2016年7月号 目次
失恋のあがき方
もういい大人だというのに、失恋をした。大人だから失恋していけないというわけではないのだけれど、その幕切れの曖昧さとともに、気持ちの整理がつかず、引きずり方がみっともない感じになってしまっているのだ。自分でも困り果てるほどに。
どれだけ相手を好きだったのかは、正直、心もとない。どことなく幻想だったような気もしないではない。でも、同時期にやってきた仕事面での大きな変化もあいまって、心が揺れに揺れている。仕事には身が入らず、彼と交わしたやり取りの読み解きに、ひとり余念がない。テクスト解析したところで、答えなど出るはずがないというのに。
こんなふうに落ち着かない心を持てあましたとき、今まで取ってきた策といえば、旅に出て長距離を歩き倒し、感傷にふける。あるいは、ひたすらに本を読んだり音楽を聴く、文章を書き殴る、という、ごくごくシンプルなものだった。お酒を飲むわけでもなく、手当たり次第に人に連絡するわけでもない。歩いた分だけ、あるいは読んだり聴いたりした分だけ、それが身になって、前に進めればいいと思って一人作業に徹した。自分の血肉になれば、次もまた開けるだろうと。
だけど、今回ばかりは一人でどうにもできず、人に会っては、恥ずかしさも厭わず、恋の始まりから終わりまで、全ストーリーを開陳し続けている。話せば話しただけ、痛みが薄らいでいくような錯覚にとらわれているんだろう。途切れない気持ちに楔を打ってほしくて、いろんな人に電話をかけたりメールをしたり、お酒を飲みにいったりと忙しい。散財している。でも、友人知人たちからの温かくも厳しいアドバイスが、本当にありがたい。
Lineでのやりとりについては、相手の文面の分量の5分の1しか返してはならないとか、3か月は何も連絡をしてはならないとか、とてもとても具体的な助言もある。恋愛マスターのアドバイスには蒙が開かれる思いだ。
相手のSNSでの近況をチェックし続けてしまうと告白すれば、「そういうのはネットストーカーだ、大切な時間を無駄にしないで」と叱られ、そうだもうやめようと固く誓う一方で、その翌日に「そんなのパブリックなものだから罪悪感は必要なし。見ていいんだよ」というもう一人の意見を聞いて、固い決意もむなしく再びはずみがついてしまったりと、ゆらゆらしている。
ふと我に返れば、こんな情けなさマックスの状況にもかかわらず、アドバイスの中途でみんなが聞かせてくれるそれぞれの恋愛譚には時に心躍り、慰められもする。私の場合はね...という一人称語りをたくさん聞けて、それぞれの知らなかった一面を知ることにもなった2ヵ月あまりだ。
昨日お酒をともにした20歳あまり年上の女性は、こんな話をしてくれた。その方は今の旦那さんと付き合い始めたころ、相手からの猛アピールで、職場に毎日16時に電話がかかってきたという。毎日メールとか、毎日Lineとかでなくて、職場に毎日電話の時代だ。それですっかりほだされてしまって、二人が付き合うことになった途端、ふと潮を引くように彼からの連絡が途絶えたのだとか。これはいったいどういうことなの? と困惑して、大混乱に陥った彼女は、相手からの連絡を待って何ものどを通らない日々を過ごし、もう待つのは無理、というタイミングでいよいよ彼に電話をかけたのだそうだ。
すると、「もう二人の関係は大丈夫だと思って安心してしまった」と、気の抜けるような返事が返ってきたとか。認識違いでひとり思い悩んでいただけ、ということもある。「だから連絡がこないって、そういうことかもしれないよ?」とクラフトビールを片手に彼女は明るく笑いかけてくれて、「いえ、残念ながら違うんです......」と私の場合は否定することしかできなかったけれども、なんだかちょっと救われる思いだった。
140 だろう、ね
だろう、だろうって言う。
きょうの日本語は、
あした、何になるのだろう。
あ、知ることの怖さ。
だらん、とする日本語を、
たいせつにしてきた。
身を、心を、(魂を、)
じんたいの奥に垂らそう、だらん。
いきのを を、
ネリー・ナウマンは垂らす。
どぐうの中線に、
じんたいの井戸から、
深いどろんこを汲む。
あ、知ることの愉しさ。
(ネリー・ナウマンは人類学、考古学、日本学......者。土偶のまんなかに胸から臍まで垂れるラインを「いきのを」と彼女は名づけた。「を」の一つの意味は〈紐(緒)〉で、それに「を」が懸けられているのだろうと思うけれども、その「を」が分からない。「をのこ」とか「をみな」とか言うときの「を」だろう。「を」には〈小さい〉という意味もあった。〈井戸尻考古館にて〉)
梅雨の晴れ間
今年の夏も首都圏は水不足らしいとテレビが言う。どうしても、雨が降ると気持ちがどんよりするけれど、雨が降らないと困ることも多い。最近、気づいたのは、この時期、たくさんのアジサイが見られる場所が増えたということ。しかも、少し前は一般的な赤や青のアジサイが多かったのだけれど、最近はさまざまな種類のアジサイが見られることが多くなった。
かく言うウチにも、渦アジサイという古くからの品種が今年は十数個の花をつけた。うちのは青紫の花をつけている。梅雨の長い雨の中をアジサイの花を見ながら過ごすというのは、春にサクラを愛でる日本人の鬱陶しい季節なりの楽しみ方なのかもしれない。
そう言えば、鎌倉にあるアジサイの参道で有名だったある寺は、今、アジサイがなくなったらしい。参道の改修でアジサイの植栽を動かしたくなったため、今までのアジサイは南三陸のお寺に譲ったとのことだった。
鎌倉のアジサイも東北で人々の心を潤すなら、それはなんともうれしいことだ。
仙台ネイティブのつぶやき(15)森の植物園
梅雨の合間をぬって、久しぶりに近くの仙台市野草園に上ってみた。野草園は、大年寺山という標高100メートルほどの丘陵地にある。東京など南方面から新幹線で帰路に着き仙台到着というとき、進行方向に向かって左になだらかな姿を見せるのがこの山だ。山にはその名が示すように寺があり、伊達家の4代以降の藩主も眠っている。
園に入ると、まるで緑濃い夏山に入り込んだようだった。この日は30度近い気温だというのに、高い木が強い陽射しをさえぎり、生い茂る草が前日までの雨を抱き込んで、空気は湿り気を帯びひんやりしている。高いところで鳥がさえずる。もちろん園をめぐる道は整えられているけれど、細い道は両側から伸びる草をかきわけるようにして進んだ。
「ハギの丘」「どんぐり山」と名づけられたエリアを歩き、目にしみるような青いエゾアジサイや白く浮き立つヤマアジサイを眺めた。ところどころに小さな池がある。とうに花の終わったあやめ池には、ザリガニなのか何やらうごめく生きものの気配。沢の近くに設けられた水琴窟の前でかすかに響く鐘のような音を聞き、斜面を上がって高山植物の植えこまれたエリアをめぐった。
子どものころは、家に近いということもあってよく遊びにきた。春は池でオタマジャクシをとり、秋は萩のトンネルをくぐる。ドングリを拾ったり、うねりのある芝生の上を走り回るのもおもしろかった。
あのころは園の拡張期で、こっちにロックガーデンができた、湿っぽい沢水が流れるところに水琴窟という不思議なものができた、と園の地図をじぶんの頭の中で広げていった。その地図はすっかり雲散霧消して、迷いながら山道をあっちこっちふらふら。大丈夫、クマと遭遇することはないんだからとじぶんにいい聞かせていると、おっと!細い道で鉢合わせしたのは、猫だ。
園を取り囲む網のフェンス越しに、住宅街の屋根が見える。大年寺山の上には3基のテレビ塔がそびえ立つし、急峻な斜面には団地が造成されている。20年ほど前にはマンションも建設された。なのに、ここだけは深い森。よくもまあ、ここにこうした植物園をつくり、守り続けてくれたものだという感慨が湧いてくる。
山の地形をそのままに、近郊の草木を移植して野草だけを集めた植物園が開園したのは昭和29年(1954)のことだった。そこには、戦中戦後の仙台近郊の山々の荒廃に危機感を抱いたある学者の強い思いがあった。化学者でのちに仙台名誉市民にもなった加藤多喜雄さんだ。仙台では加藤4兄弟として知られた学者一家のご長男で、次男の愛雄さん、三男の陸奥雄さん、四男の磐雄さんともに理学者でありながら、仙台の戦後のまちづくりにも注力された。加藤多喜雄さんのこんな文が残っている。
「戦後、仙台の野山の荒廃はあまりにもひどい。近郊の山々の立ち木は惜しげもなく次々と切られ、開墾されて畑地となり、あるいは宅地と化し、昔日の面影はどこにもない。戦前に愛でた野山の草花はブルドーザーに掘り起こされ、あるいは踏みにじられ、わずかに生き延びた野草は、水辺を求めて畑地や宅地の片隅に呻吟している。これら貴重な山野草をいまにして保護の手を差し伸べないと絶滅するおそれがある。仙台の自然を守るために市は応分の力を貸して欲しい。」(『野草園春秋』河北新報社)
加藤4兄弟は博物学者だった父親に連れられ、子ども時代から仙台近郊の山々を植物採集に歩いたと聞く。おそらく、人が手を入れながら維持する二次林の健全な姿と、モミとイヌブナが生い茂る仙台地方の極相林の姿、そしてそこに育まれてきたかわいらしい山野草の数々を、しっかりと眺めからだに刻みこんでいたのだろう。加藤さんは当時の市長に直談判し、地すべり地帯でもあったこの山への野草植物園の設置にこぎつけた。
賛同して協力を惜しまなかったのは、みんな明治生まれの人々だ。彼らは、仙台の街を取り囲む丘陵地の豊かな森の姿をじぶんの中に基準として持ち、戦時中の森の伐採や戦後の宅地開発をそれに照らしあわせながら、これはまずいと眺めていたに違いない。
仙台市内、また宮城県内のあちこちから山野草が採集され、ハゲ山にモミをはじめとする樹木が植えこまれ、それには宮城県の農業高校の生徒たちも一役買った。
60年が経ったいま、9万5千平方メートルの園には、約1000種が根づいている。植えられたとき高さが2メートルにも満たなかったモミは、天を突くような高さに育った。ゆっくり歩くと、希少種の山野草を目にするだけでなく、私たちが雑草として片づけている植物の名前も教えられる。当時、県内の山を踏み分けて一種でも多くと植物採集に歩いた人たちの熱意を思わずにいられない。
それにしても、自然園としての強い性格を持つ植物園を維持管理していくのは難しいと痛感させられた。園は、私が子どものころの印象とはだいぶ違っている。それは樹木が高さ、樹勢ともに増し、植物が群落に育っているからだろう。森の遷移が進み深い森になれば、その下に育つ草が影響を受ける。そこが、バラやチューリップのような栽培種だけを植え、人が100パーセント管理化におく植物園とは決定的に違う。自然の森は動き続け、とどまることはないのだ。
高山植物区で、麦わらぼうしをかぶり一心に手入れをする女の人がいた。きびしい環境で育つというコマクサが数株、ピンク色の花を咲かせている。たずねると、「花を咲かせる株もあるし、あたりにはもう種が散らばっているから、それを傷めないようにしながらほかの草を抜くんです。そういうところがいっぱいあって追いついていなくて」という。どこまで手を加えるのか、手を出したり引っ込めたり、園の方たちは悩みながら仕事ではないのだろうか。自然にどう向き合うか。野草園は、私たちにそのかかわりのあり方を問いかけてもいる。
流域論
川の中を川が流れている
ゆるやかに曲がりゆるやかに流れ下る
ウイスキー色をした大きな川のまんなかに
緑と乳白色の中間のような新鮮な冷たい川が
大きな川を遡上するように激しく流れてゆく
流れは強烈な力を感じさせて
流れと流れがせめぎあう境界面に
いくつもの渦が生じている
一方には時計回り
反対側では反時計回り
記憶をわざと混乱させるような渦たちは
二つの背反する時を見せようとでもいうのだろうか
でも不思議だ、ここには季節がない
緯度もなく気候もなく夜もなく昼もない
まるで草原を思わせる広い河原にぼくは立ち
ゆたかな焦茶色をしたしずかな水にむかって
枯れ枝を何本か投げてみる
最初は小さな枝だ、指ほどの小枝
それから竹の物差し程度の長さのもの
大人の腕ほどの太さのもの
野球のバットのようなもの
ついには両手で抱える大きな枝だ
投げるたびに水面でしぶきが撥ねて
それに興奮した魚たちも飛び跳ねる
飛び跳ねた魚たちが水中に帰るたび
生命の同心円がいくつも干渉しながら広がる
それからむかし弟に聞いた話を
ぼんやりと思い出した
それは誰かの短編小説で
タイトルは「川の第三の土手」
筋はまるで覚えていないけれど
たしかブラジルのどこかの地方の川岸に住む少年の
父親があるとき小舟で川に出てゆき
そのまま岸辺に戻ることを拒否し
こちらの岸でも向こう岸でもなく
ぐるぐると川をまわって生きているという話だったのではないか
第三の土手を求めて
あるいは父親のその姿を見て少年のほうが
「父さんが求めているのは第三の土手だ」と思ったのか
それともまったくちがう話だったのか
弟は「ぼくはぼくの第三の土手を探しに行く」といって
ブラジルに行き
アマゾン河をマナウスまで溯っていった
それからどうしたのか知らない
もう三十年も会っていない
あの弟は誰だったのか
最後にもらった絵はがきはマンゴーの樹の写真で
「こんな樹の下に寝て熟した実が
落ちてくるのを待ってます」
と暢気なことが書かれていた
ぼくには妹もいて
活発な子だった
子供のころぼくらが住んでいたのは
水郷と呼ばれる土地で
巨大な三本の川が並行して流れ
デルタとデルタが重なり合って
人々は氾濫原に住んだ
住むために村の周囲を土で固めて
洪水に備えるとともに
どの家も小舟をもって
必要に応じてそれを使った
そこは水の王国、泥色の水の中に
鯉や鮒や鰻やすっぽんが住み
それらが獲れればぼくらはそれを食べた
妹はまだ小学生なのに祖父に教わって
うまく櫓を漕げるようになり
釣りの仕掛けも上手だった
妹はその後ルイジアナに住むことになり
ミシシッピ水系で釣った
なまずのフライをよく食べているといっていた
でも彼女にもずいぶん会っていない
私たちの生涯はすれちがいの連続で
それだけに子供時代が大切に思えてくる
さびしいけれど輝かしい時だった
金魚や亀を大切に育てていたころだ
昔の話だが
(Let bygones be bygones...)
それから平野の成立について考えることがあった
思えば平野にしか住んだことがない
都市にしか住んだことがない
港のある町にしか住んだことがない
人間だらけの土地にしか住んだことがない
それでどれだけのものを失ってきただろう
何が自分の人生に欠けているのだろう
すべての平野は川の造形物であり
平野の多くの部分が湿原であり
その湿原を水田に転換してきたのが
日本列島の歴史だったのだ
恐ろしくなるほどの米の単一耕作
稲以外の草をすべて排除した光景を
美しいと思う感受性が
さくらが一斉に咲き一斉に散ることも
美しいと思うのか
「そういうことだろうね」と友人がいった
「サクラというのはサの神の座のこと
ほら、磐座というときの座とおなじさ
そしてサというのは稲の神のことで
それに仕える少女たちをサオトメと呼ぶ
稲の苗がサナエで
それを植える月がサツキだよ」
ああ、そんな風に考えたことはなかった
そんなことも知らずに米を食ったり
桜をうとましく思ったりしながら
半世紀以上も生きてきたわけだ
われながら情けない話だな
それでも稲は稲で不思議な旅をしてきた
熱帯植物がしだいに北にむかい
河口近くの平野から川沿いに上流にむかい
列島のすみずみまで
Oryzaがゆきわたった
それで生きてきた
それは貨幣の代わりでもあり
それが支配/非支配を決めた
虐げられた人々を苦しめた
この穀物にみちびかれながら
人々は川をさかのぼり
新たな土地をひらき
それだけ山が飼いならされ
それだけすべてがおとなしくなった
恐いのは海流がもたらす
冷たい夏の風
あるいは思いがけず生じる日照り、渇水
それで実のない穂がつけば
人が死に、売られ、土地を追われることもあった
それはいろいろ無理していたからにちがいない
人間が人間に無理を強いていたにちがいない
土地にも、他の植物や獣たちにも
無理ばかりさせていたにちがいない
人口をむりやり増やしたり減らしたり
そんなことをしながら生きてゆくしかないのか
もう気持ちを切り替えようと
別の国に来てみた
制服姿の中学生が molecular perception
とはどういう意味かと訊ねてきた
個々の分子が環境を読み取っているということだろうか
わからないので曖昧に笑って首を振った
ここは絵はがきの宛名面の四分の三が隠れる
くらい大きな切手を貼らなくてはならない国で
絵はがきの写真は顔半分まで
水に潜った水牛だ
仕事のあいだに暑さを避けて体を冷やしているのか
みずからを洗礼しているのか
絵はがきとまったくおなじ姿勢で
別の水牛がそこにいる
働いてくれてありがとう
でもきみも働かされるのはいやだろうね
しばらく休んでいるといい
その飼い主から丸木舟を借りることができたので
これから上流をめざしてみようと思う
この大河のまんなかにも
あの新鮮な冷たい川がある
緑と乳白色をして
かなりの勢いで流れている
上流にむかって、谷間にむかって
山地にむかって、始まりにむかって
うまく操るだけで漕がなくても丸木舟は進む
一世紀を十世紀をさかのぼってみたい
一万年十万年をさかのぼってみたい
土地の削れと堆積を同時に見たい
ぼくが行かなければ誰も行かない
誰にも見えないこの川の第三の岸辺への途上で
ガムランとゴーヤ
ある流れで、バリ舞踊をすこしだけ習う機会があった。このダンスは、思った以上にかなりハードで、ガムランをうしろに一見緩やかに、気楽に踊っているようにみえるが、体力をとても消耗する。
まず、基本の姿勢(アガム)をおしえてもらう。アガムは腕を胸あたりの位置にあげておかなければならない。目と胸の近くに手首を近づけ、手のひらを広げる。重心は傾けながらも地面へ体重をかけていく。この立ち姿勢を維持するのが難しい。先生によると、腰やお尻の位置を調整しているうちに、ストンと楽になる場所があるらしいのだけれど、そう簡単には見つからない。楽なところを探しているうちに、二の腕と太ももが痺れてくる。とにかく疲れる。
踊りは「静」のかたちがいちばん難しいのかもしれない。足がつりそうになりながらも、なんとかすこしだけアガムに慣れてきたとき、やっとガムランの音が耳に入ってくるようになる。ボーンと響くゴングや太鼓の音は怪しさよりも爽やかな風が抜けていく感覚で、何回も繰り返される音に身体はすぐに馴染む。音に合わせて目玉や首を動かすのがおもしろい。ひとつひとつの動きに意味があり、それは不思議で、奇妙で、とても神聖だ。踊りのおもしろさは、普段気にも留めない指先や手首・足首の関節に意識をもっていくことにあるとおもう。血管の巡っているところを確かめていくように、探るように、音にあわせて力を一瞬いれたり、抜いたりすることは、どんな踊りにも共通する。
そういえば昔、わたしの兄がガムランのCDを聴き漁っている時期があった。夜な夜なとなりの部屋から聞こえてくるガムランの音階は、小学生のわたしにはすこし不気味な記憶として残っている。兄は、バリのガムランよりもジャワのガムランを好んで聴いていて、ゆったりとした静かな音をなぜか植物たちにも聴かせていた。どうやら、それを聴かせると、彼が育てている野菜などの植物はどんどんのびて元気になるらしかった。
そのようなことを興奮気味に話す兄を思い出したので、わたしも自宅で育てはじめたゴーヤにガムランを聴かせてみようと思い立った。ただでさえぐんぐんのびているゴーヤがガムランを聴いたら、どうなってしまうのだろう?梅雨のしっとりした天気のなか窓を開け、プランターに向けてガムランのCDを流す。風のなかにやわらかく溶けていく。心地よい。
夕涼みをしながらいつの間にか眠ってしまい、気がつけば夜になっていた。次の日の朝見てみると、くるんとうずを巻いたツルのとなりに、黄色い花が咲いている。
ゴーヤサワーを飲める日は近い。
グロッソラリー ―ない ので ある―(21)
「1月1日:『やっぱり怒られるのって嫌だろ。自分がいろいろ怒られてきたから、そういう気持ちよくわかるんだよな。怒らないっていうか怒れない。それに怒ったほうも怒られたほうも、そのあとの空気、すごく気まずい感じになるだろ。あれも苦手なんだよな。わかるだろ。だから俺はいつも安定した気持ちでいたいと思ってるんだよ』」。
ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!
白いブリーフに両足を通しハニカマレタ顔で、サイクロイドヴォールト・グランドツアーに徒歩で出かける。テルケル派とすれ違っても無視。犬儒派には平手打ち。やがて最恵国待遇を受けている国へ入る。だが西へ旅することだけは避ける。マイケルまたはミカエルのラッパが未熟と聞く。ひとまずベンサムとミルには同調しておくとしよう。
川 ̄_ゝ ̄)ノ ハロー♪
「漫画脳」「ゲーム脳」による頭の幼稚化が指摘されている。この国をもう一度本気で建て直すなら、肯定的に受け止めるべきだ。はじまりは全てゼロ、つまりプリミティブな状態にある。維新から一等国になり、12歳の少年が敗戦後に奮闘し、蓄積したものが瓦解した。一周したのだ。明日があるさ。漫画ともゲームとも縁遠い自分が言う。
ファイトーー!( ゚ロ゚)乂(゚ロ゚ )イッパーーツ!!
全世界があまりに下らないから、ぶっとんでしまった。人類は、非宗教的な万物の創造主が仕掛けた、人生における全ての罠――愛、家庭、友情、結婚、宗教、教育、健康、政治、経済、芸術、文化などの落とし穴から抜け出せなくなってしまった。メシア待望論が出るのも道理である。だがメシアその人もまた、人類であることに違いはあるまい。
(--、)ヾ(^^ )なくんじゃないよ
【備忘録】:備忘録を書くこと。
(`L_` ) ククク
人が生まれると関係者はこぞって喜び、人が死ぬと関係者はこぞって悲しむ。どちらも不自然な反応だ。無から有になる。これほど気持ちが悪くておぞましい現象が他にあるだろうか。有から無になる。これは日常的なことだ。物を紛失する、食べ物をたいらげるなど挙げたらきりがない。両方に感情移入するにはどんなコツがあるのだろうか。
只今 \( ̄^ ̄)/ 参上!!
「1月1日:『怒りっぽい人っているだろ。ああいうのはほんとに苦手だな。特に急に怒り出す人。いわゆる瞬間湯沸かし器っていう人。しかもいつ怒りだすかわからないんだよな。こっちは普通の話をしているのに、いきなりどなりつけるようにして返事してくるんだよ。参っちゃうよな。会社にも一人いるんだけど、まさに腫れ物だよ』」。
きーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ"彡☆
人生の一切が徒労である、という言葉をよく耳目にする。誰の目から見て何が徒労だというのか。仮に完成間近の建造物が、地震で灰燼に帰したとしても、そういうものだとする心があればいい。嘆き悲しんだり、無駄な努力と言ってみたりすることはないはずだ。徒労と思う心の貧しさが徒労である。人生の一切が無意味な苦痛だとしても。
<(゚ロ゚;)> ノォオオオオオ!!
老境が閑古鳥の巣窟とはな。昔は目的があって友達づきあいをしとったが、計算高さやそれが導いた結果は、なんの尾も引いていない。尾長鳥じゃなかったんじゃろ。今じゃ実人生を生きる市民鳥への羨望の念を抱くのもしばしばじゃ。セブン・アップ・オア・ダウンで人生の文脈を誰かと入れ替えたいね。ロウキョウという名の鳥になる前に。
゚〜~〜(゚ω゚=)〜~〜゚ ポケー
何も知らずにゴーヤチャンプルー。♪あ〜あ無知無知。銭湯の洗い場はいつも裸だらけ。♪あ〜あ不思議不思議と。死んだ人たちは生きている人たちより人気がある。♪あ〜あ当然当然と。いっそ北欧に行ってトネリコの木からジャンプしてみるか。♪あ〜あ無理無理か。こうなったら角界にでも入ってやる。♪あ〜あどすこいどすこいと。
ヘ(^o^ヘ)(/^o^)/ヘ(^o^ヘ)(/^o^)/
「卒業おめでとう。では最後に先生から一言だけ。死を忘れるな! いや、そうじゃなくて。えー、現代の芸術家にとって、問題なのは美学的個性であって、実生活上の個性ではない。芸術家とは、作品の創造者のことであって、日常些事の世界に生きる人間のことではない! 一粒の砂の中に世界を見、一本の野の花に天国を見るのだ!」
「(゚ペ)ありゃ?
「1月1日:『学校行ってる間はいいぞ。いろんな厄介事はあるんだろうけど、何か責任を取らなきゃならないわけじゃないし、それに自由度が高いからな。俺も戻りたいよ。小学校でも中学校でもいい。会社のつまらなさったらないぞ。会社というよりは仕事だな。朝っぱらから大して興味ない内容にほぼ半日かかずらわなきゃならないしな』」。
ε-(`=ω=´)ツマラナイ......
人間は無神経に屍の山を築いてきた。病死・事故死・自殺のどれかに分別できる。長生きのための研究は昔からなされているが、死に方のほうは原始時代のままである。希望は多々あろう。楽しい死、睡眠中の死、日時を選べる死、そして苦しまない死。こうした研究に成果があって、医学の進歩を唱えられる。少なくとも「現代」と呼べる。
(━_━)ゝウーム
求む! 健康な人!
柱| ̄m ̄) ウププッ
どの集団にも世話好きがいる。必要な場所を押さえ、一人ひとりに目を配り、各種の手配をし、喜んでもらおうと立ち振る舞う。だがその喜びの大きさは、思い込みの半分未満であることに気づかない。唯一の救いとしては、世話への感謝を示す上っ面な言動に接した時のみである。世話好きはそうしておのれの人生を他人を介して世話する。
(* ̄Oノ ̄*) ホーッホッホ!!
自分が人間界に向いていないのか、人間界が自分に向いていないのか。幼い頃から違和感を抱く度に考えて生きてきた。生きづらいと思いつつも、他ならぬこの違和感を拠りどころとしてきたのは認める。違和感は不必要へと成長する。こうなると勝手が違う。人間界云々など問題ではなくなり、消滅が危惧する点となり、精神的な支柱にもなる。
(_д_)。o0○ モァアーン
「1月1日:『結局、学生時代に何をやったかとか何に強い興味を持っていたかとか、そんなことがあとを引くからな。俺もいい歳だけど、やっぱり学生時代にやったこととどこかで結びついてるんだよな。飲みに行くのも会社の連中じゃなくて、高校や大学の頃のやつらだしな。当時の飲み方はすごかったぞ。ろくにカネ持ってなかったけど』」。
(\\__\\;)カネガナイ・・・
なんちゅうか、前からやる気がなかったんだなあ。やる気のないことナメクジのごとし。そんな掛け軸を買っちまったのがいけなかった。50万した。散財すること金持ちのごとし。こちらは70万じゃな。両方とも無駄じゃった。無駄なこと掛け軸のごとし。これが100万。赤ん坊からやり直したいね。今度は色紙に書いてもらうかな。んー。
・・・( ̄. ̄;)エット( ̄。 ̄;)アノォ( ̄- ̄;)ンー
成功の連続は、自らを危うい立場に置くことになる。失敗のほうは、自己回帰を促しひと時の内省的な人間ならしめる一方、成功は飛び去ったらそのままである。見境なく自己から離れゆき自分にも他人にも属さず、幽霊のように現世遊離した半端な存在なき存在となる。人間である以上は成功を求める。成功を成功としないことが肝要だ。
☆!☆?☆ (☆_◎) ☆!☆?☆チンプンカンプン
フランク・スターリングの心臓の法則を知って以来、戸板返しに夢中じゃ。全ての想像は忘れられた記憶に過ぎないしな。でもわしが七人いた場合、ラムゼー理論は成立するんじゃろうか。余は弾劾す! たまにはでかい声の一つでも出してみたいもんじゃよ。ア・プリオリな性格として、人生にも世界にも喜びのかけらも見出せないわしじゃ。
=①。①= ふにゃ?
おまえが山田なら、あいつはどうなるんだよ。俺ん中で山田はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。キミが山中なら、あいつはどうなるんだよ。俺ん中で山中はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。あなたも山田? もうどうしたらいいんだよ。いい加減にしてくれよ。俺ん中で山田はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。早くー。
( 。-x - )-x - )-x - ) シーン・・・
純一の歴史は古い。宇宙開闢以降、今日までかろうじて続いている。放擲されていることが、純一の純一たる所以であり、意味を保つための無防備な牙城である。適応能力が高いだけに、命を脅かされるの憂き目にも合う。地球に生物が誕生し、まもなく意識を持ち始めたところから、純一の地位は揺らいだ。目下、絶望のみが純一の友である。
ヘ(゚◇、゚)ノ ほへ〜???
ユーロ2016
私の父は、酔っぱらうとよく家に客を連れてきた。今から思えば、自慢の息子(?)を見せたかったのだろう。ただ、子どもの僕としては、父が帰ってくるのを楽しみに待っているのに、知らない人がやってきて、愛想笑いをしなきゃいけないのがすごく嫌だった。
さらに、悪いことに、客人に「お土産」を持たすのだ。相手に同じような子どもがいれば、昨日父が私にくれたはずのお土産を渡している。どこにでもいい顔をして、収拾がつかなくなる。。そんなおやじを思いださせたのが、ヨーロッパの難民問題。
ドイツも人道的に受け入れるといってみたものの110万人もの難民が来てしまい、悲鳴を上げてトルコに追い返す羽目に。イギリスは、移民や難民を受け入れるのをいやがりEUから離脱してしまった。ドイツと違って、デンマークは、早々にくぎを刺した。1月26日、難民申請をした者に1万クローネ(約17万円)を超える現金や所持品がある場合、徴収して難民の保護費用に充てるという法案が、デンマークで可決されたのだ。
デンマークといえば、かつて私たちが支援していたイラン系クルド難民の家族が暮らしている。最初のグループは、イラク戦争の時にヨルダン国境に避難したクルド人。イスラムとは異なるカカイという少数派で1980年代にイランから迫害され、イラクの難民キャンプで暮らしていた。イラク戦争で、イラン寄りの政権ができるとさらに迫害を受けヨルダンに逃げようとしたが、国境を閉ざされ、イラクとヨルダンの国境に挟まれたノーマンズランドで暮らしていた。
アザッドは、その中の一人だったが、お金が必要だったので、米軍の通訳として雇われた。それでファルージャのオペレーションに連れていかれたが、テロリストの襲撃を受けた。その時ハマーという軍用車の中で4人の米兵に挟まれていた。「隊長は、銃を渡して、『これで守れ』といってきた。僕は、そんなのは初めてだったので、できませんといったんだ。基地に戻ってきたらキャプテンに怒られた。なんで撃たなかったんだと。それで、100周基地を走れといわれた」
そうこうしているうちに、国境の難民たちは、デンマークが受け入れることが決定された。アザッドは、乗り遅れてしまった。米軍の通訳はこりごりだと思って、国境に戻ってきた時は遅すぎた。仲間たちはヨルダンの難民キャンプに移されデンマーク行の準備をしていたのだ。しかし、アザッドは転んでもただで起きるようなやわな人間ではなかった。米軍に頼んで、ワールドパスポートを発行してもらったという。
ワールドパスポート? アザッドが嬉しそうに、写真を送ってきたが、私はそんなパスポート見たことがなかったし、国連の友人に聞いてもそんなの見たことないという。なんか、だまされているんじゃないかと心配していたが、2013年に、彼は、そのパスポートでまんまとイラクを抜け出しデンマークにたどり着いたのだ。
再会したアザッドはすっかりと立派な青年になっていた。コペンハーゲンの市役所で、難民相談のアルバイトをし、ちゃんと税金を払っている。デンマーク人として生まれ変わったかのようだ。「デンマークは素晴らしい国。民主主義があるから、未来がみえる」
アザッドに連れられてデンマークとドイツの国境の町に行くことになった。そこには、最近たどり着いた難民が収容されているセンターがある。デンマーク政府が彼らに市民権を与えるかどうか判断するまでの間収容されるのだ。彼の両親や兄弟が昨年トルコからゴムボートに乗ってギリシャにたどり着き、そこから陸路でデンマークに到着し、このセンターで暮らしていた。ブローカーに大体一人頭30万円払ったというから、それ程吹っ掛けられているわけでもなさそうだ。だからこそこれほどまでに大きな移動があったとだろう。うつ状態が続いていたお母さんもすっかり元気になり、デンマークについてから初孫も生まれた。なんだか、本当に幸せそうだった。
とかくシリア難民といえば、もう何でも許されるような風潮があり、それに便乗して多くの難民がヨーロッパに来てしまった。彼らの中には、自分だけが助かればいいと思っている人もいて、「逃げた人」というレッテルが張られてしまう。
一方アザッドのような国を持たないクルド人は、生まれたときから難民としてさまよい続けている。ようやくデンマークに市民としての居場所を見つけたのだ。これからは、デンマーク市民として生きていく、そんな希望に満ち溢れていた。
悔しかったけど、負けなかった
阪本順治監督の最新作「団地」が6月4日からロードショー公開されている。団地を舞台にしたSFだという前情報に幾分不安がよぎったけれど、坂本らしい心に残る映画だった。
息子を不慮の事故で亡くし、長く続けていた漢方薬局をたたんで団地に引っ越してきた初老の夫婦が主人公だ。藤山直美と岸部一徳が演じている。二人は現役引退後の暮らしを団地で静かに送るはずだったのに、住民たちが放っておかずに事件に巻き込まれていく・・・。さあどうする! という所で物語が飛躍する。この予想外の展開に、出演を依頼された俳優陣はみんな「阪本は頭がおかしくなったのではないか?」と心配したという。「本当にやりたいんだね?」と確認されたと阪本監督はインタビューで語っていて笑える。
細かくストリーを紹介してしまうと見る楽しみが減ってしまうので書かないが、決して奇異な映画ではない。飛躍はこの映画にとって必要なことだったのだと思う。
主人公の夫婦は「死んだ息子に会いたい」との思いから、この現実と違う世界に行くわけだけれど、全くのおとぎ話ではなく、時空間を超えるというちょっと科学的な後ろ盾を感じさせる仕立てになっている。SF映画と言われる所以だ。時空間を超えることについての説明は「なんとかがなんとかしてなんとかなって」という藤山直美のセリフによってみごとに省略されてちっとも科学的ではないのだけれど、センチメンタルに傾きすぎていなくていい。
主人公の夫婦は、息子を事故で無くした時にマスコミの取材でもみくちゃにされてしまう。加害者を糾弾するという大義名分があったとしても、悲しむ体力すら残らないほどマスコミは夫婦を追い詰めてしまうのだ。(こういう描写があるわけではなく、セリフから事情がわかってくる描き方も良い)
また、しがらみが無いと思って入居した団地では、井戸端会議に加わらないから、何となく噂話の対象にされ、噂話はエスカレートして妄想を生み、しだいに団地の住民が夫婦を追い詰めていく。悪いことをしているという自覚が無いからたちが悪い。もうこんなやつらに説明してわかってもらおうなんて無理だ、もう違う世界に連れて行く。主人公を助ける方法として取った阪本の筋書きは、突飛だと思われるのだろうし、このおもしろさは、わからないやつにはわからないだろうな。
映画の冒頭、おばあさんが落として割ってしまった鉢植えの花を異星人役の斉藤工が土ごとハンカチに包んで拾ってあげる場面が出てくる。枯れないように別の土(世界)に植えかえてあげるという行為が、この映画を象徴するものとして描かれていたのだと、あとになってわかった。わからないやつにはわからなくてもいい。話の通じないやつらが牛耳っている世のなかじゃないかと、最近いらだっていた私は、阪本に肩入れしながらこの映画を見たのだった。
もちろん、ただ違う世界に逃げましたというだけの話ではない。「悔しかったけど負けへんかったで」という印象的なセリフが、映画のクライマックスで語られる。息子さんに会えたらそう言うのよと、違う世界に出発する主人公に向かってつかのまの友人である君子さんが言うのだ。藤山直美演じる主人公のヒナ子は、そう言われて、ちょっと考えてからうなずく。何が悔しかったのか、何に負けなかったのか。
息子を失った哀しみに負けなかったということはもちろんだけれど、理不尽なマスコミにも、団地の心無い噂話にも負けなかった、魂を売って同化する事なんてしなかったという意味に私は受け取った。長い物には巻かれようと、不本意な転向はしなかった。そんなふうに読み取って胸を打たれた。最近の映画のつくられ方、売られ方、言いたいことはいっぱいあるだろう。阪本自身も自分にむかってこのセリフを言ったに違いない。「悔しかったけど、負けなかった」私も自分のためにこのセリフを覚えておきたいと思った。
祖父のアパート
母方の祖母の家から銭湯までは歩いて十分ほどの距離にあった。私がまだ小学校に上がったばかりの頃、昭和四十年代の半ばだが、その頃には毎日毎日風呂に入る家は少なかった。二日に一度、三日に一度、銭湯に行く程度が普通だった。汗をかいてどうしようもない日はたらいの中で行水をするか、炊事場の流しに頭を突っ込んで髪の毛を洗った。家に風呂もなかったし、毎日銭湯に行くのも家族四人だとそれなりに金がかかったからだ。
祖母の家は私の家から自転車で十分、歩いて三十分ほどの所にあった。両親は共働きだった。学校帰りに、どちらも自宅にいないという日があり、そんな時には学校からそのまま祖母の家に行き、父か母が迎えに来るのを待った。
私は祖母の家に預けられるのが嫌だった。当時、祖母の家は大人の出入りが多く自宅のようにはくつろげなかった。そして、そこへ父が迎えに来ると、祖母や周囲の人たちが酒肴の用意を始め、早々に父が酔い始めるのだ。
酔った父は普段気が弱い分、とても気が大きくなった。そして、母方の実家で飲んでいるということが、父にとってもはちょっとした緊張になっていたのか、いきなり母に向かって「おまえはどっちの味方や」と声を上げたり、諫めに入る母の弟の言葉に泣き声をあげたり、私としては一番見たくない父の顔がそこに出来上がるのだった。
元日のことだった。大人たちは朝から酒を飲み、怒鳴り合い、喧嘩をして、歌い、踊った。そして、大半の男たちはそのまま寝込み、ほとんどの女たちはしっかりとした足取りで片づけものをした。それが済むと、女たちは男たちと一緒に寝込んでいる子どもたちを起こして回る。自分の子どもも甥っ子もない。子どもと一括りにされた子どもたちが起こされ、「風呂行くで」というかけ声で外に出るのだった。
大人の女は母とその姉妹たち。子どもはそんな姉妹の息子や娘が幼稚園児から高校生まで総勢六人ほど。私たちは祖母の家から、銭湯に向かって歩き始めた。元日だというのにそれほど厚着をせずに出かけた。それでも、さほど寒いと感じなかったという記憶しかないのは、大晦日からの不規則な寝たり起きたりで、体温の調整がうまく行っていなかったせいではないのかと思う。子どもたちはみな冬だというのに、結構な薄着で銭湯へと向かっていた。
すると、母がふいに足を止めた。つられて、みんなが足を止める。大人の女たちはすぐ右手にあるアパートの二階に目を向ける。アパートは二階立てて、二階でも灯りがついている部屋は一つしかない。そこは祖父が住んでいたアパートだった。以前にも何度か来たことがある。このアパートの部屋には祖父の他にもう一人の祖母も居て、僕たちが行くとおやつを出してくれたりして、歓待してくれるのだった。そんなことを思っていると母が言う。
「おじいちゃんにお年玉もらっておいで」
私たちは歓声をあげて、アパートの階段を駆け上がると祖父の部屋のドアを叩く。いま思うとあれは母たちの祖父に対する嫌がらせだったような気がする。祖母の家から、銭湯に通う途中にわざわざ女と住んでいる祖父への嫌がらせだったに違いない。おかげで、祖父は元日の夕方、大勢の孫に急襲されるという羽目に陥ったのである。
「ようきたな。おめでとうさん」
祖父はそう言ったが明らかに動揺していた。それでも、ちり紙で千円札を一枚ずつ包んで、急拵えのぽち袋を作って私たちに配ってくれた。
「ご飯食べていく?」
祖父と一緒にいるもう一人のおばあちゃんが聞く。
「下でお母ちゃんが待ってるから」
そう言うと、もう一人のおばあちゃんは少し緊張した面もちになり、
「私もお年玉包むわ」
そう言って、祖父と同じようにぽち袋を作って孫たちに渡してくれるのだった。
私たちは礼を言って祖父の部屋を後にすると、戦利品であるぽち袋を自慢げに母たちに見せた。
「おじいちゃん、千円くれはった」
私がそう言うと、母は笑いながら、
「そらよかったなあ」
とアパートの二階を見上げる。
「それから、おばあちゃんも千円くれはった」
私がそう言うと、母は私をにらみつけた。
「ちゃう。あの人はおばあちゃんと違う。今井さんや」
母はそう吐き捨てるように言うと、銭湯へ向かって歩き始めた。私たちは祖父と一緒にいるおばあちゃんが、急にただの歳をとった女性のように感じられた。そして、その人が今井という名前なのかと、頭の中で繰り返した。
「おばあちゃんやない。今井さんや」
私はそう繰り返しつぶやきながら母たちの後を銭湯に向かった。
それからも祖父は別れたはずの祖母の家に神出鬼没に現れながら、毎日毎日酒を飲んで暮らした。
数年後に亡くなると、祖母の家で盛大に葬儀をしてもらった。そして、祖母の家系の先祖代々の墓の隣に、墓まで建ててもらって供養されているのだ。
私は祖父のことを幸せな人だと思うのだが、祖父自身がそう思っているのかどうかはわからない。そして、その後亡くなった祖母が本当に祖父を許していたのかどうかもわからない。
私がなぜそんなことを考えるのか。それは、いまから十年以上前に、祖父と祖母の子どもたち、つまり私の母とその兄弟たちがなにを考えたのか、隣り合って建っている祖父の墓と祖母の墓を眺め、「隣り合っているだけではかわいそうだ」と言い始めたのだ。そして、知らぬ間に二つの墓の骨を少しずつ隣の墓の骨と混ぜたらしいのだ。
それ以来、母方の親戚筋に悪いことばかりが起こるのだった。祖父か祖母、どちらかがあの世で機嫌を損ねているようにしか思えないのである。(了)
コトカタのはなし
空のうろこ
朝の椅子
うつばりのちり
弱起の月曜
寝癖のついた絵本
初号活字の鋳造マニュアル
指を折って
数え上げた言葉のちりを
コトカタに仕舞うのに
ギルシュは少し手間取った
それらがひかりのつぶでできていて
指のすきまから抜けてしまうのだ
ギルシュはいいわけのように
自分はひかりを乗り継いできたから
ひかりのこが
こえにまざるのだと言った
・・・・・・・・・・・・
*
コトカタは使いふるした蜜蜂の巣箱
名井島では島に流れ着いた「御用の済んだ人形」を容れておく
ギルシュが言葉のちりを運んできたコトカタには
ギルシュが入っている
コトカタの深い闇は 人形からひかりを吸い取って
ゆっくり ゆっくり 人形のからだを溶かしていくのだが
人形が人形でなくなるまでのあいだは
時折 島の猫が来て
カタコトとコトカタを揺すってやる
すると人形もカタコトとコトカタを中から揺すって応える
そうやって 島の猫は人形の話を聞いてやるのだ
ギルシュは とある小説に描かれたスフリスという街に棲む青年に愛玩されていた
島の猫は カタコトとコトカタを揺すっては
ギルシュの話をコトカタの闇から救ってやる
やがて
カタコトとコトカタを揺すっても
カタコトと返さない日がやってくる
それでも 島の猫は
コトカタをカタコトと揺すって
ギルシュのために
物語をかたりはじめる
〜名井島の小さなお話〜から
しもた屋之噺(174)
隣や近所のアパートから湧き上がるような叫び声が上がるのは、イタリアとスペインがヨーロッパ杯のサッカー試合をしているからです。イギリスの国民投票の後で、ヨーロッパ杯に熱狂する彼らを、少し不思議な心地で見つめる自分に気がつきます。イタリアに住み始めた頃は、未だ通貨がリラでしたから、今とは全く違った経済構造でした。今より閉鎖的だったとも言えるし、それなりに自己充足していた気もします。あの頃よりイタリアが特に豊かになった実感はあるかと問われると、よくわかりません。
ユーロが通貨として使われだしたころより、イタリア経済の価値観が、ヨーロッパの他国に把握しやすくなったのは確かでしょう。常に他国の経済との比較を強いられるのは、コンピュータで営業成績を監視される社員のような緊張感を、常に強いているとは思います。外国人が増えたかと言われれば、中国人は確かに増えましたが、それ以外は20年前と今とあまり違いはない気もします。
友人宅で頂いた桜んぼが美味で、どこで見つけたのか尋ねると、近くの中国人街に2軒だけ残る、イタリア人経営の八百屋でした。その主人曰く、現在では余程上質の商品を手に入れなければ、スーパーや中国人の商店には太刀打ちできないとこぼされたそうです。
文化面でも、それに近い精神的な圧迫を感じることはあります。種を蒔いて水をやり、出来るだけ陽に当てて育てようという姿勢から、何時どの程度の結果が期待できる、という期待値カードを首にぶら下げつつ、目に見える結果にばかりに、心を砕くようになった気がするのです。
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6月某日
マントヴァに朝早く出かけ、アルフォンソとフィリデイの話を聞く。「ピアノは動物のようだ。尾があり脚があり、鍵盤はさしずめ口を開けて歯が並んでいるよう。かかる動物に発音させたらどうなるか、撫でたらどう反応するか想像することから曲ができた」と言い、まず作曲者が演奏し、その後でアルフォンソが演奏する。作曲者が軽やかに演奏すると、鮮やかに動き回る動物の姿が生まれ、アルフォンソが丁寧に演奏すると、書かれている音楽が蘇るように感じられた。
昼前に家人と水谷川さんがマントヴァに着き、音楽祭の会場で昼食を摂っていると、トランペットのアンジェロ・カヴァッロに出会った。彼と一緒にアデスの演奏会をやり、ガスリーニの録音も一緒だった。先日はアルフォンソが、レッチェからの夜行寝台で偶然彼と同じ部屋になって、話が弾んだと聞いたばかりだった。
夕方「ピザネルロの間」で水谷川さんが演奏会の準備するのを眺めていると、肩を叩いて「ブルーノの息子のジョヴァンニだよ」と声を掛けられた。見るとカニーノの長男ジョヴァンニで、ちょうど連休だから子供を連れマントヴァの近くに宿をとり観光していて、偶然通りかかったと云う。結局面白がって演奏会まで聴いてくれる。
水谷川さんの演奏は、まるで空間に音が自然に広がってゆくようだった。開け放たれた窓から、演奏会の前半は鳥のさえずりが聴こえ、後半は葉を叩く驟雨の音が、彼女の音と美しく絡み合い、響きあった。そして、ほんの半世紀ほど前まで忘れ去られていたピザネルロの「トリスタンとイゾルデ」のフレスコ画、亡骸の累々とするトリスタンとランスロットの生々しい戦闘の場面は、無数のうめき声を絞り出すようにも見え、フィリップ・ニコライが黒死病の吹き荒れるなか「目覚めよと呼ぶ声あり」を書いた姿を、文字通り二重写しにしていた。
6月某日
「ヴェルディの家」に寄宿しているメキシコ人の生徒の誕生日祝いに食堂へ出かけた。「正統派ミラノ風カツレツ」なるメニューがあって何かと尋ねると、伝統的なレシピに沿って、牛肉を叩いて延ばしたものをバター油で揚げてあると云う。食指をそそられ頼んでみると、実に濃厚な味で美味ではあるが、繰返し食べられない。
パルマから通うシモーネが、レスピーギの「古風な舞曲とアリア」を市立音楽院のレッスンに持って来る。終曲のロンカルリは、ヴィジェーヴァノのロンカルリ基金と関係あるのかと気になって調べると、ヴィジェーヴァノは教皇の名を冠しただけで、作曲家のロンカルリとは無関係だった。シモーネが端正に音楽を纏めようとするのを、敢えて引留める。レスピーギとして演奏するなら、ファシズム建築の中央駅のような巨大なモニュメントを描くべきだろう。外人だから率直に言わせて貰えば、ダンヌンツィオでムッソリーニでしょうと話すと、少し困った顔をしながらも納得したようだった。レスピーギの編作を中世音楽として演奏してしまうと、根底にある時代背景が覆されてしまう。嫌いな部分を黒塗りにして目を瞑ってしまうと、本来音の裏側にあるべき息遣いが消されてしまう気がする。
6月某日
指揮科の学生の大学卒業試験。朝から先ずオーケストラとの試験があって、午後は小論文の口頭試問。小論文は各自、卒業試験に選択した作品について、何某か書かなければならない。
全員判で押したように「このように高名な作品を演奏する上で、自らの方法論を見出すことは大変難しい」と書いていて、インターネット世代の学生が名曲を演奏するのは、寧ろ先入観が先行して我々の頃より大変かも知れないと思う。そのうち二人は古今の指揮者の名演の演奏時間のリストが連綿と添付されていて、ところで今朝の自分の演奏時間は知っているのと思わず尋ねてしまった。自分はこの曲で何をどうしたい、何故なら自分はこう思うから、という素直な発言を望むのは、情報が氾濫する現在に於いては成立しえない理想論なのだろうか。
全てが終わって、生徒らが持ち寄ったシャンパンを開けて祝杯。
6月某日
息子を近所の喫茶店に預けて、小学校最後の通信簿を受取りにゆく。担任もクラスも5年間ずっと一緒だったし、息子には事あることに本当に好くして頂いたので、万感の思い。
息子を劇場に送ってゆき、そのまま彼が出演する「子供と魔法」を母と一緒に観劇する。気が付けば、まるで子供に戻ったかの錯覚を覚えた。全てが瑞々しく胸躍らせる、子供の頃の感受性に身を委ねる。バルコニー席から身を乗り出して見入っている母の背中の向こうに、息子たちの舞台を眺めていて、曲尾で主人公が「おかあさん」と歌ったところで、思わず涙が零れそうになる。
6月某日
家族と連れ立ち、久しぶりにレッツェノの漁師食堂へ出かける。食後、コモ行きのバスまで一時間程余裕があって湖の畔に降り、老人が釣り糸を垂れる姿をじっと眺める。アルボレルラというウグイ科の小魚が、目の前に何百何千と群れていて、先ずそれをサシ餌で釣ってから、アルボレルラを生餌にして鱒を狙う。老人に言わせると、「ここらの食堂ではラヴァネルロというスズキばかり食べさせるが、あれは苔やら水草を食べているから不味い。鱒は何といっても小魚しか喰わないから、身の味は格別だ」とのこと。
夕立が降ると予報でも言っていたが、空を見上げると、果たしてシュプルーゲン峠の辺りから、深い銀色に空が染まり稲光も差してきた。その昔、空を覆う雲をとばりに譬えたのは、見事な表現だと独りごちながら、まるで山水そのものの眼前の絶景に言葉を失う。
6月某日
音楽院で一日指揮のレッスン。何時も伴奏してくれるマルコの替りに、今日はパレルモ生れのエーリアが代理を務めた。彼は子供の頃からパレルモのマッシモ劇場の児童合唱団で歌っていて、ソロも任されたそうだ。ボエーム2幕の「ラッパとお馬さん頂戴よう!」をやらせて貰えたのが嬉しくて、と笑った。三度の飯よりオペラが好きで、ピアノで卒業資格を取った翌年バリトンでも卒業資格を取った。驚く程初見が出来るのだがピアノは独学のまま18歳まで教師について習ったことすらなかった。イタリアにいると、日本では一寸想像すらできない音楽家と出会うことがある。
ソルビアティに誘われて、ドゥオーモ脇の900年代美術館でモナルダのギターリサイタルに出かける。ガスリーニの「夜明け10分前」が演奏されたので、未亡人のシモーナ・カウチャも来ていた。70年代、シモーナはラウラ・アントネルリと並んで雑誌の表紙を飾っていたが、女優としては映画より寧ろ演劇で活躍したと聞いた。演奏会後シモーナから「この後ダルセナで、バッシさんが出したばかりの主人の伝記の発表会があってね。是非貴方もいらして下さらない?」と誘われる。バッシには、つい先日「天井桟敷友人会」で我々のCDの紹介をして貰ったばかりだったし、ソルビアティと暫く仕事の打合せの後で、合流する約束をした。
「ル・トロットワール・アラ・ダルセナ----係留地の歩道」は5月24日広場の昔の税関跡を造り替えたバーで、バッシの本の紹介は流行作家アンドレア・ピンケットが、モンダドーリから出版した小説の宣伝と抱合せになっていて、一面ピンケットのファンで溢れ返っている。40分ほどピンケットがあれこれ話している間中、我々のテーブルでは、一体どういうことになっているのか、不平不満が噴出していて、特にシモーナはすっかり気分を害して、今にも席を立とうかという勢いだった。漸くバッシの番になったかと思いきや、蚊の鳴くような繊細な声な上に、真面目腐った紹介を始めたものだから、途端に観衆は興味を失って騒ぎ始め、最早収集が付かなくなったその時、「今日は特別なゲストを招いております。ガスリーニ夫人のシモーナ・カウチャさんです」、と突然シモーナに助けを求めた。
目の前のシモーナは、突然別人のように凛とした女優のオーラを放って、すっと壇上へ向かった。すると、それまでの喧騒が嘘のように静まり返り、誰もが彼女の言葉に聴き入るではないか。見事な演技だった。彼女はガスリーニが毎日10分の音楽を書き上げることを習慣にしていた話をし、作品が出来上がると間髪入れずに、すぐに次の作品を手掛けていたこと、シェークスピアの戯曲を全部読み切ったことなどを絶妙に語り、壇を降りるときは喝采を浴びた。
席に戻った途端「さあ行きましょう」と促され席を立ち、そのまま近くの路面電車に飛び乗った。未だ人いきれの「ル・トロットワール」を路面電車で通り過ぎながら、「何て酷い一日なの。わたし本当に悔しいわ」と目を潤ませながら呟いた。
6月某日
夕刻、アルフォンソと連れ立ってソアヴェ通りの「音楽倉庫」で、ガスリーニのCDの紹介に出かける。プレゼンテーションの前、置いてある楽譜の中にすっかり草臥れたアロイス・ハーバの9重奏の古いポケットスコアを見つけて、思わず買った。10ユーロ也。
昨日会ったばかりのシモーナとアルフォンソ、それから出版社のガブリエレと4人で座談会。シモーナ曰く、ガスリーニの仕事机の上は、まだ亡くなったときのままで、何も手を付けられないという。読みかけのジョイスと、ブリテンの楽譜が開いたまま。当日CD会社が用意したCDはほぼ完売したと聞いた。
その後、アルフォンソの友人リッリと、劇団俳優のDとカクテルを呷りつつ話し込む。カクテルらしいカクテルを飲んだのは何十年ぶり。リッリは、ミラノの国立音楽院付属音楽高校設立当時から長年物理を教えていて、アルフォンソどころか、ミラノの我々の世代の音楽関係の友人の大半が彼女の生徒だった。彼らの子供時代の話を懐かしそうに話した。一方、昔のヒッピーのような風貌のDは、アルフォンソの親友で中学の同級生だが、アルフォンソも現在Dが何をしているのかよく知らない。演劇の俳優をしているのは確かだが、彼女はヌードモデルだし、Dも食い扶持のためポルノ男優をやっているようだと予め聞いていたので、どんな話をするのかと思いきや、シェーンベルグの作品19とロンコーニの現代演劇論について、それから現在の経済構造の中、アングラ新演劇を実現する困難について滔々と語り、実に話し上手だった。劇団俳優が最初に何を学ぶことは何かと尋ねると、「それはダンスだ」と答えた。身体を空間に解放すること。言葉云々はそれからだという。特に「舞踏」が彼にとっての演劇の原点だという。どんなポルノ男優なのか知らないが、興味深い。
6月某日
息子を合唱に送って行き、帰りしな、何年も通り過ぎるばかりだった教会に足を留める。合唱の練習場からほんの50メートルほど、カッロッビオの古い教会跡には、フランチェスコ・メッシーナの彫刻ばかりが展示されている。ずっと気になっていたのだが、いつも閉まっていると思い込んでいただけで、単に勘違いだった。73年にミラノ市がメッシーナにこの古い聖シスト教会をアトリエとして与え、メッシーナの没後そのまま市立メッシーナ美術館となって現在では100点以上の作品を有す、とある。
ブレラの学長まで勤め上げた彫刻家が、生涯のアトリエとしてこの古い教会の使用許可をミラノ市に提示し、その替り、朽ちかけていた教会の内装を自ら改装し、死後この中の自らの作品をすべて市に寄付する、という条件を持ち掛けたという。余り彫刻を鑑賞したことがなくて、どういう観点で何をみればよいのか、ずらりと並んだメッシーナの作品を眺めながら少しだけ戸惑った。どれも驚くほど表情が澄んでいて、目に焼き付いて離れない。どの作品も凛としたまなじりと、躍動感あふれる表情が印象的だが、特にムッソリーニ政権下、メッシーナが作ったムッソリーニの娘婿チャーノとエッダ・ムッソリーニの胸像を紹介する写真など、一緒に写り込んだエッダもメッシーナもそのどこか飄々とした表情が愉快ですらある。
父親の反対を押し切りユダヤ人の夫と結婚し、父親によって夫を殺され、その父親も市民によって殺された、普通想像もできない数奇の人生を送った男勝りのエッダは、ポーズを取りつつ冗談でも言っていたようにも見える。彼らの胸像の表情のぴんと緊張した美しさ。
メッシーナがジェノヴァで墓石彫刻で生計を立てていた若かりし頃、未来派のマリネッティに大いに影響を受けたと読み不思議に思う。ファシズムの台頭へと向かうダイナミズムに憧れる、そういう時代だったのだろうか。帰宅して思わず、生前のエッダのインタヴューをインターネットで聴く。隣の部屋からは、1920年にカセルラが書いた「11の子供のための小品」を、息子が練習している音が聴こえる。
(6月29日ミラノにて)
製本かい摘みましては(120)
カベヤ(左官業)だった祖父は引退してからセメントで石灯籠を作っていた。木型に独自配合のセメントを流して固め、表面を日がな細かくノミで打ち、組み立てる。つまりセメント製のなんちゃって石灯籠なんだけれども、他のなんちゃって切り株やなんちゃって岩にくらべると良くできていて好きだった。しかし小・中学生だった私と2つ上の姉は休日になるとこれに悩まされた。なんでもかんでもカセットテープに記録していた時代である。ノミを打つカンカンカンという音がテープにも入ってしまう。聞き慣れていたせいもあるだろうし実際その音は心地良くすらあったので、録音するときに邪魔にならないのが悪かった。再生すると、遠くに小さく澄んだ音でカンカンカン、、、。しかし、「じいちゃん、やめて」とは言えなかったんだよなあと、『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』の会場・東京国立近代美術館で、自身の声による〈声ノート〉を中心とした膨大な数のカセットテープと銅板を打つ音と姿、柔らかい声、低い鼻と華奢な体に、祖父を思い出したのだった。
吉増さんの〈怪物君〉を見る。こちら側からすれば、みすず書房から出た『怪物君』という詩集の手書き原稿を見ているわけで、いったいこの"声そのもの"としか言いようのないひと続きの途方もない文字列を、冊子という一定の大きさのページを束ねる印刷物の原稿にどうまとめたのか、そのチャレンジというか思い切りを可能にした関わるひとたちの強烈な愛に圧倒された。展示を観るまではこういうものを本にする必要があるのかと思っていたけれど、それは本を埋める言葉がそもそも声であることをこちらがすっかり忘れていた証拠だろう。1984年に青森県の高校生に向けて吉増さんが話した言葉を、展覧会の図録からここに引用する。
〈これからはみんなが自分で自分の言葉なり表現なりを磨いて、演奏して、歌っていかなきゃならない時代がくると思います。その時にこれは忠告めいたことになるかもしれませんが、ぜひ話し方、の訓練をしてください。話し方の訓練をするということは、聞き方の訓練をすることなんです。一所懸命聞く、ということは、自分の声も一所懸命聞いて下さい。自分の話し方も一所懸命、最愛の他人の声だと思って聞いて、それを育て上げるようにして下さい。そうすることによって、そこに乗るものが、知識であろうとあるいは感覚的なものであろうと、その言葉という乗り物に乗れば、素晴らしい宝船になってゆく。〉
吹き寄せ控えの二
その時の感じは褪せてゆき 遠くなり よびもどしても もどってこない 忘れてもかまわない 時がたつにつれて みちてくる別な感じがする
長い音 短い音 息継ぎの記号だけをつかって 音をかきとめ ちがう音がいっしょにならないように 入りをずらす フランス17世紀の鍵盤楽器をつま弾くやりかた ずれがあれば そこから奥行きがうまれ 切り口から 半透明の乱れがのぞく 数えられない ゆるい見はからい ゆれうごいて さだまりにくい すがたがすぎていく
連句の付けと転じは すすむのか もどるのか ちがう付けをためし やりなおすとき 向きはかわって 見えなかった脇道をすりぬけて もとの方向に近づくかもしれないが おなじ道には出られない
やりなおし つなぎかえ 折り目がすりへり 角のないところに角ができて 節目が移る つづけているとできてくる すこしずつなぞりながらすすむ線の跡を なるべく消さないで 折り重なりをほどきながら ひろげてのばす
即興が 音と 音が消えていき 消えそうになってまた 音になってもどってくるのを聞きつづけることで 時間を埋めているのか 消えかかる余韻を散らせる空間を すこしずつ造りあげているのか そういう手しごとを 記号をつかって紙の上にじかにかくか コンピュータのメモリにかきこめば 手続きの跡がそのまま保存され それをさまざまに読み解くもうひとつの手続きを通して 似たようでも それぞれちがう音の束を作り 空間の華になってひらき散っていく
音楽のあそびは 思想や感情 論理や意味でしばろうとする制度をさけて 人の知らない道をさがし 不安な旅をつづける