保護期間延長に関する「本の未来基金」の考え

本の未来基金

政府は10月30日、TPP11が6ヶ国目の批准を得たことで、12月30日に発効することが確定したと発表しました。これによって、既に前倒しで成立していた2016年の改正著作権法も同時に施行されることになり、我が国が1970年以来守って来た著作権の保護期間「死後50年」の原則は、「死後70年」原則へと延長されることになりました。

私たち「本の未来基金」は、故富田倫生の遺志を継いで青空文庫を支援するために設立されました。その立場から、青空文庫をはじめとする様々な草の根の文化活動に対する、この保護期間延長の悪影響を懸念します。また、国内での議論の蓄積を無視して保護期間がうやむやに延ばされてしまった経緯に抗議します。

日本では、2006年から2010年にかけて国内で慎重に議論を尽くし、保護期間の延長は見送られて来ました。2016年、政府はTPPでの米国の要求を受け入れる形で、いわば「TPPを成立させるためにはやむを得ない」という立場で、TPP発効と同時に保護期間を延長する内容の改正著作権法を前倒し成立させました。しかしその後、米国が離脱したTPP11では、各国の要求により期間延長は凍結されたのでした。

にもかかわらず、政府は全く理由を告げることもなく、今年6月にはTPP11でも保護期間延長が発効する内容に法改正を行い、延長を確定させてしまいました。

私たちはこの経緯を、「要するに政府は表向きの説明とは裏腹に保護期間延長の懸念など共有しておらず、TPPを奇貨として(何らかの事情で行いたかった)延長を断行した」と受け取るほか、理解の術を持ちません。そして、こうした考え方と行動を心から残念に思います。

しかし私たちは、政府はじめ期間延長を実現してしまった人々に対し、その責任を追及するより、私たちと共に未来への責任を果たして頂きたいと願います。私たちは先人たちの生きた証である多くの作品が死蔵や散逸を免れ、後世と世界の人々に届けられるよう、一層のデジタルアーカイブ振興策、不明権利者対策、そして作品の流通促進策を進めることを呼びかけます。また、私たち自身も、そうした活動により一層コミットして行きたいと考えます。

本の未来基金

コンサートのおさそい

小泉英政

谷川俊太郎*李政美*高橋悠治コンサート
ー暮らしの中に平和のたねを蓄えるー

2019年1月13日(日)
【開場】13:30【開演】14:00
【会場】東京・両国シアターΧ
【料金3,000円(席は埋まりつつあります)
主催 憲法いいね!の会 kenpoiine@uni-f3ctory.jp

  *

空気のように

少年時代
戦争の罪深さと
憲法のかがやきを知った

大人になるにしたがって
憲法はいつのまにか
空気のような存在になった

あることを意識などしない
あって当りまえ
それでいいだろう

憲法が暗雲のように
ぼくたちの頭上に重くのしかかっては
困る

憲法は権力者の上にのしかかって
暴走に歯止めをかけるものだが
勝手な解釈を押し通して
今や憲法も虫食いだらけ
さらに大きく作り替え
ぼくたちの上に
重しを
のせようとしている

憲法が在ったって
私たちは疎外されている
憲法は私たちを守ってくれない
でもそれは、
憲法が悪いわけではない

憲法を疎んじる人たちと向き合い
声を上げることをあきらめない
不断の努力(第12条)が
求められている
象徴的な場所が沖縄だ

権力者に都合のいいように
一字たりとも
変えさせない

空気のように
日々の暮らしの
かたわらに
あることさえ意識などしない
あって当たりまえ
このままで
いい

  *

ひろがりを求めて

  悠治さんに相談して

僕にとって高橋悠治さんは、最初から、著名なピアニストとしてではなく、水牛楽団の高橋悠治さん(以後、悠治さん)として出会った。
水牛楽団は、タイの抵抗歌を日本に紹介するために、1978年に結成された。その後、タイの歌にとどまらず、ポーランドの禁止された歌を歌ったた。その後、タイの歌にとどまらず、ポーランドの禁止された歌を歌ったり、「カオル(東山薫)の歌」や「よね(小泉よね)の歌」、「管制塔の歌」など、三里塚の歌も作った。

僕が悠治さんとパートナーの八巻美恵さん(以後、美恵さん)と出会ったのは、いつだったのか正確には思い出せないが、1978年頃、東京の三里塚関係の集会の控え室で、前田俊彦さんから紹介された様な気がする。それから、何度か水牛楽団の演奏会を見させてもらった。

水牛楽団が、日本に紹介したタイの抵抗歌の代表的な曲は「人と水牛」で、カラワン楽団の歌だ。カラワン楽団は、1974年に4人の若者によって結成され、タイの民主化運動の象徴的な存在となった。1976年のクーデターでジャングルに逃れたが、1983年、バンコクに戻り、カラワンは再結成された。

カラワンは、水牛楽団の招きで1983年に来日し、コンサートツアーにのぞんだ。その年に三里塚の反対同盟は分裂したが、分裂後のぼくが属していた熱田派の集会に、悠治さんや美恵さんがカラワンを誘ってくれて、全国集会の壇上で「人と水牛」や「カラワンの歌」などを披露してくれた。リーダーのスラチャイの話によると、機動隊も拍手していたと言う。

その後の経過は省略するが、1984年の秋から冬にかけて、3ヶ月間、ぼくは「カラワン農村漁村キャラバン」と銘打って、北は秋田から南は石垣島まで、都市ではなく地方の36カ所を車で移動し、カラワンの生の歌を届けた。つきあってくれたのは、カラワンのスラチャイ・ジャンティマトンとモンコン・ウトックの2人だ。よくぞ3ヶ月間もつきあってくれたと思う。そしてこの旅に欠かせなかったのは友人で社会学者のロバート・リケットさん、通訳兼運転手としてツアーを共にしてくれた。この旅の計画の相談にのってくれたのは美恵さんだ。タイにいるスラチャイ達への打診や航空機の手配、ツアーが休みの時は、悠治さんと美恵さんの家にカラワンの2人が滞在した。

この「農村漁村キャラバン」が動きだすこ頃、水牛楽団は活動を休止していた。というか、5年間も「たたかう音楽」に情熱を注いだのだ。そして終止符を打った。ぼくも、このキャラバンから5年後、「闘いという言葉を/忘れようと/思う」という詩を書いた。

悠治さんは1978年に『たたかう音楽』(晶文社)を出した。ぼくも構成員だった三里塚ワンパックグループも1981年に『たたかう野菜たち』(現代書館)という本を出した。ぼくも悠治さんも、場所は違っていても「たたかうこと」を中心にして生きた時代があった。そしてその後、そのことを生きるという言葉でくるんで(ぼくなりの言い方だが)生活してきた。

いつのことだったか忘れてしまったが、ぼくは悠治さんに「いつか一緒に仕事ができれば」と話したことがあった。悠治さんは「そうだね、いつか」と言ってくれた。そのことを悠治さんは覚えていらっしゃるかどうか分からないが、その言葉を頼りに、ぼくは悠治さんに電話をした。

悠治さんと会うのは久しぶりだった。僕より10歳上、今年80歳になるのに、受ける印象は変わらず若々しかった。悠治さんと会う約束の時間の少し前まで、同じ場所で、憲法いいね!の会の相談会をしていた。3月3日に開催した「憲法いいね!憲法をたたえるつどい」の反省会と今後の取り組みについて話し合った。その中で、今後の取組みについて、ぼくはこんな提案をした。
「この会として、今まで3回の集会を開いて、どの会も、参加者からも評価され、僕たちも学ぶことが多かったけれど、これからどうするか、もう少しひろがりを求めるようなことを考えたい。70名前後の人々の参加を得て、どの会も成功した。しかし、憲法の問題に強い関心を抱いている人を集めてはいるけれど、それ以上のひろがりはない。それで次は、言葉で語る集会ではなく、コンサート風な千人規模の集まりを考えたいのだけれど、どうでしょうか」。

今から思えば、千人規模の集まりとは、大風呂敷を広げたものだと思うが、その時は勢いで、そう言ってしまった。そして、その時、出演者の候補として、ピアニストの高橋悠治さん、詩人の谷川俊太郎さんの名前を上げた。もう1人ミュージシャンの人は決められないでいた。ぼくの提案は、皆さんの大いなる賛意を得た。「実は、この後ここで、高橋悠治さんと合う約束をしていて、悠治さんに出演のお願いをしてみようと思っているんです」と打ち明けた。東京にたびたびは出てこれないので、出てきた機会を活用したかった。僕の提案がいいね!の会の皆さの同意を得られなければ、悠治さんに謝るしかなかっだが、ほっとした気持ちで、悠治さんを待つ席に座った。

悠治さんは1人でいらっしゃった。美恵さんと会うのも楽しみにしていたのだが、残念ながら、家を留守にできない事情があったとのこと。早速、本題に入らせてもらい、いいね!の会で提案した内容を話した。悠治さん家はずっと、循環農場の会員であって、憲法いいね!の会の大体のことをご存知だ。それどころか、ありがたいことに、悠治さんと美恵さんで運営しているウェブサイト『水牛のように』上で、「憲法肯定デモってどうだろう」などの文章やチラシを載せてくれていた。

悠治さんはぼくの相談に、「いいよ。ピアノさえあれば」と言ってくれて、それだけで感謝なのに、さらに「谷川さんとは5月に会う機会がある」と教えてくれ、また、歌い手については「在日コリアンのイ・ヂョンミ(李政美)がいいよ」と名前を上げてくれた。あまり日常的に歌を聴く習慣のないぼくは、失礼ながら、イ・ヂョンミさんのことを知らなかった。家に戻ってから、ネットで探して聞いてみると、美しい声と豊かな声量、そしていつもは気付かずに過ごしている胸の、奥の奥に届くものを感じた。

悠治さんのおかげで、こうしてコンサート風な集いの輪郭が見えて来た。いいね!の会の皆さんに、このことを報告し、谷川俊太郎さんとイ・ヂョンミさんに日程と場所は未定のまま、内諾をいただく方向で進めてみようということになった。規模は、一気に千人は冒険すぎるので、300人が入るホールを探そうと言うところに落ち着いた。

日本近代文学館主催の5月の『第93回声のライブラリー』に高橋悠治さんと谷川俊太郎さんの自作朗読会が予定されていることを知った。司会は詩人の伊藤比呂美さん、定員は80名と言うことで、これは谷川さんに直接会えるチャンスと思って申し込もうとした時には、すでに定員に達していた。少し落胆している時に、悠治さんからメールが届いた。こちら側の事情は知らないのに、そこにはこう書かれていた。「来られるなら 招待券を受付におきましょうか。

  谷川俊太郎さんのこと

悠治さんの有難いお誘いで、「声のライブラリー」の関係者席に座ること出来た。開演の前に悠治さんを見かけたので、谷川さんにお会いしたいとお願いした。「そうだね。じゃあ、こっちに来て」と控え室に案内された。

悠治さんがドアを開けると、部屋の中央に20人ぐらいが囲めそうな大きなテーブルがあって、谷川さんは向かって右側の端の方に、Tシャツ姿で座っていらした。ぼくは若い時に一度、谷川さんの詩の朗読会に参加したことがある。その時も確か、谷川さんはTシャツ姿だった。

悠治さんがぼくのことを簡単に紹介してくれた。開演前の大事な時間なので、ぼくの方から手短かに自己紹介と憲法いいね!の会のこと、そして出演のお願いをすると「出演者が3人だと楽だね」とおっしゃって「このファックス番号に、集会の趣旨などを書いて送ってください」と言ってくれた。

悠治さんの自作の朗読は、劇作家、演出家の如月小春さんへの弔辞、作家、矢川澄子さんへの弔辞などを読まれた。矢川澄子さんはカラワンの「農村漁村キャラバン」の石垣島でのコンサートに同行してくれたのだが、キャラバンの最中のことなので、ゆっくりお話を伺うことは出来なかった。

谷川さんは現在86歳だが、姿も朗読の声も、その年齢を感じさせないものだった。詩の朗読の最後に「今日、憲法の話があったので」と前置きして『中央公論』2017年5月号「特集ー憲法の将来」に寄せた「不文律」と言う詩を読んでくれた。

「不文律」は是非、次のコンサート風の集いで読んで欲しいと思っている。その前半を紹介する。後半は当日のお楽しみに!

憲法は言葉だ 言葉に過ぎない
誰の言葉か? 国家の言葉だ
そこには我々日本人の言葉も入っているが
〈私〉の言葉は入っていない
私はこういう言葉では語らないからだ

憲法の言葉は上から降ってくる
下から湧いてこない
だから私の身につかない
だが憲法が言っていることを
私は日々の暮らしで行っていると思う

憲法の言葉が行いになるのではない
私の中には言葉のない行いがあるだけだ
そこが憲法の有史以来の古里だろう
私は実は国家というものが苦手だ
国家のおかげで生活しているのは確かだが

ぼくが、谷川さんに出演して欲しいと思ったのは、直感だ。悠治さんと谷川さん、2人の組み合わせは、憲法いいね!の会を始めてから時々、頭をもたげていた。

谷川さんに会う前に、全く直感だけでは申し訳ないと思ってあれこれ調べ「不文律」の存在を知った。その時は、それが文章なのか、詩なのか分からなかった。だが、不文律と言う言葉から、ぼくは1998年の朝日新聞に載った鶴見俊輔さんの談話の中の「私の憲法」を連想していた。

「私の憲法をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい」

憲法いいね!の会を始めた頃にこの言葉を見つけて、ぼくは随分救われた。理論の鎧をまとうことが嫌いなぼくにとって、この言葉から受けたものは大きい。

慣習法も不文律も同じような意味を持つ。法律が成文化される以前の社会の暮らしの中で、お互いに了解し守りあっていた決まりごとを指す。

市立図書館で「不文律」の詩を読み、憲法に対する接し方が鶴見さんも谷川さんも同じだと感じ、ぼくの直感が当たっていたと思った。自分で黙読した時より、会場で谷川さんの朗読を聴いた時の方が気持ちよく胸に響いてきた。谷川さんの朗読の力なのだろう。

その後何日かして、谷川さんから教えられたファックス番号に、講演依頼のお願いを送った。そうすると数日も置かずに谷川さんからファックスが送られてきた。

「お誘い有り難う。歳をとって体調が不安定になることもあるので、先々の約束をすることに不安はありますが、内諾という形でお受けします。(中略)わざわざ図書館で詩を探して読んでくれてありがとう」

「図書館で詩を探してくれて」とは、ぼくが「不文律」を図書館で見つけたと、講演依頼の文章に書いたことによる。わざわざそのことに配慮してくれて恐縮した。そして何よりも、内諾をいただいたことがありがたかった。

もう少し谷川さんのことを知ろうと調べていたら、『現代詩手帖』2015年9月号に対談が載っていて、その中でこう話していた。

『日本が戦争に向かって行っても、自分はあえて反戦詩も書かない。でもその代わりに「地上から戦争はなくならない」事を前提に「自分の中の戦争の芽を摘む詩」を書く』

戦禍の中で生きることを余儀なくされているイラク子どもたちの絵に、谷川さんが詩をつけた『おにいちゃん 死んじゃった イラクの子どもたちと せんそう』(2004年、教育画劇)という本がある。その本の存在とそのあとがきに書いた谷川さんの言葉を、憲法いいね!の会の仲間の人が教えてくれた。彼女は「やまゆり園事件追悼」の市民集会でこの詩に出会ったと言う。そして自分が働く保育園の「園だより」に載せた。その一部を紹介したい。

「戦争をひとのせいにしないで、じぶんのせいだと考えてみる。
ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことを聞かせようとしたり、
じぶんのこころに戦争につながる気持ちがないかどうか。
じぶんの気持ちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、
それでは戦争はなくならない。
まずじぶんのこころのなかで戦争をなくすこと、
ぼくはそこから始めたいと思う」

「あえて反戦詩も書かない」との立場をとることで、より人の胸にとどく言葉が産み出される。「自分の中の戦争の芽を摘む詩」こそ、反戦詩に求められるものだと思うのだが「あえて」と言うところに、谷川さんの覚悟のようなものが感じられる。

鶴見俊輔さんが谷川さんのことをどう見ていたのか。「忘れることの中にそれがある」(『鶴見俊輔集』10巻、筑摩書房)という文章を見つけた。その中で「事件」という谷川さんの詩を引用している。

事件だ!
記者は報道する
評論家は分析する
一言居士は批判する
無関係な人は興奮する
すべての人が話題にする
だが死者だけは黙っているー
やがて一言居士は忘れる
評論家も記者も忘れる
すべての人が忘れる
事件を忘れる
死を忘れる
忘れることは事件にならない

そしてこう続ける。
「これは『政治』と特定されている活動が政治についてどんなに無力かを照らし出す。しかしこの詩は、政治に背を向けているとは言えない。では、どのようにしてこの人は政治に参画するのか」

「それは明日の新聞に出るような政治行動ではない。しかし、たゆみなく、ある方向に、歩みつづける1つの道は、ひらけてゆくはずだ。家庭の中にさえ、1つの道はある。そういう認識は、戦前の日本人の政治観にはふくまれていなかったし、戦後もどれだけふくまれているかわからない」

「家庭をつらぬいて流れ、町をつらぬいて流れ、私をつらぬいて流れる生命。それにそうて政治を見るという、気の長い視点が、この詩人にはある」

引用が長くなったけれど、ぼくがぼんやり感じていたものを、鶴見さんがその輪郭を描いてくれたので、つい頼ってしまった。

谷川さんは若かりしころ石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し60年安保に反対したと言われている。

高橋悠治さんも先に述べたように『水牛楽団』として日々舞台に立っていた。
お二人ともその後「新聞に出るような政治行動」からは離れ、独自の道を歩んで来られた。お二人とも「政治に背を向けている」わけではない。そこから教わることは多い。

『谷川俊太郎 李政美 高橋悠治 コンサート』のサブタイトルを「暮らしの中に平和のたねを蓄える」とした。谷川さんや李政美さん、高橋さんを迎えるのにふさわしい言葉、憲法いいね!の会がこのコンサートに込める思い、それを言い表した。
鶴見さんの言葉を再び借りるとすれば、日常の暮らしや生命にそうて「政治を見るという、気の長い視点」を持って、かつ、現実の政治の動きにも具体的に対応しながら歩を進めて行きたい。

  李政美さんのこと

オフィシャルホームページ『李政美の世界』を開くと、その中に「李政美の世界を深める」というページがある。そこでは政美(ヂョンミ)さんを知るための3冊の本が紹介されている。ここでは『永六輔の芸人遊び』(小学館)をひもといて政美さんの世界を見つめてみたい。

政美さんは1958年、東京の葛飾区に生まれた。両親は2人とも済州島の出身で廃品回収業を生業にしていた。「私は、皆に可愛がられて育ちましたが、小学校にあがる頃には、リヤカーを引いて歩く長屋の人たちと道ばたで会うと、恥ずかしくて逃げ出すような女の子になっていました」と言う。

政美さんは必死に勉強して音大に進んだが、それは「長屋」から逃げ出し、「別の」自分になろうとしていたのだと振り返る。音大の入学前後、韓国の民主化に連帯する集会などで、誘われるままに韓国のプロテスト・ソングを歌い「在日のジョーン・バエズ」と呼ばれたりもしたが、本人はとても恥ずかしいと感じていたと言う。高橋悠治さんの水牛楽団と一緒に歌ったのもその頃だった。
音大でオペラを学んでいた時も、集会でプロテクト・ソングを歌っていた時も「どんなにきれいな声で、うまく歌えても」違和感とむなしさがあったと言う。それから自分の声、自分の歌をさがす歳月が流れる。

私生活では、結婚、出産、そして娘さんが3歳の時に離婚を経験し、夜は定時制の高校で「朝鮮語」の講師、昼間はゴンドラに乗ってビルの窓拭きの仕事に従事し「もう再び歌うことはないかもしれないと」思っていたと言う。

転機は、詩人の山尾三省さんとの出会い。三省さんが朗読してくれた「祈り」という詩に心を大きく動かされ、その詩を歌にして歌いたいと思ったことだ。
「そもそも歌の始まりは、人々の祈りだったんじゃないかと感じたんです。それなら私は、私自身の深い祈りを歌おうと」

「ありのままの自分を表してあげればいいんだよ」と三省さんに教えられたような気がすると政美さんは言う。そうすると、たくさんの歌が湧き出るように生まれたと言う。代表曲『京成線』もその頃生まれた歌。逃げ出したいと思っていた「長屋」こそ、自分のふるさとなんだと。そうして、こう語る。「異質なもの、役に立たないとされて蔑まれているものの中に、私の命の根っこ、歌の根っこはありました」

永六輔さんは政美さんのことを「僕が思う日本でもっとも美しい声の歌手」とこの本に書いた。たくさんの歌い手を知っている永さんがそう言うのだ。また、高橋悠治さんが「政美がいいよ」と推薦してくれて、このコンサ
ートは動き出した。

永さんも、悠治さんも触れたであろう、政美さんの歌の深いところにあるもの、政美さんが依って立つところは何なのか、どこなのか、それを知りたくて、この文章を書き始めた。

最初、悠治さんに勧められて『京成線』を聞いた時のこと。歌が終わったかと思われた時に「アリラン」の歌が流れてきて、ぼくは涙を止められなかった。京成線の走る葛飾「ここもまた ふるさと」と歌い、一呼吸置いて、「アリラン」の歌が流れたので、葛飾もふるさとなんだけれど、心の中のほんとうのふるさとは「アリラン」が流れる朝鮮半島なんだと、望郷の想いが込められていると感じられたからだった。しかし、それは、ぼくの勘違いだった。

政美さんの歌の根元にあるものは民族的なものではない。そもそも「アリラン」に歌われる峠は、伝説上のものでどこにも存在しない、架空の峠だと言う。
「国籍という峠、民族という峠、人の心の光と闇の間にある峠、この世の中のあらゆる峠を、軽やかに超えてゆく歌、聴き手の心をそこへといざなう歌、そんな歌を歌っていきたいなあ、と思います。私の『京成線』も、『アリラン峠』を越えて走っていく歌なのです」

政美さんを知るための3冊の本のうちの1つ『誰が平和を殺すのか』(佐高信著、七つ森書館)の中では、こう語っている。
「私は日本で生まれて国籍は一応韓国なんですけど、日本からも、韓国からも、どの国からも守られているという実感がない。ジョン・レノンが歌っているように、私もやっぱり国家なんかなくて良いと思うんですよ」
ジョン・レノンの『イマジン』は政美さんの持ち歌の1つとなっている。韓国で日本で、多くのファンを惹きつける政美さんの歌の魅力は、歌と歌声の深部にある、国家を越え政治を越えた、命の尊さ、命への感謝、命への祈りのようなものにあるのだろうと思った。

三条堺町

仲宗根浩

年度の上期を終えて下期に入りいろいろ面倒な仕事上の宿題を出し、とやっていたらもう十二月で、今年は東京で猛暑というものを経験し、二度と八月に東京など行かないぞと、誓い、九月上旬に東京に行ったらその思いいっそう強くなった。
でこっちは、もうすぐ十二月となったところで最高気温が二十五度、秋の装いをしている方々がすこしづつ多くなる中、昼間は半袖Tシャツ、夜たまに冷えると長袖Tシャツ。

選挙が終わったと思ったら来年に県民投票をやるとなると協力しない市長が出てきたりと相変わらずめんどうくさい土地ではある。戦争を体験した世代、復帰前と復帰後を知っている世代、復帰後しか知らない世代ばかりと思っていたら、今はより細分化されているようだ。

通勤途中に聴く音楽、「モントローズ」にしてみるとしばらくしてネットの音楽記事でサミー・ヘイガーがロックの殿堂候補に「モントローズ」が挙がるようキャンペーン中というのを目にする。「モントローズ」は彼にとって初のメジャー・デビューのバンド。でも、あのバンドのあの曲そのまんま、というのもがあるモントローズ。サミー・ヘイガー自身はヴァン・ヘイレンのメンバーで殿堂している。世の中の「ボヘミアン・ラプソディ」ブームとは別のところにいる。

十一月に四半世紀振り以上?、京都に行く。最後の京都は、今回の演奏会の主が演奏者として呼んでくれて以来、今度は裏方としてお手伝い。本番の前日に京都に入り、会場ですこしばかり音だしがあったので立会いその日は終わる。本番当日は午前中、時間が空いているので京都といえば寺社仏閣より三条堺町へ向かうべく堀川通りを宿の五条から三条へバスで移動する。堀川通りから烏丸通りへと三条を歩いて移動する。六角堂とかあったが行くべき目的地は「イノダコーヒ」。「コーヒーブルース」に出てくるところ。小学生の頃に家にあったレコードに「ごあいさつ」という高田渡のアルバムがあった。「イノダ」と「三条堺町」はその頃にインプットされた。アニメ・マニアの聖地巡礼と同じようなものだろう。京都といえば「三条堺町」と刷り込まれている。店に入ったとはいえ、コーヒーを嗜まない私、注文する飲み物もフルーツ・ジュースというのは自分の中でも憚られ、アイス・カフェオレを頼む。
中学生になり国語の教科書に掲載されている詩で覚えがあるものがあった。作者は吉野弘で「夕焼け」だった。これも「ごあいさつ」に高田渡が歌にしている。家に帰りレコードであらためて聴く。それ以来、家にある兄が集めたフォーク、ロックのアルバムのクレジットを見始めてから、ソング・ライター、アレンジャー、バック・ミュージシャンに興味を持つようになった。レッド・ツェッペリンの最初のアルバムはすべての曲で作曲者クレジットがメンバーの一部もしくはメンバーになっていたが、後からオリジナルはトラッドだったり、九月に亡くなったオーティス・ラッシュが歌ったウィリー・ディクソンの作品だった、と知るのは後々の話。

京都からもどり、翌日から通常の仕事にもどる。数日すると身体のあちこちがバキバキいいはじめた。

杉田工事舎

笠井瑞丈

杉田工事舎
二十代の時
アルバイトで働いていた
二年位の期間
私のアルバイト経験の中でも
よくこの時期の事を思い出す

ちょうど道に迷っていた時期でもあった

親方は舞踏家杉田丈作さん
父笠井叡の弟子でもある

人がいないと言う事を母から聞き
ちょうど何もやる事もなく
時間も余っていたので
ちょっと働いてみようと思い
働きはじめたのがキッカケ

杉田工事舎のメンバーは
親方の杉田さん
兄貴的存在の青江さん
そして変わり者の武井くん
そして自分の四人体制

朝7時半くらいにウチの近所の
東八道路のクリーニング店の前で待ち合わせ
そこに車で迎えに来てもらい現場へ向かう

車中ではよくいろいろな話をした
舞踏の事やくだらない下ネタ話まで

舞踏の事は当時まだまったく興味がなかったので
その時はそんな世界もあるんだ程度で聞いていた

そしてよく父の事や学生運動の話もしてくれた事を思い出す

車中ではいつもラジオがかかっていた
そして必ずAM放送であった
私はいつもFM放送にしてほしいと
ひそかにいつも思っていた

最初は師匠の息子という事でちょっと
気を使ってくれていた気もする

でもすぐに親方と従業員の関係になり
私としてはそれでよかったと思った

給料日には国立に集まって
よく飲み会をした
飲み会の終盤になると
決まって杉田さんはからみ酒になる

「お前は親父を超えなきゃいけないんだよ」(杉田さん)
「はあ そうですか・・・・!」(笠井)
「おい 聞いてんのかお前」((杉田さん)
「ああはい」(笠井)
「ああはい? 分かってんのかお前」(杉田さん)
「・・・・・・・・・・・・」(笠井)
「おい 聞いてんのかお前」(杉田さん)
「いい加減しつけーんだよ」(笠井)
「なんだとこの野郎」(杉田さん)

そして飲み会が終わる

そして翌日気まずい気持ちでクリーニング店の前で待つ
でも決まって杉田さんはその事を忘れている
そしてその事についていつも何も触れることはなかった

踊りを始めていなかった私には
親父を越えろと言われても
正直よく理解できていなかった

杉田工事舎を退社して二十年近く
この歳になり杉田さんがなにを
言いたかったのかちょっと分かる気がする

杉田さんは私が踊りをするとを分かっていたのかもしない

いやいや
ただの酔っ払いだろう

でもあの時から
きっと踊りの道は始まっていたのかもしれない

そう考えるとなにか不思議な感じだ

しもた屋之噺(203)

杉山洋一

幼稚園から中学までミラノの現地校に通っていた息子が、突然日本語を勉強したいと言い出し日本人学校に転校して一ヶ月。朝の弁当作りにも、漸く慣れてきました。前から習いたがっていたスキエッパーティのレッスンに息子が出かけると、出抜けに二週間後の国立音楽院の入試を受けるように言われ、そのままノヴァラの国立音楽院にも入学してしまいました。自我の芽生えとともに生活に大きな変化を迎えた秋が、気が付けばもう過ぎようとしています。

 —–

11月某日 三軒茶屋自宅
三軒茶屋の小さなホールで、篠崎功子先生と並んでマルモ・ササキさんの演奏を聴いた。3年前に書いたチェロ曲から、マルモさん自身の言葉が聴こえる。溢れるような彼女の伝えたかった言葉が楽譜に書かれた音符を通して、我々のところへ届く。
「この楽譜を勉強しながら、宝物を沢山見つけました。ありがとう」。イタリア語で届いた彼女からの便りを思い出しつつ、黙って耳をかたむける。
傍らの功子先生が「作曲家と一緒に勉強したから、今のわたしがあるの。わたしの読譜能力は、一緒に音楽をつくってきた作曲家の仲間から教えてもらったものね」と呟いた。

11月某日 三軒茶屋自宅
早起きして自転車で早稲田まで出向く。10年前に書いた「カワムラナベブタムシ」を、若林ご夫妻のお陰で、初めて聴かせていただいた。お二人の名演を前にぼんやり思い出すものがあって、それは曲の内容というより、3歳の頃の息子の姿や、アラブ人の子供たちが集う、スカラブリーニ広場の幼稚園の朝の風景のような、当時の身の回りの懐かしい風景だったりする。甘酸っぱい味わいが残るのは、意図せず浮かび上がるあの頃の息子の日常を描いたような曲調のためかもしれない。

11月某日 三軒茶屋自宅
エマニュエル・マクロン大統領が語った、国家主義は愛国心への裏切りだという意見に、心からの共感を覚える。馬齢を重ね日々自らの愛国心は実感しているけれど、愛国心から国粋を導くのには違和感を禁じ得ない。我が国の文化が素晴らしいのは、他国より秀でているからではなく、外からもたらされた素晴らしい文化が幾層にも織り込まれているからだ。
国内でさえ諍いは絶えなかったのだから、長い時間のなかで諸外国と政治的に齟齬が生じるのは止むを得ないのかもしれないが、せめて我々音楽家は、政治的対立と一線を画す立場でありたい。
純粋な愛国心ゆえはっきりと声に出しておきたい。国内で滞在する外国人に対して、同じとまでは言わなくとも、それ相応の処遇をとりなしてほしい。彼らへの対応が良化すれば、それだけ日本に還元されるものも良化すると信じる。彼らが故郷に戻ったとき、日本がどれだけ素晴らしかったか話してくれれば、より素晴らしい人材が日本に集まるにちがいない。
一時的な視点を一先ず置いて、どうか長期的に見て本当に有効な手段を講じてほしい。そして、本当に日本を愛するのならば、日本がどう見られているのか、相応の理解を深めてほしい。どう見られてもよい、という思いが国民の総意であれば仕方がないが、それならば諸国の尊敬を期待するのもやめるべきだ。愛国心とは、日本を豊かな国にしたいと願う心だと信じる。

11月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんとすみれさんの二重奏。艶のあるビロードを纏ったような沢井さんの音と、深く身体の奥底まで沁みるような、すみれさんの音が出会う。お二人の音が聴きたくて書いたのだったな、と思い出す。沢井さんの音は、発音の直後の揺らぎと、幽遠な空間に消えてゆく余韻の雄弁さ。すみれさんの音は、発音の瞬間そのものが纏う、やさしさと自立心の雑じった薄い空気の層。そうして、何かとてつもなく遠いところまで、反響がのびつづけるのを見る。二人の間を行き来するつぶやきとともに。
まだ小学生だったが、湯河原の祖父が夏になると吉浜に開いていた海の家に、真木さんや田中賢さんが、何度か遊びにいらした。今も昔も泳ぎは苦手で、沖に浮かぶ休憩用の筏から、真木さんが、危なくないからここまでおいで、とニコニコ手招きするのを、波半ばで恨めしく眺めていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
頼暁さんの「挑発者」を説明するのに、ブレヒトとワイルのキャバレー・オペラを思い出す。短いながら三幕から成立していて、それぞれ一曲ずつアリアが挿入され、幕終りには合唱もつく。ごく普通のオペラ形式を大真面目に踏襲しつつ、「月光の曲」やヴェルディ「マクベス」を雑じえ、早いテンポで会話をすすめて、現代社会や体制について器用に諧謔を弄する。表面的に聴きやすい旋律は、意外なほど演奏に困難を強いたりする。頼暁さんのバランス感覚のよさは、作品の素材選択にあって、徹頭徹尾、理知的に書かれる音楽の硬度を守りつつ、自在に表面の仕上がりを変化させることができる。

11月某日 三軒茶屋自宅
荒木さんと鷹栖さんと一緒に、悠治さんの「オペレーション・オイラー」を読む。意外なほど重音の羅列はよく鳴るが、指定された超高音は楽器の構造上どうやっても出ない。バルトロッツィと特殊奏法を研究したオーボエ奏者のリードが極端に薄かった可能性もあるが、今後の演奏のために、何らかの対策を立てなければならない。
「クロマモルフ」「6つの要素」「オペレーション」を悠治さんに聴いていただいてみて、思いの外長いフレージング感覚に愕くことがあって、その昔ピアノのための「クロマモルフ」や「ローザス」を聴いて、実際の楽譜の印象と違ったことを思い出す。若輩者が読んだ譜面の印象では、極小単位が積上げられ構成されているようだったのが、実際作曲者が聴いていた音の流れは反対だった。
乱暴な言い方をすれば、目の前に或る複雑な音の動きがあるとして、極小単位を積み上げる演奏方法なら、その複雑な音の動きが聴こえるように演奏するだろうし、全体のフレーズのなかにその音の動きを感じたいのであれば、あえてその複雑な動きを際立たせずに、全体の流れに沿って音をしのびこませる。
クセナキスが、悠治さんのヘルマに感銘を受けた逸話から、クセナキスも同じように音楽を捉えていたことがわかる。尤も、クセナキスの場合、独奏作品では印象は違うかもしれないが、大規模な楽器編成を扱うと、かかる傾向は如実に楽譜に顕れている。
こうした悠治さんのアドヴァイスは、「歌垣」を読むうえで、非常に役に立つ。クセナキスの「戦略」のような鬩ぎあいを想像していたので、滔々とたゆたうような流れの「歌垣」の譜面との差異に愕いた。悠治さん曰く、同じ技法をつかっても、クセナキスのように暴力的にはできなかったそうだ。
テンポやディナミークをゆらすことで、歌い掛けるというカガヒの語源に近づけるかもしれない、と助言を頂戴する。来月の演奏会では、「たまをぎ」の録音のような、大らかで土臭い祭りの音、夜松明を囲んで歌いあう男女の野太い歌声を表現してみたいが、さてできるだろうか。

11月某日 ミラノ自宅
演奏にあたってどのように楽譜を読むべきか。恣意的なルバートを極力排除し、まっさらな原典版を使って、余計な思いを籠めず演奏するのを良しとするのが、全て正しいかどうか。
われわれ演奏家は現代作品、それも身近な作曲家の作品を、もっと演奏すべきだ。彼らと一緒に曲を仕上げることで、作者の意図を実現する意味を、より深く理解すべきだ。作曲家はそれぞれ性格がまるで違うのだから、一人の作曲ではいけない。一人でも多くの作曲家と交流を深め、「作曲家の思考」という一義的な固定観念を捨てるべきだ。
実際に作曲家と付き合えば、それぞれどれほど隔たった人間であるか実感させられるに違いない。同じ作曲家でも、20年前、10年前、5年前と現在でどれだけ思考が変化し、彼の周りの環境が変化したのか、自らの20年前を思い浮かべるだけで充分だろう。
世界は、加速度的に環境は変化している気がするが、それは正確だろうか。100年前の作曲家の環境は、20年間で変化しなかったか。世界が等しく欧米式近代化を遂げているわけではないが、西欧音楽の作曲家が住む地域は、元来ごく限られた地域であって、似たような近代化を経て現在がある。そこで人間の根源的な本能に則り、生きた証を残そうとする生理、摂理の一つに作曲がある。多分それ以上でもそれ以下でもない。


(11月30日ミラノにて)

仙台ネイティブのつぶやき(39)ひいおばあさんの時代

西大立目祥子

カレーで有名な新宿中村屋を興した相馬黒光は、仙台の人である。明治8年(1975)、城下町の西のはずれ、木町末無(きまちすえなし)というところに生まれ、横浜のフェリス女学院に入学するまで多感な少女時代をこの街で過ごした。

幼年期から少女期にかけてのことは、自伝的随筆『広瀬川の畔』にくわしい。この秋、この本をテキストに話をする必要に迫られて少していねいに読んだ。黒光自身に興味を持つ人は、のちに事業家として成功し、サロンをつくって若い美術家や作家を育てた一人の女性がどんなふうに育まれたのかを読み込もうとするのだろうけれど、私がいちばん心ひかれたのは明治初めの士族の没落していく暮らしぶりだった。

黒光がこの随筆を書いたのは還暦を過ぎて数年がたったころ。抜群の記憶力で少女の眼がとらえた生活の変化を再現していて、明治という新しい時代の中で困窮していく武家の暮らしの記録としてもとても貴重なものだと思う。

黒光のもともとの名前は星良(ほし・りょう)。星家は伊達家の中級武士で、祖父の星雄記(ほし・ゆうき)は藩に建白書を出すなど剛毅な行動で知られる人だった。そんな名をなした武家も、仙台藩が戊辰戦争に負けて明治を迎えると、みるみる生活が逼迫していく。
黒光が子ども時代の明治10年代、まだ仙台市は誕生していないし東北線も開通していない。草ぼうぼうの武家屋敷が点在する荒廃した旧城下に軍隊がやってきて軍人がサーベルを鳴らして歩き、控訴院や監獄などの疑似洋風の木造建築が出現し始める。風景は定まらず混沌としている。そして、江戸時代の風習も生活も残る一方で、近代の新しい文化がまだまだ定着しておらず、宙づりにされて動くに動けないでいるような人々の姿が生々しい。

社会の激変についていけず立ち尽くしているような父親に代わって、一家を切り盛りしていくのは黒光の母親だ。生活のために日々こなしていたのは、農事。たぶん500坪に及ぶような広大な屋敷地を頼りに、春夏は茶を栽培し、作男を使って製茶し、蚕を育て、秋には柿をむき、冬は漬物を仕込み、休みなく機を織る。まるで農家の嫁のような毎日が続くのだけれど、資料にあたってみると、養蚕や製茶や地織りを奨励し士族に自活の道を開くことが仙台藩の最後の仕事だったらしい。

江戸時代、城下の武家屋敷には自給のためのたくさんの樹木が植えられていた。たとえば、杉や檜は家を建て替えるときの用材に。梅、柿、梨、桃、リンゴ、栗など実のなる木は食用に。それは家族が楽しみに待つ味わいでもあったのだろうけれど、生活が行き詰まっていくと大量に採れる梅の実などは売りに出されるようになり、やがて代々大切に守ってきた梅の大木まで手放さざるを得なくなる。

「愛樹を売る」と題された一節には老梅が根回しされて荷車に積み込まれて門を出ていくようすが記されている。
「ある日、人足体の男が、ドヤドヤと裏に入り込み、老梅の周囲を掘り始めました。やがて根に土をつけたまま荒縄で縦横にしばり、枝をそちこち伐り落して、手をもぎとられたようになった胴体を、ごろりと横ざまに荷車に積み、エンヤラエンヤラとかけこえ賑やかに曳きだしました。けれども屋敷を出るところで梅は急に動かなくなった。……それを見ていると老いた幹から血でも滴るような気がして、長く棲み慣れた屋敷から離れて行くのを、いやがるのではないかと悲しくなり、いそいで家に駆け込みますと、茶の間では祖母と母とが、眼を泣き腫らしておりました」
この梅を買ったのは、生糸の売買で成功し、銀行や生命保険会社の重役を務めていた佐藤三之助なる人物。才覚ある新興勢力が力を増して旧武家地を手中に納め、城下町の構造が変わっていくようすが見えるようだ。

やがて星家は、離れに軍人や官吏などの借家人を置いて賃料をとるようになり、母は持ち込まれる縞見本を手に賃機に精を出し、ついに代々守ってきた家財も売りに出し始める。大切にしてきた具足櫃やおひな様の長持ちがいつの間にか消え、家の中ががらんとした中に取り残されていくようなさびしさを、少女の黒光はしっかりと見届けている。

こうした箇所を読むと、同じように少年時代から苦労を重ねた私の祖父の顔が思い浮かんでしまう。祖父は明治34年(1901)生まれなので、黒光の息子といっていい世代なのだけれど、同じように伊達家の武士の末裔で、頼りにならない父、細腕で奮闘した母を持ったその少年時代の経験は、少女時代の黒光の経験にぴったりと重なる。

私がそう言い切れるのは、祖父が子ども時代の経験を書き記した何冊ものノートを残してくれたからだ。
たとえば質屋通い。町はずれにある質屋に質草を入れるとき、大人は子どもに使いをさせたらしい。黒光は肩に食い込みそうな大きく重い荷物を背負わされ、母をいっしょに夜道を歩いていくのだが、質屋が近づくと母は提灯の明かりを消して黒光に背中の荷物を店の主人に渡してこい、といいつける。祖父もまた母親が柳行李から質草を選び出すのを見ていて、手渡された風呂敷包みを黙って受け取ると質屋へと小走りに走り出す。
たとえば、お蚕。星家では、桑の木を植えてたくさんの蚕を飼ったのだと思うが、祖父は母と2人、朝仕事に近所の農家に行き桑の葉摘みをしてお金を受け取っている。

ひと世代下がっても繰り広げられていたまるで同じ生活に、明治初期の仙台の街の停滞ぶりを教えられるようだ。
ある家族の暮らしが、ひと世代下がったもう一つの家族の暮らしとつながり、地域史を想像させる線になっていく。やはり、書き残しておくって大事だなぁとあらためて思ったこの秋。新宿中村屋の黒光さんは、私のひいおばあさんでもあるのだ。

本屋の二階

植松眞人

 東京の鶯谷には正岡子規が住んでいた旧居がある。
 上野界隈には明治から昭和にかけて文豪と言われた小説家が住んでいた場所が数多くあって、地域では文豪の街として活性化を図っていたりもする。
 鶯谷にも何人かの文豪の痕跡があるらしいのだが、それよりもなによりも鉄道の駅前がラブホテルで埋め尽くされていて、文豪の街だと喧伝するには困難なものがある。
 正岡子規の旧居の前をたまたま通りかかり、ここがそうなのかと独りごちたのはもう何年も前のことだ。しかし、きちんとした看板が掲げられて記念館のようになっている旧居に立ち入ったことはない。そもそも、小説家の記念館のような場所に行って、生前使っていた万年筆や原稿用紙を見たところで何がどうなるというものでもない。ごくたまに、あまりにも小さな座卓の上にこじんまりと筆記用具が並べられている様子を見て、こんなに狭い机上からあんなにも大きな物語が生まれていたのかと感嘆するようなことはあるが、そんなことは希だ。
 しかし、この正岡子規の旧居の前を通ると、不思議に行き着く書店がある。鶯谷と日暮里の中間。少し日暮里寄りの場所にその書店はある。小さな民家を改装したような作りで、二階建てになっており、いかにも趣味の良さそうな古書店の様相を呈している。だが、実際に硝子戸を引き、中に入ってみるとそこは新刊書ばかりの普通の書店で、場所柄なのかどうか店先の一番目立つところには売れ筋のファッション雑誌と漫画雑誌が並べられている。そして、レジがありレジの脇から奥へ続く通路の両脇には成人雑誌が驚くほどの種類並べられているのである。
 数年前に初めてこの書店に足を踏み入れたときには、いったい世の中にはこんなにたくさんの種類の成人雑誌があるのかと呆然とした覚えがある。品のいいヌードグラビアがあるかと思えば、男の私でも目を背けたくなるようなあからさまに卑猥な裸の表紙がある。男の同性愛、女の同性愛、変態性欲などなど趣味趣向によってジャンル分けされていて、さらに枝葉は細部へと伸びていく。どちらかと言えば、同性愛ものが多く、五年ほどの間に、数回しかここには来ていないのだが、それらしい常連客と出くわすことがたまにある。しかし、みな目的の本があってそれを手に入れるためだけにやってくるので、あまり店内をうろうろとすることがない。
 私はいつも店内に入ると、すぐ脇のレジに座った、夏でも毛糸の帽子をかぶった中年の男性店主をちらりと観察する。おそらく五十代の半ばくらい。真面目そうな男で、いつも、手元の本を読んでいる。客が声をかけるまではほとんど顔を上げることはない。本を見て回るばかりで買ったことがない私は、まだ店主の顔を真っ正面から見たことがないのだった。
 この日も私はほぼ一年ぶりに仕事の打ち合わせのために午後遅く鶯谷の駅で降りたのだった。そして、日暮里方面に歩いている時に正岡子規の旧居の前を通り、この本屋へと自然に足を向けたのだった。
 以前に来たときと同じように、硝子戸を引き店内に入ると、その日はレジに店主の男性がいなかった。私は漫画雑誌の前を通り、成人雑誌の棚の方へと向かった。相変わらず様々な種類の成人雑誌があり、妙に湿気て重くなったような空気を楽しんでいた。
 すると、いつも気付かなかったのだが、成人雑誌の奥の方に続く通路があり、その先に階段があるのだった。前に来たときにも、もしかしたら気付いていたのかもしれないが、だとしたらあまりのさりげなさに、二階の生活圏への入り口だと考えたのかもしれない。しかし、下からのぞくと本棚のようなものが見えたので二階にも本があるのだろう。私はぎしぎしと音を立てる階段をゆっくりと上がった。
 二階には毛糸の帽子を被った店主がいて、棚の整理をしていた。座った姿しか見たことがなかったのだが、立ち上がった店主の背は高く、百七十センチは優に超えていて、百八十センチ近いのではないかと思われた。古い作りのこの書店の作りだと、鴨居に頭をぶつけることだってあるだろうと余計な心配をしたくなるほどだ。
 私が驚いていると、整理に集中していた店主も驚いたようで、「こんにんちは」といつも言わない挨拶をするのだった。
「二階にも本があるとは思いませんでした」 あたしがそう言うと、店主は
「二階に上がってこられたお客さまは初めてです。みなさん、目的の本があって来られるので」
 というと手元にあった本を棚に並べていく。その並べられた本を見ると、背表紙には『あの頃』という題名が見えた。著者は田中隆実とあった。そして、私は驚いた。店主が並べた本の隣にも同じ田中隆実の『あの頃』が並べられていて、その隣にも、さらにその隣にも同じ本があり、よく見ると、二階の棚の本はすべてが同じ本で埋め尽くされているのだった。
「これは、先代が書いて自費出版した小説なんです」
 そういうと、店主は薄く笑った。
「先代というのはお父様ですか」
 私が聞くと、店主は首を横に振る。
「父親のようによくしてもらいましたが、血のつながりはありません」
 店主はしばらく黙っていたが、私が勝手に二階に上がってきてしまったことで戸惑っているのだろうか。
「私は大阪の生まれなんですが、こっちの大学を目指して上京しまして。働きながら大阪からこっちの大学に来て、このあたりで下宿をしていたんです。その頃に田中さんと知り合って、ひょんなことからこの店を継ぐことになったんです」
 店主は諦めたように話し始めた。
「まったくの他人なのに、ですか」
「はい。田中さんには身寄りがなくて、遺産を継ぐ人もいなかったものですから」
 もともと、二階は田中隆実が居住していて一階はいまよりもさらに成人雑誌ばかりだったらしい。それを引き継いだ店主が、通学路に成人雑誌の専門店があるのは由々しき問題だ、というPTAのクレームを受けて一般雑誌を正面に置くようになったのだという。
「田中さんが寝泊まりしていた場所で暮らすというのはなんとなく気が引けて、結局棚を置いたんです。そして、貸倉庫に預けてあった田中さんの本を並べてみたんです。一冊も売れたことはないんですけどね」
 そう言うと、店主は笑いながら愛おしそうに『あの頃』と書かれた田中隆美の本の背表紙を撫でた。
 打ち合わせの時間が迫っていた。私はふいに二階に上がったことを詫びたあと、『あの頃』を一冊手にとって買うと申し出たのだが、店主は差し上げます、と金を受け取らなかった。
「これも何かのご縁ですから、ぜひ読んであげてください」
 柔らかい笑顔でそう言うと、店主は小さく頭を下げた。私はそのまま本を受け取ると自分のバッグにしまい一礼して階段へと向かった。一段二段と階段を降りたところで私は二階を振り向いて、
「田中さんとはどこで知り合ったんですか」
 と、聞いてみた。
 すると、店主ははにかむように笑う。
「私がこの店の常連だったんですよ」
 店主はそう言うと、再び私に頭を下げた。 私は階段を降り、成人雑誌が並べられた棚の前を通り、店の外に出た。
 田中隆実の『あの頃』の入ったバッグを片手で抱えながら、陽の暮れた鶯谷の街に私は立った。ほんの少し冬の訪れを予感させる風が吹いた。(了)

芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間

冨岡三智

私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出話の第二弾は、舞踊の授業やレッスンをしていた場所について。

舞踊学科の実技の授業で使うのはE棟の1,2階とI棟の2,3階の教室だった。ワンフロア1教室で、40〜50人くらいの集団レッスンができるくらいの広さがあり、壁面に鏡がある部屋もあった。それ以外に、少し離れた所にあるF棟がコンテンポラリ舞踊や舞台装置の授業に使われていた。体育館のように天井が高く、小劇場や大劇場ができる以前はここで規模の大きい作品(野外大劇場でセットを組んで上演されるような作品)のゲネプロが行われていた。

教室は授業以外にも各種練習で使われ、届けを出せば個人レッスンにも使用できた。しかし、私はこの広い教室で個人レッスンをしてもらったことがほとんどない。

私は男性優形舞踊を芸大教員のP氏に師事し、個人レッスンを受けていた。留学するまで男性舞踊をやったことがなく、呑み込みも遅い私は、芸大の集団授業に全然ついて行けず、P氏に師事することにしたのだった。

最初の1セメスターは、I棟1階にある化粧室(今は別の部屋になっている)でレッスンを受けた。幅が一間半くらいの細長い部屋の両サイドに鏡と椅子がずらりと並んでいて、手狭である。音響設備もない。友人が広い教室でレッスンを受けていたので、私もそうしたいと言ったのだが、ダメだと言われた。理由は後になって判明するのだが、師は、当時の私はまだ広い環境では舞踊に集中できないだろう、狭くて静かで他人の目がない空間の方が良いと判断していた。

化粧室で音楽なしできっちりと動きを指導してもらい、1曲目の舞踊作品の振付を最後まで覚えると、師は初めて広い教室でレッスンをやろうと言って空いている教室に入り、カバンやノートを床に置いて四角い舞台空間を区切った。その中で初めて向きだとか理想的な空間の取り方を指導してもらい、音楽に合わせて踊った。しかし、1回だけである。

その次のセメスターでは、F棟入口前のロビーでレッスンが行われることになった。屋根と床があるだけの空間である。レッスンに使えるのは四畳半くらいのスペースだ。教室の中ではなく、音響機材がないから、私はカセットデッキを抱えてレッスンに行った。このレッスンは夕方にやっていたのだが、師はいつも最低半時間くらい遅れて来る。ポツンと待っていると、F棟の中からは課外活動の少林寺拳法の声が響いてくるし、周囲では別の練習の音も聞こえてくる。F棟の前にはワルン(屋台)があって、この周辺で下宿している学生がいつもたむろしている。その時間帯にポンキーという愛猿を肩に乗せた学生がいつも散歩する(彼の名前は忘れた)。キャンパスのモスクからアザーン(イスラム礼拝の時刻を告げる詠唱)が聞こえてきて、山羊の集団がこのF棟のロビーを横切って疾走する。たぶん、彼らはF棟裏にあるテニスコートで草刈の仕事をし、人には聞こえない合図を聞いて一斉に帰路につくのだろう…。さらに雨季の走りとてスコールが降ってくると、一気に周辺は雨の音に包まれる…。と、一転して開放的過ぎる環境に私はイライラしたが、師はあえてここを選んでいた。2曲目に習ったのは『パムンカス』という宮廷舞踊の系統の内面的な曲だったのだが、舞踊が始まる前の正座して待つ部分(パテタンと呼ばれる音楽がつく)で、集中力が足りない!もう一度パテタンを聞いてろ!と何度もパテタンを聞かされたことがある。こんな環境の中でも自分に集中しなければならない、と言う。その当時の私はあの環境にイライラを募らせていたというのに、今となってはあの混沌さが一番懐かしい…。

続・一ダースの月

北村周一

嫡男としてのつとめは果たすべく離縁覚悟に迫る一月

頂上は空洞にしてみはるかすお堀のみずも華やぐ二月

さらばとて花にあらしのお別れも傘も差さずに走る三月

不敬罪は死語と雖も仄暗くかくれみえする暦(れき)あり四月

天窓に青葉若葉の光(かげ)みだれピアノ弾く手を休める五月

死に至るまでの時間の短さを問いつつきみに触れる六月

火星今大接近の声のありてみるものなべて紅き七月

肉眼でたしかめたきに土星の輪 追えば追うほど曇る八月

秋かぜやR付く月牡蠣を手にこころゆくまで味わう九月

むらさきの忌日を前にひとり寝の 重い毛布を嘆く十月

画家が来て湖面にうかぶ月影をやさしく掬い取る十一月

誕生日いつしか旗日となりしことも恩寵にして聖十二月

焚き火

璃葉

最後に焚き火をしたのはいつだったか。暗闇のなかでおどる炎を見ながら、まったく思い出せない自分に驚く。焚き木の燃える匂いだけは、ちゃんと覚えている。

落ち葉に覆われた平らな地面と川、林。友人と訪れたのはそんなキャンプ場だった。標高が高いので張り切って防寒着を準備してきたのだが、予想外に暖かかったので、やはり今年は暖冬なのかもしれないと心配してしまう。

タープやテント、火起こしに夢中になっているうちに、時間はあっという間に過ぎる。折りたたみ椅子に座り、ほっとして周りを見回すと、思っていたよりも夜は深まっていた。新月の空に星が瞬く。秋の星座がくっきりと見えるのがうれしい。
火を絶やさないように、落ちている細い枝を折って、燃料にしていく。
臆病者の私は、林の奥の闇が恐ろしく、なるべく火の近くで焚き木を拾う。しょっちゅう星を見に行って歩き慣れていても、暗闇そのものには慣れない。ふだんは思い出さない鵺などの妖怪が頭に浮かんでしまい、余計に怯える羽目になる。
火という大きな明かりが、冷気だけではなく、得体のしれない鳴き声や気配から守ってくれているような気がした。まるで魔除けのようだ。圧倒的な強さを感じるからこそ、数々の神話や儀式、祭りに登場するのだろう。

友人と私は、一言二言話しては、しばらく無言で炎のゆらめきを見つめ続けた。パチパチと音を立てながら舞い上がる火の粉が、星のように見える。
一定ではない不規則なリズムに、心底安心するのだった。

アジアのごはん(96)腸内細菌にゴハン!その2

森下ヒバリ

前回、発酵食品などの有用菌を食べるだけでなく、自分のお腹の腸内細菌たちにゴハンを与えることが実はとっても重要、という話を書いた。腸内細菌たちのゴハンは食物繊維である。発酵食品だけをたくさん食べていても、腸内細菌は実はあんまり喜んでくれないのだった。ええっ。むしろ食物繊維を食べることのほうが、重要だったのですね。そして、食物繊維と有用菌をたくさん含む発酵食品を一緒に食べると最強である、と。

今回はその実践編です。
野菜をある程度食べていれば、非水溶性の食物繊維・セルロースは充分に取れるが、水溶性の食物繊維の方が不足しがちだ。腸内細菌には水溶性食物繊維が重要なので、こちらは意識的に食べる必要がある。

水溶性食物繊維を豊富に含むものは、海藻類、きのこ類、果物、豆&ナッツ類、ねばねば野菜、ゴボウ、イモ類、納豆、オートミールなどがある。イモ類でもキクイモはイヌリンが突出して多いし、ラッキョウやゆり根、エシャロットなどの鱗茎類は非水溶性食物繊維よりも水溶性食物繊維の方が何倍も多い稀有な存在だ。豆類は、豆腐に加工すると食物繊維はがっくり減ってしまうので、なるべく豆の状態で食べたい。

食物繊維は、適量を、毎日がのぞましい。食物繊維を含む食べ物は、できるだけいろいろな種類を食べるのがよい。でも、野菜や海草で毎日の必要量を満たすのは、なかなかむずかしいし、あ~今日は食物繊維食べてない、ということもままある。大腸の腸内細菌たちは、自分でエサを探しには行けないので、宿主のワタクシが食物繊維を食べてくれるのをじっと待っているしかない。あ、今日は野菜少なかった~~テヘッ、でワタクシは済むが、腸内細菌は飢えて、力を失くしていくのですよ。

そこで、食物繊維が豊富な食材を作り置きにするのだ。まずは炒り豆である。大豆を一晩水に浸して、さっと熱湯をかけてから乾かし、フライパンで炒る。‥なかなか大変だ。30分ぐらい炒って、なんとかサクッとなった。塩も何も味付けしないで、食べる。インレー湖で食べたほどではないが、いや~同じくらいウマイ! 相方とポリポリ食べていたらあっという間になくなった。あ、あんなに苦労したのに~!

ちょうど、青大豆(山形秘伝豆)を入手したので、また炒り豆にしてみた。う~ん、これもおいしい。やはりすぐになくなってしまう。わたしが求めているのは、毎日少しずつ食べていける、常にテーブルの上に乗っている炒り豆だ。そうなると、3日に一回ぐらい炒り続けなきゃならないの?

そうだ、青大豆なら簡単なひたし豆がいい。ひたし豆は山形や福井などの郷土料理だ。ようは、茹でた青大豆を醤油だし汁に浸して味をしみこませたもの。秘伝豆は、一晩水に漬けておき、沸騰したお湯に入れて5~6分で茹で上がる。大豆の若い豆である枝豆に似て青いけど、ちゃんとした成熟した豆。なのに、こんなに簡単に煮豆が作れるとはすばらしい。普通の黄色大豆より油分が少なく、糖分が多いのが特徴だ。タンパク質の量は同じぐらい。食感はちょっと歯ごたえがあって枝豆みたい。まあ、長く煮ればやわやわにもなりますが。

やや固めに茹でた豆を、醤油だし汁に浸す。1日置いて食べてみると、うん、おいしい。おいしいが・・何か足りないような。ふ~む。これ、ポン酢みたいな味の方が合うんじゃない?漬けていた醤油だし汁を半分捨てて、そこにポン酢を投入。ちょっと鷹の爪も入れておこう。もう1日置いて、出来ましたポン酢ひたし豆! 少しずつ小皿に盛って、酒のつまみにぴったり~。

浸しておく漬け汁は、あまり濃くなり過ぎないように。もちろん、市販のポン酢を半分ぐらいに水でうすめたものでもいいし、自分で好みに調合してもいい。新たに作るとき、ヒバリはあまり酸味の強くない自家製のマコモ酢でポン酢を薄めてみた。醤油だし汁のひたし豆よりもポン酢ひたし豆の方が、ずっと保存が利きます。角切り昆布を少し入れ、赤唐辛子も一本。豆の和風ピクルスとでもいいましょうか。もちろん、洋風ピクルスにしてもおいしいです。

青大豆にも色々種類がある。種類によって茹で時間も違うようだ。今回使ったのは山形おきたま興農舎の無農薬・秘伝豆。ここの青大豆はすばらしい味。まとめて注文するためにHPを見たら、炒り豆も売っているではないか、さっそく注文。食べてみると自分で炒るほうがやはりおいしい・・がこれも十分おいしいので、気に入っている。これだと、テーブルの上に置いておいても食べすぎないのでちょうどいい。

黄色い普通の大豆の炒り豆や煮豆も試してみたが、やはりわたしには青大豆が身体に一番あっているようである。もともと黄色い大豆は苦手で、煮豆は身体が受け付けない。でも青大豆ならいくらでも食べられるのだ。

人はそれぞれ、大腸の中の腸内細菌の種類や分布状態が異なっていて、また変化もしていく。食物繊維といっても、色々な種類があり、それをエサにする菌がいるかいないか、または十分な数がいるか、ということも重要なのだ。たとえば、たいがいの日本人の大腸には海藻の食物繊維を消化する腸内細菌が住んでいるが、歴史的に海藻を食べてこなかった民族の大腸には住んでいない。だから、そういう人がいきなり生の海藻を食べると、消化不良を起こしたり、お腹がパンパンになって苦しんだりする。

なので、色々な種類の食物繊維を食べて、自分の身体に合った食材を見つけるのがいい。ゴボウが好きだったら、きんぴらを常備菜にして毎日少しづつ食べてもいいのである。キクイモやヤーコンが好きなら、これをピクルスにして毎日食べるのもいい。食べる有用菌も同じで、単一菌種のヨーグルトよりも多種の菌が入っている自家製がいい。そして、有用菌と食物繊維を組み合わせると効果倍増。ヨーグルトには、バナナをトッピングとかね。でも、果物は糖分もかなり多いので少量にしておきたい。また、きのこ類も今の日本ではあまり食べない方がいいでしょう。

しかし、食物繊維を食べていると、やっぱりオナラがよくでてくる。食物繊維を食べると腸内細菌は短鎖脂肪酸などのエネルギー源やさまざまな酵素、ホルモン前駆体などなど体に必要な物質を作り出してくれるのだが、水素とメタンガスも作られる。そう、水素とメタンガスがオナラちゃんになって出てくるわけだ。これは困ったなあと思う人は多かろう。とくに会社員とか接客業とか困るよね。

食物繊維を食べ続けていくと、収まってはくるのだが、あまり食べてこなかった人は腸の中で大掃除が始まるので、おどろくほどオナラが出ることもある。ここで、やめてはいけない。食べる量を少しへらして様子を見ましょう。肉ばかり食べていたら出てくる、悪臭の腐敗オナラとはぜんぜん別物なのだ。なんといっても、水素ですから。水素はもちろん外に出るだけでなく身体にも吸収されていて、活性酸素を退治して、酸化した細胞を還元してくれているわけですよ。高い水素水を買っている場合じゃないのだ。そう考えると、おイモを食べすぎると出てくるオナラちゃんもありがたいものに思えてくる。

食物繊維は少しずつ、毎日食べるのがいい。でもこの年始年末、たっぷり食べて腸の大掃除をしてみるのもいいかもしれない。

製本かい摘みましては(142)

四釜裕子

新聞紙の一面に毎日自画像を描いてきた吉村芳生(1950-2013)さんの〈新聞と自画像 2009年〉を東京ステーションギャラリーで見た。近くのコンビニに毎日出かけて新聞を買って、毎日1枚、鉛筆で1年間、描き続けたという。新聞紙いっぱいの顔が縦4つ、40メートルにわたって壁に並んでいた。鉛筆で何回も重ねたところは照明の具合で光って見えなかったり、おでこのあたりに重なるカラー写真の黒々がぐっと突き出て見えたり。紙面に反応するような表情がおもしろい。英字新聞もあった。遠目に見ると、日本の新聞は英字新聞に比べて全体に淡く感じられる。

その後パリで暮らしたときに、現地の新聞に5か月で1000枚の自画像を仕上げて〈パリの新聞と自画像〉としている。会場には数枚展示されていて、残りはきれいに積み上げられていた。タブロイド判で写真の割合が多く、色合いは優しい。ところが表情は厳しく単調で、顔が画面に埋もれているように感じる。緊張みたいなものでぎゅっと詰まって見える。これを描くためにパリに行ったとは感じにくい。改めて2009年版を見ると、一枚一枚が風船みたいにふくらんで見える。むっとした顔すら穏やかだ。百面相やりすぎじゃないかしらと最初は思ったけれども、このとき描いていたのは自画像ではなくて、顔の筋肉がどれだけ動くのか、ほうぼうに寄る皺を観察していたのかもしれない。こうなると、日本の新聞が海外の新聞に比べて淡く感じたのは気のせいだったのだろう。

昔の新聞に比べたら昨今の新聞は淡い。字は大きくなったし組みもゆったりになった。どれくらい変わったのか、朝日新聞デジタルの記事で朝日新聞の変遷を読んでみると、1951年〜15段(一段15文字)、1991年〜15段(一段12文字)、2001年〜15段(一段11文字)、2008年〜12段(一段13文字)、2011年4月以降は13字×12段のまま一文字をより正方形に近づけたそうだ。明朝とゴシックの見分けを強化したりルビを読みやすくするなど、文字そのものの見直しもされている。詰め込みから読みやすさへ。ありがたいと思える年代になってきたいっぽうで、単純計算ながら、30年前の新聞に比べて減った文字数3割は毎日どこにいっているのだろうとも思う。海外の新聞は、どう変わっているのだろう。

吉村芳生さんの個展は大きく分けて3部構成になっている。自画像、モノクロの版画やドローイング、そして、色鮮やかな花々。その多くが、最終的に、画面に大小のマス目を引いて、順番に埋める、という手法だ。小さいマス目は2.5ミリ四方。色鉛筆で描いた花々は巨大なものが多いのだが、それにも、マス目。絶筆となった〈コスモス〉にそれがはっきり残された。思えば自画像の制作も、新聞紙、つまり一日をマス目として埋め尽くすことだったのだろう。〈コスモス〉にあらわれたマス目の大きさを自分の目にセットして、作家の書き順に習い、画面左下から、一枚ずつ写真に撮るように見てまぶたを閉じ、次のマス目に視線を移してみる。このひとの絵は、一枚ではなくページであった。

別腸日記(22)旅の道連れ

新井卓

ツーリスト/Touristとトラヴェラー/Travellerの違いについて──どの本だったかポウル・ボウルズは、前者は帰る家がある者たち、後者は帰るあてもなくひとつところに深く潜伏する者たちである、と言った。日本語では旅行者/旅人とさしたる違いはなく、同様に移動性を含むふたつの言葉に、なぜボウルズは一線を画したのか。Travelの語源は定かではないけれど、厳しい労働を意味するtoil/travailの響きをもつこの語が、中世までのしばしば命がけの旅の困難さを孕んでいることは確かなようである。ツーリストたちの旅が究極的には自宅への帰還を目的とする円運動とすれば、トラヴェラーの道行きは、袋小路の、あるいはオープン・エンドな旅にほかならない。ボウルズ自身のタンジールへの旅のように。

いまこの文章を、南イタリアの小都市・サレルノの海岸に座って(ビールとコロッケを片手に)書いている。はじめて映画らしい体裁で作った拙作、映像詩『オシラ鏡』を、第72回サレルノ国際映画祭に出品しあわよくば表彰台に載ってやろうという皮算用なのだが、その話はまたいずれ書くとして、今度の旅は、いつもと全く違う様相を呈しつつある。なぜなら、今回は年若い双子の少女たちと、とひとりの青年と一緒だからだ。三人は映像詩『オシラ鏡』(*)の出演者で、2年前、別のプロジェクトで銀板写真(ダゲレオタイプ)に写ってくれた若者たちである。正直なところ完全自主制作で予算も厳しく、はじめは私も出席せず作品だけ送ろうと思っていたのが、音声の山﨑巌さんとも話して、結局三人を連れていくことになった。

インターネットの発達は、巨大資本を膨れあがらせ地域性を破壊したが、同時に、見も知らぬ個人と個人が文化/国境をこえて直接に繋がり、それぞれが持つモノや知恵を共有する可能性を生み出した。わたしたちが滞在しているのは山手の集合住宅で、ネットで繋がった一個人から一週間だけ借り受けた、仮の住まいである。

どの国に行っても同じ作法のホテル、査証、クレジットカード、保険や旅客機はおそらく、旅の困難と危険を極力減じるために考え出された近代の偉大な発明なのだろう。しかし今、わたしたちは自分たちでシーツを替え、近所の商店でパンや果物を買い、翌日にはもっといい水曜市を見つけて次はここで用を足そう、と心に決める。ありあわせの材料で料理をし、ゴミを出し交代で洗濯もする。わたしたちには日本に帰る家々があるが、こうしてサレルノに得たもうひとつの家によって、現代の旅はふたたび、わずかに、〈トラヴェル〉の様相を呈する。

海外ははじめてという十四歳のレオナとマイラは、もう町の住人のように堂々と道を渡り、長い髪を風になびかせて坂道を下っていく。高山君はいつまでもベッドでスマートフォンをいじっているが早朝、日の出を見に海まで散歩してきたという。わたしたちの生はまったく不思議なものだ、と思う。この世に複数の家、複数の家族があって、その先に輻輳するいくつもの生があるのかもしれない、といたずらに考えて見、すこし怖くなってまたビールに手を伸ばす。このあたりの名物というコロッケ(イタリア語でもコロッケ)はもうすっかり冷えてしまったが、濃厚なチーズと地元の馬鈴薯のねっとりとした生地は、まだ風味を失っていない。もうそろそろ、わたしたちの映画の上演時間である。

*映像詩『オシラ鏡』予告編

ノーベル平和賞にメリークリスマス。

さとうまき

町にポインセチアが売られると、クリスマスの時期がやってきたなあとワクワクする。12月10日は、ノーベル平和賞の授賞式。今年のノーベル平和賞は、ISの性被害を告発してきたイラク・クルド民族少数派のヤジディ教徒のナディア・ムラド氏がコンゴの医師と一緒に受賞する。

ヤジディ教徒といえば、がんで苦しんで死んでいったナブラスのことを思い出す。彼女はイスラム国が襲ってきたときにすでにがんにかかっていたから、ともかく病院のあるドホークを目指したので捕まらずに助かった。2014年、その冬、僕たちは、鎌田實を連れてドホークに行き、ナブラスの避難している家で炊き出しをし、その時にポインセチアを買ってきて、絵をかいてもらった。クリスマスのシーズンになるとどうしてもナブラスのことがわすれられないのだ。すると小太りのおばさんのことも思い出してくる。

毛布とかストーブを買って、ヤジディ教徒が避難していたキャンプに届けた時、そしたら小太りのおばさんがいて、地味に集めた古着とかを配っていたのだ。ハナーンさんも、ヤジディ教徒で、6月にバシーカ―という村が襲われて避難してきたという。シンジャールが落ちたのは2カ月後の8月だったので、少し先に避難してきたから何か彼らのために支援をしなければと活動を始めたそうだ。名刺をあげたら、いろいろと情報をくれるようになり、いつしか一緒に働くようになった。彼女は、ISの戦闘員にレイプされた女の子の面倒とかをよく見ていた。ハナーンさんは本当に素朴な小太りのおばちゃんだったから、女の子たちも信頼していたのだろう。

僕は、同席したときには、何が起きたかを事細かく説明してくれた。言葉がわからないということそして、やはり日本人だから信用できると思われた。こじつけかもしれないが、優れた工業製品を作る人たちは信頼できる!?と思われているようだった。僕たちは、近所の人たちに知れないようにわざわざ3時間かけて遠くのクリニックまで連れて行って妊娠しているかどうかとか言った検査を受けさせ、性的感染症の薬代なども支払った。
http://suigyu.com/noyouni/maki_satoh/post_10.html
30人ほどの、女性の支援をおこない、彼女たちの証言をまとめて、人権NGOであるHRNを通して国連人権委員会にも提出した。

レイプされた女の子には、アマルちゃんという12歳の子もいた。彼女のインタビューは、ハンケイというハナーンさんの避難しているおんぼろの家で行った。おんぼろだったが庭は広く、古着を集めて配るためにそういう家を借りたのだという。目の前に現れたのは、あどけない女の子だった。「私は、両親、1人の姉と2人の兄弟の、6人家族でした。8月3日に、彼ら(IS)は私たちのコーチョという村に侵入し、100人くらいが撃ち殺されました。男性たちをどこかに連れていき、わたしたち女性は学校に連れて行かれました。その後、彼らは若い女の子だけをモスルに連れていき、2日後に2人の男性が来て、私と2人のいとこはシリアに連れて行かれたのです。彼らは私たちを空き家に連れて行って、3日に1回来ては、強姦して去って行きました。彼らは食べ物を買ってきて、私たちは自分たちで食べたいものを料理していました。何人かの女性たちがヤジディ教徒を助けている男性に電話をかけ、自分たちの住所を知らせた。その人は別の男性を送り、逃げるのを手助けしてくれました。朝4時に男性が来て、11人(2人は子ども、それ以外は女性)を車に乗せた。そして2015年6月19日にドホークにたどり着きました。両親と兄弟らはまだISISに捕まっており、何の情報もありません。」
(後日、親せきは解放の手助けをしてもらうのに、1人5600ドルを支払ったと話している。)

その時に彼女は、自分以外の家族の肖像画をかいて無事でいてくれることを願っていた。ハナーンさんは、自分の娘とかぶさったという。その年の秋には、「実は、イラクを去ることを決めたの」と打ち明けた。目には涙を浮かべていた。「日本人が、私たちを助けてくれているのに、逃げるなんて申し訳ない」という。

イスラム国は、まるで流星のように突如現れたように日本では報道されたが、少数民族への蔑視は、今に始まったものではないから、隣人がいつ自分たちを襲ってくるかもしれないという不安が付きまとう。歴史上74回自分たちは虐殺を受けた。75回目はいつ来るのかと。

ハナーンさんは、トルコの山を越え、ギリシャの海を渡り、今はドイツで暮らしている。そんな彼女にも、ノーベル賞を上げたいし、アマルちゃんも、ノーベル賞を上げたいなあと思う。そして、がんで亡くなったナブラスちゃんも! 今年のノーベル平和賞は、性暴力がテーマのようだが、ヤジディの人たちのことを忘れないでほしいと思う。

彼女たちの苦しみを、残虐なISの男どもの性暴力という風に位置づけるのではなく、やっぱり日本が加担したイラク戦争が生みだしたIS。その結果犠牲になってしまった少数民族の女性たちの悲劇である。おめでとうと言いながらも責任を感じてほしい。

ジョージアとかグルジアとか紀行その2 暮らしの中のワイン作り

足立真穂

ジョージアでワインを作っている人に会いたい。

ずばり、今回の旅の目的はこれに尽きる。
とはいえ、旅は道連れ世は情け。前回に書いたように、ジョージアは最古のワイン生産国であり、最近世界遺産になったので人気急上昇中なのだ。
そこで、一緒に飲みに行こうと友人を誘うことにした。「飲んでみたい!」とさっそくコーカサスくんだりまで同行してくれる腰の軽い人が複数周囲にいたことで準備は加速し、英語さえあまり通じないと聞き「大勢でなら必要でしょ!」と通訳兼ガイドを雇うことに。後から思うに、これは本当に雇ってよかった。
ツテをたどって紹介してもらったのがニアさん、夫婦でワインを作っている40代後半の女性だ。お互いテキトーな英語を駆使してメールでやりとりしつつ、旅程を決めた。これが思いがけずとんでもなく過酷な旅を生み出したわけだが、それはまた後で追い追い語っていこう。

待ち合わせは首都、トビリシのホテルだ。日本から、ヘルシンキから、ベルリンから、ニアさんはジョージア第二の都市クタイシ近郊の村から、全員集合である。地球はまるい。目的のある旅の場合は現地集合現地解散の旅が便利なので、このパターンが最近増えた。

ニアさんとは初対面とはいえ、この夫婦が作るワインを飲んだ経験はあった。『ジョージアのクヴェヴリワインと食文化』(島村菜津、合田泰子、北嶋裕著、誠文堂新光社)という本の刊行記念パーティにお呼ばれし、その時に味わっていたのだ。ちなみにこの本はジョージアに行く際にオススメだ。歴史や観光地についての記述もあるし、特にワインを飲みに行く場合は、ぶどうの品種から生産者の人物紹介まで載っているので、必携だと思う。

あのすばらしいワインを作る人なら安心だ。
この安心感は、旅の間に確信に変わっていく。

最初の夜は、ニアさんオススメのレストランへ。メニューがとにかく豊富、というよりもそもそも何が何だかわからないので「えーい、オススメを持ってこーい!」となるのは常だったが、旅の間終始、つくづくジョージアという国は食が豊かな国だと実感するばかりだった。
私が今まで食べたことのある他の地域の料理ではトルコ料理が一番近い。隣の国なので当たり前かもしれないが、乳製品、特にヨーグルトの酸味をうまく生かしており味わいが複雑で、発酵食文化があると言っていい。
ハーブ系の香辛料を多用し、レストランや家庭では手作りのパンや飲み物を多く見かけた。最初に出かけたレストランでは、手作りのレモネードを何種類も出していたし、それくらいは朝飯前、その場で手作りしているものだらけ。北部の田舎町では、シンプルでなんてことはない山中のレストランで、その場で解体した牛の煮物や、自家製の窯で焼いたチーズパン(「ハチャプリ」という。覚えておきたい旅のジョージア単語だ)を食べることができた。
野菜や果物はそれ自体の味が濃く、口の中で弾けるかのよう。スーパーで買う日本のものは、形は綺麗だが味が薄く感じてしまうのだが気のせいだろうか。
贅沢とはこのこと。今の日本でこんな風に食べられる機会はどれくらいあるだろう?

道中、ニアさんの夫のラマズさんの名前を冠するワインメーカー「ラマズ・ニコラゼ」でのクヴェヴリワインの製造風景を見せてもらった。

まずは畑で収穫だ。なんとこの夏はジョージアでも暑かったそうで、ワイナリー巡りのつもりが「収穫やるんで御免!」と3軒も訪問キャンセルに。「ワインは農業」とはよく聞くフレーズだが、その年の気候に左右されるものだと体感することになった。とはいえ、ラマズさんにじっくりその分話を聞き、見学させてもらえたのはラッキーだった。
ラマズさんのワイナリーは、ジョージアの西部、イメルティ地方にあリ、ジョージア第二の都市、クタイシ近郊の村の一角だ。収穫の最中に出かけると、「村の男たちを呼んだ」そうで、ぶどう畑のそばにあるワイナリーの素朴な小屋(クヴェヴリの埋めてある場所を「マラニ」と呼び、小屋まで含めて称する場合が多いようだった)には、何やら屈強なジョージア男性が10人ほどわいわいガヤガヤ。人海戦術で、この人たちを雇ってこれから数日の間、ぶどうを収穫していくのだという。
ニアさんは「あの人たちのご飯を作るのが誰だか知ってる!?」と叫んでいたが、作っても作っても終わらなそうだ。ごめん、野菜を切るくらいは手伝うよ。頑張れ、ジョージアの肝っ玉母さん!

畑の普段の様子はこちら。

採れたぶどうは、こちらの圧搾機で押しつぶしていく。回してみたら結構な力技だ。去年までは木製のたるの中にぶどうを入れ、足で踏んでいたそうだ。

このジュースの段階で既に美味しく、何杯でも飲めるほどだった。
次がお待ちかねのクヴェヴリ、素焼きの壷の登場だ。地中に埋めて、その中にホースでぶどうジュースを流し込んでいく。果肉や種などすべて入れる。

品種や出来具合によって時間を調整しつつ、1ヶ月ほど、日に数回時々混ぜながらアルコール発酵を待つ。

この後は、赤ワイン用と白ワイン用に分けて果肉などの処理をし、ガラス板や木の板で蓋をする。乳酸発酵したところでしっかりと主に粘土であらためて蓋をし直し、密封の上重しを載せる。地域やワインによって異なるものの、さらなる熟成や瓶詰めをして仕上げていく行程だ。。

別室には貯蔵庫もある。

そこでラベルを貼って完成だ。

と流れを追うのは簡単だが一筋縄でいかないことは言うまでもない。「毎年状況は変わるから試行錯誤だよ」とのことだ。

クヴェヴリは、専門で作る職人がいるとのことでそちらも訪ねた。

ザリゴ・ポジャゼさん、8歳で壷をつくり始めて現在67歳。5代ほど続くクヴェヴリ作りの家系だ。クヴェヴリを作る製作所はジョージア全体で10軒ほどだそうな。

入り口にコンクリートで壁を作った窯の中で2日ほどかけて1000度で焼き(大きさや用途で異なる)、周囲の壁を壊して取り出し、冷ましてから内側に蜜蝋を塗る。これを温めて浸透させ、ワインの浸み出すのを防ぐのだそう。強度をあげる場合は外側にセメントを塗るなど手を加えるという。
最近では世界遺産になったこともあり、海外からの注文でうれしい悲鳴をあげているのだとか。息子さん二人が継ぐそうで、後継者問題もクリアしている愉快な壷職人さんであった。庭からとってきてくれたぶどうのおいしかったこと。
写真は2000リットルは入るというクヴェヴリ。

ラマズさんがワイン作りを実家に戻って本格的に始めたのは10年ほど前のこと、実家ではずっとお父さんが作っていたそうで、小さい頃には手伝うこともあった。Uターンの前はトビリシに学び、その後「ヴィノ・アンダーグラウンド」というトビリシ市内のワインバーで長く店主を勤めていた。
大学の同級生だったニアさんは、トビリシではなんと数学を私塾で教えていたというから驚いた。今住んでいる家(ワイナリーの通りを挟んで目の前)には週末だけ通っていたが、ワイン作りの決意とともに移り住んだ。とはいえ、都会から来て戸惑うことも多く、うまく都会と田舎のバランスを取らないとどちらかだけでは息が詰まる――そんな話が印象的だった。

この「ヴィノ・アンダーグラウンド」に第一夜に出かけた。トビリシはジョージアの玄関口なのでお出かけの際は是非この店へ。「クヴェヴリ・ワイン協会」メンバーのワインをここで味わうことができる。旧市街を歩いていると、あちらこちらでワインショップを見かけるし、多くが立ち飲みできるバーにも早変わりするのだが、ここは雰囲気も良く、落ち着いて選んで飲め、購入もできるのでオススメだ。

とはいえ、クヴェヴリワインというのは、製法からもわかるように非常に生産数が少ない。農薬や添加物を一切使わないので、作られる量が限られているのだ。
そして、当たり前だが「ジョージアワイン」と呼ばれるもののすべてがクヴェヴリワインとイコールとは言えない。販売されている箇所も限定されるので、確認してから買ったほうが良いだろう。

何本かラマズさんのを含めクヴェヴリワインを持ち帰って、友人の小料理屋で試飲会を開いた。一様に参加者が驚いたのは飲んだ後の爽快さだ。私自身がワインに詳しいわけではまったくないのだが、すっきりしたワインの質が格別で、他では飲んだことがない類のものだ。
世界は広い。こんなお酒を壷の中で発酵させて作ってしまう驚愕の国、ジョージア。次回は、この充実の背景を追ってみたい。

169わらべ歌、さいご

藤井貞和

なよたけのさいごのことばは「竹! 竹!」
なよたけ! おまえは何を言ってるんだ!
何を! お月さまが迎えに来るなんて、
そんなことがあるもんか! おまえは、
疲れてるだけなんだ。 からだをおやすめ!

高畑さんが言う、「姫の犯した罪と罰」は、
わらべ歌のなかから聞こえる。 でも、
ぼくらには聞こえないね、わたしたち。
妖怪は引き継がれる、光源氏(源氏物語)へ、
かぐや姫も妖怪変化、その終り方――

箕(み)をあおり、姫をかなたへ飛ばし、
手足を切って籠に編む。 「風立ちぬ」の歌も、
世界が一冊の神話たりえているために、
世界が一冊の神話たりえている限り、
ぼくら、わたしたちの信頼のなかで生きる。

もう、かぐや姫はいない。 犠牲者のあと、
もののけ姫もいない。 おしらさまも、
おりひめも、火のなかから水晶の叫び。
鼠の浄土で逢おう、ぼくら、わたしたち。
そんなにむずかしいことじゃない、逢おう。

(現代詩って何だろうな。どう書けばよいのか。「何を今更」じゃない、わからなくて日歿の時、井戸の涸渇だ。「なよたけ」は加藤道夫『なよたけ』でも、知らない人、多いし、そういう情報、要らないね。「竹! 竹!」がほしいのに、朔太郎の「竹」がじゃまをするかな。そちら 近代で、こちら 月がお迎えにくる時代よ。加藤は折口の『死者の書』を軍装から手放さず、ついに持ち携えて帰国した。そんなこともいま、要らないね。かぐや姫は竹だから、手足を折られ、皮は「竹籠に」と細工されるのさ。哲学者デリダの詩の定義に「大省略」というのがある。すべては大省略よ。なんで「姫の犯した罪と罰」がここに出てくるの? 大省略だから、説明は要らない。アニメ『かぐや姫』のキャッチコピーだった。いや、『もののけ姫』だったかも。)

ドアと蝶番

高橋悠治

マルセル・デュシャンが1927年に住んだパリのラリー街11番地のドアは 一枚のドアが前後に回転して二つの部屋のどちらかを閉める 写真では ドアは中間の位置にあり 両側の部屋がすこしずつ見えている

ドアはゆれている そこから見え隠れする風景もゆらいでいる ドアが手前にひらくか奥にひらくかによって 見える部分がちがうし 一枚のドアには表と裏があり そのどちら側から見るかによって 見えるものはちがう

二つの部屋のあいだを行き来するドアが 一方の部屋を閉じる時は もう一方は開くから 開いていて同時に閉じている このドアの場合 「ドアは開いているか閉まっているかどちらかだ」とは言えない それだけではなく このドアが行き来する空間は第三の部屋のなかにあり その部屋はこのドアでは閉めることができない と考えると このドアは閉めるためではなく 閉められない空間を作るためにあるのかと 言いたくもなるだろう

このドアの両開きの蝶番は バネをもたない自由蝶番で スイングドアのように両側に回転しても どちらかの部屋を閉めた状態に自動的にもどることはない どちらの部屋も開いている中間の位置で手を放せば そこで停まったままでいる どっちつかずで浮いている状態なら どちらかを閉めた時よりは 見える範囲がひろく 見えるものも入り混じっている  

ウィトゲンシュタインは 問題には意識もせず疑いもしない前提があることを ドアは動くが 蝶番は動かないことにたとえた(『確実性について』341.-343, 655. 1969出版 )アーティストがそれまでにないドアを作ってから 哲学者がドアを問題にするまでに 世界は一つの戦争をはさんで変わった 一枚の例外的なドアではなく 見えるドアから見えない蝶番が意識にのぼる  

アルチュセールは1980年代の未完の「出会いの唯物論」で エピクロスからはじまる裏の哲学史を書こうとしていた 生きている世界のいま 落ちてくる偶然とぶつかり 思ってもみない遠くへ飛ばされるか 他のものと絡まり 隙間に閉じ込められて 波打つ 起源も目標もない変化 道でない道をたどり 選ばなかった可能性の束をふりかえり 見えない夢に背を向けたまま 風にはこばれてゆく

ドアを支える蝶番も浮き上がり ドアは透明な厚みのない膜になって 両側から流れてくる雑多なものを通す 通り抜けられなかった重く濃い流動物が両面にひっかかって 輪郭のぼやけた影を残す