しもた屋の噺(173)

杉山洋一

ここ数日、日中、土砂降りと快晴が何度となく入れ替る、それは目まぐるしい日々が続いていて、自転車で学校へ向かうときなど、雨で目の前が見えなくなるほどです。
下水道の水はけが悪いため、豪雨に襲われると道路はすぐ10センチ、15センチの深さの水溜だらけになりますが、ちょっと晴れ間がさすだけで、驚くほど早く道路は乾いて、それまでの光景が嘘のように感じられます。

  ・・・

 5月某日
コローニョ・モンツェーゼの古びた立飲み酒屋で、アルフォンソと話す。「君は随分ドイツ語を勉強していたけれど、ドイツに留学しようとしていたの」。「いや、留学など一度も考えたことはないよ。ただドイツ語の本が読みたかっただけ。世界的ピアニストなんて、柄でもない。自分は地方の田舎で生れ育って、性格もとても地方向きだろう。田舎のピアニストが性に合っているのさ」。
夜半の嵐が去った早朝、パンを購いに家を出ると、玄関前のベンチにずぶ濡れの猫が置いてある。ひょろひょろの小さい身体は既に冷たく、動かない。隣人に話して、このアパートの誰かの猫かどうか、心当たりに連絡を取る。買い物を終えて帰ると、既に猫の姿はなく、猫の陰に沿って濡れているベンチが、猫の死を静かに主張していた。

 5月某日
李白を読む。文字から溢れる色と風景、細やかな人物描写。
息子は「子供と魔法」のリハーサル。数字が子供をいじめる場面の他に、蛙の子供役で舞台を2回走るそうだ。ベルグワルドまで自転車で出かけると、細い用水路から何万という蛙の合唱が溢れてきた。
自転車を漕ぎながら、吉原さんのための新曲を考えている。ずっと頭にあるのは、木板を叩くような音。そして、「柷」と「敔」の音。儒教音楽の影響を受けるのなら、本来は李白の描写とは相容れない。だから、音ばかりが頭をどんどん過ってゆくが、それを書き留めるのは気が引ける。単に音を並べることに、裏切りのような気持。単純な音であるほど、より切実なモチベーションがなければ、嘘をつくような気がしてしまう。音はそれを成立させる文脈を必要としている。

 5月某日
自転車でストラディヴァリウスへ出かける。今月末に出るガスリーニCDの確認作業。快晴の朝8時過ぎ、ミラノ中央を抜け、ロレートからパドヴァ通りを真っ直ぐ北へ向かう。この辺りも所謂外国人街で治安も良くないが、気持ちの良い朝、そんな風情は微塵も感じられない。
「Bicicletta di Cortesia」と書かれた自転車にのんびり乗るアフリカ人が前を走っていて、どこかで見掛けたことあるのを思い出した。数か月前、パドヴァ通裏のアパートのガレージで友人が小さなインスタレーションを開いたとき、彼はその入口に自転車を留めに来た。「Bicicletta di Cortesia」は何だろうと不思議に思って尋ねようとしたが、急いでいて結局それきりになった。
今朝そのアフリカ人と信号で隣り合って、「いかすなあその自転車」と笑顔で話しかけられた時も、「有難う!」としか応えられなかったのは、ストラディヴァリウスがモンツァの手前と遠く、すっかり遅れそうだったから。人に尋ねると、「Bicicletta
di Cortesia」は、「自転車出張直し屋」ということらしい。

 5月某日
拙宅の隣に、去年の暮女の赤ちゃんが生まれた。その赤ん坊の泣き声の合間に、母親があやすわらべ歌が聴こえてくる。いつも同じわらべ歌。急に上行する最後のフレーズに聞き覚えがある。よく耳を澄ますと、「ドレ夫人」だった。「ローマの松」冒頭に使われるあの旋律を、今でも子供をあやすのに歌っているのは初めて聴いたので、偉く感激する。本来は「かごめかごめ」のように、子供たちが輪になって鬼を輪の中に入れて踊りながら歌うものだった。

 5月某日
タクシーの運転手ですら番地が分からず通り過ぎた程の、ただ木々が鬱蒼と茂るばかりの庭園。パレストロの停留所からほど近い「芸術の庭」と呼ばれるこの庭に、ファツィオーリのピアノをそのまま運び込み、カニーノさんとリッチャルダがクルタークのバッハ編曲をリハーサルしている。鳥の声が心地よい。背後から聴こえるパレストロ通りを抜ける車の音が、ふっと途絶えるとき、息を飲むほど美しい無音のなかに、瑞々しいピアノの音が浮き上がる。
それからカニーノさんは、リゲティとバルトークを弾いた。跳ねる音はエネルギーが迸り、小さな音は、慈しみながらそっと弾く。それらは、滑舌よく、抑揚のはっきりした伊語のセンテンスのように響く。
地面に赤い毛布を敷くと、環境に優しい即席観客席になった。そこに座ると、土の匂いと相まって地面からピアノの振動が伝わってくる。聴き手も、寝転んだり胡坐をかいたり、人それぞれ。
息子が加わったクルターク編6手コラール。最後のリタルダンドで3人が顔を見合わせながら弾く。ぴったりと合った瞬間、3人の顔から微笑みがこぼれた。

 5月某日
スカラで「子供と魔法」を観て、夜半家に戻ると、母が古いりんごを砂糖で煮てコンポートを作ってある。熱いコンポートにアイスクリームをかけ溶かしながら食べる。息子は、「数字の場面」では、上から降りてくるはずの3枚の幕が1枚しか降りず立ち位置が分からなくなったのと、子蛙の後を追って出てくる段どりの親蛙が先にでて歌い始めてしまい、子蛙の出番が一つ減ってしまいご機嫌斜め。
今年は日本イタリア交流150周年。国立音楽院のジョヴァンナが、ガリヴァルディ駅裏の「ヴェルディ劇場」で、学生を集めて武満作品を中心に演奏会をするので、そこで話をしてほしいと言われる。プログラムには、武満作品のほか、ストラヴィンスキーの「3つの日本の抒情詩」とかケージの「6つのメロディー」など。
日本とイタリアの交流について話そうと調べてみて、江戸後期、日本が蚕糸を大量にイタリアに輸出していたことを知る。
子供の頃、家に蚕がいた記憶があるが、あれは何故だったのか。家の裏に桑の葉を取りに行ったのも覚えている。
母がミラノを訪れているので、あれはどこから来たのか尋ねたが、バリバリと桑の葉を食べる音が大きかったのと、糸を取るのが難しかったことしか覚えていなかった。
そのほか、日本人がイタリア人に比べて観念的に物事を捉える傾向があるのは、表意文字で思考するからか、とも話す。「山」という言葉を思うとき、我々は無意識に山の形そのものを思い浮かべているけれど、イタリア人が「山=monte」のMの字に、山の形を思い浮かべることはないだろう。
日本人が音楽に感情を込めると、自らの内面に気持ちが向かうけれど、イタリア人は、音符そのものに感情を込めるように見える。感情の込める場所そのものが、我々はずいぶん違う。
それなら韓国やベトナムのように、中世や近代まで表意文字を使っていて、それから表音文字に改めた場合とか、国民性そのものも変化するのか。
言語学では、どの文字も当初は表意文字から始まり、改良し表音文字化してゆくプロセスが普通、と読んだ気がする。あまり難しいことは考えないことにする。

 5月某日
学年末の週末とあって、向いの中学校では、年度末恒例の学校主催パーティー。漸く一日家で落ち着いて仕事が出来ると思いきや、朝からロック・バンドの演奏が続く。少々耳の遠い母に話しかける時は、バンドの音が止んだ隙を狙う。母曰く、「その昔、石井真木さんのお宅の隣が鎮守様で、作曲中お祭りのタイコが鳴りっぱなしだと、もう気が違いそうだとか言ってらしたわね」。
音の洪水の中で、母がもう一言。「なんだか天理教の太鼓みたい」。

 5月某日
米大統領広島訪問のニュースを、イタリアのラジオで聞く。
ミラノ国立音楽院の作曲科作曲賞コンクール審査。各楽器に現代特殊奏法を効果的に混ぜる技術は最早必須なのかも知れないが、こうなると何も特殊奏法を使わない方が、新鮮ではないか。大学生の頃、初めてドナトーニの夏期講習を受けにイタリアに来た時を思い出す。誰もが5連音符6連音符で隅々まで整頓された譜面を書くのが、新鮮でもあり不思議だった。右も左も分からなかったので、こう書かなければいけないのか、とその時は漠然と受け容れたのを思い出す。
審査では同期のハビエルも一緒。彼の娘も劇場の児童合唱で、送迎の時間に鉢合わせになる。肩を並べて国立音楽院で楽譜を眺めるのは、何十年ぶりか。

 5月某日
スカラから通りを一本抜けた、ガレリアの一角に、「スカラ座天井桟敷会」というのがあって、要は「玄人集団」を暗に標榜している。
「天井桟敷会」でどういう訳か、ガスリーニの作品のマラソン演奏会が二日続けて行われたので、リリースされたばかりのCDのプレゼンテーションのため、アルフォンソと一緒に招かれて、録音のエピソードなどについて話す。
我々の後に舞台に上がったジャズ歌手フランチェスカ・オリヴェーリは、長年ガスリーニと演奏していたイタリア最高のジャズ歌手の一人。ただ聞きほれるばかりの圧倒的な存在感と、ジャズでも現代音楽でもない、ガスリーニ音楽の素晴らしさ。こんな風に音楽と一生付き合えたら、どれだけ幸せだったろうか。

5月31日ミラノにて

吹き寄せ控え

高橋悠治

風が色とりどりの落ち葉を吹き寄せ 乱れ重なるまま 入れ混ぜておく

ことばも音も 思いつくままに ほどよい隙間と息継ぎで フレーズをつぎたして 流れが途切れず めだたずに景色が変わっていき 前にさかのぼらず 見えないうごきに押されて はこばれてゆき 決った目的地がなくても 思いがけない方向にまがりくねる

考えぬいた課題に答を見つけ 造りあげた思想に沿って 隙なく全体を構成し 分析した要素を振り分けて 見えない構造を仮に立て 順序をつけて書き出していくやりかたが 書き手の自由をしばり 受け取る側の想像力を予想した道筋に誘導しながら 作品の映し出す風景に枠をはめてしまう というようなことをくりかえして何十年も経ったあとで これはもう過ぎたこと 完成したときは そこに欠けていたなにかが よくわからないなりに 予感され 次の一歩は 最初からやり直しとなり そんなことは いつまでつづくのか

新しいひらめきも 使ううちにすりへってくるばかりか 予測されたコースをはじめから辿っていて 新しいと思いこんでくりかえしているだけだったと わかる時が来るのか 来ていないふりをし続けるのか

ひらめきも思いつきも 構成の枠に入れずに放り出しておき 言いさし いいよどみ 言いなおして 言い終わらず 言い切らず

わかったと思ったこと 確信をもったことを言う口調でなく 思っていることは言わない どこからか聞こえてくることを聴いて 耳にとまったかけらを貼り合わせながら それを道具に使って意味や論理を組み上げるのではなく 区切りなおし せいぜい組み替えにとどめる

響きや色を からだのなかの流れに映してみる 上下 前後 右左 内外 遠さ 軽さ 寒さが感じられるか それがどの方向に流れるか 一般化し 抽象化とは反対に 概念もイメージもパターンも からだに流してみて したしみを感じるなら 彩りと韻に変えて記憶し ためしながら すこしずつ変えていく

ツイートの140字の制限のなかで書きとめたメモをたばね 水牛のように のコラムに流し込み 短い音のフレーズを 三味線の旋律型やバロックのmusica poetica のようなイメージ図式にまとめて 即興を書きとめるように 短い曲にする そこでは ことばや音の書きさしの間に付け転じの関係が自ずから生まれ 季節のめぐりが見え隠れするはずだが

憲法「肯定デモ」ってどうだろう(2)

小泉英政

1948年(昭和23年)生まれのぼくが、学校で初めて憲法について習ったのはいつだったのかは思い出せない。しかし、その時の印象は強く残っていて、憲法は光り輝いていた。それまでの暗黒時代、人々は軍国主義の流れにあらがえず、他国のどれだけの人々を殺傷したのか、そして、この国のどれだけの人々を犠牲にしたのか。

赤紙(召集令状)が届くと、戦列に加わるしかなく、異を唱えた人は非国民とレッテルを貼られ、特高警察によって過酷な尋問、拷問があった。だから、憲法成立後に生まれてよかったと、心底思った。そして、二度と、戦争は繰り返してはならないとも。

憲法9条「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。もっと易しい言葉で習ったと思うが、子供心に、いさぎよく、かっこいいなと思ったものだった。

しかし、その後、ぼくはどれほど、憲法を大事にしてきたか。国の繁栄のなかで、憲法は空気のような存在になり、少しおろそかにしてきたのではなきかという気もする。でも、自分の価値観のようなものの、その根源を、土中に延びる野菜の根をたどるようにまさぐっていけば、その先に現憲法があるというのは事実だ。

ぼくは19歳の時、ベトナム戦争に反対して、非暴力の座り込みに参加し、逮捕された。その座り込みを呼びかけたのは、昨年亡くなった鶴見俊輔さんだった。

その日以来、ずっとさまざまな社会行動に参加してきたが、非暴力のあり方に疑問を持つことはなかった。その根っこはどこにあったのだろうかといろいろ考え、ガンジーでもない、キング牧師でもない、もちろん、鶴見さんを含め、いろいろな人から影響をたくさん受けているけれど、詰まるところ、憲法9条だったのではないかと、最近、気づいた。9条の非暴力の精神にぼくは導かれてきたのだと。

幾百万の犠牲者の魂は、憲法によって、憲法を守っていくことによって救済されるのではないか。集団的自衛権は、根本において間違えていると思う。安倍政権の言動を見ていると、また戦前のような状態に引き戻されそうな危惧を覚える。ここで声を上げないと、大河の堤防が決壊した時のように、人々と生活と権利、そして平和が無残にも押し流されて行く気がする。すでに一部、決壊した。堤を守るには、もっともっと大勢の人々が多様な方法で、堤を踏み固めることが必要だ。

安倍政権を中心に置くと、ぼくは反対者ということだろう。しかし、憲法9条を中心に置くと、ぼくは肯定者で、世論調査においても、国民の多数が肯定者、安倍政権が否定者だ。

もっと公然と、一人ひとりが声を上げよう。

平和憲法いいね! 変える必要ないね!
選挙は大事! 投票に行こう!

 **

このぼくの問いかけに対して、約20名の人々から感想が寄せられた。振替用紙の通信欄、電話、FAX、地元の会員の人とは会話の中で。

約150名の循環農場会員の中には、国会前のやむにやまれない気持ちで駆けつけている人たちが幾人もいることは知っている。その人々にとってこの問いかけはどう届いたろうか。なんで今、肯定デモなの? と感じた方もいたのではないか。「ぼくもやっと重い腰を上げたから、皆さんも国会前に行きませんか」という呼びかけならまだしも、どうしてと。不快な思いをさせていたらごめんなさい。国会前に集まっている人々に注文をつけたわけではないし、そんな失礼なことを言うつもりもない。

ぼくが声をかけたかったのは、安倍政権の言動に危機感を抱きながらも、それをどう表現すればいいのか悩んでいる人々、かつてデモに何度も参加したことがあるが、さまざまな理由で、足が遠のいている人々、そもそも、デモということに対して違和感をかかえている人々など、それらの人々の中に、ぼく自身も含まれていて、この問いかけは、ぼく自身に対する問いかけ、呼びかけでもある。

寄せられた言葉の中から少し紹介したい。

○「肯定デモ」いいね! 闘争的でない表現がいいです。穏やかな力強さで安倍政権に抗議したいです。

○「肯定デモ」すごく良い! 反対運動に関わってきた人が、あらためて「肯定デモ」をしてくれたことに重みを感じる。

○「肯定デモ」あっ! と視野が広がりました。発想が柔軟、笑顔でデモできそう。声を上げよう、というのも聞く者に訴える力が大きいなと思います。

○「いいね!」の発想すばらしいですね。柔軟性、静かなしんの強さを感じます。

○大賛成です。こんなデモっていいですね。私は声を上げるのが苦手で、ただただ歩くだけなのですが、これだったらいいな。友人にも話してみますね。

○肯定的な言い方で意味を伝えていくのはささくれ立った気持が落ち着くようでいいと思います。「反対、許さない」の言葉の中に、それがあるとほっとするはずです。

○我が家の小さな孫(男です)が、「おばあちゃん、あべさんはせんそうをやるの」ときいてきます。何と答えたらよいのか悲しくなります。憲法肯定だというアピールに賛同して、孫たちに不安を与えない社会であってほしいです。

○憲法9条が覆ろうとしている……息子が戦争に行く姿が目の前にちらつき、絶対にイヤだち思った。声をあげなければ! と思った。

○ずっと否定的な言葉を聞くのがしんどかったデモ。それがいいね!って肯定デモがあってもいいんじゃない? という言葉にホッとして、それやりたい! と思ったのでした。こんな提案を待っていた人、多くいるのではないでしょうか。

○国会前やら、集会のたびにコールしたくないなというフレーズがたくさんあって、自分なりに言い替えたり、ムニャムニャしてます。

○「憲法いいね」デモ、賛成です。ぜひ実行できたらいいですね。

○平和憲法いいね! 9条いいね! 主権在民いいね! ほんとにいいね! そうだね! 「反対」はすごくコワイひびきです。全否定。

最後の方の声は、「反対」という言葉に強い拒否反応を持っているのが分かる。それは違う、そんな意味で使っていないと言う人も大勢いるだろう。ぼくもそう思う。しかし、「反対」という言葉に拒否反応を持っている人が大勢いるという現実も認めなければならない。

安倍政権に底知れぬ怖さを感じる。何とかその動きをいろいろな方法で止めなくてはと思う。デモもそのうちのひとつ。デモはちょっと、という人々にも届くような、共鳴するような、肯定の呼びかけをしていきたい。正義を振りかざさない、怒りを叫ばない、集団示威行為ではない、穏やかなデモ。国会をとり囲むたくさんの声に、もうひとつの声を加えたい。

138 終演

藤井貞和

よびたいと思う
よみがえるこえを。
よぶ とおい
幸福のくにからくにへ
きみの角笛。
ふと、「自由を
われらに」。 こつじきのゆめ
はなうり娘のはな
帰還兵のくに。
思い出を
売るおとこの
まちのひかり、屋根のした。
時間が
とまったくにで
黒いマスクをかけて
とおいところから
やってきて  (じゃねーのかよ)
きみのオルゴールは鳴る。  (ならねーだろ)
終演は  (あるかよボケ)
せかいよりすこし早く  (ふりんしてもいいし)
そのすこしあとから  (わいろうけとるのもどーでもいいから)
やってくる  (まじ いいかげんにしろ)

(「思い出を/売るおとこ」は『思ひ出を売る男』〈加藤道夫、1951〉から。かっこのなかは「保育園落ちた日本死ね!!!」〈2016〉より。)

まあ、否定はしないけどね

大野晋

植物の分類の話の続きです。と言いますか。お話を考えていたら、興味深い記事があったので取り上げてみます。

2016年5月号の日経サイエンス誌の記事の中に「大丈夫か、標本の名称表示」というものが載り、少し関係者の中で話題になったようです。記事の内容は海外の調査結果で、大学や博物館にある標本館に所蔵されている植物標本のうちの半分が間違った分類がなされているというものです。これを読んで、さて、みなさんはどのように感じるでしょうか?

専門家がいる施設でそんなにいい加減なことが行われているのか?と憤慨するでしょうか? それとも、専門家でもそんなものなのか、と思うでしょうか?

少し実態を知っている私の感想はそんなものだろうな、と思いました。これにはいくつかの背景があります。まず、前回もお話ししましたが、植物の分類には実は定番はないのです。ですから、変化のあった分類では常に種の区分の見直しが行われていて、その時点の結果だけを見れば、異なっているように見えるでしょうね。

もうひとつは、標本というものの性格です。標本庫の標本のひとつの使命は植物が分類され、命名された基準の保存です。これはタイプ標本と呼ばれ、世界にひとつだけ存在します。このタイプ標本は実際には予備の標本もいくつか作られます。こうした標本は世界の研究者に貸し出されたり、交換されたりしています。もうひとつは、比較研究のための標本です。分類の研究をする場合には、比較研究する必要があるためにどうしてもその研究対象に対する複数の標本が収集されます。最後に、現在の植物研究の世界での傾向ですが、どうしても屋外ですぐに同定できないものは標本という形で持ち帰ることになります。しかも、多くの植物の生育している環境は高度に保護されていることが多いために、すぐにわかる植物は採取されません。多くはよくわからない植物を最低限持ち帰って、それを研究施設で分類することになります。なので、最近の標本については特に「よくわからないもの」が集められています。

これが例えば牧野富太郎の時代であれば、馬の背に俵いくつぶんかの植物を採取したと言われていますし、実際に尾瀬の採取旅行では、長蔵小屋の主とその破壊っぷりで口論になったという記録が残っています。しかし、現代の調査行では、たとえ採取許可証を持っていたとしてもそんな派手な標本採取は行いません。なので、特に最近のものに関しては、分類不明なものが後年の研究に委ねる意味もあって、標本庫の中に残っているのではないか、と容易に想像できるのです。

記事は、だから、専門の分類研究者を多く採用すべきと結んでいるので、この結論も否定しませんし、研究者を採用させるキャンペーンであると考えると大いに納得できるところではあるのです。

が、でも、そんなものなんじゃないですか? と思うのです。

パレード

冨岡三智

時候もよくなったせいか、いろんなお祭りのパレード情報が目に入る…というわけで、今回はジャワのパレードを紹介。パレードを指すインドネシア語にはキラブkirab、アラッ・アラカンarak-arakan、パウェpawaiがあり、王宮行事ではキラブと呼ぶことが多い。また、外来語ではパラッドparade(パレード)やカルナファルkarnaval(カーニバル)などがあり、これは文化イベントのタイトルで使われることが多い。

●大晦日のキラブ

ジャワのソロ(正式にはスラカルタ)では、ジャワ暦大晦日に王宮の宝物が巡回するキラブがある。日没後、まずマンクヌガラン王家(分家)の方のキラブが始まる。宝物を持った同王家関係者一行が王宮の塀の周囲を確か7周する。その後、夜中の0時頃からスラカルタ王家(本家)の方のキラブが始まる。私はスラカルタ王家の舞踊練習に参加していたので、王家の踊り手として一緒に歩いたことがある。宝物の先頭を歩くのはキヤイ・スラメットという白い牛で、キヤイと名前につくようにこの牛も宝物である。その後ろを剣や槍などを持った家臣団が続き、踊り手も比較的前の方を歩く。その後ろに巡幸参加を希望した団体が延々続く。田舎の年寄が多いが、中には若い人が交じっていることもある。こちらのキラブのルートだが、王宮の北の広場からキャプテン・ムルヤディ通りを南下し、フェテラン通りを西に進み、北上してスリ・ウェダリ公園の所に出てきて、あとはスラマット・.リヤディ通りを東に進んで王宮に戻る。実は牛の歩みによりスピードが変わるのだが、王宮に戻ってくるのはだいたい明け方5時頃になるので、体力的、精神的に自信がないと参加できない。歩く者は皆ジャワの正装で、家臣の人たちは基本的に素足ということなのだが、踊り手たちは草履を履いて良いと言われたので履く。

この行事はソロの観光イベントとしても有名なので、王宮やメイン・ストリートのスラマット・リヤディ通りは大勢の観光客で一杯になる。しかし、それ以外の場所には――時間帯にもよるが――あまり見学客もいなかった。これは、観光客には単なるパレードであろうし、実際に1970年代にスハルト大統領の肝いりで始まった「創られた伝統」なのだが、王宮関係者とっては精神的な意味合いが強い。宝物巡回は、昔は疫病が流行った時などの非常時に民の要請を受けて行われていたという。宝物に宿る霊力によって町を清めるという意味合いがある。このキラブの間、王は直接姿を現さないが、王宮内で瞑想して国の安寧を祈る。また、行列参加者もこの間、口をきくことは禁じられる。

●パラッドとカルナファル

ジャカルタのタマン・ミニ(インドネシア各州の文化を紹介するテーマパーク)では1982年から毎年「パラッド・タリ・ヌサンタラParade Tari Nusantara」と呼ばれるイベントが行われている。タリは舞踊、ヌサンタラはインドネシアの国を指す語で、要は国内各地(州)の舞踊紹介のイベントである。パレードを謳っているが、実際には通りを練り歩くのではなく、順次舞台で舞踊を上演する。スハルトの文化政策の見本みたいなイベントだ。

それに対してカルナファルは非常に新しい単語で、知られるようになったのはここ10年ほどである。ソロでは「カルナファル・バティック・ソロKarnaval Batik Solo」というイベントが2008年以来行われている。一応バティック(ジャワ更紗)をテーマにしているが、リオのカーニバル並みに派手で巨大な衣装を着た人が沢山出てメイン通りを練り歩く。これは当初は芸術イベント関係者が始めたはずだが、バニュワンギでも2011年からカルナファル・エトニック・バニュワンギKarnaval Etnik Banyuwangiが始まっていて、こちらはファッション産業関係が始めたようだ。他にもジャカルタ市がジャック・カルナファルJak Karnavalを2011年頃?に開始している。いずれも、県・市(行政都市)レベルのイベントだ。2011年〜2012年に私はインドネシアに住んでいたが、確かにこの頃にカルナファルという語を耳にし始め、ソロのようなカルナファルを真似したいというような話を他の地域でも聞いた。インターネットで見ると、いろいろなカルナファルが行われているようだ。私には、なぜカルナファルのようなド派手なイベントがインドネシアでそんなに受けるのか私にはよく分からないのだが、インドネシアの経済発展中間層が育ってきたのと関連があるのかもしれない。

dumortierite

璃葉

デュモルチ石、という鉱石を、山のなかで採掘した。デュモルチ石は乳白色や灰色をしたロウ石に混ざる青い部分。曇間から顔をのぞかせる青空のようにあざやかなのだ。辿りついた目の前にある崖には、どうやらロウ石がびっしり詰まっているようだった。ずいぶんと掘られているから、デュモルチ石を探しにここまでやってくる人は多いのだろう。

たくさんの樹々にかこまれた岩場はひんやりとしていて、たまに吹くそよ風が気持ちいい。ロックピックハンマーで岩をつつく音が森に響く。崖から採れた石は冷たく濡れていて、ゴツゴツしているが、柔らかい感覚もあった。

石を小さくしたり、断面を見るために、ハンマーで割る作業もまたおもしろい。ハンマーで簡単に割れる箇所と、そうでない箇所がある。くら叩いてもうまく割れない部分には「脈」が通っていないらしい。石には見えない脈が張りめぐらされていて、そのツボを叩くと石はおどろくほど素直に割れる。

石切り場などの職人は、石の脈を心得ていると聞く。脈、ということばを聞くとまず、わたしはとても熱い、得体の知れない力強さを想像する。でも、同時にもっともか弱い部分でもあるのだろう。

石や植物、動物、この惑星も繊細な脈だ。ロウ石を手にとって、透明な川の水で洗う。泥は綺麗に落ちて、ところどころに青を見つける。デュモルチ石のあざやかな青を探すことと、石を割る作業で、時間はあっという間に過ぎていった。そのうち、石の脈の軌道も読めるようになれば、もっとたのしくなるのだろうか。
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仙台ネイティブのつぶやき(13)市で会いましょう

西大立目祥子

毎月2つの市を主催している。
仙台市若林区の陸奥国分寺薬師堂境内で開催する「お薬師さんの手づくり市」(毎月8日)と、同じ区内の寺町にある新寺小路緑道と隣接する公園で開く「新寺こみち市」(毎月28日)だ。

なぜ開くことになったのか、細かい経緯はいずれ書くことにして、今回は市が人と人が出会う場になっていることについて、ふれたい。

開催はそれぞれ1年に12回。冬も休まない。前者の出店者は約150で、後者は約60。朝早くから、仙台市内を中心に、周辺市町村や県外からも、手づくりの食品や雑貨を車にいっぱい詰め込んだ人たちが会場につぎつぎと到着して荷物を下ろす。いまの季節は気持ちがいい。桜が終わって、樹々がいっせいに小さな黄緑色の葉を広げ始める下で、テントを張りテーブルを出し商品を並べる。私も朝7時ごろから後片付けの終わる5時ごろまで会場にいて、来場者や出店者に応対する。にぎわいのピークは午前11時ごろ。いつも静かな境内や寺町にびっくりするほどの人が集まってくる。8年目に入った「お薬師さんの手づくり市」は、土日に重なると5千人くらいが訪れるようになった。

私の友人や知人もやってくる。
毎月欠かさずきてくれるYさんはすらりとした長身の70代の男性で、「お薬師さんの手づくり市」は皆勤賞だ。「やあ、今日も人出がすごいね」とあらわれ、何を買ったかを教えてくれ、そして必ずほめてくださる。ここまでよく頑張ってきたとか、雨の日は雨の日で風情があっていいとかという具合に。だから、晴れない気分の日はきてくれないかなあと心待ちにする。

Hさんも愛犬のパピヨンを連れ欠かさずやってきて、椅子と紙コップのコーヒーをすすめると腰掛けて30分ぐらいおしゃべりをしていく。学童保育の活動をしてきた方で、長年の活動で培われたのだろう、話していてもいつも子どもへの目配りがある。小さな子が犬に近づいてくるとさわらせてあげるし、男の子が地べたでお弁当を食べ始めると、「ボク、ほらこの椅子に座りなよ」と近くの椅子をすすめる。そういう配慮に、教えられることもしばしばだ。

Oさんは、歴史的建造物の保存活動をしてきた仲間で、料理がお得意。一昨日の大雨の「新寺こみち市」にも、手づくりのお弁当をもってきてくれた。テントの下でお弁当を広げ、あれこれおしゃべりしながらいっしょに食べる。「私、先月ドイツに行ってきたのよ」と意気揚々と話すときもあれば、「この2週間すごく落ち込んでたの…」と陰った表情のときもある。本音が出てくるからこちらも本音になって、世の中のひとつひとつの動きについて意見を確かめあうようなおしゃべりなる。

85歳の叔母も昨年秋から「新寺こみち市」に欠かさず出かけてくるようになった。一度きて楽しさを実感したらしい。杖をつきながら店をめぐり、店の人とおしゃべりして買物を楽しみ、事務局のテントに戻ってきて「今日の発見は、向こうに出てた麻のバッグづくりの人。あれ、すごいんじゃない?」と報告していく。ひとしきりしゃべると、「もう私に気を使わないでね、ちょっとそのへんスケッチして帰るから」とスケッチブックを取り出し、姿を消す。ときには、市を友だちとの待ち合わせ場所に使ったりしているようだ。

「元気だった?」と友だちが姿をみせ、里帰りの幼ななじみと久しぶりに再会することもある。買物にきた知人が「お昼に食べて」とパンを差し入れしてくれたり、取材をとおして知り合った人が「きてみましたよ、すごい人だね」と声をかけていくこともある。

それぞれが私と話をしていくだけではない。たまたまテントで行きあった人同士が並んで座り話すこともある。何回か市で見かけた顔見知り同士の会話。でもそれは、あたりさわりのないお天気の話に終わるというわけでもない。煮豆のだしについて。近頃閉店した店について。地下鉄東西線開業後、不便になった仙台市バスのダイヤについて。アベノミクスで切り捨てられる低所得者層について。都市緑化のゆくえについて。喧々諤々ではけれど、やりとりの中で、こんなふうに考えてるのは自分だけじゃないんだ、と感じとれるのは大きい。連帯とまではいかなくても孤立はしていないこと、ゆるやかなつながりの中にいる自分を確かめることができるからだ。

きてくれる人たちは私と格別に親しい友人というわけでもない。Hさんのように市で話すうち打ち解けた人もいる。でも、月に一度必ず会うという意味は大きい。あらわれないと、どうなさったのだろうとちょっと心配になる。あいさつをかわすくらいの顔見知りが、ひとりひとりにとって案外と大きな存在であることは、東日本大震災のときに教えられた。三陸沿岸から出店していた人たちのことを、お客さんや出店の人たちが本当に心配していたから。「あの人は無事だったの?」「いつ出てこれるの?」そんな質問を何度もされた。そして2年後、困難を乗り越えて再出店を果たした人を、みんなが大歓迎していた。

まちづくりで都市のコミュニティ再生がいわれるようになって久しいけれど、私はこうしたゆるやかな関係が糸口になるかもしれないと考えるようになった。友人手前の顔見知りを増やすこと、顔見知りが定期的に顔を合わせる場をつくること。そこから地域に根ざしつつ地域をこえたコミュニティが生まれるかもしれない。いま、熊本もまた大地震に見舞われているけれど、ある日突然の災害によって避難所に駆け込んだとき、私たちは自分でも意識しないままに、まず体育館の中の人々に目をこらし、顔見知りを探すのではないのだろうか。

だから、このごろは知り合いになった人をまずは市にお誘いすることにしている。市にきてみない?つぎは5月8日の「お薬師さんの手づくり市」ですよ。

アジアのごはん(77)グルテンフリー

森下ヒバリ

グルテンフリーという言葉がかなり世間に浸透してきた。なんといってもテニスのチャンピオン、ジョコビッチがグルテンフリー食生活に変えてものすごく強くなったお話の本「ジョコビッチの生まれ変わる食事」が世界中でベストセラーになって、日本でも発売されているのが大きい。

ふ〜ん、でもグルテンアレルギーの人だけの話でしょ? と思ったあなた、どうもそれが違うようなのですよ。小麦に含まれるグルテンは、一部の人にアレルギーを引き起こすだけでなく、すべての人にとって身体によくないという説がある。どうやらグルテンは、脳に炎症を引き起こしているようなのだ。グルテン過敏症と言われる人以外でも、もれなく。グルテンの処理能力の高い人や、低い人、劇症の反応が出る人、慢性的な反応が出る人、さまざまではあるが、慢性的な症状は気づかれにくい。それがグルテンのせいだとはなかなか気づかないのである。

最近ここ10年ぐらいの脳神経分野の研究でグルテンが脳の炎症を起こし、神経系の変性疾患、つまりアルツハイマー病、てんかん、統合失調症、ADHD(注意欠陥多動性障害)、うつ病、パーキンソン病、頭痛などを引き起こす要因になっていることが確かめられつつある。病気に至らなくても、集中力の欠如、頭にもやがかかったような状態、疲れやすい、全身の倦怠感などの症状もある。

昔から食べられてきた小麦がなぜ? という疑問もあるが、『「いつものパン」があなたを殺す』(三笠書房)という本の著者のパールマター博士はバッサリと言う。現代の小麦は長い間人類が食べていた時代の小麦とは全く違うものになっている、と。品種改良、遺伝子組み換えによって現代の小麦はグルテンがかつてなく大量に含まれているし、食べる量も倍増している。食生活に占める小麦の割合が、主食のパンやパスタ以外にもケーキやクッキー、ジャンクフードなどからと大変多くなっているのだ。

パールマター博士の本を読みおわると、小麦を食べないのは不自由すぎると思っていた気持ちから、こんなにグルテンが脳に影響を与えるのが事実ならば、小麦を食べるのは恐ろしすぎるという気に変わった。

とりあえずアレルギー体質であるし、頭痛持ちであるし、アルツハイマーにもなりたくないので、ちょっとためしにグルテンフリー食生活を実験してみることにした。家での食事はパン・うどん・パスタをやめて、米飯を食べるようにした。しかし、いっさい小麦製品を食べないわけでもなく、たまにはあんパンやラーメンなども食べてみたりとゆるい感じでやってみた。いろいろなものを食べた後に、自分の体調を注意深く観察する癖がつき、これはなかなかいい。

どうも小麦を食べていないと体が軽い。いい感じだ。しかし、じぶんがグルテン過敏かどうかはよく分からない。グルテンは食べてから胃を通り過ぎて、腸に達して吸収されてから反応を起こすので、時間がかかる。24時間から48時間、人によってはもっと後に症状が出るので、たいへん分かりにくいのだ。目が覚めて頭が痛い・・と思ってもそれが昨日のあんパンのせいなのか、低気圧が近づいているせいなのかも判別しにくい。

ある日昼ごはんに、十割そばを茹でた。これまではそば粉よりも小麦の方が多い「鶴そば」を愛用していたのだが、小麦の入っていないそば粉のみの十割そばにしてみたのである。うどんは食べられなくとも、十割そばならグルテンフリーだ。茹でてみると、茹で汁がドロドロになった。味はまあまあおいしい。蕎麦湯を飲んでみると、ほんとに濃い。ちょっと濃すぎるなあ、と思いつつもったいないしお椀に1杯飲んだ。あれ、なんかちょっと気分が‥変だ。

どんどん気分が悪くなってきた。まずい‥吐き気も感じる、あれ、これは‥。乳製品とかでよくなる食物アレルギーの症状ではないか。え、そばアレルギーかい!

ちょっとあせったが、苦しいい〜とうなる位のレベルで、吐き気も何とかしばらくすると収まった。3時間位起き上がれなかったが。苦しみながら思い出したのだが、7〜8年前に近所に出来た手打ちそば屋さんで一度だけそばフルコースというのを食べたときに、これほどではないがけっこう気分が悪くなったことがあった。その後、そばフルコースを食べることもなく、忘れていたが、一定量以上食べると症状が出る‥りっぱな、そばアレルギーの持ち主であることが判明。ふう。

そばアレルギーというと、アナフィラキシーの激しい症状のイメージがあるが、そばアレルギーも軽いのから激しいのまで幅があるようだ。ちなみにけっこう苦しかったので、あれ以来そばは二度と食べていない。食べたくもない。見るだけでぞっとする。これは次回食べると重症化してアナフィラキシーショックを起こす気配を感じているのかも。

グルテンフリー実験をしていたら、そばアレルギーであることを発見するとは‥。そして、その後同居人とタイに移動し、外食中心の食生活になったのだが、ここでも意外な発見があったのである。

ある日、友人の娘さんの結婚パーティーがバンコクの高級ホテルであり、なかなかグレードの高い料理をブッフェで楽しんだ。西洋料理がメインで、ほかにタイ料理、中華、そしてパスタとパンとスウィーツ、ワイン、ビール。「わお、ここのパン、すごくおいしい。タイでこんなに美味しいパンめったにないよ」わたしはバゲットやカンパーニュなどのパンをたくさん食べ、同居人にも運んだ。「スパゲティもおいしい」と皿に盛るYさん。ブラウニーも上等。ワインもたっぷり飲んで、お開きになった。そのままアパートに戻って昼寝をして、夕方起きる。お腹はあまり空いていなかったので、遅めの時間に近くの丸亀製麺でてんぷらうどんを食べた。

翌日、遅めに起きた同居人は目覚めるなり「沖田〜〜総司!」と叫んで起き上がり、いきなりべらべら喋りながら、とめどなく忙しく動き回る。うるさいことこの上ない。ああ、このハイテンション、久しぶりに出たなぁ。ADHD(多動性障害)の発作だ。うちの同居人はADHDで、ときどきこうなる。ちなみに世間ではADHDを障害などと言うが、わたしはこれを障害と思ったことはない。病気の一種か、性質なのだろうと思っていた。しかし、そのとき、はっとグルテンの神経疾患への影響一覧を思い出した。発作が出るまで忘れていたが、その中にADHDがしっかり入っていたではないか。そして、きのうは久しぶりにパンやパスタを食べ、さらに夜はうどんと、まさにグルテン三昧の日だった。

「グルテン過敏症は、あんたやん」「ええ、これグルテンのせいなん!?」「他に何か思い当たる節が?」「う‥‥」

タイは、日本よりもグルテンフリーを実行しやすい。近年、パンやパスタが食べられるようになってきたとはいえ、もともと小麦を使う料理やお菓子は少ない。圧倒的に米文化の国なのである。例外は中国系だろうが、ふつう麺と言えば米の麺だし、お菓子も米粉のものがほとんど。主食はもちろん米飯だ。グルテンフリーだと気をつけなくても洋食のレストランにさえ行かなければ、自然に実行できる。そうしているうちに、ふたたびYさんがADHDの軽い発作を起こしたのは、久しぶりに日本食の店でラーメンと餃子をたっぷり食べた翌日であった。

「うどんとか、お好み焼きとか粉もんがすごく好きかもしれんけど、もう小麦はやめとこうや。ほんとはビールも合ってないんちゃうの」「うっ。ビールを飲むと鼻炎になるのは自分でもわかってるけど〜」と口をへの字にするYさん。ADHDがグルテンのせいで起こるとは、目の当りにするまでピンとこなかったが、これは大変なことではないか。先天性の脳の機能障害などではなくアレルギーなのだ。個性とか、持ち味ではないのだ。脳が炎症を起こしているのだ。

ちなみにその後、Oリングの達人のマーシャの家に行った時に、その話をしたら「はあ? 小麦がADHDを起こすなんて、そんな馬鹿な」と笑うので、マーシャの家にあった上質のパンに対するYさんの反応をOリングでチェックしてもらう。「ほら、別に肝臓にも悪くないよ」「頭はどう。問題は脳なんだよ」「はいはい。あ、なんだこれ‥脳が拒否してる」
パンを脳が拒否するという結果が出たのはそこにいた4人のうちYさんのみであった。

アルツハイマー病、てんかん、統合失調症、ADHD(多動性障害)、うつ病、パーキンソン病、原因不明の頭痛などに悩まされている人はぜひグルテンフリーを試してみてください。グルテンが原因の場合は、人生が変わるかもしれない。そして、頭がぼんやりしていると感じる人、集中力が落ちたと感じる人、もっと意識をクリアーにしたいと思っている人、将来認知症になりたくないと思っている人も、ぜひ。『「いつものパン」があなたを殺す』(三笠書房、パールマター博士著)を参考に。試してみるのに副作用もデメリットもありません。とりあえず、グルテンが多い強力粉を使ったもの(パン、パスタ)を止めてみる、からでもいい。あなたの身体(脳)は、あなたが食べたものでできている、ことを忘れないで。

米粉を使った料理を試してみるのもまた楽しい。

グロッソラリー ―ない ので ある―(19)

明智尚希

 「1月1日:『まだその時は三郎が下戸だなんて誰も知らなかったもんだから、ビールやら日本酒やら焼酎やら、どんどん飲ませた。そしたらどんどん顔が青くなっていった。飲ませた側も異変にばたばたしだして、やれ吐かせろだのやれ救急車だの、そりゃあもう大騒ぎだ。肝心の三郎はといえば、しばらくは壁にもたれてじっと座ってた』」。

_|  ̄|○、;’.・ オェェェェェ

 蚊が苦手である。好きな人はそうはおるまい。複数人でいても真っ先に刺される。その蚊がカーソルの上に止まった。なかなかどいてくれない。たたけずつまめずそのままにしていた。人間、何にでも親近感を抱くものである。ひと時をともにしただけで刺されることを許した。断わっておくが、その日その時その瞬間の蚊には、である。

(∩´∀`@)⊃ よろしくぅ〜

 連想ゲーム:鼻毛、茶柱、音符、音楽理論、素人理論グラフ理論ラベリング理論文化葛藤理論電弱統一理論力の大統一理論カオス理論究極理論アノミー理論プロスペクト理論期待効用理論ドリフト理論符号理論公平理論批判理論論理階型理論特殊相対性理論暗号理論比較優位の理論スカラー・テンソル理論超重力理論ゲーム理論心の理論。

≡>┼○ もういやー

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

≡≡>┼○ もういやいやー

 炭酸水、ガム、コーヒー、天敵にして同志。どれもアルコール依存症の名残りで、どれもアルコールをやめた人が良き友とするものらしい。炭酸水は喉に刺激を与え、ガムは口寂しさを埋め合わせ、コーヒーはその両方の役割を兼ねている。どの病気でも、治ったりその途上にある患者のケアは実におろそか。複合的な病気にでもなりそうだ。

バリアー (((\( ̄一 ̄)/)))

 地球から意味のないものを取り除いたら、金柑頭みたいになる。

タダィマ((´‐公‐`))考ぇ中

 「1月1日:『そのままでいるのかと思ったら、急に『オロロロロロロロ』と滝のように吐きだした。そこら中は大変なことになってたけど、全部戻してリセットすれば、またしらふになると楽観視してたから、吐くに任せてた節はある。まあ戻している最中に止めることなんかできやしないけどな。で、三郎のやつ、急に吐くのをやめた』」。

(_ _|||)おえ …

 けっさけっさで きでを見る
 急転直下の 割りもせて
 えんたらえんたり 師でらいら
 矢ずらえんずら こもだちに
 白木まちれの だきうんな

ヾ(-_- )ゞ…ア ヨイヨイ!

██の████は███████████████ら█████████████████████████████
███████████████い██████████████████████████████つ██████
█████████████████████ぱ█████████████い████に████████████
さ█████████く█████████は█████████な█████████████████████

ヽ(●´3`)ノ゛ルンルン♪

人の不幸は蜜の味。みんな自分以外の人間が、なるべく早く不幸になるのを待ち望んでいる。小さな不幸には嘲笑を浴びせ、心に響かない不運には苦笑を捧げる。だが、死に関しては、死に方が無残であると特に、笑いを失う。それどころか自分に落ち度がなかったか、責めの有無を慌てて確認する。前掲の文句は常態用のものだとやっとわかる。

(p_;)ヾ(´∀`)

 まあなんちゅうかあれだな。あれ? ちょっとお茶を入れてくる。あちち。あち。あよっこらしょっと。まああれだ。たかだかお茶を入れるにもこんなに難儀するようじゃ、わしも正真正銘に老いたということじゃな。ま、わしのことをいろいろと笑う連中もいるんじゃろうけど、年老いたのは事実なんじゃから今更じたばたしても仕方がない。

Oo。。( ̄¬ ̄*)ぽあぁん

 さて。ズッキーニを食べてからプッチーニを聴くか、プッチーニを聴いてからズッキーニを食べるか、ズッキーニを食べながらプッチーニを聴くか、プッチーニを聴きながらズッキーニを食べるか、ズッキーニを食べずにプッチーニを聴くか、プッチーニを聴かずにズッキーニを食べるか、ズッキーニも食べずにプッチーニも聴かずにいるか。

_机_┗┐(-c_,-。)y-~ ふぅ

 食事をすると眠くなる。退屈だと眠くなる。疲れていると眠くなる。何かにつけ、死への練習ともいうべき睡眠へいざなおうとする力が作動する。夜の眠りでは飽き足らず、惰眠の底に落とそうとは。人間の創造主は何を意図している、いたのだろうか。あるいは人類の曲解か。眠りこそが生の中心であり、日中の営みは付属に過ぎないという……。

( -_- ).。oOOグウグウ・・・( ゜゜;) ハッ!

 「1月1日:『そこからの三郎はすごかった。戻すのをぴたっとやめて、急に真顔になって垂直にぴーんと立ち上がったかと思いきや、あ、その前に、三郎おじさんは親戚の間じゃあ生真面目一辺倒で知られてたんだ。俺の弟とは思えないくらいにな。言葉づかいや態度もきっちりしていて、まあいわゆる堅物に近いところがあったなあ』」。

(-@∀@)マジメデス

 国民に関係する事柄を国民に決めさせないというのが、この国の政治屋のやり方じゃ。料亭でひそひそ、大臣宅でこそこそ、派閥の長の家でぶつぶつ。こんなやり方は全体主義と変わらんね。だいたい議会制民主主義なんか合ってなかったんだよ。単一民族国家と言ってもいい国、馴れ合いや談合で決まるなんて事前に読めたろうになあったく。

ひそひそ…(/・0)三c(¨*)c(¨*)フムフム…

 難しいことを考えるのが、なぜ難しいのかを考えてみる。でも肝心の難しいことを例として挙げられない。なぜなら難しいことを考えるのが難しいからだ。神の存在証明と非存在証明とか。難しいことがわからないままなのだろうか。だとしたら議論すらできやしない。ゴールドバッハの予想とかも。もう一度ひらがなの練習からやり直そう。

Φ…(・ω・ )かきかき

しもた屋之噺(172)

杉山洋一

ここ数日、寒暖の差が頓に激しく、朝パンを買いに出掛け、息子を学校へ送ってゆくと、もう4月が終ろうとしているのが嘘のように、手が悴みます。数日前には中部イタリアで雪が降ったとニュースにありました。被災地の寒が緩んでいるのを信じつつ、日記を取り出します。

 4月某日 ミラノ自宅
朝、庭の大木を啄木鳥が盛んに叩く音で目が覚める。もう三日ばかりこの黒い鳥が続けざまに通ってきていて、穴の直径は十センチ弱。覗き込むと案外深い。巣を刳り貫いているのだとばかり思っていたら、そうではなくて、餌を捕っているのだと教えてくれる人あり。虫を捕るのにこれほどの大きな穴が必要かと疑問に思っているうちに、姿を見せなくなった。

沢井さんから頂戴した、木戸敏郎著「若き古代」読了。雅楽に、元来聴衆はいなかった。天子が天と繋がるために、自ら音を奏で、周りはその儀式に立ち会う。誰に聞かせるのでもない。自らのために、音を出し、空気がふるえる。何時から、どういう切欠で我々は他人のために音楽を書き、奏でるようになったのだろう。そうして完全無欠な音楽を目指すなかで、我々の耳はすっかり退化し、鈍化した。聴覚だけではない、味覚も嗅覚も視覚も触覚も、我々は退化しつつ進化し続けてきた。

天皇即位の折に八百万の神々、歴代天皇へ「申し上げ」をする際、神々から天皇へ応える声を、誰も正体をしらない、鈴の音が応える。芝祐靖さんの言葉が紹介されていた。「しかし、社殿から漏れてくる音を遠間に聞くことはできた、という。小さい鈴がいっぱい鳴っている、という感じの音だった、と話してくれた。私が三番叟の鈴のような音かと問い返すと、それとは違う、もっとたくさんの小さい鈴がまとまって鳴っている音だ、という。ゴッシャ ゴッシャ ゴッシャ という感じの音らしい。これが延々続くという」。

井筒俊彦さんが書いてらした言葉が頭を過ぎる。マホメットが神から預言を受けるとき、授かる言葉は、鈴の音のようなものだった。
「誰かがムハンマドに尋ねます。”神の使途よ、あなたにはどんなふうにして啓示が下るのですか”。預言者は、つぎのように応えた。”時によると、啓示はベルの音のように私のところへやってくる。この形式の啓示がいちばん苦しい。だが、やがてそのベルの音は止み、フッと気がついてみると、それがコトバになって意識に残っている”、とこういうのです。”時によると、啓示はまるでベルの音のように”、ミスラ・サルサラティ・ル・ジャラス、ジャラスというのはベルです。 ごらんになったことがありますか、駱駝などに大きなベルがぶら下げてありますね。駱駝が歩くとチャリンチャリンと音がする。あれです。サルサラティというのはオノマトペア、擬音語です。日本だったら、サルサラというとさらさらと流れる水の音みたいですね。だけどアラビア人には鈴の音がサルサラと聞こえるらしい」。

 4月某日 ミラノ自宅
新作に使う素材「Wachet auf, rufet uns die Stimme」を、フィリップ・ニコライが書いたのは、黒死病で無数の人々が斃れてゆく絶望の中で、彼は心の拠り所を信仰に再び見出したからだという。彼の弟子、Waldeck候ウィルヘルム・エルンストが15歳でペストに斃れ、テキストに「Graf zu Waldeck」の頭文字を逆に並べた折句を使った。水谷川さんから、何かバッハと所縁のある作品を頼まれたとき、この旋律が思わず頭に浮かんだ。

11歳の愚息は、ショパンとモーツァルトとバッハは好きだが、ベートーヴェンがよく分からないと、友人宅でこぼしていたらしい。それは笑い話だけれども、実際自分がベートーヴェンが分るかと問われたら、言葉に詰まるかも知れない。何をもって分かると呼べるのか分からない。自分にとって、シューベルトのように耳にするだけで幸せという存在ではなく、たとえ特に好きな偶数番号の交響曲を聴いていても、至福のなかに、常に意識を覚醒させる何かが鳴り続ける。

 4月某日 自宅
愚息が小学校からの帰宅途中、眼前の飛行雲に目を留めて、まるで飛行機が墜落したような弧だ、と声を上げた。馬鹿げたことをと笑って聞き流したが、確かに角度をずらして目を凝らせば、地上に向って斜めに落込んでいるようで、先日読んだ本の中で木戸さんが、屏風絵の配置について盛んに書かれていたのを思い出して、虚を衝かれる思い。

「この”群鶴図屛風”も歌仙絵と同じ性格のものであり一双を向かい合わせに立てる屛風であった。左右両隻の鶴の群は上座に向い、落款は下座に揃う。この一双に囲まれた空間に身を置くと、あたかも釣るの群の中に迷い込んだような錯覚におちいるであろう。光琳の巧みな構図である」。
息子の観察眼、想像力に比較して、自らの視点がいかに凡愚なことか。思い返せば、自分の想像力は齢と共に愕くほど退化した。子供の頃、部屋の箪笥のパステル色のプリントが本当に恐かった。今から思えばそれは涎掛けであったり、下着だったり、段毎に中身を示している他愛ないものだったが、当時はそいつがこちらの様子を伺っているようで、まともに見られなかった。

 4月某日 自宅
毎朝ヴィニョーリ通り角のパン屋へ、朝食のパンとヨーグルトを購いに出かける。朝6時半くらいに着くと、ブルーノがオペラアリアのオムニバスを大音量でかけながら、店の奥で最後のパンを竈に入れている。パン職人は誰でも白Tシャツを着ているのは何故か分からないが、今朝は「Vincerò」が朗々と掛かっていて、その姿を思い出しつつ、朝食。

昨夜は14番トラムに乗っていて、財布の入ったカバンを引っ手繰られる。スタンダール通りの停留所で、扉が閉まる間際、二人組の男が、こちらの目を見ながら近づいて来たかと思いきや、出抜けに膝の上のカバンを取って走り出した。こちらもそのまま飛び出し、「泥棒」と叫びながら追い掛ける。追われるのは想定外だったのか、さほど足は速くなく、追い付きそうになったところで、歩道の凹凸に足を取られこちらが躓いたが、それでも声を上げて走った。通りがかりの若者たちが気がついて追いかけ始めてくれた辺りで、流石に泥棒も観念してカバンを近くの空地に放り出し、どこかのアパートに駆け込み逃げきった。タックルになりかけたところで、ラグビーボールを投げ出しスタンド席に逃げたような格好か。泥棒家業も大変なわけで、あのまま手ぶらで家に帰り家族から駄目亭主などと詰られていたら、少し気の毒な気もする。

 4月某日 自宅
風邪をひいているのか、花粉症なのか、身体が重く、思い立って夕刻、自転車でアッビアーテグラッソ手前のカステルレット・ディ・メンドージオまでナヴィリオ運河沿いに走って、往復40キロほどか。コルシコを過ぎると、途端に自然が広がり、牛や鶏が野原に放たれ、草を食んでいる。窓が開放たれた牛舎の壁に、牛と同じ顔をした主人が門に物憂げな様子で門に凭れている。新緑が眼にうつくしく、水田には水が曳かれ、そこに青空が映る。ミラノから少し離れただけで、人々の姿もすっかり違って、純朴で人懐こい。

翌朝息子を連れて、アッビアーテグラッソで電車を降り、ベルグアルド運河を訪ねた。キックボードを携えてゆき、16キロほど散歩。誰一人いない野原が続き、時折サイクリングやジョギングする人とすれ違う程度で、わたる風の音と水の音以外何も聴こえない。視界を遮るものも何もない。オッツェロ、モリモンドを越えた橋のたもとで、二人で切売りのピザを頬張る。息子と同じくらいの頃、よく父に連れられて、蛍田あたりの水路に毎週のように釣りに出かけた。ベサーナの小橋端に、牛舎があって、息子は盛んに牛に話しかける。そのうち、一頭また一頭と寄ってきて、終いには息子の周りは牛だらけになる。ミラノ行きのバスに乗り込んだ途端、息子は眠込んだ。

 4月某日 自宅
沢井さんから頂戴した松本清張の「正倉院への道」読了。専門家がそれそれ一番面白いところばかりを解り易く説明するから、随分得をした読後感が残る。歴史がどれだけ躍動感に満ちていて、音楽がどれだけ歴史と肉薄してきたか改めて思う。井筒俊彦の「コーランを読む」と同じく、背筋をゾクゾクさせながら読む。木戸さんと井筒俊彦に共通する、「書かれている言葉を、ただ理解するのではない」、という姿勢に対し、心からの共感を覚える。文化人類学的、宗教学的、考古学的考察は勿論大切だが、それを基にして再現作業に臨む際、残された情報の根底に流れる文化の血潮が通っていなければいけない、という明快な論理。

我々に置換えれば、音楽学的な歴史的演奏法、楽器法の考察をいくら再現しても、本来の音の意味が表出されないのに等しい。演奏法や楽器法の再現は、それ自体には意味があるけれども、それ以上でもそれ以下でもない。徒に再現するだけでは、木戸さんが書くように、博物館に陳列されるのと大差はなく、言葉を幾ら理解しても、言葉の奥にある感情が共有されなければ、本質が欠落したままになるのに等しい。

尤も実験考古学など心から憧れるし、不可欠だと信じる。だけれども、自分が音を書き奏でる折に、「再現」という言葉に食指は動かない。日一日退化を続ける我々に残された可能性と言えば、与えられた情報の表層のみに惑わされず、その文化の根底を観続けながら、自らの感情を音にすること。陳列された言葉としてではなく、生きた自らの言葉として表現すること。

(4月30日 ミラノにて)

ちいさいひと

時里二郎

くすくすわらいする山羊のそばには
いつもちいさいひとがいる

ちいさいひとは作り話が得意で
次から次と話を紡いでいくものだから
それで大きくなれないのだ

でも それをやめてしまうと
だんだんちぢんでいって
おしまいは けむりになってしまう
といううわさもある
いやいや それもちいさいひとが作ったおはなし

くすくすわらいする山羊のそばに
人のひとりもいていいはずなのに
山羊だけに聞かせるのはもったいない
山羊を柵につないだ人はどこへ行ったのかしら
ちいさいひとにはとても山羊は引けそうにない

それでも
ちいさいひとは
山羊のために話を紡ぎ
山羊はくすくすわらっている
そんな一年十年百年千年を生きている

ふいに
おまえはだれ という声がした
わたしの耳の奥の森の入り口の方
たしかにそれはちいさいひとの声

「『おまえはだれ』 と呼びかけると
『おれはその山羊のあるじ
おまえがちいさいひとになるまえのおまえだ』」

山羊はくすくすわらい
ちいさいひとは
次の話をするために必要なあたらしい息のように
すこしふくらんでいる

  (名井島の雛歌から)

ボブ・ディラン来日覚え書き

若松恵子

桜の4月に、ボブ・ディランが来日した。2010年、2014年とオールスタンディングのライブハウス・ツアーを行ったディランだったが、今回は全席指定のホールでのライブとなった。「劇場でボブ・ディラン」という広告には笑ってしまったけれど、照明も音響も素晴らしくて劇場のボブ・ディランもなかなか良いなと思った。

ライブハウスで若者の熱狂に囲まれている前回のディランもかっこよかったけれど、今回のホールのディランに「何だ、落ち着いちゃったな」という印象は微塵もなくて、うれしかった。今回のツアーは東京10回、大阪3回、名古屋1回、仙台1回、横浜1回の計16回公演。日本でのディランの日々は、歌うこと以外はなかったのだろうな。ステージもサービスや過剰な演出のない、歌(音楽)一本に集中した進行だった。

私は4月4日初日のオーチャードホールと28日のパシフィコ横浜の最終日、もう少し見たくて追加でチケットを買った18日のオーチャードホールの計3回見ることができた。今回は1曲の入れかえ以外は同じセットリストだったのだけれど、もう1回聴きたいと思わせる魅力があって、できることなら全公演行きたかったと思うファンも大勢いただろう。ある意味、毎回お約束のステージをやったのに、聴くたびに新鮮で心が弾んだのは、さすがディランと彼のバンドの力だったのだと思う。

今回のツアーではオリジナル曲の間に「グレート・アメリカン・ソングブック」と称されるスタンダード曲が8曲組み込まれている。ディランの最新アルバム『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』、5月25日にリリースされる続編の『フォールン・エンジェルズ』に収録されている曲だ。『フォールン・エンジェルズ』から4曲が選ばれシングルカットされた来日記念盤が先行発売されていて、そこから3曲が演奏された。フランク・シナトラがカバーしたスタンダード曲とロック? と偏見を持ってしまうが、聴いてみるとどの曲も味わい深くて、初日を見た後にシングル盤をあらためて家で聴きなおした。

解説のなかに2014年のディランのインタビューが引用されていた。
「このアルバムをつくることは本当に名誉なことだった。こういうものをずっと前からやりたいと思っていたが、30人編成向けの複雑なアレンジを5人編成のバンド用に精製する勇気を持つことがなかなかできなかった。今回の演奏はすべてそれが鍵になっている。わたしたちはこれらの曲をこれ以上ないくらい熟知していた。すべてライヴで録音した。すべて1回か2回のテイクで終わった。オーヴァーダブはしなかった。ヴォーカル・ブースも使わなかった。ヘッドフォンも使わなかった。トラックを分けた録音もしなかった。ほとんどの曲は録音されたままの形でミキシングを行った。自分ではこれらの曲はどうみてもカバーとは思っていない。もう十分カバーされすぎて埋もれてしまっている。わたしとバンドがやっていることは、基本的にその覆いを外す作業だ。埋められた墓場から掘り起こして、もう一度人前にさらし、光をあてることだ」

この一文を読んで、今回の演奏の魅力のわけがわかった気がした。ビックバンドのナンバーは、みごとに5人のバンドサウンドに蒸留されていた。ディランの歌も歌うたびの新鮮さを持っていた。これはスタンダードナンバーに限らず、ディランのおなじみのナンバー「運命のひとひねり」や「風にふかれて」においても同じだった。ディランの楽曲自身も、演奏されるたびに覆いを外され、新しい光を当てられるのだ。彼がなぜ、ヒット曲を客の期待通りに歌わないのか、その意味が少し理解できたように思う。

前回の公演で心を撃ち抜かれた「ロング・アンド・ウェイステッド・イヤーズ」は打って変わって優しい演奏で、また心を掴まれた。
2日目から登場した「ザット・オールド・ブラック・マジック」は、シングル盤で聴いた時からラテン風のリズムがチャーミングで気に入っていたが、公演で演奏を重ねるうちにどんどん調子が上がって、最終日は軽みの境地で、会場は大いに沸いていた。
「ザット・オールド・ブラック・マジック」の原曲は、ユーチューブで見ると男女2人が掛け合いで歌う楽天的なラブソングだ。録音技術は今より劣っていただろうけれど、今よりエネルーギーといたずら心に満ちていて驚く。心の原石そのままを歌にしたような楽曲だ。ディランは埋もれていたそんな曲をとりあげる。

ジャンルを越境していつも自由に先頭を歩いていくボブ・ディラン。歳をとっても色あせないロックというものを、そんな夢が可能である現場に立ち会えてうれしかった。

 *

2016年日本ツアーセットリスト

第1部
1 Things Have Changed (『Wonder Boys”(OST)』 2001)
2 She Belongs to Me (『Bringing It All Back Home』 1965)
3 Beyond Here Lies Nothin’ (『Together Through Life』2009)
4 What’ll I Do (『Shadows In The Night』2015)
5 Duquesne Whistle (『Tempest』 2012)
6 Melancholy Mood (来日記念EP『メランコリー・ムード』2016)
7 Pay in Blood (『Tempest』 2012)
8 I’m a Fool to Want You (『Shadows In The Night』2015)
9 That Old Black Magic (来日記念EP『メランコリー・ムード』2016)
10 Tangled Up in Blue (『Blood on the Tracks』1975)

休憩20分

第2部
11 High Water (For Charley Patton) (『Love and Theft』2001)
12 Why Try to Change Me Now (『Shadows In The Night』2015)
13 Early Roman Kings (『Tempest』 2012)
14 The Night We Called It a Day (『Shadows In The Night』2015)
15 Spirit on the Water (『Modern Times』2006)
16 Scarlet Town (『Tempest』 2012)
17 All or Nothing at All (来日記念EP『メランコリー・ムード』2016)
18 Long and Wasted Years (『Tempest』 2012)
19 Autumn Leaves (『Shadows In The Night』2015)

アンコール
20 Blowin’ in the Wind (『フリーホイーリン・ボ ブ・ディラン』)
21 Love Sick (『Time Out of Mind』 1997)

引越しをしたら

仲宗根浩

引っ越した。前に引っ越したのが東京から沖縄、だいたい十八年と十ヶ月ちょっと。いままでで一番長く住んでいた物件。コンクリートの表面が剥がれ落ち、鉄骨が出てきたあたりから、そろそろかなとおもい、今年に入っていろいろと新しい物件を探しはじめる。思いがけず近くにあった。物件探しは奥さんに任せていた。

契約にむけて動き始めると、いろいろな雑事で忙殺される。市役所に何回も行ったりと。そんなこんなで二週間かけて引越し作業。途中、こどもの卒業式、わたしの長引く風邪をはさみつつなんとか、入学式前に荷物だけは移すことができた。一丁目から四丁目への引越しがなせること、といってもかなりバタバタする。本、雑誌類は三割くらい処分。CDは三枚処分。家具もサイズがあたらしいところに合わないものは処分。服も数年着ていないものは大量処分。引越しは捨てる作業。

引越して色々なところに引越しのお知らせメールを送る。中学の同級生から赴任しているモスクワから今月戻るとの返事が来る。久しぶりに集まろう、とメールのやり取りが始まるがこちらから簡単にいけるところじゃないのと、休みが合わないだろうから行けないと南阿蘇にいるやつに返事を出す。それからしばらくして休みの日、酔っ払ってソファーで寝てしまっていたら、いきなり起こされる。熊本で大きい地震だと。小学校の半分、中学、高校と熊本市内の東の端っこらへんで過ごしていた。テレビを見るとただ事では無い様子がわかった。こっちに熊本から来ている姪っ子にメールする。返事では身内関係は無事という。実家に行くことにする。なぜか途中、飲み屋に寄り、30分くらいそこで少しテレビを見ながらビールを飲む。まだぴんときていないのだろうか。寄り道した後実家には兄も来ていた。兄の奥さんは翌日沖縄に戻る予定で熊本に行っていた。

電話は不通でLineが幸いにも通じていてそれで連絡が取れていた。十一時ごろ電話、携帯電話もつながるようになったので自宅にもどる。戻ってから夜通しテレビをずっと見ていた。明るくなって画面の下側に出てくる避難場所が小学生の頃、遠足でよく行ったところだったり、仮設トイレが設置された小学校が通っていたところだったり。

熊本には九年近く行っていない。風景もかなり変わってしまっているけど、画面に出てくる地名はよく知っているものばかりだった。なにかへんな感覚になる。遠い向こう側だけど、向こう側にいた記憶がいろいろよみがえる。二度目の大きな揺れがくるまえ。

桜通り

植松眞人

 桜通りと名付けられてはいるが、そこは明らかに墓地の中の小道で、なんとなく妙な心地がする。
 満開の桜よりも、両側に広がる墓地そのものが気になり、桜を見上げる人々とときおり肩をぶつけ、互いに会釈しながら下ばかり向いて歩いている。
 こちらに入れば誰それの墓、その向こうには誰彼の墓と書かれた小さな木片などもあり、そのたびに視線を走らせたり、気が乗ればそのまま墓地と墓地の間を分け入って、消えかかった墓石の名を読んでみたりする。不思議と桜の花が満開になった途端、墓石と人の生き死にとの境界線が曖昧になるのか、桜の花と一緒に携帯電話で写真を撮ったご婦人たちが同じように笑みを浮かべて、高名な歌舞伎役者の墓の前で記念写真を撮ったりもしている。
 間違ってもそんな写真に移り込まないように気をつけながら歩いていると、先ほど電車を降りて、駅の改札を後目にころして歩き始めた私に「桜通りはこっちですか」と声をかけてきた若い女がいた。地味な鶯色のワンピースを着ているのだが、持っているハンドバッグのデザインがモダンなので全体を見ると、とても気を遣ったファッションに見える。黒に近い焦げ茶色をしたバッグは、マチの部分に目の覚めるような赤があしらわれていて、この女の気の強さのような自己主張を予感させる。「こっちもなにも、目と鼻の先ですよ」
 私が言うと、若い女は丁寧に会釈して、ありがとうございます、と礼を言うのだった。
 行き先が同じだとわかってしまうと、この歳で若い女と前後になって歩くのも気恥ずかしい。私は別段用事もない携帯の画面をしばらく眺めたりしながら、女をやり過ごした。 ふりをしているうちに本当に何通かのメールを気を入れて読んでしまい、その内の二通には簡単な返信までしてしまう。そして、さて、と歩き始めると、さっきの女が私の後ろから声をかけてきた。よほどゆっくり桜を見上げて歩いていたのか、それとも両脇の墓石に見とれていたのか、とっくに先を行っていると思っていた女が背後から現れたので、女の「あら」という声に、私は驚いて「これはどうも」と妙に親しげに答えてしまったのである。
 私には昔から気を遣いすぎるという悪癖がある。小学校の頃には、家計が大変だという母のつぶやきを聞きつけて、自分の小遣いで給食費を払い、父親に殴られたことがあった。成人してからも、友人から、お前の知り合いの女に惚れてしまったので間を取り持てと言われて紹介したことがある。しかし、実際は知り合いも何も私もその女に惚れていたのだ。それなのに、先に言われてしまうと自分もとは言い出せず、仲を取り持ってしまったりするのである。別段、気を遣いすぎて悪く思われることはないのだが、結果的に父に殴られたり、女をとられたりして後悔することになる。そして、後悔よりも私が嫌悪してしまうのは、その後悔を鬱々と忘れないでいる自分自身なのであった。
 満開の桜の下を歩いていると、どうしても季節を意識して、過去の出来事を振り返ってしまう。そんなときに思い出すのは鬱々と過ごした時間なのだった。桜が咲き、散り、青葉が芽を吹く様子は、生きることの躍動を感じさせるとともに、私自身のふがいなさを見せつけられているようにも思える。そして、桜が咲き乱れ、はらはらと散る姿を見ることで、なにか自分自身の鬱々とした過去の時間が身体から引きはがされていくような感覚を楽しんでいるのかもしれない。
 子供の頃は家族と一緒に花見に出かけ、働きだしてからも同僚と一緒に桜の下の宴会を楽しみ、結婚し子供ができてからは自分の家族と毎年のように花見を楽しんできた。子供が独立してからは妻と二人でこの桜通りを歩くことが通例となったのだが、その間にも私は必ず一人で桜を見物に出かけていた。
 桜という花は、家族や同僚たちと眺めるときと、たった一人で眺めるときとでは、まるで違う印象を私に与えた。最近の桜は色が薄くなったのではないかと、ある新聞記事が伝えていたのを読んだことがあるが、一人で眺めると、薄い色の桜の花の中から、いくつかの色濃い花びらが目の中に飛び込んでくることがあった。桜だと思っていた花がなにか別の花だったのかもしれないと思うくらいに色濃くなり、時には深紅に思えることがあるほどだった。一人で桜を見物していると、家族や同僚とでは決して見つけることができない深紅の桜を探しているような気分になるのだった。
 不思議なもので、深紅の桜はいつも目の端にあるような気がするのだが、しっかりと見据えることができない。ふいに現れ、ふいにほかの花々の中にかき消されてしまうのだった。
「この女のように」
 私は小さくつぶやいてしまう。女が駅前で私に声をかけてから、なんとなく目の端に現れたり消えたりしながら今またふいに現れた。そんな気がして、まるで毎年私が探している深紅の桜のようだと思ってしまったのだった。
 しかし、私は頭を左右に振りその考えを打ち消そうとする。昔から、私はある事柄とある事柄の共通点を知った途端に、そこになにやら因縁めいた意味を見つけようとする癖がある。因縁があるから大事にしなければ、因縁があるから気をつけなければ。そんなふうに考えてしまうのだが、どうやらそんなふうに考えることで因縁めいたものにとらわれて、ものの本質のようなものを見逃してしまっている。還暦も近づいてきた今になって、そう考えるようになった。
「関係ない」
 私はそうつぶやいて、私の横で桜を見上げている女を眺めるのだった。
「なにが関係ないんですか」
 若い女が私のつぶやきを聞きつけてそう言う。この女からの問いに答えてしまうと、今回の花見が一人で楽しむものではなくなってしまう、という気持ちになり、私は迷う。そんな私の迷いを笑うかのように、女はもう一度聞く。
「なにが関係ないんですか」
 若い頃からずっとそうなのだが、自分よりも年上、年下に限らず、まだ余りよく知らない女というのは、私にとっていつも自分より一段高い階段の上にいるようだ。重ねて発せられた質問に答えないわけにはいかなくなる。
「世の中にはいろんな偶然があるですが、私はついついその意味を考えてしまうんです」
「意味?」
「そう。偶然といえども、なぜこんなふうになっているんだろう。なぜこんなところで会うんだろう、とかね」
 私がそう言うと、女は楽しそうに笑いながら桜を見上げて、
「おじさんと私が駅前で会ったように」
 と言うのだった。
 若い女から、おじさんと言われたことが妙に新鮮だった。これまで会社で接している若い女性たちは私を名字や役職で呼ぶし、家では子どもたちだけではなく妻まで私をお父さんと呼ぶようになっている。まして、外で見ず知らずの人からは名前を呼ばれることもなければ、おじさん、と呼ばれたことはもしかしたら生まれて初めてかもしれないと思うのだった。
「おじさん、か」
 私がまたつぶやくと、若い女は真顔で謝罪する。
「すみません。おじさんというほど老けて見るわけじゃなくて」
 その慌てようがおもしろくて、私は笑う。
「いやいや大丈夫。気分を害しているわけじゃなくてね。これまでの人生で、おじさんと呼ばれたことがないなあ、と思ったんだ」
 私が正直に言うと女は、
「それはおじさんが若いからです」
 そう言って、またおじさんと言ってしまったと女は今度は声を上げて笑う。
「もしかしたら、とても失礼なことを言っているのかもしれませんが、私にとって『おじさん』っていうのは親しみがちゃんともてる人のことだと思うんです」
「親しみがもてる」
「そう。信用できるっていう感じかもしれないけれど」
 そういうと、女は私たちの前から来る私と同年代の男性を相手からわからないように小さく指さしてから、私に口元を近づけて、「おっさん」とつぶやく。そして、その後ろの男性を指さして、また私に口元を近づけて、「おっさん」とつぶやくのだった。おんなが見ず知らずの男性に対して砕けた口調で「おっさん」と小さく声に出したとたんに、この女の若さと世代の違いを強く感じてしまう。
 しばらくの間、女は前からやってくる年輩の男性たちを「おっさん」と私に聞かせる度に私のほうに口元を近づけていたので、自然と私たちの距離は縮まり、まるで連れ添って歩いている訳ありな男女のようになってしまっていた。そして、そう意識した途端、女が前から来た男性を「おじさん」と呼んだ。私は女が他人を「おじさん」と呼んだことにかすかな嫉妬を感じていることに驚くのだった。
 私はここしばらくの間、因縁など信じてはいけない、と自分にいい聞かせてきたのだが、今日ばかりはそんなことはないと思うしかなかった。いつも眺めている桜の花の中でも、ときおり不意に目に飛びこんでくる深紅の花びらと同じような色あしらいのハンドバッグを持った女。一人で眺めようとしていた桜並木に現れ、連れ添うように歩く女。もしかしたら、この女こそ、自分と深い因縁をもった女なのかもしれないと私は思わずにはいられないのだった。
 風が強く吹いた。満開の桜が大きく揺れ、花びらが空に舞い上がり、そして、地上に向かって吹き付けられた。目の前が見えなくなるほどの花びらが舞い上がる。私は至福の中にいた。
 風が止む。花びらが一斉に地面に落ちる。
 その落ちようは得も言われぬ強さがあり、私は一瞬にして丸裸にされてしまったような気持ちになる。桜の花に対する幻想も、いま隣を歩いている女に対する関心も、長い間一緒に暮らしてきた家族に対する思いも、花びらが一斉に地面に落ちた瞬間に、たたき落とされてしまう。
 再び、今度は優しい風が吹き、また人々の楽しげな会話や笑い声が聞こえ始めたのだが、私は身を切るような寂しさに声も出ない。(了)

万華鏡物語(1)月日は流れる

長谷部千彩

秋に出版する単行本用原稿の推敲を続ける毎日。ぐうたらな私にしては、珍しく真面目に机に向かっている。この本は主に、雑誌のために書いた原稿をまとめたものになる予定。古い原稿だと15年程前のもの。書き下ろしは入らない。

それにしても、15年も前の作品となると、自分が書いたはずなのに、まるで他人の原稿を読んでいるような錯覚に陥る。いまの自分には決して身近とはいえないモチーフやテーマ。予想外の方向に展開していくストーリー。どうしてこんなことを思いついたのだろう、と、自ら首を傾げたくなるのである。

一番そのことを感じるのは、30代半ばに書いた作品群で、ある連載などは、人間の持つ不信感について、毎号毎号ショートストーリーを書いている。男と女、友人関係、親子の間に生まれる、不信、疑念、諦観。字面を見ただけで疲れてきそうなテーマを粘り強く書いている。頑張るなあ、と苦笑すると同時に、当時の私がそういった込み入った感情に興味を抱くほど若く、体力もあったことに気づかされる。一日八時間も九時間も眠る呑気な生活を送っているいまの私には、同じものはもう書けない。

では、15年前が遠い過去だとして、数年前に書いていたものが、身近に感じるか、というと、そうともいえない。やはりそれも過去の自分、いまの自分とは違う他所の誰かが書いたように感じるのである。
不思議なことだと思う。間違いなく自分が書いたものなのに。

15年前の私、数年前の私、昨日の私。どの過去の私とも、今日の私は距離がある。まるで私の足元から伸びる影が我が身と違った形を成すように。そして、その違いこそが流れた月日を表わしているように。
ということは、今日の私は今日にしか存在しないのだろうか。
24時間しかともにいられぬ儚い自分。
過ぎ去った私は、書き残した原稿の中で今日の私に手を振っている。

コロンボからの航海

さとうまき

4月26日、イラクのアルビルを発ち、コロンボに向かう。コロンボからギリシャに向かうピースボートに乗り、船内で、イラクやシリアの難民の講演をする仕事だ。

コロンボについたのは夜中だった。じっとりとした湿気と暑さ。そして古さが漂う。暗くてよくは見えなかったが、タクタクといわれる3輪タクシーが走り、ブッダの像やら、イエスキリストの像などがやたら町中でライトを浴びて目立っていた。タクシーの運転手は、「うちの息子を日本に留学させたいのだが、何かいい方法はないか」と聞いてくる。

スリランカ人は海外で働くことに熱心だ。そういえば、ヨルダンでお世話になった日本人の家族がメイドにスリランカ人を雇っていた。正ちゃんという男の子が生まれたばかりで、その子のベビーシッターをやっていたのだが、スリランカ人のメイドさんにも実は生まれたばかりの赤ちゃんがいるらしいが、スリランカを離れてもう2年も戻っていないという。お金のためとはいえよく働く人たちだ。

日本人に雇われるスリランカ人は幸せだ。ヨルダン人の金持ちと来たら、中途半端な金持ちもいて、見栄でメイドを雇ってみたものの、給料を払えなくなってしまったというケースも多かった。イラク難民やシリア難民を支援している地元のNGOも、そういったスリランカ人も支援の対象になっていたのだ。

ホテルは、港のすぐ近くで、ギリスの植民地時代を彷彿させる。朝、レストランからは港が一望できた。コーヒーを入れてくれるセーラー服を着たスリランカ人のボーイがいかしていた。

コロンボに来る直前、イラクのドホークのヤジディ教徒の難民キャンプを訪ねた。マリアムは18歳だ。ヤジッド教徒で、シンジャールから避難している。マリアムは、「イスラム国」が、シンジャールを攻めたとき、山に避難した。一週間山にいて無事に逃げることができた。しかし、親せきや、友達は連れ去られレイプされたという。

マリアムは、絵がうまかったので、彼女の体験や、同じ年代の少女たちが味わった恥辱を聞き取り、絵に描くという作業を一緒に始めている。作品の進み具合を見に行くと、油絵具を買って女性が痛めつけられている絵を描いていた。表現力が高まっている。

たとえば、12歳のアマルは次のように証言する。「両親、3人の姉妹と1人の兄弟の、6人家族だった。8月3日に、彼らは私たちのKojoという村に侵入し、100人くらいが撃ち殺され、男性たちをどこかに連れていき、女性たちを学校に連れて行った。その後、彼らは女の子だけをモスルに連れていき、2日後に2人の男性が来て、私と2人のいとこをシリアに連れて行った。彼らは私たちを空き家に連れて行って、3日に1回来ては、強姦して去って行った。彼らは食べ物を買ってきて、私たちは自分たちが食べたいものを料理していた。何人かの女性たちがヤジディ教徒を助けている男性に電話をかけ、自分たちの住所を知らせた。彼は別の男性を送り、逃げるのを手助けしてくれた。朝4時に男性が来て、11人(2人は子ども、その以外は女性)を車に乗せた。そして2015年6月19日にドホークにたどり着いた。両親と2人の姉妹や1人の兄弟はまだISISに捕まっており、何の情報もない。」
このように犯された女の子たちの多くは、ドイツへ行き特別なケアを受けているらしい。マリアムは、こういった話を聞きとり絵にしていくのだ。

イラクやシリアから逃れて、トルコから船でギリシャに渡り、ヨーロッパを目指す難民たちが急増している。私の友人や知人もその中にいた。人は移動する。楽しい旅もあるし、悲しい旅もある。

私の船は、出港した。今、アラビア湾に入り、海賊警戒地域を航海している。ギリシャについたら、難民たちと同じ経由をたどり、ドイツに行く予定だ。果たして楽しい旅なのか、悲しい旅になるのだろうか?

崩しの方法

高橋悠治

ピアノを弾き 弾くために作曲する 誘われれば即興もする 即興し 演奏し 作曲する 三種類の活動の折り合い 生活とあそびの折り合い のびやかな空間とゆったりした時間をすこしでも残すために

いま見える音楽のすがた
音は 浮いている 支えがなく 根もなく 足もない 見えない糸に吊られて ゆれうごく分銅
メロディーは しなやかにただよう 思いがけない方向と輪郭 分銅がゆるやかに輪をえがいて のびたりちぢんだり またもどってくるが 中心も端も見えない回廊 
和音は 色の染み にじみ あちこちから糸が出て 崩れた塊

即興は走り書き きこえてくる音や気配に押されて 暖かかったり冷たかったり 明るいか暗い 音程の感じと楽器の手触りからはじめて 手をあそばせる うごきが次のうごきをよんで もういいと感じるまで つづける 音が多すぎる もっとすくない音とみじかいフレーズでできないかと 後でいつも思うが 複雑で速くて楽譜には書けないような 書けてそれを再現しても 二度とその時の自然な感じがもどってこないようなものは 即興でしかできないのかもしれない と思うこともある

楽譜を演奏するときは ちがう問題がある おなじ音符も 他の音とのかかわりや演奏する場のなかでちがう結び目になり おなじものとは言えない 紙に書かれた音符はものではなく 音でさえなく 通過点の標識にすぎないのだろう 同じ長さの音符でも 長さも強さもわずかにちがう それもその場で感じは変わってしまうから やりかたを決めてくりかえし踏み固めるのは練習にならない いいかげんにしておいて どんな状況でも対応して変化できる程度にとどめる そのために あれこれちがうやりかたを試みるのが 練習するたのしみかもしれない それもやりすぎると感覚がにぶってしまう 朝のうちに できるだけ短い時間で済ます

作曲はなかなかはじめられない 朝まだ暗い部屋のなか 夜眠りにおちるすこし前の 力がぬけた身体の上を 影のような音のイメージが往き来する 動きがしずまった時の どこからくるともしれない かすかな動き 失われていく瞬間のなかから すこしづつはっきりする音のかたち そこからはじまることもある そんな時でなくても 身体の動きがしずまって 考えてもいないとき 意志ではなく 意図でもない かすかな方向が 身体のどこか あるいはすぐそばの空間にはたらいているのが感じられれば それを音符として書きとめられるかもしれない

はじまりはなにもないところ 論理や感情から離れたどこかから

憲法「肯定デモ」ってどうだろう

小泉英政

ぼくはかつて「闘いという言葉を忘れようと思う」(『百姓物語』晶文社 1989年)という詩を書いたことがある。

  闘いという言葉で
  人を選別し
  闘いという言葉で
  人を差別し
  闘いという言葉で
  人を責めていた
  いつのまにか

これは自分自身へのいましめの言葉でもあり、新しい模索の出発の詩でもあった。

ぼくは「闘い」という言葉は封印したが、抵抗の精神を忘れたわけではない。ぼくなりに国や空港会社と向きあって来た。

今、世の中は大きな岐路に立っていると思う。2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故で多くの人々を恐怖におとしいれ、広大な大地と海を汚染したのに、再稼働に踏み込んだ安倍政権、特定秘密保護法、集団的自衛権を行使するための安保法制、そして、緊急事態条項でさらなる権力の強化をめざしている。平和憲法を変えようなんてとんでもない。

そのような動きに抗議する人々のデモが盛り上がっている。それに合流するのも一つの方法だ。でもぼくは、もう一つのデモを提案したいと思っている。それが「肯定デモ」。

デモというと、反対! がつくのが常識だ。何々反対デモ、何々を許さないぞ! そのスタイルが苦手な人もいるし、いていいだろう。それこそ表現の自由だ。

「SEALDS(シールズ)」の人々は従来のスタイルを大きく変えた。インターネットで彼ら、彼女らの姿を見て、ぼくは心を大きく動かされた。ぼくも国会前に行こうかと思った。彼らをひと目見たく。でもそれは、追っかけだ、彼らと合流するに見合う、自分なりのスタイルがほしい。

自分のスタイル、自分の表現方法、自分にしっくりするデモは? とずっともやもやしていた。そして、この提案に至った。

シュプレヒコール! とは言わない。「声を上げよう」と言う。
反対! とは言わない。「いいね!」と言う。

主語と述語をとりもどす。ぼくたち国民が主体なのだ。安倍政権が憲法を否定しようとしている。ぼくたちは憲法を肯定する。

  平和憲法いいね! と声を上げる。
  変える必要ないね!
  憲法9条いいね!
  基本的人権いいね!
  立憲政治いいね!
  主権在民いいね!

安保法制に反対する人々に対しているわけでは決してない。だから、安保法制反対いいね! と言う。

いいね! そうだね! と肯定の声を上げる。
どうだろう。賛成していただける方がいたら連絡下さい。

足を失っても、希望は失わない

さとうまき

ムスタファのこと
僕たちは、シリアで戦争に巻き込まれた人たちの支援をしている。ヨルダンで義足を作ったり、リハビリのサービスの提供だ。同僚が障害者の問題の専門家なので、いろいろ教えてもらっている。障害者の権利条約というのがあるが、こういうのを、暗記するぐらいでないと、障害者のことを理解していないと叱られそうだ。

2年前、シリアのダラーという町でロケット弾が飛んできて右腕と右足を切断したムスタファ、12歳。ヨルダンまで緊急搬送され、ぐちゃぐちゃになった手足を切断した。手術が終わると同じようにけがをしたシリア人たちが寝泊まりしているアパートで寝泊まりしていたのだ。ムスタファは強い子だ。障害者になったのに、明るい。

「どうして君はそんなに強いんだい?」と聞いた。
「手足がないのは当たり前。みんなと同じさ」という。
なるほど。革命という名のもとに、戦いがはじまり、多くのシリア人が手足を失った。何か、手足をうしなっていないと革命の仲間に入れてもらえないような感覚だろうか。

私がその時心配していたのが、ここの宿泊施設を出て、家を借りてヨルダン人のなかで住み始めたらどうなんだろう。革命なんてヨルダン人には到底魅力のないものだろう。へたすると迷惑なシリア人として差別されるかもしれない。

2年半が経った。体が成長している。切断した後の骨が伸びてくるので、何度も手術して削った。この間、ムスタファの家を訪問した。近所のヨルダン人の子どもたちと義足を付けてサッカーをやって遊んでいた。ムスタファは、体もでかくなりまるでガキ大将のようだった。いいぞ!

アヤのこと
アヤは、イラク人だ。5歳の時にがんになりヨルダンのキングフセインセンターで治療を受けるが、左足を付け根の部分から切断しなくてはいけなかった。義足がすぐ壊れるので、何度か作りなおしてあげた。

そのアヤが、17歳になっていた。イラクのTVにゲストで出たり、皆の前でスピーチをしているという話を聞き、アヤに再会したくなった。バグダッドからアルビルまで来てもらいスピーチをしてもらった。

「皆さんこんにちは、私はアヤ・アルカイスイです。高校2年生です。私の病気について、どうやって乗り越えたかを皆さんに話すつもりです。

 2003年にももに痛みを感じた。当時の医者の間違えで私の病気はひどくなりました。イラクからアンマンに行って、ヨルダンの病院に通って、もう遅いからと足の一部を切断された。体にまだガンの細部あると言われたから化学療法を始めましたが、とてもショックでした。前の生活と完全に変わりました。体の一部をなくすのはとてもショックです。

 麻酔がきれたら足がない。大泣きした。私の叫びは病院にいる人、みなに聞こえた。

 切断の後に杖や車椅子を使うことが嫌でした。杖や車椅子を使うと私は皆と違うと感じた。当時小学生でした。

しばらくしてから、義足を付けた。最初はとてもつらかった。義足とスカーフの人生を始めた。化学療法で髪の毛はすべて抜けた。学校の友達は、アヤどうしたの?なぜそういう歩き方するの?と聞くけれど、小さいから答えることができなかった。

中学校に入ったら他人の質問や目線に傷つくようになりました。私は悩み始めた。どこに行っても、周りの人は私に可哀そう、まだ若いなのに、あなたのために神さまに祈る等、私に言っています。自分は普通と思っていますが社会と障害者の間に誤解があると思います。

高校に入ったら私はあきらめたのです。イラク社会では障害者文化がありません。中東の社会は障害を持ってスカーフを被っている女子が表に出ることは受けいれられない社会です。障害者たちは社会の一部とわかって欲しいです。普通の人と同じ権利を持ってることはわかって欲しいです。

私より私の家族がもっとショックを受けました。家族は、私が表に出ることに対して反対でした。しかし、私は他の障害者に自信を持つてもらうために、私を見習ってほしいと思い一歩踏み出したのです。私は足を失くしたのですが、私の人生で生きる権利を失くしてはいないです。」

シリア、イラク環境は最悪なのに、子どもたちが成長している。それは希望だ。

みずのほとり

時里二郎

みずのほとり
草つつむ石のかみ
めはなもなく
なでられて 
さすられて
記憶のほとり
だれのてのひらも
ひからびて 空をすくえない

みんないなくなって
これからさきも
だれもやってこない

みずのほとり
草つつむ石のかみ
めもなく
はなもなく
なでられて
さすられて
記憶のほとり
だれのあしうらも
あおい空をふみしめられない

みずのほとり
草つつむ石のかみ

不意に 
ふるいひとのこえが
風のように
村の地図をよみあげる

せみはやし
とりなしやま
すくりす
たせ
あめやみ
がやがや

めもなく
はなもない
だれかのしるしのように

みずのほとり
草つつむ
石のかみ

(「名井島の雛歌」から)

チャランゴを爪弾く

璃葉

数週間まえの肌寒い日、自宅にチャランゴが届いた。買ったチャランゴは全長60cmほど。ギターを小さくしたようなこの楽器は、5コース10弦。胴体はオレンジの木でできているらしい。いろいろ試してみたい楽器のなかで、なるべくひっそり弾けるもので、値段があまり高くなく、西洋音楽からは離れている楽器を持ちたいと思っていた。しかしやはり、ひっそり弾いてもチャランゴは思った以上に大きな音が鳴る。となりの部屋に聞こえてしまわないように(たぶん聞こえている)弾く毎日がはじまった。

楽器は、弾けば弾くほど魂が流れ込んでいくと、むかし誰かが言っていた。
それは言語をおぼえることと似ているのかもしれない。話せば話すほど、ことばに生命が吹き込まれていく。魂の共鳴の相手がチャランゴになるとは。自分で選んでおきながら、奇妙な感覚だ。

ひとの話し声、機械の音、自分の思考、日常のさまざまな音や思惑は、心に入り込んでくる。外出先から帰ってきたとき、その雑音は煙が充満するようにどんどん膨らんで、飲み込まれそうになりながら寝りにつく日がよくあったものだが、チャランゴを抱えて、弦を一本はじいてみれば、ざわつく心はいつの間にか静寂の海を漂っている。

朝と夜の海が合わさる幻想の情景 浮かぶ山 陰と陽 現実から離れる術
技術の上達についてはさておき、いまは自分の心に平穏をもたらすもの、限りのない想像をはたらかせるものとして、爪弾く毎日なのだ。

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137 源氏物語学説

藤井貞和

それはそうと、一九八〇年代終り近くになって、なぜ、
レイプ学説が飛び出してきたか。 千田さんは書いている、
おれの『従軍慰安婦』(一九七三)を、何十万人もの、
元日本軍兵士が買い、かくれて読み、嘆息とともに書架深く、
それを仕舞い込んだ、と。 学徒動員世代の、今井さんが、
空蝉も慰安婦、浮舟も慰安婦、とそういうふうには、
論じなくても、覚悟の、さいごの源氏物語論である。

(「千田」と言うのは千田夏光さん。「今井」は今井源衛さん。一九九〇年代の初頭に今井さんは「女の書く物語はレイプからはじまる」と論じた。)

しもた屋の噺(171)

杉山洋一

朝日が目に眩しい朝です。仙台から東京に戻る始発の新幹線でこれを書いています。昨夜、多賀城であった魔笛が終ったとき、熱狂的なスタンディングオーべーションが湧き起こりました。現地から参加した出演者の一人が、東北の人たちがこんな風に喜ぶなんて信じられないと呟くと、別の東北出身の出演者も大きく頷きました。

伏線に「復興」が関わっているとは言え、恐らく大半は初めて魔笛を見る人ばかりでしょう。オペラは勿論、ともすればオーケストラすら初めてかも知れない多くの子供たちも、3時間以上食い入るように見入っていたと聞き驚きました。まめまめしく本当によく世話を焼いてくださった市役所の方々も、このホールが街の人で一杯になることすら珍しいのに、満杯どころかこれだけ喜んで貰えるとは、と感慨で言葉が詰まっていました。これが「魔笛」の素晴らしさなのかもしれませんし、歌手とオーケストラ、演奏者みなさんの力なのかもしれない。

二週間前、初めてここを訪れたときは、部外者の自分が復興支援を、それも音楽などどれだけ役に立つのか、不安と疑念に囚われていたのですが、今回の演奏会に携わって、とても大切なことを学ぶことができたように思います。新幹線は福島を過ぎたところです。

 3月某日 ミラノ自宅
居間で譜読みをしていて、ふと目を外に向けると、3歳のころの息子の後ろ姿が走ってゆき、強烈な懐かしさに胸がしめつけられる。一瞬、頭が混乱する。今日という日はもう戻ってこない。家人が日本に行っているので、息子の学校とリハーサルの送り迎えを、譜読みと授業の合間にやりくりする。かかる非常時には外食にして家事を手抜きすればよいのだが、概して味は濃いし、これからこちらも半月もの間外食続きになるので、結局毎日食事を用意して仕事捗らず悪循環。

 3月某日 ミラノ自宅
息子が歌っているブリテン「ちいさな煙突掃除」を見に、マジェンタ歌劇場へ出掛ける。劇場天井の巨大なフレスコ画は1906年。歌劇場の天井には、明らかにヴィスコンティ風の城が描かれ、ヴィスコンティの紋章が旗めく。雪景色でアルルカンが踊る城門広場に、中世風の装いの男女が賑々しい雰囲気の中犇く。マジェンタはずっとミラノのヴィスコンティ家に治められていたと思ったが、ミラノに吸収されたのは、随分経ってからだった。ブリテンは、音楽もさることながら、出演者が指で影絵まで作ったりして、実に演出が美しい。息子の演技が真に迫っていると口々に声をかけられ気恥ずかしい。主役でもないのに、何故か写真撮影で主役と一緒に並んでいて、一体誰の血を受継いだのか。

3月某日 ローマ空港
今朝は7時前に息子を起こし、風呂を使わせ、8時前にはメルセデスのところへ連れてゆく。そのまま空港へ向かい、ローマの空港に着いた。彼は来週から臨海学校でリグーリアのアンドーラへ出かける。臨海学校と言うより修学旅行。ここから息子が書いた熱川の義父母宛端書を投函。当然乍らローマは暑い。

 3月某日 多賀城駅パン屋
成田から東京経由で仙台まで新幹線に乗り、多賀城に着いた。町の電柱には、到達した津波の高さがそれぞれステッカーで示されている。駅前の登り坂で津波は止まったそうだが、ホテル前の電柱のステッカーは、自分の背丈より高いところに貼られている。ホテル横の歩道橋には、津波の夜70人が避難した。アリアの音楽稽古をしていて、自分が学ぶことは数限りなくある。少しずつ音楽が自分の望む方向に向かいつつある。

出演者の一人が自分と同じように指を欠損していて、どうしたのか尋ねると、子供の頃、コンクリ壁には挟まれて指が壊死し、切断せざるを得なかったと言う。指があるのに切断を宣告された時はショックだったという。昔、切断した小指の先の傷口がなかなか塞がらず、再手術で骨を鑢で削らなければいけない、と言われた時を思い出す。

 3月某日 多賀城ホテル
地元の高校生の踊る獅子踊りが、曲中に挿入されるので、駅向こうの小学校の音楽室へリハーサルに出かける。 獅子舞をどうやって練習するのか全く知らなかった。身体総てを使って、飛び跳ね続ける、爽やかな笑顔が何より初々しく、獅子の面をつけると、校庭でサッカーの練習をしていた、小学生たちが大喜びで走り寄ってくる。獅子は、耳と口の動きでちゃんと子供達と会話している。昨日は、街の文化センターで音楽稽古をしていると、小学校低学年と思しき少女が、練習場に入ってきて、床に坐ってこちらを眺めている。皆、誰か関係者の娘さんだろうと思っていたのだが、洩れ聴こえる練習の歌声に感激して扉に耳をつけ聴き入っていたので、思わず招き入れたと後で知った。

3月某日 駅前ことり喫茶店
練習が夜18時開始となったので、東京へ戻り、橋本君と松平さんの「かなしみにくれる」のリハーサルに立ち会う。こういう作品の成立方法が正しいのかどうか解らないが、縦を合わせるために互いに音を聴くのと、互いの音楽に自らを忍び込ませるために、耳をそばだてるのは根本的に違う。正しい音楽を再現するのではなく、互いの音楽が有機的に重なり合っているのであれば、どんな演奏であっても、すべて正しい、というのは、作曲者の責任放棄なのかもしれない。では、作曲とは責任を負うだけの作業なのかどうか。細かく規定してゆけばゆくほど、合わせることに焦点がゆき、音楽を感じる余裕がなくなってゆく。それが悪いとは思わないが、違う音楽のアプローチがあってもよいだろう。

正しい配分で調味料をブレンドしてソースを作るのと、取り合えず家にあった新鮮で美味な野菜をオリーブ油で軽く炒めてブイヨンをつくる違い、というと少し違う気もするが、少し似てもいる。

聴き手、つまり食べ手に媚びて、喜ばれるよう繕わないところが似ている。 無理に音楽を盛り上げることもなく、沈黙の中をたゆたう。歌から声を取り上げ、そこに声を戻してゆく。一件、何気ない緩やかな音の運びは、実は作曲者の途轍もない暴力に晒された結果に過ぎぬ。

 3月某日 多賀城ホテル
息子11歳の誕生日。ザルツブルグ人形劇に感激して、家人にはマリオネットを誕生日祝いに欲しいらしく、困っている。こちらは、来年からの彼の中学通学用に、大人用キックボード一揃いを日本に発つ前に贈ってきた。修学旅行から帰ってきて、電話の向こうで、心なしか声が少し大人びて聞こえる。

「魔笛」に描かれている二組の男女の恋愛模様の上に鎮座する、イシスとオシリス。棺に閉じ込められ、ナイルに投げ込まれて溺死し、海に流れてレバノンに辿り着いた末に、小さく刻まれて、エジプトのあちらこちらに蒔かれたオシリスの亡骸。それを一つ一つ拾い集めて、もとの形に戻そうとミイラにして魂を吹き込んだイシスの愛。考える必要はないのかも知れないが、震災に翻弄された人々をおもう。朝食を食べる8階のレストランから、大きなフェリーが停泊する仙台港がすぐそこにみえる。無数のオシリスの姿が、地平線にびっしりと折り重なってみえる。

最後の合唱でイシスとオシリスに向かって感謝を述べる件について、音楽稽古の後少し話す。ここで被災された皆さんと、この曲を通して部外者でしかない自分がどう対峙すればよいか、実はとても怖かったことも正直に話す。自分は、自ら気づかないうちに偽善やルーティンに陥っていないのか、毎日稽古の合間、そればかり考える。右手に息子が編んだ赤と青のブレスレットをつけて、何故自分がここにいるのかを自問し続ける。

 3月某日 多賀城駅パン屋
音楽稽古は、ともかく何を誰にどの距離で言わんとしているか、そしてそれは何故か、歌手とともに考える時間。彼らが思っていることを、出来るだけ明確に表現できるように考えているつもりだが、こちらの要求もずいぶん無理なのも分かっていて、申し訳ない。

多賀城駅の料金表の看板。バスに代行になっている線まで、思いの外近く感じる。Aさんは線路が取り払われた、代行バス用の道路をわたるとき、線路はもうないと知っているのに、つい無意識に踏切のように一時停止してしまうと話してくれた。東京からやってきた歌手組は、こちらの歌手組と一緒に、被災地を訪れたそうだ。目の前のさら地が、カーナビゲーターには小学校と表示されていて言葉を失った、と東京組の一人が言うと、実家が三陸だというもう一人が、自分にとってはごく普通の風景だから、そういう感じ方が寧ろ新鮮だと応える。ホテル近くの小さな韓国家庭料理屋で、サムゲタンをたべながら四方山話。本棚に、聖書が並んでいて、編者の名前は韓国人のようだった。その隣にも何冊か同じようなハングルの本が並んでいたが、あれも教会にかかわる本だったのかもしれない。壁には、仙台愛の教会のカレンダーがかかっていた。塩釜で被災地ボランティアの受け皿になっているときいた。

3月某日 多賀城ホテル
誰がいうことにも、一理も二理もある気がするので、そこから正解を探そうとするのは、ほとんど意味がない。理詰めや整合性だけで取捨選択するのも、われわれの仕事の上では、少し違う気がしている。何か異議を唱えられた場合、ほぼ間違いなく、あちらが正しいのは、経験上理解しているので、素直に受容れたい気持ちもある。不可抗力がある時、そこでどう落とし処を見出すか。本当に学ぶ事は毎日たくさんある。オーケストラと歌手のバランス一つにしても実に悩ましく、結局ピットを20センチ深く下げた。

 3月某日 追伸 三軒茶屋自宅
一日だけ東京に戻る。朝、少しだけ沢井さんのお宅へ出掛け、正倉院の七絃琴のための「マソカガミ」を聞かせて頂く。音と音との合間に無限の空間が広がる。何故かかる不完全な音に美しさを見出すようになったのだろう。主張する音ではなく、説得力のある音でもない。聴き手は耳をそばだて、音へ自ら近づかなければならない。沢井さんは、この楽器は人に聴かせるためでなく、自らのため自分でつまびくものだったと言う。

日本から離れている時間が長くなる程に、自らの文化への憧れが強まる。七絃琴の音から、当時の日本の文化を思い、そこへ辿り着いたペルシャや諸外国の文化を思う。

(3月31日三軒茶屋)

アジアのごはん(76)ラオスの竹筒漬物茶

森下ヒバリ

象フェスティバルが終わると、騒然としていたサイニャブリーの町は、いきなり閑散となって、ひなびた田舎町になってしまった。これが本来の姿だろう。
引っ越した安宿は市場のすぐ近くにあって、大変便利。しかも、引っ越した日に外国人客はみんな出発していって、仕事で借りているラオス人、中国人たち数組 だけが残っていた。中庭が広くて、開放感あふれる清潔な安宿、サンティパープ。一部屋6万キップ、約240バーツ、1000円ぐらいか・・。サイニャブ リーに行ったらここに泊まってね。


市場を散歩していると、このあたりの産業や特産品、日常の食生活みたいなものも見えてくる。米の半生麺カオ・ピヤック・センが山盛りだったり、魚の発酵調味料パラー、納豆をつぶした調味料トゥアナオが味噌状になって大袋入り、水牛の皮の干したの、さとうきびの黒砂糖・・、おっとこれ、焼酎じゃない?いや、あのさすがにこのタンク1本はいらんわ。あ、これに分けてよ。小さいペットボトルに自家製だというラオスの焼酎を入れてもらう。20バーツ。味は、与那国島のどなん、のよう。


あ〜、なんだこれ。この土にまみれた太い竹筒・・っもしや、お茶の漬物かも!勝手に蓋を引っぱがして中を確認。一応売り子の姐さんに味見していいかと聞 く。「お茶の漬物のミエンだよ、山の人が作る」と手のひらに載せてくれる。ちょっと食べてみたが、あまり熟成していない。酸味も少ない。「ちょっとだけ売ってくれ ない?」「いや~、一本じゃないと売れないよ」と交渉決裂。

タイではもう、ほぼしていないと思われる、ルーツなお茶の漬物の作り方だ。よく育ったお茶の葉っぱを採取した後、さっと茹でてから竹筒に詰めていき、最後 に粘土でふたをして、土中に埋め放置して発酵させる、というものである。竹筒は直径10センチほどで、長さは60~70センチといったところか。


竹筒製は初めて見た。いや~、お茶好きとしては感動しますね。ちなみにタイの北部では、小さな工場でステンレス製、または焼き物の大きな瓶などに詰めて、熟成させる。土には埋めない。連れのYさんが「これ、食べないとあかん?」と一度口に入れた漬物茶をうえっと出す。苦手な味のようだ。


土中に放置は、半年以上がふつうというが、長ければ長いほど熟成が進み、レアなものになる。市場のものは半年も経っているとはちょっと思えない。もらった一掴みのお茶を握ったまま宿に帰り、ふと部屋のまえの椅子の上に一枚づつ広げて並べてみた。7~8センチの葉の形がそのままで、5枚ほど。そのまま1時間ほど忘れていたら、から からに乾いていた。匂いを嗅ぐと、ウーロン茶のような緑茶のようないい匂い。フフフ。


お湯を沸かして、カップに葉っぱを入れてちょっと置くと・・。連れに声をかける。「お茶飲まない?」「ん〜、おいしい。こんなお茶持ってたっけ?」「さっき市場でもらった漬物の葉っぱ乾かしたらいい香りになったんで、お茶にしてみた」「ほおおお」


漬物として食べるより、乾かしてお茶にしたらうまいやんか・・。やっぱり1本いっとけばよかった。もう市場は閉まっているし、明日は早朝に出発だし、今度また来たらあのお茶の漬物、竹筒ごと、抱えて帰ろうっと。


「ええ、あの泥だらけの竹を・・持って・・帰るの!?」ヒバリのお買い物にはことごとく反対するYさんであった。

グロッソラリー ―ない ので ある―(18)

明智尚希

「1月1日:次郎おじさんの話をする。母親の兄に当たる人だ。遊びに行くとおじさんはいつも一升瓶を抱えて日本酒をちびちび飲んでは、同じことを何度も何度も聞いてきた。『学校はどうだ』『学校は楽しいか』『学校は楽しいのか』。面倒ではあったが、無視するのは気の毒だったので、いちいち『楽しいです』と嘘をつく僕なのであった』」。

「( ‘ ヘ `;まいったなぁ..

 世渡りには、順応性の高さが大切である。知識・経験・年齢・学歴に関係なく、まず大局を大づかみにし、続いて各所の人間的事情を把握できる者が、特に組織では長く生き残れる。社会および人間不適合者に残された道はないのか――ある。順応も反発もせず修行に近い忍耐を貫徹することだ。精神的な曲芸を一途に磨くことだ。

ガンバ!p( ̄へ ̄o)(o ̄へ ̄)qガンバ!

 ゴーギャンがゴッホの絵を描き、ゴッホがセザンヌの絵を描き、セザンヌがゴーギャンの絵を描く。ゴーギャンは会社に復職し、ゴッホは黄色い家に帰り、セザンヌはサント・ヴィクトワール山方面に行った。それぞれ描いた油絵をそれぞれの部屋の壁に貼り、おやすみと眠りについた。セザンヌひとりは言った「あの二人はいったい誰なんだ」。

n(ー_ー?)ン?

 「1月1日:次郎おじさんはしらふの時にはいろんな楽しい話をしてくれた。今でも印象に残っているのは釣りに行った時の話である。『三郎おじさんいるだろ。隻眼の。あ、隻眼じゃないか。俺の弟だ。会ったことあった? いや、ダジャレじゃないよ。ダジャレを言うのは誰じゃ。もう最悪だなこれ。だいたいダジャレにもなってないしな』」。

サムイ彡(-ω-;)彡ヒューヒュー

 OLに主婦、妙齢の女性には、自分で設定したルールがある。これがなかなか厳しい。それまでの人生経験の中から取捨選択したものが、結果的にルールとなりその自覚も生んだのだろう。恋愛マニュアルにあるアプローチ方法も、このルールの前では軽佻浮薄な戯れ言となる。ルールを溶解させるほどの心優しき猛者であるならば先が期待できる。

( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

 孤独じゃ。神のように孤独じゃ。じゃがわしには自分自身というものがおる。片時もわしから離れたことはない。生活のすべてをともにしておる。生まれた時からわしに関するすべてを知り尽くしている。若い頃は艱難辛苦を前に意気阻喪しそうな時も、一心同体でくぐり抜け狂喜乱舞したものじゃ。誠に頼りにしておる。それにしても孤独じゃ。

(∥ ̄■ ̄∥)

 「今日午前11時半頃、東京・新宿区の毎朝放送の第二スタジオ内で、勤務中の田中花子という女性会社員が、『今日午前11時半頃、東京・新宿区の毎朝放送の第二スタジオ内で、勤務中の田中花子という女性会社員が』という原稿を読み上げました。同会社員は引き続きこの原稿を読み上げるつもりでいるということです」。

( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ウンウン

 人間はサディストではなくマゾヒストである。今昔のいさおしに励行されるよりも、失態や恥辱を原動力として生き続ける。武勲や栄光などインスタントな一件に過ぎず、自慢の種になることはあっても、自らを牽引するどころか過去へ引きずり落とそうとする。その点、みっともない自分はやる気を駆り立てる。次なるみっともなさのために。

なのダッ($σ´з`)

 【フェニックス】(名)英語:phoenix(フィーニクス):エジプト神話の霊鳥。500年または600年ごとに自分で香木を積み重ねて自ら焼身し、その灰の中からまた若い姿あるいは幼鳥となって再生すると言われている。転じて絶世の美人の意にも使われる。古代のフェニキアの護国の鳥「フェニキアクス」が発祥という説もある。

フムフム(*゚Д゚)φ))ナルホド

 「1月1日:『三郎おじさんはな、ああ見えて酒がほとんど飲めないんだよ。知らなかったろ? 酒好きみたいな顔して、ビール一杯でぐったり。そのくせ『俺と飲んだら大変なことになるぜ』なんて言いやがる。大変なことになるのは、自分自身なのにな。ははは。二三年前の正月なんて大変だったんだよ。今でも語り草。見てないか?』」。

(=^〜^)o∀ウィー

 昨年365日を生きたことになる。そういうことになっているが、生きたと胸を張って言い切れる日はどれだけあったろう。睡眠が死にたとえられるように、死んでいたも同然の日も相当量あったのではあるまいか。時間は大切だという。大切なものは触れずにいるか乱費するかのどちらかだ。いずれにしろわしには無駄であることは否めない。

( ´・ω・)・・・・涙デタ

 問一:AはBから3万円を借りて持ち逃げしました。Bには貯金を含めて2000万円の財産がありました。Bは消費者金融Cに3万円借りて蒸発しました。20年経ってもBは消息不明でした。AとCは6万円ずつ交換しました。そしてお互いに姿を消しました。事情通のDが警察に出頭しました。さて、これは何の問題でしょう。

|・ω・)ではまた!

二項対立の物語

冨岡三智

また『真田丸』の話になる。第11回では主人公の父が自分を暗殺に来るライバルを返り討ちにする場面が描かれた。最初、2人は囲碁をしながら腹の探り合いをしている。その部屋の近くの縁側に、屋敷奉公するヒロインが事情を知らず腰を下ろして、思いがけず暗殺現場を目撃してしまう。それだけでなく、この暗殺劇の蚊帳の外にいた主人公を思わずその場に連れてくる。というので、このヒロインがうざい、せっかくの男同士の緊張感あふれるシーンが台無しだという声がネットでは多いようだった。

このヒロイン叩きの理由の1つとして、視聴者が二項対立の物語を好むというのがあるように思う。主人公AとライバルBが対立する物語は、敵も明らかで当事者同士の緊張も高まりやすい。話も単純なのでどちらかに肩入れする視聴者も熱くなる。これはスポーツでもそうだ。

ところが今回の『真田丸』ではA、Bと関係のないCがドラマに入ってきた。現実社会は複雑系で、閉じた二項対立パターンが生じることはほとんどない。第三者が介入したり予期せぬ事態が起こったりして事態は思いがけない方向に転がることが多い。このドラマでは社会というものをうまく描いていると私は思うのだが、ドラマでは想定外のストレスを感じたくない、予定されたABの対立とその決着のカタルシスだけを味わいたいと思う視聴者が多いのかもしれない。そういう観客の要求が古典芸能や時代劇によく見られる勧善懲悪を生み出してきたのだろうと思う。

製本かい摘みましては (118)

四釜裕子

図書館の収蔵庫で大正から昭和初期の薄い文芸雑誌の合本の直しを手伝ったことがある。数冊ずつ二カ所、巨大ホチキス針で留めていたが針がさびてきたのでとにかくはずして、その穴を利用してごく簡単に糸で綴じ直して欲しいと言う。薄っぺらな冊子を図書館で保存管理するには大きなホチキスで留めるのがいちばんと判断されたのは、いつ頃のことだったのだろう。実際はそれほど針はさびていなかったし紙も格別劣化していなかった。まれに強烈にさびた針がくい込んで紙が破けたものもあったけれども、そういうのはプロが処置してくれるので私たちの作業は極めて単純で楽しかった。

作業していた部屋の脇の小さなスペースが物置きになっていて、処分を待つ古い机や道具が積んであり、木製の図書カードケースとカードたてを見つけて譲ってもらったのも懐かしい。表面がつるっと光沢を帯びており、滑り止めに貼られたフェルトや金具の曇りも好ましかった。今もうちに好ましいままにある。久しぶりにその図書館に長居していて思い出したことだった。考えてみるともうずいぶん前だ。齢をごまかすつもりはないのだけれども、頭の中であれこれ考えるというのはつまり相手は自分ひとりなのに、1年2年3年くらいならいっか、とごまかすのはいったいどういうつもりなんだろう。

合本のためでなく綴じるための針がある冊子をうちの棚から抜いて見てみる。1956年の「現代詩入門」は本文64ページの針金中綴じ、1959年の「時間」は44ページ針金平綴じだ。どちらの針もさびて紙は茶色い。大貫伸樹さんが実物を集めて手元で眺めながら日本の近代製本の移り変わりをまとめた『製本探索』(2005 印刷学会出版部)には、針金綴じの始まりのころについてこう書いてある。〈簡易製本様式である針金綴が教科書に初めて採用されるのは、小学校師範学校教科書用、明治18年刊『小学習画帖』(文部省編輯局蔵板)であろう〉。針金綴機械がすでに輸入されており、明治40年代には工藤製鉄所という会社が国産初の機械を作った、ともある。

工藤鉄工所をちょっと調べてみると、1907(明治40)年に工藤源吉という人が東京・小石川で創業、紙揃え機などを作っていた。その後、針金綴じ機(ケトバシ式)を作って全国の製本屋に売り込み、二代目社長・祐寿(すけとし)の代になると1918年にドイツのL・レイボルト商会と技術提携して自動で綴じ込む「ツル式」を開発、1950年には国内初の「高速度自動中綴機械」を製造して週刊誌などの量産に貢献したそうだ(「ぶぎんレポートNO.134」2010年6月号)。同社は日本初にこだわり、二代目社長は社員旅行や社章を考案し射撃に打ち込むなどハイカラな人だったとも記されている。L・レイボルト商会とは、レイボルド株式会社の前身で1905年に東京八重洲口にできたエル・レイボルド商館のことだろう。

「薄っぺらで背なんてあってないような冊子は、持ち主が死んでしまうと紙として扱われることが多い」。というような話を、3月、下北沢の書店B&Bで聞いた。北園克衛が1930年代に発表した小説を集めた『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』(幻戯書房 2015)の刊行記念トークショーでのことである。この本のためにご自身のコレクションから資料を提供した加藤仁さんと、北園克衛関係の本を複数まとめている評論家で詩人の金澤一志さんのお話だった。この小説集(どれも短い)には解説や解説のたぐいはいっさい入っておらず、金澤さんはそのことを、「ひじょうに正しい、親切な配慮だったのかなと感心した」と言っている。洒落てクールにしらじらと、孤独に放たれた本である。刊行を長く望んでいた人たちからたまたま手にとり身震いするような人たちまでがただこの一点に集まるという、ねたましいほどの出現だ。

加藤さんはトークの資料として戦前の薄っぺらい雑誌をいくつもお持ちくださった。それを前におふたりの話は進み、1920〜30年代の文芸雑誌や各地の同人誌、書評誌などのタイトルが放たれるのだった。『少女画報』『GGPG』『太平洋詩人』『文藝耽美』『文藝都市』『新科学的』『文藝レビュー』『新作家』『新形式』 『マダムブランシュ』『レパード』『ファンタジア』『月曜』『夜の噴水』『辻馬車』『エコー』『レスプリヌーヴォー』『VOU』『薔薇魔術学説』『文藝時代』……。同じ時代、日本各地で、それぞれどう制作費を捻出したのかはわからないけれども、作り手はみな若く、紙やレイアウトにも凝って、「今なら若者自作のCDや音源に近い。ポピュラー音楽のない時代は文学がカウンターカルチャーだった」と加藤さんが言う。金澤さんが「ありとあらゆるサークルがありとあらゆる目的で、大なり小なり命をかけて大量に作った同人誌が書店で売られ、日本の文化を作っていた。知的欲求を一手に受け止める役割を、薄い雑誌が担っていた」と言うのを聞いてジンときた。

個人で研究する場合は特に、復刻版でもコピーでもなく一次資料を手元に置かないことには仕事にならないそうである。膨大な薄っぺらい冊子をおふたりはそれぞれどう保管整理しておられるのだろう。合本などするはずがないわけで、たとえばこの日のように、必要なものを自宅の棚から選び抜いて外に持ち出し、見ず知らずの人がとやかく言うのにつきあい、また家に持ち帰って元の場所に戻す手間は想像するだけでうんざりするが、加藤さんにそれを厭う気配はなかった。一瞬にして紙ごみとなる幾多の危機をまぬがれてきた冊子たち。ひと一人の寿命を軽々越える本らの陰謀。その見事に快哉を叫ぶ。

仙台ネイティブのつぶやき(12)見知らぬ街

西大立目祥子

 ここ3年ほどだろうか、身近なところで見慣れた建物が壊され新しい建物が立つということが相次いでいる。東日本大震災から1年を過ぎたあたりから顕著になってきた。

 街歩きのガイドのとき、いつも案内していた大正4年建築の金物屋だった町家は壊され更地になった。4本の井戸があると聞いていた豆腐工場は解体され、いま大きなマンションが建設中だ。通りで最後の一棟だった小さな土蔵造りの町家は、ハウスメーカーらしき平屋に置き換わった。

 震災は何とかまぬがれたのに、震災後、政府が解体費用を持つという政策が打ち出されてから、古い建物がつぎつぎと姿を消し始めた。お荷物に感じていた傷んだ古家がタダで解体できるなら、と見切りをつけたということなのだろうか。古い建物をあっちに見つけてはよろこび、こっちに見つけては訪ねるという活動をしてきた私には何ともさびしいではあるのだけれど。

 この感じには既視感がある。

 四半世紀前のバブル経済のころだ。大正から昭和初期にかけて建てられた、年月を経た下見板張りに瓦をのせた古い家々が軒並み壊されていった。地元の大工たちが建て、地元で焼いた艶のない黒い瓦をのせた家々だ。仙台は戦災にあって中心部の多くを焼失しているけれど、空襲をまぬがれていたそうした戦前の建物が、まるで狙い撃ちにあったようだった。

 木造の古家の何とはかないことだろう。朝、出勤のとき見た建物が、夜にはあっけなく解体され上にはパワーシャベルがのっかっている。2日目に残材が片付けられて、せいぜい3日で更地。転売された土地には、ビルやマンションがあっという間に立ち上がる。ちょうどそのころから、まちへの関心を持ち始め、城下町の骨格やら屋敷林の名残やら街道沿いの町家やら…なんてことに興味をふくらませていただけに、やるせない、どこか傷つけられたような気持ちでため息をついていた。

 でも、世の中は好景気で、多くの人はそうした変化を歓迎しているように見えた。地上げ屋も横行していた。勤めていた会社の近くにあった老夫婦がやっていた駄菓子屋が壊されたときは、「こういう木造の建物は目障りだから、建物は解体し土地は売った方がいい」という男たちがやってきたという噂を聞いた。仙台市郊外の里山で地域づくりの手伝いをしていたときには、素性のわからない男が一人、会社にやってきた。
上司が対応したが何とも拉致が明かない。2時間ほども経ったころ、こういったのだそうだ。「ゴルフ場開発を計画しているが、反対している住民がいる。地域づくりの力で、その人たちを説得してほしい」

 そして、いま、仙台は再び大きな好景気の中にあるのだろう。大震災後、三陸の町や浜では軒並み人口流失が続いているけれど、離れた人たちの行き先は多くが仙台なのだ。仙台だけが、震災後、人口増を続けている。こちらで暮らしていた息子の家族に呼び寄せられてという老夫婦もいるし、3世代同居から息子夫婦と孫たちだけが離れて仙台へという例も少なくない。毎日ように、朝刊にはどっさりと不動産のちらしが折り込まれてくる。つぎつぎと高層マンションが立ち、古い家は壊されて新しい戸建て住宅に変わる。ついこの間も玄関の呼び鈴が鳴るので出たら、ハウスメーカーの営業マンが立っていて、近くの空き家のことをたずれられた。

 慣れ親しんだ街並みは失われ、見知らぬ街があらわれてくるのだ。歩いていると、ここにいつこんな大きなマンションいつたったんだろうと気づかされることが増え、新しい建物が立つと以前どんな建物だったかを思い出すことは難しくなる。

知らない空間の出現。何ともなじめない、違和感のある空間の誕生。横断歩道で信号待ちで向かい側のビル街をぼぉっと眺めながら、ときどき思う。いったいここはどこ?
ほんとに仙台なんだろうか、と。

 そしてこうも思う。バブル経済から25年とちょっと。街並みはこのぐらいの時間の幅で大きく変化するものなのだろうか。そしてこういう大きな変化は、自分の生きてきた時間が長くなるからこそ実感されるのだろうか。戦前の木造家屋の消失を目の当たりにした一度目の変化。都市のすみずみまでを開発し尽くすようなこの二度めの変化。もしかすると、その前、子ども時代にも大きな変化を見ていたのかもしれない。田んぼがつぶされ宅地化されていく高度経済成長期の激しい変化を。

 この先、もう少し長く生きるとしたら、三度目の、いや四度目の変化に立ち会うことになるのだろうか。そのときには、仙台の街は私にとってはもはや仙台の街ではなくなるのかもしれない。暮らす中で親しんできたなじみの風景や建物を見つけることは、ますます難しくなるだろう。

ここは仙台じゃない、知ってる街じゃない、といいながら、きっと私は街を徘徊する老婆になる。

実は種ってややこしい

大野晋

まず、「みはたねってややこしい」と読まないで欲しい。「じつはしゅってややこしい」という生物の種類、分類に関するお話である。

以前にもとりあげたように、昨年の年末から今年の夏にかけて、有名な植物図鑑の改訂版が出版されている。植物は科、属、種というという分類ルールで分類されている。例えば、吉野山を彩る山桜はバラ科サクラ属のヤマザクラという種類に分類されている。今回の図鑑の改訂の目玉とされているのは、AGPⅢと呼ばれる葉の葉緑体の中に中にある遺伝子の組成に着目した分類体系の採用ということらしい。かつて、葉緑体は独立した生物だったものが植物の中に後から取り込まれたと考えられており、比較的簡単なこの遺伝情報を比べると、植物に取り込まれてからの時間がわかると仮定して、植物の進化の道筋をこの仮定のもとに整理したのがAGP分類体系だ。ところがこれを採用したことで、これまでの分類体系が大きく変わってしまったことが少々の混乱をもたらそうとしているような気がしている。

これまでの植物の分類は形の違いで区別していた。これは人間がなにかを分ける場合の必然だと言ってよい。そして、全部の植物を並べた上で、近いものを同じ科や同じ属に、そして形態の似たものをある仮説の上で並べて、分類の体系とした。いわゆるエングラーやその分類を再検討したグロンキストといった人の作った分類体系が図鑑にも採用されていて有名である。まあ、ドイツ人医師だったシーボルトが日本植物誌を作った昔から、植物の研究者は形態に着目して植物を分類してきている。また、つい最近まで、目新しい植物を収集する職業も存在した。大航海時代のイギリスではプラントハンターと呼ばれる人たちが全世界の珍しい植物を持ち帰った。そのコレクションは王立のキュー植物園というものまで作り上げたし、もちろん、アジサイやツツジなどの日本の植物を欧州に紹介したシーボルトもまたプラントハンターだと言ってよいだろう。

初めて発見した植物には発見した人間の名前が学名に添えられることから、多くの植物学者が「新しい」植物を発見しようとやっきになった。日本でも多くの独自の学名をつけている牧野富太郎博士などは日本のプラントハンターだと言ってもよい。一時は小さな形態の違いに着目して皆が名前を付けまくったものだから、新植物だらけになった時代もあった。今ではもう少し整理されて、植物の種類も減ったが、学者によって植物の数が変わるのも実はそんな理由がある。残念ながら、分類は個人の研究者の見解が十分に反映されたものなのである。

一般的に植物の種類が違うかどうかを分けるポイントはこんな感じだと思っている。
(1)形が違っている
ただし、形の違いは0か、1かと言った感じではなく、ある程度の中間領域を残したものだから言い切るのは難しい。
(2)遺伝子が違う
DNAの配列がある程度わかるようになって、遺伝を司るこの遺伝子を比べれば、一目瞭然のように感じられたこともあったが、実際問題は各個体ごとに遺伝子は細かく違っている。どの違いまでが「同じ」でどの違いからが「違う」のかの線引きは実は難しい。
(3)生殖できるかどうか
受精できるかどうかは同じかどうかを調べる重要なポイントだ。しかし、完全に違う形態の植物であってもそれらを掛け合わせられることは、長い園芸品種の品種改良の歴史の中では知られてきたことだ。しかも、受精せずに単位繁殖する植物もあって、生殖できること、受精できることが種を分ける境であるわけではないらしい。
(4)生活の仕方が違う
生育地が違ったり、生活環が違うことは大きな分類ポイントにはなりそうだが、実際には大きくかけ離れた場所に同じ植物が生えているということが多く報告されている。生育地の違いで形態に差が生じると言うこともある。アキノキリンソウやイワカガミのように標高によって形態を変える植物、しかも連続的に変わる場合、異なると考えることは難しい。
(5)成分が違う
化学的な組成が違う場合には異なると考えてもいいようにも思えるが、生育条件によっても変化する特性も多く、これも確証には欠ける。

結局、どれといっても確定的な条件はなく、「同じ」か「違う」かは複数の条件から複合的に判断するしかないのである。残念ながら、現状では遺伝子といえども確証にはならない。

葉緑体の遺伝子も、よく考えると異なる道筋で似たような形になっていることも考えられ、このような「他人のそら似」が果たしてどの程度、排除できているのか疑問でもある。すべての植物が残っておらず、変化のところどころに大きな欠落した穴のある状況では最新のAGP㈽とはいえ、「仮説」の枠は抜け出すものではない。しかも、種レベルの種類の特定がいまでも昔ながらの形態の差を重視するのではダブルスタンダードではないか?という感じもする。

さて、時期はサクラの花が咲き乱れる4月。
しかし、その「サクラ」と呼んでいる植物の正式な名前をご存じだろうか? 今から30年前、信州伊那谷の河岸段丘上に生息する赤い花びらの桜を追いかけたことがある。カスミザクラという種類の桜のはずだったが、普通は白い花びらなのにそれらは赤く、たぶんエゾヤマザクラという高山性の桜との雑種のようだったが結果は出ていない。もうすぐ5月になるとそいつらが咲き始める。実はいがいと「種」というのはややこしいものなのである。