いらち

篠原恒木

どうやらおれは「せっかち」、関西弁で言うと「いらち」らしい。「ふらち」と言われたことはないので、まだマシかとは思うが、ヒトから見ると、おれはとにかくせかせかして落ち着きがないとのことだ。そうかもしれない。その自覚もじゅうぶんにある。

仕事には締め切りがある。だが、おれはその締め切りの数日前には入稿を終えていた。締め切りギリギリ、あるいは締め切り日を過ぎて印刷所に原稿を送っている奴の気が知れなかった。
「印刷所もサバを読んでいるから大丈夫ですよ」
とみんなはホザくが、おれは嫌だ。早め早めに進行して、必ず入稿締め切りは守りたい。
ところが印刷所がグズグズしていて、ゲラがなかなか出てこない。あんなに早めに入稿したのに、この仕打ちは理不尽ではないか。おれは一人でイライラしていた。

ヒトと待ち合わせをするときも、大抵は十五分ほど早めに着いてしまう。相手はなかなか来ない。当たり前だが結局は十五分待つことになる。おれは一人でイライラしている。
しかしそんなおれでも、さまざまな事情で定刻を二、三分過ぎて到着することがある。つまりは遅刻だ。このようなときは待ち合わせ場所に向かっているときも気が気ではない。
「電車よ、もっとスピードを上げなさい」
と、車内で足踏みをしている。駅に着いたら猛ダッシュだ。そんな努力の甲斐もなく二、三分遅刻すると、犯罪者のような気分になる。おれは額に汗を浮かべながら、待ち合わせた相手に土下座級の謝罪を繰り返す。

「後日、結論を出します」
と言われると、イラッとしていた。なぜこんな簡単なことをいま決められないのだろう。どうせひと晩寝かせたところで、おまえは一歩カイシャを出れば結論を出すための検討などすっかり忘れて、家に帰っておじや食って、すかしっ屁して寝るだけだろう。いま決めろよ、いますぐこの場で決めろ、おとなしく言っているうちに決めろ、と思ってしまう。
外部のヒトと打ち合わせをしていて、相手が、
「いったんお預かりして、社に戻って検討させていただいてからお返事させていただきます」
などと言うと、おれはすかさず応える。
「あー、すみません。ウチはテイク・アウトやってないんで」
おれは一人でイライラしていた。

「たまにはのんびりと温泉に行きたい」
かつてはそう考えたこともあるのだが、温泉地へ行って風呂に浸かっても、入るや否や早口で一から百まで数えて、そそくさと湯船から出てしまうオノレに気付いた。つまらん。実につまらん。のんびりなんてとてもできない。おれは一人でイライラしている。

展覧会へ行っても、ひとつひとつの作品をじっくり鑑賞することはない。「お、これは」とピンときたものをところどころで数十秒観て、あとはヒョイヒョイとチラ見しながらすぐ出てきてしまう。「大回顧展」などと言われても、実際はそんなものではないだろうか。小一時間もあればじゅうぶんだ。
それで思い出した。かつて「春画展」というものに行ったときには参った。気になった絵の前で立ち止まり、しばし鑑賞していると、おれのすぐ後ろにおじいさんがピッタリとつき、
「おお、おお」
と言いながら、荒い鼻息をおれの首筋にかけてくるではないか。おじいさんよ、そのトシで安易にコーフンしてはいけない。心筋梗塞で倒れるぞ。おれは一目散に退散して、おじいさんの様子を遠くから窺ったが、ずっとその絵の前で立ち尽くしていた。おそらく閉館時刻まであのままの状態でいたのではないだろうか。

映画館も許せない。定刻通りに席についても、延々と「マナーのご注意」やら数本の「近日公開の予告」やら「映画泥棒」やらに付き合わされて、お目当ての本編がなかなか始まらないではないか。おれは一人でイライラしている。

好きな落語家の独演会に行ってもそうだ。開口一番を務めるかたには申し訳ないが、
「おれが代わりに演ってやろうか」
と思ってしまうような腕前の前座が延々と噺を続けると、おれは一人でイライラしている。『饅頭怖い』なんてその気になれば一分もあれば演れるはずだ。

朝のテレビのニュース・ワイド・ショーもよくない。番組が始まったらすぐにその日のトップ・ニュースを報じればいいのに、
「まずは動物園で先週産まれた虎の赤ちゃんをご紹介します」
などと言って、どうでもいい映像を見せられた挙句、メインの司会者がゲスト・コメンテーターに話を振る。
「可愛いですねぇ。どうですか」
「可愛いですねぇ」
アホか。もう出かけなければいけない時刻だ。おれは一人でイライラしている。

懐石料理も苦手だ。ゆっくりゆっくりと一品ずつ小出しにするのがどうにも馴染めない。「いっぺんに持ってこい」と叫びたくなる。「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」などと言って、お猪口のような小さな器に二切れ、三切れで出されると、おれはパクリとひと口で食べてしまう。ふと正面を見ると、連れの酒呑みはただでさえ小さい鱧を箸で二つに分けて、もったいなさそうに口に入れ、酒をチビリチビリと飲んでいる。おれは一人でイライラしている。

ゴルフも嫌だねぇ。あんなものは地面にあるタマを打てばいいだけの話だと思うのだが、同伴競技者のプレーが遅いと最悪だ。おれは素振りもせずにすぐショットする。あっという間だ。ところが同伴者はボールのそばで何回も素振りをして、ボールの後ろに回って打つ方向を確認し、アドレスに入ってからもワッグルを繰り返す。ようやく打つかと思えば、風が吹いてきたらしく、いったんアドレスをほどいて、ちょっとむしった草を宙に飛ばしたりなんかして風向きを再確認し、また素振りをしている。おれは毒づく。
「おまえはプロか」
ところがそんなに時間をかけて打ったボールは「チョロ」だったりするのだ。ボールはゴロで数ヤード先にしか移動していない。むなしい。どうせミス・ショットするのなら、さっさと打てばいいのに。大抵の努力は報われないのだ。
やっとグリーンに辿り着けば、今度はパットをキメようとしゃがんで芝目を丹念に読んでいる。カップの向こう側にまで行って、グリーンの傾斜を観察する。念のために断わっておくが、一打一万円の賭けゴルフをしているわけではない。
「そんなことしたって入るわけないだろ」
またもやおれは毒づくが、案の定、奴がさんざん時間をかけて打ったパットはアサッテの方向に転がっている。おれは一人でイライラしている。

麻雀も然り。長考してなかなか牌を切らない奴が上家に座っているとイライラする。おれはたまらず口に出して言う。
「早く切れよ」
「ごめん、ちょっと待って」
「将棋じゃねぇんだぞ」
「悩みどころなんだ」
そう言って、テキはなかなか切らない。切らないことにはおれがツモれない。おれが次にツモる牌は伏せられているわけだが、奴が時間をかけている間におれのツモる牌が変わってしまうような気分になってくる。
「オマエさぁ、次に何を切るかくらい一巡している間に考えておけよ」
おれはたまらずそう言う。
「難しいところなんだ」
「アタマが悪いだけだろうが」
そして喧嘩になる。おれは至極真っ当なコトを言っているだけなのになぁ。

一時間も二時間も行列してラーメンを食う奴の了見を疑う。ラーメンは大好物だが、並ぶのはまっぴらごめんである。

それで思い出した。先日、西銀座を歩いていたら「宝くじチャンスセンター」に長蛇の列が出来ていた。年末ジャンボで当選金は最大十億円らしい。1番売場は二百メートル以上の行列だ。「億の細道」と呼ばれているらしい。うまいね、どうも。窓口に到達するまで三時間ほどはかかるのではないか。当たるかどうか分からないのに、いや、ほとんどのヒトはあえなくハズレるのに、よく三時間も並べるなぁと思う。おれには無理だ。
いや、「三時間並べば確実に十億円当たります」であれば話は別だ。丸三日でも並ぶぞ。ブレてるなぁ。情けないなぁ。

死ぬときもすぐ死にたい。さっさと死にたい。あっという間に死にたい。長患いはイヤだ。死んだあとも通夜だの葬式だのは勘弁してほしい。さっさと焼いてほしい。おれはツマに言った。
「延命治療は拒否してくれ。通夜も葬式もしなくていい」
「当たり前でしょ。アンタごときに延命治療は必要ないし、通夜、葬儀をしたって誰も来ないもん」

おれはイライラというよりはイラッとしたので、さっさとこの原稿を終わりにする。

レーベルをたちあげる、たちあげてしまった 序

仲宗根浩

レーベルをたちあげ、七月にCDをリリースした。ことの始まりは、2024年3月に一恵先生宅でレコーディングを行うという。曲は二十五絃と十七絃のデュオ。その前に何度かセッションが行われていることは作曲者の杉山さんからメールで知っていたがレコーディングまではなしが進んでいることにちょっとおどろく。前の年に先生とお話したとき「押手ができないの、弾けない」と仰っていたのに、おいおいと。で、レコーディングに関して一恵先生にメールし、当日誰か楽器をセットしたりする方はいらっしゃいますか、とお伺いするといないということなので、日程がちょうどわたしの休みだったので私がやります交通費など一切心配なさらなぬよう、わたしも今はそれなにりの蓄えはあります、当日杉山さん、録音の櫻井さんにもお会いしたいのでと返信し裏方道具を持ち伺うとその日は先生の体調がすぐれずお流れとなり、二十五絃奏者の佐藤さんと杉山さん、櫻井さん、録音助手のボンちゃんさんといろいろ食べながらおしゃべりし解散、で次回は5月にということになり、その時わたしは休みが取れてお手伝いできるかどうかまだ分からずそのまま島へと帰る。帰るとこちらはこちらで前々から決まっていた実家の引っ越しの準備をやりつつ、5月に向けて休みや日程の調整をしていると、引っ越しと録音の日程が微妙に重なっている状態をなんとかし、録音当日に向け連絡係をいつの間にかしつつ、東京便の確保、寝る場所を決めて当日にそなえるだけとなる。

教育の名言(2)

増井淳

教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くするほうならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。 岡潔
(岡潔『岡潔 数学を志す人に』平凡社)

岡潔は数学者。「馬を水辺につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざを思い出した。これはもとイギリスのことわざで、”You can lead a horse to water but you can’t make him drink.” つまり、「自分でやる気のない人はどんなに指導しようとしてもだめだ」というような意味。もうひとつ同じようなことわざもある。”Well’ said she, ‘one man can take a horse to water but a thousand can’t make him drink.” 「そう」彼女は言った。「人が馬を水のところに連れていくことはできる。しかし千回試みても馬に水を飲ませることはできない」(ウイリアム・E. ダイン 工藤恵子『なるほど英語のことわざ事典』PHP)。

  *

人を殺さない想像力が、教育の中心におかれるようにしたい。そこから、つねにあたらしく考えはじめたい。 鶴見俊輔 
(鶴見俊輔・高橋幸子『教育で想像力を殺すな』明治図書)

鶴見俊輔は哲学者。上の文章をより短くいえば「教育で人を殺すな」ということだろう。社会のすみずみまで学校や塾がゆきわたった現在でも、いまだに学校で子どもが傷つけられたり、殺されたりという事件が頻発している。ほとんどの動物は同種のあいだでは殺し合うことは稀である。人間だけが殺し合う、それも無差別に多くの人を殺すこともある。人間はもっとただの生き物としての人生について考えなおす必要があるのではないか?

  *

心理学の本を読んでいたら、生後三〜四ヵ月のころには、どんな人を見ても、どんな人に抱かれてもニコニコする、そういう時期があるのだそうだ。その時期のことを「無差別微笑期」と呼ぶとあった。思わず線を引いた。「無差別微笑期」かあ、いい言葉だなあ。 徳永進
(徳永進『野の花診療所前』講談社)

徳永進は医師。大きな病院で勤務後、がんにかぎらず、死と向き合う人のためにちいさな診療所(野の花診療所)を開く。そこには「できる限りの、生の希望の可能性を追うことと、人生を振り返り懐かしむことの、両方を成り立たせたい」という願いがあった。患者が「ドギ(魚)が食べたい」と言えば、自らその魚を探し歩くような人。また、若いころからハンセン病の人たちから聞き書きを採るなど、たくさんの著作がある。

  *

孤独は、深い喜びに満ちあふれたものでありえますし、いのちと暖みにふれて躍動しうるものだからです。希望を失い、孤立しているときよりは、むしろ、求めてひとりでいるときにこそ、人間は生きとし生けるものとより深い一体感をもつことができるのです。 エリーズ・ボールディング 松岡享子訳 エリーズ・ボールディング
(エリーズ・ボールディング著 松岡享子訳『子どもが孤独でいる時間』こぐま社)

『子どもが孤独でいる時間』の原題は”Children and Solitude”。エリーズ・ボールディングは社会学者であり、5人の子の母であり、クェーカー教徒。クェーカーはキリスト教の一宗派。クェーカー(「震える人」の意)は、この宗派の人々が神の霊を感じて打ち震えたところからつけられた呼び名。正式の名はフレンズ(Friends)といい、日本でも活動している。
 松岡享子は元東京子ども図書館理事長。学生の頃にクェーカーが主催するワークキャンプに参加、その後、アメリカ留学時に一度だけエリーズ・ボールディングに会い、その後、”Children and Solitude”を手にした。この本は「子どもにとっても、生活のどこかに「孤独でいる時間」をもつことが必要だ」と繰り返し説いている。

三島由紀夫

笠井瑞丈

今年は三島由紀夫生誕100周年
今生きていれば100歳なんだと
偶然だが市谷で自決したのが11月25日
笠井叡の誕生日も奇しくも11月25日同日
僕が初めて三島由紀夫の本に出会ったのは18歳の時だ
初めてのドイツの一人旅に出る荷物に『春の雪』を持って行った
あまり僕は本を読む人間ではなかったのだが
旅に行くし飛行機の中や電車の中時間はいくらでもある
たまには本を読もうと決意しこの一冊を持って行ったのだ
この旅の最中はいつもポケットに入れてどこにでも持って歩いた
僕は本を読むのがとても遅い方なので
暇があったらページを開き続きを読み進めた
市電に差し込む日差しの中
雨の匂いが残るカフェーの中
酒臭いおじさん達が騒ぐBarの中
草の匂いが心地よい公園の中
主人公の松枝清顕と自分を重ねてみたりした
主人公の松枝清顕も僕と同じ年の18歳ではじまる
あの時吸った空気は文章と共にカラダの景色に変わった
その体験は今考えてもとても大きな意味を持っている
それから数年後ダンスというものに出会う
自分の初めてのソロリサイタルに決めたタイトルが『春の雪』
次の日に降った大雪の景色が熱をもったカラダ冷やしてくれた
僕のダンスは三島の小説で始まった
今もきっと僕は小説の中に入ったままなのだ
きっとここから抜け出すことはないのだと思う
もう僕も三島由紀夫が自決した45歳を越えてしまった
どのような思いでそのような行動をしたのか
きっと本当の事は本人にしか分からない
今生きていればどのようにこの世界を見ていたのだろう
自決から55年の2025年11月25日
僕は父笠井叡と妻の上村なおかの三人で
生前三島由紀夫とも交流のあった澁澤龍彦邸で
新しい作品を踊った『三島由紀夫を踊る』
そこには数名の関係者が立ち会ってくれました
その中に僕の古い友人でもある土方巽の娘のガラちゃんも
久しぶりに駆けつけてくれた
三島由紀夫と澁澤龍彦と土方巽
三人の昔話が色々交差する中
今日ここで踊った事で
僕の中の三島由紀夫の新しいページをめくる事ができた

そして3年後が澁澤龍彦と土方巽の生誕100周年

未来はきっと明るいと信じたい
新しい世界はどんどん広がっていく

三島由紀夫生誕100周年
きっと三島由紀夫が作ろうとした
新しい神話がここから生まれるだろう

製本かい摘みましては(196)

四釜裕子

武蔵野美術大学図書館で「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展を見た。向井周太郎さん(1932-2024)は、2003年に同学を定年退職する際に自作の中から28点を選んでシルクスクリーンで再制作して(制作:STUDIO UDONGE 渡部広明、用紙:別漉 楮 平漉襖判和紙、漉元:株式会社五十嵐製紙)同学美術館・図書館に寄贈していたそうで、「向井周太郎コンクリートポエトリーアーカイヴ研究」(2021年度-2025年度)の研究成果発表の機会として企画された展示とのことだった。図書館1階左奥の巨大な扉の奥の展示室が会場で、その手前で、まずは椅子の作品《開=閉[または正=負]の空間椅子》が迎えてくれた。会場に入ると、大きな作品が壁面に端正に並んでいる。刷られた和紙のサイズはほとんどが90cm×90cm。例外的に長いものでも180cm×90cmで、例えば《大気ーはひふへほ》(1970-74)の説明には、〈当初180×90cm大の写真に引き伸ばし、パネル化してASA展に出品したので、その大きさを再現した〉とあった。

1点ずつ間近に見ていく。向井周太郎著『かたちの詩学』(美術出版社 2003)などでも見ていた作品ではあるが、印象がだいぶ違ったのは大きさのせいではなく刷られた紙によるものだろう。四辺が断ち切りでない耳付き和紙、しかも厚くて質感にニュアンスがあるので、具体詩作品が、ただそれだけで目に入ってこない。美しい和紙がかけがえのない台紙として在り、極めて勝手な感想だけれども、”作品然”として、向井さんの作品に似合わないように感じてしまった。会場には他に、「向井周太郎 具体詩の文脈」と題した緻密な具体詩作家相関図と、作品制作の資料や直筆原稿、写植を切り貼りした版下なども並び見応えがあった。

ひととおり展示を見るも名残惜しく、壁面から離れてもう一度会場全体を見渡したとき、突然違う感慨に襲われた。これ、「ふすま」? 「ふすま」で囲まれてる? 

向井さんの父・向井一太郎さんは経師・表具師で、おふたりには『ふすま』(中公文庫 2007)という共著がある。前半で向井さんが一太郎さんの作業に見入っていた幼い頃の思い出にも触れながら「ふすまという現象」を深く広く論じ、後半ではおふたりが「ふすまの技と意匠」と題して対談している。向井さんの生まれ育った家の様子とからかみの文様について書かれたところを、ほんの一部引用してみる。

〈ぼくが生まれ育った生活空間は、外側のあかり障子のほかはすべて襖の間仕切りでしたし、壁面も多くが押入れか収納棚で、その表戸の多くは引き違いの小襖でした。つまり、そのほとんどが襖で構成された生活空間でした。間仕切りや押入れ襖の表は、鳥の子の白無地か、あるいはその白地に白きら(雲母)押しの唐草紋か縞ものでした。(略)小襖はたいてい縁なしの「たいこ張り」でした。こうした生活空間としての襖の経験によって、ぼくの「ふすま」のイメージとしては、「清浄さ」、「神聖さ」、「優しさ」、「細やかさ」、「温かさ」、「柔らかさ」、「静けさ」、「軽み」、「渋さ」、「いき」というような感覚がはぐくまれてきました〉(91p)

〈日本人にとっては、自然や世界を写す言語的表現も、図像的表現としての文様も、そこにはなんの区別もなく、二つはまったく一つのものであるということです。(略)こうして、「からかみ」の「文様」は日本人の自然や世界ないしは宇宙の心を表わし、それを伝えることばとして展開されてきたのです〉(144p)

向井さんが90cm×90cmの襖判和紙に作品を刷って遺したのは、作品を”版”として、”周太郎からかみ”を刷り上げたようなものではなかったかと思えてくる。とすれば、「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展とは、”周太郎からかみ”、つまり向井さんの具体詩作品柄で仕上げたふすまで間仕切りをした空間に迎え入れられる体験だったと言える。先に「”作品然”として向井さんの具体詩に似合わないように感じた」と書いたけれども、なるほどだから1点ずつを単体で鑑賞するために用意されたものではないのかもしれない。というか、そういう鑑賞を拒否する作戦だったのかもしれない。なにしろ向井さんの作品は、これまでどれだけ多くの展覧会やら雑誌やらネットやら論文やらに展示・掲載・引用されてきたことだろう。今後も続くに違いないけれども、それとは別に、作品たちの揺るぎない居場所というか休息所みたいなものを、向井さんは感謝を込めて用意したかったのではないかと想像している。いい展示だった。

再会・55年目の古井戸コンサート

若松恵子

11月最後の土曜日、札幌共済ホールに古井戸のコンサートを聴きに行った。まだ雪の北海道にはなっていなかったけれど、風は澄んで冷たかった。

古井戸は仲井戸麗市がプロとして音楽活動をスタートさせた最初のバンドだ。チャボ(仲井戸麗市)が加奈崎芳太郎と出会って1970年に結成し、忌野清志郎に誘われてRCサクセションのメンバーになることで1979年に解散した。古井戸の現役時代は子どもだったから全く知らない。RCサクセションからも離れ、ひとりで唄うようになってからの仲井戸麗市に魅かれ、古井戸の楽曲についても彼のセルフカバーで初めて知った。何といっても、私にとって古井戸の魅力は、20歳の頃に書いた仲井戸の楽曲の瑞々しさだった。最初は、チャボのセルフカバーを聴くことで充分だった。けれど、だんだん、加奈崎芳太郎という人の音楽に向き合う姿を知り、彼のボーカルの魅力というのもわかるようになった。

古井戸は、チャボのギターと加奈崎のボーカル。アコースティック・ギター2本の世界だけれどフォークではなくて、ブルースブルースしているわけでもなくて、日本的でもあり洋楽的でもあるという独特の魅力があると感じるようになった。古井戸というバンド名には、英語のfluid(流体)という意味も込められていると知って、かっこいいと思った。

今回の再会コンサートの主催は、「ありがとう古井戸実行委員会」だ。2019年に加奈崎芳太郎のデビュー50周年記念コンサートを出身地の札幌で企画した際にゲストに仲井戸麗市を招き、古井戸の楽曲を演奏するコーナーが実現した。その幸せな時間への感謝と、もう一度札幌で古井戸のコンサートを企画したいとの思いでメンバーが集まり、実行委員会が結成されたという。加奈崎さんの故郷で1回しか行われない再会コンサートなら札幌まで聴きにいかなければ、と出かけた。

舞台上で、加奈崎さんは「2人とも後期高齢者で~す!」と笑っていたけれど、サポートメンバーも入れず、休憩も入れずに2人で演奏した20曲、約2時間半は素晴らしかった。最初の「750円のブルース」から気合バッチリだった。「らびん・すぷーんふる」、「まちぼうけ」、「四季の詩」・・・楽曲が持っている若々しさが(それはその歌を作った20代の仲井戸麗市の瑞々しさともいえるのだけれど)そのまま、変わらずに演奏されたという印象だった。そのことに本当に心打たれた。古井戸が持っていた魅力が、歳月によって壊されたり色褪せたりすることなく再び2人によって演奏されていることが嬉しかった。チャボの、より繊細に唱の世界を引立たせるようになったギターと年を取っても変わらない加奈崎のボーカルの率直さによって、そんな風に感じたのかもしれない。

古井戸には「さなえちゃん」というヒットした1曲があって、そのあと出したシングルがちっとも売れなかった(そっちの曲の方がずっと良い自信作だったのにという思いが言外に滲んでいた)というエピソードを語りながら、加奈崎は「僕たち1発屋です。だけどずっと今でも、やってます」と言っていて、解散後もそれぞれの道でずっと音楽をやり続けている事の自負を感じた。

メイビス・ストライプスやボブ・ディラン、ニール・ヤングのことを考えればまだまだ隠居なんて言っていられないのだろうけれど、売れるとか売れないとかという所からとうに離れて、しかも仕事としてやり続けるという事がどんなに凄い事なのかと思うと、2人の姿に励まされる。満席の会場のアンコールを求める拍手は、嵐のようだった。再現なんかじゃない、今の2人の奏でる音楽の素晴らしさにみんな胸打たれたのだと思う。

万博インドネシア館とアジア競技大会(2018)開幕式が与えるイメージ

冨岡三智

前月に引き続き、万博(2025)インドネシア館の話。実はインドネシア館を訪れて最初に受けた印象が、2018年にジャカルタで行われたアジア競技大会開幕式のメイン・パフォーマンスのイメージに似ている…ということだった。私は2018年9月号『水牛』に「アジア大会開幕式」を書いているが、幕開けの1500人によるアチェ舞踊(8:13~)のことだけ書いていて、メイン・パフォーマンス(1:25:19~)には触れていない。実は、大学の秋学期の授業でこの部分を分析をしてもらうことにしていたので、学生に先入観を与えないように敢えて触れなかったのだった。というわけで、今回の万博を機に書きとめておきたい。なお、アジア競技大会開幕式は以下のリンクから見ることができる。

Opening Ceremony of 18th Asian Games Jakarta – Palembang 2018 (Complete Version)

メイン・パフォーマンス 1:25:19~

メイン・パフォーマンスの舞台は島に見立てられ、スタジアムの中央に森林に覆われた山と滝、右手の方に海を配置している。その中で18地域の民族舞踊がアレンジされて大規模人数で繰り広げられる中、要所要所の場面で舞踊を背景に人気歌手が歌ったり、ピアニストがピアノを弾いたりする。このパフォーマンス絵巻は陸にいる兵士が示威活動を見せる中、船に乗った戦士たちが登場するシーンから始まる。緊張感が高まるが、しかし、船は島に戻って来たのであり、女子供も出てきて女子供が戦士たちを出迎えに来たのだとわかる。船が島に着き、青い海(布をはためかせている)の波間にはカラフルな魚(歌舞伎で使う差金の巨大版か?)が泳ぐのが見える。

ピニシ船をイメージしたパビリオンの前に立った時、真っ先にこのアジア大会のパフォーマンスの始まりが思い出された。(もっとも、アジア大会の船は帆の形がピニシのものとは違って無国籍風だったが。)パビリオンでは船に入ることで、アジア大会では船が到着することで物語が始まる。パビリオンの中に入ると本物の植物を使った熱帯雨林がある。アジア大会の舞台でも背景は森で、本物の植物も多く配置されているようだった。パビリオンの熱帯雨林の中央に滝がこしらえてあったのも、このアジア大会の舞台に同じ。そして、次のコーナーの円形空間に投影される映像の中ではその滝や滝の中(海の中?)の映像が大迫力で映し出された。ちょうど、アジア大会ではここで海の波間をカメラが映し出す。この後、アジア大会のパフォーマンスはすべて陸上で展開し、中には山の上で展開する舞踊もある。パビリオンではその後緩やかなスロープを通って2階に上がるので、ちょうど船の中に島があり、山に登るような構造になっている。

アジア大会のマスコットは、生物の多様性を表現して、インドネシアに棲む希少動物の極楽鳥、バウェアン鹿、ジャワサイをモデルにしている。これもパビリオンで希少動物をモチーフにした造形物が熱帯雨林に置かれたことに対応している。さらにマスコット3体はインドネシアの3地域の特徴的なテキスタイルモチーフの衣装を身に着けているが、パビリオンでもインドネシアのテキスタイルコーナーがあった。

インドネシアが国として海外に打ち出したいイメージは2018年当時も今もあまり変わらないはずで、だからパビリオンに既視感を感じたのも当然だろう。1970年万博のパビリオンのことはまだ調べられていないのだが、海と山からなる自然の多様性―特に海や船の重視―や生物の多様性のイメージは、1970年にはIndonesiaはまだ打ち出していなかっただろうと思う。

火まつり

北村周一

あさなあさな蛇口ひねるとよき水の
流れながれて朝が始まる
とうとうと上下の水のながれゆく
ながれ見ておりわれをわすれて
ここもまた世界の一部とおもうまで
蛇口のみずにわれを潤す
魔法ビンの湯ほどよく冷めて眠剤は
のみどのおくに蕩けゆくべし

死火山にはあらざる富士のすそ野べに
盛れる夏の火まつりはみゆ
火のあらぬところにも煙り立つらんと
奇祭見ており富士の吉田に
念願の『サファリ』のバスは走り出し
肉の塊もたされている
エサの肉貢がんために乗り合わす
バスの中にはわが家族のみ
百獣の王のなで肩それよりも
ヒグマ怖ろしバス喰わんとするも
冨嶽三十六景中の江尻にて
かぜに煽られあゆみを止める

乗りものにその名をとどめしNOAHにして
齢九百五十まで生きて死にたり
オリーブの鳩はみたびは戻らざれば
すなわち方舟(ふね)を降りにたりけり
灰いろのマスクのかげに顔ひとつ
あるをわすれて虹見ておりぬ
大洪水は二度はあらずといいながら
風神雷神また来て四角

まるでみてきたように語らるる美術史の、
カントは言うも美の学はなけれ
前衛はある日一気にふるくさく
なるやもしれず昏れゆく秋は
ふるさとはそぞろに遠くあるべしと
思う間もなく鉄橋わたる

放課後のように静けき午後なれば長い廊下の奥に佇つひと

「疑いのなさ」について

越川道夫

10月の初め頃はまだかなり暑く、Tシャツを着ても汗ばむほどだったのに、それからみるみるうちに気温は下がり、下旬には身体を冷やさぬようにコートを着込んでいた。寒暖差の激しい日日を耐えながら11月になると、まだ早いのではと思わないではないのだが首が冷えるのを警戒してマフラーを巻いている。秋はあっという間に去ってしまい、辺りは冬の装いである。木木の葉はすっかり黄色になった。公孫樹の葉が一夜にして舞い落ちてしまうまでもうすぐというところである。夏の終わりに林の中で咲いていたテッポユリの種鞘が弾けて開き、やがて立ち枯れていくのを楽しみにしていたのだが、久しぶりに林を歩くと下草はすっかり刈り取られている。種鞘が開く前に刈ってしまったとみえて、今年はその姿を見ることは叶わないことになった。
 
寒くなって、また一つ二つと訃報が届くようになった。お別れの会が開かれることもあれば、その死のみが伝えられることもある。たとえ健康であっても急激な気候の変化は身体にこたえるのだから、病む人にとっては尚更だろう。思えば祖父が亡くなったのも、温暖な海辺の街には珍しく雪が舞う急に冷え込んだ日だった。祖父は、決して積もることはない雪片とともに逝ってしまった。
 
11月は18年ぐらい一緒に暮らした猫が死んだ月でもある。死んだのは2019年だから、もう6年も経つ。「18年ぐらい」と書いたのは、それが17年なのか、19年なのかはっきりと分からないからで、30代の終わり頃は仕事がひどく忙しく、「いつ、どこで、何を」の「いつ」の記憶がはっきりとしないのだ。彼と暮らし始めたのは確かだが振り返ると、それが何年何月何日なのか分からない。自動販売機で缶コーヒーを買おうとして、そのまま気を失ったりしていた頃だから精神的にも身体的にもひどくキツかったのだろう。脳がその頃のことを思い出すのを拒否しているのかもしれない。
 
それでも、彼を拾った時の様子はよく覚えている。駒場の路地奥のアパートに住んでいた頃のことである。その日仕事に出かけようとすると、路地の道の隅に何やら小さな白いネズミのような生き物が落ちている。見ると、それはまだ目も開いていない、生まれて間もない子猫なのだと分かる。路地には野良猫が多く棲んでいたので、おそらく母猫が落としていったものではないかと思われた。そのままにしておくやわけにはいかず、拾い上げるとちょうど手のひらぐらいの大きさで、近所の獣医に、どうしましょう、と相談すると、とりあえずあなたが育ててくれ、と言う。その頃は一人暮らしで、仕事で飛び回っていた時期だったので、どうしたものか、と思案したが、生まれて1週間ぐらいの子猫を部屋に放っておくこともできず、とにかくトートバックを買い、その中に彼を入れて打ち合わせに行き、打ち合わせが終わると公園を探し、そこで母猫がするように刺激を与えて排尿と排便をさせ、哺乳瓶でミルクを飲ませて、次の打ち合わせへ行き、それが終わるとまた公園で、と言うことを繰り返すこととなった。会社勤めでは、そんなわけにはいかないだろう。ひとりで仕事をしているからできたことなのだ。
 
しかし、生後すぐの子猫を育てるのは初めての経験である。手のひらにいるのは少し強く握っただけでも潰れてしまうであろう、ひどく小さくて柔らかな生命である。何度子猫が死んでいる姿を想像しただろう。私は怯え、どうしたら無事にこの世に送り出すことができるのかと必死であった。だから、おそらく生まれて2週間ぐらいが経ち、彼の目が開いた時は、ようやくここまでたどり着いたとひどく感慨深いものがあった。目が開かなかったら(そういうことがあるのかどうか分からないが)、どうしよう、とそんな訳のわからない不安も抱えていたのだから。
 
その夜、彼の右目が開きかけているのに気づいた。徐々に右目が完全に開き(その時点でまだ右目だけ開いて、左目が開かなかったらどうしようと不安だった)、それから程なくして左目が開き始める。完全に左目が開くまでにどのくらい時間がかかっただろう。見守る時間は、途轍もなく長く感じられたが、ほんの数分の出来事であったかもしれない。開いた子猫の目は、青い目をしているという。彼の目もそうだったのだろうが覚えていない。その時点で視覚は未発達であり、薄ぼんやりとしか見えていないだろうが、その彼が初めて見たものは、母猫でも、木漏れ日の眩い光でもなく、目が開いたことに安堵する中年男の貧相な顔であった。本当に申し訳ない。彼の視覚が初めて世界に開かれた瞬間である。それが美しさであったらよかったのに、と今でも思う。
 
彼はまだよくは見えない目で、真っ直ぐに私の目を見つめて離さなかった。私も目を逸らすことができず、二人はしばし見つめ合ったものだ。そして、その眼差しのあり方は18年余りの彼の生涯を通して変わることがなかった。私はそれから毎日、あの時と同じ眼差しに出会うことになったのだから。台所に立つ私を見上げる時も、撫でられようと膝の上によじ登ってくる時も、仕事をしていて振り返ると彼が少し離れたところから私を見つめている時も。
 
その眼差しに込められているものを何と呼べばいいだろう。「信頼」であるとか「愛」であるとか、そのような言葉で語ることもできるだろうが、今はそれを「疑いのなさ」と呼んでみたい。その「疑いのなさ」は終生変わることがなかったのだ、と。そして、その「疑いのなさ」が込められた眼差しが変わることがなかったことに、私は少し安堵を覚えている。正直に言えば、私自身が彼の「疑いのなさ」に応えることができたかどうかは自信がない。後悔することも多い。しかし、変わることがなかったのであれば、そのことが少しだけ私を安堵させる。
 
私を含め「人」という生き物は、彼らのような「疑いのなさを込めた眼差し」を持つことができるだろうか。そう聞かれれば、私の答えは否である。私には「人」がそのような眼差しを持てるとも、持ち続けるができるとも思えない。その意味で、「人」という生き物は、彼らよりも劣った生き物なのだろう。
「ただ生きていればいいんですよ」。
ある小説を読んで、そのような言葉に出会った時、「ただ生きること」の難しさについて考える。猫たちは「ただ生きている」がゆえに「疑いのなさ」もまた手にしているのではないか。「ただ生きること」が難しい「人」という生き物は、「疑いのなさ」の中で生きることはできない。きっと意味や目的という病に冒された生き物の宿痾なのだ。アシジの聖フランチェスコは、どんな眼差しを持っていただろうか? 小説家の小沼丹が死の直前に病室で「黙りこくって大学ノートに毎日描きつけたのは、かつて小屋の中で誕生した幼な子を見守った筈の短い足の馬たち」(阪田寛夫)であり、「その優しく和らいだ瞳の絵」だったのである。それは、どのような瞳なのか?
 
もしかすると、私たちはお互いの心臓と骨を交換するような、そのような愛し合い方でしか彼らのような眼差しを持ち得ないのかもしれない。「優しい」とかそんなことでは、まったくない。どちらが、どちらであっても構わないような。もはや与えられた名前すらどうでもよくなるような。
 

水牛的読書日記 2025年11月

アサノタカオ

11月某日 福嶋伸洋さんの『ニコの海』(松籟社)が届いた。凪の風景を思わせる青く美しい装丁に息をのむ。ブラジル文学の研究者であり、クラリッセ・リスペクトル『星の時』(河出書房新社)の訳業で日本翻訳大賞を受賞した福嶋さんのはじめての小説集。青春の日々を追想しながら、潮の満ち引きのように記憶の情景が押し寄せ、やがて遠ざかる心の機微を描写する3つの短編を収めている。

本のタイトルにある「ニコ」は、表題作に登場する詩人・堀口大學の異名だ。福嶋さんと同郷の新潟・長岡の出身で、戦前にメキシコ、ベルギー、ブラジル、スペインなど南米とヨーロッパを遍歴した詩人は、海外で「ニコ」と名乗り、各地のモダニズム文学者らと交流したのだった。堀口大學による翻訳詩集の名著『月下の一群』が、小説の世界に淡い影を落としている。

11月某日 写真絵本シリーズ、矢萩多聞さん文/吉田亮人さん写真の『はたらく校長先生』『はたらく鉄道員』(創元社)が届いた。人間の仕事のまごころを教えてくれるすばらしい絵本で、全国の小学校の図書室に常備してほしい。後に来る賢い人たちとの、よい出会いがありますように。

11月某日 発売日に近所の書店に駆け込み、伊東順子さんの待望の新著『わたしもナグネだから 韓国と世界のあいだで生きる人びと』(筑摩書房)を購入した。雑誌『中くらいの友だち』などの連載に書き下ろしを加えてまとめたノンフィクション。連載を熱心に追いかけていたので、一冊の本になってうれしい。装丁の写真は、ぼくも敬愛するアーティスト・山内光枝さんの作品。

冒頭の一編「放浪の医師 元NATO軍の軍医ドクター・チェ」を再読し、現代史の苦境をまるごと背負うように生き抜いた、ひとりの驚くべき「ナグネ(旅人)」の物語にあらためてことばを失う。

「ナグネとは自嘲的に使われる言葉だ。たどり着けないことの情けなさと、残してきた者たちへの申し訳なさ、でもまだ歩き続けている自分への愛しさ……」伊東さんが本書にさりげなく記す文が、ぐさりと胸に突き刺さる。

11月某日 詩人の本が2冊同時に到着。宮内喜美子さんの新詩集『追悼の光を抱く女』(思潮社)と、韓国の詩人イ・ジェニの散文集『夜明けと音楽』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。どちらも、冒頭の数編を読んだだけで胸がいっぱいになった。年末年始のしずかな時間に読みたい。

11月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)の「治癒としてのレッスン」。

11月某日 東京国際展示場で開催された文学フリマ東京41に、サウダージ・ブックスとして出店した。エッセイを寄稿したご縁で文芸誌『随風02』(書肆imasu)もブースの机に並べると、「見たことあります!」と足を止める方が多く、影響力の大きさを実感。ついでにサウダージ・ブックス関連の本を紹介という感じに。自分が佐々木静代さんとともに企画・編集を担当した新刊の韓国文学ZINE、チェッコリ書評クラブ『”あなたのため”のK-BOOK!』をあいだにはさんで、お客さんとの会話を楽しんだ。もっとも多く話題になったのが、ミュージシャン&作家のイ・ランさんのことだった。

会場では、ZINE『越境読書研究センター 報告書vol.1』とアンソロジー『たゆたい 01』を入手した。『越境読書研究センター 報告書vol.1』は書評エッセイ集で、藤本和子さん『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』(岩波現代文庫)や、韓国の作家ファン・ジョンウンの小説集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)などぼくも愛読する本が紹介されている。『たゆたい 01』のテーマは「機能不全家庭」。帰りの電車で横田祐美子さんの詩を読み、「とめ・はね・はらい」という作品がとてもよかった。

11月某日 『たゆたい 01』を読了。本書企画人の大田栄作さんの巻頭随筆をはじめ、随筆、批評、小説、詩、どれも読み応えのある作品だったが、なかでも文筆家の山本莉会さんの「小さないかだで海を渡る」に深く胸打たれた。「いかだに乗って海を渡るような、ぎりぎりのバランスで家庭が成立しているよう感覚があった」という著者とその母親をめぐるエッセイ。山本さんはいつも、文章の最後に忘れがたい一文をびしっと置く。

11月某日 『別冊 中くらいの友だち』が届く。韓国を語らい・味わい・楽しむ雑誌の今回のテーマは「ソウル 変わらぬ想いと、肯定するノスタルジー」で、19人のエッセイが掲載されている。赤い本のページをぱらぱらとめくると一部カラー写真もあり、いつもより少し豪華な感じ。読むのが楽しみ。

11月某日 これも待望の一冊。斎藤真理子さんの新著『「なむ」の来歴』(イースト・プレス)が届いた。翻訳者である斎藤さんの韓国、日本、沖縄をめぐる旅、あるいは「他郷暮らし」から生まれたエッセイを集めた本。道を外れて道をゆくそぞろ歩きのような文のスタイル、つまりエッセイ(essay)ということばの本来の意味である「試み/試論」の魅力が詰まっている。

「なむ」というのは韓国語の「木」のことで、本書には1990年代、那覇・首里城近くの「パパイヤとグァバの木がある」家に住んでいた頃、斎藤さんが雑誌『思想の科学』に寄稿した貴重な文章も収録されている。来月、ジュンク堂書店池袋本店で開催される刊行記念トークにおしゃべりの相手として登壇することになったので、試論としてのエッセイの醍醐味を堪能しつつイベントに向けてじっくり読み込みたい。

以前、神奈川・大船のポルベニールブックストアで、ウェブマガジン「水牛」のお仲間である斎藤さんや、イリナ・グリゴレさんと対談をした。おふたりと語り合った夕ぐれの時は、よい時だった。「水牛」を追いかけて歩いていると、犬も歩けば棒に当たる式で、いろいろと楽しい出来事にめぐりあう。

仙台ネイティブのつぶやき(112)みんないなくなったあとに

西大立目祥子

 あれやこれやが一気にくる、という年がある。いいことも悪いことも。いや、どちらかというと悪いことが固まりになって。でも、ここまで生きてくるとわかるけれど、悪いことの中にはいいことが混じっていて、その逆もあって、つまりは判別などつかないものがこれでもかと押し寄せる。今年がまさにそうだった。

 まず、めまい。3月にきて、5月にきて、6月にきた。3回の発作をくぐり抜け、3つ医院で検査と診察を受けるうちにわかってきた。ははん、これは自律神経がいかれたんだな、と。慣れないことに手を出して緊張が続くと、交感神経が優位になって副交換神経との切り替えがうまくいかず、ダウン。いまのところ発作はおさまっているけれど、めまいと書いてる先から、あのときのぐるんぐるんと体が振り回される感覚と吐き気が戻ってくるようだ。

 めまいの理由は明らかだった。母の家がいよいよダメになってきて、これはもうリフォームだと決心し荷物の整理を始めたのは昨年のいまごろ。家を直して転居しようと決め、大きな家具を処分し、設計士さんと何度か打ち合わせを重ねた。そうこうしているうちに私にとっては最高の相棒だった茶トラの大猫チビが急にやせてきて、はらはらしながら病院へと車を走らせる。親しかった叔母の作品展を企画し始めたのもこのころ。右手でハンドルを握りつつ、空いている左手では展覧会の内容を詰め作業を重ねるみたいな感じで、まわりの助けを借りつつ搬入にこぎつけ何とかオープンしたところで、一回目の発作。ぐわん。

 何とかおさまった4月初旬、家の工事が始まった。築66年の家の畳が上げられ、床板がはずされ、土壁が落とされてシロアリ被害の全貌が見え始めた。ずぶずぶになった敷居や床下の柱を見た大工さんと設計士さんが、「ここまでひどいのはミルフィーユ状っていうんだよ」なんていう。2人はどうってことはないという表情で着々と工事を進めてくれたのだが、一方で猫の調子は落ちていくばかり。どうしようと不安が募る中、さらに母の発熱、食事の減退という事態がやってきた。そこに気の進まない仕事を引き受けざるを得ず、終わったところで2回目発作。ぐわんぐわん。

 工事は5月末に完了。新しく貼った床や青畳の上をよろよろと、でもどこか楽しそうに歩いていた我が相棒は6月1日に旅立った。ペット斎場に連れて行き、骨になって戻ってきたところで、うわぁ、3回目発作。これには、すっかり落ち込んだ。バアサンじゃないか。ていねいに扱ってあげないと、ガタがきている自律神経はもはや持ちこたえられないと思い知る。

 こうして振り返っているだけで、なんかもう疲労感が再びひたひたやってくるようだ。でもまだまだ続きがあるのだ。もう一匹の猫、グーが先に逝った猫を探しに出たのかドアから脱走し、4ヶ月たったいまも戻ってこない。母の容態も低空飛行で、今日は食べました、今日はお水も飲めませんと聞かされ一喜一憂する日が続いたのだけれど、猛暑の中予定通り引っ越しを決行。片付けにくたびれ果てて眠る4日目の深夜、母が逝った。段ボールをどかして母が帰る場所をつくり、出棺、葬儀までこぎつける。大波におぼれそうになりながら。

 たった2ヶ月の間に、母も猫たちもみんないなくなった。最後の2年半は施設のお世話になったけれど、母の介護は約20年、ひょんなことから数匹の猫たちと暮らすようになって25年がたった。母が家にいたころは、締切に追われていても隣の部屋で何をしているか体をセンサーのようにして気配を感じ取り、外での打ち合わせから飛び帰ってごはんのしたくをし、ちゃんと食事をとれているか転ばないか母の調子に神経を研ぎ澄ませる毎日だった。施設に入ってからも、電話が入れば何かあったのかとぎゅっと心臓をつかまれるようで、届けものの必要があればその日のうちに持参し、庭に椿の花が咲けば見てほしくなってきれいな紙でブーケをつくった。

 猫たちだってほおってはおけない。どんなに疲れていても自分のごはんより猫のごはんが先。トイレが汚れていたら猫にとっては最大のストレスだから、すぐにきれいにしなければならない。いや、違う。「ならない」ではなくて、母のために猫のために反射的に「そうしてあげよう」と体が動いてしまうのだ。ケアする対象が身近にいるというのは、もう一つの別の場所に向かって体も気持ちもそちらに自然と傾いてしまう状態がつくられているということなのだと思う。

 それが急になくなって、いまはぽかんとしている。頑張ったんだから、ゆっくりしなよ。のんびり過ごしたらいいんだよ。まわりは気づかってくれるけれど、自分がどんどん薄くなっていくよう。色彩を持って存在していた自分がだんだんモノトーンになっていくよう。どんなに疲れていても、母のディサービスのしたくをする私。どんなに眠くても猫の水を交換する私。これまではもうひとりの私が私の中に棲んでいるというのか、2人の私がいっしょにいるようだった。2人の間には会話があり、疲れた方を励ましたりなぐさめたり、一方が鼓舞して頑張らせたりがあった。感情の行き来だってあったのだ。それがなくなって、私はしんと静まっている。波立たない水面がただあるだけ。この状態に慣れていくのか、物足りなくてもう一人を、もう一つの場所をつくろうとするのか、まだわからない。何とも宙ぶらりんの師走。

『アフリカ』を続けて(54)

下窪俊哉

 先日、スズキヒロミさんの案内で、さいたま市にある「藤橋」を訪ねた。『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)にスズキさんの書いた短い文章「「藤橋」覚え書き」が載っているが、それはこう始まる。

 昔々、あるところに、一本の橋がありました。その橋は藤の蔓を編んだ吊り橋で、村人から「藤橋」と呼ばれていました。
 藤橋は、村を流れる鴨川を渡り、そしてその先の道は中山道の宿場に通じておりました。そのため行き交う人は多く、荷を積んだ牛や馬も通りましたが、なにしろ藤蔓の吊り橋なので、渡るのに難渋する者が多かったといいます。

 ある時、そこに石橋を建設した人がいたそうで、小平次という六部行者だった。六部行者というのは「全国六十六カ所ある霊場の一つ一つにお教を納める旅」をしている巡礼者だそうだが、私は詳しくない。調べてみたところ、仏像を入れた厨子を背負って歩く人の絵を見ることが出来た。その周辺地域には旅をする行者が建てたとされる供養塔が散在しているそうで、小平次の話と何か関係があるのかもしれない。

 さて、その日はいい天気で、昼頃に大宮駅で待ち合わせた。とりあえず中華料理店に入りラーメンを食べ腹拵えをして、バスに乗った。バスの行き先には「藤橋」を経由すると書いてある。じつは私は「藤橋」という橋は現存しないと思っていたのだが、間違いだったようである。しばらく大通りを走り、二車線の、昔ながらの道に入る。スズキさんの書いているように「全くの平地」で、どこにいても空は広々としているようだ。「藤橋」バス停で降りる。バスはその先にある橋を渡り、走って行った。我々は歩いて渡る。橋の欄干には「ふじはし」と平仮名で書いてあるのが読めた。スズキさんによると「ふじばし」ではないかとのことだが、「鴨川」も「かもかわ」と書かれているので、濁るかどうかは、どちらでもよいことのような気がする。
 スズキさんは数十年前、車の運転を始めた頃によく藤橋を渡っていたと話していた。ただしその頃の藤橋は昭和初期にかけかえられた2代目の橋で、現在の橋は3代目ということになるようだ。何というか今風の橋で、伝承を知らなければどうということもない。川の両岸は土手で、桜並木が見られたり、お花畑があったりしてのどかだ。
 藤橋を渡った先に「藤橋の六部堂」という史跡がある。チェーンがかけてあって敷地内には入るなということのようだが、外から見ることが出来る。お堂の中には小平次の像があると聞いているが、それも見られない。見ることが出来るのはお堂の外側と、新旧様々な石碑と、裏に積まれた石材である。小平次が調達してきて橋に使われた石材を、そこに保存してあるということのようだ。石碑に書かれた文字に目を凝らす。古いものになればなるほど何が書いてあるかは読み取れないが、スズキさんが持参している資料と見比べながら少し解読を試みた。
 さいたま市指定史跡「藤橋の六部堂」の解説板は(それも少々色褪せてはいるが)読み取れる。そこには明治時代に近所の人が描いたらしい藤橋の絵も載っている。素朴な小さな橋のようで、橋の上にひとり、人が歩いている。

 川の水は透き通っていて、さらさらと流れていた。ふと思ったのだが、水量が少ないので、歩いて渡ろうとしても、それほど大変ではなさそうだ。雨が続くと、どのくらい増水するのだろうか(それを知るためには雨の日にも来てみなければならない)。住宅の建ち並んでいる方から見て対岸には、見渡す限りの畑が広がっている。その風景から想像出来ることはたくさんあった。川ではカルガモが遊んでいた(遊んでいるように見えるのはこちらの勝手だが)。歩くと、見えてくるものがたくさんある。再び川に目をやると、小鷺や川鵜(だろうか)が降りていた。
 舟が行き来出来るような川ではないのである。だから小平次は下流の、荒川と合流する地点まで石を運び、そこからは陸路で運ぶため(スズキさんが物語に書いたように)村に連絡したのだろう。ただし「「藤橋」覚え書き」では小平次は謎の人物として現れており、迎え入れる村の人びとの視点で書かれている。小平次が一体何者で、何処からどうやって石を運んだかなど詳細は、よくわからないままなのだ。
 わからないから、そこは書けなかったのだろうが、わからないことをわからないままにして、何を、どこまで書けるかということに私は興味がある。

 なぜ書くのか、ということを考えると、スズキさんは子供の頃から身近にあった橋の伝承にずっと興味があって、もっと調べたいという思いを抱いたまま長年、放置してきてしまったのだという。
 そのことがなぜ「なぜ書くのか」につながるのかというと、書こうとすることによって、調べることが出来るからだ。何もなくて、ただ調べる、そんなことが出来るだろうか。
 それはあるいは写真を撮るというのでも、絵を描くというのでも、映画を撮るというのでも、論文を書くというのでもよいのだが、スズキさんにとっては雑記のような文章を書くことから始まっている。その雑記は、いわゆるエッセイのようになるのかもしれないし、小説になるのかもしれないし、あるいはもっと違うものになるのかもしれない。それが何であれ、スズキさんが知りたい、調べたいと思っていることを実現させるためにあると私は考えるのである。
 ただ、「「藤橋」覚え書き」を読むだけでは、それが今後、どう展開していくのかということは、まだよくわからない。その土地を一緒に歩いてみればどうだろうと考えたのだが、予想していた以上に、感じられることがあったようである。スズキさんはそこに川鵜がいるということも想像していなかったと話していた。川をもっと書かなければならないし、江戸時代にそこがどのような土地で、どのような暮らしが営まれていたのかをもっと知る必要がありそうだ。
 そのようにして感じられることがあったとして、それでも、私は(私なら)まだまだ満足しない。例えば郷土史を研究している人、詳しい人はいるだろうから、その中に、きっと話を聞ける人がいるはずである。詳しい人でなくても、昔話の語り手でも何でもよい。小平次を書くのではなくその人を書くことになるかもしれないが、それならそれでもよいのである。
 何かを書くということの中には、誰かとの出合いがあるはずだと私は考える。出合いがあるということは、書き手が動いているということだからだ。動くために書くことを口実にしてもよくて、最終的に何か書いて発表することは止めてもよい。調べること、知ることが目的なのだから。
 あらゆる本はそうやって書き手が動いた痕跡を、記録したものだと私は捉えている、ということだろうと思う。だとしたら、その痕跡を受け取り、受け継いでゆく人がいることを奇跡のように感じる。

しもた屋之噺(287)

杉山洋一

東京に戻る直前のこと、高等課程を教えている打楽器もレオナルドから、「卒論に日本のタイコの研究を選んだので、ぜひ卒業試験見に来て下さい」と声をかけられました。
打楽器の練習室は普段レッスンや授業をしている109教室の下にあって、何となくレッスンしていても彼らの練習する音は聴こえるのですが、しばらく前から確かに和太鼓と思しき音が聴こえると思って訝しんでいたところでした。聞けば、レオナルドはコモにある和太鼓の会に参加しているのだそうです。
以前、うちの学校の打楽器科は、スカラ座の伝説的ティンパニ奏者デヴィッド・サーシーが随分長い事教えていて、ティンパニを習うために世界中から学生が集っていました。彼がいなくなってしばらく経ちますが、今は和太鼓までやるようになったのか、となんだかすっかり面白くなってしまいました。
そうして今回の東京滞在の最後、フェデーレのステージマネージャー、鈴木さんのアシスタントを務めていた梅津さんという可愛らしいお嬢さんは、長くミラノで活躍していらした素晴らしい打楽器奏者、梅津千恵子さんのお嬢さんだというではありませんか。梅津さんがデヴィッドのクラスで学んでいらした頃に、こちらはポマリコのクラスに潜り込んでいました。ちょうど、ドナトーニやマンゾーニを日本に連れて行って、作曲の講習会を開いていた頃の話です。
今回のフェデーレ招聘に際して、長くミラノで研鑽を積んだ浦部雪さんがワークショップを手伝ってくれたのですが、世代が一回りしたと実感とでも言えば良いのか、恰もめくるめく時間を駆け抜けて戻ってきた馬車を、感慨深く眺めているのです。

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11月某日 ミラノ自宅
母とTeamsでヴィデオ通話をしながら、むかし話。自分が生まれて3カ月のころまで、両親は目黒のアパートに住んでいたという。何でも義太夫の八代目竹本綱太夫氏の姉上のところに、父の知己を頼って随分長く住んでいたのだそうだ。権之助坂を降りて目黒川を渡ろうとすると、橋の手前で休んでいたおばあさんに、「川の向こうには昔はタヌキが出たものですよ」と懐かしそうに話しかけられたという。
昭和一桁から二桁初めに生まれた両親のそのまた親の世代になると、「田舎から出てきたお手伝いさんは、蕎麦を食べたことが‘ないから、食べ方を知らなかった」とか、電話を初めて見たひとは「柱に向かって話しているから驚いた」とか、「空に黒いものが飛んでいて、あれが皆騒いでいる飛行機か」と思いきや、翼を羽ばたき始めてよく見たら烏だった、というエピソードに事欠かなかった。出生率が落ちているそうだが、過去の記憶は、今後どのように伝えられてゆくのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
Berceuse直し、頭にある部分だけでも直しておく。家人曰く、どこかで「何かを伝えるのは老人。表現するのが若さの証拠」と読んだそうで、なるほど言い得て妙と膝を打つが、わが身を振り返ると少々当惑する。
学校の聴覚訓練の授業は、学生たちにとってパズルのような感覚らしく、質問が解けると皆それぞれ大喜びしている。微笑ましい光景だが、何より、こうした「音を聴く喜び」とか「どんな音に耳を澄ます興味」といった愉悦、肯定的な姿勢を身に着けることが、音を聴く上で最も大切だろう。トリエステで勉強しているLが音楽院の教師と合わないので、うちのクラスに通いたいという。名指しされた教師も友人なので、少々困惑する。彼の許可を得て、彼のクラスを辞めないのなら教えてもよいと返事をする。

11月某日 ミラノ自宅
たとえば日本人が神社で柏手を打つとき、われわれが無意識に感じている拍感が浮彫りになる。この拍感は、他のさまざまな伝統芸能の拍節感と無関係ではないだろう。柏手を打つとき、手を打ったあとの沈黙に耳を澄まし、あたかも自分の打つ音が神々まで伝わったのか、耳で確認しているような不思議な時間がながれる。
まるであの瞬間、自分と神々との間に、さっと道が開けるような、あの独特な感覚は、少なくともカトリックのミサに参加していて感じることはない。確かに、神父が香炉を天をめざし高く掲げ、鐘が鳴らされる瞬間は神々しさに圧倒されるが、それは自分は護られている実感に満たされた絶対的安寧、超絶的安堵に近いもので、「神の国」という広大ながら絶対的な領域の境界線を、どこかで薄く感じ取っている気がする。柏手のあとの沈黙には、「神の国」の概念はなく、万の神々とつながる、という、言ってみればより素朴な関係で結ばれているようだ。
フェデーレの楽譜を読んでいると、構造は概して、外側から観察することでより明晰に可視化できると知る。自分の文化に関しては、生まれてこのかた、内側からしか眺めたことがなかった。それは丁度、赤子が胎内から世界を感じるようなもので、すばらしい体験に違いない。母親の躰の外から赤子を観察すれば、おそらく全く別の構造が浮かび上がるに違いない。
高市首相、衆院予算委員会の席で「戦艦を使って、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケース」と発言。

11月某日 南馬込
東京に向かう機内でプログラム原稿を書き、馬込の家に着いてさっそく脱稿。朝食を摂りながら、耀子さんとはなす。プーランク「メランコリー」の楽譜の最後に「Talence Juin/ Brive Aout 1940(タロンスにて6月/ブリ―ヴにて8月 1940年)」と記されている意味について。ナチス・ドイツ軍がフランスに侵攻したのは1940年5月で、フィリップ・ペタンが独仏休戦協定に調印したのは6月22日である。タロンスはボルドー近郊にある街でここは6月22日以降はナチス占領地域になっていたはずで、ブリーヴ=ラ=ガイヤルドはナチスに占領されない所謂自由地域だったはずだ。6月から8月にかけて、プーランクがナチス占領を避けてタロンスからブリ―ヴに逃れたのは間違いない。
耀子さん曰く、「メランコリー」つまり「哀愁」という表題と、曲の中間部、それまで美しかった音楽が唐突にUn peu plus vite(すこし速く)で不穏な音楽に変化するのは、ナチス侵攻におびえるプーランクの心情、フランス国民の慄きに違いないという。実は、高校生の頃に自分でこの曲を弾いた時から、なぜこの奇妙な中間部が何の前触れもなく現れるのか不思議に思っていた。言われてみれば、Un peu plus vite左手の、怪しげでどことなく軍隊風な16分音符には、très égal et estompéつまり、「頑なに変化させず、少しくぐもって」と書いてあって、明らかに音楽に世情が反映しているようである。調べてみると、プーランクは1940年6月に招集され、ボルドーの防空部隊で従軍した後、ドイツへの降伏後7月に動員を解かれブリーヴへ移っていた。つまり不穏な中間部が象徴する当時のフランスの世情は、耀子さんの指摘通りだったわけである。「やっぱり、楽譜だけ読んでも、わからないことは沢山あるのよ」。当時のフランスの状況からは、否が応でも今日のウクライナを想い浮かべざるを得ない。
その昔、耀子さんがオネゲルの「前奏曲、アリオーソ、フゲッタ」(と思しき曲を)を弾くことになり、オネゲルのオーケストレーションを手伝っていた彼の妻の前で弾いて助言を求めたところ、「この曲を書いた時、うちのメトロノームは壊れていたから、このメトロノームの数字は気にしなくていいわよ」と言われたそうだ。「だから作曲家のメトロノームはあてにならないわね」と破顔一笑。耀子さんがパリ音楽院にいた当時の作曲の教授は、トニー・オーバンとミヨーだった。オネゲルには何度も会ったけれど、普段パリにいなかったプーランクには、ついぞ会う機会がなかったという。
トランプ大統領はウクライナに対し、ドンバス地方の割譲、北大西洋条約機構への加盟放棄、軍備縮小など、事実上の主権放棄を迫っている。今後世界の情勢がどうなったとしても、以前のような均衡がとれる可能性はほぼないだろう。バランスを壊したのはプーチンだ、ネタニヤフだ、トランプだ、と我々が叫ぶのは簡単だが、彼らを選択してきたのは、我々自身であることを忘れてはいけない。

11月某日 南馬込
コモのセルべッローニ宮での息子のリサイタルを聴きに行った家人より、少し興奮した感じで報告あり。彼女曰く、演奏が始まった途端、会場の雰囲気がとても良くなったという。「親の欲目」とはよく言ったものだが、実際聴いたわけではないので判然としない。それよりも驚いたのは、音楽祭を企画していたのが旧知のロッセッラだったことだ。昔から活動的な女性だったが、もう随分前からコモ・ベッラッジョの音楽祭を切り盛りしているそうだ。家人と二人、笑顔でおさまる写真が送られてきた。
フェデーレの「夏・俳句」の楽譜を読んでいるのだが、アルファベットで書かれた歌詞を平仮名で書き直さないと、頭のなかの歌手の発音もイントネーションも、すべてヨーロッパ語風になってしまうのは何故だろう。無意識に「a」と「あ」の発音が、自分にとっては、まるで違うのである。これはなかなか興味深い発見であった。とその時、ふと「マダガスカル島の土人の歌」の「Aoua! 」が脳裏に浮かんだ。実は全然違う発音だったら、どんな風に響くのかしら。「マダガスカル島…」を想いうかべるとき、少し速めのテンポでくっきりとした輪郭を描く、どことなく厳めしい、マドレーヌ・グレとラヴェル自身による演奏がどうにも耳から離れない。
大森まで自転車を使い、町田のプリンターを直しにでかける。たったそれだけのことながら、シジミのお吸い物、ハマグリの酒蒸し、鯛の煮付け、自家製のかますの干物で歓待を受ける。親が何歳になっても、子供であることには変わらない。

11月某日 南馬込
書いて呉れ、書き取ってくれ、と叫ぶ声ばかりが聞える。正しいかどうか分からないが、書かなければ一生後悔するに違いない。
朝、耀子さんの弾くピアノの音で目が覚める。昔、三善先生が同じようなことを日記に書いていらしたのをふと思い出した。耀子さんは、ラヴェル「ソナチネ」2楽章、最後の跳躍を、ゆっくりゆっくり、慈しみをこめて丹念に繰り返していて、その音の美しさに心を打たれた。大胆に奏される左手の低音は、とても活き活きとしていて、まるで独立して聞こえる。
「ソナチネ」1楽章冒頭の16分音符と32分音符は同じ長さで同じように弾くべきか、と質問を受けたが、音価も違うのだし、当然違う楽器が弾くはずだろうと答えたところ、じゃあなぜ皆同じように弾くのかと畳み込まれる。2楽章の最低音の声部が、4分音符に余韻が残るように指定されている音符と、2分音符に余韻が残るように指定されている音符の違いに関しては、4分音符の部分は、オーケストラであれば、低弦楽器が豊かにピッツィカートしているような響きで、2分音符であれば、弓で弾いて余韻を残しているようなイメージではなかろうか。

11月某日 南馬込
「考」リハーサル。西大井まで自転車を漕ぎ、渋谷まで湘南新宿ラインを使って、田園都市線に乗り換える。演奏者の皆さんに遠慮もなくなって、リハーサルの到達点をずっとこちらの演奏解釈に寄せてしまっている。その分、演奏はとても難しいはずだし、従来の演奏スタイルと違う箇所も多いはずで、ご苦労をかけているのは充分承知しているけれど、安全に弾けること、を第一条件にする発想をほぼ拭い去り、作品が本来望んでいたであろう姿に、どのようなアプローチで肉薄できるのか、その道程を丹念に探してゆく。
予定調和的な安定感がなくなってゆく代わり、常にその場で生まれる瑞々しさと、ほどよい緊張感を共有しながら、音を聞くというより、音楽を進ませる気の流れを共に感じ取ることで、フレーズが途切れることなく、たゆたうような音楽の息が浮かび上がってくる。

11月某日 南馬込
「考」演奏会。演奏者の皆さんは見事な演奏を披露された。転じて自分はどうだったかと言うと、クリーニングに出した本番衣装のなかに、あろうことか本番用のスラックスが入っていなかった。今まで揃いの上下は同じハンガーに纏められていたのが、新しいクリーニング店はどうやら別の袋にそれぞれを入れたのだろう。慌てて、琴光堂の中島さんから借りた黒ズボンで本番をこなした。
「何十年ぶりと言えば、今夜の指揮者、杉山洋一氏がまだ小学生の紅顔の美少年だったころに遡ります。夏の暑い日、杉山氏のヴァイオリンの先生篠﨑功子氏の提案で、私の大先輩で作曲家藤田正典氏と四人で、杉山氏の御祖父様が経営している湘南海岸にある海の家に遊びに行くことになりました。初めての訪問を快く出迎えて下さった杉山さんの隣で、少年洋一君がニコニコしながら「こんにちは」と元気な声で歓迎してくれました。泳いだり、ビールや海の幸をたらふくご馳走になったり、トランプで遊んだりした楽しい一時はあっという間に過ぎ、懐かしい夏と思い出となりました。…」。
このように田中賢さんはプログラムに書いてくださったが、自身が演奏していたガムランに着想を得た田中さんの曲は、実に闊達で新鮮な響きがした。年齢を重ねても、こんなに瑞々しい呼吸で音楽が書けるなんて、作曲家とはなんて素敵な生業なのか、とさえおもう。田中さんは演奏会後も、「洋一君は昔はとても利発そうで紅顔の美少年だったんですよ」、と繰り返していらしたから、当時は余程美少年だったのだろう、と思うことにする。そう言われてみれば当時、しばしば「まあ可愛らしいお嬢さんだこと」と言われることがあって、本当に嫌だった。円安が進行。1ユーロ181、52円。

11月某日 南馬込
ミラノを発ってチューリッヒ経由で日本に着くはずのフェデーレ夫妻のフライトが、出発1時間前にキャンセルになり、改めて預けた荷物を受け取りチェックインし直して、北京経由で成田に到着した。30時間近く殆ど寝ていないので、二人とも相当困憊していたようだ。昨年のシャリーノとは全く違い、選ぶ単語も直截なら、表現も単刀直入であった。音楽は言語であるから、音楽に本来備わっている、記憶に基づく文法をより洗練、鍛錬してゆくことで、音楽を通して自分の意図を他者に伝えられるようになる、というのが、基本になるフェデーレの主張である。頭の中で生まれた音楽を、少しそこから外側目の先50センチくらいまで引っ張り出し、そこでその生まれたアイデアを改めて直視し、丹念に観察しながら、どうすれば自分が望んでいる音がを自分の外で鳴らすことができるのか、客観的に考えることを勧めた。フェデーレはドナトーニの言葉を引用し、素材は生み出すものではなく、目の前にある素材を、頭の先から足の先まで何度となく観察することで、その素材が持っている可能性を十二分に引き出すことができる、と力説していた。
音の響きを豊かにするために、例えばアタックをほんの少しだけずらした、ディレイの観念を学生に説明していた。同じ音をずらすことが楽器法的に出来ない場合でも、オクターブを入れ換えるだけでなく、自然倍音列に則って長3度、完全5度、短7度上の音を付加することで、単音の動きに影や厚みを与え、より簡便に自然倍音列の近似値を実現すべく、6分音の使用を勧めてもいた。
彼が日常的に活用している、完全五度圏や6分音のチャートも学生たちに惜しみなく共有し、彼が素材を発展させる方法を学生たちに指南していたし、フィボナッチの数列や、或る点を境にトートロジーで繰り返されるジョン・コンウェイの読み上げ数列の面白さについて話し、それをどのように活用して作曲するかについて、あまりに包み隠さず話してくれるので、少し驚いたくらいである。
これらすべては、単なる作曲支援であることを強調し、今後どれだけ人工知能が発展して便利で有益な作曲支援が可能になっても、作曲するのは自分であることを忘れてはいけない、と念を押すことは忘れなかった。そうでなければ、人工知能に我々が作曲させられるようになってしまう。そうして、いつも一通り話してから最後に、「これが作曲の技、というものだからね」と満足気に云うのだった。
「これらすべては、自分のユーチューブ・チャンネルで、楽譜付きで聴けますから。ぜひ、チャンネル登録もお願いしますね」と言っては、学生たちの笑いを誘っていた。
今日は「秋吉台の夏」ですっかりお世話になった河添達也先生が、フェデーレに会いに来てくださって、何年かぶりにお目にかかることができたのも嬉しい。遥々松江から羽田の弾丸日帰り訪問だったが、ストラスブールでは、フェデーレの下で作曲の研鑽を積んだ、と伺っていた。「秋吉台の夏」のように、若い作曲家、演奏家が肩を並べて、目を輝かせながらレッスンに参加している姿を、目を細めて眺めていらしたのが印象的だった。
アムネスティ・インターナショナルが、ガザでの虐殺が継続していると発表。10月9日の停戦合意以降、現在まで少なくとも327人死亡。そのうち子供は136人。2023年10月以降、パレスチナの犠牲者は7万人を超えた。

11月某日 南馬込
自作演奏について、フェデーレは楽譜の表記にとても忠実だったように思う。自分は細かい性格だから、と笑っていたが、フェデーレは1993年頃までは、室内楽を得意とするピアニストとして活動も続けていた。そのためか、作曲のレッスンの間も、自作のリハーサル時も、しばしばピアノも前に座って実際に演奏をしてみせてくれた。彼の深いタッチは、いつもイタリア人らしい音を響かせていて、学生にも鍵盤の奥底で歌うことを要求した。書かれているアーティキュレーションには厳しく、テンポやリズムにも忠実であったけれど、音楽的なフレーズ、特に弱音の繊細さを繰り返し要求するのだった。自ら演奏に携わっていたから、本番に向けて演奏家にどこまで要求して、どこまでを本番の集中力に賭けるべきかさえ良く理解していたし、理知的な美学を高らかに讃えながら、その実、実演に於ける即興性や、用心深い反復の回避や音色の実現など、演奏家らしい引き出しは決して錆びついていなかった。だから、たとえ一見あまりに理性的に感じられる譜面から、驚くほどの情熱を引き出し、演奏する喜びを我々に還元する。演奏会を聴いた両親は、思いの外愉しかったようで、「研ぎ澄まされた響きっていうかね…」、最初から最後まですっかり聴き入ってしまった、と興奮していたのが印象に残った。

11月某日 南馬込
トロトロになった庭の渋柿を、ヨーグルトに入れて朝食にした。部屋の目の前には、ブーゲンビリアが赤紫色の美しい花をつけていて、さまざまな鳥たちが代わる代わる訪れるのを眺めている。我ながら、自分の優柔不断に呆れかえりながら、ああでもないこうでもない、と楽器を入れ換えている。
昼過ぎ、渋谷のブックカフェ「days」でMさんと再会。暫し話し込んだのち、せっかくの機会だから、神谷町の光明寺に連れて行っていただく。エレベータで2階に上がるとMさんの言葉通り、東京タワーがすぐ目の前にそびえている。サントリーホールまで、ここから歩いて10分ほど。こじんまりとした部屋全体が心地良い純白に包まれていて、大きな窓の採光と相俟って、時間の感覚も失いあたかも天上のよう。2枚の写真の間には誕生日が縫いこまれた、小さなクマの縫いぐるみが佇んでいて、隣で彼女は少し涙ぐんでいらした。連れてきていただいて申し訳なかった、と内心後悔しつつ、でもやはり訪れることができてよかった。子供の頃、事故で気を失っている間に垣間見た、闇の奥で燦然と輝く大きな窓とも扉ともつかぬ何かを思い出しつつ。

(11月30日 南馬込にて)

古屋日記 2025年11月

吉良幸子

11/1 土
劇場の初日。帰ってきて晩飯を食べてると号泣のおかぁはんから電話が。実家の愛猫、ロロが死んでしまった。ちょっと前からしんどそうやと相談を受けてたんやけど、こんなにもあっさり逝ってしまうとは…。私がドイツに行く前にうちにきた真っ黒な子猫。むちゃくちゃ大きく育って7キロくらい、たぬきみたいなフォルムしてるのに俊敏で、ネズミも野ウサギも狩ってきたりしておった。今年で14歳、調べると人間の72歳くらいに相当するらしい。うちのじぃちゃんが亡くなったんとおんなじ歳や。いつの間にかそんなおじぃになってたんやね。まんまるな顔やけど鼻筋が通っておっとこ前で、大好きやった。淋しくなるけど、おつかれさま、ロロ。

11/2 日
昨日の今日でやっぱり悲しい。私は今日も悲しくて元気がなく…と思いきや、同僚も数人体調を崩して劇場はスタッフぎりぎり、体が元気な私ががんばらねばと走り回る。猛暑やと思ったら急に寒くなったり、人間ですら体調おかしくなる天候やもの、動物はもっとこたえるよなぁ。若女将が猫大好きやから、休憩時間にロロのこと話してみた。ほだらほんまに親身になってくれはって、昔飼ってた猫の話してくれたりして、みんなこうやって別れを惜しんでいってんねやなぁとつくづく感じた。
夜、おかぁはんと色々と連絡取ってたら、ふと上方落語の大ネタ「地獄八景亡者戯」を思い出した。鯖にあたって死んだ喜ぃさんが、閻魔さんのとこへ向かう、あの世の旅噺。ああ、うちらはしんみりした慰め話でロロとお別れせんと、明るく笑って送り出したらええんやなぁと思った。

11/3 月・祝
今朝には太呂さんとこのおばあさん猫、サヴィちゃんが亡くなった。こちらは18歳、私が知っている限りでもちいさくちいさくなってきておった。家族のことが大好きな彼女はみんながいる日に、みんなが通る部屋の真ん中に寝てたらしい。サヴィちゃんらしいなぁ。ロロと同じ舟で三途の河渡りしてるかもしらん。ずうたいはでかいけどびびりの優しい子がおったらロロやし、よろしくねサヴィちゃん。

11/4 火
朝っぱらからギャー!フギャー!!という猫のケンカの声が近所に響きわたった。布団から飛び起きて見に行ってみたけども、人んちのガレージでやっとるみたいで姿は見えん。声的に珍しくソラちゃんが押されてるらしい。間もなく声も止んで家へ帰ってみると、しゅんとした負けっつらのソラちゃんがちょこんと公子さんとこの机の隅に座っておった。もうおっさんになってきてるんやもの、若いのに世代交代してもしゃぁないがな。目立った怪我はないものの気落ちしてるらしく元気がない。どちらかと言うとやさぐれてる感じで、ちょっとほっといてくれんか…という具合に、台所でひとり寝たりしていかにも孤独な猫みたい。ちょっと芝居がかっている気もするけども、とりあえず放っておこか。

11/6 木
米朝さん100回目のお誕生日。めでたい!最近のマイブームは風呂に浸かって落語をかけること。家の風呂は銭湯のようにあつうはならんし、とにかく長く浸かって芯からあったまる。ぼんやり長風呂するには落語聞くのが一番。今日も米朝さんの一席聞こうっと。

11/8 土
吉朝さんが亡くなって今日で20年。ほんまに?20年て、ほんまのほんまにはやすぎやで吉朝さん。もうちょっとおじぃになって落語してる吉朝さん、見てみたかったなぁ。
さて、数日前から寡黙な猫になっているソラおじさん。食欲旺盛、いつも通り食べて飲んで、痩せたり痛がったり寝られんてなこともなく、至極健康な生活をしてて、たまに甘えに布団に入りに来るんやけど、未だに台所のふわふわの敷物の上でひとりじっと寝てる時間が長い。外にも全然行きたがらんし、いよいよ家猫になったんか!?と公子さんと話しておる。

11/10 月
公子さんのみた夢シリーズ。まず、うちに日本酒いっぱいある?と唐突に聞かれる。まァ…二階に剣菱の一升瓶と、その他小さき酒たちを少々…と答えると、今日の夢はこんなんやったという。急に窓から知らん人が入ってきたから公子さんはびっくりして、何か用ですか?と聞いてみる。すると、ここにお酒がたくさんあると聞いて…と窓から来た人は答えたそう。泥棒かなんか知らんけど、家主がおっても慌てずに「酒を呑みに来た」と返すなんて、落語みたいな展開やないの!?

11/14 金
演芸場で一緒に働く同僚たちと女子4人でアジ釣りへ行った。集合は午前6時、久しぶりの早朝電車で葛西へ向かう。駅の近くに船着場までの送迎が来てくれる算段で、朝が早くてすでに疲れた4人と、装備バッチリの釣り人おっちゃん3人を乗せた車が海を目掛けて走る。手ぶらで行っても全部貸してくれるという名目のとこやけど、釣り人を見るとこんな素人でも大丈夫か…?とちょっとうろたえた。到着して車を降りると、おばあちゃんの「船が出るから早く!」と言う叫び声に急かされて、支払いとアレコレを借りて船に乗り込み、釣りのポイントまで船が出発した。海風が気持ち良く、何より空がむっちゃ綺麗!10分ちょいで着くやろうと思っていたら千葉の方へ出るべく30分くらい船は走り続け、途中でみんな座ったまま寝てしまった。途中で目が覚めたらとぉ~くに富士山が見えてちょっと感動したりして、そこからまだまだ走り続けてやっと船が止まった。船長と隣で釣ってたおっちゃんにコツを教えてもらいつつ釣ると、入れ食い状態で釣れる釣れる!釣りながら、これ持って帰るのどうしよ…と冷静になる程アジが釣れまくった。船のみんなが十分に釣ったと思われる数時間後、次のポイントへ行きますー!とまた船は走り出した。実は船に若干酔い気味やった私は風を受けながら遠山の金さんの歌を歌い、遠くを見渡しながら必死に酔いをごまかした。次のポイントへ着き、トイレへ行ったが最後、閉塞感の中船の揺れで視界がずれ、完全に船酔いしてしもた。船が止まっているのが辛い、早く船が走ってほしい…と思いながら、必死になんでもないつもりでぼんやり座っておったが、いよいよ撒き餌か…!?と思う程の船酔いの波がやってきて思わず手にビニール袋を握りしめる。隣でお嬢が大丈夫?と言っているがそれどころではない…が、なんとか峠は越したようで、やばかったわ…とようやくお嬢に返事をした。そうこうしてる内に念願の?帰りの時間になり、船はまたバタバタと風を受けて走り出した。お嬢と話しながらふと見ると、初めて夢の国ディズニーランドを目撃した。4人で100匹以上釣ってしまい、一旦演芸場へ持って帰ってるべく、魚くさい4人は電車で十条を目指す。お嬢は料理好きで、賄いに出してくれるらしく楽しみ。演芸場に着いたらちょうど若女将が出てきて、近くで飲みにいく軍資金までいただいた。ありがたすぎる。結局朝から何も食べずで夕方にようやくごはんにありつけたのやが、ひとり船酔いした私はまだ船の上にいる心持ちで地面がゆらゆらしておる。他のみんなは平気やったらしく、三半規管強いのってええなぁ~とつくづく思った。飲み屋を出て、アジを少し分けてもらって持って帰る。とりあえず冷凍さして、あとは公子さんに任せた。

11/15 土
第2回目の「まちの落語会と講談会」の日。今日はお昼下がりの公演やし、早めに下北沢へ向かう。ポータブルスピーカーを買ったからだいぶと荷物が減って前よりは移動が楽になった。着いたら大道具に山さんと冨田さんが既に待機してくれてはって、今回は平台も持ってきてもらって高座は完璧!椅子を並べてスピーカーチェックして、2回目はやっぱりちょっと慣れて設営はスムーズにいった。今日は2人の女性講談師が来てくださった。公子さんが贔屓にしてはる神田紅純さんと田辺いちかさん。私も久しぶりに講談を聞けて嬉しかった。お客さんも久しぶりに会う方から前回も来てくださった方まで、色んな方がたくさん来てくださって楽しい会になった。
と、無事に終わって緊張の糸が切れたのか、帰りの電車で熱っぽくなる。もう無理かもと思ったところでたまたま駅のアイス自動販売機でシャーベットを発見、ちゅーちゅー吸って熱を冷やすとちょっとマシになった。残念ながら明日は小屋番、しかもイベントがあって出勤が早い。枕元には水分と鼻紙を置き、ともかく湯たんぽであっためながら寝て回復を図る。

11/16 日
責任感だけで起床、体はまだ少しだるいけど、大丈夫!と言い聞かせて演芸場へ向かう。しかもよりにもよって今日は着物パレードの付き添いで外での勤務が多い。なんとかかんとか乗り切ったけど、公演が始まって事務作業に戻った途端にむっちゃしんどくなって夕方に早上がりさしてもろた。食欲はこんな時でもいっぱいあったからともかくいっぱい食べて寝る!明日は久しぶりの休みやし、1日寝てなんとか治すぞ。

11/22 土
知人の展示に行くために鳥越へ向かう。御徒町から歩いていくと、ギャラリーのあるのは「おかず横丁」という商店街の中にあるらしい。なんとおいしそうな名前の横丁…!と心躍らせて進むと、佃煮屋さんにお味噌屋さんなど、ごはんのおともがあちらこちらで売っているではないか!ギャラリーの主の方にもこの横丁で売ってるおかずの数々を聞き、展示を後にしておかずを求めて色々と歩いた。悩んだ結果、結局老舗らしき佃煮屋さんのふりかけと昆布を買って帰る。帰ってごはん炊いて一緒に食べてみたら、もちろん絶品!そんなにうちから遠くないし、おかず横丁とはええ場所見つけた!!

11/24 月・祝
前職でお友達になった86歳の友、おたかさんのおうちへ久方ぶりに遊びに行った。少し前に電話がきて、ようやく夏がさったので遊びにおいでとのこと。楽しみにしてるね~と昨晩も電話があり、久しぶりに着物を来て埼玉へ向かう。家が近くなって喜多見から行くより半分の時間になって嬉しい。行きしなに、ちっちゃい花束をお土産に買って団地へ向かうと、数ヶ月お会いしていなかっただけで随分と老け込んでしまった気がして心配になる。自分が賄いの食べ過ぎで大きくなったのか、それともおたかさんがちいさくなったのか、隣に立つと少し身長差が大きくなった気がした。最初は近況的にたわいもない話をしてたんやけど、途中から時代劇の話やら映画の話になり、そうなると顔色がぐんと良くなって元気になるのが手に取るように感じられた。おでんを作ってくれてはって、私と一緒に話しながらやとひとりで食べるよりたくさん食べられたみたい。よかった~。なんじゃかんじゃと日が落ちるまで話をして、今度は演芸場へ観に行くわねと約束した。帰る時も、リハビリだからね、と途中まで歩いて送ってくださったりして、帰り道こけませんようにと何度も振り返りながら団地を後にした。

11/27 木
色々してたらもう千穐楽!今月は光のように走り去った。初日には覚えるのに必死になっていた劇団のみなさんもお客さんも、千穐楽にはみんな知ってる人になっておった。1ヶ月間お疲れさまでしたのご挨拶をして、大掃除をする。大量の荷物と共に、劇団は今夜遅くに次の場所に移動しはる。そして数日の間に次の場所での公演がまた始まる。大変な仕事やでな。

11/28 金
自分の用事と用事の間に演芸場が入り、怒涛の仕事の日々がようやく昨日に区切りがついた。おかぁはんと全然連絡取れてなかったんやけども、電話してみたら向こうもお休みの日で、なんと2時間も電話してしもた。内容はたわいもないことばっかし、11月なにしとったとか、おかぁがやっとる運動に座禅の話など色々と。

11/30 日
12月公演の初日。またいちから劇団のみなさんとお客さんの顔と名前を学ぶ日々が始まった。初日に全く分からんでも、楽日にはなんで分からんかったんやろ?と思うくらい、はっきり誰が誰だか分かるようになるからすごい。今日が一番よく分かってないんやけど、とにかくなんとなく顔を覚えていく。12月は休演日が多い、がんばらな覚える前に公演が終わってまうわ。

011 難波江文法

藤井貞和

な なら なり    な なり
に に なり なる  に 人称をとろかし
は 反語にたどる   は 反実仮想の
え 婉曲の木にかける か 語りにむかう
の の格の文を    た 対象に敷いて
あ アオリストの遠投 み 未然 連用
し 心内は活用するか し 終止 連体
の の格の句の    か 格助辞なのに
か 活用するかな   き 危険な機能語
り 「り」は「あり」 あ 「あり」は「(あ)り」
ね 音に泣くのは   し 忍ぶ思いよ
の 脳内の眠りは   の のこり少なげに
ひ 表情は折口の   ふ 副詞表情
と 読者ふぜいに   し 主部で躱(かわ)す
よ 四人称から    の のぼりゆく累進
ゆ 「ゆ、らゆ」を  ま 万葉がなで記す
ゑ 笑みを尽くして  も モーダルな
み 未定の文法である あ 暗鬼、疑心
を を格をどこへ   は はかない手のように
つ 「つ/ぬ」の巣窟 て 「て」を生じ
く くちずさむすべて こ ことばの無力か
し 自立語の林    の 宣長の森
て 天尓波を手繰って よ 世のふることに
や やそしまをかけて を 少女(をとめ)のすがた
こ 漕ぎ出てみると  す 須磨、明石、淡路
ひ ひらがなを埋める く 訓点資料に
わ わびぬれば今は  し 時間の経過よ
た 玉藻、海人の子  て 程度の否定
る 流転、三界    よ 世のはてがたに
へ 変化のものが   と 読者を名のる
き 鬼没の      や 闇に
 

(皇嘉門院別当。伊勢。「わびぬれば」は、元良親王。『百人一首』より。)

待つ空間

高橋悠治

昔読んでいた本を読み返してみようと思って、花田清輝の古本を買ってみた。知らないタイトルばかり並んでいる。知っているものも、内容はほとんど覚えていなかった。

読んだと思った文章も、何か知らないものに変わっている。そんなものかもしれない。そこで何か発見があっても、それは書かれた文章なのか、それを読んでいる今、頭をかすめた無関係なことばなのか。

20年ほど前に書いた自分の曲を弾くコンサートがあった。書かれた音符や指示は、意味がわからなくなっている。時代が変わったのか、その時書いたことがもとから意味不明だったのか。多分その両方だろう。

音楽を作る即興と演奏と作曲が一つになった試みを、ピアノの鍵盤ですること。   

音を連ねて一本の線を編む。その線の周りに別な幾つかの音をあしらう。それが第二の線になって、二本の線が、対位法になったり、添えられた音が和声になったりしないように。線と響きと「間」以外の規則があるように見せないで済めば。

離れた場所から全体の形を見ることと、手触りを感じながら音から音へと移っていくことと、その両方を 意識しながら、と言っても、どちらかに重みをかけては、沈まないうちに重心を移していくだけなのか。

実際起こっているのは、言葉で言おうとするのとは違う感じがする。とすれば、こんなことを書いていると、現実と離れていくばかり。することと、したことを言葉にすることの間のずれ。こんなことになるなら、書くだけむだか。言葉になる前に言葉にしているのかもしれない。

2025年11月1日(土)

水牛だより

カレンダーをめくったら、残りはあと一枚。
東京は寒い日もあり、暑い日もあり、の日々ですが、その日になってみないとわからないのが困ります。昨夜は雨で、その湿度が残りやや蒸し暑かったような今日が暮れていきます。

「水牛のように」を2025年11月1日号に更新しました。
さとうまきさんや増井淳さんをまた読めるのはうれしいことですね。植松眞人さんの連載短編小説「夜の山へ登る」が完結しました。8回分をまとめて読んでください、変な小説です。そして西大立目祥子さんの「仙台ネイティブのつぶやき」が今日11月1日に111回目を迎えたのは、すばらしい偶然で、感慨深いことです。

それではまた来月に!(八巻美恵)

010 過去を割る 

藤井貞和

過去を割る土器
だれかが
過去において割る土器
おおさんしょううお
まるい蛇
土器に蛙をいれて割る過去
だれかの火焰式土器
過去を割っていれる土器
だれかの土偶の
欠けらを置く岩倉遺跡
わらの柱に描く
這いのぼる火焔の樹
を置くうてな(台)、くら(坐)
過去に割った土器
過去によって割る土器
過去を土器で割る
だれかが火焰式土器で焚く
だれかが火焰式土器で煮る
地上から火焰が這いのぼる土器
野ねずみが這いのぼる土器
根をささえ衣類にのぼる土器
の影ひとつ
台、燭台に坐がひとつ
過去においてこれから割る土器
過去と土器とのあいだを割るハンマー
過去に土器をいれて割るちから
だれかが火焰式土器を書く
空の象形、台に書く
土器が割るかもしれない象形
過去から土器を取り出す
土器から過去を取り出す
だれかのために葉になり
だれかの枝になり
宇宙樹になり
だれかが火焰式土器に名づけ
だれかが火焰式土器を買い
だれかの火焰式土器を割り
だれかの火焰式土器に彩色する
だれかは火焰式土器を調べて
だれかのために這う虫になり
支える宇宙樹になって
幹を火焰が這いのぼって葉になり
枝を火焰でおおいつくし
過去からの土器を割る
土器が過去を割る
過去が割る土器、明(ひかり)
夢十夜(からあさひ)へ起きて
朝の装身具を置く台、坐

(土器が火焰を象ることはないだろうから、考古学者のロマンである。火焰のように見えたのは葉や枝で、巣をつくる鳥もいたし、蛇が這いのぼり髪になる。宇宙樹だろう。でも詩としては火焰式土器でよいのだ。)

仙台ネイティブのつぶやき(111)すぐそこに熊

西大立目祥子

 猫が家出してしまったとき、依賴すると、家のまわりを歩き回り居場所を探し当てる猫探偵のようなプロがいるらしい。たいてい猫はそう遠くへ移動するものではなく、意外に近くにじっとひそんでいるのだとか。まず当たりをつけるのは家より低い方向で、下りながらじっくりと探していくと、茂みの中とか床下のようなところで見つけることが多いという。たしかに上るよりは下る方が自然というか、楽なのだろうな。人だって階段を上がるのは億劫なわけで。急坂もゆるやかな坂も、やわらかな肉球で踏みつけて、ととととと…と猫が行く。すらりとした尻尾を伸ばしてとととと…。

 そんな映像を思い浮かべるうち、ほっそりとした足は、黒い毛におおわれ鋭い爪を備えた野太い足に変わる。草を踏みつけどしどしと行くのは、熊だ。熊も、下へ下へ歩く。奥山から里へ、上流から下流へ、山の斜面をすべり降りるようにして畑へ、下る。下り切ったところで何か獲物の匂いを嗅ぎつければ、川から市街地へと斜面を這い上がり、柿の木に赤い実がなっているのを見れば、そこが人家であることなど気にすることなく一気によじのぼる。もう冬はすぐそこまできているのだ。子熊の腹を満たし、自分の胃袋に何か詰め込み、冬眠に備えなければ、急がなければ…と、熊になって想像してみる。

 想像してみるのだけれど、それにしてもこの秋の事態は異常だ。森からまるで追われるようにして市街地にまで現れ、キノコ採りに入った人を襲い、人家の庭先の犬を森に引きずり入れて食う。私の頭の中では熊というのは草食性の動物という認識だったので、心底驚いた。いや驚くというよりギクリとした。何かとんでもないことが起き始めているのではないか、と。今年はどんぐりが不作と聞いていたけれど、餌となる木の実が皆無となり、空腹に耐えかね、荒立ってさまよい歩いているように思える。捕獲した熊は一様にやせていて、駆除した熊を解剖すると胃袋は空っぽだという。山にイノシシが激増し、熊の餌がなくなったのだと指摘する人もいる。20年ほど前まで、宮城県におけるイノシシの北限は県南の丸森町あたりといわれていた。でも現在は北東北でも目撃されるようになった。県北の稲作農家の知人は、田んぼ一枚が一晩でイノシシにやられたと嘆く。

 もともと仙台は日本の大都市の中では例外的に川の中流域に開かれた街で、北西から南へかけて北山、青葉山、大年寺山という標高60~80メートルほどの丘陵が旧市街地を取り囲む。中でも青葉山は山全体が天然記念物に指定され、さらにその奥の山々につながり、深い峡谷も切り込んでいる。当然のことながら野生動物はすぐそばに生息していて、熊も例外ではない。これまでも何度か熊が峡谷や川をつたって街に下りくることはあって、観光名所でもある伊達政宗の墓所「瑞鳳殿」のすぐそばに出たとか、丘陵の上に鎮座する愛宕神社の参道を朝におばあさんが散歩していたら、階段の上に熊がおすわりしていたとか、いろんな話を聞いた。でもどこかおかしみを持って語る余裕があった。

 でも、今年は違う。これまでとは異なるとんでもないところに現れているのだ。この春、大年寺山にある仙台市野草園で叔母の作品展を開いたことはこの稿でも書いたけれど、その駐車場前の道路に出た。秋めいてきたので、植物園散策に出かけようかなと思っていた矢先だった。目撃情報を受け、野草園は施設入口の自動ドアのスイッチを切ったらしい。その数日前にはそこから5キロほど西にある仙台市八木山動物園の駐車場にも出た。2つの施設の中間地点にある鈎取1丁目では、初めて緊急銃猟に基づく発砲で1頭が駆除された。仙台城址をめざして観光客が歩き車も通る大橋わきでも二度目撃情報が寄せられている。地元紙の河北新報には宮城県内の熊出没を知らせる「クマ目撃情報」という欄があって、たとえば10月28日を見ると宮城県内では32件もの目撃情報が掲載されている。熊は早朝と夕方に注意といわれているが、午前9時とか、午後2時、3時の出没も少なくはない。餌を求め、ところかまわず歩き回っている印象だ。

 大年山の頂上には伊達家の4代目以降の藩主の墓所があり、テレビ局が管理するテレビ塔が3塔立つ。近年は公園として整備されたので、昨年は20名ほどでまち歩きをし、案内役となった私は準備のために一人で頂上を歩き回ってコース案を練っていた。3日前、そこでも熊が目撃された。大年寺山のふもとに暮らして養蜂をやり、仙台市内の猟友会のメンバーでもある知人は、「ついにうちの蜂箱が倒された。1つやられて、1日おいてまたきてもう一つ倒した。蜂蜜の味覚えたね。見に行ったら、やつは茂みの中からこっちをじっと見てるんだ。ここまでくると、もうかわいそうとは言ってられない」と話す。

 大年寺山は私が子どものころから親しんできた山だ。お月見のときにススキを採りにいったり、放課後子どもだけで遊びに行ったり、姥杉を名づけられた老木をスケッチしたりした思い出がある。一度家族で出かけたとき、目の前をリスが走り去っていったこともあった。でも「熊が出るから気をつけなさい」といわれたことは一度もない。あのころ、熊たちはもっと奥山に別の世界を、別の時間を持って暮らしていたのだろうか。山にはナラやコナラ、クヌギやクリの木が生い茂り、秋になれば山のようにどんぐりの実を落とし、母熊は森の中を歩いて子熊にたっぷりと食べさせ、長い冬の眠りに入ったのだろうか。

 私は正直「駆除」ということばにも、テレビに流れるハンターの銃声にも胸が痛み、親子で歩き回る熊の映像に、街に来るな、人にズドンとやれるぞと胸の内でつぶやいている。熊は森の動物の頂点にいる。その熊が人に襲いかかってくる恐怖が、熊を追い詰めていく。青森県では、害虫が運ぶ菌によるナラ枯れの被害が、今年7月から来年6月までの1年間で10万本に及ぶという。もう山からどんぐりは消えつつあるのかもしれない。人は熊の上にいる。ただ標的にするのではなく、薄くなる森、餌の取り合い…山の異変に想像をめぐらせればいいのに。

ガザへのオマージュ

さとうまき

数年前、コロナが蔓延していた時は、街には人がいなかった。それが、今でははじけたように、都心は人であふれ、特に最近は外国人観光客であふれている。

僕は、数年間に、イスラエルとパレスチナの若者交流を行っているクリスチャンのおばあさんにであった。「仲良くなれるんです」という。僕はというと、30年以上前のオスロ合意で、ユダヤ民族とアラブ民族の和解という一大イベントをTVで見てとても感動した。その勢いで、パレスチナに出かけていき、5年間現地で暮らしたのだった。「仲良くなれる」と信じていたが、それほど甘くはなかった。

イスラエルは、いつもしたたかで、奪った土地は一ミリとも返さない。そう考える人たちが、和平をつぶしにかかった。2000年。和平の最終的な話し合いは、イスラエルが、96%の土地を返還するという提案をしたにもかかわらず、アラファト議長は合意せず、和平は台無しになってしまった。といわれている。このまま、交渉を続けていくと本当に、パレスチナという国が出来て、イスラエルは奪った土地を返さなくてはならなくなる! そんな危機感を感じていたイスラエルの人たちが和平をつぶす口実を探っていた。リクード党の党首だったシャロンが、神殿の丘に1000人の警備員を連れて立ち入り、「エルサレムはイスラエルのものだ」とイスラム教徒を挑発した。もちろん、現実はもっと複雑だったのだろう。でも実際、怒ったパレスチナ人が石を投げはじめ、「パレスチナはテロリスト」と再定義して、「仲良くなる」話は頓挫した。

僕も、2002年には、現場を去らなければいけなくなった。それ以来、僕の中で、パレスチナを封印して一切かかわることがなかった。

おばあさんは、「仲良くなれるんです」という。へーと思いながらも、僕は老婆の活動に興味をもって手伝うことにした。2023年夏、イスラエルとパレスチナの若者が日本にやってきたが、彼らは仲良くなることはなく、日本を去っていった。おばあさんは、ひどく落ち込んでいた。

その後、UNRWAがガザから3人の中学生を招聘して、講演会をおこなった。中学生たちは、自由が制限されたガザの様子を語りながらも、将来の夢をしっかり語っていた。

そして10月7日がやってきた。ハマスの越境攻撃のニュースが飛び込んでくる。1200人が惨殺されたという。「ああ、パレスチナはひどい代償をはらわされるなあ」と思いながらも、ここまでひどい状況になるとは思わなかった。2年間で餓死者6万7000人以上が虐殺。6割から8割が民間人、子どもは18000人。栄養失調による死者は455人で、子どもが150人以上(CNN)だという。

私たちに何ができるのか、2年間ずーっと投げかけられた。何もできなかった。僕は、今まで「人道支援」を生業にしてきた。今は前線を退いてはいるものの、何とかしなければという思いで憔悴していた。

イスラエルは、今回ガザを封鎖して、支援物資の搬入すら阻止してしまった。パレスチナ難民の支援機関であるUNRWAが、ハマスに加担しているとして活動停止にしてしまった。保険局長を務める清田さんは、「我々は失敗した。」と悔しがる。僕は、支援活動の前線からは引退していたが、かつての仲間たちが苦しんでいるのに少しでも協力しようとコーヒーを売って現地にお金を送っている。わずかなお金しか送れないのだがないよりましだ。

僕がパレスチナにいた時、ガザで知り合った藤永さんは、ガザの男性と結婚。前妻との子ども7人を面倒見ていたが、第二次インティファーダの後、本人はガザに入れなくなり、夫は精神的に壊れてしまい、子どもたちも2人しか残っていなかった。これが戦争前のガザの現状だ。戦争がはじまると2人の子どもたちが頑張って支援活動を始めた。ハーンユニスで、寺子屋とサンドイッチを配ったりしていたが、そこも空爆され、マワシという避難先では、食料もなかなか手に入らず、高いお金を出してお菓子を配ることくらいしかできなかった。

そして10月に成立した停戦。子どもたちが、楽しそうに踊っている動画を送ってくれた。さあ、これからどうなるのだろう。日本にやってきた中学生たちは、ガザに戻ることはできなく家族に会えなくなってしまった。「あなたたちが、パレスチナのことを忘れずに行動してくれることが希望です」と語っていた。

おばあちゃんの、「仲良くなれるんです」という言葉が耳に残る。さあ、人類は一体どこへ向かうのだろうか?

  *

写真とさとうまきのガザへのオマージュ作品を展示します。

・ガザの展示
第60回目黒区文化祭 ユネスコ美術展
11/19(水)〜 11/24(月)10:00-18:00(最終日は16時まで)
目黒区美術館区民ギャラリー 東京都目黒区目黒2丁目4−36

・アッサンブラージュ展
2025年11月21日(金)~11月26日(水)12:00〜18:30(最終日は16:00まで)
ギャラリー日比谷 東京都千代田区有楽町1丁目6−5

アオバズク

笠間直穂子

 休日に、腕時計をつけずに町の中心部へ出かける。喫茶店に入って、本を読んでいて、ふと、いま何時かなと思い、店に掛け時計があればそれを見るけれど、ないことも多い。あることはあるが、正確かどうかわからない場合もある。

 そもそも、腕時計を置いてきたのは、時刻を知りたければ携帯電話で見ればいいと思ってのことでもあるから、ここで手持ちの旧式の携帯電話を鞄から出す。あるいは、席に着いたときから、テーブルに出してある。でも、出しておくだけでは時間はわからなくて、電話のどこかに触れなくてはいけない。すると黒い画面に、ぱっと時刻が点る。

 あえて画面に指で触れなくても、手に取って少し傾ける程度で画面が点く機種もあるけれど、それでも、真っ暗だった画面に、こちらが操作を加えることで、突如として時刻が表示されることに変わりはない。

 そのことに、軽い引っかかりを覚える。いつも使っている、あの長針と短針と秒針がついた文字盤の腕時計なら、わたしが見ていないあいだも、刻々と針を動かしていて、本に両手を添えたまま、ふと目をやれば、その一瞥で済む。本から手を離す手間もないし、なにより、見る前から確実にそこで現在時刻を示してくれているという、安心感がある。

 いま、この瞬間、自分のいる喫茶店から一キロ彼方の、家の下駄箱の上に置かれた腕時計の様子を思い浮かべた。だれに見られることもなく、針は一秒一秒、微かな音を立てながら、ほんの少しずつ位置をずらして、時を刻んでいく。

 大学院に進学したころだったか、はじめてノートパソコンを手に入れて、まだ使ったことのない妹に見せたとき、ワープロソフトの文書を「閉じる」と、それまで画面に表示されていた文書が一瞬で消えてしまうことに、妹は、あ、と小さく驚き、不安な目をした。

 そういえば自分も最初はそうだったと、その表情を見て思い出すとともに、自分がその驚きを通りすぎて、消えたように見えても消えたわけではない、しまわれただけだ、と説明できることを得意に感じた。妹も、すぐに驚かなくなったことは言うまでもない。

 けれども本当のところ、表示されていた文章や画像は、目に映る現象としては、間違いなく、瞬時に、あとかたもなく消えている。「開く」「閉じる」は、実際には、開けたノートを閉じたり、本を本棚から出したりしまったりすることではなく、いま見ている画面が一瞬にして現れたり消えたりするのを、現実の物質世界に仮託して、そう呼んでいるだけだ。

 若いころから、再生中の映像や音楽を途中で断ち切られると、軽い痛みが走るようで苦手だったが、名前のとおり「個人」ごとの記録の、作業場にして倉庫であるパーソナル・コンピュータの場合、不意の消滅は、完成されただれかの作品を再生するときとは別種の不安を誘う。

 今日の作業を終える段になって、自分がつづっていた文章、描いていた絵、などを「保存」して「閉じる」とき、かけた労力に見合わないほどあっさりと、それらは画面から消える。毎日のことで、ほとんど意識にはのぼらないものの、実をいえば、やはり毎回、わたしは微かな心細さを感じている気がする。

 一瞬で消える、という現象のレベルだけで、すでに不安に値するが、加えて実際、それらが消えたきりになる可能性も、いくらかは、つねにある。書類棚一本分でも、百本分でも、機械が故障すれば突然消え失せるし、そうしようと思えば、わたしがいまこの指で、すべてを完全に消滅させることも、簡単にできる。そう考えるとき、棚だか机だかに「書類入れ=フォルダ」が並んでいる、かのごとき見立ては剥がれ落ちて、情報はものではない、という、裸の事実が顔を出す。

 長い時間をパソコンの前で過ごす仕事に就きながら、こうした不意の消滅や出現、実体のなさ、消失の不安に、たぶん、わたしはずっと、小さな打撃を受けつづけている。慣れによって乗り越えたわけではなく、ただ意識しないよう自分を抑えているだけであって、実は、画面を点けたり切ったり切り替えたりするたびに、自分はあのときの妹と同じ、不安げな目をしているのではないか、と思うのだ。

 それでも、わたしは通信機能つきの超小型パソコンと化した今日の「賢い」携帯電話をもっていないので、画面の切り替えを目にする頻度は、いまや、多くのひとに比べてずっと少ない。あの表示面積の小さい画面の普及によって、ひとが日常的に目にする影像の出現と消滅のペースは、画面の大きなパソコンとは比較にならないほど、加速しているのだから。

 そうした電子機器のすべてが有害であるとか、昔はよかったとか、そういったことを言いたいのではない。ただ、ごく具体的な、身体に即したレベルで、現在のわたしに起きていること、周りのひとに起きているかもしれないことを、気にかけないでいるのが、わたしには難しい。

 すべてが瞬時に現れては消えつづける、情報がものに取って代わる、その心許なさを、いま、多くのひとが、意識の底で共有しているのではないだろうか。

     *

 ものは、情報ではないから、いまここに見えていなくても、どこかに、実体としてある。間違いなくある、と思うことができる。家に置いてきた腕時計のように。

 情報が明滅する画面から目をあげれば、実物のひしめく世界が見える。辞書。机。カップ。窓。窓の外にも、無数のもの。それが生きものなら、たとえ見えなくても、ときには向こうから、存在を知らせてくれる。

 ある年、春が過ぎて、夜も冷えなくなってきたころ、日が落ちたあとに、仕事部屋の前の藪から、ホ、ホー、という、低めの、優しい、くぐもった声が聞こえてきた。かならず、二度つづけて鳴く。フェルトのような耳触りの声色に、思わず耳を澄まして、次を待つ。

 アオバズクだ。フクロウの仲間で、体は茶色と白、顔は黒く、目は黄色い。わたしはパソコンの画面を見て、日本野鳥の会の「野鳥図鑑」や、サントリーの「日本の鳥百科」といったウェブサイトで、そう確認する。でも、本物の姿を見たことはない。

 見てみたい、とも、特に思わない。鳴くのはいつも夜で、見えなくて当然だ。だから、そのままでいい。本物のアオバズクは、わたしにとって、木々のにおいのする暗闇のどこかから聞こえてくる、あの優しい、くぐもった鳴き声のことだ。

 カジカガエルも、鳴き声しか知らない。家から車で二十分ほどのところにあるブックカフェは、近くを谷川が流れていて、やはり初夏のころ、透明ながら憂いをふくんだ、遠く呼びかけるような声が響く。最初に気づいたときは、カエルとは思わず、かといって虫とも鳥とも違うので、不思議に感じながら、聴き入った。

 夏は、羊山公園がある河岸段丘の崖で、毎年、多くのヒグラシが鳴く。この八月、ひさびさの雨雲に暑さが和らいだある日、崖の脇の坂道を歩いてのぼる途中で、ちょうど気温があがってきて、しんとしていたヒグラシがいっせいに鳴き出し、波状に重なる鋭く柔らかな音に全身をつつまれた。

 秋になると、夜の家を取り巻くのは虫の音で、これはもう、なんの虫とも特定しようのないほどさまざまな種類の大量の鈴の音が、風流というよりはびりびりと鼓膜を震わせる厚みで闇を満たす。暗くなってから徒歩で帰途に就くとき、舗装された中心街や大きな道路沿いではほとんど耳につかないのが、草を刈らない空き地や、うちの庭が近づくと、音量のつまみを回したかのように急に大きくなって、居場所になっているのだな、とわかる。

 わたしの手の届かないところ、目の届かないところ、草むらのなかにも、はるか彼方にも、たくさんのなにかが、たしかに存在していて、それらのいる場所は、わたしのいる場所とつながっている。気配に満ちたひとつながりの空間のなかにいるとき、あの奇妙に眩しい電子的な画面の、唐突な場面転換の繰り返しによる切断の感覚からは、離れていられる。

 空間の広がりは、自分は一人である、という意味での寂しさを感じさせるけれど、それは追い立てられる焦燥による不安とは対照的に、いまいる地面に足裏を落ち着かせる。わたしは、たたずむ。

     *

 吉野せいは、いわきの小作開拓農民にして詩人である夫とともに農業に従事し、夫が戦後、農地解放の活動と詩作に没頭して家を顧みなくなると、田畑の世話と家事、子育て、生活のやりくりのほぼすべてを担った。その夫、三野混沌の死後、夫妻を長く見守ってきた草野心平の「あんたは書かねばならない」の言葉に応えて、七十歳を超えた彼女は筆を執り、『洟をたらした神』を一九七五年に刊行、二年後に世を去る。

 夫は近くの水石山へ好んで登ったが、自分を連れて行ってくれたことはついぞなかった。夫の新盆の折、子や孫たちに誘われて、はじめてその山へ車で訪れたときの、山頂からの眺めを、彼女はこんなふうに記す。

「白い円形の展望台にのぼって、私ははじめて阿武隈山脈の空一線を南から北へゆっくりと眺めた。遠目には濃藍一色にしか見えなかったそれが、実に複雑な起伏、色、線、幾重もの厚み、直、曲、斜線のからみあいもたれあい、光りと影の荘厳な交錯、沈黙の姿に見えていて地底からの深い咆吼、いつもしずかで変わりばえもしない山容の一点一郭に瞳をこらせば、みなぎる活気が一面に溢れているようだ。ここで見れば、山は凄まじく生きているのだ。ここからは見えない山蔭の、その山奥の、その山峡の、その山底の町から村へ、村から字へ、道は幾条にも分かれ分かれて次第に細くなり、やがてくねくねの小径となって、最後の藪蔭の百姓家の軒下に消えて終わるだろう。」(「水石山」)

 その見知らぬ百姓家に、農地改革に奔走する生前の夫が訪ねていく幻の場面へと、記述はつづくのだが、見えるものも見えないものもすべて見通すようにして、俯瞰から細部の拡大へ、途切れることのない目の働きで、「凄まじく生きている」山々をこうして描ききれるのは、彼女がその山地の片隅で、長いあいだ、這いつくばるように農作業に取り組んできたからだろう。自分が苗を植えつけた土も、遠くに見える山の土も、歩きまわる夫の靴底についた土も、ひとつづきのものなのだ。

 それは極度の貧困と労苦をともなう生活だったが、土にまみれていなければ決して味わえない、爽快な風に似た幸福の瞬間もあった。世界のなかにいる、という実感。その孤独と背中合わせの充実を、憧れとしてでも、胸に抱いていたい。

教育の名言(1)

増井淳

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 福沢諭吉
(福沢諭吉『学問のすすめ』)

『学問のすすめ』は1872(明治5)年から1876(明治9)年にかけて全17編の小冊子として出版されたもの。各編10枚内外のパンフレット形式のもので、1880(明治13)年に合本として出版された。合本の序によると初編発行以来、およそ70万冊も売れたという。明治を代表するベストセラーだといえよう。しかし、「本当にこの本を通読した人が現在どれだけあることか、ことに若い人にどれだけあるかというと、存外少ないのではないかと思われる」(伊藤正雄・校注『学問のすゝめ』旺文社文庫)。伊藤正雄がそう書いたのは1967年のことだが、今もその状況は変わっていないのではないだろうか。

  *

福沢は本書〔『文明論之概略』〕の「日本文明の由来」の章では、右の命題を「自由は不自由の間に生ず」とも表現しています。自由の専制ーーつまり、ザ・リバティーーは自由ではないという逆説ですね。自由はつねに諸自由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の自由、たとえばプライヴァシーの自由によって制約されているーーまさにそのいろいろな自由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。 丸山真男
(丸山真男『「文明論之概略」を読む』(上)岩波新書)

『「文明論之概略」を読む』は、福沢諭吉『文明論之概略』をテキストにした読書会の記録が元になっている。丸山の指摘は、以下の福沢の文章を受けてのもの。
「故に単一の説を守れば、其の説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之れに由て決して自由の気を生ず可からず。自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知る可し」(『文明論之概略』)

しもた屋之噺(286)

杉山洋一

日本初の女性首相が誕生して、今まで政治にも興味を示さなかった息子ですら、食事の度に率先して日本のニュースをつけるようになり、高市さんの影響力に感嘆しています。
おそらく彼の友人たちの間でも、こぞって日本の新内閣が話題にのぼっているのでしょう。新首相と関係あるのか、1ユーロ155円だった今年2月から円安はますます進み、今月末178円24銭にまでなりました。ミラノの日本人の間でもかなり生活に負担がかかる、深刻な状況だと聞きました。
そんな毎日ですが、「えんびフライ」、それとも「えびフライ」と言うの、と昨夜、食卓で息子が不思議なことを尋ねるのでよく聞けば、彼が日本の友達から教わった三浦哲郎の「盆土産」の一節の話で、明日11月1日はイタリアの盆休み、家族揃って墓参する日だったのを思い出しました。

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10月某日 ミラノ自宅
学校の職員全体のオンライン会議。ガザからのパレスチナ難民の学生を、我が校でも引き受けるとの報告。特例での待遇とのこと。聴覚訓練クラスには来学期から誰か編入されるかもしれない。一面灰色の瓦礫の街からイタリアに逃れ、それでも音楽をやりたいと思う人がいることに内心愕いた。現在、ガザはイスラエル軍に包囲されている。

10月某日 ミラノ自宅
朝7時43分カドルナ発の北部鉄道でコモ湖駅へむかう。駅の喫茶店でピーターと落ち合って、揃って公証人のところへ向かった。公証人は二人。一線を退いたと思しき老人と、その息子は丁度同じくらいの世代か。ピーターがロンドン生まれだと知ると、ロンドンを訪れたときの話をしきりにしたがり、こちらが日本人だとわかると、老人の父親が大戦後まもなく日本を周遊した昔話を夢中になって語っていた。最初はてっきり商用で日本を訪れたとばかり思っていたが、観光旅行だというから、相当潤沢な暮らしを営んでいるのだろう。
バスターミナル前のレバノン定食屋でピラフを食べ、エルノでピーターから一通り説明を受けて、夜は国立音楽院にむかう。今晩から、パレスチナ支援を掲げ、イタリアの労働組合は2度目の24時間ゼネストに突入。ガザへの支援物資を積んだグローバル・スムード船団をイスラエル軍が拿捕したことに抗議すると表明。船団には、イタリアの国会議員4人が乗船。帰国したアルトゥーロ・スコット(イタリア民主党)、マルコ・クロアッティ(五つ星運動)、欧州議会のベネデッタ・スクデーリ(緑の党と左翼同盟)、アンナリサ・コッラード(イタリア民主党)らが、イスラエル当局から虐待を受けたと糾弾。イスラエル軍や強制送還の機内での扱いについて、インタビューで詳細に状況を説明している。ボローニャ、フィレンツェは中央駅が占拠され、国鉄の運行が中止。ブレッシャ中央駅も線路にデモ隊が雪崩れ込んだ。トリノでは工場が占拠され、ボローニャ大学、ミラノ大学も占拠された。各都市で数万人規模の街頭での抗議活動激化。
同船団には、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリも乗船。イスラエル人と分かると、レストランなどで入店を拒否される場合もある、と息子が話していたから、既に彼らの世代でも状況は切迫してきているのがわかる。夏前、ドゥオーモ周辺で若者たちがミラノ大学へ向かってパレスチナ支援の行進をしているのを見たが、息子はそのデモ行進に抗議するイスラエル人観光客とデモ参加者との小競り合いを見たらしい。今日でもイスラエル人観光客は抗える状況にあるのだろうか。ミラノ大学の社会経済学部はヴェルディ音楽院のほんの2、30メートルほど手前の斜向かいにあって、「パレスチナを解放せよ」と書かれた巨大な垂幕が下がっている。

10月某日 ミラノ自宅
瀬尾さんと加藤君が4手曲を再演してくれるそうなので、気になる部分に手をいれる。15年前に書いた自分の楽譜を引っ張り出してみると、今とは全く違って、使っている音が明るいことにおどろく。基本がメジャーコードだから、重ねてあっても響きは基本的に開放的に響くのだろう。
イタリアでイスラエルのガザ侵攻がこれだけ批難されるのは、国連でガザ地区の特別報告官を務めるイタリア人法学者フランチェスカ・アルバネーゼの発言の影響も少なくないのではないか。10月7日のハマス・ネタニヤフよりずっと以前から、新聞やテレビのニュースで彼女の発言がたびたび大きく取り上げられている。日本における緒方貞子のような存在なのだろう。夫と子供が二人いるところまで同じだ。
イスラエルのみならず、イタリア政府への厳しい批判を含めアルバネーゼの発言は一貫して直截だが、イスラエルや米国が彼女を批判する勢力が彼女を押しとどめようとすればするほど、彼女への信用は高まり、彼女の動向が注目されてきた。ハマスとイスラエルが、トランプ大統領の和平計画に則り、停戦、人質、捕虜などについて仲介国エジプトで協議開始との報道。

10月某日 ミラノ自宅
息子は昨夜からフィエゾレのオーディションに出かけている。フィエゾレの宿は高いので、フィレンツェ、場末の小さな宿を予約して、駅からも宿からもほど近いサンタントニーノ通りの中華「隊長麺館」の場所を教えた。ガザから解放されたイスラエル人の人質が乗る赤十字のバスの映像。バスを囲む群衆たちは何を叫んでいたのだろう。たとえ脆い停戦であれ、実現し人質を解放したトランプの手腕には脱帽する。他の誰もできなかった。

10月某日 ミラノ自宅
イスラエルからやってきたアリス、初めてのレッスン。とても恥ずかしそうに上目遣いの、それも少し泣きそうな顔で微笑みながら振るのが印象的だ。振り始めると、とても音楽的で、優しい音がする。あまりにはにかんでいるから、「歌う」ことまでは到底できないが、彼女の身体の中にある音が、とても豊かなことは確かだ。イスラエルで兵役をやってきた、と以前話していたが、目の前の消え入りそうな妙齢が、機関銃を下げて軍服を着て歩いている姿は、どうしても想像できないのであった。
彼女が帰った後、クラスでは軍需企業のレオナルドで戦闘機を作っているシモーネの話になり、それを知ったら、アリスが大喜びする、と大笑いしたので、それは冗談にもならない、と軽く諫めた。彼女がクラスに入って、テルアビブから来ました、と自己紹介をしたとき、誰ともなく、ああ、と薄い嘆息が洩れたのは忘れられない。とは言え、今後誰もアリスを批難することはないだろうし、彼女に非がないのも分かっていて、殆ど無意識に口をついて出た溜息は、おそらく、アリス自身が、イタリアで暮らす中で毎日何度なく聞いているに違いない。
たとえば中国からの留学生に、あからさまに横柄な態度を取る同僚もいて、言葉も分からない癖に、どうせ修了証書だけ欲しいだけだ、みたいに言われると、つい学生が気の毒になるのだが、そういう見下した態度とは全く違うのである。イスラエル人、と言われたとき、否が応でも歴史的に問題に関与し、片足を突っ込んでいるイタリア人としての無力感、後ろめたさ、ともすれば誰に対してというのでもない怒りのようなもの、それらが殆ど無意識に混濁した反応は、たとえ停戦が実現しても、当分消えることはないのだろう。
エジプトのシャルムエルシェイクにてエジプト・シシ大統領、トランプ大統領共催の中東和平サミット開催。人質解放、パレスチナ人捕虜の釈放、ガザの戦闘終結に調印。トランプ大統領、マクロン大統領、スターマー首相、エルドアン大統領、その他アラブ諸国の首領らとともに、メローニ首相参加。イスラエル、ハマスは出席していないが、先月の米国入国を拒否されたパレスチナ自治政府のアッバス議長がトランプ大統領と握手。メローニ首相は「今日は歴史的な日であり、イタリアが今回のオペレーションに強く関与していることを誇りに思い、今後の復興にも積極的に関与し、治療を必要とする子供たちが、イタリアでの治療が受けられるようにもしていく」と発言。彼女を含むヨーロッパ各国の首脳らは、アメリカの大胆な采配で訪れた停戦を、内心どんな心境で受け止めているのだろうか。

10月某日 ミラノ自宅
週末の授業で一回目だったからか、出席する学生も少なかったので早めに切り上げて、国立音楽院で息子たちのべリオ「リネア」とライヒの「四重奏」を聴く。べリオではかなり大っぴらに間違ったらしいが、全く気が付かなかった。ピネローロでルーポに聴いてもらってから息子自身の音楽も能動的で大胆になったように思う。夜は、エマヌエラの退官記念コンサート。一柳さんの「二重協奏曲」CDが、無事清子さんに届きました、と市村さんからメールが届く。「ちょうど命日だったので、先生とお話ししました」、と丁寧に手書きのお便りをいただいたそうだ。

10月某日 ミラノ自宅
留守宅を預かるピーター宅の鍵を受け取りに、家人と連立ってエルノへ向かう。天気予報では小雨だったが、コモに近づくと、すっかり本降りになってしまった。念のため登山用防寒靴を履いてきて正解であった。コモからネッソまで、普通なら観光客の人いきれで大騒ぎの路線バスも、雨のお陰なのか快適で、ネッソでバスを乗り換えてエルノ「自由広場」に着いた。細く縫ったような石畳を登り始めたところで、迎えに来たピーターと出会う。
彼の家は数分登ったところにあって、きれいに整えられていた。地階は彼の仕事場として、CDや本が棚に並んでいる。日本の現代音楽のCDが沢山並んでいて、べリオやクルタ―クのような現代音楽から、古楽に至る英語の研究所も並んでいる。ピーターがアメリカの学会に出席したときの話になり、アメリカの研究者が湯浅譲二の音楽について発表した音楽学者がいて、湯浅譲二の音楽は、彼曰くフィボナッチ数列に基づいて書かれているという。当時アメリカに滞在していた湯浅先生が、たまたまその学会に参加していて、フィボナッチなど使ったこともない、と発言したので、何とも気まずい雰囲気になった、と笑った。エルノ村には、肉屋や食堂の看板の跡が残る建物はあるが、現在開いている店は一軒もない。立派な教会と墓地、それに目新しい公園があって、特に墓地にはツェルボーニという墓石が並ぶ。小さな山一つ向こうにツェルビオという村があるから、ツェルボーニという苗字はそこが発祥の地に違いない。30年ミラノに住んでいて、ツェルボーニというイタリア人には会ったことがなかったので、これだけ墓石が並ぶと、驚いてしまう。

10月某日 ミラノ自宅
辻さんとJeux IIIを再演した般若さんからメールを頂く。「私たちは楽譜にある音に従って演奏していくだけ…でも、ffff前後から、再び自分たち以外の力が加わってくる様な体験をしました」。
自分の力で書いているのではなく、どことなく、誰かに自分が書かされているような感覚があるから、自分たち以外の力、というのは、もしかすると本当にどこかにあるのかも知れない。
翌日、同じ曲を辻さんはサックスの大石君と再演してくださって、それを聴いた垣ケ原さんからもメールを頂く。
「6年ぶりにJeux IIIを聴いて、前近代を否定的媒体として近代を乗り越える、という言葉を思い返していました。長崎に伝わる歌、グレゴリア聖歌を素材にしながら、それをなぞるのではなく全く新しい音楽になっている、ということです。昔、復興期の精神、という言葉が流行った頃によく言われたそうです。能「安宅」が「勧進帳」になり、映画「虎の尾を踏む男」になったのと同じことが起きていると思った次第です。それと太鼓はボレロを思いました」。

10月某日 ミラノ自宅
今朝はイヴァン・フェデーレと日本の学生の皆さんとズームを使ったオンライン・ミーティング。イヴァンは頭の回転がとても速く、話したいことが沢山あって、且つ説明の途中で訳されるのが好きではないと実感する。話の腰を折られるような心地なのはよくわかる。途中、恐らくソシュールが言語学で使っている単語なのだろうが、だしぬけにtesiとdesinenzeと言われて、どう訳せばよいか戸惑ってしまった。語幹、語尾変化とか、主部、変調語尾あたりだろうが、突然言われると全く言葉が出てこなかった。冒頭の強拍に相応する部分、それに続く弱拍に相当する変化部分、のようなことを云って誤魔化したとおもう。曖昧であることを好まず、聡明で明晰で論理的でもあり透明性もある教え方。単刀直入に本質に迫り、見事な観察力、分析力だと感嘆するばかりであった。お陰で2時間訳しただけで、何だか普段の何十倍も頭を使った気分である。いかに毎日何も考えていないかわかる。
ネッソの不動産業者ファビオに会うため、コモへ向かう。駅前コモ湖畔の停留所から130番のバスに乗ろうとすると、犇めく観光客で満員だからと乗せてもらえない。なるほどニュースで聞く京都のオーバーツーリズム等こんな感じか、と思う。世界各地からわざわざコモ湖を目指して訪れているのだから、彼らを優先させてあげたいとも思うが、次のバスはちょうど1時間後であった。ピーター曰く、国鉄コモ駅まで歩けば始発なので、そこからバスに乗るように言われる。以前はとても多かった日本人観光客の姿は、まるで見かけなかった。
ファビオ曰く、先週もちょうどエルノの物件をドイツ人女性に売ったばかりだと言う。音楽に関する会議だか学会だかを企画している、ハンブルクの70歳の女性は、既にエルノに一軒自分の家を持っていて、すっかり気に入ったからもう一軒購入した、ということらしい。店もなく、交通の便も甚だ悪いのに何故かと尋ねると、「どうやらその、何もない、というのが魅力らしいんだ。土地の人間にはわからないがね。もう20年もここでこの会社をやっているが、何時からか、何故だろうか、とか考えるのを止したんだよ。人生不思議なことが沢山あるからねえ」と笑った。
先ほどまでは深秋らしい燃えるような美しい夕日が、湖面を真赤に染め上げて、それは見事だったが、今目の前には漆黒の夜の帳が下りていて、湖面に沿って、点々と家々の灯りが明滅している。最終便と思しき一艘の汽船のオレンジ色の照明が、ゆっくり湖を移動しているのも見える。目を凝らしてみれば、一面の夜空に見えていた闇のなかに、山の稜線が連綿と続いているのが浮き上がってくる。
刺すような山間部らしいつんとした冷気の匂いを嗅ぎながら、10年もの時間をここで暮らしたピーターが何を考え、感じていたのか思いを馳せた。
ミラノの家に着いたのは21時を回っていて、階下で息子がバラード4番を譜読みしているのが聞える。「ショパンの聴こえる暮らしはいいわね」、と家人が機嫌よく夕食の支度をしていた。このところ彼女はフリットが気に入っていて、庭のサルビアや他の野菜やら、小鰯やらを、重曹と一緒に溶いた小麦粉をつけて揚げている。

10月某日 ミラノ自宅
紅葉した庭の木が朝からうっすら霧雨に濡れそぼる姿は、美しい。隣の部屋で、息子が、シャリーノの「歪像anamorfosi」をさらっている。「水の戯れ」がふっと背景に吸い込まれたかと思うと、「雨に歌えば」と「洋上の小舟」が目の前にあらわれる。その響きは黄金色に燃えたつような、秋の光線を想起させるのだが、恐らくシャリーノの本質は、強烈な郷愁を誘うこの触感だとおもう。
イスラエル兵士の引き渡しに関して、ハマスが騙したとの報復に、イスラエル軍は再びガザ地区に激しい爆撃を加え、100人以上死亡との報道。

(10月31日 ミラノにて)

アウシュヴィッツ

笠井瑞丈

ポーランド
その場所
その空気に触れ
空気は冷たく
風が強い一日
木々たちが落とす長い影が
まるで生きてるように揺れ
80年前の記憶を映し出す
大勢の死者達の行進を
自然はいつも歴史の目撃者だ
変わりゆく景色
変わりゆく時間
変わりゆく世界
全ての事実をずっとずっと見てきた
小さな箱の中に落とされた緑の缶
あんな小さな部屋に大勢が押し込まれ
その時どのような思いでいたのだろう
きっとそこは想像を超えた世界だ
どうしてこんな美しい世界が
全ての悪が集約した世界に
変わり果てたのだろう
人間の持つ全ての悪
初めての体験
アウシュヴィッツ

万博インドネシア館

冨岡三智

先月に万博が終了した。私もインドネシアのナショナルデー(5/27)とスカル・タンジュン・ダンス・カンパニーの公演(11/3~5)の際にスタッフパスをもらって入り、インドネシア館を見ることができた。というわけで、今回はその話。パビリオンにはインドネシアが見てもらいたい国のイメージが詰まっている。

パビリオンは船の形をしている。これはピニシと呼ばれるスラウェシ島ブギス族の伝統的な木造帆船を連想させる形だ。ちなみにピニシは2017年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。正面のアウトドアステージには「喜びの動き」と名付けられ、毎週のようにインドネシアから舞踊グループがやってきて、時には日本国内で活躍するインドネシア芸能の団体がやってきて公演する。パビリオン入口のIndonesiaの文字が打ち出された壁には、インドネシア各地の様々な仮面が、彩色前のまだ白木の状態で多数展示されている。

パビリオンの中に入ってすぐの吹き抜け空間には熱帯雨林の森が再現されている。ここは「自然:野生の豊かさに身を委ねて」と名付けられている。植物はすべてインドネシアから運ばれた本物で、湿度も現地の条件を再現しているそうだ。森の中にはジャワ豹やらバリ・ミナ(ムクドリの一種らしい)やら極楽鳥やらオランウータンやらの希少動物をかたどった造形美術品が配されている。インドネシアは「多様性の中の統一」をスローガンにしているけれど、その多様性を希少なものを多く含む多様な自然・生物の多様性として表現するというのは最近(2000年代頃以降?)のことのように思う。実は、インドネシアからは以下の4件がユネスコの世界自然遺産に登録されている(カッコ内は登録年):ウジュン・クロン国立公園、コモド国立公園(1991年)、パプアにあるロレンツ国立公園(1999年)、スマトラの熱帯雨林遺産(2004年)。というわけで、熱帯雨林の森というのはまさにインドネシアの顔なのである。

その次は「没入体験:ヌサンタラの冒険」とある円形の空間で、暗い中、360度のスクリーンにマングローブ林や滝や海底などのインドネシアのダイナミックな自然空間の映像が投影される。いま列記したのは自分が写真を撮って確認できるものだけだが、もしかするとこれらの自然の映像は上述した国立公園の映像なのではないだろうか…と(自信はないが)感じる。ここではまさに足元が浮いて宇宙空間に放り出されたような没入体験を味わえる。

そこからゆるやかならせんスロープを通って2階へ上がる。この回廊は「文化・遺産を守る」と呼ばれるギャラリースペースで、黒い壁に多様な種族、年齢の無名の人々の白黒ポートレートが両側に並ぶ。何の説明もなく静かな空間だが印象に残る。回廊は続くが、今度はクリスなどインドネシア各地のさまざまな種類の剣が展示されている。美術館規模の展示と言って良いくらいだ。ちなみに、クリスも2005年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。

いつの間にか回廊を抜けて2階に到達すると、眼下に先ほどの熱帯雨林が広がる。私がカリマンタン島で見た森の中の家は高床式で、こんな風に森が見えたなあ…と思い出す。その森を取り囲むように壁沿いに空中デッキがあり、剣の展示も続く。壁の半分はガラス窓で、ここから光が入るため森は1階で見たときよりも明るい。このガラス窓がパビリオン正面に見える部分で、ここから目の前に大屋根リングが見えると同時に、眼下にアウトドアステージが見られる。

森の上空を1周して、再びクローズドの青暗い円形空間に入る。「未来:知恵のレガシ」と銘打たれた空間の中央にインドネシアの新首都:ヌサンタラのジオラマがドーンと広がり、やはり周囲の360度スクリーンにインドネシアのさまざまな言語やそれに対応する日本語で「ビンネカ・トゥガル・イカ(多様性の中の統一)」などのスローガンが映し出される。

そこを出ると「伝統織物:色彩の海を航行する」空間に出る。インドネシア各地の織物が、手に取れるような形で展示されている。あえてジャワ以外の、まだあまり知られていない地域の織物を出しているように見えた。色も淡く繊細な文様が多く、日本人の嗜好にあったものをあえて選んで出品しているように思えた。

最後はシアター。ここではガリン・ヌグロホの映像が上演される。5月に入った時はバリのワヤンをテーマにした映像だったが、10月に見たときはジャワのジョグジャカルタの王宮などの映像だった。何種類か用意されていたのだろうか。シアターを出て出口に向かう狭い回廊にはワヤン人形やワヤン絵画が展示されている。ワヤンも2003年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。実は現在のインドネシアの文化大臣はワヤンやクリス(剣)、仮面のコレクターなので、これらが展示されたのには大臣の意向も反映されているのかもしれない。

ふじかげ

北村周一

毎日まいにちそれも朝昼晩に眺めつつ暮らしていると、愛着がわくと同時になんとなく飽きてもきます。
ひがしの空に目をやれば名も知らぬ山の向こうにいつものぞいている富士山。
標高は3776メートル。
静岡の清水側から日々見ていたからかもしれませんが、そんなに高い山には見えない。
四季折々表情を変えるといってもやっぱり毎日のことだから気にも留めない。
山というものはおもしろいもので、近くで見るとずっしりとした量感を感じますが、遠くから眺めているだけでは平面的にのみ視野にひろがってくるように思われます。
つらなる山並みもその稜線もきわめて薄っぺらな感じにこちらに迫ってきます。
富士山といえどもある距離を置いて眺めれば、平面的なまさにぺらぺらの一枚の絵(それこそ絵ハガキ)のように目には映ります。
近隣の山々に遮られている場合はとくにそのように視野にひろがってきます。

~それにしても魔訶不可思議の山ならん いまわがまえのふじかげひとつ

富士山は見事なまでの独立峰といわれています。
けっしてほかの山々とは交わらないというつよい意思のようなものを感じさせるほどです。
あの長い長い裾野あればこその円錐形は、どの時代にあっても人を魅了する。
とはいっても、富士山は歴史的にも1000年以上の昔から噴火を繰り返してきた日本最大の火山でもあります。
3000年ほど前(縄文の終わりごろ)の富士山は今の新しい富士山とはちがった姿をしていたといわれています。
つまり古い古い富士山がいくつか今の富士山のお腹のなかに隠されているようなのです。
その後何度か大きな噴火を繰り返してきた結果、現在のかたちになったわけです。
ということは、いつまたその姿かたちを変貌させるかわからないまだ真新しい活火山のひとつということになります。

滑り
やすき
プレートの
上にあわれあわれ
富士のすそ野はどこまでがすそ野

地震学者つじよしのぶ(都司嘉宣)の著書『富士山の噴火~万葉集から現代まで』に詳しく書かれていますが、富士山はたまに休んだりはしますが、噴煙は頂上その他から排出しつづけていたといわれています。
竹取物語の最後のくだりは以下のように締めくくられています。
帝は、天に一番近い山は駿河の國にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の藥を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになつて、その藥の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るといふことであります。
竹取物語:和田万吉(青空文庫より)
富士 冨士 不二 不尽 不死・・・。
数多くの古文書にも顔を出すように、煙りたなびく富士の高嶺はその当時のひとびとにとって日常茶飯の出来ごとであったのかもしれません。

~けむり吐く不尽のたかねに身を焦がしうたいたりけれいにしえびとは

そんな富士山に一度だけ登ったことがあります。
高校一年の夏のこと。
学校主催の遠足みたいな行事だったと記憶していますが、一年生だけの自由参加でした。
男女合わせて150人くらいは参加していたかと思います。
七つ年長の従兄弟から登山用具を借りての富士登山は、思っていた以上にきつかった。
八合目あたりで山小屋に一泊して翌日早朝頂上を目指すことになっていました。
同級生たちの多くはその夜こっそりと山小屋を抜けだして星降る夜空を仰ぎに行ったけれど、自分は同調しなかった。(担任教師が小うるさかったからでもあるが。)

~夜の月にもっとも近きお山なれば赫映姫にも愛されたるらし

早朝のご来光は、夏の富士ではすっきりと拝むことはとても無理な話で、それでも一応東方向いて手を合わせました。
それから頂上を目指して登り始めたのでした。
かくて山道と悪戦苦闘しているとき、後方からすごい勢いで登ってくる一団があった。
同じ高校の山岳部の連中だった。
訓練の一環だったらしい。
そのまま追い越されてあっというまに見えなくなった。
頂上に着いたら土産物屋があった。
その一角でカルピスのような乳酸飲料をコップに分けて売っていた。
とにもかくにも冷たいものが欲しかったので、みんなわっと群がった。
百円でのどを潤したのち、希望者のみお鉢巡りをした。
富士山の火口をぐるりと一周するのである。
火口の周囲には煙りもなければ地熱も感じなかった。
ただ火口の底に大きくゴシックで四文字、高校の名称が書かれてあった。
山岳部の連中が火口の石を目立つように並べて置いていったのだ。
こっちはもうくたくたなのに、よくやるなあ。
その後全員無事に須走を文字通り全速力で駆け下りた。
自分は一組だったので、めずらしくトップ集団のまま下山した。
下界は空気がおいしかった。

夜の山へ登る(8)

植松眞人

 風がやんだ。木々の間から、神戸の街が見えた。陽は高く昇っていたけれど、足元が冷えてきた。目の前のカーブを曲がると、高山植物園が見えてくるはずだ。
 正直、疲れてはいたけれど、まだ歩けそうやった。僕は一歩ずつ歩いた。なにしに六甲山に来たのかなあ。ずっと歩き通しで歩いていると、歩くことが目的のような気がしてきてた。
 カーブを曲がると、バス停があった。バス停のベンチに、あんたが座ってた。なんでやろ。僕はそんなに驚かんかった。そこに、あんたがおるなんて思ってなかった。僕はもうあんたが死んでるもんやと思ってたんや。
 そやのに、あんたはベンチに座ってた。僕はあんたの隣に座った。
「六甲やったんやな」
「そやな」
「夙川は?」
「あそこは、夜風が強い」
「なるほどな」
 僕は笑ろた。なんか、静かに笑い始めてしもた。僕が笑い続けてると、あんたも一緒になって笑ろてたな。
「笑うなや」
 笑うな、と言いながら、あんたはだんだん声を出して笑い始めて、最後には僕より大声で笑ってたな。
 あんたの笑顔は高校生の頃のまんまやった。僕はなんとなく、背後にある六甲山の山頂の方を見た。神戸の背骨のような山並みが見えた。
「帰ろか」
 僕が言うと、あんたは笑うのをやめて、僕の目を見つめた。
「帰れるかな」
 あんたが言う。僕は笑いかけた。
「大丈夫や。誰も文句言う人はおらへん。美幸さんもあんたの帰りを待ってる。大丈夫や。一緒に帰ろ」
 僕がそう言うと、あんたはホンマに心細そうな顔をして、もう一回、帰れるかな、と言うた。
 僕はあんたを励まそうと、あんたの肩に手を置いた。あんたの肩はびっくりするほど冷たかった。
「なんでこんなに冷たいんや」
 僕は驚いてちょっと大きな声を出してしもた。そしたら、あんたはふらふらっと立ち上がった。そして、両手を上に上げて、ゆらゆらと揺れ始めた。ああ、これはあの時の文化祭の踊りやな、と僕は思った。
 冷たい身体で、あんたは六甲山の中腹で、ゆらゆらと昆布みたいに踊り続けた。
 僕も立ち上がって、同じように身体を揺らした。風が止んだ。僕はあんたの方を見ないようにして、「帰ろか」と声をかけ、山道を下りはじめた。(了)

エビと七匹の小雨

芦川和樹

それから谷底で割れた胡桃の奥に、奥の襖の、ふすまの、破れたぶぶんに耳をあてると、アイスクリームが冷えた手で耳朶を引く。いいですね、この先にうつくしいシュリンプが降ります。午前 発泡、帯になっていく。手綱を、たづなを、左の耳朶に結びます。エビをつかまえて、離さないように。怒っているときはたてがみを梳かすこと。交通

金目鯛をいただきます金
          目
          鯛
    視無を掟  をもらう。目
   す   や  玉をよく光ら
  る    則  せて、ひどい
    視無 法  話に抗うとき
   す   の  の盆。防御の盆
  る    事        を
  こ    物    雨小  か
  と    はで国両の  すざ
  が
  容易で、目を半分閉じれば
  なんだかよくわからない妖
  精やトナカイが見えた。そのなかに虎
  (カーネーションかな)     を
                 希
                望
    エ の匹七。ビエ るす
  ビ
   。
    蟹。うたた寝している食
    事をしている仕事玉手箱
    に煙を補充するエビ。猿
    、キジ。が足された。床

床にはあたらしい傾向、蛍光経口の傘が
開かれてエビを跳ね返す。傘を持つ小雨
は知らないうちに知らない歌を口ずさむ
耳朶はその歌を知っている。し、つい。
歌ってしまう。小雨には聞こえなかった
エビ
は聞いた、たてがみをくねくね
うごかしてあれ怒ってるんじゃないやばい
櫛(妖精たち、カーネーションどもが)
 (くしを貸してくれる)
節、ふし。節じゃないけど脚が引き攣って
引き続き。困るね ジャックがいいました
次の角で勝負しよ、今後

阪本順治監督の新作

若松恵子

10月31日より、阪本順治監督の新作映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」が公開された。今回は運よく完成披露試写会に当たって、ひと足先に見ることができた。東京国際フォーラムで行われた試写会には、主演の吉永小百合さん含めメインキャストが勢ぞろいして挨拶した。阪本監督があいさつで「この映画は2回目がおもしろいんです」と言っていたから、ちゃんとお金を払って劇場に2回目を見に行かなければと思う。

今回は、世界初の女性エベレスト登頂者であり、七大陸最高峰にも立った登山家、田部井淳子の物語だ。彼女のエッセイ集『人生、山あり”時々“谷あり』を原案としている。映画は、エベレスト頂上に立つことをクライマックスには描かない。晩年、彼女ががんの闘病をしながら福島の高校生を招待して富士登山の活動をしていたことも大げさに描かない。有名人の子どもである事で生きづらくなる息子との衝突も、しめっぽくは描かない。彼女の人生の軌跡をコツコツと辿っていく。そこが良い。見終わった後、しみじみと色々な事を思い返した。そして田部井淳子という人にとても興味を持った。

新作公開をきっかけに、家にある阪本作品のDVDを色々出してきて見返している。久しぶりに見た「傷だらけの天使 愚か者」(1998年)は、今もなおかっこいい映画であった。「座頭市 THE LAST」(2010年)は、香取慎吾が若き座頭市を体現していて、みごとだった。「市!そいつらをみんな叩き切ってくれ」悪い奴らに立ち向かう座頭市をいつのまにか応援していた。埋もれてしまわないでほしい名作である。

阪本監督はインタビューで「自己模倣はしたくない」と語っている。「らしい」と言われることから逃れるように、様々な題材に取り組んできたように思う。でも、たくさんの作品のなかに一環として流れているものがあって、そこに私は魅かれるのだと思う。

おれのパソコン

篠原恒木

カイシャをお払い箱になったら、我が家には古いノートPCしかないことに気付いてしまった。11インチのMacBook Airというやつだ。小さくて薄くて軽くていいなと思い、十年以上も前に買ったのだが、二、三度触ってそのまま放ったらかしにしていた。家にいるときはPCなんて使わなかったからね。

勤め人の頃は、Windows一辺倒だった。なぜそんなおれが11-inch, Early 2014のMacBook Airなど買ってしまったのか。きっと周りのカメラマンやデザイナーがみんなMacを使っていたからだろう。クリエイターならMacなのだ。カッコイイじゃんね。当時のおれはそう思った。
だがすぐに放置してしまった。理由は「Windowsとは全く違う操作に手間取る」という、至極真っ当なものだったような記憶がある。

ところが家でもPCが必要な状況になり、十年ぶりに開けてみて、いままで使わなかった理由が違っていたことを思い知らされましたね。
画面が小さすぎるのだ。なんたって11インチですよ。この十年で遠近両用の眼鏡レンズを何回取り替えたことか。おれの老眼は飛躍的に進んでいるのだ。
見えない。目を凝らしても文字が見えない。遠近両用の眼鏡なので、極限まで顎を前に出して画面にかじりついても見えない。3分間ディスプレイを見つめていたら、アタマの奥が痛くなってきた。

カイシャの机では、ノートPCに大きなモニターが設置されていたので、キーボードはノートのものを叩き、ディスプレイはもっぱらモニターを眺めていた。あのモニター、24インチはあったはずだ。それがいきなり11インチだ。

十年前、なぜカネをケチったのだろう。せめて13インチ、いや、15インチのタイプを買えばよかったはずだ。我が老眼の進み方を計算に入れていなかったおれがバカだった。

「Windowsの新しいやつに買い替えればいいじゃないですか」
もっともだと思うが「二、三度しか触っていない」という事実がおれを躊躇させた。モッタイナイではないか。十年間みっちりと使い倒したのならばすんなりと買い替えるのだが、まだまだ使わないとバチが当たるよ。

「モニターを別に買えばいいじゃないですか。そんなに高くないし」
もっともだと思うが、おれの汚部屋は足の踏み場もなく、机の上は本やCD、DVDが積み重なっていて、モニターを置くスペースなどない。ついでに言っておくと、机の椅子にも座れない。椅子の上にも本が積み上がっているからね。なめんなよ。 

おれは十年ぶりに11-inch, Early 2014のMacBook Airの蓋を開けた。最初で躓いた。パスワードを覚えていない。アレかなコレかな、それともソレかなと打ち込んでみたが、すべてハネられる。ようやくPCの起動に成功したときにはすでに日が暮れていた。
「今日はこれくらいで許してやるか」
おれは2014年型のMacBook Airにそう言い放ち、蓋を閉めた。どうやらテキは文字通り「古豪」のようだが、こちとら無職の身、時間だけはたっぷりあるのだ。明日またじっくりと取り組めばいい。

翌日、よせばいいのにおれはまた古豪と対峙した。十年間の放置によって、macOSがまったくアップグレードされていない。それを最新の状態にしなければならないのだ。
いまおれはmacOSと書いたが、じつはその言葉の意味をまったく分かっていない。どうか許してほしい。なんとなく分かるのは「十年間穿きっぱなしの古いパンツはいますぐ捨てて、新しいパンツに穿き替えないと、アンタとは付き合ってあげないからね」というようなもんなのだろう。気持ちは分かる。
この文章を書くために調べてみたら、OSとはオペレーティング・システムの略で、PCやスマートフォンの基本ソフトウェアのことらしい。キーボードの入力やアプリの起動を管理して、ユーザーがデバイスをスムーズに使えるようにするんだってさ。片仮名が多くてよくわからん。おれにとって「オーエス」は綱引きのときの掛け声でしかない。

ところがこのOSのアップグレードが手間取った。テキはこの十年間、おれの老眼よりも高度な進化を遂げていたらしい。おれが十年間で老眼レンズをアップグレードしたのは三回ほどだが、macOSは一、二年に一回のペースでヴァージョンアップしていたようだ。ということは単純計算しても、十年前に比べて少なくとも五段階は進化していることになる。しかもおれに黙って、おれの許可もなく、しれっと。これでは裏ガネ議員と同じではないか。
しかし、この裏ガネ議員を登用しないと、我が11-inch, Early 2014のMacBook Airは機能不全に陥るのだろう。泥舟のPCは落ち目の党と連立してまでも、機能を維持しなければならないのだ。
おれは「エイヤッ」とばかりに、一足飛びに最新のmacOSをインストールしようとしたが、これができなかった。
「このPCは古いけんね。そないば新しいOSは対応できんとよ」
というのが、十年前のPCの言い分らしい。つまりは、
「もう買い替えなさいね。諦めなさいね」
ということなのだろう。それに対してのおれの答えは、
「嫌だ。この環境でなんとかする」
だった。

森のクマだって、食べるものがなければ仕方なく住宅地まで降りてくるのだ。おれもPCを買い替えるカネが惜しければ仕方なくこのPCでジタバタするしかない。

おれは一段階ずつ新しいヴァージョンのOSをインストールしていった。膨大な時間がかかった。だがついに、
「ここから先は、この古いPCではあきまへん」
という通告が表示された。連立はおろか、閣外協力もできないという。完全な関係解消だ。数か月後の日本の政局のようだ、とおれは思った。
「裏切り者め」
おれはがっくりと肩を落とした。

いまおれは「がっくりと肩を落とした」と書いたが、実際には肩を落としていない。自慢しても「胸を張った」こともないし、希望に「目を輝かせた」こともない。おれはこういう慣用句が嫌いだ、と眉をしかめている。

話を戻すぞ。
最新のヴァージョンにアップデートできないPCを前にして、おれは思った。
職場で女性を「○○ちゃん」と呼んでセクハラ認定されたヒト、「小学生でも分かるでしょう」と発言して辞任した地方放送局の社長さん、どれも同じだ。最新のコンプライアンスにアップデートできていなかったのがイケナイ。
でもね、おれなどはもっとヒドかったのですよ。
年下の同僚には男女関係なく呼び捨てだった。敬称略だ。ちゃん付けすらしなかった。
「小学生でも分かるでしょう」などというジェントルな言い方はしなかった。「ウチの犬でも一回言えば理解するぞ」と言っていた。アブナイアブナイ。訴えられなかっただけで、おれがいちばんアップデートしていないではないか。そう、この十年前のPCはおれ自身なのだ。

ところが朗報が舞い込んできた。PCに詳しい奴に訊いたら、最新のOSがインストールできなくても、十年前のPCは作動できるというのだ。Wordも打てるし、メールも送信できるらしい。アプリによっては何らかしらの不都合は生じるかもしれないが、とりあえずは使えるとのことだった。

寿ぎではないか。こんなおれでも「なんとか使える」のだ。
いいよ、Wordとメールが使えれば。じゅうぶんですよ。
こうしておれはなんとか十年前のPCでこの文章を打ち、どうにか保存して、おそるおそるメールで送信する。ディスプレイに浮かんだ文字は小さすぎて見えない。誤字脱字はないだろうか。WindowsとMacではメールのやり方も違う。ちゃんとこの文章は添付されているだろうか。無事にメールは送れているのか。いや、もうどうでもいい。アタマの奥が痛くなってきたので、推敲ナシでおしまいにしよう。

さあ、今日最後の曲になってしまいました。聴いてください。

お酒はぬるめの燗がいい
肴は炙ったイカでいい
流行りのOSなくていい
ときどきメールが打てりゃいい