夜の山に登る(5)

植松眞人

 結局、僕らは仕事で絡むことはなかったけど、時々会っては、お互いの会社の愚痴を言い合ったり、東京でのせせこましい暮らしについて話したりするようになった。月に一回は会ってたな。あんたのマンションにも立ち寄るようになって、美幸さんの手料理をいただいたり、純平君とも遊んだこともあった。知美ちゃんが生まれたのは、僕らが再会して、一年ほどしてからやったかなあ。あんたも「女の子は格別やなあ」いうてえらい可愛がりようやった。美幸さんも純平君も幸せそうやった。僕はまだ結婚してなかったけど、結婚を約束した人が社内にいて、あんたとこみたいに幸せな家庭を築きたいと思てたんや。
 美幸さんから僕のスマホに電話がかかってきたのは、知美ちゃんが生まれて一年ほどしたくらいやった。よう覚えてる。知美ちゃんの誕生月は僕の母親と一緒やから。僕の母親は、自分の誕生日が近づいてくると、プレゼントを催促するような人やったから、母親のプレゼントを買うとき、一緒に知美ちゃんのプレゼントも買おうと思ってたんや。
 僕は半年ほど前に埼玉の拠点に転勤になって、あんたと会うタイミングがちょっとだけ難しなってた。「知美がどんどん可愛くなってるんや」というメッセージがあんたから送られてきたのが三ヵ月ほど前やったかな。「今度の休みにちょっと遅くなるけど、知美ちゃんの誕生日プレゼント持って会いに行くわ」と返信したなあ。けど、新しい拠点での仕事が忙しくて、結局行けないままになってた。今度の休みと言っていた日から二ヵ月ほどもたった昨日、スマホに美幸さんから電話が入った。
「急に電話をしてすみません」
 美幸さんの声が沈んでいた。
「どうしました」
 僕が恐る恐る返すと、電話の向こうは黙り込んだままになった。僕はその沈黙には大きな意味があり、その意味が暗く重いものだという予感がして、何も切り出せないまま、互いが黙り込んだ。どのくらい、僕らが黙ったままやったのか、思い出せない。ただ、とてもかすかな声で、美幸さんが、あの人が二日前から帰ってこないんです、とだけ言った。
 その時、僕は思い出したんや。高校三年のあの日の夜、僕の家の前であんたが言うた、「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」と聞いた言葉や。僕は美幸さんに言うた。
「たぶん、関西にいると思います。きっと里心がついたんと違いますか」
 できるだけ、明るい声で僕は言うた。けど、美幸さんはもう何かを覚悟をしたように、唇を食いしばってる姿が見えたような気がしたな。(つづく)

立山が見える窓(3)

福島亮

 帰宅してまずするのは、ベランダの野菜たちへの水やりだ。タンクを満タンにしておいた加湿器が数時間後には空になって自動停止してしまうように、この時期はいくら水をやっても、気がつけば土の表面が乾き、葉がしんなりしてくる。とくにミニトマトとピーマンは蒸散の量が多いのか、一日に二度、早朝と夜に水をやらないと実のつき方が悪くなる。ピーマンに至っては、実の下部が腐り始める。尻腐れ病だ。

 植物に水をやるために行き来する居間は高温である。越してくるまで、富山といえば雪国で、雪国であるからには涼しいものと思い込んでいた。フェーン現象という言葉を聞いたことはあったけれど、それが何を意味するのかまでは知らなかった。今の住まいには、入居時にエアコンが付いておらず、ずるずると設置を先延ばしにしていたのだが、先日、ありがたいことにエアコンを無料で譲ってくれる人がいた。おかげさまで、帰宅後すぐにエアコンをつけられるようになった。しかし、室内の熱は執拗に残り、息を詰まらせる。汗を流しながらの水やりは、その息苦しさを紛らわせるための時間でもある。

 いくら水をやってもだめかもしれない。ふと、そう思う。ここしばらく雨が降っていないから、鉢の中に熱がたまりっぱなしなのだろう。ミニトマトの葉の色はくすみ、ところどころ枯れ始めている。それとも、もう収穫の時期が終わり、枯れていくころなのか。いずれにせよ、早朝と帰宅後の水やり程度では、この暑さと雨不足に太刀打ちすることはできないようだ。

 人間の意思や努力、あるいは期待ではどうにもならないものがあることを、これら不憫な鉢植え植物たちは教えてくれる。同様のことを、富山城址公園で死んでいった107羽の鷺たちも警告しているのだと思う。5月頃だったろうか、夜、城址の前を通ると、怪鳥の叫びのような声が鳴り響いていた。あれはきっと、子育て中の親鳥の声だったのだろう。鳴き声や糞に対しては、苦情もあったに違いない。市としては、松を伐採すれば、騒音問題の元凶である鷺たちがどこかに行ってくれるものと思っていたらしく、巣のあった松の木を伐採した。だが実際には、巣立つ前の若い鳥たちは、どこへも行かず、飢えと疲れによって次々に死んでいった。よく「生存本能」という言葉が用いられるが、この鷺たちの死は、その本能なるものが思っているよりもずっとか細く、脆いものであることを知らせてくれる。

 邪魔なもの、迷惑だと思われているもの、視界から消えてくれたらいいのにと思われているもの——その住まいを破壊し、居場所を奪い、どこかに出ていくよう仕向けたところで、そう易々と出ていくことはなく、破壊されたかつての居場所は墓場になっていく。この107羽の鷺たちは現実であって寓意ではない。それでも、あたかも現在進行形で起こっている虐殺の寓意であるように思えてならないし、排外主義がもたらすものの寓意であるようにも見える。

 そんなことを考えながら、プランターに生えた細かな草を抜いていた。せめてものケアをしておきたいと思った。ツルムラサキの土から生える草を引き抜いたとき、芳香に手が止まった。ツルムラサキを植える前に同じプランターに植えていたエゴマの香りだ。うまく育たず枯れ始めてしまったので、エゴマを抜いてツルムラサキを植えたのだった。あのときのエゴマが、知らぬ間に種子を落としていたらしい。

 抜いてしまった方がよい邪魔な草だと思っていたその小さな植物を、もう一度プランターに植え直してから、もう一度、水をやった。

活発な雨雲あんだー不安

芦川和樹

フローラが歩幅を
正確に測る。路上には黄いろい
黄色、き、イエロー
点字ブロックが延びて、フローラ
フローレンスの手先には
雷、か、いなづま、みなりが
残る。絡んでほどけないのよ
あの辺りの闇があすか
いつかの雨雲(徒歩)だろうね
切り絵は
ラ、いいえラじゃない
正月を見据えて
キャリー、荷物のことが
フローレンスの頭を
(翌日の台風を知らせる)よ、ぎるのです
フローラの傘は
おぼつかない足どりで
左頬に吹きつける風
を折りたたむ、たたまなきゃ
歩けないじゃないか
肩に
肩の柵に
凭れて、もた、れて
塗り絵をもとにした
スモークの完成もうすぐ、を鼓舞する
弓矢で
貫ける心臓がたくさんあーる
フローラの雷
すこしだけ走ってみる雨具、雨雲
すぐに止まる
すぐに思いだす
すぐにクリームパンを食べたい
おへそを渡さない
歩幅をそろえない
足跡につばを吐く
うそできるだけ汚さない
固定する(フローレンスの金槌、づち)
固定したものを疑う
ヘリンボーン。ヘリンボーンと

いったところでいくつかの冠が割れる、錆びていたとしても。雷は当たる。塩振る。塩は「冠が割れたね」という。

サザンカの家(七)

北村周一

またはキンモクセイ忌に寄せて

さざんかの花と知りたる秋にしてこの世の闇のさかい目のどか
はじめての秋を迎えしこのいえの重みに堪えてひらくさざん花

新たなるここがわが家と枝枝にひらく山茶花おもたくもあり
とりどりのサザンカのはな前にして 父なき年のひととせ想う

これよりさきいろいろのことが起こるらしくみいろ揃いし山茶花不穏
闇深くまよい来たれる花びらのような足あと踏むもののあり

わけあって いえの敷居をまたぐとき 一歩手前に踏みとどまるとき

いちにち置いて
つづく命日
はや九月 
銀のモクセイ 
金のモクセイ

花のいろは地(つち)の上にも宿るらし 金の木犀散りゆく宵は 
堕ちろというこえに振り向く一夜ありて 金木犀のちりぎわみだら

介護カラ裁判ヲ経タル歳月ヲ越エテ匂エル木犀ノ花
フェンス越し花の木の下モクセイのかおり褒めなば布教をはじむ

はなコトバひた向きなれば声ありて ツヨクイキヨとみみに囁く
ほのぼのと冬のおとずれ待つように花咲くところサザンカの家

わが家にもメジロ来ており ゆく秋の庭の山茶花そろそろ見ごろ
さざん花の蜜吸いにくる野のとりのうごきに連れて枝葉はゆるる

サザンカの赤白もも色ありましてにぎにぎしけれ古淵のいえは
夜になるといきおいを増す山茶花のはなのみいろを数えおるなり

サザンカのおぼえめでたき秋の日や クルマ替えたりしちにん乗りに
家族みなの席あるようにミツビシはシャリオ・リゾート・ランナーとする

さざん花のはなもそろそろ終わりねと垣根を白きマスクは行くも
かぜ吹けばはらりはらりとどこへやら足あとのような花びら散らし

山茶花のはなの散りぎわ見るようにひとりまたひとり離れゆくらし
ちりぢりにちるを厭わぬサザンカのはなの終わりはやさしくもあり

さざんかの花ちり終えしにわかげにくらく仄浮く売家の文字は
売りに出すいえ一軒のさぶさかな 冬至を過ぎてイヴ待つ宵は

常永久の愛とつげられ見かえれば眩暈のごとく古家ありけり
古家ひとつ売りに出だせば矢庭にもさやぎ立ちたるサザンカの闇

根元から伐ればほのかに香り立ち花いろおもい出せずにゴメン山茶花
散りもせず落ちもせずして枯れのこる花のサザンカ春待つごとし

新まりし
秋もほろほろ
冬は来て
春を待てずに
夏の烈しさ

行き止まり数多置かれし路地のうら 大洪水の予感みたしめ

日を置いてほつりほつりともどり咲くサザンカふるき花々散らし
しろ咲けばぴんくほころびまたも赤 寒色系は見ずや山茶花

チンチロリン舞うをよろこぶさざん花のはなのきおくは螺旋をむすぶ
そらぐみの吾子の描きしクレパス画ユスラウメこそ春呼ぶごとし

どこへでも飛べるおもいに指のさき伸ばし伸ばして羽根生ゆるまで
サザンカ三色咲いたとてメジロ来ずミツバチもスズメも消えてさみしい秋だ

ばっさりとオオハナミズキ打ち払われてここより先はよそさまのお宅
サザンカのかきね見事に刈り揃えられわっさわっさと前進するも

号令なしにはどこへも行かないサザンカの垣根はのこりハナミズキゆきぬ
えんえんとつづくおうたのさざんかのかきねのかきねの曲がり角は見ず

『アフリカ』を続けて(50)

下窪俊哉

 個人的に激動だった7月が過ぎて、予定より遅れに遅れた『アフリカ』vol.37(2025年8月号)も入稿、私の手を離れ、いつものニシダ印刷製本にお願いしてある。8月はじめには完成する。スンナリ出来なかったものであればあるほど愛着も増すというもので、語れること、書けることがたくさんあるが、今月は「どんな内容なの?」に応えるものを書いてみよう。

 巻頭を飾っているのは、本人曰く”道草の家のWS(ワークショップ)練習生”であるスズキヒロミさんの「「藤橋」覚え書き」。さいたま市の史跡に「藤橋の六部堂」というものがあるそうで、その「藤橋」にまつわる伝説を筋書きにした前半部と、昭和45年にその資料が発見された経緯を書いた後半部からなる見開き2ページ。「道草の家のWSマガジン」に2回に分けて書かれたものをまとめ、加筆・修正したもので、スズキさんにはさらにこの先の話を書きたいという気持ちもあるらしい。「書きたいことを書いてください」というと自分のことを書く人が多い中で、「藤橋」の話は書き手が子供の頃に住んでいた地域にまつわる歴史を素材にしている。その文章の、何とも言えない素朴な感じに、私は惹かれた。
 目次と、例によって真偽の入り乱れたクレジット・ページを挟んで、現れるのはカミジョーマルコさんの絵「スターの引退」と、その裏話を伝えるコメント。これも絵は「WSマガジン」からの転載だが、コメントは初出。カミジョーさんもこのコメントの続きを書きたい気持ちがあるそうだが、短く言い切るからこそ伝わる何かもあるような気がしている。

 今回は全96ページ。歴代の『アフリカ』の中で最も厚い。いま書きながら気づいたのだが、vol.31(2020年11月号)も同じページ数で、そこにも私の長いお喋りが掲載されていた。その時は『音を聴くひと』という私の作品集をつくった直後だったので、その本にかんして数人から問いかけをいただいて、それに応えるかたちで、架空の人物との対話文をつくったのだった。ある種のフィクションと言えるだろう。
 今回載っているのは、完全なフィクションではない。今年の春、3月1日(土)の朝と夜のお喋りを再現したものだ。
 朝の舞台は、大阪・梅田の喫茶店で、同人雑誌『VIKING』の元編集人・日沖直也さんと約10年ぶりに再会して、『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』を読んでもらった感想をとっかかりにして、「富士正晴の影響を追って」思いつくままに語り合っているドキュメント。
 もうひとつのお喋り、夜の部は、岡山に舞台を移して、この連載ではお馴染みの守安涼くんとビールを飲みながら話したもの。彼が最近、力を入れている「サイレントブッククラブ」や「おかやま文学フェスティバル」をはじめとする文学創造都市おかやまの取り組み、『夜の航海』と『夢の中で目を覚まして』というアフリカキカクの新刊にかんする裏話や、イベントのためにつくられたZINE(自宅や会社のプリンタを使ってちょっとつくってみた小冊子)がどういったものだったかを紹介したりと、盛りだくさんの内容だ。
 そこに書かれているようなお喋りを、私は長年にわたってくり返してきたが、文章化して発表するのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 今回も久しぶりに会って話すのに、ボイスレコーダーなどを回して録音しようという気にはならなかったが、とても印象深い語り合いで、別れた後すぐに「これは書いておきたい」と思った。自分自身で、覚えておきたいと思うのだ。移動中にメモをたくさん取った。後日、それを眺めていたら、これを独占しているのは勿体ないような気がしてきた。メモをそのまま発表するわけにはゆかないので、どうするかというと、その時の対話を思い出して書けばよいのだ。「富士正晴の影響を追って」と「岡山にて」は、そんなふうにして出来た。もちろん対話には相手があるので、見てもらって加筆・修正が大胆に行われ、完成形になった。本来、文学作品とはひとりの作者で完結するものではなく、複数人で書かれるものである。これでよし!
 日沖さんによると、「こんなふうにさっとでっち上げられる手腕に、またもや、のんしゃらんな気質を感じます」とのこと。「のんしゃらん」を調べたら、フランス語の「nonchalant」から来ているとのことだけれど、かつて山田稔さんがパリから『VIKING』に書き送った連載「フランス・メモ」(後に『幸福のパスポート』という本になった)の影響も大きいのだろう。対話の中の私も、思わず「山田稔の影響を追って」いきそうになっている。何しろ我々は生前の富士さん本人には会ったことがなく、山田さんとは酒を酌み交わしたりしていたのだから。

 私、下窪俊哉の「とりあえずの二〇〇六年」は、この連載の(33)〜(36)、つまり『夢の中で目を覚まして』の最終章を含め、その後の数回をまとめて加筆・修正したものだ。続編を本にするのは、おそらく2年後くらいになるはずなので、ここで小出しにしておいたのだが、この後どうなるかは例によって自分にもよくわからない。

 犬飼愛生さんの詩「おあいこ」は、昨年の秋に書かれていたものだが、海水浴に行ってくらげに刺された子供の声が描かれている。そこに私は、大人になった(かつて子供だった)詩人のイマジネーションの働きを感じ取り、その出来事が描かれた「絵にっき」の内容が気になる、と原稿が送られてきたメールの返信に書いた。そこから何ヶ月もかかって、ようやく出てきたその「絵にっき」のクラゲが、本当に絵に描かれたようで、素晴らしいと思った。

『アフリカ』初登場、奥野洋子さんの「僕のガールフレンド」は、書き手の母のいとこ(いとこ叔母)のアメリカ人のパートナー(いとこ叔父)と亡くなる直前に初対面し、その死に立ち会った経験を語るエッセイ。この原稿も昨年・秋に読ませてもらって、度重なる改稿の末にかたちになったもので、思い入れの深いものだ。身近なひとの死は誰でもいつか体験するものだが、ここに描かれているのは、身近に感じていたけれどいま初対面になる異国のひとの死であり、ユニークだ。ある程度の時間を経てから、その記憶を書き留める私、という存在への眼差しもある。

 RTさんの「潜る」は、ハンガリーの映画監督タル・ベーラが、2024年2月に福島で開催した映画制作のワークショップを追った小田香監督のドキュメンタリー「FUKUSHIMA with BÉLA TARR」と、そのワークショップで生まれた作品集「LETTERS FROM FUKUSHIMA」について書かれたもの。RTさんは大阪と和歌山の映画館で観ているのだが、この原稿を読ませてもらっていた最中に東京のユーロスペースでそのふたつの映画の上映があり、私も実際に観た。『アフリカ』に載った原稿以上に、やりとりしたメールの文章が印象深かったような気もするが、それをそのまま『アフリカ』に載せるわけにはゆかないというのも、「書く」ということを考えるうえで重要なことだったのではないかと思っている。

 戸田昌子さんの「耳の祝祭」は、前号の「明け方、鳥の鳴き出すとき」の続編というより姉妹編のような短篇小説。おそらく、まだかたちにはなっていない大きな小説の構想があって、その一部を表しているものなのだということがわかる。ここに描かれている世界が未来なのか過去なのか、わからないけれど(おそらく前者だろう)、いつだって小さな救いは、どこかに見出すことが出来るのかもしれないといった希望を感じながら読む。違法薬物とされる植物をめぐる複数人の細やかな日常が描かれており、前作同様、音楽家・Kahjooeの作品に捧げられている。

 守安涼「お城とベンチ」は、同名のZINE(小冊子)写真集の再編集版。その小冊子は3月のおかやま文学フェスティバルにおいて限定部数制作・販売されたが、『アフリカ』の読者には殆ど届いていないと思われるので、それがどのようなものであったかを伝えるページをつくった。

 坂崎麻結さんの「正月日記二〇二五」は、これも「WSマガジン」に載っていたもの。坂崎さんは最近、横浜の本屋「象の旅」の片隅で「SCENT OF BOOKS」として本を売っていて、そこでは『アフリカ』も売られている。滅多に会うことはないのだが、私の日常とたいへん近いところにいる人であり、この「日記」でも、私が今年最初に観た映画を坂崎さんも同じように観ていたりして、他人事のように思えない。とはいえ、編集している私が、これを書こうと思って書けるものではない。それも、雑誌をやるということの愉しみであると言える。正月の記録を夏に読んで、最近のことだと感じられるか、もっと遠い過去のことのように感じられるだろうか。私には後者であった。

 UNIさんには、何となくの思いつきで、仕事の話を書きませんか? と連絡したら、すでに書いているものがあるというので、見せてもらった。それが今回、ラストに載っている「平日の朝」。このような日常は誰にでもあるだろうと思うけれど、それを書き起こす中には、何らかの創作が現れてくるようだ。「平日の朝」は1回ではなく、無数にくり返すのだと思って読むと、この1ページ分の短い文章もそう簡単には終わらない。

 今回はお蔵入りしてしまった原稿の多さも、印象深かった。書こうとしている内容にはどれも見るものがあり、私はそれらを何とかして載せたいと考えていたが、それが可能な状態にまで至らなかった。雑誌の編集人には、その原稿を載せるか載せないかにかんする権限はあるが、原稿を添削したり、勝手に手を入れたりするような権限はないと私は考えている。いくら載せたくても、載せられない原稿が出るのは仕方のないことだ。ただし今回は、自分の書いたある人の珈琲にかんする談話の原稿もボツにしてしまい、苦笑いしていた。

 編集後記でも触れたが、表紙の切り絵は、これまで誌面では未発表だったものである。向谷陽子さん亡き後、見つかった未発表作品は殆どないのだが、これはそのひとつだ。vol.11(2011年6月号)に類似する作品が載っているので、その時の別バージョンなのだろうか。あるいは、数年後に展示会をした際の新作だったかもしれない。その経緯がどういうものだったのか、知りたいような気もするが、現時点では手がかりがない。その、手がかりがないのも、『アフリカ』を続けてゆく力になり得るのではないか、という気がしている。

 これから、また地道に販売して、読者へゆっくり届けてゆくことになる。例によって、販売にかけられる力の弱いのが、悩みだ。印刷製本にかけた費用分くらいは、早めに売ってしまいたいのだけれど。でも、一気に売り切れてしまうよりは、ゆっくり売れた方が未来の読者へは届くだろう。

古屋日記 2025年7月

吉良幸子

7/1 火
気がづけばもう7月!近場で冨士塚祭りなるものがあるらしく夕方行ってみた。ものすごい人出やと聞いていたが、暑い中、細い路地に人がぎっしり。奥の方は蜃気楼のように霞んで見える。人混みに入っていく勇気は出ず、入り口付近にあったたこ焼き屋でお土産だけ買って家路を急いだ。もちろんお参りはちゃんとしたんやけど、お線香を買ったのに立てるとこがどうも見当たらず、結局持って帰ってきてしもた。程良い香りでええお線香やしうちで使わしてもらお。

7/7 月
お昼前、公子さんが急に、蕎麦屋のカツカレーが食べたくなった!ということで蕎麦屋へ。お昼間は近場のサラリーマンや土方のおっちゃんで満席状態。席についてすぐ、カツカレーふたつ!と給仕のおばあちゃんに注文する。量も多いがむっちゃおいしい。ふたりともぺろっと食べてうちへ帰ってどかっと寝る。

7/11 金
今夜は久方ぶりの時々自動の公演の日。今回は歌もあるけど映画メイン、映像と映像の間に歌が入ってて面白かった。映像がまたどこを切り取っても絵になるくらい美しい。内容は難解。でもむつかしく解釈しなくても楽しめるくらい綺麗やった。最後にはみんなが出てきての演奏。時々自動の歌は毎回音に圧倒されて元気をもらう感じ。今回も最高やった。

7/13 日
毎日暑いからって夜中も扇風機の風に当たってると夏風邪を引いてもた。だいぶ良くなってきたけど、今日行く予定やった兼太郎さんの落語会はキャンセル。むっちゃ申し訳ないんやけど亀戸まで乗り換えて行く元気はまだない。この前公子さんが調子悪かった時、蕎麦屋のカレーうどんを食べて汗かいたら良くなったらしく夕方に蕎麦屋へ。カレーうどんを頼むつもりが貼ってあった味噌煮込みうどんに目がいって、思い掛けず味噌煮込みの方を頼む。滝のように汗をかいて、白飯もかるうに一膳もろてかき込んで食べた。もりもりと力が湧いてくる感じ。ええお蕎麦屋さんが近くにあって助かった。

7/22 火
むちゃくちゃ久しぶりに役者の天辺さんがうちへやって来た。ホームページなどなどを私が制作したのでその手直しでちょっと打ち合わせ。ちょうどうちん中にいたソラちゃんは、天辺さんが大好き。喜多見のうちに天辺さんが来たときなんか、膝に乗せてもらって熟睡しておった。今回も隅々までマッサージされて恍惚の顔して机の上でゴロゴロ…現金なもんやで。仕事もそこそこに、公子さんも買い物から帰ってきはって、もつやき 新潟屋さんへ。ここはとにかく何でもうまい!お客さんが来るたびにここでたらふく食べてる気がする。

7/23 水
昼下がりに下北沢へ、10月から月イチで3回開催する落語・講談の会の会場の下見に行った。新宿で乗り換えようと思ったら、工事が進んだらしくよう分からん改札に出た。この頃は降りるたびに様子が変わるから未だにちょっと戸惑う。さて、会場のアレイホールで高座をどうするかあれこれと相談。10月の会は今までの寄席で裏方やってくれてた舞監の哲さんが来られないので音響のことまで色々と聞く。太呂さんまで途中から参加して、さてさてどうなることやら、楽しみになってきた。
打合せが終わってひとり末廣亭へ。7月下席は遊雀・伯山の交互トリでネタ出し。遊雀師匠贔屓な私にとっては観たいネタの日を狙って行けるしありがたい。今日は遊雀師匠の初日で「居残り佐平次」。居残りさんは川島雄三の『幕末太陽傳』のフランキー堺のイメージしかなく、落語で聴くのは初めて。遊雀師匠で観れるなんて最高!と勢いこんで新宿へ向かう。仲入り後から入ったらいっぱいのお客さん。顔付けも良くて仲入り後だけでも満足なメンツ。そして遊雀師匠はさすがおもろかった。お客さんとみんなでガハハと笑って手たたいて、楽しい寄席やった。

7/28 月
今日もせっせと寄席通い。今日は大ネタ「文七元結」の日。寄席目当てに夕方まで仕事して、楽しみに末廣亭へ向かう。いやぁ~遊雀師匠の文七は良かった~大満足!観に行ってよかった!50分弱やってはったらしい、観てるこっちはそこまでの体感ないんやけど、やってる方はひとりで大変やろうなぁと思う。師匠、おつかれさまです。

7/29 火
6月に漬けた梅干したち、梅ちゃんズを干す。土曜の丑の日は過ぎたんやけど、その頃はちょっと体調悪かったから干すのが遅くなってもた。台風が来そうなちょうど手前3日間で干してみようと思う。ふた瓶漬けて、重石が軽過ぎた方は上の方にカビの予備軍らしきものが…梅酢にまで行ってなかったけど危なかった!人生初の梅干しやけど、我ながらきれいにでけた。赤く染まってるのを見るとむっちゃ嬉しい。ざるの上にきれいに並べて…さぁ、どこで干そ!?と悩む。というのも、うちのすぐ前で3階建てのおうちをせっせと建て始めてから、うちは全くの日陰になってしもた。ベランダも午前中の数十分しか直射日光は来んし、風通しのええところを考えて結局玄関前の小道で干すことにした。ざるを椅子の上に乗せて椅子ごと家の前へ。お日さんに当たって梅ちゃんズは光ってるみたいに綺麗な紅色。でき上がるのが楽しみやど、もったいなくて食べられへんかもしらん。

7/30 水
7月下席の楽日。最終日やし頭から観るか!と今日は16時過ぎには末廣亭へ向かう。梅ちゃんズと一緒に干してた赤紫蘇に、とうもろこしと胡麻が入ったおむすびを作って寄席に持っていく。寄席って冷静に考えると4時間くらい座りっぱなしで、おもろない時は前半がとにかく長くてしんどいけど、今日はそんな長さを感じんくらいおもろかった。楽日で遊雀師匠は全部出し切るみたいにでっかい声出してて笑った。寄席が終わって十条湯で汗流して帰る…あ~楽日って1ヶ月が終わったーって感じがものすごする。もう8月て、はやいなぁ。

7/31 木
昨日の全国最高気温を叩き出したのは実家の隣町、丹波市。昨夜の銭湯のテレビでも丹波市が映っておった。あんな山ばっかしのところでも41度になるんか…と心底びっくりした。ちょうどおかぁはんとビデオ電話したらやっぱり篠山も相当暑そう。こないだ、私がかちわり氷をうちで作ろうとして、分厚く水を凍らしすぎてただのでっかい氷枕になった話とかして、とにかく冷やして水分もたくさん摂ってや~ということを散々言うた。というのも実家にはクーラーがないから。塩分もいるやろし、今日で干し終わる梅ちゃんズを送ってあげよう。

しもた屋之噺(283)

杉山洋一

何のために日記を書くのかと問われれば、一つ一つの出来事を覚えるのが大変だから、と答えたくなります。以前平井さんから、でも人に読んで欲しいから書いているのでしょうと指摘され、自分では特に気にも留めていなかったつもりなのに、その時妙に納得したことがありました。
この原稿を美恵さんに送ったら、伸びきった庭の雑草を刈らなければいけないのですが、こうして1カ月毎に雑草を刈らなければならないのは、草が伸びきっているから。なぜ草が伸びるのかといえば、それぞれの雑草が、一本でも多く自分の種を辺りに残そうと身体を張っているからでしょう。意志かもしれないけれど、自然の摂理と言われればその通りかもしれない。
作曲とは、自然な姿でその瞬間の自らの姿を反映させながら、記録として他者に残せるツールです。ただ、なぜか自分のために作曲している意識が希薄な気もするのです。誰かの為に書いていて、自動書記的に誰かに書かされている感覚が、常にどこか身体の芯に残っている。
堆い瓦礫のなか、辛うじて残ったコンクリート壁に、数名の笑顔の若者の似顔絵が書き残されているのを見ました。この間まで、ここで元気に暮らしていた若者たちです。誰がどこで生きていたのか、どんな姿で暮らしていたのか、何を話していたのか、誰しもがこうやって、誰かに伝えたいと感じているのかもしれません。たとえ伝える相手の顔すら知らぬままであったとしても。

——

7月某日 ミラノ自宅
先日、何十年かぶりにKと話す。彼はヨーロッパにもう30年以上住んでいるのだが、今の日本に帰っても、自分の知っている日本とは随分違うので、寧ろ慣れているヨーロッパの方が居心地はよいらしい。若い頃君はすごく厳しい人だったが、なんだか、雰囲気が変わったな、と言われる。笹久保さんからの便りに、最近はどういう思想で音楽やってますかと書いてある。隣の部屋で息子が「鱒」を練習しているのが聴こえる。自分には思想なんてあるのかしら。円安が進んで1ユーロ170円を超えた。

7月某日 ミラノ自宅
春、フェデーレの自宅で撮ったインタヴューに、日本語字幕を付ける。繰返される記憶が認識を促す話を聞きながら、その昔、ドナトーニがよく生徒に聞かせていた、小咄を思い出す。
部屋にいると、ドアをノックする音が聞こえるんだ。トン、トン、トン…、とおずおずとした感じ。
「どうぞ!」、と答えて、耳を澄ます。
すると、また、トン、トン、トン…とノックをする。聞こえなかったのかと思って、
「どうぞ!」、今度はもっと大きな声で返事をして、ドアを注視する。
あろうことか、またも気弱な感じで、トン、トンとノック。
「どうぞ、入ってと言っているのがわからないの?」と少し苛々しながら声をあげると、
ガラガラ…、おずおずと扉が開いたかと思いきや、
「あの…こんにちは…」と消え入るような声で生徒が挨拶しながら入って来る、というところで、学生全員がどっと声を上げて笑うのが常であった。ドナトーニ曰く、音楽はこんな感じに構造を作るのがいいらしい。
ドナトーニに近い内容だが、フェデーレはより理知的で、思索的な単語を並べる。繰り返しが形成する認識を通して、作品がどのように聴き手に理解されるか。
家人からのメッセージで、女優の遠野凪子が亡くなったと知る。武満さんと谷川俊太郎の「系図」は、少女とも妙齢ともつかぬ、あどけなさとコケティッシュの交ざった表情で、こちらを少し突き放すような表現がすばらしかった。彼女はその姿を常に演じていたのかもしれないけれど、天性の才能に恵まれていたのは誰の目にも明らかだった。

7月某日 ミラノ自宅
ここ二日ばかり、夕方になると猛烈な嵐に襲われる。涼しくなるのは有難いが、実際各地に被害をもたらしている。
一昨日、カニーノのレッスンを受けるため、息子がプレミルクオーレの夏期講習にでかけた。「押さえる」「心」という二つの単語でできたPremilcuoreという印象的な土地の名前を聞くと、イタリア人ですら、へえという顔をする。ロマーニャ州の山の中の小さな村に過ぎないから、「心を打つほど美しい村」を意味するとばかり思っていた。実際は、3世紀にローマ帝国、暴君カラカッラ帝の圧政に反旗を翻した、マルチェッロなる百人隊隊長がこの地に逃げ延び、当時点在していた集落をまとめて要塞化したことが、この村の始まりだと言う。Premilcuoreは”PREMIT COR” つまり「恩人の死に際し、悲しみが我々の心を圧し潰す」か、さもなければ”PREMUNT COR” つまり、「ローマ軍の追っ手にマルチェッロ隊長を差し出すくらいならば、我々自らの心臓を破ってくれようぞ」、という、激情的な文句が発端であった。息子から特に連絡はないが、まあ元気にやっているのだろう。
フェデーレのインタヴュー翻訳をやっていて、伊語と日本語がなかなか同期しない。通訳や翻訳に携わる人は、想像力と集中力のみならず、各単語の意味の言語化にずば抜けて長けているに違いない。哲学的な内容とまでは言わないが、具体的ながら、形而上学的に理論づけて話していて、言いたいことは感覚としては実感できるが、頭のなかで回路が繋がっていないので、言語化してアウトプットできない。フラストレーションばかりが溜まる作業だ。翻訳とは自らの無知を恥ずかしげもなく曝しだすこと。ただ、その勇気があるか否か。
激しい選挙戦の様子を伝える日本からの報道。「力のある言葉」と「粗野な言葉」が、何時の間にか入れ替わった印象。移民の自分から見た外国人排斥の気運については、うまく言葉にできない。

7月某日 ミラノ自宅
イタリア国鉄、ミラノ・ポルタジェノヴァ駅12月閉鎖が正式に発表になった。庭の土壁のすぐ向こう、5メートルと離れていないローカル線と古びた留置線は、風情があってよい。その昔は、夏になると、稀に臨時列車の客車が留置線にゆっくり入線してきて、機関士などと手を振り合ったこともある。尤も、このローカル線は廃止になるどころか幹線に格上げされ、ロゴレード駅まで直通運転するようになるらしい。そのため、盲腸線となるポルタジェノヴァ駅まで一駅区間の旅客営業を廃止する、と報道されていた。昨年暮れにポルタジェノヴァ線の線路を新しく敷設し直したばかりなのに、どうも腑に落ちない。

7月某日 ミラノ自宅
日本に戻っている家人より、三軒茶屋からピアノが搬出された旨の報告。ヴィデオも送られてきた。搬入時はずいぶん大事だった記憶があるが、家人曰く搬出は意外にスムーズだったらしい。さぞ感慨一入かと思いきや、運び込まれた馬込の部屋の方がずっとピアノには居心地よく、寧ろ清々しいらしい。

7月某日 ミラノ自宅
人工知能にスクリプトを書いてもらいながら、慣れないデータ解析を続ける。浮き上ってくるものに慄きを覚えつつ、無意識にそこから常に距離を取ろうとする自分に気づく。
午後、足立さんから頼まれたイントナルモーリを見学しに、ヴィニョーリ通り37番地のNoMusを訪ねる。自宅から歩いて10分とかからない、昔よく通ったパン屋の路地にある教会の隣。少し厳めしい、一面摺りガラスの3階建てのアパート全体がNoMusとなっていて、地下1階、地階、2階は資料室、3階はNoMusを仕切っているマッダレーナ・ノヴァ―ティの自宅である。
一見すると、これがイタリア有数の現代音楽資料館とは想像もつかないが、マッダレーナ曰く、敢えてそういう造りにしているらしい。マッダレーナは、イタリア国営放送のプロデューサーとして、演奏会録音について廻っていたころから知っているが、こんな近所でイントナルモーリと一緒に暮らしているとは想像もしなかった。
足を踏みいれると、実に愉快で不思議な空間が広がっていて、ちょっと在りし日のアールヴィヴァンやカンカンポアのようでもある。
壁には、ブソッティや、ブソッティの兄、彼らの父の大判の絵画が飾ってあり、エミリオと一緒に2000年に演奏したノーノのプロメテオ公演のパネルが立てかけてあり、何やら曰くありげな古い縦型ピアノまで飾ってあって、個性的な情報が犇めきあっている。残りの空間は、所狭しと整理された資料に埋め尽くされていて、骨董品屋と図書館と博物館が相俟った雰囲気を醸し出していた。
マッダレーナが淹れてくれたコーヒーをいただいてから、地下の資料室を訪ねると、1979年ルッソロ・プラテッラ財団のGianfranco Maffinaが、ルッソロの設計図に則って再現したイントナルモーリが4台、白い台の上に展示されていた。マッダレーナは、イントナルモーリを「イントーナ・ルモーリ」と2単語にわけて、少し慈しむように発音した。
秋山邦晴の「現代音楽をどう聴くか」に載っているイントナルモーリの写真に、初めて心をときめかせたのは、まだ小学生の頃ではなかったか。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、半世紀近く経って触るイントナルモーリは、実に愉快で、同時にすっかり感激してしまった。内部構造がわかるよう、箱の片面は透明なプラスチック板が貼ってあり、その下あたりに、電動モーターにつながっている電源のコンセントもついている。そこに電源を繋げば、電動で音がなる仕組みだ。「当時から電気を使っていたなんて凄いでしょう。壊れると怖いからつけたことがないのだけど」、とマッダレーナが少し誇らしげにコンセントを指さした。
隣の倉庫で管理されている、ルチアーノ・ケッサが復元した演奏会用イントナルモーリ17台には、レバーにしっかり目盛りがついていて、楽譜の音高通りに演奏可能だという。実演のたびに、ここから運び出されてゆくらしい。
実際にイントナルモーリ(騒音調音器)を触ってみると、思いの外、演奏効果の高い楽器という印象を受けた。クラシック楽器であまりノイズを弾かせる気が起きないのは、やはりイントナルモーリの音が魅力的だからだと納得する。ケッサがアメリカで作ったような、17台のイントナルモーリ・オーケストラが、世界にもっと沢山あれば良いとおもう。現代音楽のみならず、ロックであれジャズであれ、演劇、合唱、なんであっても、このイントナルモーリ・オーケストラと相性がよいはずだ。
辛気臭く、怪しげな感じが一切なく、観念的な音がしないのが素晴らしい。のびのびとして開放的で、「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」といったステレオタイプなイタリアらしさを使って、ノイズを謳歌している。
電気的に作り出された音ではなく、素朴な仕掛けのノイズだから、ちょうど楽器でノイズを作り出す作業に似た音がするのだが、どこか楽器メーカーが安価で量産すれば面白いのに、と歯がゆい思いまでこみあげてくる。良い指導者さえいれば、学校の教育楽器としての需要も、少なからずあるかも知れない。和声や旋律に拘泥せず、ミラノのダルヴェルメ劇場で堂々とこれを公開演奏したのは、1914年ではなかったか。テルミンやオンド・マルトノのような電気楽器が、現在まで演奏され続けているのは、やはり良い音楽家と出会ったことが大きく影響している。ルッソロは、音楽院のオルガン科で特別に表彰されるほど、優れたオルガニストであったが、楽器製作に関しては、結局発明家で終わってしまい、優れた作曲家との出会いもなかった。アントニオ・ルッソロの作品は、お世辞にも革新的で才気溢れるものではなかった。
そしてイントナルモーリの更なる改良よりも、新しい創作楽器に熱中し、大戦のため、ファシスト政権と当時のイタリア現代芸術は一括りにされて、芸術の真価について顧みられなかった。
オリジナルのイントナルモーリは、大戦中にパリで火事に遭い全て消失してしまったが、あの頃パリで、ストラヴィンスキーかジョリヴェ、メシアンでもヴァレーゼでもいいが、誰か一人でも、進歩的で特に優れた作曲家とより深く交流し、この楽器の可能性とノイズの意義について互いに掘り下げていたら、戦後の現代音楽はまた違った発展を遂げていたかもしれない。一期一会という言葉の通りではあるが、当時、ミラノでもパリでも、イタリア未来派はどこか奇矯な身の振舞いに終始していたし、その後はファシズムに利用されてしまったから、ダダイズムとも結局一線を画したままだった。
あの頃にサティと積極的に交わっていたら、デュシャンとともに、この騒音音楽がアメリカへ渡っていたらどうなっていたか。ケージもプリペアドピアノなど作らなかったかもしれない。そんなことにまで思いを馳せたくなるような、喜びと自信に満ちたノイズだった。これらの楽器は、マッダレーナが借り受けるまで、Maffina夫妻が老後を過ごしたミラノの養老院、「ヴェルディの家」に保管されていた。「つかぬことを聞きますが未来派の…」、と先日「ヴェルディの家」に電話した時は、受付の女性に、「ここには古いものしかありませんよ、未来派なんて、そんなモダンなものがこの養老院にあるわけないじゃないですか」と笑い飛ばされた、「モダンというより、箱型でラッパがついている代物なのですが」と喰い下がると、「博物館には時代物の蓄音機が並んでいますが、あれは蓄音機ですから」と半ば呆れた声で答えてくれた。
ルッソロが製作した微分音鍵盤の1オクターブ分だけは、10年前まではスイスのサンモリッツに住むMaffina夫妻の娘が保管していて、それを譲ってくれるようマッダレーナは何度も頼んだが、断られたと言う。ネットオークションなどで売飛ばされていないといいのだけれど、とマッダレーナが心配していた。地階には、ルッソロとボッチョーニなど未来派の仲間との書簡の他、アントニオ・ルッソロの「雨」の、決して達筆とは言い難い自筆譜も保管されていたし、ルッソロが音楽院から表彰された時の書類も見せてもらった。ルイジ・ルッソロがフレスコバルディやらブクステフーデやらバッハを毎日練習していた、という姿を想像すると、なんだかとても愉快な気分になった。
昨日、庭に乱立している雑木を切って壁に立てかけておいたところ、早速リスや鳥たちの遊び場になっている。

7月某日 ミラノ自宅
言葉はていねいに使わなければいけないと改めておもう。尤も、これだけ情報が氾濫している社会において、人の目に留まるため、耳を傾けさせるため、先鋭化し単純化した、極端な表現にならざるを得ない。理解に努めるよりも、主張に重きを置かざるを得なければ、他者との相違をより際立たせなければならず、自ずと二極化へ向かい諍いが生じる。
では逆はどうだろう。相手を理解しようと努めると、どのような主張であれ、何某かの言い分があることはわかる。「盗人にも三分の理」に喩えるのは間違っているが、それぞれに考えるところはあるわけだ。相手の主張に耳を傾けている間は、互いに何らかのコミュニケーションが残っているわけだから、分断するほどの先鋭化は避けられるかも知れない。時間をかけずに解りやすく、手軽に趣向と損得勘定を反映させたアルゴリズムだけを信じて人間関係を構築するのは、やはり少し危険過ぎる。現在、地球上のどこでもこの傾向に流されていて、言葉のキャッチボールが難しくなってきている。
音楽はどうか。言語化ほど具体性を纏わず、曖昧な表現ながらも、先鋭化した人々の心を、どうにか繋ぐ何某かになり得まいか。それが仲介者なのか媒介者なのかは分からないが。

7月某日 ミラノ自宅
芥川先生の譜面を読みながら、「schietto」という伊語の形容詞が思い浮かんだ。日本語の「竹を割ったような」という感じか。心の裡をさっぱりきっぱり潔く表現すること。知的でありながら理屈臭さがなく、清々しい。無為なセンチメンタリズムを排していて構造に無駄がなく、一見複雑には聴こえないが、丁寧に構造の単純化をさけている。聴いた感じは違うが、湿っていない音符と躍動感、構造へのこだわりなど、ちょっとペトラッシを思い出した。プレミルクオーレの息子より「トッカータがうまく弾けた」と珍しくメッセージが届いた。イスラエル軍、シリアのダマスカスを空爆。シリア暫定政府の国防省の建物などを攻撃。
今月末に南伊サレルノで、ゲルギエフがマリンスキー劇場オーケストラを振ることについて、同地の州知事ヴィンチェンツォ・デルーカは、「プーチンは悪であり、ウクライナを全面的に支援しているが、コミュニケーションの手段を断つことには断固反対する。我々はウクライナからの避難民の受け入れも積極的に行ってきている。素晴らしい音楽家を招いて、素晴らしい音楽を聴くことのどこが悪いのか。批難の声を上げる人々は、3年間の長きに亙ってロシアとの対話を拒否し、パレスチナの悲劇を目にしていながら何もせず、無責任にも程がある。偽善は沢山だ」。彼らしい、少し厳めしい感じのイタリア語で決然とインタヴューに答えた。彼は民主党員で、若い頃サレルノ大学の卒業論文に選んだテーマは「アントニオ・グラムシ」であった。

7月18日 ミラノ自宅
シャリーノCDブックレットの第一稿ゲラが送られてきて、漸く形が見えてきたと安堵する。それを読返しながら、自分は友人、協力者に本当に恵まれていると痛感している。林原さんから、ニマさんの美しいテキスト”Lucid dream “が送られてきた。「ルシッドドリームとは、夢を見ている最中に、自分が夢を見ていると自覚している状態のことで、日本語で『明晰夢』っていうのですって」。
故郷を愛する、とは、結局何を意味するのだろうか。故郷は誰にでも公平にあるようでいて、実際はそうではない。故郷を心の裡にだけ大切にとっておく人もいる。とっておくことしか許されない人もいる。肌の色が違う人にとって、故郷とはなにか、一度立ち止まって考える時間も必要かもしれない。日本の友達からすると、自分は「イタリアに住んでいる杉山君」だから、と暫く前に息子が呟いていたが、望もうとそうでなかろうと彼のアイデンティティは、イタリアに住んでいることを前提として、認知されているのだろう。彼にとって、故郷が何を意味するのか、彼自身も理解していないのだろうが、彼のソウルフードは、ニョッキやシンプルなトマトのパスタだし、田舎と言えば、夏休み、長い時間を過ごした、伊豆熱川の義父母の家なのかもしれない。時間は、物事の本質を時に曖昧にも、目を逸らさせることすらできるかもしれない。
町田の母は、平均律の10番のフーガまで進んだそうだ。前奏曲よりフーガを練習する方が頭が冴えて楽しい、というので愕く。イスラエルは、ガザのカトリック教会「聖家族教会」攻撃を謝罪。シリアへの攻撃で、死者は300人を超えたとの報道。

7月某日 ミラノ自宅
息子は自宅で一泊した後、今度はスイスの講習会にでかけた。般若さんのためにヴィオラに直した「JEUX III」を浄書するため、楽譜を開く。これは元来大石君と辻さんのサックスと太鼓のための作品であったが、これを慌ててヴィオラに直した時は、明らかに死を覚悟していたのが目に見えるようで、改めて恐ろしさに駆られた。般若さんから新しいヴィオラ曲を頼まれてすぐに、イタリアは瞬く間にCovidに吞み込まれて想像を絶する状況に陥ってしまった。新しいヴィオラ曲を書きあげるまで生き延びられる自信など到底なかったから、折角、頼まれた曲を書けず申し訳ないけれども、もうすぐ死ぬかもしれないから、と慌ててヴィオラに直したのである。
ゲルギエフ指揮の演奏会は、伊政府の意向でキャンセルになったとの報道。自分では何が正しいのか、わからない。イスラエルの芸術家が演奏活動ができるのなら、ロシアの芸術家も演奏してよい気もするし、そうでない気もする。善悪も常識も、結局は紙一重の危ういものに過ぎない。物体が目の前に二つ並んでいて、お前、目の前に物体がいくつ見えるかと詰問されている錯覚を覚える。本当はいくつ見えているのか、と自問自答を繰り返す。イスラエルのシリア爆撃で死者は1000人を超えた。

7月某日 ミラノ自宅
「JEUX III」を漸く送付して、譜読みと作曲に集中しなければと気を奮い立たせる。
古代ギリシャでは、富裕層の政治家による、強権的ながら比較的安定した時代を経て、職人出身の市民が民衆を指導する時代が訪れた。皮なめし職人の政治家は、自身の息子に学を持たせようとしたソクラテスを恨んで、ソクラテスを死に追いやってしまった。政(まつりごと)を推し進めるため政治家は大衆を煽り、興奮状態のなかで議会をまとめていき、自らの政治生命のため、必要とあらば民衆への迎合も辞さなかった。民主政治は明確な方向性を逸し、いつしか責任の所在も曖昧になった。最早、世界全体をポピュリズムが支配していて、イタリアはその最たる国の一つだ。
貼りだされるなり、批判を受けすぐに剝がすことになった。イタリア「同盟Lega」党のポスター二種。
人工知能で作った写真に、上目遣いのジプシーの母親と子供がアパートから出てくる姿と、仁王立ちしている警察官二人の後姿が写りこんでいる。「住居を不法占拠だと? 24時間以内に同盟党がお前を外に放り出してやる」。
別のポスターには、デモ隊と思しき妙齢が、道路に座り込んで叫ぶ姿を人工知能で作った写真が貼ってある。「人が働いているのに、道を邪魔しようというのかい。牢屋行きだ」。
恐怖政治に近しかった芸術家が許されないのなら、最早カセルラは存在すら認められなくなる。カセルラはユダヤ人である妻をファシズム政権から守るために敢えて政権に近づいた、と言われることもあるが、戦後自らの活動を省みて「荘厳ミサ曲『平和讃』Missa solemnis “Pro Pace”」で懺悔をしても、その後も長きに亙ってファシスト作曲家と見做され続けてきた。しかし彼がいなければ、ペトラッシは全く違った姿になっていただろうし、ペトラッシが生まれなければ、戦後のイタリア現代音楽は生まれなかったのも確かである。音楽と政治は大いに関係あるとも言えるが、芸術作品の価値と政治は、やはり分けて考えられないものか。
自分の頭では到底結論など見いだせないが、ただ、自分たちがとても大切なフェーズに足を踏みいれているのはわかる。

7月某日 ミラノ自宅
文化相からの申し入れにより、ゲルギエフの演奏会はキャンセルされたものの、デルカ知事は簡単には引き下がらず、急遽別の演奏会を拵えて改めてゲルギエフに打診した。しかし、かかる侮辱は耐え難いものとしてゲルギエフは演奏要請を拒否し、イタリアのマネージメントとの契約そのものを破棄してしまった。どちらの意見にも理があるのはわかる。ただ、どこか空恐ろしい気がするのは、全体的に一世紀前の大戦前夜を無意識に想像してしまうところであり、その結果として、二発の原爆投下に至ったのを我々は知っている。
フォーレの作曲クラスで共に学んだラヴェルとカセルラは、一緒にピアノを弾き、作品を講評しあい、後年まで仲が良かったと言われる。ラヴェルのト調協奏曲2楽章は、カセルラの三重協奏曲2楽章に刺激されて作曲されたともいう。もしそうなら「三重協奏曲」の作曲された1928年頃までは親しい交流が続いていたのだろうか。ラヴェルが「ト調」を作曲していたのは1929年から31年にかけて。「ト調」と同時期、29年から30年にかけてラヴェルはジャズの影響のもとに「左手」を書いた。その少し前、1927年には、ラヴェルはエネスクのヴァイオリンで「ブルース」を含むヴァイオリンソナタを初演している。
イタリアでも、第一次世界大戦中にアメリカ兵がもたらしたジャズが大人気で、国営放送は1927年から29年まで、トリノ、ミラノ、ローマ、ナポリのダンスホールから生中継で、ほぼ毎日ジャズプログラムを放送していた。ちょうどラヴェルが「ソナタ」のピアノを弾き、「左手」を書いていたころである。
ところが30年から終戦まで、35年からの数年間を除き、一切のジャズプログラムは忽然と国営放送から姿を消してしまう。「ニグロ音楽、英国音楽は廃止すべし」「イタリアの伝統に基づく芸術を」とラジオでは盛んに喧伝され、実質的にジャズは放送禁止となったのだ。1942年4月19日には、「ユダヤ人が芸術活動に関わる行為禁止令」が発表され、劇場などから雇用されていたユダヤ人の音楽家、裏方らの契約が一切合切破棄されたのは有名な話である。このように音楽が扱われるのを、中枢とまでは言わないが、おそらく諮問機関には属していた筈のカセルラは、どんな思いで見つめていたのか。何かを感じていたのか、それとも何も考えない身体になっていたのか。
北海道、北見で39度を記録とニュースで言っている。

7月某日 ミラノ自宅
朝、運河沿いを歩いていると、イントナルモーリを3倍くらい大きくした恰好の、ブリキ製とおぼしき怪しげなボートが6艘、列をなして進んでいた。川底を掃除しているのか定かではないが、左右に不安定にゆれながら、大きなエンジン音を響かせて、ゆっくりと進んでゆく。水面に浮いているのかも定かではない、ごつごつ、ふわふわと不思議なうごき。子供のころ、毎週のように通った、湯河原の祖父の漁船のエンジン音を思い出して、すっかり懐かしくなった。
左右に揺れ動く台に並べられたメトロノームは、最初ずれていたとしても、時間の経過とともに自然と同期する。この一般化スペクトル理論のメトロノーム実験は、演奏家がアプリオリに皮膚感覚で認知しているものを、視覚化したモデルともいえる。空気中に少し重さの違う、ひんやりした気体が流れている感覚かもしれない。演奏家であれば、敢えてこの同期に乗らぬよう、抗う感覚も身につけている。そうして台が揺れ動かない状態であれば、リゲティの「100本のメトロノーム」のようになって、リズムを浮き上がらせるのだろう。
巨視化してメトロノームを載せる台を社会として仮定したらどうだろう。例えば、戦争直後、社会全体を厭戦観が覆っている間は、載せる台が動かないのに等しく、各人が主張を繰り広げ、特に迎合することもない。時間が経過とともに少しずつ厭戦観も薄れて、社会が左右へ揺らぐようになってくるとき、何故か我々の主張は、少しずつ一定の社会観に収斂されて、全体主義的な性向をもつかもしれない。
無知とはなんと素晴らしいことか。ソクラテスの無知の知ではないが、知らないということを知る。知ろうとすることからエネルギーが生まれ、人間が生まれ、社会が生まれた。音楽も、誰かを知りたい、という素朴なやりとりから生まれたのかもしれない。
タイ・カンボジア国境で紛争再発の報道。マクロン、パレスチナ国家承認を発表。ニューカレドニアを一定の主権を持つ国家として認めたことを発表。オーストラリアもガザについて強く抗議。

7月某日 ミラノ自宅
朝、運河を通りかかると、件のイントナルモーリのお化けのような作業船が、道路に引き上げられ、分解してトラックに積み上げられていた。なるほど確かに船底にはギア状の円盤五枚ほどが並んでいて、どうやらこれで水草を刈っていたようだ。息子は上海の空港で乗継ができず、航空会社からあてがわれた、高科東路のホテルで一泊している。ホテルには中華弁当が用意されていたが、あまり口には合わなかったらしい。
B’Tselem, Physician for Human Rights,イスラエルの二つの人権団体がガザについてレポートを発表。「我々の虐殺 Our Genocide」。
エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、リビアなどの海岸から、ペットボトルに、米、穀物、シリアルなどカロリーの高いものを詰め、海に投げる連帯運動「Bottles to Gaza」運動。各国のどこからどう投げれば、海流でガザ海岸に届く確率が高いかを示す情報がインターネットサイトに載っている。国連が最早機能せず、我々自身がポピュリズムを力強く牽引している事実に虚しさを覚える。

7月某日 ミラノ自宅
岡村雅子さんが用意してくれた「禁じられた煙」の浄書譜に、簡単に演奏方法などを書き足して送付する。ふと岡村さんの顔が思い浮かび、昔のファイルを拾い出してみたのだ。警官によって窒息死させられたエリック・ガーナー事件をもとに作曲したが、楽譜を見ると様々な風景が甦ってくる。ニューヨークの寒々としたホテルや、雪の降るチャイナ・タウン、雨で濡れそぼったダウンタウンの教会の葬儀。
ミラノ領事館より西ナイル熱への注意喚起のメールが届く。ラティーナでクラスター化した40人の感染が確認され、そのうち6人が死亡したという。現在までカゼルタ、パドヴァ、トリノ、トレヴィーゾ、ヴェネチアなどでの発症例が報告されていて、蚊に刺されないようにするのが大切だというが、薮蚊だらけの拙宅でどう対応すればよいのか。
英・スターマー首相、停戦合意などの条件が満たされなければ9月にパレスチナの国家承認と発表。独・メルツ首相、ガザへの人道支援物資空輸を直ちに実行と表明。

7月某日 ミラノ自宅
早朝、カムチャツカ地震による津波のニュースで飛び起きる。
列強と言われる国々であれば、他国への侵略であったり、それに対するトラウマであったり、狂信的な全体主義であったり、こういった経験を必ずや過去のどこかで共有しているに違いない。ただ、我々市民は国ではなく、人をみることを忘れてはいけない。そして可能ならば、人を信じることを忘れてはいけない。灰色の廃墟が連なるガザの報道を読むのは、ガザ市民への連帯は言うまでもないが、今まで理解できなかった自分自身のルーツを、逆の立場から知ろうとしているのではないか。なぜならそれは我々のDNAの中に刻み込まれていることだから。子供の頃からそれがどうにも信じられず、理解できないことではあったけれど。
加・カーニー首相、9月の国連総会でのパレスチナ国家承認を発表。

 (7月31日ミラノ自宅)

水牛的読書日記 シンガポール旅行編

アサノタカオ

7月某日 はじめてシンガポールにやってきた。チャンギ国際空港から送迎の車で宿に入る。午後6時を過ぎても、街はまだ明るい。宿のそばにローカルの屋台村のような場所があり、そこでマレー料理(牛の内臓を煮込んだルンダン)を食した後、夜の街を少し散歩。気持ちのいい夏の風が吹いている。

7月某日 街のあちこちで見かける背の高い木はレインツリーだろうか。一羽の黒い鳥が枝に止まって、甲高い声で鳴いている。

今回シンガポールに来たのは振付家・ダンサーの砂連尾理さんによる「とつとつダンス」のプロジェクトに参加するためだった。「とつとつダンス」とは、砂連尾さんが、京都の老人ホームに入居するお年寄り、施設のスタッフや地域住民とともに行うダンスのワークショップと公演で、現在はシンガポールやマレーシアなどの認知症ケアの現場でも活動を展開している。砂連尾さんの著書『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)を編集した縁で、東南アジアのツアーに同行し、現地でのミーティングやダンス公演にオブザーバーとして参加することになったのだ。

朝、立派なモスクのそびえるイスラム教徒のコミュニティにあるアリワル・アート・センターへ徒歩で向かう。ここはもともと由緒ある中華系の学校で、学校の移転に伴い、美術関係者や演劇関係者の共同アトリエのような施設になった。政府の補助があり、家賃は無償だという。砂連尾さんたち日本側の「とつとつダンス」の制作チーム、シンガポールのアート・プロデューサーであるオードレイ・ペレラさん、応用演劇の俳優マイケル・チェンさん、通訳のMさんの参加するミーティングに同席する。「とつとつダンス」のことは別の機会に書くこととして、ここではそれ以外の旅の出来事を記しておこう。

午前と午後のプログラムを終えて、夜はアート・センター近くのベトナム料理店へ。香草たっぷりのフォーとタマリンド・ジュース。目の前にカラオケスナック風の店があり、シンガポールのおっさんたちが女性に囲まれて昭和の演歌のような歌を気持ちよさそうに歌っている。店を出ると、曇り空を稲妻が走っていた。びゅっと吹く風が冷たい。スコールがやってくるかもしれないので、急いで宿に戻る。

7月某日 早朝に目覚め、川沿いの公園を散歩した。とんでもなく巨大なガジュマルを仰ぎ見る。ここは赤道直下、熱帯モンスーン気候の地なのだ。

午前のプログラムを終えて、昼はオードレイさんの案内でインド料理店へ。名前を忘れてしまったが、バターで焼き上げた厚めのパンをベジタブルカレーとともに。黒い鳥がお客さんの残したカレーを啄んでいる。昼食後、チャイナタウンに行くというKさんについていくことにし、バスに乗ってしばし街歩き。いわゆる中華街っぽさはあまりなく、現代的な超高層ビルと20世紀初頭の古い2階建ての建造物が同居する不思議な景観だ。ホン・リム公園には「スピーカーズコーナー」と書かれた看板がある。市民が政治的発言を行うことのできる場所らしいが、使用には警察の許可が必要で、看板の上には警察の監視カメラ。これがシンガポールの現実か。東京あたりよりは涼しいと感じていたが、日中に歩いているとやはり暑い。

Kさんと別れて、チャイナタウンにある草根書店(Grassroots Book Room)を訪問した。中国語書籍専門の本屋さんで、おしゃれなカフェも併設されている。日本文学&韓国文学の翻訳書のコーナーも。女性のスタッフもお客さんも中国語でおしゃべりしている。店先の黒板には〈閲讀即自由〉。すばらしい哲学だ。

この界隈には独立系書店がいくつかあり、近くにあるlittered with booksも訪問。2階建の英語専門の書店で、コミックの本も多い。こちらのお店では女性のスタッフ同士が英語でおしゃべりしていて、外国人観光客と思しきお客さんも英語で話している。近所には多くの韓国料理店が立ち並び、韓国語書籍専門の本屋さんもあった。

何軒か訪ねた書店で個人的に最も心惹かれたのは、BOOK BARだ。可愛らしい絵本や児童書が並ぶ入り口から奥に進むと、インデペンデント・プレスの本やZINE、詩集のコーナーがあり、カフェも併設されている。エッセイの本とZINEを1冊ずつ購入。魅力的な詩集もいろいろあり、滞在中にもう一度訪ねたい。日本でアルフィアン・サアットの小説『マレー素描集』(藤井光訳、書肆侃侃房)を読んだので、詩人でもあるという著者の詩集も見つけられるといいのだが。

BOOK BARで購入したFaction Pressの本とZINEは、内容もデザインもかっこいい。Faction Pressは東南アジア発のエッセイとノンフィクション(かれらはmicro-narrative とも言っている)の紹介に力を入れる出版社で、シンガポールのセックスワーカーの語りを集めたアンソロジー本など出版している。購入したZINE『UNDERTOW』の創刊号のテーマは歴史、記憶、悲嘆。宿でLAWRENCE YPILの短い散文「Untold Stories」を読んで感動した。胸に響いた言葉にアンダーラインを引く。「語れないことについて、語ることを拒むことについて。言葉がなく、何も言えないこと。言葉を拒むから、何も言えないこと」「美は私たちよりも長く生きる。私たちの肉体よりもゆっくりと日々を進む」

連日やや食べ過ぎのような感じがあるので、夜から断食。しばらく水だけを飲むことにする。

7月某日 夜明け前の早朝に目覚めた。シンガーポールについてから地に足がつかない感じが続いている。気持ちが宙に浮いて、いつまでもふわふわしている。だから何を見ても聞いても、何を食べても、いまひとつ現実感がない。理由ははっきりしていて、初日に友の訃報を電子メールで受け取ったからだ。メールには彼女のノートを写した写真が添付されていて、そこには「時々会いに行きます」と見覚えのある手書きの文字が自分宛のメッセージとして記されていた。時々、なんて言わないで、今でもいいじゃない。今回の旅は、彼女の美しい魂と同行二人。その存在を親しく感じ続けるために、地に足がつかないこの時間が必要なのだと思う。

夏の1日だけ涼しい日に

高橋悠治

手書きの楽譜に戻ろうとしているが、手が思うように動かなくなっている。友達が、手書きの楽譜の見本を見せてくれたり、シャーペンや消しゴムをくれたりして、道具も揃っているのに、わずかなきっかけから始まるはずの作曲に取りかかれないで何日かがすぎた。

毎年夏は秋のために準備することがいくつかある。8月の終わりまでには、手を動かすことに慣れるだろうか。

こうして字を書くときも、漢字の書き順を忘れているからコンピュータに頼っているが、音のフレーズを音符を使わずに書くやりかた、図形楽譜の実験は、1960年ごろに試したことはあったが、おもしろいものではなかった。

記譜法のソフトは30年くらい使っていた Finale がこれ以上の開発をやめ、サポートもなくなるから、Muse Score に切り替えることも考えたが、新しい記譜法ソフトを覚えるのは簡単にはいかない。コンピュータが保存している Fnale も他の機械には移せないから先がない。

手書きに戻るのは、これまで何世紀も作曲家たちがやってきたこと、今もやっていることだから、少しの手習いで戻れるとは思うが、それと新しい作曲とがこの暑い時期に重なるのは、予想外だった。

コンピュータの場合は、音符の記号を打つわけだから、同じ記号でも手で書く感触とは違うだろう。次の記号に移る感じも同じではないはず。昔一度だけ演奏した湯浅譲二の Cosmos haptic という図形楽譜の曲があった。今は「内触覚的宇宙」という日本語題名が付いているらしい。ピアノであれば、鍵盤の手触りの感触は、耳でその結果としての音を聞く感覚とは違うけれど、その音を聞きながら音符を見るのと、そのとき手に感じる感覚もまた違いながら、それらを同じものとして扱うことで、作曲も演奏も、また即興さえも成り立っている。

こんなことを書いているより、手を動かすのが先だと思いつつ、もしかしたら作曲も、音のイメージを書き留めるより、五線紙の上で手を動かして、音符の形を書くところから始まるのが自然だろうとも思いながら、こうしてコンピュータで字を打っている。

2025年7月1日(火)

水牛だより

6月とは信じられない暑い日々が続く東京です。自宅の上の階でこどもが足音高く駆けまわっているので、つい、夏休みだからしかたないか、と思いましたが、それはひと月後のこと。すべてがすでに真夏です。

「水牛のように」を2025年7月1日号に更新しました。
浅生ハルミンさんが久しぶりに戻ってきてくださいました。うれしいな。
長谷部千彩さんの原稿は3月に書かれたものですが、そのままに掲載しました。
吉良幸子さんはルームメイトの平野公子さんといっしょにアパートから古い一軒家に引っ越しました。猫のソラちゃんもいっしょです。よって今月からタイトルは「アパート日記」から「古屋日記」に変更となりました。
今月お休みのみなさんも来月はきっと。。。

お知らせです。

杉山さんの「しもた屋之噺」の最後にあるように、「Kazue Sawai Plays Yoichi Sugiyama (2CD)」が7月16日に発売です。このCDを作りたいために制作会社を立ち上げた仲宗根浩さんはここ水牛でもおなじみです。

藤井貞和さんの新刊は『食わず女房から源氏物語へ語りたどる』(三弥井書店)タイトルそのままよりもずっと多岐にわたっている内容をリンク先の目次から見てみてください。びっくりしますよ。

イリナ・グリゴレさんの『みえないもの』(柏書房)刊行を記念してのトークがふたつあります。
7月5日(土)18:30~20:10 ポルベニールブックストア(Porvenir Bookstore)お相手はアサノタカオさんです。会場参加とオンライン配信もあります。
7月6日(日)10:30〜12:00 twililight お相手は小川公代さん『尊厳を踏みにじられた人々が紡ぐ〈小さな物語〉』こちらも会場参加とオンライン配信があります。

それでは暑さにめげず、また来月に!(八巻美恵)

006 窓外(そうがい)

藤井貞和

  停車して六時間余を、人いきれ
   窓外、ただに広島の原(はら)
  ひろしまを見しは― 昭和二十年
   十月、日なか、眼のわが記憶
  広島の黒々 われや― 記憶する
   奥こそ― たどれ。蘇り来る
  車中より 三歳のわがおちんちん
   おしっこが濡らす。ひろしまに向きて
         (2011・8・15)

(山口県のいなかの法事に長男の私を向かわせるとて、かすかなる記憶のなかの祖母が、満員の下り列車に乗り込み、奈良からどうやって連れていったのだろう。広島まで来て六時間余、停車してしまう。「おぼえておきなさい。これが広島よ」と、祖母は私のおでこを窓ガラスにごつんごつんとぶつけて、その痛覚がいまの私にのこる。そのごつんごつんがなかったら忘れてしまったろう。進行右手の車窓から焼けた柱や異様な街筋、黒く爛れた山肌の裏がわは緑色で、原爆の光線が焼いたのである。窓枠を濡らしながら車中からおしっこを飛ばしたことも記憶する。四首は二〇一一年三月一一日、大震災から短時日に書き記した連歌、『東歌(あずまうた)篇―異なる声(独吟千句)』〈反抗社出版〉のコピー版より。)

ゆうべ見た夢 05 植物園

浅生ハルミン

夢の中で私はモノレールに乗っていた。家電新製品発売のパンフレットにのせる説明図を描く仕事を、私は請け負っているようだった。モノレールを降りた駅で、家電メーカーの担当者とデザイナーと私の3人で、会社内の会議室で打ち合わせをすることになっているようだった。

その会社へ行くのには、どの駅で降りればいいのか憶えてないことに気づいた。私のことだから間違ったまま遠くまで乗っていきそうな気がする。慌てて次の駅で降りた。iphoneの中にメールが入っていたかもしれない。メール欄をさかのぼると、関係ないメールばかりが積み重なっていて途方もない気持ちにうずもれた。ホームの柱を避けながらおぼつかない気持ちで乗り換え口のほうへ行くと、駅から街に出てしまっていた。

iphoneのメール欄を繰っても繰っても探しているメールは見当たらなかった。もういいか、行かなくても。いつもこき使われるだけで、もらえるお金は少ないんだから。

街を歩きだすと、戦前の馬小屋が保存されている広場に行き当たった。すごく長くて、何頭でも繋いでおける馬小屋だった。木の柱と屋根しかなくて風通しがよく、新しい藁が敷き詰められていた。藁を眺めながら馬小屋を通り抜けると、まだこんな場所があるんだなあという街の一画が見えてきた。四つ角のたばこ屋さんの前には朱赤の円柱の郵便ポストがあり、子どもたちが自転車の車輪に棒を当てて転がしながら道を横切っていった。箪笥や花嫁布団を積んだリヤカーが紅白の幕を巻いて走っていた。道はまだ舗装されていない土のままだった。

蕎麦屋、うどん屋、履き物屋、貸本屋、陶磁器屋、金物屋、いろいろな店ののれんが道の両側にひらひら、どこまでも続いていた。商店街のゆるやかな坂道のをうつむいてのぼって行ったその先は、雑草の生い茂った野原だ。草の中に黄色い丸い小花や、ランタナのこんもり丸い草むら。赤い野菊の群生に顔を近づけると、私と同じように顔を近づけている二人と目があった。丸首の白い服を着ていて、白髪のほうの婦人が「わたくし、この赤い菊の匂いが大好きなんですのよ」とうっとり目を閉じた。耳たぶに真珠のピアスをしていた。私はその横顔に気づいて胸が高鳴った。この人は有名な植物学の博士で、たしか仕事場は小石川植物園なのだ……

「でも、一番好きな植物は」と白髪の婦人が言いかけたとき、私にはなぜかその答えがわかった。
「いちょうですよね」と二重唱のように声をかぶせてしまった。

それから3人で小石川植物園へ向かって、雨の滴がきらきら光る野原の道を歩き、植物園の中にある温室の前に着いたとき、私は舞い上がるような気持ちで「先生、私、小石川植物園で働きたいと思っていました。前からずっとです。どうか私を雇ってくださいませんか」とつい無理な相談を持ちかけてしまった。白い服の二人はしばらく話し合ってから「いろいろあって難しいのよ」と私の頼みは却下された。

雨の音で目が覚めた。目を開けた瞬間、雨粒が目薬みたいにぽとんと目の中に落ちた。気がつくと私はひんやり湿ったアスファルトの道路の端っこに仰向けで横たわっていた。えのころ草のとがった葉っぱたちが私の左腕にかぶさってさわさわと撫でた。なんで私はこんなところで寝てるんだろう、草って冷たいなあ。そうと思ったあとにもう一回目が覚めて、いつもの布団の中にいた。

むもーままめ(49)深い眠りを求めて、の巻

工藤あかね

 昔から眠りが浅い。幼少時は自分はこれから死ななければならない、というような嫌な緊張感にあふれた場面や、殺されそうになって逃げ回る夢をよく見てきた。繰り返す悪夢の正体がなんだったのか突き止めたくて、後にユングの「夢判断」を読んだりした。親の厳しい躾や、学校での規範が合わなくて、子供なりに適応しようと努力したり、やはり我慢できずに抜け出ようとしたり、さんざんもがいた結果だったのだと結論づけた。
 
 中学生くらいになると学校生活や部活動、そして習い事の忙しさのあまり、ばったりと倒れるように寝て朝まで起きなくなったのだが、高校あたりからまた明け方の夢を覚えているようになった。大学生の時もよく眠れないことを医師に相談した覚えがある。医師からは、眠る前にミルクを飲むのをやめた方が良いとアドバイスされた。牛乳に含まれるカルシウムで、心身が落ち着くと長いこと思っていたのだが。最近では夜中にお手洗いに起きる前に一本目の夢を見ていて、明け方に2本目が脳内で上映されている。まだ6月だというのに急激に蒸し暑くなったせいもあるだろう。なかなか眠れずごろんごろんと寝返りを繰り返し、夢ばかりみている。
 
 だが、やっぱりぐっすり眠りたい。朝まで一度もお手洗いに行かずにぐっと深い眠りに落ち、起きたらスッキリ、夢なんて全く覚えていない、というのに憧れる。深い眠りのために、夕方以降は水分を取らないようにしたいところだが、熱中症になったことがあるので水を飲まないわけにはいかない。飲酒も控えてみたのだが、飲んだ時の方が朝まで眠れてしまいガッカリした。

 次に試したのは、寝入りばなのシャクティマット(剣山状のトゲトゲがびっしりついたマット)。背中を直接預けて痛みが温かさに変わるまで寝転ぶと、やがて深いリラックス状態を導ける。そのまま眠ってしまいそうになることもしばしばなのだが、寝落ちしかけたその時こそ、一度起き上がってシャクティマットをちゃんと片付けて寝直さねばならないタイミングなのだ。背中の下に敷いたシャクティマットが自動で消える魔法を誰か考えてくれないかなぁ、と切望しながら眠り直す。

 そんな日々に満を持して登場したのが、ニトリのNクールという寝具シリーズであった。特殊な冷感素材でできているシーツや敷きパッド、枕カバーなどが売られている。冷たさは三段階、冷、強冷、極冷。店頭で手のひらを当てて3種類を試し、「つめたっ!!」」と思わず声が出たのは極冷。あっさり極冷の敷きパッドと枕カバーをわが家に導入した。これが予想以上によい。触るとあきらかにひんやりしている。しばらく横になって体の接している部分の温度が上がってきたと感じたら、寝返りを打ったり手足の位置を少し動かすだけで、フレッシュな冷たさを愉しめるのだ。布に熱がこもらない工夫がされているらしい。これさえあれば、寝苦しさで夜中に起きることも少なくなるはず。ウキウキしながら眠った。

 明け方、ふくらはぎが攣って目が覚めた。

 次の日の夜、やっぱりこれがあると涼しいな、と感心しながら眠った。

 明け方、ふくらはぎが攣って目が覚めた。

 体の熱がよく冷えるのはまことにありがたいのだが、どうやら涼しさのあまり足が冷えすぎてしまうらしい。そんなわけで、今夜は冬のレッグウォーマーをつけて眠るのに挑戦してみようと思っている。暑いに決まっているが、すくなくとも足は攣らないはず。なんだか本末転倒…? ちなみに、世の寝具開発者にお願いしたいことがある。夏のかけぶとんでお腹が冷えないものを作って欲しいのだ。薄くて軽くて涼しい方が良いに決まっているのだが、お腹のところだけは温かくてずっしり重みがあるのがあったらうれしい。足が冷えない工夫と、お腹あたたか夏用掛け布団が揃えば、この夏の睡眠環境は完璧になる予感がする。

ガラミのこと

篠原恒木

「社交性が欠如している」と自覚したのはいつの頃だっただろうか。
ヒトが集まるところに出掛けて、そこにいるヒトビトとコミュニケーションをとるのが苦痛でならない。
特に面倒なのは「仕事絡み」「しがらみ」で出掛けなければならないケースだ。
そう、この「ガラミ」の場合になると、おれは急に怯んでしまう。

「仕事ガラミ」のパーティが大嫌いだ。ホテルの宴会場の入口で飲み物の入ったグラスと紙ナプキンを貰い、ごった返している会場に入ると、もう帰りたくなる。
立ったままで、冗漫な主催者の挨拶を聞く。肘を九十度に曲げたおれの右手にはウーロン茶のグラスがある。挨拶が終わると「カンパーイ」と元気よく発声するのがマナーなのだろうが、おれは黙ったままほんの少しだけグラスを上げて、ひとくち飲む真似をする。グラスを丸テーブルに置き、心のこもっていない拍手をペタペタとする。

問題はここからだ。知っているような知らないような、そんなヒトビトがチラホラと周りにいるが、おれはどうしても自分から挨拶ができない。向こうから声を掛けてくれても「このヒト、誰だっけ」となるので、背中に汗をかく。したがって話題も続かない。
「お願いだからおれのことなど構わずに、ほかのもっと重要人物のところへ行って挨拶してきてください」
と心の中で叫んでいるので、笑顔もこわばってくる。
雰囲気を察したのか、相手は「それじゃ、また」と言って、会場をスイスイと回遊していく。
「助かった」と思うのだが、大勢のなかでポツンと一人になるのも辛い。周りの全員は必ず誰かと立ち話をしている。和気藹々というやつだ。おれだけがバカヅラをして誰からも相手にされず、一人立ち尽くしている。

そんな無様な姿を見て主催者側のヒトが気を遣ってくれたのか、おれのところへ近づいてきた。このヒトはよく知っているが、申し訳なさが先に立ち、気の利いたことが言えない。
「ずいぶんとご盛況で」
そう言うのがやっとだ。
「お食事、召し上がりましたか?」
会場の中央にはブッフェ・スタイルの食べ物がズラリと並び、両側には寿司、蕎麦、天婦羅、ロースト・ビーフなどの屋台が連なっている。

だが、おれはこういう場所でめしを食うことができない。目を光らせながら食べ物を皿に盛っているヒトビトを見ると、もうダメだ。あそこに並ぶ勇気もないし、収穫品を立ったまま口に運ぶなんて考えられない。これは自意識過剰なのか、それとも性分のようなものなのか。
「よかったら何か取ってきましょうか」
主催者側のヒトはそう言ってくれるのだが、
「いえいえ、だ、大丈夫です」
と、しどろもどろになってしまう。もう身の置き場所がない。おれは、
「申し訳ございません、次があるもので失礼させていただきます」
とモゴモゴ言って、会場を出てしまう。ここでいう「次」とは「帰宅」だ。

ああいう「仕事ガラミ」のパーティで世慣れた身のこなしができるヒトが羨ましい。グビグビ飲んで、ムシャムシャ食べて、ガハガハと大声で喋ることができたら楽しいのかもしれない。きっと仕事ガラミの人脈も広がるのだろうなぁ。でもいいんだ、おれは。

唯一パーティで出てみたいのは「政治資金パーティ」だ。どんな雰囲気なのだろう。これこそ「ガラミ」の王者、代表、総本山、元締めの「政治絡み」「派閥絡み」ではないか。あ、でも出席するためにはカネを払わなければならないのか。「カネ絡み」だ。じゃあイヤだよ。

「仕事ガラミ」「シガラミ」で、どうしても出席しなくてはならないヒトサマの結婚式も苦手だった。「だった」と書いたのは、このトシになるとさすがにお呼びがかからなくなったからだ。これこそを寿ぎという。どうか勝手に好きなだけやってほしい。
おれと親しい間柄の男女が結婚するというのなら、祝福したい気持ちはある。おれにだってあるのだ。でも、よく知らない男女の結婚式に出席するのは厳しい。ならば欠席すればいいではないかというご意見もあろうが、「仕事ガラミ」「シガラミ」だとそうもいかない場合があったのですよ。

あの結婚式というやつもヒトがたくさん集まる。そして時間が長い。このまま死んでしまうのかと思うほど長時間だ。パーティのように途中で素早く逃げるわけにもいかない。円卓にジーッと座ったまま、次々に供される料理を食べていくだけだ。両脇の席にいるヒトたちとの会話も苦痛でならない。「仕事ガラミ」「シガラミ」で出席しているので、なおさら時間の経過が遅く感じる。三時間半から四時間、という式に出席したこともあったが、おれの休日をなんだと思っているのか。時間泥棒と映画泥棒は厳しく取り締まるべきである。長くなる原因は、あまりにも多くの「セレモニー」が詰め込まれているからだ。

さあケーキ入刀、シャッターチャンスです、などと言われても困る。馬鹿な奴らが前に押しかけてくるので、おれは席を立って後方へと逃げる。写真を撮ってどうするのだ。

さあここで新郎新婦の誕生から出会い、そして現在までを動画にしましたので、スクリーンをご覧ください、などと言われるともっと困る。はっきり言うが「仕事ガラミ」「シガラミ」のご両人なので興味ない。

肝心の新郎新婦がお色直しで不在、という時間。あれだけは解せない。いいよ、そのまんまで。お色直しを終えて再登場し、あちこちの席のキャンドルに火をつけて回るのもどうか勘弁してほしい。そのくせおれが座っているテーブルにやって来ると、ニコニコしながら拍手している自分が情けない。だが新郎新婦よ、おれの目は笑っていないからね。

新婦の友人は絶対に一人でスピーチしない。三人組でマイクの前に立ち、何が悲しいのか、それとも何が悔しいのか知らぬが嗚咽している。いちいち泣くな。女が泣いていいときは財布を落としたときだけだ。
「どうかマユミを幸せにしてやってください!」
などと新郎に向かって号泣している。おれは、
「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる みつを」
と、心の中で繰り返すことになる。

新郎の同級生たちが肩を組んで出身大学の校歌を声高らかに歌う、というパターンも昔はあった。おまえら共通のアイデンティティは死ぬまでそれなのか。大学がおまえらに何をしてくれたというのだ、アホタレ。

両親への花束贈呈および手紙朗読など、言いたいことはまだまだあるがもう書かない。
書きたいのは、「仕事ガラミ」「シガラミ」でのあのような集まりはもうたくさんだということだ。結婚式の時間が長くなればなるほど、心から祝福する気がどんどん失せてくるではないか。披露宴で撮影されたスナップ写真が後になって何枚か送られてきたが、どのカットでもわずかに写りこんだおれはムスッとした顔をしていた。よくない。じつによくない。こんな不届き者など呼ばないほうがいいと思う。

「仕事ガラミ」「シガラミ」の会はまだある。忘年会、新年会、歓送迎会、暑気払いの会、みんな嫌いだ。仕事とまったく関係ない気の合う数人の仲間と集まるのは気楽だが、いつも同じ会社で仕事している気の合わない奴らと、なぜわざわざ居酒屋まで移動して席を同じくしなければならないのか。「呑みュニケーション」などとホザく奴の気が知れない。サケを呑まないと言いたいことも言えないのかよ、情けない。
取引先との忘年会、新年会なども同じだ。この場合は世辞のひとつやふたつも言わなければならないので、ますますタチが悪い。

もう「ガラミ」の会とはおさらばだ。絡むのは痰だけでたくさんです。これからは絡んだ糸を一本一本切っていくジンセーでありたい。いや、違うな。「おれがテキのほうからどんどん切られていく」と言ったほうが正しい。おれを頭数に入れても、もうなんのメリットもないもんね。いいじゃねぇか、望むところよ、上等ですよ。

サザンカの家(六)

北村周一

ガラス扉の向こう 

闇ふかき落ち葉のもとにかそかなるもののかげありわが眼をさそう
落ち葉かげよどみつつあるひとところ横たわりおり黄みどりいろは

澱みやすきガラス扉の下くらみありてふたつまなこをわが見たりけり
枯れおちば纏えるごともつつまれてねむるものありつばさもつ目は

ふき溜まり 風のよどみに黄みどりのまろみがひとつめざめを知らず
かぜ降りて枯れ葉もみじのしたかげにみどりあやしく羽顫えおり

かげ淡くのこりし窓のうす明かり 散りにけるらしちいさきとりは
そらから来て小暗きまどのそのもとに消え入るごとも鳥かげのあり

ねむる野鳥(とり)の目より溢るる涙ありて滴もてしるその玉ゆらは
半眼のままにねむれるののとりの目には盈ちたる透明のまど

そののちにホワイト・アイと知りしことも 骸ひとつを土に埋めつつ

ガラス扉の向こうめがけて翔つとりの目にはあまねく空あおくあり
みずからの翳とは知らでまっすぐに窓のガラスに飛びたつ一羽

打ちつけに窓のそらより墜ちきたる鳥は知らずやガラスのまどは
ガラス扉にうすらのこれる野のとりの絵よりしたたるかぎりなき青
 
あとりえの出口入り口ガラスにて 鳥がぶつかるいちどならずも
飛ぶとりの視野に入らぬガラス扉の暗みおもえり 透明ゆえの

ふかぶかと窓がえがける空のはて 吸い込まれゆく快感おもゆ
そら蒼くうつり込みたる空間にはばたき止まず翼もつ目は

迫り来るまどのガラスにもろ手ひろげなにを見たのか空ゆくとりは
あちらがわへ羽撃きたりしキジバトの絵すがたあわれガラス扉が知る

うすらかげ鈍くのこれるガラス扉の表面(おもて)拭えり きじばとひとつ
ガラス扉に静止画となる恥さしさは ツバサみだれてわれをうしなう

ムクロひとつ葬りたれば啼くとりの ちかくて杳いキジバトのこえ

≪Peace≫のハトは金色にして羨(とも)しきよ 真っ逆さまにオリーブくわえ
≪Peace≫のハトのごとき写しえガラス扉に見るはせつなくその灰色は

ひとのこころかるくあしらう山鳥のうごきに似せてあるきだす翳
くうかんに酔い痴れている鳥どちのこえは賑わしビルの峪の間に

よき声のために捕らえし野のとりの カゴの中よりとも呼ぶこえは
彼処がわよりガラス扉のなかをのぞき込む視線あやうしまた来て四角

エサ台にきょうも来ているメジロらの糞のムラサキなにやら雅
庭の木の小枝のごときナナフシの擬態もあわれフンを落としぬ

鵜野森の樹々のあわいに蠢くはアオバズクかも 背の闇に聞く
スズメ二羽繋がりしままに飛んで来て窓にあたって撥ねたるも解けず

三ツ四ツ鳴くごとに五ツ六ツ返す カラスのこえも春立ちぬきょう
ひらりひらり羽毛舞いおち電柱に止まるカラスはなにをか啄ばむ

襲われてウズラとび出す塀のうち 残るひとつはすでにクビなし
はなし飼いの隣家のチビというネコが庭に来ておりことり咥えて

雨あがり春の気配にみずたまりのぞき見ているくろしろのネコ
木洩れ日のまだら踏みたる足おとにしみいる昨夜のあたたかき雨

三姉娘

笠井瑞丈

ナギ
モギ
ハギ

ウチにいる三人娘
前回も書きましたが
モギが調子良くない
一度歩けなくなり
病院に連れて行った
神経系の病気か
脳の障害かで
平衡感覚を失って
うまく正面を認識できない
いつもヨタヨタ歩いて
たまに転んでしまう
あんな元気だったのに
毎日よくなる事を願って
日々過ごすしていますが
願いとは裏腹に悪くなるばかり
ついに首の捻転を患ってしまう
首が勝手に回ってしまう症状
そしてたまに発作みたいな事が起き
バタバタっとカラダが捩れてしまう
そして首だけが一回転くらいしてしまう
小さなゲージに入れて寝かせていますが
いつ発作が起き首を捻らせて
呼吸困難になるかわからない状況
我々がいれば発作が起きたら首を抑えてあげ
捩れないように対処できるのですが
今は一人にしないように
なおかさんとうまく
ローテションを組んでやってる
でもいつ何が起こるか分からない
ナギとハギも心配なのか
いつもケージの横で座っている
首を長くしてケージの中を覗き込んでいる
そしてたまに気づくと
天窓から中に入ってることも
モギとハギは姉妹でもある
やはり言葉がなくても繋がっているんだな
言葉がないからそれ以上の繋がりがあるのかも

僕もそうありたい

仙台ネイティブのつぶやき(107)タイムカプセルのような

西大立目祥子

上がると畳がべそっと沈み込む。床は全体重をかけたら踏み抜いてしまいそう。土壁は部屋の四隅が欠け落ち、上がり下りする階段の上の壁には斜めに大きな亀裂が入る。
母の家がきびしい状態になっているのは数年前から気がかりだったのだけれど、目の前のことに引っ張られて何もできずいた。でも、また大地震がきたら、線状降水帯が居座って大雨が何日も降り続いたら…たぶんもう持ちこたえられないだろう。ここまできたら、改修をやるっきゃないと重い腰を上げた。

2回の大がかりな増改築で手は入れているものの、最も古い部分は築66年。傷みの激しい和室の畳を上げてシロアリにやられている柱や床板を入れ替え、土壁を落として石膏ボードに張り替え、腐食している鉄骨ベランダを切り落とせば、相当重量は軽くなって地震もなんとかやり過ごせるでしょう、ということになった。箪笥を移動し、押入れの中を空にする。
屈強な3人組が1日で鉄製のベランダを分解し跡形もなく運び去ったあと、無口な大工さんが一人やってきて、来る日もくる日ももうもうと埃の立つ中で土壁を落としている。夕方行くと、庭先に仮置きされた土嚢袋が日に日に増えていく。持ち上げようとしてもビクともしない。いや土ってこんなに重いのか。この四方土壁の和室で、親子4人が川の字になって寝ていた。私は泥を固めてつくった家で育ったのだと、いまになって気づく。

手の届かない天袋の奥の荷物は、工事を取りまとめてくれる人が全部出して隣の部屋に運んでくれた。いやはや、その荷物たるや。赤茶けた段ボールに「小学生のとき読んだ本」とつたない黒マジックで書いてあるのは私の字に間違いない。「祥子想い出の品」というさらさら縦書きは母の文字。3つの大きな段ボールには父の字で、「雛人形①②③」と番号がつけられ、人形を詰めた箱が振り分けられている。その上の埃まみれの薄い段ボールは、うわぁ弟の鯉のぼり! 油絵の絵の具箱、高校のとき友だちをモデルに描いたクロッキーブックの束、小学校のころとっていた学習雑誌『科学』の付録、高校のころの日記とも独白ともつかないノートの束(恥ずかしい)…。うぇー、ぎゃぁ、なんで〜、えぇっ!と胸の中で叫び声を上げていた。

箱を開きひとつひとつ確かめていく。もうすっかり忘れていた物がつぎつぎ現れる。でも確かに見覚えがある物たち。誰かにもらって興味もなくしまい込んだと思われるお土産以外はみんなそうだ。記憶に残っていなかった物、それも取るに足らないようなささやかな物が、鮮やかに場面や会話までを呼び起こしていく。一方で、ずっと忘れずに残っていた記憶が、目の前に突然戻ってきた物によって増幅されるような感覚もある。人の記憶って不思議。ほとんどは闇の中に埋もれていくのに、そこだけスポットライトを浴びたように明るく輝いて長く頭の片隅に残り続ける場面があったりするのはなぜなんだろう。

たとえば、7歳か8歳のころの子どもの日の記憶。庭にゴザを敷いて父と弟といっしょに、明るい陽射しの中で風に泳ぐ鯉のぼりを仰ぎ見たあの日の清々しい気持ちは、長く記憶にあって5月の青空を見るたびにふっとよみがえってきた。私は弟の鯉のぼりが好きだった。特に山吹色に縁取られた上にコバルトブルーの鱗模様が鮮やかに浮き立って見えた真鯉が。人形嫌いだった私にとってお雛様というのはちっとも心の踊らないものだったから、うらやましく眺めた感情が鯉のぼりの思い出が逃げないようにぴっちりと記憶の箱に蓋でもしたのだろうか。
埃を払って出した鯉のぼりを床の上に長く広げる。鮮やかな黄と青はあの日のまんまだ。でも雨に濡れたせいなのか、黄色の尾びれはあちこち色落ちした墨色がついて汚れている。こういうのがきれいな記憶と現実の落差というものなんだろうか。
もういまは、木綿の生地に手染めしたこんな鯉のぼりはないかもしれない。銀色の鱗模様は細筆のフリーハンド。職人さんが一筆一筆描いたのだ。折りたたんでゴミ袋に入れるが、思い直して拾い上げる。しばらくは再会をよろこびあったっていいんじゃないか、と思う。

「小学生のとき読んだ本」と書かれた箱の中からは、親しんだ本がつぎつぎと出てきた。すべての表紙に見覚えがある。小口が茶色に焼けていたり、見返しにしみができていたり、一冊一冊が60年という歳月を背負っているみたいだ。シャーロック・ホームズのシリーズは何冊も読んで、ホームズが暮らしていたのはベーカー街221番地ということまで覚えていたっけ。見返しに自分で「おじいちゃん、おばあちゃんよりクリスマスプレゼント」と書いたものもあった。
何冊かは表紙を見たとたん、買った日の記憶が物語みたいに広がった。『あしながおじさん』を買ったのは、歩いて10分くらいの近くの商店街の本屋。父と弟と3人で行くと店の中には、コートやジャンパーを着込んだ立ち読みの人がぎっしり詰まるようにいて熱気がこもっていて、背伸びするように本棚を見上げてこの一冊に決めたのだった。『小公子』は七夕祭りを母と弟と見に行き、確か駅前のデパートで選んだもの。ワックスの匂いのする木の床を歩き回って、迷って決めたのだった。街には大きな書店があっていつもにぎわい、そんな本屋がデパートの売り場にも出店していたのだ。みんなが本を読んでいた時代だった。

すっかり消えていた記憶を大きな風呂敷でも広げるみたいにふぁっと鮮やかに見せてくれたのは、手づくりバッチ。昔の小学生がつけていたような直径4、5センチの色とりどりのプラスチックフレームの丸いやつ。その中に一点一点イラストを描いて文化祭のときの美術部の出し物にして、たしか50円くらいで売ったのだった。どれもがかわいいティストでちょっとシュール、ポップ・アート風といろいろ。反応は上々でけっこう売れた記憶がある。なんと健気で無邪気な女子高生だったんだろ。もう50年も前の思い出だ。このアイデアを出したのは仲のよかった友だちで、いまだにときどきお茶を飲んだりするので写真を送ったら、「きゃー」と声にならない叫び声が返ってきた。
バッチは校門前の小さな文具店に注文したのだった。「こんなにたくさん何に使うの?」と店のおばさんに聞かれ現物を見せたら「あら、かわいいこと!頑張んなさい」といわれたような。木造2階建てのこじんまりとした店構えや会話が、ふっと立ち上がった。バッチが残っていなかったら、思い出すことはきっとなかっただろう。友人は「今度見せて」というので、「制作者に戻す」と返信した。彼女がつくったのはどれか、すぐわかるのがおもしろいところだ。

モーツァルトの歌劇『魔笛』全幕のピアノ譜が出てきたのには驚いた。奥付を見ると母校の蔵書印が押してあるではないか。あ、そうか、これは確信犯。書庫から黙って持ってきた一冊。ごめんなさい。高校の一時期、ドイツリートを聴いていたことがあったから、勢い余ってオペラもと手が伸びたのかもしれない。私が通っていたのは宮城県立の女子高校だったが、そもそもは新島襄が学校長の男子の中等教育機関として始まっていて、明治期に建てられた木造の洋館が移築され図書館になっていた。書庫を見たいとお願いすると、きれいな顔立ちのほっそりとした司書の先生が「どうぞ」と許してくれて、いまにも崩れそうな階段を上がっていった。分厚い窓枠のガラス越しに入る陽射しを背中に受け、静かな書庫をそろそろと見て歩くのは至福のひとときだった。
クリーム色のクロス張りに赤でタイトルが刻印された音楽の友社のきれいな本で、蔵書印は昭和41年になっている。それにしても地方の普通科しかない女子高で、「世界歌劇全集20巻」を入れていたとは。学校の誰が選書をしていたんだろう。そしてあの明治期の洋館を残すことはできなかったのだろうか、とも思う。本は、処分はせずに手元に置いておくことにした。

というわけで、恥ずかしい物は廃棄したが、物を減らしていくのはなかなか容易ではない。お雛様の箱をそっと天袋に戻して、きれいによみがえった和室の畳にごろりと横になる。転がって眺める空に、あぁと思わず声が出た。幼いころ何度も眺め見た空と変わらない空が広がっていたから。自家中毒の発作で具合が悪くなると子ども用の小さな布団に寝かされ、この部屋で回復するまでの数日間はぼぉっと空を見ていたっけ。過去の物は全部生まれ育ったこの家に投げ捨て引力の圏外に出て生きてきたつもりだったのに、そんな物たちに記憶を呼び戻され、眠っていた思い出をひとつひとつ確かめている私がいる。

古屋日記 2025年6月

吉良幸子

6/2 月
新居の鍵をもらいに不動産屋へ。そのまま電気やガスの立ち会いがあるからお昼にサンドイッチを買って家へ向かう。築年数的には私よりもかなり先輩の一軒家で、外観にもものっすごい年季を感じるんやけども、中身は綺麗で広めの和室がある木造二階建て。まだ家具も何もない畳の上にぽつんと座って、明日からどうぞよろしゅうお願いしますと家に挨拶した。

6/3 火
引越しの日!丹さんの名残り雨かしら、今週は今日だけ雨模様。早朝に残りの梱包をざっと終わらせ、近くの八幡さんへお礼参り。引越し屋さんが来るまで余裕があるなんて…前回とは打って変わって段取りええやないの。10時前になって賑やかな引越し部隊がやってきた。今回も光の速さで雨の中荷物を積んでいく。あっという間に積み込んで、先に出発!スペアキーを渡して勝手に荷物を入れておいてもらう算段。
さて一方の喜多見では、ソラちゃんを連れて引っ越すために呼んだドライバー、山ちゃんが来るまでまだ数時間ある。せっかくやし近辺の行きたかったとこへあちこち行っておこうと、まずは祖師谷へ下駄の直しを引き取りに。鼻緒をつめるのだけ頼んでたんやけど、すんごい削れてた台のとこまで綺麗にしてくれたはってほんまにありがたい。ちょっと遠くなるけど着物関係はここへ来ようと思う。公子さんにお昼を買って一旦帰宅。ソラちゃんはふてくされてお隣の空き部屋の軒先でそっぽ向いとる。
近くで行きたいとこもっとないかいな、と考えて、再び電車に乗り成城学園前へ。散歩で店の前を歩くばっかりやった蕎麦の増田屋さんに行ってみた。ガラガラと引き戸を開けて、嗚呼、もっと早く入ってたら良かったのに、と心底思た。気取らんお蕎麦屋さんでしかも蕎麦がむっちゃおいしい。蕎麦食べる前から蕎麦湯出してくれはるし。満腹で家に帰ったら丹さんが雨の中来てくれておった。部屋を引き渡して、山ちゃんの車を待つ。丹さんが逃げるソラちゃんを確保して車へ、公子さんと私のかわりべんたんに抱っこしてドライブ引越しを敢行した。ソラちゃんは箱に入れられるよりも外が見えてると問題ないらしく、にゃぁとも言わずにずっと外をキョロキョロ見るだけ、暴れず逃げずの終始お利口さんやった。
家に着いたら、引越し部隊は仕事を終えてさっさと帰った後で、ものすごい量の荷物が迎えてくれた。階段が急やし二階は私が、一階を公子さんの部屋にする。前に住んではった大家さんと思われる方がご高齢だったらしく、ごっつい手すりがあちらこちらに付いていてありがたい。階段は手すりがないと私でもちょっと怖いくらい段が浅くできておる。公子さんがゆっくり一段ずつ二階へ、ソラちゃんも一緒に来て、へぇ~割に広いじゃないの~とみんなでおうちチェック。荷物もそこそこにソラちゃんが落ち着いて寝そうになったら、すかさず外へ出て家から一番近くの蕎麦屋へ行った。腰の曲がったおばあちゃんが給仕してくれる、家族でやってはるお蕎麦屋さんでそりゃぁおいしい。やっぱし無事に引越したし、蕎麦食べとくか!と本日2杯目のお蕎麦をいただく。手作り肉じゃがを注文しとる時によしえさんからお電話が。図らずも引越しおめでとうとちょっとお喋りした。
帰ったら各々、とりあえずお布団を敷いて寝られるようにして、ソラちゃん含めみんなどかっと寝る。雨やしさすがに疲れたようで、みんな爆睡。明日から荷解きがまた始まるけど、それより町を散策するのが楽しみや。

6/4 水
越してきて昨日の今日やけど、落語会へ行く予約をしてたので御徒町まで。何がびっくりしたって、御徒町まで余裕の30分圏内!今まででは考えられんくらい、どこへ行くにも立地的に便利でありがたい。私が落語会へ行ってる間、公子さんは近場をうろうろ。商店街で色んなおいしそうなお店を見つけてくる。
うちは家々の裏手にあるんやけども、家と家の間に細い猫道があって、そこを猫が通ってゆく。それも1匹2匹の話じゃなく、大きいのからちぃこいのまで色んな柄の子が歩いている…その影が公子さんの部屋の窓に入れ替わり立ち替わり映るからおもろい。
ソラちゃんは今回の引っ越しの時、車窓から車のビュンビュン通る景色を間近に見てきたからか、前の家に自力で帰れんのを理解している模様。新居では全然外へも行きたがらず、終始公子さんか私にべったり状態。どっちかってと、こんな所に急に連れてこられて、オレってなんて可哀想な猫なの…という感じの名演技中で、色々と身辺を労ってもらいたいらしい。そんなソラちゃんも一応、外猫たちを気にしてるけど、当の外の猫たちはそんなことより、この家、猫おるし入れそうやなぁ…と侵入を狙っている感じ。いっぺん入れたら居つきそうな子ばっかしやし、それは絶対入れんとこな、と公子さんとの固い約束。

6/7 土
今年から梅仕事を始めようとずっと考えてたのやけど、友の実家に梅の木があるということで久喜まで梅もぎの旅に出かけた。モンペに長靴、麦わら帽子に軍手で蚊対策は万全。大きな梅をたくさんいただいた。梅酒と梅干しを漬けようと、実はかっぱ橋に何度か行って壺やらざるを買うてきておる。引越しでただでさえ物入りのとこに何してんだかと思いつつ、漬けるのむっちゃ楽しみ。明日帰ったら早速下処理して漬けようと思う。おいしいのができますように。

6/12 木
十条に住む、公子さんの昔からの友だちに会う。十条の人やしこの辺りのことを色々と教えてもらう。どこのお豆腐屋さんがおいしいとか、どこのお肉屋さんがおすすめとか、もっぱら食いもんの話ばっかし。まだ引越して2週間くらいやねんけど、公子さんも私も、もうずっと長い間この町に住んでた気がしとる。

6/14 土
アパートん時と違って部屋が上下に分かれとるから、用事があると公子さんが階段の下からおーいと呼ぶ。すると私も階段の中段くらいに降りていって、下で座る公子さんと話す。引越してから超甘ったれ坊主なソラちゃんも階段が好きで、階段で話しとると自分も参加しにふたりの間の段に座ってふむふむと聞いておる。そんな、階段会議が最近の古屋のハヤリ。

6/26 木
都内の銭湯で使える入浴券が月末を過ぎるとただの紙切れになってまう。もう26日やというのに残りは7枚。銭湯好きやのに無駄にはでけん!と今日からどこの銭湯に行くか計画を練る。1日に2回入る日も勿論出てくるんやけど、最近急に暑くて汗だくになっとるしちょうど嬉しい。まずは手始めに、今日は行ったことない銭湯へ行くべく御徒町の燕湯へ行った。駅からこんな近いとこに風情ある建物が残ってるなんて!と感動。朝湯してはるから閉まるんも早めやけど、寄席の帰りにこれから行けそう。湯でさっぱりした帰り、つる瀬で水無月をお土産に電車でどんどこ帰る。

6/27 金
今日は家から一番近い湯、やなぎ湯へ。公子さんはすでにちょくちょく行ってはるんやけど、時間によってはむちゃくちゃ混んでる!と聞いていてびびって行けてへんかった。どれくらい混んでるって、日曜は人多すぎて断念して帰ってきはったことあるくらいやねんから。
雨がザァっと降って、人もあんまり動いてなさそうな時を見計らって行く。お客さんの数はぼちぼちやけど、なんしか脱衣所が狭い。そうは言いながらもお風呂の方は広くて色んなお湯があってむっちゃええ感じ。白濁のシルキー湯なんてあるし、一応露天みたいなとこもある。近場にええとこがあって嬉しい。これからは時間見てぼちぼち来ようっと。

6/29 日
残りの銭湯券は4枚、月末まで残り2日…ということは、今日明日は2回ずつ風呂行かねば!と朝から謎にひとり意気込む。調べたら、十条湯が日曜朝風呂やってるらしく朝から十条まで歩いて行ってみる。十条湯はいつ行っても活気がある感じ。今日は泡風呂の日で、朝からあわあわの白い湯に浸かりながらおばちゃんに話しかけられ、十条近辺のあれこれを聞いた。この辺の人はすぐに話しかけてくれるから嬉しい。
今日はお昼から公子さんが黒テントへ行く日。私は甘えたすぎのソラちゃんとお留守番。最近は添い寝してくれと言われ、布団じゃなくて畳の上で寝ることもしばしば。夜、公子さんがへとへとで帰ってきた。色々と寄り道したらしい。でも最近は近場をよく歩いたはるし、世田谷におった時より脚の具合はマシらしい。やっぱし町がおもろいのって大事やね。
ごろんと寝っ転がった公子さんを見てから王子神谷の方にある宝泉湯へ行ってみる。十条の方面は歩いて何度も行ってるけど、逆方面へ行ってみるのは初めて。一番近い道を通って行ったらものすごい団地に公園が出てきた。そして駅も意外に近く、地下鉄もこれから使えそうな予感。宝泉湯は露天風呂に打たせ湯まである銭湯で、ご近所さんが通ってはる感じ。あ~近場の銭湯に色々行けて楽し~。

6/30 月
長く濃かった6月がようやく終わるらしい。今日は朝から王子神社へ厄払い、銭湯券を使い切るべく汗だらだらでお昼から銭湯で汗を流し、寄席に行ってとんぼ返り、家を訪ねてきてくれた「本 ゆくえ」の友たちと飲む。そして駅へ送りがてらまた銭湯へ。これで手持ちの銭湯券もちょうど使い切れた!
銭湯の帰り道にスーパーへ寄ったら、4年間貯めてたポイントが満タンまで溜まって1万円札と引き換えてくれた。ラッキー!公子さんに、ええ人生送ってるねぇ、なんて言われる。ほんまに贅沢な1日やった。さぁ、月が変わったら本腰入れて働かにゃいかんなぁ。

ランプシェードたち、活性

芦川和樹

(下る、ランプシェードたち)
――立ち話もなんですからどうぞ奥へ
いいえ下っていますので
柔らかい羊⋯雲が皿を占拠する
サメの姿をした、皿
ザラザラした
以前より、ザラザラした
牧羊犬⋯エシャレット
逆さになって、しまったんです

オ腹の底に
カミナリがいます、雉キジ
     いまっす

ランプシェードたちがあわてている
オオカミがたぶんあらわれる、手筈が
整えられている
壮大な
牧羊犬がくわえた俎板にうまれた
うまれつつある、景色⋯ショートケーキの
街、誕生日の

汚れました、手をよく洗うということが
しまうまの背なか、を歩行していくこと
少しずつ
未来をつまんで、すすむ
穀物
いどうする、金額を確かめて
副菜⋯副部長かなんなのか
わからない
恒星
みたいな
不安

見学
している三つ葉

(花の冠をバトンにして)
ハーバーが横付けされる⋯のがわかる

――皿、お皿を持っていってください。希望になりますから。それから、エシャレット。それから、ホログラム(ザラザラしたホログラム⋯角つのみたいな、お城みたいな、三角形の)。炎だと思う、けいとー。それから、絹。

夜の山へ登る(4)

植松眞人

 僕はあんたと仕事帰りに何度か飲みに行くようになった。会社の愚痴や東京での暮らし、たまには学生時代の話もした。けど、あんたの口から出てくる昔話は、なんや薄うて誰かから聞いた話を間違えんように注意深く話してるみたいに聞こえた。飲みに行くたびに、あんたが話してええことと話さんようにしてることの色分けが、きちんとされてることに気が付いた。あんたはあの日の文化祭のことが話題になると、うまいこと逃げたなあ。
 あれは、僕らが再会して半年ほど経ったころやったかなあ。仕事帰りに呑もか、いうて珍しくあんたの方から電話をもろたんや。神田の小さな焼き鳥屋で、僕は最初っからあの文化祭の話をした。いつものように、あんたはうまいこと、他の話題に変えようとしてたけど、僕が今日はその話をするで、という顔になってたんやろな。あんたは途中で諦めた。
「お前、ほんまにあの文化祭の話好きやなあ」
そういうて笑ろた。その笑い顔は、諦め半分、恥ずかしさ半分みたいな顔やった。よっしゃ、と思て、僕はあの奇妙なコンテンポラリー演劇のことを冗談まじりに聞いたんや。
「あんた、あのとき、クラスの全員に『黒レオタード着ろ』って言うたんやで」
 あんたは焼き鳥をつまみながら、ちょっと笑って、「そうやったかな」と言うた。
「なんや、オレ、変なこと言うてたな」
 あんたはそう言いながら笑てたけど、一瞬ほんまにそんなことがあったかどうか、わからんような顔してたな。
 しばらくして、あんたは、
「正直、あの頃のことって、よう思い出されへんねん」
 僕は一瞬、冗談かと思たけど、あんたの声がほんまに得体の知れんもんのように、ふんわり僕の耳に届いて、その気色の悪さになんや身震いしてしもたんや。
「なあ、あのとき…オレ、何人くらいに話しかけてたと思う?」
「何人って…クラス全員やろ?」
「うん、けどな、あの教室って、三十人くらいやったやろ。でも、いま思い出すと、もっとぎょうさんおったような気がするんよ。三十人やなくて、四十人とか、五十人とか」
「そんなわけないやろ」
 僕が笑うと、あんたも笑った。
 けど、ちょっとだけうつむいたまま、あんたの目だけは笑てへんかった。
「なんやろ。誰かわからんような顔が、いっぱいいた気がするねん。真っ黒な顔。目ぇだけ光ってるやつとか」
「なにそれ、夢でも見たんちゃうか」
 僕は軽く流すように言うたけど、あんたの目はそれでもどこか遠くを見ていた。
 しばらくして、あんたは、
「正直、あの頃のことって、よう思い出されへんねん」
 と、ちょっと前に言うた言葉をもう一回言うた。なんや僕はえらい怖なって、それまで飲んでた酒の酔いが全部飛んだみたいやった。
「なんでかな」
あんたは真っ直ぐ僕の目を見て言うた。その目の奥に何かが沈んでるように見えた。
「…記憶って、勝手に増えることもあるんかなあ」
 あんたはぽつりと呟いた。
 僕はなんと答えたらええのかわからず、自分のグラスに目を落としたままやった。
 店を出て、駅までの帰り道を僕らはいつものように並んで歩いた。すれ違う人たちの顔が、みんなどこか見覚えあるように見えて、僕はなんとなく後ろを何度も振り返ってしもた。
(つづく)

言葉と本が行ったり来たり(30)『犬と歩けば』

長谷部千彩

八巻美恵さま

東京は桜が咲き始めましたね。八巻さんのお宅の辺りはいかがですか。
私の仔犬は、我が家にやってきて4か月、生後7カ月になろうとしていますが、まだ上手に散歩ができません。車の音が怖いようで、外に連れて行ってもすぐにうずくまってしまいます。犬は散歩が好きなもの、と思い込んでいた私は戸惑うばかり。そのうち歩けるようになるさと鷹揚に構えるようにしていますが、どうなることやら。

さて、犬といえば、少し前に『犬と生きる』(辻仁成著)というエッセイ集を読みました。自分が犬の飼い主になったので、他の飼い主たちが犬と暮らしてどんなことを感じているのか、俄然興味が湧きまして。
感想は、と言うと、著者が私とあまりに違う性格なので、引いてしまったというのが正直なところ。というのも、文中、自分の犬はとびきり可愛い、まわりのひとたちからも可愛いと言われる、よって誰からも好かれている、と、しつこいほど繰り返すのです。でも、ところどころに挟まれる写真を見る限り、そこまででもないんですよね。不細工なわけではないのです。整った顔立ちではある。ただ、「うん、(普通の)ミニチュアダックスフントだね」としか思えず・・・。要するに親バカ的犬バカエッセイなのです。でも、著者はそのことに気づきながらも、「あばたもえくぼ、それがどうした!」と振り切って筆を走らせているのかもしれない。そして、全力で溺愛する自分のことも愛でているのかしれない。そこが私とは違うし、私にはそういう文章は書けないなあ、と思ったわけです。
私の犬も体が小さいので、連れて歩いていると、通りすがりのひとに「可愛いですね」とよく話しかけられます。でも、まあ、社交辞令もあるだろうと、話半分で聞き流しているし、だいたいその地域に犬が一匹しかいないならともかく、ひとが暮らす場所には大抵犬も暮らしていて、飼い主たちは皆、自分の犬を一番可愛いと思っている。もちろん私も自分の犬は可愛く見えます。でも、絶対に実物以上に可愛く見えていると思うのです。自分の目が愛情のために曇っているという自覚が私にはあります。
愛犬家は誰もが、曇りなき瞳ではなく、曇りある瞳で我が犬を眺め、我が犬を撫でまわし、我が犬とともに生きている。さらに言うなら、その曇りある瞳を持つ、愛に愚かな人々が、毎朝、リードを手に通りですれ違っているわけで、そう考えるとおかしいですね。

そして、この本をきっかけに、作家の犬エッセイを読みくらべることを思いつき、次に手にしたのが『犬と歩けば』(安岡章太郎著)。こちらのエッセイ集に登場するのは紀州犬、コンタです。
もともとは週刊雑誌連載だったようで、前半部分、コンタについての記述はそれほど多くない。毎週自分の犬ネタではもたなかったのか、友人の犬の話、生き物としての犬の話などでお茶を濁している。ところが、コンタが年をとって死ぬ後半部分からコンタへの愛が炸裂します。そして、炸裂とともに作家の底力(描写力)が見せつけられるのです。コンタの死、落胆、二度と犬は飼わないと誓う著者がキクという仔犬をもらい受けることになり、キクを育てながらコンタを想い、ところがキクの性格からキクを手放すことになり、代わりに著者のもとにハナという仔犬がやって来て、ハナを育てながらまたコンタを想う。三匹の犬の姿態と著者の心の揺れ動きが活写されていくのです。
このエッセイを読んでいるうちに、私は、私自身が、犬の魅力を、容姿ではなく、その動き、そして飼い主との関係性に見出していることに気づきました。

私が気に入った文章を二か所、抜き書きします。
《 早朝、コンタをつれて、よく多摩川べりへ出掛けた。人っ子ひとりいない河原でコンタを引き綱からはなしてやると、草原の中を真っ白いコンタが尻尾を一直線になびかせて素っ飛んで行く。そして縦横に駈けまわったあと、ふと立ちどまって主人の存在をたしかめるように、こちらを振りかえる。そんなとき私は、犬というより〝友情〟そのものが、朝靄に包まれてそこに立っているように思ったものだ。
また、晩秋から初冬にかけて、川べりにそって霜の下りた枯草の間をコンタと一緒に歩いて行くと、半分氷のはった薄暗い河面から不意に驟雨のような羽音が伝って、飛び立った雁の群れが一瞬、空を黒い斑点で覆ってしまう。そんなとき凝然と立ちどまったコンタの全身に、野生の血の騒ぐのが引き綱をひいた私の体にまでかよってきて、何か狩猟で暮らしを立てていた昔の人の呼び声がきこえてくるようでもあった。》

《 コンタは決して学者犬のように利口なところはなく、またテレビ・ドラマに出てくる名犬某のような能力は一度として発揮したことはなかった。(中略)コンタがすぐれていたのは、ただ自然なかたちの生きものとして優秀な存在であったという他にない。そして私は、そういうコンタを見ていると、何となく慰められたり、はげまされたりして、生きているということは有難いことだという気がしてきたのである。》

折角なので、私の中の新ジャンル、「犬エッセイ」は今後も開拓していこうと思います。八巻さんも、もし、お勧めの犬エッセイ集があれば教えてください。
最後に私の犬の名ですが、ブリーダー宅ではちーちゃんと呼ばれていたそうですが、我が家に来てロンとなりました。ちなみに血統書に記載された本名はエメラルドです。
二回続けて犬の話ですみません!

2025年3月31日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(29)「僕が僕と言う理由」 八巻美恵

『アフリカ』を続けて(49)

下窪俊哉

 昨年7月に『アフリカ』前号(vol.36)を出してから、もうすぐ1年がたとうとしている。正確に言えば前号というより、現時点での最新号である。
 あれ、前回と同じ書き出しだぞ? つまりまだ完成しておらず、7月を迎えたということになる。もう殆ど完成していると言ってもよいのだが、まだもう少し待ちたい原稿があるのと(待つことは得意です)、私の家族にのっぴきならない事情があり、これを書いている6月末時点で故郷・鹿児島に急遽、帰ってきている。今回はしばらく滞在する予定で、常用のノートパソコン持参で来た。「そういう時こそ『アフリカ』はやるべきです」と話す方もいて、ありがとう、私もそう思うけれど、無理はしない。動きを止めることなく、ゆっくりと進めている。というよりも、『アフリカ』は自ら航海を進めている。『アフリカ』はいつか出来るので、私は心配していない。
 続けるということは、ただ、止めたと思わないで過ごしている、ということなのかもしれない。
 しかし東京で活動している外出支援の仕事にかんしては、どうしようもない。半月ほどは休ませてもらう。それでも気持ちは、常に持続していると言いたいのだが。
 5日には大船までイリナ・グリゴレさんとアサノタカオさんの話を聴きに行くのを楽しみにしていたのだが、それも参加不可能になったので会場のポルベニールブックストアに連絡して、キャンセルのお願いをした。
 事情を話すと皆、祈ってくださっている。
 イリナさんの新刊『みえないもの』と、先月の「水牛のように」で越川道夫さんが書かれている江代充さんの本から『黒球』を選んでカバンに入れて来た。滞在中に本をどれくらい読めるか、わからないが、御守りのようなつもりだ。
 空の上にいる誰かにもお願いして、助けてもらいたい、と考えて、かつて実家にいた犬たちを思い出した。彼ら2匹と、いま一緒にいる犬と、いまの子供たちとかつての子供たち(そのひとりは私なのだが)を主役にした私家版の写真集を、密かにつくったりもした。それも御守りのようなものかなと思う。
 とにかく家族にとって大きな大きなピンチなので、乗り越えようという気持ちになれるかどうかは大きい。小さな本をつくることは気休めに過ぎないかもしれないが、出来ることはやって、つまり私は自分の後悔がないようにしたいのだ。
 自分が会社勤めを続けていたら、こうはゆかなかったかもしれない。でも私は、それをおかしいと思う。その程度の予定変更は生きている限りやむを得ないことだ。少し話が逸れたけれど、今回は私が独断で決めて、周囲には合わせてもらい、調整してもらった(ご迷惑、ご心配をおかけしています)。しかしこれが戦時下になると、全員が緊急事態になるので、社会が壊れてゆくのだろうとわかったりもした。

 個々の予定変更など、どんどんするべきだ、それが出来る社会を目指すのがよい、というのが私の基本的な考えのようだ。いつ、何が、どうなるかわからない、というのが自然なことである。

 せっかくなので家族の話をすると、父は鹿児島市の職員として新卒から定年まで勤めた人で、私は小学生の頃、自分も将来は公務員になるものだと思っていた。それくらい親の影響というのは大きいのだろう。親と同じ仕事をするのは絶対に嫌だと思う子供もいるはずだけれど、それも影響の大きさによるものではないかと思う。
 文学をやるのにも何か別に仕事を持ちつつ、と考えたのにも、親の影響があったかどうか。私の場合、可笑しいのは、そんなふうに考えているのに、その一方の「何か」の何をやっても、なかなかうまくゆかなかったことだ。文学の仕事は「何か」の傍らでやっていればよいと思っていたのに(思っていたからか)、続いたので、よくわからない。後から考えると、無理しないで文学に関係する職業を目指せばよかったのに、という気がしないでもないが、そこは根っからの天邪鬼である。自分の仕事に集中することを嫌がっている? でも、例えばいま、13年ほど続けている外出支援の仕事も、言ってみれば、私にとっては広義の”文学活動”と言ってよさそうな気がしないでもないのだが(知的障害のある人たちは、ことばを持たなかったり、持っていても大きく違っていたりするので、私にはとても面白いのだ)。

 身内に芸術家のような人はいない。
 強いて言えば、叔父(父の弟)が若い頃に絵を描いていた。田舎の家の離れは、元々は叔父のアトリエとして建てたものだと聞いたことがある。私が幼い頃には、すでに物置きになっていた小屋だ。
 その父の実家は商店で、「下窪商店」という。その集落に、そのような店は1軒しかなかった。焼酎とビールやジュース、米やパン、乾燥の食材、お菓子、生活雑貨などを売っていた。肉魚などは売っておらず、少し離れた場所まで車で買いに出なければならなかった。野菜は、畑をやっていたから、お金で買うものではなかったはずだ。たまに遊びに行くと、いつも大量の野菜を貰って帰ってきた。
 母方の親戚には、学校の先生が多いかなあと思う。母も結婚前に少し小学校の先生をしており、私たち兄妹が成長してからは訪問介護の仕事を長年やっていた。祖母は長年、街中で魚屋をやっていて、私が子供の頃には店の奥にある四畳半くらいの狭いスペースにひとりで住んでおり、遊びに行くといつも新鮮な刺身をたくさん持たせてくれた。祖父は、母が小学5年生の時に亡くなった。
 こうやって整理してみると、なるほど、太平洋戦争を生き延びた祖父母は商売をやっており、その子である私の親世代には公務員が多い。ただし、これは仕事がうまくいった人に限った話になるだろう。
 うまくいかず精神を病んでしまったような人もいるし、焼酎を飲みすぎてからだを壊した人もいる。私はどちらかというとうまくゆかない方の人生を歩んでいると言えるだろうが、不思議と(少なくとも現在のところは)無事だ。この話はどこへ向かうのかわからない。

 家族の写真集をつくってみようと思ったのは、父が、祖父母の若い頃から現在に至る家族の写真を大切に持っていて、今ではスキャン・データまでつくって整理してくれているからだ。ふと思ったのだが、記録を取り、整理して、残しておきたいと思う私のこの性格は、じつは父譲りなのかもしれない。ただし、整然としている父の整理の仕方と対比して、私の場合は雑然としている。おそらく創作とは、雑然とした中にこそ生まれるのだと考えてみたいところだ。

太陽をリレーすること

新井卓

夏至祭のあるところで暮らしたい、とぼんやり思っていて、まだ実現していない。
冬至の時分にバレンツ海のほとり、迷子石(氷河が運んだ岩)ばかりごろごろ転がる、およそこの世のものと思えない荒野で過ごしたことはある。極夜は決して暗黒ではなく、永遠の薄明に目を凝らすと朱鷺色や桔梗色のため息のでるような淡いグラデーションがうつろう。連夜のオーロラは美しさよりも、決して正視してはいけない祟り神からじっと見つめられているような、冴えざえとした恐さがあった。そんな夜更け、小さな丸太小屋の薪ストーブの火はいつになく妖しく赤々とのたうち、生き物じみた体熱を発していた。北の最果て。冬至がそれほどなら、夏至もきっとおなじだけ強烈なのだろう。

つい先日、東京で開催中の白木麻子さんの個展で、木や金属の立体作品に混じって不思議なドローイングが展示されていて、吸い寄せられるように見入った。おなじかたちが──花束の輪郭だろうか──ずれながら幾重にも反復する、鉛筆描きのパターンを刻んでいる。この作品は彼女がデンマークで滞在制作中、ちょうど夏至の日に、天窓から差し込む陽が落とす影を刻々とトレースする方法によって描かれたという。純白の画用紙は太陽の反射で目が眩むほどぎらぎらと輝き、ときおり陽の翳る一瞬だけ、自分が写しとった線が見えた──そう聞かされて、このドローイングはアートであるだけでなく太陽遥拝のネガ像にほかならず、ためにどこか人類の深い記憶と繋がっていると思った。

夏至の日、小さなダゲレオタイプ銀板を磨きあげ、ヨウ素と臭素で処理してカメラに装填し、太陽にレンズを向ける。十余年ぶりに太陽の作品を作ろうとしていて、その練習のつもりもあったが、赤道儀の調整だとか、いろいろ細かなことをすっかり忘れていた。調整のできていないカメラの視野を太陽は猛烈なスピードで横切り、視界からするすると逃れつづける。太陽の、というより地球の回転エネルギーの眩暈のするような無尽蔵さを思ってよろめき、それから震災の翌年、小名浜で金環日食の撮影をした日のことを思いだした。一時間、二時間と汗みずくで赤道儀と格闘するうち、南中の時刻を迎えた。一年でもっとも青白い夏至点の太陽の放射には、きっと冷たさが隠されているのだろう。すっと汗が引く感覚があり、ややあって身体の底から、けもの的な力強い何かが湧き上がってきた──オデュッセウス一行がごとく、牛を一頭盗んで丸焼きにしてぺろりと食べてしまいたいような気持ちに駆られたが、そういうわけにもいかないので、撮影が済んだら最寄りのスーパーで焼肉セットを買おう、と心に決めた。

ひと足先にベルリンに帰った連れから、翌朝、アイスキャンディーを片手に夕陽を見つめるこどもの写真が届いた。なんだか太陽をリレーしたみたい。テンペルホーファーフェルトの一角で夏至を祝う野外コンサートがあり、みんなでエレキベースとフルートのドローンを聴いた後だという。
テンペルホーファーフェルトは空港の跡地で、広大な敷地と滑走路をそのままに、今ではベルリン市民の憩いの場になっている。遮るもののないコンクリートの平原に吹く風はどこか海風に似ている。夏至祭がなくても沈みゆく太陽をドローンで見送る、大きな空のあるベルリンに暮らすのは悪くないのかもしれない。古い家々が軒並み更地になり、そこに四軒も五軒もやたらと窓の小さい、ぬりかべのような新築が立ち塞がる川崎の庭から、夏至の太陽を仰ぐのも悪くないのだろう。どこにいたとしても、太陽に正対するとき、この恒星とわたしを分かつのは宇宙の真空だけだ。

製本かい摘みましては(194)

四釜裕子

前回ミシンを棚から出したのは世の中からマスクが消えた時だから5年前になる。買い置きがまだあったけれども、念の為に作っておこうと近くのユザワヤに材料を探しに行ったら特製のマスクキットが並んでいた。手芸店で人気というニュースは聞いていて、お店の人が作り方の説明に追われていた。中身を見ると、ガーゼっぽい生地(ダブル幅1メートル)とゴム紐(3メートル×2)と作り方のコピーが1枚。店の在庫からマスクに使えそうな生地とゴム紐を集めて苦心してセットしたのかもしれない。試しに1つ求めて後日ミシンに向かったのだけれど、ガーゼ状の生地では用をなさないという話をちょうど聞くようになり、結局このときは作らなかった。

その後ミシンの出番がなかったのは、その重さによるところが大きい。6~7kgくらいだと思うのだが、棚の奥から引き出してテーブルにセットして使い終わったらまた元に戻すのが億劫になり、一昨年はついに既製品のカーテンを買ってしまった。ミシンと手縫いを単純に比べたら手縫いのほうが好きなので、雑巾とか小物のたぐいは手縫いで十分。でもハードな生地のサポーターを細工して丈夫に仕上げようとしたらさすがに無理で、久々にミシンを出したという次第。ところがなんとプーリー(はずみ車)が回らない。背面の蓋を外して中をのぞくと複数箇所でグリスが濁り固まっていた。いろいろ調べてみた結果、症状は結構重症だとわかり、昨今のミシン事情をにわかに知って新しいのがほしくもなり、修理は諦めて買い換えることにした。

このミシン(シンガーのMERRITT SR-5B)は、1980年代の後半に月7~8千円で1年払いの月賦で買ったのだと思う。ひとりで暮らすのに自分的にはどうしても欲しくて、遠藤書店もあった経堂のすずらん通りからちょっと入った街路樹という喫茶店でのバイトが決まってすぐに契約したのだった。渋谷駅前の地下の旭屋書店でソーイング系の雑誌を立ち読んで、すぐ近くのマルナンや新宿オカダヤで生地を買い、ひたすら我流で服を作った。端切れでカーテンもカバーも作った。当時作ったものは何も残ってないけれど、型紙をまとめたファイルはまだどこかにあるかもしれない。この頃もミシンは使うたびに棚の奥から出し入れしていた。でも重たいとか面倒とか、そういうたぐいの記憶は一切ない。

いざ買い換えの機種を決めようとしたらその数にうんざりした。多すぎでしょう。最低限の条件でふるいにかけると、ミシンに対して自分がイメージする「小さくて軽い」と世間的な「小さくて軽い」の齟齬があらわになった。世間は「○kg未満、○cm未満ではカーテンなどの大きいものは無理」とぶった斬るけれども、だいたいそのサイズのMERRITT SR-5Bでこちらはなんでも縫ってきた。余計なお世話だと独りごちつつ一応実物を見ておこうかなと家電量販店を回ると、量販店におけるミシンの扱いは超小さく、しかも限られた機種がどの店にも並んでおり、眺めているとお店の人が、”初心者向けです”とか”お手軽です”とか勧めてくるから、初心者じゃネーよ。って言いたくなるわけ。目指す機種には当たらなかったが重さと大きさの見当はついたので、小さくて軽いやつに確信を持って決めることができた。

注文すると翌日届いた。時間をぬって量販店を回ったこの2週間に対して早すぎる。情緒がないよね。とか言って開封して早速糸をかけてみる。手順はこれまでのものと同じだが、そのパーツはことごとく露出が避けられ、上糸台や針を上下させるバー、水平釜の蓋やボビンケースもみなプラスチックだ。軽やかでフラットで、そのスマートさにこちらの手がすくむ。改めてMERRITT SR-5Bを出して並べて見ると、古いのは機関車、新しいのはステンレス車両だね、という感じがしたが、今思えば足踏みミシンが機関車で、電動ミシンは汽車といったところだろう。数日後、粗大ゴミの日に400円分のシールを貼ってMERRITT SR-5Bを出した。すると収集時間にピンポーン、「ミシンが出ていませんが」。金属ものは時々こうして持ち去られてしまう。だから時間ぎりぎりに出したんだけどな。MERRITT SR-5Bにごめんねを言う。何気なく抜いておいたボビン2つとボビンケースが形見みたいになった。

実家にはシンガーの足踏みミシンもあったがすでに「台」になっていて、それでも何度か動かしてもらったことがある。ミシン自体のカタカタはもちろんのこと、本体をちょっと奥に持ち上げてから蓋を開けて中に収納して延長台を折り被せるしくみとか、ボビンケースにまとわりつくほこり(+ちょっと油)とか、引き出しの中の残り糸とか折れた針とか、コブラン織(?)のミシンカバーとか、なにもかも憧れだった。いつか私が引き取るから捨てないでねとお願いして家を出たけど、気づかぬうちにあっさり処分された。電動ミシンはブラザーだった。あるとき買い替えた洗濯機がブラザーで、それが子ども心に嫌だった。ミシンを作る会社が作る洗濯機というのは信用ならないと思った。

念の為調べてみると、ブラザー社の前身は1908年に名古屋で開業したミシンの修理と部品製造会社で、28年に麦わら帽子用のミシンの生産開始、以降、32年に家庭用本縫いミシン、54年に攪拌式電気洗濯機、55年に扇風機、57年に冷蔵庫とオートバイ、61年にタイプライターという順に広げてきたようだ。『ミシンと日本の近代 消費者の創出』(アンドルー・ゴードン著 大島かおり訳 みすず書房 2013)には、日本におけるシンガーミシンと、ブラザーなど国産メーカーの販売方法についての変遷も詳しい。国産メーカーはシンガーに割賦販売の基本をならいつつ、1950年代には飛び込みセールスから街頭での実演展示販売方式へとシフトしたようだ。若き日の私の両親もどこかの広場でブラザーのセールスマンの実演を見て、ミシンを買い、洗濯機もうまいこと勧められたのかもしれない。

実演販売といえば、映画『テーラー 人生の仕立て屋』(2021 舞台はギリシャ)は父親から仕立て屋を継いだニコスが新たに始めた移動式テーラーが舞台だ。ガラクタを集めて作った屋台に生地を積み込み自ら引いて、古本や果物が並ぶ市場に出向いて真顔で男性用スーツの注文を待つがうまくはいかない。女性用のドレスを作るにあたり力になってくれたのは隣家の母娘。客の求めに応じてウェディングドレスを作るようになり、シンガーミシンを積むようになった屋台を引くのはスズキGSX400になり、全体がバンになり、隣家の女性のものと思われるミシンも積むようになるがやがて元のミシンに戻り、老いた父に初めて仕事を認められると、ニコスは最低限の道具を車に積み込みひとり父の店を出る。車には自分の名を冠した店名を入れて、窓からはみ出した白のチュールが風になびいて、まっすぐな道はニコスがニコスと歩く”バージンロード”のようである。

ところでミシンは本も作れる。最後にその実例を1つあげよう。1974年刊行の『様』第1号(発行:芸術一番館 限定50部)は、B4サイズ1枚ずつに藤富保男、奥成達、岡崎英生、三上寛各氏がしたためた自筆原稿などのコピーを、発行元の「TBデザイン研究所内、一番奥の机」の主、山口謙二郎氏がその右端をミシンで縫ったと聞いている。縫ったあとにまとめて縦3分の1に折られ表紙に「様」とだけ書いてあるので、初めて見たとき、空いたところに贈る相手の名前を書き入れて渡したのだと早合点した。タイトルは「芸術一番館」だと思い込み、本当は「様」がタイトルだと知ったのはだいぶ後のことである。もしもこの冊子のタイトルを「芸術一番館」とするものがありましたならそれは恐らく私の間違った記述をコピペしており、その方は実物を見ていないと思われます。すみません。

しもた屋之噺(282)

杉山洋一

日本も酷暑だと聞いていますが、ミラノも侮れません。天気ニュースによれば、今日の午後の最高気温は37度ということで、息子と二人、半地下の部屋に籠りきりになっています。酷い暑気にあたったのか、このところ、学校の同僚が立て続けに病院に運び込まれて緊急入院となっていて、先ほども学校から電話がかかってきて、昨日で今年の学校の仕事は全て終わったと一息ついていたところだったのですが、明日も試験官の代行にでかけることになりました。隣の部屋から聴こえてくる、延々続くシューマン、ノヴェレッテンのゼクエンツは、うだるような暑さと相俟って、あてどもなく魘されつづける今日の世界のようです。庭に出ると、太陽に反射して、あちらこちらできらきら金色に反射するものがあって、近寄ってみると、どれも暑さにやられた虫たちのうつくしい死骸なのでした。

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6月某日 ミラノ自宅
Rさんより一周忌法要のお知らせをいただく。今手掛けている作業は、Y先生が残したスケッチの挿絵を、自分なりに読み下すこと。「ゆめ」と書かれたその雲のどこかで、自分が書こうとしている無数の声と、先生が思い描いていた何かが、ほんの少しでも交わればうれしい。大気圏のずっと先、重力が薄くなってきたあたりで、穹窿のようにわれわれの天上を覆う、巨大な雲。誰もが見上げる空。乾いた土から仰ぐ空に、どこまでも無限にひろがっている。

6月某日 ミラノ自宅
学校の授業を早めに切り上げ、ジョゼッペがやっているセミ・アマチュア・オーケストラで、生徒5人が順番に振るのを聴く。自分とほぼ同じ年代のマッシモやジュゼッペを毎週、大学生と一緒に教えていて、こちらが学んだことこそ数えきれない。1時間弱のレッスンのために、学校のレッスンを終えてジェノヴァから通ってくるマッシモの情熱には、ただ敬服するばかりだ。個人的に数年前から彼に教えてきたが、思い切って、ミラノの学校への入学を勧めてよかったと思う。自分には情熱が残っているのか、齢と共に音楽への真摯な態度も消えかけていないかと省みることもあるが、彼らの情熱に寧ろこちらが励まされていて、感謝している。

6月某日 ミラノ自宅
もう10年以上前になるが、人権派ジャーナリスト、ガッド・レルナーとともに、ファビオ・チファリエルロ・チャルディの「受難劇」を上演した。ボローニャの音楽祭と、大地震の復興ままならないラークイラで、彼はファビオが題材にした社会問題について解説し、我々はその社会問題にインタビュー映像と同期する彼の作品を上演した。彼が昨日ローマの「ガザの虐殺をやめろ」集会で行った演説、「シオニストはファシストの意味ではない Sionista non vuol dire fascista, Netanyahu ci ha fatto anche questo」を見る。ガッドは、レバノン、ベイルートでユダヤ人の両親のもとに生まれ、イスラエル建国以前に現在のパレスチナ自治区に移住したユダヤ人だが、同じく名高いユダヤ人アーチスト、モーニ・オヴァディアとともに、激しく現在のイスラエルを糾弾している。「わたしが関わっているユダヤ人コミュニティは、ユダヤ人コミュニティ全体から見れば、微々たる少数派で、我々を背信者と呼ぶかもしれない。昨日も我々イスラエル人平和主義者はガザの境界線まで水を届けに行った。我々は(今やすっかり存在意義のすり替わってしまった)イスラエルという国を、我々自身の手で守る責任があるのだ。わたしの父のようにハイファ、母のようにテル・アヴィヴの地を踏むことができなかった同胞たちは、生き抜くことが出来なかった人たちだ。そんな辛い体験をした我々が、兄弟であるはずのパレスチナ人に同じ苦しみを与えているのは耐えられない。ガザでの惨劇が、ユダヤ人への憎悪をかきたてるのは否定しようがない。それに反駁するものは反シオニズムの名のもとに糾弾される。ネタニヤフはそんなところまで我々を強いるのだ。「ショアー」、そして「ナクバ」が本来は同じ意味だと理解しているイスラエル人とパレスチナ人こそ、社会をかえる強い力になる。大戦中ユダヤ人の民族浄化計画に誰も異議を唱えなかったのか、とレヴィに問うと、彼は答えた。大多数のドイツ人はその事実を知らなかった。なぜなら、知りたくなかったからだ。それどころか、知らないままでいることを望んでいたからだ。今日でも、同じように知らないままでいることを望む人々が存在している。それに対して、我々は口を閉ざしているわけにはいかない」。

6月某日 ミラノ自宅
ソナムさんから新しいチュパを頂きました、と林原さんから写真が届く。政治や宗教ではなく、音楽を通してチベットを知ってもらえるのは嬉しい、とよろこばれたそうだ。戸島美喜夫「ベトナムの子守唄」の美しさと優しさを思い出しながら、自分は何のために音楽をしているのか、考える。無から有を生み出すような才能はなく、この日記のように、ささやかな日常、その瞬間を、忘れないでいるために書きつけておく。子供のころ読んだ「人類にかわる新しい知性のために作曲する」という、些かうろ覚えの言葉を、ことある度に頭の中で反芻する。人工知能が少しずつ我々の前に姿を見せるようになり、改めて思う。新しい知性のためにこそ、作曲しなければならない。新しい知性のために作曲することは、新しい知性で作曲することではない。
それが良い結果をもたらす保証はどこにもないが、自分にとって作曲はあまりに自己から乖離した存在であるから、作曲そのものが、自分とは違う次元の知性を宿していると実感する瞬間も、しばしばある。ドナトーニから受けた最も大きな影響は、ともすれば宿命論に収斂されそうになる、言葉にできない知性への確信のようなもの。それは単なる誤解に過ぎないのかもしれないが、何れにしても、自ら判断するのは不可能であるから、唯この日々の営みを、徒に書き残すのみ。

6月某日 ミラノ自宅
途方に暮れつつ、朝からシャリーノCDプログラムを書く。昨年の日本語プラグラムを読み返し、殆ど使えないと落胆し、そこから拾えそうな言葉の切っ掛けを探す。実際に演奏した際の作曲者の言葉を思い出しながら、新しい切り口を探して見たりもする。少し書いては怪しげな英語に直し、また日本語で書き足しては英語に直す。英語に直す際、日本語をいかにいい加減に書いているのか詳らかになり、落胆。
昨日、イスラエルがイラン核関連施設爆撃。ミラノ、日本領事館より一斉メールが届き、「両国の関連施設に、可能な限り近づかないこと、中東情勢に関連する集会などが行われる場合には、近づかないように」とのこと。今日は朝から日がな一日学校の卒業試験で、息子の言う通り、通り道にあるユダヤ人学校を避けて通るべきか暫く思いを巡らせたものの、結局試験時間ぎりぎりになってしまって遠回りもできず普通に通り過ぎた。いつものようにイタリア陸軍の兵士が警備についていて、別段変化は感じなかった。

6月某日 ミラノ自宅
この春ニューヨークに帰国したスティーブが、ツアーの合間にミラノに寄るというので、ベルリンゲル広場の喫茶店で落ち合った。彼はエスぺリメンタル・ロック出身で、ピアノ、ドラム、ギター、トランペットなど何でも演奏できるマルチプレイヤーなのだが、指揮をやってみて、初めて天啓を覚えたという。春にリンカーンセンターで「三文オペラ」をやり評判になった、と聞いている。ニューヨークはとても競争が激しいし、若くて有能な指揮者は沢山いるから、自分が指揮できる機会など、到底見つからない、と落ち込んでいたが、聞けば、友人からブロードウェイの新作ミュージカルの指揮に声をかけられたらしい。ただ、演出家の性格が本当に悪いので、絶対引き受けるべきではない、とその友人に言われたから、と口ごもっているので、嫌な思いなら10年後にするより今やるべきだ、絶対引き受けるように力説する。何でも、ブロードウェイのミュージカルの指揮者は、週5日公演があり、そのうち何日かは昼夜二回公演なので、物凄い仕事量なのだそうだ。到底他の仕事などできない、とこぼすので、何時来るかわからない他の仕事を待って、この仕事を断るくらいなら、ブロードウェイで経験を積んだ方が後にも続く、と説得する。契約では40%までカバーの指揮者に任せられるそうだが、実際に40%休暇を取った暁には、もう次の仕事は来ないだろうと言われた、と絶望的な顔をしている。ブラックな仕事、というのは、万国共通らしい。
イスラエルの空爆で、イランでは少なくとも78人死亡との報道。ネタニヤフが自らの政治生命維持のために攻撃に踏み切った、とニュースではっきり断定していて愕く。イスラエルを支持する国は、次第に米国のみに集約されつつある。イギリス、ドイツが反対、糾弾しているのだから、余程のことなのだろう。米国、移民政策反対の暴動、国内20か所以上に拡大。

6月某日 ミラノ自宅
朝から仕事を続け、折り畳み自転車を抱えて午後15時45分の特急に飛び乗る。1時間ほどでヴェローナに着き、通りがかりの通行人に道を尋ねつつ自転車で記念墓地を目指した。グーグルマップで調べた道順では、自転車では道路を渡るのが危険だから、ブラ広場まで出てからアディジェ河を渡るように言われる。雲一つない青空で、心地良いことこの上ない。
最後にここを訪れたのは、コロナ禍前だった。マリゼッラも足を悪くしているし、息子のレナートも体調を崩していると聞いたので、原稿を送ったタイミングで、思い切ってやってきたわけだが、閉園1時間前なので、花屋はどこも既に閉店していた。
自転車をひきながら、ドナトーニの名が刻まれた石碑に寄ったあと、パンテオン群裏に広がる新区画のなかのその一番奥、引出し状と言えばよいのか、アパート状に並ぶ、市民墓地の一番左の区画奧のドナトーニの墓を訪れた。ろうそく型の細い電灯は相変わらず電気が切れていて、干乾びた花束の跡がドライフラワーになって残っているだけで、最近手向けられたような花は見当たらなかった。折角なので梯子で一番上まで上がり、墓石をぽんぽんと軽くノックして、旧恩を温めてみる。何となく、お前相変わらずうるさい奴だ、と墓石の中で苦笑いしているのが目に見えるようでもあった。記念墓地横の通用口には、夏になるとよく見かけるようになる、西瓜売りのスタンドが出ていて、氷水を張った大きめの水槽に、西瓜がごろごろ浮いていた。
そこから「音楽家地区」へ向けて自転車を漕ぐ。「音楽家地区」とは、その地区全体の道の名前が、プッチーニ通りだのロッシーニ通りだのと高名な作曲家の名前から取られているところで、記憶ではヴェルディ通りとポンキエリ通りの間にドナトーニの名を冠した児童公園があったはずだが、地図には何も掲載されていなかった。
交差点で信号待ちをしているときに、目の前の紳士に「バラーナ通り」はどこか尋ねると、「この先にあるが、君は一体どこへ行きたいのかね」と逆に質問されたので、素直に「ポンキエッリ通り」だと言うと、へえ珍しい、という顔をした後、「それではわたしについて来なさい」と道案内までしてくれるではないか。本当にヴェローナは人が優しい。なるほど、そう考えると、確かにミラノは不親切な輩が多そうだ、と少し悲しくなった。無事、「アミルカーレ・ポンキエッリ通り」に着くと、紳士と別れ、50メートルほど右に入ったところの、何の変哲もない児童公園を目指した。果たしてそこは、ブランコで遊ぶイタリア人の子供から、シーソーを漕ぐアフリカ系の子供、ベンチで話し込む老人たちですっかり賑わっていて、何だかすっかり感激してしまった。本当にドナトーニらしい、全くごく当たり前の何の変哲もない児童公園で、さまざまな人種が入り雑じり、さまざまな年代が混交しながら、明るく平和な空間が広がっていた。思わず、そこからマリゼッラにヴィデオ通話をかけて公園の様子をみせると、彼女も実に感慨深そうにしていた。当然ながら、その児童公園の名称に注意を向ける人は誰もいないようで、こちらが電話をしているのを聴きながら、へえ、そうなのかい、とちょっとびっくりした表情を向ける年配の婦人もいた。

6月某日 ミラノ自宅
朝、いつものように散歩に出かけると、コロナ禍でよく通ったジャンベッリーノ通りのパン屋も、運河沿いの食堂も喫茶店も店を畳んでいた。家人曰く、賃料が軒並み値上げされたに違いない、とのこと。運河には、ウグイと思しき魚がひしめいていた。水面近くに群れる、ほんの小魚もいれば、軽く3,40センチはあろうかという、鯉と見紛う成魚も川底あたりを悠然と泳いでいた。佐藤康子さんよりお便りをいただき、沢井さんに会いに出かけられたそうだ。「CDを何より喜んでいらして、本当にエネルギーがおありでした」。
未明、イランはイスラエルに向けて超音速ミサイル発射との報道。中国、テヘランから自国民の退避開始。テヘラン大学が爆撃被害。ハメネイ、トランプからの最後通告拒否。イランでインターネット遮断との報道。世界中、毎日、戦争の報道ばかりになった。弾道ミサイルとそれを迎撃する地対空ミサイル、それぞれが、まるで稲妻のような光の尾を曳きながら、縦横無尽に夜空を駆け巡っていて、俄かには現実とは信じられない。

6月某日 ミラノ自宅
原稿を読んだシャリーノから連絡あり。”de la nuit”の副題 ”Alla Candida Anima Di Federico Chopin, Da Giovane”について、animaはheart でもspiritでもなく、soul と訳して欲しいそうだ。”Candida Anima”は「純真な魂」ではなく、「世間ずれしていない、田舎から出てきて右も左もわからない若輩者のショパンが、皆からもてはやされて肩で風を切るような感じ」、が通じるように訳してくれ、と言われる。
爆撃を受けているイラン、イスラエルのニュースを見ながら、今まで欧米で出会ったイラン人の友人をおもう。彼らはどんな思いで、このニュースを見ているのか、想像もできない。政権交代を期待しているのか、一刻も早い平和を望んでいるのか。最早、何が正しいということも、誰が正しい、ということも、すっかり解らなくなってしまった。唯一理解できるのは、両国ともに罪もない市民が巻き添えになっているという事実。もはや、映像もニュースも、事実なのか模造されているのか、我々には俄かには判断できなくなった。結局、われわれが受取る情報と言えば、大戦時のプロパガンダとさして違わぬ水準にまで、ずるずると下げられてしまったということだ。

6月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領イランの3箇所の核施設を爆撃と発表。この「真夜中の鉄槌」作戦には、飛行機125、潜水艦1、地下貫通爆弾14が使用されたとの報道。イタリア国内の北大西洋条約機構米軍基地の戦闘機がこの作戦に参加したのかどうか、イタリアの報道は過熱している。こうなると、イタリアはNATO基地の矢面に立たされるのであるから、当然である。報道によれば、イタリア国内に米軍は現在核爆弾を90保有しており、イランからみて西欧の最前線にあたるイタリア国内の米軍基地へ反撃の可能性はあるのか、という降って湧いたような恐怖である。イタリア政府、イタリア国内の米軍戦闘機は戦闘に参加していないと発表。このニュースを聴きながら、80年を迎える沖縄戦をおもい、このところ毎日のようにやりとりしている、仲宗根さんや彼のご家族のことを考えている。南西事変のための与那国島に地下シェルター2028年春完成、との報道。沖縄の人たちからみたチベットやウイグルの民族問題は、本土の日本人の視点とは、どうしても少し違うものになるのかもしれない。80年前であれ現在であれ、インターネットで世界の情報が手に入るにせよ、人工知能が何でも教えてくれるにせよ、戦禍で路頭に迷うのは今も昔も同じ、全く無辜の市民なのだ。イタリア各地COOP(生協)にてイスラエル製品ボイコット運動始まる。パレスチナ支援のためのGaza Cola販売開始。
アメリカの仲介でコンゴとルワンダが和平合意に署名。完全な和平の実現は未だ簡単には見通せない状況との報道。

6月某日 ミラノ自宅
仲宗根さんから、「待春賦」CD完成のお知らせをいただく。今年の元旦、沢井さんの「待春賦」のCDを作りたいので、CD制作会社立ち上げます、とメールを頂いたときは、驚きの余り言葉を失ったけれども、こうして気が付けば、段ボールにつまった完成品の写真がメールで送られてきて、あらためて感服している。この半年間、メールのやりとりは続いていたが、いつも日本時間の深夜か、早朝にこちらに届くので、当初は不思議だと思っていたが、仕舞いには仲宗根さんの身体が心配になるほどであった。実は、この半年間にわたり、深山さん、ピーター、柿沼さんの間で驚くほど丹念に英訳作業を進めていただいた。特に古代中国の五絃琴、正倉院の七絃琴を海外に紹介するにあたり、スタンダードな名称をどうするか、皆さんでさまざまな意見が交わされるのを、こちらは興味深く拝見するばかりであった。仲宗根さんの信じられないような情熱は、沢井さんの音が呼び覚ましたのである。改めて録音を聴きながら、沢井さんの音楽の深さに惹きこまれる思いであった。飄々と、そして黙々と仕事を続ける仲宗根さんの姿に、ふと平井さんを想起することもあった。こうやって、さまざまな人たちのお陰で生きてきた。不思議な出会いにその度毎に助けてもらいながら、気が付けばここまで馬齢を重ねてしまった。

(6月30日 ミラノにて)

わらの犬

高橋悠治

「老子」のなかにある「わらの犬」。草で編み、儀式に使われるが、終わると捨ててしまう。イギリスの政治学者ジョン・グレイ(John Gray)の Straw Dogs(2002)という本を読んだことがあった。

いろいろなことが頭に浮かび、それをまとめようとすると、そのまとめにしばられる。からだで感じることは、刻々と動いていくが、その流れを止めないように、所々に「ことば」の目印を打っておくのは、むずかしい。

即興と楽譜の演奏と作曲の関係にも、似たようなことがある。それぞれが違ったままで、補いあう関係を保つのには、どうするとよいのか。あれこれ試しながら、時が過ぎていく。それについて、こうして書いていても、これという思いつきは見つからない。

見つからないのが当然で、実験を続けることしかないのかもしれないし、それだけでいいとしなければいけないのかもしれないが、即興はともかく、楽譜に書かれたものを、毎回違う発見で補うのは、意識するとできなくなる。指に任せるのが、そして見つけたことをあとでことばにしないまでも、何回か繰り返して、手に手順として覚えさせるのがいいのだろう、と思っても、それができているのか、手順だけで、音としての結果は、毎回違うとすれば、その違いを何が保証しているのだろう。

1970年代からは Max/MSP を使って電子音やサンプラーで変形した現実音で即興をやっていたこともあったが、2005年頃にはそれにも飽きてしまった。結局ピアノに戻っているが、違う弾き方は見つからない。

Finale という記譜ソフトを使っていたが、その開発中止とサポート停止のニュースを見た後では、知っていたはずのやり方も思い出せなくなっている。新しく開発された Muse を習おうとしたが、作曲する予定の曲には間に合わないので、いっそ手書きに戻ろうか、しかし手で書いて間違った場合、そのページを書き直すのが大変かもしれない、と思うだけで手が動かなくなる。

こんなことを書いているよりも、手を動かした方がいいに決まっているだろうから、この辺にしておくが、楽譜という図と記号の複雑に混ざったシステムは、違うシステムを学習するのが時間がかかるので、手書きを思い出すのが、とりあえずは早いかもしれない。

毎月こんなことを書いているのも、気分が良くないから、来月こそ、音楽でない話題を見つけよう。

2025年6月1日(日)

水牛だより

昨日と一昨日の寒さにはおどろきました。気温はそう低くなくても、夏日を経験したあとでは寒さの感じが冬よりも強く、季節感が少しずつ失われていっているような気がします。もうすぐ梅雨!

「水牛のように」を2025年6月1日号に更新しました。
先月お休みだった人たちが戻ってきてくれました。斎藤真理子さんの「編み狂う」は一年振りです。輪編みを発見したときにはわたしもおどろきました。一段編んだら、編んだものをひっくりかえし、編み棒を取り替えて編み続けるという平編みとはなにか次元が違う楽しさがあるのですが、それでワンピースを編んでしまう斎藤さんも次元が違う。連載はまだまだ続くのです。
「アフリカを続けて」を読んでいたら、「大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読んでいたら、」という一節に出合って、ちょうど同じ本を読んでいたところだったのでおどろきました。新刊というわけでもないのに、こういう偶然もあるのですね。

お知らせをいくつか以下に。

「アパート日記」の吉良幸子さんはどんな人? と思っているなら「暮しの手帖」第五世紀36号を見てください。「公子さんのいわと寄席」に同居する平野公子さんとのすてきなツーショットが載っています。

イリナ・グリゴレさんの『みえないもの』(柏書房)の刊行を記念してのトークがあります。イリナさんのトークのお相手はアサノタカオさん。ふたりとも水牛の人ですよ。
7月5日(土)18:30~20:10 ポルベニールブックストア(Porvenir Bookstore)
会場参加とオンライン配信もあります。

「むもーままめ」の工藤あかねさんによる「街なかトーク」高雅にして破滅的なフランス音楽
7月31日(木)18:30 神奈川県立音楽堂 ホワイエ
「高雅」と「破滅」をキーワードに、フランスの音楽作品についてお話しします。大革命を含む文化的背景なども交えながら、きれいなだけでは終わらないフランス音楽の魅力に迫りたいと思います。とのこと。

それではまた来月に!(八巻美恵)

005 暗緑町(まち)

藤井貞和

暗緑を微分して、対数は高校二年の三学期に、
そこから積分に分けいる、うっとり。
地のおくに向かう数学。(友人は「数学者」で、
ぼくの「先生」で、)試験の前日に予習する。

夕陽が教室に満ちてくる、岩かげで眠たくなる、
草むらの函数の眠り、十七歳の春の暮れ。
まちのなまえは暗緑。 暗緑町へ旅立つ死装束のきみ。

友人の書いた詩は友人とともに旅立ち、
わたしはもらった原稿に最初の火を見つめる。
〈ゼロの発見〉という話題を交わしたよな、「さよなら」の、
したしたした と伝う水のように、
火のしたたりとどんな関係があるのか。

黒い悲鳴が走り、きみと訣れるこの夕べ、
天に偽りなきものをという校正紙が手元にのこる。
袂(たもと)を剥ぎとる袖モギさんはぼくですって、
けんかもしたよな、草原で、海底で、短歌形式で。

姿見ず橋に立つまぼろしは〈一かゼロか〉なんて、
姿ほのかに、遇おうと思うのかい。 霧のおもては過去へ消える、
それが共有する願いでしたね、われらの議論。

あなたを探す、暗緑町へこの橋をわたって、
もう一度言葉をかわそうよ、
袖モギさんがやってくる、(そいつに出逢ったら、)
そっと通してやれ、橋のうえ。 袖をモイで、
見えない姿のためにそっと置いてやれ、
きみの数式が暗緑の岩のむこうを回るところ。

(自分の高校二年生の冬、一ヶ月ほど病気でお休みしただけで、数学の授業についてゆけなくなりました。友人(ほとんど架空)がいろいろ助けてくれた。それとは無関係ですが、「冬の榾柮(ほだ)配りてあるく旅人にいつかは会わむ山陰(さんいん)に住み」(佐竹彌生)。鳥取の歌人の新刊『佐竹彌生全歌集』(砂子屋書房)から。)

200人中の一人(下)

イリナ・グリゴレ

新聞紙に包まれた大きな芍薬の花束を抱え、電車でいつもの世界へ戻った。あの静かな世界から離れたくなかった。まるでおもちゃのような小さな駅で、電車が来ないのを芍薬の花びらが散るまで待ち続ける選択肢もあった。そう思うと、生きるのが少し楽になる。そういえば、二日連続で人と朝ごはんを食べた。子供以外と食事をすることは苦しいと思っていたのに、場所を変えたらあっという間にそれができるようになった。200人の中の一人としかできないこと。いや、二人かもしれない。「美味しそうに食べるね」と言われ、ホッとして、素直にさらに食べる。美味しいのに、なぜか泣きたくなる。ボタンと芍薬の違いはいつもわからない。調べると「葉、香り、散り方に違いがあります」とある。やっぱり、散り方がとても大事だと感じる。白、薄いピンク、濃いピンクの芍薬。グラデーション。私の頬はこうなる時がある。完全に蕾のままのもの、花びらが見えてもまだ咲いていないもの、完全に開いたもの。香りはするが、新聞紙の匂いと混ざって、いい香りとは思えない。

今いるこの場所は、私の魂の図鑑に永遠に残る場所の一つになるだろう。200の場所の中の一つ。この場所について書きたいけれど、その静けさを胸に吸い込んで、しばらくは自分だけのものにしておきたい。駅にいた老人は「一年に一度しか帰れない、土地も家も使い物にならない」と、呪いのように誰かに向かって叫んでいた。何に使いたいのか。私の価値観とは違う。その人の声の響きを頭の中で止める。そんな話は聞きたくない。ここは私にとって大切な場所だから。滞在中、ずっと体調が悪く、まるで何か見えないものを浴びているような感覚だった。朝起きて気づいた。それは悪阻に似ていた。実ること。200人中の一人、200の場所の中の一つで。考えておこう。場所の力、土の力、映像の力、人の力、神の力、獅子の力、花の力は、言葉の力よりも大きい。「イタコより」という文字を見ても、わからなかった。

かつて京都で「言葉の力」が強いと叱られたことがあった。でも、京都から残ったものは、身体に大きな紫色のアザだけ。紫色の芍薬のようだった。200人中の一人は必ず暴力を振る。見分けるには? でも、わかっていた。ただ、その顔を見るのを待っていた。思った通り、恐ろしい顔だった。私は祖母と同じ、初対面から人を「見る」。200人中の一人。犬も同じことができる。朝ごはんをもう人と食べないと思っていたのに、同じお粥を頼む。それで身体を落ち着かせる。チャンスでもある。場所を変えて、数日後、数ヶ月後、数年後には、異性と朝ごはんを食べても暴力的でない人がいることを知る。トラウマから抜け出すチャンス。怖くない。歪んでいるのは私ではない。「なぜ君の父親はこうなったのか、わかる?」 わからない。歪んでいるのは私ではないから。

祖父母の庭にあった花とその場所を、安心措置マップのように頭の中で思い出す。この時期にはボタンがあった。スミレも。鈴蘭も。思い出の中のボタンは血のように赤く、血の匂いがする。スミレは近くの森から種が飛んできた大きなスミレ。パンジーと間違えられるほど大きい。いや、頭の中で私が勝手に大きくしているのかもしれない。スミレくらい大きくてもいいし、濃い紫はインクの色にしてもいい。今いる場所のタンポポは腰まで伸びている。鈴蘭だけは同じ大きさ、同じ白さでいい。森には野生のボタンもあった。毎年ボタン祭りがあるけれど、私は行ったことがない。だから、野生のボタンは幻のボタンのようだ。

お守りでいただいた銀の鈴は、歩くたびに音がする。巫女のような気分になる。コーヒー屋でいつもウィンナコーヒーを頼むのをやめようと決めた。神田で飲んだウィンナコーヒーは本格的で美味しかったけど、ここで飲むと洗濯物の味がする。この静かな場所からウィーンは遠い。それがいい。二度と会えない人がたくさんいる。それがいい。彼らの顔を記憶から消す。気配も。一番消しにくいのは手だけど、時間とともに芍薬の香りのように消えていく。今、一番会いたい友達が二人いる。200人中の二人。村に置いてきた二人。太陽のような笑顔の彼女と、ストーブを作るジプシーの孫の彼。思い出すと泣けてくる。二人の顔。大切な友達。彼女は看護師になったと聞いたけど、彼のことは何も知らない。きっと子供がたくさんいる、明るい父親になっているだろう。いつも笑わせた彼。あの時、気づかなくて、ごめん。あなたの恋に気づかず、ごめん。顔は覚えている。笑うときの真っ白な歯も。優しくしてくれてありがとう。忘れたい人がたくさんいる中、この二人だけは忘れないと決めて電車に乗った。

電車では眠れなかった。来たときと同じ、この世界に入ると出るために、儀式のように電車の席を決まったタイミングで二回回転させる。森を、川を完全に抜けて、二回目を回したとき、不思議なことが起きた。ある駅から隣に座った部活帰りの高校生カップルが、静かにスマホを見ながら恋の儀式を始めた。彼の手がスッと女の子のズボン、太ももの間に、何度も。目眩がした。最初は彼らはお祭りのような気分で仕方ないと思ったけど、だんだん気分が悪くなった。否定しないように窓を見ていたけれど、自分が透明なのかと思うほど、隣で事が進んでいた。電車には他にも人がたくさんいたのに、誰も気づかない。二人が可愛いとは思えなくなった。どこかで読んだことがある。起きることはすべて自分の内面の表れだと。本当だろうか。本当なら、高校生の自分に謝りたい。絶対に男の子に電車でこんなことをされたくないはず。自分のこの女の身体はもっと神秘的なものだと尊敬したい。花でも触れたくない。あの女の子はいつか、あの手の感触を忘れることがあるだろうか。あの時は嫌じゃなくても、いつか嫌になるだろう。「自分の身体をもっと大切にして」と伝えればよかった。彼の機嫌を取るために大事なところに触れるのを許さなくていい。この世では許せないことがたくさんある。彼女のスマホをいじる無表情の顔と彼の手が知らない間に私の思い出になった。

青森に着くと、シングルマザーの親友からメッセージが入っていた。「昨日、私の職場の隣の敷地で練炭自殺した人がいた。上手く死ねて羨ましいと思った」。息を吸って、芍薬を見る。いつもの世界に戻った気がしたけど、芍薬は水がなくても枯れず、元気だった。花がきれい。メールを返した。「そういうときもあるけど、死なないほうがマシ」。彼女が作る桃とサイダーの味を今年も味わいたい。彼女も私にとって200人中の一人。新青森と弘前の間の電車にはトンネルがない。岩木山だけが遠くに見える。芍薬は、漢方薬や薬酒として、筋肉痛、腹痛、冷え症、月経不順、生理痛、不妊症などの治療や症状緩和に用いられる生薬でもある。美しい女性の容姿を「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という。

先日見た夢では背が高い男性と東京を歩いていた。突然、彼は私の髪に触れ「何かついている」と言って取ろうとした。その瞬間、私の背中から黒い布の塊が落ちた。起きた瞬間に、何十年前から背負っていた重い何かから解放された。200人中の一人だけが呪いを解けることができる。

刺され考

新井卓

ちょっと大変なことになってるーーベルリンの隣人から、そう連絡があった。日本に一時帰国して二週間あまり、うっかり閉め忘れた浴室の換気窓から鳩たちが入り込み、わたしたちのアパートでパーティを開いていたらしい。部屋じゅう糞だらけ、棚のグラスは落とされて床には破片が散乱している、という。隣人は赤ん坊と二人暮らしの母親で、人が触れたものが気持ち悪いからバスも電車も乗らない、という極端な潔癖症の彼女が、できる限り掃除をしておいた、というので申し訳なくて頭が下がる思いだった。

そういえば春になってから毎日、玄関の外のドアマットに小枝が散乱していたのを階下のこどもの悪戯に違いない、と決めつけたのは、鳩の巣作りだったのかもしれない。鳩の巣は呆れるほど適当なつくりなのでそれと気づかなかったが、いま思えばそのあたりからわが家をマークしていたのかもしれない。

ドイツにいると、よほど南部の山あいにでも行かない限り自然に脅かされる「あの」感覚はなく、すっかり油断していたところにささやかな自然の侵入を許してしまった。いま久しぶりに川崎に帰り、近ごろめっきり見かけなくなった空き地の草叢や多摩川のほとり立つだけで、この列島の自然がいかに絶えず押し返していなければ押し負けてしまう強靭な存在であったか、はっきりと意識する。

「あの」感覚とはどんなものだろう、たぶん虫刺されに近い感じではないか、と考えてみる。虫刺されの感覚と症状はわたしたちの皮膚でおこる。皮膚は〈わたし〉と他者、外界を隔てる境界だがその境目はやわらかく、無数の感覚受容器が配置されている。境界は外界から個体を守る防壁であるとともに外界に向かってひらかれた唯一の窓だから、その窓からいろんなものが入り込んでくるのは防ぎようがない。

感染とか汚染が望まない訪問客としても、それらと交感するたびわたしたちの身体は変容する。出会いとわたしたちが話してきた言葉によって、わたしたちの身体が作りかえられるのと同じように。

いまこのテキストを、廿日市の清流のほとりで書いている。清冽な水に傾いた陽があたり美しいけれど、わたしの皮膚は過去何度かのブユの訪問を思い出してわずかに緊張している。このあるかないかの絶えない緊張は、確かにわたしの身体のありかたと確かめる。

刺されの遍歴について。十歳のころ、父に連れられて出かけた丹沢でマダニに噛まれたことーーその小さな虫はその頭を深々とわたしの皮膚に食い込ませ、無我夢中でわたしの血を求めていた。おどろいて引き剥がそうとすると頭から下がちぎれてしまい、後日医者に頭を取り除いてもらわなければならなかった。ヤマビルは見た目の衝撃力がすごいが、やはり無理に剥がそうとせず、慣れてしまえば大したことはない。山で何度かやられて生態を調べるうち、なんと孤独で忍耐強い生き物かと畏怖を覚えさえしたし、夏に出回る寒天でできた和菓子みたいな卵の写真にもちょっと感心した。

清らかな水辺にしか棲息しないブユは、どういうわけか少し神秘的であると思う。あの小さな虫が(ちなみに熟れた果物にわくコバエとは親類らしい)わたしの皮膚や免疫反応に及ぼす影響の極端さに毎度驚かされる。原発事故のあった年の夏、飯舘村でブヨに刺されたわたしの二の腕はラグビーボール大に膨れ上がり、痛痒さにしばらく眠りを妨げられた。目に見えない、と言われつづけた放射能汚染は感じることができないのに、こんなにちっぽけな虫に大騒ぎするわたしの皮膚/身体に驚かされたものだ。

オハイオのモーテルで南京虫にやられ、大小のハチはもちろん、インドサシバエとか、フィンランドの核廃棄物最終処分場の森で巨大な蚊の大群に襲われ頭全体をぼこぼこにされたことのあるわたしの刺されの遍歴はーーいろいろ思い出してちょっとむずむずしてきたーーわりあい豊かなほうだろうか。それにしても、こうして振り返ってみれば刺されの記憶はどれも鮮明で、その前後の旅やさまざまの記憶を強化してさえいることに気づく。

ベルリンに帰ったら、徹底的に部屋を掃除しなければいけない。鳥にアレルギーのあるわたしの身体はどう反応するのだろう。ドイツには森がない、とか、本当の自然がないなどと放言してきたわたしへの戒めとあきらめようか。