とっちらかった日々

仲宗根浩

ここ数ヶ月、小沢昭一「ものがたり 芸能と社会」という本を繰り返し借りていて、読んでいるとわたしがあちこち横道にそれ、全然読み進むことができないために何度も何度も借りている。「商いと芸能」という章でのテキヤさんのくだり、薬屋さんと芸能の関係、「ヤシ」は「薬師(やくし)」がつまった、という郡司正勝説についての記述、アメリカのメディスン・ショーに似ていること、以前、アメリカのギタリストでシンガー、ライ・クーダーがインタビューでメディスン・ショーについて言及していたのを思い出し、雑誌から切り抜いていたインタビュー記事を探し出す。山口昌男の本でもメディスン・ショーの記述があって、たしか文庫本で持っていたはず、とそれも引っ張り出す。バスター・キートンがメディスン・ショー芸人夫婦のあいだに生まれた文章で、幼い頃、1910年代のジャグ・バンドやブルースを含む音楽をキートンは間近にしていたのかなあと想像しながら、とちらかっているCDから戦前のブルースものを整理しつつ、いっしょに借りていた郡司正勝の「かぶきの美学」をちょこちょこ読んでいると、三味線音楽の官能性に書かれていている箇所で、官能性なら「さわり」だろう勝手に思い込み、今度は七月に神田神保町で買った、田辺尚雄「三味線音楽史」に琉球から日本に伝来した三味線にいつ頃から「さわり」がついたか確認する。頭の中がとちらかっている。小沢昭一の本にいつ戻ることができるだろうか。ほかにも読みかけが四、五冊あるけど。

読みかけは読みかけのままほっといて、整理していたCDの中でまだパソコンに取り込んでいないのを見つける。立派なオーディオ再生装置もないので、最近はパソコンでCDも聴いている。取り込もうと、ソフトを起動させるとアップデートしますか、と聞いてくる。新しいバージョンがでたらしい。素直にアップデートする。ソフト起動せず! おい! 別のマシンも同じようにアップデートしたら問題なし。おい! おい! 英語で「ちょと見つからないファイルがあるから、もう一度インストールしてやってください。」と表示が出たので、一通りのトラブル回避策を行い削除、再インストールを行うが現象変わらず。あちこちいじること数時間格闘するが、変化見られず。パソコンさんもお疲れだろうから、ここはひとつ休んで、明日にしましょう、と翌日、ソフトのホームページで同様のトラブルがないか確認。完全削除の方法があったのでそれを見つつ、なにか削除できていないファイルがないか確認したがなし。(あたりまえだよ、こっちは関連するレジストリ全部切ったし。)気をとりなおし、今度はダウンロード、インストールではなく、最初と同じようなアップデート・ソフトからインストールする。すんなりインストール完了、すんなり起動。問題なく稼働。意味わからん。パソコンに取り込み再開。次はボックスセットのCDを整理しようと思い、1940年代のブルース、ブギなどを集めたCDを聴きながら、ピアノ、ギター、ベース、ドラムの4リズムでのセッションでギター・ソロはシングル・ノート、ノリはロックンロール。録音年を確認したら1948年。アイク・ターナーが「ロックンロールは俺たちがブギウギと呼んでいた音楽だ。」というような発言を何かで読んだ記憶があったので家にあるか探そうとおもったが深みにはまりそうなのでやめる。はやく部屋を整理してくれ、と最後通牒を受けたばかりだ。

数年間いわゆる「IT 業界」というところにいたが、年々、コンピュータが苦手というか、面倒になってきている。一つのソフトを使い倒すことができない、覚えることができない。パソコンは五台あるが実際動いているのは三台。メール用、インターネット用、音楽再生用。ハードディスクの容量が小さいのでそれぞれ分けて使っている。一台は壊れたものを貰い、他は格安で購入。OSも、マシンパワーも違う。他に一台、OSが古いものはメールのバックアップ用に月に一回くらい起動している。二十年近く前、最初に購入したマシンは埃をかぶっている。三年ぶりくらいに起動するか試した。専用の外付けハードディスクの電源を入れ、本体の電源を入れる。ケーブルが焼け焦げる臭いとともに、ハードディスクの横から煙が出てきた。

メキシコ便り(4)

金野広美

行ってきました。ホンジュラスとグアナファト。

まず、ホンジュラス。メキシコと同じラテンの国とはおもえない程、地味ーな国でした。首都テグシガルパの空港はとても小さく、搭乗口も4、5ヶ所くらいしかなかったと思います。街も小さく、高級住宅街のまわりには山肌にはりつくようにバラックの家々が頂上ちかくまで建っていました。よく停電や断水があるらしく、私の友人の家ではいたるところにきれいにデザインされたろうそくが置かれ、大きな水のタンクが常備されていました。

ここにはコパンルイナスというマヤ時代の大きな遺跡があります。もちろん世界遺産にも指定され多くの観光客が訪れる場所なのですが、バスで8、9時間かかります。さんざん迷ったあげくここはやめて飛行機で45分のカリブ海沿岸のラ・セイバという港町に行きここから、ウティラ島にいくことにしました。ラ・セイバは明るい陽光がさんさんと降り注ぐ街で黒人の比率がぐんと高くなります。街には多くの露天が並び、あふれんばかりの野菜や果物が売られていました。店のおばあちゃんと話し込んでいると、学校から返ってきた孫のカテリーナちゃんがそっと椅子をもってきてくれました。デジカメで写真を撮ってすぐに画面を見せると、私も私もと子どもたちが寄ってきます。そして画面に映った自分の姿に大喜びです。ここでは学校は昼までで終わり。そして子どもたちは昼からは働きにでます。よく働き、よく笑うかわいらしい子どもたちでした。

ウティラ島はラ・セイバから船で1時間。ダイビングのライセンスが安くとれるということで、欧米から多くの人が来ていました。海は透き通るようなエメラルドグリーンで私もさっそく泳ぎました。でも美しいといわれる浜までの足がなく港の近くの海岸だったので、ごみが多くちょっと残念でした。そしてやっぱりやられました。蚊の大群、100ヶ所くらいは刺されました。現地の人は刺さないのに、観光客の血はおいしいのでしょうか。これだけ刺されてデング熱にならなかったのはすごいことだと友人に感心されてしまいました。そう私は悪運の強い人間なのです。

ま、このように、楽しくもかゆい経験をしたホンジュラスでしたが、私がこの国にいちばん感じたことは、はがゆさでした。すばらしい観光資源があるにもかかわらず、交通手段が整っていません。コパンルイナスにも隣のグアテマラからの方が近いのでそっちに人が流れています。カリブ海のように美しい海と島があるのですから、ハリケーンで倒れた家をそのままほっとかないで、こぎれいにしたら、メキシコのカンクンとまではいかなくても、もうちょっとは観光客も呼べ、国も豊かになるのではと、まるで行政官のように頭のなかにいろいろなプランを描いてしまいました。人々は朝早くからよく働き、メキシコ人のような底抜けの陽気さはありませんでしたが、少し、はにかみながらも、とても親切にしてくれました。

ホンジュラスから帰ってすぐグアナファトの国際セルバンティーノフェスティバルに行きました。10月3日から21日まで、27カ国、約2400人の出演者で開かれたこの催しにはメキシコ国内はもとより世界各地から大勢の人が集まりました。テアトロフアレスというすばらしいメイン会場をはじめとして17ヶ所の会場でコンサート、ダンス、芝居が、また、大学や美術館、博物館で映画や写真展、絵画展、モダンアートなどさまざまな催しがあり、街の広場では一晩中若者のロックコンサートやアフリカンダンス、大道芸などが楽しめました。

このように大掛かりな、市をあげての催しですが、コンサート会場は劇場ばかりではもちろんなく、大きな広場の特設会場だったり、農場の建物の一角だったりと、いろいろ工夫がこらされていました。こんなに多くの会場を用意できるというのも、建物の中にはパティオと呼ばれる中庭があったり、街中にプラサといわれる噴水のある広場があったりと、いたるところに余裕の空間がたくさんあるからだと、狭い大阪の街を思い出しながら、うらやましくなりました。各プラサをはしごしながらアフリカンダンス、キューバの楽団、アルゼンチンタンゴ、メキシコのジャズ、コンテンポラリーダンスを見ましたがそれぞれにおもしろかったです。特にアルゼンチンタンゴは日本で聞いていたものとは全く違っていました。シンセサイザーを中心にギター、ドラム、ピアノ、チェロ、胡弓、そしてバンドネオンが即興的に音楽を作っていくというもので、最初は変わった楽器の構成だなと思っただけでしたが、聞いているうちにその音作りに引き込まれました。

グアナファトから帰った次の日からさっそく始まった学校でしたが、11月1、2日は休み。この日は死者の日といって日本のお盆のようなもので、死んだ者たちが帰ってくる日なのです。メキシコ古来の伝統行事にキリスト教の行事ハロウィーンがドッキングしたようなものです。1週間くらい前から街中にはきれいに着飾った骸骨人形が現れ、お菓子も骸骨、パンも骸骨、家々のドアやベランダには骸骨がかざられ、街の広場には骸骨のモニュメントと、街中が骸骨だらけになります。しかし、この骸骨、日本のようにおどろおどろしいものとは全く違い、とてもユーモラスで、エレガントなのです。

1日の夜は子どもの霊?が帰ってくる日、みんなお墓をきれいに掃除して、花やお菓子で飾り一晩中墓場でフィエスタをやります。こどもたちはかぼちゃや骸骨の仮装をして、手にかぼちゃをかたちどったコップのようなものを持ち、家々をまわり、街行く人々の間をちょこまかと行き来しながらお金やお菓子をその中に入れてもらいます。多くの露天が軒を連ね、オールナイトで大騒ぎです。

日本では死は恐れられ、骸骨は忌み嫌われますが、ここでは死は恐れるものでも悲しむものでもなく、死者の象徴である骸骨は友達のようなものなのです。死者の日はこどもたちにとっては楽しい楽しいお祭りで、待ち遠しくて仕方のない日なのです。このようにメキシコでは死に対する考え方、感じ方が日本とまったく違うことに驚きつつ、死を祭りや商売に変えてしまうメキシコ人のしたたかさに感心してしまいました。

「がやがやのうた」と高田和子追悼ライヴ

三橋圭介

  「あいだ」

港大尋とグループ「がやがや」のCDを作ることにした。きっかけはライヴを見に行ったことだった。こんな自由な歌をきいたことがないと思った。歌には決められた歌詞やメロディがある。普通ならうまく歌うことを心がけるかもしれない。しかし港も「がやがや」代表のきりさんも「声をそろえよう」とか「もっと感情をこめて」などとは決していわない。もちろん間違ってもそのままうたいきる。バラバラそろわない声、ふぞろいの即興的なリズム、いい間違えなどなど、それぞれの自発的な声が集まって、がやがや歌となって連なっていく。そこでは間違いは間違いではなく、失敗は失敗ではない。そういえば、かつて「水牛楽団」のCDのライナーノートにこんな風に書いた。

「常にゆれ動きながら逸脱しつづけるその音の河は、西洋音楽のようにいかに全員が歩調をあわせるかという理論ではない。進むべき確かな道もなく、音をすこしずつわけあい、寄り添うことで道を切り開いていく。/水牛楽団は歩くための理論をすてた。二歩前進のための一歩後退。足早に答えをだすことはない。何度つまずき、たおれようとも歌を通してともに歩きつづける。歩くことの実践のなか、あいまいなものをあいまいなまま正しく学ぶことで、人の歩みが交差する一本の道がみえてくる。」

港と「がやがや」にも同じことがいえる。「がやがや」は障害をもつ人とそうでない人が歌(などの表現)を通して共に活動している。身体や心に障害をもつ人は一般に「障害者」と呼ばれ、そうでない人はその名称のために「健常者」と呼ばれる。港の「名前」という歌にこんな歌詞がある。「上るは下りるがあるから上る 下りるは上るがあるから下りる 上るはありえない 下りるもありえない そのあいだあいだあいだあいだ あいだに行け」。「あいだ」とは二重拘束(ダブルバインド)された禅問答の答え(Aでもなく、Bでもない)を思い起こさせる。障害をもつかもたないかは現実的には大きなことかもしれない。しかしいろいろな背景をもつ人たちが違いを超えて集まり、「あいだ」という「あいまい」さに戯れながら楽しく歌い踊る。港と「がやがや」の歌声は、音楽のジャンルのあいだのなか、歌という目には見えない糸の「あいだ」のなかで「常にゆれ動きながら逸脱し」、どこまでも自由に羽を伸ばしていく。

ここにうたうということの根源の魅力を感じてもらえたらうれしく思う。

(「がやがやのうた」CDライナー・ノートより)

  「高田和子追悼ライヴ」

6月20日、高田和子さんから電話をもらった。今の病状をきく。返す言葉はなかった。一週間後、学習院大学で会う約束をした。だが数日後、体調を崩し入院。そのまま帰ることはなかった。亡くなる1週間ほど前、高田さんに会った。高田さんは私に会っていない。開け放たれた病室のドアから横になっている高田さんをちらりと見た。それが私の見た最後の高田和子だった。死は覚悟していても、いつも唐突にやってくる。三絃奏者、高田和子は7月18日、脊髄腫瘍のため、亡くなった。あまりに早い死だった。

高田和子の音楽の軌跡は苦悩と共にあった。伝統のしがらみのなか、それを突き破ろうと、常にもがいていた。死の直前まで高田和子に付き添い、見つめつづけた高橋悠治は、その盟友であり同志だった。11月8日、高田和子の誕生日のその日、高橋の呼びかけで「高田和子追悼ライヴ」(渋谷の公園通りクラシックス)が開かれた(この日に合わせ、水牛レーベルから追悼盤「鳥も使いか」が発売された。

集まったのは、斉藤徹、米川敏子、志村禅保、大学敏悠、下野戸亜弓、草間路代、寺嶋陸也、高田和子が率いた「糸」のメンバー西陽子、石川高、神田佳子。みんな高田和子との大きな思い出を共有している人たち。前半、彼女のために新作や古典、即興で音楽を捧げた。後半は志村の尺八の後、高田和子のDVDが上演された。

DVDは晩年の高田和子が取り組んでいた地声と三絃の作品の映像で、ビオレッタ・パラの「ありがとういのち」と「天使のリン(編曲:高橋悠治)、林光の「新しい歌」と「花の歌」(編曲:寺嶋陸也)、さらにCDに収められている「おやすみなさい」(高橋悠治作曲)などを含めると、生と死にまつわる作品が多いことに気づく。これは偶然ではない。彼女の人生が最後にこれらの歌を引き寄せた。その深い闇に沈んでいく唄声は儚く美しい。ありがとう、高田和子さん。そして、おやすみなさい。

(「高田和子追悼ライヴ」オン・ステージ新聞記事より)

響の墓

高橋悠治

11月8日 高田和子の 迎えることのなかった誕生日に向けて
友人たちにたすけられながら 追悼演奏会を組織し CDとDVDを編集した
約束していた追悼の曲を作ることはできなかった
声にならず 逝くひとにとどかなかった思いは みたされないまま
逝ったひとを忘れるための追悼の儀式ではなく
出会いの痕跡が変えた時間と空間の記憶を
響の墓に造り変えることを考えつづけ
そのあいだに いくつかのしごともした
10月には フェデリーコ・モンポウの『沈黙の音楽』を録音した
サン・フアン・デラ・クルスのことば「沈黙の音楽 孤独な響き」を
読み替えながら
11月には『子守歌』『インディアン日記』『トッカータ』
それにソナティナ6曲全部の ブゾーニのピアノ曲集の録音
『子守歌』の扉に書かれたブゾーニの詩
  こどものゆりかごがゆれるとき
  運命の秤がゆれている
  いのちの道は消える
  永遠の彼方へ
あるいは『トッカータ』にかかげられたフレスコバルディのことば
  「困難なしには目標に達しない」
を読み込みながら
作曲も すこしずつすすめている
まず 中嶋香のためのピアノ曲『なびかひ』
1972年に妻を喪った青木昌彦のために書いた合唱曲『玉藻』とおなじ
柿本人麻呂代作の挽歌で 夫を喪った妻のことばを
男女を反転してたどりながら
沈黙のなかに浮かぶ音の粒子の軌跡を記す楽譜を考える
次に ロンドンに住むキク・デイのための尺八曲『偲』
ケージに似た時間枠のなかに記された指と息のうごきの明暗
連句のように長短の枠のなかで 還ることなく流れ去る響
この連句の流動は 今年の夏書いた
東アジアの箏三種とチャンゴ合奏のための
『纒繞聲』まつわる音 で試みたかたち
すこしずつ課題となった『花筺』にちかづいている
問題は楽譜を書くということ
音符として確定しながら それを演奏する人に自発性を帰すこと
この無償の秩序は どうしたら創りだせるのか
流れを流れとするために 断ち切り 静寂のなかで
響を磨き 輝かせることが どうすればできるのか
そのことを伝えるためには 何を書けばいいのか
三味線に触れてまなんだことは
ほんのわずかな指の移動がさわりによって音色を変える
その危うさだった
伝統のなかで型に押し込まれてしまった楽器の
繊細な感覚を 別の場所に移して生かすことができるだろうか
たとえばピアノという 
音量と速度だけを誇りにしているような近代の楽器に
いまはそれしか手近にないから言うのだが
ピアニストの生活にはいつまでもなじめず いつも抵抗がある
残されたものがそれしかない と諦めるならば
それによって音楽を創り
そこから音楽を引き出すことはできるかもしれない
指のわずかなずれとゆれるバランスで
クラヴィコードのような微かな響を立てて
そのささやきに引き込まれてゆく
喪われた声をもとめて

新北風(ミーニシ)

仲宗根浩

最近活字を読むのが段々と辛くなってきています。文庫本だとかなり厳しい。紙ジャケ仕様のCD再発ものだとお手上げ。まずジャケット裏のクレジットが読めないし、同梱されている解説も無理。今年になり急に来た老眼です。もともと近視のため読めない場合は眼鏡をはずし、近付けて読む。目は疲れる。試しに子供の虫眼鏡を使ってみたがページ全部を拡大してくれないので虫眼鏡も動かさなくていけない。面倒くさい。余計に疲れる。よって余程内容が読むその日、その時間でおもしろいと思わない場合、またはその時自分に根性がない場合、本は置かれたまま。図書館で借りたものは途中で返すことになる。窓口で借り待ちの人がいないと確認できれば再度同じものを借りる。

図書館へは歩いて十五分もかからないくらい。家から出てゲート通りを横断し、手書きの「BEER $3.00 YAKITORI $5.00」の貼り紙を横目に飲み屋街の中の町を居酒屋やスナックの看板を眺めながら抜け、図書館まで行く。この前、「パブ B・Bキング」という看板を見つけ「流れている音楽はスクィーズ・ギターの三大キングに、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイのみという頑固なブルースの店ではなかろうか、、、」と妄想しつつ(看板がピンク地に白抜き、書体もイタリックだったのであり得ないのは承知)、以前はあった、何故、コザの中の町で「スナック中目黒」なのか、と不思議に思っていたあの看板はどこにいった、と午後、人気のない通りを馬鹿なことを考えながら歩いていると、いつの間にかミーニシが吹き秋になっていた。

十月頃に吹く北東強めの風を新北風(ミーニシ)と言う。沖縄大百科事典には九月頃、とある。今年は十月十五日にミーニシが観測されたようで、この風が吹くと秋、ということになる。十月になってしばらくすると、寝る時に扇風機をつけることがなくなり、昼は家の中にも涼しい風が入ってくる。タオルケットかけるだけでは段々寒くなったとおもったら風邪をひき、しばらく寝込んでいると、うえの子の小学校最後の運動会。蝉がまだ鳴いている。PTA参加の競技に参加するため入場門で待っていると、日射しは強い。天気がいい日の正午過ぎは暑い。昔、自分がこの小学校に通っていた頃、教室にクーラーなどは無く、体育館もプールもなかった。児童数は千人を軽く超えていた。学校の近くにはトタン屋根の家がたくさんあり、豚小屋もあった。今は校舎も建て替えられ、ほとんど風景は変わった。通ったのは三年間。復帰の翌年に熊本に引っ越した。

アジアのごはん(21)魚つみれ麺クイティオ

森下ヒバリ

タイの北部の古都チェンマイで最近お気に入りのめん屋さんがある。ナイトバザールの通りから一本東のピン川よりの道、チャルーンプラテート通りに昔からある店だ。ポンピンホテルの手前、ダイヤモンドホテルの向かい辺りにある。表のガラスケースに魚のつみれがたくさん飾ってある。魚のつみれがそんなに好きではないので、積極的に店に入る気が起こらなかった。たしか、十数年前は一時期けっこうここで食べていたような気もするのだが、わりとおいしかったとは思うが、もうさだかではなかった。

先日、その店の近所で昼食となり、まあいいか、と店に入ってふつうの米めん・クイティオを注文した。出てきたのは、透明なスープに米のめん、上には魚のつみれダンゴ、魚のすり身をひも状にのばしたもの、皮もすり身のギョウザ、かまぼこなどがたくさん乗っている。すべて魚のすり身で作ったものである。何の期待もせずに口に運ぶと、つみれダンゴも、かまぼこも、すべて具がたいへんおいしいではないか。皮もすり身のギョウザはぷちりと噛むと、とろりとした餡が口の中に流れ出る。
「今まで食べた魚つみれダンゴたちの中で一番おいしいかも」
「うん、いける」
魚のつみれが好きなウチの同居人もうれしそうに食べている。スープとめんはあっさりで、ほどほど。あまり魚のつみれダンゴ系のものが好きでないというのは、おいしいものがなかなか見つからないということも関係しているかもしれない。

「おいしい店なのに、なんで来なくなったんやろ?」
「高いからかなあ? けど、まあちょっと高いだけやし」
ふつうのめん屋さんよりはたしかに10バーツほど高いが、この味ならまあいいだろう。食べているうちに、以前「タンマダー(ふつう)」とわざわざ注文しないと外国人には自動的に「ピセー(スペシャル)」のクイティオが出てきて、ちょっといやな思いをしたのだということを思い出した。注文でとくに何も言わなければ「ふつう」でしょうが。

店の一角で白人旅行者のカップルがめんを食べているのが見えるが、明らかに器の形が違う。料理屋では区別のため値段で器を変える。あれはピセーに違いない。そういえば、めんを注文するとき、ふと気になって、ふつうはとくに言わない「タンマダーね」という確認をわざわざしたのも、かすかな以前の記憶があったためかも。タイのめん類の「ピセー」は、ふつうより具が多くなって、値段が5バーツから10バーツ高くなる。もともとタンマダーでもぎっしりと具がのっているので、つみれがあんまりたくさん食べられないわたしには、むしろ迷惑なスペシャルであって、しかも注文もしていないのに勝手に出してくるその根性がまたイヤなのである。たぶんそれで、若かったわたしは来なくなったのだろう。タイのめん類は、めんの量がとても少ないので、めんの量を増やしてくれるのならまだいいのだが、残念ながらそういうピセーは存在しない。

短い旅行者には、どうでもいいようなレベルのことなのだが、タイ生活が長くなり「暮らしている」感覚になってくると、こういうのはうっとうしい。タイで外国人には値段の高いピセーを持ってくる店はけっこう多い。でも、屋台の汁めんでも外国人には3倍、4倍の値段を言って絶対引かないのが当たり前のベトナムなどに比べたら、ちょっと高いものを食べさせようとするなんて気持ちはカワイイものである……とベトナムに行ってから思うようになったけど。

丸い魚のつみれは、タイではルークチン・プラーと呼び、焼いたり、揚げたりして食べることもあるが、もっぱら米めんクイティオの具として活躍する。魚のつみれダンゴやかまぼこをたくさん具として上に乗せる、というのはタイ以外の国ではあまり目にしないめん料理だ。日本でも和風ラーメンにはかまぼこやなるとをのせるが、せいぜい一枚か二枚。チャーシューを敷き詰めたラーメンはあってもなるとを敷き詰めたラーメンはない……。というのも、タイのこの魚つみれ入り汁めんのルーツはめん料理ではなく、ルークチンなどのつみれやかまぼこ類を野菜と煮た、広東料理のイェンターフーというスープ煮料理にあるからである。それにめんを添えたものが、タイのクイティオの始まりである。なので、クイティオにとって、重要なのはめんよりもルークチンなどの具。なので、一杯のめんの量は大変少ない。

クイティオをタイに持ち込んだのは18世紀から19世紀のバンコク王朝時代にバンコクに移住してきた華南の広東、潮洲出身の華僑たちである。潮洲というのは、広東省と福建省の境にある地域で、広東省に属するが、広東語とはかなり違う潮洲語を話す。バンコク王朝の王が潮洲出身の中国人の血をひいていたので、潮洲出身者がバンコクで優遇され移住が奨励された。そのため、今でもタイの華僑の7割が潮洲出身者である。クイティオというのは潮洲語で米の粉から作っためんのことで、めん料理をさす言葉ではないが、現在では米のめんを使った料理の総称としても使われる。以前は広東語のイェンターフーがめん料理をさす言葉として使われていたが、その呼び名はすたれ、今では赤い腐乳入りのクイティオだけをそう呼ぶようになっている。

タイでは、このルークチン入り汁めんのあっさりクイティオが現在ではめんの主流となりつつある。しかし、もっと古い時代に中国雲南省から伝わったと思われる、汁めんのカオソーイの系統も地方に行くとまだまだ健在である。カオソーイと呼ばれるめんの系統はトリガラスープに鶏肉入りや、牛肉ダシの牛肉入り、豚骨ダシに肉味噌のせなどである。これらはクイティオに比べると、けっこうコテコテで濃厚な味が多い。米のめんもきしめんぐらいの幅が多い。チェンマイのカレーめんの「カオソーイ」は北部地方のめん類の呼び方がカレーめんだけに残ったものである。同じタイ族のラオスやビルマのシャン州では、魚つみれ入り米めんのクイティイオはほとんどない。カオソーイ系列の米めん料理が中心である。小麦粉の中華めんも、これらの地域ではあまり見かけない。中国人の店でしか商われておらず、純正中国料理、というたたずまいだ。魚つみれ入りめん料理というのは、ルーツは中国ではあるもの、タイ王国でふしぎな形でおいしく発展した料理といえるだろう。味つけに醤油ばかりでなく魚醤油のナムプラーを使うことも忘れてはならない特徴のひとつだ。

さっぱりしたクイティオはお昼ごはんや、ちょっとお腹がすいたときに手軽に食べられ、毎日食べても飽きない。タイのめん類は、基本的に薄味に作ってあり、テーブルに置いてある調味料で最後の味の調整は自分でする。食べ飽きないのは、これで自分好みの塩分や酸味、辛味を作れるからでもある。組み合わせでいろいろなバリエーションのめん料理を食べることが出来、まさにタイはめん食いのパラダイス。あとは化学調味料の使用をもっと少なくしてくれれば文句はない。

アジアの料理人が、化学調味料を汁めんの仕上げにばさりと大量に入れる習慣のおかげで、わたしはタイ・ラオス・雲南省・ビルマ・カンボジアなどのアジア各国の言葉で「味の素を入れないで」と言えるのだが、あまり自慢になるような、ならないような……。ちなみにタイ語では「マイ・サイ・ポンチューロット」、ラオ語では「ボー・サイ・ペンヌア」である。

メキシコ便り(3)

金野広美

毎日、先生と追っかけあいをしながらのクラスもいよいよ最終週。木曜日にはオラリオ(先生との会話と5分間のスピーチ)のテスト、金曜日にはクラスのメンバーがそれぞれの国の料理を作って持ち寄るパーティー、週明けには筆記の進級テストと、予定がつまってきた9月の終わり、しっかり勉強しなければと決意していた日曜日の夜、勉強を始めると突然爆発音が聞こえてきました。ガス工事でもしていて爆発が起きたのかと思うほどの大きな音。それも10分、15分間隔で聞こえてきます。勉強どころではなくなり、何度も窓から外を見ましたがよくわかりません。別に人が騒いでる様子もなく、表では向かいの公園に移動遊園地がきていました。大音量で音楽が流れ、たくさんの店が並んでいます。あまりのうるささに勉強どころではなく、あきらめて耳をふさぐようにしてその日は眠りました。

しかし、次の日も学校から帰ると同じ状態が続いています。いったいなんなのだとその辺りにいた人に聞くと、教会のお祭りだという答え。中に入ってみると、ちょうどミサの真っ最中。神父さんが歌いながら説教すると、前にずらりと並んだ15人位の楽団が、トランペットやトロンボーン、ギターなどで伴奏し、中にいる人たちも唱和します。楽団のソリストによる賛美歌もリズミカルで、ヨーロッパの教会の荘厳な雰囲気とは全く異なり、ここでは教会音楽もにぎやかなマリアッチでした。外ではシスターたちが手作りのお菓子やタコスの店を出し、やはり別の楽団が広場で演奏しています。その前ではもちろんみんな踊っています。

しばらくそれを見ていると、またもあの爆発音が聞こえてきました。そこで私のアパートのガードマンのフィデルにいったい何の音かと聞くと彼は「戦争が始まったんだよ」と一瞬、私を脅かし「本当は花火だよ」と笑いながら言いました。よく気をつけてみるとあがっていました。子どもがよくやっているあの打ち上げ花火です。でもその花火、とてもしょぼいのです。細い火がシュルシュルと短くあがってパッと消えます。なのに音だけはめちゃくちゃ大きいのですから閉口です。その日もまたまた勉強できず寝ることにしました。

そして、次の日も相変わらずです。おもいあまって、私はフィデルに「ここの住民はこんなに遅くまでうるさいのに文句言わないの」と聞きました。すると彼は「言わないよ。みんな祭りに参加してるんだから」ですって。なるほど、それではいうわけないわなー。そこではたと気がつきました。あ、そうか私も見ているだけじゃなく、参加すればいいんだと。もう試験勉強はすっぱりあきらめて出かけることにしました。ナタという今川焼きのようなお菓子をほおばり、大音量のロック音楽をききながら縁日を見て回りました。

移動遊園地は回転木馬、コーヒーカップ、バイキング、小さいですが観覧車まであります。たくさんの露天が出て、お菓子やパン、何十種類もの豆やチレ(メキシコの唐辛子)、直径50、60センチはあるチチャロン(豚の皮を油で揚げたもので、細かくちぎってサルサソースや、チレをまぶして、そのままおやつとして食べたり、スープの具にする。食感は少し油っぽい車麩かな)そのほかには、ろうそく、アクセサリー、各地の民芸品など、さまざまなものが売られ、臨時食堂では親子連れがタコスやポソレ(鶏肉やとうもろこしが入った実だくさんのスープで、9月16日の革命記念日の前夜には必ず各家庭独自のものを食べる習慣がある)を食べ、子どもたちはヨーヨーつりや、鉄砲打ちに興じています。そのそばでは父親が笑いながら子どもを見ています。こうしてみんな日付けが変わるまで3日間のお祭りを楽しんでいました。お陰で私はトホホ……の成績でしたが、なんとか進級だけはできました。

さあー2週間のバカンスです。ホンジュラスに6日間と、グアナファトで開かれる国際セルバンテスフェスティバルに4日間の予定で行ってきます。ホンジュラスはJAICAに勤める友人がくれた今年の年賀状に「ホンジュラスに赴任することになりました。近くに来られることがあれば是非お寄り下さい。」とあったので、近くに行くでー、とばかりに訪問することにしました。それまでどこにあるかも知らなかった国でしたが、初めて地図で探しました。メキシコのとなりがグアテマラ、そのとなりがホンジュラスでした。ニカラグアと並んで中米の最貧国のひとつだそうですが、メキシコとは違ったラティーノの姿を見ることができるだろうと、今から楽しみにしています。

しもた屋之噺(71)

杉山洋一

冬時間に戻ると、途端に季節が突き抜けてゆく気がします。ヨーロッパの晩秋というと日本より深い闇の印象があるのは、街のネオンが少ないからかでしょうか。イタリアでネオンの目立つ街を思い出すと、トリノの寂しい街角ばかりが脳裏に浮かびます。トリノは寂れた街ではないのですが、夜、それも今日のように雨がずっと打ち続けている夜に訪れると、へろへろのピンクや緑色のイルミネーションが妙に悲しげに見えるのが不思議です。
今月中旬のある夜。レッジョ・エミリアのオペラの本番が終わり、ホテルでシャワーを浴びたあと、0時の鐘の音をドームの階段に座り、一人聞いていました。本番の後に皆で騒ぎたい方でもないので、こうして何を考えるでもなく一人で居るのが好きなのです。閉店間際のヴァッリ劇場前のバールで買った、エルバッツォーニという土地のパイをキノットと一緒に食べながら、小一時間ほど誰もいない寒々とした広場の噴水を眺めていました。

3週間も毎日欠かさず通っていれば、色々な人との出会いもあり、再会もあり、有意義で楽しい毎日でした。仕事場の雰囲気が本当に素晴らしく、最初から最後まで、心地よく仕事が出来たのが嬉しかったですね。文句を言うまでもなく、歌手の皆さんがここを教えて、あそこを返して、と厭な顔一つせず、最後まで真摯に楽譜と対峙してくれたのにも感激したし(初日に指揮台に上がると、譜面台の上に、主役のニコラスからメッセージ入りのプレゼントが置いてあったりしました)、俳優の皆さんの声には、心がいつも揺さぶられたし(ミケーレ・デ・マルキも、本番の後にお礼の電話までくれましたし)、彼らに対し、とにかく丹念に演出を施すフランコ・リパ・デ・メアナの腕前と粘り強さからも沢山のことを教わりました(フランコとは、楽日の翌日、ミラノに戻る列車で一緒になり、記念に上げる、と趣味で集めている折り畳み傘をくれました)。

いつもは、クラウディオ・アバードやら大御所とばかり仕事をしている照明の巨匠グイド・レヴィも、こんな右も左もわからないような若造に、気がつかないうちにさらりとご馳走してくれたり、色々と気を利かせてくれたりして(だからという訳ではないけれど、今日は思わず、彼が照明を担当している、パリ・オペラ座の「アルジェのイタリア女」のDVDを買ってきました!)、その他の裏方の皆さんも一人一人本当に気持ちよく働いてくれて、毎日仕事に出かけるのが楽しみでした。演奏家の皆さんも、文字通り最初から最後まで全て協力的でしたし、本当に言い出したら切りがないですね。

合唱指揮のアルフォンソ・カイアーニとは、最初に家で打ち合わせをしたときから、ウマが合うと思いました。直感で、ああすごい才能だな、耳がいいなと思えたし、実際彼が居たから何とかなったとも思います。定期的にパリのオペラ座で仕事も始めたけど、ヴェニスのフェニーチェから引抜かれたから来年1月から暫くヴェニスで頑張ろうかと思っているんだけど。でも、考えてもみろよ、冬のヴェニスなんて一ヶ月も暮したら鬱病になっちゃうだろ。本当はさ、バルセロナに行きたいんだよな。劇場もいいし、海もある。メシもうまい。ヴェニスか、まあ、取りあえず様子見だな。

彼はスカラの少年少女合唱団の指揮の責任者で、こちらもまだ暫くミラノに住んで、息子が後何年かして、どうしても音楽がやりたいようだったら、アルフォンソに頼んで、少年合唱団に入れて貰いたいと思っていたのだけれど、ヴェニスにゆくならスカラと両立は時間的に難しそうだからちょっと残念、などと考えつつ、一緒にミラノまで夜半の汽車で戻ってきたりしました。

劇場監督のダニエレ・アバードと、2、3度立ち話をしましたが、演出にも作品にも満足してくれたし、何より短い合わせでここまで形にしたということに驚きだったようです。レッジョでは今頃、彼の演出で別のオペラを準備しているはずで、時間の都合が付けば是非見にゆきたいところですが、ここまで全ての仕事が遅れていると難しいかも知れません。彼と話していると、こちらが素人臭いだけなのか、何とも言えない上級のオーラが漂ってきて、こんな人と話していていいのかな、などと思ってしまう程です。

ピアノ付きの舞台稽古で、どうせ朝から晩までピアノのマルコと二人、皆からずっと離れた誰もいないところで振っているだけだから、と靴を脱ぎリラックスして指揮台に上がっていたところ、或る日ふと気がつくと、すぐ目の前で突然テレビ・カメラがこちらを舐めるように撮っているではありませんか。仰天しながらも、どうか足元は撮られませんようにと祈りつつ、振り続けながら靴を履いたりしている有様では、どう贔屓目にみてもお里が知れるというものです(あれはRAIのニュースだったらしく、友達から見たよと報告を受けましたが、指揮者は遠くで振っているだけだったと聞き安心しました)。

数日前に、サウンド・エンジニアをしていたアルヴィゼ・ヴィドリンからメールが来て、よく困難な条件であれだけやったねえ、と書いてありました。このオペラもなんでもDVDにするとかで、指揮者にインタヴューをとか言って、午後誰もいない舞台で、演奏者の椅子に座り、盛りだくさんの打楽器が写るアングルで質問されたときも、このような難しい演奏は、どうでしょうか、実際やられてみて、と言っていたし、まあ全てのキューをヴィデオカメラに向かって左手の指の数1から5までで出しているのを見ている方からすると、なんだかすごいことをしているように見えるのかも知れません。そうですね、別に特に指揮者は大したことはしていないんですよ。歌に合わせて振っているだけで、全体がつつがなく流れてくれるようにやっているだけですけどね。等と答えたら、インタヴューの人たちはちょっとがっかりしていました。

こうして、色々な人に支えられてオペラは出来るわけですが、最後の最後、本番は、とにかくしっかり指揮者が纏めないと、これだけ素晴らしいメンバーが朝から夜中までかかって準備したもの全てが水の泡になってしまうわけですから、何を考えて振っていたかと言えば、ただそれだけ。皆の努力が報われるように、素晴らしい舞台になりますように。普通に演奏するのと、何が違うかといえば、やっぱりこの部分だったと思います。最近、仕事で厭な思いをしたことがないのですが、結局周りに恵まれているのでしょう。有難いことだと感謝の念を新たにしつつ、とにかく詰まっている仕事を少しでも片付けるよう努力しなければ。

(10月31日ミラノにて)

己が姿を確かめること(2)ビデオを使うこと

冨岡三智

私がまだ留学する前で、ジャワで習った舞踊を一人で細々と練習していた頃、鏡を使って練習するのはよくない、ビデオを使う方が自分の動きが客観的によく分かるとアドバイスしてくれた人がいた。たぶん、鏡を見て練習すると自己陶酔する危険性があるけれど、ビデオに撮ればその心配はない、ということだったのだろう。けれど、実のところ私にとってはどちらも大差なくて、ビデオに撮っても自分の動きは客観的には全然分からなかった。それは―その1 鏡を使うこと―でも書いたように、横に具体的な比較対照者が写りこんでいないと、まだ判断できなかったからなのだった。

今では、公演のビデオ記録を見て動きを見直してみることがある。けれど、自分で意識できている自分の癖はよく見えるけれど、まだ意識できていない癖は見えない気がする。さらに、ビデオを見ることによって、他の人と比較して自分だけが違っている箇所がどこだか分かっても、それが修正すべき悪癖なのか、他の人にはない個性に成り得るものなのかは、私にとってはまだよく分からない。鏡やビデオという外部視線によって自分の動きを確かめるのは、本当は、そういうことがはっきりと分かりたいがためなのだが。

ビデオを使いこなせるのは(このことは録音にも当てはまる気がする)、先生=自分が真似したい見本の動き(演奏)を完璧に真似しようと思っている人だという気がする。最初から先生を真似しようとビデオを見ていて、たぶん先生の動きを見取ることにも長けている。だからビデオに自分1人しか写っていなくても、その横に先生の姿を想像して、比較して見ているのだろう。

それはつまり、自分の外部に既にモデルがあるということなのだ。けれど自分の上達したい先のモデルは既にあるとは限らない。漠然とはしているものの、ある理想のイメージを追う時には、ビデオの中に答えが見つかることはないような気がする。

留学中、私がビデオや録音に精を出さなかったのは、完璧に真似する能力がなかったからでもあるけれど、理想のモデルが現実の先生ではなかったからだ。私は、その時点において先生が達している状況を理想にしていたのではなくて、先生が目ざしていたであろう方向の先に、私の理想の方向を重ねていた。

私の理想は当初は茫漠としていたけれど、それが自分にとってある程度具体的な像を結ぶようになった頃から、比較対照者が一緒に映っていなくても、ビデオを練習に活用することができるようになってきた気がする。とはいっても、以上のようなことだから、私は細部の動きのチェックにビデオを使うことはあまりしない。上記の通り、ビデオを見ても、映っている私の動きが悪癖になるものか個性になるものかを判断してくれるわけではないからだ。そういうところを見てくれるのは、やはり師匠のまなざししかないような気がする。

昔話──翠の虱(37)

藤井貞和

(今回は「翠の沙漠37」と名を改めまして)

『竹取物語』研究者としましては、
かぐや姫(衛星探査船)をね。

あけがたの水星を追う天体望遠鏡で、
月までをも視野にいれようとするとき。

midu(水)、midori(水色)、
見えてきたのは水の地球で。

かぐや姫は地球のすみずみを、
見てるはずなのに、満ち欠けをさ。

何でも知りたいと思ったら、
その昔、地球にやってきて。

おうな、おきなのみどりめとなりまして、
あたいを育てておくれよ、しばらく。

みどりの沙漠が美しいね、
みどりさん

(「藤井さん、さいきんはどんなしごとをやってるんですか?」「11月に、戦争の本をだそうとしています」「わあ、いや。戦争はきらいです」と、拒絶反応が大きいです。「非戦、非武装を起源から探求する本ですから」「そうですか、じゃ買いましょう」と、しぶしぶ同意させても、分厚いかべです。)

製本、かい摘みましては(33)

四釜裕子

ある大学の図書館が主催する年に一度の製本講座を担当して3年目、今年は10月開講で、ちょうど先週終わったところです。学生や図書館のスタッフのかたにアシストしていただいて、参加者はだいたいいつも15人くらいでしょうか。卒業生や近隣のかたの参加も増えてきて、運営する私たちにも段取りだけにモウマイしない余裕がやっと出てきたように思います。

毎回その日の作業の説明とデモはわたしが一度はやりますが、あとはそれぞれのテーブルで、アシスタントを中心にして、先にできたひとがまだのひとにこうやったよと話しながらまた自分でもやり直すなどして進めていきます。先にできたひとには、その場で早速先生になっていただくわけです。ひとりでこっそり仕上げて悦に入っているひとを見つけたら、「はい、ここにいい見本がありますよー」と呼びかければ、あとは自然にそこで談義がはじまるものです。

少し前に他の講座でこんなことを言われました。「先生が言った通りにしたのにうまくできない!」。器用なひとでしたので、失敗したことがよほどくやしかったようです。応えました。「馬鹿だなあ、初めてやるんだからそうそううまくいくわけがないじゃないか。わたしなんかどれだけ失敗してきたことか。そんなに簡単にうまく作れるわけがないでしょう」。かつてわたしが習っていた製本教室ではありえない会話です。そこはいわゆるカルチャースクール系でしたので、生徒が決して失敗しないように、一人一人に丁寧に教えてくれました。どうしてもできないところは先生が仕上げてくれたほどです。それはそれでとてもよかったのですが、図書館の講座を持つにあたってわたしが考えたことはただ一つ、失敗のない作品を仕上げてもらうことではなく、失敗しない方法を考える場所にしたいということでした。

紙を貼る説明をするときにも、ノリの説明はあまりしません。
指で塗るかハケを使うか、水で薄めるのか、薄めるならどれくらい水を入れるのか。かなり大きな面積を人差し指だけで器用に塗ってしまうひともいましたから、それぞれがまず自分のやりやすい方法を探して試してもらいます。資材の用意についても、必要な分量をなるべくそれぞれで切り出してもらいます。「糸は何センチ必要ですか?」と聞かれたら、「どれくらい必要でしょうねえ。考えて切ってください」というふうに。糸の運びが頭に入っていれば、どれくらい必要か、考えることができるのですから。

さてそんなことが、参加するみなさんにとっては面倒なのか面白いのか、わかりません。でもわたしとしては、それぞれが別々の方法でノリを塗っていたり、先にできたひとがまだのひとに説明している様子を見るのがとても楽しい。失敗するともう一度やってみたくなるもので、講座が終わってから自宅で作り、図書館のスタッフに見せにきてくれるひともいるようです。なにしろここの図書館には製本で使う基本的な道具は揃っていて希望者には貸し出しもしているし、スタッフのほとんどが一度は講座を受けていますから質問にも応えられるのです。なんて魅力的な図書館だろう、と思います。

アヤとローラ

さとうまき

先日、「ガラスの動物園」というお芝居を見に行った。テネシー・ウイリアムスの古典的なお芝居。高校のときに、クラスメートが演劇部に入っていたのを知らず、文化祭のステージに出てきたので驚いた。高校生とは言えど、本格的なお芝居を見たのは初めてだったのだが、今まで隣に座っていたクラスメートが急にまるで違う人、つまりはすっかり役者になっているのでこれまた驚いたのだ。

今回は、文学座の粟野史浩さんが青年紳士の役をやるという。粟野さんは、永井愛さんの「やわらかい服を着て」というお芝居に、NGOボランティアの役を演じた。役作りのために私の報告会にも来てくれたことがある。

私が、見たのは、30年も前だったが、なんとなくストーリーも覚えていた。なぜだか、青年紳士が、チューインガムを自慢げに噛むシーンを一番よく覚えていた。ローラは、子どものころから足が悪くて、そのことが気になり、自信がもてず過度の内気になってしまい、婚期を逃してしまう。学校では、足につけていた補助具の音を、皆に聞かれたらどうしようといつも不安なのだ。ビジネス学校にいっても、極度に緊張して、適応することができずに一日でやめてしまう。このお芝居が作り出す、ローラの内面の繊細な世界が心地よい。お母さんは、どこにでもいるような、娘の売れ残りを心配し、おせっかいを焼こうとしている。

この間、アンマンに行ったときに、バグダッドからアヤちゃんが検査のためにやってきた。アヤちゃんは、ガンになって右足を付け根のところから切断している。義足をつけて歩いているが、この義足がよくこわれるので、転んだりする。この間は、バグダッドから成績表を持った写真を送ってきてくれた。よく見ると、10点、10点、8点、8点、とまあまあの成績だ。無事に進級できたようである。

今のバグダッドは、宗派対立が激しくなって、こどもたちが町を歩くのも大変だ。誘拐されたり、テロに巻き込まれたり。誘拐されると身代金を要求される。彼女の父はスンナ派、母はシーア派だ。この間までは、イラクでは、彼らのように宗派にかかわらず結婚するものも多かったのに、なぜここまで宗派が対立するのだろうか? そこで早速しらべてみた。

シーア派のイスラム教徒は、アル・フセイン(フサインと表記することも多い)の肖像画を家に飾っていたりする。本来イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、シーア派は少し違うようだ。このアル・フセインは、預言者ムハンマッドの孫に当たる。ムハンマッドの死後、イスラム共同体は、誰をその指導者(カリフ)にするかで、もめた。長老の合議制で決めるというのがルールだったが、血筋を主張した人々がシーア派である。彼らは、アル・フセインを担ぎ出して、当時のカリフのウマイヤ家に反旗を翻した。アル・フセインの軍隊はたったの72名だったが、カルバラで4000人の軍隊に囲まれ、まず、水を欲しがった乳飲み子のフセインの息子のアリに矢があたり絶命する。そして、フセインの体にはたくさんの矢が刺さり、首を切られて惨殺される。シーア派の人達は、フセインを特別に崇拝しており、毎年、フセインの殺された日を記念日として、自らの体に鞭を撃ったり、ナイフで額を切りつけて、悲しみを共有するのである。この儀式はアシューラといわれている。シーア派はこの「悲劇」こそが、根本あるのだろう。

このフセインがシーア派に惨殺されたと解釈すれば、話は根深いが、当時からカルバラの悲劇は、宗派対立というよりは、部族間の覇権争いのようなところがあった。フセインの父のアリは、同じシーア派内部から暗殺されているし、暗殺や、惨殺の繰り返しが歴史なのだろう。今のイラクの状況そのものかもしれない。復讐、復讐の繰り返し。どこに解決の糸口があるのか、私には結局よくわからない。
 

アヤちゃんが、バグダッドから無事にアンマンに着いたというので早速会いに行く。片足でぴょンぴょンとはねながら、うまくバランスをとって出迎えてくれるのだ。ヨルダンに住み着いているイラク人の娘、バスナも様子をみにきた。この二人はとても仲良しだ。バスナは、アヤちゃんの義足が気になって仕方がない。そのとき廊下で猫がミャーオとないた。猫だといって二人は走って外に出る。アヤのスピードはバスナに決して負けてない。でも、外には猫はいなかった。近所の子どもが持っていた携帯電話の着信の音だったのだ。二人は顔を見合わせてげらげら笑っていた。

二人はさらにはしゃいで、アパートのベランダから身を乗り出すので、バランスを崩して落ちはしないかとハラハラする。バスナがベランダから身を乗り出すと、片足がない分、上半身に重心が偏っているから簡単におちてしまう。前もいすから転んで骨をおったことがあったからだ。 

バグダッドからの旅は、いつも大変である。前回は、家族みんなで出てこようとしたが、ヨルダンは、アヤと父親しか入国を認めず、乳飲み子を連れた母は、一晩国境のモスクに身を寄せて翌朝バグダッドに戻らなければならなかった。今回は、2人できたのだが、タクシーの運転手が入国できず、ヨルダン側で別のタクシーに乗ったためにさらに100ドル払わなければいけなかった。

お父さんは、アヤがガンだとわかったときの話をしてくれた。足を切断しなければいけないといわれたときは、目の前が真っ白になり、寝込んでしまった。でも、命が助かったので、神に感謝している。イラクには、ウェディングドレスが飾ってあるお店が多い。買い物に連れて行ったりすると、彼女はそういったドレスを眺めて、「私は、大きくなったら結婚できるの?」と聞いてくる。「大丈夫だよ」というと、アヤはにっこり微笑むのだ。しかし、父はそのたびに、責任を感じてしまうという。アヤは、とても明るい女の子だ。

彼女がバグダッドに去る夜、アパートの下の部屋では、バスナの家に私たち日本人も集まってラマダンの明けのイフタールを食べながら大騒ぎしていた。アヤは、そのグループには加わらずに、父に手をつないでもらって足を引きずりながら、さびしそうにアンマンを去っていった。

予想外の出費のためにお金を使い切ってしまった。これからダマスカスに抜けて、そこからだと安いバスがあるそうだ。ヨルダン政府は、特別な理由がない限りイラク人にビザを出さなくなったので、ヨルダン―バグダッド間を行き来する車はほとんどなく、法外な値段を払わなければいけないからだ。ラマダンも中間地点にさしあたり、夜空には満月がけらけらと高笑いしている。これから、長くて危険な旅が始まるのだ。無事にバグダッドまでたどり着けることを祈りつつ。

「ガラスの動物園」のローラを見ていて、アヤのことを思い出した。
アヤは、明るい女の子だ。だから僕たちは、彼女のハンディキャップをほとんど感じることがない。だが、今までは、小さかったけど、大きくなってくると自分の体のことを気にするかもしれない。周囲の目も厳しくなるかもしれない。そしてローラのように、内気になってしまうかもしれない。
ふと、思った。

硝子体手術

高橋悠治

1992年5月のある夕方
プラットホームで空を見上げていた時
急に幕が降りたように 視野の半分が閉じた
それはアレルギー性の白内障で 
見えなくなった右目のまま 2箇月過ごした
今年の8月 町を歩いていると
また右側の風景が消えた
それでも左側はダブルイメージになって
距離のない町並みがつづく
人工レンズがずれたので こんどは虹彩の裏に
新しいレンズを縫い付ける手術を受けた
手術室ではバッハの平均律第1巻第1曲が鳴っていた
ピンクや黄色の四角形が映る目のなかを
一瞬 銀色の針が横切り
アンダルシアの犬の切り裂かれた目か
手術が終わった時には第2巻第1曲がはじまるところだった
どうやって目の裏側から縫うことができるのか
目を取り出してまた入れるのか
まだ聞けないでいる
今度のレンズは目よりも長生きするらしい

言語と精神──翠の虱(36)

藤井貞和

きっと、戦争当事国だから。

いいえ、そうではない。

チョムスキーの講演を聴いている、

一人の少年が、

徴兵よりは言語学を、

ぼくは勉強したいんだ、

そう言いながら、

死んでいったこと、ベトナムの猖獗のなかで。

うそを、

そうではないはずなのに、

吐(つ)いた国、米国。

世界がいま、

{言語と精神}

かくじつによくなってる、

かくじつにあれから30年、

よくなってる。

(昔話を語る少年が、語りを教えてくれたじっつぁんに、テープで聴かせる。小学校で、みんなのまえで、身体をいっぱいうごかして語る。そのときの録音をイヤホンで聴きながら、「よかった、じょうず」と、じっつぁんは仰向いたまま、ちいさく拍手。少年はじっつぁんのベッドにもぐりこんで、胸にしがみついている。こうやって毎晩、少年はじっつぁんから昔話を聴いて成長した。宮城県の昔話採集者、佐々木徳夫(のりお)さんを記録した番組から。佐々木さんは3000人にこれまで会って、1万話を集めている。東北の緑と畠。語りが支える人々の暮らしにこそほんとうの「美しい国」があると、この国の政治家たちにわからせることのむずかしさ。{言語と精神}はチョムスキーの著書名より)

組長

さとうまき

夜の8時ごろ、アンマンの事務所のブザーが鳴ったので、ドアを開けにいくと子どもの声がする。西村陽子が、脳腫瘍の女の子イラフを連れてきた。イラフは4歳の女の子。一年前にがんの治療のためにバクーバからアンマンにやってきた。お父さんと2人で安アパートを借りて暮らしている。子どもの介護に疲れたお父さんは、西村にイラフをあずけて、しばし生き抜きをする。

彼女は、イラフのことを組長と呼んでいる。確かにつるっぱげの女の子は、人相が悪く、頭やら体には7箇所以上の手術の後がある。しぐさも女の子らしくない。ぼくには彼女が何を言っているのかよくわからないが、西村陽子にはよくわかるらしい。彼女の遊びにはコースがあるようだ。まずは積み木。といっても、抗癌剤の箱を積んでいく。ビニール袋に入った薬の箱は、100箱くらい。書棚の取っ手のところにぶら下げてあるので、なんで捨てないのかと気になっていたが、イラフが遊ぶようにおいてあるのだ。

「組長、今度は何をして遊びますか」
「そうだなあ、お医者さんごっこ」
イラフは西村さんの腕をタオルで縛り、血管を捜すそぶりをしている。
「組長、そろそろ、ご飯の時間です」
「まだ、遊ぶ」
「でも組長、今日はチキンですよ」
「おお、それならば、食べよう」

子どもを預けた親父は、申し訳なく思ってか、チキンを買ってくれた。イラフは貧しいからあまりお肉を食べることはないようだが、陽子が明日、アンマンを離れると聞いて奮発してくれたのだ。今日は、何も食べないようにと、親父に釘を刺されたという。
「組長が、そこにいるおなかをすかせた叔父さんも座って一緒に食べるようにといっています」
「かたじけない。ではお言葉に甘えて」
私も一緒にご飯をいただくことにした。

ご飯に飽きると今度は、お絵かき。といっても、イラフのキャンバスは、西村陽子である。サインペンを持ち出すと、西村を捕まえて、腕とか、顔に落書きをするのだ。今度は、ぼくのほうを見て、にやりと笑う。そうは、問屋が卸さない。私は彼女を捕まえて、ペンをうばいとった。
「きゃー」
悲鳴を上げるイラフの顔に眉毛とかを落書きしてやった。
「組長、いかがでしょう?
」西村が手鏡をもて来てくれる。
「キャー」
はしゃぐ組長。
夜も更けてくると、お父さんが迎えに来る。
「組長、お迎えが参りました」

ヨルダンは、ラマダン月を迎えていた。ラマダンは、貧しい人達のことを考えるために、日中はご飯を食べない。しかし、おなかをすかせた輩は、いらいらして、喧嘩をしたり、車をぶつけたりとなかなか大変。仕事にならないと西村陽子はラマダンが始まると同時に日本へ帰って行った。

一方街角には、イラフの巨大看板が建っている。組長が、ランプを持ってにたりと笑っている。キングフセインがんセンターでは、治療費の払えない子どもたちのために、お金を集めようと、特に、ラマダン中の喜捨を呼びかけている。イスラム教徒は資産の2%を喜捨しなくてはならず、ラマダン中に寄付をする人も多い。キングフセインがんセンターは、イスラム協会が認めた寄付先として、大々的に広告をうっているのだ。何人かの子どもの写真を撮ったのだが、イラフの表情がとてもいいので、4種類ある写真のうち2種類にも、彼女がモデルとして採用された。

組長が、どのようなラマダンを過ごしているのか気になった。坂の上の小さなアパートを訪ねる。4畳半ほどの部屋にベッドが2つ並べてあり、イラクから持ってきたスーツケースだけで場所をとり、足の踏み場もない。小さなキッチンがあり、お父さんが、イラフのためにちょっとした料理をしたりしているようだ。床には、イラフのおもちゃやら洋服やら、食べ残しのお皿やらが散乱している。きたない!

イラフのお父さんは、まるで聖人のようにひげを蓄えている。相変わらずお金がないのか、前歯は抜けたままだ。イラフはぐったりとベッドに横になっている。機嫌悪そうに私たちに背を向けて布団をかぶっている。布団を少し持ち上げて私たちのほうをちらちらとみているのだ。眼が合うと、にたりと微笑む。
「組長、街中では、組長の写真が貼られ、ちょっと話題になってますぜ」
新聞にもイラフの写真が出ている。

この狭い空間でもイラフは、コース遊びをこなしていく。ブロック遊び、ボール遊び、ベッドの下にもぐりこんだり、ボールをぶつけたりとおおはしゃぎである。時折、怪鳥のように、ぎゃーと体をこわばらせながら叫ぶ。

お父さんは、いつもお世話になっているから、皆さんにご飯をご馳走したいという。ありがたいのと同時に、こんなところでご飯をご馳走になるのは、とても申し訳ない気がした。翌日、私たちはチキンを買って、一緒に料理をすることにした。ちょうどアンマンに来ていたボランティアの菜穂子さんも誘っていく。昨日よりは少しきれいになっていた。それでも、菜穂子さんは、「きたない!」

お父さんの指示に従って、アラブ料理を作る。6時30分、日が沈むと、いよいよ、イフタール(断食後の夕食)
「組長、お味のほうは?」
組長は、スプーンをとると、ご飯はそっちのけで、むしゃむしゃと菜穂子さんを食べるふりをする。
「組長、それは、人間ですぜ。あまりおいしくないと思いますが」
それでも、組長は楽しそうに、菜穂子さんをたいらげた。その後、味をしめた組長は私の友人を次々に食べていった。

父と子は、もう一年以上も、母に会っていない。ぼくたちは、汚い部屋で暮らすこのお父さんに哀愁を感じずにはいられない。それと同時に、ある種の、欲望がむらむらと沸き起こってくるのだ。それは、掃除したい! という欲望だ。汚い部屋という現実から逃げたいというよりも、掃除したいという正の欲望をこの父と子は与えてくれる。私たちの欲望はともかく、喜捨がたくさん集まって、組長が治療が続けられますように。

ラマダンは、10月10日まで続きます。ラマダン中の募金を希望される方は、
郵便振替口座:00540-2-94945  口座名:日本イラク医療ネット

毒物漁法

仲宗根浩

毒物漁法というものがありまして、現在でも海や川に青酸カリを使用して観賞魚を捕らえ売買するために行っている国があるようですが、沖縄でも復帰前、行われていたようです。
昔は本島も豊富な珊瑚に囲まれていましたから、潮が引くと、リーフの割れ目の深い縦穴には取り残された魚がいっぱい。そこに青酸カリをちょこっと入れ、浮いてきた魚を捕る、というきわめて単純な方法です。沖縄の場合は観賞魚捕獲のためではなく食用。

最初にそのはなしを聞いたとき、使用しているものが日本では「毒物及び劇物取締法」で指定されている毒物だけにその入手じたい規制がかけられていることから頑に信じない方もいました。
が、ある日、近所の居酒屋にて、ご主人に青酸カリ漁法について話しをしたところ、
「うちの親父がやってたよ〜」
とあっさり。
居酒屋のご主人のお父さんは沖縄の南部で海人(うみんちゅ)だったとのこと。
青酸カリの入手法を聞いたところ
「軍(もちろん米軍です)から闇ですぐ手にはいるさ〜」
とこれもあっさり。

まあ、復帰前のことです。わたしの実家は嘉手納基地すぐ近くですから、基地流れのウイスキー、煙草は日常でした。タクシーの運転手さんが米兵をベースまで乗っける。金を払えないのでジョニ赤の1ガロンボトルを持って来たとか、うちの近所ではありませんが、ほんとかうそか小学生のころ、基地ではたらく父親がくすねて隠していた手榴弾を見つけ、それを持ち出し、そう簡単には爆発しないとおもいマンホールへ投げこんだら爆発、学校中騒ぎにしたやつなど。

野次馬もいました。近所の大きな市場で火事が起きると真夜中にも関わらず子供をたたき起こし、まず屋上にて確認後、現場まで連れて行く。毒ガス移送のとき、学校は休みのため、移送される米軍の天願桟橋が見える、立ち入り規制のかかっていないところまで車で行き子供連れで見学。コザ暴動の明けた朝にカメラを持ち、ひっくり返され、焼かれた車をバチバチとカメラにおさめ、子供を黒焦げになった車の横に立たせ記念撮影。この野次馬、私の父親です。

メキシコ便り(2)

金野広美

私の通う大学はメキシコシティーの南方に位置するメキシコ国立自治大学です。そのなかの外国人のための学部で、スペイン語と文化コースがあります。文化コースには美術史、歴史、社会科学、文学の各コースがあり、春季、夏季、秋季と年3回の入学機会があります。私の入った秋季スペイン語コースは世界各国から約100名の入学でした。多いのは中国、韓国、日本でそれに続き、アメリカ合衆国、ブラジル、フランス、ドイツ、といったところです。

ここメキシコ国立自治大学はとても広く、現代美術館、博物館はもとより、4面を世界最大の壁画で覆った中央図書館、映画館、コンサートホール、スタジアム、小さな森などがあり、道路はタクシーをはじめ、各学部をつなぐ巡回バスが縦横無尽に走り回っています。ラテンアメリカ随一というだけあり、その規模はひとつの街のようです。

私のクラスは日本、韓国、アメリカ、スウェーデン、スイス、ハイチ、ペルシャ、オーストラリア、デンマークなどからやってきた14人の人たちで、クラスのなかでは、スペイン語がさっぱりなのに、休憩時間になると、英語でしゃべりまくる韓国人のマリソルや、いつも授業の始まる前に黒板にアラビア文字を書いてペルシャ語を教えてくれるファラ、先生に遅れるなと毎日注意されるにもかかわらず、必ず遅れてくるハイチ人のチャールズ、遠藤周作が好きでたくさん読んだと話しかけてくるアメリカ人のケビンなど、個性的な若者の多いクラスです。基礎コースのため、先生はとてもゆっくり話してくださるので、よく聞き取れます。やってる中身はすでに日本で勉強してあるので、周知のことばかり。ただ進む速度が超特急なのです。毎日3、4時間予習をしますが、すぐに、追いつかれ、追い抜かれていきます。

こんなわけで、毎日かけっこをしている私ですが、ここに通うのに私が毎朝乗るのが地下鉄。学校まで25分間かかるのですが、まったく飽きることがありません。というのは、乗っている間中、色々な物売りが通るのです。あめやお菓子にノート、電池にライターに縫い針、そして、大音量で音楽をかけながら、CD売りが次々やってきます。勝手にコピーをしているのでしょうか、1枚10ペソ(日本円で約110円)です。先日はギターとケーナとサンポーニャを持った2人の若者がきれいなハーモニーでジョローナ(泣き女)を歌っていました。あまりにうまっかたので、多くの乗客がお金を渡していました。一人のおばさんは5ペソ渡して、しっかり3ペソおつりをもらっていました。すごいでしょ。どこでもおばさんは強い!。そのほかには、目の不自由な人が、腰に紐でコップをつけ、ギターをかかえたり、ピアニカを演奏しながら、よろよろと歩いてきます。運転が下手というか荒っぽいのか、(私はこっちだと思います)車両が悪いのか、とにかくよく揺れる地下鉄なので、思わず、手をさしのべてしまいました。これだけ揺れると大変な重労働だなと思いましたが、それでも慣れているのか、ひっくり返ることもなく、次の車両に移っていきました。

このように多くの物売りや流しの人たちが、地下鉄で商売をするのも、ここの地下鉄がとにかく安いのです。どこまで乗っても2ペソ(約21円)。どこをどう乗り換えようが、1日中乗っていても改札さえ出なければ、2ペソで済むのです。乗客もよくコップにお金をいれたり、CDを買ったりしています。結構いい商売になるのかもしれません。

そして、あとひとついかにもメキシコらしいのは、女性専用車です。朝のラッシュ時、プラットホームの前から4両目のところに、大きな柵をたてて、ガードマンが立っています。柵には女性だけ通っていいと書いてあります。なるほど、このように見張られていては、日本のように、いくら女性専用車両と決めていても、気づかなかったり、気づかないふりをする人も出ないから徹底できると感心しました。そして、おまけに3両も女性専用かと感動しました。メキシコのように万事がええかげんなところで、この徹底ぶりはすごい! と感心したのもつかの間、次の乗降客の少ない駅ではホームに誰も立っていません。当然男性は入ってきますから結局は、日本と同じ結果になるのでした。チャンチャン。やっぱりそんなわけはないわなーと、妙に納得した私を乗せて、ここメキシコの地下鉄は、揺れに揺れながら、音楽満載で今日も走り続けるのでした。

製本、かい摘まみましては(32)

四釜裕子

いつも机の目の前に、羽原肅郎さんの『本へ!』を置いている。6月に朗文堂から「造形者と朗文堂がタイポグラフィに真摯に取り組み、相互協力による」”Robundo Integrate Book Series”の第1弾として刊行された詩文集で、「本」への限りない愛に満ちた本である。ほぼA5判、蛇腹に折りたたまれた本文が黒のスリップケースにおさめられた端整な装丁は著者自身によるもので、天地半分幅の白い帯に押された4カ所のゴム印も、おそらく著者の手によるものと思われた。

この詩文集は、羽原さんが2005年8月に明星大学の教授を退官なさるときに同大学から発行されたものが元になっているが、装丁は全く異なる。こちらはA4判と大型で、しっとりとした光沢を感じさせる白い紙に、文字はゆったり組まれ、銀で刷られている。表紙カバーは4色刷りで、C(シアン)M(マゼンタ)Y(イエロー)K(ブラック)という印刷の原則を、タイトルや名前をサンプル媒体として提示している。退官記念に開かれた「羽原肅郎のデザイン思考と構成展」の図録のデザインとのバランスも、大切な要素であったのだろう。

2007年版は日英の2カ国語となり、蛇腹に折った本文用紙の表裏にそれぞれおさめられた。紙を蛇腹に折りあげて、望みどおりの直方体に仕上げるのは難しい。本番はプロにお願いするとはいえ、羽原さんはご自分でも試作を繰り返されたようだ。2005年版と比べてみると詩文の文言はほとんど変わっていないが、およそ半分となった判型にあって、フォーマットは14級30字詰(105mm)×行間全角空22行(150.5mm)から10級52字詰(130mm)×行間全角空23行(112.5mm)となり、作品中に導入された罫線の伸びやかさがより強調されているように感じる。用紙は光沢のない白、文字は墨となった。

中に、「製本」に触れているところがある。本の内容や構成によって最も適切な素材・手触り・質の紙と色が選ばれるのであって、あらゆるものに素材としての可能性があるということ、電話帳などは別として本は「かがり綴じ」でなければならないこと、綴じにはその国の本の文化度が反映していること――こんな風に勝手に要約してしまえばおよそ単調だが、この本の中では「詩」となって、本そのものへ、また本を作るひと愛するひと全てに対する讃歌の一節として、読み手にこれでもかこれでもかと降りかかる。

本文用紙はケースに入れる前に、3つ折りの白いカバーにくるまれる。裏面には写真があるのだけれど、「ほんとうはこの写真が使いたかったのです」と羽原さんは、アンドレ・ケルテスの “On Reading” の1枚をお示しになった。でも私にはそれよりも、羽原さんが撮ったあの窓辺の1枚こそが不可欠であると思える。いくたびの試作が繰り返された場所の肖像だからだ。のちに、バーコードのない帯をまとった『本へ!』を送っていただいた。既に求めていたものとはゴム印の種類が違う。「家が, 住むための機械なら, /本は, 清らかな愛を育む機械だ.」という言葉も新たにある。そして本文の中にもゴム印が! 

ページをめくるたびにこれほど「本」への驚きと悦びに溢れる本が他にあろうか。本に、愛は宿る!なんてことを恥ずかしげもなく、また思わず口にしてしまうのだ。

インドネシアでのテレビ出演

冨岡三智

先月「己が姿を確かめること」その1を書いて、本当は今月はその2を書こうと思っていたのに、うかうかしている間に月末になってしまった。実は、この9月6日に1年1ヶ月のインドネシアでの活動を終えて帰国。まだ、どうも日本のモードになじめていない。というわけで、その2はもうちょっと練って来月に書くということにして(今度こそ本当!)、今回は急遽、インドネシアでテレビ出演した経験について書いてみよう。

  ●

7月28日頃のこと、「”キック・アンディ”という番組に出演してほしいが、8月1日にジャカルタに来れますか」という電話が、いきなりメトロ・テレビ局からある。私は同テレビ局に何のツテもないので、全然事情が分からない。とりあえず「よろしいです」と答えると、それでは事前の30日に自宅に予備取材に行きます、その取材はソロ地域担当の者が行きますから、その人からまた電話を入れてもらいます、ということだった。

その電話から30分か1時間後、今度はG社から電話があって、8月1日にメトロ・テレビ局が来てソロで公開トーク・ショーをしたいけれど、出演できますか? という話が来る。私の頭はよけいに混乱し、さきほど同局から電話があって同じ日にジャカルタに来いという話だったけど…と伝えると、G社も驚いている。

けっきょく、事情は次のようなことだった。
G社はイワン・ティルタというインドネシアを代表するバティック作家が衣装デザインを手がける公演(全国巡回)をプロデュースしていて、私はそのパンフレットにジャワ宮廷舞踊スリンピ、ブドヨについての文を寄稿している。その公演が8月3日にソロであるので、G社はそのプレ・イベントとして、その作品の振付家やら私やらを招待してソロで公開トークショーをしようと考えたらしい。メトロ・テレビはその協賛会社の1つである。それで、外国人でジャワ宮廷舞踊の調査と公演をしている人がいると、G社は私のことをメトロ・テレビに話したらしいのだ。

それが、ちょうどメトロ・テレビの「Kick Andy(キック・アンディ)」という番組では、8月のインドネシアの独立記念日の特集の一環として、インドネシア芸術に本格的に取り組む外国人を紹介しようと構想していたらしい。そこに私の情報が流れたようで、出演ということにあいなった。ちなみにG社がソロでやろうとしていたイベントは中止になったようである。

テレビ出演の話がきたのは嬉しいが、実は私はテレビを持っていなかったので、その「キック・アンディ」という番組がどんな番組なのか知らなかった。それできゅうきょ身近な人に聞いてみると、司会のアンディはなかなか知的で、トーク番組の質が高いということで定評があるらしい。そういう番組だから、君もしっかり受け答えしないと駄目だよ、などと知人に説教される。

7月30日(月)07:00-09:00 自宅での取材
こんなに朝早くの取材になったのは、ソロからジャカルタに宅配便で取材テープを送るタイムリミットが、この日の10:00だったから。前日は私が市外に行く用事があって都合がつかなかった。この日は、自宅(私は1軒家を借りていた)の玄関で記者を迎えたり、2階の居間で踊りの練習をしたり、いろんなシーンを30分くらいも撮っただろうか。実際に編集されると、ほんの1、2分しか使用されていなかったが、テレビの人が何に目をつけるのかが分かって、とても勉強になった。

8月1日 ジャカルタでの収録
撮影は夕方ということだったが、07:00発の飛行機でジャカルタへ飛ぶ。メトロ・テレビの職員が車で迎えに来ていて、ホテルに直行。昼食は部屋でルームサービスを取って、16:30にホテルに迎えが来る。テレビ局に着いたのは17:00頃だろうか。

収録は18:30頃からということで余裕があると思っていたら、「番組では伝統衣装で少し踊ってもらいますので、着替えて下さい」と言われて仰天する。伝統衣装を持って来いとは言われていない! どうやら連絡で行き違いがあったらしい。

急に余裕がふっとんで、テレビ局の衣装部屋で衣装探しにとりかかる。とりあえず頭を普通にお団子に結ってもらう。サングルという、伝統的なヘアスタイルのつけ毛がここにはないのだ。それよりも、ジャカルタの、しかもテレビ局の衣装室には、中部ジャワの様式のカイン・バティック(腰に巻くジャワ更紗)も、クバヤ(上着)もなかった。一応バティックもクバヤもあることはあるのだが、スンダ風だったり、プカロンガン風だったり、またえらくモダンだったりして、中部ジャワの伝統舞踊に取り組む私が着るものとしては、無理がある。

スタッフでソロ近郊の出身の若い人がいて、私が中部ジャワの伝統デザインについて説明すると、そんなデザインはジャカルタにないです! でもお祖母さんなら持っているかも…と言ってくれて、結局、なんとかそのお祖母さん所有のものを借りることができた。時間が迫る中、必死でバティックに襞をとる(中部ジャワでは前中央に襞をとって着付ける)。クバヤはぶかぶかで詰襟というのがちょっと違うのだが、集めた中では一番クラシックなデザインで、またマイクを仕込むにはちょうど良いぶかぶか加減だった。

さて本番。開始前にスタジオでアンディと挨拶。スタジオには300名の視聴者が入っている。この番組は生放送ではなく、編集したものを後日放送する。というので、実際には、放送されたものより質問の内容が多かったし、言い損いがあるたび取り直しもあり、さらにスタジオ視聴者のためのコンサートタイムみたいなものもあった。

収録が終わってホテルに帰ると23:30を過ぎている。ここで初めて空腹を覚え、夕食をテレビ局で食べていなかったことに気づく。お弁当は用意されていたのだが、衣装のことであたふたしている間に収録になってしまったのだった。なんだかどっと疲れてしまった。いつもテレビに出演している芸能人は、こんな毎日が続いて大変なんだろうな、と思いをめぐらす。
翌日、飛行機でソロに戻る。

8月16日(木) 22:05-23:05 放送
8月19日(日) 15:05-16:05 再放送

今回の番組のテーマは「Kami Juga Cinta Indonesia」(私たちもインドネシアを愛しています)。独立記念日(8月17日)がらみの特集なので、8月中に絶対放映しますということだったが、なんと記念日の前日である。ただ、インドネシアでは独立記念日の前日には市町村でそれぞれ夕方から夜にかけて行事があり、さらにその後も一晩中いろんなイベントがあるので、案外、テレビを見ていない可能性も高い。私の知人の多くも日曜の再放送で見たという人が多かった。そういう私は、近所のテレビがある家に行って見せてもらう。そこは私もよく利用するよろずやさんで、いつも夜遅くまで店を開けているのだ。

8月24日(金) 17:00-19:00過ぎ キック・アンディ・オフ・エア

テレビ放映が終わって、これでおしまいだと思っていたら、この番組にはテレビ放映されないオフ・エアという催しがあるらしく、その出演依頼が8月20日頃に来る。基本的に放映されたときの出演者を再度招待して、その放映された映像をスクリーンで見ながら、視聴者と対談するというもの。毎週金曜にやっているらしい。これはテレビ局内ではなくて、ジャカルタのチキニという所にあるカフェ・バーみたいな所で実施している。オフ・エアの催しではインターネットで申し込んだ100名の視聴者を招待することになっているらしい。アンディによると、私の出た回の視聴率は良くて、電話やメールでの反響も多かったそうだ。

ちなみに私は8月26日にジャカルタ公演を控え、22日からジャカルタに行って準備をすることにしていた。公演の場所もチキニなので、非常に具合が良かった。

放映された番組では、元オーストラリア人、現在インドネシア人でワヤン(影絵)の人形遣いであるガウラ氏と、日本人でジャワ舞踊家の私と、オーストラリア人でインドネシアのテレビ番組で俳優やレポーターとして活躍するワハユ氏の3人がゲストだったのだが、ワハユ氏はテレビの仕事でアチェに行っているとかで、私とガウラさんの2人がこの日のゲストだった。ガウラさんは、さすが人形遣いだけあって、口が達者で、質問のほとんどはガウラさんに向けられる。今回は、かなり鋭い、突っ込んだ質問が多く、本音のトークになったことは幸いだった。私たち外国人が惹かれているインドネシア芸術の強みを、もっとインドネシアの人々が再認識してくれたら、と思う。

しもた屋之噺(70)

杉山洋一

ここ暫く続いている規則正しい生活。

毎朝4時半起床。ベッドで仕事のメールを片付け風呂に入り、6時過ぎには家を出て、ジャンベッリーニ通りのバールで菓子パンとカプチーノで朝食を取り、中央駅から7時10分発ローマ行急行に乗ります。ミラノの街を抜けて、田園風景が広がってきた辺りで朝日が昇り、刈取られたばかりの畑が真っ赤に染まるのを見ながら、もう少し眠るか作曲のメモを取るか、練習の返しのチェックしつつ、ボローニャ二つ手前のレッジョ・エミリアに着くのは8時39分。

練習は毎日10時からなので、街の中心にある劇場まで12分ほどのんびり歩き、カヴァレリッツァ劇場に顔を出し、朝早くから仕込みをしている演出家や照明、舞台の裏方の皆に挨拶がてら、練習スケジュールの打合せなど。10時から公園一つ隔てたヴァッリ劇場の稽古場で歌手たちと音合わせの後、カヴァレリッツァに戻って舞台稽古になるか、向かいに建っているアリオスト劇場でオケのリハーサルが入ります。ちなみに今日は朝10時練習が始まり、夜の9時に練習が終わるまで、30分ほど午後遅くに休みがあっただけで、ひたすら練習続きでした。
明日は日曜で、歌手たちは一日休養を取りますが、こちらは17時までオーケストラと練習の後、20時からミラノの拙宅で合唱の指揮者と打合せがあります。もっとも、普段、長い時間を費やす舞台演出のリハーサルは、こちらは言われた時だけ降っていればいいだけで、消耗するということもないのですが。

今日はオケの人たちがご飯を食べている間に、ヴァッリ劇場で歌手の合わせをして、その後でアリオスト劇場に戻ると、お願いした通り、オケの誰かが買ってきてくれた、モルタデルラのサンドウィッチが譜面台に置いてあって、こういうのは嬉しいものです。そうでなければ、昼飯は決まって駅の脇の国鉄のメンサで、美味しいパスタとメインも野菜も存分に食べ、お八つは近所のバールで菓子パンなどを頬張ります。ミラノから来ると、レッジョ・エミリアはどこのバールも菓子パンがずっと美味しいのに驚きました。ミラノが美味しくないだけでしょうけれども。北イタリアのミラノからたかだか電車で1時間半程度なのに、街は掃除がゆきとどき、公共施設はスイスのように綺麗で、太陽の光線もずっと燦燦としているのです。

そうして20時か21時過ぎまで練習が続き、急行でミラノに戻るときは電車も空いているので、コンパートメントのカーテンも締め切り、座席をベッド状に引き出しぐっすり寝こんで帰ってきます。

こんな生活が10月半ばまで続くわけですが、一体何をやっているかというと、マフィアのパレルモ大裁判を仕切った、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事をめぐるニコラ・サーニの新作オペラ「il Tempo sospeso del volo(最終飛行の止まった時間、とでも訳しておきましょうか)」を、レッジョのREC音楽祭とパルマのヴェルディ・フェスティヴァルのために準備しているところで、ノーノやシュトックハウゼン、ブソッティなどの名演で知られるバスのニコラス・イシャーウッドや、名優ミケーレ・デ・マルキなどと一緒に、オペラ演出家フランコ・リパ・ディ・メアーナが、残された裁判記録やファルコーネや友人らの日記、証言、ファルコーネらを告発する怪文書のみで作った台本を、彼自身の演出でそれは丹念に舞台を練り上げているところです。

「最終飛行の止まった時間」、というのは、1992年5月23日シチリアの旧プンタ・ライーズィ空港(現ファルコーネ・エ・ボルセッリーノ空港)からパレルモに向かう高速道路で、夫人のフランチェスカ・モロヴィッロもろとも爆殺された所謂「カパーチの虐殺」の時間へ、最後にファルコーネが乗った飛行機が永遠に閉ざされた時間とともに降りてゆく、落ちてゆく、という設定がなされています。

マフィアの存在を同僚すら知らなかった当時、ファルコーネが、ロッコ・キニーチの下でボルセッリーノ判事らとともに活動を始め、改悟したブシェッタとの会話を通して、342人が有罪判決を受けた86年の「パレルモ大裁判」が実現し、その後キニーチが殺され、通称コルヴォの匿名の怪文書で告発され、パレルモ法曹界で次第に煙たがれてゆくファルコーネが、ローマのマルテッリ法相によって法務省へ転職し、常に死をひしひしと感じながら最後の時を過ごし、永遠の時間に封じ込まれた機中に、聴衆も共に乗り込んでいる。ざっと説明すれと、そういう感じになるのでしょう。

通常のオペラ劇場の形式で、舞台がありオーケストラ・ピットがあって、観客席がある、というのではなく、カヴァレリッツァ劇場の特性を活かし、聴衆は巨大なオペラ劇場の舞台下にいるように配置され、舞台はその上を自在に動き回るので、聴衆は実際の舞台を前面に張られた鏡を通して見ることになります。

3人の歌手、2人の俳優らの声はマイクで増幅され、同じくマイクで拾われたオーケストラの音ともにミックスされ、頭上の17本のスピーカーが実音と混ぜ合わせます。このためわざわざヴィドリンを呼んだそうだから、きっと上手にやってくれるに違いありません。

サーニも、別に実験的なオペラを作ろうとしたわけではなく、ファルコーニを賛美する特に大げさなスーパー・ヴェリズモ・オペラを目指したわけでもなく、だからごく普通の聴衆にも受け容れられる、よい塩梅に仕上がったオペラではないかと思います。とにかく、全てノン・フィクションで、相当身近なテーマですから、歌手や俳優たち、それだけでなく、一緒に演奏しているオーケストラまで、各々がすぐにその世界に入ってゆける、というところがキーポイントなのでしょう。

これを日本でやっても、うーん、どうかな、あまり面白いとは思わないんじゃないかな、とは感じます。むしろ、ファルコーネを、アメリカはギャングの街シカゴで生まれたニコラスが演じ、指揮者が日本人というのも、なかなか音楽に対して客観性が保てて、面白いのかも知れません。ちょこちょこ演出のために、カットが加えられ、楽譜がどんどん書き換えられてゆくのを見ているのも、ああこれがイタリアのオペラの伝統かと愉快な気分になります。

パレルモ検事局最高議会がカポンネットの後任の予審部長に、アントニーノ・メーリとファルコーネのどちらに誰が投票したか、その記録を読んでゆくだけだったりするのですが、デ・マルキなど俳優の声のもつ強さ、魅力に鳥肌が立ちます。彼らにそう言うと、「イタリア語は舞台には全然向かない言葉なんだよ。英語とは全然違う。、イタリア語は歌うため、文字通りオペラのために作られた言葉だからね。大体イタリア語、なんてものは存在しないじゃないか。イタリアという国すらあるのだかどうか怪しいわけでから。100年前に無理やり統一させてみたが、結局文化的には溶け合わないまま今に至るわけだろう。それに比べると、イタリアの各地の方言は、舞台にとっては実に豊かな言葉だ……」。
ピランデルロの戯曲や、普段の生活の立ち振る舞いから充分演劇的なイタリア人は、やはり最後はどうしてもオペラへと収斂されてゆく、というのが彼らの意見でした。

まだ来週一週間以上、準備に時間をかけられますから、これからどこまで内容を皆が身体のなかに消化させてゆけるか、とても楽しみです。さてこの辺で大急ぎでシャワーを浴びて、7時の電車に飛び乗る事にします。

(ミラノにて 9月30日)

痕跡と廃墟の可能性

高橋悠治

1)ブラジルの記憶(10月27日のブレーズ・サンドラール生誕120周年記念シンポジウム「スイス=ブラジル 1924 ブレーズ・サンドラール、詩と友情」のために)

行ったことのないブラジルで思い出すのは、1957年から14年間東京にいた作曲家で詩人のヴィニョーレス(L. C. Vinholes)。コーヒーの袋に入った作品をくれた。正方形のカードに直線が書かれ、どの方向からでも演奏できる。結局演奏しなかった。草月会館でヨーコ・オノの個展があったとき、最後に出演者全員がステージから聴衆の一人をじっと見つめ、耐えられなくなってみんなが帰れば会は終わるはずだった。ヴィニョーレスが客席で読書をしていたので,午前1時になっても終わることができなかった。守衛が会場の照明を落として,やっと解放された。後で知ったが、北園克衛や新国誠一をブラジルの具体詩グループ『ノイガンドレス』に引き合わせたのは彼だった。

1963年にベルリンで彫刻家のマリオ・クラヴォ・ジュニアと知り合った。針金で神話の一場面のような,廃墟のような作品を作っていた。大家族で一日中濃いコーヒーを飲み,水の母イェマンジャーをうたうドリヴァル・カイミのレコードが流れていた。息子のクラヴォ・ネトもそこにいたはずだ。彼はやがて故郷サルヴァドールの人びとを撮った写真集をイェマンジャーの息子エシューに捧げるだろう。

2)眼の痕跡(「荒野のグラフィズム:粟津潔展」金沢21世紀美術館)

粟津潔と会ったのは1960年代初めだったかもしれない。草月アートセンターに集まったアーティストたちのなかで、かれは年長の世代だったし、すでにポスターを通じて知られていた。こちらは前衛音楽のピアニストとしてデビューしたばかりだったから、直接の交流というよりは草月アートセンターや武満徹を通してのつきあいだったと思う。70年以後は、北川フラムのアートフロントでも会っているし、対談をして それが本にもなっているようだから、かなり近い位置にいたにちがいない。だが、個人的な会話の記憶はない。

粟津潔はその時々で関心の焦点が移り、その時期のしごとには、領域や仕事の相手よりも、自分の追求している対象がいつも優先していた。シミ、地図の等高線、指紋、ハンコ、亀、縞模様、眼球、そして岩に刻まれた神話的で文字以前の象形など。

かれの作品を思い出そうとすると、線の束から面を構成するというよりは、平面を曲線で輪切りにする、交叉し重なりあっても立体感がなく、薄い平面上にある多層性、明るく透明な色よりは、影を帯びた不透明さ、こんな印象が浮かんでくる。いま見ているものではなく、見たものの記憶、それも自分で描くのではなく、表面に刻まれた痕跡、角を曲がると、偶然そこで出会ったように待ちかまえていた、思い出したくないことば、のように。

粟津潔は、不潔斎と署名していたことがあった。北斎を意識してのことか。眼に触れる世界のすべてを描こうとした江戸の画狂人はもういない。現代の画狂人は、不運にも見てしまった風景の屈折した残像を、眼球の内側で探しつづけるのだろうか。

がやがやのうた

三橋圭介

グループ「がやがや」と港大尋の「がやがやのうた」CD制作、ここに至るまでいろいろなことがあった。だからがやがやは今でもがやがやと騒がしい。しかしそれでもCDは期日までに完成した。8月26日のライヴも成功した。そしていよいよ発売。それに伴って、いろいろな人にCDをきいてもらい、感想や批評などを書いてもらうことにした。がやがやに参加しているデザイン担当者、演奏に参加してくれたバンドマン、知り合いの評論家、そして全く面識もなかったのにCDを送りつけて書いてもらった哲学者、評論家。それぞれの場所から「がやがやのうた」とどう関わり、どう感じたかを書いてもらった。その内容については原稿を読んで判断してください。でもかなり変なCDができたことだけは確かで、それが誇りでもあります。前に高橋悠治が「下手なものはカネでは買えない」といっていた。でも、これはきちんと買えます。どうぞよろしく。

音の遊び またはある夏の夜の夢 または遊び過ぎの懺悔

大野晋

興にいるとどうも度が過ぎるというか、のめり込みすぎるけがある。今年の夏はコンサートにのめり込んでいってしまった。面白いのだが、なぜか、しんどい日々。その短い記録である。

某月28日 東京芸術劇場
Y響でメシアン「われらが主 イエス・キリストの変容」を聴く。
メシアンはなかなかない演目。まあ、難しいと言えば難しいからか。なかなか面白かった。
しかし、このときには、この公演がこれから続く1ヶ月の序章だとは気がつかなかった。

某月9日 東京芸術劇場
F管が来日。指揮者はインバル。なんか暇だなあ、と公演日程を見ていたら当日券があったのでなんとなく聴きにいく。
どうやら、東京芸術劇場の開館?周年記念らしいのだが、空席が多い。時期が悪いと言うか、なんというか。芸術劇場の開館時にF管の演奏でこけら落としをしたそうだが、指揮者のインバルは来年から都響のポストが決まったばかり、すぐに12月に来日し、マーラーを2プログラム、年末のベートーヴェンの第9まで振っていく。あまり指揮者にプレミア性がないためか? まあ、オケも花がないといえば、花がない。そこがすごいと言えばいえないこともないのだろうが、ううむ。わざわざ外タレを呼ぶような公演だったかどうか? 12月の都響に期待しよう。しかし、インバル。しっかり、拍手に応えるフリをしてしっかり女性歌手の肩を抱いているあたりはさすが。やはり、女好きの噂は本当か?

某月10日 紀尾井ホール
きょうもぱらぱらと日程を見ていたら、ファジル・サイの来日公演を発見。明日、初めて紀尾井ホールに行く前に下見にしようと急遽、チケットを入手。
雨がしとしとと降っている中、上智大学の隣まで。
はじめてみる紀尾井ホールは中小規模のいいホール。ステージの真ん中にピアノ。
ファジル・サイは比較的弾き方などは無頓着に、ピアノを壊さんばかりに様々な音を出していく。まさに、音で遊んでいる感じ。音楽を聴いたというよりも、面白いパフォーマンスを見たなという感じがした。
帰りもまた雨。

某月11日 紀尾井ホール
きょうは高橋悠治を聴きにいく。
ホールに着くと、ピアノの調律中。なぜ調律が必要になっているのか、昨日のコンサートを見ているのでなんとなくおかしい。サイ、さては壊したな!
なぜ、高橋悠治なのか? というとさして理由はない。あえて理由をつければ、最近、2枚出たヴァイオリンソナタの伴奏がよかったとか、新譜が気に入ったとか、そんなところか。
コンサートは終始、ご本人の曲の紹介で進んでいく。特に休憩後のジェルジは付箋紙がびっちりついた楽譜を持って登場し、ひとつひとつ紹介しながら短いフレーズを弾いていく。まあ、紹介しないとわからないが、紹介されても短すぎて聴き入る暇もない。そう、音の遊びと言った感じの曲たちだ。あ。だから、タイトルがヤーテーコク(遊び)なのか。
帰りながら、心の片隅で音たちが遊び続けている感じがしていた。

某月12日 横浜みなとみらいホール
ダグラス・リードのパイプオルガンコンサート。
なんのことはない。単にいつも見ているだけのパイプオルガンの音が聴いてみたかっただけ。バッハから現代音楽までバラエティに富んだ曲はなかなか聞き応え十分。ただし、さすがにコンサートも連荘になると疲れてきて、一部睡眠モードの入ろうとする。パイプオルガンを聴いているとそのまま天国に行きそうになる。スリル満点。ルーシーちゃん。ばんざい。(ルーシーはみなとみらいホールのオルガンの愛称)

某月13日 東京オペラシティ
Nフィルの定期公演。指揮は立ち姿がおちゃめな広上淳一。ハイドン、モーツァルトの交響曲とプロコフィエフのチェロコンをなぜ聴こうとと思ったのかはなぞ。チケットがあったので、義務的にホールに向かう。さすがに1週間、毎日は疲れが溜まる。面白いだけに困ったものだ。
演奏はかなり楽しめたし、広上の演歌っぽいジェスチャーも見えてかなり満足。
プロコフィエフを弾いた中国のチェリスト趙静の音はどこか二胡を思い起こすような音がした。
ははは。明日は土曜日。なぜか、会社は休みだがコンサートは出勤日。

某月14日 東京芸術劇場
都響の特別公演。芸術劇場シリーズでオール・ドヴォルザークをチェコの指揮者スワロスキーで聴く。
さすがにお国の音楽、手馴れた感じ。特に後半の交響曲7番は好きな曲だがなかなか演奏会にはかからない。とても満足したが、さすがに疲れた。しかし、F管をわざわざイギリスから呼ぶなら都響でいいのに。

某月17日 紀尾井ホール
久しぶりの紀尾井ホール。たしか、前回来たのは先週か?
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルオーケストラのベートーヴェン。
紀尾井ホールの舞台にオーケストラが乗るか心配だったが、小編成のオーケストラなので乗ってしまった。しかも、ピアノコンチェルトをするのでピアノまで乗ってしまうところがなんといいますか。。。
はじめからノリノリのコンサート。まるでクラシックじゃないみたいですが、これもクラシック。コンサート後にサイン会でしっかりとサインを頂いて帰る。大満足。

某月20日 横浜みなとみらいホール
火曜日と同じく、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルオーケストラのベートーヴェン。本日は4番と7番。オーケストラだけ。
会場で来年は、パーヴォはフランクフルト放送響と来日するとの告知。あ。来日ではなく、来浜して、ブラームス全曲の演奏会だそうな。なぜか、横浜の客とは仲がいい。客が満席にならなくても、一緒に楽しんでいる感じがいいのだろう。今年、というか、最近ないようなクラシック好きと演奏家の楽しい音楽の時間を共有できた感じがした。やはり余韻も音楽。演奏中の無音の時間も音楽。
演奏後、観客で指揮者を拍手で呼び出しながらコミュニケーションを楽しんでいた。
来年、また、来よう。

某月25日 ミューザ川崎
きょうはT響。ミューザ川崎で行われるフェスタサマーミューザというイベントの開幕コンサート。
指揮はイタリア人のニコラ・ルイゾッティ。今、ヨーロッパで売り出し中のオペラ指揮者とのこと。とにかく、なにを振っても楽しく出来ることが特技。ラテンの血のなす技か?ぜひぜひ、どこのオケでもいいが招聘して、お得意のイタリアオペラの序曲などを振ってもらいたいと特に思った。
たのしい。

某月26日 東京オペラシティ
Tシティフィルって、略した意味ない?
惑星が聞きたくて、飯森泰次郎指揮のコンサートに。
まず、パンフレットをもらってびっくり。こと細かく、コンサートでの注意が書かれている紙が封入されていた。
ここまでマナーが悪くなっているのか、と思って座ると前席に小学生くらいの女の子と祖父母らしき観客。おっと、と思っているとなにやらもじょもじょとコンサート中、落ち着かなく、話したり、いすをゴトゴトと音を出したり。いやはや。マイッタ。
急遽、次の日の川崎での同じ演目のコンサートに行くことにする。

某月27日 ミューザ川崎
Tシティフィルで惑星。指揮は変わらず、飯森泰次郎。
これで今月のコンサートもお終い。来月もオケの定期演奏会はなし。でも、臨時の演奏会にちょろちょろ行く予定。しかし、毎日のように演奏会通いをしてしまうと疲れてしまうのを発見。結局、それでストレスをためてもしょうがないので、ほどほどがいいってことでしょう。
ホルストの惑星って、パイプオルガンが加わっているのを昨日発見。あの金属音って、オルガンだったのね。

そして、次の月も、その次の月も適当に続く。

己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと

冨岡三智

伝統舞踊の稽古で鏡を使うのは良くない、とはよく言われることである。ジャワ舞踊でも鏡を使う習慣はない。そのことに私は基本的には賛成しているが、では私は鏡を使わないのかと言えば、使う。鏡も使いようだと思うのだ。

まだ留学してきたばかりの頃の私は、いくら鏡に自分を映して見ても、自分の動きのどこが悪いのか、師匠との動きの差がどこにあるのか、実はさっぱり分からなかった。

私がメインとする女性舞踊の場合は、師匠の振りを見て倣うという、昔風のやり方で稽古をしていた。それがある程度進んでから、今度は芸大の先生についてアルス(男性舞踊優形)の稽古も始めた。この先生は、当時決まって、鏡がずらりと並ぶ舞踊科の化粧室で稽古をつけてくれた。それは鏡があるからという理由でなく、別の理由からなのだが、この先生にある時、「いま、鏡を見てごらん」といわれたのである。

鏡には先生と私が並んで映っている。その時に初めて、先生のとっているポーズと私のポーズとの出来具合の差が自覚された。自分1人の姿をいくら鏡で見ても客観的に眺めることができなかったけれど、比較対象者と一緒に鏡に映りこむと、彼此の差がある程度客観的に分かるのだ。それ以降、目の前にいる先生の動きを確かめつつ、鏡もちらっと見て先生と自分の動きの差を確かめてみるということをやっていくと、自分1人を鏡に映していても、その横に比較者の存在をイメージすることができるようになって、自分のできていない部分が次第に、ある程度自覚できるようになった。

芸大の授業では、下手な生徒も上手な生徒も一斉に踊る。これを見ることができたのは有益だった。初心の段階では、上手な人が踊っているのを見てもその上手さはよく分からないし、また下手な人の下手さ加減も分かりにくい。けれど両者が一緒に踊るのを見れば、両者の差が見えてくる。そして自分のレベルが上がっていくと、横に比較対照者がいなくても、自然と目の前にいる1人の踊り手のレベルがどの程度か判断ができるようになる。

鏡に映した場合も、そんな風に見ることができればよいのだ。ただ自分だけに魅入ってしまうと、それは自己陶酔になってしまう。だが、そうならないためにどう鏡を使うのか、あるいは鏡を使わないのか、ということを考えてみるのは、有益なことのように思う。

  ●

その数年後の2度目の留学の時、今度はアルスでもウィレンと呼ばれる宮廷舞踊を習っていた。これは2人の踊り手が向き合って同じ振付をシンメトリに踊るという種類のものである。その練習を、鏡のある部屋で1人でやっていて気づいたのだが、鏡があると、1人で練習していても、相手がいるように見える。ウィレンではいつも相手と対称に位置する。向き合ったり、背中合わせだったり、右肩/左肩あわせの位置だったりする。鏡だと左右反転してしまうが、それでも鏡の向こうに自分と同じ動きをしている人がいて、まるで2人で練習しているかのように錯覚してしまう。

ウィレンでは2人が対照的に踊っているけれど、これは1人の人間を2つの違う次元から眺めただけではないか。2人で踊っているけれど、本質は1人で踊っていることと変わりないのではないか、と気づいた。さらに言えば、4人で同じ振付をシンメトリに舞うスリンピ(舞楽のような舞踊)もまた、やはり1人の人間を4つの次元から眺めた姿をそれぞれに描いているのだろう、と思っている。

そう気づいてからは、私はウィレンやスリンピを鏡のある部屋で積極的に練習するようになった。しかし、あえて鏡をのぞき込むことはしない。そもそも踊っているときに相手の方ばかりを向くことはないのだし、鏡に背を向けることだってある。重要なのは、鏡に映っている自分自身の姿を見ることではない。鏡の向こうに次元の異なる、しかし一続きの空間が広がっていると知覚すること、そして鏡の向こうに自分を客観的に見ている誰か(ここでは自分、実際の舞踊であれば相手方、ひいては神)がいるという気配を感じること、なのだ。

私はよく自分の背後に鏡を置いて舞踊の稽古をする。鏡の方は向かない。世阿弥の離見の見というのは、背後からでも自分の姿を確かめることができるような境地を言っていたような気がするが(手元に本がないので確認できない)、自分の背後を知覚しようとする意識状態を作るのに、鏡も1つの助けとなるような気がする。

イブラヒムがやってきた

さとうまき

とうとうイブラヒムがバスラからやってきた。8月6日に日本に到着してから、各地をツアーで回っている。東京、大阪、広島、徳島、長崎、久留米、宮崎、横浜、札幌、旭川と回ってきた。残り後10日。35日間のツアーだ。

このツアーの目的は、支援が一番必要なのにイラクの報道が少なくなって、支援が集まらないから、イブラヒムに、呼びかけてもらおうというわけ。

そして、2番目の目的は、イラクといえば、戦争とかテロのイメージばかりになってしまい、怖い国のこわーい人みたいになっていることを覆したいことだ。そういう偏見が戦争してもいいという気持ちを作る。

そして、3番目は、エネルギー問題。石油埋蔵量世界2位の国であるイラクは、大国に翻弄されてきた。石油欲しさに戦争するのなら、エネルギーの節約が戦争に頼らない生き方。そこで、今年の夏は、このツアー中冷房をとめて、超自然エネルギーに頼ろうという試み。つまりは、冷房の代わりにうちわを使おうということで、イブラヒムがバスラでいつも使っているというやしの葉っぱから作ったうちわを持ってきてもらった。

1、2はなんとか成功している。イブラヒムは、茶目っ気たっぷりで、日本語を話したり、日本語の歌を歌ってすっかり人気者だ。「あしーたがある。あしーたがある、あしーたがあーるーさー」音痴なのがまた愛嬌がある。でも、本当にイラクに明日があるのだろうか? このツアー中に、イブラヒムの親友の患者の父が、爆弾テロに巻き込まれてしまった。イブラヒムにだって明日があるのかわからない。生き残れるのは運がいいか悪いかだ。だから、ぼくは、イブラヒムの音痴なうたを聞いてるとなんだか悲しくなってしまうのだ。

そして、3番目。これは、もう今年の夏の暑さといったら。イブラヒムの国では、気温が55度を超えているのに、電気が一日2時間しか来なくて、うちわが大活躍。ぼくたちもイブラヒムの真似をしよう。少しは暑いのを我慢してみようとしたのだが、肝心のイブラヒムが暑さでへばってしまい、「冷房、冷房」と騒ぎ出す。日本の蒸し暑さには耐えられないようだ。

夜、少し涼しくなったかなとおもって窓を開けると隣の家のクーラーのファンから暑い空気がながれてくる。ますます、地球は暑くなっていく。

さて、そんなイブラヒムとの35日間もあとわずか。
一般講演は、9月1日、2日、4日のみとなりました。
詳しくは http://www.jim-net.net/notice/07/notice070712.html

メキシコ便り1

金野広美

お久しぶりですが、お元気ですか。

私はこちらに来てはや2週間がすぎました。ここは2200メートル余りの高地にあるため、頭痛が続き、着いて2、3日は眠ってばかりいましたが、最近はすっかりここでの生活にも慣れてきました。
私の住んでいるのはメキシコシティーの中心街でとてもにぎやかなところです。

着いた時は、お祭りでもあるのだろうかと思ったほどたくさんの屋台が所せましと出て、タコスや服、CD、DVD屋が大音響で音楽をかけながら、商売をしていました。しかし、これはお祭りでもなんでもなく、日常の風景でした。地下鉄やバス、市場、観光地など人の多いところに、テントをはっただけの屋台があふれているのでした。人々はよく食べ、よくしゃべり、いつも音楽にあわせ体を揺らせています。道路は車であふれ、信号は無視され、人々は止まった車の間をすいすいとぬけていきます。そして、土曜、日曜ともなると、公園ではマリアッチの楽団の演奏にあわせて、老若男女がダンスを楽しんでいます。ここは、働いている時以外はいつもお祭り状態の街です。

3日前には、世界遺産にもなっているグアナファトに小旅行してきました。ここは昔銀山で栄えた街で1810年スペインからの独立運動の始まったところでもあります。街中に張り巡らされた地下水道が、今では道路として使われバスやタクシーなどが走り、歩道もありすっかり生活道として定着している珍しいところです。街には色とりどりの家があふれ、とても楽しい気分にしてくれます。ここもまた、金曜の夜から日曜にかけては、音楽にあふれた街になります。私がこの街に着いたのがちょうど金曜の夕方。広場ではコンサートが始まっていました。ギター、マンドリン、ウッドベースをかかえた12人の男たちがセレナーデを演奏し、そのそばではおばあちゃんが踊っています。30分も演奏すると、彼らが、ちょうど鳥が尾を上にたてたような瀬戸物の容器にワインを入れ50ペソ(日本円で約500円)で売り出しました。CDを売るならともかく、いったい何なのだと思っていると、彼らは演奏しながら歩き出し、客は手に手にその容器を持って、彼らの後をついていきます。そして、迷路のようになっている小道を、音楽を聴きながら、ワインを飲みながら移動していきます。それは昔、チンドン屋について行き、帰り道がわからなくなった遠い日々を思い出させる懐かしい出来事でした。

また、ここでは毎年10月に国際セルバンテスフェスティバルが開かれます。海外から多くの音楽家やダンサー、俳優がやってきて、芝居やコンサートが約1ヶ月にわたって催されます。私もキューバの楽団、アルゼンチンタンゴ、メキシコのジャズとダンスの4枚のチケットをゲットしました。これだけ買っても8800円です。安いでしょ。バスで5時間かかりますが、何の苦もありません。

明日はフリーダ・カーロの展覧会が近くの国立芸術院宮殿で開かれるので行くつもりです。ここは総大理石でできていて、正面階段を上がると、四方がメキシコの壁画運動をになったリベラやシケイロス、オロスコ、タマヨらの壁画が迫ってくるギャラリーにもなっています。

このように、毎日メキシコ生活を満喫しております私ですが、来週の月曜からはいよいよ学校が始まるので、先生のスペイン語がさっぱりわからないという苦学の日々になると思います。

旧盆

仲宗根浩

八月十九日の朝、八時半頃電話がなる。実家から、今日お墓の掃除に十時に行くと。

すっかり忘れていました。旧暦の七夕はお墓の掃除をし、お花、お茶、お水をお供えしてお盆を迎える準備をするのです。こちらでお盆は、旧暦の八月十三日にお迎えをし十五日にお送りします(地域によっては十六日にお送りするところもあるようです)。お盆の三日間は親戚をまわり、お中元を仏壇にお供えし、手を合わせます。夜は離れて暮らす兄弟姉妹実家に集まり食事をしますので賑やかになります。今年はお盆の中日に姉ふたりが沖縄で一番有名な斎場御嶽(せーふぁうたき)にまだ行ったことがない、というので島の南部、久高島が見えるところまで行ってきました。わたしが以前行ったときとは少し違い、新しい道路が造られ、御嶽の前には建物ができ、市町村合併で市となって御嶽を含むいろいろな聖地が観光資源となり、それらを紹介するパンフレットが用意され、別料金でガイドの方もつけることができるようになってました。

帰りに通った国道五十八号は普天間基地でのイベントのため、それにに向かう車で上り、下りとも渋滞。やっと抜け沖縄市に入ると、今度はエイサーに遭遇。お盆の三日間、夜は各シマの青年会がエイサーで練り歩きます。太鼓、三線の音がどこからか聞こえて来て、音が近付くとそれをたよりに外に出て見物に出るひとたち。しかし最近は太鼓の音がうるさい、と苦情が出るそうで、練り歩くコースを変更したり、別のシマと遭遇したときの競い合いが無くなったりしてるそうです。せっかく御先祖様にむけた唄と踊り、太鼓の音なのに、生きている人の都合に合わせるのはどこも同じか。

ちなみに道を練り歩くのを「道ジュネー」、競い合いを「オーラセー」とか「ガーエー」とか言います。以前、ある青年会の何十周年かのお手伝いをしたとき、青年会 OB の方々が多数いらして昔はオーラセーが熱を帯び、エイサーのオーラセーではなく本当のオーラセーになったことも多々あったそうです。

しもた屋之噺(69)

杉山洋一

まだ日本は暑さが厳しいようですが、ミラノは秋虫が鳴いて、朝晩はずいぶん涼しくなりました。7月まで雨が涸れ、周りの緑がすっかり萎びていたのが、8月に続いたスコールのおかげで、今ではすっかり青々と葉を伸ばし、目を楽しませてくれます。

一昨日までロヴァートのホールで、ジェルヴァゾーニのポートレートCDを録音していて、毎日のように空を見上げては、雲の美しさに見とれていました。気のせいか、かの地でその昔活躍したマンテーニャの筆致に、どことなく風景が似ていて、表現は豊かだけれども、息を呑むような視点で瞬間を切り出して見せるところがあり、録音の合間にも、窓の向こうの見事な色彩に、誰もが思わずため息を洩らしてしまう程でした。薄く色を変えて何層にも複雑に重なり合う尾根のシルエットから、飲み込まれそうに澄んだ蒼い空が溢れ返っていて、そのキャンバス一杯に、力強く積乱雲が吹き出しています。そうして、日が暮れるころには風景すべてが夕日に染まり、まばゆいばかりの黄金色に輝くのです。

ジェルヴァゾーニ作品は、時にとても悲痛に終わるのですが、録音の間、頭を過ぎったのは、目の前のこの燃え立つ夕陽でした。ここ数年、演奏や練習を繰り返しながら、自分なりのジェルヴァゾーニ観を形成してきた積もりでしたが、今回改めて楽譜と対峙してみて、また別の側面から彼の音楽にアプローチしたいと思いました。
数的につむがれた構造と、カスティリオーニのような無邪気さ、透明な音の繊細さが、劇的表現と共存していて、以前はそれらを主観的に捉えて演奏していたのを、今回は出来るだけ自分や演奏者から音楽を切り離し、音楽そのものが独自の空間を持てるよう腐心しました。

この前ジェルヴァゾーニ本人に会ったのは、パリ国立音楽院のピアノが3台置かれたレッスン室で、扉を開けるなり、引退したヌネシュから引継いだ生徒たちの楽譜を見せて、意見を求められました。印象に残っているのは、3台のピアノのうち、2台のグランドピアノは4分音ずらして調律してあり、1台の縦型ピアノは、16 分音で調律された特別なピアノで、傍らでジェルヴァゾーニが ひたすらパンを齧りながらレッスンしていて、他の練習室から聞こえてくる曲が、メシアンだったこと。

そんな中、彼がパリ音楽院教授職の最終面接にペッソンと二人残っている、と声をひそめて話してくれた時のことを思い出していました。今から2年近く前、ヴィオラのPと三人で入ったベルガモの小料理屋で、濃厚なロバ肉の煮込みと上質のポレンタを、土地の芳醇な赤ワインと一緒に食べていたこと。今回の録音の段取りなど、取留めもなく話していたこと。

今しがた受け取ったばかりの彼からの電子メールに、「根無し草のように45年暮らしてきた、こんな人生は満足よりむしろ苦労ばかりを強いるし、自分自身のアイデンティティまでも不安に晒すようだ。これから自分が何をすべきで、何をすべきでないか、よく見極めるべきところにいる」とありました。

ジェルヴァゾーニに特別な霊感を感じるのは、ソプラノなど声を使って作曲するときで、これは脱帽だと思う瞬間が何度もありました。そんな時、絶対的な彼の個性がこちらに剣の先を向けているのではなく、極度に研ぎ澄まされた感性だけが辺りを浮遊する感覚が纏わり付きます。詩から得た霊感を、個性で殺さず在るがまま活かしている、と説明も可能でしょうが、彼の流浪人生が培ってきた独特のしなやかさが、心の奥で叫ぶ悲痛な表現とともに嗅ぎ当てた、独自の空間が存在するのかもしれません。

音楽院で彼に会う前日、ルーヴル美術館で、ルネッサンスからバロックまで、イタリア絵画を中心に駈足で眺めてきました。一瞥して思ったのは、修復の趣味が本国イタリアと随分違って、ずっと鮮やかです。きらびやかなルーヴル宮では確かに見栄えがよいですが、いきなり着馴れぬ服で歩いているような感覚に囚われました。ダヴィンチはその中でも特に強烈な個性を放っていて、理知的に計算された構図に対し、中性的な人物表現と、凹凸を極力廃した神秘的な配色の妙から、追随するものを許さぬ孤高の芸術家の印象を受けます。人だかりの「モナリザ」より寧ろ、彼の他の作品をゆっくり見られたのは嬉しかった。

それから2週間ほど経って、ルーヴルを思い出しながらミラノで「最後の晩餐」を見て、ダヴィンチ独特の艶かしい中性表現は素晴らしいけれども、心底好きになれない何かがあるのを改めて思いました。完璧な表現の中、どこまでも冷徹に物体を眺める目を排除することができないのです。その冷静な視点は、眺める側の反応まで計算済みにすら感じられ、どことなく居心地が悪いと言えば良いでしょうか。

被写体を分析的に客体として捉え、瞬間を永遠化することに於いて、ダヴィンチにはきっと写真の才もあったに違いありません。彼がカメラを自在に操れたなら、一体どれほど個性的な写真を撮ったかと想像が膨らみます。

「最後の晩餐」に出かけた頃、フィレンツェから友人の写真家、メッサーナが拙宅を訪れました。彼は生まれつき脳の海馬に腫瘍があって、度々てんかんの発作を引き起こすので、8月23日に手術を受けることにした、と話してくれました。

てんかんの発作と一口に言っても色々で、彼の場合、視覚と聴覚、触覚の調整機能が一時的に働かなくなるのだそうです。視覚で言えば、今原稿を書いているパソコンを見ているとすれば、視覚の範囲のほかの部分は、見えてはいるが実際は見ていないはずです。聴覚で言えば、誰かが自分に話しかけているとすれば、他の音を聞かずに、意識的にその話しかけられている相手に耳を傾けます。その調整機能が10秒くらいの間麻痺してしまい、見えているもの全てが同じだけ目に入り、耳に入るもの全てが、同じだけ耳に入り、触感として感じるもの全てが同じだけ感じられるのです。

何も知らない人間からすると、この感覚はさぞ素晴らしいものだろうと想像しますが、感覚としては世界すべてが文字通り色めきたって迫ってくるようなものだそうで、素晴らしい体験であることは認めるが、問題はその感覚が10秒ほど続いた後、体力が途轍もなく落ちてしまうのです。周りには、発作中特に何の変化も見えないので、それまで元気だったのが突然だるくなり、何も手につかなくなる、というのは、日常生活に於いて、大きな負担だったのだそうです。

幸運にも、彼の海馬の腫瘍は、普段は使っていない部分に出来ているので、手術の危険度は比較的低く、それでも1割の確率で、記憶が消えてしまう可能性もあります。写真家として、瞬間を永遠に記憶させることを生業とするものにとって、なんと諧謔的な光景だろう、とピッツァを切りながら力なく笑いました。

「もし術後に会って、君が誰だか理解できなかったとしても、どうか気を悪くしないでくれたまえ」、そう自分に言聞かせるように言いました。
「自分で決めたらすっきりして、今のところ特に手術は怖くはないけれど、でも直前になれば急に恐ろしくなるに違いない」。
「今はアルツハイマーなどで、記憶を失いかけている人たちの苦しみがわかる。怖さもわかる。でも、もしかしてある日を境にぷっつりと人生が変わってしまう選択を自ら選ぶというのは、またそれとも少し違う。怖さよりも、快癒して健康に暮らせるという希望こそが、こうして僕の背を押しているのだから」。

そうだろうね、と相槌を打ったあと、
「とにかく大切なのは、元気でいることだと思う。もし君が僕のことを分からなかったとしても、写真はここに残っている。今までの僕と君との記録は、写真にすべて残っている。だから、僕らは初めて会ったときのように握手をして、新しい良き友人として付き合えばいいだけさ。心配なんていらない」。

(ミラノにて 8月30日)

写真――(翠の虱35)

藤井貞和

友人を訪ねると、
迎え火のかどに立って、
われを手招きする。

閼伽棚(あかだな)の器をとって、
いっぱいの水をまくのだと、
友人の母ののたまわす。

(三好達治によれば、
夜るべに、
亡霊がきてそれを舐めるのだと。)

送り火となる町すじ、
家々をめぐって、
灯明を暗くする時間に。

友人が、
写真を見守(まも)りし、
60年のむかし。

(「かくばかりみにくき国となりたれば捧げし人のただに惜しまる」「国のため東亜のためとおとなしく別れし頃は若かりしかな」「さびしげに父の写真を見つめゐる吾子(あこ)に悔い起こる折檻ののち」『この果てに君ある如く―全国未亡人の短歌・手記―』1950より)

ふたたびどこへ

高橋悠治

いつも対話のなかで 音楽はなりたっていた 対話の相手は武満 クセナキス ケージ マセダ 高田和子 みんないなくなってしまった ある日 こたえが還ってこないことに気づく それでも 生きつづけ まだ歩みつづけて どこへさまよっていくのか いつまでか

そういう時に 弓の弦は過去にむかって引き絞られ 矢はどことも知れぬ暗い空間に墜ちてゆく ふりかえり たどりなおし 古道に 気づかなかった小さな曲がりをみつけるために その曲がりこそ ルクレティウスがクリナメンと名づけた偶然のはたらく地点 理由のない変化をもたらし 世界をつくり つくりなおすきっかけ

ここに 少年時代の音楽の師であり 年月を経てふたたび友人となった柴田南雄のための文章がある すでに起こったことは 二度とおなじかたちでは起こらない それでも いくつかの臨界点をさぐりあて そこから 間道に逸れることができるかもしれない 

「柴田南雄の軌跡」

柴田南雄に作曲を習ったのは1953年からの3年間、いま考えると短い年月の間に多くのことをまなんだのは、その時代は日本の現代音楽の転換期にあたったからかもしれない。一応の義務のように伝統機能和声をヒンデミットが整理した本で学ぶとすぐ、クルシェネックの12音対位法をテクストにして短い曲を作曲するレッスンと柴田が諸井三郎にまなんだ楽曲分析のレッスンがつづき、柴田と入野義朗が主催していた12音技法のセミナーにも誘われて参加していたし、NHKでの海外現代音楽の解説録音にも連れていってもらった。音列技法の日本への移入と、柴田と入野による作品初演までのプロセスに立ち会っていたことになる。

しばらく日本を離れて1972年にもどってから「トランソニック」グループを組織した時、柴田南雄は最年長のメンバーとなった。当時かれの活動は作曲よりも民族音楽学に向けられていた。音楽の骸骨や模式図と命名した日本の民俗芸能の旋律図式モデルによって、合唱と尺八のための『追分節考』を書いた時、かれは新しい道をひらいた。それまでのヨーロッパ中華思想で統一されていた前衛音楽は、ポストモダンの多文化に転換しつつあった。それは一時的な戦後民主主義時代が終わり、1968年の反権力世界革命をきっかけとして起こった社会の変化に対応する文化的表現と考えられるだろう。「トランソニック」は音楽の政治性をめぐっての武満徹と高橋悠治の対立から3年間で解体したが、柴田は林光や高橋とともに離脱する方向を選んだ。理由もその後の方向もちがっていたが、柴田の場合は世界音楽史への関心と同時代の音楽についての知識から、時代の転換の意識と、自分の立場と様式についての確信があったのだろう。

柴田南雄は第2次世界大戦中に自己形成した世代で、軍事体制下の民族主義や精神主義への反発から、立原道造の建築的叙情とマーラーのメタミュージックを一生の指針とすることになった。戦後は立原のテクストをヒンデミット的に抽象化された機能主義力学で音楽化した歌曲集『優しき歌』、1950年代後半には北園克衛のモダニズム詩と12音技法による『記号説』、そして1970年代以後は『追分節考』にはじまる合唱劇を多く書いた。
これらの合唱劇の特徴は、多様式、無名性、交換可能な部分の堆積による作品、芸能成立の場を追体験するプロセスとしての作品の身体性、対象様式からの距離と抽象化をともなう新古典主義あるいは擬古典主義、それにともなう反表現主義と乾いたユーモア、メタ音楽性つまり音楽についての音楽、と言えるだろうか。多くの場合、アマチュア合唱団によって演奏され、技術主義と競争原理でうごかされる合唱運動への反教育としての効果もある。

多くの作品がフィールドワークや考証にもとづき、テクストや様式に関しては柴田純子、演奏と演出に関しては田中信昭の協力が不可欠だった。個人の自己表現から親密な小グループのコラボレーションに向かうのは、芸術にかぎらず、現在の創造的活動の基本原理であり、ここでも柴田の活動は先駆的モデルとなっている。

おなじ場所で足踏みしている 見ているだけ 考えてはいけない 考えれば いまの地点にとらわれる ただ見つづけるうちに 顕われてくるものがあれば すでにちがう場所に移動している