002 四齣ーー検閲

藤井貞和

  検閲、一

亡き母は「けんえつよ」と答えました、
幼児のボクが訊いたのです。 信書、封書の
したの部分が切られたあとを、
透明なテープでとめてある。 母たちが、
親しいともだちと書き交わしていた手紙です。
ボクは追いかけて訊いた、「進駐軍て、
日本語がわかるの? どうして?」
昭和二〇年代のことです。

  検閲、二

さいきん知ることば――「プレスコード」です。
昭和二〇年代のボクらは、每朝の、
しんぶんに眼を通してからの登校でした。
けんえつを経た記事だったなんて、
知らなかったよな。「新日本の建設は、
きみたちの双肩にかかっている」と、
大人たちに言われ、せいじに、
しゃかいに関心を持つように、と。

  検閲、三

「落とすやつがいなければ、
落ちてこねえ」――
なんて記事は、見たこと、
なかったよな。
――昨夏は猛暑で、
八月のしんぶんをわりあい時間かけて、
読みすすめてた。 わっと気づいた、
あれ? プレスコードが現代に生きてる。

  検閲、四

えいごで「検閲」を何て言うんだろうって、
英単語を次々に忘れるようになる。
Censorshipですって。 嫌疑とか、
検屍とか、権威とか。 言い換えができなくて、
次々に消えてゆく。 わっと気づいた、
げんだいの日本文化をえいごが、
検閲として働いてるよ。(わたしは、
ようやくまぬがれるようになったってわけか。)
 

(こんかいは与太話。でも12月11日の被団協、田中煕巳さんの演説全文はファイルしました。)

『アフリカ』を続けて(45)

下窪俊哉

 3月の「水牛」が更新される頃、私は岡山に滞在している予定で、ちょうど1年ぶりだ。2日に行われる「おかやまZINEスタジアム」に出るだけなら、朝早くに家を出て新幹線に乗れば開始時間に間に合いそうなので、日帰りでも行けそうだ。それをわざわざ2日かけて行くのには理由があって、この機会に、会える人には会っておきたいという気持ちがあるからだ。初日は大阪に泊まって、この連載にも登場したことがある数人と久しぶりに会い、語り、岡山でもその続きをやる。どちらかというと、その旅の方が主眼と言える。イベントが始まる時には、もう打ち上げのような気分でいるかもしれない。

 その「ZINEスタ」では、守安涼くんのブース「Huddle」を乗っ取って(手伝って)、いま出せるアフリカキカクの本や雑誌をズラッと並べる。
 私の単著も3冊あるので(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』と『音を聴くひと』、『海のように、光のように満ち – 小川国夫との時間』)、その場で買ってくださる方へのオマケがあるといい。せっかく「ZINE」のイベントに出るのだから、私の思い描くZINEがどんなものか、つくってみようと思い、『試作版 私の創作論』という小冊子も準備した。
 A6(文庫サイズ)で表紙含め16ページ、自宅のインクジェット・プリンタで刷って、1枚1枚を自分の手で折り、重ね合わせて、本当はそのままにしておきたかったのだが、それだとバラバラになった時に面倒なので紐を使ってゆるく綴じた。
 久しぶりにやってみたのだが、印刷・製本業者に入稿して指示を出してやってもらうというのがいかに楽か、わかる。それに出来上がった冊子には所々汚れも見られるし、ヨレている箇所がないかと言われたらあり、製本は意図した結果とはいえ適当。でも、これが、私の思い描くZINEのかたちなのである。そこに絵を加えたり、色を重ねたり凝ったことをしたら、アートブックのようになるかもしれない。少量しかつくらないがゆえに、出来ることがある。
 肝心の内容だけれど、思いついたのが1週間前だったので、新たに何かを書くような余裕はない。ウェブの「WSマガジン」に書きなぐっていた「私の創作論」の、最初の方から原稿を拾って、やってみようと思った。
 書くことの原点の話というか、いわば概論なので、わかっている人には当たり前のことばかり書いてあり、面白くも何ともないかもしれない。その、面白くないものをあえて書いておきたいと思って、試みているものだ。
 出版業界には誰かに「書き方」を教えたがっているような本がたくさんあるけれど、そんなことは書く人が自分で探るしかないと私は思う。でも、書くということがどんなことなのか、見渡してみる本なら、自分の手元にも欲しいかもしれない。
 そう考えてみると大きな仕事なので、まだ序の口なのだが、その序の文章を推敲し、元の文章からどんどん削って、仮のかたちにしてみた。

 SNSをやっているか、そういうイベントに行かなければ出合うことはないだろうけれど、いま「ZINE」をつくる人が増えていると言われる。書く人は、自ら本をつくればいいんだ、という考えが広まってきたとすれば、良いことだと思っている。手軽に自分の書いたものを本にして、売る機会もある。実際に売れたら嬉しいだろうし、本というかたちになると達成感もある。
 しかし私はそこに、落とし穴を見てもいる。
 なぜ、書くんだろう。なぜ、本をつくるんだろう。なぜ、それを見ず知らずの人に売って読んでもらうんだろう。
 そんなことは簡単にはわからない。
 つまり私は、簡単には本をつくりたくない、と思って、ずっとやってきているのである。
 簡単につくりたくないし、簡単に売りたくもない。いまは売るのが手っ取り早いので、仕方なく売っているだけだ。他の、もっと良い方法が見出せたら、売るのは止めるかもしれない。私にとって重要なのは、書き、編集して本をつくり、読むという営みを共に支えてくれる人たちの存在だ。売り・買いだけの経済で回そうと思うと、無理が出る。いわゆる出版社のようにはいかないのである。

 本をつくりたい、という相談を受けることが、たまにある。話を聞いた私の答えは殆どの場合、焦らないで、時間をかけてじっくり取り組んでください、というものだ。それに、何だかみんな孤独な感じで、心配になる。でも連絡をしてきている時点で私とは出合っているのだから、私の書いたものやつくってきたものに触れて、何か話をしてくれたらよいのだが、多くの場合そういうことはないのである。
 一方で、『アフリカ』に載せてほしい、という連絡も最近は少しずつ増えてきた。でも、残念ながら、載らずに終わる原稿も増えている。ある時は「ダメですか?」と言われて、考え込んでしまった。この原稿はダメだ、と思うことはない。この原稿では「まだ」載せられないんです、とその時は伝えたのだが、いまもまだ考えている。
 とはいえ、これは載せたいな、と密かに思っている原稿もある。ふと思ったのだが、「まだ」と感じる原稿の多くは書き手が自分を、というより自分の心の内を吐露しているに留まっている原稿が多いような気がする。これはよし、と思う原稿は他者を描いている、少なくとも描こうとしている、ということではないか?
 文章に限らず、どんな表現でもそうだろう。自分の思いを出すものではないのだ。小川国夫は「深い影のなかは、あとあと時間かけて探ればいい。大事なのは出合うことだ」と言っていた。
 先日、映画制作のワークショップを記録した『FUKUSHIMA with BÉLA TARR』を観たら、タル・ベーラが受講生に「人と出会ってこい」ということをくり返し言っていた。観念的な構想しか持っていない人であればもちろんだが、かなり具体的な企画を持っている人であっても、そこで出合う人に導かれて、それまで思いもしなかった映画を撮り始める。
『FUKUSHIMA with BÉLA TARR』を撮った小田香監督によると、「ベーラの映画作りの核にあるのは、世界のことを知ったり、人生について考えたりすることが先にあって、作品はあくまでもそこに付随するものだと、個人的には受け止めています。映画とはこうあるべしとか、スタイル云々というよりも、人と出会うことからはじまります」とのこと。
 同じことが書くことにも、本をつくることにも言える、と私は考えているのである。誰かと出合って、まず始めるにあたって、「雑誌」という場は何と魅力的であることか。

200人中の一人(上)

イリナ・グリゴレ

白神山地で採れたアミタケの塩漬けを味噌汁に入れた日、太平洋の向こうではロバータ・フラックが亡くなった。中学校3年生の時、ルーマニアの独特なヒップポップは若者の間に人気となって、私もハマって、へそ出しの白いトップにサイズ3つ上のジーンズを穿いてMTVのMVを毎日欠かさず視ていた。中でもフージーズというバンドが一番好きだった。ルーマニアのあの寂しい団地で、彼らの曲が流れているだけで自分の身体はクラゲのような状態に変わり、自由を感じた。フージーズの「キリング・ミー・ソフトリー」と「Ready or not」の歌詞を全部覚えた。ヒップポップはほぼ詩なので、私の英語の習得はそこから始まった。

「キリング・ミー・ソフトリー」が実はロバータ・フラックのカバーソングだと知ったのはもっとあと。でもそれも間違いで、最初にこの歌を歌ったのはロリ・リーバーマンという歌手だ。それが1972年で、しかしヒットしなかった。その一年後、ロバータ・フラックがカバーしたことで大ヒットした。その後、1996年にもう一度ヒットする。フージーズとローリン・ヒルのおかげで。ちなみにフージーズという名前は英語refugees(難民)から。彼らはしばしばハイチ語でラップし、レゲエ、オルタナティブヒップポップ、ジャズ、ソウルなどをミックスして、難民としての政治的メッセージたっぷりの、ユニークな音楽を作ってきた。なかでも彼らの価値を世界に広げたのが「キリング・ミー・ソフトリー」だった。

この歌が白人のロリ・リーバーマンではヒットしなかった理由は、今にしてなんとなく分かる。彼女はギターを弾きながらフォークソングのように歌っていて、それに印象が薄い。これがロバータ・フラックとかフージーズのローリン・ヒルの声だと身体がプルプルになって溶けそうになる。同じ歌、同じ言葉なのに、何かが違う。それは200人中の一人のような違い。人間は同じにみえても同じではない。特に難民、移民、人種としての生き方が違うとき、その背景はみんな違う。クラゲでさえ200桶も中では一桶、一桶違う。ただの一桶ではない。広い青い海中の大事な一桶のクラゲ。そのクラゲいなかったら海は生態バランスを崩してしまい、命あるものは命を失う。この歌を大ヒットさせた歌手たちもそうだった。ただの歌、ただの歌手ではない。この歌に立場の弱い人が支えられたから。

クラゲは水母と海月とも書く。日本語ではなぜこの歌が「優しく歌って」と訳されたのか? こんなことを考えながら味噌汁からアミタケ二つを取り出して、じっくりと観察するために透明なガラス皿に置いた。昨年、犬の散歩をしたら、近所の家の前に「ご自由に」と貼紙して置いてあった食器セットの皿。昭和の食器。鮮やかな寒天など夏のデザートを盛り付けるような皿。そのような皿にこんな醜い山奥の塩漬けキノコを載せるなんて誰も想像もしないではないか。でもなんだか2月の自然の厳しい青森に合う。芸術作品のようだ。魯山人が見たら喜びそう。

この茶色いキノコは水母にしかみえない。冷蔵庫から出してビニール袋をハサミで切った瞬間、ボールにネバネバした茶色生き物が生まれたようなイメージだった。匂いも酸っぱい、腐ったものの匂いだった。水で流しながら手で触ると、プルプル感からルーマニアの田舎で殺したばかりの豚の肝臓を触った思い出が蘇る。でもこっちには生き物の肝臓が器官特有の血が通ったような温かさはない。水母には心臓も脳もない。最低限の器官は消化器官と生殖器官だけのシンプルな生きものだ。

これから食べるものだとは信じ難い、気持ち悪い。それでも長くフィールドにいた私の身体は何も疑わず冷静な動作で味噌汁の鍋に入れた。家中に腐った、酸っぱい匂いが広がる。一瞬、毒キノコだったりして、と考えるけど、考えるのやめる。この物体を食べ物として、キノコとして受け止める。自分が強いと褒めたくなる。この山のキノコと同じ。ここまでこの土地によく親しんだ証拠。親しむのも食べ物から。透明な皿にのせたからか、醜いのに美しく見えた。可愛く見えた。

鍋から取り出した二つのキノコは大きくて、入れる前と全く同じ形とネバネバ感。アミタケの裏面にはスポンジのような細かい穴があり、網にそっくり。この網に魚のように掴まったのは私。私が食はべるのではなく、アミタケに食べられる。窓まで積もった外の雪を見て、お箸でアミタケを口に運ぶ動作をする。お箸から滑る。次の瞬間、透明の皿から吸い込む。水餃子のように。思ったより、想像したより柔らかい。口の中に食べたことのない茶色いねばねばしたものが入っているが、そんな悪くないし誠に美味しい。強い土の味、森の味、木の味がする。味が聞こえるものだったら、このキノコの味が優しく歌われる歌のようだ。

アミタケを飲み込んだあと、大事なことを思い出した。その日の午前中は不思議な出会いがあった。車で走っていると、人の背より高く積もった雪の白い道の横にちょこちょこ歩いていたおばあちゃんがいた。歩道ではなく車が走る道路の横に。私も後ろからゆっくり通り過ぎて一瞬しか見てないが、その170歳以上のおばあちゃんは右手に小さな松の木を抱いてちょこちょこ歩いている。横顔はニコニコしてほっぺたがピンク色、幸せそうな顔だった。顔というより、お面だ。能にでも出てきそうなイメージ。小さな松の木を持って。こんな人は初めてみた。この話を知り合いにしたら、それは人ではなく、「新年の神様」だと言われた。松と老人。節分から時間が経っているが今は帰っていた。いいものをみたと言われた。

最近、人とは何か、キノコとは何か、人はどこからどこまでヒト、なんでヒトデではないのかとこれまで以上に深く考えるようになった。200人中の一人は本当に人間なのか、それともキノコ200個のなか、1個は本当にキノコなのか。それは出会った瞬間にわかるはず。出会った瞬間は身体がプルプルになる。クラゲのように、器官はあまりなくシンプルな生き物になる。

歪んだ身体と

越川道夫

まだ2月だというのに20度近くまで気温が上がったかと思うと、その3日後には雪が降るという。それでも気の早い菫が咲き始め、毎日のように見に行かずはいられない。菫が咲いているのは、とある駐車場の片隅である。住んでいる町の駅からすぐのところにスーパーマーケットがある。道を挟んだところにスーパーの駐車場があり、そのまた奥にもうひとつ駐車場がある。駐車場と言っても荒れ果てたもので、格別陽当たりがよいというわけでもなく、それでも午前中は少し日差しがはいるのかもしれないが、なんならタバコの吸い殻や空き箱が投げ捨てられているような場所なのである。この近所で知る限り、毎年いち早く花を開き秋にも花が見せるのは、この駐車場の片隅のアスファルトがひび割れているところに棲む菫で、時期がくれば、まだかまだか、そろそろかと、この駐車場に日参することになる。かがみ込んで小さな菫の花を眺めながら、何もこんなところで、とは思う。しかし、こんなところでとか思うのは人間の勝手な価値基準に照らした言い分であって、菫自身には何の関係もないことである。菫にとってみれば、そこがアスファルトのひび割れの間であろうが、吸い殻が散乱していようが、菫にとって、その個体としての菫にとって生育する条件を充分に満たしているからこそ、そこで育ち、花を咲かせ、種をこぼし、冬には根を残して休眠し、または葉のまま冬を越して春にまた花を咲かせるのである。
 
歩く人でありたいと思う。人間の中に入っていくよりは、道端の植物に出会うために歩きたいと思っている。背中のリュックサックには本が数冊入っていて、重い。時々自分でも嫌になるくらいに重い。もちろん歩いている間に、その本をすべて読むわけでないが、これが今の自分の頭の中だから読みたいと思った時に、ない、というストレスを感じるよりはと半ば諦めて背負って歩いている。これはもうずっとそうなので、私の身体は本の重みで歪んでいる。左肩が上がり、右肩が下がり、明らかに右半身に負担がかかっている。だから、たとえば写真を撮ると、自分では水平をとっているつもりでも、若干撮った画像は右に傾いた映像になってしまっている。写真を、または動画を仕上げる時、この右が下がった傾いた映像を水平に補正するのだが、ここでふと立ち止まってみる。確かに水平がとれている映像は安定しているだけでなく、均整がとれていて美しいと感じるし、実際ある程度の三脚にはどれも水準器が搭載されていて、わたしたちはその水準器で水平をとって撮影を行っている。水平がとれていない映像は、どこか落ち着かず気持ちわるささえ感じるものだ。それだけではなく、水平がとれている映像は、フレームの存在が消えて撮られた対象そのものを見ることになる、そう思える、のに対して、そうではない映像は、撮られた対象よりもフレームを強く意識してしまう、つまり撮影者の存在を強く意識してしまうことになる。そうだとすれば、一体ここでは、われわれの認識の中では、何が起きているのだろう?
 
水平であることが撮影者を透明にする。厳密に水平であることは不可能にしても、水平がとれているように見える映像には。それが撮影対象だけを意識させることになるのだとすれば、こう言うことは可能だろうか、撮影者が透明な存在になることは、対象への「愛」なのだ、と。「無私」と呼んでいいか分からないが見つめる存在は姿を消し、対象への「愛」だけがそこには残る。水平がとれている映像の「美しさ」とは。このような対象への「愛」に裏打ちされているのかもしれない。しかしまた、水平に映像を補正することで否定されているのは、私の「身体の歪み」であり、「私の身体」でもある。
 
もう少しこのぐだぐだとした逡巡を許してもらえるなら、何らかの身体的な在り方で「水平」にカメラを支えることができない人は、どうなるのだろう。その映像はついに水平であることは出来ずに不安的に揺れ、傾く。その人が撮る映像は美しくないのだろうか、撮影対象を「愛」することはできないのか? 少なくとも水平にカメラを構えることができる身体を持つ人のようには出来ないのだから。またそのような人が撮った映像を水平に補正した時、そこで否定されているのは、その人の身体の在り方だろう。わたしたちが持つこの感覚や認識は、自分たちがだいたい水平にカメラをかまえ、水平に両眼で対象を見ているという、そういう言い方が許されるのならば「健常者」の感覚の中でかたち作られた感覚や認識なのではないか。しかし、どんな「身体」も少なからず何らかの歪みを持っていて、厳密な「水平」などとりようがないはずだ。
 
今日もまた私は歩き、しゃがみ込んで植物を写真におさめる。撮った写真はわずかに右に下がっている。その傾きを補正するかどうかを迷いながら、これは闘いなのだと思う。しかし、私は何と闘っているのだろう? この「歪んだ身体」のまま、対象を愛することはできるだろうか?

しもた屋之噺(278)

杉山洋一

世界は我々が生まれ育ってきた土壌とは違う、別の時代へと変化しつつあるのかも知れません。2014年、爆撃で亡くなったシマーという女の赤ちゃんを知り、「悲しみにくれる女のように」という曲を書いたとき、ガザはまだ街としての形態を残していました。今、映像で流されている荒涼としたガザの姿とは違っていました。つい三日前でしたか、6人の赤ちゃんが寒さで亡くなったという報道もありましたし、逆の立場で無残に殺されたイスラエル人市民や子供もいます。第一次停戦期限は明日に迫っていて、どうか戦いが再開されないことを願います。10年前、黄金の米大統領像や札束の降る摩天楼、トランプ・ガザホテルや、イスラエル首相と並んでリゾートビーチの映像を、嬉々として米大統領がインターネットに投稿する時代が来ようとは思ってもみませんでした。ウクライナから連れ去られた子供たちは、侵攻から3年を経てどこで何を考えているのでしょうか。生まれたとき、敵も味方もなかったはずの子供たちに、憎しみと怒りを学ばせているのは、我々自身だと省みています。多国間の諍いに限らず、我々の周りにはびこる殆ど全ての衝突は、結局我々が子供たちに教えてきたものなのかもしれません。

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2月某日  ミラノ自宅
暫く前から、母がずっとやめていたピアノに再び触り始めた。「インヴェンションとシンフォニア」第1番からさらい直し、少しずつ練習を進めて、今年1月初めには3声のシンフォニア15番が終わって、現在「平均律」2曲目をさらい始めたところだそうだ。家人に相談して使いやすい運指の出版譜を挙げて貰い、「平均律」は市田儀一郎氏の校訂版、シューベルト「即興曲」はヘンレ版を町田に送ったところ、自分のための新しい楽譜を開いたのは70年ぶりだと大喜びしている。その昔、自分が購入した「平均律」は350円だったが、今は随分高くなったものだ、と驚いた様子だ。父の方と言えば数日前、突然足が鉛が入ったように重くなり、全く上げられなくなり引き摺っていると聞き、下肢静脈瘤を疑い病院に行くよう強く勧めたところ、普段より養命酒を多く飲んだだけで治ってしまったらしい。年末、顔面神経痛になった時もすぐに治ってしまったし、父の生命力には特に目を見張るものがある。
このところ、息子は食事のとき、自分が復習している音楽史の内容を、たびたび食事中に話題にする。もうすぐ口頭試問が近づいているからだろう。尤も、彼の音楽史の理解は多分に個人的な隠喩に基づいていて、「ベートーヴェンは自分が天才だと思っていたが、シューベルトは人前で演奏するのは好きではなく、友人たちとささやかに演奏会を開ばかりで、貧乏であった。友人たちの為に書き、友人たちと演奏した。自分はシューベルトのような人間である」とのたまい、「『さすらい人』や『冬の旅』のように、シューベルトはこの世の中に絶望していて、生きる場所がみつからなかった」。「モーツァルトは初めウィーンのドゥオーモ脇の高級アパートに住んでいたが、最終的には困窮を極めた生活で、部屋もとても小さかった。この調子だと、きっと我々親子3人も路頭に迷い、貧困のなか悲しく息を引き取るに違いない」。
どうして、モーツァルトの生活状況が我々に投影するのか定かではないが、僭越ながら多少なりとも光栄な気もする。ところでお父さんはベートーヴェンとシューベルトのどちらが好きかと尋ねるので、一概には言えないがシューベルトではないかと答えると、お父さんは性格も暗いし、シューベルトに親近感を覚えるのは当然だ、と一方的に断言される。お父さんの性格が暗いかどうかも判然とはしないが、果たしてシューベルトの音楽は暗いのか。「ロザムンデ」序曲を思い出しながら、そう独り言ちる。長大な似非ロッシーニ・クレッシェンドを、素直に馬に跨って愉快に登っていってはいけないのかしら。
ところで、今年はべリオ生誕100年なので、エマヌエラから言われて息子は音楽院で「Linea」を弾くらしい。今日は2番ピアノのYangが家に来て、4時間ほど熱心にリハーサルをしていた。ミラノ国立音楽院は、べリオの学び舎であった。
息子と遅い夕食を食べていると、彼は目の前の夜空全体が茫と薄明るいのに気づいて早速ChatGptに質問している。AI曰く空気汚染が原因だそうだ。確かにそう言われてみれば、明るい方向は高速道路の環状線が延びているが、関係あるのだろうか。

2月某日 ミラノ自宅
家人と連立ってガッジャ通りの物件を見にゆく。栗崎さんに紹介してもらった宅地建物取引士のフラーヴィオに見分を手伝ってもらいながら、広間の真ん中に大きな樹がそそり立つ、不思議な青い家を訪ねた。家の斜向かいはスワッピングクラブで、周りはアマゾンなどの大きな倉庫が並ぶ一角。周りにあまり住宅がないため夜道は寂しいほどで、静かにたたずむスワッピングクラブのささやかなネオンは寧ろ有難いくらいであった。しかしながら、驚いたのはフラーヴィオが家人の恩師、メッツェーナ先生の風貌そっくりだったことである。顔だけでなく、物腰も話し方も、なんなら声色までも似ている。骨格が似ているのだから声も似るのだろう。不思議な気分であったし、メッツェーナ先生が何だか助けに来てくださった心地になった。

2月某日 ミラノ自宅
朝から家人と連立って学校まで自転車を漕ぐ。Yさんが別の音楽院との契約関係でうちの学校で仕事ができなくなり、急遽家人とその昔、家人にピアノを習っていた絵理ちゃんに頼んだ。久しぶりにお会いした絵理ちゃんは、ノヴァラとミラノの音楽院を卒業した後、スカラの研修所も見事に修了したばかりで、見違えるように頼もしく、何より家人と並んでピアノを弾いている姿に深い感慨を覚える。彼女がイタリア語を話すと、自然にトスカーナのアクセントが交るのがチャーミングだ。これは彼女が初め、シエナの外国人大学でイタリア語を学んだから。ここでトスカーナのアクセントのイタリア語を聞く感じは、東京で聞く北陸あたりのアクセントの印象だろうか。無意識に、どこか知的な感じを受ける。
昼過ぎ、マクリーがレッスンにシューベルト5番を持ってくる。未だ掌には神経が戻っていないので、指揮棒も必死に握っていなければ落ちてしまうし、ページをめくるのも不安そうではある。敢えてピアノを弾きにきた絵理ちゃんには予め何も説明せず厳しくレッスンをしたが、障碍には一切気付かなかった。これはマクリーには大きな自信をもたらしたに違いない。
隣のレッスン室でギターを練習している生徒がいて、ギターを全く弾けなくなった自分が無性に悔しくて辛い、とこぼす。手に繊細な神経が通っていないのなら、手はあまり動かさずに、顔の表情で音楽を表現させようと試したりもしたが、どうやら普通に指揮棒を振るのが一番効率がよいようだ。
自分に残されている演奏の可能性は指揮だけだ、と必死になっているので、妙な焦りを一旦拭い去ろうと腐心している。未だ時々、脳の伝達経路が一時的に麻痺することもあり、自分の思うように手が動かなくなることがある。神経は、使っていれば少しずつ通りが良くなるのは知っているから楽観はしているが、本人はさぞ辛いだろう。
そんなマクリーだが、この3年近くの闘病生活と並行して、ブリアンツァ各地に小さな音楽学校を既に3校も開校し、それぞれ順調に伸びてきていて、もうすぐ4校目を開校させると言うから愕く。ギターを弾けない、教えられない鬱憤を、起業活動で発奮させているというのである。「生活かかってますし」と白い歯を見せて笑うのをみて、彼独特の明るさも逞しさも垣間見られる気がした。すぐに、彼の学校の学生を集めて、小さなアンサンブルを振る機会くらいは作れるに違いない。身体のリハビリには、モチベーションがなにより大切だ。
正しくきちんとやろうとする習慣は、幼少からギターを習っていた、厳格な先生の影響だという。きちんとやるのが悪いとは思わないが、そうでなくても身体の緊張を取ろうとしている時に、間違えたらいけないと思うだけで、身体が硬直するのは避けたいところだ。正しいかどうかはさておき、先ずは自由に喜怒哀楽を音に反映させてほしいと思っている。そのうちに、神経の通り道も増えて、少しずつ身体の自由を取り戻してゆくはずだ。

2月某日 ミラノ自宅
家人と連立ってアッフォリ・Villa Annaの隣の物件を訪ねた。ここに40年来住んでいるというご夫婦はイタリア人の奧さんとイギリス人のピアニスト・作曲家だという。何時でもピアノが弾けるようとても上手に考えて作ってあって、コンドミニアムの中庭に一軒だけ離れのように建てられている家そのものに不満はなかった。ただ、2人が暮らすために完結していて、3人で暮らすとなると難しいかもしれない。そこからほんの少し先にある食堂La Deliziaに入って昼食を食べたのだが、9.5ユーロのランチはとても美味しかった。こんな昔ながらの食堂で従業員がみなイタリア人なのは、ミラノでは既に珍しいかもしれない。昔、ミラノに住み始めた頃は、こうした食事処が沢山残っていたし、実際とても美味であった。今は、フランチャイズ店のネオンばかりが目立つようになって、イタリア人のレストランというと高級店ばかりになってしまった。明日は父の誕生日だが、朝から一日仕事なので、寝る前に家族揃って電話をする。
トランプ大統領と石破首相会談。「仮定のご質問にはお答えをいたしかねます、というのが日本のだいたい定番の国会答弁でございます」。昨日あたりからドル安の影響を受けてなのか、ユーロも下がってきていて、家人は為替に一喜一憂している。

2月某日 ミラノ自宅
一日学校でレッスンをしてから、ブレンタ、サン・ルイージ教会の集会場でリハーサルしている、ジュゼッペのちいさなオーケストラの練習に顔を出す。コンサート・ミストレスを引き受けているリリーアは、ウクライナのオーケストラ出身だと聞いた。隣で娘が一緒に弾いているのだが、リリーアの夫は兵役でウクライナから出られない。ウクライナ人にあっても、以前のように気軽にウクライナについて応援するのも憚られるようになってきている。結局、何をどういったところで、一人一人置かれている状況も違えば、思考も一つではない。生命がかかっているのだから、他人が気軽に口を挟める内容ではない。みなで音楽に没頭している時間、彼女たちが少しでも辛い思いを遠ざけられたらよいとおもう。
ちょうど日本からA君が遊びにきていたので、少し彼にも練習をつけてもらう。演奏中、無意識に自分が距離を取った途端、オーケストラも醒めて遠くへ逃げてしまうのを実感して、「怖いものですね」。場慣れしている安心感もあるが、最初から互いに出来る範囲でしか勝負してくれないと、演奏者も諦められているように感じるのかもしれない。本来、演奏者が指揮者に求めるものは、日常のルーティンではなく、非日常の何かではないか。予定調和を大きく外れ、想像もしなかった次元にまで演奏者を誘うのは指揮者の役目である。指揮者が一瞬でも醒めれば、演奏者もさっと醒めてしまう。「自分はこうしたい、どうしてもこれがしたい、ここまで演奏者と辿り着きたい」と指標を指し示してから、それを目標に演奏困難の箇所を丹念にほぐしてゆく。
相変わらず、音楽史の勉強に忙しい息子が、家人に話しかける。「お母さんシューベルトの『鯉』って弾いたことがある? あれ?『鯛』だっけ?『鯰』?」
ナマズとマスは確かに響きは少し似ている。子供の頃、玄関の脇の水槽で5、6匹の鯰を何年も飼っていたことがあるから、鯰には愛着がある。シューベルトの「鯛」と言われると、どうも食べ方や味が気になって、歌詞が頭に入って来ない。

2月某日 ミラノ自宅
悠治さん「オルフィカ・フォノジェーヌ」CD発売日。尤も、パッケージは直接日本に送られていて現品がないので実感はないが、数年前に波多野さん、小野さん、栃尾さんと、何をしようか、と話し合った時の計画は9割方実現できたことになる。あとは宙に浮いている楽譜を、図書館なりどこかでしっかり管理してもらって、必要に応じて誰でも簡単に使えるようにしておくこと。

2月某日 ミラノ自宅
朝方、家人が銀行へ小切手帳を作りにいったきり、なかなか帰ってこないので気を揉んでいたところ、銀行員たちと四方山話に花を咲かせていたらしい。家人は日本でもイタリアでも、初めて会った人と容易く仲良くなる。家人のような人を「人たらし」というのか良く知らないが、周りに彼女を助けてくれる人が自然と集まってくる。人懐こいだけではなく、拘泥や人見知りがないのが、人の胸襟を開かせるだろうが、毎度感心させられる。不思議なのは、家人と知り合ったころには、全くそんな印象は持たなかったことだ。
いまごろ東京では、湯浅先生お別れの会が開かれているに違いない。手を合わせ、先生の顔を思い出すと、頭の奧で、湯浅先生の声が聴こえる。柔らかい声色で、自然について話している。宇宙について話している。戦争について話している。自作について、コスモロジーについて話している。武満徹について話している。瀧口について話している。電子音楽について話している。オーケストラのための「軌跡」について話している。先に逝かれた奥さまについて、話している。
トランプ大統領がゼレンスキー大統領を「選挙をしない独裁者」と呼んだという報道があった。まさかその所為ではないだろうが、円が急騰している。

2月某日 ミラノ自宅
朝方、市村さんからメッセージが届くと、岡部真一郎先生の訃報であった。思わず狼狽えていると、「岡部先生がいなかったら、今のあなたもいなかったでしょうからね」と家人が呟いた。
初めて直接お話ししたのは、武生のちいさな仏寺であった。参加していた音楽祭の演奏会にでかけたところ、岡部先生の方から、数日前に演奏された拙作を面白かった、と人懐っこい笑顔で声を掛けて下さったのが切っ掛けだった。美紀さんとお二人でミラノの拙宅に遊びに来てくださったこともあって、我が家をとても気に入っていらしたのが強い印象を残した。昨夜遅く意を決して、拙宅を設計したサンドロに退去とメールを認めた翌朝に逝去を知り、思わず因縁すら感じてしまった。その折、家向こうにある運河沿いの食堂Ma.Si.で、プーリアのパスタと馬肉のソテーを食べたのではなかったか。とても美味しそうに召し上がっていらしたのが忘れられない。どんな演奏会にも足を運んで下さって、演奏会が終わると一言励ましの声をかけて下さるのが常だった。悠治さんの作品演奏会の企画者として、助成申請の推薦文をお願いしたのは岡部先生だった。今となってはそう書いても差支えはないだろう。功子先生のために書いた協奏曲を、「功子さんが輝いてみえるね」、そう岡部先生はとても喜んでいらした。
昨年は、春先に大きな鳩菓子、もといコロンバを一つ、岡部先生にお届けしたが、召し上がれたのだろうか。そのすぐ後に催されたタネジを招いての武満賞の演奏会の折、体調不良で来られないのでマークによろしく伝えてほしい、とお便りを頂いた。最後に岡部先生と撮った写真は、二人でコロンバを嬉しそうに掲げている姿だ。あの時、「またぜひミラノにご飯を食べにいらしてください」、とつい言葉をかけてしまった。いつも少年のような悪戯っぽい岡部先生の顔にほんの一瞬、困った表情が過った気がして、なにか失言したかしらと反芻していた。
朝、A君が市立音楽院を訪ねてくれて、少し話す。なんだか二週間前にくらべてずっと頼もしく見える。明日日本に戻るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
義父の誕生日。85歳のお祝いのメッセージを送ると「めでたさも 中くらいなり おらが春」と返ってきた。
訃報がとめどなく届き、諍いは続き、今まで自分が正義と信じていた価値観も崩れ、世界が音を立てて変化しているのを感じながら、自分は息子に何を残してゆけるのだろうか、若い人に何を残してゆけるのだろうか、と考えるようになる。生前三善先生は、50歳を過ぎたら自分が学んだことを、社会に還元していかなければならないと話していたそうだが、実際自分がその立場になってみると、先生の言葉は、実際は生物の本能に近いものなのかもしれないとおもう。還元してゆく、それは意識というより、やっておかなければ、という薄い焦燥感とでも謂おうか。作曲も、今書いておかなければ、という畏れに近いものに駆られて書いている気がする。息子の成長をつなぐ視点も、どこかそれに近いものがある。見ておかなければ、伝えておかなければ、という焦りなのか。恐らく死んだとしても、暫くはその辺でふらふらしながら、息子や近しい人たちを黙って眺めている筈だとわかっているから、焦る必要はないはずだが、不思議なものだ。
鬼籍に入った方からの電子メールは、いつまでも生前のままのエネルギーを宿していて、それは何か破局的な事象に見舞われない限りずっと続く。でも遠い将来のある一点で、ほんの一言、検索ワードがわからなくなっただけで、コンピュータのシステムが古すぎるファイルを読み込めなくなっただけで、溌溂とした電子メールは溌溂としたまま、誰の目にも触れる可能性を閉ざされるのかもしれない。目を見開いたまま、無限の時間に放りだされてしまうのかもしれない。ガラスのなかで、頭脳だけが生き続けるのと同じように。それはそれで恐ろしい。人工知能であれば、いざ知らず、我々はいつか安寧に塵芥になれるはずと信じて生きているのだから。
それならば、紙に書きつけられて、少しずつインクが薄くなって見えなくなる方がいい。古くなった墓石がいつか入れ換えられ、その際には墓誌も一掃して、「先祖代々の墓」と一括りにされるのは、本来自分には結構向いている気がする。自分は何者でもないということを、馬齢を重ねるごとに実感するようになり、これからの人生をどう生きるのか、というのは、自分のうちのなにを、次の世代に伝えてゆくかを自ら選択する作業なのかもしれない、と思う。完遂できるかすらわからないけれど、本能に導かれる不安とも、悦びともつかぬもの。
自分は人生の岐路に立っている気がする、と義父に書き送ったが、もしかすると、我々、人間、人類そのものが、大きな岐路に立たされているのかもしれない。

2月某日 ミラノ自宅
「岐路」という言葉を綴って、ふと思う。岐路というのは、分岐点を意味するわけでしょう。後ろにだって本来は戻れるのではないのかしら、と。でも多分、それだけは出来ない。我々はまだ時間軸を逆行、遡行する能力はもっていないのだから。ちょうど、奈落へと向かう無限のゆるい下り坂を、皆で一緒に下っている塩梅で、目の前が二股に分かれている感じかもしれない。
目に見えないその薄い勾配こそが、我々を無意識に焦燥感に駆らせる原因なのだろうか。
中学生の頃、ずいぶんお世話になった吉田先生という、年配の指圧の先生がいらしたのを思い出す。がっしりした体格で、面はほそく、15センチ、いや20センチあろうかという、白くて立派な顎髭をたくわえていらした。奥さまを肺がんでなくされてから、古風な囲炉裏のある一軒家に一人で住んでいらした。自分では何も憶えていないのだが、その頃、身体中が痛くて、歩くのもやっとだったらしく、吉田先生にずいぶん指圧をしていただいたお陰で、自分なりに躰の仕組みやら動きを理解するようになったのだと思う。それを基に、指揮や演奏の身体の動きがわかるようになって、ひいては、聴覚訓練の授業でも身体の硬直についてたびたび話しているのだから、考えてみれば今の自分の生活の基本とも言える、とても有難い経験であった。
レントゲンを撮ったりしたが、何もなかったから、今にして思えば成長痛だったのか。先生からいただいた数枚の銀の小皿やら、五客の湯呑、茶筒などはまだ両親の家で大切につかっている。指圧だけでなく、剣道の教師もしていらした吉田先生だが、突然面白いことを仰った。
「君が大きくなったら、いつか僕のことを書いてちょうだいね、約束だよ」。子供ながらに、この先生は本当に妙なことを云うと驚いて、おそらく曖昧に相槌を打っていたのだろう、この言葉だけは未だによく覚えている。半世紀以上生きてきて、そんなことを云われたのは、あの時一度きりだ。どこか浮世離れした、仙人のような先生でいらしたけれど、あの言葉は、何だか不思議な魔法のように、今も耳に残っている。

2月某日 ミラノ自宅
聴覚訓練クラス試験。結局その内容は、音を聴覚にとらわれず、敢えて視覚化して認知する訓練、それを出来るだけ意識化させて理解させる訓練、そこに無意識や潜在意識を介在させないように意識化させる訓練、と言えるのだろうか。音を聴覚を通して捉えようとすると、意識していなければ、われわれは思わず自分の脳が発する音を聴いてしまい、外界の音と脳で作り出された音の間に少しずつ落差が溜まってゆくのだ。
単純な設問ばかりなので、普段は気を抜いて授業を受けていた絶対音感を持つ学生たちが、試験で軒並み崩れてしまう。絶対音感を持っている自覚があると、音をわざわざ目の前に投影して視覚化する必要を感じてこなかったのだろう。単純で簡易な次元ならそれでもよいが、一定の境界線を越えると、それでは音楽として処理しきれなくなる。つまり単なる音になってしまって、音楽にならなくなるのである。中途半端に絶対音感があると視覚化するのが難しいのは、その必然性を実感できないからかも知れない。最初なかなか出来なかった学生たちが、授業を受けるうち、音を聴くのではなく、次第に見るようになってくるのは、目の前で眺めていても面白い。
複雑な和音が鳴ったとき、音を聴いていると、どうしてもぐしゃりと一塊の音の群に捉えてしまうところが、音を見ていると、それらを視覚的に整理し直して、すっきりと和音として捉えることが出来る。密集した音であれば、視覚的に少し拡大してみることで、音と音との間に通気できる空間を穿つこともできるし、幅広い音響体であれば、俯瞰して全体を見渡すこともできる。密集した音を、無理に聴こうとすればするほど、音どうしが粘着して呼吸を遮断する。要は、ちょうどコンピュータ画面のようなフレームを目の前につくって、そこに音を投影して、自分の好きなようにそれを観察すればよいのだ。もちろん、そんなことを試験中に話すわけではないが、いつも試験につきあってくれるマリアンナやクラウディアは、そうやって音の感じ方を教えられるといいわよねえ、と毎度面白がってくれる。
家に帰ると、「最近ね、なんか自分に感動しているんだよね」、と息子が真面目な顔をして話しかけてくる。「自分がまたイタリア語で授業を受けて解るようになる日が来るなんて、想像もできなかった。だってイタリアの中学をやめて以来じゃない?」。音楽史の口頭試問のため、古代ギリシャから18世紀までの要点を、彼はイタリア語で纏め直していて、全部合わせると28ページにもなっていた。ヤコポ・ぺーリ以降、イタリアに関しては特にオペラの歴史について、特に細かく覚えなければならない。鍵盤音楽史、鍵盤音楽教本史、のような授業が別にあって、そちらでクリストーフォリ前後から現在までの鍵盤音楽関係を網羅している。口頭試問だから、まず大まかに答えればそれに対してより踏み込んだ質問が返って来て、その繰り返し。理解していなければ答えようがない。
初めの頃は本当に授業が分からなかったの、と尋ねると、全く分からなかった、と言う。親としては、それはそれでどうなのか、とも思わなくもないが、とにかく彼曰く、漸く全体が色々と見えてきて腑に落ちるようになったのが楽しくて仕方がないらしい。霧が晴れてくるような感じなのだろう。
ドイツ連邦議会選挙で与党社会民主党、惨敗。中道右派「キリスト教民主・社会同盟」第一党、極右と呼ばれる「ドイツのための選択肢」第二党へそれぞれ躍進。

2月某日 ミラノ自宅
なんかね、変な夢を見たよ、と息子が起きてくる。町田の祖父母がイタリアの宮殿みたいなところに住んでいて、ああよく来たね、と息子を歓迎する夢だという。息子まで家探しの夢に翻弄されるようになってしまった。こちらも先月はずっと寝ながら家探しで魘されていたようで、家人曰く、毎日のように物件探しの寝言を呟いていたそうだ。或る晩は、派手な格好に仮装した日野原さんが突然庭から現れて吃驚した。その拍子に思わず大声を上げたらしく、隣で寝ていた家人も飛び起きてしまった。ミラノの日野原さんの家から道一本隔てた先にある物件を見に行ったからだろうか。
ミラノでは、今住んでいるジャンベッリーノ地区と並んで治安の悪い、コルヴェット地区のとある物件に興味を持っている。あの辺りは戦後まもなく、ミラノ市が新興住宅地として地上1階と、タベルナと呼ばれる背の高い地下室をもった建売りを随分作ったようだ。土地はミラノ市のものだったが、当時は各区画の住民に無償で借地権をわたし、一定期間の後、住民が土地をミラノ市から買取るのが普通だった。そんな住居の名残がつい最近まで数軒残っていて、その内2軒は暫く前まで新しい極左翼の若者活動家たちの拠点、「Corvaccio Squat 」と「Rosa Nera」、つまり「コルヴェット愚連占拠団」、「黒薔薇組」となっていたと知る。
10年ほど前、警察機動隊が彼らを強制退去させた際のヴィデオは、今も見ることができて、若者活動家らは屋根に登って横断幕を掲げ、徹底抗戦していた。近隣の住民は騒動に巻き込まれて、機動隊から暴力を受けた、などとインタヴューに答えてもいる。「こいつら機動隊と来たら血も涙もない。あんたも見ただろう」、黒マスクをした若者が、隣から口を挟む。
こうした活動拠点はイタリア語で「Centro Sociale」、「社会センター」と呼ばれ、イタリアでは80年代から90年代に隆盛を誇った。実際に若者が使われなくなった建物を不法に占拠することもあれば、後に、国や地方自治体がそこに寓する若者たちを、公正な住人として追認する場合もあったというから、我々の思う過激派のアジトとも違ったのだろう。
去年の11月も、この地区の若者が警察に追われる際に交通事故で命を落とし、この地区全体の若者が揃って警察に激しい抗議を繰り返した。
閑話休題。件の物件の最初の居住者はとある一姉妹だったそうだが、随分昔に亡くなっていて、その後2回ほど譲渡が繰り返されているらしい。80年前に提出された登記だから何箇所も不明な点があって、とにかくミラノ市から該当書類が届くのをじっと待つ。
ロシア軍のウクライナからの撤退を求める国連決議案に対し、アメリカは反対票。

2月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに、ミラノから東京までの直行便に乗った。隣に生後五か月の小さな女の赤ん坊を連れた日本人女性が座っていたが、ずいぶん周りに気を遣っていらした様子だし、あまり話しかけるのも悪いと思い、こちらも日本に戻ってすぐに仕事なので、何時もの通り、さっさとアイマスクと耳栓をして暫く眠り込んだ。ふと気が付くと、隣のツアー客と思しき女性が、通りかかったスチュワーデスに、隣の男はどうも赤ん坊が迷惑そうだから、わたしと席を変わった方がよいのでは、と言っている。別にこちらは赤ちゃん嫌いではないですから問題はない、と答えると、彼女の傍らに坐っていた同じツアー客と思しき女性と、あらまあ、いやあねえ、と顔を見合わせている。こちらも、起きているときは仕事をしているし、にこりともしないで作曲のことを考えたりしていて、よほど怖そうに見えたのだろう。ニューヨークに戻ったスティーヴからメッセージ。今日からリンカーンセンターで「三文オペラ」を振るという。「トランプ、完全にどうかしてしちまってるよ、全く。イタリアに戻ろうかとも思ってる」。アメリカはEUに25%の関税決定。

(2月28日 三軒茶屋にて)

ヨクワカンナイ

篠原恒木

ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』という小説があるが、題名からして意味が分からなかった。「たが」と読むことにも驚いた記憶がある。古語なのだね。
余談だが、これがゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演の映画になると『誰が為に鐘は鳴る』と、「ため」が漢字になるのだ。ややこしい。

話を戻そう。つまりはこの題名は「誰のために鐘は鳴るのだろうか。それは特定の人のた
めだけではなく、きみを含めたみんなのために鳴るのだ」というような意味なのだろうなとおれはきわめて勝手に解釈した。でも、ならば「誰がために鐘は鳴るや」とするべきだったのではないか、と思ってしまう。訳者は「や」を足すのが「や」だったのかもしれない。ヨクワカンナイ。

『誰か故郷を想わざる』という霧島昇が歌った戦時歌謡曲がある。作詞は西城八十だ。
また余談だが、「八十」は「やそ」と読む。山本五十六は「いそろく」だもんな、と納得していると、直木三十五は「さんじゅうご」でいいらしい。ややこしい。

話を戻そう。『誰か故郷を想わざる』の「誰か」は「たれか」と読む。「だれか」ではない。霧島昇も「たれか」と歌っている。ついでに言うと、オリジナル発表時には『誰か故郷を想はざる』と、「わ」ではなく「は」と旧仮名遣いになっていて、グッと丸谷才一風味が増している点も見逃せない。いや、見逃してもいいか。
この曲名も意味が取りにくかった。「故郷を想わない人なんているだろうか。いやいない」という、いわゆる反語ですよね。英語で言うところの修辞疑問ってやつですかね。
Who likes Tsuneki Shinohara?
これは「誰が篠原恒木を好きですか?」ではなく、「篠原恒木を好きな人なんているだろうか。いやいない」という意味だもんね。それと同じだと思うんだけどな。ヨクワカンナイ。

オードリー・ヘプバーンとゲイリー・クーパーの主演映画に『昼下がりの情事』という作品があるが、「昼下がり」という言葉をおれはこの映画で初めて知った。しかし「昼下がり」って時刻にすると何時頃なのだろう。おれは勝手に「午後遅め、早めの夕方、だいたい十六時頃」と思い込んでいた。だって昼が下がるんだから、お日様が沈みかけた頃だと解釈していたが、これが違うんですねえ。

またまた余談だが、おれは当初、このタイトルを耳で聞いて『昼下がりのジョージ』だと思っていた。『硝子のジョニー』や『五番街のマリー』などと同じだ。ややこしい。

話を戻そう。「昼下がり」とは辞書を引くとこう書いてある。
「正午を少し過ぎた頃。午後二時頃」
納得いかねぇー。「正午を少し過ぎた頃」ならば、午後十二時十五分頃ないしは十二時二十分頃ではないのか。百歩譲って十二時二十五分だ。それ以上は待てない。いや、待ち合わせじゃないか。つまりだ。おれが訴えたいのは「正午を少し過ぎた頃」と「午後二時頃」の整合性だ。「午後二時頃」は「正午をだいぶ過ぎた頃」じゃんね。二時間あったらいろんなことができるよ。おれが勝手に思い込んでいた「十六時頃」というのは間違いだったとは認めるが、「正午を少し過ぎた頃。午後二時頃」の並列定義には首を傾げざるを得ないね。これこそ「誰か『正午を少し過ぎた頃』を『午後二時頃』と想はざる」ですよ。ヨクワカンナイ。

「小春日和」という言葉も、いつ使ったらいいのか自信がなかった。「今日は思わぬ暖かさですねぇ」と言う代わりに「小春日和ですなぁ」と言いたいのだが、この言葉、晩秋から初冬にかけての時期にしか使わないものだという。イメージとしては「小さい春」なのだから、冬の終わり頃に使えばいいではないか。ほら、『小さい秋見つけた』だって、あれは秋の訪れを歌った曲でしょ。なぜ「春」とは縁もゆかりもない「晩秋から初冬にかけて」に使うのか。その故事来歴由来謂れ理由を検索したいけど、しない。

四度目の余談だが、井上陽水に『小春おばさん』という曲がある。タイトルは可愛らしくて、歌も囁くように始まるが、サビになると突然あの大きな声で歌い上げるので、とても恐怖を感じる。小春おばさんに明日会いに行くだけなのに、なぜあんなに切羽詰まった絶唱なのか。怖い。ややこしい。

話を戻そう。そういえば、さだまさしが作って山口百恵がヒットさせた『秋桜』という曲があるが、あの歌詞の中でも「こんな小春日和の穏やかな日は」とある。やはり「小春日和」は晩秋から初冬にかけて使う言葉なのだな、と思ったら、なんだよ、コスモスが咲くのは九月から十月にかけてだというではないか。その頃は晩秋でもなければ初冬でもないぞ。混乱してきた。ヨクワカンナイ。

「五月雨」はその名の通り五月の雨だと思っていた。フォーク・シンガーのケメも『通りゃんせ』という曲で「さみだれ五月よ くるがいい」と歌っていたではないか。だからおれも五月に雨が降ると「五月雨とはよく言ったもので」などと訳知り顔で時候の挨拶をしていたが、とんだ間違いだった。五月雨って六月に降る雨、つまり梅雨のことなんですって。つゆ知らず。

余談の極みだが、「五月雨式で申し訳ございません」という冒頭の挨拶から始まるメールがよく届く。「五月雨調」でも「五月雨的」でもない。ましてや「五月雨風」だと「さみだれふう」ではなく「ごがつあめかぜ」と読んでしまう恐れがあるよね。まあとにかく、あくまで五月雨「式」なのだ。なぜ「式」なのかは知らぬが、最初に五月雨式と恐縮しながら、とにかくいろんな追加事項やら添付忘れのpdfやらがダラダラと送られてくる。ややこしい。

話を戻そう。五月雨という言葉には趣があるが、もはや我が身は耳垂れとヨダレしか出ない。冷やし中華にはゴマダレだ。まったく話が戻っていない。ヨクワカンナイ。

「レオナルド・ダ・ヴインチ」と区切るのが正解らしい。つい「レオナルド・ダヴィンチ」というニュアンスで口に出している自分に気付く。「ヴァスコ・ダ・ガマ」も「ヴァスコダ・ガマ」ですよねー。ついでに言えば、昔の教科書では「バスコ」だったような気がする。「ドン・キホーテ」は「ドンキ・ホーテ」のほうが言いやすい。一方では「ジャン=ポール・ベルモンド」なのに他方では「ジャンフランコ・フェレ」ですよ。つまりは外国人の名前の区切り方が曖昧になってしまう。

こうなったら意地でも余談に引きずり込むが、普通だったら「浜木綿子」は「はまき・わたこ」と読んでしまいませんか。おれだけかな。区切り方が合っていても「はま・もめんこ」と読んだ人はいませんか。いませんね。「はまゆう・こ」と区切った人はいませんか。いるわけないよね。苗字が「はまゆう」で、名前が「こ」だもんな。
「時任三郎」を「とき・にんざぶろう」と読んだ人は、先生、いまなら目をつぶっていますから手を挙げてください。ほら、いたね。あ、ごめん、目ェ開けちゃった。
「勝新太郎」を「かつしん・たろう」と読んだ人は……いないか、ちぇっ。
「仲里依紗」を「なかざと・いさ」と読んだ人をおれは知っている。「清少納言」については割愛させてもらう。つまりは和洋を問わず姓名分離は意外と難しいと思う。ややこしい。ヨクワカンナイ。

歳を取ったらヨクワカンナイことは少なくなっていくと思っていたが、何のことはない、どんどん増えている。素晴らしき哉、人生! あ、「哉」は「や」ではなく「かな」だよ。

アパート日記 2025年2月

吉良幸子

2/1 土
ばたばたの1月の話を美恵さんに送るべく、早朝からアパート日記の続きを書いていたら急にパソコンがブチッ!と切れた。はて…?とよくよく見ると、家の中の電気が全部切れておる…停電か?と丹さんに連絡してみるも、停電じゃないらしい。引越す時にガスと電気の契約を引き継いだつもりが、何故かガスだけの契約になっておった。電気いらん訳ないがな、言うてぇや!という気持ちを抑えてお客様センターへ電話をする。なんとか契約できたけど、ブレーカー落として2時間待てと言われた。出稼ぎの日やったけど出勤遅れる連絡する。嗚呼、引っ越しがひと段落してもまだ色々あるわね。
さて、そんな中ソラちゃんは勿論家におらん。早朝4時くらいから元アパートへ遊びに行っとる。今日の作戦は、夜まで自分で帰ってくるか待ってみようというもの。私の帰宅が21時前になるので、それまで帰ってこんかったら迎えにという算段。案の定帰ってくる気配がなく、帰る時間に合わせて公子さんと駅の近くで待ち合わせ。アパートに着いたらにゃぁとは言うけど出てこん。もうふたりとも疲れちゃって、アパートの前に座ってしばらく待ってみる。そして程なくして姿を現したツートン猫を回収。明日は雪予報やし帰るで!とゲージに入れたら、今度はにゃぁとも言わずにおとなしく運ばれておった。

2/2 日
東京の雪予報はやっぱし大袈裟やった。でも雨は降っておる。ソラちゃんは観念したのか、家の中でぐっすり寝てる。たまに外出せとにゃぁにゃぁ言うけど、雨を見せると諦める。ちょっと間、うちの周りだけでも雨やったらええのになぁ~。

2/3 月
朝から思い切って部屋の片付けをする。もうそろそろ片付けんと仕事もろくにでけん。夕方には綺麗に片付いてむちゃ嬉しい、久しぶりに畳が見える…一服お茶でも、と思っているとこに学校帰りの孫・カイ君がやってきた!カイくんからも、いい環境じゃん!とお褒めの言葉をいただき満足。レンジで作るポップコーンを食べながらしばし団らん。弾けへんかったコーンで鬼はソト、福はウチしてくれた。これでもう大丈夫だよ!とのこと。かわいいなぁ。

2/4 火
ソラちゃんがまた早朝から前のアパートへ…日が高いうちは人通りが多くて動かんし、今日は夜まで待ってみて20時になったら迎えに行こうという算段。19時半くらいになって、やっぱり帰ってこんよなぁと元のアパートへ行く準備をし始めたら、なんと玄関の方でにゃぁにゃぁと言う声が…!まさか!?と思って開けると自力で帰ってきたではないか!!公子さんとほんまにびっくり、大声あげた。なんちゅう賢い、そして強靭な脚力!えらいねぇ~!!とむちゃくちゃ褒めた。当の本人はさすがにむっちゃ疲れるらしく、ぐったり疲れてすぐにぐーすか寝ておった。

2/5 水
絵描きの友、キューちゃんちへお泊まりしに行った。ちょうど入谷浴場組合でスタンプラリーをしてて、同じ銭湯でスタンプふたつ集めると下足札型のキーホルダーがもらえるらしい。今夜一回と、明日の朝湯でスタンプがふたつ集まるってワケ。それで遊びに行きがてら泊まらしてもらうっちゅうことになった。浅草でぶらぶらして、夕方にお湯へ。いつも行く銭湯と違って木版画がいっぱい置いてあったりお洒落鏡台があったりして、なんかものっそ雰囲気ある。来てはる人も風呂上がりに熱心に化粧してて、仕事の前って感じ。場所によって人もちゃうな~としみじみおもろかった。

2/6 木
朝イチで銭湯へ。朝湯はほんまにええ。お湯も夜よりちょっとぬるくしてあって長く浸かってられる感じ。この後二度寝できたら最高やと思う。うちの近くの銭湯は朝湯してはらへんから、家の近くに毎日朝から営業の銭湯があるキューちゃんがうらやましい。近所やのに来たことなかったらしいけど、朝湯の気持ちよさに目覚めておったしこれからちょいちょい来れたらええなぁと思う。お湯から上がってスタンプ集めてキーホルダーもらう。ちゃっちくて、ものすごいかわいい。ええ思い出や。
さて、この後二度寝するであろう瞼が重そうなキューちゃんに別れを告げ、早々と世田谷の方へ帰る。というのも専門学校の時の友に5年ぶりに会うという予定が今日はあるから。大阪からたまたま来ててお昼過ぎには帰るらしい。束の間やけど、会って話せてよかった。会った瞬間にここは大阪か…?と錯覚するほどの人懐っこさがある子で、とにかく東京の電車の静かさには毎回びっくりするらしい。そういえばこの前関西へ帰った時、電車ン中まで活気があったんを思い出した。

2/14 金
出稼ぎの帰りにキューちゃんと渋谷はウエマツ画材店で待ち合わせ。安く買うには世界堂やけど、専門的なことを尋ねるには玄人の店員さんがいはるウエマツに限る。毎回丁寧に、しかもむっちゃ分かりやすく説明してくれはるから助かる。おやつの時間に待ち合わせのはずがキューちゃんから連絡なし。何かあったかな?と思ったら待ち合わせ時間5分前に起きたらしい。個展も終わって疲れてるんやねぇ。
夜は落語友だちのくみまるさんと末廣亭の近くでごはん。数ヶ月前にも来たタロットの山ちゃんのとこへ、仕事の悩みがあるふたりが指針を求めて再び。私もまた見てもろたんやけど、とにかくまた的確に言い当てられた。でも、今の方向に突っ走って大丈夫っちゅうことで、なんしかガンバろうと思う。

2/19 水
ソラちゃんが元のアパートへ遊びに出かける数がやっと減ってきた。それにしてもいつ行くのかと観察すると、どうやら私が早朝に出稼ぎで一日家をあける日らしい。公子さんの観測では、ソラちゃんが私を迎えに元のアパートまで迎えに行っている模様。なんていじらしいの!

2/21 木
去年に行った川越でのご縁から、3月半ばにマルシェへ出店することになった。出すのは粘土細工やら張り子。引っ越しでなんじゃかんじゃしてるうちに1ヶ月を切ってびびっておる。複数同時進行で作ってるから完成した作品がまだなく、今朝は出店当日に売るものが3つしかないという悪夢までみる始末。そんな中で出稼ぎ先のお客さんから別の3月末のマルシェにもお声がけいただき、参加の運びとなった。間に合うかむっちゃ心配、でもやるしかない。うちで『旗本退屈男』流しながら黙々と、いや、ひとり賑やかに鼻唄まじりに制作中…。

2/28 金
公子さんが5月発売の暮しの手帖に載る!その撮影とインタビューの日で朝からソワソワ。公子さんはちょっと前に床屋へ行って髪も切ったし、今日はスカート姿!久しぶりに見たわ!うちでちょっと写真を撮って、太呂さんちでインタビュー。どんな記事になるのやろか、楽しみ。夕方までインタビュー受けて、くら寿司行って一杯飲んでどかっと寝る。大したことしてへんのに、意外と疲れるものね。

話の話 第24話:破綻している

戸田昌子

ある時、木製の小さな本棚を買った。本棚と言ってもせいぜい、文庫本やCD用といった感じの小さなもので、片手で持てる程度の軽いものである。買ったのは近所の古道具屋さんで、ナイスミドルというよりは初老くらいのおじさんがひとりでやっていて、古いブリキのおもちゃやチューリップランプなどが所狭しと並んでいるような店である。なかなか素敵なものを買えた、と意気揚々と本棚を小脇に抱えて帰宅すると、それを見た夫が「なにそれ、なにに使うの?」と尋ねる。考えもしなかった質問に、返答に詰まるわたし。「それは、これから、考えるんじゃん……? 欲しいから買ったのであって、使うために買ったわけじゃないよ……」などとぶつぶつ言っていると、ふむふむとうなずきながら夫「なるほど、目的はともあれ、欲しいから買ったわけだね。さすが、手段のためなら目的を選ばない女って感じだ。かっこいい」などと、わかったようなことを言う。

そうでなくても、わたしはいつも「あなたってこうだよね」と、わかったようなことを人に言われがちである。先日、年なりにぼんやりしてきた母と、父の淹れたコーヒーをゆっくりとすすっていると、わたしの手の中にあるカップを指さしながら母がとつぜん「そのカップ、まあちゃんが作ったの?」と尋ねた。「え? 違うよ?」とわたしが答えると、母はなぜか自信満々に「あら、まあちゃんが作ったのかと思ったわ。こんな破綻したものを作るのはまあちゃんと相場が決まっているのよ」と言い始める。わたしは確かに、陶芸体験などが好きで、出かけた先でヘンテコなカップを作って持ち帰ったりするので、言わんとすることはわからないわけではない。そして確かにわたしの手の中にあるこの白いカップはでこぼことしていて、あちこちにひっかかりがあって持ちやすいが、確かにどこか破綻している。が、しかし……などと考えていると、「だいたい、まあちゃんって人は、なんでもうまくやるように見えて、みーんな破綻してるからね」と、母は確信を持って繰り返す。そこまで言われると反論のしようがないので、とりあえず目の前にあるチョコを口に放り込んで、もぐもぐする。たしかにわたしは破綻しているかもしれないけれど、決して破天荒ではないのですよ、と心の中で言ってみたりする。

マカロンを200個作ったことがある。幼稚園のバザーで、なにか手作り品を提供して売ることになって、つい期待に応えようと「わたしマカロン作れますよ」と言い出してしまったのである。とりあえず言ってはみたものの、マカロンなんて1個や2個だけ作っても仕方がないし、10個や20個作っても焼石に水だと考え、とりあえずはアーモンドプードルを1キロばかり買ってみた。ちなみにみなさん、マカロンって何でできているかわかりますか。主な内容物は、卵の白身とアーモンドプードル、そして粉糖なのだけれども、フワーッと膨らんだあのお菓子、1個あたりのアーモンドプードルの分量はおよそ3グラムなのです。つまりアーモンドプードルが1キロあれば300個以上、作れてしまうのです。色は食紅でつけ(余計なものを入れると膨らみません)、中身はチョコレートのガナッシュやジャムなどの粘性のあるペーストを挟めば、たいていは美味しくできる。とりあえず作れるだけの量を作ってみよう、と作り始めて、試しているうちにバリエーションを作るのが楽しくなってしまい、いつの間にか量産体制に入り、しまいには結局200個のマカロンを製造し、その翌朝、幼稚園に届けてしまいました。お父さんお母さんたちは喜んでくれたようだったけれど、それはむしろ、「あっけにとられていた」というべきだったかもしれない。

量産というのではないけれども、若い頃、100人分のご飯を作ったこともある。アメリカにいた時のことである。ルームメートのクリスティーナは当時、コロンビア大の院生で、ポルトガルと日本への留学経験があり、ポルトガル料理と日本食を作るのを得意としていた。そのため、コロンビア大学が、アジア研究を専攻する大学院生が集まる全国的なカンファレンスのホスト校になった時に、打ち上げパーティの食事担当になった。「マサコ、炊き込みご飯と照り焼きチキンを100人分作りたいから、指導してよ!」と言い出すので、「炊き込みご飯って普通はごぼうとかしいたけが必要だけど、ニューヨークじゃ、予算内では手に入らないよ? どうするの」と言ったら「オーマイ! そうよね、どうしよう」と頭を抱えるので、「どうせ本物の炊き込みご飯なんて食べたことある人なんていないんだから、コーンバターご飯とグリーンピースご飯でいいよ」「え、そんなんでいいの?」「本物の炊き込みご飯をがんばって作っても、アメリカ人が美味しいって言うはずないでしょ? どうせ、んー、なんかヘルシーだね、味薄いね、とか言うだけよ」「そうか……」というわけで、炊き込みご飯はコーンとグリーンピースの簡略バージョンに決まった。しかし問題は照り焼きチキンである。「照り焼きチキンってアメリカだとポピュラーだけど、あれはほぼチャイニーズメニューだから、日本の家庭料理の定番ではないよ?」とわたしが言うと、「わかった!ネットで調べる。自分でやる!」とクリスティーナは去っていった。一抹の不安を抱えて見送ったが、数時間後、クリスティーナは「マサコ……これって照り焼きチキンかなぁ……」と自信なさげにオーブンをわたしに見せる。そこにあるのは、1リットルほどの醤油水に浸かったチキンの大きな塊で、どうみてもチキンの醤油煮(しかもすごく甘い)である。「レシピ通りなんだけど」と言うのでレシピを見ると、確かに500ccのごま油と500ccの醤油、それと同量程度の砂糖がたっぷりと入った醤油水にチキンを浸してオーブンで3時間火を入れるように、と書いてある。「そんなばかな」とあっけにとられるが、「どうしよう、あと1時間後にこれを会場に持っていかないといけないのに」とクリスティーナは焦っている。「んー、わかった、このチキンの醬油煮もそれなりにおいしいし、お肉だけ持って行けば? あとはわたしが適当にタレを作るから、それをかければどうにかなるから、先に行って」と指示して、クリスティーナを大学へ行かせる。残ったわたしは、その醤油ごま油水を片栗粉で固めよう、と考えるが、片栗粉はない。小麦粉でいいかな? と考えたわたしは、鍋で温めた醤油水に小麦粉を思い切ってダボンと投入する。温まるうちに次第に固まってくる醤油水。そしてだんだん分離していくごま油。なるほど、水分が凝固すれば油分は分離するわけか、そりゃそうだわ、しめた。と思ったわたしは、すかさず分離した油をシンクに捨てる。固まった砂糖醤油水を味見すると、なるほど、照り焼きチキンの味になっている。よし、とタレをタッパーに入れて徒歩5分の会場に届け、チキンの上にダボダボと流しかける。「おー、シェフが来たー」などと揶揄されながら(わたしはクリスティーナの料理上手なルームメートとして、当時、わりと皆に知られていた)、テーブルセッティングのお手伝いをする。「マサコ、この照り焼きチキン、すごくおいしいよ!」とみんな喜んで食べてくれる。そうですかそうですか、それただの醤油と油の小麦粉ゼリーで、しかもそれチョコレート並みにカロリーが高いよ、ということは黙ったまま、なるべくミスティックな笑顔を浮かべて立っていることにする。

ちなみにこのパーティ会場はButler Libraryといって、1931年に建てられたコロンビア大の象徴的な建造物である。打ち上げパーティに参加した100人の発表者たちは、その夜、天井まで並んだ本棚のあるホールで、わたしとクリスティーナの作った苦肉の策の「炊き込みこ飯」と「照り焼きチキン」を食べ、酒を飲んで、ガンガンにかけられた音楽に合わせて踊り狂ったのであった。ちなみに、男子学生によるストリップショーもあった。男子が酒を飲むと脱ぎたくなるのは日本でもアメリカでもそうそう変わらないようである。

その翌朝、わたしがButler Libraryに行って本を読んでいると、前夜、ストリップショーをやった男子学生のディヴィッドがわたしをみつけて隣にすわった。「なぁ、昨日の夜の大騒ぎが幻のようじゃない? みんなおれがあそこで脱いだことなんか知らないで勉強してるんだぜ」とニヤニヤしながらわたしに耳打ちして、去っていく。

最近、母の代わりにご飯を作るようになった父は、それまで、ほとんど料理をしたことがなかった。数年に一度、母の留守を預かった時などに、なんだか水分の多すぎる肉じゃがのようなものを作っていたようなことはあったけれども、それ以外にはみたことがないので、きっと料理の才能がないのかな、とわたしは思っていたくらいである。しかし、最近は必要に迫られたせいで、ネットでレシピを検索しては器用にいろいろなものを作っているようだ。特に味噌汁の味がとてもいい。そんな父が、「そういえばね……」と話し始める。「イナダさんの旦那さんって人は、ほんとうに何もしない人でね。奥さんが風邪引くとね、枕元に座って、がんばれ〜、がんばれ〜って言って、励ますんだって。でもね、イナダさんとしちゃぁ、ご飯のひとつも作って欲しいじゃない。でもね、奥さんの枕元で、がんばれ〜、がんばれ〜って言っているだけなんだって」。それはまた、なかなか可愛げがある旦那さんだが、あまり役には立たなそうだ。

ご飯といえば、ある時、わたしは真っ青なホットケーキを作ったことがある。何がきっかけであったか、さまざまな色の食紅を手に入れた時に、青の色素だけはなぜかやたらと強い発色をするのが面白くて、いたずら心を出してホットケーキに混ぜてみたのである。色は真っ青だけれど、中身はただのホットケーキ。味にはなんの問題もないので娘に振る舞ったら、実に評判が悪く、食べ残してしまった。「だってまずそうなんだもん……」と言う娘に「美味しいのに! 目をつぶって食べたらただのホットケーキよ!」とわたしが言うと「なんで目をつぶって食べないといけないの……」と、ぶちぶちと文句を言われた。視覚に欺かれてはいけないよ、娘。

視覚といえば、ブルーライト用メガネを外した娘が「現実って高画質だよねえ。4Kくらいあるんじゃない? もっと?」などと言っている。そりゃまあ、われわれともに、視力は1.5以上ありますからね、現実は4Kくらいはあるんじゃないでしょうか。

この娘さんはわりとツッコミが激しくて、わたしが「とうさーんがーくれたーあつきおもいー、カーサーンガークレターアノーマナーザーシー」(「天空のラピュタ」の主題歌)などと歌っていると、「どっちにしても、なにかカタチのある物はくれないんだね」などとコメントして去っていったりする。

ある日、「あたし神に愛されてるからさ」と娘が言い始める。勢いづいたわたし「そりゃそうよ、ママがいるんだからあなた人生チョラクなのよ、大船に乗ったつもりでいなさい。わたしが漕いであげるから。人生という荒波を渡っていく大船を……」と言っていたら、すかさず娘「大船なのに漕ぐのかよ、遣隋使か」
うーん、確かに。

もうじき3月になるというのに、降雪の予報が出ている。空は曇ったかと思えば急に明るくなる。気まぐれで浮き沈みが激しいのはまるでわたしの心のようだ。そんなことを考えていると娘「今日パパと話していたんだけど、ママはうみのようだよね、触らなければ問題はないけど、触ると・・・」ほうほう、そうかそうか、触ると波立つ海(La Mer)か、なかなか詩的なことを言う。と感心して聞いていたら、娘「違うよ、ウニ。触ると刺を出す」と、訂正されてしまう。
わたしはウニは食べられないのに、理不尽なことである。

花器

芦川和樹

消火、週刊大泥棒を
 置き忘れちゃった
 座席の、それかー
 テーブル・プリン
 横。芋族_キリン
 の、友人であった
 汽車と並ぶ、汽船

       うすぐらい、うす暗い家具
        の結び目。そこに発芽す
        るバク。金、銀食器の冷
        えた心地よさと、いや温
        かいうどん(饂飩)を食
        べる今日が、牡蠣_悲し
        いさね、海老に似ている
デパー、地下の アップルジュースに沈む
 歩行、帆が人 ここは、明るいよ、気分
 間のうごきを
 、人間なんて
 いないか。帆 すぐれた花器、花瓶そ
 は帆のまま炎  れぞれの口調。島が
 のようすを採  読み書きを覚えたの
 集するずっと  、ずっと覚えていま
         したよ黙っていただ
         けで、名前、街じゅ
         うが低燃費で微笑む
     あの、す
      ぐれた
      梃子て
      こ、を
      見てて
      非力_
ケーキは海を、ここが不明で、揃いの前足
 朗らか、ティーカップ・プリン。必ず阻
 止します内容と副賞_その蟹、波止場に
 ある、くぼみ。かいよう、海洋をかけて
 いく足を、追ってください。それが今週
 の犯人。オペラを買って、泳いでいます
 バタ足。ふちにつかまって、負けません

_それかー、_非力、口数の少ないだって夢があるんですもの(はとむぎ、はとむぎ)床が抜けそうで。キシリトールたちが考える、モジュ、モジュ。その下記。実在した里芋。もうなにも、さいごのところが作曲みたいでした。

ワヤン公演「シンタ妃 大地への帰還」

冨岡三智

今回は以下の公演についての感想。

2025年2月23日
大阪大学中之島芸術センター3階 アート・スクエア
コンセプト・構成:ナナン・アナント・ウィチャクソノ、福岡まどか
出演:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)、
   ダルマ・ブダヤ、イルボン、もうりひとみ、
   岸美咲、ローフィット・イブラヒム、福岡まどか

マギカマメジカ、ダルマブダヤ、イルボンが組む公演を見るのはこれで3回目。過去の公演についても『水牛』に以下の通り書いているので、併せて読んでもらえると面白いかもしれない。

2023年12月号:ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』
2022年3月号:『カルノ・タンディン(カルノの戦い)』

●ミニレクチャー
この公演には福岡まどか氏が代表を務めるラーマーヤナ研究プロジェクトが共催に入っている。開演30分前より約20分間、福岡氏による物語の内容と今回の上演に関するミニレクチャーを行うとちらしにあった。つまり、このレクチャーは公演外との位置づけだったのだが、個人的にはこのレクチャ―部分もプロローグとして公演に含めても良かったのに…と思う。この解説はダラン(人形遣い兼語り)や講談風のイルボン氏の語りとは異なるものの、やはり今回の公演を担う1つの語りでもあったと思うのだ。このドラマの構成を生み出したというのは、今回の公演成功の大きなポイントの1つだと思う。福岡氏は芸術実践も行う研究者で、実際この公演にも少し舞踊で登場する。解説の口調も平易で、公演と一体のものとしてすんなり入ってくるものがあった。

●構成
ラーマーヤナ物語の中心は、ラーマ王子がシンタ姫を王妃に迎えるも王位継承争いがあって王妃や弟と共に森に追放され(インドネシアのプランバナン寺院で上演されているラーマーヤナ舞踊劇では、この森への追放から物語が始まる)、その間に魔王にさらわれた王妃を魔王の国から奪還し、晴れて王国に帰還するという部分である。この前後に、ラーマ王子が実はビシュヌ神としてこの世に転生した話、さらにビシュヌ神として昇天する話がつく。

しかし、本公演ではラーマらが王国に帰還した後から、いわば後日譚の部分から話が始まり、シンタがワルミーキの求めに応じて身の上を語るということで、通常のラーマーヤナ物語がイルボン氏の語りによって語られる。後日譚から話を始めるのか!という驚きとともに、回想すればラーマーヤナの物語を全然知らない人にもシンタの今の身の上に共感できるのか!と気づく。

帰還する前に魔王に長年捉えられていたシンタの身の潔白をラーマが疑い、彼女が火の中に飛び込んで潔白を証明するのだが、王国に戻っても国民から身の潔白を再度疑われ、ラーマはシンタを森に追放せざるを得なくなる。その時すでにシンタはラーマの子を身ごもっており、叙事詩ラーマーヤナを編纂したとされるワルミーキにかくまわれ、双子の王子を出産する。ラーマ王は成長した王子と森で出会い、シンタにも王国へ戻るよう頼むがシンタはそれを拒絶し、割れた大地にのみ込まれるように戻っていく…。そしてラーマもビシュヌ神として天界に戻っていくのだが、この公演では、シンタの人生の軌跡を女性としての尊厳、女性としての立場から見つめなおすことに焦点を当てている。

というわけで、めでたしめでたしで終わるラーマーヤナ舞踊劇を見たことがある人こそ、全然何も知らない人以上にショックを受けるだろう。ちなみに割れた大地に戻っていくような話の結末は他の神話でも聞いたことがあるのだが、どこの神話だったか思い出せない。

●ステージ、音楽、語り、ワヤン(影絵)、ダンス
会場はそれほど広くはなく、1回につき観客収容数は50人。平土間奥に影絵用のスクリーンが設置される。観客は影絵奏者の側から見るようになっている。影絵用スクリーンの左右に、出演者入退場用兼照明などを当てるための白い幕が左右に吊られている。平土間中央に座布団席が数列、後方に階段状椅子席が数列設けられ、座布団席を挟むようにガムラン楽器が左右に分けて設置される。私は座布団席の一番左側(左側楽器の横)に座った。このようにガムラン楽器が左右に分かれると演奏しづらいものだが、今回は会場が狭かったので言うほど演奏しづらくはなかったようである。観客の側からするとこれが良い効果を生んでいて、音に遠近が生まれた。

音楽は今までと同様、伝統曲とオリジナル曲が使われたのだが、オリジナル・ガムラン曲は語りを邪魔しないように楽器の音を響かせるものが多かった。また、効果音として鳥の鳴き声の笛が鳴ったり、ラーマがシンタの名を呼ぶところで、出演者もそれぞれにその名を呼びかけた。演者が左右に分かれているせいで、それらの音・声が立体的に遠くから近くから左から右から聞こえてくる。それがまるで洞窟の中でエコーを聞いているようにも感じられ、狭い空間の中に奥行きのある世界が広がっているような気がした。

オリジナル曲として今回は電子音楽も使われた。これはシンタが大地にのみ込まれていくシーンなどで使われたのだが、この世の裂け目の中からそれまでと違う世界が顔を出したような感じで非常に印象的だった。ガムランとの音の異質さがうまく生かされていたと思う。

今回はイルボン氏ともうりひとみ氏が語りを担う。2人は冒頭で関西弁の男女として登場して漫才のように物語のつかみ役をやったのち、幕の左右に置かれた語りの席(椅子)に座り、朗読劇のように2人で語っていく。ナナン氏が影絵のスクリーンの前に座る。基本的に、ナナン氏がワヤン人形を操りながら語ったり、椅子席でイルボン氏ともうり氏が語るのはリアルタイムで起こる出来事で、床に座ったイルボン氏によってハリセンを叩きながら講談調で語られるのはラーマたちが森に追放され王国に帰還するまでの回想部分だったと思う。

今回、影絵の幕の表に座って華麗な人形操作を見せ、語りを聞かせるのはナナン氏である。ジャワではこれが普通で、影絵と言われているけれど実際には観客のほとんどは影の見えない側に座っている。しかし、今回はスクリーンの裏側にも人形遣いがいて、主にグヌンガンと呼ばれる山や神羅万象を表す形のものを操り、私達観客に影を見せてくれた。現在ではこのように幕の両面から人形の実際の姿も影も見せる演出が多くなってきているようだが、私自身留学中にジャワでこのような演出を見たことはない。しかし、どちら側も見たいのは当然だし、奥から投影される影は表から見ている人形劇の世界に、さらにこの小屋全体の壁に天井に不穏な影南下を投影する。この世を立体的に見せてくれる。

ラーマが成長した子供たちと出会うきっかけは馬祀祭(アスワメダ)である。王が放った馬が通るすべての場所で破壊や戦乱が起こるものだという。イルボン氏は裏にひっこみ、冠を被ってラーマ王として影絵スクリーンに影を映し、さらに馬のワヤン人形を持って舞台に飛び出してきて、縦横無尽に暴れ回った。それはシンタを失ったラーマ王の怒りと悲しみの発露なのだろうと思われたが、この儀式を何のために開催するのか少し分かりづらかったのが残念である。台詞で分かりやすく言っても良かったような気がする。

シンタは突然大地の割れ目にのみこまれ、ナナン氏が手にするラーマ王の人形は怒りで巨大な鬼となっている。影絵の右側にある幕の内側が明るくなって幕が透明になり、奥に小さな空間が現れ、そこで福岡氏のダンスが最初仮面なしで始まった。彼女は大地の奥にいるシンタ…?プログラムの解説だと大地の女神のようだが、シンタでもあり女神でもある、とも受け止められる。大地の底との距離感をこの空間で表したのは素晴らしい。もっとも、ワヤンやガムラン音楽は中部ジャワ風なので、実は西ジャワ様式のダンスや衣装は私には少し違和感があった。このあと仮面をつけるのだが、西ジャワの仮面は普通パンジ物語に使うし…。しかし、女神であるなら、ラーマーヤナ界の人間と衣装が違っていても、顔が違っていてもおかしくはない。仮面をつけた女神が透明の幕から出てきて、右手を前に突き出しながら静かに前進してくる姿に、何か物言えぬ悲しみを覚える。

という風にワヤンは終わるのだが、音楽・音に奥行きが感じられたように、空間にも奥行が感じられた舞台だった。ワヤンのスクリーンで展開される世界、その世界から観客の方に投影された影、スクリーンの前で後ろで役者イルボンが駆け回る空間、突然現れる大地の裂け目…、そして上では語らなかったが、電子音などと共に世界を染める赤や青の照明…。この上演空間が狭いだけに、そこに生み出された世界の多層性に引き込まれた。おとぎ話のように、ひょうたんの中に入ってみたら別天地が広がり、長い時間が凝縮されているような感覚を味わった舞台だった。

二月

笠井瑞丈

2月28日
今日はオイディプス王の大阪公演
新幹線で新大阪に向かう
電車内にてふと思いだす

そういえば初めて公演をしたのが
2月28日だったと思い出す
三島由紀夫の「春の雪」をテーマに作品を作った
合わせてくれたかのようにこの日は大雪が降った

本当は2月26日にやりたかったのだけど
その26日が平日だったため28日にした
そんなくだらいないことまで思い出した

会場として選んだのが神楽坂セッションハウス
その選択が今の僕のダンス作ってくれた

そのおかげで沢山の出会いや
沢山の景色を見る事がでた
そして多くの経験を積む事もできた

希望を持って初めたダンスも
時には辛くなったり
辞めたくなったり
そんな時もありました

でも気づけば今年50歳になり
ダンスもまだ続けてます
でも続けて来れた事は
自分だけの力だけではなく
やっぱり周りの人たちの
力によるものが大きいと思う

あとどれだけ続けるのだろう
まだ見ぬ新しい景色を探して

明日は大阪初日

水牛的読書日記 2025年2月

アサノタカオ

2月某日 吉田亮人さん写真、矢萩多聞さん著『はたらく動物病院』『はたらく庭師』(創元社)が届く。着々と刊行される写真絵本のシリーズで、これで合計6冊に。日常生活と地続きのところにあるさまざまな仕事を丁寧に紹介する、すばらしい企画だと思う。

2月某日 神奈川・横浜の本屋 象の旅で、文芸評論家・エッセイストの宮崎智之さん監修選書フェア「随筆復興宣言」がはじまる。「宮崎さんほか話題の作家陣による、自著とおすすめの随筆・エッセイ作品をご紹介いたします」という企画に僭越ながらぼくも参加することに。ちなみに選書したのは以下の3冊だ。

永井宏『サンライト』(夏葉社)
山尾三省『野の道』(野草社)
藤本和子『イリノイ遠景近景』(ちくま文庫)

サウダージ・ブックスとして、フェア用に推薦コメントを集めた小冊子を制作することになった。編集を終えて自宅事務所で100部印刷し、大急ぎで折り作業を終える。なんとか初日に間に合い、我が家から電車で30分ほどのところにある書店に持参した。店主の加茂和弘さんからお店で人気のあるエッセイ本のことを教えてもらい、選書作家のひとり早乙女ぐりこさんの著書『速く、ぐりこ!もっと速く!』(百万年書房)を購入した。

象の旅を辞して、近くにある横浜橋商店街を散策。昭和感の残るアーケード街には中華料理店も韓国料理店も、中国東北地方・延辺朝鮮族自治州の料理店も並んでいる。喫茶店に入り、早乙女さんの『速く、ぐりこ!もっと速く!』を読む。タイトル通り、内容も文体もスピード感あふれるもので、夢中になって一気に読み終えた。これは、現代日本のビート文学ではないだろうか。

2月某日 ダンサー・振付家の砂連尾理さんが認知症の人や高齢者、介護者や関係者などと取り組む「とつとつダンス」。東京・中野の水性という多目的スペースで、アート系の一般社団法人torindoの企画による記録映像の上映と関係者のトークイベントが行われることになり、2日間参加した。2016年に刊行された砂連尾さんの著書、『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)の編集を担当したことがきっかけで、「とつとつ」のその後を追い続けている。京都・舞鶴ではじまった活動は現在、海を越えてシンガポールアやマレーシアでも展開中。砂連尾さん、torindoの豊平豪さん、映像作家の久保田テツさんたちとひさしぶりに会い、学ぶことが多かった。

帰りに中野ブロードウェイの自主制作本ショップ、タコシェに立ち寄った。

2月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社)。

2月某日 東京都立産業貿易センター浜松町館4階で開催、ZINEフェス「詩歌と日記」というイベントに出店した。サウダージ・ブックスの詩集や随筆集、自分が編集や執筆で携わったZINE『次に読みたいK-BOOK!』(チェッコリ)、インディー文芸誌『SLOW WAVES issue4』(なみうちぎわパブリッシング)を販売。ブースにお立ち寄りいただいた皆様、関係者の皆様、ありがとうございました。

ZINEフェスでは近くで出店していたミランダ雪乃さんの短歌と写真の本『東京で生きる』『東京の恋』、式島染さんの歌集『Addiction』を入手した。ひとりで店番をしているので会場全体をゆっくり見て回ることができなかったが、イベント終了間際に、佐々木里菜さんのZINE『ティミッドとティンブクツーのあいだ』を駆け込みで購入。さっそく、帰路の電車内でこのZINEを読む。カート・ヴォネガット・ジュニアの作品に由来するタイトルもデザインも、日記本として時間の不在を表現するアイデアも最高だ。

2月某日 仕事の打ち合わせで東京・神保町へ。三省堂書店神保町本店(小川町仮店舗)に、ZINE・リトルプレスのコーナーができたと聞いて訪問した。サウダージ・ブックスから刊行した大阿久佳乃さんのエッセイ集、『じたばたするもの』も平積みにしてもらってうれしい。しかも、本書で言及した岩波文庫を右隣に並べるなど、心憎い棚づくりの工夫に感激した。ZINE・リトルプレスのコーナーから、蟹の親子さん『増補版 にき 日記ブームとはなんなのか』を選んで購入した。日記ブームとはなんなのか、知りたいのだ。

その後、共同書店 PASSAGE 3号店のSOLIDAで、昨年からずっと探していた越前敏弥さん『訳者あとがき選集』(HHブックス)、仲俣暁生さん『本の町は、アマゾンより強い』(破船房)を買った。ベテランの翻訳家とベテランの編集者による自主制作本。神保町で奇しくも、仲俣さんが「軽出版」と呼ぶ小さな本を買い集める一日になった。

2月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第4章。生きること、働くこと、誰かとともにいることについてみんなで考える。

人との出会いを物語に残すということ

若松恵子

お正月の長い休みに、石井桃子著『幻の朱い実』をやっと読み終えることができた。上下2冊の長編小説。小説世界に入り込んで過ごす楽しさを久しぶりに味わった。『幻の朱い実』は、石井桃子が87歳の時に発表した大人向けの小説で、石井が若き日に出会った大切な友人である小里文子との思い出を物語にしたものだ。

石井桃子の評伝『ひみつの王国』のなかで、尾崎真理子のインタビューに答えて石井は語っている。「十年近く前、八十歳手前になって、当時病床にあった親友と約束したんです。(中略)私たちの“あの人”のことをそろそろ書きましょう、と。もうすぐ思い出話を語り合えなくなる、あの人のことを知る人がだれもいなくなってしまうから」と。

1994年、『幻の朱い実』刊行直後に読了し、魂が揺さぶられたという尾崎真理子は同書の中でこう書く。「この作品を書くことによって、八十七歳を迎えていた石井桃子は、じつに六十年以上にわたって封印してきた思いをみずから解放したのだと感じた。あの時代に生きた人間の思いを小説の中に可能な限り再現し、永遠のものとしたいーその切なる思いが行間から噴き出すようにあふれていた。女性への抑圧、戦争へ接近していく時代。背景にあるものは大きいが、引きつけられたのはむしろ、日常を彩る細部の方だったかもしれない。この細部の輝きを伝えない限りは死ねないーそんな決意すら伝わってきた。」と。この小説が持っている緊張感、大きな事件が起こるわけではないのに小説世界に引き込まれていく理由が尾崎のこの文章でわかった。

「日常を彩る細部の輝き」、確かにこの小説の魅力はそこにある。小里文子をモデルとした大津蕗子と石井自身をモデルとした村井明子が囲む食卓、そこに並ぶ料理、避暑のために出かけた千葉の漁村の風景、寒い結核療養所までがその細部の輝きによって心に残る風景となる。石井桃子の胸のなかにしか残っていないものを言葉によって再現し、永遠のものにしていく、彼女のその意志と力量に感動した。

なぜ、石井は小里文子にそんなにも魅かれたのか。小里文子について、尾崎真理子のインタビューに答えて石井はこう語っている。「蕗子というのは…、題名にも『幻』とつけたように、つまり、ぱぁーっとひとつの美しいものを自分の中に花咲かせることはできても、それを持続して次のところまでもっていく力がなかった。だけど、自分が蕗子の家の前へ行った時、思わず見とれて、こんな美しいものがふつうの町の中にあるのかと思うほど美しい烏瓜が、滝のようにして流れるようにあった。そういうものを一時でも手にして、手にしたいと思ったら手に入れずにはいられなかった、そんな一生を持とうとして持ち続けられなかった…。そのことを非常に哀惜する気持ち、そういうものを消えて行ってしまった人の中に見出して、惜しむという気持ちからだったんですよね、あの本を書いたのは」と。

ひとがその人自身もうまくわかっていない魅力を見いだして愛す。人間のそういう行為はすごいことだなと思う。そして、あれはどういうことだったのだろうという、経験として自分の中に残っているものを言葉にして、言葉という形にして永遠のものにしていく。人間のその行為もまたすごいことだなと改めて思った。『幻の朱い実』と石井桃子の評伝『ひみつの王国』を姉妹のように読んだ。尾崎真理子もまた、石井桃子の魅力の本質を見出し、愛し、永遠に残るものとして私たちに渡してくれたのだと思う。

製本かい摘みましては(192)

四釜裕子

 折り目はきっちりつけなんし~
 マブだと思って摺りなんし~
 憎いあいつと刺しなんし~
 銭がなくなりゃ切りなんし~

蔦屋重三郎(1750-1797)が初めて作った吉原細見「籬(まがき)の花」を、河岸見世の二文字屋で女将のきくや遊女たちが歌いながら綴じている。蔦重や”助太刀”の浪人・新之助も一緒になって、断裁したり題簽を摺ったり貼ったり重石をしたり、竹の指輪をはめて紙を折ったりかがり穴を開けたりと手慣れた感じだ。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第七話で流れてきた、いわば製本仕事歌。なにしろ二文字屋の皆さんは第三話でも綴じている。このときは蔦重が初めて作った入銀本「一目千本 華すまひ」で、まるまるの玄米おにぎりが山と積まれて手間賃代わりになっていた。

前の大河ドラマ「光る君へ」で描かれた「源氏物語」の製本シーンはこの連載の(189)で書いた。あちらは材料も道具も人も住まいも何もかもが超豪華で、みんなで歌を歌うことなどなかったけれども、手を動かしながらどんな話をしていたのだろう。江戸と平安、立場も衣装も対極ながら手元を見れば同じこと、ひたすら折って切ってかがるのだ。先ごろgggで中国のブックデザイナー・呂敬人さんの展示を見たが、そこにもあった線装本の工程ももちろん同じ。極めてシンプルで見ればだいたいわかるだろうに、いつの時代も若い人が新鮮がっておもしろがるのは、おもしろがるだけで実際に手を動かす人がいつも極めて少ないからかもしれない。

”製本仕事歌”は他にも何かあるかしらと『日本民謡大観』全9巻(1980  日本放送出版協会)の目次を試しに国会図書館のサイトで見てみたが、今のところヒントになるものは得られていない。『日本民謡大観』は昭和16年にNHKが行なった事業の成果で、町田佳聲(1888-1981)が日本各地を巡って録音した、およそ2万曲の楽譜と歌詞と民俗学的な背景がまとめられている。町田佳聲は作曲家で民謡研究家、その4年前から、おそらく日本で初めて民謡のフィールド・レコーディングをしていたそうだ。

昭和16年のそのときに録音した各地の労働歌や仕事歌を、NHKラジオの「音で訪ねるニッポン時空旅」でたまに聞く。『民謡とは何か?』(2021 音楽之友社)の著書もある富山大学教授の島添貴美子さんの解説がいい。2月22日の放送では山形県真室川町(旧安楽城村)の「あがらしゃれ」(唄・佐藤きみ他)も紹介していた。山形県の村山弁だと「あがっしゃい」、もっと丁寧だと「あがてけらっしゃい」となるであろうか(自信なし)、とにかく酒をすすめる歌だという。一度聞いて雰囲気はつかめたが、「言いたくないけど○○で困る」みたいなところのつながりがピンとこなかった。聞いた歌詞を文字にすることができなかったので、NHKアーカイブスの「みちしる」から引用します。

 「あがらしゃれ」(昭和16年録音版から)

 あがらしゃりゃアーねなや お前そげだヨー
 (コイチャト)
 お前ーエ あがらねエど気がすめぬ
 (アリャ飲む アリャ飲む)
 一つばりゃア 注さずでもよかろや 
 皿鉢飲まれまい茶碗酒
 大沢三千石 
 言いたくねじゃねども 夜飯ゃ夜中でどど困る

番組では、合いの手が印象的だったので「これは飲み会のコールみたいなもの?(笑)」みたいな話も出ていた。島添さんがいろいろ調べて歌詞を”翻訳”して解説していたので、聞き取れた範囲で引用してみます。

 「あがらしゃれ」(島添貴美子さんによる”翻訳”)

 おあがりください あなたはどうしてそうなんですか 
 あなたがお飲みにならないと私の気が済みません 
 一杯だけならおやりになってもいいでしょう 
 皿の鉢で飲まれないなら茶碗でどうぞ 
 大沢は三千石
 言いたくはないけれど 夕飯が夜中になるのですっごく困る

「飲んでもらわないとこちらの気が済まない」ということは、もしかして歌う場面は宴席ではなく自宅なのか。家長が招いた客に対して「とっと飲んで帰ってよ、夜ごはんが遅くなって迷惑なんだよね」という、女(嫁)の胸のうちの声なのだろうか。あるいは「あなた」は、いつもつきあいで酒をすすめられ困っている下戸で、それにとうに気づいている者としてのひそやかな助け舟とひそやかな甘え、とか?? 

そのあと、現在よく歌われているバージョンが流された。いわゆるのど自慢大会などで歌われる機会が増え、多くの人が歌いやすいように、誰もが聞き取りやすいようにと手が加えられ、飲んべえにはたまらない素朴で愉快な民謡だよね~とか軽くまとめられているのもネットで見た。〈わかんないというのは歌としては困るんだけれども、わかりすぎるとおもしろみがなくなる〉と、言葉を選んで話す島添先生。

『日本民謡大観』の目次を追っているときに「最上川船頭唄」が出てきて、思わず口づさむ。西村山郡左沢町、東村山郡寺津村、飽海郡南平田村、東村山郡長崎村の4つのバージョンが収録されていたが、私のは左沢版だろう。口から出たそのままをここに書いてみます。

 「最上川舟唄」(私の口から出てきたバージョン)

 よーいさのまがしょ
 えんやこらまーがせ
 ええーやぁえーえぇ
 えーえぇやぁえーえ
 よーいさのまがしょ
 えんやこらまーがせ

山形県寒河江市に生まれた私は小学校でよく聞かされていたが、あとに続く本筋の歌詞は出てこなかった。当時はどれだけ古くから歌い継がれてきたことかと思っていたけれども実際は古くなく、脈々と歌い継がれてきたわけでもなく、テレビ番組のために作られたものだと知ったのはずいぶんあとのこと。「芸術新潮」で石田千さんが連載していた「唄めぐりの旅」(2014.3)で読んだのだと思う。

昭和11(1936)年、NHK仙台放送局が最上川の番組を作るにあたって大江町左沢の渡辺国俊さん(1905-1957)に舟唄の紹介を頼んだところ、地元に伝わる舟唄はあるけれども〈追分調に新内くずしのようなものが入っているので、最上川下りにはふさわしくない〉と、同郷の民謡家・後藤岩太郎さん(1891-1953)に相談。後藤さんは最上川を何度も上り下りして熟考し、ようやく〈「追分節」を本唄の源流に、船頭たちのかけ声と合わせ作〉りあげたのだそうだ(引用は大江町の公式サイトより)。

大江町の説明はさらに続く。〈後藤氏の方は、もっぱら歌い手一筋。農業のかたわら、建設関係の仕事もしていたようですが、婚礼やお祭りなどにはひっぱりだこで、テノールの美声が大いに持てはやされました。(中略)遺稿によると民謡試聴団の町田嘉章先生が「この舟唄は昔からあったのか。」と言われた時に、たった一言「そうだ。」と答えただけでした〉。昭和16年にNHK仙台放送局が柳田國男、折口信夫、中山晋平、町田佳聲ら21名に声をかけ、東北民謡試聴団として急行列車の1両を貸し切りにして東北6県を回り各地で民謡を聴いたそうだが、それはこのときのことだろう。

今や最上川が運ぶのはもっぱら観光客で、船頭たちも「最上川舟唄」を歌い継ぐ。いい動画があった。Kenichi Miuraさんという方の「山形民謡【最上川舟唄 】 2017」、舟下りで乗り合わせた船頭の岸昭夫さんが歌う姿を撮っている。舞台でもスタジオでもないところで歌われて、舟唄よ、それってものすごく幸せなことなんだぜ!と、言いたい。

サザンカの家(二)

北村周一

満開のツバキの花もそこそこにメジロ素早しいずこかに消ゆ
ジグザグに飛ぶを見ており路地の端メジロは知るやその行くさきは

落ち葉かげ風に吹かれて窓のした消え入るごとも小さき鳥は
目を閉じてガラス扉の下ひっそりと野の鳥いたり黄緑いろは

かげ淡く窓のガラスにのこりいて散りにけるらし野の鳥ひとつ
ガラス扉にうつりし陰はみずからと知らで飛び立つ一羽の鳥は

ガラス扉につばさ広げて立つ鳥の視野に入らぬあわれその先
飛ぶ鳥の視野にひろがるガラス扉のくらみ思えり透明ゆえの

地の上に零れ落ちたる野の鳥の視野に溢るる透明の窓
翼もて窓にしずみし二粒の目より滴る透明の雨

ふかぶかと窓にうつろう空のはて吸い込まれゆく快感おもゆ
空蒼く映り込みたる空間に恐れ抱かぬ翼もつきみ

窓にひろがる空に羽ばたく鳥たちの目にはさやけし限りなき青
迫りくるガラスの窓にキジバトは何を見たのかつばさ広げて

ガラス扉に飛ぶ鳥の痕うっすらと遺せしままにキジバトはゆくも
うすらかげ鈍く残れるその真下ねむれるごともキジバトはあり

あちら側へ羽ばたきたりし野の鳥の絵姿あわれガラス扉が知る
空間に酔い痴れている鳥どちの声聴きに行く土手の裏側

放し飼いの隣家のチビというネコが庭に来ておりことり咥えて
雨あがり春の気配にみずたまりのぞき見ているくろしろのネコ

サザンカの花と知りたる秋にしてこの世の闇の境い目のどか
ほのぼのと冬の訪れ待つように花咲くところサザンカの家

山茶花の赤白桃いろありまして賑やかなりぬ古淵の家は
夜になると勢いを増すさざんかの花のみいろを数えおるなり

はじめての秋を迎えしこの家のおもみに堪えてサザンカ咲くも
わが家にも目白来ておりゆく秋の庭のサザンカそろそろ見頃

花ことばひたむきなれば声ありてつよく生きよとみみに囁く
山茶花の覚えめでたき秋の日や クルマ替えたり七人乗りに

風吹けばはらりはらりとどこへやら庭のサザンカ散り終えにけり
サザンカの花の散り際みるようにひとりふたりと離れゆくらん

ちりぢりに散るを厭わぬ山茶花のはなの終わりはやさしくもあり
サザンカの花ちり終えし庭かげにくらく仄浮く売家の文字は

常永久の愛と告げられ見返れば眩暈のごとく古家ありけり
売りに出す家一軒の寒さかな 冬至を過ぎてイヴ待つ宵は

散りもせず落ちもせずして枯れのこる庭のさざんか春待つごとし
古家ひとつ売りに出だせば矢庭にもさやぎ立ちたるさざんくわの闇

仙台ネイティブのつぶやき(104)ありがとう地球さん

西大立目祥子

 借りている鍵で玄関を開け、入る。人の住まなくなった家は、ひんやりしている。でも、叔母の気配はまだ感じられる。この家の匂いも。昨年8月に亡くなったあと、ずいぶんと荷物は整理され押入れの中だって空っぽなのに、まだ残っている家具や家財、洋服のたぐい、そういうものに降り積もっている塵や埃から匂いが生まれるんだろうか。気配をつくり出すのは、部屋の隅っこ、カーテンの陰、戸棚の後ろにたまっている淀んだ空気なのかもしれない。

  この家に通うのは、叔母の残した作品の小さな展覧会をやることに決めたからだ。叔母が通っていた教室の早坂貞彦先生は、5年前に宮城県美術館の現地存続運動をいっしょに闘った人で、会って叔母の話になるたび、「おもしろい絵描いてるんだから、作品展を開いてやるといい」といわれてきた。たしかに70歳になってから絵を始め、相当の集中力で取り組むようすには目を見張るものがあったし、年を追うごとに作風が自由で奔放になっていくことにも驚かされていた。5年ほど前だったろうか、意を決して知り合いのカフェ・ギャラリーを借りようと決め、叔母に作品展を開きたいと持ちかけたのだが、こう返された。「私ね、90歳近くになって、やっとじぶんのことだけ考えてればいい自由を得たと思ってるの。ありがたいけど、私の時間の邪魔はしないでね」。残された時間を思えば、もう誰にも気を使うことなく、ただひたすら画用紙と絵の具で遊ぶことに熱中したかったのだろう。黙って引き下がるしかなかった。

 もういいよね、私にやらせてね、好きにやるよと、がらんとした部屋で叔母に向かって話しかける。玄関からまっすぐ奥の部屋に向かう。まずは寝室だったこの部屋を空け、額装された作品を並べてみた。奥の納戸から、2階の部屋からあれこれ出てくる。その数40~50点。見たことのない作品も多くて、こんなに描いていたのかと驚かされた。小品ばかりでもない。ただならぬ熱量だ。いったいいつ、どこで描いていたんだろう。晩年、そうだったようにダイニングテーブルの上で? 水彩の小品ならまだしも、大きいアクリル画はたぶん難しい。叔父が元気だったころは、多くの女性がそうであるように制作を途中でやめてテーブルを拭き、食事を整えたのだろうか。そんなふうに中断されて、これだけのものを残せるだろうか。

 リビングに行って、外を見る。目の前には叔母がこの20年描き続けた桜の老木が、朽ち果てた姿で立っている。山桜だ。この年老いた桜は、いつもまわりの桜の花が終わり葉桜になったころ、おずおずと枝の先に花をつけ始め、5月に入るころに満開を迎えた。樹齢は200年?300年? いや、桜はそんなに生きないのだろうか。でもたぶん、この団地が整備されるはるか前、この場所が仙台七崎の一つに数えられていたくらい昔から立っていた木。「桜と私とどっちが先に逝くか」といっていた叔母の眼の前で、それもスケッチしている最中に、太く張り出した枝がめりめりと折れ、地響きを上げて崖下に落下した。それからほどなくして桜はつぎつぎに枝を失い枯れ果てて、幹の上半分がなくなった棒きれみたいな不格好な姿で突っ立っている。その姿を眺めながら、ふと、あれに赤い布を被せたらまるでオシラサマみたいだと思う。

 奥の部屋の作品を見ながら、まぁこれだけ違った絵をよく描いたもんだ、と感心する。知らない人が見たら同じ人が制作したとは思わないだろう。
 当初、染織に親しんでいた時期の作品は、柿渋を塗ったり織物を切ってコラージュにしたり触感的。しかも大胆なアブストラクト。スケッチ会に参加するようになると、黒っぽい輪郭線に淡い色を載せてやわらかな町並みや山並みをたくさん描いた。この団地の上にある仙台市野草園には週に何度も足を運んで、季節季節の山野草を愛情たっぷりにスケッチしている。そして樹木。特に大木に魅せられていたようで、欅の幹を何度も描いている。コンテ、鉛筆、水彩…素材もいろいろだ。桜の巨木は、いろんな姿で登場する。私が好きなのは、幹が鮮やかな緑色に塗られ、血管のような線や鱗のような文様が描かれた一枚。枝と枝の隙間は小さな葉っぱで埋め尽くされている。叔母にとっては生命力そのものを体現するモチーフだったのだ。朝、カーテンを開けては「おはよう、生きてるね。私もまだ生きてる」。そう話しかけていただろう。叔母は団地の坂を上って家に帰る小学生を見つけると、知らない子でも窓を開け「おかえり〜」と声をかける人だった。

 亡くなってすぐ、昨年9月の「水牛」にも書いたけれど、叔母は次々と作風を変え、ついに最後はミトコンドリアまで行ってしまった。ふわふわした得体のしれない生きもの。目がついていて自由に動き回るかわいい生命体。画用紙いっぱいに色とりどりのにょろにょろしたものを生み出す叔母は、実に楽しそうなのであった。

 こういう変化を私は心境や環境が要因だと勝手に思い込んでいた。大病が重なったり、連れ合いを亡くしたり、つらいことがあったから。でも、いまは、変わろうと思って変わっていったのだとわかる。叔母の本棚に並ぶのは、安野光雅に始まって、野見山暁治、熊谷守一、猪熊弦一郎、小倉遊亀、三岸節子、堀文子の画集や図録の数々。好きな美術家があらわれれば、エッセイを読み、展覧会に足を運び、画集を繰り返し眺め、気づきを原動力にじぶんも描く。その繰り返しのうちに、作風が変わったのだ。まねっこでいいでしょ。ただひたすら興味の向くまま、楽しい方へ。80歳過ぎてこんなふうにいられたら素敵だ。

 残したスケッチブックは、おそらく平積みにしたら1メートルは超える。野外にスケッチに出るときだけでなく、入院するときも旅に出るときも小さなスケッチブックを携えていたなんてまったく知らなかった。「入院の朝」と記して、暮らしている山と頂上に立つ3本のテレビ塔を描いている。病室の壁に掛けたシャツをクリーム色に塗って「所在なさに」と添え書きする。

 「スケッチブックの中にこんなのあった」と従兄弟の奥さんのヒロコさんが見せてくれたページを見て、2人で顔を見合わせた。「ありがとう、地球さん」「ありがとう地球様」。これが緑のサインペンで8行繰りかえし記されている。そういえば「私、寝る前、ベッドの中でみんなにありがとう、っていうんだよ」といってたっけ。これは呪文?おまじない? 叔母にとってはお経のようなものだったのかもしれない。このお経とミトコンドリアの絵を並べれば、じぶんが生命としてこの星に生まれたことにありがとう、なんだろう。何回つぶやいても、胸のうちのありがとうをいいつくせない。そんな感じ。

 「ありがとう、地球さん」は、谷川俊太郎の最後の詩と呼応する。昨年11月14日に亡くなった3日後に朝日新聞に掲載された詩は「感謝」という題だった。「どこも痛くもない/痒くもないのに感謝/いったい誰に?/神に?/世界に? 宇宙に?/分からないが/感謝の念だけは残る」。叔母の胸中にあったのも、静かな感謝の念だったろう。昨日の続きを今日も生きられて感謝。緑色のこの星に生まれてこられて感謝。明日死を迎えても感謝。谷川俊太郎は92歳、叔母は94歳で逝った。

 実際、叔母はよく「ありがとう」という人だった。体が動かなくなり全面的に介助を受けるようになっても、「ごめんね」とはいわず、「ありがとう」といった。まだ元気だったころ、遊びに行って帰るときは必ず玄関の外に出て、階段を下り車に乗り込む私を見送ってくれたものだ。あれも、「ありがとう」だったのだ。エンジンをかけ、ウィンカーを上げ、窓を開けて、後ろに向かって手を振った。バックミラーに映る叔母の姿が見えなくなるまで。

 というわけで、叔母の作品展の準備のために、まだ気配の残る家に通い続ける日が続いている。仙台のみなさん、ぜひ作品展にいらしてください。私はいつまでも後ろに向かって振る手は下ろせそうにない。

▶私の愛した野草園─髙橋都作品展 とき/3月20日(木・祝)〜4月4日(金)9:00~16:45(最終日は15:00まで) ところ/仙台市野草園・野草館 

本小屋から(14・最終回)

福島亮

 本小屋を閉めることになった。2年ほどここで本を読み、疲れたら散歩をし、暖かい日には木の実を植木鉢に蒔き、喉が渇いたら珈琲を淹れたりしていたのだが、離れたところに引っ越すこととなったのである。

 本を段ボールに詰める。本は重いからやや小ぶりの箱を70箱ほど業者に持ってきてもらい、1日に4箱ずつ詰める計画をたてた。でも最後まで背表紙が見えるようにしておきたい本はどうしてもあるし、箱詰めする気分になれない時もある。少しずつ、本棚に詰め込まれていた本を崩していく。すると不思議なのだが、どんどん記憶があやふやになり、なんだか頭がぼうっとし、しまいには視力まで落ちてきたような気がしてくる。どうやら小屋の生態系が崩れ、環境が悪くなっているようなのだ。

 環境が悪くなると、とたんに不機嫌になり、意地悪をしてくるのが本である。ある本が急に必要になる。きっとそうなるだろうと思って取り分けておいた本なのに、いくら探しても出てこない。仕方ないから諦めて、近所の図書館にある本ならばそこに行ってコピーをとり、図書館になく、「日本の古本屋」で廉価で売っているものは注文するのだが、郵便受けに投げ込まれた本を回収する頃には、そもそも当の本を参照する気持ちが冷めてしまっていたり、ひどい話ではあるのだが、受け取った包みを開けようと鋏を探していると、くだんの本がちゃっかり近くにあったりする。

 そんなふうに本にからかわれることが時たまならば微笑ましいが、一日に二度も三度もあると考えもので、それならばこちらにも用意がある、小田急線に飛び乗り、代々木上原で降りて、よく行く駅近くの古本屋に何食わぬ顔で入る、のではなくて、まずは店の前に並んでいる百円二百円の本を心ゆくまで物色するのである。反抗するならばすれば良い。それならばこちらも新顔を入れるまでである。

 風にさらされどこか丸みを帯びたその小さな野外本棚で、加藤楸邨の『ひぐらし硯』を見つけたのはそんな時だった。『ひぐらし硯』という、このどこか剽軽で可愛らしい題名の本を、私はどこかで見たか、聞いたか、読んだかしたことがあるような気がするのだが、でも、手に取ってみるとやはりお初にお目にかかる本だった。深い緑色のやわらかな布張りの装丁は安東次男によるもの。開けば硯の写真が並んでいる。硯といえば書道セットのなかの素朴で小さな硯しか知らなかったのだが、それとはまったく異なる重量感のある硯、というか石が並んでいる。おや、と思うのは最後の写真。白桃を模した水滴だ。

 加藤はこの本のなかで、少年の頃、川で石を拾い、机の上に並べ、それをじっと見ているのが好きだったという。机の上に置かれた石は、やがて兎になり、犬になり、ときには犀にもなった(「時間的漂泊」)。そんな石との睦まじい関係が本書を最初から最後まで貫いている。石の皮に包まれた真新しい「子石」。そのむっちりとした、どこか美味しそうな様子を描く俳人の筆は、どこまでものびやかで、いくらでも読んでいたくなる。

 もうじき離れる本小屋の近くにある寺の境内を歩きながら、私が拾ったのは子石ではなくて、ムクロジの実だった。乾いた果皮は薄いセルロイドを思わせ、丸っこいその実は金の鈴みたく見える。果皮を割ると、なかから出てくるのは微かな産毛に包まれた黒い種だ。この種で羽子板遊びの羽根の、あのつやつやした先端部分を作るのだという。

 ポケットの中に入れたその実を、暖かくなったら引越し先のベランダで蒔いてみようと思う。水を垂らした硯が、石から銀河に変わるように、この小さな種が水を吸って、多摩川の近くの風景をふっくらと芽生えさせてくれるかもしれないから。

吾輩は苦手である 8

増井淳

 吾輩は寒いのが苦手である。
 寒いところに少しいるだけで、手先足先が冷え切ってしまう。
 その状態が続くと、つぎにはお腹や頭が痛くなってきて、やがて悪寒がしてくる。
 まったく寒いのはいやだ。
 これでも吾輩は雪国育ちである。
 小さい頃には、屋根からおちてきた雪に身体ごと埋まってしまい、死にかけたこともある。その時は、たまたま父が近くにいて、雪に埋もれた吾輩を手で掘り起こしてくれたので、助かった。

 苦手なものを考えると、あまりにも多くて、いささかうんざりする。
 毎日のようになんらかの苦手なものに遭遇するのだ。
 得意なものがあれば、苦手なものも忘れられるかもしれないが、吾輩にはこれといって得意なものがない。
 毎日毎日、苦手なものに包囲されている。

 そうか、要するに
 吾輩は生きることが苦手
 なのだ。
 
 でも、よく目にしたり耳にしたりすることばには、人生に肯定的なものが多い。
 いわく「やればできる」「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢はかなう」などなど、楽天的なことばは数多くある。
 それにひきかえ、吾輩のように苦手なことばかり、というような言動はあまり見られないように思う。
 ブッダの「一切皆苦」くらいか。
 そう思っていたら、詩人の松下育男さんがこんなことを書いていた。
 「生きてゆくっていうのは、思い通りにならないことを、いかに辛抱して、我慢していられるかっていうことなんだと思うんです。
 程度の差はあれ、みんなそうなのだろうなと思うんです。
 すべてが思い通りに生きて来られた人なんて、たぶんどこにもいない。みんな、どうしてこうなってしまうんだろうと毎日思いながら、それでも生きてゆくしか仕方がない」(松下さんのnote、2024年12月7日)
 あるいは、カフカの次のようなことば。
 「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
  将来にむかってつまずくこと、これはできます。
  いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(フランツ・カフカ、頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫)
 松下さんやカフカの文章を読むと、なぐさめられる。というか、ここに仲間がいるなあとうれしくなる。

 生きるということは、次々と襲ってくる苦手なものごとを、かきわけかきわけすすむことだ。次にどんな苦手なものがくるかわからないし、自分自身も変わっていく。
 
 人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天(永田紅『日輪』砂子屋書房)
 
 という短歌がある。短歌のことはよくわからないのだが、苦手なことだらけの吾輩は、心の中でたびたびこの歌を口ずさむ。
 もうすぐ苦手な歯医者に行く日である。きっと痛いだろうなあ。行きたくないけど、吾輩の人生であるから逃げるわけにもいかないのである。

猫のバロンに

新井卓

 寒波の夜、猫を亡くした。
 リエージュで小さなシンポジウムがあり、空港で待つあいだ、川崎の両親がヴィデオ通話をつないでくれた。スマートフォンごしに話しかけたのが──ひどい風邪をこじらせ、こんなしわがれ声でわたしだとわかったろうか──かれとの最後になった。猫のバロンは春の嵐の夜、母猫に連れられてわが家にやって来、それから二十二年生きた。
 バロンはとにかく食べることに特別な執着を持っていた。ただ腹を空かせている、というよりもひどく飢えたことのある人が食事に対して抱く、燃えるような感情があり、かれが素揚げにした豆鯵や炙ったキビナゴの頭をいかにもうまそうに味わうのを見るたびに、わたしの中にも確かにそんな感情がある、と気づかされるのだった。だから、かれとわたしはきっと前世でひもじい思いをした兄弟だったのだろう、と勝手に納得することにした。
 恐いほどに青く澄み切った異邦の空を眺めながら、かれの、そしてわたしが出会うことを許され見送った三人の猫たちの顔を思い出そうとする。それらの顔は半分のうす目で、こちらを見ている。それほどまでにただ、見てくれる者がほかにあっただろうか。
 生きる、というアート。人ならざる生きものたちのアートに、ひとつところに留まることも知らないわたしが、この生で追いつくことはきっとないだろう。

眠りの蒼白い岸辺で
蒼白いクロッカスを摘んでる
それはもうひどい藪で
ホットスポットなんじゃない? なんてご近所ったら
(仕方のないさだって
そういう作品だから、ね)
探さなくちゃならない
でも、なぜ?
おまえは見えず
おまえの気配はなく
でもまだ見えないそこらにいて
にいさん
にい さん
どこ
泣いて困ってるかも
と思い
思いついてしまったからたまらない
こんなひどい藪で
どうしようというのか
かれに会って?
あのクランデロが尋ねる
本当はクランデロの気配だってないのだから
勝手に声を拝借する
さよならを言いたいんです
せめて──
なあに、かれにしたって
もうたくさんさ
あれほどに、
幾度となく、
さよならを。
遠いおまえ
遠いわが家
遠いあの春
なまぬるい嵐がどっ、と雨戸を叩く
どこにいるの
おまえ
今やあの薮も消え失せ
更地に四軒家がたつ
どこにいるの
おまえ
おまえの
おまえたちの藪
センダングサやらヌスビトハギに
地蜘蛛の巣をいっぱいに絡ませて
さあ、こうなると厄介だ
とろろ昆布みたく
とろとろなおまえの毛皮は、ね
にい さん
にいさん
どこにいるの
おさしみ
ちょうだい
もっと
ちょうだいよ
おひざにのしてよ
お顔を掻いて
ねむいよ
にい さん
どこ

スタバをボイコットしてイエメンコーヒーを飲もう

さとうまき

僕は、30年前にイエメンで仕事をしていたのだが、内戦が始まってしまいあっという間に追い出された。イエメンは、幸福のアラビアといわれてきただけあって、荒涼とした砂漠、灼熱の太陽、狡猾な石油商人、テロリスト、そんなイメージとは裏腹に美しさがある。ディズニー映画に表現されるエキゾチックなロマン?そんなものをはるかに超えて、ぶっ飛んで美しい。このかわいらしい町並みは何だ?レンガ造りの建物には小さな窓があり窓枠には白い漆喰が塗られ、ステンドグラスがはめ込められて、、それを文章で表現できたらなあと思うのだが、残念なことに僕は詩人ではないのだ。

イエメンといえば、コーヒーが発祥した場所。その昔オランダ人が門外不出のコーヒーの苗木を盗んでから世界中に広まった。オリジナルのコーヒー、モカ・マタリ。このコーヒーを飲んでみれば、イエメンの美しさそのものが味わえる。天日干しのためか果肉のフルーティな香りが残る。そして酸味とローストした苦みのバランス。それがコーヒーのアロマな甘みとしてまとめられたときにかおる「幸福」! 猫が、またたびをなめたときのあの感じなのだ。

それで、僕はイエメンのことを思い出したくなったら、モカ・マタリを飲む。それで僕は、コーヒー商人になってイエメンのコーヒーを売り歩いているのである。しかし、コーヒーが売れない。なぜならば、うちのコーヒーは、ガザへの寄付が含まれるので、スターバックスのコーヒーより高いのだ。そこで僕は考えた。「スターバックスは、悪いコーヒーだよ」とデマを流すことを。

「皆さん、スターバックスはユダヤ人が作った会社です。イスラエルにお金が流れています。彼らは、ガザの虐殺に加担しているんですよ!そんなコーヒー飲めますか?」
そうだ!そうだ!というわけで、スターバックスをボイコットしよう!パレスチナが解放されるまで。

「スターバックスのコーヒーがなぜ茶色いか? ガザの人たちの血が混ざっているからだ!」
そうだ!そうだ!スターバックスをボイコットしよう。

「そして、皆さんが飲むのが、サカベコ・コーヒー! イエメンのフェア・トレードコーヒーです」
そうだ!そうだ!サカベコ・コーヒーを飲もう!

というわけで、スターバックスの売り上げは落ちていった。
ちょっとまって! スターバックスは、物言いをつける。
https://www.starbucks.com.kw/en/starbucks-middle-east

「スターバックスは、イスラエル政府にお金を渡したことは一度もございません。私ども、イスラエルには一店も店舗はございません。1999年にクウェートの富豪アルシャヤグループとフランチャイズを展開し、バーレーン、エジプト、ヨルダン、クウェート、レバノン、モロッコ、オマーン、カタール、サウジアラビア、トルコ、アラブ首長国連邦といった国でアラブの皆さま、イスラム教徒の皆さまに愛され続けてきたんですよ。」

なるほど。僕は友人に相談した。
「いやいや、スタ-バックスの労働組合が、パレスチナを支持してる!とSNSに投稿したら、それを会社側がつぶしにかかったんですよ。だからやっぱりとんでもない会社だ!」
そうだよな!そうだよな!
「サカベコ・コーヒーは、パレスチナを応援します。そして売り上げはガザに寄付します」
そうだ!そうだ!スターバックスをボイコットしよう。

でスターバックスの人は「いや、あの投稿ですね。パレスチナを支持するという文言はともかく、投稿された写真が、ハマスの戦闘員が、ガザの壁を壊して、これからイスラエルの市民を虐殺に行くところの写真だったんですよ。これを見たユダヤ人だけでなく、一般の市民が、『スターバックスは、ハマスが行った子どもの虐殺や女性のレイプ(1200人が殺された)を支持するのか!もうスターバックスにはいきまへんわ!』と電話が殺到しましてね。もう本当にわしら、おいしいコーヒー出しているだけなのに、政治的な話はしたくないんですわ。」大体こんな感じ。

スターバックスは売り上げをどんどん落としていって、中東では2000人を解雇!マレーシアでは50店舗が閉店!そして、スターバックスは売上を落としながらもガザ支援に300万ドル寄付したらしい! ボイコット運動大成功!

あら、サカベコ・コーヒーは今まで20万円しか寄付できてない。で、解雇されたアラブ人はどうなるの?なんかかわいそうだなあ。僕は、こりゃ、スタバをボイコットする意味はないなあと思い始めたのである。

先日愛媛で、イエメンコーヒーを飲んでパレスチナを応援しようというイベントが行われた。マレーシアとインドネシアの留学生も来てくれて、彼女たちは、「私の国では、みんなBDS(ボイコット!投資しない、経済制裁)運動を頑張っています。私、日本でスターバックスやマクドナルド、ボイコットしてますが、周りの日本人はみんな平気でそういうお店いきます。そういう人たちは、虐殺に加担しているのかと思うと悲しくなるし、いったい私たちに何ができるのですか?」と質問され、僕は、先日調べたボイコット運動に関して得意げに話し出した。
https://note.com/maki_sakabeko/n/nbac29f1235ef
「実はですね、スターバックスも、マクドナルドも、それぞれの国の別会社でアラブの国やイスラムの国では、むしろガザの人道支援へ寄付しているんですよ。よく調べてボイコットするかしないか決めましょう。」とアドバイス。「スターバックスは、ユダヤ人がCEOだということで、イスラエルの虐殺に加担しているというような思い込みはレイシズムにもつながるよね! スタバやマックをボイコットしたところで、戦争が終わりましたか?」

ただ、今回のボイコットでスタバやマックが、ガザに寄付しようという気持ちはあっても寄付するとなるとハマス支持といわれる可能性があり、躊躇せざるを得ない状況だったのを、後ろ押ししたと考えることもできる。
「スタバのコーヒー飲んだからと言って虐殺を支持したことにならない?」
そうです!飲んでいいんですよ!実際BDSマレーシアのHPを見てみましょう、スタバはボイコットの対象になっていない。

みんな、モヤモヤしたものが吹っ切れたようで帰って行った。
あら、サカベコ・コーヒーは?
https://sakabeko.base.shop/

地下鉄日比谷線

植松眞人

 秋葉原を出て、上野を過ぎたあたりから、急に湿度が上がる。まるで、それまでよりも深いところを走っているかのように、気圧も上がって、電車の揺れも激しくなったかのように感じてしまう。
 八両目の連結部分近く、優先座席の周辺に居合わせた乗客たちは、私以外、すべて上野駅で降りて、乗ってきたのは旅行客らしい中国語を話す四人家族と、カップルらしい若い男女、そして、二人の年輩の男性だった。私は連結部分に一番近い優先座席に座っていて、隣にカップルが座った。向かい側の三人掛けの座席には四人家族の子どもたちだけが座り、空いた一席には母親が持っていた少し大きめのバッグが置かれた。年配の男性二人はドアの脇に別れて立ち、スマホの画面を見ている。
 上野を過ぎ、地下鉄は入谷に着く頃にはさらに湿度を増し、車内は不快感に包まれた。その証拠に、窓の外はただ暗いだけではなく、黒いもので覆われていて、レールの繋ぎ目を伝える振動音さえくぐもって聞こえるほどになった。
 中国語を話す子どもはまだ二人とも学校には通っていないくらいの年齢だろうか。上が女の子で、下が男の子。まず、男の子がむずがりだした。女の子は、自分の不快さを我慢しながら、男の子をなだめている。母親は女の子を応援して、一緒になって男の子に声をかけている。父親は、黒いもので覆われたような窓の外を凝視したまま動かない。
 もし、入谷駅で停車したなら、黒いものが車内に入ってくるだろう。そうなったら、きっとみんな生きてはいられない。私はそんな気がして、窓の外よりも、目の前の四人家族に見入ってしまう。
 アナウンスが入谷駅に停車したことを告げる。ドアが開く。光が入り込む。窓の外を覆っていた黒いものは瞬時に無くなる。
 目の前の親子連れは電車を降りる。私の隣のカップルも立ち上がり、ドアへ向かう。誰も乗ってこない。優先座席には私だけが座っている。ドアの両脇に別れて立っていた年配の男性は、ずっとスマホを見ている。私は手元を見ている。手元を見たまま、ドアの脇に立つ男性二人と自分のことだけははっきりと認識している。
 地下鉄が入谷を出て、三ノ輪を過ぎるまで、私は顔を上げないようにじっとしている。そして、自分が見つめているスマホの画面の向こうには、さっきまで窓の外を覆っていた黒いものがある。きっと、ドアの脇に立っている二人の男性のスマホの画面にも同じものが見えているのだと思う。(了)

中心のない触れ

高橋悠治

全体から部分に降りていくのでは、細かい隙間を埋めていくにつれて、動ける隙間が減っていく。20世紀後半の音楽は、そんな感じの息苦しさがあった。それとは逆に、小さな動きから始めて、それがどこへ行くにか見る、危ないと思われる時だけ手を出すようにして、ある範囲のなかで、同じ動きを避けながら、どこまで行けるか。

音の同じ動き方が、テーマとかモティーフとか呼ばれて、それを少しずつ変えながら、音を組み立てていくのが、構成であり、作曲の技術だったが、そうでないやり方は、なかなか思いつかないし、よくはできない。

それでも、違う動きを連ねることからはじめたらどうなるか。そんなことを、ぼんやり思いながら、試しに書いてみる。最初は1本の線、それからそこに、違う線をあしらってみる。

違う線には違った時間がある。一つの時間のなかで、それぞれの線の屈曲を決める代わりに、各々に線を決めてから、それらを合わせてみるとどうなるか。一本の線に違う線をあしらってから、初めの線なしで、第二の線に違う線を足してみる。こうして、ある時間の枠に、また別な動きが入ってくる。こんな変奏の成り行きを考える。

連歌から思いついた音の遊び。動きのそれぞれが次への扉や窓になる(<寺田寅彦:連句雑俎)。だが、始めも終わりもない無限変奏というよりは、循環する流れのなかに、偶発的な光の点が見え隠れして、それらが全体を変えてゆく、予想されない変化というイメージ。

安定した低音の上に華やかな変化を見せても、装飾は表面に止まって、全体は動かない。雲や水のように軽く浮かび流れる線。音楽で使われてきた形や響きの技法には頼れない、と思っているが、そういう技術から離れて、自由に動き回る線を、作るというより、できていくのを見守るだけ、というように、意識に先立って手が動いていくような、それでいて慣れた働きではない、知らない動きの水準を、どうやって保っていられるだろう。