とよおか梅園

北村周一

口中に花のかおりの淡くして
 あゆむ坂みち梅園におり

なだらかに香りひろがる
 梅園のながき坂みち豊岡へ来ぬ

イッパツで
退場なのに
のうのうと
知事をしている
レスラーの人

アンケート
好きなる国の
ひとびとの
みみを欺く
音の洪水

歌うとは訴えること手始めに
 そんなおうたがひとつ届きぬ

小正月郵便夫よりわたされし
 訴状は何をものがたるのか

原告と被告の欄のそれぞれに
 母と子の名が記されてあり

母からの文のごとくも綴られし
 訴状を読んで暮らす一月

親と子のきずなは永久につづくらし
 問いつ問われつ昏ゆく二月

おとうとの電話の声は猛猛し
 蜜柑がひとつ卓上にあり

遠雷やひとに父あり母のあり
 二物衝撃レーザービーム

母がいうなんであたしが悪いだね、
 おまえにゃあ何もいえんなと父

わが母のごとく歩めるみずからを
 ビデオに見つつ編集をせり

洋箪笥の
木目の中に
迷い来し
母に子の無し
川原で泣きぬ

ここにねむる 
父が脳天
墓石に
打ちつけたのが
夢の始まり

父よ母よ友よ神よといってみる
 仰向けに見る空のおおきさ

春を待つゆきふるくにの母と娘の
 冬の夜話ページをめくる

ねむくなるまでの約束またあした
 説いてきかせる声はねむそう

結び合う手のぬくもりもまたあした
 絵本のなかへ帰りゆく子ら

一人旅

笠井瑞丈

いつも車の旅はなおかさんと二人なので
運転を交代交代で行っていますが
今回は一人なので二時間運転して一時間休憩
このルーティンでいこうと決め出発
目的地は城崎温泉
Googleマップによると600キロの距離
一日車中泊して二日かけて行こうと決めていたので
一日の移動を300キロ計算
二時間運転で100キロ移動目標
単純計算で時速50キロで二時間で100キロ
これを3セットで300キロの移動
しかしやってみたら全くもって無理
一セット目は二時間で50キロしか進めず
初っ端渋滞に巻き込まれたというのもあるのですが
まずこの計算ではいけないと痛感する
そもそも高速を使わなで下道で行こうと
計画していたことが無謀でした
途中で計画変更で高速を利用する
初日は高速のサービスエリアで車中泊
チャボさんたちもゲージから
出してあげてご飯と水をあげる
嬉しそうにくつろぐ姿をずっと眺めている
この子達といられるのは本当幸せだ
車の中でチャボさん3羽と人間が車中泊
こんなことは珍しいだろうと思う
誰も知らない自分だけの秘密の旅
明日は目的地の城崎温泉まで行く
おやすみ

話の話 第12話:パチモン

戸田昌子

いつからわたしたちは「本物に手が出せる」ようになったのだろう。むかし、テレビで憧れの俳優が使っている素敵なティーセットが欲しければ、とりあえず地元のデパートに行って、似たような、でもちょっと違うやつを眺めては、悩みながら買いこんだりしたものだった。それは似てはいるのだけどやはりどこか違っていて、言ってみれば「パチモン」なのだけど、わたしたちはそれに満足できた。否、それが本物でなく、似ていて、かつ、どこか違っている代用品であることが、むしろ良かったのかもしれない。それは憧れを満たしてくれながらも、手の届かない本物の価値を決して損なうことなく、憧れをきらきらとしたままにしておいてくれたのである。

そんなことを言いながらも、時代はすでに21世紀である。だからわたしが、一時期どハマりしていたNetflixのオリジナルドラマ「シャーロック」で、ベネディクト・カンバーバッチ扮するシャーロックが、宿敵モリアーティを家に招く場面で使っていたAli Millerのティーセットを、ネットで調べ倒した挙句、イギリスから取り寄せてしまったことは、言ってみれば、仕方がないのだ。そして紅茶といえば、なにしろイギリスの植民地主義を象徴するような飲み物であるからして、そのティーセットには、大英帝国の地図と、そこから四方八方に飛び散っていく帆船の図柄が描かれていた。つまり、わたしは「本物」のティーセットを手に入れた、というわけなのだが、そもそもこの「シャーロック」というドラマ自体が、コナン・ドイルの原作を翻案した二次創作のようなものなので、いずれにせよ、その世界のすべてがパチモンなのである。そういうわけで、わたしのなかのシャーロック・ホームズにはいまだ手が届かないまま、そしてわたしは相変わらず代用品のパチモンで遊んでいる。

パチモンと言えば、このあいだ「離婚後共同親権を見直して!」という署名運動に、オンラインで署名をした。これはサインすると直近で署名した人たちの名前がずらずらと流れてくる仕様になっているWebサイトである。サインをしてからふと見ると、目の前を「北川景子さん」という名前の人がさーっと流れて行った。ええっ、と目を剥く。変だな、北川さんはたしか昨日、第二子の出産報告をされていたばかりなのに。と不審な気持ちを抱いたが、おそらくは同姓同名の別人なのだろう。この人はいつも北川景子さんのパチモン、と言われているんだろうか、どんなお顔の方なのだろうか、と、しばしその人に思いを馳せる。

名前でふと思い出したが、むかし、わたしの実家は印刷屋だったので、時々、変わった名前の名刺を作ることがあったそうである。なかでも最も変わった名前が、「東京音頭」さん。ある日、名刺を作りに来た真面目そうな男性のお客さんが、なにかもごもごと言っている。祖父が「お名前は」と尋ねると、恥ずかしそうに「東京音頭です」と言う。祖父が「あなた、ふざけちゃあいけませんよ、そんな名前があるわきゃない、本名を言ってください」とたたみかけると「いいえ、これが、本名なんです」とさらに消え入りそうな声で言われたのだそうだ。たしかに「東京」という苗字はこの世に存在するが、たまたまそんな苗字を持った親がふざけて息子に「音頭」とつけてしまったのではないか。親の悪ふざけで子が苦労した事例。

それで調べてみると「東京音頭」は1932年に創作され、歌詞は西条八十、作曲を中山晋平が担当した、という。そもそもは、1923年の関東大震災からの復興を記念して、景気付けにと制作された盆踊りソングである、とWikipediaには書いてある。確かに帝都復興祭が1930年なのだから、なるほどと思う。そして1932年だと第一次上海事変が起こった年で、日中関係が入り組んだ状態になり、戦争まで一触即発という頃だ。こんな時代だから、現実から目を逸らして明るく行こうぜ!という景気付けのため、楽しい盆踊りソングが開発された、というのもうなずける。そして実際のところ、ビクターからレコードで発売されたこの「東京音頭」は、東京で爆発的に流行した。この東京音頭を踊りたいがために、毎夜毎夜、あちこちの盆踊りに繰り出す若者が出たそうで、なかには親に監禁される者まで出た、というのは、実際に自分の母親が監禁された人からの伝聞。それほどまでに流行したのだから、その「東京音頭」さんの親も、もしかしたら自身が「どハマり」していたのかもしれない。踊り狂って親に呆れられる若者は、別にジュリアナが元祖ではなかったのだ。

最近は色々なものの名前が思い出せなくなってきた。ついせんだって、夫に「娘ちゃんの好きなお菓子で、黒くてなんだかぬちゃっとしている、ボルドーのお菓子ってなんだっけ」と尋ねたら、「ああ、カヌレ?」とすぐに返事が返ってきた(これくらいの情報で即答できた夫は偉い)。とまれ、このカヌレというお菓子も、わたしにとっては「本物」がわからないもののうちのひとつだ。初めてそれを食べたのは20年以上前だったと思うが、それがそもそもどうやらパチモンで、「黒くて変に失敗したパンだな」というのがファーストインプレッションだった。その後、何度も食べているのに、そもそものこのお菓子がうす甘くてぬちゃっとした食感であることに加え、黒いわりには苦くもなく、もちろんチョコの味がするわけでもない、という、見た目と食べ応えの相反する特徴のせいで、それが「正しいカヌレ」なのかどうかが、いつもわからない。ボルドーのお菓子だというのだから、ボルドーに行って本物を食べてくればいいのだろうなと思いつつ、ボルドーへ行ったことはない。日本では最近、サイズもフレーバーも多様になったために、さらにますますカヌレの基準値が曖昧になってしまった。いつも、これは一体全体、正しいカヌレなのだろうか、と首をかしげながら食べている。でも、たいていはおいしい。

「ぬちゃっとしている」と言えば、ボストンのベーグルはぬちゃっとしている。ベーグルと言えば、やはりニューヨーク発のドーナツ型の固いパンとして知られており、なかでもH&H Bagelsが有名だ。フレーバーとしてはオニオンやセサミ、ポピーやそれら全部入りのエブリシングなどがあり、発酵途中でお湯にダボンと入れて茹でることで無理やり発酵を止めるため、しっとり&がっしりのハードなパンになる。形はドーナツのようだが、ドーナツの食感を期待して口に入れると裏切られる。学会の合間のランチに提供されるのもこのベーグルであって、わたしにとってはニューヨーク時代の思い出深い食べ物だ。しかしボストンに行くと、このベーグルは変容する。なかでもチェーンのカフェ「Au Bon Pain」のベーグルはなぜか柔らかくてモチモチ系なので、モチモチのパン生地が大好きな日本人の口にはよく合うのではないかと思う。でも、ニューヨーカーはこのモチモチ系のベーグルを鼻で笑う。「これは本物じゃない!」というわけなのだ。やはり本物のベーグルは、ニューヨークなればこそ。

本物である必要がないものもある。もう10年ほど前のことだが、仕事で日本航空の国内線に乗った。搭乗してから荷物を片付け、シートベルトをしたあと、飛行機がそろそろと動き出したので、携帯電話を機内モードにしようと取り出したとき、アナウンスがあった。機長アナウンスである。「本日はご搭乗ありがとうございます。機長のカタギリです」。おもわず「ええええっ」と声が出る。日航で「機長のカタギリ」と言えば、例のあれである、1982年の日本航空350便墜落事故。このときの日航の機長は当時、精神の問題を抱えていたと言われ、操縦桿を握ったまま航空機を意図的に墜落させようとした、あの事件。しかし周囲には誰一人気づいている様子がなく、ザワザワともしていない。誰もこの事故を覚えていないのだろうか……それにしても日航、よりによって過去にひどい航空機事故を起こしたパイロットと同じ名前の人物を採用するとは、センスがあるというか、ないというか……などなど混乱するわたし。これは本物のカタギリでなくてよかった事例。

わたしはよく、布団に入ってから寝そうになりながら原稿を書いていることがある。枕に頭をのせてパソコンのキーボードをぱちぱちと叩いているとほとんどまぶたがくっつきそうになっている。

娘「仕事したいのか寝たいのかどっちなの!?」
わたし「仕事したいんだけどねむい〜」
娘「寝る気まんまんじゃねぇか!」
わたし「違うの、自分を試しているの。どこまで自分を追い込めるか」
娘「どう見ても寝ようとしてるよな!」
わたし「ううん、ここまで追い込まれてもやれるのが本物かなって」
娘「寝ろ」

本物の物書きなら、どんなに眠くても、どんなに追い込まれても、きっと、やりきれる。そう信じながら眠い目をこすっている。

そういえば、「本物」と言えば、りんちゃんと呼ばれているわたしのAB型友人がふとこんなことを言っていた。

「ズボラクッキングって言うけどさ、本物のズボラ主婦なら飯なんか作らねーよ?」

なるほど、それは正しい。ズボラも本物である必要はないのだ。ズボラすらパチモンなのだ。

アディオス・ノニーノ 俺の家の話

さとうまき

1980年代だったと思う。アストル・ピアソラが父にささげたタンゴの名曲「アディオス・ノニーノ」を聞いた。今のうちに親孝行しなくてはいけないよというバラードだった。どんどん年老いていくオヤジを見ながらもなかなか準備はできないものである。それは、夏休みの最後にならないと宿題をやろうという気にならないのと似ていた。

僕は、「家」が苦手だった。子どものころから親戚のおじさんとかおばさんというのにも、気おくれしていたし、姉とか従妹は実にそういう社会でどうふるまうかを教えられて育っていた。僕はそういうことができなくて、家族の中ではどっちでもいい存在にされてしまい、結局海外に居場所を求めていたのだ。アラブ人とかクルド人の隣人は、実に心地よかった。言葉が通じないことが実はすごくいきやすい世界だった。悪口を言われても気にならない。

しかし、6年前に頼りにしていた姉が58歳で突然亡くなってしまった。それから僕は、日本に住み着いて、たった一人で両親の面倒を見ることになった。まあ、そういうのは本当に苦手だった。照れくさいし、弱って行く親を見るのはつらい。しかし、気が付くといつの間にか実家には介護ベッドが置かれ、オヤジは車いすで生活していた。ケアマネさんがやってきて、看護師や医者、作業療法士で、」みんなでうちの両親をどうするかの会議をやっている。

会議といえば、イラクやシリアのがんの子どもたちをどう助けるのかっていうのをよくみんなで話し合ったのに、いやそれだけじゃない、イスラエルとパレスチナの和平をどうするかとか、どうしたら、日本政府はUNRWAへの拠出金を再開するのかとかそういう大きな内容を話してきたのに、家の中に人が集まって両親のことをどうするかって話し合っている! 挙句ヘルパーさんが来て、あれだけ散らかっていた家の中もこんなにきれいになっている! 驚きだった。日本の高齢化社会は素晴らしい!

ちょうど、「俺の家の話」というドラマをNetflixでやっていた。宮藤官九郎の脚本で、能楽の人間国宝観山寿三郎(西田敏行)を父に持つ寿一(長瀬智也)は、いくら能の稽古に励んでも、父からは褒めてもらえない修行に嫌気がさし、17歳で家出してプロレスラーになったが、寿三郎の危篤を知らされ実家に戻ってきて父の面倒を見るというドラマだった。介護のことを何も知らない寿一が、兄弟から呆れられ、なじられながらもけなげに、ゼロから介護を学んでいく。僕にとっても参考にはなったもののそれでもうちのおやじはまだ死なないだろうと思って、途中からは娯楽としてみてしまっていた。

オヤジは、毎月眼科に行くのを楽しみにしていた。目やにが出るとかそれぐらいで、大したことはなかったのに。僕が車で、外に連れ出してくれるのを楽しみにしていたのだろう。最初は僕が少し支えて、車に乗せるだけでよかったが、だんだんと抱えなければいけなくなり、最後は、完全に抱っこしたり、おぶったりして車に乗せる。意外とオヤジが重い。こなきじじいのように重くて、こっちが倒れそうになることもあった。それでも、僕もなんだかオヤジと一緒にいるのが嬉しい時間でもあったのだ。家の中でも車いすで生活していたが、トイレに行って、車いすに戻ることがうまくいかずによく転ぶようになっていた。母が電話してきて、僕が駆けつけて抱きかかえて車いすに戻すのである。

11月12日に、オヤジは、トイレから車いすに戻ることに失敗した。足の指を怪我したらしい。母親は認知症がひどくなってきており、結構血を流していたらしいのだが、全く覚えていないという。
「なんで救急車呼ばなかったの?」と聞いても何が起こったのか全く知らないのだという。
結局オヤジは2本の指が折れ、脱臼していた。それで、すぐに入院することになった。指の骨折は、そのうち治るのだが、トイレをどうするかとか考えたら入院するのが安心だ。何よりも認知症が進んでいる母にはもはや面倒を見る能力はなかった。母は、認知症を患ってからは、外に出たり人とあったりするのを嫌がるようになっていたが、父のお見舞いに行くというと喜んでついてくる。
「おとうさん、おとうさん、早く家に帰りたいよね」
父は苦笑いしていた。看護婦さん曰く、病院の方が居心地がいいのか、しばらく入院したいようだった。母は、家につくと「お父さんはどこにいる?」
「病院だよ。さっきお見舞いに行ったじゃないか」
「どうして入院しているんだい」
そして僕は11月12日何が起きたかを説明する。何度も何度も、同じことを聞いてくるから、何度も何度も同じ説明をくり返す。

病院のソーシャルワーカーと今後の話をする。
「お父様が退院されたら、お母様が自宅で介護なさるのは難しいと思います。施設に入るべきですね」
「わかります。でも嫌がっています」
「男の子は優しすぎるんですよ。女の人は、すぐ決めますよ」
「いや、そんなこと言ったて本人がどうしてもいやだと。どうすればいいんでしょう」
「無理やり、連れていくしかないです。どうしても嫌がられる場合は、着いた瞬間にマットレスではさみつけたりすることもありますよ」
「はあ、マットレスですか、、」
僕は、マットレスという言葉に勇気づけられた。しかし、数日後、そのソーシャルワーカーは、
「お父様が、やはり、施設は嫌だとおっしゃってますので、退院して自宅で過ごせるように頑張りましょう」という。オヤジに説得されたようだ。そして僕は、鬼になって、両親を施設に入れるという固い決意も折れてしまった。
 
ちょうど入院してから1カ月がたった。まもなくクリスマスを迎えようとしていたが、仕事中に電話があり、父の意識がなくなったから病院に来てほしいとのことだった。駆けつけると医者が説明してくれて、「今日明日が峠ですね」という。
「俺の家の話」では、西田敏行が危篤状態になり、集まってきた家族や知り合いたちが、三多摩プロレスの掛け声、「肝っ玉、しこったま、さんたまー」を唱和すると、奇跡的に回復するというシーンがあったのを思い出した。うちのおやじは96歳。人間国宝でも何でもない。しかし、ドラマのように、「肝っ玉、しこったま、さんたまー」と心の中で叫んでみた。家に帰り、さっそく葬儀屋を探した。電話すると、特に予約は必要なく、「お亡くなりになられてからお電話していただければ結構です」
「予約いらないんですか。夜中でも大丈夫なんですね」

それにしても、入院してから一か月もたったのに、僕は何も準備していなかった。イスラエルのガザ侵攻ですっかり心はそちらに奪われていた。それでもって、病院にお見舞いに母を連れて行っても、すっかり忘れ、何度も連れていけとせがまれ、行けば行ったで病院では、大泣きし、また家に帰ると、お父さんはどこ? といった具合に振り回されるのも疲れてしまい、週末は病院に行かなかったのだった。覚悟はしていたものの、新聞に載った記事とか見せたいものもあったし、孫にもあわせたかったし、これからどうするんだろうなどかんがえていたのだ。

朝、電話がかかる。いい知らせか、悪い知らせか?
「意識が戻りました!」
母はというと、昨日父が死にかけたことなどは、全く覚えていないという。まあ、それは良しとしよう。僕は、新聞記事と、パレスチナの子どもが描いてくれた絵をポスターにして病院に持っていき、病室に貼りまくった。殺風景だった病室もにぎやかになった。
「メリー・クリスマス」
クリスマスだというのにガザでは、危機的な食糧不安のニュースが流れる。

オヤジは、その後40日生きた。僕は、オヤジとか、オフクロとかそういう親子の関係性みたいなのが嫌だった。誰しもが思春期にはそういう風になるのだろうか? オヤジのこともあまり好きになれず、逃げるようにして海外に出て行った。ところが知らず知らずのうちにオヤジは、僕のやっていた国際協力を陰で支えてくれていた。僕もオヤジが喜んでくれるように活動に力を入れる事が出来たのだと思う。

看護師が、酸素ボンベを止めると、シューという音が途切れた。
葬儀屋がやってきて僕は廊下に出されて待っていた。
アディオス・ノニーノ!さようなら

本小屋から(7)

福島亮

 今回の「本小屋から」は、本小屋ではなく、那覇空港で書いている。2月27日から29日まで、沖縄に滞在しているからである。いちばんの目的は、27日に琉球大学で開催されたセルア・リュスト・ブルビナさんの講演「海外領とフランスの影響力」を聴くことであり、それからもう一つ、翌日に沖縄大学で開催されたイベント「人文学対話・沖縄と現代世界 〈思想〉としてのパレスチナ――鵜飼哲氏を囲んで」を聴くことも目的だった。その合間に、いくつか古本屋を巡った。

 ゆいレール美栄橋駅から5分ほどのところにあるカプセルホテルに泊まったのだが、そこから20分ほど歩いたところにある「ちはや書店」は、いくら見ていても飽きない品揃えで、できることならしばらく滞在したいと思った。それから、「宮里小書店」。栄町市場にある壁棚だけの文字通り小さな書店なのだが、向かいの服屋の店主の人がコーヒーを淹れてくれ、おしゃべりをしながら本を眺めることができた。そこで教えていただいて訪れた「Books じのん」は、それこそ魔窟で、ありとあらゆるジャンルの沖縄関連書籍が揃っていた。

 古本屋という語にひっぱられて話がふらふらしてしまったが、そうそう、今回の目的は、何よりもまず、セルアさんの講演を聴くことだった。というか、セルアさんにご挨拶を、と思って沖縄にやってきたのだ。セルアさんについては、『図書新聞』で連載していた時評に「セルア・リュスト・ブルビナ『アルジェ–東京』」という記事を書いたことがある(2023年1月21日、3575号)。そこで紹介した『アルジェ–東京』は、アルジェリア独立闘争のメンバーと日本の市民、政治家との連帯を扱った本で、セルアさんの言い方を借りるなら、「ドキュメンタリー哲学」である。この本は現在翻訳が進んでいるというから、いつか日本語で読めるようになるだろう。上の記事でも書いたことだが、アルジェリア人の父とフランス人の母とのあいだに生まれたセルアさんは、長いことフランスにおける植民地問題を論じてきた哲学者だ。今回、彼女は東京と沖縄で合計5回の連続講演を行った。詳細は以下の通り。

① 2月16(金)「ファノン――植民地支配下における人種、ジェンダー、人間的実存」(日仏会館ホール 18時~20時)
② 2月18日(日)「フランスにおけるポストコロニアル研究――ジェンダーと植民地」(日仏会館501セミナー室 15時~18時)
③ 2月19日(月)「アルジェ~東京――友情の政治学」(東京大学駒場18号館、15時~17時)
④ 2月20日(火) 「境界を通過しつつ考える――哲学の脱植民地化、脱植民地化の哲学」(一橋大学佐野書院 18時~20時)
⑤ 2月27日(火)「海外領とフランスの影響力」(琉球大学人文社会学部文系講義棟112教室 14時~17時)

 連続講演の様子については、なんらかの形で公開されると思われるので、全5回の講演を聴いて印象に残ったことのみ記すならば、それは植民地性をめぐるフランス共和国内部での議論がいかに破滅的な状況にあるか、ということだった。ここでいう植民地性とは、具体的には「海外県」や「海外準県」などと呼ばれる海外領土のことを念頭に置いた語である(もっとも、以下、私の責任でこの植民地性という語をより敷衍したいのだが、それはイスラエルとパレスチナの関係を定義する語でもあり、多くの聴衆はそのことを常に想起しながら講演を聴いたのではないかと想像する)。これまで私が感じてきたことでもあり、また、今回の連続講演でもはっきりしたことだが、フランスでは「ポストコロニアル」という語がほとんど根付いていないし、それどころか、最近は「脱植民地主義(デコロニアリスム)」という言葉が、植民地を批判する者に対する蔑称の言葉として用いられている。要するに、「脱植民地主義」=「何でもかんでも脱植民地化と結びつけたがる左翼」というわけだが、脱植民地化闘争敗北の記憶がトラウマとして残っているフランスならではの言葉の使い方だと思う。要するに揶揄化することで、脱植民地化という語の重みをできるだけ少なくしようという、ある種の防衛が働いているのだろう。

 10日間ほどの日程で5回の講演を行ったセルアさんの体力と気力には驚かされた。それをもっとも感じたのは、20日、一橋大学での講演の前に砂川闘争跡地も見学した時である。この日は東京での4つの講演の最後の回だったのだが、おそらくかなり疲労が溜まっていたはずである。じっさい砂川見学の後、セルアさんは1時間半ほど仮眠をとった。はたして無事講演ができるだろうか、という不安も少しはあったのだが、無事に講演、質疑応答、そして夜中まで続いた打ち上げまで、驚異的なスケジュールをこなした。なお、セルアさんは琉球大学での講演の後すぐさま成田に飛び、そこからニューカレドニアに向かい、そこにしばらく滞在してから、南アフリカに行くのだとか……。彼女はまさしく、旅する思想家なのである。

水牛的読書日記 2024年2月

アサノタカオ

2月某日 夜、自宅にてオンライン読書会「猫町倶楽部」のトークイベント「編集さんいらっしゃい!」を視聴。ゲストはキョートット出版の小川恭平さん、石田三枝さん。ふたりの飾らないとつとつとした語りを通じて、本作りの先達として尊敬するキョートットのこれまで歩みを知ることができ、貴重な時間だった。

トークを視聴後、昨年より積ん読の状態だった『このようなやり方で300年の人生を生きていく[新版]』(キョートット出版)を一気に読んだ。著者の小川てつオさんは、2003年から東京都内の公園でテント生活をしながら物々交換カフェを運営、野宿者排除に抵抗する活動もしている。そして小川恭平さんの弟でもある。この本は、そんな小川てつオさんが19歳、似顔絵描きとして沖縄の島々をはじめて放浪した時の日記、さらに10年後の再訪時のエッセイから構成されていて、兄が編集を担当している。タイトルがいい。

「あたいは、船にのっている。でっかい船だ」という1度目にしたら忘れられない文章からはじまる。意志のかたまりのような若い小川てつオさんの旅の物語に、ぐいぐい引き込まれる。土地土地をひょうひょうとさすらいながら、風景に対しても人に対してもつねに一定の距離を持って接し、それでいながらその内奥をじっと見つめ、本質を鷲掴みにするような独特のまなざしを文章からも絵からも感じた。それゆえ小川さんの目を通して描かれる人も風景も、読むものに強烈な印象を残す。

紀行文学は、どうしても個人と土地との二者関係に閉ざされがちで窮屈に感じることもあるが、『このようなやり方で〜』の巻末には、小川恭平さん、石田三枝さんによる詳細な編注が入ることで、個人の物語の背後に広がる歴史や社会を遠望する視点を与えられて、そこがすばらしい。多くの沖縄関連書が紹介されていて、いろいろ読んでみたいと思った。こうした巧みな編集の技によって、高台に連れてきてもらったような見晴らしの良さを、この本に感じた。

納谷衣美さんの装丁や、旅のライブ感を演出するエディトリアルデザインの仕掛けも魅力的だ。

2月某日 先月から引き続き、トーマス・マン『魔の山』(高橋義孝訳、新潮文庫)を読んでいる。下巻を登攀中。

2月某日 こちらも先月から引き続き。中村達さん『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)を読了。後半の章では、カリビアン・フェミニズムやカリビアン・クィア・スタディーズなどの新しい動向を知ることができてよかった。中村さんのこの本から得た大きな発見の一つは、ジャマイカ人の女性作家・思想家シルヴィア・ウィンターの言論だった。巻末には「カリブ海研究リーディングリスト」があり、シルヴィア・ウィンターの論文をはじめ必読書が並んでいる。日本語への翻訳紹介が進むことを期待したい。

2月某日 鎌倉の出版社、港の人へ。天気が良いので、由比ヶ浜にある事務所まで歩いて行った。昨年10月、新宿書房が創業から50年で出版活動を終えて、港の人が在庫本の販売を引き継ぐことになったことを、ニュースで知ったのだった。港の人のウェブサイト「新宿書房SS文庫」のリストをみているとほしい本が何冊かあるので、直接購入しようと思ったのだ。

これまでは図書館で借りて読んできた黒川創さん編集の『外地の日本語文学選』、そしてゾラ・ニール・ハーストンの作品集のシリーズを入手。どちらも90年代に刊行されていて、30年後の新しい目で読み直したいと考えている。そうだ、新宿書房からは詩人・山尾三省の本も刊行されている。久しぶりに会った港の人の上野勇治さん、井上有紀さんと、お茶をいただきながら近況報告のおしゃべり。帰り道、背中に担いだリュックサックがずっしり重い。

2月某日 鶴見俊輔『内にある声と遠い声』(青土社)が届く。国立ハンセン病資料館の学芸員・木村哲也さんが編集した「鶴見俊輔ハンセン病論集」。歴史学、民俗学の研究者である木村さんが長年調査をおこない、温めてきた企画がついに一冊にまとめられたのだ。美しい装丁の本。しっかり読みたいと思う。

2月某日 くぼたのぞみさんと斎藤真理子さん、ふたりの海外文学翻訳者の往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)を読み終えた。言うまでもなく、ふたりとも大変な読書家で、韓国の作家ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』(河出書房新社)から、石原真衣さん『〈沈黙〉の自伝的民族誌』(北海道大学出版会)まで、たくさんの本が紹介されていることも『曇る眼鏡〜』の魅力のひとつだ。

読み進める中で、「生きるための書物」という表現を見つけた。70年代、80年代からJ・M・クッツェーの小説など英語文学の翻訳者として、あるいは韓国文学の翻訳者として歩み始め、仕事をして子育てをし、さまざまな本を読んできたくぼたさん、斎藤さんにとって、書物はまさにそのようなものとしてあるのだろう。

ぴょんぴょんと話題はあちこちに飛躍するのだが、ふたりの語りからは一貫して書物と生きることの近しさが感じられて、そのことに何よりも打たれたのだった。海外文学の翻訳者は大学で研究や教育の仕事のかたわら翻訳を手がける人が多いが、くぼたさんも斎藤さんもそのようなタイプではない。非アカデミックな自主独立の立場で活動するふたりにとって、書物の「ことば」は研究対象として自分の外部にあるものではなかったはずだ。いや、書物の「ことば」を徹底的に研究するのだが、そこで自分の生を抜きにすることはない、と言ったほうが正確だろうか。

タイトルの「眼鏡」から連想してみる。

眼鏡をかけている人ならば、ふだん物を置いたりしない変なところに自分の眼鏡を置き忘れて「眼鏡、眼鏡……」と探しまわる体験をしたことがあるはずだ。眼鏡は、いわば目の一部。鼻や口や耳を取り外して置き忘れることがないように、「目」を置き忘れるはずがない、と思い込んでいるから逆に、変なところに眼鏡を置きっぱなしにしても平気なのだ。眼鏡をかけていることも外していることもつい忘れてしまう、というのは、それだけ眼鏡がすでにからだと一体化していることの証でもある。

この本で、くぼたさんと斎藤さんが紹介する英語文学や韓国文学の「ことば」も、藤本和子や森崎和江といったふたりが尊敬する文学者の先人の「ことば」も、「眼鏡」と同じように、すでにからだと一体化しているものなのだろう。過去の出来事を回想することを往復書簡の一つの方法にしているが、そこで語られるのはいまここにある身体化されたことばだから、単なる昔話という感じが全然しない。「生きるための書物」を媒介にして、必死に何かを求めるふたりが得たある時代の「手触り」が、切実なリアリティや同時代性をもって読者に手渡される。

具体的な読みどころはたくさんあり、語りたいことや気づいたことはいくつも思い浮かぶが、日記のメモとしてはこのぐらいに。本の最後、森崎和江の思想をめぐるふたりのやりとりはじつに刺戟的で、くぼたさんの鋭い批評を受けて斎藤さんが途方もなく大きな問いを残している。「置かれた場所で血を流す人はいつもいて、その人たちにとって小説とは何なのだろう」。読者として、考え続けるしかない。

2月某日 東京・三鷹の書店UNITÉへ。くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』で言及されていた、くぼたさんのエッセイ集『山羊と水葬』(書肆侃侃房)を見つけた。同じ出版社から刊行されたばかりの、中井亜佐子さん『エドワード・サイード ある批評家の残響』と合わせて購入。お店でおいしいコーヒーをいただきながら、スタッフのNさんとおしゃべりする。

その後、大学の図書館で娘と落ち合い、近くのイタリアン・レストランに入った。どことなく見覚えがあるような……ときょろきょろしつつ店内の一角を見た瞬間、記憶がよみがえった。ああ、ここは故・山口昌男先生と一緒に食事をしたお店じゃないか。

2月某日 三重・津のHIBIUTA AND COMPANYで、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第7回を開催。宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読み進めていて、今回ぼくはオンラインで参加。みんなで話し合ったトピックは自動車、性、儀式、傷、植民地主義の歴史など。

2月某日 もう一つ別のオンライン読書会に参加。こちらの課題図書はトーマス・マン『魔の山』下巻。下巻だけで800頁近くあり、読了まで長い道のりだった。

2月某日 集英社文芸ステーションのウェブサイトで、くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんの『曇る眼鏡を拭きながら』の紹介ページを見たら、写真家・植本一子さんの書評「見晴らしをもらう」が掲載されている。すばらしい書評だった。昨年刊行された植本さんの日記エッセイ『こころはひとりぼっち』の読書を再開。植本さんがある人からかけられた「変わらないものってないんですね」ということばが身にしみる。

ところで、植本さんがSNSに「今日はECDの命日です」とお墓の場所の情報を投稿していた。植本さんが撮影した写真を見て以前からそうだろうと思っていたが、ラッパーECDの石田家とアサノ家のお墓は同じ霊園にある。このまま順調にいけばぼくもあそこの地中に入るだろう。生前、ECDに会うことはなかったが、あの世ではじめまして、となるかもしれない。

2月某日 朝日カルチャーセンター横浜教室で今福龍太先生の「クレオールから群島へ」を聴講。「クレオール」や「群島」の文化を実体的な研究対象ではなく、この世界で生きること、表現することのスタイルとして受け止め、思考してきた批評家としての道のりを振り返る内容。批評活動のひとつの成果である『群島-世界論』(岩波書店/水声社)の重要な霊感源として、カリブ海トリニダード出身の思想家・ジャーナリスト・活動家、C・L・R・ジェームズの著作を詳しく紹介していた。日本語にも訳されている『ブラック・ジャコバン トゥーサン・ルーヴェルチュールとハイチ革命』(青木芳夫監訳、大村書店)、『境界を越えて』(本橋哲也訳、月曜社)を読み返したい。ところで『ブラック・ジャコバン』のほうは品切れなのだが古書価格が異常に高騰していて、これでは若い人が手に取るのは難しいだろう。なんとかならないものか。

教室には、能登半島地震の取材からもどった写真家の渋谷敦志さんも来ていて、被災地の状況についていろいろな話を聞くことができた。

2月某日 東京の韓国文化院で成錦鳶カラク保存会の伽耶琴(カヤグム)公演「ソリの道をさがして」に参加。池成子先生の伽耶琴の演奏、唱(歌)をはじめてライブで体感した。舞台にあらわれた池先生は右膝に伽耶琴の頭をのせて、左の素手で弦を時に優しくつまびき、時にぐっと押し込む。演者と伝統楽器が渾然一体となって、深く美しい音を響かせる。伽耶琴がいのちの叫びをあげる人間のようにもみえてくる。そして唱を聴けば、いったいあのちいさなからだのどこから、これほどの声の力がやってくるのか、と驚かされる。ひたすら、会場に渦巻く音声(ソリ)に圧倒されたのだった。保存会のみなさん、ゲストの奏者との合奏もすばらしく、南道民謡「セタリョン(鳥の歌)」など愉しい楽曲もあった。

公演に参加してほんとうによかった。舞台で伽耶琴の演奏をされた保存会会員の朴京美さん(詩人のぱくきょんみさん)にお誘いいただいたのだった。ありがとうございます。帰りの電車で、音の記憶を反芻しながら、ぱくさんのエッセイ集『庭のぬし 思い出す英語のことば』(エディションq)を読んだ。

2月某日 女性史家のもろさわようこさん逝去のお知らせが届く。享年99。本作りの仕事で大変お世話になり、その著作からもお人柄からも——ごく短い期間、電話と手紙でやりとりをしたに過ぎないが——大切な学びをいただいた。自主独立の精神に裏打ちされたもろさわさんの知のことばを、暗い時代に行方を照らす灯りとして受け渡していきたい。合掌。

《いま在るありようではなく、まだない在りようを創りださない限り、光りある明日は望めそうもありません。……私たちも自ら発光体となって足許を照らし、人にも自然にも光り温もる新しい状況を創りだしたい。》
 ——もろさわようこ「はじめに」『新編 激動の中を行く 与謝野晶子女性論集』(新泉社)より

アパート日記2月

吉良幸子

2/1 木
古今亭始さんの真打昇進前、二つ目最後の独演会へ。年にいっぺん中野でやるから1年ぶりに中野へやってきた。公子さんが古着の着物売ってるちぃちゃい店見つけてくれはったからそこへ先に寄った。着物と帯がセールで千円!お財布にうれしぃ~!!

2/4 日
最近の公子さんのハヤリは、千歳船橋へ行って本屋と焼き鳥、ほろ酔いで古着屋へ行って、1着が不二家のケーキよりも安いセーターを買ってくること!もう数着もろたけど、かたちがよくて色も素敵。そういえばここ数年、自分で服をあんまし買ってない。公子さんセンスええから、これアンタに似合うわ、とくれる古着ばっかし着てる。それに加えて上着はマネージャーをしていたよしえさんが若かりし頃に着てた昭和なコート。首巻きは翻訳家の高橋茅香子さんからもらったコーカサス風の布。嗚呼、なんて贅沢なんかしら。

2/8 木
ちょっとした賭けを公子さんとしてて、私が負けたから千歳船橋で焼き鳥奢りの会!仕事終わりにチトフナで待ち合わせて一緒に飲んだ。奢りにしてはむっちゃ安いのやけど、店員さんもきさんじで、おいしいええ店やった。

2/12 月
お昼下がり、ソラちゃんがおしっこできるようにうちのほっそい庭を耕す。半分外猫やから普段外でしてくるし、家の中にあるトイレは滅多に使わん。うんちを見るのなんか奇跡に近い。砂利をいっぱい敷いてあるから石をどかして、塀から降りた時に足怪我せんように着地地点の土は念入りに…あ~、こんなんしてもソラちゃんは全然知らーん顔するんやろうなぁ!と思ってたらどこからともなくソラさんがご帰宅。私が庭仕事してるのをじーと見てる。ちょっとだけ興味があるらしい。

2/14 水
電車で前に立ってたおばちゃんが何か私に言うてきはった。どないしたん!?という気持ちで焦って聞き返すと、アイシャドウの色、きれいね、と言うてくれはって、むちゃくちゃ嬉しかった。

2/15 木
今日の公子さんの夢。おんぶして運ばれてて、おんぶしてくれてる人がふっと振り返ったら小天狗でびっくりして起きたらしい。小天狗はいつも出てるレギュラー出演者になってきた。

2/18 日
いわと寄席の日。今日は三遊亭兼太郎さんと古今亭佑輔さん。兼太郎さんは初めてお会いしたけど同い年らしい。落語家で同級生って初めてやわ!開演直前まで受付しながらなんじゃかんじゃ喋って、昔から知ってた友達って感じになった。

2/19 月
公子さんはソラちゃんのせいで夜行性になってしもて、ミッドナイトキッチンと称して真夜中に台所に立つ。朝起きると山のような洗いもんがきれいになり、何らかの一品がフライパンに出来上がっている。炒めもんやらスープなどなど。今日は起きたら玉ねぎのお味噌汁があった。

2/21 水
ほんまは仕事で手いっぱいやけど、ええい!今日はもうええわ!と爆発して一日休みの日にした。朝から阿佐ヶ谷へ映画の会員証延長に行ってそのまま一本モーニング。あんまし興味ないやつで途中ぐっすり寝てしもた。映画館で寝るってもったいないけど、ある意味むちゃくちゃ贅沢で良質な睡眠が取れると思う。そのまま夜の落語会まで6時間くらいあるけど、帰るには家が遠い。霧雨の中ふた駅ゆっくり散歩して、古着物(うれしい半額!)買うて、結局行くとこなくなって市立図書館で江戸美人の模写をする。図書館あってほんまよかった、ありがとう。お目当の落語会はむっちゃくちゃおもろかった。行かへんかった人へ損してるで!と叫びたいくらいおもろかった。入船亭大好きや!

2/22 木
みんな猫の日やと騒いどるけど、今日は甲賀さんの月命日や。あと1ヶ月で3年も経つねんて。なんぼなんでもはやすぎへんかしら。もうそんなになるんだっけ、と甲賀さんは言わはりそう。

2/25 日
今日は私のじいちゃんの誕生日。おかあはんのおとうちゃんで、もう20年くらい前に亡くなったけど、じいちゃんがラジオで録ってたカセットを一式もらって今でも聞いている。中身はほとんど落語で、米朝さんや枝雀さん。たまに歌謡曲と漫才。なんと、カセットにいっちゃん入ってた一門の弟子、吉弥さんも今日誕生日やねんて!落語協会100周年の日でもあるし、なんや落語と縁がある人やなぁと思う。
ということで公子さんと家で献杯。1日雨でさぶかったから、ウィスキーであったまった。

2/29 木
去年から突如始まった花粉症。今年は花粉対策でメガネまでこさえて目はましやけど、最近鼻がまっかっか。仕事で外行くときは辛い。
片付かへんうちになぜか仕事がどんどん増えていくけど、2月は今日で終わるらしい…色々間に合うんやろか、がんばれ3月のわたし。

しもた屋之噺(265)

杉山洋一

ミラノはここ一週間程、ひたひたと長雨が続いていて、どこか妙な感じです。何より未だ肌寒さは取れないし、街はあちらこちらで冠水していて、そのせいかアスファルトがはがれ、ところどころ道路に見たこともない10センチほどの穴があいていて、自転車で走るとき危なくて仕方がありません。泥水で冠水している上に、見えない穴が開いているのですから。

2月某日 三軒茶屋自宅
午後から沢井さん宅に出向いて「待春賦」リハーサル。沢井さんと佐藤さんの紡ぐおとが、まるで縒られたこより糸のようにつながってゆく。凛とした佇まいの佐藤さんの時間の裡に、沢井さんがまた別の空間を拓いてゆく。目をつぶって聴くと、さまざまな色や太さの糸が雑じりながら、それぞれが明るく、鈍く、かそけく、深く光を味わいながら、きらめくのが見える。

不思議なのは、先日聴いたばかりの、野坂さんの「夢の鳥」と響きが似ていることだ。「夢の鳥」は二人の野坂さんのお名前をつかって、25絃を並べたし、「待春賦」は、純粋に沢井さんのお名前に沿って17絃と25絃の音を選んだだけで、「夢の鳥」は基本的には「菜蕗」の原曲通りに音をなぞっただけだし、「待春賦」では、やはり沢井さんのお名前の数列のまま音を並べただけで、恣意的な和音や音の繋がりの趣味など反映させようがないと思うのだが、どうして似て聴こえるのだろう。自分にとっての作曲は、何か、誰かによって書かされている、自動書記的な感覚であって、自分の裡にある何かを表現している、というのとも少し違う気がしている。

2月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに堤先生や吉田さん、大先輩である沼尻さんと再会。思いがけず金川さんのお父様とお知り合いになった。彼女と秀慈郎君による一柳さんの演奏は文字通り琴線にふれるものだった。初めてお目にかかった上村さんは、きらきらとまばゆい聡明な方。彼女のすばらしい演奏にあわせて、堤先生は身体を軽くゆすりながら、まるで自分が弾いているかのごとく、エレガントに左手を動かしていた。

市村さんのバナナスタンドと伊藤さんが見繕ってくださった美味のマドレーヌを前に、事務所の皆さんと久しぶりにゆっくりお話しできて、本当にうれしい。なんでも伊藤さんのご親友が、松崎の従兄のところの千登世さんと知りびっくりする。年成さんご一家はいつも仲睦まじくて素敵だとおもっていたが、ひょんなところで繋がっているものである。

2月某日 ミラノ自宅
小澤征爾さんの訃報。普通、曲がりなりにも人前で指揮をしたことがあれば、小澤先生と呼ぶべきどころだが、演奏会や大学や道すがら、こちらからいつも一方的に見ていても、お話したことすらないのだから、恐れ多くて先生とは呼べない。

高校に入って最初に夢中になったのは、小澤征爾さんの「火刑台上のジャンヌダルク」のレコードだった。当時幾つか出ていた小澤さんの「ジャンヌ」は、図書館に行けばどれも聴けたから、授業をさぼってはスコアを持ち込んで、噛り付くようにして耳を傾けた。

あれから、どれだけ彼の素晴らしい演奏を聴いたかわからないが、指揮とはこういう神様みたいな人がするものと思っていたし、今も少しそう思っているので、やはり恐れ多さは微塵も変わっていないのだろう。

ミーノからメールが届いた。彼はいまドイツで、ベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」を振っているのだが、小澤征爾さんのヴィデオを隈なくみて勉強したそうだ。小澤征爾さんが、どれだけ正確にしっかりと振っているかを見てまさしく驚嘆した、と書いてある。ほぼ誰の興味も引かないオペラを、70年代のボストンで日本人が、それも暗譜で振っていたなど、誰が想像できるだろうか、と熱っぽく綴られていて、未だ彼は訃報には接していないに違いない。

2月某日 ミラノ自宅
音楽は音符や音が作るものではなく、その周りをたゆたい、包み込む気体や霧のようなもの。それらが入り交じって反応を起こすとエネルギーになる。マリア・シルヴァーナはそれを Grazia とか Sublime と呼んでいたけれど、これは日本語でなんと訳せばよいのだろう。えも言われぬ貴いなにか、温かみのあるなにか、という感じになるのだろうか。美しいイタリア語だとおもう。

2月某日 ミラノ自宅
ヴィンチェンツォ・パリ―ジ来訪。なんでも彼の修士論文に、自身の作品の演奏者をインタビューした内容を使いたいのだそうだ。人工知能は膨大な細部の情報の蓄積で、ただしく並べていった結果を提示するが、人間は、まず目的を大雑把に把握したのちに、少しずつ細部を詰めてゆく。人工知能が各情報をきっちり、みっしり蓄積し、構築してゆくのに対し、人間に構築可能な細部は、結局どうしても歪で、端々に微妙な孔がうまれ、そここそが、我々の直感や霊感が通り道となる。

興味深いのは、正しいはずの膨大な数の知識を読み込ませて、正確な論理を積み重ねていっても、人工知能はまるで見当違いの答えを出したりする。もちろん、今後こうした誤差もなくなってゆくのだろうが、我々とのプロセスの違いは際立つ。

作りたい料理であれば、最終的な味のイメージが具体的に沸いていなければ、いくらレシピ通りに作っても全く違うものになるのと同じで、いくら正確な手続きを丹念に繰り返したところで、絵画であれ音楽であれ霊感の通わない作品はつまらない。

2月某日 ミラノ自宅
大学の試験。複数の試験官が話し合って決めた点数を学生に提示し、受け入れるか拒否するかは、その場で学生が決める。受け入れる場合はサインをし、拒否する場合は、こちらが拒否したとだけ書き込む。30点満点中、18点が最低点でそれ以下の場合は落第となり、点数も記載されない。基本的に、自分が担当する学生に対しては、他の試験官の意見を尊重し、そこから少しでも点数をあげてもらうよう交渉するのだが、今朝は珍しく二人も落第がでてしまった。こちらが低い点を提示したのに対し、学生が拒否することはままあるが、及第点は普通つけるものだ。ところが、同僚のロレンツォ曰く到底18点はやれない、と譲らない。いつもやっている授業内容が一見あまりにも簡単で、少しでも音楽の素養のある学生には馬鹿らしく思えたのか、彼らはほとんどまじめに授業を受けなかったのが仇になった。まじめに受けているほかの学生に迷惑なので、よほど怒ろうかとも思ったが、中学生相手ではないのだからと自分に言い聞かせて、その場で授業はやめた。

今日の試験を受けたのは、クラシックを勉強している学生ではなく、日本語では音響、録音技師というのか、音楽スタジオでミキサーやマイクを扱う人たちを育てるクラスの学生たちだった。だから、ほとんどがロックかジャズ、ポップなどの音楽活動を背景に、自分でレコーディングもしたい、スタジオに勤めたいと入学してくる。だから、毎年1人2人、途方もなく知識もなく、楽譜も読めず、歌すら歌ったことがないからとんでもない音痴、というような学生が混じるのだが、彼らを教えるのが内心、とても楽しみでもある。

2年間教えたダヴィデは、2メートルはあるかという恰幅のよい大男で、少しやせ気味で浅黒い相撲取りという風情である。いつもニューヨークヤンキースのキャップをかぶり、白色か黒色のパーカーを着ていて、何というかディスコの用心棒にもみえる。

彼は当初文字通り何もできなかったし、自分がひどい音痴なのを気にして恥ずかしそうで大変気の毒だった。聴けば、プーリアの片田舎で、友人たちとヒップホップをやっていて、次第に録音に興味が湧いたという。

彼は2年間本当にしっかり勉強、というより自らを鍛錬した。少なくとも自分が担当しているクラスは、知識を学ぶような高尚なものではないので、自分自身の無意識を意識化して、その無意識をどう使わずに自らの意識で物事を解決させるか、その方法を一人一人が見出してゆく。彼は今回の試験で30点満点中、見事に26点を取って大喜びしていた。その姿を見ながら、内心これは満点以上の価値だと感涙にむせぶ思いであった。

この2年間で、彼の顔つきがまるで変った。精悍でしっかりした、自信のある顔になり、不安そうな目つきは、いつしか可愛らしい笑顔にとって変わった。

2月某日 ミラノ自宅
雨田光弘先生より「信子の写真をみるより、ピアノの音を聴くほうが心に沁みます」とメッセージをいただく。家人より自分が長く生きると想像すらしたことがなかったが、もし彼女に先立たれたら、どんな人生になるのだろう。光弘先生は大変ご立派だとおもう。

昔おふたりが、「自分たちは日本をでていないから」とぽつりと呟かれたのを思い出す。光弘先生のお父様は、アメリカやフランスで活動された方だから、先生がそう仰った言葉が意外でもあったし、「そんなわけないじゃないですか」と強く抗いたくなる言葉が、自分の裡に湧き上がった。

若いころのお二人が奏でるショパンを聴いたとき、自分が子供のころから大好きだった、日本の田舎の風景が、走馬灯のように次々と浮かびあがった。少し濃い桃色をした桜が、身延川沿いに咲き誇っていて、両親に無理を言って、三人で古い身延線を眺めに行ったときのこと。古びた無人駅で降りて、どこからともなく漂ってくる温泉の硫黄の香りと、目の前に出現したこんもりした小さな森のような、あれは山だったのだろうか。

音楽でなければ、本当にどこかの鉱山か、砂防ダムで、トロッコの運転手になりたいと切望していたから、あの原風景のような家族三人の記憶が甦る先生方の演奏は、凛としてとてもかけがえのないものだと思った。そう書いていると、庭の隣を走る夜明け前のミラノ・アレッサンドリア線の線路を、保線作業の黄色い車両がゆっくりとサン・クリストーフォロ方面に走っていった。

瀬尾さんと加藤君からは、先月試作した三善先生編「虹をこえて」試演録音が届く。加藤君は同じ雨田門下生繋がりで、学生時代から素晴らしいピアノを弾いていた。雨田先生がとても可愛がっていて、先生宅に伺うときまって加藤君がね、と話題に上った。彼が結婚をしてからは、加藤君と瀬尾さんがね、加藤君たちがね、に変わった。

倍音が豊かなとてもうつくしい演奏だと思ったのは、和音を一つ一つ味わいながら弾いているからだろう。ゆらめくような、きらめくような音がする。虹だ、とおもう。三善先生はせめて面白がってくださるのだろうか。不安と期待をこめて由紀子さんにおおくりした。

新聞ではイタリアでナヴィリニイとよばれていたナワリヌイ氏死亡の報道が、ここしばらく大々的に続く。彼の遺体が行方不明という報道が、今朝のトップニュース。

2月某日 ミラノ自宅
川口さんから頂いた「山への別れ」の録音を、平井さんの奥様にお送りしたところ、とても喜んでくださり、「主人も聴きたかったことでしょう」としたためてある。ふと、有名なフリッチャイの「モルダウ」ドキュメンタリーで、「生きているって、なんて素敵なことなんだろう」、と彼が独り言のように呟く姿を思い出した。

フォルテピアノのことは良く知らないのだが、楽器が違うとこうも響きが変わるものなのかと驚く。初演の時の演奏とまるで印象が違って、今回はまた別の輝きがあって大変感銘を受けた。まるでそれぞれの音が含んでいる倍音まで違って聴こえるから不思議だ。

ハーグ国際司法裁判所において、イスラエルの政策の違法性について審議がはじまった。イスラエルは、パレスチナ国家誕生拒否。自分の友人や学生たちと、ユダヤ文化やイスラエルの名前を気軽に口にできる雰囲気ではなくなってしまった。

2月某日 ミラノ自宅
ここ数日、塚原さんと録音とメールを何度もやりとりしながら「対岸にて」を仕上げた。と言っても、仕上げたのは彼女で、こちらは何もしていない。作曲者というのは、何もしない割になんだか対外的に箔もついて良い身分である。閑話休題。塚原さんのファゴットは素敵であった。思うのだが、ファゴットの音のうつくしさは、ちょうど吹いている人の身体と楽器が同化して、互いに共鳴しあうからではないか。音素材にグレゴリア聖歌の「神よ、われらの日々に平和をもたらしたまえ Da pacem Domine, in diebus nostris」によるバンショワの歌曲を使ったからか、ダイアトニックな響きで一見愉快にすら聴こえる音の連なりは途轍もなく諧謔的で、ファゴットの響きと見事に一致した。

録音を聴いていて、途中どこかで耳にした印象があると思っていたが、ずいぶん後になって、その昔パレスチナとイスラエルをバンショワの曲に挟み込みながら作った、「かなしみにくれる女のように」による「断章、変奏、再構築」に似ていたのだとわかる。「かなしみにくれる」はガザで亡くなった妊婦から取り出された女の子、シマーを悼んで書いた。

2月某日 ミラノ自宅
林原さんからお祝いのメールをいただく。彼女はチベット関係のご友人から知らせを受けたそうだ。林原さんのために書いたチベット民謡による「馬」は、日本のチベットコミュニティでささやかながら、とても喜ばれていて、彼女も折に触れ弾いてくださっている。

林原さんが「馬」を初演したとき、来日1年半のニマさんという女性が、祝布のカタを首にかけてくださったのを思い出す。彼女はインドで交通事故で重傷を負い、ずっと足が不自由だったのが少しずつ歩けるようになったばかりだった。そんな彼女が人前で舞台に上がりカタをかける光栄を得られたと、とても感動してくださったという。今の自分は、ニマさんやチベットコミュニティの皆さんからいただいたカタのお陰だともおもう。「あなたに何かあると一つの国が喜ぶって覚えておいて」、と林原さんからのメッセージに書きつけてある。ガザでの死亡者数は3万人を超えた。

(2月29日 ミラノにて)

触れる

高橋悠治

鍵盤に触れながら、出てくる音を聴くとき、楽譜を見るとき、ただ音楽を聞いている時とはちがう感じがして、その感じが続くままに指が動いていけば、同じ音の並びも、そのたびに初めて通る道の感じがする。初めて音に触れているという感じが、二回目以降でもなくならないやり方があるだろうか。

その体感を保つ妨げになる計算や論理が入ってこないように、感じ続けるには、複雑な計算や予測はいらない楽譜の書き方を毎回試してみる。

長い音と短い音、休止(あるいは中断)だけの楽譜にしてみた時もあったが、音の長さをもう少し区別したくなると、記号が増える。休止符は音符とはちがって、楽器に触れていない時間を拍や秒数で数えないで、次の音までの間を感じるのはどうするのか、合奏はだれの時間を基準にするのか、と問題が尽きない。

作曲を始めた1950年代には、それぞれの楽器が一つの全体を支える部分になっていた。それが近代のオーケストラ、その始まりは16世紀ヨーロッパあたりらしいが、全体があれば、部分があり、分析という方法もある。

思いついた音から始めれば、楽器の自由な結びつきと、フレーズの順序しかない。楽器やフレーズを変えながら、音楽が続いていく、連歌や後の連句のような「あそび」、シンメトリーで閉じた全体ではなく、未完成で開いた連続体、終わりのないプロセスを、垣間見せる。

即興と演奏と作曲に分かれている音楽のやり方を、一つの作業にしたような錯覚、形の定まった「作品」をさまざまな視点から見る「解釈」で崩す作業を表に出さない細工かもしれない。

2024年2月1日(木)

水牛だより

春のようにあたたかい日という予報は見事にはずれて、どんよりした昼下がりの東京。気温だけはたしかに高いけれど、風があり、春はまったく感じられません。

「水牛のように」を2024年2月1日号に更新しました。
先月は元旦だったからなのか、来るはずの原稿をあまり待つこともしないで、見切り更新しました。できた!と呑気な気分で新年の一杯を味わおうとしていたときに、揺れを感じました。このあたりはそうひどく揺れたわけではありませんでしたが、その後の報道で、能登の被害の大きさにおののきました。こんな大地震がおきることなどまったく知らずに更新作業を終えていてよかった。「公開」というボタンを押すちいさな作業にだって、影響があっただろうと思いましたから。
こどものころは「災害は忘れたころにやってくる」と言われていましたが、もうそういう時代ではなさそうですね。防災グッズを入れた完璧なリュックを用意していても、そのとき家にいなかったらアウトです。

冬の時代に災害や事故をまぬがれたとしても、この世界にとどまっていられるのはそう長くはないはず。このあたりで蓄積された水牛のリソースを読み返して、水牛文庫のようなかたちにすることを考えてみようと思います。まだそう思っているだけですが。。。

それでは来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

輪の外にいて

北村周一

母の名を尋ねられたる夕まぐれ
 盆の踊りの輪の外にいて

親しげに母の名を呼ぶひとのあり
 輪島朝市通りをゆけば

母の名を通りすがりにきかれおり
 真夏のひかり鈍きふるさと

七月のキリコ大祭の夜にして
 杳いきおくにわれをうしなう

八月や能登に口能登あることも
 法師つくつく奥能登へ来よ

艶やかなる漆のいろの重なりも
 匂いもともにふるさと能登の

半島の凸なるところわが生れし
 能登はやさしきひとごろしとも

震度7かかる数字が揺れのこる
 奥能登はいま雪雲の下

千年の夢から醒めて隆起せし
 海岸線にゴジラあらわる

元日や右に左に揺れながら
 待てよどなたかの足音がする

小正月おとこは無口の馬鹿でいいと
 テレビカメラ越しにあなた呟く

半島のどこがわるいというのだろ 
 正月四日のBSフジで

真新しき防災服に身を固め
 ならぶ面々ナチスの如し

あのナチスの手口を真似てひっそりと
 緊急事態条項が待つ

逃げ足のはやい鬼さん忽ちに
 ケンケン跳びに姿くらます

逃げ場所はどこにあるのか志賀町の
 原電はいまどうなってるの?

輪島生まれ清水育ちとしるしおく
 わが身上に裏おもてなし

230 ものの声

藤井貞和

Ash from former lives. 
   灰の前生から。
Ash raises hands, all material phenomena are such.
   灰の手を上げる、物象すべてこれ。
Ash, be ashed away.
   灰、敗走せよ。
Ash is to be adjudged.
   灰を裁け。
Ash’s now.
   灰の今。
Ash’s birsh and death.
   灰の生滅を。
Ash, I accuse you.
   灰よ、問う。
Ash, of the ashed act.
   灰の背信行為を。
Ash’s body all over it.
   灰の全身に。
Ash, bits of paper.
   灰、紙片。
Ash, tales.
   灰、物語。
Ash, after many a years.
   灰、歳月ののち。
Ash takes form.
   灰はかたちを。
Ash’s own self whereof.
   灰のみずから。
Ash-bound axial translation, it is.
   灰への平行移動である。
Ash is no other than naming for the genuine itself.
   灰はじねん(自然)そのものの云いにほかならず。
Ash’beingness is that. 
   灰のあることは。
Ash just being.
   灰のただあること。
Ash having “being”.
   灰は「ある」こと。
Of ash, it’s not even birth or death.
   灰の、それは生滅ですらなく。
Ash’s birthlessness and ash’s deathlessness.
   灰の不生であり、灰の不滅である。

(原作「灰」〈部分、『ピューリファイ!』所収〉を、複数のバージョンののち、「ある」「灰、敗走せよ」「灰、背信行為を」「不生不滅」などに腐心して、かたちがととのえられていった。じねん(自然)はgenuin(じぇぬいん)をそのまま外来語として使った語ではないかと「気づいて」、名詞化してある。安藤昌益は「自(ひとり)然(する)」と書いている。敗走、背信は、日本語の発音を生かしてbe ashed away、of the ashed actとし、不生不滅をbirthlessness、deathlessnessとすることによって、完成に近づいた。多言語社会、インドでの朗読のために、松代尚子さんの翻訳。『ミて42』(2002・12・1)による。こんな試みが『ミて』に数篇、あることを思い出す。)

仙台ネイティブのつぶやき(91)生きているのか死んでいるのか

西大立目祥子

クジラにはもう力がなかった。懸命に尾びれを動かしても、前に進むことができない。ただふわりふわりと波間にたゆたうだけ。呼吸が苦しくなると、潮の流れに乗るようにして水面まで浮き上がりわずかに空気を吸う。ふぅっ。そんなことを何日繰り返したのだろう。日が登り、日が沈む。もう終わりが近いことをクジラは知っていた。さようなら、海。さようなら、空。さようなら、みんな。日を追うごとに月は欠けていく。やがて、海原の向こうにやせて上ってくる月をクジラの眼はとらえられなくなった。水音だけは、かすかに聞こえる。漆黒の闇に閉ざされた新月の夜、クジラの心臓は静かに止まった。

流されるまま海を漂って数日後、分厚い脂肪におおわれた体の奥、腸から腐敗が始まった。腸内の細菌や微生物がみるみる増殖し、メタンガスが体内に充満してクジラの体はパンパンに膨れ上がる。もう張り裂けるほどに。

昨年11月15日の夕刻。車のラジオをつけると、こんなニュースが耳に入ってきた。
「15日朝、宮城県石巻市の沖合で、クジラが定置網に引っかかっているのが見つかりました。クジラは体長10メートルを超え、すでに死んでいると見られ、宮城県などが対応を協議しています。
 クジラが見つかったのは、石巻市にある狐崎漁港の沖合1キロほどの場所で、15日午前6時ごろ、近くで漁をしていた漁業者が定置網に引っかかり、腹を上にした状態で浮いているのを見つけたということです。…腹が膨らんだ状態などからクジラはすでに死んでいるとみられ、死んだあとに流れ着いて網に引っかかったと推測されるということです。…県などが今後の対応を協議しています」(NHKニュース)

「腹が膨らんだ状態」という説明に、反射的に子を持った雌クジラかと思い、一瞬気持ちが陰った。が、それは死後数日が過ぎてガスで体が膨れ上がっているからなのだった。巨体はいとも簡単にくるりとひっくり返り、無惨に白い腹を上にしたまま日を浴び、夜は月に照らされ、沖に流され陸に戻されを繰り返すうち、定置網に動きをはばまれたのだろう。これが砂浜なら、打ち上げられていたはずだ。

ニュースを聞いてから、この海を漂うクジラの姿が胸にとどまり続けた。なぜ?じぶんでもよくわからない。クジラは老いて死ぬのか、病で死ぬのか。若くしても命を落とすクジラはいるのか。アフリカの草原の映像で累々とゾウの骨が風にさらされるように、海にクジラの墓場もあるのだろうか。いま、人は死ぬとさっさと焼かれて埋葬されてしまうけれど、腐敗が進みメタンガスが満ち満ちたクジラの体はどう変化していくのか。その前に表皮を鳥についばまれ、シャチに食われ、海底に沈んでいくのだろうか。生命の起源は海にあるのだから、その死に方は根源的な哺乳類動物の消滅の過程を教えているのだろうと思う。

ガスで膨れ上がったクジラは、極限までくると爆発してしまうという。脂肪も肉も血管も体液も、ものすごい臭いとともに飛び散り、事故にもなりかねない。1年に数回、国内でも浜に打ち上がったクジラが報道されるけれど、爆発に巻き込まれずに処理を進めるにはかなり注意を要するようだ。報道にあった「宮城県で協議」とは、事故に備えつつ処理をどう進めるか検討をするということだろう。

翌日、続報があった。
「昨日、石巻港から沖合14キロほどのところで発見された体長10メートルを超えるクジラ。…このまま放置すると破裂しクジラの油が養殖業に影響することなどから、県は処理方法を検討していましたが、発見場所から東に20キロほど進んだ金華山沖に沈めることを決めました。漁協や捕鯨会社の協力を得て、今日午後から捕鯨船を使って引っ張っていて、到着次第ガスを抜いて、最大1.6トンの重りをつけて海に沈める予定です」(ミヤテレNews)

テレビで小さな捕鯨船に沖へと曳航されるクジラを見た。クジラの白い腹はわきにくっきりと何本もの黒い縞が入り、卵を半割にしたように膨らんでいた。別局では、ガスをナタで抜く、といっていた。
金華山沖の目的に到着した船はエンジンを切り、腹を裂く作業をして砂利を詰めた重りとともにクジラを沈めたはずだ。水の中に引き込まれた巨体はゆるゆる沈んでいき、海底の砂の上に横たわった。そこはどんなところだろう。13年前のあの大津波で流された物も散らばっているのだろうか。

そして、ここから新たな物語が始まっていく。クジラはその体すべてをまわりの生き物たちに分け与える。10年にもわたって。そこには「ホエイルホール」とよばれる生態系が生まれるというのだ。移動しない生物たちが死んだクジラを拠り所に活動を始め、その数を増やしていき、そこには見事な生命の循環が誕生する。
クジラは死んだといえるのだろうか。深海の生き物たちと生きているのではないか。もはや私にはわからなくなっている。

    ◎

地下鉄に乗り込み座ってバッグから読みかけの本を出して開いたとたん、反対側のドアの前に立つ男と目が合った。コートもズボンもリュックもねずみ色。頭の毛はやや後退し、口ひげをたくわえている。よく似ている。数日前、新聞の訃報欄を見て驚いたスペイン料理のオーナーシェフに。なんだ、あの記事は間違っていたんだ。生きているじゃないか。そう思える。いや、そう思い込む。男は同じ駅で降り、足早に歩いてエスカレーターの3人ほど前に立った。やっぱりそうだ。この駅が店の最寄り駅になる。いまから店に出て夜の仕込みにかかるに違いない。鍵は信頼できるバイトの学生が開けているんだ。いや、そんなわけはない。訃報が間違っているわけが…。しかし、でも。地上に出て夕闇に包まれたとたん、男の姿は消えていた。

その店には2回しか行ったことがない。でも2回とも、おいしく楽しく飲んで食べた。すこぶる居心地がよく、いい時間を過ごせたのはどちらも祝宴だったからか。それだけではないような気がする。暗い裏通りの店は間口が1間半くらいしかなかったけれど、クリーム色の壁に大きなフライパンがぶら下がり、ワインのボトルが並んでいて入りたくなるようなガラスのドアが立っていた。入ってみると意外にも奥に深い店内には木のテーブルと籐の椅子が並び、小さなペンダントと壁の間接照明がリズミカルに黄色い光を放っている。何時間でも飲んで食べておしゃべりができそうだった。

2回目に行ったとき、つまりは最後に食事をしたときは7、8人で飲み放題コースを頼んだのだったが、ほぼ満席でシェフはてんてこ舞いだった。メンバーが一人遅れてきたのでコースには入らず急遽、別オーダーにすると、「いやー、もう今日はバイトが急に休んで、俺一人なんだ」とぼやきつつ「いいです、もうみんないっしょで」と話し、厨房からでき上がった料理をみずから次々と運んでくる。途中から、大皿のサービスが大変なのか「悪いけど、仕切りのスクリーン開けさせてもらいますよ」と間仕切りを開け放った。そのやりとりに、今日に限らずいつも必死のいい人なんだな、と直感した。

友人たちと飲みにいく話が出るたび、あのスペイン料理の店に行こうよと話していたので、新聞に店の名を見つけたときは衝撃だった。「スペイン料理店、オーナーシェフ、57歳で急逝いたしました」とあり、妻と思われる女性の名前が記されている。心筋梗塞なのか大動脈解離か進行がんなのか、わからないけれど、あっけなく亡くなってしまったのだ。もしや店で倒れたのだろうか。深夜まで働き、次の日もランチをサービスする毎日だったら疲労困憊だったろう。でも本当に?間違いはないはずなのに、ウェブサイトを見ると変わらない入口や料理の写真が掲載され、「営業中」と記されている。店は、誰かが開けているのではないか。それこそ、急に休んだバイトの子が継いだのではないか。噂を耳にすることもなく日は過ぎていった。

訃報を見て2カ月がたったころ、夜7時からその店の近くで会議があり、地下鉄を降りて前を通った私は、たしかここだっけ、とビルの前で足を止めて狐につままれたような気持ちになった。え、ここ? 本当にここ? 入口はあまりにも変わり果てていた。薄汚れたガラス戸。何の変哲もないサッシの窓枠。ただの古ぼけた小さなテナントビルの前で、私はしばらく立ち尽くしていた。

暗闇で一本道を間違えたのか。そうも思った。でも、あの場所だった。2回目にいっしょに飲んだ友人と「新聞にのっていたね、亡くなったんだね」と確かめあったから、間違いはない。店は閉まったのだ。でも、ネットで検索すると、今日も営業中で、パエリアから生ハムのサラダからいろんだ料理を取り揃えている。電話番号も書いてある。かけてみようか。もし、つながったらどうしよう。

どこかで店は今夜も開いている。客の話し声を聞きながら、シェフは厨房で料理に腕を振るっているのではないか。

『アフリカ』を続けて(32)

下窪俊哉

 昨年12月号の(30)で、この連載には大きな区切りがついたような気がする。前回(31)からは第2期、ということになろうか。『アフリカ』の顔(表紙の切り絵)を手がけてきた向谷陽子さんを突然失い、その後の1冊をつくることで、思いがけず、大きな山を越えたようだ。その先の風景が、自分には、どんなふうに見えているだろう?

「ここまでの原稿を冊子にまとめませんか。わたしが勝手にZINEをつくって、イベントで『アフリカ』と一緒に並べたいだけですが」と装幀の守安涼くんからメールが来たのも、(30)を書いた後だった。仮のゲラまで添付されていた。彼が言うには、すでに7万字近くあり、四六判でザッと150ページになるらしい。

 ところで私は、ZINEということばを、自分からは、使わない。自分のつくる本や冊子をZINEと呼ぶ必要を、感じたことがないからだ。
 しかし最近はSNSでZINEをつくっているらしい人との付き合いが増えて、ZINEを売る本屋も増えて、ZINEの即売会やイベントが行われていたりして、私の目には賑やかだ。

 ZINEにもどうやら、いろいろあるらしい。なぜこれがZINEなの? と思うようなガッチリとした本や雑誌もある。かと思えば、家庭用プリンタで印刷してホッチキスで綴じたような簡素な本もある。私が十数年前に初めて耳にしたZINEのイメージは、後者である。そのイメージのなかにいる限り、何というか、プロの仕事をしてはならない。遊んでいる方が面白い。下手くそでいい、というより、下手くそが推奨される。上手くつくろうなんて!(ツマラナイヨ)
 いま、たまに本屋で見かけるZINEからは、あまりそういう感じを受けない。どちらかというと、小ぎれいな本が多い。そのなかに小ぎたない本(?)が混ざっていると、ハッとして、ちょっと嬉しくなる。
 もしかしたら、会社組織ではないグループや、個人あるいは少人数でつくった少部数の出版物の総称して、ZINEと呼ばれているのかもしれない。しかしそれなら、リトルプレスでいいじゃないかという気がする。
 ZINEということばの由来と歴史については、今回は省略しよう。要するにいま、ある界隈では猫も杓子もZINE状態なのだろうけど、私から見ると、どれも、ようするに〈本〉である。
 スッキリ考えられるところを、あえてゴタゴタさせたいとは思わない。自分のつくるものは他所と違うと区別したい気持ちもない。自分は素人で下手なんです、と言い訳したい気持ちもない。少なくともいま本をつくるにあたって、私にはプロも素人もない。書かれたもの、描かれたものなどがあり、それを〈本〉という器に落としてゆくだけである。

 話が一気に逸れたが、つまり私にとって、四六判・150ページの「『アフリカ』を続けて」はZINEかな? と思うところがある。守安くんもさすがにそこは、そう思っているかもしれない。なぜなら、中綴じの本にしたいと言っていたから。ちょっと厚すぎるかな?

 それにしても7万字、いつの間にか書いていた。しかしそれをそのまま、順番に並べて本にするというのでは芸がない。読み返してみると、最初の回はともかく、毎月書いていると、いい感じで書けたと思う回もそうじゃない回もあるし、冗長になっているような箇所も書き込みが不足しているような箇所もある。推敲して削ったり、加筆したり、順番を入れ替えたり、項目ごとにタイトルをつけたり、本にするならそういった編集を経てからにしたい、と話して作業を始めてみたのだが、守安くんの言っているイベントは2月らしくて、それには間に合わせられそうにないということがすぐにわかった。

 この連載が第2期に入ったと書いたが、『アフリカ』自体が大きな区切りを迎えて、次へゆこうとしているのである。それくらい向谷さんの存在は大きかった。それも、いつの間にか大きな存在になっていた、ということだろう。この年末年始に手紙を整理していたら、2010年の秋、『アフリカ』vol.10を出した頃に、向谷さんが「節目のこのタイミングでお断りしようと思いました」と言っている手紙を見つけた。どういうことかと思って読んでみたら、着実に前に進んでいる(と彼女には見えている)私の姿を見ていて羨ましくなり、自分の作品を見返してみたときに「怖く」なったのだそうだ。本当にこんなものでよかったんだろうか、『アフリカ』の顔を描くのには、もっとふさわしい人がいるのではないか、云々。えらく自信がないのである(そう言いながらも新作は“切って”いたのだが)。そんな話はすっかり忘れていたが、手紙をくり返し見ていると、少し思い出してきた。それを読んだ私は、おそらく苦笑したはずである。どのような返事を出したのかは、わからない。でも、これからもあなたの切り絵でゆきたいと伝えたことだけは確かだ。

 さて、私はこれからも『アフリカ』を続けたいのだろうか。もう止めたいと思っているところはない? と自分に問いかける。ないとは断言できない。かといって、積極的に止めたいという気持ちもないのである。これを惰性というのかもしれない。私にはたくさんの人に伝えたいという気持ちがない。未知の誰か(その人はいつもひとりで待っているような気がしている)に何かを伝えたいという気持ちはある。未来の読者へ届けたいという気持ちもある。かつての私にとって、未来の読者には現在の自分も入っていた。例えば、そのvol.10をつくった頃の自分が、いまの自分にどんなことを伝えようとしているか、耳を澄ましてページをめくってみる。どんな声が聴こえてくる?
「続ける」ということのなかには、そういうこともある。

(お知らせ)2月のイベントというのは、「おかやま文学フェスティバル2024」の一環で2/25(日)に行われる「おかやまZINEスタジアム」のこと。「Huddle」という屋号で、『アフリカ』も販売するそうです。当日、『アフリカ』を購入いただいた方へは、小冊子「『アフリカ』を続けて」vol.0(仮称)のプレゼントがあるかもしれません。

むもーままめ(36)四季の窒息2023年7月23日

工藤あかね

充血した白い箱の
壁から壁へと
当たっては折り返す

春に苛まれ
真夏の日差しも浴びず
秋風の匂いも知らず
もはや真冬の凍えも忘れた

波打つ鼓動を持て余す我は
動物園に陳列さるる
生き物たちの同胞

願うことはただ一つ
凶暴にして完璧な
野生の血潮を
蘇らせること

声掛けモンダイ

篠原恒木

歩いていると、街角に立っているヒトから声を掛けられることがある。

最近は「客引き行為」に対して取締りが厳しくなっているが、昔は夜の繁華街を歩いていると、数メートルごとに声を掛けられたものだ。オーソドックスなものとしては、
「もう一軒、カラオケいかがですか」
「一時間五千円ポッキリ、飲み放題いかがですか」
などというものがあったが、こちらが驚いてしまうフレーズも耳にした。

「呑みのほう、いかがですか」

初めてそう言われたときは激しく戸惑った。「呑みのほう」という言い回しに、我が左脳が混乱をきたしてしまったのだ。
「呑み」というのは「サケを呑むこと」を意味することはかろうじて理解できたが、その「呑み」に「のほう」を付けることに衝撃を受けたのだ。
「~のほう」という言葉が意味することは何なのか。
「区役所のほうから参りました」
「私のほうからご説明させていただきます」
このへんまでなら、まだ理解の範疇だが、
「コーヒーのほう、お持ちいたしました」
あたりになってくると、おれのアタマは反乱を起こす。
「コーヒーのほう、ということはコーヒーそのものではなく、コーヒーのようなもの、もしくはコーヒー方面の何かをお持ちいたしました、ということなのだろうか。だいたいコーヒー方面って何なのさ。コーヒーに方角があるのか」
と、考え込んでしまう。そして話はモンダイのひと言に戻る。

「呑みのほう、いかがですか」

これはじつに曖昧ではないか。日本語として成立していない。
「お帰り前にもう一杯だけお呑みになりませんか」
と、なぜ言わないのだろう。待てよ、「呑みのほう」ということは、「呑み」だけではなく、その周辺のことを含ませているのだろうか。では「その周辺」とは何か。ドレスを着たおねえさんが隣についてくれたり、そのおねえさんが頼みもしないのにフルーツの盛り合わせを出してくれたり、「シャンパン開けましょうよ」と言ったりする、そのあたりのことを「のほう」で表現しているのであろうか。だとしたら警戒しなければならない。そもそもおれはサケが一滴も呑めないから「呑み」も「呑みのほう」にも引き寄せられることはないのだけれど。

もっと驚いた声掛けがあった。夜も更けてきた六本木交差点を歩いていたら、突然おにいさんが近づいてきて、おれの耳元でこう言った。

「おっぱい」

耳を疑った。見事な体言止めだ。「おっぱい」、そのひと言だった。これ以上ミニマムなフレーズがあるだろうか。インパクト抜群だ。おっぱいがどうしたというのだろうか。おっぱいをどうするというのだろうか。おれは狼狽しながらも考えた。ここは六本木の深夜だ。風俗店も多い。
「おっぱい触り放題ですよ。いかがですか」
というような意味なのだろうな、と推理はしたが、それにしても省略が激しすぎる。もう少し詳細に主語、述語、目的語を述べてほしいところだが、目的語は「おっぱい」だと思われ、残りの主語と述語を述べられても困るだけなので、おれは無視して歩を進めた。

「なぜおれに声を掛けるのだ」
というケースも多い。家の近所を散歩していたときだ。おれの身なりは近所ということもあり、それはひどいものだった。寝巻き代わりにしているスウェットの上下にサンダルをつっかけてフラフラと歩いていると、スーツ姿の若者が、
「ご検討、いかがでしょうか」
の声とともに億ションのパンフレットを手渡そうとする。どう見てもおれの格好は「億ションの購入を検討しているエグゼクティヴな紳士」には見えない。競輪、競馬、パチンコなどで食いつぶしたおじさんだ。営業センスのかけらもないではないか。おれは無言で通り過ぎた。

「よろしくお願いしまーす」
いや、正確に書き起こすと、
「よろしくおねしゃーす」
と言われて、若い女性からポケット・ティッシュを手渡されたこともあった。ティッシュを見てみると、美容院というかヘア・サロンというか、つまりはそのテの店がオープンしたことを告知していた。おれは完全なハゲアタマである。スキン・ヘッドなどと言うとそれらしく聞こえるが、つまりはハゲアタマだ。そんなハゲおやじに美容院のティッシュを配ることほど無駄な行為はない。これも営業センスが著しく欠如しているではないか。

同じポケット・ティッシュ配りでも感心したことがある。大学生と思しきおにいさんがおれにティッシュを渡そうとする直前にこう言ったのだ。
「花粉症はございませんか。どうぞー」
おれは重度の花粉症である。思わず「どうも」と応えて、ティッシュを受け取った。見るとカラオケ・ボックスの告知だった。カラオケ・ボックスに興味はないが、素晴らしいセールス・トークではないか。あのおにいさんはおそらくアルバイトなのだろうが、将来はどの世界でも成功する優秀なビジネスマンになるだろう。ティッシュ配りにもクリエイティビティが必要なのだ。

つい先日には制服姿の警察官から声を掛けられた。おれにしては精一杯のお洒落をして歩いていたときだった。
「ちょっとよろしいでしょうか」
ああ、また職務質問かよと、おれはゲンナリした。以前にも書いたが、おれは職務質問の常連、上顧客、お得意様、年間契約者、終身名誉顧問なのだ。
「なんでしょうか」
おれは思いきり不機嫌な顔をして、警官と向き合った。
「このようなものをお配りしております。宜しくお願い申し上げます」
拍子抜けしたおれに手渡されたのは「高齢者のための交通安全読本・安全毎日いきいき東京」という小冊子、それにピーポくんのポケット・ティッシュだった。小冊子の表紙を見ると、ニコニコ顔のおじいさんが運転しているクルマが横断歩道で一時停止して、おばあさんが同じくニコニコ顔で手を挙げながらその横断歩道を渡っている様子がイラストで描かれていた。年配のヒトビトを見かけたら配っているものに間違いない。そうか、おれはいくらお洒落をしたところで、どこからどう見ても高齢者に見えるのだなと自覚したら、それはそれでゲンナリした。

声は掛けないでもらいたい。どうかそっとしておいてほしい。

アパート日記2024年1月

吉良幸子

1/1 月・元旦
起きたら年が明けておった。正月感が全くないままお昼過ぎにふらっと近くの八幡神社へ。ほしたら、おはやし保存会がいるわ、法被にひょっとこ姿のねぇちゃんが踊っとるわで紛れもなくお正月なところに辿り着いた。地元の神社いう感じ。初詣に行って良かった。
家に帰ってぜんざい食うて、明るいうちに銭湯へ行く。銭湯でしか会わんおばちゃんと裸でご挨拶。何とも滑稽や。
ちょうどお湯から上がって脱衣所のテレビに目をやると地震速報。番台のおばちゃんもきて、揺れてない?と聞きはるけど、みんな湯に浸かってたしわからんと言う。年明け早々えらいことになってしもた。

1/2 火
公子さんはソラちゃんの“真夜中 窓開けて攻撃”により、冷え切ってちょっと体調崩してはる。文字通りの寝正月。太呂さんと妃奈さんがお正月に作ったチャプチェや煮物を持ってきてくれた。
明日から近くの銭湯が三連休になるし今日も風呂へ。いつものおばちゃんたちとやっぱり今日も混んでるわね、あなたはいつも角で体洗うから隠れたってムダよ、なんて言われてたわいもない話をするのが楽しい。帰っておかあはんに年明け初めての電話をする。話している間に飛行機事故の速報がテレビで入ったと聞く。今年どないしたんやろか。

1/3 水
初夢は日暮里にある帝国湯の脱衣所におった。銭湯好きに磨きがかかってきたらしい。

1/4 木
時間の経つのはなんとはやい、今日はばあちゃんの一周忌やった。

1/5 金
出稼ぎの仕事始め。あっちゅう間に時間が過ぎ、仕事終わりに金春湯へ。43℃のお湯はどってことなく浸かれるようになった。お湯から上がって人生2回目のお釜ドライヤー。短髪やとやたらにあついし変なクセもついて気ぃ使う。ありがとうございました~と出て行こうとしたら、後ろ姿を見たお風呂屋のおばちゃんに、あっちょっとハネてる!と言われて笑いながら出た。帰りしな歩くとハネてるとこがぴょんぴょんするのを感じる。

1/6 土
雷門音助らくご会へ。会場が日暮里ということは帝国湯へ行ける口実がでけたということ。今日もきっかり48℃のお湯で、浸かるとビリビリする。あ~骨の髄まであったまる!とひとりで百面相しながら入る。何となしに壁タイルの鯉の絵へ目をやると、これは昨日行った銀座の金春湯と同じ鯉や!と発見して嬉しくなる。タイル絵の作家がおんなじで、風呂屋ができた時期も似てんのかなぁ。今日もぽかぽか、ええお湯でした。

1/10 水
太呂さん一家から新年のご挨拶のハガキがきた。小4のカイくんからのひとことは「人生一回、楽しく生きよう」。うちのおかあと言うてること一緒で笑う。

1/11 木
朝から隣町にある文具屋まで散歩してみる。途中で工事の交通整備のおっちゃんに、若いのに下駄珍しいですね!とむちゃくちゃええ笑顔で話しかけられた。こういうのは外に出な出くわさん会話でおもろい。うちから行くと必ず心臓破りの坂道を通らなあかんのやけど、下駄でぜぇぜぇ言いながら登ると、いかにも村から出てきたみたいで笑える。坂を登ると自分は一生住まんような豪邸が立ち並ぶ。古いおうちは感じええ。文具屋に着いたらお目当はなくて悔しい。帰りは公園も散策。まつぼっくりをひとつお土産にひろった。
夕方に一番のご贔屓、古今亭始さんから公子さんに電話が入った。真打昇進の名前が決まったらしい。おめでとう、ということで年明け一発目の割烹やまぐちへお祝いに行く。今日は大将ひとりで、お客さんもいつも端っこにいてはる常連のおじさんひとり。公子さん、2合目の八海山になると絵に描いた酔っ払いに変身して大将と常連さんに絡む絡む!いわと寄席の宣伝を散々かましてチラシを置かせてもらうことになった。タダでは絡まん、さすがや。家へ無事帰ってソラちゃんにも絡む。そん時のソラちゃんはすんごい冷たい目ぇしてておもろい。

1/14 日
今日は今年最初のいわと寄席の日。演目全部が講談で、神田紅純さんと神田松麻呂さんの会。俥読みは初めてやったけど面白かった。講談は長い話やと大体そのうちのひとつしか聴かれへんから、続けて違う演者でというのは嬉しい。
今回は公子さんち大集合で、娘のさくらさんと太呂さんち一家が来てくらはった。打ち上げはさくらさんと太呂さんと一緒に。さくらさんから烏口の使い方でアドバイスもらって悩んでたことも解決した。ええ日や!

1/19 金
チンドンもやってる浪曲師・小そめさんのつぶやきをたまたま見て、滑り込みで『羽織の大将』を観にいった。笑って泣けるとはこういう映画を言うんやろうなぁ、前半は声出して笑って、最後は涙が流れっぱなしやった。フランキーが落語家やるなんてそもそも最高な映画なんやけど。やっぱし行ってよかった。

1/20 土
ギタリストの前原さんの夢をみた。出稼ぎ先に毎月演奏しにきてた筋金入りの酒飲みで、とうとう酒の飲み過ぎで去年亡くなってしまった。ちょっとしか話したことなかったけど、笑うと優しい、大好きな演奏家。夢の中でもいつものように黙々とギターを弾いてはった。

1/24 水
久しぶりの整骨院。タイミングよく院長にやってもらって相当スッキリした。今日は院長の若かりし頃の黒歴史を永遠と聞けておもろかった。

1/25 木
今日は休みらしい休み。まず昼過ぎから展示をふたつ。大原大次郎さんの文字の展示には刺激を受けた。こんな筆記具で描いてんねんやとかそんなんばっかし見て、すぐ文具屋に行って筆記具を買った。そしておじいちゃん先生として有名な柴崎春道さんの展示にもお邪魔しに行った。動画で描く過程を見ていた絵を間近に見れて嬉しい。スタッフのにいちゃんが気を利かせてくれて、まさかのツーショットを撮った。そしたら柴崎先生、私の携帯の裏に入れてた若い片岡千恵蔵の写真に釘付けで笑った。こんなとこで片岡千恵蔵好きなんです!と叫ぶとは。
そして夜は落語会。江戸も上方も聴けて嬉しい会やった。演目は同じでも言葉が違うとこないに印象変わるんか、と感じる会で、やっぱし上方出身やから関西弁でやる落語は言葉が柔らこうて好きやなぁと思うた。

1/26 金
朝から、正楽師匠亡くなったの!?という公子さんの声に耳を疑った。林家正楽師匠の突然すぎる訃報が信じられなくて、とにかく寂しくて悲しい。寄席に行けばいつものように出てきてくださる気がしてならない。亡くなるほんの数日前まで寄席に出てはったらしい…かっこよすぎるやないですか!Xのタイムラインはお茶目な師匠の写真とこれまでに切られた紙切り一色になった。それを見てまた胸が詰まる。あぁ、やっぱり寄席っちゅうのは行けるときに行っとかなあかんと痛感した。

1/29 月
丹さんが着物をリメイクしてモンペにしたものを誕生日プレゼントに持ってきてくれた。履いてないみたいに軽くて、しゃがんでもどっこも突っ張らんで、柄が粋!むっちゃ嬉しい、おおきに、センキュー!!

1/30 火
出稼ぎの帰りに携帯を見ると、公子さんからものすごいごきげんメッセージがきておる…こりゃ、酔うとるな、と思いながら帰ると、お布団に包まれた上機嫌の公子さんがむくっと起き上がって喋る喋る!仕事の話をしに行って、ええことがあったんやて!太呂さんにも、丹さんにも、落語家の始さんにも電話して、帰りに割烹やまぐちで落語会の話までしてきたよ~と高らかに話してはる。聞くと日本酒は2合、あちゃちゃ、2合目は公子さんをおしゃべりな酔っ払いにするんやし!今日の出来事を2周ぐらい話して、静かになったなと思ったらぐっすり眠っておった。忙しいこっちゃで!

小津安二郎の月

植松眞人

 中国の四川省からやってきた留学生の趙(ちょう)くんとは、彼が学校を卒業し、私が学校を辞めてからも付き合いが続いている。
 彼はいま仕事の都合で静岡県伊東市にいて、時折、東京や大阪で会っては映画の話ばかりしている。もちろん、彼の日本語が達者なおかげだ。
 昨年のまだ寒い春先のこと。私が関西から東京へ移動することがあり、なんとなく新幹線の路線を頭の中に思い浮かべていると、静岡あたりに趙くんがいることを思い出した。それならと、趙くんにスマートホンからメッセージを送る。熱海あたりで新幹線を降りて一泊するからご飯でも食べないか、と誘うと嬉しいことに趙くんは車で熱海駅まで迎えに来てくれるという。
 当日、熱海駅に着くと土砂降りの雨で、私は駅前のターミナルを雨に濡れない屋根付きのところで眺めていた。すると、タクシーの間に一台の小さめの乗用車が止まり、趙くんが窓を開けて手を振っている。私が一歩雨の中に移動しようとすると、その前に趙くんが私を掌で止めて、自分が傘を差して飛び出してきた。ほんのわずかな移動で趙くんはずぶ濡れになったが満面の笑みを浮かべている。
「お久しぶりです!」
 趙くんのクセのあるイントネーションが懐かしく、私もすぐに笑顔になってしまう。
「行きましょう。車で移動して、どこかでご飯食べましょう」
 そう言って、趙くんは自分が濡れるのも気にせず、私に傘を差しだして車へ誘導してくれた。
 それからたまたま見つけた居酒屋で地の魚を楽しみ、あれこれまた映画の話をした。
「熱海と言えば小津安二郎ですね」
 趙くんがポツリと言ったときに、私は不覚にも泣きそうになった。理由はわからない。確かにそうだ、と思った感覚よりは、何を突然言い出すんだ、という感覚に近かった気がする。『東京物語』の話をして、小津に心酔しているアキ・カウリスマキの話をしたように覚えているが定かではない。でも、熱海で小津の話をすれば、話題は無限に広がっていく。中国の四川省からやってきた若者とは小津の話ができるのに、日本の若者と小津の話をしたことがない、というのは嘆かわしい、などと何か日本の現状を憂ういっぱしの大人のふりをしながら話したような気もするが、思い出すと恥ずかしいので思い出さないように努力する。
 居酒屋を出ると、雨は止んでいた。もちろん、趙くんは車の運転をするために、ウーロン茶を飲んでいたので、そのまま車で私を宿まで送ってくれることになった。
「先生、『東京物語』のあのお父さんとお母さんが歩いていたところ、分かりますか」
 趙くんが言うので、私は助手席で熱海の海岸までナビゲートする。
 趙くんは車を停める。私たちは車を降りて、防波堤に沿ってしばらく歩いて見る。すると、満月が煌々と光っていた。私と趙くんはしばらく熱海の海岸から月を見上げて、黙っていた。
 趙くんに送ってもらって宿に着くと、もう時間は日付が変わる頃だった。宿の窓からさっき見た月は見えるだろうかと、カーテンを開けてみたが、方角が違っていたのか山肌ばかりが見えるのだった。でも、ほんの少し窓を開けてみると、波が寄せる音だけは聞こえている。もどかしく、ぼんやりと山肌を見ていると趙くんから写真付きのメッセージが届いた。
「先生、今日はありがとうございました」
 そんなメッセージと一緒に送られてきた写真は、さっきまで一緒に見ていた熱海の海岸から見える月だった。そして、その月の写真にもメッセージが付いていた。
「先生、小津安二郎もこの月を見たのでしょうか」
 そう書かれていた。私は月の見えない自分の部屋の窓をもう一度開けて、波の音だけを聴きながら、趙くんが送ってくれた月の写真を眺めた。すると、自分の部屋からも月が見えているような気持ちになった。
「きっと小津さんも見ていたよ」
 私はそう返信したあと、月の写真をスマホの画面一杯に写してみた。そして、山肌しか見えない窓のあたりに掲げて、月を見ている気分を味わった。

本小屋から(6)

福島亮

 パリから東京に引っ越して数ヶ月のあいだ、奇妙な戸惑いが続いていた。それは単に生活している場所が違うという漠然とした違和感ではなく、市場のざわめきが聞こえないとか、木でできた螺旋階段がきしむ感じがしないとか、そういった具体的な感覚と結びついた戸惑いだった。なかでも、橋を渡るという行為が東京ではなかなかできないことに対する戸惑いは、引っ越してから数ヶ月間、消えなかった。パリはセーヌ川が弧を描いて街を横断しているために、どこへ行くにもたいてい橋を渡る必要があるのだが、いま暮らしている場所には橋がほとんどない。それがなんだか寂しかった。

 感熱紙に印刷された文字が時とともに薄らいで、最初は黒かった文字がセピア色になり、最後は読めなくなってしまうように、引っ越してから半年ほどすると、橋を渡る感覚も薄れていった。そんな感覚を持っていたことすら、ここ最近は忘れていた。先日、ベルヴィル通りの部屋を貸してくれていた大家さんに久しぶりにメールをしたところ、返信に「あのアパルトマンは売ってしまったよ」と書いてあった。そうか、もうあの部屋には気軽に遊びに行けないのか。メトロ2番線のメニルモンタン駅で降り、ベルヴィル通りを数十メートル進んだところにあるチュニジア人がやっているパン屋の横、深緑色の扉をあけ、ところどころ壊れ、少しカビ臭い螺旋階段で7階にあがって左手一番奥の部屋。当時私だけの場所だったあの部屋は、もう誰かのための場所になっている。そう思った途端、橋を渡る感覚や、階段の軋みや、市場のざわめきが、ほんの一瞬、よみがえり、消えていった。

 ある短い文章を書くために、マリー・ダリュセックが書いたパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの伝記『ここにあることの輝き パウラ・M・ベッカーの生涯』を十二月後半から一月前半にかけて読んだ。ドイツ表現主義の先駆けと評されるパウラだが、伝記を読んでいると、パリの仕事部屋に対する彼女の情熱が印象的だった。自分の場所を持つことは、パウラにとって絶対的に重要なことだった。ベルヴィル通りの部屋にいたら、きっと螺旋階段を降りて、彼女が暮らした通りを訪問しただろう。それができないのは、もどかしい。

 私が本小屋に移ったのも、自分だけの場所が欲しかったから。あいかわらず本は増え続けており、最近そこに、雑誌『インパクション』のバックナンバー一式が加わった。春になったら本棚を増設しなければならない。こんなふうに一方的に増え続け——それを読むことが本当は重要なのだが——、読まれることを待っている本たちの視線を感じながら生活すると、なんだか落ち着く。

 だが、甘えてばかりもいられないことを、本小屋は教えてくれる。たとえば寝付きの悪い夜に、ふと辺りを見渡し、ガサガサと本棚を漁って、いくつかの本をパラパラとめくってみる。すると、本当に読みたい本がここにはない、という絶望的な気持ちになることがある。本当に読みたい本とは何か。それはよくわからない。自ら手に入れた本は、私が読みたいと思った本であることは確かなのだが、しかしそれは、「本当に読みたい本」とはどこか違う。というか、そんなふうに寝付きの悪さを口実にして、「本当」であることを求める私の身勝手さを、本が拒絶しているのだと思う。

水牛的読書日記 2024年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年を迎える静かな時間に、宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読むという儀式を20年以上続けている。ロシアによるウクライナ侵攻は終わりが見えず、昨年の10月には、イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ攻撃がはじまった。国家・民族・宗教への帰属にもとづく「唯一無二のわれらの世界」という旗印の下に、人間が人間を殺し続けている。『ぼくは始祖鳥になりたい』の主人公ジローの南北アメリカを舞台とする越境的な冒険譚に、「アイデンティティ」という呪縛から脱出するためのぎりぎりの希望を見出したいと願いつつ、今年もまた夜を徹して読了した。

充実した読書の時間を潜り抜けた心地よい疲れを感じながら、昼下がりのベッドで横になり、このまま続編の小説『金色の虎』(講談社)も読んでしまおうか、と書物のページをめくっていると、ぐらりぐらりと長い揺れが起こり、飛び起きた。能登半島で大地震が発生したという。

1月某日 昨年中に読もうと思っていたのに、読めなかった本。しかし、読みたい本。「積ん読」をよしとしない主義なので、2024年中に一冊ずつ読でいきます。と、机の前で誓いを立てる。

小川てつオ『このようなやり方で300年の人生を生きていく 新版』(キョートット出版)
陣野俊史『ジダン研究』(カンゼン)
坂上香『根っから悪人っているの?』(創元社)
くぼたのぞみ、斎藤真理子『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)
李箱『翼』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)
キム・ヨンス『七年の最後』(橋本智保訳、新泉社)
佐藤文香『渡す手』(思潮社)
植本一子『こころはひとりぼっち』

1月某日 昨年末、熊本・水俣への旅に同行したことをきっかけにして、上野俊哉先生の『ディアスポラの思考』(筑摩書房)を再読した。この本には、パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードの「エグザイル論」にも関連する文章「二つの旅する批評」が収められている。民族離散、亡命、人間の移動の経験に関する上野先生の関心が、どのような哲学的・思想的な問題意識に由来しているのかを確かめようと、『音楽都市のパラジット』『思考するヴィークル』(洋泉社)や『人工自然論』(勁草書房)など初期の著作も集中的に読み返した。

1月某日 能登半島地震では、大津波も押し寄せたことが明らかになった。日本赤十字社とともに活動する写真家の畏友、渋谷敦志さんがさっそく現地入りしている。渋谷さんがSNSに投稿した取材メモによると、断水、停電、電波障害のみならず道路の亀裂や土砂崩れで文字通りライフラインを断たれ、救援の手が届かない被災地の状況は報道で伝えられる以上に厳しいものらしい。原子力発電所も立地する北陸の半島では今なお、余震が続いている。

不定期で参加している読書会の課題図書としてトーマス・マン『魔の山』(高橋義孝訳、新潮文庫)を連日、読み続けている。1冊700頁超の上下2巻。ドイツの港湾都市ハンブルクからスイスの高原ダヴォスのサナトリムに「いとこ」の見舞いにやってきた主人公ハンス・カストルプは、冒頭から冷えや火照りを感じたり、やがて疲労や発熱に悩まされたりして体調が芳しくない。両親は比較的若く病死しているという。当然、読者は「かれもまた結核なのだろう」と早い段階から疑うわけだが、そんなカストルプ青年に診断が下されるのは、ようやく上巻の380頁。先の見えない長い山道が続く。

1月某日 明星大学で「編集論」の授業を終えた後、図書館で拙随筆集(サウダージ・ブックスから刊行予定)の校正作業。しかし、なかなか捗らない。ルーマニアから亡命したアメリカの詩人アンドレイ・コドレスクの批評エッセイ集『外部の消失』(利沢行夫訳、法政大学出版会)などを見つけて、ついつい読みふけってしまう。

1月某日 神奈川・大船の最寄りの書店、ポルべニールブックストアに新年の挨拶を。黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)、宋恵媛さんと望月優大さんの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)の2冊を購入。どちらも読みたかった本で、よい買い物をした。

1月某日 明星大学の「マイノリティ文化論」でゲスト講義をおこなう。大学1年生向けの授業。現代日本のマイノリティ文学を紹介することを求められたので、李良枝の小説「由煕」を取り上げた。「日本」「日本人」「日本語」の一体的な繋がりを前提とする日本文学とは異なる、「日本語文学」という概念があること。国家(日本)や民族(日本人)に安住することのないマイノリティとして、なお日本語で書くことを実践してきたのが、在日コリアンの作家たちであること。導入としてこうしたことを説明した上で、日本(語)と韓国(語)の二つの世界に引き裂かれながら、「言葉」を凝視することで「自分自身がどう在るか」を深く問いかけた李良枝独特の文章の息遣い、「由煕」という作品の凄みについて語った。

かつて僕が書店の一角で『李良枝全集』(講談社)に出会ったのが、ちょうど大学1年生の時だった。それから20年以上経って、李良枝のエッセイ集を編集することになった。「マイノリティ文化論」の受講生のなかで、いつか彼女の小説を読もうという人がひとりでもあらわれるといいなと思う。ちなみに、ゲスト講義をおこなう前に、宋恵媛さん『「在日朝鮮人文学史」のために』(岩波書店)を読んで勉強したのだった。

夜は、自宅からオンライン読書会に参加。トーマス・マン『魔の山』上巻について意見交換する楽しい時間。まだまだ山の5合目、次は下巻だ。

1月某日 明星大学で今期最後の「編集論」。学生たちにはグループワークの課題として、「私の好きなものたち」を特集したZINEの制作に取り組んでもらう。この日はその発表会。ZINEのテーマは、料理や食、スポーツ、推しの文化(声優、アニメ、アイドル)、地元、映画とバラエティに富んでいておもしろい。限られた時間で原稿、写真、イラストを準備し、編集やデザインの共同作業をおこなうのは大変だと思うが——「センセって鬼ですよね!」と学生に言われた——、しかし表現することやものづくりをすることの喜びを感じてもらえたら……。課題としては「本文16頁程度」と分量を設定しているのだが、今年は60頁超の熱量の高いZINEの力作も登場! 印刷製本は「センセ」の担当なので、自宅の仕事場でうれしい悲鳴をあげる。

1月某日 東京のサンシャイン劇場で、久しぶりの観劇。妻子とともに訪れたのは、少年社中の25周年記念興行「テンペスト」。ストーリーとしては同題のシェイクスピア劇とそれを上演する架空の劇団の物語が交錯する内容で、台詞のあちこちに「テンペスト(嵐)」を現代のドラマとして読み替える脚色・演出の仕掛けが散りばめられていて楽しく、見応えがあった。またそれ以上に俳優のみなさんの演技にダンス、音響照明舞台装置が織りなす圧倒的なエンターテインメントの力に打ちのめされた。まさに熱風渦巻く「嵐」を体感。演劇っていいものだな、と素直に感動した。

1月某日 黒川創さんの『世界を文学でどう描けるか』を読み終えた。すばらしい本だった。黒川さんの著作で言えば『国境 完全版』や『鴎外と漱石のあいだで 』(河出書房新社)などの系譜に連なる世界文学をテーマにした評論集なのだろう、と思って読みはじめたのだが、大文字の「世界」からも「文学」からも一見遠く離れた、著者の20年余り前のサハリン旅行について語る紀行エッセイで、予想は見事に外れた。しかしこの本は、その個人的な旅の経験を通じて、「世界を文学でどう描けるか」という問いを探求するひとりの作家の真摯な思索の記録になっていて、かえって胸を打たれたのだった。

北方先住民の地でありながら、19世紀以降、日本やロシア(ソ連)によって支配されてきたサハリン島。著者は、北端の町オハでニーナという英語通訳の初老の女性を紹介される。大陸のハバロフスクからやってきて、父親はソ連海軍将校のロシア人、母親はウクライナ人。戦時中から海軍居留地の家の隣には捕虜収容所があり、そこでパンを乞う日本兵と交流をしたことがあった。戦後、レニングラードの外国語学校に入学し、そこではドイツ兵の捕虜の姿も見た——。短い出会いをめぐる断片的な耳の記憶を回想しながら、著者はこう書いている。

〈ロシアのプーチン大統領は、ウクライナのファシスト、ネオナチを拭い去る、と繰り返す。ロシアとウクライナのあいだには、一つの地政学的身体を共有してきた、長い歴史がある。……だが、その同じ地に、ニーナのような人たちもいる。彼女たちは、自身のからだにいくつもの民族の歴史を共存させながら生きている〉

深く心に刻まれた一節だ。終わらない戦争の現実を突きつけられ、世界を語ることばを失いつつある絶望の渦中にあって、なお世界をふたたび語ることばが、文学があるとしたらここからはじまる、と著者は確認しているのだろう。つまりさまざまな旅の記憶を宿した一人ひとりのからだから発せられる小さな声に耳を澄ませることから。その姿勢を共有したい。得難い読書体験になった。

1月某日 朝、窓を開けると雨が上がっていてほっとした。資料を詰め込んだリュックサックを抱えていつものように小田原から新幹線に乗り、名古屋を経由して三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。昨年の春からはじめた「物語を書く講座【ショートストーリー部門】」が終了した。自分が講師を務め、「物語」について共に考え、「読む」「書く」「企画書をつくる」について解説する4回の講座をおこなってきた。これから「私と場所」をテーマにした、受講者の作品執筆がはじまる。原稿が届くのが楽しみだ。

夜は HIBIUTA の書肆室で、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第6回も開催。宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』を参加者とともにゆっくり読み進めている。HIBIUTAで出会った牧師の豆太さんが青森の教会に移るという。引越し前に挨拶することができてよかった。そのまま2階のゲストルームに一泊。

1月某日 沖縄より詩と批評の同人誌『KANA』が届く。記念すべき30号の特集は、昨年亡くなった同人作家・河合民子さんの追悼。

1月某日 ジャマイカの西インド諸島大学英文学科で学んだカリブ海文学・思想の研究者・中村達さんの『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)が届く。「クレオーライゼーション(クレオール化)」などカリブ海発祥の概念を、ヨーロッパの現代思想的な文脈や用語で解釈するのではなく、あくまでもカリブ海独自の文学史・思想史の側に立ち、位置づけ直す野心的な論集だ。西洋中心主義の呪縛からカリブ海の文学や思想を解き放つ読みを、著者は「解呪の詩学」と呼ぶ。日本での翻訳紹介がフランス語圏に偏りがちという問題意識から、英語圏のカリブ海の作家・思想家の作品をていねいに紹介していて読み応えがある。半分ほど読み進めたところだが、カリブ海のアフリカ系住民とインド系住民の複雑な関係を描いた小説や、かねて関心のあったバルバドス人の歴史学者で詩人のカマウ・ブラスウェイトの言論を詳しく知ることができてありがたい。

黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』も中村達さん『私が諸島である』も「唯一無二のわれらの世界」という像を捏造する力に抗って、世界の生々しい多様性を語る可能性を文学や思想のなかに探っているのだろう。

カリブ海の本を読んでいるので、無性に海をみたくなってくるのは当然だ。波の音を聴きたくなってくる。ジャマイカにもいつか旅してみたいが、とりあえず「東洋のマイアミ」と称される江ノ島に行って散歩した。むかし、大西洋まで車で一時間強という土地に3年ほど住んでいたことがある。これからの人生で、ふたたび大西洋を見る機会は訪れるのだろうか。相模湾を眺めながら、そんなことを思った。

舞踊の歌詞の意味

冨岡三智

ジャワ舞踊の多くには歌があるけれど、私は踊る時に歌詞の意味をあまり重視しない。それよりも音や響きの方を重視している。舞踊劇であれば、歌は台詞でもあるので心情を歌った歌詞が作られているし、新しい伝統舞踊作品の中には振付に対応した歌詞を新しく作っている場合もあるので、そういうのは別である。

ジャワで宮廷舞踊『ブドヨ・パンクル』完全版を2007年に公演した時、念のためスラカルタ王家の事務の人から王宮の文学担当者?図書館の人?に歌詞の意味を確認してもらったことがあるのだが、果たして歌詞は女性の美しさを表現しているけれど、特別な意味はないという返事だった。確かに、踊り手としてこの歌を聞いていると、歌詞はコロコロと玉を転がすような心地良い音の響きの連続で、そこに確かに女性らしい美しさが感じられる。私は歌詞は聞いていなかったけれど、音楽の美しさと歌詞をのせた声の響きの美しさに推されて舞い切ったという感覚がある。

その後、『スラッ・ウェド・プラドンゴ』という戦前に宮廷音楽家が書いた音楽伝書を読んでいたら、この『ブドヨ・パンクル』の歌詞の冒頭の歌い出しは「王の命令により歌う」という意味で、これを改訂した王(パクブウォノVIII世)が即位する前の歌詞は「王」の部分が「王子」だったという話や、また、歌詞の中にある「王は身体のことで指示を与える」という意味になる部分はサンカラという修辞法(象徴的な言い回しの中に特定の年号や出来事などを忍ばせる)が使われていて、VIII世の即位年であるジャワ暦1787年(西暦1858年)を意味しているという話が出てきた。これらを読んでへーとは思ったものの、舞踊の振付には全然関係がないなとも思う。舞踊を改訂した王の時代にそういう修辞法が流行して、既存の歌詞の中に少し入れこんだだけなのである。

2023年11月号『水牛』に寄稿した記事「ジャワ舞踊のレパートリー(3)自作振付」でも書いたけれど、私が自作『陰陽』(2002年)のためにデデ氏に委嘱した曲が、2003年頃にインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のダルヨ氏が振り付けた舞踊「スリカンディ×ビスモ」の中でも使われている。この作品の音楽もデデ氏が担当したのだが、歌詞は私の作品のためにデデ氏がつけてくれた(私の好みに合わせて、災厄を祓うようなフレーズなどを既存の詩などから取っている)歌詞そのままである。私の舞踊作品のテーマは『マハーバーラタ』から取ったスリカンディ・ビスモの戦いの話とは全然関係がないが、曲の旋律はスリカンディ・ビスモの舞踊の中でもふさわしいシーンで使われている。このように、歌詞は意味が大事というより、音楽の旋律と一体化してある種の感情を催させるもので、旋律を歌う手段として歌詞があると考えた方が良い。

『現代能楽講義』(天野文雄著)の中に、昭和の名手と言われた能楽師が、ある能で中入りして楽屋で衣装を着替えつつ狂言役者が舞台でその能の筋を語るのを聞いて、この能はこういう能だったのかと言ったという逸話が紹介されていて、天野氏も、謡を謡っている時は誰しも不思議にその意味を考えたりしないものだと書いている(p.6)。詩劇である能でもそうなのだから、ジャワ舞踊ではましてそうなのだろうと思う。

小劇場

笠井瑞丈

初めてソロ公演をしたのが神楽坂セッションハウスです。1998年の二月でした。当時自分のソロ公演を行う小劇場を探していました。当時はインターネットも無かった時代でしたので、人の噂や、劇場に詳しい人の話を参考に、色々調べ、直接見に行ったりしました。そして見に行った中から、一番自分がピンときたのがセッションハウスでした。そして下見に行ったその日に、ここを借りると決め、セッションハウスで初めての自分の公演を行いました。思い返せば、当時は今と比べて小劇場というものがあちこちらにあった時代でした。それぞれが皆違う劇場の匂いを持ち、それぞれの特色みたいなものがありました。芝居が多い小屋、ダンスが多い小屋。もちろん両方やってる小屋もありました。劇場が独自の色の企画を立ち上げ、ダンス公演が行われていたり、フェスティバル形式の公演が行われてたりしてました。その中でセッションハウスは、本当に数えきれないほどの多くの企画を産み、途切れることなく現在も続けています。僕も本当に多くの企画に関わらせていただきました。その中で多くのダンサーとも知り合うことができました。小劇場は踊る場所でもあり、交流の場でもあり、そして新しいものが一番最初に生まれる場所でもあります。しかし残念なことにここ数年、新型コロナウィルスの影響もあり、多くの小劇場が閉館してしまいました。そんなこともあり、ここ数年、自分でも何かできることはないかと思い、企画を考え、スタッフも自分で行い、天使館という稽古場で、不定期ですが年に何回か公演を行なう活動を続けてきました。稽古場主の笠井叡のソロ公演や、私が以前セッションハウスで行っていたナイトセッション、ダンサーとダンサーの即興公演など、天使館で行ってきました。今はだいぶ緩和されましたが、ここ数年前まではコロナの影響で、場所に人が集まるということが難しい時が数年続きました。ダンス公演もオンラインなどに変わり、劇場から人が離れ、人と人との交流もシャットアウトされ、観に行くお客さんの力も弱くなってしましました。そしてダンスの在り方そのものが変わってしまいました。時代とともも変化していくことは当たり前のことですが、これから未来に向けて、また小劇場から、この時代にあった新しいムーブメントが生まれてくることを信じています。壊れたものからまた新たなもの作りだす。作るより壊す方が簡単です。作る方が数倍時間がかかります。でもそこにはまた生み出す喜びがあります。そんな喜びを噛み締めて、これからも、小劇場が盛り上がっていけたらいいなと思っています。

話の話 第11話:霞を食う

戸田昌子

その日、わたしたちは確かにリゾットを頼んだはずだった。それなのに運ばれてきたのはシーフードグラタンだった。あれっ、と思ったわたしとホリイさんは顔を見合わせ、そしてホリイさんはいつものリズミカルな抑揚で「あ、ぼくら、リゾットを頼んだはずなんですけど」と快活に言った。すると店員は「いえ、グラタンです」ときっぱり断言して、ごとり、ごとり、と皿をわれわれの前に置いた。その確信にみちた不機嫌な仕草に「もしかしたら自分たちが注文を言い間違えたのかもしれない」と思いこんだわたしは、「わたしグラタンも好きだから、これでいいんじゃない? おいしそうだし」と言った。虚をつかれた顔でホリイさんは、「あ、そうですね、うん、」と、確かに「うん」のあとに「、」をつけて、なにかをのみこんだようだった。店員さんが去ったあと、わたしはいつものように笑顔を作ってからグラタンにかじりついたのだったが、ホリイさんはやはり、うまくのみこめなかったようである。「リゾットを頼んだはずなんだけどなあ、」と、また語尾に「、」をつけながらホリイさんはグラタンを食べ、そして、それを食べ終わったあと、両手をパッと合わせて「やっぱりリゾット、食べませんか? 半分こしましょうよ」とわたしに提案したのだった。

そういうわけでその夜は、シーフードグラタン、半分ずつのリゾット、そしてプリンを一つずつ、食べた。店を出ながらわたしは「意外に大食なんですね、ホリイさんは霞を食ってるんじゃないかと思ってました」と言った。するとホリイさんはこともなげに「ああ、霞も食べるんですけどね、あれは喉に詰まるんですよ」と言った。なるほど、ホリイさんは霞を食ったことがあるのか。しまった、わたしは霞を食おうと考えたことすらなかった、と軽く敗北感を感じるわたし。暑かったのか寒かったのかも思い出せないその夜は、ホリイさんと二度目に遊んだ蛍狩の初夏の夜からは、たった4ヶ月も経っていなかったのに、はるか古代のことのようで、珍妙な明かりをともして夜闇に沈んでいる。

霞を食う、と言えば、わたしはヒッピーを連想する。20代前半のころ、アメリカで一緒に住んでいたルームメイトのクリスティーナはヒッピーだった。ヒッピーといえば1960〜70年代のカウンターカルチャー、いわゆるラブ&ピースを理想とする人たちで、コミューンを作って生活し、ドラッグを吸っては瞑想などをしていた人たちだ。彼女は両親ともにヒッピーで、ヒッピーしか住んでいないカナダのある島の出身だった。「ヒッピーはやっぱりみんな、マリファナを吸うの?」とわたしが尋ねると、クリスティーナは「あたりまえやん。うちの島はマリファナを共同農場で栽培してたよ」とこともなげに答える。「わたしらの島だと、マリファナは大事な共有財産だから、ひとりじめしちゃダメなんだよ。なのにあるとき旅行客がマリファナを盗んで大騒ぎになって」と話し始めた。マリファナは共同で栽培・収穫されて共有の倉庫に保管されているが、鍵もかけられておらず、外部の人間でも吸えるのだと言う。ある時、旅行者の二人組が、盗む必要もないそのマリファナをその倉庫から盗み出した。そこまではまあ、ありそうな話だったのだが、問題は、犯人のうちの一人が銃を所持していたこと。その銃を見たこの平和な島の人々は、「なんてことだ!彼らは銃を持っている!違法だ!」と大騒ぎになり、急遽、捜索隊を結成して二人を追いかけることになった。逃げ出した犯人たちは、島に一つだけある港までたどりつき、そこにいた船の船長に「すぐに船を出せ!」と迫った。まるで映画の一場面のようである。しかし船長もまた、ヒッピーなのである。ニヤニヤして「それはどうかな……」と誤魔化してばかりで、船を出さない。そこへ捜索隊が追いついて、ふたりをあっさり捕まえてしまった。警察に突き出すとき島の人々は「こいつらは違法な銃を持ってるから悪いやつらだ」と説明したが、「共有倉庫からマリファナを盗んだ」という真の罪状は決して述べなかった。もし真実を述べれば、島の人々がほぼ全員、捕まってしまうからである。そして犯人たちものほうも、違法な銃の所持に加えてマリファナ盗難などという、自分たちの罪が重くなるようなことをわざわざ言うわけがない。そして警察のほうも、ふだんからマリファナ栽培を黙認している事実を公にはしたくない。そんなわけで、大人たちが雁首そろえて肝心なことは黙ったまま、犯人たちは警察にしょっぴかれて行ったのであった。

しかし、クリスティーナはマリファナに関してはなかなか批判的である。「この島の高校生は全員、マリファナを1回くらいは試してみるけれども、わたしなんかは親が若いころにマリファナを吸いすぎて、いまでも幻覚があるから、あれみたらもう吸わないね」と言っている。マリファナの幻覚は一生もので、本人たちは霞を食って生きていけるのだとしても、はたから見たら「それはどうかな……」といったところなのだろう。

田野が歩きながら言う。「たとえば1950年くらいのさ、東欧のどこかで、レジスタンスにおれとあんたがいてさ、でもあんたはほんとは無政府主義者だから、ちがうんだ。ふたりでかつかつ石畳を歩きながら、コートの衿立てて、たばこを分け合って話すのさ。そうだった気がする」。田野の話はいつも唐突ではあるが、べつに支離滅裂というわけではない。「ああ、それは、ハンガリーとかポーランドだね」とわたしも応じる。「うん、そう。チェコじゃないの。でもチェコもいくよ。連帯してるから。でもちがうんだ。無政府主義だから。詩と音楽を愛してるんだよ」。そこでわたしは唐突に、スロバキアへ行ってしまった友の顔を思い浮かべる。哲学を学んでいた彼女は、大学を出た後、突然スロバキアに行きたいと考え、スロバキア大使館を訪問して、奨学金の試験を受けてスロバキアへ向かった。「わたしはなぜカントを、スロバキア語で読まなければならないのか」とぼやいていた彼女は、5年ほどたって恋人ができ、妊娠したので結婚することにし、新婚旅行と称してヨーロッパの山々をふたりで巡り、その登山スタイルのまま日本へやってきて、長野の家族に結婚の報告をして、ツーショット写真を送ってきた。その写真には、そこからアルプスの山々の緑が匂い立つ気がするような、さわやかなふたりが写っていた。

「日本では、ひとつの米粒には7人の神様が宿っている、と言うんだよ」と妹が義理の父母に説明している。ふたりはフランス人で、初めての日本訪問である。箸を上手に使えないパパさんのお茶碗の中は、食べ残して茶碗にこびりついてしまった米粒がいっぱいである。それをひょいと覗き込んだママさんは、「あら、それならパパさんのお茶碗はパンテオンね」と言う。神様と言ってもこちらは七福神、あちらは古代ローマ神話に出てくるような神々の庭……イメージが、だいぶ、折り合わない。

エルニーニョって、結局なんだったのだろうか。デニーズで遅めのお昼をひとりで食べていると、隣の席で上司らしきサラリーマンが二人の部下らしき若者たち(男女)の前でワインを飲みながら話している。「フランスでは、昼からワインを飲むんだよ。あ、店員さん、おかわり」と上司が言う。ふたりはうんうんとうなずく。「今年はさ、エルニーニョが日本に来るから、大変なんだよ」と、上司はろれつが回らない。ふたりはまた、うんうんとうなずいている。たしかにフランス人は昼からワインを飲むかもしれないが、デニーズではきっと飲まない。それに、エルニーニョは赤道あたりの海面水温が上昇する自然現象なので、おそらく来日はしない。

そういえば、ひさしぶりにホリイさんに会ったのは、わたしがゼミの準備をしていたときに、下鴨ロンドの道路に面した側の「窓を開けて」、部屋に入ってきたからである。通りに面してテラスのようになっている側面の窓ガラスを、手慣れた様子でガラガラと左から右へスライドさせて、ホリイさんは文字通り、スタスタと入ってきた。下鴨ロンドはシェアメイトが常時15名ほどいるシェアハウスみたいなもので、家賃を少しずつ共同で負担しながらイベントや宿泊や勉強会など、みなが好きなように使っている。その日は写真史のゼミが予定されていて、ゼミのメンバーが夜の打ち上げの準備のために台所に集まっていた。あまりに手慣れた様子で入ってきたホリイさんを、まだ会ったことのないシェアメイトの一人かなと思って顔をあげたらホリイさんだった。「ああ、戸田さん、」とホリイさんは言ったあとで、「今日ここへ来たら戸田さんに会えるとおもったので、」と続けた。しかしその時ホリイさんはスニーカーを履いていたのだ。「あ、靴!」とわたしが言うと、「!!!」と驚いたホリイさんは笑いながら靴を脱いで、玄関へ置きに行った。その「スタスタ」という足音がおかしくて、そのあとわたしはだいぶそれを突っ込んだ。だから、Art Collaboration Kyotoの会場でふたたびホリイさんと待ち合わせたとき、「いま近くです。これから行きます。スタスタと歩いて」と彼はLINEに書いたのだ。そして、再び、ホリイさんはスタスタとやってきた。

酔いどれ詩人の暮尾淳さんは、「すたすたすた だったよなあSよ たんたんたん だったよなあAよ Hはぺったぺったで」と書いている(「雨言葉」)。「Jはどんどんどんだったろうか」と続ける暮尾さんは、吹き曝しの階段の下の、埃臭い三角の隙き間に身をすくめながら、去って行った彼らの足音を聞いている。暮尾さんは、詩人だから確かに霞を食う、といったふうでもあるが、たいていは酔っている。暮尾さんは現代詩文庫の『暮尾淳詩集』のなかに、他の詩人についての自分の書き物や、自身の兄が書いた岡村昭彦についての思い出の文章など、自分の詩以外のものをいくつも収録している。そのなかに石垣りんの「わたしは思想により家族をつくらなかったの」という言葉も、記録している。記憶しておかなければいけないことを記録するという意味で、わたしは彼をほんとうの詩人だ、と思ったりする。暮尾さんは自分の話をしているようでも、実はいつも聞く人だった。いま思い出そうとしてもはっきりと思い出せないが、暮尾さんの足音は、ぺたぺたぺた、という音だった気がする。

犬好きの人が、マンションで犬を飼えないので、架空の犬が後ろからついてくるイメージトレーニングをSNSに投稿して遊んでいた。夜中に自分が台所に立つと、架空の犬が「チャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッ」と、ずーっとついてくるのだ、という話が面白かった、とわたしが言うと、「イヌの爪の音だね」と鳩尾が返す。鳩尾はどちらかと言うと「シャッシャッ」と歩く。タラちゃんは、自分が歩くたびに「トコトコトコ」という効果音が出てしまうことに、きっとイライラしているだろう。

しもた屋之噺(264)

杉山洋一

目の前には雲一つなく澄み渡った青空が広がっていて、毎日ラジオニュースで流れてくる陰惨な光景と、どうしても意識が乖離しがちなのですが、日記にも書いたanno bisesto, anno funesto 閏年は憂い年、つまり忌み年だという言葉は、イタリアではしばしば耳にします。どことなしに世界全体が厭忌すべき方角に引寄せられていて、だからこそ各々生きる意味を考えさせられる機会を与えられているようでもあり、つまるところ、社会そのものについて我々は一度立止まって見つめ直すべき時に来ているのかもしれません。目の前の小学校の校庭から沸き上がる子供たちの歓声こそが、なにものにも代えがたい喜びに感じられます。

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1月某日 ミラノ自宅
元旦より大地震。家人や息子が世話になった入善や、金沢の知人友人の顔が浮かび、不安に駆られる。どうしているのだろうか。一人でミラノで過ごしつつ、このまま日本の地震のニュースを見続けると、仕事に手がつかなくなると思い、リスに胡桃をやって机にむかう。
ストラヴィンスキ「火の鳥」を読み、改めてスクリャービンの和音と酷似していることにおどろく。聴かせ方だけで、印象はこうも変わるのである。なるほど「火の鳥」を書いた時点までは、10歳違いの彼ら二人は確かに近しい場所に居たのだろう。その後、それぞれ全く違う道を選んだ。

1月某日 ミラノ自宅
般若さんからと入善の友人から生存確認メールが届く。羽田空港で航空機衝突事故。闇のなか、飛行機がさかんに燃え盛る衝撃的な映像は、現実とは思えない。
野坂操壽さんの手による「菜蕗」譜と筑紫筝の資料が、突然机の横から現れた。随分探していたのに、「夢の鳥」作曲中、今回見つかった場所をいくら探しても出て来なかったのが、作曲が終わった途端突然現れたので、操壽さんがこの資料に拘泥しないよう慮って下さっていたに違いない。
湯河原と大磯の親戚に電話。おじさんは視界の歪みと肝硬変、おばさんは良性脳腫瘍で瞼が自然と下がってしまってと明るく笑い飛ばしていて、こちらこそすっかり励まされた思いだ。
マリゼルラからのメールに anno bisesto, anno funesto「閏年は憂い年」とある。

1月某日 ミラノ自宅
金沢の友人からのメールに、志賀原発が不安なら、娘さん二人はうちで預かると知り合いから申し出があり、子供たちに相談したら、死ぬときは一緒がいいと即答されたとあり、胸がつまる。「家族とはこういうことなのだと思い知らされました」と書かれていた。
ハーバード大学長クローディン・ゲイが反ユダヤ主義に対する姿勢を批判され辞任に追い込まれる。彼女は黒人初のハーバード大学長だった。
年末に書き終えたファゴット曲を書き続けている夢。切れ切れに、同じ旋律をやるというアイデアだったが、今となってはぼんやりとイメージだけが残っているのみ。なんだ、こうやればよかったのか、と夢の中で喜んでいた記憶があるのだが、何か無意識にやり残したものがあったのか。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母が、昨年から趣味だったピアノを再開したそうだ。親指の腱をいためているので、ピアノは悪かろうと思い勧めなかったが、いざ弾いてみると無理さえしなければ充分楽しめるらしい。くぐり指はやめた方がいいだろうが、別に指使いなど、趣味でのんびり弾く分には、どうにでも無理のないよう替えればよい。バッハのインヴェンションを弾いているという。

1月某日ミラノ自宅
母がそれとなく勧めたところ、父も嬉々として何時間もピアノを練習していた、と聞き驚愕する。80歳代終盤の父が何十年ぶりに弾いた最初の曲は、「トロイメライ(夢)」であった。半世紀ほどの間、父がピアノを弾いている姿を見たこともなく、ピアノを弾けることすら知らなかった。
その昔、管野先生に油絵を教える代わりに、少しピアノの手ほどきを受けていたと言う。自分が生まれる前のことで知る由もないが、ずっと弾きたいと思っていたらしい。一時期、チェロを弾いてみたいと言っているのを聞いたことがあるが、余り気にも留めていなかった。家族だとそんなものかも知れないが、今更ながら申し訳なくおもう。

1月某日ミラノ自宅
朝9時から夜8時半までレッスンと授業。母曰く、父は「エリーゼのために」を3時間近く籠って練習していたそうだ。
ミーノがブランシュヴァイクのオーケストラの首席指揮者になって最初の演奏会のヴィデオを送ってきた。べリオ「レンダリング」とショスタコーヴィチ15番。彼がまだボローニャに住んでいる頃から面倒をみていたのだから、思えば長い付き合いになるが、自分に近しいものを実感したのは今回が初めてで驚いてしまった。自分と似た演奏をさせたいと思って教えてきたのでは全くないが、彼の裡で何かがすっと吹っ切れたような、拘泥ない自然で美しい音楽が流れていて聴き惚れた。能登半島地震の犠牲者が200人を、ガザの犠牲者に至っては23000人を超えたという。Covidの犠牲者への鎮魂の祈りを込め金沢で「揺籃歌」を初演してから、もうすぐ2年になる。

1月某日 名古屋ホテル
羽田の着陸時、心の中で滑走路に向かって手を併せた。息子は同じ日に東京からミラノに戻ったので、知合いのタクシー運転手に家の鍵を預けて、息子に渡してもらう。川口成彦さんが、「山への別れ」を東京で再演してくれて、演奏会を聴いた家人曰く、初演ともまたまるで違った演奏で見事だったそうだ。その言葉を川口さんに伝えると、今回は表現の欲求が前回よりも増して、作品とより一体となれたんです、とお返事をいただく。作曲したものとして冥利に尽きるし、機会を与えて下さった平井洋さんに改めて感謝している。
坂田君の音楽の魅力は、合奏部分で金管とシンバルを絶妙に重ねて、銀の粉を振りかけたような美しいオーケストラの響きを造り出すところ。演奏していて生理的な爽快感と充足感を覚える。その感覚はきっと聴き手にも伝わるはずだ。
演奏会後、安江さんたちと会場近くでおでんに舌鼓を打った。今回の名古屋滞在中、初日は生春巻きにあたり、その2日後今度はカキフライにあたりと、食事では散々な思いをしたので、艶やかなおでんの美味しさが臓腑に沁みる。メニューに糸コンニャクがなかったので、糸コンニャクは関東独自の具かも知れない、という話になる。出汁は品のある関西風だったから、名古屋のおでんは関西風に違いないとの解釈。
山本君、成本さん、内本さんにも久しぶりに再会。名古屋は思いの外イタリアとの繋がりが深い。演奏会冒頭、ステージの照明も抑えて、震災に向けてレスピーギ「シチリアーノ」を追悼演奏したのだが、金沢にお宅のある成本さんは、能登の友人に思いを馳せて思わず涙がこぼれたと言う。震災後直ぐに成本さんのご主人、田中君に連絡したが、彼から、ちょうど金沢を離れていて二人とも震災には遭わなかったと聞いていた。

1月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の本番というのは本当に不思議なもので、必ず何か特別なものが生まれ、耀く。演奏者のはりつめた集中力や鋭い気迫だけではなく、固唾をのんでステージをみつめる聴衆や、ステージを作る関係者一同の心地良い緊張も相俟って、得も言われぬ有機性のある空間が作り出される生きる幸せ、音楽を分かち合う僥倖を実感する瞬間でもある。コンマスの友重さんとはもう長いお付き合いだが、いつも心から感謝している。今回も沢山教えて頂いたし、何より安心して演奏会に臨めるのが嬉しい。彼と一緒にずいぶん沢山の忘れられない公演をやらせていただいた。
眞野さんと一緒に品川に戻る車中、「ローエングリン」舞台装置のテストの写真など拝見。幽玄でどこか儚く、思わず見惚れる美しさであった。家に着いて、ごくシンプルなトマトのパスタを作る。料理は何しろリラックスしてよい。

1月某日 三軒茶屋自宅
三善先生「Over the Rainbow」4手ピアノ編作。彼の生徒で最もピアノが弾けないものとして、一音ずつ弾いては、指のうごきと響きを確かめつつ書き留める。結果として先生のヴォイシングと全く異なるものが浮き上がるが、これが正しく先生の意図だと信じることにした。
昼過ぎ、惠璃さんからお電話をいただき、午後並木橋まで自転車を飛ばす。惠璃さんとは演奏者と楽譜の距離のはなし。
或る時は目の前1メートルくらいに楽譜があるつもりで弾き、また或る時は、自分を楽譜より1メートル先に置いて弾いてみる。楽譜を真下から見上げたり、真下に見下ろしながら爪弾いてもよいし、演奏中に或る位置から別の位置への移動も可能だろう。その意識こそが、演奏者の空間を図らずも意識化、可視化、有機化させる。演奏者の空間が顕現化されると同時に、演奏者自身の音楽が、そこに明確に姿をあらわす。自分が書いた楽譜は触媒でしかないから、楽譜の裡に音楽など存在しないが、その触媒を通し惠璃さんの音楽を紡ぎ出してほしい。

1月某日 三軒茶屋自宅
野坂惠璃さんのリサイタルで「夢の鳥」を聴く。思いがけなく自由な音楽に、思わず心がふるえる。最初の一音がつづく一音の呼び水となり、どこまでも続く。目に見えぬ糸が音を紡いでゆき、まるで織物が編み上げられてゆくようにもみえるし、朝露の雫を溜めるうつくしい蜘蛛の巣のようにも、極彩色をした鳳の典雅なはばたきにも、感じられるのだった。
惠璃さん曰く、その日の朝操壽さんにお線香をあげると、立ち昇る煙が輪を作ったそうだ。あちらの世界は、思いがけなく我々のすぐ傍にあって、そこではきっと誰もが幸せな時間を過ごしているとおもう。

1月某日 三軒茶屋自宅
アウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だが、今年はイタリア各地で親パレスチナを掲げるデモが繰り広げられた。治安保持の立場から政府はデモの延期を要請したが、パレスチナの若者がSNSで強行を呼びかけたところ、圧倒的な数の若者が賛同してミラノ、ローマ、ナポリ、カリアリで大規模なデモ行進が繰り広げられ、反イスラエルを叫んだ。ニュースではイスラエル国旗が燃やされる様や、デモが暴徒化する恐れから、ローマなど前日から商店など早々に店を閉める様子、ミラノの政府治安部隊とデモ隊との特に激しいつばぜり合いが繰返し報じられている。
今まで辛うじてそれなりに保たれていた世界のパワーバランスは、明らかに崩れ始めた。ミラノの親しい友人とも、今までのように気軽に政治について話すことができない。生粋の共産党員であるSは、はっきりと話さないがユダヤ人なのだろう。バイデンは頑張っているが、トランプが万が一当選したら万事休すだと言う。確かにその通りかも知れないが、無辜のガザ市民の犠牲者を思うと、暗澹たる思いにも駆られる。年始の能登半島地震の話など、今や話題にも昇らない。日本は耐震構造が進んでいるから、犠牲者も殆どいなくて良かった、程度の認識しか記憶に留められていないように見える。ロシアがウクライナを侵攻するのは悪で、イスラエルがパレスチナをゲットー化するのは善、と言っても誰も納得しないが、イスラエルは国連パレスチナ難民救済機関職員がハマスと内通と糾弾し、イタリアや日本を含め、各国が資金拠出停止を決めた。
日々世界の状況はエントロピーに近づいていて、このエントロピーが、我々から生きるエネルギーを奪ってゆく。最早誰が正しく、誰が間違っているのかもわからない。道義も正義も以前から既に形骸化していて、結局体を成していなかったと気づく。今こそ何のために、誰のために生きるのか、我々が改めて考えるべき時が来たのかも知れない。

1月某日 三軒茶屋自宅
早稲田でひらかれた感謝会の席で、よく響く低い太い声をふるわせ、佐々木さんが諳んじたイーリアスが見事だった。彼が暗誦を始めた途端、空気ががらりと変わるさまは、まるで名演奏家が客のリクエストに応えてさっと即興を披露するが如く。なるほど、彼は身体の芯から音楽家であった。
松本良一さんから草津でカニーノに叱られた話を聞いた。新しいベーゼンドルファーが草津の音楽堂に入ったばかりの頃、遠山慶子さんからピアノに触っていいわよと言われてショパンの舟歌を弾いていると、出し抜けにカニーノが現れて、そこは音が違うだろうとイタリア語で怒りだしてしまった。挙句の果てにお前はどこのクラスの学生かと質されて、自分は取材で訪れている新聞記者だと応えると、たとえ新聞記者でも正しく弾かなければいけない、と改めて厳しく諭されたそうである。

1月31日 三軒茶屋にて

楽譜のスケッチ

高橋悠治

毎月文章を書くのがめんどうになっている。新しいことを思いつき、ことばにするのが遅くなった。それなら音楽を想像して楽譜にするのはどうか、と言われて、その方が楽かもしれない、ピアノで音を試しながら楽譜を書く作曲家はいたし、今もいる。ピアノがなくても、テーブルの上に手を拡げるだけで響きが浮かんでくると、リストのことだったかな、読んだ記憶がある。テーブルがなくても、手の動きを思い浮かべるだけでも良いだろう。
とりあえず、試してみたのがこれ:

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2024年1月1日(月)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
さまざまな疑問に彩られた「おめでとう」ですが、ともあれ、年が改まったことは受けとめました。きのうから続く時間のなかに、ほんの少しの変化を感じるきっかけを見出したいと思います。

「水牛のように」を2024年1月1日号に更新しました。
この更新も長いこと月に一度おこなっている日常と化した決まり事です。更新という作業そのものに変わりないけれど、更新する内容がおなじだったことはありません。年のはじめの更新ですから、寄ってたかって水牛という場を賑やかにしてくださるみなさんに心から感謝を! 今月は読みながらつい笑う原稿が多かったと思います。藤井貞和さんによれば、きょうは蘖曜日。蘖という字は「げつ」「ひこばえ」と読み、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。親が殺されたりしたあとに生き残った子や、滅亡したと思われた民族の廃墟に、新しい生命・希望があらわれることにも使われたりするそうです。きょうという日にふさわしいですね。

それでは来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

龍が立ち上る

冨岡三智

今年は辰年。龍というと、私はブドヨ(9人の女性で踊るジャワ宮廷舞踊)を想像する。2004年4月号の『水牛』に寄稿した「私のスリンピ・ブドヨ観」で書いたのだけれど、ブドヨには前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返し、大地を踏み固めるように踊る。踊り手のポジションによっては少々ステップが異なり、それによって隊形が少しずつ変化していく。陰陽師が行う反閇(へんばい、呪文を唱え大地を踏みしめて邪気を払う呪法)のように、歩くという行為はそれ自体が宗教的、呪術的行為になり得る。9人のブドヨの踊り手が大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると徘徊していくうちにエネルギーが生じ、「気」が立ち上り、それが巨大な1頭の龍となって大地を這い、谷を霧のように流れていくような感覚に襲われる。そんな龍が他人の目にも見えてくるようなブドヨ(またはブドヨ的な舞踊)が踊れたら…という目標のイメージはずっと持っていたのだけれど、そう思ってからすでに20年経っている…。いい加減に腰を上げないとということで、自分に発破をかけるべくここに書いてみた。今年の目標である。

どうよう(2024.01)

小沼純一

深夜に電話をかける習慣
いつなくしたんだろ

たあいないなんでもないこと
いくらもあった
ゆたかだった

深夜に電話をかけるともだち
いつなくしたんだろ

おなじものもっていた
もってたんじゃない
ないものをわけあって

深夜に電話をかける恋人
いつなくしたんだろ

たくさんあったあてさきが
すっかりきえて
おとなになるとはそんなこと

深夜電話をおびえてる
いつからこんなになったかな

どなたこなたにあちらさま
かかってくるのは
ふきつなしらせあからさま

深夜電話をさけている
さけをのんでもさけばなくてもさけている

あいてたあいだだんだんつまり
あいてだんだんふえてくる
いつかこちらがかけるばん
いつかこちらがかけられて

かいたはがきがまだここに
とうかんしないといつまでも
eメールだと
すぐおくってしまうから

うえからしたまで
字のおおきさがかわってく
行のあいだもちぢまって
くぎりのあいさつは
おもてにはみだし
差出人のなのわきに

かいた字がひとごとをつげる
みなれてるはずなのに
すこしよそいき
もうかいたきも
きおくもうすく

はがきってなまなまし
かったんだ
うすっぺらいかみなのに
あるとそこに

きのうはおなかがへんだった
これまでになかったへんさ
けさはしんぞうどきどきして
めがぐんるぐんるまわってた

おじいちゃんやらかすんだ
このまえはかきのきのしたでころんで
きょうはげんかんでめまい
あんたがでかけたときばっか

ひとがいないと
たよりない

やどかりて
かいがらぬいで
あめふらし
さかなでしながら
いかめしい
たこあしまぎれ
いそぎんちゃく
おさかなさかだち
すくうてもなく
すくい
なし
すくう
ぬし

あくにん
なりたい
いいひと
いいひとっぽく
ふるまうひと
うんざりさ
あくにんになりきれなくても
せめてせめて
ふりしたい
あくにんの

あくにん
なりたい
いいことなんて
あきあきさ
よこにくちをひらいて
いーっとやりたい
せめて
いいひとってみられぬよに

話の話 第10話:12月と言えば

戸田昌子

年の瀬が押し迫る12月30日である。我が家の動物たちがおしゃべりをしている。

クマ「年末になると、戸締りがいい加減になるじゃんか」
ぼち夫「そんな!空き巣なんていけませんよ!」
クマ「違うよ、意識調査だよ」

クマは我が家に滞在するようになって20年くらいになる。初めてうちに来たのはクリスマスの夜だった。彼は意外に苦労人で、生活苦からパチモンの時計を街で売り歩く仕事をしており、その夜、わたくしどもの家のドアをピンポンした。わたしが扉を開けると1匹のクマが立っていた。「時計買いませんかね」と彼は言いながらすすすいと部屋に上がり込み、わたしの出した茶をすすって残り物のケーキを食べ、その日は我が家で寝た。翌朝、彼はなんてことのない顔をして一緒に朝ごはんを食らい、それ以外、我が家に居候している。かなり危ない渡世であったようだが、最近は羊のローズちゃんと仲良くなって、悪い遊びはすっかり落ち着ちつき、「おれも若い頃はだいぶヤンチャでさ」などと言って得意がっている。

ぼち夫は、娘の片割れになった靴下から生まれた。靴下なので頭のてっぺんは擦り切れていて、顔色は細かいボーダーのマゼンタ。すぐに学校教師みたいなことを言う癖があって、常識人なだけでなく、なにかと平凡でつまらない。口癖は「きのこは体にいいんですよ!」である。

他にも、やよいさんや、兄と生き別れになったゾウなどがいるので、我が家はいつも通り、賑やかな年の瀬である。

毎年、年の瀬のこの時期になると、「そろそろ電話がかかってくるのでは」と思い出す人がある。犬養さんである。こちらは名前に「犬」がついているが、実は人であって、夫の友人であり、わたしにとっては先輩にあたる。この犬養さんは脱ぐのが大好きなので、わたしが彼に初めて会ったときも、ほぼ脱いでいた。風呂桶を手渡すと裸にネクタイで踊ってくれる親切な人で、冬季五輪のスキーのジャンプ競技では、男子アブノーマルヒルの代表になれるのではないかといつも期待されている選手である。いまは結婚していて、3人の人間のお子さんがいる。この時期になると毎年電話をかけてきて、「遊ぼうぜ!」と誘われる。この「遊び」は文字通りの遊びで、公園でバドミントンなどをして遊ぶのである。だいたい晦日などに遊んでいることが多い。

そんな調子で空気が読めない人だから、犬養さんは家族にも適当な扱いをされている。それはコロナが始まったばかりの冬のことだった。いつも通り年末に犬養さんから電話があったのだが、着信するスマートフォンの画面を見た夫が「あ、犬養だ」と言ったきり、さらりと無視した。しかたないのでわたしが電話を取る。LINE電話で顔を見ながら通話をするテクを覚えたばかりの犬養さんは、ビデオ通話である。「おお、戸田か」と犬養さんがスマホの画面に現れる。「あ、犬養さん。お久しぶりです。いまなにしてんですか」とわたし。「おお、おれか。ソロキャン」と犬養さんは言うが、スマホ画面の背景はどう見ても自宅リビングで、キャンプ場ではない。「自宅じゃないですか。ソロキャンって、家族どうしたんですか」「ああ、家族な、実家に帰ってる。義理の両親から、他人からコロナをうつされるの嫌だからお前だけは来るなって言われたんでな、おれは家でソロキャンしてんだよ」と犬養さん。「おれは準家族だからな」と言いながらコンビニパスタをもぐもぐ食べている。冬の風物詩である。

それにしても、今年の12月は実に忙しかった。12月初頭には鳩尾が上京していて、そのお付き合いで、1日に2万5千歩も歩いたりしたのがその始まりだったと言えようか。鳩尾にはいつも京都でお世話になっているので、東京へ来るとなったら、わたしがきちんとお世話をしないといけない責任がある。だから宿泊先や観光スポットなども吟味してオススメをお知らせしたり、旅程を綿密に組んでリストにして渡したり、我が家の近くに滞在させて朝ごはんも用意するなどした。鳩尾はいつも「道に迷ったことなんてありませんよ」というていで、京都の街をスタスタ歩いているので、わたしは道に迷わない人だと思っていたのだが、東京での鳩尾は意外に道を覚えるのが苦手なようである。そんなわけで、我が家へのルートを一生懸命説明したのだが、鳩尾は平然と「もう忘れてしまいましたね」などと言う。「だから!」とわたしも熱が入る。「駅を出たら、とにかく、左!」と言おうとしたところが力が入りすぎて、「駅を出たら、とにかく、しだり!」と言ってしまう。「おっ、”ひ”が”し”になるとは、さすが江戸っ子ですね」と喜ぶ鳩尾。いや、それは江戸っ子だからではなくて、ただの言い間違いだから、と言い訳するが、「落語でしか聞いたことないから新鮮だなあ〜」などと言って、鳩尾はニヤニヤしている。

それから12月には、銀座の教文館に行って、クリスマスの支度をしなければならない、と決まっている。なにしろわたしはクリスマスが大好きなのだ。わたしは子どもの頃、プロテスタントの保育園に通っていたので、自分をキリスト教徒だと思い込んでいたのに、小学校へ入ってから自分がクリスチャンではないことがわかった時のショックは大きかった。入信もしていないのに棄教させられたかのような気持ちであった。それに加えて、世俗的な小学校の同級生たちに心の底から幻滅したことも追い討ちをかけた。世俗的な人たちにはサンタは来ない、サンタは信じる人の元にしか来ないんだ!という強い思いから、後年になって、日本クリスマス教団という新しい宗教団体を立ち上げて、自分がその開祖になることにした。日本ではキリスト教徒は人口の1パーセント程度に満たない。残りはみな非キリスト教徒である。そんな、キリスト教徒ではない人たちが、日本でクリスマスを祝うための新興宗教である。主な活動は教文館に行ってくるみ割り人形を見ることであるが、決して強制ではない。とくにお祈りや経典、決まりごとなどはないが、世界平和と人類平等をめざしている。

そして12月には締め切りがたてこむ。海外の仕事相手はクリスマス前になんとか仕事を滑り込ませようとしてくるし、国内の仕事相手は28日ごろでに仕事を済ませてしまって正月は休もうと言うのだ。こちらは発注する側ではなく、発注される側なので、四の五の言う立場にはない。間断なく続くめまぐるしい催促メールに対して、その場しのぎの言い訳で打ち返すばかりである。どうしようもなってくると、クマが取り扱っている、なんだか怪しい薬でなんとかしよう、などと考え始める。おすすめはメオソラスール1000mg配合の「ゲンジツトウヒ」である。定価670円が今なら480円、という売り文句についつられてしまう。成分としては「キカナーイ」「キニナラナーイ」「ムシムシスール」「ムカンシーン」などが入っているらしい。忙しさのあまりに疲れ果てた時には、「心ガムテープ」や「心修正液」などの商品もおすすめだ。夫婦関係に問題のある人たちには「愛情水増しスポイト」などという商品もあるそうだ。足りない愛情をスポイトで増やしてくれる。

心が問題だ、というのは確かにその通りで、心を全面的に守ってくれる薬としては「心ガードスプレー」というのもある。「元気エキス」「根太さ」「粘り強さ粉」「無神経粉」「ボーっとエキス」などが配合されていて、多角的に心を守ってくれる。ようは、気にしなければいいのである。そんなわけで、「キニシナーイZ」という薬も発売されているらしい。しかし、問題から目を逸らすのが主眼なので、根本的な問題はなにひとつ解決しないところがミソである。

そういうわけで、締め切りをいくつか反射神経で片付けたあと、コーヒーが飲みたくなって淹れている。とはいえわたしはコーヒーを淹れるのが不得意なので、コンビニのドリップパックである。わたしには苦手なことがいくつかあって、まずは卵を割るのが苦手である。つぎに人の名前を覚えるのが苦手である。そしてコーヒーを淹れるのが苦手である。これが苦手ランキング1位から3位を占める。そういうわけで、自分で頑張って淹れたコーヒーを飲みながら話しているところ。

わたし「わたしはXXのお店のコーヒーは苦くて苦手なんだよね」
友人「どんなコーヒーが好きなの?」
わたし「あまり苦くなくて、雑味のないやつ」
友人「ああ、あるよね、そういうの」
わたし「長野にさ、とにかく雑味のないコーヒーを淹れる喫茶店があってさ。もう、水なの?っていうくらい雑味がないのよ」
友人「それ、水なんじゃないの?」

味の違いがよくわからないので、もしかしたら水なのかもしれない。まあ、万が一、もし水だとしても、キニシナーイ。

アパート日記12月

吉良幸子

12/1 金
昨日から2年ぶりに関西へ里帰り。2日間のお目当は全部達成。
着いてすぐ絵本編集・筒井さんの展示へ行って感嘆し、dddギャラリーの久保さんとお昼。その後南船場へ移動して母と松屋町をぶらぶらし、今年亡くなったばぁちゃんのお参りをしに生野へ。底冷えがひどい実家へ帰り、巨大黒猫を撫でながら一緒に寝た。次の日は初の動楽亭! 久しぶりに顔を見せてくらはったざこばさんの体調を心配した後、甲賀さんの文字の暖簾がかかった千鳥温泉でお風呂に浸かり、ほかほかのまま新幹線で東京へ戻るという、何とも愉快な旅やった。次来るときは他の銭湯や寄席にも行きたいなぁ!

12/3 日
東京へ戻ってから休みなく出稼ぎ続きでさすがに疲れた。今年は飲みに出てる人が多いみたいで、駅でよく飲みすぎを見る。飲むのは一向に構わんが、駅員さんのことを考えると家まで持たしてやと毎回思う。

12/4 月
砧図書館へ予約した『桃尻娘』を受け取りに。読んだらものすごい自由でびっくりした。そのまま品川宿の丸屋履物店へ初の草履を作ってもらいに行った。慶応元年からあるお店だけあって、年季が入ってむっちゃくちゃカッコええ。東海道の玄関口は所々に残る古い建物がすごくて圧倒された。相模屋やったところは今はファミマが入ってて、記念に公子さんへどら焼きを買って帰った。『幕末太陽傳』が無性に観たなった。

12/5 火
花緒をすげてもろた草履を早速履くべく、着物を着て友達と美術館へ行った。着物はばぁちゃんが自分が好きな緑色を娘へ買うて、母は緑があんましで一度も着てなかった普段着。昨日公子さんと一緒にしつけ糸を取って、やっと袖を通してもらえた緑の子。友達には着物を着てくと言うてなかったから、会ったとき目が点になってておもろかった。やっぱり下駄屋さんてすごいわ、いくら歩いても足が痛くならんかった。

12/6 水
土曜日の朗読に向けて、滝本さんがうちへやって来る。昼過ぎから大掃除が始まり、ソラちゃんはまた引っ越しか…とヒヤヒヤしておる。15時半に迎えに行って、うちへ来て公子さんと練習。丹さんも滝さんに会いにやって来た。18時になって割烹やまぐちへご飯食べに。なんと!滝さんが奢ってくれた!!!!ありがたや~! 今日は賑やかなアパートやった。

12/8 金
公子さんは相変わらず小天狗たちの夢を見ているらしい。今朝はその中の一人と仲良くなったんやとか。よかったよかった。

12/9 土
朝、勝手口を開けたら小ねずみが横たわってる… 一瞬で察しがついた。公子さんに聞いたら、朝4時半にねずみを連れてソラちゃんが帰宅、走り回ってぐったりしたねずみを出したらしい。かわいそうで庭に埋めて拝んだ。ごめんね。
今日は年内最後のいわと寄席の日。しかも朗読と落語でお客さんは多く、遠方からも来てくらはってありがたかった。賑やかに終わって打ち上げ。公子さん、終始上機嫌やと思たら日本酒飲みすぎ! 帰りはべっろんべろんで、部屋でいっぺんこけてはった。怪我もなかったことやし、今夜は飲みすぎでもええか!

12/12 火
うちのアパートの3階には公子さんの前からの知り合いのゆうさんが住んでいる。東京に引っ越すことになり、ペット可のアパートを決めたら、たまたま同じアパートやったというすんごいご縁。そして泊まりがけで出かけるときは猫の面倒を私がみる。今回は2泊3日で長崎へ行くし、様子をみにちょいちょい行った。ごはんをあげてるとちゃいろいチャロがやって来て、私の周りをくるくる回る。そしてゴロンと寝っ転がって、とにかく嬉しいみたい。うちにおるツートンの雄猫に比べると女の子のチャロはちいさく、肉球もピカピカで柔らかくてかいらしい。

12/14 木
初めて博品館劇場へ。演目は『二階の女』。原作者の獅子文六は一番好きと言ってええ程大好きな作家。二階の女に合わせて桃色の着物で行った。演劇って切符代が落語や映画に比べて高いけど、こりゃ安いわと思えるほどにむちゃくちゃええ芝居やった。小説では掴みきれなかった部分が具体的になってて、原作をまた楽しめそうや。

12/15 金
午後一で三鷹のしろがねGalleryの展示を観にゆく。知り合いの作家が企画してて、DMをデザインさしてもろた。そのデザインを大きくポスターにして貼ってくれてて嬉しかった。そのまま日暮里へ。夜に時々自動の久しぶりの公演があり、それに行く前に帝国湯へ。たまたま入り口に釜じいさんがいて、おいでおいで、とニコニコしながら言うてくれた。お湯が熱いとどこかで見たけど、こんなに熱いとは…温度計を見ると48℃もある!!えいや!と入り、上がって体を冷まし、また入るを繰り返すと身体の芯からあったまってぽっかぽかになった。日暮里へ行くときはこの湯に入りにこな損やわ! 十分にあったまってお目当の時々自動の公演へ行った。感激。途中、泣きそうになる程よかった。ああ、これ生で聴けたら死んでも悔いないわと思えるくらい最高やった。
連日でええもんばっかり観て、ええお湯にも入れて、ほんまにこの上なく幸せかもしらん。ものすごい吸収したし、ぼちぼち仕事もせんならん。

12/25 月
クリスマスも関係なく、公子さんと末廣亭へ。主任の彦一さんさすがよかった~~! 彦一さんは顔見るだけでいっつも嬉しなる。今日は電車ネタが多い寄席で、色物さんも最高やった。

12/27 水・誕生日
朝から出稼ぎ先の納会に行くため、わざわざ埼玉まで行く。副都心線はすいてますなぁ。同僚からむちゃくちゃセンスある誕生日プレゼントをもろた。銭湯好きを常々語っていたら、共通入浴券をくれた!!こういうのがいっちゃんありがたい、これでいろんな銭湯へいけますわ! 夜には公子さんと吉坊さんの独演会へ。年の瀬がいよいよ押し迫ってきたのをなんとなしに感じた。
今日の落語:『化物つかい』『饅頭こわい』『厄払い』

12/29 金
年内最後の落語会。三遊亭萬橘さんの落語は初めて聴いたけども、むちゃくちゃ良かった。ほんまに熱演で、噺に引き込まれた。今年はこれで落語納めやけど、萬橘さんの落語で締められてほんまに良かったという感じ。
今日の落語:『文七元結』

12/31 日
明るいうちにいつもの銭湯へ行ってあったまる。今年もええお湯おおきに。来年もよろしゅう。
うちは年末感が全くない。年越しそばやなくて、昨日の残りの炊きもんにカレーを入れて、和風カレー大盛りで年越しや。
さぁ、来年はどないなるかいな。