夏がおわり

仲宗根浩

四月に引越したはいいけど、自分の部屋がぐちゃぐちゃの中、ソファーで寝ていたのもののやっとなんとかベッドを組み立て、三十数年ぶりベッド睡眠をする。それでも部屋はまだ段ボールのまま。まず新しい本棚が必要だ。車の住所変更のため車庫証明をもらい、陸運局で住所変更をすませる。住所変更後の自動車税金の手続きもする。これで引越して最後の住所変更手続き完了。

七月、熊本から中学校の同級生が沖縄に来る。一日、車を運転しリクエストのままあちこち案内したら八月、またロシア赴任を終えた同級生が家族で来たが、こちらは休みでは無い。空いた時間で水族館まで連れて行く。旧盆の渋滞の中二百四十キロ車を転がす。仕事場には二時間遅れで到着。なんで暑い中沖縄に来るのかと思うがこっちがまだ涼しい、と言う。でも日差しにさらされるとこたえるらしい。日差しは凶器だ。

夜は暑い。吹く風もぬるい。仕事終わりに駐車場から家に帰る途中のこ洒落た店のテラス席でお楽しみのひとたち。その横を過ぎて家まで歩きながらよくこんな不快な夜に外で楽しめるものだ、と思いながら涼しい家に入り、すぐシャワー。一ヶ月以上夜、外に出ていない。家の中で夏休み中の子供がオリンピックをテレビで観戦。夏休みは二学期制のため短いのに宿題のことは忘れている。宿題は夏休み最後の日の夜にやっと終わったようだ。八月が終わる一週間前のこと。新聞はオリンピックより高江のヘリパッドの状況を毎日詳細に書いている。イギリスはイラク戦争に関してちゃんと検証していた。ちゃんと検証しない国が次のオリンピックの事を期待を込めて報道する。オリンピックは都合の悪いことから目をそらすためのお祭りになる。

こっちは台風のおかげで夏がひと段落したが北のほうではやりたいほうだい。

8月の夜

璃葉

あれだけ大きく鳴いていた蝉の声もだんだんちいさくなり
窓辺から鈴虫の声が聞こえる
ときどきひんやりとした風が吹き抜ける
夏から秋へと少しずつ変わっていくこのとき
本を読んだり絵を描いたりして過ごすのは たいへん心地良い
静かに過ごす夜もいいと思えるのは 最近星空を見に行くためによく
外に出ているからだろうか
去年の夏は部屋にこもりすぎていたので すっかり飽きていたけれど
外に出れば中にこもる良さもわかる気がする

8月は流星群を見に行った 生まれてはじめてのこと
夜半 月が山のうしろに沈んでいくと あたりが暗闇に包まれる 星が一段と輝きはじめる
一瞬の閃光 そのうち数えるのも忘れてしまうぐらい あちこちから星が流れる

数日後にリュックの中をあさっていたら 走り書きのメモがでてきた
 8月12日
 まわる星座 手と頬のつめたさ 夜露に濡れる草木 望遠鏡 カメラ
 長く尾をひいた流星  星をさがしながら飲んだ日本酒 蚊 虻
 気温 空気の感触 月が隠れる 夜霧のかたまり

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仙台ネイティブのつぶやき(17)見えない人と歩く

西大立目祥子

 この6月から、縁あって、視覚障害者の人たちの街歩きガイドをすることになった。友人と交代しながら、3月までに隔月で5回。会を運営するNPO法人の担当者には、集合と解散がしやすいように始点と終点に駅やバス停を定めてもらえばどんなコースでもいいですよ、といわれる。さて、どうしよう。ガイドは何度もやってきたけれど、見えない人と歩くというのは初めてだ。

 最初の打ち合わせのとき、ひと月の活動カレンダーを見せていただいて驚いた。街歩きやウォーキングにはじまって、パソコン教室、オセロの日、将棋の日、音楽サロン、英会話サロン、アロマサロン、茶の湯倶楽部、鉛の入ったボールで行うサウンドテーブルテニス、iPadのいろは教室まである。何と意欲的なのだろう。これは、かなり積極的に動きまわる人たちのようだ。

 あれこれ考えて6月の最初の回は、宮城県美術館の庭にある彫刻めぐりをしようと思い立った。地下鉄駅に集まり、広瀬川のほとりを歩いて美術館へ。建物のまわりをぐるりとめぐるように配置された彫刻をさわりながら歩いたら、きっと楽しい。特に西側のガラス張りの壁面の前の一区画は「アリスの庭」と名づけられていて、巨大な猫やら長身の兎やらひっくり返った蛙やら、ユーモアあふれる彫刻がつぎつぎとあらわれて、だれもが心遊ばせられるから。

 暑い日だったけれど、15名ほどの白杖を携えた人たちがヘルパーさんに腕をとられ集まった。中にはお一人で参加の人もいる。まず、職員の方が本人とヘルパーさんの点呼をとる。だれが来ているのかをみんなで共有するためだ。見えないがためのこの時間で、「こんにちは!」「久しぶりです」と声がつぎつぎ上がっていくうちに空気が和んでいく。この会にくるときは、大体決まったヘルパーさんなのだそうだ。ヘルパーさんたちも街歩きを楽しみにしているらしい。

 年齢は60歳以上、ほとんどの人が中途失明だという。何人かの方に「40代から緑内障でね」「加齢黄斑症で見えなくなって」とうかがった。私と彼ら彼女らの間に明確な線引などできないことを、齢を重ねてきたいまはよくわかる。齢をとるということは、少しずつできないことが多くなっていくこで、その先に見えなくなることがくるかもしれないのだから。

 白杖の先はわずかな段差をとらえ、足取りは軽く早い。「道路わきに黄色いお花が咲いてるよ」「川の水は少ないけど、澄んでるよ」と、目の代わりを務めるヘルパーさんが、歩きながらことばをかけ続ける。「みなさん、若いころ眺めた広瀬川の風景、覚えてますか?」とたずねたら、ほとんどの人が手を上げた。その風景がよみがえるように、と願いながら、いつもより情景をていねいに説明しながら歩く。「この橋は青葉山から流れる沢の上に架かってます。7、8メートルはあるかなあ。水音が聞こえるでしょう」そう話すと、みんなが橋の上で耳を澄ました。つぎつぎと質問を投げかけてくる人もいる。

 街歩きガイドをするようになって10年ぐらい経つだろうか。何度かやるうちに、これはライブなんだ、と感じるようになった。同じコースを歩いているのに、盛り上がって楽しいときがあれば、そうじゃないときもある。参加者が、今日は見てやるぞと前のめりで歩くときは、こちらもそれに応えようと歩き方にも説明にも熱がこもる。反対に、ちょっと勉強になりそうなので来てみましたというような参加者のときは、反応が鈍くこちらも何だかつまらない。そんな経験に照らすと、今日は楽しい。みんな積極的。熱心。好奇心にあふれている。見えないぶん感じ取りましょう。一人ひとりからそんな思いが伝わってきた。

 美術館のアリスの庭は大当たりだった。F・ポテロ作の「猫」の前で、「猫といったって3メートルもあるようで、しっぽはふさふさタヌキみたいですよ、ほらさわってみて。ここが顔、出っ張ってる目玉、背中は子どもが乗れるくらい」と話すと、ヘルパーさんに手を取られブロンズにさわる人たちの顔が嬉々としてくる。「あれ、しっぽの下に突起物があるよ」と笑い出す人がいる。「◯◯さん、あっちはなんだろう鳥よ」「ウサギだ、行ってみよう」と、ヘルパーさんも積極的だ。ひっくり返った蛙にロボットが乗っているT・オタネスの「蛙とロボット」。物静かな雰囲気の年配の女性の手を取って「ここが逆さまになってるカエルのでかい口で、ほら中まで手が入りますよ」と話しかけたら、一瞬驚いた表情になり、やがてくすくす笑い始めた。

 日常の風景をこえるもの。想像力を刺激して、毎日の生活の時間に風を通してくれるもの。解散のときのみんなの晴れ晴れとしどこか意気揚々とした表情を見て、美術のそうした不思議な力を思わずにいられなかった。

 そして、障害がある(と思われている)人と健常(と思っている)人は、いっしょに過ごすのがいい、とあらためて思う。遠景で眺めて、大変だろうなと勝手に抱く想像は吹き飛んで、こちらの方がその前向き姿勢に引っ張られて元気をもらうのだから。
 
 8月は仙台駅近くの寺町で墓参り街歩きにした。「今日は墓石をなででもらいますよ」と話したら、どっと笑い声が沸き起こり、2時間、炎天下を歩いた。そして10月は、この稿でも紹介した仙台市野草園に行き、木の実を拾ってみようかなと思っている。

 さわって、耳をすます街歩き。私にとっては、少しマンネリ化し始めたガイドを見直すいいきっかけになりそうだ。見えない人と歩くことを、しばらくの間、楽しみにしよう。

砂漠の豹狩り

さとうまき

日本はオリンピック一色だった。次回は東京というのもあるのだろう。しかし、なんで東京?と思いながらも、ついついTVに見入ってしまう。1964年はどんなんだったんだろいうなと思いつつ。

さて、一方イラクといえば、メダルは3個くらいしか取れないようで、サッカー以外のスポーツは世界レベルからは大きく差をあけられている。

IS(イスラム国)からモスルを奪還しようと作戦が着々と進んでいる。アルビルの飛行場には、数年前から米軍の輸送機が離発着しており、いろんなものを運んでいるんだろうなと思っていたが、先日は、そのわきにコバンザメのように戦闘機が停まっていた。

避難してくる人たちも日増しに増えている。米軍が空爆をして、そのあと、イラク軍とペシュメルガ(クルド軍)が地上軍を送る。解放した村にいる民間人をトラックにのっけてアルビル近郊のデバガという村にあるキャンプに運んでくるのだ。7月に入り一日1000人単位で運ばれてくるという。デバガは、2014に一時ISに攻められた。住民たちは避難して町は廃墟になっていた。一年くらい前に仮設住宅のようなものが作られて、避難した住民が戻りつつあったが、そこに大量に避難民が流れ込んできたのだ。

50℃近い暑さ。そして砂漠の土埃。劣悪なキャンプだ。先ず、運んでこられた人は、スクリーニングキャンプに入れられる。男性と、女性と子どもにわけられ、男性は、ISの戦闘員、スパイでないか調べられる。民間人でもISの思想に洗脳されていれば、テロを起こす可能性がある。そういったことがクリアされないと、町に行く許可が出ない。まるで収容所のような状態である。実際、ISの戦闘員だった人も混ざっていて数週間で5、6人くらいが刑務所に入れられているという。

一方、女性と子どもたちや、問題ないとされた男性は、家族キャンプに移されるが、こちらも物不足。テントも足らず、そこら辺にマットレスをひいて寝ている人もいる。近くのサッカースタジアムも難民キャンプになっていた。

モスルのアラブ人は、ISに2年間も支配され、恐怖におびえて暮らしてきた。そして、今度は米軍の空爆。命からがら逃げてきても、IS扱いされてしまう。ふんだりけったりだ。

写真家の安田菜津紀さんが何度かイラクに来ている。ヒョウ柄を来たイラクの女性をみるとシャッターを切っている。なんでも大阪に、おばちゃん党という政党(?)があるらしく、ヒョウ柄をこよなく愛するのだそうな。で、アラブのおばさんも意外とヒョウ柄の服をきているので、なんだか、おばちゃん同士の連帯が生まれそうらしい。

注意してみると難民キャンプにはヒョウ柄のおばさんがたくさんいた。若い子もヒョウ柄のスカーフをかぶっていたりする。一方男性はどうかというと、サッカーのユニフォーム。バルセロナが圧倒的に多い。声をかけて記念撮影すると、なんだか、サッカーチームの合宿といってもわからないくらいバルセロナのユニフォームは目につく。サッカーが好きな人にとっては、なんとなく親近感がわく。よく見るとほかにもいろんなユニフォームを来ている人がいて、中には日本代表のユニフォームもあったりする。

大阪のおばちゃんも、アラブ人がヒョウ柄来ているの見たら同じようにうれしくなるんだろうなとわかるような気がしてきた。こんな、厳しい環境でも、みんな好きなものを着たいのだ!

142 詞(ツー)

藤井貞和

みどりばをまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉陰をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

かなかなに、つばさのあるいのししに、
かわなみに、なつぐもに、はしひめに、
はう虫眠る、たたみに、はじとみに、
孔雀のはねをひろげて。 蛻けに、
はかなく、つばさをもがれて、木のもとに、
脱ぎ捨てられたことばのあかしに。

葉陰よ、霊獣の雨をしたたらせ。
離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる、
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ

(晩夏のいちにち、つくつくぼうしがはいりこんで、しかも啼き出したのですが、クーラーのかげやら、キッチンのどこやら、啼き弱るまで見つかりませんでした。きみ=つくつくぼうしに捧げる愛の歌。〈詞〉は宋代の詩だそうです。ツーツクツク。)

しもた屋之噺(176)

杉山洋一

台風が近づいていて、強い雨が叩きつけています。目の前の小学校の校庭全体が大きな水溜りになっていて、水鏡の中の校舎が地面に伸びています。通り雨だったのか、顔を上げると、曇っていた空は見違えるように明るくなり、水鏡に映る緑はとても瑞々しく輝いています。

  ・・・

 8月某日 大井町
リゲティ「アヴァンチュール・新アヴァンチュール」の歌手リハーサル。演出をつけるため、楽譜を外から眺めるような練習は避けたい。楽譜上の音声、音響を再生する演奏を目指すのではなく、楽譜上に書かれた感情をやりとりする訓練が必要となる。リズムこそあれ、演劇に余程近い気がするし、グラン・マカーブルに繋がるコンテキストが垣間見られる気がする。
発音記号の羅列ではなく、我々が初めて目にするキリル文字やタイ文字を読むように、意味を持った文字列に感じられるまで繰り返すことにより、架空の言語による小オペラとして成立させたい。

 8月某日 三軒茶屋
リゲティ・リハーサル2日目。大井町の駅に降り立つと懐かしい海の匂いに身体が反応する。イタリアの海より湿気を帯びてどこか色の濃い匂いに、体の奥で疼く記憶。ほんの薄く広がる、かかる匂いのなかで生活する人たちが、無性に羨ましい。

昨日はアヴァンチュール冒頭から始めて、新アヴァンチュール前半で終わったので、今日は新アヴァンチュール後半から、一つ一つのセンテンスで、誰が誰に何と言っているのかを理解しつつ丁寧に紐解いてゆく。だから書かれている内容がナンセンスで、ドラマツルギーの継続性が欠如した内容であることを除けば、劇場での音楽稽古に全く等しい。ナンセンスなのだから聴衆が捧腹絶倒するほど表情を豊かにしたいし、産み出される音響体はあくまでも表情の発露の結果であってほしい。

そこまで表情が明快にできれば、当初感情表現の羅列に見えていたものが、実は寄木細工か、さもなければモザイクかステンドグラスのように、合理的に組合されていることが理解されると信じている。この、分断中断され時には入れ子状に組み合わせられたドラマツルギーが、演奏に際して咀嚼に苦労する部分かも知れない。その下地に大岡さんの演出が付けれてくれたら、どんなに面白いだろうとほくそ笑む。

練習が終わって家に戻ると、息子が家人の演奏会へ出かけたいと言うので、慌てて家を飛び出す。家で練習していた三宅榛名さんの「捨て子エレジー」は、演奏会で聴くと実に衝撃的だった。幼少、恐らくまだ昭和40年代に何度か目にした、新生児遺棄事件の新聞記事が目に浮かび、思わず涙腺が緩む。隣の息子は何も分からず母親の歌う姿に腹を抱えて笑っているので、うるさいと叱る。

ルチアーノ・ケッサの「舞台上の物体による変奏曲」は、ピアニストが縫いぐるみの手を取って演奏する。この作品の演奏中は、会場中から笑い声が沸き上がったのは、曲ごとに家人が仰々しく3体の縫いぐるみを楽屋に取りに戻ったから。「変奏曲」は3曲から成り、それぞれイタリア各地の民謡を基にしているのは、音楽学者でもあるケッサの一面を反映している。

1曲目の「La Valsugana」 はトレント辺りで歌われる有名なアルプス民謡。「河が乾いた谷」と呼ばれるValsuganaはトレント南西部に実在する。

「ヴァルスガーナに着いたら、お母さんが元気か見に行きましょう。お母さんは元気。でもお父さんは病気でした。あたしの彼ったら、兵隊さんになって出てってしまいました。
一体いつ戻ってくるのでしょう。皆が云うことには、あの人ったらもう新しい許嫁を探しているそう。なんて悲しいお話しかしら。あたし信じられません。あたし信じちゃいませんが、もし本当だったら、金髪か黒髪の新しい彼を、今晩にも見つけちゃうんだから」。

3曲目の「Non potho reposare」も、サルデーニャで今も老若男女構わず愛唱される、熱烈な愛の歌で、まず最初にピアニストが縫いぐるみに旋律を教えると、縫いぐるみが独りで即興を始める。可愛らしいけれども怪奇譚風でもある。

2曲目の「Meridemi mi」は、トリノあたりのピエモンテ地方の古民謡。これは「乳児殺し L’Infanticida」と呼ばれ、ヨーロッパ全体に幾つもの異本のある伝承で、大凡次のようなもの。

「干草集めの三人娘が、牧草地へ出かけた。一人赤ん坊を連れるのはルチアマリーア。ルチアマリーアは赤ん坊をつかむと水に投げ込んだ。海の水は濁ってゆく。彼女の母親は、近くへ駈け寄り叫び声を上げた。お前何てことするんだ。ああ、ルチアマリーア。皆が一斉に叫びながら走ってゆく。お母さん、ああ声を落としてお話しください。さもなければ、私は裁きにかけられ、吊るされてしまいます。しかし程なくルチアマリーアは捕らえられ、囚人として塔の地下牢に繋がれた。そこに或る紳士が通りかかった。是非囚われの女を見せてください。とても美しいそうじゃないですか。それなら紳士殿、明日いらっしゃい。あの奇麗な女を見られます。死刑執行人が前で、彼女はその後ろ」。

作曲者から送られてきた、昔の老女が歌っている録音の歌詞は、上記の歌詞ともう一つの「乳児殺し」の歌詞との混交が見られる。異本として、8年後に漁師に助けられた赤ん坊が成長して母親を訪ねるものもある。

「お母さま、私を結婚させて下さい。私をオランダの王子のお嫁さんにして下さい。ああ、我が娘よ、あと一年お待ちなさい。そうしたらお前にオランダの王子を上げましょう。お母さま、私はもう待てません。オランダの王子を下さい。9カ月のはじめ女は男の赤ん坊を産んだ。可愛い私の赤ちゃん、お前は私をとても苦しませるの。お前を世間に連れてゆけばきっと私は蓮っ葉と罵られ、お前を水に投げ込めば、私の魂は断罪される。でも、蓮っ葉と罵られるより、心だけ断罪される方がまだいいの。彼女はその唇で赤ん坊に接吻し、自らの手で赤ん坊を波のまにまに放り込んだ。海に出ていた船乗りたちは、浜が真っ赤に染まっているのを見て言った。イザベラさん一体どうしたというのです。どうしてこんなに赤くなっているんです。私大きな魚を見つけたんです。石を投げつけようとしたんです。彼らはこの小さな赤ん坊を見つけて裁判所へ持っていった。裁判長よく見てください。今の若い娘どもがどんな偉いことをやらかしているか。こんな酷いことをする娘は誰だって、灼熱のペンチで身体を捥がれるべきでしょう。でもよく考えてみてくださいよ裁判長。そこに居ります娘はあなたの娘、イザベラですから」。

 8月某日 恵比寿
息子が借り出されたとある歌の収録は、「今のは60点。80点を目指して頑張ってみよう」と始まった。「今のはちょっと残念な感じで72点。まだまだ行けるね」。「今のはとても良かったね。80点。最後は良かったけれどリズムが惜しい。もう少し頑張ってみよう」。日本のテレビを見なくなって久しいが、今でも「日曜のど自慢大会」は続いているのだろうか。
帰りに二人、坂の下の小さなイタリア料理屋に入り、息子には定番のペンネ・アッラビアータを、自分にはミックスサラダと、トリッパのトマト煮を頼む。若いコックが一人で切盛りしていて、ローマあたりで修行したのか、思いの外美味。
ここ暫くリゲティのアヴァンチュールを譜読みしていると、ピアノの部屋から「捨て子エレジー」が、息子の寝室からはこの歌を練習する声が聴こえていた。

 8月某日 新宿
新宿まで自転車を走らせ、高層ビル街の一角で、大岡淳さんに現在のリゲティのリハーサル状況を話す。大岡さんはバタイユを通して、現在の社会を描いたりもする。バタイユは、遠い昔に読んだきりで、今読返せばどんなことを思うのだろうと考える。ロートレアモンとかアラゴンとかブルトンとか、少し違うけれど、サドとか。あの頃は何も理解しないまま文字だけを読んだ。今これらの本を手に取れば、分析的にしか言葉を絡めとることが出来ないに違いない。あの頃のように、意味も分からず、でも瑞々しい映像の羅列とは映らないに違いない。若いということは決して悪いことではないし、理解すること全てが素晴らしいとも言えない。家に戻り、大岡さんの本を一気呵成に読む。

 8月某日 三軒茶屋
両国で家人が藤井一興さんと四分音ピアノ二重奏の夕べ。このところ、ヴィシネグラツキをいつも彼女が一人で練習していて、同居している者からすると、この纏わりつく音を早く何とかして欲しいと思っていたが、微分音の二重奏で聴くと、納涼肝試しよろしく8月の夜に似合う。初めてロシア正教会に入ったとき眺めた、並ぶイコンの周りで、天井から釣られた香炉から立ち昇る神秘的な香の煙を思い出す。スクリャービンよりおどろおどろしい皮膚感覚の音楽。

両国の駅前の四川料理屋で、藤井一興さんと家人は日本の音楽教育について話し込む。音楽大学の音楽教育が個性を育てないこと、濁るペダルの音と、叩きつける打鍵についてから弱音のタッチについて。それらの話の端々で、ユージさんのピアノの話。「アーメンの幻影」の冒頭の意味が、ユージと弾くと、最後に辿り着いて初めてああ弾いたのかが解る仕組み。天才は違うと力説。

 8月某日 三軒茶屋
両国のスタジオで指揮ワークショップ。モーツァルト39番の2楽章から始める。
まず、CGC上の長三和音を、ハ長調として認識できるように弾き、続いて同じ和音を今度はト長調として認識できるよう、それぞれの参加者がピアノで弾いてみる。
続いて、2楽章の長大なゼクエンツを、各々が考えた調性に則って、ピアノで弾く。和音と和音の間に、見えない稜線が感じられるまで、何度も繰り返してみる。並列された和音の集合ではなく、和音と和音と間にある空間に、一つの線、糸がずっと繋がれているのを理解してほしい。流れが自然に聴こえるまで何度も丹念に繰り返し、その音を頭の中で聴きながら指揮してみると、確かに各々が感じている音楽が浮き彫りになる。

そうした準備をしない別のゼクエンツの箇所を試しに振ってみると、出てくる音がまるで違って、痩せた音になる不思議。そうなるのは分かっているけれど、科学的な理由はよく言い表せない。何しろ音を出すのは指揮者ではないのだから。
モーツァルトのような作品では、自分から音楽を発するのではなく、そこにある音楽をただ眺めながら振るとき、ただ4音の半音階でも鳥肌が立つには充分だった。
水谷川さんと瀬川さんがいらして下さったので、近所の猪料理屋のランチをご一緒した。今回は低音部のピアノを作曲の加藤くんが引き受けてくれたのはとても心強かった。

 8月某日 宇部空港
秋吉台の自作指揮レッスンと発表会が無事に終わった。作曲と指揮は全く違うことではあるが、自分の書いた音を客観視する訓練は、決して無駄ではないだろう。
或る学生は自分の書いた音を音楽的に振ろうとすればするほど音楽が消されてしまう経験をしただろうし、別の学生は、ただ拍を振るのではなく、自分がどんな音を欲しているのか、それを想像するだけで演奏者の音がまるで変わるのを実感したに違いない。また或る学生は、指揮でほんの少し曲の構造の輪郭をしっかりなぞってやるだけで、曲全体がまる違って響くことに愕いたかもしれない。
そして誰もが、書かれている音を出来る限り聴き取ることの難しさを、痛感したのではないか。音は縦にも横にも聴かなければならず、振ってそこに音を合わせるのではなく、音がはまるよう、こちらが予め空間を準備しておけば、音楽は自然に浮かび上がることもわかったのではないか。音楽は、自らの正当性を殊更に強調することでは決してない。

日一日一日、学生たちの顔つきがまるで変わってゆくのが印象的だった。決して長時間アンサンブルを振れるわけではないから、その分厳しい宿題を各々に出し、少しでも時間がある時には、他の作曲学生を集ねて口三味線を頼んだり、学生通しで互いに意見を言い合っては練習していた。その熱意が演奏者にも伝わったのだろうし、演奏を引き受ける責任のようなものが、顔に浮かびあがってきたのではないか。

 8月某日 三軒茶屋
打ち合わせの最中、何度も家人が連絡をしてくるので何かと思うと、中部イタリアの地震だった。前に震災で甚大な影響の出たラクイラに近い。ラクイラで震災復興の演奏会をしに出かけたのは、もう一昨年の秋になるのだろうか。あの時に見た、崩れたままの無人の中心街の静けさを思い、震災に遭った友人たちの顔を思い浮かべた。石造りの住宅が脆くも崩れ去る光景は、ラクイラに何度か通ったので、容易に想像がついた。
アマトリーチェに知り合いはいないようだったが、近くのテルニやぺスカーラには沢山の友人が暮らしていて、国営ラジオが刻々と伝えるニュースに耳を傾ける。観光客が溢れかえっていたアマトリーチェの街で、瓦礫の下にどれだけの不明者がいるのか予想がつかないと途方に暮れる救助隊の言葉が、ずっと頭の中で反芻している。

 8月某日 三軒茶屋
息子を甘やかすのも良くないと思い、今年は一人で草津の音楽祭に参加させている。同じ、小学六年のとき、ヴァイオリンを習いに出掛けて、タマーシュ・ヴァシャーリが学生オーケストラを指揮していて、みんなでブラームスの1番のピアノ協奏曲など弾いた。当時は同じくらいの小学生、中学生が随分参加していたが、今はそうではなくて、同じくらいの子供は親同伴だとか。時代が変わったのだろう。
死ぬことはないだろうから、適当に放り込んでサバイバル経験をさせればよいと思っていたら、家人はそれでは不安だと言うので、いつも殆ど使わない日本の携帯電話を息子に渡すことにした。

結果家人が何度電話しても、息子は忙しいとか友達と約束とかで殆ど話すことができず、彼女は忸怩たる思いでいるようだし、こちらもこういう時に限って電話を使わなければならないことが重なり、そのたび毎に、電話が通じなかったことを相手に詫びて、息子が草津に持っていて、と説明を余儀なくされている。
何故か一番最後の息子からの連絡は、昼メシを皇后さまと一緒に食べた、という本当なのかにわかに怪しい短い連絡があったきりで、状況が皆目見当もつかないが、兎も角息子がいない状況は同じでも、祖父母に預けるのとはこちらの心持ちがずいぶん違うのは、息子が妙に大人びた声を出しているから。
初めて電話で話したときは、カセルラを早く弾き過ぎとカニーノさんに諌められて、と不満を呟いた。音楽的に弾けない所を、早く弾いて誤魔化そうと思っただけなのだが。まあ息子が家から出てゆくのもあっと言う間だね、と家人と二人(鳩が豆鉄砲を食らったような)顔を見合わせている。こういう時の母親は少し寂しそうだ。

 8月某日 三軒茶屋
台風の影響で、秋吉台から東京に戻る最終の飛行機便は1時間遅れた。機内で広げられるような小さな楽譜ではないので、諦めて熟睡し、帰宅して夜半に譜読みを続けた。
そんな慌ただしい中で、芥川の練習が始まる。鈴木くんの作品は、演奏者が目まぐるしく変化するセクションの構造に、どれだけ早く演奏者を慣らしてゆけるか。渡辺さんの作品は、書き込まれた細かい指示を、どれだけ丁寧に実現できるか。大場さんの作品は、社会にコミットする作品の姿勢を、我々演奏者がどう表現できるか。大西さんの作品は、作曲者が意図している音の具体的なイメージにどれだけ肉薄できるか。当然、それぞれのリハーサルの内容は全く異なったものとなる。

 8月某日 三軒茶屋
芥川の練習の後、三輪さんと和光市駅近くの中華で、紹興酒を互いに酌み交わしつつ話し込む。音楽をつくる意味について。予め頭に浮んだ音響をただ楽譜に書くだけで、演奏者にその行為へ参加させるモチベーションを与えられるか否か。独奏作品や室内楽の場合とオーケストラでは、同じ関係が保てるかどうか。
フォルマント兄弟で最近、ペルゴレージの「スターバトマーテル」を歌わせたという。初音ミクのようなサンプリング音源ではなく、純粋に無から波形の合成によって発生させた声で、宗教曲を歌わせて、そこに宗教的意味は発生するのか。
場末の美味しい中華を食べたい二人の希望は一致していて随分探し回り、果たしてくぐった暖簾は中国人一家の経営。繁盛しているだけに実に美味。ダーロー麺という耳慣れない麺は、とろっとした餡に野菜がたっぷり乗っていて、少しだけ辛味が効いていた。

 8月某日 成田空港
芥川作曲賞の演奏会が無事に終わってレセプションに少しだけ顔を出し、三軒茶屋に荷物を置きシャワーを浴びて、成城のヴィオラの佐々木くん宅に駆けつけたのは夜の9時前だった。今朝、西江さんから佐々木くんの電話番号を貰ったばかりだったけれど、ミラノに戻る前にまどかちゃんに手を合わせたかった。仏壇の前で佐々木くんにかける言葉もあまり見つからないまま、近くのバス通りからタクシーを拾って家に戻った。気がつくと、さっきまで強く打ちつけていた雨は止んでいた。
(8月30日 ラノにて)

グラッソラリー −ない ので ある−(23)

明智尚希

「1月1日:『よく知られた通り、アルコールを急に止めると手足が震える、いわゆる心身譫妄状態になる。離脱症状だ。呂律が回らなくなったり、物忘れがひどくなったりもする。逆に体に悪いような気がするんだけど、そうしなきゃならないみたいだな。それと並行してアルコール外来にも通って、抗酒剤を処方してもらうそうだよ』」。

(((゚Д゚;)y-~ ソワソワ

 まず主人公Aありき。Aに関する説明が次に来る。そして日常生活の紹介。そこで顔見知りであったりなかったりするBの登場じゃ。このBと関連するかしないかしてCが出てきたり出てこなかったりする。やがてインシデント、ハプニング、アフェアーがあって主人公は悩むが、最後は逆転か平凡に終わる。これが小説と呼ばれています。

マ━(*゚Д゚)人(゚Д゚*)━ス!

 風呂上がりにアイニージュー。仲が悪けりゃ笑わせとけ。何事も意志が大事じゃよ意志が。意志を捨てる意志。心のジョギングってのは実に難しいね。だってやり方がさっぱりわからないんだもの。やっぱり心より体だね。肉体。シモの方へ漂流する老人は嫌いかい? お嬢さん。あなたもシモから出てきたんじゃよ。シモン・ド・モンフォール。

うーん・・(〃 ̄ω ̄〃ゞ

「泣く」とは、極度に喜ばしくないことやおかしなことに直面した時、頭部の正面上部の2つの穴の隅から、透明な液体を分泌する生理的反応のことである。後者では、一定のリズムを持った途切れ気味の音声を頭部下部の穴から発し、諸臓器を収めた部位を左右に振ったりよじったりすることや前肢末端部にある器官を打ち鳴らすこともある。

。・°°・(((p(≧□≦)q)))・°°・。ウワーン!!

「1月1日:『抗酒剤って聞くと、アルコールへの欲求を押さえる薬だと思うかもしれないけど、そうではなくて抗酒剤を飲んだあとにアルコールを飲むと、吐き気、頭痛、激しい動悸、めまいがして、言ってみれば苦しめることでアルコールをやめさせようっていう薬なんだよ。地獄のような苦しみらしいよ。名前は忘れちゃったけど』」。

。。゙(ノ><)ノ ヒィ 。。

 最期について考えると、意識の一部と呼べる部分さえ領していないように思われた、現実への妄執に近い頓着に気づかされる。最期へ至る道筋、この瞬間のおのれの状況や状態など現在に端を発しているから厄介で、なかなか最期そのものまで漂着しない。しかし、いよいよその時という場面で、最期に関わる思慮内容などなんの役に立つのか。

シ、シヌ……_(:3 」∠)_

 さすが幸子じゃ。生活世界でソクラテスとT-Rexとはな。リンダの問題、あれはまあキャサリンが何とかするじゃろ。わしゃいっぱしのエロトマニアを気取って、明美にいけいけどんどんでやらずぶったくりの毎日じゃよ。太郎冠者はごめんだね。精子の性染色体がXならXXで女子、YならばXYで男子になるなんて。人間動物園じゃないか。

ε≡’`ァ’`ァ≡o(;*´Д`)o【興奮中】  (゚Д゚;ノ)ノ

 パンチ、キック、ひじ打ち、ひざ蹴りなどで、医師の処方箋なしでも買える青少年向けのクラシック音楽システム。国民全員に番号をふり、拠点空港と地方空港を結ぶ路線などで飛ぶ。英国発祥で、世界11カ国・地域で売られている。女性の高校の進学率が低かった時代は、「市民が銃で武装する権利」を守るロビー活動を活発化させた。

┐(^-^;)┌ さぁ・・?

 わからない事項ばかりが近くにあると、生気が吸い取られる。崖の上にある日常に辿りつくために、疑問と名のつく溝に手足を引っかけなければならない。だがどれも解答と推量がない。これでは不明事項の思う壺である。何一つ確かなものに触れられない時、人間は自暴自棄か無気力になる。不明事項の思う壺は、また少しかさを増すことになる。

モウヤケクソφ(*ーДー)ノホットイテ

「1月1日:『抗酒剤を服用していたとはいえ、当初はそれでも酒を飲み続けて尋常じゃないくらい苦しんだそうだよ。紙パックの小さい日本酒を半分飲んだだけでも、数時間後に胃の中にあったものを全部戻したらしい。しかも駅の階段でな。全部戻すということは抗酒剤も出たわけだから、そこから改めて根性で酒を飲んでいたんだって』」。

o(`・д・´)ノ キアイッ!!

 デンマーク体操にコペンハーゲン解釈にデニッシュロールか。電車の中で大便が出る瞬間の、肛門の感触を大声で話し合ってる女子高生たちにはかなわないわ。ありゃ反則じゃて。こちとらフルーツポンチが精一杯だっつうの。わしも歳を取ったなあ。自分に課した格率がリゾーム状に広がりすぎた。最初はやっぱり話し合いからじゃな。

キャッ ♪(v〃∇〃)ハ(〃∇〃v) キャッ♪

【まああるわなランキング】
第1位:誰かのキャリーケースの後ろを歩きながら二回は蹴った
第2位:イヤホンの絡まったヒモのせいでぐっと血圧が上がる
第3位:エア交際相手がいきなり海外留学
第4位:喫煙所の押し黙った異様な雰囲気
第5位:洋服自体が似合わないのにごちゃごちゃ試着する人

(´゚∀゚`)! アルアル

 思想とは、一個人が世のため人のために思惟するものだと解釈している。思想をする自分自身も考えの対象となる。思想は身体化の促進剤である。主に表情や顔つき、物腰や所作、そして当然発言内容にも露呈する。困るのは思想がない人である。仮にも人間の形をしているのだから何かしら読み取れるはずなのだが、ごく稀に例外と遭遇する。

(・・*)。。oO(思想中)

 チカリタビーでベッドにバタンキューしたいわ。ちょんがーの身分で会社でハッスルしすぎた。金曜の夜ってことで、ナウなヤングもボインもツッパリも渋谷辺りでハッピーなんだろうな。トッポい人はチョメチョメ。あ、ちょっとタンマ。まあいいや。ちなみに俺はテクノカットどえーす。さてドロンするか。とっくりのセーターにチョッキ。

…(;´゜,∀゜)キッィネ;(。´^¬^)チョットネェ(^△^ ;;)ソダネェ …

万華鏡物語(3)恥ずかしい

長谷部千彩

書籍を二冊、並行して作っているため、今年の夏は、加筆修正作業にかかりきり。連載が二本終わったこともあって、新しい原稿はほとんど書かなかった。ウェブマガジンでのブログも七月の頭で止まっている。

ブログについては、こんなはずではなかった。引き受けた当初は、書籍の制作過程のことでも綴れたら、と考えていた。それなりに書く気はあったのだ。でも、いざ、本のことをブログに書こうとすると、なんだか無性に恥ずかしい。なぜかわからないけれど、私は、本を出版することに恥ずかしさ、照れくささを感じてしまうのだ。

そういえば、最近、対談記事に添える写真を撮ってもらったのだが、そのときも恥ずかしかった。恥ずかしくて、恥ずかしくて、無事、撮影は済んだものの、写真の笑顔は―余裕などではなく―どう見ても照れ笑いだ。

自分の書いたもの、自分が写っているもの、本当は自分自身の存在にさえも、私はいつもどこか恥ずかしさ、照れくささを覚えている。ゴダールの映画に、恥という概念が人間の行動の枠を決める、というような台詞があった。その通りだと思う。私はいろいろ恥ずかしい。自意識過剰と言われればそれまでだが、あれもこれも恥ずかしい。恥ずかしいと感じるがために、小さい人生を送っている。ゴダール流に言うならば、小さな枠の中で生きている。

江利チエミのサザエさん

若松恵子

日本映画チャンネルの蔵出し名画座スペシャルとして、江利チエミ主演のサザエさんシリーズ全10作品が、4月から順番に毎月1作品ずつ放映されている。ビデオ化されていない映画で、視聴者からのリクエストも多かったという。日本映画チャンネルの鳴り物入りのCMを見て、何となく4月の第1作を見てみたのだけれど、思いがけない面白さがあって、以降、毎月楽しみに見ている。

第1作は1956年製作の白黒だ。磯野波平が藤原鎌足、フネが清川虹子、ワカメが松島トモ子、ノリスケが仲代達也、「クイズグランプリ」で知っていた小泉博がマスオさんだ。もう少しあとの時代の彼らを子ども時代の私はテレビで見ているのだけれど、その時抱いてしまったイメージよりもみんな若くて初々しくて、そんな印象の落差もまた、この作品を面白いと感じた理由なのかもしれない。

江利チエミの生まれ年を確かめてみると、映画が作られた当時、彼女自身も20歳くらいでサザエさんと同年代だ。その後の彼女の不幸を知ると、この頃の彼女はスターとして輝きに満ちた順風満帆の時代だったのだと分かる。無邪気で曇りのないかわいらしさが映画を盛り立てている。歌う場面が必ず出てくるのだけれど、しっかりした大人っぽい歌唱力もまた魅力だ。清川虹子もやわらかい、娘をかわいがる母親として登場している。呼び捨てではなく「サザエさん」と呼んでいるのにびっくりする。波平もちっともカミナリおやじではない。その反面、カツオのいたずらは遠慮容赦なく盛大だ。自己規制しない、いたずら小僧で子どもらしい。磯野家の家族会議の場面が何回か出てくるのも新鮮だった。順番で議長を回していて、ワカメが立派に議長を務めていたりする。今のアニメのサザエさんは、波平が家長として仕切ってる感じがするけれど、藤原鎌足の波平は、こまった顔も平気で見せてしまう少し頼りない感じの父親で好感を持つ。戦後民主主義の影響が色濃いのか、磯野家のイメージは今とは違っている。

実写版なので、当時の東京の姿を見ることができるのも面白い。家のつくり、庭や垣根、舗装されていない道路、バス停、人々の髪型や服装、ご用聞きのサブちゃんの前掛けや自転車、デパート・・・。今は無くなってしまった良きもの達もたくさん出てくる。第10作が作られた1961年もまだ私が生まれる前だ。

8月に放映された第5作でサザエさんはやっとマスオさんと結婚した。マスオさんの故郷、北海道で結婚式をする事になり、北海道に出発する前夜、近所の人たちと祝いの宴をする磯野家のうれし寂しい場面で映画は終わる。部屋に掛けられた花嫁衣裳が写されるだけで、花嫁衣装を着た江利チエミに挨拶させたりしない演出がさりげなくて、しゃれているなと思った。シリーズものの宿命で、マンネリしていくのか、面白いまま走り抜くのか、来年1月まで続く放送が楽しみだ。

葡萄酒のことなど

大野晋

まず、「など」の方から。

ほんの少しのご無沙汰で、信州小諸の懐古園にある蕎麦屋 草笛本店に顔を出したら、バラックのような建物がきれいになっていて驚いた。そばの味は変化なかったのでよかったのだが、いきなりの変化はびっくりを超越していた。昔の汚い建物も好きだったんだけどな。

さて、ひょんなことから、日本のワインに興味を思った。正確に言うと全く興味がなかったわけではないけれど、面白そうだと腰を落ち着けて追いかけてみる気になった。

東京モノの私は身内に酒飲みがいなかったこともあり、ぼんやりと葡萄は山梨、ワインは山梨という印象を思っていた。これは小さな頃、学校の林間学校で行った清里からの帰りに毎回買い込んだ葡萄屋(当時、中央自動車道もなかった頃の清里へのバス旅行は途中でトイレ休憩もかねて、必ず勝沼あたりの葡萄園というか、葡萄棚を吊った売店に立ち寄るのが普通だった。この頃のなごりはまだ勝沼周辺の街道筋にわずかながら残っている)の葡萄ジュースの印象が強かったからに違いない。

その後、進学した信州で初めて、塩尻の大規模な葡萄農園や地域限定の葡萄の産地(松本郊外の山辺地区は上質な葡萄が取れることで地元では知られている。ただし、ほぼ100%を地元で消費するためにあまり県外で知る人は少ない。)などを知っていくのだが。

当時のワインにした葡萄は、ベリーAや甲州、ナイアガラや生食にもするデラウェア、巨峰などを使っているのが普通で、まだ、欧州の葡萄を日本で本格的に育てるまではいっていなかったように記憶している。農産物の輸入解禁がテレビを騒がせていた時代で、低価格の海外産のフルーツに奪われる市場で、いかに日本の葡萄の流通経路を広げるかといった観点が一般の人の観点だった時代。

そんな時代に、アルコール度数の少ないワインを楽しむ理由は、信州限定商品を探し出して買い込むことだった。必ず秋になると近所のスーパーの酒屋にメルシャンの信州限定品で「桔梗が原ロゼ」と「善光寺平竜眼」という2種類のワインが並ぶのを楽しみにしていた。まあ、当時の学生のコンパでは、もっとコストパフォーマンスのよい一升瓶ワインが活躍するのが普通だった時代の密かな楽しみである。

さて、その後、よく調べてみると、メルシャンの桔梗が原の農場では、欧米に認められるワインを作るべく、メルローという欧州種の葡萄の栽培を始めていた時代と重なっていて、もしかすると試験栽培されていたメルローの使い道があのロゼだったのかもしれないとふと考えた。

一方の竜眼は、甲州と並ぶ日本の固有品種で、もとは明治時代に中国から輸入された竜眼葡萄らしいと言われているけれど、その後、忘れ去られて、1970年代には細々と長野市周辺に残って、善光寺葡萄などとも呼ばれていたという話を最近知った。善光寺平は今の千曲地区を指すのだろうから、当時、白ワインの原料品種の育成に、メルシャンが千曲地区で乗り出していたのかと思ったりした。

1980年代にはそんな感じだった信州のワイン造りだが、今は隔世の感がある。

今年開かれたサミットで各国の首脳に出されたワインのいくつかは、それこそ、善光寺平周辺で作られた葡萄を使って作られているし、桔梗が原で作られたメルローの赤葡萄酒は過去何回も国際コンクールで金賞を受賞して今や幻のワインになっている。限定品だった竜眼葡萄の白葡萄酒は、いまや信州を代表するローカル商品として、いくつもの醸造所で作られている。

そんな様子を見るにつけ、原酒の枯渇というとんでもない事態を招いたジャパニーズウイスキーブームの次は、日本ワインではないかと強く思うのだった。というか、すでに人気商品は入手困難になりつつありますけどね。今のうちにいろいろと飲んでおくと面白いですよ。

ゴジラとオロチ

冨岡三智

先月、関西のりんくうタウンで「シン・ゴジラ」を見る。巨大不明生物ということで、真っ先にヤマタノオロチが思い浮かぶ。実は、2008年に石見神楽とジャワ舞踊のコラボレーションをやったことがある(水牛2008年7月号)。神楽のオロチは当然等身大なのだけれど、古代の人はオロチのサイズをどれくらいに想像していたのだろう。

シン・ゴジラの身長は118.5mで、1階3mとして概算すると40階建くらいか。だが、初代ゴジラ(1954年)は50mと今の半分以下だったらしい。ちなみに、高さ制限のある奈良市内では最も高層の建物で46m(ホテル日航奈良)。1954年当時、首都圏でも50mのゴジラは巨大に見えたのだろう。ところで、古代の出雲大社は48mあったとされる。3本の太い柱を一組にした柱根が見つかっているから、現実味があるようだ。その当時に初代ゴジラサイズの建築を目指したとすれば、出雲政権は大和朝廷にとってゴジラなみの脅威だったに違いない。ヤマタノオロチもそれくらいのサイズだったろうか…。

カナカナ

時里二郎

目が覚めると
カナカナの すずふるような声が
しろじろと聞こえてくる
三つ、四つ、それ以上ではない
声は同じ調子で
ゆめのほうから追いかけてきたようにも
うつつのほうからやってきたようにも・・・

伯母はにべもなくさえぎって言う
―名井島にはセミはいない

ねつのない小さなほのおのような声の穂先がそれぞれにあって
そこにしがみついているものがいる

―それが「セミ」だと言うのなら そうかもしれない 

―聞こえないはずのものが聞こえるのは
あなたが病んでいるから

声の穂先のさきにいるセミ

―「ゆめ」を見るように《改良》されたアンドロイドなら
「セミ」は持っているものよ
あなたの場合は 生まれた時から
「カナカナのすずふるような声」が
「ゆめ」と「うつつ」をゆききしているのはたしかなこと

カナカナの声が聞こえるのがどうしていけないの?

―聞こえる必要がないから と伯母は微笑んでこたえたあと

―その聞こえないはずの信号音をカナカナの「すずふるような声」だと知覚したときにあなたが感覚したことをもう一度いってごらんなさい

「ネツノナイ チイサナ ホノオ ノ ヨウ ナ コエ ノ ホ サ キ ガ・・・」

―アンドロイドは 病むと コトバのあとを追いかける

ヒトのように

ふたつ並んだ墓

植松眞人

 久義丈治郎と高梁すえは第二次大戦が終わる直前に結婚した。食べるものにも事欠く生活のなかで、たがいに一緒になれば少しは食べ物を融通してくれるだろうと思っていた、というのだから呑気というのか考えが浅いというのか。
 しかし、同じ程度に貧しかったからこそ、思惑がはずれても互いを責めることも恨むこともなく傷をなめ合うように暮らすことが出来たのかも知れない。
 二人の営みは三男四女をもうけて苦しいながらも家庭というかたちをこしらえたのだが、丈治郎が五十を迎える頃に彼の浮気によって崩壊した。今とは違い、男の浮気には寛大な時代ではあったが、さすがに家族で暮らしている、わずか数軒先の文化住宅に愛人と居を構え、しかもその愛人が妻すえの古くからの友人となると話は変わってくる。
 二人はきっぱりと離婚して、同じ市内の同じ町内に暮らし続けた。丈治郎はもともと大らかというのか、深く考えないというのか、ときおり突拍子もないことをしでかす性質をもっていたのだが、離婚して愛人と暮らしはじめても、すえと子どもたちが暮らす、もともと自分が建てた家にしょっちゅう現れた。
 最初のうち、すえは丈治郎がやってくると家を明けたりしていたが、途中から口は聞かないまでも、顔を合わせても平気になり、子どもたちなどは「お父ちゃん」と呼びながら、「また来てね」と送り出すようになった。
 しかし、そんな丈治郎も酒と煙草のやりすぎが祟ったのか、七十を迎える直前に亡くなってしまった。すえは丈治郎の葬儀をきちんと自分の家で出してやり、そのときに愛人を座敷にあげてやったまではよかったが、最後の最後、我慢が効かなくなり、村の焼き場に棺桶を運び出す段になって、嘆き悲しむ愛人を手厳しく言い込めて文化住宅に帰らせたことは後々まで語りぐさとなった。
 それから三十年近く生きたすえは大往生で逝き、それぞれに家庭をもった息子と娘たちは、父の墓のとなりに母の墓を建ててやることにした。「なんだかんだ言いながら、なかのいい夫婦だったんよ」という長兄の言い分が通ったというかたちだった。もちろん、兄弟の中には反対するものもいた。「いくらなんでも、離婚した夫婦がなんぼ墓に入ったからって、隣どうしはちょっと」というもっともな意見だった。
 しかし、そんな反対意見があったからだろうか。すえが逝って、十年が経った頃のこと。長兄がいらぬことをした。墓を隣どうしに建てるだけではなく、それぞれの遺骨をほんの少しずつ混ぜたのだ。
 ことの真偽は、長兄が亡くなったいまとなってはわからない。しかし、長兄に頼まれたという住職が「わしは反対したんじゃが」と近所のスナックでチーママ相手に話していたらしい。
 それから、久義の家にも高梁の家にもろくなことが起こらなくなった。怪我をする者、離婚をする者、事故を起こす者、病気になる者が続出し、ここ数年は若い者から年寄りまで不思議なほどに亡くなる始末だ。
 それでも、いまさら墓を動かしたり、遺骨をもとに戻したりすることもできないので、まだ存命中の息子娘五人は、主に母すえが眠る高梁の家の墓を念入りに拝むのである。(了)

『チリの闘い』を見て

高橋悠治

9月10日から上映されるパトリシオ・グスマンの記録映画『チリの闘い』三部作 (1975-1978) ここでは試写用DVDで見て思ったこといくつか

労働者たちのそれぞれにちがう いきいきした表情 はてしない討論 だれも経験したことのない日々 これからどうするか 予想できなかった問題と解決のむつかしさ ちがう意見がぶつかりあいながら なんとか切りぬける 一生のあいだに出会うか出会わないかの 忘れられない日々 締めつけていた力がおもいがけなく外れ 解放されて 感じたことを自由に言える場が生まれた やるべきことは多く 時間がたりない いつもの暮らしのなかに突然空白の場所が現れる でも それこそが自分たちの空間 それをまた失わないために 何をする

政党の指導で権力を奪い取るだけでは終わらない そこからが課題のはじまり 次々に起こる問題の現場で グループが生まれ一時的なつながりを作って 毎日の小さなできごとにすばやく対応しながら しごとの場に討論の時間をかさねて 実験をつづけていく いったん遠のいた資本の圧力は 遠巻きの輪を縮めてくる   

選挙で大統領に選ばれた社会主義者のアジェンデは 自律的大衆運動と保守派の支配する議会のあいだで板挟みになる 代表民主制度の限界を越えるのはむつかしい アジェンデを支えるのは工場労働者たちだが デモに参加するのは若い男が多く 女たちは配給の列に並んだり生活に追われている 先住民の姿はほとんど見えない これが1970年代の運動状況だった

いままでの社会主義組織の「団結と統一」ではやっていけないとわかってくるが 選んだ現場の代表が官僚主義に染まることもある 左派と右派の両側で 拳を上げて叫ぶ演説の ことばはますます激しく 現実はゆっくりとしか動かない そうなると 警察や軍隊の武器や暴力が勝つ場面が増えていく

チリのクーデターの後に支援コンサートがあって 加藤登紀子に誘われて出演した 3年後にタイのクーデターがあった その後で作った「水牛楽団」は ビクトル・ハラやビオレータ・パラの作ったチリの新しい歌を またタイの民主化運動のなかでうまれたカラワン楽団の歌を日本語にしてうたう ささやかな活動を数年間つづけた この映画の第3部に流れる『ベンセレーモス』や『不屈の民』もその頃知った歌だった ピアノでは ともだちのフレデリック・ジェフスキーが書いた1時間もかかる『不屈の民変奏曲』を弾き 林光が来て元歌を歌ってくれた 二人で九州の高千穂まで行ったこともあった 

20世紀の革命も二度の世界大戦も いま振り返って こうすればよかった あの判断は誤りだった と言うことはできる でもその時には 以前から引き継いだ問題が残っていて いままでの考えかたや感じかたではもうやっていけないことはわかっても ではどうすればいいのか ちがう意見がぶつかり 折り合いをつけて なんとか毎日を切りぬけるとしても 迫ってくるもっと大きな暴力に対抗する余力あっただろうか
 
音楽では 声をそろえて行進のリズムで高まる1930年代までの革命歌のスタイルは いまでは右翼や軍靴のリズムと区別がつかなくなってしまった ブレヒトとアイスラーのむだがなく甘さのない知的なリリシズムはあの時代の高揚した気分をよく伝えてはいるが いまでは「団結した人民は決して破れない」とはうたえないだろう 解放の日々は短く 抑圧の波が揺りかえし 逮捕・虐殺 数えきれない敗北と失望とをくぐって 小さな変化でやっと息がつける日々 それもまたすりへっていく

1824年9月 メッテルニヒ体制のウィーンからスウェーデンにいた友人へのてがみに フランツ・シューベルトは自作の詩を添えた 《Klage an das Volk 民衆への嘆き(訴え)》と題して 「時代の青春は終わった 無数の民衆の力も使い果たされ……若い日の行動を夢に見る」 そして 「芸術だけが時代の姿を描き 運命と和解する力をもたらす」 燠火のように灰のなかに眠っている種子がある と言いたかったのか 数年後この時代の気分をミュラーの詩に発見して 『冬の旅』が生まれた

一枚岩でなく さまざまな立場のちがいと矛盾を活かせる運動のために まだまだ模索がつづく 革命歌の足並みそろえた行進のリズムではなく やわらかく自由な風が吹きすぎるビクトル・ハラの歌 女たちのくるしい生活の声がきこえるビオレータ・パラの歌 牛車のゆったりした歩みのようなカラワンの歌は 20世紀の冬の旅の記録と夢 種子はどこで目覚めるのだろう

2016年9月1日(木)

水牛だより

異例のコースをたどった台風11号が過ぎてゆき、夏のしっぽが意外に長そうな気配の9月が始まりました。ラム酒をくぐらせた西瓜をたっぷりと食べおえて、次は葡萄だな、と思うちょうどそのような季節です。

「水牛のように」を2016年9月号に更新しました。
杉山洋一さんは毎年8月はたいてい日本にいるので、一度は会って呑んだり食べたりしながら話す機会をつくり、ついでに来られそうな水牛の執筆陣にも声をかけるのを楽しい恒例にしていました。が、今年はその時間がありませんでした。忙しすぎるのは今年かぎりにしてほしいものです。
「恥ずかしい」長谷部さんは新しく出る本のタイトルすら書いていませんが、1冊は『メモランダム』(河出書房新社 9/21)です。

夏の盛りに、はじめて夕食をともにした女性はいまや絶滅危惧種のヘビースモーカーでした。食事中にも席を立って、煙草を吸いに外に出ていくほど。雨上がりの帰り道で聞いたら、一日4箱くらい吸うとのことで、世の中の趨勢とは逆に、少しうらやましくなってしまいました。お酒も強くて、食後のマールはいっしょに飲みました。昔の映画を観ると、煙草とお酒はストーリーにもスクリーンにも魅力を添えるものだと感じることが多く、あの夜のひとときもそうした映画のなかのワン・シーンのようでもあったのでした。

それではまた。(八巻美恵)

141 悲し

藤井貞和

人性(にんしょう)ここに至る、心神衰え、
無惨(むぞう)よ、いまきみを抱く涙すうこう。
うしなうわれら、何に愛(かな)しと言おう。
ことばよ、空しく走(か)け去って応えはない。(律詩)

(はくらくてんよ、きみならどううたうか。げんだいに遺されたわれらは、われらであることを遂げえない。きょう、『詩選』を贈られて心豊かでありたいのに、ざんにんなじけんに向き合わねばならないと。ちていにこえを知るひとのかずもまたなくなる。)

しもた屋之噺(175)

杉山洋一

余りに慌ただしく一ヵ月が過ぎて、久しぶりに戻った東京は思いの外涼しい日でしたが、数日して梅雨が明け、いつもの夏らしさが戻ってきました。一カ月の日記を読み返すと、本当に血腥い事件が続きました。ルーアンの教会テロ報道の傍らに、戦争ゲームの宣伝が眩しく点滅していて、いかに興奮が味わえるか謳っている。もしかして、我々の感覚はどこか末端から麻痺しているのかもしれない、ふとそう思いました。

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 7月某日 ミラノ自宅
朝起きると、庭の三和土で息絶えていた小鳥を埋めた穴の上に、兄弟なのか同じ小鳥が群れている。偶然か。
隣の部屋で愚息がカセルラの「11の子供のための小品」をさらっているのが聞こえる。1曲目が「子供と魔法」の冒頭に酷似していると繰返していて、初めは笑って聞き流していたが、聴き返す程に、なるほど好く似ている。
彼には最近Aちゃんというガールフレンドが出来て、メッセージのやり取りに勤しんでいる。親に見られないよう電話に暗証番号を設定しようとして壊れて、泣いている。庭に出ると、どこから飛んできたのか紙飛行機が落ちていて、「Aちゃん、僕の電話こわれちゃった」と書いてある。

 7月某日 ミラノ自宅
愚息が壊した携帯電話を携えパドヴァ通りへ向かう。この界隈は少し秋葉原に似て、中国人やアラブ人らの電化製品修理店が軒を並べる。想像通り修理は不可能と言われ、落胆しつつ、帰りしな隣のモンツァ通り54番地市営市場の食堂で昼食を摂る。ミラノの市営市場は何箇所かあって、どこも似たような巨大なプレハブの建物で、ちょっと味気ない。要は、元来の市場の上にトタン屋根をつけて、周りもプレハブで囲った塩梅だ。日本の何某青果市場の開放感はなく、小さい店が犇めく。本来賑々しいはずだが、土曜で市が休みだったせいで閑散としている。

食堂の屋号「La Taberna Dei Terroni」を敢えて訳せば「南方野人亭」。「野人亭」はその一角、4、5区画分ほど買い上げ、市場の通路にテーブルを並べて食べさせる。魚介類のシャラテルリを食べ、主菜替りにプーリアのチーズ、ブルラータを頂くと、なかなか美味であった。
偶然「野人亭」の斜向かいに住むパオロ曰く、商売の仕方がマフィアのようでお気に召さないようだが、ミラノのどこも中国人経営者にすげ替わる昨今、まだイタリア人が買占める方が良くはないか。中国人を別段悪く思いもしないけれど、近所の喫茶店もタバコ屋もピザ屋も洗濯屋も洋服の仕立て直しも美容院もサッカーチームも、中国人に買い取られてしまうと、やはり少し寂しい。20年前のような街角に立つ妙齢の姿がめっきり減った代りに、夜になると50メートル毎に「中華式按摩中心」というネオンが点滅する。

 7月某日 ボローニャ行列車中
ラヴェンナに息子たちの演奏会を聴きに来た。合唱団の子供たちと一緒に早めの夕食。食卓を共にしたエンマの父親ジョゼッペより、こんこんと血液型ダイエットの説明を受ける。それによると我らO型は殆ど何も食べられないらしい。因みに息子の血液型は未だに知らない。イタリアでは輸血のたびに血液検査をするそうなので、特に知る必要にも迫られない。ジョゼッペ曰く、ダイエットを数年来実行していて、頗る快適に暮らしているらしいので、大変結構なことだ。日本人も血液型占い大好きだろうと言われ、返答に困る。

ムーティが「君が代」の前奏を振り始めると、雄々しく勇壮な響きに驚く。合唱が入ると、発声と発音に依るのか、イタリアオペラを切り出したような響きが沸き上がる。あれを聴くと、我々の声色は朗詠風。朗詠文化で西洋音楽をやるのも興味深い、と内心北叟笑む。北叟と言えば塞翁ヶ馬。朗詠文化でもまた面白いアプローチは生れるかも知れない。

演奏会後に話していて「君が代」の後で歌ったイタリア国歌斉唱で、エンマは泪がこぼれたという。息子曰く「君が代」は歌詞がむつかしく、なかなか覚えられなかったそうだ。稽古の後に迎えにゆくと、子供たちが口々に「君が代」を歌いながら歩いていて、それが薄暗いミラノ旧市街の、細い石畳の露地に甲高く響き渡るのは、何とも不思議な光景だった。
ムーティが振る期待通り「メフィストフェレス」は圧巻だった。最初の音とり練習から子供たちも「メフィストフェレス」に興奮していたが、めくるめく音の渦中、児童合唱が鮮明に浮き上がる様にも鳥肌が立つ。これほど素晴らしい作曲家でありながら、ボイトは何故筆を折ったのか、理解できない。
指揮者は凄かった! 上手かった! 怖かった! というのが子供たちの感想。

 7月某日 ミラノ自宅
一人で日本へ発つ愚息を空港へ送りに行き、そのまま合唱団の制服を劇場に返却して帰宅。ダッカやイラクでテロが相次いだので、空港や劇場は警備が特に物々しく、息子を連れて歩きながら恐怖を覚える。とんでもない時代になった。
夜更け、イタリア国営放送文化ラジオでアルフォンソと一緒に電話インタビュー。23時半くらいにローマ局から電話が掛かり、5分程でインタビューが始まる。打合せなしの生放送インタビューは何度やっても厭なものだが、15分ほどで無事終了後、アルフォンソよりうまくいったねと電話。ガスリーニが死の直前「そろそろジャズから離れて作曲に没頭したい」と語った逸話は心に染みた。その直後階段から落ちて怪我するなど想像もしなかったろうし、まさかそれが死に繋がることになろうとは、想像もしていなかったろう。一期一会。

 7月某日 ミラノ自宅
O作品譜割り終了。使われている素材は特殊だが、最後に冒頭と全く同じ再現部がある。今回は前半のは演奏できないが、一度全曲を通して聞いてみたいと思う。気が付くと伊語で独りごちていて、音楽を考えるとき際の思考は日本語ではないらしい。
ダラスで警官に発砲。血を血で洗うとはこのこと。イスラムの宗教対立にしても、人種問題にしても、ISのテロにしても、全て悪化の一途を辿る。こんな時に音楽なんて何の役にも立たず、虚しい。
庭に水を撒く。15分毎にタイマーをかけ、散水器の位置を変える。家に入ろうとして、線路の向こうを見ると、二匹の蛍が戯れながら光っている。神秘的な輝き。音も光も匂いも何もかも、その昔はずっと幽玄な存在だったに違いない。それぞれの音はそれぞれの世界を内包し、各々の世界は別の世界と繋がっていたに違いない。一つの音に、聴き手は無限の世界を感じ取ったに違いない。

 7月某日 ミラノ自宅
税理士に送る電子請求書のデータを用意するためコンピュータのクラウドを開くと、息子のクラウドが開いたままになっていて、いきなり中の音楽が鳴り出して愕く。それが荒井由実の「飛行機雲」だったので2度愕く。
サンタゴスティーノ駅前の喫茶店で、パリからやってきた北爪くんと会う。ご両親の愉快な四方山話に花が咲き、時間を忘れて話し込む。息子の目からは親はそう見えるのだろう。あと10年もすると、息子は我々について何の話をしているのだろう。後で今堀君がやって来たが、学校で会う時の装いとはまるで別人で、外出時のお洒落は華やいでいた。

 7月某日 ミラノ自宅
アリアンナがハイドンの「告別」をレッスンに持って来る。悠治さんから頂いた「ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む」を思い出しながら、「疾風怒涛Sturm und Drang」について話す。「告別」のような、奇想天外な発想を把握するにあたり、無意識に既成概念に捕われる自分の思考の凡庸さに多少の落胆を覚えつつ、かかる思考があってこそ、作品の豊かさが漸く理解できる、有益なる平板さも存在するだろうと自らを慰める。

ハイドンの小節構造は複雑、寧ろ自由なので、彼女が先に和声分析をしてフレーズを捉えようとすると、音を出した途端に道に迷ってしまう。予め一定の小節構造を自分なりに決めた上で和声分析をすれば、一つの拠り所にはなるだろうし、たとえ当初設定した小節構造が和声分析の結果、納得いかなくなって直したとしても、その部分にこそ面白みが詰まっていることが多い。特に2楽章などそれが顕著だろう。メヌエットの字余りのフレーズは、時間が永遠に止まったように見える。

夜、自転車で中華を食べに出かけると、家の前で小学生くらいのジプシーの少年3人組が、交通標識に繋がれた自転車を盗ろうとしていた。目が合うと笑いながら逃げていった。楽しくて仕方がないという風情で鍵を外そうとしているのが印象的だった。ここ数日酷い夕立が続いていたので、今日の星空はミラノとは思えない満天の星に、澄み切った空気。

買い物ついでに角の中国人喫茶店に顔を出す。そこの息子は今度小学5年生だが、秋から中国に戻り小学1年生に編入されると云う。「だって中国語が出来ないと困るでしょう。中国語の勉強のためよ。1年生に戻るのを嫌がっているかって? とんでもない、大喜びでこちらが恥ずかしくなっちゃう。困ったものよ」。ミラノの中国人学校では、本場の勉強は学べないという。「中国の勉強は厳しいからね」。

トルコのクーデター失敗で300人弱の死者、ニースの花火大会にトラックが乱入し、80人強の死者との報道。何故、子供たちは嬉々として自転車を盗もうとするのだろう、そう思いながら帰宅すると、隣のバプテスト教会から、大声で罵られながら彼らが追い出されてきたところだった。少年たちの顔は、相変わらず何とも言えぬ、だらしない笑いを湛えていた。

 7月某日 ミラノ自宅
朝、前に通ってきていた啄木鳥が戻ってきた。前と同じ樹を穿つ、乾き少しくすんだ音が庭に響く。どのように同じ場所に戻れるのか暫く考えた後、空から眺める我々の景色を思い浮かべる。
松平敬さんから、低音デュオが演奏した「かなしみにくれる」のヴィデオが届き、何も考えず無心で聴き通す。これを2年前に書いた頃、確かにガザ侵攻に心を痛めていたけれど、あの時よりずっと世界の状況は悪くなった。今この作品を聴くと、どれ程楽観的でロマンティックかと唖然とする。当時テロリズムの危惧は現在よりずっと限定的だった。誰もが世界を良くしなければと話していたが、音楽で社会に訴えられるものなど存在しないのだろうか、気分が塞ぐ。松平さんと橋本さんの演奏で、空間に浮き漂う、有機的沈黙の計り知れない重さ。例え作品には価値はなくても、生れる音に宿るものは多分何かきっとある。

 7月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの空港へ向かいながら、タクシーの運転手と話し込む。初めタクシーに乗り込んだ時に、英語放送のラジオがかかっていたのでおやと思ったが、彼は数年前まで製薬会社の役員だったが、不況で会社が潰れタクシーの運転手を始めたという。50歳近くに会社から放り出されるとどこにも再就職など出来る筈もなく、タクシーを使う側だったのが、ハンドルを握る立場へと逆転してしまって、とこぼす。誰かに話したかったのだろうか。降りようとすると、私のつまらない話を聞いて下さってどうも有難うございます、と繰り返した。

東京に着いた日の夜、安江さんのリサイタルに出かける。「ツリーネーション」で、今の自分とは全く違う作曲の意志に少し戸惑う。同じように社会参加を意識していても、ずっと肯定的で動的だった。演奏は素晴らしく、最後のオルゴールも微風が立ち昇る錯覚を覚える。演奏のお陰で音楽がすっかり骨太になった。とてもあの頃の時間が遠く感じられる。今自分が書こうとしているのは、夜の風景。外に発散される音ではなく、裡に打ち響く音。自らを知るために響く打音。

 7月某日 三軒茶屋自宅
白河に出向く。最初に葉の木平の大規模地滑りが起きた場所跡に、今年の3・11に祈念公園が作られた。一緒に同行してくれたSさんは、知人がここで命を落としていて、震災後今まで一度も訪れることが出来ないまま、この場所を避けていた、と声を潜めて話した。それから訪れた、端正に並ぶ仮設住宅も、確かどこかのニュースで見た。結局この目で見なければ、何も実際のところ理解していない。

南湖を前にして、松平定信が影響を受けた、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を思う。「洞庭湖の遥か西に楚江の流れをみとめ、南の水が尽きるあたりに目を転じれば雲一つなく」と始まる澄み切った描写は、「明るい水鏡が、彩りから君山を描き出す」と結ばれる。初めてこの句を読んだ時の感動と驚きに、思いもかけぬところで再会した。

自分が育った相模原で起きた事件をラジオで聞き、耳を疑う。その後の報道で容疑者が「身障者」という言葉を使うようになり、虚を突かれた思いに駆られたのは、自分だけだろうか。

(7月30日 三軒茶屋自宅にて)

つむ

時里二郎

どこの山寺の 
ナツツバキの花の
帰り道か 
地に落ちた その浮きたつ白も
とおい記憶のうすやみにまぎれて

誰かの弔いだったかもしれない
寝覚めの幼い僧が はなしてしまったひものさきに
結わえられていたはずのことども

あるいは こんなはなしだったかもしれない
幼い僧の名を つむ と言った
人形だが ことばを話す
亡くなった幼児を忘れがたく
親はそのしあわせをほとけにゆだねて
幼い僧の人形に 黄なる僧衣を染めて仕立て 
その山寺にあずけたのである
三年は会うことが許されず
年季あけにと
山門を敲くと そんな幼僧はしらぬという
夢でもごらんになったかと

つむ つむよ と境内をさまよううち
見上げるばかりのナツツバキに 白い花の群れ咲いて
ふと まばゆいひかりの花を見つけたと思うや
足裏に はふっとした感触が 
感覚されない痛みの芯を突いた

見れば ナツツバキの躙られた花
親は つむなるらんと あたりの土ごと掬って てのひらにのせる
つむ つむよと ほおにすりつけて 泣きかなしめども
土によごれて潰れた白い花の応えるはずもなく
掬いとった土ごとの花を懐紙に包んで 
山寺を辞す

帰り道 述懐するに
山寺につむをあずけたときから
ほとけにつむのしあわせをゆだねたのではなかったかと
むしろ じんかいの世にあるものに触るるは つむのしあわせに障る
それが踏みにじったナツツバキの花であったと
うち萎れて 家にもどり 
懐紙のつむを供養しようと ふところを探れど 
懐紙はうすいままに 潰れた花も土も消えている
こはいかにと つぶさに見れば
ましろい紙片に ナツツバキの蕊(しべ)の粉(こ)の名残か
わずかに 黄なる沁みのうつりてあり

  名井島の小さなお話から

機関車のことなど

大野晋

朝早い電車で1時間ばかり車窓を眺めていると思わぬことに気づくことがある。

小さなとき、住んでいた祖母の家は貨物線の近くだった。定期的にがたごとと貨物列車が通るのを眺めて育った。ときには、お召列車が通ることもあったが、ほとんどの場合には長い貨物列車が通り過ぎた。門前の小僧は毎日列車を見ながら、機関車や貨物車の種類を覚えていった。

機関車の種類は、動力の形式と力を線路に伝える動輪の個数と番号であらわされる。動輪の数は、Aならひとつ、Bなら2つ、Cなら3つという感じで対応している。そして、その前に、電気機関車ならE、ディーゼル機関車ならDの記号が付く。ちなみに、蒸気機関車は記号が付かずにいきなり動輪の数で始まっている。たとえば、D51なら動輪が4つの蒸気機関車。C62なら動輪が3つの蒸気機関車、といった具合で、動輪の少ないものほど速度が重視される旅客用、動輪が多いものは設置面積の多く、より重いものを引っ張る貨物用といった感じで用途が分かれている。

ところで、なぜ、こんな話を思い出したかというと、新川崎に止まった電車の車窓を見ていたら、EHXXXという名前の機関車を見かけたのだ。Eは電気機関車、Hということは動輪が8つ(左右合わせると16個)ということで、車輪だらけの機関車ということになる。実際にはあろうことか、2両が連結された機関車で合わせて8つの動輪がついているという事なのだが、まず、最初から2両連結の機関車が日本にあるという認識がなくてびっくりした。まあ、最近、鉄屋としてはご無沙汰していたということでしょうね。

ということで、近年の不勉強を恥じて、少し鉄分を補充しようかと思う今日この頃です。

アジアのごはん(79)旅先豆乳ヨーグルト

森下ヒバリ

旅先でもおいしい豆乳ヨーグルトを食べたい‥。そう思ってバンコクに来る度にアパートで豆乳ヨーグルトを試し続けてきたが、なかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗である。やっと固まっても、ああ、おいしい!という域に達しない。

バンコクで手に入る豆乳では、卯の花というバンコクの日本人が作っているものがおいしい。が、かなり濃いので飲むにはいいが、ヨーグルトづくりにはちょっと向かない。これで作ると出来上がったものはほとんど豆腐である。いや、これはこれで醤油をかけて食べられるからいいか‥。現地ブランドではOHAYOという看護婦さんの絵のついたものが無調整で品質が良い。これは砂糖入りとなしと2種ある。

肝心のヨーグルトの種であるが、旅先では基本自炊はほとんどしないから、日本で作っている米のとぎ汁から作る乳酸菌発酵液はないし、作ってもいられない。なので、玄米を直接入れて作る方式を試してみたが、臭くなりすぎてどうしようもない。玄米を水につけてつくるリジュベラック水でも試してみたが、常夏の国ゆえか、すぐに臭くなってしまう。白米でやってもだめ。

しかたがないので、豆乳に牛乳ヨーグルトの品質のいいものを混ぜて作っていた。これが一番安定してヨーグルトが出来て、味がましだった。しかし、やはり動物性乳酸菌(動物性食品を好んで繁殖するタイプの乳酸菌をこう呼ぶ)で作ると、ベースが豆乳でもなんか乳臭い。はあ〜、おいしい!と唸りながら食べるぐらいのレベルのさっぱり系豆乳ヨーグルトが作りたいよう。

しかし、ついに旅先で簡単に、しかもおいしく豆乳ヨーグルトを作る方法を見つけた。果物をヨーグルトの種として使うのだ。正確には果物の果肉や皮、種などに住んでいる乳酸菌に働いてもらうということである。日本で、アボカドの種、みかんやゆずの皮を豆乳に入れておくと豆乳ヨーグルトが作れることは知っていたが、米とぎ汁乳酸菌で安定して美味しいヨーグルトが作れるので、お試し程度に数回作ってみただけであった。しかし、米とぎ汁乳酸菌がない旅先でこそ、この方法がいけるじゃないか。問題は南国フルーツでもうまくいくかどうかだ。

さっそく、いつも食べているカットフルーツの店で買った、マンゴーとドラゴンフルーツの切り身をそれぞれ豆乳に投入。半日後、見事に固まった。どちらもちゃんとヨーグルトになっている。すばらしいぞ、南国フルーツ! マンゴーの熟れた切り身を入れた方はなぜかゼリーのようにぷるんぷるん。味はドラゴンフルーツの方が酸味がありおいしい。

これは楽しい。フルーツによって味がかなり違ってくるのだ。フルーツについている乳酸菌の種類に違いがあるということだろう。面白いのでいろいろ試してみた。

アボカドの種‥洗わずに入れる。なかなかコクのあるまったりとしたおいしいのができる。固まるまで他のフルーツより少し時間がかかるが。ただし、タイでは輸入品のアボカドは日本よりも高い。1個250〜300円もする。今回は雨季のチェンマイ産の安くて大きなアボカドが出回っていて、それで作ってみた。チェンマイ産は果肉があまり脂こくなくフレッシュな感じでおいしい。
熟したパパイヤ‥ん〜、一応ヨーグルトにはなるが、そっけない味。
バナナ‥え、なんでこんなにまずいの。バナナの果肉が時間とともに臭くなるせいかもしれない。これは食べられない。生のバナナをヨーグルトに混ぜてシェイクするバナナ・ラッシーはとてもおいしいのに、この味の落差はけっこうショック。バナナは出来上がったヨーグルトに混ぜて食べよう。
デーツ‥ナツメヤシの実を干したものである。これはなかなかコクがあっておいしい。ドライフルーツなので、移動の多い時にも携帯できて便利。ヨーグルトが出来たあとの実も柔らかくなっておいしい。干しアンズなどもおいしそう。
パイナップル‥酵素が多いから固まらないかも、と心配したがするっとヨーグルトになった。パイナップルの酸味と香りが生きておいしいのができた。

果物種のヨーグルトはあまり種継できない。出来上がったヨーグルトを少量取ってヨーグルトを作るのは、せいぜい2〜3回が限度。でも、いくらでも種は新しく作れるので、あえて種継にこだわることもない。

日本でも米とぎ汁から乳酸菌液を作って豆乳ヨーグルトを作る、という工程が面倒であるとか、培養に自信がないとかいう人には大変おすすめの方法である。南国フルーツでなくてもまったくかまわない。果物の皮でもいいので、まずは無調整の豆乳を用意して、お試しあれ。まずは少なめの豆乳でやってみると早くヨーグルトが出来る。コップや適当な容器に100〜200mlの豆乳を入れて、さっき食べた果物の残りの切れ端や皮を(皮の場合はなるべく無農薬のものが望ましい)1〜2切れ入れて軽く蓋をして、今の季節なら部屋に置いて半日〜、寝るまでに固まらなかったら冷蔵庫に入れる、と出来上がり。少しとろっとしたあたりで冷蔵庫に入れて冷やすといい感じに出来上がる。感じがつかめたら量を増やせばいい。

夏は、うっかり長い間室温に置いておくとすぐ過発酵してしまうので要注意だ。分離してしまっても、かき混ぜて食べれるが、ちょっと酸っぱくなりすぎかも。分離したホエイで次のヨーグルトを簡単に仕込める。半日も時々様子を見てはいられない、という人は時間はかかるが最初から冷蔵庫に入れてつくればいい。2日ぐらいでヨーグルトになります。

無調整の豆乳で作る場合、日本では乳酸菌の餌として白砂糖を小さじ一杯加えるとよく発酵してくれるが、南国でフルーツで作る時は特にいらないようだ。もちろん、加えてもいいけど。

簡単に作れるフルーツ種豆乳ヨーグルトで免疫力を上げてくださいませ。今日は昼にパイナップル2切れで仕込んだ豆乳ヨーグルト、さっきとろりと固まっていたので冷蔵庫にしまった。明日が楽しみ‥。

製本かい摘みましては(121)

四釜裕子

東京製本倶楽部研究会で行ったカロリング製本(Carolingian Binding )ワークショップで配られた資料の一部が、修復家の飯島正行さんによって倶楽部の会報73号(2016年7月発行)に掲載されている。カロリング製本とは、ごく大雑把に特徴を言うと表紙に用いた木の板に穴をあけて支持体を通して綴じる製本法で、8世紀に現れると9〜10世紀に最盛期を迎え、12世紀には使われなくなっていたそうだ。西欧で初めて製本に支持体を用いた事例という。

スイスのザンクト・ガレン修道院図書館所蔵の1200年以前のカロリング写本435冊のうちの110冊を検証した J. A. Szirmai さんの著書などを参照しながら、写真や図版も添えてある。図解が美しくわかりやすいので、正確ではなくても似たような綴じは自分でもできると口走りそうになるが、少なくとも、板に斜めに穴をあけるという作業がなければのこと(これが肝心なんだけど)。それさえなければ……と感じるのはルリユールを習っていたときに革漉きさえなければ……と感じていた愚かな日々を思い起こさせる。

板の厚さは7〜15ミリ、その側面から、ひら面に向かって複数穴をあけると言うのだ。私には驚きだけれど、そのためのコツや道具が記されていないのはつまりそういうことだろう。板は柾目で用いられるので湿気による変形は少ないが、上からの力に弱く割れやすい。したがって穴の位置は板が割れにくいように、またその数を減らす工夫がなされてきた。材はザンクト・ガレン本はほとんどがオーク(ナラ)。イタリアでは、ポプラやのちにブナが用いられたようだ。

さらに驚いたのは小口の断裁法だ。ナイフやカンナ、ノミなども用いられたが67冊がドローナイフで行われていたと推測されている。とっさに丸太の皮をむくものが頭に浮かんだが、小口断裁用に刃や持ち手を改良して使っていたのだろう。〈鉄で保護されたプレスに本を挟み、ドローナイフを斜めに引くことによって行われる。プレス自体は引く力に耐えられるように壁のフックに掛けられている。小口を数ミリ切るだけでも相当な力が必要とされた〉。根拠となったのは板の側面の痕跡で、その写真もあった。板の上に貼られていた革がはがれたのかはがしたのか。むきだしになった板の側面に動きのある刃物の跡が確かにある。1200年以前の誰かの仕事だ。

机の上の文庫本を片手で持ってぺらぺらしながら、本のかたちの一途を思う。そのための人と道具と機械の分業が固定しないことが好ましく思える。

7月31日

璃葉

風がつよい
昇りはじめた月も
雲にかくされた 

状況の変化は常で 雲や風のように
吹かれて流されては いつのまにか違う場所に佇んでいる
思いがけないところに流されてしまっても 永遠に変わらないということはない

流れに沿って歩き、泳いでいく 溶けていく そしてまた違う風に乗る 方角は変えられる
過去の景色から これからふむであろう 別の土地
どこへ向かおうか 考える 
遠くはなれた土地 土と石 石の温度

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ジャワの立ち居振る舞い

冨岡三智

時代劇などを見ていると、床に座る社会での立ち居振る舞いというのが気になる。というわけで、今回はジャワの伝統舞踊に見られる立ち居振る舞いについて。ここに書くのは、中部ジャワ(なお、文化的にはジャワ島の中部)、特にスラカルタ(ソロ)の王宮文化を背景に発展した振る舞いなので、同じジャワでも他地域では異なるかもしれない。伝統的な立ち居振る舞いは衣装と密接な関係があるので、最初に伝統衣装の着付について書いておく。ジャワの伝統衣装は男女とも下半身に一枚布のカイン(腰布)を巻くスタイルである。丈は踝(くるぶし)まである。男性は着物のように前身頃が二重になり、かつ下前にタックを取るので、大きく足を開いて座ることができる。一方、女性の方は布を一周半ぴったりと巻き付けるので、太腿をやや拘束された状態になり、普通の歩幅以上に足を開くことができない。

舞踊では、男女とも正座としての胡坐(シロsila)と立膝(ジェンケンjengkeng)の2種類の座り方がある。胡坐の場合、男性は大きく足を開いて両足を交叉させず(重ねず)に座る。女性は着付がタイトなので、膝は肩幅にしか開くことができない。そのため、ふくらはぎで脚が交叉するような脚の組み方をする。この胡坐が正座であり、宮廷で家臣が控えて座っている時はこのように座る。立膝については舞踊以外の場面でも使うのかどうか分からない。少なくとも私は見たことがない。男女を問わず宮廷舞踊では、入場してくるとまず胡坐に座り、合掌してから立膝に座り直す。そして、舞踊が終わる時は立った姿勢から立膝に座り、合掌した後に胡坐座りをしてから、退場のために立ち上がる。

●座る、立つ

ここから後は女性舞踊についてだけ述べる。立った姿勢から胡坐に座る場合、一般的には足を少し前後させて立ち、そのまま腰を下ろして蹲踞のような姿勢(ただし膝は閉じている)をいったん取り、それから手をついて足を交叉させてから床に腰を下ろす。けれど、私が自分の師匠(ジョコ女史)から習った座り方は違っていて、直立している時に足を先に交叉させ(足の位置は近い)、そのまま腰を下ろして床に座る。逆に胡坐から立つ場合、私の師匠はこの胡坐のまま両足首を引き付け(したがって、膝が上がる)、体重を少し体の前に移動させてお尻を浮かせ、そのまま立ち上がる。実は、ジャワで私の師匠のようなやり方で座ったり立ったりする人を今までに見たことがない。私が知る戦後(1950年〜)生まれ以降の人たちは知らないようで、戦前(以前)にあった座り方なのかもしれないと感じている。ただ、ジャワでは見たことがないこの座り方だが、実は日本の時代劇――少なくとも大河ドラマ――では見るのである。ただし、男性だけだが(女性は胡坐座りをしないから)。現在放送中の『真田丸』でも、武士たちはまさに私の師匠のようにひょいと立ったり座ったりするので、それを見るととても懐かしく感じる…。

次に胡坐から立膝に座る場合。立膝座りの場合、立てるのは左膝で、右足は日本の正座のように折る。胡坐の状態から両足首を足の付け根に引き付け、その状態で体重をぐっと前に移動させて両膝を床につける。そして膝に体重を載せた後、交叉していた足をほどいて蹲踞のような姿勢(膝を閉じる)になり、立膝の姿勢になる。足裏が完全に床にくっついているのに、この立てた左膝頭の位置がとても低くて、右膝頭に近い人がいるが、それは足首が非常に柔らかい人だ。立膝から立ち上がる場合は、左足にそのまま重心をかけて立ち上がる。逆に立った姿勢から立膝に座る場合も、右足を少し後ろにひいて、そのまま腰を下ろして立膝の姿勢になる。

●歩く

王宮で王の前で踊る時は、踊り手は奥から登場する時は歩いて出てくるが、上演空間(儀礼空間)に上がる時から腰を落とし、ラク・ドドッ(laku dodok、座り歩きという意味)という歩き方で王の前に進み出る。男女問わず、この歩き方をする。これは王の前にずかずか立って歩いていくことが失礼であるからで、踊り手に限らず、他の宮廷儀礼でも儀礼空間では家臣たちはこのように歩く。この歩き方は日本の各種武術に見られる膝行と基本的に同じである。男性の場合は膝行のように大きく足を開くことができるが、上半身はもっと前傾して頭を下げ、王と視線が合わないようにする。女性の場合は膝が開かない着付なので、まるでうさぎ跳びのような姿勢で、小さい歩幅で前傾しながら前に進む。

歩き方はいわゆるナンバで、日本の伝統芸能や武術と同じである。現在の我々の日常的な歩き方では、腕を振り、体をひねりながら前進する。つまり、右足が前に出る時には左手が前に出ており、左足が前に出る時には右手が前に出る。しかし、ナンバでは腕を振らずに歩き、右足が前に出る時には右手が、左足が前に出る時には左手が前に出る。一般的にそういう説明がされるけれど、つまりは半身ずつ体をつかう歩き方だ。右足を出す時には右半身がついていき、左足を前に出す時には左半身がついていく歩き方である。

グロッソラリー ―ない ので ある―(22)

明智尚希

「1月1日:『酒の飲み方なんか知らないし、知っててもその通りにはしないようなやつらだったから、もう何でもあり。日本酒のチェイサーにビールとか、ジンをウオッカで割ったりとか、酒であれば何でも良かったんだろうな。そんなはちゃめちゃな飲み方していながら、これうめえよなんて言ってるんだよ。その彼は今アルコール中毒』」。

( ^^)/▽☆▽\(^^ ) カンパーイ!

 「ランニングコスト」とは、ある物質を円滑に押し進めるために新しく取り入れた、建物・機器などの備えつけの動きと制度・組織・体系・系統を、円滑なままでいられる状態にすることを第一義主義的に考え、そのものの持つ機能を生かして用いられるようなくてはならないとの理由を伴っている、欠くべからざる兌換貨幣のことである。

カンガエチュウ (;-_-)o”

 弱い者をとことんたたく。まずい料理をまずいと表明する。ブサイクをブサイクとはっきり告げる。小さい子を片手で払いのける。下手くそを下手くそと真剣に教える。やなものはやだときっぱり撥ねつける。ウサギの耳を豪快に引っ張る。駄目なもんは駄目だと痛切に述べる。誰でもこういう腐った心を少しは持ってるじゃろ。違うかい。え?

(^▼ェ▼メ^) オラオラ

 立ち直れないくらいの境遇に陥ったら、悲惨な出来事の数々を思い起こすのが良い処方である。戦禍に巻き込まれ、人間の苦しんだ形を留めたままの黒こげの遺体。数百人を満載しながらも着陸に失敗し、いらぬ粗大ゴミとなった旅客機。突発的に街中で発生する無差別殺人など。不謹慎などという道徳を、無言で却下できる数少ない事例である。

フカイタメイキ(;д;)=3=3=3=3

「1月1日:『アル中って周りが想像以上に極端みたいだな。一日何も食べずにアルコールばっかり口にしてるんだって。そいつの場合はウオッカ。朝起きてウオッカ、家を出しなにウオッカ、会社に入る前にウオッカ、机の上にミネラルウォーターのボトルに入れたウオッカ、仕事中もウオッカ、昼休みにもウオッカ、戻ったらウオッカ』」

ヨッパライヽ( ̄_ ̄*)()(* ̄o ̄)/

いない孫を想う。太郎は太っている。ブタも肥えている。ブタは食べられてしまう。最後に残しておいたイチゴも食べられてしまう。イチゴは赤い。酔ったおやじも赤い。おやじは独特のにおいを発する。くさやも独特のにおいを発する。くさやは平べったい。画用紙も平べったい。画用紙は真っ白だ。だから太郎は色白だ。そうじゃった。

(^m^ )クスッ

食事はまずく炭酸水がうまい。複数の電線の組み交わす辺りが美しい。エロDVDのあらゆる工夫に舌を巻く。3つの時計が同じ時刻を示している必然に驚く。街ゆく人々の偏差値のばらつきに笑う。平和による世界侵略に首をかしげる。古典の内容の正しさに深くうなずく。年中行事の薄っぺらさにあきれる。傍観する自分は畳で眠っている。

おやすみ〜♪(。・ω・。)ノ~~フリフリ

 坂ろうしでんし 恩ぱるの
 ずっし今ささ たれ溝そ
 運かさんかり いよぞその
 曲げれんれんの しで良ろし

└(-ω-┌))))) (((((┐-ω-)┘

 禁止されているなら手を出したくなるのが人情である。反戦についてのくだくだしい語りを聞く人の大半は戦争を知らない。ある報道によると、島の領有権をめぐって武力行使を辞さないのが30パーセントで、更にその中の80パーセントが、有事の際には兵役につくと回答した。武力衝突ほど万人の興味を駆り立てる話題はそうはない。

(*`◇)<毒毒毒毒ブオォォオ*_*;)

「1月1日:『家に帰っても当然ウオッカ。最後のほうはもうウオッカの味なんてしなかったらしいぞ。むしろ水道水が甘く感じたって言ってたな。あれだけ度数が高い酒なのに、いくら飲んでもほろ酔い程度にしかならなかったらしい。それである日、自分の知らない間に大量の薬をウオッカで流し込んでて、自殺をしようとしたんだって』」。

▼▼”⌒☆o(_ _o)ドテッ

 母なる恥丘。愛は恥丘を巣食う。うん、間違ってはいない。メリーゴーラウンドに乗ってるクソばばあを警察が包囲していのを尻目に、ハゲおやじの集会の真ん中でセクシーポーズをとる。自由に浮動するインテリゲンチアたちは激怒したあと、半人半獣神バーンになった。群集心理。ネズミーランドでキャットファイトを開催するのはいつだ。

きーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ”彡☆

 実はもう死んでおるんじゃ。生きながらの死。社会的な死。衆人環死。おえっ。すまんすまん。すまんが仏なんじゃよ。くだらんことをほざく前にも、じっくりたっぷりミニマルに死んでおけ。セクスシヨウ・ドールが大切。その代わり三輪車並みの覚悟が必要。ドラえもんがいたらもちろんいい。セクシーショットがあればなおのことよし。

♪d(´▽`)b♪オールオッケィ♪

 絶え間なく逆境にある人には、恐れるものなど何もない。身の回りの怪事件ですら、さもありなん、なくもがな、そしてむべなるかな、と内側に取り込んで沈静化させてしまうか、取るに値しないとして看過する。この手の人間が仮に順境にあった場合、順境を巧みに変態させて逆境とする。苦しみまみれの人生は、案外と楽なのかもしれない。

(;〇□〇)ハァハァ……..

 99%の努力と1%のひらめき、努力か。エジソンの言葉はね、重要度の比率ではなくて、かかった時間の割合なんでおじゃるよ。だから正確には比率が真逆のアホリズムとなる。鵜呑みにしたものは、鵜にならって吐き出さなきゃならなんわな。逆や異化は必需なんじゃよ。あの微笑ましいスタンザの受け手、家が放火されたっつうオチ。

(*´Д`)ノ ソーデスネ

「1月1日:『あんなに温厚なやつでも自殺を図るなんて、ひっそり希死念慮でも抱いてたのかもな。幸い一命は取り留めて、今はAAとか通いながら生きているわけだけど、血を吐いて三日三晩部屋で倒れていたそうだよ。その時のことがきっかけで断酒を決めたらしいけど、これがまた中毒中と同じくらい大変だと言ってたよ。笑いながら』」。

il||li_○/ ̄|_il||li ダダダダ〜ン♪

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「ふざけるのもいい加減にしなさい」「ふざけてなんかないよ」「馬鹿おっしゃい!」「馬鹿なんか言ってないよ」「そういうことじゃないのよ」「でもふざけてなんかないよ」
「ふざけてるじゃないいつも」「ふざけてふざけているなら真面目になるんだよ」「真面目に真面目なら真面目じゃないの」「あーはいはい。そうきましたか。ふざけんなよ」

(ー公ー) フザケルナヨ……

 物故して逝去して昇天してから、草葉の陰に隠れて鬼籍に入って仏さんになる。カオスの縁で釣った4月の魚を持って、アンナ・カレーリナのところへ行こうとしたが、そんな人いなかった。3丁目には。しょうがないから百塔の街へ行って、焼き鈍し法でしっかり焦げ目をつけてから、ゼノンの4つのパラドクスを考えたから、俺に俺をくれ!

?(゚_。)?(。_゚)?

 いいかな。浦島太郎が竜宮城から戻って玉手箱を開けたら老人になった話をするぞ。

キャハキャハ!!(^Q^)/゙

 毎日を生きていくには、刺激が必要だ。喜び、驚き、痛み、不愉快など。琴線に触れる刺激を体感した時、意識はルーティンからリセットされて、次の現実に新たな気持ちで臨める。しかし人間は飽きっぽい。複数回のリセットを、つまり刺激の連結を必要とする。待っていても来てはくれない。刺激の素材探しが刺激になるのが最も望ましい。

∈(´_________________`)∋ ビローン アキター

そして、歌が残る

若松恵子

昨年の7月に急逝したギタリスト、石田長生(石やん)を追悼するコンサートが、彼の誕生日の7月25日に東京の下北沢で行われた。コンサートを仕切ったのは石やんの盟友であるChar.。ライブが「石田長生展」と名付けられたように、ゆかりの深いミュージシャンが集まって、最高の演奏で、石やんが残した楽曲たちを讃えるコンサートになった。

集まったのは、上田正樹、金子マリ、三宅伸治、山崎まさよし、Mac清水、松永希、本夛マキ、はせがわかおり、古田たかし、澤田浩史。上田正樹が「聴いてるか?石田」と何度も言っていたけれど、石田長生に聴いてもらいたい、みんなそう願いながら演奏したはずだ。客席のファンも、その気持ちを分かち合って心からコンサートを楽しんだ。集まったひとり一人の心のなかにある石やんの面影が、会場を温かく照らしているような夜だった。

良かったね、石やん。

8月10日には、Char監修による2枚組のベストアルバム「The Best of Ishiyan」
がCharの個人レーベルZICCAから発売される。未発表のライブ音源も収録されるとの事だからとても楽しみだ。

仙台ネイティブのつぶやき(16)峡谷に下りる

西大立目祥子

 トラックの荷台で右に左に揺すぶられながら、山道を10分ほど走ったろうか。唐突にエンジンが切られ、降ろされた。まわりに数台の車が停まっているのを見ると、ここから徒歩で現地に向かうらしい。まわりは夏山のむせかえるような緑、緑、緑。樹々の勢いが増している。

「じゃ、ここから下るよ、ついてきて」という高橋一幸さんのひと言に驚いた。えっ、ここ? のぞき込むと、下は崖だ。かなり急峻な斜面で、とても下りられるとは思えない。一幸さんは少しも躊躇せずに下り始めた。「危ないから、必ず木につかまって。あとはロープがあるから、それたよりに」 見ると70〜80センチきざみぐらいで結び目をつくったトラロープが下がっている。

 足場を確かめながらゆっくりゆっくり下りていくと、みるみる気温が下がって、ひんやり湿った空気に包まれた。峡谷の底では6、7人の男性が、手に手にスコップや鍬をたずさえ、黙々と川床の土砂や石を撤去する作業を始めていた。

 ここは宮城県北西部の鳴子温泉鬼首。ブナやナラなどの広葉樹林におおわれた山間地で、もうひと山越えると秋田だ。以前にもこの地で暮らしてきた古老、高橋敏幸さんのことを紹介したけれど、私は機会があると共同作業などを見に、鬼首の中でも北西に位置するこの地を訪れてきた。ちなみに一幸さんは敏幸さんの息子さんである。

 この沢は仙北沢とよばれ、源流は秋田県側。とうとうと流れる清らかな水は、戦後、山林を切り開いてつくられた1キロほど下にある大森平の米づくりに使われている。沢の水を堰き止め、その脇から約800メールほどの隧道を大森平までうがって水を流しているのだ。大森平の7軒の家の20町歩ほどの田んぼの米づくりは、この水に頼っている。

 堰き止めた川の底に石や土が堆積すれば、大森平へと流れる水は減少する。だから1年に一度、7軒の家の男たちが峡谷に下りて共同作業を行う。見るとみんな胴長を身につけ、工具を振るって川床の石や土を払い、ひと抱えもふた抱えもあるような巨大な石は、「せいのっ」と掛け声をかけて堰の下へと落とし込んでいる。あらためて、ともに働かなければ維持できなかった山の暮らしを教えられる。

 20メートルほど先には、高さ7、8メートルの砂防ダムが築かれ水は白いしぶきを上げて滝のように落ちてくる。流れの急なこうした上流部では、こうやって途中堰き止めないと、ひとたび大雨になったときに一気に水かさが増して峡谷の斜面に大きな被害が及ぶらしい。いつの間にか私も水に誘われて、スコップを手に石の撤去に加わっていた。

 それにしても、この大きな石はまわりの斜面から転がり落ち、あるいは上流から流されてきたものなんだろうか。それが流されるうちに砕かれ、川床を埋め尽くすのだろうか。なんとダイナミックな川の営みだろう。この圧倒的な力に一人ではとても抗しきれない。何人かが共同で集中して作業をしなければ、人の営みなど簡単に押し流されてしまいそうだ。

 作業に加わって2時間ほど。誰もが暗黙のうちに作業の持ち分を定め、黙々と集中するうちに川のようすはみるみる変わってきた。石が撤去され川床の凹凸がなくなるにつれ、水の流れはすべらかになり、流れは速くなっていく。人の力の何とすごいことか。

 ときどき、「いたぞ!」と声が上がる。イワナだ。あっちにもこっちにもイワナは棲息していて、逃げ場所を失って逃げまわる。小さなものは放してやるが、大きく育ったのは今日の作業のごほうびだ。

 やがて泥の撤去は、隧道の中へと及んだ。身をかがめないと進めないほどの高さで、巾は90センチくらいあるだろうか。体積した泥でずぶずぶと沈み込む足もとに注意しながら入り込み、小さな灯りで中を照らして息をのんだ。固い花崗岩の壁面にノミの跡が鋭く残り、それが奥までずっと続いている。これがずっと800メートル連続しているのだろうか。

 話には聞いていた。岩盤の工事を請け負った業者が匙を投げ、ダイナマイトの使用もあきらめ、開拓民の中の3軒の農家がタガネで掘り進んだのだと。何としても米づくりをという執念の作業だったろう。両側から掘り進み、最後の一打ちで岩に穴があき水が通ったときのよろこびを、作業にあたった一人、大場新喜さんが書き残している。

 60年が過ぎ、開拓の12軒の農家は7軒となり、いまは休耕田も増えてきた。それでも米づくりは続けられている。山間地の中に別世界のように広がる田畑に立つと、食べ物に事欠くような生活を続けながら、決して途中逃げ出さなかった農家の結束と思いの強さに圧倒されてしまいそうだ。

 12時。集会所でおかあさんたちが用意してくれた豚汁とお弁当にありついた。おいしい。汗をビールでぬぐった男たちは、午後の作業に備え、食べ終えると早々と昼寝態勢。ぐうぐうと眠り始める。

 作業日を決め、段取りを決め、昼ごはんの手配をし、工具を整え、毎夏、峡谷に下りる。ここで暮らしていくために繰り返されてきた、大切な営み。集会所の壁には「開拓者の記録 新しいむら誕生の記録」という長い扁額が掲げられてあった。

砂漠のスーパーマンをもう一度

さとうまき

アザッドのいとこのファーデル一家は、10年前にデンマークに難民としてやってきた。パスポートを持たずに海をわたり、不法に入国した後に難民申請するというのとは違い、デンマーク政府が、難民キャンプに出向き面接をし、合法的に移住させるという制度である。10年ぶりの再会だ。
沙漠のスーパーマン

父親は、10年間、これっぽちのデンマーク語を覚えようとはせず、クルド服を着続けて、つい先日亡くなった。母親も、デンマーク語は、ほとんど話せない。夫を失い寂しそうだった。

長男のファイドーンは、結婚していた。散髪屋で働いている。結構太って、そして頭もかなり禿げていたので、気が付かなかった。弟のカマルは、刑務所に入れられていた。デンマーク人とけんかをして、殴ったのかどうかは実際わからないが、一度出所して、また、そいつに暴言を吐いたとかで、また刑務所に戻されたそうだ。

一番下のアーデルは、21歳になって、まだ、大学生だが、ムエタイのチャンピオンに2回なっていた。トロフィーとチャンピオンベルトが飾ってある。これはいい話だと飛びつく僕。
「すごいじゃない?」
「ああ、でも、もうボクシングはやらない」
「どうして?」
「お金にならないからさ」
ちょっとがっかりしている僕にファーデルが言う。
「今は、親父が死んで、こいつは落ち込んでいるけど、きっとまたボクシングをやってくれるよ」

姉のシーシャは、10年経ってもまだきれいだったし、アーデルと喧嘩ばかりしていた妹のスェイバは、今回会えなかったが、きっときれいなお姉さんになっているのだろう。

ファーデルは、29歳は、立派な若者に成長していた。数年前は、市議に立候補もした。マイノリティの権利を訴えている政党のメンバーらしい。デンマーク人の彼女もできた。もう、すっかり立派なデンマーク人になっていた。デンマークは税金も高く、給与の半分は持っていかれるから、マイノリティであろうが、納税者としての権利意識は高く、政治にも参加する。ファーデルの主な仕事は、市役所で難民や移民へ仕事を紹介している。日本と比べてみれば、非常に成熟した他民族の町という感じだ。

デンマークに10年以上暮らす日本人にも話を聞いてみた。夫がデンマーク人の彼女は、
「給料は高くても、税金で半分とか取られるので手取りはたいしたことないです。そのかわり、医療や学校、老人ホームなど無料のものも多いです。で、最近は学校や幼稚園などの教育関係から、医療など人間にかかわるセクションの経費削減がすさまじいです。その一因は難民、移民にかかる経費が膨らんでいるからです。デンマーク人の福祉崩壊する危険を心配する人が多く、そのうえ、難民への費用ばかりがかさんでいくことに不満を感じる人が多いです」とのこと。

ファーデルたちの仕事は、右傾化するデンマーク社会の中で、新たに移住してきた難民たちの面倒を見ながら、彼らが、じきに立派な市民として、デンマーク社会に貢献することを説明し、理解してもらうという重要な任務を担っているのだ。

アラブ音楽つながり

西荻なな

最近、アラブ音楽なるものを聴き始めてみた。

アラブ音楽との最初の出会いは、3ヶ月くらい前に遡る。アラブ文化史の研究者(中町信孝さん)による『「アラブの春」と音楽』(DO BOOKS)という本を読んだ友人が、熱烈にプッシュ。本の中で紹介されているアラブのポップミュージックをあれこれyou tubeで聴かせてくれたのだ。アラブの音楽というと、悠久の、砂漠の広大さを思わせる、たゆたうような旋律、くらいのなんとなくのイメージしかない。歌なしの伝統音楽のイメージですらあやふやなのだから、歌詞ののったポップスとなるとますますわからない。

ところが、友人は熱弁を奮う。その旋律に郷愁を誘われるの! しかも歌が生まれる背景にストーリーがあるとか。「”アラブの春”のバックには、若者たちがみんな一緒に口ずさめるアラビアのポップスがあったんだって。Hip-hopもあるけど、他にも懐かしい感じの音楽があっていいんだよね」。

エジプト方言で歌われるポップスは略して”エジポップ”というらしく、友人は特にこのジャンルが推しだという。中には政治的プロテストを刻みつけるような、荒々しい曲調のhip-hop曲もあれば、合間にキング牧師はじめ、各国の政治指導者たちの演説シーンをコラージュして埋め込んだ作りのものある。でも例えば、革命中のタリハール広場で生まれたというシュプレヒコールが歌になったロック曲「自由の声」は、優しい昔懐かしのメロディ。動画に登場する若者たちの姿も笑顔だ。

Twitter越しに、アルジャジーラの中継で”アラブの春”の熱狂を見ていた5年前が思い出され、現地ではこんな優しい歌が口ずさまれていたのか、と70年代風の旋律とのギャップに私も興味を惹かれていた。

日常に紛れて、その後すっかり忘れていたアラブ音楽が記憶によみがえったのは、ヨルダンのアンマンから1年の留学を経て帰国したばかりという、また別の友人の友人に出会った時だった。アンマンと聞いて、「私の親友がアンマンにちょうど仕事で行ったばかり、向こう2年間は滞在するそうで」と初めて会ったその人に切り出したところ、「アンマンにいる日本人なら大抵わかります。お名前は?」と言われる。彼女の名前を伝えると、なんと日本に帰国する2日前にその人と会ったばかりだという。あら、不思議なご縁で、と見知らぬ中東世界でつながった二人の姿を思い浮かべていたら、エジポップにはまっていた友人とアラブ音楽のことも同時に思い出されてきた。

思えば彼女には、この前日に会ったばかり。さらに、私の失恋の落ち込みを心配した彼女は、私を励まそうとLineに「1日1男子」というグループを立ち上げていた。その日に会った男性の写真をLineにアップせよ、というなかなかハードルの高いミッションが掲げられており、私は日々それをこなさなければならなかった。毎日新しい男性に会うようにね、そうしているうちに失恋など忘れるでしょう、という友人の優しさに満ちた企みとも言えるのだが、私は “男子”の写真を送るために、ある程度目の前の男性と距離を縮めなければならない(急に写真を撮れるものではない)。その後、程なく挫折することになるこの試みも、この日はまだ始まったばかりだった。

そこで私はアンマン帰りのこの男性に、アラブ音楽の話題も振ってみたのだ。すると、アラブの美空ひばりと称される歌手の話から、アラブポップスの現在まで、話はとどまるところ知らず。アラビア語を学ぶならばかつてはシリアが良かったが、今となってはヨルダンが最も治安が良いこと、エジプト、モロッコ辺りと比べて、ヨルダンの言葉はローカライズされていない標準語に当たることなど、アラブの見取り図をつかめる話もたくさん聞くことができた。さすが、アンマン帰り。タイミング逃さず「アラブ音楽、とりわけエジポップ好きの彼女にもあなたのことを紹介したい」と、彼の写真を1枚撮らせてもらったのだ。

アラブとアラブ音楽の話題でつながった私たち3人は、昨日、とあるライブハウスで開催されたアラブ音楽会に出かけてきた。そこでは、アラブ全域で開催されるアラブアイドルのオーディション番組、「アラブアイドル」に日本人として初めて出場したという、日本と中東の架け橋になろうとする女の子が伝統的アラブ音楽を歌い上げていた。どこか日本の演歌を思わせる調べ。聞けば、演歌も歌うのだという。彼女のアラブ音楽との出会いの話も興味深かったので、また次の機会に。

春と修羅 modified

管啓次郎

宮澤賢治原作(1924年)+管啓次郎修辞(2016年)

心はもう灰色の鋼鉄以外には
色彩も素材も考えることができない
そこからアケビという植物の蔓が
はるかな情報の雲にまで伸びてゆく
Roncesが湾曲し、混乱し
植物は枯れて湿地帯で眠り泥炭となる
どこまで行っても、どちらを見ても
極端な混乱がわれわれの世界を彩っている
(きみは正午にオーケストラを聞いたって?
幻聴だよ、ただ陽光がウイスキーの色をして
神の精液のごとくふんだんに降り注ぐのみ)
怒りは無用だ
それは苦い、青汁のように苦い
潰れた昆虫の幼虫のように苦い
水のように溜まった光の底の四月
私は天にむかって唾を吐いたり
ランボーのように毒づいたり
歯ぎしりしたりしながら
激しく往来を繰り返すのだ、誰もいないのに
おれは人間でもなく畜生でもない
(それなのに風景が涙のレンズにぼやけ、ゆれて)
氷のような雲が砕氷船に砕かれて
もともとよくない視力が涙でぼやけて
乾燥した高原のような明瞭な視界を持ち得ぬまま
空を走るrailroadばかりが海をぐんぐんわたってゆく
ハリストス教会で見たステンドグラスの
いみじくも着色装飾絵画のごとき風が
右にも左にも
うしろにも前にも吹きすさぶ
何というさびしさ
そんなあやふやな風景の中で
確固として春を主張するのはやつらだ
ZYPRESSEN!
まるでドイツの尋常一年生のように
勢いよく、侵略的大胆さをもって
列を作っている
樹影濃く、光に敵対して
くろぐろ、くろぐろ
馬の脚のような規則性をもって
視界を遮るのだ
そのすきまから、天山の雪をいただく
稜線がじみじみしく光っているのが見える
(大気に波動を見るのはおれの狂気
白い光を析出するのはどんなプリズムか)
われわれのロゴス喪失もきわまったね
理性なく
理屈なく
理由なく
雲がものすごい勢いでちぎられ
空の端から端まで
紙飛行機のような速度で飛んで行くじゃないか
残酷さを欠いた明晰な四月
この光の水底を
歯ぎしりしつつ体を熱くして
ただ無目的に歩く
おれは名状しがたい非人間でしかない
(レアメタルよりも貴重な鉱物を思わせる
雲が流れている
声ばかり聞こえるのは春の鳥
より限定的に「この春」の鳥はどこだ)
太陽が傷ましいほど青くはかない
おれが歩く存在の道は
この林に不思議な音楽を響かせている
巨大な暗い凹面のような空のボウルから
まるでこれらのくろぐろとした木々の
群落が伸びてくるようだ
反転した天地
驚くべき自然の成長性だ
悲しいほどの枝々の繁茂
なぜこんなにすべての風景が二重化されるのか
これも何かの通信なのか
おれはただ眼が悪いのかな、それとも見えなくて
いいものが見えているのかな
打ちひしがれた森の梢から
閃光のように、ほら、からすが飛んだ
どんなメッセージを誰のために担うのか
わたりがらすの神話を
二重化するために飛ぶのか
(空気が層をなしているのがわかる
すみわたってきた
檜が空を突き刺すように
森閑とした気持ちで立っている)
この森からうかがうとき
外の草地は黄金に輝いている
まるでティンブクトゥの黄金都市のようだ
ただ建築をすべて欠いているだけ
その黄金をゆらゆらとわたって
こちらにむかってやってくるものがいる
何気ないふうで人間のかたちをしている
人間であることに疑いをもったことがない
そんな自覚的なかたちをしている
ギリシャ人のように白い法衣をまとっているが
彼女は農婦
大地母神のようなどっしりとした腰をして
解読できない視線でおれを見ている
慈愛ですか
軽蔑ですか
恐怖ですか
親しみですか
ほんとうに私が見えるんですか
あなた方の実直なアグリ文化の世界に
私の存在平面はあるのでしょうか
疑問だ
なぜならおれは生産とか消費とか
呼吸とか会話とか飲食からも脱落して
もうこの世にどうついていけるかわからないのだ
だからどこを歩いても気圏が海に見える
光の海底をさまよっている
眼を開けていられないくらいだ
この塩の痛みに
この光の棘に
この感情を何と呼ぶべきか
「きみがゆく野原はすべて歌の庭」
だがどこにも歌の庭が見つからない
(かなしみとは悲嘆とちがう
それは独特な傷ましさ
フィドルで表現できる音でもないし
青という色彩で描けるものでもない
だがこの海底のような深さの印象
そしておびただしく与えられる光の
古代以来の堆積)
まだ歩いている…
おれの頭上で
ZYPRESSENが無音でゆれている
永遠に直線の飛行を試みるからすが
青空に切片を描き出す
それも残像だ
幾何学者のからすの
ユートピアの空だ
(ロゴス喪失がまたやってきた
alingualとあの台湾育ちのアメリカ人がいっていた
そんな状態よりもずっとひどい
だって真理という定義できないものを
言語により捉えようとしている
だが真理とは生命でありそれはまた光でもあるといった
ねぼけた神学談義が何かを教えてくれたことがあっただろうか
あまりに人間臭い
おれはむしろ獣になっていい
ヌタ場と呼ばれる地面で泥を体にこすりつける
果敢な猪のように
土を涙でぬらし
涙を土でこね
つぶつぶしたことばが降り注ぐ土地を
どこか遠い場所に求めてゆくのか
だがそのとき涙という具体物の
痕跡はどうなる)

深呼吸してみようか空を見上げて
また冷たい空気に肺が縮まる気がする
(おれは肉体を空に散逸させることの
代償としてこのような呼吸を経験しているのか
見送ってきた死者たちの体を
かつて構成していた分子はどこまで散らばっていったのか)
この混在の森で
銀杏の梢がまたアンテナのように光った
ZYPRESSENがいよいよ黒く沈黙する
突然
雲が稲妻のような火となって
暗い春の森に降り注ぐのだ
(春雷よ道をしめせ)

羽の感触の独白

植松眞人

 朝起きたときに、いやな夢の感触を覚えてること、ないか?
 つい何日か前のことや。朝起きた瞬間はいつも通りの朝やったんや。けどな、だんだんと「いや、違う」という気がしてきた。いつもと同じような朝やけど、なんかいつもと違うことが寝てるあいだにあったはずや。そんな気がしてきたんや。
 夢みたんやろって思うよな。俺もそう思たよ。なんか、覚えてないけど、すごいいやな夢を見たんやろなあって思ってた。けどな、妙にリアルな感触があったんや。何の感触かって? 羽や。そう、鳥に生えてるあの羽や。
 朝起きて、しばらくしたらだんだんと「あ、夕べ確かに俺の背中には羽が生えてたぞ」って思えてきたんや。最初は、「いや、そんなアホな」という気持ちと半々やったんやけどな。時間が経つにつれて「確かに生えてた」という気持ちになってきた。
 嫁さんにも背中を見てもろたんや。アホちゃうか言われながら。そしたら、「赤いニキビ跡みたいなもんはあるけど、それだけや」言われてな。
 けど、確実に羽が生えてたんや、という感触だけがある。ただ、それが自分が飛べるほど大きな羽が生えてたんか、赤い羽根募金の羽くらいのやつが生えてたんかが定かやない。完成型の羽なんか、生えかけの未熟な羽なんかもわからへん。ただただ、羽が生えてたという感触だけが背中に確かにあるんや。
 お前、俺がまた妙な作り話をしてると思てるやろ。いつも、適当なこと言うてるけどな。今日は違う。今日は本気で話してるから、お前も本気で聞いてくれ。
 お前が信じようと信じまいと、大前提として、俺の背中に羽が生えてたということや。そしたらやで、その羽はなにしに生えてん、ということになるよな。
 夢のなかでもええんやけど、たとえば空を飛ぶために生えたんかもしれん。
 お前、空を飛ぶ夢を見たことがあるか? あるやろ。どの辺飛んでる? いや、空を飛ぶ夢を見る時って、どの辺を飛んでる? ものすごい空の高いところか、そこそこ低空飛行か。そうか、雲をかき分けて飛んでるのか。前に週刊誌に書いてあったんやけど、空の高いところを飛ぶ人は自由にあこがれる人やねんて。低いとこを飛ぶ人も自由にはあこがれてるらしいねんけど、自信がないというか、不安があるというか…。まあ、俺は小心者やけどもな。それはほっといてくれ。
 それでも、俺にはだんだんとわかってきたんや。俺の背中に生えてた羽がどんな羽やったか、ということが。きっと、その羽はそれほど大きなもんとは違う。上からシャツを着たらなんとか隠せるくらいの大きさや。そやから、たぶん、飛ぶことはでけへんかったと思う。ただ、それを動かしたりは出来たと思うんや。なんで、そう思うかって? だって、自分の背中に生えてたって感触があるんやで。それをじっくりと思い返してたら細かいとこが見えてくるよ。
 ただなあ、思い返せば思い返すほど、それがあんまりええことではない気がするんや。そうやろ。背中に羽が生えるって、気持ち悪いやないか。世の中に背中に羽の生えてるもんがどこにおる? おったとしたら天使やろ。俺は天使が実在するとしたら、世の中でいちばん猥雑な存在やと思うわ。人間でもない神様でもない。間に立って、行ったり来たりしてるねんで。あんな猥雑な中途半端な存在はない。
 俺はそんな猥雑な存在に一歩近づいたんかと不安になってしもたんや。
 けどな、今日の朝、そんなことを考えながら、ここに出勤するために家を出たときにちょっと考えが変わった。
 家を出たところに小さな公園があるんや。その公園の前を駅に続く道があってな。道と公園は低いフェンスで仕切られてる。フェンスは俺の腰くらいの高さしかないんかな。そしたらな、そのフェンスにカラスがとまってたんや。そのカラスを見た時に俺は思た。俺の背中にほんまに羽が生えてたとしたら、その羽は白かったんやろか、カラスのように黒かったんやろかってな。
 そう思いながらカラスを見たんや。見ながら、子どものころ、よう聞いたいやな話を思い出した。ほら、よう聞いたやろ。カラスが三回鳴くのを聞いたら死んでしまう、いうやつや。
 なんか急に怖なってきてな。俺、そのカラスが鳴いたらどうしよう。三回鳴いたらえらいことや。そんなことを考えてたわけや。
 さっきまで普通に歩けてたのに、俺は怖じ気付いてしもて、カラスの脇をぎくしゃくしながら歩いてた。そしたらカラスの奴、鳴くわけでもなく、俺を無視するわけでもなく、じっとフェンスの上に立ってるんや。そんで、じっと小首傾げてるんや。
 俺、それ見てたら、そうか、それでええんやと思えてきてな。背中に羽が生えてもええわ、と思えたんや。妙なことが起きても、なんでやろ、と心配する必要はないんやと思えたんや。小首傾げて生きてたら大丈夫やって。そう思たら、あの寝起きのいやな感じがなくなってしもたんや。
 後輩のお前捕まえて、朝から妙な話聞かせて悪かった。まあ、後輩やねんからこのくらい我慢してくれ。こっちは、お前が黙ってこの話を聞いてくれたおかげで、すっきりしたわ。今日の晩、一杯おごるわ。おう、ほんまや。俺が嘘ついたことあるか。ほな、今日も一日、仕事に専念しよか。
 え? 背中の感覚か? あるよ。確かに背中に羽が生えてたっていう感覚は消えてへん。たぶんやけど、この感覚は薄なることはあっても、一生消えへんと思う。一回味わった感覚は、いやな感覚もええ感覚も、どっちもどんなことがあっても消えへんねん。たぶんな。
(了)