砂漠の待雪草作戦

さとうまき

ヨルダンに到着したときはまだ肌寒かったが、シリアに向かうと、なんだかぽかぽか陽気ですっかり春。

今回は、「砂漠の待雪草」作戦を実行する。その中身は、イラク戦争から5年たとうとする3月20日に向けて、イラクから待雪草を摘んでくるという作戦だ。待雪草の花言葉は、「希望、慰め、楽しい予告」今のイラクにぴったりである。

マルシャークの戯曲「森は生きている」の中にも登場する花。
わがままな女王が、冬の大晦日に待雪草を摘んでこないと、新しい年にしないとダダをこねる。待雪草を摘んできたものにはご褒美をたくさん上げましょうと聞いて強欲で意地悪な継母が心の優しい孤児に寒いさなか森の中に、この時期にあるわけもない待雪草を摘みに行かせる。それでも奇跡が起こり、まま娘は、待雪草をたくさん摘んで帰ったという奇跡のお話。

もともとはロシア民謡の話だから、砂漠には咲くはずもない花なのだろうが、「アダムとイブの2人が楽園を追い出されて困っていたとき、降ってきた雪を天使が待雪草の花に変えた。」とある。アダムとイブの楽園は、バスラの近くのクルナ村辺りにあったといわれているから、イラクにも無縁ではない花だ。そういえば、1月11日、バグダッドに100年ぶりに雪が降ったというから、これもイラクに平和がくる前触れかもしれない。

さて、待雪草とは、暗号名で、つまりは、イラク人のこの5年間の物語を集めてくるという指令である。そこで、まず、わたしたちは、イラク難民であふれているというシリアのダマスカスへ向かったのである。

サイダ・ザイナブには、シーア派ゆかりのモスクがある。イラクからの難民が多く集まり、リトル・バグダードと呼ばれることもある。イラク料理や、イラク茶屋、イラク土産の店など、なんとも懐かしくなるのだが、ちょうどわれわれがついた日は、アルバイーンというお祭りの日。これは、シーア派のイスラム教徒が崇め奉るアル・フセイン(預言者ムハンマッドの孫)がカルバラの戦いで殉死した悲しみの記念日でもあるのだ。

イラクだけでなく、レバノンや、インド、イランなどから殉教者がたくさん集い、アル・フセインの苦しみを体現しようと、男たちは上半身裸になり、自らを鞭うつ。その鎖で出来た鞭の先には、包丁が着いているものもあり、背中からダラダラと出血。違うグループは、包丁を額につけて頭から流血している。目の前には、地獄絵が繰り広げられる。

見ているだけでも、すっかり体力を使い果たしたわたしたちは、食欲もうせ、待雪草をつんでくるどころではなくなってしまった。

(ダマスカスにて)

13のレクイエム ヘレン・モーガン(3)

浜野サトル

  
ニューヨークのブロードウェイの代名詞となっているミュージカル・ショーは、もともとはイギリスで生まれた娯楽舞台劇だが、発展したのは1920年代のアメリカだった。その大きなジャンプ台となったのは、女流作家エドナ・ファーバーの原作をジェローム・カーンがオスカー・ハマースタインIIと組んでミュージカル化した『ショー・ボート』(1927年初演)だった。

『ショー・ボート』以前のミュージカルは、基本的には「お笑い」を生命線とする音楽劇だった。「笑い」ではなく「お笑い」とあえて書くのは、風刺や諧謔でぬりこめた笑いではなく、要はドタバタ劇だったからである。
現在のアメリカのショー・ビジネスの多彩さからすると信じにくいことだが、それ以前、アメリカ独自のショーといえば、ミンストレル・ショーぐらいしかなかった。ミンストレル・ショーというのは、白人の出演者たちが黒人に見える化粧と扮装をし、黒人奴隷たちが合衆国の土の上で伝統的に育て上げてきた歌や踊りをまねて演じる、これまた滑稽音楽劇である。日頃黒人たちを徹底的にいためつけている白人の観客たちが、黒人をとことん笑いものにするために生まれたショー、と言っていい。

余談だが、1960年代にわが国でも大ヒットしたミュージカル映画『ウェスト・サイド物語』では、ジョージ・チャキリスなどの白人俳優が顔と肌を黒く仕上げてプエルトリカンを演じた。チャキリスがアイドルだった当時中学生の僕は、来日した彼の「真っ白な」顔を週刊誌のグラビアで見て、驚愕した。いまにして思えば、華麗なミュージカルを俳優たちが力感あふれる演技で演じた映画を支えていたのは、ミンストレル・ショーの嘘くさい伝統だったのである。
作曲を担当したユダヤ系アメリカ人、レナード・バーンスタインは、いったいこのことをどう思っていたのか。40年以上経って、本人がとっくに世を去ったいまも気になる。

それでは、『ショー・ボート』は、どこがどうそれ以前のミュージカル、さらにはミンストレル・ショーと違っていたのか。一言でいえば、リアリズムを基本精神として「人種問題」を織り込んだドラマを提示したことである。その意味で、『ショー・ボート』は、はるか後年の『ウェスト・サイド物語』の源流といってもいい。

  
『ショー・ボート』という標題に使われているショー・ボートとは、まあ、説明の要はあるまいとは思うが、近頃の無知な若者たちのために書いておけば、19世紀半ばにアメリカはミシシッピ河で運航が始まった、船そのものが劇場になった劇場船(フローティング・シアター)のことである。劇場で行われるもの=ショーと船=ボートを合わせて、ショー・ボートと呼ばれた。
ショー・ボート自体は、1920年代になって人気を失ったといわれる。それとすれ違うようにして人気を得たのが、ミュージカルの『ショー・ボート』だった。

『ショー・ボート』は船上でショーを演じる一家の年代記であると同時に、恋の物語である。恋物語となれば、主人公は2人。船長兼座長の娘マグノーリア(この名がアメリカ南部のシンボルともいうべき花の名前でもあるのは、多くの人の知るところだろう)と流れ者の賭博師ゲイロード。物語はこの2人の恋と結婚、別離、そして再会を大河ドラマ風に描く。
しかし、それだけではない。物語にはもう1組のカップル、一座の花形スターである美人女優ジュリーと、相手役でも恋人でもあるスティーヴとの悲恋が織り込まれ、いわば二重のストーリーとして展開する。
そうして、『ショー・ボート』を『ショー・ボート』たらしめたのは、実はお話の本筋よりも、伏線であるはずの後者のカップルをめぐるエピソードなのだ。

それはなぜか。
ジュリーは、とびきりの美人だった。アメリカを牛耳る白人社会にあってさえ、そうそうお目にかかることはないほどの美人だった。しかし、彼女は白人ではなかった。見た目は白人だが、実際には黒人との混血で、戸籍上は黒人だった。

ジュリーに恋をした男がいた。しかし、相手にされなかった。悔しさと嫉妬にかられた男は、ジュリーの出生の秘密を知り、密告する。官憲は、法的に禁じられている結婚だとしてジュリーとスティーヴの仲を裂く。
『ショー・ボート』は、そうして物語の様相を一転し、悲恋の物語となる。悲恋に隠されているのは、そう、誰が見てもわかるアメリカという人種差別社会が落とす濃い影なのだ。

それだけに、これが大衆を楽しませるミュージカルになろうと考えた人はいなかった。そのことを最もよく知っていたのが原作者で、小説に惚れ込んだジェローム・カーンがミュージカル化を申し入れてきたとき、エドナ・ファーバーはただ困惑するだけだった。それでも、彼女は最終的には受け入れた。
曲折はさらに続く。この作品のプロデュースは、1920〜30年代に「レビューの王様」と呼ばれたフロレンス・ジーグフェルドにゆだねられた。舞台稽古が始まると、そのジーグフェルドが真っ先に題材に疑問を持つようになった。これはミュージカルに向くお話ではない、と彼は判断したのである。
ショーの世界を牛耳っているのは、いうまでもなく白人たちである。そして、観客もまた白人。人種差別を取り上げることが白人社会でいかに微妙なことだったかが、この一事でわかるだろう。

それでも、カーンは、公演を強行した。初演は1927年11月15日。ところはワシントン、ナショナル劇場だった。
開演は夜8時半。第一幕が終わると休憩が入るが、観客たちは黙りこくっていた。やがてこの作品を代表する曲となる「オール・マン・リヴァー」の熱唱のあとも、拍手はほとんどなかったという。

ジーグフェルドは、即座にこのミュージカルを失敗作と断じた。しかし、カーンとハマースタインの自信はゆるがなかった。そして、12月27日、ブロードウェイのジーグフェルド劇場で本公演の幕が開いた。
6週間前のプレヴュー公演とはうってかわって、終演時、今度は嵐のような拍手が爆発した。観客は声をあげて出演者を讃え、それが1929年まで、計572回続く連続公演の始まりになった。

主演は、マグノーリアを演じたノーマ・テリス。しかし、観客の目を奪い、その名を記憶に刻みつけたのは、脇役のジュリーを演じた俳優だった。
それが、ヘレン・モーガンだった。

(続く)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
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反システム音楽論断片(二)

高橋悠治

コンピュータのなかの疑似乱数は初期値が決ればそっくり再現される はじめ新鮮に見えた予測できないうごきも 回をかさねて予測できなさが予想されるにつれて ある顔をもつことになる クセナキスの使った確率関数も ケージの易占も 論理的にはアルゴリズム思想 認知主義と言えるだろうが いままでになかった音をもたらしたこともたしかだ

コンピュータのように孤立した記号と それと相対的に独立した規則を組み合わせた操作で作る表象世界は 啓蒙主義の作り出した機能和声の究極の姿であったシェーンベルク流の音列操作以後のトータルセリエルと同時代の考えかたで そういう背景からアルゴリズムによる作曲法が生まれた

クセナキスはコンピュータによる作曲オートマトンを試みて その成果に失望していた 60年代にコンピュータを使った作曲では多数の結果から 音楽的におもしろいものだけを残して組み合わせる 作曲家の判断が介入して いままでになかった音の雲の移りを生み出した その後古代ギリシャからビザンティン文化にかけての音階論の研究から 論理演算によって非周期的音階を作る「ふるいの技法」と音運動のベクトル的協調による集合メロディーの「メドゥーサの髪」によって アルゴリズムを必要としないテクスチャーの貼りあわせで オーケストラ曲を書き それは単純化されたクラスターに収斂していった

ケージの易占の発見は 1950年代のはじめ ヴェーベルンの『室内交響曲』上演の衝撃とほとんど同時に起こった ヴェーベルンの音楽を音列の展開として 抽象に還元するのではなく 孤立したピッチの不規則な反復として 耳に聞こえた現象から方法化したのが フェルドマンの音域と時間単位を格子状にしたグラフィックであり 数個の音の組み替えと音色変化によるクリスチャン・ヴォルフの作品であり おそらくそれらの影響からケージの孤立した音色を易占で配置する作品が書かれたのだろう

最晩年のケージは 易占をコンピュータアルゴリズム化しながらも 水墨のような音の内部変化を多層時間に分散並列化したナンバーピースを創り アルゴリズムからセルオートマトン的な音響空間の創発を試みた

これらの作品は たしかに方法と介入を使い分けながら 未知の音の道を切りひらいた そのために使われた方法 アルゴリズムや カオス フラクタルを含む複雑系の考えかたは いわば乗り捨てられた筏にすぎない その後これらの方法を使っても はじまるものは何もない 介入なしの方法は自立できない

アルゴリズムは 要素と操作 あるいはデータとプログラムを分離する 複雑系の方法は いまのところニューラルネットワークのように 複合的なアルゴリズムにすぎないのではないか 疑似乱数は 単純化されたシミュレーションモデルを作るのがせいぜいで パターンとしての単調さから逃れられないから 視点の転換をもたらすようなアートには追いつけないだろう

それにもかかわらず 先駆的な実験が さまざまに読み取れる「はじまり」の地点であったとすれば そこにはたらいていた介入 攪乱 繊細さなど 身体化された あるいは身体に埋め込まれた心のはたらきを追求するところから 次への道が見えてくるのではないか それには 理論や方法よりも じっさいに身体をうごかして観察する現象学 あるいは瞑想が最も直接的ではないのか

今の段階では コンピュータはプログラミングやデータという操作主義からはまだ自由ではないし 複雑系のロボットも手の自由さにはほど遠い コンピュータやロボットが手のうごきにあらわれるような 言語的・歴史的・文化的・社会的文脈を理解するのはいつの日か それとも そんなことはもう期待されてはいないのだろうか

それでも アルゴリズム コンピュータアート メディアアート エレクトロニクス ノイズ 音響系などがないとやっていけない人びとの政治的・文化的・心理的状況がある 『道はない だが進まねばならない』というノーノのタイトルだが この世界に根拠はない だから根拠が必要だ というのは いったい何だろう

13のレクイエム ヘレン・モーガン(2)

浜野サトル

  
トーチ・ソングと呼ばれる音楽ジャンルがある。トーチtorchは「たいまつ」だが、carry a torchといえば「恋の炎を燃やす」という意味になる。ただし、たいまつを高く掲げても相手には見えないということだろう、恋は恋でも「片想い」の恋を指す。トーチ・ソングはだから「悲恋の歌」である。そして、トーチ・ソングを得意とする歌い手をトーチ・シンガーという。トーチ・シンガーには、男の歌手は含まれない。
ヘレン・モーガンがポピュラー・ミュージックの歴史に名を残しているのはもちろん複数の理由あってのことだが、その一番のものはやはりトーチ・シンガーであったことにある。というより、トーチ・シンガーという区分はヘレン・モーガンとともに生まれたといっていいかもしれない。それも、ただ単にトーチ・ソングを多く持ち歌としたという以上に、トーチ・ソングはまた彼女自身の一生を映す鏡であったという意味でそうなのである。

ヘレン・モーガンはカナダの生まれだ。1900年トロント、19世紀の最後の年に彼女は生をうけた。
光が鮮やかであればあるほど影の部分が濃いのがスターダムにのぼりつめた人間にしばしば見られる特徴だが、彼女の場合もお涙頂戴の三文小説を地で行くがごとき人生だった。その発端は父親にある。父親のトムは鉄道員だったが、のんだくれで、どうしようもない怠け者だったらしい。やがてヘレンの母親となるルルが妊娠したことを告げたとき、トムはすぐさま行方をくらました。子どもができれば、家族を養う負担が増える。負担の増加に反比例して、自由は奪われる。彼はそれを嫌がって、自分の家から逃げ出したのだ。

先の見通しが真っ暗になったルルは、職を探した。見つかったのは、鉄道の食堂の仕事だった。夫のトムが勤務する会社だったのか、つまりは夫の仕事が縁になってひろわれたのかどうかは、わからない。何がどうあろうとも、働いて生活費を稼ぐしかなかった。
勤務は朝6時から8時間。毎日仕事に通い、臨月が来ると1日だけ休みをとって自力でヘレンを産み落とした。産休などというものはむろんなく、その翌日からはまた仕事に戻った。生まれたばかりのヘレンはバスケットに入れて連れていき、世話をした。

5年後、トムが突然にまいもどり、ルルに復縁を求めた。他人を疑うことを知らないルルは承諾し、アメリカはイリノイ州へともに移り住んだ。小さな家を建てて住んだと伝えられるが、その費用をどう工面したのかは不明である。
定職について真面目に働くというトムの言葉を信じたルルだったが、そうはいかなかった。それから8年後、きまった職はなく、酒もやめられなかったトムは再度不意に姿を消した。
ルルはまた職探しに出た。工場勤務を経て落ち着いたのは、やはり鉄道の食堂の仕事だった。12歳になったヘレンも、じきに同じ食堂で働き始めた。

食堂で働く毎日は、ヘレンに金銭以上のものを提供した。客たちから可愛がられ、雑多な出身地の彼らから歌を教わることもしばしばだった。歌うことが大好きだった彼女は、歌を覚えると食堂で働く人たちに歌って披露し、彼らを楽しませた。
鉄道で働く女性を取材して歩いていたジャーナリストがルルとヘレンに出会ったのは、まさにその頃だった。ジャーナリストはヘレンにモントリオールのクラブの仕事を世話し、ヘレンはすぐにルルとともにモントリオールに移住した。
歌手ヘレン・モーガンのキャリアは、このときにスタートした。

  
「美貌」に憧れない女性は皆無だろう。いや、美貌なんてただの幻想と考える女性が稀にいるかもしれない。しかしだ、そういう考えの持ち主であっても、美貌に憧れる女性が世の大半を占めることには同意するだろう。化粧品産業の隆盛やダイエット商品の人気がそれを証明している。
ヘレン・モーガンがその一生を通じて武器としたものも、まさにその「美貌」だった。まだ12歳で鉄道の食堂で働いていた頃から、彼女の美貌はまぎれもない武器だった。図抜けて可愛くなかったら、客たちが好んで自分の知っている歌を教えることなどなかったろう。取材で訪れたジャーナリストが彼女に注目したのも、その美貌抜きには考えられないはずだ。

モントリオールでの最初の仕事は、たいした成果は生まなかった。なんだかんだいっても場所はナイト・クラブである。天性の才に恵まれた少女であっても、そう大きな称賛が集まるはずもない。
ヘレンとルルはじきにアメリカに戻ることを余儀なくされ、シカゴに移った。なぜ、シカゴだったのか。理由は1つしかないだろう。1910年代、シカゴはアメリカ合衆国中でも最も発展著しい都市だった。シカゴなら仕事があるだろう……少女の域にとどまるヘレンを抱えたルルは、そう考えたに違いない。
シカゴがアメリカ中で最も活気のある都市になるのは、1910年代後半からである。ヘレンの属したショー・ビジネスの面でいえば、1917年に南部ニュー・オーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖されたのをきっかけに、黒人ブルースマンとジャズマンが大量にシカゴに移った。彼らを迎えたのは、シカゴを本拠とするギャングスターたちだった。

ヘレンがシカゴに入ったのは、まさにそのシカゴがアメリカ最大の歓楽都市となる時期だった。シカゴに移ったヘレンはルルと二人の生活の家計を助けるために食品工場などに職を得、働いた。しかし、単純な労働には不向きで、片っ端からクビになった。
その一方で、ヘレンは確実に成長していた。人間としての成長ではない。あえていえば、人類としての成長である。そう、彼女はとてつもなく美しく成長したのだった。
1918年、ヘレンはイリノイ州の美人コンテストに応募した。自活を求めるルルの希望に応えてゼラチンやクラッカジャック、電話会社などの職についたが、ことごとく失敗していた。だからこその、コンテストへの応募だった。
ヘレンは勝った。ミス・イリノイに選ばれたのだ。このときから、彼女の新しい人生が始まった。

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
    The HELEN MORGAN Page

しもた屋之噺(74)

杉山洋一

リハーサルが終わり、ボローニャ市立劇場脇の安宿に戻ってきました。一週間前の今頃、まだ東京でブソッティと一緒に演奏会をしていたのが信じられません。大学街らしく、ボローニャは夜の帳が降りても若者たちの活気に溢れて、街を行き交う人の表情も活き活きしています。もう何年も通っているのに、未だ方向感覚がつかめない、不思議な街ですが、その昔、まだイタリアに住み始める前に来たことがあって、夜、街に巡らされたアーケードを歩きながら、ショーウィンドウの美しさにびっくりしたのを覚えています。

大学の3年生だった頃、シエナで作曲の夏期講習を受講したとき、ドナトーニの助手を務めていたマニャネンシがボローニャ出身で、当時知合った作曲家たちがボローニャに住んでいて、この街との付合いが始まりました。こうして現在仕事に呼んでくれているのも、結局は当時知合った作曲家たちで、思えば随分長く世話になっているものです。

今月、折につけ繰り返し思い出していたのは、ブーメランのように、目に見えないほど遠くに投げたものが、長い時間を経て手元へ戻ってくる感覚です。

大学に入学後すぐに桐朋の当時の別館ホールで演奏した作品がブソッティの「3人で」で、演劇科の女優3人が30分ほどあえぎ続けて頂点を迎える構成でした。あれから何年か、作曲や演奏科の友人たちと、学内、学外で色々な作品を演奏しましたが、まさかブソッティ本人と一緒に同じ場所で、同じ仲間と演奏をすることになるとは夢にも思いませんでした。今回10年ぶりに再会し、当時の仲間と久しぶりに練習を始めると、不思議に時間の隔たりなど、たちまち消えてしまうのです。自分はあれから変っていないのかと考え込んでしまうほど、自然に練習ができました。違うのは、一回り以上も若い学生さんたちが、とても誠実に一緒に演奏してくれたことで、当時自分たちより若い演奏者はいませんでしたから。

そうして練習が終わると、昔通った小料理屋で昔と同じ定食とモツ煮込みを熱燗で流し込み、恐らく同じような会話をし、同じように電車に乗って帰りました。それこそブソッティの楽譜を借りるため足繁く通った桐朋の図書館で司書だったTさんや、作曲のM先生やY先生が何度も顔を出して下さったのも嬉しく、こんな風に、よく分からぬまま手探りで過ごしていた時間の本質を知りたくて、思わず皆が同じ場所に戻ってきた、今回の企画はそんなところがありました。ブソッティと触れ合う中で、溜まっていたわだかまりのようなものが、ほんの少し解けた気もします。

同時にブソッティを通して、たくさんの新しい出会いもありました。マドリガルを歌ってくださった皆さんとの練習は、最初から最後まで、とても気持ちのよいもので、本番もブソッティの魅力を、余すところなく伝えてくださいましたし、演奏会に際してお世話になった、桐朋や明治学院でお世話になった先生方や裏方の皆さん、イタリア文化会館の職員の皆さん、ブソッティの訪日の意味を理解して下さり、無理に時間を作りお手伝いくださった録音技師の皆さん、広報をお手伝いくださった皆さんにも何とお礼を申し上げてよいか。

さて、桐朋の歓迎会で、ブソッティは学生が寄せ書きした色紙のお返しに、自身も色紙を贈りました。適宜金銀の和紙が散らされて薄い染みに見える色紙で、一緒に色鉛筆とサインペンを渡されたブソッティは、まず染みを色鉛筆で一つずつ丸く塗りつぶしてゆき、色とりどりの丸が散らされると、上方の丸二つを選び瞼を縁取り、少し下の丸の周りに唇を書いて、それぞれの丸を線で繋いで、キュビズムのアルルカンの衣装のような輪郭を与えてゆきました。アルルカンが手をからげて踊る姿になったところで、踊りと学校名を漢字で書きたいと言うことで、「踊」と「桐朋」という文字を書き入れて、絵を完成させました。

このちょっとした出来事は彼のアプローチを理解する上で、とても勉強になりました。偶然の閃きを切掛けに、その閃きを後天的に意味づけし具現化するため、周りに事象を加筆してゆくうち、自然と形が生まれてくる。まるでヨーロッパ人たちが、前置詞や冠詞まで感覚的に話し、少し間を開けて文法的に見合う言葉で埋めて、前述した前置詞や冠詞を正当化してゆくのに似ていますが、普通「私はかく思いき、ついては何某」、と指針を明快にしてから、話を展開させるのに対し、ブソッティは結論も、指針も与えず、「何某で、何某で、何某」と即興的、直感的に並列してゆきます。

最後に「だから何某」と結論を述べるかと思いきや肩透かしにあったりして、訳してゆくと、終りがいきなり尻切れトンボになることがありました。何が言いたくてこう言っているのか教えてくれと言っても、「今言っている通り訳せばいいから」と笑うばかりで、ちゃんと話の辻褄が合うように祈りながら訳すこともしばしばで、文字通りの五里霧中でした。そんな風に、ブソッティ自身からは、どんなに話題が展開、逸脱しても、どこかで本題に帰結させることが出来る、纏め上げられる自信を感じました。

作曲でもレクチャーでも全く同じです。16日イタリア文化会館でのレクチャーで、ケージが図形楽譜の読み方を厳密に規定するのに対し、ブソッティは大変自由だが、必ずしも作曲者の意図が演奏に反映されなくてもいいのか、という質問がありました。今回、幾つかブソッティの図形楽譜を勉強して個人的に感じたのは、どこまでも逸脱しても、本題、つまり自らの個性、音楽性に帰結させられる自信や信念があってこそ可能だった、実にユニークな作品群だということです。

ケージの透徹な感受性は、自動書記と呼ばれていた頃の、ある種のドナトーニの作曲法によほど近い気がします。結果的に鳴る音は全く違いますが、どんな音の風景を紡ぐか脳裏の奥底で一瞬考え、後はひたすら写経をするように音を写してゆく。神秘的ですらある作曲の作業です。揃って「自己」の介在を否定し、音楽をあるがままの姿で再現しようとするアプローチが共通しています。

ブソッティは正反対で、甚だ大きな主観(エゴ)の塊のようなブソッティの芸術というものがまずあって、どんなことを企んでも、結局は彼の塊に収斂されてしまう、そんな印象を持ちました。例えば、「自動トーノ」の絵のような楽譜(絵文字譜と呼んでいましたが)にしても、実際演奏してみて分かったのは、単なる絵ではなく演奏に適した「楽譜」だということ。不思議に演奏に入りやすい楽譜で、いつもそれなりの音が鳴って、しっかり楽譜の用を成すべく書かれていることに、感心させられました。悠治さんと美恵さんが、「自動トーノ」の楽譜を見て、「やっぱり五線紙に書くわけね」と言ってらしたけれど、案外これは演奏しやすい「絵」を企む上で、重要なファクターだったのかも知れません。その辺りのテクニックはちょっと分かりかねますが。

先日、「自動トーノ」の演奏に参加してくれた、桐朋の学生さんから、嬉しい電子メールを頂きました。何でも、「自動トーノ」の演奏会の後、ダンスカンパニーの演奏のオーディションがあり、自動トーノで学んだ即興が思いがけず役に立った、というお礼がしたためられていました。こうして、ブソッティとの出会いが、今回関わってくださった皆さんの心のどこかに、何かを残してゆけたのなら良いのですが。

(1月25日 ボローニャにて)

追伸:
先月号で、忘却してしまったブソッティの和声教師の名前はRoberto Lupiという指摘を頂きました。その通りでした。どうも有難うございます。

メキシコ便り(6)

金野広美

メキシコにはたくさんの謎がありますが、そのなかのひとつが解決しました。
以前、地下鉄の女性車両について書きました。人の多い駅にはガードマンがいて、前3両には男性を通さずに女性専用車両にしているが、人の少ない駅はガードマンがいないので、男性も乗り込み結局は女性専用車両にはならないという話でした。これをメキシコのいいかげんさのせいにしていましたが、ちゃんと理由があったんです。というのはこのガードマンとおもわれた男性、実は、テントンと呼ばれる人で、満員電車に乗り込む人のお尻を押す役目の人だったのです。女性のお尻は押せないので、前3両に乗ってもらうべく乗降客の多い駅だけ通せんぼをして男性と女性を分けていたというのです。私はあまり男性のお尻を押している場面には遭遇したことはないのですが、なるほどこれで納得です。それにしても女性専用車両を作るという発想が日本のように痴漢防止のためではないということは、メキシコには痴漢はいないのでしょうか。そんなことはないと思うのですが、ひょっとしたらメキシコの女性は強いので、恐ろしくて触れないのかもしれませんね。

さて新しい年になって約1ヶ月。ここでメキシコのクリスマスとお正月についてレポートしておきたいと思います。
12月に入ると同時に街はクリスマス仕様になり、ターミナルや公園、ソカロなどには大きなツリーや、ナシミエントと呼ばれるキリスト誕生時を再現した人形飾りが置かれます。各家庭は屋根やベランダにサンタ人形などを並べ、家のそばの木々は小さな光が美しく点滅します。トナカイの角をつけた車が街を走りまわり、子どもたちの帽子にも小さな角がついています。そしてポサーダも始まります。これはイエス誕生の直前に、マリアとホセが宿を借りるため家々を回ったことにちなんで行われるお祭りで、ご近所各家の持ち回りでパーティーを開きます。そしてそのときにマリアとホセ、宿の住人とのかけあいの歌を2つのグループに分かれて歌います。そしてピニャータといって、中にお菓子や果物を入れた星や動物、最近ではスパイダーマンの形をした大きな人形を用意します。それをひもでつるし、揺らしながら目隠しをした人が割るのです。そばにいる人が右だ、左だ、上だ、下だとはやしたて、とても盛り上がる行事です。私の学校でもポサーダがあり、先生と生徒が落ちたピーナッツやみかんにむらがり、私もおすそわけをもらいました。とても楽しかったです。

24日のイブの夜は家族がみんな集まり、夜9時になると教会に行きます。2時間足らずのミサのあと帰宅し、会食が始まります。七面鳥や豚の足のオーブン焼き、タラ料理などを食べます。そしてそのあと、山のようにツリーの下に積み上げられた贈り物を、名前を呼ばれた人が「アブレ、アブレ(開け)」の声のなか受け取り、それを開けます。私も誰からかわからないものも含めて、4つも素敵なプレゼントをいただきました。約30名近くの家族全員の数のプレゼントを用意する人もいるので、その数は尋常ではありません。そんな中の一人、ナンデジェが買ってきたプレゼントの包装を手伝ったのですが、包装紙の質のせいもあるのでしょうが、なんと2時間もかかってしまいました。贈る相手の顔を浮かべながらプレゼントを考え、用意するのは大変でしょうし、すぐに破られてしまう包装に2時間もかける彼女を見ていて、メキシコ人の家族に対する愛情の深さに感心しました。

このようにクリスマスはメキシコ人にとって大イベントなのですが、このクリスマスの飾りつけは1月6日のレージェス・マゴスまで続きます。レージェス・マゴスはイエスの誕生を祝いに東方の三博士が贈り物を持っていったという日で、この日、ロスカ・デ・レジェスという大きな輪になった甘いパンの中に白い小さな人形を入れ、パーティーに集まった人たちで切りわけます。この人形が入っていた人は2月2日の聖母マリアの日にパーティーを開き、みんなを招待することになっています。この人形は幸運を呼ぶといわれ、1年中、大切に持っていなければなりません。ここメキシコではサンタクロースより、東方の三博士が子どもたちにプレゼントを持ってくるというのが伝統的で、この日も子どもたちはプレゼントをもらい、またもやピニャータもします。

こんななかで、新年はとてもあっさりしています。休みもだいたい1月1日だけで、2日、もしくは3日から仕事が始まります。
12月31日、やはり家族が集まり、ロモ・デ・セルドという豚肉料理やリンゴのクリームサラダ、ポンチェという果物を煮込んだ熱い飲み物などを用意し、夜の10時ごろから食事をします。そして、12時には12個の葡萄を食べ、シードラというリンゴ酒で乾杯します。葡萄ひとつにつき、ひとつの願い事をするので、毎年、12の願い事をメキシコ人はしているわけです。クリスマスプレゼントの数といい、新年の願い事の数といいやはりメキシコはスケールが違います。それにつけてもパーティーの数の多さ、やっぱり年がら年中お祭りをやっている国です。

ペルー音楽から垣間見る、音楽研究家と演奏家、それぞれの価値観

笹久保伸

1ペルーの人類学者、作家であったホセ・マリア・アルゲーダス(1911-1969)。彼はペルー音楽界にもいくつかの仕事を残している。アルゲーダスはアンデス地方出身であった理由もあり、今となっては重要となるアンデス民謡を数曲採集している。作家としても彼の代表作は翻訳され、日本でも手に入り、アンデスの世界観、価値観を知るのにはとても興味深い。

2006年の7月、ペルーの人類学者でアルゲーダスの弟子でもある、マリア・ロサ・サラスからアルゲーダスの残した資料とその他のインディヘナの音楽を研究し、CD付の本を出すプロジェクトの依頼を受けた。自分自身、以前からアルゲーダスに興味があったので良い機会だと思い参加を決めました。

私はアンデス音楽独特の奏法やその音楽に用いられる調弦方法、各土地に根づく音楽形式などを研究し、アレンジし、また田舎に旅に出て資料を集めた。一方マリア・ロサはオフィスで仕事を進めた。このプロジェクトは1月(2008年)ペルーの文化庁と国立音楽院の協力をへてペルーにて発表された。

このプロジェクトに参加して経験として得た事は多いが、結果的にこの資料はまったく面白くない物になったと自覚している。まさに一つの資料として終わった感じである。その理由には、研究という観念からアンデス音楽を見た(考えた)場合、視野は狭まり、音は平面的になり、立体感がまるで無くなった。同時に、研究目的に歴史、伝承を変に厳守すると、音楽が鎖で縛られるようになってしまう。これらの研究は簡単に言えば、音楽を机の上、紙の上ですべて小さく完結させてしまうのである。アンデス音楽の重要な要素はちょうどそれら紙の上に表しにくい事、「精神」Espiritu「時間」Tiempo「律動」Cadencia「息吹」Vivencia などにある。

CDではマリア・ロサが歌い私が弾いたのだが、とにかく弾きにくく苦労した。彼女は確かに学者だが、アンデスの人ではなく、また特にアンデス音楽について深く研究もしていなくて、要するに、頭でっかちなのである。本人は実際に現地に行かず、弟子たちに資料を集めさせ、それをうまく編集し、あたかも自分の研究かのように本を出す学者が世の中にはいると言う事を初めて知った。

本のタイトルには「インディヘナの歌」などと書かれているが、中にはインディヘナの音楽ではない物も含まれている。例えば、カーニバルの音楽など。カーニバルは植民地時代にスペインから持ち込まれたヨーロッパ文化(キリスト教の文化)である。この人は本当に人類学者なのか、と疑うし、一体これは何の研究だ?と大きな疑問である。(発表前はこれらの本の詳細を見せてくれなかった)
オフィスだけでの研究はミスが出るからいけない、と再度告知したが、寝耳に水で、結局大きなボロが出てしまった。その他にもマリア・ロサの持ってきて使った音源にはある研究家によって採集された物や、伝承曲でない物まで混ざっている事を私が発見した。早い話、こんなのは研究などではない。最低である。

本人にそれを言うと、激怒した。今風に表現すると、「逆切れ」である。
「これは私のプロジェクトで、あなたには演奏の依頼をしているだけだから」と言われた。世の中はこんなであると知った。

結局、本とCDは良い形で発表されたが、もう2度とこんな偽物研究書などの仕事には携わりたくないと思う。音楽演奏家と、音楽研究家は似ているようで、それぞれ異なる次元で仕事をしているようだ。またこれらを見破れなかったペルーの文化庁と国立音楽院、サン・マルティン・デ・ポーレス大学には残念であるし、また、よくこんな本を出版してくれたな、と思う。

ペルーと言う国は正しい事を言うと悪になる場合も多いので、プロジェクトに参加していながらこんな批判を言う私などはきっとかなり嫌われると思う。
演奏家の友人達からは「ペルーにはこういった音楽資料がまだまだ足りないから、きっと学生や勉強している人々の役に立つよ」と慰められるが、そう、こんな本が役に立ってもらっては困るし、もっと役に立つ資料を作っていって欲しいと心から願う。

アジアのごはん(22) なます

森下ヒバリ

タイ人は、酸っぱいものが大好きだ。代表的な中部タイ料理のヤムは、魚醤油のナムプラー、さとう、マナオというライムのような柑橘の汁、そしてトウガラシ味が基本の和え物である。タイ料理には酸味を良く使うが、そのほとんどがマナオを使う。そのほか、レモングラスの酸味、タマリンドの実の甘酸っぱい味も使うが、いわゆる醸造酢はほとんど使わない。

醸造酢のタイにおける立場といったら、それはもうかわいそうなぐらいである。無色透明の液体が愛想のない瓶に入って売られているのだが、愛情のかけらもないケミカルな味で、種類もない。およそ、タイ人が食にかける情熱というものが醸造酢に関してはほんのかけらも発揮されていない。この醸造酢は、タイの中華系めん料理のクイティオ屋台で、テーブルの上に乗った調味料の一員としてしか働いていないのではないかと思われるほどである。

タイ人の酢に対する情熱は、ひたすらマナオ果汁に注がれている。マナオは市場で買ってきたり庭になっているのをもいできたりして、実を搾るだけでいい。出来上がった料理に、搾りやすく切ったマナオをそえて、好みでかけて食べるのもたいへんおいしい。だいたい、和え物のヤムの酸味がマナオでなく醸造酢であったらこれはヤムとはいえない。甘みとの調和も素晴らしく、ジュースにしてもたいへんおいしい。

タイ国のタイ人にかぎらず、タイ族は酸っぱいものが大好物である。ただ、タイ北部、雲南省西双版納、ビルマ・シャン州などのもっとタイ族本来の文化を残している人々の食生活を見ると、偏愛する酸味は柑橘系ではなく発酵の酸味のようだ。肉や魚のなれずし、野菜の漬物、お茶の漬物、それらを使ったさまざまな料理がある。

現在のベトナムの多数派のキン族は、ルーツがタイ族と近い可能性が高いのだが、どうもはっきりしない。たしかにそうかもしれないと思わせる似たところもあれば、いや違うだろうと思うところもある。ただ、ルーツが古代中国の越であったとしても、その後の辿った歴史と混血、文化の受容がタイ族の一員とはもういえないレベルにまで変わっていると思われる。
キン族が移住して勢力を誇るまでは、タイ族がベトナム北部にたくさん住んでいた。かれらはキン族に追われて、ラオスや東北タイに移住するのだが、現在も少数民族となってベトナム北部住み続けているタイ族もいる。

タイ族の一員かどうかは別として、ベトナム人もじつはけっこうな酸っぱい物好きである。なかでも、おもしろいのはフランス植民地時代の遺産であるフランスパンのサンドイッチの具ではなかろうか。ベトナム、ラオス、カンボジアにはフランスパンが地元民の食生活に定着していて、なかなかおいしいフランスパンを食べることが出来る。

フランスパンはもっぱらサンドイッチにして食べる。挟む具には、何種類かバリエーションがある。白人旅行者の多い町では、チーズやハム、レタス、オムレツを挟みマヨネーズで味つけする洋風のものもあるが、地元民たちが食べるのはちょっと違う。その中身はハムやひき肉にくわえて、香菜やねぎが入り、味つけはナムプラーやチリソースの見事なアジアンテイストである。また、大根とニンジンの甘酢和えである「なます」がたっぷりはさまれることもある。

サンドイッチに「なます」?? これが実にうまい。
ラオスでもこのフランスパンのサンドイッチがたいへんおいしいのだが、この「なます」フィリングはベトナム人の店にしかない。フランスパン自体は、ラオスのほうが味のレベルが高いと思う。ベトナム人は野菜の甘酢和えがけっこう好きなようだ。大根とニンジンのなます、青パパイヤの千切りのなます、などなど。塩と酢とさとうであっさりとしたベトナムなますは、いくらでも食べられるおいしさ。同じ青パパイヤの千切りを、タイ人はこんなにあっさりと料理しない。ラオスとタイでは塩辛汁パラーとにんにくやマナオ、トウガラシで搗き和えて、複雑で刺激的な味に仕立てる。

わたしは子供の頃、日本の「なます」が好きではなかった。つんつんくる酢の味と匂い、べたっとした甘さがイヤだったのだ。そして大人になってもわりと最近まで自分で作ったこともなかった。ところが、フランスパンの「なます」サンド(この場合汁気は切ってはさむ)で、「なます」はおいしいことにやっと気がついたのである。よく考えてみれば、日本の大根なますとほとんど同じものではないか。

京都の家の近所の「おからはうす」という自然食喫茶店でお昼のランチのおかずに大根なますが出た。「むむ、おいしい・・」わたしは店主の手塚さんにさっそく作り方を聞いた。とても簡単である。自分で作ってみた「なます」もたいへんおいしかった。要は自分好みの甘さとまろやかな酢を使えばいいのだ。
今さら、なます? という方はさておき、簡単でおいしいのに意外に作ったことのない人も多いのではないかしらん。そういう人のために簡単な作り方を。

〈大根とニンジンのなますの作り方〉
大根とニンジンはスライサーで薄く切り、好みの形にする。半月とかたんざくとか千切りとか。ニンジンは硬いので千切りがいい。ニンジンの量は少なめに。おいしい塩を振ってしばらく置いておく。塩味がなじんでしんなりしたら、甘酢をかけてすり白ゴマをたっぷり振り、混ぜ合わせる。

以上である。
で、甘酢であるがこれは自分で作ってもいいが、さらに簡単調理を促進する調味料がある。わたしが料理に使っている酢は、京都の宮津で作られている「富士酢」である。京都では千鳥酢が有名だが、富士酢のほうがわたしは好きだ。千鳥酢もおいしいが、ちょっとツンツンしている。

富士酢を造っている飯尾醸造は有機米から酒を作り、その酒から純米酢を作っている。おいしくて適度にまろやかで、料理にぴったり。で、その飯尾醸造の出している「すし酢」という寿司飯用の甘酢があるのである。これをなますに使うのである。超手抜き・・という声が聞こえてきそうだけど、いや、手抜きなわけじゃない・・んですよ。自分で富士酢とはちみつを混ぜ合わせてもいいけど、「すし酢」はたいへんおいしい比率でもう合わせ酢になっているのだから、まあいいじゃありませんか。甘すぎると思えば、これに富士酢を適宜足せばいいのだから、自分好みの甘さにすぐできる。

なにより、これがあるおかげで、あっというまにおいしい「なます」が作れるので、もう一品欲しいときや時間がないときに重宝するったらない。もちろん寿司飯に使ってもいいのだが、わたしはもっぱら「なます」やサラダのドレッシングに少し加えるという使い方をしている。マリネ液のベースにするのもいい。

タイ人の醸造酢に対する淡白さは、ひとえにマナオがおいしすぎるからかもしれない。むかしタイの東北部に住んでいたとき、日本の酢の物を作ろうとしてスーパーでタイ製の醸造酢を買ってきたときのショックといったらなかった。ミツカン酢でいいから欲しいと切に思ったほどである。醸造酢の味の、酢の物がその時は食べたかったのだ。富士酢になじんでしまった今となってはミツカン酢でもいいとはもう思わないが。

フィリピンあれこれ

冨岡三智

実は、いただいていた助成金の報告大会があって、昨年11月下旬にフィリピンのダバオに行っていた。そこまで行くならと、大会後にインドネシアにも5日間だけ立ち寄った時に、先月号で書いたアンゴロ・カセがあったというわけなのだった。

ダバオはフィリピンのミンダナオ島にあって、南フィリピンの経済の中心地である。世界で一番面積の広い行政都市で、港と国際空港がある。港からは主に木材が輸出されるらしい。戦前はマニラ麻の生産で多くの日本人が入っていて、その数は東南アジアで最大規模だったらしい。そのせいでもないだろうが、どことなく風景が日本的に感じられる。ダバオ湾のなだらかなラインは、私の目には伊勢志摩のイメージにダブったし、雨が時々しとしと降るという降り方も、日本的情緒がある。聞けば、フィリピンにはインドネシアのようにはっきりとした乾季・雨季の区別がなく、雨もスコールのように激しく降らないらしい。今回は、そんな風に日本やジャワとフィリピンを比較して気づいたことをとりとめもなく書いてみる。

  ●食べ物
フィリピンで一番驚いたのが、唐辛子を使わないということだった。アジア=唐辛子というイメージがあったけれど、フィリピンは重要な例外なのだ。そして魚介類をよく食べている。そういう味覚に合うのか、日清のシーフード・ヌードルがフィリピンでは人気のようだ。友人が来しなに、成田でシーフード・ヌードルを箱買いして機内持ち込みしているフィリピン人を何人も見たと言う。私は、実は関空で遅れそうになって、他の乗客を観察する余裕がなかったのだが、その後マニラ空港で、そういう人を何人か見かけた。ダバオのミニ・スーパーでインスタント・ラーメンのコーナーを見てみると、フィリピンの日清が地元ブランドと棚を二分して健闘している。インドネシアでは、少なくとも私がよく買い物に行くスーパーに、シーフード味のラーメンはなかったように思うし、日清ブランドもなかった気がする。日本のラーメン業界がインドネシアに進出していないのかもしれないが、日本の味覚がそれほど受けないのかもしれない。むしろここ最近は、インドネシアで韓国のラーメンを目にする。というわけで、辛くないシーフードが好きという点で、フィリピン人はジャワ人より日本人に味覚が近いようだ。

  ●チョコレート
フィリピンの旧宗主国はスペイン。というわけで、フィリピンの人たちもチョコレートが大好きのようである。毎日の休憩時間にはいろんなおやつが用意されたのだが、その中にホット・チョコレートもあって、銀色のボールになみなみと湛えられていた。お玉ですくってコーヒーカップに入れて飲むのである。疲れたし甘いものもいいかな…と、ある日飲んでみたところ、めまいがしそうなくらい甘かった。日本のココアをもっと甘く濃縮した感じである。

ミニ・スーパーに行ったときにチョコレートの棚も見てみると、ここではフィリピンの地元チョコと、明治チョコが棚を二分している。そういえばジャワでは、私は日本製のチョコレートを目にしたことがない。ネスレのキットカットはあったけれども。チョコなら、旧宗主国オランダのバン・ホーテンの板チョコをよく目にした。明治のブラック・チョコも置いてあって、苦いチョコもいけるらしい。ミニ・スーパーには、ホット・チョコの素も売っていた。オレオ・ビスケット位の大きさのチョコ・タブレット(砂糖入り)が中にいくつか入っていて、それを1個ずつカップに入れてお湯で溶いて飲むとある。買って帰ろうかと思ったが、昼間の甘さを思い出してやっぱり止めにする。

  ●高床の建物
郊外にツアーに出たときのこと。道路沿いの景色を眺めていると、畑の中にある小屋は明らかに高床式になっている。町の通り沿いにも高床式の家があって、住居は2階部分だけで、1階部分には柱だけしかないという家もあった。そのがらんとした1階部分を八百屋にしていたり、家具製作やオートバイ修理の作業場に充てていたりする。そうでなくても住宅は高床をほうふつさせるものが多い。住宅はほとんど2階建てで、1階と2階で建材やデザインががらりと異なっている。1階部分はどの家も似たりよったりで、木材も塗装されていないが、2階部分はそれぞれの家できれいにペンキを塗り、窓のデザインや装飾にこだわりが見られる。1階部分より2階部分が張り出し気味に建てられていて、重心が高く感じられる。こんなふうに2階部分が家のステイタスを感じさせるつくりになっているのは、やはり住居部分のメインは2階にあると考えられているからだろう。とすれば、これもまた高床からきた美意識だろうなと思ってしまう。けれど、そういう家々の間に、ヨーロッパ風の造りのカトリック教会が点在する風景は、インドネシアのモスクを見慣れた目には妙な感じである。また高床の家というのも、東南アジアの特徴だと聞いているのだが、ジャワの辺りでは見ない。インドネシアの島嶼部では高床式の家が見られるが、ジャワでは地面を固めて三和土(たたき)にして、床にする。その上に金持ちは大理石やタイルを貼る。プンドポだってそういう作りだ。

  ●お土産屋さん
ダバオが交易都市だと強く実感したのは、お土産屋さんに入った時のことだった。泊まったホテルの隣には大きなショッピング・センターがあって、お土産屋さんが軒を並べており、主に布製品やアクセサリ、カバンなどの小物を置いている。ここではもちろん地元の伝統織物なんかも売っているが、手ごろな値段の布製品はほとんど皆インドネシアかタイからの製品なのである。染めのTシャツやスカート、パンツなど、明らかにジョグジャあたりの工房で作って、バリあたりでよく売られているものだ。ジャワでありふれているバティック・プリントのポーチや衣服もある。おまけにバティックそのものも売られているではないか。私が見つけたものはジョグジャカルタの文様のカイン・パンジャン(約1m×2.5mの大きさ)で、バティックとしては最低ランクの質のものだった。それが、なんとインドネシアよりも安い値段で売られている。その一方で、一見していかにもこれはタイの織物、タイの柄と思われる布でできた服やカバンも多い。

あるお土産屋さんでインドネシア人と一緒に買い物していたときのこと。私がある服を手に取りながら、「これはインドネシア製よね?」と聞いてみると、「はい、そうで〜す。」と店員。それにインドネシア人が驚いて、「そ、それじゃあこの製品は?」と彼が手にしていた布を見せると、「それはタイ製で〜す」。「ここには純ダバオ製のものはないの?」と、さらに彼がつっこむと、「ここにあるのはみ〜んなインドネシア製かタイ製で〜す。ダバオと書いたこのTシャツだけが地元産で〜す。」という返事。それに対してインドネシア人は、「君たちにプライドはないのかい!?」と怒っていたのが、何ともおかしかった。確かに、フィリピン特産のお土産を買おうとするインドネシア人には、選択肢の少ない土地であった。けれど逆に考えれば、近隣諸国から何でも安いものが流入してくる土地で、それはそれで便利ではないかとも考えられる。旅行者の方も、ここではインドネシア産のものが安く買える!と思ってしまうのが良いかもしれない。

新正月、餅(ムーチー)、御願解ち(ウガンブドゥチ)

仲宗根浩

新正月は静かに過ぎた。元日は実家に行き仏壇に線香、お年賀をお供えし手を合わせる。二日は子供を連れ親戚のお年賀まわりをし終わった。元日と二日は急に寒くなりこの冬初めて、暖房を入れる。うちのまわりでは親戚まわりも新正月で済ませるところばかりになった。子供の頃はまだ旧暦でやるところも多かったので父に連れられて親戚まわりをした。旧暦でお正月を祝うのは漁師町くらいかもしれない。かといって旧正月は何もやらないわけではなく、内々に重箱にご馳走を作り、仏壇には手を合わせる。

そうこうしていると十五日(旧十二月八日)、餅(ムーチー)になる。スーパーや市場ではサンニン(月桃の葉)が並ぶ。既に作られたものも売っている。サンニンで包まれた餅はカーサムーチー(カーサは葉の意)と呼ばれ、仏壇にお供えし、厄払い、健康祈願をする。子供が生まれた家は初餅(ハチムーチー)を親戚に配る。実家の母親がお供えした餅をもらい、鴨居から吊るす。子供の年の分だけ吊るすのだが、食べきれないので今年は十個くらい。それでも一日では食べきれない。食べ尽くすまでの数日はサンニンの匂いが部屋に充満する。子供は給食でも餅が出たとうんざりしていたが、わたしは餅があまり好きではないので無理矢理食わせる。カーサムーチーは餅粉を練って、葉に包み、蒸して作られる。残った葉は十字に結びサン(魔除け)を作り、家の入り口に吊るすのだが我が家はやっていない。母親は何か料理を作って持ってくる際、持たせる際にはかならず手近にあるビニール紐で小さなサンを結び入れている。この場合のサンは食べ物を運ぶときに守るためのものだ。

一月が終わると旧暦での年中行事があらたに始まる。今年は一月三十一日(旧十二月二十四日)は御願解ち(ウガンブドゥチ)にあたっている。火の神様(ヒヌカン)に一年の報告をして上天してもらう。神様は旧一月四日にまたお迎えする。行事ごとに御願言葉(ウガンクゥトゥバ)が方言である。わたしは、方言に関しては普段は聞くことがなんとかできるくらいでうまく話せない。方言を使えない人が多くなるなか、御願言葉を集めた本も出ている。祭祀を行う際は禁忌もあり、年寄りの記憶も定かでなくなるなか、こういう行事も簡略化され、やらなくなる家も出てくるだろう。祭祀の中心は女性である。兄もわたしも連添っているのは沖縄の生まれではないのでもちろん言葉はわからない。そのときはいちばん新しく墓にはいっている父親に沖縄口(ウチナーグチ)でご先祖様(ウヤファーフジ)に通訳してもらうしかないだろう。

穂――みどりの沙漠39

藤井貞和

夜明けがやさしいなら、

きっと きょう一日を耐えられると思う。

ここは夜明けの準備室、

まだ暗い牢獄、ぼくは精神を出られない。

置き去りのプラットホーム、

駅長室で、始発のベルが鳴りっぱなし。

十字架に押しつぶされ、

自律神経はこなごな、よわいんだからお前。

けさのくるのが怖いひと、

夢のあとさきで希望がつながるならよいのに。

夢のなかでおれは、

穂明かりして、一本の稲でした。

(学生が読みまちがえて、「もろ刃のやばい」。ああ、ほとんど感動的な一瞬だ、われわれはもろ刃のやばい。あちらもやばい、こちらもやばい。エッセイ集の題に『もろ刃のヤバイ』なんて、どうですか? また学生が読みまちがえて、「もろ刃のヤイバ」。)

限りなき義理の愛大作戦

さとうまき

限りなき義理の愛大作戦も3年目をむかえた。
2008年は、イラク戦争が始まって5年目になるから、私たちにも気合が入る。
先日、アルト・サックスの坂田明さんが、限りなき義理の愛大作戦コンサートで吹いてくれた。
「死んだ男の残したものは」
谷川俊太郎氏の詩。坂田さんは搾り出すような朗読を披露。

死んだこどもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思いでひとつ残さなかった。。。。

会場に置いたチョコレートはあっという間に売り切れた。
チョコレートのパッケージは、イラクのがんのこどもたちが描いた絵。
中には、死んでしまった子どももいる。
実は、イラク戦争が始まってから、一体どれだけのがんのこどもが助かったんだろうと調べてみた。絵を描いてくれた子どもたちの多くがすでになくなっている。薬がなかったときは、平均18日しか生きることが出来なかったという。薬の支援が始まってから19ヶ月に伸びた。
死んでしまったらおしまいだろうか? 19ヶ月の間に、病院で描いてくれた絵がある。こどもたちが、残したものである。

今年は、私の家が事務所になってしまった。電話の受付時間は、10時から18時。でも8時ころから電話がかかる。とらなければいいのだがついとってしまう。
「もう、チョコレートがありません」とはいいづらく、最後は一個ずつでもより多くのひとにでもとバラ売り。三万個が売れた。結局ホワイトデー向けに増産を決定。図柄は、昨年1月2日に他界したドゥア・ハッサン、9歳の女の子を使おうと思う。花の絵ばかり描いていた。最後は、血管が硬くなり、薬の注射も困難になった。内出血で紫に色に腫れ上がった顔の少女は、「生きたい。助けて」と神にすがった。

少女の残したものをかみしめたい。

反システム音楽論断片ふたたび

高橋悠治

『世界音楽の本』では 身体と感性あるいはリズムと音色あるいは時間と空間 は一つの身体の経験からはじまる 単純な要素を組み合わせ組み替えて複雑な全体を構成するという方法からはまだ自由になれなかった 一がない多数 中心がない周辺 全体がない部分 目標がない流動 偶然の集まりの相互調整からはじめて だれのものでもない身体 いまでもなくここでもない時空 これでもなくあれでもない 答えがない問い 道のない歩みを創りだすために また書きはじめる

作曲家・哲学者である石田秀実が『気のコスモロジ――内部観測する身体』(岩波書店、2004年)に書いた山水画のなかをさまようひとのように また「水牛のように」のコラムに書いた『音たちの中に埋もれながら、音と出会い、自らの視点を移動させながら、音の姿を眺める』をてがかりにして 「生きて揺れうごく空間」としての音・身体・世界を観ようとする

クセナキスのように確率を使うか ケージのようにランダムな選択を受け入れても いずれは響による拡大されたハーモニーや 音の線という拡大されたメロディーに回収されていった いまのコンピュータにプログラムできるような自動化は そのプログラムの枠にしばられて 予想を越えて流動する音に追いつけない 音響ファイルは歪んだり解体することはあっても 別な秩序をもつ音響に変身する能力はないようだ 一度選択されたファイルは選択のフレームをこえる変化は創れないし ランダムな選択はじつはランダムではなく 大数の法則にしたがって いずれはその顔をさらすことになる そこですべてが予定調和する響に収まる

確率や他の方法によるランダムな選択に対して 反復は古典的な歌曲もミニマリズムのパターンもすでに紙に書かれた抽象化されたパターンであり 記憶の痕跡にすぎない 生きてうごく音は 状況に埋もれた耳に呼び起こされて 二度とおなじかたちをとることはない 断片化され 組み合わせを替え 即興される再話 それも流れのなかにときどき見える魚の影や飛び石のように はっきりと名指しできる前に姿は消えている
 
複雑性の科学は 複雑性を単純なパターンに回収しようとしているのではないか カオスもフラクタルも単純なものほど美しいと感じる論理の経済から出られないようだ 哲学はと言えば 科学よりさらに後を歩いている 計量化されない 一般化されたり抽象化されない 音の流れを分析してアルゴリズムを作ることはできても アルゴリズムから作られた音は貧しい 美学からアートを創ることはできない 色や音を通してさわる 一回だけのこの世界との出会いは 数学や哲学のはるかさきを歩んでいる 

フレームをつくらない関係 受け入れ 排除しない関係 ソクラテスの問 エピクロスの庭とルクレティウスのクリナメン ブッダの気づきとサンガは 崩壊する古代社会から生まれた一時的な避難所 現代では実践共同体の実験はむつかしい パリ・コミューンも自由光州も流血のなかで鎮圧され 日本中世の一向一揆も公界(くがい)も 最終的には 権力の介入を避けられなかった メキシコのサパティスタの自治も危機を迎えているらしい どのようなバランスも一時的なものであり 外部からの介入がなくても 内部の小さな揺らぎからも いずれは崩壊することになるだろうが 一元的 あるいは二項対立的な支配にで抑圧されるのではなく ますます多様なパターンのゆるやかな連合の転じに道をひらいていくことが できるような出口を残しておくことを あらかじめ考えに入れておくことが どうしたらできるだろうアートの実験は失敗がつきものだが 犠牲はすくない 小さな場で時空の層をかさねて 世界の違う見えかたをためすことができる 箱のなかの宇宙

音楽は人間の身体がすることだから 生きている身体のはたらきと考えられる心のうごきとともにうごく 人間はひとりでは生きられないから 音による人間関係が音楽のすべてとも言えるだろう

音楽を音を出す側から考えると 人間の関係は隠れ 音という物体が世界のなかにすでにあるかのように その性質が論じられ 構造や構成が固定される傾向がある

プロセスとしての流動する音は 客観的にあるものではなく エゴのない複数の身体 あるいは時間的にも空間的にも 幾方向にも分割される身体のベクトルが 音が聞こえる状況のなかでうごいている

音を意志的に聴くというより 聞こえる音を かならずしも意識することなく 身体が受け入れるとき 音に埋もれてそのなかをさまよいながら その残像や痕跡が出没する道とも言えないかぼそい糸を風になびかせておくとき 微かな振動にみちた空間を感じ そのきめの隙間に入り込む触手のような指のうごきが 音の感触として身体にもどってくるとき 音楽は音の先端について 予見できない間道に入り込む 楽譜があってもなくても 楽器があってもなくても 作曲も演奏も即興も それぞれにちがいながら どこか似たかたちが見え隠れする

手がうごきだせば 時間も空間も音も その音の置かれる場も起き上がる それは隙間だらけの時間と空間 おぼろげな枠はあっても はっきりした輪郭のない場に すぎていく音 あるかたちの記憶が いつもすこしずつ変わりながら 姿をみせる どこかで見たが どこか思い出せない 何とも言えない めざめる直前のもどかしい夢のように 時間も空間も崩れて いつか他のかたちに変わっている

イラクの貧困

さとうまき

クリスマスイブに日本をたつことになった。悲しいことに日本人が年末年始で休んでいる時くらいでないとなかなか現場にいけないのだ。深夜便でパリに向かう。飛んでいる間にクリスマスがやってくるわけだから、飛行機の座席に靴下でもぶら下げておくと何かいいことがあるかもしれない。こんな日に飛行機に乗る親子は、子どもにどのようにサンタクロースを説明しているのだろうか? 第一飛行機には煙突なんてないわけだし。窓の外にはトナカイに乗ったサンタクロースが大忙しで働いている。

実は前の日に財布を落としてしまった。散々なクリスマスになってしまったのだ。そうなると前向きに考えるしかない。財布を拾った人はとても貧しくて、借金取りに追われて、一家心中しようとしていたのだとすれば、私は彼らの命を救ったのである。もっとも、それほどお金が入っていたわけではないのだが。しかも、海外で連絡が取れるようにと携帯を新しく買い換えなくてはならない。年末に痛い出費が重なった。

パリに早朝に到着。携帯のスイッチを入れると着信記録が残っている。かけなおすと、世田谷警察だった。財布が出てきたのである。サンタクロースのプレゼントに違いない。

クリスマスイブには、靴下に携帯電話を入れておくのがいい。素敵なメッセージがあなたに届きます。セキュリティを考えたら、夜な夜な人の家に忍び込むのを生業とするサンタクロースは、テロリストと間違えられないとも限らないのである。故にサンタクロースは大忙しで、パソコンからメッセージと暗証番号を配信。携帯電話で暗証番号を受け取った子どもたちはデパートで、商品に交換? うーん、やっぱりこれではあまりにも夢がないなあ。

それはともかく、この財布、実は買ってからなくすのは今回で3回目。そのたびに出てきた。今回出てこなかったら、厄介な財布になっていたが、出てきたということは、開運の財布に違いない。戻ってきたお金は、UNICEFにでも寄付するか? 待てよ、UNICEFに寄付したところであんまりありがたがられないだろうし、むしろUNHCRとの付き合いもあるしなあ、募金じゃつまらないから、やっぱりチャリティコンサート? それともJIM-NETのチョコ募金をしないと怒られるかなあ! お金があるということは楽しいことだ。

飛行機を乗り継いでアンマンに到着。イラク難民を早速訪問した。最近では、ヨルダン政府が、イラク人の入国を制限している。金持ちのイラク人はビザが降りるようだが、貧乏なイラク人にはビザがおりなくなった。でも例外は、治療のための滞在である。しかし、治療費を工面するのも大変、物価の高いアンマンでは、生活するにもままならぬ。そこで、JIM-NETが内職を彼らに提供することにした。バレンタインのチョコレートを入れる布袋を彼らに作ってもらい、買い取るというわけだ。2000枚を5家族ぐらいにお願いしている。早速、ちゃんと彼らが働いているか様子を見に行くことにした。間もなくバレンタインデー、納期が迫っている。

アンマンの郊外。アパートの入り口のスペースを部屋にして住んでいる一家。父はいない。55歳の母親と30を過ぎた3姉妹が暮らす。姉妹は、3人とも湾岸戦争後に奇病にかかり、体が麻痺し始めた。歩くことが出来ずに車椅子の生活を送る。狭い部屋に車椅子が3台も置かれているのだ。この娘たちは、お土産としてのビーズ細工や、ハート型の小さなクッションに文字をいれたり、ろうそくを作ったりして生計を営んでいる。以前は母親が、売りに外に出ていたが、娘たちの症状が悪化してゆき、一人で水を飲むことすら出来なくなったので、家でたまにそういった小物を買いに来るビジネスマンを待つのみだ。観光客は、得てして買い叩くから、そういった商品はあまり売れるものでもない。娘たちは、手にも麻痺が始まっているので、針仕事は出来ずに、母さんを手伝っている。この母さんは、裁縫が得意でさくさくとJIM-NETの注文した袋を仕上げていった。

多くのイラク難民たちは、ヨルダン政府が働くことを禁止していることを理由に働きたがらないで、援助ばかりを求めてくる。そして、結構贅沢な生活をしている。しかし、私は、いくつかの、貧しい家族たちが、一生懸命働いて、質素に生きている姿も目の当たりにしてきた。街中で座り込んでタバコ、ライターとか、綿棒を売っているおばさんたち。多くのイラク人は、そういった仕事をバカにするけれど、やっぱり生きていこうとする姿は美しいと思う。

なくした財布に入っていたお金を思い出した。そのお金で、今回は、3姉妹の作ったお土産をたくさん買って帰ろうと思う。

2008年、よい年でありますように。
アンマンより愛を込めて

病人を抱えるイラク難民の家族が内職として作ってくれたかわいい布袋は、こちらをご覧ください。
http://www.jim-net.net/

13のレクイエム ヘレン・モーガン(1)

浜野サトル

  
ミステリ小説の中でミステリに出合うことがある。
といえば当たり前だという声が聞こえてきそうだが、後者の「ミステリ」は小説が追求する「謎」そのものを指すのではない。読者としてよりも訳者としての場合がより印象が強いのだが、小説を構成するもろもろの要素の中に全くの未知のものがあって、それがミステリアスな興趣を呼ぶということである。
ヘレン・モーガンの場合がそうだった。僕がミステリ小説の訳者をつとめていたのは1970年代の終わりから80年代初頭のほんの数年間、作品でいえばわずか4〜5点だからたいしたことはないのだが、その中でつきあたった最大のミステリが、この女性シンガーの存在だった。

ミステリの贈り主は、ローレン・D・エスルマンである。
アメリカ合衆国北部で活動するエスルマンは、刑事事件を専門に手がけるジャーナリストとして生計を立てながら書き出したウェスタン小説で知られるようになり、やがてハードボイルド・ミステリの分野に進出してきた作家。その作風は一言でいえば「B級映画風」の味わいであり、つまりは道具立てや展開の目新しさはなく、どこかで読んだことがあるという感じがつきまとう作品を書く。ヘレン・モーガンが唐突に登場するのもまた、実にB級映画的な場面でのことだった。

 私はキッチンに入って小ぶりのずん胴型のグラス二つに水を流しこみ、ハイラム・ウォーカーズで色をつけた。グラスを手に居間へもどると、カレンは安物のステレオのかたわらに立って、オープン・キャビネットに並べてあるレコードを所在なげにめくっていた。
「一風変わったコレクションね。聞いたことのない歌手が何人かいるわ」
「きみが生まれるころにはもう死んだあとだった歌手もいるよ」
「どれか聴かせてもらえて?」
「好きなのを選ぶといい」
 カレンはまた何枚かめくって一枚ぬき出し、ジャケット写真にしげしげと見入った。「きれいな人ね。なんて繊細な顔立ちかしら。他人のせいでつらい思いをしたことがありそうね」

(『シュガータウン』ハヤカワ・ミステリ、1981年、拙訳)

デトロイトの私立探偵エイモス・ウォーカーが、不意に家を訪ねてきた依頼人の老婦人の介護士カレンとの恋に落ちる、ロマンティックな場面である。そして、小説の叙述は続く。

 ヘレン・モーガンだった。私が訊いた。「つらい思いをしたなんて、どうしてわかるんだい?」
「花びらが踏みにじられた、という顔だもの。少なくともこの写真ではね」彼女が、指先でジャケットをたたく。
「聴いてみるといい。ターンテーブルにのせればすむことだ」
「ありがと」とそっけなく言ってレコード盤をぬきとり、ターンテーブルのスピンドルにはめこむと、彼女は”ON”のスイッチに手をふれた。ヘレン・モーガンが声をふるわした。
「悲しい声だわ」私のさし出したグラスがその手にわたった。
 私はグラスをかかげて、「死せる歌手の歌に」
「歌に」

音楽が日常生活という雑音の中で響くように、小説=ロマンは日常生活の雑事があって成り立つ。そして、この作品の語り手でもある主人公の日常生活を彩る一人の歌い手。しかし、その名は、訳者である僕には初耳だった。
ヘレン・モーガン?
小説で描かれるのは、もちろん絵空事である。しかし、ヘレン・モーガンをめぐるエスルマンの叙述には、この歌い手に対する愛情と哀惜が、うっすらとではあるがにじんでいる。それが架空の人物とはとても思えなかった。
ヘレン・モーガン? 誰なんだ、この歌手は?

  
翻訳者の仕事は、その作品の最良の読者となることである。叙述に関しては細部まで正確に把握し、理解しておかなくてはならない。場面の光景や小道具の一つが作品のキーになることだってある。ましてや意味ありげに引き合いに出された歌手の名だ、どんな人物なのか知る必要があるし、わかったことは何らかの形で読者に提供する義務がある。
しかし、ヘレン・モーガンについては皆目わからなかった。音楽に関係した仕事を長く続けてきたせいで、周りにはうるさ型の聴き手がいくらでもいる。だから、これと思う人物をつかまえては聞いてみた。名前さえ誰も知らなかった。
音楽事典の部類にもあたってみた。ペンギン・ブックスの事典が一番役に立つと聞けば、買ってきて開いたりした。しかし、ここでもすべて空振りだった。こうして、ヘレン・モーガンはまさしくミステリ=謎となった。

その謎がすっと解けたのは、それから15年ほどたってからだった。
道具になったのは、インターネットである。コンピュータ・ネットワーク以前の資料、例えば図書館では、ある程度知りたいことの輪郭がつかめていないと調べようがない。これに対して、ネットではキーワードを1つ放り込めば、関連性のあるページや項目がいくらでも出てくる。
あるとき、試みにHelen Morganと入力して検索をかけると、たくさんの情報が得られた。まずは、”Helen Morgan Story”という何か作品の標題らしき文字列が表示された。ホームページのタイトルでないのは、そのあとに続くAmazon.com…という表示から察知できた。アクセスすると、劇場映画を収録したビデオのタイトルだった。
ほとんどがアメリカのサイトだが、ほかにもヘレン・モーガンに関する短い叙述が多数あった。それらをひろっていくと、彼女がどんな人物なのか、霧が少しずつ晴れるようにして浮かび上がってきた。

――1927年、のちにはブロードウェイでロングランとなるミュージカル『ショー・ボート』に主演。花形スターとなる。

――歌手として多くのレコーディングを残した。「ビル」「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン?」などが大ヒットを記録。

――コーラスの一員として出発し、クラブ・シンガーとして成功。『ショー・ボート』『スウィート・アデライン』の主役として脚光を浴びた。

――禁酒法下のアメリカでミュージカルの出演と並行して、自らが経営するクラブで歌い続けるなど、エネルギッシュな活動を続けた。

――1900年、カナダのトロントに生まれた。舞台を去ってから重度のアルコール中毒となり、42年に肝硬変で死去。

これらの断片的な情報は、いってみれば「点」である。人の一生を把握するには、その点と点をつなげて「線」にしなくてはならない。
しかし、ヘレン・モーガンに関して、点を線にすることは難しかった。例えば、人もうらやむまばゆい成功を手にした彼女は、なぜアルコール中毒に深く染まってしまったのか? 人の数倍ものエネルギーを費やして猛烈に働き続けた彼女が欲しがっていたのは、いったい何だったのか?
ヘレン・モーガンはやはり「ミステリ」だった。

(続く)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
    The HELEN MORGAN Page

アンデス音楽から垣間見るペルー、そしてその外

笹久保伸

「ペルー」と聞いて日本人は何をイメージするだろうか。
テレビなどよく取り上げられる「インカ帝国」その首都「クスコ」や「マチュピチュ遺跡」「インカの黄金」宇宙人が描いたなどとも言われた「ナスカの地上絵」、日系人の「フジモリ大統領」、そして音楽であればサイモンとガーファンクルによって有名になった「コンドルは飛んでゆく」大体そのくらいであろうか。

どこの国の音楽にも共通して言える事であろうが、外から他人が見て考えるのと、内の状況はかなり異なる。私は幼少の頃からペルー音楽に関わっていたが、この数年間実際ペルーに住み、音楽調査、研究し、ある線を越えてその人々と付き合い、かなり価値観が変わった。ペルーには、海岸地帯、アンデス地帯、ジャングル地帯があり、それぞれ人種、言語、文化も異なる。もともと1つにまとまるのが難しいであろうこの国は16世紀にはスペインに侵略され、18世紀までの約300年間の植民地時代、その間の土着の文化はほとんど殺さる、という歴史を持っている。独立後150年以上経った現在も国はまとまるどころか、さらにバラバラになっている。そして先住民は貧しく、白人はより利益、権力を持つというシステムも変わってなく、今後もさらに深刻化してゆくことは目に見える。

私が音楽を学んだ「民謡の宝庫」と言われるアヤクーチョ県はペルーの中でも最も貧困な地域の一つといわれる。ワマンガ町には植民地時代に建てられた古い教会が30以上もある事からみて、この小さな町が宗教的にとても重要な土地であったことがわかる。これらのアンデス地方では、スペイン人によって持ち込まれたキリスト教と、もとからあった土着の宗教感が混ざっていて非常に面白い。基本的に子供は生まれたときに教会で洗礼を受けるのだが、葬儀の風習は地域により独自なものがあり、例えば死者を椅子に座らせ、ひもで縛り、数人でその椅子を担ぎ、音楽演奏(もしくは歌)とともに町をねり歩く奇妙な風習もある。

良い音楽家や踊り手になるためにはアンデスの精霊と契約しないといけなくて、契約するために、山にある精霊のいる滝のところへ行って(水は弦、声を調律すると言われるため)祈り、捧げ物をするなど、独自の宇宙感を持っていて、私にとっては魔法の世界のようだった。田舎の老人と話すと「私のおじさんは精霊と話をしている時に、滝に穴があき、その中に入った。家族は心配して探しまわったが結局みつからず、5ヵ月後に突然帰ってきた。話を聞いたら、滝の中で人魚(精霊)が現れ、楽器の演奏を教えてくれたそうだ、信じられないが、本当に楽器が上手くなって帰ってきたのだ」と、こういう話はよく聞く。彼らは純粋にそれを言う。文化の違いとはこういう面にも現れるのだ。

アヤクーチョ県には独自のギター奏法が発達しとても興味深い。ギターをはじめとする弦楽器(バイオリン、ハープ)はもともとスペイン人がキリスト教を普及させるための道具として持ち込んだのだが(古い教会にその当時演奏されたミサ曲などの楽譜も残っている。)、スペインから持ち込まれたそれらの楽器も長い年月のなかで用いられ方は変化し、独特な音楽形式、奏法となって今に残っている。ギターの調弦方法は数十種類あり、町、村により演奏法が異なる(その中にはビウェラもしくはリュートから伝わったであろう調弦(6弦D、3弦F♯)などもある。)

これらのアンデス地方の村々からはとても良い音楽家が出ている。彼らの中には音楽と言う手段を用いてインディヘナの文化の再起を願う人も少なくない。それは俗に言う「インディへニスモ思想」で、国が独立したのにもかかわらず今もなお白人層が国を支配するシステムに反対しており、貧しい人々およびアンデス地域、アマゾン地域のインディヘナの人々には特に多い。そういった思想がある一方向に過激化してゆくと1980年代に起きたテロ問題などに発展してゆく。このテロ問題とアヤクーチョの音楽も密接に関係している。それはこのテロ活動はアヤクーチョを拠点にして始まってからである。「アヤクーチョ」この言語はアンデス地方で使われるケチュア語であるが、訳すると「死者の墓場」で、ここが歴史的に戦いの場所であったことがわかる。80年代に作られた音楽にはプロテスタソング(抵抗の歌)がとても多い。中でも19歳の時に軍に殺害されたエディ・ラゴスの「田園の草」と言う曲は今でも歌われ、その時代の歌として重要である。当時の思想が織り込まれた歌詞

  「純粋な香りを持つ田園の草、一緒に私の道を歩いてほしい・・・
  私が死んだら、私の墓に花が咲くだろう」

それに伝承風のメロディー、リズムで演奏するスタイルはこの頃の民謡に多い。この場合(田園の草=庭園に咲く花ではない)貧しい人々のことを意味し、多くの民衆の心を動かした。

私はアヤクーチョで伝承音楽の採集を行ったり、旅したり、演奏したりしてきたが、ホテルの無い田舎の村へ行ったときは村で知り合った人が食事をさせてくれたり、一緒に演奏したり、話をしたり、まったくの他人である私にとてもよく接してくれた。また、ある村の場合は、「我々の音楽を盗みに来たのだろう」と言われたこともある。こちらとすればそんなつもりはまったくなく、ただ音楽に興味があり研究しているのだが、考えてみれば確かに彼らの言う意見にも一理あり、そう言われてもある意味仕方が無い。彼らにとったら必死である(私も必死だが)。田舎の村などは文化が違うので、我々の常識などはまったく通用しない。泥棒は皆に殴られ殺されることもあるし、写真家などの場合、踏み入れてはいけない所に知らずに入り、大変な事になる場合もある。アンデスの人々は純粋でとてもやさしい一面があるがその一方、まるで石のような魂、彼らだけで分かり合えて、外部を受け入れない固く閉められた石の扉を持っている。

時代が進む中で田舎の村々にもテレビ、インターネットがだいぶ普及しはじめた。田舎に住む若者もアメリカやヨーロッパにあこがれ、ロック、ジャズ、レゲエなどを聴いている。インカ帝国の首都クスコなど今やペルー最大の観光地になり、ディスコの聖地との別名がある。夜町を歩けばヨーロッパやアメリカ、アジアから来る若者がディスコ巡りをしている。時代が進み、物が増え、アンデスの人々の生活が豊かになれば、とは思うが、今の現状を見ると、これは彼らにとって本当に良いのかと疑問でもある。インターネットのある村と、まだインターネットの無い村では大きな違いがあり、どちらが良い状態なのか、決して簡単には言えない。その昔、穀物を脱穀するときに歌われた仕事歌も、いまでは機械が脱穀作業をするのでその歌を歌う必然がなくなった。そうすると、これらの音楽はこの世から消える。長年の伝承も消えるのはあっという間だ。テクノロジーを受け入れなければ時代から取り残され、受け入れれば失うものも多い。

ペルーは色々な意味で大変刺激的である。すこし町を歩けばこれくらいの事実にすぐ直面する。
パンを買うお金を持っていない人、高級車に乗り高級マンションに住む人。
安い賃金で働く田舎出身の労働者、彼らを扱う人はプール付の広い庭のある家に住む。
道端で物乞いをしながらケーナを吹く盲目の男、見てみぬふりをするお金持ちの人。
貧しい人々に物資のプレゼントを配り自分に投票させる政治家。
都市にある大ショッピングセンター外、田舎には電気、水道も無い、病院も無い。とにかく物は無い。
何がどうなっているのか、全然分からなかった。これらの問題は、田舎の村に学校を建てるプロジェクトとか、物資をプレゼントするプロジェクトとか、そういう問題ではない。唯一皆分かっていることは、ペルー(世界)の抱えている問題はとても大きく、このままでは何年たっても変わらない。

メキシコ便り(5)

金野広美

12月にはいると長い冬休み。これを利用してコスタリカに行ってきました。広さは日本の九州と四国を足したくらいの小さな国で、メキシコからは直通の飛行機で3時間で行けます。首都サンホセは高いビルもなくこじんまりとした街で、ここは朝が早いせいか、夜10時を過ぎると明かりも消えてひっそりとしてしまいます。私がメキシコシティーにいるためでしょうか、静かというよりもさびしいという印象をうけました。

コスタリカは憲法に軍隊をもたないことを明記し、1983年には永世非武装中立宣言をしました。1987年には現在の大統領でもあるオスカル・アリアス・サンチェス大統領が中米の平和に貢献したということでノーベル平和賞を受賞しました。またこの国はコーヒー、バナナ、ハイテク製品などの輸出とともにエコツーリズムが外貨獲得の大きなウエートを占めています。コスタリカには全生物種の5パーセントが生息しているといわれ、国土の27パーセントが保護区や国立公園になっています。自然を生かした観光産業をエコツーリズムという形で推し進め、入場料などから得た収入を自然保護のために活用しています。ここのガイドは英語はもちろん生物学もしっかり学ばなければならないのですが、このガイド協会がガイド料の中から拠出した資金はレンジャーの人件費や、植林などの自然保護プログラムにあてられます。ここでは自然保護と観光産業が相互補完の関係になっているのです。

私はまずケツァールが見られるというモンテベルデ自然保護区に行きました。ここには常に雲と霧に覆われている湿度の高い熱帯雲霧林と呼ばれる密林があります。しかし、私の行った日はとても天気がよく、さわやかな風が猛スピードで雲を流し、湿度の高さは全く感じられない快適さでした。風がゆらす木々がまるで歌を歌っているようにそよぐなかに鳥たちのさえずりがとけこみ、今まで経験したことのない、自然が奏でる音楽に包み込まれた至福の時をすごすことができました。ガイド見習いで明日から一本立ちするというエステバンが熱心に先輩ガイドのエルビンと一緒に望遠鏡でケツァールを探してくれ、なかなか見ることができないといわれているケツァールに3回も会えました。頭が緑で胸が赤、尾が白と青の本当にきれいな色の鳥でした。

次の日、ガイドの必需品の三脚付きの大きな望遠鏡を持ったエルビンが、胸にこの森に住む生きものたちの図鑑を入れ、入り口でお客を待っているのに出会いました。ちょっと緊張しているようでしたが、誇らしげに私を見て微笑みました。私はコン・アニモ(がんばって)と声をかけ、こぶしをにぎり激励しました。

次に訪ねたのが、カリブ海に面し、海がめが産卵にやってくるというトルトゥゲーロ国立公園です。時期的に海がめの産卵は見られませんでしたが、モンテベルデとはまったく異なる密林を見ることができました。ここは高温多湿の豪雨地帯で、毎日のように激しいスコールがあります。ジャングルの中は道がないので、人々の移動はランチャとよばれる小さな船です。観光客もこの船に乗り、ラグーナといわれる大きな河を分け入りながら進みます。ジャングルのなかでは木々の間を猿がとびかい、ワニもたくさん顔を水面に出しながら泳いでいます。河岸の木には、騒ぎ立てる観光客をちょっと小ばかにしたような表情のイグアナがじとーと止まっています。そして、海がめがやってくるという海岸は大きな波が打ち寄せ、白い砂浜が延々と続いていました。

夜、ホテルの船着場でニカラグアから15年前、18歳でここに来て、夜から朝までホテルの船の番をしているというホセ・サントスに会いました。ここトルトゥゲーロの住人は4000人ほどだということですが、ニカラグア人は900人いて、ほとんどホテルのボーイやガードマン、洗濯婦などをしているということでした。コスタリカには隣国ニカラグアの政情不安や貧困を逃れやってきた人が多く、現在430万人(2004年)のコスタリカ人口の約1割弱、不法滞在も含めて40万人以上が暮らしているといわれています。首都サンホセでは多くは建築現場などで働き、観光地ではホテルなどで働いています。ホセの兄弟はみんなニカラグアにいるそうで、兄弟の話をするホセはとても楽しそうでした。彼が私に「耳をすましてごらん」というので耳をかたむけると、かすかに海鳴りが聞こえてきました。彼は毎日、故郷でも聴いただろうカリブの海鳴りを聴きながら、祖国の兄弟を思い出しつつ、一人で一晩中、船の番をしているのかとおもうと、私はちょっとせつない気分になってしまいました。

私はこのコスタリカへの一人旅で一杯スペイン語を聞き、話そうと意気込んできました。でも勉強したのはなんと英語でした。というのもコスタリカへの観光客はアメリカ人が67パーセント、アジア人が3パーセント、そのうち日本人はわずか1パーセント、残りがヨーロッパ人なのです。ガイドは達者に英語を話しますから、多勢に無勢、説明は大半が英語で、スペイン語は申し訳程度に少しだけ。両方を交互にやるガイドもセンテンスが短かかったり、長かったりで英語とスペイン語が混ざって聞こえてくるため返ってわかりにくく、私の目論見はさんざんな結果に終わりました。私の行った場所はどこにいても聞こえてくるのは英語ばかり、「いったいここはどこやねん!」と、つい、つっこみをいれたくなるような旅でした。トホホ。

製本、かい摘みましては(35)

四釜裕子

スイス・アスコナにある製本・修復の学校、centro del bel libro asconaで学んだ都筑晶絵さんによるレクチャー「スイスの製本学校の教育」を、白金のTS_gに聞きに行く。この学校には製本科と修復科があり、製本科は、表紙のデザイン、糊なし製本、アルバム作り、両開きの本、メニュー(中身を差し替えられるような作り)、函、タイトル押し、紙の歴史、支柱に木や革を用いたりパーチメントで綴じる12〜15世紀の製本法などなど、いずれも1週間単位で授業が行われ、その中から選んで受講できるようだ。1週間だけ滞在する人もいるが、都筑さんはここに10ヶ月通って11月に帰国したばかり。6年前の夏にパリの製本学校でルリユールも学んでいたとのことで、実際に作った本やスライドを見ながら話を聞く。

写真で見ると学校というより工房、小さくていろいろな道具があっていい感じ。世界各地から、年齢も職種も様々な生徒やゲスト講師もやってくる。プログラムの作り方、テーマの決め方もそれぞれおもしろい。新しい素材、たとえば壁紙を使いこなす方法に限ったり、なにもかも手作りすることなくコンパクトな機械をうまく活用したり、とくになんでもない製本法だがネーミングが楽しかったり。なかで、折り紙の技法を活かした製本を教えている先生(日本人ではない)がいたそうで、そのクラスで都筑さんが作った本をまじまじと見ていた。どんな風に折ってあるのか、見当がつかない。写真やはがきを貼り込めるように、蛇腹に折った紙を背にして本のかたちを作ることがある。藤井敬子さんなどは独自にアレンジして「ジャバラ de ルリユール」と名付け、これまでたくさんのワークショップをやっておられるが、それとも違う。

蛇腹に折ったその同じ紙で、いわゆる本の天と地に「つめ」のようなかたちも作っているようだ。「つめ」は三角。なるほど、折りの手順が見えてきた。全てのページにこの「つめ」があるから、ここにたとえば2つ折りした紙を、糊を使わずにはさみ込むことができる。もちろん、1枚ずつはり込んで使ってもいい。家に帰って早速作ってみる。折り自体は簡単だが、そうそうきれいには仕上がらない。手製本についてのわたしの印象は、洋綴じ系は幾工程毎度辻褄合わせで、わが力量顧みずそれが毎度でうんざり、いっぽう和綴じ系は一発勝負で、わが力量追いつかずムリムリと言ってはなからやりたがらない傾向がある。この「折り」という作業もいわば和綴じ系で、一工程ずつの丁寧が肝要なのでわたしにはむずかしい。都筑さんはこの折りをアレンジして、名刺入れを作っていた。約1メートルの細長ーい紙を、どうしたらあんなにきっちり折れるのだろう。

レクチャーのあと、ワークショップがあった。紙1枚を折って作るCDケースで、Benjamin Elbelさんというひとが考案した方法を都筑さんがアレンジしたもの。あらかじめ紙が型紙通りに断裁されており、言われる通りに折るだけなので面白みはなかったけれど、1枚の紙からこんなふうにかたちが作られてゆくのだということ、その延長に、折ったり糸でかがるだけでも様々な製本が楽しめること、そういう関心への道筋はしっかり照らされたように思う。会場は、2007年春まで長岡造形大学で教えてらした小泉均さんが、より実践的にスイス・タイポグラフィを深めるために設けた場所で、ふだんは活版の学校である。2008年春からは都筑さんが、ここで「製本基礎(仮)」のクラスを始めるようだ。紙を扱うコツや簡単に手でできる製本の方法を教えてゆきたいとウェブサイトにある。小泉さんと都筑さんがどんなプログラムを組むのか、とても楽しみ。

しもた屋之噺(73)

杉山洋一

ここ数日、朝晩の冷えこみは本当に酷く、零度どころではありません。今朝ブソッティ宅での打合せが終わり帰宅すると、この寒さにやられたのでしょう、いつも来ていたオレンジ色の口ばしの愛らしい黒い鳥が、庭先で硬くなって息絶えていました。ずっとこの庭に遊びにきてくれていたし、猫やネズミに穿られては忍びないと、出来るだけ深く庭の端に穴を掘って埋めました。いつもつがいで来ていたので、片割れがどうしているか気になって空を見上げてみましたが、雲ひとつない澄んだ青空が続くばかりでした。

帰りしな、思いがけなくブソッティが、「これはうちに残っている数少ないトーノ・ザンカナーロのリトグラフだ。君にプレゼントしよう」と言って、鉛筆で、「ヨーイチに。2007年12月29日友なるシルヴァーノより」と書き付けてくれました。1967年のパドヴァの街角を描いたリトグラフで、左手に小さなアーケードのある建物が描かれています。「ここには、その昔子供のころ通った恐いピアノ教師の家があってね。あの頃は厭で仕方がなかったんだ」と笑いました。

来月、東京からミラノに戻る道中を共にする2歳半になる息子が、「ドンキホーテ」のバレーと「アルジェのイタリア女」が好きでね、と話すと、ブソッティも「ああパッパターチ、ムスタファね!」とおどけてみせて、「子供のころ大好きだったな。あれは楽しいものね」、と大喜びしました。「その昔、まだ子供だったころ、子供向けの移動オペラ劇場みたいなものがあってね。今から思えば、簡略なものだったろうけれど、本当によく見に行ったな。すごくわくわくしてね」。傍らで話を聞いていたロッコも、「ドンキホーテ」はいいじゃない、もっと色々見せたらいい、と声を弾ませました。

実は内心、この様子に少しほっとしていました。その少し前まで、ブソッティの演奏スタイルについて話していて、「旋律が好きなんだよ。旋律のない音楽が嫌いでね。現代音楽はたいてい旋律がないから嫌いなんだ。自分の音楽も現代音楽じゃないと思っている。旋律があるからね。どんなにプッチーニが好きか、よく知っているだろう」という話から脱線して、「ブーレーズの音楽をみんな勘違いしている。彼の音楽の原点もやっぱり劇場なんだよ。有名になるずっと前、ピエールは素晴らしい役者たちの出る演劇の伴奏でオンドマルトノを弾いていたんだ。そして、その劇団と一緒に各地を周っていたんだからね。その体験から彼の音楽がどんどん広がっていった、ということを忘れてはいけないと思う。彼の音楽の原点を履き違えているものばかりだ」と言ったあと、「シュトックハウゼンだって同じだ。彼と劇場だってどうやっても切り離すことはできないだろう」、と言った途端、みるみるうちに目がうるんで、言葉に詰まってしまいました。

今から10日ほど前、友人の建築家宅で、クリスマスのホームコンサートがありました。毎年クリスマスに小説家や詩人などを招いて、「クリスマスのお話」をしてもらう慣わしですが、今年はブソッティを招いて、彼の曲とお話を一緒にたのしみました。
「今日はクリスマスにちなんだお話をするつもりでしたが、どうしても話さずにはいられない出来事がありました。親しい友人で、恩人でもあるシュトックハウゼンの死です」。
客席には、ルチアーナ・ペスタロッツァやミンマ・グアストーニなど、その昔リコルディを切り盛りしていた錚々たる女性陣が顔を揃えていましたが、ブソッティがこう切り出すと、客席から長いため息が洩れました。

「フルートとピアノためのクープル(一対)という曲を聴いていただきましたが、これ作品など特にシュトックハウゼンと切っても切れない縁があるんです。最初ダルムシュタットの夏期講習会で演奏されたのですが、当時講習会を仕切っていたのがシュトックハウゼンでした。その頃、自分はフィレンツェで、五線紙の切れ端に模様のような落書きを書いたりしていたのですが、それを見た友人が、ダルムシュタットに送ってみたらどうかと話してくれたのです。夢のような話でしたが、でも郵便局から楽譜を送ってみて暫くすると、思いがけなくシュトックハウゼンから、ずいぶん厳しい返事が届きました。<貴君はこの楽譜が何を意味するのか、何をしたいのか説明もせずに、ただ唐突に送りつけてきたわけだが、もし音楽というものを本当に知りたいなら、学費を出すから来るがよい>。当時、ダルムシュタットに行き勉強するお金なんてどこにもありませんでしたから、奨学生として勉強するのが唯一の可能性でした・・・。そこから思いがけなく自分の音楽人生が始まったのです。ですからシュトックハウゼンに負うところが沢山あるのです。シュトックハウゼンの死を最初に伝えきいたとき、自分の耳を疑いました。初めてニュースを聞いてから、詳しい状況を知るまで3日かかりましたが、死が真実だったと知った時は、丸一日何も考えられませんでした。ケージが死んだときは、余りの悲しみに3日3晩涙が止まりませんでした。あれから自分も歳を取り、今回もう涙は涸れてしまっていましたが、悲しみの深さは変わりません」。

人を喜ばせるのが好きなブソッティは、少し場を盛り上げようと、こんな話もしてくれました。
「ところで、クープルを何度も演奏してくれた素晴らしいフルーティスト、今は亡きセヴィリーノ・ガッゼッローニの愉快な逸話をご紹介しましょう。セヴェリーノがクープルを録音してくれたのですが、今お聴き頂いたように、この曲は最初に独奏フルートの長音で始まりますね。セヴェリーノは本当に素晴らしいフルーティストで、それはもう寸分の揺れもなく最初の音を吹いてくれました。ところが大変残念なことに、出来あがったレコードを聴きましたら最初の1音がありません。詳しく話を聞いてみましたら、実は余りに完璧な長音だったため、録音テスト用の信号音と勘違いして編集の際に消されてしまったということです」。

「次に聴いていただいた<友人のための音楽>というピアノ曲のお話もしましょう。わたしは裕福な家庭に育ったわけではありません。その反対だったと言ってよいと思います。父はフィレンツェの市役所で登記係をしていて、五線紙一枚手に入れるのにも苦労しました。そんな中、フィレンツェの音楽院で音楽を学び始めたわけですが、そこで当時、どうしようもない、とんでもない、と言われていた教師二人と親しく交流するようになりました。その一人が和声の××××(名前忘却)で、もう一人が作曲のルイジ・ダルラピッコラでした。ダルラピッコラは当時家庭の事情で、父の処に足繁く通っては登記の書換えなどしていたため、そのうち二人はクリスマス・カードなど交換するほど親しくなりました。父が手書きの美しいカードを贈ると、ダルラピッコラは手書きの五線に音列など書いたカードを返してくれました。そうして、いつしかわたしも音列に親しんでいったのです。当時は誰もが貧しくて録音など誰も持っていませんでした。ですから、夜な夜なダルラピッコラのところに集まり、彼の持っている録音に黙って耳をじっと傾けたのです。<友人のための音楽>の友人とは、一緒に音楽に耳を傾けた仲間たちのことなのです」。
とても温かい拍手が客席から沸きあがりました。素敵なクリスマスのお話をどうも有難う、そんな気持ちがこもった拍手です。

「ところで、今朝は行きつけのパン屋さんで、パパですかって」。
ブソッティがロッコのお父さんと勘違いされたと言って、大笑いしました。どことなく顔つきも似ている上に、二人は何度も声色と話し方の癖がよく似ていて、電話でも勘違いしたくらいですから、無理もない話です。
「長年一緒に暮らしていると、しゃべり方も似てくるんだ」。
「それで何て答えたんだい、シルヴァーノ」。
「もうパパって呼ばれるのは馴れっこだからね」。

「じゃあ今度会うのは、もう東京か。不思議なもので、何だかあっという間だ。もうすぐだけど、良いお年を迎えるんだよ。奥さんとあの可愛い坊ちゃんによろしくね」。

(12月29日ミラノにて)

大杉――みどりの沙漠 38

藤井貞和

せっけんのごしょまちから、大杉

たいそうのあんばまち、大杉

あめしきりおたびしょを、大杉

はれあがりひなりざか、大杉

さつきぞらめいにゃのほこら、大杉

やくそばのはたらきまち、大杉

なげだしてほうきまち、大杉

みずいのりあかんここおり、大杉

おお、どんどん大杉

いつむななやつでがわ、大杉

ここのとおひとりぎしにたち、大杉

ものがたりのいんせきがおか、大杉

ほたるなすまぶいざか、大杉

すぎのとのあきかんやま、大杉

おおおそのおそりやま、大杉

どんどんすぎて、ついに大杉

(『あんば大杉の祭り』〈大島建彦〉。ことしもどうぞよろしく!)

外から見たジャワ王家〜ジャカルタでのアンゴロ・カセ

冨岡三智

アンゴロ・カセAnggara Kasihというのは、ジャワ暦「クリウォンの火曜日」のことである。ジャワでは、月曜日から日曜日までの7曜暦に5曜暦を組み合わせ、35日で一巡りする暦を生活の中で使っている。クリウォンの火曜日というのは神聖な日とされていて、スラカルタ宮廷ではこの日だけ「ブドヨ・クタワン」と呼ばれる、毎年の王の即位記念日にしか上演されない神聖な舞踊を練習するし、またジャワ神秘主義を信じる人々は、その前夜に瞑想することが多い。

そんなアンゴロ・カセの集まりがジャカルタでも行われていて、私も昨年12月3日(月)夜に招待されて出席した。私は昨年9月6日には日本に帰国していたのだが、11月末にこの1年間もらっていた助成金の報告大会がフィリピンであり、ついでにインドネシアにも足を伸ばしていたのである。今回はこのアンゴロ・カセのことについて書くことにする。

ジャカルタでのアンゴロ・カセの集まりは、昨年1月から観光文化省の至高神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニ公園と協力して始めたもので、この日で9回目であった。同公園内のサソノ・アディ・ロソという建物で、アンゴロ・カセの前夜に行われる。毎回ゲスト・スピーカーを招き、質疑応答がある。信仰局としては、意見の異なるさまざまな団体の人たちが直接意見を戦わせる場を設けることを目的としているということだった。先鋭的な意見の人たちも、反対派と直接意見交換することで、その先鋭さを自覚することができ、またお互いに歩み寄れる局面を見出すことができると考えている、という。私は知り合いの新聞記者にここで出会ったけれど、彼はこの集まりをとても評価していて、毎回出席しているということだった。信仰局に登録されている団体には毎回案内がいくが、それ以外の人も自由に参加してよいということだった。私は信仰局長から直接招待メールをもらって出席した。

ちなみにこの信仰局というのは、ジャワ神秘主義などを始めとして、宗教に当てはまらない各地域の土着の「信仰」を扱う部門である。インドネシアでは「信仰」と「宗教」は区別されていて、「宗教」とは、イスラム教、カトリック教、プロテスタント教、仏教、ヒンズー教の5大公認宗教と、それに最近新しく公認された孔子教だけを指し、これらは宗教省の管轄下にある。

催しの進行は次の通りだった。この日は夜8時40分頃から始まり、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」をアカペラで斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。そしてタマン・ミニの所長の挨拶、信仰局長の挨拶のあと、9時20分頃から歌手によるキドゥン(詩)の朗詠とカチャピ(琴)演奏があって、9時半頃からゲスト・スピーカーの話が始まった。そして0時の閉会前に部屋の電気を消し、キドゥンの朗詠が響く中で黙祷したあと、カチャピの演奏で退場となった。

この日のゲストスピーカーは、スラカルタ王家のラトゥ・ワンダンサリ氏(グスティ・ムルティア王女のこと)と、メンパワ王家の王妃の2人だった。ムルティア王女はパク・ブウォノ12世の王女で、現13世(ハンガベイ王子)の同母妹に当たる。舞踊に秀で、スラカルタ王家の舞踊音楽部門を牽引してきた中心人物である。この日王女は王宮を構成する各建造物の象徴的意味について説明した。

けれどムルティア王女の講演は、レジメを読む以外は全部ジャワ語で、しかも建造物についての話なのに図面も写真スライドも全然なく(会場にはわざわざプロジェクターなど機材一式が用意されていたのに)、私にはとても残念なものだった。それはまるで、スラカルタ宮廷の中でアブディ・ダレム(家臣)たちだけに向かって話しているような感じで、スラカルタ宮廷のことを知らない人にも理解してもらいたいという姿勢が希薄に見えたからだった。

王女は最初に「ここにはジャワ人だけしかいないだろうから」と前置きしてジャワ語を使ったけれど、このアンゴロ・カセはジャワ人だけの集いではない。それは全員で国歌を斉唱し、パンチャシラを唱えたことからも明らかだ。これは「インドネシア人」の集まりなのだと主催者が強調しているのである。そうであればやはりインドネシア語を使うべきだし、逆にそんな場でジャワ語を使えば、共通の言語で話すつもりはないと、一方的に態度を閉ざしているように見えてしまう。

さらに写真もなければ、スラカルタ王宮の建造物がどんなものか、ほとんどの参加者は想像することができまい。想像できるのは、宮廷で生まれ育った自分や宮廷に始終出入りしている人だけである、ということに王女は思い至っていないようだった。もっともそれ以前の問題として、たとえ写真があったとしても王女の話は理解しづらいものだった。それは「○○という門には××という意味がこめられています」という説明が延々と続くだけで、なぜそんな意味づけがされるようになったのか、つまり王宮設計のコンセプトは何だったのかという大枠が全然見えてこないからだった。実際、質疑応答でも「今の説明にはどういう意味があるのか」と質問した人がいたくらいである。

この質問には私も驚いてしまった。スラカルタでは、グスティ(王子・王女)に面と向かってそんな失礼なことを言う人はいない。他にも、ムルティア王女は13世ハンガベイ王子の正統性にも言及したのだが(スラカルタ王家では現在13世を名乗る王子が2人いて、後継者争いは決着していない)、会場からはその後継者争いを批判する声が出たし、また当時明るみに出たばかりの、王家ゆかりの博物館の所蔵品贋物事件について質問も出た。王家(の人)に対してこんなに自由にものが言える雰囲気というのはスラカルタでは考えられないから、私はこの集まりに目を開かれる思いだった。

私自身は外国人のはずなのに、スラカルタに長くいれば、やはりジャワ王宮を頂点としたジャワ人の文化観の中に取り込まれてしまい、ジャワ人と同じようなものの見方をしてしまいがちになる。けれどジャカルタという異文化の中でジャワ宮廷を眺めてみると、そのジャワ世界に閉じこもろうとする閉鎖性や、対外的にジャワ宮廷をアピールする意志の弱さというのが見えてくる。信仰局長は、実はスラカルタ宮廷ともつながりがあると同時に、私の研究内容についてもよく知ってくれている。だからこそ私をこの集まりに誘ってくれたのだろう。ジャワ宮廷というものを外から眺めてごらんということだったのだろう。

後日知ったのだが、信仰局ではこの催しに対する予算はまだついていないらしい。信仰局長が音頭を取って始まり、信仰局とタマン・ミニ公園から人手は出るものの、運営は参加者からの寄付金で賄われているということだった。道理で、関係者の夕食弁当がマクドナルド、それもチキン1個と御飯、炭酸ジュースという一番安いセットだけだったはずだ。局長の弁当もまったく同じだった。

長い一年でした、または果てしないコンサート巡りの果て?

大野晋

いやはや、長い一年でした。オーケストラを中心に公演をわたり歩くこと数ヶ月。ようやく今年も終わりそうです。では、後半戦の記録を。。。

8月8日 ミューザ川崎にて
ミューザの夏休み企画であるサマーミューザの公演プログラムのひとつである「パイプオルガンの夕べ〜スイスの夏の日〜」を聴きに仕事帰りに川崎で途中下車。夏の夜長にはパイプオルガンが合うとは言わないけれど、アルペンホルンの調べが心地よい。今日は自由席だったので1階席でまったりとオルガンとアルペンホルンに浸る。

8月9日 ミューザ川崎にて
これもまたサマーミューザ公演のひとつで、日本フィルハーモニー交響楽団のチャイコフスキーの交響曲 第5番 ホ短調 作品64を聴きに川崎に。指揮はコバケンこと小林研一郎。サマーミューザの公演は通常のプログラムの半分の長さで価格も半分。ただし、オーケストラなどの経費は半分になるとは思えないのでその分をホールが負担しているのだと思う。非常に良いホールだけに稼働率が上がることを願いたい。ちなみに、公演前にオルガン下の席にて、階段から転げ落ちる人続出。らせん状に席が配置されたホールだけに目の錯覚などが悪影響しているのか? 公演は熱演。アンコールの’いつもの’ダニーボーイにコバケンと日フィルの特別な関係を感じた。

8月17日 東京オペラシティにて
「読売日響サマーフェスティバル 三大協奏曲」と題された公演を聴きに笹塚まで。三大協奏曲とは「メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調 op.64」、「ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 op.104」、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 op.23」のメンコン、ドヴォコン、チャイコンのことを指すらしい。まあ、有名どころの協奏曲という感じ。会場はいつもと違う人種が多い。指揮は大友直人さんという中堅に、独奏者はメンコンは岡崎慶輔、ドヴォコンは趙静、チャイコンはアリス・沙良・オットという若手の布陣。なかなか若々しい音楽で面白かった。ひとつぶで3つおいしいのだが、ちょっと3曲だと食いすぎの感じ。しかし、オットさん。とてもビジュアル的にも美人!

8月19日 横浜みなとみらいホールにて
今日も読売日本交響楽団で「三大交響曲」。みなとみらいホリデー名曲コンサートの一環だけど、ひとつぶで3度おいしいコンサートの交響曲版。指揮は下野竜也。若手の読売日響の正指揮者。三大交響曲とは「シューベルト:交響曲第7番「未完成」」、「ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」」、「ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」」の三曲を指すらしい。まあ、演奏回数も多い、人気のある曲ということなのだろう。コンサートは下野さんらしく、安定感のある演奏を聴くことができ満足。しかし、一度に3曲は結構バテる。

8月24日 横浜みなとみらいホールにて
神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第237回定期演奏会を聴きに、横浜みなとみらいに行く。指揮は急遽代打が決まったゴロー・ベルク。ヴァイオリンも代打の礒絵里子。しかも、コンサートマスターも代打と代打だらけの布陣。プログラムは、全曲モーツァルトで、「交響曲第25番 ト短調K183」、「ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調K207」、「交響曲第38番 ニ長調K504「プラハ」」の3曲。代打ばかりの割には、代わりの人員がしっかりしているせいか、非常にきちんとしたモーツアルトが聴けた。チケットを取ったのが、メンバー変更後だったので、私に何の不満もあるはずがない。 あ。会場の観客が少なかったのが唯一の不満だ。

8月30日 横浜みなとみらいホールにて
またまた、今月3回目のみなとみらいホール。今日は無料コンサートで、出光音楽賞の受賞記念のガラコンサート。ぎりぎりにホールに着いたところ、チケットを裏にされて、どちらか選ばされたら2階中央付近の比較的よい席。かつ、隣がいないので、悠々と聴けることに。通路を挟んだ隣は出光関係者の席だった模様。今年の受賞者はピアノの菊池洋子と小菅優に、フルートの小山裕幾。特にピアノの2名は最近活躍しているだけに、今さらの感もあるが、このままだと受賞しないまま旅立ってしまいそうだから、「今までご苦労様」の意味もあるのか? 授賞式に続いたコンサートは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、指揮は下野竜也。なかなかに聴き応えのある演奏でした。この模様は、後日、日曜日の「題名のない音楽界21」で放送された。 

9月6日 サントリーホールにて
今日は外は台風の嵐。関東は直撃を受けるらしく徐々に風雨が強くなる。果たして、うちに帰れるのか?という中、ロリン・マゼール指揮トスカニーニ交響楽団の日本公演を聴きにサントリーホールまで。プログラムは、R.コルサコフの「シェエラザードOp.35」、ヴェルディ「運命の力」、ルーセル「バレエ『バッカスとアリアーヌ』第2組曲 Op.43」、R.シュトラウス「歌劇『サロメ』より 最後の場面(ソプラノ:ナンシー・グスタフソン)」という内容。いきなり、きらびやかなシェエラザードで幕開け、ヴェルディで乗せられて、字幕付のサロメでマゼール一流の聴かせ技に一本を取られる。なかなか外来のオーケストラ公演で高いチケット代を満足させる演奏にあうことは少ないが大満足でコンサート終了。幸せな気分でホールから出ようとしたら、外は嵐の最中だった!(しばし呆然!)「ひえーっ」となるべく早くに電車を乗り継ごうといつもとは違う経路で帰宅。後で、それが当時動いていた唯一の交通路だったのを知り、ほっと胸をなでおろした。

9月7日 サントリーホールにて
昨日の嵐が嘘だったような天気。夕方から、’また’サントリーホルへ。チョン・ミョンフン指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の公演。曲目は、ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」、コダーイ「ガランタ舞曲」、ドヴォルザーク「交響曲第7番」という渋い内容。個人的にはドヴォルザークの7番を聴きたくて言ったような感じ。なんとなく、可もなく不可もなく、中庸といった感じ。うーん、指揮者はビックネームなんだが、なぜか自分には響かない。相性の問題?

9月13日 サントリーホールにて
今日は新日本フィルのサントリーホールシリーズ第419回定期演奏会を聴きにサントリーホールへ。今年前半の工事中できなかった公演を取り戻すかのようになぜかサントリーホールの公演が多いと思うこのごろ。指揮は、かのクリスティアン・アルミンク。実は今回が始めてのご対面。曲目はマーラー「交響曲 第7番 ホ短調『夜の歌』」と、実は12月のインバル「夜の歌」の予習をかねていたりする。今年はなぜか、「夜の歌」が多く、インバルの前にあと1回開催される。 コンサートはなぜか絶不調。オーケストラがバラバラに聴こえるのがとても心地悪い。何が言いたいのか、よくわからない演奏だった。滅多にないが、金返せ!と心の中で叫んだ。

9月14日 東京文化会館にて
今日は東京都交響楽団の第648回定期演奏会を聴きに上野へ行く。指揮は来年からレジデント・コンダクター就任が決まっている小泉和裕。ピアノはゲルハルト・オピッツ。曲目はブラームスのピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 op.15に、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の2曲。まず、オピッツ氏の演奏に満場の大拍手。この人、ピアノ曲でも協奏曲でもとても素敵な演奏をする。次に後半は「春の祭典」。たぶん、こんな音がするだろうなあ、という凄い弦の響きのハルサイで大満足。ストラヴィンスキーはクラシック界のロックだという人がいたが、今日はほんとうにロックの感じがした。

9月18日 サントリーホールにて
読売日本交響楽団の第463回定期演奏会を聴きに赤坂に。実は、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ氏の指揮のブルックナーを生で聴きたくて取ったチケット。なのでプログラムはモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ序曲」、ルトスワフスキ「交響曲第4番」、ブルックナー「交響曲第3番(ノヴァーク版)」と全体的にブルックナーを中心に据えた感じ。読売日響はまず外れがないしっかりした演奏をする印象を持っていたが、今回も外れなし。スクロヴァチェフスキ氏と丁々発止とやっていた。コンサートの最後はなかなかカーテンコールを止めない会場と引っ込まないオケに、スクロヴァチェフスキ氏がコンマスを拉致してしまってお開きになりました。ああいうやり取りもなかなか面白い。

9月21日 横浜みなとみらいホールにて
今日は神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第238回定期演奏会。最初はなぜチケットがあるのか、自分でも理解できなかったが、どうやらラフマニノフのコンチェルトがあるからだったらしいと一人で合点。指揮は現田茂夫、ピアノ有森博という布陣。コンマスの金髪の石田さんもご出席。曲はラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番 ニ短調op.30」、コワルスキ「交響曲第4番 ハ長調op.96(日本初演)」の2曲。演奏はなかなかのでき。ただし、ザーマスおばさんが多く、全体に聴衆が入っていないのが不満。もっと、市民、県民にサポートをして欲しいもの。

9月22日 横浜みなとみらいホールにて
2日連続でみなとみらいに行く。今日は坂戸真美演奏のオルガン・リサイタル。オルガンだけのリサイタルは1階を封鎖して、2階席以上に客を入れて行うらしい。観客のいない1階席を2階席から眺めるのはなかなかに壮観な眺め。演奏が始まるとその意味がわかった。1階席の床も含めて残響が広がりさながらホール全体がオルガンの共鳴室になった感じ。というか、いつも共鳴室の中で音楽を聴いているというのがホントらしい。ルーシーちゃん、凄い!(ルーシーはみなとみらいホールのオルガンの愛称です。)

9月26日 紀尾井ホールにて
地方オーケストラへの興味で、本日は京都フィルハーモニー室内合奏団を聴きに紀尾井ホールへ行く。京フィルは日本オーケストラ連盟の準会員。前半の武満も面白かったし、ジュリアン・ユー版の「展覧会の絵」も楽しいものを聞かせてもらったが、やはりメインは文楽とオーケストラ、声楽が一体となった丸山和範作曲の「曾根崎心中」。こういうのもいいですね。

9月27日 浜離宮朝日ホールにて
前日の京フィル繋がりで、「平岡養一生誕100年を記念して」と題された通崎睦美リサイタルを聴きに築地に。その実、思いがけなくマリンバを堪能してしまう。そういえば、昔はマリンバの演奏がテレビで結構流れて痛んだよなあと変なノスタルジーにふける。

10月2日 東京オペラシティにて
今日から3日間はアジア オーケストラ ウィーク2007として、韓国、中国、インド・スリランカのオーケストラの公演が開催される。本日は第一弾として、韓国のKBS交響楽団の公演。曲目は、チェ・ソンファン「アリラン」、ショパン「ピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11」、ショスタコーヴィチ「交響曲第11番ト短調op.103「1905年」」というなかなか意欲的な内容。さすがに国営放送局のオーケストラらしくそつのない演奏。しかし、ショパンのソロを弾いたキム・ソヌクはなかなかの逸材。ぜひ、こういう逸材に日本のオーケストラの定期演奏会にも客演してもらって、欧米一辺倒のクラシックファンにアジアにも眼を向けてもらいたいものだ。

10月3日 東京オペラシティにて
アジア オーケストラ ウィーク2007の2日目。中国は昆明交響楽団。曲目はリュー・ツェシャン「ヤオ族舞曲」、とう・そうあん作・編曲:交響詩「女将軍ムー」(日本初演)、ドヴォルザーク「交響曲第8番ト長調op.88」の3曲。ドヴォルザークは非常に大雑把な演奏。というか、たぶん、オーケストラのレベルがそのくらいまでしか要求できないのだろうと思われる熱演だけど、どことなくアマチュアオーケストラを思い起こすレベル。対するお国モノはとても雰囲気のある熱演。おそらく、あまり西洋のクラシックを演奏する機会が少ないのだろうと変な部分で納得した。なかなか振りそうな指揮者だったので、ぜひ、日本のオケで自由に表現させると思いっきり化けそうな気がした。

10月4日 東京オペラシティにて
アジア オーケストラ ウィーク2007の3日目。一番の鬼門であるインド=スリランカ交響楽団の回。曲目はたぶんブラームス「大学祝典序曲op.80」、ハルシャ・マカランダ「ピアノとガタベラのための協奏曲」、ブリテン「シンプル・シンフォニー」、チャイコフスキー「幻想的序曲「ロメオとジュリエット」」の4曲。この間までプロのオーケストラがなかったお国柄。なので、この3日間で一番怪しいレベル。とりあえず、日本人が各パートの主席レベルに入って持っているが、いないととんでもないことが起きそうな雰囲気。しかし、こういう機会がアジアの中でのオーケストラ文化を育てるのだろうし、文化の広がりに寄与して、その発信地になることはこれからの日本にとって一番大切なんだろうなあ、と変に納得した。 全体としてはとっても面白い3日間でした。

10月8日 横浜みなとみらいホールにて
読売日響のみなとみらいホリデー名曲コンサートを聴きにみなとみらいまで行く。指揮は、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、奥さんのヴィクトリア・ポストニコーワがピアノを弾く。オルガンは水野均さん。本日は、オール・サン=サーンス プログラム。「ピアノ協奏曲第3番」、「交響曲第3番(オルガン付)」、「付随音楽「誓い」」の3曲。コンチェルトはあまり聴く機会は少ないがとても雰囲気十分な演奏。そして、オルガン付はもうこれ以上ないくらいの音量でオルガンを鳴らせてくれて、お腹いっぱいになりました。オルガンはいいなあ。

10月10日 東京オペラシティにて
凱旋公演と題された怪しいコンサートを聴きに初台まで行く。上岡敏之指揮・ピアノのドイツ中堅オーケストラのヴッパータール交響楽団の来日公演。曲目はR.シュトラウス「交響詩《ドン・ファン》」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467」、ベートーヴェン「交響曲第5番 ハ短調 op.67《運命》」の3曲。ヴッパータール交響楽団はドイツの中堅オーケストラ。こういったスーパーオーケストラじゃない普通のオーケストラが来ると、日本のプロオケもヨーロッパのオケとそれほど遜色ないじゃん!という感じ。しかし、凱旋公演と題されるだけあって、上岡敏之氏はなかなかの熱演でありました。どのくらいの熱演だったかはネットの記事を参照してもらうとして、オケと指揮者の関係でこういうのもありか?と思ったのでした。(次の日もあるが)

10月11日 東京オペラシティにて
上岡敏之指揮・ピアノのヴッパータール交響楽団の2日目。演目は、モーツァルト「歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488」、チャイコフスキー「交響曲第6番 ロ短調 op.74《悲愴》」の3曲。感想は前日と同じ。観衆の熱狂は前回以上ということで。ところで、このプログラム。1曲目はどちらもドン・ファン(イタリアだとドン・ジョヴァンニ)、2曲目はモーツアルトの弾き振り。3曲目に大き目の曲を持ってくるという面白い趣向だったりするのですが、皆さん、気付いたかな?(複数回来ないとわからないかも?)

10月12日 紀尾井ホールにて
紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会を聞きに四谷まで行く。指揮とチェロはマリオ・ブルネロ。曲目は武満 徹「三つの映画音楽」、ロータ「チェロ協奏曲 第2番」の映画つながりに、ベートーヴェン「交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」」という3曲。紀尾井シンフォニエッタはなかなかチケットが手に入らないので今年はこれが最初で最後。演奏は熱狂はないが、感心はたくさんといった感じ。

10月14日 サントリーホールにて
来年度から日フィルの主席になるラザレフのショスタコーヴィチが聴きたくて、日本フィルハーモニー交響楽団 第317回名曲コンサートを聴きに赤坂まで行く。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。ピアノ独奏が小山実稚恵。曲は、チャイコフスキー「バレエ組曲《眠りの森の美女》」、「ピアノ協奏曲第3番」、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番《革命》」というロシアものが3曲。日フィルはラザレフが振ると音が変わったようになる不思議。ぜひ、この音色を自分たちのものにすることができれば、面白いオーケストラになると思う。

10月18日 東京オペラシティにて
プレオニョフを見に初台まで行く。東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第33回。指揮はミハイル・プレトニョフ、ピアノはアレクサンドル・メルニコフ。曲は、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番ト短調op.16」、ベートーヴェン「交響曲第6番ヘ長調op.68「田園」」の2曲。物凄い爆演やお得感のあるテンコモリ演奏会を聞くと、どうもこのプログラムは物足りない。来年は定期会員を止めようと心に誓う。

10月19日 東京芸術劇場にて
地方オケを聴きたくて、群馬交響楽団の東京公演を聴きに池袋まで行く。指揮は音楽監督の高関健、クラリネットはカール・ライスターという演奏者。どうやら定期演奏会と同じ曲目、同じ演奏者らしい。曲は、ハイドン「交響曲 第90番 ハ長調」、西村朗「クラリネット協奏曲「カヴィラ(天界の鳥)」」、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」の3曲。群響はまじめなよい音を出すオーケストラ。かつ、楽屋があけっぴろげなので、舞台の袖から奥が見えている。そういう面で、在京のオケと比べると慣れていない感じがする。演奏自体は実に立派だった。

10月20日 神奈川県立音楽堂にて
横浜は桜木町の神奈川県立音楽堂で、「井上道義の「上り坂コンサートVol.7」」と題されたコンサートへ行く。オケは神奈川フィル、指揮は井上道義。この人はプロのしゃべり屋か?!と思えるような井上さんの軽妙なトークを交えながら、これからの躍進が期待される若手演奏家の演奏が繰り広げられる。出演は、トランペットの菊本和昭、ジャズ・サックスホーンの矢野沙織(ちょっとセクシーなCDのジャケットやアジエンスのCMでも有名だが、このコンサートの直前にロングヘアーをばっさり切ってしまった!)、バンドネオンの高校生三浦一馬の三人。とても面白いコンサートでした。また、来年も来ようっと! ちなみに、バンドネオンと言うのは簡単に言うとアコーディオンの親戚で、今や新しく作る工房がないためにストラディバリウス並に貴重品のアルゼンチンの楽器です。タンゴの演奏で有名ですね。あ。ついでに、神奈川県立音楽堂で売っているシュークリームはとてもおいしい!

10月22日 東京文化会館にて
本日は、東京都交響楽団 第650回定期演奏会で上野へ行く。オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラム。指揮は若手の若様、金聖響。独奏としてビオラは都響の鈴木学とチェロのアルト・ノラス。R・シュトラウス「歌劇「サロメ」より 7つのヴェールの踊り op.54」、「メタモルフォーゼン TrV290」、「交響詩「ドン・キホーテ」 op.35」の3曲だったが、非常に明快に解きほぐされた演奏でよかった。全部R・シュトラウスはなかなかに疲れました。あとで指揮者の金聖響さんのブログを見たら、ご本人も大変だった様子。ご苦労様でした。

10月23日 サントリーホールにて
ドヴォルザークを聴きたいだけのためにスロヴァキア・フィルの来日公演に赤坂に出撃。今回は特定の指揮者と来たわけではないらしく、今回はチェコの若手指揮者レオシュ・スワロフスキーの指揮、後半は日本人指揮者が指揮をするようだ。ちなみにスワロフスキーは前回、都響に来た時に聴きに行っている。チェロコンチェルトのチェロは若手のマーク・シューマン。しかし、なかなかの使い手。曲目もスメタナの連作交響詩「わが祖国」から「交響詩「モルダウ」」、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104」、「交響曲第9番「新世界より」 op.95」と非常にベタなメニューとなっている。演奏は期待したとおり、チェコ・スロバキアの伝統のゆったりした感じで進んでいく、危険性の少ない演奏。ノイマンでスメタナ、ドヴォルザークに親しんだ身にとっては願ってもない子守唄のような演奏会だった。

10月26日 サントリーホールにて
日本フィルハーモニー交響楽団の今年の大物である「アレクサンドル・ネフスキー」を聴きに赤坂へ行く。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。期待十分。合唱が東京音楽大学の学生だった関係か、オケ裏の席をびっしりに合唱隊が占拠した見た目にも壮観な布陣。前半は、リャードフ「交響的絵画「ヨハネの黙示録から」挽歌」とグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」と馴染みは薄いけれどもなかなかに聴きやすい演目。後半に、プロコフィエフ:カンタータ 「アレクサンドル・ネフスキー」が演奏された。最初の部分の弦楽器のとんでもない音から始まり、なかなかにドラマチックな演奏だったように思う。実は、今年は都響も同じくアレクサンドル・ネフスキーの演奏会を行うので、聴き比べが楽しみ。

11月30日 サントリーホールにて
今日は東京都交響楽団の定期演奏会でまたもや赤坂へ行く。指揮はゲルハルト・ボッセ。芸大で教えていたこともあるらしい。トランペットは高橋敦。曲目はオールハイドンで、「交響曲第85番変ロ長調『王妃』 Hob.I.85」、「トランペット協奏曲変ホ長調 Hob.VIIe.1」、「交響曲第101番ニ長調「時計」 Hob.I.101」の3曲。流行のピリオド奏法っぽくもない正統派のハイドンをどっしりと聴いた。

11月2日 横浜みなとみらいホールにて
野中貿易(株)の設立55周年記念コンサートということで、松沼俊彦指揮のシエナ・ウインド・オーケストラを聴きに、みなとみらいへ行く。シエナは日本の数少ないプロのウィンドオーケストラということで聴きたかった楽団だけど、いままでなかなか機会がなかった。野中貿易は横浜で楽器の輸入をやっている楽器屋さん。別に、国際展示場を使って、楽器フェアの最中なのでそれに関連した催しなのだと思うが、ホール2階のロビーいっぱいに楽器が並び、さながら臨時の楽器売り場の様相となっていた。コンサートの方はテレビでおなじみの青島広志さんも登場し、実に楽しいものでした。野中貿易さんに感謝感謝!

11月8日 東京オペラシティにて
東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第34回を聴きに初台まで行く。今日のメインはフォーレのレクイエムだと思うが、どうも指揮者のチョン・ミョンフンとは相性が悪い。まあ、最初のR.シュトラウス「交響詩「ドン・ファン」op.20」にしろ、上岡のとんでもない演奏を聴いた後だからなぜか香辛料が足りない気がするのかもしれない。「辛さが足りないよう!」と思っていたら、ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調op.26」もフォーレ「レクイエム」も終わってお開きになっていた。

11月13日 東京芸術劇場にて
札幌交響楽団の東京公演を聴きに池袋まで行く。指揮は尾高忠明。絶対にいい指揮者だと思うが、なかなか、在京のオケで聴く機会が少ないのが残念。ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、「ラプソディ」、武満徹「ファンタズマ・カントス」、「遠い呼び声の彼方へ」、ドビュッシー「交響詩「海」」ともにいい演奏でした。帰りに、出口でお砂糖(ビートから作ったもの)をもらう。ちょっとだけ得した気分。

11月16日 東京オペラシティにて
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第213回定期演奏会で初台へ。飯守泰次郎指揮の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、マーラー「交響曲第7番 ホ短調《夜の歌》」聴き比べシリーズ! アルミンクよりはよかったが、まだ、自分の中で曲が混沌としている。うむむ。夜の歌は難しい。(でも、昔聞いたマズア=ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのレコードはもっと分かりやすかったような。。。)

11月18日 サントリーホールにて
東京都交響楽団のプロムナードコンサート。毎回聞きにくる機会があるのもあと数回のジェイムズ・デプリーストの指揮で、チャイコフスキー「幻想的序曲『ロメオとジュリエット』」、「ロココ風の主題による変奏曲イ長調op.33 」、ラフマニノフ「交響的舞曲op.45」のロシアもの3つ。毎回、明確な音楽表現をするので、デプリースト好きです。残り少ないコンサート機会を大切にしましょう。

11月23日 東京芸術劇場にて
今日は東京都交響楽団、デプリーストのワグナーづくし。楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」、女声のための5つの詩『ヴェーゼンドンク歌曲集』、楽劇『神々の黄昏』より「夜明けとジークフリートのラインの旅」、「ジークフリートの死と葬送音楽」、「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」に聞きほれる。デプさん、常任指揮者を辞めてもときどきは振りに来て欲しい指揮者です。

11月25日 横浜みなとみらいホールにて
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と直前に常任指揮者からの降板を発表したズデネク・マカル指揮をみなとみらいで聞く。演目はスメタナ「交響詩「わが祖国」より”モルダウ”」、ドヴォルザーク「交響曲第8番 ト長調Op.88」というベタな曲。手馴れた演奏で、危なげなく聞けました。

11月29日 サントリーホールにて
今日は東京都交響楽団とデプリーストの今期の大作「アレクサンドル・ネフスキー」の公演。第653回定期演奏会 Bシリーズで聴きに行く。指揮はおなじみジェイムズ・デプリースト、メゾソプラノが竹本節子、合唱は二期会合唱団の布陣。日フィルと違い、合唱の陣容は小さめだが、音量はきちんと出ていた。前半はスクリャービン「夢想op.24」とモーツァルト「交響曲第38番ニ長調『プラハ』K.504」、後半にプロコフィエフ「カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』op.78」。ラザレフとは異なり、ドラマティックというよりも、きちんと整理されたコンサートバージョンと言った感じで聞くことができた。どちらも勝ちだな。

11月30日 横浜みなとみらいホールにて
今年何度か目のオルガンを聴きにみなとみらい、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第240回定期演奏会に行く。今日の指揮者はN響のときと同じ広上淳一。前半にベートーヴェン「ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲」があった後、後半でサン=サーンス「交響曲第3番「オルガン付」」。オルガンの音量は前回と同じく控えめということで、少しフラストレーションが残る。残念。

12月1日 鎌倉芸術館にて
今日だけの大阪フィルハーモニー交響楽団の鎌倉公演。実は鎌倉芸術館に来るのは私は今回が初めて。コンサート前に旧松竹撮影所前の日本料理屋さんで地魚のどんぶりを頂き大満足で芸術館に。指揮は大植英次さん。以前、大阪の公演で体調を崩したと聞いたが、今回は大丈夫な様子。曲目は、ベートーヴェンの「交響曲第8番 ヘ長調 作品93」と「交響曲第7番 イ長調 作品92」という大きな番号の交響曲。近年ない、ゆったりしたテンポの進行で、こういうのもありかな?と改めて見直した。観客が少なかったのだけが唯一の不満! 鎌倉には文化人がいるんじゃないのか!

12月7日 サントリーホールにて
日本フィルハーモニー交響楽団の第596回東京定期演奏会を聴きに赤坂まで。アークヒルズ3階にあるラーメン屋の餃子定食が最近のお気に入り。餃子2枚にご飯とワンタンスープが付いてくる。クラシック前に餃子か?と言う感じだが、腹が空いては戦は出来ない。空腹にティンパニーの音響は応えるのだ。今日はワグナー振りで有名な飯守泰次郎のオールワグナープログラム。曲は、歌劇《タンホイザー》より「序曲」、楽劇《トリスタンとイゾルデ》より「前奏曲と愛の死」、楽劇《ワルキューレ》より「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」、楽劇《神々の黄昏》より「夜明けとジークフリートのラインの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」という内容。直前にデプリースト=都響で聴いたのが運が悪かったというか、ちと、弦の響きが足りない感じ。でも及第点でしょう。ところで、緑川まりさん、写真より随分と大きくなられたようで。

12月13日 東京オペラシティにて
きょうは東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第35回で初台に行く。たぶん、来年は東フィルはほとんど来ないような気がする。まあ、音の響きの悪いオペラシティで1階の後ろの方の席ではあまり音が聞こえてこないと言う言い訳もできるが、上岡やヤルヴィの演奏会ではびしびしと後ろにも伝わってきたので場所のせいばかりではないだろう。きょうは若杉弘指揮で、シューベルト「交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」」、ブルックナー「交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)」。終わりよければ全てよし。今年最後に満足できる演奏でした。

12月14日 東京文化会館にて
きょうは東京都交響楽団の第654回定期演奏会 Aシリーズ。上野の森は燃えていた! 指揮はエリアフ・インバル。曲はマーラー「交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」」ということで、1年以上前から期待されていたコンサート。日本のオーケストラなのに、チケット争奪戦は凄まじかった模様。私はメイト会員なので昨年からの継続で、比較的楽にゲット。ただし、満席のため、3階のサイドの席といつもより上からの鑑賞でした。結果は、これだったのだよ、これ。という待ちかねた演奏。マーラーの専門家の面目躍如と言った感じでした。

12月19日 サントリーホールにて
東京都交響楽団の第655回定期演奏会 Bシリーズ。場所を赤坂に変えて、インバルのマーラーシリーズの第2弾。曲はマーラー「交響曲第6番イ短調『悲劇的』」です。今日もサントリーホールは満席。ネットオークションでチケットが飛び交ったといういわく付のコンサートとなりました。結論。インバルのマーラーは明快でいいですね。

12月25日 サントリーホールにて
読売日本交響楽団の第497回名曲シリーズとして年末の第9を聴きに赤坂に行く。予定を入れてみて気付いたが、きょうはクリスマス。気がつかないところがなさけないというか、なんというか。まあ、いいことにして赤坂へ。いつもの餃子定食を食べて、いざ、サントリーホール。きょうの指揮は下野竜也。若手だが実に明快な指揮をするので好きな指揮者。独唱はソプラノ:林正子、メゾ・ソプラノ:坂本朱、テノール:中鉢聡、バリトン:宮本益光と実に若手でかつビジュアルな方々。若いだけに実によく声が出ていました。合唱は新国立劇場合唱団。プロだけに少人数でも十分な音量があったのはさすが。ベートーヴェンの交響曲第9番〈合唱付き〉だけでしたが、けっこう楽しめました。

12月26日 サントリーホールにて
東京都交響楽団の都響スペシャルと題するベートーヴェンの第9交響曲の演奏会を聴きに赤坂に行く。指揮はエリアフ・インバル。今年最後のコンサートです。都響の第九のシリーズも最終回だけに前の回の感想が多くネットに上がっています。その好評を見るにつけ、期待の高まる公演。独唱は昨日の若手とは対照的に、ソプラノ:澤畑恵美、メゾソプラノ:竹本節子、テノール:福井敬、バリトン:福島明也と中堅で揃えてきました。合唱はアレクサンドル・ネフスキーでもその片鱗を見せた二期会合唱団。まず、コンサートはベートーヴェンの「序曲「レオノーレ」第3番 op.72b」から始まりました。小手調べにしては上々の出来。この後、第九を本当に弾くのか、心配になるような上出来の演奏でした。そして、休憩を入れずに合唱団を迎え入れ、交響曲第9番ニ短調「合唱付」op.125の演奏が始まりです。で、結果として、読売日響、都響の順に聴いたのですが、その選択は正解だったように思います。マーラー指揮者として名高いインバルは、実は歌劇場の音楽監督に在任中ですが、その実力を見せ付けられたような、合唱、独唱をもひとつの音楽として取り込んでしまった第九に、他の合唱曲の演奏と同じものを見た気がしました。ぜひ、レクイエムやオラトリオもインバルの指揮で聴いてみたいし、オペラすら見てみたいと思うすごい演奏でした。イタリアオペラがとても似合いそうです。

さてさて、手帳に書かれた演奏会を数えると全部で、なんと74公演! いやはや、疲れるわけです。来年は今年の3分の1くらいまでに押さえようと心に誓った私でした。(でも、読売日響の定期会員で11公演。都響のメイト会員で14公演。足すとそれだけで25公演と。。。減る見込みは薄いかもしれない)

冬至(トゥンジー)

仲宗根浩

十二月中旬あたり、数日のあいだ父子家庭となる。息子に朝ご飯を食べさせ、学校へ送りだし、洗濯をし、授業参観、夕ご飯の買い物、支度等々。この時を使い家の中、掃除機も踏み込めない一角を整理する。いらないものが出てくる出てくる。フロッピーディスク、CD-ROM、カセットテープ、ビデオテープ、パソコンのケーブル類、昔のモデムなどの周辺機器。分別し、リサイクル手続きが必要なもの以外、全部処分。埃で灰色になった床を磨くとちゃんと木目がある床が出てきた。広々としてリビングルームっぽくなったぞ。やればできるじゃないか、おれ。

父子家庭生活最後の日、空港にうちの奥様、お嬢様を車でお迎えに行く。無事、家の前で奥様、お嬢様を降ろし、ちょっと離れた駐車場に車を入れ、車止めにピタリと車を止めようとしたとき、車が無事でなくなった。前のタイヤはしっかり固定された10センチ弱の角材を見事に越え、右フロント部分コンクリートの壁に激突。やってしまった、おれ。どうやらアクセルを思いっきり踏んだらしい。車を定位置にもどすためゆっくりバック。タイヤが何かの部品にこする嫌な音。車から降り状況を見る。割れたヘッドライトのかけら、凹んだバンパー、突き出たフロント右横。ぶつかった壁はすこし傷。エンジンはかかる。ボンネットは開いた。フロント部品、ヘッドライト取っ替えて、板金、塗装は確実。翌日朝から駐車場を掃除し保険会社、警察、駐車場の大家さん、修理工場対応で一日つぶれ、冬至を迎えた。

冬至にはトゥンジージュシーといって、沖縄の炊き込みご飯を火の神(ヒヌカン)、仏壇にお供えし、それをいただく。実家にもどり、母親の作ったジューシメーを食べる。台所のヒヌカンに小さく盛られた御仏供(ウブク)は男は箸をつけてはいけない。息子は小さいときからアイスクリームごはん、といって欲しがる。それをまず母親が箸をつけ息子に与える。

暖かい冬至が過ぎ、家は大掃除を始め、年賀状の準備をしはじめ、修理に出した車がきれいになって戻って来た。次の日、母、叔母と法事に行くため車を駐車場から出す。ぶつけた車ではなく、父親からのお下がりの車。シャッターを閉めるため一旦車から出る。んんんっ、パンクしてる。凹む、おれ。

世界音楽の本

高橋悠治

2002年から2007年までかかわってきた『事典 世界音楽の本』がついに出版された(岩波書店、12月20日刊)。徳丸吉彦、渡辺裕、北中正和、編集部の十時由紀子と毎月のように編集会議をつづけているあいだに、音楽に対する考え方もずいぶん変わった。20世紀の戦争・革命・技術革新・世代差のなかで、地球上のどこにいても地域文化は影響を受け、変化する。ヨーロッパ流近代化や、アメリカ流「世界化」への一方的な圧力を受けるというよりは、それを回避したり、変質させる内発的な力学に眼を向けると、これらの変化の過程がもっとよく見えてくる。

変化する現実を観察するには、いままでとはちがう立場や視点がもとめられる。ヨーロッパ的な普遍の一点から世界を俯瞰するのではなく、関係性の網のなかから複数の視点と音楽的実践を浮かび上がらせる「逆遠近法」が、音楽学の新しい方法となるだろう。単純な還元主義、本質論、ヨーロッパ中心の世界観ではなく、文化相対論や多文化主義でほころびを埋めるのでもなく、多様性、混乱のなかから育ってくる複数の音楽のありかたを認めること、ちがう文化の相互作用、文化横断の概念から、現地調査と構造主義的普遍論が表裏一体となったいまの民族音楽学にかわって、流動する現実と同期する方法のために、すでにあるものを分析するのではなく、創造と同時的、あるいは同意義であるような、学習と発見のプロセスとして、未完であり、おたがいに矛盾する考えを切り捨てずそのまま提示するこころみが、この本のかたちになったと言えるだろうか。

世界音楽は、ヨーロッパ流のメロディー・ハーモニー・リズムのカテゴリーでは扱えない。ここではリズム・音色(ねいろ)・制度・歴史という章立てをしている。リズムは西洋音楽のように拍子による計量的なものではなく、足・手・息の側面から観た音楽の身体であり、音色は感じられる音あるいは空間としての音で、楽器・音程・音階・旋律・音質などを含む。それらから自律的に生まれる音組織はやがて固定し、制度化され、管理される。制度は政治的、経済的、文化的なものがあり、国家・資本・教育・学問の機関がそれを管理経営している。音楽史は、どこでも管理への抵抗や制度からの逸脱を原動力としてうごいてきた。

20世紀音楽史ははじめて世界音楽史となる。それは音楽の録音技術の発明によって可能になった世界的流通過程のなかで、大西洋奴隷貿易の結果として生まれたアフロアメリカ音楽が第1次世界大戦後のヨーロッパを侵蝕するプロセス、戦争や革命と内戦による難民、植民地主義によって生まれる経済格差からの移民から生まれる文化の撹拌が、いっそう促進される状況のなかで、地域文化や同世代の若者に浸透するポップカルチャー、さらに都市文化やテクノロジーに触発された実験音楽やサウンドアートが入り乱れて、多彩な活動がみられる。1930年代の国家介入、1968年の世界的な反権威主義革命、1989年の社会主義体制の崩壊以後、人間世界は混乱している。権力や資本の基盤が危うくなるにつれ、いっそう暴力的になっている。格差・差別はひどくなり、社会は不安定になっている。音楽もそのなかで、断片化し、抽象化し、切断とノイズ、あるいは逆に、アイロニーと沈黙を表現手段とするようになる。

抵抗をテロリズムとして排除する権力をやり過ごしながら、多様性の相互調整であるような文化は、まだ隠れて生きている。それは多義的な表現である限り、社会に対しても、預言とみなせるところもあるだろう。

製本、かい摘みましては(34)

四釜裕子

名古屋の書店+ギャラリーの「コロンブックス」から、書家・華雪さんのミニブック『esquisse 島』が届く。「島」をテーマにした書と篆刻の作品展にあわせて、その習作として作られた本だ。会場を訪れた日、そこにはこの本の原稿となったさまざまなものが蛇腹に継がれてあったが実物はまだなくて、完成を待って送ってもらったのだ。A6判24ページモノクロ印刷、中綴じホッチキス留めされたなかに4点のカラーの貼り込みがある。袖と背幅を出して折った表紙カバーはカラーで刷られ、全体を通して原稿用紙の罫線がアクセントになっている。華雪さんが、ある島を訪れたときに手帖に残した書き文字もある。鉛筆だろうか。文字の太さはばらばらで、○で囲ったり×を重ねたり→で別の言葉を導いたり。会場に展示してあった篆刻作品のなかで一番好きだった「合同船」という文字が生まれた痕跡も見てとれる。なるほどこんなふうにして、これでもかこれでもかと書家に言葉がおりてくるのかと思う。

華雪さんは書家としての活動をはじめた当初から、小さな本を主に私家版として作ってきた。各地で個展を重ね作品集も出しているのに、あいかわらず今回もこうして小さな本を作った。豆本のように、最初からその大きさをめざして作られた小さな本をわたしは好まないが、必要な大きさを考えた結果仕上がった小さな本は大好きだ。この『esquisse 島』が、小さい本であるほんとうの理由は知らないが、過不足なく与えられた紙面に「島」という字の物語を追った華雪さんの旅をなぞるに充分な地図が描かれているようで、何度もページをめくっている。作品を観ることと図録を読むことは別だし、そもそも『esquisse 島』は「島」展の図録ではないけれど、てのひらのうちで展の全体像をゆらりゆらりと反復するのは楽しい。

コロンブックスに行く前にその日は、熱田神宮近くの紙店「紙の温度」に寄っていた。国内のみならず世界各地の手漉き紙を9000種以上、洋紙もたくさん、紙を用いたあらゆる工芸に必要な道具や材料も揃ってトータルでおよそ20000点、各種教室や体験講座も開いているという。レジ周りは普通の文房具店の匂いも残っていて、紙を扱う専門家から子供たちまで誰がきても満足できる、とにかく「紙」にまつわるなにもかもがこれでもかこれでもかと並んでいる店であった。製本に使う接着剤やへらやワックスペーパー、修理に使う和紙や箔押しの道具ももちろんあるし、初めてみるものもたくさんあった。たとえば「クイリング」。完成品は見たことがあるが、その名前は知らなかった。材料である色とりどりの細く切った紙、そして専用の道具も、きっとなにか製本に使える。

「紙の温度」の前には、活版地金製錬所を見学していた。そこは50台のトムソン型活字鋳造機のほか、ベントンの母型父型彫刻機、ハイデルベルグの印刷機、箔押し、空押し、角丸抜きなどのための小さな機械、卓上活版印刷機、研磨機、顕微鏡、積み上げられたインゴット、たくさんのパターン、たくさんの母型、たくさんの活字……。メンテナンスの行き届いたあらゆる道具が、決して広くはない場所に、これでもかこれでもかとやはり並んでいたのだった。これほどなにもかもが一つところで見られる場所が、他にあるのだろうか。帰り際見せていただいたのはなにか金属の塊で、固まりきる前に折った断面に結晶がきらめいていた。「ほら、きれいでしょう」。鉛だと聞く。美しかった。見学の間にいただいた昼飯はお櫃入りで、ふたを開けたらこれでもかこれでもかとひつまぶしが詰まっていた。そういえばモーニングは、これでもかこれでもかとゆでたまごが積んであった。これでもかこれでもか。名古屋、満喫。

しもた屋之噺(72)

杉山洋一

頭が煮詰まってくると、庭の落ち葉をかいて気分転換をします。一本大きな木が立っているので、そこから洋芝のじゅうたんに枯葉がはらはらこぼれてくるのは風情があるのですが、ここ数日風が強かったせいもあって二日も放っておくと無残な姿になってしまいます。慣れてきて、ものの10分ほど、無心で落ち葉をかいていると、気分も庭も落ち着くし、悪いものではありません。ティツィアーノ・テルツァーニは、インドから持って帰ってきたガラスの目玉を、トスカーナにある自宅の庭の大木につけていて、インドではこうして木にも心があることを分かりやすくしている、と説明していました。

一ヶ月ぶりに日本から帰ってきた友人からの電話を受けると、声が作曲家になっているわねと言われて、自分の声色はそうも変わるものかと家人に尋ねると、意外にも納得しているので驚きましたが、いずれにせよ、ここ暫く家にこもって仕事をする時間が長かったように思います。自分の作曲のほかにも、1月に訪日するブソッティのマドリガルを演奏者用に書き直し、気の遠くなるようなCD18枚分のジェルヴァゾーニ録音のテイクを選定をしながら、シェーンベルグとプロコフィエフのピアノ協奏曲の粗読みをしていました。できるだけ効率よく済ませたいと思っていても、例によって全然ダメです。

夜、息子と一緒に9時半すぎに布団に入り、2時、3時から7時すぎまで仕事をし、風呂で少しテルツァーニの本を読んでパンと牛乳を買いにでかけ、合わせや学校がなければ、結局いつも家にこもっていました。尤も昼間は、2歳の息子がしょちゅうチョッカイを出しに来るたび、瀬名恵子さんの「ねないこだれだ」のおばけを見せたり、「利口な女狐」とか「アルジェのイタリア女」とか、子供が好きなDVDを一緒にながめて、何かと相手をしてやらなければいけません。

今月はじめ、作曲科生に指揮の基礎をおしえるワークショップのため、マントヴァの国立音楽院にでかけたときは、この調子で夜半に自分の仕事をしてから、朝6時すぎに家をでて、夕方までぎっしり教えてから、そのままレッジョ・エミリアの劇場に直行し、ダニエレ・アッバード演出のオペラ「ミラノの奇跡」を見て、最終のミラノ行に飛乗って中央駅に着いたのが0時0分。それから2回ほど立て続けにあった、スカラ座オケのソリストたちのガラコンサートも似たようなタイム・スケジュールでしたから、さすがにメヌエルが怖くなって、ジェルヴァゾーニの編集にでかけるジュネーブは、来月に延期させてもらいました。

拙宅のあるロサルバ・カッリエーラ通り向かいの停留所から、郊外に4駅ほど、ものの3、4分ほど路面電車に乗ったところ目の前の、茶色い目新しい高層アパート最上階に住んでいるのが、1月東京にゆくシルヴァーノ・ブソッティです。メゾネットと呼べばいいのか、エレベータで最上階までゆき、そこから更に階段でもう一階上がったところにシルヴァーノの玄関があります。中に入ると、イタリアらしくとても整頓された部屋に、来客用のソファーと机でできた8畳ほどのスペースがあって、クローゼットで仕切られた向こうに、アップライトピアノと大きな仕事机のある15畳ほどの仕事部屋になっています。窓の代わりに天窓があって、この部屋が大きな屋根裏のスペースを利用したものであることがわかります。1階下に住む連合いロッコ・クヮーイアの部屋とは、玄関脇の螺旋階段でつながっています。

部屋が全体にこざっぱりした印象を与えるのは、シルヴァーノ自身がものすごく几帳面で、彼「神経質なほどの整頓癖」のため、全てきっちりとアルファベット順に整理してあるからだと思います。同じようにいつも整頓されていた薄暗いランブラーテのドナトーニの仕事部屋を思い出します。シルヴァーノの部屋の違うところは、部屋中いたるところに絵や彫刻が飾られていて、それら殆どが男性器か男性の肉体美をモティーフにしたものであることです。ドナトーニは仕事部屋向いの台所の食卓前に、3、4枚ほど、女性の臀部のステッカーをペタペタ貼っていて、これを眺めてフランコは食事を摂るのかと納得すると微笑ましかった記憶がありますが、シルヴァーノの部屋はずいぶん違って、一種耽美的ともいえますが、美術品以外はこざっぱりしているので、すこし違う気もします。

客間のスペースと仕事部屋を分けるつい立て代わりのクローゼットには、彼の楽譜やレコードなどが、それは奇麗にぎっしりと整理されているのですが、木製のクローゼットの表面全体には、無数の男性の裸体の写真の切り抜きが、ぺたぺた貼られていて、その上改めて全体を彩色してあったかもしれません。「ぼくが作ったんだよ。どうだい、ちょっとした美術品だろう」と偉くお気に入りでした。

年代ものの木製の大きな仕事机も、一面に数え切れない裸体や局部の写真がひしめきあっていて、これを見ながら作曲しているのかと思うと、彼の音楽がよくわかるような気もするし、これでよく仕事ができるものだと感心もさせられます。歩いても出かけられる程の近所で気軽に遊びにゆけそうだけれど、結局日々の忙しさにかまけて、なかなか実現できません。ただ1月に日本でやる演奏会のため、シルヴァーノの音楽や楽譜を勉強している時間はかなりあって、いつも彼の部屋が頭に浮かんできます。

ブソッティのマドリガルを東京で演奏するにあたり、歌手の皆さんが各自効率よく勉強できて、譜面を読みやすく合わせ易くするため、結局2曲ほど全部書き直すことにしました。オリジナルの楽譜は、譜表そのものがオブジェか絵のように扱われていて、たとえば「愛の曲がり角」など、まったく実用的ではないのです。自分ですべて書き直すまで、どんな曲なのか見当がつきませんでした。誰がどこを歌い次にどう繋がるのか理解出来なかったのです。正直に告白すれば、果たして楽曲として本当に魅力ある作品なのか、ただ美術品の価値のみの作品なのか、判断しかねていました。

ですから、全て書き直してゆくプロセスは、自分にとって目から鱗が落ちるような経験で、驚きと発見の連続でした。この絵にしか見えない楽譜が、どれだけ精巧に、緻密に計画され組み合わされて、丹念に書き込まれているのか、よく分かったからです。高校のころから慣れ親しんだ「ラーラ・レクイエム」など、イタリアの現代音楽に於いて将来に名を残す傑作中の傑作の一つだと思うし、彼の才能を疑ったことはなかったけれど、でもこれだけの響きのヴァラエティや音色の魅力がこの絵に詰まっているとは、想像もしませんでした。

最も基本的な音の定着は、素朴な12音に従っているようだけれど、それを膨らませるプロセスは、安易な方法論に陥らないし、とびきりのファンタジーと遊び心に満ちていて、その表面を大げさなほど飾り立てながら、元来置かれていた音の意義そのものを全く別な次元へと変容させるかのようです。それが素晴らしいと思いました。
だから、「愛の曲がり角」を例のとれば、幾ら演奏し易くても、どんなに理解し易くても、彼の書いた絵の楽譜の意義は絶対的にあって、演奏者、少なくとも指揮者は、たとえ演奏用スコアを別に作ったとしても、原曲があの美しい楽譜であることは忘れてはならないのでしょう。

これが生産的な芸術かどうか考えるのは、あまり意味があるとは思いません。単純に音楽を理解するため必要とされる煩瑣な手続きを、演奏者が実際喜ぶかどうかも別問題です。ただ、イタリアが連綿と継承してきた「マニエリスム」という言葉を思い出すとき、シルヴァーノに勝る存在はいないと合点が行くし、それだけ意味ある存在なのだと実感させられるのです。挑発的で遊び心に満ちた、でもどこか合理的な奇矯な部屋も、彼の音楽と同じだとに気がつきます。

さあもう御託はやめにして、夜が明ける前に自分の作曲に戻らなければ。すっかり寛いで長居してしまいました。こんな処でくだを巻いているのを中嶋香さんに見つかったら大変です(でもすぐに着替えて、朝から12月初めにトリノで演奏するペソンとシェーンベルグの練習に出かけないと。どうしましょう!)。ああ、ごめんなさい!

(11月28日ミラノにて)

数え歌――みどりの沙漠37(翠の虱改めまして)

藤井貞和

人食えば、
蓋も食いたい、
蜜の味。

寄っといで、
いついつまでも、
睦みあい。

なななんと!
やややっちまえ!
こここんな!

とおまり〈十余り〉一つ

(『グランツビー航海記』に日本国の北海洋上、ノチベット王国あり、青年をへびに食べさせるはなしがなかにある、と。「巴里にて刊行せられたる北京版の日本小説その他」〈宮崎市定『日出づる国と日隠るる処』1943〉)に書かれている。それは人身犠牲。旅人がイエナの森へさまよい行って、祭のあいだひとりづつ人が殺される祭場だと教えられる。平林広人『ヴァイキング』〈1958〉より。ジョージ・秋山『アシュラ』は食人場面で有害図書指定。十久尾零児『五大御伽話の謎』〈1970〉の「食人について」より。これはカニバリズム。)

くあらるんぷうる

さとうまき

マレーシアで会議をすることになった。
何でもイラク人が、ヨルダンの会議を嫌がったからだ。最近、難民のようにヨルダンに逃げてくるイラク人が多く、さすがに100万人もこられては困ると、入国を制限し始めた。医者であっても、しつこく尋問されて、挙句、宗派の違いなどで入国を拒否されることもある。意外と穴場は、マレーシア。イスラム国ということでビザなしでイラク人を受け入れている。というかやっぱり遠いから、わんさかと押し寄せることもないのだろう。

今回は、会議だから、会議以外は何にもしない。ホテルに缶詰。日本からは近い。直行便が飛んでいるからずいぶんと楽だった。深夜にホテルに到着すると、先についていたイブラヒム(ローカルスタッフ)とジナーン医師が散歩から帰ってきたところだ。結構アラブ料理の店もあるらしい。中国とアラブとヨーロッパの植民地が混ざり合ったような多国籍な雰囲気が漂う町だが、案外とこぎれい。でもうるさい。ホテルのバーでは、へたくそなバンドが演奏をしている。カラオケバーみたいだ。

結局、会議とその準備で、外をほっつき歩く時間はほとんどなかった。せめて、マレーシアらしいものはと考えるとやはりドリアンである。ホテルにはドリアン禁止の標示があった。イブラヒムは、「これは、爆弾か」というから、「違う! 果物の王様だ」と説明すると、「なんで王様が禁止になっているんだ」と不思議がる。「とっても臭いんだ」とは言うものの私もドリアンの臭さはどんなものか良くわからない。

屋台にいくとドリアンがぶら下がっているので、イブラヒムに、これがドリアンだとおしえてやった。「おお、これが王様!」とはしゃぐ。「ドリアン、買ってくれ」とイブラヒムがせがむが、「これは臭いんだ。どうせ、あんたは、ろくに食べないだろう」イラク人は、概して、珍しいものとかは食べたがらない。しかし、果物といえば、そんなに変なものはない。バナナやイチゴ、柿、万国共通、甘くて、素敵な香りがするもの。しかもその中の王様とくれば、食べたくなるのが筋だ。「ケチなんだろ! だからだまそうとしているのだ」とでもいいたそうだ。イブラヒムは、納得したような納得していないような顔をしていた。

ドリアンを買うのはやめて、代わりにドリアンチョコなるものを発見した。これならそんなに臭くはないだろう。イブラヒムも喜ぶに違いない。会議のお茶請けに配ろうと買っていった。まもなくバレンタインチョコレート募金が始まるのだが、イラクの子どもたちが描いてくれたチョコレートのパッケージを持ってきていたので、それにチョコを詰めて配ろうというわけだ。

しかし、プラスチックの入れ物のセロテープをはすしてふたを取った瞬間、プーンとすっぱいにおい。なんというか、エステル系のツーンとしたにおいと腐った卵が混在するような感じ?ともかく強烈だ。部屋の中ににおいが充満してしまった。

でも、食べてみないとわからないから、一粒食べてみると、これが、また、胃液のような味。おぇーとなってしまった。においがなかなか消えない。もし、ドリアンの持ち込みがばれると、どうなるんだろうと心配になり、ビニール袋を何重にも包んでしまっておいた。イブラヒムに食べさすこともすっかりと忘れてしまったのである。イラクに帰っていったイブラヒムは、未だに俺のことをケチだと思っているのかもしれない。

まもなく始まるチョコ募金
今回は混乱を防ぐために先行予約を受け付けています。
チョコはドリアンチョコではなく、六花亭のおいしいアーモンドチョコです。賞味期限厳守で注文しています!
詳しくはHPからhttp://www.jim-net.net/notice/07/notice071115.html

エコー診断と透視

冨岡三智

9月に帰国して、あっという間に12月がきてしまった。12月といえば、昨年の入院を思い出す。11月26日の公演が終わってから腎臓腎炎と腎臓結石でダウンして、インドネシアで入院する破目になってしまった。インドネシアには計3回、通算6年3ヶ月長期滞在したけれど、大病をしたのはこの時が初めてである。もともと体が弱い方なので、無理をしないよう用心して過ごしていたせいか、マラリアやチフスやデング熱が流行して、留学生の過半数が入院したときも、元気にしていたのだ。

結石で猛烈な痛みを感じて、排尿困難、七転八倒したのは、11月30日から12月1日にかけての深夜のことだった。その夜はビデオ撮りをしていて、0時過ぎに帰宅したところで、急に痛みが襲ってきたのだった。

けれど、日記を読み直してみると、10月20日頃から背中から腰のあたりが痛いとしきりに書いてある。そういえばそうだった。昨年は10月24、25日がイスラムの断食明けの大祭で、世間は10月21日(土)から月末まで連休になっていた。その頃はまさかそんな大層な病気だとは思わず、それでも腰が凝ってしんどいと思って、ひたすら指圧器具(留学には必ず日本から持参する中山式快癒器)でコリをほぐしていた。

ジャワでは、ときどき鍼灸治療に通っていた。先生は中国系の人である。断食明け大祭の翌日には早くも営業するというので、こうなるとは知らず以前予約を入れておいたのだが、このときに先生から、「あなたが痛いというところはちょうど腎臓のところだよ。ここは単に疲れただけでも痛くなるけど、腎臓の検査をしたほうがいいかも知れない。今度もし痛みを感じたら、すぐに病院に行きなさい。」と言われていた。

それから1ヶ月、指圧器具でそれなりに乗り切りながら、知人に検査をどこでしようかなどと聞いたりはしていても実行に移さずにいた時に、猛烈な痛みがやってきたのだった。翌朝6時半頃、すぐに最寄の女医さんの家に行く。インドネシアでは、病院勤めのお医者さんが、朝夕は自宅で開業しているのだ。診療だけなら無料で、薬が出されると薬代を払う。女医さんからは、尿検査と血液検査とエコー検査の結果を持ってきなさいということで、とりあえずの薬を処方してもらい、Budi Sehatという総合検査所のような施設に紹介状を書いてもらう。

Budi Sehatのエコー検査の結果は卵巣炎。私としては鍼灸の先生の言葉が頭にあったので、腎臓は? 腎臓は? と繰り返し聞いたのだが、異常なしという。私にはエコー写真を読み取る能力はないが、検査判定はいかにも怪しい。検査では1つ1つの臓器のエコーを撮ったのだが、判定までの論法が「○○異常なし、○○異常なし、○○異常なし、腎臓異常なし、よって卵巣炎」というもので、しかも卵巣になんらかの異状が見られるといった特記が一切ない。消去法で卵巣炎と判定したのではなかろうか…という感じである。

さらには検査料金が42万ルピア(日本円にして6000円くらい)とえらく高い。女医さんの話では高くても30万ルピアくらいということだったのに。この結果を持って女医さんのところに行くと、女医さんもその料金に驚く。たぶん検査器械が最新のものだろうということだった。

このBudi Sehatの判定にしたがって治療するのも不安だし、またせっかく海外保険にも入っているので、ジャカルタで日本人のお医者さんに診てもらったほうがいいということになって、女医さんに紹介状を書いてもらった。インドネシアでは医療に結構なお金がかかる。病院で入院するには前金が必要で、2500万ルピアくらい用意しないと駄目だと言う。(しかしあらゆる病院がそうかどうかは私もまだ知らない。)2500万ルピアというと35万円近い。一杯のミー・アヤム(ラーメン)が2500ルピアで食べられるこの国では、大した金額である。当時の私は公演の支払いが終わった直後で、しかも助成金は分割払い。ということで、インドネシアでの口座の預金残高は、とてもとても前金の額に満たなかった。治療を受けるのはお金持ちのすることなんだとしみじみ悟る。

この日本人のお医者さんがいるジャカルタの病院は、幸いにも海外保険のキャッシュレスサービスがきくところだった。そこで再検査をしてもらった結果が最初に書いた腎臓腎炎と腎臓結石なのだった。一応卵巣炎という診断だったので、念のため産婦人科の検査も受けたのだが、卵巣炎ではありえないと断言される。こういうわけで、いくら立派なエコー器機を導入していても、診断する医者のレベルが低ければ病気を見つけることはできない、とつくづく痛感する。

けっきょくジャカルタで入院し、退院した後はソロの自宅で静養していたのだが、全然良くならない。足がものすごくむくんで、足を床につけただけで、足裏の腎臓のツボが痛む。いろんな物が不足してきて、とうとう大晦日の昼頃に意を決して買い物に出たところ、スーパーで知人にばったりと出会う。その人の知り合いに、念を飛ばして「見る」ことができる人(インドネシア人)がいるという。その人に私の状態を一度見てもらってあげようと言ってくれて、携帯電話のカメラで私の写真を撮り(写真がある方がよくわかるらしい、カメラつき携帯というのはこういうときに便利!)、その人に見せて聞いてくれたところ、腎臓が少し濁っているけれど、足のマッサージをすればよくなるとのこと。私はまだ外出できないので、足のマッサージに私の家まで来てあげようと言ってくれたのだった。

そして年が明けてからRさんが足のマッサージに来てくれたのだが、初回からものすごく症状が改善した。マッサージは悲鳴を上げるくらい痛かったのに、そのあと足裏のツボがずきずきするような痛みが取れて、ともかく歩き回れるようになった。このマッサージは別に何の怪しいものでもない。足の裏や甲の特定の部位をほぐすような感じである。この人(やその「見る」ことのできる人たちの団体)はお金を受け取らない。自分たちは医者ではないからだと言っているけれど、また営利行為になってしまうと、純粋な気持ちが消えて病気が治せなくなるのだろう。その後3回ほど来てくれて、その時に食事指導も受け、日本に一時帰国(別プロジェクトがあったので)できるまでに、体力が回復した。

こんなことがあると、インドネシアの人々が民間の治療を信用する気持ちがよく分かる。医療には高額なお金がかかるくせに、医者のレベルは高いとは言いがたい。私が入院していたときも、隣のベッドのおばさんは、治療費が5000万ルピア(約70万円)に達したのにまだ直らない、もう支払えないから退院する!と言って退院した。

そんな大金が払えない庶民は、民間の治療に助けを求めるしかない。けれど、そういう治療者の中には、超音波エコーを使わずとも症状を「見る」ことができる人がいて、そういう人たちも人を治せている。こういうことができる人をインドネシアではドゥクン(呪術師、ただし否定的に使われるので自称はしない)ともいったりするけれど、Rさんは自分たちはドゥクンではなく、単に体のメタボリズムを整えているだけなのだと言う。タイトルでは透視という単語を使ったけれど、Rさんの「見る」力を透視と呼ぶのは正確ではないかも知れない。とりあえず、タイトルとして端的な表現を使っただけである。

今度インドネシアで病気になったら、もちろん病院で検査もするけれど、やはり「見る」ことのできる人に見てもらって、検査結果の裏づけを取りたいと、大真面目に思う。

書店の棚

大野晋

まず、ほんとうはまだ続いているコンサート狂いについて書こうと思っていた。
だいたい、コンサートなんてものは会社帰りに寄るのは、月に4回も行けばお腹いっぱいになるものだ。それが週に2回、3回なんて回数になるとけっこう堪えるようになる。そんな毎日の話を書くつもりだった。つい最近までそういう気でいたのだが、ある書店の棚の前で気が変わった。ということなので、今回は本好きの見た本屋の棚の話で勘弁願いたい。

私はどういうことか書店好きである。
物理的な「本」というものも好きなのだが場所として「本屋」が大好きなのだ。つい最近になって、本屋も来た人間に好かれようと思って、コーヒーを出したり(もちろん有料で)、椅子を置いたりしているようだが、そんなサービスは図書館に任せておけばいい。私はそうではないモノを得られるから本屋が好きでいる。

とは言え、最近はオンライン書店を利用することが多い。
あるコンビニで本が受け取れるサービスはあまりにも近所のコンビニの従業員の態度が悪かったので止めてしまったが、大手のオンライン書店は資料を探したり、面白そうだなと興味のある本を購入したり、ときには青空文庫の入力に使えそうな作家の本を探したりするのに重宝する。ただ、重宝するが、利便性があるが面白みはない。最近は一生懸命にひとさまの購入履歴を参照して本を薦めてきたりするが検討外れも甚だしい。大抵の場合は、すでに購入済だったり、必要ないとドロップした本ばかりである。そもそも、このシステムを作ったり、メンテナンスしたりしている担当者は実際に本など読むことはないのだろう。だから、面白みのない推薦本ばかりである。

図書館と違って本屋で面白いのは、棚がいつも動いているからだ。
図書館の棚も動く(別に可動式の書架であるという意味ではない。変化するという意味である)が、面白い書店の本棚はダイナミック且つ繊細に動いている。素人目には同じように見えるかもしれないが、本屋の棚はいつも一緒ではない。新刊書がやってきてはどこかに入り、既刊書が売れればそこに空きができる。これに書店の店員の機転が加わると、俄然面白くなる。売れていなかった本でも、推薦人がいると売れるようになったりするから面白い。その第一のファンであって欲しいのが書店の店員である。私はファンからの有形、無形の後押しのある本を一度は手に取るし、大抵の場合、購入しているような気がする。

いい本屋の棚とはこんなものだ。
まず、整然と整理されて並べられている。まあ、本屋によって並べ方には若干の違いがあるのだが、例えばある文庫が違うシリーズの文庫の間に挟まっていたり、シリーズがばらばらに配置されてたりするのは論外だ。棚は、棚の配置、棚の中の配置がしっかりと認識しやすい方が気持ちがいい。そういえば、ある書店で「北杜夫」が「は行」に並んでいるのを見たことがある。また、「丹羽文雄」が「た行」に並んでいたこともある。「星新一」ならば「さ行」である。ある意味すごいと思うし、失笑ものだが、とても店員のレベルはほめられたものではない。まあ、そういう店員もここ数年で急に増えたような気がする。

整然と並んだ上で、その棚から会話してくれるととてもうれしくなってしまう。
別に、棚がしゃべるわけではないが、例えば、売れ筋の本はヒラ積みになっているとか、シリーズものは何巻あるのかがわかるように棚に出ているとか、例えば最近の「カラマーゾフ」のように売れている本は何種類かある場合には全て揃えてあるとか、3社から別々に出ている時には揃えて並べておいてくれるとか、店員の手書きのポップで3種類の違いがまとまっているとか、もとになった記事がさりげなく掲示してあるとか、季節に応じて並ぶ本やこちらを向いている本の種類が変化するとか、テーマをかえながら書店から本を提案してくれるとか、例えば冬には落葉樹の図鑑と散歩の案内書と鳥の図鑑とバードウォッチングの指南書なんかが揃えて置かれているとうれしいわけで、そういうひとつひとつが見ている人間に話しかけてくるのだ。そうなっていると、予定外であっても「じゃ、これも買ってみようか」と手にとってしまったり、面白そうだからこのシリーズを集中的に読んでみようなどと思ったりもする。そうでない棚は幻滅だ。何を言っているのか、皆目わからない棚の書店で私は購入はおろか、本を手に取ろうという気にもならない。

最近、私をこの文章を書かせるきっかけになった書店は比較的棚も多い大規模書店だ。
1年位前に開店したのだが、それだけに面白い在庫があり、通うのを楽しみにしていた。だが、この間、久々によって驚いた。最近出版された、良く売れているだろう本のシリーズが棚にないのだ。「あれ?」と思い、そういえばとあちこちの棚も覗いてみたが、どこもかしこも全て一緒だった。棚自体は整然と並んでいるので私はこういうことではないか、と想像する。開店当初は本に詳しい店員(コンサルタントだったりするともうその書店には幻滅なのだが、ここはひとりくらいはそんな素晴らしい方がいると思おう)が書籍の仕入れや棚のレイアウトを行った。(これできれいな棚ができた)その後、詳しい店員氏は辞めたか、もとの職場(別の店舗)に戻ったか、とにかくその本屋にはいなくなった。で。後を継いだ店員はさほど本には興味がなく、書籍流通の言われるがままに棚のお守りをしているため、最初の状態から棚が育っていない、いや、退化してしまっているのだろう。とにかく、文庫が網羅されていてこそ、大きな売り場面積の書店の存在意義があるのだが新刊書すらまともに補充できていない状態に唖然とした。

本好きは棚と会話を常にしている。そして、多くを語ってくれる本棚がとても好きだ。
ついつい、薦める言葉が多い棚のある書店では多く本を買ってしまうことも多い。
全国の本屋の皆様。ぜひ、一度、本棚を介して会話を楽しみませんか?