玉子スウィーツの名前であった。

ちなみに店のほかの客は、全員、男(中年)である。
ああ、書いてるだけで歯が痛くなってきた・・。甘党男よ、インドを目指せ!

恋――翠の石室55

藤井貞和

アオリスト2は、手紙にしよう、
ケ・ブランリーにて、
レヴィ=ストロース氏に出した手紙は、
僕が受けとったんです、
コンゴウインコありがと ったら

出したんです、二十一世紀から、
二十世紀への手紙。 未来のひとが、
肩を寄せると、現在の鳥の鳥肌が立つ、
なアんてね。 コンゴウインコは、
羽をむしられて、かわいそう ったら

僕が受けとったんです、
この恋は つばさをひろげると、
あなたを包む、ケ・ブランリー。
なアんても、さらに総毛立つのです、もう感激! ったら

(五十年まえの女の子が、子鳥を見てたんです、枝のうえに。子鳥ははなびらになりました、おっこちそうになって。でも、あなたが「助けて」と言ったら、はなびらは落ちなかったのです、ふたたび子鳥になって。──そういうことが起きるのは絵だからなんです。詩のなかで、そんな奇蹟は起きません。墜落して地上で眼が覚めると、きょうという日がはじまるだけなんです、つらい一日。)