2012年5月号 目次

犬狼詩集管啓次郎
マンゴー通りからきた詩人くぼたのぞみ
ミドロ紀――91 メール1・2藤井貞和
ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(2)冨岡三智
ケンタック(その5)スラチャイ・ジャンティマトン
アジアのごはん(46)ヒンドゥー教とベジタリアン森下ヒバリ
セレクト・アプリ大野晋
ジョージ・ラッセルのFar-out Jazz三橋圭介
梅雨です仲宗根浩
筍の味植松眞人
言葉と音楽を聴きに札幌に出かける若松恵子
しもた屋之噺(124)杉山洋一
ヨルダンには原発は要らないと思うさとうまき
オトメンと指を差されて (47)大久保ゆう
ある部屋の鍵璃葉
掠れ書き18高橋悠治

犬狼詩集

  55

眠ったふりをして少しずつ椅子を傾けていった
ワイオミングとワイカトで羊たちが道路と議会を占拠する
平原のuncannyな光がまた新たに上演された
カタツムリの触角の尖端で緑色の虫がぐるぐる動いて鳥を誘う
夜のうちに少しずつ体も自転することが避けられなかった
動物一般を、アリストテレスよ、どうして動物と呼ぶのですか
あまりに寒い冬で頬の裏側にツンドラがひろがっていた
彼女はディンゴを飼い馴らしてアルパカの群れを守らせる
交差点にぽつんと置かれたとき一気に都市的次元が生じた
皮下脂肪とコインが溶けるくらい気温が上がる、花も咲く
見る見るうちに花が成長するヴィジョンを映画以前に想像していた
星が雨のように降る高原でうつぶせに寝ている
海岸の海亀を見たければ23時すぎにおいでといわれた
「亀海」という地名は実際世界中にあるのかもしれない
生きることを学ぶためにすべての動物をよく見ろと教えられた
その教義から言語をひきはなすのが今後の課題となる


  56

女には演奏が禁じられている伝統楽器の奏法を少女は習得した
女には乗船が禁じられている漁船を祖母がシージャックする
反対方向から流れてくる二つの川の合流点に立っていた
焦げ跡のように茶色いツイードの上着がそれでもうおかしくない
小舟の舳先に描かれた太陽は小舟の「目」と呼ばれていた
使い古された動物のぬいぐるみたちがさまよいの航海に出る
一冊の本に別れるために1ページをまるまる筆写した
夕方の光がなんだか朝陽のように感じられる
図書館に入るたび本がうさぎのように跳ねてきた
田舎の舗装道路で紙のようにうすくなったうさぎに声をかける
「渇き、立っている」人たちの群れが夏至の丘の上に集っていた
人間を政治的動物と規定すると途端に政治がわからなくなる
一点にピントを合わせることでジオラマ的世界が生じた
写真化することで目の前の現実から目をそらしている
都市に覆われた地域で谷間を正確に選んで歩いていった
目をつぶればつぶるほど風の流れや音がよくわかる気がする


  57

いつまでも歴史の外にある偽りの国家だった
あざやかな色をした髪切虫が日付変更線を越えてゆく
心を刈りこむ代わりに髪をごく短くした
オアシスを相対化するように考えがどんどん湧き出す
日本語をあまり知らない外国人たちが日本語で談笑していた
ぼくは鳩にすらダスヴィダーニャと別れを告げる
マサラが脳に直接的な色彩を与えた
サラダの本質は塩なのよとマクロビオティクスの先生が説得する
あらゆる記念日は現実の前に敗退するとぼくは反論した
丘の上の髑髏を酢で洗うのがさびしい
悲しみを改訂する必要はないと天気予報家が語った
チャイに沈むチャイにさらに二十個の角砂糖を沈める
固いヨーグルトを溶かすためにバターと蜂蜜をかけた
そこでふたたび労働の技巧が問われることがある
私のいうとおりにパンを焼きなさいと村長にいわれた
煙が出る草花を無為のごとく燃やすといい


  58

「浮き上がれミューズよ」と金魚売りが号令をかけた
らんちゅうがよちよちと懸命にジャンプを試みる
歴史と雑巾をいつも忘れる偽りの社会だった
住居はすべて冷たい土に正方形に掘ってゆく
角とアレクサンドロスをアラビア語が再解釈した
浮世絵の片隅に家郷なきゴッホが住んでいる
街角で拾ったチケットはあらゆる映画館に人々を入場させた
「これをパスポートにしたら」とカラスが羽をくれる
黒砂糖を眉に塗るのは魔除けのABCだった
ある角度から見ると青く見えるのが彼女の右の瞳だ
マッチ箱を積み重ねても住居にもスカイツリーにもならなかった
火であぶれば緑の葉がどんどん分厚くなる
その後あらゆるリンクを糸電話に張り替えた
社会的な運動に回遊が連結される
音楽に自信を失った都市をふと影が通り過ぎた
巨大でぼんやりした表情が歩道の上に浮かんでいる


  59

黒い犬に降る桜が雨の降り始めのように美しかった
波の紋様を簡略化してそれで海洋民族を表している
個人的な語彙集を作りつつまだ書かれてもいない長編小説を読んだ
青いペンのインクが多彩な発色をつづける
砂漠の白い教会のそばの丘で洞窟に聖母が出現した
彼女は本棚をすべて著者名のアルファベットで配列する
パイナップルと血と挽肉で特別なサンドウィッチを作った
ときどき食事自体に強い罪悪感を覚えるのだという
墓地が歓喜にみちた群衆の集合地点となった
耳が痛くなるほど静かで目が痛くなるほどいい天気だ
縄文という響きと一万年が不等価交換された
悲劇という形式を選んだ鹿が何度でもその場で死んでみせるらしい
ゴッホが浮世絵に学んだように彼女は筋肉をリサ・ライオンに学んだ
腐心という言葉ほどイヤなものはないなぜなら心が腐る
私のamigoが「代々木公園」から地下鉄に乗車した
雨の日にシェルターを求めて私たちは街路樹から離脱してゆく


  60

食物が唯一の希望だ願いだというところまで人々が追いつめられていた
南極よりも広大な乾燥に人工物がすべてひび割れていくそうだ
毎年谷川が洪水を続ける小さな双子の村があった
水流は対立的な色で髪の毛をきっぱり染め分ける
小麦があればパンを作りトリモチを使って鳥をだました
Decemberなくしてdemocracyなしと果物屋の店先に書かれている
水墨画教師の息子は世界を白と黒でしか見なかった
「仮の水」とは偽の水なら私の顔だって仮面だから
タマという言葉により不在を丸く表現するつもりだった
不可能な世界に小さな偶然をイトミミズのように食わせてみる
力の緻密な消滅がクロアチアの海岸に金鍍金をほどこした
物悲しい砂丘です、黄色い花です、揺れてます
だが命ではなく自由な呼吸がみずからを主張し装飾した
私には火山がなかったが腰掛けにはそれでも事足りる
ただそれが分解されどれだけの労力になるかをロバの頭数で計った
干し草はあくまでも甘く分解され活動と瞑想を支援する


マンゴー通りからきた詩人

いまにも泣きそうな
おもたい空の表参道で
マンゴー通りからきた詩人と会った

インディゴブルーの長衣をはおり
髪なびかせて立つサンドラ・シスネロス
耳には陽の光はなつ
ターコイズのイアリング
マヤの人
サンアントニオの人
ナワトルの人
テハスの人

光にぎやかな通りを
渋谷駅まで歩いていくと
ついに空が決壊して
たなびく鯉のぼりのすきまから
ぱらぱらと雨滴を垂らし 
ハチ公はどこ?
ときく犬好き詩人の髪にかかり
それを写真におさめようとする
Sさんのカメラレンズを濡らし
わたしたちの声を
金曜の夜の喧噪のなかに解かした

世界じゅうの大河と話ができる
マンゴー通りからきた詩人は
ぽっかりあいた喪失の空隙にも
いつのまにか
生まれるものがある

そこだけ透き通るような声で語り
うっすら放射能によごれた
東京の水を飲み
この土地の野菜を食べて
だいじょうぶ
といって大きな胸にわたしを抱き締め
ごみ箱あさる 
東京のカラス万歳!
という詩をおくってくれた


ミドロ紀――91 メール1・2

メールをありがとう。どこから?
届いてる! ミドロ紀へ。
あなたが、思いを行動に結びつけての旅。 車に、
シンチレーションとガイガーとを乗っけて、遠い行脚を始めるって。
そのことの意味が、とってもあるよね。 宮澤賢治みたく、
心づよいよ。 たしかに、自然放射能はあって、
千年前の8月でした。 地球で測ったら、表面よりは、
地中の熱さに、ボクらは飛び退いた。 あの日の少年紀から、
今世紀へジャンプ。

きみが 午前虹まで、惨事まで、書類に暴投してる。
高校生は福島県内で総文を舞台に。
日南は「がんばろう日本」に負けたと。
そういうナショや エゴ。どうしよう バウンドでツーアウト。
横書きの、くぼんだ序説は 無題。
しざりしざり ここに書く鏡箱の蓋のうら。
たいまを吸って、虹を惨事に、余事 誤字。


(「職員諸兄 学校がもう沙漢のなかに来てますぞ/杉の林がペルシヤなつめに変つてしまひ/はたけも薮もなくなつて/そこらはいちめん氷凍された砂けむりです/白淵先生 北緯三十九度辺まで/アラビヤ魔神が出て来ますのに/大本山からなんにもお振れがなかつたですか/さつきわれわれが教室から帰つたときは/ここらは賑やかな空気の祭/青くかがやく天の椀から/ねむや鵞鳥の花も胸毛も降つてゐました/それからあなたが進度表などお綴ぢになり/わたくしが火をたきつけてゐたそのひまに/あの妖質のみづうみが/ぎらぎらひかつてよどんだのです/ええさうなんです/もしわたくしがあなたの方の管長ならば/こんなときこそ布教使がたを/みんな巨きな駱駝に乗せて/あのほのじろくあえかな霧のイリデスセンス/蛋白石のけむりのなかに/もうどこまでもだしてやります/......」〈宮澤賢治「氷質の冗談」〉。「イリデスセンス」は「虹色、暈色。鉱物の内部又は表面で虹色を現すこと」〈藤原嘉藤治「語註」、十字屋書店『宮澤賢治全集』一〉と。『闘う市長』〈徳間書店〉によれば、南相馬市長桜井勝延氏は宮澤賢治にあこがれて、岩手大学農学部へ進学したそうです。)


ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(2)

今回は、ガリマン氏とマリディ氏という2人の舞踊家を紹介したい。ロカナンタ社から出ているスラカルタ様式のジャワ舞踊のカセットを見ると、たいていの舞踊作品の作者はガリマンか、マリディか、またはPKJT/ASKI(ペーカージェーテー・アスキーと読む)、すなわち現在の芸大になっている。ロカナンタ社から舞踊カセットが発売されるようになるのは1972年からで、それ以前に活躍した人の作品はほとんど残ってないのだが(前回紹介したクスモケソウォの作品はマリディ監修のカセットに収録されている)、ジャワ舞踊が本当に発展したのは1970年から始まる宮廷舞踊の解禁後なのである。ガリマンとマリディが解禁された古典舞踊に学んで、さまざまな新しい古典を生み出し、それが芸術高校や芸大の教育にも大きな影響を与え、現在のジャワ舞踊のレパートリーが形成されたと言っていい。

この2人の特徴は、男性荒型、男性優形、女性舞踊のすべての型で作品を作っている上に、その作風も幅広いこと。さらに新しい舞踊ジャンルも切り開いていることだ。こういうタイプの巨匠は今後もう出ないだろうなと思われる。

1.ガリマン (S.Ngaliman Condropangrawit,1919〜1999)

ガリマンは一般的には舞踊家として有名だが、スラカルタ宮廷では太鼓とクプラ(舞踊の合図を出す楽器)を担当する音楽家で、宮廷から下賜された名前、チョンドロパングラウィットのパングラウィットが音楽家であることを表している。また、宮廷音楽家が住むクムラヤンという地域に住んでいた。

1950年に設立されたインドネシア初の音楽コンセルバトリ(後のSMKI)の第1期生として卒業、その後スタッフになっている。音楽と舞踊の両方に通じた舞踊教育者として、ソロはもとよりジョグジャやジャカルタでも大きな影響を与える。

ガリマンは、宮廷舞踊スリンピ、ブドヨ、ウィレンといった舞踊の掘り起こしに参加し、古い舞踊の復曲にも取り組んでいる。それらの演目の伴奏曲のカセットは市販されていないが、芸大には自主録音が残されていて、授業で習うことができる。それらの古い宮廷舞踊のエッセンスを継承した「レトノ・ティナンディン(女性2人の戦いの舞踊)」、「モンゴロ・ルトノ(女性4人の戦いの舞踊)」、「パムンカス(男性1人の舞踊)」などが、ガリマン作品の真骨頂だと言える。

その一方で、1970年代当時としては大胆に太鼓の手組をアレンジした「ガンビョン・パレアノム」が有名。この演目はもともとマンクヌガラン王宮で作られたものだが、ガリマンのアレンジで一躍有名になり、結婚式の定番舞踊となった。ガリマンの後、何人もの舞踊家がアレンジしている。ソロでは芸術高校がガリマン版、芸大が芸大版で教えるが、今やソロでは芸大版の方が有名。しかし、ジョグジャやジャカルタでは、「パレアノム」といえばガリマン版である。


2.マリディ (S.Maridi Tondokusumo,1932〜2005)

マリディはスラカルタ宮廷舞踊家で、宮廷から下賜された名前がトンドクスモである。彼は教育者でなく純粋な舞踊家として生きた人で、1961年に初めてスカルノ大統領の前で踊って(本人の記憶による)以来、大統領のお気に入りの舞踊家となった。2007年、スカルノお気に入りの芸術家5人がソロ市庁舎でメガワティ元大統領(スカルノの長女)から顕彰されたときも、その5人のうちの1人に入っている。

小柄なので、若い頃(1950年代頃まで)はチャキル(羅刹)やブギスなどを主に踊っていたが、晩年のマリディの踊りと言えば何と言っても男性荒型の伝統舞踊「クロノ・トペン」が代表だろう。煩悩を捨てきれず、スカルタジ姫に執着するクロノの心情の複雑な表現は、マリディが白眉と言える。とはいえ、数少ない男性優形舞踊家としても、マリディは定評があった。

マリディ氏の作品は、ガリマン作品の禁欲的な作風に比べると、ロマンチックでドラマチックである。ありふれた設定の舞踊が、マリディ氏が作品化すると、やけに感動的なドラマになる。たとえば「メナッ・コンチャル」というマンクヌガラン王宮で作られた舞踊。元々はラングン・ドリアン(女性だけによる舞踊歌劇、踊り手が歌いながら踊る)のスタイルで作られた舞踊だったのだが、マリディはこの作者の許可を得て再振付している。この作品は、出陣する男性武将の、恋する女性に対する心情を切々と描いたものだが、曲中にある女性舞踊家の独唱部分が男性歌手の歌に代えられ、最後にサンパ(ワヤンで場面転換や入退場などに使われる曲)を新たにつけて、男性が出陣していく様を暗示している(物語ではこの後戦死する)。その結果、ともすれば「王が男装した女性を鑑賞して楽しむ」舞踊になりがちな作品が、男性の心情を描いたドラマになった。

また、今や結婚式の定番となった男女による舞踊「カロンセ」もマリディの作。科白なしで、男女のドゥエットの振付だけで愛の物語を踊るというのは、それまでのジャワ舞踊にはなかったジャンルだ。たおやかな女性の表現はスリンピ風、最後の2人の愛の交歓といったシーンではゴレック風と、ソロ様式の舞踊のいろんな要素が折り込まれている。芸大では同様の作品が多く作られて一つのジャンルとなり、舞踊科学生の重要なアルバイト演目となった。


ケンタック(その5)

荘司和子訳

ザワザワと翼が風に当たる音がしてくる。渓流のある谷底は広かった。風は次第、次第に強くなってくる。何千何百という鳥の群れが風と戯れながら飛び回っているのが目に入った。君は信じるだろうか、大きな鳥、小さな鳥、黒、白、茶、紺、緑、尾の長いの、丸いの、短いの、が騒がしい音で飛び回っているのを。このように多種多様な鳥たちはいったいどこから来たのだろう。。。想像だにしなかったこの場所が何故また彼らの集まってくるところになったのか。。。生きているうちにこんなものに出くわすと誰が思っただろう。かれらは騒々しく、楽しそうに、つつきあって、競い合う。枯草の根も枯葉も入り混じって風に舞っている。わたしはといえば、何千の翼とくちばしの混沌と粉塵と自分自身の呼吸のただ中に深く沈んでいた。

一時間ほども過ぎただろうか、わたしはそれまで起きたことに疲れていたようだ。風と何千もの鳥たち、名も知らない3人の人たち、尾根にある住む人のない小屋。混沌と騒ぎが過ぎた後では時間があたかもいっとき止まったかのようだった。

静けさが訪れてきた。昆虫の羽音が歌のリズムのように聞こえてくる。やもりが今にも朽ち落ちそうな古い竹の壁で小声で挨拶している。自分が身動きする音がごそごそいう。蟻に噛まれた腕の内側が赤くなっていてひりひりとかゆい。

目が覚めたときはすっかり夕方だった。目を開けると金色の美しい夕陽が柔らかくわたしを包んでいた。

意識がもどるや否やわたしは何かに怯えるように身の毛がよだった。

わたしがまどろんでいたのは荒れた畑の端にある廃屋で、遠くから木の葉の音がしてわたしを起こしてくれた。二本の腕で這い上がるようにしてようやく白昼夢から身を動かすことができるようになった。

わたしが実際に泊まるところはここから2、3キロ離れていた。そこは森林局の人がいて寝るところもちゃんとしている。たぶんわたしを気遣って待っている人たちもいるはずだ。

でもここ、わたしが不覚にも長い時間眠ってしまったところ、は実に何もない。ただ乾燥と草の切り株、そして世にも不思議なわたしの夢があるのみだ。(完)

(初出誌:週刊『マティチョン』2004年11月21日号)


アジアのごはん(46)ヒンドゥー教とベジタリアン

インドのプシュカルという小さな町に行って来た。デリーからジャイプルへ行って、型押し染めのいい布なんかがほしいな、とインド西部への旅に出たのだが、首都デリーの喧騒と砂ぼこりにほとほと疲れ果てた。そんなときに小耳に挟んだのが「プシュカルは静かな神さまの町」という話だった。デリーからジャイプルまでの列車のチケットはもう買ってあったが、ぱらぱらとガイドブックをめくっていると、ジャイプルからもう2時間そのまま同じ列車に乗っていればプシュカルの近くのアジメールという町に行けると分かった。
「列車の中でアジメールまでキップの延長が出来たら行ってみいひん?」
「プシュカルっていいとこなの?」
なんとなくインドに来てから連れが疑い深い。
「ヒンドゥー教の聖地らしいよ。湖があって、そこのまわりに沐浴場があって町があって、中心街には車が入れないらしいから、静かなんちゃう」「そこ行こう!」

満員だったシャダプディ・エクスプレスはジャイプルでほとんどの客が降りた。列車がジャイプルを出ると、窓の景色は茫漠とした荒地や果樹の畑に変わり、畑の中をラクダが歩いているのも見える。砂漠地帯に入ったのである。アジメールからオートリキシャに乗り、プシュカルを目指す。ここからは入れないからと、幹線道路から町に入るところでオートリキシャを降ろされた。荷物を持って湖方向に下るように歩いていくと、たしかに車が走っていない。静かだ。空気もいい。インド人はどうしてああもクラクションとエンジンふかしが好きなのか・・。ただし、ここも空気は乾燥し砂ぼこりが多くのどが苦しい。

「プシュカルはヒンドゥー教の聖地で、インドで唯一、ブラフマンを祀っているお寺があるんだって・・え、しまった!」「どうしたの?」
安いが快適な宿を見つけ、荷物を開いてガイドブックを開いて読んでいると、大変なことが書いてあった。「プシュカルは聖地なので、お酒は売っていない・・。しかも菜食料理店しかない・・んやって!」「ビール飲めへんの? 店の奥で売ってるとかないやろか」

いろいろ調べてみたが、町の住人はみな信心深いヒンドゥー教徒らしく、お酒というと苦々しい顔をされ、やっと、町中に一軒だけ4階建てのビルの屋上にあるレストランでビールが飲めると教えてくれた。そこは巨大なテレビスクリーンがあり、ピザやパスタが売り物のレゲエバーであるらしい。地上から遠いので許されるのかしらん。そこにたむろする旅行者をこころよく思っていないことが、ありありと顔に出ている。

かなりデリーで疲れていたので、まあここらでお酒を抜いて養生するのもいいかもしれない。しかし、問題はベジタリアンしかないという食生活だ。野菜はいいのだが、インドのベジタリアン料理とは、じつは乳製品を大量に使う。

インド人は、80%がヒンドゥー教徒(13%がイスラム教徒)である。ヒンドゥー教には生物の命を奪わない不殺生戒(アヒンサー)という教えがあり、ヒンドゥー教徒の多くが菜食主義である。もちろん、なかには鶏肉や卵(無精卵)を食べる人もいるが、高級食材でもあり少数派。牛は聖なる神様のお使いなので、決して肉は食べない。豚も、バリ島のヒンドゥー教徒はごちそうとしているが、インドのヒンドゥー教徒が食べているのを見たことがない。豚肉は中華料理屋にしかない。魚は海岸地方の人たちだけが食べる。そして、数の上で最も多いのが、野菜と豆と穀物と果実と乳製品のみという人たち。牛や山羊のミルクは、命を奪わずに採取できるおいしくて栄養豊かな神様のおくりものなのである。

メニューにベジタリアンとしてあっても細かく内容を聞かないと、カテージチーズの天ぷらだったり、煮込みだったり、仕上げにチーズがまぶされていたり。しかも日常的な飲み物はミルク煮出し紅茶のチャイである。お菓子もチーズやミルクの加工品だ。ヨーグルトもよく使われる。カレー料理以外の旅行向けの店のメニューもチーズたっぷりのピザにパスタ、が主流。

わたしには乳製品にアレルギーがあるので、このベジタリアン事情はかなり面倒だ。しかも乳製品がきらいなわけでも、口が拒否するわけでもないので、乳製品を取らないようにする強い自制心が必要なのである。少しぐらいはいいかと、調子に乗って食べたり飲んだりすると、苦しくなって寝込んだり、吐いたりしてしまう。
アレルギーがない人でも、アジア人、日本人の大人ならばほぼ乳糖分解酵素を持っていないので、インド人のペースでチャイを飲み、チーズを食べていればそのうちおなかを壊す運命にある。ちなみに栄養吸収に充分な乳糖分解酵素を持っている人は日本人ではわずか5%、いっぽうインド人は60%。おそらく、インド人でもあまり酵素を持っていない人たちは、牧畜民族のアーリア系がインドに侵入してくる以前から住んでいた先住民族の血を引く南部のドラヴィタ語族の人たちや、最北部のアジア系山岳民族の人たちであろう。

しかし、わたしはプシュカルで乳製品でなく、焼きそばに打ちのめされることになった。ちょっとしたレストランでは、カレー料理のほかにわりと一般的にインド中華と呼ばれる料理がある。中華に近いチベット料理屋もある。プシュカルについた夜、チベットレストランに出かけ、蒸し餃子のベジタブル・モモと焼きそばを頼んだ。連れは、毎食カレーというのがたいへん苦痛らしく、なるべくカレー以外のものがあればそれを注文する。

出てきた料理は、オイリーにしないでと頼んだのにたいへん脂っこかった。しかし、お腹が空いていたので、がまんして焼きそばをかなり食べた。蒸しモモはまずかったので、ひとつしか食べられなかった。その夜、わたしは胃もたれに苦しみ、夜中に吐き、翌日から熱を出して寝込んでしまった。そう、インドの料理は乳製品をたくさん使うだけでなく、油もたっぷり使うのである。とくにインド中華は油が多い。寝込んでいたので、2日間はほぼ絶食。しばらくはお酒など見たくもない状態だったので、聖地プシュカルでのアルコール抜きはまったく苦痛なく遂行された。やっと回復してジャイプルの町へ移動したが、ジャイプルの宿の浄水器でろ過したドリンクウォーターが硬水すぎて、今度はお腹を壊した。やれやれ。

タイで入手していたドイツ製のメディカル・チャコール(医療用活性炭)を飲んで、翌日には収まったが、そのとき宿の朝食に出た野菜のカレースープのおいしかったこと。しみじみとした野菜の滋味。そしてターメリックや生姜などのおだやかなスパイス。このスパイスを身体が必要としているのがよく分かる。
「ねえ、インド中華ばっかり食べてるから調子わるいんちゃうやろか」
「え、でもカレーばっかりは・・」
「ターメリックとかのカレーのスパイスがここでは身体に必要やわ」

その土地の食文化には、やはりその土地にあったスパイスや調理法が息づいている。そのままでは体質が違うので無理があるが、油を少な目とオーダーし、乳製品のないベジタリアンで、シンプルなインド式食生活にするのが、インドを旅する秘訣かもしれない。カレーのスパイスはやはり、インドで暮らすのに必要なものなのだ。

わたしが倒れている間に、揚げ餃子のフライド・モモばかり食べ、硬水も平気とゴクゴク飲んでいた連れは、タイのバンコクに戻ったとたん高熱を出して倒れたのであった。


セレクト・アプリ

会議を終えた帰り、通り道の丸の内の丸善にふらりと立ち寄った。

お目当はいつものように、4階の松丸本舗。本のセレクトショップよろしく様々な書籍が興味のリンクに沿って棚に陳列されている。ある意味、雑然と並ぶ書棚を物色していると一般的な書店にはない宝探し感を味わうことができる。本来、書店の棚はそのような店員や店主の匂いがしていたものだが、データ化と計画配本が書店の個性を無くしたのだなあなどと、つい最近、わくわくしない書店について考察していて気付いた。

まあ、面白味のない書棚といえば、青空文庫の書棚も似たようなものだ。著者名や書籍名によった索引が並ぶだけだから、新しい知に出会うために探検する楽しみはない。だから、ランキングを見ていても似たような名前が毎月並ぶことになる。

ところがときどき、そんなアクセスランキングに異変が起きることがある。それはドラマや映画などで原作として取り上げられた時だ。ふと、ここまで考えて面白いことを考えた。お勧めの青空文庫の書籍を提示するリーダーを作ったらどうだろう? 探検する楽しみや新しい著者と出会う機会を作ってくれるアプリだ。なかなか、面白いと思うのだがいかがでしょうか。

ちなみに、松丸本舗で、エンデのモモの特装版とモモとはてしない物語の文庫版、エリック&ジマーマンの「ルールズ・オブ・プレイ上」を購入。その他に3階で、多様性の植物学(全3巻)と大量の買い物をして帰ったのでした。


ジョージ・ラッセルのFar-out Jazz

ジョージ・ラッセル(1923-2009)を最初にきいたのはずいぶん昔、エリック・ドルフィーを集中してきいていたころ、アルバム"Ezz-Thetics"(1961)だった。室内楽を思わせる構成的なアレンジのなかで空間を押し広げるように舞うドルフィーのサックスに圧倒された。ただ、マイルス・デイヴィスのアルバム"Kind of Blue"(1959)のモード・ジャズとはずいぶん違う。一般的にモード・ジャズの特徴とされる「劇的ドラマのない浮遊感・宙吊り感」は利点であり弱点でもあるが、その弱点が克服されているとも感じた。その後、いろいろなジャズをきいてきたが、ラッセルが提唱したモード・ジャズがビル・エヴァンスやマイルスを通してモダン・ジャズに吸収されていくプロセスは、その後の歴史(ジョン・コルトレーン、ドルフィー、エヴァンス、マッコイ・タイナー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターなど)を見ても明らかだろう。しかしその中心にラッセルはいなかった。

ラッセルはシンシナティでデキシーランド・ジャズに目覚め、16歳で学校をやめ、夜の世界に足を染める。その後、ウェーベルン弟子シュテファン・ヴォルペに数カ月作曲を学び、ドラマーとしてプロの道へ。しかしマックス・ローチにプロになるのは無理だといわれ、作曲、ピアニスト、バンド・リーダーとして本格的な活動をはじめた。その最初がディジー・ガレスピーのビック・バンドでの仕事、Cubano-be Cubano-Bop(1947年)の作・編曲だった。キューバ音楽を取り込んだ最初の作品であるだけでなく、モードを使った最初の作品でもある。そして、仲間のマイルスとの交流のなかで「あらゆるコード変化を学びたい」という問にたいして、1953年、ラッセルは"Lydian Chromatic Concept"という理論書で答えた。

マイルスの有名なSo What、これはラッセルから聞いたモードのアイディアを拝借しているが、使っているのは教会旋法に由来する2つのドリアン・モードで、ラッセルのモード理論ではない(録音時に譜面台においてあったモードを書いた楽譜の写真からも判断できる)。ラッセルの理論はいわゆる教会旋法とは別もので、最も基本的なCのコード(ド・ミ・ソ)をよりよく表すものは、Cのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)の音ではなく、Gのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・#ファ・ソ・ラ・シ[=ラッセルのいうCリディアン:5度の積み重ね])の音という発見にはじまっている。それはコード・モードといえるもので、コードから導き出されるリディアンの7つのモード(リディアン・アーギュメント、リディアン♭7など)[+2つのメジャー・スケールとブルース・スケール]に、すべてを内包するリディアン・クロマティック(Cからはじまる12音によるスケール)よって調性(協和=in-going)の引力圏から無調(不協和=out-going)世界へと開かれている。

この理論をもってラッセルは1956年にはじめて自分名義のアルバム"The Jazz Workshop"を録音する。エヴァンス、ポール・モチアン、アート・ファーマーなどが参加し、Ezz-Theticsなどの曲でコード・モードによる音楽をくり広げているが、そこにはすでにその後のラッセルの発展の基本となるほとんどすべてがある。ビック・バンドを思わせるアンサンブルの骨格(楽譜に書かれている部分)とソリストの即興の自由であり、全体をバランスすることで揺れ動くフォームを作りだしている。骨格にはコード、音色とリズムが周到に計算され、即興はコードから導かれるリディアンの可能性を自由に探求できる。out-goingのときもあれば、in-goingのときもある。編成が大きくなることもあるが、基本的な考え方は同じで、最も小さくてセクステットが基本に考えられている。セクステットの場合、ラッセルは通常ピアノを弾いているが、しかしいわゆるジャズ・ピアニストの即興とは違う。けっして派手で技巧的なメロディーを弾かない。波立つような和音(音色)、楔のリズムなどが主で、ソロの即興に付けたり、離れたりしながら色彩とリズムをリディアン・クロマティック・コンセプトで誘導している。"The Jazz Workshop"ではエヴァンスはその役割も行なっており、即興部分以外はおそらく周到に楽譜に書かれて作曲されている。

こうした意味でも、ラッセルは他の人より作曲家の側面が強いが、1957年、ガンサー・シュラーが提唱したジャズとクラシックの融合を試みた「サードストリーム(第3の流れ)」運動への参加は必然だった。ブランダイス大学からの委嘱で作曲されたAll About Rosieは、黒人の子どもの歌を変奏風に仕立てたモードによる3楽章作品で、ヴォルペの影響が感じられる。その後、サードストリーム自体は下火になっていくが、ラッセルは独自にその道を進む。1959年のアルバム"Jazz in the Space Age"、このジャズの未来を模索した作品は、エヴァンスとポール・ブレイによるダブル・コンチェルトを思わせる組曲で、"Lydian Chromatic Concept"を全面に打ち出した実験作となった。Chromatic Universe Part 1~3は左・右のピアノが調性の引力から自由に振る舞いながら、パンクロマティックな対話を交わしていく。しかしジャズの伝統的な輝かしいブラスの響き、そして強烈にスウィングするリズムがジャズであることを保証している。それはちょうどマイルスが"Kind of Blue"を、そしてオーネット・コールマンがフリーの先駆けとなる"The Shape of Jazz to Come"を出した年であり、これらはジャズの「来るべき」の転換点となった。

転換をなす3つのアルバムのなかで最も前衛色が強いのがラッセルだろう。そこにはスウィング、ハード・バップ、フリー・ジャズ、民俗音楽、クラシック(現代音楽)などの要素がミックスされているが、それを可能にしたのが"Lydian Chromatic Concept"だ。ラッセルはこのあとリヴァーサイドで"Ezz-Thetics"などを発表するが、1964年以降、北欧を拠点に活動し、シュトックハウゼンのモメント形式など影響を感じさせる実験的な作品、"Othello Ballet Suite"(1967)"Listen to Silence"(1971)などを発表。1969年のアメリカ帰国後はニューイングランド音楽院などで教えながら、セクステットやリヴィング・タイム・オーケストラで活動した。

武満徹は20世紀に発明された二大音楽理論として、メシアンの「わが音楽語法」とラッセルの"Lydian Chromatic Concept"をあげた。ラッセルはコードからモードを探求することで、パンクロマティックをトーナル・カラーのひとつの要素と捉え、out-goingに音の世界を切り開いた。武満は無調からパンモーダルな響きの波によって「調性の海」へとたどり着いた。方向は逆向きとはいえ、結果として二人は同じパントーナルな音楽を実践した。ラッセルのコンセプトは純粋な理論であるが、プラクティカルな思考を重視している。"Lydian Chromatic Concept"は第1巻のみ出版されている。第2巻も存在するが、ラッセルの教えを受けなければ手に入れることはできない(かれはもういないが、弟子たちがやっているだろう)。そのこと自体が理論を秘教的な一子相伝のようにしてしまったともいえる。それはともかく、自ら作りあげた理論とその実践こそが、時代の新しいジャズへとラッセルを駆り立てた。

ラッセルはモダン・ジャズ創造の真っ只なかにいながら、20世紀の作曲家のように音楽は発展しなければならないと考えた。だが、昔ながらのスウィングするリズムやきらびやかな楽器の音色を捨てることはできない。フリー・ジャズではなく、調性の引力を利用しながら、ジャズでありながらジャズを超えようとする何か。それがラッセルのFar-out Jazzだ。前にコルトレーンについてこんな風に書いた。「コルトレーンはコードのステップからモードを経てシーツ・オブ・サウンドを駆け抜けた。休息を知らないトレーン号は高みだけを見つめ、そこへ登りつめようとした。だが駆け登ろうと速度を速めれば速めるほど、硬直して沈殿していった(出口がないだけにそのひたむきな熱狂は感動的だ)」。ジョージ・ラッセルのFar-out Jazzに、羽ばたきの瞬間が感じられないだろうか...。最近、"Lydian Chromatic Concept"を読みはじめた。


梅雨です

試験ではちゃんと聞こえたJ-ALERTというもの、いざというとき聞こえないじゃないか! やる気のないことがわかったので、四月はひきこもることにした。

仕事以外、外出はしないでひたすら要らないものを捨てる。出てきたのがアップルのメッセージパッド130。あのニュートンOS。周辺機器も含めて捨て! これで我が家のアップル製品はガキのiPodのみ。それからまだ出てくる、必要のないフロッピーやCD-ROM類も多数捨て! これでパソコンまわりは少しすっきりした。部屋が少し広くなる。

そんなことをやっていたらザ・バンドのレヴォン・ヘルムの訃報をネットで見る。ついにザ・バンドのヴォーカル三人がいなくなった。中学生の頃、音楽誌でザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」のグラビアがかなりのページで掲載されていた。それを見たあとしばらくして発売された「ラスト・ワルツ」の三枚組LPを購入する。手っ取り早くいろんなミュージシャンを聴ける絶好のアルバムだった。ザ・バンドに関しては「ラスト・ワルツ」が最初で、それ以前のアルバムはかなりたってから聴いた。リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、レヴォン・ヘルムという声質、スタイルも全然違う稀有のシンガーがいた奇跡的なグールプ。iTuneのなかに取り込んだロックバンドのプレイリストで、「The」をつけているのはザ・バンドだけ。The Band だけは別格。

久しぶりに中学の頃の友人からメールが来る。商社に勤めるやつがモスクワ赴任になり、集まるから熊本に来い、という。「ばかたれが〜、そぎゃん急に行けるわけなかろうが」と返信する。ロンドン、ニューヨークときて齢五十前にしてモスクワ。会社組織に属しながらも適当に距離を置きながらふらふら生きてきた人間にとっては別世界の話。

四月の沖縄はしーみー(清明)。うちは二十九日。その前日入梅の発表。前日にお墓の掃除に行き、当日は土砂降り。墓へ行き、お茶、水、花、お線香を供え、母親が雨のため墓前ではできないことを報告し、実家の仏壇で行う。初めての仏壇前での清明祭。

蒸し蒸しの季節がやってきた。


筍の味

ドーナツショップで声高に話す年輩の女性。「おばあちゃん」と声をかけても、決して間違いではなさそうな女性たちだが、きっとそう声をかけると無視されそうな若々しさではある。そんな女性たちが実に軽やかに話題を転がしながら楽しそうに笑っている。

ドーナツを頬張り、カフェオレを飲みながら、洋服の縞模様の話が顔に刻まれたシワの話になり、「目尻の横ジワがなぁ」と嘆く声に「横ジワならええがな。わたしら、縦にシワが出来はじめたがな」と、さほど嫌そうでもなく、むしろ自慢げな声が重なっていく。

どこからどんな道筋をたどったのか、気がつくと話題は筍。
「うちは、筍買うたことがないねん」
「なんでやのん、お金がないわけやなし」
「そくらいはあんねんけど」
 と、ここでひとしきり大笑い。
「京都のな、亀岡に住んでる友だちがいっつも送ってくれるねん」
「そら、買わんでもええわ」
「そやろ、そやからご近所にもわけてあげてな」
「うらやましいわあ。うちも筍大好きやねん。けど、友だちがおらへんもんやから、いっつも自分で買うんやわあ」
「ほな、送ったげるがな」
「いややわあ。催促したみたいな」
「してるがな」
「してるかしら」
と、またここで大笑い。

横で聞いていた私も、この展開にホッと一息ついて「よかったなあ。みんな筍が食べられて」と声をかけそうになってしまう。

「筍って、味せえへんことない?」
と、いままであまり口を開いていなかった女性が別の角度から大きめの爆弾を投下する。
せっかく筍はおいしいという大前提に盛り上がっていた話が、ぎくりと立ち止まる。しかし、そこはそれ、大阪のおばちゃんたちはなんとか話の進路を探っていく。

「筍、おいしいがな」
「おいしいねんけどもやな。なんやほな、筍って、どんな味? 言われたら、うまいこと言われへんことない?」
「いやあ、よう言わんわあ。うまいこと言うよ、私」
「どない言うの」
「さっぱりした中に、春の香りと、ちょっとした苦みがあるいうのかなあ」
 これには、そこにいた一同が大笑いする。
「そらあんた、テレビの見過ぎやわ」
「そやろか」
「そやそや、うまいこと言い過ぎて気色わるいわ」
 言われた本人も涙が出るほど笑っている。
「けど、確かにトマトとか、かぼちゃみたいに、はっきりした味とちゃうわなあ」
「そやな。カツオの出汁をきちんととって、この味が出ました、いう感じやもんな」
「うんうん、そやな」
「そやそや、ということは、おいしい出汁をとっといたら、筍いらんの?」
「そらあかんわ。それやったら、ただの出汁やがな」
「ほんまや、それが筍に染みこんで春らしい味になるんやがな」
と、もう一度笑って、またみんなが笑いながら筍の味を思い出そうとしているようだ。

私は私で、数日前に食べた筍の味を思い出していた。それは居酒屋の突き出しに供されたもので、くたくたになった海藻にからまった状態で表れた。いったい何度温め直したのかと聞きたくなるくらいに濃くなった味付けは、出汁の味も筍の味もせず、ただただ醤油辛いだけの代物だった。

あれを筍の味として思い出すことを私は思いとどまっているのだが、戸惑いながら、あのどうしようもない味を思い出そうともしている。何度も煮炊きされてどうしようもなくなった味の中には、本当に筍の味はなかったのだろうか。もしかしたら、しばらくまともな筍料理を食べていなかったせいで、筍の味そのものを忘れてしまっているだけなのかもしれない、などとも思えてきた。

ここで私は「筍って味せえへん」と言った先ほどの女性に目を向ける。もしかしたら、それが真実なのかもしれない、などと筍を巡って私の思考はぐるぐると回り始める。もしかしたら、隣のテーブルの女性たちの会話の中に、その答の片鱗でも浮かんでいるのではないかと、もう一度、彼女たちの会話に耳を傾けてみる。すると、彼女たちの話題はすでに、牛乳を温めた時に出来るあの膜は、湯葉と同じようなものなのか、ということに移ってしまっていた。

カーレースのサーキットのスタートラインで、エンストしてしまったレーサーのように、私は会話のカーチェイスを続ける彼女たちをぼんやりと見つめるのだった。

2012/04/30


言葉と音楽を聴きに札幌に出かける

4月10日に、言葉と音楽を聴くために札幌に出かけた。北海道新聞の夕刊に連載している天辰保文(あまたつ やすふみ)氏のコラム「音楽アラカルト」の連載600回を記念して、札幌市時計台ホールでトークライブが開かれたのだ。天辰保文氏はロックを中心に評論活動を行っていて、ニール・ヤングのライナーノートでその名前を覚えた。今回ゲストで呼ばれた仲井戸麗市の4枚組ボックスセットにも、とても心温かな文章を寄せている。

札幌は意外な暖かさで、地元の人たちはもうコートを脱いでいたけれど、公園にはたくさんの雪が残っていたし、開場前の列に並んでいた夕暮れの頃には風もずいぶん冷たかった。夜が近づくにつれて、大きな文字盤を照らす電燈が灯って、その灯りが空気の冷たさのせいか透き通ったように見えて、そんな小さな事も心に残ったのは、トークライブの全体に流れていた静かで確かな時間のせいだったかもしれない。

会場は、あの有名な時計台の2階。集まった皆は、日曜のミサに出席するみたいに4人掛けの木のベンチに座って、天辰保文と仲井戸麗市が選んだ曲をいっしょに聴いた。

ロックとの出会いとなったビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」。聴く前と聞いた後で人生が変わってしまったように感じたという1曲。アムネスティ・インターナショナル50周年記念として制作されたボブ・ディランのカバーアルバムから、92歳になったピート・シガーが子ども達と歌う「フォーエバー・ヤング」。自分の後輩として世に出たディランの曲を、敬意を持って歌うピート。その「ヤング」という言葉に込められている意志。歳月を経て再びいっしょに音楽を奏でるスティーヴン・スティルスとニール・ヤングの「ロング・メイ・ユー・ラン」。今もなお鋭く社会と向き合って歌い続けるブルース・スプリングスティーンの最新アルバムから「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームス」。

司会の山本智志氏(音楽評論家で今回の企画の発起人)も言っていたけれど、ただ好きな音楽を大きな音でかけて、皆でいっしょに聴いて、その曲について話すというだけで、どうしてこんなに楽しいのだろうという2時間だった。

トークライブには「ビートルズから50年。いつもロックがあった」というタイトルが付けられていた。
天辰氏が1949年生まれ、仲井戸氏が1950年生まれ、司会の山本氏が1951年生まれ。ロックの青春期をいっしょに生きてきた世代だ。曲が掛っている間、3人ともうれしそうに、全身で音楽を聴いていた。何度でも新鮮に曲に向き合える心を持っているようだった。

そして、曲について語る言葉は静かで、確かだった。「ロック」への敬意に満ちていた。ロックに出会うと乱暴者になるなんて事は全くの誤解だ。ロックがいつも傍にあったことで、嫌な大人にならなかった人たち。月並みな表現だけれど、今もなお少年のような3人を見てうれしい気持ちになった。

帰ってきてから天辰さんのコラムを集めた『ゴールド・ラッシュのあとで』(2008年/(株)音楽出版社)を読み返す。ジャクソン・ブラウンについて彼は次のように書く。
「ジャクソン・ブラウンのように、深い痛みや大きな悲しみを前にして、湧き上がってくる感情たちを、それこそ丹念に言葉やメロディに完結させていった結果としての歌は、簡単に言葉で説明できるはずのないものだ。だからこそ、彼の歌に耳を傾けずにはおれない。適度な誤解と勝手な解釈を交えながらも、ぼくは、彼の歌を身近に引き寄せ、胸の奥深くに受け止めずにはおれない。そうすることで、ときには僕自身の中に潜む卑しさを怒り、臆病さを嘆き、見せかけの優しさを呪い、ときに勇気を奮い起こしていく喜びを感じながら、ぼく自身の歌を奏でなければと思えてくる。」

彼のこんな文章を、私も「胸の奥深くに」受けとめる。音楽に揺れた心に形が与えられる。歌について書くことは意味の無いことではないと思える。音楽と肩を並べている言葉というものもあるのだと思う。


しもた屋之噺(124)

今朝、息子が目を覚ますと、開口一番父さんがイエスの処へ行った夢を見たと言うので、愕いてしまいました。イエスが天から降りて来て、父さんを連れ一緒に天に昇って行き、天国でイエスやマリアと暫く話をした後、父さんが一人で降りてきてほっとしたそうで、天国に行けない人もいるから、その分恵まれているそうです。親の死ぬ夢は縁起が良いよいとかで何度か見たこともありますが、自分が神さまから呼ばれて天に昇り降りてきた夢を見たと7歳の息子から聞かされるのは、何とも言えない気分です。

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3月某日14:30 プーリア定食屋「まあいい屋」にて
何とかMちゃんの録音を終えたところ。息子やY君が録音中に来訪。自宅から運河を隔てた向いのスタジオでの録音。10年前家人のCDをこのスタジオで録音したが、そのすぐ前に住むことになるとは想像もしなかった。現代音楽の録音風景なんぞ子供には詰まらないと思いきや、ホースを吹いたり、プラスティックボードを撓ませたる光景に目を輝かせている。お蔭でギロだと言って凹凸を手当たり次第に擦り親を困らせている。
チューナー片手に、壜の蓋で水を減らしたりしてワイングラスを調律すると、ワイングラスにも鳴り易かったり、鳴り難かったりと様々あって、擦る人によって音が変わったりする。足りない音を探して、楽譜とチューナー片手に近所の喫茶店を周って、グラスを貸してもらう。スタジオの数件隣の惣菜屋の小さなショットグラスは素晴らしかった。

Mちゃんは運河沿いのこの定食屋の特製パスタ「ミンキアータ」を厭きずに毎日食べた。これは手打ちのオレッキエッテをトマトとセロリとペコリーノチーズ、それに唐辛子の油を手早くボールで和えたもの。菜食主義者のディレクターのC氏も、食べられるものが見つかって喜ぶ。駱駝の風貌のパリジャンT氏は、「まあいい屋」の馬肉ステーキを駱駝のような口でムシャムシャ2人前平らげた。この辺りは、古き良きミラノの運河風情が残る貴重な界隈だが、最近水は抜かれて、運河の底をブルドーザーが闊歩して清掃している。水が無くなって川藻が腐ったのか臭いが鼻をつく。

4月某日
一週間近く朝から晩までスタジオに篭っていたので、コモ湖へ出かける。普段ならコモから汽船に乗るのだが、今日はバスでアルジェーニョまで出かけ「エミリオ亭」で昼食にする。コモでよい食事にありつけた例がなくて、アルジェーニョ育ちのCの忠告を有難く受け入れる。確かに食事も風景もずっと質が高く、湖上から眺める風景と違って、湖面よりずっと高いところを走るバスの車窓には、雄大な眺望が広がった。
息子はトマトソースのニョッキと家人は牛肉煮込みとポレンタ。当方は田舎風のチーズとキャベツのリガトーニ。主菜はコモ湖で獲れたペッシェ・ペルシコとラヴァレッロという湖水魚のグリル盛合わせをタルタルソースで頂く。ラヴァレッロはサケ科で、学名コレゴヌス・ラヴァレヌス。サケ科だから美味な筈だと素人らしい合点がゆく。ペッシェ・ペルシコは、スズキ目に属する魚で、スズキ目の学名ペルチフォルメスそのものが「ペッシェ・ペルシコのような魚」を意味する。スズキの仲間なら美味いに違いないとこちらも素人らしい納得をする。日本の鱸も川を遡上するそうだから、何時しかコモ湖に住みついたとて不思議ではない。

ところで、イタリアでは鱸を北部ではブランズィーノ、南部ではスピーゴラと呼ぶ。いつも食べていて勝手に似て非なるものかと思っていたが、全く同じ魚だった。北部で食べると鱸はリグリア辺りのオリーブ油で食べる落ち着いた味わいで、南部で食べれば、軽くさっぱりしたオリーブ油に熟れた甘いトマトやオリーブと一緒にソテーされて開放的で味わいが楽しめる。地方によっては鱸をペッシェ・ルーポと呼ぶのだそうで、直訳すれば「狼魚」になる。日本でもオオカミウオと呼ばれる魚がいるけれど、あれと同じで、イタリアでも一般的にはペッシェ・ルーポはオオカミウオを指す。確かにオオカミウオもスズキ目に属しているので、少し話がややこしい。

息子は学校の地理の授業で、「青ずきんちゃん」を読んできたと大得意だ。青ずきんは、燈台に両親と住んでいて、ある日海の向こうのおばあさんに贈り物を届けるため一人ボートで大海原へ漕ぎ出す。すると海から「オオカミウオ」が姿を現し、何とか言い包めて青ずきんを食べようとするが、うまくゆかない。じゃあ向こう岸まで競争しようというオオカミウオの提案を、最後には青ずきんも受容れるが、どうしても青ずきんよりオオカミウオが早く先に岸に着いてしまうので青ずきんを食べられない。この下りが子供たちには一番面白いらしい。最後にはオオカミウオはおばあさんにおびき寄せられ、岩の隙間にはめられて出られなくなってしまう。同じ地理の授業で、先日は「黄ずきんちゃん」を読んできた。

アルジェーニョには小さな船着場の前に修復されたばかりの教会もあって、オルガンが見事だった。水中翼船でコリコまでいきレッコ経由の電車に乗りミラノに戻る。息子は発着時に水中翼船の翼が思い切り飛沫を吹き上げるたび大喜びしている。リストが滞在していたベッラッジョやヴァレンナを過ぎると、乗客は対岸に渡る地元住民のみ。

4月某日
拙作の演奏会と息子の社会見学を兼ね、朝8時の特急でローマへ出掛けた。特急の喫茶室で朝食をとる。朝の特急は使われていない食堂車を開放していて、広々として心地よい。ローマでは20年以上前に、何週間か一人で滞在したアウレリア街道沿いの宗教施設に泊まる。当時は多くの尼僧がせっせと切り盛りしていたが、今はエマヌエル会の経営に変わって昔と全く同じ受付に座っているのが若い男性だったのが少し不思議に映った。
ヴェネチア広場から歩いていった日本文化会館で、平山美智子先生と東北の写真展を眺めながら立ち話。東京大空襲で永福町のご実家に焼夷弾が5発落ち、火の付いた爆弾を手袋をはめた手で直接掴み、コンチクショウと叫んで庭に放り出した話や、空襲が終わると周りは全て焼け落ちていたという話。戦後進駐軍の演奏会で、シューベルトのアヴェマリアをドイツ語で歌って気風を買われた話や、ブーレーズのプリ・スロン・プリの途中で図形楽譜になることを作曲者に批判した話。シュトックハウゼン父子の音楽観の違いについてなど話は尽きない。

リハーサルが終わり路面電車で息子をヴァチカンに連れてゆく。この街に法王が住んでいるというと息子は興奮していた。一方家人は、ヴァッリ教会の正面の聖アンドレアのX字の十字架図と、イエズス教会の天井画に心を打たれている。ザビエルの手の剥製を見てから、ここに保存されている長崎のイエズス会修道士殉教図を見たいと門番に言うと、ずっと日本にあって、何時戻ってくるかさえ分からないねと大笑いされる。聖マリア・デル・マッジョーレ教会で、息子は横臥するキリスト像に寄り添い熱心に祈る一団の礼拝堂につかつか入り、黙って祈っているので家人と流石に顔を見合す。こちらに戻ってくると真面目な顔で「イエスと話してきた」などと言う。先日拙宅に滞在していた家人の生徒さんが「小学校低学年の頃まで、死んだ人が目の前に座っているのが見えていたんです、今から考えると不思議なんですが」と言っていたのを思い出した。礼拝堂の前で、通りがかりの女性に話しかけられる。「ああ、何と美しいお子さんなのでしょう。神のご加護がありますように」。

ミラノに戻る直前、テルミニから105番でアレッシまで行き、雑然とした下町の一角にある「牧歌亭」で、チョコレートと一緒に練り上げたイノシシのパテ、玉ねぎのスープ、生ハムと見まがうカルパッチョなど、丹精なご馳走にありつく。玉ねぎのスープを口に運ぶと、余りの美味しさに涙がこぼれた。冬しか採れない平たい玉葱を使うのだそう。ラツィアーレのナロー電車でテルミニに戻ると、車内は外人ばかりでイタリア人は一人もいない。

息子は思いがけずローマ小旅行を満喫したようで、ミラノに戻った翌日、早速自分でコロッセオの模型を作った。窓の形も正確で8階建ての作りも、円形が少し欠けC型になっているところまで丁寧に再現してあって、その観察力に愕く。キリストを殺した人の名前は誰かとか、ロンギヌスが刺した脇腹の傷はどうだとか嬉々として話す息子は、何だか自分から偉く遠い不思議なものに見えてくる。小旅行中、家人は、どうしてローマは古ぼけたものばかり残しているのか、これではこの先発展のしようがないと不平を繰り返していた。

4月某日朝 雨 キャヴェンナよりコリコへ向かう列車内にて。
朝ホテルから切立った山々を見上げると、美しい朝靄に幻想的に包み込まれている。モーツァルトの「レクイエム」の和声分析を終えた。途中のピカルディ終止で、和声学的な分析と実践的な音楽解釈との間で、どう方向付けをしようか戸惑う。「レクイエム」は初めてだが、「大ミサ」の経験が役立っているのかもしれない。

昨日バスでスイス国境を越えると、マローヤ峠の手前までドイツ語とロマンシュ語でアナウンスしていたのが、突然ドイツ語とイタリア語のアナウンスに変わる瞬間が新鮮だった。ロマンシュ語は、モンツァやブルゲーリオに住んでいた頃よく聞いたロンバルディア方言に似た、「プロシム・フェマーダ(proxim fermada)」と暗く濁った響きが、峠を越えて「プロッシマ・フェルマータ(prossima fermata)」と明るい響きにかわる。バスの運転手は、きついロンバルディア訛りで、隣に座ったおばちゃんとずっと話込んでいた。通ってきた道を振り返ると、つい先程まで居た街が、山の遥か彼方に見えていて、気がつけば周りを降りしきるばかりだった雪は、何時しか強かに芝生を打つ驟雨に変わっていた。

(4月28日ミラノにて)


ヨルダンには原発は要らないと思う

ヨルダンで展覧会を開くことになった。画家の川口ゆうこさんからお誘いがあって、個展をしたいんだけど、日本の震災のことを紹介する写真も展示したいという。気仙沼に在住の画家、相澤一夫さんも津波の絵を提供してくださることになり、それで結局グループ展をすることになった。

ヨルダン人から「何を伝えたいですか」と聞かれてちょっと戸惑ってしまう。ヨルダンには隣のシリアから着の身着のままで逃げてくる人が毎日1000人近くいる。一説によると10万人を超えたというのだ。今回の展覧会は売り上げを、日本の被災地に寄付しようとうたっている。もちろん、在留邦人からの寄付は歓迎だがヨルダン人に寄付を求めるのは忍びない。

僕は福島で写した写真を展示した。ヨルダンは、昨年日本と原子力協定を結んだ。2035年までに4基の原子炉を立ち上げるという。日本は、三菱がフランスのアレパと合弁会社を設立して入札に参加しており、7月には、落札されるという。

今回の展覧会の目的は、反原発や脱原発を訴えるものではないのだが、僕としては、原発を持つ、持たないは、ヨルダン人が決めるのであって、僕たちがとやかく言う事ではないが、福島で起こったことをきちんと知って欲しいし、伝えていくことは僕たちの責務だと考えている。野田首相は、「ヨルダンは既に話をしてきた。しかし、新たな国と締結する場合は、福島の事故を考慮して慎重に対処する」という。

さすがの野田政権も長期的には脱原発を決めており、ヨルダン用の原発は在庫一掃セールとでもいえようか。そんなものを買わされた国はたまったものじゃない。しかも、ヨルダンは、砂漠の真中につくるという。生活廃水をためてその水を冷却に使うのだそうだ。今の衰退した日本にそんな技術はあるのだろうかと疑ってしまう。

ヨルダンでは、地元の反原発の動きもある。哲学者のアイユーブさんもその一人。展覧会を見に来てくれた。最近は福島原発に関してアラビア語で本もだしている。「ヨルダンには、世界の2%のウランが埋蔵していると思われていたが、アレパの調査結果では、ヨルダンのウランはほとんど使い物にならないという。結局ヨルダンは、どこかからウランを買うわけだが、ロシアが優位に交渉を進めている。日本? 厳しいかもしれないね。」と分析してくれた。原発の候補地に挙がっているマフラクを視察してくれば良いと、ターレクと言う人物を紹介してくれた。

4月20日、ヨルダンの首都アンマンを北東に50キロ、シリア国境近くの町マフラクに向かう。最近はシリア情勢の悪化により避難してくるシリア難民があふれているという。金曜日の朝にもかかわらずターリク氏が会ってくれた。ターリクさんたちは、原発が誘致されることを聞いて、2011年2月に「アリハムーナ」という団体を立ち上げ、反対運動を始めた。最初は6人だったが、今では3600人の仲間達がヨルダンにいるという。
「マフラクの住民は全員が原発誘致に反対しました。最終的には国王がやってきて、話を聞いてくれた。そして、マフラクの住民が厭なのなら原発はここには作らないといってくれた。そして、一ヶ月半くらい前に政府は正式にマフラクに原発を作ることを断念したのです。」住民運動の勝利だ。

反原発を掲げて、ヨルダン政府の圧力はないのか?
「内務省も、警察も、国会議員も味方してくれた。120人のうち63人が、原発には反対だという。しかし、原子力省のハリッド・トゥッカーン代表は、フランスのアレパとの結びつきが強く、もうけようとしている。国王は、この問題に関しては、中立を保とうとしていて、国会などの民主的なプロセスをあえて重んじている。公式には、原発に、賛成、反対は表明していない。」

ヨルダンでは原発を受け入れると、地域にお金が落ちるというような話はないのか?

「そんな話は聞いていない。日本ではそんな事があるのか?」


なぜ住民運動が勝利したのか?

「1.すべての議員に意見書をだして、関心を持ってもらった。2.マフラクの人たちと勉強会、説明会を根気よくやってきた。そしてポスターを作って町のあちこちに張った。3.警察に行って、私たちが原発に反対していることを訴えた。4.すべての環境団体、人権団体などにも協力、連帯を求めた。5.メディアに取り上げてもらった。6.政府の説明会や勉強会には、必ず顔をだして、反対を訴えた。
日本大使が現場を視察しに来た事があった。25人のマフラクの人たちが集まってきて、日本語で、原発反対と書いた紙を持って訴えた。大使は、どうして、自分達の視察をマフラクの人々が知っていて、しかも日本語で訴えてきたのかとびっくりしていた。やはりこのように私たちの運動が盛り上がったのは、福島の事故が大きかったと思う。Facebookに記事を書くと、多くの人たちがコメントをくれたことも勇気づけられました。」


マフラクには原発を作らないことが決まった。アリハムーナとして次の計画は?

「政府は原発そのものを諦めたわけではない。カラックの近くのコトラーネという場所が次の候補になっている。我々は、コトラーネの住民の反対運動を手伝う。」


日本に向けたメッセージを
。
「福島で起こったことに私たちも深い悲しみを感じています。日本の皆さんは、落ちこまないで欲しい。あなたたちは、経験が多く、みんなで協力することでこの困難を乗り越える事ができる。ヨルダンと日本は、今まで強く結びついてました。マフラクという小さな町にも、日本からボランティア(協力隊)が30年間も来てくれています。私たちに出来ることがあれば協力したい。そして、原発が、私たちの自然や、生活を壊していくことを、ぜひとも阻止しなくてはいけないし、日本とヨルダンの人々の関係を壊して欲しくないのです。」


今回出会ったヨルダンのメディアの人たちにも「この国では、反原発を唱えると、怖い目にあわないのか? あなたたちは自由に記事がかけるのか」と聞いてみた。「昔はそんなことになったかもしれないけど、私たちはアラブの春以降はそういう規制はなくなった。別にもともと規制があったわけではないけどなんとなく言いにくい雰囲気はあったと思うわ」ヨルダンが元気だ。一方でダメになっていく日本を感じることも最近は多い。

今は、僕はヨルダンからイラクのアルビルというところに移動したが、先日タクシーに乗ると、運転手が、「日本人か」と聞いてくる。そうだと答えると、「この車は日本車だ」という。トヨタのカローラだ。ほめてくれるのかなと思って聞いていたが、「日本車はすぐ壊れる。2年も乗ればがたが来て、ほらハンドル回すと変な音するだろう」原発も含め、日本は、いいものを作って、喜んで使ってもらおうという気位がなくなってしまったのかもしれない。


オトメンと指を差されて (47)

......くしゅんっ! すすす......ごしごし。

がぶんじょうでございます。じばじおまぢを。――――(処置中)――――

花粉症でございます。つい数年前より発症致しまして、春先はご覧の有様なのです。なってみなければわからないとは言いますが、ここまで鼻と目をやられてしまうとは思ってもみませんでした。さすがに最近は手軽なよいお薬もあるというわけで(私は普段よりその形状からそのお薬をハイパーフリスクと呼び習わしております)、人前に立つときはしっかりと抑えておくのですが、四六時中使うのも何ですので、仕事場で文章を書くときなどは花粉も外から入ってこないからとあえて油断してみれば、それでもなるときはなるのですね。

定期的なおくしゃみと、隙を突いてくるお鼻水と、裏を掻いてくるお目々のおむずむず。鼻はかめばよろしゅうございますし、お目々は多少も我慢もできましょう。しかしながらお口から放たれるおくしゃみ様におかれましては、何ともしようがないのもまた難しいところ。とはいえどうしようもないものなら、ないものなりに愉しんでしまえばいいと思いついてしまったのはいつのことだったでしょうか。

くしゃみの音はお国や言葉や文化によって違うと言います。ということは逆に言えば、くしゃみの音色はひとつには決まっていないわけでもあり、とすればくしゃみが出る瞬間に意識してこちらから操作してやれば多様に変幻万化自由自在、色々と遊べるのではないか――ぁっ――くしゅん。

これはシンプルなくしゃみですね。しかしお行儀よく「くしゅん」と小さくするのは意外と技術がいります。くしゃみの力を制限せずにやつの勝手に任せると「へくしっぶるるっ」みたいなおっさん系くしゃみになってしまうので、くしゃみをするときに内側へ閉じ込めるような、口を小さくしてほんの少しだけとどめるように「く」と息を出し、あとは鼻と口に預けて風を抜くことが必要となって参ります。小さな「くしゅん」はお上品にも聞こえますので、お淑やかさや雅さを保ちたい方は練習なさるとよいでしょう。

あるいはピーターラビット的なおくしゃみを操ってみせるのも、なかなか絵本的でしゃれているのではないでしょうか。イギリス的にはくしゃみは"kerchoo"や"atishoo"といった表記がありますが、The Tale of Peter Rabbit に出てくるピーターくんのくしゃみは"kertyschoo!"つまり無理矢理カタカナ表記すると「カーティシュー」、これをあなたのおくしゃみの瞬間にばっちり決めてみせるのです! ――ふぁ――かーてぃしゅーっ!

この場合は、おそらくくしゃみを留めるタイミングが大事なのだと思います。「くしゅん」の場合はかなり早い段階で抑えなければなりませんが、この場合は「かー」と続いているので、しばらく口の開いた状態で息を吐いているのだと思われます。そこから舌と歯を合わせて留め(たぶんここが「てぃ」)、あとは歯の隙間から息を吐き出す(「しゅー」)、といった感じでしょうか。このコツをつかむには何度かの訓練が必要なので、習得したい人は、今書いたようなわたくしの要領を得ないアドバイスを参考に頑張ってくださいねっ!

しかしですよ、こんなものはすでに存在しているくしゃみなのです。そう、独創性がないのであります! いったんくしゃみで遊ぶ愉しむと決めたからには、何かしらのクリエイティビティを発揮してですね、創作くしゃみにはげみたいではありませんか! そこでわたくしは考えました、自分に合うくしゃみとは何なのか......品を崩さなずになおかつ自己主張もひそかにこめた、そんなおくしゃみは、果たしてありえるのかと......!

そこでわたくしが考案したのが......ふぅっ............「かふん」......このくしゃみです、いかがでしょうか、読者の皆様――!

くしゃみの拡散を抑えるという上品さを残しつつ、このくしゃみが花粉症によるものであることを周囲に伝える......これぞエレガンスなおくしゃみの極み。ふっふっふ、しかもこれはすっごくむつかしいのでありますぞ(何だか偉そう)。

これは「くしゅん」のくしゃみの形がある程度役に立つのですが、そのままやると「くふんっ」にしかなりません。まず覚えておくべきは、くしゃみの出る前に口の中で留めると「く」の音になり、歯を下ろした口からは「しゅ」の音、口を閉じて鼻を使うと「ふ」の音になるということです。それさえわかれば、後ろの方の音は作りやすいです。

ですが、問題なのは前の「か」なのです。「く」はいったん留めれば出るのですが、「か」はある程度その口で息を吐いていないと出ません。しかし息が出ているということはもうくしゃみは高速度で外へ向かっているということ、口を閉めるのが間に合わなければそのまま「しゅー」か「ちゅー」となってしまいます。ということは、出かかっているくしゃみとちょっと出したところで留めて、そこから息を鼻に移さなければならないということ!

こいつはなかなかの大事《おおごと》ですよ。「かふん」に挑むあなたは、何度も口から「かはぁあん」になってしまい、あるいは盛大に失敗して「かはふっしゅーぅぅふ」と無様な醜態をさらしてしまうかもしれません。たとえ留められたとしても、そこからはどうしても最初の「か」がシンプルな"ka"ではなく"kha"になってしまうという先走るhの混入に悩まされることになるでしょう。〈ちょっと出して〉とは文字通り息を吐くのではないのです、「く」が内側で留めるのであれば、「か」は外に近いところで留める、そのような感覚なのです。

適度なお口でお留め差し上げる「か」と鼻にお風をお通し申し上げる「ふん」、この組み合わせがあってこそ「かふん」というおくしゃみがようやくお出ましになる、この隠れた努力と技術にこそ、きっと何かしらの品格なるものがあるのだと思います。

さしものわたくしも、かなり集中していないとこの「かふん」はできません。まだ習熟にはほど遠いのですが、いつか「かふん」というくしゃみにいつでも応じれる、そんな大人になりたいものです。


ある部屋の鍵

夜の小道 沈丁花の匂いが埃だらけのわたしの時間のなかに
10代の記憶と一緒に運ばれてきた
こころは突然鮮やかな煙で充満する

記憶はいつも季節に喚び起こされるような気がしてならない
ときには蜘蛛の巣のように枝を張り、葉がざわざわ生えて 丸い空を隠す
やがて色褪せて  冷たい灰色の土に散ってしまうけれど
決して消えてなくならない
からだの奥の奥の 微かに光る場所に降り積もって溶け込んでゆく

その場所は 到底わたしには見つけられない

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掠れ書き18

理論もなく。そう言うがかつてはそんなことはなかった、まず理論それから方法だった。いまはまず始めて行けるところまで行く。システムがないとモデルもなく。それでも手に触れるものを読み通しながら、目に留まるなにかを書き留める。書き留めたことのうごきを追い、聞こえない音を聞いて弾き、弾きながら聞こえるイメージのなかの音を聞いて書き、書きながら聞き、どこへ行くとも決めずに続け、手のうごきとかすかな声が呼び起こす何を。

一つの音は1つではなく、内側にそれでないものを併せた一瞬の残像、森の奥にはだれもいない、木の実が落葉に向かって降る前にその余韻が飛び散る綿毛。重さがなく見えない音さわれない音の長さや高さや強さで決められたうごかない点ではなく数字に変えられ測れる量をもった物体ではなくもう過ぎてしまった記憶あいまいな記憶のなかで方向と関係でしかなくそれもこの方向や定義できる関係でなくてうごいたあとで推測される。それも誤解かもしれない。動詞のない副詞の束、名詞のない接続詞の鎖、崩れ裂ける寸前の揺らぎの陽炎に。

クセナキスの本を訳しながら浮かぶ40年以上いっしょに、そう思っていたが。勉強したのか。したつもり。確率論、唯名論、ベルリンの本屋からソクラテス以前の断片、パリでアルチュセール、クワイン、フーコー、迷宮。ディオニュソスが山から降りてくる。古代ギリシャ音楽理論、交代する色のテトラコルド、ビザンチン聖歌の記譜法。ピッチでなく音程だ。コンピュータ・プログラミング、電子音響の60年間も変わらない新しさの古さ、ピアノ演奏技術。ありもしないのに。速い大きいたくさんの音ではなく。指揮。操作と管理の悦びにひきずられないように。ヨーロッパから離れアメリカから離れ忘れていたことを偶然の出会いを、安定した足場がどこにもない生活。

ことばにならないものをことばに、音にならないものを音に。手にした貧しい音のこだわりに音にならないものを映し、ことばをのせ、ことばにならないなにかがあるようにほのめかし。

音を微粒子の集まりに分解してからつなぎあわせても元に戻らない。アキレスと亀の溝を限りなく細くしても隙間を埋められないそれが。構造主義や認知主義への信仰がまだ。

もどる場所がない。ストックホルムのはずれキタキツネの佇む白夜かデルフィの山頂の茂みから遙かに海を見下ろす。もう時間もなく、数学や論理はうごき続けるものに向きあえず、伝統は今の時にあわせて作り変えられ作り上げられそれらしく振舞い。

聞こえる音は聞こえない音の皮膚、聞こえない音は聞き分けられない関係の束か。こだわりの移り変わるアクセントの。
 
いる場所がなく、音楽の話のできる仲間もいないところ。そうだろうか、知らないところでだれかが。そんな可能性も40年同じところに暮らしていれば気づかないうちに消えて、いつか状況に妥協していたのか。すぎてしまったことをあらためて求められてももう感覚はよみがえらない。だが現れてないものは外から見えない評価もできないなかで、ためらいと躓きをかさねて、だが確信には何の根拠もないからこんなものかもしれないと思いつつ。それが妥協でなく限界を認めるかたちですでにその外側を歩いていると言えるのはなぜか。

離れて生きる。それができるか。離れてもそれほど遠くには行かない、声が聞こえるところにいてもたがいに行き来することもない、人はすくなく場所は小さい。隠れて生きる。そのための庭は。エピクロスの仲間たちは。

耳は微細なちがいを聞き分けるが、微細なちがいを含んだかたちと、いつもちがう現われがあり、この両方がなければ続けられない。