『アフリカ』を続けて(52)

下窪俊哉

 9月最後の土曜日、名古屋市のTOUTEN BOOKSTOREで始まった唐澤龍彦さんの個展を観るため、新幹線に乗って出かけた。
 唐澤さんはこの連載の(47)で、少し登場していた。群馬県桐生市在住の画家・音楽家だが、表紙画・挿画を手がけている『るるるるん』で小説を書いているメンバーのひとりである3月クララさんが名古屋在住で、今回の個展はクララさんが企画したものだ。横浜から行くとなるとお金もかかるし、そのためだけに、と考えると貧乏人の私には迷うところだが、8月にFM桐生の「The Village Voice」にゲスト出演した際、唐澤さんから密かに話を聞いて、ピーンとくるものを感じた。
 名古屋には、当初詩を載せないと言っていた『アフリカ』に長年詩を書いている犬飼愛生さんがいる。最新号に「僕のガールフレンド」を書いている奥野洋子さんも名古屋在住だが、会ったことがなく声を聞いたこともない、メールだけの付き合いだ。犬飼さんとも、考えてみれば、コロナ禍を契機に画面ごしにはたくさん話したが、実際には2010年以降会っていない。広島、岡山、大阪(関西)、と縁の深い人たちを訪ねる旅の次の行き先は名古屋だろうとボンヤリ考えていたのだった。
 ピーンときた背景にはそんなことがあり、どうせ行くなら唐澤さんが在廊している初日に行きたい、と連絡してみたら犬飼さんも奥野さんも予定が空いているという。唐澤さんの個展会場に集まる、というのは素晴らしいアイデアだった。駅で待ち合わせして食事に行くというのではなく、そうやって小さく開かれた場で会うことによって、『アフリカ』を読んでいる人、興味を持っている人とも会えるかもしれないという期待が持てるから。可能性は広げておく方がよい。その点、SNSが今回も良い仕事をしてくれた。

 TOUTEN BOOKSTOREは、金山駅から南へ徒歩10分ほどの場所にある。かつて栄えていたかもしれない、こぢんまりとした商店街の一角で営まれている書店で、珈琲やお茶やビールやお菓子なども出し、2階にはギャラリーとして、イベント・スペースとして使える空間を有している。どことなく東京・荻窪のTitleを思わせるが、荻窪のあの場所のような人通りはなく、しかし店をめがけてくる人はチラホラあり、秘密基地のような雰囲気がある。一緒に来た息子も本屋をうろうろして楽しんでいた。ギャラリーへは急な階段を上って行く。

 今回は新作展ではなく、唐澤さんの画業の中心にあるアクリル画、ペン画、ペン画に着彩したもの、『るるるるん』に提供した作品の原画や別バージョンとエスキース、イラストと音を組み合わせた画面上のインスタレーション、etc. をズラッと並べたもので、ベスト・オブ・唐澤龍彦とでも言えばよいだろうか。ペン画は展示されている以外にも、ファイルに入れて置かれてあり、自由に観ることが出来る。今回の個展に合わせて制作された作品集『ソファはわたしのために』も展示、販売されている。
 ジャン=ミシェル・フォロンら欧米のイラストレーター、デザイナーに影響を受けたという絵は、可愛げがあり、どこか滑稽でもあり、でも大真面目である(ちなみに、フォロンの絵本の話がこの連載の(33)に少し出てくる)。その作品の多くに、長めのタイトルがついている。「たった一輪だけ咲いた花を摘んでしまうのか」「長靴をはいたねこは水をまく」「きのうまでのわたしときょうのわたしはだいたいおなじ」というふうに。
 文章を書くことには苦手意識があるそうだが、苦手そうなそぶりを見せずにスパッと書く文章が小気味よい。子供が読んでもフッと笑ってしまうようなもので、作品集から少し引用してみよう。もちろん絵に添えられているものだ。

 そろそろ起き出そうかというところ
 まず前足をおろし
 後ろ足はソファに残したままで
 しばらくその姿勢で伸びをして
 今日の予定をかんがえる
 そして何も予定がないことを思い出し
 またソファにもどって寝ようかと迷う

 このままうしろに下がるのはむずかしいな
 いちど降りてソファにのりなおそうか
 いちど降りたらもう起きてしまおうかと思うだろうな

 と、こんな調子だ。ギャラリーで話を聞く。唐澤さんが日々、SNSに投稿しているペン画は、2011年から殆ど毎日、2、3枚のペースで描き続けているものだそう。1日平均2枚として1年で730枚、14年間で10,220枚。積もり積もった膨大な作品数と言える。
 1枚を描くのに15分くらいかかるそうだから、3枚描くとして1時間弱はかかると考えたらよさそうだ。多くが猫のようで、そうでもないような動物のイラストレーションである。どの絵にも何か物語があるようだ。そんなに描いていたら、何を描こうか思い浮かばなくなることがありそうですけど、と訊いたら、とにかく手を動かすのだという話だった。そこで私は自分が2016年から毎日書き続けている「朝のページ」を思い出した。「朝のページ」も考える前に手を動かすのである。
 作品集の前書きでは、画家自身がこう書いている。

 それ以前から気が向いた時に透明水彩やアクリル絵の具などで絵を描いたりしていましたが特に発表、展示をおこなうこともなかったので作家である(アマチュアとは言え)という意識はこういう継続的な制作から生まれたと言えます。

 継続が自分を作家にしたと語っている。唐澤さんはアマチュアじゃないですよ、と私は思うが、自分はプロフェッショナルだが作家ではないと考える人もいるだろうし、ここでは問題にしない。とにかく毎日のペン画を継続していることが自身を作家と意識づけているというのは私にはたいへん興味深いことだ。
 この連載は『アフリカ』という主題と、「続けて」というもうひとつの主題があり、その間をつなぐ「を」がある。何を言っているのヤラ? という気もするが、先へ進めよう。
 お喋りをしていたら『アフリカ』を読んでくださっている方が早速来てくれて、もちろん初対面でご挨拶させてもらう。そうこうしていると犬飼さんも、奥野さんも到着して、わいわいと話が弾んだ。
 犬飼さんは、編集人(私だ)との例の”セッション”が『アフリカ』の質を担保していると話していた。この話はもう何度も書いているはずだが、奥野さんは最新号で初めてそこに参加した感想として、「楽しかった」とくり返し言っていたのが印象的だった。それをきつく感じる人もいるだろう。唐澤さんはその話を聞いて、「まさかそこまでしているとは」と信じられない様子だった。つまり書いて送られてきたものを、そのまま載せていると思っていた? 犬飼さんによると多くの詩誌ではそうらしい。詩以外の雑誌でもたぶんそうなのだろう。しかし私は、「質」を考えてやっているのだろうか。少し違うような気もする。編集人としての自分がどう読んだかを伝え、ひとりで書くだけでは行き着くことの出来ないところまで行くために『アフリカ』をやっているとは言えそうだ。発表するのは、ついでにしていることであって、一番の目的ではない。とも言ってみたいところだが、『アフリカ』で発表することがなければ、その、遠くまで行くことも出来ないのだろうから頑張って雑誌を仕上げ、読みたい人には販売している。販売するのは、読者と出合うためである。読者も、これもまた前に書いたと思うけれど、ただの客ではなく、遠い『アフリカ』の仲間であるような気がする。

 今回はそんな読者のひとりから、思いがけず「花束」をいただいた。ただの花束でなく「言葉の花束」なのだが、質素な(と言いたくなるような)デザインの、薄いA5サイズの冊子だ。帰路の新幹線の中で、その冊子を手にとり、開いてみた。中は2段組みになっていて、詩がたくさん収められている。つまりそれは詩集だった。冒頭の詩から順番に読んでいった。そのまま、読むのが止まらなくなった。この人は自分のことを詩人だとは思っていないような気がするし、この冊子も、試しにちょっとつくってみたというふうだ。しかし、書かれている詩そのものは、明らかに、ちょっと書いてみたという感じではない。
 富士正晴の言う「ふしぎな純度をもっている作品」は、こんなふうにして転がっている。この”本”について、私は何か書いてみたい、書けないなら語ってみたい、その前にくり返し読み、何でもいいからことばにしてみたい、という気持ちが一気に押し寄せてきた。

仙台ネイティブのつぶやき(110)思い出の通り

西大立目祥子

9月11日、東京が豪雨に見舞われた。小さな川の水位がみるみる上がり、雪崩打つようにしぶきを上げて道路にあふれ出るようすをテレビで見ていて都市型の災害の恐ろしさを思ったけれど、同時に見入ったのは背景に映る街のようすだった。住宅街にもちゃんと商店があるし、小さな商店や飲食店が肩を寄せ合うように立ち並び商店街を形成している。床上に上がった水をみんなでかき出す姿もあって、街には人の息づかいもコミュニティもあると感じた。人口1400万人。やはり首都というのは違うのだろうか。規模が大きければそれだけ多様な街が存在し得るのだろうか。

こんなことを書くのは、身の回りで商店が消え、空き家が増え、低層の商店街に高層マンションが壁のように立ち、街がばらけて薄くなっていくような感覚を覚えるからだ。もちろん、そこには人の暮らしも人の行き来もあるのだけれども。

長くお世話になった近くの書店が9月30日をもって店を閉じた。外商は残すということなので廃業ではなく本を注文して受け取ることはこれからもできるけれど、この通りから本屋は消える。この通りというのは仙台市太白区長町、かつては長町北町、長町南町といった通りで、私はこの近くで育った。藩政時代は仙台城下を出て江戸に向かうときの最初の宿場町であり、明治時代には停車場が設けられ、周辺の農家が野菜を運び込む青物市場も生まれた。駅はやがて貨車操車場を備えた巨大な貨物ヤードになり、働く人たちが増え、仙台市電も走った。1キロほどの通りには、間口が狭く奥に深い町家がみっちりと立ち並び、さまざまな商品を並べていた。

いま手元にある昭和40年の住宅地図を見ると、通りの西側だけでも蕎麦屋、釣具屋、薬局、豆腐屋、茶舗、魚屋、不動産屋、食堂、床屋、美容院と、ない商売はないくらい多彩で、数えると100店を超えている。両側を合わせたら200店に及ぶだろう。それだけの店がみんなお得意さんを持ってやれていたのだ。小さな店がぎっしり詰め込まれた通りを、子どもの私は歩いていた。友だちといっしょに初めて母の日のプレゼントを買ったのもこの通り。そして最初に自分で本を買ったのもこの通り。それが上述の書店で、もとは丸吉書店といった。いまは協裕堂と名前を変えている。

数年前から私はネットで本を買うのはやめて、この書店で注文して来るのを待った。2、3日もすれば電話が鳴るし、遅くたって1週間から10日も待てば手元に届く。だんだんオーナーとおぼしき年配の女性とも顔見知りになって話をするようになっていたので、知人から閉店するらしいと連絡を受けたときは驚き、訪ねて、それまで聞けなかった店の話をうかがった。オーナーは今野るみ子さんとおっしゃる。

開店したのは昭和12年。創業者は義父にあたる人で、仙台市内では書店の草分けだった金港堂で修業をして現在の店舗よりは南の、長い長町の通りの真ん中あたりで文具店と書店を始めたという。その話を聞くうち、おぼろげな記憶がよみがえってきた。そういえばコンクリートを打った床に木製の本棚を並べた本屋さんだったっけ。毎年初売りのときは漫画の付録を詰め込んだ福袋が表の木製のワゴンに山積みになるので楽しみに買っていた。いちばん分厚い袋を選び、喜び勇んで開けたら中身は全部少年向きの漫画で、大外れのお正月になったことがあった。たしか中学生になったばかりのころ、背伸びした気持ちで筑摩書房のジェーン・エアをこの店で買ったらクラスにまったく同じ本を持っている子がいて、急速に親しくなった、そんな思い出もある。この店で修業をし、近くの町に本屋を出す人もいたのだそうだ。昔は書店もノウハウを身に付けて暖簾分けし、助け合っていたのかもしれない。

協裕堂はその後、長町駅前、近くの国道沿い、仙台の南の名取市や岩沼市まで店舗を出し、レンタルのビデオやCDも扱うようになった。「GEOとかがなかったころだったから、よく売れたのよ」と今野さん。東日本大震災のあと、本を買いに来る人が増えたという話が興味深かった。「雑誌なんて1、2ヶ月入らなかったのにお客さんが多くて、みんな店にある本を買っていくの。ずいぶん売れたの」。なぜだったのだろう。食べるものがなくて食料品店やスーパーにはみんな辛抱強く長い行列をつくった。コンビニは長く閉じたままだった。毎日のことがままならなかったのに、自分と向き合うため、自分を落ち着かされるために読むことが必要だったのだろうか。みるみるお客さんが減っていくのはそのあとらしい。「みんな注文して何日も待つなんてできなくなったのよね。もう若い人なんてこないもの」

協裕堂の隣にあった小さなスーパーも、たしか昨年閉店した。そのあとは空いたままだ。その先の花屋も今年、商売をやめた。道路にも並べていた切り花や鉢物はすっぽり消えて殺風景。小さな店が生まれては消えていくことも多い。その先の豆腐屋はずっと頑張っている。通りの真ん中あたりに、まだ郵便局と銀行が2行あるから持ちこたえているのかもしれない。

通りを行き来しながら、ああもう八百屋も魚屋もわずか1、2軒になったんだなと思う。かつてのこの通りには、小さな商店の並びに割り込むようにスーパーマーケットが3軒もあった。人があふれ、どこもにぎわっていた。多くの人が歩き、荷物をかかえてバスを待ち、商品の積み下ろしをしていた。スーパーで買い、個人商店でも買った。そして多くの人がしゃべっていた。店の人と、客同士でも。

いましか知らなければ、けっこうにぎわっていてお店も多い、と人は思うのだろうか。こんなんじゃなかったと思いながら歩く私は、あのころの記憶の中のまちの風景をいまもどこかにあるはずだと思って探しているだけなのだろうか。

SNSで知る宮廷舞踊愛好者

冨岡三智

今やyoutubeに多くの舞踊映像がアップされる時代になった。その当時行けなかったりまだ知らなかったりした公演の映像を見られるのは非常に有難い。もちろん今でもyoutubeにアップされないところで多くの公演が行われているけれど、情報量は格段に多くなった。そう言う私自身も、自分が主催した宮廷舞踊完全版公演の映像をyoutubeに公開している。そして、それについての問い合わせをまだ会ったことがない人からSNS経由でもらったり、それが議論に発展したりすることもある。その人たちは実際に映像を見ながら舞踊練習をしていて、抽象的で哲学的な質問などではなく、振付に関して具体的な質問をしてくる。また、そういうやり取りもなく全然知らない人だが、私のスリンピ公演の映像を見て練習したと思しき公演映像がyoutubeにアップされていたこともある。

宮廷舞踊に関心を持って踊りたいと思っている人は意外にもいるものだと知れたことが、映像公開して一番嬉しかったことである。こういう人たちの存在には今まで気づくことができなかった。留学していた時は、長くて退屈で変化がない舞踊をなぜ習うの?とよく言われたものだ。それも芸大教員や芸術関係者に。だから、一般には受けないだろうけれど、研究の参考にしてもらえたらいいと思って映像公開していた。その映像を見て踊ってみる人(それも芸大関係者ではない)が出てくるとは、実は想像していなかった。

一方芸大でも、私が学んでいた2000年前後に比べて、古い舞踊に関心を寄せたり、また宮廷舞踊の形式で新しい作品を創ることは活発になってきているように感じる。時代の志向が変わったのか、中産階級が増え伝統文化に憧れが生まれてきたのか…。その時代変化が嬉しい一方、逆風の中で習ってきた身としては、少し憮然ともしている。

働かざる者

篠原恒木

無職になって一か月が経った。
気が抜けた。
気が抜けても腹は減る。
「働かざる者食うべからず」と言うが、働いていなくても腹は減るのだ。

それで思い出した。
「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言うが、あれはおれの座右の銘だった。
おれは不幸なことに脳味噌と口が直結しているので、カイシャにいるときは気に入らないことがあると誰彼構わず吠えて、場合によってはガブリと噛みついていた。コンプライアンスなんて関係ねぇ。コンプラふねふね、追手に帆かけてシュラシュシュシュってなもんだった。

カイシャから追い出されて、いまや物を言う相手はツマしかいない。だが、ツマに言いたいことを言ったら殺害されるので言わない。いや、言えない。ひたすら我慢している。しかし腹はちっとも膨れない。むしろ減る。なのでハラヘッターとめしを食えば、働いていないのでカネも減る。イヤな渡世だ。

思えばおれは「勤労」という意識に欠けていた。勤労が「心身を労して勤めに励むこと」だとしたら、おれは「ウッソー」と言うしかない。そんな感覚はゼロだった。

「シノハラさんにとって、働くとは何ですか」
と、かつて女子高校生記者から訊かれたことがあった。なんでも夏休みの課題で、いろいろな職業のヒトたちにインタヴューしてそれをまとめる、ということだった。
わざわざ編集部まで来てくれたし、オツな答えをキメようかと思ったのだが、脳味噌と口が直結しているおれは言った。
「働くとは、カネが貰えるひまつぶし」
女子高生は固まっていた。難解だったか、と思ったおれは補足した。
「ひまをつぶすにはおカネのかかることが多いでしょ? 映画を観たり、買い物したり、お茶を飲んでもおカネがかかるわけで。一日七時間寝るとしても、残りの十七時間はひまなんだよ。ニンゲンはそのひまをつぶさなければならない。そこでひまをつぶすために楽しいことをシゴトにして働くのさ。でもって働けばおカネも貰える。こんな素晴らしいひまつぶしはないと思うよ」

固まっていた女子高生の表情は、もはや困惑の色を帯びていた。どうやら期待していた答えとは違っていたようだ。
だって本当にそう思っているんだもん、しょうがないじゃん。
少なくともおれは「働く」ことによって社会貢献を果たそうと思ったこともないし、自己成長、自己実現を達成しようとしたこともないし、世界征服を企んだこともない。義務感に駆られて働いたこともないし、党内融和などという身内の論理だけを掲げて総裁選に立候補したこともない。

「働く」とはおれにとってどこまで行っても「カネが貰えるひまつぶし」でしたよ。

で、だいたいだね、「あなたにとって〇〇とは何ですか」という質問がよくない。高校生記者だから説教などしなかったが、この質問はインタヴュアー失格ですよ。音楽家に向かって、
「あなたにとって音楽とは何ですか」
と訊くのは愚問でしょう。同じく小説家に対して、
「あなたにとって小説とは何でしょう」
と訊いたところで返答に困っちゃうと思うな。紋切型は野暮でげす。野暮で下衆。

このような紋切型の質問をどう思うかと、片岡義男さんに訊いたことがある。
「それは簡単だよ」
と、片岡さんは涼しい顔をして言った。
「なんて答えるんですか」
「訊いてごらん」
「あなたにとって小説とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって音楽とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって働くとは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって海老フライとは何ですか」
「人生そのものです」

話を戻そう。いや、戻さなければいけない。そう、おれにとって働くことはカネが貰えるひまつぶしだったのだ。
「無責任だ。責任者出てこい!」
と言われても、そうです、無責任なのだから責任者がいるはずもない。これを道理という。違いますか。

だが、いまや状況は変わった。
ひまつぶしをしてカネを貰えていたのに、無職になった途端、ひまつぶしをするとカネが出ていくようになったのである。こういうのをパラダイムシフトと言う。違うか。まあとにかく、ニンゲン、動くとカネがかかるのだ。

「定年後は何か趣味を持ちましょう」
なぁんて御託をよく聞くが、趣味ってカネがかかるのよ。オアシスやレディー・ガガのライヴに当選したらしたで、べらぼうなチケット料金をふんだくられる。
大好きな落語会だって外タレのライヴに比べたら料金は安いが、調子に乗って頻繁に足を運べば、たちまち我が家の竈の蓋が開かなくなってしまう。

時間ができたら聴こう、観ようと思って買いためていた大量のCD BOXセットやDVD BOXだが、もはや封を切るのも面倒くさい。いざ時間ができるようになると、気力のほうが足りなくなってくるのだ。

「ご夫妻で旅行にでも」なぁんて気軽に言ってほしくないね。国内の観光地へ行けば外国人に囲まれるし、海外なんか行ったら円安で昼めし1人1万円ですよ。やだやだ。

「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げましょう」
なぁんて寝言もよく聞くが、カイシャにいたときだって友だちがいなかったおれがどうして近所のヒトビトと仲良くなれるというのだ。おれは近所でも「感じの悪いヒト」で通っているのだ。そのパブリック・イメージをいまさら覆すわけにはいかない。ボランティア活動って何だ。近所の草むしりかな。おれは膝を痛めてしゃがめないからダメだ。ところで一緒に草むしりをすると友人になれるのか。

カイシャにいたときから「集団で何かをする」ことがとにかく苦手だった。会議も打ち合わせも大嫌い。意見を擦り合わせるとロクなことがないでしょ。だから「プロジェクト・チーム」なんて言葉を聞くと鳥肌が立ったもんね。

アイデアなんて、たった一人のアタマの中で生まれるもの。そのアイデアをかたちにするのはそのヒト一人で最初から最後までやったほうがいい。「プロジェクト・チーム」は、あらかじめ決まっている作業をして、いつまでに納品するかなどには向いているけれど、新しいことをかたちにするのにはまったく向いていないと思いますよ。

おれに言わせれば「会議」や「プロジェクト・チーム」の目的ってぇのは「責任の分散」です。で、結論はいつだって「これでいいか」でしょ。決して「これがいい」ではない。妥協に次ぐ妥協の産物か、優れたアイデアをよってたかってこねくり回して平凡な出来にしてしまうかのどちらか。挙句の果ては「みんなで作ったものだから、うまくいかなかったときはしょうがない」。これって、どーなのさ。

そう、だからおれにとって「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げる」ことなど不可能に近い。めんどくせぇです。野暮でゲス。

されど、これからは有り余ったひまをつぶさなければならない。
「一日中家にいるのだけはやめてよね」
と、早くもツマはスルドイ牽制球を投げてくる。ひまつぶしもラクじゃない。働かざる者だって腹も減る。あれ、ひまつぶしがひつまぶしに見えてきた。よし、ひまつぶしにひつまぶしを食べに行こうか。あれ、ちょいとググったら六千円だって。よしとこう。イヤな渡世だ。

古屋日記 2025年9月

吉良幸子

9/2 火
昨日発売のブルータス、特集は太呂さん監修の釣り。公子さんは昨日から東十条中のコンビニを歩いて回るが一向に見つからん。ブルータスはこの地に用がないらしい。今日も暑いが私は本を返しに図書館へ行かにゃならん。借りた本を山程持って行き、帰りにコンビニに寄ると、なんとも涼しそうな緑のカバーのブルータスがあるではないか!王子にまでは来てたらしい。ともかく次の号が出るまでに手に入って一安心。

9/3 水
今日は劇場の初日。1ヶ月ずつ1つの劇団の公演やし、今日から1ヶ月の間お世話になる。劇団さんによってこんな雰囲気違うのね…!と、まだ数日しか働いてない自分でもなんとなく違いを感じる。お客さんもガラッと変わった。同じハコやのに、来る劇団によって色々と変わるから面白い。今月の劇団さんは一切のSNS写真投稿が禁止らしく注意書き満載で厳しそう。無事に千穐楽を迎えられますように、とお稲荷さんにお願いした。

9/13 土
昼一の黒門亭寄席、伝輔さんが10月公演でやる演目、和田誠作『鬼ヶ島』をやってみるらしい。前回やってもらったのは、かれこれ1年以上前。果たしてどんな演出がされているのか、期待と不安の心持ちで御徒町へ向かう。せっかく出かけるのならとまずは気になっていた日本画材屋、喜屋さんへ。狭いビルに所狭しと画材が詰め込まれた夢のような場所やった。顔彩を少しと筆を一本買うて、ちょっとみつばちへ寄り道。甘味とミニうどんがセットになったおうどんセットをいただいた。このおうどんが最高においしく、お出汁のうどんを東京で食べれると思わへんかった!とこっそり感動した。お腹もええ感じに起きて黒門亭へ。数年ぶりの鬼ヶ島はものすご分かりやすく、そして面白くなっておって嬉しなった。お客さんらもガハハと笑ってはって私まで最高の心持ち。終わってすぐに公子さんへ興奮気味に連絡を入れた。10月10日にhoro books演芸部主催の落語会でやってもらうので、ご興味ある方は是非に。
あ~よかった~という気持ちで帰り道、燕湯へ。朝湯を毎日やってはるからお昼過ぎでも開いてるのがありがたい。おやつの時間に風呂行く人おるんかしら…と思いながら行くと、案の定風呂場におばちゃんがひとりいるだけ。男湯からはちょっと賑やかな声が聞こえてきた。番台のおっちゃんは眠たそう。先にいたおばちゃんも早々に上がって完全に貸切風呂!最高!!いつもはとっとと出る脱衣所で、ひとりうちわを仰ぎながらほてった体を冷やし、コーヒー牛乳までゆっくり飲みほした後、居眠りしてはる番台のおっちゃんを起こさんようにそうっと出た。湯島から御徒町まで満喫した楽しい1日やった。

9/15 月・祝
明日と明後日は劇場が連日休演ということで、みんなでメシに行こう!と若女将から連絡が入った。こういうところはほんまにケチケチしてなくて最高。みんなが仕事終わりで来る中、シフトに入ってなかった私は家から中華屋に向かう。深い時間になると酒も入り、普段話したことない人ともちょっとは話せてよかった。

9/16 火
ようやく風が少し涼しくなってきて、公子さんの体調も回復してきた。最近は近くの図書館へよう行ったはるし、十条の方まで歩けるかも …?と今日は十条駅近くのちぃこい回転寿司屋で夕方待ち合わせ。公子さんはお昼過ぎに東十条の商店街の方も散歩しながらぶらぶら十条の方へ。私は昼寝して後から家を出る。演芸場の前を通って十条の方へ向かうと、昨日隣で飲んでた裏方さんにばったり出会う。寝起きでちょっとぼんやりしながら話して商店街の方へ。うわ~近場でばったり会うような知り合いがこの町にできたんか~とか思いながら寿司屋で公子さんと並んで食べてたら、なんとぷらっとひとりで入ってきたのは社長!もうお互いにびっくりして笑うしかなかった。

9/20 土
前職の同僚たちが十条へ遊びにきてくれるというので昼前に駅までお迎えに行く。元気そうな顔を見れて何より。喫茶店へ入って数時間あれこれ話した。新しい職場も案内して、描き文字で作った劇場前の垂幕を見せる。実はずっと使う劇場案内の垂幕のデザインをさしてもろて、ちょっと描き文字入りで入稿した。自分の字がこうやって飾られるのはむっちゃ嬉しい。それを喜んでくれる人がおるのもまたありがたい限り。今度来るときは芝居を一緒に観て、その後飲みに行こう!と約束して夕方別れた。

9/21 日
今日も演芸場で小屋番の日。デザインの仕事がちらほら入ってきて忙しい。とにかく色んな方面への連絡が多い職場で、来月以降の諸々が水面下で常に動いておる。デザインする細々したものが無限に出てくるので、作業してると流れてくるように次の仕事がどんどこ入ってくる。事務所でパソコンを睨んでいると若女将からみんなに連絡が…「今日のお昼はサンマです。あたたかいうちに食べた方がおいしいですよ」。仕事もそこそこに、すぐ向かうと、まかないメシにひとり1匹ずつ、初物サンマの塩焼きとあったかい大盛りごはん!それだけで、なんて最高の職場!

9/25 木
来月から始まるhoro books演芸部主催の落語・講談会で使う布を買いに日暮里へ。布の問屋街は初めて行ったけど、目移りしかせぇへんくらい色とりどりの布がいっぱい!服飾学生と思わしき若者が、ロールの布を抱えて楽しそうに喋りながら裁断を待っておった。公子さんと一緒に良さそうな色の布を選んだはいいが、こうも暑いとちょっと歩くのでもくたくた。東十条まで帰って、ふたり並んでソフトクリームを食べて回復。いよいよ公演日が近づき、予約されるお客さんも増えてきた。着々と準備が進んでおる。

9/26 金
早朝にソラちゃんがにゃあにゃあと自己主張しながら帰ってきて、その声に起こされて1階へ降りていくと、公子さんがホットケーキを焼いてはった。今日も小屋番、昼飯はたらふく食べさしてくれはるんやけど、公演時間の関係で食べるんはちょっとお昼をすぎた時間。その分朝飯はしっかり食べて昼過ぎまで動けるようにしていく。熱々のホットケーキが焼き上がって2枚も食べる。公子さんは小さいの1枚、ソラちゃんもおんなじ机で朝ごはんを食べておる。みんなが食べてると自分も一緒に食べたなるらしく、今日初めて食べます、という顔で本日2食目を食べておった。

9/28 日
今日は千穐楽。昨日あたりから満席状態ですんごい人。今日は昼の部だけで終わりやし、御贔屓さんは必死のパッチで来たはった。連日通っていた方々も1ヶ月の大仕事が終わったという感じで、寂しいけどもやり切ったという達成感を口々に話してはった。劇場にくるお客さんは劇団さんによってむっちゃ変わる。今月の劇団贔屓の方は次の旅先へ一緒に行くのやろう。この千穐楽、私にとっては初めて初日から見てきた劇団の長い公演の最終日で、劇団さんともお客さんともお別れのようなちょっと切ない気持ちやった。最後の公演が終わって恒例の大掃除にかかるとそんな感傷的な気分もどっかへ飛んでゆき、ホコリにまみれながら隅々まで掃除!今月も無事に乗り切らせてくれた劇場を労わり、次もよろしゅうにとお願いする。来月はどんな劇団が来て、どんなお客さんが来はんねやろか。既に予約の電話でいっぱいの日も結構ある。次の出勤には中も外も、飾られるものがだいぶ変わるし楽しみや。

9/29 月
お稲荷さんの参道にある石鍋商店が、秋になって酒まんじゅうを始めたというお知らせを見た。これは行かねば!と朝っぱらから散歩がてら買いに行く。昨日の今日で疲れてても、わざわざまんじゅうのためだけに動く食い意地は残っとるみたい。ほのかにまだあったかいきつねの焼印が入ったまんじゅうは、皮が甘くて素朴なやさしい味でむちゃくちゃおいしかった。
夕方に伸びきった髪を整えるべく美容室へ。その前に喫茶店で本でも読むか…と入ったら、隣の席のおばちゃんたちの会話の方がおもろくて聞き入ってしまった。ずばりAおばちゃんがBおばちゃんを熱心に改宗中。Aおばちゃんに全く悪意がないようなのがまた厄介で、Bおばちゃんも無碍にすることもできずむにゃむにゃとお茶を濁す。行ったり来たりの会話ばかりを繰り返し、結局終わりまで聞くことなく美容室の時間になり店を後にした。あのBおばちゃんはどうなったんやろか…?

9/30 火
やることが多すぎて、なんで9月って31日ないんやろ?と真剣に思う。あと1日多かったら全然違うのに…とは言っても残念ながら今日が月末。早朝、頭が元気なうちに落語会でもらう助成金の書類を片付け、チラシの進捗も確認して仕事の波に溺れそうな自分を落ち着かせる。公子さんは昼前に打ち合わせへ。私は落語会で使う音響を教えてもらうべく、哲さんがうちに機材を持ってきてくれるのを待つ。お昼に来はってまずはふたりで弁当を食べ、そっから色々と教えてもらった。来月の公演にはいつもお世話になっとる哲さんが来られへんし、私は宣伝美術だけでなく設営から音響まで何でもやる裏方。あっちゃこっちゃやけど、ごっちゃにならんようにやることちゃんと整理しとかんとね。

九月

笠井瑞丈

毎日暑い日が続く九月前半
第九を踊ろう企画をやって5回目
残すは11月の1回のみ
いよいよ山頂が見えてきた
毎回指揮者を変えて
色々な第九で踊った
当たり前だけど指揮者によって
同じ曲なのにテンポも違えば
聞こえてくる音も違う
踊りの方も毎回違うダンサー
第九といえば日本では四楽章
だれも知ってるあのメロディ
でも通しで聞くとどの楽章もいい
ドラマティックでスリリング
何回踊っても飽きないのがいい
ベートーヴェンの交響曲は全部好きだけど
第九は元気になるから一番好きだ

まだまだ暑い日が続く九月中盤
伊藤キムさんとの合宿ワークショップ
気づけば今年で3回となりました
場所は清里のキムさんの別荘
今年はキムさんの初期の作品の再演
メインパートはもちろんキムさんが踊り
群舞のパートをワークショップ生が踊る
もともとは男性のみの作品でしたが
今回合宿では初女性版もやりました
僕は今回照明オペを担当をしました
この作品の照明デザインは足立さん
足立さんは日本の大きなバレエの照明を
数多くやっているとても有名な照明家
足立さんは仕込みはいけるけど
オペは出来ないとの事で僕がやる事になる
もともと照明には興味があったので
天使館で行う全ての公演は僕が照明をやってる
いちから明かり作りとやり方を教わり
一つ一つQ組んでやるのは初めて
それも足立さん直々教わられる滅多にない機会
とても楽しくより一層照明に興味が湧く
公演の方もとても素晴らしいものになった

少し暑さも治る九月終盤
僕にとっての今年ナンバーワンイベント
叡さんと久子さんと3人ポーランドへ
のはずだったけどやっぱり三人じゃ無理
と言う事で急遽なおかさんにも付いてもらう
であらためて4人ポーランドの行きが始まる
これを書いてる今日は9月29日が出発
そしてなんとかワルシャワのホテル着
日本と比べてもう真冬の寒さです
時差ボケでハッと起きる夜中の3時

明日から10月
今日はここまで

精霊馬たち(2)皮膚たちの現在、いくつもの爆心へ

新井卓

わたしたちの記憶と知の実体は、つまるところ皮膚感覚にあるのだと思う。そして、皮膚感覚のずれは言葉の差としてあらわれる。

被ばく者という言葉、「被」という漢字には、爆風や熱線、放射線にある生命の皮膚が晒されたこと(exposed)を示しており、出来事のまさにその瞬間、すなわち出来事からみた現在の時制に属することも、言外に触知されるだろう。たとえば英語の場合、被ばく者が生きているならatomic surviverとなり、その言葉は出来事とのコンタクトではなく出来事を生き延びたという事実を示しており、また、出来事からみた未来の時制に属している。一方死者であればatomic victimsすなわち過去の時制に属する言葉になるのかもしれないが、そのどちらも、被ばく者たちの生において連綿とつづく「いま」のことを、傷つき、治癒し、ケロイドとなり、腫瘍や滲みだす体液、痛さ、痒さとして現在に現前しつづけ、変容しつづける皮膚の感覚のことを語らない。

北アメリカで核の歴史に関する仕事をはじめたとき最初に感じたのは、やはりこの皮膚感覚の違いだった。広島で、長崎で、ビキニで、エニウェトクで、被ばく者たちの皮膚は乾いていたか、それとも湿っていたか。そのような想像力を持ち得た人々は一人もいなかったのだろう、思わずそう断じたくなるほどの渇きが、皮膚と大地と生命からの断絶が、トリニティサイトを、ロスアラモスを、そして数万人ともそれ以上とも数えられる米国内のダウンウィンダース(核実験やウラン採掘などで被曝し健康被害を被った人々)を生み出したフォーコーナーズ全域をもうひとつの荒野に──記憶の荒野に変えていた。

ショッキングなほどに少数ではあっても比類ない強度をもつ原爆表象(はだしのゲン、丸木位里・俊、土門拳、東松照明……)に触れてきたわたしたちにとって、地上に出現した太陽に灼かれ、放射線によってDNAレベルで破壊されたいきものの皮膚がどうなるか、想像することはさほど難しくない、少なくともそう思いたいが実際はどうか。

ごく最近になってマーシャル諸島を二度、訪れる機会に恵まれた。その少し前、詩人・アーティストのキャシー・ジェトニル・キジナーの詩に触れ、その皮膚感覚の生々しさに衝撃を受けた。ジェリーフィッシュ・ベイビー(くらげの赤ちゃん)、という言葉がある。放射線被曝の影響によりまるでくらげのような姿で生まれてくる新生児のこと、だからマーシャルでは一歳の誕生日が世界中のどこよりも特別なのだ、と教えられたときの皮膚感覚と、灼けつくような感情。ビキニ島で、一人の新しい友だちからマロエラップに日本軍が設けた「斬首穴」のことを聞かされた真昼の、抉られるような罪の感覚を忘れることは決してない。それら皮膚感覚は、その友人に頼んで生まれて初めて彫ってもらった二の腕の小さな刺青を通して、わたしの皮膚に刻まれ、変容しつづける「いま」となった。

キジナー文学の衝撃は一過性の嵐などではなく、「いま」の時制で吹き荒ぶ、いくつもの爆心──マーシャル諸島におけるドイツの植民地化とつづく日本の植民地化と戦争犯罪、戦後米国による核の暴力と実質上の植民地化、そして植民者たちが南半球地域に押し付けた気候変動という爆心──から、一時も止むことなく吹きつける烈風だったのだ。その風は決してわたしたちを、わたしを赦すことはない。そことここで傷はいまもひらき、皮膚が乾くことはない。

爆心地へ向かうということは、「爆心」という語彙を見失うことだ。いくつもの爆心──残虐行為の中心としての──がある、というとき、それはもはや一つの中心たりえず、過去と現在と未来におけるいくつもの暴力の波紋が干渉しあって互いを増幅し、ときに打ち消しあいながら拡散していく広大な海原というほかない。

ではなぜ、ある爆心はよく知られており、他方の爆心にはだれも注意を払わないのか。認知の差が犠牲者の数や残虐さの程度(そんなものを測る尺度はない)、システマティックさや稀さとは実質上の関係がないことは、それぞれの出来事について注意深く見ていけばほぼ自明といっていい。ソンタグやセゼールを引きあいにだすまでもなく、ほとんどの場合その差は、参照回数や視覚表象の頻度の差にほかならない。たとえばハリウッドの大手スタジオがホロコーストを描くことはあってもナクバを描くことは決してない(もちろんイスラエル建国の物語を描くことはあるにせよ)という事実は、この差と直接の関係がある。

アートコレクティヴ「爆心へ/To Hypocenter」はいま書いたことの少なくとも一部と、ほか四人、川久保ジョイ、小林エリカ、竹田信平、三上真理子との交差する関心やずれを最大限に活かしつつ、いくつもの「爆心」を、移動と偶然の出会い、公共空間におけるヴァンダリズム(野蛮行為)によって接続する試みとして始まった。

初期の問題意識としては日本における原爆や核表象の少なさ、あるいは見えなさがあった。いまだ一部の政治家たちが標榜する「唯一の被爆国」という語りや、アジア太平洋地域における日本の侵略と優生思想を埋め立てながら作り上げられた被害史観をいかにして相対化し、同時に自身の活動と表出が避けがたく帯びる侵襲性を自己批判しつづけるか。だれの手にもあまるそれらの課題について、最近わたしたちは、指針となるマニフェストらしきものを書き上げた。そして運動のひとつのあり方として、いくつかの「爆心」を一筆書きでむすぶバスの旅を構想することになった。

奇しくも日本列島は盆の季節を、死者と祖霊たちの季節を迎えようとしていた。
(つづく)

しもた屋之噺(285)

杉山洋一

息子とイーハンが隣の部屋でライヒの「四重奏曲」のピアノパートを合わせているのを何となしに聞きながら、なにか思い出すものがありました。なるほど、時としてライヒには、ケージの「四季」とか「6つのメロディー」の揺らぐ和音の手触りを、彷彿とさせる瞬間があるのでした。単に五度集積和音特有の響き、と言ってしまえばそれまでですが、ケージを耳にする時に心地良い、ヨーロッパの伝統を脱ぎ捨てた軽さであったり、脱ぎ捨てた衣の重さに驚いてみたり、黴臭い伝統から解放された、朝の空気のようにひんやりとした純粋な音の重なり合いが紡ぐ風の匂い、そんなことに思いを巡らせていると、ふと現在アメリカという国が、脱ぎ捨てようとしている衣は一体何なのか、それを脱ぎ捨てたアメリカは一体どんな姿をしているのか、思いがけず慄く自分に、ふと気が付いたりもするのです。

9月某日 南馬込
西大井駅から新宿に抜け、京王線で仙川へ向かう。マンカの桐朋レッスン1日目。久保さんにはZappingの人為的偶発性を如何にして故意に発生させるかについて、和泉澤さんには身体性と楽音との繋ぎ方、具体的な記譜法について、出納さんにはスネア・ドラムの発音方法の様々な発音方法について、具体的な助言。マンカ「溶ける魚」リハーサル後、帰宅。ヴァイオリンの田中さんとは昨年のシャリーノのワークショップで、フルートの和泉澤さんは昨年の「競楽」で聴かせていただいて以来。とても丹念に楽譜が読み込んであって、感嘆する。

9月某日 南馬込
学生が用意してきたマンカ独奏曲をマンカ自身にレッスンしてもらう。譜面を主観的、観念的に解釈すると、リズムが甘いかも、と作曲者が注文を出す。優しい口調ながら、メトロノーム指示にも厳格であった。こう書くと、まるでソルフェージュ課題のように楽譜を読んでいるように聞こえるが、それは本来反対であって、ソルフェージュ課題は音楽的に咀嚼して演奏すべきものであり、彼らにとって「咀嚼する」という言葉は、演奏者の気まぐれとは全く相容れない観念なのだ。このように本来我々の文化体系にない視点を知ることは、楽譜を読む学生にとって有意義に違いない。

午後は作曲科の学生らに、楽器を使う意味、特性について質問を投げかけた。サックスであれば、グロウルやファズと使うことで、クラリネットとの差異が見えてくるかもしれない、という話。鳥井さんに連れていってもらい、何十年かぶりに「なみはな」で昼食を摂る。マンカはイワシ丼、こちらは煮魚定食。彼女がピッツェッティとダンヌンツィオの研究をしていると聞いて、おどろく。ピッツェッティなど、イタリアではほとんど顧みられる機会もなく、おそらく、寧ろ海外の研究者の研究対象となっているのかもしれない。
一度馬込に戻ってシャワーを浴び、大森まで自転車で走って桜木町へむかう。SさんとMさんと桜木町「うまや」にて会食。Sさんはすっかり大学の教員生活を謳歌しているように見える。以前から、本来Sさんはインプットの人ではなく、アウトプットの人だと思っていたので嬉しい。

9月某日 南馬込
雲一つない絶好の日和。朝8時過ぎに家を出て、増上寺まで湯浅先生をたずねる。西馬込から大門まで地下鉄一本で行けるのは有難い。東京タワーの足元で、端正な墓地が心地よさそうに朝日を受けている。フェルマータが彫られた湯浅先生の墓石は地面にそっと寝かされていて、謙虚な佇まいが湯浅先生らしく、どことなくヨーロッパ風の雰囲気も漂う。てっきり手軽に仏花が手に入ると思い込んで、線香しか携えていかなかったが、結局花屋が見つからずお線香だけで失礼した。増上寺は広く知られているけれども、墓参に訪れる人は決して多くはないのだろう。

午前中はマンカのピアノ作品リハーサル2つ。マンカの楽譜を読む姿勢が、次第に学生らに伝わってきたのが解る。マンカも、皆揃ってとても反応が早いと大喜びしている。リハーサル後、慌てて仙川駅前で蕎麦をかけこみ、二人で渋谷へ向かった。彼が恵比寿に出かけると言うので、井の頭線出口から山手線入口まで連れて行く。山手線がJRだとわかっていれば問題はないが、連絡通路の表示には「山手線」とは書いてないので、一人ではなかなか山手線ホームにたどり着けない、と慌てている。
それからこちらは池尻までバスにのり、「考」リハーサルに出かける。佐藤敏直作品で、2楽章も3楽章も、予定調和的な音楽の流れに甘んじずに、少し挑戦的な姿勢に変えてみたのは、今までの経験で皆さんの技量を信頼しているからだ。
リハーサル後タクシーで三軒茶屋に廻り、マンションに置きっぱなしだった自転車を店に引っ張っていき鍵を壊してもらう。ついでにタイヤに空気を入れ、機械油を差して貰って、自転車で馬込に戻る。

9月某日 南馬込
今日は台風接近で交通も乱れて一日中大変だったが、桐朋でマンカ・ワークショップの演奏会があった。作品解説がマンカから朝6時に送られてきたので、リハーサルの合間に控室にコンピュータを持ち込み、まるで居残り勉強よろしく翻訳しなければならなかったのはさておき、ほんの一週間足らずのワークショップだったけれど、学生の目はどれもとても輝いていて、とても美しいと思った。作曲の皆さんが、レッスンの後そろって学生ホールで作曲に勤しんでいる姿は微笑ましく、翌日披露してくれた内容の驚くべき充実ぶりには、若さのもつエネルギーの素晴らしさと相俟って、文字通り舌を巻く思いであった。今回作曲の学生が演奏に多く参加していたのも、作曲に対する姿勢を実感できる、すばらしく有益な機会だったに違いない。こう言い切ってしまうのもどうかとは思うが、ヨーロッパ人にとって音符は記号であって符号であり、それらを組み合わせることによって、作曲者は具体的なメッセージ、意図を聴き手に伝えてきた。それが正しいかどうかではなく、彼らにとっての音符、譜面の意味について、日本に生まれた若い彼らが沢山思考を巡らせて、それを書きつける音符であったり、楽器を通して音として、勇気をもって言表化した意味は途轍もなく大きい。そして、彼らに対して、かかる肯定的刺激を与え続けたマンカの言葉の一つ一つに、深く心を動かされた一週間であった。

9月某日 南馬込
午前中は、亀戸天神の脇の旧家、ライティングハウスで、Rikkiと神田さんと家人のライブを聴く。沖縄と奄美の島唄はまるで違う、と話には聞いていたが、開放感よりむしろ、絹糸のような繊細な響きであたりが温かく包み込まれる心地がするのは、おそらく彼女の声質だけではないのかもしれない。日本と琉球に翻弄されつつも、しなやかに、したたかに連綿と受け継がれてきた声に、思わず鳥肌が立つ。
そのまま新宿へ向かい、発車寸前のロマンスカーに飛び乗ることができた。10号車に乗ったと電話で伝え、町田で無事に母が合流する。母は決まって、少女時代に住んでいた松田の酒匂川の鉄橋あたりを電車が通るとき、富士山の姿を仰げないかとしきりに気にするのだが、昨日までの台風の影響なのだろう、今回は富士山だけ厚い雲がちょうど帽子のように被っていて、残念であった。

駅の立喰いそばで昼食を摂り久野霊園へ墓参してから、いつものように湯河原、茅ケ崎、堀ノ内と回った。茅ケ崎の西運寺では、待たせているタクシーに慌てて戻ろうとすると、いつもお墓を守っている本堂にも手を合わせてあげてください、と諭されて、おもわず頭を掻く。
19時に堀ノ内に着くころには陽もとっぷり暮れ、真っ暗になってしまい、秋の訪れを実感する。暗がりに墓参などするものではないのは百も承知だが、普段日本にいないのでは仕方がない。墓地への入口が閉められていた信誠寺に併設している「ぎんなん幼稚園」の関係者がちょうど戻ってきたので、墓参したいと伝えると、快く駐車場を開けてくれた。あまりのタイミングの良さに、やっぱり祖母は母が訪れるのを心待ちにしていたに違いないと思う。東神奈川で母が横浜線に乗ったのを見届けてから、大森へ帰宅。慣れてくると、馬込はずいぶん便利な場所だとわかる。

9月某日 ミラノ自宅
ちょうど朝方、家人がミラノに着いたので、昼前には揃って息子の演奏を聴きにでかける。一年前と比べて別人のように成長した、と驚くのは単なる親の贔屓目だろうが、20歳前後は、誰でも海綿のように吸収力に富んでいる時期なのかもしれない。今のうちに出来るだけ豊かな人生経験を積んでほしいと思うのは、表現する楽しさ、愉悦が感じられて、息子なりに何か掴んだように見えたからだ。イスラエルがカタール空爆。イスラエル首相は「パレスチナ国家は存在させない」との見解を繰り返している。今回の空爆はハマス幹部を標的にしたが失敗したという。イスラエル空軍がカタール領域外からミサイル発射との報道。

9月某日 ミラノ自宅
もうすぐ室内楽の試験があるからと息子がライヒの「四重奏曲」を練習している。ストイックに数ばかり数えているので、時々リストの「結婚」を派手に弾いては、ストレスを発散しているようだ。ピアニストにとって、やはりリストはスポーティーな作曲家なのだろう。
イスラエルの指揮者ラハフ・シャニとミュンヘンフィルとの公演をベルギーのフランダース音楽祭が中止発表。シャニのイスラエル政府に対する見解が明瞭ではない、とのこと。何が正しいのか自分にはわからないが、毎日少しずつ我々自身の表情が硬化してゆくのを感じる。それぞれの放つ言葉から優しさや心遣いが失われてゆき、初めはほんの僅かの血を出す程度の刺し傷を穿った棘が、気が付けば傷口から赤い肉が覗き、理性と言葉が少しずつ乖離して、攻撃的で目を引く単語ばかり跋扈するようになる。あたかも何気ない言葉が何時しか恐ろしい巨人へと変貌を遂げるように。

9月某日 ミラノ自宅
アフガニスタンの地震では2000人もの命が失われたとの報道もあり、宗教的理由から男性救助要員は女性に触れることができないともいう。少なくともイラン製9機のロシア軍無人機が19回に亙りポーランド領空を侵犯。ポーランド軍機とともにオランダ軍機、イタリア軍機も参加し3機を撃墜。ポーランドはNATO第4条発動、緊急会合を要請。同国東部航空制限発表。ネタニヤフ首相、ヨルダン川西岸入植計画に署名。

9月某日 ミラノ自宅
イスラエル出身の妙齢が受験に訪れた。同僚が「戦争の間、イタリアでヴァカンスを過ごしたいの」と揶揄うと、困惑しながら「兵役はこなして来ました」とおずおず説明した。「わたしの父は10月7日あの近くにおりまして、巻き込まれてしまいました。幸い命は無事でした。ですが、家族はイスラエルに残っていて、わたしだけが国を出てきました。イタリアでボーイフレンドが出来たので、ここに残ることを決めました」、とこわばった表情のまま話した。「では、国に帰らないための口実作りで指揮を受けにきたの」と同僚が口を開くと、ますます困った顔になったので、さすがに居たたまれなくなって「ところで君は何の課題曲をもってきたの」と口を挟んだ。
バーリからやってきた別の受験生は、母がアルバニア人、父がイタリア人で、彼の母親は、経済が破綻したアルバニアから1991年8月7日貨物船Vloraでイタリアに亡命した、2万人ものアルバニア難民の一人であった。鈴なりの難民が乗り込んだ貨物船のなかで、アルバニア人船長は、殺気立った同じアルバニア人の難民らによって力づくでイタリアに出航させられた、いわゆるヴロラ号事件だ。ヴロラ号はブリンディシへの入港を拒否された後、7時間もの航行を続けた後にバーリに接岸した。一時的に競技場に収容された膨大な数の難民は、その後アルバニアに強制送還されたり、見逃されてイタリアに残ったりと、さまざまな人生が待ち受けていたと読んだことがある。彼の母親も気が付いた時には海に投げ出されていて、なぜ生き延びられたかわからないと言っていたそうだ。

9月某日 ロッポロ民宿
一昨年、昨年に続き、ロッポロ城でマスターコースに出かけ、夕食時、サンレモのオーケストラでコントラバス首席をやっているトンマーゾと話す。彼の周りの音楽家仲間の間ではロシアに対する姿勢は一枚岩ではないという。ロシアの侵攻を批難する者もいれば、北大西洋条約機構が先に一線を越えた、と考える向きもあるという。同じオーケストラで弾いているウクライナ出身のZは、官庁の手違いで、引っ越した際ウクライナ国内の住民票が消失してしまい、幸運にも召集令状が届かずに済んでいるらしい。
イスラエルに対しては、ほぼ誰もが否定的な意見を口にしていると言う。イスラエルは一線を越えてしまった、というわけだ。確かに、ドイツとイタリアは第二次世界大戦の過去があるから口に出せないが、ヨーロッパ全体としてのイスラエルへの態度は、現在ほぼ決定的になりつつある。少なくともトンマーゾはそう信じているようであった。

9月某日 ロッポロ民宿
オーケストラ練習が終わってから、生徒たちに「地下鉄でスリに遭って犯人を大声で蹂躙するつもりで」、こちらに向かって大声で怒鳴らせてみる。身体の裡で捏ねた感情の鉄球を手に取って、躊躇せず犯人の顔めがけて投げつける感じだ。単に大声を上げるだけでは、相手にはこちらの感情は何も届かない。
目の前の相手に向かって感情をぶつけることに対して、単にぶつける振りをするだけであっても、初めは誰しもが当惑する。躊躇ったり、思わず顔から少し逸らしてしまったり、力がなくて相手まで届かなかったり、球の形が歪だったり、柔らかすぎたりして、うまく投げつけられない。客観的にみれば、単に大声を上げているだけだが、実際は大声に載せた感情の塊を、球体にして投げているのである。感情を身体の外に放射させて、それが相手に当たってぐしゃりと音がするのを実感できる意識。それが、演奏者に自分のイメージを投げかける姿勢と重なるわけだ。ジュゼッペやシモーネのように、「こうすればよいのですね」と客観的に状況を分析する生徒に対しては、根本的に姿勢が逆だと指摘する。「こうすれば、こうなる」という態度ではなく、「君自身がその状況を作り出す原動力にならなければいけない」と促すのである。
ところで今日、アリーチェ・カステッロの城址食堂で、皆と昼食を摂っているとき、そこにいた一人がノヴァーラの「レオナルド」工場で戦闘機を作っている、と話が盛り上がった。
「レオナルド」と言えば、イタリアを代表する軍需企業だから、名前くらいは知っている。戦闘機の重力加速度は9Gにもなるから、歯の詰め物など簡単に飛びだして危険だ、程度の話をしているうちは良かったが、「うちの会社は、最近日本とイギリスと共同開発に乗り出していて」、日本はNATOのパートナーだからね、と話題は広がっていく。それどころか、「日本の仮想敵国はどこだっけ」と目の前に二人中国人の留学生が並んでいる前でしつこく尋ねるのに閉口した。
単なる無神経なのか、敢えて尋ねているのか判然としなかったが、恐らく彼らには会話の内容は理解できなかったのが救いであった。各地の戦争が激しくなり、「レオナルド」も忙しくなったか尋ねると、彼の働く工場で作っている戦闘機は、幸運にも世界のどの諍いにも関わっていないので、特に忙しくなるわけでもなく、粛々と以前同様仕事を続けているのだそうだ。
一種類の戦闘機を作るだけで、驚くほど広い空間が必要なので、別の種類の戦闘機を彼が担当する予定は今のところはないという。

9月某日 ロッポロ民宿
メンデルスゾーンのソリストを務めるレティーツィア・グッリーニは、息子が7月シオンで知り合ったイタリア人学生の一人で、一緒に寿司を食べに行ったというから、世界は狭いものだ。彼女はカプリッチョーソ(気まぐれ)でジプシー調な感じを見事に活かした、素晴らしい演奏を披露した。この春にはトリノ国立音楽院から派遣されて、東京イタリア文化会館でリサイタルをしたと聞いた。その際、ディロンとも知り合って、芸大でレッスンも受けた、と大層日本が気に入ったようである。
ロシア・ミグ戦闘機エストニア侵犯し、北大西洋条約機構が対応。伊戦闘機も参加。朝、ベルティニャーニ湖まで歩き、人気のない小さな湖を一周した。森から落ちて来る栗が道に沢山転がっていたので、「いが」を蹴りながら歩く。
日本では熊出没がしばしば報じられているけれど、この辺りはどうかしら、とふと怖くなる。

9月某日 ミラノ自宅
ロッポロのマスターコースの修了演奏会は、参加それぞれとても良かったが、練習時に殻に閉じこもって何も出来なかったシャンシャンが、本番では見違えるように大胆で雄弁に振っている姿には、思わず感動した。
イギリス、カナダ、オーストラリア、ポルトガルが、パレスチナの国家承認を表明。日本政府は今回パレスチナ国家承認を見送ると発表、イスラエル政府より謝意を受ける。

イスラエルの指揮者イラン・ヴォルコフが、ガザ支援のデモに参加し、拘束されたとの報道。現在のイスラエルにおいては、バレンボイムが表明してきたような勇気ある行動は、悉く芽を摘まれてしまうのか。
昨日の夜から今日の夜半まで、イタリアはゼネラル・ストライキが続いている。パレスチナの国家承認を見送ったメローニ政権への抗議のため、国鉄、私鉄、各都市のバス、地下鉄、学校、大学、出版社などが24時間のストライキに突入し、各都市では大規模なパレスチナ支援のデモ行進が行われた。ミラノでは、名門高校マンゾーニを学生が占拠しパレスチナ承認を強く求め、スカラ座で催されていたロベルト・ボッレのバレエ・プログラムは、公演後ボッレらがパレスチナ旗を舞台上で掲げて、パレスチナへの支持を強く表明し、伊政府が、ドイツや日本と同じく手を拱いて傍観を決め込んでいることに抗議した。第二次世界大戦中のユダヤ人に対しての蛮行が尾を曳いているのと、メローニの保守的な姿勢が相俟っているのだろう。大戦敗戦の際、イタリアはイタリア軍を放棄し平和主義をつまびらかにし、再軍備に関しても当時は強く制限されたのは日本と同じだが、地政学的にもNATO軍参加が必須であったため、戦後イタリア軍は日本と違ってすみやかに再編成された。イタリアのテレビでは、同じ敗戦国として平和主義を掲げた日本は、未だに正式な軍隊を持っていない、活動も制限されている、と紹介されていた。イスラエルはヒズボラを口実にレバノンを大規模空爆した。

9月某日 ミラノ自宅
リナーテ空港近くの分校まで学校の再試験に出かけると、以前楽典などを教えたエリエールが、シルバのレッスンに訪れていた。イスラエル人のエリエールは、スカラのバレエ学校を卒業し、同時に音楽の研鑽も続けている。彼女の笑顔を見ながら、昨日のゼネストで、ミラノ中央駅で起きた暴動を思い出して複雑な思いに駆られる。ミラノ、ローマ、トリノを始め、イタリア各地でそれぞれ5万人、数万人規模のパレスチナ支援のデモ行進が平和裏に行われた一方、それを口実に暴力をひけらかす若者もいて、世界にはその部分だけがセンセーショナルに切り抜かれて報道された。パレスチナ支援を求めるため、なぜ中央駅の店舗を壊したいのか全く理解できないが、恐らく深い意味などないのかもしれない。
エリエールや、先日入試にやってきたイスラエルの妙齢は、ミラノの大通りを埋め尽くす無数の人々が、まるで河のように揺らめきながら、パレスチナ解放と反ネタニヤフ、場合によっては反シオニズムを叫びながら練り歩く姿をどんな思いで見つめていたのだろう。自分がその立場だったらと思うと、想像できないほどの恐怖かとも思うが、或いは間違っているかもしれない。イスラエル人とパレスチナ人が平和に共存できる世界は、もう実現できないのだろうか。アメリカがイスラエルを支援すればするほど、膨らむ大義名分を手にしたロシアは、攻撃を広げてゆく。
フランス・マクロン大統領は国連総会で「Le temps de la paix est venu.平和のための時が来た」、とパレスチナの国家承認を表明。同時に、ベルギー、ルクセンブルク、マルタ、サンマリノ、アンドラのパレスチナ国家承認を発表。
コペンハーゲン、オスロ―の空港に不明のドローン飛来のため、空港が一時閉鎖。

9月某日 ミラノ自宅
夕刻、パレストロの市立プラネタリウムで息子がピアノを弾くと言うので聴きに出かける。酷い雷雨で、長靴に雨具上下という重装備。
古めかしさと厳めしさが、いかにもファシズム建築期らしい、美しい市立プラネタリウムは、1930年にミラノの出版者ウルリコ・オェプリがパトロンとなり、名建築家ピエロ・ポルタルッピが設計した傑作の一つだ。動物の星座が43、物の形をした星座が29、男の姿をした星座が12、女の姿をした星座は4。併せて88の星座はピアノの鍵盤の数と同じ、解説員の話は始まり、1時間ほどかけて、太陽の話から土星、北斗七星、北極星、アンドロメダ星雲など、秋の星座の話を、夕方、深夜、明け方と時系列で説明する。そんな逸話の合間に、息子がベートーヴェンの「狩」やウェーバーを弾いたのだが、特に何も考えずに出かけたものの、星座の話の合間にこれらの作品が演奏されるのは、思いの外似合っていて、意外なほど心地よかった。

9月某日 ミラノ自宅
岡部美紀さんに教えてもらって、ファッション・デザイナー、マリア・カルデラーラと廣瀬智央の共同作品展「天の川」を訪ねる。30メートル強の藍の布に、廣瀬さんは無数の小さな点を書き連ね、空間を織るようにして見事に天の川を表現していた。
「お互い長くイタリアにいるせいかもしれませんが、日本文化に対する姿勢や、西洋、イタリア文化に対しての姿勢など、多く共感できる部分もあり楽しかった」と美紀さんに報告すると、「分野は異なれど、あなたと廣瀬さんは色々共通点があると思っていた」とお返事を頂く。作品における地政学的アプローチであったり、環境への関心など、表現を自分の裡に溜め込まないところに近しさを感じる。驚いたのは、廣瀬さんは、イントナルモーリのあるヴィニョーリ通り、歩いて5、6分程度しかかからない、すぐ近所に長年住んでいらしたことだ。毎日出歩いているのに、お目にかかったことがなかった。

9月某日 ミラノ自宅
先日のゼネラル・ストライキの影響なのか、メローニ首相はハマスが排除されればパレスチナ国家承認、と一歩踏み込んだ発言をした。イタリアの大手新聞は、ヴェネチアのフェニーチェ劇場がストライキ、と報じている。発表された新音楽監督が政権に近い若い女性指揮者で、彼女は一度も劇場を振ったことがなく、事前の相談もなく、到底受け容れられない、とオーケストラなど劇場関係者が反旗を翻したという。尤も関係者の間では、前劇場支配人だったオルトンビーナ氏がスカラに送られた辺りから、彼女の名前はほぼ確実だと言われていたので、ここに来て大問題のように報じられるのに、違和感すら感じている。
息子は4年間通ったミラノ日本人学校の創立50周年記念式典に招かれて、ピアノを弾いてきたらしい。手作りの素敵なアルバムを受取って嬉しそうに帰宅。

9月某日 ミラノ自宅
イスラエル首相は国連総会参加にあたり、パレスチナを国家承認していないギリシャとイタリアの領土上空を通過してアメリカへ向かった。国際刑事裁判所の逮捕状を危惧との報道もあるが、ともかくフランス、スペイン上空を飛ぶのを完全に避けたという。パレスチナ暫定政府のアッバス議長の米国入国は許可されなかった。
ゼレンスキー大統領は、92機のドローンがロシアからポーランドへ向かい、そのうち19機がポーランド領空侵犯に成功したと発表した。今後は、ロシアからイタリア方面へドローンが向かう可能性を示唆。デンマークの最大軍事基地上空にて不明のドローン発見。

9月某日 ミラノ自宅
パレスチナ支援グループが、ネルヴィアーノの軍需会社「レオナルド」入口を封鎖。「レオナルド」がイスラエルに武器を輸出するのに抗議している。
息子曰く、先の大戦で過ちを冒したイタリアやドイツこそ、率先して自分たちと間違いを繰り返すな、とイスラエルに言うべきだし、言える立場にあるはずなのに、どうしてメローニもメルツも弱腰なのか、腑に落ちないらしい。
正論ではあるけれど、それを軽はずみに口に出来ぬほどの蛮行を冒してしまった、とも言える。

家人は、空港から直接藤井一興先生のお別れの会場へ直行した。「花の敷付き詰められた立派な祭壇の上に悠治さんと藤井先生が並んで微笑んでいる写真も紹介された。それから、三原さんが芸大の大学院に入学した」、と嬉しそうに電話がかかってきた。三原さんは藤井先生にも習っていたはずだ。「息子にもすぐ伝えて」と電話の向こうの声が弾んでいる。三原さんと言えば、以前彼女と息子が同じノヴァラの音楽院に通っていた頃、まだ小さかった息子をいつも電車で連れて行ってくれて、よい話し相手になって貰った。だから、彼女のことを想い浮かべると、幼かった息子と並んで、中央駅の喫茶店でこちらが迎えにいくのを待っている姿が自然と蘇ってくる。常にひたむきで、純粋に音楽と向き合う姿が印象的だった。

インターネットの署名サイトから、ヴェネツィアの劇場新音楽監督に反対する、署名要望メールが届く。恐らく自動的にメーリングリストに載っているに違いないが、今回の署名には参加する気はない。実際に見たこともないので、周りがどう吹聴していようが、知りもしない人に対して、自分が何もいう権利はないだろう。
尤も、彼女を否定しているのは音楽関係者や劇場のファンに限られているのだろうから、大多数は、嫉妬深く因襲的なわれわれの石頭を嘲笑の対象にしているのかも知れない。
以前国際コンクールの審査をした際、同じく審査を担当していた女流作曲家が、「男女の参加者が同点の場合、女性の作曲家にチャンスを与えてくれ」とはっきり言っていたのを思い出す。「何故なら、女性というだけで、わたしたちはずっと可能性を剥奪され続けてきたから」、と畳みかけられ、思わず言葉に窮してしまった。
当初自分は、音楽をする環境は他の職種より男女差が少ない、と信じて疑わなかったが、彼女にとってはそうではなかった。この目で見ている世界など、現実のほんの欠片に過ぎないのを実感したのだ。
「ジェンダー格差」、「人種差別」、「社会の階級」、「戦争」など、ぽっかり浮かぶ小さな島それぞれに高らかにプラカードが掲げられているのならば、音楽はその島の周囲を満たす海であるべきか。辛抱強く波を穿ち続けて岩を砕き、浜を消失させ、出来るものなら憎悪そのものを水中に沈めてしまうために。

(9月30日 ミラノにて)

立山が見える窓(5)

福島亮

 ラジオに出演した。
 富山シティエフエムという、富山市をエリアとする小さなラジオなのだが、今週末から始まる「ウカマウ集団」の富山上映について、アフリカ文学研究者の村田はるせさんとともに、30分ほどお話しした。

 10月3日から5日まで、ボリビアの映画制作集団ウカマウの全14作品をオーバード・ホール(富山市)で上映する。主催はカルトブロンシュという富山の映画上映グループで、私は企画スタッフとして今回の上映活動に参加している。2025年は、ウカマウがその活動を開始してから60年、彼らが日本の太田昌国さんらと協働関係をもってから50年、そしてボリビア独立200年、という節目の年なのである。「ウカマウ集団60年の全軌跡」と題した回顧上映が4月末に新宿K’sシネマで行われ、それを皮切りに大阪、松本、沖縄など約十の地域で全作、あるいはセレクト上映が続いている。富山上映には、太田さんや唐澤秀子さんも来てくださり、トークをする予定だ。

 パレスチナに対するイスラエルの軍事攻撃がそうであるように、現在の世界の至る所に植民地主義的な秩序が見え隠れしている。いや、見え隠れどころか、丸見えのそれを人は知らんぷりしている、と言うのが正確だろう。ウカマウが描き続けてきた中南米の先住民をめぐる状況は、この植民地主義的秩序と地続きだ。歴史は一回一回清算されて繰り返すのではなく、1492年のコロンブスによる「新大陸発見」以降の世界の秩序が、現代の支配・被支配と構造的に連続している。ウカマウはこの出口のない連続性の中から、それでも火花を散らすように映像作品を世に送り出してきた。闇の中のきらめきを、富山の小さなホールで見てみたい。

 気がつけば、それまでの茹だるような暑さは消えていて、日没とともにコオロギが鳴くようになっていた。企画を開始した時はまだ先のことと思っていたが、もう明後日に迫っている。ふと立ち止まると、時間だけが過ぎ去り、駅のホームに取り残されたような気持ちになることがある。大丈夫、しばらくすればまた電車は来ると思うのだが、やってきた電車の扉は乗り込む前に閉じてしまい、また駅のホームに取り残される。車両の中には、何人か乗客がいるらしい。うつむきながら、あるいは過去の方角を遠く眺めながら過ぎ去っていく彼ら・彼女らは、もうここにはいない人たちだ。車輪とレールのあいだで、小さな火花が飛び散る。その火花は、私が散らすのではなく、彼ら・彼女らを乗せて行ってしまう電車からほとばしるのだ。

 ラジオでは、そんなふうには言えなかった。ただ、楽しんでほしいと伝えるだけで精一杯だった。時の列車が軋むたびにきらめく、あの微かな光をどう言葉にしたらよいのか、いまでもよくわからない。

   *

 10月はいくつかのイベントがある。ウカマウ上映はそのひとつだが、他にも10月24日(金)には文化人類学者で批評家の今福龍太さんに富山で講演をしてもらう。翌日25日(土)には射水市にあるLetterというイベントスペースで、今福さんの『仮面考』という書物をめぐるトークが予定されている。以下、お知らせ。

・今福龍太氏 公開講演会
「遊動、放擲、声――旅(テンベア)の途上で出会ったものたち」
日時:2025年10月24日(金)
16:45-(16:30開場)
会場:富山大学人文学部第四講義室 人文学部棟2階
予約不要、無料、一般参加歓迎
問合:ryofkshm[アットマーク]hmt.u-toyama.ac.jp
富山大学人文学部福島亮研究室
*[アットマーク]を@に変えてください。

・今福龍太『仮面考』(亜紀書房)出版トークイベント
「うらはおもて 心は面」
日時:2025年10月25日(土)
14:00-(13:30開場)
会場:LETTER(旧小杉郵便局)
富山県射水市戸破6360
参加費:1000円
問合:tembea.toyama[アットマーク]gmail.com
*[アットマーク]を@に変えてください。
要予約。お席に限りがあるためご予約をお願いします。

ギョウジャニンニク

笠間直穂子

 東秩父の山のなかに斜面の土地を買って、通いながら自分たちで木を伐り、家と工房を設計して建て、住みはじめて数十年、子供も独立したいまは、猫と暮らす。食堂店主のOさんと、連れ合いである木工作家のTさんの家に最初に招ばれたのは、わたしが秩父に住んで二年半経った春先のことだった。Oさんに敷地を案内してもらった際、この辺りにギョウジャニンニクが生える、と教えられた。

 ギョウジャニンニクを知ったのは、たぶん、このときだと思う。けれども、そのスズランの葉を薄く柔らかくしたような紡錘形の葉を、わたしはよく知っていた。

 四十年以上前、父の仕事の都合でチューリッヒに住んでいた小学生のころ、春になると日本企業駐在員の数家族による年中行事があった。車を連ねて、山へ向かい、特になにがあるわけでもない、道路のすぐ脇が森になっているところに駐め、草を分けて木立へ入っていく。下生えのところどころに、スズランに似た葉の群生を見つけては、摘んでいくのだが、毒のあるスズランと間違えないよう、切り口にニラのにおいがするか、たしかめなくてはいけない。子供も大人も、袋いっぱい収穫して、もち帰る。

 年に一度、普段は食べられないニラを存分に食べられる日なので、だれもが上機嫌だった。ほかにひとのいない森のなかで、みんなで摘むのは楽しく、小さな子供にとってもやりがいがある。それに、なんとなく、よその土地で示し合わせてこっそりと悪さを働いているような、はしゃいだ気分もあったと思う。実際、私有地ではないとしても、森に自生する植物をそんなふうに集団でむしっていくのが、明らかに現地の良識にもとる行為だったことは否めない。

 大人たちは、ニラ、としか呼んでいなかった。日本のニラとは形が全然違うけれど、ニラなのだ、と。ずっとあとになって、ヨーロッパでは「クマニラ」ないし「クマニンニク」を意味する名をもつネギの仲間と知った(Allium ursinum)。日本では英語名から「ラムソン」とも呼ばれる。ギョウジャニンニク(Allium ochotense)に近い種だ。

 たとえばいまの日本でも、ある国や地域の出身者が、故郷で馴染んだ味の代用となる食材を発見して、伝えあい、それがひとつのローカル文化になっていく場合があるだろう。あのころ、各企業の人事に応じて次々とメンバーが入れ替わる、チューリッヒの小さな日本人コミュニティのなかで、だれが「ニラ」の採集地を見つけ、どう受け継いでいったのだろうか。

 自分の親もふくむ当時の海外駐在員の大人たちの言動には、その歪んだ特権意識や閉鎖性に、居たたまれない思いをさせられることも多かった。けれども、このニラ摘みにかぎっては、現地のマジョリティの目には見えないところで培われるマイナー集団の習性に似つかわしい、なにか活き活きしたものを漂わせている気がした。

 秩父地域の農産物直売所で、ギョウジャニンニクの株が売られているのを見つけ、購入して、庭に植えた。一年のほとんどの期間は、どこにあるかもはっきりわからないのだが、三月のはじめになると、まだ枯れ草の目立つ地面から、すらりとした葉が顔を出す。幅の広い葉が何枚か出そろうのを見計らって、摘む。

 あの昔のクマニラほどたくさんはないから、そのままおかずにするのではなく、刻んで醤油に浸しておき、数日寝かせて、とろみがついたところを、小鹿野の若いMさん夫妻がつくる身のしまった豆腐にかけて、口に運ぶ。ニラの風味を蒸留したような濃く澄んだ味に、驚くほどの甘みが溶け出し、その甘みのせいもあってか、シナモンを思わせる香りがする。

 味わいながら、こういうものは、一年のうちの、ほんのかぎられた季節のあいだだけ食べられるのがちょうどいい、と思う。すると、自分にはあと何回、これを食べる季節がめぐってくるのだろう、という考えが自然と浮かぶ。旬の短い食べものは、そういう連想を導くものなのかもしれない。花がそうであるように。

     *

 ギョウジャニンニクのような山菜だけではなく、いま、わたしは多くの食材を、それぞれ決まった季節のあいだだけ、食べている。秩父に来てから、主に地元で採れた野菜を口にしているからだ。

 地域には農協の直売所がいくつかあり、農家の収穫した野菜が並ぶ。大型スーパーや、百貨店の食品売り場には、地場産野菜のコーナーがある。街なかには個人の無人販売所が点在し、時には友人知人から、畑で多く採れたものをいただく。自宅の庭でもほんの少し、野菜や香草を育てているほか、フキ、ミョウガ、ミツバなどは、勝手に生える。

 それらは、見るからに瑞々しくて、保ちがよい。夏場に出回る露地物のキュウリやトマトは格段に味が強く、根菜類は、水分が抜けていないためか、火の通りが早い。最盛期のものなら値段も安く、さらに広範囲に流通しない在来種や珍しい品種を見つける楽しみもある。比べると、スーパーに置かれている遠い産地の野菜は、なにか生気がないような、乾いているような感じがして、あまり買わなくなった。

 都内に住んでいたときは、たとえば菜の花や栗のような、特定の季節を表すことになっているものが一方にあり、他方、ナスやニンジンやジャガイモはいつもある、という感覚だったけれど、いまは、すべてが特定の季節を待って手に入れるものになった。保存の利くもの、ハウス栽培が盛んなものなら、ある程度は長めに出回るが、それでも、いつもかならずある、というものはない。植物なのだから、当たり前だ。サラダひとつをつくるにも、季節によって、キュウリとルッコラになったり、カブと春菊になったりする。この生活に慣れると、レストランのメニューが年中固定しているのが、奇妙に思えてくる。

 直売所の野菜は、値札シールに生産者の氏名が記されている。知人の畑から来るものも、もちろん、だれがつくったか、わかっている。同じホウレンソウ、同じ男爵イモでも、つくるひとによって、形も大きさも、味も違う。土壌も、肥料の工夫も、つくり手の性格や好みも違うのだから、これも、当たり前のことだ。

 作物には、すべて季節があり、生産者ごとの個性がある。書くのもためらわれるほど、当然のことなのに、それが大部分のひとには見えない社会に、わたしたちは暮らしている。

 真田純子『風景をつくるごはん』は、景観工学を研究する著者が、徳島に赴任したことを契機に、農村の風景はいかにして維持されうるかを、社会、経済、環境といった幅広い分野を横断しながら考えていく。農業そのものが専門でないからこそ、実体験を積み重ねつつ問題のありかを発見していく手つきが、同時に読みものとしての間口の広さにもなっている好著だ。この主題に取り組もうとしたときに、著者が最初にしたことは、やはり、なるべくその土地で生産された食材だけを食べて生活してみる、ということだった。

 風景とごはんは、どう結びつくか。たとえば、代々受け継がれてきた棚田や段畑の風景を、美しい、と感じるとして、それはただの画像ではなく、作物が生産される場なのだから、その風景が変質したり消えたりしないためには、まず、そのような田畑で農業を営むことで、安定した生活が送れるようになっていなくてはならない。

 ところが、日本の農業政策は、半世紀以上前から、都市住民への食材の「安定供給」を至上命令として、単一栽培と規格化により農産物を工業製品に近づけ、農地を集約化・効率化することを農家に求めつづけていて、農村風景の保全そのものに舵を切ったヨーロッパと異なり、いまもその基本方針を変えていない。

 つまり、現状の政策にしたがえば、小規模で非効率な急斜面の田畑は、生きのびられない。それは都市住民の都合を優先した結果なのだから、形のそろった各種の野菜がスーパーにいつも並んでいるのを当然と受けとめ、意識すらしないでいる者は、「昔ながら」の田園風景を消そうとする力の側に立っていることになる。

 季節外れの野菜が売られているなら、それはビニールハウスを大量の燃料で温めて人工の季節をつくっているということ。遠くの生産地から来た野菜がたくさんあるなら、それは梱包と輸送に適した同じ形・同じ大きさの品物を選り分けているということだ。つねにピカピカの商品があふれ、新しい品種が宣伝されていて目を惹く、そんな売場づくりの背後に、耕作放棄地や、環境に負担をかける農法や、度を超えた品種開発競争がある。

 今日の日本における都市と農村は、「選ぶ—選ばれる」の関係にある、と著者は言う。安い、きれい、おいしい、自慢できる、といった個人の利益を追求する消費者に受け入れられるべく、生産者ばかりが努力しなければならない。システムとして駆動しているがゆえに大多数には気づかれることもないまま、その構造はずっとつづいている。

 このような不均衡なシステムを変えるヒントのひとつとして、著者は環境保全の考え方に基づいた、食と農と観光をつなぐイタリアのアグリツーリズムを参照する。それは発想の大本が「稼ぐこと」にあるような観光政策とは違う。食品が「人と自然の共同作業の結果」であるという認識を、生産者と消費者が分かち合うことで、農村の景観が生きつづけるための、都市住民も交えたサイクルを構築しようとするものだ。

 ここにいる人々、ここにある景色を大事にするための仕組みを、時間をかけてつくりあげてこそ、本当の意味で「経済はまわる」。地面に目を向けて、その土地、その季節に育つものを眺め、口にすることは、そうした社会へと踏み出すための力を蓄えることでもあるように思う。

     *

 広い風景のなかを歩きたくて、根室に行ってみようと思った。この地域は、フットパスと呼ばれる、草地や森林や海辺を徒歩でめぐるコースが整備されている。根室湾に通じる汽水湖である風蓮湖の周囲や、原生花園にも、散歩道があり、野鳥観察に訪れるひとも多い。風に吹かれて歩けるところが、たくさんありそうだ。

 高田勝『ニムオロ原野の片隅から』のことも、頭にあった。一九七二年、野鳥好きの青年だった著者は、前年に結婚した妻とともに、川崎からこの地に移り住んだ。本書には、二人が根室に住みついた最初の日々がつづられている。はじめの一年は海辺の牧場で働き、次いで市街地へ。移住から三年後に、町から離れた森のなか、風蓮湖の近くに山小屋式の家を建て、九人ほどが宿泊できる小さな民宿をはじめた。著者は十数年前に亡くなったけれど、宿は妻のHさんが、いまもつづけている。

 Hさんは、庭や、家の付近に育つ植物から、十数種類のジャムをつくり、朝食に出す。ヤマブドウ、ハマナス、コクワ(サルナシ)、ハスカップ、ミヤマナナカマド。本のなかに、牧場の仕事仲間と喜び勇んで摘みに行く様子が描かれていて印象深いフレップ(クサイチゴ)のジャムもある。自家製のパンにつけて食べていると、掃き出し窓の外のデッキに、シマリスやエゾリス、ゴジュウカラやミソサザイが現れる。

 食堂にあるテーブルはひとつきりで、この大きな食卓に宿泊客が全員、あるいは代わる代わる集う。本棚には、野鳥に関する資料。長年にわたり、地元根室、道内、さらに全国から、野生の動植物に惹かれる人々がここで飲みながら賑やかに話し、情報を交換してきた。

 わたしは、昼は自然観察ツアーや散策に出かけ、夜は、先に挙げた第一作のあと、高田勝がここでの生活を書いた『ある日、原野で』と『ニムオロ原野 風露荘の春秋』を、本棚から借りて読んだ。

 読んでいて感じるのは、著者の人懐こさだ。自然にも人間にも、好奇心たっぷりに近づいていく。野鳥好きの仲間たちは、一人が稀少な鳥に出会えば、駆けていってほかの者に教える。独占しない、分け合ったほうが楽しい、そういう心持ちが底に流れていて、温かい。

 自然観察ツアーのガイドを担当してくれた根室ネイチャーセンターのSさんは、自然にまつわる活動をはじめたころ、勝さんに本当にお世話になった、と感慨深げに語った。また、Hさんによれば、現在の根室の自然観光に用いられる設備のなかには、野鳥関連の仕事で国外へ行くこともあった夫の土産話から、形になっていったものもあるらしい。

 となると、彼の文章から滲み出る、土地の風景と動植物に対するまっすぐな興味、そしてその興味を周囲の人々と分かち合う姿勢は、いまわたしが享受しているこの地域の自然観光の設えと、遠く近く、つながっている、ということか。グループを結成して自らフットパスを整えた酪農家たちにも、そんな気風が共有されているに違いない。収益最優先の人工的な観光地づくりとは対極にある、自然と人間に寄り添った地道な活動の体温を感じながら、わたしはこの地の草むらや、湿地や、川岸や、浜辺を歩いた。

 上に引いた高田勝の三冊の本のすべてに、ギョウジャニンニクが登場する。当地では「アイヌネギ」とも呼ばれるそれは、彼にとって、春を告げる食べものだ。まだ原野が雪と氷に閉ざされた三月、春の訪れが近いことをたしかめたいばかりに、ナイフで地面の厚い氷を削って「茶色い鞘に包まれたこうばしいギョウジャニンニクの新芽を見つける」。いよいよ春が来る五月ともなれば、宿の裏の森にたくさん出てくるのを摘み、客の食事に出す。

 来年の春、わたしはきっと、秩父の庭のギョウジャニンニクを摘みながら、あの根室の宿の周りに生えるのはいつだろうと思い、Hさんのきびきびした優しさを思うだろう。風蓮湖の夕暮れや、どこかにいるヒグマが立ち去れるよう大きな声で呼びかけるSさんや、木立の向こうからじっとこちらを見つめるエゾシカを思うだろう。

 生きた食べものは、こうして土地と土地を結びつけ、それらの場所を星座のようにつないだひとつの地図が、わたしのなかに描かれていく。

スリランカ・カリーとペーネロペーの織物

高橋悠治

音楽を習い始めてから、1950年代 と1960年代までは、一つの「普遍」を目指した「方法」を見つけようとしていた。一つの中心があれば、その他の「周辺」は、中心との距離で測られ、分類されて、位置が決まる。 

中心がなく、断片の集まりとしか言えない場合は、それらをすこしずつ組み合わせて、そこでおもしろく聞こえない組み合わせを取り除いていき、残った組み合わせをある順番に並べてみる。

組み合わせのそれぞれが違う色で聞き分けられ、一つの厚い表面ではなく、それぞれの色の短い線の動きの集まりが動き、変化するリズムが感じとれ、半透明に波立つままにあるように。

と書いている今も、過去から持ち続けている何かに思い当たらないでいる。

いつか東京のどこかにあったスリランカ・カリーの店で見た、スプーンで数種類のカリーを混ぜて食べるやり方、それと「オデュッセイア」で、留守を守るペーネロペーの織物、毎日解いてはまた編み続ける作業、その二つを思いながら、音の演奏と仮留めの実験を続けてきた、と自分では思う時もある。

こうして思っていることも、言い訳に過ぎないかもしれない、とすれば、自分でも思い出せないような作曲を、他人が覚えているわけがあろうか。と言って、他にできることもなし、習いおぼえたわずかな技術も、すり減っていくばかり、と言っても、他人の作品を演奏すること、即興でピアノを弾くこと、そこで起こるちょっとした偏りが影を落とす時間を、さまざまに感じるひととき。

作曲・演奏・即興という記憶の長さは、価値とは違うが、いつの間にか、この順番に慣れている。この順序、だけでなく、こんな分類でもなく、瞬間の動きをそのままに聞かせ、解釈したり、意味づけを許す時間を持たないままに過ぎる、動きと変化の織物を続けるだけの場所を開いて、その流れに揺られている日々が、すぐそばにあるかもしれない。それは見えなくても、聞こえなくても、手触りだけで感じられるだろうか。

2025年9月1日(月)

水牛だより

立秋はおろか9月になっても、会う人との最初のひとこと、メールなどの最初の書き出しは「暑いですね」のまま。でも日の入りの時間は確実に早くなってきて、ふと気づくと18時をすぎるとくらくなっています。アンバランスな秋のはじまり、というよりはきっと夏から冬になってしまうのでしょうね。

「水牛のように」を2025年9月1日号に更新しました。
暑さにめげずにたくさんの原稿が届きました。みなさん、ありがとうございます。ここでまとめてお礼を!
今月から笠間直穂子さんの連載がスタートします。笠間さんのエッセイ『山影の町から』を読んで、いつか水牛にも書いてもらえたら、と願ってきました。そう願いつつ待っていたら、機が熟したとでもいうのか、こうして願いが叶うことになりました。ハグロトンボと出会う庭のある笠間さんの家は秩父にあります。
篠原恒木さん、長いあいだのお勤めごくろうさまでした。最後のお仕事の画像は小さなサイズで載せましたが、クリックすると細部まで見えるように拡大します。篠原さんの手仕事をじっくりと見てください。そして片岡義男さんの珈琲三部作、どれもおもしろいですよ。

それではまた来月に! 涼しくなっているといいですね。(八巻美恵)

008 鳥のために

藤井貞和

山崎さんの言う、「本とは、生まれる魂の食物。
詩の祈り。 闇のなかの微かな光。 渇きを癒す水。」

はいいろの空の年、内戦が、山崎佳代子の詩集をあらわす。
大泉さんは言葉の紡ぎ手たちの一人になって、

善き手と手とに結ばれる。 旅の始まりでした。
一九九五年、ベオグラードで、詩集『鳥のために』が、

旅の終わりよ どこへ。 鳥の魂は なかまたちの、
書物になって、守り続けることでしょう。

 

(守り続けてください、鳥の魂よ。二〇二二年、菊地信義に続いて、大泉史世の訃報に接します。内戦は一九九一年。)

ハグロトンボ

笠間直穂子

 去年の、いつごろだったか。庭の草がどんどん伸びてきて、ある朝、そうしようと決めたのだから、五月くらいだろうか。のちに習慣になったことの、最初の日を思い出すのは難しい。ともかく、ある朝、わたしは家のまわりを歩くことをはじめた。

 庭の草を、わたしはあまり頻繁に刈らない。自生する草が季節を追って絶えず入れ替わる様子が面白く、きれいなので、見ていたい。また、単に無精でもある。だから、特に草の生長が著しい時期には、膝まで埋まる高さになり、分け入るのも億劫なほどになってくる。

 とりわけ、隣家の車庫と対面している側は、うちの外壁と、境界柵および車庫のポリカ波板に挟まれた、廊下くらいの幅の土地に、丈の高い草が繁茂しているのが、気になっていた。風通しが悪く、湿気や虫が隣の敷地にも影響をおよぼしていそうだ。本当はここだけでも、こまめに刈ったほうがいい。

 雑草や虫を排除しない庭づくりを実践する植木屋、ひきちガーデンサービス(曳地トシ、曳地義治)の『雑草と楽しむ庭づくり』は、勝手に生える草を目の仇にせず、かといって放置するのでもなく、庭としての心地良さを保ちながらうまく付き合うための方法を示す。そのなかで、雑草を生やさない方法として筆頭に挙がっているのが、「踏む」こと。狭い範囲なら、毎日歩けば、その部分は道になり、草は生えない。

 そこで、去年のある朝、思いたって、歩くことにした。長靴を穿いて、外へ出る。それまでも、朝は大抵、一度外へ出て、鳥の水場の水を替えていたけれど、そのあとすぐ家へ戻らずに、家のまわりを一周した。

 庭の広い部分のあちこちに植えた木の苗が、よく育ったり、あまり育たなかったりしているのを、順々に訪ねていく。手入れをするわけではないが、とりあえず、近づいて、名前を呼ぶ。ミツマタ。シナノキ。ボケ。サンショウ。ハギ。クロモジ。トキワエゴ。ネムノキ。アンズ。イチジク。アーモンド。コブシ。サラサドウダン。

 家の裏手に入る。ここは物干し竿の下に、知り合いの工務店の倉庫で安く譲ってもらった半端物の敷石を自分で敷いたから、草に埋もれてはいない。

 チャノキの植わった角を曲がると、いよいよ隣家との境の回廊だ。膝を越すくらいの草が生え、左手にある自宅の外壁も、右手にある境界柵と波板も、ツタやその他の蔓草に覆われているので、下からも左右からも緑に囲まれて、小さな虫が飛び交い、薄暗い。一瞬ひるむけれど、枯れ枝を手に、蔓や蚊やクモの巣を振りはらいながら思いきりよく踏みこんでみれば、自分の進む分だけ、ひらけてくる感じがある。毎日暮らす家の壁沿いなのに、一歩ごとに新しい景色が見えた。

 狭い通路の終わる角には、屋根まで届く高さのカイヅカイブキがあり、その枝と、枝に絡まったキヅタが、頭上にアーチをつくっている。くぐり抜けると、急に視界が明るくなって、家の正面側の、見慣れた場所に出た。当たり前のことなのだが、不思議な気がして、しばらくたたずんだ。

 次の日も、同じコースを歩いてみた。何日かそうしてから、逆方向に回ってみようと思いついた。逆から回ると、また見えるものが違う。

 一日一回とか、右回りと左回りを交互に、などとルールめいたものを定めると重荷になる。だから、特になにも決めず、水を替えに戸を開けて外へ出たときの気分で、右へ行ったり、左へ行ったり、まわらずに家に戻ったりした。水替え自体、忙しかったり雨が降ったりしていれば、やらない。

 その程度であっても、なんとなくつづけているうちに、気がつけば、わたしの足が踏む範囲は草が消え、名前を呼ぶ木々を結んでから裏手をめぐって隣家との境を通る、踏み固められた土の小径がついていた。

     *

 そうやって、小径を歩きつづけ、夏の終わりに差しかかったころ、隣家との境の薄暗い通路に入るあたりで、トンボともチョウともつかない、一羽の昆虫が目に入った。

 全体の形はトンボに近いけれど、やや幅の広い翅は少し青みがかって見える艶消しの深い黒で、細い胴体は金属光沢のある青緑色。そして、飛び方はチョウに似て、はたはたと翅を上下させながら、ゆっくりと飛ぶ。留まるときも、チョウのように左右の翅を閉じる。

 トンボの緊張感と、チョウのたおやかさとを併せもつ、黒ビロードとエメラルドの色合いをしたものが、壁沿いの暗いところをひっそりと飛んでいく。見あげていると、なにか夢を見ている気分になった。

 室内に戻ってから調べると、ハグロトンボというトンボの一種だった。翅が黒く胴体が青いのは、オス。メスは胴体もふくめて黒い。特徴のひとつに、翅をはためかせて飛ぶときにパタタタ……と小さな音を立てる、との記述があり、飛ぶ姿に静けさを感じたのはそのせいもあったのだと、納得した。

 次の日も、ほぼ同じ場所に、ハグロトンボはいた。その次の日も。しばらくのあいだ、小径の薄暗い一角を通るたびに出会った。オスは縄張り意識が強いらしいので、同じ個体なのだろう。普段の朝より二時間も遅い時間に歩いて、さすがに今日は無理かと諦めていたところへ、ふと現れたこともあった。

 あるときは、メスが、ミョウガタケの葉の上に留まっていた。黒一色なので、体色がエメラルド色のオスより地味だが、翅がオスは真っ黒なのに対し、メスは少し色が薄く、薄墨の感じがあって、これはこれで、美しい。

 こうして、家のまわりを一周することと、ハグロトンボに出会うことが、わたしのなかで、重なっていった。

 一週間か、二週間か、日数は覚えていないけれど、いずれにせよ長い期間ではなかったはずだ。トンボの季節が終わり、秋が深まってからも、小径を歩く習慣はつづいた。けれども、草の絶える冬になって、寒さと、道をつける必要もなくなったことから、歩くのをやめ、今年の春に、再開しようと思ったとき、ツタに囲まれた薄暗い通路の出口付近をハグロトンボが飛ぶ光景が、鮮明に目の前に浮かんだ。まるで、いつもハグロトンボと一緒に歩いていたかのように、自分が記憶していることに気づいた。

 幻のように感じるものに思いがけず毎日出会い、驚いては見入ることを繰り返した印象が記憶に刻まれている一方、その反復がどこかの時点で、終わった、途切れた、という記憶はない。落胆や寂しさといった感情も残っていない。

 出会わなければ、今日はいないな、と思い、そのうちに季節が過ぎるだけで、明確な断絶がないから、終わりの印象が刻まれなかったのだろうか。家の周囲をひとめぐりする、その動きのように、ハグロトンボを日に日に見た経験は、終わりのない循環として、わたしのなかに組みこまれたようなのだ。

     *

 その年は、苦しい年だった。一昨年の終盤に急激な圧迫が重なって精神に亀裂が入り、翌春、少し塞がってきたところに無茶をして、再度、壊れた。診断は適応障害で、明確なストレス因子により抑鬱症状などが現れるものをいう。病気というよりは、怪我の感覚が強く、トラウマ(=外傷)の語を精神疾患に使う適切さがよくわかった。同時に、より重度の疾患である急性ストレス障害、さらに心的外傷後ストレス障害(PTSD)の、傷の深さを思った。

 これまでに経験のなかった苦痛のひとつは、焦燥が高まったとき、思考が行き止まりになることだった。

 通常、ひとが苦悩するとき、ひとつのことが頭から離れない、とはいっても、実際には、思考はそのひとつの主題のなかで、さまざまな悔いや恨みや仮定をぐるぐるとめぐっては、元のところに戻ってくる。もちろん、それはひどくつらいことだが、しかし、自分のなかで言葉を連ね、行きつ戻りすること自体を禁じられてみると、この懊悩すらも、ある程度の余裕、あるいは精神的健康があってこそできることなのだと気づく。

 発作的な焦燥状態に襲われると、思考は展開しない。ただ完全に同じ言葉で突進して、その先はないから、虚空に激突する。それを延々と繰り返す。薬を飲んで、効いてくるまで耐えるしかないのだが、その間、自分を大事にする構えがあると自覚するわたしでさえ、意思ではなく衝動として、壁に力いっぱい頭を打ちつけそうになるときがある。もしも、自尊感情を剥ぎとられる環境に置かれていたなら、この状態で自傷を思いとどまるのは難しいのではないか、と思った。

 その後読んだ齋藤塔子『傷の声』は、まさに精神的暴力に絶えずさらされる環境で育ち、その結果としての激しい自傷を生きて、ついに力尽きたひとの姿を記録している。そこにつづられた言語を絶する長い苦しみを、わたしは知ることができないが、行き止まりのスイッチが入ってしまったときの感じは、ほのかにわかる。こうして書いていても、手に汗がにじむ。

 行き止まり、とはなにかを知り、そこから抜け出すことを願いながら日々を過ごす途上で、わたしは、ある朝、家のまわりを歩くことを思いついた。壁に頭をぶつける代わりに、その外側をめぐる。ひとつの軌跡を描いて、途中でなにかに出会い、最初の地点に戻ってこられることの、途方もない贅沢さ。ハグロトンボは、その豪奢の象徴として、わたしの瞼の裏に留まっているのだろうか。

テッポウユリのことなど

越川道夫

夏になると、テッポウユリというのだろうか小ぶりの白いユリの花が林の中に咲くのを心待ちにしている。わたしの住んでいる辺りの林では、まず白い大ぶりの花びらに黄色の筋と赤い斑点を散らしたヤマユリが咲き、それが咲き終わるのと前後して朱赤の花びらが反り返ったオニユリが満開になる。テッポユリが急速に背を伸ばし、白い花を開かせるのはその後ということになる。子供の頃、実家の向かいにある斜面が一面この白いユリに埋め尽くされるということがあり、その美しさに見惚れたものだが、それ以来この花を偏愛している。もちろん住宅地の家の庭先でも見られる花ではあるが、濃い緑となった林の暗がりに咲くのが断然いい。群れて咲いているのもいいが、木木の下に一本、二本と咲いている、その佇まいが好きなのである。ただ、林の中の下草の中から姿を表すと、ぐんぐんと背を伸ばし、蕾が開いたと思うと、花は一週間ほどで萎れてしまう。ちょっと目を離すと、もう最盛期の花を見逃してしまうし、うかうかしていると花そのものを見ないまま秋を迎えることになってしまいかねないので、今か今かと足繁く林に通うことになる。筒状の花が、茶色く萎れて根元から落ち花柱の頭にぶら下がり揺れているのを見るのも好きなのだけれど。
 
「駅から川へ向かう坂にある半鐘を吊した鋼鉄の火の見櫓、石垣の奥の古い家々などを辿っていたばかりですが、石垣が途切れたちょっとした草はらに、百合の花が二輪開いていて、あの二人みたいでした。あそこで出迎えてくれたようです。携帯(ガラケー)の待ち受け画面にしたので、今度見てください。」
 
このメールがその人から来たのは、いつだったか。その人は、私が撮った短い映画の原作者であり、「無論ロケ先などは分かりませんが、皆と同じ場所へ行っておきたかったのです。」と、その映画を撮影した山間の町を訪ねてくれたのである。メールにある「あの二人」とは、映画に、もちろん原作の散文にも登場する恋になりようもない苦しい恋をした若い男性とその恋の相手である女性のことであり、その男性は若い日のその人でもあった。
 
確かにユリの花は、その映画にとって重要なモチーフの一つだった。それは、原作のこの二人とは直接関係のない箇所に、聾教育を学んでいた彼が「ユリ」という手話を目にするのを印象的に描いた部分がある。その「ユリ」という手話は「くちびるの前でぱっと掌をひらく」という「ユリ」の花を象った手話であった。映画では、そのエピソードを出会の頃の二人の関係に持ち込み、終盤に彼は山歩きの途中、廃屋の軒先に咲く一輪のユリの花を見ることになる…。後日、その人はどこかはにかみながら携帯の待ち受けを見せてくれた。そこには寄り添って立つ二輪のユリの花が、そして、映画が撮られた山間の町は、自分にとって「苦しい場所」だ、と教えてくれた。それが、山間の町そのものが彼を苦しくさせるのか、それとも彼の一時期をもとにした映画がその町で撮られたためなのかは分からない。
 
その人の名前は「江代充」と言い、映画のもとになった彼の本は『黒球』(書肆山田刊)という。一人で暮らしていた詩人である江代さんがこの3月に72歳で亡くなり、彼の編集者だったFさんとわたしが他の人の協力も得ながら部屋を整理することとなった。遺された詩稿をなんとしてでもまとめておかなければという切羽詰まった思いがあったからだ。江代さんは日日、「日記」と呼ばれるノート稿を書き、そのノート稿を、時を置いて何度も繰り返し「読み改める」ことによって、そこに何らかの「顕現」を見出そうとしていた。それを「詩」として書いた、と言えるかもしれない。そこに書かれた言葉は、何かの「顕現」なのであって、彼の「言葉」でありながら彼の「言葉」ではなかったのである。少なくとも江代さんは、そう把握していたのではないか。
 
何度もマンションの一室に通い片付けると同時に、わたしは何の目算もなく主を失った部屋を撮影していた。この部屋の中で、日日は読み改められ、「すべて明らかでありながら、何ひとつ明らかになっていない」ような彼の「詩」が生まれたのだという思いがカメラを回させたのである。しかし、亡くなった当初は部屋の中に濃厚にあった江代さんの気配も、5月に納骨が終わると急速に薄れていったのは気のせいだろうか。そして、カメラをどれだけの時間回しても、どれほど遺された「物」の一つ一つを撮っても、映像にはついに「いない」ということしか映りはしない。
 
中上健次の『熊野集』に、わたしはこの一冊を中上の本の中でも愛して止まないが、こんな一節がある。中上は、彼が「何度も小説の舞台」にし、彼にとって「絶えず新しい読み終わる事のない本として」あった「路地」が取り壊されようとする時、その「路地」を映画としてフィルムに収めようとする。
 
「…十六ミリのカメラを借り受け、スクリプトを作り絵コンテを作成して建物と道路と草花と空きカンと路地にあるものなら何からなにまでカメラの被写体になると言って映画を撮りはじめた。カメラを向けてもそこには味けない日に焼けたコンクリの道しかないが、そこがまぎれもなく麦畑の麦だと思い、カメラを持った若衆が汗だくなっているのを知りながら、そのコンクリの道から麦の精霊が顔を出すまでフィルムを廻しつづけろと言う。カメラに精霊を写す事も無理だしそこに麦が植えられていた事も芋が植えられていた事も知らない若衆に、たとえ一人の剽軽だが悪戯者の韓国人の少年が不意に韓国人の集落の方から走って来たとしても視えない。」
 
言うまでもなく、「一人の剽軽だが悪戯者の韓国人の少年(ヤンピル)」はすでに死んだものだ。「麦の精霊が顔を出すまでフィルムを廻しつづけろ」と言いながら、カメラには何も映りはしない。そのことを中上は知っていたのではないか。カメラとは、フィルムとは、そんなロマンティックな代物ではない。映るとすれば、それが「もうない」ということだけなのだ。「不在」が、「不在」だけが。しかし、その「不在」でさえ、「それは、かつて、あった」ことを知らないものには「視えない」。そこに映っているのは、ただ「味けない日に焼けたコンクリの道しかない」のである。では、やはり「不在」ですらも? わたしたちは「カメラには何も映りはしない。」ということからしか始めるができないのではないか。
 
江代さんの部屋の片隅に小さな花瓶がある。そこに挿されているのは数枚の団扇だが、団扇だけではなく、その後ろにはテッポウユリの種の鞘が一本挿されているのを見つけた。わたしは、その枯れ果てた鞘にカメラを向けて撮る。そして、もうしばらくすれば、この部屋に遺されたあらゆるものと共に、この鞘も廃棄される。
 

桑の実と至福のあなたへ(下)

イリナ・グリゴレ

桑の木は、思い出の中でも今の大学の桑の木と変わらない。ある時、実が熟して、黒い実が道に落ちていた。裸足だった子どもの私は、それを踏まないように気をつけて歩いた。道はアスファルトではなく土で、実は人と馬車に踏み潰され、埃と混じって紫色の汁が跡を残した。雨が降ればその跡も消えた。桑の木は5本並び、人の庭からはみ出していた。木が高く、子どもでは実のほとんどに手が届かず、食べることは少なかった。届く枝の実だけを摘み、高いところの実は道に落ちていた。こんな甘い実を食べずに無駄にするなんて、大人の考えが理解できなかった。道にはみ出した果実は、村の子どもたちが食べてもいいという暗黙のルールがあった。プルーンや杏は人気だったが、桑の実は小さくてお腹を満たせず、あまり人気がなかった。地面に落ちた実を拾うのも嫌だったし、踏めば足の裏が赤く染まり、なかなか落ちない。白い下着で遊び回っていたから、汚れるのも嫌だった。

桑の実より、葉の方が大事だった。母が勤めていた別の村の幼稚園では蚕を飼っていた。社会主義時代のルーマニアでは、学校や幼稚園で蚕を飼うのが普通だった。集められた蚕は政府に送られ、何かに使われていた。何に使われていたのか、調べたことはない。きっと共産党関係者がシルクのドレスでも作っているのだろうと、ぼんやり思っていた。シルクの布より、蚕の顔の方がよく記憶に残っている。母に連れられて行った幼稚園の教室は、まるで蚕の幼稚園のようだった。先生や園児たちが桑の葉を集め、蚕に食べさせ、掃除もしていた。匂いがした。桑の実は無臭だったが、蚕は匂った。蚕の幼稚園には、白く光るシルクの繭がインスタレーションアートのように並んでいた。

当時のルーマニアの学校には、そんな光景があった。蚕と子どもが同じ場所に集められ、何かを生産しているようだった。でも、学校に生き物がいるのは悪くないと思っていた。虫好きな私にとって、この制度が終わった後に学校へ入ったのは少し残念だった。革命後の混乱で、そんなことを考える余裕もなかったけれど。蚕が葉を食べる様子はよく覚えている。驚くほどの速さで、葉はすぐになくなった。よく食べるなと思っていた。葉の味が気になった。酸っぱいのか、苦いのか、食べてみないとわからない。

遠野では、昼ご飯をすぐに食べた。「お兄さん」と呼ぶ人と一緒に。遠野にいると、モヤモヤしていたことがはっきりする。私は血のつながりよりも、人生で出会った何人かを弟、兄、妹のように感じ、勝手に家族を増やしている。家族の意味が、そもそもわからないから。生き物はみんな家族だと言いたくなる。決まり文句のようだが、この感覚から抜け出せない。義制親族なのか? それもよくわからない。お正月や夏休みに息子を連れてくる親友も、若手編集者も、遠野で会うお兄さんも、東京のお姉さんたちも。恥ずかしい。勝手すぎる。でも、バヌアツで「マミ」(母ちゃん)と呼んでいたように、年齢に関係なく、私は家族を広げて至福になる。

ルーマニアの諺に「血は水にならない」とあるけれど、私には水の方がいい。家族は、潰された動物の血や桑の実の赤よりも、透明な川、湖、氷柱、白い雪、雨、バヌアツの青い海のようであってほしい。本当の家族は、どこにいても――ルーマニアでも、日本でも、バヌアツでも――苦しいから。

遠野のお兄さんと何を話したかは忘れたけど、カウンターに焼きもちがあったから買ってみた。白くて、蚕の繭にしか見えない。何倍も大きいけど。売っていたおばあちゃんが低い声で「これは危険な食べ物だ」と言った。長い長い説明を受けた。薄いピンクのシャツを着ていた私は、絶対に車で食べてはいけないと決めた。だから、この餅は宿で一人で食べることにして、山崎のコンセイサマへ向かった。そこで何を見たか、何をしたかは秘密。ただ、シャンプーの匂いに寄ってきたスズメバチがいたことと、勝手に実った梅を食べたことだけは言える。帰ってきたら、宿のおばあちゃんに中学生と間違われるほど若返ったみたいだった。遠野で白いものばかり食べたせいかもしれない。豆腐屋の豆腐は人生で一番美味しかった。そこのおばあちゃんは茄子の漬物をおごってくれて、話を聞かせてくれた。夜、「危険な食べ物」を早速食べた。言われた通り、黒蜜を吸おうとしたがうまくできず、手と口の周りがベタベタになった。外のお寺から差し込む光が神秘的に見えた。黒蜜か。中にあるのは。甘くて恋のような危険を感じる。呪いのような食べ物だ。これ以上、性格がベタベタになったらどうする。

家族を増やそうとする寂しさの理由が、その夜わかった。私には弟が二人いた。この世界に、もういないなんて信じられない。いつも会いたいと思っている。一瞬だけ同じ世界にいた。今はパラレルワールドのようだ。隣の世界、後の世界、上の世界、下の世界、夢、どこ? 至福のあなたたちは、今どこにいる?家族のように、人は出会い、結ばれ、見えない糸で繋がれる。そしてまた離れ、探し合う。「危険な食べ物」の蜜のように、いつもくっつけばいいのに、蚕の繭の中で。本当の家族とはそんなものではない? その後は綺麗な糸で結び、お互いを失わないように。だから血は関係ない。人類はまだそれに気づいていないかもしれない。気づけば、もっと至福だったのに。

『古事記』に登場するオホゲツヒメは、スサノオノミコトに殺され、死体から頭に蚕、目に稲穂、耳に栗、身に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じたという。食物の女神だ。家の神、オシラサマも桑の木でできていて、地域によっては蚕の飼い方を教えたと言われる。人類は豊かさとは何かを考え続ける必要がある。ルーマニアの諺を思い出す。「お金は葉っぱのように木に生えていない」。それも間違っているかもしれない。言葉を疑っていい。至福のあなたへ、価値観を見直さない? 女性と植物を大切にし、すべての生き物が家族になれるように(おまじない)。

水牛的読書日記 シンガポール&マレーシア旅行編

アサノタカオ

8月某日 シンガポールでは日が暮れると、風が気持ちいい。取材の仕事がひと段落ついたところで宿の近くのコインランドリーで洗濯をすることにした。その合間に、団地の中庭のようなところで夕涼み。お年寄りがベンチに腰かけたり、体操したりしている。

8月某日 朝からシンガポールの中心部に繰り出し、Bras Basah Complexを探訪。ここは東京の「中野ブロードウェイ」的な5階の商業スペースをもつビルで、書店や雑貨店が数多く集まっている。ヴィンテージ&アンティーク書店や中国語専門書店をのぞきながらぶらぶら歩いていると、中華系の出版社が運営する本の自動販売機ならぬ「自動貸出機」を見つけた。つまり無人の貸本屋。35シンガポールドルで2冊、1週間借りられるとのこと。Bras Basah ComplexにあるBasheer Graphic Booksは、すごかった。店内は3部屋にわかれ意外と奥行きがあり、世界中の出版社から集められたアート、デザイン、建築、写真、ファッション、料理、アニメなどの新刊が揃っている。日本語の本も少なからずある。

近くにあるシンガポール国立図書館(16階の高層ビル!)を見学してから紀伊國屋書店ブギス・ジャンクション店にも立ち寄り、アルフィアン・サアットとCrispin Rodriguesの英語詩集を購入。小説家、劇作家、詩人であるアルフィアン・サアットは政治問題について積極的に発言する社会批評家としても重要な存在であることを、アート・プロデューサーであるオードレイ・ペレラさんから教えてもらった。Crispin Rodriguesは混血人種(mixed-race)のアイデンティティと身体をテーマに創作する作家、詩人。宿に戻ってこれらの詩集を読んで過ごし、歩き回って火照ったからだをクールダウン。

《わたしの骨に刻み込まれたのは/母たちの名前/すべて語られず/すべて沈黙している/母たちのすべての骨/すべての肉の部位……》(Crispin Rodrigues「婚/混」『dragon.paper.wind』Pagesetters, 2024)

8月某日 朝、シンガポールから飛行機でマレーシアのペナン島へ。さらに空港からタクシーでジョージタウンに移動する。宿の6階にある部屋から町を見下ろすと、高層のビルとビルのはざまを沖縄の家のような赤瓦の民家がびっしり埋め尽くす風景が見えた。その向こうには、緑滴る熱帯雨林の山。

あすからの取材現場の視察を兼ねて外出する。暑い。最寄りの中華系の食堂に寄って酸味のあるカラマンシージュースを頼み、巨大な扇風機の前で涼んでから現場のHin Bus Depotへ歩いていった。ここは古いバスターミナルを改装した、アートとイベントのパブリックスペース。ちょうど日曜市(クラフト系のマルシェ)と美術作品の展示をやっていて、中庭ではミュージシャンのライブも開催。大勢の人で賑わっている。ついで、Hin Bus Depot内のBook Island(島讀書店)へ。中国語専門の独立書店だが、日曜市開催中ということもあり、店内はお客さんでいっぱいだった。英語のZINEコーナーもあり、隣にはアートギャラリーが併設されている。

ところでマレーシアは、マレー系・中華系・インド系を中心とした多民族社会で、公用語はマレー語で準公用語が英語だが、Hin Bus Depotのような公共空間にある唯一の書店が「中国語」専門の書店というのがおもしろい。マイナー言語であるはずの「中国語」(といってもいろいろな中国語があるのだろうが)の社会的影響力の大きさが感じられる。

マレーシアの中華系の人々は、中国語で学校教育を受けることも多いそうだ。華人の若者同士も中国語でおしゃべりしていて、異なる民族の人とはマレー語や英語で話している(昨年、台湾で友人に勧められてマレーシア出身の中国語作家・張貴興の小説を買ったのだが、「馬華文学」というのはこういうルーツをもつ人による文学だったのか……)。宿でテレビをみると、マレー語のチャンネルのみならず、英語・中国語・インド系のタミル語のチャンネルもある。マレーシアには歴史的にマレー人を優遇する「ブミプトラ政策」が存在してきたのだが、言語的にはマレー語単一言語主義への強力な統合・同化はなされなかったようで、多言語がそれぞれに自主独立しつつ並び立っているらしい。これはぼくが知る別の多民族社会であるアメリカ(基本的に英語単一言語主義の国)とも、ブラジル(基本的にポルトガル語単一言語主義の国)ともすこし異なる在り方で新鮮な異文化体験だった。

夜はジョージタウンの旧市街へ行き、インド系イスラム教徒のディアスポラ一族の歴史をもつレストランで食事をすることに。店内には本のコーナーがあり、政治や食やイスラム教の教えに関する歴史書や写真集などを販売していた。ここで提供されるのはマレー料理と中華料理が融合した「プラナカン料理」にインド風味が加わった独特の混血料理。スパイスたっぷりの滋味深い煮込み料理とバタフライピーの花びらを使ったブルーのお茶をおいしくいただいてからすこし散歩。夜の街はあちこちでネオンがぎらぎら輝き、遅くまで明るい。

8月某日 午前中、宿から少し離れた高級ショッピングセンターにタクシーで行き、Book Xcessを訪問。マレーシアの大型書店チェーンだ。棚に並ぶのはほぼすべて英語の書籍で、ローカルの本はほとんどない。「4冊買うと、もう1冊無料のキャンペーン中」という案内が目立つ。インターネットで調べると、Book Xcessはおもに売れ残りの輸入本を扱うアウトレット書店とのこと。天井まで届く棚に本がびっしりディスプレイされている。店内を奥まで進むとガラス窓から海が見えて眺めがいい。

午後は宿にこもり、ショッピングセンターで買ったポメロという柑橘をつまみながら、持参した韓国の詩人アン・ドヒョンの詩選集『あさみどりの引っ越し日』(五十嵐真希編・訳、クオン)を読んだ。

8月某日 朝、ジョージタウンの市場を見学。魚介類、肉類、干物、スパイスなどなど。衣料品を販売する路地の屋台では、中華系の翁が軒先で画用紙を広げて悠然と絵筆を走らせ、風景画を描いている。いつまでも眺めていたい、よいお姿。「おれはおれだ」という独立独歩の精神を背中で語っている。市場近くの食堂でいただいたカヤトーストとホワイトコーヒー(ミルクコーヒー)の朝食がおいしい。「カヤ」はココナッツミルクをベースにした甘いジャム。

昼、旧市街を散策していると、黒板に書かれたガルシア=マルケス『百年の孤独』の言葉を発見! “There is always something left to love.” 路地に黒板を出しているARECA BOOKSは、すばらしい独立書店だった。マレーシアやペナンに関する書籍が揃っていて、歴史・文化・エコロジーの分野に強い印象。英語中心だけど、マレー語書籍のコーナーもある。マレー民謡を日本語で紹介する冊子もあって驚いた。同行者のお子さんのために本を選ぶ。マレーシアの野生動物を紹介する英語の絵本と、昔のバスや切符をデザインしたカードを購入。それほど広くないけど居心地がよく、気になる本をソファで座り読み。買い物をすると、レジで素敵なバッグをもらえた。

ARECA BOOKSの隣のカフェにローカルのZine作家の作品コーナーを見つけた。ジョージタウンでWorking Desk Publishingを主宰するWilson Khor W.H.の著作や、Red Beanieの詩集などを買う。

ついでリトル・インディア地区の有名な書店、Gerakbudaya Bookshopへ。入り口手前がノンフィクションのコーナー。店内のギャラリースペースを抜けて奥に入るとフィクションと詩のコーナー。「The Annual Hikayat Lecture on Literary Translation」というマレーシアの文芸翻訳家の講演シリーズの小冊子があり、シンプルなデザインの美しさにもひかれて購入。こちらは英語専門の独立書店で中国語の本も少々。欧米の出版物が多めで、英語で書くマレーシアの詩人の詩集は数冊あった。多言語状況は、ペナン島の独立書店の個性にもあらわれている。

いったん宿に戻って休憩し、ふたたびHin Bus Depotへ。アートスペースで開催中の展示「negaraku II」は非常に興味深い内容だった。「『マレーシア人性』とは何か?」がテーマになっている。多文化社会をめぐる国家主義的な語り(つまりマレー系を中心にした階層構造を温存し、中華系・インド系を従属させつつ表面的な多民族共生を謳う口当たりのいい言説)の中で見えないものにされるマイノリティの声をアートで表現する批評的な試み。「negaraku II」展の企画は、ジャマイカ生まれのイギリスの文化研究者であるスチュアート・ホールの思想が一つの霊感源になっていて、ポスト植民地主義状況をめぐる社会調査と連動しているらしい。会場で、キュレーターとマネージャーと少し話すことができてよかった。アートスペースで英語の展示図録を購入した。

8月某日 《島々は、本質的に、謙虚なもの、傷つきやすいものたちの住処である。少なくともそこは、つつましやかな場所である。しかし同時に、希望にあふれるもの、固い意志をもつもののための原郷でもある。》(Ooi Kee Beng「Amused at Fort Cornwallis」『Signals in the Noise』Faction Press, 2023)

広島、原爆の日。戦争の歴史と記憶に連累するために、ジョージタウン旧市街の北端、マラッカ海峡を望むコーンウォリス要塞で黙祷を捧げた。ここは18世紀に東インド会社がはじめて上陸して建造した要塞で、イギリスによるペナン島支配の出発点となり、のちに日本軍も使用した。太平洋戦争開戦後、日本軍はペナン島を空爆して占領し、多くの島民を虐殺。従軍慰安所も設置した。旅をするまで、マレーシアの植民地主義以降の歴史について何も知らなかったことに唖然としている。いったい自分はここで何をしているのか。

阿部寛主演で映画化もされた長編小説『夕霧花園』は、日本軍のマレー半島侵攻以降の歴史を扱う。その作者でマレーシア人の英語作家、タン・トゥアンエンはペナン島の出身らしい。宮崎一郎訳で彩流社から刊行されている。帰国したら読んでみよう。

小雨が降る中、海岸沿いの道をゆっくり歩いてペナン島の水上集落、クラン・ジェッティーへ。19世紀から中華系の人々が暮らしていて、陳一族と李一族の桟橋を訪ねた。最大規模の周一族の桟橋は観光地化されていて賑やかなようだが、こちらは静かな生活の場。木造の高床式の民家の様子をうかがいながら、板張りの桟橋を突端まで歩き、海上を行き交うフェリーを眺めた。

ペナン島は熱帯モンスーン気候の地にもかかわらず、朝晩は室内で冷房がいらない。日差しが強い昼でもお店に入れば扇風機で十分涼しく、スコールが通り過ぎるとひんやりとした海風が吹く。宿近くの喫茶店で本を読みながら熱い紅茶を飲む。おいしい。雨上がりの夕空が、美しいピンク色に染め上げられていた。

8月某日 約1週間、ジョージタウンの旧市街をひたすらさまよい歩いた。チャイナタウンを訪ね、リトル・インディアを訪ね、その周辺のマレー系の人々の暮らしを垣間見た。エスニック・コミュニティの境界はあいまいで、人々の混住化が進めば民族の混血化が起こらないはずがない。見た目からある人の属性を勝手に判断し、「〇〇人」だと決めつけるのは偏見だろう。しかし、旧市街の各民族のコミュニティ内に足を踏み入れれば、その中心には道教や仏教の寺院があり、ヒンドゥー教の寺院があり、モスクがある。そのまわりに同型的な住民の暮らしが広がる。こうした共同体の歴史に根ざした風景は「民族」としか言えない強烈な何かを、こちらに肉体にずしんと突きつけてくるのも事実だ。

髪の色、目の色、肌の色、からだつき、服装。話していることば。食べているものの匂い。これらを共有しない「民族」同士が、自分とは異なる他者への共感ではなく無関心(無視ではなく、関心を持ちすぎないということ)によって共存している。そんな、植民地主義以降の苦難の歴史を生き抜いてきた島の人々が備える、したたかな流儀のようなものをしばしば感じた。「異文化理解」以前に、異なる身体がただともにいることを受け入れる民衆の知恵というか。

勘違いかもしれないが、ひさしぶりに多民族社会の濃密な空気にどっぷりつかる体験をして、いろいろなことを考えた。

8月某日 ペナン島ジョージタウン滞在の最終日。宿の近くの中古レコードショップで、おしゃれな店主のお兄さんとおしゃべり。レジをみると、『我所看見的未來 完全版』(たつき諒『私が見た未来 完全版』の中国語版)が……。同行者が本を指さして「あ!」と声を上げると、「いやいや、ただの好奇心だよ、好奇心」と彼があわてて本を隠したのが——僕らが日本の人とわかっていたのですこし恥ずかしそうな顔で——おもしろかった。

夜は、宿の前のお店でおいしいココナッツミルクの豆花を食べてお腹いっぱい。

本屋のない人生なんて

若松恵子

図書館の普段あまり覗かないコーナー、編集や出版の棚で三宅玲子著『本屋のない人生なんて』(2024年/光文社)という1冊に出会った。小池アミイゴのかわいらしいイラストが背表紙の部分もぐるりと包んでいて、そのコーナーの固い雰囲気のなかにあって目を引いたのだった。

ノンフィクションライターの三宅玲子が2019年秋から2022年春にかけて、独立系の本屋を取材してオンラインニュースメディア「ニッポンドットコム」に連載したものを全面的に改稿してまとめた1冊だ。あとがきによると、「手元に置いておきたい本」を目指す光文社ノンフィクション編集部樋口健編集長の企画により書籍化されたとのことだ。こうして1冊の本になることで三宅玲子の仕事に出会うことができた、感謝である。

連載はコロナ禍の時期に重なった。「人と会うと命を落とすかもしれないという世界規模の災害にあったこの時期に、書店を取材できたことは幸せだった。これまでに経験のない孤独に追い込まれたとき、人は本と本のある場所を求める。それを間近に見ることになったのがコロナ禍だった」と三宅は書く。

北海道の留萌ブックセンターから熊本の橙書店まで、11の個性ある書店が紹介される。他県から足を運ぶファンもいる選書に特徴のある書店、読書会をずっと続けている書店、小さな子どもから老人まであらゆる世代に親しまれる書店、状況に合わせて店のありように変化をつけ工夫しながら本を手渡してきたそれぞれの書店の物語が並ぶ。「どの街にもその土地の風土と人からしか生まれ得ない本屋という場所がある。それは代わりのきかない場所なのだ」と三宅は書く。そして、本屋が代わりのきかない、本を買うだけにとどまらない特別な場所であることを、紹介される書店の店主はみんな分かっている。暮らしの身近な場所に、そういう特別な場所、本屋を存在し続けさせるための奮闘の物語としてこの本を読むこともできる。「うちみたいなやり方はおすすめできないかなあ。やっぱり経営は大変だから」と橙書店の田尻久子は語る。そして「それでも結局、こんな儲からない仕事をしているいちばんの理由は、やりたくないことはやりたくないからなんですよ」と続けるのだ。

この本の最後の章で、三宅にとっての代わりのきかない場所、橙書店が紹介される。この本は、ライターとして本に関わる三宅玲子自身の物語でもあるのだ。そう分かってくるところから、この本の魅力が、がぜん増してくる。取材を通して、本とは何か、本屋とは何か、三宅自身も自分の経験を思い返し、深く考えることになる。本屋の経営を難しくしている要因として、出版業界の構造的な問題があるが、その問題を掘り下げ、分析することに力点を置くことはしなかったと三宅は語る。「この本に登場する書店主たちの本を商う姿には、業界や職種を問わない、働く本質がある。そう取材のある時期に気づいた。そして、筆者に役割があるとすれば、ひとつひとつの書店の日常や、書店主の本を手渡したいという思いを忠実に書いていくことなのではないかと思い至った」からだ。

本屋の経営を難しくさせている出版業界の構造的な課題はある、しかし、それが根本解決するまで本屋をやらないというわけにはいかない。本屋なんて今の世の中採算が合わないからやめた方が良いと言われようが、手を動かして、難問をひとつひとつ乗り越えて、今日も店を開ける店主の姿には、働くことの本質がある。コスパとかタイパとか言われる閉塞的な時代の中で、その姿はひとつの希望だ。そんな店主たちを支え、その生きる姿勢をつくったものが、まさに「本」であり、そういう本との出会いをもたらした「本屋」という存在ではなかったかと三宅は思い至る。

「理不尽な人生を自分の思うように生きようとするとき、本は力になる。ただし特効薬ではない。読み続け、考え続けていった時間の経過が、その人の人生を支えている。そのことが、あるときわかるのではないかと思う。」橙書店の田尻久子の自立した生き方をつくっているものは何だろうと考えて三宅玲子はこう書く。そして、この本を執筆するうえでも「本」という先人、仲間の存在が支えになったと語るのだ。

「事実を明らかにしずらい取材では、最後は書き手が責任をとって見たものを検証して書かなくてはならない。自分を追い込み、たったひとりだと思わされるとき、それでも突き進むための背骨を支えてくれる、そして、具体的な知恵や手法が頼みになる、それが本だ。長い年月を通して読まれてきた本や、長い時間をかけて書かれ、編まれた本には、肚の力をつけるためのヒントが折り重なるように詰め込まれている。そしてなにより、先人や仲間がいるという安らぎを感じさせてくれる。」と。

彼女が紹介してきた書店は、小さな声の人々の本を取り揃えて待っている。そしてそんな本屋には「民主主義の手触りが確かにあった」、「ひとりである自分を肯定し力づけてくれる、それが書店という場所だと思う。」と最後に三宅は書く。実際に現場に出向いて取材した生身の人間を通過した、AIには書けない文章、アマゾンでの購入では得られない本との出会い、その豊かさと貴重さを思い出させてくれる本でもある。

言葉と本が行ったり来たり(31)『濹東綺譚』

長谷部千彩

八巻さん、暑いです!私だけじゃないとわかっているけど、そして誰に訴えればいいのかもわからないけど叫びたい。暑いです!
ペットショップの店員さんから「夏は外に出さなくていいです。熱中症にかかったら一発で死にます」と釘を刺されているので、チワワのロンと私は冷房の効いた部屋でほとんど籠城生活です。
いったいこの気温を夏と言うのでしょうか。もはや夏という季節ですらない気がする。夏と秋の間に「酷」という季節を新設するべきだと思うのです。そう、八月は「酷」。「獄」でも「極」でもいいですけど。

さて、こんな気候ですから、「お部屋で読書」の時間はおのずと増えるわけですが、最近、永井荷風の『濹東綺譚』を読みました。ずっと読んだものと思い込んでいたけれど、読み始めたら初読でした。どうして勘違いしたのでしょう。たぶん、若い頃、新藤兼人監督が映画化した『濹東綺譚』(1992年)を観て、「何なの、この、おっさんに都合のいい話は。気持ち悪い」と思った記憶があるので、そこで引いてしまって小説まで辿り着かなかったのではないかと。津川雅彦が演じたからか、主人公の中年男がギラついていて、あの映画については、キモいおっさんのキモい願望というイメージが拭えません。いま観直したら変わるかもしれないけど。どうだろう。

今回小説を手にしたのは、調べものがあったからなのですが、小説自体は一気読みしました。面白かった。玉の井の風景や移り変わる季節の描写の細やかさ、初老の男と私娼お雪の会話が洒落ていて、まるで古いフランス映画みたい――と私は思ったけれど、お雪の「わたし、借金を返しちまったら、あなた、おかみさんにしてくれない?」という台詞をどう捉えるかで印象は大きく変わるでしょうね。
山本富士子がお雪を演じた1960年版の映画『濹東綺譚』のように、その台詞を、男を信じる健気な女のそれとして読めば、不実な男と裏切られた不幸な女の話になってしまうし、私のように、さすがにお雪もそこまでおぼこくはないでしょ、ちょっと思いついたことを口にしてみただけでは?と捉えれば、男のほうも女のほうも、互いに自分に都合のいい夢を相手に投影したひと夏の戯れ、という話になると思います。おとなのおとぎ話みたいな。
とは言え、私は『断腸亭日乗』も『ふらんす物語』も未読の荷風文学入門者なので、自分の好みに引き寄せて解釈しているかもしれません。八巻さんはきっと、『濹東綺譚』だけでなく、永井荷風をたくさん読まれているでしょうから、今度お茶したときにでも意見を聞かせてください。

それともうひとつ、『濹東綺譚』を読んでいて思ったこと。私はKindleで読んだのですが、永井荷風の文章には、現代では使われない言葉が頻出するので、辞書機能にだいぶ助けられました。古典や歴史物を読むときなどは、Kindleは本当に便利(分厚い本を読むときも)。意味を知りたい語にカーソルを引くと欄外に自動表示してくれのですから。
ただ、よく辞書の改訂の際、どの語が消えて、どの語が入った、と話題になりますよね。紙の辞書は紙幅が限られているから、新しい語を入れるために使われていない語を削らなければならないのはわかるけど、これからの時代はデジタルの辞書をベースに考えたほうがいいのでは、と思います。だって、デジタルなら、増やすに任せることができるでしょう?使われない語をどんどん削ってしまったら、辞書があればこそ読める書も読み進められなくなってしまう。そもそも用いられる頻度をもとに辞書を編纂していいものだろうか?という疑問も湧いてきます。死語もその時代には生きていた言葉なのに・・・。

八巻さんは、この夏、どのようにお過ごしですか。私と同じ籠城派?図書館が近いとおっしゃっていたから、図書館で涼んでいるのかな。秋になったら、冬眠から目覚めたクマのように這い出て、美味しいものでも一緒に食べに行きましょう。車でお迎えにあがりますので!

2025年8月29日
長谷部千彩

サザンカの家(八)

北村周一

アラクサの森に 

日曜なのに教えのありてうす暗い闇のなか行くカインとアベル
バード・ストライク前夜うたえばうら悲し 影絵のような紙しばい浮かび

あられもなく母親おもいのおとうとを石もて打てる兄恐ろしき
どっからでもかかって来いようゆっくりとカインとアベルに戻りゆくまで

十四枚の浮き彫りが壁にならびいて死にいそぐ人の道行きはイバラ
踏まれても踏まれてもなおすき間より生うるあらくさその草を抜く

アラクサの森にうたえる蝦蟇どちのガマの油は先着順です。
うたうたうはうったうるに故ありと説く国文学者にわれはしたがう

隠るところ誇示するところ(イジメナイデ)雨を待てずに枯れカタツムリ
倦むところ逐わるるところうたうところ故郷まとめて走るちゃばたけ

あらたしき家飾らんに摘みてこしわがマンジュシャゲ棄てられにける
ふきつといい花を捨てゆく母の手のゆびに彼岸のはなのくれない

サジもて母が苺をつぶすそのたびに真っ赤なる捨子花のはなひらくらし
ぎゃっこうのガラスのまどゆ追憶の墜落絵図のヒカリあつめて

みききしたる食言あわれこぼれやすくこぼれ花咲くそのみちを行く
歳月というは貧しきろかも 食言の束を束ねて卯ノ花くたし

たびたび父は素手にて黒きゲジゲジを打ちのめしたれば喰う真似をせり
さまざまなる眼は母にしてただしきはあの日の父の興信所の眼

基督より天神さまのほうが尊しとアラクサは言い抜かれつつ言う
キリトリ線にそって切り取るそのゆえに消えてなくなるキリトリ線は

じゅもくはつね死なない空気を醸し出しさそい込むらし 樹木葬へと
切羽詰まったときにはわらうしかないと死んだふりして枯れゆく一樹

時価総額はかりかねつつ老梅にちかづくキカイ仕掛けのメジロ
()かざ切り羽どこへ落としたものなのか 下見てあるくわがみち昏し

目つむりてこころの中の耳宇宙さぐらんとせる綿棒はるけし
あちらがわよりガラス扉のなかをのぞきいる視線三角また来て四角

ヒトのまなことメジロの目との揺蕩いに視差あるらしもねむる蝋梅
眼差しはときに光(かげ)さえ見落とすと 窓の向こうにも眼のある日暮れ

どっちつかずのユメ醒めやすく目のみえぬオニヤンマつとも夜間飛行に向かう
仲睦まじくつつき合うときアイリングみつめ合うときハクセイは匂う

悉く憎悪に燃えてしまいけれ 柳葉魚は焦がし気味がよろしき
万物のレイチョウわれにツバサなくみず掻きもあらでうたえられおり

いちがつの花火つめたし 湖につばさしずめし不二よみがえる
元日夜の河井町大火 不明なりし独居老女の無事を知る感謝

万博不要五輪不要の唐辛子列島はみよいずこも真っ赤
万博の前に小暗き五輪ありき お・も・て・な・しとかいいたりし女子もや

バード・ストライクとバート・バカラックは似て非なれども二人で最初に観しは『幸せはパリで』
このまんま死んでもいいよう深くふかくすわり直して息吐くおおきみ

あかいあかい朝日のあたる家のまえ メジロ鳴いたかサザンカ咲いたか
アカイアカイアサヒののぼるユメさめてサクラ色めくうつつのわたし

ラーマーヤナ・フェスティバル

冨岡三智

8月31日といえば、1971年に第1回国際ラーマーヤナ・フェスティバルが開幕した日である。東ジャワ州パンダアンにあるチャンドラ・ウィルワティクタという大野外劇場で開催された。というわけで今回はラーマーヤナの舞踊劇について少し書いてみたい。

●1961年~「ラーマーヤナ・バレエ」

この国際フェスティバルを語るには、この10年前に始まった「ラーマーヤナ・バレエ」から語り起こさなければならない。「ラーマーヤナ・バレエ」は中ジャワ州とジョグジャカルタ州の境目にあるプパランバナンで行われている観光舞踊劇で、現在まで続いている。これは1960年の開発計画を受けて当時の運輸・郵政・観光大臣だったジャティクスモが発案し、国立コンセルバトリ(現在の国立芸術高校)スラカルタ校校長のスルヨハミジョヨが実行委員長となって始まった事業で、このためにプランバナンのヒンドゥー遺跡寺院を借景にする野外大劇場が建設された。ラーマーヤナが演目として選ばれたのは、プランバナン遺跡群の内のシヴァ祠堂の回廊にラーマーヤナの42場面を刻んだレリーフがあることにちなんでいる。そして、国の観光事業として新たに夜行列車が走り、記念切手が発売された。

この「ラーマーヤナ・バレエ」の振付はコンセルバトリの舞踊教師にしてスラカルタ宮廷舞踊家だったクスモケソウォが手がけ、コンセルバトリの学生や教員、クスモケソウォの弟子たちを中心にスラカルタの多くの舞踊家、音楽家が関わった。なお、コンセルバトリが開校したのは1950年で、その指導にはスラカルタ宮廷音楽家が多く参加している。この舞台公演によって初めて、途切れなく続く音楽にのせて、セリフなしで舞踊だけで物語が展開する舞踊劇という形式が発明された。セリフがないのでバレエと銘打たれ、この形式を表すインドネシア語「スンドラタリ」(芸術スニ+ドラマ+舞踊タリの合成語)も作られた。そのため、「ラーマーヤナ・バレエ」は「スンドラタリ・ラーマーヤナ」とも呼ばれる。セリフがないのは、言語が異なる国内外の観客に広くアピールするためである。この舞踊劇はスラカルタ舞踊の新しい型を多く生み出し、当時はまだ学生のジャワを代表する舞踊家サルドノ・クスモ(今は現代舞踊家や画家として有名)やレトノ・マルティ女史(その後ジャカルタに出てパドネスワラ舞踊団を主宰することになる)を輩出したという意味で、芸術史においても画期的な事業である。

●1970年 全国ラーマーヤナ・フェスティバル

1970年9月16~18日、第1回全国ラーマーヤナ・フェスティバルが開催された。会場はプランバナンの劇場である。これは翌年の国際ラーマーヤナ・フェスティバルに備えて実施された。「ラーマーヤナ・バレエ」はスカルノ初代大統領の時代に始まったが、第2代大統領となったスハルト(1968~1998)もこの芸術コンテンツを大いに活用した。この全国フェスティバルに出演したのは、スラカルタ、バリ、ジョグジャカルタ、スンダ(西ジャワ)のグループで、いずれも国立コンセルバトリが置かれた地域である。そして、この4地域は翌年の国際フェスティバルにも出演する。

スラカルタからは当然「ラーマーヤナ・バレエ」のスルヨハミジョヨ&クスモケソウォのコンビが手掛けたが、主役のラーマは初演以来のトゥンジュン氏からスリスティヨ氏に代わった。トゥンジュン氏は海外留学するためだが、他の多くの舞踊家も進学したり他の国際芸術イベントに派遣されたりして(その中には1970年の大阪万博への派遣もあった)人材が少なくなったため、主演級の舞踊家についてはオーディションが行われた。ジャワの伝統舞踊でオーディション選抜とは非常に珍しいが、それだけ力を入れたイベントだったと言える。その結果ラーマに選ばれたのがスラカルタ王家のパウィヤタン舞踊団に所属していたスリスティヨ氏で、氏は1971年の国際フェスティバルでもラーマを務めることになる。
1971年 国際ラーマーヤナ・フェスティバル

そして、1971年8月31日~、第1回国際ラーマーヤナ・フェスティバルが東ジャワ州パンダアンの大野外劇場で開催された。この劇場は芸術活動や観光の拠点として新たに建設されたもので、北にはマジャパイト王国(ジャワ最後のヒンドゥー王国)の王宮、南には様々なヒンドゥー遺跡群が広がり、その遺跡群にはラーマーヤナの物語が刻まれたレリーフがある。プランバナンの劇場はプランバナン遺跡を借景とするが、このパンダアンの劇場は山を借景とし、舞台奥に巨大な割れ門が作られた。この時も記念切手が発行されている。1970年と1971年のフェスティバルが一連のものであることは、1971年のフェスティバル用に製作されたブレティン冊子の中で両方の遺跡がラーマーヤナを軸に1つにつながっていることが強調されていることからも明らかで、この冊子にプランバナン遺跡のレリーフ42枚についても1つ1つ説明がある。

公演スケジュールは以下の通り。開始はいずれも午後7時で、上演時間は1団体1時間~1時間半である。ここでは前年の全国フェスティバルには出演していなかった地元:東ジャワのグループも出演している。実は東ジャワに国立コンセルバトリが設置されたのは1971年なのだ。他の地域は1950年代から1960年代初めまでに設立されている。

9月1日…ビルマ、  インドI、インドⅡ
9月2日…クメール、 バリ
9月3日…マレーシア、ジョグジャカルタ
9月4日…タイ、   ソロ(スラカルタのこと)
9月5日…ネパール、 スンダ
9月6日…クメール、 東ジャワ
9月7日…ビルマ、  インドI 、インドⅡ
9月8日…ネパール、 マレーシア
9月9日…タイ、   東ジャワ

このフェスティバル以降、ラーマ―ヤナはすっかりスハルトを代表する演目になったと言えるだろう。ラーマーヤナは大統領宮殿で国賓を迎えるために上演される演目となり、国際フェスティバルに出演したスリスティヨ氏はその後ジャカルタに移ることになり、大統領宮殿でラーマを踊り続けた。スハルト夫人の創案で、今年50周年を迎えるテーマパークのタマン・ミニ・インドネシア・インダーのマスコットは、ラーマーヤナに登場する白猿ハヌマンであり、スハルト退陣前の暴動を鎮めるために全国で催されたルワタン・ワヤン(魔除けの影絵)の演目はラーマーヤナから取られたものだった。

そして、ラーマーヤナはインドネシア国内を越えてアジア、東南アジアを結ぶ演目となった。ラーマーヤナがインド文明によって各地に伝わったことが絆となり、ヒンドゥー遺跡はそれを思い起こさせるトポスとなった。ラーマーヤナを中心に共同制作する事業はその後もインドネシアの国内外でよく行われている。『水牛』の2003年12月号、2004年1月号に寄稿した「アジアのコラボレーション」では1997~2003年にアセアン文化情報委員会が企画した「リアライジング・ラーマ」という事業について紹介している。

仙台ネイティブのつぶやき(109)記憶の沼

西大立目祥子

子どものころの記憶が胸底に沼のように沈んでいる、と感じることが多くなった。年齢と関係があるのだろうか。何かの拍子に、それが鮮明な映像として立ちあらわれることがあったり、繰り返し頭に決まったシーンが浮かんだりする。

たとえば、しとしと雨の降る晩秋の記憶として思い出されるのは、一幅の掛け軸だ。小学2年生のころの記憶である。そのころ、祖父母は仙台市中心部から西方10キロほどの愛子(あやし)というところに住んでいて、夏休みや正月にはいとこや叔父叔母と集うのが常だった。なぜか、その日は子どもは私一人。部屋で静かに過ごしていると、着物姿の年配の女性が訪ねてきた。細面の尖った顔にメガネをかけたその人は私を見ると祖父に誰なのかをたずねた。息子の…という祖父の答えに合わせるように目を見てあいさつをした。祖母と歳はそう違わないように見えた。

祖父とひとしきり話をすると、その人は持ってきた包みの中から巻物のようなものを取り出し、くるくると畳の上に広げた。それは、筍の絵だった…と書いていぶかしく思う。8歳の私は筍というものを知っていたのかしら。そばに描かれた竹の木はわかったとしても、茶色い皮に包まれた孟宗竹を見たことがあったとは思えない。

すると、ひと目見た祖父が「おぅ、筍ですか」といった。ちょっと弾んだ声だったので、子どもにもこの絵を気に入ったことが伝わってきた。そして「鶴とか亀なんかよりずっといいですなぁ」ともいった。大人になったいまは、もう少し気のきいたことをいえばよかったのになどと思うが、このひと言が記憶に残っているのは、8歳の子どもにも鶴亀は理解できたからだ。女性は「気に入っていただいてよかった」と、安堵した表情で笑った。祖父は愛子に小さな家を新築し、床の間に飾る掛け軸を知人に依賴したのだろう。そうして、筍と鶴と亀は父と子と精霊のように三位一体となって、晩秋の記憶の沼にドボ〜ンと沈み込みいまに至っている。

掛け軸ということばも筍のことも知らなかった私が、長くこの日のことを覚えているのは、たぶん絵がこの家に長く飾られ、さらに引っ越した家の床の間にも下げられていたから。祖父はこの素朴で力強い筍の絵を共感を持って毎日眺めていたのだろう。記憶は、ときおり沼の底から姿をあらわし増幅されて沼の奥底に帰っていった。筍、孟宗竹、掛け軸ということばを覚えるごとに記憶の輪郭は鮮明なものになったのか、とも思う。
 
祖父があの世へと旅立って40年余り。掛け軸はどこに行った?と、何かの拍子に思い出すことがあった。遺品整理のとき処分されたのかもね。毎日眺めて相当傷んでいただろうから…と、そんな話を昨年亡くなった叔母(祖父の長女)の荷物整理を進めるいとこ夫婦に話したら、数週間してメールがきた。これじゃない?押入れの奥から出てきたよ、と。

掛け軸を包んだ日に焼けた新聞紙には、叔母の走り書きで「あやしたけのこ」とあった。そろそろと中を広げると、茶色に焼けところどころにシミができてはいるが、おぉ、黒々とした2本の孟宗竹が姿をあらわした。感動の再会。ほぼ50年ぶりくらいの。記憶の中の一幅の絵が、手繰り寄せられ目の前にある。言い訳のように思う。これは執着とは違うよね。物に拘泥しているわけではないから。何度もあの日のことを思い返すうちに、いつしか物が手元に戻ってくる不思議。8歳の私といまの私を筍がつないでいる。

祖父の思い出はあれこれある。いっしょに住んだわけでもなく特別にかわいがられたわけでもないのに、立ち居振る舞い、何気なく口にしたひと言が沼の底の方に潜り込んでいる。自分と似通っている何かを、子どもは直感でつかむのだろうか。

お茶の煎れ方もその一つだ。祖父がお茶を煎れる手元を黙って見ている10歳の私。その間何か話をしたっけ? まず、急須にお茶っ葉を入れて、つぎに茶碗にお湯を入れて…そんなことを祖父は口にしたっけ? いや…。記憶はおぼろげだ。時間をかけお茶を煎れることを楽しむようすを、押し黙って見ていただけのような気がする。祖父の煎れ方はていねいだった。まず急須に茶葉を入れる。急須とそろいの3つほどの茶碗を並べて、ひとつひとつに魔法瓶から熱い湯を入れゆっくりと冷めるのを待つ。熱過ぎずぬる過ぎないほどよい温度になったら、急須にお湯を移しここで再び待つ。茶葉が開くと、3つの茶碗が同じ濃さになるように茶を注ぐ。はい、どうぞといわれ、子どもの私は初めて舌で茶をころがすように味わったのかもしれない。

このシーンを忘れずにきたのは、それが祖父の家ではなく入院した母の代わりに面倒をみにきてくれた我が家での出来事であって、茶器も見慣れたいつものものなのに母の煎れ方とあまりに違っていたからだ。せっかちでその上、家事に追われていた母は熱い湯をそのまま急須に入れ、そそくさとお茶をついだ。祖父のそれは先を急がないいかにも老人のやり方だったといえるかもしれない。もちろん、子どもの私に祖父が年寄りだからだなんて考えられるわけもなかった。ただお茶を煎れることに向き合う祖父の姿に感じ入っていた。

もう一つ、沼に沈んだこの記憶がときおり水の表面に上がってくるのは、茶器が一つも欠けることなく長く食器棚に残っていたから。白地に勢いのある茶と深緑の手書きの縞が施された茶器は決していいものではなかったけれど、母好みの柄であり私も心ひかれた。筍の掛け軸とは逆で、物が記憶を沼の底から呼び戻すといっていいのかもしれない。

この夏、母の住まいを直して生活丸ごと移すことに決め、猛暑のさなかに引っ越した矢先、母がすべてを見通したように旅立った。母の物、自分の物を残すか捨てるか修行のように決断を強いられる毎日が続いている。捨てられないたちの私が捨てるのは、苦しい。いらないのはわかっている。でも使えるものをゴミにしていいのか?と、素朴な疑問を自分にぶつける日々。もちろん、筍の掛け軸は捨てない。おいしいお茶の時間をつくってくれた茶器も捨てない。捨てない、捨てない、捨てない…。

でも、この捨てられないたちって何なんだろう、とあらためて考え込む。一方には捨てられるたちの人もいるから。言い訳がましくもう一度いわせてもらえば、これは物への執着じゃないよね。自分をつくりあげた記憶をていねいに扱いたいから、記憶が自分をつくっていると信じているからだ。このたちの違いは、つまりは胸底の記憶の沼の大きさ、深さによるものじゃないのだろうか、というのがこのところの私の気づき。沼はある。深くて淀むことはあるにせよ。

古屋日記2025年8月

吉良幸子

8/1 金
ソラちゃんは毎年夏には外で寝る。島育ちのせいか、人工的な涼しい風は好かんらしい。それでも8月に入って彼のブームが一変したらしく、ちょっと蒸した2階の部屋で寝るのがええらしい。ただし、本棚で寝るし本どかしてとか、パソコンの前で寝るしキーボード避難さしてとかいちいち注文が多い。しまいにはこのクソ暑いのに膝貸せと言う。このブームもいつまで続くか、また外で寝ると言い出すに決まってるんやけど、この夏は暑いし心配やから勘弁してほしい。
夕方から兼太郎さんの落語会。日暮里から千駄木って歩いてすぐやと初めて知った。行った事ある場所も路線が変わって近い駅から歩いてみると、町々の位置関係がわかって面白い。能のお稽古場が会場で、ご贔屓さんがみな優しくてあったかい会なんやけど、なんせ高座が近すぎる。毎度行くたびに噺の間キョロキョロしてまうのやった。

8/3 日
数日前に86歳のお友だち、おたかさんから着信があった。掛けなおしても応答なし、ひとり暮らしやし心配してたがようやくお昼に電話が繋がった。声は想像より数段元気で嬉しい限り。去年は全然ものを食べず、栄養失調になってしまったのを教訓に、今年は仕事と思ってがんばって食べてるらしい。頭も暑さでやられんように図書館で借りてきた小沢昭一の本をせっせと読んでむっちゃおもろいとのこと。なんじゃかんじゃと小一時間も談笑して、涼しくなったら遊びに行きますと約束して電話を切る。あ~はよ暑さが和らいでくれんかな、ってまだお盆前か。

8/4 月
日中はうだるような暑さで頭がぼぉっと気持ち悪い。何とかシャキッとせねばと朝から浴衣で仕事する。帯をしめたらさすがに背筋が伸びるからありがたい。お昼過ぎ、おかぁはんから梅干し届いた!と報告があった。ちぃこい段ボールを開けるとノミが1匹、ぴょんと飛び出したらしい。そういえば荷造りの時にソラちゃんが段ボールに入って寝てたっけか。なんちゅういらんおまけ送ってんねん!

8/5 火
今日は家の前で大工さんたちが外装をやってるらしい、朝っぱらからトンカンの音とすぐそこで話す、どこかの国の言葉が。おしゃべりがひとり混じってるらしい。蒸し風呂のような暑さにこの音は結構体に響く。せや、落語「王子の狐」で有名な王子稲荷神社に行こうと夕方に出発する。歩いていけるくらい近いらしく、高架を渡ると名主の滝公園の木々が見えた。ちょっとでも木があると涼しい。そこから少し過ぎて坂を登ると立派な神社にたどり着いた。狛犬もいはるけどいろんな表情の狐がいっぱいでかわいらしい。お参りをして、参道にある石鍋商店へ。有名なくず餅をお土産に帰る。無添加でその分日持ちもせぇへんけど、むちゃくちゃおいしい。うまいうまいと言いながら公子さんと一緒に食べた。

8/9 月
思い立ったが吉日、目覚まし時計がほしい!と町へ繰り出す。携帯電話で時間を無駄遣いせんようにするため、距離を置くようにしてる試みの一環。朝起きてすぐに携帯を触らんでええようにする事で携帯からもう一歩距離を取りたい。商店街へ行ってみるものの時計屋はもうないし、眼鏡屋では時計の取扱がないとこだけ。さぁどうするかなぁと踏切を渡ってふと顔を上げると、商店街のちょっと先に昔ながらの時計屋さんを発見。店主のおっちゃんから別に何の変哲もない小さい目覚ましをもろて帰ろかなと思ったら、奥からおかみさんが出てきて何じゃかんじゃと世間話。ドイツに住む息子さんがこの夏帰ってきてたらしく、お土産のインスタントスープの作り方が分からんというのでレシピを読んであげた。お孫さんも日本の夏を楽しんだと思い出のアルバムも見せてもらった。ちょっとの買いもんに出ただけで色んな話ができる、チェーン店にはない面白さが十条にはまだ残ってると思う。しかし時計屋のおっちゃんはうちのじいちゃんにどっか似てて優しそうな方やったなぁ。

8/10 日
しのばず寄席で御徒町へ。ちょっと早くに家を出て、意外にもまだ行けてなかった湯島天神さんへお参りに行った。下駄で女坂をおそるおそるのぼっておりて。手すりがないから久しぶりにむっちゃこわかった。とにかく転げ落ちんで良かったと安堵しながら広小路亭へ戻る。今日最高におもろかったのはこしらさんの「死神」。今まで色んな人の聴いたけど、いっちゃんおもろかったんちゃうかな。

8/13 水
今日は古川ロッパのお誕生日でおめでとうさん。今月は日記魔、ロッパの日記を戦前篇から読んどるけど面白い。自分の誕生日でなくてもおいしいもんばっかし食べたはる。
朝からお稲荷さんにお参りして図書館へ。最近は暑くてもっぱら浴衣でうろうろしとるけど、図書館も勿論浴衣。警備のおじちゃんに素敵ですね、なんて声を掛けられて大変に上機嫌でそのまま和菓子屋の狸家へ。狸のかたちをした、世の中でいっちゃんかわいい最中を作ったはる。店に入ると暖簾の向こうから狸のような愛らしいおとうさんが出てきた。思わずほんまの狸の家に訪ねて来た感じ。注文してから奥へ戻って餡子をつめてくれるが…怪しい。奥では元の姿に戻ってんのとちゃうか、なんて思てたら餡子たっぷりの試食をくれはった。やっぱし狸さんは優しい。狸の家を後に、そのまま石鍋商店へも行くと、こちらは狐顔のおばちゃんが迎えてくれた。お稲荷さんのお膝元で狐も狸もお店してんねやなぁとしみじみ思う。お赤飯とくず餅を買うて家路に着く。なんでこんなにお菓子づくしかというと、今日はいつも色々くださる花さんが来はるから甘いもんでお迎えしようってワケ。花さんは今回も大山で買ったキムチをたくさん手に、うちへやってきたのだった。

8/15 金
今月のハイライトはこの日から始まった。前の出稼ぎを辞めて早4ヶ月、引越しも落ち着いたしそろそろ働きに出るかと色々と探すうちに、たまたま近所でええ求人を見つけた。それはどこかというと、大衆演劇場!場内案内のバイトで今日が面接。いつも前を通りながら入ってみたいと思ってた劇場に初めて足を踏み入れた。今春にリニューアルしたらしくえらく綺麗。私のヘンテコリンな経歴の載った履歴書を見せつつ話をしてたら、今までしたデザイン見せれる?と聞かれてどきっとする。そっちの準備もしてたら良かった…と思いつつポートフォリオサイトを見せると、実はデザイナーも募集しようと考えてたというのでありがたすぎる話!!大衆演劇ズブの私はとりあえず現場で働きつつ色んな劇団など勉強し、後々はデザインの部分にも関わる方向で即採用となった。嬉しい!新しい世界や!!帰りに王子神社と王子稲荷へまわって、よくよくお礼を言うて報告した。

8/16 土
初出勤の前に一回どんな感じか観においで、という事で昨日の今日で初の大衆演劇。演目は何と落語の「死神」。今月は死神フィーバーや。話の筋が分かってるからスッと入ってくるし、何より今まで落語で聴いて想像してたのを実際に役者が演じると面白い。子役のお子たちが真っ白に塗って死神役で足元にちょこんと座ってるのがかわいかった。あっちゅう間の1時間、お客さんがハマる魅力を垣間見た感じ。これで毎回違う演目をするってのがすごすぎる。休憩をはさんで舞踊ショー。最初は爆音とライトに目が眩んだけど、慣れるとぐんぐん惹きつけられる。所作が美しくて着物が面白い。表情も豊かでどこを観ても勉強になる。一回別世界へ迷い込んで、終わると現実世界へ急に引き戻された感じ。うわぁ…と余韻に浸ってると若女将に呼ばれ、働くときに着るTシャツを渡される。嗚呼、おもろいとこに来たな、と思いつつ、ここで働くねんなぁと身が引き締まる。

8/17 日
10月のhoro books演芸部主宰の公演に出てもらう和子さんと、旦那さんの茂さんの自宅兼アトリエ・ギャラリーへ、刷り上がったチラシを持って行く。千葉県の師戸(もろと)という、関東の土地勘が薄い私にとっては全く聞いたことも読めもしない場所だが、どうやら関東の人にとってもあんまし馴染みはない所らしい。何しろハイエースのようなバスは1日に2本だけ駅から走ってるという、ドが付く田舎らしく、田舎出身の私ですら駅を降りて、えらいのどかやなぁ~と思う場所やった。バスの時間を和子さんが前もって伝えてくれてはったのやけども、びびって早く着き過ぎてバスの時間まで1時間以上。よし、久しぶりに自然を歩こう!なーんて阿呆な考えを起こし、駅のコンビニで水分と冷たいものを少し買って無謀にも炎天下を歩いた。後から知ったことだがアトリエまでは4キロ弱、酷暑に歩く距離やない。日陰がなくて途中で死にそうになりながら沼と川を越え、竹林の陰で休憩を取りつつ山の方へ。途中にあった神社で、倒れずに着きますようにと腹の底からお願いをして山を越えると、もう一段階上のほんまの田舎!おうちが大きいのは勿論やけど、たっぷりのお庭がついてる。ぜーぜー言いながら何とかたどり着き、アトリエで涼みながら紫蘇ジュースをいただいた。ギャラリーへ来てたお客さんと談笑し、ようやく生き返ってから植田工さんの展示を拝見。茂さんとの絵の合作が面白かった。お昼食べてきな、とおいしいごはんまでいただいてギャラリーの周りを長靴で散策。林の中には猪用の罠が仕掛けてあるからひっかからないでね!との言葉を胸に、木々が生茂る庭を歩いた。久しぶりに緑がいっぱいで空も広い。自然はええなぁ~なんてあちこち歩いた。近くに住むトルコ人がエミューとヤギと羊と鶏飼ってるから見に行こ!とみんなで行くと、思いの外たくさんいてちょっとした動物園みたいな感じ。羊は毛を刈ってもらってなくて熱中症みたいにすみっこの陰でしんどそうやった。夕方までのんびりさしてもろて、帰りはさすがに車で駅まで送っていただいた。そっから電車で汗をキンッキンに冷やされたから大変。ちょっと気持ち悪なって、家の近くの蕎麦屋に寄ってきつねうどんをすすってから帰る。疲れてぼんやりしながら、関西の透き通ったおだしのきつねさんを想像してたら、黒い汁のおうどんでびっくりした。せや、ここ東京やったわ。
今日はアホみたいに歩いて疲れた1日やったけど、色んな人に会うて楽しい日やった。

8/22 金
いよいよ初出勤でドキドキ。家から劇場までは直線で10分弱で行けるけど、お稲荷さんへお参りして回り道してから行く。朝にちょっと散歩できるのはむっちゃええねんけど、なんせ暑い。涼しなってくれたらちょうど良さそうやのに。出勤して掃除から始まり、お客さん入れて…と何となく1日の流れを見る。席の予約が電話受付やからなんせ電話がよう鳴る。電話ってあんまし得意じゃないけど、この際克服できそうやわ。初日やしあたふたしてる間に1日目が終わった。ほんで今日は出稼ぎ先決まってのお祝いという事で花さんとごはん。近くにはるき悦巳先生の漫画に出てきそうなお好み焼き屋さんがあるというので公子さんと3人で行った。大阪出身のおっちゃんとバレイを今でもやっとるというシャッキリしたおかみさんのお店で、東京で初めておいしいお好み焼きを食べた。人も味も全然気取ってなくて、むっちゃええとこ近くにあって最高やわ。

8/26 火
今日は待ちに待った12月公演の稽古の日。12月は噺家と役者で落語「一眼國」をやるという趣向で、兼太郎さんと黒テントの役者の初顔合わせ。公子さんは待ちに待ちすぎて体調不良。ここのところむちゃくちゃ暑くて熱中症っぽくもあるし、とにかく体調悪そうで心配。今日は行くのを断念して代わりに私が座布団抱えて稽古場へ向かう。到着してすぐ、役者さんたちの顔につける、ひとつ目の試作を貼ってもらう。意外に大丈夫そうやし次は布選びに行かにゃならん。そうこうしてると兼太郎さんが到着、一席通しで「一眼國」をやってもらう。それを録画さしてもろて、後は劇団の方で役者の動きを練ってもらう。どういう風になるのか楽しみ。
一回目の稽古を終えて、みんなでごはんへ行った。酒が入ってみんなが打ち解けて、それが今日の一番の収穫やったと思う。

8/27 水
今日も演芸場へ。夕方まで働いて、帰りに銭湯で汗を流し、お肉屋さんでコロッケと、宵の口まで開けてくれてはったお豆腐屋さんでお豆腐とお揚げさん買うて、帰って食べて寝る…なんて贅沢な暮らしやろうと布団の上でしみじみ感じた。

8/30 土
今日は演芸場の楽日。昼公演が終わったら大掃除~と聞いていたから、入った事ない裏の方が見れるのか、とちょっとワクワクしておった。1ヶ月ごとに劇団が移動するんやけど、すごい荷物でさながら引越しそのもの。これを毎月やってる劇団の方々ってすごいなぁ…と感心した。演者の方々がはけると楽屋の掃除。迷路のように部屋が並んでて色々新鮮。隅々まで掃除して、早く終わったからと若女将がみんなを焼肉に連れてってくれはった。まだ働き始めて5日くらいやのに、ありがたすぎる!ほんまに現場が一丸となって働くとこやねんなぁとしみじみ感じた。

精霊馬たち(1)

新井卓

目を瞑ると、いつもおなじ景色が見える。ヤマユリの大群落がみなおなじ背丈に咲き誇り、その見事な顔のひとつひとつに、ほそやかな篠竹の支柱が添えられている。そり返った花弁にとまった塩辛蜻蛉が微動だにせず、その複眼に千の空を映していた。慈悲、抜苦与楽。抹香臭い語彙しか見あたらぬその光景は、この世の極楽に違いないと思った。山の冷気を含んだ微風が、死者たちの一年ぶりの訪れを告げていた。殺戮者たちが思う存分にこどもたちの命を踏み躙り、それでも何事もなかったかのように回転する世界の一隅からその場所がどれほど隔たっていようとも、それら極楽と地獄のどちらも、ヒトの手が生み出す景色であることに違いはない。三ヶ月の日本帰国は長い盆の里帰りだったのかもしれない。今は、そう思う。

ひと月ほど一緒に帰国していた連れとこどもは六月下旬、一足先にベルリンに帰り、生まれ育った家で何年かぶりのひとりの時間が始まった。抱えていた仕事のあれこれで一週、二週があっというまに過ぎ、ようやく一呼吸、久しぶりにお会いしたと思っていた人々と連絡をとり始めた。

今回は必ず、特に心に決めていたのは第五福竜丸平和協会顧問の山村茂雄さんだった。山村さんは震災のすぐあとに出会ってから変わらず、事あるごと気にかけてくれ、批判と激励をつづけてくださった恩師である。山村さん行きつけの新橋の寿司屋にでもお誘いしよう、とアドレス帳を検索した途端、第五福竜丸展示館から電話が入った。あまりのタイミングになにか誤発信でもしたのだろうか、と怪しみつつ通話をオンにすると、久しぶりです、と、学芸員の安田和也さんの声が聞こえた。そうか、とその声の調子から分かってしまい、果たしてそれは、数日前に山村さんが逝去されたという報せと、わたしが以前撮影したポートレイトを遺影に使いたいがよいか、というお尋ねだった。

その写真は飯能市にある真言宗智山派寺院、金蔵寺の山門で、コロナ禍が始まる前の年の秋口に撮影したものだった。まだ夏の湿り気と暑熱が残るよく晴れた日で、山村さん一家と、山村さんのご著書『晴れた日に 雨の日に』(現代企画室、2020年)のための撮影だったから、編集の小倉裕介さんも一緒だったと思う。山村さんが少年時代を過ごした寺の境内で撮り終え、帰りみち、おいしい鰻をご馳走になったはずだ。

通夜で、抜けるような笑顔を湛えるその写真に再会した。参列者の中には日本被団協の田中熙巳(てるみ)さんの姿もみえた。原水爆禁止日本協議会時代、山村さんが編集に携わった伝説的作品集『Hiroshima Nagasaki Document 1961』における長崎行をなぞる旅をしたこと。閏日に件の寿司屋に集まる、恒例の誕生会のこと。たくさんの思い出が駆けめぐり、人ひとりの仕事とは思えない山村さんの活動に触れる弔辞や弔電が読みあげられるあいだ、わたしは通りに駆け出して大声で叫びたかった──みなさん、核廃絶の闘いに一生涯をかけ、東松照明を長崎に導き、若い世代を励ましつづけ、片時も詩の心を忘れなかった偉大な男が、いま、さよならを告げているんですよ!と。まあそんなことより一杯、近くに〇〇という店があってね……という山村さんの声が今にも聞こえてきそうだったが、あとに残された者として寂しい、やるせないものは致し方がない。

写真家・民俗学者の内藤正敏さんの訃報に触れたのは、その翌週だった。
内藤さんに初めてお会いしたのは2015年か2016年の初夏、当時遠野市博物館館長だった民俗学者・赤坂憲雄さんの計らいで、鼎談、というかたちの催しに呼んでいただいたときのことだ。震災の前年から東北に通うようになって以来、たとえば内藤さんの『遠野物語』(春秋社、1983年)を写真というメディウムによる前人未到の到達点として見つめてきたので、ご本人にお会いする思いもよらぬ機会にとても緊張したことを思い出す。

その日、博物館の会議室に通され、所在なく本を読むふりをしていると、ややあって内藤さんが到着した。内藤さんは会うなり、あなたの仕事には知性と品性があるんですね、なかなか珍しいことだ。とわたしの目を見据えて言った。どう応えたか、たぶん変な声しかでなかったと思うが、山村さんといい、内藤さんといい、人並みならぬ魂は一瞬で相手の心をとらえて離さない。

鼎談は、ほとんど内藤さんの独壇場となった。アナログ・スライドを持参した内藤さんは、次、次、とカルーセルを回しながら始まりも終わりもない記憶のクラスターに分け入って行った。一つの物語はいくつもの枝に分かれ、立ち消えたかと思えば別の場所に返り咲いた。南方熊楠もきっとこんなふうに話したのだろう、と変に合点しながら、無限に分岐、結合するシナプスとして垣間見る、内藤正敏という生態系の一端に身を浸すのは、わたしにとって至福の時間だった。

内藤さんが東北芸術工科大学で教鞭をとっていたとき、キャンパスに散歩に来る幼稚園児たちが内藤さんによくなついていたという。内藤さんは芝生に腰を下ろして、そのこどもたちに大学生にするのとおなじ講義をしたが、こどもたちはそれに聞き入っていた──さもありなん、とやはり変に合点しながら、後日赤坂さんから伺ったその逸話を、記憶の大切なところにそっと置いた。

宇宙のように深遠な青空に、百日紅の花がフラクタルな輪郭を刻んでいた。修験の法螺貝が響きわたり、僧侶の読経が始まった。内藤さんの葬儀は、神仏習合そのものだった。実際には二度、三度しかお会いできなかった内藤さんに、お別れの挨拶をすることを許されたのは、宇宙からの贈りものだと思った。

ほんらい写真は、写真という表現形式としてあるわけではない。それはメディウム=媒介するものであり、眼に視えず耳に聴こえない世界の振動に向けられた傷つきやすい感覚器のひとつだ。のみこみやすさ、伝わりやすさばかりに囚われ息の継ぎかたも忘れそうな喧騒のなかで、これから写真を学ぶ人はいっときでも内藤さんの仕事に目を向けてほしい、と思う。と同時に、そんなことをわたしが強調するまでもなく、呼吸する皮膚のようにざわめき、ヒトならぬ世界に向けて触手をのばすそれらイメージを、わたしたちの魂が本当に必要とする時代がいずれ到来するだろう、とも考えた。

八十年目の太陽はすべてを灼きつくすかのように燃え、広島、長崎、東京をめぐる三千四百キロの旅が目前に迫っていた。
(つづく)

*山村さん、内藤さんのことは、こちらの文章に詳しく出てきます:
・新井卓『百の太陽/百の鏡 写真と記憶の汀』岩波書店、2023年
・新井卓『炭取をまわす死者たち──『遠野物語』とモノ、イメージ、浦田穂一をめぐる覚書』現代思想2022年7月臨時増刊号 総特集=遠野物語を読む、青土社、2022年

日常

笠井瑞丈

モギがいなくなって2ヶ月が過ぎる
ナギとハギは変わらずの日々を過ごしている
いなくなってしまった事が嘘かのように
朝は決まって二人の大合唱から始まり
寝床から目をパチパチさせ降りてくる
それに合わせてなおかさんも起床
2人の朝ごはんを準備する
大好きな小松菜をパクパク平らげ
しばらく散歩をしてから
お気にりの枕の上で昼寝
ハッと起き慌てて
トイレに駆け込むかのように
産卵室に飛んでいき籠って卵を産む
そして暗くなればまた寝床に戻る
このサイクルの繰り返しだ
人間の生活とたいして変わらない
以前は箪笥の上に置いた
テレビの上が寝床だった
モギはそこから落下した
その結果具合を悪くした
もうそのような悲劇が起きないよう
テレビを撤去して代わりに丸い籐を置く
そこに引越ししてもらうことにした
気に入らなかったらどうしようと思いながら
最初はテレビがなくなったことに戸惑いながらも
新しい引越し先に夜は自分たちで
戻るようになったので一安心
一週間もすれば大のお気に入れの場所に変わる
今ではずっとそこにいて
あまり降りてこない日もある
気づけば生活習慣になるものだ
モギがいなくなってしまった事も
だだ実在していたものが
今は想像に変わってしまった
時間はそのように
人を割り切らせてしまう
人は時間と共に忘れていくもの

でもきっとまだまだ忘れられない自分がいる

『アフリカ』を続けて(51)

下窪俊哉

 水色の紙に、切り絵のガーベラが1輪、あとはいつものように 8/2025 アフリカ の文字があるだけ。先月、完成した『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)の表紙である。今回は少し凝っていて、切り絵の原画がどのようなものかはp53に載せているが、装幀の守安涼くんはガーベラの背景を大きくひろげ、空間の奥行きを深いものにしている。
 切り絵の作者・向谷陽子さんが事故に遭い急逝してから、ちょうど2年がたった。私にはまだ、いまも、切り絵の新作がまた届くのではないか、という予感が残っている。スキャンしてメールで送ってきたということは一度もないのだ。必ず速達で、原画が届く。私はその切り絵を傍に置いて、また『アフリカ』をつくるのだ。
 今回、表紙に使わせてもらったガーベラは、亡くなった後、切り絵にかんする記録を整理しているときに、それが以前『アフリカ』誌面に発表したものとは別の作品であることに気づいた。vol.11(2011年6月号)に載っているガーベラは2輪で、向谷さんを追悼する号になったvol.35(2023年11月号)にはカラーで掲載してある。その2作は、背景の色合いも違うし、作風にも変化が見られることから、同時期に制作された別バージョンとは言い難い。1輪のガーベラは数年後、アフリカキカクのグループ展に出すにあたって制作されたものだろうと私は推察している。その際、向谷さんはこれが新作だとは伝えてこなかった(と私は記憶している)。したがって私も、以前の作品を展示しているつもりでいたはずだ。自分の目のいい加減さに呆れるが、その時は他にもいろんなものを展示したので、切り絵に集中していなかったという事情もある。彼女はほくそ笑んでいたかもしれない。よし、気づかれていないぞ、と。
 それにしても、どうして1輪なのだろう。孤高、ということだろうか。どちらにしても、ガーベラの花束を切り出そうとはしていないわけだ。2輪のガーベラは、寄り添っているようにも見える。背の高い方の赤い花のガーベラが、再制作の際にも切り絵の中に残って、立ちすくんでいるように私には感じられる。いま、ハッとしたのだが、赤い花は、あるひとのイメージではないか。ガーベラは向谷さんの好きな花だから、作者本人の自画像のようなものだとばかり思っていた。
 今号の巻頭に「「藤橋」覚え書き」を書いているスズキヒロミさんは、SNSでこんなことを言っていた。

今号の表紙、『アフリカ』にしては珍しく質感のある紙を使ったのかな? と思ったら、触ってみるとそれは印刷で、いつもの色上質紙だった。つまりこの質感の部分は、向谷さんの切り絵の画面の一部だったのだ。そこで気がついたのは、切り絵を観る時、私は無意識に「切られたものだけ」を絵として見ていたのかな、ということだ。それ以外の部分を私は背景とか、もっと言うと台紙としてしか認識してこなかったのかもしれない。でも切り絵は「絵」なのだから、主たるモチーフの外側であっても画面内なら絵なのである。(中略)向谷さんの切り絵の表紙を見ながら、この花の咲いているこの日は晴れているのだろうか、それとも曇っているのだろうか、あるいは雨上がりなのか、と思う。

 それは『アフリカ』を手にして、読む人のひとりひとりに(どう感じるか)聞いてみたい気がする。私には、向谷さんのガーベラは晴れた空の下に咲いているようにしか思えないが、もしかしたら天気雨には降られているかもしれない。

 前回、書きそびれてしまったが、今号には黒砂水路さんが久しぶりに「校正後記?」を寄せている。『アフリカ』の校正にかんする裏話ではなく、校正の仕事の裏話で、「少し前、ちょっとした人気作家の長篇小説を校正した」時の話。私と日沖直也さんとの対話で、編集後記に雑記を書く話が出てくるが、黒砂さんもその影響を受けている?

 最新号で「正月日記二〇二五」を書いている坂崎麻結さんとは住んでいる場所が近いので、久しぶりに会ってお喋りをした。坂崎さんは最近、横浜の「本屋象の旅」の中の小さな本屋「SCENT OF BOOKS」で『アフリカ』を販売してくれているのだが、そこへ行けば「いつでもアフリカの最新号が買える、という状態にしておけたらいいな」とのこと。
 お喋りしながら差し出された小冊子があり、タイトルは『writing swimming 書きおよぐ日々』、『FAT magazine』という雑誌に発表された坂崎さんのエッセイを集めたものだ。シカゴに住むアーティストと交換したZINE、「ねずみくん」の絵本シリーズ、ポール・オースターの文庫本、河田桟『くらやみに、馬といる』、晶文社の「ダウンタウン・ブックス」、『小島武イラストブック』などの本の紹介をしつつ、自分にとって大切なもの・ことは何なのかを探る小文集で、冊子の後半にゆくにしたがって話の中心は本というよりも、暮らしの中の細部や、家族との会話や、人との出合いになっていることがとても印象に残った。B6サイズ、表紙を含めて32ページの小さな本の中で、書き手の中に何かしらの変化が起こっており、それを隠さず表現している。
 その最後に収録されている「一冊の本が、その夜を連れてくる」には、『ジャズ詩大全』の著者との邂逅がある。私も昔から図書館にある『ジャズ詩大全』にはお世話になってきたが、その本を書いたのがどんな人なのかということには、気を向けたことがなかった。『ジャズ詩大全』は「1990年から2006年にかけて別巻を含む全22巻が刊行され、900曲以上」のジャズ・スタンダードを中心としたアメリカン・ポップソングの歌詞が取り上げられていて、坂崎さんは旅先の図書館で、そのシリーズの1冊と出合ったそうだ。その本の著者は村尾陸男さんというピアニストで、「横浜・関内のファーラウトというジャズクラブを運営していることもわかった」。徒歩で行っても30分くらいの場所である。ある夜、坂崎さんはふらっとその店を訪ねてみる。夜の9時を過ぎていたせいか、客は坂崎さんだけだった。あとお店にいるのは村尾さんと、もうひとりの「演奏者」、具体的に書いてないのだがベーシストではないかという気がする。少し引用しよう。

 ホットコーヒーを頼むと、カップをコーヒーメーカーにセットして、「じゃあ、コーヒーが入るまで2、3曲やりましょうか」と小さな声でつぶやき、いきなりそれが始まった。1曲目は「イパネマの娘」。村尾さんは演奏を始める前に、思い出話をするように曲について語りだす。

 それが『ジャズ詩大全』の著者だと知った今、私には何とも羨ましい状況である。坂崎さんはその時の、村尾さんの声を、そこに書き残している。ほんとうにその声が、聴こえてくるようだ。書き手は耳になり、聴いている。読んでいる私も、その声をありありと感じる。5曲分の語りが書き残されているが、何曲目を引用しようか迷うところだ。どれも味わい深い。

 3曲目は「ケアレス・ラブ」。これは誰が作ったかわからないくらい古いジャズの曲。南北戦争が終わって、それから30年くらいたって、やっとジャズの形ができてきた。ブルースは当時、バーでギャラなしでチップもらって、また別のバーに移って演奏していた。別の街まで貨物線にただ乗りして、人種差別があってホテルには泊まれないから女の人の家に泊まっていた。また別のバー、また別の女の人、それを繰り返す。この無慈悲な恋の歌は20番くらいまであってね、みんな歌いながらつけ足していったんだ。ぼくが歌うのは5番くらいまでなんですけどね。バーの女性側からの歌もある。

 自分もそこにいて、一緒に聴いているようだ。音楽は聴こえなくても、声は聴こえている。歌のことば(歌詞)も書き写し方によっては、音楽が聴こえてくるようになるかもしれない。文章の役割とは、きっとそういうことなのだろう。『ジャズ詩大全』は日本語で書かれているわけだから、ジャズ・スタンダードの音を日本語で書き残そうとした労作なのかもしれない。その本の内容については、坂崎さんはまだ深く書き込んでいないが、いつかやればよいのではないかという気がする。
 その時、村尾さんは80代、その文章を書いた後で、掲載誌を持って再びファーラウトを訪ねたら、「施設に入られたので、もう店には出られない」と引き継いだ方から言われたとか。まさに一期一会! その時は、その時にだけあり、その後には、もうないのである。

 私は自分の原点を思い返すと、「書くべきことは何もない」という実感があった。見ず知らずの誰かに語れるような何かを自分は持っているだろうか、と考えた時に、持っていないだろうと強く感じた。「書くべきことは何もない。ただ、方法論はある」ということだった。つまり、何を書くのか、というのはよくわからないが、どう書くのか、ということについては深く考えていた。
 今度の『アフリカ』でRTさんが「潜る」という文章の中で「何を描くか、どう描くか、どちらかというと何を描くかが大事だと思っていた。しかしどう描くか、どうやって伝えるか、無意識のうちにではあるが考えてはいた」と書いている。これは私の体験とは真逆と言えそうだ。私はいつも意識して「どう描くか」を考えながら書き続け、時間をかけて「何を描くか」に行き着くのである。その先には「なぜ書くのか」があるだろう。自分が書かなければいけない理由は、何だろうか。

 2017年の夏、その頃、親しくしていた吉祥寺美術学院でイベントの企画をたくさんする中で、福間健二さんをゲストに呼んで詩のワークショップを開いたことがあった。その日、何かの話の流れで、福間さんから聞いた話を私は忘れられない。一言一句覚えているわけではないのだが、「作家というのは、書くことがなくても毎日書いている人のことである」という趣旨のことを言われた。その時、私はハッとした。なるほど、何か伝えたいことがあって書くというのなら、誰でもやる。でも作家というのは、それ以前から書いている人である、ということだ。
 私には、それは要するに自分自身のことなのだった。
 いまは生々しく思える。「何を書く(描く)か」なんて、書き手の中に元々あるものではないのだ、と。

それぞれの負荷、完全に愉しい(付ふ

芦川和樹

球根を
持ち運ぶアーム、をしまって
空腹を企画する持続する見ているっ
フロッピーが泳ぐ、用のプールで泳ぐ
のを、断わって。沼にとけこむ、牛

根性だけど、状態や型番、花占いでは
虫さ
てめえの目玉。大角、オオツノ。
プリンを冷やしているみたい
△▲▲△▲△△▲▲△▲△△▲▲△▲△
△▲▲△△▲▲△△▲▲△△▲▲△△▲
オクトーバーは
もう隣あうほど希釈されて
横側がざらっとしていた
壺、花瓶
に沼が保存されているようだ深、
そう
マーカーで囲って、つよめよう
囲ってしまおうにぶいロビーで寝て
いるところを。マーカーはブルー系が
このみですけど、レモンもすきです
囲っえるのならとりあえず何色でもいいよ
                  川
往生際の足どりが祭りのようで、オ
オツノ
は雪をとめて火を扱う
雑木林
あくびだわ、空からあくびが降ってくる
(きょうの仕事はすんだのかしら)
きょうの仕事はすんだのだった
歯を分捕って
あした天気になあれよる、夜、思う


カエルになり果てた、失礼だ
玉ねぎを丸呑みにした、ら?歌う
こめかみにとまる虻
あ、ぶ にとまる牛若丸(ただいまー)

___
にもし聞いてみて大丈夫そうならもし
もしかして、荷物貨物の引き渡しを。やぶれた箇所にセロテープ、タイプの、ときにはゼリー状の、保護修復根性がやってくるとほとほ。皮に、皮の代わりに、皮に変わって、そのなかにちょっとした小部屋をつくりました。牛若丸が住みます。霧き、り。足す。

むもーままめ(50)ヴィーナスフォート跡地訪問の巻

工藤あかね

 かつてお台場は恵比寿ガーデンプレイスと並ぶ人気のデートスポットだった。いや、いまだってじゅうぶん人気かもしれないのだけれど、当時はあのエリア一体に向かうところ敵なしのオーラが漂っていて、週末ともなれば大勢の人が押しかけていた。フジテレビの球体展望室、レインボーブリッジ、観覧車、室内遊園地、お台場海浜公園、水上バス、ショッピングエリアをつなぐ巡回バス…見どころがとにかく多かった。街全体が今でいう「パリピ」というか、あからさまに調子に乗った感じで、道ゆく人々や親子連れもなんとなくおしゃれ。街にはヤシの木が植えられていて、海沿いにはハワイ料理を出す店もあり、開放感抜群。ちょっとしたリゾート気分も味わえた。

 そんな街の一角には「ヴィーナスフォート」という室内ショッピングパークがあった。1999年開業だからバブルが崩壊して数年後のことである。バブル景気の最中、港区にあったジュリアナ東京のお立ち台で扇をひらめかせていたワンレン&ボディコンの女性たちは、バブル崩壊後にはお台場のヴィーナスフォートの噴水広場の真ん中で身をくねらせる、白肌の石像に変わってしまったかのようだった。エリア内は中世ヨーロッパの街並み風に整えられ、見上げれば空は刻々と色合いを変える演出までなされていた。ディズニーシーと同じで、偽物とわかっていながらテーマ性を楽しむ架空のヨーロッパ。イタリアでもフランスでも現地に行けば本物の街並みを見られるけれど、人が暮らす街は清潔&快適&安全とはかぎらない。だから、お金や時間をかけなくても、おしゃれでちょっとした旅気分を味わえる場所というのは、重宝されるものだ。昭和の人々が、ハワイのかわりに宮崎や熱海、そして常磐ハワイアンセンターへおもむき、温泉もアトラクションもショーも楽しみたい人が船橋ヘルスセンターを目指したのと大した変わりはない。

 だがその後、日本経済が低迷するとともにお台場の街の活気も失われてゆく。都市開発が頓挫し、パレットタウンが閉館、ヴィーナスフォートは2022年に閉業した。大江戸温泉物語もなくなってしまった。そもそもそんなにアクセスの良いところではないし、目的がなくても行けばなんとなく楽しい街から、目的がないなら行く必要のない場所になってしまっていた。

 ところがそんなヴィーナスフォート跡地が、なんと演劇空間となって生まれ変わったのである。その名も「イマーシヴフォート東京」。館内はかつてのヴィーナスフォートそのまま。噴水広場を起点に放射線状に広がる道の奥に、同時多発的に上演できる演劇空間が広がっている。わたしが参加したのは「ザ・シャーロック」。あのシャーロック・ホームズとワトソンが出てくる、イマーシヴフォートオリジナルストーリー。俳優たちは舞台上ではなく、エリア内を闊歩し自分の時間軸で事件の真相に迫ろうとするのだが、観客は登場人物の誰かについていっても良いし、どこかで油を売っていてもなんとかなる、という仕掛け。過去にわたしはフランチェスカ・レロイ作曲の観客回遊型オペラ「THE鍵KEY」に出演したことがあるのだが、一度に全てを見ることができない仕掛けだったので、リピート希望の方がとても多かった。観客は4つの部屋を自由に観て回るのだが、それでも話の辻褄が合うように作曲家によってうまく設計されていた。上演中は他の部屋で何が起こっているか気になっても見に行くことができなかったし、観客が自分の意思で見聞きするものを選べる趣向の作品がどんな感じなのか、観客として体験してみたかったのだ。

 噴水広場で開演時間まで待機し、時間になると体験する作品のゲート受付が始まる。コインロッカーは値段が高いので、荷物は少ないほうがいい。2時間暗い館内を歩き回り、階段を登ったり降りたりするので履きなれた靴がおすすめ。お手洗いは先に済ます。ある程度は水分補給しておく。はじめに真っ赤な照明の当たるバーのような空間に通され、手渡された黒いスカーフを三角形にして折り、目の下から後頭部に沿わせて後ろで結ぶ。この時点で強盗犯みたいな姿になったが、演劇開始後は私語禁止、写真の写り込みで個人が特定されないようにしたい、という主催者側の工夫なのだろう。教会の時計広場に集められ演劇スタート。街の中には疲れたら座れるように椅子の配慮もあったが、利用している人は少ない。出演者はハーメルンの笛吹き男みたいに、行く先々で行列をひきつれて歩くことになるのだが、とにかく早足だ。観客は絶対に走るなと主催者から念を押されているので、走りたくなってもマナーを守り、結局出演者を見逃してしまったりもする。誰かを追っている最中にとつぜん遠くから悲鳴が聞こえたり、怒声が聞こえたりするので、ついてゆく人をその場のフィーリングで変え、また面白そうな人を見つけては話し声に聞き耳を立てる。

 事件の真相はちょっとトンデモ系が入ってくるとはいえ、2時間ものあいだ俳優たちと一緒に、中世ヨーロッパの街並みの中で生きている感覚になれるのは、ちょっとクセになりそうな経験だった。終演後はこの演目に参加した人専用のドリンクが配られるのだが、さんざん歩き回った後にのむドリンクがこれまたおいしいのなんの。同じ色のドリンクを飲む人と、自分が何をみたか情報交換できるようになっているらしいのだが、照れ屋には向かない。婚活中の人には、もしかして、きっかけ作りとして有効だったりして。そうだ、あそこで婚活パーティーやればいいのに。ちなみに、2時間歩き回るイベントだったせいなのか、10代~30代の姿が多め。わたしは参加者の中でおそらく最高齢だったと思うが、面白さにつられて2時間歩いても疲れなかった。これ、もしかしたらウォーキングの歩数を楽しく稼ぎたい人にもってこいなのでは…。お台場は一区画が大きいからただでさえ歩くし、さらにイベント中も歩けば、けっこうな運動量になるはず。演劇が好きな人、特定の役者さんのファン、暇さえあればスマホで動画を見ちゃう人、みんなで別ルートを歩いてわいわい答え合わせをしたい人、ひとり遊びが好きな人、ヴィーナスフォートが青春の地だった人、運動量を無理なく増やしたい人、いろんな人におすすめの演劇体験。シャーロック・ホームズのストーリー以外にも面白そうな作品が並んでいるので、自分好みのものを選ぶ楽しさもある。

 そうそう、一緒に行った夫はヴィーナスフォートがはじめてだったもよう。エリア内の天井を見上げて、「すごい!!本物の空みたい!!」と無邪気に声を上げていた。その間わたしは、はじめて見たような、そうでもないような曖昧な微笑みでやりすごした。うん、ここは遊びに来たことあるからね。友達とも母とも来たし、えーっと、えーっとあとはなんだっけ。

夜の山に登る(6)

植松眞人

 最終ののぞみに乗ろうと、東京駅に向かったんやけど、あんた知ってるか。週末の新幹線の最終って、意外に混んでるんやで。自由席に座ろうと思て並んでたんやけど、うまいこと座れずや。通路に立ったら、嫌な顔されるから、連結部分近くの荷物置き場に体を沈めて新大阪に向かった。東京、品川、新横浜と過ぎて、僕は名古屋に着くまでの間、じっと窓の外を見てた。僕の疲れた顔が窓に映ってた。じっと自分の顔を見てたら、なんや、あんたと向き合ってるようなそんな気持ちになってきた。不思議なもんやで。僕がな、あんた六甲山におるんやろ、って聞いたら、そや、六甲山におるんや、言うて窓に映った僕の顔があんたの代わりに答えよるんや。
「やっぱり、寒いの苦手やから海へは行かへんかったんか」
「そうや。寒いし、海は風がきついやろ」
「六甲山のどの辺におるんや」
「高山植物園のバス停あるやろ。あの近くや」
「あんなとこで火焚いたらばれるやろ」
「大丈夫や。この時期、植物園はえらい早くしまってしまうから」
「もう六甲山に入って三日くらいたつんやな」
「そうや」
「次、行くとこは決まったんか」
「そうやな。もう決まってる」
 行くとこが決まったと言われたら、なんやその先を聞くのが怖なってなあ。窓に映ったあんたの顔、いや、ホンマは僕の顔をじっと眺めてしもた。そしたら、その顔がニヤッと笑いよった。
「なに笑てんねん。きしょく悪いなあ」
 僕がそういうた途端に、急に大きなビルの光が差し込んできて、窓に映ってた顔が掻き消された。都会の光の渦の中に飲み込まれて、もうなんにも窓には映らんようになった。 
 新大阪についたのは、日付が変わる少し前や。僕はタクシーで、予約してあった三ノ宮駅近くのビジネスホテルに泊まった。ホテルの窓から六甲山が見えるかもしれんと、窓を開けてみたけど、真っ暗で何にも見えんかった。翌日になって見えんかったわけがわかったわ。窓の向こうはほんの十五センチくらいで隣のビルの壁や。真っ暗ななかでは、ものすごい広大な闇が広がっているように思えたんやけどな。僕は真横のビルの壁をじっと意味ありげな顔をして見つめてたというわけや。間抜けやろ。ほんまに間抜けや。
 朝、早めにチェックアウトして、ホテルを出ると、坂道の上に六甲山が見えた。えらいええ天気やったなあ。(つづく)

しもた屋之噺(284)

杉山洋一

南馬込近くの大森駅に降り立つと、日本考古学発祥の地、と書かれた銅像があって、なるほど、教科書で学んだ大森貝塚がほど近いのです。紀元前3000年くらい、箱根山や富士山の噴火が続き、気温は下がって植物も育たず、食料はいよいよ欠乏し、人口もすっかり減少した古代人のコミュニティがこの大森のあたりに集い、海産物で生き長らえたわけです。阪神淡路大震災を体験した義父が、南海トラフ地震、地下直下型地震が、富士山噴火を誘発する可能性だってあるわけでしょう、こわいよね、と話していたのを、思い出しました。
相変わらず世界中で諍いは絶えず、むしろ増えているように感じられるけれど、地球規模で考えれば、本来ちっぽけな蟻にも満たない我々の姿を、折に触れて思い起こしておく必要はあるかもしれません。その上で、自分はなぜ生きているのか、どう生きているのか、音楽は何をうたっているのか、なぜうたっているのか振返る時間も、或いは有意義なのかもしれません。

8月某日 ミラノ自宅
原稿が書きあがって床に入ったのが朝の4時半。夕方から酷い嵐。漸く出版社からウンガレッティとデ・ヴィータの詩を印刷する許可が下りた。水牛に第二次世界大戦中のイタリア・ジャズ音楽事情を書いたが、ムッソリーニの四男、ロマーノ・ムッソリーニが、戦後、ジャズ・ピアニストとして活躍したことは日本でも知られているのだろうか。戦前は、ベニート・ムッソリーニのヴァイオリンをロマーノがピアノで伴奏していた話や、戦後、ロマーノは長く偽名を使って演奏活動をしなければならなかった話などを聞くと、戦争は誰も幸せにもしないと思う。スロベニアはイスラエルへの輸出禁止を発表。

8月某日 ミラノ自宅
野坂さんの「夢の鳥」演奏譜が送られてきた。久しぶりに聴き直すと、お母様の名前で作った調絃と娘さんの名前で作った調絃が重なりあう部分が妙に心に沁みるようであった。わたしも沢井さんのように、「夢の鳥」を弾きたい、とメッセージに書かれていた。
沢井さんの「待春賦」の録音を聴いたとき、初めて書いた17絃の曲から、復元五絃琴、七絃琴、色々と書かせていただいたものが、全て音に編みこまれていることに感嘆したものだ。

8月某日 ミラノ自宅
NHKのラジオニュースをつけると、静岡で42度を記録したと言っている。広島原爆投下から80年。テニアン島市長が、戦没者へ哀悼の意を評していた。「絶対に戦争をやってはいけない」という被爆者の声のあとに、ネタニヤフ首相、ガザを全面侵攻の構え、と報道している。米国、ウィルコフ特使がプーチン大統領と会談したとも伝えている。核爆弾など、この世界から無くしてほしいと思うけれど、今更核を手放す国が存在するのか、この現状を鑑みれば想像もできない。

8月某日 ミラノ自宅
小さな定食屋の店先の品書きのところで、1曲パラパラと譜読みをして、折角来たからと昼食に中に入る夢をみる。コの字形のカウンター席のみ、犇めく店内で女将さんの娘と思しき小児が、「おかあちゃん、あれなあ」と大阪弁で話しだしたところで目が覚めた。気が付けば、風呂場の窓の外、同じ声の女児が伊語で母親に話しかけていた。
ネタニヤフ首相、ガザ占領政策を正式発表。トランプ大統領、プーチン大統領とのアラスカ会談発表。勝てば官軍。核の廃絶など、どうすれば実現可能なのか。

8月某日 ミラノ自宅
高校時代好きだった、ナナ・カイミが5月に亡くなっていたと知る。4月に伊左治君の演奏に少しだけ参加したが、なるほど彼の打楽器パートは、ブラジル音楽のなつかしさに似ていた、と今頃になって気づく。ラヴェンナ通りの家を通りかかると、庭に黒虎猫が昼寝していた。その姿が、昔いなくなったチビに少しだけ似ている気がする。
フランスやイタリアの朝のラジオニュースは、まずアルジャジーラ記者ら5人イスラエル軍爆撃を受け死亡のニュースから始まった。オーストラリアがパレスチナ国家承認を発表。ニュージーランドも同じ意向だと伝えている。

8月某日 ミラノ自宅
マンカのアンサンブル曲を読む。町田の実家にある箪笥の上には、マンカとピサーティ、田中吉史君と一緒に湖畔で微笑む写真が飾られていて、みな若い。25年前に田中君がミラノを訪れた時のもので、よく覚えていないが、マンカの車でピサーティのモンテイーゾラの別荘を訪れたのではなかったか。モンテイーゾラはイゼオ湖にうかぶ島だから、どこかから渡し舟で島に渡ったはずだ。ぼんやりした記憶が甦ってくる気もするが、想像力がつくりだした幻想かもしれない。彼がこの島で、兎を屠ったときのことだけはよく覚えている。本来は棍棒だかの一撃で仕留めなければいけないのを、うまく出来ずに兎を苦しめてしまった、もうやらない、と話していた。
写真に写っている4人の表情は瑞々しく、これから何でもできそうな顔にみえる。傲慢ではなく、自らの未来にむけて笑顔を向けているようだ。日中は酷暑なので、到底1階に上がれない。

8月某日 ミラノ自宅
自分を突き動かすもの。生きる喜びなのか、死の悲しみなのか。殺戮への怒りか、諦観か。
作曲でも譜読みでも、望むと望まざるに関わらず、全ての選択を決めてゆくということ。全てのエネルギーはそこに収斂されている。もちろん、生きる、という行為そのものが、全て選んでいくことで成立している。世界は、トランプ・プーチン会談に向けて激動している。イスラエル、ガザ市民移送を南スーダン等に打診との報道。
「夢の鳥」浄書をおくる。訂正稿の浄書を終えぬまま放ってあったので、先代操壽さんとの約束をずっとやり残している気がして、後ろ髪が引かれる思いであった。彼女は敬虔なカトリックだったから、聖母被昇天の祝日に浄書をしあげたら、天国できっと喜んでくださると信じたい。

8月某日 ミラノ・リナーテ空港
ドナトーニが25回目の命日。25年前の今日、暑い午後に一人でニグアルダ病院の霊安室へでかけて、亡骸と対面した。
その二日後だか三日後の午前が葬式だったのだが、その葬儀の時間にはエミリオと並んで飛行機に乗っていた。プロメテオのリハーサルのためボッフムへ向かっていて、ドルトムント行ルフトハンザだった気がする。

8月某日 南馬込
譜読みをしながら、気が付くと眠り込んでいる。ワシントンに、ウクライナ、伊仏独英、フィンランドとEU首脳が集い、トランプ大統領と会談。日本にいると世界の実感があまり湧かないのは、やはり極東の地政学的な問題なのか、島国だからか。
息子がユキちゃんのフルート・オーケストラで「禿山」を振る動画をみた。熱川の宏さんがとても喜んでいたと聞く。後から家人が宏さんに電話すると、「昔から踊りとか好きな子供だったから、指揮姿がうつくしいね。いつも演奏会を聴くホールじゃなくて練習場だと、目の前で臨場感もあって、演奏者が指揮者にひきこまれていくのが目の当たりにできるんだよ」。

8月某日 南馬込
家人のバースデーケーキを買いに、呑川沿いの洋菓子店に自転車を走らせる。ちょうどよい素敵なケーキが手に入ったのはよいが、自転車なので袋もいただけますか、と言うと、妙齢の店員の顔に多少当惑の色がみえて、なるほど支払い時、レジの傍らにわざわざ注意書きが立てかけてあって、「当店では自転車でのお持ち帰りは、おすすめしません」と記されている。まあその通りなので、ぐうの音もでない。ご近所の方が、かなり自転車でいらっしゃるものですから、とのこと。慎重に慎重に池上の坂を登って無事帰宅。ヨーコさんと息子と4人で切り分けていただく。美味。

8月某日 南馬込
高野邸にて家人のお祝い会。家人の歴年のお弟子さん16人ほどが高野三三男作の木製テーブルを囲んで、部屋全体がすっかり華やぐ。一人一人が一人前どころか八面六臂の活躍をしていて、改めて家人の指導の才にも、人材発掘の炯眼に感嘆する。家人が二日ほどかけて仕込んだカレーを食べてから、息子が家人の伴奏で466を披露した。息子が乳児から幼児の頃に、世話になったお弟子さんばかりだったので、皆、すっかり感慨深そうだ。終わりころ矢野くんも到着して、近況報告。

8月某日 南馬込
芥川作曲賞のリハーサルも、ずいぶん形が見えてくる。向井作品は、歌手陣、ソリスト陣の迸る情熱に、オーケストラがすっかり惹きこまれていて、とても純粋な音楽だとおもう。松本作品も、初めてソリスト陣を増幅して聴くと、臨場感が以前と全く違って感じられる。廣庭作品のソリストとアンサンブルとの関係性も、リハーサルを重ねるごとにより如実に視覚化できるようになった。斉藤作品は、エレクトロニクスも照明も入って、ずっと音楽の深みが変わった。エレクトロニクスの今井慎太郎さんと再会を喜ぶ。ベルリンで会ってから20年は経っていますよ、と今井さんは声を弾ませるが、彼はちっとも老け込んでいない。
エミリオが振るアぺルギスやクルタークを聴いた。一音一音への慈しみが演奏からひしひしと伝わってくる。信じられないのは、それが持続の帯となって、20分以上もの大曲全体をすっかり覆い尽くすこと。音の深みが際立たせる美しさに、あらためて感動する。どの音も、オーケストラが納得した上で大切に発音しているのがわかる。この芸術を自分が曲がりなりにも受け継いでいるのか、どうなんだろう、と自問自答しながら、聴く。

8月某日 南馬込
昨日の演奏会後エミリオを訪ねた楽屋に、今日はエミリオやヴァレンティーナがやってきた。明日から5日間、北海道を巡るという。17年、もしかすると18年ぶりの息子の姿に、エミリオの息子のロレンツォも感慨深い様子であった。18年前、ロレンツォの見立てで、息子は木製の小さなプラレールをプレゼントしてもらった。現在、ロレンツォはミャンマーに派遣されているという。家人曰く、エミリオは今日の演奏会をみて、プロメテオ公演を思い出したそうだが、きっと演奏者がバルコニー席などに四方に散らばって配置されていたからに違いない。早晩指揮はやめて、作曲に専念したいと言っていたが、そんなことができるのだろうか。浦部くんは、エミリオに芥川作品を聴いてもらえたのが嬉しいと言っていた。9月の演奏会の勉強に明け暮れている、と打ち明けてくれる。頼もしい、とこちらも嬉しくなる。
夜、家人とふたり、桜新町のファミリーレストランに駆けつけ、美恵さんと悠治さんに会う。

 めしが天です
 天がひとりのものでないように
 めしはたがいにわかち食うもの

悠治さんと並んで、フライドポテトをつまみにビールを嘗めていた美恵さんの口から、金芝河の「めしは天」を聴いてみたい、という言葉を聞いたとき、美恵さんの眼がするどく耀いたようにみえて、思わず「そうだ、これだ」と内心快哉を叫ぶ。
現代は互いに慮る、とても思慮深い社会。めくらを視覚障碍者と呼んだり、一見社会的弱者に心を砕く社会。そんな風に柔らかな手触りでコーティングされている反面、われわれの裡はどれだけアップデートされたのか。そんな言葉さえも、優しい言葉で伝えなければいけない。誰も傷つけてはいけないから、角が取れた言葉で表現しつつ、われわれの本質は変わっていないから、現代社会に漂う淀んだ空気は、どこか空虚だ。誰もが自らの言葉に責任を取らなくなって、さまざまな矛盾が空気中を無数に浮遊し飛散する。
誰かを傷つける言葉を言ってはいけない、そう規定しなければならない時点で、根本的に社会構造が機能していないことがわかる。われわれは今でも誰かを傷つけているし、隙あらば傷つけたいのだ。
トランプ政権、アッバス議長はじめ80人のパレスチナ自治政府関係者、パレスチナ解放機構関係者へのビザ発給拒否。9月の国連総会への出席阻止の意向、との報道。

8月某日 南馬込
家人と連立って10時過ぎの新幹線で熱海へむかう。宏さんは、マイヤー=フェルスターの「アルト・ハイデルベルグ」を若いころに読んで、どんな美しい街なのだろう、と憧れていたという。ずっと後年になって、出張で二日間ハイデルベルクに滞在した際、その街並みの美しさに魅了されたそうだ。宏さんは、暫く前から食べたいと思っていたコロッケを、「スコット」でとても美味しそうに食べた。
コンピュータの設定などを直しにいった町田の実家では、見事な秋刀魚をいただく。なんでも今年は秋刀魚が豊漁ということだ。なるほど、口にした秋刀魚も、よく肥えていてしっかりした身であった。
プーチン大統領、モディ首相らを習首席が天津に招き、「上海協力機構」首脳会議開催。「上海協力機構」に参加する中国、ロシア、インド、パキスタン、イラン、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンだけで、既に世界全体の人口の4割を占める。

(8月31日南馬込)