2023年12月1日(金)

水牛だより

激しい寒暖の差に翻弄される日々です。衣類は夏と冬のものがあればいいし、衣替えは不要。とはいえ、すでにこの夏の猛暑の記憶は薄れて、せりがたくさん入ったきりたんぽ鍋が食べたいな、などとすっかり冬の思考になっています。

「水牛のように」を2023年12月1日号に更新しました。
まだ今年がおわるという実感はありませんが、今年最後の更新です。
一日一日の暮らしのなかには小さなよろこびや笑いはありますが、世界という大枠は壊れかかっている。壊れかかっているのではなくすでに壊れているのだと言う人もいます。この暗い時代をどのように生きていくのか、日々の小さなよろこびのなかにいても、ふと考えてしまうことの多い2023年でした。来年はもっと厳しくなるのかもしれません。

笠井瑞丈さんのダンスをどうぞ。
今、ショパンを踊る
日時:2023年12月5日(火)19:00開演
   6日(水)19:00開演
   7日(木)19:00開演
*開場は開演の30分前、受付開始は60分前
会場:国分寺市立いずみホール
(JR中央線・武蔵野線 西国分寺駅南口ータリー前、東京都国分寺市泉町3丁目36−13)
構成・演出・振付:笠井叡
出演:笠井瑞丈、上村なおか、浅見裕子、川村美紀子

今月はお休みですが、越川道夫さんの最新作「水いらずの星」と
ロングインタビュー「映画という名の「傷」をつくっている」をどうぞ。

そして、下窪俊哉さんの「アフリカ」の詳細と購買は「アフリカキカク」からどうぞ。

それでは、来年も無事に更新できますように!(八巻美恵)

想像できないことを「想像してごらん」( ジョンの命日に)

さとうまき

年賀状のシーズンがやってきた。国際協力年賀状ということで今年で4回目になる。イスラエルとハマスの戦争でガザがたいへんなことになってしまったので、デザインもパレスチナ寄りになってしまった。僕は1997年から2002年までパレスチナにすんでいたので、こういうことになると、なんかしなくてはいけないと思ってしまうのである。とりあえず、当時のことをいろいろ思い出してみようと思って、パレスチナの子どもたちが描いた絵を探しだしてなんだかうっとりしてしまった。

2000年の夏。ボランティアやりたいって若者が訪ねてきた。ビートルズのコピーバンドをやっているとかいう女の子だった。若いのに珍しいなあと思い、ベツレヘムの難民キャンプの子どもたちに音楽を教えてもらうことにした。

僕がビートルズを聞き出したのは、中学生の時で、解散して4年たっていた。初めて買ったレコードは、Let it be のカットバンだったような気がする。そんなにレコードなんか買える時代ではなかったから友達から借りた。だから、友達は大切だった。ビートルズの4枚組ベスト盤になぜかジョン・レノンのイマジンが入っていた。不思議なピアノの旋律。あまり歌詞の内容とか理解しなくても彼らの音楽は好きだった。まだベトナム戦争が終わってなかったけど、中学生の僕は世界の平和とかそんなことはどっちでもよかった。文化祭で誰かが、戦争をテーマにしようと言い出し、戦争って言っても、交通戦争とか、受験戦争とかいろんな戦争があるよね!ってそっちの話になってしまっていた。日本は平和だったというよりも中学生なんてそんなもんだろう?

あれから大人になり、30代半ばの僕は、パレスチナにいた。イスラエルが建国されてから50年。つまりパレスチナ人の大惨事から50年の1998年。1999年にはオスロプロセスでパレスチナができるかもしれない。何よりも20世紀が終る瞬間にそこにいるという盛りだくさんでエキサイティングな時期だった。

ビートルズのLet it beをパレスチナで聞くとこんな風に聞こえた。

And when the broken-hearted people
テロやイスラエル軍の襲撃で家族が殺され,収監され、心が打ちのめされてしまっても
Living in the world agree
国際法で守られた世界で生きている限り
There will be an answer, let it be
答えは見つかる。なるようになる

For though they may be parted
たとえ意見が対立して、交渉は断絶しても
There is still a chance that they will see
チャンスはまだ残されている
There will be an answer, let it be
答えはきっと見つかる なるようにしかならない

当時は、イスラエルのミュージシャンもアラブ人と一緒にビートルズをよく演奏した。
We can work it outもその一つだった。

イマジンはもっとストレートに響いた。

想像してごらん。
国境も宗教もない
殺す理由も、死ぬ理由もない
みんなが平和暮らすことを

毎日パレスチナ人が収監され、殺されイスラエルという国が拡大していく現実。現実はあまりにもひどい。日本で暮らしている僕らには到底想像なんかできない。僕もそうだ、2019年までは、イラクとかシリアで目いっぱいで、パレスチナのことは、殆ど追っかけてなかった。

今年はすでに、かつてないくらいのパレスチナ人がイスラエル軍に殺害され拘束されていた。この夏、僕は、イスラエルとパレスチナの若者たちを日本に招いて「仲良くなる」プロフラムのアドバイザーの仕事をしていた。とはいってもロジのサポートの仕事で中身は参加させてもらえなかったのだが、パレスチナ人とイスラエル人はうまく対話ができなかったらしい。パレスチナ人は、イスラエルの人権侵害をみんなに知ってもらいたかった。イスラエル人にとっては、挑発的に絡んでくるパレスチナ人はうっとおしかったのだろう。

「仲良くなる」という目的を達成するためには、議論を遮るしかない。結果、フラストレーションだけがのこり彼らは帰っていった。そして、我々日本人も彼らがおかれている立場もよくわからぬまま、10月7日がやってきた。ハマスは1200人を殺害し、イスラエルは15000人を殺した。そしてもう精神的に参っている。

パレスチナの若者がかかわっているというイスラエルの団体のHPには、いろいろなファクトが掲載されている。
https://www.btselem.org/

今回、ハマスとイスラエル政府との人質交換で明らかになったのは、8000人ものパレスチナ人がイスラエルの刑務所に拘束されているということ。10月7日以降で3000人もが拘束されているという。中には、SNSでイスラエル政府を非難しただけの人もいる。2200人が裁判も告訴もなくただ拘束されているのだという。

実際にエルサレムのパレスチナ人が教えてくれた。「IDを見るよりも先に、イスラエル警察は携帯を見せろという。それで政府に批判的だったり、ガザに同情的だったら直ちに拘束されてしまう」
11月29日夜の時点で、ハマスが解放した人質は102人。イスラエルが釈放したパレスチナ人は210人となった。しかしイスラエルはあらたに116人のパレスチナ人を拘束したという情報もある。またハマスは、生後10か月の最年少の赤ちゃんはイスラエルの空爆で死亡したと発表している。そもそも人質交換なら、15000人のガザの人々を殺す必要はなく最初からイスラエルとハマスが交渉すればよいのではないか。もう、狂っているとしか言いようがない。

2000年の夏に話を戻そう。僕が働いていたNGOは、ベツレヘムの難民キャンプの子どもセンターを支援していたので、難民キャンプの子どもたちにイマジンを教えることにした。
キャンプのリーダーがやってきて、「なんだい? この曲は?」彼は、いつも周りを気にしていた。「みんな、国境のために命を失っているんだ。宗教がない世界っていうのは、僕ら的には、OKなんだけど、ハマスが聞きつけたら大変なことになるなあ」そのキャンプは世俗派の党派が支配していた。でも彼はとてもこの曲を気に入って、英語の先生を連れてきて、子どもたちにきちんと発音するようにと諭した。

そして、キャンプデービットでは、パレスチナの独立に向けて最終的な調整が進んでいた。イスラエルとの2国共存は目の前に迫っていた。約束の1999年は過ぎてしまったがパレスチナという国家ができることは皆疑わなかった。もう21世紀になったのだから。

難民キャンプで広島の展示をしてそのセレモニーで子どもたちはイマジンを歌った。今じゃ信じられないだろう。難民キャンプの子どもたちがイマジンを歌った。ジョンの世界が想像できたのだから。イスラエルの首相は労働党のバラクだった。「私がパレスチナ人なら、石を投げる気持ちがわかる」とまでかれは言ってのけた。

しかし、私たちはただの夢追い人だった。バラクは支持を失い首相をネタニヤフに譲り渡した。そして和平は死んだのだ。まだ僕らにチャンスはあるのだろうか?

国際協力年賀状ガザ支援はこちらから
https://sakabeko.base.shop/

ゴマ

笠井瑞丈

うちに来て四年半
碁石チャボのゴマ
とりあえずボスです

そして今年来た
白チャボのナギ
暴れん坊です

今年亡くなった
白チャボのマギ
おっとりです

鳥さんとの共存生活
ともにいろいろな所にも旅した
うちの中に光を灯してくれる存在

うちは部屋の中で放し飼いにしてる
鳥さんをそのように育てているのは
かなり珍しいと思っている

うちにやってきて
自分で自分の場所を探し
自分で自分の生活を始めた
だから自由にしてあげたい

それが共存だ

向こうには向こうのルールがあり
こちらにはこちらのルールがある

朝自分でテレビの裏から降りてき
昼間大抵は大好きな枕の上で昼寝
夜は自分達の場所のテレビの裏に戻る
そして僕が寝るのと同じに眠りにつく
基本はこのルーティンの繰り返しだ

しばらくして

一番大事な行事の産卵期がやってくる
基本二日に一個卵を産む
そして多い時は毎日産む
そして三週間くらい続く

それが過ぎ放卵期がやってくる
じっと24時間卵を温め続けるのだ
テレビの裏に長い時は2ヶ月近く篭る
体力をすり減らしただただ卵を温める
仕方なく強制的にご飯を食べさせる
そうしないと自分の身体を削ってでも
卵を温め続ける

人間は誰かに教わらなきゃ何もできないのに
鳥は誰に教わることなくそれを本能で行うのだ

チャボには
全動物には
それができるのだ
これは本当にすごいことだ

生命とは不思議なものだ

しかしそんなゴマが
肺炎になってしまった
巣篭もり中で体力が
落ちていたのだと思う
そしてもうだいぶのお年だ
呼吸が荒く
何も食べない
全く動かない
歩いても
ヨタヨタ

正直かなり危険な状況
注射器に栄養剤をいれ
口に流して食べさせてる

全く自分から食べようとしなくなった
野生であれば自分で食べれないということは
それは遅かれ早かれ死を意味していることだ
それがきっと自然の正しい在り方なんだろう

だから僕がやっていることはそれに逆らう行為
それでも構わないので前のように戻ると信じて
看病する

きっと良くなる
きっと良くなる

先日お世話になっていた
衣装デザイナーが亡くなった
ギリギリで病院に駆けつけることができた
話しかけると手をあげたり目をパチパチさせ
最後の力を振り絞って会話ができた
作ってもらった衣装を着て行ったので
とても喜んでるように感じた

人間であろうが
動物であろうが
平等にいつかは
死は必ず
やってくる

お見舞いに行った一週間後
息をお引きとりになった

そして今日これを書き終えた今
ゴマちゃんが旅立った

大好きなマギちゃんのところへ

たくさんの思い出をありがとう

どうぞ安らかに

228 索(あしたの)引

藤井貞和

新刊書の読み方の一つに、索引を作りながら読むというのがあります。
それはよいのですが(あしたの)がはいりこんできて、うごかないのです。
あしたの索引という理由です。月やあらん、あしたという日がこの索引を、
必要とすることでしょう。中欧、中東戦火のいま、この一冊が出たことは、
あしたを歴史に刻みこむために。

金ヨンロン『文学が裁く戦争』岩波新書を読みながら

 

(赤瓦の家159 明日の知性19 或る遺書について05 イアンフ161 海と毒薬61 奥のほそ道201 折れた剣81 壁あつき部屋46 神と人とのあいだ96 黄色い日日22 キムはなぜ裁かれたのか197 グラウンド・ゼロを書く202 飼育65 小説・東京裁判130 神聖喜劇138 審判71 巣鴨の恋人52 砂の審廷107 赤道の下のマクベス193 戦争犯罪人37 戦争は女の顔をしていない206 蝶の絵27 月や、あらん207 東京裁判(映画)130 東京裁判の判決08 東京プリズン189 閉された言語空間139 ながい旅129 夏98 判決の記05 BC級戦犯とその妻129 非情の庭56 羊をめぐる冒険147 ひとり207 溥儀皇帝の悲劇15 文学以前のこと16 北岸部隊20 迷路13 夢の裂け目170 夢の泪(なみだ)174 夢の痂(かさぶた)179 落日燃ゆ118 レイテ戦記130)

仙台ネイティブのつぶやき(89)人が、いなくなる

西大立目祥子

久しぶりに宮城県北、鳴子温泉で米の配送の仕事をしているササキさんに電話をして、「元気?」とたずねたら、「それが、運転中にクマが飛び出してきてぶつかって、車つぶれて修理したんですよ」と聞かされた。「こけし館のとこの坂道わかります?あの坂を下って、いきなり道路に出てきたんです。ぶつかったあと、立ち上がって車の横を走り出したんで怖かった。こんなの初めてですよ」

このところ東北が話題の全国ニュースというと決まってクマの被害が報道されているけれど、ついに身近なところで事故にあう人があらわれたとは。「日本こけし館」は鳴子の観光スポットで、飛び出してきた道路というのは山形や秋田に向かう車両の多い国道47号線だ。
国道をクマが歩いているのだ。気づけば、地元紙、河北新報の宮城県内版には「クマ目撃情報」の欄が設けられ、前日の出没が報道されるようになった。たとえば「▷午前6時30分 加美町原町道端▷午後6時20分 仙台市青葉区荒巻青葉」のように時刻と住所が記されている。日に5件は下らない。そういえば、数日前、この欄にササキさんの働くすぐ近くの住所を見つけたのだった。「それ、ウエノさんの家ですよ。罠にかかったんです」

ササキさんが働くのは「鳴子の米プロジェクト」というNPO法人の事務所だ。ウエノさんはそこの理事長で農家。米をつくり、牛を飼い、畑をつくっている。牛舎のそばにクマが出たのだから、ひやひやものだったろう。
 
このプロジェクトは、2006年に農家と消費者をつなぎ中山間地の農業を守ろうと始まった。私も農業のことは何もわからないまま、かかわってきた。当時は米の価格が下がって農家の経営が難しくなり、町内でも米づくりをあきらめる人がじわりと増え、耕作放棄地があちこちに目立つようになってきていた。加えて、国の農業政策が、経営規模を拡大して効率化を図る方向に転換されようとしていて、標高の高い山間地に小さな田んぼを維持してきた農家の人たちは生業を継続できるのか大きな不安を抱えていた。

このままではこの町の農業は立ち行かなると考えた役場職員が、本気を出した。まず、標高が高くうまい米はできない、といわれ続けてきた雪深いこの地域でも、おいしく育つ品種を探す。農家が天日干しでていねいに育てて、来年も米づくりをしようと希望を持てる持続可能な価格で売り出す。多少高くても、それが農家の暮らしを守り、自分の食生活の基盤をつくることになる、と理解して買ってくれる人と手を結び、長く付き合う。そんな計画を立て、プロジェクトは始まったのだった。

ササニシキを生んだ宮城県古川農業試験場で寒冷地向けとして開発され眠ったままになっていた「東北181号」という品種を特別に提供してもらい、試験栽培をしたところ、米づくり50年の農家が「山間地でもよく育つ力強い稲だ」と太鼓判を押すほどに苦労なくすくすくと育った。試食してみるともちもちとして冷めてもおいしい。米は「ゆきむすび」という名前で品種登録され、プロジェクトでは事務所経費をのせ、1俵(60キロ)2万4千円で売り出すことに決めた。農家には1万8千円が支払われる。当時の生産者米価は1万3千円を切っていたので驚かれ話題にもなったのだけれど、“農家が希望を持って続けていける価格”に賛同してくれる人は全国に広がり、参画する農家も2年目には21人に、やがて35人くらいまで増えていった。

東日本大震災も乗り切ってきたのだが、このところ参画する農家の数がめっきり減った。今年は12人。プロジェクトが年月を重ねる中で、担い手の農家が高齢化しているのがその理由だ。60歳で参加した人は、もう78歳。あと3、4年が限度だろう。息子が農業を継ぐという人は数軒にとどまっている。先日、NHKスペシャル「食の“防衛戦”主食コメ・忍び寄る危機」という番組を見てひやりとした。日本の稲作農家は、1995年には201万戸だったが2025年には37万戸になるという。あと5年で主食のコメは危機に陥る、と番組は告げていた。中山間地、鳴子の米づくりは日本の稲作の縮図だ。プロジェクトを立ち上げた当初、農業の担い手の高齢化を教えられ、ここで農家を支援する仕組みをつくらなければ私たちの食があやうい、とみんなで勉強したとおりの未来がきた。農業をやる人がいない。農業だけでなく、地方、特に中山間地からは人がどんどん激しく減っている。

話をクマに戻す。ブナがひどい不作だったとか、どんぐりも実らなかったとか、今年の特殊事情はもちろんあるのだろうけれど、クマ出没の背景には、里山に暮らす人の激減があるに違いない。特にコロナ禍以後、米づくり農家、特に外食産業を支えてきた農家が農業をあきらめた。田畑には草が繁り、森の手入れをする人もじりじりと減り、そこにクマが勢力を延ばしているのだと思う。

実際、鳴子の米プロジェクトの事務所の近くは空き家ばかり。18年前の平成の大合併で、町内では3つあった中学校が1つに統合され新校舎で再スタートを切ったのだが、生徒がさらに減りサッカーや野球の部活ではチームがつくれず、隣町の中学校に進学する子も少なくないのだそうだ。町内の公民館の館長さんには「見て、公民館の前の道路は両側ずっと全部空き家」と聞かされる。

でも、食卓に載せる食材がどこで誰がつくっているかを考えない限り、それは見えない。この原稿を書いている窓の外では、先週から恐竜のような姿の3台のパワーシャベルが住宅を解体し、大きな音を立てている。たぶん戸建ての建設がすぐに始まるだろう。近くに地下鉄駅が開業してからというもの、住宅の新陳代謝が一気に激しくなり、少し北側では、東北最大級のマンションの計画が持ち上がっている。やがて何百というファミリーが越してくるのか。その向こうに、私は生い茂る山の中で朽ちていく空き家の風景を見てしまう。

昨日はすぐ近くにサルが出た。なんだかどこもかしこもちぐはぐだ。連続性も秩序も安定もない。何でも手に入るかに見えて、私たちの食が薄氷の上にあることは確か。近い将来、超高層マンションのピカピカのキッチンで飢える人が出るかもしれないことを、想定しておこうと思う。

母の熟したトマト

植松眞人

 母が生まれてすぐに戦争が始まった。もともと貧しい家に生まれたのだが、戦中戦後の混乱の中で辛酸を舐めた。六人兄弟の真ん中に生まれた母は長男長女ほどの愛情も注いでもらえず、弟や妹ほどにお金をかけてもらうこともなかったらしい。
 小学校に入学しても弟や妹の面倒を見るためにほとんど通えず、母はいまも読み書きがほとんどできない。学校の思い出はと言えば、文房具がまともに買えず、消しゴムの代わりにズック靴の底のゴムを刻んで使ったが、ノートが破れるばかりだったとか、弁当を持って行けず水ばかり飲んでいたという貧しさの話しか出てこない。
 子どもの頃に、母からおやつをもらいながら、昔のおやつはどんなだったのか、と聞いたことがあった。母は、おやつなんかなかった、と言った後で、しばらく経ってから、あの時食べたトマトは本当に美味しかった、と呟いた。
 母が子どもの頃、三度の食事を摂ることもままならなったと言う。腹を空かせた母は、学校や用事の行き帰りに、低く茂ったトマト畑を見つけた。そこには真っ赤なトマトが実っていた。けれど、他人の物を盗んではいけない、という教えだけは擦り込まれていて、ただ毎日赤く実っていくトマトをじっと見つめていたらしい。
 ある日、いつものようにトマト畑の前を通った母は、あんなに実っていたトマトが全部なくなっていた。農夫によって収穫されたのだ。誰の口に入るのだろう。どんなふうに食べられるのだろう。母は想像をするだけでぺこぺこのお腹が動き始めた。その活発な動きを支えられなかったのか、なんとなく力が抜けて、トマト畑の側に座り込んでしまったそうだ。すると、目線の下がった母の視界にひとつだけ、形の悪い小さめのトマトがぶら下がったままになっているのを見つけたのだ。
 それから毎日、母はその農夫に忘れられたトマトを見に出かけた。木になっている間は農家のものだが、熟して落ちれば食べてもいいのではないかと思ったからだ。
 来る日も来る日も母は弟や妹を背負いながら、トマトを眺めた。誰にも知られないように、そっと周囲をうかがってから、トマト畑に近づき身を屈めた。トマトは日に日に赤くなった。
 何日めだっただろう。母が畑に行くと、トマトが落ちていた。熟しすぎて、落ちたトマトの皮は破れ、形をなくしていた。それでもトマトは陽の光に輝いていて、母は思わずそれを拾うと多少の汚れも気にせずにむしゃぶりついた。トマトはこの世のものとは思えないほど美味しかった。酸っぱさが鼻を突き、土の匂いがした後に甘みが口の中に広がった。
 あのトマトは忘れられへん、と母は言い、今食べているトマトとどっちが美味いかと私が聞く。母は間髪入れず、そりゃ今食べてるトマトの方がきれいでおいしいがな、と笑うのだった。

『アフリカ』を続けて(30)

下窪俊哉

 コスモス色の表紙のなかで孔雀が、羽をひろげている。その目は、俯き加減ではあるものの、黒々として生命力に溢れている。こちらを見据えてはいないのだが、大きく、画面からはみ出すまでひろげられた羽のなかに、じつは幾つもの目があり、見つめられているような気がして私はハッとする。咲き誇った花に見られているようでもある。羽をひろげている孔雀はオスだろうが、そのなかに、私はある女性の目を感じている。

 10月末、『アフリカ』最新号(vol.35/2023年11月号)の入稿をすませた日の午後、自室の片付けをしていたら、ふとしたところから手紙が出てきた。それは8年前(2015年)の5月、向谷陽子さんから届いた『アフリカ』の切り絵に添えられていたもので、作品を作者に戻した後、その封筒のなかには手紙だけが残されていた。
 いつも『アフリカ』は予定より1、2ヶ月は遅れて完成するので、〆切が来たからと言ってそんなに焦る必要はないのだが、向谷さんはいつも、ギリギリになってごめんなさい、と手紙のなかで謝っていた。が、このときは「かつてないピンチ」だったらしい。「モチーフ選びは大事だな」「でも出来上がったものに関しては満足」していると書かれている。
 その後を読んで、私は思わず仰け反った。
「表紙にはパイナップルをオススメします。孔雀だと拡大した時に切りの甘さが目立ってしまうので。切り始めてから、和紙じゃなくてケント紙にすれば良かったと思いました。後の祭。」
 ああ! そうだったのか。私は今回、そのとき孔雀を表紙に使わなかった理由を「あまりの力作でアフリカの文字の入る余白がなかったのだろう」(編集後記より)と想像したのだが、全くそういうことではなく、作者の希望だった! できれば表紙には使わないでほしい、という。
 その年の夏、珈琲焙煎舎で『アフリカ』をめぐるグループ展(「鳥たちのその後」展)をした際の手紙も、同じ封筒に入って残っていた。そこには、「孔雀は展示NGでお願いします」とまで書かれている。
 よほど納得いってないというか、技術的な問題を感じていたらしい。
 大急ぎで、装幀の守安くんに知らせようと思った。そのメールを書きながら、何かじわあっと熱く、伝わってくるものを感じた。そうか、入稿が終わるまで、待っていてくれたんだね、と。
 守安くんからは、こんな返信が来た。
「それを聞いていたらさすがに躊躇したとは思うけど、やっぱり今回はこの孔雀でしょう、という気がします。展示NGだなんて、こだわってるところが逆にいいよ。作家の人間味がにじみ出てる。毛羽立ちや汚れはいつも気になったらデータを触ったりもしてたんだけど、今回はあえて何もしてなかった。それでよかったな、といまは思っています。」

 8年前のことで、すっかり忘れていた。そのことが判明してからも、果たして本当にそうだったかな? と思う気持ちがまだ残っている。それくらい忘れていた。
 こだわっていた、ということは、それだけ大事なものだった、ということだろうと私は考える。
 なぜ、どのように大事だったのか、いまとなっては訊くことができない。しかし、訊けたとしても、そんなことを容易く話すことが出来るだろうか。
 理由は何であれ、とにかく大事なものだった。
 彼女が突然いなくなった後、その、いなくなった彼女と一緒に『アフリカ』をもう1冊つくろうとした私が、守安くんの助けを借りて、その孔雀を見出したのだと思うと、気持ちが波を立てて、この孔雀の切り絵の良さを、作者に向かって語り聞かせたくなってきた。

 この11月、ザ・ビートルズの最後の新曲(になるだろうとポール・マッカートニーが言っているらしい曲)が話題になっている。あの4人が(時空を超えて)揃って演奏しているというふうに言われているが、何が、どうあれば、”ザ・ビートルズの曲”と言えるのか、当人たちにとって実際にはもっと感覚的な、何とも言えない部分もあるのだろう。

 向谷さんの切り絵という〈顔〉がなくなった後、どうあれば、『アフリカ』だと言えるだろうか。

 そう考えると、もう『アフリカ』でなくてもいいのではないか、という気もしないではない。そうすると、この「『アフリカ』を続けて」も終わってしまうわけだが、などと思っていたら、これまでになかった現象が起こり始めた。
 最新号が出来たばかりで、まだ宣伝もままならない状況のなか、すでに次号への原稿が送られてきている! しかもひとりではない、そういう人が、ふたり、さんにん、と現れてきた。
 止めるなよ、と言われたら私はすぐにでも止めたくなる、天邪鬼である。しかし、送られてきた原稿を疎かにはできない。これを(次号に載せるかどうかは、さておき)どうやって生かそうと考えるのが自然だからだ。

 そこで思い出す。『アフリカ』を始めたときにも、そんなふうだった。もうこんなことは止めよう、でも、すでに生まれてきているものは生かしてあげたい。そう思って始めたのだ。だから雑誌名なんか何でもよかった。つまり、その場限りのものになるはずだった。

どうよう(2023.12)

小沼純一

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるんだが
からだがうごかん
ひふのした
にくがびりびりしびれてる

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
あたまのなかは
あっちにこっちに
あたまとからだが
べつべつで

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるってば
からだいっばい
いきている
すこしもうごきはしないけど

いしつたわんない
いんりょくさからえない
ここばっかりが
いんりょくがつよい
ほんとかな
ほんと
ほんとだよ
わたしには

しごとのつきあいだった
冗談だって雑談だってかわしてた
食事もしたしお酒ものんだ
そんなひと何人も何人も

何人もってまとめなくって
もすこしよってって
このひとこっちのひと
ひとりひとりの顔
顔、顔、おもいだせず
なまえだけだったりもして
あんなこんなひといたよね

どしてるんだろ
やせたりふとったり
家族がいたりするんだろ 
ホルンはふいてるかな
サーフィンはしてるかな
かわいがってたいぬは
げんきかしらん

あうことなんてないのかな
さほど距離ないところにいても
とおいんだな
おもいだすのもまれだけど
たまにはなぜか
あのひとかのひと
せまいところにいるようで
まわりのひとはいれかわり

おぼえてるおぼえてない
よどみ
かきまわすのも
きまぐれゆうまぐれ
おうまがとき

ほんのいっぽんちがうみち
ねこがけげんにこちらみる
しらないねこのはずなのに
いっぴきよくみるやつがいる

ほんのいっぽんちがうみち
みせでみかけるおばさんと
ねこにえさやるおじさんが
でてくるやしきがありました

ほんのいっぽんちがうみち
ひるましずかなねむるまち
よるはふらふらすいきゃくが
すいこまれてゆくネオンがい

ほんのいっぽんちがうみち
ビニールシートのすぐわきは
くさぼうぼうのかこいべい
ねこさそってるはいおくも

ほんのいっぽんちがうみち
いちがいくにふたつみつ
ながいながいへいがのび
なかのみえないふしぎなやしき

話の話 第9話:つい、うっかり

戸田昌子

天気予報では雨が降ると言っていたのに、家を出るときに晴れていた、などの理由で、「つい、うっかり」洗濯物を干して出かけたあと、土砂降りになる、そんな失敗をしてしまったとき、人はそれを「マーフィーの法則」と呼ぶ。われわれは失敗しないために先回りして対処するという知性を身につけているはずの人類であるが、それでも状況をみくびってしまう癖を持ち合わせているのである。たとえば、「お母さん、牛乳ちょうだい!」と子どもに言われて、面倒くささから、つい「冷蔵庫にあるから自分で入れなさい」と言い捨てたあと、ふと振り返ると子どもがコップから牛乳をだぼだぼと溢れさせている姿を見たとき、わたしは子を叱るよりもまず、自分の愚かさを恥じる。なぜ状況をみくびってしまったのか、と。そして雑巾を淡々と手に取り、絨毯にこぼれた牛乳を拭き取り、消臭スプレーを吹きかける。そう、失敗はなかったことにする、それがわたしの基本原則である。

そんな事例は無数にある。たとえばレストランでトマトソースのパスタを頼んでしまったあとで、自分が真っ白なシャツを着ていることに気づき、仕方ないからできるかぎりそーっと食したにも関わらず、トマトソースを胸元にはね散らかしてしまうなどの悲劇は、年に1回くらいの確率では確実に起こる。例えばその日わたしは、10個入り600円のタマゴを1パック、有機食材のお店で購入した。なぜそんな分不相応に高額なタマゴをわたしが購入したのかはさだかではないが、おそらく気が大きくなっていたのではないだろうか。そしてまだ10歳に満たなかった小さな娘に、そのタマゴの袋を持たせた。なぜならわたしはそのとき、本が何冊も入ったリュックサックと、野菜や肉などの入った大きな買い物袋を抱えていたからである。タマゴの袋を持たされた娘はいつものようにルンルンと私の隣を歩いていた。そして、ものの3分も経たないうちに、その袋は彼女の手から滑り落ち、アスファルトの路上に落ちてカシャンと小気味の良い音を立てた。そのときわたしの頭をよぎったのは、「なぜわたしはよりによってこのタマゴの袋だけを娘に渡したのか?」という疑問だった。その疑問に、わたしは答えることができない。そして自身のうっかりに激怒しながら帰宅してパックを開けると、タマゴはすべて割れていた。割れたタマゴは保存がきかないので、その日の夜ご飯は当然のことながら、とても大きなオムレツとなった。忘れられない600円の激怒オムレツ。

ちょっとしたうっかりが尾を引く事例は多い。たとえば、中学のときの姉の同級生で、ずっと「ジョージ」と呼ばれていた少年がいた。姉がその理由を尋ねると、彼は自分の体操着を「おれのジャージ取ってきて!」と友人に頼もうとして、うっかり「おれのジョージ取ってきて!」と言ってしまったのだという。それ以来、彼は卒業するまで「ジョージ」と呼ばれ続けた。うっかりジョージ。

その昔、中学のときのわたしの同級生に、親分肌のごつい少年がいた。体が大きく、声が大きく、いじめをするクラスメイトを見つけては大声を出して「おまえ何やってんだ」と注意してくれるのはいいのだが、ついでにそいつをゴツンとこづく、という悪い癖もある。その彼が、目の敵にしていた理科教師がいた。その学校に転任してきたばかりの女教師で、気を張っていたせいなのか、あまり空気が読めなかった。のんびりした公立校なのにもかかわらず、宿題忘れや理解の遅い子に対して厳し過ぎる態度を取る。その厳しさが気に入らなかったと見え、彼はその先生の授業中、なにかと先生に反抗したり、腹が立つと教室を出ていってしまうことが多かった。当然、先生はいきりたって追いかける。そのため理科の時間になると、教室には緊張が走った。当時、40歳くらいの独身女性だったこともあり、そのことを揶揄されたり、次第に教師いじめに近い状態になっていた。ある日の授業中、彼は立ち上がって、いつものように先生に対してかみついていた。彼女も感情的になって、しだいに自分が何を言っているかわからなくなり、一生懸命ではあるのだが、話がとんちんかんなことになり始めた。それがきっかけとなって、一触即発だったその場の緊張感が、ふと緩んだ。そして次の瞬間、彼はにやりと笑い「先生、かわいいね」と口にした。実際、そのとき生徒たちはみな、一生懸命な先生の姿がかわいいと思ったのじゃないかと思う。しかし先生はそれに反応しようとして……おそらくは、ついうっかり「あたりまえです!」と怒鳴り返してしまったのである。そして教室は笑いの渦につつまれた。憮然として「何がおかしいんですか!」と怒っている先生。それ以来、彼はその先生が大好きになり、しきりとついてまわるようになった。しまいには、よその教室でその先生の授業中に生徒が騒いでいるのを聞きつけては、わざわざ自分の教室から出張し「お前ら、先生がしゃべってんだから静かにしろよ!」と注意して回る始末であった。「先生を困らせるやつは許さない!」などと彼は言っていたが、その行動によって、先生はちょっと迷惑していたのではないだろうか。しかし卒業まで、先生と彼は仲良しであった。彼は植木屋の息子だったが、のちに植木屋を継いで今でもやはり親分肌である。

ひとが失敗すると、それが「かわいい」と見えてしまうのはなぜなのだろう、と考える。わたしは失敗の多い人間であるせいか、失敗したとき人に笑われ、「かわいいね」と言われてしまうことがある。たいていの場合、失敗したときは、何も言わずに落ち着き払って対処すれば、人目には失敗だと気づかれないことも多い、というのは長年の教師経験から学んで実践していることである。しかし、目ざとい人は、わたしのうっかりには気がついているらしい。たとえば家族や親族には気づかれているわけである。たとえば妹の夫はフランス人で、日本語がほとんど話せない。ある日、彼は簡単な日本語を覚えようと、「まあちゃんは、まるい」という短文を作り出した。そしてそこにさらに文章をつなげようとして、「でも、かわいい」と続けた。「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」という文章を作り出した彼は、それがひどく気に入ったらしく、妹とふたりで「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」と日本語の練習を続けた。しかし気に入らないのはわたしの方である。「まるい、でも、かわいい」などというのは、体型に対する侮辱ではないか。「でも」じゃないだろう!と反論していたわたしだったが、あるとき友人が言う。日本語の「でも」に相当するフランス語の「mais」という言葉には、逆接の意味だけでなく、順接、すなわち「だから」や「そして」などの意味もある、と。すなわち、「まあちゃんはまるい、だから、かわいい」という意味なのではないかと。意外な発見に、ほほう、と感心、うっかり納得してしまったわたしだったが、しかし、ちょっと待て。「まるい、だから、かわいい」……それはどういうことだ。まるいからかわいいなら、結局なにも変わらないじゃないか。

つい、うっかり、やってしまうこと。毛糸のセーターを洗濯機で洗ってしまえばフェルト化してまうのは物理の法則を持ち出すまでもなく必定なのだが、「もしかして大丈夫なんじゃないかな」と思えてしまうのはなぜなのか。つい、洗濯機に放り込んでしまうことがある。アメリカにいたとき、買ったばかりのセーターを、温湯で洗浄する洗濯機につい突っ込んでしまい、みごとなチビT並みのサイズにしてしまったことがある。セーターでヘソ出しルックになるわけにもいかず、泣く泣く手放したわたしとしては、過去の過ちは繰り返したくないのにもかかわらず、時々それをやってしまう。友達の結婚式のために手に入れたステキなウールのカーディガンを、なぜか洗濯機に入れてしまった結果、5分の3ほどのサイズに縮んでしまったときは確かに悲しかったが、そのときはもう子どもがいたので、「もしかしてこれは、子どもの洋服にすればいいのでは!」という天啓が訪れた。娘に着せてみたら見事にぴったり。これははじめから子ども服であったと考えればちっとも惜しくない、高い服だったけれど、子どもに贅沢をさせている、と考えればいいのだ。わたしはそう自らを説得し、長いことそのカーディガンを娘に着せ続けた。そしてそれはとても似合っていた。

論文を書きながらぼんやりとご飯を作っているときには、うっかりミスが多い。肉じゃがを作っているつもりで、いつのまにか豚汁を作っているつもりになってしまい、やたらだぼだぼと水分の多い、大根とごぼうと油揚げの入った肉じゃがが完成してしまったことがある。それをみた夫と娘が「これは何?」と尋ねるので「……おいしいよ」と答えると、「だから、これは何?」と重ねて尋ねられた。しかたなしに「肉じゃがと豚汁の中間」と答えると、「じゃあこれはとんじゃが」だね、と言う娘。「いや、肉汁じゃない?」と言う夫。肉汁。それは聞くだに、とても残念なメニューだね。

失敗の多い人生のなかでも、特に気を付けており、かつ職業的にやってはいけないこと、というのは、校正ミスである。しかしこれはどんなに頑張っても、なかなかゼロにすることができない。特に翻訳ものなどの場合は難題で、最近はカタログ論文などで英訳の校正をしなければならないことが多くて頭が痛い。これは平然とやり過ごそうにも文字として残ってしまうからである。たとえば大阪の問屋街の地名である「船場」を「a dock」と訳されてしまったり、映画会社の「松竹」を「Matsutake」と訳されてしまったりするような事例は、笑うに笑えないし、冷や汗をかきながら修正する。ちなみに自分自身がこれまでやってしまった校正ミスのうちで最も致命的だったのは、2014年に東京都写真美術館で行われた岡村昭彦写真展カタログであった。国内外を飛び回った国際的な報道写真家、岡村昭彦についての文章だから、校正者の力量も問われ、刊行元の編集者は新聞社の校閲部に校閲を外注した。そのためたいへんに緻密な校閲が行われ、内容的には大きなミスなく進行できた(小さなうっかりミスはあった)。しかし、である。その奥付だけは、最後に作られたために、校正の手がまわらなかったのだろう。展覧会オープニングの前日、写真美術館に届けられたカタログをみて「……これ、刊行年が20014年になってます」と気づいたのが誰であったかは、もう覚えていない。20014年って、どんな未来の宇宙なんだろうねぇ、と遠い目で語り合ったわれわれが、どんな対処をしたのかすら、すでに記憶の彼方である。たぶんちょろっとした紙ペラの正誤表が挟まれただけだったのではなかっただろうか。

宇宙、と言えば、数年前、久しぶりに鰻を家で食すことになり、冷蔵庫の山椒の瓶の賞味期限をみたら、2001年だったことがあった。急いでスーパーに走って事なきを得たが、気づかなければ、あやうく2001年宇宙の旅の鰻となるところであった。

マーフィーの法則と言えば、マーフィー岡田さん。実演販売で有名なマーフィー岡田さんは、この業界で50年以上活躍する、その筋では有名人。わたしのキテレツな伯父と岡田さんは高校の同級生である。この伯父に関する逸話は尽きないが、現在は消息しれず。テレビや雑誌で彼の姿をみかけるたび、わたしの母は「ああ、岡田さん」と言う。それにつられてわたしもつい、彼を見かけると「ああ、マーフィーさん。伯父さん、どうしているかなぁ」と、つい呟いてしまう。それで最近、どうされているのか気になって、つい検索をかけたら、なんと、X(旧Twitter)にアカウントが存在している。ああ、お元気なんだとほっとし、うっかりフォローしてしまった。ああ、マーフィーさん……。

プカプカ

篠原恒木

おれは喫煙者である。

この一文を読んで、これから先を読み進めることを拒否する方々もいるだろう。だが、書き出してしまったのだからもう遅い。「可哀想なヒトだ」「馬鹿なヒトだ」「死ねばいいのに」と思いながら読んでいただきたい。

「喫煙」という文字を見ただけで眉をしかめ、嫌悪、拒絶、忌避、軽蔑、罵倒、非難、憎悪、憤怒の念を抱くヒトはあまりにも多い。言語道断、断固反対、悪逆無道、徹底拒否、極悪非道、無法千万、非難轟轟、陰翳礼讃などの四字熟語もアタマに浮かぶ。いや、最後の四文字は違うか。喫煙習慣のせいで、つい筆が滑ってしまった。

とにかく煙草がやめられない。十八歳のときからショート・ホープを一日二十本吸っている。もう喫煙活動四十五周年だ。おお、アニヴァーサリー・イヤーではないか。めでたい。吸い始めたときは一箱五十円だったような記憶があるが、今では三百円だ。よく考えたら高いよ、バカヤロー。気軽に「一本ちょうだい」などと言われたら、そいつには真空飛び膝蹴りをかまして、ダブルリストロックから膝十字に移行、最後は腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪ってやりたい。

ああ、思わず逆上してしまった。話を戻そう。ショート・ホープは一箱十本入りというのがいい。箱も小さくて好ましい。味は独特の辛味があり、吸ったときのキック感も抜群だ。箱の脇に書いてある表示を見ると、一本当たりのタールの量は14mg、ニコチンは1.1mgと書いてある。ちなみにメビウス・エクストラライト・ボックスはタール3mg、ニコチン0.3mgだそうだ。おれはメビウス・エクストラなんたらという煙草を吸ったことがないが、これを見ても、我がショート・ホープはいわゆる「キツい煙草」だということが分かる。いや、誇らしげに書いているわけではない。さぞや体に悪いだろうなあと慄きながら書いているのだ。でもやめられない。

昔はよかった。どこでも吸えた。駅のホームでも吸えた。飛行機の中でも吸えた。病院の待合室でも吸えたのだ。ところが今では喫茶店でも吸えない。「珈琲と煙草」なんて「梅に鶯」ではないか。町中華に入ってラーメンの汁を飲み干したあとでも、その場では絶対に吸えなくなった。「ラーメン後と煙草」なんて「獅子に牡丹」のはずなのに。まだまだあるぞ。ここでおれは「竹に雀」「波に千鳥」「松に鶴」「紅葉に鹿」などの慣用句を駆使して煙草と相性のいい状況、アイテム、場所を列記しようとしたが、知っている慣用句を列記したことで満足したのでやめておく。

時代は変わったのだ。煙草は害悪なのだ。「今日も元気だ たばこがうまい!」「たばこは動くアクセサリー」などという広告コピーは昔々の話になってしまった。今や煙草の屋外広告も掲出不可だし、テレビのコマーシャルからも締め出されてしまった。ドラマでも登場人物が煙草を吸うシーンはご法度だ。昭和三十年代を時代設定にしたドラマでも、煙草を吸う人は誰一人として出てこない。ここまでいくと不自然なのではないかと思うが、すべては時代の変化なのだ。映画配信のチャンネルでもわざわざ冒頭に「+13 喫煙シーンあり」のテロップが小さく映し出される。もはや煙草は「吸ってはいけないもの」なのは常識で、「吸うのを見てもいけないもの」なのだ。当たり前だ。あれほど健康に悪いものはない。周りの方々にも多大なる迷惑および健康被害をおかけしている。

なので、もう煙草をプカプカと吸う場所はない。おれは血眼になって喫煙所を探す。あるいは喫煙可の喫茶店を探すのだが、「喫煙可」と謳っている大抵のカフェも狭苦しい喫煙ブースに閉じ込められるし、場合によっては「電子タバコのみ」などと言われて排斥されてしまう。おれは大手のカフェ、喫茶店チェーンに向かって声を大にして言いたい。
「アンタがたの不味い珈琲を味わうために店に入ったことは一度もない。我がすべての目的は煙草を吸うためだったのだ。勘違いされては困る」

ついでに書いておこう。あの「電子タバコ」というのは何なのだ。太いストローを短く切ったようなものを握りしめて大の大人がチューチュー吸っているさまは見ていて失笑を禁じ得ない。煙が少ない? 匂いが少ない? なに寝ぼけたことを言っている。屁ぇこくときは思いっきり音を立ててこくもんだ。すかしっ屁とは姑息な奴がするものだ。

家でもプカプカできない。我がツマは煙草が大嫌いなのだ。換気扇の真下でも許さない。俺は世にも狭いバルコニーに出て、真夏の夜の蒸し暑さに耐え、真冬の凍てつく冷え込みに耐え、プカプカする。家の中に入れば洗面所に直行し、指先を石鹼で洗い、リステリンを口に含みブクブクする。それでも居間へ戻れば、愛するツマからの罵声が飛ぶ。
「タバコくさい!」

こんなおれでも煙草をやめたくなるときがある。昔、真冬の午前三時に目が覚め、煙草を吸いたくなった。ところが迂闊にも肝心のショート・ホープが切れていた。一本もない。我慢してそのまま再び寝てしまえばいいのだが、一服することに憑りつかれたおれはパジャマからスウェットの上下に着替え、ダウン・コートを羽織って、近所のコンビニへ行き、ショート・ホープをワン・カートン買って、帰宅後に凍えながらバルコニーで吸った。馬鹿な話だ。睡眠時間が大幅に削られた。このときばかりはあまりのバカバカしさに「禁煙しようかな」と思い、一度は試みたのだが、禁煙開始の二日後に見た夢は「トイレで隠れて煙草を吸っている自分」というものだった。この夢はおれにとってダメージが大きかった。隠れて吸っている、というのがあまりにも情けないではないか。精神的に追い込まれていると判断したおれは翌朝から喫煙を再開した。

もう仕事中でも煙草は吸えない。アイデアを練るとき、ラフ・コンテを描くとき、タイトルをつけるとき、原稿を書くとき、すべて昔は煙草をくわえてプカプカしながら行なっていた。そのほうが素敵な案が浮かんだような気がする。煙草を吸いながら物事を考えるのが喫煙者の習慣なのだ。
「よし、仕事がひと区切りした。休憩して一服しよう」
が本来の姿ではないか、というのは嫌煙家の考えである。おれにとって喫煙とクリエイティヴな作業はボーダーレスだったのだ。しかし時代は変わった。よし、ここまで書いたからバルコニーに行って一服しよう。続きはそのあとだ。

煙草を吸ったら次に何を書くのか忘れてしまった。

アパート日記11月

吉良幸子

11/1 水
なんとなく、やなことが続いた10月が去った。神さんがみんな出雲へ出かけてはったから不都合が多かったのやろか。今日から月も変わったし、ええことありますように。と言うてるそばから、夜シャワーしてる時にねずみがぴゃっ!と目の前を走ってギャッ!と叫んだ。

11/2 木
『吉坊ノ会』へ行ってきた。うちのおかあはん共々吉坊さんの落語は大好き。昨日の『吉朝一門会』はええ会やったと電話で聞いたところやった。開口一番の九ノ一さんはパワーが溢れかえる方で、元気で見てて嬉しなった。ほんでお目当の吉坊さんの三十石は、道中色んな人に出会って長旅した気持ちで、終わった時にはほんまに旅が終わったみたいな感じやった。50分くらいやってはったんやけど、途中に掛け合いなんかもふんだんに入って長く感じへんかった。上方落語は鳴り物がたくさん入って賑やかで楽しい。今日はええイチニチやった!
今日の落語:桂九ノ一「時うどん」、桂吉坊「江戸荒物」「三十石夢乃通路」

11/3 金・祝日
昨日の落語会が始まる前に歩いた人形町でお祭りをやってて、今日も仕事前にちょっと寄った。人形町ってごはん屋さんがどこもええ塩梅な佇まいで、甘酒横丁なんかもあって雰囲気がめちゃめちゃええ。これで寄席があったらいるもん全部あるわと思ってたら、昔はあったのよと公子さんが言うてはった。なんと残念な。

11/4 土
今日は3回目のいわと寄席の日。三連休の中日で予約が少なく、一番に来はったお客さんに日本シリーズの日やと教えてもらう。そりゃもうあかんわ。とにかくそんな中、来てくださったお客さんにはほんまに感謝感謝やった。
今回は舞監の晢さんがおらんからアシスタントのはるえちゃんが手伝ってくれた。第1回目に初めて落語を見たというハタチの大学生でええ仲間。今日は二人で高座を作った。
はじめにコバヤシさんのマジック。ふう丈さんはものすごい人の良さが滲み出た方やった。始さんは真打昇進に向けて気合入ってはるみたい。おもろうてよう笑った会やった。会が終わって、演者さんと裏方とで一杯飲んだ。話は弾み、酒は進む。ああ、ええ会やったなぁと感じる。あとの課題はお客さんを増やすことだけ。
今日の演目:コバヤシユウジのマジック、三遊亭ふう丈「タイムパッカー」「ゲセワセワ」、古今亭始「目薬」「片棒」

11/5 日
朝5時からソラちゃんに叩き起こされる。撫でてほしいらしく、半分寝ながらおしりをぽんぽん叩いてあげる。そのまま起きて、二度寝して、昼寝もして、4時くらいから銭湯へ。明るいうちの銭湯は一番贅沢やと思う。あったまって5時に蕎麦屋で公子さんと待ち合わせ。丸屋は私の中では一番のお蕎麦屋さんで、住んでる町にあるのはものすごい幸せやと思う。冷やし紅たぬきそばを食べた。でっかい紅生姜のかき揚げが入ってて、公子さんと半分こにしたらそれをアテに日本酒を飲んではった。

11/8 水
ソラさんが外から帰ってくるときは、必ず派手に、陽気に、賑やかに家へ上がる。にゃぁにゃぁと三言は言うて、私らが恭しく迎え入れるのを待ってから入る。せやからなんも言わんと帰って来たときは、よっぽど注意しないかん。
夜の10時半。公子さんの部屋の庭側から、そ~っとソラちゃんが入って来た。怪しいと思った公子さんが目をやると、口にねずみ!おねぇちゃんにも見せなネ、と私の部屋へ直行!!部屋の中で口離されたらどないもならんし、とりあえず台所へ誘導。ねずみが走って逃げまくる!!戯れるソラちゃんでてんやわんや!幸い、玄関の方へ逃げ隠れて、ほうきで外へ追うたら足元滑りながら必死に外へ駆け出した!!よかった~と玄関を閉める。
そのあと、どこ行ったんや?と探しまくってたけど、あれは夢やったんやとなだめて、ごはんをあげた。もういっぺん外へ、と考えてるおっさん猫を私の膝の上へ乗せて興味をそらす。ほんだら遊び疲れた子どものように寝てしもうた。熟睡のソラちゃんを膝へ乗して日記を書く。猫がおると全然飽きひん。

11/9 木
古道具屋で買った高下駄をおろした。歯が二枚でどうしてもこけそうやから、まずは地元で慣らしてみる。
小豆島からものすごい甘くて美味しい干し柿が届いて、太呂さんち(公子さんの息子さん)とお世話になってる整骨院へ持って行った。帰ったら家に丹さん(公子さんの娘さん)も来てて、今日は公子さんの親戚ほとんどに会った感じ。

11/12 日
昨日から急に寒なった。公子さんが布団を洗ってきてくれはって、毛布2枚に布団でぬくぬくと寝る。
晩ごはんに里芋・ネギ・豚・お豆腐・卵が入った煮込みうどんをさっと作ってくれた。ぺろっと食べる。里芋が最近むちゃくちゃ美味しい。夜に食べるおうどんは身体がちゃんとあったまる。

11/20 月
数日前にソラちゃんが耳を怪我して帰ってきた。初日は、俺って怪我してかわいそうやし慰めてほしいねんと演技がかってしおしおしてた。膿が流れてる時は拭いてあげて、あとは自分で舐めて懸命に治しておる。ごはんもモリモリ食べる。今日は結構元気になって、傷口は相変わらず痛そうやけど本人は平気な顔してる。猫の治癒力はすごいわ。

11/23 木・祝日
いつも行く銭湯は露天もあって、浴室にもテレビがあって、猫もおる。銭湯でしか会わんおばちゃんもおって、銭湯って最高や。今日は日替わり湯がルイボスティー湯で、今までで一番ええ匂いのお湯やったかもしらん。

11/24 金
朝、公子さんの長いうめき声が…うなされてるのか、ちょっと歌みたいにも聞こえた。ソラちゃんはびっくりしたらしく、私の元へきて、どないしたんやろと言うておる。後で公子さんに聞いてみたら、高下駄履いた小天狗の集団に追いかけられる夢を見てたらしい。そりゃ怖いわ。

11/27 月
風呂のサッシが引っかかって開かんようになて、それを直しに朝からおじさんが来てくれた。公子さんが応対してくれはるのを布団の中でソラちゃんと夢うつつで聞く。ソラちゃんは私より真剣な顔で聞いてる。家が古くて傾いてるからどうしようもないんです~とおじさん。開ける時のコツも教えてもろた。

11/28 火
おかあはんとビデオ電話した。彼女はものすごいアクティブで、根っからのスポーツ大好きっ子。そんな母がキラキラした顔で、合気道始めてん!と、その話でもちきり。実に充実してて楽しそうや。

11/30 木
私、実家に帰らせていただきます!!!
(…一泊二日やけどね)

本小屋から(5)

福島亮

 11月はじめ頃は、コートを着ていると昼間など少し暑いと感じる日もあったのに、半ば頃から急に冷えて、朝は寝床から出るのも一苦労だ。壁の薄い本小屋で、しかも窓のすぐ近くに机があるために、冬は寒いだろうなと覚悟はしていたが、パソコンに向かっていると足元や指先や背中がどんどん冷えてくる。

 小学生くらいまでの家族写真を見返すと、冬の写真には褞袍——どてら、ってこんな温かそうな漢字なんだ——を着て雪だるまみたいにふくれた子どもたちが写っている。灯油ストーブに乗せたやかんの笛のけたたましさ、「みかんを焼くと甘くなるんだって」と、きっと友だちか、あるいは「伊東家の食卓」から情報を得て、橙色の皮をストーブで焦がしたときの微かに甘い匂い。そんな遠い記憶がふと甦ったかと思うと、写真の子どもたちは、急にいきいきと灯油ストーブの上で様々なものを炙って食べはじめる。干芋、餅、団子、するめ、林檎。灯油ストーブの上には小さな鍋も乗っていて、酒粕で作った甘酒が熱くなっている。

 5歳か6歳の頃——というのも、7歳の時に子どもたちは田舎の家に引っ越したから——、子どもの膝くらいまで雪が積もったことがあった。彼らが暮らす群馬県渋川市有馬のアパートには、広い共用駐車場があり、その一面が雪で埋もれた。本で読んだ「かまくら」を作ってみたくて、雪をかき集めると、高さ1メートルくらいの山ができた。今度はそれをくり抜いて、人が入れるようにする。どれくらい時間がかかったか、やっと作った小さなかまくらに潜り込むと、ぼんやりとした薄暗さと、不思議な暖かさに包まれた。「雪がかき氷だったら良いのに」と思っていた彼には、かまくらの中から見る雪が、なんとも美味しそうに見えた。指で雪を摘んで口に含むと、冷たさの後に微かな水の甘さと鉱物のような味が残る。もう一口、もう一口、と雪を食べ続ける。と、途端に視界が真っ暗になった。かまくらが崩落したのである。彼は、シロアリが家を朽ちさせるように、かまくらを内側から食べ、崩してしまったのだ。

 その後、誰からか忘れたが、「雪は汚い」と教えられた。確かに、コップに雪を入れて放置しておくと、とても飲みたいとは思わない濁った水になる。雪、というものの成り立ち自体が、空気中の埃を核に結晶ができるわけだから、綺麗なはずはないし、大気中に漂う物質をこれでもかと吸着しているはずだ。だが、それでも彼にとって、雪を口にふくみたいという誘惑に争うことは至難の業だった。今年は雪が降るだろうか。寒々とした本小屋で指先をかじかませながら、あのふうわりとした雪を思い出してみる。

背表紙

北村周一

シロアリに食い荒らされしカント本全六冊の重さとかるさ

背表紙は
どこへ消えたの?
三つある
批判書どれも
岩波文庫

純粋も
判断力も
実践も
捨てるほかなく
焚書の如し

たのしみに
取って置きたる
ユリシーズ
全4巻も
打ち捨てにけり

蟻たちの
餌食となりし
失われた
時を求めての
背表紙いずこ

群れにつつ
闇から闇へと
這いまわる
肌いろアリの
生態淫靡

とりどりにならぶ背表紙いまは亡きひとの住まいにみるは切なし

本棚に
のぞく背表紙
おもくあり 
売りに出されし
家の暗さに

遺品数多
残るすまいに
またも来て
雨戸開ければ
二月のひかり

見上げれば
城跡のこる
鳥羽やまの
そらに半月 
九月が終わる

あたらしき
家の南の
そら高く
のぼる月あり
天竜へ来ぬ

せつせつと
ふりこ時計に
身包みを
着せて抱っこの
お引っ越しかな

トクホンを
貼ってくれろと
振り向けば
ぴたりぴたりと
当たりお見事

つかわないと
毀れてしまう
端末の
一部始終は
雲のみが知る

旧き友と出会いし夜にみていたる夢のつづきは苦くもありぬ

むもーままめ(34)虚空の花見 2023年6月29日

工藤あかね

虚空の花見 
灰色の夜闇一面に
満開の真白な桜
眼をきつく結び
飽かず眺めていたいのだ

されどおまへは留められぬ
微生物のごとく解け
薄明とともに霧散する

6月29日

ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』

冨岡三智

先月、東南アジアのイスラム化に関する国際シンポジウム:”Islamization in Southeast Asia as reflected in literature, archival documents and oral stories” の一環としてジャワのワヤン(影絵)『デウォルチ』の公演があった。というわけで今回はその紹介と簡単な感想。

————
『インドネシア・ジャワの影絵芝居ワヤンとガムラン デワルチ』
■日時:2023年11月3日18:30~20:30
■場所:大阪大学箕面キャンパス・大阪外国語大学記念ホール
■出演
 影絵:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)
 語り:イルボン
 演奏:ダルマ・ブダヤ、Al-aliyin
————

『デワルチ』(ジャワ語読みでデウォルチ)はインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』の一節として上演されるが、実はジャワで創られた演目である。ジャワにイスラムを広めたワリ・ソンゴ(イスラム九聖人)はスーフィズムの系統で、布教にワヤン(影絵)や音楽などの芸能を積極的に利用したと言われる。『デワルチ』の物語は18世紀後半のスラカルタ宮廷詩人ヨソディプロI世の創作とされるが、このような土壌から生まれたと言える。
 
『デワルチ』の主人公はビマ(ジャワ語でビモ)である。『マハーバーラタ』は、王位継承に絡むコラワ一族の100王子とその従兄弟のパンダワ一族の5王子の対立を描く。ビマはパンダワの5王子の1人で、剛勇な人物である。ある日、ビモは師の命令で生命の水を求める旅に出る。実は、これはビマを倒そうとするコラワ側の奸計によるもの(ビマの師匠もそれにのせられた)だった。ビモは大海の底で大蛇と戦って死にそうになった時に、自分に似た小さい人物に出会う。それこそ彼自身の内なる神デワルチだった。ビマはデワルチから生命の真理を授けられ、再び師匠の許に戻る。…という物語で、神との合一、マクロ・コスモス(大宇宙、大自然)とミクロ・コスモス(小宇宙、人)の合一、…などのイスラムの教え、ジャワの教えがテーマになっていると言われる。

会場は平土間形式の四角い空間で、真ん中に影絵の幕を張ってその両側に観客席が設けられた。観客は自由に移動して見て良いとのことだった。ダラン(人形遣い兼語り)はジャワ人のナナン氏で、登場人物の会話は彼によって日本語で語られるが、複雑な状況説明は日本人のイルボン氏が講談のようにハリセンを打ちながら語る。ガムラン演奏はダルマブダヤで、そのメンバーの1人が箏も演奏した。ガムランの伝統曲もあるが、そのオリジナル曲、また箏(こと)のオリジナル曲が多い。このチームのワヤン公演を私は昨年2月にも見ているのだが(水牛2022年3月号記事「カルノ・タンディン(カルノの戦い)」を参照)、ジャワのようにシンデン(女性歌手)が華やかに競演するワヤンより、音楽と語り中心のこのスタイルの方が物語のテーマが際立つ気がする。

なお、演奏にはAl-Aliyinという団体(6,7人)も出演して歌を歌った。これは大阪を拠点とするNU(インドネシア最大のイスラム系組織:ナフダトゥル・ウラマー)のショラワタン団体で、日本在住のインドネシア人たちが参加している。ショラワタンはジャワのイスラム歌唱のことで、ルバナという片面太鼓を叩きながら歌う。ルバナはアラブ起源で、マレー系の国々でイスラムの祈りの音楽に使われる。ちなみに、この団体の人によるとNUのショラワタン・グループは現在日本に11あり、この大阪支部は9番目の設立だそうだ。

さて、今回の演出で印象的なのは第一に音楽構成である。ビマがデワルチに出会うまではインストルメンタルな曲できたのが、その後、歌が入ってガラッと雰囲気が変わるのだ。ビマがデワルチに出会う。音楽は箏がアラブ風のメロディを奏でる。ビマはデワルチに「私の耳から私の体内へと入りなさい」と命じられる。その体内に入ると、月と太陽が互いに引き合うように巡る幻想的な大宇宙がスクリーンに広がる。ここで音楽は『ロジョスウォロ Rajaswala』というガムラン伝統曲に変わり、演奏者が一斉にその歌を厳かに歌い出す。この歌い出しを聞いたとき、本当にぞわっと鳥肌が立った。それまでずっと歌がなかったから、人の声にものすごく力が感じられる。しかも、この曲の歌詞は「太陽、月、そして星」で始まり、「大宇宙」も含んで宇宙を構成する要素が歌い込まれているから、この場面と歌詞がぴったり合ってもいる。そのあと音楽はショラワタンになり、たくさんのビマが出て来てくるくると回る。この場面は、ビマが次第に神との一体感を感じていくことを表現しているとのこと。先ほどの月と太陽といい、回る動きにスーフィーの旋回舞踊が連想される。ルバナの音と男性ばかりの歌声には、さきほどの歌とは異なる高揚感がある。そのあとに静かに『イリル・イリル Ilir-Ilir』の歌が流れる。この歌はイスラム九聖人の1人スナン・カリジョゴが作った歌だとされていて、悟りを得て終焉に向かっていくような境地が感じられる。ナナン氏も、ビマの心の声「私はすでに感じることができる。私がどこから来て、どこへ向かうのかを」を表したとのこと。こんな風に、神との合一の境地に至る過程が音楽的段階的に表現されている。

第二に印象的だったのが、ビマがデワルチの体内に入るシーンの視覚表現だ。自分より小さい者の体内へ、しかもその耳の穴を通って入るという、言葉の上ではナンセンスでしかない現象をどのように影絵で表現するのか、全然見当がつかなかった。だが、ナナン氏は影絵というメディアをうまく使った。影絵では人形と光源との距離を調節することによって、スクリーンに映る人形の大きさを変えることができる。だから、ビマの影はどんどん小さくなり、逆に小さいデワルチの体の影はどんどん大きくなって、デワルチの耳穴の位置に小さくなったビマの影が重ねられることで、ビマがデワルチの耳から体内に入ったことが表現された。これは舞踊劇では到底できないやり方だなあと思う。

というわけで、忘れないうちに書き留めておく。

水牛的読書日記 2023年11月

アサノタカオ

11月某日 「パン屋に爆弾を落とすな」。兵庫・西宮で自家製酵母パン屋 ameen’s ovenを営むパン屋詩人ミシマショウジさんの詩を読み返している。これは2011年以降のシリア内戦を背景に書かれた作品だが、詩のことばは「パリに、ベイルートに……」と別の時間、別の場所に向けても呼びかけている。おそらくは、スペイン内戦中に焼夷弾で空爆がおこなわれたバスクの街、ゲルニカにも。そして現在、イスラエル軍の無差別攻撃によって戦火に包まれているパレスチナ・ガザ地区にも。

パン屋に爆弾を落とすな
パン屋を攻撃するな

そこには旧式の大きなオーブンがあり
そこには一週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり
そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり
そこにはくろびかりした天板があり
そこには粗悪なイーストのブロックがあり
そこにはこねあげられたパン生地があり
そこには焼きあげられたパンがあり
そこにはパンを求めて駆けつけた人々がおり
そこにはパンを焼きあげる者たちの手があるのであって
機関銃を握る手があるのではない
そこはいのちの最前線であって
おまえたち戦争の最前線ではない
……

 ——ミシマショウジ「シリアのなんとか大統領へ」より

11月某日 東京の表参道アトリエで佐々琢哉さんの絵の展示「Pastel Journal 四万十の日々」を鑑賞。会場で佐々さんとおしゃべりし、刊行されたばかりのエッセイ集『TABIのお話会』と画集『暮らしの影』(TABI BOOKS)を入手。

11月某日 朝の東京・神保町のカフェで、キム・ウォニョンさんに会う。韓国の作家、ダンサー、弁護士で車いすユーザー。大阪・京都で障害者訪問介護事業を展開するNPOココペリ121のスタッフによるインタビューに同席した。知性も人柄も素晴らしく、すっかりファンになった。さすがダンサーで、目力や身振り手振りの表現の豊かさにも感嘆。インタビュー後、日本語を話すウォニョンさんとダンス談義になり、ピナ・バウシュなどの話を。いつかかれのダンス公演を生で観たい。

午後、神保町の日本出版クラブへ移動し、ノンフィクション作家の川内有緒さんとキム・ウォニョンさんの対談「車椅子で韓国からやってきたウォニョンさんと考える:「バリア」ってなんだ?」に家族とともに参加した。

《わたしたちの人生には、それぞれの未知なる荒野がある》。キム・ウォニョンさんは、川内さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)の韓国語版の一節を朗読。ここは、川内さんの本の中でぼくも好きな箇所だった。対談では、障害や病気のある人々など未知なる存在を、ことばを持つ障害や病気のない者が代弁するのではなく、そのような未知なる存在とかたわらにいる人々が共に語ることの大切さが話し合われた。川内さんの仕事はまさにそのようなものだろう。深くうなずいた。

11月某日 キム・ウォニョンさんとの出会いの余韻を反芻しながら、週末に著書の日本語版『希望ではなく欲望』(クオン)、『サイボーグになる』(岩波書店)を一気に読了。いずれも牧野美加さんの翻訳で、後者はSF作家キム・チョヨプとの共著。どちらの本にも学ぶことが多々あり、特に後者、『サイボーグ・フェミニズム』で知られるダナ・ハラウェイの思想を創造的かつ批判的に受け止める議論に目をみはった。

11月某日 引き続き、キム・ウォニョンさん『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)を読む。障害や病気のある人々の生は「不当な生」なのか、といった重く厳しい問いを突きつけられるが、読み応えのあるよい本だ。

11月某日 くぼたのぞみさん、斎藤真理子さんの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)、『翼 李箱作品集』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)が届いた。キム・ソヨン詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)も、坂上香さん『根っからの悪人っているの?』(創元社)も。読むぞー!

11月某日 一昨日までは、近所の郵便局に行くぐらいであれば半袖半ズボンにビーチサンダルだったのに……。ビーサンをシューズボックスに片付け、ここ数日の急激な気候の変化に「寒い、寒い」と震えながら、翌日の二松学舎大学でのゲスト講義の資料を作成。大学にはちゃんとした靴を履いて行きます。

11月某日 二松学舎大学「文化とコミュニケーション」でゲスト講義。「本のある世界と本のない世界」と題して、編集者としての個人史を話した。「本のある世界」からの学びがあり、「本のない世界」からの学びがあった。寄り道が多い旅の人生なので話はあちこちに飛ぶ。それでも授業後に、「おもしろかったです」という学生が現れて一安心。大学時代に自分がもっとも影響を受け、30年間読み続けている一冊として紹介した文化人類学者の今福龍太先生の主著『クレオール主義』(青土社)を、その学生は読んでみたいと言ってくれた。うれしい。

講義後に、大学の近くの中華料理屋でひとり出版社・コトニ社の後藤享真君とおしゃべり。制作中の「異形の本」の話を楽しく聞いた。

11月某日 東京・上野にて、東京藝術大学大学美術館で開催中の「芸術未来研究場展」を鑑賞。同展の監修は学長で現代美術家の日比野克彦氏。瀬戸内海分校のコーナーで写真家・宮脇慎太郎君が島を撮影した大型のパノラマ写真が展示され、宮脇チームによるインスタレーション「島とタマシイ」(瀬戸内海歴史民俗資料館)の解説パネルも。サウダージ・ブックスから刊行したかれの写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』を藝大図書館に寄贈した。

11月某日 明星大学で編集論の講義。「私の好きなものたち」をテーマにした個人ウェブサイト制作の講評。アイドルの推し活、ゲームの解説、サッカー観戦、アニメのコラボカフェやライブハウス巡りのレポートなど、どれもおもしろい。高野文子さんの漫画が好き、というシブい学生もいて「おお、趣味が合うな」と。この授業では今後、グループワークによるZINEの制作に進む。

夜、大学からの帰路、分倍河原駅前のマルジナリア書店へ寄り道。お店を営む小林えみさんの短編小説集『かみさまののみもの』(よはく舎)を購入。帰りの電車の中で読んだ。ミスドを舞台にした表題作がすばらしい。掌編「毛玉から南極へ」も。喪失と回復、遠く離れたものへの思いとその変化。とてもよい本だった。

神話や歴史上の女性をテーマにした後半の作品も大変読み応えがあった。とくに最後に置かれた小説「クリュムタイムネストラ」、ギリシア神話の女たちの迫力ある語りにぐっと引き込まれた。

11月某日 マルジナリア書店では、朱喜哲さん『バザールとクラブ』(よはく舎)も買ったのだった。哲学研究者である朱さんによる思想家リチャード・ローティの短い論文の翻訳と解説。あとがきを含めて60頁。軽やかな出版のスタイルが魅力的。ローティと文化人類学者クリフォード・ギアツの論争が主題となっている。海外の著者の短い小説や論文やエッセイ、1〜2篇の翻訳と解説だけをまとめた薄い本は、サウダージ・ブックスでも真似して出したいと思った。

後日、喫茶店で大学生の娘とおしゃべりした際、「この本、よかったよ」と『バザールとクラブ』を差し出したら、スマホで写真を撮ったりして興味を示すので渡してきた。父親の与太話を聞くより、実際に本を読んだほうがいい。

11月某日 キム・ウォニョンさんの『希望ではなく欲望』『サイボーグになる』『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』をすべて読み終えて、同時代のすばらしい思想家に出会えたことに深い感銘を受けている。翻訳者と出版社の皆様にも感謝。

障害者運動の歴史を踏まえ、「正当な生」と「不当な生」を分ける非障害者中心主義的な権力や制度を批判的に論じる視点から、もちろん多くを学んだ。一方でそれらに対し、当事者によるアイデンティティの政治ではなく、「差異」の思想を提示するところに共鳴した。どういうことか。「障害者だけが障害の問題や魅力について語り、論じることができるという立場」を相対化すること。個人の状況を特定のアイデンティティに還元することなく、「差異」や「交差性」「非一貫性」のもとに考えること。そこから障害者と非障害者の連立可能性を探ること。再読してさらに考えたい。キム・ウォニョンさんは小説も書いているというので、そちらも翻訳出版されるといいな。

11月某日 編集者・文筆家の仲俣暁生さんたちのイベント「軽出版のススメ」。高円寺パンディットでのトークの動画配信をアーカイブで視聴。そこで紹介されていた2冊の本、横山仁美さんの雨雲出版から刊行された南アフリカの作家ベッシー・ヘッドの作品集、小説家・藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』(破船房、こちらは仲俣さんが主宰する出版レーベル)は年内に読みたい。

盛りだくさんの内容のトークの中では特に、「すべての本棚を図書館に」というモットーを掲げて本のサービスを提供する会社、リブライズの地藏真作さんの話に引き込まれた。地藏さんによる、ISBN(国際標準図書番号)とは別のオルタナティブな本のIDの提案は大変刺激的で可能性を感じたのだった。

サウダージ・ブックスは以前、ISBNを付した商業出版に踏み込んだものの、そこから離脱。ぼくらは地藏さんのように理路整然と考えていたわけではないが、ISBNという一元的な管理思想に依拠する流通システムとは別のフィールド、別のネットワークで、マイナーなスモールプレスとしてより遊動的に本をつくり、本を届ける活動をしたかったから、という理由が大きい。同時に書誌情報の伝達と共有はきちんとしたいと考えているので、「軽出版のススメ」での話には響くものがあった。

それとは別に。日本文学であれ海外文学であれ、いま商業出版の中で小説などの文芸書を刊行することってほんとうに難しいのだな、と思い知った。最近では大手出版社の文芸誌で作品が掲載・連載されても、書籍化されることなく、文芸誌の愛読者以外の読者の目に触れないまま埋もれることもある。数年前まで出版社で仕事をしていたので業界のこうした状況を知らないこともないのだが、現場からの生々しい報告を聞いて最近のさらに厳しい現実を突きつけられた。

11月某日 『現代詩手帖』2023年12月号のアンケート「今年の収穫」に寄稿。とくに印象に残った下記の5冊の詩集などを紹介。

高田怜央『SAPERE ROMANTIKA』(paper company)
管啓次郎『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)
キャシー・ジェトニル=キジナー/一谷智子訳『開かれたかご』(みすず書房)
大木潤子『遠い庭』(思潮社)
佐峰存『雲の名前』(思潮社)

同誌の2023年代表詩選に、川満信一さん「胞衣に包まれた詩」が掲載。飯沢耕太郎さん、高良勉さん、管啓次郎さんの作品も。詩人・岸田将幸さんの表紙の写真がよい。これはどこの風景だろう。

11月某日 最寄りの本屋さん、神奈川・大船のポルベニールブックストアがオープンから5周年。おめでとうございます。お店に行って、森元斎『もう革命しかないもんね』(晶文社)を購入。店主の金野典彦さんから神奈川の最新書店情報を教えてもらった。

11月某日 東京・外苑前の Nine Gallery にて開催中、写真家の渋谷敦志さんの写真展「LIVING」(PHOTOGRAPHERS’ ETERNAL COLLECTION 展)を訪問。 CanonDream Labo5000出力の高精細プリントの美しさに驚いた。フォトジャーナリストとして世界各地の紛争や飢餓や児童労働、災害の現場を取材する渋谷さんと会場でゆっくりおしゃべり。戦争化する世界についていま何を考え、どのようなことばを発すればよいのか。人間を数珠つなぎにする集団性ではなく、それぞればらばらの単独性に立った連帯は可能なのだろうか。パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードのいう「冬の精神」を手掛かりにして、渋谷さんと対話を続けている。

初恋と結婚した女(上)

イリナ・グリゴレ

男に殴られたのはその時が初めてだった。男だけではなく、それまでの人生で誰にも殴られたことがなかったので、初めてのときのことをよく覚えている。その日は自分の結婚式だった。そのあとからずっと殴られるような日々が当たり前のように、日常の一部になったせいかあまりよく覚えてない。発熱の時の熱冷ましを飲んだ後とよく似ている、この感覚。もろもろして吐き気があるけど歩ける。自分を失うというより、どうしても元々自分というものが既にこの世に存在していなかったという感覚なのだ。

価値のない、何か、アスファルトに潰されたミミズのようなペタンコになった生物が乾いて、消えていく。そんな感じ。それだけ。ミミズの記憶と細胞がアスファルトに入る。雨ふるとそのアスファルトから湯気が出て、空に登って雲になり、また雨降ったら地面にいるミミズの一部になる。その繰り返しの人生。二人の子供を育て、笑って、食べて、太って、泣いて、仕事して、料理して、ただ忙しく過ごす毎日だった。殴られた跡、愛された跡と同じ、ほぼ残らないし、誰も知らない。自分自身もそんなことがあったかどうか覚えてないが、自分の身体が反応することを否定できなかった。例えば物忘れが激しいところ、家に帰りたくないところ。仕事が終わっても長い買い物と近所周りで小学生の子供を連れて冬でも足が霜焼けになるまで歩く。歩き方も早すぎて、食べ方も同じということも関係している。食べる時に、ほぼ噛めない。喉が詰まったことが何度もある。脳に酸素が届いていない感じが毎日ある。あとはよくため息が出る。怖くて、脳のCTスキャンをしなかったけど、きっと脳に何かが溜まっている。消しゴムのカスのようなもの。

結婚式のことも殴られたこと以外にあまりよく覚えてない。昔からこの忘れっぽいところがあったと思うほど、自分で自分の記憶を消しているように物事を忘れていく。まるで、この世のことを何も覚えていないままあの世に帰ろうとしているのではないかと自分も思う。例えば、子供の頃、過ごした家のこと、自分の両親のことは覚えているが、その後のことを覚えていない。暖かい家庭という言葉はよく当てはまるが、その温かさ以外のこと、二人の顔以外のこと、60過ぎた今ではよく覚えていない。畑の手伝いをしていたこと、大きな犬を飼っていたこと、母親の親戚、父親の親戚、従姉妹のことも覚えている。出来事よりも、人の印象、顔、言葉で覚えている。例えば2年前に亡くなった従姉妹のことを涙が出るほど覚えている。7年間も白血病と戦って、この7年間の間、たくさんの教会を訪ね、聖人の聖体を触った彼女は目の前で違う生き物のようになっていた。

彼女は「リリ」という。綺麗な名前だと子供の時から羨ましいと思ったことがある。リリと毎日のように電話で話して、姉妹のようなつながりだった。リリは自分が絶対に治ると信じていた。それでも60歳になる前に検査のために入院して、その夜に寝ながら死んでしまった。リリらしいと思った。元気な89歳のリリの母はこう言った「彼女は自分が死んでいることをいまだに知らないままだ」。

リリは自分の結婚式に来ていた。全ての親戚と共にあの時のシーンを見たはず。リリの方は自分より大きなショックを受けたのではないかとたまに思っている。彼女は生涯結婚せず、街のクリーニング会社で働き、実家の狭いアパートに住み、50歳に病がわかってからは毎週のように国内や隣国へ巡礼に行き出した。

田舎では、結婚せず子供も産まない女性はこのような病気になるのが不思議ではないと差別を受けることがよくあるけれども、リリは幸せだったと自分で思っていた3。人姉妹の従姉妹の中で結婚したのは未子だけ。お姉さんも子供も産んでないけれど、今も元気。だから病気とは関係がない。リリは人が良すぎて早く眠りに行っただけ。彼女は巡礼をしていた頃何を体験し感じたのか、少し自分に分かる気がした。確かに彼女のことは誰も知らないし、自分と彼女の母親以外、彼女のことを覚えている人はあまりいない。けれども、もしあの世で価値というものがあれば、彼女の魂が眩しい。この世での彼女は、夜の間に降った雪が次の朝になると溶けるというような存在だった。

リリと毎日何を話していたのも忘れてしまった。彼女からもらったイコンが山ほど残っていて、自分の寝室の壁を飾った。幼馴染と両親、親戚が集まった自分の結婚式のことを毎日のように思い出す。あの後、リリのがっかりした顔を一番よく覚えている。彼女は背が低くって、髪を短く切っていた。顔が白く、目は大きくて真っ黒だった。あの日、教会の前で自分が殴られた時、花嫁ドレスが汚れないよう持っていたリリは、倒れる自分を後ろから支えた。その時彼女の顔を最初に見た。顔というより、大きなびっくりした目を見た。絵画のようだった。自分は何が起きているのか分からなかったが、リリの目を見てこれは現実だと理解した。教会の庭にあった「生きている人」と「死んでいる人」に捧げる蝋燭をスローモーションで見た。後ろに倒れる前に。その時、「生きている人」の方の蝋燭が突如吹き始めた風で消えていくのが見えた。

その瞬間、雷が落ちたかと思った。それは彼が、自分の頭を殴ったのが信じ難いことだから。殴ったのと同じ手が自分の身体を触った手、手を繋いだ手、生まれたばかりの赤ちゃんを触った手だとはとても思えなかった。空から大きな石が自分の頭に落ちて、これは結婚してはいけないというサインだと閃いた。それは結婚する前に彼を愛しすぎたあまりに身体の関係を持ち、妊娠し、赤ちゃんを産み、村でお互いの家族に大恥をかかせたからだと思った。そのために教会の前でこの罪を起こした身体なのに白い花嫁姿をして現れた自分は殺されるべきだ、と心の中で思った。次の瞬間、教会の庭に咲いていた薔薇の匂いと自分の赤ちゃんの声で気を取り戻し、何もなかったかのように教会の階段を登って入った。立ちくらみしながら教会に並ぶイコンの目を見て、結婚する前に子供を産んだことは何も悪くないと覚り、そのまま式を挙げた。

しもた屋之噺(262)

杉山洋一

今日のミラノは薄ら寒い雨が降っていて、どんよりと昏く、ここ暫く年末に近づいて界隈が賑やかになってきたのが、すっかり落着いてしまったようにすら感じます。仕事ばかりが溜まってゆく、慌しなく浮足立った一カ月を振りかえりながら、本條君から送られてきた「炯然独脱」リハーサルの録音を聴いているところです。

11月某日 新山口ホテル
パレスチナテレビの記者が、30分前に同僚が爆撃で殺害されたことに憤慨して、ヘルメットも防弾チョッキも脱ぎ捨てた。スタジオの女性司会者も泣きじゃくっている。
イタリアでは洪水被害が拡大している。トスカーナ州などの中部イタリアを中心に、フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州など北イタリアでも被害が広がっているそうだ。ミラノでも、大雨のたびに排水が追い付かず、冠水する地区は、被害にあった。
「炯然独脱」は一柳さんらしく、「夢の鳥」は野坂さんらしく書こうと、寸時を惜しんでホテルで机に向かう。とはいえ、余りに時間がとれず、パニック寸前。
円安が進み、対ドル151円。ガザでは複数の難民キャンプ爆撃との報道。コロナ禍、何度となくPCR検査に通ったサンボーン通りの検査センターのトイレに「はじめはヒットラー、そしてハマス。お前たちユダヤ人にガス室を」と落書きが見つかる。その傍らには、ダヴィデの星の落書きも残されていた。ミラノ郊外のユダヤ教を教えるイタリア人教師の家のアパートの壁に、教師の家番号とダヴィデの星が落書きされ、脅迫メッセージが書きなぐられていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台芸術村にて照通先生「香月泰男」演奏会。演奏中、聴衆からすすり泣きがもれ聴こえたそうだが、まったく気が付かなかった。泰男の戦時中の逸話などに、感じ入るところも多かったのだろうか。教育目的に書いたからと申し訳なさそうに仰るのだが、照通先生渾身の力作だと思う。題材はもちろん、初演に携わった教え子の皆さんへの愛情に溢れる。音楽には作曲者の人間性が生き写しになり、思いは音を通して演奏者へとひたひたと沁みてゆく。
一週間ぶりに最終便で羽田に戻ると、軽いショックをおぼえた。人が多く、建物は密集していて、マスクをしている人は数えるほど。山口ではタクシーの運転手が、「何故か田舎に行けば行くほど皆マスクをしているんです。人が集まる博多あたりなら皆マスクはしないんですけどね。この辺りでスーパーにマスクしないで入ると、じろりと見られるかもしれません。本来反対のはずですが」と笑っていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
渋谷のサロンで大井くんの弾く「華」を聴く。「さくら」の旋律が聴こえるところで、バチンと大きな音を立てて弱音ペダルが壊れた。フォルテピアノで聴く「さくら」は、旧い摺りガラスごしの懐かしい風景のよう。
都立大学のスタジオへ、山崎阿弥さんのレッスンを見学にでかける。空間把握、自分の躰のなかの空間把握と、自分が置かれている外の空間把握。自分の躰の内部のどこに音が聴こえるか。それが体内でどう反響して、躰がそれにどう反応しているか。
普段、自分が聴覚訓練で教えている内容にとても似ていて、食い入るように見てしまう。山崎さんの課題は、あくまでも自分が発音体になるための空間把握だが、聴覚訓練では、外部で発された音を、自分の体内でどう処理するかが課題になる。

11月某日 三軒茶屋自宅
サーニの作品演奏会。演奏者誰もが彼の音楽に肉薄していることに感嘆する。作曲者がその場にいて、音楽の実体を体現している。演奏者はそれぞれ彼の音楽を咀嚼した上で、作曲者に対して、それならこれでどうだろう、とむしろ逆に演奏者自身の音楽性をぶつけてゆく。そしてそこに、音楽上の有機的な化学反応が起こる。音楽が見事にコミュニケーションの媒体となっていることに気づく。イスラエル軍、以前から包囲していたシファ病院突入。世界保健機関の視察団が医療機能停止を報告。状況は絶望的だという。毎日陰惨な光景ばかりがニュースで報道され、我々はただ無力感に打ちのめされている。

11月某日三軒茶屋自宅
「考」リハーサルで、音を合わせるのも大切だが、いかに自発的に能動的に音楽をつくれるか試す。別の発音体である筝と尺八を、音楽を通して近づけてゆく。音が次第に有機的に変化してくる。音の聴き方を揃えると、まるでアナログラジオでダイヤルを回しながらラジオ放送を探しているときのように、突然ぴたりと音の輪郭が揃ってみえてくるから不思議だ。
夜はスーパーで購入した牡蠣と冷蔵庫に残っていた野菜でパスタをつくった。イタリア料理を日本で作る時、イタリア風の食材を揃えてイタリア風イタリア料理を作ろうとすると、決まって失敗する。日本の美味な食材をつかって、イタリア料理の基本をつかって調理をする方がおいしいものが食べられる。
日本では、ズッキーニを使うより、大根で料理をする方がおいしいとおもうし、無理にあまり美味しくないアンチョビーを使うのなら、シラスで出汁を取った方がいい。
先日リハーサルの後で、戸部の「ブリコ」というイタリア食堂にサーニとでかけたが、すっかり堪能した。コックさんは、これはイタリアで食べるイタリア料理ではないですから、と謙遜していらしたが、見事なブリのアラを見事にグリルして調理してくださった。どの料理もおいしかったが、ニコラは翌日、生まれて初めて魚の頸を食したが、ありゃあ旨いと伊文化会館のアルベルトに自慢していて、アルベルトも羨ましそうであった。イタリア人にとってみれば、日本でイタリア風イタリア料理を食べるより、ずっと美味しく感じたはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
和服の演奏家集団を指揮するのは初めての経験。和服を着ていると、舞台袖でもピンと緊張が張っている印象があったが、実際は賑やかで和やかなものであった。こちらが見馴れていない所為か、女性も男性も揃って少し引き締まって見え、出てくる音もよりきりりと彫りが深く感じる。我々が燕尾服を着る感覚なのだろうが、不思議に少し意味合いが違うようであった。燕尾服はあくまでも舞台上の衣装だろうが、恐らく演奏会以外でも使うことができる和服には、もう少し精神性が付加されているようである。今まで、邦楽の演奏家と演奏する機会は何度もあったし、彼らはしばしば和服で演奏されていたけれども、このように大人数を前にすると、感じる気配が明らかに違った。演奏会の気迫であろうが、緊張と興奮が実に塩梅よく全身にみなぎっていて、流石だとおもう。
今回の帰国では、どうにも町田に足を伸ばすことができなかったので、帰り路、すこし両親と話し込む。

11月某日 ミラノ自宅
一カ月ぶりにミラノの自宅に戻ると、庭の蔓草がすっかり紅葉して目にも優しい。朝1カ月ぶりにクルミを割って庭に置いておくと、先ず小鳥たちが代わる代わる啄みにやってきたが、昼前にはリスが食べていた。その傍らで烏が隙を狙いながら、ちょんちょんと移動していて、リスは時々、凄い剣幕で烏にけしかけては、自分の食料だと誇示してみせる。
作曲中、これなら書き進められると実感するとき、きまって腰椎のあたりにじんと鈍い電流が流れる感覚をおぼえる。これでいいのかと自問しながら作曲していると、奇妙に数列が自分に纏わりついたり、不思議と塩梅よく数字が揃うときことが少なからずあって、そんな時、誰かがそれとなく方向を知らしめてくれるようにおもう。
それと少し似て、今までの人生で、少なくとも2回、明らかに何か特別な力で助けられた。
小学生のころ走ってきた軽トラックと接触して、10メートルほど弾き飛ばされたときだ。ぽーんと飛ばされて気を失ってはいたものの、何かにふわりと優しく運ばれている不思議な感覚は、目が覚めてからも身体の芯に残った。
高校生のころ新島でひとりシュノーケリングをしていると、離岸流で一気に沖に流されてしまった。すると突然波が高くなり、シュノーケルに一気に海水が入りこんで噎せかえってしまった。万事休すと覚悟を決め、岸に向かって泳いだとき、不思議に時間の感覚が捩じれていた。岸に上がって正気に返ると、まるで何かに運ばれたような妙な感覚が身体に纏わりついていた。我乍ら離岸流に逆らって、どう岸に戻れたのかも解せなかった。
数メートルずれただけで、うまく離岸流から抜けられたのかも知れないし、ただトラックに撥ねられて宙を飛んでいただけかも知れない。ただ、あの時は指が2本千切れた以外、10メートルも飛ばされながら脳波にも異常はなく、打撲もなかった。病院の医師たちが不思議がるほど、身体は無傷だった。
まあ、どちらも気のせいかも知れないし、実際はただトラックに撥ねられただけで、気が動転して、途轍もなく岸から離れてしまったように錯覚しただけかもしれないし、やっぱり何かに助けられたのかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
今日から学校の指揮レッスンの新年度が始まって、新入生の一人として息子もレッスンにやってきた。学校で息子に指揮を教える日が来るとは想像していなかったが、今の彼にとって、指揮の基礎を学ぶのはとても有益な経験に違いない。息子を教えるのは、もう少し個人的感情が入り込むものかと思ったが、自分でも呆れるほど他の生徒と変わらなかった。ただ、彼の性格も音楽性も性向も知っているので、それを踏まえて最初から踏み込んだアドヴァイスができるところが、他の生徒と違う。別に指揮者にさせたいわけでもないので、贔屓目に見る必要もないので気楽である。夜家に帰ると、エマヌエラの室内楽クラスでブラームスのホルントリオと、ドビュッシーの2つのラプソディを課題に貰ってきたそうだ。実技では、ウェーバーの2番のソナタと、バッハのトッカータ、それにアレグロ・バルバロを読み始めているが、ウェーバーのソナタなど、息子が練習しているのを聴いて初めて知った。
音楽史のバルザーギ先生の授業が面白いらしく、夕食を食べながらオペラブッファの歴史を我々に話してくれる。ナポリのブッファは、当初ナポリ語で演じられていて、劇場ではなく、街中、路上などで演じられていたそうだ。当然、低級な娯楽と認識されていたが、あるとき、ナポリ語ではなく、アレッサンドロ・スカルラッティを筆頭にイタリア語でブッファを書くようになってブッファの地位が向上し、1820年頃にはブッファ専門の劇場まで造られた。
そこはかとなく、狂言を思いだしたりもしたが、気が付けば、何時の間にかこちらが教えてもらう立場になってきている。ガザで一時的休戦合意、人質交換合意成立。

(11月30日 ミラノにて)

年末の疑い

高橋悠治

11月は忙しい月だった。青柳いづみこと連弾でシューベルトとミヨーを弾き、月末にはショパンから20世紀前半の作曲家たちの作ったさまざまなマズルカの録音をするはずだった。でも、録音はやり直しになった。こんなことがあると、ピアノを弾いているだけの日々には、何かが欠けているのかもしれない、と思ってしまう。

音の現れが空気を変えることより、響きの余韻の時間の方をだいじにしているのではないか、と疑ってみると、この演奏には発見があるのだろうか。では、響きに包まれた線を、どうすれば自由なうごきとあそびの空間に逃すことができるか。纏わりつく和声と伝統から離れて? 

制度のなかでの安定とその快さではなく、不安定と変化の方へ、それぞれの部分が全体から外れていく萌芽であるような、仮の、一時的な集まりとしての一つの曲。そんな演奏ができるのか。演奏だけで、それができるのか。もともと演奏家ではなかった立場を忘れていたのではないか。

2023年11月1日(水)

水牛だより

エアコンなしで、家の中も外も快適な気候が続いています。11月だというのに、昼間の室内なら半袖のTシャツでまだまだだいじょうぶ。なんとなく落ち着かないのはこの気候のせいでしょうか。

「水牛のように」を2023年11月1日号に更新しました。
福島亮さんが書いているように、ようやく「水牛通信」全巻をPDFで公開しました。すべては福島さんの努力によるものです。こうした熱意をもって後から来る人がいるのは水牛にとってとても心強いことです。他力本願もいいところですが、それなしではやっていけないのが水牛のありかたかもしれません。毎月原稿を書いて送ってくれる人たちに対してもおなじように感ずるところです。下窪俊哉さんの「『アフリカ』を続けて」のように、ほんとうはひとつひとつの原稿について紹介するべきではないのかと思ってはいるのですが、そこまでエネルギーが持続しません。編集者失格じゃないの?と自分にツッコミを入れることもあるのですが、原稿が届いたその日に公開するような状況なので、クッションなしで読んでもらうほうがいいと思ったりもするのです。
今月のニューフェイスは吉良幸子さん。わたしの著書『水牛のように』のブックデザインをしてくれたhoro booksのデザイナーです。平野甲賀さんの最後のアシスタントだったので、平野さんが亡くなったあと、未亡人になった平野公子さんとともに東京に引っ越し、それ以来、二人でいっしょに暮らしています。44歳の年齢差のルームメイトは快適そうに成り立っているようですが、具体的にどんなふうな暮らしなのか知りたいと思い、それなら書いてもらうのがてっとりばやい。想像していたとおり、おもしろいですね。

藤井貞和さんの新刊『〈うた〉の空間、詩の空間』(三弥井書店)
「歌のDNA」「詩の日本語」「言葉イメージ」の三章に、歌や詩に関する90近い短いテキストが並んでいます。どれにも短歌や俳句、詩などが引用されていて楽しく読めます。でも藤井さんですからね、どれも一筋縄ではいきません。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

これまでPDFで読めなかった『水牛通信』が公開されます

福島亮

『水牛通信』PDF版のうち、これまでPDF化されていなかった号が公開されます。今回初めてPDF版で公開される号、および落丁があったため差し替えたものは次の通りです。

・ファイル差し替え
Vol. 2 : No. 12
・PDF版初公開
Vol. 4 : No. 9, No. 10, No. 11
Vol. 5 : No. 4
Vol. 6 : No. 3, No. 7, No. 8, No. 9, No. 11, No. 12

 少しだけ、今回のPDF公開拡充の経緯を説明します。『水牛通信』のPDF版を2019年に公開してから、多くの方がファイルをダウンロードして読んでくださっているようです。時々、PDF版を読んだ方から感想をいただくことがあり、その時は、とても嬉しい気持ちになります。『水牛通信』という幻の通信に10代半ばから憧れてきた私にとって、このPDF公開にごくわずかであれ携われたことは、本当に幸せで、10代の頃の自分に、「今の自分はこんなことをしているぞ」と少しだけ誇ってみたい気持ちになります。「幻の」と書きましたが、それは誇張ではなく、多くのミニコミがそうであるように、『水牛通信』もまた、ある時、ある場所でひとびとの手に受け渡されたのち、印刷された冊子の多くが消えていきました。ミニコミの収集、保管、公開が直面するさまざまな問題については、道場親信氏による丸山尚氏へのインタビュー「[証言と資料]日本ミニコミセンターから住民図書館まで——丸山尚氏に聞くミニコミ・ジャーナリズムの同時代史1961−2001」に詳しく述べられています(PDFは以下から入手可:https://wako.repo.nii.ac.jp/record/1969/files/2013-175-242.pdf)。『水牛通信』は私にとって、文字通り「幻」の存在でした。

『水牛通信』を読んでみたい、という思いを抑えられなくなった私は、勇気を出して「水牛」のサイト上で公開されているアドレスにメールを送ってみました。2018年7月31日のことでした。同年9月4日に私はフランスに渡っているので、ファーストコンタクトは渡航の一ヶ月前のことでした。八巻さんが保管されていた『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』が私のもとに届いたのが8月17日。そのPDF化が完了したのが24日です。その後、1年ほどかけてデータの整理・共有や、公開のためのサイトの準備を、八巻さんと野口英司さんがしてくれました。PDF版の公開に先立って、2019年11月の「水牛のように」に「『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます」という文章を私も寄せているので、もしもよければご覧ください。

 このように、公開のための準備から数えると現時点で5年経つわけですが、この間、私にとってずっと悩みの種だったある問題がありました。それは、保管されていなかった号や、保管されていても頁に抜けがある号が存在していたことです。この点について、2019年11月の私の文章には次のように書いてあります。

もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。

 ここで言及されていない、1980年第2巻12号は、当初保管されていた紙の冊子に落丁があり、読めない頁があったので、今回ファイルを新しく作成しました。最後の行の「様々な理由から」というのは、具体的には、研究機関でアーカイヴされているものをPDF化して公開した場合、アーカイヴに対して使用料金を支払わなくてはいけない、という問題のことを指しています。もっとも、すべての機関が使用料金を求めてきたわけではありません。また、確かに、保管をしているのだから、その保管料金がかかる、というのはロジックとしては理解できますし、保管の努力に対しては、きちんとした対価が支払われるべきです。それはアーカイヴの持続のためにも必要なことです。しかし、『水牛通信』を水牛のサイト上で無料で公開するために第三者に使用料金を支払わなくてはならないということに、私はどうしても違和感を覚えました。言葉の共有が権利や義務の問題にすり替えられてしまうような気がしたのです。日本のどこか、世界のどこかでひっそりと再び開かれることを待っている『水牛通信』の出現を待とう。そう思いました。使用料金以外にも、より物理的な困難もありました。アーカイヴ化された冊子は、保管のしやすさのために製本されている場合が多く、『水牛通信』のような余白の少ない冊子は、私の技術では満足のゆくPDF化ができない、という問題もありました。いずれにしても、欠落号や不完全な号の存在が悩みの種であることは変わらず、実際、公開された資料における頁の抜けを指摘する声や、PDF化されていない資料の公開を待ち望む声を受け取るたびに、申し訳ない気持ちになっていたのでした。

 この5年間、何人かのひとに『水牛通信』を持っていないか尋ねたり、古書店やミニコミ取扱店をまわって探し続けてきました。引っ越しの際に誤って失ってしまった、という辛い話もききました。今回、ようやく古本屋で『水牛通信』の欠落号、および頁抜けのない冊子を見つけ、手に入れることができました。それらをPDFにして、皆さんにお届けします。いつでも、どこでも、自由に、好きなだけ『水牛通信』をダウンロードし、読むことができます。私としても、これを機に、2年ほど中断している「水牛通信を読む」の方を再開しようと準備しています。

 『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』については、これでひとまず全号をPDFで読むことができるようになりました。しかし、これで終わりではありません。今、私がもっとも必要を感じているのは、音源の収集と公開です。もしもこの文章を読んでくださった方のなかで、水牛楽団のカセットテープやその海賊版、あるいは演奏会の際の録音などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうかご連絡ください。

アパート日記 10月

吉良幸子

もう東京で同居して2年だし、水牛で書いてよ、と美恵さんに言われ、アパートの日々を書いてみる。1年前にも同じことを言われて絵日記を書いてたけど、半年くらいでやめてしもた。載る場所があるなら続くやろか…と、ともかくやってみる。
うちは公子さん(78)と私(34)と猫のソラちゃん(甘えたのおっさん猫)の2人と1匹暮らし。公子さんは私のばあちゃんやなくて仕事のパートナーでルームメイト。2間しかないアパートやと、仕事の色々をチェックしてもらうのも楽チン。襖越しに会話したり、猫も行ったり来たり。部屋の間に着物が吊ってある、置屋さんみたいで楽屋部屋みたいなところ。ごちゃごちゃしてるから気軽に人を呼べへんけども、ちょっとずつ片付けてきれいになってきてはいる。

10/24 火
誕生日のプレゼントに美恵さんへ作った名刺を渡すという名目で味とめへ。本音は美恵さんと昼呑み。火曜日は味とめのおかみさんも店へ来はるのでぶつけて会いに行った。もう1年くらい姿を見てなかったけど、想像の100倍は元気になってはってほんまによかったと思う。1時間自分の周りのアレコレを話しまくって、お客さんにおかきを配ってさっと帰りはった。大手術したとは思えへん生命力でほんまにびっくりした。
公子さんはうな重をみんなで分けて食べようと1週間前くらいから言うてはった。うな丼では鰻が細かく切られてるからうな重を食わねば!と。3人で分け分けして食べたけど、やっぱり味とめはうな重もうまかった。
帰りに整骨院へ寄って揉んでもらう。いわと寄席のチラシの文字のことを褒められて嬉しかった。家へ着いたら美恵さんからもらったセーターを着てみる。ぴったりでした、ありがとう美恵さん。いっぱい着るね。

10/25 水
早朝に頭の方でにゃーと聞こえ、外を見ると塀の上にソラちゃん。俺、帰って来たし入れてんか、と言うているらしい。夜中から明け方はソラちゃんの独壇場で、公子さんは特に振り回される。外へ行けるようにちょっと開けてあるのに、わざわざあっちもこっちも開けてんか、とにゃこにゃこいう。ごはんもほしいなぁと私の所へもくる。そういう風にかわりばんこに両方の部屋へきて、たまに一緒に寝て、そうしてお日さんが完全に昇るとどっかへ出かける。外へ出勤するなら千円札でもくわえて帰って来てくれたらええのに!と常々いうてるが、持って帰ってくるのは生きたねずみばかり。もうねずみはいらんで、ソラちゃん。
遅番バイトで0時半に帰宅。公子さんが心配して私の帰りを待ってくれてはった。アルミのひとり用の蓋つき鍋で雑炊をいただく。生姜とたまごとネギとご飯半人前を一煮立ちさしただけやけど、昨日美恵さんからもらった汐吹しいたけも一緒に食べるとものすごいご馳走やった。踏んだり蹴ったりな1日やったけど、あったかいお鍋でお腹も気持ちも落ち着いた。
私がご飯を食べるのを見届けて公子さんは近くのコインランドリーへ。こんな夜遅くに、いっぱいの濡れた洗濯もんを手押し車に乗せて乾かしに行かはる。夜の散歩を兼ねているねんて。そろそろ近所で洗濯おばあさんと呼ぶ人が出てきそうな気がする。

10/26 木
前日がどれだけ夜遅くとも、映画のためなら早起きできるのが私のいいところ。今日は朝から2本観に阿佐ヶ谷へ行った。2本ともアタリで、むちゃくちゃおもしろかった! 1本目の吉原のは、カラーやったし建物や着物の色がものすごい綺麗やった。最後の次郎左衛門が斬りまくるシーンなんか、花魁の着物も相まって息をのむほど美しかった。2本目の原作は獅子文六で、読みたくなり世田谷図書館で早速予約した。図書館はほんまにありがたい。こっちの映画は伊藤雄之助が最高にカッコよかった。
それからぶらぶら商店街を覗き、高円寺まで歩いて古道具屋へ向かった。取っておいてもろた柳行李を迎えに行ったら、ビニール袋に入れてくれてはって行李の頭が袋から覗いておった。こんなん持って電車乗り継いでるやつは滅多におらんやろうなぁと思いつつ、人の多いところで持って歩くのはちょっと恥ずかしい。それでも風呂敷包みで置いてた着物をやっとしまえるぞ!という嬉しい気持ちの方が大きかった。
今日観た映画:「妖刀物語 花の吉原百人斬り」「広い天」

10/30 月
2、3日前から公子さんのXことツイッターにログインできない事件が発生。問い合わせるもうんともすんとも返事がない。今週末に迫ったいわと寄席のお客さんの予約も少ない。とりあえず宣伝できないのは厳しいし、どないしようかとアパートはちょっとどんより気味。
昼過ぎに公子さんは病院へ行って、最近よく行く割烹やまぐちの前で夕方待ち合わせした。とりあえず新しいアカウント作りましょか、と提案して乾杯。理由はなくとも酒は飲む。今日はお腹がぺこぺこやったから定食にした。やっぱりここは安くておいしい。お店のおとうさんもおかあさんもええ方で、カウンターの席はいつもお馴染みさんでいっぱい。家の近くにあって嬉しい場所。
帰宅してすぐ、新しいアカウントを作るために公子さんのMacBook Air(通称 エア子)に向かった。エア子は漢字変換が恐ろしく弱くて打ち直しが多くなる。急に公子さんは、明日用にゆで卵作るね!とほろ酔いで卵を茹ではじめる。ソラちゃんはTシャツに包まって寝ている。私が作業してたら当の本人はさっきの日本酒で酔っ払って、布団に入ってソラちゃんとウトウトしている!
…やっとできましたよ!!と言うた時には半分むにゃむにゃしてはった。自由やなぁ~と思わず爆笑してしもた。

どうよう(2023.11)

小沼純一

テーブルでひかってる
でんきつけっぱなし
はやくけして

どこ
どこのこと

寝室のテーブル
スタンドのわき
つけっぱなし

ちがう
ちがうよ
きのうはずしたラジオの電池
あたる角度でひかってて

あんなとこ
いくつもあかりがついている
けしてよはやく

どこ
どこのこと

ひかってるじゃない
ほら あそこ
電柱の

ちがう
ちがうよ
なんかの線をおさえてる
金属のわっかが
夕陽にあたり

みえてるの
みえてないの
みえてないものみえてるの
ひかってるのは
またちがうって

ゆめのきおくは
はやく
はやくにきえていく

さっきまで
ねいきたててた
ひとが
みうごきはじめ
この
あいだ
なにが
あった
あったの
あったのか
おこったか
きれめ
わたるのは
なんなの
なんなのか

ゆめにみていたものたちは
むこうぎしにのこされて
さめるときゅうに 
とおざかる
きしべのけしきも
あったことさえ
ちかくできずに

めがさめる
まだいきている
ねむってるとき 
どこにいるんだろ
なにしてるんだろ

めがさめる
まだいきている
みていたゆめは
どこでみた
みていたゆめを
いついきた

めがさめる
まだいきている
ねむっても 
いきして
みゃくうってる
ふしぎ

めがさめる
まだいきている
いくていたけど
しんでいた
ねむりとちがい
どこにある

あれやってこれやって
あたまのなかではすすめてる 
からだがすこしもうごいてない
あたまとてあしがきれている

あれやってこれやって
ないものあるから
あれじゃなく
むこうをさきにまわさなきゃ
さっきもそこまできてたっけ
わすれちゃってりゃ
おなじこと
きてたことはおもいだしても
くりかえす
やっぱりからだはうごかない

あれやってこれやって
おもうだけだと
なにもしてない
かわらない

仙台ネイティブのつぶやき(88)心臓ひとつずつかかえて

西大立目祥子

先週金曜日の夕方、母が入所しているグループホームから電話が入った。こういうときは不思議なもので、緊急を要する知らせかただの連絡か、すぐわかるものだ。悪い方だ…と直感して電話に出ると、案の定「ごめんなさい…ミヨコさんが30分ほど前に転倒したんです」と告げられた。ちょうど近くをクルマで走っていたので、すぐ向かった。どうか願わくば、大腿骨骨折ではありませんように。

スタッフに案内されて2階に上がっていくと、母は車椅子に座っていたものの、いつもとそう変わらない表情だったのでホッと胸をなでおろした。痛いとこある?と聞くと、背中に手をやるが顔をしかめたりはしない。これまでの3回の怪我─アキレス腱断裂、坐骨のヒビ、大腿骨まわりの靭帯の損傷─のときの症状とくらべるとだいぶ軽い。平謝りのスタッフに、大した怪我ではないと思うよ、大丈夫と話して帰ってきた。
翌日、かかりつけの医師が診てくれて、大きな怪我ではないから当面は検査もいらないでしょうということになった。プロの見立てに安堵したけれど、いつ何が起きるか気は休まらない。年寄りの転倒はこわい。

翌々日は、叔母が施設から外出して家に戻っていたので、ふた月ぶりに会いにいった。夏の暑い頃に会ったときは車椅子を使っていたとはいえ自力で歩くことができたのに、いつのまにか立つことも難しくなっている。この外出の直前、車椅子に腰掛けようとして滑り落ち、転倒したという。仰向けに倒れ、母と同じようにスタッフが気づくまでの間、起き上がることもできずにいたらしい。筋力の衰えは、足から始まってみるみる全身に広がってしまうものなのか。食事のときは右手で握ったスプーンを、左手で助けながら口に運んでいる。滑舌が悪くなり、話が聞き取りにくい。でも頭はしっかりしていて意思も伝えたいこともあるのだから、身体とのつながりにくさは相当にもどかしくつらいことだろうと思う。

ベッドから起き上がった叔母は、柵につかまっていないと上半身を支えることが難しいので、従兄弟が足の爪を切る間、私がベッドに座り体を後ろから支えた。この5、6年、叔母とよく話し、いっしょに食卓を囲み、ときに出かけて親しくつきあううち、私の体つきは母よりむしろ叔母に似ているのがよくわかってきた。身体が薄く、手首は細く、指先はゴツゴツして、足は平べったい。

素足になったむくんだ足を、老いた先の自分の足のように眺める。小さく丸まった背中と前かがみの首を、自分では見ることができない私自身の背中だと思いながら見る。肩に触るとカチカチだった。これまた疲れ切ったときの私の肩と同じだ。こんなふうに固まると、集中力が落ちだるくて何も手につかないのだけれど、叔母は苦しくないのだろうか。大きく背伸びもできないのだ。かわいそうになって、しばらく肩と腕をもみほぐしたりなでたりした。

固まった背中の奥には、小さな心臓がひとつ。心臓はにぎりこぶしくらいの大きさというけれど、そんなおむすびくらいの大きさの器官でよくまぁ93年も生きてきたものだ。母にも心臓ひとつ、私にも心臓ひとつ。右手でにぎりこぶしをつくって、自分の胸に当ててみる。そのにぎりこぶしを命の源をながめるようなつもりでじっくり見る。
 
久しぶりにいっしょにお茶を飲む時間は楽しかった。施設に戻る車の中で、今日はありがとうね、といったあとに叔母が続ける。もうね、早くお迎えがきてって思うの。若かったときの私なら、そんなこといわないで、といっただろう。もういまは、そんな返事にならないような返し方はしない。とはいっても、まだ声に出して、そうだねとはいえない。もう十分にがんばったものね、というつもりでうなずくしかできなかった。

これまで何匹もの猫を見送ってきた。外で生まれ飼い猫になった猫たちは、年老いたり病を得たりしてやがて死期を悟ると、静かに姿を消し戻ってくることはなかった。家の中で生まれた猫たちは、手の届くところで、でも何も訴えもせずに死んでいった。

では、渡り鳥は。冬の終わりに北帰行した鳥たちが、もうすぐまた戻ってくる。きびしく長い渡りができなくなった鳥は、飛び出つのをやめるのだろうか。渡りの途中で落下するのだろうか。

この原稿を書いているすぐそばで、猫が何度もトイレに向かい、空振りして寝床に戻ってくる。ここ数日間、便秘に苦しんでいる19歳。人間なら90歳に近いだろう。ままならない身体がつらいのか、ときどき何かいいたそうにこちらを見る。

人も猫も老いていく。小さな心臓をひとつずつかかえて。

水牛的読書日記 2023年10月

アサノタカオ

10月某日 東京の国立新美術館の「テート美術館展 光」へ家族そろって向かう。展示期間の最終の週末ということもあり、会場の入り口からうねうねと長蛇の列ができる大盛況。館内に入ると、マーク・ロスコの絵画「黒の上の薄い赤」の前には不思議と人だかりがなく、落ち着いて鑑賞できた。韓国の作家ハン・ガンの詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)にロスコをテーマにした連作があり、この機会にどうしても観ておきたいと思ったのだった。

10月某日 鳥取の汽水空港で朝に開催された「気流の鳴る音読書会 第9回」にゲストとしてオンライン参加。午前中のイベントは、頭がすっきりしているのでよいものだ。今年、『うつくしい道をしずかに歩く』(河出書房新社)という真木悠介のエッセイ集を編集した縁でこの読書会にお誘いいただいたのだが、かれの主著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)を熱心に読んできた個人史についてしっかり話したのは、はじめての体験だった。汽水空港のモリテツヤさんの「ディープ・インサイド論」ほか、お店に集うみなさんのお話も興味深いものばかり。

振り返れば、カルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズなど、ニューエイジ思想や精神世界の本へ沈潜から現在の読書や編集の仕事へ上陸する歩みがあった。あまり人に話したことがないから、その時代のことを知るのはたぶんうちの代表(妻)だけだろう。バリ島でブラック・マジックにかけられた姿も、彼女には見られている。「あのときは目が血走ってたよ」と今でも笑われる。

10月某日 大学の編集論。授業の一環としておこなったビブリオバトルのチャンプ本は、結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)と三浦春馬『日本製』(ワニブックス)。こだま『ずっと、おしまいの地』(太田出版)を取り上げた学生もいて、これはぼくも知っている本だった。読んでみよう。

10月某日 ガザが戦火に包まれている。大学の編集論では通常の講義を中断して、編集を担当した渋谷敦志さんの写真集『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)から、パレスチナ・ヨルダン川西岸の「壁」の写真をじっくり鑑賞してもらい(ガザの写真ではないと断った上で)、写真・キャプション・構成から何を読み取ることができるか学生に考えてもらう時間を設けた。

「Palestine パレスチナ ヨルダン川西岸

その土地で先祖代々暮らしてきた多くのアラブ人は故郷を追われ、難民となった。パレスチナ問題の発端だ。そして今も、分断を乗り越える橋はつくられず、人びとを分かつ壁ばかりが増えている。
2002年、イスラエルとパレスチナの境界線に沿ってヨルダン川西岸を旅していたとき、目の前に突如、巨大なコンクリートの壁が姿を現した。
イスラエルがテロ防止の名目で建設していたその壁は一般には「セキュリティ・ウォール」と呼ばれていたが、パレスチナ人は自分たちの移動の自由を奪い、囚人のように塀の中に監禁する壁を「アパルトヘイト・ウォール」と呼んでいた。
異質な他者への恐怖心が生み出した壁。それは本当に人びとの生命と安全を守るものなのか。壁の存在によって深まる断絶は不信を増大させ、結果として先鋭化していく対立や憎悪を抑え込むために、さらなる暴力を引き起こすのではないだろうか。」

 ——渋谷敦志『今日という日を摘み取れ』より

写真集の解説後、授業の前に大学図書館で借りたパレスチナ出身の批評家、E・W・サイード『イスラム報道』(浅井信雄他訳、みすず書房)を紹介した。学生時代に読み、深い影響を受けた一冊として。編集論はメディア論でもあり、自分も含めてそれを学ぶ人間は、パレスチナ・ガザ地区の組織ハマスによるイスラエル攻撃と同国による報復空爆をめぐる報道など現在進行形の情報伝達の政治学と無縁ではいられない。こういうときだからこそ、批判的なメディアリテラシーを鍛えること。そのためには単に情報を収集するだけではなく、図書館などで関連する専門書や人文社会の本を探して読み、その情報を検証し、背後にある複雑な歴史的・社会的文脈を視野に入れる必要があり、またそれ以上に有効な方法はない、ということを強調して話した。

10月某日 早朝から新横浜駅経由で新幹線に乗り一路、京都へ。映画館の出町座で、ヴェトナム出身でアメリカを拠点にする旅する作家トリン・T・ミンハが監督した新作『ホワット・アバウト・チャイナ?』を鑑賞。1993年ごろに中国南東部で客家の伝統的円形集落「土楼」などヴァナキュラーな建築を撮影したHi8ビデオ映像を新たに編集。そこに中国の古典詩歌の朗読や、複数の語り手の声が重ねられるのだが、響きあうナレーションにじっと耳をすませながら、移りゆく中国の農村とそこに暮らす人々の表情を捉えるイメージの流れに身を委ねながら、内側で何かが目覚めるのを感じた。まあたらしい多様性への感覚、とでも言えるような。予想をはるかに上回る、すばらしい作品だった。そしてテレビのニュース番組やネットの情報に毒された今の自分の頭の中にある「中国像」がいかに政治化され、矮小化されたものか、思い知らされた。

その後、KYOTO EXPERIMENT (京都国際舞台芸術祭)2023の会場のひとつであるロームシアター京都にタクシーで移動し、文化人類学者・批評家の今福龍太先生の講演「ことばの混交の果てに 『クレオール主義』30年」に参加。読者として先生の主著である『クレオール主義』(ちくま学芸文庫)を30年近く読み続け、学び続けてきた。アイデンティティの思想ではない、〈差異〉の思想とは何か。講演後、ポルトガル料理店「ビバリオ」で今福先生を囲み、建築史の研究者・松田法子さん、文学研究者・阪本佳郎さんらと歓談。阪本さんから季村敏夫個人誌『河口からIX』を手渡される。夜の定宿で、同誌所収の阪本さん「オウィディウスへの手紙」、ぱくきょんみさんの詩「布がたり」を読む。

10月某日 京都から大阪に移動し、天王寺のレトロな喫茶店「スワン」で臨床哲学者の西川勝さんに会い、近況報告を語り合う。西川さんはジェームズ・ギブソンらの生態心理学に関心があり、いまはエドワード・S・リード『魂から心へ』(村田淳一ほか訳、講談社学術文庫)を読書中だという。体調が悪いと聞いていて、実際に健康とは言えないようだが、プリンアラモードをおいしそうに食べていたのでひと安心。帰宅すると、野間秀樹さん『図解でわかるハングルと韓国語』(平凡社)、『本の教室はじめます』(石巻まちの本棚)が自宅に届いていた。

10月某日 詩人の片桐ユズルさんの訃報に接する。

10月某日 2週続けて、京都へ。今春から蹴上でおこなってきたクリエイティブライティングの講座「書くことの風」、最終の第4回が終了した。「私と場所」をテーマとして設定し、毎回の講義では、今福龍太先生の『クレオール主義』を受講者とともに精読。この日読んだのは、本書の12章「位置のエクササイズ ポストコロニアル・フェミニズム論」。ここはトリン・T・ミンハ論を含む内容なので、先週京都で彼女の映画を観たこともあり、よいタイミングだった。受講者には課題のエッセイ、企画書、地図の最終版を提出してもらい、いよいよ各自で創作の執筆をはじめ 、自分が編集を担当する。最終的には創作集のZineを出版予定。楽しみ。

10月某日 京都駅から近鉄を乗り継いで三重の津へ。午後の久居駅で降りて、HIBIUTA AND COMPANYを訪問。ちょうど秋の「久居まつり」の真っ最中でお店の中にも外にも熱気が渦巻いている。こちらでもクリエイティブライティングの講座をおこなっている。夜の自主読書ゼミでは、会場に集うみなさんと一緒に宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第3章「出会い」を読み、感想を語り合った。ひとりではたどり着けない、数々の発見があり、おもしろかった。HIBIUTA AND COMPANY の書肆室では、孤伏澤つたゐさんの小説『ゆけ、この広い広い大通りを』と、大東悠二さん&村田奈穂さんのエッセイ『映画と文学が好き! 人情編』を購入。お店の本棚には八巻美恵さんの『水牛のように』(horo books)とサウダージ・ブックスの本がならんでいてうれしい。店内では、古井フラさんの詩集(装画=naoさん)・刊行記念展「音としてひとつ、手のひらにのる」を開催していた。

10月某日 久居駅から近鉄に乗って名古屋駅へ。ちょうど昼時の新幹線の改札前に行くと、人だかりができて大騒ぎになっている。東海道新幹線が線路脇の火事で運転見合わせだという。チケットをもっていたのだが、仕方がないのでカフェで時間を潰して戻るとちょうど運転再開。プラットホームは、いらいらする乗客でごったがえしていたが、東京などの目的地に1分1秒でも早く行きたいという群集心理が働くのだろうか、各駅停車の「こだま」号には誰も乗ろうとしない。ならば、と飛び乗った「こだま」のがら空きの自由席で小田原駅まで遅延もなく快適に移動。おまけに特急券の半額が返金された。

藤沢駅からふらりと江ノ電に乗り換えて夕方の江ノ島へ。橋を渡って神社を参拝。日没後、富士山のくっきりとしたシルエットに秋の空気を感じた。海辺のレストランのテラス席でゆっくり食事をして、旅の疲れを癒す。帰宅後、トラウマ研究の宮地尚子さん、ケアを研究する村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる』(青土社)を読んだ。

10月某日 作家・フランス文化研究者の陣野俊史さんの渾身の新作『ジダン研究』(KANZEN)が届く。800ページ超えのサッカー批評の大著!

10月某日 東京・下北沢の気流舎で開催された今福龍太先生、上野俊哉先生の対談イベント「『気流の鳴る音』からコミューン論の現在まで」に参加。真木悠介の思想の背後にある「メキシコの夢」、マルクス/カスタネダ(政治/詩)という問題意識、「逃亡」や「未完」という隠されたテーマ。いろいろな話題が飛び出した。10月の読書は真木悠介に始まり、真木悠介で終わった。イベント後、下北沢の台湾料理店「新台北」に移動し、大学院時代の恩師のひとりである上野先生とおしゃべり。英語で石牟礼道子論を執筆中だという先生と12月に熊本・水俣行きを計画。気流舎を創設し、現在は兵庫の淡路島に暮らしながらハーブティーやエッセンシャルオイルを通じて植物の力を届ける仕事をしている加藤賢一さんとも再会。インドの聖者ラマナ・マハルシのことなどを話した。

よく混ぜてから

篠原恒木

以前、ここで軽く触れたことがある事柄だが、今回はそれをより深く、より実例的に、より弁証的な方法で述べてみたい。軽く触れただけではどうにも慊らないのだ。

「よく混ぜてからお召し上がりください」
そのひと言を添えて出てくる料理がありますよね。これは和洋中、どの店に行ってもしばしば耳にする言葉だと思う。

あれはなんなのだ。

たとえば石焼ビビンバだ。厨房からテーブルへと運ばれ、ドンと置かれる。あつあつの石鍋に見目麗しい具材がきれいに盛られている。人参、ほうれん草、大根、豆もやし、ゼンマイなどのナムルが、まことに色鮮やかだ。ここに黄身がトロトロの目玉焼きやユッケも入っているとますますゴージャスな盛り付けとなる。いつまでも鑑賞していたくなるが、すぐさま店のスタッフは、
「よく混ぜてからお召し上がりください」
と告げて、立ち去ってしまう。
そこでおれはいつも思う。
「綺麗な盛り付けは目で味わった。ありがとう。だが、頼むからここから先、つまりよく混ぜるのもそちらで行なっていただくわけにはいかないだろうか」
理由はふたつある。

1. めんどくさい
2. プロの手によってかき混ぜたほうが断然旨い

あれはどうにかならないものなのだろうか。こうすればいいのだ。まず、かき混ぜていない状態でヴィジュアル満点の石焼ビビンバをテーブルに供する。そして鑑賞の時間を約五秒間設け、
「ではかき混ぜますね」
と、店のスタッフがおもむろにスプーンを両手に持ち、手際よく混ぜる。これならテーブルでのパフォーマンス効果もあり、なおかつ最高の味が楽しめるのではないだろうか。
おれのような素人がかき混ぜると、具材がまんべんなく散らばらない。頑張って混ぜても必ず「ユッケ集中箇所」「豆もやし主役部分」「ゼンマイ密集部分」「ほうれん草ごはん地帯」「おこげ部分皆無」というような代物になってしまう。
「もっとまんべんなく混ぜなければ。さらなる撹拌作業を励行せねば」
と思って、時間をかけて作業を進めると、悲しいことに石焼ビビンバぜんたいが中途半端に冷めてしまうのだ。
「お手数をおかけして申し訳ないのですが、プロのあなたがかき混ぜていただけますか」
と、思い切ってお願いしたことがあるが、そのときの石焼ビビンバの味は自分で混ぜ混ぜしたときの十倍は旨かった。だが、店が混んでいるときはそうそう甘えるわけにもいかない。

このように「よく混ぜてからお召し上がりください」は、おれにとっては呪いの言葉だ。納得がいかない。まずきれいに盛り付けた料理を客に見せ、それから調理人がかき混ぜて「さあ、召し上がれ」でいいではないか。そのほうが美味しいに決まっている。なぜいちばん肝心な味のポイントである「よくかき混ぜる」作業を客に委ねてしまうのか。

油そば、まぜそばなどもそうだ。あれはかなりの気合いと熟練の技がなければ、タレが麺によく絡まない。ぐちゃぐちゃっと適当に混ぜて食べ終わると、油ギトギトのタレがどんぶりの底に沈殿していることがよくある。ジャージャー麵などは豚ひき肉だけが大量に残ってしまうという悲しいケースも往々にして発生してしまうのだ。

お好み焼きもそうだ。チェーン店などへ行くと、容器の中にこれでもかと具材が盛られたものが、テーブルの鉄板の脇に置かれておしまいだ。あれでは、
「あとは頑張れ。よく混ぜなさいね」
と言わんばかりではないか。お好み焼きの混ぜ方にはコツがあるのだ。あまり執拗にかき混ぜてもダメらしい。生地と具を混ぜ過ぎず、サックリと混ぜると空気が入ってふっくらと焼き上がるからだ。だがおれにはその加減がようわからん。そちらでサックリと混ぜてくれ、と叫びたくなる。

かと思うと、「よく混ぜなくてもいいのではないか」と思う料理をかき混ぜて食べるヒトビトもいる。カレーライスをぐちゃぐちゃにかき混ぜてから食べるヒトをときどき見かけるが、おれは不賛成だ。いや、例外はある。大阪は難波にある自由軒の「インデアンカレー」などは、真ん中に生卵が鎮座して、ライスは最初からルーと一緒にしっとりと炒めてあるので、あれはよくかき混ぜて食べるしかない。おれが言っているのはカレーのルーが白いライスの約半分にかかっている「普通のカレーライス」だ。あれをわざわざ手間暇かけてベトベトに一体化させる意味がよくわからない。美味しくなるのだろうか。

海鮮丼もそうだ。できればやめてほしい。ごはんの上に整えられたトロ、甘エビ、イクラ、ウニを思いきりかき混ぜてごはんと一緒にかきこむのはどうかと思う。海鮮丼の正しい食べ方はあくまでも「垂直掘削方式」だと固く信じているおれなのだ。トロが載っている部分はその下のごはんを慎重に掘り進めてトロと一緒にいただく。トロ・スペースを垂直掘削したら、お次はウニの部分だ。これも下のごはんを掘削して口に運ぶ。「よく混ぜて」食べなくてもいいものをかき混ぜるのはよくない。ウニとトロをぐちゃぐちゃにミックスさせてごはんと一緒に食べて本当に旨いのか。あれ、旨そうな気もしてきたぞ。いけないいけない。

「おかずが足りなかったら納豆があるよ」
我がツマがそう言って、冷蔵庫から小さい紙カップに入った一人分の納豆を取り出し、そのまま食卓に置いた。紙カップのままというのが侘しいが、我が家には古備前の器などないので仕方ない。この納豆も、いや、この納豆こそはよくかき混ぜるべきなのだろう。もちろん自分でね。「お手数をおかけして申し訳ないのですが、あなたがかき混ぜていただけますか」なんて言ったら、横っ面をひっぱたかれるからね。

今 ショパンを踊る

笠井瑞丈

今12月の公演に向けて
日々リハを行なっています
今回のテーマは
タイトルにある通り

今ショパンを踊る

全曲ショパンです
僕は今までショパンを
好んでは聞いてきてませんでした
何かキザなイメージを持っていて
なんか踊るのは恥ずかしいなという
思いがあり避けてきました

それでも今まで2回ショパンで踊りました

一回目は笠井叡さん振付
ピアノを高橋悠治さんが弾いてくれました
この時が初ショパンでした
ひとまわり大きな背広を
着て踊った感じがした

そして二回目はバレエダンサーの
下村由理恵さんに出演をお願いした舞台です
この時は上村なおかさんに由理恵さんには
ショパンが合うと言われショパンで踊りました

そして今回が三回目となるショパンです
今回も振付が笠井叡です
なので三度とも
僕の方からショパンに向かったのではなく
ショパンの方からやってきたと言う感じです

6月から週に一回と時間をかけて
ゆっくりと作品作りをしてきました
今回このクリエーションを通して
感じたことの一つですが
今まで気づかなかったのですが

笠井叡の踊りには確実に

ショパンがあるような気がしました
あまり今までショパンを使って
踊っているのは多くないと思いますが

なぜかショパンの旋律の中には
そして笠井叡のオドリの中には

旋律が踊り作り
踊りが旋律作る

そんな共通する
二つのものを感じました

踊りが先にあり音楽が生まれた
音楽が先にあり踊りが生まれた

どっちなんだろう

ショパンの音楽を通して父の
踊りのルーツを探る旅をしています

しもた屋之噺(261)

杉山洋一

新山口駅脇のホテルで原稿を書きはじめました。薄く透明な青空に、絵に描いたような小さな雲がひとつ、目の前にこんもり突き出た、小さな山のすぐ隣に棚引いています。ときどき、2,3秒のうなるような風音を立てて新幹線が通過してゆき、そこから、あの可愛らしい雲が噴き出されたように沸き立つのが、そこはかなとなく微笑ましく感じられるのでした。

10月某日 ミラノ自宅
来週に迫ったアルバニア滞在の日程が二転三転している。こちらはともかく、企画をしている大使館のみなさんは、さぞ大変だろう。ハマスの攻撃にイスラエル猛反撃とのニュース。2014年、イスラエルとパレスチナの国歌で母の悲しみをうたう曲を書いた、あの時の無力感。ガザの爆撃で死亡した母親の胎内から取り出され、5日間人工保育器で生きた嬰児シマーを思う。誰が正しくて、何が正義か。そもそも正義など存在するのか。ウクライナ侵攻とイスラエル建国、西側の矛盾を見事についた攻撃ではあった。子供の頃、父親に将棋の相手をしてもらっていて、敵陣を詰めかけた途端、決まってぴしゃりと「王手飛車取り」と角を張られたのを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
7月に東京現音計画の演奏会で聴いた Dror Feiler の音。耳を塞ぎたくなる、生理的に嫌悪感すら覚える程の爆音が、どこまでも続く。聴き終わると、耳は飽和していて、奇妙な焦燥感が体内に残っているのに気づく。理解出来なかったし、好きな音響でもない。ただ、彼がその音を、発さずにはいられぬ必然と、そこに至る切迫感に、胸が一杯になった。
ファイラーの人となりを何も知らずに聴いたが、後で読んだ彼の経歴には、彼は1951年テルアビブ生まれで、ストックホルム「イスラエル・パレスチナ和平のためのユダヤ人(JIPF)」会長と書かれている。彼の母は、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区の移動健康管理センターに勤めていた。
ミラノ日本領事館より緊急メール。サンバビラ広場でパレスチナ支持集会が予定されていて危険であり、日本人学校のあるアルザーガ通り、グアステルラ通り、サンジミニャーノ通り付近は、ユダヤ人関連施設が多く警備強化とのこと。日本人学校の真向かいはユダヤ人学校で、以前からイタリア軍が厳重に警護していたが、現在はその比ではないのだろう。

10月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための小品の題名を、「炯然独脱」とする。「慧眼」が最初に頭に浮かんで、「炯眼」から臨済義玄の「炯然独脱」。確かに、本條君から一柳さんと「禅」を意識した作曲を依頼されたが、「無」に拘り過ぎて音が未だ五線譜に載っていない。身体の裡には存在しているのだが。

10月某日 ミラノ自宅
ピラーティ「ピアノと弦楽のための組曲」を読む。時に生硬にすら感じられるほど、バロック的で生真面目な和声進行を、9度、11度、13度の和音で繋いでゆく。家人曰く、イタリア未来派的だと評したが、なるほど、堆くつみあげられた5個7個の和音は、未来派時代のファシズム建築の石柱のよう。言葉にするとフランス印象派のようだが、噎せるようなイタリアの匂いに満ちているのは、人懐っこい民謡調の旋律と、転回形を多用した滑らかな低音進行を敢えて避けているから。たとえばマリピエロが、絵画におけるデ・キリコのように、自らの未来派的特徴をより前衛的、進歩的に活かそうとしたのに対し、マリピエロよりずっと後年に生まれたピラーティは、出土した古代コリント風石柱をそのまま使って、古めかしく、温かい手触りの1925年の建築物を造った感じ。

10月某日 ティラナ ホテル
朝9時から夜7時半まで授業をやり、そのままマルペンサ空港に向かう。1年ぶりのアルバニア・ティラナの空港に降り立ったのは深夜1時。ホテルに着いたのは1時半。ミラノと比べ極端に暑い印象はなかったが、それは恐らく深夜だったからだろう。前日からティラナに入りしていた家人が、レストランから魚のグリルを取り寄せておいてくれたので、夜食を摂って就寝。9時間以上の授業の後の移動で困憊。

10月某日 ティラナ ホテル
アルバニア日本文化週間のため、アルバニア文化省から国立芸大でレッスンと演奏会を頼まれたのは良いが、首相が急遽芸大訪問を決めたため、日程が全て変更になった。3日間学生オーケストラと練習する予定は1日になり、1日学生オーケストラを使ってレッスンする予定は、キャンセルになった。大学を訪問すると、いきなり2時間ほど時間が空いたので、相談を聞いてくれという指揮学生とコーヒー片手に話し込む。オーケストラを振る機会は数えるほどしかなく、CDの録音に合わせて振ったり、指揮伴奏ピアノを使ってレッスンを受けなければならないのが不満だそうだ。基本的にロシア・メソードだから、それに則ったレパートリーを中心に、アルバニアの作品も学ぶ機会が多い。大学課程は1セメスターでロマン派交響曲を最低1曲は習得し、その他の作品を段階に応じて増やすのだと言う。
去年は、指揮の学生と指揮伴奏のピアニストの学生しか知る機会はなかったが、今年は弦楽オーケストラの学生とも関わるので興味深い。彼らが全体でどのレヴェルなのか分からないが、特に高くも低くもない。アルバニアの学生は決めた事を堅実に実行する習慣があるのか、自由闊達にやってほしいというと、最初は戸惑っていた。直線直角は得意だが、曲線や波線で輪郭をなぞるのに馴れていない印象を受ける。皆明るく素朴で、素敵な若者たちであった。

10月某日 ティラナ ホテル
17時からのドレスリハーサルのため大学に赴くと、アルバニア政府関係者がそっと近づいてきて、耳元で囁やいた。「これより、首相の奥さまが急遽学校見学にいらっしゃることになったので、申し訳ありません、20分ほど外で時間を潰してきていただけますか」。
なるほど保安上の理由から、学内は一時的に全館立入禁止になるようであった。ちょうどばらばらとオーケストラの学生たちが集まり始めたところで、理由を説明すると「ああ、うちの政府ときたら…」と絶句して、皆揃って落胆している。芸大の学長と現首相が懇意なので、しばしばわれわれ学生はこうして振り回されるんです、やり切れません、本来あるべきではないことでしょうが、と言われる。指揮の教授からも、政府の混乱に貴方がたを巻き込み申し訳ないとメッセージが届く。
アルバニア国立芸大は1920年代のイタリア統治時代に建てられた、端麗なファシズム建築で、入口のファサドの格子柄が美しい。入口は3階まで吹き抜けになった明るいアトリウムとなっていて、この建築物に1920年代30年代にレスピーギやピラーティが書いた作品が響くと、不思議なくらい溶け込むのだった。
家人が、平尾貴四男の「春麗」や、三善先生の「夕焼小焼」を大学教授陣と演奏するのを聴き、なんの先入観もてらいもなく取組んだ、純粋で情熱的な演奏に感銘を受ける。家人と「夕焼小焼」を弾いたメリタがこの曲をすっかり気に入っていて、メリタはまるでラフマニノフのように弾く、と家人はいたく感心していた。

10月某日 ティラナ ホテル
サラと息子による、ミラノ「ヴェルディの家」での室内楽演奏会。こちらはアルバニアで演奏会を聴けないので、サラの両親からヴィデオが送られてきた。シューマン、カスティリオーニ、ヤナーチェク、ブラームス3番というプログラム。サラも息子も本当に成長したと瞠目する。サラは、11月からボローニャのテアトロ・コムナーレで仕事を始める。実に伸びやかで豊かな音楽を奏でるようになった。その演奏もそれぞれ素晴らしいと感じたが、ヤナーチェクは愕くほど深く、大胆にこちらの胸を抉る瞬間が何度もあった。それまでは、二人とも慎重に表現する印象を持っていたから、これは本当に意外な喜びでもあった。

10月某日 ティラナ ホテル
二日間の指揮レッスンを終えて。皆とても真面目で、よく勉強していて好印象である。指揮のメソードが違うので、技術や解釈には一切注文は付けなかった。それぞれ、自由に自分が表現したいことを、目の前の音楽家と一緒に彼らの音を使って、その場で作りあげるように頼む。
予め決めてきたことを、頭の中で音を鳴らしながら目の前の架空のオーケストラに向かって振るのではなく、最初の一音を、どんな質感、どんなキャラクターで始めたいかだけを決めたら、そのアウフタクトに必要な情報を全て籠めるように集中し、そこから先は目の前のピアニストの眼を見て音を聴き、彼らとその場で作るのを愉しむように話すと、一様に最初はぎょっとした表情をするのが印象的であった。
これは、弦楽オーケストラの学生たちへ注文をつけた内容と基本的に一致している。皆が揃って「そんなことしていいんですか」という表情をするので、こちらは内心、いけない琴線に触れたかしらと危惧したが、その後すっかり表情も変わって感謝もされたので、何か感じるものはあったのだろう。それで良かったかどうか、正直わからないけれども。
作曲も指揮も、自分が望む表現を自由に実現できなければ成立しない。作曲指揮のみならず、演奏、芸術、表現全般において、他人に押し付けられた表現の再生産では、おそらく最終的には成立し得ない。そして、将来的には人工知能で事足りるのではないか。一方的に指揮者に強制された演奏を続けるオーケストラも、きっとどこかで破綻する。
ひいては我々の人生における選択の一つ一つも、他者から提案された選択の可能性であれ、最終的に自発的、自主的に決定した内容でなければ何時か破綻するのかもしれない。
明朝3時半、ホテルに空港行きのタクシーが迎えにくる。

10月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやり、朝8時から山田剛史さんのピアノコンサート配信で、「君が微笑めば」の演奏をみた。家人曰く、山田さんが未だ7歳か8歳のころ、家人がソアレス先生に山田さんを紹介したばかりにピアニストになってしまった、と今も彼のお母様に笑われるらしい。
一週間前、高校、大学と作曲の同期だった星谷君のお父様と電話で話した。何十年かぶりだったが、大学時代の名簿にある電話番号にかけてみると、そのまま使われていた。
お父様の声は昔と全く変わっていなかった。「足の調子がちょっとね、だからなかなか遠出できなくなってしまって」と笑っていらしたけれど、お母様は数年前にお亡くなりになっていた。「今は目の前で伸太郎の隣に並んでいるよ」と伺い、お電話を差上げたことを深く後悔した。
衝動的についお父様に電話しようと思い立ち、一度は躊躇ったけれど、これもきっと伸太郎君の気持ちではないかしらと、つい、お電話してしまった。或いは正しかったのかも知れないし、とんでもない間違いをしたのかも知れない。

閑話休題。山田さんは、「君が微笑めば」を弾きだした瞬間、音が綺羅星のように耀くのをみる。30光年遥か向こうで、微かにやっと明滅を認めるばかりの自らの姿。アルテル・エゴ(分身)ほどの身近な感覚もなく、ただ遠過去の一点に置き去りにした、意識の一部のようなもの。
ただ、当時全く気付いていなかったが、冒頭のモティーフは、毎日こうしてミラノで聴いている教会の鐘の音そのものであった。あれは旋律ではなく、朝陽が乱反射する、強烈な郷愁を誘うような山田さんの音のように、高い鐘楼に並んだ鐘が、澄んだ朝、偶然紡ぎだす旋律そのものであった。
まるで、ソラーリ通りを下った先、デル・ロザリオ広場の教会の鐘にそっくりじゃないか、そう自分の裡の誰かが呟くのを聴いて、30年前の自分が覗いていた、現在の自分に気づく。
理由はわからないが、聴きながら何度か目頭が熱くなり、演奏を聴き終えて、ちょっとうまく言葉が発せなかった。隣の家人に向かって何か言おうとすると、喉が詰まって涙が零れそうになるので、困ってしまった。こんなことは初めてで、すっかり当惑してしまった。
少なくとも、自作に感動したのではない。山田さんが無心で奏でる音は純粋に胸を穿ち、電話口の向こうで、少し言葉につまっていた星谷君のお父様の声が聴こえ、30年後の自分に向かって語りかける、若々しい自分の声と言葉に愕き、彼が亡くなって、同期の皆が集い彼の遺作CDを作った時のことを、ほんの少し、思い出したからかもしれない。よくわからない。

10月某日 三軒茶屋自宅
The Palestinian people have been subjected to 56 years of suffocating occupation(56年間占領下の息のつまるような56年に曝されてきたパレスチナ人)。グテーレス国連事務総長のこの言葉の意味は大きい。
単に自分は戦争に対して慄いているだけだろうか。今回ばかりはイスラエルもアメリカもイギリスも、大きな過ちを犯したのかもしれない。そう考えると、ふと怖くなる。
これから1世紀後、地球上の経済勢力図は、当然現在と全く違ったものになっているとして、今回のSNS時代におけるイスラエルのガザ爆撃は、もしかすると欧米諸国の衰退、崩壊の具体的要因になりかねない危機かもしれない。そうならないよう切に願う。
小学生の終わりだったか、既に中学生だったか、渋谷ユーロスペースで見た「水牛楽団」コンサートが、最初ではなかったか。「パレスチナのこどものかみさまへの手紙」で、美恵さんが薄く大きなタイコを叩いていて、悠治さんがトイピアノを弾いていたように記憶している。或いは違っていたかもしれないが。
狭い会場はぎゅうぎゅう詰めで、今にして思えば、一体どんな聴衆が集まっていたのか。周りの殆どは自分より年上だったが、自分を含めわれわれは何を感じ、何を期待していたのか。何かを共有しようとする熱気のようなものを、朧気に覚えているのだけれど、何を求めていたのだろう。
ただ、軽快な音楽に皆で一緒に身体を揺らして聴き入っていたわけではないと思う。幼かった自分ですら、よくわからないが、そうではない何か、を薄く理解していた。

10月某日 新山口 ホテル
最終便で22時半、宇部空港に降り立つと、得も言われぬ感激におそわれる。コロナ禍前、毎夏秋吉台を訪れていた頃が、ただ無性に懐かしい。ホテル脇のコンビニエンスストアで弁当を買って夕食にする。弁当には白米が入っていない。レジで少量、普通、大盛を指定してその場で詰めてもらう。気のせいか、山口は白米好きな人が多いような気がする。
町田の母から、今月二輪目の月下美人の写真が送られてきた。前回を上回る大輪である。最近、彼女はまたピアノを触っているという。簡単なバッハの楽曲など、指に負担のかからないものを弾くのは、時間も忘れるほどの愉しみらしい。確かに、バッハなど、頭の中で絡みついた蔓やら、さび付いた扉など、少しずつていねいに解して、磨いてくれるような気がする。

10月某日 新山口 ホテル
駅前で田中照通先生と再会。お元気そうで嬉しい。タクシーに同乗して芸術村へ向かう。その道すがら眺める、美祢の風景が心を打つ。
今までは青々とした真夏の美祢しか知らなかったが、今目の前に広がっているのは、秋めいた黄金色の姿である。とても暑い場所だとばかり思いこんでいたが、この時期、気温はあまり東京と変わらずひんやり涼しい。冬になれば、時に雪すらも積もると聞いた。
田中照通先生の作曲による、山口の誇る画家香月泰男の手記に基づく70分ほどのオラトリオを、山口交響楽団、美祢の合唱団さくらなど、自分以外全員、山口県の皆さんと一緒に、芸術村開村25周年を記念して演奏することになった。演奏者、関係者は皆明るく、本当に気持ちの良い人々ばかりである。
香月は、1945年から47年までの悲惨なシベリア抑留体験を、克明に描いた「シベリア・シリーズ」で知られる。彼が1945年最初に収容されたセーヤ収容所は、奇しくも、今まで演奏会のために2回訪れたことのある、クラスノヤルスク郊外にあった。それを知った時には、少し信じたくない気持ちにすらなった。
クラスノヤルスクで会った人々は、皆心温かい人々であった。街並みは美しく、料理はとても美味しかった。クラスノヤルスクで食べた、ウーハの魚スープが忘れられず、今も家人が真似して作ってくれる。ホテルの前を流れる雄大なエニセイ川は神秘的な水面を湛えていて、毎朝立ち昇る水煙に噎せるのをみた。
収容された旧関東軍俘虜1万人の1割が、栄養失調と過労で死亡したと言われるセーヤ収容所は、演奏会をした国立オペラ劇場裏からレーニン通りを4キロほど下った、シベリア鉄道クラスノヤルスク駅の鉄路を少し北へ進んだ辺りにあったようだ。その情報が正しければ、現在は色とりどりの背の低いガレージが並ぶあたりだろう。
クラスノヤルスクを訪れた時、日本人墓地へ連れて行って欲しいと頼んだことがあったが、ここからは少し遠くて行きにくいんです、とやんわり断られたのを思い出した。日本人墓地は、収容所からずっと山の方向、西へ下った、広大な墓地の一番奥の一角にあって、香月の戦友たちは今もここに眠る。
照通先生のオラトリオは、苛烈な香月のテキストを、時には調性を浮き立たせながら、音列と音程操作を用いて淡々と書き進められ、余分な情感を排した精緻で透徹な筆致が、むしろ悲しみを際立たせている。
「意図せずとも、ずいぶん現在の地球の世情を反映した上演となってしまいましたね」、そう照通先生に話しかけると、「平和は、元来戦争と戦争の谷間に許された、ほんの一時の休息でしかない、そう読んだことがあります。悲しいかな、人間は古来、戦争をしている時代が普通なのだそうです」。

(10月31日 新山口にて)

「渾沌」の歌

越川道夫

今年の金木犀は、香ったと思うとすぐに満開になり、満開になったと思ったら強い風に散ってしまった。昨年はひと月ほど早く咲き始め、散った後もまた蕾を膨らませて二度咲いたように記憶している。今年の金木犀はとても儚い。もう少し長くあの花の香りが町中に香るのを楽しんでいたかった気がする。
 
金木犀がどこからか香る季節になると思い出すことがある。小学校の頃、ということは今から50年近く昔のことになるが、学校で急に高熱を出し搬送されたことがある。原因は分からない、風邪気味だったわけでもなく、それまではピンピンしていたのだから周囲の人たちは皆首を傾げていた。熱を出した当人は、もちろんそれどころではない。しかし、子供の急な発熱など珍しくもないのだから、と思っている父に、母が、まるで取り乱したように訴え出したと言う。うちの玄関の脇に柘植の木と金木犀の木が植えられている。その強い柘植の枝が伸びて金木犀の木に当たって傷つけている。金木犀は、あの子の木だから、それで急に熱を出したのだ、と。早く金木犀を傷つけている柘植の枝を払ってくれ、切ってくれ、と母は何度も譫言のように繰り返したという。
 
家の玄関の脇には確か柘植と、その隣に金木犀が植えられていて、確かに柘植の枝が伸びて金木犀に当たっている。しかし、その二つの木は庭を作ってくれた庭師がただ植えてくれたもので、金木犀は「あの子の木」というような謂れがあって植えたわけではない。ただ母があまりに憑かれたように懇願するので、訳がわからないながら父は彼女の言う通りに、柘植の枝を払った。すると、私の高熱はすぐ下がったのだ。母がそのようなことを譫言のように言い出したのは、後にも先にもそれきりである。私の熱が下がってしまえば、そう言った母自身も、そんなこと言いましたっけ、くらいの勢いでけろりとしている。金木犀が母に憑いて、自分を傷つけている柘植の枝を切らせたか。よく分からないが、それ以来、うちでは「金木犀」は「私の木」ということになった。あれから随分と時間が経って、父も母も老いたが、金木犀はまだ玄関の横にあって秋になれば花をつけ、周囲にあの花の香りを漂わせている。柘植の木は、もうない。
 
この秋は、ずっと石川淳の短編小説ばかりを読んでいた。読んだからどうするということでもないのだが、何か今読まねばならないような気がしたのだ。何度目かの再読である。「佳人」から始まり、「普賢」「山桜」「葦手」「雅歌」「処女懐胎」と、とにかく思いつくままに読みたいものを次々と読んでいく。小説でも映画でも面白いもので、若い頃に読んだ時はもちろん、ちょっと前に読んだ時とも感触が違う。今回は、まるで水が染み通るように石川淳の小説は私の中に入ってきた。さらに「鷹」「秘仏」と読み続けて、「紫苑物語」を読み終えた時、深いため息が体の中から出た。「紫苑物語」は、もはや「小説」でも「物語」でもないのではないか、と思ったのだ。この一編を批評する言葉を私は持たない。「小説」でも「物語」でもないとすれば、それは何だ、と問われれば、強いて言えば、それは「歌」だと答えるかもしれない。平安の頃の話だろうか、歌道の家に生まれた宗頼は、歌道を否定し弓に憑かれるが、狩りをしても何をしても森羅万象に対して自分の中に、それは自らに禁じた「長歌短歌のたぐひのもの」とは違うにいても「いかなる方式も定形も知らないやうな歌が體内に湧きひろが」っていると悟るや、それも否定する。弓で命を奪うことは、具体的なことである。「死」は「死」であり、「殺」は「殺」である。宗頼は弓で命を奪い続け、その體内に湧き広がる「歌」を殺す。血が流れた跡に、「わすれさせぬ草」である紫苑を植える。宗頼の「殺の矢」に命を奪われたものたちの夥しい血を吸った地面には、夥しい数の紫苑が植えられる。そしてついに「救い」をも宗頼は殺し、自らも谷底深くに落ちて死ぬだけでなく、愚かな一族郎党もすべて滅ぼしてしまう。人が絶えた後に残ったのは、「紫苑の茂み」である。そして、風雨を受けて、「そこに歌を發した」。愚かな人間が去った後に残ったのは「紫苑の茂み」と「歌」である。
 
「紫苑物語」は、その最後に残った「歌」を「鬼の歌」と呼ぶが、読み終えて「鬼」とは別のものを思った。中国の古い神話に「渾沌」という怪物がいる。神かもしれない。諸説あるが、「渾沌」は、目、鼻、耳、口など七孔がなく、手厚くもてなしてくれた「渾沌」の恩に服いるために七孔を「渾沌」にあけたら、「渾沌」は死んでしまったという。脚が六本と四枚の翼。腹はあるが五臓がなく、徳のある人がいると、出かけて行ってぶつかり、凶悪な人がいると、近づいていって擦り寄る。いつも自分の尻尾を咥えてくるくると回り、天を仰いで笑っている、という。この「小説」は、「渾沌」が歌った「歌」ではないかと思ったのだ。目も口も耳もない「渾沌」は、どんな「歌」を歌うだろうか。「渾沌」は歌うだろうか。

日記

植松眞人

 二十歳の秋に日記を付け始めた。その日記はいま実家の押し入れの段ボールに詰め込まれているので、日付まではわからない。けれど、日記を付け始めたときのことはよく覚えているのだ。
 確かNHKのテレビ放送で南方熊楠が取りあげられていて、そこに熊楠が綿密に書き込んだ日記のようなものが映し出された。筆で書かれたのか踊るような文字で、草木のことが書き込まれ、その横には隙間を埋めるようにビッシリと草木の絵が描かれていた。それを見た瞬間に胸を打たれてしまい、書こう、今日から日記を書かなければと思い立ったのだ。
 それが二十歳の秋だったということを覚えているのには理由がある。高野悦子の『二十歳の原点』を二十歳の間に読まなければと読んだ記憶があるからだ。高野悦子の日記を読んでも日記を書こうと思わなかったのに、なぜ熊楠の日記を読んでせき立てられるように日記を書こうと思ったのか。なぜだろうと確かに考えていたので、私が日記を書き始めたのは二十歳に違いない。さらに、思い立ってすぐに駅前の文房具屋に行ったのに、今すぐ使い始められる日記帳がなかったのだ。日付を自分で書き込めるタイプのものがなく、日付の入ったものも翌年の一月からスタートするものしかなかったのだ。私は文房具屋のおばさんに「途中からでも書きたいので、今年の日記帳はないですか」と聞いた。すると、おばさんは「もう十月だからねえ」と言ったのだ。
 夕方のテレビを見て、日記を書くことを思い立って駅前の文房具屋まで自転車を走らせた半日のことを四十年経っても私は覚えている。私が日記を付け始めたのは二十歳の秋、十月なのである。
 私はもう四十年も日記を付けているのか。しかし、あの日、私にそう思わせた熊楠のような日記は書いた試しがない。途中で堂々と何ヶ月もサボったりしながら、なんとか書き継いできたのは日記と言うよりもメモに近いもので、最初のうちは一年分の日付が振られた、いわゆるダイアリー手帳のようなものを使っていたのだけれど、途中からは普通のA5版のツバメノートを使っている。予定は書かず、だいたい一日の終わりにその日の出来事を書くのだ。二十代から四十代くらいは自分でも感心するくらいによく働いたので、一日を記録するだけで数ページにわたって書き込むこともあった。
 ところがである。ないのだ。書くことが…。仕事のことを書こうとしても、集中力がないから一日にそんなにたくさんの仕事をすることができない。結局、日記に書くのは、息も絶え絶えな仕事の欠片のような記述ばかり。
「午前中、電話で三十分ほど打ち合わせ」
「頼まれていたウエブサイトのコピーを半分ほど」
 これだけ書いて、まだ三分の二ほどが白紙のままのノートをぼんやり見ているのだ。そして、白紙を埋めようと、「昼は大島屋で鴨南蛮」と書いてみたり、「コンビニでガリガリ君」と書いてみたり。
 もう今となっては、である。明日書くことは今のところ何にもない。明後日は仕事の打ち合わせがあるのだけれど、明日は何もない。何もないけれど、白紙のままにしてしまうと、おそらく明日を境に日記は書かないことになるという予感がする。そうならないようにするためには、何か書かなければならないのである。何かを記録するために日記があるのか、日記を続けるために何かをするのか。そんなことをぼんやり考えていると、歳を取るということがほんの少し見えた気がするのだった。そして、まだ二十代の娘が昨日買ってきたという来年の手帳は次に私が使う新品のツバメノートよりもなんとなくピカピカとして見えるのだ。絶対に気のせいだけれど。(了)