2024年11月1日(金)

水牛だより

ようやく、待ち焦がれた秋が急激にやってきて、もうすぐそこに寒さが待っている気配。あんなにひどかった暑さもすでに記憶のかなたです。

「水牛のように」を2024年11月1日号に更新しました。
秋はやはり内省の季節であるのか、長めの原稿が多くなりました。昨夜あたりから公開に向けて読み始め、公開直前のいまは脳内パンパンに膨れ上がっている感じがします。
仕事であれ暮らしであれ、起こるのははじめてのことばかり。そしてこれから生きていくにあたっては、何歳であろうと、いまの自分がもっとも若いのです。篠原恒木さんの「歳を取って」は私とのメールがきっかけで書かれたものですが、私もそのことについては長谷部千彩さんとの往復書簡に書きました。よろしければどうぞ。
https://www.memorandom.tokyo/yamaki/4279.html
https://www.memorandom.tokyo/yamaki/4379.html

それではまた来月に!(八巻美恵)

239 金で買った言葉よ

藤井貞和

言うなかれ どんな野蛮も
予言のまえに
ひれふしてあれ
こがね色の言葉を与えよ
どうせ
金で買った言葉である
使わなきゃ損 只じゃねえ
 
受講生に
小売りの小売り
詩がよい子向けに
なっちゃお仕舞いよ
軽石みてえな
軽い詩はもうたくさんよ
金の使いどころ
 
坊っちゃんが
こんな奴ラは
沢庵石をつけて
海ン底へ沈めちまう方が
日本のためだア
というものだから
重い石を買おうよ
 
言葉よ
きのうは語る
ない火灯し
げつめいに踊る骨
経蔵をひらき
墨を擦って
字にうずくまれ

 
(文法というのは無意識界を明るみに引き出すようなことだから、どこか不快な、嫌われる要素を避けられない。無意識界は明るみに引き出しても、「ああそうですか」で終わる。また無意識界へ帰ってゆくから、無償であることはまちがいない。それに対して言葉一般は意味を持って売り買いできるというようなこと。忘れて。)
 

水牛的読書日誌 2024年10月(斎藤真理子、李良枝、ハン・ガン)

アサノタカオ

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』(編集グループSURE)を読了。朝鮮語翻訳者の斎藤さんが、作家の黒川創さんら編集グループSUREに集う人々と語り合い、多彩な資料を示しながら日本の韓国文学の翻訳史を整理して紹介している。韓日の文化の橋渡しに尽力した歴代の在日翻訳者たちに光をあてる、すばらしく充実した内容だった。語り下ろしの本ということもあり、読みやすい。

1990年代、地方の大学生だったぼくは図書館や古書店の棚をさまよいながら、韓国文学の翻訳を読み始めた。新刊書店で韓国文学の本を見かけることはほぼなかったと思う。何がきっかけかは忘れたが、当時から見ればひと昔前の「抵抗文学称揚の時代」(『在日コリアン翻訳者の群像』)に出版された本をこつこつと集め出し、さらにひと昔前の「北朝鮮文学優勢の時代」に出版された本を遠望していた。そして2000年代に入ってなお、「抵抗文学称揚の時代」を象徴する金芝河詩集(姜舜訳)を片手に奇妙な熱弁を振るう自分に対し、韓国からの留学生の友人は「アサノくんさ、いまの韓国の人は金芝河を読まないよ。ほかにもいい詩人や小説家がたくさんいるんだから」と冷ややかな言葉を浴びせるのだった。そうなのか、と目が覚めた。

ならば、現代の韓国文学をもっと読みたい。でも韓国語ができないし……。そんなもどかしい気持ちを抱えていたぼくが頼みの綱としたのが、在日の文学者・翻訳者の安宇植(1932〜2010)だった。当時の安宇植は、申京淑など同時代作家の作品の翻訳に取り組み、評論の執筆から新聞・雑誌への寄稿までをこなし、現在の斎藤さんと同じように、韓国文学の紹介で八面六臂の活躍を見せていた。

『在日コリアン翻訳者の群像』を読んで、文学者としての安宇植の歩みを知ることができてよかった。1950年代後半の在日朝鮮人の詩誌『プルシ(火種)』のメンバーだったことから、安宇植が詩人だった可能性を斎藤さんは示唆している。おもに在日二世の文学青年たちが集い、朝鮮語詩を発表していた。『プルシ』の3号は日本語版で翻訳詩から構成され、朝鮮文学のみならずロシアや欧米の海外文学(レールモントフ、アラゴン、ラングストン・ヒューズ……)を紹介し、近代朝鮮文学を代表する尹東柱や金素月の詩の英訳も掲載するなど意欲的な企画に取り組んでいるものの、この号を発行後に休刊。多言語が呼びかわす誌面に、若き在日青年たちののびやかな〈世界文学〉への思いを見る斎藤さんは、「胸が躍ります」と語っている。その言葉を読んで、ぼくの胸も躍った。

10月某日 早逝した在日コリアン2世の作家・李良枝の文学碑を訪ねるため、彼女が生まれ育った山梨へ。2022年、没後30年に出版された李良枝のエッセイ集『ことばの杖』(新泉社)の編集を担当したことがきっかけで、妹の李栄さんとの交流が続いている。富士吉田の新倉山浅間公園に文学碑が建立されたことを栄さんから聞いていて、一度見に行きたいと思っていたのだ。ちょうど、李良枝に関するエッセイを書き上げたところだった。

富士吉田にはぼくの母方の親戚がいて、マレーシア在住の従姉妹が一時帰国しているという。コロナ禍もあり、親戚とはしばらく会っていなかった。ならば久しぶりにみなで集まって墓参りもしようと、妻と娘と一緒に出かけることにした。

初日は、富士山麓の湖のほとりの森のなか、従姉妹の営む一棟貸しの宿に滞在。翌日、墓参りを済ませたあと、従姉妹の父親である叔父のIさんに新倉山を案内してもらった。山の中腹には、富士山を一望できる撮影スポットがあり、外国人観光客の長蛇の列ができている。文学碑はその脇にひっそりと立っていた。
 
御影石の碑には、『ことばの杖』にも収録された随筆「富士山」から引用された文章が刻まれていた。「すべてが美しかった。それだけでなく、山脈を見て、美しいと感じ、呟いている自分も、やはり素直で平静だった」

在日1世の両親の不和ゆえの幼少期の暗い記憶とともにあり、「日本的なものの具現者」として憎んできた富士山。その風景を李良枝が受け入れるには、長く複雑な心の道を歩かなければならなかった。「韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を愛している」と作家は続ける。たどりついた個としての「素直で平静」なまなざしの深さにあらためて打たれた。

ぼくの祖父は富士吉田で学校の教師をしながら民俗学や郷土史の研究をしていて李良枝の父と交流があり、親戚には少女時代の彼女に日本舞踊を教えた師匠もいる。叔父のIさんは、やはり早逝した李良枝のふたりの兄と親しく、お互いの家を行き来するほどの仲だったので、亡き友をめぐる思い出話を懐かしそうに語ってくれた。

10月某日 韓国の作家ハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞した。韓国の作家で初、アジアの女性で初のノーベル文学賞受賞ということで、飛び上がるほどうれしい。ここ数年、ハン・ガンさんの作品を愛読してきたので、日本語の世界に届けてくれた翻訳者と出版関係者への深い感謝の気持ちが込みあげてきた。

ノーベル文学賞の発表前、非常勤講師を務める大学の編集論の授業で「今年は誰が受賞するか」をテーマに話したのだった。過去十年の受賞者の傾向を分析しつつ、アジアから受賞者が出る可能性があることを指摘し、有力候補と報道されていた中国の作家・残雪氏の名前を挙げておいた。

授業を終えて校内の控室に残り、日本時間の午後8時から始まるスウェーデン・アカデミー選考委員会の発表式を、オンライン配信で視聴。どきどきしながら耳をすませていると、「韓国の作家、ハン・ガン」という英語のアナウンスを聞いて驚いた。いつか受賞するとは思っていたが、まだ早いと考えていたのだ。歴代の受賞者のうち、50代前半の作家はそれほど多くない。選考委員は「ハン・ガン氏の力強い詩的な散文は歴史的なトラウマに向き合い、人間の生のはかなさをあらわにしている」と評価していた。

ハン・ガンさんは詩人としてデビューしているのだが、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)の日本語版の編集をぼくは担当している。世界的に見て、声にならないものに声を与える仕事にもっとも真摯に取り組む作家のひとりであることは疑いない。そんな彼女の文学を紹介する仕事に間接的でも関われたことは、光栄で誇らしい。

ところでハン・ガンさんの文学を日本で普及する道を開いたひとりが、出版社クオンの代表・金承福さんだ。今から13年前、「新しい韓国の文学」シリーズの第1弾として小説『菜食主義者』(きむ ふな訳)を刊行。その後も作家の代表作となる小説やエッセイの翻訳を出版し、「セレクション韓・詩」の創刊時には、満を持して『引き出しに夕方をしまっておいた』をリリースした。

金承福さんは、「『韓・詩』のシリーズはハン・ガンさんの詩集からはじめたい」と打ち合わせ時に明言していた。そして「欲を言えば、日本の読者にとって韓国の詩への入り口になるような本にしたい」とも。この本には訳者のきむ ふなさんと斎藤真理子さんの対談「回復の過程に導く詩の言葉」を収録しているのだが、これは金承福さんの熱意を受けて企画したのだった。訳者ふたりのお話のおかげで、作家の詩や小説のみならず、韓国文学の歴史を理解するための絶好のガイドと言える内容になったと思う。

10月某日 昨年、奈良県立図書情報館で「韓国文学との出会い」と題してトークを行った。企画してくださったIさんが亡くなったことを知る。ご冥福をお祈りします。

トークでは、安宇植の韓国文学の翻訳に大きな影響を受け、読者として恩義を感じていることを中心に話したのだった。安宇植はハン・ガンさんの父で作家の韓勝源氏の小説『塔』を共訳している。これは角川書店が韓国の作家に未発表の書き下ろしを依頼して1989年に出版した本で、今から考えるとすごい話だ。

奈良県立図書情報館でのぼくの出番の前に登壇したのが、斉藤典貴さんだった。晶文社の「韓国文学のオクリモノ」という名シリーズを世に送り出した編集者で、2017年に創刊されたこのシリーズから受けた衝撃については、『「知らない」からはじまる——10代の娘に聞く韓国文学のこと』(サウダージ・ブックス)という本のなかで書いた。付け加えるならこのシリーズは、実力ある女性の韓国文学翻訳者たちの存在を、ひとつの「チーム」として世に知らしめたことにも大きな意義があったのではないか。翻訳者として関わったのは斎藤真理子さん、古川綾子さん、すんみさんの3人。

現在も勢いを増し続ける韓国文学の翻訳出版に欠かせないこうした女性翻訳者たちの多くは、大学研究者ではない非アカデミックという点において歴代の在日翻訳者たちとも共通する立場にあり、ぼくはそこに何か大切な精神史の流れがあると感じている(安宇植は桜美林大学の教授を務めていたが、それでも在野的な精神をもつ存在だったと思う)。

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』には「アサノタカオさんという編集者の方が、神奈川近代文学館に行った時に、「プルシ」を見つけて、黄寅秀さんの部分だけコピーして送ってくれた」とある。

編集者であるぼくには、秋のリスがほほ袋に食べきれないほどドングリを詰め込むように、図書館で少しでも気になる資料を見つけたら片っ端からコピーをとって持ち帰る習性がある。その習性が役立ったわけだが、補足すると、在日の英文学者・翻訳者の黄寅秀が『プルシ』に寄稿していたという情報は、文学研究者の宋恵媛さんの大著『「在日朝鮮人文学史」のために——声なき声のポリフォニー』(岩波書店)を読んで知り、そもそも宋恵媛さんの本の重要性は斎藤さんに教えてもらったような気がする。なのでこの資料の存在は、自分が「見つけた」というより、届くべき人の元におのずと届いたということだろう。

宋恵媛さんは今年2024年、望月優大さんとの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)で講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。宋恵媛さんの仕事に関しては、2005年刊行の『金石範作品集Ⅱ』(平凡社)の解題で在日作家・金石範氏の文学における「女性への眼差し」について忖度抜きの鋭い問題提起をしているのを読んで以来、注目してきたのだった。

10月某日 自宅で編集の仕事をしながら、SNSの音声配信で作家の深沢潮さんのお話を聴く(以前、小説『緑と赤』(小学館)を読んでとてもよかった)。深沢さんはノーベル文学賞の話題から、ハン・ガンさんと李良枝には「身体性を大事にしている表現者」という点で通じるところがあると語っていて、大きくうなずいた。言葉と身体の関係性をめぐるハン・ガンさんの小説『ギリシャ語の時間』の文章と李良枝の芥川賞受賞作「由熙」の文章を並べると、個々の作品の文脈を超えて強く響き合うものがある。

 「血が流れていない血管の内部のように、またはもう作動していないエレベーターの通路のように、彼女の唇の内部はがらんとあいている。依然として乾ききったままの頬を、彼女は手の甲でこする。
 涙が流れたところに地図を書いておけたなら。
 言葉が流れ出てきた道を針で突き、血で印をつけておけたなら。」
  ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)

 「由熙の二種類の文字が、細かな針となって目を刺し、眼球の奥までその鋭い針先がくいこんでくるようだった。
 次が続かなかった。
 아の余韻だけが喉に絡みつき、아に続く音が出てこなかった。
 音を探し、音を声にしようとしている自分の喉が、うごめく針の束につかれて燃え上がっていた。」
  李良枝「由熙」『李良枝セレクション』(温又柔編・解説、白水社)

10月某日 東京の文化センターアリランで開催される「アリラン・ブックトークVol.12」で、李良枝『ことばの杖』が紹介されるという。ゲストは李栄さんなので参加したかったが、仕事の出張と重なり会場には行けなかった。後日アーカイブ動画で視聴しよう。

月1回のペースで参加している海外文学のオンライン読書会。来月の課題図書がハン・ガンさん『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)に決まった。1948年の済州島4・3虐殺事件をひとつの背景にした長編小説だ。2008年に家族とともに旅した済州島の風景を思い返しつつ、再読している。

話の話 第20話:只者ではない

戸田昌子

只者ではないが、どこかツッコミどころのある人、というのがいる。大学の事務補佐をやっていたニーモト君という人がそういう人で、あまりに賢くて有能なので、仕事を個人的に手伝ってもらったことが何度かある。このニーモト君の有能さはたとえばこんな感じだ。出校時、わたしは授業の配布資料を人数分コピーしてもらうため、朝、家を出るまでに事務室へ送るようにしていた。事務補佐の仕事は、そのデータをプリントアウトして200~300部の配布用コピーを作ることなのだが、このニーモト君は頼んでもいないのに、資料の内容の校正をしてくれるのである。個人名の正誤や図版のナンバリングに至るまで、丁寧にチェックしてくれる。そして「この箇所、間違っているので直しておきますね」と通勤中のわたしにメールをよこす。わたしがOKを出すと、大学に到着したときには、修正原稿とコピーが定位置のテーブルの上にきれいに並んでいる。

しかし、ニーモト君の凄さはそれだけではない。頼んでいないのも関わらず、授業で使えそうな書籍や雑誌などの資料まで用意してくれるのである。ニーモト君がわたしの配布資料のデータを目にするのはたいてい当日の朝、授業開始前3時間ごろだから、資料を探し出す時間などほとんどないはずなのに、研究室の本棚や大学図書館などのアクセス可能な場所から資料をぽいぽいと抜き出して揃えてくれるのである(念の為だが、頼んではいない)。そしてときに、ニーモト君の所蔵資料が含まれていることもある。どうやら通勤前にわたしのメールをチェックできた時には、関連資料を自宅から持参してくれているようなのだ。

もちろんこんな仕事は事務補佐の仕事には含まれない。言ってみれば個人秘書の仕事である。ニーモト君は写真をやっている人だから、どうやら個人的な興味があってわたしの資料を揃えてくれていたようだった。そんなこともあって、ニーモト君にはときどき日給を払って我が家までアシスタントに来てもらっていた。わたしの監修本の作品リストのチェックとか、フィルムや資料のスキャニングとか、だいたいわたしが苦手な算数が含まれる仕事のときにはニーモト君に仕事をお願いする。図版の数を読み合わせながら確認していく作業のとき、「1個どうしても足りないねぇ、数が合わないわ」とわたしが言ったら「さっき戸田さん16のあと18って言ってましたよ」「……あら」なんてことは、よくある。

わが娘が「おそ松さん」にハマっていた頃。ある日、我が家にやってきたニーモト君は缶バッチの入った大きなビニールの包みを抱えていた。「これ、娘さんにどうぞ」。袋を開けると、軽く100個以上の「おそ松さん」の缶バッチが入っている。「え、これ」「差し上げます」「ええ!」と驚いたのだが、聞くと、大学でたまに行われる不要物の交換会で、無料で手に入れたものだという。「娘さんが好きだって言われていたから、もらってきたんです」「うわあ、ありがとう!」と受け取ったけれど、わたしは娘が「おそ松さん」が好きだ、という話しをニーモト君にしたのかどうかすら、覚えていない。きっとしたのだろう。この、只者ではない気の回りようには、時々、怖くなる。

このニーモト君は出身が広島なので、当然のように「広島カープ」の熱烈な支持者である。週に一度の出校時、いつもさまざまなデザインのカープTシャツを着てくるのだが、どれもとてもいいデザインで素敵である。カープファンでなくとも着てみたいと思うようなものばかりだ。そのうえニーモト君はわたしの前で、一度たりとて同じシャツを着ない。わたしの出校日は水曜日なので、どうやら同じ曜日に同じシャツを着ることがないように配慮しているようだった。すごい神経の回しようである。そんなニーモト君がある日、我が家に来たとき、カープではないうさぎのキャラクターのシャツを着ていた。意外さにちょっと興奮したわたしが、「わ!今日はかわいいね!ミッフィー?」と自信満々に言ったらば「マイメロです!」と、なんとなく怒った感じの低い声で返されてしまった。あ、すみません。

先日、イサキを買って帰ったら、娘が「誰よその女」とボケてくれました。わたしの方はと言えば、「あー、スズキ君の彼女?」と答えておきました。毎回逃さずいいボケをしてくれる娘。決して只者ではない。

むかし、大学新聞の友人や後輩たちと、「益子へ行こうぜ!」となって、5、6人で車に分乗して益子まで行ったことがある。益子と言えばもちろん陶芸の益子焼である。陶芸センターで手びねりの陶芸体験ができるというので、皆で手びねりをしながら、わいわいおしゃべりをしていた。いつも何かとネタにされやすいタイプのわたしは、「戸田さんならこうするでしょう」「なにを言っているんですか、戸田さんともあろう人が」などと、会話のなかでしょっちゅう槍玉に上がる。すると、それをしばらく黙って聞いていた、陶芸体験コーナーの担当の女性が、重々しく一言「……その戸田さんというのは、曲者なんですか?」とわれわれに尋ねた。いやそれはわたしです。いや、違う、それはわたしではない。などとうろたえたわたしの前で、友人たちは「曲者っていうか、まあ只者ではないよなー!」などとウケて、笑い転げていた。

あるとき、鳩尾と京都の蚤の市をうろうろしていたら、根来椀を売っているおばさんがいた。朱色のこれにしようか、それともこの黒っぽいのにしようか、などとわたしが悩んでいたら、わたしの後ろにいたそのおばさんが外国人のお客さん相手に「ウェアアーユーカムフロム(あんたどっからきてはるの)」と尋ねているのが耳に入った。女性のお客さんは「アイムフロムイタリー(イタリアから来ました)!」などと答えている。おばさんは「ああ、そうなの、イタリアからカムフロム。サンキュウ!」と威勢よく返答している。この「サンキュウ」は明らかに「おおきに」のイントネーションである。それを聞いていたわたしと鳩尾は笑いを噛み殺すのに必死である。言語学的な誤謬など、ものともしない商人のこのコミュニケーション能力。決して、只者ではない。

「どんなお金も大きく見えちゃう、ハズキルーペ。それで、つい借金しちゃう」と、背中の後ろで娘がひとりごとを言っている。いや、つい借金なんて、してませんよ?

そういえば、ラブレターなどというものはついぞもらったことがないのだが、これがラブレターだったら素敵だなぁ、と思うようなEメールをもらったことがある。決して告白ではないのだけれど、もしそうだったとしたら、只者ではないセンスである。それは下記のようであった。

Tonight, I took a walk on the street. Suddenly it started raining.

In the beginning,
/ / / /

Next,
/ / / / / / / / / / / /

And then,
// // /
// // //
// // /// // //
///// /// /// ///
/// /// //// /// ///

In the end,
////////////////////
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どうやら彼は、最後はひたすら、スラッシュのざあざあ降りの雨に打たれて帰ったようであった。

このメールをくれた少年は当時19歳だったのだけれど、ニューヨークで何度か会って、ダイアン・アーバスの写真展をホイットニー美術館に見に行った記憶がある。わたしはそのときひたすら、生まれたばかりの可愛い姪っ子に夢中で、写真を見せてはその話をしていたらしい。その子はそもそも、ユースホステルの中庭で話しかけてきた子で、今思えばナンパみたいなものだったような気もする。カリフォルニアに住んでいた韓国人の子で、親元を離れてニューヨークの大学を見学しに来ていたのだった。その後、わたしがニューヨークに落ち着き、彼もニューヨークに住むようになり、たまに会っていたのだけれど、ある日、髪を短く切ったわたしの顔をみて、ひどく残念がったことがあった。なんだか落胆させたんだな、と思い、その後は一度も会わなかった。

その10年後、彼がいきなりメールを寄越したのである。ぼくブライアン、覚えてる?と言うので、覚えてるよ、あなたこんなメールくれたよね。そう言って上記のメールを添付すると、「うわ、こんなメール書いたんだね。なんだかぼくってナイスガイみたいだ!」とびっくりして喜んでいた。わたし子どもが生まれたよ、とわたしが話すと、「きみの子どもはきっとすごく美しいんだろうな。あのね、知ってる?ぼくは君の髪型が、とにかくとっても好きだったんだよ。切ってしまってほんとうに残念だった」。うん、知ってます。でも結局、そこは「髪型が」なんだなぁ、あくまでも、と思いつつ、突っ込まずじまいで終わった。その後、彼のメールアドレスもこのメール自体も、パソコンの切り替えですっかりなくなってしまった。

娘がわたしにつけつけと文句を言っている。

娘「わたしのほうがパパよりもママのことを愛している!」
わたし「でも、パパはママと結婚してくれたよ!」
娘「それって、新手のものすごい長いタイプの結婚詐欺なんじゃないの?」

ああ、なるほど、そういう考え方もある。わたしは騙されているのだろうか。確かにそう考えると、家父長制度における結婚などというのは、女にとっては詐欺みたいなものだ。「婚姻」をして家に縛り付けることで、家政婦、乳母、そして介護要員として無償労働させられるわけだから、などと、考え始めてしまう。すると隣の部屋でパソコンに向かって黙って仕事をしていたはずの夫が口を挟む。

「やつはとんでもないものを盗んでいきました、あなたの人生です!」

ああ、それはあなたの大好きな「ルパン三世 カリオストロの城」ですね。この引き出しの多さ、見事な自虐。実に、只者ではない。

『アフリカ』を続けて(41)

下窪俊哉

 先月、SNSで増井淳さんから鶴見俊輔に「『ヴァイキング』の源流」という文章があると教えてもらったので、図書館で探して読んだ。講演の文字起こしが元になっていて、副題に「『三人』のこと」とある。この「『アフリカ』を続けて」は初回に『VIKING』の話を置いてあり、増井さんはそれを読んでくださったようだった。
『三人』というのは『VIKING』よりもっと前、富士正晴、桑原静雄、野間宏の三人によって1932年に創刊された同人雑誌で、命名は彼らの師匠である詩人・竹内勝太郎だったらしい。それから井口浩が入って四人になっても、その後何人に増えても『三人』は『三人』のままだった。終刊は1942年(大東亜戦争開戦の翌年)の28号で、富士正晴記念館の冊子で読める日沖直也「富士正晴 人と文学」によると「同人誌統合の内務省指示が出されたのに対し、統合は意味がないからと富士がほとんど独断でふみ切った」。
 竹内勝太郎は『三人』創刊の3年後、黒部渓谷で足を滑らせて遭難し、40歳で亡くなった。彼の作品が残っているのは、富士さんが師匠の原稿、日記、手紙などを遺族から譲り受け、遺す仕事を殆ど人生をかけて行ったからだ。そのへんのことをじっくり書いていたら長くなるので今回はやめておくけれど、私は編集者としての富士正晴にずっと興味を抱き続けている。
 鶴見さんは「『ヴァイキング』の源流」の中で、こう言っている。

師匠そのものは、全然有名ではない。無欲な人で、それはもうはっきりしている。無欲な努力家。この世の中に、無欲な努力家がいるっていうことが光源になって、青年をひきよせている。無欲な努力をまのあたりに見ることは、そりゃあ大変なことですよ。人間みんな欲ばりで、欲の皮つっぱらかして生きてんのさ、ハハハッて、そこでもうすわってしまう。これもひとつの悟りをひらいたことになるんだろうけどね、なーに、かくしてるだけさおんなじだ、なんていう、それも楽でいいけどね。そうではない人間がいるっていうかんじね。そこが光源になっている。

 ここで「無欲な人」と言っているのは、何の欲も持たない人がいると言っているのではない。彼はさまざまなことを経て、考え抜いた末に、ある意味ではやむを得ず、そういう生き方を取ったのだと私は思う。富士さんは竹内の死後、『三人』で企画した追悼号で「竹内勝太郎譜」を編むために日記を読み、「彼の苦渋に満ちた一生を知って驚嘆し、ますます、竹内を出版することを自分の責任と感ずるようになった」と書いている(「同人雑誌四十年」より)。鶴見さんは「文化に対する権勢欲から自由なところをつくろうということを、初めから動機としてもっていたから、逆にこれは、それを体現した一人の人間が死んだあとも七年、その生前からかぞえて合計十年続いた」と言う。
 権勢欲、つまり文芸やら何やらの業界(文壇、論壇などと言えばよいか)を強く意識して、そのような雑誌をやる人たちもいるのである。というより、何をやるにしても、その権勢欲から自由である人の方が珍しいのかもしれない。

 私にもそういう欲があるのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。しかし(いまの、あるいは今後の私にではなく)『アフリカ』と、それを出しているアフリカキカクにはないと断言できそうだ。これまでもくり返し書いてきた通り、『アフリカ』は権勢どころか身近にあった文芸の取り巻きにすら「背を向けて」始めた雑誌だったのだから。
 2008年4月、小川国夫さんが亡くなって告別式の前夜祭に参列した際に、山田兼士さんと話していたときに誰かが『アフリカ』の名を出して、「えっ、それは何? 下窪くんがつくってるの?」と驚いたような顔で言われたのを覚えている。私の学生時代にはボードレールや福永武彦を楽しそうに教えてくれたその山田先生が『びーぐる』という詩誌を始めたのはいつだったか、と思って調べたら、その年の秋だったようだ。私はそんな身近にいた人にすら、届けていなかった。
 ある歌の文句によると、自由とは、何も失うものがない、ということだそうだ。当時の私は、そんな状況にあり、というよりそんな状況に自分を一度追いやって、『アフリカ』はそれを体現したということになるんだろう。もちろんそこまで考えた末のことではなく、やむを得ず、そうなったということなのだが。

 さて、私がどうしてこんなことを毎月くどくどと書いているのかというと、『アフリカ』という雑誌がどうしてこんなに続いているのだろう、という、その謎を探ってみたいからだ。他人事のように言うと、興味があるのである。
 いつまでも続けて、自由であることなんて、可能だろうか。鶴見さんの言う「光源」がどんなものであるか、ということが重要なのではないか。

 いま『アフリカ』は”大きな再出発”の号からその先へ進もうとしているが、しかし、というか、やはり、というか、思ったようにはゆきそうにない。年3冊のペースでやってゆこうなどと言っていたのも、数ヶ月たてば、様子が変わっている。私はそのことをダメだとは思っていない。予定は、いつでも未定なのだ。いつでも止めていいと思っているし、続けてもいい。未来は、わからない。というより、ここまで予想のつかなかった未来へ来てみて、いまさら予定変更も何もない。

 〆切があると書ける(つくれる)という話は、今も昔もよく聞く。〆切があるから書けるのはなぜかというと、現実的な計画が立つからだろうか。見方によっては〆切に遅れたことすら、書き手の背中を押す。”大きな再出発”となったらしい『アフリカ』最新号も、故・向谷陽子さんの家族が展覧会を企画して、それに合わせるかたちで出来た。しかし、私はよくわかっているつもりだが、その後には何ということもない「その後」が続くのである。私は本を、雑誌をつくることをお祭りにしたくない。イベントにしたくない。と、ずっと考えている。ワークショップ(工房)ということばのイメージを好きなのも、そこに流れている時間が日常のもので、続いていると感じられるからだ。そうあってほしいと夢みているのだ。今の時代は日常を夢みることがとても困難になっていると感じる。夢は、じつはとても近いところに転がっていて、私たちを待っているのかもしれない。

しもた屋之噺(273)

杉山洋一

日本は暖かいと聞いていたものの、東京に降り立ってみて思いの外肌寒いのに驚きます。この辺りの街路樹の葉も心なしか色づき始めているようにも感じます。山のあたりなら、もうすっかり燃え立つ紅葉に染まっている頃に違いありません。今月は、数年かけて準備してきた「ローエングリン」の公演があったので、備忘録をかねて、日記を転記してみます。

——

10月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの合間、楽屋の明かりを消し、並べたソファーに寝転がって目を閉じると、隣の楽屋から熱心に稽古する橋本さんの声が聞こえてきて、喉を殊更に酷使する作品だから疲れないかしらと心配になった。そのとき、外からカモメの鳴声が聞こえてきて、ふと甦ってくる光景があった。

数年前、パレルモのマッシモ劇場で、イタリアの名優、エンニオ・ファンタスティキーニと「盗まれた言葉」という朗読劇をやった時のこと。ファルコーネとボルセッリーノがマフィアに爆殺された時のさまざまな証言を、ファンタスティキーニはある時は淡々と朗読し、またある時は涙を流しながら演じた。

本番前、となりの部屋の小さな縦型ピアノで、ファンタスティキーニは器用に素朴なラグタイムを弾いていて、そして海辺だから、やはり海鳥が啼いていた。そういえば、シャリーノはパレルモの生まれだった、などと思いを巡らせているうち、眠り込む。素晴らしい舞台だったが、翌年ファンタスティキーニが死んでしまい、到底他の俳優で再演したい、という気持ちにはなれないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。あの時だ、本当に言葉のもつ途方もない力に圧倒されたのは。テレビや映画で見ているファンタスティキーニではなく、舞台上から放たれる信じられないようなエネルギーに、満場の観客もオーケストラも、もちろん指揮者も、酔いしれたものだった。

今日から大ホールに場所を移して、橋本さんとオーケストラ、音楽稽古とそれに続く演出稽古をこなす。音楽稽古の最初一時間ほどかけて、先日と同じように三階から音響のバランスを聴きながら、菊地さんときめ細かい調整をしたのだが、指揮台の矢野君が、舞台の橋本さんと、ピットの成田君率いるオーケストラに手際よく采配をふるう姿に、深く感動していた。家人のところにピアノを習いに来ていたから、彼が高校生だった頃から知っているけれど、本当に立派な音楽家になった。

続いて、自分がピットに入って演奏をリハーサルを始めると、橋本さんが喉で鳴らす音と、舞台の床が軋む音が似ていて一瞬当惑する。喉音は口を噤んだまま出すから、彼女の口元を見ていても分からない。

一場について橋本さんは、17歳で時間が止まったままのエルザと現実の40歳のエルザを、どう合わせてゆこうか考えていると話していて、どちらとも限定せずたゆたって欲しいと伝える。限定的にならず、具体的にならず、説明もしない。観念化せずに、声の色彩だけを変化させてゆくことで、音の様々な可能性が広がる。この数日だけでも橋本さんは声のパレットが物凄く豊かになっていて、その成長ぶりに誰もが目を見張っている。会場の空間と対話しているようにも、遊んでいるようにもみえる。

フルートが吹き上げるジェット・ホイッスルと、橋本さんの声の音域がちょうど一緒で、同時に鳴らすと、フルートの音が全く聴こえなくなる。

夜、本目さんと市村さんに「青葉」に連れて行ってもらい、台湾薬膳料理に舌鼓。美味。

10月某日 三軒茶屋自宅
息子が実技試験で満点を取ったとの連絡あり。何より、本当に気持ちよく演奏出来たらしいから、本人もそれは嬉しいだろう。この夏草津でカニーノさんと過ごした時間の深さを、先月彼が弦楽オーケストラを振る姿からも感じていたが、自分がやりたい音楽の姿勢を見つけつつあるのかも知れない。この先、音楽を続けるかどうかとは関係なく、人生をどう生きたいのか、そのきっかけを見つけてくれたなら、親としてこれ以上の喜びはない。

稽古の後に橋本さんと話す。「四場が好きすぎて、思わず感動しそうになっちゃって。ああ、いけないと気を取り直したりして」。

あまりの感激に、つい自分の裡に埋没しそうになるのだと言う。自身の奥底深く沈みこんでしまうと、その思いは客席に届かなくなるかも知れないが、オーケストラと彼女が互いにしっかり繋がり、共感しあっている限りにおいて、舞台上の社会性が消失することはないだろう。

「せっかく声で色々出来るようになってきたのに、もうすぐ終わりだなんて、とても残念で寂しいです」と仰っていらしたが、四場最後に橋本さんが発する声は、とても素朴でありながら途方もなく感動的で、演奏者誰もが聴き惚れている。橋本さんは、オーケストラの楽器音に触発されて、さまざまな声が湧いてくるようになった、と話していらしたが、それと同時に、オーケストラや合唱も、橋本さんの声に反応して、魔法のように音色が変化した。

「殆ど光って、かすかに」と嚙みしめるように呟いた後、「殆ど光ってかすかに、あああそこに…、そこに」、と眩しさの中心に吸い込まれそうになりながら、でも決然と発する声を聞くたび、いつも鳥肌が立つ。あの場面で今日の成田君たちが紡ぎだした弦楽器の音は、きらきらと耀いていた。初めは遠くからかそけく指の間を滑り落ちるような光が輝く砂のようでありながら、呆気にとられて見つめる我々は目の前の燦然たる光源が吞み込んでゆく。

闇に向かって語る、「静かすぎる」という彼女の沈黙の深さに、誰もが圧倒されている。「エルザ?」と呼びかけられ答える弦楽器の音が、いつも少しずつ違う音がしていて、舞台上のエルザとオーケストラは、あたかも目の前で同じ映像を眺めているようである。

リハーサル後、真野さんと中野さんと矢野君と連立って、天王町「タヴェルナ・クアトロ」にて演劇話。確か四月終わり、大学入学後すぐに企画した校内演奏会で、新垣君と成沢君と三人でピアノを叩いたり擦ったりする傍らで桐朋演劇科の女優3人に30分間喘いでもらって、満員の会場でブソッティ「Per Tre」を演奏した話など。気分を悪くした女学生数名発生。シチリア風鯛の姿蒸しが大層美味であった。

10月某日 三軒茶屋自宅
橋本さんは、ご自身とシャリーノの世界を音の宇宙を介してつなごうとしている。彼女自身が翼を身に纏ったおおとりとなって、空に翔けだす姿を見るよう。

オーケストラと舞台上の彼女をつなぐ糸は、本番を通して寸時も途切れも弛みもなくぴんと張ったまま、心地良い緊張で我々を支えていたが、同時に橋本さんは何かを突き抜けすっかり自由な表現にまで到達していて、深い感銘を受ける。

「瓦礫のある風景」は、一音も聴き洩らすまいとする聴き手の張りつめた耳が、我々演奏者の感覚をより鋭敏に、鮮烈にすらしてゆく。シャリーノが、「自分の音楽は日本の伝統文化と相通じる感覚があって、それが日本の演奏家や聴き手と良い相互作用をもたらしてくれたら嬉しい」と話していたのを思い出した。

橋本さんより、関係者全員に「初日祝」と書かれたお弁当が振舞われた。すだちとみょうがで漬けた鯖の塩焼き、カニクリームコロッケなど、どれも本当に美味しい。

夜、録音をシャリーノに送った。

演奏会後、矢野君ご夫妻と県民ホール裏Pozziで夕食。遅ればせながら、ささやかなお二人の結婚祝でもある。お二人と一緒に食事するのは、Covidが起きてノヴァラで皆と食事して以来ではなかったか。イタリアに留学してきたばかりの頃、ちょこんと二人並んで聴覚訓練の授業を受けていた頃を思い出し、感慨に耽る。

10月某日 三軒茶屋自宅
緊張のせいか朝早くに目が覚めてしまい、早速シャリーノからのメッセージを確認する。
「ローエングリン、最初から最後まで全部聴きました。今まで聴いてきたものとはまるでちがう。これ自身の姿が在るべきしっかりした形を持っていて、それは驚異的でもあり、目から鱗が落ちるようだった。自分が想像していたものを遥かに超える日本語が持つ力に、心の底から魅了されてしまった。今はヴェニスのホテルに滞在中で携帯電話で聴いただけだから、落ち着いてちゃんと聴きたいところだけれど。ちょっと確認したかったのは、鉄板を震わせる音が携帯電話で聴くと消えているように聞こえるんだよね。これはおそらく携帯電話のせいかな。君の演奏解釈(例えば声、これはびっくりするくらい自分にとっては美しい)には惹きこまれたし、魅了されたよ。3場のクラリネットなんだが、より遅いトリルで演奏できれば、思いもかけなかった声とクラリネットの交り具合や、音楽の連続性も生まれるかも知れないから試してみて…。なんて拍手喝采なんだ! ともかく携帯電話なんかではなく、早くちゃんと聴きたい。本当に心を奪われる演奏で、自分が書いたオペラを再発見した思いだ。女優は実に素晴らしい。そして、演奏者全員、誰もが本当に素晴らしい。本当に満たされたよ。いつもより長くかかっている演奏時間も、オペラをより大きな次元へ紡ぎ直してくれている。おやすみなさい。深く感謝しています。いつまでも」。

本番前のサウンド・チェックの始まりに、演奏者にシャリーノの言葉と感謝を伝えた。橋本さんの表情も少し和らいで、発する言葉には確信が漲っていたのも当然だろう。出番まで楽屋で眠り込んでいたので、舞台に出る直前大平さんに「寝癖がついてますよ」と声をかけられ、直してもらう。実際、橋本さんは二日目の公演で、一日目を遥かに超える表現の幅を実現していた。初めて彼女とリハーサルをした時から、彼女が我々の想像を凌駕する地点へ到達する直感はあったけれど、その予想以上に大きく化けて見事に成し遂げられたと思う。

四場、成田君初めオーケストラの音が、聴いたこともないほど、信じられないほど、美しく切なく、切々と心に沁みた。後で聞くと、橋本さんはあの瞬間、あのビロードのような音に思わず泣きそうになり、「ああ、ここで感情移入してはいけない、最後までやりきらなきゃ」、と気を取り直したと言っていた。あの音は成田君、百留君、東条さん、笹沼君が、そっと弾きだすところだけれど、彼らも涙がこぼれそうだったと話していたから、舞台上の橋本さんとピットのオーケストラは本当に繋がっていたのだろう。

終演後、矢代若葉さんと話しているとき、橋本さんに、ぜひ「火刑台上のジャンヌダルク」を演じてほしい、そう伝えてほしいと熱心にお願いされた。全く同じことを暫く前から思っていたのだが、よもや演奏会直後に、初めてお目にかかる矢代若葉さんの口から聞くとは思わなかった。恥ずかしながら、秋雄先生こそが「火刑台」日本語翻訳を手掛けていらしたのも若葉さんに伺うまで知らなかった。「神の娘ジャンヌ、さあ行くのよ」「ああわたし、遂にこの鎖を断ち切りました!」、と燃え盛る炎の上で絶叫するジャンヌを、橋本さんが演じたらさぞ素晴らしいだろうと、多くの人が彼女の舞台を見て思ったに違いない。

それだけ、彼女の発した声には人の心と魂が宿っていた。エルザが完全に現実の世界に別れを告げるとき、彼女の声は音のなかに溶解してゆく。彼女が誰に向かってその別れを告げているのか上手く書けないが、音から染み出す気体状の何かと、彼女の言葉、息が混じり合い、ホログラムのようにそこに姿が浮かび上がるのを見た。それは確かに烈火から立ち昇るジャンヌの宗教的法悦にも、どこか通じるものがあったのかも知れない。

10月某日 三軒茶屋自宅
北千住の芸大校舎で、長谷川将山さんの「望潮」を聴く。一度通して聴かせていただいた所、素晴らしい演奏で特に注文をつけたい箇所もなかったので、敢えて特に決めた通りにやらず、即興的に演奏してもらう。すると突然、能の「融」の舞台が目の前に現れる錯覚を覚えるではないか。シテとワキの立ち振る舞いだけでなく、囃子方の表情まで見えるようである。書いてある音符が見えるような演奏より、むしろその音を吹いている長谷川さんの音楽が聴きたいのだから、音符が見えなければ見えない程よいと伝える。予めフレーズを決めずに演奏すると、音楽が断片化するどころか、瞬間ごとに耳を研ぎ澄ませて次の音を聴こうとしているから、音楽がより鮮明になるようだ。音が置かれる空間がより三次元的広がりを持って感じられて、遠近感を伴って事象を浮かび上がらせる。尺八とは素晴らしい楽器だとおもう。

吉田純子さんは、先日のローエングリンで、演者と指揮者を「居合のよう」と形容していらしたが、尺八のように深い空間性をもっている楽器では、「居合」を一人で表現するように感じられる瞬間すらあった。一柳慧さん三回忌。

10月某日 ミラノ自宅
「火刑台上のジャンヌダルク」というと、ガヴァッツェーニがナポリのサンカルロ劇場を指揮し、イングリッド・バーグマンがジャンヌを演じた名演が記憶に残る。あの”Giovanna d’arco al rogo”という Fonit Cetraのレコードを買ったのは大学に入ってからだったか。当時イタリア語は殆ど分からなかったが、原語のフランス語の響きに慣れた耳には、ヴェルディとオネゲルが合わさったようで最初は慣れなかった。ただ暫く聴いているうち、イングリッド・バーグマンの素晴らしさに惹きこまれて、いつしかすっかり虜になった。随分後になって、バーグマンが流暢なイタリア語で答えているRAIのインタビューの存在を知った。

バーグマンはスウェーデンの小学校でジャンヌ・ダルクの物語を知った時から、ジャンヌにすっかり魅了されていて、その後演劇を学んでいた間も、その後アメリカに渡ってからも、周りに「自分はジャンヌ・ダルクがやりたい」と熱心に訴えつづけた。しかし当時は、あんな悲しい話は今は流行らない、結末だって悲しすぎると断れ続けながらも、7年後、ジャンヌ・ダルクを演ずる俳優役としてブロードウェイでマクスウェル・アンダーソンの戯曲「ロレーンのジョーン」に主演すると、これが大成功した。それを期に一気にジャンヌ・ダルクが流行り出したので、直ぐにヴィクター・フレミングが映画化したという。オネゲル「火刑台上」は録音を聴いたことがあって、その時から曲は好きだったが、ジャンヌ・ダルク公演1年前、バーグマンの夫ロッセリーニがナポリでオペラ演出の仕事をしていた折、サンカルロの劇場支配人から、何かここでやらないかと提案を受けた。「やらないかって、一体何をです。わたしは歌えませんし、と答えましたら、『火刑台上のジャンヌダルクです』って言われましてね…」。

10月某日 ミラノ自宅
拙宅から徒歩10分ほどのところにある、フラッティーニ広場に地下鉄が通った。もう長い間工事が続いていて、予定を4年だか5年遅くなりつつ完成。この地下鉄が出来るころには、きっと我々はミラノに住んでいないね、などと家族で話していたが、相変わらず同じ場所に暮らしていて、まるで以前からあったかのように、ごく当たり前に日常に溶け込んでゆき、息子は、この地下鉄新線で国立音楽院まで簡単に出かけられるようになったと喜んでいる。
国鉄サンクリストーフォロの鄙びた駅舎だけは残っているが、その地下は見違えるようにモダンな地下鉄駅がどこまでも広がっていて妙な感じだが、何より、地下道で用水路の対岸に出られるようになったのは画期的だ。開通式を開いたばかりで、駅ではバンド演奏などの催しが開かれていて、近所の住人と思しき老若男女が連立って、嬉しそうに駅の方へ歩いてゆくさまは、何だかフェリーニ映画のワンシーンのようだ。

ところで、家人が走ろうとするとき、不思議なことに何故か身体を左右に振り、どてどてと少しアヒルにも似た仕草になるのは昔から知っていた。家人自身そう言っていたし、長い間よほど彼女は不器用なのだろうと思っていた。子供の頃から、運動会でも決まって足が遅かったと聞いていたせいかも知れない。
つい数か月前のこと、家人が股関節を痛めてミラノでレントゲンを撮ったことで、股関節の丸い軟骨の先を安定させる、円盤状の関節唇が生まれつき少々欠けていて、可動域に制限があることが分かった。だから、あんな不思議な走り方になっていたのである。それを知って以来、彼女が凄い形相で走る姿を思い起こすたび、何とも切なく愛おしく感じられるようになった。サンクリストーフォロ駅に向かって楽しそうに歩く、慎ましいアラブ人家族の微笑ましい姿を見ながら、ふとそんなことを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
朝、シャリーノよりメッセージ。
S:「春の雨、まだいるの?」こんなタイトル、アイデア、お前はどう思うかい。
Y: 五月末か六月初めの日本の梅雨を思い出すかな。すごく詩的だし、親近感も覚えるね。
S:「春雨や…」で、はじまる俳句を思い出すな。
Y: すごい記憶力だね。芭蕉も「春雨や」ではじまる句を残している。
「春雨や 蜂の巣つたう 屋根の漏り」「春雨や 蓑吹きかえす 川柳」。どれも美しいよね。
S: サラサラというこの雨音が近づいてくると、耳の内側で血液がめぐるジーという音をもたらすのさ。

10月某日 ミラノ自宅
ノヴァラで息子の演奏を聴く。バッハのハ短調トッカータ、ウェーバーのソナタ2番、それにマルトゥッチが編曲したイドメネオ曲中のガヴォットと「アレグロ・バルバロ」。暫く日本にいて、彼のピアノを聴いていなかったせいか、彼がこんな風に弾けるとは想像もしていなかったから愕いた、というのが率直な感想。10月最初の指揮のレッスンに、モーツァルトの「リンツ」を持ってきた時も、音の質感は以前より充実したと思ったし、音を豊かに歌うことに対して、てらいがなくなった気がしていた。それに関しては、先月ロッポロで弦楽オーケストラと数日過ごしたのが良かったのかもしれないが、しかしノヴァラで聴いた息子のバッハは、明らかにカニーノの響きに少しでも近づきたいと、自らの音に対してひたむきに耳を傾ける姿そのものだった。確かに彼の裡で何かが変わりつつあるのかもしれないし、むしろ自分が欲しているものが、少しずつ見えてきているような印象も受ける。尤も、夏前ごろから彼は定期的にヤクルトを飲むようになったから、案外それが功を奏しているのかもしれないが。

ヤヒア・シンワル殺害。死亡時の映像をSNSで世界中に公開。敵将の首を殊更自慢したいのは、古今東西変わらない。

10月某日 ミラノ自宅
シャリーノが来月日本へゆくので、ここ暫く彼から携帯電話のショートメッセージが届く頻度が高い。朝4時くらいに届くメッセージには、これから仕事を始めるところだ、と書いてあり、6時くらいに届くメッセージには、最初の休憩を取っているところだ、とある。今朝は、朝8時くらいに電話がかかって来て、こちらがちょうど口にタラーリを頬張っているところで、我ながらお菓子を頬張るサザエさんのような声だと笑ってしまった。昨日彼に書き送った来月の東京でのイヴェント紹介文の添削に、わざわざ電話をくれたのである。

「ラテン語起源」と書いたのを、「後期ラテン語起源」に直し、要らない定冠詞を一つ削り、apprendimento(理解) と書くべきところを、慌ててapprensioneと書いたのを直してくれた。apprensione は古イタリア語では理解を意味することもあったが、現在ではほぼ「懊悩」の意味でしか用いられない。しかし、我ながらなぜapprensioneなんて書いたのだろう。

「率直に言うけれど、この文章にはびっくりしたよ。勿論いい意味でね。お前はこれからもっとイタリア語で文章を書くべきだ。こればかりは強く勧めたいね。謙遜なんかしなくていい。今回ばかりは素直に年長者の言葉に耳を傾けなさい。少し頑張って言葉を選んだでしょう。そこが素晴らしいんだよ。そうやってほんの少し背伸びしながら、文章は育ってゆく」。

まさかそんな事を言われるとは夢にも想像もしていなかったので、面映ゆいことこの上なかったが、思えば、イタリア語は普段、学校や仕事の伝達事項程度にしか使っていない。これだけ美しく豊かな言語なのだから、実に勿体ない気もする。

シャリーノ「一通の手紙と六つの唄」の歌詞は、それぞれ原文に則ってシャリーノがイタリア語で書き直している。例えば一曲目の「手紙」は、主人公が三人称の「女」として綴られている和泉式部日記の一節を、和泉式部自身の言葉「わたし」として書き下していて、和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ訳 と記してある。シャリーノが読み解いた日本語を、あらためて日本語に訳そうとしているわけだが、それは和泉式部の言葉であって、そうではなく、確かにシャリーノの言葉にも感じられる。ただ、我々が信じている和泉式部像こそが正しいかどうかも分からないし、案外、実際にはシャリーノが和泉式部日記の裡に自らを滑り込ませて書いた文章の方が、本来の和泉式部に近いことだってあるかもしれない。

今回、「ローエングリン」を普段演奏されないような巨大な会場で演奏し、細部をつぶさに検証することで詳らかになった沢山のことがある。シャリーノの音楽をこう弾くべき、という先入観そのものを、先ず自分自身が拭い去る必要があると思ったし、その先に見えてくる、全く新しい世界観に目を向けるべきだとも思う。

演技という視点から音楽を見つめることで、本来の音楽の本質に気づく切掛けにもなった。俳優がオペラで演技するのと、歌手がオペラで演技するのを比較すれば、俳優には未だこれから様々な可能性が残されているともいえる。

逆に言えば、「一通の手紙…」を、薬師寺さんという歌手と演奏するにあたり、何を大切にすべきかをも教えてくれるだろう。吉田さんがいみじくも「居合」と表現した、極端に研ぎ澄まされた静と動の世界、それを一歩離れて俯瞰すれば、能などに通じる精神性かもしれない。自分が日本人だからか、そうした視点で初めからシャリーノの音楽を読み下すと、軽薄になりそうな気がして抵抗があった。しかし、今回の「ローエングリン」の体験を通して、自分が日本人だ、という先入観こそ、驕りに繋がりかねないとも知った。
和泉式部の「一通の手紙…」を夢幻能の世界観を通してみつめれば、そこには一体どんな世界が広がるのだろう。

イスラエル政府、ガザの国連パレスチナ難民救済事業の活動停止命令。二日前の爆撃で少なくとも60人死亡との報道が、今日は少なくとも93人、と訂正されていた。

北朝鮮軍兵士一万人をクルスク州に派兵。ウクライナ本土に投入されたとの報道も、既にウクライナ軍と戦火を交えたとの報道もある。現在まで首の皮一枚で繋がっていた東アジアの均衡はどうなるのか。

(10月31日三軒茶屋自宅)

前向きなマシュマロ

芦川和樹

マシュマロが、冷凍庫でバクになるまでだいたい2、3年。そのあいだは、矢を刺しておいて、わかるように(これがなんだったか忘れちゃう)。霧を吸うチョコレート。矢というか矢印を、刺すここだよ〜の記し(そうだった、そうだった)。柱が背もたれ、あるいは背骨をかねる。肋骨。上で、じょうで、前を向け。ナッツ。発泡スチロールの家具が、キュルキュルいう。毎日、軽いからいいけど。……矢は、チョコレートに到達し、そこに旗を、つまり矢印を刺しました。紅茶の(紅茶しかむりです)湯気を吸うバク

帽子を冷たいじごくに落としてしまった
バクは、早朝。ツナを
調理するかたわら、釣り竿で
帽子を、ニットになった帽子を救う
まだ早い朝だ、ニワトリが
生まれていなかったから
じごくからツナを、食べに、来ました
帽子にしがみついたマシュマロがいう
冷凍庫
キュルキュルいう家具(箪笥とか)
体勢を低く保ちながらじりじりと
前進するホクロ
途中でクリーニング屋に寄っていい、いい
冬を掴んだ手は、いつまで釣りをしていた
の、していたの。さっき
矢がぎらぎら光る。メッセージをじゅ、
受話、受信しました。ポケベル
蟹が集荷に来ました
この冬をお願いします
風邪をひかないようにニット帽を被せます
(蟹か、冬か、どっちかに被せました)
オーツを忘れたソイの寝返りが
沈む、ものを沈めちゃうように
安全な気がしているだけ、冷凍とは
それほど完全ではないですよ、冷凍とは
次のバクがでてきた
闘牛
うそ、紙相撲で決着だ!
(前進するホクロと後退するホクロら)
そういうのランダムです、柔らかい
ランダムら。マシュマロのことさ
バクがいう
次のバクがいう
(キュルキュルいうベッドとか箪笥とか)
家具から湯気がでそうで、でてきた(ら)
そしたら
紅茶が住むかも肋 肋 肋
       骨 骨 骨
           を吸う前向きな

仙台ネイティブのつぶやき(100)昭和の始末

西大立目祥子

このところ、友人に会うと、決まって親の荷物の整理の話になる。私たち世代の親はほぼ昭和一桁で、年齢でいうと90歳代。父親が他界し、残った母親が施設に入ったとか、ついに両親が逝ったとか…。残された荷物、家の後始末がずっしりと肩にかかってきているのだ。私の母も施設で暮らすようになりそろそろ2年。家には猫2匹が暮らすが空家化しているので、体力があるうちにと重い腰を上げた。やるぜ、断捨離、と覚悟して座敷に足を踏み入れ、押入れの戸を開け放つ。と、そこには想像を超える昭和の堆積物が地層を形成するように積み上がっているのだった。

なつかしい駱駝色のウール毛布の上には、鮮やかな色のアクリル毛布が重なり、さらにずっしりと重いマイヤー毛布が何箱も折り重なる。その上の棚には、綿のシーツに麻のシーツにタオルシーツ、バスタオルにタオルケットにフェイスタオルのセット。その隙間には座布団カバーと銀行の名入のタオルがぎゅうぎゅう。全部箱入り新品。なのに、開けてみるとポツポツと茶色のシミができていたりして、とても新品とはいい難い。

大人4人がかりでも動かせないようなどデカい食器棚の上段には5枚組の小鉢、銘々皿、菓子皿が奥深く入り込む。ほんとに「たち吉」は罪深い。日本中の食器棚をこうやって席巻してきたんだろうか。下段には、これまた5枚組の刺身用皿とか20年くらい使っていない大皿とか、片手では持ち上げるのが大変な陶板がずっしり重なっている。お盆や菓子鉢といった木製品、漆器のたぐいもある。裏をひっくり返すと、幼なじみの弟の名前と入学祝の文字。遠い親戚の結婚祝に、どこの誰かわからない子どもの誕生祝…。関係の遠い近いにかかわらず、こうやってめでたいことをお祝いすればありがとうがモノで返ってくる暮らしがあったのだ。
これでも東日本大震災のときは、ガラス戸が開き上から降るように食器が飛び出て段ボール数箱分の食器を捨てたのだった。あのときは昭和一桁生まれの叔母が「ずいぶんと割れて、でもほっとしたの」とつぶやいていたっけ。割れたものは躊躇なく捨てられる。そう長くはない老い先を思い見通しのよくなった棚を見て安堵していたのだろう。

おしゃれだった母は洋服も多い。こっそり隠れてずいぶん処分はしてきたのだが、タンスの奥から化石のように出てくるバブル期の服は異様だ。肩周りを何倍も大きく見せるパッドに、光り輝く金色の大きなボタンの列。こういう服を60代の主婦がまぁ素敵!と買い求め、着込んでいそいそ出かけていたんだろうか。あきれるを通り越して笑ってしまう。まぁ、袖を通さずにしまわれたものも多いのだが。

堆積物に押しつぶされそうになりながら思う。昭和ってなんという時代だったんだろう、戦後の経済成長期の正体とは。この時代を支え生きてきた人たちは、あらかたこの世を去っているというのに、モノはぎっしり動かずここに積まれている。生涯をかけても使い切れないほどのモノを買い込み、贈り合い、それが豊かで幸せな生活だったのだ。

10月下旬にNHKの映像の世紀「バブル ふたりのカリスマ経営者」を見た。破格値量販の中内功と文化を売る堤清二を追う番組だったが、中内の自信に満ちた表情と言葉の間に挿入される安売り合戦の映像では、スーパーになだれを打って走り込む女性たちの姿が映し出される。左手に何枚もの服を抱え持ちながら、右手を人垣の間にむんずと伸ばしてさらに1枚を引っ張る人、人、人。その髪型、衣服、表情を見ながら、これまるでうちのおっかさんじゃん、とめまいのような感覚を覚える。笑い飛ばすことは、できない。私自身、高度経済成長期の子どもで、その恩恵を受けて育ったわけだから。みなさま、まだこの世にいらっしゃるでしょうか?お家には、そうやって買い求めたモノが奥深く眠っているのでしょうか?子どもさんが始末をしていらっしゃるのでしょうか?ぶつぶつと胸の内でつぶやいていた。

折しも、叔母が亡くなり、従兄弟のカズと妻のヒロコさんが、叔母の家の荷物整理に着手した。欲しいものがあったらもらってほしいと連絡が来て、行くと部屋いっぱいに晩年まで使っていたものが広げられている。コンテナに詰め込まれた画材に、山積みのスケッチブック、出窓にズラリ並んだ本…。92歳まで元気で絵を描き、読書をし、手紙を書いた叔母は、つまり死ぬ間際までモノを必要とした。自分自身で荷物の整理をしていた人だったが、それでも楽しみを持って生きていく以上は、生活必需品以上のモノを抱え込むことになるのだ、と教えられる。いったい人にとってモノってなんだろう。大切なモノを少しだけ持って暮らしていくのは理想だが、やりたいことがあり、あちらこちらに興味があったら、それは土台無理な話だ。
 
「物置から俺が小学生のとき遊んでいたメンコが段ボール一箱出てきた」とカズが笑っている。なかなか捨てられないのも、また昭和一桁なのだった。そういえば、「押入れの奥から灰が入ったままの火鉢が出てきて絶句した」と話す友だちもいた。本の始末も大変だ。祖父と父、2代続けて学者だった別の友人は、庭に立てた書庫の床から天井までぎっしり詰まった専門書の処分にえらく苦労していた。この友人は、東京と仙台を往復しながら、夫の祖母の家、夫の両親のマンション、自分が暮らした家の3軒の荷物の整理と売却までをやり遂げているのだが、その経験をふまえため息混じりにこういうのだ。「最後に残るのが着物と座卓。どこも引き取ってくれない。津軽塗の座卓だって、捨てるしかないんだよ」母の家にほとんど着物はないが、重たく大きな座卓がある。最後はこいつと格闘か、とその分厚い天板を見やる毎日だ。

まだ使える食器を新聞に包んで、ごめんといいながらそっと捨てる。洗濯をした服をきれいにたたんで仙台市のリサイクルプラザに運ぶ。モノの片付けに追われるうちに、新しい服を買おうとか、新しい家具を買おうとか、そんな気持ちは消え失せた。内需拡大とか、国内消費が上向けばとかいう人たちがいるけれど、多くの人が時間とお金と労力をかけモノの処分に悪戦苦闘している現実をご存じか?もうモノはいらない、昭和のあの人たちのようにやみくもには買わない、と考える人は間違いなく増えているはずだ。

叔母の荷物の整理をどこか楽しみながら進めているヒロコさんが「なんかもう遺品で暮らすのがいいんじゃない?」という。「うん、私もそう思う」とこたえる。このところ、母の服は趣味が合いそうな友人に回している。そうすると叔母の家からは、明治生まれの祖母が着て、叔母が受け継いだカーディガンが回ってくる。シルバーグレイでアンゴラの混じったウールのニットは軽くて暖かい。「これじゃ、いつまでたっても片付かないよ」と互いに笑いながらも、お金を介さずに親しい人たちとこうやってちょっと古ぼけたものを都合し合ってぐだぐだ暮らしていけたらいいな、と思う。

階段を昇り降る

植松眞人

 笠原亮介は小さな商社を定年退職したあと、昼間はずっと一人で過ごすようになった。長男と長女はどちらも家を出て、それぞれに家庭を持っている。妻は定年退職のないフラワーアレンジメントの講師をやっていて、週に三日は教えに行き、残りの日々は友人と買い物をしたり、カラオケで歌ったりしている。
 笠原にも友人がいないわけではなかったが、元いた商社からさらに小さな会社に天下って仕事をしていたり、地方に移住したり、息子夫婦と一緒に住んで孫の世話に忙しいという者ばかりだった。
 もともと会社で知り合い、景気がいいときに一緒にドンパチやった仲なので、今頃あっても昔話をするだけで、あまり面白い結末にはならないのだった。
 家人が朝から出かけてしまうと、昼飯を食う気持ちもなく、妻から頼まれた掃除洗濯など忘れたふりをして、ただ四人掛けのダイニングテーブルに向かって、座っているだけの時間を過ごしている。知らぬ間に陽が傾き始めて、赤い光が正面の窓から顔を刺している。コーヒー豆があったはずだと探してみたが、日が経ちすぎているのか、袋の口を開いても香りがまったくしない。それでも、少しはコーヒーの味がするだろうと、小さな豆挽きで豆を挽く。豆を挽いている間は集中して何も考えずに済んだのだが、挽き終わると、挽く前以上に部屋の中がしんと静まり返ったように思えた。湯を沸かしゆっくりと落とした酸味のきついコーヒーを飲むと余計に一人であることが意識されて、コーヒーを飲みながら知らぬ間に涙を流していた。
 この家の中には自分以外誰もいない。四人掛けのテーブルに一人で座っている。コーヒーは不味く、そのカップは赤い陽に照らされている。なんという心細さだろう。笠原は小さく息を吐いた。その息が最期の息のような気がして、慌てて息を吸う。吸ったり吐いたりを繰り返していると、息苦しくなった。
 笠原は長く深く細く息を吐いてみた。最初に、スッという音がして、喉の内側の上のほうが刺激され、渇いた咳が二つでる。咳は一つでいいものを二つ出たことで、いつか息することもおぼつかなくなるのかと思うと、また涙が流れた。
 たまらなくなって、二階への階段を昇ってみた。思いのほか辛く、また咳が出そうになる。上まで昇って回れ右をすると、同じようなゆっくりとした速度で、今度は階段を降りた。昇りほど辛くはなく、降り切る直前の三段ほどは少し体が揺れて、階段降りを楽しんでいるかのような気持ちになる。不思議だなと、もう一度階段を昇る。昇ったら降りる。降りたら昇る。不思議に心細さが薄れ、奇妙に楽しい気持ちがした。ゆっくりと昇って、さっきよりも、勢いをつけて階段を降りる。楽しい。心細さが消えて楽しさを感じる。しかし、昇るときにはほんの少し哀しみのようなものが戻る。戻った哀しさを降りることで弾き飛ばす。哀しい、楽しい、哀しい、楽しい。そうこうしているうちに足がからんで、笠原は階段を踏み外した。自分が階段を昇っているのか降りているのか、もうわからなかった。

吾輩は苦手である 4

増井淳

 吾輩は眠るのが苦手である。
 1年を振り返ると、「ああ、今年も眠れない日が多かった」と思う。
 だいたい1月下旬から5月下旬くらいまでは、花粉症で眠れない。この時期は、目がかゆい・くしゃみがでる・鼻水がでるの三重苦で、夜中に起きない日はほとんどない。眠ったと思うと猛烈な目のかゆみで目が覚める。目薬をさしてまた横になるが、今度は鼻がつまって目が覚める。鼻を何度かかんで横になると、次は何度もくしゃみが出て目が覚める。これを繰り返しているうちに朝がきてしまう。
 花粉を防ぐためにマスクをしたまま眠ることもあるが、しばらくすると息苦しくなって目が覚めてしまう。新型コロナが流行する前から、マスクは手放せない状態だった。
 「花粉症に効く」というものは、すぐに試してきた。べにふうき茶、甜茶、ルイボスティー、ヨーグルトなどなど。どれも「効いた」と感じたことはない。
 病院で薬をもらって飲むこともあるが、なんとく身体がだるくなるし、一時的に症状が出ないだけで効果は長続きしない。
 夜中にくしゃみをした瞬間にギックリ腰になったこともあった。その時は、朝まで同じ姿勢のまま動けず、眠れないだけでなく、同じ姿勢のままじっとしていなければならず、はなはだ苦しかった。

 6月になると花粉症もおさまり、ようやく少し眠れるようになる。
 安心したのもつかの間、すぐに暑い季節が始まる。
 暑いのはきらいではないが、汗が出るほど暑いと眠れない。タオルで汗を拭いたり、パジャマを着替えたりしているうちに空が白んでくる。我慢ができずにクーラーをつけることもあるが、吾輩はクーラーが苦手である。クーラーの風が身体に当たると、それが気になってなかなか眠れない。さらに長時間クーラーをつけていると咳が出て目が覚めてしまう。

 暑さがおさまったら、秋の花粉症が始まる。春より症状は軽いが、やはり眠れない。
 そして、次は寒さが襲ってくる。
 吾輩は寒いのも苦手である。
 寒くなれば布団や毛布を何枚かかけて眠る。するとその重みでなかなか眠れない。しかし、枚数を減らすと、今度は寒くて眠れない。
 暖房をつけて眠ると、空気が乾燥して咳が出て目が覚めてしまう。

 かようにほとんど一年中、眠れない日が多い。
 よって昼食をとったあとは、だいたい眠くなる。椅子に座っているだけで、ついウトウトしてしまう。その勢いで布団に横になると2時間くらい眠ってしまうのだが、そうすると、夜になっても眠くならないのだ。

 今年は秋の花粉症がひどい。夏に暑かったせいだろうか、鼻水が止まらない。しかし、そろそろ寒くなってきたし、花粉もおさまる時期だ。今夜は安らかに眠れるだろうか。
 

2005年の公演「幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~」を振り返る

冨岡三智

先月、2005年の公演記録映像(VHS)をデータ化してもらってやっと見ることができた。VHSデッキはとっくの昔に壊れていて、ずっと見直すことができなかった。というわけで今月はその公演の話。当時はまだブログもやっていなかったので、この公演のことを書くのは今回が初めてである。

公演:「幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~」
日付: 2005年11月20日
場所: 橋本市教育文化会館大ホール(和歌山県)
主催: 橋本サロンコンサート実行委員会
後援: 橋本市教育委員会、橋本市公民館連絡協議会

プログラム
1. 森の中: スボカストウォ~アヤッ・アヤッアン~スレパガン~サンパッ
2. 間狂言: 森の妖精・太郎冠者と次郎冠者が海へ出かけてみると…
3. 南海の女王: 女性舞踊「陰陽ON-YO」(紀の国バージョン)
休憩
4. ワークショップ
5. 人の歩む道: 男性舞踊「スリ・パモソ」

出演
ジャワ舞踊:冨岡三智
ガムラン演奏:ダルマ・ブダヤ
狂言:清水菜美、清水美樹

「幻視 in ~」のタイトルをつけた公演は1998年が初めてで、この時が2回目だった。2021年の「幻視 in 堺~能舞台に舞うジャワの夢~」でも間狂言の場面を入れたけれど、この公演では地元の狂言の会で学ぶ2人の姉妹が太郎冠者・次郎冠者になってこの場面を務めてくれた。主催の人たちが橋本狂言を楽しむ会にも関わっていたので、せっかくならそこで学んでいる子たちと共演したいと思って相談したところ、やってみたいというお子さんが現れた。当時、2人はまだ小学生6年生と4年生だったが、私が全体の構成を伝えてセリフを考えてもらったら、なんと、初練習の日に2人は完璧な台本を2つも作ってきた。すごいお子さんだなあと感心したことを覚えている。そして、狂言の会の方の指導協力も得て、あくまでも狂言らしい言い回しと動きで芝居をしてくれた。

プログラムの1つ目の曲の組合せ(4曲メドレー)は、「バンバンガン・チャキル」という舞踊(やその元となるワヤン=影絵芝居)で使われる。見目麗しい武将が森にやってきて瞑想しているところにチャキル(羅刹)が登場し、武将の邪魔をしようとして戦いになるという話で、この音楽を聞くと眼前に森が広がる…というわけなのだ。

この公演では、羅刹ではなくて妖精の太郎冠者が弓を持って登場する。お腹を空かせて森に狩りに出かけてきたのだった。そこに次郎冠者が登場し、海の中の宮殿でごちそうを見つけたと言う。違う部屋には髪の長い女の人もいたと言う。太郎冠者はごちそうもさりながらその女の人が気になって、2人が連れ立って南海に向かう。

その女の人=南海の女王の場面として踊ったのが「陰陽ON-YO」で、これは私が2002年に振り付けた作品(Dedek Wahyudi作曲)を基に、前半の曲を変えてこの公演用にアレンジしたもの。もともと後半部は宮廷舞踊の曲の特徴を踏まえて作ってもらっているので、女王の場面とした。

その後休憩を挟んでジャワ舞踊を体験してもらうワークショップ。これは主催者からのリクエスト。そして最後に男性優形の舞踊「スリ・パモソ」。この曲は宮廷舞踊家クスモケソウォが1969年頃に振り付けた作品で、インドネシアで2003年2月に復曲上演された。私もその公演や復曲に至る過程に立ち会っていたので、『水牛』2003年4月号と2020年11月号ではこの作品について書いている。そんなわけでこの時がこの作品の日本初演である。「人の歩む道」と形容したのは、ジャワ宮廷舞踊はつまるところそれを大きなテーマにしているから。
 
見直してみると、当時から自分がテーマだと感じることやそのキーワードがあまり変わっていなくて、その成長のなさにがっくりくる。が、原点に立ち戻ったような気にもなる。19年も前の映像なので、自分の姿がどこか他人のようにも思えて、頑張れ~と声をかけてやりたくなる…。

あなたが踊れば世界も変わる

笠井瑞丈

昔の事を思い返す
ドイツから帰国した
小学校四年生のとき

金曜ロードショー放映日
日曜洋画劇場の放映日
テレビの前に椅子を並べて
自分だけの映画館を作った

お客さんはいつも決まって
僕と祖母の笠井君子さん

君子さんから100円をもらい
自動販売機でジュースを買う
部屋を暗くして二人で見た

自分だけの空間
自分だけの時間

思い返せばいつもそれに
付き合ってくれていた

新聞でその日に放映される
映画タイトルをチェックして
自分の好きなものがやる時は
本当にその日を楽しみにしていたものだ

日曜洋画劇場は淀川長治の最後のセリフ

映画って本当にいいもんですね

サヨナラ
サヨナラ
サヨナラ

それを聞くのがすごい好きだった

その後ビデオデッキが出てきて
ビデオレンタル屋というものができ
より見たい映画が見れるようになった

映画館で見るのを見逃してしまった映画
半年くらい経つとレンタル屋さんに並ぶ
話題で人気だった作品は
常に全て貸出中の札が付き
自転車を漕いで数カ所の
レンタル屋さんをハシゴして周る
たまたま借りることができた時
その喜びはたまらなかった
ワクワクしながらビデオを
袋に入れ家の帰ったものだ

今はHuluやネットフリックス等で見たい
映画はいつでも手軽に見れる時代になった

場所を選ばず
電車の中
布団の中
車の中
公園
いつでもどこでも見れる時代だ

今は全てのもがものすごいスピードで変化していき
新しいものが生まれたと思ったらまた違うものが生まれ
映画なんかもあまり心に残るものが少なくなっている

消費と生産の繰り返し

あの時代は良かったと言う言い方はしたくない
今は今の時代でいいものがたくさんある

明るい未来を作るのにはどうすればいいのか
そんな事をボヤッと考えてみる

先週は友達の舞台を見にいってきた
とても元気がもらえるいい作品だった
タイトルが「あなたが踊れば世界も踊る」
本当にとてもいいタイトルだと思った
ただ僕はチラシをもらった時
なぜか勘違いしていてずっと
「あなたが踊れば世界も変わる」
思っていた

きっと

誰かが踊れば
世界も踊る
世界も
変わ


そんな
世界

セイタカアワダチソウを見つめて

北村周一

~花言葉唯我独尊嫌われて背高秋の麒麟草かな

天竜(浜松市)に越してきてまもなく一年が経とうとしています。
ことしはことのほか暑くて、ミカンも栗も大豆もトマトも不作だと地元の人たちが嘆いています。
そのかわり、ウサギやらシカやらイノシシやクマまでもが近くまでやって来て往生しているとのことでした。
しかしそんな暑さにもめげず、われらがセイタカアワダチソウはぐんぐんと勢力を伸ばし、天竜川の土手に限らずあちらこちらの空き地に居場所を見つけ、10月の半ばごろからは黄色の花を満開にして、まるで栄華を誇っているかのように咲き乱れているのでありました。
背の高いものは2メートルを優に超えています。
あまりに美しい光景にしばし見惚れてしまうほどです。
このセイタカアワダチソウを題材にしてかつて作品を発表したことがありました。
だいぶ前の話ですが、そのときに書いた文章をここに再掲したく思います。

~セイタカの草草は闇にしずめ置きすすき野原に午後の日のどか

   *
赤は赤らしく、黄色はこがねにかがやきを増して、ことしの紅葉は目を見張るばかりに美しい。葉陰にも色が滲み出るかのような秋の景色のなか、セイタカアワダチソウの満開の花々が黄金色の房々を日の光りに遊ばせている。ここ利根川の河川敷でも、そしてわが境川(東京都町田市と神奈川県相模原市の県境を流れる)の川原でも。
今秋、C・A・M・P「場所・群馬」展(前橋芸術会館)に出品の機会を得、かねてより気になっていたセイタカアワダチソウを素材にして作品をつくることになった。タイトルは、「イエロー・メッセージ」、セイタカアワダチソウをアメリカ型様式のひとつのモデルとして捉えてみようとする試みである。 
北アメリカ原産の帰化植物であるセイタカアワダチソウは、第二次世界大戦後日本各地に広まったといわれている。だが、そのすがた、その生命力の強さゆえか、あるいは花粉症の原因としても疑われたためか、この植物によい印象をもつ人は少ない。さらに根や地下茎から、他の植物の種子発芽を抑える物質を分泌して繁殖していることもあり、9・11以降なおさらイメージが悪い。そこで、この悪名高きセイタカアワダチソウの生態を調べてみることにした。
以下は、岡山理科大学波田研のHPからの抜粋である。
   ***
もともとは鑑賞用に導入されたとの説もあるが、急速に広まったのは第二次大戦後のこと。蜜源植物として優秀なので養蜂業者が積極的に種子を散布したとの話もある。
和名の由来は、同じ属のアキノキリンソウの別名アワダチソウより草丈が高いことによる。多年生草本、地下部からアレロパシー 物質(ポリアセチレン化合物など)を分泌し種子発芽を抑制する。そのため新たな植物の侵入は困難になり、地下茎で繁殖するセイタカアワダチソウの天下となる。
ただしこのような能力は、セイタカアワダチソウに限ったものではなく、ヨモギやヒメジョオン属の植物も同様な能力をもつことが知られている。ススキなどのイネ科植物の発芽を抑制するという。セイタカアワダチソウやヨモギが繁茂すると当面これらの植物が覇権を握ることになるが、その時点でススキが侵入しているならば、やがてゆっくりとではあるが、ススキが広がって上層を覆い光を遮りススキ草原へと遷移することになろう。
実はセイタカアワダチソウは、蜜源植物でもあることからわかるように花粉をミツバチなどの昆虫によって媒介させる植物であり、花粉を風に乗せてばらまく植物(風媒花)ではない。つまり花粉アレルギーの元凶ではなかったのだ。ならば、このセイタカアワダチソウへの対応があらためられてもよいのであるが、いったん広がった風評はなかなかあらためられない。
旺盛な成長力を利用し、法面の緑化などへの利用も検討されたが、イメージが悪いので実施には移されていない。しかしながら、現実の法面では表土の流出防止には貢献しているともいえる。茎はなかなか丈夫であり、ニュー萩という名前で袖垣などに加工されたりする。
場所や環境が異なれば、この花への印象も全く異なるようで、風光明媚な観光地で調査をしていると「この美しい花の名前を教えてください。」などと聞かれることもあり、苦笑してしまう。以上。
   ***
各地の湖沼で日本原産の川魚を駆逐しているブラックバス、ブルーギルなどに比べれば、同じ帰化種ながらセイタカアワダチソウはむしろ有益な植物だといえる。土のあるところなら、それこそどこでも一様に見られる分、損をしているのかもしれない。
11月半ばすぎ、わが四駆ジムニーの車窓から見えるセイタカアワダチソウの草々は、綿毛を溜めて光りかがやいていた。米国生まれのコーラやハンバーガーにかわるシンボルとして見ることはできるとしても、帰化種として根付いたセイタカアワダチソウのすがたは、ダムやテトラポットなどの人工物が風景の一部として視野に入ってくるのと同様に、いまや日本の風景として馴染んでいるともいえよう。少なくとも国土荒廃のメタファとして扱う素材ではないようだ。
(2001年11月)

付記Ⅰ 
セイタカアワダチソウ;学名 Solidago altissima Linn  
           英名 Tall goldenrod                                        
           綱名 双子葉植物綱合弁花亜綱
              キク科アキノキリンソウ属
付記Ⅱ 
イエローといえば、思い出すことごとがある。いささか古い内容だけれど、いまもなお引っかかっている(点滅している)ので、書きとめてみたい。

ヘルペスの信号
コンセプトあるいは決意表明にかえて

朝日新聞、1987年12月11日付夕刊によれば(やや古い記事で恐縮ですが)、あのヘルペス・ウイルスが悪さをせずに“休眠”しているあいだ、一個だけ(健気にも)働きつづける遺伝子があり、この遺伝子が他の遺伝子の活動を抑え眠らせているのではないかという仮説が発表されました。
つまり、「オフ」スイッチに相当する遺伝子が、ストレスやホルモンの変化などが引き金となって急激に増殖するウイルスを、眠らせつづける(役目を担っている)というわけです。
ちなみに単純ヘルペス(唇のまわりに小さな水泡をつくる)ウイルスⅠ型は、米国人の約2/3に感染しているそうです。
願わくは、「ヘルペスの信号」が活発に働きつづけるよう、見守っていただきたいと思います。

以上は1989年4月の、ヘルペスの“青”信号展におけるコメント
以下は1991年9月の、ヘルペスの“黄”信号展におけるコメント 

「オフ」スイッチは働きつづけているか?
残念ながらその活動は鈍ってきたようです。
黄色の信号が点ってしまいました。
ご存知のように、スイッチが働いていれば、他の約80個の遺伝子は休眠したままです。感染しても発病せずにすむわけです。
詳しく知るということが元気を与えてくれる好例でしょう。
もしかしたら他のいろいろなウイルスも、同じようなスイッチをもっているかもしれません。
ところで、ヘルペスと呼ばれる病気には3種類があり、いわゆる帯状疱疹、それに単純ヘルペスⅠ型とⅡ型とに分かれます。
Ⅱ型はたいへん恐い病気ですが、Ⅰ型は風邪みたいなものです。
けれどもウイルスが体内を素通りしてしまう人と、どういうわけか残ってしまう人がいて、何度も再発の憂き目にあうのです。
(もうおわかりのことと思いますが)、「ヘルペスの信号」展においては、ヘルペスではなく“信号”に意味があります。
なお、今回の4人によるグループ展について少し説明しますと、活動の場が近かったこと、年齢が同じ位(1951、52、53年生れ)加えて身長も同じ位、この程度の理由に依拠した発表となります。
たぶん黄色のオフ信号は、これからもながくながく点滅しつづけることになるでしょう。

追記
イエローの点滅は、往々にして危機管理能力の有無、あるいは評価をも想起させる。この先に極めて危険な領域があり、それをいち早く察知した者が回避させたとする。のちに、この先に「それ」があったのだと周囲の者に語ってみたとしよう。すでに平穏な状態にあれば、コトはなかったこととして認知されるだろう。病は病として、あやまちはあやまちとして「かたち」にならないと、人は納得しないのかもしれない。(2002年2月8日)

~伸びすぎてプールサイドに枯らしゆく草の背高見るかげもなし

   *
黄色という色は、光りの具合によっては黄金色に見えることがあります。
自家用車に黄色を選ぶ人は、スピードマニアといわれたりします。
一方安全を考えて、マイカーは黄色と決めているオーナーもそれなりにいます。
黄色はかように目立つ色彩でもあり、また注意喚起を促す色でもあります。
交差点の信号が、青から赤に変わるとき、しばらく黄色が灯ります(歩行者用の信号は青の点滅)。ある意味、緊張を強いられる瞬間でもあります。
前に進むか、停止するかの判断を迫られるからです。(基本は止まれ)

~三日月も星のひとつと見上げたれば青の点滅われを急かしむ

ところでこの時期、地球上にはどのくらいの量のセイタカアワダチソウが満開をむかえているでしょうか?
遠くから見たら、黄色の帯または黄色の斑点が群れを成して、なにごとか物語るように目に入ってくるかもしれません。

歳を取って

篠原恒木

「歳を取ってよかったなと思うことはある?」
そう八巻美恵さんに訊かれたことがある。しばらく考えたが、おれの答えは
「ないと思うなぁ」
という曖昧なものであった。

歳を取ると、体のあちこちが不調を訴える。それが少なからず不愉快だ。不愉快だから肉体だけではなく、精神的にも影響してくる。歳を取ってよかったな、とはとても思えない。
よし、頭のてっぺんから我が不調ぶりを書いていこうか。

まず、禿げた。これ、立派な不調ですよ、あーた。五十を過ぎた頃にこめかみ部分から後退していき、現在では頭頂部もきわめて心もとない状態になっている。仕方がないので禿げ隠しにこの二十年ほどは坊主頭にしている。三日に一回、自分でバリカンをあてる。不精するとわずかに伸びる髪はほとんど白髪だ。これが禿げてさえいなければふさふさのグレイ・ヘアだったのに、もはや叶わぬ夢だ。

若い時には経験しなかった偏頭痛も起きるようになった。おそらくこれは重度の肩凝りから来るものだと勝手に解釈しているが、当然にして気分はよくない。

視力が壊滅的に落ちた。近くのものも遠くのものも見えない。仕方なく遠近両用の眼鏡をかけているが、数か月単位で老眼が進んでいく。眼鏡の度数がすぐ合わなくなる。その都度作り直していたが、あまりにも不経済なのである時点からレンズ交換をやめた。なので、眼鏡をかけても世界が歪んで見えている。おれはこの世の中自体がそもそも歪んでいるのだと思うことにした。

鼻は十年ほど前から重度の花粉症になってしまった。春だけではなく秋にも鼻水が垂れる。涙が垂れる。正常といえる季節は真夏しかない。歳を取ると体のあちこちからいろんなものが垂れてくるのだ。鼻や目からだけではない。外耳炎で耳垂れもしばしばだ。意図せずヨダレが顎をつたうこともある。情けないことに我が竿は一年中垂れっぱなしだ。文句のひとつも垂れたくなる。

歯もいけない。半分は入れ歯だ。二か月に一回歯科医へ行き、クリーニングをしてもらうが、このままだと早晩総入れ歯になるだろう。食事をするたびに食べかすが部分入れ歯の隙間に詰まり、ストレスを感じる。硬いものも食べづらくなった。裂きイカ、堅揚げおかき、ハード系のパンなどを敬遠するようになってしまった。ツマはインプラントにしたが、臆病者のおれにとってあれは無理ですな。

ツマで思い出したが、夫婦揃って耳が遠くなってきている。先日もこういう会話があった。
「石破になったな」
「やだ、虫歯になったの? 痛い?」
「い・し・ば」
「ああ、総裁選ね。小泉孝太郎、ダメだったね」
「し・ん・じ・ろ・う」
会話の後半は耳のせいではない。大脳皮質の問題だ。

おれは眠れない。不眠症なのだ。この十年ほど睡眠薬と精神安定剤を服用してからベッドに入っている。
「睡眠薬など飲んだら往復ビンタでも受けないかぎり起きられないのではないか」
と、最初のうちは思っていたが、この頃は四時間ほど経つと目が覚めてしまう。二度寝はできない。それがとても不快だ。

顔部分はこれでおしまい。お次は首から下だが、これは臍の上までは今のところ異常なしだ。肩凝りは諦めているが、あとの五臓六腑はきわめて健康だと思う。寿ぎですよ。

いけないのは臍の下からだ。
尾籠な噺で恐縮だが、おれは七、八年前から前立腺肥大症を患っている。一か月に一回、泌尿器科に通院しているが、どんどん薬が増えている。今では前立腺肥大対策だけで六種類の薬を毎晩寝る前に飲まなければならなくなった。

「竿が大きい」と言われるのは自尊心をくすぐる。優越感にも浸れる。だが、「前立腺が大きい」と言われると、懐疑心を抱くようになる。残尿感にも浸れてしまう。前立腺が大きくなるとがんになるリスクがあるという。怖い。腫瘍マーカーを定期的に測っているが、いつも基準値の上限ギリギリでセーフだ。気分が悪い。

頻尿になると小便、いや、不便だ。映画を観るときはとにかく水分を摂らずに、上映前に必ずトイレへ行ってから席に座る。それでも一時間半を経過するとモジモジしてくることがよくある。ゆえにおれは映画館では通路ぎわの席しか座らない。

尿意も突然訪れる。普通はじわりじわりと忍び寄ってくるのだろうが、おれの場合は何の前触れもなくドーンとクライマックスがやってくる。そこですぐトイレに行かないと大変なことになるのだ。オノレの尿意のクライマックスのせいで、映画のクライマックスを何度見逃したことか。不愉快だよ。

小用を足すときも「勢い」がない。悲しいかな、我が小便は一本の白糸の如く緩徐に落下、そののちに力なく滴下していく。喩えはよろしくないけれど、大坊勝次さんが珈琲を淹れるときにネルドリップへきわめて丁寧に、ゆっくりとお湯を細~く垂らしていたでしょう。あんな感じ。だからおれの場合は「小用」とはいえ、時間がかかる。辛いですよ。

もう少し下半身へいくと、左膝の一部が骨壊死を起こしてしまっている。これは最近のことだ。原因は不明。運動で無理をしたせいだろうとおれは思っている。
急性時は激しい痛みに襲われ、まともに歩くこともできなかった。杖を購入して、いまでもそれを頼りにして歩いている。これは外科手術かと身構えたが、医師は現在のところ温存治療を選択している。つまりは二種類の痛み止めを一日三回服用し、湿布を貼るだけの「様子見」だ。壊死した箇所は元には戻らないという。だよねぇ、「壊れて死んだ」ものが治るわけがない。するとおれは死ぬまで鎮痛剤を飲みながら、薬のおかげで一時的に和らぐ痛みと付き合っていかなければならないのだろうか。それはあまり愉快とは言えないなぁ。

今は膝の周りが腫れている。先日の受診時に「水が溜まっているからだ」と言われたので、注射で抜いてくれとお願いした。ブスリと刺された太い針のあまりの痛さに悶絶したが、水は一滴も抜けなかった。炎症部分が針の行く手を塞いでいるらしい。本当かな。下手なだけじゃないの?

おまけに整形外科の先生が処方してくれたロキソニンの湿布を二か月間貼っていたら、患部が酷くかぶれてしまった。痒いのを通り越して痛い。真っ赤になった膝の皮膚は、変色してどす黒くなってしまった。湿布を貼るどころではない。慌てて市販薬のクリームを塗ったが良化しないので、皮膚科へ駆け込んだ。医師はおれに言った。
「かぶれに効く軟膏を処方しますが、また湿布を貼ると確実にかぶれてしまいますよ」
困ったな、どうすりゃいいのさ。膝の痛みを我慢したほうがいいのか、かぶれを無視したほうがいいのか。

かくして今のおれが通っている病院は、歯科、心療内科、泌尿器科、整形外科、皮膚科だ。オオタニサンもびっくりの五冠王だよ。まあどれも命を取られる病気ではないから呑気なものだと思うことにしている。いちいち嘆くとバチが当たる。

やっぱり「歳を取ってよかったなと思うこと」なんてひとつもないよな、とおれはあらためて思った。だけど、それを言っちゃあおしまいよ。そこでおれは考えた。

歳を取ると、大抵のことは忘れてしまう。これは案外いいことではないのか。悲しかったことも辛かったことも、いつの間にか忘却の彼方だ。おれの場合は楽しかったこと、ヒトから受けた愛情、恩情も忘れてしまう。これはよくないな、薄情だなと思うのだが仕方ない。あんなに好きだった女性のこともすっかり忘れている。昔、上司から酷い言葉で罵られたことも、ディテールは驚くほどに忘れている。身内や親しい人たちが亡くなってこぼした涙も忘れている。消えてしまいたいほど恥ずかしい思いをしたことも忘れている。これは歳を取ったおかげだと思う。経験したすべてのことを仔細に覚えていたらたまらない。膝の痛みも突然の尿意も今は不愉快だが、そのうちになんとなく折り合いをつけて、その状態が平常運転になっていくのだろう。

「シノハラさんにはあのとき本当にお世話になりました」
と言われても、
「おれ、そんなことしたっけ?」
と思い出せないことだってよくある。でも、その逆のほうが多いのだろうなぁ。
「シノハラの野郎、あいつだけは許せねぇ」
そう恨んでいるヒトビトだってたくさんいるよね。いいんだ、こちとら忘れてしまっているんだから。

「このご恩は一生忘れません」
なんてことを逐一覚えていたら、それはそれでかなりキツイ人生になると思うけどなぁ。

おれは八巻さんにメールした。
件名は「歳を取ってよかったこと、ありました」だ。

アパート日記 10月

吉良幸子

10/4 金
10月に入り、出稼ぎで着る単衣をやっとしまう。そろそろ同じ着物に飽きてきてたからちょうどええ。朝家出るのが早朝過ぎて最近は真っ暗。薄ら寒いから道行を羽織って行く。ようやく秋になってきた。

10/6 日
神田紅純さんの会へ公子さんと向かう。両国ってちゃんこ鍋屋さんいっぱいでおもろい。今回はお相撲さんの卵みたいな方が歩いてなくて残念。紅純さんの講談は北斎の噺がおもろかった。素晴らしく汚い!という北斎の部屋、見てみたいもんやわ。

10/8 火
出稼ぎの後に末廣亭の真打披露興行、今日は伝輔さんトリの日。早めに行って時間つぶしに世界堂でぶらぶら。出稼ぎの帰りやし着物やったんやけど、外国の方に綺麗ね、と声をかけられた。センキューと返したら、どこで買ったの?と聞かれ、久しぶりの英語にあわあわした。もはやカタコトの英語でこれはもらったものなんやけど、近くにリサイクル着物の店あるでと伝えたら喜んではった。世界堂から目と鼻の先やし行ってみてくれてたらええなぁ。
今日の寄席で甲賀さんの文字の幟が上がったら太呂さんが写真撮ってくれる予定やった。けど雨で幟は一本も上がらず残念。中に入っていつもの桟敷席へ。途中から伝輔さんの御贔屓、くみまるさんも合流した。朝からばたばたで朝ご飯のお弁当が食べられず、中入りでお弁当を頬張る。何も食べてへんかったしうまい!公子さんが、腐ってない!?って心配してはったけど、腹も強いし大丈夫やった。終わってから外出たら伝輔さんが出てきてはって、今日はみんなバラバラに座ってはりましたね!と。口上の時喋られへんから客席よう見るねんて。各々好きなとこに座ってたから、あっちにもこっちにもおるって感じやったやろなァ。

10/15 火
経堂で第一回しらかめ寄席。神田紅純さんが出演で、しらかめのおかみさんが絵を描くし、この前両国で聴いた北斎の噺をやってくださった。お店が小さいから10人くらいしか入らんのやけど、講談の後に最高においしいつまみとお蕎麦も出てきて、お客さんも紅純さんと話せるし、みんな楽しそうで幸せな夜やった。

10/17 木
出かけようと駅へ向かう途中、うちから一本駅寄りの道沿いにあるお宅からソラちゃんが徐に出てきた。思わずソラちゃん!と呼んだけど、おや、その名前で呼ぶのは誰ですか?ってなすまし顔で振り返ったっきり、とっとこと歩いていってしまった。別宅猫め!知らん顔しよって!!と帰ってから公子さんに報告。その後、うちへ帰ってきたソラちゃんは猫撫で声で甘えん坊、会いたかった~って感じ。ほんまに別人やで。体の匂いを嗅いだら金木犀の香りが。そういえばその別宅、金木犀がきれいに咲いてるわ。

10/20 日
お引っ越しした祥二さんとよしえさんちへお呼ばれして行く。駅からもそんなに遠くないし、素敵なおうちやった。この前お会いした時は車椅子やったよしえさんが、歩いて迎えに出てくださってびっくり。白髪のボブがよくお似合いでかわいい。いつも服やらアクセサリーやら色々いただくのやけど、今回もなんじゃかんじゃたくさんくださった。自分も少しもらって、後は周りの似合う人に渡していこうと思う。帰りは直帰や!と言うておったのやけど、おふたりとも元気やって嬉しいしやっぱり一杯飲もか!!と焼き鳥屋へ行く。酒もおいしいしアタリやった。ほろ酔いで公子さんと帰る。杉並はええなぁ、駅前に面白さが残っておって。

10/22 火
友達と田中一村の展示へ。ほんまはモネに行こう!と言うてたんやけど、あまりに人が並んでて断念。一村も結構な人の入りやったけど、人の波をぬってゆっくり観た。膨大な習作と作品群と、途中で感動して泣きそうになった。一村の絵には見る人を圧倒する説得力がある。一緒に行った友達は絵描きやし、二人とも大いに感化されて美術館を出た。お昼食べて世界堂へ。絵描く人と行く世界堂はひとりで行くよりもおもろい。ああ、あんな絵、描きたいなぁ!

10/24 木
中野で蒲田育さんの展示、『寄席へようこそ』へ行ってみる。育さんは末廣亭でお茶子さんしてるだけあって芸人の所作の絵がむっちゃうまい。寄席の楽しさが伝わる、生き生きしたええ絵たちやった。その後、駅前で待ち合わせて公子さんとまことさんと一緒に兼太郎さんの会へ。落語はええねんけどなぁ、まくらが長ーくて集中が切れる!

10/26 土
故郷の味、丹波の枝豆が届く。今年は例年にない不作の年で、全然取れんしできも悪いから東京の知り合いにも配られへん。いつもおかあはんが買いに行く大きい農園でも売る程ないと言われたらしく、友人に無理言うて分けてもらってそれを送ってもらった。確かにサヤがやけに分厚くて例年に比べて食べにくい。色も悪いしほとんど黒豆になってる感じ。そんなんでも、年に一回の国の味。もりもりとありがたくおいしくいただく。

10/31 木
ソラちゃんの最近のお気に入りは私の膝の上で寝ることらしく、帰ってきたら、膝貸せ!何寝てんねや!ってな感じでにゃあにゃあと呼ばれる。おまけに寝る時間も伸びて小一時間は膝の上。腰は痛なるしやることなくて私は暇。ノミ取りしてみてもぐっすり。かわいいしむっちゃあったかいねんけどね、家の中で他に寝るとこ作ってほしいわ。そんなこと言いながら酒呑んでたら眠たくなってひとねむり。日記が書けてなくて仮眠のつもりやってんやけど、ソラちゃんが外からにゃおにゃおと帰ってきた。半分寝たままソラちゃんを家に入れると、おれ、布団入ってみようと思うねん…と入ってきた!深夜に膝貸すよりええわ!と歓迎する。ほしたら意外にもぐっすり寝てしもた、普段からこれにしてや!
そうこうしていると明日の朝ごはんのお弁当を作るのに公子さんがミッドナイトキッチンで起きてきはった。公子さんが台所に立ってると、椅子の上で監督するのがソラちゃんの趣味。眠たそうに行かなくちゃ…と台所へ。その間にしめしめと私も起きて残りの日記を書いてたら、椅子に座ってる私を発見したらしい。座ってんやったら膝貸してや、とまた膝上で寝だした。公子さんは知ーらない!とベッドへ。日記はもうほとんど書き終わってんねんけどなぁ…。

昭和のプロレスに学ぶ国際協力

さとうまき

僕は、某大学で3年前に、生徒からゼミをやってほしいと言われ、「地域を巻き込んだ国際協力とボランティアの実践」というタイトルでプロジェクト・ゼミなるものを頼まれた。生徒が自らアイデアを出し、募金で集めたお金をその時に話題になっている紛争地への支援として送り届ける。去年はガザ戦争がはじまり、パレスチナの支援を行おうということになり、新聞も取材してくれるという。さっそく僕は、学部の責任者に話を通しておこうと思った。

「確かに現在、イスラエルによるガザ攻撃が人道上の危機を招いており、世界から非難を浴びております。ただ、今回先に攻撃を仕掛け、1000名以上の無辜の市民を殺害、レイプ、拉致したのはハマスであり、今も人質解放の署名・歎願運動は続いております。
こうした問題の政治性、複雑性に鑑み、本学が本問題で特定の政治的立場に立っているが如き誤解を与えることは避けたい思いがあり、取材に際し、大学のゼミ(正規の教育カリキュラム)としてのガザ支援というニュアンスには慎重にご対応頂ければ幸甚に存じます」
「もちろんですとも。人道支援は中立でなければいけない。生徒たちも援助の中立性ということを学ぶいい機会になるでしょう」

毎日新聞が記事にしてくれたので、掲載紙を責任者に見せた。
「先生のご尽力が実られましたね。おめでとうございます。昭和のプロレスのように単純にイスラエルを悪役としている毎日新聞の報道振りの浅薄さは、ちょっと残念ですが。」
丁寧にお褒めの言葉をいただく。「昭和のプロレス」とはよく言ったものだ。ちなみに毎日新聞に掲載された記事は次のようであった。
 
「イスラエル軍によるイスラム組織ハマスの激しい掃討作戦で多大な犠牲を強いられているパレスチナ自治区ガザ地区の民間人を支援しようと、○○大学の学生たちが年賀はがきを作成し販売している。」
 
僕には、これだけの記事からは、イスラエルが悪役のようには読み取れなかったが。
それはそれとして、プロレスは、確かに、善玉と悪役という役柄に分けて単純化するからわかりやすい。最近Netfrixで話題になっている「極悪女王」。昭和の女子プロレスラー、ダンプ松本の半生を描いている。竹刀を振り回し、フォークで美人レスラーであろうが、相手の額をぐしゃぐしゃに突き刺し、大流血に追いやる。「日本で最も殺したい人間」と言われるまでの極悪レスラーになりあがった。それでも素顔のダンプ松本は、貧しい家庭に育ち、父親の家庭内暴力で苦労する母を楽にさせたいと思いやる優しい女の子だった。太っていて、落ちこぼれていたから先輩たちから理不尽ないじめに遭った。善玉として相対した長与千種も同じようにいじめられていて、「今に見ていろ」という根性で励ましあった。実はこの2人は、強い友情で結ばれていた。極悪レスラーは実はいい人だった。役者の演技も素晴らしく感動的なドラマに仕上がっている。

日本の戦後はプロレスから始まった。アメリカに負けた日本。力道山がアメリカのレスラーを倒していく姿に日本中が狂喜した。1953年にTV中継がはじまると、新橋駅の街頭テレビには、2万人が押し寄せて力道山を応援したらしい。僕が子どものころは、日米が仲良く世界の悪を懲らしめる的なストーリーに代わっていった。つまりアメリカで行われているプロレスのストーリーがそっくりそのまま日本に入ってくる。アラビアの怪人として登場したザ・シークは、悪役中の悪役だった。シリア砂漠出身のアラブ人でイスラム教徒の野蛮人という設定で凶器で相手を血まみれにして、挙句火を放って相手レスラーをやけどさせる。イスラム教のお祈りも不気味な呪文として焼き付き、子どもの僕はとても怖かった。悪党のアブドラ・ザ・ブッチャーをも凶器でずたずたに切りさいてしまうのだから。最近調べてみてわかったことだが、なんとシークは、レバノン系アメリカ人。しかもキリスト教徒だったのだ。

似たような名前でアイアン・シークという選手がいた。実はこの選手は、イラン出身だ。イランではレスリングが国技になっている。アイアン・シークはパーレビ国王のボディーガードをしていた。しかし、国王は、暴君としても有名であり、逆らうものは殺された。レスラーの先輩タクティは、ある大会で優勝し、国王から「欲しいものを言いなさい」と労をねぎらわれた。「何も要りません。その代わり、舗装された道路や、病院や学校を作っていただきたい」と国民の生活がよくなるようにお願いしたという。その一言が国王の逆鱗に触れ、その後タクティは謎の死を遂げる。タクティの死をきっかけに、イランでは「国王に死を」というプラカードを掲げたデモが発生した。

アイアン・シークは、次は自分も殺されると思い1970年にアメリカに亡命した。全米体育協会の大会ではグレコローマンで優勝。オリンピックは72年のミュンヘン、76年のモントリオールの2大会でアメリカ代表チームのコーチを務めた。それでは食っていけない。プロに転向し、イラン人というアイデンティティを利用した悪役への道を模索する。

1979年イランで革命がおこると、パーレビ国王はアメリカに亡命するが、イランの学生たちは、アメリカに国王の引き渡しを要求し、米国大使館を占拠して米国人を人質に取ってしまった。アメリカ人のイランへの憎悪は、日増しに高くなり、アイアン・シークにとっては、大きなチャンスが訪れた。イランの国旗をまとい、リングに上がると、米国人の憎悪を独り占めし、試合に勝ちチャンピオンに君臨した。観客は、アメリカン・ヒーローが現れイラン人をやっつけてくれるお決まりのパターンを求める。その役はハルク・ホーガンだった。愛国心でいっぱいのアメリカ人は大喜びだ。アイアン・シークは、リング外では、星条旗のついたキャップをかぶり、Tシャツを着ていた。アマレスではアメリカ代表だったこともあり、彼もまた愛国心にあふれていた。

アメリカのプロレスは、国際情勢が反映される。湾岸戦争では、元海兵隊の鬼軍曹がどういうわけか、サダム・フセインに心頭してイラク国旗をもって戦うという悪役レスラーが登場。ここでもハルク・ホーガンが血まみれになりながら、最後は鬼軍曹をフォールして、イラク国旗をびりびりに引き裂くというパフォーマンスを演じていた。
 
こうやって見てみると、国際政治もプロレスも変らない気がする。湾岸戦争では、クウェートに侵攻したイラクは、アメリカの攻撃を恐れて、外国人を人質に取り、軍施設の前線に連れ去った。今回のハマスのように。日本の外務省は、なすすべもなかったが、そんな中、イラクへ乗り込み、フセイン政権と交渉して人質解放にこぎつけたのは、昭和のプロレスで数々の悪役レスラーと戦ったアントニオ猪木だった。「外交というのは、心と心が触れ合う。外交という字のごとく外と交わる。交わらずにどうして外交ができるのか」猪木は国会で外務省に反省を促した。
 
「昭和のプロレスはいいですよ」と僕は、大学の責任者に返信しようと思ったがやめておいた。その後、残念ながら、カリキュラムが変わるとのことでゼミは終了になり、昭和のプロレスに学ぶ国際協力を語る場所はなくなってしまった。

製本かい摘みましては(190)

四釜裕子

〈漫然とページをめくるのではなく、読者が本に介入して、読書の身体性を取り戻したかったのだ〉

共和国代表の下平尾直さんが、アンカットで初版1000部を刊行した『第三風景宣言』(ジル・クレマン著、笠間直穂子訳 共和国 2024)について「共和国急使」の56号(2024.8.20)に書いた言葉だ。その前後をもう少し引用させていただきます。

〈文字どおりのアンカットだが、不良品ではなくこれがデフォルトだ。(中略)「第三風景」という思想を本の形で残そうとしたら、こうなった。(中略)
著者のいう「第三風景」とは、人間が放棄した土地や未開発の土地、あるいは原生地などを指すそうだ。(中略)「権力も、権力への服従も表わさない空間」「非生産性を政治の高みへ推しあげる」といった一節なんて、小社の憲法にしたいよな〉

「第三風景宣言」の命名の参照元はシエースの『第三身分とはなにか』(1789)とのことで、翻訳した笠間直穂子さんはあとがきに、ジル・クレマンは『第三身分とはなにか』同様に薄手の政治的小冊子(「パンフレ」とルビ)として『第三風景宣言』を2004年に刊行していること、またこのたびの日本語版については、〈共和国の下平尾直氏は、本書の意義を汲みとって、パンフレとしての性格を活かした本づくりを考え、デザイナーの宗利淳一氏およびモリモト印刷の方々とともに形にしてくださった〉と書いておられる。

重版以降は通常の造本・体裁になるというので、刊行前に予約したのだった。間違いなく三方断ち前の状態でうちにも届いた。四六変形判の縦長の並製で、天(本の上側)に1ミリくらいのチリ、地(本の下側)はぴったり、小口(本の手前側)は逆チリ1ミリという感じ。表紙の天と小口側に裁ち落とし指示風にデザインされたラインがあり、これに沿って断裁すれば地の袋だけが残るのかな……など思い後ろ髪ひかれつつ、まずは地の袋にカッターを入れて切っていく。ペーパーナイフを気取ることはないだろう。折り山には機械で折る際の空気抜き穴が10ミリ間隔くらいであいているので、切り口はやや規則的にざらざらになる。これをしてペーパーナイフで切ったようないい味が出ているとも言えるし、単にキタナイと思う人もいるかもしれない。

印刷する本の中身は、基本的に片面8ページ分を両面に面付けして大きな紙に刷る。それを半分、また半分、さらに半分に折ると1ページ分サイズの束になり、そのかたまりを「1折り」という。『第三風景宣言』はこれがまず10セット、すなわち10折りと、同様にして片面4ページ分を両面に刷った紙を、半分、さらに半分に折った1折りを重ねた全168ページとなっている。小口側は4枚のペラのあとに袋状のページが2つという組み合わせの繰り返しで、袋状になったところを開いていくのだが、この折り山に空気抜き用の穴はない。カッターの刃を新しいものに替え、ここは丁寧に切ることにした。全部切ると、表紙からはみ出る4枚とほぼぴったりの4枚が交互にあらわれる。規則性があるのでこれまたラフないい味が出ていると言えるが、読むのにややめくりにくいのが難だ。何度も読む人ほどちょっとイラッとするかもしれない。でもこの凸凹のせいだとまもなく気づいて、カッターで切りそろえる人がいるかもしれない。これもみな〈読書の身体性〉、大いに賛成。

一度とおして読んだけれども「第三風景」という概念をつかめていない。でも、何か目的があって出かけるとき、自宅や駅や駐車場からその目的地までの間にも延々と在るすべての風景なんかも、そのときの自分にとっての”第三風景”と呼んでみてもいいだろうと思った。例えば佐倉市のDIC川村記念美術館に行くときはいつも佐倉駅からバスに乗ってしまうが、それでいつも建物の周囲をないがしろにしてきた。あるとき千葉モノレールの千城台北駅から歩けそうじゃない?ということで行ってみたらば、住宅地、うねる道、道祖神、美しい谷津田や折々の開発の残骸を抜け、行きつ戻りつしながらようやっとたどりついたのだった。帰って空撮地図を見て、確かにあの場所に作られた庭園、そこにつながる道路をバスでただ往復していたことが実感できた。便利は点を線でつなぐし、目的は放棄と引き換えだ。〈多様性の避難場所〉という言い方にも勝手に合点してしまった。

「アンカット本」ということでいうと、間奈美子さんの『ビブリオ・アンテナ6 ピンクの肋』(未生響著 空中線書局 2002  限定500部)のことを記しておきたい。16ページの中綴じで、塩ビ板製のペーパーナイフが付いた美しい小冊子だ。〈幼日は一片のピンクの肋を嵌めた語の體で蒼穹のメルヒェンを異想する〉。空中線書局は今年で30年、その記念展が秋には午睡書架で(終了)、来年2月には恵文社一乗寺店アンフェールで予定されている。アンカット本でもう1つ、書肆山田の「草子」シリーズは16ページを折ったままで刊行していた。手元にあるのはその「8」で、谷川俊太郎さんの『質問集』(1978)だ。それを包むカバーというか袋に刷られた刊行案内には、1)瀧口修造、2)天沢退二郎、3)吉岡実、4)飯島耕一、5)三好豊一郎、6)岩成達也+風倉匠、7)高橋睦郎、8)谷川俊太郎、その後の予定として、佐々木幹郎、吉増剛造、澁澤孝輔、大岡信のお名前があった。このシリーズの全貌を知らないのだが、のちに特装本に仕立てるような方もいたのだろうか。

No such people exist(そんな連中はいない)

新井卓

 ※前回、10月号からの続きです

 「No such people exist(そんな連中はいない)」はチェチェン共和国の首長ラムザン・カディロフの、あるインタビューにおける言葉だ。「そんな人たち」、はチェチェニアの同性愛者のことで、そんな人たちがもし存在するならば「血を浄化」するため彼/彼女らを「連れていく」べき、と続ける。
 ドイツに拠点を移すことを決めた2022年、ベルリンでロシアに関する作品を──ロシアのウクライナ侵攻によりヨーロッパから阻害され、同時に母国ロシアからも阻害されることで、二重に追放された人々にまつわる作品を──作ろうとしていた。クィアなら意図的に前線に送り込まれる、というロシアの徴兵を逃れてベルリンに移り住んだ人々と連絡をとり、当事者コミュニティとの仲介を買ってでてくれる協力者にも恵まれた。しかしいざベルリンに到着してみると、そこはパレスチナ問題の泥沼に変わっていた──というより何十年も放置されていた泥沼がさらに深く、大きく、日常の景色を呑み込みつつあった。ベルリンの南ノイケルンで、それは決して誇張ではない。イスラエルによる大規模なガザ攻撃が始まってすぐ、ノイケルンでは激しい抗議活動が行われ、逮捕者が続出し、クーフィーヤ(アラビア半島社会で身につけるスカーフ状の装身具)をまとう女性が襲撃された。

 ドイツでイスラエルとシオニズム運動を批判し、パレスチナを擁護することは重大な政治的タブーだ。ベルリンでは一時親パレスチナ・デモが禁止されたが、のちに憲法違反であることが指摘され撤回された。それでも、親パレスチナ・デモは違法、というイメージはベルリン市民に強固に刷り込まれ、この問題に関心がないか避けようとする人ほど、そのイメージを手放そうとしない。そのずっと後に知り合ったパレスチナ難民から、ドイツで滞在許可が欲しければ、「わたしはパレスチナ人です」という質問欄にチェックを入れなければならず、チェックを入れればその人は「国籍なし(ステイトレス)」として処理されると聞かされた。ドイツという国では、パレスチナという国家も、パレスチナ人という人々も、はじめから存在しない。

 一年間という在外派遣期間中、大量死と芸術とジェンダー、というぼんやりとしたテーマを設定し、第一次大戦の女性芸術家の活動の調査から始めて現代のコロナ禍やロシアウクライナ戦争へ、ゆっくり手を伸ばしていくつもりだった。しかし、パレスチナのもうひとつのグラウンド・ゼロと化したベルリンで、自分がなにをすべきか本気で迷った。「すべきこと」などないのが表現の営み、とわかってはいても表現以前に、目の前の現実に応答しなければ生きていけそうにない、とまで思いつめていた。一歳のこどもと密に過ごすはじめての時間が、そして移民として過ごすはじめての暮らしが、わたしの身体と心の皮膚をひどく傷つきやすく、侵されやすいものにしたのかもしれない。

 長い冬のあいだ、息を殺すようにしてパレスチナとレヴァント(西洋から見た「中東」とはもう言わない・書かないことにしたので、代わりにこの言葉を使う)の歴史を学び、パレスチナ詩人たちの朗読会に出かけ、数々のドキュメンタリーを観た。アパートから15分くらいのところにSonnealee /ゾンネアレー、通称アラブ通り、という街区があって、強面のアラブ男たちがたむろするカフェやシーシャショップに入る勇気もないまま、雑貨屋や菓子屋をうろうろと見て回った。要するに、わたしはパレスチナはおろか、レヴァントともイスラーム文化とも何の縁もゆかりもない、というだけなのだが、それでも、どきどきしながらクーフィーヤを巻いて徘徊するアジア人に、「ビバ、パレスチナ!」とか、「よう兄弟!」などと声をかけてくれる人もあった。

 思い返せば、いままで取り組んできた仕事に関して、自分が出来事の当事者だったことは一度としてなかった。わたしはいつでもよそ者で、第三者だったが、今度ほど心細さを感じる仕事はなかった。表現者としてパレスチナのことをしよう、と思った瞬間、何を作るかは決まっていたが、肝心の一歩が踏み出せない。季節は巡り2024年の春になってようやく意を決し、パレスチナ会議(Palästina Kongress)の主催者に、これこれこういう作品を作りたいので協力者を紹介してほしい、と連絡した。

 パレスチナ会議はパレスチナの歴史を紐とき、パレスチナ問題に関する学術研究やアートの実践を紹介しながら連帯を呼びかける、三日間にわたるシンポジウムとワークショップで構成されていた──はずだった。わたしが連絡した時点ですでにチケットは完売していて、当日券も千人待ち、と主催者から伝えられたのを、食い下がってプレスパスを発行してもらい報道陣として入れてもらえることになった。会議初日、小さな会場で記者発表が行われた。駅を降り通りを会場に向かって歩いていくと、100メートルにわたって警察車両が並び、会場前ではシオニスト団体と政治家が街宣車を出してイスラエル国旗をかざし、抗議活動を行っていた。今思えばこの段階ですでに十分なきな臭さが漂っていたのだが、翌日、別の会場で始まったシンポジウムではベルリンにおける現実の厳しさをいやというほど突きつけられることになった。
 
 (つづく)

連なる

高橋悠治

子どもの頃読んだフランツ・リストの伝記に、夜明けにピアノの鍵盤に手を置いて、眠っている人を起こさないようにそっと鳴らす場面があった。両手の指を鍵盤に触れ、少しずつ位置を変えて鳴らす、片手の軌跡の地図に、他の音の線を重ねる、これが演奏の、また作曲のイメージにもなる。朝目覚めた時、暗い部屋の眼の前にそんなイメージと共に音が聞こえるような幻を見ることもあった。

年とともに、そんな朝も少なくなった。こうして身体から音楽が抜けていくのかもしれない。それでも、楽器を前にしていると、イメージもなく、指が動くこともある。腕のどこかに溜まっている記憶か、それとも筋肉の微かな揺らぎが作り出す響きを、耳が確かめながら音にするとともに、音の線が変化していくイメージを編んでいく。

小松英雄の「連節構文」から思いついたことだが、あらかじめ構成を考えることなく、フレーズを継ぎ足していく。一つのフレーズで使っていなかった音に触れながら、進んでいくと、曲がりくねった音の道が残る。全体の構成がないだけでなく、どこで始まり、どこで終わってもいいような音から音への歩み。

道々拾っていく音は、楽器の音域の範囲で、碁盤に石を置いて埋めていく手を想像しながら、残るかたちよりも、離れていく手の動きの方を見ながら、置いた音の跡を吹き消していくのが、即興で、演奏で、作曲であるかもしれない、と感じることもできる。

日本の昔に連歌とか連句があったのも、「一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり(三冊子)」と言われたように、止まらない時、変化する世界を生きる、一つの行き方だったかもしれない。

2024年10月1日(月)

水牛だより

ようやく秋、と思っていましたが、明日からまた真夏日という予報です。いつものように当たらないことを望む、天気予報。

「水牛のように」を2024年10月1日号に更新しました。
継続して原稿を送ってくださる人が全員登場することはないのですが、今月はめずらしく20人を超えました。それが判明するのは公開当日になってからですが、すごい!と密かに自画自賛してしまいます。毎月おなじ手順で更新をしているわけですが、手順はおなじでも、読めるのはすべてそこからこぼれ落ちたものだと思います。なにもない小さな庭に、そのときどきのいろんな花を咲かせていると言えるなら、すてきですが、果たして?

それではまた来月に!(八巻美恵)

238 別室、別室

藤井貞和

「別室」という 作品を書いて、しばらくする と、
別室のドアを 亡霊が押して はいってくる

別室では、いたはずの あの聖牛の、
毛並みが 売りに出される

別室に つぎつぎ乗り込む、影のない
白いみこ姿にも すうっと立ちあがる背景はある

すうっと去る、別室へ。 神の獣を別室に閉じ込めて、
立ち上がる、白い みこ姿が亡霊だった と気づく

草原の坂に ドアが落ちている。 そこを通って、
別室へ続くとわかり切っており、出会いたい

でも、最初からなかった? かわいそうだな
と思う? これは 夢ではない。 ――別室である

水没する引きガラスをガラガラ引いて、
別室は静かな画面に変わる、うまく言えた と思って

きのうの別室は きょうの別室で、
あしたは もっと断片になる。 そんなこと わかり切って

きみが通過する炎道よ。 もう氷のびゃくどう(白道)である。
聖牛は 立ったまま 別室の影になる

これも夢では ないな。 別室が燃えている。
つらいな。 電力を送る事故をくりかえす

動画がまきもどす。 別室で、もう一回上映する
これがさいごでありますように

砂遊び場の信号機の火あそびの石溺れ谷、
別室の壁は囲む さいごの思想のまえ、うしろ

退路はいつもやさしい坂。 別室への
さらにやさしい思想の初版を送る

倒れた 送電線が送る鉄塔に、
よじ登って、きのうのように修理する、別室の子ども

(旧作、再稼働する別室。無関係ながら、経産省が廃炉分、自社の他原発に「建て替え」と、2024年6月16日づけ、朝刊より。)

夜のエレベーター

植松眞人

 奈良の橿原という町に住んでいたことがある。最寄り駅は近鉄の大和八木という駅で、当時は駅前だけが開発されており、大型のショッピングモールが一つと、小さめの近鉄百貨店があるくらいだった。ほんの十分も歩けば、周囲は田畑が広がるのどかな風景だった。
 そこに初めてできた高層マンションがあり、ひょんなことからそこに住むことになった。窓からの景色は素晴らしく、低く連なる大和三山を眺めながら洗濯物を干したり、ベランダでぼんやりとタバコを吸ったりするのが好きだった。
 当時は車で移動することが多かったが、夜になると街灯も少なく、無灯火の自転車にぶつからないよう注意して運転しなければならない緊張感が常にあった。
 その日も、暗い夜道を運転してマンションに帰ってきた私は、立体駐車場に車を入れながら、一日の仕事のやり取りを思い出してため息をついていた。それでも、部屋に戻ればまだ小さな我が子に会えるので、少し嬉しい気持ちになりながらエントランスを通り抜け、急いでエレベーター乗り場に向かった。時間は夜の12時くらいだっただろうか。もちろん、エントランスにもエレベーター前にも誰もいなかった。エレベーターは二基あり、一つは一階に、もう一つは十五階建てのマンションの中間にあたる七階に待機していることが多かった。その日も、エレベーターは一階と七階にそれぞれ停まっていた。
 私が上りボタンを押すと、通常は一階にあるエレベーターが動き出すはずだったが、なぜか動かない。その代わりに、ブーンという音とともに、七階にあったエレベーターが一階に向かって降り始めた。
 あれ? と思ったものの、特に気にせず待っていたが、どうもエレベーターが遅い。どうやらこんな夜中なのに、一階ずつ停まっているようだ。もしかしたら、私がボタンを押す直前に誰かが七階で降りて、全ての階のボタンを押していたずらしたのではないかと思ったが、そうであれば私が来た時点でエレベーターが動いていないのはおかしい。どうしたんだろうと思いながら待っていると、チャイムの音と共にエレベーターが一階に到着した。ドアが開くと、中には十人ほどの人々が乗っていた。全員が無言で、他人同士のように見えた。彼らはドアが開くと同時にエントランスを出て行った。
 私は、こんな夜中に友だちを呼んでパーティーでもしていたのかと思いつつ、彼らと入れ替わるようにしてエレベーターに乗り、自分の住む九階のボタンを押した。しかし、エレベーターが動き始めると、先ほどの人たちが何か普通とは違う存在であるように強く感じ始めた。到着するまでのわずか十数秒間で恐怖を覚え、九階に到着しドアが開いた瞬間、慌てて自分の部屋に走り込んだ。振り返ると、エレベーターのドアは閉まり、そのまま上へと上がっていった。(了)

『アフリカ』を続けて(40)

下窪俊哉

 長く続けていて、何か劇的なことがあると、以前のことをたくさん思い出す。私にとって(『アフリカ』にとって)この1年は、そのようにして過ぎたが、どうして思い出すことがそんなにもあり、劇的な出来事に複雑な色を添えるのかと考えてみると、やはり「続けて」きたからだということがわかる。ただし「続けて」いる間にはそうそう劇的なことは起こらないし、悲劇は嫌だけれど、嬉しいこともない、言ってみれば退屈な日常が延々と続くようなものである。
 劇的なことが起こると、この連載の文章にも(良くも悪くもだが)熱が入り、なんと情熱的な文章なんだろう! などと言われもする。確かに書いている方としても、ノッているし、力作が書けたような気がした。しかしずっとそれでは私の精神がもたないかもしれない。そうすると続けることは出来ないのである。力作でもなく大して面白くもないようなものをいかに書き、つくり続けるかということが肝心なのではないか。本音を言えば、ただ穏やかに暮らしていたい、ということにもなろうか。人生は思ったようにゆかないものだ。

 さて、次、だ。と思う。『アフリカ』にかんして、私は、いつも「さて、次、だ」と思っているのである。通り過ぎてきたことに、こだわっているわけにはゆかない。いや、こだわってはいるかもしれないが、とりあえず置いておこう。未来がなければ、過去も消えてしまうような気がする。未来を描くことが、過去を描くことにもつながる。
 とはいえ、どんな展望があるの? と訊かれると、答えに窮してしまう。相変わらずの五里霧中、私はいつでも暗中模索しているのだから。
 もう、つくらなくてもいいのだよ、と自分に問いかけてみる。何もつくらなくても、「続けて」いると言えるようなところまで来ているような気もする。でも、つくり続けているからそう感じられるのだ、とも思われるのだった。こんなふうに自分の中でブツブツやっていても何にもならないことがわかっているので、まずは誰かに連絡してみたり、会いに行ける人には会いに行ったりする。
 八重洲でもう20年以上行きつけにしている喫茶店があるのだが、最近そこで、定期的に会って話している人がいる。厳しすぎる暑さで萎れていた夏を越して、数ヶ月ぶりに会うとまずは近況報告を、ということになった。私にも抱えている問題がいろいろとあるので、つい「いまは『アフリカ』なんかやってる場合じゃないと思うんだ」とこぼしてしまうのだが、その人は涼しい顔をして「『アフリカ』は続けなきゃダメですよ」と打ち返してきてくれる。
 そこで、「なぜ?」とは、簡単に言えない。
 なぜ『アフリカ』のような雑誌をやっているのだろう。
 その前に、なぜ書いているのだろう。人は、なぜ書くのだろう。
 書き始めた若い頃、「なぜ?」はあまり大した問題ではなかったような気がする。しかし、それから四半世紀を通り過ぎてきたいま、「なぜ?」がとても大きなことになっている。

 そういえば春に、小林敦子さんと再会した際、「下窪さんが小説を書き続けられていること自体、大変なことだ」というふうなことを言われたのだった。言われてみれば、小説に限らず、(頼まれもせず)こんなに書き続けている人はあまりいないのかもしれない。でも知らないだけかもしれないよ? という気もする。ひそかに書き続けている人は、きっとたくさんいる。そう思う方が、自分には良いみたいだ。
 小林さんはどうしていたの? というふうに私は訊かなかったと思うが、その話は、原稿に書いて届けてくれたのだった。

 時間が流れたと思う。自分も変わりつづけた。『アフリカ』の創刊のころ、筆名などを使って、ただ書いて、書いて、文学への気持ちを高めた。ひどく懸命だった。十年以上が経って、かつていた京都から流れ出て、瀬戸内の街で教員の仕事を始め、子どもを生んで、人と別れ、居をかまえた。ずっと文学のことを話しては書き、書いては話していた。けれど自分の中の文学は変わらぬようで、どんどん変わっていった。自分の精神に生活が広がっていった。(小林敦子「再びの言葉」/『アフリカ』vol.36より)

 生活に追われて、書けなくなる。簡単にそう言ってしまうと、よくある話かもしれないが、だからこそ、よくわかる、というふうにも思えるんだろう。
 自分に照らして思い返してみると、とくに幼子との暮らしは、私の人生を一度リセットしたような感じがあった。子が生まれてくるより前に、自分がどんな日常を送っていたのか、うまく思い出せないのである。確かに小説は(あまり)書けなくなった。でも常に何かは書いていた。書くことを自分の仕事の一部としたからだ。ただし原稿で稼ごうとはしなかった。書くことをめぐる仕事を、自分でつくったのである。いろんな名称があったが、総称として「ことばのワークショップ」と呼んでいた。私はそのワークショップの「案内人」ということになっていたが、自分もその中に入って、とにかく書き続けた。その結果、日の目を見ていない(もちろん『アフリカ』にも載っていない)原稿が山ほど生まれた。その延長にある営みが現在、ウェブ上で毎月リリースしている『道草の家のWS(ワークショップ)マガジン』である。そこでは粗製乱造を推奨している。とにかく何でもいいから書こう、書いたものを残しておこう、というわけだ。

 ワークショップを始めて以降、「まだ書き続けるのか」「では、なぜ書くのか」と自分に問い続けてきた。リルケのことばを思い出すのだが、書かなくても生きてゆけると心の底から感じられるのなら、止めたらいい。でも自分の答えは、生きるために書きたい、なのである。あるときに、では雑誌をやるのは? と浮かべた問いを見て即座に、闘うため、と出てきた。何と闘っているのかはわからない(『ドン・キホーテ』か)。
 言ってみれば、答えはどうでも、何でもいいのである。その辺に打ち捨てられていることばを拾って、答えに当てはめてみればわかる。そうか、そういうものかもしれないな、と感じられるはずだから。大事なのは、「なぜ?」という問いの方だ。
 つまり「なぜ?」を考えることが、書くことにつながり、雑誌をつくることにもつながる。
 自分はなぜ『アフリカ』をつくるのだろうか? その問いを持ち続けることが、次号につながるのである。さて、どうなりますやら。

製本かい摘みましては(189)

四釜裕子

「紫式部日記」で読んでいた「源氏物語」の製本シーンを楽しみにしていた。中宮彰子が一条天皇に献上した際のもので、9月29日に放映された大河ドラマ「光る君へ」だ。彰子が料紙を選び、女房たちが二つに折って重ねて整え、こよりで折を仮綴じし、書写を頼んで戻ってきたら丁合をとって校正し、折を綴じて断裁して表紙をかけて題箋を貼り、仕上がった三十三帖を並べ、彰子を囲んで女官ら皆で喜び合う……。どんな綴じ方や紙を採用したのか、その詳細は映るのか、それが今回の関心事だった。放映時間は短かかったけれども、流れをつかむことができてよかった。早い段階で奥に二人のこより制作チームが見え、以降、二つに折った料紙の天地からこよりがちらと見えたので、列帖装(れつじょうそう)だろうと思った。途中、大きさや形が枡形本に見えた気がしたけれども気のせいで、立派な四半本だった。女房たちの作業は折る・縫う・切る・貼るなど。「初めて」というほど特別なものではないので、これらのしぐさに対してはわりと大らかな印象を受けた。断裁する人(手元のみ)と表紙がけする宮の宣旨の手つきがよかった。

見終わってみると、印象に残ったのは料紙の張りだった。以前、河本洋一さんの製本ワークショップで定家写本の「更級日記」とほぼ同じものを作ったときに、両面に書写可能な紙というのはこういう厚さかと実感した(用意されたものはそれでもまだ薄いとのことだったが)。今回の「光る君へ」で、まひろが折を宙に浮かせてめくっているところとか、彰子が御手ずから赤い絹糸で綴じる針を料紙に刺すところとか、あるいは唐紙の表紙込みとはいえ、一条天皇が片手でぴんと持ち上げたり宙に浮かせてめくるところとか、のちに藤壺で女房が両手で縦に持って朗読する様子を見ると、想像を超えた張りがあるとわかった。とにかく料紙がいたまぬよう、かがりの糸は切れやすくて結構、むしろ推奨されるものだということを、そうだよなと感じることができた。今、和本の綴じをするのにこの感覚はつかめない。糸が切れても簡単に直せる利点はわかるが、かといって、よほど高価とか貴重な紙を綴じるとか奇を衒わない限り、わざわざ糸が切れてもいいとは考えないだろう。直筆なら紙は肉体そのものだが、印字の場合、紙は衣装にすぎない。糸の立場や綴じの役割も自ずと変わる。悪い意味で言うつもりはないけれど、花切れ・花布の”なれのはて”にも重なる。そもそも違う。

今や人気のコデックス装は、かがる上での理屈は列帖装と一緒だ。しかし今見たように綴じるものが肉体か衣装かという決定的な違いがあるので、古くからあるとか開きやすいとか過剰な表紙を排除とかそういう問題ではない。日本で「コデックス装」なる機械製本法を名乗ったのは、2010年祥伝社刊、林望さんの『謹訳 源氏物語』だった。342ページにある宣言を引用しよう。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本形態とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装(てつようそう)」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です〉。出ました、綴葉装。和本の綴じの名称は難しい。列帖装も綴葉装も同じことを指しているのにこの界隈ではこれを「という言い方もある」で済ませ続けているので、いつまでたっても新参者が混乱のまま離れていく。

「光る君へ」の公式サイトに、「ドラマをもっと楽しむコラム 彰子が発案!紫式部も行った『源氏物語』の冊子づくり」というのがあった。こよりで仮綴じしたところの写真もあっていいのだが、〈「粘葉装」という書物装丁の一つを採用〉とある。ん? また出たか、和本の綴じ名曖昧問題。説明は続く。〈1枚の料紙を二つに折り、折り目の外側に糊をつけて貼り重ね、表紙を加えて冊子にする方法です〉。粘葉装の説明としては納得するが、さらに続けて、〈この赤いものは、紐になります。ページ数が多くなると仮綴じでは状態を維持できないので、紐を通した針で縫い、仮綴じした料紙をさらに重ね合わせてひとまとめにしていくという感じです〉とある。この説明は列帖装のものでしょう。粘葉装にした折を列帖装に? ナンセンス! と思うのに、いや、そういうのもあるのかもと思わせる。混乱は究極へ。しかしドラマに料紙を糊で貼るシーンはなかった。とりあえず、時間を置いてまた見ることにしよう。

「光る君へ」のこの回で、定子の娘の脩子内親王に仕える清少納言が読んでいたのも「源氏物語」か。献上版よりもちろん紙も薄く判型も小さく、ごく簡単な結び綴のように見えた。ちなみに以前、伊周が一条天皇に献上した「枕草子」は結び綴の超豪華版、行成が献上した「古今和歌集」は列帖装だった。今回の「源氏物語」のきらびやかな表紙については、紙の地に緑と紺と紫の色を重ねて、金や銀の箔のきらめきがよりカメラに映えるようにしたそうだ。いずれも緻密な時代考証のうえに撮影や演出を考慮して作られた別の極み。これらの冊子もいつかまとめて見てみたい。

たけのこなので

芦川和樹

補角が海のほうから歩いてくる時刻
ラッパと。すりおろした果物の入った
ゼリーとかヨーグルトとか
名札を指差して

グリズリーのいびきは

をふにゃふにゃにする
草木は、急いで実をつけます(果物)
ランドセル(果物)

冬眠はまだですか
火山を見ている、ベーグルを飛ばして
撮った映像を――綱引き、映像を
牛乳と混ぜて、ついにロボになる
カフェテラス

カフェー、ぶんぶん振るやわらかい素材
あれは昨日見た
のだっけ
昨日は見ていない
のだっけ
たけのこなので忘れちゃう

画鋲がとれてだらんとした掲示物
げんこつ
向こうのあの樅(も、み)を蹴って
(かるく蹴ってくださいよ)
先に戻ってきたほうが勝ちよいどん

樅じゃなかった楡(に、れ)です

おへそを通って完全体になる。ロボついに
完全だっておっしゃいますけど不具合です
不具合がなければ完全ではないでしょう?


きしりとーるは滅んだのです     市
ガーベラか、花瓶か、フルーツを選ぶ、子

…がーべら…は画鋲。花瓶…も画鋲
…ふるーつ…は(果物)だったもの
…ろぼ…は充電ができないから
…うごかない三つ葉
…三つ葉…はふにゃふにゃの岩で
…ぐりずりーのいびき(の一部)ごがー
…らっぱ帯…た、い…原っぱのこと
…疲れたときは…寄りかかっている
…たけのこなので(市子)
…花瓶ふるーつをください

我がツマ

篠原恒木

ツマと結婚して、およそ四十年になる。
「ツマ」と表記する理由だが、「妻」と漢字で書くのは何だか照れくさいからだ。奴はそんなに立派なもんじゃないだろう、という気がする。かといって「嫁」「奥さん」「家内」「女房」は、もはや女性蔑視語でよくないらしい。「カミさん」なら問題ないのだろうが、あまりしっくりこない。「カーチャン」だと、母親のようでこれもダメだ。
「サンカミ」「チャンカー」とひっくり返せばいいとも思うが、
「昨日、サンカミにはショナイでチャンネーとミーノして、テルホでリーヤしちゃった」
のようなギョーカイ臭が漂う。やはり文章で使うときは「ツマ」なのだ。

ツマはすぐ怒る。いつもおれは怒鳴られ、そのたびにおれは「ごめんなさい」と謝るのだが、
「謝れば済むと思っているでしょ! いつもそうでしょ。同じことで何回謝っているのよ。謝る前にそういうことをしないで!」
と、さらに怒りに油を注いでしまう。だがおれはツマの言う「そういうこと」の内容をすぐ忘れてしまうので、ツマはそのたびにおれを罵倒する。毎日の暮らしの至る所に地雷が仕掛けられていて、おれはそのなかをビクビクしながら匍匐前進しているような気分だ。だが、忘れっぽいおれはすぐ地雷を踏むことになる。よし、いい機会なので、「地雷」の内容を必死に思い出して、ここに書いておこう。以下はおれがツマに怒られるケースの一部だ。

・部屋の灯りを付けっぱなし
・食卓に要冷蔵のドレッシングなどを置きっぱなし
・外出時にエアコンを付けっぱなし
・下着類を洗面室に脱ぎっぱなし

こう列挙していくと、我が地雷は「っぱなし」方面が圧倒的に多いのがよくわかるが、ほかにもまだある。

・忘れ物をする
・どこに何をしまったのか分からなくなる
・内緒で異性とデートする
・高額なモノを無断で購入する
・食べ物を床にこぼす。特に煎餅、ポテト・チップスの細かい破片
・クルマの運転が荒い
・日常の発言に優しさが欠如している
・以上のようなことを指摘、注意されると、すぐ嫌な顔になる

まだまだたくさんあるような気がするが、忘れた。ゆえにツマは今日も、
「アタシの言っていることなんて聞いてもいないんでしょ!」
と逆上することになる。すまねぇ。

ツマの思考回路はユニークだ。先日も落語会を一緒に聴くために、大手町の日経ホールで待ち合わせることにした。ツマは家から、おれは会社から出発して、日経ホールの座席で落ち合おうという手筈だ。すると当日、開演時刻の一時間も前に、まだ会社にいるおれにツマからの携帯メールが入った。
「ニッケイビルとサンケイビルは違うの?」
おれは短い文面を見て驚いた。どうやらツマは大手町で道に迷っているらしいことが分かったが、この質問はどういうことなのだろう。ニッケイビルとサンケイビルは別の建物に決まっているではないか。大丈夫か。喩えて言うのなら、
「リンゴとミカンは違うの?」
に近い質問である。おれは面白がって、
「サンケイビルは右寄りです。ニッケイビルは比較的真ん中です。ちなみに左に向かうと朝日ホールがあります」
と返信しようと思ったが、さらに混乱しそうなので、ちゃんと地図を添えてメールを返した。

そういうツマなのだが、たまにTVのクイズ番組を一緒に観ていて、おれが間違った答えを口走ると、ここぞとばかり非難してくる。
「知ったかぶりをしないで!」「バッカじゃない!」「そんなわけないじゃん」
ところが正解のときは褒めてもくれない。黙りこくったままである。
「合ってた」
と、おそるおそるおれがアピールを試みると、
「私も知ってた」
と、TV画面を向いたまま冷たく呟く。徹底した塩対応なのだ。極めて遺憾である。

ツマとおれは趣味が合わない。
おれはボブ・ディランが大好きだが、ツマはあり得ないほどに嫌悪している。クルマの中でディランの曲を流すと、すぐさま停止させてしまう。
「ガマガエルのような声で、メロディーがない」
そう言うのだが、当たらずとも遠からずなのでおれは何も言えない。ちなみにツマの推しはKing & PrinceとNumber_iだ。両方のファン・クラブにも入会している。
「孫のように可愛い」
と言って、誕生日になるとメンバーから届くヴィディオ・メッセージに狂喜している。アイドルの彼らはスマートフォンの画面から問いかける。
「お誕生日、おめでとう! 何歳になったのかな?」
ツマはニッコリして、
「六十五さーい!」
と、画面に向かって応えている。もしメンバーたちが直接見たらドン引きするだろう。

おれは映画『男はつらいよ』シリーズを好んで視聴するが、妻は拒否反応を示す。おれも妻も葛飾柴又のすぐ近くで生まれ育った身である。おれなどは映画の冒頭に、あのテーマ曲のイントロが流れ、江戸川の土手が映し出されるだけで鳥肌が立つ。それなのに妻は、
「またこれを観るの?」
と、不満を口にする。なぜそんなに『男はつらいよ』を嫌悪するのか、その理由を訊いたところ、こう言った。
「寅さんも周りの人もみんないい人ばかりでしょ。悪人が一人も出てこない。善人だらけなのに、いつも結末は切ない。だから観ていてつらい」
だから「つらいよ」なのではないかと反論したくなったが、そうするとその後は「おれはつらいよ」になるのでやめておいた。

ツマはコストコが大好きだ。コストコとは、Costcoであり、コストコ・ホールセール。そう、あの会員制の巨大な倉庫式スーパー・マーケットだ。
「コストコなら一日中いられる」
そうツマは言うのだが、おれはまっぴらごめんである。何が楽しいのかまったく分からない。だが、ツマは運転免許を持っていないので、おれが運転手となり、コストコの駐車場へと続く列に延々と並ばされる。クルマは遅々として進まない。
「ああ、今日も駐車行列だな」
と、ハンドルを握りながら呟くと、ツマは途端に不機嫌になる。
「なんでそんなことを厭味ったらしく言うのよ? じゃあ、もうアンタとは絶対に一緒に来ない!」
それでは誰と行くのかと思うのだが、おれはじっと耐えて言葉を繕う。
「いや、そういう意味で言ったわけじゃないよ。ごめんなさい」
ようやく駐車場に辿り着き、クルマを停めると買い物に付き合わされることになる。おれはカークランドのトイレット・ペーパーやらキッチン・ペーパーやらに、まったく興味がない。リンツ・リンドールのゴールド・アソートもウォーカーズのクッキーもどうでもいい。混雑している倉庫内で、人波を縫うようにして巨大なカートをズルズルと押しているのが苦痛でならない。ツマは一人で商品を選び、次から次へとカートに載せていく。
買い物が終われば大量の収穫品をクルマに積むのも骨が折れるが、家へ帰れば再び大荷物をクルマから運び出さなければならない。何回もクルマと室内を往復する羽目になるのだが、少しでも嫌な顔をしようものなら、ツマはまた総攻撃を仕掛けてくる。

だが、おれはツマのことを心底憎めないでいる。彼女にはいいところもたくさんあるのだ。おれはその証拠として、これからツマの長所をひとつひとつ丁寧に列挙しようと思う。

思い浮かばないのでやめた。

むもーままめ(43)木彫りのお地蔵さんの効能あるいは才能について、の巻

工藤あかね

 ぎっくり腰の治りかけから、全身状態が一気に悪化しはじめた。膝が痛くてしゃがむ姿勢が取れない、肩が痛い、首が痛い、ついでに足首まで痛い。その日を境に生活が一変した。何をするにも痛みを怖がって、しまいには服の着替えも痛いから面倒、出かけるのも痛いから面倒、だから自炊もできない、おまけに寝返りも痛い、となった。それからほどなくして、寝起きに首ががんじがらめになったような痛みを感じ、それ以来、私は後ろの人に呼ばれると、一旦立ち止まって体勢を整え、体ごとターンしないとその人の方を向くことができなくなってしまったのである。

 整体の先生に見てもらうと、「腰が悪い時にあちこちで庇って歩いて、正しくないところに筋肉が使われ、正しいところの筋肉がすっかり弱ってしまったのでは?」と仰るではないか。「ストレッチや軽い運動から体を動かしましょう」とアドバイスを受け、これまでいい加減な気持ちで、惰性に任せやっていたラジオ体操を本気でやってみたのである。

 けれども、身体は、まあ動かないこと動かないこと。昔、夏休みに公園でラジオ体操をさせられたときは、テレビで見る模範の3人の先生たちより体が柔らかいのでは?と錯覚して得意になっていた。だから、後ろに体を伸ばす時に「んぐぐぐぐ」とか「うああああ」と声を上げるお爺さんが不思議で仕方がなかった。

 ところがいまではすっかり「んぐぐぐぐ」と「うぁぁぁぁ」の仲間入りである。自慢?ではないが、あまりによたよた歩くせいか、とうとう先日、バスの中でご高齢の紳士に席を譲られてしまった。何度お断りしてもにっこりとしたお顔で席をすすめてくださるので、これ以上お断りするのも失礼かと思って甘え、降りる際にもう一度お礼を言った。今思い出してもはずかしい。

 そんな調子なので、本番やリハーサルではなるべく元気を出してバレないように振る舞っている。この原稿を書く前日は結構ハードなコンサートの本番があった。歌がわたし、ヴィオラが松岡麻衣子さん、バリトン歌手で夫の松平敬は声だけでなくて、なぜかピアノも担当した。高橋悠治さんの曲では「長谷川四郎の猫の歌」全曲と、「カフカノート」の抜粋を歌った。結構な分量の語りもした。会場にはなんと高橋悠治さんと、八巻美恵さんがおいでくださった。夫は、人前でピアノを弾く初めての演奏会で、「お二人がおいでくださる」と聞いて、初めての発表会に出る小学生のような顔で、ひどく緊張していた。一方わたしは、目下一番痛みの強い首が、歌唱に影響しなければいいなあと祈る気持ちだった。首は痛みを避けているうちにだんだんストレートネックが激しくなって、そのうちろくろ首になりそう。

 昨夜の本番後の集合写真を見ながら、この姿勢のひどさと痛みをなんとかせねばと思った。ネットで探し回ったところ、首の痛みを軽減する方法を発見した。化粧水のボトルなどに水を入れて、あごの下にあて、首を動かしてみるだけ。こんなので効いちゃえば最高だよなぁ。。。と疑心暗鬼のまま、とりあえず試そうとしたら、いいサイズの化粧水のボトルがない。そこで、似た形状のものを使わせていただくことにした。木彫りの小さなお地蔵さんの置き物である。

 これにはちょっとした曰くがある。先日帰郷した夫が、亡くなった親族家を訪問したところ、大小さまざまの、手作りのお地蔵さんが大量に遺されていたという。処分に困ったご遺族は、訪問する人にここぞとばかりお地蔵さんを持たせているのだろう。夫もお地蔵さんをいくつか持たされて帰京したのである。(夫の親戚には凝り性が多く、能面などを彫り続けている方もいる。祖母もレース編みや、毛糸で作ったいわゆる「おかんアート」のアーティストであった。)

 夫が持ち帰ったのが、故郷のお菓子数点と、お惣菜、そして親戚が掘った木彫りのお地蔵さんたち。バッグから次々出てくるお地蔵さんを見た私は、夫の親族作だし無碍にもできず、なんとなく複雑な気分のまま受け入れたのである。そして、夫の手によってテレビの前に二体、小さなワインセラーの上に一体ちょこんと乗せられた。あとはどこにあるのかわからない。

普段はありがたみも何も感じず、ワインセラーの上に座らせていただけのお地蔵さん。ひらめいた私は、惹きつけられるようにお地蔵さんを手に取り、化粧水ボトル代わりに首の運動に強制参加させた。するとどうだろう、不思議なほど首の痛みがひいてゆき、上下左右すっと動かせるようになったのである。ええええ、なにこれ。。。!!! お地蔵様はありがたいことに私の首の悩みを軽くして下ったのである。すごい効能ではありませんか。もしかしたら、ここにいるお地蔵様の姿形がなした技なので、もはや才能?もう、敬語ですよ。お地蔵様今まであんまり大事にしていなくてごめんなさい。どうぞこれからもワインセラーの上に乗って、我らの首をお見守りくださいますように。。。

 それにしてもマッサージしようが、首のツボを押そうが効き目がなかったのに、こんな技があるなんて。本番の前日までに、知りたかったなぁぁぁ。

満身創痍の演劇

越川道夫

次々と花を開かせている。白い、とわざわざ書いたのは、なぜか私の住む近辺では、まず白い彼岸花が花を咲かせ、それからゆっくりと赤い彼岸花が盛りになっていく。彼岸花といえば赤という先入観があるせいか、その様子を何か不思議なものでも見るような気持ちで毎年眺めている。この秋、といか初冬の11月の太田省吾さんの戯曲『更地』を三鷹SCOOLで演出することになった。久しぶりの舞台。稽古も始まっているが、Twitter上で自分が考えていることをまとめる意味で『更地』初演の頃のことを何回かに分けて投稿した。それをここに加筆した上でまとめておこうと思う。
 
太田省吾作・演出『更地』の初演は1992年。私が27歳の時である。縁があって、私はこの演劇の稽古場助手についた。『更地』は、太田さんが主宰した転形劇場解散後、初の芝居。転形劇場の芝居は、赤坂工房の時代から『小町風伝』、いわゆる沈黙劇三部作『水の駅』『地の駅』『風の駅』を経て『水の休日』と解散まで追いかけるように観ていた。自分も小さな芝居を作っていた頃である。転形劇場の作品だけではなく、今でも最も好きな俳優である中村伸郎さんのために書かれた『棲家』や『午後の光』も観ていたし、太田さんの『飛翔と懸垂』『劇の希望』といった演劇論をいつも手元に置いて何度も読み返し、太田省吾という人は間違いなく若い日の自分に大きな影響と刺激を与えてくれた演劇人のひとりであった。だから『更地』の助手の話をもらった時、一も二もなくその仕事に飛びついたのだ。太田省吾の演出を間近で見ることができるのだから。私は、『小町風伝』『水の駅』を作った太田演出の「秘密」が知りたかったのだと思う。しかし、結果から言えば、私はその「秘密」をひとつも知ることができはしなかったのだった。
『更地』の出演者は夫婦である男と女の2人。その2人がおそらく長らく棲んだ家を取り壊した後の更地にやってくる1時間20分ほどの2人芝居である。初演の出演は、岸田今日子さんと元転形劇場の瀬川哲也さん。稽古初日から本読みはなく立ち稽古(あったのかもしれないが私は参加していない)。しかも通し稽古(戯曲を頭から終わりまで演じる)だった。その後も、抜き稽古はほぼ記憶にない。連日昼からまず一回通しをしてダメ出し、もう一度通しをして終了という稽古が続くこととなった。稽古初日で覚えていることと言えば、最初の通しで演じる岸田さんと瀬川さんを一度も見ない太田さんの姿だった。あれは音を聴いているのかもしれない。しかし、俯いたままチラとも見ない…。
 
演じ終えた瀬川さんと岸田さんが並んで太田省吾さんの前に立つ。どんなダメ出しをするのかと、固唾を呑んでいる私の耳に聞こえてきたのは、具体的な演技についてではなく演劇の状況論とでもいうべきものだった。「197X年から演劇のタームが変わりましたね。」正直言うと太田さんが何を言おうとしているのだか。若かった私には一つも分からなかった。話は20分も続いただろうか。「…ということです。ではもう一度」。何が「ということ」なのだろう? 今の話を聞いてお二人はどんなことを考えているのだろう? 疑問の中で始まった2回目の通し。すると、瀬川さんが突然台詞を喋りながら何度も立ち幅跳びの様に跳び始めたのだ。我ながら馬鹿みたいだが、あ、跳んだ、と思った。なんで瀬川さんは跳んだのか? その通しが終わった後、太田さんがその跳躍に言及したかどうか記憶にはない。おそらくなかったのだと思う。
 
初日の稽古が終わった後、瀬川哲也さんと新宿の喫茶店に入った。私の中には聞いてみたいことが渦巻いていたのだと思う。「太田さんのあの演劇論のようなダメ出しですが、何を言おうとしているのか分かりましたか?」。「一つも分からない」。「でも、あの後、瀬川さん跳びましたよね」。「(考えて)…太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない。だから跳んでみた」。この瀬川さんの言葉を今でもよく反芻することがある。演出を俳優との関係、言葉と演じる身体の関係を考えるときに、いつもこの時のやりとりがまず頭に浮かんでくる。「太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない」。『更地』の稽古は、まさにその繰り返しだったと思う。瀬川さんがあのように跳んで台詞を言うことは、それ以降なかったが、それからも太田さんは時にはダメ出しで演劇論を語り、時には具体的な指示を出し、1日2度の通しを繰り返しながら稽古は淡々と続いた。私は「秘密」など一つも掴むことができないまま、『更地』という演劇が豊かに育っていくのをどこか置いてきぼりを食っているような気持ちで眺めている無能な助手であったと思う。
 
あの衝撃的だった沈黙劇『水の駅』について瀬川さんに問うたのもこの頃だったと思う。舞台中央に剥き出しの水道がある。蛇口からは水が細く絶え間なく流れ続けており、その水道にさまざまな人たちがたどり着き、関わって、また去っていく。観客には一切の言葉は与えられない、あの舞台。「あの芝居には、台本があって台詞もあった」と瀬川さんは言う。「それがどうやって沈黙劇になったのですか?」「初めから意図して沈黙劇にしようとしたわけではなかった。いろいろやっているうちに言葉は全てなくなってしまった。だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない。(長く考えた後)だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない…魔法だと思って欲しい」。
 
瀬川さんは、『水の駅』がどうやって出来上がったのか語ることができない、「魔法」だと思ってくれ、と言う。後年、元転形のメンバーだった大杉漣さんにその話しをすると、「魔法って、瀬川さん、そりゃカッコよすぎるなー」と大笑された。「あれは大変だったんだよ」と。
 
昨年、早稲田大学演劇博物館で「太田省吾 生成する言葉と沈黙」展があった。その展示で興味深かったのは、『水の駅』の台本が全ページ、PC上で閲覧できたことである。これか、と夢中で頁を繰った。初めて目にする『水の駅』の台本。そこにあるのは夥しい「言葉」、溢れんばかりの「引用」。それぞれのシークエンスに、そこで演じられる「言葉」があったのです。それは、鈴木志郎康の詩であり、金杉忠男や太田省吾さん自身の戯曲、アラバールの戯曲の断片、尾形亀之助の小品、言葉だけではなく「絵画」の図像の引用…。この「言葉」たちをひとつの作品の中で演じるということは、どういうことなのだろう。台本を目の当たりにしても「謎」は深まるばかりだった。「言葉」に「服従」するのではなく、「言葉」と「身体」または「演じること」がどう拮抗するのか。どのような作業をすればそれが可能になるのか。この膨大なテキストから、どうしたら私たちが今映像で見ることができる『水の駅』の身振りが生まれてくるのか。その途方もない「遠さ」。「他者の言葉」との「格闘」の末に出来上がったのが、あの『水の駅』だということに目眩がする思いだった。これではまるで「言葉」に対して素手で喧嘩をするようだ。私が観ていたのは、演劇というよりも『水の駅』という満身創痍の格闘の痕なのではないか。もし万が一『水の駅』を再演することがあるのであれば、今一度この「言葉」たちと格闘するほかはない。その末に立ち上がるのは、あの『水の駅』とは、まったく異なるものになるだろう。
 
言うまでもなく、太田さんにとっても瀬川さんにとっても『更地』は、このような沈黙劇における「言葉」との格闘を経ての「台詞劇」という側面を持っており、『更地』の稽古の底には、やはり「言葉」との激しい格闘が隠されていたのだと思う。私が稽古場で見たものは、その格闘の軌跡だったのだろう。それは静かな格闘だった。とてつもなく静かで激しい。基本的には穏やかで、深い声で話し、寡黙と言っていいほど言葉の多くはない太田省吾さんが稽古場で苛立ちを隠さず、怒鳴るわけでも何かに当たるわけでもなくむしろその激しい苛立ちに耐えるようにそこにいた姿をとてもよく覚えている。あれから30年以上が経ち、太田さん、瀬川さん、岸田さんもいない。「年をとったら自分も『更地』を」と話してくれた大杉漣さんも、もういない。
 

仙台ネイティブのつぶやき(99)無口の写真家

西大立目祥子

そうたくさん話したわけではないのに、じぶんの中に忘れがたい足跡を残す人というのがいるものだ。写真家、小野幹さんは私にとってそういう人だった。くっきりとした足跡というのではない。降り積もった雪を踏み込んだときのような、輪郭はくずれてはっきりしないけれども深い足跡。のぞき込むと、断片的ではあるけれど、表情や立ち居振る舞いがよみがえってきて、あんな人はいないという思いに行き着く。

小野幹さんは昭和6年(1931)岩手県藤沢町生まれ。戦後は仙台に暮らし、昭和30年代から仙台市内はもちろんのこと東北各地の山村や漁村をくまなく歩いて、人々の生活の風景を撮り続けた。仙台におけるプロ写真家の草分けのような存在で、まわりには志を同じくする人の輪ができていた。

私が最初に接点を持ったのは30数年前。バブル経済で街なかの風景が激しく変わった時期に、その前の時代の風景を知ろうと写真記録を撮っていた幹さんを訪ねたのだった。
出してくださる昭和30年代の写真は新鮮だった。自転車に一升瓶を乗せてお使いに行く男の子、道路脇の掘割にかがみこんで手を洗う老人、まだケヤキ植栽前の仙台駅前の青葉通をスキーを担いで横断する若い人、歩道で客を待つ靴磨きのおばさん…人があふれ、働く人がそこらじゅうにいて、空襲の焼け跡にビルが立ち並んでいく写真を見ながら、戦後の仙台はここから始まったんだと思ったし、この街並みを私は生きてきたんだとも感じた。そして、幹さんの数十年撮り続けた記録写真は膨大な量に及ぶことを知った。

その凄さが身にしみるからなのかもしれないが、近寄りがたいような怖い感じも受けた。ギョロ目でちょっといかついお顔で、あんまりしゃべらない人なのだ。私が何かいうと、かなりの間があって、ぽつりと「そうだね」と返ってくる。何をたずねても間が生まれる。その間が耐えられないほど長く感じられて、用件がすむとそそくさと辞去する数年が過ぎた。

それから7,8年が経ったころだったろうか。友人のライターと交代で、タウン誌に30〜40年前の仙台の街並みと現在を比較しながら当時の暮らしを探る連載を始めることになり、再び写真をお借りするために訪問を再開した。フィルムカメラからデジタルカメラに切り替わり暗室の必要がなくなったからだろうか、幹さんのスタジオはいつのまにか妻ようこさんが運営するギャラリーに取って代わり、写真のプリントは2階の倉庫兼書斎に置いてあるプリンターで出力するようになっていた。

約束の日にうかがうと幹さんは、何枚もキャビネ判に焼いた写真を用意して待ってくれていた。「これは昭和36年の青葉通」「これは昭和42年の国分町」と写真を提示してくださるのだが、中には場所が特定できないものもある。「どこだったかね…」とおっしゃるときはその前後のベタ焼きを見せてもらって検討し、それでも解決しないときは当時の住宅地図を持って歩き回りあたりをつけたりした。そのあとライターの私たちは街に出て、写真の時代を知る人を探し歩き話を聞いて文章をまとめた。その成果は『仙台の記憶』『40年前の仙台』『追憶の仙台』(いずれも無明舎出版)という3冊の写真集になった。

この経験がおもしろかったこともあって、私は新たな仕事を引き受けるたび幹さんの写真で何かできないかと考えるようになってしまった。広瀬川流域がテーマの仕事では、信じられないほど粗末な木橋や河口にあった渡し船の写真に驚きながら、大洪水で水に沈んだ街を記憶する人を探し、小舟に野菜を積んで対岸の集落を回った女性を紹介してもらって話を聞き、書いた。次から次へと出てくる幹さんの写真に導かれるようにして、昭和20年代から50年代の仙台の地べたの暮らしを、物語を聞くように暮らしてきた人たちから直接教えてもらったのだと思っている。

それにしても幹さんが成し遂げた仕事の量には圧倒される。いや、仕事といういい方は当たらない。歩くように撮り、見るように撮り、生きていくことが撮ることだったのだ、といまは思える。ときどき街で首から小さなカメラを下げ、歩いたり自転車に乗っている姿を見かけた。カメラを持った幹さんにばったり出会ったことがあって「お仕事ですか?」とたずねると、「いや、用事があるわけではないんだけど…」と返されたこともあった。

ご自身が撮影した写真については「記録しようと思って撮ったことはないんだ。ただ目の前のものがおもしろくてカメラを向けていただけ」とおっしゃっていたのが印象深い。たしかにアサヒカメラの最優秀作家賞をはじめたくさんの受賞歴がある幹さんの写真は、いうまでもなく人の眼では捉えきれない瞬間を切り取りつつも対象への温かさにあふれた、作家の作品と呼べるものだ。中でも子どもたちを写した写真は忘れがたい印象を残す。写真集『わらしこの昭和 昭和30年代の子どもたち』(河出書房新社)の子どもたちは、野良で働き、兄弟を背負って子守をし、新聞売りをしながら、みんな懸命で精一杯。そこに幹さんは無垢な心根を写し取るし、ソリに乗ったり川原で煮炊きをしたり遊び呆けカメラに底抜けの笑顔を見せる表情に生命の輝きをつかみ取っている。カメラをまったく意識していない表情に、一体どうやって幹さんは子どもたちに近づきシャッターを押したのだろうと思う。

通ううちに、幹さんはおだやかでやさしい人だということがよくわかってきた。怖い人だなんて感じていた、私の若いころの眼はまったくの節穴。いつも平常心を保ち、上機嫌でいられる人だったのかもしれない。甘いものに目がなくて、豆大福とかきんつばとか茶饅頭とかを詰めた小さな包みを手土産にすると、一瞬ぱっと眼を輝かせてうれしそうにされる。でも口に出して、うれしいなどとはいわない。相変わらずの、何というのか上等の無口ぶりなのだった。

ギャラリーの片隅でようこさんと3人でお茶を飲むひとときは、ゆったりとして楽しい時間だった。話すのは、ほとんどようこさんと私。ときどきようこさんがイライラしたように「ほんとに、この人は何にもしゃべらないの、何聞いてもいいとも悪いともいわない」と口にしても、幹さんは表情も変えず飄々としたたたずまいでおまんじゅうを幸せそうに頬張っている。感情が波立たないというのか、まるで存在感を消したようにそこにいるというのか、だからこそ対象にそっと警戒されることもなく近づいて、気づかれることもなくシャッターを押せたのだろうか。

やがて90歳を迎えた幹さんは転倒をきっかけに施設に入所された。施設内でも使い慣れたカメラで撮影しているとうかがった矢先、今度はようこさんが体調を崩され自宅で療養する事態となってしまった。ようこさんのお見舞いにお好きだったお団子を持っていき少しお話もして安堵した数日後、幹さんの訃報が入った。そしてご葬儀にお別れにうかがったわずか5日後、何とようこさんが旅立たれた。こんなことがあるのだ。6月初めのことだった。

先日、お墓参りをしてきた。菩提寺は仙台市中心部から車で15分ほどの山中にある、一度訪ねてみたいと思っていた寺だった。草木の生い茂る参道は修行寺という歴史もあってか想像以上の険しさで、幹さんにまた導かれているなあと感じながら先の見えない石段を上り詰め、刻まれたばかりの二人の名前が並ぶ墓石に手を合わせた。

また親しかった人が消え、一つの扉が閉じられた。それは、じぶんの中に固定されたその人の記憶が生まれるということでもあるのだけれど。

子どもの写真について、幹さん自身は前述の写真集の中でこんなふうに話している。
「僕は70歳を過ぎたいまでも子どもたちには好かれるみたいなんだよ。さっきも犬の散歩をしていたら、下校途中の子どもたちが寄ってきて…なんていうか、子どもたちとは呼吸が合うんだよ」
読みながら、ああいう静かな人は間違いなく動物にも好かれただろうなと思う。

短いてがみ

北村周一

受話器から
友の声あり
「サクラサク」 
文を手に手に
チルわがいたり

友はサク
われにはサクラ
チルという
文の届きし
春の日のこと

「春」を待つ
サクラ花びら
はらはらと 
文待つのみの
春の気怠さ

花咲けば
散るを憂うる
親もいて
来ては遠のく
郵便バイク

投稿歌
したため直して
ポストまで 
撓垂れかかる
米屋の国旗

書くよりも
手紙出すときにわれ
緊張す 
赤き郵便
ポストの前で

一瞬の
ためらいののちに
出す封書 
おもさ失くせし
てのひらを抜く

海の向こうへ
わたり損ねし
画家宛ての
メールがひとつ
届かずにいる

置き去りに
されたメールが
和蘭の
ひかりの粒を
夢みる九月

あかねさす
日にいできては
メール打つ 
義父危篤の文字は
薄れゆくのみ

一行に
終わるいちにち
みずからの
言葉もたねば
籠るほかなし

よみ手なき
ブログを今日も
書き終えて
ひとりのみゆく
うたうたうため

遠近(おちこち)より
ムーン情報
集いおり 
月は見えねど
秋深みかも

秋なのに
どこを切っても
自分しか
いないブログの
らららな世界

どこからか
飛んで来たので
あろうけど
ひかり回線
この世はコトバ

ひんぱんに
テレビの窓に
顔を出す
ひとらどなたも
声は勇まし

品切れの
棚くうかんに
弁明の
文字が居ならぶ
あるところにはある

マスクして
手袋をして
交わりの
ことば少なに
レジ打つひとよ

短冊の
ごとき用紙に
名をしるし
祀らんごとも
投票箱へ

ささの葉の
新芽のほどの
おもさもて
渡されている
投票用紙

痛みある
ところにあてて
綴り置く
きょうの日付の
短いてがみ

絵日記の
ように汚れて
しまうから
苦手なのかも
ながい手紙は

目障りな
あなた要らない
つくづくと
絵巻物めく
書面賑わし

あとからは
何とでも言える
ささらさら
原告からの
書面(2)を読む

能う限り
簡潔にあれと
思えども
法律文書は
漢字多けれ

生命線
ほつれやすくて
歿年の
彫られしきみの
お墓あたらし

花言葉
唯我独尊
嫌われて
背高秋の
麒麟草かな