生き物としての本(下)

イリナ・グリゴレ

七歳の秋、小学校に上がるために、両親のもとで暮らすことになった。独裁者が殺害されて国の歴史が変わったのと同じ年、私の中の歴史も大きく変わった。それはカフカの小説に出てきそうな不条理な気分だった。社会主義の澱がよどんでいる、魂を失った人々の町に移ったのだ。秋の涼しい朝、母に連れられて、祖父と菊の花を売るために乗ったのと同じ始発に乗り込んだ。あの冷たい朝の悲しみは、死ぬまで忘れられない。それは死のように感じられたし、別れという言葉の真の意味をかみしめたのもその時だった。そのころ、母は週末にしか実家に立ち寄れず、祖父母が実の親のようなものだったから。

私は家から駅までの道をずっと泣き通し、喉がかれるほどの大きな声で叫び続けた。母の手に引っ張られて、朝まだ暗い駅へ向かった。この村にいつでも戻ることが出来ると言われても、どうして同じ私に還れるだろう。確かにあのとき、私の中の何かが完全に失われてしまった。その日、ともかく電車で森に囲まれた村を出て私は、世界に捨てられた気持ちで小学校の入学式を迎えた。

両親は鉄筋コンクリートの団地に住んでいたが、学校は一時間くらい歩いたところにあった。母と弟と三人で町の周辺を通って、一番貧しい地区にあった学校へ通った。道の途中には、まるでデスバレーのような深い穴が掘られたかなり広い空き地があって、ゴミに混ざって動物の死骸がたくさん投げ込まれていた。経済が混乱していたせいか、当時は病気らしい馬や犬がよく路上に倒れていた。なかには半死半生のまま野良犬に喰われる哀れな馬などもいたが、それが文字通り骨の状態になるまでを最初から最後までみた。毎朝見かけるこの死の光景は、地獄そのものだった。

想像してほしい。ある朝通りかかると、ひどく病んではいたが毛色の美しい白馬が穴に投げ込まれていた。最初は可愛そうなこの馬を助けたいと思う気持ちで心が痛んだが、毎朝それを観ていると次第に死の匂いが自分の皮膚に移りはじめる。どうしても消えない死の匂いとイメージが重苦しく残る。

小学校から帰るとアパートの四階の窓枠に腰掛けてじっと外を眺める。ゴミをあさる貧しそうな子供たちがいる。ゴミの山から顔をだしてパンをかじっている。その子たちが私より不幸せかどうかなど関係なかった。私には食べ物があったけど、あの子たちと同じ、この人工的に作られた工場とコンクリートの町に閉じ込められていた。

町に住む私たちの生活は、祖父母の食糧で支えられていたから、週末と夏休みは村で過ごした。菊の花を売り、ワイン作りの手伝いをした。毎朝動物の死骸を見る生活から解放され、金曜日の午後、電車から見える森や畑の景色と再会するたびに涙が出た。両親はワインのバケツと収穫物を運び、終わると私と弟を連れて町に帰る。そのたびに私は泣きわめいた。

町に住み始めた私の助けになったのは、読書だった。町にいるときはずっと本を読み続け、夏休みに村に帰っても図書館で借りて読み続けた。朝から晩まで懐かしいクルミの木陰で、桜の木に登って、本をむさぼり読んだ。村の図書館の蔵書は豊かで、夏休みが終わると祖父が大きなバッグに本を詰め込んで図書館に返しに行ってくれた。そして高校生になって庭の桜が枯れた頃、図書館の新着本の中に、ルーマニア語版『雪国』を発見した。読み始めたら止まらなかった。

それは列車だった。川端康成が書いた冒頭の有名なシーンは汽車だったが、私の中では、あの村と町を結ぶ列車のイメージとして再生された。車内の若い女が自分と重なりあい、忘れがたい感覚を呼び起こした。本の中で初めてこんなに自分と似ている人がいた。遠い日本の汽車なのに、私も乗っている気がした。ずっと列車に乗っていた。同じ車内に私もいたと叫びたいぐらい、自分の体が痛いぐらい懐かしかった。日本語を勉強し始めたきっかけは、そんな読書体験からだった。

その二年後、偶然遭った人から俳句の本をもらい、さらに二年後にまた列車に乗り、青森という雪国に向かった。「あなたは読んでいた本のところにいつも行けるなんて! この勇気はジプシーの乳を飲んだからじゃない?」と母は笑って言った。運命の妖精は踊りながら、きっとそこまで考えていたのだ。

私が育った村の家の通りを数軒行ったところに、ジェル・ナウムという名の老人が住んでいた。あまり見かけることはなかったけれど、どこかへ釣りに出かけるジェル・ナウムとすれ違った時のことは、はっきり覚えている。がっしりとして背が高く、オーバーオールを着て、肩に長い釣ざおを担いでいた。歩き方は踊りのようだった。汚い裸足の私は農夫の子供にしかみえなかったはずだが、一瞬だけ目が合った。空気が薄くなった気がした。

子供の私には知る由もなかったが、ジェル・ナウムはシュルレアリスム運動の主要メンバーで、パリで詩作をしていたこともある。ナウムの言葉に初めて触れた時、シュルレアリスムではありながら、否むしろそれだからこそ、私が生きた村の背景や、私が感じた目に見えない存在が凝縮されていると感じた。彼の本それ自体が生きた動物であるかのように。シュルレアリスムにはルーマニア人の血が流れているのだ。本を生かすのは踊りのような言葉にほかならない。本もまた身体の一部なのだ。私の肉が育った村を通して、それは世界の一部だった。

(「図書」2014年9月号)

174哲学の夢

藤井貞和

消える? 消す? 文法の夢
終る? そこから遅れる? はかない準拠に凭れて
さいげつを流し、実らないということ?
おら、人称をうしない――

時称はおいしくいただくけものにくれてやる、哲学の夢?
おら、うしない尽くして
文末に置き去られた縁語。 幼児の車
さいごにのこった車を うごかす――

きみを送る しゃりんがうつつを別れて
きょうもあしたも旅立つ
おら、むなしく実らないさいげつでした

それでもゆるせと声がする
いま、おらのしんだいしゃです
やだな さいごには哲学がのこるはずです

(半世紀の昔、当時の文学部長だった中村元さん、インド哲学者に、用向きがあって、私は抗議の電話でしたが、かけたことがあります。氏は私の用向きを一通り聴き取ったあと、「アッハー」と、受話器のおくから一言。その一言で終りました、負けたね。アッハー。)

一人旅

笠井瑞丈

高校を卒業
就職もせず
進学もせず

分からぬまま時間が過ぎていく中

そんな中フッと頭の中をよぎった
自分が育ったドイツに一人旅しよう

そんな計画を自分の中でたてた

時給が良かったと言う理由で
パチンコ屋さんの店員をやった
当時800円とかの時給が多い中
1200円の時給をもらえた

仕事はなかなかキツかったが
50万貯めたら辞めようと決め
我慢して週5日から6日
朝から晩まで働いた

意外と早く目標の50万は貯まり

サッとバイトを辞め
パッと航空券を購入

旅立ちの日

当時付き合ってたいた彼女が
成田空港まで見送りに来てくれた

一人旅は二ヶ月

当時は携帯電話もなく
メールなんてものもない時代だ
二ヶ月の別れというものが
永遠の別れのように感じた

涙を流す彼女を背中に
秋のドイツに旅立った

旅をしながら本を読もうと
一冊の本を持っていった
それまで母によく
本を読めと言われていたが
全く本を読む習慣が無かった
これは大きな決意であった

飛行機の中で
涙を流してくれた
彼女の事を考え
本のページを開く

そしてドイツに着く

懐かしの公園や
市電に乗りながら
カフェのベンチや
教会の中

寝る前に

少しづつ
少しづつ

毎日ページを進めていく

小さい時に過ごしたドイツの記憶を辿る旅と
小説の物語が並行して時間を共有していた

今も思い出す

街の匂い
空の匂い
雨の匂い

変わる事のない景色

そしてあの時読んだ
小説の中の景色も
今も変わらない

そんな二つの世界を旅していた

そして二ヶ月が経ち帰国した
見送りに来てくれた彼女とは
もう会うことが出来なくなっていた

今とは遥かに時間の感覚が違い
二ヶ月は短いようで長い

全ての人に時間は平等だ
そしてページは捲られる

新しい物語は生まれ
新しい景色に変わる

二ヶ月
沢山の事を経験し
沢山の事を学んだ

その代償として失ってしまったものもあるけど

しかしこの時出会った小説が
自分の道を作る小説となった

三島由紀夫
『春の雪』

1998年行なった
処女ダンスリサイタルのタイトルを
『春の雪』
とした

あれから時間が過ぎ
日々色々なことが
変化していくなか

記憶の中の時間は変わることなく
いつも鮮明にカラダに浸色している

その色彩と共に
人は成長し年老いていくのだろう

カラダの痛みもいつかは一つの色彩変わる
そして自分だけのカラダの色彩を纏う

あの時
あの旅を
しなかったら

もしかしたら……………….。

難破船にヴァルタン(星人?)

くぼたのぞみ

 いや、じつはヴァルタン星人の話ではないのだ。

 北海道の田舎町に住んでいた10代のころ、テレビで「シャボン玉ホリデー」が翻案和製ポップスをやっているのをよく観ていた。そのうちオリジナルの曲を聴きたくなって、遠い東京から飛んでくる電波に5球の真空管ラジオのダイヤルを必死で合わせた。木製で、スピーカーの前面が布張りのあれだ。ニッポン放送、文化放送、TBSラジオ、etc…1964年ころのことだ。

 そのころ流行った曲が、YOUTUBEを探すと出てくる、出てくる。いつだったかそんな曲をブログにアップしたことがあった。サンレモ音楽祭なんてのが話題だったころのウィルマー・ゴイク「花咲く丘に涙して」とか「花のささやき」とか、60年代末に流行った歌謡曲の「ひどい」歌詞をこてんぱんに批判しながら。
 数日前の深夜に、疲れた耳になつかしの一曲を、とペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」の動画をクリックしたら、すぐ下にシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」が出てきた。おお! 白黒の、粒子のあらい動画だったけれど、これが思いのほかよかったのだ。中学生のころは、あまり聞こえなかったフランス語の歌詞が、耳にちらほら聞こえてきた。1964年のヒット曲か。

 Ce soir, je serai la plus belle pour aller danser⤵︎⤴︎ Danser⤴︎
   ス・ソワール、ジュ・スレ・ラップリュ・ベル・プーラレ・ダンセェエエ。ダンセェエ。
 (今夜はあたし、サイコーの美人になって踊りにいくんだ、踊りに)
 
 中2女子の耳には「ラップリュ・ベル」が「ラッキュ・ベル」と聞こえて「?」だったのだけれど。動画のシルヴィちゃんは、あごまでの髪をふわっとカールさせている。でも、ひらひらの衣装は揺れても、髪が揺れない。これには笑った。あのころはスプレーでカチッと固めたのだ。だから一見ふわっとしたカールも、決して揺れない。
 じつはシルヴィ・ヴァルタンのイメージが苦手だった。マリリン・モンローふうに軽く口もとをゆるめて、あごをあげ、上目づかいの目線はどこか眠たげ、そんなショットが多い。男に受ける金髪美女のイメージ、知性は隠す。ああ、もやもやする。鬱陶しい。なにしろ反抗期まっさかりだからね。いまなら、I matter.  I matter eaqually.  Full stop. といえるんだけど。
 シルヴィ・ヴァルタンはブルガリアからの移民だと、Wiki を見て知った。1944年生まれ、8歳でフランスに家族で亡命、17歳でデビュー、20歳でロッカーのジョニー・アリディと結婚、翌年息子誕生、15年後に離婚、ect…。父は外交官でアーチストだったというから、移民とはいえ恵まれた環境で育ち、とことんエンタテナーとして生きてきた人なのね。日本に20回もきてたなんてぜんぜん知らなかった。後年きりっとカメラを直視する目はいいな──現在74歳か。ヴァルタン星人はこの人の名前からとられたって、ホントカナ? 『地球星人』は読んだばかりだけど。

 でも、じつは今回「アイドルを探せ」の初期バージョンを聴いて、ありありと思い出したのはまったく別のことだったのだ。ヴァルタンの声といっしょに浮かんできたのは、屋外のスケートリンクを青いラメ入りセーターで滑っている少女の姿だった。

 北の深雪地帯のスケートリンクは、雪を踏み固めて水をまいて作る、陸上競技場のトラックのような楕円で、まんなかに雪がうず高く積もっている。前夜に降った雪は除雪して、凹凸部分にはホースで水をまいて再度凍らせる。これで、つるつるの町営リンクのできあがり。場内には流行りの音楽が鳴っていた。あのころ、いつ行ってもかかっていたのがこの「アイドルを探せ」だった。だから記憶のなかでこの曲と強く結びついているのは、1964年の冬の、あの町のスケートリンクなのだ。
 青いラメ入りのセーターを着て、毛糸のマフラーに毛糸の帽子、伸縮する布のスキーズボン(スケートズボンとはいわない)、もちろん手袋は太い毛糸で編んだミトンで、まだレザーの手袋はなかった。黒いスケート靴を買ってもらったときは歓喜した。刃の長いスピードスケートで、前屈みの姿勢でエッジをきかせてコーナーワークをやる爽快感は、雪に閉じ込められて過ごす長い厳寒の冬を制圧するサイコーの復讐法だった。

 記憶をたどれば、スケート靴はたぶん母が買ってくれたのだ。ラメ入りのセーターはわたしのリクエストで母が編んでくれたものだ。激しい反抗期の中2女子は、もてあましたエネルギーをポップミュージックとスケート、スキーに投入した。記憶をたどれば、それを可能にしていたのは、女の子がスピードスケートなんかやって、女の子がスキーなんかやって、と周囲の人たちに陰口をたたかれても、気にしなくていい、やりたいことをやりなさい、といって長すぎるスキー板まで買ってくれた母のことばだった。思い出した。
 あのスケートリンクで鳴っていた「アイドルを探せ」が──シルヴィ・ヴァルタンはこの曲に尽きる──難破寸前の記憶の船から当時の母のことばをすくいあげ、救命ボートに乗せてくれたみたいなのだ。これは深夜の音楽救助隊か。Merci beaucoup, la musique!

 母が逝って5年が過ぎた。

絶望ポートレート(1)

璃葉

私は、絵を描いている。幼いころから楽しみ遊んでいたもので、今この瞬間まで続いているのは絵だけかもしれない。誰かに師事したことは一度もなく、芸大はもちろん大学にも行っていない。高校はエスケープしまくっていた。基本的に学校というものが大嫌い(もはや憎悪の域といえる)だった。学校で覚えた、生きるのに役立つ唯一の技は、仮病だけだったと思っている。

思えば小学生のころから、団体行動や教師の発することばにいちいち拒否反応を起こしていた。起立、礼、着席、休め、前へ倣え、など軍の演習のような動作を覚えさせられ、気味の悪い「道徳」の番組を見せられる。最初は受け入れていたけれど、そのたびになんだか得体の知れない違和感が渦巻いては、体の中に蓄積されていった。それらが本当に退屈で興味も湧かず、適応できない自分が異常なのかもしれないとも考えた。拒否権のない学校という世界の中で、脳内は常に空想状態で、コンクリートでできた白い要塞から逃げ出すことだけを考えていた。もちろん楽しいこともあったし、絵を描くことで、周りと打ち解けることができ、理解者もいてくれたから死なずに済んだが、義務教育とよばれる9年間は、私にとってほとんど地獄の日々といってよかった。

小学二年生のころの担任教師には、要領の悪い生徒だけに暴力をふるう癖があった。言うまでもなく私は「要領の悪い」組であり、常に強めの体罰を受けていた(算数の時間はかならず)。おかげさまで計算は今も苦手だ。年が変わる少し前の算数の授業で、鉛筆で頭を刺されたときには、さすがに母親が怒りのあまり学校へ出向いたことを覚えている。今だったらもっと大ごとになっていただろう。担任は、バツが悪そうに私に謝り頭を撫でてきたけれど、強烈に嫌な思い出として残っている。今思えば、あれは教育的指導にもならない、ただのひとりの人間の八つ当たりだったのだ。あの年ごろの子供の目線で見る周りの大人は身体的にも精神的にも巨大に見え、そのなかでもあの担任は大木のように聳え、同じ人間だとも思えなかった。大きな人に対して、小さき人は絶対に逆らえないものだと当たり前に思い込んでいた私はその後、勉強の仕方もわからず、信頼のおける教師にも出会うことがないまま、成長した。
ようやく暗算ができるようになったのは20歳のころ。働いていたカフェで同僚が面白おかしく教えてくれた。それでも計算は未だに苦手だし、頭が真っ白になることもある。

やはり私は学校が大嫌いだ。

仙台ネイティブのつぶやき(44)住み続けたいという思い

西大立目祥子

この春もまた、我妻勝さん、美智子さんご夫婦から、春祭りにいらっしゃいとお誘いを受けた。かつて暮らしていた集落の明神様、大和神社の春祭りだ。美智子さんはいつもヨモギの香りのする草餅にお煮しめ、何種類もの漬物、色とりどりの寒天など手づくりの料理をテーブルいっぱいに広げて待っていてくださる。お招きはもう3回目で、心踊らせていそいそとうかがった。

我妻さんとは2014年の冬に、仙台市沿岸部の津波被災の取材で知り合った。暮らしていたのは仙台港の南に位置する和田という地区で、すぐそばを七北田(ななきた)川が流れている。
大津波はこの川を何度も逆流して押し寄せて一帯を水に沈め、我妻さんの家もがれきと泥に襲われた。そのとき、一人家に残った勝さんは2階に逃げ、美智子さんは生後一ヶ月の孫やお嫁さんらと車で避難したところを水で高く持ち上げられ、近くの家の屋根づたいに車から脱出して命を拾った。

それでも家は流されず何とか無事だった。行政が修復して住むことを許可したこともあって、勝さんは自ら手を入れ、年老いた母のみさをさん、美智子さんとここでの暮らしを再開した。取材にうかがったのはそんな暮らしもいくらか落ち着いた頃だったと思う。庭先では、ザルに広げた切り干し大根がやわらかな冬の日射しを受けていた。手をかけて暮らしてきたようすがうかがえ、災害で荒れた風景の中にあって人の気持ちの通うあたたかさに触れたような気がしたものだ。

台所からつぎつぎと手料理を運びながら、美智子さんは「ここは何やるにつけてもすぐにまとまるいい町内だったの」と静かに話し、それを受けて勝さんはこういった。「殿様が中心にいたからな」と。
殿様? そう、この地域には殿様がいたのだ。実体ではないけれど影でもない、その間くらいの、でもかなりしっかりとした存在として。

ここは古くから「和田新田」とよばれていて、その名は、伊達家の家臣、和田為頼、房長親子に由来している。京都伏見で伊達政宗に召し抱えられた為頼は領内の大がかりな河川改修工事を推進した人物で、その息子の房長も水上交通の基盤をつくりあげた。和田家が藩から与えられたのがこの地で、殿様の暮らす館があり、整然と道が切られ家中の人々の屋敷が並んで、いわば小さな城下町のような集落が江戸時代を通して維持されてきた。
こうした集落は領内のあちこちにあったのだけれど、ここが特異なのは和田家が昭和に入ってからも暮らし続け、代替わりしても固い家中の結束が保たれたことだ。

和田家が奈良から勧請した大和大明神を守る明神講、近くにあるお地蔵さんを守る地蔵講、葬儀を近所で助け合う契約講…などなど。集落の人々が力を出し合ってきたかかわり合いはいくつもある。勝さんから「俺たちは“契約兄弟”とよんだんだ」とうかがって、戦後の経済成長の時代、みるみる都市化する仙台の片隅にこうした暮しが息づいていたことに驚かされた。

特に私が興味深く聞いたのは、一軒では難しい重労働を助け合いで実践した一つにお茶づくりがあったことだ。家々のまわりに育てていたお茶の新芽を摘み取って、みんなで集まり蒸して揉み、1年分のお茶をつくったという。杜の都仙台の“杜”はもともと自給自足の暮らしを支えた屋敷林をさすのだけれど、そこに確かにお茶の木も植えられていたのだ。「田植えのあとのもうクタクタになっているときなんだけど、蒸して一晩おいて、次の日は団子つくって持ち寄って、1日中揉む作業するの」と美智子さん。玉のような汗をかきながら作業をするうち小屋の中にはお茶の香りが充満してきて、さぁ一服だとつくったばかりのお茶を入れ、ああうまい、今年はいいね、などとといいながらにぎやなひとときを過ごしたのだろうか。そんな共同作業を一軒一軒めぐりながらやったという。

しかし、そんな親しく緊密だった地域の暮らしは、津波で大打撃を受けた。当初、住み続けられると家を修復したものの、その後仙台市がこの地区を災害危険区域としたことによる混乱があって、早々と移転を決めてしまう人、少しでも長くとどまろうとする人など集落内の人の思いは次第にばらけ、集団移転の道筋が見出せないままに、
我妻さんご夫婦は予想もしなかった集落解散という事態に追い込まれていった。

出会いから1年後にうかがうと「町内会もいよいよ解散だよ」と勝さんは苦渋の表情で話し、美智子さんは「解散とかお別れ会とか、ほんとはいやなの」と意気消沈していた。地域への深い愛着のことばを聞くたび、こうした住民の思いに耳を傾けることから復興計画をつくることはできなかったのだろうかと私は半ば怒りを覚えなら繰り返し思い、簡単に住み替えや買い替えを考える都市的な発想では、そもそも我妻さんのような“土地に根ざす”ことへの想像力を持つことは無理なのかもしれないと考えたりもした。

なぜか、移転を決意してから、我妻さんは取材で出会った私たち(取材は3人でクルーを組んでいた)を、地域の大切な大和神社の祭りによんでくださるようになった。
私たちが関心を寄せて話を聞いてきたからなのか、地域の大きな変化をちゃんと見届けてと伝えたいからなのか、真意をたずねたことはないのでわからないのだけれど。

結局、我妻さんは2017年の秋に、もとの場所から車で10分ほどのところに新居を立てて移り住んだ。そして、離れてなお、大和神社をひんぱんに訪れて掃き清め、見守り、地域の人々が守ってきたお地蔵様に冬になればマフラーを巻いてやり、お供えのお菓子を見ては、誰か訪ねてきた人がいることを確かめている。あたりがどんなに様変わりしたとしても、二人は体が動く限り通い続けるだろう。

いつもお祭りにお招きを受けたときは、まずはいっしょに神社にお参りをする。始まった工事で神社は向きまで変わっていた。七北田川にはのっぺりとしたコンクリートの堤防が築かれ、その前にお地蔵様が北向きに置かれ、何となく居心地が悪そうに見えた。地域のシンボルだった松の大木は変わらない姿なので「松はそのままですね」と聞くと「あの松も移転したんだ」と勝さんはいい、「だから、神社の桜も何とか移してくれ、と仙台市に頼み込んだんだ」と新しく区割りされた小さな境内の桜を指差した。ピンク色のつぼみがほころんでいる。勝さんの気持ちもいくらかはなぐさめられただろうか。

津波のあと、一人でこの地域を歩いたことがあった。和田家の屋敷跡ははっきりと認識でき、城下町を思わせる道筋や集落のまわりの土塁もしっかりと残っていた。小城下町の原型としてこのまま保存されればいいのにと思ったものだ。発掘調査が行われて埋め戻され報告書がつくられたが、結局のところ区画整理事業が進められて数年後には工場地帯になるのだろう。暮らしは時代とともに変わるし、災害が打撃を与えることもある。でも最も大きな変化をもたらすのは、人為によるものではないのか。動き続ける重機を見ていると、そんな思いが頭をもたげてきた。

お参りを終えてごちそうをいただいた。大根に大豆や細切りにした昆布やスルメを入れた漬物、レンコンやシイタケのはさみ揚げ、マヨネーズを使ったという寒天…毎年同じものが重ならないようにと気づかいながらつくってくださる料理をいただきながら、美智子さんにとってはこうやって料理をつくってもてなすことが、以前の暮らしを取り戻すことでもあるのだな、と気づかされる。

食事の合間に、集落で不幸があったときみんなで念仏を唱えながらまわしたという数珠を見せられた。集落が解散したいま、もう使われることはない数珠。「どうしたらいいのかしらね」という美智子さんのことばに、みんなで顔を見合わせる。
住み続けたかったという思いを胸の底に押し込め移転した我妻さんご夫婦。我妻さんだけでなく、仙台の大津波の被災地で私は多くの人から同じ思いを聞いてきた。人はなぜそこに住み続けようとするのだろう。一人ではかかえきれないような大きな問いに、いつもたじろぐ。

製本かい摘みましては(145)

四釜裕子

函入りの冊子を作ってみたいと言う。接着剤やカッターの扱いにもう少し慣れてからチャレンジしてもらうとして、お菓子や雑貨の小さな箱に合わせた冊子を作ることを課題としてみよう。まずは試作。空き箱をみつくろって作業するにあたり、ながら映画を何にしようかとアマゾン・プライムで探したら、2004年、ジーナ・ローランズ主演、ニック・カサヴェテス監督の『きみに読む物語(原題  The Notebook)』があったので「今すぐ観る」。劇場で見ていないし内容も把握していない。

認知症で施設に入っているアリー(ジーナ・ローランズ)を見舞うデューク(ジェームズ・ガーナー)は、読み聞かせをボランティアでしているだろうか。髪の毛をなでつけて看護師に「今日こそは」などと言っているから、アリーを狙っているのかも。話すのは男女の青春物語で、テーブルに開いた本を見ると、丸背ハードカバーで青い表紙に角が赤茶、タイトルはなく、太くて長い白のスピンがはさんである。厚さは15ミリくらいか。ちらっと見えた本文は手書きにみえる。

冒頭、夕日に映える渡り鳥が建物の上を行き過ぎる。窓辺にアリー。映画のほとんどは青春物語の再現で、ところどころにアリーとデュークの今があらわれる。アリーはその話を気に入っている。初恋の相手が、自分と婚約者のあいだで揺れる女性へ当てた手紙の部分を聞いてアリーが言う、「美しいお話」。デュークが詩をそらんじると、「あなたの詩?」「ホイットマンだ」「知ってるわ」「そのはずだ」。ん? 話を最後まで聞いたアリーが涙する。しかし間もなくワレに返る。「頼む、行かないでくれ」、鎮静剤を打たれる姿に嗚咽するデューク。

自室に戻ったデュークが開いたノートブックが大きく映し出される。万年筆で「愛の物語 アリー・カルフーン著 最愛のノアへ これを読んでくれたら私はあなたの元へ」の文字。白無地ノートにアリーが手書きしたものだった。それはつまり……。この映画、絶対に前もって展開を知りたくないヤツ。公開当時どんな宣伝をしていたのだろう。知らずに見られてほんとによかった。というわけでもう一度。見直したらまた別の疑問が湧いて出る。話は「めでたし、めでたし」で終わっている、ならばノアが君はどうしたいのかと執拗に聞いたのにアリーが答えた、これは物語ではないか。かつて母親に止められ受け取ることのできなかった365通のノアの手紙(=クウに散ったノアの1年)への返信?

青いノートブックを小脇に抱えてテーブルについて、スピンをつまんでページを開いて、続きの始まりを指でさぐってデュークは読む。何度もそうしてきたのだろう。少なくともノートブックが開かれた時だけアリーが戻れる場所がある。ノアにあてて書いた物語だけれども、そのとき目の前にいる「あなた」がノアである必要はないだろう。デュークが帰る場所はアリーだ。デュークもアリーに会うためにノートを広げる。今日の分を読み終えたら、パタンと音をたてて中の空気ごと押し出して閉じきる。ハードカバーという構造がそれを助ける。長い白のスピンも、指先まで伸ばした腕、あるいはシザイユの刃のようで、似合うと思った。

肝心の試作作業は、10センチ四方2センチ厚の空き箱を選んで青い紙でくるんで終わった。おかげで構想はできた。中にぴったり入る冊子を『きみに読む物語』と『愛の物語』がブック・イン・ブックになるように仕立てよう。ハードカバーで、白くて長いスピンをつけて。『愛の物語』ではアリーの母親とロイの父親の言葉も拾いたい。

しもた屋之噺(208)

杉山洋一

息子を中学校に迎えにゆき、そのまま付添ってノヴァラに向かっています。中学校からほど近い、ユダヤ人街を走るソデリーニ通りに「meglio disoccupato che raccomandato!(コネ野郎より失業者!)」と痛切なスプレーの壁の落書きを見つけ暗澹たる心地になり、地下鉄では、細いブレスレットがつけられなくて苦労している、痩せた浅黒い中年女性をぼんやり眺め、ガリバルディ駅から乗ったこの近郊電車は、春の心地よい日和のもと、気が付けば、数年前に開催されたミラノ万博跡地の傍らを走っていました。
ここからノヴァラまで、まだ深い雪をいただく切り立ったフランスアルプスを右手に仰ぎながら、水田地帯を走ってゆきます。田植えの季節なのか、ロンバルディアとピエモンテを分けるティチーノ川から引かれた灌漑用水路を伝い、水田はどこも満々と水を湛えており、周りの田園風景が水鏡に映ります。ペトラッシが音楽をつけた、映画「苦い米」の舞台はこの地方のもう少し先、ヴェルチェッリでした。「苦い米」当時の出稼ぎ労働者は各地のイタリア人でしたが、現在のピエモンテは多くの外国人、特にアフリカ系の移民が大切な労働力を担い、この近郊電車でもアフリカ人を多く見かけます。
後期の授業にニコルというアフリカ系の女学生が入ってきて、いつも陽気な彼女は、リズム練習になるといつも楽しそうに身体を揺らし、踊りながらテンポを取るのが印象的です。

  —

4月某日 ノヴァラ、回廊喫茶にて
昨年秋に息子が日本人学校に転校して以来、イタリアの中学で習っていたフルートはすっかり放り出していたのだが、最近になって突然、全て忘れてしまうのは悲しいと言い出した。
二週間前の週末、息子の付添いでノヴァラの音楽院を訪れた際、突然、おいと声を掛けられ顔を上げると、フルートのジャンニである。思わず、何年ぶりだ、10年ぶりどころではないな、と再会を喜ぶ。ジャンニとはエミリオのクラスで一緒に指揮を習った仲である。当時、エミリオのクラスには、市立音楽院で同僚のギターのグイドや、このジャンニや、トリノの国立放送響でピアノを弾くアントニオ、今はトリノの国立音楽高校で教鞭を取るマルコの姿があった。
あれから何度か、国内の音楽祭でジャンニと演奏もした。当時彼はレッジョ・エミリアの国立音楽院で教えていたが、その後にクーネオに転出し、5年前からノヴァラで教鞭を取るようになったと言う。息子が通うレッスン室斜向かいが、旧知のヴィオラのマリアのレッスン室で世の中狭いと愕いたが、ここでジャンニが教えているのは知らなかった。事情を話して、早速息子はジャンニに副科フルートを習い始めた。
先日はジャンニに誘われ、彼の担当している学生オーケストラの基礎クラスを訪ねた。そこでは、ジャンニがエミリオを彷彿とさせる指揮姿で、モリコーネの「ニューシネマ・パラダイス」とヴィヴァルディの2本フルート協奏曲のリハーサルをしていて、窓から射し込む午後の黄金色の日差しがジャンニを逆光に浮きたたせ、「ニューシネマ・パラダイス」と見紛う光景に胸が一杯になる。
トリノのマルコも同僚のグイードも、指揮を学びたい学生がいると連絡してくる。彼らから送られてきた生徒たちも、我々が昔エミリオから学んだ指揮を揃って踏襲していた。
エミリオは指揮者をつくるレッスンはしなかった。音楽の真理を伝えるのには懸命だったが、職業指揮者になるための訓練には興味がなかった。しかし、その核心は現在も我々一人ひとりにしっかり残り、我々のそれぞれが自分の言葉で生徒に伝えていて、「真実は、一度知ってしまうと覆せないもの」と繰返していたエミリオは間違っていなかった。
息子を待ちつつ、ノヴァラの公園下の喫茶店で当時に思いをめぐらしている。
 
4月某日 ミラノ拙宅
市立音楽院での指揮レッスンは、ピアニスト2人を振る個人レッスンである。そしてピアニストが昼休みを取るあいだ、ピアノを使わずにテクニックだけを取り出して集団レッスンをしている。今年は新入生の進度が揃って早く、基礎的技術に留まらないレッスンができる。
技術的な問題が解決できると、寧ろ本質的な問題が浮彫りになった。正しいことを正しくやるだけでは、音楽にならない。一人ずつ順番に「原始的で獰猛に怒りながら」級友たちを叫ばせてみる。どんな手段でもよいと言ってあり、こうなると最早技術ではない。もの凄い形相をしても、拳骨を振りかざしても、身体を震わせても、この「原始的」エネルギーが体内から放出されなければ、どうにも叫ばせられない。面白いものである。
例え放出できても、相手までエネルギーが届かなければ、出てくる声にはエネルギーは反映されない。いつもはにかんでいて、まともに演奏者の目を見るのにも苦労していたエマヌエレが、意外にもとても上手に叫ばせていて興味深い。
あまりやると喉を壊すので10分程度でやめたが、その間にうちの教室を通りかかった同僚たちが、目を丸くして仰天しながら、「これは素晴らしいレッスンで…」と逃げてゆき一同抱腹絶倒した。通りかかる度に怪しげに手袋を頭に載せていたり、沈黙のなか時計を凝視していたり、教室の壁を眺めて振っていたり、と同僚らも毎度呆れているのだが、挙句の果てに生徒が順番に級友を叫ばせていれば、これはいよいよ世も末である。
 
4月某日 ミラノ自宅
日本の恩師より近況を伝えるメールをいただく。
「心配かけて済みません。あちら此方の病院に係りますと、同じ症状でも違う事をいわれます。なるべく良い事の方を聞くようにしています。年はいやでも取るので、仕方在りません。一日一日がいまでは大切です。お天気の心配、猫の健康の心配、鳥の餌の心配、心配事のデパートです。悲劇も喜劇も劇には変わりありません。二つあってのこの世ですかね」。
少しシェークスピアばりのお便りを頂戴したので、その晩みた夢をお返事がてら書き送った。
「録音を三善先生のお宅に届けに上がった夢をみました。先生が亡くなっているのはわかっているのですが、こんなものを書いたら先生から怒られそうです、とメッセージをしたため、昔の阿佐ヶ谷のお宅にあった大きな甕の中にしまいました。今も相変わらずお忙しく作曲をしていらっしゃると思うのですが、というようなことも書いて。雨が降っていたので、その上に新聞を被せて帰ってきました。その巨大な甕だけが阿佐ヶ谷のお宅のままで、周りの風景は、小学校のころ住んでいた東林間の近所にある坂だらけの住宅地のようでした。夜、雨が降るなかそこを訪れて、なぜか家を一回りして、玄関の甕のなかにメッセージとCDをいれて帰ってきた、というところで目が醒めました」。
それに対するお返事が届く。
「其れは夢ではありません、貴男の心の中の世界です」。
「私も若返りたいのはやまやまですが、子供の頃の戦争の時代はごめんです。運の良い猫にでも生まれ変われればその方が好いですね。今朝はどんよりと薄ら寒く鬱とうしい一日になりそうです」。
 
4月某日 ミラノ自宅
1969年から2019年まで、時間軸に沿って半世紀に亙る世界中の目ぼしい戦争と紛争を書きだしてみる。先ずその数の多さに言葉を失い、無数の諍いのまにまに、幾つかの大きな流れが浮かび上がる。アルカイダの名前を聞くようになるあたりから、明らかに以前の戦争の定義に収まり切れぬ、不穏な空気が世界へ広がりゆくのを実感する。無意識にぼんやり感じていたものを、目の前に露にされたよう。自分の無知の深い闇を元気なうちに少しでも埋めておこうと願う。
 
4月某日 ミラノ自宅
夜、食卓に息子と並んで座り、夕食。二人で家に居るときは、こうして二人で庭の木を眺めながら食べる。思春期真っ盛りの息子からは、「お父さんには夢がない」と呆れられているが、確かに夢のない人生を送ってきた気もする。「大きくなったら何になりたかったか」と尋ねられ、「ローカル線とか鉱山鉄道とか森林軌道のトロッコ運転手」と答えると、大いに失望される。オールドファッションだという。
子供の頃は、鉱山鉄道などぺんぺん草の繁茂する廃線跡をたどって、一人で歩き回っていたが、ミラノの拙宅もアレッサンドリア方面に延びる、鄙びた列車の線路沿いにあって、庭の2メートル先は、草むした引き込み線のレールが走り、年に何度かは臨時列車のヤード作業のため、背の高い草を倒しながら、のんびりとここまで列車もやってくる。子供の時分であれば飛び上がって喜んでいた光景だ。
年始から今まで、作曲も譜読みもしないでワーグナーやらレスピーギやらカセルラの資料ばかり読んでいて、果たしてこれが一体将来自分の役に立つのかと思っていたが、思いがけなく今年の秋にはカセルラの三重協奏曲とマリピエロの交響曲をボローニャから頼まれた。
「夢」ほどロマンティックではないが、ささやかな希望は、空の上かどこからか、誰かが叶えてくれるような気もする。
 
4月某日 ミラノ自宅
小長谷正明の著書は今まで随分読んだ。最後まで読み残していた「神経内科病棟」を電車で読みながら何度も涙が溢れそうになる。身内にこうした病気を抱えたことがある人なら、誰でも同じだろう。息子の闘病中、親身になって力を貸してくれたニグアルダ病院の医師たちの顔を一人一人思い出しながら読む。普通に読んでも胸をうつ文章に違いないが、実体験と結びついてしまうと、なかなか客観的に想像できない。
 
4月某日 ミラノ自宅
今年は「ブラームス・ア・ミラノ」という、ミラノ各地の公会堂で年間14回の演奏会を開き、ブラームスの室内楽作品全曲を演奏するプロジェクトがある。家人もスキエッパーティと2台ピアノでピアノ五重奏の二台ピアノ版として知られる二台ピアノのソナタを演奏した。
22歳で早逝したチェリスト、マルコ・ブダーノの名を世に留めるため、若い音楽家二人を中心に創設されたアソシエーションが企画をサポートしている。毎回演奏会前にミラノ各地を案内つきで歩いて散策してから、夜、演奏会が行われる。
先日は第二次世界大戦の爆撃の瓦礫を集めた丘陵で知られるQT8地区を散策ののち、QT8地区の公会堂で演奏会があった。企画者をよく知っていて何度も演奏会に通ったが、どれも心に残る素晴らしいものだった。ブラームスだけの室内楽演奏会を上級の演奏で愉しむのは、究極の贅沢だと気がつく。
 
4月某日 ミラノ自宅
授業の合間の休憩中、学生二人に日本のような君主制国家の感想を求められ、しばし戸惑う。日本の君主は象徴だから、実際は共和制に近いともいわれる。
今井信子さんや岩田恵子さん、澤畑恵美さん、林美智子さん、米沢傑さん、河野克典さんとモーツァルトを演奏したとき、美智子さまが演奏会にいらしていて、演奏会後に少しお話した。
林さんは、自分の名前は美智子さまにあやかってつくれてくれたもので、こうして直に聴いていただけて感無量とお話ししていらした。自分の番になって、美智子さまから出し抜けに「これだけのことをなさって、さぞかし皆さんで練習を積まれたのでしょう」と質問を受けた。大いに狼狽えながら「ああ、はい。それはもちろんです」と言った途端、一同爆笑したのが懐かしい。2012年のことだった。
2014年には、地震で甚大な被害をうけたイタリア中部のラクイラで、ジャーナリストのガッド・レルナーと一緒にファビオ・チファリエルロ・チャルディの「Voci Vicine」を演奏した。Voci Vicineは明仁天皇の311犠牲者へのヴィデオメッセージで始まり、最後も明仁天皇のメッセージで終わる。メッセージの音響とアンサンブルが同期するように書かれ、舞台ではヴィデオも映写されるので、アンサンブルの音が明仁天皇から発せられるような錯覚に陥るのだ。もしかすると、これを日本で演奏すれば不謹慎と問題になるかもしれない。明仁天皇の優しく気品ある声色や発音は、演奏者からも聴衆からも、頗る評判が良かった。
息子は、昨年夏、草津にカニーノのレッスンを受けに行った折、どういう経緯か美智子さまの傍らでお昼をご一緒したとかで、美智子さまから「よくお食べなさいね」と励まされた、と暫くの間、周りに自慢してまわっていた。

(4月30日ノヴァラ・ジュスティ庭園にて)

なななぬかかな

北村周一

十二月骨より白き肌すけて絵とはおおいなる省略であろう

一月のしろいマスクの声のなか、血のいろあかき尿の報告

二月尽霙交じりの雨降る日荼毘に付したり名はラクという

三月はとおい眼差しはじめての個展にがくも眩しくもあり

四月馬鹿テレビの箱にへらへらと降り来たれる元号あわし

五月闇死んだ振りして眠りおれば子らは戦きイヌ駆け回る

六月忌 もふくのすそに足取られすべり落ちゆく階段は闇

七月のキリコ大祭の夜にして杳いきおくにわれをうしなう

八月や能登に口能登あることも法師つくつく奥能登へ来よ

九月淡き夢覚めやらぬ父といて急を知らせるデジタルの音

十月をいよよ見頃のさくら花いっそ月まで犬連れのみちを

十一月晴れてようようはらからが印押すまでの七七日かな

*なななぬか 七七日 四十九日のこと

ロックは続く

若松恵子

ロックっていいな、なんて素直に思うライブを続けて見た。

ひとつめは4月26日のChar×Chabo。Char(チャー)こと竹中尚人とChabo(チャボ)こと仲井戸麗市、大好きなギタリスト2人が競演するうれしいライブだった。「宝箱」というタイトルが付けられていたのだけれど、2人が気に入っている内外のカバーも含めてカッコいい曲が、カッコいい演奏で次々繰り出されて、楽しい3時間だった。「チャーがいるから日本のロックは偽物じゃない」と大村憲司(YMOにもゲスト参加してたギタリスト)が言った言葉をチャボが紹介していたけれど、ギターのうまさだけでなく、歌われる言葉の中にも、借り物ではない、ただいま現在のロックを感じさせるものがあって心打たれた。ローリングストーンズのカバーも多く演奏されたのだけれど、年を重ねることで深まったようなギターサウンドに思わず踊ってしまった。ロックにとらわれ続け、ギターを手放さずにきた2人だからこその厚みのあるサウンドだった。それを浴びる幸せ。ドラムが古田たかし、ベースに澤田浩史、キーボードにDr.kyOn 、このメンバーでフジロックにも出演するそうだ。

もうひとつは翌4月27日のアラバキロックフェス。土曜の夜の最後のプログラム「SATURDAY NIGHT ROCK’NROLL SHOW」。宣伝文には「時代を超えて進化し続ける日本のロックンロールのレジェンドたちが、ここに集結。ロックンロールサーカスのように1つのステージの中、流れるようにゴキゲンにアラバキの土曜日の夜を熱くします。ヒリヒリとジワっと燃え上がるサタデーナイトロックンロールショー!」とある。陣内孝則のロッカーズ、池端潤二のドラムでHEATWAVから山口洋と細海魚、ROCK’N’ROLL GYPSIESとして花田裕之と市川勝也、麗蘭の仲井戸麗市、土屋公平、早川岳晴。それぞれ30分くらい演奏していった。それぞれのロックというところが良かった。アンコールではニールヤングやルーリードのカバーが演奏されて、ここでの演奏もまた自分のロックになっていてかっこよかった。私のアイドル達も、レジェンドなんて呼ばれてしまう年代になってしまったけれど、今も色あせないロックスピリットに魅力を感じる。仲井戸麗市がアンコールで花田裕之を呼び込む時に「ただ突っ立ってるだけでかっこいい」と紹介していたけれど、それがロックの王道というものだろう。偶然居合わせた若い人たちにも伝わるといいなと思った。

きみを嫌いになった理由(1)

植松眞人

とても晴れた日だった。
私の通っていた市立の中学は、ごく普通の学校で、それほどひどくはないイジメがあり、それほど激しくはない非行少年がいて、スカートをめくられると顔を真っ赤にするスケバンがいた。
その中でも私は負けん気は強いけれど、何事にも自信のない男子生徒で、ときどき同じクラスのグレ始めた生徒と言い合いをしたりもしたけれど、殴り合いをするまでにはいたらない、というなんとも生殺しのような日々の中で、一世代前のフォークソングに出てくる「青春」という二文字をもてあそぶように悶々としていた。
そんな中学二年生の私のクラスに転校生がやってきた。夏休みが明けた二学期の初日だ。 鈴木君は私と同じように、クラスの真ん中よりも少し低い背丈で、前の中学の制服を着て登校した。私の学校の制服が間に合わなかったと、担任の先生が説明し、鈴木君を紹介した。紹介された鈴木君はごく普通に挨拶をしたのだがクラスの男子がザワザワとし始めた。
鈴木君の自己紹介に登場した前の学校名が、隣町にまで届くほどの不良の巣窟だったのだ。その学校名を聞き、鈴木君の学生服を見ると、まさにその学校にいたことが明白だった。
なにしろ鈴木君がいた前の中学校は近在の中学の不良を束ねて、高校や町ゆく大人たちにまで喧嘩をふっかけるのだという噂があった。そんな学校からの転校生ということで、もしかしたら、こいつだって喧嘩が強いのかも知れない。そんな短絡した思考回路を薄っぺらい電気がバチバチと走り、クラスがざわついたのであった。
しかし、たまたま空いていた僕の隣の席に座った鈴木君はそんな周囲のざわめきとは関係なく、いかにも生真面目そうで、笑うとチャーリーブラウンのような可愛いえくぼのある男の子なのだった。
隣に座った僕に鈴木君は、よろしく、と声をかけてきた。僕も鈴木君に会釈をして、よろしく、と返した。
始業式だったので、その日はそのまま学校は終わりだった。終わり際、先生から言われて僕は鈴木君を案内して回ることになった。職員室、保健室、視聴覚室、体育館、美術室、音楽室、柔道場、プールなどなど、学校のありとあらゆる場所に鈴木君の連れて行き、その場所がいつ使われるのか、使い方にどんな注意点があるのかを僕は丁寧に話した。
丁寧に話しているうちに、だんだん僕たちは打ち解けてきて、学校を出る頃には、お互いに冗談を言い合うようになっていた。
「どっちに帰るの?」
僕が聞くと、
「駅のほうに向かう途中やねん」
と鈴木君は答えた。
「そしたら、同じ方向やな」
そう言って僕は微笑んだ。
鈴木君もなんとなく嬉しそうな顔をした。
クラスの友だちから嬉しそうな顔を向けられるのは久しぶりだった。中学一年の終わり頃から、私はクラスの友だちたちとうまく行かなくなっていた。夏休み前までは楽しく話していた友だちが何人もいたのだが、夏休みが明けた頃にはなんとなく疎遠になり、あまり話さなくなっていたのだ。
僕は一見人当たりが良く、あまり人と壁を作らないので最初はみんなが親しげに近寄ってくる。ただ、僕自身は友だちの事よりも自分のことを優先して考えてしまう癖があり、付き合いが長くなるに従って、そこがバレてしまう。身勝手な人当たりのいい僕よりも、口下手でもたがいを思いやれる友だちを優先してしまうのだ。
中学一年生が終わる頃になると、クラスの中心的な明るく楽しそうなグループとは話しもしない、隅っこに追いやられていたのである。
だからこそ、鈴木君がとても嬉しそうに、
「そしたら、同じ方向やな」
と言ってくれたことが心にすっと染みてきて、僕は泣きそうになってしまったのだ。
「一緒に帰ろか」
どちらからともなく、そう言って、僕たちは校門を出た。
朝、見た時と同じように空は澄み渡って、雲の縁取りが濃いオレンジ色に見えるくらいの深い青空だった。僕のほんの半歩前を歩いていた鈴木君の学生服の肩の辺りにもオレンジ色の縁取りが出来ていた。(続く)

インドネシアで住んだ家(3)2軒目の家

冨岡三智

さて今回は2回目の留学で住んだ家について。前の留学帰国から1年半後に、また同じ大学に再留学することになった。今回(2000年2月〜2003年2月)も住んだのはスラカルタ市カンプンバル地域だ。前回お世話になった家の管理人さんに事前に連絡して、この地域内で家を探してもらっていた。決めた家はロンゴワルシト通りを挟んで前回の家と南北にあり、RW(〇丁目のようなもの)が違うだけ。前回は市役所の裏側で、今回は中央郵便局の裏側にある。今回の家も水道、固定電話、2階に物干し場(にできるスペース)付きのこぢんまりした物件だ。壁や床、ドアなどの素材は前回の家の方が良い材料を使っていたが、カマル・マンディ(トイレ+浴室)だけは新しくタイルを張り替えてくれていて清潔だ。また、今回は家の中に洗濯場もあって便利である。何より、大家さんの家も事務所もごく近くにあるので、何か困ったことがあるとすぐに修理に来てくれるのもありがたい。

大家さんはフェンスを作る鉄工所を経営し、周辺にいくつも貸家を持っていたが、他にも手広く事業をしていたように思う(詳しくは忘れてしまった)。2000年の夏にスラカルタ王宮広場で開催されていた市のイベントの実行委員長を務めていたから、それなりの顔役だったのだろう。独立記念日には私の許にもお祝いの弁当を届けてくれたり、娘さんの結婚式では人並み以上の豪華な料理をふるまったりと、持てる者としてふさわしい振る舞いの人だった。

大家さんの事務所には事務の女性と従業員の男性の人がいつもいて、私はここで毎月の電話代、電気代、水道代を支払っていた。大家さんはこれらを全部銀行引き落としにしているので、全部の引き落としが済んでから合計金額を事務所に支払いにきてくれという話である。これは非常に助かった。というのも、前回は毎月これらを別々に支払いに行っていたからなのだ。電気代は指定の銀行で毎月10〜20日の間に、水道代は水道局で毎月7〜20日の間に、電話代は電話局で支払う(期間は忘れた)。しかも支払いは午前中のみ。授業の合間をぬっていくが、特に水道代と電話代の支払いは1時間以上も自分の番号札が呼ばれるのを待たなければならず、大変疲れるのだった。

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カンプンバルは都心部だから、近所に住んでいる人は町中で商売している人が多い。東隣の一家は夜にスラマット・リヤディ通り沿いでアヤム・バカール(鶏の照焼)屋を開いていたし、西隣の一家は夜に警察風紀部(のような部隊がインドネシアにはある)事務所の前でワルン・スス(牛乳の屋台)を開いていた。どちらも昼頃から仕込みを始めて夕方に屋台を引いて「出勤」し、夜中の12時過ぎに戻ってくる。アヤム・バカール屋には小学校に上がったばかりの女の子がいた。他にも子供がいたのだが、この子だけ舞踊が好きで、私がドアを開けて練習していると覗きに来ては、「ミチはLとRの発音の区別がまだできないけど、気にしなくていいのよ。私たちインドネシアの子供も、学校で勉強してからできるようになったのよ。」などと、関係あることないこと、アドバイスを私にしたがる(笑)。この一家はイスラム教徒で、父親は断食月の夜など、商売を終えて帰宅したのち、よくベランダでお祈りの朗詠をしていた。私の家の方に向かって朗々と詠うものだからうるさいのだが、なかなかの美声で聞かせるものがあった。

一方、ワルン・ススの一家は老夫婦+イワン(息子)1人で屋台を営んでいた。お昼に牧場から牛乳が届き、煮沸をして夜に屋台に出す。牛乳屋台はスラカルタの名物で、男共も酒ならぬ牛乳を飲んで盛り上がる。イワン曰く、牛乳は毎日煮沸しないといけないから、新鮮な牛乳が手に入らないと商売ができないそうだ。スラカルタは近郊に牧畜の盛んなボヨラリ県があるからスス屋が成立するらしい。その煮沸した牛乳の量が多いと、よく鍋一杯分くらいお裾分けしてくれた。しかし、日本の薄い市販牛乳と違って、黄色みがかった薄い脂肪膜ができるような牛乳だ。コップ1杯も飲むとおなかがいっぱいになる。イワンはジャワの男らしく鳥を飼うのが好きで、声の良い鳥をいろいろ飼っては、うちの家の軒先に吊るしていた。私としては別に良いようなものの、軒先は共有ゾーンらしい…。この鳥たちは、宮廷舞踊曲を練習しているとやたらに甲高い声で啼き始める。どうやら、クプラという木槌の音(踊り手に合図を送る楽器)が鳥に恐怖心や警戒心を起こさせるようなのだ。そんなわけで、軒先に鳥がいると、クプラを使わない舞踊の練習に切り替えることになる。普通のガムラン音楽には鳥たちは反応しない。

このワルン・スス屋の住む家の母屋には年配の夫婦が住んでいた。ちなみにスス屋一家もその年配夫婦もカトリック教徒。年配夫婦のおじさんはクリス(剣)の収集が趣味で、ジャワ歴のクリウォンの金曜日(聖なる日)にはいつもクリスの手入れをしていた。男性舞踊の稽古で私がクリスを使うのを見ていたのか、帰国の時に1本餞別にとクリスをくれた。さらに、それ以外に居候のおじいさんがいた。このおじいさんが亡くなってこの家の人たちでお葬式を出した時の話は『水牛』2011年2月号の「無縁社会」で書いているが、実はスス屋のおばさん以外にこのおじさんの身元を知る人がおらず、連絡した実家の方もお葬式に来なかった。私は葬式に参列して埋葬まで立ち会ったが、身寄りがない人のお葬式を共同体で出すという点にインドネシアの地縁社会のあり方をしみじみ感じたものだ。

イスラム、カトリック、鳥、牛乳、クリス、子供…、今思えば、この地域にはジャワ文化のエッセンスが凝縮されていたなあと思う。

最後の一日

さとうまき

今日で平成が終わる。イラクにいると全く実感がわかないのだが、なんやかんやと偶然が重なり、時代の節目であることは実感している。さて、最後の一日を振り返る。

朝、起きる。ここアルビルは、なぜか雨が続いたが、暑い一日がやってきた。太陽がぎらぎらとあざ笑うように照り返す。風はまださわやかなのに。こちらの連中ときたら、花粉症でゴホゴホやっている。菜の花やタンポポや、ひなげしやらの草花の花粉だろうか? 僕たちは、シリア人難民キャンプに向かっていた。

こちらでは、ラマダンが始まる前に、食料の配給が久しぶりにあるらしい。男たちは、日雇いの仕事を求め、働きに出ているから、体格のいい母さんが子どもを連れて買い物車を押して段ボール箱を嬉しそうに持って帰る。仕事のない若者は、鍛え上げた上腕で段ボール箱を方に担いで歩いている。

国連難民高等弁務官事務所も長期化するシリア難民への予算はカットされ、食糧配給をもらえる人たちは限られていた。それが、ラマダン前ということで、全員にふるまわれる。天皇が変わるのとは関係がないが、なんだかおめでたいものが偶然重なっている。

キャンプの近くには高速道路の工事が始まっている。難民たちは仕事がもらえることを期待している。今までは、国連やNGOが難民らを食い物にして荒稼ぎをしていた。若い難民はハイエナのようにうろつく。自分たちが食おうとしている肉は、「シリア難民」だということなど気にせずに。しかし、そんな構造は過ぎ去って、大きな公共事業に、今度は健全に群がっていく。

学校に行くと、子どもたちがわさわさ寄ってくる。
「僕は祖国が大好きなんだ!」
1960年代に活躍したパレスチナ人作家のガッサン・カナファーニが描いた(昭和時代の)難民たちとここにいる(令和時代を生きていく)難民たちの何が違うというのか。シリアでは難民といえば、パレスチナ人を象徴する言葉だった。祖国を持たない民。それが、祖国があるのに帰れないシリア難民がいるという時代。まるで、ミルフィーユのように難民の苦悩は重ねられていく。ん、なんだかそういう表現ではないな。

僕らが、活動している難民キャンプはアルビルから車で45分、丘陵というが、実は小麦畑だったり、スイカ畑だったりたまにコメが植えてあったりという大地のど真ん中にキャンプが作られている。今日のお仕事は、「偉そうにふるまい」キャンプのマネージャーに圧力をかけて、シリア難民のがんの患者家族が住まわしてもらえるようキャンプ内に住居を確保してもらうことだ。難民が頼んでも拉致があかない。僕が偉そうにすれば、動いてくれるんじゃないかとがん患者の家族は期待していたから、あまり得意ではないが、それなりに偉そうにして見せた。マネージャーは丁寧に対応してくれた。うまくいきますように。

キャンプから帰って。病院に様子を見に行く。救急病棟にオマル君がすやすやと寝ていた。ここには10人ほどの患者がいる。オマル君は、モスルのガイヤラというところから通っている。「イスラム国」が敗走するときに油田に火を放って煙をもくもくあげていた写真を見た人もいるだろう。オマル君は昨年、神経に腫瘍ができてそれを取り除いて、下半身がマヒしてしまった。寝たきりで、床ずれがひどい。先週は、大雨が降り、チグリス川に道がつかってしまい、ゴムボートでお父さんがオマル君を担いできた。

オマル君は、「イスラム国」との戦争で多くの人々が殺されるのを見て、精神的なショックを受けたという。「時には泣いてしまうほどの痛みが出現する日々の中で、私たちに対していつも「ありがとう!」と言い、人に心配かけまいという気遣いからか、「大丈夫、元気だよ!」と溢れんばかりの笑顔で答えてくれます。彼の存在は私たちだけでなく、周囲の人々を癒やしてくれます。10 歳のオマルくんから、いろんなつらい経験を乗り越えてきた強さ、逞しさを感じます」と3月までイラクに派遣されていた金澤看護師は語っている。

僕は、オマル君にあい、一生懸命話しかけてくる彼の笑顔の虜になった。
「何しているときが楽しいの?」と聞くとゲームだという。うちの息子と同じ歳。僕はあまりゲームを買い与えるのは好きではないのだが、普段あまり何もしてあげられないからクリスマスには任天堂のスイッチを買ってやったことを思い出した。その時は、人間いつ死ぬかわからない。死んでしまう前に、スイッチくらい息子に買ってあげればよかったと後悔しないようにだった。オマル君は下半身が動かないからゲームして何がわるい?

「わかった。買ってあげる」スイッチは高かったので、エックスボックスというのを一万円ちょっとで買ってプレゼントし、モスルに戻るときに持たせた。一週間もせずに戻ってきた。お父さんが、目を赤くしてやってきた。「疲れ切っているんだ」と説明し、そして、ガラケーで写したエックスボックスで遊んでいるオマル君の写真を見せてくれた。医者から何か、言われたのだろうか。

しばらくしてオマル君が、「しんどい、しんどい」とうめき声をあげた。看護師がやってきて薬を点滴する。「なんの薬?」オマル君が看護師に聞く。「痛み止めだよ」オマル君は納得したようにうなずいた。看護師が、別の患者のところに行くと、点滴のチューブを見つめていたオマル君が「空気。空気がはいってくるよ」お父さんが慌ててカニューラから空気の粒を抜いた。痛み止めの薬が効いてきたのか、オマル君はまた、にっこりとして手を振ってくれた。僕は、涙があふれそうになった。オマル君の手を握り締めた。頑張れ。令和が来ても生きてくれ。願いがとどくだろうか。

海を海に

管啓次郎

この海にさかなが住んでいる
この海に海亀が住んでいる
この海にいるかが住んでいる
この海に珊瑚が住んでいる
この海にひとでが住んでいる
この海にさざえが住んでいる
この海にやどかりが住んでいる
この海になまこが住んでいる
この海にいそぎんちゃくが住んでいる
この海にくらげが住んでいる
この海にじゅごんが住んでいる
この海に海が住んでいる


この海をさかなに返せ
この海を海亀に返せ
この海をいるかに返せ
この海を珊瑚に返せ
この海をひとでに返せ
この海をさざえに返せ
この海をやどかりに返せ
この海をなまこに返せ
この海をいそぎんちゃくに返せ
この海をくらげに返せ
この海をじゅごんに返せ
この海を海に返せ
 
辺野古の海に海亀が住んでいた
辺野古の海に珊瑚が住んでいた
辺野古の海にじゅごんが住んでいた
辺野古の海に海が住んでいた

辺野古の海を海亀に返せ
辺野古の海を珊瑚に返せ
辺野古の海をじゅごんに返せ
辺野古の海を海に返せ

別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(前編)

新井卓

いわく、四十にして惑わず。論語など読んだこともないのに、四十歳になればそのような境地に達するのだと、思っていた。実際はどうか、といえばむしろ逆で、それまで気にも留めていなかった色々の迷いが頭をもたげ、心は千々に乱れるばかり。生まれて初めてユング派のカウンセリングを受けたのはつい最近のことだが、悪い癖で余計なサービス精神を働かせ、心理学者が喜びそうなことを進んで話そうとする始末である。また行くかどうかは、決めていない。たぶん、行かないかもしれない。

そんな最近の混沌とした生活に救いがあるとすれば、それは、画家の藤井健司(第2回でも触れたウイスキー狂いの男)、彫刻家の橋本雅也と打楽器トリオ「チクリンズ(竹林図)」を結成したことかもしれない。トリオと言ってもまじめに練習したり、コンサートを計画するわけではなく、ただ酒を飲んだり焚き火で肉を焼いたりしながら、三浦海岸の砂浜や、わたしのスタジオで、日がな一日太鼓を叩くだけの集まりにすぎない。

藤井君とは2006年に横浜美術館の滞在制作プログラムで出会って以来のつきあいだが、彼はその時から、美術館の脇でジャンベを叩いたりしており、近隣からうるさがられていた。人目もはばからず、日差しの中でポコポコと気持ちよさそうに遊ぶ彼が羨ましくて、わたしも、自分でカリンバを組み立てて参加させてもらった。その小さな楽器は下手な演奏でずいぶん削れてしまったが、胴体に藤井君が描いてくれた墨絵は健在で、爪弾くたび、ひどく不安で、また無性に楽しくもあった、あの数ヶ月を思い出す。

橋本君とはその数年後、上海の展覧会がきっかけで出会った。当時は水牛の骨(記憶が正しければ)を微細に彫り込んだ、繊細ながらどこか呪術的な不思議な作品を発表していた。東日本大震災の前後に再会してみると、狩人の友人と鹿を撃ち、解体するところからはじめ、その骨から恐るべき強度の彫刻──歯科用の器具を使い、主に草々のかたちをうつした作品──を生み出す姿に、改めて衝撃を受けた。その彼がアジア辺境のレイヴを渡り歩く、マニアックな太鼓叩きだということを、最近になって知ったのだった。

リズムに全然自信のないわたしが、そんな二人と一緒に叩くようになった契機は、一昨年、ロシア製スチール・タング・ドラムを手にしたことによる。トリニダード・トバゴ発祥の楽器、スティール・パンを裏返して──つまり、凹を凸の形にして──もう一枚のパンと貼り合わせ、持ち運びやすくしたのが、2000年にスイスで発明されたハンドパンである。わたしの楽器は、ハンドパンの構造を元に作られた新型のスチール・タング・ドラムで、元祖ハンドパンより求めやすい値段だった。ちょうど大きな作品が売れたことに気をよくし、インターネットで衝動買いしたのだった。

スチール・タング・ドラムの演奏に特別な技術はいらない。あぐらに据えてピアノを弾く感じで指を置くとたちまち、全身に染みるような深々とした音が響いて、四囲の空間に充満する。鳴る音は決まっていて、Bマイナーのペンタトニック・スケール(五音音階)。音の組合せは限られているのに、日ごと、鳴らす音は一度も同じにならない──こうしよう、と決めず、無心に弾くかぎりにおいては。

どういうわけか開けた場所の方がよく鳴るこの楽器を、一人、野山や川岸、浜辺と持ち歩くうち、ふと、何か腑に落ちるものがあった。その感じは、次第に簡単な言葉となって立ち上がっていった。「身体のことを、やらなければいけないのだ」と。それがどういう意味なのか、はっきりとはわからなかったが、とにかく、身体のことをやらなくては。得体の知れないなにかが声低く、わたしにむかって、そう告げるのだった。

音の庭と回廊

高橋悠治

どのように作曲するのか石田秀実にたずねたことがあった 音についていく と言われて その時はわからなかった 構成や構造 全体と部分 分析 そんなこと(ば)にとらわれていた ピエロのように 音を組み合わせる 音を操る それとも 巫女のように 音に操られる 音にとりつかれる そのどちらでもなく

聞く耳がある 楽器の上を歩く指がある 息が出てゆき 声が立ち上がる そのなりゆきを書きとめて その跡をたどっても 二度とおなじ音楽はもどってこない 音符は曲り目の目印 ひとつひとつに触れながら たどって行くとき 道はおなじでも 歩みはいつもちがう 思うようにはすすめない 音は不意に現れ その都度のはからいで響きになり 余韻を残し それらを足場として 響き合う音の空間が 奥行きを変え 影の乱れをまとって おぼめき よろめき続ける

知っているはずの音も もう一度訪ねると どこかよそよそしく あらぬ方を向いている 行く手にあるからと言って あと一歩というところまで近づくと それ以上は近づきにくい溝が 足元にあるような気がしてくる 一瞬ためらって踏み越えると すっと身を引いて通してくれる すぐそばにありながら 響きは急に遠ざかる 音は立ち止まったままで 時間がその前を通り過ぎていく 次の曲がり角はすぐそばかもしれないし まだしばらく先かもしれない どちらにしても 音ごとに道は曲がる 直線にみえても わずかな偏りでたわみ そり ねじれができて 先が見通せなくなる

音は無数の目になって見つめている 音は道でもあり 手触りでもあり そこを通っていく曲線の記憶でもある 手や息の感触が跡を残して 消えていくと 記憶のなかに耳の空間がひろがって しばらくふるえている

問いかけ うたがいながら 投げかける網の いまにも切れそうな細い糸 音はいつまでも続かない 現れ消え 絶えないうちに他の音が現れる 足が踏み外さない距離で踏み石が並び 回廊になる 石の並びのまわりには こだまの庭がある

音の回廊と庭の目は そのなかを歩く人をみまもる 身体の内側では 音をたどる手のうごきだけでなく 耳のはたらきや 呼吸や 背や腰や胸が 音をうけいれてふるえ 絡まって波打っている 聞く人は 見えない鳥の群れがはばたき 暗い影を落として飛び交うのを感じる

音の流れに引き込まれたり その流れに棹さして 思いのままに 操ろうとしても 音と手とその他の身体の部分や 書かれている音楽とそれまでの音楽とのかかわりも含む もつれる網が支え合っている危ういバランスを崩したり 音の影のざわめく会話をさまたげるかもしれない かえって時々中断しては 姿勢を立て直し 空間をあらためて感じるのがいいかもしれないが 意識が目覚め 軌道修正しては また流れにまかせてすすむ その中断も いつ起こるかわからない

こうして 「風ぐるま」のために『ふりむん経文集』を書いて演奏し ピアノのために『瓔珞』と『メッシーナの目箒』の楽譜を書く