2025年1月1日(水)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
東京は快晴の元旦です。あまりに悲惨なことが起きるこのごろ、きょうのような静かな午後が続く一年であるようにと願います。

「水牛のように」を2025年1月1日号に更新しました。
今年も最初からいろんな原稿が集まりました。じわじわと生きにくくなっていることが明らかないま、抵抗はさまざまなところでさまざまなかたちでおこなわれているのだと実感します。なにかを苦手と感じることは抵抗への第一歩かもしれません。
管啓次郎さんと仲宗根浩さんが久々に戻ってきてくれました。管さんのメールには「徳之島には行ったことがありません…」とありましたが。。。
また、水牛の本棚では杉山洋一さんの連載のはじまりのころをまとめて読めるようにしました。編集は浜野サトルさんです。先日杉山さんと会ったときに、こどものころから日記を書いているの?と聞いてみたところ、水牛で書きなさいと言われて書き始めたという返事でした。ことし20歳になる息子さんが生まれる前のことでした。それからいままで、過ぎてみれば順調だったといえるとしても、この先のことは不明です。

ともあれ、今年もどうぞよろしくお願いします。また来月に!(八巻美恵)

一月一日

北村周一

あけそめし空を見上げて去年ことし水牛ひとつ書き終えにけり
一月一日 あの日の空は明るくてなに思うなくときは過ぎたり
静けさに満たされいたる正月のついたちにして午後の日までは

あらたまりし年の始めの空ひくくしのびよるごと日の昏れはあり
夕ぐれのまえのしずけきときの間を思うことあり元日にして
ふかぶかと夕焼けいろに染まりゆく風景おもゆ団欒のとき

杳いとおい闇の奥よりあらわれて傍に来ているふるい友だち
懐かしき声に語らうひとときを夢に描いてねむれぬ夜は
同郷の友と出会いしそののちに見ている夢は安らかならず

ふるさとのとおい記憶に包まれて夢に見ている抽き出しのなか
またひとり夜の巡りに出会いたるふるき友あり 抽き出しが開く
聞きなれし声に身じろぐ夢ながら閉ざすに難きふるい抽き出し

ふる雨にのまれし町のうす明かり 揺らめく月のかげよりも淡く
雨降れば海山川に水溢れすがたを変えて人を貶む
雨降れば海山川は忽ちにすがたを変えて水と戯る

イッパツで退場なのにのうのうと知事をしているレスラーの人
人災なのか天災なのかいつまでも放置しているあなた要らない
震度7かかる数字が揺れのこる半島はいま雪雲の下
タツは暮れてヘビ微睡みの去年ことし 朧おぼろにたすけ呼ぶ声

大伴家持
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
(あらたしきとしのはじめのはつはるのきょうふるゆきのいやしけよごと)

仙台ネイティブのつぶやき(102)だしの行く末

西大立目祥子

今年は、正月の雑煮のだしに使う焼きハゼが手に入らなかった。こんなことは初めてだ。ここ数年懇意にしている魚屋さんがいて、12月中旬を過ぎたころに電話をすると、「石巻の市場には1匹も出ていない」という。「そもそも生のハゼを見かけないんだよ」という説明に、深刻な不漁を思い知らされた。年末になって再度たずねても同じ返事で、結局あきらめざるを得なかった。実は12月初旬に近所のスーパーで焼きハゼを見つけたのだが、それが煮干しといっていいほど、あまりに小さくて買う気が起こらず見逃したのだった。

雑煮のだしに、焼いて天日干しにしたハゼを用いるというのは、仙台の街場の風習である。それはおそらく、近くの海や川に出かけて釣り糸を垂れれば、簡単に手に入る魚だったからだろう。私も小学3、4年生のころ、父の知り合いの大勢の大人たちと松島湾に釣りに行き、教えられるままに釣り糸をポチャンと海に沈め静かにしていたら、ググッと強い引きがきて、けっこう簡単に大きなハゼを釣り上げたことがあった。

父が盛んに友人と釣りに出かけていたころは、下処理したハゼをガスコンロで焼き、ハエ除けの網をかぶせてベランダで干していた。洗濯物を取り込んだりするときに、うっかり蹴飛ばしてしまうこともあるほど、それほど有り難いものとは思わないものだった。自分がおせち料理をつくるようになってからは、12月に入ると魚屋とかスーパーの店先に吊り下げられ5匹一連の焼きハゼを、大きさを見比べながら買っていた。たぶん、高くても2000円をちょっと超えるくらいだったのではないかと思う。

それが東日本大震災を境に不漁に見舞われ、一気に高値になった。当時、私は定期市にやってくる石巻近くの浜でシジミ漁をする漁師さんから焼きハゼを買っていたのだけれど、震災の混乱のあと、しばらく経って再会した市で、「もうハゼは不漁でダメで、うちのじいちゃんは漁をやめるんだ」と聞かされた。シジミ漁も難しくなったから別の仕事を探すと言い、震災のときは消防団員で北上川の瓦礫の中に小学生の男の子がふるえながら生き延びているのを発見して、その子を背負って十数キロ歩いた体験をきびしい口調で話してくれた。あの人は何という名前だっけ。お元気でいるだろうか。

ともかく、海底が劇的に変化してハゼはそう簡単に入手できない魚となり、さらに手間のかかる焼きハゼは高級なだしとなった。そこに温暖化による海水温上昇が追い打ちをかけているのは、間違いない。魚屋には、もとは東北では見かけなかったマダイとかタチウオが日常的に並ぶようになったし、冬なのに大きなスズキが売場を埋めていたりする。魚だけでなく海藻も海もダメージを受けているようだ。石巻十三浜の養殖漁家を支援している友人は、暑さでワカメも昆布も収穫量がひどく減ったという。毎年、大きな鮮度のいいカキを送ってくれる気仙沼唐桑の友人からは、2週間ほど前に、身が入っていなくてまだ送れないと連絡が入った。

焼きハゼは鍋に水を張ってほおり込み、一晩おいてとろ火にかけていくと金色のだし汁がとれる。あのひかえめな味と香りは、仙台に生まれ長年慣れ親しんだ新年の味わいだ。今年はどうしたらいいだろう。先の魚屋のおじさんは、「穴子焼いてもいいだしとれるし、あとは地鶏でもいいんじゃないの」という。いやいや、穴子なんてさらにハードルが高い。それに上に紅白の板かま、伊達巻、イクラがのる仙台雑煮に地鶏は何だかミスマッチだ。

そして、これから先はどうなるのか。ハゼの不漁は間違いなく続くだろう。仙台の正月の魚はナメタガレイなのだが、そもそもタラだったのが、明治年間にナメタガレイが大豊漁となり切り替わったと聞いたことがある。案外と簡単に風習は変わるものなのかもしれない。雑煮のだしもハゼから何か別なものに置き変わっていくのだろうか。

実はもう1月1日になっているのだが、雑煮のだしを取るどころか、何で取るかも決まっていない。2025年の幸先が思いやられる。肝心なものが手に入らないとか、ぎりぎりになっても決められないとか…。

ガザの新年

さとうまき

12月29日に、友人のダンサー今在家裕子さんが映画上映会を企画したというので見に行くことにした。今在家さんは、イスラエルのカンパニーで11年間踊ってきた人。たまたま僕がかかわっていたベツレヘムの難民キャンプへもしばしば足を運んで、難民たちが作った刺繍製品を日本で販売したりしてパレスチナを応援してきた。

しかし、昨年の10月7日、ハマスの奇襲攻撃がありガザ戦争が始まってからは、イスラエルの友人や、イスラエルに住む日本の友人たちとの距離も微妙になっているという。そんな中で、企画した映画が「私は憎まない」というタイトルで、ガザ出身の医師、イゼルディン・アブラエーシュ博士の物語。2009年のイスラエルのガザ攻撃で娘3人、姪を失った。それでも博士は憎まずにイスラエルとの平和を訴えているという話だ。

ガザでは、43000人を超える死者がでて、たぶんそれからもっと増えていて、そういうくらいニュースには正直うんざりしてしまって、見ざる聞かざる言わざるの猿状態になっていた。こんな立派な医者の話を聞いたところで、何もできない自分に落ち込むだけだ。それだけではなかった。2011年にイゼルディン医師が、「それでも私は憎まない」という本を書いたときに、鎌田實医師は「アハメド君の命のリレー」という絵本を書いていた。それで、日本に呼んできて対談するので手伝ってほしいと言われたのだが、あいにく僕はイラクにいて講演会には参加できなかったことがある。

絵本の内容は以下のような感じ。アハメド君は、ジェニンでイスラエル兵に狙撃され脳死した男の子。父イスマイルは、その悲しみを横に置いて、なんとイスラエルの病気の6人の子供を救うため、臓器移植を承諾した。平和への願いを込めてという美談だ。

しかし、ドキュメンタリー映画「ジェニンの心」では実際に何が起きたかを伝えている。イスマイルさんが、実際に臓器をもらったイスラエルの子どもたちに会いたいといった時に、喜んで応じたのは、北部に住むドゥールーズ教徒の少女、南部のベドウィンの子どもで2人ともアラブ人だ。残りのユダヤ人は、イスマイルさんに会おうともしなかった。しぶしぶ会うことになったユダヤ人の一人は、「感謝は伝えたいが、友達にはなれない」と言い切る。メディア的 “美談” とは無縁の位置で、犠牲と平和の意味を深くとらえたドキュメンタリーと紹介されている。

*ジェニンの心はBS世界のドキュメンタリーで短縮版https://youtu.be/NJIBeQzdtaw がご覧になれます。

でも鎌田先生の手にかかれば、美談として、読んだ人々に希望を与えるのである。美談を読むと人は満足してしまって、それで終わってしまう。何も変わらない。「私は憎まない」という美談めいたタイトルに抵抗があって、これだけ多くのパレスチナ人が殺されているのに「憎まないことが素晴らしい」なんて言われてもなあという気がしていた。そんな、美談をいまさら聞いて、満足して一体どんな意味があるんだと。しかし、今在家さんが、苦しみながらも企画したイベントだから気になっていて、見に行くことにした。実際見てみたらすごい映画。こちらもメディア的 “美談” とは無縁なのかも。

イゼルディン博士は、教育こそが現状を変えると信じ、イスラエルの病院で研修医となり、産婦人科で、ユダヤ人の赤ちゃんを取り上げる医師として働き、ガザから毎日イスラエルの病院へ通っていた。2009年、彼の家がイスラエル軍に包囲された時、友人のユダヤ人のジャーナリストと電話でつないで惨状をレポートした。そして、数日後には、生放送中に電話がつながり、まさに彼の娘たちの頭が吹っ飛び脳みそが飛び散っている様子が報道された。壮絶なTV番組になってしまった。

彼は、それでも、イスラエルとパレスチナの平和の架け橋になりたいと訴える。
I shall not hate.
なんて訳せばいいのだろうか? 憎まない? 憎んではいけない?
ただ、彼は戦い続ける。イスラエル軍の民間人を無視した攻撃に対して法廷で争った。裁判では、うその証言ばかりが並べられた。テロリストが屋上にいたとか、攻撃は、ハマスのものだ、娘の体から取り出された武器の破片はハマスの使用したものだとか。判決は、テロとの戦いの付随的な民間人の犠牲者に対して、イスラエル軍に責任はないという結果だった。それでも、博士は戦い続ける。怒りを憎しみに変えて復讐しようとするのではなく、真実を伝え続ける。彼は決してあきらめないで戦い続けている。そんなバイタリティに心を打たれた。

イゼルディン医師の最近のインタビューはこちら。
https://www.vogue.co.jp/article/my-view-izzeldin-abuelaish
「人間には憎む権利があります。特に最も愛する存在を奪われたとき、憎しみの感情が芽生えることは自然な反応です。しかし、私は自分に問いかけました─この悲しみと怒りを、この強い衝動をどのように扱うべきなのかと。そして選んだのは、残虐な行為とその犯罪性に反対の声を上げ、暴力の連鎖を防ぐために責任を持って行動すること。」

アフタートークで登壇されたNGOの手島さんによると「ガザの人々は、明日の命、食べ物のことで精いっぱいで、もはや憎しみの感情すらもわからなくなっている状況です」と言っていた。

12月8日にシリアではアサド政権が崩壊し、混乱が続く。この機に乗じてイスラエルは、レバノンだけでなくシリアへの攻撃も活性化している。ガザのことを忘れかけていた僕にとっても映画を見に行ってよかったと思った。イゼルディン医師は、個人のできることを過小評価しないでほしいと言っていた。小さなことだけど、僕はコーヒーを数か月前から売ることにした。500円のコーヒーを500個売っても、15万円くらいしかガザにおくれない。それでも何か少しでも役に立っているのかなあと思うと嬉しくなってきた。
コーヒーはこちら!
https://sakabeko.base.shop/
 
2005年は平和な年になってほしい。
あけましておめでとう。

『アフリカ』を続けて(43)

下窪俊哉

 前々回、鶴見俊輔さんが『三人』について書いている文章に触れたが、そういえば、と思って部屋の隅にある本の山を見たら、『日本の地下水 ちいさなメディアから』が呼んでいた。編集グループSUREが2022年に出した本で、雑誌『思想の科学』で複数の執筆者によって連載されていた「日本の地下水」のうち、鶴見さんの文章だけを集めた1冊。1960年から1981年にかけて、全国各地でつくられていたいわゆるサークル誌、同人雑誌などの小雑誌を時評しているものだ。
 気になったタイトルの文章を拾い読みしつつ目次を眺めると、じつに様々な雑誌があったものだ、と感心する。誌名を並べるだけで内容が想像出来たり、出来なかったりするが、それも面白い。
『函館文化』『精神科年報』『福沢研究』『科学と技術の広場』『修学旅行』『北方の灯』『小さい旗』『江戸っ子百話』『いとこ会誌』『原点』『みちずれ』『耳栓アパート』『平和のために手をつなぐ会ニュース』『発言』『騒友』『瓢鰻亭通信』『映像文化』『本の手帖』『新人文学』『ユリイカ』『独楽』『ピッコロだより』『週刊ポストカード』etc.
 黒川創さんの解説によると、敗戦から5年がたって1950年代に入る頃から、「職場や学校、地域社会などで、サークル活動がさかんになった」。戦後復興の時代に、「文芸や美術、学問、趣味をめぐる同好会、職業上必要な新知識を取り交わす集まり、また、病気や暮らしの上での困難を分ちもつ場としても、自発的に形成された「サークル」が機能した」のだという。文章を書いて、雑誌をつくるのは何も文芸をやる人たちだけの営みではないので、様々なサークルで、「自分たちの活動の記録や成員間の連絡のために、同人誌・会報などの手製の印刷物」がつくられた。『思想の科学』も、この連載でよく出てくる『VIKING』も、『水牛通信』も、大雑把に括ってしまうと、そういった雑誌のひとつだったと言ってよいだろう。もちろん『アフリカ』もその流れにあるわけで、戸田昌子さんが「サークル活動」と言った背景には、そんな歴史があるのだと言ってみたいところだ。
 このような活動は、マス・コミュニケーションの対極にあるものだろう。復権文庫というところでつくられた本について書かれた「盲者につきそう神」の冒頭で、鶴見さんはこう書いている。

 一冊の本を世界中の人に読んでもらいたいという考え方は、わからないこともないが、おしつけがましいと思う。
 聖書は、一冊の本としてみる時に、とてもよい本だと思うのだけれども、この一冊の本が、地上ただ一つの本として人におしつけられてきた歴史を考えると、いやな気がする。
 一冊の本が、それほどひろくみなに読まれなくてはならないものか。

 それに続けて、「自分だけが読む本」として日記帖のようなものが「現代のように、おしつけがましい文化の時代には、かえって大切なものになる」と書いている。1971年11月の文章である。
 昨年、ここで『アフリカ』を始めた頃のことを詳細に書こうとして、2005〜2006年当時の自分がつけていたノートが貴重な資料になった(それがなければ書けなかった)ことを思い出す。私は今、このSNSの時代、各々がゆるく閉じた場をいかに持ち、営み続けるか、問われているような気もするのだ。

 さて、秋に出るはずだった『アフリカ』次号はまだまだ時間がかかりそうなので、春に準備してあった私の本を先に出してしまおうということになった。この連載の(1)から(33)までを順番に収録した「『アフリカ』を続けて①」だ。連載順に並べたのはなぜか、ということは、あとがきに書いた。それから、各回にタイトルをつけた。

『アフリカ』を続けて
 どうしてアフリカなんですか?
 常に揺れている
 プライベート・スタジオ
 珈琲焙煎舎
 行きつ戻りつ
 いたずら書きの向こうに
 自由を感じる
 何ということもない連絡
 井川拓さんの遺稿
 新たに読み解いてゆく
 大きな死者
 身近な読者を感じる
 背を向けて
 日常を旅する雑誌
 プライベート・プレス
 書くための場
 どうでもいいのだろうか
 ワークショップ・マガジン
 小さな石
 読み手が書き手に
 さまざまな時間
 戸田昌子さんとの対話
 売る気
 年譜を眺めて
 待つということ
 ベースキャンプに届いた訃報
 一緒につくろう
 しぶとく想像して
 大事なものだった
 記録されている
 その先の風景
 印象的な手紙
 徳山駅から西へ
 年譜(二〇〇五〜二〇二三)
 あとがき

 最後の「徳山駅から西へ」だけは20年前に書いてあった古い文章で、『寄港』第4号に載っていたもの。『アフリカ』を始める2年前の、ある夏の日を書いたものだが、それをなぜここに入れたかということは、それもあとがきに書いた。
 この本はアフリカキカクではなく、どこか他所に出してもらった方がよいのかもしれないとも思ったのだが、縁のあるいろんなもの・ことを自分たちで雑誌や本にして残しておこうという活動の記録なのだから、この本もまずは自分たちで出してしまうのがふさわしい、と考えることにした。
 いつものように、ごく少部数でいいから、仮に本にしておくというつもりでつくればよいのだ。
 今回はタイトルが、ギリギリまで決まらなかった。「『アフリカ』を続けて」はサブ・タイトルだよね? という話になり、何か本の全体を照らすようなことばがないか、と探りつつゲラを読み返してみていたが、あるページを見た時にふと「夢の中で目を覚まして」というフレーズが目に飛び込んできた。
 パッチリと目を覚まして現実の中でやろうというのではなく、ボンヤリとした夢の中に生きようというのでもない。夢の中で目を覚まして、語り合えるような存在が私たちの人生には必要なんじゃないか。そう考え、書いた日のことを思い出しつつ、

 夢の中で目を覚まして ─『アフリカ』を続けて①

 というタイトルを、この本に寄せた。

 本文中にも出てくるエピソードだが、守安涼くんから言われなければ、私はこの連載を自ら本にしようとは考えなかったかもしれない。そこで、今回は久しぶりに守安くんに装幀だけでなく組版まで制作全般をお願いした。久しぶりというのはいつ以来だろうか、調べてみないとわからないけれど、15年ぶりくらいかな。
 本文を2段組みにしたのも彼のアイデアで、文字を詰め込んで、出来るだけ薄い本にしたいという気持ちの表れと言ってしまえばそれまでだが、「昔の文学全集みたいでいいかも」という話になった。詰め込んで、と言うわりには読みやすくなったと思う。
 自分でやってしまう方が気楽で、自由に出来るのは確かだけれど、こうやって他人に任せる領域が増えると、そのぶん本がふわっと目に見えない拡がり方をする。多少気を遣ったり、不自由な部分もあったりした方が、ものをつくるのにはよいのだ、と思うところもある。もっとも、仲間内に仕事の出来る人がいて、ボランティアで協力してくれるからこそではあるのだけれど。
 いつものように校正の黒砂水路さんにもつき合ってもらって、春と、年末の入稿前の2回、見てもらった。彼はこの「水牛のように」での連載も毎回、校正してくれているので、3回は見ていることになるが、それでもまだ何か見つかるので呆れたようなことを言っていた。ありがたいことだ。
 印刷と製本もいつものニシダ印刷製本、二十数年来の付き合いだ。入稿の連絡をしたら社長さんから返信があり、「下窪さんと『アフリカ』の足跡ですね。『寄港』まで出てきて大変なつかしく思いました。作業しながら更に読み込んでしまいそうです。気をつけなければ」とのこと。
 この本をつくりながら気づいたのは、自分は書き手というより、登場人物のひとりなのだ、ということだった。この人の見てきたものを、共に見たい、と他人事のように思ったりもした。
 いつしか、自分のやってきたことも研究対象になる、ということ。なぜ、こんなことをやってきたのだろう、と。
 この本の中には、同人雑誌やミニコミをやってきた人たちの歴史があるし、縁の深い複数の死者との、ことばにならない対話もある。もちろん『アフリカ』に書いて(描いて)、かかわってきた人たちがたくさん登場する。
 書き手としての私は、過去の自分を含む彼らの声を聴き、書き写すだけでよい。
 自分のやってきたことなのに、こんなにもわからない。ということは、もっともっと、幾らでも書けるような気がする。ものを書く人として、こんな幸せなことがあるだろうか。

カフェでお見合い

植松眞人

 半年ぶりに会う長男の修介はすっかり社会人としての立ち居振る舞いを覚えていて、なんだかこちらが落ち着かない。とりあえず、喫茶店で顔合わせをということにはなったけれど、本人同士が会い、両家の親もそこに顔を揃えるとなると、それは紛れもないお見合いだ。それに高橋が指定してきた場所は喫茶店と言うよりも今どきのカフェで、注文も入口近くのカウンターでするようなセルフサービスの店だった。席を予約することもできなかったので、席をきちんと確保するために、修介を連れて三十分前に指定されたカフェに入った。
 午前中だったので席に余裕はあった。セルフレジのカフェなどほとんど利用したことがなかったので戸惑っていると、修介が手慣れた物腰で私たちの注文を聞き、奥の二人がけの席を三つ引き寄せて両家六人の席を作るようにと指示を出して、カウンターへ向かった。私と妻の治子は修介に言われるがままあたふたと小さな二人がけのテーブルを三つ組み合わせて細長い大きめのテーブルをつくった。
 今回のお見合いは私と同僚の高橋が会社の研修で隣の席になったことがきっかけだった。お互いに定年まであと十年ほどという先の見えた状態でのスキルアップ研修は、なんだかとても白々しく、講師に気付かれないように私と高橋はボソボソと話し始めた。これまで同じ部署になったことはないので、あまり懇意にしたことはなかったけれど、それでも同じ会社に長く勤めていると、顔見知りではあり、何度か挨拶くらいは交わしたことがあった。
「孫を抱きたいんですよ」
 そう言ったのは高橋だった。
「もうね、自分の子どもは手を離れちゃったから、今度は孫を可愛がりたいんですよね」
 高橋はそう言って笑うのだが、実は私も最近、似たような話を治子としたばかりだった。
「いいですよねえ、僕も孫がほしい」
 孫の話でひとしきり盛り上がったあと、互いの家族構成の話をして、こちらには次男が、高橋のところには次女がまだ未婚のままだという話になった。
「次女は梨花というんです」
 そう言って、高橋はスマホに入っていた次女の写真を見せてくれる。大人しそうな色の白い女性で、目鼻立ちがはっきりしていて高橋によく似ていた。
「似てますね」
 そう言うと、高橋は笑う。
「ママに似たかったって言われますよ」
 その言葉に私もつられて笑う。笑いながら、見せてもらったのだからと今度は私が修介の写真を見せた。
「ああ、平山さんのところもよく似てますね」
 確かに、最近とみに似てきた気がする。けれど、修介のほうが背はかなり高い。
 そんなやり取りをしている間に、研修は終わり、私たちは「いい人はいませんかね」という自嘲気味な笑いを浮かべて別れた。
 それからひと月ほど経った頃だろうか。高橋から社内の内線で電話があり、近所の喫茶店に呼び出されて今回のお見合いを提案されたのだった。
「この間、見せてもらった修介さんの写真がどうも気になって。娘の顔を見る度に、もしかしたらお似合いの夫婦になるんじゃないかなあと思ってね」
 唐突な話に面を喰らったけれど、確かに修介と高橋の娘の梨花はお似合いかもしれないと思えた。目鼻立ちのはっきりした梨花と、どちらかと言えば地味な修介。小柄な梨花と大柄な修介。なにか、互いにないものばかりがあって、一緒になるとバランスが良さそうな気がするのは確かだ。
 話はトントン拍子に進んで、今日の日を迎えたのだった。
 私たちが入店してから三十分後の午前十一時、高橋夫妻と娘の梨花がやってきた。修介はすっと席を立って彼らをアテンドすると、飲み物の注文を聞いて、カウンターに向かった。その姿を見て、一瞬まごまごしていた梨花だが、思い切って修介のあとを追った。
 顔見知りの私と高橋がそれぞれの妻を紹介すると、互いにざっくばらんな会話が続き、若い二人が飲み物を運んできた頃には、まるで妻同士が旧知の知り合いのように会話をしているのだった。
 両家の六人が顔を揃えると、ほんの少しまた緊張が戻り、それぞれに話すタイミングを見計らいながら、互いの家のルーツを訪ね合ったり、子どもたちの兄弟のことを聞いたりしながら、肩をほぐし合うような時間を過ごし、なんとなく互いの家が、こんな娘が、こんな息子がいればいいな、という感覚を共有し始めた頃、妻の治子が小さく手をあげた。
「ねえ、もうすぐお昼だから二人でランチをとってきたら?」
 治子が言うと、高橋の妻もうなずく。
「それがいいわ。このあたりはこじんまりとしたお店がたくさんあるから」
 両家の母の提案に、若い二人は迷うことなく立ち上がる。
「私たちはもうすこし話してるから、ゆっくりしていらっしゃい」
 治子が言うと、じゃあ行ってくるよ、と修介が返事し、出入口へと歩き出す。梨花も恥ずかしそうに会釈をすると、修介のあとを追う。
 二人が出て行くと、一瞬の沈黙が私たちを覆う。その場の気温がすっと低くなったような気がした。それぞれに冷めた飲み物に口を付けて、落ち着きを取り戻そうとする。そして、お互いが気に入ったということになれば、自分たちは反対はしないという軽い約束がさっそく取り交わされる。結婚したら、梨花の仕事はどうするのか。どこに住むことになるのか。そんな勝手な話を親同士で勝手にしていることがなんだかとても楽しかった。
 どのくらいの時間、私たちは話していたのだろう。治子が、お腹が減りましたね、と言ったときにふいに二人が戻った。いや、戻ったという感覚の前に甘い香りが私たちの席の周囲に濃く漂った。その香りは二人が結婚を決めたことへの比喩かと思うほどに幸せという言葉とリンクしていて、私はおそらくきょとんとした顔をしていたに違いない。ところが、高橋も高橋の妻も、そして治子も同様に、その甘い香りを嗅ぎ取っていたらしい。
「甘いわねえ、ものすごく甘い匂いがする」
 治子が声に出して言うと、梨花が自分の服の二の腕あたりに鼻を寄せる。そして、小さく「あっ」と声をあげる。
「もしかして?」
 修介が言うと、梨花がうなずく。うなずいた梨花はとても恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「さっき、ワッフルを食べてきたんです」
 なぜか、修介も赤面している。
「ランチを食べずに?」
 治子が聞くと、梨花がうなずく。
「私が、えっと、誘ったんです。ワッフルを食べませんかって」
 梨花が言いよどんでいると、修介が話し始めた。
「僕のほうから誘ったんだよ。僕たちもそれなりに緊張していて、なんか食欲ないですねって話になったんだよ。そしたら、ワッフルを出しているカフェがあって、ものすごく良い香りがしていたんだ。僕が良い香りですねえって言ったら」
「私がワッフルが大好きだって言ったんです。そしたら、修介さんが僕も好きだって」
「そしたら、梨花さんがワッフル食べませんかって誘ってくれて」
 二人があたふたと事情を説明している様子を、私たち両家の親はなんとも幸せな気持ちで眺めている。そして、私はこの甘い香りに包まれた若い男女の結婚を阻むものがあるとしたら、それはいったい何だろうかと考えていた。(了)

話の話 第22話:びっくりする

戸田昌子

ちょっと、びっくりするくらいの量のクローブがうちにあったので、京都の下鴨ロンドへ持ってきた。金曜日の夜、すっかり暗くなってからロンドに到着すると、誰かがご飯を作っている匂いがする。キッチンをのぞくと、先日、ラオスから帰ってきたというIさんである。いい匂いにつられてキッチンの椅子にそのまま座り込み、そういえばIさんの本棚のご本がとっても面白かったですよ、たくさん書き込みがあってね、なんて、他愛のないおしゃべりを始める。あの本によると、フムスってもともとひよこ豆で作るんじゃないんですってね、そら豆だって書いてありました、Iさんの持ってらした本に。へえ、そんなこと書いてありましたか。

そんな話をしていると、ノセさんが帰ってくる。ノセさんは下鴨ロンドの管理人である。あ、Iさん、このお米、少しもらってもいいですか? とノセさんが言う。あー、いいですよ、3合炊いたから。なんて話をしながら、誰ひとり上着は脱がないままである。なぜならこの家は、築92年の和洋折衷住宅で、びっくりするほど寒いから。そもそもぼろぼろの廃屋だったのを、シェアメイトが協力して修繕しながら使っている施設なので、隙間風がよく抜ける。よく見てみると、壁にはちょこちょこと穴があいているし、窓ガラスだって割れたままのところがいくつもある。カーテンはレールからずり落ちそうだし、冬はどうしたって寒い。京都は盆地だから冬はただでさえ寒いのに、下鴨は京都駅あたりからは標高が高いため、さらに冷え込む。いい匂いに惹かれてキッチンから離れられないというのに、寒くてしょうがないのである。

あ、うちのクローブ、たくさんあったから持ってきましたよ、とわたしがカバンから瓶を取り出すと、「クローブって何に使うんですか?」とノセさんが尋ねる。ノセさんは質問と合いの手の名手である。ああ、これはね、クリスマスパーティで作るカスレに使うスパイスなので持ってきたんですけどね。これ、釘みたいな形してるでしょう。玉ねぎに刺したりしてバラバラにならないようにしてから煮込んだりします。とわたしは説明する。へえー、クローブってチャイに使うくらいしかわかりません、ぼくいまチャイ練習しているんですよ、イベントで出そうと思って。ああ、これはね、あれですよ、ホットウィスキーに使えるんです。やってみますか? レモンをスライスするでしょ、そこにクローブ5個くらい刺してね。ウィスキー入れて、はちみつも入れてね、それからお湯を入れるんですね。と、わたしがクローブの瓶を片手に力説していると、Iさんが目を丸くして、「そうやってスパイスの説明をしているトダさんって、まるで媚薬の調合をしている魔女さんみたいですね」と言い始める。「あ、わかります!」と合いの手上手のノセさんがすかさず言う。いや、それは、わたしが着ているコートが真っ黒なせいではないか? と疑問を抱きながら、わたしは媚薬ならぬ、ホットウィスキーを作り始めている。

このクローブは、実家の調味料棚からわたしがサルベージしてきたものである。「実家の調味料棚」というパンドラの箱にわたしが手を突っ込み始めたのは昨年ごろからである。母が怪我をしたのをきっかけに、台所の主が母から父へと移譲され、少々整理が必要になったのである。それで賞味期限切れの調味料を捨て始めたら、賞味期限が20世紀のものまでがみつかって、びっくりした。クローブには賞味期限が書いてなかったのだけれど、実家では誰も使いきれなさそうなすごい量だったので、あちこちでもらってくれる人に押し売りしている。

びっくりするくらいの量、と言えば忘れられないのが、一番上の姉が17歳のときにもらったバラの花束、という話が、我が家では連綿と語り伝えられている。そのとき高校生だった姉の17歳の誕生日の夜、ピンポンと玄関ベルが鳴った。ようこちゃんのお友達よ、と言われて玄関に出て行った姉が抱えて戻ってきたのは、見たこともない大きなバラの花束と白い大きな箱。うわ、すごい、このバラ17本もあるよ、ときょうだいで数えてびっくりしていたら、箱から出てきたのは、三段重ねのショートケーキ。なにこれ、3段もあるじゃん! と弟妹たちがワイワイ騒いでいると、これ、XXが作ったんだって、自分で……と姉が言う。XXはケーキ屋さんの息子なんだよ、だから自分で作ったんだって、と姉は説明する。華やかな浮ついた話題に事欠かない姉ではあったものの、XXは彼氏でもないのに、すごいねぇ、と全員が度肝を抜かれてため息をついた、という話。

ここのところ、原稿が書けないので、パソコンと本を抱えて、近所のチェーンの喫茶店に来ている。窓際に並んだソファのひとつが空いていたので、そこに陣取って、パソコンを開ける。とある写真家の、夫婦関係から生み出された写真について書いているわけだけれど、他人の夫婦関係なんて犬も食わないので、もつれた愛憎関係について何を書けばいいのか、書いてはいけないのか、悩み果ててわたしは顎をつまんでいる。するとひとつあけた隣席の、わたしより一回りほど年上の女性の二人組が延々と誰かの話をしている。

ヤスコは考えなしで感情のままなのよ

へえ、ヤスコは考えなしなのか、と聞き耳を立てながらキーボードを叩いていると、年配の女性が続ける。

ケイスケはなんでもミズエにおっかぶせてさ。ヤスコがいろいろ言ってくれてもそれだから逆効果。あの人がもう独特だったからね、感情の明かし方とかさ。もう、すぐキレるしさ

ケイスケってヤバめのひとなのかな。DVとか、それってまずいじゃん

ヤスコもミズエをかばうしかない。だってヤスコにそれ言ったら、それしたらミズエを諭すようなこと言うと思うよ。ヤスコはなんとなくわかってるけど、口にしないんだなって。それにわたしとケイスケの間はね、変なことで誤解するのよ……(間は聞こえない)……ジジツはあったんだと思うんだけど

ん? ジジツ?

だから、ケイスケが勝手に貸してるみたいね、それはだってね、間の鍵も閉めてるけど、チェーンもしめてる。絶対勝手に入れることはない。それなのにミズエが……(間は聞こえない)……だから、ヤスコは心外だと思ってる。それにあたしだってずっと一緒にいられるわけじゃない。ほら、内容は恥ずかしくて話せないけどね、こんなながーいのがきてる……ヤスコが送ろうとしてやめた形跡があるのよ。びっくりしちゃうわよこれ

そう言いながら年配の女性が携帯を示す。ケイスケはだれのなんなのか、なにがびっくりしちゃうのか、気になりっぱなしで、わたしの原稿はぜんぜん進まない。

びっくりした、と言えば、久しぶりに古い友達から電話がかかってきた。「戸田さん久しぶり。S野です。お元気ですか」と懐かしい声である。「いや、ぼく、死にかけましてね」といきなり、びっくりすることを言い始める。「えええ!」と相槌を打ちながら、話が長くなることを予感する。彼とはじつに四半世紀ほどの付き合いで、いつも長電話になるので、電話を受けるときは覚悟するのだが、電話を受ける前にトイレに行かなかったことにすでに後悔しているわたしである。家人が電話を受ける家電なら、先にトイレに行くのだけれど、携帯電話というのはこういうとき不便である。彼の声が大きいので携帯電話から漏れていて、それを横で聞いている娘がすでに笑いを噛み殺している。娘は彼とほとんど会ったこともないのだが、わたしが彼の退屈なほど生真面目な話し方をよく口真似しているので、娘は彼を知った気になっている。

彼の常識人ぶりは、我が家で時々、話題になるほどのレベルである。彼は家電にコールする癖があるので、夫が最初に電話を受けることが多い。ある夜、電話がかかってきたのだが、その電話の鳴り方がなんだか生真面目な調子なので、どうもS野君ぽいなと思ったのだが、別室の電話を取るのが面倒で放っておいたら、夫が電話に出た。「S野さんだよ」と言いにくるだろうと待ち構えていると、夫がなにやら話をしている様子がうかがえる。あれ、夫の友達なのかな、と思ってそのまま忘れて30分ほど経過。すると夫が子機を持ってきて、「S野さんだよ」と言う。え、夫と面識もないのに一体なにを話していたのか、とびっくりしながら子機を受け取り、「どうしたの? 夫と何話してたの」と言うと、「ああ、世間話」と言う。面識もない友達の夫と30分も話すことがあるのか、とびっくりしながら、とりあえず1時間ほど話して電話を切る。話の内容が気になるので、その後、夫に「S野君と何の話をしてたの?」と尋ねると、「ああ、世間話」と言う。返事までまるで同じとは、彼の常識人ぶりには感染力がある。

このS野君と美術館のミュージアムショップをうろうろ歩いていたときのこと。ガンダム事典といった感じのとても大きな本がちょうど出版されていたので、「おお、ガンダムだぁ」とわたしが言うと、「おや、戸田さんガンダム好きですか」と彼が言い始める。「ええ、好きですよ、兄がガンダム世代だし。もしかしてS野君もガンダム好き?」と尋ねると「ええ、好きですねぇ」と言う。その言い方が、かなり好きそうな雰囲気を醸していたので、つい突っ込むと、やはりかなり好きらしい。「でもこの年になると、あれですよ、ミライの良さが分かるようになりましてね。若い頃はやっぱりセイラさんがいいってみんな思うじゃないですか。でもやはり、いいのはミライですよ」などとぶつぶつ言っている。

帰宅してその話を夫にすると、「えっ」と驚く。「だって、ミライってファーストガンダムのなかでは一番のモテ女じゃん」と言い始める。そう、ミライ・ヤシマは、親の決めた婚約者カムラン・ブルームから遁走して、ガンダムの若き船長であるブライト・ノアといい感じにデキかけているのだけれど、ファイター乗りの伊達男スレッガー・ロウ中尉に心奪われるが、ノアの陰謀(?)によって戦死してしまい、結局はブライトと結ばれる、という、ファーストガンダム随一のモテる女性なのである。ミライはセイラさんほどの美女でもなくお姫様でもないが、母性の強いタイプという感じで、言い寄られるとフラっとしがちな弱さも魅力で、なにしろモテる。そんなミライは、食べ物に例えるなら食堂のカレー、幅広くいろんな人に好かれるタイプなのに比べると、セイラさんは真逆。セイラさんは言わばキャリア志向の強い孤高の女性で、フラフラしてる男性には「この軟弱者!」と一括しながらつい平手打ちのひとつもお見舞いしてしまうような強い女性で、美女なのに浮ついた噂もひとつもない。だいたいさ、ミライはS野君にオトせるような女性ではないよねぇ、とふたりでニヤニヤしながら話している。「だいたい、どっちかってえとセイラさんタイプのわたしの前でそれ言うのって、わりと失礼よね?」と言うと夫「女を見る目がないな」と一刀両断。ちなみにS野君は独身である。

娘は最近、推しが結婚発表したので大騒ぎである。このふたりはきっと結婚する! と予想していたカップルであったので、娘は嬉しくて仕方がない。朝からスマホを眺めてはニヤニヤしている。すると突然叫び出す。「ニヤケ顔でFace IDが5回も通らない!」えっ、そんなことあるんですか。そもそも娘のニヤケ顔なんて見たことなかったから、こっちがびっくりである。

11月、2週間あまりかけてフランスに行ってきたので、ワインをよく飲んだ。トゥールの妹の家に滞在していた間、妹とその夫のフレッドともよく飲んでいた。「わたし、オーガニックの白ワインなら悪酔いしないんだよね」と妹が言うので「そうよね」と相槌を打ちながら「それにしても、昨夜はわたし一杯しか飲んでないのにだいぶ酔ったのよね」と言うと、妹「なに言ってんの、まあちゃん? わたしとフレッドであなたのグラスに注ぎ続けてたじゃん、わたしはたくさん飲まないしフレッドも赤を飲んでたから、あのワイン、ほとんどあなた1人であけたのよ」と言う。それは一体、どういう1杯やねん、とびっくり。

「かあさんの歌」という童謡がある。そもそも、かあさんが夜なべして手袋編んでたあいだ、とうちゃんは一体、何してたんだという問題について、夫と議論になったことがある。旧Twitterで投票を募った結果、298票の投票があり、最終結果は下記のようになった。

酒飲んで寝てた
23.8

出稼ぎで不在
31.5%

出稼ぎ先で酒飲んで寝てた
20.5%

死別
24.2%

「酒飲んで寝てた」「出稼ぎ先で酒飲んで寝てた」を総合すると44.35%という結果になった。結局、酒を飲んでいた、という、これは予想通りのびっくりではない意見が多かった。みなさん、飲み過ぎには注意しましょうね。

内視鏡フン戦記

篠原恒木

一年の始めにふさわしい話をしよう。長いので座って聞くように。

先日カイシャの血液検査で、腫瘍マーカーの値が基準値を超えていると言われてしまった。

血液検査なので、腫瘍マーカーの値が高いのが肺なのか、胃なのか、腸なのか、肝臓なのか、膵臓なのか、体のどの部分なのかが判らない。なので、ただちに内臓全般の精密検査を受けなさい、とのことだった。ウロタエルことはなかったが、やや剣呑な気分になった。何十年にもわたって「会社のガン」と言われ続けてはいるが、それ以外に自覚症状はまったくない。
可能性の高さからいえば、なんといっても肺だろう。喫煙歴四十六年、ショート・ホープを一日二十本吸い続けているという、きわめて意志の強いおれなのだ。意志の強さは時として致命傷になる。

精密検査マニアの友人に相談すると、すぐに内視鏡の名医を紹介してくれて、同時にCTスキャンのクリニックも手配してくれた。有難いことだ。

世の中にはいろんなマニア、オタクがいるのですね。
その頼もしき友人は各方面の病院、医師にやたらと詳しく、名医と呼ばれるヒトビトともツーカーの間柄だ。消化器官ならあそこの病院のナニナニ先生、呼吸器科ならここの病院のダレソレ先生、脳疾患ならそこの病院のナントカ先生、と詳細に教えてくれる。もちろん自分でも精密検査をあちこちで頻繁に受けているらしい。

おれはといえば「かかりつけ医」という存在がいない。通院しているのは前立腺肥大で泌尿器科、不眠症で精神内科、左膝骨壊死で整形外科といった按配で、どれも胃腸、肝臓、肺、膵臓などとは関連がない。泌尿器科で定期的に前立腺の腫瘍マーカーだけは調べてもらっているが、今のところセーフだ。

なので、ここは精密検査マニアの友人に甘えることにした。思えば人間ドックというものをこの二十年くらい受けていないし。

まずはCTスキャン。友人が口を酸っぱくしてアドヴァイスをしてくれたのは、
「肺から骨盤までの範囲で撮影してもらうこと」
だった。おれは素直に従った。このCTスキャンというやつは、ベッドに仰臥してバンザイして息を止めていればあっという間に終わってしまう。どうってことはない。結果は一週間前後で内視鏡の名医に送られるという。

次の日の朝は六時に起きて、電車、バスを乗り継ぎ、精密検査マニアの友人が予約してくれた内視鏡の名医のもとを訪れた。するとその友人が病院の入口でおれを待ち構えているではないか。不意打ちを食らったおれが、
「なんで? なぜここにいるの?」
と訊いたら、
「初診だもん。 一応、おれが先生を紹介しないとダメでしょ」
と言う。まさか六十四歳にもなって保護者付き添いで病院へ行くとは思わなかった。彼の生来の優しさに感動すべきなのか、彼の生来のマメさに感心すべきなのか迷ったが、有難いやら申し訳ないやらで身の縮む思いだった。

待合室で名前を呼ばれ、診察室に向かうと、友人はおれを追い越し、先にドアを開け、
「センセー、どーも」
と、慣れた口調でずんずんと部屋に入り、どっかと椅子に腰かけた。もう一脚、椅子があったのでおれはそちらへ座った。どっちが患者だ。
「センセー。こいつ、おれのダチなんすけど、ちょいと胃と腸の内視鏡検査をしていただけませんか。血液検査で腫瘍マーカーが高く出ちゃったらしくて」
友人はスラスラと医師に説明してくれた。おれがしたことは、カイシャに貰った血液検査の結果の紙切れをおずおずと渡すことだけだった。

内視鏡の名医は万事了解という雰囲気で、すぐ検査の日時を翌週に決めてくれて、検査前日、当日の注意事項を説明してくれた。

1.検査前日の朝食はお粥のような消化のいいものを食べるように
2.前日の昼食、夕食は腸の内視鏡検査用の特別食を渡すから、それを食べるように
3.夕食は午後七時までに摂り、午後九時に下剤を三錠、多めの水で飲むように

4.検査当日は検査の五時間前に水で溶かした下剤を二リットル飲むように
5.その下剤を一リットル飲むごとに〇.五リットルの水を必ず飲むように
6.すると便意を催してくるので、便が完全に透明の液体になるまで排便を続けるように
7.水のような便が排出し終えたら、来院して検査時刻まで待つように

病院を出て友人にお礼を言って別れたあと、おれは考えましたね。
おれの自宅から内視鏡の名医がいる病院までは電車、バスを乗り継いでおよそ一時間半かかる。ううむ、検査当日の朝が不安ではないか。検査開始は午前十一時と決められていた。ということは五時間前の六時に起きて、二リットルの下剤を飲み干し、トイレへ数回行かなければならないわけだ。すっかり便を出し尽くして、家を出発することは可能だろうか。大丈夫だと思って出掛けて、満員電車の中で突然の便意による憤死、いや、糞死する危険性は大いにあるのではないか。
友人は別れ際に言った。
「二リットルの下剤はキツイよぉ。ビールなら飲めるけど、水なんてそんなに飲めるもんじゃないからね。おまけに度重なる便意がスゴイんだ。おれなんて病院へ着く途中、あるいは寸前におもらしをしたことが何回もあるもんね」

その夜、勤めを終えて帰宅したおれはツマに言った。
「というようなわけなので、検査前日は病院からタクシーで十分ほどの場所にある安いビジネス・ホテルに前泊しようと思う」
ツマも全面的に賛成の意向を表明してくれた。そりゃそうだ、同居人が早朝からそんなピーピーと騒がしい振る舞いをするのは勘弁してほしいだろう。

そして検査前日。
朝食は自宅で素うどんを半分だけ食べた。昼食はもともと摂らないので、与えられた特別食はパスして、夕方の特別食はカイシャのデスクで食べた。レンチンするのが面倒だったので、レトルトの袋をちぎってそのまま食べた、いや、飲んだ。チキンの入ったクリーム・シチューだったようだが、常温で食べたので味の感想は避けたい。

ビジネス・ホテルに着いたのは午後八時だった。明朝必要となる二リットルのペットボトル「南アルプスの天然水」はホテルの隣にあったコンビニで購入した。ペットボトルはずしりと重く、こんな量を短時間で飲めるのだろうかと不安が募った。おっといけない、二リットルの水で溶かした下剤とは別に、水を〇.五リットル飲まなければならなかった。追加購入だ。ますますコンビニのレジ袋は重みを増し、プレッシャーは高まった。

ホテルの部屋に入り、ワンピース型のパジャマに着替えてベッドに腰かけると、おれは映画『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレイのような気分になった。もっともアチラはパークハイアット東京で、おれはといえば格安のビジネス・ホテルだし、アチラのようにスカーレット・ヨハンソンのような若い美女と知り合うこともない。だが、窓の外を見ると、別世界のような飲み屋街があり、ヒトビトがそぞろ歩いている。飲み食いしているのだろう。じつに楽しそうだ。なのにおれはこれから明朝十時までこの狭い部屋に絶食状態で孤独の籠城だ。待ち受けているのは『ロスト・イン・トランスレーション』のようなホテルのバーで飲むウィスキーではなく、下剤二リットルだ。もっともこのホテルにバーなどないけどね。

おれが映画のビル・マーレイと共通しているのは不眠症ということだけだ。家から持ってきた睡眠薬と精神安定剤を飲んで、午後十時半にはベッドに入ったが、眠れない。
言いつけ通り午後九時に服用した三錠の下剤が効いたのか、午前二時半と午前五時半の二回、トイレへ行き下痢をした。

午前六時、ろくに寝ていないおれだったがムクムクと起き出して、二リットルの水で下剤を溶かし、むりやり飲み始めた。
不味い。よく言えばポカリスウェットを濃縮したような味で、悪く言えば塩水の味だ。これを二リットル飲むなんて拷問ですよ。だが「便が完全に透明の液体になるまで」、つまりは胃と腸の中がきれいさっぱり、空っぽになるまで飲み続けなければ、内視鏡検査に支障が生じるわけだ。

結果を書こう。
おれは下剤一・五リットル、水〇・五リットル、計二リットルでギヴ・アップした。九十分間のタタカイであった。その間、そしてその後、おれがトイレに駆け込んだ回数は計十一回。三回目くらいから水のような便になり、五回目からは便座に座ると同時に噴水のような透明な水が肛門から勢いよく放射されるようになった。
「もう大丈夫かな、出し切ったかな」
と思うと、すぐに便意に襲われ、またまたトイレへ。六回目からはその繰り返しだった。特筆すべきは尿意がまったくなかったことである。おれは前立腺肥大なので頻尿傾向にあるのだが、そのおれが二リットルの水分を短時間で飲んだのに、おしっこはちょっとしか出なかった。とすると、あの下剤はすべて水グソとして放出された、という仮説が成り立つ。

「特筆」「仮説」などという単語を「水グソ」と並列して使わなくてもいいような気がしてきたので、話を先に進めよう。
「自信はないけど、もういいかげん出し切ったのではないか。てか、もうこれで勘便、じゃなかった、勘弁してほしい」
とヘトヘトになりながら思ったのは十一回目、チェックアウト時刻の十時ちょい前だった。慌ててホテルを出ると、ちょうど空車のタクシーが通りかかったので、それに乗り込み、大過なく病院へ着いた。検査開始時刻まで五十分ほどあるが、便意を催したら病院のトイレを借りればいい。幸いにも催さなかった。ホテル前泊は正解だったのだ。

やがて名前を呼ばれ、着替え室へと案内された。看護士さんは使い切りのショートパンツをおれに手渡しながら、こう言った。
「このパンツは切れ込みが入っているので、着替えるときは切れ込みが入っているほうがお尻に来るように穿いてくださいね」
なるほど、合理的ではないか。言われた通りに着替えを終えて検査室へ入り、ベッドに寝かされ、採血の注射、そしてそのまま点滴を受けた。先生が登場して、
「では始めましょうか」
と告げて、胃カメラからスタートした。さすがは内視鏡の名医、すぐに胃の検査を済ませて、続いて腸の内視鏡検査へと移る。

事件はこのときに起こった。使い捨てショートパンツの尻部分の切れ込みを見た医師は驚きの声を上げた。
「なんだ、穿いているの?」
そう、おれは着替えのときに自前のボクサー・ショーツを穿いたまま、その上から使い切りの尻割れパンツを重ね穿きしていたのだ。何のために尻が割れているパンツを与えられたのだ。阿呆である。看護士さんたちは笑いながらパンツ・オン・パンツという斬新なレイヤード・スタイルのおれから二枚のパンツを一気にずりおろした。その結果、おれの下半身は万座の前で完全露出してしまうという恥辱に晒された。穴があったら入りたいとはよく言うが、先生は穴があったのですぐ入れたようだ。

数分後、医師がこう言った。
「入っていかないなぁ。痛いですよね?」
麻酔がやや効いているのか、おれの返事は
「あい、いらいでしゅ」
だった。なんだかパンツの件といい、この呂律の怪しさといい、おれのココロは情けなさでいっぱいになった。
「痛いかぁ。じゃあ、麻酔追加」
医師は看護士にそう指示して、おれの意識はさらに怪しくなっていった。
「腸が人より長いですね。だから内視鏡が入りにくいんですよ」
普段のおれなら、
「チョー長いですか?」
と返すところだが、レロレロ状態になっているので無言を貫いた。

検査が終わり、三十分ほどリクライニングのソファで休むように言われたが、毛布が掛けられているとはいえ、下半身完全露出が気になっているおれは眠ることもできなかった。点滴が終わった頃、看護士さんが針を抜きながら言った。
「ご自分のパンツを穿いて、着替えたら先生の診察があります」
「かひこまりまひら」
まだ呂律が回らなかったが、自分のパンツを穿き忘れて着替えたら、それこそ完全な阿呆ではないか。抗議したかったがやめておいた。

診察室に呼ばれると、モニターを一緒に見ながら医師から次のような所見を述べられた。
「胃はびらんが多いですねぇ。けっこうな十二指腸潰瘍の痕跡もあったけど」
「いや、まったく身に覚えがないのですが」
「そうですか。自覚症状があったはずだけど、知らないうちに治癒したのかな」
ここでもやっぱり阿呆ではないか。
「腸にはたくさんポリープがありました。ほらね」
「ははぁ」
「これ。このポリープ。大きくて顔つきが悪いやつでしたから、これだけは切っておきました。一応病理検査に回しますが、こういうやつは放っておくとがんになるんです」
「ははぁ」
「次にCTの結果ですが、肺はきれいですね。ほら、こんなにきれい」
「はい?」
おれはTVドラマ『相棒』の片山右京さんの口調で聞き直したのだが、思い切りスベってしまった。しかしヘビー・スモーカーのおれの肺がきれいとは驚いた。軽い肺気腫あたりは覚悟していたのだ。
「肝嚢胞がありますが、これはまあ問題ないでしょう」
カンノーホー? 意味がわからないけど問題がないのならスルーだ。
「あとは心臓、膵臓、脾臓、腎臓、すべて問題ありません。前立腺肥大が認められますが、これは治療中ですよね」
「はい」
「切ったポリープに問題があるようでしたらすぐにご連絡しますが、まず大丈夫でしょう。何かご質問はありますか」
「そのポリープの正体はいつわかるのですか」
「二週間後くらいかな。その頃にもう一度お越しください」

おれはきっかり二週間後に病院へ行った。だって怖かったんだもん。
名前を呼ばれて診察室へ入った。
「やはり切除した顔つきの悪いポリープは放っておくとがんになるタイプのものでした」
「え、そうだったんですか」
「中学三年生、といったポリープですね」
おれは意味がわからずキョトンとしていた。
「いや、がんがハタチだとしたら、シノハラさんのポリープは中学三年生くらいの年齢ということです」
「中三だと食べ盛りじゃないですか。どんどん成長する時期ですよ」
「ははは。でも切除したから大丈夫。問題ありません」
「よかったぁ、助かったぁ」
「ひとまず安心してください」
「今度先生と僕がお会いするのはいつごろになるのでしょうか」
「来年の今ごろでよろしいかと思いますよ」

おれはややホッとして病院をあとにした。おれのポリープは中三だったのか、と思いを巡らした。中学三年生といえば年頃だ。多感な思春期だ。パンツを二枚穿きしてしまうかもしれない。急に反抗期になり、グレてしまうかもしれない。不良化だ。闇バイトだ。ニンゲンならともかく、そんなポリープを更生させるのは難しい。チョキンと摘み取ってしまうのがいいのだ。とりあえずはめでたしだ。

以上、おれの新年のご挨拶もチョー長かった。どうか今年もパンツと自由の意味は、はき違えないようにしましょうね。

麗蘭、京都

若松恵子

京都の蔵づくりの老舗ライブハウス、磔磔(たくたく)に麗蘭を聴きに行った。メンバーは、仲井戸麗市(Vo,G)、土屋公平(G,Vo)、早川岳晴(BASS)JAH-RAH(ジャラ、DRUMS)。RCサクセションの仲井戸麗市とザ・ストリート・スライダーズの土屋公平がお互いのバンドの休止期間に始めた麗蘭。1990年の結成依頼、磔磔は特別な場所だ。コロナでのお休みを経て、昨年から有観客での年の瀬ライブが再開された。

仕事の緊張をほどいて、日常を離れて、京都にでかけていく12月30日。大掃除をすませた京都の街並みが清々しくて、静かで、そんなところにも魅かれて通い始めて15年を超えた。今年の京都は観光客が多くてザワザワとしていたけれど、観光バスが止まらないような寺社仏閣はひっそりとして、磨きこまれた古い建物や庭の緑が冬の陽に光っていた。

ライブハウス磔磔も今年の春50周年を迎えた。有名なブルースマン、ソウルマンの来日ライブや日本のロックバンドの伝説的なライブを数々行ってきた場所だ(履歴を見てたらカラワン楽団もライブをしている)。蔵に音楽の神様が住んでいるから磔磔は音が違う、かつてメンバーがそう語っていた。磔磔の1年の最後のプログラムを任せられる矜持と責任、そんな事を感じさせる全力を注ぎこんだライブだった。

今年のタイトルは「ROCK&ROLL Hymn」。ロックの讃美歌だ。祈るのは愛と平和。アンコール前の本編終了後にビートルズの「愛こそすべて」が流された。終演後には、「ホワッツ・ゴーイン・オン」だった。世界の様子は、手放しでただ「イエー」って叫んで済ませられる状況ではなくなってきたのだ。ロックに打たれてしまった者としては、「戦争はしかたがないことなんだ」なんて決して思えないし、思いたくない。ビートルズが最初の衛星放送で歌ったように、「愛こそ」がすべてなのだ。ロックを聴いて得たその確信を、手放さずにいたいと思う。仲井戸麗市のなかにも、土屋公平のなかにも偉大なブルースマン、ロックスターのスピリットが流れ込んでいる。そのスピリットをもって演奏された「ROCK&ROLL Hymn」。愛と平和と言い続けるためにロックが必要だ。日本のために戦争が必要だと言い出しているかっこ悪いやつらと対峙する感性を持ち続けるために、あきらめずに本物のロックを聴く。

しもた屋之噺(276)

杉山洋一

このところ、夜が明ける前の、張り詰めた朝の気温は零下4度くらいでしょうか。真冬で食料も少ないのか、リスも小鳥も、朝になると餌をねだりにやってきます。幼気というのか、むしろ逞しさすら感じられる小動物たちの顔を眺めながら、あのCovidの時でさえ、粛々と新しい年がやってきたことを思い出します。ともかく誰かが、わたしたちの背中を前へと押し出し続けてくれているお陰で、今日に至るのです。

12月某日 ミラノ自宅
ジョージア政府、欧州連合加盟交渉の停止を発表。市民は激しく抗議している。この世の中に真実は確かに一つしか存在しないかもしれないが、真実の解釈はおそらく何通りもあって、各人が自らの解釈を信じている。その上インターネットの怪しげな情報と人工知能も入り雑じってしまって、最早真実の審判の基準すら揺らいでいる。われわれは強権政治は悪だと信じているが、あれだけ民主主義と欧州連合を切望したジョージアにあっても、着実に親ロシア勢力が議席数を増やしてきて、現実として与党の座を維持している。選挙に手が加えられているとも報じられているが、われわれのように外にいる人間は、どう理解してよいか俄かにはわからない。少なくとも、以前あれだけ戦ったロシアに対して、シンパシー、もしくは諦観を持って暮らしている市民が一定数いるということだ。それはウクライナでも同じだったのかもしれない。たとえ北海道の一部をロシアが実効支配していたとしても、ロシアにシンパシーを持ってより強い繋がりを望む日本人も出てくるかもしれない。

12月某日 ミラノ自宅
国立音楽院裏の中華風日本料理店で、Mと昼食。焼きソバもどきを食べる。彼も出版社で日本語版「ローエングリン」を聴いたらしい。
「本当にすばらしいヴァージョンだった。最初こそ、日本語で聞くローエングリンは不思議な気がしたが、いつの間にか我々を縛っていた「シャリーノ音楽」の固定観念から解放された、独自の確固たる音楽観が息づいていて、地に足のついた新しい音楽の在り方をしっかり生み出していたとおもう。しかし、あの歌手はなんて上手なんだ。初めて耳にしたときは、旋律がかった声の調子にショックを受けたのだけれど、いや、実際本当に美しいよ。長年バルトロメイの名演奏に心惹かれてきたけれども、今回の解釈は見事にあたらしい世界を切り拓いてしまった。それに、とんでもなく強靭な表現力だよ。実に素晴らしい…」。

12月某日 ミラノ自宅
本当に久しぶりにセレーナに会った。彼女は今年からベルガモの国立音楽院で室内楽を教えている。何も知らなかったが、彼女は、うちの学校から契約を突然打ち切られていて、一年間教職につけないまま、仕方なく国立音楽院の職を探したらしい。最初は南イタリアのマテーラ、そしてスロヴェニア国境に近いウーディネに移り、そして今回のベルガモに至る。今までは教えている音楽院の変更もある程度簡単だったが、教育省の方針が変わり、今後はずっと煩瑣になるらしい。ミラノからすぐ近くのベルガモに来られたのは本当に運がよかった、と安堵していた。数年ぶりに彼女に会ったが、表情がずいぶん穏やかになっていて、誘われるまま昼食を食べにいくと、Poke丼であった。海鮮丼の海鮮が減らされアヴォガドなどが追加してある、ハワイ版海鮮丼のようなもので、最近とても流行っているらしい。わざわざ食べたいとも思えず、今回初めて試してみたところ、決して嫌な味ではなかったが、わざわざ何度も食べたいものでもなかった。
韓国のユン・ソンニョル大統領が、非常戒厳を宣布。事情もよくわからないうちに戒厳令は撤回された。子供の頃、新聞を開くたびに、「全斗煥大統領」と「戒厳令」という二つの単語が躍っていたのを思い出す。

12月某日 ミラノ自宅
息子が、友人のGに伴奏を頼んで、国立音楽院のオーディションにでかけたところ、学外の伴奏者は演奏できないと言われ、その場で、学内の伴奏研究員があてがわれて、事なきを得たらしい。よく聞けば、学内の学生から伴奏者を探してはいけない、と正反対の噂も飛び交っているらしく、混乱を来している。
今日は、学校でレッスンをしていると、突然国立音楽院の指揮科生徒が訪ねてきた。ウクライナ人だという。ぜひうちのクラスにも通いたい、というのだが、今年の入試は9月に終わっているし、クラスに空きもない。そう説明しているのに、なかなか承服しないのに感心する。ブザンソン・コンクールを受けたいが、今年で年齢制限ぎりぎりなんです。初めて会う学生にそう嘆願され、当惑するばかりであった。
昨日も、オーケストラとのリハーサルがあったが、どうしてもテンポが遅くなってしまって、と言うので、メトロノームで練習してみたらどうかな、とささやかな助言をする。
シリア反政府勢力、首都ダマスカスを解放。アサド大統領、モスクワに到着との報道。家族と共に亡命を表明。

12月某日 三軒茶屋自宅
長谷川将山さんの「望潮」を聴く。曲としては何の仕掛けもない、まっさらな楽譜だから、演奏者の全ての行為が、そのまま音楽の構成要素となる。吹いていない時の無音の所作でさえ、空間に彩と音楽を放ってゆく。このリハーサルを聴いて、道山さんはふと「融」を吹きたいとおもったという。その後でプログラムを読み、この曲が「融」を基にしていると知ったときは、音楽のもつ不思議な力を感じたそうだ。平井洋さんの奥さま、尚英さんにお目にかかる。どこからみても心に曇りがなく澄んでいて、わだかまりのない人のことを八面玲瓏(れいろう)と呼ぶそうだが、尚英さんの印象こそまさに八面玲瓏であった。演奏会は両親と並んで座って聴いていたが、父曰く尺八は、山籠りの寂々たる一軒家から洩れ聞こえる、心洗われる音だという。
数日前、間宮先生が他界された。どういう成り行きだったのか、高校に入ってすぐ、作曲の先輩方が受けていた間宮先生の室内楽レッスンに、譜めくりの名目で繰り返し通っていた。バルトークの「2台のピアノと打楽器」やドビュッシーの「白と黒で」などをレッスンしていただいていて、時々先生がさらっと弾かれるピアノが素晴らしかった。レッスン中、いつもすごく緊張していたからか、その他のことは何も憶えていない。
アイルランドが、パレスチナの国家承認をはじめ、ガザでの戦闘に対し厳しい措置をとっていることへの反発から、イスラエルは、在ダブリンイスラエル大使館閉鎖を発表。

12月某日 三軒茶屋自宅
美恵さんから、長野から送られてきた美味しいりんごを3個いただく。浜野智さんが、水牛の本棚に入れてあった「ミラノ日記」と、最初期の「しもた屋」を、最近ロマンサー用に直してくださったので、また読めるようになった。文書でも写真でも楽譜でも、結局は紙媒体で残しておくのが無難には違いない。「しもた屋」を久しぶりに読み返すと、鬼籍に入った友人、先生方の言葉が並んでいる。たとえ、その時の肉声が録音として残っていたとしても、文字で読む彼らの言葉の方が、何故かよりリアリティが感じられる気がする。書いておかなければ、何も覚えていない。そう思って書きつけただけに過ぎないが、文字が静かな起爆剤になって、当時の空気の匂いから辺りの風景まで、魔法のように空間を再現してみせる。楽譜だって、それに近い効果はある気がするが、ここまで具体的ではないだろう。意味があるかどうかは考えず、とりあえず書きつけて、後は忘れておけばよいのだ。意味があるかどうかは、何年も経たなければわからない。
どこから来たのかは定かではないが、息子が賑々しく我々のもとを訪れてから、生活の端々で残す彼の言葉もなかなか奮っているし、感心することも多い。しかしながら、そのほとんどは、文字のなかに封じ込められているばかりで、こちらはすっかり忘れてしまっていた。それは息子に限らず、家族であれば、誰しも同じ経験をしているに違いない。営みというのは、かくも儚くうつくしい。夜、忘年会で、池辺先生が西村先生の残した五線紙について話していらした。

12月某日 三軒茶屋自宅
玉川上水の音大にでかけて、「自画像」について話す。Covidの際、火葬のために遺体を受け容れた市町村の長が、死者に敬意を表して鳴らした弔礼ラッパであったり、当時、街中で鳴り響いていた、低く悲しい弔鐘のヴィデオも流した。演奏を一通り聴いてから何か質問があるかたずねると、一人の妙齢が手を挙げた。「君が微笑めば」と同じ味わいがするのですが、なぜでしょう。
作品のスタイルも方法もまるで違うから、そこに共通しているのは、同じ人間が書いたことくらいだろう。「自画像」では半世紀に亙る人々の諍いを俯瞰したが、次回は一世紀もの人間の営みを、何某かの方法で書きつけたいとおもう。古代や中世の無数の叙事詩の作者たちは、書きながら何を思っていたのだろうか。世界中の無名のホメロスたちに思いを馳せる。
行きは高田馬場から西武新宿線に乗ったが、帰りは玉川上水からモノレールで立川に出て、南武線、田園都市線と乗り換えて家路に着いた。

12月某日 三軒茶屋自宅
家人の弾く、フィオレンティーノ編曲バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ。聴いていると、小学生のころ初めてこの曲を練習したとき、開放弦で同音を繰返してゆくところで、身体が浮遊する錯覚を覚えたことや、短調のフーガにふと浮き上がる変ロ長調のイタリア風断片が鮮烈だったこと、同音ペダルの連続が劇的で胸が一杯になったことなど、さまざまな触感が鮮やかに甦ってきた。10月に息子が弾くバッハを聴いたときは、音の芯が家人と似通った部分がある気がしたが、改めて家人のバッハを目の前にして、母子の個性の差がよく見えて興味深かった。
家人はバッハを弾くとき、敢えて少し音楽を先取りしながら、左手から音楽をつかんでゆく。息子は、どちらかと言えば、右手から音楽に入って、左手は右手を追随する感じだ。家人の左手が大胆に音楽の間口を広げ、右手はその広がった空間を満たしてゆく。そこには、彼女がタンゴから会得した感覚が溶け込んでいる気もする。
息子のバッハはよりストイックで、ひたひた音を紡ぎ出してゆく。ドラマティックな部分の作り方が、ずいぶん違う。
家人はプログラム後半、ヤナーチェクのソナタを弾いた。左手が個性的なオスティナートを繰り返すまにまに、右手が哀切に旋律を歌う。かき鳴らされる悲劇的な伴奏にのって、野太い歌手の声がひびきわたる。

東神奈川から横浜線に乗って町田へ向かった。誕生日に両親とつつく夕餉など、中学生以来ではないか。
海老などをていねいに詰めた海鮮揚げ春巻きが主菜で、絶品であった。父曰く、この春巻きだと、母も沢山食べられるのだという。美味しいシラスやタラコの煮つけ、山芋、数の子、伊達巻、黒豆、ごまめの佃煮も用意してくれていて、ちょっとした正月気分を味わう。今日くらいは一緒にケーキを食べたいと、自分のためにアップルパイを一個購入したが、到底全部は食べきれず、三つに切り分けてもらう。

12月某日 三軒茶屋自宅
JR渋谷駅から海老名行の列車に乗る現実を、浦島太郎の頭はどうにも受け容れられない。渋谷から海老名に行くのなら、新宿から小田急線に乗るはずでしょう。東京の地下鉄も複雑だが、渋谷から東横線に乗ろうとして、また海老名行とか書いてあると、頭の中の地図が混乱して、理解を拒否してしまう。
渋谷から3駅、ほんの数分で西大井に着くのも、皮膚感覚としてしっくりこない。だから理解せずに、ただ乗車して下車するだけ。観光客と変わらない。西大井駅前の江南料理屋で肉をぬいてもらって、酸辣湯麺のランチを食す。美味。

夕方久しぶりに仙川にでかけた。昔、ここで自分が過ごしたのと同じ年代の学生たちが、当時よりずっと明るい服装をまとって、洗練され現代的な校舎に佇んでいる。6人の作曲受講生の作品を実演してもらい、作品と演奏について意見をいう。そのうち2人は中国からの留学生だったが、日本語が上手なのに驚く。そのせいか、ミラノで教えている中国人留学生とは、まるで違う印象を受けた。
2週間ほど前、ミラノ国立音楽院声楽科教師4名が在宅起訴決定と報道された。「イタリア語でのコミュニケーションに不自由な学生に関し」一人につき9000ユーロ(150万円弱)から12000ユーロ(200万円弱)を要求し、不法に入学を幇助、とあった。「伊語の不自由な学生」が、中国からの留学生を意味するのは、イタリア生活の皮膚感覚があれば、なぜか理解できてしまう。「中国人留学生」と書くと人権侵害などの問題があるのかもしれないが、この書き方にもヨーロッパ人の嫌らしさが垣間見られる気がする。
仙川の中国人留学生は、日本語が出来るからか表情も明るく、楽観的にも見える。間違いを指摘しても「ああそうですね!」「ああ、間違えていました!」と楽しそうにしていて、見ていて気持ちがよい。
ミラノの中国人学生たちは、イタリア人を初め、ヨーロッパ人とあまり積極的に交わらない。国立音楽院でも市立音楽院でも、みな中国人同士集っている。指揮の生徒のシャンシャンは、空いた時間は朝から晩まで中華料理屋でアルバイトしているらしいが、学費、生活費を捻出しなければならないとは言え、さすがに本末転倒で可哀想でもある。何しろ中国人コミュニティがしっかりしているため、イタリア語の上達も遅れがちである。
尤も、イタリア生活の長い日本人の同僚曰く、「まあ日本人留学生も、その昔は同じようなものだったけれど」と自嘲した。イタリア語など話さなくとも、レッスンには日本人の通訳が毎回ついていて、袖の下で入学試験で便宜をはかって貰うこともあったという。日本人の羽振りが良かった頃の話だ。同じアジア人の日本人の中にいるほうが、中国人もより溶け込みやすいかもしれない。

演奏学生の演奏からは、こんな感じかしら、と全体の雰囲気をつかんで演奏している印象を受けたが、30年近くイタリアに暮らしていて、自分の音符の読み方も変化していたことに気づく。イタリアの読譜からは、音符の周りの「こんな感じ」というアソビがすっかり削ぎ落されているから、だからこそ見えてくる風景もある。音符の裡に感情をこめず、空間に放たれた音に気持ちを乗せてゆく感じだ。
作曲学生の作品からは、言いたいことを大胆に表現する上で、え、本当に良いのですか、という薄い当惑も感じることもあった。彼らの不安に対して、ええ勿論、良いのですよ、と明るく受け止めるのが、我々年長者の本来の役目なのだろう。

学校だから、あまり羽目を外したことも言えないが、あまりバランスよく音楽を作りすぎると、可もなく不可もない、個性のない音楽として見過ごされてしまう危険もあるから、注意は必要だ。
楽譜のはじめに、テンポこそ数字で指示してあるものの、表情や情感の指示は殆ど書かずに、演奏者の好みに頼っていたので、もう少し情報を増やすようにお願いする。日本語でていねいに指示を書き込んでいた学生には、下手でも構わないので英語なり、ヨーロッパ語で書くことを勧めた。ヨーロッパ語での説明を自らに課すことで、頭の中がより単純で簡潔になり、表現もより演奏者にわかりやすくなる。

12月某日 三軒茶屋自宅
何人もの若い演奏家たちを、かくも無責任に眺めつつ思う。自分にとって、演奏家の魅力は、正しく弾けることでも、速く指が回ることでも、暗譜で弾くことでも、ひとより大きな音が出せることでもなかった。モーツァルトでもシューベルトでもベートーヴェンでも、普通に演奏を聞いて魅力を覚える部分が、表面上のスタイルは違っても、やはり同じように演奏者の魅力として、体の中に沁みとおってくる。それは身体の周りを包み込む、透明な「気」のようなもの。無色のガスの中から、きめ細かい産毛のような繊毛を一本ずつ抽出して、絢爛な見事なガウンを編み上げるのだが、そのガスは生あたたかく、そこはかとなく人肌すら感じさせる。
これを纏って音を出すとき、舞台で弾いている音楽は、空間を介さずに、直接こちらの体内に染み入ってくる。これを纏って弱い音を弾かれると、こちらの身体も微妙に震えて体の底で共鳴する。纏わずに音を出すと、ただの弱い音にしか感じられない。催眠術のようでもある。田中吉史くんに会った。彼らしい思慮深さに溢れる素敵な音楽。

12月某日 三軒茶屋自宅
今年は本当によく働いた。しかし、物事を考えたり掘り下げたり一人でぼんやりしたり、周りを削ぎ落して尖らせてみたり、どれも全くできなかった。その代わり、ちょうどケバブ肉のように寸胴で回転している「思考」は、どんどん周りに過剰な養分を蓄えてゆき、原型さえ判然としないまでになっている。ところが、この年の瀬ほんの数日床に臥しただけで、5キロ近く体重が減って何となく頭もすっきりした。人間の身体は、強靭でもあり柔軟でもある。明日当方がミラノに発つと、その翌朝には入れ替わりにミラノから息子がやってくるので、年末の大掃除を兼ねて、少しずつ休みながらあちこち磨き上げた。
床に臥せていた時、アッバード、スカラ座とモンセラート・カバリエのヴェルディ・レクイエムのリハーサル風景を目にして、思わず泣いてしまった。急激に体力が落ちていて、涙腺ももろくなっていたのだろう。全身で音楽を紡いでいる彼らに対して、心の底から全幅の感謝をおぼえると同時に身体の底が震えて、何かが次第に身体の表面に沸き上がってくるのを感じた。ふと、気が付くと眼球の端から液体がこぼれていた。
この素晴らしい音楽に触れられるという幸福に、ただ感謝したい衝動。体の奥底で突き上げられるような、滾っているマグマのような、これは何なのか。誰なのか。
この瞬間に自分を生かし、音を響かせ、感情の本質を身体の芯に共振させている何か。音を五線紙に書くとき、信じられるのは、このおどろくほど静かな激情のみ。

12月某日 ミラノ自宅
夜23時半過ぎ、最終のローマ・ミラノ便でリナーテ空港に到着する。着陸態勢に入って高度が下がってくると、ミラノの街並みは、ちらちら、めらめらと橙色に燃え立っていた。猛暑の日中、アスファルトから水蒸気が立ち昇って、街が蜃気楼にゆらめくように見える。それを反転させると、冬の真夜中、澄み切った零下の街並みが、暗めの街灯のまにまに儚い輪郭を伴って浮き上がるのだ。果たして、このかそけく明滅する無数の蛍光の正体は、各家庭が用意したクリスマスの電飾であった。気のせいか、昨年よりも少し賑わいが戻った気もする。
家に着いて、紅茶を飲みながらニュースをつけると、カザフスタンで、アゼルバイジャン機墜落のニュースがかかった。カザフスタンも、アゼルバイジャンも、ついさっき通ってきたばかりだし、今頃息子の搭乗機もカザフスタンを出るか出ないかくらいのはずだから、無意識に身体が強張る。同じようにこのニュースに反応した人は、自分だけではないだろう。
ロシア上空が飛行禁止になって以来、日本からイタリアに戻る便は、とても飛行時間が長くなった。いつまで経っても通過しおわらないカザフスタンは、なんて大きな国なのだろうと感心していて、アゼルバイジャンあたりで、ああ漸くヨーロッパが見えてきたと安堵するのが常だ。周辺国では飛びぬけて先進的なはずのアゼルバイジャンで、一体何が起きたのか。

12月某日 ミラノ自宅
零下4度ほどの朝、いつものように運河沿いを散歩しながら、朝焼けに真赤に染まる街並みに見惚れる。藤城清治の影絵とまったくおなじ色調。もえるような巨大なキャンバスに、精緻に書き込まれた家々の屋根が、漆黒の複雑なシルエットになって浮き上がる。
渡邉理恵さんが指揮した、ケルンのデヒオ・アンサンブルの録音を聴く。ファルツィア・ファラアの「いっしょにim selben augenblick」。一見すると短音とその余韻に耳を傾ける時間が続くだけにも見えるのだが、思いがけず、なめらかに続くフレーズ作りの妙に思わず感嘆した。指揮者に見えている風景や方向性が、そのまま演奏に反映しているのがわかる。俯瞰される構造と、ファルツィアらしく、拡大鏡で収斂点の奥底までみせるような、透徹な視座が同居している。
ファルツィアは、自分がテヘランにもどることは出来ない、イランにとって自分は招かざる人間だからと言っていた。そのテヘランでローマのジャーナリスト、チェチリア・サーラが逮捕され、悪名高いエヴィン刑務所に収監されたとの報道が過熱している。逮捕の理由は詳らかになっていない。チェチリアは、イランで虐げられている女性たちの声を集めて、取材をつづけていた。逮捕の前日は、活動を制限されているイランの女性コメディアンを取材していたとの報道もある。
チェチリアは、23年とあるインタビューでこう語っていた。「恐怖と狂乱(パニック)との間には、根本的な違いがあります。恐怖は、ある意味で有益といえるでしょう。なぜなら、自身を守り、集中を助け、目と耳からはいる情報量を高めることから、あなたへの弊害を少しでも減らすことに役立つからです。狂乱、狼狽は、自分が置かれている状況に対して、あなた自身をより危険に曝すことになる」。
アゼルバイジャン機、ロシア軍の防空システムにより撃墜との報道。10年前の7月17日には、マレーシア航空17便がウクライナドネツク州でロシアの防空システムにより撃墜されている。
韓国チェジュ航空機、胴体着陸で炎上。想像を絶する絶望と戦いながら、最後の一瞬まで操縦桿を握りしめて離さなかった航空操縦士諸氏に対し、心の底から敬意を表する。

(12月29日 ミラノにて)

むもーままめ(44)ファミレスで朝食を、の巻

工藤あかね

今朝はファミレスで朝ごはんを食べようと思って大晦日だからお掃除しなくちゃいけなかったかなと体質に合わず着られなくなった洋服が積んである山を思いながらチーズトーストを食べてパンケーキも食べたかったなああそうだ私は茶色いいふかふかの毛の生き物好きなんだったスズメもかわいい鹿もかわいいうちに昔いた猫娘は茶色だったかわいかった毛は最後の方ボサボサだったけれどそれでも世界一かわいかったキャットフード食べる男の話を本人から昨日聞いてそれが耳に刺さってわたしもうちの猫娘と同じご飯食べたらもっと楽しかったかなとか想像していたらその人は毛艶が良くなったらしいたぶんタウリンのせいだから目もキラキラしていたはずなのだよ世の中のアイドル歌手はみんな猫ちゃんと同じご飯を水曜日に食べるといいよという迷信を考えたけど誰も実行してくれないやってくれるのは誰だろうそうだ掃除をしようと思ってお風呂の洗剤とか買ったけれどあれ別に今日お掃除しなくていいよねそれに31日にお掃除するのはダメって聞いたことあるから今日はやっぱり働いたりしないでダラダラもしないで昨日のご飯なんだったっけ一週間前に何食べたっけ1ヶ月前に何食べたっけ一年前に何食べたっけと考える方がいいかなと思ってだった生きるは食べること食べる力は生きる力と思って大量のチョコレートを出したけどかわいいなで終わった可愛すぎて食べちゃいたいっていうのも大人になりすぎるとかわいいけど食べなくて良くなるんだ大人になりすぎるとわたし大人かなたぶん記号はそうなのだろうけど本当にそうなのかな膝ぶつけると痛くて涙出るよ小さな子がふざけると私も大笑いするよよその赤ちゃんとも気が合うよああさみしくなってきたいつこどもじゃなくなったんだろう境目がわからないもしかして一年が早く感じられるようになったからそれなら今年は早かったどうやって生きてきたかわからないくらい働きまくったそうか働くから大人なのいやちがう働く子供も世の中にいっぱいいるよあと2分で年越しだ八巻さんにはやく送らなくっちゃ

巳年と金運

冨岡三智

年末に風邪をひいて寝込んでしまい、なんとか大晦日に体を起こしてあまり回らない頭で書きました…。本年もよろしくお願いいたします。

2025年は巳年ということで、インドネシア語で「巳年」を検索してみたらちょっと面白い発見をした。インドネシアも2000年以来中国文化が解禁されているから、この時期、雑誌や新聞には干支の話が掲載されるようになっている(その辺の事情は前の巳年である2013年1月号「ジャワと干支、巳年にむけて」に書いた)。ところが、6,7本記事をざっと見たけれど、巳年に金運アップとか、巳年生まれは金運に恵まれるという説明はどこにもない。ということは、中国では巳年と金運は特に結びついていなかったのだろうか。日本で生まれた意味付けなのだろうか…。それからインドネシアでは単に巳年であるというのではなく乙巳(きのとみ)年(きのと=木の陰の巳年)であると必ず説明されていて、その乙巳年の運勢が書かれていることにも驚く。もともと60年で1周する暦だからその方が正しいのだけれど、日本では一般的には十二支の方だけしか注目されないなあとあらためて認識することになった。

荷、

芦川和樹

ブラックバード棒がアイスに
なって?木
愉しい、木
公園横目図書室と図書館の結び目
アイススケートで伺います
その、木
カップケーキに冬、雪が積もってロウソク
など立てて、ああ暇を、暇はあるんだけど
おだやかな惰眠むさぼるウーとかムーとか
騎馬木馬は抜群のクッションで怪我しない
ぜ、とか、快適な暇でありたい。ぜ、洗顔
乾燥する肌に、肌にとって膜であるように
(いいやりかたを考えましょっか。セリ、
ナズナ。クエン酸を。再生するのさ、とき
どき)抱負を。
木の、真似をして
横になっている
横を縦としている
ごろごろしていればしあわせであるたいぷ
の、人で
いいでしょ、いいでしょ
冠を、かんむりを、机に置いたのだったか
椅子に置いたのだったか。鼻をかゆくする
空調空港嘘。掃除が
終わらない、終わる掃除なんてないからな
いいか食器ども、木
ふき
山菜、窓拭きの

固めた煙は、ほどけば粥になる
とき、時間の、とき
それから溶けていく、ゆく
メレンゲを枕に。枕でなくても、耳を包む
装備として、見て、木
その木をツリーと、いっ/昨日
(きのう、おととい)
間に合わなかった、クッキー缶
を、求めていま、列に並んでいま、す、か
予定では、沈む底金色に、錆びた荷、

に、

吾輩は苦手である 6

増井淳

 リンゴが安くなってきたので、Instagramに載っていたレシピを見ながら米粉を使ったケーキを焼いた。
 材料をきちんと計って手順通りに焼いた、と思っていたのだが、米粉を溶いた液とリンゴをからめるのを忘れてしまい、焼き上がりのリンゴがパサパサになってしまった。
 
 こういう失敗をたびたびやってしまう。

 ケーキを焼く際にはあらかじめオーブンをあたためておく。十年ほど使っているオーブンには予熱機能があるのだが、マニュアルを読むのが面倒でその機能を使ったことがない。
 
 吾輩はマニュアルとかレシピ通りにものごとを進めるのが苦手だ。

 先日もグラタンを作ったのだが、鍋にバターを入れて火をつけ、きざんだ玉ねぎを入れるまではうまくいったが、どこで塩・胡椒を振りかけるかわからなくなってしまった。月に一度くらい同じものを同じレシピで作っているのにこの始末である。
 この原稿を打ち込んでいるパソコンは、数ヶ月前に買い替えた物。その時、古いパソコンからデータを移したのだが、画面に出ている指示と違う操作をしてしまい、なかなか作業が進まなかった。
 今年になってスマートフォンを使い始めたが、おもに猫の写真を撮るだけで、電話もロクにかけられないし、かかってきた電話にもどう出るのかわからない。知人にLINEをすすめられたが面倒でやる気にならない。迷惑メールがたくさんくるのだがどうしたらいいのかわからない。「スマホ かんたんガイドブック」なるものが手元にあるのだが、読む気にならない。読んでもその通りにやる自信がないのだ
 今日は運転免許の更新に警察に行ってきた。更新手順が掲示されていたのに、手順をまちがってしまった。さらに、新しい免許の受取の際には「名前でなくお渡しした紙に書いてある番号でお呼びします」と言われていたのに、それを忘れてしまい、自分の番号が呼ばれたのに気づかなかった。
 思えば教科書というのが苦手だった。学校の試験などは教科書を暗記すればいい点数がとれる。しかし、教科書に書かれていないことが気になり、まるごと覚えることができない。
 これではまるで小学生以下である。
 よく今まで生きてきたなあとじっと手をみる。
 我ながら情けない。

 子どもの頃から、指示された通りにものごとを進めることができないのだ。
 つい違うことをしてみたり、脇道にそれたりしてしまう。脇道の方がたのしそうだし、決められた筋道を通ることはきゅうくつに感じてしまうのだ。
 そもそもマニュアルとかレシピ通りに進めるなら、機械でもできるではないか。
 指示通りに行かないのが人生というものだ。
 ケーキがうまく焼けないのは困るのだがね。

2024年

笠井瑞丈

2024年も気づけばも終わり、そしてまた次の扉を開くように2025年がやってくる。今年は何をしたか振り返ってみようと思うけど、改めて振り返ってみると、何かしたような気もすけど、何もしてなかったような気もする。電車の車窓から眺める景色のように、過ぎた景色は頭の中に微かな残像としてしか残らない。今月踊ったダンスの公演も先月のダンス公演も、終わってしまえばもう大分前のように思えてしまう。はたして毎日素晴らしい景色に出会えていただろうか、一日一日を大切に過ごしていただろうか、考えるとそんな事ばかりが浮かんでくる、時間だけは全人類に平等に分け与えられてるいるものなのに、たまに不平等に感じる時もある。どうして今自分はここに存在し、どうしてまた新しい扉に向かって歩いて行かなければならいのだろうか。たまには少し立ち止まる事が出来たら楽になれるのかと思う事もある、当たり前だった事も当たり前ではなく、そして自分も変わっていく。今年は49歳の年だった、そういえば18歳の時にパチンコ屋でアルバイトしていた事がある、その時に知った事ですが、パチンコ台は一台一台番号が振り分けられている、1番からはじまり2番3番とパチンコ台に上に書いてある、しかし4番と9番は除かれてるのだ、3番の次は5番、8番の次は10番、14番 19番といのもない。4番と9番はあまり縁起のよい数字ではないとされてるみたいなのだ。そして49番というのも勿論ない。今年の自分は、縁起の悪い数字が4と9とダブルで並んでる歳なんだと思った。そう言えば今年は何か踠いていたような一年だったような気がする。そして踠けば踠くほど糸は絡み合って解くことが出来なくなってしまった一年だった。来年はどのような一年になるのだろうか、もう希望と夢を膨らませてなんて言葉は使えない。まずは絡み合った糸を解く所からはじめよう。もう次の扉は目の前にあるのだ。

水牛的読書日記 2024年12月

アサノタカオ

12月某日 文筆家・編集者の仲俣暁生さんによる話題の「軽出版」レーベル・破船房より、待望の書評集『東アジアから読む世界文学--記憶・テクノロジー・想像力』が届く。ハン・ガン、劉慈欣、郝景芳、呉明益といった作家の名前が目次に並んでいて興味を引かれる。特典として、「軽出版者宣言」を含む仲俣さんのエッセイ集『もなかと羊羹』もついてきて、うれしい。

12月某日 こちらも待望の一冊。高田怜央さんの英日バイリンガル詩集『ANAMNESIAC』(paper company)が届く。青い本、デザインが最高にかっこいい。

12月某日 急遽関西に出張することになり、大阪・高槻でブックデザイナーの納谷衣美さんとお茶をしながらゆっくりおしゃべり。本について、人生について。納谷さんの自宅事務所の窓辺には、真っ赤に輝く干し柿がぶらさがっていた。夕方、京都で旅行中の妻と娘と合流し、蹴上でおいしい豆腐料理を食べて森の定宿に家族で投宿。

12月某日 京都滞在2日目、久しぶりに烏丸御池のレティシア書房を訪問。店主の小西徹さんとの会話の中で、サウダージ・ブックスとして進むべき道を教えていただいた。お店では編集グループSUREの本、瀧口夕美さん・黒川創さん『生きる場所をどうつくるか』、映画史家の四方田犬彦さん『志願兵の肖像──映画にみる皇民化運動期の朝鮮と戦後日本』を購入。

『生きる場所をどうつくるか』でインタビューを受けている伏原納知子さんの堺町画廊にも立ち寄る。レティシア書房から歩いて行ける距離。画廊で、野中久行「テラコッタを染める」展を鑑賞し、伏原さんにご挨拶。

12月某日 神奈川・横浜の日本大通りで開催されたブックマーケット「本は港」第4回に2日間出店した。両日とも青空の広がるイベント日和で、昨年より会場が広くなった。来場者は約1000人とのこと。年末のはなやいだ雰囲気の中で、神奈川の出版社や書店のみなさまとともに、サウダージ・ブックスの本や関連書を販売した。今回の目玉商品、チェッコリ書評クラブ『次に読みたいK-BOOK! 小説・エッセイ編』は、韓国書籍専門書店CHEKCCORI(チェッコリ)の佐々木静代さんと企画編集した韓国文学ファンZINE。かなり好評で初日早々に売り切れてしまい、もっと多く用意していればと反省した。

「本は港」では、非常勤講師をしている二松学舎大学の写真部同人誌『模像誌』創刊号も販売。自分のインタビューが掲載されていることもあり、応援したいと考えて。幸いアートや写真関係者の目に留まり、何冊か売れてよかった。会場では、momokeiさんのアートブック『モヤモヤちゃん』を入手。

12月某日 『平熱のまま、この世界に熱狂したい』(ちくま文庫)の著者で文芸評論家の宮崎智之さんの論考「エッセイを批評する」が『すばる』2025年1月号に掲載され、拙随筆集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)も取り上げてもらった。〈人々から発せられた言葉からも、必ず奥行きを掴もうとする姿勢を忘れないでいる〉と評していただき、身が引き締まる思いだ。

宮崎さんは、日本の随筆史を踏まえつつ現代の作家(小原晩、オルタナ旧市街、友田とん、早乙女ぐりこ、小林えみ〔敬称略〕)の著作を紹介している。エッセイの作者性(オーソリティ)に関する独創的な視点も提示。この論考で紹介されている作品を、冬の間に読むつもり。

12月某日 明星大学で編集論の授業を終えた後の夜、東京・分倍河原駅前のマルジナリア書店へ。書店主でもある小林えみさんの批評エッセイ集『孤独について』(よはく舎)を購入。小林さんの著作では、以前読んだ小説集『かみさまののみもの』(よはく舎)がよかった。

12月某日 近所のくまざわ書店大船店で、戸井田道三『新版 忘れの構造』(ちくま文庫)を見つけて買った。小学生のときからの愛読書でなつかしい。

初版1984年の名著復刊。若松英輔さんの文庫解説「忘却の波をくぐり抜けてよみがえる言葉」がすばらしい。「忘れを問うとは忘れからの新生を問うことである」という視点から、文筆家・戸井田のユニークで不思議な歴史哲学の現代的な意義を論じている。眼鏡をいつもどこかに置き忘れるのはなぜか。こうした日常のエピソードを入り口にして戸井田が語る夢、死者、魂、肉体をめぐる省察を若松さんが読み解くことで、何度も読んで慣れ親しんできたはずの『忘れの構造』が、まあたらしい思想書として復活する光景を目撃したように感じた。

もう一冊の愛読書、戸井田道三『食べることの思想』(筑摩書房)も復刊されるといいなと思う。死別と生誕がとなりあうケアの現場から、食のはじまりに迫る随筆の名作だ。戸井田は少年向けの本を多く執筆した。奥深い思想を、小中学生でもわかるやさしい言葉で語る文章はどれもすばらしい。

12月某日 自宅事務所で仕事をしながら、X(旧Twitter)の音声ライブ「スペース」で、宮崎智之さんが論考「エッセイを批評する」について語るのを聴いた。論考では〈「社会の言葉」「個人の言葉」〉という問いからの展開の中で、拙著『小さな声の島』を解説してもらったのだが、宮崎さんの考えについてより詳しく知ることができた。「スペース」に途中から参加した文筆家の石田月美さんのコメントも含めて興味深い内容だった。石田さんのエッセイ集『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)も読んでみよう。

宮崎さんと今井楓さんによる渋谷のラジオの番組、「BOOK READING CLUB」の12月分のアーカイブもまとめて聴いた。今井さんのエッセイ集『九階のオバケとラジオと文学』(よはく舎)も気になる。

12月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)。

その韓国から、「大統領が非常戒厳令を宣告した」という衝撃的なニュースが飛び込んできた。反対する議員がすぐさま国会に集結し、軍の突入などがあったものの解除要求決議が全会一致で採択され事態は収束。のちに大統領の弾劾訴追案が可決された。連日、関連する報道を追い続けるなか、『別冊 中くらいの友だち——韓国の味』(韓くに手帖舎)が届く。

12月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第2章。

12月某日 文化センター・アリランのブックトーク、斎藤真理子さん「在日コリアン翻訳者の群像」をオンラインで視聴。編集グループSUREから出版された、斎藤さんの同題の著作は大変読み応えのある本だったし、トークでも金素雲、許南麒、姜舜など歴代の韓日翻訳者の遺した言葉を紹介してくれてよかった。朝鮮半島の分断の歴史を背負う在日コリアンの世界で、人々が文学を通じてつながりあった事実について、貴重な話を聞くことができた。

12月某日 東京・祖師ヶ谷大蔵駅前の本屋のアンテナショップ+新刊書店 BOOKSHOP TRAVELLER を訪問。主宰の和氣正幸さんもいらっしゃってよかった。オルタナ旧市街さんの『ハーフ・フィクション』を購入。この本と合わせて、オルタナ旧市街さん『踊る幽霊』(柏書房)、『Lost and Found(すべて瞬きのなかに)』(本屋lighthouse)を一挙にまとめ読み。どれもおもしろかったが、『Lost and Found(すべて瞬きのなかに)』が抜群によかった。

12月某日 年内最後の大学出講。「人文学とコミュニケーション」の授業で、復刊されたばかりの作家・片岡義男さんの評論『日本語の外へ』(ちくま文庫)を紹介。日本文学や日本語学を学ぶ受講生が多いので、書店や図書館で手にとってもらえるとうれしい。初版刊行の1997年、ぼく自身が学生時代に熱心に読んだ一冊で、これから世界に飛び立つ若い人たちにバトンを渡すようにすすめたい。

と記して気づいたのだが、今月はちくま文庫の読書率が高いな。

12月某日 清水あすかさんの詩と絵の冊子『空の広場』44号、雪柳あうこさんの詩集『骨を撒く海にて、草々』(思潮社)が届く。

ライター・編集者の南陀楼綾繁さんの新著『書庫をあるく--アーカイブの隠れた魅力』も。先月刊行された南陀楼さんの『「本」とともに地域で生きる』(大正大学出版会)と合わせて、本の場所の歴史と未来を考える上で必読書になるだろう。南陀楼さんはブックマーケット「本は港」の会場にいらっしゃって、サウダージ・ブックスのブースにも立ち寄ってくれた。

12月某日 サウダージ・ブックスとして進むべき道——。来年作る予定の本のシリーズ企画について思案していると、大学生の文筆家・大阿久佳乃さんから季刊の日記zine『Life Itself 生活そのもの』が届いた。湖だろうか、水の景色の写真を用いた表紙。同封の手紙には、サウダージ・ブックスのウェブマガジンで連載中のアメリカ現代詩の翻訳や、大阿久さんがこれから取り組む研究のことが書いてあり、来年も楽しいことをご一緒できればと思った。大阿久さんの著作や活動に、いつも背中を押してもらっている。

連載「大阿久佳乃が翻訳するアメリカ現代詩」をぜひお読みください。最新号では、 フランク・オハラ『ランチ・ポエムズ』の第6回を掲載しています。
https://note.com/saudade_books/n/nd140507623c7

12月某日 やり残した仕事と家事を片付け、2024年最後の読書は南椌椌さんの詩集『ソノヒトカエラズ』(七月堂)を。どの作品もすばらしい。「イムジン河」など、韓国のシンガーソングライター、イ・ランの歌を聴きながら。

と、玄関のポストからコトンと音が聞こえ、また本が届いた。封筒を開けると、在日朝鮮人の詩人・李明淑さんの詩集『望郷』(私家版)。ある人が貸してくださった、大変貴重な資料だ。1年の終わりの日に、心の背筋がすっと伸びた。

十二月のすすき

仲宗根浩

斜めおむかいのお宅の敷地に今年もすすきの穂が四つ。ゴミ出しのときとか、車を入れるときとかの十二月に気づく。すすきにとってはここで穂をだすのに十二月がちょうどいいか。

今年から家にいる家族三人で車一台づつ持つことになった。駐車場も一台分余計に借りることになったが、この駐車場が見ためだれでも車とめていいですよ、みたいな雑草は生えほうだい、車をとめるしきりも無いため、こちらが借りているところにいままで四回勝手に駐車される。Yナンバーが二回、地元ナンバーが二回。そのうちの一回は一泊二日。おいおい、とおもい月極駐車場である用紙を印刷しワイパーに挟む。私有地に駐車されたら警察は何もしてくれないのはわかっているのでこちらで対策していくしかない。管理人さんが契約駐車場である旨を書いた看板は雑草におおわれて見えない。

ある日に家電屋さんに行くとワゴンにマイクロSDカード128Bが780円とあるのを見つける。愛車のドライブレコーダーは32GB。128GBにするとだいたい五時間の録画できる。激安マイクロSDドライブ即購入、ドライブレコーダーのSD交換。で、交換したSDカードをパソコンに差し込み家でちらっと見る。360度ドライブレコーダーの画像くっきり、音まで明瞭。ということはおのれが運転中に発する言動があますところなく録音されていることにいまさら気づく。運転中の不届き者には罵詈雑言をひとりで少し大きめでつぶやくのも全部録音されているのか。職場の者に聞くとそれがあるから音声録音をしない設定にしていると。まずい。もう一度SDカードをフォーマットし録音しない設定にしないと。

アパート日記 12月

吉良幸子

12/5 木
先月末からちょっと風邪引いてのらりくらり。明日から出稼ぎ久しぶりに再開。先月ばあちゃんちからもらってきた着物に袖を通す。躾糸がついたままのが多くて公子さんが取ってくれはる。襦袢の半衿も付けてくらはった。いよいよ置屋さんのおかみさんっぽい。

12/7 土
先月、わざわざ新世界まで観にいった『浪曲じゃりン子チエの会』の東京公演へまたもや足を運ぶ。会場の大事さを痛感した会。今回の会場は元・プラネタリウムをやってはった場所で、丸い天井は夜空を映すために頭上のはるか上にあり、真ん中には機材がでーんっと鎮座しておる。浪曲で一番大事とも言える声は高すぎる天井で散ってしまい、マイクも全然機能してへんかった。演者さんに落ち度は全くないんやけど、大阪の会と比べたら声の伝わり方や噺の訴えかける力が半減してしもてむちゃ残念やった。やっぱりそれぞれの演芸に見合ったハコで見るのが一番やなぁ。

12/8 日
夕方、駅前のスーパーの和菓子コーナーでうろうろしておると見知らぬおばちゃんに、こんなとこでも会っちゃって!と話しかけられる。はて…と一瞬悩んだけど、いつも銭湯で会うおばちゃんやとすぐ思いついた。いつも裸で会うしおしゃれして服着てたらちょっと誰か悩むのが笑える。ほな、またお風呂でね~と別れて、夜銭湯でまたこんばんは~と挨拶した。

12/9 月
丹さんが夕方アパートに来てはって、なんじゃかんじゃ話してたらソラちゃんが帰ってきた。でもなんかおかしい。いつもみたいに、ニャァ!と大声で訴えてこん…丹さんが勝手口を開けると口に子ネズミ!口が塞がってたから小声やったのね?!庭でギャーギャー言いながら子ネズミを逃してやる。ピシャッと勝手口を閉めて何事もなかったようにソラちゃんを抱っこで回収。え、オレなんで抱っこされてんのん?って訳分かってないソラちゃんにいつもながらヒトコト、ネズミだけは食べへんから持って帰ってこんでええねんで。

12/10 火
神保町シアターでやっている、マキノ雅弘の時代劇傑作選へ!最近は家で時代劇ずっと観てたからマキノの時代劇を拝めるなんて嬉しい限り。行ける日が限られるから一気に3本観る。大川橋蔵はやっぱりかっこええ。あと浪花千栄子に眉なしお歯黒むっちゃ似合っておった。昔の映画は役者がみんなうまくてそれぞれに魅力的。

12/12 木
今日もマキノの時代劇を観にせっせと神保町へ通う。落語の話を盛り込んだ『江戸っ子繁昌記』が秀逸やった。脚本がほんまに見事で、無理なく「芝浜」と「番町皿屋敷」が繋がっておった。中村錦之助の二役も名演技。あ~観にいけてよかった!!

12/15 日
年に一度の時々自動の会!今回は同窓会みたいな公演で、年配のお客さんも多かった。時々自動の合唱はやっぱりええなぁ~。そして朝比奈さんと柄本さんのツーショットはあまりにもかっこよかった。意図的に今井次郎さんが作った曲を外しての実験的な会やったんやけど、やっぱり私は次郎さんの音楽が好きなんやと実感した気もした。

12/20 金
むちゃくちゃ熱、高熱!ちょっと前に出稼ぎ先で結構な無理して、そろそろそのツケが来そうと思っておったところ。盛大に熱が出て久しぶりにうんうん言いながらひたすら布団の中でごろごろと苦しんだ。

12/24 火
出稼ぎ先の大掃除の日。出稼ぎはこれにて仕事納め。まだ体調が万全じゃないのに1日寒い寒い工場で大掃除してしもた。この前の熱の時に飲んだ薬が合わんかったんか、ずっと胸のあたりがむかむかして気持ち悪い。今日の掃除でまたぶり返さんかったらええけど…。

12/27 金
年末の無理が祟って2、3日寝込みに寝込んだ。鼻歌も歌えんくらいに余裕なく、とにかく一日中寝るしかできん。元気なことってこの上なく素敵なことやと心の底から思った。もうハタチの時みたいに動けると思わんで、ぼちぼちやっていかんと急にガクッとくると覚えておこう。
やっとちょっと外へ行けるくらいには回復して、お日さんにあたるべくお散歩。年末で忘れられることが多いけども、今日は自分の誕生日。成城のアルプスで鋭角なショートケーキを買ってきて公子さんと食べた。おかぁはんからは荷物が届いて、誕生日にと純米吟醸の日本酒2本入ってて爆笑した。日本酒好きなのが母上にまで浸透したらしい。早く全快して飲みたいなぁ。

12/29 日
公子さんと2024年おつかれでしたの会を商店街の焼き鳥屋さんで。宵のうちに行って酒が回ってドタッと寝る。夜中に起きたら公子さんもむくっと起きてきて、台所が2階から水漏れしてると言うてはる。よく見ると炊事場の上についてる棚の辺りからぽたりぽたりと汚い水が…。実はこのアパート、古くてあちこちにボロが出てて、大家ももういちいち直す気もなく、来年の秋には潰すとかいう噂。アパートのみなさんは何かしら家の中に不便が出てきてるみたいなんやけど、遂にうちにもきたか…という感じ。しかも何でこんな年の瀬にやねん。はてさて来年、どうなることやら!

12/31 火
着物をくださったニシンさんから年末のご挨拶のお電話が。この前出稼ぎ先にちょっと寄ってくれはったんやけど、体調崩してたのがばれてたらしい。来年は元気な姿でまたお会いしたい。大晦日は夕方、今まで見たことないくらい混んでるいつもの銭湯へ行き、公子さんと一杯ひっかけに行って帰って寝る。年内にやることやったって感じ。今年も色々おつかれさまでした!

徳之島

管啓次郎

野原を歩いてゆくと黒牛の群れがいた
モーと声をかけると一斉にこちらを振り向く
それ以上の興味はなさそう
サックスをもっていればいずれかの音を吹いたとき
こちらに寄ってくる子もいるかもしれない
動物を子と呼ぶのはたしかに変だが
それも疑似家族(年齢的にはたしかに子供)
歌ってみることにした
「おーい、今日はいい天気
今日を呼ぶにはどうするの
今こそ全面的に今日なのに
今日の中にいて今日を呼ぶなんて
どうするの? どうするの?」
すると一頭が近づいてきて
すぐそこまでやってきてじっと
こちらを見ているので
その子をペドロ・パラモと呼ぶことにした
ペドロは存在しない、あるいはただ
幽霊として存在する死者の名前
そもそも誰かの想像の中にしか
登記されなかった名前
歩き出すとペドロ・パラモがついてきた
村の広場を横切るが
誰もいない
幽霊もいないし猫もいない
そのまま浜に出てそこはみごとな砂浜なので
はだしになって歩いてみた
黒牛もよろこんでそうしている
みかん箱のような木の箱ふたつに
一枚板をわたして魚を並べている少女がいる
売ってるのこれ
売ってるのよ
買おうかな
買いなさいよ
沖縄ならイラブチャーと呼ばれる
青に黄色や赤が入った美しい魚をもらうよというと
少女がその場でさばいて
刺身にしてくれた
酢味噌で食べなさい
まだ小学生だろうが
ずいぶん手慣れている
銭湯の洗い場で使うような
小さな木の腰掛けにすわり(これが客用)
その場で刺身を食べながら
ぼんやり海を見ている
これタダで飲みなさいよ
と少女がいってオリオンビールをくれた
歓待に乾杯
ペドロ・パラモがつまらなそうに
足を波打際につけたまま
沖合を眺めている
怖くなるくらい美しい海だ
そういえば闘牛があるんじゃないの
と少女に声をかけると
ペドロ・パラモがふりむいて
そんなのはいやだ
といった
牛が言葉をしゃべったわけでもないのに
それが痛いほどわかるので
ぼくは黙ってしまった
することがない
くじらを見たい
というと少女がそれならあっちといって
蘇鉄のトンネルをくぐっていくよう
教えてくれた
ではそうします
両側からおおいかぶさるように
生えている蘇鉄並木を抜けてゆく
ペドロ・パラモがぼくも行くよと
ついてくるのがわかる
そのまま歩いてゆくと岩場に出て
そこから海を見下ろしている
視界が完全にひらけた
どこかにくじらはいないかな
風が気持ちいい
海岸に林がありそこでは
小さな赤い花がたくさん泡のように湧いて
みるみるふくらむと風に飛ばされて
金魚のように泳ぎ出す
こんな現象は初めて見たな
それからしばらく立っているのだが
くじらはなかなか現れない
もうあきらめようという気持ちと
ここであきらめてはいけないという気持ちが
真剣にせめぎあっているのが苦しい
立ったままずっと海を見ているのだが
なんだか眠りと区別がつかなくなっている
目をちゃんと開いているのに
呆然としている
するとペドロ・パラモが鼻面で
ぼくの脇腹をつつくのだ
正気を取り戻せとでもいうのか
見てごらんというのか
それでまた海面をよく見ると
すぐそこで水の柱が立ち上がった
息吹だ、くじらの息吹き
潮吹きとも呼ばれる行動だ
すると突然あっちでもこっちでも
潮の水柱が立って
そのすべてがくじらなのだ
群れている
だが個々に独立的だ
すばらしい力強さ
ぼくはすっかり感心して
潮吹きの数をかぞえようとするのだが
うまくいかない
ペドロ・パラモも近眼だと思うが
ぼくの感動がわかるのか
しだいに興奮が高まっているようだ
つきあいのいい子だ
やがて前足で地面を掻き
いまにも立ち上がりそうな行動を見せる
ほら、馬ならすぐに想像がつくような
襲いかかるというのではないが
よろこびにはちきれそうな
子犬のような行動だ
モーと鳴いて
鳴けば鳴くほど
前足で地面を掻けば掻くほど
ペドロ・パラモがどんどん巨大化するので
びっくりする
それでこっちにもよろこびが伝わってきて
まるで踊り出したい気分になる
黒牛はこんどは前足で
どんどんと地面を叩く
島そのものが太鼓だね
ぼくもおーいおーいと声をあげ
その場でぴょんぴょんと跳んでみせる
すると、ああ、ごらん
くじらが跳躍し
空中でくるりと舞ってから
ざっぷんと海面に落ちてゆくのだ
その水しぶきが飛びかかってくる
うれしいくじらだ
牛と人を同時によろこばせてくれる
ぼくはペドロ・パラモにうながされ
牛の背にまたがってわーわーと
よろこびの声をあげる
巨大になった黒牛は
肩までの高さが3メートルはある
でもちっとも恐くない
むしろ楽しい、頼もしい
海に踊るくじらたち
陸には牛と人
見上げると空には
水平線から水平線まで
大きな虹がかかっている

製本かい摘みましては(191)

四釜裕子

《カリオペ》と名付けたナローボートで暮らす双子の姉妹。そもそも亡き母が2冊の本を持って住み始めた家で、窓の間に作りつけた三段の棚は母が残した本で埋まっていた。棚以外も本で埋めたのは姉のペギーで、そして、〈あたしには興味のない紙もあった。あたしたちはそれを正方形に切って、古いビスケット缶に入れ、テーブルの上に置いた。あたしが料理をしているあいだ、モードはそれをありとあらゆる形に折る。紙を折ることは、妹にとって息をするのと同じだった〉。狭いだろうし揺れるだろう。でもなんとも魅力的。つい先ごろ知人からナローボートでの旅の話を聞いて、免許なしで操縦できるというので俄然興味がわいたところだった。《カリオペ》は係留しっぱなしとはいえ重さは大丈夫なのだろうか。ペギーはこう言う。〈運搬船だったんだよ〉〈石炭や煉瓦を運んでたの〉。

2人とも、母同様にすぐ近くのオックスフォード大学出版局の製本所で働いている。担当は「折り」である。複数ページを規則的に並べて両面に印刷した紙を1ページ分の大きさになるまで折るという、製本工程の最初の作業だ。数がかさむとリズムにのって踊るように進められるが、枚数の少ない校正刷りではそうはいかないのでみんなは嫌う。ペギーは文字を読むのが好きなので、むしろこちらを好んだようだ。モードは、自分だけに聞こえる音楽に合わせて〈手を踊らせる〉ことがある。ペギーは愛と責任で妹を見守るが、重荷で言い訳にすることもある。折りながら読みながら、ペギーは折り損じを鞄に入れて持ち帰る。〈あたしは製本のこの段階にある本が大好きだった。そして確かに《カリオペ》にはそうした本が溢れていた。かがり終わったけど、どこかに欠陥のある本たち。頁の破れ、こぼれた糊、あるいはもっと目立たない疵もある――背のバッキングや丸み出しの失敗は、布装を上手にやれば隠れてしまうが、そうならなかったもの〉。

第一次世界大戦が始まった1914年に21歳だった2人を描いたのが、『ジェリコの製本職人』(ピップ・ウィリアムズ著 最所篤子訳)だ。戦争中も2人は変わらず折り続けたが、母の”最愛の友”だったティルダはWSPUを抜けてVADになり、行く先々から手紙をくれるようになった。ペギーは職場から戦場に向かう男たちに代わって新しい仕事もした。早く覚えようという彼女の貪欲な目線で作業のだんどりが描かれているので、興味がなかったら読み飛ばしそうなくらい細かくていい。修復室でもじっと見た。〈古色蒼然とした革表紙から本を切り離し、かがりを外しにかかっていた。彼がナイフを研ぎ、折丁を紐に固定している糸の上で刃を動かすのを見つめた。その本をかがっただろう女性が気の毒になり、胸がずきんとした。もうずっと前に死んでしまっているだろうが、彼女の仕事がこんなにあっさりとなかったことになるのを見ると、思わず戸口で足が止まった〉。修復は、前の作業を「なかったことにする」ものではないだろう。むしろ形跡を糸口に過去の人との対話で始まるもので、ペギーも十分わかっていたはず。だからここで「気の毒」と思い「ずきん」としたのは、いかに戦禍の恐怖にさらされていたかとか、気を張っているペギーの幼さが現れているところなのかもしれない。

他にもペギーは、朗読と手紙の代筆の奉仕作業で一緒になった女学生に大学受験を勧められたり、負傷したベルギーの軍曹と恋に落ちたり、モードのほうは、仕事も家族も失ったルーベン図書館の元司書と心を通わせたりする。また、同じ著者の前作『小さなことばたちの辞書』の主人公だったエズメも登場する。オックスフォード英語辞典の編纂者だった父の作業場に出入りして、辞書に収められないことばを集めていたのだった。そのエズメに大学出版局に勤める植字工のオーウェンが恋をして、エズメが集めたことばを内緒で本にして贈りたいと言う。ペギーも手伝い、1冊だけの『女性のことばとその意味』は完成した。

『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(サイモン・ウィンチェスター著 鈴木主税訳)の映画版『博士と狂人』には、OEDの「パート1 A-ANT.」の原稿が揃ったところで、活字を組んで校正したり刷り本に喜ぶシーンがバタバタッと出てくる。続いてマレー博士がその中の1冊をマイナーに手渡しに行くのだが、ページをめくるところを見ると表紙は硬く厚いボール紙を貼ったような感じに見える。ちなみに『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』によると、〈表紙は灰色がかったオフホワイト、各ページの用紙の片側が断裁されていない第一分冊は、(中略)オックスフォード大学クラレンドン出版局から12シリング6ペンスで出版され〉、マレー博士とマイナーが初めて面会したのは1891年1月だったようだ。OEDの最初の完本「第1巻A-B」は1888年、「パート1 A-ANT.」は1884年の刊行だから、ペギーとモードの年齢からすると、2人の母のヘレンがこれらを折っていたと想像してもいいだろう。

2人の生年を仮に1893年とすると、明治21(1888)年生まれの賀川ハルとは5つ違いだ。ハルは、伯父の村岡平吉が経営する福音印刷が1904年に神戸支社を開設すると製本女工となり、職場で豊彦と出会って結婚するのが1913年。翌年、豊彦が米国に留学するとハナは26歳で共立女子神学校に入学しているから、ハナがようやく本格的に学んでいる間のできごとが『ジェリコの製本職人』ということになる。本の最後で再挑戦のすえにサマーヴィル・カレッジの奨学生になったペギーが描かれるが、このときたぶん27歳。文通でもしていたら2人は仲良しになれただろうか。のちにハルは『女中奉公と女工生活』(1923)の中で、みんなのおやつや活字を空いた弁当箱に入れて持ち帰る同僚を見て思ったことをこう書いている。〈資本家の大なる不合理に対抗するにそれらは余りに惜しむべきことではあるまいか。そんな欠点をよい餌食にされて資本家に横暴を極められているとするなら不正な数人を除き、一人を除いた多くの働人はどうして立てよう、その人こそ実に獅子身中の虫と言いたい。労働は神聖なりという働人が誠に正々堂々と一点の非なく労働の運動を進ますべきだと私は思う〉。ペギー、ハルさんが上司じゃなくてよかったネ。

『ジェリコの製本職人』の著者、ピップ・ウィリアムズさんは、「謝辞」で製本家のピーター・ザイチェック氏の名前をあげている。メアリー・ヴァン・クリークの『製本業における女性たち』(1913)という本のことも教えてくれ、しかもそのpdfをプリントして、ボール紙と布で製本して贈ってくれたという。翻訳した最所篤子さんは「訳者あとがき」に、訳すにあたって見学した牧製本印刷株式会社の製本所と、手製本を習った製本工房まるみず組への謝意を表している。最所さんのSNSには、牧製本から借りた資料の1つ、ドイツ語から訳した『製本家のための専門知識』の写真もあった。「1953年2月14日午後9時」と訳了の時間はあるが訳した人の名前はなく、これは、手書きの13冊のノート全878ページを牧製本が綴じたものだそうだ。どちらもいい話だなあと思った。「製本」とは本の中身を守り独立を助けるけれど、手渡すための包装というのも、かけがえのない役割だと改めて思った。

「著者あとがき」では、この本の構想のきっかけにも触れている。前著『小さなことばたちの辞書』を執筆中、オックスフォード大学出版局のアーカイブに1919年創刊の機関誌「クラレンドニアン」を見つけたが、職員の人物紹介に女性がほぼいなかったそうだ。その存在を確認できたのは、写真が2枚、1925年に英国産業連合会が製作した大学出版局での製本作業の映像、出版局の監督が退職したときに贈られた寄せ書きに残る47人の女工の名前だけ。実際の寄せ書きの写真はこの本の巻末に載せてあり、2枚の写真と映像はネットで見ることができる。他に、ピップ・ウィリアムズさんが『The Bookbinder of Jericho』をご自身でかがっている動画も見つけた。へらを握り、角を揃えて紙を折り、糸でかがって背固めをして、断裁して丸み出しして花切れを貼り、背貼りして革をすいて表紙を貼って、プレス。タイトルを入れた完成状態は映っていなかった。ページをぐっと開いて綴じ糸を大写しにするのにはちょっとハッとしたけれど、惜しげもない感じがいいなと思った。

冬を数える

新井卓

※12月号からの続きです

 二度目の冬が巡り、そう数えて、移民は二つの暦を生きるもの、と知る──彼/彼女が何者であろうとも、新しい土地、新しい国家で新しい生を生き始めるとき、他人から見えるのは、その人の新しい、まっさらなカレンダーだけ。二度目の冬を一度目の冬よりも心なしか暖かく感じるのは、友だち、と呼びあうことのできるわずかな人々が、わたしの、移民のまっさらな地図と暦に明かりのように灯りはじめたから。

 春、パレスチナ会議でドイツという国家の一つの貌とその手触りをまざまざと知って間もなく、ある人に出会った。パレスチナ人アーティスト、マイアダ・アブード(Maiada Aboud)はイスラエルとイギリスで犯罪心理学とパフォーミング・アーツを専攻した異色の経歴の持ち主だ。わたしとほとんどおない年だということ、何年か前に友人の誘いでベルリンに滞在し、そのまま住み続けている、ということが後でわかったが、何よりも彼女の複雑な出自──イスラエル領内のアラブ人キリスト教徒コミュニティに生まれ、離婚を機に(それは彼女のコミュニティで前代未聞の出来事だった)追放状態にあること──について、てらいなく話す様子に強い印象を受けた。

「わたしは家族の中の黒い羊。いつでも口ごたえするわたしのことを父は気に入っていたし、わたしも父が好きだったけど、離婚で全てが変わった。その日を境に、わたしの世界は消えてしまった。離婚を告げた夜、彼ははじめてわたしに手を上げた。そして、その後もずっと。一人の人間として、というよりもアラブの男として、そうしなければならないのだ、と決めたみたいに。何か集合的(コレクティヴ)な怒りを感じた。で、わたしは逃げ出すよりなかったわけ。」

『mirrors/testaments』は、パレスチナ人、パレスチナ難民、と呼ばれる人々の、それぞれの身体や遍歴、交差性(インターセクショナリティ:人種やジェンダー・セクシュアリティ、家庭環境、経済状況などさまざまなアイデンティティが交差して生まれるその人に対する差別、あるいはその人がもつ特権)に光をあてるプロジェクトだ。語り尽くすことのできない一人の人の生に、かぎりなく短絡的に、かつ感情的、身体的にアクセスするにはどうしたらよいか。そのためにわたしが選んだのは、「遺言」と「遺影」だった。パレスチナという国家、民族そのものの存在が消去されたベルリンに暮らすパレスチナ人たちの遺言、声を記録し、少なくとも200年の寿命をもつダゲレオタイプ(銀板写真)の肖像とともに、数世紀後の未来へ運ぶこと。

 わたしがわたしの死を、最後の瞬間を想像するとき、たとえば無人攻撃機に襲われたり、ブルドーザーに踏みつぶされて死んだりすることを想像するだろうか? わたしの死は、いかなる体制も、いかなる他者も侵すことのできない最後の尊厳であり、日々報告される死者の数に決して加わることのない、唯一の死だ。それはわたしの死であり、わたしの愛する家族と友人の死である。システマティックな暴力はその程度にかかわらず、生者だけでなく死者の尊厳を蹂躙する。例外はない。喪すること、悼むことが抵抗の様式の一つであるならば、その抵抗の場にこそアートの余地があるのではないか──。

 夕方を過ぎてもまだ明るい晩春のスタジオで、わたしが奮発した上等なバクラヴァ(トルコの甘い菓子)を「おえっ」と声に出して脇に押しやり、引き出しから勝手に見つけ出したレモン味のウエハースを食べ尽くしたマイアダは、オーケー、あんたのやろうとしている仕事は悪くないから手伝ってもいい、言っとくけどこいういうの滅多にしないことだから、と言った。

 それから彼女は、彼女の同郷の友人たちを次々と連れてきては、場合によってはアラビア語の通訳や、協力者のアフターケア(家族全員がイスラエルの攻撃で殺され、重いトラウマを負う人もいた)まで、申し訳ないと思うほどに真摯に、救いの手を差し伸べてくれた。パレスチナにもイスラエルにも旅したことのないわたしは、カフェで待ち合わせ、ピクニックに出かけ、ガザへの募金を集めるファンド・レイズ活動やデモに参加しながら彼・彼女たちの話を聞き、本人ができそう、と感じた時々に、少しずつ録音と撮影を進めていった。

 記憶の限り、わたしがなぜパレスチナに関する作品に取り組もうとしているのか、マイアダに聞かれたことは一度もない。もっとも、聞かれたとして、それ以外の道は全部行き止まり、と訳もなく確信していたから、としか説明のしようがなかったのだが。マイアダとその友人たちとの交流はむしろ、わたしにとり、ドイツという国で唯一無二の安らぎを感じる場になりつつあった。だれもが移民であるわたしたちはそれぞれに新しい暦を生きていたが、その無尽蔵な空白に書き加えられる一つの出会いは、それぞれ、なにか重大な意味を持っていると思えた。そして、痛むこと、悼むことを通して、わたしたちはわたしたちのことを知ったのだから、どこか大切なところですれ違ってはいないのだ、という不思議な確かさを共有していた。

『mirrors/testaments』は、8人の協力者を得て録音とダゲレオタイプの撮影を行い、現在は一時中断している。クンストラーハウス・ベタニエンでの一年の滞在制作プログラムが終わり、まだ次のスタジオが見つけられずにいるからだ。ベルリンには多数のアート・インスティテューションがあり、アーティストに格安のスタジオを提供するプログラムも存在する。しかし先月、ベルリン市は2025年文化芸術予算の13%(214億円相当)削減を決め、今、それらのプログラムは存続の危機に瀕している。

 懐もすっかり冷え切り、クリスマス・マーケットの電飾に彩られてメモリサイド(記憶の抹殺、歴史学者イラン・パペによる)のとどまるところをしらず、ほとんど何も明るいニュースのないベルリンで、新しいカレンダーに記された、新しい友だちの名前を見つめる。明るすぎるベルリンの夜空に浮かぶとぼしい星座にも見えるそれらの名前から、なにかを引き出したり、なにかを預けることもない。人々をゲットーや壁の中やテーゲル旧港に押し込めることに長じたベルリンの空、天蓋の空(シェルタリング・スカイ)にそれがあること、わずかな星が穿たれており向こうから光が差しているということ。それだけで冬は暖かい。生きていいほどに。

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※『mirrors/testaments』から、「遺言」をふたつ紹介します。スタジオに作った録音ブースで、一人で肉声(アラビア語)を吹きこんでもらっています。

イブラヒム
遍歴:ガザ→カイロ→ドーハ→カイロ→ベルリン
想い出すこと:実家のオリーブ園とオレンジ園

第二次世界大戦だった
おれと同じ名前のだれかが、アッカで戦っていた
その男は軍隊から逃げ出し、シリアまで歩いて行った
かれの信仰はそれほどに強く、シリアを去ってトルコに向かった
それからメッカに戻り巡礼をするために戦った
かれは同じ道をたどってエルサレムに戻った──ただ一度きり、祈りを捧げるために。
その後、彼はガザに来た
おれは彼のことを全く知らない、
ただひとつ
人々が、彼を人狼の父、と呼んでいたことを除いて。
男は背が高く
青い目をしていた、とおれの祖母は言った。
強く、決意は固く
晩年、彼は鍛冶屋として働き、
四人のこどもをもうけた。
(深く息を吐く)
こどもの一人は1956年に…
(深く息を吸い込む)
…殺された。
もう一人のこどもはそのとき、4歳だった。
ガザへの空爆が、彼ら二人を殺したんだ。
かれには二人のこどもが残っていた。男の子が一人、
女の子が一人、5歳年下だった。
そしてついに、彼は息を引き取った、静かに、
1967年のことだ。
その男の子が、おれの親父だ。
親父の父親は、彼が14歳の時に亡くなった。
親父はもう一人の妹の面倒を見、
彼女がちゃんと結婚できるようにしたし、伝統を守ろうとした。
彼はすぐに自分の夢を追うようなことをしなかった
彼は高校を卒業し、6年待った。
働いて、彼の母と妹の生活を支えるために。
ほかのパレスチナ人のだれもがそうであるように。
1974年、彼は大学に入った。
彼は成功し、いままでもずっと成功しつづけてきた。
家族のために。
74歳まで生きた。
そして兄弟たちの後を追った。ガザのおれたちの家は空爆され、親父はイスラエル人に殺された。
(深く息を吸い込む)
彼が遺したのは深い虚空。
世界中のだれも、それを埋めることはできない。
長男のおれも
その空白を埋めることはできない。
おれには3人のこどもがいる。
でも、もう行くかなくちゃならない
(鋭く息を吸い込む)
こどもたちは永遠におれを愛してくれるだろう
おれのことをよく知らなくても、永遠におれを愛してくれるだろう
孫がおれのことを語り継ぐことを知ってる
でもこれは、おれの物語じゃない
すべてのパレスチナ人たちの物語だ
おれたちの100年、変わることなく
目の前の現実は苦しみに満ちて。
思い出してほしい、どうか
(長い沈黙)
ありがとう。

  —

シャハド
遍歴:アル・サジャラ→ナザレ/ロード→アンマン→ベルリン
想い出すこと:ジャスミン樹の香り、ブドウの木、海の匂い

このメッセージはわたしの家族と愛する人たちへ。
あなた方の上に平安があらんことを。
このメッセージは、私がどれだけあなた方を愛し、気にかけているか伝えたくて書きました。あなた方が幸せで、健康であることを願っています。
あなた方への愛、私の気持ちの深さ、そしてあなた方が私にしてくれたことすべてへの感謝の気持ちを伝える最後のメッセージを送ることは、私にとって大切なことです。
いくつかのお願いがあります。
第一に、お互いを大切にし、お互いを気遣い、特に困難な時には常にお互いの味方でいてください。
人生は短く、怒りや悲しみでそれを無駄にする価値はないのだから。
第二に、健康に気をつけること。健康に気を配り、健康的なライフスタイルを送ること。
どうか、もういなくなったわたしに腹を立てないで。
わたしのために祈って、でも泣かないでほしい。幸せで、笑顔で、いつも人生を楽しんでいてほしい。人生はとても短いのだから、美しい瞬間を作り、素晴らしいことを成し遂げて、それを最大限に活用してほしい。
わたしの部屋、わたしの持ち物、わたしの植物を大切にしてくれたら。
わたしがほとんどの年月を過ごしたこの部屋は、大人になってからもインスピレーションの源です。
そして今度はあなた方が、それを、自分の夢のために使う番です。
あの部屋は日差しがとても美しいから、わたしの植物はそこに置いておいて。
わたしの画材は、絵を描くことに情熱を持ち、その使い方を知っている人たちに配ってください。
国の状況が心配で不安で、生活が耐えがたくなっているのはわかります。でも希望を失ってはいけない。事態が好転することを常に信じてほしい。
最後に、私のためにしてくれたこと、私の夢や考えをすべて応援してくれたこと、そしてまともな生活を与えてくれたことに心から感謝します。
あなた方の愛に同じだけのお返しができなくてごめんなさい。
あなた方のことをとても愛しています。
私たちは来世で会えるでしょう、神様のご意志があれば。

真っ黒の金魚(上)

イリナ・グリゴレ

彼女に会いに行った日は、史上最高の積雪で、しかも吹雪だった。街から離れたセメント工場の裏の木造パートまで、りんご畑と田んぼの真っ白で真直ぐな道を1時間かけてゆっくり走る。白とは目を射すような美しさで全ての汚いものを祓うと感じる。でこぼこ道にハンドルが取られないように、何も考えず真剣に真っ直ぐいく。宇宙の旅のように。真っ黒ではなく真っ白の背景の中に飛ぶ。潜る。泳ぐ。彼女の腕の半分を覆っている金魚の入れ墨を見た瞬間、私が走ってきた真っ白な背景を思い出し、全ては繋がった。雪景色の中では私ではなく、まだ出会ってない彼女の腕の真っ黒の金魚になって泳いでいる気分。彼女は綺麗な人だ。人は身体のどこかに魂をぶら下げる。ほとんどの人が気づかないように。小さな傷、ホクロ、指輪、ネックレス、真っ白な犬のぬいぐるみのキーホルダー。彼女の場合、腕に真っ黒の墨、黒いあざのような金魚。自由に吹雪いているこの田んぼとりんご畑の中で泳いでいるとしか思えない。アザに見えたのもいつか私の腕にあった鮮やかなアザとよく似ていたから。肌が白いとアザは黒から紫になる。でも顔にない限りほとんどの人が気づかない。誰も知らない、彼女の抵抗。

彼女に何があったのか分からないが、あの金魚の入れ墨は彼女の人生を語っている。だからどんなに吹雪いていようとも彼女に会いに行く。アパートの駐車場はすでに湖になっていた。白い雪をずっと見続けると雪が水だったことを忘れるので一瞬驚く。私の雪靴は北国に向いてない。水の中を歩くと足首から水が入る。それでも迷わず小さな湖の中に歩いていくが、不思議に嫌ではない。水で足を清める感覚だ。地球の70%以上は水でできている。水は違う状態で、水蒸気、雪、氷など同時にあるのもたぶん地球だけだ。自分の身体の中の水を想像して、金魚など泳がせたくなる。透明で、大きな容器。身体で 水生生物を育てたい。水草を特に。それとも、沈水性の水草、単子葉植物のイバラモ科、ヒルムシロ科など、マツモ科やアリノトウグサ科など、それほど多くないので身体で育てたい。ハスの花が咲く時だけ身体が鮮やかになって、服も化粧もいらない。それ以外、咲かない時期は沼のような身体でいい。ハス、スイレン、ボタンウキクサ、ヨザキスイレン、ニシノオオアカウキクサ、オシツリモ、セイロンマツモ。ミレーのオフィーリアをよくみると、あの花は彼女の身体から生えている。モネが女性の身体を描く代わり直接に睡蓮を描いたのもよく分かる。

ブカレストの地下鉄の入口でハスの花を売っていたジプシーのおばあちゃんたちがどれだけ羨ましかったか。欲しかった、あの薄いピンクのハスの花が。今になってやっとわかった。あれは自分の身体で育てていた花だ。ジプシーの女性にしかできない。私も今からやってみる。自分の身体も水だから、沼だから。中に蛙も育てみる。ウシガエルは日本の田んぼからいなくなったので自分の身体の中でもいい。あげる、蛙に。自分の身体を。でも一番育てたいのはアマガエルだ。南米のアカメアマガエルがいい。目と手が赤いから。飴のように。蛙の生態に詳しくなりたい。蛙の卵は綺麗だ。私も女の身体で妊娠でなく卵をうめればいいと思った。子供の時、何時間もヒキガエルの卵を家の近くの水溜りで観察していた。家の裏に沼があって、小さな魚と蛙をよく見た。ハスの花が咲いていなかったのが今にして思えば不思議だ。環境は揃っていたのに。何かに抵抗していたとしか思えない。

どんな環境であっても女性の身体はよく抵抗している。この前に学生に見せたハマー族の女性の結婚式の映像を思い出した。「ハマー族シリーズ」と呼ばれる、BBCが1990年に作ったドキュメンタリー映画の中の一つ。女性監督はエチオピアのハマー族の女性を撮影し、インタビューして彼女らの生活に密着した稀な映像。学生に「微笑む女」と「狩りにでる二つの女」しか見せてないけど、この二つを見たら一生分の考え事ができる素材である。

ハマー族には女の狩りと男の狩りがある。男は象とライオンなど大きな動物を狩りしないと一人前になれない。獲物を仕留めればみんな喜ぶ。しかし、女性の狩りとは結婚のことであって、それは悲しいことであり、ほとんどは親族が決めた見合い結婚で、自分達で相手を決めるわけではない。女は微笑み、従うだけ。男性がどれだけ暴力を振っても。ハマー族ではDVが普通なので、結婚したら必ず。若い女の子たちはインタビュアーに向かって微笑みながら、絶対嫌だ、結婚したくないという。このシーンでいつも注目しているのは彼女らの顔つきだ。ハマー族の女性たちの抵抗は表情に出る。女優でもない一般的なハマー族の女性たちがここまで表現できる。映像の力があらたためてこの世界には必要だと感じる瞬間。彼女たちはものすごく嫌な顔をする。特に年配の男性にアドバイスされるときの顔。

二人の女の子の結婚式は、細かく映されることによって、通過儀礼の意味を超えるような儀式となる。まず花婿はいない。最初は姑しか登場しない。花嫁の身体を黄色の泥で塗って清める。そして村の外を案内し、花婿の家へ行く道の淋しさは映像の中から溢れて、青森の吹雪となるような感覚。向こうの家でも姑に泥水とバターが塗られ続けて、髪の毛が剃られる。決められた時期のあいだ花婿と喋ることも目を合わせることもできないままだが、彼女は取材のインタビュアーにちゃんと答えて、泥もバターも思ったより痒くないとコメントする。家畜を放牧する村から離れた若い男性の集団の中に花婿がいて、牛の方がまだあったことのない人間の女性より恋しいという。

戦前の日本と同じように、ハマー族の間でも結婚前の妊娠や、障害がある子供が生まれると、その子は水子になっていた。日本では川に流されることが多かったそうだ。先日見た夢ではそうやって生まれたばかりの赤ちゃんが、へその緒がついたまま浅い川にゆっくり流れている夢を見た。あまりにもリアルで起きた瞬間にベッドに川が流れていると勘違いして、足が濡れていると感じた。水子のテーマでずいぶん前から論文を書きたいのだが、なかなかできなかった。水と子宮、へその緒と女性の身体、血と水。夢の中では川の流水に鮮やかな血が薄められる瞬間を見た。この経験は女性にしかない。流産もそう、中絶も。

私の母を思う。私の、生まれてない水に流された二人の弟の顔を、ずっと想像する。AIに昔の自分を描いてと頼んだら、私と弟にそっくりな、まだ会ってない私たちの弟たちの顔を見せてくれた。このテーマで私はずっと苦しんでいる。黒い金魚が雪景色の中で泳いで、恐山まで辿り着く。この前、たまたま女性が参加するポッドキャストを聞いていたら、流産の経験を語る女性がいた。自分の子供をトレイの水で流したという。ルーマニアでは妊娠中の女性は聖母マリアに次いで聖女エカテリナにも祈りを捧げている。彼女の人生も雪の中で泳ぐ炭より黒い金魚のようだが、男性への抵抗の象徴的な人生でもある。

一回性という「眩暈」

越川道夫

この冬が例年に比べて寒いのか暖かいのか、自分ではさっぱりわからない。携帯電話の写真のリールにはずっと撮り溜めている植物の写真があって、例えば昨年の今頃、私の住む辺りではもう水仙が白いのも黄色いのも随分と咲いているようなのだが、今年はまださっぱりである。蝋梅もちらほら咲いていたようだが、この冬の蕾はまだ固く閉じたままだ。一昨年の写真を見れば、霜柱が立ち、池の氷も張っているのに、日当たりの良い場所ではオオイヌノフグリが咲き始めている。起きるのが遅いだけなのかもしれないが、今年は霜柱もろくに踏んでいなければ、池に氷が張ったという話も聞かない。にもかかわらず、どんなに路肩を覗き込んでも、オオイヌノフグリが咲く気配は全く見えない。毎年のこの違いが楽しい。うちの方ではさっぱりですが、このあたりはずいぶんと咲いていますね、などという会話ができるのもいい。考えてみれば当たり前なのだけれど、花が咲くとか咲かないとか、今年は早いとか遅いとかは、ただ単に気温が高いとか低いとかそういうことだけではないのだろう。気温や日当たり、湿度、土の状態、個体差もあれば、人為的な何か影響もあれば、前年の種のつき方などさまざまなものの働きかけによって、今、このような状態になっているのだから。
 
「このようにして、様々な気候、季節、音群、色彩の群れ、闇、光、元素群、養分、ざわめき、沈黙、運動、休止、それら全てがわれわれの身体という機械そして魂に働きかけている」と書いたのはルソーだったか。この総体を私たちは「一回性」と呼ぶのだろう。若い頃、映画館で35mmフィルムの映写技師をしている時、何度「同じ映画を映写」しても、一度も「同じ映写はない」と感じていた。「もの」であるフィルムは、「その日」の気温や湿度や、様々な条件に影響され、それはやはり「もの」である映写機やスクリーンも同じことで、しかも映写機から出た光が通過する映画館の中の空気もまた、というわけで、スクリーン上の「像」はその度ごとに艶や見え方が違うし、音も聞こえ方も違う。このような諸条件の「総体」が、と言ってしまえば一言で済んでしまいそうだが、この諸条件の組み合わせは無限にあり、完全に一致する、ということはない。例えば、1、2と数えた時に、その1と2の間には無限の階調があり、数値で何かを考えることは、必ずその数値と数値の間にある階調や揺らぎを無視することであり、どんなに数値を細かくしたところで、その数値と数値の間には隙間があって、そこにはやはり無限の階調があり、決して数値的に捉え切ることはできない。だから「総体」などと言って澄ましているわけにはいかず、「一回性」を考えるということは、まるでブラックホールに吸い込まれてしまうような「物事の奥行き」に、その深淵に眩暈を起こしながら対峙する、ということではなかろうか。
 
携帯電話の写真リールは、日記を言葉で書くことができない私にとって、ある種の日記の役割を果たしてくれている。去年はもう咲いていたのに今年はまだなのだな、とか、去年はあまりカラウスリが実をつけなかったが今年は、とか、その気が遠くなるような「一回性」に思いを運んでくれるのである。そして、今日もまた近隣の林を歩きに行き、その道道の路肩にしゃがみ込んでは植物を撮り、野良猫たちを撮り、空や樹樹を見上げては写真を撮る。なぜ撮るかに関してはいろいろあるのだけれど、また。ただ、数年前、自分を含めて人間の愚かしさに愛想が尽き、もう人間は撮らない、と決めたのだ。今また、それを強く思わざるを得ない。映画の仕事をしていれば人間を撮らないというわけにはいかないので、もちろん個人的にということになるのだが、あまりにも植物を撮る時と人間を撮る時の密度が違う、と笑われたことがある。私にとっては植物を愛するように、人間を愛することができるかという課題を得たわけである。

発見の道

高橋悠治

未来はわからない。そこがよいところかもしれない。音楽は作られ、演奏され、あるいは即興される。どれもその時の刻印が押されている。楽譜に書かれた音楽は、記号の集まりとして残される。それらを読んで音に変えるには、その時代のやり方がある。それを時代のスタイルと呼ぶなら、それがあるから同時代の人びとと共有できる音楽も、時が経つと、スタイルが共感を妨げることになる。

同じ記号から別の何かを読み取ることは、どんな音楽でもできることではないだろう。その時が来ないうちに、違う読み方を思いつくわけにもいかない。記号の意味とは別に、それが読まれるニュアンスの、ほとんど気づかない小さな違いに、全体を変えてしまう発見が隠れていることもある。それは論理ではなく、身体の「揺れ」、「揺らぎ」、呼吸の波に乗って漂うような動きになって顕れる。

音楽をする前の準備、楽譜や楽器、手や身体の動き、音やリズムでさえも、目に見えない動きの影をなぞる跡に過ぎない。そうした影を手がかりにして近づく見えない動きは、聴く人の心に映り、そのリズムが聴く身体を揺することと信じて、演奏している瞬間は、前も後もないその時だけのもの。そんな瞬間が、日常のほんの短い時間に混ざり込んでいるのが、音楽家の日々なのかもしれない。

時代のスタイルが変わる時が来る。音楽を始めた1950年代から70年も経ってしまうと、同じことを続けてはいられない。知らない響きや、リズムを見つけては試してみる。知っている音楽も、違うスタイルで演奏してみる。目標もなく、完成もない、いつでも道の途中。

2024年12月1日(日)

水牛だより

東京は12月だということが信じられないような暖かく静かな日曜日です。太平洋側の冬は晴れて乾燥した日が多く、昼間は陽を浴びてうららかに過ごすことができるのは、日本海側に雨や雪が降って、大気を乾燥させてくれるから。どんよりとした冬、豪雪の冬を経験しないまま生きてきました。

「水牛のように」を2024年12月1日号に更新しました。
2024年最後の更新です。平和や自由や平等はすべての人間が望んでいるはずだと思っても、次から次に起こる世界の出来事はそれらに反することばかり。人類の歴史は戦争や不自由や不平等の歴史でもあるので、それこそが人類というものの初期設定なのかもしれません。動物のオスたちが縄張りをめぐって小競り合いを繰り返す映像をよく見ますが、あれの拡大版あるいは発展系みたいな気もします。「どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。」
トップページのイラストがめずらしくモノクロです。雪だるまの表情がそれぞれかわいい。柳生さんの暮らす黒姫ではもう雪が降って、白い世界になってるのかなと想像しました。

まだ実感はありませんが、次回は来年です!(八巻美恵)

240 終映のあとで

藤井貞和

だれもいなくなる画面をのこして、
廃墟になりました。
文字は消され、朽ちて、
石窟の出口から
一千年のかなたへ、
音声の航跡を引いて出てゆくと、
しばらくのあと
われらは舟形の遺跡になりました。
あれ、帆影をうたに変換する空の乗り物です。
視聴ありがとう。 銅鐸を鳴らします。
舳さきに提げて、サインを送る春のゆうべです。
音声は終わる海の庭、石になります。
ことしはつらい始まりだった、
夏には入院もありました。  大河ドラマの、
『光る君へ』の藤原伊周(これちか)さんが、
呪詛の失語症です。 秋になると、
保育園を落ちた姉御も、
じゃねーのかよ (よかのーねやじ)
ならねーだろ (ろだーねらな)
あるかよ ボケ (ケボ よかるあ)
ふりんしてもいいし (しいいもてしんりふ)
わいろうけとるのもどーでもいいから
  (らかいいもでーどものるとけうろいわ)
まじ いいかげんにしろ (ろしにんげかいい じま)
保育園落ちた 日本死ね!!!(たちおんえくいほ
ねしんほに!!!)
ねしんほに、冬の廃墟です。

(どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。闇バイトのどろてきが、屋根のしたまでやってくる。引用は「保育園落ちた日本死ね!!!」〈2016〉より。)

機械の滑らかさで

新井卓

※前回、11月号からの続きです

 2024年4月13日土曜日、パレスチナ会議(承前)当日。直前に公開された会場を調べると、家から十分ほどの近所だった。
 市民農園の角を曲がり、封鎖された大通りにずらりと並ぶ警察車両を横目に自転車を走らせる。ジャケットからはみ出たクーフィーヤがひらひらと空中を泳ぎ、自分の、自分の身体のか細さ頼りなさをなかば笑いながら、小銃と防弾チョッキで身を固めた警官たちの視線を通り抜けていく。
 会場ではすでに大勢の来場者が通りにひしめき、改札を待っていた。プレス向けの青色の紙の輪っかを手首に巻いてもらい、予定から二時間も遅れてビルの非常口から通された。

 思いのほか大きな会場は蒸し暑く、プレス関係者は後方に着席するよう案内された。まわりの人々に挨拶しながら腰を下ろすと、パレスチナの国旗を広げた女性たちが背後に陣取り、ここで大丈夫?と囁いた。聞けば、すぐ後ろに親イスラエルメディアが固まっているらしく、妨害が入るかもしれないので旗やスカーフで防戦するつもりなのだという。両隣の席の人たちと少し話しはじめたところだったので、いまさら移動するのも心細いので、べつに気にしませんよ、人の盾が一人増えたと思って、と答えた。

 やがて大きな拍手とともにジャーナリストで文筆家、活動家のヘブ・ジャマル(Hebh Jamal)氏が登壇し、開会の演説がはじまった。続くプログラムはエコノミストで元ギリシャ財務大臣を務めたヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)氏による基調講演だったが、彼はパレスチナ会議への参加に関連してドイツ当局が空港で入国を拒絶し、オンラインでスピーチを行うことになっていた。バルファキス氏がスクリーン越しに語りはじめた直後、フロアの電源が落ち、一瞬の静寂ののち、会場は騒然とした空気に包まれた。なぜなら、会場の前後の入口から何十人もの制服警官がなだれ込み、通路と舞台を完全に塞いでしまったからだ。司会の女性は困惑した表情で、状況を把握するまで落ち着いて席で待つように、と肉声で呼びかけた。会場のいたるところで、シュプレヒコールが上がっていた。警察よ、恥を知れ!と猛然と立ちはだかる女性たちがいた。

 奇妙に冷静な自分があり、彫像のように不動を決め込んだ警官たちの顔を観察した。どの警官も男女ともに二十代前半だろうか、場違いなほどに若くみえる。この人たちはいま、何を思っているのだろうか。何も感じず、考えないよう、訓練されているのだろうか、と思い、そんなはずはない、と思いなおす。この奇妙な場所で、彼女・彼らはそれぞれにか細い身体を差し出し立っているのだ、通路を塞ぐ障害物、モノとして。そのことに、目のくらむような憤りを感じた(だれ/なにに対して?)。

 どれくらいの時間こう着状態が続いたか──体感では一時間ほどに感じたが、本当はどうだったか。明らかに酸素が薄まりつつある会場で、全員が、何かを待っていた。沈黙を強い待つことを強いる時間は、それ自体がよく使い込まれ滑らかに回転する暴力の装置だったが、その効果が十分に行き届くのを待ってから、警官が二人がかりで、グレーの大きな拡声器を運んできた。拡声器から、姿の見えない誰かの声が流れてくる──この催しはベルリン当局により散会になった。指示に従い速やかに会場から退出するように。これらすべてが、何度もリハーサルを重ねた舞台のように、あまりにも滑らかに執り行われていったので、わたしたちは、少なくともわたしは、悪い夢を漂い目覚めるかのように、劇場の外に投げ出されていた。

 わたしはみんなと同じように腹をたてていたが、へんに納得もしていた。これなんだ、ドイツというのは、この滑らかさなんだ、と。
 自転車を漕ぎ走り抜ける市民農園では、そこかしこでバーベキューの煙が上がり、肉やソーセージの焼ける匂いが漂っていた。サッカーのワールドカップを目前に、きょう、なんとかというチームとなんとかというチームが争う予定で、大音量で流れるテレビの音声は国内リーグのこれまでのハイライトを振り返っていた。滑らかな昼下がり。滑らかなゾーン・オブ・インタレスト(関心領域)。

 翌日、ミドル・イースト・アイ(イギリス拠点でムスリム世界や北アフリカなどを中心に報道を行うメディア)のソーシャル・メディアで、警察が介入した瞬間の様子がシェアされた。占拠された舞台から後方の親イスラエル報道陣へカメラがパンするその映像には、わたしの姿が写り込んでいた。ベージュのジャケットの少し丸まった背中に、驚いたような横顔。その様子を見て、わたしは急にそのアジア人の男が──もちろんそれはわたし自身なのだが──心配になった。あまりにも無防備で、場違いで、彼は一体ここで、なにをしているのか?

(つづく)

その小ささのままに

越川道夫

11月の初めに演劇の公演が終わると、急に寒くなった。いや。その前から寒かったのかもしれないが、こちらが慌ただしくしているので気が付かなかっただけなのかもしれない。樹樹の葉が瞬く間に黄色くなって散っていくような気がする。体を冷やしたくないので、セーターにコートを羽織り、マフラーに手袋と完全に冬の出立で、それでも林の中を歩きにいく。冬枯れが、枯れていく植物を見るのが好きなのである。惚れ惚れとするような枯れ方をしている植物を見つけると写真を撮る。道端に蹲りシャッターを押す瞬間、私は息を止めている。だから撮り終わると必然的に「道端に蹲り荒く息をついている人」ということになる。「どうかしましたか?」とか「体調悪いですか?」と声をかけられるのはまだいい方で、ありがたいことに「救急車呼びましょうか!」と抱き起こされたりするので、しどろもどろで「いえ、写真を」と言い訳をすることになる。なんとも傍迷惑なことだと、申し訳ないやらバツが悪いやらである。
植物の写真を撮っていて、もう一つよく声をかけられるのが「何かあるのですか」である。これもいつも答えに窮してしまう。花を撮っているときはまだいい。枯れた植物を撮っている時は何と答えるのがいいのだろう。「ええ、枯れ方が素敵で」と言ったりもするのだが、言われた方は私が指差す方を見て何とも困ったような顔になる。要するに「何もない」のである。何もないことはない。そこには「枯れた」植物があるのだが、そこに撮るべき「価値」を見出せなければ、それは「何もない」ということになるのである。
 
映画や演劇に関わってきて、いつもこの問いに突き当たるような気がしている。それは「小さなもの」を「とるに足らないようなもの」その「小ささのまま」に。その「とるに足らないもののまま」に描くことができるか、という問いである。私たちは「その小さな存在」に対して「描く価値があるもの」という何かを付与しなければ描くことができないのではないか。例えばシナリオ学校で、自分の隣にいるような市井の人々の生活を描きたいと言ったとする。すると生徒からはこういう質問がくる。「そんなものを描いて、誰が見るのですか?」と。例えば「小さな存在」を「神々しく」描いたら、「美しく」見えるように撮影したら、「小さな存在」を「描く意味があるもの」として描いたら、それはもう「小ささのまま」に描いたことにならないのではないだろうか。ここでいう「意味」とは「価値」である。結局私たちは「価値がある」ものしか描くことができないのではないか。これではそんなものを描いて、誰が見るのですか?」と言った人と何も違わない。そもそも存在することは「価値」では量ることができないものであるはずだ。「価値」とは「流通」が生み出すのである。「価値」ということが無効となるところに、「存在」はある。
 
林の中で、エドワード・アビーの『砂の楽園』(越智道雄・訳/東京書籍)を読んでいた。エドワード・アビーは「自然」というものを内面化せずに「他者」のまま描くことを目指したネイチャーライティングの作家の一人である。彼の言う「砂漠の人間に対する無関心」は、ひどく私を清々しい気持ちにさせる。
 
「この石、これらの植物や動物たち、この砂漠の景観のもっともすぐれた美徳は、それがわれわれ人間の存在もしくは不在、われわれがやってきてここにとどまりあるいはまた立ち去ることに対して明らかに何の関心もしめさないことにある。人が生きようが死のうが、それは砂漠にとっては完全に、いかなる関わりもないことにすぎない。」
 
言うまでもなく「この石」は、私たちのために存在しているのではない。「その小ささのままに」と言う私の堂々巡りのような考えは、返す刀で枯れた植物を美しく写真に収めようとする私自身を斬るのである。
 

大阪、CHABO BAND

若松恵子

RCサクセションのギタリスト、仲井戸麗市率いるCHABO BAND(チャボバンド)のライブを見に大阪に行った。仲井戸麗市の活動としては、ソロ、ストリート・スライダースの土屋公平との麗蘭(れいらん)、チャボバンドとあるのだけれど、彼の74歳の誕生日を記念するライブは1年ぶりのチャボバンドで企画された。彼が音楽を奏でる限りどこへでも聴きに行こうと思っているので、大阪まで出かけて行ったのだった。会場は、住之江競艇場の隣にあるライブハウス、ゴリラホール。1982年の夏に、住之江競艇場で来日したチャック・ベリーとRCサクセションが共演した、その思い出のある場所だった。

チャボバンドのメンバーと作った10年ぶりのアルバムが、クリスマスに発売される。そのアルバムのタイトル「Experience」を冠したライブは、ギタリスト、ソングライター、ボーカリストとしてのチャボの、様々な経験をくぐりぬけてきた「今」を感じさせるものだった。連れの夫とともに「すごい」「すごい」と言いながらその日泊まるホテルまで四ツ橋線に乗って帰ってきた。

帰りの新幹線までの自由時間にどこか大阪を見物しようと、その参考に、買ったままだった『大阪』(岸政彦・柴崎友香/2021年河出書房新社)を読んだ。著者の取り合わせに興味を覚えて手にした本だった。大阪で育って今は東京に暮らす柴崎友香と、大学進学のために大阪に来て、そのまま今も大阪に暮らす岸政彦が、交互に大阪について話す(文章を書く)構成になっている。相手の文章に影響を受けて、2人の書くものが響き合って、深まっていく感じが良かった。

「はじめに」で岸政彦が書いている。「私たちはそれぞれ、自分が生まれた街、育った街、やってきた街、働いて酒を飲んでいる街、出ていった街について書いた。私たちは要するに、私たち自身の人生を書いたのだ」と。観光案内にはならなかったけれど、2人が大阪で「たくさんの人びとと出会い、さまざまな体験をして、数多くの映画や音楽や文学を知り、そうすることで、自分の人生を築いてきた」、その物語を読むことで、歩く大阪の街に親しみを感じることができたのだった。

学校にも家にも居場所が無くて、大阪環状線に乗って何周もしていた日々のことを柴崎友香が書いている。学校に行くのが苦しくなって、時々早退して、親にばれないように夕方家に帰るまでの時間、環状線に乗って時間をやりすごすのだ。「学校を早退していったん家に帰って着替えて、行った先が環状線だった。誰かに会わず、お金がなくても過ごせる場所を、そこしか思いつかなかった」からだ。「大阪環状線は名前の通りに環状でいつまでも乗っていられるから助けてくれた」と彼女は書く。

そして、乗っているうちに、ほとんどの人が思ったよりすぐに、3駅くらいで降りていくことに気づいて「みんな行くとこがあるんやな」と思う。時には、自分のように、ずーっと乗っている人を発見したりもする。そんな時間の中から、彼女は「自分は一人でいることがつらいのではなくて一人でいると思われることがいやなだけで、だとしたらたいしたことではない」と思うようになる。「日が暮れるのが早くなり、風が冷たくなり始めたころ、わたしは環状線の駅から外に出ることにした」。一人で街を歩くようになったのだ。

彼女がそんなふうに過ごした90年代初頭は、バブルは終わっていたとはいえ「ミニシアターが次々できて、小劇団が注目され、百貨店でも美術館並みの展覧会をよくやっていて、地上波のテレビで深夜に外国やミニシアター系の映画をやっていて、三角公園でただただしゃべっているだけでお金がなくても楽しく過ごせた」時代だった。ひとりきりで歩く大阪は「新しいこと、好きなものを、毎日のように見つけられ」「世の中にはわたしが知らないことがたくさんあって、わたしが知らないことを知っている人がたくさんいて、自分もここにいていい」と思える街だったのだ。ほぼ同年代の私も、当時の渋谷や吉祥寺や下北沢の街を同じように思い出す。

「あほでとるにたりない1人の高校生だったわたしに、大阪の街はやさしかった」「街が助けてくれたから、わたしは街を書いている。」と柴崎友香が書いていて心に残る。当時見た映画やライブを記録していた、小さな手帳の話が出てくる。1989年1月「トーキョー・ポップ」2月「ドグラ・マグラ」、1990年7月「ボーイ・ミーツ・ガール」12月「エレファントカシマシ」と並んでいるなかに1992年2月「麗蘭」という記述があって、嬉しくなった。

仲井戸麗市もまた、家や学校からはぐれて、ひとり街を歩く少年だった。その頃の風景、出会った人がうたになっていることもある。大阪のライブで演奏された「逃亡者」という新しい曲は、そんな少年の時代に出会った活動家(当時世の中は過激派などとも呼んでいた)のカップルの思い出がうたになったものだ。彼らが好きでよくかけていたロックの曲と2人の面影がうたになっている。彼らの何にシンパシーを感じたのか、理屈ではない、言葉では言い表せない思いが、ギターの音に、バンドサウンドになって私に届いた。

親父が死んだ

篠原恒木

先日、親父が死んだ。百歳だった。

午前零時を過ぎた頃、「そろそろ寝ようかな」と、寝室の灯りを消したら自宅の電話が鳴った。その瞬間に、
「あ、これは死んだな」
と確信した。電話に出ると、介護施設からで「呼吸が止まった」とのことだった。
「あっという間だったなぁ」
そんな間の抜けたひとりごとを言いながらモソモソと着替えて、ツマと一緒にクルマに乗り、自宅からすぐの場所にある施設へ向かった。

死ぬ三日前に面会したときは、かろうじて会話ができていた。「かろうじて」と書いたのは、親父は耳がとても遠くなっていたので、話すときは耳のそばで大声を出さなければならなかったからだ。五分も喋ると、おれの声が嗄れた。だが、その日はこちらの話すこともどこまで理解できているのか曖昧だったような気がする。

死ぬ二日前、施設を訪ねると車椅子に座ったまま口を開けて寝ていた。いや、寝ていたというよりは意識が混濁しているようだった。昨日の夜から食事も一切摂らないという。呼吸をするたびにゴロゴロと痰がからむ音がしていた。この日は声をかけると一瞬目を開けて、
「コーラが飲みたい」
と弱々しい声で言った。
コーラが大好きな百歳。
施設内の自販機で買って、口に含ませると、ゆっくりと飲み込んだ。
「おいしい?」
と訊くと、目を閉じたままで反応がなかった。再び耳元でもっと大きな声で訊くと、
「うまい」
と応える。そばにいてくれた看護士さんが「意識のある今のうちに薬を飲ませたい」と言って、錠剤を砕いてとろみをつけてスプーンで飲ませた。すると親父は、
「これはコーラじゃねえ。ゲロを飲ませる奴がどこにいるんだ」
と、呂律の回らない声で怒った。こんな状態になっても口の悪さは相変わらずなんだと思ったら、少し笑ってしまった。
「ゲロじゃないよ、今のは薬だよ。じゃあ口直しにもう少しコーラを飲もう」
と言って、コーラを少しだけ飲ませると、満足したのか、また眠りに落ちてしまった。

次の日、つまり死ぬ前日はベッドに寝たままだった。医者が往診して、水分補給のため点滴を受けた。酸素供給量が足りないので、酸素マスクをつけていた。医者は延命治療をするかどうか訊いたが、おれは結構ですと答えた。
「それよりも今の本人は苦しいのでしょうか?」
「意識がはっきりしていないので、苦しさはあまり感じていないかと」
「苦しいのはできるだけ取り除いてください。僕らの望みはそれだけです」
隣にいたツマも大きく頷いていた。

帰宅するとツマが言う。
「お父さんはまた復活すると思うよ」
親父はこれまで何度も医者から
「今日、明日がヤマですから覚悟しておいてください」
と言われていたが、そのたびに奇跡の回復をしていた。それはもう、呆れるほどしぶとかったのだ。ツマはおれよりもそれらのいきさつをよく知っている。
「痰が切れなくなっているのが辛そうだよなぁ。あれが呼吸を邪魔している。苦しくないのかな」
「苦しいのは可哀想だよ。お父さんはアタシによく訊いていたもん。『死ぬときは苦しいのかな』って」
「なんて答えた?」
「お父さんは長生きしているから死ぬときは楽に死ねるよ。それにまだまだ死なないから大丈夫。そう言った」
満点回答ではないか。
「でもなぁ、親父の顔、おふくろの臨終のときと同じ顔をしていた」
「そうかなぁ」

ここ数日で親父のバッテリーは急に残量が減ってきていた、とおれは感じていた。百歳だもんなぁ。その前からこちらの問いかけにも段々と反応が鈍くなっていた。頑張っていたけれど、もう限界だよ。百歳だぜ。つい先日まで自力で痰を切っていたけれど、それも難しくなったようだ。あの痰がゴロゴロしている状態はいつまで続くのか。医者は「苦しさは感じていないだろう」と言ったけど、もし苦しいのなら、いますぐにでもスーッと息を引き取ったほうがいい。

もし近日中に親父が死んだらおれのさしあたっての予定はどうなるのかと手帳を開いた。キャンセルの嵐はややこしいことになるな、と思った。親父が死にそうなのに自分のスケジュールを気にしている息子って結構サイテーだよなと気が付いたが、基本的にそういう奴なのです、おれは。

翌日は仕事で面会には行けなかった。帰宅して晩めしを食べ、午前零時を過ぎたので寝ようとしたところへ電話が鳴ったのだ。施設に着き、親父の部屋に入ると親父は眠っていた、いや、死んでいた。まだ暖かい額を触りながら、
「楽になったね。まあそれにしてもよく生きた。よく頑張った」
と声をかけた。施設のスタッフが泣き出して、それにつられてツマも泣いていたが、おれの涙は一滴も出なかった。おふくろのときもまったく泣かなかったのを思い出していた。

おれにとって年老いた両親はどこか煩わしい存在だった。
育ててくれた恩義はある。だからおふくろにも親父にもできるだけのことをしたと思う。
「いや、もっと献身的にできたはずだ。もっと優しく接してあげられたはずだ」
と言われれば、返す言葉もないのですがね。
おふくろも弱ってからが長かったので、死んだときは正直言って肩の荷が半分下りた。だが、親父が残った。こちらのほうはもっと長持ちした。そのあいだ、我がツマにもいろいろと負担をかけた。考えてみればこの十年間、二泊以上の旅行をしたことがない。東京を離れると、もしものときに困るからだ。親父が死んだら、おれたち夫婦は精神的にも時間的にもかなり自由になれるのだろうな、と頭の片隅でいつも思っていた。

やがて親父の部屋に医者が往診で駆け付け、死亡を確認した。とっくに死んでいたのだが、死亡時刻とは亡くなった事実を医者が確認した時刻らしい。午前1時5分だった。受け取った死亡診断書には「死因・老衰」と書かれていた。老衰とはあっぱれだ、たいしたもんだ。親父は自分が死んだことも自覚せずに逝ったような気がする。知らない間に事切れたのではないだろうか。これは理想的な死のかたちのひとつですよ。百年間も頑張って生きたご褒美だよ。

施設のスタッフに訊くと、遺体はこの部屋からすぐ移動するのが決まりだという。ならばと葬儀社に電話すると三十分で到着した彼らは手際よく親父の遺体を車に乗せた。とりあえず親父はこのままセレモニー・ホールへと移動するようだ。葬儀社のヒトたちはきわめて情感たっぷりの儀式的な演技をしているように見えた。施設から出ていく車を見送るとき、スタッフの方々は手を合わせて泣いてくれていた。財布を落としたとき以外は泣かないツマも泣いていた。おれは車に向かって大きく手を振った。行ったこともないセレモニー・ホールへ一人で向かう親父はきっと心細かったことだろうなぁ。いや、自分が死んだことを自覚していないのだからモンダイはなかったのかもしれない。

火葬場の都合で、葬儀は三日後と決まった。おれはそれまで毎日セレモニー・ホールへ行き、親父と面会して焼香をした。いや、ものの五分間程度なんですけどね。面会は予約制だった。考えてみれば、遺体が安置されているのは親父だけではないはずだから、予約時刻になると親父の遺体を運び出し、用意を整えてくれるというわけなのだろう。死んだ翌朝に行って、親父の額を撫でたらキンキンに冷えていた。社会はすべてシステムによって動いている。

葬儀は家族葬で済ませた。百歳にもなると親戚一同、一族郎党はすべて亡くなっている。知らせるべき友人たちもこの世にはいない。
寺の住職と一緒に火葬場へ向かい、棺を焼却炉の中に入れると骨になるまで五十分ほどかかると言われた。おれは今まで出席した葬儀を思い出していた。あっという間に骨上げをしたような記憶しかなかったので、五十分とはずいぶんと長いな、と思った。
待合室でツマ、住職と食事をしながら、一般的な世間話ができないおれは、
「五十分とは長いですね。低温調理ですかね」
と住職に言った。ツマはおれを睨みつけていた。

とにかく頑固なジジイだった。自説を曲げることを一切しなかった。常に自分が正しいと思い込んでいた。オノレが正しいことを証明するためには平気で嘘もついていた。

いつも怒っていた。「怒り」とは「他者との価値観の相違」から生じる感情らしいが、親父の価値観を共有できるニンゲンなど、ただの一人もいなかった。めったやたらと怒っていたのはそのせいかもしれない。

戦争に兵隊として駆り出された体験を、一度として語ろうとしなかった。記憶からむりやり消そうとしていたのだろうか。今となってはわからない。

「もうすぐ死ぬからもったいない」
と、補聴器の購入を受け入れず、その割には「体にいいから」と青汁を飲んでいた。
「来年は迎えられそうもない」
と言いながら、大晦日には我がツマが作った蕎麦を食べたいから届けてくれ、一緒に食べようとホザいていた。本音はまだまだ生きたかったのだろう。

さんざん貧乏暮らしをしてきたせいか、うんざりするほどカネに細かかった。飛び込みでセールスに来る銀行マンにいい顔をしたいがために、あちこちの銀行、信用金庫に小金を預けていた。小銭で株や投資信託もしていたようだ。そのせいで戸籍謄本と戸籍抄本の違いも判らないおれがいま苦労をしている。戸籍全部事項証明書って何だよ。口座用株式移管依頼書なんて聞いたこともないぞ。にっちもさっちもいかない。そうだ、家じまいもしなければならないではないか。

親父よ、アンタは大往生だったが、おかげでおれは立ち往生しているよ。