一年の始めにふさわしい話をしよう。長いので座って聞くように。
先日カイシャの血液検査で、腫瘍マーカーの値が基準値を超えていると言われてしまった。
血液検査なので、腫瘍マーカーの値が高いのが肺なのか、胃なのか、腸なのか、肝臓なのか、膵臓なのか、体のどの部分なのかが判らない。なので、ただちに内臓全般の精密検査を受けなさい、とのことだった。ウロタエルことはなかったが、やや剣呑な気分になった。何十年にもわたって「会社のガン」と言われ続けてはいるが、それ以外に自覚症状はまったくない。
可能性の高さからいえば、なんといっても肺だろう。喫煙歴四十六年、ショート・ホープを一日二十本吸い続けているという、きわめて意志の強いおれなのだ。意志の強さは時として致命傷になる。
精密検査マニアの友人に相談すると、すぐに内視鏡の名医を紹介してくれて、同時にCTスキャンのクリニックも手配してくれた。有難いことだ。
世の中にはいろんなマニア、オタクがいるのですね。
その頼もしき友人は各方面の病院、医師にやたらと詳しく、名医と呼ばれるヒトビトともツーカーの間柄だ。消化器官ならあそこの病院のナニナニ先生、呼吸器科ならここの病院のダレソレ先生、脳疾患ならそこの病院のナントカ先生、と詳細に教えてくれる。もちろん自分でも精密検査をあちこちで頻繁に受けているらしい。
おれはといえば「かかりつけ医」という存在がいない。通院しているのは前立腺肥大で泌尿器科、不眠症で精神内科、左膝骨壊死で整形外科といった按配で、どれも胃腸、肝臓、肺、膵臓などとは関連がない。泌尿器科で定期的に前立腺の腫瘍マーカーだけは調べてもらっているが、今のところセーフだ。
なので、ここは精密検査マニアの友人に甘えることにした。思えば人間ドックというものをこの二十年くらい受けていないし。
まずはCTスキャン。友人が口を酸っぱくしてアドヴァイスをしてくれたのは、
「肺から骨盤までの範囲で撮影してもらうこと」
だった。おれは素直に従った。このCTスキャンというやつは、ベッドに仰臥してバンザイして息を止めていればあっという間に終わってしまう。どうってことはない。結果は一週間前後で内視鏡の名医に送られるという。
次の日の朝は六時に起きて、電車、バスを乗り継ぎ、精密検査マニアの友人が予約してくれた内視鏡の名医のもとを訪れた。するとその友人が病院の入口でおれを待ち構えているではないか。不意打ちを食らったおれが、
「なんで? なぜここにいるの?」
と訊いたら、
「初診だもん。 一応、おれが先生を紹介しないとダメでしょ」
と言う。まさか六十四歳にもなって保護者付き添いで病院へ行くとは思わなかった。彼の生来の優しさに感動すべきなのか、彼の生来のマメさに感心すべきなのか迷ったが、有難いやら申し訳ないやらで身の縮む思いだった。
待合室で名前を呼ばれ、診察室に向かうと、友人はおれを追い越し、先にドアを開け、
「センセー、どーも」
と、慣れた口調でずんずんと部屋に入り、どっかと椅子に腰かけた。もう一脚、椅子があったのでおれはそちらへ座った。どっちが患者だ。
「センセー。こいつ、おれのダチなんすけど、ちょいと胃と腸の内視鏡検査をしていただけませんか。血液検査で腫瘍マーカーが高く出ちゃったらしくて」
友人はスラスラと医師に説明してくれた。おれがしたことは、カイシャに貰った血液検査の結果の紙切れをおずおずと渡すことだけだった。
内視鏡の名医は万事了解という雰囲気で、すぐ検査の日時を翌週に決めてくれて、検査前日、当日の注意事項を説明してくれた。
1.検査前日の朝食はお粥のような消化のいいものを食べるように
2.前日の昼食、夕食は腸の内視鏡検査用の特別食を渡すから、それを食べるように
3.夕食は午後七時までに摂り、午後九時に下剤を三錠、多めの水で飲むように
4.検査当日は検査の五時間前に水で溶かした下剤を二リットル飲むように
5.その下剤を一リットル飲むごとに〇.五リットルの水を必ず飲むように
6.すると便意を催してくるので、便が完全に透明の液体になるまで排便を続けるように
7.水のような便が排出し終えたら、来院して検査時刻まで待つように
病院を出て友人にお礼を言って別れたあと、おれは考えましたね。
おれの自宅から内視鏡の名医がいる病院までは電車、バスを乗り継いでおよそ一時間半かかる。ううむ、検査当日の朝が不安ではないか。検査開始は午前十一時と決められていた。ということは五時間前の六時に起きて、二リットルの下剤を飲み干し、トイレへ数回行かなければならないわけだ。すっかり便を出し尽くして、家を出発することは可能だろうか。大丈夫だと思って出掛けて、満員電車の中で突然の便意による憤死、いや、糞死する危険性は大いにあるのではないか。
友人は別れ際に言った。
「二リットルの下剤はキツイよぉ。ビールなら飲めるけど、水なんてそんなに飲めるもんじゃないからね。おまけに度重なる便意がスゴイんだ。おれなんて病院へ着く途中、あるいは寸前におもらしをしたことが何回もあるもんね」
その夜、勤めを終えて帰宅したおれはツマに言った。
「というようなわけなので、検査前日は病院からタクシーで十分ほどの場所にある安いビジネス・ホテルに前泊しようと思う」
ツマも全面的に賛成の意向を表明してくれた。そりゃそうだ、同居人が早朝からそんなピーピーと騒がしい振る舞いをするのは勘弁してほしいだろう。
そして検査前日。
朝食は自宅で素うどんを半分だけ食べた。昼食はもともと摂らないので、与えられた特別食はパスして、夕方の特別食はカイシャのデスクで食べた。レンチンするのが面倒だったので、レトルトの袋をちぎってそのまま食べた、いや、飲んだ。チキンの入ったクリーム・シチューだったようだが、常温で食べたので味の感想は避けたい。
ビジネス・ホテルに着いたのは午後八時だった。明朝必要となる二リットルのペットボトル「南アルプスの天然水」はホテルの隣にあったコンビニで購入した。ペットボトルはずしりと重く、こんな量を短時間で飲めるのだろうかと不安が募った。おっといけない、二リットルの水で溶かした下剤とは別に、水を〇.五リットル飲まなければならなかった。追加購入だ。ますますコンビニのレジ袋は重みを増し、プレッシャーは高まった。
ホテルの部屋に入り、ワンピース型のパジャマに着替えてベッドに腰かけると、おれは映画『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレイのような気分になった。もっともアチラはパークハイアット東京で、おれはといえば格安のビジネス・ホテルだし、アチラのようにスカーレット・ヨハンソンのような若い美女と知り合うこともない。だが、窓の外を見ると、別世界のような飲み屋街があり、ヒトビトがそぞろ歩いている。飲み食いしているのだろう。じつに楽しそうだ。なのにおれはこれから明朝十時までこの狭い部屋に絶食状態で孤独の籠城だ。待ち受けているのは『ロスト・イン・トランスレーション』のようなホテルのバーで飲むウィスキーではなく、下剤二リットルだ。もっともこのホテルにバーなどないけどね。
おれが映画のビル・マーレイと共通しているのは不眠症ということだけだ。家から持ってきた睡眠薬と精神安定剤を飲んで、午後十時半にはベッドに入ったが、眠れない。
言いつけ通り午後九時に服用した三錠の下剤が効いたのか、午前二時半と午前五時半の二回、トイレへ行き下痢をした。
午前六時、ろくに寝ていないおれだったがムクムクと起き出して、二リットルの水で下剤を溶かし、むりやり飲み始めた。
不味い。よく言えばポカリスウェットを濃縮したような味で、悪く言えば塩水の味だ。これを二リットル飲むなんて拷問ですよ。だが「便が完全に透明の液体になるまで」、つまりは胃と腸の中がきれいさっぱり、空っぽになるまで飲み続けなければ、内視鏡検査に支障が生じるわけだ。
結果を書こう。
おれは下剤一・五リットル、水〇・五リットル、計二リットルでギヴ・アップした。九十分間のタタカイであった。その間、そしてその後、おれがトイレに駆け込んだ回数は計十一回。三回目くらいから水のような便になり、五回目からは便座に座ると同時に噴水のような透明な水が肛門から勢いよく放射されるようになった。
「もう大丈夫かな、出し切ったかな」
と思うと、すぐに便意に襲われ、またまたトイレへ。六回目からはその繰り返しだった。特筆すべきは尿意がまったくなかったことである。おれは前立腺肥大なので頻尿傾向にあるのだが、そのおれが二リットルの水分を短時間で飲んだのに、おしっこはちょっとしか出なかった。とすると、あの下剤はすべて水グソとして放出された、という仮説が成り立つ。
「特筆」「仮説」などという単語を「水グソ」と並列して使わなくてもいいような気がしてきたので、話を先に進めよう。
「自信はないけど、もういいかげん出し切ったのではないか。てか、もうこれで勘便、じゃなかった、勘弁してほしい」
とヘトヘトになりながら思ったのは十一回目、チェックアウト時刻の十時ちょい前だった。慌ててホテルを出ると、ちょうど空車のタクシーが通りかかったので、それに乗り込み、大過なく病院へ着いた。検査開始時刻まで五十分ほどあるが、便意を催したら病院のトイレを借りればいい。幸いにも催さなかった。ホテル前泊は正解だったのだ。
やがて名前を呼ばれ、着替え室へと案内された。看護士さんは使い切りのショートパンツをおれに手渡しながら、こう言った。
「このパンツは切れ込みが入っているので、着替えるときは切れ込みが入っているほうがお尻に来るように穿いてくださいね」
なるほど、合理的ではないか。言われた通りに着替えを終えて検査室へ入り、ベッドに寝かされ、採血の注射、そしてそのまま点滴を受けた。先生が登場して、
「では始めましょうか」
と告げて、胃カメラからスタートした。さすがは内視鏡の名医、すぐに胃の検査を済ませて、続いて腸の内視鏡検査へと移る。
事件はこのときに起こった。使い捨てショートパンツの尻部分の切れ込みを見た医師は驚きの声を上げた。
「なんだ、穿いているの?」
そう、おれは着替えのときに自前のボクサー・ショーツを穿いたまま、その上から使い切りの尻割れパンツを重ね穿きしていたのだ。何のために尻が割れているパンツを与えられたのだ。阿呆である。看護士さんたちは笑いながらパンツ・オン・パンツという斬新なレイヤード・スタイルのおれから二枚のパンツを一気にずりおろした。その結果、おれの下半身は万座の前で完全露出してしまうという恥辱に晒された。穴があったら入りたいとはよく言うが、先生は穴があったのですぐ入れたようだ。
数分後、医師がこう言った。
「入っていかないなぁ。痛いですよね?」
麻酔がやや効いているのか、おれの返事は
「あい、いらいでしゅ」
だった。なんだかパンツの件といい、この呂律の怪しさといい、おれのココロは情けなさでいっぱいになった。
「痛いかぁ。じゃあ、麻酔追加」
医師は看護士にそう指示して、おれの意識はさらに怪しくなっていった。
「腸が人より長いですね。だから内視鏡が入りにくいんですよ」
普段のおれなら、
「チョー長いですか?」
と返すところだが、レロレロ状態になっているので無言を貫いた。
検査が終わり、三十分ほどリクライニングのソファで休むように言われたが、毛布が掛けられているとはいえ、下半身完全露出が気になっているおれは眠ることもできなかった。点滴が終わった頃、看護士さんが針を抜きながら言った。
「ご自分のパンツを穿いて、着替えたら先生の診察があります」
「かひこまりまひら」
まだ呂律が回らなかったが、自分のパンツを穿き忘れて着替えたら、それこそ完全な阿呆ではないか。抗議したかったがやめておいた。
診察室に呼ばれると、モニターを一緒に見ながら医師から次のような所見を述べられた。
「胃はびらんが多いですねぇ。けっこうな十二指腸潰瘍の痕跡もあったけど」
「いや、まったく身に覚えがないのですが」
「そうですか。自覚症状があったはずだけど、知らないうちに治癒したのかな」
ここでもやっぱり阿呆ではないか。
「腸にはたくさんポリープがありました。ほらね」
「ははぁ」
「これ。このポリープ。大きくて顔つきが悪いやつでしたから、これだけは切っておきました。一応病理検査に回しますが、こういうやつは放っておくとがんになるんです」
「ははぁ」
「次にCTの結果ですが、肺はきれいですね。ほら、こんなにきれい」
「はい?」
おれはTVドラマ『相棒』の片山右京さんの口調で聞き直したのだが、思い切りスベってしまった。しかしヘビー・スモーカーのおれの肺がきれいとは驚いた。軽い肺気腫あたりは覚悟していたのだ。
「肝嚢胞がありますが、これはまあ問題ないでしょう」
カンノーホー? 意味がわからないけど問題がないのならスルーだ。
「あとは心臓、膵臓、脾臓、腎臓、すべて問題ありません。前立腺肥大が認められますが、これは治療中ですよね」
「はい」
「切ったポリープに問題があるようでしたらすぐにご連絡しますが、まず大丈夫でしょう。何かご質問はありますか」
「そのポリープの正体はいつわかるのですか」
「二週間後くらいかな。その頃にもう一度お越しください」
おれはきっかり二週間後に病院へ行った。だって怖かったんだもん。
名前を呼ばれて診察室へ入った。
「やはり切除した顔つきの悪いポリープは放っておくとがんになるタイプのものでした」
「え、そうだったんですか」
「中学三年生、といったポリープですね」
おれは意味がわからずキョトンとしていた。
「いや、がんがハタチだとしたら、シノハラさんのポリープは中学三年生くらいの年齢ということです」
「中三だと食べ盛りじゃないですか。どんどん成長する時期ですよ」
「ははは。でも切除したから大丈夫。問題ありません」
「よかったぁ、助かったぁ」
「ひとまず安心してください」
「今度先生と僕がお会いするのはいつごろになるのでしょうか」
「来年の今ごろでよろしいかと思いますよ」
おれはややホッとして病院をあとにした。おれのポリープは中三だったのか、と思いを巡らした。中学三年生といえば年頃だ。多感な思春期だ。パンツを二枚穿きしてしまうかもしれない。急に反抗期になり、グレてしまうかもしれない。不良化だ。闇バイトだ。ニンゲンならともかく、そんなポリープを更生させるのは難しい。チョキンと摘み取ってしまうのがいいのだ。とりあえずはめでたしだ。
以上、おれの新年のご挨拶もチョー長かった。どうか今年もパンツと自由の意味は、はき違えないようにしましょうね。