吹き寄せ控え三

高橋悠治

記号や指示がすくない楽譜を書こうとして辿りついたのは 長い音を2分音符で 短い音を8分音符で 速い音が必要なら16分音符を使い 音を切るときはコンマを書く 音や休みの長さは自由 いままでの記号の使いかたを変えるほうが 新しい記号を発明するより読みやすい

説明はいらない 演奏家はことばによる指示はどうせ読まない 書いてあっても 現場でおなじことを質問される かえって説明がないほうが あれこれのイメージが浮かぶかもしれない

強弱やテンポは書かない 数えるのも計ることもいらない 20世紀後半の音楽には高低・長短・強弱の対立がおおかったが 劇的な身振りはどれも似たものになってしまう 複雑にしても単純にしても もう聞くまえに飽きている

メートル法やデカルト空間は区切り計り分類し分析する 最小の原子に達するとそれを形成要素とし 向きを変えて 積み上げはじめる 構造がつくられ 構成がある 管理する手があり 表現する意志がある 根を張った木はうごけない 枝がそよぐだけ

二つの薄膜のあいだの距離 デュシャンがinframince 極薄と言ったもの 支えがなく吊られた曲線がただよう indefinite reunion は あてにならない再会と訳す すがりつく持続低音を振りきって 対位法もヘテロフォニーも息苦しい 重ね書きと見せ消ち 一行になった二行と 消し残った上に別なかたち

音はたちまちうつろい褪せるから あちこちをさがして 次の音を見つける 考えると何も見つからない 規則も確率ランダム関数も それぞれの顔がある 興味や不安をそそるのは 知らないもの ためしてみたいうごき

楽譜の一段の空間に音の線を書きこむ なかほどからはじめて 右端まで行ったら どこか途中へもどって 空いているところに書く 平安古筆回遊式の消息文 線の始まりと終わりは雁行させ それぞれの音の入りも和音にならないように崩す 17世紀フランスのstyle brisé つま弾き 崩し それぞれの地層が見える崖のような 瞬間の和音の残像が音階や旋法に回収されないように 対斜をつくり 軌道を踏み外す 次の音へ蟻継ぎ ホケット 音のつながりを予想外のところで断ち切って 休みを入れ そのあとおなじ音で継ぐ 消えかかる線が どこからともなく帰ってくる 古浄瑠璃に例がある

音をつなげるには一本指をすべらせるように 距離が大きくなるにつれて 隙間が大きくなり 呼吸する自然のリズムが生まれる うねる長い線は感情を押しつけてくる バロックの折れ曲がる鋭い線と余白の組み合わせ

線の振れ幅とにじみに濃い色を感じ 細い線の気ままなうごきが 振りとばされて遠く消えていく 散らし書きの中心には余白がある 大きな余白があれば 音は散らばり ちいさな余白がいくつもできる

ながめは目を遠くに向けて 何も見ず何も思わない状態 きくとはすこしちがう 見えないものを見る 外と内がわかれていない 見ていないと見えるもの きいていないときこえるもの

走り書き 手をあそばせる ふるまいを裏切る 書きさし 本をとりあげ 目にとまることば ちがうイメージが生まれたら 本から離れる 本は本から離れるきっかけ 消えないで残る「かたち」にならない痕跡

2016年8月1日(月)

水牛だより

梅雨が明けて東京にも夏がきました。ことしは、風がとおればエアコンなしで耐えられる程度の、久しぶりに夏らしい暑さの夏です。夕立というには早い午後でしたから、スコールと呼ぶほうがふさわしい雷をともなう激しい雨がさきほど降って、空気が洗われたような午後です。

「水牛のように」を2016年8月号に更新しました。
ベストセラーそのものに罪はないにしても、世の中のたくさんの人が読んだり聞いたりするものなら、別に私は読まなくて聞かなくてももいいように思えます。時間は限られているのですから、それならば少数の人に読まれ聞かれてているものを選びたい。
この水牛もそうですが、自分が編集をしたり公開しているものもは、あまり多数の人に届かなくてもいいとどこかで考えています。必要な人がいれば、きっと探しだして読んでくれるはず。浴びるように降ってくる情報は受けとる側にとってはあまり関係のないものばかりで、自分がほんとうに求めているものはほとんどないと実感します。編集の仕事の場合には、情報を出す側ですから、具体的な数字を早急に出すことをまず求められるのですが、努力はするにしてもそう単純にはいきません。これも多くの編集者の実感だと思います。小さなものが自由にたくさん存在している世界がいいなと思っているうちに、多数決という民主主義の決めごとにもおおきな疑問を感じるようになってしまったこのごろです。さて、どうするか。

それではまた!(八巻美恵)

失恋のあがき方

西荻なな

もういい大人だというのに、失恋をした。大人だから失恋していけないというわけではないのだけれど、その幕切れの曖昧さとともに、気持ちの整理がつかず、引きずり方がみっともない感じになってしまっているのだ。自分でも困り果てるほどに。

どれだけ相手を好きだったのかは、正直、心もとない。どことなく幻想だったような気もしないではない。でも、同時期にやってきた仕事面での大きな変化もあいまって、心が揺れに揺れている。仕事には身が入らず、彼と交わしたやり取りの読み解きに、ひとり余念がない。テクスト解析したところで、答えなど出るはずがないというのに。

こんなふうに落ち着かない心を持てあましたとき、今まで取ってきた策といえば、旅に出て長距離を歩き倒し、感傷にふける。あるいは、ひたすらに本を読んだり音楽を聴く、文章を書き殴る、という、ごくごくシンプルなものだった。お酒を飲むわけでもなく、手当たり次第に人に連絡するわけでもない。歩いた分だけ、あるいは読んだり聴いたりした分だけ、それが身になって、前に進めればいいと思って一人作業に徹した。自分の血肉になれば、次もまた開けるだろうと。

だけど、今回ばかりは一人でどうにもできず、人に会っては、恥ずかしさも厭わず、恋の始まりから終わりまで、全ストーリーを開陳し続けている。話せば話しただけ、痛みが薄らいでいくような錯覚にとらわれているんだろう。途切れない気持ちに楔を打ってほしくて、いろんな人に電話をかけたりメールをしたり、お酒を飲みにいったりと忙しい。散財している。でも、友人知人たちからの温かくも厳しいアドバイスが、本当にありがたい。

Lineでのやりとりについては、相手の文面の分量の5分の1しか返してはならないとか、3か月は何も連絡をしてはならないとか、とてもとても具体的な助言もある。恋愛マスターのアドバイスには蒙が開かれる思いだ。

相手のSNSでの近況をチェックし続けてしまうと告白すれば、「そういうのはネットストーカーだ、大切な時間を無駄にしないで」と叱られ、そうだもうやめようと固く誓う一方で、その翌日に「そんなのパブリックなものだから罪悪感は必要なし。見ていいんだよ」というもう一人の意見を聞いて、固い決意もむなしく再びはずみがついてしまったりと、ゆらゆらしている。

ふと我に返れば、こんな情けなさマックスの状況にもかかわらず、アドバイスの中途でみんなが聞かせてくれるそれぞれの恋愛譚には時に心躍り、慰められもする。私の場合はね…という一人称語りをたくさん聞けて、それぞれの知らなかった一面を知ることにもなった2ヵ月あまりだ。

昨日お酒をともにした20歳あまり年上の女性は、こんな話をしてくれた。その方は今の旦那さんと付き合い始めたころ、相手からの猛アピールで、職場に毎日16時に電話がかかってきたという。毎日メールとか、毎日Lineとかでなくて、職場に毎日電話の時代だ。それですっかりほだされてしまって、二人が付き合うことになった途端、ふと潮を引くように彼からの連絡が途絶えたのだとか。これはいったいどういうことなの? と困惑して、大混乱に陥った彼女は、相手からの連絡を待って何ものどを通らない日々を過ごし、もう待つのは無理、というタイミングでいよいよ彼に電話をかけたのだそうだ。

すると、「もう二人の関係は大丈夫だと思って安心してしまった」と、気の抜けるような返事が返ってきたとか。認識違いでひとり思い悩んでいただけ、ということもある。「だから連絡がこないって、そういうことかもしれないよ?」とクラフトビールを片手に彼女は明るく笑いかけてくれて、「いえ、残念ながら違うんです……」と私の場合は否定することしかできなかったけれども、なんだかちょっと救われる思いだった。

140 だろう、ね

藤井貞和

だろう、だろうって言う。
きょうの日本語は、
あした、何になるのだろう。
あ、知ることの怖さ。

だらん、とする日本語を、
たいせつにしてきた。
身を、心を、(魂を、)
じんたいの奥に垂らそう、だらん。

いきのを を、
ネリー・ナウマンは垂らす。
どぐうの中線に、

じんたいの井戸から、
深いどろんこを汲む。
あ、知ることの愉しさ。

(ネリー・ナウマンは人類学、考古学、日本学……者。土偶のまんなかに胸から臍まで垂れるラインを「いきのを」と彼女は名づけた。「を」の一つの意味は〈紐(緒)〉で、それに「を」が懸けられているのだろうと思うけれども、その「を」が分からない。「をのこ」とか「をみな」とか言うときの「を」だろう。「を」には〈小さい〉という意味もあった。〈井戸尻考古館にて〉)

梅雨の晴れ間

大野晋

今年の夏も首都圏は水不足らしいとテレビが言う。どうしても、雨が降ると気持ちがどんよりするけれど、雨が降らないと困ることも多い。最近、気づいたのは、この時期、たくさんのアジサイが見られる場所が増えたということ。しかも、少し前は一般的な赤や青のアジサイが多かったのだけれど、最近はさまざまな種類のアジサイが見られることが多くなった。

かく言うウチにも、渦アジサイという古くからの品種が今年は十数個の花をつけた。うちのは青紫の花をつけている。梅雨の長い雨の中をアジサイの花を見ながら過ごすというのは、春にサクラを愛でる日本人の鬱陶しい季節なりの楽しみ方なのかもしれない。

そう言えば、鎌倉にあるアジサイの参道で有名だったある寺は、今、アジサイがなくなったらしい。参道の改修でアジサイの植栽を動かしたくなったため、今までのアジサイは南三陸のお寺に譲ったとのことだった。

鎌倉のアジサイも東北で人々の心を潤すなら、それはなんともうれしいことだ。

仙台ネイティブのつぶやき(15)森の植物園

西大立目祥子

梅雨の合間をぬって、久しぶりに近くの仙台市野草園に上ってみた。野草園は、大年寺山という標高100メートルほどの丘陵地にある。東京など南方面から新幹線で帰路に着き仙台到着というとき、進行方向に向かって左になだらかな姿を見せるのがこの山だ。山にはその名が示すように寺があり、伊達家の4代以降の藩主も眠っている。

園に入ると、まるで緑濃い夏山に入り込んだようだった。この日は30度近い気温だというのに、高い木が強い陽射しをさえぎり、生い茂る草が前日までの雨を抱き込んで、空気は湿り気を帯びひんやりしている。高いところで鳥がさえずる。もちろん園をめぐる道は整えられているけれど、細い道は両側から伸びる草をかきわけるようにして進んだ。

「ハギの丘」「どんぐり山」と名づけられたエリアを歩き、目にしみるような青いエゾアジサイや白く浮き立つヤマアジサイを眺めた。ところどころに小さな池がある。とうに花の終わったあやめ池には、ザリガニなのか何やらうごめく生きものの気配。沢の近くに設けられた水琴窟の前でかすかに響く鐘のような音を聞き、斜面を上がって高山植物の植えこまれたエリアをめぐった。

子どものころは、家に近いということもあってよく遊びにきた。春は池でオタマジャクシをとり、秋は萩のトンネルをくぐる。ドングリを拾ったり、うねりのある芝生の上を走り回るのもおもしろかった。

あのころは園の拡張期で、こっちにロックガーデンができた、湿っぽい沢水が流れるところに水琴窟という不思議なものができた、と園の地図をじぶんの頭の中で広げていった。その地図はすっかり雲散霧消して、迷いながら山道をあっちこっちふらふら。大丈夫、クマと遭遇することはないんだからとじぶんにいい聞かせていると、おっと!細い道で鉢合わせしたのは、猫だ。

園を取り囲む網のフェンス越しに、住宅街の屋根が見える。大年寺山の上には3基のテレビ塔がそびえ立つし、急峻な斜面には団地が造成されている。20年ほど前にはマンションも建設された。なのに、ここだけは深い森。よくもまあ、ここにこうした植物園をつくり、守り続けてくれたものだという感慨が湧いてくる。

山の地形をそのままに、近郊の草木を移植して野草だけを集めた植物園が開園したのは昭和29年(1954)のことだった。そこには、戦中戦後の仙台近郊の山々の荒廃に危機感を抱いたある学者の強い思いがあった。化学者でのちに仙台名誉市民にもなった加藤多喜雄さんだ。仙台では加藤4兄弟として知られた学者一家のご長男で、次男の愛雄さん、三男の陸奥雄さん、四男の磐雄さんともに理学者でありながら、仙台の戦後のまちづくりにも注力された。加藤多喜雄さんのこんな文が残っている。

「戦後、仙台の野山の荒廃はあまりにもひどい。近郊の山々の立ち木は惜しげもなく次々と切られ、開墾されて畑地となり、あるいは宅地と化し、昔日の面影はどこにもない。戦前に愛でた野山の草花はブルドーザーに掘り起こされ、あるいは踏みにじられ、わずかに生き延びた野草は、水辺を求めて畑地や宅地の片隅に呻吟している。これら貴重な山野草をいまにして保護の手を差し伸べないと絶滅するおそれがある。仙台の自然を守るために市は応分の力を貸して欲しい。」(『野草園春秋』河北新報社)

加藤4兄弟は博物学者だった父親に連れられ、子ども時代から仙台近郊の山々を植物採集に歩いたと聞く。おそらく、人が手を入れながら維持する二次林の健全な姿と、モミとイヌブナが生い茂る仙台地方の極相林の姿、そしてそこに育まれてきたかわいらしい山野草の数々を、しっかりと眺めからだに刻みこんでいたのだろう。加藤さんは当時の市長に直談判し、地すべり地帯でもあったこの山への野草植物園の設置にこぎつけた。

賛同して協力を惜しまなかったのは、みんな明治生まれの人々だ。彼らは、仙台の街を取り囲む丘陵地の豊かな森の姿をじぶんの中に基準として持ち、戦時中の森の伐採や戦後の宅地開発をそれに照らしあわせながら、これはまずいと眺めていたに違いない。
 仙台市内、また宮城県内のあちこちから山野草が採集され、ハゲ山にモミをはじめとする樹木が植えこまれ、それには宮城県の農業高校の生徒たちも一役買った。

60年が経ったいま、9万5千平方メートルの園には、約1000種が根づいている。植えられたとき高さが2メートルにも満たなかったモミは、天を突くような高さに育った。ゆっくり歩くと、希少種の山野草を目にするだけでなく、私たちが雑草として片づけている植物の名前も教えられる。当時、県内の山を踏み分けて一種でも多くと植物採集に歩いた人たちの熱意を思わずにいられない。

それにしても、自然園としての強い性格を持つ植物園を維持管理していくのは難しいと痛感させられた。園は、私が子どものころの印象とはだいぶ違っている。それは樹木が高さ、樹勢ともに増し、植物が群落に育っているからだろう。森の遷移が進み深い森になれば、その下に育つ草が影響を受ける。そこが、バラやチューリップのような栽培種だけを植え、人が100パーセント管理化におく植物園とは決定的に違う。自然の森は動き続け、とどまることはないのだ。

高山植物区で、麦わらぼうしをかぶり一心に手入れをする女の人がいた。きびしい環境で育つというコマクサが数株、ピンク色の花を咲かせている。たずねると、「花を咲かせる株もあるし、あたりにはもう種が散らばっているから、それを傷めないようにしながらほかの草を抜くんです。そういうところがいっぱいあって追いついていなくて」という。どこまで手を加えるのか、手を出したり引っ込めたり、園の方たちは悩みながら仕事ではないのだろうか。自然にどう向き合うか。野草園は、私たちにそのかかわりのあり方を問いかけてもいる。

流域論

管啓次郎

川の中を川が流れている
ゆるやかに曲がりゆるやかに流れ下る
ウイスキー色をした大きな川のまんなかに
緑と乳白色の中間のような新鮮な冷たい川が
大きな川を遡上するように激しく流れてゆく
流れは強烈な力を感じさせて
流れと流れがせめぎあう境界面に
いくつもの渦が生じている
一方には時計回り
反対側では反時計回り
記憶をわざと混乱させるような渦たちは
二つの背反する時を見せようとでもいうのだろうか
でも不思議だ、ここには季節がない
緯度もなく気候もなく夜もなく昼もない
まるで草原を思わせる広い河原にぼくは立ち
ゆたかな焦茶色をしたしずかな水にむかって
枯れ枝を何本か投げてみる
最初は小さな枝だ、指ほどの小枝
それから竹の物差し程度の長さのもの
大人の腕ほどの太さのもの
野球のバットのようなもの
ついには両手で抱える大きな枝だ
投げるたびに水面でしぶきが撥ねて
それに興奮した魚たちも飛び跳ねる
飛び跳ねた魚たちが水中に帰るたび
生命の同心円がいくつも干渉しながら広がる
それからむかし弟に聞いた話を
ぼんやりと思い出した
それは誰かの短編小説で
タイトルは「川の第三の土手」
筋はまるで覚えていないけれど
たしかブラジルのどこかの地方の川岸に住む少年の
父親があるとき小舟で川に出てゆき
そのまま岸辺に戻ることを拒否し
こちらの岸でも向こう岸でもなく
ぐるぐると川をまわって生きているという話だったのではないか
第三の土手を求めて
あるいは父親のその姿を見て少年のほうが
「父さんが求めているのは第三の土手だ」と思ったのか
それともまったくちがう話だったのか
弟は「ぼくはぼくの第三の土手を探しに行く」といって
ブラジルに行き
アマゾン河をマナウスまで溯っていった
それからどうしたのか知らない
もう三十年も会っていない
あの弟は誰だったのか
最後にもらった絵はがきはマンゴーの樹の写真で
「こんな樹の下に寝て熟した実が
落ちてくるのを待ってます」
と暢気なことが書かれていた
ぼくには妹もいて
活発な子だった
子供のころぼくらが住んでいたのは
水郷と呼ばれる土地で
巨大な三本の川が並行して流れ
デルタとデルタが重なり合って
人々は氾濫原に住んだ
住むために村の周囲を土で固めて
洪水に備えるとともに
どの家も小舟をもって
必要に応じてそれを使った
そこは水の王国、泥色の水の中に
鯉や鮒や鰻やすっぽんが住み
それらが獲れればぼくらはそれを食べた
妹はまだ小学生なのに祖父に教わって
うまく櫓を漕げるようになり
釣りの仕掛けも上手だった
妹はその後ルイジアナに住むことになり
ミシシッピ水系で釣った
なまずのフライをよく食べているといっていた
でも彼女にもずいぶん会っていない
私たちの生涯はすれちがいの連続で
それだけに子供時代が大切に思えてくる
さびしいけれど輝かしい時だった
金魚や亀を大切に育てていたころだ
昔の話だが
(Let bygones be bygones…)
それから平野の成立について考えることがあった
思えば平野にしか住んだことがない
都市にしか住んだことがない
港のある町にしか住んだことがない
人間だらけの土地にしか住んだことがない
それでどれだけのものを失ってきただろう
何が自分の人生に欠けているのだろう
すべての平野は川の造形物であり
平野の多くの部分が湿原であり
その湿原を水田に転換してきたのが
日本列島の歴史だったのだ
恐ろしくなるほどの米の単一耕作
稲以外の草をすべて排除した光景を
美しいと思う感受性が
さくらが一斉に咲き一斉に散ることも
美しいと思うのか
「そういうことだろうね」と友人がいった
「サクラというのはサの神の座のこと
ほら、磐座というときの座とおなじさ
そしてサというのは稲の神のことで
それに仕える少女たちをサオトメと呼ぶ
稲の苗がサナエで
それを植える月がサツキだよ」
ああ、そんな風に考えたことはなかった
そんなことも知らずに米を食ったり
桜をうとましく思ったりしながら
半世紀以上も生きてきたわけだ
われながら情けない話だな
それでも稲は稲で不思議な旅をしてきた
熱帯植物がしだいに北にむかい
河口近くの平野から川沿いに上流にむかい
列島のすみずみまで
Oryzaがゆきわたった
それで生きてきた
それは貨幣の代わりでもあり
それが支配/非支配を決めた
虐げられた人々を苦しめた
この穀物にみちびかれながら
人々は川をさかのぼり
新たな土地をひらき
それだけ山が飼いならされ
それだけすべてがおとなしくなった
恐いのは海流がもたらす
冷たい夏の風
あるいは思いがけず生じる日照り、渇水
それで実のない穂がつけば
人が死に、売られ、土地を追われることもあった
それはいろいろ無理していたからにちがいない
人間が人間に無理を強いていたにちがいない
土地にも、他の植物や獣たちにも
無理ばかりさせていたにちがいない
人口をむりやり増やしたり減らしたり
そんなことをしながら生きてゆくしかないのか
もう気持ちを切り替えようと
別の国に来てみた
制服姿の中学生が molecular perception
とはどういう意味かと訊ねてきた
個々の分子が環境を読み取っているということだろうか
わからないので曖昧に笑って首を振った
ここは絵はがきの宛名面の四分の三が隠れる
くらい大きな切手を貼らなくてはならない国で
絵はがきの写真は顔半分まで
水に潜った水牛だ
仕事のあいだに暑さを避けて体を冷やしているのか
みずからを洗礼しているのか
絵はがきとまったくおなじ姿勢で
別の水牛がそこにいる
働いてくれてありがとう
でもきみも働かされるのはいやだろうね
しばらく休んでいるといい
その飼い主から丸木舟を借りることができたので
これから上流をめざしてみようと思う
この大河のまんなかにも
あの新鮮な冷たい川がある
緑と乳白色をして
かなりの勢いで流れている
上流にむかって、谷間にむかって
山地にむかって、始まりにむかって
うまく操るだけで漕がなくても丸木舟は進む
一世紀を十世紀をさかのぼってみたい
一万年十万年をさかのぼってみたい
土地の削れと堆積を同時に見たい
ぼくが行かなければ誰も行かない
誰にも見えないこの川の第三の岸辺への途上で

ガムランとゴーヤ

璃葉

ある流れで、バリ舞踊をすこしだけ習う機会があった。このダンスは、思った以上にかなりハードで、ガムランをうしろに一見緩やかに、気楽に踊っているようにみえるが、体力をとても消耗する。

まず、基本の姿勢(アガム)をおしえてもらう。アガムは腕を胸あたりの位置にあげておかなければならない。目と胸の近くに手首を近づけ、手のひらを広げる。重心は傾けながらも地面へ体重をかけていく。この立ち姿勢を維持するのが難しい。先生によると、腰やお尻の位置を調整しているうちに、ストンと楽になる場所があるらしいのだけれど、そう簡単には見つからない。楽なところを探しているうちに、二の腕と太ももが痺れてくる。とにかく疲れる。

踊りは「静」のかたちがいちばん難しいのかもしれない。足がつりそうになりながらも、なんとかすこしだけアガムに慣れてきたとき、やっとガムランの音が耳に入ってくるようになる。ボーンと響くゴングや太鼓の音は怪しさよりも爽やかな風が抜けていく感覚で、何回も繰り返される音に身体はすぐに馴染む。音に合わせて目玉や首を動かすのがおもしろい。ひとつひとつの動きに意味があり、それは不思議で、奇妙で、とても神聖だ。踊りのおもしろさは、普段気にも留めない指先や手首・足首の関節に意識をもっていくことにあるとおもう。血管の巡っているところを確かめていくように、探るように、音にあわせて力を一瞬いれたり、抜いたりすることは、どんな踊りにも共通する。

そういえば昔、わたしの兄がガムランのCDを聴き漁っている時期があった。夜な夜なとなりの部屋から聞こえてくるガムランの音階は、小学生のわたしにはすこし不気味な記憶として残っている。兄は、バリのガムランよりもジャワのガムランを好んで聴いていて、ゆったりとした静かな音をなぜか植物たちにも聴かせていた。どうやら、それを聴かせると、彼が育てている野菜などの植物はどんどんのびて元気になるらしかった。

そのようなことを興奮気味に話す兄を思い出したので、わたしも自宅で育てはじめたゴーヤにガムランを聴かせてみようと思い立った。ただでさえぐんぐんのびているゴーヤがガムランを聴いたら、どうなってしまうのだろう?梅雨のしっとりした天気のなか窓を開け、プランターに向けてガムランのCDを流す。風のなかにやわらかく溶けていく。心地よい。

夕涼みをしながらいつの間にか眠ってしまい、気がつけば夜になっていた。次の日の朝見てみると、くるんとうずを巻いたツルのとなりに、黄色い花が咲いている。

ゴーヤサワーを飲める日は近い。

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グロッソラリー ―ない ので ある―(21)

明智尚希

 「1月1日:『やっぱり怒られるのって嫌だろ。自分がいろいろ怒られてきたから、そういう気持ちよくわかるんだよな。怒らないっていうか怒れない。それに怒ったほうも怒られたほうも、そのあとの空気、すごく気まずい感じになるだろ。あれも苦手なんだよな。わかるだろ。だから俺はいつも安定した気持ちでいたいと思ってるんだよ』」。

ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!

 白いブリーフに両足を通しハニカマレタ顔で、サイクロイドヴォールト・グランドツアーに徒歩で出かける。テルケル派とすれ違っても無視。犬儒派には平手打ち。やがて最恵国待遇を受けている国へ入る。だが西へ旅することだけは避ける。マイケルまたはミカエルのラッパが未熟と聞く。ひとまずベンサムとミルには同調しておくとしよう。

川 ̄_ゝ ̄)ノ ハロー♪

 「漫画脳」「ゲーム脳」による頭の幼稚化が指摘されている。この国をもう一度本気で建て直すなら、肯定的に受け止めるべきだ。はじまりは全てゼロ、つまりプリミティブな状態にある。維新から一等国になり、12歳の少年が敗戦後に奮闘し、蓄積したものが瓦解した。一周したのだ。明日があるさ。漫画ともゲームとも縁遠い自分が言う。

ファイトーー!( ゚ロ゚)乂(゚ロ゚ )イッパーーツ!!

 全世界があまりに下らないから、ぶっとんでしまった。人類は、非宗教的な万物の創造主が仕掛けた、人生における全ての罠――愛、家庭、友情、結婚、宗教、教育、健康、政治、経済、芸術、文化などの落とし穴から抜け出せなくなってしまった。メシア待望論が出るのも道理である。だがメシアその人もまた、人類であることに違いはあるまい。

(–、)ヾ(^^ )なくんじゃないよ

 【備忘録】:備忘録を書くこと。

(`L_` ) ククク

 人が生まれると関係者はこぞって喜び、人が死ぬと関係者はこぞって悲しむ。どちらも不自然な反応だ。無から有になる。これほど気持ちが悪くておぞましい現象が他にあるだろうか。有から無になる。これは日常的なことだ。物を紛失する、食べ物をたいらげるなど挙げたらきりがない。両方に感情移入するにはどんなコツがあるのだろうか。

只今 \( ̄^ ̄)/ 参上!!

 「1月1日:『怒りっぽい人っているだろ。ああいうのはほんとに苦手だな。特に急に怒り出す人。いわゆる瞬間湯沸かし器っていう人。しかもいつ怒りだすかわからないんだよな。こっちは普通の話をしているのに、いきなりどなりつけるようにして返事してくるんだよ。参っちゃうよな。会社にも一人いるんだけど、まさに腫れ物だよ』」。

きーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ”彡☆

 人生の一切が徒労である、という言葉をよく耳目にする。誰の目から見て何が徒労だというのか。仮に完成間近の建造物が、地震で灰燼に帰したとしても、そういうものだとする心があればいい。嘆き悲しんだり、無駄な努力と言ってみたりすることはないはずだ。徒労と思う心の貧しさが徒労である。人生の一切が無意味な苦痛だとしても。

<(゚ロ゚;)> ノォオオオオオ!!

 老境が閑古鳥の巣窟とはな。昔は目的があって友達づきあいをしとったが、計算高さやそれが導いた結果は、なんの尾も引いていない。尾長鳥じゃなかったんじゃろ。今じゃ実人生を生きる市民鳥への羨望の念を抱くのもしばしばじゃ。セブン・アップ・オア・ダウンで人生の文脈を誰かと入れ替えたいね。ロウキョウという名の鳥になる前に。

゚〜~〜(゚ω゚=)〜~〜゚ ポケー

 何も知らずにゴーヤチャンプルー。♪あ〜あ無知無知。銭湯の洗い場はいつも裸だらけ。♪あ〜あ不思議不思議と。死んだ人たちは生きている人たちより人気がある。♪あ〜あ当然当然と。いっそ北欧に行ってトネリコの木からジャンプしてみるか。♪あ〜あ無理無理か。こうなったら角界にでも入ってやる。♪あ〜あどすこいどすこいと。

ヘ(^o^ヘ)(/^o^)/ヘ(^o^ヘ)(/^o^)/

 「卒業おめでとう。では最後に先生から一言だけ。死を忘れるな! いや、そうじゃなくて。えー、現代の芸術家にとって、問題なのは美学的個性であって、実生活上の個性ではない。芸術家とは、作品の創造者のことであって、日常些事の世界に生きる人間のことではない! 一粒の砂の中に世界を見、一本の野の花に天国を見るのだ!」

「(゚ペ)ありゃ?

 「1月1日:『学校行ってる間はいいぞ。いろんな厄介事はあるんだろうけど、何か責任を取らなきゃならないわけじゃないし、それに自由度が高いからな。俺も戻りたいよ。小学校でも中学校でもいい。会社のつまらなさったらないぞ。会社というよりは仕事だな。朝っぱらから大して興味ない内容にほぼ半日かかずらわなきゃならないしな』」。

ε-(`=ω=´)ツマラナイ……

 人間は無神経に屍の山を築いてきた。病死・事故死・自殺のどれかに分別できる。長生きのための研究は昔からなされているが、死に方のほうは原始時代のままである。希望は多々あろう。楽しい死、睡眠中の死、日時を選べる死、そして苦しまない死。こうした研究に成果があって、医学の進歩を唱えられる。少なくとも「現代」と呼べる。

(━_━)ゝウーム

 求む! 健康な人!

柱| ̄m ̄) ウププッ

 どの集団にも世話好きがいる。必要な場所を押さえ、一人ひとりに目を配り、各種の手配をし、喜んでもらおうと立ち振る舞う。だがその喜びの大きさは、思い込みの半分未満であることに気づかない。唯一の救いとしては、世話への感謝を示す上っ面な言動に接した時のみである。世話好きはそうしておのれの人生を他人を介して世話する。

(* ̄Oノ ̄*) ホーッホッホ!!

 自分が人間界に向いていないのか、人間界が自分に向いていないのか。幼い頃から違和感を抱く度に考えて生きてきた。生きづらいと思いつつも、他ならぬこの違和感を拠りどころとしてきたのは認める。違和感は不必要へと成長する。こうなると勝手が違う。人間界云々など問題ではなくなり、消滅が危惧する点となり、精神的な支柱にもなる。

(_д_)。o0○ モァアーン

 「1月1日:『結局、学生時代に何をやったかとか何に強い興味を持っていたかとか、そんなことがあとを引くからな。俺もいい歳だけど、やっぱり学生時代にやったこととどこかで結びついてるんだよな。飲みに行くのも会社の連中じゃなくて、高校や大学の頃のやつらだしな。当時の飲み方はすごかったぞ。ろくにカネ持ってなかったけど』」。

(\\__\\;)カネガナイ・・・

 なんちゅうか、前からやる気がなかったんだなあ。やる気のないことナメクジのごとし。そんな掛け軸を買っちまったのがいけなかった。50万した。散財すること金持ちのごとし。こちらは70万じゃな。両方とも無駄じゃった。無駄なこと掛け軸のごとし。これが100万。赤ん坊からやり直したいね。今度は色紙に書いてもらうかな。んー。

・・・( ̄. ̄;)エット( ̄。 ̄;)アノォ( ̄- ̄;)ンー

 成功の連続は、自らを危うい立場に置くことになる。失敗のほうは、自己回帰を促しひと時の内省的な人間ならしめる一方、成功は飛び去ったらそのままである。見境なく自己から離れゆき自分にも他人にも属さず、幽霊のように現世遊離した半端な存在なき存在となる。人間である以上は成功を求める。成功を成功としないことが肝要だ。

☆!☆?☆ (☆_◎) ☆!☆?☆チンプンカンプン

 フランク・スターリングの心臓の法則を知って以来、戸板返しに夢中じゃ。全ての想像は忘れられた記憶に過ぎないしな。でもわしが七人いた場合、ラムゼー理論は成立するんじゃろうか。余は弾劾す! たまにはでかい声の一つでも出してみたいもんじゃよ。ア・プリオリな性格として、人生にも世界にも喜びのかけらも見出せないわしじゃ。

=①。①= ふにゃ?

 おまえが山田なら、あいつはどうなるんだよ。俺ん中で山田はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。キミが山中なら、あいつはどうなるんだよ。俺ん中で山中はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。あなたも山田? もうどうしたらいいんだよ。いい加減にしてくれよ。俺ん中で山田はあいつだけだからさあ。変えろよ名前。早くー。

( 。-x – )-x – )-x – ) シーン・・・

 純一の歴史は古い。宇宙開闢以降、今日までかろうじて続いている。放擲されていることが、純一の純一たる所以であり、意味を保つための無防備な牙城である。適応能力が高いだけに、命を脅かされるの憂き目にも合う。地球に生物が誕生し、まもなく意識を持ち始めたところから、純一の地位は揺らいだ。目下、絶望のみが純一の友である。

ヘ(゚◇、゚)ノ ほへ〜???

ユーロ2016

さとうまき

私の父は、酔っぱらうとよく家に客を連れてきた。今から思えば、自慢の息子(?)を見せたかったのだろう。ただ、子どもの僕としては、父が帰ってくるのを楽しみに待っているのに、知らない人がやってきて、愛想笑いをしなきゃいけないのがすごく嫌だった。

さらに、悪いことに、客人に「お土産」を持たすのだ。相手に同じような子どもがいれば、昨日父が私にくれたはずのお土産を渡している。どこにでもいい顔をして、収拾がつかなくなる。。そんなおやじを思いださせたのが、ヨーロッパの難民問題。

ドイツも人道的に受け入れるといってみたものの110万人もの難民が来てしまい、悲鳴を上げてトルコに追い返す羽目に。イギリスは、移民や難民を受け入れるのをいやがりEUから離脱してしまった。ドイツと違って、デンマークは、早々にくぎを刺した。1月26日、難民申請をした者に1万クローネ(約17万円)を超える現金や所持品がある場合、徴収して難民の保護費用に充てるという法案が、デンマークで可決されたのだ。

デンマークといえば、かつて私たちが支援していたイラン系クルド難民の家族が暮らしている。最初のグループは、イラク戦争の時にヨルダン国境に避難したクルド人。イスラムとは異なるカカイという少数派で1980年代にイランから迫害され、イラクの難民キャンプで暮らしていた。イラク戦争で、イラン寄りの政権ができるとさらに迫害を受けヨルダンに逃げようとしたが、国境を閉ざされ、イラクとヨルダンの国境に挟まれたノーマンズランドで暮らしていた。

アザッドは、その中の一人だったが、お金が必要だったので、米軍の通訳として雇われた。それでファルージャのオペレーションに連れていかれたが、テロリストの襲撃を受けた。その時ハマーという軍用車の中で4人の米兵に挟まれていた。「隊長は、銃を渡して、『これで守れ』といってきた。僕は、そんなのは初めてだったので、できませんといったんだ。基地に戻ってきたらキャプテンに怒られた。なんで撃たなかったんだと。それで、100周基地を走れといわれた」

そうこうしているうちに、国境の難民たちは、デンマークが受け入れることが決定された。アザッドは、乗り遅れてしまった。米軍の通訳はこりごりだと思って、国境に戻ってきた時は遅すぎた。仲間たちはヨルダンの難民キャンプに移されデンマーク行の準備をしていたのだ。しかし、アザッドは転んでもただで起きるようなやわな人間ではなかった。米軍に頼んで、ワールドパスポートを発行してもらったという。

ワールドパスポート? アザッドが嬉しそうに、写真を送ってきたが、私はそんなパスポート見たことがなかったし、国連の友人に聞いてもそんなの見たことないという。なんか、だまされているんじゃないかと心配していたが、2013年に、彼は、そのパスポートでまんまとイラクを抜け出しデンマークにたどり着いたのだ。

再会したアザッドはすっかりと立派な青年になっていた。コペンハーゲンの市役所で、難民相談のアルバイトをし、ちゃんと税金を払っている。デンマーク人として生まれ変わったかのようだ。「デンマークは素晴らしい国。民主主義があるから、未来がみえる」

アザッドに連れられてデンマークとドイツの国境の町に行くことになった。そこには、最近たどり着いた難民が収容されているセンターがある。デンマーク政府が彼らに市民権を与えるかどうか判断するまでの間収容されるのだ。彼の両親や兄弟が昨年トルコからゴムボートに乗ってギリシャにたどり着き、そこから陸路でデンマークに到着し、このセンターで暮らしていた。ブローカーに大体一人頭30万円払ったというから、それ程吹っ掛けられているわけでもなさそうだ。だからこそこれほどまでに大きな移動があったとだろう。うつ状態が続いていたお母さんもすっかり元気になり、デンマークについてから初孫も生まれた。なんだか、本当に幸せそうだった。

とかくシリア難民といえば、もう何でも許されるような風潮があり、それに便乗して多くの難民がヨーロッパに来てしまった。彼らの中には、自分だけが助かればいいと思っている人もいて、「逃げた人」というレッテルが張られてしまう。

一方アザッドのような国を持たないクルド人は、生まれたときから難民としてさまよい続けている。ようやくデンマークに市民としての居場所を見つけたのだ。これからは、デンマーク市民として生きていく、そんな希望に満ち溢れていた。

悔しかったけど、負けなかった

若松恵子

阪本順治監督の最新作「団地」が6月4日からロードショー公開されている。団地を舞台にしたSFだという前情報に幾分不安がよぎったけれど、坂本らしい心に残る映画だった。

息子を不慮の事故で亡くし、長く続けていた漢方薬局をたたんで団地に引っ越してきた初老の夫婦が主人公だ。藤山直美と岸部一徳が演じている。二人は現役引退後の暮らしを団地で静かに送るはずだったのに、住民たちが放っておかずに事件に巻き込まれていく・・・。さあどうする! という所で物語が飛躍する。この予想外の展開に、出演を依頼された俳優陣はみんな「阪本は頭がおかしくなったのではないか?」と心配したという。「本当にやりたいんだね?」と確認されたと阪本監督はインタビューで語っていて笑える。

細かくストリーを紹介してしまうと見る楽しみが減ってしまうので書かないが、決して奇異な映画ではない。飛躍はこの映画にとって必要なことだったのだと思う。

主人公の夫婦は「死んだ息子に会いたい」との思いから、この現実と違う世界に行くわけだけれど、全くのおとぎ話ではなく、時空間を超えるというちょっと科学的な後ろ盾を感じさせる仕立てになっている。SF映画と言われる所以だ。時空間を超えることについての説明は「なんとかがなんとかしてなんとかなって」という藤山直美のセリフによってみごとに省略されてちっとも科学的ではないのだけれど、センチメンタルに傾きすぎていなくていい。

主人公の夫婦は、息子を事故で無くした時にマスコミの取材でもみくちゃにされてしまう。加害者を糾弾するという大義名分があったとしても、悲しむ体力すら残らないほどマスコミは夫婦を追い詰めてしまうのだ。(こういう描写があるわけではなく、セリフから事情がわかってくる描き方も良い)

また、しがらみが無いと思って入居した団地では、井戸端会議に加わらないから、何となく噂話の対象にされ、噂話はエスカレートして妄想を生み、しだいに団地の住民が夫婦を追い詰めていく。悪いことをしているという自覚が無いからたちが悪い。もうこんなやつらに説明してわかってもらおうなんて無理だ、もう違う世界に連れて行く。主人公を助ける方法として取った阪本の筋書きは、突飛だと思われるのだろうし、このおもしろさは、わからないやつにはわからないだろうな。

映画の冒頭、おばあさんが落として割ってしまった鉢植えの花を異星人役の斉藤工が土ごとハンカチに包んで拾ってあげる場面が出てくる。枯れないように別の土(世界)に植えかえてあげるという行為が、この映画を象徴するものとして描かれていたのだと、あとになってわかった。わからないやつにはわからなくてもいい。話の通じないやつらが牛耳っている世のなかじゃないかと、最近いらだっていた私は、阪本に肩入れしながらこの映画を見たのだった。

もちろん、ただ違う世界に逃げましたというだけの話ではない。「悔しかったけど負けへんかったで」という印象的なセリフが、映画のクライマックスで語られる。息子さんに会えたらそう言うのよと、違う世界に出発する主人公に向かってつかのまの友人である君子さんが言うのだ。藤山直美演じる主人公のヒナ子は、そう言われて、ちょっと考えてからうなずく。何が悔しかったのか、何に負けなかったのか。

息子を失った哀しみに負けなかったということはもちろんだけれど、理不尽なマスコミにも、団地の心無い噂話にも負けなかった、魂を売って同化する事なんてしなかったという意味に私は受け取った。長い物には巻かれようと、不本意な転向はしなかった。そんなふうに読み取って胸を打たれた。最近の映画のつくられ方、売られ方、言いたいことはいっぱいあるだろう。阪本自身も自分にむかってこのセリフを言ったに違いない。「悔しかったけど、負けなかった」私も自分のためにこのセリフを覚えておきたいと思った。

祖父のアパート

植松眞人

 母方の祖母の家から銭湯までは歩いて十分ほどの距離にあった。私がまだ小学校に上がったばかりの頃、昭和四十年代の半ばだが、その頃には毎日毎日風呂に入る家は少なかった。二日に一度、三日に一度、銭湯に行く程度が普通だった。汗をかいてどうしようもない日はたらいの中で行水をするか、炊事場の流しに頭を突っ込んで髪の毛を洗った。家に風呂もなかったし、毎日銭湯に行くのも家族四人だとそれなりに金がかかったからだ。
 祖母の家は私の家から自転車で十分、歩いて三十分ほどの所にあった。両親は共働きだった。学校帰りに、どちらも自宅にいないという日があり、そんな時には学校からそのまま祖母の家に行き、父か母が迎えに来るのを待った。
 私は祖母の家に預けられるのが嫌だった。当時、祖母の家は大人の出入りが多く自宅のようにはくつろげなかった。そして、そこへ父が迎えに来ると、祖母や周囲の人たちが酒肴の用意を始め、早々に父が酔い始めるのだ。
 酔った父は普段気が弱い分、とても気が大きくなった。そして、母方の実家で飲んでいるということが、父にとってもはちょっとした緊張になっていたのか、いきなり母に向かって「おまえはどっちの味方や」と声を上げたり、諫めに入る母の弟の言葉に泣き声をあげたり、私としては一番見たくない父の顔がそこに出来上がるのだった。

 元日のことだった。大人たちは朝から酒を飲み、怒鳴り合い、喧嘩をして、歌い、踊った。そして、大半の男たちはそのまま寝込み、ほとんどの女たちはしっかりとした足取りで片づけものをした。それが済むと、女たちは男たちと一緒に寝込んでいる子どもたちを起こして回る。自分の子どもも甥っ子もない。子どもと一括りにされた子どもたちが起こされ、「風呂行くで」というかけ声で外に出るのだった。
 大人の女は母とその姉妹たち。子どもはそんな姉妹の息子や娘が幼稚園児から高校生まで総勢六人ほど。私たちは祖母の家から、銭湯に向かって歩き始めた。元日だというのにそれほど厚着をせずに出かけた。それでも、さほど寒いと感じなかったという記憶しかないのは、大晦日からの不規則な寝たり起きたりで、体温の調整がうまく行っていなかったせいではないのかと思う。子どもたちはみな冬だというのに、結構な薄着で銭湯へと向かっていた。
 すると、母がふいに足を止めた。つられて、みんなが足を止める。大人の女たちはすぐ右手にあるアパートの二階に目を向ける。アパートは二階立てて、二階でも灯りがついている部屋は一つしかない。そこは祖父が住んでいたアパートだった。以前にも何度か来たことがある。このアパートの部屋には祖父の他にもう一人の祖母も居て、僕たちが行くとおやつを出してくれたりして、歓待してくれるのだった。そんなことを思っていると母が言う。
「おじいちゃんにお年玉もらっておいで」
 私たちは歓声をあげて、アパートの階段を駆け上がると祖父の部屋のドアを叩く。いま思うとあれは母たちの祖父に対する嫌がらせだったような気がする。祖母の家から、銭湯に通う途中にわざわざ女と住んでいる祖父への嫌がらせだったに違いない。おかげで、祖父は元日の夕方、大勢の孫に急襲されるという羽目に陥ったのである。
「ようきたな。おめでとうさん」
 祖父はそう言ったが明らかに動揺していた。それでも、ちり紙で千円札を一枚ずつ包んで、急拵えのぽち袋を作って私たちに配ってくれた。
「ご飯食べていく?」
 祖父と一緒にいるもう一人のおばあちゃんが聞く。
「下でお母ちゃんが待ってるから」
 そう言うと、もう一人のおばあちゃんは少し緊張した面もちになり、
「私もお年玉包むわ」
 そう言って、祖父と同じようにぽち袋を作って孫たちに渡してくれるのだった。
 私たちは礼を言って祖父の部屋を後にすると、戦利品であるぽち袋を自慢げに母たちに見せた。
「おじいちゃん、千円くれはった」
 私がそう言うと、母は笑いながら、
「そらよかったなあ」
 とアパートの二階を見上げる。
「それから、おばあちゃんも千円くれはった」
 私がそう言うと、母は私をにらみつけた。
「ちゃう。あの人はおばあちゃんと違う。今井さんや」
 母はそう吐き捨てるように言うと、銭湯へ向かって歩き始めた。私たちは祖父と一緒にいるおばあちゃんが、急にただの歳をとった女性のように感じられた。そして、その人が今井という名前なのかと、頭の中で繰り返した。
「おばあちゃんやない。今井さんや」
 私はそう繰り返しつぶやきながら母たちの後を銭湯に向かった。

 それからも祖父は別れたはずの祖母の家に神出鬼没に現れながら、毎日毎日酒を飲んで暮らした。
 数年後に亡くなると、祖母の家で盛大に葬儀をしてもらった。そして、祖母の家系の先祖代々の墓の隣に、墓まで建ててもらって供養されているのだ。
 私は祖父のことを幸せな人だと思うのだが、祖父自身がそう思っているのかどうかはわからない。そして、その後亡くなった祖母が本当に祖父を許していたのかどうかもわからない。
 私がなぜそんなことを考えるのか。それは、いまから十年以上前に、祖父と祖母の子どもたち、つまり私の母とその兄弟たちがなにを考えたのか、隣り合って建っている祖父の墓と祖母の墓を眺め、「隣り合っているだけではかわいそうだ」と言い始めたのだ。そして、知らぬ間に二つの墓の骨を少しずつ隣の墓の骨と混ぜたらしいのだ。
 それ以来、母方の親戚筋に悪いことばかりが起こるのだった。祖父か祖母、どちらかがあの世で機嫌を損ねているようにしか思えないのである。(了)

コトカタのはなし

時里二郎

空のうろこ
朝の椅子
うつばりのちり
弱起の月曜
寝癖のついた絵本
初号活字の鋳造マニュアル

指を折って
数え上げた言葉のちりを
コトカタに仕舞うのに
ギルシュは少し手間取った
それらがひかりのつぶでできていて
指のすきまから抜けてしまうのだ

ギルシュはいいわけのように
自分はひかりを乗り継いできたから
ひかりのこが 
こえにまざるのだと言った
・・・・・・・・・・・・

  *
コトカタは使いふるした蜜蜂の巣箱
名井島では島に流れ着いた「御用の済んだ人形」を容れておく
ギルシュが言葉のちりを運んできたコトカタには
ギルシュが入っている
コトカタの深い闇は 人形からひかりを吸い取って
ゆっくり ゆっくり 人形のからだを溶かしていくのだが
人形が人形でなくなるまでのあいだは
時折 島の猫が来て
カタコトとコトカタを揺すってやる
すると人形もカタコトとコトカタを中から揺すって応える
そうやって 島の猫は人形の話を聞いてやるのだ
ギルシュは とある小説に描かれたスフリスという街に棲む青年に愛玩されていた
島の猫は カタコトとコトカタを揺すっては
ギルシュの話をコトカタの闇から救ってやる

やがて
カタコトとコトカタを揺すっても
カタコトと返さない日がやってくる
それでも 島の猫は
コトカタをカタコトと揺すって
ギルシュのために
物語をかたりはじめる

   〜名井島の小さなお話〜から

しもた屋之噺(174)

杉山洋一

隣や近所のアパートから湧き上がるような叫び声が上がるのは、イタリアとスペインがヨーロッパ杯のサッカー試合をしているからです。イギリスの国民投票の後で、ヨーロッパ杯に熱狂する彼らを、少し不思議な心地で見つめる自分に気がつきます。イタリアに住み始めた頃は、未だ通貨がリラでしたから、今とは全く違った経済構造でした。今より閉鎖的だったとも言えるし、それなりに自己充足していた気もします。あの頃よりイタリアが特に豊かになった実感はあるかと問われると、よくわかりません。

ユーロが通貨として使われだしたころより、イタリア経済の価値観が、ヨーロッパの他国に把握しやすくなったのは確かでしょう。常に他国の経済との比較を強いられるのは、コンピュータで営業成績を監視される社員のような緊張感を、常に強いているとは思います。外国人が増えたかと言われれば、中国人は確かに増えましたが、それ以外は20年前と今とあまり違いはない気もします。

友人宅で頂いた桜んぼが美味で、どこで見つけたのか尋ねると、近くの中国人街に2軒だけ残る、イタリア人経営の八百屋でした。その主人曰く、現在では余程上質の商品を手に入れなければ、スーパーや中国人の商店には太刀打ちできないとこぼされたそうです。

文化面でも、それに近い精神的な圧迫を感じることはあります。種を蒔いて水をやり、出来るだけ陽に当てて育てようという姿勢から、何時どの程度の結果が期待できる、という期待値カードを首にぶら下げつつ、目に見える結果にばかりに、心を砕くようになった気がするのです。

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 6月某日
マントヴァに朝早く出かけ、アルフォンソとフィリデイの話を聞く。「ピアノは動物のようだ。尾があり脚があり、鍵盤はさしずめ口を開けて歯が並んでいるよう。かかる動物に発音させたらどうなるか、撫でたらどう反応するか想像することから曲ができた」と言い、まず作曲者が演奏し、その後でアルフォンソが演奏する。作曲者が軽やかに演奏すると、鮮やかに動き回る動物の姿が生まれ、アルフォンソが丁寧に演奏すると、書かれている音楽が蘇るように感じられた。

昼前に家人と水谷川さんがマントヴァに着き、音楽祭の会場で昼食を摂っていると、トランペットのアンジェロ・カヴァッロに出会った。彼と一緒にアデスの演奏会をやり、ガスリーニの録音も一緒だった。先日はアルフォンソが、レッチェからの夜行寝台で偶然彼と同じ部屋になって、話が弾んだと聞いたばかりだった。

夕方「ピザネルロの間」で水谷川さんが演奏会の準備するのを眺めていると、肩を叩いて「ブルーノの息子のジョヴァンニだよ」と声を掛けられた。見るとカニーノの長男ジョヴァンニで、ちょうど連休だから子供を連れマントヴァの近くに宿をとり観光していて、偶然通りかかったと云う。結局面白がって演奏会まで聴いてくれる。

水谷川さんの演奏は、まるで空間に音が自然に広がってゆくようだった。開け放たれた窓から、演奏会の前半は鳥のさえずりが聴こえ、後半は葉を叩く驟雨の音が、彼女の音と美しく絡み合い、響きあった。そして、ほんの半世紀ほど前まで忘れ去られていたピザネルロの「トリスタンとイゾルデ」のフレスコ画、亡骸の累々とするトリスタンとランスロットの生々しい戦闘の場面は、無数のうめき声を絞り出すようにも見え、フィリップ・ニコライが黒死病の吹き荒れるなか「目覚めよと呼ぶ声あり」を書いた姿を、文字通り二重写しにしていた。

 6月某日
「ヴェルディの家」に寄宿しているメキシコ人の生徒の誕生日祝いに食堂へ出かけた。「正統派ミラノ風カツレツ」なるメニューがあって何かと尋ねると、伝統的なレシピに沿って、牛肉を叩いて延ばしたものをバター油で揚げてあると云う。食指をそそられ頼んでみると、実に濃厚な味で美味ではあるが、繰返し食べられない。

パルマから通うシモーネが、レスピーギの「古風な舞曲とアリア」を市立音楽院のレッスンに持って来る。終曲のロンカルリは、ヴィジェーヴァノのロンカルリ基金と関係あるのかと気になって調べると、ヴィジェーヴァノは教皇の名を冠しただけで、作曲家のロンカルリとは無関係だった。シモーネが端正に音楽を纏めようとするのを、敢えて引留める。レスピーギとして演奏するなら、ファシズム建築の中央駅のような巨大なモニュメントを描くべきだろう。外人だから率直に言わせて貰えば、ダンヌンツィオでムッソリーニでしょうと話すと、少し困った顔をしながらも納得したようだった。レスピーギの編作を中世音楽として演奏してしまうと、根底にある時代背景が覆されてしまう。嫌いな部分を黒塗りにして目を瞑ってしまうと、本来音の裏側にあるべき息遣いが消されてしまう気がする。

 6月某日
指揮科の学生の大学卒業試験。朝から先ずオーケストラとの試験があって、午後は小論文の口頭試問。小論文は各自、卒業試験に選択した作品について、何某か書かなければならない。
全員判で押したように「このように高名な作品を演奏する上で、自らの方法論を見出すことは大変難しい」と書いていて、インターネット世代の学生が名曲を演奏するのは、寧ろ先入観が先行して我々の頃より大変かも知れないと思う。そのうち二人は古今の指揮者の名演の演奏時間のリストが連綿と添付されていて、ところで今朝の自分の演奏時間は知っているのと思わず尋ねてしまった。自分はこの曲で何をどうしたい、何故なら自分はこう思うから、という素直な発言を望むのは、情報が氾濫する現在に於いては成立しえない理想論なのだろうか。
全てが終わって、生徒らが持ち寄ったシャンパンを開けて祝杯。

6月某日
息子を近所の喫茶店に預けて、小学校最後の通信簿を受取りにゆく。担任もクラスも5年間ずっと一緒だったし、息子には事あることに本当に好くして頂いたので、万感の思い。

息子を劇場に送ってゆき、そのまま彼が出演する「子供と魔法」を母と一緒に観劇する。気が付けば、まるで子供に戻ったかの錯覚を覚えた。全てが瑞々しく胸躍らせる、子供の頃の感受性に身を委ねる。バルコニー席から身を乗り出して見入っている母の背中の向こうに、息子たちの舞台を眺めていて、曲尾で主人公が「おかあさん」と歌ったところで、思わず涙が零れそうになる。

 6月某日
家族と連れ立ち、久しぶりにレッツェノの漁師食堂へ出かける。食後、コモ行きのバスまで一時間程余裕があって湖の畔に降り、老人が釣り糸を垂れる姿をじっと眺める。アルボレルラというウグイ科の小魚が、目の前に何百何千と群れていて、先ずそれをサシ餌で釣ってから、アルボレルラを生餌にして鱒を狙う。老人に言わせると、「ここらの食堂ではラヴァネルロというスズキばかり食べさせるが、あれは苔やら水草を食べているから不味い。鱒は何といっても小魚しか喰わないから、身の味は格別だ」とのこと。

夕立が降ると予報でも言っていたが、空を見上げると、果たしてシュプルーゲン峠の辺りから、深い銀色に空が染まり稲光も差してきた。その昔、空を覆う雲をとばりに譬えたのは、見事な表現だと独りごちながら、まるで山水そのものの眼前の絶景に言葉を失う。

 6月某日
音楽院で一日指揮のレッスン。何時も伴奏してくれるマルコの替りに、今日はパレルモ生れのエーリアが代理を務めた。彼は子供の頃からパレルモのマッシモ劇場の児童合唱団で歌っていて、ソロも任されたそうだ。ボエーム2幕の「ラッパとお馬さん頂戴よう!」をやらせて貰えたのが嬉しくて、と笑った。三度の飯よりオペラが好きで、ピアノで卒業資格を取った翌年バリトンでも卒業資格を取った。驚く程初見が出来るのだがピアノは独学のまま18歳まで教師について習ったことすらなかった。イタリアにいると、日本では一寸想像すらできない音楽家と出会うことがある。

ソルビアティに誘われて、ドゥオーモ脇の900年代美術館でモナルダのギターリサイタルに出かける。ガスリーニの「夜明け10分前」が演奏されたので、未亡人のシモーナ・カウチャも来ていた。70年代、シモーナはラウラ・アントネルリと並んで雑誌の表紙を飾っていたが、女優としては映画より寧ろ演劇で活躍したと聞いた。演奏会後シモーナから「この後ダルセナで、バッシさんが出したばかりの主人の伝記の発表会があってね。是非貴方もいらして下さらない?」と誘われる。バッシには、つい先日「天井桟敷友人会」で我々のCDの紹介をして貰ったばかりだったし、ソルビアティと暫く仕事の打合せの後で、合流する約束をした。

「ル・トロットワール・アラ・ダルセナ—-係留地の歩道」は5月24日広場の昔の税関跡を造り替えたバーで、バッシの本の紹介は流行作家アンドレア・ピンケットが、モンダドーリから出版した小説の宣伝と抱合せになっていて、一面ピンケットのファンで溢れ返っている。40分ほどピンケットがあれこれ話している間中、我々のテーブルでは、一体どういうことになっているのか、不平不満が噴出していて、特にシモーナはすっかり気分を害して、今にも席を立とうかという勢いだった。漸くバッシの番になったかと思いきや、蚊の鳴くような繊細な声な上に、真面目腐った紹介を始めたものだから、途端に観衆は興味を失って騒ぎ始め、最早収集が付かなくなったその時、「今日は特別なゲストを招いております。ガスリーニ夫人のシモーナ・カウチャさんです」、と突然シモーナに助けを求めた。

目の前のシモーナは、突然別人のように凛とした女優のオーラを放って、すっと壇上へ向かった。すると、それまでの喧騒が嘘のように静まり返り、誰もが彼女の言葉に聴き入るではないか。見事な演技だった。彼女はガスリーニが毎日10分の音楽を書き上げることを習慣にしていた話をし、作品が出来上がると間髪入れずに、すぐに次の作品を手掛けていたこと、シェークスピアの戯曲を全部読み切ったことなどを絶妙に語り、壇を降りるときは喝采を浴びた。

席に戻った途端「さあ行きましょう」と促され席を立ち、そのまま近くの路面電車に飛び乗った。未だ人いきれの「ル・トロットワール」を路面電車で通り過ぎながら、「何て酷い一日なの。わたし本当に悔しいわ」と目を潤ませながら呟いた。

 6月某日
夕刻、アルフォンソと連れ立ってソアヴェ通りの「音楽倉庫」で、ガスリーニのCDの紹介に出かける。プレゼンテーションの前、置いてある楽譜の中にすっかり草臥れたアロイス・ハーバの9重奏の古いポケットスコアを見つけて、思わず買った。10ユーロ也。

昨日会ったばかりのシモーナとアルフォンソ、それから出版社のガブリエレと4人で座談会。シモーナ曰く、ガスリーニの仕事机の上は、まだ亡くなったときのままで、何も手を付けられないという。読みかけのジョイスと、ブリテンの楽譜が開いたまま。当日CD会社が用意したCDはほぼ完売したと聞いた。

その後、アルフォンソの友人リッリと、劇団俳優のDとカクテルを呷りつつ話し込む。カクテルらしいカクテルを飲んだのは何十年ぶり。リッリは、ミラノの国立音楽院付属音楽高校設立当時から長年物理を教えていて、アルフォンソどころか、ミラノの我々の世代の音楽関係の友人の大半が彼女の生徒だった。彼らの子供時代の話を懐かしそうに話した。一方、昔のヒッピーのような風貌のDは、アルフォンソの親友で中学の同級生だが、アルフォンソも現在Dが何をしているのかよく知らない。演劇の俳優をしているのは確かだが、彼女はヌードモデルだし、Dも食い扶持のためポルノ男優をやっているようだと予め聞いていたので、どんな話をするのかと思いきや、シェーンベルグの作品19とロンコーニの現代演劇論について、それから現在の経済構造の中、アングラ新演劇を実現する困難について滔々と語り、実に話し上手だった。劇団俳優が最初に何を学ぶことは何かと尋ねると、「それはダンスだ」と答えた。身体を空間に解放すること。言葉云々はそれからだという。特に「舞踏」が彼にとっての演劇の原点だという。どんなポルノ男優なのか知らないが、興味深い。

 6月某日
息子を合唱に送って行き、帰りしな、何年も通り過ぎるばかりだった教会に足を留める。合唱の練習場からほんの50メートルほど、カッロッビオの古い教会跡には、フランチェスコ・メッシーナの彫刻ばかりが展示されている。ずっと気になっていたのだが、いつも閉まっていると思い込んでいただけで、単に勘違いだった。73年にミラノ市がメッシーナにこの古い聖シスト教会をアトリエとして与え、メッシーナの没後そのまま市立メッシーナ美術館となって現在では100点以上の作品を有す、とある。

ブレラの学長まで勤め上げた彫刻家が、生涯のアトリエとしてこの古い教会の使用許可をミラノ市に提示し、その替り、朽ちかけていた教会の内装を自ら改装し、死後この中の自らの作品をすべて市に寄付する、という条件を持ち掛けたという。余り彫刻を鑑賞したことがなくて、どういう観点で何をみればよいのか、ずらりと並んだメッシーナの作品を眺めながら少しだけ戸惑った。どれも驚くほど表情が澄んでいて、目に焼き付いて離れない。どの作品も凛としたまなじりと、躍動感あふれる表情が印象的だが、特にムッソリーニ政権下、メッシーナが作ったムッソリーニの娘婿チャーノとエッダ・ムッソリーニの胸像を紹介する写真など、一緒に写り込んだエッダもメッシーナもそのどこか飄々とした表情が愉快ですらある。

父親の反対を押し切りユダヤ人の夫と結婚し、父親によって夫を殺され、その父親も市民によって殺された、普通想像もできない数奇の人生を送った男勝りのエッダは、ポーズを取りつつ冗談でも言っていたようにも見える。彼らの胸像の表情のぴんと緊張した美しさ。

メッシーナがジェノヴァで墓石彫刻で生計を立てていた若かりし頃、未来派のマリネッティに大いに影響を受けたと読み不思議に思う。ファシズムの台頭へと向かうダイナミズムに憧れる、そういう時代だったのだろうか。帰宅して思わず、生前のエッダのインタヴューをインターネットで聴く。隣の部屋からは、1920年にカセルラが書いた「11の子供のための小品」を、息子が練習している音が聴こえる。

(6月29日ミラノにて)

製本かい摘みましては(120)

四釜裕子

カベヤ(左官業)だった祖父は引退してからセメントで石灯籠を作っていた。木型に独自配合のセメントを流して固め、表面を日がな細かくノミで打ち、組み立てる。つまりセメント製のなんちゃって石灯籠なんだけれども、他のなんちゃって切り株やなんちゃって岩にくらべると良くできていて好きだった。しかし小・中学生だった私と2つ上の姉は休日になるとこれに悩まされた。なんでもかんでもカセットテープに記録していた時代である。ノミを打つカンカンカンという音がテープにも入ってしまう。聞き慣れていたせいもあるだろうし実際その音は心地良くすらあったので、録音するときに邪魔にならないのが悪かった。再生すると、遠くに小さく澄んだ音でカンカンカン、、、。しかし、「じいちゃん、やめて」とは言えなかったんだよなあと、『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』の会場・東京国立近代美術館で、自身の声による〈声ノート〉を中心とした膨大な数のカセットテープと銅板を打つ音と姿、柔らかい声、低い鼻と華奢な体に、祖父を思い出したのだった。

吉増さんの〈怪物君〉を見る。こちら側からすれば、みすず書房から出た『怪物君』という詩集の手書き原稿を見ているわけで、いったいこの”声そのもの”としか言いようのないひと続きの途方もない文字列を、冊子という一定の大きさのページを束ねる印刷物の原稿にどうまとめたのか、そのチャレンジというか思い切りを可能にした関わるひとたちの強烈な愛に圧倒された。展示を観るまではこういうものを本にする必要があるのかと思っていたけれど、それは本を埋める言葉がそもそも声であることをこちらがすっかり忘れていた証拠だろう。1984年に青森県の高校生に向けて吉増さんが話した言葉を、展覧会の図録からここに引用する。

〈これからはみんなが自分で自分の言葉なり表現なりを磨いて、演奏して、歌っていかなきゃならない時代がくると思います。その時にこれは忠告めいたことになるかもしれませんが、ぜひ話し方、の訓練をしてください。話し方の訓練をするということは、聞き方の訓練をすることなんです。一所懸命聞く、ということは、自分の声も一所懸命聞いて下さい。自分の話し方も一所懸命、最愛の他人の声だと思って聞いて、それを育て上げるようにして下さい。そうすることによって、そこに乗るものが、知識であろうとあるいは感覚的なものであろうと、その言葉という乗り物に乗れば、素晴らしい宝船になってゆく。〉

吹き寄せ控えの二

高橋悠治

その時の感じは褪せてゆき 遠くなり よびもどしても もどってこない 忘れてもかまわない 時がたつにつれて みちてくる別な感じがする

長い音 短い音 息継ぎの記号だけをつかって 音をかきとめ ちがう音がいっしょにならないように 入りをずらす フランス17世紀の鍵盤楽器をつま弾くやりかた ずれがあれば そこから奥行きがうまれ 切り口から 半透明の乱れがのぞく 数えられない ゆるい見はからい ゆれうごいて さだまりにくい すがたがすぎていく

連句の付けと転じは すすむのか もどるのか ちがう付けをためし やりなおすとき 向きはかわって 見えなかった脇道をすりぬけて もとの方向に近づくかもしれないが おなじ道には出られない

やりなおし つなぎかえ 折り目がすりへり 角のないところに角ができて 節目が移る つづけているとできてくる すこしずつなぞりながらすすむ線の跡を なるべく消さないで 折り重なりをほどきながら ひろげてのばす

即興が 音と 音が消えていき 消えそうになってまた 音になってもどってくるのを聞きつづけることで 時間を埋めているのか 消えかかる余韻を散らせる空間を すこしずつ造りあげているのか そういう手しごとを 記号をつかって紙の上にじかにかくか コンピュータのメモリにかきこめば 手続きの跡がそのまま保存され それをさまざまに読み解くもうひとつの手続きを通して 似たようでも それぞれちがう音の束を作り 空間の華になってひらき散っていく

音楽のあそびは 思想や感情 論理や意味でしばろうとする制度をさけて 人の知らない道をさがし 不安な旅をつづける

139 はな子、起きろ

藤井貞和

しん夜(や)、せん光(こう)、
は壊(かい)と かつ字(じ)、
じ間(かん)のしゃ面(めん)をかく、
ぼ、くはそのとき、とうきょうに、
な なぬかかん、いました、
か あ「か」ばねにいる、
よ よぶこえがして、
し しごと、する、
てんりだいがくの、
ぐーてんべるくの ぼ、くは、
こどもたちを、じょせいを、
うえから見る、
だんせいを、ぐんたいから返す、
だんらくの、
げんかい、なかーよし、たち、
くもり、きょうも来る、
やってくる、なんせんや、
を出て、きょうもくもり、
を超え、きゃつじ(=活字)や、
は壊(かい) 滅(めつ)、
のなかから、
さあ、起きろ、はな子

オバマが来る、火打ち石と、
もくへんと、やりをつくるぎじゅつ、
ぼうぼうと、じゅうぎょうと、ぜんぞうと、れきじ、
のなかから、
やってくる、はな子はしぬ、
きのうときょうとのオバマを、
はな子は思う、ぼくはぎせいになろう、
ばがい、ぜつめづ、どぎがだつと、
わすれるひと、ぼくは子象のときから、
かみさまでした、いまを知る、
がみさま、ぼくは、
いまを知る、ほんをかいたり、
やぶいたり、わらう、
あやまって、しいくがかりを、
ふみつぶしたこともある、
巨体になりました、
ちいさなしゃしんになろう、
映るじゃじんに、ははははわらう、
起きろ、はな子

なかよし、
けい古(こ)、
しごと、
てんりだいがくに、
てんりがやってくる、
あしきを、
ようきに、
ぼ、くらはしぬ、
でも、六十九年を、
ボケも、
へいわも、
ようきょくも、
 まじ、ぎょういぐ、
たらり、ゆっとり、
つめたい湯、づめだいぐにゃりとしたごのぐにに、
ぼ、くと、がみさまと、
あいする、かぞくが浸かる、
たらり、とうとう(うたう)
オバマがやってくる、やってくるのはぼくだ、
ぼぐは、ながさきに、
ひ返りで、
でかけた、
ながさきのへいわこうえん、
聴いてる? オバマ、
ぼ、くはしぬ、はな子
はな子、起きろ

(27日、オバマが広島で所感をスピーチする。その前日、はな子が死ぬ。上野動物園で昭和28年の夏、写真を撮った。そのとき、子象でした。八年まえの就任のとき、ふと、来るのではないかと思いました。昭和20年代を思い起こすことの多い、このごろでしたので、めったに見ないテレビを点けました。)

仙台ネイティブのつぶやき(14)生きていく猫

西大立目祥子

 よたよたと猫がリビングを横切っていく。毛並みは悪く、やせこけている。名前はサスケ、9歳。4年前に口内炎を患ってからずっと闘病生活を続けてきた。
 口内炎というと、ちょっと疲れ気味とか薬を使えばすぐ回復すると考える人が多いのだろうけれど、猫のそれは人と違って患ったら致命傷になる。口の中が腫れ上がり痛がってごはんを食べることができず、衰弱し、やがて死を迎えることになるのだ。

 サスケとの出会いは庭だった。草むしりをしていて塀の近くに手をのばしたら、そこに黒に茶がまじった小さなサビ猫がいたのだ。互いに息を呑んで、と、次の瞬間、子猫は姿を消した。

 それから、2、3週間が過ぎたころ、このサビ猫と赤トラの子猫が庭を縦横に走りまわるようになった。ダッシュしたかと思うと木によじ登ろうとしたり、ぶつかり合ってころげまわったり。見ていると、ひと回り大きな赤トラが、何につけ積極的でリーダーシップをとる。それにくらべるとサビ猫の方は、栄養が足りないようで、いつも後ろにいて影が薄い。母猫から離れた時期の子猫に、野良生活は過酷だ。このままでは、生き延びられないだろうと思った。

 2匹は、庭をすみかと決めたらしく、夜は空の植木鉢の中でくっついて眠り、私の気配を感じるとピーピー鳴き声を上げ、ごはんをせがむ。
 ついに根負けし、カリカリをひと粒、ふた粒、手からやってみた。赤トラは躊躇なくつぎつぎと欲しがるが、サビ猫は嫌がる。人が怖いのだ。それでも皿にのせてやると、迷いに迷って食べ始めた。飼うかどうか私の方も迷っていた。まずは1回だけね。

 そのあと10日ほど旅行で留守をして、帰ってきてびっくりだった。何と2匹が家に棲みついていたのだ。いろいろなことに判断力を失いつつ合った母が、家に上げてしまったらしい。そして、ドアのわきに並んでこちらを見るその姿に、私は二度びっくりした。
 からだはグンと大きくなり、目は輝き、毛並みはつややかで美しい。やせ細って鳴いていた子猫が、たった10日でこんなに見違える姿になるものだろうか。雑巾にも見えたサビ猫は、黒にベージュの毛が混じり鼻筋にはハクビシンのように白い毛が一筋入っている。魔法のようだった。十分な栄養は、生きものを劇的に変えることを教えられた。

 かくして野良猫昇格。赤トラのオスはチビ。サビ猫のメスはサスケ。名づけるということは関係を結ぶということだ。2匹はいつのまにかじぶんの名前を覚え、呼べばこちらを見る。そして、おだやかに仲良く、本当に見ていてこちらがなぐさめられるほどに仲良く暮らし、2階の踊り場から本棚が叩き落ちた東日本大震災も、ケガもせず無事にくぐり抜けた。

 猫といっしょに暮らしている人なら、きっと感じているはずだ。人と猫、哺乳類同士の何と近しいことだろう。対象物を見つめる瞳は黒く濡れ、臭いを感知するときは鼻の穴を上向きにしてくんくんし、モノを押さえるときは4本の指を立てる。おだやかな気持ちのときはゆったりとからだを伸ばし、怒りのときは目をつり上げ、天気のよい日は外に出たくてそわそわとする。名前を呼び、暖かなからだをなで、いっしょにくつろぐうちに、ヒト科とネコ科の境界は低くなっていく。私も動物、おまえも動物。人というじぶんの存在がゆるくほどけていく感覚の中で、科をこえた生きもの同士の信頼が生まれてくる。

 サスケに変調がきたのは2013年の正月のことだった。よだれを垂らしてうずくまり、ごはんを食べない。意を決して病院に連れていくと、診断は口内炎だった。病因に思い当たるところは大いにあった。ひと月前、さらに衰えてきた母が、もう一匹、子猫を家に上げてしまったのだ。私が何度追い出しても子猫は入り込んだ。大らかなチビは平気でも、神経質なサスケには新参者の子猫は受け入れがたいことだったのだろう。概して、オス猫が大らかなのに対しメス猫は気難しい。

 毎日、抗生剤とステロイド剤をひと粒ずつ投与することになったのだけれど、これがなめてみるとすこぶる苦い。缶詰のごはんに刻んで混ぜ込んだり、鶏肉の皮の下に挟みこんだり、苦心惨憺。
 病気を得た猫は上瞼が落ち、目が三角になる。くぐもった表情の顔を毎日注意深く観察し食欲の具合をみながら、今日は元気だ、今日はいまいちだな、とその調子を測ってきた。

 からだをセンサーのようにフル動員して病の進行を感じみるじぶんの中に、20年前、父の闘病を支えたときの記憶がよみがえってくる。あのときもこうだった。病室に入ると、父の表情から調子はすぐに察することができた。あ、落ち込んでいる。お、今日は笑顔がいい、という具合に。そして、新年は迎えられるだろうか、桜は見ることができるだろうか、と先のことを案じては不安にかられていた。

 病を経てやがて死を迎える、静かに衰えていくその進行にも、同じ哺乳類、変わりはない。体全体が硬くなり、食が細り、筋肉が落ちて骨が浮き立ち、ときに腹水がたまり、最後は排泄がおかしくなって動けなくなっていく。

 4月中旬、サスケはステロイド剤を投与してもごはんが食べられなくなった。背骨は触ると痛いほどに浮いてきて、後ろ足の太ももの筋肉がやせてソファに上がるのもやっとやっと。動物病院の先生は、最後の段階だから、もうこれしか方法がないよといって、50ccの輸液を入れてくれた。
 それから週に3日、4日とそんな治療を続けているのだけれど、不思議なことに5月に入るころから、食欲を取り戻し筋肉をつけ、先日は驚いたことに脱走まで図るほどに回復をみせるようになった。

 がんばれ。耐えよう。ついててあげる。繰り返し繰り返し、聞かせてきたことばを受けとめたのだろうか。病に倒れたとき必要なのは、人だって猫だって一人じゃないよというメッセージなのだ。

 新年を迎えるのは無理と思っていたのに、猫は桜の季節を過ごし、風に揺れる緑の葉を見上げている。この先の季節の風景に、私は祖父母の、父の、看取りと最期を重ねみる。そこにはじぶんのこれからも透かし見える。
 もうすぐ夏至がくる。地上の生きものに活力をみなぎらせる高い陽の光が、まだしばらくの間、降り注ぎますように。

梅雨入りまえとあと

仲宗根浩

五月、最初から清明のための墓掃除を午前中に終え午後から一族揃って墓の前お食事。地震のため毎年来ていた熊本組はいない。友人からのメールでまた大きい地震が来るとのデマのため水や食料品を集めているひとがいたり、家に帰ったら冷蔵庫の扉が開かないように養生されていたり、浴槽に水がいっぱいはられていたり、と。大きい地震が来るとデマが流れた日はなにもなかった。

五月の連休、一日だけ子供と休みが合う日があったので最近地元で話題となっている瀬長島に行く。見事に混んでいる中、なんとかお目当てのものにたどりつき、そのあとお嬢さんは引き潮の海岸で遊ぶ。それを眺めながら、海岸からは那覇空港から離陸する飛行機を眺める。離陸は見えるが着陸が見えない。海岸から道路に上がるとぎりぎり見えた。

引越しはしたが自分の部屋がまだに片付いていない。片付けが終わらない。奥さんと娘の部屋はベッドも組み立て終わりそれぞれの部屋で寝ているがこちらはダイニングに置かれたソファーで一ヶ月以上経っているのに、まだ寝ている。片付けが遅々として進まないと端からは見えるようだが牛歩のごとく進んでいるのを気づいてくれない。夜中に整理片付けをやっていると眠れないと苦情。三枚しか処分できなかったCD。もっと減らすことができると思っていたがCD-R、DVD-Rを忘れていた。それ以外オーディオ用のケーブル類。要らないものがどんどんわいて出てくる。そのうちに梅雨に入ったがしばらくすると雨が降らない暑い日が続く。夜は熱帯夜でエアコン大活躍。

そのうち街は静まりかえった。延々と終わることがないトラックの障害レースみたいに同じようなことが起こる。一年を一周とすると生まれて五十三周。復帰して四十四周、陸上の三千メートル障害と同じでルールは変わることはない。熊本に転校した小学校の焼却炉の前で「沖縄人のくせに」と同級生から言われた。どんな経緯かは忘れたが言われたあと何も言わず黙って無視したことだけは覚えている。

アジアのごはん(78)米粉クッキング

森下ヒバリ

まあ、あれだ。これは身体に悪いことが分かったから食べるのをやめよう、と人に言ったところで、たいがいの人は聴く耳を持たない。ワクチンは有害物質満載だから打つのやめようと言ったところで、抗生物質が、食品添加物が、ジャンクフードが、農薬が、遺伝子組み換えが、合成洗剤が、抗菌殺菌消臭スプレーが‥って韓国の加湿器に入れた殺菌剤による死者は恐ろしい、けど、こういうもののせいとは気付かずどれだけの人が病気になり、死に至っているのかと思うと、もっと恐ろしい。

最近身近なところでのガン患者の数があまりにも多くて、いったいどうなってるの、という毎日。今の日本は世間の一般常識に沿ったフツーの生活をしていると、遅かれ早かれガンになるか、心筋梗塞になるか、脳梗塞になるか、糖尿病か高血圧になり、認知症・アルツハイマーになる。はたまたアレルギーに苦しみ、ウツになり、ひきこもりになり、ADHDやアスペルガーといわれて社会から浮き、働きすぎて疲れ果て突然死、とか。

しかし、まあ、あれだ。これを読んで一人でも、ちょっと今までの生活や医療常識に疑問を感じたりしてくれたらいいかと。フツーの生活とやらでは、合成洗剤・抗菌剤・殺菌剤入りのスプレー、せんたく洗剤、台所洗剤、ウエットティッシュ、シャンプー、お風呂掃除洗剤、歯磨き、洗顔料、ヘアスプレー、化粧品‥を、それはもうヒバリは卒倒しそうなほどみなさん使いまくっているみたいですが、大丈夫ですか?

企業もたとえば消臭スプレーに「柿渋エキス配合」とか「グレープフルーツエキス入り」などと表示して自然さと安全性を強調し、人の目をくらます。そのすぐ後の成分表示に「除菌剤」としか書いてない、これはいったい何だ。化粧品や食品でない洗剤や消臭スプレーなどはすべての成分を詳しく表示する義務がないので、あたかも問題のない成分のように一括して「除菌剤」で終わり。もちろん、韓国で人が死ぬ原因となった除菌剤も「これは使うと危険」などと書かれていたわけではない。

エタノールと本当の自然素材だけのウエットティッシュが欲しくていろいろ探していたが、なかなか見つからない。無印良品のウエットティッシュも成分は少ないが「殺菌剤」の文字が。一応、無印にくわしい成分をメールで聞いてみたら、「お答えできません」との返事。お答えできないようなものは、使えないです。スーパーやコンビニで売っている商品の内容成分表示を見ると、頭が痛くなってくる。

人間の身体というものは実は菌まみれで、その菌に体を守ってもらっている、動かしてもらっている、さらにエネルギーやミネラルも作って供給してもらっている。人間の身体は細菌との深い共生関係によって成り立っている。細菌がいなければ、人間は生きていけない。腸内細菌の重要性については最近研究も進み、知識も広まってきたが、肌にいる常在細菌も重要な存在だ。腸内細菌と同じく善玉菌と悪玉菌がいて、肌の主な常在菌である表皮ブドウ球菌がいわゆる善玉菌である。この菌がバランスよく肌を覆っていれば、あなたの肌はつやつや、しっとりと潤っている。そしてブドウ球菌がしっかりと肌からの病原菌の侵入を阻止してくれるのである。

合成化学物質の抗菌・殺菌・除菌剤は有害な病原菌だけを選んで殺すわけではなく、人間に有用な、大切なパートナーの菌たちも一緒に殺してしまう。それが皮膚のバリアを壊し、腸内細菌のバランスを壊す。こういう成分の含まれた洗剤やスプレー、ウエットティッシュなどを日常的に使うことは、有毒成分を日常的に取り入れるだけでなく、身体の根幹をなす細菌バランスをコツコツと破壊していることなのである。そういう生活の先にあるのは‥。

気が滅入って来たので、料理でもしよう。今日は、いろいろ問題の多い小麦を使わずにグルテンフリーの米粉でお好み焼きとクッキーを焼くよ!

米粉は日本ではこれまで、あまり使われてこなかったが、使ってみるとたいへん使いよい。そして、おいしい食材である。粉もん、を使うたいがいの料理に使える。小麦粉の特徴はグルテンを含み、そのグルテンが粘りを出し、また素材と絡まることでふわふわした食感を作り出す。一方で米粉は、もちもちとした食感やサクサクとした食感を出すのが得意である。とろみもつけられる。こういう特徴を生かすと、これまで小麦粉で作っていたものより、簡単に作れたり、おいしく作れたりするものも多いのだ。

<お好み焼き>
*いつものお好み焼きの材料の小麦を米粉に置き換える、だけ。
え、それだけ? はい。ええと、たとえば米粉の量を少し減らして、じゃがいものすりおろしを加える、またはひよこ豆の粉を加える、ベーキングパウダーを小さじ半分加える、または山芋はすりおろしだけでなく、小さな角切りにしたものを追加する、などするとよりおいしく作れる。米粉タコ焼きもさっぱり味でもちもち。

<米粉クッキー>
*米粉200g(このうち50gをひよこ豆の粉、またはココナツパウダーにするとコクが出る)
*卵1個
*バージンココナツオイル70グラム(苦手な人は精製ココナツオイルか無塩バターで)
*砂糖(ヤシ砂糖とかメープルとかお好みで)50g
*豆乳大匙2ぐらい、かたさの調整で使う
*塩少々
これらを混ぜ合わせ、なんとか固めて、直径3〜4センチぐらいの棒状にまとめラップで包んで冷蔵庫で1時間位冷やして切りやすくする。
厚さ1センチ程度に輪切りにして、温めておいたオーブンで170℃、20〜25分目安に焼く。米粉はやや低めの温度で長めに焼くのがポイント。
お好みで刻んだクルミ、シナモン、ココアなど入れてバリエーションも楽しめる。
本当においしい。サクサクしていて、口の中でねちねち絡まないので、食べた後味もすっきり。小麦粉のクッキーより断然好みです。また焼こうっと。次は何を入れようかな。

グルテンフリー生活は、「あれも食べられない、これも食べられない」のではなく、新しい食べ方や料理を考えるよい機会と考えると、なかなか楽しい。

すずみ

時里二郎

鳥の声が落ちてきて
ねえさんの人形の目があいた

すずみ というのだと
にいさんの人形が
教えてくれた

島の井の近くにいて 
水のしずくを飛ばしているやつだよ

いつもそこへ遊びに行って
水のしずくはわたしを濡らすのに
その鳥は見たことがない

にいさんの人形の目は
ずっとあいたままだから
わたしに見えないものも みえる
空の色より少し深い色をして

すずみ と
ねえさんの声がした

ねえさんの人形は
まだ話せないので
代わりにねえさんが
言ってやる

二階の窓から
少し 海が見える
島の井のある
耳ヶ崎の海

ねえさんの人形は
そこに流れ着いたばかり
ひっそり ひとりで
誰としれない人の記憶の端(はな)から
すずみが落とした
水のしずくのように

  〜名井島の雛歌から

万華鏡物語(2)そこに置かれる

長谷部千彩

今日は装丁の打ち合わせ。デザイナーに会いに行く。
編集者Wさんとの待ち合わせは、三省堂本店新刊コーナー。
約束の時間まであと十分、私は棚に並べられた本をただぼんやりと眺めている。

本は好きなのに、正直なところ、本屋は苦手だ。あの、本にかけられた、宣伝文の躍る帯がどうしても好きになれない。一冊ならばさほど気にはならないものを、大量に並べられた途端、帯はこちらに向かって一斉に客引きを仕掛けてくる。どの本も、お客さん、この本、手にとってくださいよ、と、大きな声でわめき出す。実際は、静かな書店の中なのに、なぜだろう、ものすごいノイズを耳にしたように感じてしまうのだ。そして、いつもその押しの強さに私は怯み、伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。そして、そっと書棚から離れるのである。ごめんなさいね、ネットで買うことにするわ、と。
今日も結局、眺めているだけだった。片づけの本、金融の本、社会の動き、ドラマ化、映画化、恋愛小説にミステリー・・・。どれに魅かれるわけでもなく、私はWさんをただぼんやりと待っている。今日の待ち合わせは、自分の本を作るため。ここに置かれることを願って作る本のため。

私の本にもきっと帯はかけられる。数か月先、きっと私の本も、書棚の片隅で、ひとりでも多くのひとに手に取ってもらうため、客引きに参加する。いまはまだぴんと来ないけれど、そういうものだと思っている。たぶんそれは努力。本を売るための努力。そこに置かれるための努力。自分に似つかわしくないけれど、自分の本にも似つかわしくないけれど、本を作って売るために要る努力。

ユーロな人たち

さとうまき

昨年の9月、トルコの海岸に溺死死体となって流れついたシリア難民の3歳の男の子の写真は、皮肉なことに、難民たちに希望を与えることになった。

ちょうど僕は、イラクに行く途中のドバイの空港のラウンジに置いてあった新聞でその写真をみたが、悲惨な遺体というよりは、心地よく海岸で眠っている赤ちゃんのようにしか見えなかった。だからこそ、この子のことをいろいろ想像してみることは、容易に受け入れられた。

難民たちは、経済的にもっとも豊かなドイツに行きたいといっている。なぜドイツは扉を開かないのかという世論の圧力におされ、そして、メルケル首相は、人道主義を掲げ、難民の受け入れを表明した。

難民たちにとって、ドイツは、パラダイスのように見えたのだろうか。私の周りにいた難民たちが、さわさわと動き始めたのである。危険なシリアやイラクから難民としてドイツを目指したのではない。一応安全なヨルダンや、北イラクなどに避難していた僕の友人が次々といなくなっていく。シリア難民だけでない。イラン難民であったり、ヤジディ教徒であったり、イラク人、パレスチナ難民などなど。

「別に、命の危険にさらされているわけではない。難民キャンプにいたら、攻撃されるわけでもないし、何とか食っていける。でも、未来がないんだ。特に、子どもたちの教育とか考えたら、今しかないと思った」
そんな考えが多かった。

一人大体40万円くらいを払えばドイツまで連れていってくれるという。口コミでこの人なら大丈夫というブローカーを見つけるのは難しくない。しかし、一家族200万円くらいの金を、難民から徴収するというビジネスも大したものである。

実は先日、シリア難民キャンプでやけどをした家族がいて、自立のためのビジネスモデルとして八百屋をやりたいというので、屋台を作ってあげた。しかし、八百屋を始めたものの、難民たちはお金を払っていかないというのだ。同じように、キャンプ内で雑貨屋をやっている難民に聞いてみても、「お金を払わない難民が多いよ。なので、あんまり儲からない」という。キャンプ内で自立したビジネスを展開するのは難しいなと思っていた。なのに、ヨーロッパといえば、難民からもそれぐらいのお金を出させるのだ。まるで魔法のような言葉。「ユーロ」

ドイツに続き、各国が、「人道的」に難民の受け入れを表明しだした。日本も受け入れるべきだと、感情的に訴える声も聴く。一体、「ユーロ」という言葉に、吸い寄せられてイラクを去っていった友人たちはどうしているんだろう。もう半年もたっているのだが、彼らはちゃんとユーロな人になっているのだろうか?

まず、フェースブックで彼らの居場所を突き止め、訪ねることにした。

世界難民の日(6月20日)にちなみ、6月19日に以下のイベントを開催します。是非お越しください
「難民の日に シリア・イラク・福島 を考える」

ひそひそ星

若松恵子

園子温(その しおん)監督の最新作、「ひそひそ星」を見た。

園子温が自分のプロダクションをつくって、脚本、プロデュース、監督を担当した映画だ。モノクロームのSF映画は、どこか懐かしく、手作りの温かさを感じさせた。宇宙船の内部は、昭和の茶の間のほの暗さだった。見終わったあとに、様々に語り合って飽きない作品だ。

舞台は遠い未来、度重なる事故や災害、戦争などによって人口が極端に減ってしまったころ、人間は宇宙のあちこちに追い立てられ、ほそぼそと生きている。その人間たちからの依頼で、星から星へ、宅配便を届けるアンドロイドの物語だ。

途方もない時間をかけて配達される荷物は、不思議な物ばかりだ。映画フィルムの切れ端、古い麦わら帽子、子どもが写っている写真、たばこの吸い殻……どこが大事なのか他人にはわからないものばかりだが、受け取った人には了解される、送り主との思い出を媒介する記憶のカケラなのだ。

アンドロイドの彼女にも、だんだん「贈り物」という存在が気になってくる。「人間らしさとは何か」ということを考えるキーワードとして、「贈り物」が提示されている。箱に入れてとっておきたい物とは何か、時間や距離を越えて届けたい物とは何か。健気にも思えてくるアンドロイドの仕事ぶりと、宇宙の果ての静けさ、音のないその寂しさが「贈り物」の存在感を一層際立たせている。

映画に身を浸していると、「声」や「風景」もまた、「贈り物」であることが次第にわかってくる。次にこの宇宙船をレンタルする人のために、アンドロイドの彼女がオープンリールのテープに録音する声、宇宙船を運転する人工知能の彼の声(まだあどけなさが残る少年の声なのだ!)、遠い未来のどこかの星として描かれる福島県浪江町の震災後の風景もまた、「贈り物」のように私に届いてくる。

急須で淹れるお茶、雑巾がけ、マッチを擦ってつける火、街角にあるタバコ屋さん……、ひとつひとつ数えあげるように、なつかしい物が登場する。この映画自体、園子温が、未来の人と共有したいと願って大切に箱(映画)にしまった「贈り物」なのだという気がしてくる。

製本かい摘みましては(119)

四釜裕子

インドのBOROSIL社が30年以上製造販売している耐熱グラスは、現地でありふれたものとしてカフェでも使われているそうだ。2011年に旅先であったこのグラスの美しさにひかれたお二人が、2年後、日本で VISION GLASS JP を立ち上げた。販売するのに検品を繰り返してメーカーに伝えるなかで、返ってきた ” NO PROBLEM ”  に戸惑ったそうである。これまで日本の「市場」に出せなかったグラスはおよそ5000個。戸惑いを戸惑いのまま受け止めて、これらを不良品や規格外品としてではなく〈インドと日本の価値観の違いによるはざまで行き場を失ったもの〉として、さまざまな機会を設けて見せている。希望者には同じ値段で販売もする。VISION GLASS  NO PROBLEM プロジェクトという。

そのひとつとして、検品で見つけたあまたある傷や汚れをいくつか分類し、原因を製造工程まで追いつつ、「じゃりじゃり」「エアライン」「流れ星」「水滴」など特徴をあらわす名前をつけて展示している。こうした工程におけるこんな不具合でこの柄が生じてしまう、というパネルに(なあるほど)とうなずきながら、分類されていない「誰か」を探して名前をつけたくなる。こういうことを、商品を売る側、ブランディングする側のひとがやっているのがおもしろい。こちらに語りかけているけれど、なにより自分たちがこの体験をもって〈物の価値に対する自分自身のものさしについて考え〉たいようすが強く感じられる。 

雑誌の不良品についてはどうだろう。実は先週届いた『東京かわら版』6月号に印刷会社の名前でページ半分大の「お詫び」が出ていた。前号に〈製本不良本が発生〉したという。〈外側の欄外情報の文字が欠けている乱丁本が出現しております〉。手元の5月号をめくってみるがこれは大丈夫。たとえちょっと欠けていたって読めればノー・プロブレムなのだ。厳密奇抜をきどるデザインを買うものではないし、むしろ版面ぎりぎりまで一文字でも多く読みたい。もちろんこれは読み手としての感想で、作り手側にいたら決して言えない。いや、ありました、白紙を詫びる編集部が。『面白半分』、筒井康隆さん編集の昭和52年9月号。〈タモリ氏の『ハナモゲラ語の思想』の原稿は、まだ印刷所に到着いたしません。白紙のままでお届けすることを深くお詫び申し上げます。 編集部〉

『東京かわら版』のお詫びの場合、おかげで5月号を改めて読むことができて、鈴本演芸場上席夜の最終出演日が最後の高座となった喜多八師匠の「10・12・14・16・21・鈴上・池中」という予定を見直すことができた。師匠はその日「ぞめき」をかけたと聞いている。吉原で、遊ぶよりもひやかす(ぞめき)のが好きな若旦那が吉原さながらに改築した自宅の2階で一人熱演を繰り広げる噺だ。喜多八師匠の「ぞめき」は一度しか聞いたことがないし実はよく覚えていない。志ん生師匠の音源で聞くと「ひやかす」の語源を話していて、落とし紙として使われたいわゆる浅草紙を作るのに原料の屑紙を水に浸すのを「ひやかす」といい、十分にふやけるまでの間、職人たちが近くの吉原に出かけてはその様子をただ楽しんでいたそうなのだ。ほんとかな。辞書にもあった。東浅草1丁目の交差点に紙洗橋の名があり、その近くの通りに昭和4年に架けられた紙洗橋の橋柱だけが残っている。王子の音無川から隅田川に注いでいた山谷堀が埋め立てられたのは昭和50年頃からだったそうだ。

大正10年、寺田寅彦は新聞に「浅草紙」について書いている。病床から這い出て無我無心にぼんやり日向ぼっこをしながら、縁側に落ちていた浅草紙に混じり入る斑点や繊維や文字や雲母を見つけてひとりごちる。〈「蛉かな」という新聞の俳句欄の一片らしいのが見付かった時は少しおかしくなって来てつい独りで笑った〉〈何の関係もない色々の工場で製造された種々の物品がさまざまの道を通ってある家の紙屑籠で一度集合した後に、また他の家から来た屑と混合して製紙場の槽から流れ出すまでの径路に、どれほどの複雑な世相が纏綿していたか、こう一枚の浅草紙になってしまった今では再びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった〉。寅彦もやっていたのだ。浅草紙・ノー・プロブレム・プロジェクト。

ジャワ人の名前と呼び方

冨岡三智

今年の大河ドラマ『真田丸』では、当時の風習に従って、実名(正式名)呼びをできるだけ避けて、仮名(けみょう、通称のこと)で呼びかけている。というわけで、今回はジャワでの人の名前について。

ジャワに留学して最初に警察で外国人登録をしたときに驚いたのが、本名以外に呼び名nama panggilも登録項目に入っていたことだった。ジャワ人には本名とは全然関係のない呼び名の人もいる。私の家の管理人の娘はウィウィという呼び名だったが、本当の名前はアデレードとかそんな感じの名前だった。そのことを、私は結婚式の招待状をもらって初めて知った。また逆に、留学先の大学で、履修要項に載っている教員名が、始めは誰が誰か分からなかったということもある。つまり、普段は誰もその正式な教員名で呼んでいないのだ。教員の中には、ジャワ語で「食べる」という意味の呼び名や擬音語の呼び名など、変な呼び名を持つ人もいた。

その教員名がパスポート名と違う人も中にいた。たとえばある芸大教員は、教員名は洗礼名+個人名の組み合わせだが、パスポート名は個人名+父親の名前の組み合わせだった。ジャワ人には苗字がないので、父親の名前を自分の名前の後につけて名乗ることは普通だが、なぜ教員名(国立大学だったから、公務員番号と対応しているはず)と一致していなくてもよいのか不思議だ。実はインドネシア国民はアイデンティティ・カード(KTP)で身分確認をするのだが、そのKTP名はどうなっていたのだろう…ということも今になって気になる。また、この教員が言うには、パスポート名については出入管理局で名前を自分の名前+父親の名前の2語の組み合わせで登録するように指導されたらしい。名前は2語でというのは、苗字と個人名の組み合わせという国際基準を意識しているのだろうが、パスポート名が名前1語という人も私の知り合いにいる。さらに、この教員はパスポートを切り替える時に、洗礼名+個人名に変更している。パスポート名の付け方に厳格なルールはないのだろうか、本人確認に問題はないのだろうか…と気になってしまう。

ジャワ人は個人名+父親の名前で名乗ると書いたが、女性は結婚すると夫の名前を後ろにつけて名乗る。私の舞踊の師匠の故スリ・スチアティ・ジョコ・スハルジョ女史は、スリ・スチアティが個人名、ジョコ・スハルジョが夫の名前で、ブ・ジョコと一般に呼ばれていた。ブは女性に対する尊称である。その先生が入院したのでお見舞いに行き、病院で看護婦さんに「ブ・ジョコの部屋はどこですか」と聞いたら、「本人の名前は? ブ・ジョコは旦那さんの名前でしょう?」と聞き返されてしまった。そう言われても、私は14年間師事した間に師匠を個人名で呼んだことがなく、また、周囲が個人名で呼ぶのを聞いたこともない。病院では本名だけを使うんだなあと驚いたことを思い出す。

ジャワには2人称の呼称が沢山あり、自分との関係や状況によって使い分ける。大人の女性の場合、一般的なのはイブ(年齢や社会的地位が上の人の場合、ブ・ジョコのブもイブに同じ)かバ(イブほどではなく、より自分と近い場合)だ。私の留学先の芸大の舞踊科はリベラルな雰囲気で、教員たちは生徒にバと呼ばせていたが、より権威主義的な他の芸大ではイブと呼ばせていた。また、イブやバを使わない人たちもいる。私はインドネシアのあるNPO団体の人に、イブやバは社会階層の概念と結びついているので、全員が平等の立場であるべきNPOでは使わないと言われたことがある。彼らの拠点はジャカルタだったのでまだそれが可能なのかもしれないが、ジャワに長くいた私は、名前だけ呼べばよいとする彼らの意見に驚いたものだ。

包んで食べる。

植松眞人

 いつも、居てほしいときに居てくれない。

 昨日、裕作から言われたことを節子は思い返していた。確かにこの一年ほどの間、節子は忙しく働いていて裕作と一緒の時間をほとんど取れていなかった。でも、今日は久しぶりに裕作が夕食を終えた頃に帰宅できた。いつもより少し早めに帰ってこれたことを喜び「ケーキ買ってきたから、一緒に食べよう」と笑顔で話しかけたのだった。それに対する裕作の答えが「いつも、居てほしいときに居てくれない」だった。
 小学三年生にしては大人びた言いようだったことに、節子はどきっとして裕作の顔をまじまじと眺めた。すると裕作は立ち上がり、子供部屋へ入ってしまったのだった。
 まず、落ち着こうと節子は裕作のために作り置きしてあったカレーの残りを温めて少し食べた。お腹が温まると気持ちが落ち着いてきた。同時に、だんだんと裕作の理不尽さに腹が立ってくるのだった。
 一昨年離婚して、私は一人で裕作を育ててきたのだ。節子はそう思いながら、子供部屋のドアをにらみつけた。わずかな養育費はもらっているが、決して充分な金額ではなかった。節子は結婚前に勤めていた出版社でパートとして働かせてもらい、取材記事のリライトや校正の仕事をしていた。しかし、それだけでは食べていけず、近所の居酒屋のランチメニューの仕込みの手伝いもしていた。二つの仕事のかけもちで、正直、節子はかなり疲れる毎日を送っていた。裕作と一緒に夕食をとれる日はほとんどない。
 しかし、それも生活が落ち着くまでの辛抱だと節子は自分に言い聞かせていたし、裕作にもそう話をして聞かせた。もちろん、裕作もわかったと返事はするのだが、そこは子供だ。ときおり寂しそうな顔をしたりもする。
 三月ほど前のことだった。夏の暑い日に風呂上がりの裕作を見て、節子は子供の成長の早さに改めて愕然としたのだった。たった数ヶ月、我が子との暮らしをおざなりにしたと自覚している間に、この子はこんなにも大きく成長したのか。そう思うと、節子は生活のためだと、仕事に精を出していることが罪悪であるかのように思われてしまうのだった。
 節子の視線に気付いた裕作は「なに見てんのよ」とおどけて自分の部屋に逃げ込んだのだが、あれから数ヶ月で、また裕作は大きくなっていた。節子は急に母として、何か大きな間違いを犯しているのではないかという焦燥感にとらわれてしまう。そして、裕作の言う「居てほしい時」がいったいどんな時なのだろうかと考え込んでしまったのだった。
 開けっ放しのベランダの窓から、冷たい風が吹き込んできた。節子は煙草とライターを手にベランダへと出る。子供ができたとわかったときに辞めていた煙草だが、離婚後に再び吸うようになってしまっていた。いまだに裕作の前では吸えず、こうしてベランダで隠れて吸っている。たぶん、裕作は気付いているのだろう。幼稚園の頃から匂いに敏感な子だったから。
 まだ幼稚園の年少だった頃、節子は月に一度は餃子を作っていた。ある日、いつものように餃子を焼いて家族みんなで食べていると、裕作が「いつもの餃子じゃない」と言いだした。いつもと同じ材料で、いつもと同じように作ったのに、といぶかしく思っていると、その日はスーパーでニンニクが売り切れていたことを思いだした。
 たまにはニンニク抜きでもいいかと作ったのだが、夫もそのことに気付かず、節子自身も忘れてしまっていたくらいだった。そのとき、幼稚園の裕作だけが気付いたことに、節子はとても驚いたのだった。
 ふと窓から部屋の中をのぞくと、裕作がこっちを見ていた。節子は慌てて煙草の火を消す。ベランダの窓を開けて、裕作が声をかけてきた。
「いいよ。そんなに慌てて消さなくても」
「吸ってるの、知ってた?」
「うん」
 裕作はそう言うとベランダに出てきた。
「ねえ、居てほしい時って、いつ?」
 節子は笑顔で聞いてみた。
「もういいよ」
 裕作も笑顔で答えた。笑顔で答えた小学三年生を見て、節子は涙を流しそうになった。しばらく、二人は黙ってベランダに立っていた。三階のベランダから見える風景は、それほど美しくもなく、それほど切なくもなく、それほどおもしろくもなかった。それでも、なんとなく節子の気持ちを落ち着かせ、裕作を優しく見つめさせる空間にはなっていた。
「本当にもういいの?」
 節子は聞いた。裕作はうなずいた。うなずく裕作を見て、節子もうなずく。
「ねえ、餃子つくってあげようか」
「久しぶりだね。餃子つくるの」
「ちゃんとニンニク入れてね」
「ニンニクは入っているほうが好きだな」
 なんとなく大人びた答えをしてしまい自分で照れてしまったのか、裕作は節子から視線を外した。
 大きな新しいマンションが建ってしまってから、この部屋のベランダからは、通りの向こうが見渡せなくなった。以前は商店街の灯りが見えていたのに、いまは真向かいの知らない人の部屋の灯りしか見えない。それでも、この灯りの向こう側で、まだ小さなスーパーが煌々と照明をつけて営業を続けているはずだ。
「材料、買いに行こうか」
「いまから?」
 裕作は少し驚いた様子だったが、うれしそうだった。
「まだ、食べれるでしょ?」
「もちろん」
 いい材料があればいいいな、と節子は思った。もし、スーパーでニンニクが売り切れていたら、今日はもう少し先にある大きいほうのスーパーに行ってもいい。ちゃんと材料をそろえて、丁寧に材料を切って、丁寧にこねて、二人で皮に包んで餃子を作ろう。そして、いい火加減で、じっくり焼いて、明日のことなんて気にせずにお腹いっぱい食べよう。
 節子はそんなことを考えながら裕作を玄関へとせかした。(了)

グロッソラリー ―ない ので ある―(20)

明智尚希

 「1月1日:『大学受験の時、俺なんかスッテンテンの浪人生だったにもかかわらず、あちこち遊び回ってたのに、三郎のやつときたら高校2年生になってすぐに入試問題集や参考書を山積みにして、さっそく受験勉強を始めてた。勉強が好きだったんだろうし、そもそも勉強に向いていたんだろうな、ああいう生真面目一本の人間は』」。

勉強中…〆(・ω・o)ヵリヵリ

 「健全な肉体に健全な精神が宿る」という名文句、三島由紀夫によれば、トルコ人の詩を日本人が誤訳したものらしい。正しくは「宿れかし」という願望を示したものだそうだ。悪名高き心身二元論。命題に振り回されて数百年、哲学の成果は様々あれども、虚学ここに極まれりとする開き直りに近い態度は、どんな哲学に基づいているのか。

( ゚ ◇ ゚ ; ) ナルホド

 この文はドイツ語(A・フィッシャー)から仏語(B・ミシェル)へ、仏語から英語(C・レイノルズ)へ、英語からポルトガル語(D・アレクサンドロ)へ、ポルトガル語からイタリア語(E・アンドレア)へ、イタリア語からスペイン語(F・ガルシア)へ、スペイン語から米語(G・ジョージ)へ、米語から日本語(不詳)へ訳された。

( ・∀・)=b グッジョブ

 生老病死。ブッダがライフのフォーのアゴニーとしてチョイスしたものじゃ。四苦、四天使とも呼ぶ。ライフのエッジからエッジまでのエレメンツと言ってもいいわなこれじゃ。アニマルもヒューマンも同じ。ホースに乗ったシープが走るように、究極のテクニックってのはスーパーカリフラジリスティックエクスピリアリドーシャス×7じゃ。

ヘ ( ゚ д ゚ )ノ ナニコレ?

 ダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダ

( _ _ , ) /~~ まいった

 竜二は驚嘆のあまり足を止めざるを得なかった。眼前に立っているのは竜二とそっくりな人間――髪の毛の色、手入れをした眉毛、切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇、そしてそれらの周辺を覆う皮膚の緊張、どれも竜二のものと一致している男性だった。瓜二つとはこのことだ。顔を撫で回していた竜二は思わず呟いた。「これが……鏡か……」。

ヽ(。_゜)ノ へっ?

 う〜ん、あ〜ん、せんしゃるぅ〜……まずい、見ておったか。今のはなしじゃ。今の話じゃ。またやらなきゃならん。循環論法に媚態を示して懐柔すれば、あったこともなかったことになる権謀術数にたけるのか。やや、猛る怪獣じゃ今度は。手っとり早くなんとかマンに変身して戦わにゃならん。サラリーマン。いかん、リーマン予想とはな、

(〃 ^ ∇ ^ )oお疲れさま〜

 人間的成長とは何だろうか。現在実感していることや感じていることを、10代後半の自分と共有している。10代で知っていたとも言える。良くも悪くも思い通りの歴程。点検と注釈のその後。知識や経験は未来派思考とは限らない。誰にも、啓示をする第六感的な山勘的な峠がある。人生は、それがいつ来るか、いつ気づくかにかかっている。

( ' ェ ' )ぇ

 考え事をしようとすると、反省や後悔のみが思い出てくる。結局何も考えられず、鼻くそを食べる一人の小学生になり下がっておる。オメガは鼻じゃないっての。アルファからオメガまで、ゆりかごから墓場までの包括主義者。つまり全一だ。白馬に乗った王子が、京浜東北線で王子から来て言ったんじゃ。神業、つまりつまり神様業ですねとな。

げっ, (・ . ・; ) メガテン

 私をよく知っている人のほうが、JR池袋駅から真東の方向のサンシャインシティにいる。選挙時にかかる莫大な経費も、延びと潤いで超人気の高濃度アルカリイオンローションも、包括的に解析された。アドバイスをするなら、オフィスで座る習慣をがさつな元気にあふれさせ、中や小は自分のサイズに合わせて中間や先っぽにつければ大変身。

アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ

 安心と不安。世の大勢はこの二元論の間を往来する。不安や危険を求める心情というものもある。危険で納得いかなければ生理的かつ物理的な払底と換言してもいい。素寒貧で危なっかしい情況は、安堵の源になる。底が知れているという以前に、不安視こそ透徹した光である。そうした条件下を追い求めて眠れぬ深夜を凌いできた気がする。

∈-( ^ ∀ ^ )-∋ ソウナノカ

 四十年間聞けなかったけど……僕はママのどこから生まれてきたの?

∑(゚ Д ゚ ; ) イ、イマサラ…

 どうしようもないわたしが生きている。偉大なる人間様の目の前で、おそれ多い世間様の風の中で、畏怖してやまない自然様の真ん中で。短からぬ年月を、生きている。この奇妙な想念。この生臭さ。この申し訳なさ。いったいどこへ生きようか。何を生きられるのか。わたしは本当に生きているのか。誰も答えてはくれない。答えられない。

ヽ( ◎ ∀ ◎; )ノ シンデナイヨ

 「1月1日:『まあ実際、三郎は勉強がよくできた。全国模試なんかでも名前が載ってたからな。載ってたどころか全国で7番とか、とにかくすごかった。驚いたねえあれには。たぶん死んだじいさんに似たんだろうな。下のほうのじいさんな。やっぱりかなり優秀だったみたいで最後は官僚だかなんだかになったっていう話だよ。たぶんだよ』」。

ジイサン(〒Д〒)デス

 地球は宇宙と協定を結んだ、生物マニアである。いつの時代も何かしら飼っている。飽きると太陽と共謀して氷河期を作り、大声で隕石を注文する。そこそこ続いた人の世である。もし人類に倦んでいたら、地球の算段は興味深い。あるいは宇宙協定を破棄され、世紀末的ならぬ地球末的現象、つまり自爆のタイミングを図っているのだろうか。

(=xェx=) モ、モウダメ?

 人間による地球の礼讃。世界で初めて有人宇宙飛行に成功したユーリイ・ガガーリン。この国だけで有名な言葉「地球は青かった」は、地球の美しさを表現した言葉ではない。恐ろしいほどの漆黒の中にぽつんと青い星がある、という具合に闇を強調した言葉だ。人間は自分に関する事柄は無条件に絶賛する。なんとも屈折した性向の持ち主である。

U\(●~▽~●)Уワーイ!

 「1月1日:『そうそう、じいさん。会ったことあるだろ? え、たったそれだけか。まあいいや。じいさんの名前知ってるよな、四郎っていう。いやいや嘘じゃないって。ほんとだって。ほんとだって言ってるだろ! ああごめんごめん。俺、子供いないだろ。会社でもぺーぺーだから、年下の人間をしかったことがないんだよ。ごめんな』」。

\(_ _。)ハンセイシテマス

 大人への反抗の歌は数えるほどしかないのに、「10代の教祖」と呼ばれた尾崎豊。彼は人生や人間に関して、形而上学的な視点で考えていた。だがそのまま詞にしても、ファンには親切ではない。核心を伝えることを重視していた彼は、文学的な技術を排し、飾り気のないピュアな言葉で表現した。稀に見る誠実過ぎるロックンローラーだった。

イエーィ♪♪(((б(*`・´)∂)))♪♪

 イメージが降ってくるのが恐い。着想するのが不吉である。一旦その場から機械的に離れても、すぐ机に戻って制作の病的な義務に追われるからだ。何もせぬままだと、壁の落書きのように脳髄にそれからそれへと刻まれていく。アイデアは登場場所をわきまえない。レオナルドがペンと紙を常備していたのは、全く同じ事情と感想からだろう。

φ(・ ω ・。* ) カキカキ

 八百長ってのはやだね。次郎長みたいな面構えしやがって、やってることは月とスッポンポン。八幡の藪知らずの親戚だわな。どういうことかっていうとだな[…]というわけなんじゃ。べつに共存するために愛し合えって言ってんじゃない。わしが何を感じているかを知ってる人がいたら、わしはその人を憎むだけ。アダジョソステヌートでな。

( ‘-‘ ;A エーット,,アノォ..ソノォ…

 自然災害への防災で賑わっている昨今じゃが、企業をいっぺんガラガラポンしなきゃ駄目じゃ。とりわけ歴史ある企業はガサ入れすれば、まずいものがわんさか出てくる。わんさか出たところで、色んな癒着があるので改めてガラガラポン。丁ならシロ、半ならクロ。シロの連中はクロになるまでガラガラポン。これは人間の原罪に由来する行事。

(・へ・;;)うーむ・・・・

面白い情報って

大野晋

新宿の奥地の勤め先から、埼玉の所沢に赴任しました。

首都圏をブーメラン型に突っ切る通勤は感慨深いものと非常な眠気に襲われるものがあるのですが、そういうことは置いといて、行って早々入居しているビルで大規模な古本市が開かれています。
最近はあまり古い書物探しもしなくなったとは言え、さすがに身近なところでイベントがあるときになるもので、昨日、帰りがけにのぞきに行ってみました。

結果として、およそ2時間ほどかけて会場の中を隅々まで見て回りました。ただ、残念ながらめぼしい本には出会えませんでした。会場は広く、集まっている本は多いのですが、集まっている本が私の欲しいジャンルや探している本や興味にかかる分野ではないのです。残念ながら、興味のない本は大量にあっても面白くない。

最近は古書を探すにしてもネットを使って検索することが多くなってきています。結局、大きな古本市に行って、その傾向を追認した感じでした。

かといって、本が集まった空間が絶対に面白くないわけではありません。ただ、編集されていない空間、編集されていない情報には面白味がないように感じました。たぶん、神保町の専門古書店が自己主張をするような空間なら面白かったのだろうとも思いました。

古書の山を見ながら、実は自分の蔵書を思い浮かべて、自分の蔵書は興味のある人にとって面白い情報となっているのだろうかなどと考えていたのでした。

夜の空 蛙の声

璃葉

最近、よく、星を見にいく。星の写真を撮るひとについていって、わたしはその傍らで遊んでいる。

このまえは、山に囲まれた田んぼだらけのあぜ道へ。あたりが薄暗くなって、青味がかっていく森を眺めていると、現実の世界と切り離されたような気持ちになる。そよ風も冷たくなっていく。

すっかり暗くなると、山はぼんやり闇のなかに浮かび、空には星がぽつぽつと顔を出しはじめる。明るい星に気を取られている間に、星たちはどんどん姿をあらわす。そんな暗いなかでなにをして遊んでいるかというと、やはり空をながめている。星座を探しておぼえたり、すこし飽きたら蛙の声を聞いたり、みみずを観察したり、道をうろうろ歩いたり、石を拾ったり、遠くを見つめたり、いろいろなことを考えたりする。

詩のようなものも浮かべば、鼻歌もうたうし、たまにいやなことも思い出す。こんな綺麗な場所にきても、考えることでとても忙しい。

それでも、田んぼに映る山と星空には、呆然と見惚れる。ここでつくられたお米は美味しいにちがいない。たくさんの酸素やその土地の、見えない霧のような氣を取り込んで育つ作物は、遠い場所で、誰かの胃袋にはいっていくのだろう。

蛙や虫の声がいっそう大きくなって、あんがい賑やかな夜の道で、田んぼに映った星空を眺める。火星が明るい。このひとときは、わたしの持っている長い時間のなかの、大事なかたまりだ。

街の中を歩いているとき、ふと思う。いま、この瞬間、あの田んぼに映る空はどんな表情をしているか。辺りはどんな情景だろうか。想像する。

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