花器

芦川和樹

消火、週刊大泥棒を
 置き忘れちゃった
 座席の、それかー
 テーブル・プリン
 横。芋族_キリン
 の、友人であった
 汽車と並ぶ、汽船

       うすぐらい、うす暗い家具
        の結び目。そこに発芽す
        るバク。金、銀食器の冷
        えた心地よさと、いや温
        かいうどん(饂飩)を食
        べる今日が、牡蠣_悲し
        いさね、海老に似ている
デパー、地下の アップルジュースに沈む
 歩行、帆が人 ここは、明るいよ、気分
 間のうごきを
 、人間なんて
 いないか。帆 すぐれた花器、花瓶そ
 は帆のまま炎  れぞれの口調。島が
 のようすを採  読み書きを覚えたの
 集するずっと  、ずっと覚えていま
         したよ黙っていただ
         けで、名前、街じゅ
         うが低燃費で微笑む
     あの、す
      ぐれた
      梃子て
      こ、を
      見てて
      非力_
ケーキは海を、ここが不明で、揃いの前足
 朗らか、ティーカップ・プリン。必ず阻
 止します内容と副賞_その蟹、波止場に
 ある、くぼみ。かいよう、海洋をかけて
 いく足を、追ってください。それが今週
 の犯人。オペラを買って、泳いでいます
 バタ足。ふちにつかまって、負けません

_それかー、_非力、口数の少ないだって夢があるんですもの(はとむぎ、はとむぎ)床が抜けそうで。キシリトールたちが考える、モジュ、モジュ。その下記。実在した里芋。もうなにも、さいごのところが作曲みたいでした。

ワヤン公演「シンタ妃 大地への帰還」

冨岡三智

今回は以下の公演についての感想。

2025年2月23日
大阪大学中之島芸術センター3階 アート・スクエア
コンセプト・構成:ナナン・アナント・ウィチャクソノ、福岡まどか
出演:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)、
   ダルマ・ブダヤ、イルボン、もうりひとみ、
   岸美咲、ローフィット・イブラヒム、福岡まどか

マギカマメジカ、ダルマブダヤ、イルボンが組む公演を見るのはこれで3回目。過去の公演についても『水牛』に以下の通り書いているので、併せて読んでもらえると面白いかもしれない。

2023年12月号:ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』
2022年3月号:『カルノ・タンディン(カルノの戦い)』

●ミニレクチャー
この公演には福岡まどか氏が代表を務めるラーマーヤナ研究プロジェクトが共催に入っている。開演30分前より約20分間、福岡氏による物語の内容と今回の上演に関するミニレクチャーを行うとちらしにあった。つまり、このレクチャーは公演外との位置づけだったのだが、個人的にはこのレクチャ―部分もプロローグとして公演に含めても良かったのに…と思う。この解説はダラン(人形遣い兼語り)や講談風のイルボン氏の語りとは異なるものの、やはり今回の公演を担う1つの語りでもあったと思うのだ。このドラマの構成を生み出したというのは、今回の公演成功の大きなポイントの1つだと思う。福岡氏は芸術実践も行う研究者で、実際この公演にも少し舞踊で登場する。解説の口調も平易で、公演と一体のものとしてすんなり入ってくるものがあった。

●構成
ラーマーヤナ物語の中心は、ラーマ王子がシンタ姫を王妃に迎えるも王位継承争いがあって王妃や弟と共に森に追放され(インドネシアのプランバナン寺院で上演されているラーマーヤナ舞踊劇では、この森への追放から物語が始まる)、その間に魔王にさらわれた王妃を魔王の国から奪還し、晴れて王国に帰還するという部分である。この前後に、ラーマ王子が実はビシュヌ神としてこの世に転生した話、さらにビシュヌ神として昇天する話がつく。

しかし、本公演ではラーマらが王国に帰還した後から、いわば後日譚の部分から話が始まり、シンタがワルミーキの求めに応じて身の上を語るということで、通常のラーマーヤナ物語がイルボン氏の語りによって語られる。後日譚から話を始めるのか!という驚きとともに、回想すればラーマーヤナの物語を全然知らない人にもシンタの今の身の上に共感できるのか!と気づく。

帰還する前に魔王に長年捉えられていたシンタの身の潔白をラーマが疑い、彼女が火の中に飛び込んで潔白を証明するのだが、王国に戻っても国民から身の潔白を再度疑われ、ラーマはシンタを森に追放せざるを得なくなる。その時すでにシンタはラーマの子を身ごもっており、叙事詩ラーマーヤナを編纂したとされるワルミーキにかくまわれ、双子の王子を出産する。ラーマ王は成長した王子と森で出会い、シンタにも王国へ戻るよう頼むがシンタはそれを拒絶し、割れた大地にのみ込まれるように戻っていく…。そしてラーマもビシュヌ神として天界に戻っていくのだが、この公演では、シンタの人生の軌跡を女性としての尊厳、女性としての立場から見つめなおすことに焦点を当てている。

というわけで、めでたしめでたしで終わるラーマーヤナ舞踊劇を見たことがある人こそ、全然何も知らない人以上にショックを受けるだろう。ちなみに割れた大地に戻っていくような話の結末は他の神話でも聞いたことがあるのだが、どこの神話だったか思い出せない。

●ステージ、音楽、語り、ワヤン(影絵)、ダンス
会場はそれほど広くはなく、1回につき観客収容数は50人。平土間奥に影絵用のスクリーンが設置される。観客は影絵奏者の側から見るようになっている。影絵用スクリーンの左右に、出演者入退場用兼照明などを当てるための白い幕が左右に吊られている。平土間中央に座布団席が数列、後方に階段状椅子席が数列設けられ、座布団席を挟むようにガムラン楽器が左右に分けて設置される。私は座布団席の一番左側(左側楽器の横)に座った。このようにガムラン楽器が左右に分かれると演奏しづらいものだが、今回は会場が狭かったので言うほど演奏しづらくはなかったようである。観客の側からするとこれが良い効果を生んでいて、音に遠近が生まれた。

音楽は今までと同様、伝統曲とオリジナル曲が使われたのだが、オリジナル・ガムラン曲は語りを邪魔しないように楽器の音を響かせるものが多かった。また、効果音として鳥の鳴き声の笛が鳴ったり、ラーマがシンタの名を呼ぶところで、出演者もそれぞれにその名を呼びかけた。演者が左右に分かれているせいで、それらの音・声が立体的に遠くから近くから左から右から聞こえてくる。それがまるで洞窟の中でエコーを聞いているようにも感じられ、狭い空間の中に奥行きのある世界が広がっているような気がした。

オリジナル曲として今回は電子音楽も使われた。これはシンタが大地にのみ込まれていくシーンなどで使われたのだが、この世の裂け目の中からそれまでと違う世界が顔を出したような感じで非常に印象的だった。ガムランとの音の異質さがうまく生かされていたと思う。

今回はイルボン氏ともうりひとみ氏が語りを担う。2人は冒頭で関西弁の男女として登場して漫才のように物語のつかみ役をやったのち、幕の左右に置かれた語りの席(椅子)に座り、朗読劇のように2人で語っていく。ナナン氏が影絵のスクリーンの前に座る。基本的に、ナナン氏がワヤン人形を操りながら語ったり、椅子席でイルボン氏ともうり氏が語るのはリアルタイムで起こる出来事で、床に座ったイルボン氏によってハリセンを叩きながら講談調で語られるのはラーマたちが森に追放され王国に帰還するまでの回想部分だったと思う。

今回、影絵の幕の表に座って華麗な人形操作を見せ、語りを聞かせるのはナナン氏である。ジャワではこれが普通で、影絵と言われているけれど実際には観客のほとんどは影の見えない側に座っている。しかし、今回はスクリーンの裏側にも人形遣いがいて、主にグヌンガンと呼ばれる山や神羅万象を表す形のものを操り、私達観客に影を見せてくれた。現在ではこのように幕の両面から人形の実際の姿も影も見せる演出が多くなってきているようだが、私自身留学中にジャワでこのような演出を見たことはない。しかし、どちら側も見たいのは当然だし、奥から投影される影は表から見ている人形劇の世界に、さらにこの小屋全体の壁に天井に不穏な影南下を投影する。この世を立体的に見せてくれる。

ラーマが成長した子供たちと出会うきっかけは馬祀祭(アスワメダ)である。王が放った馬が通るすべての場所で破壊や戦乱が起こるものだという。イルボン氏は裏にひっこみ、冠を被ってラーマ王として影絵スクリーンに影を映し、さらに馬のワヤン人形を持って舞台に飛び出してきて、縦横無尽に暴れ回った。それはシンタを失ったラーマ王の怒りと悲しみの発露なのだろうと思われたが、この儀式を何のために開催するのか少し分かりづらかったのが残念である。台詞で分かりやすく言っても良かったような気がする。

シンタは突然大地の割れ目にのみこまれ、ナナン氏が手にするラーマ王の人形は怒りで巨大な鬼となっている。影絵の右側にある幕の内側が明るくなって幕が透明になり、奥に小さな空間が現れ、そこで福岡氏のダンスが最初仮面なしで始まった。彼女は大地の奥にいるシンタ…?プログラムの解説だと大地の女神のようだが、シンタでもあり女神でもある、とも受け止められる。大地の底との距離感をこの空間で表したのは素晴らしい。もっとも、ワヤンやガムラン音楽は中部ジャワ風なので、実は西ジャワ様式のダンスや衣装は私には少し違和感があった。このあと仮面をつけるのだが、西ジャワの仮面は普通パンジ物語に使うし…。しかし、女神であるなら、ラーマーヤナ界の人間と衣装が違っていても、顔が違っていてもおかしくはない。仮面をつけた女神が透明の幕から出てきて、右手を前に突き出しながら静かに前進してくる姿に、何か物言えぬ悲しみを覚える。

という風にワヤンは終わるのだが、音楽・音に奥行きが感じられたように、空間にも奥行が感じられた舞台だった。ワヤンのスクリーンで展開される世界、その世界から観客の方に投影された影、スクリーンの前で後ろで役者イルボンが駆け回る空間、突然現れる大地の裂け目…、そして上では語らなかったが、電子音などと共に世界を染める赤や青の照明…。この上演空間が狭いだけに、そこに生み出された世界の多層性に引き込まれた。おとぎ話のように、ひょうたんの中に入ってみたら別天地が広がり、長い時間が凝縮されているような感覚を味わった舞台だった。

二月

笠井瑞丈

2月28日
今日はオイディプス王の大阪公演
新幹線で新大阪に向かう
電車内にてふと思いだす

そういえば初めて公演をしたのが
2月28日だったと思い出す
三島由紀夫の「春の雪」をテーマに作品を作った
合わせてくれたかのようにこの日は大雪が降った

本当は2月26日にやりたかったのだけど
その26日が平日だったため28日にした
そんなくだらいないことまで思い出した

会場として選んだのが神楽坂セッションハウス
その選択が今の僕のダンス作ってくれた

そのおかげで沢山の出会いや
沢山の景色を見る事がでた
そして多くの経験を積む事もできた

希望を持って初めたダンスも
時には辛くなったり
辞めたくなったり
そんな時もありました

でも気づけば今年50歳になり
ダンスもまだ続けてます
でも続けて来れた事は
自分だけの力だけではなく
やっぱり周りの人たちの
力によるものが大きいと思う

あとどれだけ続けるのだろう
まだ見ぬ新しい景色を探して

明日は大阪初日

水牛的読書日記 2025年2月

アサノタカオ

2月某日 吉田亮人さん写真、矢萩多聞さん著『はたらく動物病院』『はたらく庭師』(創元社)が届く。着々と刊行される写真絵本のシリーズで、これで合計6冊に。日常生活と地続きのところにあるさまざまな仕事を丁寧に紹介する、すばらしい企画だと思う。

2月某日 神奈川・横浜の本屋 象の旅で、文芸評論家・エッセイストの宮崎智之さん監修選書フェア「随筆復興宣言」がはじまる。「宮崎さんほか話題の作家陣による、自著とおすすめの随筆・エッセイ作品をご紹介いたします」という企画に僭越ながらぼくも参加することに。ちなみに選書したのは以下の3冊だ。

永井宏『サンライト』(夏葉社)
山尾三省『野の道』(野草社)
藤本和子『イリノイ遠景近景』(ちくま文庫)

サウダージ・ブックスとして、フェア用に推薦コメントを集めた小冊子を制作することになった。編集を終えて自宅事務所で100部印刷し、大急ぎで折り作業を終える。なんとか初日に間に合い、我が家から電車で30分ほどのところにある書店に持参した。店主の加茂和弘さんからお店で人気のあるエッセイ本のことを教えてもらい、選書作家のひとり早乙女ぐりこさんの著書『速く、ぐりこ!もっと速く!』(百万年書房)を購入した。

象の旅を辞して、近くにある横浜橋商店街を散策。昭和感の残るアーケード街には中華料理店も韓国料理店も、中国東北地方・延辺朝鮮族自治州の料理店も並んでいる。喫茶店に入り、早乙女さんの『速く、ぐりこ!もっと速く!』を読む。タイトル通り、内容も文体もスピード感あふれるもので、夢中になって一気に読み終えた。これは、現代日本のビート文学ではないだろうか。

2月某日 ダンサー・振付家の砂連尾理さんが認知症の人や高齢者、介護者や関係者などと取り組む「とつとつダンス」。東京・中野の水性という多目的スペースで、アート系の一般社団法人torindoの企画による記録映像の上映と関係者のトークイベントが行われることになり、2日間参加した。2016年に刊行された砂連尾さんの著書、『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)の編集を担当したことがきっかけで、「とつとつ」のその後を追い続けている。京都・舞鶴ではじまった活動は現在、海を越えてシンガポールアやマレーシアでも展開中。砂連尾さん、torindoの豊平豪さん、映像作家の久保田テツさんたちとひさしぶりに会い、学ぶことが多かった。

帰りに中野ブロードウェイの自主制作本ショップ、タコシェに立ち寄った。

2月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社)。

2月某日 東京都立産業貿易センター浜松町館4階で開催、ZINEフェス「詩歌と日記」というイベントに出店した。サウダージ・ブックスの詩集や随筆集、自分が編集や執筆で携わったZINE『次に読みたいK-BOOK!』(チェッコリ)、インディー文芸誌『SLOW WAVES issue4』(なみうちぎわパブリッシング)を販売。ブースにお立ち寄りいただいた皆様、関係者の皆様、ありがとうございました。

ZINEフェスでは近くで出店していたミランダ雪乃さんの短歌と写真の本『東京で生きる』『東京の恋』、式島染さんの歌集『Addiction』を入手した。ひとりで店番をしているので会場全体をゆっくり見て回ることができなかったが、イベント終了間際に、佐々木里菜さんのZINE『ティミッドとティンブクツーのあいだ』を駆け込みで購入。さっそく、帰路の電車内でこのZINEを読む。カート・ヴォネガット・ジュニアの作品に由来するタイトルもデザインも、日記本として時間の不在を表現するアイデアも最高だ。

2月某日 仕事の打ち合わせで東京・神保町へ。三省堂書店神保町本店(小川町仮店舗)に、ZINE・リトルプレスのコーナーができたと聞いて訪問した。サウダージ・ブックスから刊行した大阿久佳乃さんのエッセイ集、『じたばたするもの』も平積みにしてもらってうれしい。しかも、本書で言及した岩波文庫を右隣に並べるなど、心憎い棚づくりの工夫に感激した。ZINE・リトルプレスのコーナーから、蟹の親子さん『増補版 にき 日記ブームとはなんなのか』を選んで購入した。日記ブームとはなんなのか、知りたいのだ。

その後、共同書店 PASSAGE 3号店のSOLIDAで、昨年からずっと探していた越前敏弥さん『訳者あとがき選集』(HHブックス)、仲俣暁生さん『本の町は、アマゾンより強い』(破船房)を買った。ベテランの翻訳家とベテランの編集者による自主制作本。神保町で奇しくも、仲俣さんが「軽出版」と呼ぶ小さな本を買い集める一日になった。

2月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第4章。生きること、働くこと、誰かとともにいることについてみんなで考える。

人との出会いを物語に残すということ

若松恵子

お正月の長い休みに、石井桃子著『幻の朱い実』をやっと読み終えることができた。上下2冊の長編小説。小説世界に入り込んで過ごす楽しさを久しぶりに味わった。『幻の朱い実』は、石井桃子が87歳の時に発表した大人向けの小説で、石井が若き日に出会った大切な友人である小里文子との思い出を物語にしたものだ。

石井桃子の評伝『ひみつの王国』のなかで、尾崎真理子のインタビューに答えて石井は語っている。「十年近く前、八十歳手前になって、当時病床にあった親友と約束したんです。(中略)私たちの“あの人”のことをそろそろ書きましょう、と。もうすぐ思い出話を語り合えなくなる、あの人のことを知る人がだれもいなくなってしまうから」と。

1994年、『幻の朱い実』刊行直後に読了し、魂が揺さぶられたという尾崎真理子は同書の中でこう書く。「この作品を書くことによって、八十七歳を迎えていた石井桃子は、じつに六十年以上にわたって封印してきた思いをみずから解放したのだと感じた。あの時代に生きた人間の思いを小説の中に可能な限り再現し、永遠のものとしたいーその切なる思いが行間から噴き出すようにあふれていた。女性への抑圧、戦争へ接近していく時代。背景にあるものは大きいが、引きつけられたのはむしろ、日常を彩る細部の方だったかもしれない。この細部の輝きを伝えない限りは死ねないーそんな決意すら伝わってきた。」と。この小説が持っている緊張感、大きな事件が起こるわけではないのに小説世界に引き込まれていく理由が尾崎のこの文章でわかった。

「日常を彩る細部の輝き」、確かにこの小説の魅力はそこにある。小里文子をモデルとした大津蕗子と石井自身をモデルとした村井明子が囲む食卓、そこに並ぶ料理、避暑のために出かけた千葉の漁村の風景、寒い結核療養所までがその細部の輝きによって心に残る風景となる。石井桃子の胸のなかにしか残っていないものを言葉によって再現し、永遠のものにしていく、彼女のその意志と力量に感動した。

なぜ、石井は小里文子にそんなにも魅かれたのか。小里文子について、尾崎真理子のインタビューに答えて石井はこう語っている。「蕗子というのは…、題名にも『幻』とつけたように、つまり、ぱぁーっとひとつの美しいものを自分の中に花咲かせることはできても、それを持続して次のところまでもっていく力がなかった。だけど、自分が蕗子の家の前へ行った時、思わず見とれて、こんな美しいものがふつうの町の中にあるのかと思うほど美しい烏瓜が、滝のようにして流れるようにあった。そういうものを一時でも手にして、手にしたいと思ったら手に入れずにはいられなかった、そんな一生を持とうとして持ち続けられなかった…。そのことを非常に哀惜する気持ち、そういうものを消えて行ってしまった人の中に見出して、惜しむという気持ちからだったんですよね、あの本を書いたのは」と。

ひとがその人自身もうまくわかっていない魅力を見いだして愛す。人間のそういう行為はすごいことだなと思う。そして、あれはどういうことだったのだろうという、経験として自分の中に残っているものを言葉にして、言葉という形にして永遠のものにしていく。人間のその行為もまたすごいことだなと改めて思った。『幻の朱い実』と石井桃子の評伝『ひみつの王国』を姉妹のように読んだ。尾崎真理子もまた、石井桃子の魅力の本質を見出し、愛し、永遠に残るものとして私たちに渡してくれたのだと思う。

製本かい摘みましては(192)

四釜裕子

 折り目はきっちりつけなんし~
 マブだと思って摺りなんし~
 憎いあいつと刺しなんし~
 銭がなくなりゃ切りなんし~

蔦屋重三郎(1750-1797)が初めて作った吉原細見「籬(まがき)の花」を、河岸見世の二文字屋で女将のきくや遊女たちが歌いながら綴じている。蔦重や”助太刀”の浪人・新之助も一緒になって、断裁したり題簽を摺ったり貼ったり重石をしたり、竹の指輪をはめて紙を折ったりかがり穴を開けたりと手慣れた感じだ。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第七話で流れてきた、いわば製本仕事歌。なにしろ二文字屋の皆さんは第三話でも綴じている。このときは蔦重が初めて作った入銀本「一目千本 華すまひ」で、まるまるの玄米おにぎりが山と積まれて手間賃代わりになっていた。

前の大河ドラマ「光る君へ」で描かれた「源氏物語」の製本シーンはこの連載の(189)で書いた。あちらは材料も道具も人も住まいも何もかもが超豪華で、みんなで歌を歌うことなどなかったけれども、手を動かしながらどんな話をしていたのだろう。江戸と平安、立場も衣装も対極ながら手元を見れば同じこと、ひたすら折って切ってかがるのだ。先ごろgggで中国のブックデザイナー・呂敬人さんの展示を見たが、そこにもあった線装本の工程ももちろん同じ。極めてシンプルで見ればだいたいわかるだろうに、いつの時代も若い人が新鮮がっておもしろがるのは、おもしろがるだけで実際に手を動かす人がいつも極めて少ないからかもしれない。

”製本仕事歌”は他にも何かあるかしらと『日本民謡大観』全9巻(1980  日本放送出版協会)の目次を試しに国会図書館のサイトで見てみたが、今のところヒントになるものは得られていない。『日本民謡大観』は昭和16年にNHKが行なった事業の成果で、町田佳聲(1888-1981)が日本各地を巡って録音した、およそ2万曲の楽譜と歌詞と民俗学的な背景がまとめられている。町田佳聲は作曲家で民謡研究家、その4年前から、おそらく日本で初めて民謡のフィールド・レコーディングをしていたそうだ。

昭和16年のそのときに録音した各地の労働歌や仕事歌を、NHKラジオの「音で訪ねるニッポン時空旅」でたまに聞く。『民謡とは何か?』(2021 音楽之友社)の著書もある富山大学教授の島添貴美子さんの解説がいい。2月22日の放送では山形県真室川町(旧安楽城村)の「あがらしゃれ」(唄・佐藤きみ他)も紹介していた。山形県の村山弁だと「あがっしゃい」、もっと丁寧だと「あがてけらっしゃい」となるであろうか(自信なし)、とにかく酒をすすめる歌だという。一度聞いて雰囲気はつかめたが、「言いたくないけど○○で困る」みたいなところのつながりがピンとこなかった。聞いた歌詞を文字にすることができなかったので、NHKアーカイブスの「みちしる」から引用します。

 「あがらしゃれ」(昭和16年録音版から)

 あがらしゃりゃアーねなや お前そげだヨー
 (コイチャト)
 お前ーエ あがらねエど気がすめぬ
 (アリャ飲む アリャ飲む)
 一つばりゃア 注さずでもよかろや 
 皿鉢飲まれまい茶碗酒
 大沢三千石 
 言いたくねじゃねども 夜飯ゃ夜中でどど困る

番組では、合いの手が印象的だったので「これは飲み会のコールみたいなもの?(笑)」みたいな話も出ていた。島添さんがいろいろ調べて歌詞を”翻訳”して解説していたので、聞き取れた範囲で引用してみます。

 「あがらしゃれ」(島添貴美子さんによる”翻訳”)

 おあがりください あなたはどうしてそうなんですか 
 あなたがお飲みにならないと私の気が済みません 
 一杯だけならおやりになってもいいでしょう 
 皿の鉢で飲まれないなら茶碗でどうぞ 
 大沢は三千石
 言いたくはないけれど 夕飯が夜中になるのですっごく困る

「飲んでもらわないとこちらの気が済まない」ということは、もしかして歌う場面は宴席ではなく自宅なのか。家長が招いた客に対して「とっと飲んで帰ってよ、夜ごはんが遅くなって迷惑なんだよね」という、女(嫁)の胸のうちの声なのだろうか。あるいは「あなた」は、いつもつきあいで酒をすすめられ困っている下戸で、それにとうに気づいている者としてのひそやかな助け舟とひそやかな甘え、とか?? 

そのあと、現在よく歌われているバージョンが流された。いわゆるのど自慢大会などで歌われる機会が増え、多くの人が歌いやすいように、誰もが聞き取りやすいようにと手が加えられ、飲んべえにはたまらない素朴で愉快な民謡だよね~とか軽くまとめられているのもネットで見た。〈わかんないというのは歌としては困るんだけれども、わかりすぎるとおもしろみがなくなる〉と、言葉を選んで話す島添先生。

『日本民謡大観』の目次を追っているときに「最上川船頭唄」が出てきて、思わず口づさむ。西村山郡左沢町、東村山郡寺津村、飽海郡南平田村、東村山郡長崎村の4つのバージョンが収録されていたが、私のは左沢版だろう。口から出たそのままをここに書いてみます。

 「最上川舟唄」(私の口から出てきたバージョン)

 よーいさのまがしょ
 えんやこらまーがせ
 ええーやぁえーえぇ
 えーえぇやぁえーえ
 よーいさのまがしょ
 えんやこらまーがせ

山形県寒河江市に生まれた私は小学校でよく聞かされていたが、あとに続く本筋の歌詞は出てこなかった。当時はどれだけ古くから歌い継がれてきたことかと思っていたけれども実際は古くなく、脈々と歌い継がれてきたわけでもなく、テレビ番組のために作られたものだと知ったのはずいぶんあとのこと。「芸術新潮」で石田千さんが連載していた「唄めぐりの旅」(2014.3)で読んだのだと思う。

昭和11(1936)年、NHK仙台放送局が最上川の番組を作るにあたって大江町左沢の渡辺国俊さん(1905-1957)に舟唄の紹介を頼んだところ、地元に伝わる舟唄はあるけれども〈追分調に新内くずしのようなものが入っているので、最上川下りにはふさわしくない〉と、同郷の民謡家・後藤岩太郎さん(1891-1953)に相談。後藤さんは最上川を何度も上り下りして熟考し、ようやく〈「追分節」を本唄の源流に、船頭たちのかけ声と合わせ作〉りあげたのだそうだ(引用は大江町の公式サイトより)。

大江町の説明はさらに続く。〈後藤氏の方は、もっぱら歌い手一筋。農業のかたわら、建設関係の仕事もしていたようですが、婚礼やお祭りなどにはひっぱりだこで、テノールの美声が大いに持てはやされました。(中略)遺稿によると民謡試聴団の町田嘉章先生が「この舟唄は昔からあったのか。」と言われた時に、たった一言「そうだ。」と答えただけでした〉。昭和16年にNHK仙台放送局が柳田國男、折口信夫、中山晋平、町田佳聲ら21名に声をかけ、東北民謡試聴団として急行列車の1両を貸し切りにして東北6県を回り各地で民謡を聴いたそうだが、それはこのときのことだろう。

今や最上川が運ぶのはもっぱら観光客で、船頭たちも「最上川舟唄」を歌い継ぐ。いい動画があった。Kenichi Miuraさんという方の「山形民謡【最上川舟唄 】 2017」、舟下りで乗り合わせた船頭の岸昭夫さんが歌う姿を撮っている。舞台でもスタジオでもないところで歌われて、舟唄よ、それってものすごく幸せなことなんだぜ!と、言いたい。

サザンカの家(二)

北村周一

満開のツバキの花もそこそこにメジロ素早しいずこかに消ゆ
ジグザグに飛ぶを見ており路地の端メジロは知るやその行くさきは

落ち葉かげ風に吹かれて窓のした消え入るごとも小さき鳥は
目を閉じてガラス扉の下ひっそりと野の鳥いたり黄緑いろは

かげ淡く窓のガラスにのこりいて散りにけるらし野の鳥ひとつ
ガラス扉にうつりし陰はみずからと知らで飛び立つ一羽の鳥は

ガラス扉につばさ広げて立つ鳥の視野に入らぬあわれその先
飛ぶ鳥の視野にひろがるガラス扉のくらみ思えり透明ゆえの

地の上に零れ落ちたる野の鳥の視野に溢るる透明の窓
翼もて窓にしずみし二粒の目より滴る透明の雨

ふかぶかと窓にうつろう空のはて吸い込まれゆく快感おもゆ
空蒼く映り込みたる空間に恐れ抱かぬ翼もつきみ

窓にひろがる空に羽ばたく鳥たちの目にはさやけし限りなき青
迫りくるガラスの窓にキジバトは何を見たのかつばさ広げて

ガラス扉に飛ぶ鳥の痕うっすらと遺せしままにキジバトはゆくも
うすらかげ鈍く残れるその真下ねむれるごともキジバトはあり

あちら側へ羽ばたきたりし野の鳥の絵姿あわれガラス扉が知る
空間に酔い痴れている鳥どちの声聴きに行く土手の裏側

放し飼いの隣家のチビというネコが庭に来ておりことり咥えて
雨あがり春の気配にみずたまりのぞき見ているくろしろのネコ

サザンカの花と知りたる秋にしてこの世の闇の境い目のどか
ほのぼのと冬の訪れ待つように花咲くところサザンカの家

山茶花の赤白桃いろありまして賑やかなりぬ古淵の家は
夜になると勢いを増すさざんかの花のみいろを数えおるなり

はじめての秋を迎えしこの家のおもみに堪えてサザンカ咲くも
わが家にも目白来ておりゆく秋の庭のサザンカそろそろ見頃

花ことばひたむきなれば声ありてつよく生きよとみみに囁く
山茶花の覚えめでたき秋の日や クルマ替えたり七人乗りに

風吹けばはらりはらりとどこへやら庭のサザンカ散り終えにけり
サザンカの花の散り際みるようにひとりふたりと離れゆくらん

ちりぢりに散るを厭わぬ山茶花のはなの終わりはやさしくもあり
サザンカの花ちり終えし庭かげにくらく仄浮く売家の文字は

常永久の愛と告げられ見返れば眩暈のごとく古家ありけり
売りに出す家一軒の寒さかな 冬至を過ぎてイヴ待つ宵は

散りもせず落ちもせずして枯れのこる庭のさざんか春待つごとし
古家ひとつ売りに出だせば矢庭にもさやぎ立ちたるさざんくわの闇

仙台ネイティブのつぶやき(104)ありがとう地球さん

西大立目祥子

 借りている鍵で玄関を開け、入る。人の住まなくなった家は、ひんやりしている。でも、叔母の気配はまだ感じられる。この家の匂いも。昨年8月に亡くなったあと、ずいぶんと荷物は整理され押入れの中だって空っぽなのに、まだ残っている家具や家財、洋服のたぐい、そういうものに降り積もっている塵や埃から匂いが生まれるんだろうか。気配をつくり出すのは、部屋の隅っこ、カーテンの陰、戸棚の後ろにたまっている淀んだ空気なのかもしれない。

  この家に通うのは、叔母の残した作品の小さな展覧会をやることに決めたからだ。叔母が通っていた教室の早坂貞彦先生は、5年前に宮城県美術館の現地存続運動をいっしょに闘った人で、会って叔母の話になるたび、「おもしろい絵描いてるんだから、作品展を開いてやるといい」といわれてきた。たしかに70歳になってから絵を始め、相当の集中力で取り組むようすには目を見張るものがあったし、年を追うごとに作風が自由で奔放になっていくことにも驚かされていた。5年ほど前だったろうか、意を決して知り合いのカフェ・ギャラリーを借りようと決め、叔母に作品展を開きたいと持ちかけたのだが、こう返された。「私ね、90歳近くになって、やっとじぶんのことだけ考えてればいい自由を得たと思ってるの。ありがたいけど、私の時間の邪魔はしないでね」。残された時間を思えば、もう誰にも気を使うことなく、ただひたすら画用紙と絵の具で遊ぶことに熱中したかったのだろう。黙って引き下がるしかなかった。

 もういいよね、私にやらせてね、好きにやるよと、がらんとした部屋で叔母に向かって話しかける。玄関からまっすぐ奥の部屋に向かう。まずは寝室だったこの部屋を空け、額装された作品を並べてみた。奥の納戸から、2階の部屋からあれこれ出てくる。その数40~50点。見たことのない作品も多くて、こんなに描いていたのかと驚かされた。小品ばかりでもない。ただならぬ熱量だ。いったいいつ、どこで描いていたんだろう。晩年、そうだったようにダイニングテーブルの上で? 水彩の小品ならまだしも、大きいアクリル画はたぶん難しい。叔父が元気だったころは、多くの女性がそうであるように制作を途中でやめてテーブルを拭き、食事を整えたのだろうか。そんなふうに中断されて、これだけのものを残せるだろうか。

 リビングに行って、外を見る。目の前には叔母がこの20年描き続けた桜の老木が、朽ち果てた姿で立っている。山桜だ。この年老いた桜は、いつもまわりの桜の花が終わり葉桜になったころ、おずおずと枝の先に花をつけ始め、5月に入るころに満開を迎えた。樹齢は200年?300年? いや、桜はそんなに生きないのだろうか。でもたぶん、この団地が整備されるはるか前、この場所が仙台七崎の一つに数えられていたくらい昔から立っていた木。「桜と私とどっちが先に逝くか」といっていた叔母の眼の前で、それもスケッチしている最中に、太く張り出した枝がめりめりと折れ、地響きを上げて崖下に落下した。それからほどなくして桜はつぎつぎに枝を失い枯れ果てて、幹の上半分がなくなった棒きれみたいな不格好な姿で突っ立っている。その姿を眺めながら、ふと、あれに赤い布を被せたらまるでオシラサマみたいだと思う。

 奥の部屋の作品を見ながら、まぁこれだけ違った絵をよく描いたもんだ、と感心する。知らない人が見たら同じ人が制作したとは思わないだろう。
 当初、染織に親しんでいた時期の作品は、柿渋を塗ったり織物を切ってコラージュにしたり触感的。しかも大胆なアブストラクト。スケッチ会に参加するようになると、黒っぽい輪郭線に淡い色を載せてやわらかな町並みや山並みをたくさん描いた。この団地の上にある仙台市野草園には週に何度も足を運んで、季節季節の山野草を愛情たっぷりにスケッチしている。そして樹木。特に大木に魅せられていたようで、欅の幹を何度も描いている。コンテ、鉛筆、水彩…素材もいろいろだ。桜の巨木は、いろんな姿で登場する。私が好きなのは、幹が鮮やかな緑色に塗られ、血管のような線や鱗のような文様が描かれた一枚。枝と枝の隙間は小さな葉っぱで埋め尽くされている。叔母にとっては生命力そのものを体現するモチーフだったのだ。朝、カーテンを開けては「おはよう、生きてるね。私もまだ生きてる」。そう話しかけていただろう。叔母は団地の坂を上って家に帰る小学生を見つけると、知らない子でも窓を開け「おかえり〜」と声をかける人だった。

 亡くなってすぐ、昨年9月の「水牛」にも書いたけれど、叔母は次々と作風を変え、ついに最後はミトコンドリアまで行ってしまった。ふわふわした得体のしれない生きもの。目がついていて自由に動き回るかわいい生命体。画用紙いっぱいに色とりどりのにょろにょろしたものを生み出す叔母は、実に楽しそうなのであった。

 こういう変化を私は心境や環境が要因だと勝手に思い込んでいた。大病が重なったり、連れ合いを亡くしたり、つらいことがあったから。でも、いまは、変わろうと思って変わっていったのだとわかる。叔母の本棚に並ぶのは、安野光雅に始まって、野見山暁治、熊谷守一、猪熊弦一郎、小倉遊亀、三岸節子、堀文子の画集や図録の数々。好きな美術家があらわれれば、エッセイを読み、展覧会に足を運び、画集を繰り返し眺め、気づきを原動力にじぶんも描く。その繰り返しのうちに、作風が変わったのだ。まねっこでいいでしょ。ただひたすら興味の向くまま、楽しい方へ。80歳過ぎてこんなふうにいられたら素敵だ。

 残したスケッチブックは、おそらく平積みにしたら1メートルは超える。野外にスケッチに出るときだけでなく、入院するときも旅に出るときも小さなスケッチブックを携えていたなんてまったく知らなかった。「入院の朝」と記して、暮らしている山と頂上に立つ3本のテレビ塔を描いている。病室の壁に掛けたシャツをクリーム色に塗って「所在なさに」と添え書きする。

 「スケッチブックの中にこんなのあった」と従兄弟の奥さんのヒロコさんが見せてくれたページを見て、2人で顔を見合わせた。「ありがとう、地球さん」「ありがとう地球様」。これが緑のサインペンで8行繰りかえし記されている。そういえば「私、寝る前、ベッドの中でみんなにありがとう、っていうんだよ」といってたっけ。これは呪文?おまじない? 叔母にとってはお経のようなものだったのかもしれない。このお経とミトコンドリアの絵を並べれば、じぶんが生命としてこの星に生まれたことにありがとう、なんだろう。何回つぶやいても、胸のうちのありがとうをいいつくせない。そんな感じ。

 「ありがとう、地球さん」は、谷川俊太郎の最後の詩と呼応する。昨年11月14日に亡くなった3日後に朝日新聞に掲載された詩は「感謝」という題だった。「どこも痛くもない/痒くもないのに感謝/いったい誰に?/神に?/世界に? 宇宙に?/分からないが/感謝の念だけは残る」。叔母の胸中にあったのも、静かな感謝の念だったろう。昨日の続きを今日も生きられて感謝。緑色のこの星に生まれてこられて感謝。明日死を迎えても感謝。谷川俊太郎は92歳、叔母は94歳で逝った。

 実際、叔母はよく「ありがとう」という人だった。体が動かなくなり全面的に介助を受けるようになっても、「ごめんね」とはいわず、「ありがとう」といった。まだ元気だったころ、遊びに行って帰るときは必ず玄関の外に出て、階段を下り車に乗り込む私を見送ってくれたものだ。あれも、「ありがとう」だったのだ。エンジンをかけ、ウィンカーを上げ、窓を開けて、後ろに向かって手を振った。バックミラーに映る叔母の姿が見えなくなるまで。

 というわけで、叔母の作品展の準備のために、まだ気配の残る家に通い続ける日が続いている。仙台のみなさん、ぜひ作品展にいらしてください。私はいつまでも後ろに向かって振る手は下ろせそうにない。

▶私の愛した野草園─髙橋都作品展 とき/3月20日(木・祝)〜4月4日(金)9:00~16:45(最終日は15:00まで) ところ/仙台市野草園・野草館 

本小屋から(14・最終回)

福島亮

 本小屋を閉めることになった。2年ほどここで本を読み、疲れたら散歩をし、暖かい日には木の実を植木鉢に蒔き、喉が渇いたら珈琲を淹れたりしていたのだが、離れたところに引っ越すこととなったのである。

 本を段ボールに詰める。本は重いからやや小ぶりの箱を70箱ほど業者に持ってきてもらい、1日に4箱ずつ詰める計画をたてた。でも最後まで背表紙が見えるようにしておきたい本はどうしてもあるし、箱詰めする気分になれない時もある。少しずつ、本棚に詰め込まれていた本を崩していく。すると不思議なのだが、どんどん記憶があやふやになり、なんだか頭がぼうっとし、しまいには視力まで落ちてきたような気がしてくる。どうやら小屋の生態系が崩れ、環境が悪くなっているようなのだ。

 環境が悪くなると、とたんに不機嫌になり、意地悪をしてくるのが本である。ある本が急に必要になる。きっとそうなるだろうと思って取り分けておいた本なのに、いくら探しても出てこない。仕方ないから諦めて、近所の図書館にある本ならばそこに行ってコピーをとり、図書館になく、「日本の古本屋」で廉価で売っているものは注文するのだが、郵便受けに投げ込まれた本を回収する頃には、そもそも当の本を参照する気持ちが冷めてしまっていたり、ひどい話ではあるのだが、受け取った包みを開けようと鋏を探していると、くだんの本がちゃっかり近くにあったりする。

 そんなふうに本にからかわれることが時たまならば微笑ましいが、一日に二度も三度もあると考えもので、それならばこちらにも用意がある、小田急線に飛び乗り、代々木上原で降りて、よく行く駅近くの古本屋に何食わぬ顔で入る、のではなくて、まずは店の前に並んでいる百円二百円の本を心ゆくまで物色するのである。反抗するならばすれば良い。それならばこちらも新顔を入れるまでである。

 風にさらされどこか丸みを帯びたその小さな野外本棚で、加藤楸邨の『ひぐらし硯』を見つけたのはそんな時だった。『ひぐらし硯』という、このどこか剽軽で可愛らしい題名の本を、私はどこかで見たか、聞いたか、読んだかしたことがあるような気がするのだが、でも、手に取ってみるとやはりお初にお目にかかる本だった。深い緑色のやわらかな布張りの装丁は安東次男によるもの。開けば硯の写真が並んでいる。硯といえば書道セットのなかの素朴で小さな硯しか知らなかったのだが、それとはまったく異なる重量感のある硯、というか石が並んでいる。おや、と思うのは最後の写真。白桃を模した水滴だ。

 加藤はこの本のなかで、少年の頃、川で石を拾い、机の上に並べ、それをじっと見ているのが好きだったという。机の上に置かれた石は、やがて兎になり、犬になり、ときには犀にもなった(「時間的漂泊」)。そんな石との睦まじい関係が本書を最初から最後まで貫いている。石の皮に包まれた真新しい「子石」。そのむっちりとした、どこか美味しそうな様子を描く俳人の筆は、どこまでものびやかで、いくらでも読んでいたくなる。

 もうじき離れる本小屋の近くにある寺の境内を歩きながら、私が拾ったのは子石ではなくて、ムクロジの実だった。乾いた果皮は薄いセルロイドを思わせ、丸っこいその実は金の鈴みたく見える。果皮を割ると、なかから出てくるのは微かな産毛に包まれた黒い種だ。この種で羽子板遊びの羽根の、あのつやつやした先端部分を作るのだという。

 ポケットの中に入れたその実を、暖かくなったら引越し先のベランダで蒔いてみようと思う。水を垂らした硯が、石から銀河に変わるように、この小さな種が水を吸って、多摩川の近くの風景をふっくらと芽生えさせてくれるかもしれないから。

吾輩は苦手である 8

増井淳

 吾輩は寒いのが苦手である。
 寒いところに少しいるだけで、手先足先が冷え切ってしまう。
 その状態が続くと、つぎにはお腹や頭が痛くなってきて、やがて悪寒がしてくる。
 まったく寒いのはいやだ。
 これでも吾輩は雪国育ちである。
 小さい頃には、屋根からおちてきた雪に身体ごと埋まってしまい、死にかけたこともある。その時は、たまたま父が近くにいて、雪に埋もれた吾輩を手で掘り起こしてくれたので、助かった。

 苦手なものを考えると、あまりにも多くて、いささかうんざりする。
 毎日のようになんらかの苦手なものに遭遇するのだ。
 得意なものがあれば、苦手なものも忘れられるかもしれないが、吾輩にはこれといって得意なものがない。
 毎日毎日、苦手なものに包囲されている。

 そうか、要するに
 吾輩は生きることが苦手
 なのだ。
 
 でも、よく目にしたり耳にしたりすることばには、人生に肯定的なものが多い。
 いわく「やればできる」「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢はかなう」などなど、楽天的なことばは数多くある。
 それにひきかえ、吾輩のように苦手なことばかり、というような言動はあまり見られないように思う。
 ブッダの「一切皆苦」くらいか。
 そう思っていたら、詩人の松下育男さんがこんなことを書いていた。
 「生きてゆくっていうのは、思い通りにならないことを、いかに辛抱して、我慢していられるかっていうことなんだと思うんです。
 程度の差はあれ、みんなそうなのだろうなと思うんです。
 すべてが思い通りに生きて来られた人なんて、たぶんどこにもいない。みんな、どうしてこうなってしまうんだろうと毎日思いながら、それでも生きてゆくしか仕方がない」(松下さんのnote、2024年12月7日)
 あるいは、カフカの次のようなことば。
 「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
  将来にむかってつまずくこと、これはできます。
  いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(フランツ・カフカ、頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』新潮文庫)
 松下さんやカフカの文章を読むと、なぐさめられる。というか、ここに仲間がいるなあとうれしくなる。

 生きるということは、次々と襲ってくる苦手なものごとを、かきわけかきわけすすむことだ。次にどんな苦手なものがくるかわからないし、自分自身も変わっていく。
 
 人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天(永田紅『日輪』砂子屋書房)
 
 という短歌がある。短歌のことはよくわからないのだが、苦手なことだらけの吾輩は、心の中でたびたびこの歌を口ずさむ。
 もうすぐ苦手な歯医者に行く日である。きっと痛いだろうなあ。行きたくないけど、吾輩の人生であるから逃げるわけにもいかないのである。

猫のバロンに

新井卓

 寒波の夜、猫を亡くした。
 リエージュで小さなシンポジウムがあり、空港で待つあいだ、川崎の両親がヴィデオ通話をつないでくれた。スマートフォンごしに話しかけたのが──ひどい風邪をこじらせ、こんなしわがれ声でわたしだとわかったろうか──かれとの最後になった。猫のバロンは春の嵐の夜、母猫に連れられてわが家にやって来、それから二十二年生きた。
 バロンはとにかく食べることに特別な執着を持っていた。ただ腹を空かせている、というよりもひどく飢えたことのある人が食事に対して抱く、燃えるような感情があり、かれが素揚げにした豆鯵や炙ったキビナゴの頭をいかにもうまそうに味わうのを見るたびに、わたしの中にも確かにそんな感情がある、と気づかされるのだった。だから、かれとわたしはきっと前世でひもじい思いをした兄弟だったのだろう、と勝手に納得することにした。
 恐いほどに青く澄み切った異邦の空を眺めながら、かれの、そしてわたしが出会うことを許され見送った三人の猫たちの顔を思い出そうとする。それらの顔は半分のうす目で、こちらを見ている。それほどまでにただ、見てくれる者がほかにあっただろうか。
 生きる、というアート。人ならざる生きものたちのアートに、ひとつところに留まることも知らないわたしが、この生で追いつくことはきっとないだろう。

眠りの蒼白い岸辺で
蒼白いクロッカスを摘んでる
それはもうひどい藪で
ホットスポットなんじゃない? なんてご近所ったら
(仕方のないさだって
そういう作品だから、ね)
探さなくちゃならない
でも、なぜ?
おまえは見えず
おまえの気配はなく
でもまだ見えないそこらにいて
にいさん
にい さん
どこ
泣いて困ってるかも
と思い
思いついてしまったからたまらない
こんなひどい藪で
どうしようというのか
かれに会って?
あのクランデロが尋ねる
本当はクランデロの気配だってないのだから
勝手に声を拝借する
さよならを言いたいんです
せめて──
なあに、かれにしたって
もうたくさんさ
あれほどに、
幾度となく、
さよならを。
遠いおまえ
遠いわが家
遠いあの春
なまぬるい嵐がどっ、と雨戸を叩く
どこにいるの
おまえ
今やあの薮も消え失せ
更地に四軒家がたつ
どこにいるの
おまえ
おまえの
おまえたちの藪
センダングサやらヌスビトハギに
地蜘蛛の巣をいっぱいに絡ませて
さあ、こうなると厄介だ
とろろ昆布みたく
とろとろなおまえの毛皮は、ね
にい さん
にいさん
どこにいるの
おさしみ
ちょうだい
もっと
ちょうだいよ
おひざにのしてよ
お顔を掻いて
ねむいよ
にい さん
どこ

スタバをボイコットしてイエメンコーヒーを飲もう

さとうまき

僕は、30年前にイエメンで仕事をしていたのだが、内戦が始まってしまいあっという間に追い出された。イエメンは、幸福のアラビアといわれてきただけあって、荒涼とした砂漠、灼熱の太陽、狡猾な石油商人、テロリスト、そんなイメージとは裏腹に美しさがある。ディズニー映画に表現されるエキゾチックなロマン?そんなものをはるかに超えて、ぶっ飛んで美しい。このかわいらしい町並みは何だ?レンガ造りの建物には小さな窓があり窓枠には白い漆喰が塗られ、ステンドグラスがはめ込められて、、それを文章で表現できたらなあと思うのだが、残念なことに僕は詩人ではないのだ。

イエメンといえば、コーヒーが発祥した場所。その昔オランダ人が門外不出のコーヒーの苗木を盗んでから世界中に広まった。オリジナルのコーヒー、モカ・マタリ。このコーヒーを飲んでみれば、イエメンの美しさそのものが味わえる。天日干しのためか果肉のフルーティな香りが残る。そして酸味とローストした苦みのバランス。それがコーヒーのアロマな甘みとしてまとめられたときにかおる「幸福」! 猫が、またたびをなめたときのあの感じなのだ。

それで、僕はイエメンのことを思い出したくなったら、モカ・マタリを飲む。それで僕は、コーヒー商人になってイエメンのコーヒーを売り歩いているのである。しかし、コーヒーが売れない。なぜならば、うちのコーヒーは、ガザへの寄付が含まれるので、スターバックスのコーヒーより高いのだ。そこで僕は考えた。「スターバックスは、悪いコーヒーだよ」とデマを流すことを。

「皆さん、スターバックスはユダヤ人が作った会社です。イスラエルにお金が流れています。彼らは、ガザの虐殺に加担しているんですよ!そんなコーヒー飲めますか?」
そうだ!そうだ!というわけで、スターバックスをボイコットしよう!パレスチナが解放されるまで。

「スターバックスのコーヒーがなぜ茶色いか? ガザの人たちの血が混ざっているからだ!」
そうだ!そうだ!スターバックスをボイコットしよう。

「そして、皆さんが飲むのが、サカベコ・コーヒー! イエメンのフェア・トレードコーヒーです」
そうだ!そうだ!サカベコ・コーヒーを飲もう!

というわけで、スターバックスの売り上げは落ちていった。
ちょっとまって! スターバックスは、物言いをつける。
https://www.starbucks.com.kw/en/starbucks-middle-east

「スターバックスは、イスラエル政府にお金を渡したことは一度もございません。私ども、イスラエルには一店も店舗はございません。1999年にクウェートの富豪アルシャヤグループとフランチャイズを展開し、バーレーン、エジプト、ヨルダン、クウェート、レバノン、モロッコ、オマーン、カタール、サウジアラビア、トルコ、アラブ首長国連邦といった国でアラブの皆さま、イスラム教徒の皆さまに愛され続けてきたんですよ。」

なるほど。僕は友人に相談した。
「いやいや、スタ-バックスの労働組合が、パレスチナを支持してる!とSNSに投稿したら、それを会社側がつぶしにかかったんですよ。だからやっぱりとんでもない会社だ!」
そうだよな!そうだよな!
「サカベコ・コーヒーは、パレスチナを応援します。そして売り上げはガザに寄付します」
そうだ!そうだ!スターバックスをボイコットしよう。

でスターバックスの人は「いや、あの投稿ですね。パレスチナを支持するという文言はともかく、投稿された写真が、ハマスの戦闘員が、ガザの壁を壊して、これからイスラエルの市民を虐殺に行くところの写真だったんですよ。これを見たユダヤ人だけでなく、一般の市民が、『スターバックスは、ハマスが行った子どもの虐殺や女性のレイプ(1200人が殺された)を支持するのか!もうスターバックスにはいきまへんわ!』と電話が殺到しましてね。もう本当にわしら、おいしいコーヒー出しているだけなのに、政治的な話はしたくないんですわ。」大体こんな感じ。

スターバックスは売り上げをどんどん落としていって、中東では2000人を解雇!マレーシアでは50店舗が閉店!そして、スターバックスは売上を落としながらもガザ支援に300万ドル寄付したらしい! ボイコット運動大成功!

あら、サカベコ・コーヒーは今まで20万円しか寄付できてない。で、解雇されたアラブ人はどうなるの?なんかかわいそうだなあ。僕は、こりゃ、スタバをボイコットする意味はないなあと思い始めたのである。

先日愛媛で、イエメンコーヒーを飲んでパレスチナを応援しようというイベントが行われた。マレーシアとインドネシアの留学生も来てくれて、彼女たちは、「私の国では、みんなBDS(ボイコット!投資しない、経済制裁)運動を頑張っています。私、日本でスターバックスやマクドナルド、ボイコットしてますが、周りの日本人はみんな平気でそういうお店いきます。そういう人たちは、虐殺に加担しているのかと思うと悲しくなるし、いったい私たちに何ができるのですか?」と質問され、僕は、先日調べたボイコット運動に関して得意げに話し出した。
https://note.com/maki_sakabeko/n/nbac29f1235ef
「実はですね、スターバックスも、マクドナルドも、それぞれの国の別会社でアラブの国やイスラムの国では、むしろガザの人道支援へ寄付しているんですよ。よく調べてボイコットするかしないか決めましょう。」とアドバイス。「スターバックスは、ユダヤ人がCEOだということで、イスラエルの虐殺に加担しているというような思い込みはレイシズムにもつながるよね! スタバやマックをボイコットしたところで、戦争が終わりましたか?」

ただ、今回のボイコットでスタバやマックが、ガザに寄付しようという気持ちはあっても寄付するとなるとハマス支持といわれる可能性があり、躊躇せざるを得ない状況だったのを、後ろ押ししたと考えることもできる。
「スタバのコーヒー飲んだからと言って虐殺を支持したことにならない?」
そうです!飲んでいいんですよ!実際BDSマレーシアのHPを見てみましょう、スタバはボイコットの対象になっていない。

みんな、モヤモヤしたものが吹っ切れたようで帰って行った。
あら、サカベコ・コーヒーは?
https://sakabeko.base.shop/

地下鉄日比谷線

植松眞人

 秋葉原を出て、上野を過ぎたあたりから、急に湿度が上がる。まるで、それまでよりも深いところを走っているかのように、気圧も上がって、電車の揺れも激しくなったかのように感じてしまう。
 八両目の連結部分近く、優先座席の周辺に居合わせた乗客たちは、私以外、すべて上野駅で降りて、乗ってきたのは旅行客らしい中国語を話す四人家族と、カップルらしい若い男女、そして、二人の年輩の男性だった。私は連結部分に一番近い優先座席に座っていて、隣にカップルが座った。向かい側の三人掛けの座席には四人家族の子どもたちだけが座り、空いた一席には母親が持っていた少し大きめのバッグが置かれた。年配の男性二人はドアの脇に別れて立ち、スマホの画面を見ている。
 上野を過ぎ、地下鉄は入谷に着く頃にはさらに湿度を増し、車内は不快感に包まれた。その証拠に、窓の外はただ暗いだけではなく、黒いもので覆われていて、レールの繋ぎ目を伝える振動音さえくぐもって聞こえるほどになった。
 中国語を話す子どもはまだ二人とも学校には通っていないくらいの年齢だろうか。上が女の子で、下が男の子。まず、男の子がむずがりだした。女の子は、自分の不快さを我慢しながら、男の子をなだめている。母親は女の子を応援して、一緒になって男の子に声をかけている。父親は、黒いもので覆われたような窓の外を凝視したまま動かない。
 もし、入谷駅で停車したなら、黒いものが車内に入ってくるだろう。そうなったら、きっとみんな生きてはいられない。私はそんな気がして、窓の外よりも、目の前の四人家族に見入ってしまう。
 アナウンスが入谷駅に停車したことを告げる。ドアが開く。光が入り込む。窓の外を覆っていた黒いものは瞬時に無くなる。
 目の前の親子連れは電車を降りる。私の隣のカップルも立ち上がり、ドアへ向かう。誰も乗ってこない。優先座席には私だけが座っている。ドアの両脇に別れて立っていた年配の男性は、ずっとスマホを見ている。私は手元を見ている。手元を見たまま、ドアの脇に立つ男性二人と自分のことだけははっきりと認識している。
 地下鉄が入谷を出て、三ノ輪を過ぎるまで、私は顔を上げないようにじっとしている。そして、自分が見つめているスマホの画面の向こうには、さっきまで窓の外を覆っていた黒いものがある。きっと、ドアの脇に立っている二人の男性のスマホの画面にも同じものが見えているのだと思う。(了)

中心のない触れ

高橋悠治

全体から部分に降りていくのでは、細かい隙間を埋めていくにつれて、動ける隙間が減っていく。20世紀後半の音楽は、そんな感じの息苦しさがあった。それとは逆に、小さな動きから始めて、それがどこへ行くにか見る、危ないと思われる時だけ手を出すようにして、ある範囲のなかで、同じ動きを避けながら、どこまで行けるか。

音の同じ動き方が、テーマとかモティーフとか呼ばれて、それを少しずつ変えながら、音を組み立てていくのが、構成であり、作曲の技術だったが、そうでないやり方は、なかなか思いつかないし、よくはできない。

それでも、違う動きを連ねることからはじめたらどうなるか。そんなことを、ぼんやり思いながら、試しに書いてみる。最初は1本の線、それからそこに、違う線をあしらってみる。

違う線には違った時間がある。一つの時間のなかで、それぞれの線の屈曲を決める代わりに、各々に線を決めてから、それらを合わせてみるとどうなるか。一本の線に違う線をあしらってから、初めの線なしで、第二の線に違う線を足してみる。こうして、ある時間の枠に、また別な動きが入ってくる。こんな変奏の成り行きを考える。

連歌から思いついた音の遊び。動きのそれぞれが次への扉や窓になる(<寺田寅彦:連句雑俎)。だが、始めも終わりもない無限変奏というよりは、循環する流れのなかに、偶発的な光の点が見え隠れして、それらが全体を変えてゆく、予想されない変化というイメージ。

安定した低音の上に華やかな変化を見せても、装飾は表面に止まって、全体は動かない。雲や水のように軽く浮かび流れる線。音楽で使われてきた形や響きの技法には頼れない、と思っているが、そういう技術から離れて、自由に動き回る線を、作るというより、できていくのを見守るだけ、というように、意識に先立って手が動いていくような、それでいて慣れた働きではない、知らない動きの水準を、どうやって保っていられるだろう。

2025年2月1日(土)

水牛だより

明日は節分ですが、これまで春のような陽気だったのに明日は雪の予報の東京です。ほんとうにふるのかどうか。年に一度は白い東京を見たいですね。

「水牛のように」を2025年2月1日号に更新しました。
今月はお知らせをふたつ。
下窪俊哉さんが水牛での連載をまとめて一冊の書籍にしました。タイトルは『夢の中で目を覚まして─『アフリカ』を続けて①』。①ですから、次もあるので楽しみは続きます。こうして一冊になってみると、毎月の連載を読んでいるのとは違って、下窪さんの考えにすっぽり浸ることができます。アフリカキカクからどうぞ!
杉山洋一さんプロデュースの2枚組CD『ORPHIKA・PHONOZGENE Orchestral Works of Yuji Takahashi』が発売になりました。発売はチェコのODRADEKです。

それではまた来月に!(八巻美恵)

001 続・日本語

藤井貞和

水牛の寄稿を一回、お休みしました。
すると日本語が泣いています。

あわてて私は日本語にふたをしました。
ふたがやってくる 眠る代わりに

ありあわせの図鑑で「ふた」をすると、
もっとはげしく泣くのです。

貞和(ていわ)さん、冷たいあなたの教室、
にんげんの日本語はさらにはげしく泣きます。

短歌でも 俳句でも、
泣きやまない日本語の図鑑です。

泣き疲れて、それでも刻(とき)は移り、
ページにしたしたしたと涙のしずくが伝います。

大泣きのあなた、詩は書けなくなって、
したしたしたと図鑑のなかから声のしたたり。

海底の草むらに草のかげりがさすと歌って、
ひとびとは逝きました。 泣きはらしてわたしから、

あなたがいなくなる。 地上のすべてから径がなくなる。
涙のあとを航路にして伝わるページに、

考えてもみてください、おおうみは、
すべてのあなたの紅涙です。 まっ赤な海底に、

眠らないで。 独り寝の露を溜めてにんげんの古今集が、
呼びかけています。 袖を濡らして、

詩はどこへ行ったのでしょう。 紀貫之が、
泣いたのは大和物語でしたか、泣いてよいのです。

伊勢物語でしたか、もうだれからも読まれなくなり、
孤独に泣いています。 にんげんの古典に夕潮の満ちくるけはい。

大声が満ちてくる夕暮れの湾。 松風が、
明石海峡を越える、泣きながら。

俊太郎さん 助けてください。
片足を貝が食い散らす連句の涙、和歌の川、

尽くして終わるわたしどもの歌語、
うたまくら、浮くシーツ。

流れて去るわたしの天の川、……尽くして、
どこかでふたたび出逢うことになるでしょう。

そのときまで日本語よ、
続くことを祈っています。

 

(原豊二『スサノオの唄(山陰地方の文学風景)』〈今井出版、2020〉の目次。――米子の風/因幡の土/東伯耆の空/西伯耆の山/出雲の汐/吉備の丘/古典の海原/大陸の朝焼け。詩みたいで、うっとりする。副題は要らないな。「アリストテレスのほうが冷静だけど、プラトンが感じた恐ろしさが問題ですよね。芸術をを持ち出すことで人が死ぬこともある。教育で人も作っちゃう。……プラトンはNOと言う」納富信留〈『短歌って何?と訊いてみた』川野里子対話集、本阿弥書店、2025〉。川田順造は日本口承文芸学会名の英訳を考案するに際し、フォーク・ナラティヴでなくオーラル・アートを提案していたという。高木史人の情報から。「編集者から読者へ」を十八ページ付載した『未来からの遺言』伊藤明彦の仕事1〈水平線、2024〉は、読み終えて刊行の趣旨に理解がとどく。「民主主義の死」「匂いとともに棘で刺す」「霧と少女」「病院に爆弾を落とすな」『世界の起源の泉』〈岡和田晃、SFユーステイティア、2024〉)。

真っ黒の金魚(下)

イリナ・グリゴレ

植木の水を床に溢した。床は土ではないので、水はそのまま小さな湖を作った。水についてよく考えるようになったのはバヌアツ共和国のフィールドワークに行ってから。複数のフィールドワークは体力が必要だが、わかることもより多くある。日本は土、バヌアツは水。日本もバヌアツも火山だらけだけど火ではない、実際に行ってみないとわからない。水の話が水のように流れる、透明でまだ掴めない。よくものを落す私が水の状態と触り心地を理解していたと思ったがまだわかってないはず。フィールドワークは、自分が「自然」について分かったと思っていたことが、ただの勘違いだったと教えてくれる。なぜか、メラネシアという場所を知ってからこの世界を恨むのをやめた。あまりにもこの地球の自然体の姿を見せてくれたから。水を怖がる自分に大きな変化が訪れた。雪も水だから、青森で暮らしながら、毎年大量に降る雪のこともよく観ていなかったことに気付く。彫刻家の青木野枝さんにお正月の雪の写真を送ったら、「雪が生き物みたい」という返事がきた。それは私が言葉にできなかったこと。私は雪を恨んでいた。寒くて、太陽の光が届かない。ずっと降り続ける雪は重たい。

この壊れ尽くした世界まで綺麗に真っ白にしなくていいといつも思っていた。汚いまま、ありのままの姿でいいと。でもそうではない。雪のせいにして構わない。うまくいかなかったこと、遅刻したこと、イライラしたこと、悲しくなって起きられないこと、料理を作りたくないこと、少し太ったこと。なんでもいい。だって、こんな雪が積もっているから、当たり前。車を20キロ以下で運転することも。動くペースをゆっくりする。自然なことだ。昔の人は冬になれば外出せず、家にこもって漬物など保存食を食べ、わざわざ遠くまで行かなかった。それが今では冬眠しない熊さえ現れた。昨年は雪が少ししか降らず、「地球温暖化のせいで青森はりんごではなくみかんを植えなきゃいけない」という人もいたが、今年は過去最高の積雪で、いつもの「雪かきしかしていない」という口癖が戻ってきた。私は運動が嫌いではないが雪かきは苦手。雪かきは全身を使うが、スノーダンプやスコップを握る手が肝心で、特に重たい雪には力が必要。けれど握力がない。

女性だから力がないということではない。私の手の弱さは異常。それはバヌアツで水中のパフォーマンスを習った時によくわかった。小さい女の子にもできる所作が私にはできなかった。音が出たのは一回だけ。物を落とす。口に運ぶものもよくこぼす。遺伝的なものなのか、自分の身体の中の暗いもののせいか、別の理由があるのか。長女もよく物を落とすからこれは遺伝だ、とずっと考えていた。自分の先人をもっと知りたい。夢で推してほしい。ルーマニアの刑務所に入っていた社会主義時代の人に対する拷問について読んだ。その女性は生爪を剥がされ、指を粉々に潰された。自分の記憶ではそうした拷問だった。その後、一本の糸がつながった。キリスト教の始め、ローマ帝国の下に置かれた若い女性の拷問について調べていた時。彼女らは2000年経った今日の正教会で聖女に列せられるとともに、殉教の時に受けた数々の拷問が語り継がれている。

話は青森、ルーマニア、バヌアツ、古代ローマと行き来しているが、自分の中では水水しく繋がっている。時代と場所を超えて真っ黒の金魚がどの話の中でも泳いでいる。バヌアツの場合は金魚ではなく、トビウオだ。一人の女性が海へ走って、飛んだトビウオを素手で獲ったというイメージを今でも何度でも眼裏に再生させる。あの時、彼女に教わったことが忘れない。痛みが黒い魚のように心の中、頭の上にずっと飛び回っているにしても、指が潰されるような痛みを感じるとしても、その痛みの魚を追いかけ、捕まえ、焼いて食べる。全部。笑いながら。白い歯を見せながら。海や川や湖に来てあの魚を塩焼きにして全部飲み込む。苦しみの魚を丸ごと食べる。骨は野良犬にくれてやる。

冬の湖に、ふるさとをすてる

新井卓

 故郷とは思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことではない──そんなことを考えたのは、冷たい湖水に、よく知らない人たちと一緒に飛び込んだからだ。
 風が立ち雲行きのあやしい週末、グリューネバルド(ベルリン南西部の森林地帯)の東にある小さな湖、寒中水泳の会に顔を出した。わたしを誘った張本人、一年ぶりの再会になる翻訳者・ティナをのぞき知った顔は一人もいない。アンナ、という何をしているのかよくわからない人が勝手にポエトリ・リーディングをはじめる。冬の木々のことをうたうその詩がとてもよかったので拍手喝采になる。ぽつぽつと集まり十人ほどになったわたしたちはその勢いを借りて、わっと声を上げ一斉に服を脱ぎ捨てた。冬ざれて、死んでいるのか眠っているのかわからないライラックの根本に散乱した下着をはだしで踏みつけながら、水辺に駆け出す。

 こういうのは思いきりが大事だから、つま先からそろそろ入水する人たちを尻目に、勢いよく頭から飛び込んだ。水は澄んでいて、近くをのんびり通り過ぎるマガモの水掻きが見えた。全身が水中に入ってしまえば、不思議に冷たさの感覚はない。全身にスチール・ウールを押しあてるような歯がゆい感覚があり、次いで、こめかみを全力で締め上げるような鮮やかな痛みが湧き上がってくる。これはなかなか癖になりそう。頭は水につけたらだめ、凍えちゃうでしょ、とアンナが咎めたが、ほかの物好きたちも合流して、それから二度、三度と大きな飛沫を上げた。

 もうおしまい!とだれかが叫び、水から出ると、肌は真っ赤に上気して身体の芯に火が燃えるのを感じた。身体を拭き、よろけながら下着を身につけた。どういうわけか、衣服を重ねるほどにどんどん寒くなってくる。ライラックの枝にタオルを干し、各々持ちよったシュナップスやウイスキーを交換しながら、みな饒舌になり、お互いに昔からの顔馴染みのような、奇妙な親密さを受けとめていた。フィンランドのことを思い出す。あそこではとにかく一度、裸になってサウナにさえ入れば、だれとでも親密になれた。

 チアゴ、というポルトガル出身のアニメーターが話しかけてくる。ライアン・ゴズリングそっくりの彼は、たっぷりと遅れてきて儀式に参加しなかったので、いまから一人で入りなよ、湖をひとり占めできるよ、とみんなにいじられ、わたしたちのところへ逃げてきた。
 ──きみ、日本人なの? もうずっと日本のアニメーションを見つづけてきたけど宮崎駿と高畑勲は別格だね。特に『もののけ姫』はすごいし、『ハウルの動く城』も自分の中でベストに入ってる。彼らの作品にはサウダーデ(saudade)の感覚がある。サウダーデ、というのは失くしてしまったものへの思慕(longing)とか、という感じ。
 ──ポルトガル人が失くしたもの、っていうのは植民地? じゃあスペイン人とかオランダ人にも同じ感覚があるわけ?
 ヘーゼルナッツ風味のシュナップスがなみなみと注がれたエナメル・カップを回し飲みしながら、ちょっと意地悪く、ティナが尋ねた。チアゴは、いや実際、大航海時代、植民地主義とは確かに関係があるよ、と言い、スペイン、オランダのことは本人たちに聞いてみて、と苦笑した。サウダーデには大西洋をこえて帰らなかった人々や落命した人々、ポルトガルの没落、という具体的な喪失の記憶が織り込まれているのだと、はじめて知った。

 日本はどうなんだろう? たとえば日本帝国統治下の朝鮮半島に生まれ、海軍士官だった祖父には、サウダーデがわかっただろうか。「失われた世代」とだれかが勝手に名付けたわたしたちの世代には、サウダーデの感覚があるだろうか。少なくとも郷愁、という日本語をあてるにはそぐわない、実体をともなった喪失(という矛盾した言い方が可能なら)の痛み。浅茅が宿。

 そういえば、『ふるさと』という歌がどうしても好きになれずにいるのは、それが過去の喪失ではなく、未来の喪失を歌うからだ(いつの日にか帰らん、って帰る気がはじめからなさそう。少なくともわたしにはそうきこえる)。未来の獲得のための犠牲、という態度こそ植民地主義的態度ではなかったか。わたしたち「失われた世代」も、地方から中央へ、そしていつか国際社会へ、という発展の共同幻想を疑わなかった。しかしその線的なモデルで、過去の喪失と未来の獲得という、ともに実体のないイメージに板挟みになった現在に留まり生きることは難しい。

 『ふるさと』からぼんやりと投影される集合的な故郷のイメージが喪失によって作られているのなら、わたしたちに本当の故郷はない。というか「わたしたちの」故郷、などというものは、初めからない。わたしの故郷は、思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことでもなければ、失った何かでもない。それはここに、この身体の遍歴とともにあり、だから、帰らなくてもいい。うっかりすると、忘れてしまうことはある。そんな時は、裸になって冷たい水に飛び込み、「いま」が全身を圧倒するに任せることだ。

マイ・ファニー・バレンタイン

さとうまき

その昔、バレンタインデーが近づくと、女子社員は、チョコを買いにデパートへ駆けつけ、その日の朝がやってくると早めに出勤して男子社員の机に一生懸命チョコを並べる。とても昭和な時代だった。「義理ちょこ」これを人々は悪しき習慣とみていたのだろうか? チョコをもらうのはうれしい。しかし、数が少ないと、いかに女子から嫌われているのだろうかと落ち込んだりするし、義理チョコを義理で返すホワイトデーなるものも照れくさくめんどくさいものだった。そもそもは、製菓会社が仕組んだ戦略にみなのせられていた。

2005年、僕はチョコレート革命を企てた。「限りなき義理の愛」作戦。義理チョコに向けられる財源を、イラクの子どもたちへ投資するという作戦だった。というのはうそで、僕は、革命を起こそうなんて大それたことは考えてなかったけど、自分や、その周りが変わって楽しくなればいいなあという程度。高いお金でチョコ買うよりも、戦争で犠牲になっている子どもたちに少しだけでも愛を向けてほしいという思いと、子どもたちの絵というのは本当に面白くってみんなに紹介したいというのがあった。

結果、とても反響があった。クリスマスとは違い、当時は、カップルにとって楽しいイベント、そこにお金を消費させようというバブルなコンセプトに、戦争反対だの、自衛隊の海外派兵反対など、そういう暗くってめんどくさい、しかも意見が割れてけんかになりそうなネタを持ち込むことなどはタブーだった。しかし、うけた。「義理チョコなんてくだらないって思ってたけど、これならいいわ!」と言って買ってくれるおばさんたちがたくさんいた。

気が付くと売り上げは8000万円をこえていた。僕は調子に乗って、鼻血を流している子どもを描いた絵とか、マスクをかけている子どもの絵もパッケージに使った。イラクのがんの子どもにとっては、リアルな現実だった。しかし、やはりそういう絵は嫌だという人もいた。団体は大きくなると上昇志向にしかならない。売れるためには何でもいい。というのは言い過ぎだけど、プロのデザイナーとかがやってきて、勝手にTシャツや、ギターのデザインに使うことになったらしい。僕はあほらしくなってやめてしまったけど、お金がたくさん集まることはいいことだから、多くの子どもたちを助けてほしいと思う。

今、ガザが大変だ。シリアも大変だ。少しでも何かできないかと思って、昨年からちまちまとコーヒーを売り出した。
「バレンタイン用にデザインしてくださいよ」
と言われた。
「いやーもう、バレンタインデーはこりごりで」

何よりもガザ戦争では、私の知り合いたちが一生懸命現場にかかわっている。そのことは誇りである。ガザに家族がいる藤永さんが、子どもたちと始めた寺子屋。大きな支援が届かないところで活動している人たちにわずかでもいいから送れればなあと思っている。

子どもの絵に♥をつけ足してみる。ああ、いいなあ。やっぱり愛だ。むかし、「愛こそはすべて」という歌があったけど、ガザに愛を届けたい。https://sakabeko.base.shop/

仙台ネイティブのつぶやき(103) 記憶の中の建物

西大立目祥子

また一つ、仙台の歴史的建造物が消えた。広瀬川から引かれた七郷堀という水路のほとりに立つ染物屋の建物だ。堀の両岸は江戸時代から染師たちが暮らしたところで、明治に入ってからも大きな染物屋が並び、昭和30年代くらいまでは堀の水が藍色に染まるほどの忙しさだったという。この染物店はこの町の伝統の木綿染めでなく絹染め専門だったが、黒っぽい木造の2階建の主屋と、ガラス戸の上の木製の看板、瓦を載せた門は、この町の歴史を静かに語りかけてくれるものだった。

「越後屋染物店が解体されてるみたいです」と知人から一報が入ったのは、1月6日の午前中のことで、新年早々、ざらざらした苦い感情が押し寄せた。これまで何度もまち歩きでお世話になり、ご主人とも顔を合わせ話を聞いてきたのに。たしか一昨年、耐震調査をした話を聞いていたのに。何か力になれることはないかと思いながら、昨年は一度も訪ねていなかった。やるせない気持ちが押し寄せる。

仙台で歴史的建造物の保存活動をして、20年近くが経つ。新聞などで建て替えとか移転とか報道されたときは、事態は解体に向かって進んでいる。それからあわてて賛同してくれる人を集め動き出しても、時すでに遅し。何周も遅れてのスタートだということを思い知らされてきた。でも、同じ思いの友人ができたし、市内の中心部に近いところならば、どこに貴重な建造物があるかという地図が頭の中に描けるようになった。この建物は、私の中では残したい建造物の筆頭に上がるものだった。いや、仙台の街にとって、といいかえてもいい。もちろん持ち主のお気持ちとはまた別の、外野の勝手な思いなのだけれども。

こういう建物が消えると、穴が空いたような気持ちになる。残念ねとか、前に見学できてよかったとか、今回もいろいろな人にいわれたけれど、私の感情はもう少し複雑で重い。親しい人を失ったとき、もう少し何かしてあげられたのでは、という思いがついて回るのに近いかもしれない。壊されたらもう二度と見ることはできないのだ。亡くなった人にもう二度と会うことはできないように。だから、建築関係の人たちが解体前に「記録保存をとる」といういい方をするのに、いつも違和感を抱いてきた。それって記録ではあるけれど、保存じゃないでしょう、と。

現場を見るのが恐かった。でも翌日夕方、陰った日射しの中を車で出かけ、スピードを殺して近づいた。もうブルーシートで覆われ、建具は外され、パワーシャベルの重たい頭が主屋の手前にのしかかって半分ぐらいはつぶされていた。いたたまれない気持ちで降りずに通り過ぎた。古いのに輝きがあってしっかりと存在を主張していた建物の姿は、もうどこにもなかった。木造の解体の何とたやすいことだろう。人が守らなければ、それは簡単に崩れ落ちる。

旧知の記者さんから写真を持ってませんか、と問われ、パソコンの中の写真をさかのぼって探してみる。ない。え、ないはずはない。そう思ってもう一度見る。やはりない。CDにまとめていた画像も開いてみるが、一枚もないのだ。壊れてしまった前のハードディスクの中に入っていたんだろうか。

建物は消え写真も失せたというのに、記憶の中の画像がくっきりと鮮明に頭の中に浮かび上がる。ふっと、赤と白の餅をつけたかわいらしいだんご木の小枝が、門柱に刺してあったことを思い出す。門をくぐって入ると、玄関わきには丸窓が切ってあったっけ。もうだいぶ前のことだが、父が亡くなったとき、まったく覚えていなかった暮らしの1コマが、記憶の箱の蓋をぽんと破って出てきたみたいによみがえったことがあった。それと同じことなんだろうか。

昭和11年に立てられたというその建物は、2階は南側と東側が大きく切られ全面にガラス戸がはめられていたから華奢で柔らかな印象だった。全体はいぶしたような焦げ茶色で、そこにぴかぴかに磨き上げられたガラス戸が立ち、日中は隅に白いカーテンがきちんとまとめられている。堀の向かいから眺めるたび、ほれぼれとした気持ちにさせられた。ガラスはまず何より輝きなのだ。磨いていたのはご主人。コツがあるんだよ。こういう古い建物はガラスが汚れていてはみすぼらしいからね。そう話されていた。

1階の店も南側はガラス戸で、入ると半間ほどのたたきがあり、上がり框があって畳が敷かれ、昔ながらの座売り形態だった。奥の座敷との境の扉まで見通せる広い空間だったから柱は少なかったのかもしれない。でも、東日本大震災の激烈な揺れをうまく逃がすようにして、そう大きな被害も受けずに建物は生き延びた。

畳の向こうに大柄なご主人が座り、手前には横顔の美しい奥さんがおだやかな表情で座り、お二人で柔らかな絹の織物にちくちくと針を通しているようすを、絵を見ているようだなと思いながら見つめたことがあった。こんな1コマも記憶の中から鮮やかによみがえってくる。

よく手をかけられ、ていねいに使われてきた建物は、深い呼吸をする生きもののようだ。

4代にわたって暮らし商ってきた建物を自ら壊すと決めたその心中を思うと、ことばが見つからない。でも何か、ひと言何かを伝えたくて、スマホに残っていた番号に電話をかけてみる。無音。固定電話は切られていた。残っていた住所に手紙を書こうと思い立つ。せめてお礼ぐらい伝えたい。でもどんなにことばを重ねてもご主人の無念には到底届かないような気がして、ひと月近くが経つというのにまだ出していない。

新正月と旧正月のあいだで

仲宗根浩

今年の正月二日まで休みにあたったので何年かぶりに実家で酒をあおる。一月から駐車場にまた勝手に車とめられること二回。一回はドライバーがいたのですぐ移動してくれたが二回目、ちょっとスペースがあったのですぐに出られないようにギリギリ前につけて自分の車を入れ、勝手にとめるなこの野郎的な文言を日英の言語でプリントアウトしてワイパーに挟む。今年もこれからこういうことが度々あるのだろうか、駐車場をべつにさがそうか。

去年初めて車検が済んで六か月の車の点検終わり雨の中ドライブ。となりの市、今ははうるま市になっているがもとは具志川市の宇堅ビーチ、当たり前に誰もいない。三十分は無料の駐車場に入ると、スピーカーからヒップホップ系の音楽が流れている。どんよりとした雲、小雨のなかこじんまりとしたビーチをざっと眺めて駐車場から出て、キャンプ・コートニーを過ぎて天願の十字路を右に曲がり石川方面に向かう。コロナ禍で営業をしていなかった石川漁港の食堂の現状を確認しに行く。漁港食堂は居酒屋になっている。中に入ると前の漁港食堂の雰囲気がないが、 ランチメニューで営業していて先客二名。メニューは 鉄火丼、ポキ丼、マグロユッケ丼、イカスミ汁、山羊汁。入ったからには何か頼まないといけないような店内の圧というか様子。テーブル席に座り、漁港で山羊汁は無し、イカスミもちょっと気分ではない。鉄火丼は無難だか当たり前すぎる。ポキ丼も雨の中気分じゃないので食べたことがないマグロユッケ丼を頼む。どんぶりに天ぷら、汁物はお椀に入った沖縄そば。肉のユッケはもう食べられないから。マグロでもいいか。そういえば最近スーパーでアジのユッケが出ているのを見かけた。

末になり注文していたCDが届く。注文したのはいつ聴くのか。あるミュージシャンのアーカイブはvol.4まであるがまだ2までしか聴いていない。その他未聴CD多数、ジャンルばらばら。今年は地道にコツコツと聴くしかない。
となりの駐車場の奥のパパイヤの木に小ぶりの実がぶら下がってる。通りに緋寒桜も咲き、旧正月も終わった。

2025

笠井瑞丈

2025年

新しい年です
新年を迎える

一昔前は今年の抱負
これからの事などを
考えることが多かったが
ここ最近はなぜか

未来の事を考えることより
過去の事を思い出すほうが

多くなった気がする
きっとそう思うには

過去を過ごした時間が
未来を過ごす時間を
上回ってしまったのかも

引き出しの中の荷物の方が
空き場所より多くなってしまった

これからこの空き場所に
何を入れていくのだろう

もう無駄な荷物は入れるわけにはいかない
なるべく大切なものだけを入れていく事に

入る場所だって限られているのだし

ただ

今まで入れてきたものが
無駄だったとは思わない

ただ

時間

空間


有限


水牛的読書日記 2025年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年を迎え、宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読む。1998年の単行本刊行からずっと続けている年末年始の儀式で、今年が27回目となる。昨年は、三重・津のブックハウスひびうたで、宮内さんの旅と文学をめぐるお話をじっくりうかがう集いを主宰し、感無量だった。

1月某日 講師業の仕事始めで、東京へ。明星大学の授業「マイノリティの文化」でゲストスピーカーを務める。李良枝の小説「由熙」を中心に、少数派の作家による日本語文学の名作を紹介。いつか、李良枝の文学に挑む学生がひとりでも現れればうれしい。

夜は神保町に移動し、韓国書籍専門店チェッコリの書評クラブのメンバーと打ち上げ。チェッコリの佐々木静代さんとともにぼくが企画編集を担当し、昨年末に出版したZINE『次に読みたいK-BOOK![小説・エッセイ編]』のお祝い。メンバーのみなさんから、韓国ドラマやウェブトゥーンの最新情報を教えてもらった。

1月某日 東京・外苑前駅近くのNineGalleryで、渋谷敦志さんの写真展『能登を、結ぶ。』を鑑賞。地震発生から1年、渋谷さんが記録した半島の風景の中に立つ人々のまなざしを、目に焼き付けた。同題の写真集(ulus publishing)を入手し、帰りの電車のシートに腰を沈め、大判の本のページをひらく。

1月某日 植本一子さんのエッセイ集『それはただの偶然』を読む。出会いと別れ、人と人のあいだに揺らめく情感を深く見つめる植本さんの文章はいつもすばらしい。エッセイのことばも、あいだにはさまれる詩のことばもよかった。植本さんの人生に何か大変なことがあったようで、心配になる。

1月某日 学生時代を過ごした名古屋へ出張。10代後半から通い始めた書店、ちくさ正文館の不在をこの目で確かめてきた。工事中の敷地の仮囲いには、「マンション建設予定地」の看板が掲示されている。ちくさ正文館の入り口近くの小さなカウンターの中には、名物店長の古田一晴さんがいつもいた。書店も古田さんも、もうこの世にはいない。

ちくさ正文館の近くにあった中古盤専門店ピーカン・ファッヂもなくなり、お店が入っていたビルはタワマンに変わっていて驚いた。ピーカンの元オーナーである李銀子さん、張世一さんに会い、古田さんの思い出話も聞いた。李銀子さんは作家でもあり、『別冊中くらいの友だち 韓国の味』(クオン)にエッセイを寄せている。

夕暮れ時、東山公園駅前のブックショップON READING へ。お店の書棚で1冊のZINEに出会い、移動中に読み込んだ。COOKIEHEADさん(東京出身、2013年からニューヨーク在住)の『属性と集合体と、その記憶——アジア系アメリカとしてアジア系アメリカを考える』。全42ページの小著ながら、批評的エッセイの醍醐味を味わい、魂のこもった知性の言葉に読後の胸が熱くなった。

アメリカにおける原爆のこと、アジア系としての加害と被害をめぐる記憶のこと。「アジア系アメリカ」「+女性」という集合体の歴史的経験を先人の著作によりながら粘り強く読み解き、「植民地主義」という大きな問題を自分を抜きにしないで考え続ける姿勢に背筋が伸びた。あとがきとして書かれた、パレスチナ解放のマーチに行った日のエッセイは感動的な内容だ。

アジア系アメリカ文学に関心があるのでこのZINEを手に取ったのだったが、COOKIEHEADさんのことは、ZINEの著者プロフィールに記載されている情報——「ファッション業界で働くかたわら」「文章を綴る」、ということ以外はわからない。日本からアメリカへ移り住み、複眼的な視点から批評的エッセイを書く女性作家たち、たとえば「水牛」とも関わりの深い翻訳家の藤本和子さん、そしてライターの佐久間裕美子さんの系譜に連なる書き手だろうと直感。帰宅後にネットで検索したら、COOKIEHEADさんは佐久間さんと東京の書店で対談しているようだ。

1月某日 三重へ。伊勢参りをした後、外宮近くにある散策舎を訪問。日本一聖地に近い本屋さんではないだろうか。青緑の壁が美しい静かな店内で、主の加藤優さんからいろいろなお話を聞く。散策舎が発行する本、岡野裕行さん『ライブラリー・オブ・ザ・イヤー選考委員長の日記 二〇二二年』を購入。ライブラリー・オブ・ザ・イヤーは、「これからの図書館のあり方を示唆するような先進的な活動を行っている機関に対して、NPO法人知的資源イニシアティブが毎年授与する賞」とのこと。そのような賞があることを知らなかった。

1月某日 三重・津のHACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で講師を務める「ショートストーリーの講座」の最終回。原稿編集のポイントを解説し、これから受講生が小説やエッセイの課題を仕上げるのだが、作品が届くのが楽しみ。

講座後の夜、HACCOAの会場でもあるブックハウスひびうたで主宰する自主読書ゼミに参加。課題図書は、石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第3章「ゆき女きき書」。今回は特に、参加者から種々様々な意見が飛び出して、語り合いが大いに盛り上がった。『苦海浄土』が読書会向きだと気づいたのだが、それはこの本の中に複雑で豊かな声が折りたたまれているからだろう。読むことでひらかれる「引き出し」がたくさんある、ということだ。

今年からチェッコリ翻訳スクールで「翻訳者のための文章講座」もはじまり、翌朝にHACCOAの事務所を借りて第1回の授業をオンラインでおこなった。

1月某日 大阪で出版関係の打ち合わせを終えて帰宅すると、ヴェリミール・フレーブニコフ詩集『KA』(志倉隆子訳、阿吽塾)が届いていた。編集協力者で北海道・小樽在住の詩人の長屋のり子さんから。ロシア未来派の詩人による実験的な叙事詩で、ロシア文学者の亀山郁夫さんらが解説を書いている。亀山さんの名著『甦るフレーブニコフ』(平凡社ライブラリー)と合わせて、じっくり読みたい。

1月某日 サウダージ・ブックス代表で妻のKが、整体の先生からすすめられて読んでよかったという本を見せてくれる。演出家の竹内敏晴の評論『ことばが劈かれるとき』で、Kが手にしているのは思想の科学社版の単行本だった。なつかしい、なつかしい愛読書。竹内先生は晩年名古屋に住んでいて、ぼくが通う大学でときおり講演を行うことがあった。遠くから仰ぎ見る存在だったが、学生時代に『ことばが劈かれるとき』を読んで深い感銘を受け(ちくさ正文館で買ったのだと思う)、以来先生に私淑したのだった。この本は、いまはちくま文庫から復刊されている。

1月某日 今枝孝之さんが発行する海の文芸誌『SLOW WAVES issue04』(なみうちぎわパブリッシング)を読み始める。特集「日記の中の海」に、「海の子どもたち」と題してエッセイを寄稿したのだった。クボタノブエさんの色鮮やかな表紙イラストで飾られた、愛らしい一冊。

巻頭に掲載された詩人・犬飼愛生さんの作品「柔らかな砂」がとてもいい。ポケットに入れて人生のお守りとして持ち歩きたい、詩のことばだ。

本小屋から(13)

福島亮

 今年は1月1日がだらだらと続いた。1日の夜に羽田を発ち、まずはホノルルでトランジットし、それから目的地であるニューヨークへと、太平洋を横断して、つまり1日をずっと延長しながら過ごしたからである。ちなみに、出発したのは夜の20時だったが、ホノルルに着いたのは1日の朝8時だった。得した気分である。

 ニューヨークに行ったのは、とある学会の年次大会に参加するためだった。冷戦以降の歴史の語り方をアジア、東欧、西欧の視点から検討する、というパネルセッションの報告者のひとりとしての参加だった。ヒルトン・ホテルとシェラトン・ホテルの会議室フロアを借り切り、3日から6日までの4日間、8時から20時まで合衆国はもちろん、世界中の研究者が集って研究発表し続ける、という、豪快にしてストイックな大会だった。

 英語がからきしダメな私は、12月頃から、大学でフランス語を教えるかたわら自宅では英語の自学自習に励んでいた。学期末試験が近いので、学生たちには試験勉強をするよう促し、発音をさせてはそれを修正し、読解をさせてはその解釈に講釈をたれていたのだが、当の教員は帰宅後こっそりと英単語を覚え、冷や汗を流しながら発表原稿の音読をしていたのである。

 この英語学習は現地についてからも続いた。到着したのは2日で、登壇は5日である。ということは、残り時間は3日。この時点で、原稿はすでにできていた。だが、辞書を引き引き書いた文章は、口頭発表では使い物にならない。というのも、読み上げた時にどうしても不自然になってしまうからだ。頭だけで書いた文章で使われている語彙は、からだに馴染んでいないために、読み上げるとぎこちなさに拍車がかかる。そこにきて、私の発音は、まあひどいのだ。聴衆からしたら、おそらく何を言っているのかわからない代物になってしまうだろう。というわけで、私の低い水準でも口から出てくるような単語で言い換え、場合によってはいくつかの単語に馴染んでおく必要があるわけだ。

 告白しておくと、ニューヨーク行きのために、私は近所の啓文堂書店で『地球の歩き方 ニューヨーク、マンハッタン&ブルックリン2024〜2025』を購入し、観光地の下調べもしていた。だが、それらを楽しく観て回る余裕はなく、ホテルの一室でひたすら発表練習をしていたのである。

 ノックの音。扉を開けると、ラテン系の顔立ちをした中年の女性が立っている。ハウスキーピングです。あの、掃除中も、部屋に、のこっていても、いいでしょうか? ええ、もちろん。たどたどしい英語が通じた! 業務的な英語ではあるけれども、きちんと返答してもらえた! そんな低レベルな喜びに浸りながら、同時に惨めだった。期末試験の前日に出題されそうな問題にやまをかけて一夜漬けしたとき、頭の中には、結局は定着することのない朧げな知識がもやもやぐるぐると渦巻いているものだが、その時の私も同じ状態だった。思えば、こんなふうにもやもやぐるぐるとしたままこの歳まできてしまったような気がする。

 携帯電話の着信音が鳴り響く。ベッドのシーツを替えていた小柄な中年の女性がポケットからスマートフォンを取り出す。笑いながら彼女が発したのは、生き生きとしたスペイン語だ。それまでの業務的な英語ではなく、友人とおぼしき相手と話す、楽しそうなスペイン語。優しい音、明確な音節、簡素な構文、そして遠い縁戚のようないくつかの単語を、縮こまっていた耳がとらえる。ロマンス語の響き。そのにぎやかな音色が、惨めな気持ちに浸っていた外国語学習者にはなんとも心地よく、と同時に、いま目の前でスペイン語を発している彼女がどのような経験を経てマンハッタンで英語を話しているのか気になった。

 マンハッタンで出会ったスペイン語は、ほんの一瞬のものだったけれども、忘れられない輝きを放っていた。スペイン語の時間は30秒ほどで終わった。そのわずかな時間が、ずっとずっと続けば良いのに、と思った。

舞踊の表情

冨岡三智

ジャワ舞踊では表情を作らずに踊る。私はニコニコして踊っていると言われることが多く、ジャワ舞踊では笑顔を作らないんじゃないの?と批判気味に言われたこともある。けれど、別に意識してニコニコしているわけではない。初心者が踊るとき、笑顔になって~とアドバイスする人がよくいるが、自分自身はそういう言われることが好きではないし、そうするものでもないと思っている。

ではどうすればよいのか、あなたはどうしているのかと敢えて問われたら、私は無理に表情のことは考えなくて良い、私もそうしていると答える(今まで数人にしか言ったことはないけれど)。ニコニコであれ無愛想であれ、表情というのは外から作るものではなくて、内から出てきたものの結果だと思うのだ。もっとも、人間の心の働きは一筋縄ではいかないので、悲しい時やつらい時に無理にでもニコニコすることで気分が上向くこともあるから、外から形を作ることも悪いとは言い切れない。外に向けた顔を意識することで、内面が影響を受けてくることもあり得るだろう。けれど、舞踊の場合、作った微笑みはなんだか顔に貼りついたシールみたいな感じで、むしろ観客に踊り手への距離感を感じさせてしまうように思う。観客を引かせてしまうと言うか…。

私は表情をどうこうしようとは思わないけれど、これから踊る空間や音楽に身を浸そうとは思っている。リハーサルや事前の練習がそこでできるなら舞台に立って、舞台の前後左右、上中下をぼーっとゆっくり見ていく。すると、なんとなく気になる方向があるものだ。そっちを向くと自然と嬉しくなって頬が緩んでしまう方向だとか、背中を向けていても何となく気になる方向だとかが。私には霊感はないので、霊的なものがそこにいるという考え方はしない。けれど、何かが存在し偏在していて、そちらこちらに手繰り寄せられるような気になってくる。そこにガムラン音楽が響いてくるとドライブがかかって、私という空っぽの器に音がどんどん流れ込んできて、その器が空間の中を漂い始める…。

私が踊っている時にニコニコしているとしたら、そういう空間や音楽が私の中に流れ込んできた結果で、何かしら嬉しい気分に満たされたものが表情として顔に出てきていたのだろう。たぶん、自分の意識が空間や音楽に対して開いていけば、自然に作っていない表情が生まれる。そんな表情がジャワ舞踊で言う無表情なのではないかな?、と思っている。

しもた屋之噺(277)

杉山洋一

家探しに明け暮れた一カ月が過ぎました。イーロン・マスクはトランプ大統領の就任イヴェントで右手を斜め上に掲げ、つまりローマ式敬礼、ひいてはナチス式敬礼と揶揄されながら、トランプ大統領は反ユダヤ主義の学生の国外追放を発表し、ガザの市民をヨルダンや周辺国に移住させる計画まで報道されていて、イーロン・マスクはドイツ極右政党の政治集会で「ドイツは過去の罪悪感にとらわれ過ぎている」と発言したとも言われます。こうしてみると、現在までの世界の常識は、音を立てて変化しているのを感じます。わたしたちが変わるべきか否か、受け入れられるか否かに関わらず、この変革のスピードに自分も何等かの形で追随してゆかなければ、想像を超えるとんでもないことが起きるのかもしれません。そう痛感する一年の始まりでした。

—–

1月某日 ミラノ自宅
新年早々、家人と連立って久しぶりにミラ宅を訪問する。ミラ宅に厄介になっているさくらちゃんが甲斐甲斐しく手伝っていて、イタリア語も上手になっていておどろく。去年春にミラが日本旅行をした際は、さくらちゃんが随分助けてくれたのよ、とミラも大層嬉しそうで、各地の神社仏閣を巡った際の御朱印帳を自慢げにみせてくれる。こちらは不学で、御朱印帳が何かすら知らなかった。地下鉄4番線が開通したので、我が家からサルディーニ通りのミラ宅まで、フラッティーニ駅からスーザ駅まで地下鉄を使って簡単にゆけるようになった。我ながら現金なものだと呆れるが、4番線が全線開通したのはつい先日だというのに、開通以前のミラノのアクセスのイメージをすっかり忘れてしまっている。日本に戻っている息子が年始に町田の両親を訪ねた。彼が大好きなトンカツとハンバーグはもちろん、おせち料理も雑煮もよく食べた、と両親も喜んでいた。昨年11月に顔面神経痛になった父は、もうすっかり快復したようだ。バイデン大統領、アメリカの安全保障とサプライチェーン保証のため、日本製鉄によるUSスチール買収計画禁止を発表。韓国では、警備隊200人がユン大統領の拘束を阻止との報道。ロシアは1日から旧ソ連構成国モルドヴァへの天然ガス供給停止したため、モルドヴァ内の親ロシア沿ドニエストル地区では暖房、ガス供給停止。

1月某日 ミラノ自宅
日本に戻っていた息子がミラノに帰宅。ここ数日酷い眩暈と吐気で布団からでられなかった。年末から体調はあまりよくない気がする。シャリーノがミラノの国立音楽院で教えていた当時は、和声や対位法などより作曲のレッスンが面白かったと、当時音楽院の学生だったマンカやピサ―ティから聞く。昨年の東京でのワークショップでは、シャリーノは超高音部の音程を「できるだけ高い音で」と不確定に書くのを嫌がり、音域が殆ど確定できないほど飛びぬけて高いものであっても、出来るだけ音高を指定するよう助言していたのを思い出す。メローニ首相、トランプ次期大統領と会談。

1月某日 ミラノ自宅
天地万有、どのような事象であれ、良いことと良くないことは、常に対になって組合わさっている。喜ばしいことの後に喜べないことが起こり、また良いことが戻ってくる。可もなく不可もなく、こうして人生のほぼすべてを我々は生き永らえているわけだが、恐らく人生のある一時期、誰でもその均衡が崩れるときがあって、恐らくそれは、否定的事象の連続を実感するときだ。半世紀も生きてみると「急がばまわれ」は、やはり真理だと思うようになった。イタロ・カルヴィーノの「アメリカの講義」で、メドゥーサを斃すために盾に映りこんだメドゥーサを狙った逸話がでてくるが、状況を覆すためには、常に軽さをもって立ち向かうことも必要になる。個人的な皮膚感覚で言えば、「急がば、軽さをもってまわれ」。

ところで、自分がすばらしい曲だと感服して聴きいるとき、既にそれを書いた人がいるわけだから、すっきりと諦めを持って聴くことができる。それを倣っても、大方自分が納得できるものにはならない、という経験値のようなもの。アルメニア政府、EUヨーロッパ連合への加盟交渉への法案決定。

1月某日 ミラノ自宅
年末、家主のウリッセに会った際、ミラノの地価高騰もあるので、2月末で更新となる賃貸契約を現在の1,7倍に値上げしたいと言われ、すっかり当惑した。家人とも話し合い、結局新しい家を探すことにする。先日も連立ってセストの物件を見に行ったが、条件に比較して安価と思われる物件は、何某か問題を抱えているようにみえる。1940年に建てられたマンションの一部、110平方メートルの敷地に、当初は庭だったであろう200平方メートルの貸ガレージがついている。元来、現在まだそこを貸している状態だから、イタリアの法律上、簡単にガレージを空にするのも難しく、しっかり屋根を設えてあるから、密閉されてしまって窓を開けても一切新鮮な空気は入ってこない。地下の倉庫には、大きな酒樽が何個も並んでいた。

今日は、北へ向かう郊外電車で15分ほど行ったところにあるボッラーテとガルバニャーテを訪れた。とっぷりと日が暮れたガルバニャーテの街の広場は閑散としていて、中央には小さなスケートリンクが設営され、小さな子供が数人、氷上で反り遊びをしていた。かそけく点滅するクリスマスの電飾が寂しさを誘う。

イスラエル、イエメンのフーシ派軍事拠点を攻撃。「イスラエルを脅かす何れの者に対しても、断固たる態度をとる」。

1月某日 ミラノ自宅
息子はヴェニスに滞在している留学生と連立ってブレラ訪問。アイエツの「接吻」が特に気に入ったという。アイエツと言えば、音楽でいえば、時代的にも作風もヴェルディに匹敵するから、なるほど、子供のころからヴェルディは歌ってきたし、息子はやはり国家統一運動のころの情熱と滋味あふれるイタリア芸術が好きなのだろう。

かく言う自分が「接吻」を最初に見たのは、恐らく中学か高校の教科書だったと思うが、どのように説明されたのか、全く記憶にない。或いは、教科書に書いてあっただけで、素通りされたのかも知れないし、この記憶すら正しいか甚だ怪しい。ただ、ボッチョーニの「空間における連続性の唯一の形態」と邦訳されることの多い代表的彫刻作品と、ルーチョ・フォンターナの「空間概念・期待」が掲載されていたのはよく覚えている。

教科書と言うと、未だに不思議なのは、音楽の教科書に小山清茂の「木挽歌」とともに掲載されていた、グロフェの「グランドキャニオン」だが、未だに実演を聴いたこともないし、客観的にみても他にもっと知った方がよいと思われる曲はいくらでもあるように思うが、何故あの曲が選ばれたのだろう。

因みに、息子は昨年末2回もムンク展に出かけて「叫び」を堪能したらしい。イタリアでは40年ぶりの大規模なムンク展で、100点もの作品が集められ、大成功を収めたと聞いた。ムンクが5つ作った「叫び」がそれぞれどう違うのか興奮気味に話してくれたが、考えてみれば「接吻」も1859年から61年にかけて3作あったが、それから30年を経て、「叫び」が描かれたことになる。どちらも人の描写に終始しているものの、絵画の世界は、音楽よりも変化、発展が本当に著しいと感心させられる。

カタールのムハンマド・サーニ首相、イスラエルとハマスの42日間におよぶ停戦の第一段階合意を発表。

日本から戻って来たばかりで時差呆けの家人が、夜明け前、日本に電話している声がきこえる。高野さんと息子のモーツァルトの自慢話。

1月某日 ミラノ自宅
思いもよらぬ藤井一興先生の訃報に言葉を失う。平山美智子さんがイタリア本国ではシャリーノを歌っていらしたけれど、恐らく、ヴァンドリアンの演奏会で功子先生と一緒に最初に日本でシャリーノを弾いた日本人演奏家ではなかったか。武満徹さんのCDはもちろん現代作品のスペシャリストとして、子供のころから数えきれないほどの実演にふれる機会があった。藤井先生の音の輝きは、彼の頭の裡に広がる宇宙の光を体現していた。宇宙というと漆黒の闇を想像してしまうけれど、彼の宇宙は光が湧き溢れる泉のような空間だった。光は本来直線に進むものなのだろうが、彼の身体に満ちている無数の光源は、その一つ一つが生命体であって、曲線も自由に描けるし、太さも早さも色彩までも自在に変容した。

藤井先生と個人的に懇意になったのは、家人が藤井先生を敬愛していたからだ。長年私淑して深く影響を受けていただけでなく、藤井先生の音楽への姿勢に強く共感して、機会のある度に、自分の生徒や、クラスや、勉強会に藤井先生を招いていたし、結婚してすぐにご挨拶にも伺った。最後に藤井先生の実演に触れたのは、家人との共演でヴィシェネグラツキ―の前奏曲集だった。

あの後の打ち上げで、余程演奏会が楽しかったのか、先生がずいぶん紹興酒を深酒していらして、家人と心配していた。彼女はあの後も何度もご一緒する機会はあっただろうが、まさか自分にとって最後の機会となるとは想像もしなかった。いまごろ、藤井先生は慕ってやまなかったメシアンに再会されただろうか。メシアン先生は本当に心の優しい方でした、と繰返していらしたけれど、再会して、まず何を話していらっしゃるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ジョゼッペという年長の指揮の生徒がいて、彼は国立音楽院を卒業したフルーティストだが、中学の音楽教員をしながら、同じような境遇の演奏家たちを集めて小さなオーケストラを作った。もちろん指揮者はジョゼッペである。もう1年半近く続いていて、演奏会は15回はくだらないというから愕く。コンサート・ミストレスは、ウクライナの国立響で弾いていた女性。

今日は、同じく中学で音楽教諭をしているマッシモや息子もそこで半時間ほどモーツァルトを振らせてもらった。いつも演奏ばかりしている人たちではないから、アマチュアのようでもあるが、基礎はしっかり勉強している人が多いので、一概にアマチュア・オーケストラともよべないし、暫く弾いていてこなれてくると、素敵な音がでてくる。息子曰く、弦楽オーケストラより管楽器が入って派手なので振っていて楽しいらしい。大変素直で素朴な感想。

反してマッシモは、改めて自分の振っている姿をヴィデオでチェックしたが、どこがどうわるかったか、何が出来ていないか、など長いメールで反省点をまとめてきた。

オーケストラを作って、それが続いていると言うのだから、ジョゼッペは余程の人たらしなのだろう。大した才能だとおもう。聞けば、数年前に右派「フォルツァ・イタリア」党から、ミラノ市会議員に立候補までしたことがあるらしい。

トランプ大統領が就任し、早速パリ協定から離脱し、世界保健機関から脱退。ガザでは42日間の停戦がはじまり、韓国の大統領は拘束された。

1月某日 ミラノ自宅
今日は、午後から家人と連立って3つの物件を訪ねた。まず最初に地下鉄終点のCまで行く。我々が住んでいる地域は、住み始めた当時とても犯罪率が高い地域であったけれど、20年ですっかり様相が変わり、今ではミラノのコレクションなどの服飾関連のメッカが近くに出来て、行き交う人々も、労働者階級より、むしろ洒落たモデルのような人々が目立つようになった。20年前は軒を連ねていた、渋いペンキ塗りの看板を掲げる昔からの個人商店はみるみる廃れてシャッターを下ろし、替わって、派手な電光掲示板などのフランチャイズ店が出店した。フランチャイズだからか、特に地元に根付くこともなく、経営が立ち行かなくなれば店を閉めて別のフランチャイズが入るだけのことであるが、何代にもわたって続いてきた個人商店がなつかしい。

そんなことを思い出しながら、Cで近郊バスに乗り込み出発を待つ。周りをみると、二人で連立った妙齢も、少し年配の女性も、アフリカ系や中南米系の労働者から火を点けてわけてもらって、愉しそうにタバコをくゆらせている。普段、タバコを吸う女性をあまり見かけることは稀であったが、この辺りはどうも勝手が違うようだ。

Cというと、昔からマフィアなどの犯罪組織が取り立てて高く、街の名前を冠したCギャングの存在も、ミラノに長く住んでいれば知るようになる。果たして、見学した物件は、背の高い自動式鉄扉で外界と切り離されていた、塀の中のちょっとした楽園のようである。聞けば、住んでいるのはミラノ中心街で働く実業家で、ミラノの中心の喧騒が嫌で、この家を買って好きなようにコーディネートしたらしい。彼がミラノから別の場所に移るので、この物件を売りに出したという。玄関から入ると、吹抜けのように天井の高い部屋が一つあって、トロフィーがたくさん並んでいる。巨大な薄型テレビをはじめ、台所、家具、調度品どれもとても現代調で凝っている。床には全てじゅうたんが敷き詰めてあるので、家に入る時には、靴にビニールをかけなければいけない。

その家は細い路地に面していて、角には「金買います。換金屋」という怪しげな店がネオンを輝かせている。隣は中国人の風俗マッサージ店。そこから数件、とても古そうな商店が軒をつられているが、どれも少し壊れかけた斜めのシャッターが下ろされていた。その隣には、割と新しい感じの喫茶店があり、軒先にプラスチックの簡素なテーブルとイスもいくつか並べてある。目つきの厳しいアラブ系の若者が2人、腰かけて話し込んでいて、我々が通りかかると、怪訝そうに顔をあげるのだった。
その通りの端には、その昔Lという別の街まで走っていた、路面電車の廃線がへろへろ延びている。廃止されたのは20年近く前で、線路は草が繁茂していて、ゴミが沢山廃棄されている。
その次に訪れたミラノ中央にある物件は、地下鉄のP駅から徒歩5分ほどのところにある。着いた時間が早かったので、近所の洋菓子店で、菓子パンとカプチーノを頼んだ。
この辺りにアラブ系の住民が多いのは知っていたが、件の物件こそ、正面の外壁のギリシャ風のエレガントな装飾などが美しかったが、通りの反対側の集合住宅の剥げかけた外壁はとても簡素である。見ていると、アラビア語や、何語か判然としない親子などが何組か、その集合住宅に吸い込まれてゆく。彼らの表情は概して落ち着いていて、虐げられた暮らしを送っているとは思えなかった。きちんと背広を着こみ、立派な顎髭をたくわえた眼鏡の男が不動産仲介業のカルロスであった。カルロスは、柔和なスペイン語訛りのイタリア語で、この建築物は1900年前後に建てられたもので、正面入り口がこれだけ広いのは、当時は馬に乗ったまま中に入ったから、と微笑みながら語った。
中庭に入ると、売主のクリスティーナが出迎えてくれる。自分は長く柔道をやっていたから、ぜひ日本を訪れてみたい、と愛想がよい。1階の床は、木でなく、敢えて竹のフローリングを敷き詰めてある。「竹がどれだけ耐久性が良いかは、あなたたちアジア人ならよくご存じよね」。
倉庫を改造した地下室には、ドラムセットが置いてある。クリスティーナのボーイフレンドはバンドマンで、ここで練習をしている。

3軒目は、ミラノから20分ほど郊外電車に乗った先にあるPという駅より徒歩6分の物件。
郊外電車はちょうど家路に着く人々が乗る時間帯だったためか、そこそこ混んでいて、自転車を持ち込んでいる人もいる。
Pの駅前はがらんとした印象、この駅同様、最近建てられたと思しき目新しいマンションが目立つ。地階に店を出しているのは、ケバブ屋であったり、ハラル肉屋であったり。アラブ人のコミュニティに来た感じがするが、特に賑わいがある感じでもなく、寧ろ閑散としていて、落ち着いた界隈に見える。件の物件は、想像以上に大きな家であった。家の前には、アラブ人の営む八百屋があって、大根や生姜も売っている。先ほど通った道ではなく、敢えて立並ぶ集合住宅の中を通って駅へ戻ろうとすると、驚くほど目に見える光景が変化する。2人、3人単位で話し込むアラブ系の若い男たちが、総勢50人ほど居て、暗い路上から一斉にこちらに目を向けた。集合住宅の窓など割れていて、落書きと、路上に捨てられたゴミが散乱していて、荒んだ光景からは、どことなく悪臭とドラッグと思しき怪しげな臭いが鼻をついた。秋山和慶先生の逝去を知る。藤井一興先生と言い、何という一月になってしまったのか。自分たちが子供のころから育まれた音楽が、少しずつ形を失ってゆく。確かにそれは別の何かへ置き換わってゆくのだろうし、それが伝統と呼ばれるものの本質なのかもしれないが、あまりに切ない。消えていかないでほしい、どうかとどまっていてほしい、そう心の中で叫ぶ自分がいる。
トランプ大統領、厳しい不法移民強制送還政策の実施。

1月某日 ミラノ自宅
今日は1900年に建てられたという2階建ての家をU集落まで見にでかけた。初めて訪れた川べりの集落は、鄙びているというより、どこか荒んでいて、思わずたじろぐ。寂れているのともちがって、人は沢山住んでいるようだが、どこか日本の古い団地に高齢者だけがのこっていて、空いた部屋に海外からの労働者が住み着いたところを彷彿とさせた。正面の外壁はうつくしい山吹色にうつくしく塗ってあったが、家の裏側へ廻ると、非常に乱雑に打ち捨てられていておどろく。昔ながらの中規模のミラノの集合住宅の一部のみ、一部屋だけ明かりがついていて、煙突から煙があがっていた。辺りの雰囲気が荒廃していたので、住人が住んでいるのか、何者かが違法に住み着いているのか判然としない有様であった。家の裏側は塵芥が不法廃棄されていて、「無断投棄禁止」と住人が横断幕をひろげている。

日が暮れてすっかり暗くなったどこか想像上のミラノ郊外を、一人歩く夢を見た。その地域では、ラジオ放送のような地域の情報が、巨大なスピーカーから地域全般に向け、大音量で流され続けている。目の前に、金色の円いヘルメットのようなものをもつ、不審な男が道端に立っていたが、素知らぬ体をしてその脇を通り過ぎたのだが、果たして予想通り後ろをつけてくるので、勢いよく後ろを振り返ると、出し抜けに大声をあげながら黄金ヘルメット男めがけて驚かせるようにして突進した。家探しに明け暮れていると、このような夢をみるようになる。

隣で家人は「それならわかるでしょう。一番下のクラスで」、と寝言を言っているのだが、果たして彼女は何の夢をみているのだろう。一体われわれは何を夢みて生きているのか。

(1月31日 ミラノにて)

「人はどういふことがしなければゐられないだろう。」

越川道夫

昨年に比べて何週遅れなのだろうか? ようやく蝋梅が満開となり、梅もちらほらと咲き始めた。道の端の日当たりの良いところでは、オオイヌノフグリが一つ二つと花をつけ始め、この花がとにかく好きなので歩きながら蹲って眺めずにはいられない。私たちはあまり寒くなくてよかった、とか、とかく暖かな日が続くことを喜ぶのだかけれど、植物には冷え込むべき時にはちゃんと冷え込むような、そんな天候のメリハリみたいなものが必要なのかもしれない。
 
朝起きて、まず何をしますか? と問われたことがある。朝起きてとは言っても、宵っ張りになっている自分が目を覚まして起き出す頃には、何か用事でもない限りは、もう日は高々と昇っていて昼も近くなっていることが多いのだが、それでも布団から出たらまずコップ一杯の水を飲み干し、それからするのは日向ぼっこである。何を呑気な、と叱られそうだが、起きて太陽の日差しに当たらないことには、体が動かないのだから仕方がない。東京に住んでいれば御多分に洩れず、高いマンションの一室にでも住んでいない限り、日当たりはあまり良いとは言えない。私の家には猫の額ほどの庭がないではないが、やはり日当たりがいいとは言えず隣家の間と間から日が差し込む時間はごく限られているので、その時間に間に合わなければ、それでもまだ長い時間陽があたっている家の前の道に面した玄関先に、ここだって午前でも昼近くならなければ日が当たらないのだが、蹲ることになる。冬場は、布団にくるまって寝ていても、目が覚めると身体が冷え切っていることがあり、特に肩の後ろの肩甲骨の辺りに冷えがこびりついたようになっていることがあり、もちろん風呂に入れば解消はされるのだろうが、それよりもぎりぎり午前の光にじっと身を晒していると、体の奥底、鳩尾のもっとからじんわりと暖かさがたまってくる。これはガラス越しの光ではダメで、猫じゃないんだから、とか、光合成している、と笑われるのだが、こうでもしなければ一日が始まってくれないので、起きるやいないや外に出ていき、玄関先にじっと蹲ることになる。雨の日や、曇りの日には日差しを浴びるということもできず、なんとも心許ないような気持ちになってしまうのだ。
 
蹲りながら、特に何を考えるということもない。ただその身を光に晒しているのである。冬の光は、白い、というよりも、微量の黄色を含んだ色をしている。これは、起きる時間のせいでもあるかもしれない。もう斜光になっているのである。曇りの日の何もかもが白い、くすんだ白さに覆われるような日も悪くはない。その白さと言えば、全ての色がないような白さであって、陽が差していないのに、影がないために眩しいほどだ。よく晴れた日の空の青は、青というよりは、それは多分微量の赤色を含んだ、くっきりとした、どこか重さを感じさせるような青だと思う。この空の青に、どこから赤色が混ざってくるのかは分からない。
 
このところ見た演劇や、読んだ小説で悲しくなることが多く、別に肯定的なものが見たかったり読みたかったりするわけではないし、悲しいことは決してダメなことではないが、なんだかシュンとしてしまうことが多かったように思う。そのどれもが、「美しい」と思って始まった物事を、人が自ら踏み躙るように汚して終わらせしまう、という展開をとっていることが多く、なぜ人は「美しかったもの」を、それを終わらせる時にわざわざ踏み躙るように汚そうとするのだろうか、なぜ終わるとしても「美しい」ものを「美しい」もののままに終わらすことができないのかと堂々巡りのように問うことになった。劇を見終わった後に、小説を読み終わった後に、かつては美しかったものの無残な残骸が残っている。それは失われなくてはなかったのだとしても踏み躙るように汚されている。まるで「美しさ」から引きずり下ろさずにはいられなかったかのように。そうでもしなければ終わらせることができないのだ、ということは言えるかもしれない。しかし、それは結局のところ「美しい」ということを信じ切れなかったということではないか。ほんとうに「美しい」ことを希求していなかったのでないだろうか。では、「美しさ」とはなんだろう。「ほんとうに美しい」とは、どんなことなのか。それは分からないし、そんなことは到底実現できないのだとしても、それを望まず、希求しないのならば、私たちの生とは一体なんなのだろう。もしかすると私たちは今、「美しさ」ということ、「ほんとうに美しいこと」を信じることができなくなっているのかもしれない。
 
「けれども一体どうだらう。小鳥が啼かないでゐられず魚が泳がないでゐられないやうに人はどういふことがしなければゐられないだろう。」と学者アラムハラド氏に問われた時、その宮澤賢治の未完の童話の中の生徒は「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるのだったが、私だったら「人はほんたうの美しいことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるだろうか。それは、「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しい」があることを信じている、ということなのかもしれない。それが現実には到達できなくとも「考へないでゐられない」ということは、それが「ある」ということを信じている、ということではないか。この場合の「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」は、自分自身にではなく、自分を含めた、それは人とは限らないが、すべて他者に対しての「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」であり、その他者の「美しさ」に感嘆することにほかならない。
 
「アブラハムドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくて黄金の葉を持った立派な樹がぞろっとならんでさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。」
 
このところ晴れの日が続いている。見上げれば、ほんの僅かに赤色を混ぜた、少しだけピンクがかったと言ってもいいけれど、青い空である。その下にいつも歩きに行く松や櫟や欅の林が見える。手元だけを見ても分からない、遠くを見なければ分からないことだってあるのだと、ふと思う。

レモン畑

芦川和樹

ザリガニは、スフィンクスの散歩が済むと
少し仮眠をとるために布を切りました
段ボール星ほし、がヌメ⋯ヌメ読む文字が
四国からトラックを操縦して来る
それを、トロフィーだと思うには、まだ
ずいぶん弱いセミで、ヘビと変わらない
脱皮だ、脱皮なのだわ。ヤマアラシ(黒点
)が雑誌の⋯
このあと燃える⋯雑誌の右肩で吠える
大正

無神経な針金が身体を隅まで、隅々まで奪
っていくそれじゃあ奪われていくのですか
、奪われていきますよ奪っていくのだから
ラジコン(四国)がノックする
来ました
短い息と、長い息があってね、いま問題
⋯なのは、鋭さと、長さが共存することだ
⋯と思ったんだけど、跳び箱が⋯
⋯跳び箱が見えますね
⋯いちどとびます

長い間、あ
(長い間)
来たんだって、いらっしゃい
ドアを開けます。氷をいれますか
(短い間)
なにか飲むでしょう、氷をいれますか

皮膚に正確な時刻、時代を表示したい
鉛筆で書いたみたいに⋯
できますかできなくても
困りません、困りません、困りませんが
ピアニッシモになるまで、波が
生き⋯ドアノブが、しずかにしている
パセリの葉陰で
眠った
それで梯子を
支える、メッキの⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯(石鹸

、ボンド。木工用だわ、くうきを入れ換える木工用のニジマスつまりこのよのすべての汚れを拭う、よご、爽やかなレモン。の思い出。みたいなどの目にも明日あす、がかがやいて歯ブラシなどもシャカシャカ小躍りする。涼しいレモンよ、雑誌を燃やすのはいつ?)

サザンカの家

北村周一

メジロ二羽追いつ追われつ路地を抜け飛び込むさきの花ツバキかな
吹き溜まる落葉のかげに黄緑のまろみがひとつメジロのごとし

飛ぶ鳥の痕ありありとガラス扉に残りたりおり羽をひろげて
キジバトのむくろをひとつ葬ればひとこえ鳴いて飛び立つ一羽

今朝もまたメジロ来たりて餌台に糞を残せりコムラサキいろの
山茶花の蜜吸いにくる小鳥らの動きとらえて枝葉はゆるる

さざんかの花もそろそろ終わりねと垣根を白きマスクは行くも
鵜野森の樹々のあわいに蠢くはアオバズクかも 背の闇に聞く

庭の木の小枝のごとも擬態ありてナナフシあわれフンを落としぬ
スズメ二羽繋がりしままに降りきて窓にあたって撥ねて離れず

三つ四つ鳴くたび五つ六つ返すカラスの声も春立ちにけり
ひらりひらり羽毛舞いおち見上げれば電柱のさきカラスは何を啄ばむ

襲われてウズラ飛び出す塀の内 残るひとつはすでにクビなし
木洩れ日のまだら踏みたる足音にしみいる昨夜のあたたかき雨

はじめての秋を想えりサザンカの花咲きそめし古淵の家の
あさぼらけ夢も絵のうちねむりもや苦しいときの「優しい地獄」

睦月とは皆むつみあうひとつきにして楽しみに待つ夕暮れのひと
ゆびに捲れば二月のひかり逆さ不二 カモメ綜合法律事務所

私はニラレバ定食が食べたかった

篠原恒木

ツマに「これから会社を出て帰ります」と電話したら、
「今日は作りたくないから何か食べてきて」
と言われた。よくあることだ。それはいい。何の不満もない。この時刻からわざわざ私の分だけ夕食を料理するのは面倒に違いない。

私は帰宅途中の電車の中で考えていた。
「何を食べて帰ろう」
ラーメンという気分ではない。そば、もしくはうどんか。いや、今夜は麺類ではないと私の胃袋が訴えていた。白めしだ。そう、今夜の私は白めしを食べたい。そうなると問題はおかずだ。トンカツか。いいかもしれない。だが、私がこれから降りようとしている駅の付近で美味しいトンカツを供する店はない。ならばどうする。

ひらめいたのはニラレバ炒めだった。白めしに合う。考えてみれば私はこの数年間、ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べていないという事実に気付いた。そろそろ食べておかないといけない。これからの人生で私はあと何回ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べるのだろう。ひょっとしたら十回以内で終わってしまうかもしれない。そう考えると一抹の寂しさと同時に、ぜひとも、必ず、是が非でも、石にかじりついても、絶対的に今日はニラレバ炒めにごはんしかないという強い決意が芽生えた。だってあと残り十回だとして、今日食べたらあと九回だよ。猛烈にニラレバ炒めが愛おしく思えてきた。よし、いとしのニラレバ炒め定食を食べよう。

自宅の最寄り駅に着いた。私は電車を降りたが、足が止まった。「ニラレバ炒め定食をどこで食べればいいか」という大きな問題に結論を下していなかったのだ。この問題はレバだけに肝心とニラむべきだ。うまい、座布団十枚。さあ、どこで食おう。地元の駅周辺で旨いニラレバ炒め定食を出してくれる店はどこだ。

ここで私は気付いてしまった。私は地元でニラレバ炒め定食をこれまでただの一度も食べていなかったのだ。判断材料が皆無なのだ。しかし我が欲望はニラレバ炒め定食一択に染まり、いますぐ、可及的速やかに胃袋へ収めたい状態と化している。アズ・スーン・アズ・ポッシブル、略してASAP、アサップだ。

話は横道にそれるが、この「アサップ」という言葉、なんとかならないのかね。
「なるはや、アサップで」
などと言われると、こいつはアホかと思ってしまう。最初に耳にしたときは「アサッテ」だと解釈してしまったものだ。だから私は嫌味を込めて、
「アサップは無理です。シアサップでしたらなんとか仕上げます」
と返すことにしているが、アホには私のハイ・ブラウなジョークは通じないことが多い。

いけない、ニラレバ炒め定食の話だった。どうする。十分ほど歩けば個人経営の昭和的な町中華の店があることを私は知っていた。タンメンを食べたことがあるが美味しかった。あそこのニラレバ炒め定食なら間違いはないだろう。だが、あの町中華に行くと、自宅までの道のりが遠くなる。時刻は午後八時を回っていた。あの町中華は八時には閉店してしまうのではなかったっけ。いや、九時までは営業していたか。そのへんが曖昧だった。いざ遠回りして暖簾がしまわれていたら、いまの私に駅周辺まで戻る気力があるだろうか。ニラレバ炒め定食のためだけに。

焦った私は急速に店選びが面倒になり、駅からいちばん近い中華料理チェーン店へと歩を進めた。どこでもお目にかかる大手のチェーン店だ。入店したことはないけれど、おそろしく不味い料理は提供しないだろう。可もなく不可もなく、というやつだ。「カモなくフカもなく」なので、北京ダックもフカヒレもない、という店だろうが、そんな高級中華料理は今の私には要らない。ニラレバ炒め定食さえあればいいのだ。

「お一人様ですかぁ」
「はい、一人です」
「空いてる席にお座りくださーい」
元気よく女性店員に言われた私はテーブル席に座った。さあ、あとは彼女が水の入ったコップを持ってきてくれたら、
「ニラレバ炒め定食をください」
と、きっぱり言えばいいだけだ。どうせこのようなチェーン店のマニュアルでは、
「ニラレバ炒め定食ですね。以上でよろしかったでしょうか」
と言われるのだろうけど、以上でよろしい。六十四歳です。以上でじゅうぶんです。餃子も肉団子も春巻も要りません。ニラレバ炒め定食だけでお腹いっぱいです。

しかし、だ。テーブルにはタッチパネルのタブレットが置いてあった。画面を見ると、
「タッチしてご注文ください」
の文字が映っている。嫌な予感がした。私、こういうの苦手。店員に直接注文するほうがどれだけ楽なことか。人件費削減、働き方改革など大手チェーン店にも言い分があるだろう。でも苦手なものは苦手。操作に手間取るのだ。

おそるおそる画面をタッチすると、最初の画面は「人数」だった。さっき「お一人様ですか」と確認を求められて「はい」と言ったのになぁ。
釈然としないまま「1人」をタッチする。次の画面は「メニュー」だったが、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」などと細分化されていた。私は早くも「コノー」と、タンマ君化してしまった。いや、落ち着け。私が目指すのは「ニラレバ炒め定食」だから、必然的に「定食」をタッチすればいい。

画面は「定食」のラインナップに切り替わった。「やでうでしや」とまだタンマ君から解脱していない私だったが、いくら探してもニラレバ炒め定食は「定食」のカテゴリーには存在していなかった。そんな馬鹿な。

『新橋駅前のサラリーマン百人に訊きました。「ニラレバ炒め」という文字の次に続く漢字二文字は何?』

というアンケートをしたならば八十九人が「定食」と答えるだろう。残りのうち六人は「蕎麦」、三人は「内閣」、二人は「上納」だと思う。「内閣」「上納」と答えたサラリーマンはウケ狙いか、もしくはただの酔っ払いだ。

さあ、困った。ニラレバ炒め定食はどこに隠されているのだ。私は「定食」を諦め、「セット」の箇所をタッチして次画面に進んだが、ここでも「ニラレバ炒め」と「ライス」のセットは発見できなかった。なぜだ、なんでだ、どうしてじゃ。「グヤジー」と、ますますタンマ君になった私は、「前画面に戻る」をタッチして、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」が並んでいる画面に、つまりふりだしに戻った。もしかして「飯類」なのか、と半信半疑でタッチしたが、炒飯やら天津飯やらがむなしく並んでいるだけだった。

ここまで五分経過。入力したのは「人数・1人」だけという、絶望的状況ではないか。私は力なく「逸品」をタッチしてみた。消去法で考えればもうそれしかない。
あった。あったよ。「回鍋肉」「海老のチリソース」「酢豚」などのなかにありましたよ。だけどあったのは「レバニラ炒め」という単品だった。いや、私が食べたいのは「ニラレバ炒め定食」であって、レバニラ炒めの単品ではないのだよ。白めしはどうした。レバニラ炒めだけ食べるなんて考えられない。あくまでごはんと一緒。そんでもって炒飯についてくるあのスープも脇に置きたい。私はあのスープを味わいたいがために炒飯を頼むことがあるくらい大好きなのだ。あのスープと白めしがあってこその定食ですよ。もうこの際、
「私が食べたいのはあくまでニラレバであって、断じてレバニラではない」
という些末なことはどうでもいい。そちらが「ニラレバ」ではなく「レバニラ」と表記するのなら、疑問点の鉛筆は入れません。私は校閲部か。

そうか、と私は思い当たった。この「逸品」のなかで「レバニラ炒め」をキープして、それから「ライス」、そして「スープ」をそれぞれ単品でオーダーすれば「レバニラ炒め定食」の完成ではないか。よし、レバニラ炒め単品のタッチはひとまず置いといて、まずはライスとスープを探そう。それにしても世話の焼けるタブレットだ。

ところが「ライス」も「スープ」もまったく見当たらない。何度「前画面に戻る」をタッチしたことか。ついにはタッチしすぎて画面がGoogleのトップ・ページになってしまった。信じられなかった。これは完全に中華料理店の管轄外の画面ではないか。農林水産省から一気に公正取引委員会へと管轄が移ったようなものだ。大袈裟か。

私はどこで間違えてしまったのか。

この疑問はすなわち我が人生に通じる。当てはまる。人生をやり直すことができるなら、私はいつのどこへ戻れば現在のような状況に陥らずに済んだのか。いくつか心当たりがないわけではないが、ひとつだけでいいから誰か教えてほしい。

いや、喫緊の問題は我が人生の十字路探しではない。どこをタッチすればGoogleの画面から店のメニュー画面に切り替わるのだ。レバニラ炒めはおろか、店の最初の画面すら映っていない。もう完全にお手上げだ。「オガーヂャーン」と、私は叫んだ。タンマ君純度百パーセントだ。いまこそアサップで画面を復旧しなければならない。シアサップではダメだ。

しかしながら、事態は私一人の能力ではもはやどうすることできない状況へと追い込まれてしまった。私は先ほどの女性店員におそるおそる声をかけた。
「あのぉ、すみません」
「ハイ」
「画面がこうなっちゃったんですけど」

よくない。じつによくない言い方だ。「こうなっちゃった」とは「私がしたわけではなく、画面が勝手にこうなっちゃった」というニュアンスではないか。「秘書が勝手にやったこと」「私は関与していない」「秘書の事務的ミス、単なる記載漏れだ」「文春の記事で初めて知った」とホザいているヒトビトと何ら変わりない。正しくは、
「私の操作ミスで画面をこのような状況にしてしまいました。お店の皆様、他のお客様、ひいては国民の皆様に重大な政治不信を招いてしまったことは謹んでお詫びを申し述べる所存でございます」
と言わなければいけなかったのだ。

だが、女性店員は「あー」と言って、すぐお店のトップ・ページに戻してくれた。どこをタッチしたのか目にも止まらぬ速さだった。だが、もう私には「人数・1人」から始める気力は残っていなかった。
「あのぉ、すみません。ニラレバ炒め定食を食べたいのですが、レバニラ炒め単品は見つかったのですが、それにライスとスープをつけたいのですが」
と、全面的に「ですが」だらけの構文を口走ってしまった。
「あー」
女性店員は素早く人数1名をクリアして、「逸品」をタッチし、「レバニラ炒め」の部分をさらにタッチした。

するとどうだろう。単品だったはずの「レバニラ炒め」は次画面に進み、「レバニラ炒め単品」「レバニラ炒め・ライスつき」「レバニラ炒め・ライス・スープつき」と三分割された画面に切り替わったではないか。
「ごはんとスープをおつけしますか?」
「は、はい。お願いします」
女性店員は「レバニラ炒め・ライス・スープつき」をタッチして言った。
「以上でよろしかったでしょうか」