製本、かい摘みましては(39)

四釜裕子

「Rainy Day Bookstore & Cafe」で5月24日、青空文庫製本部の出張講座で、八巻さんと製本ワークショップを担当しました。会場はスイッチ・パブリッシング社が運営する本屋+カフェで、酔っぱらってのぼりおりするには危険に違いない階段を下りた地下です。打ち合わせで、真っ白な紙をとじるのはおもしろくないからスイッチ社の刊行物を素材にしませんかと言ったら、雑誌「coyote」から抜き刷りした星野道夫さんの「アラスカどうぶつ記」だったら人数分用意できるとのこと。それで一回目は、中綴じ上下二段に組んだ「アラスカどうぶつ記」をまん中で切って並べ替え、ひと折り中綴じの布装ハードカバーに仕立て直すことにしました。

作業の最初の楽しみは、本文紙をどう切るか。上下二段に組んであると言っても全てのページがそうではなく、表紙は中央に熊の愛くるしい写真があるし、次を開けばぐっと下の位置にタイトルがあります。私の試作品は熊の顔を無惨に断ち切り、タイトル文字も上半分だけという無粋なヤツでしたが、参加したみなさんは口々に、星野さんが撮った熊にカッターは入れられないと、早速にワーク、ワークがはじまります。熊の全貌が見えるように折りを工面したり、好きなページが活きるような組み直しに余念がなく、のっけから予定時間オーバーの、楽しい予感。

表紙用の布はこちらで用意しましたが、希望するひとには手拭いを持参してもらいました。アイロンで、接着芯を貼って使います。製本でやるところの布の裏打ちはめんどうで、さらに悪いことには、誰かに聞くほどもっとめんどうなものに思えてきます。布は製本に近しいのに(もしかしたら紙よりも!)、どうしたことかと思うのです。洋裁や手芸をしていればなじみの接着芯が、お楽しみのための製本の味方にならないわけはなく、そう考えて昨今よく使うようになりました。おかげで接着芯自体の進化も知ることができて、楽しみが増します。

さてワークショップではそれぞれ微妙に違うサイズの本文紙が切り出されました。その大きさを基準にして、表紙の芯になる2mm厚のボール紙を切っていきます。この段階で、今回のだんどりでは表紙にタイトルが入らないことを参加者に告げます。それが嫌なら、たとえばボール紙の厚みの半分を削ってくぼませたり抜いてタイトルを入れるようなサンプルを前にして話しますと、まもなくそれぞれの手が動いてまたまたワークがはじまります。この後に、糸の色、穴の数、針の運びを考える「かがり」という華やかなワークがあるのですが、徐々にいい具合に作業進度にズレが出てきて、順番に大きいテーブルでノリを入れるのを見ながら随時、おいしいコーヒーをいただきます。

この後はそれぞれが、さみだれ式に完成へと一気に邁進していきます。一人一人進む作業に付き添うことになるので、全体を眺めることができません。一冊ずつの本を前にしてしゃべるのが一番の楽しみですが、最後の最後にそれがままならなくなるというのが残念、今回はみなさん、どうだったのかなあ――。この後レイニーデイでは、「Rainy Day に関わる出版物を素材にして、まるごと、あるいは解体したりリメイクして新しい本のかたちを作る楽しさを体験」する製本ワークショップとして継続の予定です。ワークショップとはまた別に、作ったものを持ち寄ってただしゃべる会もやりたいね。どうぞよろしく。

13のレクイエム ダイナ・ワシントン(1)

浜野サトル

 
『Dinah Jams』というアルバムがある。日本ではこのほうが売りやすいからだろう、『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』という邦題がついている。ダイナ・ワシントン(vo)もクリフォード・ブラウン(tp)も、それぞれジャズ史を語る上で欠かせないビッグ・ネームである。ただし、日本では、1950年代から、クリフォードのほうが人気も知名度も高かった。だから、邦題には彼の名が入れられた。どちらも夭折したミュージシャンなのだが。

夭折についてはあとで述べるとして、これはジャズ史に残る名盤であると同時に、特異な記録でもある。何が、どう特異なのか。

演奏内容の問題ではない。単純に録音形式が特異なのである。聴けばすぐにわかることだが、録音には聴衆の拍手や歓声がいりまじる。つまりは、ライヴ。しかし、クラブやホールでのライヴではない。会場はレコーディング・スタジオだった。

録音は1954年。当時は、クラブやホールの演奏を高品質にライヴ収録する技術はまだなかった。ライヴ録音が皆無だったわけではない。『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』という掛け値なしの名盤がある。1941年、ニューヨークのジャズ・クラブでのライヴ録音。しかし、ここでの音は、オーディオ狂の好事家の手によって紙テープに録音された。それ以前のエリントンやベイシーのライヴ盤も、同じような経緯でレコードになった。そういう時代だった。

聴衆が目の前にいるライヴには、スタジオ録音にはない独特の熱気がともなう。それでは、会場の熱気をまるごとハイ・フィデリティで収録するには、どういった手段が考えられるか。スタジオに客を集めて、疑似ライヴを行う。それしかないという判断で実現したのが、この『Dinah Jams』だった。

選ばれたのは、ロサンジェルスのキャピトル・スタジオ。当時、アメリカでは最先端の、ということは世界でも最先端の録音設備を誇ったスタジオだった。演奏に参加しているのはほとんどがアメリカ東部で活躍していたミュージシャンたちだが、それなのになぜ場所はロサンジェルスとなったのか。ハリウッドである。ハリウッドがらみの仕事があるから、ロサンジェルスの録音スタジオにはふんだんに資本が注ぎこまれた。結果として、ハリウッド消費文化が、ジャズ史の貴重な1ページに寄与した。そういうことだ。

  
『Dinah Jams』の原液となった演奏は、ジャム・セッション形式で行われた。1954年8月14日。夏の盛りの1日、午前中に始まったセッションは、夜になっても終わらず、約20時間続いた。ジャムだから同じ楽器を演奏するミュージシャンが複数集められていたが、その中にあって歌とドラムスだけがそれぞれ1人だった。歌はもちろんダイナ・ワシントン。ドラムスはマックス・ローチだ。つまりは、この録音は「マックス・ローチの驚異のスタミナを楽しむべきもの」といってもいい。

20時間にわたったセッションは、結果として2枚のアルバムに仕上げられた。1枚は『ジャム・セッション/クリフォード・ブラウン・オール・スターズ』。残る1枚が『Dinah Jams』だ。

ということからも想像されるように、『Dinah Jams』には、ダイナ・ワシントンの歌を中心とする演奏だけが集められている。実際にはダイナ抜きの演奏もたくさん行われていて、そちらが別アルバムにまとめられた。

しかしだ、それでいて、このセッションは、ダイナのためのセッションだった……という実感がある。細かい記録は何も残っていないから、事実がどうだったのかはわからない。しかし、音楽を聴いていると、そういう実感がする。なぜか。ダイナを取り巻くミュージシャンたちの演奏、ことにクリフォード以下3人のトランペッターのプレイに、ダイナへのこの上ない深い愛情を感じないではいられないからだ。

例えば、冒頭の「恋人よ我に帰れ」のエンディングを飾る3本のトランペットのこよなく美しいオブリガート。「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」のこれまた3本のトランペットによるユニゾンのダイナミックなエンディング。これほど熱気と集中力のこもったプレイも珍しい。このセッションにあって、というよりは当時のジャズ・シーンにあって、ダイナはまさしく美しい花であり、光輝く存在だった。

ダイナの歌唱自体、もちろん見事なものだ。彼女はここでは、最高のしもべたちを従えた女王様然としてふるまう。美には美を、ダイナミズムにはダイナミズムを。トランペットのフレーズが高鳴れば、彼女も張りのあるシャウトで返礼する。と思えば、スロー・バラードでは静かな歌声がおそろしいほどの感情の深みにまで達する。

個人的には、これらの歌にいったい何度、どれだけ深く強く勇気づけられてきたことだったか。歌われているほとんどは、ティン・パン・アリー系のありふれたラヴソングである。しかし、歌の中味など関係がない。言葉は破片であっていいのだ。「意味」の代わりにここには「力」が、生きている人間が演ずる音楽の生き生きとした躍動がある。その力が、この1作をジャズ100年の歴史を語るに欠かせない名作とした。

  
しかしながら、聴いていて、何ともいいようのない違和感に襲われる瞬間がある。その違和感は、ダイナの歌唱そのものから発する。

例えば、「恋人よ我に帰れ」の最初のヴァース。

  The sky was blue and high above
  The moon was new and so was love

ダイナは、1語1語をおそろしく明瞭に発音しつつ歌う。ほら、あたしはこんなにもきちんと英語を発音できるのよ、とでもいいたげに。そうして、間違いなく意識的になされている明解な発音は、彼女の過剰な意識の存在を想像させる。

ダイナ・ワシントンは、しばしば「ブルースの女王」と呼ばれた。しかし、アメリカの黒人たちが同じ黒人たちを聴き役として歌うときのブルース独特の表現、一聴曖昧だが、黒人たちにあってはまさしく王道というべき独特の表現は彼女にはない。

彼女はブルースを得意としたが、ブルースは素材であるに過ぎなかった。『Dinah Jams』に参加した聴き手たちは歓声に感じられる野太い声の調子からして黒人主体だったと思われるが、彼女の歌唱は「黒人という同胞」に向けられたものではなかった。彼女の視野にはもっと広い世界があった。いや、端的にいうなら、彼女は人種の違いやジャズという音楽ジャンルの垣根を越えて、ポピュラー音楽という世界をまるごとその手におさめたかったのではないか。そういう野心の持ち主だったのではないか。そして、そのことが、彼女独特の歌いぶりにあらわれていたのではなかったか。

あるいは、ダイナはただ単にコンプレックスの強い人だったのかもしれない。何よりも、黒人であることからくるコンプレックス。黒人たちの身体能力が秀でていることを感じないではいられないような、のびやかでダイナミックな歌いぶり。あきれるほどのリズム感の素晴らしさ。ややハスキーな声を思う存分駆使した、感情表現の見事さ。彼女の歌は、黒人の優位性をこれでもか、これでもかと感じさせるものだった。しかし、彼女自身は、そのことに満足はできなかった……。

かぎりなく魅力的で刺激的なダイナ・ワシントンの歌。しかし、その歌声の底からは、彼女自身をあまりにも早い死へと追いやった何ものかが見えてくる気がしてならない。

(続く)

※参照=『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』

訳詩

高橋悠治

(6月のコンサートのためにモンポウの歌曲の詩を訳した)

 魂をうたう (Cantar del Alma) サンフアン・デラクルス

あの永遠の泉の隠れ家
それがどこかはわかる
夜のなかでも

その源はどことも知れず
だがそれこそがすべての源
夜のなかでも

くらべるものもない美しさ
天も地もそこで飲む
夜のなかでも

その流れはゆたかに
地獄も天国もまた人も養う
夜のなかでも

泉から湧き出る流れは
みごとでつよい
夜のなかでも

生きた泉を求めるのなら
それはいのちのパンのなか
夜のなかでも

 きみの上には花ばかり (Damunt de nos nom_s flors) ジョセップ・ジャネス

きみの上には花ばかり
まるで白い供物のよう
光はきみのからだにふりそそぎ
枝にはもうもどらない

香りのいのちすべてが
口づけとともに贈られて
きみはかがやいていた
閉じた眼に充たされた光のせいで

せめて花のため息であれば
百合のようにきみに身をささげ
きみの胸の上で萎れ
そうなれば
きみのそばから去ってゆく
夜を知ることもなかっただろう

 遊びうた(4-5-6) 作者不詳

4.ギーコギーコ

ギーコギーコ
サンフアンの木こり
上もよく挽く
下もよく挽く

凧揚げ 何あげよう?
ドングリとパン
夜にはパンと梨
それとも梨とパン

5.パリ娘

パリの小娘
灰色の靴貸して
天国へ行くため
一人一人は
聖者の道を
二人並んで
空の道

6.鳥さん、かわいい鳥さん

鳥さん、鳥さん、かわいい鳥さん
そんなに急いでどこ行くの
通りへ
牧場へ
一二三

(次に ジョビンが作曲した『黒いオルフェ』のための詩二篇)

 幸せに (A Felicidade) ヴィニシウス・ジ・モライス

悲しみには 終わりがないが 幸せは終わる

幸せは風に舞う羽のよう
高く飛ぶのも とまらない風を
感じているあいだだけ

貧しい人の幸せは
祭りの幻
一年はたらいて ほんの一瞬
夢のなか

王様 海賊 花作りになって
灰の水曜日にはすべてが終わる

悲しみには終わりがないが 幸せは終わる
幸せは花びらの上の露のよう
平和なきらめき やさしくゆれて
恋の涙となって落ちる

幸せはきみの瞳のなかの夢
過ぎゆく夜は夜明けを探す
しずかにしてね 

一日のはじまりに元気にめざめたら
愛の口づけをしてくれるように

 モディーニャ (Modinha)  ヴィニシウス・ジ・モラエス

心がこんなに引き裂かれては
生きていけない
幻想にとらわれ
幻滅するだけ
ああ、こんなふうに生きるなんて
絶望の月の光が
憂鬱を心にまき散らす
そして詩を

悲しい歌が胸から出て
思いの種をまき
心のなかで泣いている
心のなかで

『声とギター/港大尋』2

三橋圭介

『声とギター/港大尋』がようやく完成した。先日、5月2日のCD発売記念ライヴ(7時30分から神楽坂にあるシアターイワト)でアフタートークに出演の管啓次郎さんと新宿で打ち合わせをした(管さんはCDのライナーノートに「タンガダ・マヌの歌声、港のボッサ」というおもしろい作文を書いている)。ただ打ち合わせといっても管さんを交え、港、八巻美恵とわたしの4人でお茶をしただけ。顔合わせのようなもので、港らしく「なんとなく適当にやりましょう」という重要事項を確認した。

港は管さんと約20年ぶりの再会らしくほとんど初対面に近い。「昨日、管さんが夢に出てきたんですよ。管さんは真っ黒だったんだよね。」と港。日焼けして真っ黒だったのか、それとも黒人だったのかは定かでない。管さんといえばたくさんの翻訳やエッセイなどを出版していて、何冊か読んでいる。CDの録音のとき、港のカプチーノ・スタジオに管さんのエッセイ集『ホノルル、ブラジル〜熱帯作文集』(インスクリプト)が何気なく置いてあり、その美しい装丁に目が留まった。借りていこうか迷ったが、もちろん買った。

「言語は島、その長い海岸線はつねに他の言語からおしよせてくる波に洗われ、刻一刻と地形を変えている。まるで渡り鳥が飛んでくるように外国語の単語が滞在したり、流れついた椰子の実が芽吹くようにその場で育ちいつのまにか大きな林になったりもするだろう。いいかえれば、ある言語の中にはいつくもの言語が響いている。」

翻訳者である管さんは言語という島を渡り歩く鳥人(タンガタ・マヌ)。ことばの何気ない響きにアクチュアルな通路を見出し、移動、跳躍することで、自由に旅めぐらすことのできる交通の人。そういえばCDのエッセイのなかで管さんは「旅行とは世界による私の批判」と書いている。批判に耐えるだけの体力と知恵を身につけた人なのだと思う。これはその風貌からも伺える。

残念ながらお茶の時間は短く、あまり話をきくことができなかった。これはアフタートークにとっておこう。だが、港大尋と管啓次郎の出会いは『ホノルル、ブラジル〜熱帯作文集』の表紙を飾る美しい写真ですでに預言されていた。表紙を上から見ていてもだめ。開いてみよう。港を背にWhat?と書かれた船の形をしたベンチにもたげて黒っぽい男がこちらを見つめている。管さんは港について「何?」を語るだろう。管タンガダ・マヌが語る港タンガダ・マヌ。「管さんは真っ黒だったんだよね。」の真相は、当日のライヴに来てご確認ください。では会場(海上?)で会いましょう。

アジアのごはん(23) ダージリンと紅茶

森下ヒバリ

インドの北部の町、ダージリンがお気に入りである。ダージリンは紅茶で有名な地域だが、その名前の知名度の割には、じっさいに訪れた人は少ないのではないかと思う。もちろんインド人にとっては憧れの避暑地である。イギリス植民地時代のイギリス人の避暑地であったことからコロニアルな洗練された建物が軒を連ねる美しい町を想像すると、ちょっと違う。もちろん、植民地時代からのシックな建物も多いが、町はやはりインドであり、車も多くてゴミゴミしているところも多い。けれども市場に行くと、インド文化と少数民族の文化が混在していてとても楽しい。

今回のインドの旅は、まずコルカタからダージリンメールという名の寝台急行でダージリンのふもとの町NJPに行き、そこからまずは東のブータン国境へ。そこから西のカリンポン、そしてシッキム州と回り、シッキムのペヤマンツェから南下してダージリンへとたどり着いた。

このあたりの山の標高は2000メートル程度だが、日本の山々のようになだらかな山ではなく、かなりの勾配の山が連なっている状態である。さしずめ、緑のたけのこが一面に生えているような感じかしらん。つまり、移動する場合、たけのこをひとつ、ぐるぐる回りながら降りていって、地面にたどり着くとまたふたたび次のたけのこを上って……という具合になるので、一つの谷を越えていくのが大変なのである。しかも、たけのこの表面にはみっしりと木が生え、けっこう段々畑も刻まれている。

ダージリンもそのたけのこのひとつの上にある町である。ペヤマンツェのあたりは野菜や穀物の段々畑だが、ダージリンたけのこに入ると、いきなりお茶畑ばかりになった。ものすごい急勾配の道をジープはがんがん登っていくが、窓の外にはとんでもない急斜面の茶畑が続く。茶摘みをしていてもふと気を許したら畑から転げ落ちそうなほどである。ジープも気を許すと転げ落ちそうであるが、なんとか尾根近くのダージリンの町に着くことが出来た。あの急勾配の畑を霧が這い登って、おいしい紅茶が生まれるのだな、と身をもって納得。

ダージリン・シッキム地域にはチベット人が多いことから、チベット料理の軽食堂が多くありどこでもチベット餃子のモモを食べることが出来る。このモモこそが、カレー続きのインド旅行の救世主。モモを食べれば元気が出た。ダージリンの町で食べたモモが一番おいしかった。

おいしいといえば、ダージリン紅茶。ダージリンで買った紅茶を飲んでから、すっかり紅茶党である。もちろん紅茶は好きだったが、今の好きと、以前の好きには格段の差がある。食事のあとのお茶も紅茶、三時のお茶も紅茶。ふーっと疲れたときに紅茶。ダージリン紅茶をポットに入れて熱湯をそそぎ、ティーコゼーをかぶせて待つ。カップに注ぐとほのかに甘い、高貴なかおり。うっとり。口の中に広がるさわやかな渋みと深い味。グレードの高い紅茶の場合は、おいしいばかりでなく三口目ぐらいでぽーっとして軽く酔ったようになる。お茶酔い、とでもいう状態でちょっと恍惚感さえある。

南インドでおなじく紅茶の産地であるニルギリ高原に行ったときには、町で手に入る紅茶はたいしたものではなかった。品質のいい紅茶はすぐに大都市に送られていたためである。産地だから、新鮮でいいものが手に入るとも限らないのだ。しかし、ダージリンには優良な茶園がたくさんあるうえ、ダージリン産の紅茶はブレンドされるよりも茶園の特色を持ったままの茶葉が尊重される。買い付けに国内外から人がやってくるし、おみやげに求める外国人旅行者も多いので、町でいい紅茶が簡単に買えるのである。

紅茶といえば、日本ではリプトン、フォーション、トワイニングだとかの紅茶パッカーと呼ばれる会社のものがほとんどである。会社のブレンドによる差はあるが、トワイニングのダージリンというブランドの場合はトワイニングのブレンダーが、その年のダージリン産紅茶の味を調べ、味や香りのバランスを考えていろいろな茶園の紅茶をブレンドし、さらに輸出国の水質なども考慮して味を均一にして缶に詰めて出荷する。

しかし、ダージリン産紅茶は、香りが高く味もいいが水色はうすめ、という共通点はあるものの、その年の茶葉の出来、各茶園によってそれぞれの味と強い個性を持っている。もちろん、同じ茶園でも特級からふつうまでさまざまなレベルのお茶がある。ダージリンにやってくると、均一化された、ブレンドされたものでない、それぞれの茶園の特色のあるお茶を手に入れることができるのだ。

町でいちばんのナトムルスという店でいろいろなダージリン紅茶を試飲させてもらいながら何種類かを買ってみた。店で飲んで、うん、まあまあだな、と思った紅茶を買うのだが、日本に帰って自分で入れて飲んで見ると、おもわずため息が出るほどおいしい。

タイのチャイナタウンでウーロン茶を買うときもそう思うのだが、日本の水はほんとうにすばらしい。産地の水がいちばん合っている、というのが通説だが、そうは思わない。日本の水で淹れると、ほんとうにお茶はおいしく入る。だから、産地でほどほどの味でも、これは日本で飲むとすばらしいな、というのが少しずつ分かってくる。

すべてオーガニックのマカイバリ農園の紅茶のティーバックがあったので買ってインドで飲んで見ると、すぐに苦味だけが出て、味のバランスがとても悪く飲めたものではなかった。これは失敗、なんでこんな味のバランスの悪いものを売っているのかとふしぎに思ったが、日本に戻って淹れてみると、とてもおいしいではないか。しまった、好きな味じゃないと思ってほとんどタイで人に上げちゃった〜。

ちなみに、お茶にはミネラルの多い硬水である山や鉱泉などのミネラルウォーターは合わないので、水道水を浄水器に通してろ過したものをその場で沸かして使ってください。保温ポットのお湯では紅茶はおいしく入りません。

ダージリンの地元の人が飲んでいるのはダージリンのストレートティーのほか、煮出しミルク紅茶のチャイか、チベット系の人ならばバター茶である。しかし、バター茶も本来ならプーアル茶を使って塩味でまとめるものなのに、紅茶を使ったり、プーアル茶の場合でもミルクに砂糖を入れたり、というふうに変化していることが多かった。紅茶がかんたんに手に入ること、紅茶には砂糖が合うことなどが影響しているのだろうか。チベットの伝統的なお茶文化が揺らいでいる場所でもあった。またもう一度行って確かめてみたいことがたくさんある町である。

じつはこの五月の連休明けにひさしぶりの著書が出る。タイトルは『タイのお茶、アジアのお茶』(ビレッジプレス刊)。ここ数年、お茶好きが高じて、お茶にかかわる地域の旅ばかりしてきた。ダージリンのお茶の話も淹れたかったけれど、そうしていると、いつまでたっても本が出ないので、去年のお茶の旅までのお話である。旅先にそこでしかないお茶や、体験したことのないタイプのお茶(漬物茶とか燻製茶とか)などがあると楽しい。おいしいとなお嬉しい。旅先のお茶の時間は格別。お茶にまつわる人々の暮らしも興味が尽きない……。

朝焼けにうす桃色に染まっていくヒマラヤ、カンチェンジェンガを静かに眺めながら飲んだ朝の紅茶。ダージリンでいちばんうつくしい一瞬を、いま、紅茶の香りでゆっくりと思い出しています。こんなふうに、アジアの各地で一緒にお茶を飲んでいるような気になってもらえたらいいな、と思いながら書いたお茶と旅の本です。

1ミリグラム――みどりの沙漠43

藤井貞和

1ミリグラムの「いのち」、

あと1ミリグラムがほしい、

一滴を沙漠に。

沙漠のちいさな、

にんげんのかくれがに、

一滴が足りなくて。

どんどんちいさくなってゆくひとたち、

いまや、

砂粒となって。

この点滴が、

いのちのあした、

いのちの砂でありますように。

(辺見庸『たんば色の覚書』〈毎日新聞社〉より。じんるいが太古からずっとつづけているのは戦争と差別と死刑とです。クラスター爆弾で自分の赤ちゃんの頭を割られたお父さんが、こぼれ出てくる脳みそを泣きながら頭へ戻している〈辺見さんの見た映像から〉。12月25日〈2006年〉、クリスマスの日に4人を死刑した日本政府に対し、さすがにカトリック国から抗議が来たそうです。1ミリグラムがいつかは1グラムに、10グラムにと、最初のミリグラムは軽くても、増やしたいことです。)

製本、かい摘みましては(38)

四釜裕子

「ゲット」という言葉は、はじめて姪から聞いたときから大人も口にするようになってさらにもう死語になったと感じる今も、恥ずかしくて口にできない。「ハマル」も、同じ。でもそうとしか言いようのない状態は何度かあった。最初は中学生のころ。テレビゲームのテニスだ。対戦相手はほとんど父(なにしろ父が買ってきた)、受験を控えた姉に悪いなあと思いつつでもおとうさんとやってんだもんねーとノビノビ。信じられない!って言ってたね、おねえちゃん。もっともです。もうひとつは十数年前、Macを買ったときについてきた雀牌を2つづつとっていくゲーム。初めての自宅パソコンがうれしくて帰宅後毎日即起動、でもやることがそれほどなかったんだろう、まずゲーム、とりあえずゲーム。ある日思い切ってソフトを捨てた。翌日、なんのことはなかった。

そして最近。気づくとユーチューブで、紙で折るだけの小さい本の映像を探している。「origami+book」でヒットするものとその周辺。見ながら折ってもたいていうまくいかない。撮り方が下手だなーとか言って、それでまた別のを探す。こんなことをするようになったきっかけは昨年白金の「TS_g」で都筑晶絵さんの「折り」の技をみたことにある。製本のワークショプで見せてもらった本のなかで最も惹かれたのが、蛇腹状に折った長い紙を背に組み込んだものだった。作り方は習わなかったので家でやってみたらできた。構造がわかってなにかツボを得た気になり、そういえばとかつて集めたおりがみで折る小さな本の折り図を探したのだった。思い出したものもあるができないものもある。それでユーチューブを探したら、アルワアルワというわけだ。たくさんあるが、実は折り方にそれほど種類がないこともわかった。「ORIGAMI BOOK/折紙豆本」と呼ぶらしい。

折紙というと正方形の「おりがみ」が頭に浮かぶが、実際使うのはおりがみに限らない。あの大きさではとうてい折れないものや、縦横1:2の紙を折る場合もある。つまり、のりやはさみを使わずに紙を折るだけで本のかたちを作っていくということだ。紙の表裏の色柄の違いが、仕上がったときに表紙と見返し、それから本文にあたる部分に使い分けられるのが見事で、だから包装紙など片面印刷された薄い紙もむいている。豆本は昨今ブームのようで、各地で製本ワークショップを行う田中栞さんのブログは格段に参考になる。田中さんオリジナルの丸背の折紙豆本とは、さすが。紙を折って本作りを楽しむひとは日本にもたくさんいるのに、ユーチューブで探す限りは日本のひとに行き当たらないのも面白い。

豆本というものが好きではないのに、いったい私は何に〈はまって〉いるのだろう。おそらく、いろんな人が勝手に音楽を流してなにごとかしゃべりながら自分の部屋でちまちま折っては見せびらかしている大雑把な感じ――きれいに仕上げてほめ合うとか贅と技を尽くしてサクヒンにするとかいう以前の笑い飛ばせるおおらかさ――それが楽しいことと、一つのキーワードでユーチューブを走査することに〈はまって〉いるのだろう。折りあがるまで撮って5〜10分程度にまとめられるというのもユーチューブ向きということか。モニターの横におりがみ置いて、あとしばらく遊べそう。

物語の伝播

冨岡三智

昨年9月に帰国してから半年間、実はテレビの朝ドラ「ちりとてちん」につい引きこまれてしまった。見れなかった分のストーリーも知りたいなと思ってネットを検索していたら、番組の公式ホームページやヤフー、ニフティにあらすじが掲載されているだけでなく、毎日ブログにあらすじをアップしている人が多くいる、ということに初めて気がついた。そのスタイルはさまざまで、ほぼ逐一セリフを書き留めているものもあれば、簡潔にあらすじをまとめてから、自分の感想を重点的に書いているものもある。各シーンについて均等に感想を書いている人もいれば、特定の人物に入れ込んでそのシーンを中心にまとめている人もいる。人物関係論みたいなものに当てはめて、なにやら講釈を展開しているものもある。さらに、自分なりにいろいろ外伝を展開している人もいる。

本当のところ、テレビ・ドラマのあらすじやコメントがブログのコンテンツになるんだろうかと、最初のうちは少し否定的に思っていた。けれど、いろんなブログを読んでいるうちに、ふと、こうやって人は昔から物語を共有してきたのではなかろうかという思いがしてくる。しかも、ドラマが始まって途中からブログに書き始めている人が多いことからも、よけいにそう感じる。つまり、これらのブロガーたちはあらすじを書こうと決めたから書いているのではなくて、ドラマの進行につれてどうにも書かざる気持ちを抑えられなくなって書き始めたようなのだ。

芝居であれ、語り物であれ、それらが語ってみせるドラマ・物語は、こんなふうに観客によって受け止められ、その人が身近な人にその物語を伝え、それをさらに別の人が聞いて自分の芝居に取り入れ、その観客がまた別の人に話し伝え……と連鎖し、広がってゆくものだろう。そもそも最初の話を生み出した人だって、全くのゼロから物語を立ち上げたというよりは、神話や地域の伝承、自分が経験したこと、時事ニュースや他の人から聞いたお話などからヒントを得たり、それらを組み合わせたりして、新たな物語を生み出してきたことだろう。そうやって物語は口から口へと伝えられ、多くの人の共感を巻き込みながら、その物語を共有する人間関係を、共同体を、さらには大きな文化圏を産み出してきたのだろう。

ラーマーヤナやマハーバーラタという物語も、そういう風にして伝承されてきたのだ。インドにおいてこれらの物語はいくつものエピソードを取り込みながら形成されてきたのだが、東南アジア一体に広がってゆくにつれて、さらに本家インドにはなかったエピソードも派生させてゆく。近く本朝を眺むれば、平家物語もそんな風にして成立してきたと言われる。だから、たぶん人間には、他の人に物語を語らずにはいられない習性というものが備わっているに違いない。自分が見たこと、聞いたこと、経験したことを第三者に語ってみせることで、本当にその物語を自分の心におさめ、経験の血肉とすることができるのだろう。

テレビが産み出した朝ドラの物語が、それを見た人によってブログを通じて語り伝えられ、さらにそれがインターネット上の口コミでどんどん伝播していって、それが番組以外のイベント(ファン感謝祭だとかテレビでのスピン・オフ制作決定)を派生させ、それぞれのブロガーたちもダラン(影絵操者)よろしく、自分オリジナルの派生演目まで生んでいる。私は、このブロガーたちの外伝を読むのが実は好きである。悪く言えばテレビ視聴者の妄想にすぎないのだけれど、いかにも登場人物が言いそうな口調やセリフを取り入れて、番組では描かれなかったシーンを描写しているのを読むと、結局、物語はこんなふうにして派生してゆくのではないのかなと思うのだ。マハーバーラタやラーマーヤナが東南アジアに伝わってきたときも、まさにこんなふうな熱気が渦巻いて、派生演目を産み出しながら急速に各地に伝播していったに違いないと私は想像する。

しもた屋之噺(77)

杉山洋一

このところ、夜半に雨が少し降り午前中には気持ちよく晴れわたることがあって、夜明け前の今も、鳥のさえずりのなか、しとしとと庭の芝をぬらしています。

今月は半ばにサンマリノで仕事をしてきました。ヴァチカンと同じくイタリアの中にある小さな共和国です。駅まで迎えに来てくれるオーケストラのディレクター、マルコに時間を知らせるため、インターネットでチケットを購入しました。ミラノ発、サンマリノ着何時何分。乗り換えはヴェニスの手前のパドヴァ。初めてでかけたので、なるほどパドヴァ辺りから南に走る線に乗り換えてゆくわけかと勝手に納得していましたが、これが大間違い。旅程をメールでしらせると、マルコから折り返しあわてて電話がかかってきて、「サンマリノには駅なんてありませんよ。戦前にはリミニまで鉄道が走っていましたが、何十年も前に廃止されたままです。リミニまで迎えにいきますからね、よろしく」。
無知というのは恐ろしいものですが、イタリアのサンマリノが南の果てだったらまだしも、北イタリアの隣り合わせの州ヴェネトとエミリア・ロマーニャにあったりすると、譜読みでぼんやりした頭にはわけがわかりません。

海水浴で知られるのリミニの駅舎は、心地よい塩梅で古くさく、意外なくらいこじんまりとしていました。マルコの車は素敵なサンマリノのナンバープレートが付いていました。味気ないEUの統一規格のデザインとはずいぶん違う、サンマリノの水色と白の国旗が描きこまれた風格あるナンバープレートで、13年もイタリアに住みながら、今まで一度もお目にかかったことがないことに、少し驚きました。

マルコの車から外の田園風景を眺めつつ、小学校のころ、世界地図を見ながら、リヒテンシュタイン、ヴァチカンやルクセンブルグと一緒に世界のサンマリノの名前を覚えて、国の中に国があるなんて面白いものだ、すごいな、と子供心に心を躍らせた感覚がふと甦ってきました。尤も、こうして話しているのも早口で少し耳慣れない訛りながら普通のイタリア語だし、田園風景もイタリアと変わらないし、国境と言ってもスイスに入るのとは比較にならないほどスムーズで、子供心のときめきは、知ってしまえば少しがっかりしてしまう気もして、そっと取っておきたい気もします。

カーレースのゴールのような国境を越えて、なだら坂をひたすら昇ってゆくと、街の風景が少し違うのに気が付きます。古く朽ちかけた建物はどこにも見当たらず、近代的で少し素っ気ない作りの家が並んでいます。銀行や店並みも、街を走るバスもイタリアとは違うので、外国に来た実感が少しずつ湧いてきます。そうこうするうち坂の勾配も途端にきつくなり、思わず耳がつんと詰まって、熱心に国の生い立ちを話してくれているマルコの声が遠くなりました。しばらく切り立った山を這うように走り、衛兵が警備しているサンマリノの旧市街入口を越し、劇場横に車を横付けしてくれました。

旧市街は一面、白い石で組まれた昔の要塞そのままで、ごみ一つない町には土産物屋と観光客ばかりが目に付いて、理路整然としていました。雑然としたイタリアの喧騒を忘れるほど静かで、高台から眺めると、あたり一面に新緑の丘が波状にうねる向こうに、リミニの海が夕日にきらきらと輝くさまは美しい絵画のようでした。劇場もこじんまりとしていましたが、磨き上げられ掃除もゆきとどいていました。イタリアというよりスイスのイタリア語地域を彷彿とさせます。

オーケストラのリハーサルは午後5時から11時半という珍しい時間配分で、7時半から1時間の食事休憩がありました。食事休憩のあいだも、歌手やソリストたちと練習を続けていたので、マルコが気を利かせて、この辺で一番旨いものファスト・フード!とハムとチーズの出来立てのピアディーナを買ってきてくれました。熱々でシンプルなこのピアディーナの美味しかったこと。思わず、旨いねえというと、周りのサンマリノ人たちが一斉に頷いて満足そうに顔をほころばせました。

旧市街下に広がる城下街ボルゴ・マッジョーレ界隈に着くのは結局0時前で、宿のレストランは終わっていましたが、何でもいいのだけれど、何某か食べられないかな、と言うと、荷物でも部屋に片付けておいで、何か用意してあげるから、ととても気さくで親切に接してくれました。部屋から降りてくると、ほうら美味しいよ!と言って、オーナーのアレッサンドロが大皿いっぱいにチーズやサラミ、パンや食後のケーキまで出してきてくれました。流石にすべては平らげられないだろうと思っていると、アレッサンドロと話し込みながら気がつくと皿は空になっていて、こちらが驚きました。

「サンマリノは工業が盛んで、イタリアなどから工場が進出しているけれど、サンマリノ人にブルーカラーは皆無なので、イタリア人や東欧からの出稼ぎの働き手が毎朝リミニから大量にサンマリノにやってきて、夜にはリミニに戻ってゆくのさ」。
思いがけない言葉にびっくりしました。「ブルーカラーはイタリア人か外国人しかいない」という言葉の上に、サンマリノ人の高い誇りが燦然とかがやいていたからです。聞けば、サンマリノに住む外国人はきわめて少ないとのこと。「そうしなければ、こんなちっぽけな小国はすぐに潰されてしまう。最近はキューバ人妻とか、東欧の女性を奥さんにもらうのがサンマリノ人の間では流行っていてね、確かにキューバ人の奥さんは多いな」。
聞けば、サンマリノに住む滞在許可を得るのは途轍もなく難しいそうで、たとえ男性の外国人がサンマリノの女性と結婚しても、永住権は貰えないそうです。逆に、外国人の女性がサンマリノ人の男性と結婚すれば永住権が手に入るのだそうです。小国として生き抜いてきたしたたかさを垣間見た気がします。

翌日、朝食に降りてくると、見てごらんよ、とアレッサンドロがサンマリノの新聞を見せてくれました。よく指差されたところを見ると、カラー写真を存分に使って昨日のリハーサル風景が2面一杯使って載っているではありませんか。どうも写真を撮っている人がいると思っていましたが、翌日の朝刊に載せるためとは想像もしませんでした。それだけでも驚いたのに、輪を掛けて驚いたのは、翌日の朝刊にも、同じように2面ぶち抜き写真つきでリハーサルの様子が事細かに載っていたことです。何も記事にすることがないからなのかどうか不思議ですが、6月にまたサンマリノに戻る折にでも訊ねてみるつもりです。余りに恥ずかしいので1部すら貰ってきませんでしたが、今となっては珍しい記念になったかなと少し残念に思ったりもします。

夜も鍵を掛けずいられるくらい平和で豊かな暮らしぶりで、道で行き逢う人は、いつも何某か知り合いや友人だったりします。サンマリノ人社会自体がそれだけ小さく狭いということかも知れませんし、それだけ狭いと否が応にも犯罪率も極端に低くなるに違いありません。サンマリノはイタリアよりずっと豊かで、イタリアのように混乱していない。有言実行、誰もが集合体として互いに社会を築く誇りを高く掲げている、そういう印象を持ちました。「最近はブルーカラーの外人が増えてねえ、僕らはそういう仕事はしないから仕方がないのだけれど、色々困ることもあって」、とか「あそこにずっと停めてあるイタリア・ナンバーの車は誰のかね」、などという会話を聞いていると、実際に住んでみたら難しいこともあるのだろうと薄く感じたのも否めません。

リハーサルは夕方からですから、朝から夕方まで、宿のレストランの机を一つぶんどり次の本番の譜読みに専念できました。何度も本番の準備は出来たかいと訊ねられましたから、宿のひとたちには、本番前に譜読みばかりして、よほど勉強して来なかったと思われたのでしょう。仕事をするには落ち着いた気持ちの良い環境で、結局サンマリノの観光は全くできずじまいでした。

イタリア人ソリストと昼食をとりながら話していて、「ここはスイスにそっくりさ。仕事するには最高だけれど住みたいとは思わないな。とにかくサンマリノ人にはお金がたまるようになっているんだよ。何より小国で税金がイタリアとは比較にならない程低いからね。特にサンマリノ人を保護する、という点においては、本当によく機能しているから」というふと口をついて出てきた彼の言葉は、イタリア人のサンマリノ観を言い尽くしているのではなでしょうか。普通のイタリア人なら、もう少し灰汁があってアソビのある暮らしぶりでなければ息が詰まってしまうに違いありません。逆もしかり。サンマリノ人も、遊びにときどきイタリアへ降りてゆくのはいいけれど、長く住んで仕事したいとは思わないのではないでしょう。ただ、仕事ぶりはとてもしっかりしているので、イタリアで出世をするサンマリノ人は多いそうです。逆に、サンマリノで出世するイタリア人は皆無だと聞きました。

ディレクターのマルコも、支払いは何月何日、どういう形で送るが、サンマリノでの税のシステムは云々、お前のイタリアの税理士には然々伝えればよいと、具体的に説明してくれましたし、演奏会のあと、サンマリノピアノ国際コンクールを企画しているプレジデントは、とピザを食べてながら、毎回審査員の公平な審査にどれだけ苦労させられるか、裏話をいろいろ話してくれました。「どうしたって、自分の情がかかった演奏者に票を多くいれたくなるのは分かるけれど、毎回、各審査ごとに審査員は参加者とは無関係だという誓約書を書くんだけどね。それでもシラを切っている審査員が必ずいるんだ。でも、そういう贔屓は、ずっと観察していれば絶対にわかる。臭いなと思って、インターネットで検索すれば、隠し通せるものではないんだよ。そうして追求すると、大概、そう言えば数年前にマスターコースに来ていたかも知れない、みたいに始まるわけさ。もちろん、その時点で、審査からは外れてもらうことになるがね。かなりデリケートな問題だけれども、いい加減なコンクールだと思われたくないし、他の参加者にとっても失礼だと思うからね。どんな厄介が付き纏おうとも、そのあたりはしっかりやることにしているんだ」。

彼の熱のこもった話ぶりを聞いていて、世界で最初に生まれた、全体でミラノ市よりも小さいという共和国が、こうして今まで生き抜いて来られた信念の強さを見た気がしました。そこから学べる大切なことも、たくさんあるのではないでしょうか。

気がつけば、外はすっかり晴れ上がり、目の前の校庭では子供たちが元気よくサッカーに興じています。雨上がりは気持ちも良いし、小鳥のさえずりを愉しみながら、フラッティーニ広場脇のお菓子屋のババー(リキュール漬の揚ケーキ)目指して、坊主連れで散歩にでも出ようかと思います。

(4月29日ミラノにて)

だんだんと暑く

仲宗根浩

旧暦三月三日(四月八日)、浜下り。海に入り身を清め、潮干狩りをしたりする日。
すっかり忘れていた。姉が海藻やモズクを採ってきたのでお裾分けをいただく。翌週、娘を海に連れていく。行ったのは北谷のビーチ。昔、飛行場だった場所が返還され開発され映画館、ホテルなどのリゾート施設ができどれくらい経ったろう。ビーチはよそから砂が運ばれて造られた人工ビーチ。修学旅行の生徒だろうか、砂浜でバレーボール、そのあとはバーベキュー。片方ではアメリカン・スクールの生徒が大勢遊んでいる。こちらは遠足みたいなものか。海に足を入れるとまだ冷たいがすぐ慣れる。たいして時間もかからないので、水着を着て車に海へ行き、水着を着たまま車に乗り込み帰る。

暑さに我慢できず扇風機のスイッチを入れる。
うちでは扇風機をしまう、ということはない。どうせすぐ使うから出しっ放しにしているだけだ。暑さのせいか、前々からやろうとおもっていた通常のエレクトリック・ギターを改造し六弦のスティール・ギターにすることを決行する。正式には膝の上に置いて弾くのでラップ・スティール・ギターだ。フレットが摩耗して、普通に押弦をすると音がびりつくギターを専用のパーツを使いスティール・ギター並に弦高をあげるだけ。改造はいたって簡単で「エクステンション・ナット」という金属製のパーツをギターのナット部分に取り付け、弦高を約1センチほどあげスライド・バーを滑らせるときにフレットに触れないようにする。パーツは以前、ネットでメーカー、価格ともに調査済み。安価なものなので通販で購入すると、送料のほうが高くなりかねない。パーツの写真を印刷し近所の楽器屋で取り寄せ可能か確認する。すると楽器屋のお兄ちゃん、写真を見るなり「スティール・ギターのものですね。」と言い、店の奥へ行き品物を持って来てくれた。すげぇ。たまに、誰が買うんだ、こんなマニアックなもの、と心配になるものを置いていたりする店だ。二、三年売れずに置きっぱなしになっていて半値になっているギターもある。そうするとなんとか、家庭があるおじさんでも、購入できる。まだロックの街の気概は残っているのか。改造したギター自体は三十年近く前の日本製コピーモデル。高校を卒業する前に友人から購入した。以来、電気系統のパーツは一切交換していないため歪みとは違う、適度によごれた音がする。このよごれた部分が気にいっている。理想はジャクソン・ブラウンの名曲「ファーザー・オン」のバックで鳴るデイヴィッド・リンドレーの音、マヒナスターズのそれではない。実際音を出す。理想と現実のギャップに元ロック小僧の気概は失せる。これもアラン・ローマックスの本を読み、確認がてら手元にある戦前のブルース・ミュージシャンの映像を見直し、アメリカのルーツ・ミュージックの音源を久々に聴き漁ったためか。

ある日、作業着でデッキブラシを持ち、水を流しつつ、雨水で汚れたコンクリート製の墓を掃除。翌日、清明で自分の家、両隣にある親戚の墓にお供え物をし拝む。そしてだんだんと暑さをまし五月を迎え、梅雨が来る。

バスラが危ない

さとうまき

3月25日、マリキ首相がいきなりバスラに攻め込んだ。対抗するサドル派を一気に壊滅しようともくろんだ「騎馬の襲撃」と称されたこの作戦。アメリカのブッシュ大統領は「イラク政府が国民の多数を代表しているわけだから、犯罪分子や、無法者とは戦わなくてはならない。今、バスラでおきていることは、そのようなことだ。自由なイラクの決定的瞬間である。」とマリキ政権のバスラ制圧作戦を賞賛し、アメリカ軍も、バスラに空爆を行った。

しかし、サドル派の抵抗は強く、マリキ首相ひきいる軍隊は投降するものも多く出た。結局、イランの仲介で双方が停戦に合意したような形で紛争は終結した。とメディアでは書かれているが、現場の人々に電話してみると、空爆やら家宅捜査でおいそれと外にも出られない。

頼りにしていたローカルスタッフのイブラヒムもヨルダンに会議にでてきておりかえれなくなってしまった。最初は、勢いづいてバスラの家族や友人に電話し情報を集めてくれていたが、途中からどうも様子がおかしい。ぜーぜーと咳き込み、活動が鈍ってきた。
「今、バスラに戻ったら殺される」
飛行機が飛ぶようになっても
「今、帰ったら殺される」
学校が始まって、娘が小学校にいけるようになっても
「今、帰ったら殺される」
と駄々をこねる。完全にぐうたらになってしまったのだ。それでも、無理やりに飛行機のせてバスラに帰ると食料配給やらに奔走。見違えるようにがんばっている。

一ヶ月がたった。ニュースをチェックした限りでは、今日はバスラは平穏だろう。アンマンの加藤も特にこれといったニュースはまだ耳にしていないようだった。私は、友人たちに、「バスラはよくやく落ち着いてきたようです」と経過報告のメールをおくったばかりだった。バスラにいるイブラヒムに電話をする。

木曜日は週末の前の日。イスラム教の国では金曜日が休日。朝から、イブラヒムは、病院にいった。今日は、院内学級で教えた。しかし、ドクターに呼ばれる。薬を買ってきて欲しいというのだ。シャットル・アラブ川の向こう岸は、タヌーマ地域。そこには薬局がたくさんある。イブラヒムは兄と一緒に12時ごろ薬局に着く。しかし、1500ドルの抗生剤を買い付けると、いきなり銃撃戦が外で始まったようだった。銃声が聞こえる。店員3名と客2人と女性の客が1人いたが、皆流れ弾に当たらないように身を伏せた。停電。ヘリコプターが舞う音がする。6時間がたっただろうか。「今なら大丈夫だ」イブラヒム達は外に出て車に乗り込んだ。弾丸が飛び交う中を車はスピードを上げて駆け抜ける。イブラヒムは、6、7人の人が道路で血を流して倒れていたという。生きているか、死んでいるか、わからない。

それでも何とか病院に行き返し買い付けた薬を持ってきたが、医者たちはすでに避難していたので、教室に薬をしまいあわてて外にでた。数人の患者が病院に残っているだけだった。外出禁止令がでているのか通りには誰もいない。イブラヒム達は全速で家路に着いた。無事に家に着いたときは夜の8時だった。
「イブラヒムハイキテイルヨ、アリガトウゴザイマス」

終わりのない話

笹久保伸

楽器は不思議で、良い楽器を使ったからといって良い音が出るとは限らない。発展途上国に行くとボロボロの楽器での演奏に感動させられる事がよくある。そもそも「良い音」などという音はあるはずがない。聴覚は一人一人異なるし、聴こえ方も厳密には異なる。つまり「良い音」とは各自異なる。また味覚にも言えるが「好み」などは育った環境、幼い頃に食べてきたもの、体験によって決まる。一体誰が「良い音」を作ったのか。

この世には数えきれないほどの音楽が存在するが、音楽は聴き方も感じ方も、考え方も自由である。例えば西洋音楽は世界的に普及しているが、理由はその政治力(戦争に強かった、など)が原因で、西洋の音楽自体がこの世で「最も優れた音楽」だったからではない。(と思う)

グレゴリオ聖歌を仏教で言うところの声明(お経)に例えるとすると、もしも過去、アジアが西洋よりも戦争に強かったら、経典や声明を基に数々の音楽の定義が生まれ、今とまったく異なる音楽史ができていただろうし、「良い音」の価値観も現在とはかなり異なるであろう。琵琶や三味線、琴などが世界中に広まり、今日本人がバッハを弾くように、多くのドイツ人が八橋検校の曲などを苦労しながら弾いていたら、どんな感じだろうか。

しかし歴史はその道を選ばず、今に至る。

これは自分の体験からも言える事だが、例えば私は民族音楽を研究し演奏する、現地の人々が弾くように弾きたいと思い努力し、ある地点に立ちふと気がついた事、いくらそれらしく演奏しても、私が弾くのと現地の人が演奏するのではその「意味」が異なる。技術や音楽性とは別の次元のテーマである。良くも悪くも、現地に生まれなおさない限り、ある意味永久に現地の人々のように演奏はできない、と言える。

ペルーアンデス音楽の場合、「貧しい農民の生活(人生)を知らずに彼らの音楽を演奏できるはずはない」とペルー人音楽家に言われ、では農民の生活を知ろうと思い、山岳地域に行っても、住んでも、それを知っても、外から見るだけでなく中へ入っても、結局彼らとは異なる状況下に自分は存在している。しかしそれはペルー人にも同じ事が言える。都会生まれの音楽家はインディヘナ音楽を決して上手く演奏できない、とよく人は言う。(都会の人間に貧しい農民の痛みが分かるはずがない、という観点からである)

このテーマを他の演奏家に聞くと「考えないほうがいい」と言っていたが、これは永久に考え続けられるテーマであろうと思う。そもそも都会人もしくは異国人による「インディヘナ音楽の演奏」とは一体何だろうか。それは「都会人もしくは異国人による、インディヘナ音楽」であり、そう聞くとある意味変な感じがするが、かと言って西洋音楽を弾く日本人や、バッハを弾くカナダ人のグレン・グールドに人々はあまり違和感を持たない。

「演奏」も、その文化に生まれた人の演奏だからと言ってすべてが素晴らしいと言えるのだろうか。答えは、そうであり、そうではない。

ペルーの人類学者・作家のホセ・マリア・アルゲーダスは、アンデスの田舎町アンダワイラスに生まれ、いわゆるインディヘナ文化の中で育った。しかし彼の両親は白人系であるため、(山岳地域に生まれたのにも関わらず)インディヘナの人々とは異なる、という強いコンプレックスを常に持っていた。アルゲーダスは白人系であるが、アンデス文化で育った事もあり、逆に、都会の白人系の人々ともあまり上手くやっていけなかったし、一方インディヘナとも違い、
精神的居場所がなくとても苦労したそうである。

何をするにしても、正面から進むという事は多くの壁(闇?)にぶち当たり、もしかしたら、永久にそこから出られないのかもしれないが、しかしそうする以外に他はない。

冷えとひらき

高橋悠治

年とともに身体は衰えていく
心も冷え うごきがおそくなる
演奏も作曲も即興でさえ そのたびに新しくはじめないと
何もはじまらない
昨年はブゾーニとモンポウを録音し
今年はアキといっしょに石田秀実のピアノ曲集を録音した
ブゾーニは夢のように変わりつづける音の流れに
モンポウは遠いざわめきのこだまに
石田は山水画のなかの空間に歩み去る後ろ姿に惹かれて

ヴィトゲンシュタインとベケット
ありふれたことばがありえない組み合わせのなかでくずれていく
この穴だらけのつづれ織りは
ことばよりは音のありのままのありかただから
きれぎれになった響が沈黙のなかでふるえ かすれ
diminuendo cascando消えていく
こうして昨年からtwining voices纒穣聲nabikafiなびかひ sinubi偲を書き
いまhanagatami 花筺1と2を書いている
喪失からはじまり
残された空間のかすかなすきまが ささやきでみたされる
ためらいながら 身を引きながら よろめきながら つまずきながら

低音をくるわせて 支えをはずし
影の揺れと震えの上下に打たれるわずかな点の余韻
おなじようでいて すこしずつずれていく景色
さらさらとこぼれていく
さやさやとふきすぎていく

休止符と小節線を書かない楽譜にしてみる
拍を数えない 同期しない
それぞれの音が それぞれの時間で明滅する空間
断片を入れ替えて 流れを断ち切る
音をはずして つながりにくくする

書きながら時間をかけてためしているやりかたを
身体に染み付けて 演奏を解体していく
自然にうごいてしまうことから距離をとる
わずかな変化に注意を向けると ありきたりのうごきはしずまる
ほどけ ばらばらになっていく
こんなことで いいのだろうか

くりかえすたびに変化する
二度とおなじうごきはなく
はじまりの地点からはなれて 二度ともどることはない

イラクの匂い

さとうまき

夜明け前、ダマスカスのホテルを出発、するはずであったが、頼んでおいた運転手が寝坊してきたので、日が昇ってしまった。それでも、運転手は、遅れた分を取り返そうと猛スピードで砂漠をつっぱしっていく。なんと3時間で、国境に到着した。国境のゲートをくぐり、パスポートをチェックしてもらう。シリアの国境警察は、イラク警察に電話をして護衛をよんでくれるという。

まもなくして、イラク警察の乗ったトラックがやってきた。彼らは、シリア側の最後の検問で、預けておいた銃を受け取り武装する。運転手は、ハンドルの横にカラシュニコフ銃をたてかけた。助手席にも銃を構えた警官が1人。一番若いのが、荷台にのって銃を構えている。これがイラクのパトカーである。タンクローリーなどで渋滞する緩衝地帯をけたたましくサイレンを鳴らしてパトカーは、一気に駆け抜けた。荷台に乗った警官は振り落とされないようにと銃を構えながらも必死に窓枠にしがみついている。

あっという間に、イラクに着いた。この国境は、ちょうど5年前にくぐったことがある。今では、ぼろぼろになってしまって、土嚢がつまれ、有刺鉄線が巻きつけてある。まるで、基地のなかに入るようだ。それでも、ここはイラクだ。イラクの匂いがするのだ。

警官は、早くビザを出せと、パスポートコントロールの役人に命令した。しかし、役人たちは、そんなの聞いてないという。前回も、内務省の許可を取っていたのだが、現場にファクスが来ていないというのでずいぶんと待たされた。そのたびにシステムが変わるのか、門前払いにあったこともある。国境とはこんなものだ。
「ファクスの調子がわるいのではないでしょうか?」
「そんなことはない。ファクスは日本製だ」と役人は横柄に開き直った。
丁度ベルがなる。
「もしもし。。。誰も出ないな」
またベルがなる
「もしもし。。。おかしいな。いたずら電話だ」
「いや、今のがファクスじゃないかと」
しかし、役人は、私の言うことを聞こうとせず、ベルが鳴るたびに受話器をとる。
「もしもし、、、また、いたずら電話かなあ。日本製だからな、故障するはずがない」
そういうと役人は席をはずしてお祈りに行ってしまった。またベルが鳴る。今度はファックスがカタカタと音を立てて動き始めた。役人は戻ってくると、
「やっぱり、日本製のファックスは調子がいいなあ。こんな辺鄙な国境までとどくんだからなあ」
と御満悦でようやく許可を出してくれた。

今回も数時間待たされるのは覚悟のうえだ。
鎌田實医師を連れていたので、みんなが寄ってきて、オレを見てくれという。
「最近、腹がでてきたのだが何とかしてくれ」
「うーん、それは太りすぎだね」
「最近、屁がでるのだけど」
「それは健康な証拠だ」
「最近いびきがうるさいんだ」
「うーん、それは困ったね」
そんな、相談ばかりだ。もちろん鎌田先生はもう少しちゃんと対応していたが、私が訳すとこうなってしまう。2時間くらい待たされてようやくビザがもらえた。

私達は再びトラックにのって、難民キャンプへむかった。イラクに入って、1〜2km行ったところに村があり、テントが並ぶ。1700人もの難民が暮らしている。キャンプは汚水の処理ができずに悪臭がただよう。水も不足がちだ。そこで暮らすのは、バグダードで迫害を受けて逃げてきたパレスチナ人だという。

彼らは、ちょうど、60年前、イスラエルの建国で祖国を追われた人たちだ。イラクで暮らしていたが、今回の戦争で、またしてもテント生活を送らなければならないはめに。彼らは、廃校となった校舎を再び学校として使っていた。先生たちは、小奇麗な格好をして子どもたちを教えていた。砂埃にまみれたテントに暮らしているとはとても思えない。子どもたちに教えること、それが彼らにとっての人間としての尊厳なのかもしれない。

キャンプでは、知り合いが、わざわざバグダッドから会いに来てくれた。5年前、10歳だった女の子の手紙を持ってきてくれたのだ。

傷ついたイラクから日本のこどもたちへ
最上の挨拶で手紙を書きます。みんなのことが恋しいし、みんなのことをもっと聞きたいです。お元気ですか?
あの楽しかった日々がまた私のところに帰ってくればと思うけど、今のイラクの現状はそれを許しません。もし私に翼があり、たくさんの国を超えて私の兄弟である日本のみんなに会えたらどんなにすばらしいでしょうか?
私の家族や友人からの思いもこめて、皆さんに平安がありますように。
残念なことに、世界中の紙を集めても私の気持ちを書ききることは出来ないでしょう。

スハード・サェッド

イラクに平和を。

13のレクイエム ヘレン・モーガン(4)

浜野サトル

  
美人コンテストで優勝を勝ち取ってから『ショー・ボート』でスポットライトを浴びるまでには、かなりの時の隔たりがある。ヘレンがミス・イリノイに選ばれたのがいつのことだったのか、正確なデータはわかっていない。そのあと、ヘレンはカナダで「ミス・マウント・ロイヤル」にも選ばれていて、その副賞がニューヨークへの旅だった。ニューヨークに入ったのは、1919年、俳優ストライキのさなかだったといわれる。

翌年、ヘレンは、ミュージカル『サリー』のオーディションを受け、コーラス・ラインの一員になった。主演女優のマリリン・ミラーは週給3000ドルの高給とりだったが、ヘレンが得たものはスズメの涙程度のギャラ。それでも、1922年までのべ570回の公演を続けたこのミュージカルへの出演は、ヘレンにとっては最初の安定した仕事になった。

このあと、いったんシカゴでショー・ビジネスの仕事についたあと、ヘレンはニューヨークに戻った。しかし、ショーの仕事はなく、最初に得たのは、スピークイージー(もぐり酒場)での仕事だった。禁酒法下、もぐり酒場がギャングスターたちの最大の収入源となった時代だった。

このときも、かつて鉄道の食堂で働いていた時期に彼女を「発見」したジャーナリストが、ヘレンをすくい出してくれた。ブロードウェイでヒット・レビューを次々に放っていた興行主に推薦状を書いてくれ、役を得たのだ。1925年、ヘレンは24歳になっていた。

ヘレンには、生得のものとしかいいようのない個性があった。ごく普通に歌ってもすべてが悲歌に聴こえてしまうような、悲しげな声の表情だった。その個性がブロードウェイで少しずつ知られるようになり、翌26年、ヘレンはレビュー『アメリカーナ』に出演する。ジェローム・カーンが客席でヘレンを「発見」したのは、このときだった。

その間、酒場での仕事も続いていた。舞台がはねるとナイトクラブへ急ぎ、酔客たちの前で歌った。その繰り返しが、ヘレンの日常になっていた。カーンに発見された26年には、54番街に自分の店を出すまでになった。もちろん、資金は自前のものではない。ナイトクラブは、酒の密売人など暗黒街で生きる者たちの格好の投資対象になっていた。ヘレンの個性に注目したギャングスターの1人が、彼女を「店の主役」に仕立てたのだ。

舞台からナイトクラブへという生活は、さらに深まった。舞台では相変わらずの端役だったが、クラブでは違った。シックなドレスを身につけた彼女は、ピアノの上に座って歌い、満座の注目を集めた。歌うのは、もちろんトーチ・ソングだった。それはまた、彼女を最終的に破滅へと導く、酒との縁が始まる端緒でもあった。

  
1929年、『ショー・ボート』がその最終の舞台を終えたとき、ヘレン・モーガンはすでに押しも押されぬ大スターになっていた。この年、ヘレンに惚れ込んでいたカーン&ハマースタインのコンビは、彼女をミュージカルの新作『スウィート・アデライン』の主役に起用した。彼女が終生の代表作となる1曲を得たのは、このミュージカルでだった。

なぜ、わたしは生まれてきたの?
なぜ、わたしは生きているの?
わたしは何をもらえて、
何を与えてあげられるの?
(「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン」)

このミュージカルは大きな人気を博し、翌年、翌々年と公演が続いた。しかし、その寿命は『ショー・ボート』に比べて短かった。公演期間こそ同じ3年だったが、回数でおよそ半分、234回でその灯は消えた。

『スウィート・アデライン』が不意にとぎれるようにして終了したのと同じく、舞台の裏ではヘレン自身にも残酷な運命が迫っていた。まずは、ブロードウェイの劇場主の不倫の相手となったことが、つまずきの始まりとなった。

『ショー・ボート』の地方巡業が始まると、ヘレンは今度は相手役だった男優と恋に落ちた。しかし、その恋が長続きすることはなかった。地方公演の終わりは、恋の終わりでもあった。

舞台に出る前にブランデーを数杯飲むのを習慣にしていたヘレンは、舞台のあとではさらに深く飲んだ。私生活の波乱が、それに拍車をかけた。

1933年、男優との恋と並行して続いてきた不倫が、ついに終わった。すると、ヘレンは新しい相手、モーリス・マシュケを見つけて結婚した。それが、最初の正式な結婚だった。

二人は一緒に暮らした。しかし、まともな結婚生活が続いたのは、ごく短期間だった。書類上の離婚は36年のことだが、実質的には数週間で破綻していた。

すでにクラブでの仕事からはほぼ身を引いていたヘレンだったが、今度は舞台の仕事が急激に減っていった。それだけでなく、新聞の劇評欄で酷評されることもしばしばだった。アルコールの影響と考えていいだろう。

離婚した36年、『ショー・ボート』がはじめて映画化されることになり、ヘレンにも声がかかった。役はもちろんジュリーだった。ヘレンは無難に役をこなしたが、しかし、舞台でのときのような賞賛を浴びることはなかった。舞台での初演時から9つ歳をとったヘレンは、アルコールの影響でずっと太っていて、魅力を欠いていた。

  
あがけばあがくほど、もがけばもがくほど、その意志とは逆にどんどん深みにはまっていくということが、時に人間には起こる。ヘレン・モーガンについて書かれたものは少なく、彼女の場合がそうだったのかは、断言はできない。しかし、ジグソーパズルのピースのような記述をいくつかつなげていくとき、そこに想像されるのは、自分の現実から脱出しようとしてむなしい格闘を続けた一人の女性の姿である。

1941年、40歳になったヘレンはロイド・ジョンソンなる男と二度目の結婚をした。自動車のディーラーだった。
しかし、この結婚は、前回より少しは長かったものの、実質3カ月しか続かなかった。

30代に入ってからのヘレンは、重度のアルコール中毒だった。それでも、舞台に立つときには、その影響をできるだけ表には出さないようなふるまいができた。職業人としての心構えがそうさせたのだったろう。

しかし、仕事がめっきり減ると、アルコールの影響を隠す必要も、アルコールの摂取量そのものを抑える必要もなくなった。ヘレンは恋する人であり続けたが、度重ねて恋をしても、ヘレン自身が歌い続けてきた歌のように、それは悲しい結末にたどり着くだけだった。

1941年10月9日、ヘレンは歌が不意にとぎれるようにして死んだ。直接の死因は肝硬変だった。最後に舞台に出たのは2年前のロサンジェルス、作品は『ショー・ボート』だった。

ヘレンの死を看取ったのは、母親のルルだった。トムに去られて以後、ヘレンに愛情をそそぎ、ヘレンとともに生き続けてきたルルは、最終的にはヘレンにも去られて一人取り残された。ヘレン・モーガンのトーチ・ソングの世界を身をもって生きたのは、本当は母のルルだったのかもしれない。

(了)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
    The HELEN MORGAN Page

メキシコ便り(8)

金野広美

2500年前のモンテ・アルバンの旅から帰り、チアパスに行ってきました。
チアパスはメキシコ・シティーから南へバスで16時間、マヤ古典期後期を代表するパレンケ遺跡があり、ここもやはりオアハカ同様、多くの先住民の村があることで知られています。

夜8時、メキシコ・シティー発の夜行バスに乗り、チアパス州のパレンケに着いたのが昼の12時。寝不足でもうろうとした中、宿を探し、荷物を置くとさっそく街に出ました。パレンケは小さな街で、特別に見どころがあるわけではないのですが、遺跡への基点となるため、観光客も多く結構にぎわっていました。

次の日の朝、バスで25分の遺跡に行きました。うっそうとした中を少し歩くと、突然、大きな神殿が目の前に現れ、その美しさに息をのみました。緑深いジャングルの中に、たくさんの神殿や宮殿が立ち並び、天文学や、建築学に秀でていたというマヤ文明の繁栄がしのばれました。この遺跡はほかの古典期マヤ都市にみられるような石碑がなく、かわりに石のパネルや漆喰レリーフに文字や図像が刻まれ、建物や階段にはめ込まれているのが特徴です。この碑文には2世紀にわたるパレンケの王家の歴史が刻まれ、唯一「女王」が存在したという記録があるのです。この女王は西暦583年から604年にパレンケを統治した「オルナル女王」と、西暦612年から6115年まで内政をつかさどった「サク・クック女王」で、この2人の女王の存在は王朝の父系相続の原則を破っていたという話を聞いたとき、そういえば日本では、ひところ前、女帝を認めるかどうかでもめたことがあったなあと、なんだか懐かしく思い出してしまいました。

次の日はパレンケから南西にバスで5時間のサンクリストバル・デ・ラスカサスに行き、サンファン・チャムラとシナカンタンの先住民の村を訪れました。サンフアン・チャムラ村では教会のある広場で市がひらかれ、多くの人でにぎわっていました。教会の中ではミサが行われ、たくさんの人たちが祈りをささげていましたが、その様子は少し変わっていました。床一面に松の葉が敷き詰められ、ろうそくが床に直接、無数に立てられているのです。そして教会への貢物として、コカコーラがケースで置かれていました。この村では村人が身体に異常を感じた時、イロールと呼ばれる特別の能力を持った女性のところに行き、祈祷をしてもらいます。そして病気には卵と炭酸ガスが効くといわれているので、その治療薬として教会にコカコーラを供えるというのです。ここではキリスト教と伝承宗教が渾然一体となった独特の信仰があるということですが、祈祷とコカコーラの取り合わせはなんとも奇妙でした。

一方、シナカンタンの村ではバスから降りるやいなや民族衣装を着た子どもが3人、フォト、フォトと近づいてきました。どうやら写真のモデルになるからお金をちょうだいということなのです。オアハカではトルティージャの原料のトウモロコシに入れるカルを売っていたおばあさんは写真を嫌ったのに、ここの子どもは積極的に「仕事」にしていました。村をぶらぶら歩いていると織物を織っている女性がいました。道具は織機のように大掛かりなものではなく、庭の木に縦糸を束ねた一方をひっかけて揺れる糸をあやつりながら編んでいくのです。よくこんな簡単な道具であんなに美しく、しっかりした布が出来上がるなあと感心しながら見ていると、家の中でトルティージャを作っていた女性ができたてを食べるようにすすめてくれました。直径1メートルほどの大きな鉄のフライパンの上で焼いたものの中にペピータ・デ・カラバサ(かぼちゃの種の粉末)を入れて食べました。できたてのトルティージャは温かく、ふんわりとしてとてもおいしかったです。

また、ここチアパスでは小さな子どもがバナナや民芸品を売り歩く姿に頻繁に出会いました。アグア・アスルというとても美しい滝に行ったとき、マウラとパスチョの姉弟がお母さんが作ったという揚げたバナナを売りにきました。私はバナナを持っていたので、断りましたが、ずーとついてきます。あまりに熱心なので、買おうかとおもったそのとき、姉のマウラが私の指輪を、弟のパスチョは5ペソ(50円)ちょうだいというのです。急に買う気が失せてしまい、彼女たちと少し話をしました。マウラは6歳でパウチョは4歳、いつも2人で観光客相手にバナナを売り歩き、売れたお金はお母さんに渡すと言っていましたが、そのお母さんは21歳で今おなかに赤ちゃんがいるということでした。ということはマウラを15歳で産んだことになります。ちょっとびっくりしてしまいましたが、先住民の女性は若くからたくさんの子どもを産みます(前回も書きましたが平均8人)。それはマウラたちのように労働力として必要だからです。

ここは観光地に近いので電気や水の設備はありますが、少し奥にいくと、まったくそれらのサービスがうけられない村がいまだに多くあります。そんな中で多くの子どもを産み、育てている母親たちの生活の厳しさは想像を絶するものがあります。ここでガイドをしてくれたラウルは、チアパスの先住民はとても貧しく、不便な生活をいつまでも強いられているが、これは未だに根強く残る差別が原因なのだよと静かに語ってくれました。そういえば先住民族の諸権利と文化の認知を求め活動しているサパティスタ民族解放戦線のたて看板が多くみられ、彼らへの住民の支持が高いチアパスが、サパティスタの活動の中心になるのもうなずけます。ものがあふれ、活気に満ち、毎日お祭りをしているようなメキシコ・シティーだけにいたのでは、決して見えてこないメキシコのもうひとつの現実を、この旅で知ることができました。

製本、かい摘みましては(37)

四釜裕子

あるレーベルのCDジャケットを作るのに、きまってお願いする目白の紙工所がある。工場の近くには桜並木があるから、この週末はみなさんでそぞろ歩いて、ちょいと一杯やったのかなあ。本の函作りを発端として、その技術をさまざまな紙製品に活かしているが、最近は本に代わって、DVDや化粧品などのパッケージが増えているようだ。奇抜だったり豪華だったり。そういうパッケージの仕事も面白そうですねと言うと、「いやうちは本の函を作っていきたいんですよ」と社長が言う。かっこいいなと思いつつ、私も本ではないもののパッケージをお願いしているわけです。

本の函は大きく分けて、手で貼るものと機械で作るものがある。普段目に触れる本の函のほとんどは機械貼りだが、どれだけ機械で量産するにしても、最初に見本となるものを作るのは手だ。函の土台となるボール紙などの台紙をまずロの字型に組み立てて、底の部分をあててその上から全体に紙を貼るのが手貼り函の基本。パーツの組み合わせ方と素材の厚みを考慮して製図すること、また、入れる本の大きさに対してどれだけ遊びをもたせるか、ボール紙の強度、紙の伸びなどをどう計算するか。函の形はそれなりにすぐできるので簡単に見えるが、良い函はめったなことで作れない。以前通っていた製本教室では、函を横にして天地を両手で持って軽く一、二、三振りしてすーっと出るのが良い函、と習ったが、そんなの無理無理。

手貼り函の工程は、最近増えたカルトナージュ関係の本やウェブサイトで似た方法を見ることができる。いろいろ見ると、台紙のパーツを組み立てるときにその接触面を補強するために貼る「水張りテープ」というのが、カルトナージュ界では必需品のようだ。ロールで売っていたので、買ってみた。目白の工場で手貼り函の工程を見学したときに、やはり同じ場面で細長く切ったハトロン紙を貼っていた。それを「ジャパン」と呼んでいたのがおもしろくて、社長にその名のいわれを聞いたのだった。「上貼りの下に貼るから『じゅばん』、それがなまったと聞いたことがあるけれど、どうかなあ……」。

ほかにもいくつも、独特の呼び名があった。「亀の子」「チョウチョに切る」「トンネルにする」。順番に、亀甲型に切ったハトロン紙(使い方はジャパンに同じ。使う場所が違う)/ハサミでハの字に切り込みを入れる/台紙のパーツをロの字型に組み立てること。このあたりは今思い出しても納得がいくが、「ジャパン」はやっぱり、ふにおちない。機械貼りの工程でも、おもしろい呼び名を聞いた。「ビク抜き」「トムソン」。いずれも、函の台紙を、展開図通りに断裁すると同時に折り筋などもつける、打ち抜き工程のことである。

「ビク抜き」は、英国のビクトリア社の平打ち抜き機械が由来のようだ。「トムソン」は関西地方でよく使われているらしいということだけで、名の由来はわからなかった。いずれにしても、この工程は何ですか?との問いに、ビク抜き(ならまだしも)とかトムソンといきなり応えられると、ちょっとおもしろい。折り抜き加工を特集した『デザインのひきだし4』にも、この工程の呼び名はやはり「トムソン」「ビク抜き」さらに「オートン」と紹介され、「トムソン刃」と呼ばれる刃型を使うから「トムソン」、また「オートン」も機械由来の通称だとある。きっと「トムソン」も、刃のメーカー名かなにかなんだろう。業界人にしかわからない、先端の、誇らしい呼び名であったことだと思うのだ。

『デザインのひきだし4』は、工程や実例を写真付きで詳しく説明している。その中にも出てくるが、ベニヤ板に、小さなオレンジ色のゴムと刃が端整に並ぶ打ち抜きの型は、ほんとうに美しい。事情を言うと、断裁や折り筋、ミシン目など、製図されたラインに添って様々な高さ長さ形の刃(トムソン刃)が並んでおり、その板に函の台紙を一枚ずつ押し付ける(平打ち抜き機械でプレスする)ことで、切り抜いたり跡をつけることができる。ゴムは、押し付けた刃を紙からスムーズに抜くためにあり、波形をしたオレンジの点在ぶりがまたいい。打ち抜きの「型」はそのための唯一のもので、残しておけば増刷のときにすぐに使えるわけだが、いつそのときがくるかわからないのに保管するというのは現実的ではない。でも目白の工場にはそれがたくさんあって、それこそ年代物もあり、誇らしげで静かで宝物のようだった。

直線を中心としたシンプルな抜きは「ビク抜き」で行い、もっと細かな形を抜くときには別の方法がある。刃の種類が違うので、単純なものと複雑なものを混在させてプレスするときは別工程にすることがあるようだ。実は最初に言った「あるレーベルのCDジャケット」は、断裁と折り筋をつけるほかにレーベルのロゴを空押ししている。一度のビク抜きでロゴの空押しもできていると思い込んでいたのだけれど、ちょっとしたハプニングでそうではないことがこのたびわかった。なにごともなく進むに越したことはないけれど、起きてしまえば、起きたのだから、なにごともなければ会うはずのないなにかに会っているのだろう。

港大尋 声とギター

三橋圭介

5月1日、水牛レーベルから港大尋の弾き語りのアルバム「声とギター」を発売する。2年くらい前にエレガットの弾き語りをためこんでいることを知って、CD化を計画していた。「がやがやのうた」に続く港との共同プロデュースで、弾き語りから相棒の澤和幸のギター(デザイン担当)、シャンティのコーラス、Bakuのワイゼンボーンなどを加え、新曲を含む12曲を録音。独自の詩の世界がボサノヴァ風からブルース風まで色とりどりにギターのさわやかな風にのって運ばれる。「声とギター」というタイトルは、ブラジルのジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルなどの傑作にあるように、音楽の基本だ。バンド「ソシエテ・コントル・レタ」を率いる港が数年前、再びギターを手にし、中学時代、ギター少年だったころの熱い思いをよみがえらせていることから、あえてこの名前にした。もちろん音楽の基本へと帰ることだが、それは同時に素のままの自己をさらけだすことでもある。自己の世界に酔いしれなければできない。だが、一方でそれではダメと、魅力的な仲間の力を借りて距離を保とうとする港がいる。「港大尋 声w?とギター」はそのあいだにあり、港大尋という音楽家の素顔をのぞくことができる。CD発売に合わせていくつかライヴがあるので、まずはライヴで弾き語りを聴いてもらえるとうれしい。

ミシガンより

冨岡三智

今アメリカのミシガンに来ている。3月29日〜30日の民族音楽の学会で論文発表するのが第一目的なのだけれど、その学会に合わせてアレンジされている、ミシガン大学のジャワ・ガムラン音楽グループのコンサートも実は大きなお目当てであった。

ミシガン大学ではインドネシアからガムラン音楽と舞踊の指導者を夫婦1組で1、2年という単位で招聘し、指導に当たらせている。ここ10年以内のことに限っても、ソロのクラトン(王宮)の血筋にあたり音楽も舞踊もできるB氏が元宮廷舞踊家の妻と一緒に2001年〜2003年頃に赴任し、入れ替わりに今度はソロの芸大教員でやはり音楽も舞踊もできるW氏が舞踊家の妻と一緒に赴任し、W氏にダブって私が男性舞踊を師事していた芸大の先生P氏も娘を伴って1年間赴任した。私は特にP氏からミシガンでのビデオを見せてもらったり話を聞いたりしていて、その活動ぶりに興味を持っていたのだった。

ミシガン大学のガムラン・プログラムは1967年に始まり、今回の学会で基調講演をしたジュディス・ベッカー教授の下で開花した、とコンサートのチラシにはある。今年は何らかの理由で誰も招聘できなかったそうで、由々しき事態だというのが関係者の反応だった。現地から音楽家を招聘して指導に当たらせるというのは、アメリカではミシガン大学だけに限らないが、日本ではほとんど考えられない。日本では1980年前後に東京芸大がインドネシア人講師を5年間日本に招聘したという例があるばかりである。

  3月27日 ミシガン着

私がはるばる海外から来るというので、学会の幹事長自らデトロイト空港まで迎えに出迎えてくれ、その晩のミシガン大学でのリハーサルに連れて行ってくれることにもなった。この日は夕方から雪が降り始める。今年は異常気象で例年より雪が多かったらしく、3月末に雪が降るのは異例だということだった。結局リハーサルは急な予定変更のせいで、予定時間に予定の場所(明日のコンサート・ホール)ではなかった。けれどグループを指導している大学院生で、昨年もソロに短期で勉強に行ったという人と連絡がついて、その人がいるガムランの通常の練習部屋に向かう。

練習部屋は音楽学部棟の地下にある。リサイタルホールの他にもオーケストラ用、室内楽用などの小さな練習ホールが3つくらいあり、民族楽器の展示などもある。ガムランの練習部屋はソロの芸大の音楽科の教室よりは小さいけれど、じゅうたんの上にフルセットが広げられ、座布団が敷かれ、ホワイトボードやお茶のポットなども並んでいる。なんと贅沢な練習部屋だろうと思う。壁には今までに招聘したインドネシア人舞踊家や音楽家らの写真、このグループの公演ポスターなんかが額縁に入れられて、3段に展示されている。上で書いた以外にも多くの知った顔ぶれが見つかる。これだけの人を今まで招聘してこれだけの公演をやってきたという歴史の深みに圧倒されてしまう。

  3月28日 ガムラン・コンサート

今日の予定は10:00〜ガムラン楽器をコンサート・ホールに移動。14:00〜16:30リハーサル。17:30〜スラマタン。20:00〜コンサート開始。コンサート・ホールはヒルズ・オーディトーリアムという所で、巨大で壮麗な建築で、天窓もあり、舞台奥には古いパイプ・オルガンが設置されている。このホールは大学の中心部にあって、シンフォニー・コンサートをよくやっているらしい。

私は14:00のリハーサルから見せてもらう。今回の公演ではアンダーソン・サットンが特別ゲストで参加した。この人は1982年にミシガン大学で博士号を取ったガムラン音楽研究者・演奏家で、今は違う大学で教えている。私も会いたかった人だ。結局ずーっとインドネシア語で話す。スラマタンには、ナシ・クニン(黄色い儀礼用のご飯)やらインドネシア料理が並ぶ。インドネシア人の人が何人も関係者の妻や夫にいて、その人たちはこういうことがあると食事を用意したり着付を手伝ったりするみたいだ。サットン氏が乞われてスラマタンで挨拶し、黙祷ののち円錐形に盛られたナシ・クニンのてっぺんを切るという儀礼をする。氏によれば、自分の大学では公演前に必ずスラマタンをする、ミシガン大学では時々やっている、ということだった。私が以前所属していた日本のガムラン・グループでは、スラマタンはやったことがなかったなあと思う。もっとも、日本人同士、手探りでガムラン音楽をやっていた時期だったから仕方なかったのだけれど。

その後は着替え。どうせ公演まで2時間くらいあるから手伝う。演奏は、今年からガムランを始めた初年度グループと、その上のクラスの2グループが交互にしたのだが、上のクラスの人たちはカイン(ジャワ更紗)にクバヤ(女性の上着)かビスカップ(男性の上着)を着るという。金髪の人が多いから、ジャワで使う黒髪のサングル(かつら)はつけないで、地毛で逆毛をたててそれらしく結い上げる。そこは私のお手の物ということで、5人分くらいの髪結いを手がける。助っ人のインドネシア人女性は2人いたけれど、髪結い以外に着付もしてあげないといけなかったから、この2人で全員分をやっていたら絶対に間に合っていなかっただろう。というわけで非常に感謝される。

公演のレベルは、正直なところそれほど高かったわけではない。けれどベテラン指導者がいない――指導している大学院生も専門はインドネシア音楽ではない――ことや、皆の経験年数を考えれば、かなり健闘しているように思える。サットン氏の助演(太鼓、グンデル・パネルス)があったのも大きい。それにホールの音響がすばらしかった。リハーサルの時は楽器のすぐそばで聞いていて、演奏のアラが目についたのに、本番にホールの真ん中辺りに座って聞いていると、音がふんわり豊かに聞こえる。音響も建築も良いホールで、舞台裏をいろんな人に助けてもらって、スラマタンをしてコンサートができるという彼らの環境がなんだか羨ましいなあと思える。

  3月29日〜30日 学会

学会はミシガン大学ではなくてイースターン・ミシガン大学で行われる。学会はなんと両日とも朝の8:30がセッション開始、初日の受付とコーヒー・タイムが7:30から始まるという日程で、インドネシア並に朝が早い。けれどアメリカの人文系の学会はたいてい朝早くからやるものらしい。午前と午後に一度ずつコーヒー・ブレークがあり、昼食も用意される。結局、会場のスペースからは一歩たりとも外へ出ないで過ごす。食べ物と飲み物が大量に用意されていて驚くけれど、アメリカの学会ではそうするものらしい。

自分の発表については、緊張した上に語学力のなさもあって出来は反省することしきりだったのだけれど、日本の人たちとは違った観点から有意義なコメントをたくさんもらえ、同じインドネシア研究をしている人たちや、また日本留学の経験のある人たちと知り合えたことは大きな収穫だった。当初は、アメリカでこんなにインドネシア語や日本語で会話できる機会があるとは、夢にも思っていなかったのだ。インドネシア研究者といっても、その調査年代も1960年代から2000年代とばらばら、調査地もジャワ以外が多くてばらばらというわりには、共通のインドネシア人の知人がいたり留学生の友達がいたりして、あらためて世界の狭さを痛感する。

  ●

あっという間に2日間の学会は終わり、この原稿を30日の夕方に書いている。日本はここより13時間進んでいるので、いま日本では31日の早朝になっているはずだ。明日31日昼にここを発って、日本に着くのが4月1日の夕方。エープリルフールということで、なんだか1日ごまかされているような気にもなる。短い間だったけれど、そして英語にも論文にも自信はなかったけれど、思い切って来てよかったと思っている。

二題――みどりの沙漠42

藤井貞和

  番犬(三ノ宮)

震災のあと、
番犬のきみは、

自信をなくし、
自分を見失い、

番犬であることをやめて、
きみの家で、

ペットとしての生活を、
養っていた。

12年間、
ご苦労様。 きみはりっぱに、

番犬の役割を果たした。
お眠り、やすらかに

  (中井久夫さんの著書から。)

     *

  伝え(新大阪)

(新大阪へむかう車中で、
大江さん勝訴のテロップが走る。
去年の県民大会では、
3世代7人家族が出かけようとしたその朝、
97歳の父親に打ち明けられた、
「沖縄戦のとき、
日本兵に自決用手榴弾を渡された」と。
――照喜名正亀さんの伝え)

 
 (謝花直美『証言 沖縄「集団自決』より)

彼岸過ぎ

仲宗根浩

暖かくなり、家の中では潜んでいたヤモリがまた夜に鳴きはじめた。

彼岸の前、風邪で咳がひどく寝たり起きたりの生活。風邪が治るまで、時間がかかる。一週間ほど咳で明け方は必ず寝られず。なるべく咳が出ない時間帯に寝ることにし、夜の睡眠はあきらめる。

風邪が治らぬまま、彼岸のため実家へ。仏壇のお供え、あの世で使うお金のウチカビを燃やす。墓参りはしない。今年は墓参りするのを見かけたと姉が言っていた。一年のうち、墓参りに行くのは二回。旧暦七夕の墓掃除と四月の清明(シーミー)のみ。あとはなんらかの理由で墓を開けるとき。

最後に墓を開けたのは十二年近く前。墓がある土地を立ち退かなくてはいけなくなったため墓を引っ越したあと、引っ越した新しい墓に父親が入ることになったときだ。こちらでは葬式から納骨まで一日で済ませる。その時、誰が墓を開けるかをお伺いをたてるべきところへ行き、親戚の中で条件に適ったものが墓を開ける係となる。それ以外のものが開けてはいけない。沖縄に戻って十年以上経って親戚の葬式が二回あったが、その係にまだあたったことはない。

わたしが生まれる前に亡くなった祖父が最初の火葬だったようだ。墓を開け納骨のとき、祖母が火葬以前、戦前に墓に入ったお骨をカメから取り出し全部洗骨したはなしを、墓の中が見える状態のとき、誰かから聞いたおぼえがある。洗骨が行われたのは小さい頃、上にあがってよく遊んだ、大工をしていた祖父自身が作った墓だとおもう。シーミーのときなど子供が墓の上で遊ぶのはにぎやかでご先祖様が喜ぶ、ということで怒られない。風葬は戦後、久高島では行われていたが、ある出来事以来行われなくなった。久高島とは別の理由で昔からの葬り方は概ね「衛生」という理由のもと、力がはたらいてなくなってしまう。

少しの間だけ暖かかったのがいつの間にか暑さに変わる。車で十数分走ると、泡瀬の干潟に面した公園に着く。大きな公園の中、昔ながらの地形を利用した古い墓がいくつかある。アーサ(海藻で汁物に使われる)が近くの畑から流れて来たのか多く岩や砂地に見られる。たいらな津堅島も望むことができる。沖合は埋め立て工事をやっている。バブルの頃、その島より大きな人工島をつくる、埋め立て事業がたてられた。人工のリゾート・ビーチが多い中、当初の計画通り、人工のリゾート施設を作ろうと躍起になっているひと、反対するひと。

海開きがあちこちで行われ、短い春が終わる。

しもた屋之噺(76)

杉山洋一

つい今しがたジュネーブ駅を7時7分に出発したヴェニス行特急で、ミラノに戻ろうというところ。車窓右手には、目にまぶしいほどの朝日に輝くレマン湖がどこまでも広がり、左手にはまだ冬枯れの丘が続いています。お筝の後藤さんもレマン湖は水がきれいと言ってらしたけれど、朝、美しくつんと澄みわたる感じは、やはりアルプスの麓だからなのかとぼんやり考えていました。

昨晩まで、ジュネーブのコントルシャンと望月京(みさと)ちゃんが溝口健二の「瀧の白糸」につけた作品をやっていて、映画音楽として成立する部分も、効果音の部分も、純粋に現代音楽作品として成立している部分もあり、1時間40分の映画を邪魔せず、無音も効果的に挿入しながら、とても濃密な時間が共有できたのがうれしかったです。

京ちゃんとは1月に東京でも会ったばかりだったけれど、東京の大学で会うのとどことなく雰囲気が違って愉快でした。今回は練習も少ないし、映画と一緒だから返しづらいし、どう振ったものかと練習前日の夜どころか、当日の朝まで随分考え込んでいたのですが、本当に演奏者の皆さんに助けていただき、杞憂におわりました。

京ちゃんの作品を勉強していると、日本の女流古典文学を読むような、さらさらした流れが感じられます。ドラマがない、という意味では全くなくて、ちゃんとドロドロすべきところはドロドロとしているけれど、それが嫌らしくならない。どんな赤裸々なことを書いていても、読む者、聴く者を停滞させず、バランスよく先へ進めてくれるようなところがあって、これこそ彼女の才能なのでしょう。彼女は「痛点」つまり皮膚感覚を直裁に表現できるのが、やはり女性の強みじゃないかと言っていたけれど、その通りかもしれません。

作品は、テンポのないカデンツァとテンポのある部分が交互に現れて、レチタティーボの挟まれたオペラをやる気分でしたが、緩急具合も自然で、彼女のさらさら具合が、重たく救いのない溝口と泉鏡花の世界には、とてもよい塩梅だったとおもいます。女性からみた女性観が、良い意味で映画に客観性を与えてくれたようにおもうのです。これが、一緒になってよよと泣き崩れる音楽では、ヨーロッパ人には到底耐えられなかったかもしれない。「わたしは白糸に共感したのよ。あの時代にあれだけ自立して凛と生きる女性像にね。自分で稼いで、一度きり縁のあった男に貢ぐなんて、すごく強いし潔いでしょう」と京ちゃんも言っていたのが、よく反映されていました。

大変細かい画面との同期もあり、指揮者はMIDIペダルで予めコンピュータで作られた効果音や電子音響を挿入するのですが、簡単だから大丈夫と音響担当のクリストフに言われていたのに、とても不器用なのか、やってみるとこれが難しい。先ず、真っ暗な中で振っていると、ペダルがどこにあるか見えないのと、靴を履いていると、ペダルに触ったのか触らないのか感じられないのです。だから押したつもりで音が鳴らなかったり、準備しているうちに、どこかが触ってしまったのかいきなり音が鳴り出してしまったりと、失敗を繰り返した挙句、三味線や筝、尺八のみなさんが靴下で舞台にあがるのを良いことに、こちらも靴下のまま振りました。こういう体験は初めてでしたが、真っ暗だから見えないと皆に慰められやってみたものの、演奏が終わって客電がついたときの情けなさは何とも。

さて、タイムコード付のDVDを予め送ってもらい、それに音楽を同期させるべく勉強して行ったので、DVDと練習しているうちは問題なかったのですが、最後に映画館に入り、指揮者、演奏者はDVDのタイムコードを見ながら、35ミリフィルムをスクリーンに映写して通してみると、DVDと35ミリフィルムが酷いときには4秒ほどもずれてしまい、つられて音楽も映画と4秒ほどもずれてしまうことがわかりました。

35ミリフィルムのコマ数は当初秒速24フレームと指示されていたのですが、実際は18フレームから25フレームという不安定な速度で修復されていたようで、結局DVDのモニターを映写室に持ち込み、そこから片時も目を離さずに、映写技師が手動で映写速度を微調整してくれるのですが、DVDに合わせるのはなかなか難しいようで、目の前でDVDと映画がせめぎあうのを涼しい顔でやりすごさなければなりません。

最初は35ミリに合わせなければと思い、同期場面の30秒前くらいから、振りながら目で35ミリとDVDのずれを頭のなかで計算してやっていると、30秒後にはそのずれが逆転していたりするのです。その30秒の間にも、こちらは楽譜も目で追わなければいけないし、現代曲なので、演奏者たちにもキュー出ししなければいけないし、ずっとスクリーンを追うわけにもいきません。そして、映写技師さんがDVDに合わせようしてくれればしてくれる程、追い越したり、追い越されたりがそれは極端に早いスパンで繰り返されて逆効果になってしまい、最後は互いに合わせるのはやめて、音楽はタイムコードだけを頼りに振ることにしました。そうでなければ、イタチゴッコになってしまうからです。なかなか愉快な体験でしたが、文字通り、音楽と映画の手に汗にぎるデッドヒートの感でした。

ゲネプロで、最後に裁判所で白糸が自殺して、欣也も川辺で果てているところから画面が引いてゆくとこまで画面を目で追い、しっかりと同期しているのを確認した後で、さあ最後の音は心を込めて仕上げようと振ったところで頭を上げると、35ミリの方はとうに終わっていて、白画面に”STOP”とコンピュータのクレジットまで出ていて、流石に悲しくなりました。おかげで本番は気をつけてつつがなく終わることができたのですが。

MIDIペダルの効果音など、観客のためにもどうしてもスクリーンとずれるわけにはいかないので、幾つかは音響技師のクリストフに助けてもらうことにし、事なきをえました。例え、MIDIペダルのタイミングが正しくても、音響が流れているところで、映写技師さんがDVDとのずれを補正してゆくと、画面とコンピュータの音響がずれていってしまうので、何箇所かはDVDに合わせないようお願いして、補正もできるだけ優しくなだらかにとお願いして、漸く形になりました。

モントルーを過ぎた辺りで、湖の向こうには、まだ頂には雪がかぶった、雄大な山々の尾根が朝日に輝きながらせりだしています。イタリア・アルプスの始まりでしょうか。あと2時間ほどこの山々のなかを走りぬけて、ドモドッソラからイタリアへ入ってゆきます。

つまるところ、自分にとってとても興味深く、勉強になる経験でした。演奏者と映写技師と音響技師がコラボレートしながら作り上げる、あくまでもアナログの皮膚感覚で、同時に「テンポ」や音の持続の意味をあらゆる機会に考えさせられました。たとえば、白糸を心理描写する単音の持続が、6秒あったとして、ただ6秒のキューを演奏者に出すだけでは伸ばすだけでは何の感情移入も出来ないし、音の方向性も出てきません。これが、いわゆるスタジオ録音の映画音楽であれば、もっと徹頭徹尾ニュートラルに演奏することも可能なのですが、あくまでもライブ演奏で、観衆を包み込むわけですから、音の正確さだけでは物足りませんし、やはり演奏者のパッションが感じられるかどうかが、観客にとって大きな意味を持つに違いありません。それをどうすべきか、最後まで悩んでいました。音楽は、いくら書いてある音を正しく演奏しても、ただ無感情に演奏するのでは、音楽にはなりません。その辺りが難しいところでもあるし、ライブで演奏する醍醐味だともおもいます。

シオンを過ぎ、車両もずいぶん混んできました。今週末は復活祭なので、休暇を取ってヴァカンスへ出かける人や、帰郷する人たちでごったがえしています。3月半ばの復活祭と言えば、3年前に息子が生まれたときもやはり3月が復活祭でした。あの頃は、ウルグアイ人の友人宅に寓居して、法王の弔鐘が街中に鳴り響くなか、名物の兎のチョコレートを食べていました。この混み具合では、朝一番の電車で正解だったと独りごちていました。さもなければ座ることなど到底できなかったかもしれません。時たまイタリア語もぼそぼそ聞えますが、話し声の殆どは、元気のよい妙齢たちの甲高いフランス語です。先日東京に戻った折、東京から新宿まで通勤ラッシュの中央特快に乗ると、誰一人として声を出さず、しんと静まり返っていて、子供のころ電車はこんなに静かだったかと考えこんでしまいました。

何時しか車窓の目の前一杯にアルプスの雄大な山々がそびえ、晴れ渡っていた空もくぐもった山の天気になっていました。夕べは京ちゃんが打ち上げに買ってきてくれた海苔巻と赤ワイン旨かったなどと考えつつ眠り込んでしまったようで、気がつくとブリーグを過ぎたあたりなのか、長いトンネルがどこまでも続いていました。あの神々しいアルプスをこうしてトンネルを掘り突き抜けること自体、少し自然の摂理に反している気もするし、それこそ人間の強さと英知も感じます。こんな長いトンネルは、速度の感覚も、時間の感覚も麻痺させます。思わず、川端の「雪国」が思い出されて、彼の文章はどうしてこんなに美しいんだろうね、と昨日ホテルの朝食で後藤さんと話し込んだのが懐かしくなりました。

時たまトンネルを抜けると、周りは切り立った崖や男性的な岩肌ばかりの荒涼とした風景で、文字通り地獄のような谷底を列車は這うように進んでいきます。自然が人間を拒絶しているように感じられて、この地を初めて歩いた人は、一体どんな思いだったろうかと考えました。そうして最後の長いトンネルを抜けると、突然見晴らしのよい平地が広がって、途端に家々が目に飛び込んできたかと思うと、いきなり街が姿を現します。「間もなくドモドッソラです。国境の税関検査があります」、と出し抜けにイタリア語で放送が入り、フランス語のアナウンスに馴れた耳にはとても新鮮に聞えます。

ドモドッソラ駅で20分ほど停車している間に、今までフランス語を話していた周りの人たちが、一斉にイタリア語を話しだしたのには驚きました。それまでフランス語で話していてスイス人かと思っていた親子や夫婦が、途端にイタリア語にスイッチするのです。それも途轍もない南イタリアの田舎訛りだったりして、復活祭のために帰郷するのがわかり、これがヨーロッパなのだなと実感させられます。

今回はご飯もいつも美味しくて、旅を充実させてくれた理由のひとつです。特に、リヨン料理のビストロ「赤い牛」でランチを食べて、筝の後藤さんが食後に期せず頼んだデザートの巨大メレンゲなど、なかなか忘れられるものではないでしょう。確かに卵の形をしたものがカスタード・クリームに浮いてはいましたが、ダチョウの卵くらいの大きさでしたから。

列車もミラノに向けてドモドッソラの駅を後にしたようです。美しいベッラ島など眺めつつマッジョーレ湖畔を暫く走ればもうミラノ。少しばかり目をつぶり、明日からに備えることにします。

(3月19日 ジュネーブからドモドッソラの車中にて)

ピアノという

高橋悠治

持ち歩けない楽器
運ばない
置いてある楽器 響く家具
蓋をあけて 音を取り出すには

椅子にかけ
両腕平行にさしだし
手首から指の骨がひろがる
小指を軸に 腕は傾き 回り 移る 

座骨の上に 放り上げる身体の影
背ではなく 身体の中心に近くある脊髄
肩はなく 腕があり 
手首があるが 手はない 
爪はなく 指の腹がある
鍵盤の溝をたしかめている
指は押し込むのか 掻き寄せるのか
その両方か

どこを押しても 決った音だけなら
慣れた平均律の耳は 
共鳴のちがいをききとれないか
どこを押しても 揃った響が返るだけなら

鍵盤に固定された音階は
音の抑揚ではなく
ない色を一つだけのねいろに映し
不揃いな指 抑えたひびき
ずらしたリズム 崩した和音
すれあう余韻 逸れるふしまわし
かすめ取るふち 息づく空間

弱さに引き込まれ
揺れうごく余地を残した
窪みの陰 翳る

進化の止まった楽器
改良の余地もなく やがては捨てられ
音楽も忘れられるのか

思うでもなく
今日も
また

しもた屋之噺(75)

杉山洋一

春が近づいてきているのでしょう。毎日、庭にさまざまな鳥がやって来るようになりました。去年はそんなこともなかったと不思議に思っていると、どうやら庭の端の落ち葉を積んだ堆肥に、昆虫が増えてきたようです。今朝も、梢で黒い鳥が尾を揚げて求愛していると思った途端、どこからともなくもう一羽が屋根の上を通り越してゆき、先ほどの鳥も、思いつめた必死な形相でいじらしく追いかけてゆきました。

ボローニャの仕事が終わって、そのままスイスのイヴェルドンへ録音のエディティングを仕上げるため出かけたときのこと。録音技師の親友宅に泊めてもらうと、それは落ち着いた素敵な内装で、飾り付けられた果物や紅茶まで用意されていて、キャンドルがともされた朝食のジャムも紅茶もそれは美味しく、さすがにイタリアとはもてなし方が全然違うと感嘆していました。

さて帰ろうという段になり、これほど良くして下さって、どうお礼を言えばよいか、と言った途端に気まずい雰囲気になり、「請求書はどこに出せばいいのかな、レコード会社かね、それとも君に直接請求すればいいのかな」、とぼそっと言われびっくりしました。その場を取り繕いお金を払うと、ていねいに領収書まで切ってくれて、「いやあ本当に来てくれてありがとう! また、いつでも来てね」とご主人に突然抱擁されたのには、二度びっくりしました。

面白かったのは、録音技師のスタジオにゆくと、部屋中がベトナムだらけなのです。ベトナムの大きな地図があり、ベトナム戦争時の大きなポスターがあり、ミキサーの上には、ベトナム語でなにやら入力のガイドが貼ってあって、思わず「ずいぶんベトナムが好きなんだねえ」と言うと、「そりゃそうだよ。娘はベトナム人だもの。ほら、この写真がうちの娘だ」。と、愛くるしい12、3歳の少女の写真を見せてくれました。
「ベトナムに行ったことがあるのかい」と尋ねると、「何度かあるよ。素敵なところだね」。
楽しそうに話す様子から、ベトナムに住んでいた風でもなく、夏にイタリアで録音したとき、金髪のご婦人を彼女だと紹介されていてこちらは少し頭が混乱しましたが、どうやら養子にもらったベトナム人の娘さんと一緒にイヴェルドンに住んでいるようで、2年前のベトナム旅行の写真を楽しそうに見せてくれました。
「それでこれが上の娘でね」、とアルバムの続きを見せてくれると、今度はイスラムの真っ黒の布を全身をかぶり、目のところだけが四角く窓があいているニカーブをまとった女性の写真を見せてくれました。
「彼女はカサブランカにいてね、先日下の娘と会ってきたときの写真なんだ。これが娘婿。ハッサンという気のいいヤツさ」。

こうなると、こちらはいよいよ頭は混乱するばかりで、「娘さんの宗教は何なの」と質問するのがやっとでした。
「彼女はもちろんイスラムだよ」と嬉しそうに微笑みました。
真っ黒のニカーブの女性と、可愛らしいベトナム少女の娘さんをもつ録音技師が淹れてくれた日本茶をすすりつつ、自分はベトナム語のインターネット・テレビの普及に力を注いでいるんだ、と話してくれました。海外に住むベトナム人たちがベトナム語で見られるニュースを、配信を始めて、今ではスイスやフランスなどヨーロッパに限らず、アメリカなど各国からアクセスがあり、そのなかで突出しているのが台湾なのだそうです。彼はその昔はマダガスカルに駐在していて、マダガスカル初のラジオ局を開設して文化的にとても貢献したので、今でも行きたいと言えば、マダガスカルからいつでも旅費から滞在費まで全部賄ってもらえる立場だとか。何とも不思議な録音技師との出会いでした。

スイスから帰ってきて数日して、ブソッティの未初演のオペラの楽譜を読みに出かけました。近所だからと気を許して読んでいると、時間が経つのも忘れて、朝10時過ぎから午後の5時くらいまで、さまざまな大きさの黄ばんだ紙にインクでていねいに書かれた、手書きの原譜を読み続けました。

そのうちの一つ、実に壮大なメロドラマ「悲しみの父 Patre doloroso」は、ルネッサンスの画家、ルカ・シニョレッリについて美術史家のヴァザーリが書いた伝記に想を得ていると言います。シニョレッリは、構図の性別に関わらず常に自分の息子にモデルをしてもらっており、女性の場合は、後から体型を加筆したのだそうですが、言うまでもなくシニョレッリにとって息子はとても大切な存在だったわけです。その息子が他界してしまったとき、シニョレッリは三日三晩その息子を惜しんで絵を書きなぐった、という逸話に基づいています。

「パリのスタジオ。写真家・ルカ・シニョーリが、息子を使ってその昔ルカ・シニョレッリが書いた壁画を写真で再現しているところに、今度トウキョウで執り行われる皇太子の納采の儀(婚約の儀)の写真を撮ることを許された唯一の西洋人写真家だと告げられ、神秘のベールに包まれた街、トウキョウへ向かう。ところが、その仕事の最中、パリから息子セデリック急逝の知らせが入る。仰天した父親は、すぐさまパリに戻り、その昔ルカ・シニョレッリがしたように、美しい息子の姿三日三晩一心不乱に写真に撮り続ける。そして、まばゆい光に輝く霊安室に亡骸を運び、最後は、ブソッティのパートナー・ロッコの故郷にある、海辺の墓地へ埋葬される」。

居間のソファーで楽譜に夢中になっている傍らで、ブソッティは大きなロッキング・チェアーに身を沈めていて、奥の台所では、ロッコがかいがいしくご飯の用意をしていました。小説を読むようにひき込まれながら読んでいると、「どうだ、とても宗教的だろう」、と誇らしげにつぶやきました。

左の筆頭のような同性愛者のインテリが、宗教的という言葉を使うのに時の流れを感じ、思わず感慨をおぼえました。読み進みながら、確かに彼の父性の強さが心を打ち、センチメンタリズムとも違う、息子に対するまなざしは、文字通り父親そのものだと独りごちました。これは何だろう、因襲的な家族という形態とブソッティは遠い存在だと思い込んでいたのは、自分の誤りだったと悟りました。

ロッコが作ってくれた野菜のパスタに舌鼓をうちながら、最近彼らが関わったオペラの演奏について話していました。大凡気に入らないことが多かったようで、演奏よりもむしろ演出の話に花が咲きます。
「指揮者は頑張っていたんだよ。演奏はだからさほど悪くはなかった。でも、やっぱり演出が気に食わない。何しろ劇場支配人が、ぼくとロッコを使わずに、お抱えの演出家を使ってしまったからね。その演出家も若いながら、頑張ってはいたんだよ。でも自分が思い描いていたものとは違うんだ、なあロッコ、そう思わないか」。
ふと、耳を傾けながら、神経が研ぎ澄まされる気がして、思わず息をのみました。

「ぼくとロッコにとって、これが子供だから。どの家族も子供に自らの軌跡を託してゆく。ぼくらにとって、作品は子供と同じなんだ」。

(2月25日 ミラノにて)

追伸
吉清さん親子がどうか一時もはやく見つかりますように。
祖父が網元でよく祖父の船に乗せてもらいました。

製本、かい摘みましては(36)

四釜裕子

美篶堂(みすずどう)の上島(かみじま)真一さんによるハードカバーの製本ワークショップにでかける。二つ折りした紙を束ねて、無線綴じA5横型のスケッチブックを作るのだ。美篶堂のことだから、無線綴じとはいえしっかりした作りのはずで、教えてもらう機会をずっと狙っていたのだった。春一番吹き荒れるなか会場の青山ブックセンター本店に着くと、教室型に並べられたテーブルの上に、ハケやハサミ、タオル、ペン、定規などの道具や、洋紙、ボール紙、寒冷紗などの材料が一人分ずつきちんと揃えられている。短い時間で参加者が課題をこなすためには不可欠な準備と思いつつ、こそばゆさや気恥ずかしさを感じながら席に着く。両手を膝のうえにのせ、よろしくお願いしますと言う。

本文用紙にはヴァンヌーボが用意されている。20枚を二つ折りして、折山にハケで水をひと塗り。上からおさえ、折りを落ち着かせる。「水寄せ」といって、和本製本ではよく行われてきた方法だが、今回のようなやや厚めの洋紙にも応用できる。さて実は最初から、テーブルに小さな紙コップが一つずつ用意されていて、そうだな今日は風も強いし寒いから、途中いい具合でお茶が出るのかもと勝手想像していたのだが、そうではなくてこのときの、ひと塗りのための「水」が入っていたのであった。なんとも万端なことである。さてこれまた用意されたなかから好みの色の「見返し」用の紙を選んで二つ折りし、背固めにうつる。

背にボンドをたっぷり塗ってよくつきそろえ、裏貼りしていない寒冷紗を貼り、そのうえからまたボンドを塗って背紙を貼る。工程はこれだけだ。折山をたばねた背にカッターで切れ目を入れるとか、なにかしらコツがあると思っていたがさにあらず、使うボンドが肝心らしい。私がふだん使う木工用ボンドで同じことをやったら、乾いてのちに割れるだろう。固まっても柔軟性が残るボンド、それを使うのがコツなのだ。巷の本は今やほとんどが無線綴じだが、糸綴じと開きの良さにおいて甲乙つけがたいほど工夫された製本法もあるし、なんといっても、固まっても粘りの残るボンドによって、ページの開閉を柔軟に受け止めることができるようになった。商業ベースの先っぽにも目が届く美篶堂ならではの道具立てだ。ちなみにそのボンドはコニシボンドのなんとかというやつで、美篶堂のショップ(東京・御茶ノ水)で小分け販売しているとのこと。

さて続いて表紙貼り。表紙クロス(裏貼りされた布)が用意されている。これまた採寸断裁の必要はなく、色だけ選ぶ。台紙となるボール紙もすべて断裁済みなので、表紙クロスにボール紙をどう貼っていくのか、その目印だけつけてゆく。接着剤は水溶きボンド。ハケを入れるとかなり薄い印象を持つ。ボンド:ひめのり:水=1:1:1の混合で、もちろんボンドは「肝心なボンド」を使う。上島さんは、6cm幅のハケで表紙クロスに塗っていく。お、こっちですか、塗るのは。かつて製本工場の束見本を担当する職人さんを訪ねたとき、やはり布クロス側にニカワを塗っていたのを思い出す。いつのころからかの習慣で、自宅で私がやるときはいつもボール紙に接着剤を入れている。改めて習ったときのノートや本を開いてみると、確かにみんな、”ボール紙派”だ。だがそうでなくちゃならない理由はわからない。職人さんはニカワを使うからそっち、私はボンドでやるからこっち。そうかも知れぬ。だがそればかりではなさそうだ。

話戻って。上島さんは悠長に、「水分を含むと伸びますからこんなふうにそっくりかえります、様子をみて落ち着いたところで貼ってください。これは布ですからまだいいんです、紙ですともっとそっくりかえりますからその場合は一度塗って少し時間をおいてもう一度……」と説明しながら作業を進める。説明は聞きたいがボンドが乾いちゃうじゃないかとわたしは思う。「指で触って乾いていたら、ちょっと、ほんのちょっとですよ、もう一度塗ってください」。そう、乾いたら塗ればいい、位置がずれたらやり直せばいい。位置が決まったら台のうえで見返し側にタオルをあてて、内側から外に向かってしっかりなでる。表紙と見返しの隙間にボンドをまんべんなくしみこませてゆく感じ。なるほど少々塗り残しがあったとしても、ここでつじつまが合いそうだ。念入りが過ぎて過剰なボンドこそ御法度で、適切な接着剤を適切な分量だけ紙に塗ることができるなら、はみだしを気にして余計な保護紙を使ったり、プレス機に頼る必要もないのだろう。

翌朝、一晩寝かせたスケッチブックをやや強引に開けてみる。机にきれいに、平らに開いた。素材や道具の改良に常に耳を傾けて、確かな技術で受け止めて今も制作を続ける製本職人の、そしてそれを伝えてくれる美篶堂の、うつくしい仕事の一端なのだなあと思う。

とりつばさ――みどりの沙漠41

藤井貞和

とりつばさ 翔ぶ、

西日のうえ。

とりが留まる、

茅の輪をくぐり。

霊また霊よ 去り、

また去ろうとして。

撃ちおとされる、

悲しいかな。

つばさをのこし

(「鳥翔成」をツバサナスと訓んだのは賀茂真淵。山上憶良に「鳥翔成す有りがよひつつ見らめども、人こそ―知らね。松は―知るらむ」〈『万葉集』巻二〉。有間皇子は刑死して、後人の和歌がいくつかのこる。古代に死刑があったから、中世にも死刑が行われ、近世でもの凄くさかんとなって、近代や現代になおつづいている。戦争の起源は死刑の起源と、それこそ起源をともにする。死刑確定の物語が、DNA鑑定の導入とともに100名以上、1990年以後に無罪になったというのだから、これももの凄い〈『極刑』岩波書店、2005〉。裁き方としての拷問で犯罪を自白させようという方法が終わって、まだ何十年も経ってないのである。戦争の起源と拷問の起源、法の起源とは至近の位置にある。おや、マルクス主義の「国家の起源」…… ちなみに鳥が留まるから鳥居というのだって。「とりつばさ」は鳥の方言。)

メキシコ便り(7)

金野広美

長い冬休み、オアハカとパレンケを旅してきました。今回はそのオアハカの報告です。

オアハカはメキシコシティーから南西にバスで約6時間半。世界遺産にも指定されている中央アメリカ最古の遺跡モンテ・アルバンがあることのほか、多くのインディヘナ(先住民)の村があり、今もなお昔ながらの暮らしを営んでいることで有名です。街の中心はサントドミンゴ教会をはじめとして、たくさんの教会やカテドラルがあり、活気あふれるにぎやかな街です。ウイピルというそれは美しい刺繍をあしらった民族衣装を着ている女性たちを見ることができるのもここならではです。このウイピルを買うためだけにオアハカを訪れる観光客もいるほどなのです。確かにメキシコシティーで買うより、種類も豊富で安いのです。すばらしい刺繍のワンピースも300ペソ(約3000円)位から買えます。ほかには、ショールやかばん、インディヘナの世界観を表現したような壁掛けなど何時間見ていても飽きない先住民文化の宝庫がここオアハカなのです。

私がここに着いたのが木曜日、先住民の村オコトランで金曜日に市が開かれると聞き、行って見ました。オアハカからバスで45分のこの村の市は今まで見たことがないほど大きなものでした。果物や野菜はもちろんのこと、日常品や民芸品、革製品や生きたヤギ、七面鳥まで売っていました。タマーレス(トウモロコシの粉を練って作った直系5センチ長さ15センチ位の丸い筒状のものの中に肉や野菜を入れトウモロコシの皮で包んで蒸す)も、もちろん売っていたのですが、なんとここではチャプリンというバッタのような昆虫のから揚げを入れたものがありました。から揚げだけが皿にてんこ盛りしてあり、食べてみろと勧められました。最初はちょっとしり込みしたのですが、ええいままよと食べてみると、これがカリカリと香ばしく結構いけるのです。ビールのつまみに丁度いいのではと思いました。

また、カルというトルティージャの原料になるという白い岩のような塊を売っていたおばあさんが民族衣装を着て頭に木の小枝をつけていました。私は彼女とカルを写真に撮りたくて、頼んでみました。するとしぶしぶオーケーしてくれたのですが、カメラをむけると彼女は後ろを向いてその場を離れてしまいました。先住民のなかにはカメラは魂を吸い取ると思っている人がいるので、カメラを向けないようにとガイドブックにありましたが、やはりそうでした。カメラには白いカルだけが寂しそうに写っていました。またそのとなりでは日本の2倍はあろうかというよく育った大きなキャベツが山積みで売られていました。ここでキャベツを8個も買うおばあさんがいたので、何か商売でもしているのかとたずねると、明日が息子の結婚式なのだとうれしそうに答えてくれました、マグラデレナと名乗ったその彼女にお祝いを言いがら、年を聞いてみました。私は75歳くらいかなと思ったのですが、なんと55歳だというのです。もうびっくりしてしまいました。たくさんの子どもの世話(先住民の女性は平均8人の子どもを産むといわれています)、掃除、洗濯に主食のトルティージャづくり、畑仕事に、その合間の民芸品づくりなど、彼女たちの労働の厳しさがこんなにも早くマグラデナを老けさせてしまったのかと、大きな袋にキャベツを入れて帰っていく彼女を見送りながら胸がつまりました。そして、どうか明日は楽しい結婚式になりますようにと祈らずにはいられませんでした。

次の日は、別の先住民の村サアチラに行きました。ここはオアハカからバスで30分。ミステカ人とサポテカ人が住むというとても静かな村でした。ぶらぶらと歩いていると大きな庭のある家でトランポリンで遊んでいる子どもが2人。その庭には立派なナシミエント(イエスが生まれた情景を人形で表したモニュメント)がありました。ここでも写真を撮らせてもらうよう頼むと快く引き受けてくれ、こどもたちと話し込んでいると、父親のマリオが帰ってきました。そして、フアミリーで食事をするので食べていかないかと誘ってくれました。なんと親切な人なのだろうと、感激しながら、おいしいセビッチェ(魚介類の酢の物)やカルネ・アサーダ(焼き肉)をいただきました。ここサアチラでもどんどん混血が進むなか、マリオは純粋のサポテカ人だということを聞きびっくりしました。というのは、紀元前500年頃から紀元後800年ごろまでの1300年間モンテ・アルバン遺跡はサポテカ人が創ったサポテカ文化の中心として機能していたのです。はっきりした文字体系を持っていたサポテカ文化は多くのサポテカ文字を刻んだ石碑や土器や壁画を残し、現在それらの解読作業が進んでいるということです。今から2500年も前に文字を持ち、最盛期には2万5千人にも及ぶ人口を有しながら、盛んな社会活動をしていた、そんなサポテカ人の純粋な末裔が目の前にいるのかとおもうと、サアチラ王朝を描いた絵文書で見た王様の顔とマリオの浅黒い精悍な顔がだぶって見えたりして、ちょっと感動してしまったのです。

次の日、小高い丘の上にあるモンテ・アルバン遺跡に行きました。ピラミッドの上に立ち、さわやかな風にふかれていると、どこからともなくマリオに似たたくさんの人たちが現れ、大通りを行き来し始めました。私はしばしタイムマシンに乗って2500年前の世界に飛んで行ったのでした。

拍手

大野晋

コンサートで拍手が難しいと感じることがある。
特に、クラシックのコンサートではさまざまなルールや習慣がありややこしい。私自身も完全に把握しているわけではないが、こんな感じで拍手をしたらどうかと提案したい。

もともと、こんな文章を書く気になった原因は、最近、切羽詰ったような拍手や他人と競争するような性急すぎる拍手を聴く機会が多かったせいだ。いつの世も、新しい方がクラシックのコンサートに来られるようになると、不思議な拍手が時たま起きる。まあ、ここでぼやいてもなくなるわけではないのだけれど、拍手は聴衆が音楽家に直接渡すことのできるメッセージなのでぜひとも大切に使いたいものだと思うのだ。

開場の拍手:音楽家がステージに出てくると拍手をおくる。このとき表現する気持ちは、「私たちはあなたの登場するのを心待ちにしていましたよ」ということになる。だから、晴れ晴れしく、しかも演奏の邪魔にならないようにするとよいだろう。オーケストラではフランチャイズ(そこの会場を演奏の基盤として定期演奏会などを行っている)の場合には登場の時の拍手をしないのだそうだ。もちろん、全員が揃った後に、コンサートマスターが一人で登場してご挨拶(一礼する)ような場合には、全員の分は省略して、コンサートマスターで代表させてもらうのだが、この場合にはフランチャイズかどうかは関係ない。一方、遠方からツアーに来たオーケストラは登場した全員に拍手をおくるのが慣習のようだ。

曲間、曲後の拍手:本来は「感動した!」「よかった!」という気持ちを表現するので、どこで拍手してもいいはずだが、実際には曲の間にまとめて拍手することになっている。ただし、演奏された曲になじみがないと拍手するタイミングが難しいが、総じて、演奏家が終わりましたよと一息入れたタイミングで拍手をすればよい。現代曲などに多い小さな曲や休止符で終わってしまう曲なども、演奏家がくれるタイミングで拍手を入れれば問題ないので、心配する必要はないだろう。初心者なら他の多くの方が拍手をするのを聴いてから拍手すればよい。

困ってしまうのが我先にと先走る拍手で、どうも初心者をちょうど卒業したくらいの方がやってしまうことが多いようだが、休止符で終わっていたり、最後の音の余韻を味わうように演奏者が工夫しているような場合にはこの類の拍手で演奏者と観客との意図が無に帰してしまうのが残念だ。どうも、テレビなどで「感動した!」と我先に拍手をするような場面に毒されているように思われるが、本当の常連は、演奏を味わった上で、演奏家自身の緊張が解けたのを見計らって拍手をするのだよ、ということをぜひテレビでも教えて欲しいと思う。

最後の拍手:演奏後、何度も演奏家を拍手で呼び出すことをカーテンコールと言う。カーテンコールは演奏を聞いた気持ちを正直に表現すればいいと思う。良かったと思ったら「良かった!」という気持ちを表せばいいのだし、わからなければ「わからなかったがご苦労さん」でもいいだろう。もちろん、「ご苦労様、でも面白くなかった」というのでもいいと思う。そのときの気持ちを正直に表すことを心掛ければよいだろう。

よく気になるのが、カーテンコールもそこそこ(というのか、演奏家や指揮者がまだ舞台の上にいるのに)で、帰り支度をして帰ってしまう方たちだ。もちろん、「良くなかった!」という意思表示のためにそうやることもある(確かに年1回かそこらは)のだろうが、どうも見ていると帰りの混雑を避けたいがためにやっているようにしか見えないときの方が圧倒的に多い。特に学生ならまだしも、分別も社会もわきまえているであろう人生のベテラン諸氏がやられているのをみると、非常に残念に思えて嘆かわしい。願わくば、そういうマナーの悪い先輩たちを若い世代が見習わないことを願いたい。

最近、見ていると舞台上で、いろいろなやり取りを見ることができるのが面白い。指揮者がはずかしそうにカーテンコールの時に下がってオーケストラを立たせて拍手を受けさせていたのを、コンサートマスターが起立させずに「あなたが受けるべきです」と指揮者を立てて見せたり、演奏中に素晴らしいパフォーマンスをした演奏者を探し出してコールに応えさせてみたりといったやり取りが繰り広げられていることも少なくない。拍手を送りながら、そういったやり取りを楽しんで欲しい。

最後に、コンサートで観客が演奏を聴いて、演奏者と一緒に参加できるのが拍手という行為である。
ぜひ、拍手もコンサートの一部として、楽しんで欲しいものだと思う。
では、お後もよろしいようで。しゃん!しゃん!

スハルト大統領の芸術

冨岡三智

1月27日にスハルト元大統領が亡くなった。私の1回目の留学は1996年から1998年5月8日までで、帰国して約2週間後の5月21日にスハルトは辞任した。スハルト本人に芸術的素養があったとは思えないが、芸術を国家イベントでめいいっぱい利用することには長けていた。今回は留学早々に見たスハルト絶頂期の産物である舞踊劇と、堕ちる寸前に見たスハルトのあがきとでも言えるワヤンについて書いてみたい。

  ●ハルキットナスの舞踊劇

ハルキットナスはHarkitnas、つまりHari Kebangkitan Nasional(民族覚醒の日)の略称で、5月20日がその日にあたる。祝日にはなっていないが重要な国家記念日の1つで、毎年式典が行われる。1996年には私の留学先の国立芸大が、この式典に続いて上演される舞踊劇の制作を指名された。毎年全国の芸大などが交代で指名されていたというが、1996年のこの時が舞踊劇が創られた最後の年だったと聞いている。翌1997年にはスハルト政権下で6回目となる総選挙があり、4月末から選挙戦が始まっていた。その年はスカルノ元大統領の娘メガワティが対抗馬として登場したこともあって選挙期間中の5月はかなり不穏な雰囲気になっていたし、1998年は暴動の真っ最中で、どちらもハルキットナスの式典どころではなかったと記憶する。そしてそれ以降の大統領は、もはやこの”伝統”を引き継がなかったようである。

話は1996年に戻る。ハルキットナスの式典はジャカルタのコンベンション・センターで実施され、テレビで全国に生中継された。巨大な舞台の両脇にはスクリーンが据えられている。私のいた芸大では、教員や学生のたぶん過半数が踊り手、演奏家から化粧・着付、舞台スタッフとして動員され、その練習があるために1ヶ月くらいまともな授業はなかった。

その舞踊劇の内容は、簡単に言えば、インドネシアの歴史をざっと振り返り、現在の繁栄の頂点を描くというものである。この当時はまだ留学したてで何も分からなかったけれど、今から考えてみると、この舞踊劇にはインドネシアの典型的な自国認識が反映されていた。

まず最初の時代は暗黒未開の時代で、アルカイックな感じの鬼(の面をつけた踊り手)が暴れまわっているシーン。東南アジアの歴史については、古代―ボロブドゥール寺院などが建てられた頃―から近代にすっ飛んで中世がないということがよく言われる。が、古代についても具体的な生活風俗がよく分かっているわけではない。だから舞踊劇化しようと思えば、そんな風に描くしかないのだろう。

次にくるのが近代=オランダ植民地時代。ちなみに日本で言えばその頃はちょうど徳川時代にあたる。この舞踊劇に限らないが、インドネシアの舞踊の中で描かれるオランダの姿は決まって軍隊である。考えたらこれは当然のことで、来るべき民族独立運動の歴史を描くには、その抵抗相手は軍事征服者でないといけない。で、その後、オランダに抵抗するディポネゴロやら女性解放運動の先駆者カルティニ女史やらが登場し、インドネシアの独立に至る。

そして現在。蓮の花のつぼみの作り物が舞台に出される。この蓮が花開くと、中からガトコチョが飛び出ると同時に、舞台にも何人ものガトコチョが登場する。一方で、舞台脇のスクリーンには離着陸する飛行機の映像が映されている。つまり、空を飛べる能力を持った英雄ガトコチョ(ワヤン=影絵芝居によく登場する)は飛行機の象徴であり、ひいてはスハルトの「開発」政治の成功の象徴というわけなのだ。インドネシアは、この前年にアセアンの国々で初めて国産の飛行機の開発に成功しているから、この舞踊劇を見た人は誰だってそのことを思い出したはずである。この現在のシーンでは、大量の紅白の傘が舞台で花咲き、巨大なインドネシア国旗が何本も振られる。そして、舞台全編を通してインドネシア語のナレーションが入り、この壮大なる歴史物語をいやが上にも盛り上げる。この舞踊劇はまさにスハルト絶頂期の産物であった。

留学したての私には、この舞踊劇は全く驚きの代物だった。それまでの私にとって、ジャワ舞踊というのは即ちジャワ宮廷の舞踊のことで、どこまでも優美で、心の内面を重視し、象徴的なテーマを扱うものであって、こんな風に応用可能だとは思ってもみなかった。それに、戦中はともかく、現在の日本ではこういう「国家事業芸術」を見ることもない。だが長期滞在していると、インドネシアではこういう風に記念イベント行事を作ることが多いと分かってくる。

このように、踊り手と音楽家を数百人動員して、巨大な舞台でスペクタクルなドラマを上演するのは、1961年に国の観光事業として始まるラーマーヤナ・バレエが最初である。確かにそれ以前のジャワでも、イベントを記念するために舞踊を作るということはあった。しかし、そもそも巨大なステージやそれに見合う音響設備はそれまでは存在しなかったのである。この舞踊劇が始まったのはスカルノ時代のことだが、スハルトは就任早々の1970年に全国ラーマーヤナ・フェスティバル、ついで翌年には世界ラーマーヤナ・フェスティバル(参加したのは東南アジア各国とインド)を開催し、このラーマーヤナ・バレエを、インドネシアのアイデンティティとして政治的に活用した。スハルトはこの種のマス芸術を活用するのに長けていたのだ。

  ●経済危機のルワタン

1997年の終わりからルピアはどんどん暴落し、油や砂糖など生活物資はどんどん急騰し、1998年に入るともう人々は公然とスハルト批判をするようになった。そういう時期にスハルトは全国各地で(確か50ヶ所くらいと聞いた)国家的ルワタンとも言えるワヤン(影絵芝居)の上演を命じ、「ロモ・タンバック」を上演させた。ルワタンとは魔除けのことである、通常のルワタンでは個人を対象とし演目も決まっているが、この時は国家のお祓いで、またスハルトが重視していたラーマヤナから、ロモ=ラーマがアルンコ国に渡るためにサルの援軍の助けを借りて川を堰とめるという演目が使われた。

スハルトはクジャウィン(ジャワ神秘主義)に凝っていた。そのクジャウィンの流儀の一つとして、その人の性格をワヤンの人物になぞらえるというのがあるらしく、スハルトはそのクジャウィンの師からラーマにあたると診断されたらしい。ちなみにスカルノはクンボカルノだとされていた。クンボカルノはラーマの敵ラウォノの弟ながら忠義の人物(怪物)なのだが、敵ゆえにラーマの手により倒れる。そうやって、スハルトはスカルノの後を襲った自分を正当化していたのだという。

というわけで1998年のルワタンに話を戻す。「ロモ・タンバック」はソロでは2月20日にグドゥン・ワニタ(婦人会館)で、女性の女性問題担当国務大臣を迎えて上演された。有名どころの歌手をズラーッと並べ、客人にも有名なダランたちが多かった。ワヤンの導入部では、慣例の曲を使わず、スカテン(ジャワ・イスラムの行事に、王宮モスクで演奏される音楽)をアレンジした曲を演奏していたのを覚えている。この演奏は芸大によるもので、この通常の倍くらい大きいスカテン楽器はガンガン演奏され、厳粛というよりは壮大なルワタンという雰囲気を盛り上げていた。

しかし、この時期、物価は何倍にも跳ね上がっていたのだ。起用された芸術家らにとってはラッキーな仕事だったと思うが、こんなことに散財せずに、もっと庶民に金を寄こせ!と怒る人々もいただろうと思う。そういう私も、ルピアで預金していたのが通貨危機で一気に目減りして、帰国のチケット代(ドル建て)が足りなくなってしまい、あわててドル送金してもらっていたのだった。

  ●

このルワタンから3ヵ月後の5月に退陣し、7月に脳梗塞で倒れたスハルトは、意外にもしぶとく生き続けたなあと思う。スハルトは1996年の4月26日に(あの絶頂のハルキットナス式典の1ヶ月前に)夫人を亡くしている。だいたい妻を亡くした夫というものは早死にするというのが相場なのに、その上に大統領退陣と病気のダブルパンチに見舞われながらも、この10年近く屈しなかった。それはなぜだったのだろうと、死んだ今になっても不思議に思う。

旧正月、外出禁止令、後生正月(グソーソーガチ)

仲宗根浩

二月六日、年の夜(トゥシノユール)、旧暦の大晦日、ニュースでは旧正月を迎える糸満の市場の様子を映す。実家に行き揃ってソーキ汁(骨付きの豚のあばら肉)をいただく。

二月七日、テレビの旧正月番組は年々減り今年は一月三日に放送された民謡番組の再放送が目についただけ。ニュースは相変わらず糸満の様子を放送。小学生の頃、旧正月は学校も休みだったことを子供に話すとうらやましがる。糸満は復帰以後しばらく、市役所も含めて休みだったような記憶していたが、今はその休みもいつの間にかなくなっている。学校は早めに終わるかもしれない。近所に一件、「旧正月のため休みます」と貼り紙をしている店があった。中部のここら辺では珍しい。ラジオでは夜、旧正月特番をやっている。実家からかまぼこ、てんぷら、三枚肉、豆腐、お菓子など仏壇に供えたものをもらい、夕ご飯のおかずになる。

で、事件。新聞はとってないのでテレビのニュースを見る。発端となった現場が近くなので見慣れた街の風景が流れる。商店街を歩いていたら東京のテレビ局のひとから時間があるか声をかけられたが、待たせているひとがいたため急いでいることを伝える。応じたら全国ネットのテレビに映っただろうか。地元のテレビは街の様子とともに商店主の話も流す。見知った顔が数人映る。軍人、軍属の外出禁止令が出たあと通りは閑散としている。夜、嬌声も聞こえない。Yナンバーの車も走っていない。

基地依存 マリン、アーミー、ネイビー、エアフォース 続く事件 抗議のシュプレヒコール 議会の決議 過去の映像 地位協定 自立 基地撤去 その他出てくる問題 県民集会 いつもと同じ報道 同じ論調 同じ映像 同じ反応。こちらの神経は麻痺してしまった。

二月二十二日(旧暦一月十六日)十六日祭。グソーソーガチ。あの世の人のためのお正月。去年、あの世に行った方々の家をまわる母親と叔母の運転手。宮古などではお墓の前で大宴会。うちでは四月の清明(シーミー)に墓の前に集まる。