2008年2月号 目次
13のレクイエム ヘレン・モーガン(2)
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トーチ・ソングと呼ばれる音楽ジャンルがある。トーチtorchは「たいまつ」だが、carry a torchといえば「恋の炎を燃やす」という意味になる。ただし、たいまつを高く掲げても相手には見えないということだろう、恋は恋でも「片想い」の恋を指す。トーチ・ソングはだから「悲恋の歌」である。そして、トーチ・ソングを得意とする歌い手をトーチ・シンガーという。トーチ・シンガーには、男の歌手は含まれない。
ヘレン・モーガンがポピュラー・ミュージックの歴史に名を残しているのはもちろん複数の理由あってのことだが、その一番のものはやはりトーチ・シンガーであったことにある。というより、トーチ・シンガーという区分はヘレン・モーガンとともに生まれたといっていいかもしれない。それも、ただ単にトーチ・ソングを多く持ち歌としたという以上に、トーチ・ソングはまた彼女自身の一生を映す鏡であったという意味でそうなのである。
ヘレン・モーガンはカナダの生まれだ。1900年トロント、19世紀の最後の年に彼女は生をうけた。
光が鮮やかであればあるほど影の部分が濃いのがスターダムにのぼりつめた人間にしばしば見られる特徴だが、彼女の場合もお涙頂戴の三文小説を地で行くがごとき人生だった。その発端は父親にある。父親のトムは鉄道員だったが、のんだくれで、どうしようもない怠け者だったらしい。やがてヘレンの母親となるルルが妊娠したことを告げたとき、トムはすぐさま行方をくらました。子どもができれば、家族を養う負担が増える。負担の増加に反比例して、自由は奪われる。彼はそれを嫌がって、自分の家から逃げ出したのだ。
先の見通しが真っ暗になったルルは、職を探した。見つかったのは、鉄道の食堂の仕事だった。夫のトムが勤務する会社だったのか、つまりは夫の仕事が縁になってひろわれたのかどうかは、わからない。何がどうあろうとも、働いて生活費を稼ぐしかなかった。
勤務は朝6時から8時間。毎日仕事に通い、臨月が来ると1日だけ休みをとって自力でヘレンを産み落とした。産休などというものはむろんなく、その翌日からはまた仕事に戻った。生まれたばかりのヘレンはバスケットに入れて連れていき、世話をした。
5年後、トムが突然にまいもどり、ルルに復縁を求めた。他人を疑うことを知らないルルは承諾し、アメリカはイリノイ州へともに移り住んだ。小さな家を建てて住んだと伝えられるが、その費用をどう工面したのかは不明である。
定職について真面目に働くというトムの言葉を信じたルルだったが、そうはいかなかった。それから8年後、きまった職はなく、酒もやめられなかったトムは再度不意に姿を消した。
ルルはまた職探しに出た。工場勤務を経て落ち着いたのは、やはり鉄道の食堂の仕事だった。12歳になったヘレンも、じきに同じ食堂で働き始めた。
食堂で働く毎日は、ヘレンに金銭以上のものを提供した。客たちから可愛がられ、雑多な出身地の彼らから歌を教わることもしばしばだった。歌うことが大好きだった彼女は、歌を覚えると食堂で働く人たちに歌って披露し、彼らを楽しませた。
鉄道で働く女性を取材して歩いていたジャーナリストがルルとヘレンに出会ったのは、まさにその頃だった。ジャーナリストはヘレンにモントリオールのクラブの仕事を世話し、ヘレンはすぐにルルとともにモントリオールに移住した。
歌手ヘレン・モーガンのキャリアは、このときにスタートした。
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「美貌」に憧れない女性は皆無だろう。いや、美貌なんてただの幻想と考える女性が稀にいるかもしれない。しかしだ、そういう考えの持ち主であっても、美貌に憧れる女性が世の大半を占めることには同意するだろう。化粧品産業の隆盛やダイエット商品の人気がそれを証明している。
ヘレン・モーガンがその一生を通じて武器としたものも、まさにその「美貌」だった。まだ12歳で鉄道の食堂で働いていた頃から、彼女の美貌はまぎれもない武器だった。図抜けて可愛くなかったら、客たちが好んで自分の知っている歌を教えることなどなかったろう。取材で訪れたジャーナリストが彼女に注目したのも、その美貌抜きには考えられないはずだ。
モントリオールでの最初の仕事は、たいした成果は生まなかった。なんだかんだいっても場所はナイト・クラブである。天性の才に恵まれた少女であっても、そう大きな称賛が集まるはずもない。
ヘレンとルルはじきにアメリカに戻ることを余儀なくされ、シカゴに移った。なぜ、シカゴだったのか。理由は1つしかないだろう。1910年代、シカゴはアメリカ合衆国中でも最も発展著しい都市だった。シカゴなら仕事があるだろう......少女の域にとどまるヘレンを抱えたルルは、そう考えたに違いない。
シカゴがアメリカ中で最も活気のある都市になるのは、1910年代後半からである。ヘレンの属したショー・ビジネスの面でいえば、1917年に南部ニュー・オーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖されたのをきっかけに、黒人ブルースマンとジャズマンが大量にシカゴに移った。彼らを迎えたのは、シカゴを本拠とするギャングスターたちだった。
ヘレンがシカゴに入ったのは、まさにそのシカゴがアメリカ最大の歓楽都市となる時期だった。シカゴに移ったヘレンはルルと二人の生活の家計を助けるために食品工場などに職を得、働いた。しかし、単純な労働には不向きで、片っ端からクビになった。
その一方で、ヘレンは確実に成長していた。人間としての成長ではない。あえていえば、人類としての成長である。そう、彼女はとてつもなく美しく成長したのだった。
1918年、ヘレンはイリノイ州の美人コンテストに応募した。自活を求めるルルの希望に応えてゼラチンやクラッカジャック、電話会社などの職についたが、ことごとく失敗していた。だからこその、コンテストへの応募だった。
ヘレンは勝った。ミス・イリノイに選ばれたのだ。このときから、彼女の新しい人生が始まった。
※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
The HELEN MORGAN Page
しもた屋之噺(74)
リハーサルが終わり、ボローニャ市立劇場脇の安宿に戻ってきました。一週間前の今頃、まだ東京でブソッティと一緒に演奏会をしていたのが信じられません。大学街らしく、ボローニャは夜の帳が降りても若者たちの活気に溢れて、街を行き交う人の表情も活き活きしています。もう何年も通っているのに、未だ方向感覚がつかめない、不思議な街ですが、その昔、まだイタリアに住み始める前に来たことがあって、夜、街に巡らされたアーケードを歩きながら、ショーウィンドウの美しさにびっくりしたのを覚えています。
大学の3年生だった頃、シエナで作曲の夏期講習を受講したとき、ドナトーニの助手を務めていたマニャネンシがボローニャ出身で、当時知合った作曲家たちがボローニャに住んでいて、この街との付合いが始まりました。こうして現在仕事に呼んでくれているのも、結局は当時知合った作曲家たちで、思えば随分長く世話になっているものです。
今月、折につけ繰り返し思い出していたのは、ブーメランのように、目に見えないほど遠くに投げたものが、長い時間を経て手元へ戻ってくる感覚です。
大学に入学後すぐに桐朋の当時の別館ホールで演奏した作品がブソッティの「3人で」で、演劇科の女優3人が30分ほどあえぎ続けて頂点を迎える構成でした。あれから何年か、作曲や演奏科の友人たちと、学内、学外で色々な作品を演奏しましたが、まさかブソッティ本人と一緒に同じ場所で、同じ仲間と演奏をすることになるとは夢にも思いませんでした。今回10年ぶりに再会し、当時の仲間と久しぶりに練習を始めると、不思議に時間の隔たりなど、たちまち消えてしまうのです。自分はあれから変っていないのかと考え込んでしまうほど、自然に練習ができました。違うのは、一回り以上も若い学生さんたちが、とても誠実に一緒に演奏してくれたことで、当時自分たちより若い演奏者はいませんでしたから。
そうして練習が終わると、昔通った小料理屋で昔と同じ定食とモツ煮込みを熱燗で流し込み、恐らく同じような会話をし、同じように電車に乗って帰りました。それこそブソッティの楽譜を借りるため足繁く通った桐朋の図書館で司書だったTさんや、作曲のM先生やY先生が何度も顔を出して下さったのも嬉しく、こんな風に、よく分からぬまま手探りで過ごしていた時間の本質を知りたくて、思わず皆が同じ場所に戻ってきた、今回の企画はそんなところがありました。ブソッティと触れ合う中で、溜まっていたわだかまりのようなものが、ほんの少し解けた気もします。
同時にブソッティを通して、たくさんの新しい出会いもありました。マドリガルを歌ってくださった皆さんとの練習は、最初から最後まで、とても気持ちのよいもので、本番もブソッティの魅力を、余すところなく伝えてくださいましたし、演奏会に際してお世話になった、桐朋や明治学院でお世話になった先生方や裏方の皆さん、イタリア文化会館の職員の皆さん、ブソッティの訪日の意味を理解して下さり、無理に時間を作りお手伝いくださった録音技師の皆さん、広報をお手伝いくださった皆さんにも何とお礼を申し上げてよいか。
さて、桐朋の歓迎会で、ブソッティは学生が寄せ書きした色紙のお返しに、自身も色紙を贈りました。適宜金銀の和紙が散らされて薄い染みに見える色紙で、一緒に色鉛筆とサインペンを渡されたブソッティは、まず染みを色鉛筆で一つずつ丸く塗りつぶしてゆき、色とりどりの丸が散らされると、上方の丸二つを選び瞼を縁取り、少し下の丸の周りに唇を書いて、それぞれの丸を線で繋いで、キュビズムのアルルカンの衣装のような輪郭を与えてゆきました。アルルカンが手をからげて踊る姿になったところで、踊りと学校名を漢字で書きたいと言うことで、「踊」と「桐朋」という文字を書き入れて、絵を完成させました。
このちょっとした出来事は彼のアプローチを理解する上で、とても勉強になりました。偶然の閃きを切掛けに、その閃きを後天的に意味づけし具現化するため、周りに事象を加筆してゆくうち、自然と形が生まれてくる。まるでヨーロッパ人たちが、前置詞や冠詞まで感覚的に話し、少し間を開けて文法的に見合う言葉で埋めて、前述した前置詞や冠詞を正当化してゆくのに似ていますが、普通「私はかく思いき、ついては何某」、と指針を明快にしてから、話を展開させるのに対し、ブソッティは結論も、指針も与えず、「何某で、何某で、何某」と即興的、直感的に並列してゆきます。
最後に「だから何某」と結論を述べるかと思いきや肩透かしにあったりして、訳してゆくと、終りがいきなり尻切れトンボになることがありました。何が言いたくてこう言っているのか教えてくれと言っても、「今言っている通り訳せばいいから」と笑うばかりで、ちゃんと話の辻褄が合うように祈りながら訳すこともしばしばで、文字通りの五里霧中でした。そんな風に、ブソッティ自身からは、どんなに話題が展開、逸脱しても、どこかで本題に帰結させることが出来る、纏め上げられる自信を感じました。
作曲でもレクチャーでも全く同じです。16日イタリア文化会館でのレクチャーで、ケージが図形楽譜の読み方を厳密に規定するのに対し、ブソッティは大変自由だが、必ずしも作曲者の意図が演奏に反映されなくてもいいのか、という質問がありました。今回、幾つかブソッティの図形楽譜を勉強して個人的に感じたのは、どこまでも逸脱しても、本題、つまり自らの個性、音楽性に帰結させられる自信や信念があってこそ可能だった、実にユニークな作品群だということです。
ケージの透徹な感受性は、自動書記と呼ばれていた頃の、ある種のドナトーニの作曲法によほど近い気がします。結果的に鳴る音は全く違いますが、どんな音の風景を紡ぐか脳裏の奥底で一瞬考え、後はひたすら写経をするように音を写してゆく。神秘的ですらある作曲の作業です。揃って「自己」の介在を否定し、音楽をあるがままの姿で再現しようとするアプローチが共通しています。
ブソッティは正反対で、甚だ大きな主観(エゴ)の塊のようなブソッティの芸術というものがまずあって、どんなことを企んでも、結局は彼の塊に収斂されてしまう、そんな印象を持ちました。例えば、「自動トーノ」の絵のような楽譜(絵文字譜と呼んでいましたが)にしても、実際演奏してみて分かったのは、単なる絵ではなく演奏に適した「楽譜」だということ。不思議に演奏に入りやすい楽譜で、いつもそれなりの音が鳴って、しっかり楽譜の用を成すべく書かれていることに、感心させられました。悠治さんと美恵さんが、「自動トーノ」の楽譜を見て、「やっぱり五線紙に書くわけね」と言ってらしたけれど、案外これは演奏しやすい「絵」を企む上で、重要なファクターだったのかも知れません。その辺りのテクニックはちょっと分かりかねますが。
先日、「自動トーノ」の演奏に参加してくれた、桐朋の学生さんから、嬉しい電子メールを頂きました。何でも、「自動トーノ」の演奏会の後、ダンスカンパニーの演奏のオーディションがあり、自動トーノで学んだ即興が思いがけず役に立った、というお礼がしたためられていました。こうして、ブソッティとの出会いが、今回関わってくださった皆さんの心のどこかに、何かを残してゆけたのなら良いのですが。
追伸:
先月号で、忘却してしまったブソッティの和声教師の名前はRoberto Lupiという指摘を頂きました。その通りでした。どうも有難うございます。
メキシコ便り(6)
メキシコにはたくさんの謎がありますが、そのなかのひとつが解決しました。
以前、地下鉄の女性車両について書きました。人の多い駅にはガードマンがいて、前3両には男性を通さずに女性専用車両にしているが、人の少ない駅はガードマンがいないので、男性も乗り込み結局は女性専用車両にはならないという話でした。これをメキシコのいいかげんさのせいにしていましたが、ちゃんと理由があったんです。というのはこのガードマンとおもわれた男性、実は、テントンと呼ばれる人で、満員電車に乗り込む人のお尻を押す役目の人だったのです。女性のお尻は押せないので、前3両に乗ってもらうべく乗降客の多い駅だけ通せんぼをして男性と女性を分けていたというのです。私はあまり男性のお尻を押している場面には遭遇したことはないのですが、なるほどこれで納得です。それにしても女性専用車両を作るという発想が日本のように痴漢防止のためではないということは、メキシコには痴漢はいないのでしょうか。そんなことはないと思うのですが、ひょっとしたらメキシコの女性は強いので、恐ろしくて触れないのかもしれませんね。
さて新しい年になって約1ヶ月。ここでメキシコのクリスマスとお正月についてレポートしておきたいと思います。
12月に入ると同時に街はクリスマス仕様になり、ターミナルや公園、ソカロなどには大きなツリーや、ナシミエントと呼ばれるキリスト誕生時を再現した人形飾りが置かれます。各家庭は屋根やベランダにサンタ人形などを並べ、家のそばの木々は小さな光が美しく点滅します。トナカイの角をつけた車が街を走りまわり、子どもたちの帽子にも小さな角がついています。そしてポサーダも始まります。これはイエス誕生の直前に、マリアとホセが宿を借りるため家々を回ったことにちなんで行われるお祭りで、ご近所各家の持ち回りでパーティーを開きます。そしてそのときにマリアとホセ、宿の住人とのかけあいの歌を2つのグループに分かれて歌います。そしてピニャータといって、中にお菓子や果物を入れた星や動物、最近ではスパイダーマンの形をした大きな人形を用意します。それをひもでつるし、揺らしながら目隠しをした人が割るのです。そばにいる人が右だ、左だ、上だ、下だとはやしたて、とても盛り上がる行事です。私の学校でもポサーダがあり、先生と生徒が落ちたピーナッツやみかんにむらがり、私もおすそわけをもらいました。とても楽しかったです。
24日のイブの夜は家族がみんな集まり、夜9時になると教会に行きます。2時間足らずのミサのあと帰宅し、会食が始まります。七面鳥や豚の足のオーブン焼き、タラ料理などを食べます。そしてそのあと、山のようにツリーの下に積み上げられた贈り物を、名前を呼ばれた人が「アブレ、アブレ(開け)」の声のなか受け取り、それを開けます。私も誰からかわからないものも含めて、4つも素敵なプレゼントをいただきました。約30名近くの家族全員の数のプレゼントを用意する人もいるので、その数は尋常ではありません。そんな中の一人、ナンデジェが買ってきたプレゼントの包装を手伝ったのですが、包装紙の質のせいもあるのでしょうが、なんと2時間もかかってしまいました。贈る相手の顔を浮かべながらプレゼントを考え、用意するのは大変でしょうし、すぐに破られてしまう包装に2時間もかける彼女を見ていて、メキシコ人の家族に対する愛情の深さに感心しました。
このようにクリスマスはメキシコ人にとって大イベントなのですが、このクリスマスの飾りつけは1月6日のレージェス・マゴスまで続きます。レージェス・マゴスはイエスの誕生を祝いに東方の三博士が贈り物を持っていったという日で、この日、ロスカ・デ・レジェスという大きな輪になった甘いパンの中に白い小さな人形を入れ、パーティーに集まった人たちで切りわけます。この人形が入っていた人は2月2日の聖母マリアの日にパーティーを開き、みんなを招待することになっています。この人形は幸運を呼ぶといわれ、1年中、大切に持っていなければなりません。ここメキシコではサンタクロースより、東方の三博士が子どもたちにプレゼントを持ってくるというのが伝統的で、この日も子どもたちはプレゼントをもらい、またもやピニャータもします。
こんななかで、新年はとてもあっさりしています。休みもだいたい1月1日だけで、2日、もしくは3日から仕事が始まります。
12月31日、やはり家族が集まり、ロモ・デ・セルドという豚肉料理やリンゴのクリームサラダ、ポンチェという果物を煮込んだ熱い飲み物などを用意し、夜の10時ごろから食事をします。そして、12時には12個の葡萄を食べ、シードラというリンゴ酒で乾杯します。葡萄ひとつにつき、ひとつの願い事をするので、毎年、12の願い事をメキシコ人はしているわけです。クリスマスプレゼントの数といい、新年の願い事の数といいやはりメキシコはスケールが違います。それにつけてもパーティーの数の多さ、やっぱり年がら年中お祭りをやっている国です。
ペルー音楽から垣間見る、音楽研究家と演奏家、それぞれの価値観
1ペルーの人類学者、作家であったホセ・マリア・アルゲーダス(1911-1969)。彼はペルー音楽界にもいくつかの仕事を残している。アルゲーダスはアンデス地方出身であった理由もあり、今となっては重要となるアンデス民謡を数曲採集している。作家としても彼の代表作は翻訳され、日本でも手に入り、アンデスの世界観、価値観を知るのにはとても興味深い。
2006年の7月、ペルーの人類学者でアルゲーダスの弟子でもある、マリア・ロサ・サラスからアルゲーダスの残した資料とその他のインディヘナの音楽を研究し、CD付の本を出すプロジェクトの依頼を受けた。自分自身、以前からアルゲーダスに興味があったので良い機会だと思い参加を決めました。
私はアンデス音楽独特の奏法やその音楽に用いられる調弦方法、各土地に根づく音楽形式などを研究し、アレンジし、また田舎に旅に出て資料を集めた。一方マリア・ロサはオフィスで仕事を進めた。このプロジェクトは1月(2008年)ペルーの文化庁と国立音楽院の協力をへてペルーにて発表された。
このプロジェクトに参加して経験として得た事は多いが、結果的にこの資料はまったく面白くない物になったと自覚している。まさに一つの資料として終わった感じである。その理由には、研究という観念からアンデス音楽を見た(考えた)場合、視野は狭まり、音は平面的になり、立体感がまるで無くなった。同時に、研究目的に歴史、伝承を変に厳守すると、音楽が鎖で縛られるようになってしまう。これらの研究は簡単に言えば、音楽を机の上、紙の上ですべて小さく完結させてしまうのである。アンデス音楽の重要な要素はちょうどそれら紙の上に表しにくい事、「精神」Espiritu「時間」Tiempo「律動」Cadencia「息吹」Vivencia などにある。
CDではマリア・ロサが歌い私が弾いたのだが、とにかく弾きにくく苦労した。彼女は確かに学者だが、アンデスの人ではなく、また特にアンデス音楽について深く研究もしていなくて、要するに、頭でっかちなのである。本人は実際に現地に行かず、弟子たちに資料を集めさせ、それをうまく編集し、あたかも自分の研究かのように本を出す学者が世の中にはいると言う事を初めて知った。
本のタイトルには「インディヘナの歌」などと書かれているが、中にはインディヘナの音楽ではない物も含まれている。例えば、カーニバルの音楽など。カーニバルは植民地時代にスペインから持ち込まれたヨーロッパ文化(キリスト教の文化)である。この人は本当に人類学者なのか、と疑うし、一体これは何の研究だ?と大きな疑問である。(発表前はこれらの本の詳細を見せてくれなかった)
オフィスだけでの研究はミスが出るからいけない、と再度告知したが、寝耳に水で、結局大きなボロが出てしまった。その他にもマリア・ロサの持ってきて使った音源にはある研究家によって採集された物や、伝承曲でない物まで混ざっている事を私が発見した。早い話、こんなのは研究などではない。最低である。
本人にそれを言うと、激怒した。今風に表現すると、「逆切れ」である。
「これは私のプロジェクトで、あなたには演奏の依頼をしているだけだから」と言われた。世の中はこんなであると知った。
結局、本とCDは良い形で発表されたが、もう2度とこんな偽物研究書などの仕事には携わりたくないと思う。音楽演奏家と、音楽研究家は似ているようで、それぞれ異なる次元で仕事をしているようだ。またこれらを見破れなかったペルーの文化庁と国立音楽院、サン・マルティン・デ・ポーレス大学には残念であるし、また、よくこんな本を出版してくれたな、と思う。
ペルーと言う国は正しい事を言うと悪になる場合も多いので、プロジェクトに参加していながらこんな批判を言う私などはきっとかなり嫌われると思う。
演奏家の友人達からは「ペルーにはこういった音楽資料がまだまだ足りないから、きっと学生や勉強している人々の役に立つよ」と慰められるが、そう、こんな本が役に立ってもらっては困るし、もっと役に立つ資料を作っていって欲しいと心から願う。
アジアのごはん(22) なます
タイ人は、酸っぱいものが大好きだ。代表的な中部タイ料理のヤムは、魚醤油のナムプラー、さとう、マナオというライムのような柑橘の汁、そしてトウガラシ味が基本の和え物である。タイ料理には酸味を良く使うが、そのほとんどがマナオを使う。そのほか、レモングラスの酸味、タマリンドの実の甘酸っぱい味も使うが、いわゆる醸造酢はほとんど使わない。
醸造酢のタイにおける立場といったら、それはもうかわいそうなぐらいである。無色透明の液体が愛想のない瓶に入って売られているのだが、愛情のかけらもないケミカルな味で、種類もない。およそ、タイ人が食にかける情熱というものが醸造酢に関してはほんのかけらも発揮されていない。この醸造酢は、タイの中華系めん料理のクイティオ屋台で、テーブルの上に乗った調味料の一員としてしか働いていないのではないかと思われるほどである。
タイ人の酢に対する情熱は、ひたすらマナオ果汁に注がれている。マナオは市場で買ってきたり庭になっているのをもいできたりして、実を搾るだけでいい。出来上がった料理に、搾りやすく切ったマナオをそえて、好みでかけて食べるのもたいへんおいしい。だいたい、和え物のヤムの酸味がマナオでなく醸造酢であったらこれはヤムとはいえない。甘みとの調和も素晴らしく、ジュースにしてもたいへんおいしい。
タイ国のタイ人にかぎらず、タイ族は酸っぱいものが大好物である。ただ、タイ北部、雲南省西双版納、ビルマ・シャン州などのもっとタイ族本来の文化を残している人々の食生活を見ると、偏愛する酸味は柑橘系ではなく発酵の酸味のようだ。肉や魚のなれずし、野菜の漬物、お茶の漬物、それらを使ったさまざまな料理がある。
現在のベトナムの多数派のキン族は、ルーツがタイ族と近い可能性が高いのだが、どうもはっきりしない。たしかにそうかもしれないと思わせる似たところもあれば、いや違うだろうと思うところもある。ただ、ルーツが古代中国の越であったとしても、その後の辿った歴史と混血、文化の受容がタイ族の一員とはもういえないレベルにまで変わっていると思われる。
キン族が移住して勢力を誇るまでは、タイ族がベトナム北部にたくさん住んでいた。かれらはキン族に追われて、ラオスや東北タイに移住するのだが、現在も少数民族となってベトナム北部住み続けているタイ族もいる。
タイ族の一員かどうかは別として、ベトナム人もじつはけっこうな酸っぱい物好きである。なかでも、おもしろいのはフランス植民地時代の遺産であるフランスパンのサンドイッチの具ではなかろうか。ベトナム、ラオス、カンボジアにはフランスパンが地元民の食生活に定着していて、なかなかおいしいフランスパンを食べることが出来る。
フランスパンはもっぱらサンドイッチにして食べる。挟む具には、何種類かバリエーションがある。白人旅行者の多い町では、チーズやハム、レタス、オムレツを挟みマヨネーズで味つけする洋風のものもあるが、地元民たちが食べるのはちょっと違う。その中身はハムやひき肉にくわえて、香菜やねぎが入り、味つけはナムプラーやチリソースの見事なアジアンテイストである。また、大根とニンジンの甘酢和えである「なます」がたっぷりはさまれることもある。
サンドイッチに「なます」?? これが実にうまい。
ラオスでもこのフランスパンのサンドイッチがたいへんおいしいのだが、この「なます」フィリングはベトナム人の店にしかない。フランスパン自体は、ラオスのほうが味のレベルが高いと思う。ベトナム人は野菜の甘酢和えがけっこう好きなようだ。大根とニンジンのなます、青パパイヤの千切りのなます、などなど。塩と酢とさとうであっさりとしたベトナムなますは、いくらでも食べられるおいしさ。同じ青パパイヤの千切りを、タイ人はこんなにあっさりと料理しない。ラオスとタイでは塩辛汁パラーとにんにくやマナオ、トウガラシで搗き和えて、複雑で刺激的な味に仕立てる。
わたしは子供の頃、日本の「なます」が好きではなかった。つんつんくる酢の味と匂い、べたっとした甘さがイヤだったのだ。そして大人になってもわりと最近まで自分で作ったこともなかった。ところが、フランスパンの「なます」サンド(この場合汁気は切ってはさむ)で、「なます」はおいしいことにやっと気がついたのである。よく考えてみれば、日本の大根なますとほとんど同じものではないか。
京都の家の近所の「おからはうす」という自然食喫茶店でお昼のランチのおかずに大根なますが出た。「むむ、おいしい・・」わたしは店主の手塚さんにさっそく作り方を聞いた。とても簡単である。自分で作ってみた「なます」もたいへんおいしかった。要は自分好みの甘さとまろやかな酢を使えばいいのだ。
今さら、なます? という方はさておき、簡単でおいしいのに意外に作ったことのない人も多いのではないかしらん。そういう人のために簡単な作り方を。
〈大根とニンジンのなますの作り方〉
大根とニンジンはスライサーで薄く切り、好みの形にする。半月とかたんざくとか千切りとか。ニンジンは硬いので千切りがいい。ニンジンの量は少なめに。おいしい塩を振ってしばらく置いておく。塩味がなじんでしんなりしたら、甘酢をかけてすり白ゴマをたっぷり振り、混ぜ合わせる。
以上である。
で、甘酢であるがこれは自分で作ってもいいが、さらに簡単調理を促進する調味料がある。わたしが料理に使っている酢は、京都の宮津で作られている「富士酢」である。京都では千鳥酢が有名だが、富士酢のほうがわたしは好きだ。千鳥酢もおいしいが、ちょっとツンツンしている。
富士酢を造っている飯尾醸造は有機米から酒を作り、その酒から純米酢を作っている。おいしくて適度にまろやかで、料理にぴったり。で、その飯尾醸造の出している「すし酢」という寿司飯用の甘酢があるのである。これをなますに使うのである。超手抜き・・という声が聞こえてきそうだけど、いや、手抜きなわけじゃない・・んですよ。自分で富士酢とはちみつを混ぜ合わせてもいいけど、「すし酢」はたいへんおいしい比率でもう合わせ酢になっているのだから、まあいいじゃありませんか。甘すぎると思えば、これに富士酢を適宜足せばいいのだから、自分好みの甘さにすぐできる。
なにより、これがあるおかげで、あっというまにおいしい「なます」が作れるので、もう一品欲しいときや時間がないときに重宝するったらない。もちろん寿司飯に使ってもいいのだが、わたしはもっぱら「なます」やサラダのドレッシングに少し加えるという使い方をしている。マリネ液のベースにするのもいい。
タイ人の醸造酢に対する淡白さは、ひとえにマナオがおいしすぎるからかもしれない。むかしタイの東北部に住んでいたとき、日本の酢の物を作ろうとしてスーパーでタイ製の醸造酢を買ってきたときのショックといったらなかった。ミツカン酢でいいから欲しいと切に思ったほどである。醸造酢の味の、酢の物がその時は食べたかったのだ。富士酢になじんでしまった今となってはミツカン酢でもいいとはもう思わないが。
フィリピンあれこれ
実は、いただいていた助成金の報告大会があって、昨年11月下旬にフィリピンのダバオに行っていた。そこまで行くならと、大会後にインドネシアにも5日間だけ立ち寄った時に、先月号で書いたアンゴロ・カセがあったというわけなのだった。
ダバオはフィリピンのミンダナオ島にあって、南フィリピンの経済の中心地である。世界で一番面積の広い行政都市で、港と国際空港がある。港からは主に木材が輸出されるらしい。戦前はマニラ麻の生産で多くの日本人が入っていて、その数は東南アジアで最大規模だったらしい。そのせいでもないだろうが、どことなく風景が日本的に感じられる。ダバオ湾のなだらかなラインは、私の目には伊勢志摩のイメージにダブったし、雨が時々しとしと降るという降り方も、日本的情緒がある。聞けば、フィリピンにはインドネシアのようにはっきりとした乾季・雨季の区別がなく、雨もスコールのように激しく降らないらしい。今回は、そんな風に日本やジャワとフィリピンを比較して気づいたことをとりとめもなく書いてみる。
●食べ物
フィリピンで一番驚いたのが、唐辛子を使わないということだった。アジア=唐辛子というイメージがあったけれど、フィリピンは重要な例外なのだ。そして魚介類をよく食べている。そういう味覚に合うのか、日清のシーフード・ヌードルがフィリピンでは人気のようだ。友人が来しなに、成田でシーフード・ヌードルを箱買いして機内持ち込みしているフィリピン人を何人も見たと言う。私は、実は関空で遅れそうになって、他の乗客を観察する余裕がなかったのだが、その後マニラ空港で、そういう人を何人か見かけた。ダバオのミニ・スーパーでインスタント・ラーメンのコーナーを見てみると、フィリピンの日清が地元ブランドと棚を二分して健闘している。インドネシアでは、少なくとも私がよく買い物に行くスーパーに、シーフード味のラーメンはなかったように思うし、日清ブランドもなかった気がする。日本のラーメン業界がインドネシアに進出していないのかもしれないが、日本の味覚がそれほど受けないのかもしれない。むしろここ最近は、インドネシアで韓国のラーメンを目にする。というわけで、辛くないシーフードが好きという点で、フィリピン人はジャワ人より日本人に味覚が近いようだ。
●チョコレート
フィリピンの旧宗主国はスペイン。というわけで、フィリピンの人たちもチョコレートが大好きのようである。毎日の休憩時間にはいろんなおやつが用意されたのだが、その中にホット・チョコレートもあって、銀色のボールになみなみと湛えられていた。お玉ですくってコーヒーカップに入れて飲むのである。疲れたし甘いものもいいかな...と、ある日飲んでみたところ、めまいがしそうなくらい甘かった。日本のココアをもっと甘く濃縮した感じである。
ミニ・スーパーに行ったときにチョコレートの棚も見てみると、ここではフィリピンの地元チョコと、明治チョコが棚を二分している。そういえばジャワでは、私は日本製のチョコレートを目にしたことがない。ネスレのキットカットはあったけれども。チョコなら、旧宗主国オランダのバン・ホーテンの板チョコをよく目にした。明治のブラック・チョコも置いてあって、苦いチョコもいけるらしい。ミニ・スーパーには、ホット・チョコの素も売っていた。オレオ・ビスケット位の大きさのチョコ・タブレット(砂糖入り)が中にいくつか入っていて、それを1個ずつカップに入れてお湯で溶いて飲むとある。買って帰ろうかと思ったが、昼間の甘さを思い出してやっぱり止めにする。
●高床の建物
郊外にツアーに出たときのこと。道路沿いの景色を眺めていると、畑の中にある小屋は明らかに高床式になっている。町の通り沿いにも高床式の家があって、住居は2階部分だけで、1階部分には柱だけしかないという家もあった。そのがらんとした1階部分を八百屋にしていたり、家具製作やオートバイ修理の作業場に充てていたりする。そうでなくても住宅は高床をほうふつさせるものが多い。住宅はほとんど2階建てで、1階と2階で建材やデザインががらりと異なっている。1階部分はどの家も似たりよったりで、木材も塗装されていないが、2階部分はそれぞれの家できれいにペンキを塗り、窓のデザインや装飾にこだわりが見られる。1階部分より2階部分が張り出し気味に建てられていて、重心が高く感じられる。こんなふうに2階部分が家のステイタスを感じさせるつくりになっているのは、やはり住居部分のメインは2階にあると考えられているからだろう。とすれば、これもまた高床からきた美意識だろうなと思ってしまう。けれど、そういう家々の間に、ヨーロッパ風の造りのカトリック教会が点在する風景は、インドネシアのモスクを見慣れた目には妙な感じである。また高床の家というのも、東南アジアの特徴だと聞いているのだが、ジャワの辺りでは見ない。インドネシアの島嶼部では高床式の家が見られるが、ジャワでは地面を固めて三和土(たたき)にして、床にする。その上に金持ちは大理石やタイルを貼る。プンドポだってそういう作りだ。
●お土産屋さん
ダバオが交易都市だと強く実感したのは、お土産屋さんに入った時のことだった。泊まったホテルの隣には大きなショッピング・センターがあって、お土産屋さんが軒を並べており、主に布製品やアクセサリ、カバンなどの小物を置いている。ここではもちろん地元の伝統織物なんかも売っているが、手ごろな値段の布製品はほとんど皆インドネシアかタイからの製品なのである。染めのTシャツやスカート、パンツなど、明らかにジョグジャあたりの工房で作って、バリあたりでよく売られているものだ。ジャワでありふれているバティック・プリントのポーチや衣服もある。おまけにバティックそのものも売られているではないか。私が見つけたものはジョグジャカルタの文様のカイン・パンジャン(約1m×2.5mの大きさ)で、バティックとしては最低ランクの質のものだった。それが、なんとインドネシアよりも安い値段で売られている。その一方で、一見していかにもこれはタイの織物、タイの柄と思われる布でできた服やカバンも多い。
あるお土産屋さんでインドネシア人と一緒に買い物していたときのこと。私がある服を手に取りながら、「これはインドネシア製よね?」と聞いてみると、「はい、そうで~す。」と店員。それにインドネシア人が驚いて、「そ、それじゃあこの製品は?」と彼が手にしていた布を見せると、「それはタイ製で~す」。「ここには純ダバオ製のものはないの?」と、さらに彼がつっこむと、「ここにあるのはみ~んなインドネシア製かタイ製で~す。ダバオと書いたこのTシャツだけが地元産で~す。」という返事。それに対してインドネシア人は、「君たちにプライドはないのかい!?」と怒っていたのが、何ともおかしかった。確かに、フィリピン特産のお土産を買おうとするインドネシア人には、選択肢の少ない土地であった。けれど逆に考えれば、近隣諸国から何でも安いものが流入してくる土地で、それはそれで便利ではないかとも考えられる。旅行者の方も、ここではインドネシア産のものが安く買える!と思ってしまうのが良いかもしれない。
新正月、餅(ムーチー)、御願解ち(ウガンブドゥチ)
新正月は静かに過ぎた。元日は実家に行き仏壇に線香、お年賀をお供えし手を合わせる。二日は子供を連れ親戚のお年賀まわりをし終わった。元日と二日は急に寒くなりこの冬初めて、暖房を入れる。うちのまわりでは親戚まわりも新正月で済ませるところばかりになった。子供の頃はまだ旧暦でやるところも多かったので父に連れられて親戚まわりをした。旧暦でお正月を祝うのは漁師町くらいかもしれない。かといって旧正月は何もやらないわけではなく、内々に重箱にご馳走を作り、仏壇には手を合わせる。
そうこうしていると十五日(旧十二月八日)、餅(ムーチー)になる。スーパーや市場ではサンニン(月桃の葉)が並ぶ。既に作られたものも売っている。サンニンで包まれた餅はカーサムーチー(カーサは葉の意)と呼ばれ、仏壇にお供えし、厄払い、健康祈願をする。子供が生まれた家は初餅(ハチムーチー)を親戚に配る。実家の母親がお供えした餅をもらい、鴨居から吊るす。子供の年の分だけ吊るすのだが、食べきれないので今年は十個くらい。それでも一日では食べきれない。食べ尽くすまでの数日はサンニンの匂いが部屋に充満する。子供は給食でも餅が出たとうんざりしていたが、わたしは餅があまり好きではないので無理矢理食わせる。カーサムーチーは餅粉を練って、葉に包み、蒸して作られる。残った葉は十字に結びサン(魔除け)を作り、家の入り口に吊るすのだが我が家はやっていない。母親は何か料理を作って持ってくる際、持たせる際にはかならず手近にあるビニール紐で小さなサンを結び入れている。この場合のサンは食べ物を運ぶときに守るためのものだ。
一月が終わると旧暦での年中行事があらたに始まる。今年は一月三十一日(旧十二月二十四日)は御願解ち(ウガンブドゥチ)にあたっている。火の神様(ヒヌカン)に一年の報告をして上天してもらう。神様は旧一月四日にまたお迎えする。行事ごとに御願言葉(ウガンクゥトゥバ)が方言である。わたしは、方言に関しては普段は聞くことがなんとかできるくらいでうまく話せない。方言を使えない人が多くなるなか、御願言葉を集めた本も出ている。祭祀を行う際は禁忌もあり、年寄りの記憶も定かでなくなるなか、こういう行事も簡略化され、やらなくなる家も出てくるだろう。祭祀の中心は女性である。兄もわたしも連添っているのは沖縄の生まれではないのでもちろん言葉はわからない。そのときはいちばん新しく墓にはいっている父親に沖縄口(ウチナーグチ)でご先祖様(ウヤファーフジ)に通訳してもらうしかないだろう。
穂――みどりの沙漠39
夜明けがやさしいなら、
きっと きょう一日を耐えられると思う。
ここは夜明けの準備室、
まだ暗い牢獄、ぼくは精神を出られない。
置き去りのプラットホーム、
駅長室で、始発のベルが鳴りっぱなし。
十字架に押しつぶされ、
自律神経はこなごな、よわいんだからお前。
けさのくるのが怖いひと、
夢のあとさきで希望がつながるならよいのに。
夢のなかでおれは、
穂明かりして、一本の稲でした。
(学生が読みまちがえて、「もろ刃のやばい」。ああ、ほとんど感動的な一瞬だ、われわれはもろ刃のやばい。あちらもやばい、こちらもやばい。エッセイ集の題に『もろ刃のヤバイ』なんて、どうですか? また学生が読みまちがえて、「もろ刃のヤイバ」。)
限りなき義理の愛大作戦
限りなき義理の愛大作戦も3年目をむかえた。
2008年は、イラク戦争が始まって5年目になるから、私たちにも気合が入る。
先日、アルト・サックスの坂田明さんが、限りなき義理の愛大作戦コンサートで吹いてくれた。
「死んだ男の残したものは」
谷川俊太郎氏の詩。坂田さんは搾り出すような朗読を披露。
死んだこどもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思いでひとつ残さなかった。。。。
会場に置いたチョコレートはあっという間に売り切れた。
チョコレートのパッケージは、イラクのがんのこどもたちが描いた絵。
中には、死んでしまった子どももいる。
実は、イラク戦争が始まってから、一体どれだけのがんのこどもが助かったんだろうと調べてみた。絵を描いてくれた子どもたちの多くがすでになくなっている。薬がなかったときは、平均18日しか生きることが出来なかったという。薬の支援が始まってから19ヶ月に伸びた。
死んでしまったらおしまいだろうか? 19ヶ月の間に、病院で描いてくれた絵がある。こどもたちが、残したものである。
今年は、私の家が事務所になってしまった。電話の受付時間は、10時から18時。でも8時ころから電話がかかる。とらなければいいのだがついとってしまう。
「もう、チョコレートがありません」とはいいづらく、最後は一個ずつでもより多くのひとにでもとバラ売り。三万個が売れた。結局ホワイトデー向けに増産を決定。図柄は、昨年1月2日に他界したドゥア・ハッサン、9歳の女の子を使おうと思う。花の絵ばかり描いていた。最後は、血管が硬くなり、薬の注射も困難になった。内出血で紫に色に腫れ上がった顔の少女は、「生きたい。助けて」と神にすがった。
少女の残したものをかみしめたい。
反システム音楽論断片ふたたび
『世界音楽の本』では 身体と感性あるいはリズムと音色あるいは時間と空間 は一つの身体の経験からはじまる 単純な要素を組み合わせ組み替えて複雑な全体を構成するという方法からはまだ自由になれなかった 一がない多数 中心がない周辺 全体がない部分 目標がない流動 偶然の集まりの相互調整からはじめて だれのものでもない身体 いまでもなくここでもない時空 これでもなくあれでもない 答えがない問い 道のない歩みを創りだすために また書きはじめる
作曲家・哲学者である石田秀実が『気のコスモロジ――内部観測する身体』(岩波書店、2004年)に書いた山水画のなかをさまようひとのように また「水牛のように」のコラムに書いた『音たちの中に埋もれながら、音と出会い、自らの視点を移動させながら、音の姿を眺める』をてがかりにして 「生きて揺れうごく空間」としての音・身体・世界を観ようとする
クセナキスのように確率を使うか ケージのようにランダムな選択を受け入れても いずれは響による拡大されたハーモニーや 音の線という拡大されたメロディーに回収されていった いまのコンピュータにプログラムできるような自動化は そのプログラムの枠にしばられて 予想を越えて流動する音に追いつけない 音響ファイルは歪んだり解体することはあっても 別な秩序をもつ音響に変身する能力はないようだ 一度選択されたファイルは選択のフレームをこえる変化は創れないし ランダムな選択はじつはランダムではなく 大数の法則にしたがって いずれはその顔をさらすことになる そこですべてが予定調和する響に収まる
確率や他の方法によるランダムな選択に対して 反復は古典的な歌曲もミニマリズムのパターンもすでに紙に書かれた抽象化されたパターンであり 記憶の痕跡にすぎない 生きてうごく音は 状況に埋もれた耳に呼び起こされて 二度とおなじかたちをとることはない 断片化され 組み合わせを替え 即興される再話 それも流れのなかにときどき見える魚の影や飛び石のように はっきりと名指しできる前に姿は消えている
複雑性の科学は 複雑性を単純なパターンに回収しようとしているのではないか カオスもフラクタルも単純なものほど美しいと感じる論理の経済から出られないようだ 哲学はと言えば 科学よりさらに後を歩いている 計量化されない 一般化されたり抽象化されない 音の流れを分析してアルゴリズムを作ることはできても アルゴリズムから作られた音は貧しい 美学からアートを創ることはできない 色や音を通してさわる 一回だけのこの世界との出会いは 数学や哲学のはるかさきを歩んでいる
フレームをつくらない関係 受け入れ 排除しない関係 ソクラテスの問 エピクロスの庭とルクレティウスのクリナメン ブッダの気づきとサンガは 崩壊する古代社会から生まれた一時的な避難所 現代では実践共同体の実験はむつかしい パリ・コミューンも自由光州も流血のなかで鎮圧され 日本中世の一向一揆も公界(くがい)も 最終的には 権力の介入を避けられなかった メキシコのサパティスタの自治も危機を迎えているらしい どのようなバランスも一時的なものであり 外部からの介入がなくても 内部の小さな揺らぎからも いずれは崩壊することになるだろうが 一元的 あるいは二項対立的な支配にで抑圧されるのではなく ますます多様なパターンのゆるやかな連合の転じに道をひらいていくことが できるような出口を残しておくことを あらかじめ考えに入れておくことが どうしたらできるだろうアートの実験は失敗がつきものだが 犠牲はすくない 小さな場で時空の層をかさねて 世界の違う見えかたをためすことができる 箱のなかの宇宙
音楽は人間の身体がすることだから 生きている身体のはたらきと考えられる心のうごきとともにうごく 人間はひとりでは生きられないから 音による人間関係が音楽のすべてとも言えるだろう
音楽を音を出す側から考えると 人間の関係は隠れ 音という物体が世界のなかにすでにあるかのように その性質が論じられ 構造や構成が固定される傾向がある
プロセスとしての流動する音は 客観的にあるものではなく エゴのない複数の身体 あるいは時間的にも空間的にも 幾方向にも分割される身体のベクトルが 音が聞こえる状況のなかでうごいている
音を意志的に聴くというより 聞こえる音を かならずしも意識することなく 身体が受け入れるとき 音に埋もれてそのなかをさまよいながら その残像や痕跡が出没する道とも言えないかぼそい糸を風になびかせておくとき 微かな振動にみちた空間を感じ そのきめの隙間に入り込む触手のような指のうごきが 音の感触として身体にもどってくるとき 音楽は音の先端について 予見できない間道に入り込む 楽譜があってもなくても 楽器があってもなくても 作曲も演奏も即興も それぞれにちがいながら どこか似たかたちが見え隠れする
手がうごきだせば 時間も空間も音も その音の置かれる場も起き上がる それは隙間だらけの時間と空間 おぼろげな枠はあっても はっきりした輪郭のない場に すぎていく音 あるかたちの記憶が いつもすこしずつ変わりながら 姿をみせる どこかで見たが どこか思い出せない 何とも言えない めざめる直前のもどかしい夢のように 時間も空間も崩れて いつか他のかたちに変わっている