アジアのごはん(51)バンコク自炊生活その2

森下ヒバリ

初めてちゃんとした台所のある部屋を借りたバンコク生活。自炊生活はなかなか楽しい。わが家の食生活は、日本では豆腐やお揚げさんが要であるが、バンコクにおいしい豆腐は売っているのか。日系スーパーなどでいろいろ試しているうちに、これはおいしい、と思える豆腐を二か所で見つけた。

ひとつは、エカマイ通りにある日本料理屋「黒田」の売店部門で売っている豆腐である。黒田は、自社農場を持ち、豚肉や無農薬野菜が売りだ。たまにここでコロッケ定食を食べるのが密かな楽しみなのだが、ここで定食などについて出てくる冷奴は、どうも売店部門のものとは違ってあまりおいしくない。

それでも売店部門の豆腐は、豆腐の味にはとことんうるさい京都人も納得のお味。やや固めの木綿豆腐。ちなみにここで売っている自家製梅干しは、他の日系スーパーなどで売っている梅干しのどれよりもマシではあるが、ヒバリにはどうも食指の動かない味わいである。味が果物っぽいというか、梅を完熟させてから漬けているのかしらん。中国やタイ北部産の梅の実の味のせいなのかなあ。

エカマイ通りには、住んでいるウドムスックからBTS高架鉄道に乗って行かねばならない。しかも売り切れの日もある。食べたくなった時にちゃっと手に入る、近所の市場でそういうのが売っていたらな〜、と思ってはいた。市場でも豆腐関係はふつうに売ってはいるのである。しかし、売っているのは、何種類かあるがどれも調理用の水分の少ないカチカチの豆腐か、厚揚げもどき、かたい湯葉である。どれも中国系の豆腐で、野菜と炒めたり、煮込んだりする。生で食べるものでもないし、残念ながらこれらの豆腐類をおいしいと思ったことは、ほとんどない。

円筒形のビニールチューブに入ったやわらかい充填豆腐もあることはある。この豆腐を輪切りにして、肉団子と春雨を入れたスープがゲーンチュート・タオフー。これはわりとポピュラーなタイ料理で、辛くなくて比較的あっさりしているので、日本人には人気の一品だ。たっぷり入るチャイニーズセロリの香りが決め手。しかしこの充填豆腐も、生で食べようという気にはならない、という味である。同じメーカーで、黄色くつるんとした卵豆腐もあるが、どうもタイ人は白豆腐も卵豆腐も区別はしていないようす。味はかなり違うんですけど・・。

日本の豆腐の味を求めるならば、やはり日系のスーパーや食材店に行って、タイで日本人が作っているものを探すしかないのが、タイの豆腐事情なのである。ところが、ある日夕飯をバンコク在住の友人(甘党)と近所のクイティオ(タイの麺類)屋で軽く済まし、コンドミニアムの前の歩道にずらっと並ぶお持ち帰り屋台を冷やかしていたとき、思わぬところでふたつ目の及第点豆腐を発見したのであった。

「そういえば、おいしそうなドーナツがあったよ」友人をさそってドーナツを売っている屋台を覘く。そこは、ドーナツ屋さんではなく、ナム・タオフー(豆乳)屋さんである。タイの豆乳屋というのは、温かい豆乳とパトンコーという油で揚げたパンみたいなものをメインに売っている。このスナックセットは、朝ごはんか夜食に食べるもので、したがって早朝か夜しか豆乳屋は開いていない。パトンコーは中国では油條といい、もともとは中国系の食べ物だが、タイ人も大好き。店によっては、パトンコーを揚げる油でついでに豆乳ドーナツなんかも揚げていたりするわけだ。

ドーナツの横には、ビニール袋に入った柔らかそうな豆腐も並んでいた。「あ、ここ豆腐も売ってる!」「ああ、タオフエイですね。ほら、生姜のきいた甘い汁をかけて食べるやつ。ぼく、これも買おうかな」「あ〜、あの甘い奴か‥」

タオフエイは、お椀に盛ったやわやわ豆腐の上に生姜のきいた甘い熱い汁をかけ、カリカリの天かすを浮かしてレンゲですくって食べる甘いおやつだ。これは家で作るものではなく、屋台で買って食べるもの。タオフエイは、中国の豆腐脳(トウフナオ)の変形かと思われるが、おやつとして甘いバージョンが中国にあるものなのかも。

豆腐脳とは、熱い豆乳ににがりを打って固めたばかりのやわやわ豆腐に醤油とラー油をかけ、パクチーを乗せて食べる、中国の朝ごはんである。押しをしたり、水を切っていないので、ふわっとした食感の温かい出来立て豆腐だ。初めて行った中国上海で、唯一おいしいと思ったのがこの豆腐脳と目の前で作る皮の厚い餃子だった。ただし、タイでは甘いタイプしか見たことがない。専門店もあるが豆乳屋台でよく一緒に売っている。

ここの屋台はお持ち帰り専門なので、甘党の友人につられてタオフエイを頼むと、豆腐と生姜汁とを別々の袋に入れて渡してくれた。大きな鍋から注がれた生姜汁は熱々でたっぷりとある。部屋に戻ってまず生姜汁だけ味見してみると、日本の生姜湯そのままで、大変おいしい。甘さもほどほどだ。これはいい。そうだ、なぜこれを豆腐にかけなきゃいけないのだ。豆腐を甘くして食べるのはやっぱり馴染めない。そのまま生姜湯として熱いうちに啜り、ほっこりして寝た。

豆腐のほうは、ビニール袋に入ったまま冷蔵庫に入れて忘れていたのだが、翌々日、はたと思い出し、一応味見してみようと匙ですくって口に入れてみた。あれ? なんか‥おいしいんですけど。しかも、甘くするよりぜったい醤油味が合う味ではないか。さっそくネギを刻み、しょうゆを垂らす。こちらは黒田の豆腐とはちがって、やわらかくトロンとした寄せ豆腐タイプ。う〜ん、冷奴がぴったり。まったく期待していなかった、生姜湯のおまけのような豆腐がこんなにうまいとは申し訳ないほどだ。しかも、わずか十バーツ(27円)。

タオフエイの豆腐を甘くない状態で食べたことが今までなかったので、気が付かなかったが、生姜汁に浸す前の豆腐は、生豆腐として普通においしいものだったのである。日本人は豆腐を甘くするという発想がほとんどないので、醤油をかけて食べる豆腐と、甘い汁をかけて食べる豆腐が同じものだとはなかなか思えないのだろう。どうも、タイ在住日本人のほとんどがタオフエイの豆腐が豆腐としておいしいと気付いてないようである。タオフエイを豆乳ゼリーなどと説明してあるタイ食文化の本もあるぐらいだし。

というわけで、ウドムスックでの豆腐生活はすっかり充実したものとなった。近所に二軒あるナム・タオフー屋の奥のほうの店は、タオフエイもドーナツもあまりおいしくなかったので、店はちゃんと選ばなければならない。でも、豆乳屋台はタイ中、至る所にあるので、おいしい店を見つけるのはそう難しくないだろう。タイ在住の豆腐好きたちよ、ナム・タオフー屋台を目指せ! お持ち帰りは、くれぐれも豆腐と甘い生姜汁とを別々の袋でね。

太陽の墓

璃葉

西の方から夜がやってきます

鳥たちは円い茂みに隠れ、石のようにうごかない
寒々しい風を受け入れる船、追い出す鋼の扉
黒い線が夕陽をなぞっていった

占い師は星の下を歩き、歌い手は鍵盤の上を彷徨う
何処かで強大な影が動めいている 

煤けた花たちの視線は狭い路地の向こう側
そちらには悪魔の街しかないのです
月は海底へ
太陽は思い出の墓へ
逃げる先は闇の環海

r_1301_1.jpg

犬の名を呼ぶ(8)

植松眞人

 目の前を聡子が歩いている。
 その少し先をブリオッシュが歩いている。高原は凧揚げでもしているかのような気持ちで、後からついていく。まるで、ブリオッシュと聡子と自分が一本のたこ糸でつながれているような気分だ。それは、実際に聡子が力一杯に握っているブリオッシュのリードよりも細くて、しかし、強い。
 そう言えば近頃は元旦に凧揚げをしているような風景に出くわすこともなくなった。そう思いながら高原は空を見上げてみる。真っ青に晴れ渡った空は、正月らしく澄み切っていて、雲ひとつない。
 しばらくぼんやりと凧を探してしまっていたのだろう。距離を開けた聡子が振り返る。
「おじいちゃん、なにしてんの」
 その怒った顔に見覚えがある。
「聡子の幼稚園じゃ、凧揚げなんかしないのか」
 高原がそう聞くと、聡子は即答する。
「やるよ。昔遊びの時間に」
「昔遊びってなんだよ」
「ベーゴマとか、凧揚げとか、あやとりとか。そういうのを教えてくれるの」
 そういう遊びを昔遊びというのか。なんとなく引っかかる言い方だな、と思うのだが孫の前ではそんなことは言わない。
「おじいちゃんが子どもの頃は、正月には男の子はみんな凧揚げをしたんだけどな」
 それだけを言うと、聡子の返事を待つ。
「今はね。電線とか高いビルとかが多いでしょ。だから、みんなが勝手に凧揚げすると危ないんだよ。だから、昔遊びの日に、近くの小学校の校庭でやるんだよ。それに、お正月は学校も大人もお休みでしょ。だからできないんだよ」
 そう言うと、聡子は母親の菜穂子そっくりの勝ち誇ったような顔をする。自分の孫だが、この表情をしたときの聡子はどうも可愛いとは思えない。
「そうだな。お正月はお休みだからな」
 高原は聡子にそう返して、また歩き始める。そして、何が昔遊びだ、と思うのだが、自分が子どもの頃だって、凧揚げなど古い遊びの部類に入っていて、ちょっと金を持っている家の子どもは「今どき、日本の凧はダサイ。これからはこれだよ」とイトマキエイのような形をした西洋凧に興じていた。
「あ、凧だ!」
 聡子が空を指さしている。確かに西の空に小さな西洋凧のシルエットがある。
「きっと、小学校であげているんだよ。あの凧の模様、見たことあるもん」
 逆光気味で見えづらいが目をこらしていると、その凧が赤と黒のラインをまとったいかにもスタイリッシュなデザインを強調していることが分かる。
「おじいちゃん、今日はお正月でお休みだけど、昔遊びのおじさんが頑張っているのかもしれないね」
 聡子は自分の前言を自分でひっくり返すことに抵抗があるのか、恥ずかしそうに言いながら、すでに小学校の方向に向けて歩き始めている。さっきまで、ぼんやりとした犬の散歩だった道行きが、聡子の中で明確な目的を持った。
 聡子の目はしっかりと凧を見すえ、確かな足取りで小学校を目指している。ブリオッシュも聡子の意志を感じたのか、さっきよりもいくぶん力強く歩き始めたようだ。高原はただ聡子とブリオッシュを眺めながら後をついていく。
 小学校が近づくにつれて、凧が視界から消えることが多くなった。建物に遮られて、凧が見えなくなっても、聡子は凧があるはずの方向を見すえて歩いた。そこに行けば、必ず凧を揚げている人がいて、そこに行けば凧とその人をつなぐ糸がある。聡子にもブリオッシュにも何の疑いもないようだった。
 しかし、高原はブリオッシュと聡子の後を歩きながら、そう確信できるのはお前たちが若いからかもしれないぞ、と思い始める。最初から凧は別の場所で揚げられているのかもしれないし、もしそこから揚げられていたとしても、その人物はもう凧糸を鉄棒にでもくくりつけて帰ってしまったかもしれない。
 どちらにしても、誰もいないだだっ広く寒々しい校庭ばかりが思い描かれる。空に上がっている凧と、地上の出来事はまったく無関係なのではないか、という気持ちが高まってくる。高原はそのことを聡子に言ってみたい衝動に駆られる。もし、誰もいなかったらどうする、と聞いてみたいのだが、「それでもいいじゃない」と答えられたら、ちょっと立ち直れないな、と思い直して、大人しく聡子の背中を眺めながらスクールゾーンと大きく書かれたアスファルトを歩くのだった。

ピンネシリから岬の街へ── JMCへ

くぼたのぞみ

ニアサランド製サンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように
男は 真夏の岬の街から船に乗り
赤道をひらりとまたぎ
降りた港のサザンプトン
そこは真冬だよ 真冬
サンダルばきじゃやってられない
臨港列車に乗り継いで
あこがれのメトロポリスへ向かう
ポケットには84ポンド
それが蓄えのすべて

植民地生まれのエリオットや
パウンドみたいに 住みついて
仕込んだファッション 
ほら 岬の街に帰ってきた
髭を生やした23歳
黒いスーツにネクタイしめて
手にはこうもり傘と革鞄
プロヴィンシャルの 属国の
美しい風の街を闊歩する

なあんだ
60年代は世界中どこも
そんな時代だったのか

ここから出て行く
閉じ込められずに
プロヴィンシャルとは
地方とは 
そんな思い募らせる場所
それでいて
土くれとともに
あの風景のなかに
死んだら姿を消したい 
紛れたいと 思いをはせた遠い記憶
ノスタルジアふくらませながら
回顧する場所

粉雪が舞い狂うピンネシリの
ふもとに広がる青い幕
その彼方へ
先住びとの邪魔をせずに
アイヌモシリのすみっこに
どろん 
紛れさせていただけるかな
そんな祝祭はくるかこないか
Tokyo の初冬から初夏へくるり反転
岬の街まで出かけていって
青い山から幾度も 幾度も
遠く離れて 考える

オトメンと指を差されて(54)

大久保ゆう

みなさま、あけましておめでとうございます。今回は新年ということもありまして、このエッセイをテーマにした〈いろはがるた〉の読み札を作ってみました。せっかくですのでよろしくご活用ください。

【い】いつの日か天才な人にお仕えしたい
【ろ】論よりお菓子あげれば従順
【は】初詣願いが浮かばす世界平和
【に】人数が集まると自然と保護者になる
【ほ】ほっとくと年賀状にポエムとか書く
【へ】ぺけぺけと書き物しながらしょこらしょこら
【と】どこへ行くにもマイ枕持ち込み
【ち】チョコ菓子の限定品で季節知る
【り】理由もなく鞄が大きいし重い
【ぬ】ぬいぐるみキモいのほど愛しく見える
【る】流浪癖ふらふら歩いてすぐ迷子
【を】ヲトメンは固ゆで卵と見つけたり
【わ】私個人がストラップにされて拝まれる
【か】勘違いしないでくれよ草食べないし
【よ】よそへ行くとよく飴ちゃんもらえる
【た】ダイエット凝った挙げ句に痩せすぎた
【れ】練習・黙々・こつこつ・努力
【そ】空耳で作ってみたよたいやきうどん
【つ】ついつい深夜にパン焼いちゃわない?
【ね】熱血でさばさばしてる姐御メン
【な】悩むのは時間の無駄と即行動
【ら】ランドセル背負わぬままに学校へ
【む】虫の裏側って大人になると見れない
【う】歌えへん
【ゐ】色よりも恋の方が楽しいのに
【の】飲み物はまずいものが好きです
【お】温泉町にあったらいいな翻訳村
【く】くしゃみなんて頑張れば自由に操れる
【や】訳すのは息するのと同じ
【ま】まめまめしいこの言葉だけでうっとり
【け】毛玉を集めたい年頃ってある
【ふ】武道とかやってる人に多いよね
【こ】怖いもの見ては乗っては大爆笑
【え】絵本を訳す世界旅行がしたいんです
【て】TLがお菓子だらけだったらいいのにな
【あ】朝起きて目覚ましがてら弁当作り
【さ】作業中寝ころんでることが多い
【き】気がつけば弟的存在が増えている
【ゆ】夢見てるそばから計画立ててます
【め】メンズの選択肢増やしてほしい!
【み】身だしなみやりすぎるとややコスプレ
【し】ショートケーキとカントリーマァムは和菓子です
【ゑ】酔いが回っても普段と変わらない
【ひ】ひとりではなかなか入れぬイートイン
【も】もめ事に巻き込まれやすい魔法使い
【せ】扇子とかいつも鞄に入ってそう
【す】スイーツが不可欠なのはもののことわり
【京】京都の夏は中東から来た人もへばる

ジャワと干支、巳年にむけて

冨岡三智

思えば、ジャワでも干支がポピュラーになってきた感がある。昨年のジョグジャカルタ滞在中、年末年始にショッピングモール内にある本屋に行ったら、「辰年」を強調した占いや経済予測の本がたくさん積まれていた。手にとった女性雑誌には、干支の占い欄もある。最初にジャワに留学した1990年代後半は一般の女性誌に干支占いは載っていなかったような気がする。

華人文化を弾圧していたスハルトが政権の座から落ちた(1998年)後の2000年から2003年まで、私は2度目のジャワ留学をした。2000年に来たとき、本屋には孔子の本や風水の本が山と積まれ、開校したばかりの芸大大学院で竜舞や華人のジャワ文化に対する影響なんかを修士論文のテーマに選ぶ人が出てきて、時代が変わったと痛感した。2003年から初めて旧暦(中国暦)正月が祝日になって、スラマット・リヤディという目貫通り沿いの華人系の店をバロンサイが初めて巡回した。この日私は公演があって、楽屋でそれが大きな話題となっていたので覚えている。その前年の2002年、旧暦(華人暦)はまだ国の祝日にはなっていなかったが、職場によって祝日扱いしてよいという通達が大学の掲示板に貼られていた記憶がある。

そんな風にして華人文化が復権してきて、新年の雑誌に、○年はこんな年、あなたの干支は○○で性格は××、といった類の記事をよく見かけるようになった。昨年は干支を強調した本がたくさんあった言ったけれど、辰(ナーガ)年というのが良かったのかもしれない。ナーガはジャワでも彫刻やバティック(更紗)の意匠としておなじみだからだ。

巳年にちなんで、ジャワ(舞踊)で蛇に関係する話はないかなと考えてみたが、どうも思いつかない。蛇はだいたいナーガ(竜)と同一視されるのだが、物語に登場するのはやっぱりナーガの方である。たとえば、スラカルタ王宮の地下にはナーガが住んでいて、アブディダレム(宮廷家臣)が金製品などを身に着けていると必ず地下のナーガに取られてしまうとか(これは宮廷の身分秩序を教え込むための寓話だろう)、ジョグジャカルタ王宮の地下にはナーガが住んでいて、その尻尾は南海まで伸びているとか(ジャワ王権を守護する南海の女神が、王と常につながっているという寓話だろう)、王宮にまつわるエピソードが多いのは、やはりナーガが王の象徴だからだろう。インドではガルーダ(鳥の姿をした神、インドネシアのシンボルになっている)はナーガと兄弟神ながら、死闘を繰り広げるというお話もある。

ジャワで蛇と言って頭に浮かぶのは、アクセサリに蛇のデザインが多いことぐらいだろうか…。女性用だと腕輪や指輪のデザインに蛇のデザインはよくある。男性用だと正装時に着けるベルトのバックルには、コブラが2匹からみあったデザインがある。今年96歳になるというジャワ宮廷の長老で着付の師匠は、蛇の意匠はアクセサリのデザインとして古いものだと言っていた。ここでいう古いというのは、イスラム到来以前、つまりヒンドゥー文化の時代というニュアンスのようだ。だから、ジャワでは蛇というとインド文化の香りがする。

蛇のデザインがナーガ化していったのは、1つには具象的な意匠をきらうイスラムの影響かもしれない。また、蛇ではデザインが単調すぎてつまらないと考えた職人たちが、蛇を装飾してナーガに仕立て上げることに熱中したのかもしれない。

というわけで、ナーガに比べて印象の薄い巳だが、今年のジャワの雑誌には、巳年の運気や巳年の人の性格はどんな風に紹介されるのだろうか。楽しみである。

ロックバンドの20年を祝福する

若松恵子

キャメロン・クロウ脚本・監督の記録映画『パールジャム20』(2011年)を見て、パールジャムというロックバンドにすっかり心奪われてしまった。彼らは、ニルヴァーナと並ぶグランジロックの人気バンドだから、何を今さらと笑われてしまうと思うけれど、ローリング・ストーン誌の記者時代からこのバンドを追い続けてきたキャメロン・クロウならではの、バンドへの愛にあふれる素晴らしい映画だった。ボーカルを担当し、バンドの顔でもあるエディ・ヴェダーの存在は知っていたけれど、映画で知った他のメンバーもそれぞれ大変魅力的だ。

ギターのストーン・ゴッサードとベースのジェフ・アメンへのインタビューを中心にバンドの物語が語られていく。パールジャムの前身である「マザー・ラブ・ボーン」のカリスマボーカリストであったアンディ・ウッドをドラッグの過剰摂取で失い、バラバラになりかけていた時に、新たなボーカリスト、エディ・ヴェダーを迎え入れて、バンドが再生するところからパールジャムの物語は始まっていく。送られてきた様々なデモテープから、エディを見つけ出した時のことを、アンディの親友でもあり、シアトルでの音楽仲間でもあるサウンドガーデンのクリス・コーネルが「テープで彼の声を聞いたとき、人が見えた。本物の人間だよ。別の人間になろうとしている人ではなく、本物の男がいた」と語っていて心に残る。デモテープを送った頃の事を回想するエディの言葉も素敵だ。「ボーカルなしのデモテープが届いた。曲に感情を揺すぶられる事なんて久しぶりだった。仕事を終えて、サーフインをして、足に砂をつけたまま録音した」と。

メンバー同士がお互いを見いだし、認め合い、そして成長していく。バンドにとってこれほど幸福なことはない。私がこの映画とパールジャムに心魅かれたのは、ロックバンドの幸福という奇跡の物語をそこに見たからなのだと思う。

1200時間の映像を約3年かけて120分に仕上げたというこの映画には、若い、長髪にメークの尖がったメンバーの風貌と、今は”もう髪を短くしていてもちゃんとロッカーに見える”ただ者ではない自信に満ちたメンバーの風貌、両方が魅力的に捉えられている。エディ・ヴェダーとの出会いからわずか6日後に行ったパールジャム誕生のライブで演奏された彼らの代表作「アライブ」。映画の最後に、20年目の「アライブ」のライブ映像が再び登場する。音は古びずに、より深い確信に満ちていて心を打たれる。いっしょに歌う観客の映像が挟み込まれる。メンバーそれぞれも、ファンと同じように、ロックを見つけることで生き延びてきた人たちに違いない。いくつかのバンドの危機を乗り越え、今、さらに強い結びつきを持って奏でる音は、聴くファンを勇気づけている。

今ここで

笹久保伸

今ここで
耳だけに聴こえない音楽についての話をするよりは
限りある水の冬眠を促し
水を水で薄める装飾音についてを話すほうが
例え間違った音を出してしまっても水脈にはやさしいと思うのです
呼吸ある限り方向を変え続けるために
暗闇を踏み続けて

同姓同名

大野晋

新年おめでとうございます。

世の中には同姓同名の人間が何人もいる。自分の同姓同名の人間は有名な日本語学者のほかにも何人かいるのを知っている。そのうち、何人かは私と似たような分野にいるので間違えられることはないか、と思っているが、今のところ、情報学研究所の文献データベースにはきちんと分かれて収録されている。その辺はどこかの著作権データベースよりもしっかりとしている。

外国人でも同姓同名の人物は存在するが、これが結構ややこしい。実は、私はマイケル・ジャクソンという人物を三人知っている。ひとりはご存じキング・オブ・ポップのマイケル・ジャクソン。もうひとりは、コンピュータ業界ではジャクソン法というシステム開発技法で有名なマイケル・ジャクソン。そして、最後のマイケル・ジャクソンはビールやウイスキーの著作を残したマイケル・ジャクソン。全員がマイケル・ジャクソンなのでややこしいが、幸いにして分野が異なっているためなんとなく煩わしいことはない。

これが、ジョン・ウィリアムズになるともっとややこしい。ギターの巨匠なのか、作曲家兼指揮者の方なのかは文脈によってくる。では、ジョン・ウィリアムズ作曲のギター協奏曲があったら? 困るでしょうね。

実はこの問題は常にあって、社会保険庁の年金履歴の問題もこの同姓同名問題に他ならない。終身雇用を前提に名簿管理を考えていたので、転職や転住などで名簿が不連続になるとそれが反映できなかったという話だ。最近は三鷹あたりにあるセンターで全員に統一番号を振って、これをもとに一元管理しているので特に新しい問題は発生しないようになっている。ただし、年金を含めた社会保険の統一番号管理はすでに始まっているわけなんですが。

ところで、コンピュータの世界には面白い人もいて、モジュールに即した名前をつければ問題はないという話をつい最近聞いた。しかし、人間の使う単語が有限であり、その組み合わせもまた有限なら、似たような機能やモノにつける名前もどうしても同じようになる。実は同姓同名というのは必然の結果なのではないかと思っている。この辺の話はなんでも仮説上の話で考える方にはわからないのかもしれない。名前というものはめちゃくちゃな文字列の組み合わせではないのだから。

昔、長野県の女性に「みゆき」という名前が多いことに気づいたことがあった。あだち充の「みゆき」がヒットするよりも昔だから純粋に「美しい雪」という存在にちなんで付けられたのだろう。とはいえ、寒い地方の雪は美しくもあり、怖くもある存在である。それが女性の名前になることにいまも不思議さを感じている。この傾向、長野県だけの傾向なのか、はたまた、他の北国でもいっしょなのかは実はリサーチしたことがない。ぜひ、どなたか調べてみてはいただけないだろうか?

十二月、むかえておくりだす

仲宗根浩

クリスマス寒波のあとから暖かくなる。夕方から夜の仕事中は半袖でも過ごせる。半袖で大丈夫ということは暑いということでいいだろう。でもその後は寒くなり、すこし暖かくなり、今年も終わると。四、五年ぶりで元旦と二日休み。

六月から仕事二つ掛け持つようになって見事に暇がなくなる。十二月は両方の仕事ともに繁忙期というやつで週一回の休みひとつ吹っ飛び、何年振りかの十三連続出勤というのをやると、まわりが親切に年寄扱いしてくれた。

十二月一日は雨だったのではっぴいえんどの「十二月の雨の日」が頭なかでヘビー・ローテーションになり、未発表ヴァージョン、シングルヴァージョンを久しぶりに聴いてみた。どれもあのギターがあるからこの曲は成り立っている。

十二月十二日、市の防災担当というところからエリアメールというのが届くと同時に近所にある市のスピーカーから放送が流れる。時間は十一時一分。文面は以下の通り。

北朝鮮ミサイル通過情報
北朝鮮から衛星と称するミ
サイルが発射された模様で
す。念のため屋内に避難し
、テレビ・ラジオ等、今後の
情報に注意してください。

メールは一分後に以下のものが届く。

北朝鮮ミサイル通過情報
北朝鮮から衛星と称するミ
サイルが発射され、上空を
通過した模様です。テレビ
・ラジオ等の情報に注意してください。

これって防災か〜? まあ、いろんなものが空を飛んだり、通過したりするとこではあるけどね。

久しぶりのお正月休みはフルメンテに出したギターをアンプにつなぎ、下手なりででかい音を出すとしよう。

しもた屋之噺(132)

杉山洋一

一年が瞬く間に過ぎてゆきます。今日が大晦日だとはにわかに受け入れがたい思いですが、アルプスのふもとのメッツォーラ湖のほとりで愚息と元旦を迎えるべくティラーノ行急行に揺られてつつ書いています。今日はロンバルディアは空の端々まで澄みわたった見事な快晴で、おっつけ眼前にはレッコ湖から立ち上る雄大な岩肌が目の前にあらわれるに違いありません。

今年一年、水牛の原稿を特に毎回テーマも決めずに、日記を転記しながら綴ってみて、文章書きと作曲との共通項の多さにあらためて気がつきます。一つ一つはさほど意味を持たない些末な日常を積み重ねてゆくうち、だしぬけにそれら時間の重層が思いもかけぬ意味を持つようになります。些末な日常ながら、記憶に留めておきたい殆ど無意識の欲求が常に薄く残っています。容量の小さいコンピュータと同じで、あまり沢山のことを頭に留めておけないのでしょう。こうして書き出してしまえば、気分が良いところも作曲に似ています。

————————–

12月某日 ミラノに戻る車内にて
人生の最後に、しておけば良かった、会っておけば良かった、と思うことがらは、せめて一つでも減らしておきたいと思うようになった。インターネットや電子メールのおかげで、遠距離間のコミュニケーションが容易になり、人に会い顔を見て話す大切さを最近忘れかけていた気がしている。
家人の恩師を訪ね、夜行寝台に揺られてイタリア半島南端のターラントへ出かけた。酷い寒波がヨーロッパを覆っていたので、身体を温めるため、ミラノ中央駅でイタリア産コニャックの小瓶を購う。6,5ユーロ。連休の直前に旅行を思い立ったので、4人部屋の簡易寝台しかとれない。発車直前に車掌が、シーツと枕カバー、水と杏ジュースをぞんざいに置いていく。
夜明け前のバーリから、小さな電車に揺られてターラントへ向かうと、通学中の高校生の人いきれで溢れかえり、この地方では今日は平日だと知る。車窓にひろがる果てしないオリーブ畑は北イタリアでは想像すらできない乾いた土の色。

ターラントで拾ったタクシーの助手席に乗り込み、シートベルトを締めようとすると、初老の運転手は笑いながら、「ここはイタリアではないよ、アフリカさ」。
そういうと、アラームが鳴るので彼もシートベルトを締めた。尤も、彼が締めたのはシートベルト金具のみで、ベルトそのものは外してある。少し離れた恩師の住む別荘地へ車を飛ばしながら、通るバスの番号を教えてくれのだが、しつこく復唱を求めるのが愉快だ。「で、駅にもどるのは何番のバスだったかね」。「28番だっけ」。「それは反対だ、サンヴィートへ出かけるのは28番、駅に戻るのは27番、わかっとるのかね」。鄙びた訛りが心地よい。

約束の時間まで余裕があって、恩師の住む「海蛍通り」を奥まで進む。と、だしぬけに、真っ白な小さな海岸と目の前に果てしないコバルトブルーのイオニア海が姿をあらわした。特にイオニア海は喩えようもない美しさで、右奥にうっすらシチリアが見える以外、視界をさまたげるものは何もない。海岸に無数の深緑の玉が打ち上げられていて、押すと弾力がある。大きいものは掌を上回るほどで、尋ねると、これが海綿で、垢すりに使うのだという。
この辺りは、全て道に海産物の名前がつけられていて、「海蛍通り」の隣は「水母通り」。日本語で水の母と書くクラゲに、イタリア人は怪物メドゥーサの名前を与えた。2年ぶりに会うブルーノは、意外に元気そうで、「Bruno Mezzena Bolzano 1946」という署名が入ったカゼルラの「ピアノ」という本を借り、カゼルラとプロコフィエフが入った古いCDを頂戴した。

翌日、ターラントの聖カタルド教会から、聖母の受胎を祝う、荘重な行列が出た。ブラスバンドが奏でるゆったりとした8分の6拍子のベネディクトゥスに合わせて、右に左に聖母像を揺らしながら、少しずつ歩を進めていて、まるで引き伸ばされた映画、いやスローモーションのフィルムを眺めているようだ。周りでは、みな熱心に聖母像に手を併せていた。帰りの寝台急行に乗ろうと、バーリ駅構内で焼き立てのパンツェロットを齧っていると、機嫌のよい労働者風の男たちが大声で話しかけてくる。初め中国人と勘違いして、ニーハオ、ニーハオと囃し立てていたが、日本人だと言うと、日本の経済強力のおかげで、オイラの街ナポリはすっかり見違えるようになったと感謝される。

12月某日 自宅にて
風呂から上がった息子にドライヤーをやりなさい、と家人が言うので、ドライヤーはかけるもの、あてるものだと口をはさむ。尤も、7歳の息子に「ドライヤーをあててよ」と言われても困るので、確かに日本語はむつかしい。
ところで家人が「嗅ぐ」と言うべきところを「臭う」というのが気にかかっていて、調べてみると関西の表現らしいが、普段日本語に触れる機会の少ない息子のためには「匂いを嗅ぐ」と「匂う」の違いを教えてやってくれと頼む。日本語の自動詞と他動詞の違いは、思いのほか曖昧。息子の前で気をつけているのは、ら抜き言葉と「ヤツ」を使わないで話すことくらいだが、最近息子がよく言う「しかも」をどこから仕入れてきたのか不思議に思う。息子の国語の練習帳を見ていて難しいのはやはり擬音・擬態語の類で、こればかりはどうにも説明も出来ない。どう覚えたのかも記憶が定かでない。

12月某日 自宅にて
昨年から雨が降ると屋根の雨樋から天井に少しずつ水が染み出していたのが、今年の大雨と大雪に至っては、遂に天井から水滴が滴るようになった。
管理組合に連絡するため懐中電灯でしずくを照らしてヴィデオ撮影していると、息子が「何だか僕たち化石を撮っているみたい」とつぶやいた。水を含んで剥がれ落ち、ふわりと生えた黴で毛羽立った漆喰の壁は、確かにかかる風情を醸し出す。
夜半にベルリンから戻り、ミラノの空港に降り立つと雪がしんしんと降っている。荷物も少なかったので見本市会場で一人降ろしてもらい、ロット広場から人気のないバスに乗ると、後方でアラビア語で罵り合う酒臭い労働者3人が殴り合いの喧嘩。彼ら曰く、一人が他の二人の荷物を盗んだと言う。盗まれた側は運転手に警察に突き出してくれと頼み込むが、毎度のことなのか、彼は相手にもしない。暫くして犯人呼ばわりされた男が逃げ出して、他の二人は、乗ってきたアラブ人の妙齢に絡みはじめた。あんたの宗教で酒は御法度だったろうと諭そうかとも思ったが、妙齢が席を移動して運転手の傍らに座ったので、そのまま降りた。
翌朝、久しぶりにエミリオと電話で長話。演奏家も指揮者も、品揃え豊かなスーパーマーケットに置かれるようになった昨今、人目につき易い場所で、分かり易くディスプレイされていなければ、存在すら忘れられてしまう。

12月某日 自宅にて
MやEの楽譜を受取りに出版社に出かけ、販促のガブリエレと思いがけず話し込むことになったのは、カスティリオーニの未初演のオペラ「ジャベルヴォッキイJabberwocky(不思議の国のアリス)」に話が及んだから。普段は仕事上あたり障りない会話に終始していても、興味や情熱が合致して思わず仕事抜きで話に花が咲くのは、元来彼も立派な音楽学者なのだから当然だろう。学校へ息子を迎えに行く時間なんだ、と慌てて席を立つと、一部しかない楽譜のコピーをこちらの胸に押しつけ、今はこれはお前が持っていてくれ、と上気した顔で言ってくれる。
「ジャベルヴォッキイ」は、元来61年のラジオ劇「鏡の国のアリス」の直後にスカラの小劇場のために作曲されたものの、初演されることなく忘却のかなたに捨置かれていた40分ほどの小オペラ。ソプラノ・レッジェーロの「アリス」、リリックソプラノの「ねずみ」、アルトの「亀」、テナーの「うさぎ」、バリトンの「帽子屋」、バスの「グリフォン」が登場し、それに4部合唱と2管編成のオーケストラがつく。カスティリオーニが最も輝いていた時期の作品で、事実楽譜を読み始めると面白くてとまらない。きっと近い将来彼の傑作の一つとして認められる日が来るに違いない。

12月某日 自宅にて
ドナトーニの次男レナートからクリスマスのメッセージが届く。
「不況の辛さが身に凍みるが、どうしたものか本当に途方に暮れている。このご時世じゃ物件を売飛ばすことすらむつかしくて。お前からのメッセージのお陰で、いつも心を和らげてもらっているよ」。両親は既に他界し今春長兄のロベルトも頓死して天涯孤独になった彼の言葉は、率直だが重い。ドナトーニが長く夏期講習会を催していたシエナの近くの、トスカーナの丘の上に、兼ねてから趣味だったビリヤードが本格的に楽しめるペンションを経営している。年末に息子と彼の宿をを訪ねたいとも思ったが、聞けばキュージから先、車がなければ辿り付けないと聞いて諦めた。

12月某日 自宅にて
遠方より友来る。有馬さん東京より来訪。来年ライブエレクトロニクスを含む新作を引受けていて、右も左も分からない素人のための、即席初級の電子音楽講義。さすが大学で教鞭を取っているだけあって、手際がいい。「これが所謂イルカム風の音響です」と新しいプログラムも聴かせて頂いたが全く食指が動かない。別に自分がやる必然性を全く感じないのはなぜだろう。凝ったことをコンピュータを通して実行すればするほど、どれもが似たよう音に収斂していくのは当然かもしれない。だから、違う音を望むのなら、違った場所から出発しなければならない。有馬さんをオペレーターとして欲さないのなら、どんなに新しいソフトを見せてもらっても、思っている感覚には近づかない。自分も演奏する立場からすれば、現時点では人間に演奏できる内容には限界があることを知っているし、それが面白いところでもある。

今から100年前の1913年は、パリの「春の祭典」の年であり、ミラノのルッソロ「未来派音楽宣言」の年だった。その前年はウィーンの「月につかれたピエロ」の年だった。今から見れば、それぞれの都市で個性の強い音楽が脈々と産まれていた時代であって、たとえばルッソロの「都市の目覚め」を、今聴き返しても古めかしい印象は一切ない。彼がもし正式に音楽を学んだ人間で、ストラヴィンスキーやシェーンベルクに匹敵するほど作曲に秀でていたら、西洋音楽の歴史は全く違ったものになっていたかもしれない。ルッソロのイタリア人らしい音楽観は、隙間を観念的に塗りつぶしてゆくドイツ音楽とも違い、音響体として音楽を継承し続けてきたフランス音楽とも違って、イタリア人らしい快楽主義的な対位法観が浮き彫りになっている。

12月某日 自宅にて
家人が仕事で日本に戻ったので、息子と二人で年末年始を過ごすことになった。幸いミラノ市が提携している冬季キャンパスが近くの小学校で開かれていて、毎朝、前日の夕飯のソースで昼食のパスタの弁当をつくり、「水仙通り」小学校に連れてゆく。トラムに乗ってゆくときは、西に三つ下った停留所で降りて、お世辞にも治安の良さそうに見えない怪しげな古い公団住宅群を通り抜けてゆく。夕方5時前に迎えに行く頃には、日はとっぷり暮れている。仕事は相変わらず山積していて、朝4時から始めても全く間に合わない。

最近若い人たちに力を貸してほしいと頼まれるようになったのは、単に自分が歳を取った証拠なのだろう。聞けば、ミラノに新しいアンサンブルを作りたいという。この厭世観に塗り潰された時代にあって、若い人たちが肯定的なエネルギーを発散してくれるのは、何より嬉しい。
そのひたむきな気持ちを大きく受け止めることが、年長者に唯一許された仕事なのかも知れない。そうして共に文化を耕してゆかなければ、何が残っていくのだろう。息子たちの時代に何を残してやれるのだろう。若々しい音楽を前に、そんなことを考えながら練習を終えると、思いがけず、せめてもの私たちの気持ちです、とプレゼントを頂戴し、驚く。開けてみると、磁石付き鉛筆と洒落た書類入れだった。
「よいお年を迎えてね」と外に出ると、友人からすぐに連絡があって、リータ・レーヴィ=モンタルチーニの死を知ることになった。

(12月31日ドゥビーノにて)

掠れ書 き24

高橋悠治

「だれ、どこ」でしたしかった人びとを送り、先に道行くひとがいなくなったいま、また掠れ書きにもどってきた。2012年にはコンサートのために新作を10曲作り、そのほとんどが歌か朗読で、ことばから生まれた音楽だった。時間のなかで読まれることばに添った音楽は、声の流れの近くに楽器で別な線を辿り、あるいは川のなかの岩のようにさまざまな色やかたちで流れをさえぎり、ことばを浮き立たせ、あるいは堰き止めることができる。ことばには響きもリズムもあり、意味もあるからそれとおなじことを音楽でしなくても済むかもしれないが、歌われ読まれることばが聞こえないこともあるし、理解できないことばや、外国語である場合もあるだろう。それでも音素としてだけのことばとは言わない。ことばを伝えるためだけの音楽とも言わない。

流れるようにすぎていく音楽は安定した軌道の上にあると言えるなら、安定した軌道があれば音楽はすぎていくとも言えるだろう。概念、構造、形式から始めてそれらを具体化する音のかたちを操作することもできるし、音のうごき、と言うよりむしろ音を作り出す手のうごきについていって、作る手続きを規則に要約しながら次の段階でそれを訂正することをくりかえし、最後には足場を取り払うようにして作業を終えると、音のかたちだけが残って、構造は外からは見えにくくなるだろう。作業は終わっても、作品は終わっていない。どこか目立たないところに未完成のままの隙間がある。そこが「近づいてくるもの」の予感の瞬間でもあり、次の作品のきっかけ、創造活動の糸口にもなるのだろうか。

演奏が毎回発見のプロセスであるように、作曲は細部の演奏指示をできるだけしないで済ませて演奏の領域に踏み込まないようにする。演奏は全体の設計を作曲にまかせて、細部をわずかにうごかすことで音の質が変わるのを聞き出そうとする。和音のなかのどの音をどのくらい際だたせるか、書かれたリズムからどこでどのくらいはずれるか、書かれた記号がおなじでも関係のなかで現れてくる差異、それも音楽の内側だけではなく演奏の場で環境ともかかわりあう差異、それを創る手と同時に耳をはたらかせて続けていく演奏行為は一回性のもの。意識する直前の環境との相互作用の場に現れる瞬間的なうごきにまかせられるように、コントロールをすこしゆるめておく。

記号は変化を一つのかたちに表したもの、それだけで独立してはいない、文脈や関係のなかに配置され、何度も使われるうちに固定した対象のように操作されるが、指示する領域の境界線ははっきりしない、説明を省略しても理解されるのは、慣習と伝統のなかにあるからで、慣習は意識的に変えることができないが、ゆっくりと変化しているから、記号の指示する領域もすこしずつ変わっていく。

音楽を聞くとき、なめらかに流れ去って行かない瞬間に記憶がうごきだして、それまで辿ってきた音のプロセスが浮かび上がるとすれば、中断と転換の不規則な配置によって作品の形態が決まることになる。

ミニマリズムは脱構築の音楽だったのだろうか。同じかたちを反復しながらすこしずつずらしてかさねていくやりかたは、脱構築の建築にも似ている。それらは1960年代にはじまり、二項対立を原理とする「大きな物語」の枠ではなく、オリエンタリズムのようにアジア(あるいは)アフリカ的(非)時間の幻想に浸っていたようにも見える。パターンの演奏行為からはじめてそれを要約したものが作曲になるという点では、それまでのエリート的で書かれた作曲優先の複雑性とは反対の方向ではあった。それでも作曲になってしまうと大きな枠のなかに統一し、複雑になる傾向が出てくる。それとともに、ずらしという個人性をあいまいにする方向から、すこしずつ個性的なスタイルへ回帰していったと見ることもできる。

音をその場で創るための厳密でありながらひらかれた枠組み、説明を必要としない記号の粗い網、すばやいスケッチの空白に耳の想像力がはたらくように、統一されない断片の連結し組み換えるちいさな音楽にとどまる意志、仮面、ペルソナとしてのスタイル。

1960年代のはじめ、ヨーロッパではセリエリズムが使い尽くされ、ケージが1954年に登場した後でヨーロッパ版の「管理された偶然性」が流行し、それからやはりアメリカに遅れてミニマリズムのヨーロッパ版がさまざまなかたちで浸透した。グローバリズムの物語がこういうかたちでゆっくり準備されていたとも言えるだろうか。いまはちがう時代で20世紀全体を終わったものとして見通しても、この先の展望はない。帝国の崩壊とそれをとりつくろう政治の陰に経済も文化も覆われているようだ。そのなかに散乱する兆しをもとめて、音楽の実践は速度を落としながら観察をすすめるだろう。

犬狼詩集

管啓次郎

  97

耳飾りの大きさと空の青が彼女を特徴づけていた
銀と金それぞれの美しさを日没との関係において論じている
車が川のように流れる首都高速を音楽的に指揮していた
ロス・アンジェルスをいかにして再天使化するかをバイリンガルで議論する
サボテンの葉肉を練りこんだ緑色のパスタを作った
「汗をかいていますね」といわれて浅い眠りから覚める
死んだ三人の友人と四人で夕方の海岸を歩いていた
どこに行っても犬たちが全速力で体当たりしてくる
性的差異のエチカをあくまでも言語的に素描したかった
ずっと上方に見える指のかたちをした岩におにぎりをひとつ置いてくる
バランスがすべてなのでありえないかたちで小石を積んでみた
「ここからは飛行機が真上に見える、ここでキスして」と十四歳の少女がいう
あまりに多くの魚が水揚げされるのを見てから二度と魚が食えなくなった
精神は分岐点を探し見つかればそれを立方体として表象する
これから新しく覚える文字はたぶん実際には使えないという年齢になった
知恵が情報化されるので人はもう筆談以外に話らしい話ができない

  98

明るい夜を低空で渡ってゆくうちに気温が12°まで下がった
レモンとライムの輪切りを交互に重ねて美しい彫刻にする
じゃがいもを収穫したあとの畑にぽつんと一本の樹木が立っていた
低い位置から森を越えて旅客機が着陸する
横顔を左からしか見せない彼女の理由は取るに足らないことだった
嘴は青、喉は赤、頭は黒、オレンジの細い線一条
骨格は中空構造で軽くて大変に丈夫だった
海抜ゼロ米の墓地なので埋葬といっても架空の出来事だ
美人じゃないからという彼女の困ったような横顔が美しかった
ひとつの種が優勢になることはすべて滅亡への線路にすぎない
北海道は開拓をアメリカ型にしたためすべての狼を無用に殺した
エゾジカの個体数が数字として湖のように岸辺からあふれてゆく
きみがオレンジをくれたのでぼくは栗とヘーゼルナッツをあげた
熊と栗鼠と鳥と魚をまさかおなじ銃で撃つつもりか
追跡の情景を墨だけで描いていった
混合サラダさえ作れないシステムのせいで市電が廃止される

  99

記憶が物質をすり抜けてゆくという事態を再現したかった
珈琲の入れ方がまちがっていてストッキングの味しかしない
教会の鐘がやかましいほど鳴って勤労に感謝した
路面電車の軌道をよろよろと老いた天使が歩いている
美しい文字を書きたいので一日だけ七時間練習した
「野生の虹」という言い方にばかばかしさを感じる時がある
少しでも遠くを見ようと犬が彫刻作品に飛び乗った
二人の中学生がハンブルグ訛りの英語でビートルズを次々に歌っている
生命が上陸を決意したとき海を体内に残すことが問題だった
馬を見れば馬、山を見れば山の輪郭をなぞっている
「花札」というゲーム用カードの意匠に異国的なおもしろみを感じた
グリム兄弟の母親の墓に子猫がちょこんとすわっている
詩人としての透谷も啄木もまるで知らなかったのでごめんなさい
未来主義とはいうが未来に過去の実現を見てはいけない
あるときパンが崩壊し見る見るうちに小麦の穂に戻った
「獣道を今日も山頂まで」と幼稚園児が無言で誓っている

  100

河口近くの泥からきみの手のかたちをした生命を掘り出した
太陽が中空に架かって経済活動を封印する
当時の子供たちはアメリカザリガニをマッカーサーと呼んでいた
蟻たちの実効支配によりきめ細かい都市を形成しよう
一枚の写真の影からその日の時刻を正確に割り出した
なだらかな曲線を見るとなぜ植物的フォルムと呼ぶのだろうか
果汁により記憶をよく洗い細かいことにはこだわらなくなった
標高ごとに茶の葉の色合いが微妙に変わるようだ
雨傘をくるくると回してシェルターの意味を考えた
美しい動物の気配だけが森に立ちこめている
音響を二時間遅延させたのでたったいま雷鳴が聞こえた
自己とは自己の計画を達成する限りで自己なので私に自己はない
夜半の雨に濡れて歩くと思考が異常に明晰になった
一本の樹木に大きな石を載せてその成育を見守っています
ジュゼッペ・ペノーネの名はなぜかいつも葡萄を思い出させた
森の木の枝に小舟がひっかかり通りがかる人々を身震いさせている

  101

たしかに白人なのにアジアを濃厚に感じさせる夫婦だった
グレープフルーツ独特の苦みがピンクの果肉にはなくて目が覚めない
路面電車の前を盲目の夫婦が横切るので思わず悲鳴をあげた
空港でリフトに乗りずっと下降すればそのまま対蹠地に着く
ブラジルにいたころ一羽のarará(オウム)が妙によくなついてくれた
Tatuzinho(アルマジロ)に紐をつけて散歩させた甘美な一日の思い出
Croissant(三日月)とmedia luna(半月)というがおなじものだった
“Ohne, ohne!”と幼児が叫んで炭酸なしの水を欲しがる
橋にむかう道を45°の角度でまちがえていたためどんどん離れてしまった
河川以外に土地の主人はなく河川の汚染は自分の髪で首を吊るようなものだ
雄鶏亭(Le Coq)という居酒屋で朝食に生サラミを食べた
秋が深まって獣脂の甘みが心からありがたく思えて合掌する
「電線がスパゲッティのように揺れて」という画面の言葉にみんな頷いた
大自然の「大」をすべて「犬」に換えて独特のfake感を出す
写真を撮るなら写真を撮ることに徹したいので被写体はむしろ邪魔だった
一枚の板チョコを組織的に十二分割して十二人で同時に食べる

  102

場面ごとに主人公が入れ替わってゆく一貫性を欠いた映画だった
塩に籾を入れて湿気を吸わせているようだ
米には元来ものすごい数の種類があるのにすべて捨てられた
対岸がヨーロッパかアジアかという議論ほど無意味なものはない
トーゴから来たアフリカ人のドラムが五十七分間止まらなかった
幾何学的な庭園にワイルドな山を築き漢字をちりばめる
白鳥の離水があまりに不格好でみんなが笑った
まっすぐな水路の延長線上に迷宮と南極がある
遠征から帰った男たちを川の中洲に隔離する文化だった
新しい猟犬を慣らすため一日中一緒に素手で野豚を追う
十分望んだ角度が得られないので体をむりやりそらせてみた
音声は聞き届けられ波形としては消滅した直後に意味を発生させる
暴動が自然発生するのを雷雨の訪れのように見ていた
木目をじっと見つめて自己催眠による自己治癒を試みる
場面ごとに主人公の髪が伸びている映画だった
そこに見えている敵を敵だと思ううちは心に平安はない

琥珀色

大野晋

このところ、ひょんなことからウイスキーを集め始めた。最初はすでに数本持っていたミニチュアボトルのコレクションだったが、これが手に入る種類が非常に少なかった。市販のボトルをほとんど集めてしまって、はたと困った。

「もう少し長く集まるものを選べばよかった」

そこで、それではということでウイスキー本体を集め始めた。世界のウイスキーは次の5種類に限られるのだそうだ。スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、そして日本。舶来嗜好の強い人には信じられないかもしれないが、日本のウイスキーは世界に認められた産地の一つである。そこで、こつこつと日本のウイスキーを集めだした。集めだしてから、はたと、キリがないことに気付く。そうウイスキーは樽や熟成の状態、その年の気候などによって風味が異なっている。おお、きれいな琥珀色の液体よ!

それこそ、果てしない蒐集の旅! 魅惑の趣味である。ところがひとつだけ問題がある。ドクターストップで酒が飲めないのだ。ああ。魅惑の酒。琥珀の夢よ!

しかし、飲んでも酔うことはほとんどないので、まあ、ほんのちびっと香りを楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。ということで、いつか飲める日を夢見て、飲めもせぬ酒の蒐集はまだ続いている。

最近は、気付くと酒屋の棚で、同じ蒸留酒の焼酎の瓶を眺めていることがある。これこそは日本の風味ではあるまいか? おっと、くわばらくわばら。

風と帝国

璃葉

12個の鍵 壊れた時計 眠る兵士達 
青白い朝景色に綿花が踊る

たくさんの血と骨を失った 城も王冠も
その記憶も遠い場所へ旅立ってゆく

山麓や深淵を歩かねばならず
寂しさの影を背負わねばならない
生臭さを漂わせる足跡を残し
絶望を山々に木霊させるだろう

しかし確かに国境を跨ぐ足がある
文字をなぞり、繋ぐ指先がある
陽光を吸い込む瞳がある

目指すは、心の奥の帝国 
澄んだ風だけを持って行くのだ

r_1212.jpg

バティック着付のポイント

冨岡三智

ジャワ舞踊関連の話ということで、今回はジャワの伝統衣装の着付、とくにバティック(ジャワ更紗)の着付のポイントについて書いてみたい。衣装の着付にも興味があったので、留学中は宮廷の古いやり方を知っているような人に師事して、習っていたのだ。以下に書くのは、特に習ったというよりはいろんな人のやり方を見て盗んだコツである。

一般的に、東南アジアの民族衣装の着付けに共通するのは下半身に布を巻くという着方で、それには染物もあれば織物もあるけれど、地域特産の伝統工芸品になっているものが多い。一方で、上半身といえば、だいたい東南アジアのどこでもブラウスみたいに縫製したもので、材質も女性ならレースなどヨーロッパ的なものが多い。これは、昔は東南アジアの女性は上半身に何も着ていなかったのが、西洋人が来て服を着せるようになったので、上半身の服はデザインも材質も西洋風になったのではないかなと思う。というわけで、下半身には土着文化、上半身には外来文化が現れるのがアジアの民族衣装、と言う気がする。ここでは、簡単に着られる上半身の着付はおいといて、下半身だけの着付に的を絞ることにする。

下半身に布を巻くといっても、布を筒型に縫って着るもの(カイン・サロン)と、そのまま巻く着方(カイン・パンジャン)がある。サロンは、少なくともソロやジョグジャといった王宮都市では正装ではない。正装するときは、男女とも、1枚のバティックの端に折り襞(ひだ)を取って、それが前身頃の中央にくるように巻く。バティックの柄や襞の取り方には、音楽や舞踊と同様に、ソロとジョグジャで様式差がある。そういう知識は、今回は割愛…。なお、バティックは木綿布をろうけつ染めしたものが正式で、いかに高価でも、絹布にろうけつを施したものは宮廷の正式の場では着ない。

で、やっと本題。

カイン・パンジャンのバティック着付の一番のポイントは「太腿で着る」ことで、お尻から太腿にかけてぴったり沿うように巻くのが大事。これがあまり着慣れていない人の場合だと、どうしても洋服のようにウェストで着てしまう。脱げないようにと思って、ウェストのところを紐でくくってから(日本には腰紐という便利なものもある!)スタゲン(下帯、後述)で巻く人もいるのだが、それは逆効果で、かえって着崩れる。というのも、どうしてもウェストだけに意識がいってしまい、スカートのような着付けになってしまうからだ。きちんと太腿で着たら、腰紐は不要なのである。ただし、太腿を覆う丈のスパッツやらストッキングやらを下に穿いては駄目である。滑ってバティックが太腿に沿わなくなる。

カイン・パンジャンの横の長さはだいたい2.4mで、体に1周半巻きつけて余った部分が襞になる。バティックを巻くときは、バイアスに布を当て、片足の膝下辺りまで下前を上げて着るのが普通だ。そうすると、裾捌きがよく、裾つぼまりにも見えるというのだが、私はそうしていない。ほぼまっすぐ巻きつけて、着付けてから下前の裾を上に心持ち引っ張り上げるだけである。理由は、あまりバイアスが急すぎると歩いたり動いたりするたびに上前の裾も上がってくるので、落ち着かないから。結婚式の受付だとかモデルのように立っているだけなら良いのだが、私が正装するときは宮廷の行事に入れてもらうときが多く、立ったり座ったりすることが多かったので、けっきょく立居が楽な着方になってしまった。

さらに、一般にジャワでバティックを着つけてもらうと、足を閉じて(あるいは足首を交差して)立った状態できつく巻きつけられてしまうので、「太腿で着る」と言うよりは、足枷をはめられたような状態になる。これでは立居がきつすぎるというわけで、私は足を少し広げて立った状態で、太腿にぴったり沿うようにバティックを巻く。こうすると適度にゆるみができるので、床に座ったり大股で歩いたり(正装時は大股で歩くべきでないのだが、儀礼調査の場合はそんなことも言ってられない!)が楽にできる。この足を広げて立つというのは私には目から鱗で、このコツを私は芸大舞踊科の先生から盗んだ。ちなみに、舞踊用にサンバラン(カイン・パンジャンに布を足して裾を引きずるように着る)を巻くときは、裾捌きがよいように、私は肩幅くらいに足を開いて巻いている。

バティックを巻いたら、今度はスタゲン(下帯)を巻いて留めるのだが、このとき、腰骨の上でスタゲンをまず3回ずらさずに重ねてきつめに巻くというのがポイント。そうすると、その後はそんなにきつく巻かなくても着崩れない。スタゲンは半幅帯の半分の幅(約18cm)に長さ約4.5mの厚地の織布で、下着扱いである。腰から上に少しずつずらしながら巻き上げていくのだが、初心者はここでもウェストをマークする着方になりがちだ。そこに、お腹が出ているのをひっこめたいという欲望も手伝うものだから、スタゲンの巻き始めはおろそかだが、お腹の部分はギュウギュウ締め付けてしまいがち、という結果になる。これでは内臓を圧迫することになり、西洋のコルセットと同じで体に良くないし、柔らかい大地(お腹の贅肉)に載ったスタゲンは少しの地震(運動)でずれやすい。けれど、腰骨は固くて動かないから、ここで3周も巻くと、バティックの位置がしっかり固定される。

スタゲンを巻くときには、前身頃に垂らした襞の根元に当たる部分を少し上に引き上げてU字に外側に折り曲げ、その上からまたスタゲンで巻いていくのもポイント。これは私のオリジナル・アイデア。(ジャワでやっている人もいると思うけれど)。立ったり座ったりを繰り返していると、どうしても前に垂らしている襞を踏んづける可能性が高くなる。そのままスタゲンで押えるだけでは、引っ張られた裾はずるっと出てしまうので、そうならないようストッパーをかけておくのである。

というわけで、バティック着付のポイントは太腿から腰骨のところで、いかに体に沿わせるかという点にある。着物の場合は、バティックのような意味で着物が太腿にぴったり沿うというわけではないけれど、腰骨の位置で留めるというのは同じだ。だから、着物をよく着る人がバティックを着ると、とてもなじんで見える。

上に書いたのを読み直してみたら、正装してがさつに動き回るのを前提にしていて、お姫様度からはほど遠く、赤面してしまう…。

爆翠(睡り)98――spirited away

藤井貞和

むなしく
ここに来ず
いたましく 神か
かつ、この
新月、雲に舞い
楚国よ
つと、ふるさとに
かず知れぬ
からき
汨羅(べきら)か
濡れ
しずかにと去る
ふと、つよくこそ
いまにも屈原
詩の国家
神隠し また
いずこに
故国死なむ  (回文詩)

(屈原は楚辞の作者。「なんだか意味の通じない一文だなあ、などという回文は、これはもう掃いて捨てるほどあるのです」〈あとがき、土屋耕一『軽い機敏な仔猫何匹いるか』〉。)

犬の名を呼ぶ(7)

植松眞人

 幼稚園から帰ると、ときどき聡子は犬の背中に顔をうずめる。そして、自分の息をひそめて耳をすませている。ブリオッシュはまるでそうされている意味を理解しているかのように、じっと身動ぎせずにいる。
 その様子を見ると高原は、いつも聡子という子の優しさに不憫なものを感じてしまうのだった。いつか聡子が言った、
「おじいちゃんとブリオッシュは、どっちが長生きするの」
 という言葉にも、この子の生きるということに対する畏れのようなものを感じてしまうのだった。
「なにか聞こえるのか」
 高原が聞くと、聡子はシーッと人差し指を立てる。そして、どう説明すればいいのだろう、という顔をした後で聡子は答える。
「何も聞こえないよ」
「何も聞こえないのか」
「うん、何も聞こえないのよ」
「それじゃ、何を聞いているんだ」
「歌」
「歌?」
「そう、聡子がブリオッシュの背中に向かって歌うでしょ。そうすると、歌がブリオッシュの身体の中に響いていって、もう一回返ってくるの」
 どうやら聡子は本当に小さな声で、ブリオッシュの背中に耳をつけながら歌っているらしい。聡子の声はブリオッシュを温かな共鳴板にして、再び聡子の耳へと返ってくる。聡子がブリオッシュの身体の音を聞き取ろうとしているのだと思っていた高原は驚いた。
「聡子の歌はどんなふうに聞こえるのかな」
 高原が聞くと、聡子は少し恥ずかしそうな顔をして答える。
「普通に歌っているよりもちょっとうまくなったみたいに聞こえるの。でも、あんまり大きな声で歌うと、私の声が大きすぎてブリオッシュの身体から返ってくる声が聞こえなくなるの。だからって、小さすぎると何聞こえなくなるから難しいんだ」
 聡子がそう言い終わった瞬間に玄関のチャイムが鳴って、菜穂子がやってきた。そして、いつものように菜穂子と聡子は、高原たちと一緒に夕食をとると自分たちのマンションに帰っていった。
 高原は部屋の隅にうずくまっているブリオッシュをぼんやりと眺めている。その背中を眺めているうちに高原は聡子と同じように歌を聴いてみたいと思うのだった。
 立ち上がり、少しずつブリオッシュに近付いていく。気配を察して、ブリオッシュは背中越しに高原を振り返る。別に気にしていないふりをして高原は立ち止まる。ブリオッシュがまたゆっくりと前脚と前脚の間にあごをつけ、目を閉じると、高原は再び歩みを進める。そして、丸めた背中の曲線に沿うように、自分の身体を並べてみる。輝くような毛並みが息遣いと共にゆっくりと揺れている。
 高原は聡子がしていたように、ブリオッシュの背中に顔を埋めてみる。聡子よりも高原の顔がごつごつしているからだろう。ブリオッシュの背中がビクッと波打つ。高原自身も少し緊張して動きを止める。やがて、たがいが落ち着き、たがいを受け入れるかのように、静かな時間がやってくる。本当の静かさは音のない世界ではなく、小さな小さな音を聞き取れる世界なんだということを思い知らされる。
 高原は輝く毛並みに鼻先をくすぐられながら、耳を背中につけてみる。かさかさという音が静まると、高原にはブリオッシュの鼓動のようなものが聞こえた気がした。その鼓動もそのままじっとしていると聞こえなくなった。
 高原は聡子のように歌を聞きたいと思う。しかし、そのためには高原がブリオッシュの背中に歌ってみせなくてはならない。高原は困ってしまう。この歳になるまで、歌など歌ったことがない。いつの間にか当たり前のようになったカラオケというものに興じたこともない。
 何を歌えばいいのだろう。ブリオッシュの鼓動に合わせて、小さくリズムを取りながら高原は自分が歌える歌がないのかと、頭の中をたぐっている。
 やがて、高原は自分に歌えそうな歌などないことに気付く。そして、仕方なくブリオッシュの背中に耳を付けたままじっと耳をすませる。すると、何かがかすかに聞こえた気がした。それはブリオッシュの鼓動ではなく、高原の遠い記憶の歌でもなかった。もちろん、ブリオッシュの毛並みがこすれ合う音でもない。
 聡子の歌だ、と高原は思う。
 ブリオッシュに聡子が聞かせた歌が、いま高原の耳に届けられた。そう思えて仕方がなかった。

オトメンと指を差されて(53)

大久保ゆう

「唐突で申し訳ないのですが〈しわす〉って美味しそうですよね。何がと訊かれるととにかくとしか答えようがないのですが何となく〈きさらぎ〉を巻いてお弁当に詰めてピクニックに出かけられそうな趣があるわけで後は下にほのかに香る〈さつき〉でも敷いて〈うづき〉から削った百貨店で取り扱われていそうな高級箸で食べながら魔法瓶に入れてきた〈ふみづき〉を飲んで〈やよい〉でもリズムよく口ずさんでおけばいいんではないかなと存じます。」

上記は、大久保ゆうが〈師走〉を話題にリラックスした状態でつぶやく世間話のサンプルである。彼にとっては、挨拶代わりの話というのは天気でも時事でもなく、そのあたりにたまたま転がっていた単語を拾い上げて、これまたそのあたりに漂っているイメージに接ぎ木して場の中へ投げつけるようなものであって、中身というものはほとんどなく、よってまっとうなエッセイの枕にもならないものだ。

そこを何とかもう少し形になるようなもの、話の広がりそうなものをと、〈年末〉をキーワードにしゃべらせてみると、こうなる。

「個人的には〈年末年始〉っていうのはヒーローの時間かな。といっても世界を救うような大層なやつじゃなくて、ささやかな問題を解決して去っていくような。たとえば、旧年なかなかクリアできなかったTVゲームのエンディングをいきなりやってきて見せてくれるような友だちの友だちとか、ずっと開かなかった賞味期限の近いジャムの瓶をこじ開けてくれる親戚とか、小さく世界が変わってくれるような、それでいて大人にはたいしたことなくても子どもにとってはそこにはキラキラしたものがありますよね。たぶんクリスマスのプレゼントとかお年玉とか予定調和なものよりも、あとあと心に残るものがあるんじゃないかなって。」

もっともらしくも思えそうだが、しかし本人にとってこのような言葉は、その場で思いついた出任せに過ぎない。しばらくしてから誰かが本人に「そういえばあれさ」と聞き直そうにもだいたいにおいて忘れている。コミュニケーションにおいて、とりあえずその場の時間が埋まったり、目の前のページがそれらしく埋まったりすればいいだけのもので、真偽構わずうっちゃってしまう。

大久保ゆうという人間が、しばらくのあいだ周囲から不定型なものと目され、そのように扱われてきたのは、おそらく上記のような表層状の問題が原因かと思われる。それに関連して生じた厄介については、プライヴェートのことであるのでここでは省略するが、次第に困っていったことは想像に難くなく、あらためてある程度の個性を出すことを決意するに至ったのである。

そして次のような語りへと進化(あるいは退化)する。

「温泉? そう温泉! 大好きなんですけどね、暇があったら回りたい、色々行きたいって思うんだけど、それってたぶん私個人にとっては宗教的なものなんですよ。心っていうか信条として。これは冗談じゃなくって割と本気で、信仰ってだいたい親とか周囲から幼い頃に叩き込まれるものじゃないですか、聖書とか教典とかを渡されて暗唱させられて。中身なんてさっぱりなんですけどね。だからか、まあ同時にマンガみたいなものも買い与えられるわけですよ。偉い人の伝記みたいな感じで。私ね、すごいそれ読んでたはずで、読んでたこと自体は覚えてるんですが、ほんと内容が全然思い出せなくって。かすかに覚えているのが、主人公のおっさんがめちゃくちゃ温泉入ってる、すぐ入ってる、しかもあちこち入ってる、湯治してるわけです。あれはもう、強烈な刷り込みですよ。ある種の崇高さというか、〈善〉というイメージと一緒に温泉がやってくるわけですから。だからこの時期になると、強迫観念に近いレベルで温泉に入りたいって――」

話のしっちゃかめっちゃかさについては正直大差ないが、より個人を感じさせるものにはなってはいる。ここから本人の〈割と好きなもの〉をターゲットにして妄想や個人情報の取扱レベルを微修正してやると、普段みなさんが読んでいらっしゃる〈オトメン〉の文章になるというわけである。

「チョコレートは吸血鬼の主食なのです。血の代わりにトマトジュースを飲むとか色だけじゃねえかと常々疑問を抱いてきたわたくしではございますが、夕方前あたりに起きてきてホットチョコレートを飲むことこそ始終血を吸ってるわけにはいかないイモータルな化け物の普段のあり方なわけです。てゆうか赤ワインとかで代用するよりかっこよくないですか、かっこいいですよね、かっこいいから同意しなさい。そして吸血鬼になりたいと思う世の志望者諸君はなべて冬でなくとも常にココアを飲むべきである!」

このバランスさえ守れれば何でもそれっぽくなるので、誰でもこのエッセイの代筆ができるようになったというわけであるからして、もしかしたら来年あたりから筆者が突然変わっているかもしれない(そんなことはありません)。

真夜中に走り出す指

くぼたのぞみ

真夜中の台所で詩が生まれたのは
遠いむかしのような気がする
その台所にきょう 人の気配はない
きのうSさんに向かって放ったはずのことばが
手放しきれない話者をきりきり縛る

文学のことばなど なんの役にたつのか?
辺境で老いてゆく人の口からこぼれる
優しさの衣つるり◯けたことばが
無意識の共有部分に爪をたてる
文学のことばなど なんの役にたつのか?

真夜中に走り出す指は 気配まで消臭された台所で 
失われた玉を透かし 生き延びるための
無骨なレシピを書き出し 
アジア風炊き込み御飯の定義で
分裂することばの屋根をささえる

打ち上げ花火の文飾が夕闇の濁った雨に滲んで
目くらましの話法も朽ちた落ち葉の底に沈んで
ことばのあぶくは要らない ドライヴ感ばかりが
うつし世と同衾する文体は要らない と
つよく澄んだことばの白玉を手探りする

ワールドカップでイラクが勝てるか

さとうまき

サッカーのワールドカップ最終予選。9月11日の日本とイラクの戦いは、日本に軍配が上がった。なかなか勝てないイラクを応援している。しかし、日本戦以外はTV中継がない。一生懸命インターネットTVを探すが、有料チャンネルでいかがわしいので、登録するのを躊躇する。

経過時間と、得点だけが出てくるサイトを見つけた。そこで、先日10月16日に行われたイラクVSオーストラリア戦。インターネットの画面とにらめっこ。一分ごとに経過時間が増えていく。得点は0-0、最後の残り10分になった時に、イラクに1点入った!おーと興奮する。しかし、残り5分。守りきれと祈る。しかし、オーストラリアが0から1に変わる。あっという間に2になってしまい、結果的に負けてしまった。とても悔しい。こんなに悔しいものなのか。

そして、11月14日、今度はヨルダンでイラク戦だ。その前の時間には、日本がオマーンと対戦。こちらはTV中継もばっちり。しかし、そのあとの、イラク戦はやはりネットでにらめっこ。時間経過と得点だけ。0-0のまま経過時間だけが過ぎていく。それだけを見ているのだが、とても興奮する。そして残り2分、おー、1点がイラクはいった。そしてイラクが勝った。どんなシュートかもわからないけど、こんなに勝つのは、感動する。そして一気にイラクは最下位から3位に浮上した。まだまだ、ワールドカップに出場できる可能性はある。
 
しかし、最新のニュースは、ジーコ監督が辞任。イラクが、契約金をちゃんと払わなかったからだという。

イラクは、治安の問題もあり、ホームでの試合ができない。僕は、イラクの復興の指標が、ホームで国際試合ができることだと思っているが、治安どころか、お金の未払いとはなんとお粗末なことだろう。何とか残り試合頑張ってワールドカップ出場の切符を手にしてほしい。

きまぐれ飛行船(4)

若松恵子

片岡義男さんがパーソナリティを務めたラジオ番組「きまぐれ飛行船」。番組ディレクターを担当した柘植有子さんと『FM fan』に掲載されたオンエアリストを見ながら13年間を振り返ってお話を聞いた最後に、柘植さんにとってラジオって何ですか?と質問してみた。

例えばラジオドラマ。

「あ、雪ね。」
「彼来るかしら?」

こんなセリフと効果音だけで、雪が降ってきた様子、彼を待っている女性の姿を想像することができる。しかも思い浮かべるものは聞いた人それぞれで違う。セリフや効果音だけでイマジネーションを膨らませてくれるもの、それがラジオだ。テレビドラマだったら、雪の光景も女性の姿もひとつの具体的なものでしかない。ラジオはそれを聞く人それぞれが違うイメージを自由にもてるものだ。

柘植さんが即興で語ったラジオドラマのなかのセリフは、早速私の目の前に雪を降らせた。生放送全盛時代、ディレクターがQを出しながらDJを務める「アナデューサー」という役割があって、柘植さんも担当したことがあるということだが、柘植さんの語る言葉も耳に心地よい。

でもラジオも変わってしまったわね。自分の夢(妄想)を託せる余地のある声を持った人が少なくなってしまった。

「きまぐれ飛行船」も柘植さんがこだわる”ラジオの良さ”を持った番組だったという。そして、パーソナリティが片岡義男さんでなかったら、あのような番組にはならなかったかもしれないという。良く見せようとか、盛り上げようとか、押しつけがましいところが一切無かった。ぽーんと飛んだら風まかせ、天気まかせの、飛行船。80日間世界1周の気球ではなくて、ツエッペリン号の小さいやつ。

「きまぐれ飛行船」というラジオ番組を成立させていた時代は去ってしまった。ラジオを愛する人も少なくなってしまった。「声」に静かに耳をかたむける時間は、なぜ可能だったのか。

柘植さんが『映画館へは、麻布十番から都電に乗って。』(高井英幸著/2010年・角川書店)という本を紹介してくれた。そのなかに印象的な言葉があった。「今と違って映画は映画館でしか観られなかった。たくさんの映画を観ることは、たくさんの映画館とめぐり逢うことでもあった。映画は絶えず映画館の印象と共に記憶された。」
録音方法も無く1回きりの放送に耳を傾けていた時、新しい音楽との出会いがラジオからしかなかった時、ラジオは今よりもずっと特別な存在であったに違いない。「きまぐれ飛行船」の想い出は、番組が流れた時代の印象とともに記憶されている。

*きまぐれ飛行船を特集した『Raindrops』No2が完成したら希望者に差し上げます。
 お名前、送付先をinfo@suigyu.com宛てにご連絡ください。

コザ、深夜の飲み屋街の散歩道

仲宗根浩

十月に受けた健康診断の結果が届く。おう、中性脂肪が十数年振りに正常値になっている。γ-GDPの数値、異常値ではあるがここ数年で一番いい。他は相変わらずの、逆流性食道炎、慢性胃炎、胆のうに2ミリのポリープとここ十年ぐらい変化なし。血液検査の結果で調子こいた。肌寒い夜、酒をロックであおり、あさがたまでYoutubeにアップされている色々なロック・ギタリストの動画見たら翌朝見事に風邪。休み明け、鼻水たらしながら五日間、お仕事はなんとか乗り切り、休みに入ると身体は使いものにならずひたすら寝るだけ。朝は寒いが、日中は少し暑くなるので何を着ればいいのやら。それでも夜な夜な飲みにいく。

仕事終わり、帰宅。テレビでフィギアスケートの映像。使っている音楽、聴き覚えがある。ゲイリー・ムーア?「パリの散歩道」?ネットでその大会のサイトのぞくと選手が使用する曲の記載があった。「パリの散歩道」をバックに演技した十七歳の選手は一位。フィギュアスケートでは珍しい、七十年代のベタなロックの選曲。

深夜のゲート通り、外出禁止のため店の明かりはなく人もいない。地元の飲み屋街、歩くと自分よりすこし年上のおねえさん方のお誘いがかかるのとは対照的。

予約しておいたLed Zepplin、2007年の再結成のDVD、深夜眠りながらも三、四日かかかり見終わる。ボーナスのリハ映像のテイク、いくつか本番の演奏より出来がいい。ジミー・ペイジが使用しているギターはギブソンのみ。大人の事情だろうか。

製本かい摘みましては(84)

四釜裕子

ポフウェル氏に初めて会った日は寒かった。1998年、ちょうど今時分のことである。とうもろこしのなわばり争いで荒らされた農場の後始末などをやっていた某の縁でカメレオンの耳に音色を移植したり、てんとう虫の水玉模様が舞い上がる街からひげを盗んだり、鼻血をふいたり、水曜日を出前していた。「gui」という同人誌の縁だった。一目見て惚れた。「gui」は1979年に、藤富保男、奥成達、山口謙二郎が始めた同人誌で、創刊以来、B6判のかたちを守る。ポフウェル氏に出会った時の表紙は高橋昭八郎によるもので、2ミリあきの銀色の線が美しかった。

翌年1月、ポフウェル氏に再会する。言水制作室による『ポフウェル氏の生活』に彼の日記があったのだ。左右150ミリ、天地210ミリ、発行日は1998年12月31日とある。菜の花を見てたらぼくだって黄色いのさとコーンスープに肩をたたかれた、なんて書いている。暮らしぶりは変わらずそんなようなものだった。地蔵を現世につれもどしたりタンチョウヅル夫妻に舞踏の手ほどきをうけたり、平行四辺形の気まぐれに翻弄されたりバターに包まれ眠っていた。日記は短いものだった。彼の生活は日記で読むと、作り話のように響くと思った。

生きていれば惚れた人に会う機会もまたオマケのようについてくる。今年11月、左右108ミリ、天地175ミリ、Luluというオンデマンド印刷による『ポフウェル氏の生活 百編』に乗ってポフウェル氏がイギリスからやってきた。つるっつるの表紙に青い針金のハンガー、青みがかったなんてことない本文紙という衣装が抜群に似合う。奇数ページに四角くなって現れる。相変わらずみかんのスジをとる仕事を老後のアルバイトにしようと考えていたり雪にアイロンをかけている。オラウータンの含み笑いに墨を塗って半紙に写したり、新婚夫婦に回覧板を回してもいる。エアーズロック大学のてっぺんで誰も知らない化学反応を実現させた過去を懐かしく思い出して、100になった。赤いコートが似合う詩人・南川優子の伴走を続けるポフウェル氏である。

しもた屋之噺(131)

杉山洋一

世の中には二つ、確実に存在するものがあると思っています。一つは時間の一方向への経過と、そして人間はいつか死ぬということです。この二つの現象は、とても厳しい現実をわれわれに突きつけますが、もしかすると、自分はもっとこれらの現象の素晴らしさに目を向けなければいけない、最近そう思うことがあります。少なくとも、音楽はこれら二つの現象なしには、存在し得なかったでしょうし、何も発展しなかったでしょうし、生きる欲望すら生まれなかったに違いないでしょう。

庭の大木が見事に紅葉したかと思うと、瞬く間に落葉し、はらはらと芝生を黄金色の葉で覆っているのですが、それはうつくしい光景です。それをうつくしいと思えるのは、春になれば確実にまた芽がふくのを知っているからです。確かに初めてここで冬を過ごしたとき、本当に春に芽がふくのか心配していたのを覚えています。時間が過ぎることは過酷ですが、でも確実に次の新芽を運んできてくれる、それを信じることで踏み出せる一歩もあるとおもうのです。

11月X日13:00自宅にて
イタリアのお盆「死者の日」に合わせ、ヴェローナの記念墓地に息子を連れて行く。イタリアのお墓をまだ見せたことがなかったが、日本と違い墓石を掃除もできなければ、水をかけたり、線香も焚かないので、息子にとって些か不本意な墓参だったようだ。
連休とあって特急の切符は全て満席で、仕方なく自由席の急行に乗る。目の前の席に5歳ほどの女の子を連れたお母さんが座り、国語の宿題をやっている息子が、不規則変化の名詞を読み間違えるたび、大声で笑って母親に叱られている。
ネイティブではないから、気づかない間違いもずっと息子の前でやってきているに違いない。申し訳ないような後ろめたい気持ちになる。
人いきれに押されて、近くに年配の女性がやってきたので席を譲るが、「私が座ると、あなたが立たなければならないから」と、なかなか承知してくれない。車内は芋を洗う騒ぎではない混みよう。乗降すらままならず、駅ごとに発車が遅れていく。
記念墓地に入ると、あちこちの墓にたむけられた白百合の香りにまじり、薄く香をたいたような独特のすす臭い匂いがするのだが、あれが人間の匂いなのだろうか。日本の墓地にはない匂いで、どこかで嗅いだ記憶だけが残っていて前からずっと思い出せなかった。
霊安室の匂いに似ていると気がついたのは、帰りの列車のなかだった。

11月X日23:00自宅にて
中央駅でネッティと久しぶりに会う。ビッローネとネッティとトゥラッツィの3人からなるラッヘンマンに影響された作風の一派が、以前ミラノに存在していた。当初市立音楽院で働いていたビッローネは、イタリアを捨てウィーンに移住した。ヨガ教室をやっていたネッティは、結婚して子供ができて、奥さんの故郷、南イタリアのプーリアに引越し、本格的なヨガ学校をつくった。唯一ミラノに住み続けている最年少のトゥラッツィは、リコルディ社で仕事しながら、小さな私立音楽学校を経営している。
ネッティはミラノに住んでいた頃から、作曲を収入源にしたくないという思いから、ヨガを教え幼稚園で音楽の幼児教育に携った。作曲を収入源としてマーケットに迎合すると、理想の音楽ができないからだ。それでドイツやスイスで彼の作品が盛んに演奏されているのだから、彼の判断は正しかったし、信念も決して間違っていなかったと思う。中央駅の喫茶店でエスプレッソを啜りながら、饒舌だった。「50歳までは教えたくないって、昔から言っていただろう。実際50歳が近づいてきて、他人に教えられるような知識が、漸く自分に備わりつつある気がする」という。彼はスイス・ルガーノの国立音楽院で、2日間作曲のマスターコースをやってきたところだった。ミラノを離れて、自分の本来のリズムが見つかったという。「あのままミラノの強迫的な生活に翻弄され続けていたら、今頃自分の音楽はお釈迦になっていたさ」。
プーリアの小さな町に住みながら、誰も彼が作曲家とは知らない。ヨガの先生の印象しかないだろうし、音楽をやっているとも、ことさらに周りに話さないという。「勿体ないじゃないか。バーリあたりの作曲の学生にとって、君の存在がどれだけ励みになるか考えたことがあるのか」というと、と虚をつかれたような顔をした。民族音楽やロック、ジャズ。音楽の95パーセントは書かれていない音楽だ。残り5パーセントの書かれた音楽で自分は何をなすべきか、自問を繰り返していて、視点は常に開かれていなければならない、と力説した。

11月X日20:00自宅にて
スイスに向かう列車のコンパートメントで出会った男性はコソボ人だったが、セルビア人に対して憎しみはないといった。自分の国はとても小さいともいった。戦争は、ただ偉い政治家たちが自らの利権のために事件を起こし、互いに既成事実を積み重ねて市民を陥れた結果だという。「戦争は、国を痩せさせ、市民を疲弊させるだけさ」。かつてコソボ人、マケドニア人、モンテネグロ人、セルビア人は共存していたし、憎悪がクローズアップされることもなかった。政治が互いの憎悪を駆り立て、望むと望まざると市民はその運命に翻弄された。スイスに住む姉にオリーブ油を届けるところだが、イタリア国外への出国が禁じられているので、スイス国境のコモまで姉が受け取りにくるといい、男性はオリーブ油を6本入れた頑丈そうな袋を抱えて、コモ駅で降りた。複雑な事情を持つ彼の収入源なのだろう。

11月X日19:00ミラノに戻る車内にて
エンツォ・レスターニョに会うのは久しぶりだった。家は国立音楽院の裏手だと言われて、懐かしいトリノ国立音楽院脇を通る。木造の響きのいいここのホールで何度も演奏会をやっていたのは、思えば15年も前のことだ。当時からあった向いの古い楽譜屋「ベートーヴェン・ハウス」は今も残る。マッツィーニ通りを進み、ポー川にぶつかる手前辺り右手に、古書店「フレディ」があって、ショーウィンドウには、日焼けしたマリネッティの「未来派」関連の初版本が並ぶ。上の棚に伊訳されたトロツキーの古い理論書が一通り揃っているのも壮観だ。トリノは昔から癖の強い露店の古本屋が多かった。今朝も、地下スーザ門駅から取り壊し中の地上旧駅舎を抜けてチェルナーイア通りに入ったところで、昔と同じアーケードに軒をきしる古書店に目をうばわれた。
何しろ、大判の「毛皮を着たヴィーナス」が、一番目立つところに飾られている。中学の頃何度となく読んだが、面白さがさっぱり分からぬまま、詰まらないと古本屋に売飛ばしてしまった。今読み返したらどうだろう。女々しい印象だけが強く、どう芸術性に優れているのか理解しないまま、数十年経ったが、それほど第一印象は決定的なのだと怖くもなる。

同じ頃古本屋で「ジュスティーヌ」を見つけて、そちらは暫く読んでいたが、大学のとき、やはり詰まらないと古本屋に売ってしまった。自分にとって読み応えがあったのはサドだったわけだが、内容よりも寧ろ、澁澤訳の調子が気に入っていたのだろう。
尤も、当時一番喜んで読んだのはロートレアモンだった。サドとマゾッホとロートレアモンが同列なのが、内容も分からぬまま背伸びして読んでいる感じでいいじゃないか。そんなことを思いながら、エンツォの家の呼び鈴を押した。
意外に小さなアパートで、書斎は至る所に本がしきつめられていて、彼は来年出版する、シェーンベルクとストラヴィンスキーの本を執筆中だった。「春の祭典」と「月に憑かれたピエロ」の年にかけて、彼らを今までとは違う視点で比較研究したいという。すごい量の本だと驚くと、「本に囲まれて暮らしていても、不思議ではないだろう」。例の低くよく通る声が懐かしかった。
短い廊下の奥に白い洗濯機が見えていて、長年の一人暮しらしい独特の生活臭がする。映画の1シーンのように、ステレオタイプをそのまま切出したような暮らしぶりで、よくノリのかかったワイシャツに大ぶりの濃緑のネクタイをゆったりと締め、ガウンを羽織って仕事をしている。「変わらないね」と言うと、「71歳にもなると、流石に身体が言うことをきかなくてね」。独特の往年の俳優を思わせる口ぶりも映画さながらで、彼の暮らしぶりに似合っている。

11月X日14:00サンタゴスティーノのスリランカ食堂にて
その昔市立音楽院に引き抜いてくれた当時の学長が、現在はIESイタリアの幹部で、彼からどうしてもと頼まれて、イタリア短期留学中のアメリカ人大学生に、短期で和声の授業とイヤートレーニングを教えている。借用和音やらナポリ和音くらいまでは、辿りつかなければならない筈だが、初めての授業では導音が主音に解決する初歩の基本すら理解していない。三善先生のレッスンで初めて和声課題を持っていった時も、こんな感じだったと思えば、いきおい、同病相あわれむ感、いよいよ強し。
中学1年の頃、「このバスに音を足して4声部にしていらっしゃい」と課題をいただき、自信たっぷりに並行和音で書いていった。和声課題が何かすら理解していない上に、当時の自分にとって美しい進行とは、悠治さんやアキさんが弾くサティの旋法調の並行和音だった。少し呆れたような顔をされて、「この本を勉強しなさい」と芸大和声の赤本を渡されたのを覚えている。先生は本当に我慢強い方だった。

11月X日23:30トラム車内にて
スカラ座まで「ルチアーナを送る会」に出かける。フォワイエのトスカニーニ・ホールで、客席は150席ほどしか用意されておらず、立ち見客も同数は居ただろう。当然周りには年配客が多くて、こちらは立つことにした。
最初にスカラ座のリスナー総裁が話し、実弟クラウディオ・アッバードからのメッセージが読まれると、息子のアンドレア・ペスタロッツアがブラームスのホ長調の間奏曲を弾いた。この作品を選んだ理由は、まるで母をそのまま体言しているようだから、弾く前にアンドレアはそう語った。彼がピアノを弾くのは、初めて聴いた。繊細で染み通るような音楽だった。では一体自分は両親の人生をどれだけ理解しているのだろう、そう思うと居たたまれない気持ちにかられる。
ルチアーナは生前、自分が死んで演奏会を開いてくれるなら、どうかシューマンとクルターグとブラームスを弾いてほしいと書き残していた。
アッバードのほか、ラッヘンマンやグアストーニのメッセージが読まれ、メッシーニスやブソッティ、フランチェスコーニ、マンゾーニとヌーリア・シェーンベルグが壇上でマイクを握った。最後に、長兄マルチェロ・アッバードが「ルチアーナ、お前はつねに音楽と一緒だ。これからも、いつも音楽と一緒だ。音楽のあるところに、お前はいつもいる。音楽のあるところに、お前のいるのがわかる。お前がミラノの音楽をつくった。ルチアーナ、ありがとう。お前は音楽そのものだ」。そういって、マルチェロはまるで目の前の宙に浮かんでいるルチアーナに拍手を送るようなしぐさをした。
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
最後に故人と特に親しかったヴィクトリア・ムローヴァがバッハを弾き、気がつくと、隣でクラウディオの息子ダニエレが、目を伏せながら聴き入っている。互いに目が合うと握手をし、そのまま無意識に抱擁した。

11月X日20:00自宅にて
市立音楽院で指揮を教えるのは、エミリオが去って以来初めてだ。学長の粋な計らいか、その昔ずっと指揮クラスが授業していたホールがあてがわれ、数年前に戻った心地だ。学校に入ると、ここ数年いつも「ヨーイチ」と名前で呼んでくれる事務の誰もが、嬉しそうに「マエストロ!」と声をかけるので、びっくりする。誰もが昔の温かかった学校の雰囲気が懐かしいのだ。エミリオから最初に指揮のレッスンを受けた部屋で、最後にレッスンを受けた部屋で、昔と同じように丸く円を作って、朝から授業をはじめる。0からの生徒ばかり12人を前にして、その昔学校で教えていた学生の顔が思い浮かぶ。昔と同じフルコンのピアノは2台とも残っていたが、当時使っていた指揮台は最近壊れてしまって、今はもうないということだった。

(11月30日ミラノにて)

だれどこ8

高橋悠治

●吉田秀和(1914-2012)

シューマンの評論集『音楽と音楽家』の訳者としてこの名を知った。まだ小学生だったと思う。ピアノを練習はしないで、当時新しかった音楽の楽譜を弾いてみたり、父の書棚の本で聞いたことのない音楽について読んでイメージのなかでそれらしい音を聞いていた。ロースラヴェッツ、ハウアー、ケージさえも数十年後に知った本当の響きよりすばらしかった。ヴァレーズの楽譜を見つけられないで、輸入楽譜の店主に頼んで作曲者に問い合わせてもらったこともあった。「わたしの音楽はもう演奏されないし、楽譜も出ていない」という返事が来た。1950年頃だろうか。その後演奏され新作も委嘱され楽譜も出版されるようになったが、もう年をとりすぎていた。作曲家も演奏家も旅をしてやっと生活ができるのは、いまも変わらない。少数の人にしか受け入れられず、その人たちと出会うためにはうごかなければならない。うごいていれば、いままでとちがうことも見えてくる。旅や巡礼は昔は職人や修行者には欠かせない年月だった。いまでも電子図書館だけではわからないことがある。

シューマンの批評は当時の音楽制度に反抗してまだない音楽を夢見ることばだった。ショパンの初期の作品をききながらE・T・A・ホフマン風幻想のなかで千の眼、孔雀の眼、バジリスクの眼に見つめられていると感じる文章を読んでその曲を聞いてみても音楽のどこにそんなふしぎがあったのかわからない。ブラームスを紹介した時もそうだった。批評された作曲家自身にも見えなかった可能性を感じさせ未来をつくりだす批評もあれば、サルトルが書いたジュネのように作家を定義してそれ以上書けなくする批評のことばも稀にある。吉田秀和の翻訳は批評家として出発する時のしごとではなかっただろうか。

桐朋学園に途中から入り中途退学したときも、吉田秀和は主任で、音楽史を教えていた。『新しさを追い求める時代は終わった、これからは編集と引用のモンタージュしかない」というような文章を小論文の課題で書いたのをおぼえている。T・S・エリオットの『荒地』やエイゼンシュタイン、マヤコフスキーを読んでいたからだろう。ヴァレーズのレコードを聞かせてもらいに休日に家まで行ったこともあった。2級上の作曲科の学生だった鍋島元子といっしょだった。

雑誌に連載された吉田秀和のヨーロッパ紀行では、1954年のケージとテュードアのヨーロッパ・デビューやハウアーの「退屈そのもの」のピアノ曲だけのコンサートのことも書いていた。その後20世紀音楽研究所を作ったりしたが、60年代からだんだん興味が演奏のほうに移って来たように見える。音楽時評にもヨーロッパの演奏家のことでなければ、相撲か西洋美術のことを書いていた。

『吉田秀和全集』のなかの一巻に解説を書いた。他人の考えを理解することはできない。離れたところから見て、それとはちがうことを考えて書く。それが批判で、批評かもしれないが評論とはどこかちがうニュアンスがある。批判は継承でもあり伝統でもありうるが、分析や評論は伝統にはならないだろう。付け、あしらい、転じ、それが伝統の運動。

批評家や学者・研究者は作られたものからはじめる。デカルトは暖炉の傍のソファーで夢を見る。論理も感覚もことばにして、細部を追ううちに時間の迷路に入りこむ。ことばの上で対象の全体を表現することが仮にできたとしても、それが何になるだろう。音は音の記憶でしかない。残像や軌跡、廃墟、ここから立ち去った影にどうして追いつけるだろう。作曲家や演奏家にはまだないものが聞こえることもある。蜃気楼にすぎなくても「まだ意識されないもの、近づいてくる別な世界」とエルンスト・ブロッホが言う。

そこにない音楽が批評のことばから起き上がることだってないとは言えない。印象や記憶や感触ではない、立ち去ったものを追う道ではない、その瞬間にうごいていたことに気づく交差する軌道に移ってどこへともなく運ばれていく。

鎌倉で会うこともあった。バルバラがいた頃、それからまたずっと後になって、たった一度だけ行ってみた桐朋学園同窓会がきっかけで再会し、実家に行く折に訪ねて1時間ほど話をする。その時は思うままに、決して書かないような批判も口にしていたから、慎重にことばを選んで書いていたことはよくわかる。年をとれば新しいことに対応するのがむつかしくなるだけではなく、望まなくても権威とみなされる。そうなれば結果を考えずに思ったことを言うことができなくなるだろう。それでも言いたいことがあればわかる人には伝わるような多層的表現をとって、白井晟一の建築の入口のように透明な壁があり、向うが見えると思っても曲がり込まないと入れない。

ある日は書いたばかりの文章、シューベルトの「菩提樹」とトーマス・マンの『魔の山』の最後の部分について、ヨーロッパ文明が滅びていく戦場で戦友の手を踏みつけながら起き上がりまた倒れるハンス・カストルプに聞こえるなつかしい樹のざわめき、ここへ帰っておいで、と呼ぶ声、また戦時中の高校の軍事教練の記憶を織り込みながら書いた「永遠の故郷」の一章について話してくれた。『魔の山』はこどものころ読んだ本で、希薄な空気のなかでの啓蒙主義者セッテンブリーニと改宗ユダヤ人ナフタのせめぎあいを熱病の夢のように読みふけったことを思い出す。

作品展をやってやろうと言われ、水戸芸術館で「高橋悠治の肖像」というコンサートが企画される。2009年のことで、作曲やピアノ演奏が批評された記憶もないし、認められているとは思ったこともないので意外な気がした。鎌倉から時間をかけてそのコンサートにも来てくれたのも意外だった。1960年代からその時までのさまざまな方向にちらばった作品を集めても、その後は見えない。使えるような材料の蓄積はなく、そのたびに別な失敗をかさねる。時々はこれでよかったと思える時もあるが、永くはつづかないし、次の作品には何の役にも立たない。

「もう書くことしか残っていない」と言いながら書きつづけた人がこうしたかたちで自分の出発点に回帰するのを離れた位置からながめながら、記憶のなかで熟成したものが世界と向きあう姿勢として表現されるという、このいきかたではなく、迷路の曲がり角で突然射しこむ光、記憶に立ち戻りながらそこから絶えず逃れる小道がないかをさがしつづけている、というほうがこちらのいきかたかもしれない。世界は暗い。それでもなにかうごめくものがある。希望と言えるようなものではなく、日々の暮らしのなかで思いがけず垣間見るなにか、言うに言われないもの。

犬の名を呼ぶ (6)

植松眞人

高原が迎えに行くと、聡子はすでに帰り支度を終えていて、まっすぐにブリオッシュの元に走り寄ってきた。ブリオッシュは決して吠えたりはしない。ただ、尻尾を力強く振るだけで聡子と会えた喜びを伝えようとする。
ブリオッシュはすっかり幼稚園の人気者だ。母親が迎えに来ても、ブリオッシュが来るまで帰ろうとしない子供もいるらしい。ブリオッシュを連れて、聡子の送り迎えを始めたころ、その大きさに驚いて泣き出す子供や「吠えたり噛んだりしませんか」と不安気に聞いてくる母親が何人かいた。
しかし、目の前のブリオッシュを見れば、どれだけ大人しい犬なのかは誰にも明らかだった。特に子供たちは、大人たちが不安がるのを横目に、すぐにブリオッシュの周りに群がるようになり、「ブリちゃん」「ブリオッシュ!」と声をかけ、身体を撫でまわした。ブリオッシュはそんな子供たちに、一瞬たじろいだのだが、すぐにこれも定めだ、とでも言いたげに高原を一瞥すると、哲学者のように寝そべって、子供たちに身を任せた。
聡子は自分を迎えに来るブリオッシュが誇らしいのか、少し自慢げに傍らに立ち、同級生たちに「あんまり強くなでなでしないで!」などと言ったりする。高原はそんな孫が、友だちから疎まれたりしないように、なるべく送り迎えの時間を短くするように心がけているのだった。

ブリオッシュが散歩の直前に脱走する、という事件から一週間が経った。あの日、あんなことをしでかしたのはどこの誰だったのか、というふうにブリオッシュは高原に従順だった。「待て」と声にしなくても、高原が散歩の用意をしている間はじっと玄関に伏せたまま待っている。そして、用意が終わり、高原がブリオッシュに視線を向けると、すくっと立ち上がるのだった。
風が吹いて、ブリオッシュの足下をスーパーのビニール袋が転がり抜けていく。カサカサという音が後方へ流れていく。ブリオッシュの視線が一瞬、その音の方を追う。それでもブリオッシュの歩く速さは変わらない。いつもの小さな公園をブリオッシュは立ち止まりもせずに歩いていく。高原がリードを引けば、ブリオッシュは必ず立ち止まることはわかっている。しかし、高原はリードを引かない。
「今日は思った通りに歩いてみろよ」
高原はブリオッシュの背中に言う。ブリオッシュはその声を確かめたかのように歩く速度をあげる。高原とブリオッシュの間のリードがピンと力を持つ。高原はブリオッシュの行く先に自分が影響を与えないようにブリオッシュの歩みに自分の歩みを重ねる。リードが少したわむ距離で高原はブリオッシュの背中を見つめて歩く。
いつもの公園を過ぎ、あの日、脱走して行った方をブリオッシュは目指した。
「そっちか、そっちへ行きたいのか」
高原が声をかける。ブリオッシュはなにも答えず歩き続ける。静かな住宅街を抜け、古びた商店街を抜け、大きな公園のある通りへと出た。公園の隣には公民館のような建物があり、ブリオッシュはその脇の坂道を上っていく。
「ブリオッシュ」
高原は小さな声で呼びかける。ブリオッシュは立ち止まりも振り向きもせずに、ワン、となく。しばらく、高原は黙ったままでブリオッシュを追って坂を上る。
「ブリオッシュ」
高原はもう一度、犬の名を呼んでみる。ブリオッシュはもう一度、ワンとないて歩き続ける。その後ろ姿をみながら高原は思う。お前にはちゃんと生きたい場所があるんだな、と思う。
そろそろ聡子を幼稚園に迎えにいかなくてはならない時間だ。しかし、高原は今日はもういい、と考えていた。一日ぐらい自分が迎えに行かなくても、誰かがなんとかしてくれる。そんな気持ちになってしまっていた。
「ブリオッシュ、行きたいところへ行け。今日はとことん付き合ってやる」
高原はそう言うとブリオッシュとの間合いを詰めた。ブリオッシュは詰められた間合いの分だけ速度を上げる。
公民館の脇の坂道を上がりきると、ブリオッシュは左に折れた。高原は不意をつかれてそこに立ち止まっている。リードが張られ、高原がそれを手放してしまう。ブリオッシュは持つ者がいなくなったリードを引きずって数メートル先を歩いてから、リードを引きずる音に気がついて立ち止まる。ブリオッシュはそのまま逃げたりしない。高原の方に戻ってきて静かに足下に座る。高原は思い立ってブリオッシュの横にしゃがみ込んで、リードを外してやる。条例だなんだとうるさい世の中だが、誰かが近づいてきたら、しっかりとリードを握っているふりをすればいい。付かず離れず距離を保って歩いていれば、きっとリードあるように見えるだろう。高原はそう思いながら、ブリオッシュの背中を軽く叩いて小さく叫んだ。
「行け、ブリオッシュ」
ブリオッシュが立ち上がる。周囲の空気が微かに動く。高原は鼻先に、遙か彼方にあるはずの海の匂いをかぐ。

オトメンと指を差されて(52)

大久保ゆう

【ここから】

何の話をしていたんでしたっけ。

そうそう、マイノリティの話なのですよ。このエッセイのそもそもたるそもそもは、何だかテキトーな感じで、ぐるぐるその場をめぐりながら、申し訳程度に真面目なことも挟みつつ、時にははっちゃけたり頭がおかしくなったり、世のなかの隅っこでそれまで定義されていなかった人物が、何かしらの言葉を与えられて、とりあえずはしゃいでいるような、過剰なホントと言わないウソに彩られたアレだったのですね。

わたくし、大学学部生のとき、今はホラー作家もなさっている先生の怪物論・モンスター論ゼミに3年間ほど出ておりました。そこでは怪物とは何か、化け物とは何か、恐ろしいモノとは何なのか、というようなことを取り扱っておりましたのですが、そのなかのひとつにこういう定義がありました。

人は何を怪物とするか。

それは人の世にすでに定められた境界、それを外れるもの、あるいはそれを侵すもの、はたまた崩そうとするものが、そう呼ばれるのだと。そして人はそれを、恐ろしがり、気持ち悪がり、蔑み、忌避する。既存の理非を乱すものとして、世の秩序を混ぜっ返すものとして。

うろ覚えに思い出してみるとそんな感じで。そんなわけで、「怪物を倒す」ことは安定保守を意味するのですけれども、それは同時に怪物視されたものへの差別でもあるわけで。とかく感情的だったり運動的だったり、交錯する場は破壊的にもなりがちで。

とはいえそれさえも無効化する、あるいはどこか平和的に変えてしまえるものがあるとか何とか。確か〈笑い〉であるとか何とか。

笑いというのは、基本的に・技術的に、何かと何かの落差によって作り出されるものなので、境界線上のものとも言えましょうし、同時に境界をぐらつかせるものでもありえますよね。しかし〈笑い〉は永続的なものでもなく、同じ事を繰り返していると、いつしかつまらなくなり、陳腐になり、どうでもいいものを経て当たり前のものとなります。

しかし、そこにこそ受け入れられる道があるというわけで。

怪物と名指しされてきた者たちの歴史では、あえて自分を笑われ者として、秩序の際で踊りふざけ、恐怖や忌避を滑稽に転じさせ、そして滑稽を腐らせることで、境界そのものを馴ら=均していく。その過程でバカにされたり嘲笑されたり嫌われたり、もしかすると傷つくこともあるかもしれないし、それどころか心臓に毛が生えるかもしれないのですが、積極的に前へ出ていって解決を図ろうとすることは、ただ声を上げる以上に闘士的ではありますよね。

そういえばゼミに出ている期間、わたくしは現実世界でそのような人たちに大勢出逢ったのでした。たとえば、車椅子の上の、または、世間では異装とされる服をまとった――

むろんそういった人たちを前にして「笑ってはいけない」と声高に言う人もいるのですが、やり方を間違えば境界を強化するだけですので、やはりわたくしとしては隣人としてエールを送りたいわけなのです。

だからつまらなくなることは、ひとつのゴールであり、スタートなのですっ!

というわけでわたくしもお菓子食べて奇声を上げるだけでなく何かさらにレベルアップした笑いを何かしなくちゃいけないのでしょうが南瓜プディングがおいしすぎてそんなの無理ですぎぇええおいしいぃい。

【ここまで言い訳】

記憶と夢

大野晋

清水玲子の「秘密」が完結した。

殺人事件などの凶悪事件を捜査するために開発された死者の記憶を再生する装置を使った科学捜査をする捜査員を主人公にした近未来SFハードボイルドだ。死者の生前の記憶を辿る捜査を指して、他人の’秘密’に触れる行為の善悪などを織り込みながらストーリーが進む構成だったが、とうとう終結を迎えた。それなりに、影を残した結末に何を考えるかは読者の気持ちに任せるべきだろう。

実はこの作品は、丸の内の松丸本舗で発見し、その足で階下の丸善で大人買いをしている。非常に衝撃的な出会いだったと今思い起こしても新鮮だった。なので、ストーリーはそれこそ秘密である。ぜひ、各自でどう感じるのか、知りたいものだ。

「秘密」は人間の頭脳の中の記憶を取り出すというものだが、実際の脳の仕組みを考えるとそう簡単にいくようには思えない。まあ、その部分がSFなのだが。

人間の感覚に直接うったえるという意味では、仮想現実感というものがある。おそらく、感覚器を経ずに、直接脳に仮想の感覚を与えれば、よりリアルに現実以外の経験を与えられるはずだ。そういえば、そうした仮想現実感に実際の人間に与えられた危害を使った犯罪という話では、道原かつみ+麻城ゆうのジョーカーシリーズに「ドリーム・プレイング・ゲーム」という作品があった。こちらの方は、仮想現実を受け入れる方は、ある意味、ほかの感覚器はお休みなのだから、どちらかというと寝ていて夢を見る感覚に近いのだろう。しかし、そのために、再生用の感覚情報を得るために実際の人間に対する暴力行為を伴うのならやはり犯罪というべきだが、ある意味、ゲテモノやホラーなど怖いものを体験したい人間の性を考えると意外と確信をついた犯罪だといえるのかもしれない。

もう少し平和な夢の話なら、女性SF漫画家の先人のひとりである竹宮恵子の「私を月まで連れてって!」に「夢魔=ナイトメア」という話がある。

それこそ、仮想現実感どころか、自由に各自の欲しい夢を見させる機械の話だが、やがて、人がその夢の中に逃げ込もうとするという結末になっている。とはいえ、この「私を月まで連れてって!」自体は宇宙飛行士と少女のラブストーリーという全くのファンタジーなのだから、これはある種の皮肉とも言えるかもしれない。

夢を見る機械に入って、現実に戻されるという話は、多くのストーリーテラーを魅了するものらしく、寺沢武一の「コブラ」の冒頭。普通の生活をしていた主人公は、ドリームマシンで見た夢から、消し去っていた記憶が戻って、海賊コブラとして宇宙に飛び出していく。これなどは、現実が夢よりも、夢のような世界ということで、スペースオペラの幕開けとしては相応しいのだろう。

夢と記憶を巡っての思索の旅、ちょうど、夢のようなブエナビスタ・ソシアル・クラブの曲も終わったところでお開きにしましょう。

犬狼詩集

管啓次郎

  91

農村を異世界とする生き方に切実な限界を感じた
夕方になって湖と鉄道の駅がやっと見つかることがある
その団体は非合法であるときだけキラキラ輝いていた
あの山が父あの山が母と長い髪の女歌手がつぶやく
島にわたった時ついザリガニのサラダを食べ過ぎた
Birthday Libraryという巨大アーカイヴに明日からこもる予定だ
受ける側が虫眼鏡を使わなければ詩に火がつかなかった
都市のモラルを商業から解放することが必要でしょう
民話と精神分析を語る彼はどうもいつも話が浅かった
忍者ガール対ヤンキーガールという演劇を本気で商業的にやっている
影そのものが空中を飛んでいることで鳥が驚くのがわかった
アストロボーイの不安はいつもいつも敵の不在のせいではないらしい
記憶としての私は本になったがあまりに落丁が多かった
レミングの群れの自殺を有名にした映画をどこかで観たいと思う
川に印画紙を沈め釣竿でフラッシュを焚いて流れそのものを映した
国の分割は一種のフィクションだから二枚の写真のように並べ直せばいい

  92

戦える戦士が少ないので壁にたくさん描いて数を補った
光がさす角度から考えるならありえない輝きが見えている
歴史というと必ず誰かを悪者にして説明した
正しい者だけに入室を許すのでここには誰もいない
目を閉じなければ真実は見えずしたがって本は永久に読めなかった
瞳を閉ざすなんて解剖学的にいってどうにも不可能でしょう
蜜蜂の巣箱を並べて神と家族を経済的に支えていた
真実を語るために三角形の目を空中に仮定する
たんぽぽの黄色ひまわりの黄色のあいだでブンブンと勤勉に働いた
羽音が祈りなのだからかれらはそれ以上に司祭を必要としない
すべての女に聖母を見なくてもすべての子は彼女の子だった
植物の紋様のある砂岩で地面をていねいに覆ってゆく
苺を潰した果汁で胸を染めるとてきめんに激烈な痛みが生じた
汗のしずくがすべて緑になるとき世界が許してくれる
トラキアから来た兵士が日射病でばたばたと倒れていた
ひたすら写本に努める修道女の似顔絵を記憶に頼って描く

  93

渓流の一部をせきとめ鱒を養い岩塩をふり焼いて売った
なぜそれが俳句なのかすら説明できないまま花の犠牲を出す
驚くべき雲の科学だが撮影は非常にむずかしかった
こんな山奥で羊たちの朗らかに臭い群れとすれちがう喜び
古い時計の呪縛により小学生のころ友達に与えた傷を思い出した
溶けた蝋を燃やして煤の香りと記憶の蒸発を楽しむ
ドイツ人が売るコーヒーにトルコ人はなじめなかった
金髪の娼婦たちの前をフォークソングをうたいながら通り過ぎる
雨が降りはじめたのでオペラハウスで雨宿りをした
彼女の爪を見ていると見る見るうちに琥珀に変わる
チューリップといっても球根を食用にするものだった
砂糖を匙にすくいわざと焦がして目を覚ましてみる
小さなトイ・ブルドッグが人の靴にじゃれついてとても危険だった
瞳の色がプラスチックに左右されて歴史がまた欺かれる
血と乳とブラックベリーの果汁を混ぜて独特な色を作り出した
一九五二年の海水浴の写真に何かを置き忘れたことを思い出す

  94

周囲のすべてが風に吹き飛ばされたようにさっぱりして暗かった
海岸に海が見えない防潮堤を作るなんて目に見える狂気だと思わないのか
眼球を失った犬をもう一頭の犬が紐をくわえて導いていた
少し雨が降っても気にすることなく地下鉄の駅まで歩いてゆく
流木を集めてそれを平原インディアンのティピーのように組んでみた
空に町を建てることは普遍的欲望で地表のいくつかの場所で実現される
泣くなよ泣けば氷が溶けるここに氷があると男がいった
マイクル・ジャクソンの声を聴くたびにある種の悲しみがこみあげてくる
その時代には世界的に砂糖が高価で人に虫歯がなかった
太陽をモチーフにしたあらゆる歌をメドレーにして歌いつづける
光があれば空虚を青として知覚するのがおもしろいと思った
すり減る靴底のバランスの悪さをアンディ・ウォーホルのTシャツで補正する
友人が撮影した「故郷の川」に失われたすべてが映っていた
少し遠いが山形か盛岡かカッセルの駅前広場で待ち合わせることにしよう
友人の先日終わった生涯について証言できることが少なくて愕然とした
「私のことを忘れないで」という声で目覚めるが誰の声なのかがわからない

  95

人生を順調に終えたあと腐らない死体として展示されるのが悲しすぎた
平原の夏がブラックベリーの震える海として押し寄せてくる
彼女が世界をさびしいと感じることに深く共感する小学生たちがいた
イルカが背びれを見せて大西洋の一部を航行する
噴火口にカルデラ湖を見るとき突然流氷とクリオネを思い出した
鹿の食害というが人の食害や残飯ほどひどいものはないだろう
木の机に刻まれた渦巻模様が苦しみも退屈もまぎらわせてくれた
ベオグラードの「学生広場」のベンチで無料接続で過去にメールを書く
見えない迷宮だから道を踏み外すたびに耳鳴りが道を教えてくれるのだった
ガラガラをばかみたいに熱心に振るとナマズが騒ぎ出す
地震と連動するかたちで富士山が噴火すれば東京は終わり詩と舞踊は残った
きみとアクラシアを論じて統治術の不在を嘆く
湖に百年ほど潜ってみると必ず全身が塩の結晶におおわれた
一面のひまわりの利用法を考えUNTERSHRIFTのためのインクを考案する
息だけで電球を点すという老人を見に行ったらインチキだった
ターコイズ・ブルーの嘴の小鳥に明日午後の運命をそっと教えてもらう

  96

閉じ込められることを嫌う魂が霧にうまく乗り拡散していった
夢の接近を感知して胡椒をわざと使って目を覚ます
星を呑む夢と虹を吐く夢が同時にやってきた
寒い秋に対抗するように最近必死で獣脂を食べている
魚が獲れないせいで幽霊のように痩せこけた羆が夕陽を背に立っていた
滝の音としぶきを背景にぐるぐる回りながら詩をつづけて読む
弟は架空のひとりだから仮に百人いてもかまわなかった
ターコイズ・ブルーの嘴をもつ小鳥に心と歌声を奪われる
寒い土地に住んだことがなかったせいで心が強く育たなかった
温暖な島を点々と暮らしてそれぞれの歌を覚えればいいのに
仕事というと縦縞のシャツを着て銀色の腕時計をしていった
引退が近づいたからこれからは横縞襟無しのシャツしか着ない
「未来」とは何か暗い気配がする方向なので道に迷わなかった
空しさとは公理だから人生にそれを嘆いても仕方がないでしょう
あまり品の良くない二人の若い女が老人にコーヒーをねだっていた
名前に巧妙に鳥を忍び込ませることの必要、鳥の一般的必要