2014年5月号 目次
青空の大人たち(2)
この私にしてこの中学ありき、とでも言えばよいだろうか。あるいはどっちもどっち、という教訓に落ち着くべきなのかもしれず、またこの話をするたびにわが中学はその実在を疑われるという憂き目にあっているのだから、もはや作り話の類でも結構なのだが、ここは穏当に記述を進めることにする。
さて中学生なるものは奇態な生き物であるということは論を俟たないが、中等の私がどうであったかと振り返るに、無気力・弛緩を一般の学園則に照らして向上心がないと捉えれば、ひとまず自分を不良だったと考えることもできる。
というのも、入学してすぐさま教師からの通達を無視しているからだ。通う学園に暗黙のルールがあり、どうやら生徒はなべて仮入部を経て部活動に所属すべしという思惑が職員室あたりにあったようだが、こちらは知ったことでない。いや正直、理屈がとんと思い出せないが、そもそも生徒手帳にも書かれていない規則など守ってやる義理もない、と言い訳をここで後付けしておこう。
興味もなく、やる気もない、ある種の終わりのあとの無意味を生きていた少年であった次第だが、数ヶ月のあいだ見逃されても、むろんある時点で教師に気づかれ呼び出され問いただされるに至る。説教を食らったような記憶がないので、どうも当時、意にも介さず聞き流していたようだが、こちらが部活に入る気など毛頭ないと悟った相手が、あきらめたように特例で生徒会へ入るのはどうかという代案を出してきた。
確かそのとき一年の生徒会メンバーがほとんどいなかったらしく、しかもとりあえず生徒会室にいるだけでよいと聞き及んだので、そんな楽な立場ならばやってやらんでもないと偉そうに引き受けたがきっかけ、三年になるとそのまま生徒会長になっていたのだが、その仕事ぶりは往時の当人の心境通りやはりきわめて意味を欠落させていた。
たとえば壮行会という行事がある。つまるところ地方大会などを前にして、結局私の入らなかった部活動の面々を講堂に整列させ、順々に決意を述べさせていくという様式の全校集会なのだが、ここで生徒会長にまずもって全部員を鼓舞する言葉を述べるという役目があった。しかしそんなこと私にとってまことにどうでもよい事案であるから、ここで雑で空辣な比喩をひねるのが毎度であった。
「みなさん野に咲く花のように頑張ってください。」――もちろんさしたる意味もない。ところが生徒会長がこんなことを言い出すと、各部活の部長をしている悪友たちも面白がってか、同じように次々と中身のない宣誓を始める。「はい、ぼくたちは道ばたの石ころのように粘ります!」「わたしは腰のあるうどんのように全力を尽くします!」
ナンセンスを競う全校大喜利といった趣で、今から考えても大したものでもないのだが、行事の厳粛さとお年頃の少年たちのやることであるから、これがそれなりの笑いになる。私も気を良くして、何か行事があるたび人前でナンセンスを率先して口にするようになって、中央から差し向けられた校長からひどく睨まれたのだが、教師一同はいつも通りといった風情で悠然としたものだった。何かのシットコムか新喜劇のようなものだと思われていたに相違ない。
しかしよく考えればそもそも彼ら教師の授業からしてあまりにも関西であった。とっぴな発言をして怒られた生徒というものが皆無であり、授業での発言は何でも許されるといった空気が蔓延していた。そこでは指された生徒が、普通であれば間違いや勘違いとして叱られるような、どんなに妙でとんちきな回答をしても、教師の容赦ないツッコミなる返しで一瞬のうちにその内容がボケとして回収されるため、我々は臆することなく自分たちの思うことが表現できたのである。
社会の時間では歴史上の人物や出来事を勝手にすり替えてもよかった上に、国語の授業中には取り上げられた作品へどんな解釈を提示しても笑えればよしとされた。偉人の肖像に髭を書くさながらに、自然描写の傑作を原色ぎらぎらのポスターアートのように解しようとも、教科書の人道主義や正義に真っ向疑問を差し挟もうとも、教師の差配でひと笑いが起こって終わる。もちろんそんなことをしていれば、少年たちはいかに妙なことを言おうかと競うわけだが、私が心地よかったのが何よりも苦手な英語の時限だった。
いつも満点の半分より少し上あたりしか取れない自分であったから、面白くもないテストやプリントを少しでも楽しもうと、私は和訳の際、好きにキャラクタを設定して、様々な口調や文体で文章を書き込むのが常であった。そっけない例文の裏に、気取ったり怒ったり笑ったりふさいだりする人間を想像しては、そやつらにお出まし願うのである。別にこれは私に限ったことでなく他の者もやっていたと聞く。
しかし二年のあるときか、ある単元をまるまる訳してこい、という課題が出された。本文はサスペンス調の例文で、むろんどのように訳出してもよい、というお触れつきだったのだが、ここで私は拡大解釈をし、この言葉を「自由に脚色してよい」と受け取り、数夜がかりで翻案し、短編ミステリへと仕立て上げる。提出されたシナリオは教師にいたく気に入られ、ポスターにして掲示するという教諭の意向を受けて、私はそれを時間をかけてさらに改稿するのだが、完成したポスターを預けてすぐにその若い先生は留学してしまい、彼女はその原稿を持ったまま旅立ってしまう。
こうして私の処女作品は発表されないまま他人の手元で眠っているのだが、原稿を人に預けることについては昔から縁があるようで、他にも三年時の文化祭の出し物用に書かれた喜劇の原稿もまた、当時の担任が今でも保管しているという。夏休みのあいだに書かれた宛書きの拙いシナリオだが、いくつかの案との互選の末、没になったあとも、彼女はいたく気に入り、いつか私の知らないところで上演しようと目論んでいるらしい。とはいえ、そのときの友人たちが演じることを想定して作ったものであるから、実際に舞台に乗せたところでどのようなものになるかは思いも寄らない。確か大統領の上にエアコンが落ちてくるような話だ。
もうひとつ、確か選択授業だったか、数人だけで集まって創作演習もやった覚えがあるのだが、そのときにこしらえたミステリ小説めいたものは、二冊ルリユールしたはずなのに手元に一冊しかないから、もう一冊は誰かの手元にあると思われ、これに至っては所在すらわからない。ともかく爾来、今に至るまで、何かを書いては後先考えず人に預けるという行為を繰り返しているが、広く誰かに読まれたいという気持ちが一向にわかないあたり、原稿とは誰かに託すものと思っているふしがあり、前近代宮廷の創作よろしく文芸とは一種の私信であるのかもしれない。たまたま受け取りたがる大人たちがあのときのあの中学には多かったとも言えるのだが、渡す方はおよそ好き勝手であり、そのせいか割合に生きやすい空間であった。
しかし自由とはその謂い無法でもあるから、けして良いことずくめでなく、ある朝生徒たちが登校すると教壇の上に自転車がにわかに鎮座ましましていたり、私を含めたクラスの男子全員で授業をボイコットしたりなど、事件をにおわせる出来事も少なくなく、自分が卒業して数年後には荒れる学校としてTVのドキュメンタリーに出るまでになったというから、必ずしも推奨できたものでも自慢できたものでもないのだろう。
今や笑いの学園はただ思春期の淡いのなかだけに存在する。
島便り(1)
スタジオイワトを閉鎖してひどく淋しかった。此処ではない何処かにいかなくては、そう思った。
あったようなないような動機は省きますが、ひょんなことから瀬戸内海に浮かぶ小豆島に今年2月19日に移住しました。生まれてこのかた東京しか知らない人間にとって、地方のそれもいきなり離島暮らしはどんなことになるのでしょう。ここに記録していきます。
小豆島はほぼ世田谷区と同じ面積で人口3万(最も多かった時代の半分)の、ご多分にもれず過疎化が心配される島です。島のまんなかに一番高いところで千メートルのなだらかな山々が縦断、くねった半島がこれまた数カ所あり、山の上から見れば四方海に向かって集落が点在している。集落の中には空き家や廃屋もそこかしこに散見、島の中に大きな商店街なし、コンビニ数店、スーパー数店。喫茶、居酒屋は島全体で数えても両手で間に合いそう。笑ってしまう。
夜な夜な飲みにいくのが日課であった、夜中にコンビニまで散歩と称してビール買いに行くのが好きだったわたしがここで暮らしていけるのか、家を探しに島中を歩き回った時はその点だけが不安だった。が、住んでみれば心配ご無用、美しい夕焼けから夜に向かうと、夜はまるで真っ暗、一寸先が闇だった。どこにも出ていけないのだった。おまけに島は風が吹きまわる、山の裾野に借りた家は築100年だから硝子戸は風が吹くたびにがたがた騒ぎまくる。直ぐ前の小さい山にはいのしし、しか、たぬきが生息しているらしい、夜もしいのししに出会っても目を合わさなようにと忠告をうけている。さらに夕方5時には「よい子のみなさん、もうお家に帰るじかんです。外にいる子ははやく帰りましょう」町内放送のアナウンスがご丁寧にも村落にひびきわたるのだ。よい子じゃないけど家に居るしかない。
島の朝は早い。7時に例の町内アナウンス「おはようございます。今日の天気は、、、、」が鳴り響く。先日泊まりにきた孫娘が「みっちゃんはどうしてパジャマじゃなくて洋服で寝ているの」と聞かれたが、パジャマと同等のものしか持ってないこともあるけど、これにはワケがあるのです。引越して以来毎日のように近所の人から役所の人から配達のひとから友達、いろんな人がいきなり早朝からやってくる。電話なし。これにはちょっと驚いたがイヤではない。これもアリかぁぁ。島に来てから友達になった若者たちからは畑の野菜が届く、手作りのパンやクッキーが、遠方の半島からオリーブオイルが、タラの芽が届く。こんなにたくさん友達ができるなんてこれは想像だにしなかった。有り難い。みんな小型車でスイスイと島中を朝から動くのだ。そして朝から夕方まで実によく働く。
五郎は引越して来た日にお手伝いに来てくれた人。初対面であったが寡黙で重たい荷物をあちこちに運んでくれたりした。その佇まいを見て、ちょうど硝子戸と廊下床下からのすきま風がきになっていたのと本棚を誰かにつくってもらいたかったので、彼にたのんでみることにした。それからしばらくしてパンチカーペットの分量をきめるために廊下の寸法を計りにきてくれたのが40日ほど前。それから一切現れない。島の人はこんなテンポなのかなと催促もせずじっと待つことにしたのだ。そろそろ寒さも遠ざかりすきま風もさほど気にならなくなってきた。なので土間の本棚はまだできていない、ひっこしてきたままだ。
五郎は40代半ばだが、名前は本名ではない。ドラマ「北の國から」の田中邦衛演ずる主役の五郎に憧れて、自分から五郎と名乗っているらしい。本名は知らない。連絡先もきいていない。しかし田中邦衛というよりどちらかといえば高倉健に似ているのだがなぁ。少しメッシュの入った髪を後ろでたばねている。実にハンサムなのだ。ときどき遊びにくる彼の知り合いに 五郎ちゃん全然連絡ないのよ、暑くなってからすきま埋めにきてくれるつもりかなぁと水をむけると、皆たいして驚いた様子も見せず、にっこりする。
五郎の生業はきこりや土木作業らしい。山の樹を親方について伐採、お遍路の山道を造ったり、国道まで茂ったの樹木の伐採、とみなそこらここらで五郎を見かけているようなのだ。また五郎はひとりで作業場をもち木工(匙作り)の名手でもある。2度目に来たときに見せてもらったママスプーン(赤ん坊が離乳食に使う最初のスプーン)の何とも言えない優しい造りに思わず買ってしまった。その出来具合は五郎そのものである。
いつ来るかわからないが待つ事にする。
★数ヶ月ぶりに東京です。→ http://www.studio-iwato.com/studio/index.html よろしければ遊びにきてください。
犬狼詩集
126
からすがきみの行動を見ている
きみが花を見つめ花びらにさわるのを見ている
桜は終わるだろう、春が深まる
チューリップが抗酸化的な色ではなばなしく咲く
花たちは光をめざし光に透きとおる
その透過する光をからすも見ている
からすはきみの寄る辺ない心も見ている
きみが空を見上げ雲を追うのを見ている
きれぎれの雲が白をいろんな形で展開し
そのひとつひとつが切り抜かれて鳥のように飛ぶのだ
空はつねにひとつ、断片化はありえない
それなのに歌声が聞こえて次々に鳥が発生する
からすは驚かない、何があっても
からすは笑わない、何を見ても
でもからすはすべてをしっかり観察し
記憶したすべてをきみに報告する
127
「これ食べてもいいの?」とからすが聞く
きみが捨てた玉蜀黍の芯や
西瓜の種とか皮なんかだ
夏がはじまり強い光が熱を生むと
からすの羽毛は宇宙のように黒くなる
飛行と冷却の関係をよく考えてごらん
「おれも一緒に行こうかな」とひとり言みたいにからすがいう
きみがそろそろ出かけるのを犬みたいに察したのだ
「遠くまで行ってもかまわないよ、球体のトポロジーは
全方位的に迷路を拒絶しているからね」
気前のいい連れだ、信頼できる伴侶だ
なぜならからすは何も望まないからだ
からすは欲望しない、余分な何ものも
からすは断念しない、必要なすべてを
そしてからすは血液を沸騰させながら
気まぐれな空にどこまでも直線を描く
128
からすが秋を正確に出迎える
この季節は生命がギアを入れ換えて
燃焼から保存へと移行するときなんだ
おれもちょっと太ったね、笑わないでくれよ
にぎやかなすずめたちの楽しい収穫祭
かたくななかたつむりたちはそろそろ身を隠す
からすは秋を嘆かず、秋を歌わない
きみが山を歩くといえばつきあい
きみがきのこを探すといえば手伝ってくれる
物質のすべては夢がかたちを得たもの
非物質の世界の偶有が
ある光のもとでそう見えるだけだ
からすは平気だ、自分の肉体が夢でしかなくても
からすは冷静だ、感覚が波の紋様にすぎなくても
血糖値を制御して飛行に備えるさ
それが飛行という夢の影にすぎなくても
129
からすはじつは冬が大好きなんだってさ
食料の欠乏は都会では心配ない
雪なら降れば降るほどいいと思う
更新される白の無時間の層において
自分だって象形文字になれるのだと考えて
羽毛を二本抜いてみた
"O, crown, crow, my credo is cruciferous,"
十字形の信条を心に打ち込んで
Cr, cr, とのどを鳴らすように自分の歌を口ずさむ
おれは人間世界を相対化する飾りなき王冠
おれの目は漆黒に染まった携帯型の夜
あらゆる希望を青として溶かし込んだ黒さ
きみたちの世界が真白に明るくなるとき
邪心なく浄化されたつかのまの地表を飛びながら
おれは黒と白と光の究極の統一を見せてあげる
この黄金の尾がそれだ、金色に輝く羽がそれだ
「ライカの帰還」騒動記(その7)
第1話が完成に漕ぎつけるまでには、思ったよりも多くの時間が必要だった。ネームの書き直しこそなかったけれど、吉原さんも気負ってしまったのだと思う。何せ彼にとって初の「連載」だったし、作品の露出がコミック専門誌ではなくカメラ専門誌であることも、余計な気を使わせてしまったに違いない。編集部が指定した掲載号の発売日はみるみるうちに迫り、3カ月分のストックという話は早くも怪しくなりつつあった。
私は仕上がりまで、あと一歩という第1話のコピーを、このとき小学館でヤングサンデー誌の初代編集長に就任していた友人にも見てもらうことにした。すると「今すぐにでもウチの連載と差し替えたいくらいだ」と言われて、さすがに嬉しかったのだが、いい話ばかりではない。やっと完成した第1話の原稿が、あるまいことか掲載誌側からクレームがついたのだ。相手は一杉編集長である。
第1話はレイテ沖海戦で搭乗していた空母が沈められ、海に逃れた主人公が、艦首から飛び込む水兵の姿を目撃するというシーンが核となる。従って全編が戦争描写であり、集中爆撃を喰らう緊迫した場面もある。これを見た一杉編集長は「戦争の話はダメだ」と言い出したのだ。あれぇ? これがどんな話かってぇのは、編集会議のとき原作のコピーを見せましたよ? すると「とにかく戦争の話を2度続けるな」と来た。
話は前後するが、掲載誌である月刊カメラマンは右開きの横組みである。これはコミックにとって都合のいい体裁ではない。というより、ある意味ではコミックとしては致命的なハンデを背負う。というのは、通常なら右上から左下に読み進むところが逆になり、フキ出しの中に入るセリフも、読みやすくするために縦組みではなく、横組みにしなければならなくなる。しかし、このことは覚悟の上だった。
というのも、ウチの会社でこの作品を世に出すためには、月刊カメラマン誌に連載する以外の手段はないからだ。単行本化の際にはどうする? といったかなり重要な項目は「そのときになったら考えよう」で済ませてしまった。とりあえずは「世に出ること」が何より先決なのだから、一杉編集長のトンチキなクレームも、まともにケンカしていては始まらない。彼は協力してもらわねばならぬ存在なのだ。
私は急きょ、これも戦闘シーンだらけになるはずの第2話の修正に取りかかった。第2話では駆逐艦に救助された主人公が、波間で救助を待つ同胞たちを、舷側から見守るというシーンが核となる。流されたロープを奪い合い、波に消えて行く彼らの断末魔を目の当たりにした主人公は、海に浸かって作動しないライカで「これを撮らねば」と思い、涙ながらに「自分はカメラマンになる」と決意するのだ。
主人公が「生きて帰れれば自分はこの道で生きて行く」と決心する大事なシーンを、私は第3話に予定していた「東洋一の鉄塔を登り、疑似航空写真を撮影する」という物語にズラすことにした。第2話の後半部分を第3話の中に組み入れて、300メートルを超える鉄塔の頂上に達し、自分しか見ることのできない光景に遭遇した主人公に、先のセリフを言わせたのである。吉原さんはこの回を実にうまくまとめてくれた。
だけど親父にしてみれば、くだんのシーンこそは、自分が報道カメラマンという職業を目指したルーツに他ならなかったわけで、是非とも描いてほしかったはずなのだ。親父は半ば笑いながらそれを指摘し、私は苦しい言いわけをしたことを覚えている。しかし結果的だが、凄絶なシーンで独白するより、鉄塔を登りつめたあとで言わせたことで、この話の全体の読後感を爽やかにすることができたとも思うのだ。
さらに話は前後する。前回で編集部のスタッフに訊かれたこの話の「タイトル」について触れておかねばならない。私はけっこう構えてしまって、松本清張さんの「ゼロの焦点」のようなカッコいいタイトルをつけたいと考えていた。親父は松本清張さんが「アムステルダム運河殺人事件」を週刊朝日カラー別冊に掲載するにあたり、資料写真の撮影取材でオランダに同行している。私がハタチになる前の話だ。
余談になるが、この推理小説の中でゴルフをするシーンがあり、このスポーツに疎かった松本清張さんは、親父にその部分を丸投げしている。戦前、慶応の学生時代からゴルフに嵌り、プライベートハンデだがシングルの腕前だった親父は、断るに断れなかったのだろう。どのくらいが使われたのかは定かでないが、唸りながら夜遅くまで原稿用紙と格闘していた親父の姿は、今でもよく覚えている。
というわけで、私は「瞬間(とき)の焦点」というタイトルを考えた。何にしてもそうなのだけど、自分が推したいものを採用させるには、周囲にダミーを設ける。私はカメラマン編集部にプレゼンする際に、いくつかのダミーを用意した。これに比べりゃ、こっちだな、と思わせるためである。その中にトンボの眼鏡をもじった「とんびの眼鏡」というのも混ぜ込んだのだが、あるまいことかこれが絶賛されて、決まってしまった。
吉原さんはこのタイトルを「へぇ、面白いじゃないですか」といった程度だったけど、私はこのタイトルの「ツジツマ合わせ」を行なうことが宿題になった。それでサブキャラクターの竹さん(吉原さんが親父の顔を投影している)に、報道カメラマンをトンビに例えて「とんでもないところから狙って、一発でかっさらっていきやがる」というセリフを言わせることにした。何となくツジツマは合ったようだが、どうだろう。
苦労したのは全12話で考えていたストーリーが、前述の理由で1話分減ってしまったことだった。仕方がないので取材中に仕入れた親父の体験以外のエピソードから、オムニバス的に繋げて1話分を作ってみたのだが、吉原さんはこれもうまくまとめてくれている。このように、この話は原作どおりに描かれてはいるのだけれど、吉原さん自身のアイディアや表現は、全編にわたってちりばめられている。さすがである。
特に後半のストーリーで、敗戦間もないころ、それまでカメラの入れなかった公官庁の建物を撮影する話がある。首相官邸の退避防空壕の奥に、要人を脱出させるためのトンネルを発見した主人公は、どこまで続いているのか確かめようと言うのだが、同行した記者はやめておこうと言って争いになる。この記者がそう言い放った理由は、実は吉原さんが考えてくれた。私には考えつかなかっただけに、感心させられたものだ。
このように「とんびの眼鏡」は掲載誌の進行を妨げることもなく、極めて順調に回を重ねていった。最終回「ライカの帰還」で、レイテの海で海水に浸かったライカが主人公の手に戻るというエピソードにかかったとき、私は単行本化に向けて編集担当役員の田中さんと、コミックコード取得に向けた活動を開始した。取次が出版社に発行するこのコードがなければ、コミックの単行本化は始まらないのだ。
このとき、モーターマガジン社には新たに大園さんという人物が常務に就任していて、ホリデーオート誌の編集長経験者でもある田中さんは、彼によって役員に抜擢されている。田中さん自身も「とんびの眼鏡」を評価してくれていて、ハードルが高いとされるコード取得にも意気盛んといった様子だった。しかし、その裏でこの作品が窮地に追い込まれるという事態が進行していたことを、能天気な私は知るよしもなかった。
しもた屋之噺(148)
現在夜中の3時をまわったところで、暗闇に吹き付ける強い風の音だけが響いています。こうして夜空を見上げると、深く沈んだ橙色に染まってみえるときと、今日のように漆黒の空が広がるときとあるのは何故でしょう。深い闇夜が静寂を際立たせる気がするのは、夜の帳が音を吸込む錯覚を覚えるからかもしれません。いまは遠く、サンクリストーフォロ駅構内の信号機だけが、てらてらと濃厚な赤光を放っています。
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4月某日
夕食後、国立音楽院に自転車を走らせる。ピエールルイージが作曲のセミナーをしているからとメールをくれなければ、きっと知らなかった。国立音楽院の作曲科の学生たちがお金を出し合って、彼をウィーンから招いたという。ホールは若い学生たちの熱気で噎せ返るほど。
彼の30分かかるヴィオラ独奏曲を、みな爛々と目を輝かせながら聞いている。誰一人として眠りそうな顔はなく、演奏が終わると割れんばかりの拍手。学校の招聘ではないので、教師は皆無。唯一、ピエールルイージの友人、作曲科主任のマリオだけがいて、久しぶりに3人ではなす。この状況は、学校の作曲科が機能していないことを、如実に顕しているのさ、と強い調子でまくしたてる。
4月某日
息子のデアゴスティーニの子供用イタリア語辞書で宿題をみていると、すでに足りない語彙が多いのにおどろき、ザニケルリの伊伊辞書を買ってくる。暗記させられる文章から、わからない単語を辞書で引かせ、書かれている内容をすべて自分の言葉で言い替えさせる。わからない単語は、その場で教えてやりたい気もするが、わざわざ自分で辞書を引かせるのは、もうすぐこちらのイタリア語の語彙では、ついてゆけなくなるのが分かるから。今日の宿題は、「クロマニヨン人の生活形態」について。
4月某日
悪徳経営、ゴーストライターや虚偽論文の問題などで、我が国の報道姿勢が問われる、と意気揚々と書かれたすぐ傍らに、有名プロデューサーを招いた国営放送の番組宣伝。「商品にもストーリーを」。
4月某日
袴田さん再審決定を機に、死刑廃止が話題にのぼる。日本は死刑容認で、言論の自由も保障されない、とんでもない先進国よ。アムネスティ・インターナショナルの幹部に、出会いがしら吐き出すように言われた。彼女はパキスタンにでかける直前だった。日本とヨーロッパではあまりに土壌が違い、思考がかけ離れているとおもう。ずっと、日本はヨーロッパに近づかなければいけないと思っていたのは、音楽をやっているからだろう。でも最近、違うのは仕方がない気もしている。
個人的に死刑には反対だ。それは単に、人を裁けるだけの人格のない自分は、罪人であろうと人を殺める資格はないに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。尤も、これだけ国民が強く死刑を求めるのだから、国として死刑を廃せないのも無理からぬ現実がある。
奴隷を買入れ、猛獣狩りに親しみ、ギロチンや絞首刑を続けてきたヨーロッパ人は、それらを過去の負の遺産として葬り去ってきたので、同じようにできない国を理解できない。捕鯨問題にも近い手触りを感じる。マンボウの刺身が旨い、と言ったときに、トンデモナイという眼差しを向けられて、少しこの距離感がわかったので、鯨肉の刺身もトロッとして旨い、などとは口が裂けても言えぬ。ハテ1千年後人類は何を食べているのかと、下世話な興味。
4月某日
世界中の誰にでも、どんな職業にも意味がある。転じて、その人が生きる意味はどんな人であっても存在するとか書いてある。短絡的過ぎる気もするが、言われればそんな気もしてくるのは、自分が単に意志薄弱なせいだろうか。
さまざまな意見を言う人がいて、世界として初めて成立するのは確かだろう。自分にとって理不尽であったり、不合理に見えても、他人にとってはそれは至極真っ当であるかもしれない。誰もが口ぐちにそれぞれの意見を言うとき、おそらくそのどれもが少しずつ意味を持っている。どんな馬鹿げた言い種にも、盗人にも三分の理ではないが、おそらく何らかの意味があって、たとえそれを自分が理解できなくとも、だれか他の人にとっては理解できるものかもしれない。
こんなことを思うのは、自分がイタリアの判然としない暮らしに慣れすぎているからであって、案外オランダや北方で暮らしていたら、もう少し理知的な思考が国を治めるようになるだろうか。
「最高だから、どうしても見て頂戴」と、いつもクラスで伴奏してくれるマリア・シルヴァーナからラース・トリアーの Direktøren for detheleのヴィデオを渡されて、心底驚嘆しつつ腹を抱えて大いに笑った。笑いころげつつ、北方の理知的思考が、どこまでも灰色の厚い雲に覆われていることに、悄然とする。
4月某日
ショパンの楽譜。10年以上前に勉強した楽譜をひらくと、そのとき何を考えていたのか、何を読んでいたのかが見える。やれやれという思いで読み始め、気が付けば、すっかり引き込まれていた。
当時、自分が指揮をしている映像を見る機会があり、それは嫌なものだったが、尤もこれだけ時間が経てば、まるで生徒を眺めるように客観的にみることはできる。一番苛立ちをおぼえたのは、演奏者とのコミュニケーションの形だろう。一方的にアウトプットし続けていて見ていて息苦しく、当然音は空間にひろがらない。
4月某日
ピッコロ劇場のなかの静かな喫茶店で、Aさんと初めてゆっくり話す。90年からミラノにいらして、いつも誰かとの板ばさみの仕事なのでもう厭だ厭だとおもいながら、まだやっているんです、と笑う。イタリアに住んでよく分かったのは、左寄りとか右寄りとかというのは、実はほとんど意味をなさないということ。左でも右でも、お金を持っている人は、自分のお金は一切使わない。だから、お金持ちなんでしょうね。石造りの回廊に誂えられた天井のたかい喫茶店に、夕日がまぶしく差し込む。
4月某日
癌で入院していたフランコから電話をもらう。贈ったプレゼントのお礼だったのだが、はじめ電話をとったとき、誰の声だかわからなかった。
朝早く起きて、息子のバスケットの練習につきあう。30回シュートをしたので、彼は少し顔を紅潮させ満足げに家路につく。
曲の演奏にあたり、大切なことをお伝えします、と手紙がとどく。
ア)強弱。強弱はとても大事です。コントラストが大切です。
イ)リズム。リズムは曲の要です。
・・・以下省略。
4月某日
家人から、これをどう思うか、とヴィデオメッセージのリンクが送られてきた。日本から原発を買おうとしているトルコの人たちに、トルコ語でメッセージを送る、というもの。将来の廃炉作業の厄介と危険を鑑みれば、世界中にある原発は一基でも少ない方がよいとは思うが、日本から原発を買わなくとも、トルコは別の国から購入するのだろうか。感想をもとめられて、言葉に窮す。イタリアは原発こそ廃止したが、この原稿も、フランスから買った電力で書いているのかもしれないし、それは原発で作られた電力かもしれない。自分には何もいう資格はないが、ともかく原発事故処理に力を入れてほしい。
「日本人の一致団結した集団行動のすばらしさ(同時にそれは個の弱さでもあるが)を持ってすれば、たとえ限られた条件下であれども、よい結果を残せると確信している」とパリから激励とも皮肉ともいえないメールがとどく。
4月某日
早朝パンを買いに外にでると、服の直しをやっているアフリカ人が、店先に静かに立っている。近づいてみると音を立てないようにして、シャッターを上げているのだった。人気のない祭日の朝、辺りにそっと優しさをふりまいていた。
風が吹く理由(1)屋根のある家
四月も半ばを過ぎたある日、宮城県大河原町へと向かった。東北屈指の桜の名所、一目千本桜を観るためだ。
東北新幹線に乗るのは15年ぶり。久々の遠出に心が躍る。駅弁と暖かいお茶を買い、切符を手に座席を探す。仙台には1時間半で着くと言う。どういう技術革新か、私には見当がつかないけれど、東北も随分近くなったものだ。しかも、いまは乗り換え案内サイトに目的地を入力すれば、最短最速のルートを示してくれる。素晴らしい。この旅だって、前日にインターネットで調べたところ、都内から大河原町まで3時間とあったので、それならば、と急遽思い立ったのだ。
仙台駅で新幹線を降り、在来線(東北本線)に乗り換える。出発時刻まで売店を覗き、10分前にホームへの階段を降りていくと、ここが始発なのだろうか、既に到着した電車が乗客を待っていた。私は少し驚いて、それから、自分が、電車は常にホームで待つ乗客よりも後にやって来るものと思い込んでいたことに気づく。山手線の外に出る機会が少ない暮らしを送っていると、自ずと常識はそのように導かれる。
電車に乗り込むと、車両には、四人が向かい合わせに座るボックスシートと横に並んで座るロングシート、両方が備え付けられていた。空いている席を見つけ、腰掛ける。ここから大河原町まで30分かかるという。
間もなく電車は動き出した。長町、太子堂、南仙台。最初はマンションやアパートが多かったのに、段々と一戸建ての家が増えていく。どの家にも屋根がある―そう思った。おかしなことを、と笑われるだろうか。しかし、狭い敷地にぎりぎりいっぱい建物を建てる東京都心では、マンションにせよ、一戸建てにせよ、建築物全体の形を把握するのは難しい。なにしろ建物と建物が近すぎるのだ。
私は興味深い思いで窓の向こうを眺めた。時折、貨物列車とすれ違う。並走するように敷かれた線路の向こうには、二階建ての家が並んでいる。どの家にもカーポートが設置されていた。そして、そこには大抵、お行儀良く、一台、もしくは二台の自家用車が収まっている。アルミサッシや網戸。張り出したバルコニー。小さな庭。塀や生け垣、門や表札。家の中は覗けないのに、和室があるような気がした。黄色い箱を開けると、白い紙で包まれたキャラメルが詰まっているように、ひとつひとつの家の中には家庭というものが――"ちゃんとした家庭""ちゃんとした家族"というものがセットされているような気がした。屋根のある家では、春には春の、夏には夏の、盆や暮れ、お正月の行事が、ごく自然に行われ、人が生きたり死んだりしている。それは私の勝手な想像だ。わかっている。
私は、バッグから売店で買ったコーヒー牛乳を取りだし、口に含んだ。落ち着こうとした。恐ろしかった。一戸建ての家を見ると、なぜだろう、いつも、恐ろしい、と思う。いつからそう感じるようになったのか、自分でもよくわからない。自分が何かに強く拒絶されたような気持ち。一戸建ての家はちゃんとしていて、それに比べて私はちゃんとしていなくて、でも、ちゃんとしようとしているのにちゃんとできないわけではなく、ちゃんとする気なんて私にはもともとなかったのに、一方的に撥ねつけられて驚く感じ。大体、ちゃんとするって何?――襲ってくる恐怖心を解きほぐすべく、自分に問いかけてみるけれど、答えが出ない。
白石川堤の桜は見事だった。悠々と流れる川の両岸に並木は遠くまで続き、私は、8キロあるという遊歩道の約半分を二時間半かけて歩いた。
帰りの電車は、平日夕方、下校する学生も多く乗り合わせ、車内は大変賑やかだった。老若男女、みんなお喋りに夢中だ。いつもこうなのだろうか。最初は微笑ましく感じていたものの、物珍しさがなくなると、騒々しさに耐えかねて、私はイヤフォンを耳に差した。そして、さらに騒々しいアート・ブレイキーのドラムを、ボリュームをあげて聴いた。それとなく辺りを見回すと、イヤフォンで耳を塞いでいる人は私ひとりだけだった。窓から差し込む春の西日が眩しかった。
仙台駅でお土産に、はらこめしとずんだ餅を買い、来た時と同じ、一時間半で東京に着く新幹線に乗った。東京駅から事務所のある恵比寿駅まで、普段使う地下鉄ではなく、その日は山手線に乗った。数時間前に乗った在来線にくらべ、ずっと人は多いのに、車内はとても静かだ。お喋りしている人はいない。乗客の多くはイヤフォンをして、手のひらの中のスマートフォンを見つめている。立っている人も座っている人も、LEDライトの光に照らされている。明るい光。白い光。眩しくない。みんな黙っている。
青空を見上げる前に
「ほら、気持ちのいい天気でしょ」
あなたにそう言われて、空を見上げた。真っ青な空が見えて、真っ白な雲が見えた。
「こんなに気持ちのいい天気って、何日ぶりだろう」
あなたと僕は川沿いの堤防を二人並んで散歩していた。おたがいに休日出勤で、午前中の仕事を終えて、駅前で待ち合わせて、ここへやってきた。並んで歩いているので、おたがいの顔をちゃんと見たのは、駅前で会った時だけだ。それから、ずっとおしゃべりをしながら歩いているのに、前ばかり見ていて、僕はあなたの顔を正面から見ることはなかった。
「何日ぶりかな。ずっと雨ばかり降っていたからね」
僕はそう答えてあなたを見ようとしたのだけれど、時々視線の端に入ってくる少し長めの白いスカートが涼しげで、そちらに気を取られてしまっていた。そして、白いスカートは、春と夏の狭間の不安定な気持ちの良さを象徴しているように、僕には感じられた。
「こうして歩いていると恋人同士に見えるかしら」
あなたがそう言ったので、僕は笑いながら答えた。
「恋人には見えないと思う。少なくとも僕は、そんなことを考えただけで、平衡感覚がおかしくなるよ」
「どういう意味?」
あなたは立ち止まり、こちらを向いて聞いたけれど、僕はうまく答えられそうになかったので前を向いたまま、「他意はないよ」と答えた。
「他意はないよ。ただ、そういうことを考えると平衡感覚がなくなるというか、その場にしゃがみ込みたくなってしまうんだ」
僕がそういうと、あなたは楽しそうに、そして、少し不服そうに笑った。そして、ふと立ち止まって大きくのびをしながら、気持ちがいい、ともう一度つぶやいた。
僕はその声に促されるように、同じように伸びをして、腕を広げた。青い空からは白い雲が姿を消していて、さっきよりも強い陽ざしが僕の目に飛び込んできた。僕は眩しくて目を強く閉じた。暗くなったまぶたの裏側に陽ざしが見たことのない形を残した。僕は、あっ、と小さく声を出した。なにかはわからなかったけれど、僕の目に異変が起きたことはわかった。しばらく目を閉じたり開けたりしているうちに、僕の目から光が失われた。
半年の間、いろんな手を尽くしたけれど、失われた光は戻らなかった。痛くもなく、かゆくもなく、ただ目が見えなくなった。だから、最初から病気だとも思えなかったし、精神的なストレスからくるような何かとも思えなかった。
その冬、最初の雪が降った日に僕を診察した医者は「突然に失われた視力なので、突然に戻るのかもしれない」と少し強い口調で言ったのだが、それは僕を励ますという意味合いだけではなく、哀れみのようなものと、面倒くささのようなもの、そして、自分に対する不甲斐なさのようなものがない交ぜになっていたような気がする。
あまりにも唐突に見ることができなくなったせいだろうか。僕はこれからずっと目が見えないのだ、ということよりも、目が見えなくなる直前に見たものが青い空だったことに意味があるような気がしていた。または、人生における心残りのようなもの。
とりあえず、僕の目から光が失われるという出来事は、僕のスタートしたばかりの会社員としての生活を強制終了させ、あなたと僕との始まったばかりの付き合いも強制的に終了させた。
目が見えなくなって最初の二週間ほどは、一緒に病院を探してくれたり、診察に付き添ってくれたりしていたのだが、やがてあなたは僕の横に立たなくなった。
「私が空を見てと言わなければ、あなたの目が見えなくなるなんてことはなかったかもしれない。そんなふうに思えて仕方がないの」
あなたから届いたハガキにはそう書いてあった。
「いまあなたに会うと、私は私自身を許せなくなるかも知れない。だから会えないの」
もちろん、僕にはハガキの文字は読めなかったのだが、読んでくれた友人は声を震わせて怒っていた。まず、こんな身勝手な話はないと憤り、次に、こんな大事な話を目の見えない僕宛てにハガキで書き寄こした、という非常識にあきれ、僕の前でずっとあなたの悪口を言い続けた。
その悪口を聞きながら、僕は見えなくなった目でいま目の前にいる(目が見えていないのに目の前にいるという言い方はなんだか妙なのだけれど)同僚たちのかつての顔かたちを想像しながら、いくらうまく想像できたとしても、それは彼らと僕との過去の時間でしかないのだなということを考え続けていた。
そして、これも不思議なのだけれど、あまり目が見えなくなったということに対する絶望のようなものを感じることはなかった。それよりも、奇跡的に目が見えるようになったら、なにを見ようか、などと考えることが多くなった。僕が見たいものは何だろうと考えると、やはりそれはあなたの顔だった。好きだとか嫌いだとか、そういうことは関係なく、次に僕が光を失う直前に見るものは真っ青な空ではなく、あなたの顔であってほしい、と思うのだった。
もちろん、もし、あなたの顔を見た後に、僕の目が光を失ったとしても、きっと僕とあなたは離れてしまうのだろう。いまと同じように、あなたからの強制的な行動で一緒にいることはないのだろう。それでも、と僕は思うのだ。真っ青な空ではなく、あなたの顔を最後に見たい。もう一度、目が見えるようになる前から、そう思うのだ。
朝が近寄る
遠くからやってくる音の流れ
やがて辿り着き、通り過ぎる
藍染めは少しずつ褪せてゆく
釣りをする人
鼻うたをうたいながらのんびり座っている
うたは糸を伝って、疑似餌を泳がせる
魚はやってこない
そよりそより 湿った夜明け前
酸素が回る
循環はせず、消えてゆく
一本の線
黒い魚
短編小説集、2つ
4月に、2つの短編小説集が出版された。村上春樹著『女のいない男たち』(文芸春秋社)と片岡義男著『短編を七つ、書いた順』(幻戯書房)だ。穏やかな晴天が続く4月下旬を、この2冊の短編集といっしょに過ごした。桜が散り、電車には新入生があふれ、新しく何かが始まる4月に、好きな作家の新作を読むことができてとてもうれしかった。
村上春樹氏は、前作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』から1年ぶり、短編集としては『東京奇譚集』以来9年ぶりの新作との事だ。待ち望んだファンも多く、どの書店でも山積みだった。あんまり売れていると、天邪鬼だから知らん顔したくもなるが、これまでと違う印象の表紙が新鮮で発売日に手に入れてさっそく読み始めた。
片岡義男氏の短編集については、水牛のコラムで八巻美恵さんが紹介しているのを読んで刊行を知り、最近雑誌に掲載した作品を編んだものだろうと思っていたが、何と全作品書き下ろしで、わくわくしながら早速読んだのだった。
村上春樹と片岡義男は並べて語られることも多い。二人とも"日本の小説らしくない小説"を書いて日本で有名な作家だからだろうか。偶然同時期に出た短編小説集を2つ読んで、それぞれの世界を楽しんだのだけれど、2作品に少し共通したものを感じたので、感想を書いてみようと思う。
『女のいない男たち』では、表題にある通り、女に去られた男たちを主人公にした6つの物語が語られる。短編集には珍しく「まえがき」があり、この本がつくられた経緯が説明されている。この「まえがき」のおかげで、それぞれの作品を必要以上に深読みせずに味わう事ができた。
何かの曲のメロディーが妙に頭を離れないということがあるが、それと同じように、「女のいない男たち」というフレーズが作者の頭を離れず、それがこの短編集を貫くひとつのモチーフになったという。そして、「ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろいろな人物を、いろんな人称をつかって書き」1冊にまとめるという方法は音楽でいえば「コンセプトアルバム」に対応するもので、村上氏は執筆中、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』やビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』をイメージしていたという。
どの物語も読んだあとに奇妙な感じが残る。答えが示されていないからだ。"オチがない"ともいえる。「女のいない男たち」について、村上春樹は解釈しないし、もちろん批評もしない。ただそういう男たちの存在を感じ、その姿を見いだすだけだ。炭鉱のカナリアみたいに。オチを求めずに、「まえがき」で村上氏がたとえている「音楽」のように、物語をくりかえし聴き、ただ全体を味わえばいいのだろう。
村上氏独特の比喩も健在だ。ある人物の姿や、感情が、様々なものにたとえられて語られる。たとえられるものの遠さに、心がしんとする。深刻になりすぎないように、気をそらして自分を励ましているような村上氏の比喩が、私は相変わらず好きだ。
そして、片岡氏の物語の"オチのなさ"は村上氏を上回っている。ついに、題名からして「書いた順」である。題名通り、作者が書いた順に7つの物語を読むことができる。
村上氏が比喩ならば、片岡氏は「会話」だ。会話が物語を運んでいく。投げかけられた言葉に、意外な返答があり、その距離感(飛躍)によって物語が転がり出すという印象がある。語られる言葉は、登場人物の意識で、その意識の非日常性が物語だ。
「すみれ」「たんぽぽ」「れんげ草」と3軒並んだバーがありました、という所から始まる物語は、日常生活において何の役にも立たないけれど、日常を少し離れるおもしろさがある。即興演奏を楽しむように、読み手の意識も物語に沿って弾んでいく。
役に立たないからといって意味がないわけではなくて、この物語を読むことによってもたらされる、新しい感覚というものがある。それが欲しくて、片岡さんの物語を読む。気に入ったポップスのシングル盤のように、時々繰り返し聴くというような楽しみ方をしたらいい。
村上春樹の物語も、片岡義男の物語も「説明のつかないできごと」を体験させてくれる。いつのまにか説明がつくことばかりになってしまった現実の生活に、違う時間をもたらしてくれる。
黄金週間
思わぬところで思わぬ人の名前を見ることがある。会員になっている情報処理学会の会誌をぱらぱらと見ていたら、青空文庫と大久保ゆうさんの名前をみつけた。ガッチャマンと比較しながら、青空文庫のクラウドソーシングについて解説したものだ。なぜ、ガッチャマンなのか?という問題はここ40年あまりガッチャマンを見てない年寄世代にはわからないのだが、面白く読ませてもらった。私だったら、ガッチャマンよりも、社会的な位置付けと参加する敷居の高低、社会構造論が絡めて面白いなどというかもしれないが、これもひとつのクラウドソーシングである。さまざまな人がそれぞれの気持ちで集まるのが青空文庫だとすると、こういうものなのだろう。
さて、閑話休題。
ガッチャマンだからというわけではないが、ここのところ、いくつかのアニメーションを半ばハマりながら、見ていた。最近のアニメは二分化されているらしい。ひとつが従来の子供向けのアニメ、もうひとつが大きな子供向けのアニメということらしい。これは、内容で分けるのかと思っていたら、媒体や放送時間帯で分かれるとみるの正しそうだ。
日中や夕方に地上波で流れるのが従来型の子供向けのアニメだとすると、深夜や衛星放送で流れるのが大きな子供、要はティーンエイジ以上をターゲットにしたアニメということらしい。困ったことに、内容は雑多で、本当にストーリーもので子供には難解なものから、年齢層が下でもわかりそうな内容まで様々ある。その何れにも共通しているのが、映像や音楽のクオリティが高いということだろうか。セルビデオから、音楽CDなどの幅広いメディアミックスで展開するために、高いクオリティが求められるということらしい。しかし、見ている側からすると、深夜なのにご苦労様なことだ。などといいつつ、このご当人も、この期に及んで、信州を舞台にしたいくつかのオリジナルアニメにハマり込んだ。なにせ、もう放送は終わっているので、映像の記録された円盤を大人買いして、なるほど、なるほどと、日々鑑賞会ということになった。いやあ、よくできてます。
さて、最近のオリジナルアニメと古い世代のスタジオジブリのアニメの大きな違いは、ジブリ世代が日本風のどこかの架空の風景を作り出すのに対して、こうした新しいアニメでは既存の風景をそのまま使うことかもしれない。フィクションであるにも関わらず、実際にある風景が使われることで、現実との間に不思議な接点が生まれる。だからという訳なのか、舞台として信州の美しい自然風土が選ばれていることが必然のようにも思えた。そんな現実の舞台を訪ね歩く旅行は「聖地巡礼」と呼ばれているらしい。とは言え、信州の多くの風景は私の中には現実の風景として存在するから、アニメに登場するそれらは、ある意味、不思議な存在でもある。
そうやって、風景を見ていると外に出たくてたまらなくなる。そろそろ、現実の風景の中に旅にでも出ようかと思うこの頃である。
映画「アクト・オブ・キリング」(1)
「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、監督のジョシュア・オッペンハイマーが、スマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らが過去の殺人を誇らしげに語る理由を知るために、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。その過程を通じて、主人公の心に変化が生じていく。日本では、2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に「殺人という行為」という邦題で紹介され、2014年4月12日から全国で順次公開中である。山形での上映時間は159分だったが、いま公開されているのは121分版である。なお、インドネシア国内では"Jagal"(殺し屋の意)の題名で、「配給会社を通じてインドネシア映画検閲局(LSF)の上映許可を得て2012年11月に初公開。国内100以上の都市で上映されたが、治安上の理由から、その多くが招待客対象の小規模なものだった。(2013.9.19じゃかるた新聞)」しかし、1人でも多くのインドネシア人に見てもらえるようにとの製作者の意向により、2013年9月30日からインドネシア国内に限りインターネットで動画の無料ダウンロードができ、自主上映会も開催されている。またYou Tubeでも159分版が無料公開されている。私はYou Tubeで先に見、ネット上の様々な意見をあらかじめチェックしてから、4月19日に大阪で121分版を見た。You Tube版は何度も見直せるのだが、121分版は1回しか見ていないので、記憶違いがあったらご容赦を。
この映画が扱う9月30日事件は、今なお真相の多くは藪の中である。1965年9月30日深夜にスカルノ大統領親衛隊の一部がクーデター未遂事件を起こした。事件を収束させたスハルト陸軍少将は、事件に関与したとして共産党関係者や中華系の人々の集団虐殺を続けた。その数は100〜200万人にも上ったとされ、これら一連の虐殺も含めて9月30日事件と呼ぶ。1966年、スハルトはスカルノから実権を奪う形で第2代大統領となり、東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党を非合法化して壊滅させ、以後30年余り続く反共・親米、軍事独裁、開発独裁の体制を作り上げた。
この映画の主人公で虐殺の実行者の1人、アンワル・コンゴは、当時映画館のダフ屋だったが、実入りの良いアメリカ映画の上映に共産党が口を挟んでくることに不満を持っていた。彼が、アメリカ映画の世界に憧れを持っていたことは、その語りや洒落た服装から明らかだ。彼のように、ダフ屋や地上げ屋など、カタギの商売ではない人たちをプレマン(英語のフリーマンが訛ったもの)と総称するようで、彼はそのような「自由人」であり、かつ、パンチャシラ青年団という300万人を擁する民兵組織に連なっている。今まで、この虐殺の実行者にまで私の想像力は思い至らなかった。漠然と国軍がやったように思っていたが、「当時共産党は合法政党であったから、国軍が前面に出るのではなく、イスラーム勢力やならず者など反共の民間勢力を扇動し、密かに彼らに武器を渡して殺害させた(プログラムp.10、倉沢愛子文)」のだという。映画ではアンワル以外に、当時虐殺側にいた現在の「勝ち組」たちや、パンチャシラ青年団のシーンには撮影当時の副大統領や青年スポーツ副相も登場して、現在でもなお、インドネシア政治がこれらの反社会的勢力と切り離せないことも示している。
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さて、ここから感想。まず、全体について。121分版と159分版を比べて、121分版の方がテーマは素直に伝わりやすいと感じた。例えば、ヘルマン・コト(アンワルの子分的な巨漢)が盛大に泡をたてて歯磨きをしているシーンが159分版の方にはあったが、どういう意図で挟まれたシーンだったのか分からなかった。同様に、おそらくイメージとして伝えたいものはあっただろうが、メッセージ性が直接的ではないシーン、あるいは少し長めのシーンがどれも少しずつ削られて、最終的に40分近い削減になったような感じがする。逆に、121分版でも削ってほしくないと思ったシーンは、森の中でヘルマンが血の滴る肝肉を口にしたり、麻袋にくるまれたアンワルの顔に押し付けようとし、アンワルが吐き気を感じるシーン(159分版の1時間38分40秒辺り)。この映画の最後は、アンワルが虐殺した場所に戻り(映画の冒頭と同じ場所)、そこで嘔吐するシーンで終わる。が、実は159分版の途中でも、彼がこみ上げる吐き気を感じているシーンが何度も登場する。この「肝と吐き気」のシーンは、クライマックス以上に観客にも吐き気が伝染するようなシーンだ。121分版では最後の嘔吐だけがクライマックス的に分かり易く提示されているが、アンワルの心の揺れは159分版の方が丹念に追っているように感じられる。
自分でも意外だったのが、自宅でYou Tube版を見ているときはかなりインドネシア人モードで見ていたのに、映画館で見たら日本人モードになったことだった。たとえば、パンチャシラ青年団の地域リーダーが市場の華僑からみかじめ料を巻き上げるシーンにショックを受けたという映画評が目についたのだが、You Tubeで見ていた時には、全然そんなことを感じなかった。それより私の関心は、みかじめ料として1回いくら支払うのかという点にあった。目を凝らして映画を見ていると、どうも2万ルピアくらい封筒に入れている。普通、こういうお金は封筒に入れないと思うが、プレマンの後ろにカメラがいるのに気づいて、体裁を整えたのかもしれない。しかし、それでは少ないと言われ、ものすごく嫌そうに1万ルピアくらい足していた。この金額を見ると、警察だって変わらないじゃないかという気になる。インドネシアでは、警察はそれほど庶民に信頼されておらず、大通りでバイクの大規模交通検査を度々しては反則料金を取る。私に言わせれば、あれは警察のみかじめ料である。そしてその罰金額もだいたい2〜3万ルピアで映画と変わらない。感覚的には警察は公認ギャング、プレマンは非公認ギャングくらいの差しかない。そう思っていたのに、映画館で見たら、インドネシアではまだこんな勢力が幅を利かせているのか...という感がこみあげてきて、そんな自分の反応に驚いた。周囲に日本人が多いと、日本人感覚に戻るのかもしれない。そして、インドネシアでこの映画を見ている人たちも、私の最初の反応と同様にこのシーンに何も感じず、かつ外人がショックを受けていることにも気づかないかもしれない、と思う。
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ここから映画評の本論に入りたいところだが、ひとまず今月はここで時間切れである。この映画を見て、私がひっかかった点がいくつかあり、それについて、フェイスブックのインドネシア語版サイトを通じて製作者に質問を送った(4月8日)のだが、まだ返事が来ていない。回答はジョシュア監督自身でも、インドネシアにいる共同監督からでも良いと言ってある。その点についても、来月進展があれば...と思う。
四月になれば
1981年のサイモン&ガーファンクル再結成のライヴのバックのドラムが全部スティーヴ・ガットと思っていたのが久しぶりに映像を見て違うことがわかった。バスドラムのロゴがTAMA、ガットであればYAMAHAのはず。他のメンバーもスタッフ及びニュー・ヨークのミュージシャンかと思ったらベースはアンソニー・ジャクソン、エレピを弾くリチャード・ティーだけが記憶と合致。スティーヴ・ガットは途中から参加。だからドラムセットが二つか。リチャード・ティーはアコピではなくYAMAHAのCP80。記憶は曖昧なもので、ましてや自分の記憶となると、共有していた者と記憶していた出来事が違うことはたびたびあるし。このライヴの「明日に架ける橋」のリチャード・ティーの演奏を聴いてピーター・ガブリエルが自分のアルバムに参加を願った曲が「Don't Give Up」でアルバムを聴いたリチャード・ティーが自分の演奏が全然違う音か何かにされてしまった事をインタヴューで怒っていたのを読んだがそれもあやふやな記憶。YouTube探索はCSN&N、ニール・ヤングを経てジョニ・ミッチェルの1967年の動画を発見しキャロル・キングとジェームス・テイラーのライヴにたどり着いた。この時代のミュージシャンは当て振りや口パクがないからうまいや。
子供ひとりが上京し、こちらは三人家族となった。要らなくなったものをどんどん処分しはじめたら一番やっかいなのが学習机というやつで、分解するのにかなり手間取る。夜中に、安全のためか隠されているネジを突き止め独りで持ち運びできるようにし、部屋からなくなるとすっきりとし、本も自由に取り出せるようになったが、収まりきれないものがまだまだある。捨てるものがまだまだある。
外は選挙、選挙。ネガティヴ・キャンペーンの張り紙に辟易。保守と革新で相変わらず。終わっても張り紙だけが残っている。いつになったら片付けるのだろう。
製本かい摘みましては(98)
馬好きが高じて競馬場近くに土地を求めたひとの家は山小屋のようだった。藤棚をしたてた門をくぐると牡丹の蕾ら、その背後に二階から急勾配で足下まで続く群青色の瓦の異様、玄関の大きな木製の扉は80度も開くとガガガと下をこする。屋内の扉や窓はどれも規格外の大きさで、木と鉄と石と漆喰とガラスと障子で平らに埋め尽くされていた。吹き抜けの天井近くまで作り付けられた巨大な本棚とピアノ以外は、机、椅子、暖炉、太鼓、こまごまとしたオブジェのひとつひとつにいたるまで適当に置かれた風。手が届かないから交換できないという一球消えたシャンデリアや、友人から頼まれてあずかりっぱなしという巨大な油絵も気軽である。
スピーカーに並んだ棚の籠にも奇妙なオブジェ。裏返すとしゃもじがはりつけられていて、同じものが2つ。楽器か。叩くとペシペシにぶい音。
「この、卓球のへらのちっちゃいみたいなの、何ですか?」
「あら、やってみる?」
「何を?」
「やりましょう」
何をやるのか。住人はコーヒーを下げてテーブルを分解する。長い一枚板を二枚並べてあったのだった。洗い張り用の板だと言う。わずかな湾曲がいいとも言う。二段に重ねて腰くらいの高さになった。
「そしてこれをね」
ネット。ぐるぐる巻きされたそれをほどくと両端に一つずつピアノのハンマーがついている。園芸用の白い網を細長く切り、縁に製本用の白いテープを貼ったそうである。ハンマーのエル字部分を台にひっかけて万力で固定するが、台の真ん中あたりに跡が残っているからそこに当ててと言う。どう、わかる? わかるわかる。くぼんでいる。
しゃもじ卓球だ。へらの大きさがつかめなくて空振りが続く。それなりにラリーが続くまでやめられない。球はそこいら中に飛んだ。ソファーの下、掃き出し窓、階段梯子の裏。探しながらこの部屋の隅々に行き当たる。30歳のときに自らの設計で建てたそうである。そこに在るなにもかもがそのときからのものかと尋ねると、新しいものもあるのよとライティング・ビューローを指差した。開けると、住人が作る小さな同人誌の最新号が積み重ねられている。A6判、本文12ページ前後、どんぐり色の表紙には毎回異なるコラージュやスタンプが付され、ホッチキス2カ所で中綴じされている。毎号30部、当号で44号。見開きにおさまる小さな作品を、小さな集まりで小さな冊子に小さく複写して、握った掌から泡を沸き立たすように送り続ける。
最新号の表紙は馬だった。今号は手渡しね。近くにあった競馬場は10年前に閉鎖されたそうである。ライティング・ビューローの中には小さな独楽もたくさんあった。くるくるくるくる。白木に黄色の独楽は回ると光って浮き上がってみえる。勢いあまって何度も落ちた。住人がまわすと独楽は落ちない。きれいでしょう。こうやって遊んでるの。住人は小さな場所をいくつも区切って、その体積を超えることなく足らぬことなく満たしきっているようにみえたが、超えることなく足らぬことなく満たしたところに場所はでき、その人はそれをたくさん持っているのだと思った。帰る時に牡丹はすっかり咲いていた。
114ミジンコ取り――子供の夢
めっ
叱りするままははたちの声、檜垣を越える
めっ
死ぬな、めっ
叱りする檜垣の女の声がやってくる
子供の夢にはいってくる
ゆめゆめ
古代のままははたちのクチヨセは
五十年を経て
わたしの檜垣の根にうずくまっている
ゆめゆめ
死ぬな、けっして
ままははたちはおしえる、死んではならないのだと
檜垣のそとでわたしはどうすることもならないけれども
(「いじめ」学という領域は、「戦争」学とおなじように、まだ生まれていないのである。代理の母は斗う、世の、心ない「いじめ」から、「わが」子を助けようとして死んだ。地上を支え、地下に浸水し、空中へまぎれいって、代理の母は消える。心ない「いじめ」があとにのこされる。こんにちではめったに聴かれない、「めっ」という叱り声があった。古語の「ゆめゆめ(努々)」〈決して決して〉から来たのだろう。「(だ)めっ」とも言う。山のうえ、水源の、巨神の声が垣のかなたから降ってくる。でも、耳を傾けようとしない這う人たち。)
イラクにも 春が来た
チョコレート募金が無事に終わったばかりなのに、もう次のデザインを考えなければならない。でイラクの小児がんの子どもたちの絵を集めなければならない。しかし、なかなかテーマが浮かんでこないのだ。次回は10回目。もう10回もデザインをやっているんだ。ネタも尽きるはずである。スタッフの女史に聞くと、「ハッピィですよ。ハッピィを絵にしてもらうんです。」「ファレル・ウイリアムスのハッピィという曲に合わせて、みんなで踊るんです。」
確かに踊りながら子どもたちがハッピィを感じると面白い絵が出来るかもしれない。そこで、病院にお願いして子どもを集めてもらって、「さあ、みんな。どんな時にハッピィかな? その気持ち絵にしてみよう!」みたいなノリでやるはずだったが、アラビア語が通じない。クルド語しか話せない患者ばかりだった。通訳をやってくれるはずだったドクターもいきなり会議で「ごめん! でられない」と去って行ってしまった。折角買ってきたケーキも、食べずに、ケモセラピーに行ってしまう子どもたちもいた。
段取りが悪すぎる。スタッフ女史は、「段取り悪すぎますよね」と愚痴りだした。で、僕も、頭にきた。そんなこと言われても、「この国は段取り悪いの当たり前だろう。愚痴られてもなあ、こんなやつ、連れてくるんじゃなかった」イラク滞在中はずーっとそのスタッフ女史と口論をし、時には冷戦状態が続いた。
ふと病院の庭を見るとバラの花が咲き誇っている。山の方に行けば、赤い芥子の花が咲き乱れている。そう、北イラクの4月は、花の季節なのだ。程よい太陽の光を浴びて、輝く花たちは、春の息吹そのもの。夏の花とは違って新緑とともに美しさが際立つ。沈み込んでいた僕の心も浮き浮きしてくる。
それで、僕は実際の花を摘んで、癌の子ども達と一緒に絵を描いてみた。子どもたちは、花の絵を描いてとお願いすると、何も見ずにすらすらと描いてくれる。「ちょっと待って、この花見てみて」花びらを一枚、一枚見ながら、子どもたちも幸せな気分になっていく。
ローリンちゃんは、シリア難民。14歳だ。カミシリに住んでいたが、2012年のクリスマスにがんだとわかり、ダマスカスの病院に入院した。大統領夫人も肩入れするバスマというNGOの支援があり、治療と家族の生活費が支給されていたが、ダマスカスの治安も悪化しはじめ、少女の誘拐レイプ、化学兵器の使用のうわさを聞き、ダマスカスを逃れ、北イラクの小児がん病院を目指し、難民になったのだ。アークレというアルビルから車で2時間ほど走った難民キャンプで暮らしている。キャンプでの生活は厳しい。病院までの通院の費用もかかるし、薬代の一部を自己負担しなくてはならない。
早速ひまわりを摘んでローリンに会いにいった。難民キャンプについてみると彼女はいなかった。母は、生活が苦しく、ローリンがいつ死んでもおかしくないことを訴え、涙を流した。明日病院に行くのでアルビルに向かったという。すれ違いだ。「いないじゃないですか。往復4時間無駄にして」ここでもスタッフに睨みつけられる。「明日だ。明日病に行ったら会える」どうしてもローリンに花の絵を描いてほしかった。
さて、最終日、朝から病院で打ち合わせ。終わった後、ローリンを探しに病室を回るが、来ていないという。検査に来ないなんて。心配になる。
仕方がない、あきらめて飛行場に向かおうと思っていた時だ。バラの花を持った少女が、立っている。何やら先生から諭されていた。「どうしてお花を切るの? お花にも命があるのよ」少女は申し訳なさそうに、つぶやいた。「あまりにお花がきれいだったから」「まあいいじゃない。二階に行って絵を描こうよ」私は少女の手を取って2階にあるプレイルームに連れて行った。
彼女が摘んだバラの花を一緒に描いた。そして、絵具の使い方を教えてあげた。鳥肌が立つ。しかし、12歳のイマーンちゃんは癌の最終ステージでもう手の施しようもないという。イマーンちゃんのお母さんは、始終涙を浮かべている。長くてあと1ヶ月の命だと医者は説明してくれた。イマーンははにかみながらも、バラをピンク色に塗っていった。「いのちの花」、、、アラビア語で書き添える。
イラクの春。僕は、小児がんの子どもたちに花の絵を何枚か描いてもらうことができた。一枚一枚に命がこもっている。これをこれからパッケージにしていく。来年のチョコレートは花の種を添えておくりたい。花が咲いたら子どもたちのことを思い出してください。
外山の長明について
イギリスの詩人バジル・バンティング(Basil Bunting 1905-1986)は1932年エズラ・パウンドのいたイタリアの Rapallo で Marcello Muccioli による『方丈記』のイタリア語訳を読んだ。『方丈記』は詩の素材として書かれたのではないか、それを凝縮して日本の新しい詩のかたちを創造する時間もエネルギーも、老いた長明には残されていなかったのなら、英語でそれをやってみよう。仏教的無常感は薄れ、都会的・懐疑的でアイロニーにみちた長明の視線に重点が移る。それをふたたび日本語にしてみれば、12世紀の日本語が20世紀のイタリア語と英語を通過したいまの日本語でどう変っているか、いまの状況でどうに読めるのか。
以下の訳詩は全体の1/3ほどまで。
●
外山の長明 バジル・バンティング
(鴨長明 1154年加茂に生まれ 1216年6月24日外山日野山上に死す)
*[日付はすべて旧暦か?]
渦巻まどろむ滝のなか!
水たまりには 泡が現れ
また隠れ!
軒をきそって
そびえ立つ京の都は
ゆたかでも 古さに欠ける!
解体屋が這いまわる
大工は階に階を重ねて
敷地の隅まで 庭だったのを
長屋に変える
なじんだ町で
若者たちに見つめられ でも
知った顔はすこしだけ
生まれ来るのはいずこから? 死が
連れ去るのはいずこへ? 惜しむのはだれを?
心はずむ足音はだれの?
露にそまる朝顔はしぼむ 露は花より
生き延びるのか
ここ四十年のできごとを思い起こそう
1117年5月27日の
夜8時 樋口 富の小路から火の手があがり
一夜のうちに
宮廷も官庁も 大学 会議所も
焼け落ちた 風にあおられて
炎はひらいた扇のかたちに拡がり
裂けた火先が伸びて跳ぶ
空には赤く炎に映える灰の雲
ひとは煙にむせび 焼け死に 身一つで逃げ
家を失った高官は16人
貧民は数しれず 町の3分の1が焼け
死者数千人 牛馬は
とても数えきれない
不動産に投資する人間の愚かさよ
それから3年にあと3日 風が
郊外の大通りから
半キロ幅の通り道を切りひらいて
六条大路まで吹き抜けた
家はみな倒れ あるいは崩れ
あるいは裂け落ち また残った
梁がまっすぐ土に刺さる
あたり一面
屋根が散らばり 風が投げとばす
家具が次々に宙に舞い
みなつぶされて 枯葉のようにはためく
埃は 霞か煙のよう
聞こえるのはどよめきだけ
地獄のはやてだ! * [神曲地獄篇第5歌]
足くじかれる者 傷つく者
このつむじ風は西南に曲がった
いわれもないみなごろし
なんの前触れ?
同じ年に へきれきの遷都
京都に永く定まって
変える必要もなく たやすくもない
しかし 不満の声も小さく
移ったのは 職をもつ者
そのほか 職を求める者 居候
先を争い 急いで行った
空いた部屋に突き出た棟木を
取り外し 川に流せば
土地は藪に還った
新しい場所を訪ねてみれば せまくでこぼこ
崖と沼 とどろく海辺 強風吹きやまず
宮廷は山あいに取り残された丸太小屋
(風流と言えなくもない)
家を建てられる平地はなく 空き地が多い
以前の都は壊され 今度は仮小屋
雲のように変わる見解 口をひらけば口論ばかり
百姓は土地を取られて泣き 移住者は物価に呆然
装束もそろわず 群衆は
復員兵の群れのよう
ささやきが聞こえ 時とともに声になる
冬には布告は取り消され
京都にもどったが
家はすでになく ふたたび
建てる財力もない
聞いた話では むかしの王たちは茅葺きの家に住み
煙突を見て
煙がすくないと 税を免除した
いまの状況を評価するなら
古い時代と照らしてみよう
旱魃 洪水 飢饉 実りない秋2回
市場にものがなく 群がる物乞い 宝石を
一握りの米に換える 死体が
道端で臭い 川沿いに積み重なって
車が通れない
その冬は壁をこわして薪にした
父は子に食べさせて死に
赤ん坊は死体の乳を吸って死ぬ
法師がめぐって額に印す
阿弥陀の阿の字 安息のために
東町で数えてみると このふた月で
阿の字は4万3千
ひび割れ ほとばしれ 山よ 小川を埋めろ!
牧場に 海よ 緑ガラスを敷き詰めろ!
悲鳴 なだれ 岩が乱れ落ちて 谷をふさぐ!
ああ 海にもまれる舟よ ああ 揺れる路で
足の踏み場のない馬よ 大地の力!
これこそ地震 これが
元暦の大地震!
神社は崩れ 僧坊も 寺院も 小さな祠も
崩れ 埃が舞上がり 家の壊れる音は雷のごとく
鳥ならば飛び 竜ならば雲に乗るものを!
地震だ 元暦の大地震!
子どもが高い塀の脇で泥の家を作っていたが
突然押しつぶされて 眼球が
二つの房のように眼窩からぶら下がったのを見た
父親は恥も忘れて号泣していた 役人だったが
泣くのを見られても 恥とは思えない *[これは方丈記にはない]
こんな揺れが3週間続き それから少なくなって
それでも毎日一度は並みの地震
やがて間遠に 二日 三日おきの揺れになった
記録には これ以上の地震は見えない
そのせいで宗教が復興したが
月が経ち
年を経て
......
いまは言い出す人もない
これはたよりない世界
そのなかにいる人もたよりなく 家もまた
貧乏人が金持ちのそばに住めば
騒がしい宴会もせず 歌もうたわない
こどもを家で遊ばせ 犬を飼えるのか?
残念なことでも泣き寝入りしかない
人を訪ね お世辞を言っても 身の程を思い知らされ
ズボンの継ぎを思いだす
妻子には貧乏人とさげすまれ
平和なときがない
路地のあばら屋に住めば
火事がこわいし
通勤するのは時間のむだで
毎日家を空ければ強盗にあう
官僚は強欲
国税庁に親類がいないのは
お気の毒!
助けてもらえばそれにしばられ
つきまとわれて感謝を強いられ
成功をのぞめばいやな思い
望まなければ 変なやつと思われる
落ち着く場所と ふさわしいしごとで
心がはたらき からだが憩うのはどこだろう
(つづく)